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Re: @test
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投稿者 上葉 日時 2010 年 4 月 03 日 21:41:58: CclMy.VRtIjPk
 

(回答先: Re: @test 投稿者 上葉 日時 2010 年 4 月 03 日 06:12:33)

佐藤優×山崎行太郎 憂うべき保守思想の劣化!《魚の目
佐藤優×山崎行太郎 憂うべき保守思想の劣化!《魚の目
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月刊日本
佐藤優×山崎行太郎 憂うべき保守思想の劣化!

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2009 年 6 月 12 日 山崎 行太郎

「佐藤優×山崎行太郎 憂うべき保守思想の劣化! 〜沖縄問題の思想的本質は何か」
 
曽野綾子の誤記・誤読問題に目を向けよ

――『月刊日本』二月号に掲載された山崎行太郎氏の論文「保守論壇の「沖縄集団自決裁判」騒動に異議あり!!!」は各方面に大反響を呼びました。佐藤優氏は「沖縄問題は日本の右派が国家の統一ということを第一に考えることができるかどうかの試金石だ」と指摘していらっしゃいますが、今日はお二人に大江裁判、沖縄問題、そして日本の右派のあり方について語っていただきたいと思います。

佐藤 まず、月刊日本という、率直に言って、世間では相当コワモテと思われている右翼の理論誌に大江健三郎擁護の論文が掲載されるということ、これが大事なのです。日本国家を愛する右翼としての立ち位置から重要と思う原稿は、多少、誤解される危険性があっても載せる。原典にあたって綿密なテキストクリティークを行った山崎さんの分析を読者に伝える必要があると判断した本誌の勇気と洞察力に敬意を表します。

山崎 まったく同感です。最近、硬直し劣化している保守論壇に颯爽とデビューして大きな風穴を開け、論壇の台風の目になっているのが佐藤優さんなわけですが、私の論も、ささやかながら、そういう保守論壇に風穴を開けるような視点から読まれるとありがたいです。ところで、今日は、保守派論客の中で唯一、哲学や思想に関心の深い佐藤さんと、「沖縄集団自決裁判」などをめぐって対談が出来るということで、楽しみにしています。佐藤さんは『私のマルクス』という衝撃的な本を刊行されたばかりですが、柄谷行人や広松渉への関心や、マルクスやドストエフスキーへの関心、あるいは沖縄との個人的な関係など、普通の保守派論客ではとても考えられないような思想傾向の持ち主で、僭越ながら私ともいろいろ共通な部分もあり、面白い話が出来るのではないでしようか。ここで、「沖縄集団自決裁判」問題に入る前に、もう一度繰り返しておきますが、私は自分ではずっと保守派のつもりですし、世代的には左翼全盛の全共闘世代なんですが、当時から私は皮肉交じりに「保守反動派」を自称してきました。それは一貫しているつもりです。確かに大江健三郎の文学には高校時代に決定的な影響を受けましたし、私の文学的、思想的な原点、ないしは出発点に「大江文学」があります。しかし大江文学に惹かれはするものの、彼の政治的立場にはまったく反対で賛同できません。にもかかわらず、今回、「沖縄集団自決裁判」をめぐって、あえて大江健三郎擁護の論文を載せたのは、曽野綾子に象徴されるように、保守側の言説や論理が、いわば子供染みたルール違反を犯しているし、しかもそれを支援している最近の保守派や保守論壇の論理がズサンで思想的レベルが低すぎると思ったからです。

佐藤 曽野綾子さんの誤読・誤記の問題ですね。曽野さんが『ある神話の背景』(『「集団自決」の真実』に改題、ワック)の中で大江健三郎の『沖縄ノート』に触れた箇所で、大江氏が「罪の巨塊」と書いたのを「罪の巨魁」と誤読、誤記してしまった、という指摘を山崎さんは実証的にされましたね。

山崎 そうです。厳密に言うと、曽野綾子さんは、内容的には明らかに最初から「罪の巨魁」と誤読していましたが、一応、当初は漢字だけは「罪の巨塊」と大江健三郎の言葉を正確に引用表記していました。ところが版を重ねるに従って誤字・誤読の「罪の巨魁」説が定着し、つい最近まで雑誌や新聞に堂々とその誤字と誤読が放置されていました。そこからこの問題を調べているうちに、保守論壇がずいぶんとおかしなことになっている、と気づいたのです。まず、曽野綾子が誤読したものがそのまま保守論壇内で拡大再生産されている。渡部昇一や秦郁彦、担当弁護士など、沖縄集団自決裁判に関して発言している方々は、曽野さんの誤字・誤読をそのまま受け売りしてしまっています。ここから、渡部氏や秦氏をはじめ、保守論壇の大多数が、大江健三郎の『沖縄ノート』という原典をきちんと読まずに、大江健三郎を批判し罵倒しているということがわかりました。

佐藤 左右を問わず、批判というのは重要です。しかし、そこには最低限、守られなくてはならないルールがある。ある本の内容について批判するのであれば、その本をきちんと読んでこい、ということですね。実は、開かれたテキスト批評という意味では、誤読に基づいた批評だってあっていいのです。読者には誤読する権利があります。しかし、その場合でも、これは誤読に基づいた上での解釈だということを認めてからでなければなりません。

山崎 ところが、裁判で大江氏にこの誤読問題を指摘されても、保守派の面々は「卑怯」「言い逃れ」「論点のすり替え」と、正面から理論的に反論できず、情緒的な罵倒を繰り返しているだけです。私は自分の影響力などないに等しいと自覚しておりますが、それでもこの『月刊日本』で指摘し続けてきたためか、最近は、雑誌などでの表記が、コソコソと秘密裏に、「巨魁」から「巨塊」に訂正されつつあります。 発売中の曽野綾子の『集団自決の真実』には今でも「巨塊」とか「巨魁」という誤字が使われていますが、その後、本が回収されたのかどうかわかりませんが、その表記はまだ訂正されていないはずです。いずれにせよ、恥ずかしいというか、潔よくない態度です。

佐藤 まさに大江裁判というものがシンボルをめぐる闘争になっているからです。まず、大江健三郎・岩波書店を叩くか、擁護するかという立場があって、その立ち位置からテキストを、意識的、あるいは無意識のうちに解釈しています。山崎さんが『月刊日本』1月号で指摘されたように、「大江健三郎を法廷の被告席に引き摺り出しただけでも大成功」といった類の政治的意図が過剰です。私は、日本の右翼・保守派がこのような発想になってしまっていることに危険を感じています。そもそも、裁判などという制度は、人間は理性を用いて唯一の真理を突き詰めることができると考える、理性偏重の左翼的発想そのものなのです。それに対して、右翼というのは人間の理性・知性などタカが知れている、それよりも歴史と伝統、寛容と多元性を重んじるという立場です。ところがその右翼陣営が左翼の戦法で法廷闘争などやっている。右翼に左翼の論理が滑り込んできてしまった。





「証言」は絶対ではない

山崎 そうです。最近の保守派を見ていると、悪い意味で完全に左翼化していますね。左翼的な集団主義的な市民運動や裁判闘争ばかりで、思想闘争や言論闘争が無視されています。しかもその裁判もかなり政治的で、この「沖縄集団自決裁判」だって、赤松氏等の名誉回復が主目的だったら「沖縄タイムス」刊行の「鉄の暴風」をまず訴えるべきでしょう。何故、それを引用して論を組み立てた大江健三郎なんですか。最近は、「つくる会」の分裂騒動はありましたが、それ以外に保守派内部に批評や論争がまったく不在です。「左翼か右翼か」とか「反日か親日か」、「反中か親中か」とか、単純な二元対立を作って、敵か味方かというレベルで議論している。保守派内部にだって思想的な差異や対立、あるいは論争などは当然あるはずでしょう。しかしそれが認められない。佐藤さんが言う、真理はある、ただしそれは複数存在する、という、複数の真理、真理の多元性を内包できるのが、元来の右翼だと思うのですが、しかし昨今の保守論壇は「全員一致」でなければならないと思っているようです。
 ところで、曽野綾子さんにはもう一つ、取材や調査に関する方法論の問題があります。大江さんは、「沖縄タイムス」に連載された「鉄の暴風」というルポルタージュをベースに「沖縄ノート」の赤松批判の部分を執筆したわけですが、それに対して自分は現場に出向き、現地で取材をした、当事者から直接聞いた、だから自分のほうが説得力がある、大江健三郎は現地には一度も取材に来ていないから駄目だ、という論理構成を曽野さんはとりますが、これは間違っています。現場の声であればそれが唯一の真実である、という発想は危険です。物事には近くから見ないと分からないこともあるけれど、逆に、遠くから初めて見えることもある。現地に赴かずに資料を読み込んだ大江健三郎が真理を掴めていない、とは言えないのです。そもそも現地で体験者たちに直接的に取材すれば、常に真実を証言してくれるはずだ、という前提がおかしい。初めて会った余所者に簡単に、一家や一族の命運にかかわるような歴史の秘密など告白するわけないでしょう。赤松や赤松部隊の隊員にも直接インタビューしたと曽野さんは言うわけですが、そもそも証言や告白には常に嘘と虚偽が付きまとう……というようなことは文学者なら自明なはずですが、曽野さんにはそれがわかっていない。皮肉なことに、私のテキスト・クリティークによって、曽野綾子の『ある神話の背景』は、その素朴な現地取材主義と素朴な実証主義の理論的破綻が明らかになったというわけです。

佐藤 1対1の取材であれば真実である、というのは検察の論理と同じですね。この前、元特捜検事の田中森一さんと対談しているとき、ハッと思ったことがあります。田中さんが「日本の司法では、裁判所で陳述した意見よりも、検察官と1対1で供述して取った調書のほうが信頼される」というのです。それは、密室では人間は本当のことを言う、という日本的な認識が暗黙の前提になっているからです。1対1で話を聞いたから、その内容は真実であるという根拠などありません。
 さらに言えば、現場絶対主義というのも、真理を見出す方法とは言えません。インテリジェンスの世界では、できるだけ正確な分析を得るために分析官を現場から遠ざけることがむしろ普通に行われています。CIAには外国の分析を担当する分析官がいますが、そういう人たちは決して現地には行かないのです。中国の専門家は中国には行かないし、ロシアの専門家はロシアには行かない。それは、行けば必ず私的感情や先入観が生じ、不必要なバイアスがかかるからというのがCIAの言い分です。もっとも、イスラエルでは、私情と分析を区別する訓練ができていると認定されれば、現地で調査することもあります。

山崎 私情の混入というのは大事な指摘ですね。曽野さんが全面的に依拠している資料テキストは、赤松隊の谷本小次郎という隊員が、昭和45年にまとめた『陣中日誌』ですが、これは面白い資料ではありますが、後日の加筆修正、削除などの疑いが濃い。現に赤松自身が少年処刑の部分を、書き加えたと証言しています。曽野さんも認めていますが、赤松隊とも密接な係わりがあったはずの朝鮮人慰安婦や朝鮮人軍夫のことにもまったく触れていません。要するに自分達に都合の悪いことは書かないか、削除したという可能性を否定できない。とすればですね、その性質上、赤松隊にとって好意的な記述となっているのは当然なのです。少なくとも客観的な資料ではないし、絶対的なテキストではありません。この資料に全面的に依拠している曽野さんの歴史記述は、第三者的な、客観的な立場から記述しているかのように装っていますが、その根底では実は、赤松隊長の娘を「お嬢さん」と呼び、「極悪人」とか「戦争犯罪者」呼ばれる父親を持った彼女達の人生が不憫である、とかいうようなことを書いていることからもわかるように、最初から赤松隊長擁護、赤松部隊擁護を目的に書かれたものだと言っていいと思います。逆に、投降勧告に来て、自決を強いられ、自決幇助という名の下に赤松部隊の隊員に斬殺された伊江島の若い女性達には、曽野さんは、一片の憐憫の情すら感じていないように見えます。曽野綾子の歴史記述のエクリチュールの政治性は明らかです。そういう立ち位置であれば、見えてくる真理も大江氏のものとはだいぶ違ってくるのも当然なのです。むろん、曽野綾子のような歴史の書き方はあり得ます。ただ、それが絶対的な、唯一の沖縄集団自決に関する真実の歴史記述だとは言えないということです。





保守思想は複数の真理に耐えよ

佐藤 それは世界史の問題でもあります。日本にとって元寇という出来事は、国家存亡の危機であり、歴史に大書特筆すべき事件だったけれども、チェコにとっては瑣末な出来事です。チェコにとって17世紀のビーラー・ホラ(白山)の戦いは後の三十年戦争の原因となる歴史的大事件ですが、これは日本から見た歴史においては大した意味を持ちません。このように、立ち位置が異なれば、見えてくる世界、歴史も異なります。そしてそれらはそれぞれにとって、真理なのです。
 同様に沖縄の集団自決問題も、立場が違えば受け取り方も異なってきます。手榴弾を渡されたという事実にしても、投弾訓練もせずに配られた側からすれば、これは自決せよという意味だな、と受け止めるのは当たり前です。人間は偏見から逃れることはできないということをイギリスの保守主義者エドマンド・バークは指摘しましたが、そのことを日本で保守主義者と自己規定する人たちはもう一度真剣に考えてみる必要があります。複数の真理に耐えうることができなくなっているというのは、日本の右翼思想、保守思想の伝統が危機に瀕していることの証左と私は認識しています。

山崎 そうです。私もそう思います。保守思想が、硬直したイデオロギーに堕してしまっているんですよ。こうでなければならない、かくあらねばならい、と硬直した理論や思想に成り下がっている。私は文芸批評家として小林秀雄を読み込んできたつもりですが、近代保守思想の元祖とも言うべき小林秀雄にはランボー論やドストエフスキー論、マルクス論、あるいはモオツァルト論、本居宣長論というような、各論はありますが、イデオロギー的総論はありません。小林思想ここにあり、というような体系的な理論書はありません。小林秀雄はマルクス主義という当時の流行思想との理論的対決を経て、マルクス主義を論破することで近代批評というものを確立した人ですが、マルクス主義に対抗できるような理論体系を、つまりイデオロギーを構築したわけではありません。これは、小林が思想家として劣っていたということではありません。保守思想とは、元々そういうものでしよう。それを、江藤淳は、保守とは感性であると言っていましたね。理論や思想を共有することは容易ですが、感性を共有することは容易ではない。

佐藤 それは、私の言葉で言えば否定神学の方法ということですね。「神とは〜である」と肯定文を用いるのではなく、「〜ではない」と否定文を重ねていく方法です。肯定文があって初めて否定文があるのですから、否定神学的方法論は既に出された個別の事象に対して批判し、否定していくものです。小林秀雄については残念ながら私はきちんと読んでいないので、疎いのですが、バークにも同じことが言えます。バークの主著は『フランス革命の省察』ですが、これは表題の冒頭部分で、その後に「その事件(フランス革命)に関するロンドンのある諸団体に与える影響について。パリの紳士に送ろうと意図した手紙において」と続きます。この後段が大切なのです。要するに、「フランスでとんでもないことが起こったが、これが我がイギリスに波及しないためにはどうすればよいか」という論文なのです。やはり、個別の事象に対して「否」を突きつけるという形で保守思想は表現されるのです。





沖縄の人々は我が同胞である

――沖縄戦において、各自の立ち位置によって見えてくる真理が異なる、その複数の真理に耐えなければならないと佐藤さんは指摘されますが、それでは、どのような視座によって「耐える」ことができるのでしょうか。沖縄という具体的な問題に対して、「寛容と多元性の原理」という言葉では抽象的に過ぎるのではないでしょうか。

佐藤 寛容や多元性は抽象的概念ではありません。具体的表象をもとにした議論に必ずなります。各人に見える事実をつなぎ合わせれば、タペストリーのように、入り乱れた紋様ができあがり、それがその人にとっての真実になります。だから事実が同じでも複数の真実が生じるのです。いずれにせよ根元にある事実は揺るぎません。それは、沖縄で、日本のために戦い、死んでいった人々がいるという事実です。我々はこの事実、そしてこの事実に対する畏敬と感謝の念から出発すべきです。沖縄の人々が日本を守るために死んでいったことを原点に置けば、我々が沖縄問題に対してとるべきスタンスは、「命を賭けて日本のために殉じてくれた人々の想いをきちんと受けとめなければ、日本が沖縄を排除するような、あるいは沖縄が日本から離反するようなことをさせてはいけない」というものになるはずです。少なくとも私はそう考えます。
 沖縄で教科書検定問題に対する抗議集会に際して11万5千人が集まったの、いや、当局調べだと4万人だとか、航空写真で見ると1万数千人に過ぎないという論争がありますが、こうした数字という理性的要素を絶対視する左翼的思考に右翼が陥ってしまっている。ここに欠落しているのが、「沖縄の人々は我々の同胞である」という意識です。相手が中国や韓国であれば、それは外交的議題であり、相手の主張に誇張があれば、それを徹底的に衝いていくということになります。しかし、我が同胞である沖縄県民に対して中国や韓国に対するのと同じ態度で接してはいけません。もっと言えば、沖縄で11万5千という神話が成立してしまった背景に目を向けるべきです。
 本来、沖縄にはあまり「沖縄」としてのアイデンティティーは希薄です。久米島であり、座間味島であり、渡嘉敷島といった、島ごとのアイデンティティーは濃厚ですが、沖縄という行政単位に対する帰属意識は希薄なのです。ところが、大江裁判、教科書問題という、本土(内地)から中国や韓国に対するような視座で批判されるようになった結果、「沖縄」という意識が醸成されつつあり、これは、放っておけば、沖縄独立論につながります。私はソ連崩壊の過程でどのようにバルト三国が独立したかを見てきましたが、同じことが沖縄でも起きる可能性があると思っています。その土地のエリート五十人ぐらいが独立を本気で考えれば、独立に振れてしまうのです。知事が総理になりたいと思い、渉外部長が外務大臣になりたいと思い、県会議長が国会議長になりたいと思い、県会議員が国会議員になりたいと本気で思うようになると、案外独立は早く実現します。
 外務省というところで行政官をしていた悪い癖で、損得を勘定してしまうのですが、沖縄が独立した場合、尖閣諸島のガス田とEEZ(排他的漁業圏)の漁業権による収入で、クウェートのような国家として、沖縄は独立可能でしょう。そして、そこにほぼ確実に中国が介入してきます。こうした実務的なことも踏まえて、今の一部保守論壇の沖縄に対する態度というのは危険だと思うのです。

――沖縄の独立がありうる、ということですか。

佐藤 そうです。沖縄で気をつけなければいけないのは、あそこには、本土と異なり、易姓革命思想があるということです。もっと平たく言えば、長いものには巻かれろ、という感覚があります。沖縄は歴史的にも、中国の冊封体制と日本の幕藩体制との間で揺れ動いてきました。琉球王国は、幕藩体制のなかでの「異国」だったのです。このため、沖縄の歴史書である『中山世譜』は漢文体、『中山世鑑』はかなを交えた読み下し文で書かれています。このことからもわかるように、歴史も中国と日本の間でふたまたをかけています。日本と一緒にいる方が得だから日本に所属しているけれども、今回のような教科書問題などを契機に、日本と一緒にいてもろくなことはないんじゃないか、天命が変わりつつあるんじゃないだろうか、という流れが起きてもおかしくありません。これをなんとしても食い止めなくてはならない。
 大田実海軍中将が玉砕にあたって東京に送った電文は「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜ることを」と結ばれていますが、大田中将が心配していたのは、まさに今のような状況なのではないか。これは情緒的なものというよりも、ものすごく計算されたもので、沖縄を日本につなぎとめておくためには特別の配慮が必要なんだ、ということだと私は解釈しています。

山崎 私は、昭和22年の鹿児島生まれですが、小さい頃から、日本の一番南は鹿児島だとずっと思っていました。沖縄というのは異国という意識でした。それが高校生ぐらいのときに、突然、沖縄が日本に帰ってくることになったわけです。そしてたとえば、高校野球の九州大会に沖縄のチームが参加するというようなことになったわけですが、それを見てなんか不思議な違和感がありましたね。だから正直に言うと、私は、まだ心のどこかに沖縄は異国だという意識が残っていますね。おそらく多くの日本人の潜在意識にそれは残っているのではないでしょうか。その異国意識が、過剰な沖縄賛美論や沖縄ブームに、つまりサイードの言うオリエンタリズム、ないしはエキゾチシズムにつながることもあるし、ある場合には、逆に曽野綾子や保守論壇の面々が無意識のうちに捕らわれているような、沖縄蔑視論や沖縄差別論として噴出することもある。佐藤さんは、今回の「沖縄集団自決裁判」騒動の言説に、沖縄を、中国や韓国・朝鮮を見る時と同じような異民族への差別的な視線がある、これは国家分裂を誘発する危険があると警告していますが、まったくその通りだと思います。沖縄賛美論と沖縄蔑視論の根は同じだと私は思います。これは言い換えると、沖縄を日本という国家に統合しておくためには、日本人にとって沖縄とは何か、という特別な思想的な基盤が必要ということですね。沖縄戦や沖縄集団自決の現実を、他人事としてではなく、やはり自分達の問題として、思想的にも考えることが必要です。沖縄問題はゼニカネの問題だと、渡部昇一等のように矮小化する人がいますが、それは自分達がそういうゼニカネのレベルの人間でしかないということでしょう。





なぜ保守論壇は知的に劣化したのか

――保守論壇の知的退嬰は山崎さんが先ほど指摘されました。どうしてこのような状態になってしまったのでしょうか。

山崎 保守思想は、何らかの強力なテーゼに対して「否」を突きつける、否定神学的方法論であると佐藤さんが指摘しましたね。これは逆に言えば、好敵手としての強力なテーゼに対するアンチ・テーゼとしてしか保守思想は存立しえないという宿命を背負っているということです。保守思想は個別の事象について言及する必要に駆られて、やむなく言葉を探りながら紡いでいくものです。従って保守思想は、敵が見えなくなると、しばしば自分達の思想こそホンモノだという自己欺瞞に陥り、いつのまにか油断しているうちに、通俗的な流行思想に後退・堕落するという危険性を常に内包しているということです。その結果、常に安易なニセの敵を作り、その敵に向かって批判や罵倒を繰り返すということになる。ニセの敵と戦う思想はそれ自体ニセモノでしかありえない。最近の保守論壇の言説を見ていると、ほぼそういうニセモノの保守思想ばかりという感じですね。やはり、ソ連の崩壊、マルクス主義の凋落が大きいでしょうね。マルクス主義という好敵手を失ったために、保守も右翼も切磋琢磨を怠って、通俗的な、誰にでもわかる保守理論という安直なイデオロギーに堕落してしまった。それ故に、保守思想が、誰でも二、三日、勉強すればすぐ分かるし、模倣することも出来るような安直な理論になってしまった。たとえば、アメリカや日本に蔓延している新自由主義の弱点もそこにあります。ハイエクやフリードマン、ルーカス等を源流とする反ケインズ主義的な新自由主義も、ナチズムやファシズム、あるいは共産主義という「敵」がいたからこそ歴史的な存在意義があったわけで、それ自体としての新自由主義にはそれほどの思想的な意味も力もないはずです。言い換えれば、マルクス主義との理論的対決を常に強いられていた時代の保守論客と違って、今の保守論客達には、新自由主義を批判する能力も感性もないということです。
 私は、今、論壇に跋扈している保守論客に「作品」と呼べるものがないことを心配しています。たとえば、作品とは、左翼・右翼を超えて誰もが認めざるを得ないような作品で、小林秀雄には『モオツアルト』や『本居宣長』が、三島由紀夫には『金閣寺』や『仮面の告白』が、福田恒存には『シェイクスピア全集』の翻訳が、江藤淳には『夏目漱石論』がある。田中美知太郎には『プラトン全集』が……。彼等の政治的発言は別として、それらの作品の価値は、どんな左翼でも認めざるをえないでしょう。彼等が、そういう作品を背景に政治的、思想的発言をしていたからこそ、少数派ながらも保守思想はしぶとく生き延びてきたわけです。今の保守論客には政治的な発言はあるが、左翼陣営を納得させるような作品はないですね。作品がないから付和雷同し、徒党を組み、裁判闘争を仕掛け、結果的に左翼化せざるをえないのでしょう。今、真摯に言葉に対峙し、作品を創造しようとしている保守論客がどれだけいるのか。その意味で、私は敵陣営ながらも大江健三郎の表現における真摯さを評価しているのです。小林秀雄も三島由紀夫も江藤淳も、文学者としての大江健三郎の才能と作品を評価し、尊重するだけの度量は持っていました。左右を超えて、いいものはいいわけで、ダメなものはダメなわけです。曽野綾子に象徴される最近の保守論客たちの大江健三郎批判には、そういう思想的な度量と文学的才能への畏怖というものが欠如しています。

佐藤 私は文学的感性は乏しいのですが、大江さんが使った「巨塊」というのは、造語ではないですか?

山崎 そうですね、完全な造語ですね。パソコンで「きょかい」と入力しても普通は変換されません。こういう場面で、私は大江健三郎という一人の文学者に、右翼とか左翼という立場を超えて圧倒されるのです。日本語の表現の中には巨大な悪を示すのに、「悪の権化」「鬼畜の所業」など、様々な語彙がありますが、そうした手垢のついた言葉では、沖縄で起こった事象を的確に表現できない、新しい事象を表すには新しい言葉が必要だ、というわけで、大江氏は、「罪体」という推理小説の用語にヒントを得て「罪の巨塊」という言葉を作り出したようです。新しい言葉を造語することによって、文芸批評の専門用語を使えば、一種の「異化作用」をもたらしているわけです。異化作用とは、ちょっと見慣れない言葉を使うことによって、読者に立ち止まらせ、考え込ませる技法です。裁判を傍聴した秦郁彦などは、ノーベル賞作家だかなんだか知らないが、大江健三郎が「何かわのわからんこと」を言っていたと罵倒していましたが、秦郁彦等の言語感覚の劣化というか文学的感性の欠如というか、要するに保守思想の堕落を象徴する発言ですね。大江健三郎のノーベル賞受賞を一番早く予言したのは三島由紀夫ですよ。三島由紀夫が生きていたら大江健三郎を裁判に引き摺り出すことには、それは右翼保守派の恥だと言って徹底的に反対したでしょうね。曽野さんも大江健三郎の技巧的な文体を、田舎者の文体と批判しているらしいですが、まったくわかっていませんね。曽野綾子は、文芸批評的に言えば、悪しき意味での文体感覚の欠如した「美文の人」と言うべきで、当然ですが、曽野綾子には「作品」と呼べるような代表作がありません。

佐藤 大江氏が沖縄戦の資料を読み込み、追体験した結果、「罪の巨塊」という言葉が生まれたわけですね。この追体験する力というのは大事です。山崎さんの論文でもう一つ大事なのは、山崎さんご自身の父上が南大東島に出征し、命からがら生還したという事実を立ち位置に、この沖縄戦を追体験しているということです。繰り返しますが、立ち位置が変われば見える真理も変わってくる。その複数の真実に耐える力が必要です。ところが、そういう力が日本の右翼、保守陣営において弱ってきている。
 保守思想は個別の事象について言及する必要に駆られて、やむなく言葉を探りながら紡いでいくものだ、という指摘がありましたが、特に日本の保守思想はマルクス主義との戦いだったともいってよい。ところがそのマルクス主義が無効になって空白が生じた。そこに滑り込んできたのが新自由主義です。新自由主義は邪魔なものは排除するというだけの、無思想の思想です。今では霞ヶ関の官僚までもが休み時間、下手すると就業時間中に携帯で株の取引をしている。こういう本質的な馬鹿者が何を言うかというと、「実際に株式市場に触れてみないと経済についての皮膚感覚がわからない」というのですが、国家官僚に必要とされる経済知識は、投機行為に関する知識ではありません。金儲けの能力と行政官僚に求められる能力は根本的に異なるのです。こうした官僚の質の劣化について、私は最近、根元のところで尊皇精神というものが崩れているのではないかと考えています。もっと簡単に言うとお天道様に顔向けして、恥ずかしいという感覚が薄れていることですね。





保守言論人は「畏れ」を知れ

山崎 畏怖という感覚の欠如ですね。不思議なことに左翼側の柄谷行人のような人は、『畏怖する人間』という著書もあるぐらいですから、夏目漱石や小林秀雄、マルクスを論じながら、その人知を超えたものへの「畏怖」という感覚や、「心理を超えたものの影」をさかんに主張しているわけです。柄谷行人は、人間の意識や知性には限界があり、確かに人間には見えないものや考えられないものがあるが、それを皮膚感覚を通して見つめようとしたのが夏目漱石や小林秀雄やマルクスだったと主張するわけですが、逆に最近の日本の保守思想には、天皇とか尊皇、皇統というような言葉が頻繁に使われている割には、そういう超越的なものへの畏怖感覚が存在しないですね。むしろ、天皇や皇統という言葉が忘れられ、誰もが口にしない時にこそ、実は日本人の心の中心に天皇や超越的なものへの畏怖感覚があるのかもしれません。三島由紀夫は、保守派からは天皇主義者のように見なされているわけですが、厳密に言うと三島由紀夫という人は無神論者であり、天皇というものはない、ないからこそ天皇という絶対的な価値に対する憧れと必要性が発生するわけです。それこそが本当の尊皇精神でしょう。皮肉なことですが、たとえば左翼の論客・柄谷行人の方が、最近の保守論客達よりも実は尊皇精神があるのではないか、と思います。

佐藤 私もそう思います。私は別の仕事で柄谷行人さんと対談を重ねていますが、彼の思想に超越的概念が存在していることを感じます。ただ、我々のように「天皇」や「高天原」といった神話の言葉を用いずに、「アソシエーション」「世界共和国」といった左翼的概念を駆使して超越的なものを表現しているようです。

山崎 ところが肝心の右派の方はその畏怖の心、超越的なものへの意識を失って、そこに形だけの天皇主義が残っている状態です。天皇や皇統という言葉を用いずに、どうやって超越性を回復するか、それが右派のみならず、思想全般にとって大切なことです。そして、日本の思想がそもそも持っている、そして夏目漱石や小林秀雄を経て柄谷行人にまで受け継がれている超越的なるものへの感覚、それは日本独特の思想的ラディカリズムの結果として生まれてくるものだと思います。思考の過激さと言えばよいでしょうか。

佐藤 思考の過激さと実践の過激さは違いますからね。むしろ、あまり考えないほうが過激な行動をとれるものです。山崎さんの話を聞いていて思うのは、日本にはそういう過激さがあるから、キリスト教が必要なかったのではないか、ということです。

山崎 思考の過激さは、無神論に向かったり、無政府主義に向かったりすることもあるわけですが、私は、原理論的にはキリスト教も仏教も本質的なところでは無神論なんだと思います。無神論というとドストエフスキーを思い出すわけですが、日本ではドストエフスキーという作家は今でも大きな影響力を持つ作家で、あの難解な大長編の多くが頻繁に読まれている背景には、ドストエフスキー的思考の過激さが、日本人的な思考の過激さと何処かで合致するところがあるからではないでしょうか。私は、今、ドストエフスキーの「悪霊」論を書いているところですが、「沖縄集団自決裁判」とも無縁な話ではないですね。たとえば、「神が存在しなければすべてが許される」「偉大なる目的のためには殺人も許されるのか」という問題ですね。曽野綾子の『ある神話の背景』によると、渡嘉敷島では自国民である沖縄住民の虐殺が平然と行われるわけですが、曽野綾子は、それを当然のこととして擁護しています。逆説的な意味でなかなか面白い本です。

佐藤 ドストエフスキーも唯物論者であり、革命家ですね。『カラマーゾフの兄弟』で言えば、私の理解では、あそこに出てくる登場人物は、ゾシマ長老もアリョーシャも含めて、唯物論者で無神論者です。しいて言えば、あの好色で俗物のきわみである父親フョードル・カラマーゾフこそが一番信心深いとも言えます。

山崎 佐藤さんは、ロシアが専門ですから当然でしょうが、マルクスだけではなくドストエフスキーもよく読んでするようですね。いずれ詳しく伺いたいものですが……。ドストエフスキーは、皇帝殺しを画策する革命家の一味としてぺトラシェフスキー事件で逮捕され、シベリア流刑の後、表面的には保守主義的なキリスト教徒に転向して、革命批判的な反革命小説を書くわけですが、本質は革命家で無神論のままですね。「悪霊」にしろ「カラマーゾフの兄弟」にしろ、登場人物はほぼ無神論者ですね。しかしその無神論のドストエフスキーにこそ神が見えている。神が見えてしまった人には、もはや神は必要ない、神が見えない人こそが切実に神を希求するということですね。つまり無神論者の前にこそ神は現れる。同様の構造が、日本の保守思想にもあると思うのです。小林秀雄や江藤淳に先ほど触れて、彼らには「理論」も「思想」もないと言いましたが、しかし、理論も思想もないからこそ、そこに理論や思想の本質が見えてくる。何か「気分」や「感覚」や「伝統」としか呼べないようなものが存在することはわかる、わかるけれども、それを言葉で表現しようとすると消えてしまう。そこに人知を超えたものへの畏怖感覚というものが生まれてくるわけですね。作家が文体にこだわる、というのもその畏怖感覚と無縁ではありません。

佐藤 わかります。それが本来の保守思想の原点だと思います。伝統というような、言葉で明示できないものをめぐって、ああでもない、こうでもない、と否定神学的に否定辞を重ねていく。だけれども結局、到達することはないから、保守思想は無限に思考を重ねていくことになるわけです。そうすると、現在の保守思想の問題点は明らかで、本来停止してはいけないはずなのに、思考が停止してしまっているのです。今の保守論壇での言説は、最初に結論を設定して、そこに至るためにどのような論理を構築すればよいか、という発想になってしまっています。まさに左翼的構築主義、設計主義です。プロットをかっちり固めて、そのためにどのような資料を集めてくるか、というような発想では駄目なんです。そうではなく、「おふでさき」のように、神懸り的に言説を立てられる人間が保守の側からこれからどれくらい出てくるか。

山崎 「おふでさき」とか「神懸りの言説」とか、なかなか面白い比喩ですね。三島由紀夫は、「反革命宣言」で、「『よりよき未来社会』を暗示するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがえのない現在をして、すべて革命への過程に化せしめるからである。」と書いていますが、目的や結論を優先する思考は保守思想ではありません。目的や結論はどうでもいいから、その思考の過程にどれだけ真摯に取り組むか、というところに保守思想の真髄はある。そこに「作品」は生まれてくるわけで、言い換えればそこからしか作品と呼べるようなものは生まれてこないだろうと思います。小林秀雄は、芸術家は最初に「虚無」を所有する必要があると言っていますが、虚無を所有するとは、佐藤さんの言われるような、一種の神懸りになるということです。理論的な思考を突き詰めた先にある神懸りの言説、超越的なものを見据えた思考の過激さに満ちた神懸りの言説、そういうものがどれほど出てくるか。神懸りというのは突飛でもおかしなことでもありません。科学の世界でも、数学だろうが物理だろうが、発想、アイデア、発見というものは、みな神懸り的に何処からか突然に降りてきて、理屈はあとからつけるわけでしょう。

佐藤 沖縄というのも神懸りの土地ですから、神懸りの人々を相手にするには我々も神懸りにならなければ駄目です。大事なのは、本土の保守派も一枚岩ではなく、山崎さんのような見方も存在すること、これが本来の右翼の考え方であることを、沖縄に伝えていくことが重要です。これが内地と沖縄の双方の血が入っている私の責務と考えています。それによって、沖縄における内地の右翼、保守派に対する忌避反応も大きく変わってくると思います。

(文責・「月刊日本」編集部)  

※「月刊日本」2008年3月号より転載





 

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