尖閣諸島の歴史を徹底分析、問題はなぜ生まれたか 3/12(金) https://news.yahoo.co.jp/articles/59a4aa5b3f2dc7bdd698660548e4c99d9bf0cb81?page=1 尖閣諸島に向け約50隻の台湾・香港の漁船がアクティビストを乗せ出航。その上空を海上自衛隊のヘリがホバリングして警告(2004年3がtう28日、写真:ロイター/アフロ)
尖閣諸島の領有権問題を再考する。 米国は公式には、領有権問題では特定の立場を取らないとする一貫した中立政策を堅持している。 ところが、2021年2月23日、米国防総省のジョン・カービー(John Kirby)報道官は記者会見で、「尖閣諸島の主権に関する日本の立場を支持する」と述べた。 だが、同報道官は26日の記者会見で、23日の記者会見での自身の発言について「訂正したい(I need to correct)。尖閣諸島の主権をめぐる米政府の方針に変わりはない」と述べ、「誤りを遺憾に思う。混乱を招いたことを謝罪する」と述べた。 わが国の各種メディアは、この奇妙な出来事にあまり関心を示さなかったが、筆者は大いに興味を持った。 ジョン・カービー報道官は退役海軍少将であり、また過去に国防総省報道官や国務省報道官を務めた広報分野の大ベテランである。 かつて、ジョン・ケリー国務長官(当時)は、退役後のカービー氏を国務省報道官に登用するにあたり「『非の打ち所のない判断力』や、メディアを完全に理解していることが起用の理由であると説明した」(産経ニュース2015.5.14)ことがある。 筆者は、優秀かつ経験豊富なカービー報道官は言い間違ったのではなく、本心をつい口にしたのであると見ている。 なぜなら、かつて沖縄を占領・統治した米国政府、とりわけ米軍人は尖閣諸島が日本の領土であることを百も承知であるからである。 筆者は、カービー報道官が過去に第7艦隊または在日米軍司令部勤務がないか調べたが確認できなかった。 本稿の目的は、米国による沖縄の占領・統治・返還に関する情報資料に基づき、尖閣諸島が日本固有の領土であることを再確認することである。 以下、初めにカービー報道官の記者会見における発言内容について述べ、次に、米国が占領・統治・返還した沖縄の範囲などについて述べる。 最後に、米国の領土問題に関する中立政策の背景について述べる。 ■ 1.カービー会見における発言内容 (1)カービー報道官の発言内容 以下は、米国防総省ホームページのトランスクリプトを筆者が仮訳したものである。 記者会見の終盤になり記者から、「中国海警局の船が日本の領海に侵入していることを報道官はどの程度懸念しているのか。また、これについて日本側とどのような話し合いをしているのか」という質問があった。 これに対してカービー報道官は次のように述べた。 「その事件に関して、日本側と話し合っていない。 大小を問わず、すべての国が主権を確保し、抑圧から解放され、一般に認められている規則や規範に従って、経済成長を追求できるべきである」 「国防総省は、米国、同盟国、パートナー、さらには中華人民共和国でさえ大きな利益を享受しているルールに基づく自由で開かれた国際秩序を擁護することに尽力している。ところが、北京は、自らの行動により自らの利益を損なっている」 そのあとイラン問題に関する質疑応答あったが省略する。 次に、カービー報道官自ら次のような発言をした。 「我々は、国防戦略を実行する際に、中華人民共和国が提起する戦略的課題に対処するための措置を引き続き講じる」 「これには、軍の近代化、同盟国とのパートナーシップの強化、相互接続されたセキュリティパートナーシップの促進による我々の利益の促進が含まれる」 次に、記者が「国防総省は、中国の船舶の行動を挑発的なものと見なしているか」と質問をした。 この質問に対して、カービー報道官は、「中国は国際ルールを無視し続けており、我々はこの活動に関する懸念を非常に明確にした。我々はインド太平洋におけるルールに基づく秩序を強化し、そして、公海が公海であることを明確にするために同盟国やパートナーとの協力を継続する」と答えた。 その答えに続けて次のように述べた。 「私はあなたの前の質問に十分に答えていなかったように感じるので、もう一度主張させてください。つまり、我々は明らかに尖閣諸島と尖閣諸島の主権について国際社会と同意見である」 「また、我々はその主権について明らかに日本を支持している。 そして、我々は中国に、沿岸警備隊の船を使って、誤算や潜在的な物理的危害につながる可能性のある行動を避けるように強く要請している」 それから数日が過ぎた2月26日の記者会見で、同報道官は「23日の記者会見での自身の発言について訂正」した。 「尖閣諸島を含む安全保障条約第5条に基づく日本防衛への米国のコミットメントは揺るぎないものである。 米国は、現状を変えようとする一方的な行動に反対している。さらに米国の政策について議論したいのであれば、国務省の同僚を紹介したい」 (2)筆者のコメント
カービー報道官は、記者から誘導されるわけでなく、自ら「尖閣諸島の領有権について日本を支持する」と述べたのである。 また、2月26日の記者会見で、「さらに米国の政策について議論したいのであれば、国務省の同僚を紹介したい」という発言は、尖閣諸島を含み日本を防衛するとしているにもかかわらず、尖閣諸島は日本の領土であると認めない米国の政策について自分は説明できないので、国務省の専門家を連れてくるという主旨であろう。 それほど、尖閣諸島を巡る米国の領有権問題に関する中立政策は奇妙・不可解なものであるということである。 以上のことから2つのことが推測される。 一つは、既述したが、カービー報道官は言い間違ったのではなく、本心をつい口にしたのである。 もう一つは、米国が領有権問題では中立政策をとっていることが、一般にはよく知られていないということである。 つまり、国務省の一部の外交官はよく知っているが、その他の政府職員や国民には知られていないということである。 逆に、多くの米国民は、尖閣諸島の領有権は日本が持っていると思っているのではないだろうか。 その傍証として、2013年8月に来日した共和党のジョン・マケイン(John McCain)上院議員は、「尖閣諸島に対する日本の主権は明確だ。この点は論議の対象とされるべきではないと語り、日本の立場を全面的に支持する考えを示した」(朝日新聞デジタル2013年8月22日)。 米国民からその存在を最も愛された政治家の一人と言われた故ジョン・マケイン氏の日本の立場を支持するという誠に日本人に勇気を与える言葉である。 ■ 2.米国が占領・統治・返還した沖縄 (1)米国(軍)の沖縄占領・統治・返還の軌跡 (1)1945年3月26日、米軍、慶良間諸島に上陸。同日、太平洋艦隊司令長官・太平洋区域司令官兼米国軍占領下の南西諸島およびその近海の軍政府総長チェスター・ニミッツ(Chester Nimitz)米海軍元帥の名で米国海軍軍政府布告第1号(いわゆるニミッツ布告)を公布し、日本の行政権と司法権の停止を通告。 (2)4月1日、米軍、沖縄本島に上陸。同日、米国海軍軍政府布告第2号を交付し、読谷村比謝に琉球軍政府(Ryukyu Military Government)を設立。 (3)6月23日、沖縄守備第32軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将は自決し、日本軍の組織抵抗は終焉。 (4)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、9月2日に日本側と連合国側代表が米艦船ミズーリ艦上で降伏文書に調印。 (5)9月7日、沖縄では、南西諸島の全日本軍を代表して、宮古島から第28師団(豊部隊)の納見敏郎中将らが参列し、米軍に対して琉球列島の全日本軍は無条件降伏を受け入れる旨を記した降伏文書に署名。 これに対し、米軍を代表して第10軍司令官ジョーゼフ・スティルウェル(Joseph Stilwell)大将が日本軍の降伏を受諾・署名し、沖縄戦は公式に終結した。 (6)1946年7月1日、琉球軍政府の権限が海軍から陸軍へ委譲。 (7)1950年12月15日、琉球軍政府に代わり、沖縄の長期的統治のために琉球列島米国民政府(USCAR : United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)が設立された。同政府は、沖縄の本土復帰の前日に閉庁した。 (8)1951年9月8日、「サンフランシスコ平和条約」および「日米安全保障条約」の調印。 (9)1952年2月29日、USCAR布告第68号(琉球政府章典)において、施政下に置く琉球列島の範囲が緯度経度で明示された。詳細は次項で述べる。 (10)1952年4月28日、「サンフランシスコ平和条約」が発効され、日本は主権を回復したが、同条約第3条の規定により沖縄は引き続き米国の施政権下に置かれた。 (11)1971年6月17日、沖縄返還協定の署名。 (12)1972年5月15日、沖縄返還協定が発効し、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権が米国から日本に返還された。 (2)米国が統治・返還した沖縄の範囲 本項は、内閣官房ホームページ「米国の施政下の尖閣諸島」を参考にしている。 1952年2月29日、琉球列島米国民政府(USCAR)布告第68号(琉球政府章典)において、施政下に置く琉球列島の範囲が緯度経度(北緯28度・東経124度40分、北緯24度・東経122度、北緯24度・東経133度、北緯27度・東経131度50分、北緯27度・東経18度18分及び北緯28度 128度18分)で明示された。 これを図示したのが下図(図1)の(2)の部分である。その範囲の中には、尖閣諸島が含まれており、尖閣諸島は一貫して南西諸島の一部に位置付けられている。 また、1951年9月に署名され、1952年4月に発効した「サンフランシスコ平和条約」において尖閣諸島は日本が放棄した領土には含まれず、日本の南西諸島の一部として米国の施政下に置かれた。 当時、中国はそれらの措置に一切異議を唱えておらず、逆に中国共産党の機関紙や中国の地図の中で、日本の領土として扱われてきた。 また、1972年に発効した「沖縄返還協定」で規定された返還範囲も図1の範囲と全く同じである。 図1:USCARの布告等で示された琉球列島の範囲 (3)尖閣諸島の射爆撃演習場 本項アおよびイ号は、内閣官房ホームページ「尖閣諸島 研究・解説サイト」を参考にしている。 ア.射爆撃演習場の指定 尖閣諸島には、米軍がその管理下に置く射爆撃演習場が2箇所存在する。久場島の「黄尾嶼射爆撃場(Kobi Sho Range)」、大正島の「赤尾嶼射爆撃場(Sekibi Sho Range)」である。 射爆撃演習場に指定された場所は、漁業者による出漁が禁止された。 2017年度までの資料調査(注1)では、遅くとも1948年には久場島が射爆演習場として指定され、その旨が米国軍政府から下部の行政機構にあたる沖縄民政府に同年4月9日付で通達されていたことを示す資料が確認されている。 2018年度の資料調査では、米国軍政府が沖縄民政府に対して出漁禁止区域を告知したこと、またそれを沖縄民政府が漁業関係者に通達していたことを示す同年4月22日付の資料が確認されている。 戦後、沖縄を統治することになった米国(軍)が注目したのは、尖閣諸島の軍事訓練場としての有用性であった。 なお、1978年6月以降、久場島、大正島とも射爆撃場の使用についての通告は行われていない。久場島、大正島の位置は下図(図2)のとおりである。 図2 尖閣諸島の地図 (注1)資料調査とは、政府の委託事業の下で有識者の助言を得て、調査・収集および作成したものである。しかし、その内容は政府の見解を表すものではないとの但し書きが付いている。 イ.米軍と久場島所有者との軍用地契約 米軍の射爆撃演習場として指定された久場島は、古賀善次氏が所有する私有地であった。米軍は、琉球政府を介し、同島を軍用地として借り上げる賃借契約を古賀善次氏と締結した。 資料調査では、この契約に関する1958年から1970年までの資料を確認した。米国(米軍)が久場島、大正島を施政下に置いていたこと、戦前からの制度や財産を戦後も認めていたことが確認できる。 ウ.射爆撃場に関する国会答弁 この2つの島は、1972年5月15日に、沖縄の施政権が米国から日本に返還されると同時に、日米合同委員会合意により日米安全保障条約と日米地位協定に基づく施設提供のスキームに切り替えられ、継続して米軍が使用するものとされた。 しかし、既述したが1978年6月以降、久場島、大正島とも射爆撃場として使用されていない。 日米地位協定で、米軍に提供された施設で使用の必要がなくなったものは返還されることになっている。 この点を踏まえて沖縄選出の照屋寛徳衆議院議員は内閣総理大臣宛の「米軍訓練制限水域及び射爆撃場の返還に関する質問主意書(2010年10月1日提出)」で、政府の認識を質した。 政府からの答弁は以下の通りである。 「黄尾嶼射爆撃場については空対地射爆撃訓練、赤尾嶼射爆撃場については艦対地射撃及び空対地射爆撃訓練を使用目的として使用しているものと認識している」 「なお、米軍は、かかる使用目的により提供水域及び指定水域を使用する場合、米側から防衛省に対し当該水域の使用期間等について事前に通告がある」 「指定水域及び指定空域の在り方(返還等)については、米軍の必要性等を勘案しつつ、随時、日米合同委員会の枠組みを通じ、米国と協議してきている」 「今後とも、日米合同委員会の枠組みの中で、個々の水域及び空域の実情を踏まえながら適切に対応していく考えである」 すなわち、両射爆撃場に対する当時および現在の政府の認識は、「米側から返還の意向は示されておらず、引き続き米軍による使用に供することが必要な施設および区域である」と認識しているというものである。 (4)筆者のコメント いくら米国(軍)でも、1948年当時、尖閣諸島が台湾または中国の領土であると認識していたならば射爆場を尖閣諸島に設置することはなかったであろう。 すなわち、当時、米国(軍)は、尖閣諸島が日本の領土であると認識していたのであろう。 では、なぜ米国(軍)は1978年6月以降、射爆撃場を使用していないのであろうか。考えられる理由は、1978年当時の米国および日本の対中融和政策である。 1971年のヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(当時)の中国訪問から始まった米中国交回復の動きは、1972年2月のリチャード・ニクソン大統領の訪中による米中共同声明、1979年1月1日のジミー・カーター大統領とケ小平国家主席との間の交渉によって、米中国交正常化が合意された。 一方、日本は、1972年9月田中角栄首相が訪中し、周恩来首相との間で日中共同声明に調印し、日中国交正常化が合意された。 その後、平和友好条約交渉が行われ、1978年8月12日、日中平和友好条約が調印された。1978年10月に国会の衆参両院で共に圧倒的多数で批准され、同年10月22日にケ小平氏が来日した。 さて、筆者の提案であるが、1978年当時と現在の米中関係および日中関係は大きく異なる。そこで、政府は、米軍に尖閣諸島を射爆撃場として使用させるのである。 できうる限り黄尾嶼射爆撃場および赤尾嶼射爆撃場を日米共同利用施設とし、自衛隊も利用するのである。 そうすれば尖閣諸島が日本固有の領土であることを世界にアピールすることができる。政府には是非知恵を絞ってこれを実現させてもらいたい。 ■ 3.米国の中立政策の背景 本項は、官邸ホームページ「パンフレット-尖閣」および外務省ホームページ「尖閣諸島について2015年3月」を参照にしている。 1960年代の終わり頃になると、尖閣諸島への台湾人の不法入域が問題となり、琉球列島米国民政府(USCAR)と協議の上で琉球政府は取締を行った。 この頃、尖閣諸島をめぐる情勢に変化が生じた。 その変化は、沖縄返還が現実化するに伴い顕著になってきた。それまで、尖閣諸島の領有を主張したことのなかった中国、台湾が、突如として領有権を主張しはじめたのである。 また、1969年5月、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の調査報告書が公表され、「石油および天然ガス埋蔵の可能性が最も大きいのは台湾の北東20万平方キロに及ぶ地域である。台湾と日本との間にある大陸棚は世界で最も豊富な油田の一つとなる可能性が大きい」と指摘された。 ちなみに、1970年7月に台湾は米国のパシフィック・ガルフ社に周辺海域の大陸棚探査権を与えた。しかし、1971年4月パシフィック・ガルフ社は米国務省の意見で撤退した。 以上のことから、中国および台湾が尖閣諸島に関する独自の主張を始めた要因については2つの見解がある。 一つは、国連機関による調査の結果、東シナ海に石油埋蔵の可能性があるとの指摘を受けて尖閣諸島に注目が集まった1970年代以降からであるとする見解。 もう一つは、尖閣諸島を含む沖縄が日本に返還されることになった沖縄返還にあるとする見解である。 例えば、台湾の漁民は、尖閣諸島が米国の施政権下に置かれた時代にも尖閣諸島の周辺海域に自由に操業できたが、尖閣諸島の施政権が日本に返還されると、漁場取り締まりが厳しくなることを恐れていたと言われる。 いずれにしても、台湾の中華民国政府は1971年6月11日、外交部声明(注2)を通じて尖閣諸島の領有を主張した。 その半年後1971年12月30日、中華人民共和国外交部は、尖閣諸島は「台湾の付属島嶼である。これらの島嶼は、台湾と同様に、昔から中国の不可分の領土の一部」であるとする声明(注3)を発表したのである。 一方、米国の領有権問題に関する中立政策の契機となったのも沖縄返還である。 沖縄返還協定の署名が行われた1971年6月17日、米国務省のチャールズ・ブレイ(Charles Bray)報道官は、記者会見において次のように述べた。 「米国政府は、尖閣列島の主権について中華民国政府(Governments of the Republic of China)と日本との間に対立があることを承知している。米国はこれらの島々の施政権を日本に返還することは、中華民国の根元的な主張をそこなうものではないと信ずる」 「米国は、日本が従前から同島に対して持っていた法的権利を増大することもできないし、中華民国の権利を縮小することもできない」 米国は、その後も折に触れて、尖閣諸島の領有権については、最終的に判断する立場にはなく、領有権をめぐる対立が存在するならば、関係当事者間の平和的な解決を期待するとの中立的な立場を示している。 なぜ、米国は中立政策を採用したのかについて次の2つの見方がある。 一つは、1971年6月の沖縄返還協定締結の時期に、台湾および中国が尖閣諸島の領有権を主張した。台湾はその頃まで、米国の同盟国であった。 また、同年7月にはニクソン大統領の訪中が発表された。そのための折衝が、水面下でキッシンジャー補佐官によって行われていた。 よって、米国は、台湾および中国の主張に配慮し、曖昧な姿勢をとったのであるとする見方である。 もう一つは、米国の「中立政策」が、紛争の火種を残すための意図的なものであったとする見方である。したたかな米国の外交政策は、いかなる時も自国の国益を最大限確保するための方策を講じると言われる。 この見方の傍証に「ダレスの恫喝」がある。 ダレスの恫喝とは1956年8月に重光葵外相とジョン・フォスター・ダレス米国務長官が会談した際、ダレスは沖縄返還の条件として「北方四島の一括返還」をソ連に求めるように重光に迫った。 東西冷戦下で、領土問題が進展して日ソが接近することを米国は強く警戒していたのである。 日ソ共同宣言には条約締結後に歯舞、色丹の二島を引き渡すと明記されている。しかし当時、「ダレスの恫喝」によって日本政府は「四島一括返還」を急遽主張し始めたために、平和条約の締結交渉は頓挫して、領土問題も積み残されたのである。 (注2)1971年6月 台湾外交部声明(抜粋) ・・・同列嶼は台湾省に付属して、中華民国領土の一部分を構成しているものであり、地理位置、地質構造、歴史連携ならびに台湾省住民の長期にわたる継続的使用の理由に基づき、すでに中華民国と密接につながっており・・・米国が管理を終結したときは、中華民国に返還すべきである。 (注3)1971年12月 中国外交部声明(抜粋) ・・・この協定(沖縄返還協定)の中で、米日両国政府は公然と釣魚島などの島嶼をその「返還区域」に組み入れている。これは,中国の領土と主権に対するおおっぴらな侵犯である。・・・釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である。はやくも明代に,これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域の中に含まれており、それは琉球、つまり今の沖縄に属するものではなくて、中国の台湾の付属島嶼であった。 ・・・日本政府は中日甲午戦争(日清戦争)を通じて,これらの島嶼をかすめとり…「台湾とそのすべての付属島嶼」および澎湖列島の割譲という不平等条約-「馬関条約」に調印させた。 ■ おわりに
日本政府は、「尖閣に安保条約第5条(防衛義務)が適応される」との米政府の公式見解に満足しているのであろうか。 政府は、米政府に対して、日本の尖閣諸島の領有権を認めるよう働きかけているのであろうか。 筆者は、今が好機であると考える。米国は対立する中国に配慮する必要は全くない。また、中国から恫喝を受けている台湾は米国に配慮しなければならない立場にある。 元々、台湾にとっては、領有権より漁業権の問題が切実な問題であった。日台の漁業権交渉が解決してから返還要求は沈静化したと言われる。 そこで、日本政府要人などは米国のカウンターパートに対して、歴史的にも、国際法的にも日本の領土である尖閣諸島の領有権を認めるよう直接働きかけるべきである。 元外交官の宮家邦彦氏は「交渉とは言論による格闘技ですから、物理的腕力の強い奴が常にに勝つ訳ではありません。論理的腕力さえあれば、勝つチャンスは大いに高まるといえるでしょう」(『ハイブリッド外交官の仕事術』PHP文庫)と述べている。 政府および外交当局者の論理的腕力に期待したい。
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