★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6 > 5558.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
アキノ大統領主催・晩さん会 で天皇陛下があいさつ !  日本人が忘れてはならない !
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/5558.html
投稿者 青木吉太郎 日時 2016 年 2 月 01 日 21:45:49: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

   

フィリピンの戦争被害 !

「日本人が忘れてはならない」アキノ大統領主催・晩さん会

で天皇陛下があいさつ !

両陛下、「比島戦没者の碑」に供花日本人51万人を慰霊 !


T アキノ大統領主催の晩さん会で、天皇陛下があいさつ

(mainichi.jp: 毎日新聞2016年1月28日より抜粋・転載)

☆日米戦争をめぐる天皇陛下のおことば

 【マニラ高島博之】フィリピンを訪問している天皇、皇后両陛下は27日夜、首都マニラのマラカニアン宮殿でフィリピンのアキノ大統領主催の晩さん会に出席された。

天皇陛下はあいさつで、太平洋戦争でのフィリピンの甚大な被害に触れ、「私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます」と述べた。

<天皇陛下おことば(全文)>

 陛下は1962年11月の皇太子時代にフィリピンを訪問したことを振り返り「多くの貴国民から温かく迎えられたことは、私どもの心に今も深く残っております」と語った。

今回、54年ぶりの訪問を果たしたことについて「大統領閣下のご招待によりフィリピンの地を再び踏みますことは、皇后と私にとり、深い喜びと感慨を覚えるものであります」と感謝の気持ちを表した。


☆太平洋戦争で百万人以上が犠牲に

なったといわれるフィリピンの被害に言及 !

 「私ども日本人が決して忘れてはならないこと」として太平洋戦争で100万人以上が犠牲になったといわれるフィリピンの被害に言及し、「貴国の国内において日米両国間の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、貴国の多くの人が命を失い、傷つきました」と述べた。

 今回の訪問が「両国国民の相互理解と友好の絆を一層強めることに資すること」を深く願うと述べ、アキノ大統領と乾杯した。

 陛下に先立ちあいさつしたアキノ大統領は「両陛下がこのたび我が国にお越しくださったという事実そのものが、両国間の友好関係の深さを明確に物語っております」と歓迎の言葉を述べた。

 また、両陛下と会うのは「4度目となります」としたうえで「お目にかかるたびに感銘を受けるのは、両陛下が示される飾り気のなさ、ご誠実さ、そして優美さです」と語った。

 天皇、皇后両陛下は晩さん会前の同日午後、フィリピン独立運動の英雄ホセ・リサール(1861〜96年)の記念碑に供花した。

あいさつで天皇陛下はリサールが日本に約1カ月半滞在したことに触れ、「フィリピンの国民的英雄であるとともに、日比(にっぴ)両国の友好関係の先駆けとなった人物でもありました」と話した。


☆フィリピン人犠牲者などが眠る「無名戦士の墓」も訪れた !

 両陛下は太平洋戦争でのフィリピン人犠牲者などが眠る「無名戦士の墓」も訪れた。ひつぎをかたどった碑に供花した後、約2分間にわたって拝礼し、追悼の思いを示された。
1月28日は、日本への留学経験があるフィリピン人と面会するほか、在留邦人や日系人との懇談などが予定されている。フィリピンでの日本人戦没者を追悼する「比島戦没者の碑」への供花は、29日に行われる。


U 天皇・皇后両陛下、「比島戦没者の碑」に供花 !

日本人51万人超を慰霊 !

(mainichi.jp毎日新聞2016年1月29日22時39分より抜粋・転載)

【カリラヤ(フィリピン)高島博之】天皇、皇后両陛下は29日、フィリピンのラグナ州カリラヤにある「比島戦没者の碑」を初めて訪れ、供花された。2005年の米自治領サイパン島、15年のパラオに続き、海外での日本人戦没者の慰霊は3回目となる。


☆元日本兵や、戦没者の遺族ら  約150人が現地で参列 !

 両陛下は、戦没者の碑に白菊の花束を供え、拝礼した。フィリピンから帰還した元日本兵や、戦没者の遺族ら約150人が現地で参列した。

 戦没者の碑は、太平洋戦争中にフィリピンで亡くなった日本人51万8000人を追悼するため、1973年に日本政府が建てた。

マニラから南東へ約70キロ離れたところにあり、車では長時間かかるため、両陛下は海上保安庁のヘリコプターで現地に向かった。皇太子ご夫妻時代にフィリピンを訪問したのは62年で、当時、この碑はなかった。


☆両陛下は、日本人とフィリピン人両方

 の慰霊碑への拝礼が実現した !

 今回のフィリピン訪問は国交正常化60周年の節目にあたり、友好親善を目的に国賓として招待された。両陛下は26日にマニラに到着。27日にはフィリピン人の慰霊のため「無名戦士の墓」に供花した。両陛下は、国籍を問わず戦没者を慰霊することを希望されており、今回の訪問で、日本人とフィリピン人両方の慰霊碑への拝礼が実現した。

(参考資料)

T 第二次大戦・日中・日米戦争の 真相は、英国・米国の大謀略であった !

副島隆彦・船井幸雄の主張:国民党と中国共産党を和解させて、抗日統一戦線をつくらせ、日本を敗北させようとしたことは、1929年・世界大恐慌後、景気大回復(世界的巨大財閥は、さらに、世界支配を狙う)のため、世界大戦誘導を狙う、英国と米国の裏の戦略でもあった。

特に、米国は、英国を追い抜いて、世界覇権国になるという、英国に内密の戦略のため、大戦後・対ソ連との戦いのため、1930年代から、日本占領・支配・収奪を狙って、長期的に準備(その結果、世界覇権国になれた )していた。

つまり、日本政府・陸海軍首脳は、英国・米国・ソ連・中国共産の「仕掛けたワナ」に嵌められて、無謀な大戦に突入したのだ。

マッカーサー元帥は、日本首脳を、12歳並と言った。
自民党体制(官僚機構・財界・マスコミ・御用学者・御用評論家も含む)は、アメリカが裏から思い通りに支配するために、強力なアメリカ主導で作ったものである(『昭和史からの警告』。


U フィリピンでの戦争被害と戦後補償の概要 !

(www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/apwar/index-jp.htmlより抜粋・転載)

中野 聡: 「白書・日本の戦争責任:フィリピン」『世界』(1994年2月号):162-163頁より転載。一部インターネット用に修正しました。

☆日本・朝鮮・台湾人・フィリピン人女性達は、

強制連行・拘禁により慰安婦にされた事例が明白 !

従軍慰安婦訴訟 日本の裁判所に提訴された元慰安婦訴訟としては、韓国に続いて2件目(1993年4月・8月提訴)。

フィリピン各地に設営された軍管理慰安所では、日本・朝鮮・台湾人とともに多くのフィリピン人女性が働かされたが、フィリピンの市民運動組織と日本人弁護団による現地調査の結果、強制連行・拘禁により慰安婦にされた事例が明らかになった。

またフィリピンの場合、慰安所だけでなく日本軍各部隊がフィリピン人女性を個別に連行・拘禁・暴行した事例も多く、その被害者も集団提訴に加わっている。

残虐行為に対する補償請求 フィリピンでは従軍慰安婦問題とならんで、日本軍の残虐行為に対する補償を求める声が強い。

フィリピン議会では1992年から93年にかけて、米国政府の日系人強制収容に対する補償に倣って1人2万ドルの補償を求めたり、80億ドルの負債帳消しを求める決議案が提出された。

捕虜虐待についても、退役軍人による補償請求の動きがある。

また、戦争終結後にミンダナオ島でおきた虐殺・人肉食事件について、元兵士と政府に謝罪と補償を求める提訴が準備されている。


☆フィリピンは、日本軍侵攻から在比米軍降伏まで、米軍レイテ島上陸

から日本降伏まで、二度にわたって日米決戦の舞台となった !

アジア・太平洋戦争でフィリピンは、日本軍侵攻から在比米軍降伏まで(1941年12月?42年5月)、米軍レイテ島上陸から日本降伏まで(44年10月?45年8月)の二度にわたって日米決戦の舞台となった。

とりわけ戦争末期には、日本軍の激しい抵抗と米軍の爆撃・重砲火の結果マニラをはじめとする都市部の大部分が灰燼に帰すなど被害は全土に及び、直接の戦闘による物的・人的被害は東南アジアでも最悪であった。

また、ルソン島南部リパの虐殺事件やマニラ市街戦における虐殺事件など、婦女子を含む非戦闘員に対する日本軍の残虐行為が戦争末期に多発したこともフィリピンの戦争被害の大きな特徴であった。

米極東軍に登録したUSAFFEゲリラをはじめとする抗日ゲリラの掃討に苦慮した日本軍が米軍再来を前に戦闘員・非戦闘員の区別の無い粛清をはかったことが主な原因であったが、それだけでは説明のできない、日本軍将兵の道徳心の崩壊と狂気の結果と言わざるを得ない事例も多い。

このほか戦争末期には、敗走する日本軍の食糧強奪による山岳少数民族の飢餓や日本軍による人肉屍食の被害なども発生した。

また、3年にわたる日本軍占領下(1942-45年)でも、多くのフィリピン人がスパイ嫌疑などによる弾圧・粛清の犠牲となり、「民生への重圧を厭わず」を原則とした日本の占領政策(転作強制、米徴発など)のもとでフィリピン経済は壊滅的打撃を受けた。


☆フィリピンは、戦争の全期間を通じて

あらゆる種類の戦争被害の犠牲となった !

このようにフィリピンは、戦争の全期間を通じてあらゆる種類の戦争被害の犠牲となった。フィリピン政府の戦後の推計によれば、民間人死亡者総数は111万1938名(ちなみに1939年国勢調査人口は約1600万人)、賠償請求の基礎として算出された戦争被害の総額は161億5924万8000ペソ(1950年価格・約80億8000万ドル)にのぼった。被害総額の内訳は、物的損害が約58億5000万ドル、人命損害(民間人死亡者総数に1500ドルを乗じたもの)が約16億7000万ドル、軍票支払いを含めた供出財・サービスが約5億6000万ドルであった。


☆フィリピンの膨大な戦争被害は、 日米戦争の結果 !


 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
ペンネーム登録待ち板6掲示板  
次へ