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神輿の黙示録(21)(武士とサムライの戦い「2」:何故、役人の縄は不浄なのか)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/849.html
投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 01 日 10:52:27: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(20)(武士とサムライの戦い:何故、武士のヒゲは濃いのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 01 日 10:44:56)

日本人であるから、義務教育で日本史を学習していたから、日本の歴史を理解し、日本の歴史の流れのことはおおよそ知っている、と信じているひとが多く居るようです。
しかし、学校では、「サムライ」と「武士」の発生の違いを教えてはくれません。そして、オリエント文化の飛鳥ヤマトの史実も教えてはくれません。その代わり、歴史的にその実在性を証明できない、「聖徳太子」のことは、詳しく教えてくれるのです。それに伴い、「ぶつきょうでんらいごみや(538)さん」の呪文と同時に、飛鳥ヤマトは百済仏教文化発祥の地と、虚構の歴史を教えてくれるのです。
更に、1180年源頼朝の挙兵に始まる、源平合戦を、「源氏」対「平氏」の戦い、と教えているのです。史実は、源氏武士団を統率する源頼朝を傀儡とした桓武平氏末裔の北条氏と平家武士団との戦争が、源平合戦であったのです。つまり、源平合戦とは、「平氏+源氏」対「平家」であったのです。
その戦いで、源氏は白旗で、平家は赤旗を印としたのです。当然、平氏は白旗を印として闘っていたのです。ある歴史書では、平氏は赤旗を印として闘った、とあるほど、源平合戦の歴史は、作為的に歴史書で語られているのです。それは何故でしょう。
源氏の白旗は、源氏の祖は、突厥帝国軍とギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)の花郎軍団で、花郎軍団の軍神は、太陽神ミトラであったので、太陽のシンボルである「白」が、源氏武士団の印となったのです。
平家の赤旗は、古代海洋民族フェニキアの流れを汲む民族であったので、古代フェニキア商人はインドのベンガル地方と国際交易をしていたため、そのベンガラ染め(酸化鉄の染料)の赤衣を着用していたことから、平家は「赤」を平家武士団の印としていたのです。
では、平氏は、何色を印としていたのかは、不明です。平氏は、1185年源氏武士団に壊滅された平家の神を祀る厳島神社を、源頼朝の妻北条政子(尼将軍)が乗っ取ると、平家の歴史を簒奪して、それ以降、平氏は、赤旗を印とするのです。
平安時代の日本列島に、古代フェニキア商人の末裔やインド商人が渡来していたことを信じられないひとも多く居ることでしょう。それは、明治新政府による日本史教育の成果です。明治新政府は、古代エジプトやオリエントから渡来した民族による、国際的な日本史の実態を隠蔽するために、歴史を世界史と日本史とに分化させ、児童に「コップの中の日本史」を刷り込んだのです。
国際的技術の例のひとつとして、四世紀から出現する巨大古墳があります。その古墳には、古代エジプトの埋葬思想と同じに、石室と石棺があるのです。そして、その石棺の内寸は、古代エジプトの計測単位のキュビットで割り切れるのです。そして、相似形の古墳を岩手県以南に多く築造するには、紀元前300年エジプト王国で活躍した数学者ユークリッドの幾何学を知らなくてはできないのです。
インドから、飛鳥時代に藤原氏の祖中臣族が渡来したように、平安時代にも多くの民族が渡来していたのです。その根拠のひとつとして、四国の金毘羅様があります。この金毘羅様の祖は、インドのガンジス河の神・クビーラで、ワニのことなのです。このクビーラのワニ神は、海洋民族の神で、インドから海洋民族と供に四国に渡来していたのです。
海洋民族の残像は、祭りの山車に現れます。山車の祖は、船です。海洋民族は、祭りで船を引き回していたのです。それが、やがて車の上に屋台を乗せる「山車」となったのです。祭りで、山車が出る地域には、海洋民族末裔が多く住んでいたのです。その祭りでは、「赤色」が多く使われるのは、古代フェニキアのDNAが引き継がれているからです。
このインドから渡来の民族と供に渡来した思想により、江戸時代の第三百済王朝で、「役人の縄が不浄」となってしまうのです。その物語をこれから述べることにしましょう。
教科書歴史は実によく出来ていて、素直に呼んでいくと、日本列島史は、神代の国から九州に降臨した子孫が、四世紀の飛鳥ヤマトに大和朝廷を拓いて、そこを統治した天皇家が、万世一系で、単一民族の大和民族である農耕民族を統治して、今日まで続いている、と解釈できるのです。
そして、日本古来の神道が、538年伝来の仏教に、一時支配された後、再び、奈良時代に春日社を創建し復興したが、平安時代、再び、仏教側の本地垂迹説で仏教に取り込まれるが、二十年ごとに改築してきた天皇家を祀る伊勢神宮の神が、明治維新で復活して、今日に至る、と述べているのです。
しかし、その教科書歴史物語では、ユーラシアから渡来の騎馬民族の歴史がスッポリと抜けているのです。何故、騎馬民族の歴史が抜けているのかの理由のひとつには、自然の下に暮す騎馬民族には、遊牧生活のため土地に縛られることが無いために、先住民の土地を簒奪するために先住民の歴史を改竄し、そして、その歴史を簒奪する思想がないからです。しかし、理由はそれだけではありません。史実は、飛鳥ヤマトを統一し、「倭」から「日本」に改名したのは、チュルク(突厥)の騎馬民族に支えられた新羅系天武天皇であったからです。そして、日本初の天皇は、神武天皇ではなく、その天武天皇であったからです。つまり、騎馬民族の王国が、飛鳥ヤマトであったのです。この史実を抹殺するために、藤原氏や桓武天皇家により、色々な書物が創作されていたのです。
騎馬民族が基本的には歴史書をもたないことを良いことに、奈良時代に、南インドから渡来した中臣族末裔の藤原氏は、「日本書紀」「風土記」を編纂して、飛鳥時代の先住民の歴史を抹殺、または、改竄してしまうのです。
そして、平安時代、亡命百済貴族末裔の桓武天皇家は、藤原氏の「日本書紀」を改竄し、「続日本紀」「新撰姓氏録」を創作し、亡命百済貴族を日本国の皇室の祖とし、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝と同盟関係にあった、ギリシャ・ローマ文化国新羅の古代新羅語(漢字を使った表音文字)で読まれた「万葉歌」を、菅原道真にニッポン万葉語に改竄させて「万葉集」としていたのです。
つまり、ニッポン万葉語は、飛鳥・奈良時代ではなく、平安時代に完成したのです。このことにより、「古事記」は、712年完成ではなく、平安時代の812年であることが分かるのです。それは、「古事記」は、完璧なニッポン万葉語で記述されているからです。そして、その「古事記」を著したのは、「日本書紀」の講義を生業としていた、秦氏末裔多人長は、平安時代の万葉語学者であったのです。
そのような、藤原氏や桓武天皇家により、創作・改竄された、「日本書紀」「風土記」「続日本紀」「新撰姓氏録」「万葉集」を史料として、真の古代日本史を解明しようとしても、それは困難なことでしょう。それらの史料書籍には、先住民の騎馬民族の歴史が抹殺されているか、改竄されているからです。
日本列島史が、万世一系ではないことは、その朝廷の儀式の劇的変化により証明できます。それは、奈良時代までは、朝廷の儀式では、神は犠牲により祀られていたのです。犠牲とは、牛の屠殺です。つまり、奈良時代までは、「血の祭祀」により、神は祀られていたのです。
しかし、平安時代になると、804年牛の屠殺禁止を発令し、朝廷の儀式は、歌謡と舞により、神は祭られていくのです。そして、「血の祭祀」に代わり、空海が発明した真言密教のダキニの呪文と「火の祭祀・護摩」とにより桓武天皇家の神は、江戸末期まで祭られていくのです。
そして、奈良時代まで「血の祭祀」により、天武天皇家により祀られていた「伊勢の社」(後に藤原氏により伊勢神宮とされた。元は道教の観)は、平安時代になると、伊勢神宮の本地は、昆盧遮那仏となってしまうのです。
つまり、平安時代から江戸末期まで、伊勢神宮では、神道の神などではなく、仏教の仏を祭っていたのです。そのことにより、何故、伊勢神宮には、内宮と外宮が存在し、その仲がよくない理由が分かります。
では、奈良時代まで続いていた「血の祭祀」儀式は、平安時代には消滅してしまったのでしょうか。そうではありません。その儀式は、今日まで細々と続いているのです。それは、獅子舞です。
獅子舞には、中国の獅子舞と日本の獅子舞があります。しかし、その獅子の顔が明らかに異なるのです。中国の獅子舞の獅子の顔は、竜です。しかし、日本の獅子舞の獅子の顔は、竜ではありません。
では、日本の獅子舞の獅子の顔は、何を象徴しているのでしょうか。「獅子」とは、イノシシのシシで、「シシ」とは、野獣の総称です。平安時代に突然現れた獅子舞とは、平安王朝より貶められ、野獣踊り(シシ踊り)、と言われていたのです。そして、その獅子頭とは、ミトラ教での太陽の化身、牡牛の「牛頭天皇」を隠蔽しているのです。ですから、その獅子の顔は、竜ではなく、牛に似ているわけです。では、正統獅子舞での、胴体となる布の模様が忍冬唐草であるのは、何故でしょう。この獅子舞の歴史を辿ると、王権に隠された、騎馬民族の歴史が現れてくるのです。
獅子舞に使われる胴体となる布の模様の忍冬唐草模様とは、その発祥はどこなのでしょうか。その起源は、古代エジプトと言われています。
その唐草模様とは、蔦が四方に伸びるウコギ科キヅタの植物を図案化したものです。その古代エジプトで図案化された唐草模様は、紀元前五世紀の古代ギリシャのパルテノン神殿の、エンタシスと言われるアカイヤ式円柱の遺跡に認められます。この中央が少し膨らんだ柱、エンタシス柱は、日本の法隆寺の柱にも認められます。奈良の法隆寺が、ギリシャ文化渡来の北九州筑紫(秦王国)から移築された根拠のひとつが、そこにあります。
そのギリシャでの唐草模様は、アレクサンダー大王により、東方へもたらされ、ギリシャ文化を継承したバクトリアに至るのです。そのバクトリアでの唐草模様は、秦国を経て中国の呉国から朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国新羅を経由して、九州筑紫に上陸するわけです。このことを裏付けるように、七世紀前期と思われる、宇佐八幡境内から発掘された軒平瓦には、唐草模様が描かれていたのです。その宇佐とは、古に秦王国があった地域だったのです。
唐草模様の渡来ルートは、七世紀前期九州筑紫←ギリシャ・ローマ文化国新羅←中国呉国←秦国←バクトリア←古代ギリシャ←古代エジプト、となるわけです。
では、その唐草模様のある獅子舞は、どのようなルートで渡来したのでしょうか。
平安時代に突然現れた獅子舞(平安王朝から野獣踊りと言われた。)は、河原者によりおこなわれていたのです。その河原者の祖は、奈良時代の祭祀者です。平安王朝に、秦氏の支配地の比叡山や、山背国(秦王国)の太秦の蜂丘(岡)寺などの「血の儀式」をおこなう祭祀場から、中洲の河原に追われた者が、河原者と言われたわけです。
その獅子舞の祖とは、神を祀る神楽であったのです。奈良時代では、神への芸は、伎楽と言われていたのです。伎楽とは、野外で仮面をつけて、歌謡や音楽に合わせて舞う芸であったのです。
この伎楽は、平安時代になると、俗楽と言われ、平安王朝は南方から渡来した舞を、平安朝廷の儀式で舞ったのです。その舞を、北方から渡来の俗楽である伎楽に対して、上品な音楽と言う意味で、雅楽と言ったのです。このふたつの舞の異なる背景により、「血の儀式」の奈良王朝と、「火の儀式」の平安王朝との民族の違いが理解できます。
では、奈良時代までおこなわれていた、仮面を付けて舞う、伎楽はどこから渡来したのでしょうか。それは、古代ギリシャからです。
752年天武王朝系聖武天皇が、奈良の都の支配を企む藤原氏と戦うための戦略として建立した、東大寺大仏開眼供養では、ギリシャ面・ペルシャ面を付け、雅楽ではなく、伎楽をおこなっていたのです。そして、そこに、宇佐八幡から来た信徒が神輿を担いだことは、奈良の都は、未だ、藤原氏が支配する奈良の仏教組織が独占支配してはいなかった証拠です。
何故ならば、平安時代になると、奈良時代まで祭祀場で伎楽をおこなっていた祭祀者末裔は、平安王朝から、「七道の者」と差別されていくのです。
「七道」とは、仏教用語から派生した差別言葉です。仏教用語には、他民族や他宗教に対しての差別用語が沢山あるのです。大乗仏教が、他宗教に寛容になるのは、戦国時代に、仏教僧を欺瞞者と決め付ける織田信長により、仏教軍団が壊滅された後からです。
大乗仏教では、世界を六種類に分けているのです。輪廻転生のカルマで、庶民を脅すために、死後、生前の行いにより、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、そして、天道のいずれかに転生し、それを繰り返す、と説くのです。その六道輪廻から外れた者を、「七道の者」と差別するのです。この思想の元は、インドのバラモン僧が発明した四姓のカースト制度で、「七道の者」とは、アウトカーストの不可触賎民チャンダラー(施陀羅)のことなのです。
ですから、「七道の者」と仏教徒から差別された「伎楽」が、仏教と供に、シルクロードにより渡来した、と説明する教科書歴史には、疑問符がつくのです。
では、獅子舞の祖である伎楽は、どのようなルートで渡来したのでしょうか。そのヒントは、獅子頭が牛頭であることです。太陽神を祀るために牛を屠る、聖牛神儀式の流れは、ミトラ神信仰(古代オリエントの聖牛神儀式)→バール神信仰(古代イスラエルの聖牛神儀式)→蘇民信仰(ギリシャ・ローマ文化国新羅・秦羅)→牛頭信仰(飛鳥ヤマト)→伎楽(奈良時代)→野獣踊り・牛頭天皇(平安時代)→獅子舞(平安時代)、となるわけです。
その獅子舞には、映画の「鞍馬天狗」に登場する角兵衛獅子での舞子が鼓(つづみ)を腹に付けているように、獅子舞は鼓のリズムに合わせて舞うのです。その鼓の渡来ルートも、唐草模様・伎楽と同じルートで、日本列島に渡来しているのです。奈良の正倉院には、反藤原氏の聖武天皇の遺品が保存されています。そのひとつに、くれの鼓があります。その鼓は、角兵衛獅子での鼓と酷似しています。そのくれの鼓は、パミール高原のカフィール・カラーシュ族が使用していた物です。そのカフィール・カラーシュ族とは、アレクサンダー大王が東征の際での、ギリシャ屯田兵の末裔であったのです。そして、そのパミール高原は、ギリシャ文化継承国バクトリアの支配下にあった地域であったのです。
では、平安王朝は、何故、奈良時代の「血の儀式」から「火の儀式」に朝廷儀式を替えたのでしょうか。それは、平安王朝を実効支配する唐の意向があったからです。
唐は、北東アジアを支配していた、騎馬民族国東突厥帝国を、744年壊滅させると、日本列島に残存する、突厥帝国が支援した蘇我王朝残存軍の壊滅を目指したのです。そのために、蘇我王朝残存軍の食料と武器原料の枯渇を画策したのです。
食料の供給停止は、銭の流通廃止により、成功するのです。それは、騎馬民族は、自ら農耕せず、農耕民との銭による交易により、調達していたからです。
では、武器原料の供給停止は、どのような策をおこなったのでしょうか。
実は、牛馬は、それ自体が強力な武器であったのと、死しても、それは、武器の材料となったのです。動物の皮は、そのままにしておけば、その皮は、腐敗分解して土に戻ります。しかし、アンモニアと塩と大量の水により晒すと、その皮は、硬く板状になり、腐敗はしないのです。そのように鞣された「かわ」は、動物の「かわ」から「あらたまる」物に変化したため、革命の「革」の字で表わされたのです。因みに、毛の付いている「かわ」は、「皮」の字で表わされたのです。
それほど鞣された「かわ」は、古代では貴重品でもあり、武器の材料としてはハイテクであったのです。その革の生産手段のハイテク技術を持つ騎馬民族は、唐進駐軍にとっては軍事的脅威であり、壊滅すべき敵であったのです。そこで利用されるのが、「殺生禁止」の大乗仏教思想であるのです。
唐に軍事的支援された平安王朝は、藤原氏が支配する南都仏教を封じるため、インド渡来の大乗仏教で法華経を奉ずる天台宗を、秦氏が支配していた比叡山に持ち込むのです。そして、805年八ヶ月の唐留学僧最澄により、日本天台宗を創めるのです。そして、藤原氏により唐に送り込まれた錬金術師空海は、806年真言宗を創めるのです。
この日本天台宗と真言宗とにより、唐から持ち込まれた平安仏教思想が、後に、騎馬民族末裔を賎民として貶めていくのです。
この平安仏教は、江戸末期の大坂の商人富永仲基が述べていたように、紀元前566年(一説では紀元前463年)に北インドに生まれ、仏の道を説いた釈尊の教えとは、百八十度も異なる思想であるのです。
釈尊とは、釈迦牟尼世尊の略で、釈迦とは部族名で、牟尼とはサンスクリット語のムニの音写で「聖者」の意味で、世尊とは「釈迦の尊称」です。つまり、釈迦牟尼世尊とは、「シャカ族の聖者様」ということです。その釈尊の本名は、ゴータマ・シッダールタです。では、ブッダとは何かと言えば、それは「覚醒した者」と言う意味です。
紀元一世紀、ギリシャ文化を継承したバクトリアの後継地、国際都市ガンダーラで、ギリシャ風巻き毛のガリガリに痩せた仏像のブッダとは、釈迦牟尼世尊ではないのです。それは、釈迦牟尼世尊は、瞑想により悟りを得て、ブッダ(覚醒した者)になりましたが、ブッダ=釈迦牟尼世尊ではないからです。この世に、ブッダ(覚醒した者)は、七人存在した、といわれているのです。ブッダ=釈迦牟尼世尊とするならば、この世に七人も釈迦牟尼世尊が存在したことになってしまいます。
その釈尊は、バラモン教が発明した四姓のカースト制度思想のカルマから逃れるために、出家して非人となり、一切の経済活動から離れ、乞食し、非人として生を全うすることにより、そのバラモン教のカルマから逃れられる、と説いたのです。その教えには、殺生禁止、肉食禁止、血の禁忌などはなかったのです。それは当たり前です。非人とは、人間ではないからです。この世とあの世との間に暮すひとが、非人であるからです。
しかし、錬金術師空海が発明した日本密教は、その思想の基は、あの釈尊が否定した、バラモン教・ヒンズー教思想であったのです。その結果として、日本列島で始めて、「施陀羅」の差別語が登場するのです。施陀羅とは、バラモン教のカースト制度に属さない、アウトカーストの不可触賎民チャンダラーの漢語化です。
その空海は、藤原氏の「藤原の女」を使う謀略により、嵯峨天皇に接近し、そして、834年仁明天皇の御衣に加持祈祷したことにより、空海が発明した密教儀式が、桓武天皇家の儀式となり、江戸末期の孝明天皇まで続いていたのです。つまり、平安時代から江戸末期まで、桓武天皇家では、藤原氏の発明した中臣神道ではなく、バラモン思想を基に発明されたダキニ(インドの鬼女神)の呪文と、ゾロアスター教から租借した、拝火の護摩儀式により、祀られていたのです。
平安時代に、この空海が蒔いた騎馬民族差別思想の「施陀羅」の種が、第一百済王朝(平安時代794年〜1185年)で育てられ、第二百済王朝(鎌倉時代・北条政権1203年〜1333年)では、「施陀羅」から「穢多」に民族差別がバージョンアップされ、そして、第三百済王朝(江戸時代三代将軍徳川家光政権1623年〜十五代徳川慶喜1867年)で、第三百済王朝の手先となって生き延びる葬式仏教思想により、穢多身分はアウトカーストの賎民となってしまったのです。つまり、インドのバラモン教が、遊牧民族トラヴィダを賎民として差別するために発明したカースト制度そのままに、「士農工商、穢多非人」の制度となっていくわけです。
では、第一百済王朝で、空海が唐から日本列島に持ち込んだ、インドの遊牧民族を差別する施陀羅思想は、どのようにして育てられていったのでしょうか。
唐進駐軍と中臣軍とにより、645年飛鳥ヤマトの騎馬民族国の蘇我王朝が壊滅されると、唐進駐軍は、中臣族を籐氏(後に藤原氏となる。)とした傀儡政権を樹立して、694年藤原京遷都、710年平城京遷都、そして、藤原氏に替えて、亡命百済貴族末裔(桓武天皇)を傀儡として、794年平安京遷都とし、飛鳥ヤマトから近畿地域全域を制圧していくのです。
蘇我王朝は、騎馬民族国家であったので、当然仏教思想は受け入れられません。その受け入れられない理由のひとつに、死者の埋葬があります。騎馬民族では、勇敢に戦った死者は、再生すると信じられていたからです。ですから、死者は、木棺に収められ、「土葬」され、再生するまで永い眠りにつくのです。
しかし、大乗仏教思想では、死者は穢れで、死者は火により浄物(成仏)となるのです。ですから、大乗仏教思想が広まった平安時代では、死期寸前のひとは、息があるうちに家から外に放り出されてしまうのです。それは、死者となったら、それは「穢れ物」であり、その屋敷が穢れてしまう、と信じられていたからです。大乗仏教思想が、騎馬民族が動物の皮を剥ぐことを悪と言うのならば、息のある末期のひとを家屋から外に放り出してしまうことはどのように理解したらよいのでしょうか。
そのようなことからも、飛鳥ヤマトでは、仏教が盛んであったはずはないのです。では、どのような宗教が信じられていたのでしょうか。それは、北極星(太一)を祀る道教と、太陽を祀る景教です。つまり、飛鳥ヤマトでは、加持祈祷ではなく、犠牲(牡牛の屠り)により神を祀っていたのです。
神を祀るには、その民族が最も大切にしているモノが、犠牲となるのです。騎馬民族にとって、それらは牛馬であったのです。そして、それらの儀式で屠られた犠牲は、肉は食料となり、皮は鞣されて「革」となり、武器の素材となったわけです。平安仏教思想が広まるまでは、ミトラ教(景教)の牡牛の屠り儀式の意味が理解できなくなっても、旱魃で雨を降らせるために、牛の屠り儀式は、多くおこなわれていたのです。ですから、平安王朝は、何度も発令して、牛の屠殺を禁じていたのです。
その牡牛を犠牲にする儀式には、当然祭祀者がいるわけです。その祭祀者は、神を祀るために色々な芸を、祭祀場でおこなっていたのです。しかし、それらの犠牲儀式の芸をおこなう祭祀者は、唐進駐軍により、祭祀場から追放されてしまうのです。そして、その祭祀場は、徹底的に破壊され、その跡に、仏寺や神社を建立して、前政権の宗教施設を抹殺していくわけです。そのひとつの例が、秦氏が支配していた山背国(秦王国)の蜂丘(岡)寺が、平安時代に、仏寺広隆寺と変身して、そして、景教の祭祀者の秦河勝が、仏教布教を目指す「聖徳太子」の忠臣として描かれてしまうのです。そのことにより、後の多くのひとは、平安京には、飛鳥時代から、仏寺の広隆寺があった、と錯覚してしまうのです。
794年唐進駐軍により、近畿全域が制圧されたため、前支配者の蘇我王朝残党軍は、北の陸奥国を目指して落ち延びていくわけです。しかし、蘇我王朝での祭祀氏族達は、北に逃亡する術をもっていなかったのです。そこで、祭祀氏族は、王権により我等が神を封印されている神社に集まり、そこで、犠牲の儀式を平安王朝に封じられたため、舞踏と歌謡による「芸」をおこなうわけです。
その神社とは、負け組みの蘇我王朝側祭祀者には、聖域でも、勝ち組の平安王朝にとっては、怨霊が彷徨う、穢れ地であったのです。ですから、その穢れ地を囲うため、結界の印として、鳥居をたてるわけです。その鳥居以内は、穢れ地の異界というわけです。
この平安王朝に禁じられた牡牛を屠る儀式は、日本列島古来のものではないことは、「魏志倭人伝」によれば、倭国には、牛馬がいないと述べていることからでも理解できます。と言うことは、牛馬が日本列島に現れるのは、三世紀以降で、それは、古墳時代前期と考えられます。
日本列島(岩手県以南)全土に、三世紀後半から突然出現し、四世紀から五世紀にかけて巨大化する古墳については、「日本書紀」をはじめ、他の史料にも、その古墳の歴史の記述が乏しいのは何故でしょうか。それは、古代の歴史書を綴った民族と異なる埋葬思想を持った民族により、それらの古墳が築造されたからです。
そこで、簒奪王権は、その古代エジプト埋葬思想を持つ民族の渡来を隠蔽するために、巨大古墳は、天皇の墓であるとのトリックを考えだすわけです。しかし、少し考えてみれば、そのトリックの舞台裏はすぐ暴かれてしまうのです。それは、平安時代から江戸時代まで続く桓武天皇家では、死者は、真言密教で祀られていたからです。
奈良盆地にあった巨大古墳を破壊して築造された平城京で、藤原氏により発明された中臣神道、平安時代の錬金術師空海が発明した真言密教では、死者は穢れ物なのです。穢れ物(死者)は、火により燃やされて、穢れ祓いをされてしまうのです。それでは、古墳の石棺の存在意味が説明できません。古墳は、「死者は蘇る」、と信ずる民族の宗教施設であるわけですから。
石室・石棺を持つ古墳築造の埋葬思想の源は、古代エジプトです。その古代エジプトでは、短期間ではありますが、急激な宗教改革があったのです。その紀元前十四世紀、古代エジプトの宗教改革とは、アメンホテプ四世(=イクナトン・紀元前1377年〜紀元前1358年)により、多神教から一神教に、神が変身してしまったのです。
その神は、ヒッタイト帝国では、契約の神・太陽神ミトラと言われていたのです。しかし、ミトラ教の神は、三神で、日の出の太陽、天中の太陽、そして、日没の太陽であったのです。その三神のミトラ教から、唯一神・太陽神アトン(アテン)が、アメンホテプ四世により発明されるわけです。その頃のエジプトでは、占星術では牡牛座の時代だったので、太陽神アトンの化身は、牡牛となったのです。
この唯一神アトンは、ヒッタイト帝国出自のヨセフ族末裔により、カナンの地で、太陽神バールと変身してしまうのです。この太陽神バールを信じる十部族の民族は、アッシリア帝国に滅ぼされ、その太陽神バールは、元のオリエントのミトラ神にもどってしまうのです。
その太陽神ミトラは、12月25日の冬至に死を迎え、そして、その日に復活するのです。太陽神ミトラは、死と再生を永遠に繰り替えすことにより、死と隣り合わせの武人の神として、軍神ミトラとして変身していくわけです。このことにより、軍神ミトラは、各民族・部族により構成された傭兵軍団と供に、世界に布教されていくわけです。そして、ギリシャ・ローマ文化国新羅の花郎軍団により、日本列島に渡来するわけです。
やがて、ミトラ教の祭祀者は、冬至を待たずに、太陽神ミトラに願う儀式を発明するわけです。それが、人工的に再生日を創る、太陽の化身牡牛の屠り儀式です。その儀式では、牡牛は屠りの儀式で死を迎えることにより、太陽神ミトラは再生し、願いを叶えてくれるわけです。そして、その生血と生肉を食べることで、太陽神を体内に取り入れることにより、その儀式参加者は太陽神と一体になれるわけです。
紀元一世紀以降には、このミトラ教の儀式思想は、ユダヤ・キリスト教儀式に取り入れられ、12月25日がクリスマスとなり、生血と生肉が、赤ブドウ酒とタネナシバンとなるわけです。このことを、「新約聖書」では、最後の晩餐でキリストの言葉として、「これは私の血であり肉である。」と弟子に述べ、そして、キリストは、「私の血を飲み肉をたべなさい。」、と言ったと述べているのです。この最後の晩餐でのキリストの言葉を、「私」を「牡牛」に替えれば、それは、ミトラ教の屠りの儀式となるわけです。そして、三神のミトラ教思想は、ユダヤ・キリスト教では父と子と精霊の三位一体思想に変身してしまうわけです。
太陽神のミトラ教思想は、ユダヤ・キリスト教だけが取り入れただけではありません。その宗教組織の成立・教祖誕生奇跡物語・福音書物語と仏教経典が、ユダヤ・キリスト教ソックリの大乗仏教にも、ミトラ教の思想が取り入れられているのです。
ミトラ神が変身した菩薩が、大乗仏教にもいるのです。それらは、弥勒菩薩・大日如来・阿弥陀様です。弥勒菩薩は、弥勒菩薩←マイトレーヤ←ミトラ神の流れです。大日如来は、大日如来←ビ・ルシャナ仏←遍照鬼←ビロー・チャナ←ミトラ神の流れです。そして、阿弥陀様は、阿弥陀様←エジプトのアミ様←唯一神・太陽神アトン←ミトラ神の流れです。
阿弥陀様は、鎌倉仏教僧が、反平安仏教の騎馬民族末裔を入信させるために持ち出し、そして、広めた仏様(?)です。その阿弥陀思想が、仏教オリジナル思想として捻じ曲げられて布教されたため、平安仏教思想により不可触賎民(施陀羅→穢多)として貶められた騎馬民族末裔は、仏教軍団に取り込まれる結果となってしまうのです。
その阿弥陀様を祭る宗教組織では、「南無阿弥陀仏」と呪文を唱えるのです。仏教であるならば、当然「仏様」を祭らなければならないのに、何故、「南無阿弥陀仏」なのでしょうか。
「南無阿弥陀仏」とは、その原語は、「ナーモ・アーミ・ダーボー」で、その意味は、「阿弥陀様に帰依します。」です。では、その阿弥陀様とは、仏様なのでしょうか。それは、違います。阿弥陀様とは、古代エジプトのアミ様(太陽神アトン)であったのです。と言うことは、古代エジプトのアミ様を祭る宗教は、仏教ではない、と言うことです。ですから、反平安仏教の騎馬民族末裔は、その古代エジプトの神様であった阿弥陀様を祭る宗教組織に入信してしまったわけです。
ここに、藤原氏による、破戒僧親鸞をしての、武術に長ける騎馬民族末裔を、藤原氏が支配する浄土教軍団に取り込むトリックが明かされるのです。そして、戦国時代末期には、この浄土教軍団は、秦氏の支配地であった大坂(古の秦王国)の経済的支配を望むイエズス会傀儡軍団の織田信長と、十年に渡り対戦することになるのです。
皮肉なことに、この阿弥陀様を祭る宗教組織で語られる「太陽の教え」により、平安仏教組織に抹殺されてしまったミトラ教(景教)の、「民族平等思想」が明かされるのです。その太陽を祀るミトラ教の平等思想とは、

太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は誰にでも平等に分け隔てなく頂くことができます。その熱と光は無償で頂くことができるのです。太陽はご自分の身を持って私達人間に対し慈悲と愛を教えてくださいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践をおこなわなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことができるのです。

飛鳥時代から始まる、騎馬民族国家・飛鳥ヤマトでは、「太陽の教え」の平等思想により、多くの渡来異民族が、ミトラ教の祭祀者と供に暮していたのです。ですから、飛鳥ヤマトは、オリエント文化に溢れていたのです。その地の祭祀者は、困りごとが起きると、古代エジプトから伝承された儀式で牡牛を屠り、太陽神ミトラに願っていたのです。その宗教施設のひとつが、巨大古墳であったのです。
645年以降、仏教思想を掲げる唐進駐軍は、その宗教施設と供に、そのミトラ教思想を抹殺、そして、隠蔽するために、色々な工作をおこなっていくのです。そのひとつが、平安仏教です。そして、飛鳥ヤマトでのミトラ教(景教)や道教を歴史的に隠蔽するために、「聖徳太子」なる人物を発明するわけです。
その「聖徳太子」の活躍により、蘇我氏が補助して百済仏教を飛鳥ヤマトで広めたとする物語を創作するわけです。そして、実際は突厥帝国軍の軍人であるのを、百済出自の蘇我氏とし、その名前に、稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蔑称を付けて、史実としては日本列島に天皇が現れたのが672年天武天皇からであるのに、蘇我馬子を架空の崇峻天皇暗殺者の大悪人に仕立て上げるのです。
その飛鳥時代でおこなわれた「聖徳太子」の事跡を、「蘇我馬子」に替えてみると、史実に近い飛鳥ヤマトの歴史が現れてくることでしょう。その根拠は、「蘇我氏」が支配する飛鳥ヤマトの歴史を隠蔽するために、ヨセフ族直系のイスラエル民族の歴史を乗っ取るために、ヤコブ物語を創作して、そのヨセフ物語の前にそのヤコブ物語を挿入した、レビ族末裔のユダヤ民族による歴史改竄手法を真似て、百済仏教伝来物語を飛鳥ヤマト時代に挿入するために、「聖徳太子」は平安時代に発明された人物であるからです。
平安仏教の、騎馬民族の宗教を破壊するための武器は、空海が唐から持ち込んだ、施陀羅の差別思想と、そして、最澄が布教する「法華経」による、仏敵に対する仏罰である、仏罰者=ハンセン氏病者のキャンペーンです。
この平安仏教の攻撃により、祭祀場を、穢れ地の神社境内→中州の河原→路上へと追われた蘇我王朝での祭祀者は、「七道の者」として貶められ、そして、そのひとも住めぬ居住地を部落として、ハンセン氏病者の世話をさせられてしまうのです。その平安仏教の戦略は、騎馬民族末裔=ハンセン氏病者=仏罰者=穢れびと、として、騎馬民族末裔を不可触賎民施陀羅としてしまうのです。
そのような唐進駐軍を後ろ盾にした平安王朝は、前政権の祭祀氏族を賎民に落とし込めていくわけですが、そこに、奈良に封じ込められていた藤原氏が、本国唐の隣国吐蕃軍の侵攻や、北方のウイグル軍団の南下により、唐国内の治安が乱れたことにより、日本国経営が手薄になっていたのに乗じて、天皇の地位から外れた百済王朝二代目の平城上皇を藤原薬子がコントロールすることにより、百済王朝三代目嵯峨天皇の政治が乱れてしまうわけです。
810年の藤原薬子の乱により、801年坂上田村麻呂が蝦夷棟梁アテルイを騙して惨殺したことにより、陸奥国蝦夷を胆沢城以北に追いやって一息ついていた嵯峨天皇は、二つの敵と戦う破目になってしまうのです。
そのひとつは、九州坊津でアラブ・インドとの南海密貿易で富を蓄え、奈良の南都仏教を支配している藤原氏です。そして、もうひとつは、ダビデの王権を、正統な後継者ではないソロモンが不正な手段で奪い、そして、義兄弟や姻戚を謀殺したと同じように、百済王朝初代の桓武天皇(桓武天皇の父光仁天皇は、藤原氏の傀儡天皇)が謀殺した、新羅系天武天皇の最後の血を引く井上皇后・他部皇子母子と、桓武天皇の実弟早良親王の怨霊です。
平安王朝は、その出だしから地震・雷、そして、不審火により平安京は祟られていたのです。それは、桓武天皇に対する祟りであると、信じられていたのです。その祟りが恐れられていたのは、約50年前の奈良の都での祟りが、未だ鮮明にひとびとの記憶に残っていたからです。
752年に東大寺大仏供養がおこなわれた後、奈良の平城京では、奇妙な病が多発したのです。それは、実際は、大仏鋳造時での、銅の精錬による銅毒と、水銀アマルガム法の金メッキでの水銀毒とによる鉱毒中毒による、中枢神経麻痺であったのですが、当時では医学知識が乏しかったため、それらの鉱毒中毒は、平城京を建設するために、前政権の宗教施設であった巨大古墳を破壊したことによる祟りと、信じられていたのです。
そこで、嵯峨天皇は、前政権末裔による、御霊鎮めを、陸奥国から連行してきた蝦夷武人におこなわせるわけです。怨霊は、その臣下の者だけが鎮めることができる、と信じられていたからです。そして、その陸奥国の蝦夷武人とは、その元は、前政権の蘇我王朝を支えた、新羅花郎軍団と突厥帝国軍団であったからです。そして、ここに、王権により神社から追われた祭祀氏族と蘇我王朝軍団末裔とが再会するのです。
嵯峨天皇は、藤原氏の謀略の対策として、810年皇族を守るために蔵人所を設置するのです。そして、都の治安維持のために、816年検非違使を組織するのです。この検非違使は、云わば、治安警察組織です。そして、その検非違使の配下として、陸奥国から捕虜として連行してきた蝦夷武人を、公安警察としての怨霊鎮めの業務者として使うのです。
怨霊は、眼には見えないけれども、色々な現象を引き起こす、と信じられていたため、その公安警察業務は、天皇直轄の組織となっていたのです。ですから、天皇が行幸する時には、怨霊からの攻撃をかわし、そして、防ぐために、「キヨメ」として怨霊対戦用武具を開発するわけです。それが、鹿角を付けた冑、総革製の鎧、そして、突厥帝国軍の軍刀・蕨手刀の刃を引き伸ばした、片刃の反りのある「日本刀」であるわけです。
「キヨメ」とは、儀式用武具で武装した武芸者による、怨霊からの祟りを鎮めるための儀式であったのです。しかし、平安時代では、天皇を怨霊の祟りから護るための「キヨメ」が、鎌倉時代の第二百済王朝の北条政権下では、汚いものを清掃する業務とされ、「キヨメ」は賎民による汚物処理業務とされてしまうのです。
この怨霊鎮めのための、実戦には適さない、総革製の武具と、折れる、曲がる、刃毀れする刀で武装する武人が、後に、武芸者が、平安王朝の転覆を狙う平将門や藤原純友などの反乱軍を壊滅したため、王権より「実戦の武人」として認められることにより、「武士」となり、その怨霊鎮めの儀式のための衣装が後に、日本武士の正装となっていくわけです。
つまり、世界的に武具は実用品であるのと異なり、美術品のように美しい、きらびやかな鎧・角のある兜・反りのある片刃の日本刀で武装する、神を祀る武芸者から変身した日本武士の祖は、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配したギリシャ・ローマ文化国新羅の花郎軍団と突厥帝国の武人であったのです。
ですから、日本武士道と、ローマ騎士道とには、「忠誠心」「弱者擁護」の他に、その戦い方の儀式、名乗りを上げての一騎打ち等、が同じであるのです。この日本武士道の精神は、現在では、正統役座の任侠道に流れているようです。
「日本刀」が日本武士の魂である、と言うことは、日本刀は、実戦用ではなく、武芸としての怨霊鎮めの儀式用に開発されたものであるからです。では、日本武士の実戦武器はなにかというと、騎馬民族突厥帝国軍式の「弓馬」であり、ローマ帝国傭兵軍の武器であるロンギヌスの「槍」であるわけです。
平安時代中期に、蝦夷末裔の神を祀る武芸者から、実戦隊の武士に変身できた背景には、907年の唐滅亡が大いに関係していたのです。日本列島は、701年の大宝律令から平安中期まで、律令制度により、中国大陸を支配していた唐の影響下にあったのです。
その根拠として、飛鳥ヤマトの新羅系天武天皇は、道教思想により太一(北極星)を祀り政をおこなっていたのですが、686年天武天皇が崩御し、そして、694年百済系持統天皇が藤原京へ遷都してからは、仏教文化の唐と同じ儀鳳暦(唐では麟徳暦。唐の儀鳳年間に渡来したことで儀鳳暦と言われた。)により政(まつりごと)をおこなっていたのです。
中国大陸の王権は、天の命を受けて政をすることになっていたので、王権が交代すると暦法も替えることになっていたのです。日本列島に暦法が現れるのが、645年唐進駐軍と中臣軍とにより飛鳥王朝が壊滅され、そして、オリエント文化の飛鳥時代の歴史が百済仏教文化に改竄されてしまったため、692年の元喜暦からと云われています。
その元喜暦は、南朝宋で開発されたものですが、その後の、697年儀鳳暦、764年大衍暦、858年五紀暦、862年宣明暦までは、全て唐国が開発した暦法です。これらの唐の暦法により、奈良・平安時代から江戸初期まで、朝廷での政がおこなわれていたのです。そして、日本国初の暦法は、京都の第一百済王朝の政から独立した、江戸初期の第三百済王朝での、1685年幕府の属僚渋川春海が作成したものであったのです。
そして、奈良盆地は唐の漢字文化に支配されることにより、「日本書紀」は漢文で記述されていくのです。その表意文字の漢字文化にかわり、オリエントで発明された表音文字の「かな」の公への出現を許すのは、唐が滅亡して中国・唐文化の影響下から外れた平安中期であったのです。
唐の後ろ盾を失った平安王朝と平安仏教は、騎馬民族末裔の武士の出現により、その経済的基盤を脅かされていくのです。それは、奈良仏教が、庶民を護るためではなく、律令制度維持のための機関であったので、奈良仏教は官営により運営されていたのですが、平安仏教は「官営」ではなく、自らが営業により経費を稼がなければならなかったのです。その平安仏教の営業のひとつが、加持祈祷です。
平安仏教は、寺内に祭壇を設け、大麻を燃やして呪文を唱え、煙に巻くことで銭集めをしていたのです。しかし、神社境内で「芸」をおこなっていた、前政権の祭祀一族を、武力で路上に追い出したのが、平安京を祟る怨霊鎮めのために、陸奥国の蝦夷捕虜が、神社境内で武芸を行い、その武芸者が、反乱軍を鎮圧したため、武士として王権から認めてもらえたことにより、その同族である遊芸の者達が、再び神社境内に集まってくるのです。
このことは、平安仏教には脅威です。それは、その遊芸者とは、飛鳥ヤマトでの祭祀一族であったからです。そして、その祭祀一族の祖は、ギリシャ文化継承国バクトリア→秦帝国→ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)からの渡来者であったので、その芸には、ひとびとを魅了する演出力が継承されていたのです。
ギリシャ文化のバクトリアでは、言葉の通じない異民族の人民を楽しませるために、無言の仮面劇が発展していたのです。つまり、パントマイムの仮面劇ということです。その仮面劇の主なテーマは、神々の物語です。このギリシャ仮面劇は、やがて、その民族の東への移動と供に、中国へ渡来するのです。
中国は、道教思想が生まれたように、神仙世界に憧れる傾向が強い国です。ですから、そのギリシャ仮面劇は、中国で、儺面劇(ヌオミエン・げき)となり、ギリシャ神話のストーリーが、悪魔や疫病を祓うものに変化してしまうのです。そして、その面を付けると、人間界と霊界と神界とに繋がることができると、信じられていくのです。
それらのギリシャ仮面劇や神仙思想の儺面劇の演出技術が、日本列島にもたらされるのです。その仮面劇は、騎馬民族末裔源氏武士が支配した室町時代に、オリエント渡来の秦氏末裔の世阿弥により、幽玄世界を演出する、能面(のうめん)を付けた舞による能楽となるのです。その能楽の祖が、飛鳥時代に山背国(秦王国)を支配した秦河勝であったのです。
秦河勝は、「日本書紀」の仏教伝来物語では、百済仏教布教に貢献したとされる「聖徳太子」の忠臣で、弥勒菩薩を安置するために広隆寺を建立したことになっているのです。その秦河勝によるオリエント渡来の神を祀る芸である秦楽(バクトリアから渡来したギリシャ仮面劇が祖→伎楽)が、平安時代には、王権により、賎民による「猿楽」と貶められていくのはなぜでしょう。そして、京都太秦には、その秦河勝の墓はなく、河内国讃良郡太秦(寝屋川市)にあるのはなぜでしょう。
この河内国讃良郡太秦には、弥生中期の高地性集落遺跡(太秦遺跡)が発掘されているのです。そして、偶然発掘された古墳群は、5〜6世紀頃のものと推測されるのです。
その5世紀以前の河内地域は、陸地ではなく、淀川と大和川が流れ込む湾に隣接した湿地帯であったのです。その河口が陸地になるのは、淀川治水工事で茨田堤を構築することによるのです。そして、その淀川上流の京都の山背国が湿地帯から陸地になるのは、桂川の灌漑工事と葛野大堰の築造によるのです。
これらの、秦氏に縁のある淀川河口湿地帯と山背国の湿地帯を、居住地に変える大規模土木工事には、高度土木技術と鋼鉄工具を必要とするのです。では、これらの高度土木技術はどこからもたらされたのでしょうか。
それらの大規模治水工事がおこなわれた、5〜6世紀に、3世紀後半から日本列島に出現した古墳は、巨大化しているのです。そして、その巨大化した古墳では、鉄器製鉄技術を持つ騎馬民族スキタイの墓墳形式である小山墳の石積木郭墳ではなく、巨大石材建築技術と大運河削掘技術を持つ古代エジプトの埋葬形式である石室に石棺が納められていくのです。そして、その石棺の石材は、九州阿蘇産が多く使われていくのです。このことから、秦氏は、九州から河内に渡来した民族であると示唆されます。そして、その九州には、中国大陸と同じ高度文化を持った秦王国があったのです。
これらのことから推測されるのは、秦氏の出自は、平安時代に第一百済王朝が亡命百済貴族を日本国の皇族とするために創作した「新撰姓氏録」によれば、五世紀に弓月国から渡来し、機織の技術集団となっていますが、実際は、ギリシャ文化の芸能技術だけではなく、古代エジプトの高度土木技術とヒッタイト帝国の製鉄技術(突厥語トトラ→タタラ製鉄)を持った技術集団ではなかったか、と言うことです。
その国際性を示すように、秦河勝の墓がある大坂は、河内湾に突き出た上町台地に発展するわけですが、その上町台地は、古代では河内湾の岬であったのです。その河内湾には、奈良盆地の三輪山の麓のツバキ市での朱砂交易のために、大陸との国際海洋交易のための湊が建設されていて、その湊は浪速(ローラン・後の難波)←朝鮮半島・楽浪(ローラン)←シルクロード国際都市・楼蘭(ローラン)、と呼ばれていたのです。
6世紀の難波(浪速・ローラン)については、「日本書紀」の仏教伝来物語では、疫病神の仏像が、物部氏により、「難波の堀に捨てられた。」と記述されている処です。「日本書紀」の記述が正しいとすれば、6世紀の難波は、大陸から渡来の仏教文化の強い処であったようです。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、その仏教色の強い難波津(浪速津)に対抗して、その対岸の岬(後の上町台地)に造られた津は、「ワタナベ津」と呼ばれていくのです。その「ワタナベ」とは、古代エジプト語で、「ワタ」は波で、「ナベー・ナベ」は、小高い丘で、その意味は、波が打ち寄せる小高い丘で、「岬」ということです。ですから、渡辺津とは、「津」とは船が接岸できる湊ということですから、「岬の湊」の意味となるわけです。
794年、唐進駐軍に支援された亡命百済王朝により、景教(ミトラ教)の牡牛を屠る儀式をおこなって、山背国(秦王国)・比叡山を支配していた秦氏一族は、戦国末期藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、関東の荒川・利根川河口の湿地帯に追われた徳川家康一族のように、以前の居住地であった淀川河口の渡辺に追放されるのです。
この山背国から追われた秦氏が、景教徒(ミトラ教徒)である証明は、その秦氏の渡来元のギリシャ文化国バクトリアの国教は、ミトラ教であったからです。ユーラシア大陸における、そのミトラ教の布教経路にある祭祀場遺跡では、多くの牛骨が出土することが報告されています。それは、ミトラ教の儀式では、太陽の化身の牡牛は、太陽神を祀るために屠られる、犠牲の聖牛であったからです。
大坂・河内でも、奈良時代の遺跡といわれる長原遺跡から牛骨が出土しています。しかし、室町時代以降は、牛骨の出土は見られなくなるのです。それは、古代から革が貴重な武器素材であるように、プラスチックのない室町時代の中世でも牛骨は貴重な武器素材であり、また、農耕のためにその骨粉は貴重な肥料となるからです。
仏教を祭る平安王朝により、淀川の湿地帯に追われた秦氏一族は、同族の武士の出現により、再び神社境内で、生活の糧を得るために民衆に芸を披露することができるわけです。今度は、平安王朝も平安仏教も手足を出せない状況にあるからです。それは、唐が滅んだことにより唐進駐軍が壊滅したことと、同族である武士の武力支援があるからです。
武芸者や遊芸者は、前政権の神を封じ込めるために建立された神社境内で、怨霊は闇に現れると信じられたため、かがり火を焚いて、角のある冑・きらびやかな総革製の鎧・美術品のような日本刀による怨霊鎮めをおこない、それらが、近隣のひとびとを集めるパフォーマンスとなるわけです。それに続いて、遊芸者の、伎楽による仮面劇があり、牡牛をデフォルメした獅子頭とエジプト渡来の唐草模様の布で覆った獅子舞の演出は、現在の祭りに通じます。
ひとびとが集まれば、そこには当然、経済活動が生まれます。遊芸者は、元は祭祀者であったわけですから、ひとびとの悩みの種を解消する対象となります。これは、平安仏教の加持祈祷の営業を妨害します。更に、その神社境内が、バザール化して物流が盛んになると、寺門前での商売に影響を与えます。
この神社境内での、秦氏のビジネスを阻止するための手段のひとつに、平安末期の1017年頃、本地垂迹説が発明され、穢れ地の神社境内は、平安仏教の支配地となってしまうのです。ここに、前政権の神を封じ込めていた神社が、仏を祭る神社に変身してしまうわけです。この本地垂迹説のトリックの呪縛から解放されるのは、明治時代まで待たなくてはならないのです。つまり、教科書歴史で、神社は日本古来の神々を祀っていた処と教えていますが、実際は、神社境内が穢れ地の異界から、神聖地域となるのは、平安末期からなのです。
唐の滅亡と供に、日本列島を支配していた唐進駐軍が壊滅した理由は、唐の軍団は、722年より傭兵制で組織されていたからです。ですから、軍人は、傭兵軍長には忠誠を示すけれども、唐国には、忠誠心を示さないからです。賃金が支払えない唐などには、傭兵軍は忠誠など示すはずはないのです。そのような兆候は、唐の国力が衰えてきた九世紀半ばの、律令制による班田制の崩壊と、荘園の発達に現れていたのです。
日本列島での律令制は、701年大宝律令が始めですが、それは、人民を土地に縛り付けて、税を収奪するためのシステムであるわけです。その収奪のトリックとして、天皇制があるわけです。天皇家の土地で、働くことができることにより、人民は生活できる、とされるわけです。
そこで、農耕をしない騎馬民族は、唐のコロニーである奈良王朝では、「穢れ者」であったのです。奈良時代の穢れとは、平安時代の騎馬民族を穢れとしたのとは異なり、奈良王権に従わない者を示していたのです。それは、官営の奈良仏教は、地獄世界と穢れ思想を平安貴族社会に布教し、そして加持祈祷のマッチポンプ営業で私服を肥やす平安仏教と異なり、王権を護るための組織であったからです。平安仏教には、祭祀氏族、そして物流を得意とする商業民族でもある騎馬民族末裔の秦氏一族は、商売敵でもあったのです。
907年唐が滅びたことにより、平安王朝により、奈良に封印されていた藤原氏は、摂関政治を利用して、平安王朝を牛耳り、私有地である荘園を拡大していくわけです。そのひとつに、南九州坊津がある島津荘があります。藤原氏は、その島津荘でのアラブ・インドとの南海密貿易により、財を成し、平安王朝の京都を護る桓武平氏の「サムライ」達を、源氏「武士」を雇い入れて、北関東へ追いやるのです。
平安王朝を摂関政治で牛耳る藤原氏により、その北関東に追いやられた桓武平氏末裔が、千葉氏、上総氏、三浦氏、秩父氏、大掾氏、そして、後に、平安王朝を支配していた藤原氏から支配権を武力で乗っ取った、ペルシャ(アラブ)系軍団末裔である「平家」を滅亡させるために、弓馬に優れた源氏軍団の棟梁として源頼朝を担ぎ出した、北条氏の「サムライ」達であったのです。
唐の滅亡により、平安王朝を支えていた軍事力が衰えていくと、奈良に封じ込められていた藤原氏は、摂関政治を利用し、そして、武家源氏の武力を利用して、敵対氏族を滅ぼしていくのです。
藤原氏により、901年には菅原道真、そして、969年には安和の変で、源満仲の密告により公家源氏源高明を謀略で滅ぼすことにより、朝廷での敵対氏族は全て抹殺されてしまうのです。それにより、藤原道長一門の栄華の時代を迎えるのです。
藤原氏は、摂関政治で朝廷を、そして、地方の荘園豪族を支配するため、宗教組織を系列化する目的で、967年延喜式を施行するのです。そのひとつが、宗教組織の序列化です。宗教組織をピラミッド化することにより、中央が末端を支配する構造です。
自然神を祀る宗教であれば、宗教組織の系列化は難しいのですが、仏教や神道は、ひとが言葉により創り出した人工神を祭る宗教ですので、人間社会と同じに序列化にすることが可能なわけです。ここに、仏教と神道の宗教組織が系列化し、人間社会と同じに、頂点に立つ宗教組織の命令により、神仏が地方に転勤することが可能となるわけです。
しかし、自然神を祀る宗教は、そのシステムを受け入れることができません。そこで、王権は、その自然神を祀る宗教組織の抹殺を図るわけです。
前政権の宗教を抹殺する基本的手段は、前宗教施設の破壊です。しかし、施設を破壊しても、その思想を破壊することが出来ません。そこで、前政権の宗教思想を抹殺するために、新しく宗教物語を創作して、その前政権の宗教思想を取り込んでしまうのです。
例えば、538年百済仏教伝来物語がそうです。その物語では、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏を登場させるわけです。そして、蘇我氏が物部氏を滅ぼしたことにより、百済仏教は、飛鳥ヤマトで布教された、とするわけです。しかし、その蘇我氏・物部氏は、その頃には存在しない氏族であったのです。その訳は、二文字漢字での、人名・地名表記は、713年好字令によるからです。ですから、仏教伝来物語の登場人物は、史実の人物や氏族ではないのです。
仏教伝来物語に信憑性がないのは、飛鳥ヤマトでの伝来仏教布教に深く関わった厩戸皇子(後の聖徳太子)と女帝推古天皇が活躍していたとされる時代に渡来した、608年隋使の報告書には、難波津から大運河により船で都まで行き、「都で男王に謁見した。」、とあるからです。つまり、飛鳥ヤマトに女帝推古天皇が存在しなければ、その摂政の厩戸皇子(聖徳太子)も存在しないことになるのです。そして、その仏教伝来物語から、厩戸皇子(聖徳太子)を消去してしまうと、その仏教伝来物語のストーリが成立しなくなるのです。
では、蘇我氏・物部氏とは、誰なのでしょうか。それは、蘇我氏とは、北東アジアを支配していた突厥帝国の軍事氏族であり、物部氏は、河内地方を支配していた、オリエントから渡来していた秦氏一族であったのです。飛鳥ヤマトを支配していた、突厥帝国軍事部族と、それを、船が航行できる大運河や馬車が疾走できる幅十二mの直線道路を建設して、技術支援をしていた秦氏一族の史実を抹殺した物語が、仏教伝来物語であったわけです。
京都を支配する藤原氏も、飛鳥ヤマトの景教・道教を抹殺したように、ギオンの神を抹殺するのです。それが、祇園祭りです。
平安仏教思想が、貴族社会から庶民に浸透すると、庶民は死者は穢れている、と信じ込んでしまい、死者を粗末に扱うわけです。その頃の仏教には、庶民の死者を葬る思想もなれけば、庶民の死者を弔うこともなかったのです。ですから、死者は、ケガレ物として投棄されたのです。その投棄場は、川と谷です。地獄谷の名称がある処は、死者の投棄場であることが多いのです。
京都地域では、川へ死者を投棄したのです。そのひとつに、賀茂川があります。賀茂川に死者が投棄され、そして、死体が集まる河原が、やがて、髑髏ヶ原とよばれていくわけです。そこは、京の賀茂川東岸で、その髑髏ヶ原は、やがて、髑髏原(ドクロハラ)→六波羅(ロクハラ)と名称がかえられていくのです。それは、その葬送地に、伊勢からの集団が住み着いたからです。その集団は、国際海洋商業民族であったのです。やがて、その集団は、祀りを始めるわけです。その祀りの神は、インドのヒンズー教の神、牡牛を聖獣として祀るわけです。このインド渡来の祀りに、比叡山に祭祀場を設けていた前政権の祀りが加わるのです。そして、その祀りの神は、牛頭天皇と呼ばれていくわけです。そして、その牛頭天皇の祀りには、魔多羅神が登場するのです。その七月に行われる牛頭天皇の祀りは、京の貴族には、疫病神であったので、ケガレから逃れるために、その祀りの期間は、貴族達は神輿違えと言って、京の街から避難していたのです。
では、この祇園祀りは、誰によりおこなわれていたのでしょうか。それは、アラブ・インドから伊勢に渡来した国際海洋民族と秦氏末裔であったのです。インドの聖牛祀りに、秦氏のミトラ神が習合したものが、祇園祀りの原型だったのです。
しかし、その祀りも、平安王朝により、抹殺され変形させられてしまうのです。牛頭天皇は、牛頭天王に、そして、その神を祀る処は、祇園社(ヒンズー教寺院)←祇園感神院(仏寺)←八坂神社、となってしまうのです。そして、ヒンズー教的な祇園祀りの疫病神的性格は、牛頭天皇(魔多羅神→ミトラ神)が祇園天神となり防疫的利益の祭り、と摩り替わるわけです。
そして、王権は、その賎民の祀り思想を抹殺・隠蔽するために、ユダヤ教の、表の門に羊の血を塗る「過ぎ越しの祭」ソックリの、腰に茅(血)の輪(門)を付ける、「蘇民将来物語」が創られるのです。(唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族と、太陽神「バール→ミトラ」と牡牛「牛頭」を祀るイスラエル民族とは、異民族。)そして、八坂の祭りは、粽(ちまき)を食べる祭りとして、今日に至るわけです。
平安王朝は、そのようにして、アラブ・インドの祀り、そして秦氏のミトラ教の祀りを、抹殺・隠蔽できたと思っていても、それから四百年後の戦国末期、疫病神の牛頭天皇を氏神とする、そして、先祖の墓が垣内にある織田信長には、その仏教組織が髑髏が原(六波羅)で住民を賎民のケガレ者としてイジメていた記憶を引き継いでいたのです。
つまり、高僧を焼き殺し、そして、比叡山の僧侶全員を斬首した織田信長の先祖は、髑髏ヶ原(六波羅)に勢力を張った、アラブ・インド渡来の「平家」末裔であったからです。戦国末期、織田信長の仏教僧にたいする残虐行為の原因は、平安時代にあったのです。
907年唐進駐軍が壊滅したため、平安王朝を支配下にした藤原氏は、再び、奈良仏教の京への進出を企てるのです。しかし、そこには、今までになかった新興の宗教組織があったのです。それが、アラブ・インド渡来のギオンの神を祀る、国際海洋交易民族の興隆となるわけです。
唐進駐軍の後ろ盾を失い、桓武平氏の「サムライ」を京から追い出された百済王朝は、藤原氏の暴虐を黙ってみていたわけではありません。1086年白河上皇は、藤原氏の摂関政治に対抗して、院政を始めるわけです。
摂関政治とは、百済天皇家に、新嘗祭の後におこなわれる五節の舞により、藤原の女を娶らさせ、その藤原氏の血が流れる子供を天皇にして、その藤原氏の孫天皇をコントロールする政治システムです。
その藤原氏の摂関政治に対抗する、院政とは、百済天皇家の実子に天皇の位を譲り、天皇が上皇となり、その実子天皇を、上皇がコントロールする政治システムです。このことにより、藤原氏の摂政の横槍を排除できるわけです。
この院政システムは、藤原氏に大打撃を与えることになるのです。それは、白河上皇は、天皇領の回復のために、荘園禁止令を発令したからです。そのことにより、藤原氏が、勝手に荒地を開墾することができなくなり、私領の荘園を拡大する戦略が頓挫してしまうのです。
そのような摂関政治と源氏武士団により、朝廷を牛耳っていた藤原氏を差し置いて、強行政治を行えたのは、白河上皇には、新興の武士団がいたからです。その武士団が、ギオンに勢力を張る、平正盛から始まる「平家」です。後に、伊勢からギオンに勢力を張る「平家」の興隆は、907年唐の滅亡によるのです。
唐が滅亡すると、中国大陸は、分裂時代を迎えるのです。その唐の滅亡の原因のひとつが、シルクロード交易を、武力で支配したサラセン帝国の興隆です。そのことにより、唐は陸路による国際交易の利益が得られなくなり、経済が疲弊したため傭兵軍の士気が落ちることにより、周辺の部族が大挙して唐国を襲ったのです。つまり、唐はシルクロードの交易権をサラセン帝国に奪われてしまったため、滅びたのです。
そこで、唐とヨーロッパとの交易をおこなっていた国際交易商人は、陸路から海路へと交易方法を替えるのです。
960年中国大陸の分裂時代を終わらせたのが、宋です。宋が中国大陸を軍事支配し、そして、経済が安定化すると、そこには、アラブ・インドの海洋国際交易商人が大勢押し寄せてきたのです。それは、宋(960年〜1126年)は、北面する騎馬民族・遼(916年〜1125年)に対抗するために、国力を強くするために、宋銭を多量に発行して、アラブ・インドとの国際交易を盛んにしたからです。
そのアラブ・インドの国際交易商人は、宋に交易基地を創設すると、唐が平安中期まで経営していた日本列島に、交易先を広げていくわけです。それは、日本列島には、金・銀・銅・水銀・朱砂・真珠・医薬品の原料の宝庫だったからです。
しかし、南インド・マラバル沿岸から渡来していた藤原氏の先祖は、南インドと中国大陸との交易のために、北九州坊津→種子島→雑賀→根来→奈良の都へのルートを、古くから開発していたのです。
そこで、南九州に上陸できないアラブ・インドから渡来の国際交易商人は、九州南端から黒潮に乗り、更に北上して、伊勢湾にたどり着くわけです。その伊勢湾は、南方の椰子の実が漂着するように、古代から南方民族の渡来地であったのです。その伊勢湾の沿岸地帯は、古代から国際交易地でもあったのです。それは、そこでは、国際交易品である朱砂、真珠が採れたからです。
伊勢地域は、水銀鉱脈がある中央構造線上に位置していたため、奈良の宇陀、三輪山麓のツバキ市との交易地でもあったのです。その証拠に、奈良の箸墓古墳からは、東海製の土器などの埋蔵物が多く出土しているのは、伊勢の先住民は、伊勢から中央構造線の窪地を通り、奈良盆地まで交易に出かけていたからです。
アラブ・インドから渡来し、そして、伊勢に住み着いた国際交易商人は、瞬く間に、平安京の葬送地の髑髏ヶ原を占領するのです。それを可能にしたのは、宋から持ち込んだ多量の宋銭です。
794年騎馬民族系天武天皇家を壊滅し、秦氏の支配地の山背国(秦王国)を乗っ取った、唐に支配された百済系平安王朝は、騎馬民族末裔を支援する秦氏の再興を阻止するために、神社境内のバザールでの交易を阻止するために、銭の使用を禁止するのです。
そのために、平安王朝は、西国では「米」を、東国では「絹」を貨幣代わりに使わせたのです。このことにより、通貨経済に長けた騎馬民族・農耕地を持てない秦氏末裔は、自然と暮す思想を持っているため、自然の摂理に逆らう農耕をしないため、食料品が銭と交換できないため、生活が疲弊してしまっていたのです。
しかし、907年、平安王朝を支配していた唐が滅びることにより、土地本位経済を支えていた律令制度が、藤原氏の陰謀により破壊され、私領の荘園が発展していくわけです。その荘園は、やがて、藤原氏が雇った源氏武士の武力により、王権からの不入地となっていくわけです。そのように、藤原氏による摂関政治により、平安王朝の百済天皇家の全国の土地は、徐々に、藤原氏に横取りされてしまうわけです。そこで、百済系白河上皇は、藤原氏が雇う武家源氏に対抗するために、伊勢の国際交易商人と同行して渡来した、葬送地の髑髏が原を拠点とする、アラブ・インドの武装軍団を私兵とするわけです。その白河上皇の私兵の棟梁が、平正盛となるのです。
この頃の日本列島の各部族の勢力地を眺めると、関東を拠点とする桓武平氏を擁する百済系の京都、南九州島津荘の南海密貿易で財力を蓄える藤原氏の奈良、河内の湊と北九州松浦を結び朝鮮半島・中国大陸との海洋交易で栄える新羅系源氏武士の河内、蘇我王朝軍団残党が支配する陸奥国、そして、アラブ・インド南海交易で栄える伊勢に勢力を張る「平家」の六波羅、となるわけです。
教科書歴史では、「平家」を「伊勢平氏」とし、平氏一族のように記述していますが、伊勢に勢力を張る「平家」と、関東に勢力を張る「平氏」とは、異なる民族により構成された武力集団だったのです。
「平家」は、鼻が大きく、ヒゲが濃く、眼が大きく、肌色が浅黒い、アラブ系の特徴をもっています。それに対して、「平氏」は、鼻が低く、ヒゲが薄く、眼が細く、肌が黄色の、ツングース系の特徴をもっています。
思想的にも、「平家」と「平氏」とは異なります。鎌倉時代初期に、「平氏」の女棟梁北条政子の謀略により、源氏頼朝三代一族抹殺後に、源氏の八幡信仰(新羅・秦羅の神様=太陽神)から、「平家」の厳島神社信仰に乗り換え、「平家」の宗教思想を、「平氏」に取り込んだため、「平家」は仏教系と思われていますが、それは、違います。
平安初期、京都・平安王朝の軍事組織のひとつとして、「桓武平氏」が登場したのです。そのため、平安王朝を支える宗教組織の比叡山延暦寺は、「平氏」とは友好関係にあったのです。つまり、「平氏」は、反仏教ではないのです。
しかし、「平家」は、反仏教なのです。そのひとつの例として、1167年、平清盛は太政大臣となり、平安王朝を乗っ取ると、今までは伊勢に接岸させていた宋の貿易船が、福原の湊に接岸できるように、大和田の湊を築造する時に、従来でしたら人柱を埋めたのに対して、何と、人柱の代わりに、仏教徒の精神的支えである「仏典」を埋めてしまったのです。つまり、国ッ神に対して工事の無事を願うための人柱となるのは奴隷ですから、平清盛は、「仏典」を奴隷と同じと考えていたようです。
1170年、その平家による、宋との貿易都市の福原で、平清盛は、宋の貿易商人を後白河法皇に引見させていたのです。この一般人が法皇と引見したことは、日本史上、前代未聞の珍事であったのです。それほど、平清盛は、平安王朝を私物化していたのです。
更に、平清盛の子重盛は、源氏武士でも畏怖する「神輿」に矢を射掛けたり、奈良の興福寺、東大寺に火をつけ、1180年、全焼させていたのです。
そのように、「平家」が、仏教思想に、敬意も畏怖も抱かないのは、仏教を信仰する「平氏」とは異なり、反仏教であったからです。それは、「平家」は、日本の平安仏教思想の本質と、そのトリックを見抜いていたからです。
「平家」の先祖は、アラブ・インドから渡来していたので、インドの宗教思想に熟知していたのです。ですから、平安王朝の百済系桓武天皇家を祀る儀式は、錬金術師空海が発明した真言密教によりおこなわれていたのですが、その空海が発明した、ダキニ呪文の密教儀式は、インドのバラモン教・ヒンズー教の教義・儀式を真似たものだったからです。
更に、空海が発明した曼陀羅に登場する大日如来(ビロー・チャナ)を筆頭とする無数の神仏群は、殆んどが、バラモン教やヒンズー教の神や鬼神であったからです。そして、ブッダの言葉を記述したと云われる無数の「釈尊の思想と百八十度異なる仏典」も、紀元前五世紀の釈尊の言葉などではなく、ギリシャ文化継承国バクトリア文化を引き継いだ、国際交易都市ガンダーラで、紀元一世紀前後に、文殊の徒が創作した作文であることを知っていたからです。
平安時代、そのようなインドのバラモン教やヒンズー教の神や鬼神を、仏寺に仏像として祀る日本仏教には、アラブ(ペルシャ)系「平家」は、敬意も畏怖も抱くことは無かったのです。ですから、仏典を奴隷代わりに人柱として埋めたり、神輿に矢を射掛けたり、そして、仏像と供に仏寺に火をつけて、全焼させていたのです。
そして、「平家」が、「平氏」と異なり、遅れてきた渡来民族であることは、「平家」には、「平氏」と異なり、苗字がないからです。苗字とは、例えば、「足利左馬頭源朝臣尊氏」とすれば、足利が苗字です。そして、左馬頭が職名、源が氏名、朝臣が姓、そして、尊氏が諱(いみな)の実名ということです。しかし、「平家」の武人には、「平氏」にはある、その土地名から派生した苗字がないのです。
苗字とは、名字で、その名字とは、荘園名のことです。私有地の荘園は、国衙領の天皇家の支配地と異なり、武力でその支配地を管理しなければならなかったのです。ですから、その私有地である荘園に名前(名田)を付けて、所有権を主張していたのです。やがて、その私有地の荘園名が名字となり、その名字は、「足利氏」のように、その支配者の名前の苗字となっていくわけです。
平安時代中期、唐進駐軍の後ろ盾がなくなり、律令制度を支えていた公地公民の、全ての土地と人民は天皇家のものである、との中華思想は、摂関政治の藤原氏により、破壊され、私有地の荘園制が確立されると、その後に、氏名の他に、苗字が現れてきたのです。その苗字を、「平家」がもっていないことは、「平氏」には北条氏、三浦氏などの名字(苗字)があるのとは異なり、「平家」の日本列島への渡来が、私有地制度確立後にあったからです。
荘園の土地の所有を表明するために、土地の名前を一族の名前とした名字(苗字)は、遅くとも、奈良時代の743年よりの私有地制度(墾田永世私財法)の芽生えによるのです。つまり、このことから、743年以降に「平家」の先祖が、アラブ・インドから日本列島の伊勢に渡来したことが示唆されるのです。
アラブから伊勢に渡来した、「ペルシャ平家」が、正盛、忠盛、清盛の三代で、平安王朝を乗っ取れたのは、河内源氏の興隆を快く思わなかった藤原氏により、河内源氏抹殺の陰謀があったからです。
939年〜941年、平将門と藤原純友の反乱軍を武力で鎮めた、陸奥国蝦夷の武芸者は、平安王朝より、「武士」と認められたことにより、検非違使の公安警察の賎民としての配下から、「武士」として朝廷警護の職を得るのです。
その武士の戦闘能力を利用したのが、私領を増やすために、平安王朝の乗っ取りを企む、奈良の都を支配する藤原氏であったのです。その武士集団は、同族の秦氏末裔が暮す河内に集結すると、源氏武士団として勢力を増していくわけです。
その武士の先祖は、陸奥国の蝦夷で、その蝦夷の先祖は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の、騎馬民族の突厥帝国軍事部族であったのです。そして、その蘇我王朝を支えたのが、オリエントから渡来の、技術部族連合の秦氏一族(河内の秦氏は、後に、「日本書紀」により「物部氏」として改竄される。)であったのです。
907年唐が滅びると、河内の湿地帯は、秦氏による古代エジプトの土木建設技術により、瞬く間に、中国大陸、朝鮮半島との、国際交易湊・渡辺津として発展していくわけです。そして、中国大陸からの交易品は、神社ネットワークの物流センターにより、全国各地の八幡(やはた)・稲荷(じゅが←つか)神社境内のバザールで売り捌かれていくのです。
しかし、奈良時代までは、飛鳥ヤマトの奈良盆地を中心に幅十二mの直線幹線道路網が、飛鳥ヤマトのガラス器工場や鉄器工場からの製品を中国大陸に輸出するために、日本列島に張り巡らされていたものが、百済系桓武天皇の平安王朝になると、唐進駐軍に支援された桓武天皇家により、道幅が十二mから六mに狭められたのは、平安王朝に敵対する騎馬軍団の活動を阻止するためと、騎馬民族の馬車による物流システムの破壊が、主な目的のようです。飛鳥時代に馬車が使用されていたと推測されるのは、古代高速道路に轍(わだち)の跡が確認されているからです。
奈良時代までに、全国に張り巡らされていた馬車による古代高速道路の物流ルートは、平安王朝により破壊されてしまいましたが、「武士」が登場する平安時代中期以降、各地の八幡・稲荷神社を拠点として、物流ルートが復活するわけです。
八幡・稲荷神社とは、現在では、「はちまん神社」、「いなり神社」と言われていますが、実際は、オリエントから渡来の秦氏の神(ミトラ神=太陽神)が、祠に祀られている古墳・塚(土の家=墓・つか→じゅが→稲荷)を隠蔽・抹殺するために、簒奪王権により建てられたものであったのです。
平安時代中期、その秦氏の物流センターである神社境内は、仏教組織が神社を支配するためのトリック思想の本地垂迹説により、仏寺の配下となっていましたが、秦氏の同族の「武士」の出現により、仏教勢力は手出しが出来なくなってしまったのです。それは、秦氏による、神社境内でのバザールは、「武士」の武力で護られていたからです。
しかし、神社境内のバザールが、仏教勢力による営業妨害から、「武士」により護られていたものが、源氏頼朝三代が抹殺された鎌倉時代になると、「武士」から、「役座」に代わってしまうのは、桓武平氏の北条氏の陰謀により、「武士・源氏」が「サムライ・平氏」に敗れたからです。
教科書歴史では、鎌倉時代は、源氏武士の時代と教えているようですが、それは違います。鎌倉時代は、平氏の時代なのです。この亡命百済移民末裔の平氏が支配する鎌倉時代に、江戸時代での、「役人の縄が不浄である。」との思想が形成されていくのです。
何故、鎌倉時代に、「武士」が、「サムライ」に敗れたかの遠縁として、平安末期の藤原氏による、河内源氏武士団壊滅の陰謀が考えられるのです。
平安中期、陸奥国から京への蝦夷捕虜が、桓武天皇を呪う怨霊鎮めのために、角のある冑、派手な総革製の鎧、美術品のように美しい怪しい光を放つ片刃の刀の非実戦的武器で武装し、仏教思想では穢れ地の神社境内で、剣舞の武芸者として振舞っていたものが、唐進駐軍が消滅したのを見透かして起こした天慶の乱の朝廷反乱軍を武力で鎮圧したため、「武士」として朝廷から認めてもらったことにより、蝦夷の同族が住む河内は、中国・朝鮮半島との国際交易により、繁栄していくわけです。それに乗じて、藤原氏の私兵として雇われていた河内源氏武士集団の勢いも全国的に増していくわけです。
藤原氏は、摂関政治と河内源氏の武力により、百済天皇家の領地を、荘園経営の名目で簒奪していくわけです。その百済天皇家の経済を支えるものに、陸奥国の金山があるのです。
平安初期、唐進駐軍と桓武天皇軍が陸奥国の蝦夷討伐に懸命だったのは、ひとつには、桓武天皇の母国百済を滅ぼした、新羅(秦羅)から渡来の蘇我王朝軍を構成していた新羅花郎軍団末裔と、東アジアを支配していた突厥帝国軍末裔の壊滅があったのです。そして、もうひとつの目的は、陸奥国に眠る金の簒奪であったのです。陸奥国は、古来から、鉄、琥珀の他に、砂金の大産出国でもあったのです。
そこで、摂関政治で平安王朝を乗っ取った藤原氏は、河内源氏の武闘力を利用して、陸奥国を支配している蝦夷末裔の阿部氏、清原氏の壊滅を目指すのです。
その金が産出する陸奥国支配のための侵略戦争が、1051年の前九年の役、1083年の後三年の役であるわけです。前九年の役では、阿部氏が滅び、そして、後三年の役では、清原氏が滅び、陸奥国は、藤原氏の支配地となってしまうのです。ここに、源平合戦で、「平家」壊滅のために、蝦夷末裔の源義経を使い捨てにした奥州藤原氏が興るわけです。
この出羽・陸奥国侵略戦争で活躍した河内源氏には、陸奥国だけではなく、関東の豪族からも荘園を寄進され、その結果、西国を勢力圏としていた源氏の支配地は、千葉氏や北条氏の平氏支配地の東国へと広がり、その西国発祥の河内源氏の勢力が、日本列島全土に広げられようとしていたのです。
それらの関東地方豪族の目的は、荘園を源氏棟梁に寄進することにより、河内源氏の支配下の「源氏武士」となることです。この西国を支配する源氏の東国進出に対しても、平安王朝、藤原氏と同様に、関東平氏も脅威を感じていたのです。
この河内源氏の興隆に脅威を感じたのは、平安王朝だけではなく、河内源氏の雇い主の藤原氏も、同感だったのです。それは、645年以前は、近畿一帯を中心に全国に広がる古代高速道路網の遺跡が示すように、飛鳥ヤマト時代は、騎馬民族が支配者であったからです。
そして、摂関政治の藤原氏が支配する平安王朝には、中国・朝鮮半島との国際交易により経済発展し、そして、武器の素材となる牛馬を飼育する河内の源氏武士の興隆は、飛鳥ヤマト時代の騎馬民族支配国・秦王国の再興に思えたからです。
そこで、藤原氏が支配する平安王朝は、1091年源氏棟梁源義家への荘園寄進を禁ずるのです。そして、翌年、1092年には源義家が荘園を設立することも禁じるのです。しかし、平安王朝の度重なる荘園設立禁止令を発しても、河内源氏勢力の勢いは止まらなかったのです。そして、ついに、1098年陸奥国蝦夷末裔の俘囚と言われた「武士」の源義家は、朝廷より昇殿を許されるのです。
そこで、摂関政治で平安王朝を支配する藤原氏は、全国制覇するほどの勢いのある河内源氏を壊滅するための戦略を練るのです。それが、1156年の保元の乱と、1159年の平治の乱だったのです。
その藤原氏の戦略は、結果的には、反藤原氏の白河上皇の私兵の「平家」を増長させてしまうのです。
保元の乱・平治の乱が画策される五十年前、1108年白河上皇は、藤原氏の私兵の河内源氏を牽制するために、謀反の罪をきせた源義親を、白河上皇私兵の平正盛に討たせていたのです。そして、源義親の首を掲げて京の都に凱旋する平正盛を白河上皇が出迎える、という演出をして、葬送地であるギオンを根城とするアラブから渡来の賎民末裔私兵である「平家」の格上げをおこなっていたのです。
そして、1129年白河法皇が崩御し、その子鳥羽上皇の、1132年には平正盛の子平忠盛は内昇殿を許される身分に格上げされているのです。そのように、反藤原氏の百済天皇家の私兵「平家」は、宋銭と「ギオン女御=あそびめ」により着実に、武力と共に政治力も増していたのです。しかし、藤原氏は、「平家」の実力を、関東を支配する天皇臣籍降下賜姓の「平氏」と異なり、賎民私兵軍団と見くびっていたのです。
その藤原氏による、全国制覇の勢いのある河内源氏抹殺の戦略は、源氏軍団を二分して、弱い方に味方して、最初に「強い源氏一族」を抹殺し、後に、味方した「弱い源氏一族」を殲滅する、と言うことです。この「夷を以って、夷を制す」の藤原氏得意の戦術は、日本史のあちこちで確認できます。
保元の乱の戦いでは、天皇側(後白河天皇)には平清盛、源義朝、そして、院側(崇徳上皇)には源為義、源為朝で合戦がおこなわれ、私兵軍団の平清盛軍団が、河内源氏主力軍団を壊滅するわけです。
何故、武闘力が優れた河内源氏主力部隊が、新興私兵軍団に敗れてしまったのでしょうか。それは、源氏の闘い方の思想によるのです。
源氏軍団の先祖は、新羅花郎軍団(「花」とは、「ミトラ」の借字)と突厥帝国軍団です。その新羅花郎軍団は、太陽神ミトラを軍神としているのです。その新羅花郎軍団の先祖は、ロンギヌスの槍を武器とするローマ帝国傭兵軍であるのです。
ローマ帝国傭兵軍の軍神は、太陽神ミトラです。その軍神ミトラは、敵軍と自軍の境に降臨し、自軍に力を授けてくれるのです。しかし、万が一敗れた場合、正義のもとに勇敢に戦った戦士には、軍神ミトラは再生を約束してくれるのです。
ですから、死者を不浄のケガレ物として燃やしてしまう仏教思想は、勇敢な死者は再生すると信じる武士には、受け入れられないものだったのです。このことからも、騎馬民族支配の飛鳥ヤマトで、仏教が盛んであったとする「日本書紀」の記述の信憑性が疑われるのです。
飛鳥ヤマトに仏教が興隆するのは、645年騎馬民族の軍神・太陽神ミトラ(景教)を信仰する蘇我王朝が、630年北東アジアを支配していた東突厥帝国を逸散させた唐帝国軍の勢いを借りて、唐進駐軍と中臣族軍により壊滅された後であるのです。その飛鳥ヤマトのオリエント渡来の信仰世界を隠蔽するために、山背国蜂丘寺の景教寺や飛鳥ヤマトの道教の観を徹底的に破壊してその跡に、日本最古の木造建築と云われる法隆寺をはじめ、北九州の秦王国にあった多くの仏寺が、唐進駐軍と中臣族(後の藤原氏)により、飛鳥ヤマトを中心として近畿一帯に移築されたのです。
その前政権の宗教施設・思想隠蔽手段のひとつとして、720年「日本書紀」での、物部氏(廃仏派はウソ、実際は太陽神を祀る景教信仰の河内を支配した秦氏)と蘇我氏(崇仏派はウソ、実際は北極星信仰の突厥帝国軍部族)とによる、厩戸皇子(後の聖徳太子)が活躍する仏教伝来物語が著されたのです。
「日本書紀」の神話により孤島日本列島のイメージを刷り込まれてしまったひとには、ローマ帝国傭兵軍末裔が日本列島に渡来していたことを信じられないことでしょう。しかし、西の果てのローマ帝国(紀元前27年〜紀元395年東西に分裂)と、東の果ての後漢(紀元25年〜紀元220年)とは、シルクロード交易により繋がっていたのです。97年には、後漢は、甘英をローマ領に派遣していたのです。その後、166年には、ローマ帝国の使者が、後漢を訪れていたのです。
その後の、東西交流は歴史上消えてしまいますが、356年朝鮮半島で、ナムル王により建国された新羅(秦羅)は、ギリシャ・ローマ文化国家であったことは、慶州の石積木郭古墳の埋葬品の数々で証明されています。そして、朝鮮半島南端では、ローマ帝国傭兵軍騎士の馬を武装するための馬冑が発掘されているのです。その古墳埋葬物から推測されるのは、五世紀末から六世紀初期の埋葬品である、と言うことです。
そして、そのローマ帝国傭兵軍騎士の馬を武装する馬冑が、日本列島の和歌山県の紀ノ川河口の大谷古墳からも発掘されているのです。大谷古墳からの馬冑は、六世紀初期と推測されているのです。「日本書紀」によれば、飛鳥ヤマトに蘇我稲目が、突然大和朝廷の大臣として歴史上に現れたのが、530年となっているようです。
これらの事から角冑・派手な鎧・片刃の刀で武装する日本武士のルーツとしては、紀元一世紀・ローマ帝国→紀元二世紀・中国・後漢→紀元四世紀・朝鮮半島・新羅(秦羅)→527年北九州筑紫への侵攻(「日本書紀」では、磐井の反乱と記述)→紀元六世紀・日本列島・紀伊半島紀ノ川口上陸→530年・飛鳥ヤマト・騎馬民族の出現→645年騎馬民族国の蘇我王朝壊滅→飛鳥ヤマトから新羅花郎軍団・突厥帝国軍団が撤退→陸奥国・蝦夷の出現→九世紀・蝦夷捕虜が京で怨霊鎮めの武芸者となる→941年天慶の乱後・武芸者から武士→武家源氏の誕生、への流れです。
そのようなローマ帝国軍の騎士道精神を、新羅花郎騎士道より引き継いだ源氏武士は、太陽神を祀る武芸者であることを自覚しているため、戦場で、太陽神・軍神ミトラに聞こえるように大声で名乗りを上げ、正々堂々と闘うのです。
そして、その戦闘時期は、太陽神である軍神ミトラが守護できる、昼間でしかおこなわなかったのです。それは、軍神ミトラが、勇者の戦いを見守れるのが「昼間」であるからです。しかし、アラブ渡来軍団の末裔である武力集団としての「平家」には、祭祀者の武芸者を先祖に持つ源氏武士団のような武闘信仰はありません。
「平家」末裔の織田信長の得意の戦術、「夜襲」「奇襲」「集団戦術」は、源氏武士団の闘い方のルールに反するものだったのです。そのような、「平家」の夜襲・奇襲・集団戦術により、保元の乱で、神社での武舞による怨霊鎮めをおこなう祭祀者である武芸者の流れを継ぐ、河内源氏の主力部隊は壊滅してしまうのです。そして、保元の乱で、平清盛と天皇側に付いて生き残った源氏源義朝には、もはや戦闘主力部隊はいないのです。
かくして、平治の乱では、保元の乱で同盟者であった平清盛により、源氏棟梁源義朝は敗れ、その子源頼朝は、「平氏」の支配地である関東の伊豆へ配流となるわけです。そして、後に、源頼朝は、「平氏」の北条氏により源氏棟梁として担がれ、京の平安王朝を乗っ取った「平家」殲滅のために利用されてしまうのです。
平家清盛軍団を軍事援助し、河内源氏を二段階で滅ぼした、保元の乱、平治の乱の陰謀により、西国河内を中心に勢力を張っていた源氏一族・郎党抹殺に成功した藤原氏は、平家の平清盛の実力を知ったときには、既に、日本列島の湊は、南九州坊津を除いて、アラブ・インド国際海洋民族末裔である「平家」一族の支配下にあったのです。
平家の平清盛は、後白河天皇を傀儡として、平安王朝を乗っ取ると、宋国の商人と貿易を盛んにするわけです。そのために、福原の大和田の湊を整備し、そこを平家の物流センターとして、宋から輸入した奢侈品を、宋銭(宋銭はアラブでも流通する国際通貨)を媒介にして地方の荘園豪族に売り捌くことにより、出羽・陸奥国を除く日本列島を席巻していくわけです。
この平家の宋国との独占交易に脅威を感じたのは、古来から南インドと密貿易をおこなっていた南九州坊津を支配している藤原氏だけではありません。そのひとつに、比叡山延暦寺があったのです。延暦寺は天台宗の寺で、その天台宗は中国山東半島に本社があったのです。その本社である中国天台宗寺と支社である比叡山延暦寺とは、平安初期から交易をおこなっていたのです。
一般的常識では、大乗仏教の僧は、苦しむ庶民を救済するために、広く世界を股にかけて布教の旅をしていた、と信じているひとが多くいるようですが、それは、大乗仏教布教の一面を見ているに過ぎません。史実は、大乗仏教布教の路は、庶民とは無縁な奢侈品の交易路でもあったからです。
紀元一世紀、ギリシャ文化継承国バクトリア文化を引き継いだ、国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の仏典布教の真の目的は、苦難にある梵語も漢語も理解できない異国の難民の救済であったのでしょうか。
仏教関係者が記述した書物では、異国での大乗仏教布教の真の目的を知ることができません。しかし、田村圓澄氏著書「古代朝鮮仏教と日本仏教」に、その異国での大乗仏教布教の裏面を記述してある一文があるのです。

朝鮮半島および日本の場合と共通していることが二つある。第一に仏教は王都を目指してきたことであり、第二に既存の道によって伝来したことである。仏教は出世間の教えであった。釈迦の生涯が示すように「出家」とは世俗を捨てることである。したがって出世間の教えである仏教は、人跡まれな深山幽谷や、あるいは絶海の孤島に向かって進んできたように思われるが、しかし、中国の場合も仏教は王都を志向している。そして王権と接触し、貴族層の支持をえて伽藍は造営された。出世間の仏教が、王権にたいする接近について積極的であったのは仏教の内部矛盾の観がある。しかしこの事実を除外視しては、漢訳仏教圏の仏教を語ることはできない。

異国異民族との国際交易の歴史は、紀元前三千年のエジプトとシュメールにみられます。古代エジプトでは、神殿を管理する神官が交易船を所有していたようです。そして、古代シュメールでは、神官が交易品を管理する神殿経済がおこなわれていたようです。
古代では、宗教施設で交易をおこなっていたようで、異国異民族との交易をおこなう商人の発生の流れを逆に辿ると、商人←委託販売人←御用商人←宮廷の交易代理人←官人←神殿管理者の神官、となるようです。では何故、神殿が異民族との交易に関わったのでしょうか。
言葉も通じない異文化に暮す民族との物と物との交換は、危険が予測されます。それは、他民族の生産品を得るには、武力が伴う略奪により調達していた時代があったからです。そこで、知恵者が考えた異民族との取引が、沈黙交易です。
沈黙交易とは、言葉を使用せずに、身の安全と相手の動向を良く観察できるように、取引所は見渡しの良い平原あるいは平地で、交換する物品を所定のところに置き、異民族が互いに納得できる交換量を出し合うことにより物々交換おこなう交易のことです。この交易方法は、騎馬民族が、各地から交易品を持ち寄り、平原でおこなうバザールとして受け継がれています。
弥生・古墳時代、日本列島奈良盆地の、国際交易品の朱砂の交易地の三輪山麓のツバキ市に、建築建物の遺跡が確認できないのは、正に、そのツバキ市が、異民族による沈黙交易場の「平地」であったからなのです。
しかし、ひとには無限の欲があるため、その沈黙交易も時にはトラブルも発生するわけです。そこで、知恵者が考えたことは、絶対権力者である「交易の神」の発明です。そして、その交易の神の下でおこなわれ、一度決定した交易は、後には覆すことができないルールを考え出したのです。
この交易の神の記録的始めは、紀元前十四世紀のヒッタイト帝国でのミトラ神のようです。その根拠は、異民族との交易の記述を示した粘土板にミトラの名が刻まれていたからです。
交易の神が見守る、その交易をおこなう広場のある建物は、ギリシャ、エジプト、オリエントでは、やがて、神殿と呼ばれ、その神殿交易を管理する者が神官と呼ばれていくわけです。
紀元一世紀、その交易方法がシルクロードにより東方へもたらされるわけです。中国では、その交易の神が見守る平原の所定の処を、「廷・テイ」といったのです。その廷は、やがて、支配地内の広場となり、その「廷」が「庭・テイ」となるわけです。
中国では、律令時代になると、その神が見守る「廷」で、王が朝礼をおこなう機関が、「朝廷」と呼ばれていくわけです。
オリエントでの交易所の神殿は、中国では「寺・ジ」といわれるのです。ヤマト言葉では、「寺」は、「てら」と読まれますが、「ジ」と「てら」とは意味が異なります。
ヤマト言葉の「てら」とは、死者が眠る処です。しかし、中国での「寺・ジ」は、「てら」ではなかったのです。では、中国の「寺」では何がおこなわれていたのでしょうか。
中国での寺の発生は、西域から渡来の僧侶と旅人がもたらす物品の検査をする、関税所のような雑務所であったのが始めです。その寺で、西域からの多くの僧や商人が渡来するため、「寺」で関税の事務処理を日夜おこなうために、宿泊施設が寺に築造されるのです。その宿泊施設を持つ寺に、多くの僧侶が仏典や仏像を持ち込むことにより、やがて、寺は渡来商品仏具の貯蔵所となっていくわけです。ですから、中国の寺(ジ)は、「てら」ではないため、死者が眠る墓地はないのです。
その中国の「寺・ジ」が、仏像・仏典と共に日本列島に持ち込まれたのですが、「寺」が「てら」になるのは、鎌倉時代の中国から、ヨーガと仏教が習合した禅宗の葬儀儀式の渡来以後であったのです。
厳しい修行で命を落した禅宗僧を弔うために、禅宗では敷地内に墓を設けていたのです。江戸時代に、大乗仏教も、この禅宗の葬儀形式を導入し、イエズス会信者のホーリーネームを真似して、戒名を販売する、葬式仏教として今日に至っているのです。
飛鳥時代末期、日本列島に渡来した仏教の寺は、死者を弔う施設ではなく、交易品を貯蔵する砦であったのです。ですから、寺は、盗賊の略奪から交易品を護るため、川堀を廻らし、更に、土壁の塀を廻らし、耐火のため瓦葺であるのです。
例えば、仏教僧を欺瞞者と決めつけ、比叡山の僧侶全員を斬首した、反仏教者の織田信長が、1582年爆殺された本能寺などは、仏を祀る寺などではなく、正に、輸入品販売のための倉庫であったのです。
もし、本能寺が、仏を祀る仏寺であったのであれば、反仏教の織田信長は、本能寺を京の出城として使ってはいないはずです。それは、織田信長の先祖の海洋民族の平家末裔が、鎌倉時代、仏教僧により、騎馬民族の源氏末裔と共に、仏教の敵の賎民穢多としてイジメられていたからです。
戦国時代末期、織田信長の比叡山延暦寺壊滅の目的は、先祖平家の怨を晴らすためだけではなかったのです。それは、平安仏教組織により、平家末裔が賎民に落され、更に、寺の門前や神社境内でおこなう商売を、支配されていたからです。更に、仏教組織は、寺社領を通過するには、賎民商人からも通行税を徴収していたのです。
その近畿一帯の賎民商人を支配していた頂点に、比叡山延暦寺が君臨していたのです。その比叡山延暦寺を、1571年織田信長軍が焼討ちにより壊滅したことにより、比叡山延暦寺僧兵軍団も壊滅するわけです。その結果、寺門前や神社境内で商売する賎民商人達を武力で支配できなくなり、それらの平安仏教組織が支配していた、寺門前の市や神社の座が、自由商売の地である、「楽市楽座」となるわけです。つまり、極悪非道と仏教組織から言われる織田信長は、比叡山延暦寺焼討ちにより、仏教組織支配経済から、賎民商人を解放したのです。
では、戦国末期の本能寺の実態は何だったのでしようか。実際に、本能寺は、法華教軍団が比叡山延暦寺の軍団と闘うための砦であったのですが、延暦寺軍団に敗れ、本能寺が廃墟となったところを、藤原氏が交易品貯蔵所として改装した寺であったのです。そして、その本能寺は、藤原氏が支配する南九州坊津→種子島→雑賀→根来→本能寺ルートにより、南海から密輸入した鉄砲・火薬を所蔵する施設となっていたのです。
平安時代末期、比叡山延暦寺と奈良の興福寺とは、平家清盛の宋交易独占の他に、更なる平家のビジネスに対して、脅威を感じていたのです。それは、京の都と比叡山との間のギオンの遊郭と、伊勢の内宮と外宮との間の古市の遊郭の存在です。
何故、平家の遊郭ビジネスが仏教組織に脅威を与えたのかは、それは、寺・神社内で、遊郭と同じビジネスを、宗教者は貴族相手に、古来からおこなっていたからです。
異民族との取引所としての神殿は、やがて、広域交易民族でもある騎馬民族の興隆により、貨幣取引や為替取引が発明され、そして、秤(はかり)により物品の重さで取引をすることにより、異民族との不正取引を見守る神の必要性が薄らいでしまうことにより、神殿の神官が生活の糧を得るために、神官は新たなビジネスを考え出さなければならなくなったのです。それが、賽銭を得るための、神殿での聖婚です。
神殿で神官が、聖婚は、神に貢物をし、神殿で神の代理と交わることにより、豊穣が約束され、そして、神の至福も味わうことができる、と宣伝するのです。その神の代理は、オリエントでは地母神、聖母と呼ばれていたのです。日本列島では、聖所は内道場、神の代理は、比丘尼、巫女と呼ばれていたのです。
聖所で聖婚(金銭目当ての売春とは異なる。)をおこなっていたことを示す文書が、「旧約聖書」のエゼキエル書(イスラエル民族を誹謗中傷する文書が多くある。)、第十六章十五節にあります。

ところが、あなたは自分の美しさをたのみ、自分の名声によって姦淫を行い、すべてかたわらを通る者と、ほしいままに姦淫を行った。あなたは自分の衣をとって、自分のために、はなやかに色どった聖所を造り、その上で姦淫を行っている。

この聖所で行う姦淫が売春ではないことは、同章三十一節で説明しています。

あなたは、ちまた、ちまたのつじに高楼を建て、広場、広場に台を設けたが、価をもらうことをあざけったので、遊女のようではなかった。

エゼキエル書では、紀元前722年にイスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされたことを記述しているので、その文章の内容は、紀元前八世紀以降のことでしょう。そのころには、エゼキエル書が改竄されたものでなければ、売春と聖婚の二種類の性サービス行為が行われていたようです。
飛鳥時代、この聖婚は、日本列島では、日本初の天皇である、チュルク系騎馬民族・蘇我王朝を引き継いだ新羅系天武天皇が、大嘗祭でおこなわれたのが始めのようです。その大嘗祭は、太陽神ミトラの誕生日である冬至の日、前任者から王権を引き継ぐ儀式で、天帝(北極星=太一)の下で、天神と地母神とが契ることにより行われる、一生一代のものであるのです。
その王権引継ぎの大嘗祭の儀式では、王権を引き継ぐ新天皇が、地母神の代理である斎王と「まぐわう=聖婚」ことにより、王権引継ぎ儀式が完了するのです。
奈良時代初期、この天皇一生一代の大嘗祭を、686年天武天皇が崩御し、百済系女帝持統天皇が即位すると、天武天皇に左遷させられていた中臣族の籐氏(後の藤原不比等)は、大嘗祭から、穀物の収穫祭としての新嘗祭を発明するのです。
そして、その新嘗祭を、太陽神バール(=ミトラ神)と牡牛を祀るイスラエル民族の歴史を乗っ取って、エジプトの唯一神太陽神アトンから租借した、唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ教の儀式の全てを仕切るレビ族のザドク一派のように、先祖が南インド・マラバル沿岸から渡来した藤原氏が、大乗仏教儀式とユダヤ教に酷似した中臣神道とで王権の儀式を仕切るために、奈良時代、710年興福寺と768年春日社を建立し、それらの施設内でそれらの儀式を行うことになるのです。それらの藤原氏の二つの宗教施設は、先住民の宗教施設を徹底的に破壊した跡や祭祀場跡に、秦氏の支配地から移築されたものであるのです。つまり、神社は、日本列島古来の建物ではなく、仏寺が建てられた後に、建てられた建築物であったのです。
そして、一生に一度ではなく毎年、藤原氏の宗教施設内で、秋の収穫の時期をかなり過ぎた日に行われる新嘗祭で、インドのサリーのような透けて見える衣装を藤原の娘に着せて、五節舞を、天皇・貴族の前で舞わせるのです。そして、その後、その舞姫は、天皇のお妃になるか、側室として天皇に侍ることになるのです。つまり、宗教施設内で行われる、藤原氏の発明した新嘗祭での五節舞は、聖婚の儀式の一部であったのです。
江戸時代に、第三百済王朝の手先となり墓守として生き延びる葬式仏教組織と、戦国末期、織田信長により僧兵軍団が壊滅される以前の、軍団を保持し、賭博、聖婚(売春)、借上(高利貸し)、そして、中国と交易を行っていた大乗仏教組織とは、似て非なるものであったのです。
中国大陸でも事情は同じで、僧は税が免除され、宗教施設は治外法権であったので、金で僧籍を買い入れ、宗教者の特権を利用して、寺内で色々な商売に励む良からぬひとも多くいたのです。ですから、中国では、仏教が盛んになると風紀が乱れることにより、王権により大規模な廃仏(北魏446年〜452年、北周574年、唐845年)が何度もおこなわれたことは、歴史が示すところです。
平安末期、更に、平家の支配地では、奈良時代から治外法権の宗教施設内でのみ行われていた賭博も、巷の悪所で広く庶民にも行われていくのです。これらの仏教独占ビジネスの賭博、聖婚(売春)が、平家の支配地の京都のギオンや伊勢の古市で行われていたのです。
それらのことにより、仏教組織は、平清盛の平家一族により、中国との交易、売春、賭博ビジネスが奪われてしまったことにより、平安王朝、藤原氏、関東平氏一族(亡命百済移民末裔・百済系平安貴族を警護した皇籍降下の「サムライ」)と同じに、平家一族(アラブ・インドから渡来の国際海洋民族末裔・白河法皇の「私兵」)抹殺に傾いていくわけです。
「平家にあらずんば、ひとにあらず。」、と宋独占貿易により宋銭を多量に日本列島に持ち込み、日本経済を完全に支配した平家を滅ぼす武装集団は、今や近畿地方にはいなかったのです。それは、保元の乱、平治の乱により、河内を支配していた源氏渡辺党(ワタナベとは、古代エジプト語で、意味は、ワタ(なみ)・ナーベ(小高い丘)=岬→上町台地)も、摂津の多田源氏(タダ=タタール→騎馬民族)も、藤原氏の陰謀により、平家軍団の平清盛により滅ぼされてしまっていたからです。
平家に滅ぼされてしまった源氏残党は、平家はアラブ・インドとの南海海洋交易を行っていたため、西国地域は平家一族の支配地であったので、木曽の山奥や関東の山間部、或いは、蝦夷支配地としてわずかに残る出羽・陸奥の山奥目指して逃避をしていたのです。
関東を支配していた平氏の北条氏は、平家の知行地拡大により、その地位を奪われていたのです。そこで、源頼朝が、北条氏の支配地の伊豆(イズ・夷住→異界の地)に配流されたことを捉え、北条時政の娘北条政子の婿として取り込むのです。
1180年北条氏は、源頼朝を源氏棟梁として担ぎ出し、平家の館を襲撃するわけです。この石橋山の戦いでは、源頼朝は参戦せず、平氏一族の北条氏を中心に挙兵したのです。しかし、武装はしていても、平氏は、貴人を警護する「サムライ」で、敵を殲滅する技術を持つ武闘派の「武士」ではなかったので、平家軍団に一蹴されてしまったのです。
その北条氏の挙兵に同調して、1180年木曽を支配していた源氏残党木曽義仲も挙兵するわけです。そして、藤原氏が支配する興福寺の僧兵も挙兵するのですが、平重衡により、興福寺と東大寺は火をつけられ消失してしまうのです。
これらの平氏・源氏・仏教組織の挙兵に対して、平家は、京の都から福原に遷都して、防衛体制を牽くわけです。しかし、1181年平家の棟梁平清盛が死去すると、平家軍団は、京を守りきれず、1183年源氏の木曽義仲が入京するわけです。
この事態は、平安王朝、藤原氏、平氏、そして、仏教組織には、由々しきものであったのです。それは、源氏が京を軍事支配することは、源氏とはその先祖が新羅花郎軍団と突厥帝国軍団の末裔であるわけですから、チュルク騎馬民族国・蘇我王朝の飛鳥ヤマト時代の再来となるからです。
飛鳥時代では、平安京のある山城国や比叡山は、古代エジプトの高度土木技術により、オリエントからギリシャ文化のバクトリア(太秦)、そのバクトリアのコロニーとしての秦帝国、そして、朝鮮半島の新羅(秦羅)を経由して渡来した秦氏が、淀川河口を干拓した後、遡上して湿地帯を開拓した支配地であったのです。その秦氏の支配地が、奈良時代末期に、744年飛鳥・蘇我王朝の後継王権・新羅系天武王朝を軍事支援していたチュルク系騎馬民族の東突厥帝国が唐軍により滅ぼされたことにより、日本列島に侵攻してきた唐進駐軍と亡命百済移民に乗っ取られたわけです。
そこで、平清盛の傀儡として支配されていた後白河法皇は、安徳天皇を擁立して平安王朝を完全支配した平家一族と、京を武力制圧した源氏木曽義仲の抹殺の謀議を、藤原氏と平氏の北条時政に提案するのです。それは、「夷を以って、夷を制す」の藤原氏得意の、敵を抹殺する戦略だったのです。その戦略の使者が、古墳時代に秦王国(ギリシャと同じ都市国家)のあった河内を軍事支配していた元源氏渡辺党の武人、今は真言宗僧侶文覚だったのです。
真言密教は、藤原氏の援助で、錬金術師空海を一年の修行で僧籍に入れ、そして、藤原氏が運営する遣唐使船により、804年唐に送り込み、その唐でバラモン教とヒンズー教の儀式・思想を学び、806年帰朝してから、バラモン教・ヒンズー教の教義・神・鬼神を仏教化した宗教だったのです。ですから、空海の発明した真言宗は、当然藤原氏と繋がりがあったのです。その藤原氏と繋がりのある真言宗僧侶の文覚が、藤原氏の陰謀により平家に敗れ関東の山々に棲息する源氏軍団再興に動き出したのです。
文覚には、後白河法皇による高尾山神護寺再興の許しを得るための行動が、またもや、藤原氏の陰謀に加担してしまう結果になってしまうのです。源氏渡辺党武人から僧侶になった文覚は、純粋に、寺を、賭博や売春を行う文化娯楽施設ではなく、仏を祀る処にしたかったようです。それを示す、源平合戦後、文覚上人となった後に書かれた、空海が得度を受けた由緒ある高尾山神護寺再興の起請文には、次のような一文があるのです。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師をいれたりしてはならない。

文覚は、関東の山々に棲息する源氏残党に、日本列島の多くの豪族が源氏武士棟梁に荘園を寄進して「源氏武士」となった源義家時代の源氏栄光を再び得るために、源氏再興のため、鎌倉で挙兵した源頼朝のもとへ集結することを、各国にある廃墟となっていた国分寺跡で説いて回ったのです。何故、国分寺跡が源氏武士への説得場となったのかは、その国分寺は、反藤原氏の聖武天皇により、奈良の大仏の分身の像を安置するために建立されたものだからです。
不思議なことに、亡命百済移民支配の平安時代になると、その国分寺に安置されていた仏像の行方が知れないのです。仏寺では、インドの鬼神でも、1600年豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の船首の女神像でもカテキ様として、仏像として安置しているのに、何故、聖武天皇の命により、全国の国分寺に安置されていた仏像が行方不明なのでしょうか。
それは、国分寺の仏像とは、実際は、仏像などではなく、仏教の敵「遍照鬼」で、源氏の先祖の秦氏の神、太陽神ミトラであったからです。その新羅(秦羅)の神ミトラは、飛鳥時代に、秦氏により日本列島に持ち込まれ、秦氏の支配地山背国で蜂丘寺(景教寺)に安置されるのですが、奈良時代、藤原氏による「日本書紀」の仏教伝来物語により、広隆寺(仏教寺)の弥勒菩薩として改竄されてしまうのです。
そして、亡命百済移民が京を支配した平安時代になると、天台宗を中国から持ち込んだ最澄は、騎馬民族を差別する思想を多く含んだ「法華経」を布教する目的で、「日本書紀」に厩戸皇子と記述してある架空の人物を「聖徳太子」として、山背国(後の山城国)の祭祀者秦河勝を登場させ、聖徳太子が秦河勝に弥勒菩薩を安置する広隆寺を建立させる、百済仏教伝来物語を宣伝したことにより、今日の日本史では、仏教伝来が、「日本書紀」の552年と記述しているところを、538年になってしまったのです。
源平合戦にも、歴史的に不明な点が多くあるのは、それは、勝ち組である平氏北条政権下で創作された、1220年愚管抄、1243年平家物語、1254年源平盛衰記、1266年吾妻鏡などを参考資料としているからです。
それらの勝ち組の史料となる物語は、亡命百済移民の北条氏政権下で著作されたものであるので、負け組みである百済を滅ぼした新羅(秦羅)末裔の秦氏・源氏の実態を歪曲して記述するか、隠蔽しているのです。
文覚は、知らなかったのです。文覚が担ぎ出した源氏棟梁の源頼朝は、平安王朝・藤原氏・北条氏・仏教組織の使い捨ての駒であることを。その文覚も、使い捨ての駒で、源平合戦勝利後、源頼朝より高僧の上人となるも、1199年源頼朝が北条氏に暗殺された後に、左遷され、その地で亡くなってしまうのです。
何故、源氏棟梁の源頼朝が陣を構えたところが鎌倉なのでしょうか。現在では、鎌倉は高級住宅地となっているようですが、その地を掘ると人骨が多く出土するのは何故でしょう。
平安時代、鎌倉に地獄谷があるように、その地は葬送地であったのです。死者を投げ込む谷が、鎌倉の地であったのです。伊豆から千葉にかけての沿岸地域は、京の都を、藤原氏に追われた平氏一族の支配地であったのです。その地で、鎌倉だけは、平氏ではない、御霊社(怨念を残し亡くなった魂を祀る社)を祀る鎌倉党の支配地であったのです。
この葬送地を支配地とする鎌倉党は、京の賀茂川の葬送地髑髏ヶ原(後の六波羅)を支配地としたアラブ・インドから渡来した平家と同じに、平氏の後から西国より関東に渡来した部族であったのです。それは、葬送地の鎌倉にある由比ガ浜は、浜砂鉄の宝庫だったからです。鎌倉党は、ヒッタイト帝国の鉄器鍛造法による、鹿皮のフイゴを使用するタタラ製鉄の技術を持つ部族であったのです。この鎌倉党から、後に穢多頭となる、秦氏末裔弾左衛門が現れるのです。
その鎌倉は、北条政権下で創作された物語に記述されたような立派な地ではなく、戦国末期藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、宿敵徳川家康を関東のひとも住めぬ湿地帯に追いやったように、人も住めぬ湿地帯であったのです。勿論、鶴岡八幡宮などはなく、小さな稲荷(秦氏の墓→塚→つか→じゅが→稲荷→イナリで、権力により秦氏の神を封印した社)の祠がある、平地が少ないひなびた半農半漁の寒村地であったのです。
1180年〜1185年の長い戦いであった源平合戦の歴史は、北条政権下の鎌倉時代に創作された書物を基に語られているので、実際の史実を知ることはできないようです。そのひとつに、源頼朝と源義経が兄弟ではない、ということです。
源義経が子供の頃、京に居たことも疑問ですが、その源義経の生い立ちには謎が満ちているのです。そのひとつに、源義経の忠臣として語られる弁慶の存在があります。その二人が京の五条の橋で出会う物語は、史実ではないのです。それは、弁慶とは、それらの物語の創作上の人物であるからです。源義経が幼少の頃、京で架空の弁慶と出会う源義経の経歴の信憑性は薄く、そのことから源義経が、京で生まれ、源氏残党が住む鞍馬山で育ったかの履歴は疑問です。
では、源義経とは、どのような生い立ちの人物であったのでしょうか。源義経が出陣した地は、奥州藤原氏が支配する出羽・陸奥国からです。そこは、元は蝦夷の支配地であったのです。蝦夷とは、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の軍団を構成していた新羅花郎軍団と突厥帝国軍末裔で、ユーラシア大陸と繋がりのあった部族であったのです。そして、源義経軍団は、傭兵軍の活躍する中国大陸では部族軍団の独自の印を付けた旗は古来から使われていたが、日本列島では、当時では珍しい笹竜胆の文を部族軍団の旗の印としていたのです。その笹竜胆の文は、モンゴルのチンギス汗の軍団の印でもあったのです。このことから、源義経チンギス汗説が語られる根拠のひとつとなっているのです。
源義経軍の武器は、モンゴル軍と同じに、馬と弓です。その弓の弦は、動物の小腸から作られたものです。ですから、平家の弓が弦ではなく弓自体のしなりで矢を射るのと違い、源義経軍の弓は、弾力性のある小腸の弦であることから、その矢の飛距離は、平家と比べものにならなかったのです。それは、屋島の合戦で、平家軍団は船で海上に逃れ、矢の飛距離圏外に逃れたと信じて、船を持たない源義経軍団を、挑発したのが、源義経軍団の矢に攻撃され、漕ぎ手が射抜かれてしまったことから理解できます。
この源平合戦は、保元の乱、平治の乱を彷彿させます。それは、源氏(夷)による源氏(夷)の抹殺です。
1183年入京した源氏木曽義仲は、翌年、源氏源頼朝軍により粟津で敗死するのです。そして、1185年壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経は、1189年源頼朝の恫喝により、藤原泰衡が源義経を衣川で殺しているのです。そして、その奥州藤原氏一族は、源頼朝軍により滅ぼされているのです。更に、1192年鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、1199年北条氏により暗殺されているのです。そして、源頼朝の実子二人は、1203年源頼家は伊豆修善寺で北条氏に殺され、そして、1219年源実朝は、北条氏にそそのかされた公暁により殺されてしまうのです。ここに、源氏棟梁一族が抹殺され、亡命百済移民末裔、平氏の北条氏が天下をとるわけです。
北条氏は「サムライ」の末裔であるから、武闘力はないけれども、知略はあったのです。それは、源頼朝を暗殺する前に、源頼朝から、藤原氏の拠点、南九州島津荘を、平安時代に秦氏から惟宗氏に変名した者に、その島津荘を与えていたからです。ここに、藤原氏の南海密貿易基地のある島津荘が、秦氏の支配地となり、その秦氏は、島津氏と名乗るわけです。
平家により、藤原氏が支配した奈良の興福寺が壊滅され、そして、源頼朝により、南九州の島津荘が藤原氏の支配地ではなくなってしまったため、藤原の女と財力で平安王朝を支配していた藤原氏による中央における支配力が衰えたのと同時に、京を支配していた亡命百済貴族の勢いも衰えていくのです。
源氏棟梁一族を抹殺し、当面の敵藤原氏の財力基盤を破壊した北条氏は、残存源氏武士の壊滅に動き出すのです。それが、「サムライ」と「武士」との戦いとなるわけです。
源氏棟梁一族と、それを支えた関東の源氏主力部族の梶原景時、三浦義澄、比企能員、畠山重忠、和田義盛を、ことごとく謀略で抹殺した北条時政・政子の父子は、関西に残存する源氏武士の抹殺を計画するのです。それが、1221年の承久の乱です。
教科書歴史では、承久の乱は、平安王朝の貴族の公家軍対関東北条氏の武家軍との戦いのように記述していますが、それは歴史の歪曲です。実際は、「武士」対「サムライ」の戦いで、圧倒的な武力で勝利した関東「サムライ」北条軍は、敗戦側の平安王朝末裔と、乱後、協調しているのです。それは、西国は公家の平安王朝末裔が、そして、東国を武家の北条氏が経営しているからです。この戦いで殲滅されたのは、平安王朝貴族ではなく、源氏「武士」であったのです。
それは、北条氏の先祖は、亡命百済移民の桓武天皇の流れにあった、亡命百済貴族に侍り警護する「サムライ」であったからです。このことは、1335年北条氏政権を滅ぼした、源氏足利尊氏が、1336年室町幕府を開き、百済系桓武天皇家の後醍醐天皇を吉野に追放し、京の朝廷を乗っ取ろうとした行動と照らし合わせると、「サムライ」の北条氏による承久の乱が、日本列島を平氏の支配下に置くことが最大の目的でなかったことが理解できます。それは、西国の河内源氏の渡辺党と摂津の多田源氏の「武士」抹殺が主な目的であったのです。
その根拠として、承久の乱に勝利した北条氏は、アラブ・インドから渡来の平家の拠点であった六波羅に、六波羅探題を設け、全国で源氏「武士」残党狩りを行っていたからです。このことにより、本国百済を滅ぼした新羅末裔源氏「武士団」が、関東でも、関西でも抹殺されてしまったのです。
そして、「サムライ」の女棟梁北条政子は、赤旗をシンボルとする、アラブ・インドから渡来の平家の歴史を乗っ取るために、源氏「武士」が崇拝していた、オリエント渡来の新羅(秦羅)の八幡(や秦→秦氏が繁栄する意味)の神を棄て、そして、海洋民族平家の神を祀る厳島神社を、半農半猟のツングース民族末裔の平氏の神として取り込んでしまうのです。この民族神のすり替えにより、後のひと達に、平氏のシンボルは赤旗で、そして、平家とは、伊勢平氏末裔である、と誤解されてしまうのです。
そのように源氏棟梁一族を抹殺した北条氏は、六波羅探題の捜査網を駆使して、北条氏に反目する各国に棲息する主な源氏武士を「源氏狩り」で壊滅すると、西国の経営には、北条氏と同民族である平安王朝末裔に任せて、東国の経営に着手するのです。
鎌倉時代初期の騎馬民族である源氏の経営方法の基本は、ギリシャ都市国家運営方法と同じで、部族の代表者による合議制であったのす。それでも結論が出ない場合は、武力で持って解決を諮る傾向があったのです。
しかし、平安中期まで唐の支配下にあった、平安貴族の秘書を兼ねて警護を司っていた「サムライ」末裔の北条氏は、源氏一族を謀略で滅ぼすと、奈良時代初期に唐進駐軍が近畿地域を統治するために持ち込んだ律令制度(律は刑罰、令は行政)を真似て、1232年35ヶ条の御成敗式目を制定し(後に51ヶ条となる。)、唐から持ち込んだ律令は漢語で記述してあるが公家の多くは中国からの亡命百済移民末裔のため漢字が読めたが、オリエント渡来民族末裔の漢字が読めない武家のために、簡単な箇条書きの法律により、関東の武家達を統制するわけです。
この「サムライ」の法律により統治された鎌倉時代に、平安時代に錬金術師空海が、唐から持ち込んだ、騎馬民族を差別する思想、「施陀羅悪人なり」のインドのバラモン思想と、そして、騎馬民族を差別する言葉が多くある、仏罰者はハンセン氏病になると説く「法華経」思想が、比叡山で「仏教」を学んだ鎌倉仏教僧達により、広く民衆に布教されてしまうのです。
その思想の布教には、勿論、騎馬民族末裔の「武士」残党を壊滅するために、「サムライ」の北条氏の陰謀もあったのです。
江戸時代、第三百済王朝では、騎馬民族末裔を貶める差別語「穢多」は、「長吏」と同義語となってしまっていたのです。では、その長吏とは何かと言えば、それは、中国・隋では、六百石以上の比較的俸禄の高い官位の役人であったのです。その長吏の文字が書物に現れるのは、飛鳥ヤマトで「男王」に謁見したと述べる、遣隋使裴世清の倭国偵察報告書の「隋書」にあるのです。
この隋使の記述は、、「日本書紀」では、女帝推古天皇の摂政厩戸皇子が活躍する時代で、608年小野妹子に伴い、遣隋使裴世清が来朝した、とあるのですが、その小野妹子は、「隋書」では、蘇因高(ソインコウ)とあり、その肩書きが、使人長吏大礼(つかいちょうりだいらい)とあるのです。その「使人長吏大礼」の意味とは、「遣隋使節団の正使」です。つまり、飛鳥時代の長吏とは、隋国では、正使の役人であり、決して、賎民を指す言葉ではなかったのです。
二文字漢字の人名・地名表記は、713年好字令より以降であるので、「日本書紀」での608年記述の「小野妹子」の日本名は疑問です。その当時、小野妹子は、「隋書」に記述されていた「ソ・インコウ」、と呼ばれていたことが示唆されます。
この長吏が、第三百済王朝の江戸時代に、大坂では奉行所の与力や同心に属して、市中を巡回した「不浄の縄」を持つ手先の頭として、長吏と呼ばれてしまうのです。
オリエント文化の騎馬民族国・蘇我王朝の飛鳥時代、位の高い官人としての長吏が、何故、第三百済王朝の江戸時代に、賎民穢多の役人頭としての長吏となってしまったのでしょうか。飛鳥時代、この位の高い役人の呼称である長吏が、江戸時代、賎民の束ねとしての長吏に貶められたカラクリが、「武士」が「サムライ」に殲滅された鎌倉時代に創られたのです。では、殲滅された「武士」は何処へ消えてしまったのでしょうか。
鎌倉時代、武士が、日本列島から全く居なくなってしまったのではない証拠に、百三十年後に、源氏武士足利尊氏は、1335年「サムライ」の北条政権打倒に立ち上がっていたからです。では、殲滅された「武士」は、どのようにして、「サムライ」支配の鎌倉時代を凌いでいたのでしょうか。
それは、「武士」が、北条政権の陰謀により世間的に抹殺されても、「武士」でいられたのは、それは、武士には、「武士のたましい」があったからです。
「たましい」とは、鬼が云う「魂」と漢字で書かれるように、鬼、つまり、仏敵が云う「モノ」であるのです。古来から、日本列島では、八世紀に藤原氏により発明された「天照大神」などの人工神ではなく、精霊は、「カムイ」「モノ」と云われていたのです。その聖なる「モノ」を、仏敵の鬼である武士は、「たましい・魂」と云っていたのです。
では、具体的に、「武士の魂」とは、何でしょうか。それを表現するひとつとして、片刃の反りのある「日本刀」があります。その日本刀は、実戦の武器ではなく、蝦夷であるチュルク系騎馬民族の武器の蕨手刀を改良した、武芸者である「もののふ」が、南インドから渡来した中臣族(藤原氏の祖)により発明された中臣神道により、前政権の神が封じ込められた神社境内で、前政権の神である怨霊を鎮めるための、祭祀具であったのです。
その祭祀具である日本刀を武器として、平安時代末期に平家・源氏により治外法権の寺内でおこなう仏教ビジネスは壊滅されましたが、鎌倉時代の北条政権下に復活した仏教組織が再び市・座を支配したため、賎民同業組合である「座」のバザールを武力で仏教勢力から護る者が現れるのです。それが、座を仕切る顔役の、「役座」であるのです。その役座が、仏教の仏でもなく、中臣神道の天照大神でもない、中国大陸の道教の薬草の神様である「神農様」を、何故、祀るのでしょうか。そして、その神農様は、「牛頭」と伝わるのです。
役座の「強気を挫き、弱気を助く」任侠道思想の多くが、「弱者擁護」の日本武士道と似通っているのは、それは、役座が武士の流れから派生したからです。
鎌倉時代、平氏北条政権に追い詰められた源氏残党は、それぞれの先祖の特性を生かして、武士から変身し、「サムライ」支配を打倒する時期まで、生き延びていくわけです。では、源氏武士残党は、どのような職業者に変身したのでしょうか。
源氏武士の前身は、「もののふ」である武芸者です。その武芸者の前身は、陸奥国の蝦夷で、太陽神ミトラの軍神を祀る新羅花郎軍団末裔と、北極星を祀る騎馬民族の突厥帝国軍末裔です。
新羅花郎軍団は、幅広の直線道路を各国の支配地に建設してきたローマ帝国傭兵軍末裔であるので、石切・土木建設技術を引き継いでいたのです。
騎馬民族国の突厥帝国では、タタラ製鉄技術を保持していたのです。それは、騎馬民族の歴史的始まりは、ヒッタイト帝国の鍛造鉄器製造技術により、馬を制御する轡(くつわ)を開発したことからと云われています。つまり、紀元前七世紀、騎馬民族スキタイは、家畜の馬を、騎馬することができる「軍馬」とするために、鍛造鉄器製造技術を、ヒッタイト帝国から習得したことにより、地上最強のスキタイ騎馬軍団として興隆できたのです。
サムライ平氏に追われる源氏武士残党は、それらの先祖から引き継いだ技術を生かして、神を祀る遊芸能民、鉄器製造技術の鍛冶屋、石切・土木建設者、そして、馬を使い物流関連の馬借民として変身するわけです。北条鎌倉時代、それらの源氏武士残党から変身した各種職能民は、王権に追われ定住できないため、闇の反体制の非常民として生き延びるわけです。
その反体制である非常民は、ことごとく北条鎌倉政権を脅かすのです。そのひとつが、幕府の地鎌倉での、相次ぐ不審火です。記録に残されているだけでも、1251年、1254年、1260年、1280年、1302年、1310年と続くのです。そして、1280年には、鎌倉の大火で、鶴岡八幡宮が炎上しているのです。更に、その度重なる不審火の大火の他に、大地震が頻繁に鎌倉を襲っていたのです。
そのような社会情勢が不安定な時代に、王権に追われた非常民の職能民は、それぞれの技術を、鎌倉幕府に搾取されている農耕民である常民に売ることで、暮らしを立てていたのです。
しかし、北条政権は、それらの闇の職能民が作る鉄製の農機具や、農作物の物流をつかさどる馬借人の働きなどが、常民である農民の生活基盤を支え、その結果、非常民と常民とが結託して、搾取者である平氏武家を優遇する北条鎌倉政権に反旗を翻さないように、非常民と常民とを分離するための謀略を考えるわけです。
そのひとつが、平安時代、錬金術師空海が唱えた「施陀羅悪人なり」をバージョンアップした、「騎馬民族はケガレている。」とする差別語「穢多」を否定するのではなく、鎌倉仏教僧の一部の者は、施陀羅の息子だと自ら名乗り、その「ケガレ」差別思想を、漢訳仏教思想などの知識が全くない庶民・農民に布教するのです。
北条鎌倉時代、この鎌倉仏教僧達が、施陀羅思想を、更に、強力に穢多思想として育ててしまったために、第三百済王朝の江戸時代に、士農工商・穢多非人の日本版カースト制度が完成してしまうのです。
騎馬民族を貶める最強武器である漢訳仏教の渡来は、日本列島の騎馬民族と農耕民族との権力闘争に、大いに影響を与えていたのですが、その渡来時期には謎が多いのです。
藤原氏が、「日本書紀」で主張するのは、552年(欽明天皇13年)です。しかし、百済系桓武天皇家が、「元興寺縁起」「上宮聖徳法王帝説」で主張するのは、538年(欽明天皇7年)です。これは、どういうことでしょう。仏教伝来時期が二つあることは、それは、その二つの仏教伝来物語が、ウソを付いているからです。
その根拠として、「日本書紀」にある、仏教伝来の記述がある文章、「是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。周公・孔子も、尚し知りたまふこと能はず。」は、「最勝王経」如来寿量品の「是の金光明最勝王経は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。声聞・縁覚も、尚し知りたまふこと能はず。」を盗用したと考えられるからです。そして、その「最勝王経」は、552年ではなく、703年に漢訳されたものであったのです。
そして、538年百済仏教伝来を物語る、聖徳太子(厩戸皇子)の実在性を証明するための資料の「天寿国繍帳」にある干支は、百済系女帝持統天皇四年(690年)に採用された、新羅系天武天皇が崩御したため、唐国が日本列島の近畿地域を、持統天皇を傀儡として支配するために持ち込んだ、儀鳳暦によっているのです。
そのように、正史と言われる史料に仏教伝来の記述があるにもかかわらず、仏教伝来時期が不明なのは、南インド渡来の藤原氏にとっても、亡命百済貴族にとっても、その552年、或いは、538年に、どうしても、隠蔽しなくてはならない歴史があったからです。
それは、六世紀の河内湾に突き出た岬(後の上町台地)を基点として、古代エジプトの高度土木建築技術で干拓し、そこに建てた都市国家・秦王国の存在です。秦王国は、紀元前三世紀の中央アジアのギリシャ文化のバクトリア→始皇帝の秦国、そして、六世紀の朝鮮半島・秦羅(新羅)から北九州秦王国を経由して、奈良の宇陀の朱砂交易のために、近畿に進出してきたのです。
そして、その530年前後に、騎馬民族・突厥帝国の進駐軍団が、北東アジアから日本海を渡り、敦賀に渡来し、三輪山の麓に現れたのです。そして、突厥帝国軍は、防衛に適した、丘に挟まれた、川の流れる細長い土地に、軍事都市を築くのです。それが、飛鳥ヤマトです。
渡来した突厥部族(突厥とはチュルクの漢音語)は、その軍事都市飛鳥ヤマトに、祭祀場と共に、噴水のある石敷きの庭園、ガラス器工場、創薬工場、富本銭鋳造工場などを建設し、それらの製品を中国大陸に輸出することを考え、600年貿易使者としてソインコウを隋に派遣するわけです。
秦王国は、進駐突厥軍団の飛鳥ヤマトと同盟を結び、秦王国のある河内から大運河と幅十二mの直線道路を、飛鳥ヤマトに向けて建設するわけです。それは、三輪山麓のツバキ市の国際交易場への物流を増やすためです。そのツバキ市では、縄文時代から、宇陀で産出される朱砂の沈黙交易が行われていたのです。
その大運河と幅広の直線道路を建設するための前提として、河内から奈良盆地にかけて、巨大古墳を建設したのです。巨大古墳築造は、埋葬装置建設としてだけではなく、先住民に土木工事の仕事を与える公共事業の仕掛けでもあったのです。
608年この河内から、オリエントから渡来の秦氏の築いた大運河を利用して、ソインコウに伴われて、川船で都へ行った遣隋使裴世清は、そこで、「男王・アマタリヒコ」に謁見していたのです。その飛鳥ヤマトには、「日本書紀物語」で活躍する、女帝推古天皇も摂政厩戸皇子(後の聖徳太子)も物部氏も蘇我氏も存在してはいなかったのです。
戦国時代末期、豊臣秀吉により、関東の湿地帯に追いやられた、騎馬民族末裔徳川家康は、その地を居住地にするために、秦氏末裔弾左衛門に命じて、神田山を切り崩し、そこに運河を掘らせ、その残土で、利根川の流れを変えた後、荒川が流れ込む河口の湿地帯を埋め、そこに海抜十mの人工山(近世の巨大古墳?)を築くのです。そして、徳川家康は、その人工山にエド(穢れ地→穢土→えど→江戸)城を築くのです。湿地帯を居住地に変えるため、大運河を掘り、その残土で湿地帯に人工山を築くアイデアは、六世紀の河内・奈良で、巨大古墳を築造したことにより生まれていたのです。
このオリエント渡来の秦氏と北東アジアから渡来の突厥帝国軍が、六世紀の奈良盆地を支配していた史実を隠蔽するために創作された「日本書紀」の物語が、物部氏の廃仏派と蘇我氏の崇仏派の宗教戦争物語なのです。その物語に出てくる難波の堀とは、オリエントからの国際交易港ローラン(後の浪速)の湊だったのです。
オリエント文化の飛鳥ヤマト時代を隠蔽するための、「日本書紀」による、その廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との宗教戦争物語は、「高僧伝」巻九の仏図澄伝からの租借です。
その物語では、後趙王の石虎が、王度が仏は「外国之神」であるから祀るべきではないと言ったのに、自分は辺境の出身者であるから戎神である仏を祀る、と述べているのです。
では、その宗教戦争物語の出演者の二氏の実態は誰かと言えば、それは、藤原氏が歴史上抹殺を希望する、物部氏は秦氏で、蘇我氏が突厥帝国部族であるわけです。しかし、実際は、秦氏と突厥帝国とは同盟関係にあったため、神仏戦争などするはずはなかったのです。何故かと言えば、仏の敵である「中臣神道の神」が発明されたのは、八世紀であるからです。そして、秦氏の神は、太陽神ミトラで、突厥帝国の神は、天神の北極星であるからです。
では、「日本書紀」の神仏戦争は何を物語っているのかと言えば、それは、645年飛鳥ヤマト王国の、唐進駐軍による壊滅です。
七世紀の東アジアでは、北の突厥帝国と南の唐国が、シルクロード交易の覇権をめぐり闘っていたのです。しかし、630年唐国は、北東アジアを支配していた突厥帝国を散逸させた勢いで、645年日本列島の飛鳥ヤマトを支配する突厥帝国のコロニーを、奈良盆地のツバキ市で朱砂交易をおこなっていた、南インドから渡来した国際交易商人でもある中臣族の先導により、壊滅するわけです。
その頃の唐国には、シルクロードの商人達により、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教、そして、漢訳仏教等が布教されていたのです。
勝利後、唐進駐軍は、飛鳥ヤマト政権を歴史上抹殺するために、前政権の宗教である、秦氏のミトラ教(景教=太陽の教え。キリスト教の祖)、そして、突厥帝国部族のソ氏(後の蘇我氏・蘇我氏一族は「日本書紀」物語により、稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蔑称を付けられた。)の神・天神(北極星・太一)を祀る道教を、漢訳仏教で隠蔽するわけです。
何故、前政権の宗教を隠蔽するために、漢訳仏教が選ばれたかの理由は、それは、漢訳仏教は、ゾロアスター教、景教(太陽神のミトラ教)、そして、中国土着の道教の教義・儀式の多くを取り込んでいて、前政権の宗教と非常に似ていたからです。
漢訳仏教は、三世紀頃ナーガルジュナ(龍樹、180年〜240年)が、サンスクリット語仏典を漢訳したもの、と云われています。しかし、その漢訳仏典には、騎馬民族への差別語が多くあったのです。
釈尊は、バラモン教のカルマを否定するため四姓平等を説いたのに、何故、漢訳仏典に騎馬民族差別語が多くあるのかは、それは、仏典訳者の龍樹が、インドを支配していた遊牧民族トラヴィダを貶めるために、アウトカーストの不可触賎民チャンダラー(施陀羅)を発明したバラモン教の僧侶であったからです。
では、一世紀に、ギリシャ文化国バクトリアの後継地・国際交易都市ガンダーラで発明された仏典は、何語で書かれ、どのような内容であったのでしょうか。そのヒントは、「法華経」と「聖書」の「マタイの福音書」とには、共通の物語が多く見られると言うことです。そして、その「新約聖書」は、ヘブライ語ではなく、ギリシャ語で記述されていたのです。
漢訳された後、サンスクリット語仏典が全て焚書された理由のひとつは、そのサンスクリット語仏典と言われたものが、実は、ギリシャ文化国バクトリアを継承した、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラで、ギリシャ語で著された仏典(聖書)であったことを示唆します。
唐進駐軍と中臣族は、392年ローマ帝国でミトラ教を乗っ取ったキリスト教徒がおこなったように、七世紀の飛鳥ヤマト、そして、近畿一帯で、同じことをおこなうのです。
それは、前政権の景教寺や道教の観の宗教施設を徹底的に破壊して、北九州から持ち込んだ仏寺を、その前政権の宗教施設跡に移築するわけです。ですから、現存する世界最古の木造建築と云われる法隆寺に隣接する境内から発掘された建築物遺跡は、南北軸の仏教建築思想とは異なり、南北軸から西に約二十度傾いていたのです。その訳は、太陽神を祀るには、冬至の太陽光が射す位置が重要だからです。その冬至とは、太陽が再生する誕生日であったからです。
北条政権の鎌倉時代、比叡山から排出された仏教僧は、常民達に仏の教えを説くのです。そのひとつに、阿弥陀様の教えがあったのです。この阿弥陀様は、瞬く間に常民だけではなく、「源氏武士残党」が、平氏の源氏残党狩りから生き延びるため紛れ込んだ、非常民の遊芸能民、鍛冶屋、石切、土木技術者、そして、馬借にも広がっていくのです。しかし、江戸時代、秦氏末裔島津氏が支配する南九州の島津藩では、その阿弥陀様の教えを禁止していたのです。
では、鎌倉仏教僧が宣伝する「阿弥陀様の教え」とはどのような教えかと言えば、

今から二千年前(当時)エジプトの地にアミ様と呼ばれていた尊いお方が居られ、「太陽の教え」を説かれ広められました。太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は人間にとって無くてはならない物であります。その熱と光は誰にでも「平等に分け隔てなく」頂くことが出来ます。その熱と光は無償で頂くことが出来るのです。太陽はご自分の身を持ってして私達人間に対し慈悲と愛を教えて下さいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践を行わなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことが出来るのです。

一般的常識では、西方浄土とは、インドに浄土(極楽処)があるように思われていますが、それは違います。それは、西方浄土思想は、北インドの国際交易都市ガンダーラで発明されていたからです。ですから、ガンダーラから西とは、インドなどではなく、エジプトであるわけです。
何故、島津藩では、阿弥陀様の教えを禁止していたのでしょうか。それは、島津藩は、表面上は秦氏末裔が支配していたのですが、実際は、藤原氏の主流近衛家が支配していたのです。つまり、島津藩は、イスラエル民族を祭祀士族のユダヤ民族のダビデやソロモンが支配したヘブライ国と同じに、実質祭祀者藤原氏が支配していたのです。
では、何故、島津藩は、阿弥陀様の教えを禁止したのでしょうか。それは、その阿弥陀様の教えは、「全てのひとは太陽の下で平等である。」、としていたからです。その平等思想は、権力者が武力で庶民を支配する封建制度では、革命の起爆剤となる可能性があるからです。
では、阿弥陀様とは、仏様であったのでしょうか。それは、違います。阿弥陀様はアミ様で、古代エジプトの唯一神・太陽神アトン(ヒッタイト帝国のミトラ神がエジプトで変身した神。紀元前十三世紀、この古代エジプトの唯一神・太陽神アトンから、ユダヤ民族の神・唯一神ヤハヴェが発明されたのです。)であったのです。
北条鎌倉時代、この阿弥陀様の教えが、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞により、常民に広がると、その全てのひとは太陽の下で平等である、との平等思想に同調した非常民(騎馬民族末裔の源氏武士残党)も、その親鸞の下に集まってくるわけです。
鎌倉仏教僧は、左手で「血・肉食の禁忌」思想により、それら禁忌事項と関係が深い「騎馬民族は穢れている。」と宣伝し、そして、右手で「悪人(施陀羅悪人ナリ=騎馬民族)でも成仏できる。」との平等思想を宣伝するわけです。
645年唐進駐軍と中臣族とにより、飛鳥ヤマト王国と共に壊滅された、河内の秦王国の秦氏は、淀川上流の桂川と賀茂川に挟まれた湿地帯に逃避するわけです。秦氏は、その湿地帯も、古代エジプトの土木建築技術により堤を築くことにより、居住地に変えてしまうのです。そして、その地が、景教寺(ミトラ寺院=蜂丘寺、後に広隆寺に改竄される。)のある山背国(秦王国)であるわけです。
奈良時代、琵琶湖よりの比叡山に、ローマ帝国傭兵軍がミトラを軍神としたように、太陽神ミトラの祭祀場(後に魔多羅神に改竄される。)を設け、馬冑・鎧馬に騎乗し、ロンギヌスの槍で武装した新羅花郎軍団と、短弓・蕨手刀で武装した突厥帝国騎馬軍団は、飛鳥・奈良を平城京の砦都市により支配する、柳葉刀や腰弓で武装する唐進駐軍・藤原氏軍(中臣族より変身)に対峙するわけです。
奈良時代末期、794年山背国は、唐進駐軍に支援された、663年唐・新羅により母国百済が滅ぼされてしまったため、日本列島に移民して来た亡命百済軍団により、壊滅され、そして、山背国(秦王国)と比叡山を支配していた秦氏一族は、再び、淀川河口の湿地帯に追いやられてしまうわけです。そして、その陸奥国に逃れた、新羅花郎軍団と突厥帝国軍末裔の敗残兵は、その後、蝦夷(ヒゲのある夷の意味)と呼ばれるわけです。
では、奈良時代に、唐進駐軍の下で権勢を誇っていた藤原氏はどのようになったかと言えば、平安京に遷都した亡命百済貴族の桓武天皇により、奈良貴族の文化娯楽施設の興福寺・春日社と共に、銅・水銀鉱毒にケガレた奈良の都に封じ込められてしまったのです。
794年秦氏の支配地山背国(秦王国)を乗っ取った、唐進駐軍に支援された亡命百済移民達は、797年「続日本記」を、奈良時代に藤原氏が、オリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史を抹殺するために創作した「日本書紀」を真似て、創作するわけです。
そして、亡命百済貴族が、日本皇室の祖であるとする、「皇・神・蕃」で民族差別する「新撰姓氏録」の完成2年前、812年秦氏末裔、「日本書紀」講義講師で万葉語学者・多人長は、同族である、それらの渡来騎馬民族によるオリエント文化の飛鳥ヤマト史を改竄した、藤原氏創作の「日本書紀」を否定するために、完璧な万葉語で「古事記」を著すのです。
因みに、「新撰姓氏録」では、藤原氏・亡命百済移民よりも古くから渡来して、淀川河口を干拓し秦王国を築き、そして、河内・奈良盆地に巨大古墳を築造し、大運河を削掘し、幅十二mの直線道路を飛鳥ヤマトまで敷設していた秦氏は、何故か「蕃族」の渡来人となっているのです。
「古事記」が、712年ではなく、812年刊行である理由のひとつは、平安時代に完成した完璧な万葉語で、「古事記」が記述されているからです。奈良時代の万葉語は、表音として漢字を利用し、各国の言葉を表現していたため、例えば新羅語の表音漢字などもあったため、表音漢字が特定できていなかったのです。
その「古事記」が、「日本書紀」が飛鳥ヤマトの歴史を抹殺・改竄した、と述べている根拠のひとつとして、天武天皇が「古事記」序文に登場するのに、その「古事記」の記述が、飛鳥時代に活躍したと伝わる女帝推古天皇で突然終わっているからです。因みに、「古事記」には「摂政聖徳太子・厩戸皇子」の記述はありません。
このことは、多人長が、サイファー式暗号解読法の、同じ文章は否定せよで、「飛鳥時代の女帝推古天皇までの「日本書紀」の記述を否定せよ。」、を実践したからです。
その飛鳥ヤマト時代は、女帝推古天皇や摂政聖徳太子(厩戸皇子)が活躍した仏教文化の時代ではなく、突厥帝国進駐軍とギリシャ・ローマ文化国新羅から渡来した秦氏が活躍していたオリエント文化の時代だったのです。
江戸時代、その暗号解読法を知らない、中国・漢文嫌いの国学者本居宣長が、「古事記」奥付の712年を信じ、720年の漢文で記述された「日本書紀」よりも古い書物と信じてしまったのです。そして、「古事記」には真の日本国の原風景が記述されていると信じた結果、「日本書紀」の神話が、「古事記」の一元論記述よりも古い記述形式の二元論で表されているにもかかわらず、ギリシャ神話から租借した物語(国産み物語・天岩戸物語等)を、平安時代に完成した「ヤマト言葉」を飛鳥古代語と信じて、「古事記」神話物語を再構築して、1778年「古事記伝」上巻、1792年「古事記伝」中巻、そして、1798年「古事記伝」下巻に著してしまった結果、「古事記」により「日本書紀物語の飛鳥時代以前の歴史」を否定するための秦氏末裔多人長が意図したことと異なり、今日では、中国向けの「日本書紀」、国内向けの「古事記」との歴史的評価となってしまったのです。
そのことから、奈良時代の759年完成とする「万葉集」が疑われているのです。その奈良時代完成と云われる「万葉集」は、原著は表音漢字の古代新羅語(=郷札・ヒャンチル。ギリシャ・ローマ文化の新羅は、漢字を知らないために、訓読化した漢字で表記した言葉。日本語の訓も、古代新羅語の影響を強く受けた。飛鳥ヤマト時代、突厥軍との同盟国)であったものが、901年藤原氏の陰謀により大宰府に左遷された菅原道真により、完璧な万葉語による「改竄作品」との説があるのは、そのためです。
そのように、古代史は、勝組の「日本書紀」「続日本紀」「新撰姓氏録」「万葉集」などの史料を離れて観ると、教科書歴史と異なる日本原風景が覗かれるのです。このことは、鎌倉仏教にも言えるのです。
教科書歴史では、鎌倉時代、鎌倉仏教により、平安時代の貴族相手の文化娯楽の仏教から、庶民相手の生活苦から開放する宗教が生まれ、そして、武士の圧政、地震雷の転変地変、そして、不審火による大火により苦しんでいた庶民は、その民衆相手の鎌倉仏教により救われた、との記述をしているのです。
しかし、その認識は、藤原氏が、薩摩藩と長州藩の源氏武士末裔の賎民軍団を利用して、「サムライ」が支配した第三百済王朝の江戸幕府を倒した、明治革命で復活した明治時代にされたもので、その認識には、庶民とは常民の農耕民族のことで、非常民である徳川家康の先祖である騎馬民族や、織田信長の先祖である海洋民族末裔は含められてはいなかったのです。
江戸時代、明治維新後に創られた全ての庶民の味方であるとする、鎌倉仏教僧の代表である親鸞の思想実態を、与力の坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べているのです。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。

そのように、江戸時代に悪評されていた親鸞像が、どうして、明治時代に全ての民衆を救う善僧に変えられてしまったのでしょうか。それは、北条鎌倉時代とは、第二百済王朝で、藤原氏により一年で僧籍に入れられ、遣唐使と共に唐に渡った錬金術師空海が唱えた「施陀羅悪人ナリ」を実践した、騎馬民族・海洋民族末裔の抹殺時代であったからです。
では、第二百済王朝の北条鎌倉時代に、何故・どのようにして、平安時代に空海の発明した「施陀羅悪人ナリ」を、賎民穢多として創り出していったのでしょうか。
民族差別語の穢多の発生は、「サムライ」が支配した東国と、奈良仏教と平安仏教が支配した西国とでは、異なります。何故でしょうか。それは、騎馬民族や海洋民族が多く暮す東国では、騎馬民族や海洋民族を差別する漢訳仏教が盛んではなかったからです。
元々漢訳仏教は、国際交易商人と共に日本列島各国に伝播したもので、過疎地ではなく、王都を目指していたのです。鎌倉時代、東国はイズ(夷住→伊豆)と云われるように、王都ではなく、僻地であったのです。
北条鎌倉時代、西国の奈良の朱砂産出地の宇陀の崖に、仏像が現れるのです。その崖に描かれた仏像は、磨崖仏と云われるのです。何故、山奥の宇陀の崖に磨崖仏が現れたのでしょうか。
1274年北九州筑前に、突然大船団が現れるのです。しかし、夜半の大風(11月4日頃なので台風など起こらなかったとの説あり。)により、一部の船が座礁しただけで、残りの船団は何処ともなく消えていたのです。その事件を、教科書歴史では、「文永の役」と云い、元帝国軍の日本列島侵略海軍であるとするのです。しかし、座礁した船体からは、武器類ではなく、種籾の入った壷や農機具が沢山見出されたのです。
それから七年後の1281年にも大船団が再び北九州筑前と長門に渡来したが、一夜にして、大船団は何処ともなく消えてしまったのです。この事件を、教科書歴史では、「弘安の役」と云っているのです。
百済系嵯峨天皇(809年〜823年)から孝明天皇(1846年〜1867年)まで、錬金術師空海の発明した密教のダキニの呪文で、仏教思想で祀られていたものを、1868年明治革命後、亡命百済移民が支配した平安時代から、初めて明治天皇が正式参詣した伊勢神宮を、天照大神の皇神を祀る処とし、そして、国家神道を発明した明治新政府は、その二度の元帝国からの亡命船事件を、「神風」が吹く「神国ニッポン」と宣伝に使ったのです。
その伊勢神宮の地は、第三百済王朝の江戸時代(三代将軍家光〜十五代慶喜)に発明した、1635年からの参勤交代の行列は、穢れ地として、迂回していたのです。それは、伊勢神宮の前身は、663年母国百済を滅ぼし、更に、672年百済亡命近江王朝を壬申の乱で滅ぼした、685年新羅系の天武天皇が建立した道教の観で、その地は、飛鳥時代には、織田信長の先祖平家の祖が渡来した、赤旗をなびかせるアラブ・インドからの国際交易民族の支配地であったからです。
この明治革命で復活した藤原氏(近衛家)による、仏教から神道へのすり替えトリックに騙された道教の神・神農様を祀る役座は、神国ニッポンを信じて、鎌倉時代、新羅系源氏武士から役座に落とし込んだ張本人の百済系天皇家を、命を賭して護ってしまうわけです。
明治新政府から「神風」により撃沈と宣伝された、それらの座礁船からの遺留品から推測すると、それらの大船団は、日本列島の軍事侵略を主目的としたのではなく、一回目は、元帝国に完全支配された朝鮮半島高麗からの、少数の軍属と多数の貴族達が乗った移民船団、或いは、亡命船団で、二回目は、元帝国に滅ぼされた南宋国の亡命船団であった可能性を示唆します。
武器類ではなく、種籾や農機具を積んだそれらの大船団を、元帝国海軍船団だと主張したのが、何故、鎌倉禅宗組織だけであったのでしょうか。その謎解きのヒントは、鎌倉禅宗は、鎌倉幕府と南宋との日宋貿易に深く関わっていたのです。そして、その南宋は、その第二回亡命船団事件2年前の、1279年騎馬民族国家の元帝国により滅ぼされていたのです。
その第一回目の大亡命船団が、日本列島を訪れた一年後、1275年マルコポーロは、元帝国の世祖に会見しているのです。そして、1292年元帝国を去り、1299年神聖ローマ帝国で「東方見聞録」を著し、黄金の国ジパングを宣伝するのです。
鎌倉時代の日本列島は、マルコポーロが述べたように、黄金の国であったのです。それは、戦国時代の石見(島根県)の銀山から産出される銀が、十六世紀に南米銀が産出されるまでは、世界の銀の需要を満たしていたのが分かれば、それ以上の説明は必要ないでしょう。
その日本列島の銀山を開発したひとりが、平安時代の錬金術師空海です。全国各地の深山に空海の足跡が多く見られるのは、そのためです。空海が唐からもたらした密教法具と言われる独鈷杵・金剛杵は、実際は、鉱脈探索用工具であり、鉱脈堀の作業での「どっこいしょ・こらしょ」の掛け声から、登山での掛け声と変わってしまいましたが、本来の意味は鉱脈探索工具の独鈷杵・金剛杵の呼び名から出ているのです。
中世ヨーロッパでは、需要は絹製品から金・銀製品に変わっていたのです。それらの金・銀はヨーロッパで産出されないため、マルコポーロなど多くが宗教組織や国際交易民に混じって、金・銀の海外情報探索の目的で、僧形の情報収集者(スパイ)として、元帝国を訪れていたのです。
中世ヨーロッパでの金・銀の需要を満たすために、国際交易商人達は、鎌倉時代の日本列島を訪れていたのです。その中に、第一回亡命船事件の翌年、1275年元帝国の国使が、日本との交易を求めて国書を携えて訪れたのを、北条鎌倉幕府の軍事・外交顧問である鎌倉禅僧のアドバイスにより、北条鎌倉政権は、その国使を滝口にて切り殺していたのです。
それは、鎌倉禅宗組織が、中国大陸との交易を独占するため、元帝国と北条鎌倉幕府との国際交易を阻止するためだったのです。そのための布石として、鎌倉禅宗は、騎馬民族蔑視思想を多く含む「法華経」を布教する日蓮に、1260年「立正安国論」を書かせ、元帝国が攻めてくると宣伝させ、そして、1274年と1281年に渡来した大亡命船団を、「元寇」と偽り、虚偽の書物を著していたのです。
金や銀は、山から産出されます。その鉱脈が眠る近畿地域の山々には、北条鎌倉政権の六波羅探題の捜査網で、「サムライ」の平氏武家による源氏残党狩りにより、多くの源氏武士残党が隠れ住んでいたのです。歴史教科書では、その深山の部落を、平家落人部落としていますが、平家はアラブ・インドからの海洋民族であるので、深山で暮す技術はなかったのです。
その実態は、源氏残党狩りから逃れるために、源氏武士残党が、「平家落人」とした智慧であったのです。その証拠に、北条鎌倉末期、その「平家落人部落」から、多くの源氏武士一族が、騎馬により関東の源氏足利氏に集結し、北条鎌倉幕府を倒していたのです。
深山での鉱石採掘は、平安時代の錬金術師空海により、表向き山岳修行として、大規模に行われていたのです。山岳修行者が、「どっこいしょ。こらしょ。」の掛け声で登山し、鋼鉄製の重い独鈷杵・金剛杵を携えていたのは、仏教修行のためだけではなかったのです。
その深山での鉱脈探索作業では、当然、先住の山の民との争いが起こるわけです。そのために、その鉱脈が眠っている地域から、先住の山の民を追い出すために、外来者の入場を拒否する聖域をつくりだすために、山寺を建立するわけです。その山寺を砦として、表向きは山岳修行とし、裏では鉱脈探索、そして、鉱石の採掘をし、それらを山岳修行僧達が麓の寺に運ぶわけです。そして、山寺を建立できない深山の鉱脈地域から、先住民を追い出すための聖域を創り出す手段が、磨崖仏であったのです。
金山から採鉱された鉱石は、灰吹き法という技術で、金を精錬したのですが、その技術を日本列島に伝えたのは、禅宗僧であったのです。何故、禅宗僧が、錬金術に長けていたかと言えば、それは、禅宗とは、インドのヨーガと仏教思想が習合したものだからです。そのヨーガ行者の多くは、インドのバラモン僧であったのです。そのバラモン教では、宗教体験を高めるために、中枢神経を麻痺させる水銀薬を創薬するために、古くから錬金術を開発していたのです。
平安時代、そのバラモン教の水銀薬創薬の技術を唐で学んだ空海は、四国で銀山を開発し、それらの鉱石から水銀薬を創薬し、「京白粉」として、平安貴族に売り捌いていたのです。
北条鎌倉時代、山の民には、源氏武士残党だけが居たわけではありません。そこには、奈良時代より、唐進駐軍と藤原氏に追われた、ヒッタイト帝国の鍛造技術を持つ、タタラ製鉄をおこなっていた秦氏末裔と突厥帝国末裔の産鉄民族もいたのです。
タタラ製鉄を行うには、鉱石、或いは砂鉄、そして、多量の炭が必要なわけです。砂鉄は、川砂鉄と浜砂鉄があります。産鉄民族が、王権に庇護される時は、タタラ製鉄は、浜辺でおこなわれていたようです。浜辺に松林が多くあるのは、タタラ製鉄を行うためです。松は、高山性樹木です。その松が浜辺にあるのは、松から油分が多く含まれる炭が作れるため、産鉄民族が植林したからです。
しかし、王権が替わり、産鉄民族を敵視した場合、身を護るため、産鉄民族はタタラ製鉄を山奥でおこなっていたのです。この山奥に住む産鉄民族が、仏教組織により、山に隠れ住む「隠住→おに→鬼」とされてしまうのです。この採鉱のための穴掘り技術を持つ産鉄民族が、歴史上現れるのが、戦国時代の騎馬軍団の武田軍を支えた、金山衆です。
金山衆は、穴掘り技術だけではなく、タタラ製鉄、石切、石組、堀削などの高度土木技術を持ち、更に、騎馬により遠隔地と物流をおこなうネットワークをもっていたのです。この秦氏末裔の金山衆は、騎馬民族末裔の、景教のシンボル・マルタクロスを割菱にデザイン変えした家紋を持つ武田軍団が、1575年三河長篠の戦で、海洋民族末裔の織田信長により壊滅され、そして、1582年武田勝頼が自殺すると、騎馬民族末裔である徳川家康の配下となっているのです。
北条鎌倉時代、山の採掘権を仏教組織との争いで奪われれ、そして、仏教組織との戦いに敗れた産鉄民族は、タタラ製鉄技術の、火を治める技術者から、火治(ひじり)と言われ、その火治の民が、仏教組織の奴隷として、有髪の半僧半俗の「聖・ひじり」とされてしまうわけです。この聖には、薬草の知識があり、民衆の治療者として活躍していたのです。
仏教組織により、近畿地域の山々から追われた山の民は、東国を目指し、或いは、先祖の渡来地であった河内を目指すのです。その河内は、飛鳥時代には「秦王国」があり、平安時代中期には、河内源氏武士発祥の地であり、平安時代末期には、平家の陣地四国の屋島を急撃するために源義経が出陣した渡辺津が在った処です。
この北条鎌倉時代の近畿地域の勢力図は、京地域を亡命百済移民が支配する比叡山延暦寺、奈良地域を藤原氏が支配する興福寺、そして、多田源氏、渡辺党の武闘主力軍団を承久の乱で失った秦氏の河内地域があったのです。
この近畿地域の三勢力圏の渡来民族の順序としては、弥生時代渡来の秦氏の河内、飛鳥時代渡来の藤原氏(中臣族)の奈良、そして、平安時代に中国・唐から移民してきた亡命百済民の京であるわけです。しかし、最後に渡来した亡命百済民が、814年創作した「新撰姓氏録」では、百済移民は「皇族」で、藤原氏は「神族」で、そして、弥生・古墳時代、河内湾を干拓し、巨大古墳、大運河、幅十二mの古代高速道路を湿地帯の奈良盆地に建設していた秦氏は「蕃族」とされてしまったのです。
北条鎌倉政権と同調する、京の朝廷は、その河内に住む「蕃族」である秦氏末裔、そして、飛鳥ヤマトを支配していた突厥帝国末裔を賎民として貶める行動に出るのです。その手段として、「ケガレ」思想の、仏教組織による布教です。そのための手先として、鎌倉仏教僧が利用されるわけです。
「ケガレ」思想は、奈良・平安時代中期までと、平安末期から北条鎌倉時代とは、異なる解釈がされていたのです。
明治革命後、明治新政府は、王政復興を宣伝するために、645年唐進駐軍と中臣族とによる、突厥帝国コロニーである飛鳥ヤマト政権を壊滅したことを、「大化の改新」と改竄することをを発明し、その虚構を繕うために、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族の歴史を抹殺・隠蔽する手段を考え出すのです。
それは、平安時代、「オオミタカラ」である農耕民族文化思想で、オリエント渡来の秦氏の景教儀式である、太陽の化身である牡牛を屠る祭祀場を隠蔽するためのに、「塚→つか→じゅが→稲荷→いなり」の粗末な神社を建てて、牡牛を屠る祭祀場を稲の神様を祭る処と摩り替えたように、明治新政府は、奈良・平安初期での国家反逆行為の「ケガレ」、そして、平安末期から北条鎌倉時代の血・肉食の禁忌を守らぬ者を「ケガレ」としたものを、「木が枯れる→木枯→ケガレ」とし、農作物が枯れるの意味として解釈させようとしたのです。
奈良・平安時代中期までの「ケガレ」とは、国家に反逆する者が、「ケガレ」であったのです。しかし、平安末期から北条鎌倉時代にかけて、「ケガレ」の意味が変わるのです。では、どのようにして「ケガレ」の解釈が変わってしまったのでしょうか。
平安初期に錬金術師空海が、唐より持ち込んだ、民族差別のカースト制度を発明したバラモン・ヒンズー教思想を基に発明した真言宗が、「施陀羅悪人なり」と唱える騎馬民族差別思想が、平安末期、京の賀茂川の葬送地ギオンを支配した、アラブ・インド渡来の平家が隆盛となり、船を山車にしてギオン祭りを行う頃、「ケガレ」思想は、国家反逆者から、「法華経」により仏罰者と宣伝されたハンセン氏病者や不具者そして、肉食・魚食する者達を「ケガレ」としていくわけです。
当然、平安末期の京では、ギオン祭りは葬送地の髑髏が原(後の六波羅)で行われ、魚食する海洋民族で、伊勢から進出してきたアラブ・インドから渡来した民族である平家一族がおこなうわけですから、「ケガレ」ているので、京の平安貴族達は、ギオン祭りを避けるために、その祭りの期間中、神輿違えとして、京から避難していたのです。
何故、平安末期から北条鎌倉時代に、「ケガレ者」が、国家反逆者から、ハンセン氏病者・不具者・肉食者・魚食者に変えられてしまったのでしょうか。
816年嵯峨天皇は、桓武天皇により奈良の都に封印された、藤原氏の流れにある藤原薬子が、嵯峨天皇政権の転覆を目論んだ810年の反逆行為に対して、今後の藤原氏の国家反逆の陰謀を封じるために、令外官として検非違使を設置するのです。
検非違使とは、国家反逆者の「ケガレ」者である藤原氏を監視、そして、反逆行為を阻止するため、平安京で公安・治安警察業務をおこなう、嵯峨天皇の私設警察であったのです。
嵯峨天皇は、亡命百済移民末裔であったので、その検非違使も亡命百済移民末裔から選抜させていたのです。この官僚を兼ねた検非違使が、天皇や平安貴族に侍り、秘書謙警護をしたことにより、「侍り→侍→サムライ」と云われていくわけです。ですから、「サムライ」は武装はしていても、武官よりも、文官に近い存在であったのです。しかし、武装する「サムライ」は、武人であっても、「武士」ではないのです。武芸者である「もののふ」から「武士」が発生するのは、939〜941年に起こった天慶の乱後であったのです。
検非違使は、令外官と言えども、嵯峨天皇直属であったので、その権力は強かったのです。その検非違使が、飛鳥時代、遣隋使のソインコウ(日本名小野妹子)の肩書きが長吏であったのに、その高級役人としての長吏の肩書きが、北条鎌倉時代には「賎民頭」としての蔑称とされたように、鎌倉時代、室町時代と時代が経ることにより、その地位が下がり、江戸時代には、賎民並みに扱われてしまうのです。
平安時代初期、その検非違使は、公安警察業務の実行者として、散所、別所、湯浅、垣内などの捕虜収容所に居た陸奥国の蝦夷捕虜を使うわけです。何故、蝦夷の捕虜を公安警察業務の実行者として、検非違使が使ったかと言うと、それは、平安京を祟る怨霊鎮めのためだったのです。平安初期では、怨霊は、同族の者でなければ、鎮めることが出来ないと、信じられていたからです。このことから、蝦夷とは、飛鳥ヤマトを支配していた民族と同族であったことが分かるのです。
百済系桓武天皇が、唐進駐軍の支援の下、794年秦氏が支配していた山背国(秦王国)を乗っ取る前に、桓武天皇は、新羅系天武天皇の最期の血を引き継ぐ井上皇后母子を謀殺し、更に、実弟早良皇子も謀殺していたのです。
平安時代末期、平家が政権を支配するまでは、日本列島には、怨霊が跋扈していたのです。しかし、平清盛が政権を握ると、地獄世界を吹聴する平安仏教思想の源であるバラモン教やヒンズー教思想を知っている、アラブ・インドから渡来の平家が、平安仏教が宣伝する仏罰や祟りなど信じていないため、南都仏教の拠点である興福寺・東大寺を全焼させ、そして、僧兵が担ぐ神輿に矢を射掛ける前までは、神仏の霊や、前王権の怨霊による祟りは、広く貴族だけではなく、庶民にも信じられていたのです。それは、巨大古墳を壊した跡に、平城京を遷都したことにより、数十年前の平城京が怨霊に祟られた事実(実際は銅・水銀鉱毒症)を記憶として留めていたからです。
宗教者は、眼に見えない自然現象や理論的に説明できない出来事を、自己に都合よく解釈して、良いことは神の御技として、悪いことは怨霊・悪魔の業と吹聴する歴史的傾向が、ヨーロッパにも、日本列島にもあったようです。
暗黒時代の中世ヨーロッパでは、十二世紀から始まった、ヨーロッパ諸国をキリスト教思想で支配したキリスト教会により、敵対する者に対する異端諮問が、十五世紀から十八世紀にかけては、魔女裁判となっていったのです。その結果、キリスト教徒による魔女裁判により、特殊な技能を持ったひとが魔女として認定され、魔女達は火で燃やされてしまっていたのです。その魔女狩りによる犠牲者の総数は、四万人とも云われているのです。
この中世ヨーロッパでの魔女狩りの発生は、日本列島の穢多狩りと同じ発生経過を辿ったようです。始めは、キリスト教が弾圧・抹殺した対象者がキリスト教国への反逆者であったものが、後には、魔女(魔男も存在した。)に替わっていったように、日本列島の漢訳仏教の弾圧対象でも、奈良時代の国家反逆者から、鎌倉時代の穢多(施陀羅)へと替わって行ったのです。では、中世ヨーロッパで、何故、魔女狩りが発生したのでしょうか。
宗教と言うと、俗界の世界と異なり、経済活動から分離され、純粋思想だけの世界である、と信じているひとも多くいるようですが、その見方は偏っています。
キリスト教も漢訳仏教も、その宗教組織は基本的に自ら生産活動はしないため、他者からの金銭的支援がなければ、存在できなかったのです。つまり、商人組織やお金持ちの王や貴族の金銭的支援がなかったら、今日のキリスト教も漢訳仏教も存在していなかったのです。
古代国家は、人民を奴隷として搾取するための組織構造として、支配者階級の貴族層を形成するのです。国王は、貴族をして、人民を統治したのです。異民族や人民を支配するために、その国王の権威付けとして、神の存在が必要とされるため、宗教儀式を行う祭祀者が、王権により利用されるのです。
その王国との交易を望む国際交易商人は、手先として文化娯楽或いは病気の治療者として宗教者を、目指す王国に送り込むわけです。そして、その宗教者は、それらの文化娯楽開催の見返りや各種の宗教儀式開催のお礼として、王や貴族より多大な寄付を受けるのです。
国家が貴族により運営されていた時期は、宗教組織は、その寄生する国家維持のために、国家に反逆する者を処罰する機構となるわけです。古代キリスト教国では、キリスト思想に反する者を裁くために異端諮問をおこなっていたのです。日本列島では、唐進駐軍により律令国家体制を維持できていた奈良・平安中期までは、漢訳仏教は、国家反逆者を「ケガレ」者として、国家鎮護のために働いていたのです。
392年ローマ民衆の支持を失ったエウゲニウスは、国内の混乱を鎮めるために、新興宗教組織のユダヤ教ヨシュア派を、キリスト教としてローマ帝国の国教に昇格させ、エウゲニウスの政治に批判的であった軍人を抹殺するために、ローマ帝国の軍神だったミトラ神を歴史上壊滅し、そして、更に、国王の権威を高めるために人間キリストを神に変身させようとするローマ帝国の国教となったローマ・キリスト派の企みとして、431年東ローマ帝国のエフェソスの公会議で、キリストの神性を認めないネストリウスは、異端とされるのです。そして、キリストの神性を認めないネストリウス派は、435年東ローマ帝国から追放されるのです。
歴史教科書では、この東ローマ帝国から追放された、キリストの神性を認めないネストリウス派キリスト教徒のペルシャ人オロボン(阿羅本)が、635年唐に伝えた宗教が、「景教」となった、と云っているのです。しかし、小高い山頂で太陽神の化身牡牛を屠る景教は、「太陽の教え」を布教する宗教組織なのです。その「太陽の教え→ミトラ神→マイトレーヤ→弥勒菩薩、太陽の教え→ミトラ神→アトン神→アミ様→阿弥陀仏」は、その七世紀のオロボンの唐への渡来以前の六世紀には、中国大陸から日本列島の北九州→河内→飛鳥ヤマトへの渡来ルートで伝わっていたのです。
つまり、キリスト教の教義・儀式の多くは、太陽神のミトラ教(景教)の教義・儀式を取り入れたもので、中国大陸で、ネストリウス派キリスト教が「景教」と呼ばれたのではなく、歴史的にはその逆で、ネストリウス派キリスト教が、先に中国大陸に渡来していた「景教」に取り込まれていたのです。
中世ヨーロッパでは、その国家を支えた貴族層が、革命により壊滅し、国王の支配する土地が各地の豪族の私有地となり、宗教組織が、裕福だった貴族層の献金援助が期待できなくなった時、自らお金を稼ぐ方法を考えなければならなかったのです。そのひとつが、各地の豪族の私有地て働く人民や奴隷による、賽銭箱にお金を投げ入れる献金という行為です。では、ひとびとは、何故、見ず知らずの神様に献金をするのでしょうか。それは、病気の平癒や悩み事の解消のためです。つまり、宗教組織にとって、病気は商売の種だったのです。
このことが理解できれば、中世ヨーロッパで、何故、魔女狩りがおこなわれたかの原因が分かります。それは、魔女として認定されたひとの多くは、小動物の内臓や薬草から「くすり」を創薬する技術を持った民間治療者だったのです。キリスト教会は、民間治療者である魔女を火炙りにする理由として、「治療に薬草を使う者は、ひそかにであれ公然とであれ、悪魔との契約によってそれを行っているから。」、としているのです。しかし、魔女と契約するその悪魔とは、キリスト教が発明したものだったのです。実際に、悪魔とは、反キリスト者達の神様であったのです。
中世ヨーロッパでのキリスト教は、「治療というのは、まじないや占いによってなされるものではなく、カトリックの司祭が明言し実践しているように、断食と祈りを通して主(しゅ・キリスト)にひたすら懇願することによりなされるのです。」と、病気をキリスト教の神への「祈り」で平癒できると主張し、商売敵の民間治療者から治療権を奪うため、悪魔の手下である魔女を発明したわけです。
穢多の差別語が発明された北条鎌倉時代の日本列島でも、病気の平癒は、中臣神道では、ユダヤ教儀式と酷似した、塩と水による御祓い儀式で、そして、漢訳仏教では、拝火のゾロアスター教から導入した護摩による加持祈祷だったのです。
何故、大坂の道修町と富山県では、薬商者が多いのでしょうか。それは、古来その地には、騎馬民族末裔が多く住んでいたからです。そして、騎馬民族末裔徳川家康が湿地帯を居住地としたエドでは、日本橋・人形町界隈は、騎馬民族の血が流れる徳川将軍二代目秀忠までは、騎馬民族末裔、穢多頭の弾左衛門の支配地であったのです。しかし、百済の血が流れる三代目将軍徳川家光(第三百済王朝)により、弾左衛門の支配地は、浅草寺裏の湿地帯に移されてしまったのですが、その日本橋界隈にも薬商が多かったのです。
役座が、何故、薬草の神様である神農様を祀るのかは、それは、役座の先祖が武士で、武士の先祖が蝦夷で、蝦夷の先祖が飛鳥蘇我王朝の武人であったからです。その蘇我王朝の軍団を組織していたのが、六世紀、日本海から敦賀に渡来した、北極星を祀る突厥帝国軍と、瀬戸内海を経由して河内に上陸した、ローマ帝国軍神ミトラを祀る新羅花郎騎士団だったからです。
騎馬民族が、何故創薬技術を持っているかと言えば、馬、牛、羊と共に連続する移動で、それらの病んだ動物の草による自然治癒を日夜観察していたからです。箕の傘とカッパの渡世人のスタイルで各地を放浪する薬草の神である神農様は、行く先々の草を口に食み、自ら治験を繰り返していた、との伝説があるほどです。更に、動物の解体が日常である騎馬民族は、人体の仕組みも理解していたからです。
1774年前野良沢と杉田玄白による、オランダ語訳「ターヘル・アナトミア」を日本語版にした「解体新書」は、穢多頭弾左衛門の支配地小塚原で、騎馬民族末裔の穢多と言われる解剖者が行う解体作業を、それら両名は自ら執刀せず、側で見て原著を確認していた日本語による記録書であったのです。因みに、現代では尊敬されている医者、創薬業者は、平安時代(第一百済王朝)から江戸時代末期(第三百済王朝)まで、世間から賎民視扱いされていたのです。
第二百済王朝の北条鎌倉時代に、「源氏武士」が歴史上から消え、代わりに、穢多が発生するのです。しかし、日本列島において、その穢多の発生地域が限られていたのです。それは、北の北海道と南の沖縄には、民族差別の穢多の存在が認められないのです。何故そうなのかと推測すると、それらの地は王都ではなく、過疎地であるため、国際交易商人と共に行動する漢訳仏教が布教されていなかったのです。穢多の発生と、漢訳仏教とには大いに関係があったのです。
では、騎馬民族差別思想の弱い、「サムライ」が支配する東国と、騎馬民族差別思想の強い、漢訳仏教組織が支配する西国との、穢多の発生の違いは、どのように説明できるのでしょうか。
穢多の差別思想が、西国に比べ、東国の都である鎌倉で広まらなかったのは、それは、鎌倉は、漢訳仏教組織ではなく、禅宗に支配されていたからです。禅宗僧が、北条鎌倉政権の軍事・外交顧問を務めていることからも分かるように、鎌倉の地は、禅宗の支配地であったのです。ですから、聖徳太子を発明して「法華経」を宣伝する比叡山から放出された日蓮も親鸞も、鎌倉の地での布教は成功しなかったため、民族差別の激しい京都で布教活動をおこなっていたのです。
何故、禅宗が、騎馬民族差別に熱心ではなかったのかと言えば、それは、鎌倉の「武家」は、禅宗が中国大陸から輸入する書画骨董の主な販売先であったからです。そして、「漢訳仏典には空論が書かれていて、仏の道を説いてはいなかった。無駄な時間を費やしてしまった。」と、江戸時代の白隠禅師が述べていたように、禅宗では、騎馬民族の差別語の施陀羅が頻発する漢訳仏典の布教には、熱心ではなかったからです。
1206年即位した元帝国のチンギス汗が、東アジアの北方から南下するのを察知していた中国禅宗は、亡命先を源氏武士が支配していた鎌倉に求めたのです。それは、1216年鎌倉源氏武士三代目の実朝が、平氏の北条氏の陰謀を察知して、南宋の陳和卿を引見し、南宋亡命のために大船を造らせたことからも分かるように、源氏鎌倉幕府と南宋とには国際交易ルートを確立していたからです。
その実朝の鎌倉幕府を牛耳る北条氏からの脱出計画は、北条氏に露見してしまい、その三年後、1219年実朝は、「サムライ」の北条氏にそそのかされた公暁により暗殺されてしまったことにより、1192年から始まった源氏武士三代の短い源氏鎌倉政権が、ここに滅亡するわけです。
1279年南宋は元帝国に滅ぼされ、その結果、1221年承久の乱で、河内源氏武士団を壊滅させた北条氏が支配する鎌倉に、南宋から亡命してきた南宋僧の祖元は、鎌倉の地で禅宗を「武家」に広めるのです。武家も、騎馬民族差別思想を多く含む「法華経」などの仏典を布教しない禅宗の文化を取り入れ、禅宗寺を改良して、床の間と室内便所(雪隠禅師が持ち込んだため、屋内便所を「雪隠」と言った。)が設置された「武家屋敷」を建て、禅宗が中国から輸入した、山水画や壷などの書画骨董を、床の間に飾る文化が、関東の武家に広まるのです。
その東国に比べて、西国の漢訳仏教組織は、河内源氏の騎馬民族末裔を徹底的にイジメ抜くのです。
藤原氏の支配する奈良の興福寺では、源氏鎌倉時代、源氏棟梁源頼朝により、藤原氏の経済的拠点である南九州島津荘が取上げられてしまったことに対する報復です。
亡命百済貴族が支配する比叡山延暦寺では、663年新羅系の河内源氏武士の先祖が、母国百済を滅ぼしていた報復です。
源頼朝が源氏棟梁として統治した鎌倉時代初期に、西国の興福寺や延暦寺などの寺社領の荘園は、当然のように源氏武士により管理されていたのです。それは、飛鳥時代では、それらの近畿地域は、騎馬民族の支配地であったからです。
しかし、北条鎌倉時代、「サムライ」平氏北条氏と朝廷との陰謀の数々により、河内源氏の「武士」軍団が壊滅されてしまったため、源氏末裔は、賎民として貶められていくのです。
そのひとつの仕掛けが、飛鳥ヤマト時代の遣隋使ソインコウの官職であった長吏の貶めです。漢訳仏教組織は、「法華経」で仏罰者はハンセン氏病になると宣伝し、そのハンセン氏病者の世話を、秦氏末裔の賎民部落に押し付けるのです。これは、感染魔術となって、ハンセン氏病が、秦氏の長である長吏に感染し、その長吏も仏罰者のケガレ者となってしまったのです。
そして、漢訳仏教組織は、平安時代では天皇直属の検非違使の配下として、公安警察業務である怨霊鎮めの「もののふ」としての武芸者の「キヨメ」を、北条鎌倉時代には汚物処理の清掃業務の「キヨメ」とすり替えてしまうのです。
この平安時代の「キヨメ」業務を河内源氏がおこなったことにより、「もののふ」の武芸者が、939年平将門と藤原純友による平安政権転覆騒動を、武力で鎮圧したため、平安王朝から、「武士」として認めてもらえたのです。つまり、源氏武士は、河内から発生していたのです。
そして、清掃業務を行う「キヨメ」者を更に貶めるために、騎馬民族の肉食者を、錬金術師空海が宣伝した「施陀羅悪人ナリ。」から、施陀羅を屠者とし、戦闘で敵を殺す「武士」を屠者として、そして、「武士」の先祖が蝦夷であることを理由として、「武士」を俘囚末裔と宣伝し、漢訳仏教思想により、騎馬民族は穢れていると宣伝するのです。
漢訳仏教組織は、民族差別も商売に利用していたようで、昭和時代まで、高野山の真言宗のある寺では、「施陀羅・屠者のたぐいの穢れたる人を見たならば、このしんごんをとなうべし」と書かれたものを、「お守り札」として販売していたようです。
ケガレ(穢れ)の「穢」とは、祭儀のことです。しかし、その祭儀は、歌や踊りでの「祭り」ではなく、犠牲を捧げて行う祭儀のことです。
飛鳥時代、源氏の先祖の秦氏が、飛鳥ヤマトや近畿地域を支配していた時期、秦氏の祭祀者は、犠牲の牡牛を屠り、秦氏の神ミトラ(太陽神)に捧げていたのです。このことを、「日本書紀」では、皇極元年七月二十五日条に、「雨乞いのために、村々の祝部の教えのままに、あるいは牛馬を殺して、もろもろの社の神を祭(いの)る」、とあることからも分かるように、飛鳥時代では、犠牲により神を祀っていたのです。その犠牲による祀りは、百済系桓武天皇の命令により、延暦十年(791年)と延暦二十年(801年)に牡牛の屠殺を禁止していたのです。古代での犠牲は、鳥やイノシシではなく、「牡牛」でなければならなかったのです。何故でしょうか。
古代日本列島で、何故、秦氏の祭祀者が、牡牛を屠っていたかと言えば、古代エジプトからの祭祀儀式が、飛鳥ヤマトにも伝来していたからです。
紀元前十四世紀、古代エジプトで、アメンホテプ四世は、多神教の祭祀者の横暴を抹殺するために、宗教改革として、ヒッタイト帝国で祀られていた三神セットの太陽神ミトラを素材として、唯一神、太陽神アトンを発明するわけです。そのころの黄道は、牡牛座の時代だったので、太陽神の化身が牡牛となっていたのです。
その古代エジプトの宗教思想が、ヒッタイト帝国から出稼ぎに来たヨセフ族末裔のエフライム族により、カナンの地にもたらされ、エフライム族は、太陽神バアル(太陽神アトンが変身)と牡牛を祀ることになるわけです。
そのエフライム族を中心に十部族(イスラエル民族)が、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンにより滅ぼされると、それらの十部族は、太陽神を祀るために牡牛を屠る祭祀儀式と共に歴史上から消えてしまうのです。
紀元前一世紀、太陽の化身牡牛を屠る儀式は、太陽神ミトラを軍神とするローマ帝国軍に引き継がれ、地下の聖堂で、12月25日の太陽神の復活日に、牡牛は祭祀者により屠られ、犠牲として、太陽神ミトラに捧げられていたのです。
これらの古代エジプトからの牡牛を屠る祭祀儀式の渡来を証明する史料は、645年唐進駐軍と中臣軍により、飛鳥ヤマトの王国を壊滅した時に(明治新政府は、645年にオリエント文化から、唐の仏教文化に替わったことを「大化の改新」と改竄したのです。)、古代エジプトの書籍やオリエントの書籍が全て焚書されてしまったため、史料として証明はできません。
しかし、四世紀以降に、河内平野に突然現れた巨大古墳には、漢訳仏教思想では肉体は唯の魂の乗り物にすぎないとし死者は燃やしてしまい、中臣神道思想では死者は穢れているとし死直前の者は家屋から運び出され河や谷に投棄するのとは異なり、古代エジプトの埋葬思想と同じに、死者は蘇ると信じて、石室に石棺が納められていたのです。
そして、その石棺は、九州阿蘇山からもたらされた石材が多く使われて、その石棺の内寸は、古代エジプトの測量単位、肘から中指の先までの長さとするキュビット(約524ミリ)で割り切れるのです。
これらの古代エジプトの埋葬思想を基に築造された巨大古墳を、藤原氏やその末裔が支配する明治新政府は、歴代の天皇稜と宣伝し、藤原氏が創作した「日本書紀」で日本初の天皇とする神武天皇の天皇陵を、明治革命前後に築造していたのです。
ですから、巨大古墳の学術的調査は今日でもタブーなのは、朝鮮半島慶州の天馬塚古墳からギリシャ・ローマ文化色の強い数々の騎馬民族の遺品が出土したように、それら河内・奈良の巨大古墳を調査すれば、古代エジプトやオリエントから渡来の遺品や騎馬民族の遺品が出土する可能性があるからです。
更に、河内平野が干拓される前の、河内湾に突き出た岬(後の上町台地)は、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小高い山)と云われていたのです。因みに、秦氏の渡来元の朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅では、ワタはパタとなり「海」で、ナベは鍋底状の「丸い山」を意味していたのです。
そのように「日本書紀」などの正史では見えないものも、視点を少しずらすことにより、その正史が隠蔽した史実が見えるようになるのです。そのひとつに、氏族名があります。「日本書紀」で女帝推古天皇の大臣とした蘇我氏とは何者であったのでしょうか。その蘇我氏の二代目蘇我馬子は、「日本書紀」では、592年その当時天皇はまだ存在していないのに、崇峻天皇を謀殺したことになっているのです。日本国初代天皇は、672年即位の天武天皇からです。因みに、天皇(テンノウ)とは、騎馬民族の神である天神(テングリ)から発明されたものです。
簒奪王権は、前政権の歴史を抹殺・隠蔽することができなかった場合、歴史の改竄をおこなう傾向があるのです。その改竄の手段のひとつとして、神話の創作があります。「風土記」の創作は、前政権の歴史改竄の手段であったのです。
漢字二文字の人名・地名表記は、713年好字令以降であったのです。各地の「風土記」は、前政権の歴史を改竄するために、この漢字二文字表記で記述していくわけです。
では、当時の蘇我氏は、何と呼ばれていたのでしょうか。そのヒントは、607年遣隋使に任命された、日本名小野妹子です。「随書」では、その遣隋使はソインコウと記述されていたのです。では、ソとは何を意味しているのでしょうか。「ソ」とは、古代新羅語では、「牛」のことです。
その「ソ」が牛を意味しているのなら、蘇民将来の「蘇民」とは、ソ民で、「牛族」と言うことです。そして、屠蘇とは、「牛乳」のことです。そう云えば、醍醐とは「チーズ」の意味であったのです。
そのように古代新羅語でヤマト言葉を解読していくと、「牛頭」とは、古代新羅語の発音では「ウドゥ」で、日本式発音では「ゴズ」です。しかし、「頭」には古代新羅語の発音では「モリ」とも言うのです。つまり、牛頭は、古代新羅語の発音では、「ソッモリ」と言えるのです。では、この「ソッモリ」を、日本神話で調べると、スサノウ神話では、高天原から最初に降臨した処が「曽尸茂梨・ソシモリ」だったのです。では、その地は、日本列島であったのでしょうか。
古代新羅の国号は、斯(サ)です。「斯」の日本語発音は「ソ」です。つまり、「ソシモリ」の「ソ」とは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅国のことであったのです。この「ソ」が、「斯」で古代新羅のことで、そして、その「ソ」が、「牛」の意味もあることから、チンギス汗と同じ家紋の笹竜胆を部族の印とした、出自不明の源義経の幼名を「牛若丸」、と創作した意味が分かるのです。
それは、その「牛若丸」の「牛・ソ」とは、古代新羅の「斯」の意味でもあり、源義経を鎌倉源氏棟梁源頼朝の異母兄弟と作為するために、源義経の幼名を「牛若丸」と創作した作者は、河内源氏武士は、古代新羅から渡来した新羅花郎騎士の流れであることを知っていたからです。
その古代新羅から渡来した民族が、秦氏です。この秦氏末裔が、北条鎌倉時代に、賎民として、穢多としてイジメられていくのです。では、どのようにして、秦氏が賎民に貶められていったのでしょうか。
1333年山奥の「平家落人部落」から出陣した源氏武士は、源氏棟梁の足利尊氏の下に馳せ参じ、北条鎌倉幕府を武力で倒し、ここに第二百済王朝が壊滅するのです。そのことにより、平氏の北条政権にイジメられていた、秦氏末裔の遊芸者として渡世していた観阿弥・世阿弥親子は、源氏武将の足利義時に認められ、能楽を完成させ、1402年世阿弥は、「風姿花伝」を著し、能楽について語るのです。その「風姿花伝」で、能楽の祖は、秦河勝と述べているのです。
秦河勝とは、百済仏教伝来物語では、架空の聖徳太子の忠臣として描かれていて、聖徳太子から請けた、弥勒菩薩を安置するために、山城国に広隆寺を建てたことになっていたのです。そして、能楽の祖秦河勝は、世阿弥が「風姿花伝」で述べているように、能楽は猿楽から生まれたもので、猿楽者でもあったのです。
では、その猿楽とは何んなのでしょうか。猿楽の「猿」は、蔑称です。歴史上にその「猿」が現れるのは、秦氏末裔の万葉語学者の多人長が、812年に著した「古事記」の「天孫降臨」の条です。そこには、「私は国っ神で、名は猿田彦神と申します。ここにいるのは、天っ神のご子孫が天降りなさると聞きましたので、道案内をいたそうと思って、お迎えに参ったのです。」、とあるのです。では、この国っ神と天っ神の正体は何でしょうか。
「日本書紀」の仏教伝来物語では、新来の蕃神の仏を祀ると、国っ神が怒るから、仏を祀ることは出来ないとする廃仏派物部氏が、蕃神の仏を祀ることにした崇仏派蘇我氏に敗れたことにより、仏教が日本国に伝来した、としているのです。では、その「日本書紀」での国っ神とは、「古事記」で述べていた猿田彦神のことなのでしょうか。
教科書歴史では、神社は日本古来からの神を祀る処と教えているようですが、「日本書紀」で述べている蕃神の仏が渡来する552年以前に、その神社に祀られていた神が、国っ神だったのでしょうか。それは、違います。何故ならば、神社は、仏寺の後に建てられたものであるからです。歴史的に証明できる神社(宮)は、奈良の御蓋山麓の前政権の祭祀場跡に、神護景雲二年(768年)に築造された春日社が始めなのです。
では、「日本書紀」にある、皇極元年(641年)七月二十五日条に、「雨乞いのために、村々の祝部の教えのままに、あるいは牛馬を殺して、もろもろの社の神を祭(いの)る」、とある牛馬を屠る宗教儀式は、神道儀式であったのでしょうか。それは、違います。中臣神道では、死穢は禁忌で、塩と水の御祓いにより、悪霊を除去し、神を祀っていたのです。では、その牛馬を殺して神を祭(いの)った宗教とは何なのでしょうか。
そこで、秦氏末裔の多人長による「古事記」の「私は国っ神で、名は猿田彦神と申します。」の暗号文が解けるのです。それは、蕃神の仏の渡来を阻止したのは、物部氏ではなく、国っ神である猿田彦神であったのです。その猿田彦神は、社で牡牛を屠り、猿田彦神の国っ神を「穢」の犠牲により祀っていたのです。
その根拠は、物部氏の氏名が発明されたのは、「日本書紀」での587年の物部守屋と蘇我馬子との宗教戦争から126年後の、713年以降であったからです。では、神仏戦争物語で、河内国を本拠地とする廃仏派の物部氏とは、誰のことだったのでしようか。それは、河内に「秦王国」を構えた秦氏のことです。秦氏を、秦→しん→申→さる→猿、とすると、猿田彦とは、秦氏のことであったわけです。そして、猿田彦の「彦」とは、「ヒコ」→日子で、太陽の子孫の意味です。ですから、「猿田彦」とは、「太陽神の子孫の秦氏」、と言う意味になるのです。
では、物部氏の「物」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「物」は「モノ」で、それは古代日本列島では、霊、魂、精霊を意味していたのです。つまり、物部氏とは、それらの精霊を司る「呪術性を持った部族」のことで、秦氏の祭祀氏族であったのです。
では、その仏教伝来物語の物部氏と蘇我氏との神仏戦争は、何を語っていたのでしょうか。それは、645年の蘇我王朝(穢の祭儀)と唐進駐軍・中臣軍(仏の祭儀)との、牡牛の屠り儀式と念仏の儀式との宗教戦争だったのです。
その宗教戦争に勝った唐進駐軍と中臣軍は、645年勝利宣言として、仏教興隆の詔を発していたのです。そして、勝者の唐進駐軍と中臣軍は、秦氏の支配地であった河内の秦王国の国際交易港の難波(なんば←なにわ←浪速←ローラン)に、占領軍の砦として、仏寺の四天王寺を建立するわけです。
「古事記」の文章を斜め読みすることにより、「日本書紀」の記述が暴かれるのは、それは、秦氏末裔多人長が、「日本書紀」の講義講師であったので、日本列島の乗っ取りを企む藤原氏による、「日本書紀」の偽書性を見抜いていたからです。更に、平安初期、山背国(秦王国)を乗っ取った百済系桓武天皇は、その「日本書紀」の新羅事跡を改竄し、そして、百済史を挿入する改竄を行っていたのです。
多人長が「古事記」を著した理由は、その「日本書紀」による飛鳥ヤマトの偽歴史を暴くためだったのです。つまり、「古事記」は、「聖書」の偽書性を暴いた「ヨハネの黙示録」と同じに、「日本書紀」の偽書性を暴くための「黙示録」だったのです。そのために、「古事記」の記述文章は、「日本書紀」の飛鳥時代の女帝推古天皇までの注釈文章の全てに対応して書かれているのです。
このことからも、「古事記」が、720年「日本書紀」よりも前の、712年に完成していない根拠のひとつになっているのです。日本列島の乗っ取りを企む藤原氏が、先住者の秦氏の歴史を抹殺するための偽書が「日本書紀」だったのです。
奈良時代、唐進駐軍の軍事支援の下、奈良盆地を支配していた藤原氏は、その独善性により、唐進駐軍から排除され、その代理とした亡命百済移民を支援して平安王朝を築くわけです。しかし、907年母国唐が滅亡したため唐進駐軍の軍事力が衰えたため、奈良の都に封印されていた藤原氏が、再び暗躍するわけです。
そして、復活した藤原氏は、亡命百済貴族を天皇とした平安王朝を、藤原氏の手先の錬金術師空海が発明した真言密教儀式で牛耳るわけです。その平安王朝を支配するには、飛鳥ヤマトを支配していた秦氏が邪魔となるわけです。
そして、飛鳥ヤマトで「穢の祭儀」を行っていた祭祀者達を、貶めるために河原に追いやるわけです。しかし、秦氏の祭祀者は、その河原で祭祀儀式を行うのです。この河原での祭祀儀式から芸能が発生するわけです。その河原での芸能は、「穢」の流れにあるため、呪術性が強く残っていたのです。
その秦氏末裔の芸能民の呪術性を抹殺する手段として、インドのバラモン教から肉食民族を貶めるためのケガレ思想を導入して、国家反逆としての「ケガレ」を、汚わいの意味の「穢れ」と摩り替えていくのです。そして、屠者の意味である施陀羅を、「穢れが多い」の意味で、「穢多」とするのです。つまり、ミトラ教の太陽神の化身牡牛を屠る秦氏の祭儀を、「穢れ」とし、その犠牲を行う民族である秦氏末裔を、「穢れ者」とするわけです。
このケガレ思想をバックアップしたのが、血と肉食の禁忌思想であるのです。そのために利用されたのが、漢訳仏教です。その漢訳仏教の無数にある仏典には、騎馬民族を貶める差別語が沢山あったからです。
北条鎌倉時代、その騎馬民族差別語が多くある仏典を、比叡山延暦寺で学んだ鎌倉仏教僧は、禅宗が支配する東国ではなく、漢訳仏教の支配地の西国で、その騎馬民族差別思想を庶民に布教したため、西国での民族差別が、東国よりも強くなっていたのです。
しかし、源氏の復活により、北条鎌倉幕府が倒れると、賎民と言われた芸能民達は、その室町時代の源氏政権下で、古来の技術を開花させていくのです。それらが、能楽、造園、茶道、華道などの伝統日本文化と言われるものです。
しかし、戦国時代末期、イエズス会から寝返った、藤原氏の傀儡となった関白豊臣秀吉は、秦氏末裔を再び賎民として貶めていくのです。その差別が最も強かったのが大坂です。大坂は、古来「秦王国」の地であったからです。そして、河内源氏発祥の地、ワタナベ(岬の意味)を穢多村とし、淀川河口の湿地帯に追いやるのです。それと同時に、豊臣秀吉の宿敵・騎馬民族末裔徳川家康も、三河から関東の荒川河口の湿地帯に追いやるのです。
しかし、古代、飛鳥ヤマトと河内平野を支配していた秦氏は技術集団部族連合であったので、古代エジプトの高度土木技術、ヒッタイト帝国の鍛造タタラ製鉄技術、ギリシャ文化継承の祭祀儀式と芸能、そして、突厥民族(チュルク)の馬での物流による商業技術を保持していたため、簒奪王権の武器である漢訳仏教思想による、施陀羅や穢多などの差別思想に挫けることなく、徳川三代目将軍家光から始まる、逆境の第三百済王朝の江戸時代を生き抜くのです。
608年遣隋使裴世清が見た「秦王国」の都市国家が、日本列島の歴史から消えたのは、騎馬民族末裔徳川家康により大坂穢多村(秦王国)から呼び寄せられた秦氏末裔と共に、湿地帯のエドを開拓し、そして、徳川家康の私設公安・治安警察(江戸時代版の検非違使→役座)として働いた先祖から第十三代目の穢多頭弾左衛門が、浅草寺裏の新町(=秦町・江戸幕府からの治外法権の自治町。穢多身分のための役所を構えていた。税制も幕府と異なり、独自に人頭税を徴収していた。)で幕末を迎え、そして、「弾直樹」と改名した、1868年明治維新であったのです。
そのような裏面史が理解できれば、江戸時代の役人の縄が不浄と云われた歴史が理解できるのです。
1600年関が原の戦いで、騎馬民族末裔徳川家康が勝利すると、徳川家康は、関白豊臣秀吉により穢多と貶められた、大坂の穢多村の住民を役人として引き立てるのです。これは、織田信長が、1568年足利義昭を奉じて入京した時、賎民余部を配下として取り立てたことに通じます。それは、騎馬民族末裔の徳川家康も海洋民族末裔の織田信長も、仏敵の鬼の末裔であったからです。
北条鎌倉時代、1221年承久の乱の陰謀により、河内源氏武士の支配から解放された漢訳仏教組織は、西国の寺社領を拡大するために、北条氏と朝廷の陰謀により壊滅された源氏武士団末裔を部落に押し込め、寺社の奴隷である犬神人としていたのです。
その西国での賎民部落の中心として、平安仏教の比叡山延暦寺が支配した清水坂部落と、奈良仏教の興福寺が支配した奈良坂部落があったのです。この二つの部落は、京における仏教ビジネスの利権を廻り、度々戦争を繰り返していたのです。その寺同士による戦争の主役は賎民で、賎民の犬神人と言えども、以前は源氏武士末裔であったので、その戦闘力は、農耕民を凌いでいたのです。
豊臣秀吉が、古代の「秦王国」末裔、上町台地の大坂の住民を、不可触賎民の穢多に貶めた理由は二つあります。
そのひとつは、その大坂の住民の戦闘力だったのです。それは、イエズス会が企む東洋一の国際商業都市大坂の支配権争奪のための石山合戦での、一向宗(浄土真宗)と、イエズス会傀儡軍の織田信長軍団との十年戦争を、羽柴秀吉(豊臣秀吉の前名)が体験していたからです。
その一向宗の戦闘部隊には、源氏武士の流れを引き継いだ穢多軍団がいたことにより、イエズス会から提供された最新式銃で武装した織田信長軍団の攻撃をかわせたのです。それは、穢多とは秦氏の末裔であったので、巨大古墳築造の飛鳥時代から伝承されていた古代エジプトの石切・土木建築技術による深堀と、石材の防御壁により、織田信長軍団による最新銃の攻撃を十年間も防ぐことができたのです。この秦氏末裔の穢多の組織的戦闘技術を、豊臣秀吉は恐れたのです。
そして、もうひとつの理由は、羽柴秀吉から改姓した、「豊臣」にあったのです。
イエズス会の傭兵として出世した羽柴秀吉は、本能寺での織田信長の爆殺後、イエズス会の衰えを確認すると、南九州から京への火薬の密貿易で勢力を盛り返した藤原氏(近衛家)の養子となり、一時藤原姓を名乗ったのです。しかし、何故か、豊臣姓に替えていたのです。それは、何故でしょうか。
羽柴秀吉が、イエズス会の影響下にあった、1583年大坂城を修築し、大坂に城下町を建設する時、その一等地にイエズス会の教会建設の許可を与えていたのです。このことに対して、イエズス会のスパイであるフロイスは、「かって大坂の街が、日本中で極悪の宗派のひとつであ一向宗の本山であったように、今や主なるデウスはこの街をキリストの福音の伝播のために、それにまったくふさわしい中心地として改造することを嘉し給うたかのようである」と、「フロイス日本史」に記していたのです。しかし、権力志向の羽柴秀吉は、イエズス会から藤原氏に寝返るのです。
出自不詳の羽柴秀吉は、権力欲が人一倍強かったようで、日本列島の歴史を「日本書紀」で改竄して君臨していた藤原氏の姓に飽き足らなかったのです。そこで、藤原氏の上をいく姓を見つけたのです。それが、「豊臣」姓です。「豊臣」とは、「豊国」の臣(配下)と言う意味です。では、北九州にあった「豊国」とは、歴史上どのような国であったのでしょうか。
「豊国」は、630年唐帝国が、北東アジアを支配していた騎馬民族の東突厥帝国を滅ぼした後、645年東突厥帝国のコロニーである飛鳥ヤマトの王国を滅ぼした唐軍により、日本列島を支配するためのテクノロジーである律令制度が施行される以前の、北九州の宇佐八幡のあった処の国のことです。
その唐進駐軍が渡来する前、つまり、「日本書紀」を創作した藤原氏が、藤原氏でなかった時代の「豊国」の臣下であれば、歴史的にも、階級的にも藤原氏より上位である理屈です。そこで、羽柴秀吉は、豊臣姓を発明し、豊臣秀吉と名乗ったわけです。
では、その宇佐八幡のある「豊国」とは、史実としては、どのような国だったのでしょうか。その謎を解くヒントは、宇佐八幡の「宇佐」(ウサ)にあるのです。その「宇佐」とは、漢字二文字は、オリエント文化の飛鳥時代を隠蔽するために、713年以降に発明された表記であるので、宇佐の二文字地名は、713年以降に発明されたものであることが分かるのです。では、「宇佐」の以前は、何と呼ばれていたのでしょうか。
713年以降、唐進駐軍にコントロールされた奈良朝廷により、各国の豪族に、「風土記」の編纂を命じ、その地の歴史を漢字二文字の人名・地名で表記させたのは、それ以前の人名・地名を抹殺、或いは、隠蔽するためだったのです。ですから、713年以前の歴史を知るには、二文字の人名・地名を否定する必要があるのです。では、どのようにして古代史を復元するかといえば、そのひとつの方法は、二文字漢字をカタカナに表記しなおし、そのカタカナの人名・地名を分解し、整理することです。
その「宇佐」を分解すると、「ウ」と「サ」です。その「サ」に対応するのは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅です。
古代新羅の国号は、斯(サ)と言われていたのです。そして、「斯」の日本語発音は「ソ」です。「ソ」「サ」の付く二文字漢字の地名を九州で調べると、「宇佐」の他に「阿蘇」が見つかります。その阿蘇山から産出された石材は、四世紀から出現した、河内平野の巨大古墳の石棺に使われていたのです。
では、八世紀以前の北九州を描写した史料はないかと調べると、「随書」に行き着くのです。「随書」には、大業四年(608年)の記事として、

文林郎裴清(日本史料では裴世清)を倭国に遣わすに、百済を渡り、行きて竹島に至る。一支国に至る。また、竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。その人華夏と同じ。以て夷州となすも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より東みな倭に付庸す。

この「隋書」の文章からも分かるように、「日本書紀」には四世紀から万世一系の天皇家が統治する「大和朝廷」が存在していたと記述していますが、七世紀の日本列島には、「倭国」はあっても、「大和朝廷」などなかったのです。ましてや、「日本国」もなかったのです。そして、七世紀の飛鳥ヤマトには、「日本書紀」が述べているように女帝推古天皇も聖徳太子(厩戸皇子)もいなかったのです。
七世紀の飛鳥ヤマトに居たのは、遣隋使ソインコウ(ソ→斯→古代新羅。ギリシャ・ローマ文化の「新羅のインコウ」)と倭国男王アマタリヒコ(アマ→天→天子・テングリ→「騎馬民族の王タリヒコ」)であったのです。
では、その七世紀の日本列島の九州にあった「豊国」と云われる国は、一支国とは壱岐島のことで、その次の竹斯国は筑紫国であるので、その東が「隋書」で述べられている「秦王国」であるならば、日本史で言うところの「豊国」と「秦王国」とは地理的に一致するわけです。つまり、「豊国」とは、奈良王朝により、ギリシャ・ローマ文化の「秦王国」を抹殺・隠蔽するために発明された国名であったのです。
秦王国(豊国)が、蘇我王国(大和朝廷)よりも歴史的に古いことは、神護景雲3年(769年)の「道鏡事件」で、和気清麻呂が、藤原氏の歴史では皇室の祖神を祀っていたと云われる「伊勢神宮」ではなく、北九州の秦王国にあった「宇佐八幡」へ、神託を受けに行ったことでも証明できます。
もしも、伊勢神宮が、日本古来の皇室の祖神を祀っていたのならば、何故、朝廷の命により、伊勢神宮よりも遥かに遠い、北九州の宇佐八幡まで神託を受けに行ったのでしょうか。それは、769年時点では、685年に新羅系天武天皇が、道教思想により建立した「観」を、藤原氏が徹底的に破壊し、その跡に伊勢神宮を新設したにもかかわらず、天武天皇の、牡牛を屠る犠牲により祭祀をおこなう道教の観の影響が、未だ消えていなかったからです。
そして、北九州の筑紫国には部族名の物部(物部とは、秦氏を抹殺・隠蔽するために、713年以降に発明された部族名。)が多く住み、そして、巨大古墳が築造される時期に、河内を中心に近畿ヤマトにも物部(秦氏)が多く住んでいたことは、「秦王国」の、北九州から近畿ヤマトへの移動が示唆されるのです。
その根拠として、その北九州の「豊国」、つまり「秦王国」であった処の戸籍を記した、大宝二年(702年)に編纂された正倉院文書の「豊前国戸籍」には、仲津郡(現在の行橋市付近)の丁里(村名)の人口404人のうち、秦部姓と勝(スグリ・古代新羅での村長)姓が、377人と記述されていたのです。
つまり、羽柴秀吉は、唐進駐軍に軍事支援された中臣軍(後の藤原氏)が、近畿地域を支配する以前の近畿地域は、「秦王国」(日本史では「豊国」)が支配していたことを、何らかの方法で知っていたのでしょう。
藤原氏の上を行く豊臣秀吉が、豊臣秀吉でいられるには、古代エジプトの唯一神・太陽神アトンを唯一神ヤハヴェと改竄し、導入したユダヤ教成立の秘密を知っているイスラエル民族を、ユダヤ民族が不可触賎民サマリア人としたように、「豊国」の秘密を知っている「秦王国」末裔を、藤原氏と豊臣秀吉は、歴史上抹殺しなければならなかったのです。そのために、藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉によるその手段が、河内を含む大坂を支配していた「秦王国」末裔を、人間交わりが出来ない異民族賎民のアウトカーストの「穢多」にしたわけです。
1591年関白豊臣秀吉は、その「秦王国」末裔である河内源氏武士の流れにある河内平野に暮していた、鎌倉時代に親鸞が宣伝した阿弥陀様(古代エジプトの太陽神アトン→アミ様)を信じた住民を、農耕民と分離するために、全国の戸口調査をおこない、「士農工商」の身分法を定めたのです。この豊臣秀吉による、日本刀(騎馬民族・突厥帝国軍の蕨手刀から改良した刀)と槍(ロンギヌスの槍)で武装した野武士と農耕民とを分離する身分法が、第三百済王朝の江戸時代に発明された、日本版カースト制度の「士農工商・穢多非人」の基礎となるわけです。
1614年大坂冬の陣、そして、翌年1615年大坂夏の陣で、秦氏末裔の高度土木技術を持った元武田騎馬軍団臣下の金山衆や河内源氏武士の流れにある一向宗敗残兵に支援された徳川家康は、宿敵豊臣家を滅亡させるのです。
その後、徳川家康は、豊臣秀吉により徳川家康を三河から穢れ地のエドへ移封したこと、騎馬民族の同族を穢多身分へ貶めたこと、そして、先祖秦氏の渡来元の朝鮮半島での蛮行の数々等に対して、豊臣秀吉を神として祀る墓を暴き、そして、その豊臣秀吉の遺骨を何処へと散逸させるのです。
しかし、第三百済王朝の江戸時代中期以降では、出自不明の豊臣秀吉の出自を創作した物語で、その幼名が日吉丸(ひよし→イルギ。百済系か?)と云われていたことからも分かるように、豊臣秀吉は第三百済王朝の江戸時代中期には庶民に人気があったのですが、朝鮮半島の韓民族から極悪人と評価されていた豊臣秀吉が、藤原氏が復活した明治維新により、中臣神道と共に復活し、豊臣秀吉は神となり、豊国神社に祀られているのです。
1616年源氏棟梁の徳川家康は、戦国末期に公家(北条鎌倉時代の「武士」を取り込んだ「サムライ」社会が「武家」と称したことに対して、京の亡命百済貴族を皇族としていたものが、藤原氏が皇族に取り込まれると、「公家」と称した。)と結託したイエズス会組織により爆殺された織田信長のように、歴史教科書ではテンプラの食べ過ぎとなっているようですが、毒殺されるのです。その暗殺グループの一員として考えられるのが、藤原氏の傀儡の、明智光秀の流れを継ぐ、お福(後の春日局)です。
1582年織田信長が、本能寺で爆殺された理由のひとつは、イエズス会の日本国渡来の第一の目的であった、日本国を支配するために、京を支配していた比叡山延暦寺と大坂を支配していた石山本願寺との、日本列島の商業経済を牛耳っていた漢訳仏教組織の壊滅で、イエズス会の目的が完遂していたからです。イエズス会の命令に従わない、我がままになった織田信長は、もはや用済みだったのです。
しかし、その仏教組織壊滅が完了し、商業権を仏教組織が握っていた市・座を開放し「楽市楽座」とした後、織田信長は、今まで軍事援助をしていたイエズス会の神を崇拝するどころか、安土城に「天主閣」を設け、織田信長自ら神となり、織田信長を崇拝・祀るように臣下に強いていたのです。
更に、織田信長は、イエズス会の日本国支配の目的を無視して、日本国王となるためとして、本能寺の変が起こった日には、京の正親町天皇を脅すために、明智光秀に命じて馬揃え(軍事パレード)を計画していたのです。
織田信長は、その軍事パレードの前祝いとして、鎌倉禅僧が中国からもたらした茶での博打・闘茶から、わびさびの茶道を発明したキリシタンの千利休(賎の利休→賎民の利休)に、本能寺での茶会運営を仕切らせていたのです。しかし、その茶会翌日の未明、明智光秀の軍事パレード隊が到着する寸前に、本能寺は爆発炎上していたのです。
元々、本能寺は、仏を祀る仏寺などではなく、日蓮が発明した法華宗の軍団が構築した、比叡山延暦寺軍団に対しての砦であったのです。しかし、比叡山延暦寺との戦いでの法華宗軍団の敗北後、藤原氏が改造した、藤原氏の南海交易ルートである、イエズス会の基地がある南インド→南九州坊津→種子島→雑賀→根来寺→本能寺で、ヨーロッパから銃・弾薬を密輸入し、それらを戦国大名達に売り捌くための、京のイエズス会の南蛮寺と地下で通じていた、武器・弾薬倉庫であったのです。
では、1616年徳川家康は、何故、毒殺されたのでしょうか。
徳川家康も、織田信長が正親町天皇を脅したのと同じように、亡命百済貴族の後水尾天皇に退位するように脅していたのです。それは、織田信長も徳川家康も、平安時代の簒奪王朝である百済系天皇家により、海洋民族と騎馬民族の先祖が、賎民として貶められていたからです。
もし、天皇家が万世一系であるならば、天皇とは、騎馬民族の天子(テングリ)から発明されたものであるわけですから、騎馬民族末裔を、屠者の意味の施陀羅から、穢れ多いの意味の「穢多」などの蔑称で、天皇家が中心となってイジメるはずはないのです。
しかし、実際に、百済系天皇家は、「施陀羅悪人なり」と唱える錬金術師空海が発明した密教でのインドのダキニ(鬼女)の呪文の仏教思想により、天皇家の祀りごとを第三百済王朝末期(江戸時代末期)までおこなっていたのです。
そして、江戸時代中期から、百済系の比叡山延暦寺が布教する「法華経」思想で、魚食・肉食する仏罰者として、騎馬民族・海洋民族末裔を「穢多」としてイジメていたのです。
天皇家が万世一系であるならば、何故、百済系桓武天皇から考明天皇まで、伊勢神宮に正式参拝をしていなかったのでしょう。それは、伊勢神宮の前身である「道教の観」(観→テラ→事務所謙祭祀場)は、母国百済を滅ぼした、騎馬民族の新羅系天武天皇が、685年に建立していたからです。(伊勢神宮は、八世紀の奈良時代に建立。)
奈良時代に、藤原氏が、「秦王国」の秦氏の神・太陽神ミトラを隠蔽するために、天照大神を発明して、その「道教の観」を徹底的に破壊した跡に、伊勢神宮(外宮)を建立したのです。では、その観で祀られていた秦氏の神は、何処へ行ってしまったのでしょう。それは、伊勢神宮の外宮近くで、「猿田彦の神」として祀られていたのです。
「猿田彦」とは、「日本書記」で前政権の氏族「太陽神の子孫秦氏」を、藤原氏が隠蔽し、そして、貶しめるためのトリック人物であったのです。「猿」と呼ばれるものを、「秦」に置き換えてみると、例えば「猿楽」→「秦楽」のように、河原者と云われた遊芸能民と言われたひと達が、藤原氏の奈良王朝に敗れた前政権の祭祀氏族末裔であったことが理解できるでしょう。
そのように、海洋民族・騎馬民族末裔を、漢訳仏教思想でイジメていた、百済系天皇家も、奈良・平安時代中期まで、唐進駐軍がもたらした人民を搾取するシステムである律令制度を利用して庶民を農奴として搾取していたものが、鎌倉・室町時代の武家時代を経ると完全に消滅してしまい、天皇家の家計を支える経済的基盤は少なくなっていたのです。
そこで、戦国時代の百済系天皇家は、天皇のお墨付きを、お金に替えていたのです。そのひとつが、漢訳仏教高僧が着る紫衣の認可権です。徳川家康の死後、1629年には、紫衣事件が起こるのですが、その天皇家を巻き込んだ騒動のキッカケを創ったのが、徳川家康であったのです。
騎馬民族末裔の徳川家康にとって、天皇が許可を与え、その紫衣を漢訳仏教の高僧が権威付けのために着衣することは、我慢ならなかったのです。それは、紫衣とは、元は、645年唐進駐軍と中臣軍に飛鳥王朝が敗れ、そして、唐から持ち込んだ漢訳仏教と道教・景教との宗教戦争に敗れた(この「漢訳仏教」と「道教・景教」との宗教戦争を、「日本書紀」では時代を前にずらし、「廃仏派の物部氏」と「崇仏派の蘇我氏」との「神仏戦争」として改竄した。)、「道教」の真人(最高級の道士)の着衣であったからです。
道教思想では、世界を統率する太一(北極星)を、その「北極星」を廻り侍る「北斗七星」である真人が世話をするわけです。その太一を世話する真人の着衣の紫衣を、「道教」を抹殺した漢訳仏教の高僧が権威付けのために、百済系天皇家に大金を払い許可を得て着衣することは、朝鮮学者から朱子学を学んでいた、騎馬民族末裔の徳川家康には、我慢がならなかったのです。
この天皇家とのイザコザの使者として、徳川家康は「お福」(後の春日局)を指名していたのです。何故、皇族への使者が、「お福」であったのかは、「お福」は、徳川家康が1582年の山崎の戦いで、イエズス会からの密命により明智一族を見殺しにした負い目があり、そして、織田信長の下手人にされた明智光秀の重臣の娘で、長く公家に養われていたので高い教養があったからです。
お福は、徳川将軍二代目秀忠の次男竹千代の乳母として、徳川家康に雇われたと云われていますが、そのお福の徳川家康に対する態度から推察すると、お福愛妾説の説得性があるのです。
そのお福の徳川家康に対する態度とは、孫の乳母に過ぎないお福が、将軍世継ぎ問題で、直接徳川家康を駿府まで訪ね、直訴しているのです。その結果、竹千代は、徳川将軍三代目家光となるわけです。
何故、お福がそのように徳川家康に接近できたかの背景には、比叡山の怪僧、天海の存在が示唆されるのです。その天海の影響のひとつとして、徳川三代将軍家光が、疱瘡に罹った時、春日局となっていたお福は、山王社と東照宮に詣でていたのです。その山王社と東照宮とは、天海と大いに関係があったのです。
山王社の神とは、百済系桓武天皇が支配した平安時代に、奈良を支配していた藤原氏の春日社に対抗するためと、そして、山背国(秦王国)の秦氏一族が比叡山で、牡牛を屠り祀っていた太陽神ミトラを、「魔多羅神」として隠蔽抹殺するために、中国山東半島の土着の神・シャンワンを、比叡山に導入した神なのです。
このシャンワン神は、山王(シャンワン→さんのう)→日枝(イルギ→ひえ)→日吉(イルギ→ひよし)へと変身して、その出自を抹殺・隠蔽するのですが、その源は、亡命百済移民の中国での神であったのです。
そして、日光東照宮は、1616年徳川家康が毒殺されると、翌年1617年徳川家康と秦氏末裔弾左衛門とが、湿地帯を開拓して開発したエドを怨霊から護るために、建立したのです。しかし、1624年比叡山の怪僧天海の指図で、その騎馬民族の徳川家と秦氏末裔の穢多頭弾左衛門のエドを護っていた質素な東照宮が、世良田部落へ移築され、そして、新たに金ぴかの日光東照宮陽明門が建立されるのです。その門は、騎馬民族の神である北極星を遮るように、真北に建てられていたのです。
このお福であった春日局の行動は、河内源氏武士の鎌倉幕府を乗っ取った、「サムライ」北条氏の尼将軍とダブルのです。
源氏棟梁三代を暗殺した百済系北条氏の「サムライ」が、源氏武士団を謀略により次々と謀殺したように、徳川二代目将軍秀忠が、1623年秀忠の次男と云われる家光に、徳川家康の遺言により、三代目将軍職を譲り、そして、1632年死去すると、三代目将軍家光は、徳川家康の戦国時代から関が原の戦までの忠臣の「武士」達に難癖を付けて、左遷或いはお家断絶で抹殺するのです。
徳川三代目将軍家光に没落させられた徳川家康の主な忠臣達とは、家康四天王の、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、そして、四天王四名を加えた十六神将の松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正らの末裔達です。
これらの「武士」の中には、石山合戦での敗残兵が多くいたのです。しかし、徳川家康は、その石山合戦の主役である浄土真宗が、藤原氏と深い関係にあったことを知っていたので、その浄土真宗の石山本願寺に散々利用された敗残兵達を配下として迎えたのです。
石山本願寺が、穢多として民族差別をされた秦氏末裔の軍事力と軍資金を、浄土真宗の組織固めのために利用したことは、1585年羽柴秀吉(後に豊臣秀吉と改名)が、石山本願寺軍団の紀伊の根来衆と雑賀衆を、キリシタン大名の高山右近と共に滅ぼし、更に、南九州の秦氏末裔島津氏をイエズス会九州地区の大友氏や有馬氏などのキリシタン大名の軍事力を借りて倒すと、全国を統一したイエズス会から藤原氏に寝返った羽柴秀吉の顔色を伺い、そのイエズス会軍団に最後まで抵抗していた石山本願寺の末社を、石山本願寺自らが「穢多寺」として貶めていたからです。戦国末期に、穢多寺は、奈良・平安仏教からだけではなく、浄土真宗からも生まれていたのです。
そもそも、石山本願寺が、穢多と貶めた騎馬民族末裔の秦氏を含めて生活に苦しむ者達と共に、太陽神の下に平等世界を築こうとの目的を持っていたならば、1580年藤原氏が仲介した正親町天皇による、イエズス会傀儡軍団の織田信長との和睦交渉を、石山本願寺は撥ね付けていたでしょう。
しかし、石山本願寺は、その和睦を拒否しなかったことにより、秦氏末裔と同族が多く暮す毛利軍団からの軍事物資が途絶えたことにより、石山本願寺軍団には厭世気分が蔓延したところを、織田信長軍の総攻撃を受けて壊滅するわけです。この石山本願寺壊滅の史実を隠蔽するために、九鬼海賊軍団の鉄鋼船の物語が創作されるわけです。科学的に考えても、木造船に鉄板を貼り付ければ、総重量が増え、船自体の運行を妨げるばかりか、バランスもとれないことは明白です。では、その九鬼海軍はどのような武器で、雑賀海軍や毛利海軍を壊滅したのでしょうか。それは、1576年イエズス会が大砲を持ち込んだからです。雑賀海軍と毛利海軍の多くの船は、その大砲により沈没していたのです。そして、その大砲の威力は、敵軍団の士気を大いに挫いたのです。
その大砲と共に傭兵軍団も渡来していたのです。その中に、十字軍のマルタ騎士団のロルテス(日本名山科勝成)がいたのです。ロルテスは、大砲の名手で、九州の多くの城は、彼が指揮する大砲隊により壊滅するわけです。
この権力に擦り寄る浄土真宗が、秦氏末裔達を民族平等思想でむかい入れていなかったことは、北条鎌倉時代の親鸞の布教で分かるのです。それは、たとえ話として、「親殺しはいけない。」と言うことを、「親殺しは、施陀羅と同じだ。」と述べていたのです。当時、施陀羅とは、穢多と同じ、肉食の騎馬民族を貶めるために創られた差別語であったのです。徳川家康は、朱子学を朝鮮学者から学んでいたため、それらの石山本願寺思想の本質、穢多の資金力と軍事力を利用した、をよく理解していたのです。
太陽神ミトラ教の「太陽の下では、どのような民族でも皆平等である。」の教えを、「阿弥陀様の教え」として改竄して、「南無阿弥陀仏・ナモーアミダボーの漢音語」(アミ様を信じます。)の呪文を唱える浄土真宗を発明した、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞は、百済系比叡山延暦寺と対峙していた藤原氏の指図により、高度土木技術・戦闘技術を持つ穢多の豊富な資金と優れた武闘力を利用するために、太陽神ミトラを祀る秦氏末裔の「源氏武士」末裔が多く住む、穢多部落を布教して歩いていたのです。
反騎馬民族で百済の血が流れる徳川三代目将軍家光は、お福の明智一族を「サムライ」とし、北条鎌倉時代に北条一族が鎌倉幕府の要職を占めたように、江戸幕府の要職に就け、「武士」の流れにある徳川家康の忠臣大名を遠い僻地に左遷し、そして、1635年参勤交代の制度を確立して、遠方の「武士」大名をイジメ抜くのです。
この徳川三代目将軍家光から、第三百済王朝が始まるのです。このことにより、徳川家康との繋がりが強かった穢多頭弾左衛門は、羽織袴の二本差しで、駕籠に乗り江戸城に登城していたのが、叶わなくなっていくのです。
1623年徳川三代目将軍となった家光は、洛中の浪人をエドから追放する一方、秦氏末裔の弾左衛門一族も、エド町中心地の日本橋や人形町の支配地から、多くの者は北関東へ、そして、弾左衛門の役人一族は、浅草寺裏の湿地帯の新町(シンチョウ→秦町。都市国家「秦王国」)に移封するのです。そして、その新町には堀を廻らされ、更に、無数の仏寺で囲まれてしまうのです。
そして、穢多頭弾左衛門配下のエドでの私設公安・治安警察組織(役座組織)を弱めるために、町人相互が監視する五人組制度を施行し、エドでの秦氏末裔の穢多勢力を排除していくわけです。そして、「源氏武士」末裔が参勤交代の制度でイジメられたように、母国百済を滅ぼした新羅から渡来した秦氏末裔も、江戸幕府の手先となった葬式仏教思想によりイジメられていくわけです。
このような源氏末裔や秦氏末裔の騎馬民族末裔がイジメられていくのは、三代目将軍家光の乳母の、山崎の合戦で明智光秀を見殺しにした騎馬民族末裔の徳川家康に怨みを持つ、春日局の意図があったことは言うまでもありません。
更に、春日局は、南九州の島津藩で棲息する藤原氏(近衛家)が仕切る儀式の影響力が、江戸幕府に介入できないようにするために、1618年大奥法度を定めて、「藤原の女」が奥(正妻・側室・その他の女が暮す処)へ入り込まないように整備し統括したのです。
その「藤原の女」を権力者に送り込む儀式とは、672年新羅系天武天皇が始めた一世一代の天皇交代の儀式である「大嘗祭」を、奈良時代の藤原氏が、大嘗祭儀式から、収穫祭としての新嘗祭を発明し、毎年行う収穫祭とし、その祝いの儀式として、若い娘が透けて見える天女の姿で舞うことです。
その新嘗祭でおこなう五節舞の儀式により、天皇や貴族の前でおこなうことにより、権力者へ「藤原の女」を提供するのです。そのことは、室町幕府を支配した源氏武士足利氏が、藤原氏の流れにある「日野の女」を代々の足利将軍の正妻・側室としたことが、藤原氏の陰謀(夷を以って、夷を制す。)を招き、その足利政権の崩壊を早めたことを、天海も春日局も知っていたのです。
1687年徳川五代目将軍綱吉の時代、秦氏末裔の穢多として貶められた者達を、更に民族差別を厳しくするために、1635年寺社奉行設置による行政の締め付けを下に、「生類憐れみの令」が数限りなく発令されたのです。
その背景は、五代目将軍綱吉の子息が夭折したのは、前世の悪業によるとの漢訳仏教思想を、五代目将軍綱吉が信じたために、殺生禁止を名目にこの「生類憐みの令」の法令を発したわけです。
この法令は、常識外で、犬を粗末にしただけで牢獄へ、或いは、死罪となったのです。この法令による被害者は、1709年綱吉が死去とともに即座に廃止され、牢獄から開放された者が、3800人とも云われています。
その被害を最も被ったのは、騎馬民族末裔です。それは、農耕民族と異なり、肉食し、更に、その死動物の後利用として、毛皮をなめし革として販売していたからです。この度重なり発令された「生類憐みの令」は、その裏には、第三百済王朝による、騎馬民族の生活権剥奪の意図もあったのです。
更に、武闘により敵を殺傷する秦氏末裔の「武士」も、その思想の被害にあうわけです。
「第二百済王朝」の北条鎌倉時代に、武闘禁止のために、纏められた武家諸法度の制度の下、1641年鎖国を完成させたことにより国内での戦がなくなってしまった「第三百済王朝」の時代になると、戦場で殺生を生業とする「武士」は、秘書謙護衛の「サムライ」により、俘囚の輩と蔑まされていくわけです。
秦氏末裔は、第一百済王朝の平安時代、第二百済王朝の鎌倉時代、そして、第三百済王朝の江戸時代に、賎民として貶められていたのです。それは、母国百済を滅ぼした新羅から渡来した秦氏への、亡命百済移民達の「怨」が原因のようです。
その殺生禁止の思想により、江戸幕府の「サムライ」組織からはじき出された「武士」が、野に追放され、「野ザムライ」ではなく、「野武士」となるわけです。この「野武士」が生き残るために、北条鎌倉時代に、秦氏の神を封印した神社での、秦氏が組織する同業者組合の「座」の権利を漢訳仏教組織から武力で護った「役座」と同じに、反体制派の「役座」としての用心棒となっていくわけです。
北条鎌倉時代に、河内源氏を先祖にもつ源氏棟梁源頼朝により庇護を受けていた、源頼朝と同族の秦氏末裔の技術集団は、北条氏により源氏棟梁三代が暗殺された後、六波羅探題を設置して北条政権により平地から追われ、流離いの漂泊民となっていくわけですが、元々ユーラシア大陸を遊牧していた民族末裔ですので、優秀なリーダの下で暮していく技術は持っていたのです。漂泊する騎馬民族の智慧で、各部族は優れたリーダを代議員の談合により選び出し、そのリーダの支配の下、各地を集団移動していたのです。
この代議員による談合により、リーダを選ぶ方法は、秦氏末裔の弾左衛門一族も同じです。弾左衛門とは、世襲名で、各地の優秀な若者が推挙され、談合により、穢多のリーダである弾左衛門が選ばれていたのです。
弾左衛門は、自らは「長吏頭」と名乗っていたのです。しかし、北条鎌倉時代より、騎馬民族を貶めるために「施陀羅」(不可触賎民チャンダラーの漢音語)から、穢れ多いの意味の「穢多」の差別語を発明しただけではなく、飛鳥時代に遣隋使のソインコウ(日本名小野妹子)が、隋帝国から「長吏」のソ(斯・古代新羅)のインコウと呼ばれていたほど、飛鳥時代では、「長吏」は、遣隋使を指名されるほどの位の高い役人の役職名であったものが、北条鎌倉時代には「長吏」は「穢多」と同意の差別語と改竄されていたのです。
このことは、平安時代では「キヨメ」とは怨霊から天皇を護るために、陸奥国蝦夷捕虜の「もののふ」が、武芸により魂鎮めをおこなう儀式であったものが、北条鎌倉時代には汚わいの清掃業務の「キヨメ」の差別語とされたことと同じです。
明治維新で終わる十三代弾左衛門は、初代集房、二代目集開、三代目集道、四代目集連、五代目集誓、六代目集村、七代目集因、八代目集益、九代目集林、十代目集和、十一代目集民、十二代目集司、そして、十三代目集保、となっていたのです。
北条鎌倉時代から、その各種技術部族集団としてまとまって行動していたものが、徳川三代目将軍家光からの第三百済王朝より、鎌倉時代より二十八番の職種として統率されていたものが、一銭職(髪結床)、石切(石工)、紺屋職の三職になってしまっていたのです。
そのような流れにあった秦氏末裔に、動物虐待(殺生禁止)の条例が発令され騎馬民族の勢力が弱まるのを車善七が確かめると、藤原氏や亡命百済貴族が漢訳仏教思想から発明した、異民族としての「穢多」と異なり、罪を犯した者がなる非人の頭である車善七が、穢多頭弾左衛門の支配下から逃れるために、江戸幕府に訴えるわけです。
そこで、六代目弾左衛門の集村(ためむら・1698年〜1758年)は、弾左衛門一族が、鎌倉時代から由緒のある部族であることを証明するために、幕府奉行に由緒書を提出するわけです。その由緒書とは、

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏
弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

それらの職種には、鎌倉時代のものではないものもあるわけですが、それらの特殊技術は、土地に縛られて生きる農耕民が習得したものではないことは明白です。
そのひとつに、石切があります。硬い石を切るには、鋼鉄工具がなければできることではないのです。その鋼鉄工具を造るには、製鉄技術がなければできません。製鉄をおこなうには、多量の砂鉄と炭、そして、タタラ製鉄技術者と、三日三晩フイゴを替わり番子する労働力がなければできません。
そのような高度技術と組織的労働力を必要とする石切が、生来からの漂泊民にできるはずはないのです。更に、古来から、あらゆる技術は限られた者だけに伝承された秘伝で、その技術は連綿と一族に引き継がれるため過去を遡れるのです。
石切の歴史は、紀元前二千五百年のピラミッドを建設した古代エジプトです。そして、タタラ鍛造製鉄の歴史は、紀元前十九世紀の古代ヒッタイト帝国です。そのヒッタイト帝国の製鉄技術は、紀元前九世紀の遊牧民族スキタイに伝承され、鉄製の轡が開発されたことにより、騎馬が可能になり、これにより騎馬民族スキタイが興るわけです。紀元前四世紀に、その騎馬民族スキタイがカスピ海沿岸から東進し、中央アジアのタタールに移住したことにより、その製鉄技術はタタラ製鉄と云われるわけです。(突厥語で、強い炎の意味「トトラ」から「タタラ」となったとの説がある。)
石切の技術は、騎馬民族と共に移動する製鉄民族との融合がなくしては出来ない技術であったのです。江戸時代、この石切の技術を、秦氏末裔の弾左衛門一族が保持していたことは、弾左衛門の先祖であるオリエントから渡来した秦氏は、漢訳仏教組織が発明した漂泊する非常民の賎民の物乞いする哀れな穢多などではなく、その古代エジプトやヒッタイト帝国からの国際的技術者が確認されるのです。
このオリエントから渡来の秦氏の国際的歴史を抹殺したいのは、672年に日本初の天皇となった新羅系天武天皇の王位を簒奪した、663年百済滅亡後、日本列島に亡命移民した桓武天皇家だけではなく、六世紀以降に、南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来した、ユダヤ教に類似した中臣神道を発明した、中臣族から変身した藤原氏も同感であったのです。
それは、四世紀の日本列島の河内を中心に近畿地域を統率したのは、「日本書紀」の神話物語で述べている高天原から降臨した天孫族の「大和朝廷」などではなく、ヒッタイト帝国の鉄鍛造技術で作った鋼鉄工具を使って、古代エジプトの高度土木技術により、巨大運河を造り、河内湾を干拓して、そこに古代エジプトの埋葬思想を取り込んだ石室・石棺を納める巨大古墳を築いた、秦氏の「秦王国」であったからです。
この古墳時代の河内の歴史を知られると、藤原氏も桓武天皇家もその出自がバレてしまい、六世紀から645年まで存在していた、幅十二mの直線道路を張り巡らして騎馬を疾走させていた、騎馬民族・突厥帝国のコロニーであった飛鳥ヤマト王国の、簒奪者一族であったことが分かってしまうからです。
そのためには、桓武天皇家も藤原氏も、オリエントから新羅(秦羅)を経由して渡来した秦氏の歴史を、抹殺しなければならなかったのです。
その手段が、第一百済王朝の平安時代で、秦氏末裔を、貴賎の差別思想で、「秦」を「猿」に改竄して、非常民の漂泊民族の河原者としたのです。しかし、その目的がかなわず、更に、第二百済王朝の北条鎌倉時代に、錬金術師空海の「施陀羅悪人ナリ」の呪文を基に、民族差別をするヒンズー教化した漢訳仏教思想の浄穢思想により、秦氏末裔を「施陀羅」、更に、穢れが多いの意味の「穢多」として、歴史上抹殺をしていたのです。
しかし、秦氏末裔の源氏武士の足利氏が、第二百済王朝の北条鎌倉幕府を武力で倒し、秦氏末裔の源氏武士足利氏が支配した室町時代となったため、秦氏末裔は、その潜在していた国際的技術を開花させ、能楽、造園や、華道、茶道などの「道」が付く伝統日本文化の祖となるわけです。
現在、伝統日本文化と云われるものの多くは、室町時代の秦氏末裔が、オリエントから引き継いだ技術により開発されたものであるのです。例えば、平安王朝の簒奪王権が「猿楽」と貶めた、「秦楽」から発展した「能楽」は、古代ギリシャの「仮面劇」の流れにあったのです。
秦氏のオリエント渡来ルートには、ギリシャ文化継承国のバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)があったのです。秦氏の渡来元のひとつと云われる、始皇帝の「秦」(紀元前221年〜紀元前206年)とは、バクトリアのコロニーだったのです。そのバクトリアの都市が、後に、紀元一世紀に大乗仏教が発明された、国際交易都市のガンダーラとなるわけです。
オリエントから渡来の秦氏末裔の文化花咲く室町時代も、藤原氏の流れにある「日野の女」が暗躍し、東軍の細川勝元と西軍の山名持豊との初戦をキッカケに、足利氏一族を巻き込んで、応仁の乱が、1467年に勃発するのです。この応仁の乱が、1477年に収束する時には、足利氏の勢力も弱まり、ここに下克上の群雄割拠の時代に突入するわけです。
この下克上のドサクサに紛れて、各地の土着豪族が武力により戦国大名にのし上がって行くわけです。その群雄割拠の下克上時代のひとりに、1491年伊豆を占拠した伊勢長氏は、北条早雲と名乗り、平家末裔とするのです。しかし、その出自は不明なのです。
この北条早雲もさることながら、戦国武将の多くも、その出自が不明なのです。戦国武将の代表とされる、織田信長、豊臣秀吉、そして、徳川家康もその例外ではありません。
織田信長の、信長←信秀←信定の三代先は不明です。そして、祖父の信定の墓は、垣外(カイト・古の捕虜収容所)にあったのです。豊臣秀吉にいたっては、その出生も生い立ちも全く不明なのです。そして、徳川家康は、栃木県日光ではなく、群馬県新田郡の世良田部落出身者と云われているのです。
徳川家康のウワサの根拠として、1617年徳川家康の遺骨は、久能山から日光に改葬され、質素な東照宮を建立するのですが、徳川三代目将軍家光の時代になると、その質素な東照宮は世良田に移築され、その跡に、金ピカの東照宮が新築されていたのです。
更に、生前の徳川家康は、弓馬の名人で、薬草に詳しく自ら薬草の調製も行っていたのです。更に、配下とした元武田軍団の金山衆(秦氏末裔の産鉄部族。忍者部族とも云われる。)と直接会話もしていたのです。
これらの徳川家康にまつわる事柄は、亡命百済移民の由緒ある「サムライ」の武家がおこなうことではなく、弓馬は幼少の頃からの訓練を必要とし、薬草学の神農様は反体制の役座が祀る神様であるように、薬草調剤は騎馬民族の得意とすることで、そして、産鉄民族は騎馬民族末裔の賎民と云われていたことから、徳川家康が幼少の頃、群馬県新田郡世良多部落で騎馬民族の生活を経験していたことを示唆します。
この戦国時代の歴史に不明な点が多くあるのは、天下を盗った豊臣秀吉が、自らの出自を隠蔽・脚色するために「信長公記」を総監修して創作していたからです。そして、戦国時代が終わり「サムライ」が支配した第三百済王朝の江戸時代に、系図屋が戦国大名の出自を隠蔽・脚色するために戦国大名や武将の系図を捏造していたからです。因みに、系図屋(ケイズヤ)とは、警察隠語で、「イカサマ師」のことです。
それらの「信長公記」や戦国武将達の系図を史料として、戦国時代の歴史が復元されたことにより、戦国時代の史実が隠蔽されてしまったのです。そのひとつに、日本列島の支配を企んだイエズス会の歴史があります。そして、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、そのイエズス会の影響下にあったのです。
この戦国時代のイエズス会の暗躍は、それらの戦国武将には知られたくないのと、イエズス会自体も隠蔽したい歴史であったのです。
イエズス会の日本列島における布教を、単なるローマ・キリスト教の布教であったとすると、戦国時代の歴史を見誤ることになるかもしれません。それは、イエズス会の後ろ盾であるポルトガル王室は、1494年イスパニア王国とトルデシリャス条約を結び、中近東から東南アジア、そして、日本列島までの、ポルトガル領の東インド全域において、排他的な航海領域を設定し、それらの領土全てに対する「征服、航海、貿易、布教」を独占的におこなう権利を、手中にしていたのです。この当時、全世界は、ポルトガルとイスパニア王国の支配予定地であったのです。ポルトガルやイスパニア王国に、そのお墨付きを与えていたのが、民間治療者を魔女として焼き殺していた、自ら神となっていたローマ・キリスト教の法皇であったのです。
このような国際情勢において、ポルトガル王室をバックにする1534年創立のイエズス会は、1540年にローマ教皇の公認を得ていたのです。そのイエズス会が、南インドのマラバル沿岸を異教国征服のための拠点として、1543年種子島に、鉄砲と弾薬を携えて渡来するわけです。
イエズス会とは、無防備な僧侶だけの集団ではなく、国際交易商人もいれば傭兵もいる軍団組織で、聖書だけではなく、武器・弾薬も使って異教国を征服する宗教軍団だったのです。つまり、そのイエズス会とは、「イエスの軍団」、或いは、「イエスの戦闘部隊」という意味も内包していたのです。
イエズス会の異教国への侵略方法は、スポンサーに国際交易商人がいた大乗仏教と同じで、まず異教国の賎民の病気を癒し信頼を得て後、学校を設立し、寺を建て、シンパを募り、そのシンパをリーダとして布教地域を広げ、その後、国際交易商人がその学校や寺に寄宿して、現地人を雇い商売を始め、その雇い人をシンパとし、その後、軍事指導者が渡来することにより現地人軍団を組織し、その軍団により王権を武力で倒すことにより、その異教国はイエズス会に征服されてしまうのです。
しかし、イエズス会の誤算は、東洋一の国際交易都市大坂を実効支配していた秦氏末裔の一向宗軍団が存在していたことです。そのために、日本列島の侵略が十年も遅れてしまっていたのです。
そのイエズス会の侵略傭兵軍団の指導者として、織田信長、豊臣秀吉、そして、徳川家康がいたのです。しかし、それらの武将には信仰心がなかったため、高山右近のように、キリシタン大名とはならなかっただけです。
イエズス会の渡来が、1497年蓮如が、秦氏末裔が支配していた大坂に石山本願寺を築く前であったならば、日本史は今とは異なっていたことでしょう。それは、このイエズス会軍と浄土真宗石山本願寺軍との十年戦争は、穢多と蔑まされた秦氏末裔の同族の争いでもあったのです。
1467年応仁の乱が起こると、それに乗じて、1472年京では盗賊達が蜂起し、近江坂本では馬借一揆が起こるのです。その盗賊や馬借のなかには、北条鎌倉時代に六波羅探題の「サムライ」による源氏残党狩りから逃れるために、「源氏武士」身分を隠すために、そして、生活の糧を得るために、源氏武士から身を転じた者も多くいたのです。
「サムライ」の北条鎌倉政権より、武士身分から賎民へと貶められた馬借の組織的戦闘能力と豊富な財力に目を付けたのが、藤原氏の流れにある親鸞末裔の蓮如だったのです。その弱小浄土真宗一派の蓮如は、北条鎌倉時代に親鸞が唱えた阿弥陀様の教え(古代エジプトの太陽神アトンの教え)を馬借達に広めることに成功すると、秦氏の同業者組合の「座」の商業ネットワークで蓄財した、その秦氏末裔の豊富な財力により、1479年山科本願寺を創立するのです。
馬借一族を浄土真宗蓮如一派に取り込むことにより、穢多と蔑まされた秦氏末裔の、騎馬による組織的軍事力と資金力を蓮如子息の宗主顕如は手中にすることができたのです。そして、秦氏末裔は、民族平等の世界を築くために、賎民を苦しめる王権に反抗せよと檄文を飛ばしていたものが、正親町天皇のひとことで石山合戦の和睦を織田信長として、権力に擦り寄る、顕如に騙されたことに気づくことなく、石山合戦敗戦まで、戦闘的軍事力と豊富な資金力を注ぐわけです。その敗戦後、豊臣秀吉の時代になると、浄土真宗石山本願寺は、最後までイエズス会の羽柴秀吉軍団に反抗していた浄土真宗末寺を、系列から外し穢多寺として貶めていくわけです。
馬借は、秦氏末裔の騎馬民族であったので、奈良・平安仏教の血・肉食禁忌思想により、肉食する穢れ者の穢多として民族差別を受けていたのです。その奈良・平安仏教に敵対する浄土真宗は、秦氏末裔の馬借一族にとっては、敵ではなく、味方に映ったわけです。
更に、妻帯・肉食する破戒僧親鸞の説く、「悪人でも浄土へ行ける」等の甘言や、「阿弥陀様の教え」は、秦氏が祀るオリエントからの太陽神ミトラ思想の「太陽の下ではどのような民族でも平等。」と同じ思想であるので、親鸞末裔の蓮如の布教に同調してしまったわけです。
劃して、秦氏末裔の古墳時代からの支配地の大坂(秦王国)に、1497年蓮如は、石山本願寺を築くことができるわけです。この石山本願寺は、古代エジプト語でワタ・ナーベ(波が打ち寄せる・小山=岬)と言われた上町台地に位置したため、更に、深い堀と石垣により護られていたために、日本一の難攻不落の城塞となっていたのです。
1571年織田信長の攻撃により数日で陥落した比叡山延暦寺の要塞と異なり、イエズス会より提供された、最新式銃で装備された織田信長軍団の、1570年から1580年の十年間に渡る攻撃に耐えた石山本願寺の要塞化を可能にしたのは、秦氏末裔には、古代エジプトの高度土木技術と石切技術があったからです。
その要塞化した石山本願寺に対峙して、比叡山延暦寺は比叡山一帯を要塞化して、京の支配を強固にしていたのです。そのように、東洋一の国際商業都市大坂を支配する石山本願寺軍団と、日本の権力の中枢である京を支配する延暦寺軍団とにより、領土拡大を目指していた戦国大名も、イエズス会が銃と大砲を日本列島に持ち込むまでは、この二大宗教組織が支配した近畿地域を侵略することができなかったのです。
京の商人を信者に取り込んだ、現世利益の法華経軍団も、京の軍事拠点とした本能寺を築いたのですが、比叡山延暦寺軍団の総攻撃により、法華経の軍事基地であった本能寺は陥落していたのです。
その日本列島では戦国時代に突入していた頃、1299年元帝国から神聖ローマ帝国に帰還して著したマルコポーロによる「東方見聞録」の情報は、世界をイスパニア王国と二分して支配することを目論むポルトガル王室を刺激して、黄金の国ジパングの侵略を目論んでいたのです。そのポルトガル王室の日本国侵略の手先となったのが、イスパニア王国の托鉢修道会と対峙していた、イエズス会なのです。
1549年ザビエルの日本国開教以降、1570年までに約三万人が改宗していたのです。それに伴い、九州から畿内までの各地に40ほどの教会を設立していたのです。そして、1579年には10万人のキリスト信者が誕生していたのです。そして、在日イエズス会員も55人を数えていたのです。
そして、1582年イエズス会と藤原氏の陰謀とによる本能寺での織田信長爆殺後、下手人にされた明智光秀軍団を山崎の戦いで壊滅して、イエズス会傀儡軍団の支配者を命ぜられた羽柴秀吉が、イエズス会のキリシタン大名の高山右近軍団と九州イエズス会軍団を利用して、1587年藤原氏が生息する南九州を支配していた秦氏末裔の島津氏を倒すと、1589年に宣教師追放令を発布した時には、在日イエズス会員は111人となっていたのです。
そして、1584年織田信長後の支配権を廻り、小牧・長久手の戦いで徳川家康軍団に破れた羽柴秀吉が、1585年関白太政大臣となり天下を盗り、イエズス会から藤原氏に寝返ると、1590年宿敵である騎馬民族末裔の徳川家康を関東の湿地帯の穢れ地に移封し、更に、石山合戦で最後まで抵抗していた大坂の秦氏末裔を湿地帯に追いやり、1591年「士農工商」の身分法を定め、その秦氏末裔の村を穢多村として民族差別をするわけです。
何故、そのようなヨーロッパの遠方よりの異教キリスト教が短期間に、奈良時代より漢訳仏教組織が思想支配していた日本国で広まったのでしょうか。その謎解きのヒントが、大曲藤内の「大曲記」にあります。
その書には、「南蛮よりきりしたん宗とてめつらしき仏法僧わたりけり、かの宗ていに成るほとの者には過分の珎物をとらする間しさいもしらん物ハ皆よくにちうして成物等おおし。」、とあるのです。
そのポルトガルの国際貿易船のナウ船がもたらす南蛮の珎物とは、絹織物、陶器、砂糖、麝香、白檀などの贅沢品や、鉛、硝石、銃などの軍需品であったのです。それらの品々は、キリスト教に入信した者達に分け与えられていたのです。そして、それらのイエズス会からの贈り物は、国内では高く売れたのです。つまり、大曲藤内は、キリスト教への入信は、信心よりも物心であった、と述べていたのです。
その根拠として、イエズス会は、日本列島侵略のために三地区に拠点を設けるわけです。それらは、肥前の下地区、豊後の豊後地区、そして、近畿の都地区です。
その都地区を除いた二地区は、経済的にも軍事的にも隣国大名に圧迫を受けていたのです。
下地区の支配者大村純忠の軍事的庇護を求めたイエズス会は、肥前・肥後を支配していた龍造寺隆信の軍事力に、太刀打ちできない大村純忠を見たイエズス会は、銃・弾薬を供給することで、かろうじて龍造寺隆信軍団を凌いでいたのです。
この大村純忠が支配する長崎を、ナウ船の交易港とするために、そして、龍造寺隆信軍団からの攻撃を防ぐために、軍事要塞化することになるのです。そして、長崎住民に火縄銃を与え、訓練し、長崎住民の兵士化をおこなうのです。更に、長崎の港を護るために、町を要塞化するだけではなく、塹壕を堀り、街を一重、二重の柵を設け、山の砦には数門の大砲を設置していたのです。そして、港の防御のため、大砲、弾薬、三百名の守備隊が乗船するフスタ船を、長崎の港に浮かべていたのです。
そして、天皇が在住する都地区を支配するために、その中継基地として、大友義鎮が支配する豊後に拠点を設けるわけです。この豊後と豊前とを合わせると、古墳時代に「秦王国」があった処であるのです。この豊後地区は、最もキリスト教思想を理解できた地区で、イエズス会は、この臼杵に修練院と、高等教育機関のコレジオを開設していたのです。
何故、豊後地区がキリスト教思想を理解できたかは、それは、12月25日のクリスマス(冬至のミトラ神再生日)、赤葡萄酒とタネナシパンの儀式(屠られた牡牛の血と生肉の儀式)、十字架(太陽神の光のシンボル・マルタクロス)、父と子と精霊の三位一体(太陽神ミトラの日の出・天中・日没)などのキリスト教の教義・儀式の多くは、ユダヤ教ヨシュア派からローマ・キリスト教に変身した時、ローマ帝国軍の軍神として祀られていたミトラ神の教義・儀式を導入していたからです。つまり、ローマ・キリスト教の母は、太陽神のミトラ教であったのです。
そして、そのローマ帝国のミトラ教は、392年ローマ帝国の国教となったキリスト教に抹殺されるのを避けるために、ミトラ教を信じるローマ帝国傭兵軍と共に東に逃れ、遥か、朝鮮半島を経由して、六世紀の日本列島に、新羅花郎騎士(「花」とは「ミトラ」の借字)として渡来するわけです。
そのローマ騎士道を引き継いだ新羅花郎騎士道が、九州秦王国で土着し、飛鳥ヤマトの軍族となるのですが、645年唐進駐軍と中臣族に敗れ、陸奥国に逃避するが、801年追撃する唐進駐軍と坂上田村麻呂の騙しに敗れ、蝦夷捕虜として「もののふ」の武芸者となり魂鎮めの儀式をおこなっていたのが、939年の天慶の乱の反乱軍を武力で鎮圧したことにより、王権より「武士」と認められ、日本武士道として変身するわけです。
ミトラ教の各国への流れは、紀元前14世紀のヒッタイト帝国→紀元前14世紀古代エジプトのイクナトン(アメンホテプ4世)の宗教改革で唯一神・太陽神アトンに変身(紀元一世紀のガンダーラで、太陽神アトンは阿弥陀に変身)→紀元前932年イスラエル王国で太陽神バアルに変身→紀元前722年イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされる→イスラエル十部族がアッシリア帝国に消える→紀元前六世紀ペルシャ帝国でミトラ神現れる→紀元前250年ギリシャ文化国バクトリア興る→紀元前221年バクトリアのコロニー「秦」興る→紀元前140年バクトリアを滅ぼし、ミトラ神を国教とする大月氏国興る→紀元一世紀大月氏国敗れクシャナ朝興る。この国際交易都市ガンダーラで、マタイ福音書と法華経に共通する「たとえ話の原著」であるギリシャ語の宗教物語が著される→紀元356年ナムル王により、ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)興る→紀元608年隋使が北九州で「秦王国」の存在を隋帝に報告、となるわけです。
しかし、720年藤原氏が創作した「日本書紀」では、飛鳥ヤマトのオリエント文化を、仏教文化として改竄するために、552年に弥勒菩薩(ミトラ神)が、飛鳥大和に伝来し、厩戸皇子(後に聖徳太子に改竄)が秦河勝に命じて、仏像安置のために広隆寺を建立した、とのウソ物語を記述しているのです。史実は、秦氏が、比叡山で祀っていたのは、仏様ではなく、太陽神のミトラ神(平安王朝はミトラ神を魔多羅に改竄)であったのです。
そのように、太陽神のミトラ神は、紀元前から世界各国を廻り、各地の土着宗教に多大な影響を与えていたのです。
そして、キリスト教が理解された豊後とは、古墳時代に、太陽の化身牡牛を屠り、太陽神ミトラを祀る秦氏の「秦王国」があった処だったのです。
イエズス会は、戦国時代の日本列島の歴史をよく調べていたようです。それは、ヴァリニャーノの「東インド巡察記」には、

その島の中央には日本全土で最も重要な都市があり、日本全体の支配者であった国王が居を定めている。この都市はミヤコと呼ばれている。この国王は、かつて、日本全土の唯一にして真の王であり、上述の諸国に自分の総督たちを置いていた。ところが今や、国王は日本全土に一つとして自らの領国を持ってはいない。その理由は、国王の総督たちが謀叛を起こし、その誰もが自分のために手に入れられるものは悉く手に入れてしまったからである。国王には、一切のものの上に立つ威厳と優越性、それも現実的なものというよりはむしろ形だけのものしか残らなかった。

と、平安時代に唐進駐軍の軍事援助を受けて、律令制度により日本国に君臨していた百済系桓武天皇家が、応仁の乱以降には没落していたことを、正確に記述していたからです。
戦国時代の日本国の実情を把握していたイエズス会は、キリスト教布教の保護を受けるために、実質的に日本列島を支配できる王を調べ上げるわけです。それが、長崎の大村純忠であり、豊後の大友義鎮であったのです。しかし、それらの両大名は、天下を盗るような人物ではなかったのです。そこで、イエズス会は、日本を支配できる人物を新たに探すわけです。
ここでひとつの疑問が起こるのです。それは、何故、イエズス会のザビエルを乗せたポルトガルの貿易船のナウ船が、1549年鹿児島に渡来し、キリスト教を伝道していたのか、と言うことです。そして、その鹿児島が、何故、長崎が軍事要塞化されたように、イエズス会の日本国侵略の基地とはならなかったのか、と言うことです。
南九州は、南方から渡来するには、南海から北上する黒潮が通過する地域なので、ナウ船が交易をおこなうには、絶好の地であるのです。それは、古墳時代に、南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来していた中臣族(藤原氏の祖)が証明しています。
藤原氏は、河内源氏武士の源頼朝の鎌倉統治時代に、南九州の藤原氏の私有地である島津荘を取り上げられ、秦氏末裔惟宗氏が島津氏と変身し支配していたのですが、実質は藤原氏が奈良時代から江戸時代末期まで、その黒潮のベルトコンベアを利用して、南インドを経由したアラブの製品や香木・香辛料を輸入し、そして、日本列島から金・銀・水銀・銅・真珠などを輸出して、密貿易を続けていたのです。
イエズス会と藤原氏との関係は、謎に満ちているのですが、それを解明する史料が皆無なのです。その史料が皆無なのは、ザビエルの書簡から窺がえます。その書簡には、

「そちらにいるすべての神父が挙げている成果を数えあげて、詳しく書いた手紙を送ること。その手紙には、善い模範になるような内容だけを書いて、善い模範にならないようなことは書かないように注意すること。イグナチオ神父とシモン・ロドリゲス神父に書く手紙は、たくさんの人たちが読むことを考慮に入れて、善い模範にならないことは決して書かないように。」

、とあるからです。ザビエルは、不都合な事は、手紙に残してはいなかったのです。
そこで、藤原氏とイエズス会との接点になる事跡を調べると、イエズス会は、何故、山奥の奈良の宇陀と、島根の石見に教会を建設していたのか、ということです。その二地区の共通点は、銀山があることです。
水銀・銀山の開発は、平安初期に藤原氏の援助で遣唐使船で唐に渡った、錬金術師空海が浮かびます。空海は、表の顔は真言密教の僧侶ですが、裏の顔は日本全国の深山に足跡を残しているように鉱脈探索をおこない、水銀薬を創薬する錬金術師であったのです。イエズス会も藤原氏も、銀山で繋がるのです。
そして、不思議なのは、織田信長が都を支配すると、1569年イエズス会の布教を許すと同時に、布教基地としての南蛮寺の都での建設を許可するのです。更に不思議なのは、その南蛮寺から約二百m先の、藤原氏が改築した本能寺とは、地下道で繋がっていたのです。
そして、天下人の織田信長が、1571年比叡山延暦寺軍を壊滅し、更に、1580年には石山本願寺軍を壊滅させ、日本列島には仏教軍団が存在しなくなると、その二年後の1582年織田信長は、本能寺で爆殺されているのです。
これらの状況証拠を基に戦国時代を推測すると、織田信長と徳川家康とは、藤原氏とイエズス会の捨て駒だったのではないか、と思えるのです。
増長した織田信長と異なり、藤原氏の実態をよく知っていた徳川家康には金山衆などの忍者部隊が側近として活躍していたため、イエズス会と藤原氏による陰謀から逃れられたのは、騎馬民族末裔の徳川家康の情報ネットワークを甘く見ていたからです。
徳川家康は、織田信長が本能寺で爆殺された日に、キリシタンが多く住む堺で遊興を演じていたのです。徳川家康は、忍者の急報により織田信長の爆殺を知ると直ぐに堺を脱出し、数人の手勢で昼夜伊賀越えをすることで、三河に逃げ延びていたのです。
後日、1590年関白豊臣秀吉が、徳川家康を関東の湿地帯に移封した翌年、1591年関白豊臣秀吉より、千利休が切腹を命ぜられたのは、本能寺での茶会後の織田信長爆殺の陰謀に加担していたこと、そして、徳川家康を堺で暗殺できなかったことが原因と伝わるのは、堺がイエズス会の支配下にあり、千利休がキリシタンであったからです。つまり、千利休は、藤原氏とイエズス会による日本征服陰謀の口封じに切腹を命じられていたのです。
織田信長と徳川家康の人物背景を知る手掛かりとなるのは、天下人となった時の、賎民に対する態度です。
アラブ渡来の海洋民族・平家末裔の織田信長は、1568年足利義昭を奉じて上洛すると、王権により汚物清掃業務などの「キヨメ」を押し付けられていた余部(海部・海洋民族末裔)を、「余部をイジメる者は織田信長に対する謀叛とする。」と宣言し、配下に召抱えるのです。織田信長の祖父の墓は、賎民部落と云われた垣外(カイト)にあったのです。
騎馬民族末裔の徳川家康は、1615年大坂夏の陣で豊臣軍団を壊滅すると、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉の賎民政策により、穢多村に貶められた渡辺村を役人村に引き上げ、大坂の警察業務に就けるのです。徳川家康の出生地は、賎民部落と云われる世良田であったのです。
戦国時代の中心武将の織田信長や徳川家康の背景を知ると、藤原氏(島津氏を支配する近衛家)とイエズス会による陰謀が見えてくるのです。それは、藤原氏得意の戦術、「夷を以って、夷を制す。」です。
この場合の、「攻撃する夷」とは、賎民頭の織田信長と徳川家康で、「抹殺される夷」とは、百済系桓武天皇家を仏教思想で支援し、京の経済を支配している比叡山延暦寺軍団と、石山本願寺がある大坂を、実効支配している穢多として貶めた秦氏末裔の野武士軍団です。
その藤原氏が抹殺対象とする「夷」を壊滅するための計画を、ポルトガル商人とイエズス会がおこなっていたのです。黄金国ジパング(実際に、戦国時代の石見銀山は世界需要の三分の一を産出していた。)征服を企てるボルトガル王室が軍事援助するイエズス会が、キリストの教えだけを布教する唯の組織ではないことは、次の史料から窺がえます。その史料とは、

1585年の本国ポルトガル(1580年ポルトガル王国は、イスパニア王国と同君連合をしていた。)に宛てた書簡で、「兵士、弾薬、大砲、兵士のために必要な食糧、および一二年分の食糧購入用の金銭がじゅうぶんに備わったフラガータ船三四艘、当地日本に派遣してもらいたい。」、更に、1587年豊臣秀吉の宣教師追放に対しての第二回日本イエズス会全体協議会で、「要塞建築を引き受けたり、イエズス会が使うためであれ、それを用いて戦時にキリスト教徒の領土を救済するためであれ、大砲、弾薬、銃、諸他の武器、戦争資材を有したり、キリスト教徒の領主のためにそれらを調達することを禁じる。」、とイエズス会による軍事活動支援を禁じていたのです。

1546年渡来のザビエルは、書簡に不都合なことは記述していなかったので、伝道地でのザビエルの軍事行動を裏付ける史料は皆無ですが、イエズス会による軍事行動・軍事援助の禁止文書があることは、1587年までは、それらの軍事行動がおこなわれたことを示唆します。
何故、戦国時代を統一した武将が、尾張・三河から排出されたのかは、そのイエズス会の書簡から説明できます。それは、尾張・三河には、伊勢湾・三河湾があるからです。戦争に勝利するには、優れた戦略を持つ武将の他に、多数の兵士、無数の弾薬、多量の食糧の確保が絶対必要条件であるのです。それらを定期的に供給するには、船の輸送は最適だったのです。
1575年三河長篠の戦で、織田信長軍は、日本で始めての鉄砲隊により、武田勝頼軍団を敗退させるのです。この長篠の戦は、日本列島の戦争史を百八十度変えてしまったほど画期的な戦いであったのです。
長篠の戦以前では、「戦」は秋から春までの期間に多くおこなわれていたのです。それは、戦の主な原因は領土の境界争いだったのです。しかし、この当時、戦い専門の武人は、多くはいなかったのです。それは、律令制度や荘園制度による生産専門の農奴の使役による税制度が崩壊し、領主自ら使用人を雇い農業経営をしなければならなかったので、人手の足りない国では、武家の領主と言えども農業をおこなわなければならない立場にいたからです。ですから、兵隊を招集できないため、春から秋にかけての農繁期には、戦ができなかったのです。
しかし、織田信長は、一年中戦をおこなっていたのです。何故、農地も少なく、それに伴い、農奴としての兵隊の数も少ないのに、織田信長はどのようにして、軍団を組織していたのでしょうか。その農地が少ないため農奴も少ない織田信長の軍団組織の難問を解決したのが、傭兵軍です。織田信長の軍団は、所領の農奴を兵隊としたのではなく、他国の武人を傭兵とし、組織構成されていたのです。
尾張の弱小武将の織田信長は、アイデアマンのようで、傭兵を集める宣伝手段として、旗印に「永楽通寶」を書き込んでいたのです。つまり、織田信長は、金を持っているとのアピールです。
家紋や旗印は、日本古来のものではなく、鎌倉時代以降に発明されたものです。それは、戦場でのリクルートと働きを誇示するために、各氏族がそれぞれのデザインを考えて、武具や旗に印として書き込んでいたのです。その武人の家紋のデザインの素が、オリエントの動・植・昆虫、或いは、星であるのは、武人の先祖がオリエント渡来の民族であったからです。鎌倉時代から使い始められた百済系天皇家の十六弁菊紋に使われた菊も、その祖はオリエントであるのです。
1560年弱小武将の織田信長は、武士ではないので、名乗りを上げて堂々と戦うという武士の武闘作法を無視して、今川義元の大軍団の寝込みを襲い、ゲリラ戦術で敗退させるのです。これが世に言う、桶狭間の戦いです。
この駿河と三河の一部を支配していた今川義元が、織田信長に敗れたことにより、今川義元の配下であった徳川家康が、三河を占領して独立するわけです。
武士は、源氏の祖、「もののふ」の武芸者(芸とは神をたのしませる技)を先祖としていたので、太陽の下で、正々堂々と戦えば、戦死しても再生できる、と信じていたのです。それは、源氏武士の先祖は、再生を約束する太陽神ミトラを祀る民族であったからです。
死と再生を繰り返す太陽神ミトラは、ローマ帝国傭兵軍の軍神で、敵と味方の稜線に降臨し、戦士を見守っていて、もし、戦死しても正々堂々と戦った勇者であれば、再生を約束していたのです。ですから、輪廻転生思想により魂を尊び、死者を「ケガレ物」として燃やしてしまう(浄物→成仏)仏教思想は、武士にとっては許されない思想であったのです。
再生を願う武士は、太陽の下で戦うことを正義としていたのです。そのため、敵将が再生できないように、武士は敵将の首を落として、再生を阻止するのです。そして、その敵将の首を、自軍の大将に持参することにより、褒賞を受け取ることが出来たのです。
その敵将の首を落すための道具が、「日本刀」であったのです。日本刀が「武士の魂」と言われるのは、正々堂々と闘った敵将の首を落すための、実戦用の武器ではなく、「祭祀道具」であったからです。
その根拠として、鉄砲が伝来する以前の、武人の死傷者の傷の多くは、矢傷で、次が、槍傷で、刀傷は殆んど確認できなかったからです。日本刀が戦場の主武器と誤解されたのは、実戦が殆んどなくなった江戸時代での演劇の舞台演出の影響だったのです。
しかし、アラブから渡来の伊勢に勢力を張っていた平家末裔の織田信長は、源氏武士の末裔ではないので、奇襲攻撃のゲリラ戦を得意としていたのです。
イエズス会は、ザビエルが山口で入信させた琵琶法師ロレンソ了斎をスパイとして、大坂と京の仏教軍団を壊滅できる武将を物色させていたのです。この尾張の織田信長と、三河の徳川家康に目を付けたイエズス会は、琵琶法師ロレンソ了斎を介して接近するわけです。
そして、1562年織田信長と徳川家康とが、清洲同盟を結び、1567年美濃の齋藤氏を倒し、ここに尾張と美濃両国を織田信長が支配するのです。このことにより、イエズス会のナウ船は、待望の伊勢湾と三河湾に自由に来航できることになったのです。
伊勢は、奈良の宇陀、島根の石見と同じに、ポルトガル商人が支配下におきたい地域だったのです。それは、伊勢は、縄文時代より朱砂を産出するところで、朱砂が産出する地域には、水銀・銀が埋蔵されていると知っていたからです。その証拠に、京では、「京白粉」と言われた水銀薬は、江戸時代の伊勢では、「伊勢丹」として、ポルトガルの船員が持ち込んだ梅毒の治療薬として売られていたのです。
そして、伊勢は、平安時代にアラブから渡来の海洋民族が、京の賀茂川に隣接する葬送地ギオンを武力で支配し、藤原氏が支配する奈良興福寺の神輿を担いで強訴する僧兵軍団を蹴散らしたため、その武力を白河法皇に認められ、藤原氏の傭兵としての「源氏武士」に対抗して、白河法皇の私兵の「平家」(平正盛が平家の祖。「平氏」は賜姓で、「平家」とは別)となったように、近畿地域へ攻め上るには都合のよい土地でもあったのです。
イエズス会は、反仏教の織田信長をイエズス会軍団に取り込むために、使者団を遣わすのです。その中のひとりに、明智光秀がいたのです。明智光秀は、藤原氏が支配する興福寺で次期将軍として養育した、足利義昭将軍の京への護衛を願い出たのです。
それに前後して、イエズス会は、都地区では、琵琶法師ロレンソ了斎の働きによりキリシタン大名を多く輩出していたのです。そのひとりに、ポルトガル商人が目指す銀山がある大和国宇陀郡の沢城主の高山友照(自称飛騨守)がいたのです。その息子が高山彦五郎です。高山彦五郎は、父の影響を受けて、イエズス会に入会し、ホーリーネームをジュスト(正義の人)とし、キリスト教教会を建設して、高山右近を名乗ったのです。その高山右近の主が、明智光秀であり、更に、茶道の師匠が、千利休であったのです。
明智光秀も千利休も、イエズス会と藤原氏による、本能寺での織田信長爆殺ネットワークに繋がっていたのです。
山口でキリスト教に入信し、イエズス会員となった琵琶法師ロレンソ了斎は、イエズス会軍団を組織するために、近畿一帯の山奥を分け入っていたのです。しかし、そこで疑問が涌くのです。それは、何故、盲目の琵琶法師ロレンソ了斎が、広域の山奥深く分け入れたのでしょうか。
それは、琵琶法師などの遊芸者は、秦氏末裔が仕切る同業者組合の「座」に属していたからです。座は、全国の神社をネットワーク拠点として、情報を共有していたのです。
遊芸者の歴史は、645年唐進駐軍と中臣族に壊滅された、飛鳥ヤマトの蘇我王朝の祭祀一族であったのです。その祭祀一族の、ミトラ教の牡牛を屠る血の犠牲による祭祀権を、ゾロアスター教から導入した火の祭祀をおこなう仏教組織に奪われ、そして、漢訳仏教を手先とする簒奪王権により、犠牲をおこなった祭祀場から河原、或いは、路外へ追放された祭祀一族末裔であったのです。
そして、簒奪王権は、その秦氏の神に捧げる儀式の「秦楽」を、秦→しん→申→さる→「猿楽」と貶め、更に、その部落に、漢訳仏教の「法華経」思想により、仏罰者をハンセン氏病者と決め付け、その者の世話を、秦氏祭祀者部落に押し付けることにより、秦氏末裔をケガレ者と貶めていたのです。
ハンセン氏病者や不具者は、仏教思想によれば、前世での悪行(肉食)をおこなった者と解釈されていたため、盲目の琵琶法師ロレンソ了斎も、穢多部落のネットワークに属していたのです。
何故、琵琶法師ロレンソ了斎が、都市部ではなく、山奥深くの山の民に布教をおこなっていたかといえば、それは、都市部の賎民達は、藤原氏の流れを汲む破戒僧親鸞が発明した浄土真宗の阿弥陀様(古代エジプトの太陽神アトンが変身)の教えに、帰依していたからです。
寄生することによりしか生き残る術を知らない漢訳仏教組織は、権力に擦り寄る術に長け、そして、金の匂いに敏感であったのです。山奥の、権力者もいない、そして、金の匂いも少ない処では、妻帯し肉食する浄土真宗の僧侶でも、阿弥陀様の布教には熱心ではなかったのです。
劃して、イエズス会のキリシタン大名の出身の多くは、寂びれた山奥であったのです。そして、高山友照も明智光秀も、その出自が不明であったのです。それは、山奥に暮す武人は、「サムライ」が支配した北条鎌倉時代に、六波羅探題の源氏残党狩りから逃れた、自ら「平家落ち武者」と出自を消した源氏武士末裔であったからです。
そのような、血・肉食禁忌の仏教思想により穢れ者としてイジメられた、海洋民族末裔の織田信長と、騎馬民族末裔の徳川家康に、ポルトガル商人とイエズス会が、伊勢湾や三河湾から、銃撃の訓練を受けた傭兵と武器と食糧を供給することにより、仏教組織壊滅作戦が始まるわけです。しかし、その裏には、日本列島の支配を古代から企む藤原氏と新規渡来のイエズス会が隠れていたのです。
1568年織田信長は、明智光秀の要請を受け入れて、足利義昭を奉じて上洛(入京)するのです。その翌年、1569年織田信長は、関所の撤廃を命ずるのです。
歴史史料には、この織田信長の京の都への進出を、「上洛」と「入京」とで記述されているようです。それは、何故でしょうか。入京とは、その文字ズバリで、京の都に入ることです。では、上洛とは、どのような意味と背景があるのでしようか。
上洛とは、桓武天皇家の簒奪王権にとっては使いたくない言葉なのです。それは、794年平安京が造られた歴史背景を語ってしまうからです。その上洛の「洛」とは、唐の都の「洛陽」の洛であるのです。
618年建国の唐は、京兆府(長安)の東に、河南府(洛陽)を設置していたのです。唐では、首都長安の東の都を、洛陽と言っていたのです。その唐からの進駐軍の軍事支援により造られた、中国唐の東の、日本列島の都平安京は、唐進駐軍にとっては「洛陽」であったのです。唐進駐軍が、中国から東の平安京へ行くことを、上洛と言ったわけです。しかし、907年本国唐が滅んだことにより、中国文化色が濃かった平安文化も、やがて国風化に伴い、「上洛」の言葉も、中国から日本列島ではなく、日本列島各地から京への「入京」に替ってしまい、漢語に巧みな教養文化人の筆の中だけの言葉となっていったわけです。
この頃の織田信長に、下天の意識は少なかったようです。織田信長が、入京時に、仏教組織にイジメられていた賎民の余部(海部)を配下にしたように、織田信長には、賎民を仏教思想によりイジメる仏教組織壊滅が最大の目的であったようです。
その関所とは、王権による治安のために設置されたものではなく、寺社領を通過する者から金を仏教組織が徴収するために設けられていたのです。その関所は、海洋民族や騎馬民族を圧迫していたのです。それは、農業を行わない、海洋民族や騎馬民族は、生産物の商品を他国に売り歩くことにより生計を立てていたからです。更に、仏教組織は、門前や神社境内でおこなう商い人からも銭を徴収していたのです。
この仏教組織に歴史的圧迫を受けていた海洋民族と騎馬民族の負のエネルギーを、比叡山延暦寺軍と石山本願寺の野武士軍団壊滅のために、イエズス会と藤原氏は利用することを考えていたのです。その二大仏教軍団を壊滅することで、イエズス会は都地区を完全支配できると考えたのです。しかし、イエズス会は、藤原氏の陰謀力を知らなかったため、後に、手酷いしっぺ返しを受けることになるのです。
織田信長が入京した翌年、1569年織田信長は、ロレンソ了斎の紹介で、宣教師ルイス・フロイス(滞在1563年〜1597年)に謁見するのです。このフロイスは、後に、「フロイス日本史」を著すのですが、イエズス会内部では、あまり評判のよくない人物であったようです。この宣教師フロイスに謁見した後の織田信長の態度は、急変していったようです。
1570年近江姉川の戦いで、浅井長政を破ると、その翌年1571年比叡山延暦寺を焼討ちして、その僧侶全員と房にいた多数の若い女と稚児すべてを斬首していたのです。この焼討ちには、明智光秀も高山右近も参戦していたのです。この焼討ちで京の経済を支配していた比叡山延暦寺軍団が全滅したことにより、その後、京では、「楽市楽座」となるわけです。
そして、1573年織田信長が、足利義昭を京から追放することにより、ここに室町幕府が完全に滅ぶわけです。
「日本書紀」を読みすぎると、古代日本の実態が理解できなくなるのと同じに、「信長公記」を読みすぎると、織田信長の実態が理解できなくなります。更に、「フロイス日本史」を読みすぎると、その理解度が低下するようです。それは、「信長公記」にも「フロイス日本史」にも、織田信長に軍事援助をしたイエズス会と、戦いで織田信長が負け戦をしている時に、藤原氏(近衛家)の計らいで正親町天皇のタイミングの良い仲裁のことが記述されていないか、歪曲されて記述されているからです。
そもそも、天文三年(1534年)から物語が始まる「信長公記」は、織田信長の家臣太田牛一が著述したことになっているようですが、実際は、関白豊臣秀吉の命で、更に、総監修の下で、出自不明の豊臣秀吉の、藤原氏とイエズス会との深い関係の実態を隠蔽・改竄するために創作された物語であったのです。
「日本書紀」を読みすぎると、古代日本史の実態が分からなくなるのは、六世紀に河内を支配していた、秦氏の「秦王国」の存在と、南北約八百m×東西約二kmの丘に挟まれた、飛鳥川が流れる細長い土地に、騎馬民族の突厥帝国進駐軍が軍事都市を築いていた史実を、「日本書紀」が改竄・隠蔽していたからです。
藤原氏が720年に創作した「日本書紀」の飛鳥大和物語では、その飛鳥ヤマトには、日本初の天皇は672年天武天皇が初なのに、第33代女帝推古天皇が存在していて、その摂政として厩戸皇子(聖徳太子)が活躍し、河内支配者の「物部氏」と飛鳥支配者の「蘇我氏」が、仏教導入に関して対立していた、とするのです。
そして、その「日本書紀」の仏教伝来物語では、何と、太陽神の化身牡牛を屠る祭祀者の秦河勝は、仏教普及に尽力する聖徳太子の忠臣となって、仏像を安置するために仏寺の広隆寺を建立したことになっているのです。
この仏教伝来物語が可笑しいことは、もし、「日本書紀」の仏教伝来物語で、秦河勝が、仏教に帰依していたのならば、何故、室町時代に秦氏末裔の賎民として貶められていた世阿弥が、「風姿花伝」で、「能楽の祖は秦河勝」と述べていたのでしょうか。
能楽は、仏教組織が血・肉食の禁忌でイジメていた、賎民の芸である「猿楽」が祖ではなかったのでしょうか。史実では、山背国(秦王国)で、秦河勝は、仏寺の広隆寺ではなく、太陽神の化身牡牛を屠る景教寺の蜂丘寺を建立していたのです。
では、戦国時代の一級史料とされる、「信長公記」、そして、それをベースに、江戸時代の第三百済王朝の寛永三年(1626年)小瀬甫庵の著書「信長記」の内容は、史実を伝えていたのでしょうか。
それらの一級史料とされる物語では、織田信長は、明智光秀の謀叛に遭い、本能寺で自害したとされているのですが、当日明智光秀軍の一員として本能寺に赴いた本城惣右衛門の手記によれば、明智光秀軍一団が、未明に本能寺へ到着した時点には、すでに本能寺は焼け落ちていた、とするのです。
しかし、それらの一級史料や「フロイス日本史」では、明智光秀軍団に攻められて矢傷を負って窮地にたった織田信長は、自害した、とするのです。自害とすると、何故、遺体が見つからなかったかの説明がつきません。しかし、爆殺であったならば、その説明は納得できるのです。本能寺が、藤原氏の密貿易による火薬貯蔵所であったことから、織田信長爆殺説は、かなり納得できるのです。
江戸初期、徳川家康が、穢多頭弾左衛門と共に、荒川や利根川支流が流れ込む、穢れ地であったエド(穢れ地→穢地→エド→江戸)を、オリエントから渡来の秦氏末裔の高度土木技術により、湿地帯を改良して宅地とし、大坂の渡辺村(秦王国)から移住させた者達により城下町として整い始めた頃、1623年徳川三代目将軍となった百済の血が流れる家光は、明智光秀一族が滅んだ「山崎の戦い」での徳川家康と騎馬民族末裔に恨みを持つ春日局の入れ智慧により、騎馬民族末裔の徳川家康の忠臣達と、徳川家康と懇意にしていた秦氏末裔の弾左衛門一族のエドからの追放を企てていたのです。
その忠臣のひとりである、三代目将軍家光に疎まれていた旗本の大久保彦佐衛門忠教が「三河物語」を著し、その文中で、「「信長公記」を見るとうそが多い。三分の一はあったことだ。三分の一は似たことがあった。三分の一は全く無かったことだ。(略)それで(「信長公記」をベースに著述された)「信長記」にはうそが多いと評判に成った。」、と記述しているのです。その大久保彦佐衛門忠教は、生前の織田信長と軍事行動を共にしたことのある、清洲同盟徳川家康の家臣であったのです。
では、戦国時代を描いた「天正記」と総称される、「播磨別所記」「惟任謀叛記」「関白任官記」などの八編の史料としての信憑性はどのように評価できるのでしょうか。これらの物語は、関白豊臣秀吉が、大村由己に、豊臣秀吉の軍歴と業績を誇示するために書かせたものであるのです。その内容には疑問符がつくのですが、その物語の始まりが、天正二年(1574年)秀吉が長浜城主になった後の、天正八年(1580年)頃から始まるのです。その天正二年の翌年、1575年織田信長は、日本で始めて、鉄砲隊により、武田勝頼の騎馬軍団を敗退させていたのです。
織田信長の軍団では、鉄砲隊は初期から組織されていたように思えますが、鉄砲隊での本格的戦闘は、1560年今川義元軍を尾張の桶狭間でのゲリラ戦で破ってから十五年後の、1575年三河長篠の戦であったのです。その十五年の間に、織田信長は、イエズス会により鉄砲と軍事訓練された傭兵軍の供給を受けたのです。
1549年イエズス会のザビエルは、南インドのマラバル沿岸の布教(侵略)基地から、日本列島の南九州の鹿児島に渡来するわけです。何故、南九州鹿児島が、日本列島初渡来の地であったのかは、その南九州を実効支配していた藤原氏(近衛家)は、その渡来元が南インドのマラバル沿岸で、古来から藤原氏は南インドとの南海密貿易をおこなっていたからです。戦国時代のイエズス会と藤原氏(近衛家)とは、南インドのマラバル沿岸で繋がっていたのです。
紀元一世紀、そのマラバル沿岸には、ユダヤ教ヨシュア派(この新興宗教が、392年ローマ・キリスト教となるのです。)の伝道師トマスが、「法華経」にあるソックリ物語を多く綴っている「マタイの福音書」を携えて、その新興宗教の布教地(侵略地)を訪れて、教会(砦)を築いていたのです。
渡来したザビエル(滞在1549年〜1551年)は、琵琶法師ロレンソ了斎より、反仏教軍団を組織するための情報として、山の民の武人の性格を聞き出していたのです。そして、実際に山の民の武人に接触した感想を、「私はこれほどまでに武器(日本刀)を大切にする人たちをいまだかって見たことがない。」とし、更に、「よい武器(日本刀)をもっていることが何よりも自慢であった。」、と書き残しているのです。
何故、山の民の武人が、武器を大切にし、自慢するのか、ザビエルは理解できなかったようですが、その武人が、北条鎌倉時代に「サムライ」組織により、山に追われた源氏落武者末裔であることを知っていたら、武人のその武器に対する態度が理解できたことでしょう。
その山の民の武人が、大切にし、そして、自慢する日本刀とは、唯の実戦用武器などではなく、先祖の魂を鎮めるための「もののふ」である武芸者の祭祀道具であったのです。
それでは、その山の民の武人は、奈良時代では「鬼」「土蜘蛛」、平安時代では「蝦夷」「俘囚」、そして、北条鎌倉時代以降では「天狗」「山賊」「馬借」、として無教養で粗野で凶暴と勝ち組史料では記述されているのですが、イエズス会にはどのように認識されたのでしょうか。
巡察使ヴァリニャーノ(滞在1579年〜1603年)は、イエズス会員から、「日本人が高貴で非常に優れた素質と才能の持ち主であることは否定できない。それゆえ日本人は多くの事柄において我々ヨーロッパ人を凌駕している。」と知らされ、そして、「イエズス会員が、日本人から、知識も礼儀も持ち合わせていないと思われないように。」、との注意も受けていたのです。そして、「日本人は外面的な事柄や礼拝の儀式、立派に整えられた儀式に非常に心を揺り動かされる。」とのアドバイスも受けていたのです。
山の民の武人が礼儀正しいのは、日本武士道は、ローマ帝国軍騎士道→新羅花郎騎士道の流れにあり、忠誠心、弱者擁護、名乗りあい太陽の下で正々堂々と戦う、等の一族の掟があったからです。この日本武士道の流れは、後に、「サムライ」が支配した第三百済王朝の江戸時代に、アウトローの役座の掟、「強気を挫き、弱き助く。」の「任侠道」として生き延びていくわけです。
そのように先輩のイエズス会員より、山の民の武人の情報を得ていたので、イエズス会の宣教師が、自称飛騨守とした高山友照に対して武士として礼儀を尽くしたことと、琵琶法師ロレンソ了斎によるキリスト教の平等思想とその実践の説明、例えば、都地区での仏教組織が仏罰者の穢れ者として差別していたハンセン氏病者に対する治療と保護、に感銘した高山友照は、イエズス会に入会したわけです。この日本武士道の代表のような高山友照と彦五郎(後の右近)親子が、キリシタンとなったことにより、多くの山の民の武人が、キリシタンとなっていくわけです。その中に、蒲生氏郷がいたのです。
キリシタン大名の蒲生氏郷は、伊勢湾一帯を支配する豪族ですが、その臣下に山科勝成がいたのです。この山科勝成は、大砲の名手であったのです。しかし、その大砲の渡来は、1543年種子島に鉄砲が伝来してから33年後の、1576年であるのです。
鉄砲のコピーは、製鉄技術があればできます。しかし、鉄砲を使いこなすには、火薬の主原料の硝石が必要なのと、火薬の取り扱いを知らないとできません。ましてや、鉄砲軍団を組織的に動かすには、長い歳月をかけた経験がなければできないことです。
火薬は、硝石、硫黄、炭粉より作られるのですが、その硝石は、日本列島では殆んど採取できないのです。そのことに目を付けたイエズス会は、イエズス会に入会の条件として、硝石と鉛の提供をおこなうことにより、信心深くない大名も、イエズス会に取り込んでいくわけです。
この硝石の需要を察知した藤原氏は、インド硝石を、坊津→種子島→雑賀→根来寺→本能寺の密輸ルートを使い、戦国大名達に売り捌いていたのです。その本能寺で、やがて、十年戦争の石山合戦で仏教軍団が日本列島に存在しなくなったため、不必要となった織田信長は、1582年爆殺されてしまうのです。
更に、鉄砲の後に渡来した、鉄砲の数百倍の威力のある大砲の取り扱いは、日本武人のシロウトではできない高等技術であったのです。実は、その山科勝成とは実名ではありません。経歴と実名は、1570年宣教師オルガンチノと共に渡来した、十字軍マルタ騎士団のジョバンニ・ロルテスだったのです。ロルテスは、大砲の操作技術者として、イエズス会の傭兵として渡来していたのです。更に、ロルテスには、簿記技術と石組技術をもっていたことから、石工組合員(フリーメイソン)であると疑われています。
現在各地に復元されて聳え立つ石垣上に城郭を設置した城は、そのロルテスよりヨーロッパ築城思想を学んだ織田信長が、キリストの神の代わりに、織田信長自ら神として住む「天主閣」を設けて築城したのです。日本列島において、天主閣のある城は、1576年完成の安土城が始めであるのです。しかし、後に、その「天主閣」は、「天守閣」となって現在に至るわけです。無神論者の織田信長が、キリストの神を敬わず、自ら神となることを欲したことも、イエズス会組織に爆殺された要因のひとつでもあるようです。
そして、キリシタン大名の蒲生氏郷の部下となったロルテス(山科勝成)は、1575年三河の長篠の戦で勝利した、織田信長に謁見していたのです。それは、その当時には、イエズス会が軍事支援する織田信長支配下の軍団には、多くのキリシタン大名軍団と射撃に慣れたイエズス会傭兵が存在していたからです。
この長篠の戦で勝利した織田信長軍は、1571年の焼討ちで比叡山延暦寺軍を簡単に壊滅できたのですが、1570年から始まった石山合戦では、五年もの苦戦をしても壊滅できないでいたのです。それは、石見の銀山採掘権をポルトガル商人とイエズス会に狙われている、中国地方を支配する毛利輝元が、秦氏末裔の野武士軍団が護る大坂石山本願寺の砦に、毛利海軍の船により、武器・弾薬・食糧を供給していたからです。
織田信長は、その毛利海軍を壊滅する戦術を、イエズス会に求めていたのです。その戦術の新兵器が、1576年ポルトガルから伝来の戦艦の大砲であったのです。この戦艦の大砲の砲撃により、無敵の毛利海軍も壊滅してしまうわけです。この海戦での敗戦により、毛利軍本隊の戦力が衰えていくわけです。
簒奪王権は、このイエズス会戦艦による、石山合戦での毛利海軍との海戦の史実を知られたくないために、物理学的に証明できない九鬼海軍の新兵器の鉄鋼板船による海戦物語を、江戸時代に創作するわけです。しかし、常識的に考えても、和船に鉄鋼板を全面に貼り付けた戦艦が、正常に航行できるはずはないのです。しかし、この九鬼海軍の鉄鋼板船の存在は、現在でも、史実と信じられているのです。
戦国時代末期の戦いとは、ポルトガル王国がイエズス会のキリシタン軍団を手先として、日本列島の中枢を占領するために、都地区を支配していた比叡山延暦寺軍団と石山本願寺軍団を壊滅するための、「キリシタン軍団」と「仏教軍団」との戦いであったのです。
その「キリシタン軍団」と「石山本願寺軍団」の尖兵として働いたのは、秦氏末裔の源氏武士末裔であったのです。キリシタン軍団として参戦した秦氏末裔は、ハンセン氏病者を仏罰者としてイジメる仏教組織壊滅に立ち上がったのです。それに対して、石山本願寺軍に参戦した秦氏末裔は、日本列島を異教の神を掲げて支配を目論むイエズス会傀儡の織田信長軍団壊滅に立ち上がったのです。
その秦氏末裔の悲劇は、そのイエズス会が布教するキリスト教も、親鸞が布教した阿弥陀様の教えも、その源は、秦氏が祀る太陽神ミトラであったのです。キリスト教も浄土真宗も、自分の組織を広げるために、太陽の下、全ての民族は平等である、とするミトラ神を、自らの組織拡大のために改竄していたことを、その両軍で奮闘する秦氏末裔は、知る術は無かったのです。
この秦氏末裔の同氏討ちを距離を置いて眺めていたのは、ミトラ神のシンボル十字(マルタ・クロス)を割り菱の家紋とした、1582年に滅んだ騎馬民族末裔武田氏の忍者部族金山衆を取り込んだ、騎馬民族末裔の徳川家康であったのです。
ポルトガル王国の日本支配のシナリオは、平安時代より、神道ではなく、仏教の密教儀式で祀られていた百済系天皇家は、藤原氏の祭祀儀式による唯の日本国の飾りにすぎないことをイエズス会が調査していたため、武力で日本を統一させた天下人を日本列島の実質の王として、キリスト教に帰依させることにより、ポルトガル王国の日本支配が完成する、と言うわけです。
そのシナリオ戦略の捨て駒が、平家末裔の反仏教の織田信長と源氏末裔の反仏教の徳川家康であったのです。
都地区を支配していた比叡山延暦寺軍団と石山本願寺軍団を壊滅して目的を達したことにより、用済みの捨て駒の織田信長を抹殺するための、1582年本能寺の変があった未明に、織田信長から堺に招待されていた徳川家康が遊行していたのは、イエズス会と藤原氏による、織田信長と徳川家康との同時暗殺が目的であったのです。
しかし、遊芸者とのネットワークを持つ金山衆などの忍者部隊を側近として侍らせる徳川家康は、そのイエズス会と藤原氏の陰謀を察知すると、素早く、堺から逃避することにより、生き延びていくわけです。では、イエズス会の目的を達成するために、武力による天下統一に熱心ではなかった織田信長と徳川家康の捨て駒を抹殺した跡目を、ポルトガル王国とイエズス会は、誰に託そうとしていたのでしょうか。
日本史には謎が多い人物が多数登場しますが、その中でも謎が多い人物のひとりが、関白豊臣秀吉です。
豊臣秀吉の経歴を語っている「天正記」と総称される、「播磨別所記」「惟任謀叛記」「関白任官記」などの八編の史料と、「信長公記」、そしてそれを参考に著された「信長記」を除くと、尾張国愛知郡中村の百姓木下弥右衛門の子とされる、豊臣秀吉の出自を示す他の史料は皆無なのです。豊臣秀吉は、何処で生まれたかの客観的史料がないのですが、突然、三河長篠の戦の前年に、歴史上現れるのです。
それは、正に、北条鎌倉時代の元寇に関する史料が、禅宗関連史料以外には、皆無であるのと同じに、関白豊臣秀吉には、何か後世のひとに知られたくない史実があったようです。
1584年小牧・長久手の戦いで、壊滅することが出来なかった宿敵徳川家康を、1590年に、関東の穢れ地に移封を命じた関白豊臣秀吉は、その翌年、1591年千利休に切腹を命じるのです。何故、千利休は、その豊臣秀吉の命に素直に従って自害したのでしょうか。それは、千利休には、イエズス会との深い繋がりがあったからです。
千利休とは、藤原氏と非常に親しい正親町天皇から与えられた居士号で、幼名を与四郎と呼ばれ、堺の倉庫業で屋号魚屋(ととや)の生まれと云われています。しかし、一時、秦氏末裔賎民の呼称「阿弥」と号したように、その周辺には、秦氏末裔の遊芸者の影が付きまとっていたのです。
与四郎は、室町時代に盛んであった博打の闘茶から、わび茶を開発した武野紹鴎の弟子であり、そのわび茶を草庵での高価な茶器での茶会として完成させていたのです。この千利休の師匠の武野紹鴎にも、秦氏末裔の影が付いているのです。
茶人武野紹鴎は、改姓後の名で、武野の前姓は、武田新四郎と言い、騎馬民族末裔の武田氏の武士であったのです。その武田が、武野となって、自治都市堺で皮屋の屋号で、武具の甲冑などの武器革製品を商う商人となっていたのです。
「サムライ」が支配した北条鎌倉時代以降、製革製品を商う商人は、仏教思想の血・肉食禁忌思想により穢多と呼ばれ、賎民視されていたのです。更に、武野紹鴎は、賎民ささら一族の専売品の竹細工を行い、竹で茶杓を自ら作り、わび茶で使用していたのです。
自治都市堺は、北方の難波にかけて、六世紀まで「秦王国」の地であったのです。その地に、時空を越えて秦氏末裔が集結したのです。そして、戦国時代末期に、イエズス会のエージェントが、都地区侵略の前線基地確保のため、自治都市堺に潜入してくるのです。
千利休は、草庵での茶会を完成させると、利休七哲といわれる武人達も結集していたのです。それらの七名の武人とは、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山堅物、そして、蒲生氏郷と高山右近です。その蒲生氏郷の家臣が、大砲の名人十字軍マルタ騎士団の山科勝成(ロルテス)で、高山右近の主が、織田信長暗殺の下手人とされてしまった明智光秀であったのです。その蒲生氏郷と高山右近は、後に、共にキリシタン大名となるのです。
その草庵での茶会は、「あること」をおこなうには、都合の良い空間であったのです。その「あること」とは、暗殺です。その草庵の入り口は、非常に狭くて、武士の魂である日本刀を携帯しては入れなかったのです。更に、抹茶は苦いため、トリカブトなどの毒薬を混ぜて飲ませるには適した飲み物であったのです。
千利休は、1591年2月28日、京都聚楽屋敷で自刃し、その首は一条戻り橋に晒されたのです。何故、千利休は、豊臣秀吉により、切腹を命じられたのかは、1590年7月21日長崎に帰着した、天正少年使節団を引率した巡察師バリニャーノが、日本の王に謁見を求めていたからです。
そして、その願いが叶えられたのは、八ヵ月後の1591年3月京の聚楽第において、日本の王を前にして、少年視察団がヨーロッパで学んだ西洋音楽を演奏したのです。
そこで、巡察師バリニャーノは、日本の王が、織田信長から豊臣秀吉に代わっていることに驚愕するのです。巡察師バリニャーノが日本の王からの返事を待っていた、その八ヶ月の間に、千利休は、豊臣秀吉により、切腹を命ぜられ、自刃し、その首が晒されたのです。千利休の首を晒した目的は、ある者達に対する警告を含んでいたのです。
1576年に完成した安土城とその城下町を、1579年渡来した巡察師バリニャーノは、視察し、そして、日本武士の正装である鎧甲冑ではなく、ヨーロッパ服で身を包む織田信長に謁見して、「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一隅の機会である。」、と書簡で述べているのです。
そして、1580年にポルトガルとイスパニアは同君連合となり、イスパニアのフェリペ2世がポルトガル王位を兼任したため、イエズス会会員にイスパニア人が多数入会することに脅威を感じていた巡察師バリニャーノは、ポルトガルのイエズス会の日本での布教実績をローマ教皇にアピールするために、1582年2月15日天正少年使節を連れて長崎からヨーロッパに向けて旅立ったのです。
その目的はふたつ。ひとつは、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に、日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。そして、もうひとつは、日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後そのキリスト教世界の栄光と偉大さを、その少年達自らに語らせることにより日本での更なる布教に役立てる、ことであったのです。
天正少年使節のヨーロッパでの成功を手にした巡察師バリニャーノ一行(バリニャーノ自身は、ヨーロッパに行かず、インドに留まっていた。)は、1586年リスボンを出発し、インドで巡察師バリニャーノと合流し、中継地のマカオに到着すると、1587年豊臣秀吉により伴天連追放令が発せられていることを知るのです。今や、イエズス会の宣教師は、日本国へ入国できないのです。そこで、巡察師バリニャーノ一行は、インド副王の使節として、日本国入国を許可されたのです。そして、やっとのことで、1590年7月21日長崎に帰着するのです。そして、日本の王に、イエズス会によるヨーロッパ視察の報告としてではなく、インド副王の親書を届ける名目で、巡察師バリニャーノは謁見を願い出たのです。
メキシコ銀山を開発し、そして、チリ硝石を積んだイスパニア商船が、銀山のある石見沿岸に多数渡来していることに脅威を感じ、日本の王・織田信長に謁見し、日本国でキリスト教布教が、ポルトガル人によるイエズス会の努力で成功したことを直ぐにでもローマ教皇に報告するべく、1582年2月15日に長崎を発った巡察師バリニャーノは、その四ヵ月後の、1582年6月21日未明に起こった「事件」を知る術を持っていなかったのです。
それは、1582年今やイエズス会は、ポルトガル人だけの組織員ではなく、33人中、ポルトガル人17名、イスパニア人10人、イタリア人6名であったのです。そのイスパニア人のイエズス会会員は、当然、ポルトガル商人よりも、イスパニア商人を優遇するわけです。そのために、日本列島支配のシナリオ戦略も、当然、変更されていたのです。
巡察師バリニャーノ一行がヨーロッパに向けて旅立った後のイエズス会の内部は、一枚岩ではなかったのです。そして、イエズス会には不幸にも、1588年イングランド王国の海軍は、世界征服を狙うイスパニアの無敵艦隊を撃破したのです。
このことにより、ローマ教皇の許しを得て、東アジアを支配国としていたポルトガル・イスパニア王国の征服予定地には、ローマ教皇の宗教的支配が及ばないイングランド王国の海軍が侵攻していくのです。1600年には、アヘン貿易をおこなう、イングランド東インド会社が設立されるわけです。
そして、その268年後、1868年その東インド会社の社員グラバーが、藤原氏(近衛家)が支配する薩摩藩と長州藩の、「サムライ」ではなく、「下級武士」に「サムライ」が支配する第三百済王朝の江戸幕府の転覆を焚き付けたことにより、平安時代から始まった錬金術師空海が発明した密教儀式で祀っていた天皇家から、藤原氏(近衛家)により新たに発明された「古代?」儀式の数々により、国家神道で祀る天皇家へと代わり、ここに「神国ニッポン」が誕生するのです。
1591年3月の聚楽第での演奏会で、日本の王が、織田信長から豊臣秀吉に代わっていたことを始めて知った巡察師バリニャーノは、その後十年間の日本滞在中の調査で、同盟者と思っていた「藤原氏の陰謀」を知るのです。そして、1600年関が原の戦いで、藤原氏が支援する西軍・豊臣軍が、騎馬民族末裔の東軍・徳川家康軍に敗退したのを確認すると、1603年日本を後にするのです。
では、イエズス会の、織田信長と徳川家康による日本征服のシナリオ戦略は、石見銀山を狙うイスパニア商人達が支援するイエズス会と「藤原氏」により、どのように替えられていたのでしょうか。
1581年織田信長は、巡察師バリニャーノが京へ視察に来たのを歓迎して、馬揃え(騎馬による軍事パレード)を、御所の前に正親町天皇を引き出させて、大々的におこなったのです。この大行事を仕切ったのは、明智光秀であったのです。
その翌年、つまり、1582年「本能寺の変」があった年、再び、織田信長は、明智光秀に、退位しない正親町天皇を脅すために、馬揃えをおこなうことを告げていたのです。京での馬揃えのために、焼け落ちた本能寺に未明に到着した明智光秀軍は、そこで初めて、陰謀に巻き込まれたことを知るのです。
何故、織田信長が、そのような馬揃えを、巡察師バリニャーノのためにおこなったのかは、巡察師の職務を、よく理解していたからです。
イエズス会巡察師とは、世界各地のイエズス会布教地(侵略地)に派遣され、そのイエズス会の任務を点検する、特別司祭のことです。その巡察師は、ローマ教皇より、その地でのイエズス会の活動の変更や中止の権限を与えられていたのです。
織田信長は、イエズス会の初期目的であった、都地区で悪魔の教えを広める館壊滅を、1571年比叡山延暦寺を焼討ち壊滅し、1580年石山本願寺を壊滅・占領したことを、その馬揃え後に、巡察師バリニャーノに報告したのです。
その報告を受け、安土城が聳える城下町の教会や、学校から聞こえるオルガンの響きを見聞きした巡察師バリニャーノは、「信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一隅の機会である。」と考え、ローマ教皇への報告に赴くわけです。
しかし、ポルトガル商人やイスパニア商人は、京都の仏教軍団を壊滅したことに満足している織田信長には、大いに不満であったのです。更に、デウスの神を崇めず、織田信長自ら神となり、その化身の唯の大石を拝めと要求する織田信長の存在は、最早許せなかったのです。それは、ポルトガル商人とイスパニア商人が支援するイエズス会が、織田信長を軍事援助した真の目的は、石見の銀山の支配権を、毛利輝元より奪うことが、第一の目的であったからです。
劃して、石見銀山を奪取するための適任者が選ばれるのです。それが、出自不明の羽柴秀吉です。抹殺する相手は、織田信長、徳川家康、そして、明智光秀です。
明智光秀の出自は、戦国大名・武将の例に倣って、不明です。その出自の手掛かりはないのですが、射撃の名手であることは、イエズス会の傭兵であったことが疑えます。当時、硝石は貴重品であったので、ふんだんに射撃練習ができるのは、藤原氏の硝石密輸ルートにある雑賀衆か、イエズス会傭兵だけです。
明智光秀が、歴史上登場するのは、足利義昭の京への護衛を、ゲリラ戦を得意とする尾張の弱小武将の織田信長に依頼の時です。1568年織田信長が、足利義昭を奉じて上洛すると、その翌年、1569年織田信長は、遊芸者の琵琶法師ロレンソ了斎の紹介で、宣教師ルイス・フロイスに謁見するのです。そして、1570年近江姉川の戦いに参戦した明智光秀は、その翌年には、羽柴秀吉を差し置いて、坂本城の城主となっているのです。羽柴秀吉が、長浜城主となったのは、その四年後の、1574年だったのです。
更に、明智光秀は、その出自が不明なのにもかかわらず、織田信長に会った二年後には、京都奉行の政務に付いていたのです。
それには、明智光秀の謎があったからです。それらの謎のひとつは、堺の商人であった千利休の弟子の高山右近が、明智光秀の配下であったことです。更に、出自不明の明智光秀は、公家が好む連歌の名人で、頻回に連歌会を開催したり、京の連歌会に出席していたのです。そして、明智光秀は、織田信長の家臣でもあり、足利義昭の家臣でもあったのです。その足利義昭は、幼少を藤原氏が支配する興福寺で過していたのです。
千利休は、その名を正親町天皇より賜ったのですが、その意味は、「賎・せん」の利休であったのです。つまり、賎民の利休が、何故、正親町天皇と繋がりがあったのでしょうか。それは、天皇家の周りで暗躍する、藤原氏の流れにある近衛前久です。近衛前久は、娘前子を入内させることにより、正親町天皇と義理の兄弟となっていたのです。その近衛前久が、千利休を織田信長に、茶の師として紹介していたのです。そのことにより、織田信長は、茶器に異常な興味をもつことになったのです。
この近衛前久と正親町天皇とのコンビは、イエズス会傀儡軍の織田信長の苦戦では色々と活躍し、浅井長政との形勢が不利な戦いでは、和睦の調停役となったり、そして、石山合戦では、十年もの戦闘でも織田信長軍が勝利できないのを、石山本願寺の顕如との和睦の調停役となり、その調停中に防御を解いた一向宗軍団の隙を突き、全滅させていたのです。その近衛前久も、天下を盗った織田信長の存在を許せないひとりであったのです。
藤原氏が、イエズス会と共に、織田信長を支援したのは、藤原氏が支配する興福寺の宿敵比叡山延暦寺軍の壊滅であったのです。しかし、藤原氏の流れにある親鸞が発明した浄土真宗の石山本願寺を壊滅するに及んでは、最早、支援するどころか、抹殺したい存在であったのです。正親町天皇の和睦で、顕如一族の存在は確保できたのですが、この後、どのようなことを要求されるか想像も出来ない織田信長は、抹殺するより他はない、と考えたようです。
そこで、イエズス会と藤原氏(近衛家)の意見が一致するわけです。そのシナリオは、明智光秀を下手人として、織田信長と徳川家康を同時に暗殺することです。そして、謀反人明智光秀を羽柴秀吉に討たせることにより、織田信長の王統を羽柴秀吉に引き継ぐ、ということです。その織田信長と徳川家康同時暗殺の実行者は、千利休とするのです。
千利休の人物背景を知るには、生まれ育った自治都市堺の歴史を知る必要があります。
境「さかい→堺」の地名ができる奈良・平安時代以前は、その一帯は、オリエントから渡来の秦氏が支配した「秦王国」であったのです。その史実を隠蔽するために、645年飛鳥ヤマトの王国を簒奪した、唐進駐軍傀儡の中臣族が、奈良時代に、「籐氏」から「藤原氏」に変身して、自らの出自を隠蔽・改竄するために、720年「日本書紀」を創作し、四世紀の大和朝廷など架空王朝と、それを支配した天皇家(天皇の登場は、672年以降)を登場させ、南インドのマラバル沿岸で入手した「聖書物語」を真似て、天地創造物語で神代の世界から降臨したとする神武東征物語より、四世紀から河内平野に巨大古墳群を築造して、河内平野を支配していた「秦氏」を、廃仏派の「物部氏」と改竄していたのです。
645年、その秦氏が河内平野を支配し、国際交易をおこなっていた、国際湊ローラン(浪速→難波)の交易都市は、唐進駐軍と中臣族により、徹底的に破壊され、騎馬民族の移動可能な建築様式である掘立柱に瓦葺ではない建物が、基壇上に礎石を据えてその上に柱を立てて、平瓦を葺いた唐建築様式の建物に代わってしまうのです。その唐進駐軍の砦都市が、「日本書紀」では、難波長柄豊碕宮遷都、と記述されているのが、それです。
平安時代に、古代エジプトの埋葬思想による石室や石棺のある巨大古墳や百舌鳥古墳群が存在した広大な河内平野が、摂津、河内、和泉に分割され、その三国の「境」に位置する地域を「さかい」と呼んだのです。つまり、堺は、古代「秦王国」の地であったのです。
「サムライ」が支配した北条鎌倉幕府を倒した、源氏末裔の「武士」である足利氏が支配した室町時代には、摂津、河内、和泉には、穢多としてイジメられていた、遊芸者達が集まる地となっていたのです。そして、戦国時代には、堀をめぐらせ武装組織に護られた堺は、王権の及ばない自治都市となっていたのです。その自治都市堺に、千利休の茶道の師匠、皮屋の武野紹鴎が堺の有力者で居られたのは、堺が、秦氏が支配する「秦王国」であったからです。
秦氏末裔が、北条鎌倉時代から、血・肉食禁忌思想を武器とする仏教組織により、穢多として民族差別をされたように、秦氏は、高度技術を持つ多部族連合であったので、その部族中には騎馬民族も多くいたのです。騎馬民族は、その生活上、肉食し、その毛皮をなめし、革製品を作ることに優れた技術をもっていたのです。
騎馬民族が、戦闘に強かったのは、騎馬民族スキタイから伝承された、ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術と製革技術をもっていたからです。それは、それらの二つの技術を融合することにより、優れた武器を生産できたからです。皮屋の武野紹鴎も、自治都市堺(秦王国)で、武具や甲冑を生産していたのです。その皮屋の武野紹鴎が、千利休に茶道を教えていたのです。その武野紹鴎が騎馬民族末裔であることは、前姓が武田であったことで証明できるのです。
武田氏が騎馬民族末裔であることは、その戦闘で騎馬を使うことと、遠隔地にいる同族との交信に狼煙(のろし)を使っていたからです。狼煙は、その文字からも分かるように、狼の糞を燃やすことによる煙を使い、遠方と交信していたのです。その狼煙を通信手段とした歴史は、騎馬民族スキタイが始めであったのです。
そして、農耕民族が嫌う狼は、騎馬遊牧民族にとっては神聖なトーテムでもあったのです。そして、武田氏が、騎馬遊牧民族末裔であることを証明するように、固定した城を築くことはなかったのです。そして、その武田氏の歴史を示す家紋は、秦氏が祀る太陽神のシンボルである、マルタ・クロスの十字をデザインした、割り菱であったのです。
茶道の背景を見ると、そこには七道の者達が現れてくるのです。七道とは、仏教思想の六道、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天界道の六道界を外れた者のことです。つまり、七道の者とは、仏教思想で、死後、前世の罪により、転生するとされる六種の世界にも住めない、人間ではなく、獣である、と仏教組織は言うのです。
勿論、この思想は、釈尊の教えなどではなく、遊牧民族トラヴィダを不可触賎民チャンダラーとして貶めるために発明した輪廻転生のバラモン教の教えを、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族の秦氏を貶めるために、漢訳仏教組織が真似たものであったのです。
そして、北条鎌倉時代、飛鳥ヤマト時代の秦氏の祭祀一族末裔の遊芸者は、漢訳仏教思想を武器とする王権により、七道の者と蔑まされていたのです。
茶は、鎌倉時代、元帝国に滅ぼされた南宋から移民してきた禅僧により、「くすり」として持ち込まれてきたのです。それが、室町時代には、「くすり」飲みから、産地当ての博打の闘茶となっていたのです。戦国時代、その博打の闘茶を、高級な茶器で飲む芸術に仕立てたのが皮屋の武野紹鴎で、その茶を飲む空間を創ったのが千利休であったのです。その「わび」のある庭園に、質素で小さな茶室を設け、瀬戸物の茶器で、竹細工の茶杓で抹茶をいれて、鉄瓶で沸かした湯でお茶を立てるわけです。それら茶道を構成する、庭園、茶室、茶器、茶杓、鉄瓶などをつくるのは、賎民と言われた秦氏末裔の仕事であったのです。
茶道が、戦国時代に武家世界に流行ったのは、風流を楽しむためだけではなかったのです。それは、戦国時代の武家経済構造を反映していたのです。武家は、ご恩と奉公で、死を賭して敵を倒すために働くわけです。つまり、褒賞目当てに戦場に向かうのです。それに対して王権は、手柄を立てた武者に、負将の支配地を分け与えていたのです。しかし、戦国時代末期には、各地の戦場と、それに参加した武将との比率が、手柄を立てた武将の方が多かったため、恩賞として分け与える土地がなかったのです。
そこで、智慧者が、土地に替えて、茶器を褒賞として与えることを考えたのです。そのためには、土地よりも高価であるとする、「茶器の伝説」を創る必要があったのです。その伝説を創るのに、藤原氏と懇意のある天皇が登場するわけです。戦国末期の天皇家の経済は、かなり疲弊していたからです。
その褒賞としての茶器を鑑定するひとりとして、千利休がいたのです。正親町天皇より名を受けた、茶道の大家となっていた千利休の「一言」で、駄器が、一国よりも高価な名器に変わってしまうのです。そのように伝説創作により、当時の茶道界での三大名器とされたのは、「初花」「新田」「楢柴」であったのです。
そのような歴史的背景のある自治都市堺に、イエズス会のエージェントの遊芸者の琵琶法師ロレンソ了斎が現れるわけです。日本列島の支配を目論むイエズス会は、奈良時代より仏教組織にイジメられてきた、自治都市堺に暮す秦氏末裔のエネルギーを、京都を支配している比叡山延暦寺軍団と、大坂を支配している石山本願寺軍団壊滅のために利用しようと考えていたのです。
この堺の秦氏末裔の賎民達をイエズス会に取り込むことが出来たことにより、尾張の織田信長と、三河の徳川家康を、イエズス会に取り込むことが出来たのです。それは、織田信長も徳川家康もその祖が賎民として、仏教組織にイジメられていたからです。
自治都市堺に住む皮屋の武野紹鴎は、このイエズス会の申し出を受け入れるのです。そして、その連絡係として、藤原氏の流れを汲む近衛前久と義兄弟の正親町天皇より名を受けた、弟子の千利休を指名するのです。
そして、千利休は、近衛前久の紹介により、イエズス会傀儡の織田信長の茶の師となるのです。そのことにより、織田信長は、千利休が鑑定した名器を、手柄を立てた武将に、褒賞としての土地の代わりに、無限に与えることが可能となっていたのです。その一方、織田信長は、伝説により創られた三大名器とされる「初花」「新田」を、高価な代償を払い手に入れたのです。残る名器は、「楢柴」だけです。
イエズス会の大躍進は、遊芸者の琵琶法師ロレンソ了斎なしには語れないでしょう。それは、全国を漂泊する遊芸者は、全国の情報を知るための、神社で「役座」が仕切る同業者組合の「座」を基点とするネットワークを持っていたからです。そして、遊芸者が集まる自治都市堺にも、当然、全国の情報が集まるわけです。その情報を「任意のひと達」に伝える手段として、千利休は茶会を開催していたのです。
このことは、1600年関が原の戦いで勝利した東軍の将徳川家康が、千利休の弟子であったキリシタンの古田織部を、徳川二代目将軍秀忠の茶の湯の指南として召抱えたのは、大坂豊臣方の情報を得るためだったのです。しかし、1615年大坂夏の陣後、その古田織部が、豊臣方に通じていたことが発覚したことにより、徳川家康により、古田織部は、師匠の千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられたのと同じに、切腹を命じられていたのです。
藤原氏とイエズス会、そして、暗殺実行者の千利休達の考えたシナリオは、次のようです。それは、明智光秀軍団が、正親町天皇を退位させるための脅しとしての馬揃えで、本能寺に集結したところを、本能寺に居る織田信長と徳川家康もろとも、爆殺する、と言うことです。
織田信長を安土城からおびき出す仕掛けは、織田信長が喉から手が出るほど欲しがっていた、「楢柴」を持っている博多の商人鳥井宗室を招き、暗殺日前夜に「茶会」を開催する、と言うことです。そして、その茶会には、織田信長から徳川家康を招待するのです。
連歌好きの明智光秀を謀叛者に仕立てる仕掛けは、公家達に、前夜連歌会を開催させ、謀叛をほのめかす歌を明智光秀に創らせる、と言うことです。シナリオは完成し、後は、実行あるのみです。

しかし、そのシナリオは、半分しか成功しなかったのです。それは、徳川家康が、織田信長の本能寺での「大茶会」を急遽キャンセルして、堺遊行に行ってしまったことと、明智光秀軍団の到着が、本能寺爆発後であったことです。しかし、織田信長の暗殺は成功し、謀叛者としての明智光秀は、シナリオ通り、隣国で待機していた羽柴秀吉軍団により、織田信長爆殺後数日で、山崎合戦で討たれるわけです。
主殺しの謀叛者とされてしまった明智光秀は、藤原氏とイエズス会の陰謀を、配下と信じていたキリシタン大名の高山右近と蒲生氏郷が、主の明智光秀軍側ではなく、敵の羽柴秀吉軍側として参戦したことで知るのです。
更に、同盟者として信頼していた徳川家康も、明智光秀軍に援軍として参戦しなかったのです。ここに、藤原氏とイエズス会による日本支配の陰謀を知る織田信長は本能寺の爆殺で、そして、織田信長の参謀であった明智光秀が、藤原氏とイエズス会による新日本王候補となった羽柴秀吉により、抹殺されたのです。そして、ポルトガル王国に替わって、イスパニア王国の日本侵略の陰謀を知る、残る抹殺者は、徳川家康だけとなったのです。
それでは、何故、徳川家康は、その陰謀から逃れられたのでしょうか。それには、元武田軍団の忍者部隊の金山衆の存在が考えられます。長篠の戦で武田軍団が壊滅すると、その武田軍団を財政的・戦略的に支えていた金山衆は、徳川家康の配下となっていたのです。金山衆は、渡来系の産鉄民族末裔であったので、騎馬民族の徳川家康と同族であったのです。その金山衆も秦氏末裔であったので、秦氏末裔の遊芸者との全国ネットワークを持っていたのです。
千利休の生家は、屋号「ととや」の倉庫業で、その仕事の流れには、物流を担う馬借との繋がりがあったのです。その馬借とは、北条鎌倉幕府の六波羅探題により、源氏狩りから逃れるために、山奥に逃れて「平家落武者」と偽り生き延びた者ではなく、街での賎民に紛れて馬借となり生き延びた「源氏武士」であったのです。
土一揆で、守護大名や幕府軍と互角に戦い、或いは、勝利できたのは、一揆軍を先導した馬借の前身が、源氏武士であったからです。その馬借は、各国にある神社の「座」を、騎馬で、各地のネットワークを繋ぐ重要な媒体者でもあったのです。
千利休は、キリシタンでしたが、それよりも秦氏末裔を意識していたのです。堺での徳川家康を茶会で毒殺することは、それほど難しいことではないのです。それができなかったことは、徳川家康が、薬草に詳しかっただけではないでしょう。
未明の本能寺での出来事は、堺に居た徳川家康に瞬時に届いていたのです。その堺からの脱出ルートが伊賀越えであったことは、徳川家康にとっては幸いであったのです。それもこれも、遊芸者とのネットワークを持つ金山衆抜きにはできなかったことです。
徳川家康が、イエズス会の陰謀から逃れられたのは、賎民達の支持があったからです。それは、1563年三河一向一揆での、徳川家康の戦い後の処理に表れています。苦戦の末、一向一揆軍を敗退した徳川家康は、一向一揆側で闘った敗残兵の武人を、配下にしていたのです。
この戦後処理は、織田信長が、1580年加賀の一向一揆軍を壊滅すると、一揆軍兵だけではなく、加賀の村々の老人幼児まで、全ての者を斬首していたのです。そして、石山合戦でも、白旗を掲げて降参した兵だけではなく、石山本願寺の砦に居た老人幼児全てを、ローマ・キリスト教が魔女を焼き殺していたのをイエズス会宣教師から聞き、そして、真似て、焼き殺していたのです。
この徳川家康と織田信長の敗残兵の処置の違いは、何なのでしょうか。それは、徳川家康と織田信長との民族の違いからきたのです。
一向衆軍の兵の多くは、織田信長と同族の海洋民族末裔ではなく、徳川家康と同族の騎馬民族末裔であったからです。阿弥陀様の民族平等思想を信じた、太陽神ミトラを祀る秦氏末裔の源氏武士末裔が穢多として、奈良・平安仏教にイジメられていたため、その多くが民族平等を説く一向衆となっていたのです。
しかし、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞の世襲一族は、穢多を救うためではなく、穢多の軍事力と財力を取り込むために、穢多村を布教していたのです。それは、石山合戦で、藤原氏の流れにある近衛前久の入れ智慧で、正親町天皇の仲介により、織田信長と和睦した顕如の行動で証明できるのです。民族平等のために闘ってきた穢多と蔑まされた秦氏末裔は、石山本願寺の捨て駒だったのです。
織田信長は、一向一揆軍兵士には残虐でも、奈良・平安仏教組織により汚物処理の「キヨメ」としてイジメられていた海洋民族の同族の余部(海部)を保護し、配下として召抱えていたのです。
では、織田信長も徳川家康も、どのようにして同族を識別していたのでしょうか。それは北条鎌倉時代中期から現れた、武家の歴史を示してデザインした「家紋」で、識別していたのです。
北条鎌倉時代中期以降、北条氏の支配力の衰えが見えてきた頃、山奥で「平家落武者」と偽り棲息していた源氏武士末裔が、北条鎌倉幕府打倒のために、部族の歴史を示す「家紋」を旗印として集まってきたのです。その家紋を識別して、同族が結集して軍団となっていったのです。それらの山の民を集めた軍団の長が、楠木正成であり足利尊氏であったのです。
その山から下りてきた武装集団は、自ら「アク党」と言っていたのです。その武装集団の「アク党」を、王権側が、仏教思想により「悪党」として貶めてしまうのです。この思想戦略により、その武装集団は、悪人の集まる暴力団のイメージとして現在まで伝わっているのです。
しかし、その「アク党」の「アク」が、「悪」ではなく、古代ペルシャ語での「勇者」であるとすれば、その武装集団が、自ら誇らしげに、「我らアク党」と述べていた意味が分かるというものです。その「アク党」は、自らの出自を示した歴史をマークとした「家紋」を旗印として、同族の旗の下に集結していたのです。、
十年戦争の石山合戦では、何故、日本本土西端の毛利輝元が、石山本願寺に、武器・弾薬・食糧を毛利海軍により長期に渡り供給していたのでしょうか。ひとつには、石見銀山の奪取を狙うポルトガル商人に支援されたイエズス会が、石山本願寺を支配するために、イエズス会傀儡の織田信長軍団に攻められていたからと考えられます。敵の敵は、味方であるわけです。
では、何故、毛利輝元は、1571年イエズス会傀儡の織田信長軍団に攻められていた比叡山延暦寺軍には、武器・弾薬・食糧を援助しなかったのでしょうか。それは、石山本願寺軍には毛利氏と同族が居たのですが、平安時代より亡命百済移民末裔が支配する比叡山延暦寺軍には、毛利氏の同族が居なかったからです。
それが分かるのは、石山本願寺軍の砦にたなびいていた旗印に「三ツ星に一文字」があったからです。毛利軍の家紋は、その「三ツ星に一文字」と類似した、「一文字に三ツ星」であったのです。では、その「家紋」には、どのような民族の歴史が隠されていたのでしょうか。
海洋民族や騎馬民族は、広域の遠隔地を行き来するために、旅の指針として、星を目印としていたのです。やがて、その星は、その民族のシンボルとなっていくのです。
平安時代末期、海洋民族の平家(平氏ではない。)と、騎馬民族の源氏が対立していた頃、オリオン座の、赤い星のアルファア星のベルギウスを平家星、そして、白い星のベータ星のリゲルを源氏星、と言っていたのです。
何故、オリオン座が、平家も源氏にも意識されたのかは、古代エジプトでは、オリオン座は、狩の名人とされていたからです。狩の名人のオリオン座を部族のシンボルとしたのは、平家も源氏もその祖は、農耕民族ではなく、狩猟民族であったからです。
そのオリオン座の三ツ星、ミンタカ、アルニウム、アルニタクは、横一列に並んでいたので、遠隔地を旅する民族には、旅の印とされていたのです。
平家の祖は、アラブから渡来の海洋交易民族で、朱砂が産出される伊勢に渡来していたのです。
それに対して、河内源氏の祖は、秦氏で、その秦氏の祖は、ヒッタイト帝国から、古代エジプトに技術者として出稼ぎにきていた部族であったのです。その部族末裔が、ユーラシアの各部族と連合して、東端の日本列島の古墳時代に、渡来していたのです。
古代エジプトでは、狩の名人のオリオン座は、光の神オシリスの印と考えられていたのです。そして、オリオン座を構成する三ツ星は、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドとして表現されていくのです。
その古代エジプトのオリオン座の28宿は、古代エジプトから古代中国大陸に渡来した民族により、その28宿の内の一群が、Shen(参・セェン→サン・3)と言われ、日本列島に渡来した民族により、その星群の「Shen」が、「三ツ星」と言われることになるのです。
古墳時代に、河内湾に突き出た岬に上陸した民族は、その地を、古代エジプト語の岬を意味する、ワタ(波)ナーベ(小山)と名付けるのです。その地を支配した民族末裔は、地名から名字としてワタナベと呼ばれていくのです。
そのワタナベは、平安時代、814年嵯峨天皇より源氏賜姓を受けた源融の五代目源綱が、ワタナベに移り住んだことにより、渡辺綱となり、渡辺党を興すのです。そして、ワタナベの祖である秦氏が、朝鮮半島から北九州に渡来した地には、渡辺党と同族の松浦党の祖が興るのです。
戦国末期、大坂の石山本願寺砦と、毛利海軍の旗印に、「三ツ星と一文字」、「一文字と三ツ星」があるのは、毛利海軍には、平安時代に、アラブから渡来の海洋民族末裔の平家に滅ぼされた、渡辺党の支流である海洋軍団の松浦党末裔がいたからです。
では、三ツ星の歴史は分かったのですが、一文字とは、何のシンボルであるのでしょうか。
源氏の祖は秦氏です。その秦氏の祖は、日本列島に渡来する前は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)に居住していたのです。その新羅の軍団・花郎騎士団は、元は、ローマ帝国傭兵軍であったのです。ローマ帝国傭兵軍の主武器は、長い槍で、それは、ローマ人が使う長槍を意味する、ロンギヌスの槍と云われていたのです。そのロンギヌスの槍を表わしたのが、一文字であるわけです。
「三ツ星と一文字」を旗印とする渡辺党が、ロンギヌスの槍を主武器としていたことは、三河一向一揆敗残兵で、後に、徳川家康の家臣となった渡辺半蔵守綱は、別名「槍の半蔵」と云われた長槍使いの名人であったことで、説明できるのです。
その「三ツ星と一文字」と「一文字と三ツ星」を旗印とする部族は、その部族の歴史を知ることにより、戦いで、同士討ちを避け、助け合うわけです。石山合戦が、イエズス会の最新式武器の銃と、多くの傭兵軍が供給されたにもかかわらず、十年も持ちこたえたのは、秦氏末裔の古代エジプトの高度土木技術による深堀と石組壁だけではなく、同族の毛利軍の軍事的援助があったからです。
その十年戦争の石山合戦で敗れた兵士も、徳川家康は、家臣として召抱えていたのです。徳川家康は、何を目的に、一向一揆敗残兵や石山合戦敗残兵を、家臣として召抱えていたのでしょうか。
その徳川家康が目指していた事を知るには、イエズス会傭兵から関白豊臣秀吉への出世の秘密を調べると、あぶり出し絵のように浮かんでくるようです。それは、豊臣秀吉を裏で駆っていたのが、イエズス会ではなく、藤原氏であったからです。
豊臣秀吉は、テレビ時代劇ドラマなどでは、誰にでも親切で、明るい性格のように描写しているようです。しかし、その性格を描写するための素材史料は、豊臣秀吉が総監修した「信長公記」、或いは、「天正記」と言われる「播磨別所記」「惟任謀叛記」「関白任官記」などであるのです。
しかし、その一級史料と言われる「信長公記」でも、大久保彦佐衛門が「三河物語」で述べたように、信憑性は三分の一程なのです。そして、「フロイス日本史」では、教科書歴史とは異なる、陰湿で残酷で淫乱な豊臣秀吉が描かれているのです。
江戸時代、江戸ではあまり評判のよくなかった豊臣秀吉も、大坂では人気があったのは、大坂の住民の、新羅系日本人(秦氏・源氏)よりも、百済系日本人(平氏)が多く住む、民族構成によるようです。
そして、騎馬民族末裔の徳川家康が、秦氏末裔の穢多頭弾左衛門一族と共に湿地帯を開拓して宅地としたエドに、大坂で民族差別されていた秦氏末裔が多く住む渡辺村からエドに移民させ、共に築いたエドの都が、1623年第三百済王朝の江戸時代に替わった、百済の血が流れる家光が三代目将軍となった三年後、ウソの多い「信長公記」をベースに「信長記」を著していた、小瀬甫庵が1626年著した「太閤記」では、豊臣秀吉の架空の少年時代の名が、日吉丸であったのは、大坂の百済系日本人を意識していたからでしょう。
それは、出自不明の豊臣秀吉の歴史を創作した「太閤記」で、豊臣秀吉の少年時代の名前日吉丸の日吉とは、朝鮮半島読みでは、イルギで、それは、亡命百済移民が祀る比叡山延暦寺の神、シャンワン(山王)から派生したイルギ(日枝)→イルギ(日吉)に繋がるからです。
因みに、戦国時代の日本国の民族構成は、新羅系日本人(秦氏・河内源氏武士・徳川家康)、百済系日本人(桓武天皇家、京の皇族・平氏サムライ・比叡山僧侶)、アラブ系日本人(伊勢住民・平家・織田信長)、ユダヤ系日本人(奈良の公家・南九州藤原氏・京の近衛前久)、その他先住民となるのです。
現在の豊臣秀吉の明るく爽やかな性格が確定したのは、藤原氏が復活した明治革命以降であったのです。
大坂夏の陣後に、徳川家康が、自身の関東の穢れ地への移封と、同族の秦氏に対しての狼藉の数々に対して、豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を粉々にして散撒していたのです。しかし、明治革命で、藤原氏の復活と共に豊臣秀吉は、再び、豊国神社に祀られる神として復活したのです。では、戦国末期、藤原氏は、豊臣秀吉を傀儡として、秦氏末裔をどのようにしたかったのでしょうか。
1582年2月15日巡察師バリニャーノは、天正少年使節を連れて長崎からヨーロッパに向けて旅立ったのです。その四ヵ月後、織田信長は、本能寺で爆殺され、その下手人とされた明智光秀は、あっさりと羽柴秀吉に滅ぼされてしまったのです。
その織田信長爆殺の流れで不思議なのは、利休七哲といわれる堺に集まるキリシタンの武人達、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山堅物、蒲生氏郷、高山右近らは、本来ならば、織田信長のナンバー2の明智光秀軍に参加するのが流れなのですが、全て、羽柴秀吉軍に参加しているのです。
そして、不思議なのは、キリシタン大名の高山右近は、明智光秀の配下であったのにもかかわらず、羽柴秀吉軍に加わっていたのです。そして、高山右近はイエズス会の十字軍旗と共に、1585年豊臣秀吉に改名した後も引き続き、1587年十字軍旗をたなびかせたイエズス会軍団が九州平定まで、豊臣秀吉軍と共に行動していたのです。
このイエズス会に最も忠実であるキリシタン大名の高山右近の行動から、織田信長爆殺から九州平定までは、イエズス会のシナリオ通りに、羽柴秀吉は動いていたようです。しかし、1587年キリシタン軍団の主力である大村純忠が死去すると、1585年豊臣姓に変身していた秀吉は、その本性を現すのです。それが、キリスト教宣教師の追放令です。
そして、九州平定最後まで共に闘った高山右近に、キリスト教の棄教を迫るのです。しかし、キリスト教を強く信じる高山右近は、大名の地位をあっさり捨てて、布教のために山奥に篭ってしまったのです。そして、高山右近は、1614年国外追放まで、山奥で布教を続けていたのです。
では、羽柴秀吉から豊臣秀吉の改名には、どのような仕掛けがあったのでしょうか。
1584年宿敵の徳川家康を、小牧・長久手の戦いで壊滅できなかった羽柴秀吉は、翌年1585年藤原氏の流れにある近衛前久の猶子(ゆうし・契約関係の親子)となり、藤原一門として、豊臣姓を賜うのです。
その豊臣の「豊」とは、藤原氏が藤原氏でなかった古墳時代の、北九州に608年にはあった秦王国の改竄国名です。その豊国の家臣である「豊臣」姓は、歴史的には、藤原氏よりも上位にあるとするのです。
羽柴秀吉を藤原一族に引き込んだ近衛前久は、藤原氏の古来からの悲願である日本支配まで、イエズス会軍団の力を利用することを考えていたのです。そして、1587年南九州の島津義久を平定すると、イエズス会の主力軍団長の大村純忠が死去すると、最早イエズス会には用はないと、近衛前久(藤原氏)は豊臣秀吉より、宣教師追放令を発せさせるわけです。
そのように強気に出られたのは、イエズス会を軍事的・経済的に支えていたイスパニアの海軍は、イングランド海軍の攻撃により、敗退を重ね、その後、1588年にはイスパニア無敵艦隊は、イングランド海軍により壊滅されてしまっていたからです。軍事的・経済的援助がないイエズス会は、907年母国唐が滅んだため平安中期に唐進駐軍が壊滅したために、その援護を受けていた百済系天皇家の力が衰えたように、最早、豊臣秀吉に命令する立場になかったのです。それに、巡察師バリニャーノが不在のため、豊臣秀吉のイエズス会に対する不正行動を、ローマ教皇へ報告する者もいなかったのです。
では、豊臣秀吉を取り込んだ藤原氏は、戦国時代の日本国で、何を企てていたのでしょうか。
白鳳時代初期、藤原京の砦を侵略基地とする唐進駐軍をバックにした籐氏(藤原氏)が、文武天皇を傀儡として、701年大宝律令により、騎馬民族の天子(テングリ・王)から発明した天皇制の垂直支配構造のメカニズムを利用して、各地の豪族の私有地を合法的に奪ったように、戦国時代、荘園制の崩壊により土地の耕作と税制の秩序が乱れたのを統一するために、中間搾取ではなく、王権(藤原氏)が直接搾取できるように、耕作者を検地帳に登録して土地に縛り付けるために、1582年織田信長が爆殺されるとすぐに、藤原氏は、イエズス会傀儡の羽柴秀吉(この頃の羽柴秀吉は、イエズス会と藤原氏を両天秤に掛けていた。)の力を利用して、太閤検地(太閤とは、前関白の意味。)をおこなっていたのです。
この太閤検地(1582年〜1598年)により、土地制度が全国統一され、物差しや枡(京枡)の全国統一により、度量衡が統一されたため、年貢の徴収も統一されたため、羽柴秀吉の収入は莫大なものになっていくのです。イエズス会にとっては、土地・税制改革を断行して全国統一を目指す羽柴秀吉は、織田信長が仏教軍団を壊滅して、同族の海洋民族を仏教支配下から開放したことに満足していたのとは異なり、日本の王として相応しく思われたのです。
大宝律令では、土地に縛られない騎馬民族や海洋民族は、その土地本位の税制から逃れてしまったのです。このことは、戦国末期の税制にも言えたのです。漂泊する騎馬民族では、人頭税となっているのを、土地本位の税制を適用するには無理が生じます。王権にとっては、騎馬民族や海洋民族は、税を搾取する対象の良民ではないため、全国を支配するためには抹殺の対象であったのです。
この太閤検地の改革は、奈良時代に全ての土地を天皇家のものとした大宝律令と同じで、全ての土地の国有化を目指していたのです。勿論、その国有化を管理するのは、関白豊臣秀吉を傀儡とする藤原氏であるのです。
その目的を達するには、織田信長は、豊臣秀吉の総監修の「信長公記」で述べているような、「天下布武」をスローガンに、「日本統一」などは全く考えていなかったため、藤原氏(傀儡関白豊臣秀吉)が日本統一するまでは、イスパニア商人とポルトガル商人が軍事支援するイエズス会からの、武器・弾薬と、十字軍マルタ騎士団のロルテスのようなイエズス会傭兵が必要であったのです。
イエズス会が、仏教組織に対抗する大名に軍事支援していたことは、1587年豊臣秀吉の宣教師追放に対しての第二回日本イエズス会全体協議会での史料で分かるのです。それには、「要塞建築を引き受けたり、イエズス会が使うためであれ、それを用いて戦時にキリスト教徒の領土を救済するためであれ、大砲、弾薬、銃、諸他の武器、戦争資材を有したり、キリスト教徒の領主のためにそれらを調達することを禁じる。」、と記述されていたのです。その史料によると、1587年までは、イエズス会は、仏教組織に対抗する大名に軍事支援していたのです。
それは、戦国時代の日本列島には、武闘を専門にする武人が少なかったからです。イエズス会が渡来するまでは、日本列島での戦闘は、農閑期の秋から春までにおこなわれていたのは、武人の多くは、農耕もおこなっていたからです。そのような日本列島の戦闘構造では、戦国大名は、自国の境界線を護るのが精一杯で、日本統一などの発想は、織田信長を含めて皆無であったのです。
傭兵制度を日本列島に持ち込んだのは、イエズス会であったのです。その先駆者が、尾張の弱小武将の織田信長であったのです。
1583年イエズス会傭兵の羽柴秀吉は、石山本願寺の砦を徹底的に破壊した跡地に、大坂城を築くのです。そして、羽柴秀吉は、大坂城を中心に、城下町を築くのですが、その一等地にキリシタンの教会建設を許すのです。この時期の様子を、「フロイス日本史」では、「かつて大坂の街が、日本中で極悪の衆派の一つである一向宗の本山であったように、今や主なるデウスはこの街をキリストの福音の伝播のため、それにまったくふさわしい中心地として改造することを嘉し給うたかのようである。」、と述べているのです。ここまでは、羽柴秀吉は、イエズス会のシナリオ通りに行動を、表面上、おこなっていたのです。
1221年承久の乱で、藤原氏の陰謀により、源氏残党として京に生き残っていた河内源氏が全て抹殺されたように、1585年豊臣秀吉は、キリシタン大名高山右近と共に、最後まで残っている源氏武士末裔と雑賀衆と根来衆壊滅のために動くわけです。この戦闘により、近畿地域の一向宗軍団が消滅するわけです。しかし、三河の徳川家康の軍団には、一向宗残党兵が温存されていたのです。
この近畿の一向衆軍団の最後の戦いである、真言宗一派の根来衆が立て篭もる太田城の水攻めを、豊臣秀吉は、大坂の教会からセスペデス神父を招き見学させているのです。
1587年イエズス会軍団により、九州を平定した豊臣秀吉は、「日本は神国」と宣言し、伴天連追放令を発して、そして、京に聚楽第を建設し、その聚楽第内に、千利休の屋敷を構えさせ、北野大茶会を開催させていたのです。この「日本は神国」発言は、285年後の、1868年藤原氏が復活した明治革命で、もう一度聞くことになるのです。
しかし、その「日本は神国」の発言に反して、その伴天連追放令にもかかわらず、相変わらずイエズス会は、京で布教活動をおこなっていたのです。豊臣秀吉が、本格的に伴天連追放をおこなったのは、1596年土佐の浦戸にイスパニア船サン・フェリーペ号が入港し、その宣教師が、「イスパニアは、領土拡張の手段として先ず、フランシスコ会士を送って布教させ、その後、軍を派してその地を征服するという方式をとっている。」と、拷問に耐えかねて、白状したことを知ってからのことです。その後、フランシスコ会宣教師9人、日本人信徒17人が捕らえられ、処刑されたのです。
1590年小田原北条氏政を滅ぼした豊臣秀吉は、その年に、宿敵徳川家康を、三河から、関東の穢れ地へ移封するのです。この処置は、西国への徳川家康の軍事介入を阻止するためと、関東の湿地帯に追いやることで、徳川家康軍の軍事力を削減させるのが目的であったのです。
豊臣秀吉を描いた小説やテレビドラマで、大坂城の天守閣の場面で、天下を盗ったところで終わるのは、その後の豊臣秀吉の言動が、英雄には相応しくなかったからです。
1583年石山本願寺を徹底的に破壊すると、その跡地に、大坂城を築造するために、石山本願寺軍のために武具や甲冑を製造していた渡辺村(秦王国)を、大阪市中央区九太郎町に移封するのです。その地は、「九太郎」が、「百済・くだら」を隠蔽するために付けられた町名でも分かるように、亡命百済移民が多く暮す町であったのです。このことにより、秦氏末裔は、亡命百済移民末裔による、血・肉食禁忌の民族差別思想でイジメられていくのです。
亡命百済移民は、新羅から渡来した秦氏には、民族的恨みを持っていたのです。それは、663年母国百済を、新羅・唐連合が滅ぼしていたからです。
794年唐進駐軍の軍事支援により、百済系桓武天皇が、秦氏の支配地の山背国(秦王国)を乗っ取り、その地に「平安京」を遷都するのです。その「平安京」は、唐進駐軍により、「洛陽」と呼ばれていくのです。それは、唐本国の都・京兆府(長安)の東の都が河南府(洛陽)と呼ばれたのに習い、唐から海を隔てた東の都を「洛陽」と呼んでいたからです。唐進駐軍が隊列を整え「平安京」(洛陽)に上っていたことが、後に、本来の語源の意味が分からなくなってしまい、軍団が隊列を整え京に上ることを、「上京」ではなく、「上洛」と言われていくのです。
平安時代、その「平安京」(洛陽)で、唐進駐軍により軍事支援された桓武天皇とその貴族は、母国百済を滅ぼした新羅から渡来していた秦氏一族を、秦氏支配地や祭祀場から河原に追放することにより、「河原者」の賎民として貶めていくのです。
この歴史が、この戦国時代の大坂で再現されていくのです。それは、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により、秦氏末裔が多く住む渡辺村(秦王国)は、騎馬民族末裔の徳川家康のように湿地帯に移封され、穢多村として貶められていくのです。
この藤原氏の指示による豊臣秀吉の民族差別政策は、平安初期、藤原氏の援助により唐に渡り、インドのバラモン教の民族差別思想を、前支配者の騎馬民族文化を抹殺するために、日本列島に持ち込んだ錬金術師空海が蒔いた「施陀羅悪人なり」の種が、北条鎌倉時代では、「塵袋」で、「天竺に施陀羅というは屠者なり、生き物を殺して売るエタ体の悪人なり」となり、そして、戦国末期には、宗教関係者ではない豊臣秀吉が、「日本は神国」と唱えて発した「伴天連追放令」では、「牛馬を売り買い、ころして食う事、これまた曲事たるべき事」、となって庶民による民族差別として発芽していくのです。
騎馬民族であるので、当然肉食する秦氏末裔にとっては、この「屠殺=悪」の思想は、騎馬民族である秦氏の歴史の全否定に繋がってしまうのです。
それは、645年殺生禁止思想の漢訳仏教が日本列島に侵略してくる前までは、河内平野や飛鳥ヤマトを、北東アジアを支配していた騎馬民族の突厥帝国進駐軍と共に支配地としていた秦氏の祭祀者は、古墳(死者の土の家→塚)上の祭祀場で犠牲として牡牛を屠り、神に捧げていたからです。
この景教(ミトラ教)の古墳上の祭祀場を、歴史上抹殺するために発明されたのが、「神社」であるのです。つまり、神社は、日本古来の宗教施設などではなく、漢訳仏教を手先とする勢力が、前政権の神を封じ込めるための建物であったのです。この神社が、日本列島に出現したのは、645年漢訳仏教勢力による「薄葬令」で、古墳での埋葬禁止令が発令された以降であったのです。ですから、歴史的に古い神社が、こんもりした森が茂る小山(塚→古墳)の上に多くあるのは、そのためだったのです。
この「薄葬令」が、645年に発令される以前は、日本列島の各地で、巨大前方後円墳は造り続けられていたのです。このことから、飛鳥ヤマト時代が、オリエントから渡来の秦氏により古代エジプトの高度土木建築技術で、河内平野から飛鳥ヤマト地域にかけて、巨大古墳、大運河、幅十二mの直線古代高速道路を建設していた、古墳時代と重なっていたことが分かるのです。
その時代が、藤原氏による「日本書紀」で述べる「552年仏教伝来」、又は、亡命百済王朝による「538年百済仏教伝来」の、血・肉食禁忌の仏教文化の飛鳥大和時代などではないことは、河内平野や飛鳥ヤマトの遺跡の数々が証明するのです。
紀元前十四世紀、古代エジプトの宗教改革で牡牛が太陽神の化身となり、その思想が東進し、古墳時代の日本列島に、太陽を祀る景教(=太陽の都への教え・ミトラ→弥勒)として伝来するのです。その生と死を永遠に繰り返す太陽神の化身の牡牛が、太陽光が最も弱くなる冬至(12月25日)に、その太陽神の化身として屠ることにより、太陽の再生を祝うのです。
河内平野や飛鳥ヤマトにあった、そのミトラ教(景教)の祭祀場は、戦国時代中期にイエズス会が武装したポルトガル商人と共に渡来し、布教完了地の仏教施設を徹底的に破壊した跡にキリスト教教会を建てたように、645年唐進駐軍と共に、進駐してきた仏教組織により徹底的に破壊されて、その跡に、仏寺を建立(北九州より移築)して、ミトラ教の歴史的抹殺を謀るのですが、後の世に、その隠ぺい工作がバレてしまうのです。それは、仏寺境内から発掘された建物跡が、仏教建設思想の南北軸から、西に約二十度傾いているのは、冬至に太陽神を祀っていた祭祀場跡を示していたからです。
そして、秦氏一族は、その儀式で屠った牡牛の血を飲み、生肉を食べることにより、太陽神と一体になれる、と信じていたのです。このミトラ教の儀式が、ローマ・キリスト教に導入され、血が赤葡萄酒に、そして、生肉がタネナシパンと改竄されたのです。
キリスト教物語の最後の晩餐で、キリストが、弟子達に、赤葡萄酒とタネナシパンを与えて、「これは私の血であり肉である。」、と述べさせたことは、キリスト教物語を創作した作家は、ミトラ教の儀式を知っていたからです。
ですから、戦国時代のイエズス会のキリスト教宣教師も、京の教会で、牛の肉を大いに食べていたのです。勿論、秦氏末裔の山の民の、秦氏末裔の源氏武士であった、キリシタン大名の高山右近も肉食をしていたのです。その高山右近軍団が強かったのは、イエズス会からの鉄砲や弾薬を供給されてはいましたが、高山右近の部下である山の民は、秦氏末裔なので、皮をなめし革製品を作り、皮を煮詰めて接着剤として膠(にかわ)を作り、そして、ヒッタイト帝国から引き継いでいたタタラ製鉄技術により、武具や武器を自家生産できたからです。
そして、屠った牡牛の皮を剥ぎ、なめして革に加工することは、農耕民族が脱穀した後の藁を草履やムシロに加工することと同じで、騎馬民族にとっては日常的な出来事であるのです。それを、簒奪王権は、血・肉食禁忌の漢訳仏教思想を武器として、秦氏末裔を貶めるために、権力の手先の仏教僧が「ケガレ」として宣伝して歩いていたのです。
実は、その血・肉食禁忌思想は、仏の道(非人として乞食し生きること。)を説いた釈尊の教えなどではなく、インドのバラモン僧が、先住民の遊牧民族トラヴィダを、不可触賎民として貶めるために発明した思想であるのです。
そのバラモン教の血・肉食禁忌思想を、一世紀の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の経典に、騎馬民族の侵入に悩む中国大陸を支配する農耕民族王侯に取り入るために、挿入したのが、バラモン僧のナーガルジュナ(180年〜240年)であり、鳩摩羅什(405年)であるわけです。ですから、文殊の徒により無数に創作された漢訳仏典には、騎馬民族への差別語が沢山あるのは、そのためなのです。
では、仏教が伝来していた中国大陸では、「肉食は悪」などのバカゲタ思想が定着しなかったのに、何故、日本列島では定着してしまったのでしょうか。
それは、藤原氏が、バラモン教の遊牧民族差別思想を日本列島に持ち込んで、前世で悪業(肉食など)をおこなった者や、仏教に敵対する者は、仏罰としてハンセン氏病になると「法華経」などの仏典で宣伝し、その仏罰者のハンセン氏病者の世話を秦氏末裔の部落にさせる等の、陰湿な手段を用いて、騎馬民族であるので、当然肉食する秦氏を、賎民として、奈良時代から貶め続けていたからです。
但し、奈良時代までの「ケガレ」とは、反王権のアウトローに対してでしたが、亡命百済民が、中国山東半島から日本列島に多く移民してきた平安時代になると、反逆者としての「ケガレ」が、汚わいの意味の「ケガレ」に摩り替わっていくのです。それは、平安時代初期に、錬金術師空海が、唐より持ち込んだ、インドのバラモン教の民族差別思想が原因であったのです。
では、何故、藤原氏は、古来から秦氏を社会的に抹殺しようとしていたのでしょうか。それは、日本史の謎は、天皇にあるのではなく、藤原氏にあるからです。そして、その藤原氏の謎は、秦氏の歴史が暴いてしまうからです。秦氏の歴史は、藤原氏の「黙示録」であるのです。
1585年羽柴秀吉が、藤原氏の猶子となり関白豊臣秀吉になると、突然、朝鮮半島から中国・東南アジア・インドまでの征服計画を練るのです。その豊臣秀吉の謎の行動は、豊臣秀吉自身にあったのではなく、どうも、藤原氏側にあったようです。それは、最終征服地がインドであったからです。そのインドには、藤原氏が日本列島に渡来した以前の居住地、マラバル沿岸があるからです。そして、そのマラバル沿岸には、イエズス会の侵略基地があるのです。
その天児屋根命を祖とする藤原氏の謎は、秦氏の歴史が公にされると、解明されてしまうのです。それは、天児屋根命が出現する天岩戸物語は、ギリシャ神話を模倣したものであるからです。ですから、藤原氏は、オリエント渡来の秦氏の歴史の抹殺をおこなっていたのです。
このことは、イスラエル民族と同じです。イスラエル民族とユダヤ民族は、祀る神が異なる異民族であるのです。その太陽神と牡牛を祀るイスラエル民族の歴史が公にされると、唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族の歴史の謎が解けてしまうのです。
そのために、ユダヤ民族は、紀元前722年アッシリア帝国の砂漠に消えたイスラエル民族末裔を全世界で探索し、歴史的抹殺をおこなっていたのです。つまり、巷で言う「失われたイスラエル十部族」などではなく、実際は「抹殺されたイスラエル十部族」であるのです。
日本国の天皇のルーツは、645年唐進駐軍と中臣族(藤原氏の祖)軍に敗れた、突厥帝国残党兵と新羅系秦氏軍とによる、663年本国百済壊滅のため亡命してきた、百済亡命近江王朝を壊滅して、672年新羅系皇子が、天武天皇として即位したことが始まりであったのです。それ以前には、歴史上、天皇は存在していなかったのです。
その新羅系天武王朝を、770年藤原氏の陰謀により、亡命百済下級貴族を光任天皇として簒奪し、その百済系王朝が現在に至っているわけです。(幕末、天皇摩り替え説あり)
この、新羅系と百済系との二系統ある天皇家の周りで暗躍していたのが、藤原氏であるのです。ここが、「天皇家の謎は、藤原氏である。」、と言われる所以であるのです。その天皇家をコントロールする藤原氏の謎を解くヒントが、ニッポンの聖書である「日本書紀」にあるのです。
日本国の建国歴史を調べるための基本史料としては、国史としての六国史が挙げられます。それらは、720年「日本書紀」藤原不比等など、794年「続日本記」藤原継縄など、840年「日本後紀」藤原冬嗣など、869年「続日本後紀」藤原良房など、879年「日本文徳天皇実録」藤原基経など、そして、901年「日本三代実録」藤原時平、菅原道真など、により編纂された書籍です。
これらの国史と言われているもの全てに、藤原氏一族が編纂に関わっているのは何故でしょうか。そして、六国史最後の「日本三代実録」の編纂に関わった、藤原時平は、菅原道真を、その完成年に、北九州大宰府に左遷し、そこで謀殺しているのです。その後、恨みを秘めたまま謀殺された菅原道真は、雷神となり、藤原一族を祟る訳です。その菅原道真の祟りを鎮めるために、藤原氏が、大宰府天満宮を建立するのです。
では、この六国史は、誰のために、そして、何を目的に綴られていたのでしょうか。その謎の解明のヒントが、「日本三代実録」の最後の記述が、889年でおわっていることです。そして、不思議なのは、それ以降、勅撰の史書の編纂はおこなわれていないのです。
では、889年前後の日本と東アジアの歴史は、どのようになっていたのでしょうか。その時代前後の東アジアを調べると、中国唐での「黄巣の乱」が見つかります。塩の密売人の黄巣に先導された大農民反乱軍は、紀綱の乱れに乗じて、875年から884年にかけて、唐全土で暴れまわり、880年には黄巣は長安を支配し、帝を称し、国名を齋としていたのです。
その「黄巣の乱」が原因となり、その結果、907年唐は滅亡するわけです。そして、その唐滅亡十三年前、894年平安朝廷は、菅原道真を遣唐使に任命したのですが、菅原道真の宇多天皇への進言により、遣唐使が廃止となっていたのです。
何故、菅原道真は、遣唐使船の廃止を宇多天皇に願い出たのかの原因のひとつは、唐が滅亡寸前で、治安が乱れ、治外法権の仏寺を持つ仏教も腐敗して学ぶべきものが無いのと、そして、藤原氏が運営管理している遣唐使船は、新羅商船が事故無く唐へ渡れるのに、四隻中二隻は沈没するからです。
その竜骨のない、外洋船に不向きな遣唐使船で、藤原氏は、敵者を沈没という合法的な抹殺をおこなっていたのです。藤原氏からの身の危険を感じていた菅原道真が、遣唐使を辞退したのは、その遣唐使船転覆の背景があったからです。
では、唐の衰退と、六国史編纂の終わりは、何を意味していたのでしょうか。それは、唐から海を隔てた東の都「平安京」(洛陽)への隷属関係が切れたことを意味していたのです。日本国の奈良時代から平安時代中期までは、唐の支配下にあった証明が、漢語で記述された六国史であったのです。つまり、日本国歴史を綴った六国史とは、唐に提出するための書籍であったので、唐が滅亡してしまったことにより、永遠に、それ以降の編纂はおこなわれなかったのです。
では、奈良時代、唐隷属初期に現れた「日本書紀」とは、何を目的に創作されたのでしょうか。歴史教科書的には、百済系女帝持統天皇の正当性を述べるため、としているようですが、それは違います。ユダヤ教ヨシュア派の教会(砦)があった、南インドのマラバル沿岸から渡来した、藤原氏の先祖の歴史を隠蔽・改竄するためのトリックが、「日本書紀」を藤原氏が創作した、第一の目的であるのです。それは、架空の藤原氏の祖・中臣鎌足(後の藤原鎌足)を日本の古代史に登場させるためだったのです。
その中臣鎌足が「日本書紀」の物語で登場する場面は、645年「大化の改新」にからんだ事件です。しかし、その中臣鎌足と中大兄皇子とのクーデター物語にいたる場面とソックリの物語が、647年新羅での「眦曇の乱」(ひどんのらん)にあるのです。
その新羅の革命物語では、「金庚信が王孫の金春秋と接近するために、金庚信の家の前で、蹴鞠の戯をして、わざと金春秋の裳すそを踏んで、襟ひもを裂き、自分の家に招きいれて、妹にそれを縫わせるのです。それが縁で、金庚信の妹と金春秋が結婚し、そして、その金庚信と金春秋の二人が力をあわせて革命を起こした。」、と述べているのです。
「日本書紀」は、ニッポンの聖書であると信じられているため、その中で述べられている物語や記述は、真実が語られていると、信じられているようです。しかし、「眦曇の乱」と「大化の改新」の革命物語がソックリなことからも分かるように、「日本書紀」は、「聖書」の創作過程とソックリなことが分かるのです。それは、他民族の物語を都合よく利用して、自民族に都合の良い物語に改竄する、と言うことです。
「聖書」が、現在手にできる「旧約聖書」と「新約聖書」の合本書籍のようになったのは、1517年マルチン・ルターの95ヶ条による宗教改革により、ローマ・キリスト教から分離して、プロテスタント組織ができてからです。
紀元一世紀、国際交易都市ガンダーラで大乗仏教が発明された頃、ユダヤ王国は、ローマ帝国の攻撃を受け、その支配下となるのです。そのローマ帝国支配への対抗勢力を結集するために、ユダヤ教の一派である、「ヨシュアはメシア」(ギリシャ語で、イエス・キリスト)と叫ぶヨシュア派が、今まで分冊となっていたユダヤ経典を、ヨシュアの権威付けのために、ヨシュアがダビデ・ソロモンの直系であるとする物語を、ユダヤ経典を集めて勝手に合本とするのです。そして、ユダヤ経典合本を「旧約聖書」とし、新たにヨシュア関連の合本を「新約聖書」としたのです。
そして、その後、そのビブリア(合本)は、バイブル(聖書)と呼ばれていくわけですが、不思議なのは、ヨシュア派の合本(ビブリア→バイブル)は、ユダヤ王国で使われていたアラム語やヘブライ語ではなく、何故か「ギリシャ語」で書かれていたのです。
その合本の「旧約聖書」は、その後、各宗教組織により異なり、97年以前に決められたヨシュア派の「旧約聖書」は46分冊、1517年以降に決められたプロテスタントの「旧約聖書」は39分冊、そして、97年ヤムニア会議で決められたユダヤ教の「旧約聖書」は、24分冊で構成されていたのです。しかし、その「旧約聖書」が合本される前の元分冊原稿は、紀元前四世紀には固定されていたようです。
「日本書紀」と「旧約聖書」の構成が似ていることは、以前から指摘されていることです。それは、最初に天地創造物語から始まり、神話世界となり、そして、歴史世界へと展開されていくからです。そして、ユダヤ民族の祖アブラハムの家系図と、藤原氏の祖による中臣神道のスサノオの家系図が酷似していると云われているのです。そのひとつが、両家系図で「ヤコブ」と「ニニギ」とが、重なるからです。
そして、両書とも、祭祀氏族の歴史が神話世界でさりげなく記述されているのです。「日本書紀」では、藤原氏の祖天児屋根命は、天岩戸物語で祭祀者として登場し、そして、「旧約聖書」では、モーセ物語で、レビ族アロン一派が祭祀独占の世襲化を約束されているのです。
そして、「旧約聖書」の「民数記」では、敵国進入準備のため、人口調査を行い、そして、侵攻後、民族浄化のために聖絶の方法を記述しているのです。この「旧約聖書」は、良いお話だけではなく、他民族の歴史を乗っ取る方法も提示しているのです。それは、他民族の歴史の流れに、自民族の歴史を挿入することです。
イスラエル民族は、「旧約聖書」の存在を知らないのです。それは、「旧約聖書」のモーセ五書と言われる、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」は、紀元前722年イスラエル王国が滅んでから、136年後以降に創作されていたからです。それらの物語は、紀元前586年から紀元前538年までのバビロン幽囚前後に創作されたのです。ですから、イスラエル民族は、「旧約聖書」を知らないのです。
そのモーセ五書と言われる物語は、古代バビロニアのアッカド王サルゴン(モーセの誕生物語)やギルガメッシュ叙事詩(ノアの箱舟物語)などから題材を租借し、創作されていたのです。ですから、モーセは、聖徳太子と同じに、創作上の人物であるのです。
イスラエル民族の祖は、ヒッタイト帝国→古代エジプト→シナイ半島の流れにあるのに、ヘブル(垣根を乗り越える進入者の意味)といわれた流離いの民族が、バビロニアのウル→シナイ半島→古代エジプトの流れに改竄し、「出エジプト記」物語でモーセからの神の啓示「十戒」を創作し、イスラエル民族の掟(実は、ユダヤ民族レビ族アロン一派に都合が良い掟)とし、そのイスラエル民族の歴史を乗っ取るのです。その方法は、イスラエル民族の祖ヨセフ族の父ヤコブを発明して、そのヤコブ物語を、ヨセフ物語の前に挿入してしまうのです。
この他民族の歴史を乗っ取る方法が、「日本書紀」に応用されているのです。それが、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との、二度にわたる神仏戦争物語です。その物語では、河内平野を支配の秦氏を「物部氏」に、飛鳥ヤマト支配の突厥帝国進駐軍を「蘇我氏」とし、587年の神仏戦争物語で、蘇我氏により物部氏(=秦氏)を歴史的に抹殺し、645年「大化の改新」で、中大兄皇子と中臣鎌足により蘇我氏(=突厥帝国進駐軍)を歴史的に抹殺してしまうのです。このことにより、河内平野も飛鳥ヤマトも、オリエント文化色から仏教色に隠蔽されてしまうのです。
この神仏戦争物語は、更に、藤原氏の中臣神道の神が、仏より以前に日本列島に存在していたとの錯覚を与えてしまうのです。それは、渡来の蕃神の仏を阻止するのが、在来の神であるとするからです。その物語により、河内平野や飛鳥ヤマトで、牡牛を屠り祀られていた太陽神の景教(ミトラ教)や、北極星(太一)を祀る道教を歴史的に抹殺できたのです。ですから、後のひとは、中臣神道が、日本最古の宗教組織であると錯覚してしまうのです。しかし、史実は、仏教伝来の後に、中臣神道が渡来したのです。
では、「日本書紀」に突然現れた中臣氏とは、何者なのでしょうか。それは、「旧約聖書」に突然現れたヤコブと同じです。そのヤコブとは、「不正な手段で王権を簒奪した者」という意味です。
「旧約聖書」の欺瞞性が解明されたのは、皮肉にも、「聖書」を信仰のよりどころとしたプロテスタント活動が興ったからです。それまでのローマ・キリスト教の信徒は、「聖書」を読んではいなかったのです。そのプロテスタント信者の中から、どうも「聖書」の記述はおかしいと気づき始めたのが18世紀末で、何でも疑うことが許された啓蒙主義時代になると、「聖書」の不思議を研究する者が現れ、「ヨハネの黙示録」の「666の謎」が解明されると、「旧約聖書」に、主と神の二つの異なる文章があることが確認されるのです。その「主」文章は後に挿入されたもので、「神」文章が元であることが分かるのです。
この改竄書「聖書」を暴くヒントを述べた「ヨハネの黙示録」と同じものが、「古事記」であるのです。「古事記」は、巷で言う、外国向け歴史書の「日本書紀」に対する、国内向け歴史書などではないのです。1778年から1798年にかけて、本居宣長により「古事記伝・上巻中巻下巻」が著されてしまったため、「古事記」が、やまとの原日本風景を述べている、と勘違いされてしまっていますが、「古事記」は、「日本書紀」の欺瞞性を暴くための「黙示録」であったのです。
本居宣長により、ギリシャ神話から租借した「古事記」の神話物語を、やまと言葉に翻訳したものが、日本神話となってしまったのです。しかし、実際の飛鳥ヤマトは、日本の原風景などではなく、噴水のある石造りの庭園があるオリエント文化であったのです。
「日本書紀」が、697年百済系女帝持統天皇で終わっているのに対して、「古事記」が、628年女帝推古天皇で終わっている意味は、途中で記述を止めたわけではないことは、「古事記」の序に、天武天皇のお言葉があることからも理解できるでしょう。それは、「ヨハネの黙示録」が、敵対勢力により改竄されないように細心の注意による暗号で記されているのと同じに、「古事記」が推古天皇の条で終わっていることが「暗号」なのです。その意味は、サイファー式暗号解読法の「同じ文章があるときは、その文章を否定せよ。」、ということです。つまり、「日本書紀」の推古天皇までの記述は、全て否定せよ、と言うことです。
推古天皇の時代、593年から628までに起こった出来事を列記すると、
593年聖徳太子が推古天皇の摂政となる
594年仏教興隆の詔
603年聖徳太子が官位十二階を制定
604年聖徳太子が憲法十七条を制定
607年国ごとに屯倉を置く
622年聖徳太子逝去
626年蘇我馬子死去、蘇我蝦夷が大臣となる
、となるのです。因みに、聖徳太子は、「日本書紀」では厩戸皇子・その他の名前で記述していますが、その事跡は、モーセ、ダビデ、キリストの事跡の合成を思わせます。平安時代、比叡山延暦寺が、「法華経」を宣伝するために、最澄が、聖徳太子を百済仏教の宣伝キャラクターとして広めたため、現在でも、架空の聖徳太子が、実在の人物と信じ込まれているのです。
「日本書紀」の記述では、日本国の基礎が、推古天皇の時代に確立された、としているのです。しかし、それらの出来事の全ては、史実ではないようです。そのひとつとして、摂政の官位は、平安時代、869年「続日本後紀」の編纂者藤原良房が、858年に清和天皇の摂政となったのが歴史上始めであるからです。更に、608年渡来の隋使は、都で、「女帝推古天皇」ではなく、「男王アマタリヒコ」に謁見した、と隋帝に報告しているからです。
では、藤原氏が創作した「日本書紀」により捏造された、その女帝推古天皇の時代は、実際は、どのような時代であったのかと言えば、それは、突厥帝国進駐軍と秦氏が、河内平野と飛鳥ヤマトの支配者であったのです。
歴史物語の改竄技術により、藤原氏に都合よく歴史物語は改竄・隠蔽できても、その民族の宗教心や、民族のDNAまでは、改竄・隠蔽できないのです。それに対して、簒奪王権は、ユダヤ民族が、牡牛を屠り太陽神バアルを祀るイスラエル民族を貶めるために、イスラエル民族を不可触賎民サマリア人としたように、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏末裔を不可触賎民穢多として貶めていくわけです。
1587年豊臣秀吉は、イエズス会の軍事援助と高山右近などのキリシタン大名軍団の働きにより、九州を平定すると、すぐさま、朝鮮へ入貢を要求するのです。そして、1591年スペイン領ルソン島にも使節を送り、入貢を強く要求していたのです。それは、藤原氏のインド征服の布石のためであったのです。
九州を平定した豊臣秀吉は、高山右近にキリスト教を棄教するように迫るのですが、高山右近が断ると、士分と家禄を剥奪するのです。元々高山右近は、織田信長の軍事行動と同じで全日本統一など意識にも無く、平安時代より秦氏末裔をイジメ抜いていた比叡山延暦寺やそこから派生した仏教軍団壊滅が主目的であったので、日本列島には最早仏教軍団が存在しない現在、武士として豊臣秀吉に従い軍事行動することは、意味がなかったからです。そして、高山右近は、武士としてではなく、一キリシタンとして、山の民の処へ帰り、そこで、1614年まで布教活動を続けるのです。
この1591年前後は謎の多い時期で、ヨーロッパ少年使節団を伴い長崎に帰還したイエズス会の巡察師バリニャーノが、日本王(1582年バリニァーノが日本出国時では、日本王は織田信長だった。)に謁見を求めて数ヶ月も待たされた後、イエズス会巡察師としてではなく、インド副王の使節として、元イエズス会傭兵羽柴秀吉だった、関白豊臣秀吉に、京の聚楽第で謁見した年であるのです。
巡察師バリニァーノは、日本国での更なるキリスト教の布教を目指して、聖書を多量に印刷するために、グーテンベルグ印刷機と印刷工を伴って来日していたのです。しかし、日本国は、イエズス会の支配から、羽柴秀吉を豊臣秀吉として取り込んだ、藤原氏の支配時代に変わってしまっていたのです。
そして、その数ヶ月前には千利休は、聚楽第内の屋敷で、豊臣秀吉により切腹を命ぜられていただけではなく、その千利休の妻も、石田三成の拷問により死していたのです。その二人の死の謎は、イエズス会巡察師バリニャーノへの、千利休からの織田信長爆殺の真相進言を、豊臣秀吉が恐れたからです。
そして、聚楽第での謁見で、豊臣秀吉に軽くあしらわれた巡察師バリニャーノは、その後、藤原氏傀儡の豊臣軍団が、騎馬民族末裔の徳川家康軍団に敗れた、1600年関が原の戦より三年後、1603年日本から去るのです。
1591年豊臣秀吉は、朝鮮半島への入貢要求は、中国明への侵略経路の確保のための行動であったのですが、何故、遠く離れたルソン島へも入貢要求をしたのでしょうか。それは、イスパニア領フィリッピンのルソン島とは、自治都市堺が海洋交易をおこなっていたからです。
そのルソン島と自治都市堺との海洋交易は、藤原氏により古来からおこなわれていた、南九州坊津と南インドとの海洋交易には邪魔であったからです。そして、そのルソン島では、戦国大名が欲しがる瀬戸物が、安く手に入る地であったからです。
戦国時代の日本列島は、豊臣秀吉による朝鮮侵略で、朝鮮の名陶工が日本に拉致されてくる前までは、土地の価値に匹敵するような、美術品として相応しい茶器の生産ができなかったのです。
堺の商人は、ルソン島から輸入した安い茶器を、戦国大名に高く売りつけていたのです。そして、戦国大名は、そのルソン島からの茶器を、高価な褒賞品として、土地の代わりに、戦場での功労者に賜っていたのです。
その茶器の鑑定人のひとりが、藤原氏の流れにある近衛前久と義兄弟である正親町天皇から名を賜った千利休(賎の利休)であったのです。その千利休の家業が、屋号が魚屋(ととや)と呼ばれた倉庫業であったのです。その倉庫業者達は、納屋衆と呼ばれる組合を作り、騎馬民族末裔の馬借や海洋民族の海運業者と連携し、遠く海外からも物産を輸入して、役座が仕切る各国の神社境内で捌いていたのです。そして、自治都市堺(秦王国)は、騎馬民族末裔の秦氏末裔が多く暮していたので、革製品や鉄製品を創る工場があったので、美しい武具や日本刀を美術品として海外に輸出していたのです。
その自治都市堺の納屋衆から、イエズス会の教会があるフィリッピンとの渡航貿易で、名を馳せた者がいたのです。その名をフィリッピンのルソン島から、ルソン助座衛門と名乗っていたのです。そのルソン助座衛門は、フィリッピンの瀬戸物を、ルソン壷として輸入して、戦国大名から褒賞品として功労者へ賜う茶器として、売り込んでいたのです。
そのルソン壷を鑑定していたひとりに、納屋衆であり、キリシタンでもある千利休がいたわけです。千利休が、織田信長、そして、豊臣秀吉の茶の師となっていたのは、巷の情報提供者(間者)としてのほかに、茶器の鑑定士としての働きがあったからです。その正親町天皇から名を賜った千利休の一言で、駄器が、土地と同じほどの高価な名器に変身させることができたからです。
しかし、ルソン助座衛門は、食えない男で、フィリッピンで、タン壷や糞壷として使われていた壷も、ルソン壷として国内で高価で売り捌いていたのです。このことが、後に、豊臣秀吉の知るところなり、国外追放となっていたのです。
豊臣秀吉は、朝鮮やルソン島からの入貢を求める前に、既に、朝鮮侵略の準備のための行動をおこしていたのです。その行動とは、「旧約聖書」の「民数記」に記述してあるとおりなのです。
まず、侵略準備のため、武器の調達と兵隊を集めるために人口調査をおこなったのです。1588年豊臣秀吉は、大仏を造るという名目で、刀狩令を全国に発するのです。その刀狩が、戦をなくし、平和のために大仏を造るためではなかったことは、その完成した大仏は、金属製ではなく、「木製」であったからです。侵略準備のための武器調達が、刀狩の実態であったのです。
そして、1591年豊臣秀吉は、全国の戸口調査をおこない、士農工商の身分法を定め、66カ国で、その枠にあてはまらない者を、奈良・平安時代の王権さながらに、山や河原へ追放するのです。この王権の武力による人民統制は、まつろわぬ者を山奥に追放し「鬼・土蜘蛛」とした、701年大宝律令の再来です。
その戸口調査により、全ての人民の属性を調べ上げ、朝鮮侵略のために兵隊を集めたのです。それと同時に、王権に従わず敵対する者(ケガレ者)を、社会から排除していたのです。その排除の対象者として、騎馬民族末裔の秦氏末裔がいたのです。
それらの豊臣政権から排除された者は、関東の湿地帯を大開拓していた、騎馬民族末裔の徳川家康を頼って関東へ行くわけです。1590年に豊臣秀吉により関東に移封されていた徳川家康は、1591年の豊臣秀吉による士農工商の身分法により近畿地域から追放された者達を、積極的に、エドの地に招いていたのです。
そして、豊臣秀吉により、1583年大坂城建設のために、大坂の中心地から亡命百済移民末裔が多く暮す「九太郎・くだら」の地に移封されていた、そして、そこで民族差別でイジメられていた秦氏末裔が多く住む渡辺村(秦王国)の多くも、秦王国(ギリシャ式都市国家)再建のために未開拓地のエドに移り住んでいくのです。
奈良時代初期、唐進駐軍により、河内平野と飛鳥ヤマトの勢力を一掃した後、唐進駐軍の傀儡籐氏(藤原氏の祖)は、敵対する地方豪族の土地を取上げて、天皇の土地とし、そして、その土地を地方豪族へ再び貸し出すのです。そして、その制度に従わない地方豪族は、唐進駐軍の武力により抹殺していたのです。このことにより、奈良時代の近畿地域の豪族の私有地がなくなり、近畿地域の全ての土地が天皇家のものとなっていくわけです。しかし、実際は、唐が日本を遠隔統治するために、土地の管理者として、垂直支配の天皇システムを利用したにすぎないのです。
戦国末期、藤原氏は、傀儡関白豊臣秀吉を利用して、日本国を支配、更に、朝鮮、中国、インド支配を目指して、1592年朝鮮半島への侵略を開始するのです。その朝鮮半島での戦術は、「旧約聖書」の「民数記」にあるように、占領地での民族浄化のための聖絶であったのです。
豊臣軍は、1592年朝鮮に侵攻するのです。豊臣軍団には、元キリシタン大名が多くいたため、イエズス会譲りの鉄砲隊を組織していたのに対して、朝鮮軍には鉄砲隊がいないため、明国に援軍を求めるほど、軍備差が歴然であったのです。更に、初戦の豊臣軍は、民族が複雑に入り組んでいる朝鮮半島の賎民部族が、侵略軍である豊臣軍を解放軍と勘違いして、豊臣軍への加勢もあって、全戦全勝だったのです。
1592年文禄の役では、秦氏末裔の日本武士の祖は新羅花郎騎士で、朝鮮軍には同族が居ることを知った秦氏末裔の兵が、豊臣軍から寝返り、朝鮮軍に参加したりしたため、長期戦を望まなかった豊臣秀吉は、元キリシタン大名の小西行長と明国将校との謀議によるニセ講和に騙されて、軍を引き上げるのです。
しかし、渡来した明国使節の文章には、豊臣秀吉からの朝貢交易願いへの返事であった為、初めて騙されたことに気づいた豊臣秀吉は、再び、1597年朝鮮侵略にでるのです。これが、慶長の役といわれた戦いです。
前回の明国軍の騙しに怒り心頭の豊臣秀吉は、朝鮮半島での豊臣軍の戦闘の証として、朝鮮軍と明国軍の足軽などの身分の低い者でも、殺害した証として、鼻を塩漬けで日本に送るように命じたのです。
その戦いでは、豊臣軍団は、「旧約聖書」の「民数記」第三十一章の記述にある、残虐行為以上のことをおこなっていたのです。
「民数記」にある戦後処理として、「彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと闘って、その男子をみな殺した。」「またイスラエルの人々はミデアンの女たちとその子供たちを捕虜にし、その家畜と、羊の群れと、家財とをことごとく奪い取り、そのすまいのある町々と、その部落とを、ことごとく火で焼いた。」「それで今、この子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい。」、と主がモーセに言われたのです。
そして、豊臣軍は、「民数記」の戦後処理と異なり、朝鮮半島から陶工や捕虜を日本に連れて来て、その捕虜はポルトガルやイスパニアの商人に奴隷として売り捌いていたのです。しかし、陶工には、監視の下で陶磁器制作の仕事を続けさすのです。この朝鮮より拉致された陶工により、日本の陶芸は、一段と技術的・芸術的に向上したのです。
古来から、日本武士の戦いの作法としては、正々堂々と戦い、勝った武士は、敗れた武士の首を落し、その首を戦功の証として主将に持参することにより、その見返りとして褒賞を受け取ることが出来たのです。しかし、足軽などの身分の低い者は、首を落さず、鼻や耳を切り落とすことで、戦功の証としていたのです。
朝鮮・明国軍に苦戦を強いられている豊臣軍は、豊臣秀吉の逆鱗に触れないように、戦闘が有利に進められているように偽るために、死した武将や足軽の鼻だけではなく、生きている女子供から切り落とした鼻までも、塩漬けにして送りつけていたのです。その数、12万6千余とも云われているのです。
その送られてきた無数の塩漬けの鼻を、豊臣秀吉は、桶に入れて、新羅に怨念を持つ亡命百済移民末裔が多く暮している、民族差別の激しい京や大坂の街角を練り歩かせて、戦闘が順調に推移していることを宣伝していたのです。
豊臣秀吉は、その出自が不明なように、武士ではないため、武士の戦いの作法を無視して生き延びてきたのです。武士として弓馬の訓練を受けていない豊臣秀吉は、イエズス会傭兵時代では、徳川家康が弓馬が得意なため白兵戦をおこなえたのと異なり、敵軍とは白兵戦をおこなえず、敵城を大軍団で取り囲み、兵糧攻めや水攻めで、城を攻略し、降伏したその城主一族、女子供も、見せしめのために串刺しにしていた経歴の持ち主であったのです。
その多量の塩漬けの鼻は、1597年「鼻塚」として葬られるのですが、いつしか忘れ去られ、1615年大坂夏の陣後、徳川家康が、豊臣秀吉の墓を暴き遺骨を散撒させていたのを、1868年明治維新で復活した藤原氏が、京都市東山区に、豊臣秀吉を神として祀るために豊国神社を建立した近くに、歌舞伎役者や役座が、「耳塚」(豊臣秀吉の残虐性を薄めるために、「鼻」を「耳」へと摩り替えた。)として供養塔を築造していたのです。
何故、歌舞伎役者や役座が、朝鮮民族のために供養塔を築造したかと言えば、それは、江戸末期まで、王権により賎民として貶められていた歌舞伎役者や役座の祖は、秦氏で、秦氏の祖は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅からの渡来者であったからです。
1598年藤原氏の、明国・インド征服の野望が崩れるのです。それは、慶長の役の翌年、豊臣秀吉は崩御してしまったからです。そして、侵略軍増強のために、天皇姻戚の藤原一族の豊臣秀吉の威光で進められていた太閤検地も、豊臣秀吉の死と共に終わるのです。
この藤原氏による、豊臣秀吉を傀儡とした、明国・インドの征服計画も、その史実を隠蔽するために、藤原氏の情報操作により、豊臣秀吉の脳梅毒の虚妄の結果として、歴史から葬り去られているのです。日本の裏面史に必ず登場する藤原氏とは、一体、何者なのでしょうか。
戦国武将の代表者は三名、織田信長、豊臣秀吉、そして、徳川家康と云われています。しかし、それらの武将は、独特のキャラクターの持ち主ですが、そのキャラクターイメージは、明治革命で復活した藤原氏の計画により、学校での歴史教育で創られたものです。
明治新政府は、ヨーロッパ諸国と付き合ううちに、自国の歴史書が無いのに気づき、ユダヤ系ドイツ人の歴史学者リースを招いて「日本国史」を創作させるのです。
その日本国の建国時代は、藤原不比等が創作した「日本書紀」を金科玉条とし、「聖書」のごとき扱いにより、日本古代史を復元するのです。そして、唐国への提出用の日本六国史と、そして、亡命百済貴族が日本皇族と変身するための814年創作の「新撰姓氏録」を根拠に、古墳時代以前に渡来して、河内湖を干拓して、巨大古墳、大運河、幅十二mの直線古代高速道路等を建設していた、古代エジプトの高度土木建設技術、古代ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術などを保持しいてる、オリエント渡来の秦氏一族を、五世紀に新羅からの、機織職民の渡来人としてしまうのです。
そして、唐進駐軍の後ろ盾により平安京を支配した亡命百済貴族が、中国山東半島からの亡命百済移民から登用した武人を「サムライ」として、亡命百済貴族の秘書兼警護人となった「平氏」と、秦氏・突厥帝国武人末裔の「もののふ」としての武芸者から「武士」となった、「源氏」とが争う中、アラブ渡来の海洋交易民族末裔の「平家」が、平安末期に朝廷を乗っ取ったのを、「源氏」と「平氏」により、「平家」を滅亡させたのです。そして、「源氏」の鎌倉政権を乗っ取った「平氏」が、「源氏狩り」により、源氏を山奥へ駆逐したのを、再び、源氏武士が政権奪還したのが、室町幕府というわけです。その後、応仁の乱の後、「平氏・サムライ」と「源氏・武士」との攻防を繰り返し、戦国時代に突入していくのです。
戦国時代の武将の事跡・実像を知るには、出自不明の豊臣秀吉総監修の「信長公記」が一級史料となっているため、その史料では事跡・実像に迫るのには程遠いのですが、イエズス会の史料と照らし合わせると、それらの戦国武将の事跡・実像に迫れるようです。
1582年織田信長が本能寺で、イエズス会と藤原氏の陰謀により爆殺され、1584年羽柴秀吉が、宿敵徳川家康を葬ろうとした小牧・長久手の戦いで、徳川家康軍に敗れた後、1585年イエズス会傭兵の羽柴秀吉は、藤原氏の猶子となり、関白豊臣秀吉となると、1586年豊臣秀吉は、大坂城で、イエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリエに謁見するのです。
その謁見の場で、日本布教長ガブラルの後任ガスパル・コエリエは、織田信長が近畿統一で満足して九州武力統一に不熱心だったので、石見の銀山奪回を目論む九州残党兵を殲滅するために、豊臣秀吉に九州遠征を要請するのです。
その九州遠征の要請時に、豊臣秀吉は、藤原氏が計画していた中国侵攻を、ガスパル・コエリエに暗示していたので、ガスパル・コエリエは、豊臣秀吉に、ポルトガル商人から2艘の大船を世話することを約束するのです。
その翌年、1587年豊臣秀吉は、高山右近や山科勝成(ロルテス)などのキリシタン軍団の奮闘により、十字の旗の下、九州を平定したのです。その九州平定後、ガスパル・コエリエは、大砲を装備したフスタ船に乗って、博多に居留する豊臣秀吉を尋ねているのです。そして、ガスパル・コエリエ自ら、豊臣秀吉に、その大砲を装備した大船(軍艦)内を隈なく案内したのです。
この時、豊臣秀吉の側近高山右近と小西行長は、ガスパル・コエリエに、その大砲を装備したフスタ船を豊臣秀吉に献上することを提案したのですが、ガスパル・コエリエは、その提案を断っているのです。それは、イエズス会自身による、明国征服計画があったからです。そのガスパル・コエリエの態度により、豊臣秀吉は、自分が、織田信長と同じに、イエズス会の、日本統一のための捨て駒であることを確認したのです。
それは、ガスパル・コエリエの前任カブラルがスペイン国王に宛てた書簡で、「多くても一万の軍勢と、適当な規模の戦艦で中国を征服できる。」、と断じて、「日本に駐在しているパーデレたちが、二三千人の日本人キリスト教徒を(中国侵略軍として)送ることができるであろう。」、と述べていたからです。
イエズス会傀儡軍による日本統一後の明国征服の陰謀を知った、藤原氏一族となっている豊臣秀吉は、イエズス会が中国を征服する前に、中国征服を成し遂げなくてはならないと思い、イエズス会宣教師の追放を、1587年に発したのです。
その時、豊臣秀吉は、豊臣秀吉の側近であるイエズス会傀儡軍筆頭の高山右近に、キリスト教の棄教を迫ったのです。しかし、高山右近は、棄教の代わりに、武士としての地位を投げ捨てて、一介のキリシタンとして下野してしまうのです。
そのバテレン追放には、イエズス会宣教師追放だけではなく、藤原氏によるもうひとつの陰謀目的があったのです。それは、そのバテレン追放令の第十一条に、「牛馬を屠殺し食料とするのを許さない。」、とあることです。これは、794年牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏支配地の山背国・比叡山(秦王国)を乗っ取った、唐進駐軍に軍事支援された亡命百済貴族末裔の桓武天皇による、804年牛屠殺禁止の発令と同じ目的があったのです。
この戦国末期での、藤原氏による、騎馬民族末裔、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏末裔の抹殺計画の流れは、徳川家康の歴史を知ることで、解明できるのです。それは、少年使節団の欧州視察から戻ったイエズス会巡察師バリニャーノから日本王に謁見を求められていた1590年、織田信長が爆殺された二年後の1585年羽柴秀吉から変身した関白豊臣秀吉により、三河から関東の湿地帯に追いやられた徳川家康は、秦氏末裔長吏の弾左衛門一族と、エド(穢れ地→穢土→江戸)で秦王国(合議制による、ギリシャ式都市国家)の再建を目指していたからです。
1616年徳川家康は、テンプラによる食中毒で崩御するのです。歴史教科書では、源氏棟梁の源頼朝と同じに、狩りでの落馬により死んだ、としているのでが、その徳川家康の死は、毒殺を暗示するのです。
それは、1582年織田信長が正親町天皇の退位を迫るために、馬揃え(軍事パレード)をおこなう当日未明に爆殺されたように、徳川家康は、1611年親豊臣的であった後陽成天皇を退位させ、皇位を政仁親王に譲らせ、徳川家康の三男第二代目将軍徳川秀忠の五女和子の入内を迫っていたからです。
この和子の入内が成功すれば、徳川家康は、後水尾天皇(政仁親王)の外祖父となる可能性があるからです。この戦略は、藤原氏の得意とすることで、新嘗祭での五節舞を発明した藤原氏は、奈良時代から、藤原の女を利用して、天皇家に影響力を与えていたのです。
更に、徳川家康は、百済系天皇家の財政を圧迫するために、天皇家の主な収入源の、紫衣着用許可権の剥奪を迫っていたのです。それは、高僧が、高額な寄付を天皇家におこなうことにより、紫衣の着用許可を、天皇家が与える、というシステムのことです。この紫衣の高僧の着用に対して、徳川家康は、チャチを入れていたのです。徳川家康の言い分では、紫衣は、古来より仏教の僧衣などではなく、北極星を祀る天皇を世話する、道教の真人(北斗七星)が着用する衣である、とするからです。
では、何故、織田信長も徳川家康も、天皇家をイジメるのでしょうか。それは、天皇家を軸として、その天皇家に寄生する漢訳仏教を、織田信長も徳川家康も壊滅するのが目的だったからです。古来より、その漢訳仏教僧が、王権の手先となって、まつろわぬ騎馬民族や海洋民族を、釈尊の仏教思想などではなく、騎馬遊牧民族を差別するバラモン教の思想である血・肉食禁忌で、賎民と貶めてイジメていたからです。
平安初期、藤原氏の援助で唐に渡った錬金術師空海は、民族差別が激しいバラモン教とヒンズー教の教義を漢訳仏教に織り交ぜ、密教を発明するのです。そして、百済系三代目嵯峨天皇に接近すると、その密教儀式により百済系天皇家が祀られていくのです。この百済系天皇家の祀りごとは、密教儀式により、江戸幕府壊滅まで続くのです。
しかし、1868年明治革命が成功すると、明治新政府は、国家神道を発明して、天皇家が伊勢神宮で、神道儀式により祀られ続けている、と学校教育の場で宣伝をおこなったことにより、天皇家は、新羅系と百済系の二系統であり、新羅系の飛鳥時代以降は道教儀式であったのが、百済系の平安時代になると仏教の密教儀式で江戸末期まで祀られていたのに、明治新政府は、その史実を無視して、天皇家は万世一系で、伊勢神宮で、神道儀式で古来より祀られてきた、と国家を挙げて宣伝していたのです。
しかし、伊勢神宮は、685年日本国初の新羅系天武天皇により、北極星(太一)を祀る道教の観として創建されたものであり、その北極星を祀る天武天皇が686年崩御した後に、孫の長屋王を「左道=星占い」をおこなったと謀殺した藤原氏により、「観」から「宮」に改竄された建物であるのです。その時、道教の太一(北極星)に代わり、ギリシャ神話を基に、太陽神のアマテラス大神が発明されたのです。そして、その物語が、720年藤原不比等により創作された「日本書記」の神話として述べられるわけです。
戦国時代の織田信長と徳川家康の戦いは、同族の賎民として貶められた者達の救済が主な目的であることは、確かです。それは、織田信長が、1568年上洛すると、漢訳仏教組織に「キヨメ」の賎民としてイジメられていた余部(海部)を、配下とし、余部をイジメる者は、織田信長に対する反逆である、との御触れを出しているからです。それに対して、1603年徳川家康が天下を盗ると、豊臣秀吉により「キヨメ」の穢多村とされた渡辺村の住民を、村役人として引き上げていたからです。
「キヨメ」とは、平安時代では、桓武天皇により謀殺されたひとびとの怨霊を鎮めるために、秦氏・突厥帝国武人末裔の陸奥国の蝦夷捕虜が、前政権者の怨霊を鎮めるために、「もののふ」の武芸者となり、怨霊封じ込めの施設である神社境内で、総革製の鎧兜と、蝦夷の蕨手刀から改良した片刃の「日本刀」により祭祀者として武装して、剣舞による武芸(芸とは神を楽しませること。)することを「キヨメ」、と言っていたのです。
しかし、源氏武士棟梁の源頼朝が1192年に拓いた、「武士政権」の鎌倉幕府を乗っ取った、「サムライ政権」の北条鎌倉時代になると、六波羅探題の捜査組織により、源氏武士抹殺のために「源氏狩り」を行い、更に、「武士」を社会的に抹殺するために、魂鎮めの武芸である「キヨメ」を、賎民がおこなう汚物清掃の「キヨメ」としてすり替え、源氏武士である、「もののふ」の祭祀者としてのプライドを貶めていたのです。
更に、北条鎌倉政権下で、その騎馬民族であるため、肉食する「武士」の末裔を、平安時代の錬金術師空海が発明した密教思想の真言宗の「施陀羅悪人なり」の呪文をバージョンアップして、施陀羅から、穢れが多いの意味で、「穢多」の民族差別語を発明するわけです。
その「穢」の本来の意味は、犠牲(屠り)により神を祀ることです。因みに、歌謡と舞により神をまつることは「祭」です。源氏武士の祖は、秦氏と突厥帝国武人です。その秦氏とは、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る民族であったので、そのため、「穢」により神を祀っていたのです。その秦氏末裔を貶める言葉が、犠牲により神を祀る意味の「穢」を、汚物(血・肉食)のケガレとし、そのケガレが多い意味として、「穢多」とするのです。
1587年関白豊臣秀吉は、イエズス会傀儡軍団の奮闘により、九州を平定すると、バテレン追放令を発令し、第十一条で、「牛馬を屠殺し食料とするのを許さない。」、としたのです。それは、一向宗軍団を壊滅したことにより、その主部隊であった秦氏末裔の源氏武士末裔を壊滅した後処理として、その次の敵、イエズス会傀儡軍の秦氏末裔の源氏武士末裔を壊滅することが、その主目的であったのです。
そのシンボル的人物が、キリシタン大名であった高山右近です。高山右近は、秦氏末裔の源氏武士末裔であったので、キリシタン宣教師と共に、肉食を大いにしていたのです。そして、645年以降に、漢訳仏教を手先とした唐進駐軍と中臣族軍により、河内平野と飛鳥ヤマトでの景教や道教の宗教施設が徹底的に破壊され、その跡に、北九州から移築された仏寺が建てられていったように、戦国時代のキリシタン大名の高山右近は、高槻や明石のキリスト教布教地では、仏教施設を徹底的に破壊し、その跡に、キリスト教の教会を建設していたのです。
藤原氏は、豊臣秀吉を傀儡として、イエズス会傀儡軍の織田信長による漢訳仏教軍団への、僧兵はもとより、高僧も信者も全て斬首、もしくは、焼き殺しの、聖絶作戦に、深い恨みを持っている漢訳仏教組織に、再び援助して、イエズス会残党軍を社会的に壊滅していくのです。そのための呪文が、「穢多悪人なり」です。
その一方、鎌倉時代、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞が、漢訳仏教組織に穢多とイジメられていたひとびとに、「さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。」と唱え、穢多村で、妻帯し・肉食するするのを見て、浄土真宗が穢多村を救ってくれると信じた弱小勢力が、やがて、戦国時代になると、戦国大名を超える仏教一向宗軍団として成長した石山本願寺派は、比叡山延暦寺軍団やイエズス会傀儡軍の織田信長と戦っていたいたのが、1580年顕如の織田信長との突然の和睦で、穢多村のひと達が、浄土真宗に利用されていた、と悟ると、そのことを笑い話として後世に伝えていくのです。その笑い話とは、

戦国時代、大軍団の敵軍に囲まれた穢多村の砦で、一向宗の僧侶が説教をするのです。その説教で、「敵に向って戦い敗れて死んだとしても、浄土真宗の信徒であれば浄土世界で生れかわれる。しかし、敵前逃亡者は、無間地獄に落ちる。だから、皆の者は、心を一つにして敵に立ち向かえ。」、と檄を飛ばしたのです。その僧侶の説教を信じて、穢多村の男全ては勇気を出して、貧弱な武器で敵陣に突撃して、全滅してしまうのです。
死体となって穢多村の砦に戻ってきた勇敢なひと達を前にして、後家となった若い女が号泣していたのです。そこに、その説教をした後、どこかに隠れていたその僧侶が現れて、「泣くことはない、勇敢に戦って死んだ者達は、浄土世界で生まれ変わるであろう。」、と言って女を慰めるのです。しかし、それでも、女は泣き続けるのです。不審に思った僧侶は、泣いている女に、「泣くのを止めなさい。」、と言うと、女は、振り向きざまに言うのです。「私が泣いているのは、夫の死ではありません。何故なら、夫は浄土世界で生まれ変われるからです。私が泣いているのは、お坊様が無間地獄に落ちてしまうからです。」

藤原氏傀儡の豊臣秀吉が、九州を平定し、バテレンを追放すると、残る敵は、伊豆の北条氏であるのです。
豊臣秀吉の棄教を拒否した高山右近は、豊臣秀吉の追及を逃れるため、棄教した小西行長の援助の下、九州各地を転移し、その後、北陸の前田利家の客臣となり、前田利家の軍師として、北条氏攻めに参加するのです。
何故、秦氏末裔の高山右近が、豊臣秀吉の追及を逃れて、山道を利用して、各地に移動できたのかと言えば、奈良時代の王権により山に追われた秦氏末裔の民は、日本列島を山岳の道により、古来から日本列島を移動していたからです。そして、秦氏とは、古代エジプトの土木建築技術、ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術などの高度技術者の集団であるので、城築造や城破壊の名人であったのです。
高山右近が、豊臣秀吉の配下として城攻めをおこなっていた時、何度豊臣軍団が攻めても、城を陥落できないのを見た、高山右近軍団は、城を護る櫓の下に穴を掘り、そこに爆薬を詰め、火を点火して、櫓を破壊したことにより、敵城を陥落させていたのです。高山右近の配下には、そのようなハイテク技術を持つ集団がいたのです。
それに対して、一向宗軍団にも、古代エジプトの土木建築技術、ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術を持つ技術集団がいたのです。その技術集団がいたからこそ、最新式銃と傭兵軍による織田信長軍団を、石山本願寺が十年間も守り抜くことができたのは、石山本願寺の砦内では、それらの高度技術を使って銃などの武器製造、及び、補修をすることができたからです。
戦国時代の秦氏末裔は、イエズス会と一向宗との軍団に組み込まれて、同族争いをしていたのです。しかし、豊臣秀吉が、1590年北条氏を倒し、日本統一をおこなうと、宿敵徳川家康を、三河から関東の湿地帯に移封するのです。それは、徳川家康の軍団には、秦氏末裔の、元武田軍団の産鉄部族の金山衆や、一向宗残党の源氏武士末裔が多くいたからです。
戦国末期から江戸時代初期への歴史が、歴史教科書を調べてもよく分からないのは、徳川家康が、征夷大将軍となり、江戸幕府を開くため、「将軍になるには清和源氏」の系統でなければ、征夷大将軍になれないという伝統があるため、神龍院梵舜に命じて、「徳川氏の系図」を創作させていたからです。それまでの徳川家康は、藤原氏、加茂氏、在原氏、源氏などの氏名を時と場合により、使い分けていたのです。
歴史教科書での徳川家康の経歴は、三河の岡崎生まれで、その家系は、三河土豪松平氏を名乗り、松平元康が、1563年松平元康から松平家康と改名した、とするのです。そして、今川氏が、織田信長のゲリラ戦で敗れると、その今川氏の配下から独立し、1566年三河国を統一し、藤原氏と親しい正親町天皇の朝廷から、従五位下、三河守の叙任を受け、松平氏から徳川氏に改姓した、とするのです。そして、新田氏系統の源氏を公認させた、としているのです。
しかし、この経歴が不思議なのは、徳川家康が、1616年毒殺されると、その墓所が、歴史教科書で述べる生誕地の岡崎ではなく、全く関連のない駿府であったのです。駿府は、1607年徳川家康が、将軍職を三男秀忠に譲ると、大御所となり実権を握り続けた、江戸幕府の「実質的政権」があった処です。何故、駿府がそれほど、徳川家康には重要な処であったのでしょうか。
更に、不思議なのは、1590年関白豊臣秀吉により、徳川家康が関東の湿地帯に移封されると、徳川家康が生まれ育ったと云われる三河の土着土豪の多くは、徳川家康と供に、関東の湿地帯へ移動してはいなかったのです。徳川家康に従ったのは、元武田騎馬軍団の産鉄部族の金山衆や、そして、一向宗軍団残党の源氏末裔であったのです。それらの者達は、秦氏の流れにあるのです。そして、関東の府中で、徳川家康一行を出迎えたのは、長吏の弾左衛門一族であたったのです。弾左衛門一族も、秦氏の流れにあったのです。
その徳川家康と親しい弾左衛門は、自らを「長吏」と言っていたのですが、歴史教科書では、「穢多頭」としているのです。更に、「長吏=穢多頭」としているのです。
飛鳥時代、長吏とは「上級官僚」のことで、607年男王アマタリヒコ(「日本書紀」では女帝推古天皇)により隋に遣わされた、「隋書」に記載されている、遣隋使ソインコウ(「日本書紀」では小野妹子)の肩書きが、「長吏」であったのです。
しかし、北条鎌倉時代になると、その「長吏」が、どう云う訳か、「穢多頭」と同義語となってしまうのです。それは、百済系の北条氏が、母国百済を滅ぼした新羅から渡来した秦氏末裔を憎んでいたことにより、秦氏末裔を不可触賎民「穢多」として貶めるための「仕掛け」(長吏=穢多頭)であったわけです。
1590年徳川家康により関東に引き連れられて来た、金山衆、一向宗軍団残党の源氏武士末裔、そして、弾左衛門一族は力を合わせて、古墳時代初期に、淀川と大和川が流れ込む河内湾の岬に渡来した、先祖の秦氏と同じように、関東の荒川支流と利根川支流が流れ込む湿地帯を、開拓していくのです。
秦氏の先祖が、河内湾に突き出た岬(古代エジプト語で、ワタ・ナーベ/波の打ち寄せる小山・後の上町台地)を中心に開拓したように、徳川家康に指導された秦氏末裔は、エド湾に浮かぶ海抜2.5mの小山(古代エジプト語でワタ・ナーベ)を中心に、駿河台地に大運河(神田堀)を造るために削掘した残土により、海抜十mの人工山(関東の上町台地)を築くのです。その人工山の上に、大坂城の数倍の規模を誇る、江戸城の建設に取り掛かるのです。
この人工山に築城された江戸城には、地下道が張り巡らされていて、1600年オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、その後、その乗組員のひとりの、徳川家康の顧問となったヤン・ヨーステン(耶揚子・東京「八重洲」の語源)は、地下道により江戸城に登城していたようです。
何故、堀の下に地下道を築くことができたのかは、徳川家康の配下には、産鉄民族の金山衆がいたからです。この産鉄民族は、鉱石を地下深くから掘り出すための技術として、水漏れを防ぐ技術を持っていたからです。
1576年京都に南蛮寺を建立したのは、元十字軍マルタ騎士団のロルテスと同時に渡来した、京都地区修院長宣教師オルガンチーノ(滞在期日1570年〜1589年)の指導の下、産鉄民族を配下に持つキリシタン大名高山右近であったのです。その南蛮寺と本能寺とは、地下道で通じていたのです。
その本能寺は、唯の仏像を安置するための寺などではなく、始めは日蓮宗軍団の砦として建立され、その後、比叡山延暦寺軍団の攻撃を受け、廃墟となっていたものを藤原氏が、イエズス会の侵略基地があるインド→中国→南九州坊津→種子島→雑賀→根来→京への銃・火薬などの密貿易品の貯蔵所としていた建物であったのです。その密貿易貯蔵所の本能寺を、近畿を平定した織田信長は、京の出城とするために、深い堀と高い土塀を廻らして要塞化を図った建物であったのです。ですから、京へ上る織田信長の手勢が少なかったのは、いざという時、本能寺に張り巡らされた地下道により、約二百m先の南蛮寺に逃げ込むことが可能であったからです。
古墳時代、河内湾を干拓し、シルクロードとの交易をおこなうために、河口に湊(ローラン・浪速→難波)を拓き、三輪山の麓で沈黙貿易により、呪術品(古代の赤チン・消毒薬)としての朱砂を手に入れるため、オリエントから渡来の秦氏は、ローマ帝国軍式幅広の直線道路を、河内のローラン(浪速)から、三輪山麓に向けて建設したのです。
1590年徳川家康は、関白豊臣秀吉により、三河から関東の湿地帯に追放されると、その湿地帯を干拓して、エドから小田原に向けて、騎馬が疾走可能な直線道路を築くのです。それは、物流が表向きですが、実際は、徳川騎馬軍団を迅速に京に向けることが、主目的であったのです。
そのように、徳川家康の行動が、古墳時代の秦氏と類似しているのは、時空を超えて、秦氏末裔がエドに集結していたからです。
その徳川家康の、戦国末期の軍事行動の動機を知るには、1617年徳川家康の廟建築として、質素な日光東照宮が建立されたのが、1624年百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光が、金ピカの東照宮を建立すると、その質素な東照宮は、何故か、日光から世良田部落に移築されてしまったのです。
一般的に、ひとが亡くなると、その墓は、生誕地に葬られる傾向があるのです。では、何故、徳川家康の廟が、三代目将軍家光により、日光から世良田部落に移築されたのかは、それは、徳川家康の生まれが、三河の岡崎ではなく世良田部落であったからです。
その騎馬民族末裔が多く暮す世良田部落で、徳川家康が、幼少期を過したからこそ、織田信長や豊臣秀吉が、弓馬が得意ではなかったのに、徳川家康は、弓馬に優れていて、騎馬民族特有の合議により戦略を練り、白兵戦をおこなえたのです。更に、徳川家康が、薬草学に詳しく、自ら薬草を煎じ、調合できたのは、正に、遊牧する騎馬民族特有の技術を保持していたからです。
徳川家康の戦いの歴史を見ても、織田信長や豊臣秀吉の独断専行ではなく、部下の合議に参加して、その意見のまとめ役に徹していたのは、騎馬民族の血が徳川家康に流れていたからです。
徳川家康は、秦氏末裔の高山右近と同様に、馬鹿正直なほど律義者として、戦国時代を生き抜いていたのです。その一例として、織田信長に忠誠を示すため、謀叛の嫌疑を抱かれた徳川家康は、その織田信長の命で、正室と嫡男を殺害してしまうのです。それだからこそ、織田信長や豊臣秀吉と異なり、忠義を尽くす部下に、徳川家康も高山右近も、恵まれていたようです。
徳川家康が、生き方が下手なのは、頼ってきた者を信用し、疑うことなく、その者を援助してしまう傾向があったからです。
1582年織田信長が、藤原氏とイエズス会の陰謀により、本能寺で爆殺されると、その跡目争いが勃発するのです。それが、1583年賤ヶ岳の戦いです。イエズス会傭兵の羽柴秀吉は、織田信長の次男信雄の後見人として、織田信長の三男信孝の後見人・柴田勝家と戦い敗ると、織田信雄を支配下に置こうと策謀するのです。その羽柴秀吉の策謀から逃れるため、織田信雄は、徳川家康に救いを求めるのです。その結果、1584年から半年間にかけての戦いが始まるのです。それが、小牧・長久手の戦いです。
この小牧・長久手の戦いでは、徳川家康には、織田信長との戦いで敗れた、石山本願寺残党軍の雑賀衆と根来衆の鉄砲隊が参加していたのです。更に、イエズス会が最新式銃と傭兵軍で援助した織田信長軍団と十年間も戦い続けた、石山本願寺軍団残党の源氏武士末裔もいたので、十万の羽柴秀吉軍団も、五万の徳川家康軍団を壊滅できなかったのです。
そこで、羽柴秀吉は、伊勢に陣を張る織田信雄軍を山側と海側から攻撃したことにより、織田信雄軍は総崩れし、総大将の織田信雄は、同盟者の徳川家康に相談することも無く、単独で羽柴秀吉と講和をしてしまうのです。そこで、戦闘的に優位にある徳川家康は、羽柴秀吉と戦う大義名分を失い、小牧・長久手の陣を引いたのです。
羽柴秀吉にとって、この小牧・長久手の戦いには、深い意味があったのです。それは、騎馬民族末裔である徳川家康を、東国の蝦夷棟梁と看做して、西国の羽柴秀吉が軍事的に滅ぼすことにより、征夷大将軍となれるからです。その征夷大将軍になれれば、羽柴秀吉には、幕府開設の道が拓けるわけです。
征夷大将軍とは、平安時代、唐進駐軍が支配した平安京で、百済系桓武天皇を傀儡として、飛鳥ヤマトを支配していた秦氏末裔と突厥帝国軍末裔が、唐進駐軍に敗れ、東北の陸奥国に逃亡し、軍事的支配をしていた陸奥国の地下資源を簒奪するために、唐進駐軍により組織された東国侵略軍の軍事指揮官のことなのです。つまり、平安時代、征夷大将軍の名称の始まりは、蝦夷棟梁アテルイが支配した東国への侵略軍団の指揮官のことなのです。
征夷大将軍になり損ねた羽柴秀吉は、1585年イエズス会傭兵軍指揮官から、藤原氏の猶子となり、関白豊臣秀吉に変身するわけです。豊臣秀吉は、日本国を支配するため天皇家を壊滅する陰謀を持っていたイエズス会側から、天皇家と姻戚関係にある藤原氏一族になってしまったのです。
その翌年、1586年関白豊臣秀吉は、軍事的に壊滅できない東国の蝦夷棟梁としての徳川家康を懐柔するために、朝日姫と大政所を人質として、徳川家康の居城の岡崎に送るのです。それに対して、徳川家康は、豊臣秀吉の陰謀を疑うことなく、臣従することになるのです。更に、徳川家康は、豊臣秀吉への忠誠の証に、次男於義丸を豊臣秀吉の養子とするのです。
1590年豊臣秀吉が、小田原城に立てこもる最後の抵抗者北条氏政軍を壊滅することにより、ここに日本統一となるのです。
この日本統一の年に、イエズス会の日本王である織田信長により安土城での盛大なる歓迎を受け、織田信長による日本統一の報告をするためにローマへ旅立った、イエズス会巡察師バリニャーノが、少年使節団と供に長崎に帰国していたのです。そして、そのバリニァーノは、日本王に謁見を要求していたのです。
イエズス会の傭兵から、藤原氏一族に寝返った豊臣秀吉には、巡察師バリニャーノは会いたくない存在であったのです。それは、イエズス会が認める日本王織田信長に歓迎された巡察師バリニァーノがヨーロッパに旅立った後、京都地区修院長オルガンチーノと藤原氏の陰謀により、織田信長が爆殺されていたからです。
その織田信長爆殺の主因として、キリシタンの侵略基地がある自治都市堺(秦王国)を支配下に置いて、近畿一帯を支配した織田信長は、自らを「神」と唱え、織田信長の誕生日を「聖日」とし、ただの「大石」を神の化身として拝むように臣家だけではなく、民衆にも強要したため、「ゼウスの神」だけを信仰するキリシタンの高山右近や蒲生氏郷などの千利休一派により、織田信長は京の本能寺で爆殺されてしまうのです。
イエズス会から藤原氏一族に寝返った豊臣秀吉は、その王権の簒奪事実を、イエズス会巡察師バリニャーノから、ローマ教皇に報告されたくなかったのです。そこで、豊臣秀吉は、織田信長爆殺の陰謀を知る者の抹殺を謀るのです。その対象者は二人です。
ひとりは、徳川家康です。1582年5月徳川家康は、駿河拝領のお礼のため、織田信長の居城の安土城を訪れていたのです。そして、安土城から堺に行き、6月2日未明堺で遊覧中に、本能寺で織田信長が爆殺されてしまうのです。
徳川家康は、堺でその訃報を忍者よりすぐさま聞くと、織田信長の後を追おうと切腹を図るのですが、忍者服部半蔵の進言により止まり、伊勢越えをして、伊勢の港から海路三河へと帰還するのです。
その織田信長の爆殺前の事情を知っていた徳川家康は、1590年関白豊臣秀吉により、三河から関東の湿地帯に追放されてしまうのです。徳川家康は、織田信長の配下であった時、巡察師バリニャーノと面識を持っていたからです。
巡察師バリニャーノと親しかった織田信長の秘書的存在の明智光秀も、イエズス会からのポルトガル語の密命を受けたキリシタン大名の高山右近は、明智光秀の配下であったにもかかわらず、イエズス会より日本王候補とされた羽柴秀吉軍に加勢して、1582年山崎の戦で、織田信長の暗殺者の汚名を着せられて抹殺されていたのです。
そして、織田信長爆殺の真実を知るもうひとりは、実行者としての、キリシタンの千利休です。本能寺の近くに南蛮寺を設計・建設した高山右近の茶の師匠である千利休は、1582年6月1日の織田信長爆殺前夜、公家や「楢柴」を持っている博多の商人鳥井宗室を招き、「大茶会」を本能寺で開催していたのです。その千利休は、バリニャーノが長崎に帰還すると同時に堺に幽閉され、1591年関白豊臣秀吉が、聚楽第でバリニァーノと謁見する数ヶ月前に、聚楽第境内の千利休の屋敷で、豊臣秀吉の命で切腹し、その妻は、石田三成の拷問により謀殺されていたのです。
これらの一連の処置により、イエズス会と藤原氏による織田信長の爆殺は、明智光秀の単独による謀叛として認識されてしまうのです。しかし、この山崎の合戦での、同盟者であった徳川家康の、明智光秀への裏切り行為が原因となり、後に、江戸時代となり徳川家康の崩御後、明智光秀一族の流れにあるお福(後の春日局)の陰謀により、徳川家康と同族の秦氏末裔が、再び、賎民として貶められる結果となっていくのです。
1598年豊臣秀吉が倒れると、明国征服の計画が中止されることにより、朝鮮半島侵略の慶長の役が、太閤検地と供に、突然終わるのです。そして、豊臣秀頼を後継者として、五大老、五奉行制度の集団指導体制を定めるのです。その病床で豊臣秀吉は、五大老のひとりとして徳川家康を命じ、豊臣秀頼の後見人のひとりとするのです。
8月豊臣秀吉が死去すると、高山右近を客臣とする大老の前田利家と五奉行の石田三成が対立するのです。石田三成が、大老に向って強く出られるのは、千利休の妻を拷問し、謀殺したことからでも分かるように、豊臣秀吉の密命を受けるほど、石田三成は豊臣家の忠臣として、藤原氏と豊臣秀吉との秘密をよく知っていたからです。
前田利家が病死すると、文治派の「サムライ」石田三成の横暴に対して、武断派の「武士」福島正則や加藤清正が激怒して襲撃したのです。この襲撃に対して、石田三成は、一時命を狙ったことのある徳川家康に救いを求めたのです。懇願に対して断ることが出来ない性格の徳川家康は、信用できない石田三成を、福島正則からの襲撃から護る条件として、奉行職の解任と、佐和山城での蟄居を命じたのです。
1600年朝廷・豊臣氏から、徳川家康に、不穏な動きをしている上杉景勝を征伐せよ、との命が下されるのです。それは、「豊臣氏の忠臣である徳川家康が謀反人の上杉氏を討つ義戦」であったのです。しかし、この義戦には、石田三成による陰謀が潜んでいたのです。
6月16日徳川家康軍は、上方から出陣するのですが、その進軍は遅々として進まないのです。それは、徳川家康側の忍者からの情報で、石田三成が挙兵する動きが、徳川家康に届いていたからです。
7月石田三成は、徳川家康が確信していたように、毛利輝元を総大将として、大坂城で豊臣秀頼を事実上擁立して、挙兵したのです。この石田三成の挙兵に、徳川家康が対峙するとすれば、徳川家康は、その場で謀叛者となってしまうのです。
徳川家康は、征伐軍団を組織する時に、石田三成派の「サムライ」は排除して、福島正則などの武断派の「武士」グループだけで構成していたのです。それは、「武士」は、生き方上手の「サムライ」と比べて、正義を貫く無骨者が多く、約束を護るため、信頼することができる傾向があるからです。それは、「武士」である無骨者の徳川家康が、キリシタン大名であった高山右近が前田利家の客臣となり、前田利家の死後も、前田家に忠誠を尽くした生き様を、体験を通してよく知っていたからです。
その徳川家康の読みが当たり、福島正則などの「武士」は、徳川家康に従うことを約束し、ここに豊臣氏の西軍に対する、賊軍としての総勢10万の東軍が生まれたのです。
9月1日徳川家康は、江戸城から出陣したのです。徳川家康軍は、エドを基点としたローマ帝国軍式直線道路により、素早く進軍して、京に上るための要所である関が原に布陣するのです。しかし、豊臣秀頼を擁立した西軍は、兵力で、謀叛の東軍より圧倒的優位であったのです。
しかし、徳川家康には、策があったのです。その布石として、7月石田三成が挙兵すると、8月23日徳川家康軍団が、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした時、豊臣秀吉軍であったならば、落城後、敵将の一族郎党を、見せしめのために串刺しにしてしまうところを、徳川家康は、敵将の織田秀信の命を助けていたのです。これは、生き方の上手な「サムライ」に対して、「徳川軍に寝返ったならば、命は助ける。」とのサインであったのです。
9月15日午前8時美濃の関が原で、東軍と西軍が激突するのです。兵力で圧倒的不利な東軍は、初戦で西軍に押されていたのが、小早川秀秋の東軍への寝返りで、西軍が総崩れとなり、形勢は一挙に逆転してしまったのです。更に、西軍の島津軍は、東軍本陣の中央突破により戦線から離脱したことにより、西軍の敗北が決定したのです。
この関が原の戦いは、9月14日には、東軍勝利の予測が立っていたのです。それは、徳川家康は、忍者を使い、160通もの書状を西軍の諸大名に回送していたからです。それに、島津軍が、西軍から寝返るのは、徳川家康には分かっていたのです。それは、島津氏の前氏は「惟宗氏」で、その惟宗氏の前氏は「秦氏」であったため、徳川家康と同族であったからです。そして、秦氏の同族は、基本的には、争わないとの掟が古来からあったからです。
10月1日徳川家康は、西軍が不利と知ると戦場から逃亡していた石田三成を、六条河原で処刑するのです。しかし、豊臣秀頼と淀殿は、「女・子供は戦に関係なし。」との、徳川家康のお達しで、御咎めなし、としたのです。但し、豊臣氏は、その所領を摂津・河内・和泉(古の秦王国の支配地)とし、65万石の一大名の身分に落とすのです。
1601年徳川家康は、大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡し、伏見城で政務を執るのです。そして、征夷大将軍となるための布石として、出自不明の徳川家康の家系図を、源氏棟梁の源義家に通じるように、神龍院梵舜に命じて、改竄させるのです。天下を執った徳川家康も、その出自が不明なように、戦国時代の武将の多くの三代先は不明であったのです。
1603年徳川家康は、後陽成天皇より、征夷大将軍、淳和奨学西院別当、右大臣に任命され、ここに、江戸幕府が開かれるのです。しかし、徳川家康は、1605年将軍職を三男秀忠に譲位し、1607年駿府に移って、大御所として実権を掌握し続けるのです。
では、織田信長も、豊臣秀吉も、その征夷大将軍の地位を強く望んでいたのに、徳川家康は、アッサリと将軍職を息子に譲った理由は、何だったのでしょうか。更に、徳川家康にとって、「関が原の戦い」とは、どのような意味があったのでしょうか。
教科書歴史によれば、江戸時代のエドは、武家支配により政治がおこなわれていた、と述べていますが、それは、三代目将軍徳川家光以降のことです。では、それ以前の徳川家康と秀忠の時代では、どのような政治がおこなわれていたのでしょうか。
江戸時代の政治の特徴である、参勤交代、ポルトガル人来航禁止による鎖国、キリシタン弾圧の島原の乱などは、初代将軍徳川家康ではなく、三代目将軍徳川家光がおこなったことなのです。
1614年大御所徳川家康により、高山右近と内藤如安などのキリシタンがマニラに国外追放されていますが、それでもキリシタンの多くは、三代目将軍徳川家光が政治を執る以前までは、国内に多く存在し、布教活動をしていたのです。
このことは、鎌倉時代と言っても、1192年源氏棟梁の源頼朝が幕府を拓き、その源氏一族の源実朝が、北条氏の陰謀により、1219年暗殺されるまでと、それ以降の、北条氏が支配した鎌倉時代の政治が異なるように、徳川家康・秀忠時代と、家光時代以降の江戸時代の政治は異なっていたのです。
漢訳仏教嫌いの徳川家康は、基本的には、キリシタン布教を黙認していたのです。しかし、徳川家康が、高山右近を国外追放した原因のひとつは、1609年長崎でのマードレ・デ・デウス号事件があったからです。
その事件とは、1608年キリシタン大名の有馬晴信の持ち船の乗員50名が、マニラで、貿易上のトラブルで、アンドレ・ヘッソアに殺害されていたのです。そのアンドレ・ヘッソアが同乗する船マードレ・デ・デウス号が長崎に来航すると、有馬晴信は、敵討ちのために、その船を沈没させてしまうのです。
この事件のもみ消しと旧領の復帰を画策した有馬晴信は、徳川家康の側近本多正純の家臣であるキリシタンの岡本大八に、金品を渡して周旋を頼むのです。しかし、岡本大八は、そのワイロ金を着服してしまうのです。しかし、そのことを徳川家康の知ることになると、岡本大八は、有馬晴信による長崎奉行暗殺計画を暴露してしまうのです。このキリシタンによる陰謀を警戒していた徳川家康は、有馬晴信と岡本大八を処刑するのです。
このことは、一時キリシタンに命を狙われていた徳川家康には、キリシタンの千利休一派による織田信長爆殺を思い出させ、日本キリシタンの代表者である高山右近の国外追放の流れとなっていったのです。
では、徳川家康は、将軍職を投げ打ってまでして、何をおこなおうとしていたのでしょうか。
1611年大御所徳川家康は、藤原氏の傀儡の豊臣氏に好意的であった後陽成天皇を退位させていたのです。更に、天皇家に秀忠の五女和子の入内を画策し、更に、天皇家の財政を逼迫させる目的で、仏教僧への紫衣の着衣禁止を強要していたのです。
その徳川家康の、天皇家に対する好意的ではない行動の動機を探るヒントは、徳川氏の家紋である「葵」にあるようです。その葵の家紋は、松平氏の家紋以前は、賀茂氏の紋であったのです。では、その賀茂氏とは、何かと言えば、それは、陰陽家の出自であったのです。
陰陽師の祖は、飛鳥ヤマト時代に隆盛していた道教であったのです。「穢」の犠牲により祀りをおこなっていた道教士は、奈良時代から平安時代にかけて、中国大陸から侵攻して来た唐進駐軍と供に渡来した漢訳仏教組織により、その犠牲による祀りを禁止させられることにより、亡命百済貴族が支配した平安時代に、犠牲をおこなう道教士から、呪術師としての陰陽師に変身して生き延びていたのです。
亡命百済貴族が支配した平安時代に、飛鳥ヤマト時代に、道教と共に、山背国と比叡山で牡牛を屠る犠牲により祀りをおこなっていた秦氏の祭祀一族も、秦氏から惟宗氏に変身して生き延びていたのです。この惟宗氏が、鎌倉時代初期に、源頼朝により、藤原氏の支配荘園である島津荘を拝領したことにより、島津氏を名乗ったのです。
その陰陽師と因縁のある賀茂氏の「葵」を家紋とする徳川家康は、1590年藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、関東の湿地帯に追放されるのです。その時、武州府中で、徳川家康一行を迎えたのが、秦氏末裔の集房(ためふさ)、初代弾左衛門、と云われているのです。しかし、徳川家康一行は、府中を通ってはいないのです。
この事跡は、弾左衛門一族が、1590年以前に、府中を支配していた、と改竄する物語であったようで、その頃には、甲州武田信玄より御証文を受けた者が支配していたようです。その根拠のひとつとして、1692年(元禄5年)上州仁田村の長吏馬左衛門が、武田信玄の御証文を根拠として、弾左衛門の被支配者ではないことを、評定所に訴え出ていたのです。その論点は、穢多身分は、長吏身分よりも新しいので、長吏の馬左衛門は、穢多頭の弾左衛門の支配下の者ではない、と言うことです。しかし、弾左衛門は、鎌倉頼朝公の御朱印により、弾左衛門が、正統な長吏であると訴えたため、幕府は、武田信玄の御証文よりも、源頼朝の御朱印の方が歴史的に古いため、弾左衛門を正統な長吏職と認めていたのです。
では、徳川家康と集房(初代弾左衛門)との関係は、どのようなものであったのでしょうか。戦国末期から江戸初期の史料は、乏しいので、その関係を説明できる史料はないのですが、伝聞では、集房の木印は、1600年濃州青野ヶ原(岐阜県関が原)の合戦で、討ち取った敵将の首級(しるし)を、帳面に記入して、集房に監守させた時、その首帳に押捺したものだ、と云われているのです。
討ち取った敵将の首級は、武将にとっては大切なもので、その首級は、立派な大将に見せかけるために武士の妻が、死に化粧をして、大将に提出し、その首級を実検して(首実検)、褒賞としてのご恩の額を決定したものであったのです。集房の木印は、徳川家康との深い関係を示しているようです。
秦氏末裔の弾左衛門一族は、徳川家康を敬愛していたようで、十三代弾左衛門が、明治革命により、弾直樹として平民になるまで、4月17日には、権現様(徳川家康)の御祭礼として、赤飯を惣穢多に振舞っていたのです。
徳川家康が駿府で大御所として政治を執っていた江戸初期では、弾左衛門は、例年正月3日より8日まで、熨斗目麻上下(のしめあさかみしも)にて、御老中若年寄三奉行の役宅に年始に廻礼していたのです。その弾左衛門の年始の行列は、長棒駕籠、鎗、挟箱、合羽駕籠で、先供徒士(かち)は羽織袴、両刀で、駕籠脇近習は麻上下両刀を帯し、小者は真鍮金物付木刀一本を挟んでいたのです。但し、鎗は、実際の大名行列のように竪立せず、担ぐしきたりであったのです。
では、江戸初期の弾左衛門の政治世界はどのようになっていたのでしょうか。
徳川家康の配下として、荒川と利根川支流が流れ込む湿地帯を、古代エジプトの高度土木技術により、堀を造り、干拓して、エドの街を造った秦氏末裔の弾左衛門一族は、関東一円を支配していたのです。
第三代目将軍徳川家光により、弾左衛門が鎌倉時代より支配していた28番職種の多くは、弾衛門支配から離れ、一銭職(髪結床)、石切、そして、紺屋職の三業のみとなってしまったのです。更に、1781年以降、その三業も支配下から離れて、弾左衛門の支配下は、穢多と非人のみとなってしまったのです。
それでも、弾左衛門の営業は、革の製造と燈芯の製造と、裏金融であったのです。その営業は無税であったのです。その代わり、弾左衛門は、革御用として、陣太鼓、御太鼓、絆綱、そして、燈芯御用として、一年に五百貫目の定額を上納して、千代田城の夜を燭台の灯りとして照らしていたのです。
では、その弾左衛門の財政を調べると、文化文政(1803年〜1827年)の頃でも、百七十万両が金庫にあり、田地は葛西金町、越谷、上州太田に三千石を所有し、一万五千俵の米穀を倉庫に保管していたのです。更に、燈芯草の耕作を命じる権利を、茨城県新治郡、筑波郡、北相馬郡の十五カ村に持っていたのです。
では、弾左衛門の居宅はどのようであったのでしょうか。三代目将軍徳川家光により、江戸町中央から、浅草寺裏の湿地帯に移封されてしまったので、江戸時代初期の弾左衛門の居宅を知ることはできませんが、その浅草新町(シンチョウ・秦町)は、一万四千四十二坪あり、弾左衛門の居宅は二千六百坪あり、上級武士の屋敷でしか許されない長屋門があり、更に、中爵門も設けていたのです。
その広大な邸宅で職務を執る弾左衛門は、1800年(寛政12年)での調査では、関東長吏身分の者は、5554戸(一説では9805戸)であり、その関東に暮す多くの者達を支配するために、江戸幕府と異なる行政をおこなっていたのです。
教科書歴史では、弾左衛門政府が、江戸幕府と異なる行政により、支配下のひと達をコントロールしていた史実を隠しているのですが、その実態は、正に、古代ギリシャ都市国家とも言うべきものであったのです。
紀元前20世紀バルカン半島南端に、アカイア人、イオニア人、ドーリア人が侵攻し、それらの人達は、まとめてギリシャ人と言われていくのです。そのバルカンの地は、平野が少なく、農耕に適していないことにより、各部落が、それぞれ奴隷を使い果樹栽培で生計を立てていたのです。その各部落により、エジプトの穀物と果実を交換するために、遠く旅する海上交易をおこなう必要があるため、海賊や山賊と戦うために軍団を、各部落ごとに組織していたのです。
このギリシャでは、平坦地が少ないため、神殿を中心に都市国家を形成していたのです。その都市国家を外敵から護るために、馬を維持できる者が騎兵となり、その戦いでの働きにより貴族となっていくのです。しかし、エジプトなどと海上貿易により富をたくわえた平民も、青銅の兜、丸い盾、足の脛当て、革製の鎧、そして、二m以上もの穂先のある長槍で武装した平民も、名誉を得るために、貴族と一緒に戦いに参加したのです。
そのギリシャ式戦いは、長槍と盾で武装した重装歩兵が密集隊を構成し、敵陣に突撃を繰り返すのです。白兵戦は、ランチェスターの法則どうりに、その軍人の数が多いほど優位であるわけですから、ギリシャの平民は、武装して戦に参加することにより、その平民兵士が、貴族兵士よりも圧倒的に多くなっていくのです。そこで、平民兵士より、「戦で、貴族と同じ働きをした平民兵士にも、貴族と同様に市民にも参政権を与えよ」、と要求したことにより、ギリシャ都市国家で、民主政治の第一歩が始まるのです。
この民主政治のデモクラシーとは、ギリシャ語のデモクラティアに由来し、民衆(デーモス)の支配(クラティア)を意味しているのです。
紀元前594年ソロンは、民衆に市民権を与えるのです。そして、紀元前509年クレイステネスは、部族制度を従来の四部族から十部族とし、その下部組織として、デーモス(区)を設けたのです。その十部族から、各50人の代表により、500人評議会を設置するのです。
そして、紀元前462年エフィアルテスにより、一年ごとの交代で、挙手により選出された将軍や祭祀による、民主政が完成するのです。これにより、貴族最後の牙城のアレオバゴス会議の特権を奪い、それらの特権が500人評議会や民会裁判所に移管したのです。そして、紀元前322年マケドニアにより、民主政が廃止されるまで、アテネの民主政は存続したのです。この古代ギリシャの、選挙による民主政が、古来から日本列島に伝播していたのです。
オリエントから渡来の秦氏末裔である、関八州を支配していた弾左衛門の政府は、基本的には、五年目ごとに、総選挙をおこない、弾左衛門政府の家従(役人)を投票選挙により選出していたのです。しかし、丸山三右衛門と石原孫一の両家は世襲としていたのです。
その選挙では、関八州に暮す九千有余の惣穢多による直接選挙ではなく、古代ギリシャの民主政と同じに、代議員500人の触頭(穢多村の村長)の封書での投票でおこなわれていたのです。
その関東八州に散在する幾百の部落の穢多は、キリシタンの「賎の利休」と云われた茶人千利休が暮した自治都市堺と同じに、王権が及ばない自治制をなし、平生は直接弾左衛門の支配を受けるのではなく、各部落(ポリス・都市国家)の触頭の指示で公共の事を所弁していたのです。
関八州の500人の触頭により投票選挙で選ばれた、弾左衛門政府の人事構成はどのようになっていたのでしょうか。役人の上役として15人の内、御家老は3人、御用人は3人、裁判関係の公事方奉行は3人、会計係りとしての御勘定奉行は2人、監視役としての大目付は2人、地方事務の処理役の御郡代は2人の人事構成となっていたのです。
下役65人は、側で世話をする者である御近習役、お目付、書記の御祐筆、御用部屋、公事方、御勘定方、御郡代手附の類で人事構成していたのです。
小者70人は、同心足軽で、他に、非職として革の製造に従事する者75人の総計220人で、弾左衛門政府を構成していたのです。この人事布陣は、正に、ミニ弾左衛門幕府の様相を示しています。
更に、弾左衛門政府では、徴税権と司法権も、江戸幕府から独立していたのです。司法権は、穢多と非人に限り、追放以上の刑は、一々町奉行に伺い、指令を受けていましたが、それ以外は、弾左衛門政府は、自ら裁判をし、自ら刑罰を科していたのです。そのために、弾左衛門の邸宅用部屋の脇には、伝馬町の牢屋敷に似た三棟の牢獄があり、その一棟は、町奉行所より預かりの平民罪囚のための牢獄で、弾左衛門政府が法廷としての白州が設けていたのです。
そして、新町(秦町)には、ギリシャ都市国家の中心となる神殿があったように、鎮守神を祀る祠があり、その神を「インジンサマ」と崇称し、祭礼をおこなっていたのです。
藤原日本史では、穢多は経済的・精神的に惨めな賎民のように記述していますが、藤原氏が720年に創作した「日本書紀」などの勝者側の立場で述べられた正史ではなく、秦氏末裔の万葉語学者で「日本書紀」の講義師である多人長が812年に創作した「古事記」などの、敗者側の立場で述べられた野史(簒奪王権により焚書されないように、比喩や暗号文で記述されているものが多い。)を、少し調べれば、このように古代ギリシャ都市国家に類似した秦氏末裔が管理・運営していた部落(ポリス・自治村)が、古代から江戸時代末期まで実在していたことが分かるのです。
何故、敗者側から見た歴史が表の世界に現れずに、抹殺、或いは、改竄されるのかと言えば、それは、勝者である簒奪王権の正統性を示す主たる目的は、敗者である前政権の歴史を抹殺、或いは、改竄することにより、敗者側だった人民はもとより、敗残兵をも簒奪王権の下に統制することができるからです。
日本列島史での前政権の歴史の抹殺、或いは、改竄の始めは、645年の「大化の改新」からです。そして、前政権の歴史の抹殺、或いは、改竄は、古代だけではなく、近世の江戸初期の歴史でもおこなわれていたのです。
「大化の改新」は、明治維新後に発明されたものです。しかし、藤原日本史では、その「大化の改新」の基本とは、公地公民、班田収授法、国郡制度、そして、祖・庸・調の税制の確立のこと、であると言うのです。しかし、それらの事項は全て、645年以降に発明されたものであったのです。
国郡制度の確立は、645年ではなく、701年大宝律令以降に確立されたもので、それ以前では、国の支配区は、評(こおり)と云われていたのです。そして、戸籍・計帳を必要とする班田収授は大宝律令からで、全国的(近畿一帯)戸籍作成の始めは、670年庚午年籍からなのです。そして、藤原氏が「日本書紀」で述べているように、日本国の元号は、645年ではなくて、701年大宝元年からなのです。
何故、簒奪王権は、645年を国政の始まりと改竄したのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトを支配していた東突厥帝国進駐軍が、壊滅した年であったからです。そして、騎馬民族の前政権の文化を抹殺、隠蔽するために、蘇我蝦夷が天皇記と国記を焼失させたので、飛鳥ヤマトの歴史は分かりません、とするのです。
では、それ以前の日本列島の歴史はどのようになっていたのでしょうか。その日本国の元号が発明された以前の都は、飛鳥ヤマトにあったのです。その飛鳥ヤマトの前政権の歴史を、抹殺、或いは、隠蔽するための「装置」が、「大化の改新」物語であったのです。その「大化の改新」物語を創作するための素材が、647年韓国新羅史の「眦曇の乱」(ヒドン)であったのです。
そのように、勝者である簒奪王権は、歴史物語を操作することにより、如何様にも、敗者の歴史を抹殺、或いは、改竄できるのです。
1600年関が原の戦いで、東軍の徳川家康は勝利し、エド城の普請を急ぐのですが、エド城の完成は、1636年三代目将軍徳川家光の時代であったのです。その前年、1635年徳川家光は、諸大名の財政を窮乏させる目的で、参勤交代制を確立していたのです。
しかし、そのエド城は、完成後3年の1639年本丸大奥からの失火により、天守閣と僅かな櫓を残して焼失してしまうのです。このエド城は、その後、二十数回も火災にあっているのです。不思議なのは、1657年(明暦3年)「振袖火事」により、天守閣も炎上していたのです。更に不思議なのは、第十五代目将軍徳川慶喜は、一度もエド城には居住していなかったのです。
何故、エド城は、そのように数多い大火にあったり、そして、将軍が居住していなかったのでしょうか。それは、エド城の別称、「千代田城」に、謎解明のためのヒントがあるようです。
エド城が、何故、千代田城と云われるのかの教科書歴史の説明では、室町時代にエド城を創建した太田道灌の幼名が、鶴千代と云われていたから、とか、エド城の周りが肥沃な田地(千代田)であったため、と云われているのです。
そして、太田道灌の幼名鶴千代の根拠は、江戸時代に書かれた「太田家記」にあるとするのです。そして、太田道灌のエド城の史料は、江戸時代に書かれた「寛政重修諸家請」にあるとするのです。
しかし、それらの説明に反して、太田道灌の正式な幼名は、持資であるのです。そして、1446年15歳の元服で資長となっているのです。更に、徳川家康が築城したエド城は、室町時代に太田道灌が築城した跡に建増した城などではなく、その太田道灌が築城したエド城(実際は砦)の上に、8.5mの盛り土をして、海抜十mの人工山の上に築城された城であったのです。
室町時代、摂津源氏末裔の太田道灌が、エドに築城した砦は、下総を支配している、桓武平氏末裔の千葉氏の侵攻を阻止するために、荒川・利根川の支流が流れ込む、河口の湿地帯にある、海抜2.5mの岬(古代エジプト語で、ワタ・ナーベ)の上であったのです。
ですから、その太田道灌の砦の周りは、河口の葦の茂る湿地帯であるわけですから、教科書歴史が述べるように肥沃な田地(千代田)であるはずはないのです。では、エド城の雅名である千代田城は、何を隠蔽するための城名なのでしょうか。
勝者の簒奪王権は、敗者側の武人を貶める目的で、鬼、土蜘蛛、俘囚、蝦夷などの、蔑称を付ける歴史的傾向があるのです。更に、敗者側の騎馬民族末裔の民族も、穢多(エタ)や川田・皮多(カワタ)などの蔑称を付けられていたのです。そして、イエズス会に軍事支援された織田信長により敗れた、大坂の石山本願寺派の秦氏の源氏末裔の砦も、エタ城との蔑称を付けられていたのです。
1600年東西に分かれて戦った、関が原の戦いは、教科書歴史では、豊臣秀吉の遺臣軍団対王権を簒奪する逆賊の徳川軍団の図式で説明しているようですが、その実態は、古来からの、藤原氏対秦氏の戦いの続きであるわけです。
それは、豊臣秀吉は、イエズス会傭兵から寝返った、藤原氏の猶子であったからです。それに対して、徳川家康は騎馬民族末裔であり、「葵の紋」を旗印とすることは、藤原氏の仏教派に敵対していた、陰陽道の祖、道教の末裔を示していたからです。その「葵の紋」の旗の下、徳川家康軍団の多くは、秦氏末裔の武田騎馬軍団残党の金山衆や、石山本願寺派軍団残党の秦氏末裔の源氏武士末裔であったのです。
そのような、騎馬軍団末裔の武士により勝利した徳川家康軍団は、敗れた藤原氏軍団には憎憎しい存在であったのです。その勝者である徳川家康は、敗れた武将達にエド城普請を命令したのです。そして、1636年三代目将軍徳川家光の時代に、エド城は完成するのですが、その三年後、鎖国を断行した1639年にエド城の多くの建物は、本丸の大奥からの失火により焼失してしまったのです。
では、何故、エド城が千代田城と呼ばれていたのでしょうか。それは、徳川家康の出自に関係があるのです。
北条鎌倉時代、藤原氏と、百済系桓武平氏末裔の北条氏とにより、秦氏末裔の源氏武士を社会的に抹殺するための手段として、平安時代に錬金術師空海が、唐から持ち込んだ騎馬民族差別思想の「施陀羅悪人ナリ」をバージョンアップして、遊牧民族であるから、当然肉食する者を「施陀羅」から、ケガレが多いとの意味である「穢多」を発明したのです。しかし、その騎馬民族差別語の「穢多」は、ユダヤ系日本人(藤原氏)が多く住む奈良や、百済系日本人(桓武平氏)が多く住む京都・大坂では浸透したのですが、それ以外の地域では、その「穢多」の騎馬民族差別語が流行らなかったのです。
徳川家康が支配していた三河地域周辺では、「穢多」の差別語ではなく、川田・皮多(かわた)と云われていくのです。そのカワタには、ケガレの意味が、穢多よりも薄れていたのは、それらの地域には、騎馬民族や海洋民族が多く暮していたからです。織田信長の出身地の尾張や伊勢は、魚食するアラブ系日本人(平家)が多く住み、そして、徳川家康が支配した三河には、肉食する秦氏末裔の新羅系日本人(秦氏)が多く住んでいたからです。
その三河を支配していた徳川家康が築城したエド城は、戦国末期の石山合戦の戦いで、イエズス会に軍事的支援された織田信長軍団の攻撃を十年間も防いだ、秦氏末裔の源氏武士末裔の砦を、藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉が「エタ城」と蔑称したように、徳川家康とその息子の秀忠が死去し、百済の血が流れている三代目将軍徳川家光の時代になると、藤原氏側のひと達は陰で、「カワタ城」と蔑称していたのです。それは、徳川家康が、世良田部落の出身で、アラブ系の平家末裔の織田信長が、海洋民族末裔の賎民である余部(海部)を庇護したように、三河の騎馬民族末裔のカワタを庇護していたからです。
そこで、新羅(秦羅)を憎む百済側の智慧者が、そのエド城の蔑称のカワタ城を、雅名の千代田城に改竄したのです。カワタ(川田・皮多)を、皮(カワ)→川(カワ→セン)→千に替え、千田(ちよた)→千代田と改竄したのです。そして、その改竄物語の裏付けのために、室町時代の太田道灌を持ち出して、太田道灌の幼名を鶴千代とし、更に、エド城の周囲は美田(千代田)が多くあったとの伝承を創作したわけです。
百済の血が流れる徳川家光には、秦氏末裔は憎むべき相手であったのです。それは、663年母国百済を滅ぼしたのが秦氏の渡来元の、ギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅)であったからです。そして、エド城にハーレムである大奥を発明した春日局も、騎馬民族末裔の徳川家康が築城したエド城の存在を許せないひとりであったのです。
それは、戦国末期、織田信長が、イエズス会と藤原氏とによる陰謀で、本能寺で爆殺された後、主殺しの謀叛者とされた明智光秀からの救援を、徳川家康が断っていたからです。山崎の合戦で、イエズス会の命令に逆らい徳川家康が、明智光秀軍に加わっていたとしたら、日本史も今とは異なっていたことでしょう。
その明智光秀一族末裔のお福が、後に、三代目将軍となる徳川家光の乳母となり、そして、藤原氏と仲が良い後陽成天皇を退位させた徳川家康を、どうしても抹殺したい藤原氏の計らいにより、春日局に変身していたのです。その春日局が、エド城でのハーレムである大奥を発明し、管理していたのです。1639年千代田城の大火の火元が、春日局が管理運営していた、本丸の大奥からの失火であったのは、何を意味していたのでしようか。
カワタ城が聳えるエドの町は、人工町で、更に、京の百済系日本人と奈良のユダヤ系日本人達には、その人工町のエドはケガレ地であったのです。それは、騎馬系民族出自の徳川家康と、その配下の、北条鎌倉政権下で漢訳仏教組織が発明した「穢多」と蔑称された秦氏末裔が開拓した町が、エドであったからです。
ケガレ地を避けることは、第三百済王朝となった、1635年第三代目将軍徳川家光が、外様大名(騎馬・海洋民族末裔武士)を経済的に疲弊させるためと、閑散としたエドの町の人口増加を意図して、参勤交代の制度を確立すると、その西方の遠隔地からエドへの参勤交代の大行列は、伊勢・尾張と三河を避けていたのです。
それは、伊勢・尾張は、魚食するアラブ系日本人(平家)が多く住み、その地を支配していたのが、百済系の比叡山延暦寺の全僧侶を斬首した、仏敵の織田信長であったからです。
そして、三河は、肉食する新羅系日本人の秦氏末裔が多く住み、その地を支配していたのが、イエズス会軍団の一員として、藤原氏系の一向宗軍団を壊滅した徳川家康であったからです。
天下を盗った織田信長は、漢訳仏教組織により、賎民の「キヨメ」に落とされた余部(海部)を庇護し、そして、天下を盗った徳川家康も、一向宗軍団残党の秦氏末裔の源氏武士や、革製造技術者の「カワタ」を庇護していたのです。その徳川家康は、民族差別語の「カワタ」の言葉を公式には一切述べていなかったのです。
しかし、1616年徳川家康が死去し、その息子秀忠が、1623年家光に将軍職を譲ると、エドの町を開拓した秦氏末裔は、イジメられていくのです。それは、織田信長に軍事的壊滅された比叡山延暦寺の天台宗が、江戸初期に復活していたからです。戦国末期、イエズス会の勢力を日本列島から排除する目的で、藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉が、壊滅していた漢訳仏教組織復活を目論んで、布教の援助をしていたからです。その結果、騎馬民族差別思想を内在している「法華経」を説く天台宗の僧侶が、エドの町で布教を始めていたのです。
しかし、漢訳仏教嫌いの徳川家康が帰依していたのは、親鸞が発明した浄土真宗ではなく、法然が発明した浄土宗であったのです。法然の思想を表わした、「ナムアミダブツ」とは、「アミ様に帰依します。」という意味で、そのアミ様とは、民族平等を唱えた、古代エジプトの太陽神アトンのことであったのです。
騎馬民族の秦氏が祀っていたのが、太陽神ミトラで、その太陽神ミトラが、古代エジプトで変身した神が、太陽神アトンであったのです。その太陽神アトンが、国際交易都市ガンダーラで、アミ様に変身し、そのアミ様が中国大陸で、更に、阿弥陀様に変身していたのです。その、徳川家康が帰依していた浄土宗の仏とは、秦氏が祀っていた、太陽神であったのです。
では、戦国時代最後まで戦った、北条鎌倉時代に親鸞が発明した浄土真宗の本願寺派は、エド時代に、どうなっていたのでしょうか。
戦国時代、秦氏末裔の源氏武士末裔を取り込んだ一向宗軍団を組織して、北陸一帯を一向宗王国として支配していた、藤原氏系の本願寺派の多くは、イエズス会に軍事的支援を受けた織田信長・豊臣秀吉・高山右近軍団により壊滅されるのですが、顕如派は生き残っていたのです。
織田信長と十年間も戦った大坂の石山本願寺派は、正親町天皇の斡旋で、顕如は織田信長と和解してしまったのですが、教如が新しく門主となると、織田信長との徹底的抗戦を唱えると、摂津・河内・和泉の穢多村が参戦したのです。が、しかし、織田信長が本能寺で爆殺されると、イエズス会から次期日本王と指名された豊臣秀吉とキリシタン大名の高山右近軍団により、壊滅させられてしまったのです。そのキリシタン傀儡軍と徹底抗戦した摂津・河内・和泉とは、古墳時代に秦氏が支配していた、古の河内王国(秦王国)であったのです。
その生き残った顕如の本願寺派を、漢訳仏教嫌いの徳川家康は、勢力を衰えさせるために、内部分裂を画策した結果、光寿の大谷派と、光昭の本願寺派に分裂し、今日に至るわけです。
賎民の王国である、徳川家康支配のエドの町(秦王国)に、関東の山伏と天台宗の僧侶とが、「穢多」がおこなう死者の埋葬儀式をめぐって対立し、裁判となったのです。
山伏とは、飛鳥ヤマト時代の祭祀者末裔で、645年飛鳥王朝(教科書歴史では、蘇我蝦夷・入鹿親子)が、唐進駐軍と中臣軍とに敗れると、唐進駐軍と供に渡来した仏教に祭祀権を乗っ取られたため、山奥に逃れ、変身して生き延びた末裔であったのです。
飛鳥ヤマト時代、犠牲により祀られていた太陽神思想での死者は、死と再生を繰り返す太陽と同じに、再生を願うため「土葬」されていたのです。しかし、中国大陸から渡来した漢訳仏教思想での死者は、汚物のケガレ物でしかなく、ケガレを清めるために、火で燃やしてしまうのです。(仏教伝来が、538年(「日本書紀」では552年)ではないことは、日本国初の火葬された天皇が、697年百済系女帝持統天皇であることから証明できます。その持統天皇の前、686年死去の新羅系天武天皇は、土葬なのです。)
死者の埋葬を廻って、山伏と天台宗の僧侶との裁判での論争は、永遠に続くことになるのですが、そこに、僧正の看海(かんかい)が現れるのです。その看海は、山伏による部落での葬儀、皮を煮詰めての膠(にかわ)作り、革製武具生産、掃除など、部落でのしきたりなどは、仏教文化と異なる、異民族起源であると説明したのです。この僧正看海の説明により、埋葬に関して、山伏は、天台宗僧侶に敗れるわけです。
この天台宗の僧侶が現れた時代から、エドの町で、弾左衛門が徳川幕府から優遇されていたのが、賎民扱いを受ける始まりとなるのです。
徳川家康が、穢多を優遇していた根拠のひとつの例として、1614年大坂冬の陣、そして、翌年の1615年大坂夏の陣で、徳川軍は、渡辺村の出城(エタ城と蔑称されていた。)に立て篭もる豊臣勢軍団を攻め落とすと、翌年、豊臣秀頼を倒し、その八歳の息子国松を、京都の六条河原で、穢多に討たせていたのです。それは、豊臣秀吉が、戦国末期に、穢多(秦氏末裔)の大坂の支配地(秦王国)を簒奪し、亡命百済移民末裔が多く住む九太郎村に移封し、イジメ抜いていたことを、徳川家康が知っていたからです。そして、徳川家康は、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、穢多村と落とされた摂津渡辺村に「断罪御用」を命じて、役人村に引き上げたのです。
家光の乳母の春日局を手先として送り込んだ藤原氏は、騎馬民族が支配する江戸幕府体制から、騎馬民族末裔の「武士」を排除して、桓武平氏末裔の「サムライ」を取り入れるため、「武士」系大名取り潰しにかかるのです。三代目将軍徳川家光は、「武士」系の親藩・譜代20家と外様29家を取り潰し、その代わり、「サムライ」系の40家を新しく親藩・譜代としたのです。
この百済の血が流れる三代目将軍徳川家光による人事異動は、794年唐進駐軍の支援の下、秦氏が支配していた山背国と比叡山を乗っ取った、亡命百済貴族末裔の桓武天皇が、中国の山東半島から亡命百済民を京に移民させ、その亡命百済移民を貴族として優遇したことと、同じです。劃して、徳川家光が第三代目将軍となった、1623年より、「武士」ではなく、「サムライ」支配の、第三百済王朝が始まるのです。
徳川家康時代、長吏弾左衛門(教科書歴史では、穢多頭弾左衛門)は、駕籠に載り、二本差しの羽織袴で登城していたのは、弾左衛門の権勢が盛んであったからです。それは、高度技術を持った芸人(芸とは技術の意味もある)を支配していたからです。
それら弾左衛門の配下とは、長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋などです。しかし、それらの多くの配下は、弾左衛門の権勢を削ぐ目的で、石切、髪結、青屋を残し、弾左衛門配下から、三代目将軍徳川家光により、離脱させられてしまったのです。
そのように、三代目将軍徳川家光は、徳川家康の配下であった長吏頭弾左衛門の権勢を削ぐ一方、更に、民心から隔離する手段として、キリシタン弾圧のための刑罰執行人の役割を強要するのです。それが、大きな竹篭に、キリシタンの老人、女子供も入れて、風雨にさらす、「干し殺し」です。その残酷な刑罰を、三代目将軍徳川家光が、弾左衛門に課したために、エドの民衆のこころは弾左衛門から離れていき、遂には、三代目将軍徳川家光の意図したように、エドの支配者側から、賎民「穢多」として、貶められていくのです。
賎民達が築いたエドの町(秦王国)で、多くの職人を支配していた、徳川家康の忠臣長吏頭弾左衛門が、賎民に貶められた仕掛けを創ったのは、三代目将軍徳川家光を裏で操る、天台宗の天海であったのです。
出自不明の怪僧天海は、一説では、明智光秀であると云われていますが、徳川家康が存命の時は、忠臣として振舞っていたのが、徳川家康が1616年死去すると、豹変し、弾左衛門も含めて、徳川家康の忠実な「武士」の家臣達の抹殺にかかるのです。
天海の意図は、徳川家康の葬儀を見れば明らかです。それは、徳川家康の霊を、徳川家康が憎む百済系の宗教思想で、事実上封殺していたからです。天海は、本多正純が唱える吉田神道思想の神号「明神」で徳川家康の霊を祀る提案を拒否して、山王一実神道思想の「東照大権現」で徳川家康の霊を祀って(実際は封印)しまうのです。
それは、その山王一実神道の祖は、平安時代、中国の山東半島から亡命百済民が、秦氏の支配していた山背国や比叡山に移民してきた時、亡命百済移民が日本に持ち込んだ、中国の土着の神シャンワンであったのです。そのシャンワンの神を、山王神と変身させ、秦氏が比叡山で祀っていた太陽神ミトラを封印したのです。そして、亡命百済移民の祭祀者は、その秦氏の太陽神ミトラを、魔多羅と蔑称し、歴史上抹殺してしまったのです。
そのような百済系宗教である山王一実神道を信仰する天海は、エドを中心に関東一円を、百済系宗教である天台宗思想で支配するために、百済系の寺を建立するのです。それらは、東叡山寛永寺、日光山輪王寺、定額山善光寺です。
東叡山寛永寺(東京都台東区)は、三代目将軍徳川家光が、百済系日本人が多く住む京を護る比叡山延暦寺を真似て、1625年に創立し、その初代住職は天海です。そして、不忍池は、東の琵琶湖と云われていたのです。しかし、その東叡山寛永寺は、秦氏末裔の薩摩の「武士」により、1868年上野戦争で焼失してしまうのです。
日光山輪王寺(栃木県日光市)は、創建は奈良時代ですが、天海の指示で、徳川家康の霊を久能山から日光山に改葬し、「東照大権現」を祀る(封印する)ため、1617年東照宮が設けられ、戦国時代に荒れ果てた寺が復興し、今日に至るのです。その貫主(住職)は、天海であったのです。しかし、東叡山寛永寺焼失の翌年、1869年輪王寺宮本坊は焼失してしまうのです。
定額山善光寺(長野県長野市)は、天台宗と浄土宗の別格本山で、その創建は不明ですが、藤原氏が創作した、「日本書紀」の仏教伝来物語(552年)で、廃仏派の物部氏により難波の堀に捨てられた仏像を祀っているとすることから、定額山善光寺創建の歴史は疑問符が付くのですが、この長野の地には、五世紀から百済や高句麗の移民が多く住んでいたのです。その定額山善光寺の「善光」とは、百済最後の王の息子百済王氏の始祖「善光」から名付けられた伝承があることから、百済系の宗教施設であることが示唆されます。
そのような歴史を持つ百済系の寺寺に護られた関東一円は、徳川家康からエドでの菩提寺は、芝の「浄土宗の増上寺」であったものが、三代目将軍徳川家光から「天台宗の東叡山寛永寺」になってしまったのは、王権が代わったことを意味しているのです。つまり、騎馬民族王国(秦王国)から、第三百済王朝への変換です。
因みに、東叡山寛永寺の「東叡山」とは、794年亡命百済貴族の桓武天皇が、秦氏の支配地を乗っ取った京の街(平安京=洛陽)を守護するために建立された延暦寺の比叡山に習い、百済末裔の三代目将軍徳川家光が、秦氏末裔の徳川家康・弾左衛門支配地を乗っ取り、東のエドを守護するための山号としたのです。
この百済系宗教の天台宗は、騎馬民族にとっては脅威であったのです。それは、天台宗の根本思想を語る「法華経」には、騎馬民族差別の思想が溢れていたからです。
天台宗は、日本オリジナルの宗教ではなく、805年に、桓武天皇の命により、最澄が唐の天台山に登り、その経典を持ち帰ったことにより拓かれた、と伝承されています。しかし、中国天台宗の経典の多くは、754年律宗と中国天台宗兼学の唐僧の鑑真により、日本に伝えられていたのです。
八ヶ月の短期留学の最澄は、天台宗の仏典入手が主目的ではなく、山東半島に暮す亡命百済民を、前支配者の秦氏を京から排斥する目的で、日本国に移民させるために、遣唐使留学僧として唐に渡ったのです。最澄が、仏典だけを求めることを目的に唐へ渡ったのではないことは、帰朝後に、年上の最澄が、年下の空海に、頭を下げてまでして、中国仏典の多くを借り受けていることから分かるのです。
では、その中国天台宗は、どのようにして発明された宗教であったのでしょうか。
隋の時代(589年〜618年)、智(チギ)が、宗教の坩堝である天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し、天台宗を発明し、その開祖となったのです。天台宗は、大乗仏教一派であったので、当然、405年後秦の国師となったバラモン僧の鳩魔羅什が、サンスクリット語から漢訳した経典を基に創られていたのです。
中国天台宗は、その無数にある漢訳経典の中から「法華経」を最高の経典とするのです。しかし、バラモン僧の鳩魔羅什が漢訳した「法華経」と、オリジナルのサンスクリット語「法華経」とは、かなりの相違があったのです。それは、騎馬民族の侵攻に悩む、農耕民族である中国の王権に擦り寄るために、遊牧民族トラヴィダ族の地を簒奪したバラモン僧がトラヴィダ族を不可触賎民チャンダラーとしたように、バラモン僧の鳩魔羅什は、騎馬民族への蔑称「施陀羅」や騎馬民族差別思想を漢訳仏典に挿入していたからです。
そのような騎馬民族差別思想を内在した中国天台宗を、平安時代、唐進駐軍に軍事支援された平安京の百済王朝は、騎馬民族末裔である、前支配者の秦氏を貶めるために、比叡山延暦寺に導入していたのです。
そして、秦氏が支配していた山背国や比叡山を乗っ取った亡命百済貴族末裔の百済王朝は、騎馬民族の東突厥帝国進駐軍と、河内を支配していたオリエントから渡来した秦氏とによる、噴水のある石組みの庭園や、河内から飛鳥ヤマトまで敷設されたローマ帝国軍式幅広の直線道路などがあったオリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史を抹殺するために、百済仏教伝来物語を創作したのです。
そして、藤原氏が支配する興福寺などの奈良仏教組織を奈良の都に封印した平安百済王朝が、藤原氏により創作された「日本書紀」の仏教伝来物語の552年伝来を抹殺するために、百済聖王による仏教伝来を538年としたのは、平安百済王朝が比叡山延暦寺に導入した、中国天台宗の開祖智の誕生年が、538年であったからなのです。しかし、538年にも、552年にも、オリエント文化の飛鳥ヤマトには、漢訳仏教など伝来していなかったのです。
百済系天台宗の怪僧天海が築いた第三百済王朝の江戸幕府政治により、「武士」が、「サムライ」により支配されたように、百済幕府の手先となった日本列島伝来年不明の漢訳仏教思想により、秦氏末裔は賎民「穢多」として支配されていくのです。
弾左衛門は、徳川家康直系の家臣の「武士」の影響力が残っていたまでは、江戸町奉行クラスの挌を持っていたものが、1623年徳川家光が三代目将軍となり、エドの町が騎馬民族文化から仏教文化に時代が変わると、1635年には、江戸町奉行機構に組み込まれ、仕置き全般を命じられていたのです。
そして、1776年には、弾左衛門は、今までは草履取りを町奉行所内に連れて入っていたものが、町奉行所は突然、このことを禁止させるだけではなく、「御用あい済まし候わば、穢多の身分のゆえ慎み、御門内を急ぎ去り候儀にこれあるべし」と、弾左衛門に命じていたのです。そのように、徳川家康時代では体制側であったものが、徳川家光の第三百済王朝時代になると、長吏頭弾左衛門は、穢多頭弾左衛門として扱われていくのです。
1637年島原の乱を制圧した徳川家光は、キリシタンの老若男女約三万人を「干し殺し」で聖滅していたのです。そして、1639年キリシタンを摘発するために、宗門人別帳による身分登録制度を始め、幕府支配地の日本全土の住民は、どこかの仏寺に所属させ、個人の宗旨を確認するために人別帳を毎年作成させたのです。この宗門人別帳が、1671年宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)となり、全国の秦氏末裔を歴史上抹殺するために、民主都市国家の穢多村を対象にして作られて行くのです。
この宗門人別帳の原型は、戦国時代、戦国大名が百姓村から兵士を募るための夫役台帳であったのです。それが、キリシタンの宗教弾圧を経ることで、1639年にはすべての個人を家族単位で登録し、その結果、徳川三代目家光の時代になると、血縁的な把握までおこなうようになっていったのです。
秦氏末裔も「武士」も、その祖がオリエント系かスキタイの騎馬民族系なので、ヒゲが薄くノッペリした顔を特徴とする「サムライ」のツングース系と異なり、ヒゲが濃く目鼻立ちがハッキリしているため、エドの町を乗っ取ったツングース系の百済末裔と異なる民族であることが外見だけでもわかるのです。その秦氏末裔の民族の血の流れが、徳川家光幕府時代になると、秦氏末裔の穢多を歴史上抹殺するために、宗門台帳に記入されていくわけです。
この秦氏末裔を異民族「穢多」として仏教思想でイジメる宗門改帳は、キリシタン追放の手段の流れから発生したのですが、徳川家康が、1614年キリシタンの高山右近をマニラに国外追放したのは、非人の信者が多いキリシタンをイジメるためではなく、訳があったのです。
1600年オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、その乗組員のウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは、エドに至り、徳川家康に謁見するのです。オランダは、ローマ・キリスト教を信仰するポルトガル・イスパニアと異なり、プロテスタントを信仰する国であったのです。そのプロテスタントとローマ・キリスト教とは宗教戦争をおこなった歴史があるのです。そのプロテスタントのオランダから渡来したヤン・ヨーステンを外交顧問として召抱え、ポルトガル軍団に支援されたイエズス会のインド・東南アジアでの武力による布教実態を知った徳川家康は、イエズス会に育てられた織田信長の家臣であったため、イエズス会に近い立場でいたものが、イエズス会会員の国外追放に傾いていくわけです。
戦国時代、インドと東アジアを統括するイエズス会の巡察師バリニャーノの日本列島侵略の戦術は、強い国王の下での布教を目指していたのです。そのために、イエズス会は、日本列島での布教始めは武器・傭兵軍の調達者であったのです。しかし、あまりにも九州のキリシタン大名が戦闘に弱いので、北九州一円を支配する竜造寺隆信を倒すために、直接イエズス会が武力介入することになっていくのです。そして、そのイエズス会の軍事力を増すために、ポルトガルと軍事的連携を強めていったのです。
その軍事力を背景として、イエズス会が、九州を平定すると、都地区を支配するために、尾張の弱小武将の織田信長に接近し、そして、武器と傭兵軍を提供することにより、織田信長は、ゲリラ隊長から天下人に変身できたわけです。
しかし、イエズス会と軍事関係が強かったポルトガル国王エンリケが、1580年死去すると、敵対していたイスパニアのフェリッペ二世がポルトガル王を兼位し、ここに、イスパニア・ポルトガル同君連合(1580年〜1640年)が始まるのです。
このことは、イエズス会にとって不利であったのです。それは、イスパニアには、異民族への布教の名目で侵略する托鉢修道会がいたからです。イスパニア王フェリッペ二世が、ポルトガル王を兼任すると、東アジアで勢力を張っていたイエズス会は、西回りで東アジアに渡来した托鉢修道会と衝突していくのです。そして、中国・日本列島への侵略拠点のマニラには、ポルトガル軍に加えてイスパニア軍が侵攻したため、そのマニラを中心とする諸島は、イスパニア国王のフェリッペ二世に因んで、フィリッピンと言われていくのです。
1587年、織田信長が本能寺で爆殺されて、その権力を引き継いだ豊臣秀吉は、キリシタン宣教師追放を発令すのです。それに対して、日本イエズス会は、準管区長のガスパル・コエリョ等が、九州の有馬で協議会をおこない、フィリッピンのマニラ在住のイスパニア関係者に日本国へのイスパニア兵派遣を要請することが決議されたのです。
しかし、イスパニアの経済を支えていた、海賊交易をしていたイスパニアの無敵艦隊は、プロテスタントのイングランド海賊交易を支えるイングランド海軍と各地で戦闘を繰り返して、1588年イングランド海軍は、イスパニア無敵艦隊を破り、ここに海上権がイングランドに移行していくのです。
そのように、海上権をイングランドに奪われたイスパニアは、もはや、諸外国での海賊交易をおこなえない状態になっていたのです。
そのように、ポルトガル・イスパニアの国力が衰えていくことにより、1590年少年使節団を伴って再度来朝した巡察師バリニャーノは、イエズス会から藤原氏に乗り換えて変身していた関白豊臣秀吉に、イエズス会巡察師としてではなく、インド副王の使節として謁見を許されていたのです。それほど、ポルトガル・イスパニアの国力は衰えていたのです。
そこで、1590年加津佐で、第二回日本イエズス会全体会議で、金銭や食糧をのぞき、軍需物資の調達や供与など、宣教師が日本国内での戦争問題に介入することは一切禁止されたのです。
聚楽第での屈辱的な豊臣秀吉の謁見態度に憤まんやるかたない、イエズス会により軍事援助をして、弱小尾張のゲリラ隊長の織田信長を日本王とした巡察師バリニャーノは、イエズス会裏切り者の豊臣秀吉を倒すために、マニラ在住のイスパニア兵の日本国要請を考えるのですが、1597年イエズス会ローマ本部は、在日イエズス会宣教師による、日本国の政治・軍事介入をすることを一切禁止命令を、巡察師バリニャーノ宛てに公布していたのです。
結果的に、ポルトガル・イスパニア国の海上権が、新興国イングランドに奪われたことにより、マニラ在住のイスバニア兵が日本国への侵攻は実際にはなかったのですが、その日本イエズス会が、マニラのイスパニア兵を要請していたことが、イエズス会日本人信者の知ることとなり、イエズス会の不信な行動に疑問を抱いたファビアン不干斎やトマス荒木などのキリシタンは、徳川家康へ、その日本イエズス会によるマニラ在中のイスパニア兵要請を報告することになるのです。更に、徳川家康の家臣岡本大八と九州の有馬晴信との増収賄事件の当事者が、共にキリシタンであったことが、1614年の高山右近たちの、マニラへのキリシタン国外追放となっていったのです。
このような社会情勢下で、イスパニア兵の日本国侵攻を阻止するために、マニラのイスパニア軍に内通するキリシタン摘発のために宗門人別帳が作られていくのです。その宗門人別帳が、第三百済王朝なにると、秦氏末裔を穢多として、社会的に貶めていく仕掛けとして、利用されていくのです。
第三百済王朝の江戸幕府に都合がよかったのは、日本列島をイエズス会による支配途中であったものが、ポルトガル・イスパニアの国力が、イングランドにより海上権が奪われたことにより、海外侵略をこれ以上おこなえない国力となり、更に、イスパニアの海外侵略基地が、イングランドやオランダに奪われていたからです。最早、日本列島を侵略する程の国力は、イスパニア・ポルトガルには、もう既になくなっていたのです。
歴史教科書では、1639年幕府が鎖国をおこなったため、1853年米使ペリーがマカオから浦賀に来航するまでは、江戸時代は外国の干渉を受けることが無かった、と述べています。しかし、それは幕府による鎖国だけが原因ではなく、日本列島の侵略価値が、イスパニアがメキシコで銀山を開発したことにより、落ちたためです。
十九世紀に再び諸外国が日本列島に押し寄せてくる原因は、紀元一世紀ローマ帝国で絹製品の爆発的重要があったため、オリエントから国際交易商人が中国へ押し寄せたように、江戸末期に、世界的に絹製品の需要が起こったからです。日本列島の絹製品が、諸外国の感心を集めたことが、日本列島の鎖国を解く原因だったのです。
日本列島の絹生産の歴史は、ローマ帝国と中国との絹交易が盛んになった時代に、中国の絹の国際交易商人により、中国南方種である蚕(ポンピックスモリ)を持ち込んだことにより始まったのです。それと供に、日本列島には、朱砂を求める民族の他に、絹生産地としての植民地とするために、オリエントなどの諸外国から異民族が多く渡来してきていたのです。
ポルトガルが、日本列島への布教を目論むイエズス会を軍事援助した目的のひとつは、日本列島の石見銀山、宇陀銀山、伊勢銀山の簒奪であったのです。しかし、ポルトガル国王が死去し、イスパニア王が、ポルトガル王を兼任したため、ポルトガルの軍事力を当てにしていたイエズス会の日本列島での影響力は、次第に衰えていくだけではなく、イスパニアの托鉢修道会との、日本列島内での抗争は、日本イエズス会から日本信者を離脱させる原因となっていくのです。
更に、イスパニアとポルトガルの経済を支えていた植民地が、イングランドとオランダにより奪われていくのです。イングランドは、イスパニアから海上権を奪うと、東アジアを支配するために、1600年東インド会社を設立するのです。そして、オランダも、1602年東インド会社を設立するのです。これらのイングランドやオランダの東アジアへの軍事侵略により、インドのゴア、中国のマカオ、そして、フリッピンのマニラからイスパニアやポルトガルの軍事力が奪われていくのです。
そして、その東アジアを制圧したイングランド東インド会社が中心となり、藤原氏(近衛家)が棲息する薩摩藩と長州藩の不満分子の「武士」や騎馬民族末裔の「穢多」を手先として、「サムライ」支配の第三百済王朝の江戸幕府倒幕と、仏教国から神国への思想のすり替えとしての、明治維新が企画されていくわけです。
第三百済王朝は、イングランド・オランダ侵略軍団を迎え撃つイスパニア・ポルトガル軍団との、インドや東南アジアでの覇権争いが決着するまで、徳川家康時代では長吏頭としてエドの治安警察業務をおこなっていた弾左衛門を、徳川家康の古くからの忠臣の「武士」をエド払いすると、穢多頭として不浄の縄を使う「岡引」の手下として使役し、約三百年の天下泰平のエド時代を享受するのです。  

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