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「すべての学校教育からダーウィンの進化論を排除せよ」…という理想的な動きが、イスラエルやトルコ、インドなど各国で迅速に…
http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/683.html
投稿者 お天道様はお見通し 日時 2018 年 12 月 11 日 19:50:01: I6W6mAZ85McLw gqiTVpO5l2yCzYKojKmSyoK1
 


「すべての学校教育からダーウィンの進化論を排除せよ」…という理想的な動きが、イスラエルやトルコ、インドなど各国で迅速に進行中 INDEEP




英国ガーディアンのオピニオン記事より

theguardian.com


あまりにも粗雑な「進化論」という説はそろそろ全世界が完全に放棄するべき


私は、この数年ずっと進化論に完全な反対の意見を持つ人間ですが、その理由は、単純なことで、「合理的に進化論はあり得ない」というだけです。


まともな思考なら、進化論で語られるようなことが起きる可能性はゼロだと私は思っています(ゼロに近いのではなく)。


そういえば、今年 6月には以下の記事で、進化論の根底が崩壊しつつある可能性が示されていることをご紹介しました。



もちろん、こんな程度のことでは進化論は揺るがないことも、この記事を書いた時からわかっていました。


何しろ、今の科学と科学者たちの存在の「根幹を支えるものは進化論(とビッグバン)」であり、進化論とビッグバンを否定するものは、どの国であっても、科学界のサークルにとどまれないはずです。


私が進化論というものが「あまりにも粗雑な理論」だと知ったのは、故フレッド・ホイル卿の著作を数年前に偶然手にしたことが大きいのですけれど、ホイル博士は、先ほど書きました、


・進化論
・ビッグバン


を両方否定したことで、科学界で一種の「葬られ状態」を経験しています。


ホイル博士と共に同じ研究をした2人がノーベル賞を受賞する中、研究の筆頭だったホイル博士だけが、受賞されなかったのです。


これについて、フレッド・ホイル - Wikipedia には、こう書かれています。


ホイルの元々の貢献は何らかの理由で見落とされた。


ホイルのような著名な天文学者の業績が受賞の対象とならなかったことに対して、多くの人々は驚いた。


「何らかの理由」といいますけれども、定食屋の納豆につけるカラシをつけ忘れるのとは訳が違うのですから、「何らかの理由」ではなく「明確な理由」があったはずです。


このことが起きたのは 1983年のことですが、このことは、他の科学者たちへの大きな警告、あるいは見せしめとなったはずです。


「進化論を否定するものは同じようになりますよ」


というメッセージだったとも言えます。


このあたりに関しては、ずいぶん以前に書いたものですが、


科学者たちの「神」の意味
 In Deep 2012年07月05日


という記事の中盤くらいの


新しい「神」を数百年以上求めて続けてきた科学界


というセクションに少し書いています。
まあしかし、ホイル博士は、科学界からどういう扱いを受けようと、自分の考えを曲げずに研究と執筆を続けていてくれていたからこそ、私は「進化論の真実」を知ることができたのですから、それはそれでいいのだと思います。
 
さて、今回は冒頭の英国ガーディアンの記事をご紹介したいと思います。
これは、ロンドン自然史博物館の館長であるマイケル・ディクソン(Michael Dixon)さんという方が、ガーディアンに寄稿したものなんですが、私はこれではじめて知りましたが、今いくつかの国で、


「ダーウィンの進化論を完全に教育プログラムから排除する」


という動きが進んでいるのだそうです。


記事に出て来るのは、イスラエル、トルコ、インドなどとなっています。
何とも羨ましい限りの話ですが、ロンドン自然史博物館の館長さんは、この動きに対して、猛烈に抗議しているわけです。
 
記事をご紹介した後に、過去記事などを含めて、捕捉などを書かせていただきたいと思います。
なお、この「進化論に対しての嫌疑」は、ロシアの科学界でも以前からくすぶっていますが、今日(12月10日)、ロシアのメディアを見ましたら、下のような記事がありました。


12月10日のロシアのメディアより

earth-chronicles.ru


内容はビデオで説明されていて、ロシア語のビデオは理解できないですので、詳しい内容はわからないですが、「最近どんどん積み上がる進化論が間違っている科学的証拠」を取りあげているもののようです。


西欧の科学界とそれほど密接ではない国や地域では今後、脱ダーウィンの動きは進んでいくかもしれません。


では、ガーディアンの記事です。




The removal of Darwin and evolution from schools is a backwards step
Guardian 2018/10/03


ダーウィンの進化論を学校教育から排除する動きは学問の後退を意味する


進化論は、根拠に基づく地球の生命に対しての唯一の説明だが、いくつかの国々では、その説に背を向け始めている


最近、イスラエルとトルコの両国において、チャールズ・ダーウィンの進化論が学校のカリキュラムから消え去ったという驚くべき報告があった。


トルコでは、進化論は高校生の理解を超えているとして進化論が高校の教育から消えた。イギリスで進化論は小学校から教えられている。


イスラエルでは、ほとんどの生徒が進化論を学んでいないと教師たちが主張している。イスラエル教育省は教師たちに対し、生物学では進化論ではないテーマに焦点を当てるように促しているという。


これに関しての驚くべきニュースは今年初めにもあった。インドの教育担当大臣が高等教育について発言した際に、「ダーウィンは科学的に間違っている」と主張したのだ。さらに大臣は、「人間は進化したサルではない」とも述べた。


そして、この大臣は、インドの高等教育カリキュラムから進化論を削除するように求めた。


進化論は、ダーウィンによる自然科学への最大の貢献であるという事実がある中での、これらの最近の進化論への攻撃や嫌悪は興味深い。


結局のところ、他の科学理論で、この進化論に対してと同じレベルに達するような異議や反感が出されるものは、少なくとも過去 150年では存在しない。


しかし、進化論を否定するということは、自然界の科学的理解を向上させる特別な意味と、さらには、自然界を将来的に最善に保護するための最善の方法を排除してしまうことでもあるのだ。


ダーウィンの進化論は、すべての生物科学を支えるだけでなく、膨大な予測力を持っている。


抗生物質への耐性菌の出現を理解するためにも進化論は必要だし、地球温暖化に対応する方法にも、あるいは新たな害虫への対策や、持続可能な食糧源の探索のためなど、人類の繁栄は、進化論的な証拠によって決定されているといっていもいいのだ。


ロンドン自然史博物館には、27億年以上前の化石から 2018年に採取された標本までの 8000万以上の標本のコレクションがある。ここには世界各地から数千人の研究者たちが毎年アクセスする。
このコレクション群は、生命の形態と多様性の両方の変化を何百万年にもわたって測定できる重要な基盤のデータを提供しており、過去と現在の生命の幻想的な多様性と分子生物学の構成は、明確で具体的な進化の蓄積された証拠だ。


しかし、それでも、今なお、進化論が疑問視されることがある。


宗教的な理由で反対される場合を除けば、進化論に対して嫌疑を持つ人たちは、進化論がもつ壮大な規模を想像できないのかもしれない。進化論を理解するためには、非常に長く深い時間の概念を受けいれなければならない。これはきわめて巨大なものだ。


ダーウィン自身はこう言っている: 「とてつもない長い年月のうちに、私たちには理解できない無限の世代がお互いに(進化に)成功したに違いないのだ!」。


また、この進化論の「論」という言葉も部分的に非難されることがある。


すなわち、この進化論が、ダーウィンによる直感や推測であるかのような意味でとらえられることがあるからだ。つまり「すべては実質的な証拠がない」と説明されてしまうことがあるのだ。


しかし、19世紀後半に進化論が登場して以来、進化論への反証は数多く出ており、世界中の何万人もの科学者たちが様々な科学分野で厳密に検証してきたのだ。それによって、今では進化論は、反証することのできない科学的法則とみなされる。


各国で現在進んでいる、この進化論という重要な科学的概念を排除しようという暗黙の試みに私たちはどのように対応するべきだろうか?


私たち自身はもちろん科学のカリキュラムの中核として進化論を学校で教え続けなければならないことは当然だが、科学的な証拠と合理的な議論を守るためにも、私たちは、進化論を排除しようとしている国々に話しかける必要がある。


しかし、これらのこと以上に、私たち大人は、子どもたちの科学と自然多様性への好奇心に火をつけなければならない義務を持つ。子どもという存在は、驚異的な好奇心を持った存在だ。


私たちは、これからもダーウィンの遺産である進化論を擁護し続ける。


進化論こそが、地球上の叙事詩的で素晴らしい多様性の証拠に基づく唯一の説明なのだ。




 


ここまでです。


私、実は訳しながらちょっと笑ってしまっていまして、どうしてかというと、このロンドン自然史博物館の館長さんの科学への対しての熱意はとても伝わるのですが、その一言一言のあとに、館長さんは、


「だから、進化論は大事なのだ」


ということを言いたいのだと思いますが、私はこの館長さんの言葉のすべてに対して、その逆、つまり、「だから、進化論は全面的に排除されるべきだ」と考えながら訳していたので、笑ってしまったのです。


たとえば、


「私たち大人は、子どもたちの科学と自然多様性への好奇心に火をつけなければならない義務を持つのだ」


とおっしゃっていますが、私は心の中で、


「そうだ、子どもの好奇心に火をつけるためには、進化論は排除されるべきだ」


というように即座に反応しながら訳していて、結局ずっと笑いながら訳していました。最近こんなに長くニヤニヤできたのも久しぶりですので、まずは館長さんにお礼を申し上げたいと思います。


 


それにしても……。


館長さんは、「進化論はあまりにも壮大な時間的な流れを持つ説で、みんなそれが理解できないのだ」というようなことをおっしゃっていますけれども、実際には、私たちのこの現実を進化論で語るのは「無理」なのです。


たとえば、記事の中で、館長さんは、


「進化論を理解するためには、非常に長く深い時間の概念を受けいれなければならない」


とおっしゃっていますが、その「地球の歴史」というのは、今の科学が正しければ、30億年だとか 40億年だとかじゃないですか。


いいんですよ、10億やそこらの違いは。


何しろ、


「生命の構成の緻密さは、そういう数で説明できるものとはレベルが違う」


のです。


地球の歴史が 1000兆年でも同じで、それでも進化論ではその可能性は説明できない。


たとえば、私たちの体の中のタンパク質の中の「酵素」というものがあります。


この生命の小さいな小さな1部分が「偶然に作られる」としたら、その確率がどのくらいになるか想像できますでしょうか。


これは、私にそれらあたりのことを開眼させてくれた、フレッド・ホイル卿の著作『生命はどこからきたか』にあります。


フレッド・ホイル / チャンドラ・ウィクラマシンゲ共著『生命はどこからきたか』 第14章 より

30個の不変なアミノ酸を持ち、100個の結合部分からなる短いポリペプチド鎖でさえも、20の 30乗、約 10の 39乗回にもなる試みが行われて初めて機能を持つ酵素となる。


300個の不変部分を持ち、1000個の結合部分からなる酵素の場合は、要求される試みの回数は 20の 3000乗で与えられ、それは 1の後に 0が 390個も並ぶ数である。


さらに、われわれはただ一種類の酵素だけを取り扱うのではなく、最もシンプルな有機体でさえ 2000種類、われわれのような複雑な生物では約 10万もの酵素と関係しているという点でも超天文学的な数である。


この説明だと難しいですが、要するに、


「酵素ひとつが偶然にできる確率」


は、下のようなゼロが並んだ後の「分の 1」となるのです。


酵素が1個偶然に生じる確率


こうなりますと、たとえばの話ですが、「酵素 1個が地球に偶然登場するのに、1000兆年 × 20回くらい必要となる」のです。


そして、人間というか、高等生物の身体というのは、このような酵素が「 10万などの桁で関係している」わけです。


ですので……たとえば…… 1000兆年を 1000兆回くらい繰り返すという時間があるなら……アミノ酸の 1つくらいは偶然に生まれる可能性が……いや……ないですね、やはり。


まして、単細胞であろうと高等生物であろうと、生物の登場なんて……。


どこまで夢物語かと。


 


この「生命のあまりにも精緻で構造を知ってしまってから、進化論を本心では信じることができなくなる科学者たちは多い」はずです。


特に、最先端の生物科学や遺伝子研究などをされている方々は、この地球の生命というものは、どんな小さな、たとえば単細胞生物、あるいはアミノ酸ひとつにしても、


「何という奇跡の存在なのか」


というようなものであることを知っています。


もちろん、先ほど書きましたホイル博士が受けたような「見せしめ」の問題があるために、それを表面に出すことはあまりないでしょうが、高度な研究をされている科学者たちの著作を読むと、そのことに若干ふれているくだりは随所で見られます。


それはともかく、現実としての地球の生命存在には、進化論のような粗雑な概念が入り込む余地はないのです。


さらに最近では「異生物間の共生関係」が次々と明らかになっていて、腸内細菌と人間の関係などもそうですが、この地球に満ちている奇跡的な生命構成と生命同士の関係性は、ダーウィンの進化論などというものでは、まるでひとつも説明できないということはどれだけ強く言ってもいいと思います。


私は以前からたまに書きますが、進化論とビッグバン理論が完全にこの世から消えない限り、本当の意味で、人類に幸せが訪れることはないと思っています。


大げさに聞こえるかもしれないですが、本気でそう思っています。




********** 引用ここまで **********


仰せのとおりではないでしょうか。 進化論など、”偶然”という、自ら科学を否定する言葉のオンパレードであり、ブードゥーオカルト論が科学の根本の一つに、無理やり据えられてきただけでしょ。 既得権益支配層の目論見に沿った全くのでっちあげが、あの、’イスラエル’でも、否定され、学校教育から排除されるというのも興味深いですね。 ついでに民族分類範疇の中の’ユダヤ人’っつーのも、全くの出鱈目だから、それも否定したらいいんじゃない?



 

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コメント
1. 中川隆[-13748] koaQ7Jey 2018年12月11日 20:19:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21955] 報告
>ダーウィンの進化論が崩壊 : かつてない大規模な生物種の遺伝子検査により「ヒトを含む地球の生物種の90%以上は、地上に現れたのがこの20万年以内」だと結論される。つまり、ほぼすべての生物は「進化してきていない」


進化論云々の前に、日本語の読解力に致命的な欠陥があるんだな


ダーウィンの進化論が崩壊?


yuk********さん 2018/6/8 20:46:09

今いる種が20万年以内に登場したってだけでしょ。
その祖先となる種はその前からいた。

cla********さん 2018/6/9 00:24:24


https://phys.org/news/2018-05-gene-survey-reveals-facets-evolution....

"The simplest interpretation is that life is always evolving," said Stoeckle.

この文章を読めば分かる通り、大本のソース記事では進化論は否定されておらず、進化論に残された疑問の答えが見つかったらしいというものです。
ダーウィニズムの否定どころか補強ですね。

indeep記事の引用もとのソース記事を最後まで読めばわかると思いますが、indeepのライターはソース記事をまともに読んでいない(というより文脈とことなる意味で引用している)のがわかります。
というか悪質な捏造ばかりです。

>そして、「中間種は存在しない」

もとのソース記事では「中間種が存在しない」ではなく、「中間種が観察できないという疑問は、中間段階が非常に短いからだ」という文脈の中で『中間種の不在』というダーウィンの言葉を引用しているだけです。

indeepライターは研究者の発言の多くを意図的に無視しておりかってな解釈を加えています。

>a species only lasts a certain amount of time before it either evolves into something new or goes extinct.

地球上の多くの生物種がここ20万年の間に生まれたのは、20万年前に突如として現れたからではなく、はっきりと書かれている通り、「生物種はとっとと進化して新しい種になるか絶滅するので安定的に種として存在していられる期間は20万年もなかなか続かない」というだけなのです。

まあ、ソース読まず、飛ばし記事に騙された質問者さんが間抜けだったということですね。
こんなん報道するより元ソース記事のほう(進化の過程の謎の一つが解明された)を報道するほうが有意義です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13191486138


進化論云々の前に、日本語の読解力に致命的な欠陥があるんだな


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

2. 中川隆[-13747] koaQ7Jey 2018年12月11日 20:21:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21955] 報告

アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/805.html


阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/899.html




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

4. 2018年12月11日 20:32:55 : O4pUfLwvsA : lleAWoei_CE[821] 報告
 まったく同感です。

数十年前大学の科学史の時間に進化論を習った際にこの理屈はアナだらけだな
と思った記憶があり当時の先生も特に何も言わず議論してお勉強を終了したことがありました。
 だって進化論て、現在目の前にある自然現象(生き物)の存在について勝手な
推論を作って「存在の連続性」があるかのように「推論」しただけの説で証拠は
まったく、全然、何ひとつ、ないのですもん。

 科学史上から言うとダーウインは疑問の多い人物であるらしいがしかし歴史上権威
付けが出来上がっているために裏側を世間に出して見せる人も学者もいなかった
ということのようです。
 
 今日の科学や医学などが嘘のカタマリのような存在であることが日々明らかに
なってきておりますから、はっきり言ってダーウインなどかるーく葬ることが出来る
だろうと思われます。
こんな男に比べればイタリアの学者のほうが骨がある。
地動説は数百年後にバチカンが自分らの負けを宣言した。
地動説を唱えたイタリア人の彼は死後その死体を葬ることもされず放置されたといいます。そういうことを当時の連中はやっていたのですね。
議論するのではなく、議論の前提が異なるとチカラで制圧して命も死後の埋葬すらもさせないという強権発動の異常さです。

 ダーウインなど、今日の銀行屋支配勢力イギリスの勝手連中の仲間であり学者というよりは政治屋だったとしてもちっとも不思議ではない存在です。
英国という国は国を挙げて全地球上に嘘と蹂躙を繰り広げた国でありますからね。

 進化論は嘘でありその証拠も今日生物学上はっきり証拠が出ております。


6. 中川隆[-13756] koaQ7Jey 2018年12月11日 21:15:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21973] 報告

最新の進化論「Virolution」のご紹介記事です。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/13-1.htm#1

  さて、「Virolution (邦題「破壊する創造者」)」は全15章あります。 最新の進化学の現状を知ることは考え方の幅を広げる役には立つと思います。早川書房、2500円+消費税です。
=====================================

  15章 エピジェネティクス進化は遺伝子が変異するのではなく、発現機序が変化すること

  本来医者である本書の著者フランク・ライアン氏は最後の3章分は遺伝病の話にほぼ終始しました。そしてそれはDNAの発現メカニズムに狂いが生じることが原因である、と説明しています。 本来進化の要因のはずの推進力が一方病気の原因でもあるのです。とくにガンの話は恐るべきものです。人類の大敵のガンは、自然選択からみると優先的に選択されるものらしいのです。 だからガンは自分では進化しているつもりなのだそうです。我々にはいい迷惑なのですが。

  下図が、本書の最終まとめです。4種の進化の推進力があります。3種は「遺伝子」そのものが変化しますが、最後のエピジェネティクスは遺伝子の「発現のメカニズム」が変化するのです。 そして喫煙など環境の影響を受けるのもエピジェネティクスなのです。
  

  日本人の遺伝子を考えるための自己啓発として本書を読んできましたが、これで終わりにします。

  本書のカバーに描かれているタコのような頭でっかちの物体はバクテリオファージと言います。異物を掃除するのがマクロファージですが、バクテリアを掃除するのがバクテリオファージです。 昔電子顕微鏡の研究者だったころに電子顕微鏡で撮影した写真を最後にご紹介して「破壊する創造者」の勉強は終わりにします。
  

  論文のコピーなので写真が若干荒れていますがご勘弁ください。左端はγーPhage、中央はT4−Phage、右端はT4−Phage を立てて影をつけてみた写真です。脚が2本見えますが、 本当は6本ぐらいあるのですが、数本が固まってしまっています。右端の写真で10万倍ぐらいに拡大しています。

  ではY-DNAやmtDNA遺伝子がハプロタイプに分化し更に亜型、子亜型に分化する要因は何だったのでしょうか、本書の結論から素直に考えると、

・ネアンデルタール人との亜種交配
・ウイルス感染、細菌感染(特にアフリカや熱帯雨林など厳しい風土病環境の地域)
・灼熱の過酷なアフリカ大地から出アフリカ後の穏やかな環境への変化、
・出シベリヤの原因になったシベリヤ大地の寒冷凍土化と寒冷地適応、
・狩猟採集から農耕への生活スタイルの変化、
・牧畜から農耕への生活スタイルの変化、
・出アジアしオセアニアに拡散した居住環境の変化などなど.....、

ところが、現代人類の居住環境の変化と生活スタイルの変化は全てエピジェネティクスな要因なので遺伝子の分化には影響を与えないのです。

  では我々今生きている人類の遺伝子の子亜型はもうこれ以上変化しないのでしょうか?もしくはこれからも変化するのでしょうか?当然これからもどんどん変化するはずですが、 本書ではその変化するスピードは対象となる動植物によっては数代で獲得形質になる場合があると紹介しています。では人類では?残念ながらそこまでははっきりとは書かれていません。

  農耕民族が穀物の消化を十分に行うために腸が長くなりその結果胴長になり短足になった、と昔から言われていますが、これは獲得形質なのでしょう。そうすると漁労民族や、 牧畜民族は足が長いままなのでしょう。日本人はコメが命である以上胴長短足は宿命です。今、足が長い一部の日本人も代を重ねると子孫は胴長短足になるはずです。昔の説が正しければ ....ですが。でも遺伝子は変化しないのです。発現のメカニズムが変わるだけなのです。

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  14章 エピジェネティクスは遺伝子を変異させるのではなく、発現機序をコントロールすること

  本書の最後に近くなってきましたが、テーマは先天性疾患の話になってきました。そして癌の話題です。また老化にも触れています。エピジェネティク(後天的に獲得したDNA発現の制御作用)な メカニズムのことをエピゲノムと呼ぶのだそうですが、エピゲノムは常に環境の影響を受け続けているそうです。周囲の環境からあるシグナルが発信されると、それを認識して遺伝子発現制御配列に 指令が出され、配列はその指令に応じて対応する遺伝子の発現を調節するのだそうです。つまり環境の変化が即、生物の変化に繋がるのだそうだ。

  ここで著者のまとめは次のようです、

  「人間の体を作る細胞は全て同じDNAを持っているが、神経を作る細胞、肝臓を作る細胞など異なる細胞に変化するのは何故か?つまり同じ遺伝子であっても細胞ごとに発現の仕方が違うからに 他ならない、それをコントロールしているメカニズムがエピジェネティクス」なのだそうだ。   そのメカニズムは今のところ次の3つあるらしい。

  ・メチル化;DNAの4塩基の1つ「シトシン」のメチル化、
  ・ヒストン修飾;ヒストン(DNAと結合し折りたたみ核内に収容するタンパク質)のアセチル化、
  ・RNAi(RNA 干渉=遺伝子のタンパク質への翻訳に干渉し、mRNAの特定の分子を破壊す
      る、つまり該当する特定のタンパク質の合成を妨げる。

  この3つのメカニズムは細胞分裂時に受け継がれるようだ=遺伝する。しかも複数のメカニズムが同時に働くこともあるらしい。 つまり協調し合って機能しているのだそうだ。でもあまりに複雑すぎて まだよくはわかっていないとのこと。   先天性疾患の例が示された。

・妊娠中の母親の食事に「葉酸」が不足すると、

  ・胎児の脊髄の形成に問題が生じる、
  ・胎児が水頭症にかかりやすくなる、
  ・胎児の脊柱管の下部の癒合に失敗する可能性が高くなる、
  ・生涯、脚にマヒが残る。などの先天性疾患が現れるのだそうだ。

 「葉酸」はアミノ酸のメチオニンの合成に欠かせない栄養素だが、このメチオニンはなんと、
 メチル化に使われる「メチル基」を供給する役割を持っているのだそうだ。
 つまりメチオニンができないため、DNAのメチル化が行えず、メチル化が行われないと遺伝
 子の発現作用が正しく働かなくなり、正しい遺伝子制御ができなくなる、と言うのだ。

  葉酸の摂取必要値

   成人女子推奨量:240μg、成人男子推奨量:240μg
  葉酸が多い食品例は、「簡単!栄養andカロリー計算」さんから頂きました。

  いまどきの若い女性はあまり食べないものもありますね。

  重要なことは、遺伝子は両親から1組づつ受け継ぐが、子供の遺伝子ではどちらの親から受け継いだものを使うのかが選択される、らしい。このため、片方の親から受け継いだ遺伝子のみが 発現する、ようだ。この現象を「ゲノム刷り込み」と呼ぶのだそうだ。そして遺伝子によっては当然だが父親由来と母親由来ではエピジェネティクな働き方が違う場合が生じる。 その時、不幸にも選択された遺伝子に先に紹介したエピジェネティックな問題があると先天性の疾患になってしまう、たとえ選択されなかった方の遺伝子が完全に正常でも、残念な結果に終わる、 のだそうだ。本書では、さまざまな遺伝病の例が紹介されている。

・エピジェネティクな癌の定義

 「癌」とは、細胞の外見とふるまいが異常になること。
       細胞が無制限に次々に増殖する利己的な存在になること。
       細胞が道を踏み外すこと。

    道を踏み外した細胞が1個とかせいぜい数個だけの内なら、その利己的な振る舞いは細胞や細胞内の遺伝子のの生存や増殖にとって有利なものだそうだ。むしろ「自然選択」によって、 「最も大きく道を踏み外した細胞」こそが最も選ばれやすくなる、のだそうだ。つまり「自然選択が選ぶのは間違いなく細胞や組織のホメオスタシス(内外の環境の変化にかかわらず生物の 体の状態が一定に保たれること)を維持することに最も強く抵抗する細胞だろう」と言うことらしい。これは厄介なことです。人間にとって破壊者である癌は自然選択側にとっては 最も好ましい状態なのです。

  つまり、細胞のゲノムのある部分では脱メチル化が過剰に起き、癌遺伝子を不適切に活性化させ、ある部分ではメチル化が過剰に起き、癌抑制遺伝子を不適切に不活性化し、 どちらにしても癌の原因になっている、と言うのだ。

  ではエピジェネティクな作用以外の癌は?環境要因の例として、

・喫煙による癌誘発効果、
  ・喫煙の刺激で「RNAi」の産生が促進され、抗癌遺伝子の発現が抑制される、のだそうだ。

・ウイルス感染による癌誘発、
  ・子宮頸癌を起こすパピローマウイルスが有名、

が挙げられた。

●老化の話題に入りました。

  細菌やアメーバなどの単純な生物は決して年をとらないのです。ところが多種多様な細胞、組織、器官から成る複雑な生物が受け継ぐべき「遺産」が、「年を取ってやがて死ぬ」こと なのだそうだ。シーラカンスもガラパゴスの動物たちも人間も全て「年を取ってやがて死ぬ」のです。老化するとエピジェネティクなメカニズムが機能しなくなるらしい。

  エピジェネティクスの研究では遺伝学同様、一卵性双生児を研究に使う。目的は違います。

・遺伝学では、いかに「同じ」かを説明するために、

・エピジェネティクスでは「差異」を明確にするため、です。
  つまりエピジェネティクなメカニズムの働きで人にどのような差異が生じるのか、研究するのです。一卵性双生児ということは、お互いがお互いのクローンで全く同じ遺伝子を持っている のですが、もし後天的な制御作用が進化に働くなら、遺伝子は全く同じでも、常に一緒に全く同じ生活をしなければエピジェネティクな作用は異なるはずだからです。

  30組の男性の一卵性双生児、50組の女性陣の計80組、そして年齢は3歳から74歳まで「究極の実験」が行われたそうです。調査の結果は、

・生まれて間もないころ、幼い間ならエピジェネティクなメカニズムの働きはほぼ同じで、
  若い双子ほど互いに良く似ている。

・しかし年齢が高くなるほど、互いの違いが明確になってくる、そうです。
  DNAのメチル化やヒストン修飾に違いが生じるのだそうです。

    両者の違いは、二人のライフスタイルが違っている場合ほど、一緒に暮らした時間が少ないほど、顕著に表れるようだ、たとえ遺伝子が同じでも、発現する際には環境が大きく影響すると 言うことです。これが、一卵性双生児でも病気へのかかりやすさが異なる理由になるかも知れないのです。一卵性双生児の関節リウマチへの罹患率は本来なら100%一致するはずですが30%しか 一致しない。関節リウマチはある程度年齢が上がってからかかる病気のため、それまでの時間暮らした環境が違えば違うほど罹患率は違ってくるのです。

  一方ストレスも自己免疫疾患の原因になりやすいが、ストレスホルモンの副腎皮質ステロイドは遺伝子やエピジェネティクスへ影響することがわかってきているそうです。

  本書では、エピジェネティクスの研究は遺伝子研究の20年前の水準にしか達しておらず、研究レベルはこれからまだまだ上がる、大手の製薬会社もエピジェネティクスの研究に乗り出して 来ており、癌、炎症性疾患、先天性異常、遺伝性疾患、糖尿病などのほか慢性的な病気の治療や老化の対策にエピジェネティクスが応用されるだろう、ということのようです。

  老化により引き起こされる疾患への有効な治療法の確立などで、老化防止策が数多く開発される可能性がある、とこの章を締めくくっている。エピジェネティクスの操り方がわかれば、 先の紹介した、機能遺伝子、ミトコンドリア遺伝子やレトロウイルス関連の遺伝子配列などゲノムをのあらゆる部分を操作することが可能になるかもしれないのだそうです。

  もし本当にそういう時代がくるなら、医学は急速に進歩するのでしょうが、今のような混沌とした時代で長生きはしたくない、というのが本音で余計なお世話だ、と言いたい!100歳まで 元気で生きられるとして、何をして暮らすの?働く?レジャー?瞑想?、何をするにも住むところと元手が必要。誰が用意してくれるのか?こんな時代で自分の娘がかわいそうだと感じているのに、 長生きしてどうする!などと、欧米人は考えないのです。元気で長生きをすれば、することが沢山あるんです、彼らには!羨ましい。
=====================================
以上
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13章〜12章

  13章 内在性レトロウイルスが胚発生の初期段階で重要な役割を果たしているらしい

・発生のごく初期の段階では遺伝子の制御に関して、エピジェネティック(後天的な遺伝子
  制御作用)なメカニズムが働くことはなく、むしろ内在性レトロウイルスが胚発生の初期
  段階で非常に重要な役割を果たしているらしいがまだ解明されていない。

・受胎初日に受精卵は全く同じ細胞に2分割される。
・受胎後4日目には16個〜32個の細胞に増加し球体になる。
・翌日中が中空のゴムまり状の胞胚になる。外側は後に胎盤になる。
・その後何日間かで胚が子宮内膜に着床する(ここで内在性レトロウイルスが働くらしい)。
・子宮内膜が剥がれ落ちないように胚はHCGを分泌し、卵巣を刺激し月経を防ぐ。
 (昔研究者だったころに妊娠診断薬の開発を行いましたが、その時に妊娠診断マーカー
  に使ったのがHCG(ヒト絨毛性ゴナドトロピン)なのです。)
・受胎7日〜10日には胞胚の一部が中に窪む原腸陥入(後に肛門になる)が起こる。ここま
  では全ての細胞は最初の受精卵のコピーだけであるが、原腸陥入が起こると重要な制
  御遺伝子が働き始め、それが作り出した化学物質によって、いよいよ遺伝現象が再生
  され始める。なんと肛門が最初に作られるのである。
・受胎後12週には肺と脳以外のほとんどの器官、身体の部分が出来上がり、後は大きく成
  長するだけになる。脳はあまりに複雑なため誕生後に発達をするのだ。誕生直後の何
  日間、脳細胞は毎分25万個のハイペースで増加するのだそうだ。最初の2年間で大き
  く、複雑になる。チンパンジーの脳は誕生時にはヒトと変わらないが、大人になるとヒト
  の脳はチンパンジーの3.5倍の重さになる。
・実はこの間も親から受け継いだ遺伝子は両親からの核遺伝子も、母親からの細胞質遺
  伝子もレトロウイルス関連の成分も、すべての細胞で全く同じなのだ。

・遺伝情報には2つのシステムがあり、

 1つは遺伝子そのものが持つ情報で真に遺伝的なもの。
 2つ目は、個々の細胞でどの遺伝子を発現させるかを決める補助的メカニズムでエピジェ
  ネティックなもの、つまり遺伝子の働きを操作するメカニズムが存在するのである。その
  働きはDNAの4塩基の1つシトシンをメチル化させるらしい。そして制限酵素が働くらし
  い。要約すると、エピジェネティックなプロセスによって個々の遺伝子の発現スイッチが
  適当なタイミングでオン・オフされている、のだ。シトシンがメチル化されるとスイッチは
  オフ、脱メチル化されると遺伝子のスイッチはオンになるのだ。そして重要なことはメチ
  ル化が起きてもDNAの配列には変化が起きないことだ。
・そしてエピジェネティックな遺伝子の操作は遺伝をするらしい。
・しかも、環境からのシグナル(影響)によって遺伝子に直接エピジェネティックな変異が誘
  発され、それが遺伝する、のだ。この論理は何となく飛躍があるような気がしますが、著
  者は気にしていないようです。
・そうしてそれが進化につながってゆく。
・そうしてエピジェネティックな変異が蓄積し、それが「獲得形質」となり
・獲得形質が遺伝の対象になることによって進化が起き新たな「種」が生まれる、そうだ。
・エピジェネティックな遺伝はmtDNA遺伝と同様メンデルの法則に従わないそうです。

・本書の結論は、

  エピジェネティックなメカニズムはDNAの遺伝子機構から独立して作用し、
  その働きは環境の影響を受け、生物は環境に直接呼応するように進化できる。
  遺伝子以外の要素がDNAの発現を複雑に制御している
 です。

  キリンの首が何故長くなったか、首だけでなく体高も高くなっています。それは長いほうが樹上の葉を独占して食べることができるからですが、 「突然変異」でたまたま首の長い馬が生まれれば食事に優位なために「自然選択」されると思いがちですが、 どう考えてもバランスがとれず走りにくく、肉食獣に簡単に食べられ、逆選択され絶滅するだけでしょう。 つまり首が長くなる突然変異はアフリカでは優位ではないのです。また子孫を残すには複数の馬に同時に突然変異が一斉に起きる必要がありますが、 その確率論より、全部の馬が樹上の葉を食べるために首を伸ばし続けたために、少しづつ首が伸び体高も高くなりそれが徐々に遺伝子に書き込まれていった、 と考える方がまともな気がします。徐々に伸びるならバランスも対応でき走ることも上手くなるでしょう。これぞラマルクの獲得形質です。

  しかし本書で書かれているエピジェネティックスがキリンの例に当てはまるのかどうかは触れられていません。 直感的にはラマルクの進化論とエピジェネティックスは何か違う気がしますが、素人はこのくらいにしておきましょう。

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  12章 人とチンパンジーの共通の祖先は分離後も200万年は通婚したらしい

  この本は新しい進化論行きの新幹線に乗っているようだ。解りやすい書き方のおかげで内容がどんどん脳ミソに叩き込まれてくる。12章はまだ半分しか読んでいないのだが既に怒涛の展開です。

  現代人類とチンパンジーが別種として分岐したのは700万年前頃とされていますが、遺伝子の変異の1回の出来事による分岐ではなさそうだ、と言うことがハーバード大学とマサチューセッツ 工科大学の合同チームの研究でわかったらしい。人の染色体は22対の常染色体と1対の性染色体からなることは教科書に出てきますが、人とチンパンジーの常染色体の遺伝子調査ではどの染色体を 選んでも分岐年代はほぼ同じになるのに対して、性染色体の調査では分岐年代はづーっと新しく630万年前頃だそうです。我々外野席から見れば誤差範囲のような気がしますが、進化学的にはかなり 違うようです。

  答えとして合同チームが用意したのは、「人とチンパンジーの祖先は一応分岐はしたが、その後もしばらくは交配があり、そして630万年前頃完全に分岐した」と言う内容でした。 つまり「種」の分化は遺伝子の変化である日突然にスパッと起こるのではなく、遷移期間・移行期間があるらしい。アフリカの霊長類では異種交配は実は特に珍しいことではない、のだそうだ。 その要因は自然環境の変化、人間による環境破壊など、つまり生態系の変化が大きな要因になるそうだ。

  現代人類が「出アフリカ」を決行したのも当時住んでいた北アフリカの大干ばつで人口が2000人にまで減少してしまったことが原因なのだ。そして種を維持する本能でネアンデルタール人と 交配が起きた可能性がある。人類がアリューシャン列島を渡り新世界に移動をしたのも当時住みやすかったシベリア大地の寒冷化が原因。ではオーストロネシア語族の出東アジア→オセアニア 移住の要因は?

  性染色体の遺伝子解析は常染色体の解析とは少し違った展開を見せているそうだ。X染色体の「RRM2P4」と呼ばれる配列部分は大陸ごとに不自然な大きな差異がみられ、差異が生じ始めたのは 200万年前頃のことらしい、この時期はホモエレクトス(旧人)がアフリカから世界に拡がり始めた頃だそうです。アジアでは3万年前頃までホモエレクトスが存在したことが確認されている そうなので、RRM2P4は旧人と我々新人の交配の結果ホモエレクトスから受け継いだ遺伝子ではないかと考える研究者もいるそうです。また40万年前頃に現代人類と分岐したネアンデルタール人が ヨーロッパやアジアに現れたのが30万年前頃で、現生人類がアフリカの大地に生まれたのは25万年前頃だそうです。

  そして我々の祖先は5万年〜10万年前頃に出アフリカを決行し中東から西ヨーロッパに進出し、その結果3万年前頃にはネアンデルタール人を滅ぼしてしまった、のが事実だそうです。 恐らく攻撃性で優位に立っていたからこそ現生人類が生き延び、ネアンデルタール人は絶滅させられたのです。これも「自然選択」?。

12章の後半に入りました、ここは11章の後半と同じ多倍体を論じています。

  植物や動物は一般的に2組の染色体を持っています。それぞれの親から1組づつ受け継いだものです。そして子供にはそのうち1組が受け継がれてゆきます。これが2倍体と呼ばれ人類も 2倍体とされています。ところが異種交配が発生すると子供には両親の全ての染色体が受け継がれ染色体が4組になるときがあります。これを4倍体と呼びます。人類が栽培している穀物類の 多くが4倍体なのです。つまり4組もの染色体を納めるため細胞の核が大きくなり、そのため更に細胞自身も大きくなります。結果2倍体より大きく育ち、栄養も多いのだそうです。

  ところが自然界では4倍体は偶然の産物のため、4倍体の生物が交配したくても同じ種で同じ4倍体と出会う確率はほとんどなく2倍体の相手と交配するしかなくなります。そうすると 子供に受け継がれる染色体は3組になるため3倍体になりますが、次の交配時に3組の染色体を2つに分けることはできたいため「不妊」になるのだそうです。4倍体のスイカと2倍体のスイカを 掛け合わせると3倍体の「種なしスイカ」が出来るのだそうです。人工的に染色体が64本の馬と62本のロバを掛け合わせると63本のラバになりますが、63本を2つに分けられないためラバは 不妊・繁殖できず、1代限りになってしまうのだそうです。

  現生人類の染色体中には、HOX遺伝子群と呼ばれる胎生発生(いつ手が出来ていつ脚ができるかなど順番と時期)において重要な役割を果たす部位があるそうです。「群」と言う通り 染色体上に似たような遺伝子セットが4つもあるのだそうです。しかもウニ・クラゲから人類まで構造も働きもとてもよく似ているのだそうです。つまり長い間の「自然選択」に耐え元の 構造を驚くほど残しているのだそうです。何が問題?かというとうに・クラゲはHOX遺伝子が1つしかないのに人類は4つもある、ということだそうです。しかも発生に関する遺伝子に4セットな ものが意外に多く、発生に関する遺伝子意外の遺伝子にも4セットが見つかり始めているらしい。著名な日本人遺伝学者/大野乾氏の有名な進化論「遺伝子重複進化論=2R仮説」が4セット 現象の合理的な説明をするのだそうです。

  地球最初の生命体の古細菌は数千の遺伝子から成っている、しかしショウジョウバエで1万3600、ウニは2万7千、人類は約2万(ただしウイルス由来の遺伝子は含まず、機能遺伝子の1.5%分 のみで約2万)だそうだ、突然変異と自然選択だけでは生物は複雑にはならない=遺伝子の数は増えない。脊椎動物の進化の歴史の中で大野乾氏は、2回4倍体が生じている、との説を主張された。 これが「2R仮説」

 ・1回目:脊索動物(ホヤなど)⇒初期の魚類への進化時期(約5億1千万年前頃)
 ・2回目:魚類と両生類の分岐時期(約4億2千万年前頃)らしい。

  そして現在、遺伝子解析によって2R仮説の正しさが証明されたのだそうです。この遺伝子重複の原因が「異種交配」だろうと考えられているようです。

  では結局人類は4倍体などの多倍体なのだろうか? 著者の回答は「ほぼ間違いなく多倍体だろう」とのことです。

  ところが更なる本書の展開は...

多倍体化の原因は過去は異種交配だったかもしれないが、現代社会では種々のストレスが大きな要因になることもあり得る、と説明している。

    ・活性酸素による酸化損傷
 ・外傷からの回復時
 ・ウイルス感染
 ・加齢 など。

つまり進化の推進力は病気の原因になることも多い。と注意している。多倍体化は特に癌研究者も注目をしているそうです。
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  後半に入り遺伝子病がクローズアップされてきましたが、カバーする内容が章のタイトルと必ずしも1対1ではなくなってきています。現在読んでいるのは13章のはじめの部分ですが、 進化の推進力の1つ「エピジェネティクス」つまり後成的な制御作用に関して書かれています。このエピジェネティクスを理解するために最も良い例は一卵性双生児の例だそうです。

  一卵性双生児は1つの卵子が分割したため完璧に同じ遺伝子を持つそうです。単純に考えると卵子が2つに分割するとき、片方に偏在する遺伝子があってもおかしくないと思うのですが、 分割した2つの卵子は遺伝学的/医学的に完璧に同じなのだそうです。この前提でもし1組の一卵性双生児に明らかに解るような違いがあるとすると、それは確実に遺伝子意外の要因によるもの、 と考えられるそうです。

  重要なことは「遺伝子そのものは環境の変化に反応して変わることができない」ことだそうです。放射線などを浴びるなどして遺伝子に損傷が起きない限り遺伝子配列は不動なのだそうです。 だからこそ環境によって変化したとすれば、それはエピジェネティクスな作用、と言うことだそうです。しかも遺伝をするのだそうです。植物が春の訪れを知るのはエピジェネティクスの作用、 つまり後成的な要因によるものなのだそうです。(放射線の作用は火傷のようなダメージだけでなく、遺伝子を傷つけてしまうことにもあるのだそうです。今福島で原発の修復作業をされている 作業員の方々の文字通り命を張った頑張りに感謝です。)

  本は更に生物学最大の謎について書き進んでいます。それは「たった一つの受精卵から、どうしてこれほどまでに複雑な植物や動物(そして人類も)が生まれるのか?」です。つまり 「胎生発生の謎」だそうです。

  ひと昔前にラマルクの進化論が見直されている、という記事を見たことがあり、直感的にそりゃそうだろう、と感じたことを今でも覚えていますが、本書を読んでいてそれが 「エピジェネティクス」であることがわかりました。いまや、「突然変異」だけでは進化は説明できないことが明らかになり、エピジェネティクスと呼ばれる後天的な作用で遺伝子が 制御されることが発生・進化に大きな役割を果たしていることがわかってきたようです。本書がはっきりと書き記したのは「獲得形質は遺伝する」と言うことで、証拠がドンドン集まってきており、 遺伝関係の学会で重要な部門になってきた、という現実です。


以上
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11章〜7章

  11章 異種交配の事実

  この章のポイントは異種交配でした。最初に植物のひまわりで確認され、次いで動物ではヒョウモンドクチョウで確認され、異種交配が間違いなく生物で存在することが確認されたそうです。 勿論異種交配の結果の新しい遺伝子は存在にメリットがなければそのまま衰退しやがて滅ぶはずですが、今のところ子孫を残している、と言うことは存在に意味があった、と言うことになります。 異種交配を起こす、と言うことは遺伝子の多様性が増えると言うことです。

  遺伝子の多様性が増えると言うことは、気候など生存条件の大変化があるときに生き残れる種が増える可能性が高まる、と言うことです。

  7万年前頃のアフリカ大地の大干ばつで人類は絶滅寸前の2000人ほどに減少したため出アフリカを決行し中東に逃れ、欧米の研究者はそこで先住者のネアンデルタール人と亜種間交配し、 現代人類の遺伝子の1〜4%はネアンデルタール人由来のものになったと説明しています。この本の11章を読んでいて、当方のこれまでの妄想・推測を部分的に改める必要がある気がしてきました。

  今までY-DNA「D2」の高無精子症性や低精子生成力性、またY-DNA「D」の持つネグリート性はホモサピエンスとホモネアンデルターレンシスの亜種間交配の結果の欠陥、と考えてきたのですが、 ネグリート性に関して逆かもしれないと気がつきました。元々人類は、オーストラロピテクスが現代人から見ればかなり小柄だったように、オリジナルの形態をもっとも残すといわれる (ネアンデルタール人との交配を経験していない)コイサン族、ピグミー族やホッテントット族などが今でも小柄でネグリートであるように、本来小柄だったのではないか、それが中東で 亜種間交配した結果、大柄な遺伝子を持つようになったのではないだろうか? ところがY-DNA「D」は小柄な遺伝子はそのまま維持され、精子生成力の欠陥が他の遺伝子タイプより強く遺伝子に 書き込まれたのではないだろうか?

  ラテン系の女性にも小柄が多いことを見ると地中海系に多いY-DNA「E」も小柄だった可能性が高いですね。つまり中東でのネアンデルタール人との交配の結果「DE」系と「CF」系に 分化したのではないか、という妄想ががぜん働きます。

  前のブログでご紹介したアンダマン諸島人の古い写真の2人は有名なブッシュマンのニカウさんに何となく似ていますが、欧米の研究者はアンダマン諸島人のY-DNA「D*」は出アフリカする前の アフリカ大陸時代の人類に最も近い、と書いている理由がやっとわかってきた気がします。

  古い姿形を残してきたのが我々縄文人のY-DNA「D2」の血統で、小柄で可愛らしい縄文系女性が好まれ選ばれ易いと言う高い「自然選択性」によって縄文人の血統は命脈をつないできたのかも しれません。また高無精子症性や低精子生成力性による、他の遺伝子タイプより低い人口増加性にも関わらず縄文系が今でも日本民族の35%近くを占めている理由は?  当方のこれまでの推測は、 過去は圧倒的な縄文系の土地だった日本列島に弥生系と漢民族系が押し寄せ高い人口増加性で人口比で逆転したと思っていたのですが、どうも逆ではないか!

  某教授の説のように低い人口増加性のために縄文系の人口は少なかったが、低い人口増加性を上回る高い自然選択性によってここまで比率が増えてきたのかもしれません。

  目からうろこの11章読後感でした。
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  8章〜10章 「進化の推進力」は結局5つのファクター

  かなり読みごたえのある内容です。最新の進化論のため100%認められた仮説になっているかどうかはまだちょっと早そうですが、学問として急速に確立しつつあるようです。

「進化の推進力」は結局5つのファクターが現在考えられているそうです。

1) 突然変異
2) 共生発生
3) 異種交配 (文字通り異なる種の交配で起きるい新たな遺伝子の出現)
4) エピジェネティクス (「後天的な作用で遺伝子の発現が制御されること」だそうです。
これらの4つの進化推進力とダーウィンの

5) 「自然選択」との相互作用で
進化は起こるのだそうです。

  特に異種交配は、「カンブリア爆発」と呼ばれる2000万年前〜4000万年前頃の、現在化石が残っている主要な動物の祖先の大半が短期間に出現した現象の謎を解明するのは、 異種交配ではないかと考えられつつあるようです。つまり動植物学に詳しい方なら聞きなれた、異なる「門」間の動物の間で異種交配が起きた可能性があるのだそうです。

  このブログの前のバージョンで触れたことがありますが、現在の動物では例えば馬とロバの異種間交配やライオンとトラの異種間交配の第一世代の子は残念ながら生殖機能が働かず、 第二世代が生まれないため子孫を残せず一代限りで途絶えてしまうことが知られていますが、過去それどころではない「異門」間で交配が起きた可能性があると言われ始めているのです。

  蛇足ですが、当ブログの前バージョンでは、Y-DNA「D2」は無精子症が多いことや精子生成能力の低い理由は、50000年前頃〜60000年前頃の出アフリカ直後の近東でホモサピエンスと ネアンデルタール人の間の亜種間で交配が起こった結果、遺伝子の欠損が生じたのではないかと妄想しましたが、あながち妄想と笑い飛ばす場合ではないような気がしてきています。

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  7章 進化には3つのファクターがあったそうだ。

・自然選択 
  「進化の推進力とは、生物に変化をもたらす力」とのこと。生物が変化し、
  子孫に遺伝をすると初めて進化になるらしい。これは良いことばかりではなく、
  病気を引き起こす原因にもなるそうだです。

・突然変異
  「細胞分裂の際に、DNAのコピーにエラーが生じること」だそうです。
  しかも厄介なことにランダムに起こるそうです。

・共生
  「酸素呼吸細菌が単細胞の真核生物と10億年前頃に融合した」のがミトコンドリ
  ア。今でもmtDNAは細菌と同じ環状です。エネルギー生産を分担しています。
  しかも卵子によってのみ子孫に受け継がれる、と言う特徴があります。
  融合して10億年もたつのに未だに核と一体化しない理由は、「酸素の毒性」に
  ある、つまり活性酸素やフリーラジカルが病気の原因になるからのようです。
  ところが、新しい細胞が生まれ古い細胞と入れ替わり、組織は常に健康を維持
  し続けられますが、その制御に深く関わり合っているとのこと。

  ミトコンドリアは今でも細菌としての性質を10億年も保ち続けているらしい。
  そのためメンデルの法則に従わないミトコンドリア病を引き起こすそうです。
  元々が細菌のため突然変異が起きや易く、エラーが生じ易いことに加え厄介な
  ことに重要なタンパク質の合成に関与しているためさまざまな病気を引き起こ
  す原因になっているそうです。小生がまだ電子顕微鏡の研究者だった若かりし
  時代に筋ジストロフィーのミトコンドリアの構造を見ていましたが、筋細胞中のミ
  トコンドリア内に結晶ができてしまい、筋肉に酸素が供給できなくなるため、
  筋肉の委縮が起きてしまうのですが、当時のことを思い出しました。そう言えば
  当時ミトコンドリアの環状DNAも電子顕微鏡で観察をしていました。懐かしい!

  そして、もう一つ進化でもっと大事なのは「ウイルスとの共生」だそうです。
  先にご紹介した人の遺伝子に組み込まれた内在性レトロウイルスも人の遺伝
  子と融合しているのですが、やはりウイルスとしての性質を維持し続けている
  ため、ミトコンドリア同様さまざまな病気の原因になっているそうです。
  その中で当ブログ「日本民族のガラパゴス性の起源」に関係のありそうな例が
  ありました。男性の不妊症です。

  徳島大学医学部の研究で我が縄文民族の主遺伝子であるY-DNA「D2」は他
  のハプロタイプに比べ男性の無精子症の発症が多く、もしくは精子生成能力
  が劣る、事が解っていますが、男性の不妊症の大きな原因の1つにY染色体
  上の欠損がありますが、雄の生殖器官の機能に内在性レトロウイルスが強く
  関わり合っており、Y染色体が減数分裂し新たなY染色体が出来る際に、先に
  ご紹介したY染色体が持つウイルス由来のHREVの部位で欠損が起こりやす
  いことが解っているそうです。Y-DNA「D2」は残念ながらその欠損が起こる
  確率が高いのでしょう。

  こうしてウイルス由来遺伝子のHREVは何百万年もかけて現代人類の祖先の
  時代から共に進化をしてきたのだそうです。研究者の間ではHREVは統合失調
  症など深刻な精神疾患に関与しているのではないかという見方が拡がっている
  そうです。

  このように紹介するとウイルスは悪いことをしているように感じますが、役に立
  っている作用の方が多いのだそうです。何故なら宿主が弱ってしまうとウイルス
  も困るのだそうです。ところがたまにウイルスの力に負ける人間個体がある、と
  言うのが事実のようです。ウイルスが人類に害を与えずに完全に共生するのは
  もっと時間がかかるのか、あり得ないのか果たして....。
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以上
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13-1. 破壊する創造者  6章〜1章

  6章 現代人の遺伝子の合計46%が過去に感染し共生したウイルスか、ウイルスの残骸

  久しぶりにワクワクするような刺激を受ける本です。翻訳者が優れているためか幸い専門用語が意外に解りやすく書かれているのが助けになります。これが書籍ではなく論文そのものだったら、 難しくて全く理解できないでしょう。

  6章の概要は更に驚くべき内容です。人の遺伝子の3%を占めるDNAトランスポゾン領域ですら過去に感染したDNAウイルスの名残だそうです。つまり現代人の遺伝子の合計46%がなんと過去に 感染したウイルスの共生の結果か、感染したウイルス同士の競争の結果負けたウイルスの残骸なのだそうです。しかもこのトランスポゾンは名前の「トランス」の示すように遺伝子上で位置が 移動できる可動遺伝子なのだそうです。人類本来の遺伝子ではないのでこんな芸当ができるのだそうです。人類ではたった3%ですが、トウモロコシの遺伝子では実に50%がDNAトランスポゾン なのだそうです。

  昨日のブログでご紹介した、合計43%を占めるHERV、LINE、SINEはレトロトランスポゾンとも呼ばれるそうです。つまりRNAウイルスなのです。

  これらのウイルス由来のトランスポゾンはなんと「メンデルの法則」に従いきちんと遺伝をするのだそうです。と言うことは人の遺伝子そのものに既になっている、と言うことになるのだそうです。 つまり人類が進化する過程で人遺伝子に組み込まれたウイルス由来遺伝子も一緒に進化を遂げてきた、ということらしいのです。しかしウイルスが果たしてきた役割はまだ現在の遺伝学や生理学では 解明できていないそうです。このウイルスの生物の遺伝子との共生行為を「入植」と呼ぶのだそうです。このウイルスとの融合の大部分は1000万年前にまでに起こっているのだそうですが、 AIDSのような極く最近発生した例もあり、感染時には必ず死に至る個体が発生し、生き残った個体中では共生状態になるのだそうです。

  現在の進化論はダーウィンの進化論を発展させ、「自然選択」+「突然変異」+「共生」なのだそうです。この場合の「共生」は約10億年前頃に起こったエネルギー生産細菌が原生生物と共生し ミトコンドリアや葉緑体になったことではなく、生物と共生することで存在できるウイルスとの共生のことだそうです。

  ウイルスとは、蛋白質という殻に囲まれた感染能力のある遺伝子体のことですが、どうやら成り立ち自身が単独で生きるものではなく、他の大きな生物体に共生し、あるいは遺伝子を乗っ取って 生きる存在、なのだそうです。その強い作用のため感染時には宿主となる他の生物体に大きなダメージを与え時には死に至らしめますがその時はウイルスも死にますが、運よく生き残った強い生物体 とは共生関係になり遺伝子に入り込み、その種が続く限りウイルスも生き残れるのだそうです。

  つまりウイルス感染で宿主が死滅することは、ウイルスにとっては本意ではないのだそうです。ウイルス自身が生き残るためには宿主に生き残ってもらわなければならないのですと。う〜〜ん、 厄介な存在ですね。
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  始め〜5章 人間の体を構築するたんぱく質などの情報をつかさどるのは遺伝子のたった1.5%

  今日、進化論に関する新しい書籍を購入しました。タイトルは「破壊する創造者」です、まだ序文を読んでいるところです。

  このブログを始めた時の疑問は、
・Y-DNA、mtDNAは亜型(ハプロタイプ)に分化する必要・必然性があったのか?
・ホモ属はアフリカの中でホモサピエンスに進化をしたのか?
  それとも出アフリカをしたことでホモサピエンスになれたのか?
・アフリカに留まったY-DNA「A」コイサン族やY-DNA「B」ピグミー族などは現代まで同じ経過時間
  あったにもかかわらず狩猟採集のままで、何故出アフリカした人類と同じ変化をしなかったのか?
  もしくはできなかったのか?
・ダーウィンの進化論の真髄である「自然選択」と「突然変異」は何故コイサン族やピグミー族に
  働かなかったのか? 
  それとも今の彼らの姿が働いた結果であって、文明化は進化とは関係ないのだろうか?
・となるとコイサン族やピグミー族は本当にホモサピエンスなのか?現代型のホモエレクトスのまま
  なのではないか?出アフリカしネアンデルタール人と交配分化したY-DNA「C」以降だけが
  ホモサピエンスなのではないのか?


  もともと分子生物学を専攻した身にとって疑問はいっぱいあり、まだ納得できないことだらけです。しかし異なるハプロタイプが1つの遺伝子型にさかのぼることは、先ず間違いないでしょう。 そうなると理由はともかく結果の分析のほうが優先です。それでこのブログを始めました。

  しかし結果を素直に解釈するためには邪念・妄想を捨てて頭をリラックスさせることが必要なので、ダーウィン以来の進歩した最新の進化論を読んで、ハプロタイプの分化の理由が 多少納得できれば....と言う次第です。

  生物進化学の最も新しい学説を書いた「破壊する創造者」をやっと読み初めたころ、東北関東大震災が発生しあまりの惨状に当ブログもお休みし、読書もお休みしていました。 大震災の大惨状に原発大問題が加わり、更に三陸沿岸に立地していた原材料・部品工場が軒並み壊滅で、世界を巻き込んだ部品欠品問題まで発生し、日本のみの問題では済まなくなってきました。 改めてガラパゴス日本民族の世界に占める存在感を実感させられています。

  小生は終戦直後の生まれのため、戦争そのものは知りませんが、子供のころの貧しさから世界経済・科学の牽引国家にのし上がった日本民族を見てきました。極く近い将来復興し、 再度世界を牽引できると信じています。日本民族はだてにガラパゴスではないんです。定年後の身ですがなんとか頑張らねば!

  現状は悪化する一途ですが、自粛ばかりでは日本の復興が遅れるのも事実です。という訳で報道番組の視聴漬けを自粛し、読書を再開しやっと5章(全15章)まできました。 ここまでの内容をかいつまんで報告します。大学時代いわゆる分子生物学のはしりのようなものを専攻しましたが、その後40年間の間に分子生物関連の学問は大きく進歩し、 ついこのあいだ人間の遺伝子配列が全て解読されました。これはノーベル賞級の画期的なことなのですが、研究者と興味がある者以外には全く話題になっていません。その理由が本書にも書いてあります。

  要するに生命体としての遺伝子構造が全て解読されたからと言っても、思考・感情を持つ生身の人間のことは全く解読されていないのです。何故人間はここまで進化したのか、 なぜ人種があるのか、何故戦争するのか、何故喜び、憎むなど「感情」を持つのか、どうして一人ひとり行動が違うのか?..... 人間が人間として存在している理由が何も解析できていないからだそうです。その大きな理由が人遺伝子の構造解析の結果の呆れた事実にも起因するのだそうです。


  なんと人間の体を構築するたんぱく質などの情報をつかさどるのは遺伝子のたった1.5%(機能遺伝子)でしかない....という信じられない事実。 じゃぁあとの98.5%は何のために存在するのか?

・HREV 9% 人間が過去に感染したウイルスの名残で、人内在性レトロウイルスだそうです。
・LINE 21% 人間と過去から共生してきたウイルスらしい。
・SINE 13% 人間と過去から共生してきたウイルスらしい。
・DNAトランスポゾン 5章までではまだ説明されていません。
・不明   52.5%  5章までではまだ説明されていません。

  これって何?43%がウイルス由来の遺伝子?人間の遺伝子のはずなのにウイルス由来の遺伝子の方がはるかに多いとは本当? 人類はウイルス遺伝子の固まりってこと?  にわかに納得はできませんが結果と言う事実は上記のとおりだそうです。しかし、由来は推測出来ても、何故?何のために?どうやって?....などまだクリアにはなっていないようですが、 ともかく43%の部分は明らかにウイルスの遺伝子と同じなのだそうです。

  細胞でエネルギーを生産するミトコンドリア(植物では葉緑体)は古代に寄生した細菌が生体と共存し共生した結果ということは既に小生が学生のころから言われており、 今では生物学の常識になっているので、「共生」という言葉自体は理解できますが、何故ウイルスなの?

  さらに人間の遺伝子の半分以上が”役割不明”だそうです。恐らくこの「不明」は生物体としての構造を作るところではないのではないでしょうか!人間は他の生物に比べ、 感情/思考/行動/運動能力など全てが複雑怪奇ですが、そういうよくわからないものをつかさどるところが「不明」領域だったら面白いですね。 ここはもう分子遺伝学者の領域ではないような気がします。

5章までのストーリーは、

・生物とレトロウイルスやウイルスは共生し進化を遂げてきた。
・人間も例外ではなく、遺伝子構造解析の結果が証明した。
というところです。

  ちなみに「レトロウイルス」とは、レトロな古〜いウイルス、という意味ではなく、DNA(核酸)ではなくRNA(リボ核酸)を遺伝子として持ち、生物体に入り込むと 「逆転写酵素」を使いDNAを生成し、共生先の生物の核に、自身の遺伝情報を埋め込むのですが、その「逆」を「rettro=レトロ」と言うのだそうです。レトロウイルスが感染した生物は 当初はダメージを受けかなりの個体が死に至りますが、レトロウイルスと共生に成功した個体が生き残り、繁栄するのだそうです。現在最も話題になっているのはオーストラリア大陸東海岸での コアラに対する齧(げっ)歯類由来のコアラレトロウイルスの感染例だそうです。

  人間ではHIV-1型と呼ばれるレトロウイルス感染つまりAIDSが最も最近の例だそうです。当初は死に至る個体が多数発生しますが、いづれ共生状態になるだろう、と考えられているようです。 あまりうれしくはないですが...。

  日本人ではウイルス学者の日沼頼夫先生が成人T細胞白血病(ATL)の原因はレトロウイルスHTLV-1と突き止めた事は有名です。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/13-1.htm#1

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7. 中川隆[-13764] koaQ7Jey 2018年12月11日 21:17:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21982] 報告
進化に対する内在性レトロウイルスの働きがわかりつつある!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-25.htm

  当ガラパゴス史観が参考本としている最新進化学の「破壊する創造者」の骨子は「内在性レトロウイルス」が進化の要因でもあった、というものです。 興味のある方は当ホームページの記事13-1.を読んでください。

  Nature Japanの日本語版に京都大学の論文が掲載され、太古に感染したレトロウイルスが、胎盤の多様性の原動力だった!という非常に興味深い内容でした。 このことはレトロウイルスが種の違い・進化の要因になっていることを示しています。  「破壊する創造者」の伝える最新進化学はここ日本でも進められていたのです。

  Nature Japanの9月12日の特集記事をご紹介します。
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  太古に感染したレトロウイルスが、胎盤の多様性の原動力だった!

  2013年9月12日

  京都大学 ウイルス研究所 細胞生物学部門
  宮沢孝幸 准教授

  哺乳類の胎児の多くは、胎盤によって育まれる。胎盤は、母親と胎児の両方の組織からなり、子宮内で胎児を支える役目を担うほか、互いの血液を混合させることなく栄養、 ホルモン、ガスなどを交換するという、極めて重要な機能を果たす。一方で、胎盤の形状や構造は動物種によって大きく異なり、その違いがどのようにしてもたらされたのかは、 謎のままにある。このほど、京都大学 ウイルス研究所の宮沢 孝幸 准教授らは、ウシの胎盤に見られる現象に着目し、胎盤の進化にレトロウイルスが関与していたことを突き止めた。

  ウシ科の動物は、ウシ亜科、ヤギ亜科、インパラ亜科など、7つに分けられる。いずれの亜科も約100個の小さな胎盤節からなる「多胎盤」を形成するが、その際、ウシ亜科とヤギ亜科だけに 「胎児側の細胞と母体側の細胞が融合する特殊な現象」が見られるという。こうした母子細胞の融合はかなり以前から知られていたが、分子メカニズムは分かっていなかった。

  BERV-K1由来のFematrin-1による、ウシ三核細胞の形成過程

  宮沢准教授は、学部生時代にレトロウイルスの研究を始め、その過程で「ヒト内在性レトロウイルス」がレトロトランスポゾンとして機能し、胎盤で発現していることを知ったという。 内在性レトロウイルスとは、太古に感染したレトロウイルスが「感染先の動物(宿主)の生殖細胞」に入り込み、ゲノムの一部と化したDNA配列を指す。一方のトランスポゾンは、 ゲノム中において、自身のDNAの一部から転写されたRNA配列を逆転写してDNAに戻し、それを別の領域に挿入する転移因子の総称だ。「はるか昔に人類に感染したレトロウイルスの 遺伝子がヒトゲノムに取り込まれ、遺伝子として胎盤で何らかの機能を持つようになったのではないか。当時から、そんなふうに考えていました」と宮沢准教授。

  「その後、内在性レトロウイルスと胎盤との関係を調べてみたいと思いつつ、ずいぶん時間が経ってしまいました」。そう話す宮沢准教授はイリギス留学などを経て、 2005年に現職に就いたのを機に「内在性レトロウイルスが、ウシの胎盤でみられる母子の細胞融合と関与するのではないか」との仮説を立て、本格的な研究に乗り出した。

  まず、ウシの内在性レトロウイルス(BERV-K1)が、ウシの胎盤や栄養膜細胞を株化した細胞において発現していることを確かめた。そのうえで、BERV-K1遺伝子の一部が、 胎盤の栄養膜にある特定の細胞(二核細胞と三核細胞)にだけに発現していることを、複数の手法を用いて突き止めた。栄養膜の二核細胞は胎児側の細胞で、この細胞が母体側の 子宮内膜細胞と1対1で融合すると三核細胞(TNC)になるという。

  「次に、細胞融合能を持たないモデル細胞(アフリカミドリザル由来のCOS細胞)に、BERV-K1のエンベロープタンパク質を強制発現させ、ウシの子宮内膜細胞と共培養してみました。 BERV-K1が母子細胞融合の鍵を握るとしたら、エンベロープタンパク質が機能することで、細胞どうしが融合すると考えたからです」と宮沢准教授。

  エンベロープタンパク質とは、ウイルスの膜(殻)に刺さっているタンパク質のこと。このタンパク質が宿主細胞の膜にある受容体と結合すると、ウイルスと宿主の細胞膜が融合し、 ウイルスゲノムが宿主細胞内に入れるようになる。宿主細胞内ではウイルスのゲノムやタンパク質が大量にコピーされ、ひとそろいが宿主細胞の膜をかぶって飛び出すと、 子ウイルスの誕生(すなわち、感染の成立)となる。

  実験結果は、宮沢准教授の予想どおりだった。細胞どうしが1対1で接触し、接触点において互いの細胞膜が融合。2つの核を持つ、単一の細胞へと変化したのだ。 「融合過程を観察するだけでなく、融合活性の定量的な判定も行いました。そして、BERV-K1のエンベロープタンパク質が細胞融合の鍵であるとの結論に至り、 このタンパク質をFematrin-1と命名しました」と宮沢准教授。

  さらに、宮沢准教授らは、ウシのBERV-K1がFAT2という遺伝子のイントロンに入り込んでいることも突き止め、同じようにBERV-K1をFAT2のイントロン内に持つ亜科がいるかどうかを調べた。 「ウシ亜科のみに見られ、ヤギやヒツジなどのヤギ亜科には見られませんでした。2つの亜科は約2000万年前に分かれたことがわかっているので、その直後に、BERV-K1がウシ亜科に感染して 入り込んだと推測できます」。

  一連の結果は、BERV-K1の感染が、ウシ亜科とヤギ亜科に胎盤の違いをもたらす大きな原動力になったことを示唆している。「おそらく、大昔に感染したレトロウイルスの種類が、 動物種の胎盤の違いをもたらしてきたのでしょう」。そう話す宮沢准教授は、遺伝子がレトロウイルスによって他の動物種に伝わることがあるのか、あるとしたらどのようなメカニズムに よるのかといったことも検討し、生命進化とウイルスとの関わりを解き明かすべく、努力を続けている。

  西村尚子
  サイエンスライター
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  当ガラパゴス史観を構築するための3要素は表紙に書きましたが、

  ●Globalで報告されているY-DNA、mtDNAの国別,民族別,部族別の頻度調査データ解析結果、
  ●最新の進化学で報告されている「進化」の知見、
    「進化」は、推進力となる4つのファクター
     (1) 突然変異、
     (2) 共生(内在性レトロウイルスとの)、
     (3) 異種交配、そして
     (4) エピジェネティクス(後天的獲得形質)と、
    ダーウィンの
     (5) 自然選択
    との相互作用で起る、と説明されている。
  ●分子生物学研究者時代に実験データ解析の手法として身に付けたデータマイニング手法

  以上の解析結果・知見・手法の3要素である。

  当ガラパゴス史観の構築した、現代人つまりホモ・サピエンス・サピエンスの進化は、

  ・収縮しつつあった森林の、樹上での縄張り争いに負けて樹上から追い出されたか、もしくは草原で狩りをする捕食者達に触発され食糧確保のため自発的に樹から降りたか、もしくは両方か、 ともかく草原に降り立ったこと。

  ・木の実食から肉食に変わり、脳が大きく進化したこと。

  ・サハラの砂漠化により2000人程度の絶滅危惧種となり、先輩人類(原人、旧人達)と同様出アフリカを決行したこと。

  ・出アフリカ後の中東〜インド亜大陸で未知のレトロウイルスに感染したことや、旧人との亜種間交配で遺伝子の一部や旧人が感染していた内在性レトロウイルスも受け継いだことが、 Y-DNAとmtDNAの分化を引き起こしたこと。

  ・行く先々で土地々々の新しいレトロウイルスに感染したこと。

  が遺伝子分化を引き起こし、アフリカに留まった非出アフリカ人とは全く異なる進化をたどり、近代・現代文化を構築するまでに至った、というものです。」

  出アフリカに加わらなかった他のホモ・サピエンス・サピエンス(Y-DNA「A」と「B」及び「L3」以外のmtDNA「L」)はアフリカの草原地帯や森林地多で狩猟採集段階でそれ以上の進化を止め、 原始状態にとどまり今に至っています。

  後代、出アフリカからアフリカに出戻ったY-DNA「E」が「A」や「B」と交配したおかげで、「E」と共存した「A」と「B」は「E」と同じ段階に進みましたが、その「E」もアフリカに戻ったことで それ以上の進化を止めてしまいました。

  Y-DNA「E」で地中海北岸に進みY-DNA「I」、「J」「R」などと交配し一体化した集団のみが文明化し近代・現代文化の恩恵を受けています。

  古代遺伝子Y-DNA「E」はアフリカ草原地帯の原始の狩猟採集から最先端の現代文化まで最も幅広い変異幅を持つ遺伝子なのです。

  Y-DNA「E」が戻りアフリカ後それ以上の進化をしなかった理由は、故地に戻ったため新しいレトロウイルスに出会わなかったことにある、と考えられます。熱いことも理由のひとつでしょうが。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-25.htm

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

8. 中川隆[-13768] koaQ7Jey 2018年12月12日 06:56:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21991] 報告

橘玲の世界投資見聞録 2018年10月19日
今、ホモ・サピエンスのアフリカ起源説など人類史の常識が次々と覆されている
[橘玲の世界投資見聞録]
http://diamond.jp/articles/-/182802

 30億ドル(約3300億円)の予算をかけたヒトゲノム計画が完了してわずか十数年で、全ゲノム解析のテクノロジーは驚くべき進歩をとげ、いまでは誰でもわずか数万円で自分のDNAを調べられるようになった。

 さらに近年、遺跡などから発掘された遺骨からDNAを解析する技術が急速に進歩し、歴史時代はもちろん、サピエンスが他の人類と分岐する以前の古代人の骨の欠片からDNAを読み取ることもできるようになった。この「古代DNA革命」によって、従来の遺跡調査からはわからなかった人類の移動や交雑の様子が明らかになり、古代史・歴史の常識が次々と覆されている。

 デイヴィッド・ライク『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(NHK出版)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4140817518/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4140817518&linkCode=as2&tag=mailmagazin0e-22


は、サピエンスとネアンデルタール人の交雑を証明したマックス・プランク進化人類学研究所のスヴァンテ・ペーボとともに、この「古代DNA革命」を牽引する現役の遺伝学者が学問の最先端を一般向けに紹介した刺激的な本だ。

 詳細は本を読んでいただくとして、ここではそのなかから興味深い知見をいくつか紹介したい。とはいえ、その前に用語について若干断っておく必要がある。

 日常的に「人類」と「ヒト」を区別することはないが、人類学では両者は異なる意味で使われる。「ヒト」は現生人類(ホモ・サピエンス)のことで、「人類」はヒト族のみならず化石人類(アウストラロピクテス属など)を含むより広義の分類だ(専門用語ではホモ属=ホミニンhomininという)。ここでは、ユヴァル・ノア・ハラリに倣って現生人類を「サピエンス」とし、ネアンデルタール人やデニソワ人など絶滅した古代人を含むホモ属の集合を「人類」とする。

 本書でいう「交雑」とは、人類のなかの異なる集団(サピエンスとネアンデルタール人)や、サピエンスのなかの異なる集団(アフリカ系とヨーロッパ系)のDNAが混じりあうことだ。これは一般に「混血」とされるが、血が混じり合うわけではないから、科学的には明らかに誤っている。そのため「交配」が使われたりしたが、これはもともと品種改良のことで優生学的な含みがあるため、消去法で「交雑」に落ち着いたのだろう。

 そうはいっても、「交雑」には「純血種をかけあわせたら雑種になる」というニュアンスがあり、「彼らは混血だ」というのと、「彼らは交雑だ」というのではどちらがPC(政治的に正しい)かというやっかいな問題は避けられないだろう。しかし私に代案があるわけでもなく、将来、よりPCな用語が定着するまで、本稿でもサピエンス内の集団の性的交わりを含め「交雑」とする。

 これまで何度か書いたが、「原住民」と「先住民」では漢語として明確なちがいがある。「原住民」は「かつて住んでいて、現在も生活している集団」で、「先住民」は「かつて住んでいて、現在は絶滅している集団」のことだ。日本では「原住民」が一部で差別語と見なされているが、ここでは漢語本来に意味にのっとり、「アメリカ原住民」「オーストラリア原住民」として「(絶滅した)先住民」と区別する。

全ゲノム解析によりホモ・サピエンスのアフリカ起源説が揺らいできた

 進化の歴史のなかでは、ホモ・サピエンス(現生人類)にはさまざまな祖先や同類がいた。ラミダス猿人やホモ・ハビルス、北京原人やネアンデルタール人などの化石人類を含めた人類(ホモ族)は、700万〜600万年前にアフリカのどこかでチンパンジーとの共通祖先から分かれた。

 これについては大きな異論はない(あまりに遠い過去で証明のしようがない)が、その後の人類の歴史については、多地域進化説とアフリカ起源説が対立した。

 多地域進化説では、180万年ほど前にユーラシアに拡散したホモ・エレクトス(原人)が各地で進化し、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの異なる地域で並行的にサピエンスに進化したとする。それに対してアフリカ起源説では、サピエンスの祖先はアフリカで誕生し、その後、ユーラリア大陸に広がっていった。

 1980年代後半、遺伝学者が多様な民族のミトコンドリアDNAを解析して母系を辿り、すべてのサンプルがアフリカにいた1人の女性から分岐していることを明らかにした。これがミトコンドリア・イブで、約16万年(±4万年)に生存したとされる。この発見によってアフリカ起源説に軍配が上がったのだが、これはサピエンスが10〜20万年前のアフリカで誕生したということではない。

 ライクによれば、この誤解はミトコンドリアのDNAしか解析できなかった技術的な制約によるもので、全ゲノム解析によると、ネアンデルタール人の系統とサピエンスの系統が分岐したのは約77万〜55万年前へと大きく遡る。サピエンスの起源は、従来の説より50万年も古くなったのだ。

 そうなると、(最長)77万年前からミトコンドリア・イブがいた16万年前までの約60万年が空白になる。これまでの通説では、その間もサピエンスはずっとアフリカで暮らしていたということになるだろう。

 ところがその後、サピエンスの解剖学的特徴をもつ最古の化石が発見され、その年代が約33万〜30万年前とされたことで、従来のアフリカ起源説は大きく動揺することになる。“最古のサピエンス”はジェベル・イルード遺跡で見つかったのだが、その場所は北アフリカのモロッコだったのだ(正確には石器や頭蓋の破片が発見されたのは1960年代で、近年の再鑑定で約30万年前のものと評価された)。

 アフリカ起源説では、サピエンスはサハラ以南のアフリカのサバンナで誕生し、約5万年前に東アフリカの大地溝帯から紅海を渡って「出アフリカ」を果たしたとされていた。だが30万年前に北アフリカにサピエンスが暮らしていたとなると、この通説は覆されてしまうのだ。

遺伝学的には「アフリカ系統」と「ユーラシア系統」がある

 遺伝学的には、サピエンスは「アフリカ系統」と「ユーラシア系統」の大きく2つの系統に分かれる。ユーラシア系統は5万年ほど前にアフリカを出て世界じゅうに広がっていき、アフリカ系統はそのまま元の大陸に残った。

 この2つの系統は、ネアンデルタール人のDNAを保有しているかどうかで明確に分かれる。ネアンデルタール人はユーラシアにしかいなかったため、アフリカにいるサピエンスとは交雑せず、そのためアフリカ系統の現代人にネアンデルタール人のDNAの痕跡はない。

 従来の説では、ネアンデルタール人の遺跡がヨーロッパで多く発見されたため、出アフリカ後に北に向かったサピエンスが交雑したとされていた。だが現代人のDNAを解析すると、非アフリカ系(ユーラシア系)はゲノムの1.5〜2.1%ほどがネアンデルタール人に由来するが、東アジア系(私たち)の割合はヨーロッパ系より若干高いことが明らかになったのだ。

 その後も、単純な「出アフリカ説」では説明の難しい人類学上の重要な発見が相次いだ。

 2008年、ロシア・アルタイ地方のデ二ソワ地方の洞窟で、約4万1000年前に住んでいたとされるヒト族の骨の断片が見つかった。サピエンスともネアンデルタール人とも異なるこの人類は「デニソワ人」と名づけられたが、DNA解析でニューギニアやメラネシアでデニソワ人との交雑が行なわれたいたことがわかった。――ライクは、これをシベリア(北方)のデニソワ人とは別系統としてアウストラロ(南方)デニソワ人と呼んでいる。

 さらに、アフリカ系と非アフリカ系のDNAを比較すると、ネアンデルタール人、デニソワ人とは別系統のDNAをもつ集団がいたと考えないと整合性がとれないこともわかった。

 ライクはこの幻の古代人を「超旧人類」と名づけ、サピエンス、ネアンデルタール人、デ二ソワ人の共通祖先(約77万〜55万年前)よりもさらに古い140万〜90万年前に分岐したと推定した。超旧人類はデニソワ人と交雑し、その後、絶滅したと考えられる。

 約5万年前にサピエンスが「出アフリカ」を遂げたとき、ユーラシアにはすくなくともネアンデルタール人とデニソワ人(アウストラロ・デニソワ人)という人類がおり、サピエンスは彼らと各地で遭遇した。交雑というのは性交によって子どもをつくることで、動物の交配(品種改良)を見ればわかるように、きわめて近い血統でなければこうしたことは起こらない。

 分類学では、子をつくらなくなった時点で別の「種」になったとみなす。ということは、サピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人は(あるいは超旧人類も)「同種」ということだ。ネアンデルタール人とデニソワ人は同じユーラシアに住み、47万〜38万年前に分岐したとされるから「同種」なのもわかるが、それより前の77万〜55万年前に分岐し、地理的に隔絶したアフリカ大陸で(最長)70万年も独自の進化をとげてきたはずのサピエンスがとつぜんユーラシアに現われ、彼らと交雑できるのだろうか。

 ここでライクは、きわめて大胆な説を唱える。サピエンスもユーラシアで誕生したというのだ。


サピエンスはなぜ他の人類を絶滅させるまでになったのか

 従来の人類学では、人類はアフリカで誕生し、約180万年前にホモ・エレクトス(原人)がユーラシア大陸に進出した後も、ネアンデルタール人の祖先やサピエンスなど、さまざまな人類がアフリカで誕生しては繰り返し「出アフリカ」したことになっている。だがなぜ、新しい人類はアフリカでしか生まれないのか? ユーラシア大陸にも180万年前から多くの人類が暮らしていたのだから、そこで進化したと考えることもできるのではないか。

 ライクは古代人のDNA解析にもとづいて、ユーラシアに進出したホモ・エレクトスから超旧人類が分岐し、さらにサピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人と分岐していったのではないかと考える。デニソワ人は東ユーラシアから南ユーラシアに広がり、ネアンデルタール人はヨーロッパを中心に西ユーラシアに分布した。だとしたら、サピエンスはどこにいたのか。

 ライクの説によると、サピエンスは脆弱な人類で、ネアンデルタール人に圧迫されて中東の一部に押し込められていた。その後、ネアンデルタール人がさらに中東まで進出したことで、約30万年前には北アフリカや東アフリカまで撤退せざるを得なくなった。これが、モロッコでサピエンスの痕跡が発見された理由だ。

 ところが5万年ほど前に、そのサピエンスが「出アフリカ」を敢行し、こんどはネアンデルタール人やデニソワ人などを「絶滅」させながらユーラシアじゅうに広がっていく。このときネアンデルタール人は中東におり、サピエンスと交雑した。このように考えると、アフリカ系にネアンデルタール人のDNAがなく、東アジア系がヨーロッパ系と同程度にネアンデルタール人と交雑していることが説明できる。ネアンデルタール人の遺跡がヨーロッパで多数見つかるのは、サピエンスと遭遇したのち、彼らがユーラシア大陸の西の端に追い詰められていったからだろう。

 中東でネアンデルタール人と交雑したサピエンスの一部は東に向かい、北ユーラシアでデニソワ人と、南ユーラシアでアウストラロ・デニソワ人と遭遇して交雑した。その後、彼らはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ、海を越えてオーストラリア大陸へ、そして千島列島から北海道、本州へと渡り縄文人の先祖になった。

 ところで、ネアンデルタール人に圧迫されて逃げまどっていた脆弱なサピエンスは、なぜ5万年前には、他の人類を絶滅させるまでになったか。これについては遺伝学者のライクはなにも述べていないが、ひとつの仮説として、アフリカに逃げ延びた30万年前から「出アフリカ」の5万年前までのあいだに、共同で狩りをするのに必要な高度なコミュニケーション能力を進化させたことが考えられる。これによってサピエンスは、マンモスなどの大型動物だけでなく、ネアンデルタール人やデニソワ人など他の人類を容赦なく狩り、男を皆殺しにし女を犯して交雑していったのかもしれない。

馬を手にしたヤムナヤの遊牧民がヨーロッパに移動した

 ライクは『交雑する人類』で、DNA分析からヨーロッパ、南アジア、東アジア、アメリカ原住民、オーストラリア原住民、アフリカなどでどのようにサピエンスが移動し、交雑していったのかを説明している。ここではそのなかで、ヨーロッパとインドについて紹介しよう。

 1万年前、中東の肥沃な三日月地帯で農耕が始まると、新たなテクノロジーを手にしたひとびとは農耕可能な土地を求めて東西に移住していった。しかしなかには農耕に適さない森林地帯や草原地帯(ステップ)もあり、そこには依然として狩猟採集民がいた。農耕民と狩猟採集民は、時に交易し、時に殺し合いながら暮らしていた。そうした集団のなかには、今日、DNAにしか痕跡を残さない者もおり、ライクはそれを「ゴースト集団」と呼ぶ。

 遺伝学的には、8000年前頃の西ユーラシアの狩猟採集民は青い目に濃い色の肌、黒っぽい髪という、いまでは珍しい組み合わせの風貌だったと推定されている。ヨーロッパの最初の農耕民のほとんどは、肌の色は明るかったが髪は暗い色で茶色の目をしていた。典型的なヨーロッパ人の金髪をもたらした変異の最古の例として知られているのは、シベリア東部のバイカル湖地帯でみつかった1万7000年前の古代北ユーラシア人(ゴースト集団)だ。

 ヨーロッパの東には中央ヨーロッパから中国へと約8000キロにわたって延びる広大なステップ地帯があったが、5000年ほど前にそこで馬と車輪というイノベーションが起きた。この最初の遊牧民の文化を「ヤムナヤ」と呼ぶ。

 馬という高速移動手段を手にしたヤムナヤの遊牧民は、新たな土地を求めて移動を繰り返した。このうち西に向かった遊牧民が現在のヨーロッパ人の祖先だ。

 ここでライクが強調するのは、遊牧民がヨーロッパの農耕民と交雑したわけではないということだ。DNA解析によれば、彼らは定住民とほぼかんぜんに置き換わってしまったのだ。

 遊牧民が定住民の村を襲ったのだとすれば、男を殺して女を犯して交雑が起きるはずだ。その痕跡がないということは、遊牧民がやってきたときには定住民はいなかった、ということになる。そんなことがあるのだろうか。

 ここでの大胆な仮説は病原菌だ。ペストはもとはステップ地帯の風土病とされているが、遊牧民が移住とともにこの病原菌を運んできたとしたら、免疫のない定住民はたちまち死に絶えてしまったはずだ。こうして交雑なしに集団が入れ替わったのではないだろうか。

 15世紀にヨーロッパ人はアメリカ大陸を「発見」し、銃だけでなく病原菌によってアメリカ原住民は甚大な被害を受けた。興味深いことに、それとまったく同じことが5000年前のヨーロッパでも起き、「原ヨーロッパ人」は絶滅していたかもしれないのだ。

西ヨーロッパ人と北インドのアーリア、イラン人は同じ起源を持つ同祖集団

 馬と車輪を手にしたステップの遊牧民のうち、ヨーロッパ系とは別の集団は南へと向かい、現在のイランや北インドに移住した。彼らはその後「アーリア」と呼ばれるようになる。

 独立後のインドでは、「インド人とは何者か?」が大きな問題になってきた。

 ひとつの有力な説は、ヴェーダ神話にあるように、北からやってきたアーリアがドラヴィダ系の原住民を征服したというもの。この歴史観によると、バラモンなどの高位カーストは侵略者の末裔で、低位カーストや不可触民は征服された原住民の子孫ということになる。

 だがこれが事実だとすると、インドはアメリカの黒人問題と同様の深刻な人種問題を抱えることになり、国が分裂してしまう。そこでヒンドゥー原理主義者などは、アーリアももとからインドに住んでおり、神話にあるような集団同士の争いはあったかもしれないが、それは外部世界からの侵略ではないと主張するようになった。

 現代インド人のDNA解析は、この論争に決着をつけた。

 インド人のDNAを調べると、アーリアに由来する北インド系と、インド亜大陸の内部に隔離されていた南インド系にはっきり分かれ、バラモンなど高位カーストは北インド系で、低位カーストや不可触民は南インド系だ。インダス文明が滅び『リグ・ヴェーダ』が編纂された4000年〜3000年前に大規模な交雑があり、Y染色体(父系)とミトコンドリア染色体(母系)の解析から、北インド系の少数の男が南インド系の多くの女と子をつくっていることもわかった。

 近年のヒンドゥー原理主義は、カーストが現在のような差別的な制度になったのはイギリスの植民地政策(分断して統治せよ)の罪で、古代インドではカーストはゆるやかな職業共同体で極端な族内婚は行なわれていなかったとも主張している。この仮説もDNA解析で検証されたが、それによると、ヴァイシャ(商人/庶民)階級では、2000〜3000年のあいだ族内婚を厳格に守って、自分たちのグループに他のグループの遺伝子を一切受け入れていないことが示された。ジャーティと呼ばれるカースト内の職業集団にもはっきりした遺伝的なちがいがあり、インドは多数の小さな集団で構成された「多人種国家」であることが明らかになった。

 西ヨーロッパ人と北インドのアーリア、イラン人は同じステップ地方の遊牧民「ヤムナヤ」に起源をもつ同祖集団で、だからこそ同系統のインド=ヨーロッパ語を話す。それに加えてライクは、バラモンによって何千年も保持されてきた宗教もヤムナヤ由来で、ヨーロッパ文化の基層にはヒンドゥー(インド)的なものがあることを示唆している。

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ゲノム解析では「アフリカ人」「ヨーロッパ人」「東アジア人」「オセアニア原住民」「アメリカ原住民」はグループ分けできる

『交雑する人類』にはこれ以外にも興味深い仮説がたくさん出てくるのだが、それは本を読んでいただくとして、最後に人種問題との関係についてライクの見解を紹介しておきたい。

 ここまでの説明でわかるように、DNA解析は歴史を再現するきわめて強力な手段だ。それがサピエンスとネアンデルタール人の交雑であれば科学的な興味で済むだろうが、現代人の異なる集団の交雑を検証する場合、北インド人と南インド人のケースでみたように、きわめてセンシティブな領域に踏み込むことになる。一歩まちがえば「人種主義(レイシズム)」として批判されかねないのだ。

 ライクはリベラルな遺伝学者で、この重い問いに誠実にこたえようとする。その一方で、科学者として耳触りのいい「きれいごと」でお茶を濁すこともできない。

 リベラル(左派)の知識人は、「人種は社会的な構築物だ」とか、「人種などというものはない」と好んでいいたがる。だが2002年、遺伝学者のグループがゲノム解析によって世界中の集団サンプルを分析し、それが一般的な人種カテゴリー、すなわち「アフリカ人」「ヨーロッパ人」「東アジア人」「オセアニア原住民」「アメリカ原住民」と強い関係のあるクラスターにグループ分けできることを立証した。これはもちろん、「人種によってひとを区別(差別)できる」ということではないが、人種(遺伝人類学では「系統」という用語が使われる)のちがいに遺伝的な根拠があることをもはや否定することはできない。

 このことは、もっとも論争の的となる人種と知能の問題でも同じだ。

 ヨーロッパ人系統の40万人以上のゲノムをさまざまな病気との関連で調査した結果から、遺伝学者のグループが就学年数に関する情報だけを抽出した。その後、家庭の経済状況などのさまざまなちがいを調整したうえで、ゲノム解析によって、就学年数の少ない個人より多い個人の方に圧倒的によく見られる74の遺伝的変異が特定された。

 これも遺伝によって頭のよさ(就学年数の長さ)が決まっているということではないが、「遺伝学には就学年数を予測する力があり、それはけっして些細なものではない」とライクはいう。予測値がもっとも高いほうから5%のひとが12年の教育機関を完了する見込みは96%なのに対して、もっとも低いほうから5%のひとは37%なのだ。

 こうした(リベラル派にとって)不都合な研究結果を紹介したうえで、ライクは、「実質的な差異の可能性を否定する人々が、弁明の余地のない立場に自らを追い込んでいる」のではないかと危惧する。私なりに翻案すれば、「扉の陰にいるのは黒いネコであるべきだし、黒いネコに間違いないし、いっさい異論は許さない」と頑強に主張しているときに、白いネコが出てきたらいったいどうなるのか、ということだ。「そうした立場は、科学の猛攻撃に遭えばひとたまりもないだろう」とライクはいう。

 これは「古代DNA革命」の第一線の研究者として、新しいテクノロジーのとてつもないパワーを知り尽くしている者だけがいうことができるきわめて重い発言だ。門外漢の私はこれについて論評する立場にないので、最後にライクの警告を引用しておきたい。

「認知や行動の特性の大半については、まだ説得力のある研究ができるだけの試料数が得られていないが、研究のためのテクノロジーはある。好むと好まざるとにかかわらず、世界のどこかで、質のよい研究が実施される日が来るだろうし、いったん実施されれば、発見される遺伝学的なつながりを否定することはできないだろう。そうした研究が発表されたとき、わたしたちは正面から向き合い、責任を持って対処しなければならない。きっと驚くような結果も含まれているだろう」


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9. 中川隆[-13765] koaQ7Jey 2018年12月12日 06:58:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21991] 報告

日本人のガラパゴス的民族性の起源
0-0. 日本人の源流考 rev.1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1


  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が 間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


0.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。


・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたる
 まで狩猟採集の原始生活から前進せず、ホモエレクトスの生活レベルのままだったの
 か?

・出アフリカを決行した結果、分化したシ−ラカンス古代4亜型の中でY-DNA「D」、
 Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸
 島、アフリカなどの僻地に残った集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩
 猟採集から抜け出せなかったのか?

・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸
 でホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると
 出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。

2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens=解剖学的現生人類)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」は かなり遅れて進化したと考えられていた様だが、最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、 8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、 原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。

Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化したが、

  この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、Y-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化した。

  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

  この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデル
  タール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではない プロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、 ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。

3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」と「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級として ネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)
  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族で100%の頻度である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。


  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、


  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

  これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも 遺伝子が繋がっているのだから。恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。


8.余談

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけです。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた Y-DNA「O2」(旧O3)がもたらしてきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が近代までに確立「出来なかったか/出来たか」の違いなのでしょう。)

9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系−弥生系(長江文明系)−武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。

  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう。

  当分の間はY-DNA「R1b」のアメリカとY-DNA「O2」(旧「O3」)の中国が覇権争いを続けるでしょうが、中国も日本もアメリカに 対する輸出で生産性を上げてきたので、アメリカにとって代わることは逆に自滅に向かうためまず不可能でしょう。
  非常に残念ですが、現代世界の構図は、世界の警察官であり輸入超大国のアメリカが太陽として中心に存在し、世界中から生産物を 買いまくり、そのおかげでアメリカの周りに各国が衛星のように回っていられるだけなのです。 水星、金星はEU諸国、地球は日本、火星はロシア、木星が中国、土星がインドという感じでしょうか。

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空想談

  このコラムの項目2で「北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。」と書いたのですが、 布団に入ってウトウトし始めた時に、突然、”空想の語り部”が降臨してきて グチュグチュと御託言を言い残していったので、忘れないうちに書き留めます。

  何故、ヒトを含む類人猿の進化ツリー前半のギボン(テナガザル)やオランウータンは(東南)アジアにしか棲息しておらず、 進化ツリー後半のゴリラやチンパンジーはアフリカにしか棲息していないのか?

  ヒトがアフリカで発祥したのはチンパンジーとの共通の祖先がアフリカにしかいなかったからなのは極めて明白ですが、 では何故共通の祖先はアジアにはいなかったのか?何故アフリカにしかいなかったのか? この疑問に関する納得できる説明を探してみたのですが、今のところ全く見つかってはいません。

  今のところの進化ツリーでは進化の後半で、ゴリラの祖先になった類人猿はアジアからアフリカに大移動をしたことになります。 要するに、ヒトの遠い源郷はアジアだったから、人は出アフリカしてユーラシア大陸を東に進んだと言うことになります。 つまりサケやウナギが戻ってくるのと一緒で、源郷戻りが遺伝子に埋め込まれているのではないか!? では逆に、なぜ類人猿はアジアからアフリカに移動をしたのか?も依然、極めて大きな謎です。

  とにかく解剖学的現代ヒト族は宿命に導かれ出アフリカし、中東あたりで先輩ヒト族の中東型ネアンデルタール人と交雑し分化し、 インド洋の沿岸に沿って東のアジアを目指し大移動を決行し、古代遺伝子Y-DNA「C」と「D」はアジアに到達しそこで棲息をしてきたわけです。 ところが別の古代遺伝子Y-DNA「E」は、せっかく出アフリカしたにも関わらずまたアフリカに出戻ってしまった。 ということはアフリカに進むことも遺伝子に組み込まれているのかもしれない。

  では残りの古代遺伝子Y-DNA「F」は、なぜインド亜大陸に留まり全新興遺伝子の親遺伝子となったのだろうか? アフリカ大陸でヒト族がチンパンジーとの共通の祖先から分化したように、インド亜大陸で新興遺伝子の共通の祖先の古代遺伝子「F」から 分化したのでしょう、それを実行した最も考えられる要因はアジア型ネアンデルタール人との交雑でしょう。

  インド亜大陸はアフリカ大陸と同様の、進化や分化を後押しするパワーがあるのではないか?誰か研究してくれませんかね!!!!!。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

10. 中川隆[-13776] koaQ7Jey 2018年12月12日 07:05:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22003] 報告
縄文人と同じ遺伝子を持つインド アンダマン諸島先住民、米国人宣教師を矢で殺害

アンダマン諸島 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E8%AB%B8%E5%B3%B6

アンダマン諸島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E8%AB%B8%E5%B3%B6

アンダマン諸島 - Google マップ
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E8%AB%B8%E5%B3%B6+%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E8%AB%B8%E5%B3%B6/data=!4m2!3m1!1s0x308f6b6e7bc413a9:0x763c2b5ed91bc92?hl=ja&ved=2ahUKEwicmIyzneneAhUR5bwKHb7aBc4Q8gEwD3oECAUQCA


アンダマン人 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA


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縄文人と同じ遺伝子を持つアンダマン諸島の先住民、米国人を矢で殺害=立ち入り禁止の島−インド アンダマン島 2018/11/22
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018112200267&g=int


インド東部アンダマン・ニコバル諸島・南アンダマン島の海岸=2007年9月撮影(AFP時事)

 【ニューデリー時事】インド主要メディアは21日、同国東部アンダマン・ニコバル諸島の北センチネル島で、米国人男性(27)が先住民に矢で射られるなどして殺害されたと報じた。同島の先住民は、外部との接触を拒否し、近づく者を攻撃してきた。政府も独自文化保護などの観点から島への立ち入りを禁じている。


 民放NDTVによると、殺害された男性は牧師で、先住民を改宗させようとしていたという。16日にインド人漁師の舟に乗って島に近づき、カヌーを使い上陸したものの、矢を浴びた上、首に縄を掛けられて引きずられ、殺害された。(2018/11/22-08:42)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018112200267&g=int

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インドの孤立部族、米国人宣教師を殺害か 北センチネル島
2018.11.22 Thu posted at 11:45 JST
https://www.cnn.co.jp/world/35129078.html


住民を改宗させる目的で北センチネル島に渡航したとみられる宣教師のチャウさん/John Allen Chau/Instagram
住民を改宗させる目的で北センチネル島に渡航したとみられる宣教師のチャウさん/John Allen Chau/Instagram


ニューデリー(CNN) インド東部アンダマン・ニコバル諸島の警察は22日までに、同諸島の北センチネル島を訪れていた米国人宣教師が地元部族に殺害されたとみられると明らかにした。

北センチネル島はインド本土の数百キロ沖合にあり、住民は世界で最も孤立した部族の1つとなっている。

地元警察幹部がCNNに明かしたところによると、殺害された男性はジョン・アレン・チャウさん(27)で、インドには観光ビザで訪れていた。しかし10月にアンダマン・ニコバル諸島に来た際は、明らかに布教目的だったといい、「彼のことを観光客とは呼びたくない」としている。

チャウさんから警察に対し、住民の改宗を目的とした渡航だとの報告はなかった。

同島にはインドの法律で保護対象の「センチネル族」が住む。公式記録では住民は十数人に過ぎないとされる。

島は保護区域となっており、5カイリ(約9キロ)以内への進入は禁止されている。以前に外部の人間への攻撃的な行動が2件確認されたことを受けた措置で、2006年には地元漁師2人が部族に殺害されていた。

警察によれば、米国人宣教師は現地の友人に頼んでボートを手配してもらい、島への上陸を助ける漁師も見つけていた。訪問を手助けした7人の現地住民は全員逮捕されている。

警察はチャウさんが死亡したことを独自に確認していないが、漁師たちの話をもとに殺害されたとみている。
https://www.cnn.co.jp/world/35129078.html


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先住民が弓矢で殺害の米国人、訪問目的は「キリスト教の布教」
2018年11月22日 23:06 発信地:ポートブレア/インド
http://www.afpbb.com/articles/-/3198832?cx_part=top_topstory&cx_position=4  


先住民が弓矢で殺害の米国人、訪問目的は「キリスト教の布教」

【11月22日 AFP】現代文明から隔絶されたインド・北センチネル島(North Sentinel Island)で、米国人青年が先住民から多数の矢で射られて死亡した事件で、青年が同島を訪れたのはキリスト教の布教のためだったと、複数のメディアが22日報じた。

 報道によると、ジョン・アレン・チャウ(John Allen Chau)さん(27)は先週、インド洋上の同島に不法に上陸しようとカヤックで接近。チャウさんは贈り物として、魚やサッカーボールを持参していたという。

 チャウさんは、「私の名前はジョンです。私は皆さんを愛しています、イエス(Jesus)も皆さんを愛しています…魚を持ってきました!」と声を掛けていたという。

 先住民らはチャウさんに向かって矢を放ち、矢の1本がチャウさんが手にしていた聖書を射抜いたため、チャウさんは上陸を手助けしていたインド人漁師らの舟に戻った。夜が明けてから再びカヤックで島への上陸を試みたチャウさんが、漁師の舟に戻ってくることはなかった。

 米紙ワシントン・ポスト(Washington Post)は、別の宣教師がチャウさんの母親に電子メールで知らせた話として、先住民が浜辺にチャウさんの遺体を埋めているのを漁師らが目撃したと報じた。

 ベンガル湾(Bay of Bengal)に浮かぶ北センチネル島には、約150人の先住民が暮らしている。独自の生活様式を保護するため、インド人も外国人も一様に島から5キロ以内に近づくことを禁じられている。北センチネルの先住民は、外部の者に対して敵対的な行動を取ることで知られている。

 報道によると、チャウさんは両親に宛てた手紙の中で「こんなことをして正気じゃないと思うかもしれないけれど、ここの人々にイエスについて教える価値はあると思っている」「私がもし殺されたとしても、彼らや神を恨まないで」と書いていたという。

 北センチネル島にはインド当局も上陸を避けており、チャウさんの殺害が犯罪として扱われるかどうかは不明。

 英ロンドンを拠点とする先住民らの権利保護団体「サバイバル・インターナショナル(Survival International)」はツイッター(Twitter)で、今回の事件は起こさせてはならなかった「悲劇」であり、先住民と外部者の安全を確保するため、双方の保護対策を適切に講じておくべきだったと指摘した。(c)AFP
 


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弓矢で米国人殺害、インド・北センチネル島の先住民とは?
2018年11月23日 15:03 発信地:ポートブレア/インド
http://www.afpbb.com/articles/-/3198906?cx_part=top_topstory&cx_position=2


上空のヘリコプターを弓矢で狙うインド・北センチネル島の先住民。
印沿岸警備隊と先住民らの権利保護団体「サバイバル・インターナショナル」提供(2004年12月28日撮影、提供日不明)。(c)AFP PHOTO / INDIAN COAST GUARD / SURVIVAL INTERNATIONAL


【11月23日 AFP】米国の若い宣教師がインド・北センチネル島(North Sentinel Island)で命を落とした事件は、世界で最も現代文明から隔絶されたグループの一つと考えられているこの島の人々に、再びスポットライトを当てるきっかけとなった。

 先週、宣教目的でインド洋上の同島にカヤックで近づき、不法に上陸しようとして殺害されたのはジョン・アレン・チャウ(John Allen Chau)さん(27)。チャウさんは、複数の矢で射られて死亡したとみられている。

 この島の先住民について、これまでに分かっていることは以下のとおり。

■隔絶

 北センチネル島は、米ニューヨーク・マンハッタン(Manhattan)ほどの広さがある。ここで暮らす唯一の先住民のグループは、強い警戒心を持って自分たちの土地を守っている。食料は、森や海から調達しているとされる。

 北センチネル島の人々は、アンダマン諸島(Andaman islands)のいくつかの先住民族の中で最も外界から隔絶されている。また、インドの法律でも、先住民と接触することは固く禁じられている。島に暮らす人々は、現代文明から隔絶された生活を送っているため、免疫を持たない病気に対して身を守る術を持っていないのだ。

 英国は18世紀にこれら島々の植民地化を試みた。当時の記録では、約8000人が暮らしていると推定されていた。現在の人口は約150人と考えられているが、遠方から撮影した写真を頼りに行った国勢調査では、15人程度とも記録されている。

 センチネル島の先住民に関する大半の情報は、島から遠く離れた沖合の船から観察して得られたものだ。しかし、チャウさんが死亡する数時間前に書き留めたとされる日記によると、島の男性らの身長は約1メートル65センチで、顔は黄色く塗られていたという。

 一時期、センチネル島の先住民たちは、外部からの訪問者を受け入れていた。人類学者らによって、贈り物の交換や現地調査が1960年代に行われていたのだ。しかし、2004年のスマトラ島沖地震後、同島上空を飛行する印沿岸警備隊のヘリコプターに対して、先住民らが敵対する態度を示したことから、以降の交流継続が断念された。当時、先住民との接触は金輪際しないと宣言されたが、遠方からの監視はその後も継続して行われている。

■「人間サファリツアー」に批判

 50年前に北センチネル島を訪れたことのある人類学者のT.N.パンディット(T.N.Pandit)氏は、彼らとの接触を急ぐべきではないと話す。同氏は、インド誌「Down To Earth」との最近のインタビューで、「アンダマン諸島の4部族のうち、外界と密に接触している部族が最も困難な状況に置かれている。人口統計学的にも文化的にも」と語っている。

 アンダマン諸島の先住民の中で英国が最初に接触したのは、近くの島で暮らしていたジャラワの人々だった。2011年に実施された国勢調査では、人口は約400人と推定されている。

 彼らは当初、外部の人々との接触をかたくなに拒否していたが、1970年代になると次第に接触を許すようになった。当時、一部の旅行会社が、ジャラワの人々の暮らしぶりを見ることができるとして「人間サファリツアー」を企画し、非難されるという出来事もあった。

 現地を訪れた人々によると、観光客との頻繁な接触によって、若い世代はヒンディー語を少し理解できるようになり、飲酒や喫煙を始めた者もいたという。

 2012年には、観光客相手に裸で踊るジャラワ人女性の映像が拡散。こうした現状が問題視され、規制や取り締まりが強化された。また2016年には、島の外の男性が父親とみられる色白の赤ちゃんが生まれ、グループのルールにのっとって殺されたと複数のメディアが報じている。(c)AFP


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【報ステ】未開の島の住民 米国人宣教師を殺害(18-11-23) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oQqWQUa_qbY


11/23(金) 23:30配信 テレ朝 news

 インド東部にある北センチネル島で、数千年にわたり外部との接触を拒んでいる住民にキリスト教を広めようとしたアメリカ人男性(27)が殺害された。

住民は部外者に敵対的で、その危険性などから島に近付くことも禁止されているが、男性は無許可で上陸。魚などを持参し、友好を図ろうとしていたが、上陸直後に矢が降り注いだという。

その後、男性は首に縄をかけられて引きずられていき、翌朝、遺体で見つかった。



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弓矢で殺された米国人宣教師、先住民保護のため遺体収容は困難か 印
11/24(土) 22:20配信 AFP=時事

【AFP=時事】現代文明から隔絶されたインド・アンダマン・ニコバル(Andaman and Nicobar)諸島の島に上陸し、弓矢を浴びて殺害された米国人宣教師のジョン・アレン・チャウ(John Allen Chau)氏(27)について、専門家らは遺体が島から運び出されることはないかもしれないとの見通しを示している。

【図解】北センチネル島の位置
http://www.afpbb.com/articles/-/3198663?pid=20739165&tmpl_skin=gallery&utm_source=yahoo&utm_medium=news&cx_from=yahoo&cx_position=p1&cx_rss=afp&cx_id=3199018


 先住民の人権に関する専門家らは、同諸島にある北センチネル島(North Sentinel Island)の人々にとって、チャウさんが単独で島に侵入したことは非常に脅威であったため、殺人罪が島民らに問われることはなく、世界でも最後とみられる新石器時代以前の暮らしを送る彼らを保護する観点から、チャウさんの遺体は島にとどめ置かれることになるだろうと指摘する。

 北センチネル島に国内法を適用しようとしないインド当局は、外部者に対して長年にわたり敵対的な行動を取ってきたこの島の先住民に対し、警察を上陸させて事情聴取しようとすらしていない。

 一方で警察は23日、北センチネル島付近に、チャウさんが殺害されて以降2度目となる船舶の派遣を実施。「特に脆弱(ぜいじゃく)な民族集団である彼らの生活を混乱させたり、苦痛を与えたりすることがないよう、正当な予防策を講じた」と説明している。

 チャウさんは、島の5キロ以内に近付くことは違法と知りながら、キリスト教を布教するために何度か島への上陸を試み、島の先住民に複数の矢で射られて死亡した。

 風邪といった軽い現代の病気でも、感染すれば先住民は絶滅する恐れがあり、電力やインターネットを体験することで生活様式が徹底的に破壊されるかもしれないという懸念から、先住民は外界と隔離したままにされている。

 そうして守られた世界に、チャウさんは「イエス(Jesus)は皆さんを愛しています」というメッセージを携えて侵入した。

 先住民の人権に関する専門家で、同諸島に関する著作もあるパンカジ・セクサリア(Pankaj Sekhsaria)氏は、チャウさんの遺体を収容しようとするのは「無益な試み」だと指摘。AFPに対し「(北センチネル島の)近くに行くことが良いアイデアとは思わない。現地社会との対立を生むからだ」と語った。

 先住民らの権利保護団体「サバイバル・インターナショナル(Survival International)」の研究者であるソフィー・グリグ(Sophie Grig)氏も「作業者とセンチネルの人々双方を危険にさらすことなく、遺体を収容するための安全な方法があるとは考えていない」と話す。

 デリー大学(University of Delhi)で人類学を教えるアヌプ・カプール(Anup Kapoor)教授は、センチネルの人々と対話を持ちたい人は誰でも「同じ水準」であることを示す必要があったと指摘。「何も着るな、そうしたら何らかの関係が築くことが期待できるかもしれない」と話した。カプール教授はかつて同諸島の別の先住民であるオンゲ(Onge)の人々に対し、「下着以外、自分の服全部を脱いでから」接触した経験を持つという。

 その一方、同諸島の警察は、チャウさんの遺族の祈りにどう応えるか、また北センチネル周辺で先住民の生存にとって必須である隔離をどう維持するかというジレンマに頭を悩ませている。

 アンダマン警察トップのデペンドラ・パタック(Dependra Pathak)氏は、遺体発見に向けたスケジュールは出し得ないと述べている。

 またセクサリア氏も、当局はチャウさんをまねる行動を防ぐため、北センチネル周辺の監視を強化する必要があるかもしれないと指摘。同氏は詳細について明らかにしなかったものの、「行政側はこの問題を承知している。彼らは監視についてすでに検討している」と述べた。【翻訳編集】 AFPBB News
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181124-00000032-jij_afp-int



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弓矢で宣教師射殺、先住民と遺体捜索の警察がにらみ合い インド
2018年11月25日 23:27 発信地:ポートブレア/インド
http://www.afpbb.com/articles/-/3199082?cx_part=top_topstory&cx_position=4

上空のヘリコプターを弓矢で狙うインド・北センチネル島の先住民。印沿岸警備隊と先住民らの権利保護団体「サバイバル・インターナショナル」提供(2004年12月28日撮影、提供日不明)。(c)AFP PHOTO / INDIAN COAST GUARD / SURVIVAL INTERNATIONAL


【11月25日 AFP】現代文明から隔絶されたインドの北センチネル島(North Sentinel Island)では、米国人宣教師のジョン・アレン・チャウ(John Allen Chau)さん(27)を弓矢で射殺した先住民と、遺体を捜索するため同島の沖合にボートを停泊させている警察が、緊張に満ちたにらみ合いを続けている。警察が25日、明らかにした。

 地元警察のデペンドラ・パタク(Dependra Pathak)署長がAFPに語ったところによると、警察の捜索チームは24日、チャウさんが最後に目撃された島の浜辺の400メートル沖合から、双眼鏡で先住民の姿を発見。先住民らは弓矢で武装していた。

 チャウさんは先住民に向かってキリスト教のメッセージを叫んでいたところ、こうした弓矢で殺害されたと報じられている。

 北センチネル島については、先住民独自の生活様式の保護や疫病対策の観点から、島の5キロ以内に近付くことは違法とされている。

「先住民たちはわれわれを凝視し、われわれも彼らを注視していた」とパタク署長は語った。結局、先住民との衝突するいかなる事態も避けるため船は引き返したという。

 外部者に閉ざされた島で、先住民たちの新石器時代以前の暮らしを妨げずにチャウさんの遺体を捜索するため、警察は苦心に苦心を重ねている。

 チャウさんの死は公式には殺人事件の扱いだが、人類学者らはチャウさんの遺体収容はほぼ不可能とみており、法律で保護された先住民に殺人罪は適用できないとの見解を示している。

 チャウさんの死をめぐっては、チャウさんが小舟で北センチネル島に渡る手引きをした地元漁師6人を含む7人が逮捕された。この漁師らは警察の遺体捜索チームに同行し、チャウさんが殺害された場所の特定に協力している。(c)AFP


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米宣教師を殺したセンチネルは地球上最後の「石器人」
11/27(火) 16:53配信 ニューズウィーク日本版

地球上で最後の石器時代を生きるといわれるセンチネル族 BBC News


<接近が厳しく制限されているインドの離島で殺害された米国人の遺体は先住民保護のため収容断念となる可能性も>

インドの北センチネル島で先住民に殺害された米国人宣教師ジョン・アレン・チャウの遺体は、今も収容できていない。最古の推定では6万年も前からこの島で暮らしてきたといわれる「貴重な」先住民、センチネル族を傷つけかねないからだ。

センチネルの動画を見る

AP通信によれば、11月21日にチャウが殺害されたとの見解を発表したインド当局は、アンダマン・ニコバル諸島に属するこの離島に船舶を派遣。同島で暮らす先住民、センチネル族と衝突することなく、チャウの遺体を収容する計画を作ろうとした。

今も石器時代の暮らしを続ける地球上で最後のコミュニティーとされるこの先住民は、外部との接触に強い抵抗を示している。遺体収容のためとはいえ不用意に近づけば、互いにさらなる犠牲者が出かねないことをインド当局は懸念している。

アンダマン・ニコバル諸島を管轄する警察のトップであるデペンドラ・パタックは、センチネル族は「宝だ」として「島に乗り込んで我々のやり方を押しつけることはできない」と説明した。「彼らに害を及ぼすようなことはしたくない」

チャウは11月半ば、地元の漁師にカネを払って手助けして貰い、上陸が禁止されている同島を訪れて殺害された。彼が最後に書いた複数の手紙には、島の住民にキリスト教を布教したいという思いと、地元漁師の船を拠点にして複数回、島に上陸したことが記されていた。
.

遺体が埋められるのを漁師が目撃

またこれらの手紙には、センチネル族との緊迫したやりとりがあったことも書かれていた。ある時はセンチネル族の若者がチャウに向けて放った矢が、彼が持っていた聖書を射抜いたという。

それでもチャウは11月16日に再び北センチネル島に接近し、漁師たちに「船には戻らない」と告げて島に上陸した。翌朝、漁師たちは先住民がチャウの遺体を引きずって運び、海岸に埋めるところを見たという。その後、チャウが島に接近するのを手引きした罪で7人の漁師が逮捕された。

11月23日と24日には警察や当局者がボートで同島に接近し、双眼鏡でセンチネル族の様子を観察。パタックによれば、彼らは弓矢で武装していたものの、過去に接触が試みられた際のように火をつけた弓矢を放ってくることはなかったという。「我々は離れた場所から彼らを観察し、彼らも我々を観察していた」とパタックは説明した。

当局者たちは今もチャウの遺体の収容を諦めていないが、センチネル族は過去にも島を訪れた外部の人間を殺害しており、それらの遺体はいまだに収容されていない。

2006年には、船で眠っていた2人の漁師が北センチネル島に漂着。センチネル族はこの2人を殺害し、その遺体を海岸に埋めた。遺体収容のためにヘリコプターで接近したが、弓矢で追い払われたという。


インド政府は、先住民を病気や搾取から守るために島の周囲およそ4.8キロを立ち入り禁止にするなど、北センチネル島への接近を厳しく制限している。このため同島に暮らす先住民の正確な数は分かっていない。

「島で何が起こったのか、センチネル族が何をしたのかを注意深く調べている」とパタックは説明した。「複数の人類学者の協力を得て、どのような善意の意思表示ができるかを検討している」

さらに彼はこう続けた。「先住民側から、彼らの生活に支障をきたすことなく接触する方法が提案されなければ、遺体収容は難しい。彼らと対立するつもりはない」

当局者や人類学者たちは過去に何度か、センチネル族にココナッツやバナナの贈り物を届けて限定的な接触を試みている。センチネル族は贈り物を喜んで受け取ったこともあったものの、それ以上の交流は頑として拒んできた。

デリー大学の教授で人類学者のP.C.ジョシはAP通信に対して、チャウがどのような状況で死亡したのかを知るためには、遺体を収容することが重要だと語った。だが加害者を「訴追することはできず」、また北センチネル島は高温多湿なため、早くしなければ遺体の腐敗が進み、収容も分析も「無益な試み」になるだろうとも指摘した。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181127-00010001-newsweek-int

▲△▽▼

縄文人と同じ遺伝子を持つアンダマン人


Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。

その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。

Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

 縄文主力系Y-DNA「D2」のオリジン、Y-DNA「D*」のアンダマン諸島/オンゲ族、ジャラワ族

  後世にインドからの統治者の来島やカレン族の島流しなどで遺伝子は荒らされた、と思っていたのですが Thangarajの論文で Onge、Jarawa の2部族は Y-DNA「D*」を100%維持し、 出アフリカした現代人類の世界最古の姿をとどめている純系の集団であることがわかりました。

縄文人の主力集団のY-DNA「D2」の祖形になり、 日本人に最も多いジャガイモ顔でパッチリ二重瞼ののルーツになります。

女性は典型的な安産型の大きな臀部でいわゆるQPちゃん体形です。
ホッテントット族が典型的ですが臀部に脂肪としてエネルギーを蓄えるのです。

出アフリカ時の飢餓状態だったアフリカ・サハラ時代の 名残をとどめているのです。 そのくらい古代の遺伝子なのです。

  しかし50000年もの間純系を保てたのは定住先の小さなアンダマン諸島で外来者を殲滅する部族の習慣だったのですから 何とも複雑な感じがします。

もし縄文人主流の「D2」が純系を保つために少数派の「C1」や「C3」との交配を拒んでいたら今の日本人は存在しなかったかもしれません。 スンダランドか東シナ海−黄海ランドが広大な土地だったため、棲み分けが可能だったからではないかと思います。

  歴史を見ると男子の侵入者はせん滅しますが、アマゾン等の他の先住民と同様近親婚による遺伝的障害から部族消滅を防ぐため 女子は他の近隣部族から新しい遺伝子を導入してきたようです。 こうして部族を維持してきたのです。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm


縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? 金沢大の研究グループがゲノム配列解読
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1531327113/


想定される日本人の祖先の移動ルート
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180711004656_comm.jpg

 約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。

 研究成果は11日、横浜市で開催中の国際分子生物進化学会で報告されたほか、6日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。

 覚張さんらの研究グループは、コペンハーゲン大学を中心とした国際研究チームと共同で調査。愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚で出土した縄文時代晩期の成人女性の人骨1体について全ゲノム解析を行った。日本のような温暖湿潤気候の地域では、人骨のDNAは劣化しやすく調査は難しいとされてきたが、最新の研究手法で縄文人の全ゲノム配列を初めて解読した。

 この結果を東南アジア各国の遺跡で出土した人骨25体や現代人のデータと比較すると、東南アジアの先史時代の人々は六つのグループに分類できることが判明。そのうちの約8千年前のラオスと、約4千年前のマレーシアの遺跡でみつかった人骨のグループのゲノム配列の一部が、伊川津貝塚の人骨と類似していた。

 日本人の祖先は、約4万年前以…

朝日新聞デジタル 2018年7月11日19時37分
https://www.asahi.com/articles/ASL7B5V8QL7BPTFC018.html


金沢大学プレスリリース:
最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


オンゲ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E6%97%8F

ジャラワ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%AF%E6%97%8F

ジャハイ族
https://en.wikipedia.org/wiki/Jahai_people


https://i.imgur.com/DMUIpO0.jpg
http://www.mohr-mcpherson.com/blog/wp-content/uploads/2015/07/9896889874_a000749cc7_b-1024x781.jpg


●数部族に分かれていますが、まぎれもない絶滅危惧部族です。

●Y-DNAの「D*」遺伝子を持つアンダマン諸島先住民は、50000年〜60000年前頃には
当時まだ陸続きの陸橋だったアンダマン諸島弧部分に住み着いたと考えているよ
うです。アボリジニの先祖Y-DNA 「C4」がオーストラリア亜大陸に到達した頃と同
じ古さです。もしかすると一緒に移動していた可能性もあります。

●彼らの、外来者をすべてを殺す習慣はオリジナルの「D」遺伝子や言語を見事に維
持し続けた、と考えられています。 アンダマン諸島先住民は縄文人の先祖の血を  守ってきてくれているのです....感謝!
出アフリカしたホモサピエンスの生きた化石なのです。日本人は彼らを大切に保  護しなくてはなりません。

●アンダマン諸島において、耕作は未知でした、そして、彼らは特有のブタを狩っ  たり、釣り、などで食生活し、集合して生活をしていました。

●唯一の兵器が、弓と、手斧と木製のもりでした。

●絶滅したタスマニアの先住民とアンダマン諸島先住民のみが19世紀に入っても火
を作る方法を全く知らなかった人々だったそうです、 木への落雷によって引き起  こされた炎から燃え残りを慎重に保存したそうです。

●ところがイギリス人の上陸で1867年のアンダマン諸島では、たくさんのOnge部族  民がイギリス人の海軍に殺されました。

●1940年代に、Jarawa部族は彼らの敵意のための日本軍によって爆撃されました。
日本軍は世界でチベット人と並ぶ唯2の縄文人の親戚民族であるアンダマン諸島  先住民を爆撃するという愚挙を行ったのです。大反省....です。

イギリスの最初の上陸時にはおよそ5,000人の先住民がいたそうですが、虐殺、 文明国が持ち込んだ病気、アルコール中毒、 インド亜大陸やビルマ(カレン族)か らの移住者などの影響で、1901年までには600人に減り、
1927年には100人の生存者 だけになったそうです。 1961年には19人に減りましたが、現在約50人に回復してい るそうです。

その間絶滅した部族はかなりあるそうです。アンダマン諸島の古代先 住民 Y-DNA「D*]が絶滅する前に、
同じ「D」の遺伝子を持つ日本人が彼らの調査を行 えるといいですね!

https://web.archive.org/web/20160223020324/http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm

http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/show_image/sanjuro.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/01/07/andamanese.jpg


『アンダマン島土人は地球上最小の人種なるべし。

二、三の人類学者は南アのブッシュ人、アメリカの掘食(デイガ)インディアン、フィジ島のテラ土人等をもって最小なりとなせども、

本島の土人は平均身長四フィート以下にして、成人者中にもはるかにこれに満たざるもの少なからず。

一度信をおくときは、きわめて厚き友情を示すことあるも、一般には残忍獰猛にして気むずかしく、馴致しがたき人種なり』

(延原謙訳)

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/66999919



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

11. 中川隆[-13773] koaQ7Jey 2018年12月12日 07:11:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22003] 報告

日本語は西日本の縄文人が使っていた、人類始原の言葉に近い古代語


奈良時代まで皇室で使われていた言葉は 8母音の百済語であり、百済語を縄文人・弥生人の 5母音の日本語に翻訳する為に 平仮名・片仮名が発明された

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない


  今朝の朝日新聞にまさしく日本学の研究者・マニアには衝撃的なニュースが小さく掲載されました。恐らく2012年の日本学最大のニュースの1つになるでしょう。

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The origin and evolution of word order

Murray Gell-Manna, Santa Fe Institute and Merritt Ruhlenb, Department of Anthropology, Stanford University
Contributed by Murray Gell-Mann, August 26, 2011

Abstract

Recent work in comparative linguistics suggests that all, or almost all, attested human languages may derive from a single earlier language. If that is so, then this language—like nearly all extant languages—most likely had a basic ordering of the subject (S), verb (V), and object (O) in a declarative sentence of the type “the man (S) killed (V) the bear (O).” When one compares the distribution of the existing structural types with the putative phylogenetic tree of human languages, four conclusions may be drawn. (i) The word order in the ancestral language was SOV. (ii) Except for cases of diffusion, the direction of syntactic change, when it occurs, has been for the most part SOV > SVO and, beyond that, SVO > VSO/VOS with a subsequent reversion to SVO occurring occasionally. Reversion to SOV occurs only through diffusion. (iii) Diffusion, although important, is not the dominant process in the evolution of word order. (iv) The two extremely rare word orders (OVS and OSV) derive directly from SOV.


Conclusion:

The distribution of word order types in the world’s languages, interpreted in terms of the putative phylogenetic tree of human languages, strongly supports the hypothesis that the original word order in the ancestral language was SOV. Furthermore, in the vast majority of known cases (excluding diffusion), the direction of change has been almost uniformly SOV > SVO and, beyond that, primarily SVO > VSO/VOS. There is also evidence that the two extremely rare word orders, OVS and OSV, derive directly from SOV.

These conclusions cast doubt on the hypothesis of Bickerton that human language originally organized itself in terms of SVO word order. According to Bickerton, “languages that did fail to adopt SVO must surely have died out when the strict-order languages achieved embedding and complex structure” (50). Arguments based on creole languages may be answered by pointing out that they are usually derived from SVO languages. If there ever was a competition between SVO and SOV for world supremacy, our data leave no doubt that it was the SOV group that won. However, we hasten to add that we know of no evidence that SOV, SVO, or any other word order confers any selective advantage in evolution. In any case, the supposedly “universal” character of SVO word order (51) is not supported by the data.

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  語順のルーツはSOVだと言うことがアメリカ科学アカデミー紀要(業界用語でPNAS=プロナス、当方の学生時代はProNASと呼んでいました)に発表されました。つまり日本語やチベット語などY-DNA「D」遺伝子集団の文法である語順、S(主語)・O(目的語)・V(述語)が欧米語等のSVOより古いことがわかり、しかもホモサピエンスの祖語だろう、との驚異的な言語学上の発見です。

  これは遺伝子の調査結果と完璧に合致します。我々古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D」は古代の出アフリカした当時のホモサピエンスの形態を留めていると言うのが欧米の研究者の結論です。特に「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族、Jarawa族は出アフリカ当時の形態をそのまま残していると信じられています。ならば当然言葉も出アフリカ当時のままのはずです。言葉は生き物でその時代のリーダーの決断で言葉は採用されるため、ドンドン変わります。そして征服者の人口が多く、経済力もあれば非征服者の言語はあっという間に征服者の言語に変わってしまいます。

  ところがOnge族や、Jarawa族は外来者を殲滅するという古代習慣を強く持っていたため、遺伝子を保ってきたわけですが、当然言葉も保ってきたはずです。と言うことが今回の発表で間接的に証明されたことになります。

  日本語は長い間孤立語として扱われてきましたが、とんでもない、縄文語から熟成したY-DNA「D2」日本語こそがY-DNA「D1」チベット語と並んで、出アフリカした当時のホモサピエンスの言葉(文法)を維持し続けてきた由緒正しい言葉だと言うことが正にアメリカの研究者によって証明されたのです。

  マレー・ゲルマン博士のチームの仕事ですが、なんとマレー・ゲルマン氏は言語学者ではなく、1969年「素粒子の分類と相互作用に関する発見と研究」でノーベル物理学賞を受賞した物理学者でクォークの提唱者の一人です。恐らく筋金入りの言語学者ではないことが柔軟な発想を生んだのでしょう。西欧優越主義の言語学者なら絶対に欧米語のSVOを祖語として主張すると思われるからです。何はともあれ縄文文化・時代を矮小化したい「O3」御用学者に取っては目障りな発表となりました。

  このことは当然ながら日本人の行動様式こそがホモサピエンスとして本来持っている行動様式であり、ガラパゴス的民族性こそがホモサピエンスの本来の行動様式である事が間接的に証明されたことにもなるはずです。

  そーなんです。やはり日本がガラパゴス化を捨てるのではなく、世界をJaponization(日本化)することこそが人類にとって正しいことなのです。日本人よ自信を持って世界に向かって発言しよう!スティーヴ・ジョブズごとき「R1b」御用商人の日本人に対する悪口・たわごと等クソくらえだ。そしてJaponizationで世界を導こう!

  このニュースの重大さは、何故日本列島人はY-DNA「D2」縄文人の文法を守り続けてきたのか?という点です。「D2」縄文人が圧倒的な文化を確立し、技術者集団だった「C1」、「C3a」縄文人が土器つくりなどで「D2」の精神風土を支え、後からボートピープルとして断続的に韓半島から水田稲作農耕技術を携えて流れてきた呉系長江人「O2b」の子孫も圧倒的な多数派の「D2」と敵対せず、その精神風土を受け入れたため言語の文法も縄文文法を受け入れたのでしょう。

  「O」は「R」などと同じ新興遺伝子集団です。既にSVO文法だったはずです。我々日本人は語順が変わってもそれほど奇異に感じず意味が通じるような適当にあいまいな言葉になっているのはこの「O」の人口と、文化がしっかりと根付いているためです。基本は縄文語ですが、呉系の長江語も漢語の語順でもその中間でも日本人は融通を利かせて理解してしまうように共存してきたからなのです。そして或る動作を強調したい時、我々は平気でSVOになるのです。なぜならSVOの方がキツく聞こえるからです。SOVの方が聞こえ方がやさしいのです。これが縄文の精神風土なのです。

  そして更に後から侵略者として韓半島から暫時流れてきた大和朝廷族や武士団族などのSVO文法の「O3」集団も朝廷内や官僚エスタブリッシュメント階級の中ではSVO漢語を話していたにも関わらず、全国をまとめるために縄文語文法を受け入れることにしたのだと思われます。そして縄文語に翻訳するために開発したのが「かな」、「カナ」なのでしょう。もしこれがなければ、縄文人は漢語を全く理解せず、日本の統一は相当遅れ、日本列島は文化レベルが立ち遅れ西欧列強の植民地化していた可能性が大です。当時の大和朝廷の上層部の誰かが縄文語を認め、縄文人に指示命令するために「かな」「カナ」の開発を命じたのでしょう。この人物こそ本当は歴史に名を残すべきなのでしょうが......。

  またこのニュースは、最近の研究で、人類の祖先は50000年前頃に突然洗練された道具を使ったり、絵画などの芸術活動を始めた、とも書いていますが、これは当たり前のことです。中東でネアンデルタール人と遭遇し交配し、彼らの文化を遺伝子とともに受け継いだけに過ぎません。もしかするとSVO文法はネアンデルタール人の文法だった可能性が実は大です。

  ホモサピエンスは本来SOV文法
  ホモネアンデルターレンシスはSVO文法だったのしょう。
  
  なかなかおもしろくなってきましたね。当ガラパゴス史観が歴史の真実に迫っていることが、少しづつ実証されつつあります。やはりデータマイニング手法はマーケティングだけでなく、古代日本学にも有効なようです。

http://galapagojp.exblog.jp/i29/  


  日本語の祖先はこれまで書いたようにY-DNA「D2」の話していた縄文語です。現在世界でY-DNA「D」語を祖先にしているのは、わかっている範囲ではチベット語と「D*」100%のアンダマン諸島のJarawa族とOnge族だけです。Y-DNA「D」72%の雲南のPumi族は未調査です。つまりY-DNA「D」語は孤立言語です。

遺伝子調査で初めて理解できたことです。しかもY-DNA「D」は人類が出アフリカを果たした際の形質を最も残していると欧米の研究者は述べています。ということは縄文語が最も古いホモサピエンスの言葉を残している可能性もあるのです。Jarawa族やOnge族、Pumi族の語彙を徹底的に追いかければ解明できそうですが、日本の御用学者ではない欧米の気鋭の言語学者が研究してくれるとありがたいですね!

  現代アイヌも日本列島人と同じY-DNA「D2」85%の「D」民族ですが、残念なことにオホーツク文化時代に侵略者だった古代ニヴフ族に征服され、熊祭りなどすっかり古代ニヴフ文化(古住シベリア民文化)に変貌してしまっています。言語も恐らく古代ニヴフ語に変わっているでしょう。

丹念に追えば語彙には「D」語の痕跡が残っているかもしれません。日本列島のように「D2」が圧倒的な人口多数派だったなら「D」語が残ったかもしれませんが、人口そのものが少なかった北海道では文化も言語も語彙も古代ニヴフ語に変わってしまっている可能性が大です。
http://galapagojp.exblog.jp/i31/

遺伝子調査から追う日本語の成り立ち考


  これまでもブログで断片的に触れてきましたが、遺伝子調査の結果だけでどこまで言及できるか、いささか冒険ですが日本語の成り立ちに迫ってみました。

日本語とは、

●ガラパゴス的民族性の基層である古代シーラカンス遺伝子の縄文倭人(文字通り小柄なネグリート)の話していた古代語の縄文語が基層です。特に縄文倭人の多数派のY-DNA「D2」の祖先の「D」が出アフリカ以来話していた言語が縄文語の祖形です。世界でこの縄文語の祖形を受け継いでいるのは日本以外では「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族とJarawa族、「D1」「D3」のチベット族のみです。他に近い言語は全く存在しません。このため日本語は古代語の形態のままの孤立言語なのです。もしかするとコイサン族やピグミー族の言語と同様にアフリカで話されていた古代言語の直接の子言語かもしれません。

●縄文語はこれに更に出アフリカ以来数万年行動を共にしたと考えられている土器製作などの技能集団でもあったと思われる沿岸漁労系Y-DNA「C1a」と大型獣ハンター系「C3a」の語彙が重なっている複合言語です。縄文語は日本列島でも石器時代以来少なくとも2万年近くは話され根付いた熟成された言語のはずです。もしかすると西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族の漁労採集の言葉に日本語に似た単語があるかもしれません。

●そこに最初の外来文化言語である長江文明系オーストロアジア古語(水田稲作農耕文化の言語)の弥生系語彙が追加され、弥生人Y-DNA「O2b」「O2a」「O1a」は「O3」に極東ユーラシア大陸を追い出されボートピープルとして満州−韓半島南部−北九州と逃げ、これ以上行く先のない日本列島で大多数の縄文人と仲良く共存・融和するために縄文語を受け入れ新しい文化である水田稲作農耕の語彙を上積みしたのです。弥生人が迅速に溶け込んだため、稲作農耕技術は青森まで以外に早く伝播したのでしょう。

  このオーストロアジア古語系「O2b」は呉音を持ち込んだようです。日本列島に越音が残っていないということは呉系の稲作農耕民が北方へ逃れ「O2b」になったようです。当方が以前予想していた百越系の残党=百残=百済は越音ではなく支配層の使っていた唐音を持ち込んだようです。一方陸稲系稲作農耕(O3」系)も縄文晩期頃に日本列島に入ってきたようなのですが語彙上の影響度はまだ全くわかっていません。

  一方、「O2b」の兄遺伝子の「O2a」が東南アジア-東インド-南インドと逃れ、現代ドラヴィダ人に14%以上の遺伝子頻度を残すぐらい交配し、ドラヴィダ語に水田稲作農耕文化の語彙を持ち込んだため、もともと同一だった稲作関連の語彙が日本語とドラヴィダ語(特にタミール語)で似ているのは当然です。またオーストロネシア語系の古単語も古日本語には見つかっているそうですが、それは当然「O1a」が話していたはずのオーストロネシア古語の持っていた語彙のはずです。

●ところが、紀元後になり中華王朝の膨張に伴い韓半島から続々と中華王朝辺縁部の黄河文明系「O3」集団がはじき出されて渡来・移住するようになりました、複数の戦闘集団が前後して列島に日向など各地に占領地を設け、最終的に縄文-弥生交配集団の中心地だった畿内を目指して侵攻し、ある集団が渡来集団同士の戦いを制して大和に占領軍の王朝を築くまでになりました。我が縄文-弥生遺伝子集団は下等な民として扱われたわけです。

  この占領軍のGHQは大和朝廷と称され奈良盆地に置かれ、支配階級は大和朝廷族となり漢語を日常語(母語)として読み書き話し、平安時代に最終的に百済系朝廷族が勝ち残りました。百済は一般民衆は呉音系のY-DNA「O2b」ですが支配階級は「O3」で唐音系だったようです。

  そしてこの2番目の外来語である漢語を母語とする大和朝廷族は先住民の縄文-弥生交配集団を支配・懐柔するため漢語から縄文語へ翻訳するためにかな・カナ文字を開発して読み下し、支配用の当時の古漢語の語彙を列島隅々まで浸透させ一気に列島の支配者にのし上がったのです。そしてできあがったのが正統性を主張し都合のよい経緯を書いた記紀です。こんなものは我々縄文-弥生交配遺伝子集団から見れば進駐軍のたわごと・絵空事に過ぎないのです。無視しましょう!

●一方、武士階級では、高句麗系武士団(坂東武者系)や新羅花郎系武士団(源氏系)など韓半島から渡ってきた武士団族も「O3」漢語派だったため、縄文語に武士団系の語彙がかなり取り込まれたはずです。武士団は地元に根を下ろし地元密着型になり力を蓄え大和朝廷族と覇権争いを繰り広げることになったわけです。

●しかし幕末の動乱期まで日本列島の中で全員が話した標準言語はまだなく、支配階級と一般民衆は同じ言語を話していたわけではありません。幕末から明治の動乱期に第三の外来語である明治新政府系の新作語彙や翻訳語彙や西欧諸国の語彙が洪水のように入り込み、縄文語の文法の上にどんどん上積みされ日本語の祖語に昇華・熟成されたのです。しかしこれでも日本語の完成ではありませんでした。明治の標準語とされたのは明治政府の教育を握った長州閥の山口弁でした。

●日本語が完成したのはほんの60年程度前の第二次大戦後です。あたらしい教育によって今我々が話している現代標準語になりやっと日本語になったのです。日本語の歴史は極めて新しいのです。それまで縄文語にオーストロアジア古語の弥生語語彙と漢語の語彙が上積みされた複合言語だったのです。話し手も階級によって分かれていました。

  以上、語彙は時代と共にどんどん新しい文化のものが追加され古いものは消えて行き、言葉遣いも同時に変化して行きますが、最も基層になっている文法は縄文語、それも古代遺伝子Y-DNA「D」の話していた古代語です。このため地理的に極めて近いはずの朝鮮半島も台湾も極東の諸民族も日本語とは全て言語体系が全く異なるのです。しかし日本語は古い外来語彙をどんどん取り込んできたため、今でも古語の語彙は似ているものも結構あるのです。
http://galapagojp.exblog.jp/i35/


日本列島の農耕を請け負ってきた長江文明の子孫は、農村という代表的な日本の原風景の一つの担い手として縄文語の文法の上に農耕文化関連の単語を大量に上乗せし、縄文語を豊かなものにしたのです。

日本列島の言葉を決してオーストロアジア語文法に代えることはしませんでした。なぜなら圧倒的に縄文人の人口の方が多かったからです。弥生人は自分たちのオーストロアジア語の文法を捨てて溶け込む道を選んだのです。
http://galapagojp.exblog.jp/i34/

大和朝廷族と武士団族は韓半島での勢力争いに敗れて、武力を持った武装勢力として日本列島に流れて侵略したのですが、狩猟用の戦闘力しか持たなかった縄文・弥生交配集団を武力で征服・支配し神話も乗っ取り、大和朝廷を現在にまで存続させるという奇跡を成し遂げたのです。
http://galapagojp.exblog.jp/16672971/


日本人のガラパゴス的民族性の核をなすのは、縄文系ではなく侵略者系のY-DNA「O3」です。

楽浪郡、帯方郡など中華王朝の出先機関が牛耳っていた韓半島での生存競争を勝ち抜くことができず、流れ者武装集団として日本列島に逃げ込んできた戦闘集団の中で最後に勝ち残ったのが大和朝廷族となり、敗れた集団はその他天神集団となったようです。

最後に勝ち残った百済系大和朝廷族の親衛隊からのし上がった戦闘要員の中から平氏が生まれ、高句麗から落ち伸びた戦闘集団の中から坂東武者が生まれ、新羅の落ち伸び花朗集団の中から源氏が生まれ、このような韓半島出自のY-DNA「O3」を中心とする武士団族が縄文-弥生交配集団が居住していた地方を制圧し力を蓄えていったようです。

日本列島はこうして韓半島発のY-DNA「O3」漢族出自の大和朝廷族と武士団族という侵略者達に征服されたのです。

そして漢語で読み書きをしていた少数派の征服者は大多数の縄文-弥生集団をコントロールするために漢語を読み下しできるように「かな・カナ」を開発し、縄文系と長江文明・呉・楚・弥生系の神話を盗み取り自分たちの神話に付け加え、大和朝廷族があたかも古代から日本列島を支配していたように神話を改ざんし記紀をでっち上げてきたのです。
http://galapagojp.exblog.jp/16831514/


記紀の神武東征に象徴されているように、漢語を話す漢族の端くれだった韓半島を追い出された大和朝廷族は(その頃の韓半島南部は弥生人と同じ呉系長江人のY-DNA「O2b」が民衆層を形成していたはずです)日本列島の恐らく九州に上陸し旧唐書が言うように「日本」なる小さな拠点を形成し侵略遠征を開始し、山陽道に既に割拠していた先陣の「O3」集団や縄文−弥生先住民土着集団を征服しながら大阪平野から奈良盆地を制圧し列島侵略に成功したのです。というより最後に勝ち残った「O3」集団が大和朝廷を名乗った、というのが正しいでしょう。

  記紀神話は、征服した先陣・先住集団の祖先伝承の都合の良い部分を取り込み創りあげたものです。そして確立した大和朝廷は漢語の支配する漢族の官僚が運営する政府でした。その後の日本列島はこの漢族朝廷と漢族官僚が文字通り牛耳ってきた中国化というより漢化されつつあった土地だったのです。

  日本人が漢族大和朝廷支配のもと漢民族に同化しなかった理由は1万年以上に渡る縄文時代とその後の弥生時代で日本列島が人口も含め完全に縄文・長江混成文化の風土が確立していたからです。漢族側が、人口的に大勢であった日本語の文法であるY-DNA「D2」の縄文語に合わせかなやカナを開発したように漢族側が歩み寄ったことが、日本人が漢民族化しなかった理由でしょう。何故歩み寄ったのかは今後の調査が必要です。
http://galapagojp.exblog.jp/15362496/


今や世界最大の遺伝子集団となったY-DNA「O3」抜きに日本民族は語れません。何かの本に和泉式部日記の時代の大和朝廷族は読み書きを含め漢語を話していた、完全な漢文化民族だったと、確か女性の研究者だと思いましたが、ハッキリと書いていました。その通りだと思います。

いづれにせよ王族と宮廷官僚たちは明らかに「O3」と思われます。新羅に敗れた後、「O3」ボートピープルが日本列島に押しかけ好戦的な「O3」は縄文−弥生交配集団と闘いながら最終的に大和朝廷を興したのでしょう。

蘇我一族は蘇我蝦夷の名前が占めすように縄文ー弥生系の土着集団だったのではないだろうか。当時奈良という土地の支配者だった縄文ー弥生系が「O3」に負けた歴史を書いたのが占領軍が書いた日本書紀です。縄文ー弥生の子孫を自認する小生から見ると、大和朝廷族は異遺伝子集団の占領軍に過ぎないのです。宮中独特の言葉と言うのはその時代の漢語の名残に他ならないのでしょう。
http://galapagojp.exblog.jp/15270404/

漢人(「O3」族)の言葉は八母音、縄文ー弥生系の言葉は五母音だった

韓国語と日本語はどちらもウラル・アルタイ・ツングース語族に属し、非常によく似ています。 弥生時代以後の本土日本民族(主として九州・四国・本州に住む日本人を指します)が、東南アジア起源の南方系モンゴロイドと、中国大陸および朝鮮半島起源の北方系モンゴロイドの混血であることは考古学にも生物学的にも証明されつつあります。 そして生物学的には南方系モンゴロイド1〜2割に対して、北方系モンゴロイド9〜8割程度の混血だと言われています。 南方系モンゴロイドの血が濃い日本人の典型としては俳優の緒方拳を、北方系モンゴロイドの血が濃い日本人の典型としては俳優の中井貴一を思い浮かべていただければ、何となく両者の特徴を把握できると思います。

また弥生時代以後も朝鮮半島から絶え間なく渡来人がやって来て、古代日本の歴史と文化に多大な影響を与えました。 このことから、古代日本語が古代朝鮮語の影響を強く受けていることは至極当然だと思われます。 例えば「万葉集」の表記法として有名な万葉仮名は、日本の国文学者によれば日本独自のものだとされ、教科書でもそのように説明されています。 しかし実際には、古代の朝鮮にも「吏読(イドゥ)」と呼ばれる万葉仮名方式の表記法──古代朝鮮語を漢字の音読みと訓読みの音だけを使って表記したもの──がありました。 年代的にみて、古代日本の万葉仮名はこの吏読を真似したものと思われます。

万葉仮名では同じ「イ」「エ」「オ」という母音を持つ音が2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記されています。 このため現代の言語学者や国文学者は、多い方を「甲類」、少ない方を「乙類」と呼び、その区別について色々と議論しています。

ある学者は古代の日本には現在の5つの母音「アイウエオ」以外に、さらに3つの母音「イエオ」があったのではないかと主張し、別の学者はそれらの母音は条件異音――前後の音環境によって同じ音が異なる音声として表れる現象――を異なる漢字で表記したものだろうと主張し、また別の学者は文法的な使用法の違いによるものだろうと主張しています。

この一見難解で高度に学問的に思える議論は、韓国語のフィルターを通して眺めますとあっけないほど簡単に答が得られます。 現在の韓国語には10種類の単母音と11種類の複合母音(2種類以上の母音が合成されてできた母音)があり、古代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われています。 古代朝鮮語の影響を強く受けていた古代日本語にも、同じように現在よりも多くの母音があったと思われます。 このことを踏まえ、母音と発声法の関係を図示しますと次のようになります。


※口を大きく開くほど前母音と後母音が
中母音に近づき、区別がしにくくなります。

(1)普通のイ、発音記号で表すと「i」。

日本語の「イ(万葉仮名・甲類のイ)」、韓国語の「イ」、英語の「i(sitのi)」

(2)イとウの中間音、発音記号で表すとmのひっくり返った記号。

古代日本語の「イ(万葉仮名・乙類のイ)」、韓国語の「ウ」。

(3)普通のウ、発音記号で表すと「u」。

日本語の「ウ」、韓国語の「ウ」、英語の「oo(bookのoo)」。

(4)普通のエ、発音記号で表すと「e」。

日本語の「エ(万葉仮名・甲類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「e(getのe)」。

(5)口を半開きにした「ア」、発音記号で表すとeがひっくり返ったもの。

韓国語に少し前まで存在した「ア」、英語の「a(agoのa)」。

(6)普通のオ、発音記号で表すと「o」。

日本語の「オ(万葉仮名・甲類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(omitのo)」

(7)エとアの中間音、発音記号で表すと「ε」。

古代日本語の「エ(万葉仮名・乙類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「a(maryのa)」。

(8)口を大きく開けたアに近いオ、発音記号で表すとcのひっくり返った記号。

古代日本語の「オ(万葉仮名・乙類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(stopのo)」。

(9)普通のア、発音記号で表すと「a」。

日本語の「ア」、韓国語の「ア」、英語の「a(calmのa)」。

つまり古代の日本語には、「アイウエオ」以外に、ウに近い「イ」、アに近い「エ」、アに近い「オ」の3つの中間音的な母音、つまり乙類の母音があったと考えられ、これらの母音は韓国語には現在も存在するのです。 漢字の韓国語読みではこれらの母音ははっきりと区別して使用されていますので、漢字を知っている韓国人が万葉集を読みますと、日本の専門の学者でなければ区別できない甲類と乙類をごく簡単に自然に区別することができるということです。

古代の日本語に存在した3つの母音が時代が経つにつれて消滅し、現在の5つの母音が残った理由はある程度想像がつきます。 本土日本人は元々南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの混血であり、当時の日本列島は現在のアメリカのような移民の多い土地でしたから、色々な言語や方言が混在していたはずです。 そして中間音的な母音は色々な言語や方言によって発音が微妙に違いますので、それらの母音は次第に明確な発音の母音に収斂していったと考えられます。

つまり乙類の「イエオ」は普通の「イエオ」に収斂したと考えられます。 このことは前述の母音と発声法の関係図を見ますと納得できると思います。 図からわかりますように、現在の日本語の5つの母音「アイウエオ」は、発音上、非常に区別しやすい音なのです。 現在でも、各地の方言や神社などで使用される特殊な言葉に中間音的な母音が残されていますが、これは古代の名残だと考えられます。

ただし万葉仮名では区別されていたこれらの母音が、奈良時代後期から平安時代になって漢字と仮名で日本語を表記するようになると、表記上は区別されなくなります。 いくら母音が収斂したとしても、わずか50年ほどで母音が完全になくなるわけはないので、これは大きな謎です。

この謎は、それらの中間音的な母音は実は条件異音に収斂していたため、それを話している日本人はそれらの母音を区別していなかったと考えれば解決します。 つまり万葉仮名は朝鮮からの渡来人が吏読を参考にして編み出した表記法であり、奈良時代後期から平安時代になって、ようやく日本人が仮名を発明して自らの言葉を表記する方法を編み出したという説です。

万葉仮名が朝鮮からの渡来人によって書かれたのなら、条件異音を区別することができた彼等が母音を書き分けていたことも、万葉仮名で書かれた文章の中に古代朝鮮語と思われる言葉があることも納得できますし、日本人が書いた漢字仮名混じりの表記法ではそれらの母音が区別されていないことも納得できます。

飛鳥時代から奈良時代の文化の担い手は渡来人が中心だったことを考えると、朝鮮渡来人が日本語を表記するために万葉仮名を発明したことは十分に考えられます。 これはちょうど、幕末にイギリス人のジェームス・カーティス・ヘボンが、日本語を表記するためにヘボン式ローマ字を発明したのと同じような工夫だったのでしょう。
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon01.html


「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  

≪日本語の起源の古さ≫

 日本列島と韓半島の歴史を比べてみて、際立って目立つのは、日本では7世紀の建国直後から国語が発達しているのに、韓半島では、やはり7世紀の新羅の統一からはるかに遅れて、やっと15世紀になって韓国語(朝鮮語)が国語として正式の地位を認められたことです。それまでの新羅朝、高麗朝の時代には、公用語は土着の言葉ではなく、中国語・漢文でした。漢文を日本のように返り点をつけて訓読するのでなく、そのまま漢文を上から下へ、韓国式の漢字音で音読するのです。韓国語が本格的に発達するのは、日本に比べると800年も遅れました。

 日本語は不思議な言語です。近ごろの有力な学説では、日本語の語彙はオーストロネシア系(マダガスカル島から台湾・東南アジア、南太平洋の島々に拡がっている言語)であるとされています。また、日本語の統辞法はアルタイ系の言語(トルコ語・モンゴル語・満州語など)と共通な要素があるとされています。日本語は奇妙な混合語だということになります


≪日本語は人造語≫

 どこの国においても、国語というものは、天然自然に存在するものではなく、建国に際して人工的に作りだされるものである。これが歴史の法則で、日本語も例外ではない。

 7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


≪「万葉集」に見る国語開発≫

 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。


≪散文は未発達≫

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


≪日本型の歴史は反中国≫

 日本の歴史は、720年に完成した「日本書記」に始まる。倭人たちが7世紀に突然、目覚めて、日本人となったのは、中国の脅威に対する自己防衛の必要からである。

 いずれの文明でも、最初に書かれた歴史の枠組みが、人間の意識を規定してしまう。「日本書紀」の表現する日本は、中国と対立する。まったく独自の正統を天からうけついだ国家であるという思想は、長く日本の性格を規定した。
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html

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アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書) – 2016/2/8
瀬川 拓郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87-%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%80%AC%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E9%83%8E/dp/4480068732


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
 

日本人や日本文化が世界で最近、注目されている。

理由や現象は敢えて並べないが、一言で表せば思考方法や行動、言語等が人類の本源的、源流的であるという点。裏返せば独自的、孤立的、世界中に広がった他の地域、人類との類似が少ないという点ではないだろうか。

最近の研究で言語学的にも遺伝子的にもそれは証明されてきており、人種の孤島として縄文人、アイヌ人の事を書いた著書の一説を紹介したい。


「アイヌと縄文」〜瀬川拓郎著

>「人種の孤島」としての縄文とアイヌ

本土人、琉球人、アイヌの遺伝的多様性の分布を見ると、それらは他の東アジア人や、ヨーロッパ人と混血した中央アジアの人々(ウイグル人、ヤクート人)のまとまりとは反対の方向に分布しています。

 現代の本土人、琉球人、アイヌは直線状にならび、この順でアジアの人々から離れていきます。直線の延長上にはかれらの共通祖先である縄文人が想定できます。つまり本土人、琉球人、アイヌのDNAを特異な方向に「引っ張って」いるのは縄文人であり、そのことは縄文人が現代のどの人類集団とも大きく異なる特徴を持っていたことを物語っているのです。

縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように嚙み合い、彫が深く、鼻が高いといった形質的な特徴をもっていました。これはアイヌにも共通します。

そのアイヌは形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、1960年代に総合調査が行われ、歯冠の形などから本土と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論付けらました。

ただし、先のアイヌの特徴は一般的なモンゴロイドとは異なるものです。一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです。

つまり、私たちが常識のようにみなしているアイヌ=モンゴロイド説は学界で完全に受け入れられているわけではありません。形質人類学者の百々幸雄はアイヌがどの人類集団とも異なる、現生人類という大海に浮かぶ「人類の孤島」であるとし、アイヌと縄文人は「出アフリカ」をはたした現世人類が、ヨーロッパ人とアジア人に分化する以前の状態を保っているのではないかと述べています。(百々2007年)

このこととかかわって興味深いのは、同学者の山口敏が旧人のネアンデルタール人のあとに出現した、化石現生人類のクロマニョン人と縄文人の類似性を指摘し、縄文人の形態的特徴は、現生人類のなかの古層に属すると見なされている事です。

 日本列島の縄文人は北海道から沖縄まで形質的な共通性をみせています。かれらは地域性がはっきり認められず、均質な形態をもつ人々でした。つまり縄文時代の日本列島には、アイヌにうかがわれるような「モンゴロイド離れ」した人々が暮らしていたのです。

1万年以上続いた縄文時代には、日本列島をとりまく朝鮮半島、中国、台湾、サハリンとの交流はほとんどありませんでした。そのため縄文人のヒトとしての特異性はかなり純粋に保たれてきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

同様に言語学でも日本語、アイヌ語は世界中の言語から孤立している。


>日本列島を含むユーラシア大陸では2500以上の言語が話されています。ただし、同系関係を辿っていくと、これらのほとんどはアルタイ系言語、シナ・チベット系言語、インド・ヨーロッパ系言語のようなわずか10あまりの大きな「語族」にまとめられます。

その中で同系関係がたどれず系統的に孤立していた言語はわずかに9つにすぎません。さらにその約半数が日本列島の周辺に集中している。日本語、アイヌ語、朝鮮語、サハリン先住民のニブフ語です。

これ以外はピレネー山中のバスク語、西シベリアのケット語、インド中部のニハーリー語、東ヒマラヤのクスンダ語でいずれも人里から離れた辺境地帯の言語である点が共通しています。

言語学者の松本克己はこのうち日本列島周辺に集中する日本語、アイヌ語、朝鮮語はかなり旧い時代につながっていたと述べています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=312916

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京都を中心に近畿地方の人達は平均的な日本人のデーターと全く違う数値を示します。

100%朝鮮からの渡来人の特徴を示すそうです。


京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。
http://www.ishikari-...cs/2013/10/10-7.html

はい縄文時代の西日本はスッカスカ
http://web.joumon.jp...5%AF%86%E5%BA%A6.gif

ここでもスッカスカ
http://ichigen-san.c...2014/07/15/photo.jpg

弥生期に渡来人が増えるまでスッカスカ
http://homepage2.nif...nin/jinkoubunpu1.jpg


日本語は百済語と近接しているという説は多い。

ブログ「日本語と韓国語は同系語」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-3a69-1.html


という中から信憑性のある部分を紹介します。

>飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。

「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。

『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80〜90%は朝鮮人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。


※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

※ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)


司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。

故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。

従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上抜粋ーーーーー

これらを読むに付け、日本の宮廷、天皇、王朝を語る際に「百済」という朝鮮半島から消えてなくなった国家が大きく影響している事が判る。

それを日本土着のものに取り戻すのに鎌倉時代までの400年かかっている。
しかし再び明治以降、この百済の復興が天皇を担ぎ上げる事によって為された。

百済王朝が日本に亡命してまだ1300年しか経っていない。

この影響は日本語という言葉の中に浸透しただけでなく日本人の気質や一つに成り切れない民族の核心部にまだ残っているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314004

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【言語の進化】8.1.5万年前〜1万年前頃の抱合語
 
アイヌやエスキモーやインディアンは、現在でも、一つの文言を一語で表す抱合語を使っているが、それら隔絶された地域に残された抱合語は、人類が洞窟から出た後の原初的な言語の形を現在に伝えていると考えられる。
 
エスキモー語の例
qayar−pa−li−yug−a−qa(カヤック−大きい−作る−たい−私−お前)
           「私はお前に大きなカヤックを作ってやりたい」


アイヌ語の例
a−e−kore(私−お前−与える)「私はお前に与える」※「て・に・を・は」
                          がない一語。

a−e−ipe−p(我々−それ−食事する−物)「食器」


 
アイヌ語では、主句・対象句・述句という語順規則が見られるが、エスキモー語の場合、語順規則も明確ではなく、その瞬間瞬間に最も言いたい言葉を順に並べただけのように見える。

おそらく、より隔絶度の高いエスキモー語の方が古い言語だと考えられ、洞窟を出た原初の言語は、エスキモー語に近い、「て・に・を・は」はもちろん、語順規則さえ明確には定まっていない(言いたい単語を言いたい順に並べただけの)一言だったのだろう。

つまり、1.5万年前の人類の言語は、エスキモー語のように、語順規則もさだまっていなかったと考えられ、1万年前頃に、ようやくアイヌ語に見られるようにS・O・Vの語順規則ができたと推定される。

(なお、アイヌはユーカラという長大な伝承物語を持っているが、部族の物語を伝える程度の文言ならば、て・に・を・は(関係詞)無しでも用は足りたという点は、注目すべきだろう。又、アイヌ語は縄文語から枝分かれしたと見られており、そうだとすれば縄文語も原初は抱合語であったことになる。この点も、興味深いところである。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314835

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 7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。
方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。

それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


【出典】「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html


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日本語は縄文由来
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/03/3176.html

日本語は言語学的にも独立言語でありほぼ人類最古の方の言語に類する。

この日本語がほぼ一貫して変わることなく縄文ー弥生―現在へと引き継がれてきた。

母音を言語脳(左脳)で聞き分ける日本語は擬態語(ザーザー、しとしと等)が多い。そして日本語以外のほとんどの地域の言語が音声を左脳と右脳で使い分けるのに対して全ての音を左脳でとりいれる日本人は特徴的でもあり、それ故に自然の音を細かく聴き分けることができる。これが日本人特有の同化能力の基盤となり、自然に向けた同化能力を使って、現在でも人や社会に視座を向けることが可能な民族として存在している。


★自然の音を左脳で取り入れる日本人、その特徴を明らかにしたのが角田教授である。
⇒やっぱり、『日本語』はすごい言語のようです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=222237


★日本語研究は進んでいるが、結局今判っているのは日本語はどの系統にも属さない独立言語であるという事のようだ。

アルタイ語起源説やタミル語起源説、朝鮮古語起源説などがあるが、部分的に類似しているというだけで母音言語であり膠着語である日本語を定義つけるとしたら人類古語が起源であり、それを今も脈々と残しているのは日本と世界中の辺境の小部族だけという事になる。

学説で解明できないのは日本語がどこからの由来かという視点で見ているからなのだろう。


⇒日本語の起源研究の状況
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=184840

⇒日本語の起源をアルタイ語とするのは誤りではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=242652


★日本語がなぜすばらしい言語なのか 黒川伊保子氏の著書を読めばストレートに伝わってくる。


日本語はなぜ美しいのか (集英社新書) – 2007/1 黒川 伊保子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%BB%92%E5%B7%9D-%E4%BC%8A%E4%BF%9D%E5%AD%90/dp/4087203743


黒川氏が語る日本語の特徴を要約すると以下のようになる。


@ 日本語を含めて「言語」には、共認機能や観念機能の構造との密接な関係があるはずで、これを追求することには、大きな可能性があると思われる。発音体感と対象(実態)の一致は、日本語に顕著であり、日本語こそが「始原の言語」、太古よりこの土地で育まれた言語であると述べられている。

A 母音語の使い手は、自然とも融和する。
母音を言語脳で聴き取り、身体感覚に結び付けている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。いわば自然は、私たちの脳に”語りかけて”くるのである。

B 何千年も続く、豊かな自然が、私たちに、融和する母音語をもたらした。
一方で、融和して共存する日本人の特性は、日本語という母音言語がもたらしているとも考えられる。なぜなら、DNA上日本人とまったく無関係でも、日本語を母語として育つと、母音を左脳で聞くようになることが確認されているからだ。環境は言語を作り、言語は人を作るのである。

C 子音言語に比べ圧倒的に長い歴史を持つのが母音言語で、その原型を現在まで引き継いでいるのが日本語と言えるかもしれない。自然に同化し、調和する日本語とはこれからの共認時代に相応しい、時を得た言語なのではないだろうか。

黒川氏の著書の記事を集約しています。参考に一読いただければと思います。

⇒始原の言語・日本語の可能性〜むすび
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/09/001437.html

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萬葉集と風土記に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布
アレキサンダー・ヴォヴィン 国際日本文化研究センター, 2009.3.12.
http://publications.nichibun.ac.jp/ja/item/foru/2009-03-12/pub

アイヌ語と日本語との関係は非常に複雑であると思う。近年、上村幸雄氏はアイヌ語と
日本語が同源要素を持つ可能性について多数論文をお書きになり上(村80PPOOωP
POOωFPOOメPOO。。)、大変勉強になった。私も以前は諸言語の関係を同源説の観点から研
究していたが、ここ八年間に私の研究の焦点は日本列島諸言語とその周辺の諸言語の接点
に移り変わったので、今回は主にアイヌ語から日本語への借用語とそれに基づいた上代口n
本列島におけるアイヌ語の分布について発表させて頂くつもりである。
現在通説となっている伝統的な意見は、上代日本語にはアイヌ語からの借用語は殆どな
、というものである。たとえば佐伯梅友氏は、上代中央日本語に見られる冨巳冨〜冨巳日冨
「桜の皮」のみをアイヌ語の冨旨冨「山桜の皮」の借用語として挙られた佐(伯ピいPωP。)
しかし、以下で示すように、冨巳冨〜ξ巳目冨「桜の皮」のみが唯一の例ではない。
アイヌ語が上代日本列島において少なくとも東北地方の全地域で話されていたというこ
とはもう定説になったと言ってもいいであろう。地名はいうまでもなく、東北の方言には 「山の言葉」として残っているアイヌ語の言葉もある金(田一POO命宝Oーミ)。また、関
東の古い地名を見ると、「武蔵」元(来万葉仮名音声表記「牟射志」\日信N婁.\)、「阿之賀利」
\琶、冨ミなどは日本語の地名ではなく、アイヌ語であると解釈できる。
1
〈地名一関東〉
「牟射志」\85N.9・。く「武蔵」
たとえば、「牟射志」\目⊆N.9・。ぐは東国歌に出る。
萬一四二壬二七九武(蔵国の歌)
和我世故乎安杼可母伊波武牟射志野乃宇家良我波奈乃登吉奈伎母能乎
わがせこをあどかもいはむむざしののうけらがはなのときなきものを
我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを
2
「牟射志」く目`N9.。。ぐは蕾目き。。。。一に遡る。梼日巷旨巴は日本語としての解釈は困難だが、
アイヌ語では完全に意味が通る。アイヌ語目自「草」服(部一〇ひ井6ひ)、夥「濱」知(里ちいひ親  
=ω)、「野原」】(W9一〇げ0一〇円一〇Pひ日N甼Oり)、自三人称所有接尾辞(日本語では臣-は。・-一になる。
後述の上代東国日本語の言葉である「思太〜之太」葭量.\「時」〈アイヌ語ぼ$も参照)。
従って、武蔵は「牟射志」\目N`9.。。ぐく蒡目巷。・色く梼日き。。甲ぼ「草の野原」であろう。武
蔵は東京に変わる以前は、日本で一番大きい草の野原だったにちがいない。
「阿之賀利」\9巴、 Qσ巴\「足柄」
あしがら 次に「足柄」を見てみよう。「阿之賀利」\琶q、僧αユ\または「安思我良」\婁q。輿σ9\という
地名も東国歌に出てくる。
萬一四・三四三一相(模国の歌)
阿之我里乃安伎奈乃夜麻尓比古布祢乃斯利比可志母與許己波故賀多尓
あしがりのあきなのやまにひごふねのしりひかしもよここばこがたに
足柄の安伎奈の山に引こ舟の後引かしもよここば来がたに
萬一四・三三六三相(模の国の歌)
和我世古乎夜麻登敝夜利弖麻都之太須安思我良夜麻乃須疑乃木能末可
わがせこをやまとへやりてまつしだすあしがらやまのすぎのこのまか
我が背子を大和へ遣りて待つ時す足柄山の杉の木の問か
一3
阿之賀利\量。q巴σ\または安思我良\9巴、。。9逗には後世「足柄」という漢字が当てられた
としても、地名として余り意味が通じないだろう。安思我良\琶。 q碧oミは阿之賀利\蟲、q豊σ\
より頻繁に現れるが、この音声上の違いは\婁. q9ユo\〉\琶。。σ鐔ミの音声同化の結果であろ
う。ところで、阿之賀利\9巴. q9ミσは北海道にある「石狩川」の一・。貯9ユ一[。。一q卑σ二]を連想させ
はしないだろうか。アイヌ語の。・貯9ユの[督9邑は。。貯・二。。[お9包「川の中の水の回流する所」
または罕冨ユ「迂回する、回る、回流する」として解釈される傾向がある知(里おいひ親一PO)。
アイヌ語の冨ユは「回る、徘徊する」という意味を持っている菅(野POOD…PON)。しかし、冨二
は説明がつくとしても、残りの部分の9。。学は説明が困難である。アイヌ語には一人称の複
数の包括接頭語kがあるが、その甲は他動詞にしか付かない。色-はアイヌ語の。・学「自
分」と解釈する可能性もあるが、私の意見では、そのような解釈は信憑性が低い。では、
もう一つの可能性を考えてみよう。アイヌ語の千歳方言、沙流方言と旭川方言には訝冨巨。
「きれい、清潔な、清い」という言葉がある中(川一〇〇い"ひ)、(田村一遷9P。。)、菅(野PO8…一い)、
太(田POOい"一〇)。アイヌ語では8--子音群はいつも目--に変化するため知(里6いひげ"
一$も一)、中(川・中本一ゆ旨二い)、アイヌ祖語では梼ーヨーを再構しなければならないZ>目9ぐ土(佐風逸四九九・九)或いは「大穴持」\O噌O>Z>
目αミ(出雲風一〇二"五、一〇六"一〇・一二、一〇八"二・一二、一一〇"一、一二
六"四・七、一六六二二、エハ八"六、一八○"八・一二、一八二二、一九〇二四、
二〇二二・八・一〇、二〇四二・三、二〇人"四、二一六二・五、二二〇二、二
二四二四、二二六"二・六、二三六"五・七・九、二一二八"九、二四二…五、伊豫風逸
四九五"六)、『萬葉集』では於保奈牟知\o℃o蠧日三ぐ萬(一人.四一〇六)、そして『目
41 本書紀』では於褒婀娜武智\名。き9巨昌ぐ紀(一・一四)と表記されているので、『古事記』
の「大穴牟遅」も静O勺O諺Z>巨目象.ではなく、\O噌○諺Z>目二↓ぐと読まねばならない。そ
して、万葉仮名の「遲」は鼻音有声子音がある\鞋.の音節のみならず、無声子音がある
註\の音節も表す事ができる。
従って、『肥前風土記』の「比遲波」を\冨象.嚏\ではなく\℃↓ξ9\と読む可能性もある
わけである。『肥前風土記』の言↓喜ミ「岸」という言葉は、他の上代日本語文献にも、中
古日本語文献にも、現代日本方言にも見られない。しかし、アイヌ語には葱号9〜冨8「岸」
という言葉がある。たとえば、幌別方言℃σ号9、帯広方言忌89、美幌方言℃。89「岸」服(
51 部6ひ命Pま)、旭川方言冨言笹「岸」(一位=一DQ=NOO斜"Pいひ)、釧路方言℃。89「岸、川岸」(山
本POO舒一遷)、樺太方言篦8蕁「寄せ波が砕ける海岸の部分」】()。訂9≧ゆ。。9・一を.ξぎ8喜-皀。ゴ巴・・二@婁・・貫弖8霞く。琶ω..牢@ω婁畧8・α冨・・二冨 ⊂巳く・『・・芽亀匡署曁gζ畧8こお=蕗80。唱畧8@巨ゴ@。・α鎚。Q@邑羮 . 。。§談βぴ8三§げ・寄.自。・…。牾§。】-〈。蔘白它唇賽自く。≦・互・菖。旨罠】〈。掃・・.畧.臼驀…巨g 罍巨・§ぎ邑08貯@・88=ぎ旨巴詈 q・α一眷・×Hδ×9づ似奠POOいP=月げ0団ロ血Oh爵0>冒巴OOO巨δδ×9p傷9POOいげ・匡b題ミ鷽瓢菴Q嵩翫60ミミ無、ミ〜蒸Q、無ミミ匙丶◎丶ミ窃、ミ謡Oミξ窺嵩驚鼬・℃9巨一日きko§6赴oき
ミYミ嵩qσ匂ミ恥ミ亀ミ翫、隷oミo丶o堕℃卜爰皆o鐸〉δミ旨亀壁×一×+とP℃づ・"聞o貯o。。8昌Φ"O一〇げ亀O賦@巨巴・
δ×p口血qPOO◎Q9」一℃δδ-f℃o巳oσ@koロユ一げ09000巨。。k。。8目=.ぎ…、、ミo毒ミ謡軸器、腎向ミ題亀ミ翫℃、o竜象聲
厘曽時oi@=o。。≦qαLo『p≦巨酔日き(9。。)●●〉日・。8a9ヨこ卑5ゆo彑9目言ω…P8。0Ψb歹玉でいひ・
5×きα2NO。OGげ(8§8巨昌q)σ●鼠b題ミ鷽嵐蕊匙嵩亀Oo耄ミミ丶菴Qミミミミ£丶ミ鮮向紺ミOミ書亀ミ吻馬丶ミ、
9惹§§℃譚蚤退§・穿為ミ§§蕩`ミミ・・`毳§・ミ§・×××+。。。。。bb`。器・・喜ρo喜巴9ぎ件鉾

1北海道教育大学旭川校の井筒勝信先生はアイヌ語への翻訳をしてくださつた。感謝申し上げる。
2標準語でも\げぐはよく強\と発音される。たとえば、≧δ\「人」〉[簿o]。その音声変化は多くの
日本方言だけでなく、韓国語の方言にもツングース諸言語にもよく見られる。また、上代日本語には
\ミという音素がなかったことも忘れてはならない。
3ところで、この反映は母音の間に出る上代日本語の無声破裂音\b\uミΨミは有声破裂音[げ尸[色"q][α
として発音されたという=9日き。と昌q9oの仮説(}山卑【P9コOPOOO)、(C昌qgoPOO伊POOい)に対するもう一 つの版袵鬣 す娩田濯絡輜勤仮説への他の反証についてく。<一昌巴(Oいσ"ωSω。。)を参照. 4『源平盛衰記』は『源平盛衰記』とも知られている。
5アイヌ語o冒≦吋三卑「はこべ」は」U讐9@δ円の辞典にもo巻ロ冠蠧として記録されてある(一〇Pひ"ωいい)
ので、一九世紀の北海道方言にもあったらしい。
6この伝説をインターネットで探し出してくれた妻の石崎(ヴオヴィン)賛美に感謝を表す。
一53一
7『萬葉集』の第十四巻末に防人歌が十二首も集められてあるが、その内には思太〜之太\ωぎ量\「時」
という言葉は見られない。
8あはのへ\巷 -き19-誘\「逢わなかったりする」に見られる上代東国日本語のーoは(甲類の-罵とし て書かれている)上代東国日本語の特別な連体形であるらしい。後に引用した萬二〇・四四〇七のこ
え爵身-。\も参照。西洋の言語学者の大部分は上代以前日本語(蔑¢6匡旨巷き@ωo)の連体形が元来甲類
の\O\であったと信じている(国巴8≦ q"o。。2農β鬢『一巨きとの個人的だ話し合いによる)。上代東国 日本語では連体形は甲類のδ\とも乙類の\o\とも書かれているが、上代東国日本語では甲類のδ\と
乙類の\α\の区別が消滅したため、そのような混合した書かれ方も納得できる。私の意見では、連体
形は甲類のδ\より乙類の\α\であった可能性が高いと思う。その一つの証拠として、上代中央日本語
の繋辞の昌-の連体形は〒αであることが挙げられる。上に言及した上代東国日本語に現れる -oの連 体形はもう一つの証拠であるとも考えられる。少なくとも、上代東国日本語の\@\と上代中央日本語
の\α\の間に何か密接な関係があったらしい事は確かであろう。たとえば、上代中央日本語の叶欝曾α
「心」と上代東国日本語の冨犀臼o(古今集二〇・一〇九七)を参照。
9『肥前風土記歌謡』の引用は(秋本6い。。)による。しかし、『肥前風土記歌謡』の番号は(土橋一〇い刈)
による。そして、万葉仮名の「素」は上代日本語には\Z。。α\ではなく、\のひ\であるから、仮名の書き
下しには秋本の「ぞ」を「そ」に変えた。
01『肥前風土記』の引用は(秋本一りい。。)による。
11この歌の「遲」は≧\である理由については高木氏などの意見も参照(高木など這いSひPω黯)。
21ただしζ霞。自●ζ蔓艮@が指摘したように、森(一〇〇一)のα\β区別は理解が困難である(80ω勲雪-ひO)。
31『日本書紀歌謡』の引用は(土橋6い刈)による。
41『日本書紀』の引用は(黒板勝美這ひひ)による。
54
51旭川方言の冨89目「岸」はく梼b♀の馨から発展した形なので(太田N8い…一い。。)、需8騨には関係がな
い。
61冒鋳ロはぎ艮「歯」の所属形巨艮二-であろう。千島(鳥居竜蔵資料)巨9『ぎ騨巨「歯」(服部這ひ命ひ)
参照。
η前にはぜ§臣として再構した<(。<巨澤塞い)雪が、今はぜ睫よりはゴーの再構は自然だと
思う。
81例外は・。o目。が助動詞匡「する」で伴う場合に、。。。日。匹が主動詞の後に出る。

注記本書のタイトルは日文研フォーラム第二一五回の原題「萬葉集に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布」を改題したものである。
http://publications.nichibun.ac.jp/ja/item/foru/2009-03-12/pub

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「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!
読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治.2017年12月15日
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html

日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?


 斎藤教授は、日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。


第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで

第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、

第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。


「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。

第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。

第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。


 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也 なるや 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。


世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目


縄文時代を代表する大規模な集落跡、青森市の三内丸山遺跡。復元された6本柱の大型掘立柱建物が威容を誇る
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50003


 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。

 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔かえん土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。

 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。


福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功


(『核DNA解析でたどる日本人の源流』に掲載された図をもとに作成)
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=2


 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地さんがんじ貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元げん教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯きゅうし)1本ずつを取り出し、提供してくれた。

 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。

 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。


アジア集団の中で最初に分岐した縄文人


 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万〜8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏いかだで海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

分岐した時期は2万〜4万年前の間


 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万〜4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊ふなどまり遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。

 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原はにはら和郎かずろう(1927〜2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。


遺伝的に近かった出雲人と東北人


 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。

 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。

 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。


日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?


 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。


弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土


 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津いかわづ貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」

沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した約2万7000年前の日本最古の人骨
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50007


 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原しらほさおねたばる洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。

 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。

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ikz********さん 2012/10/19 16:29:16
日ユ同祖論 信憑性はどの程度なのでしょうか。

言語が似ている、歌をヘブライ語にすると意味が通る(君が代、かごめかごめ、 ソーラン節など)という具体的な共通点から、遺伝子が中国韓国人にはないものをもつという根拠不明なものなどが上げられます。

某掲示板では、宗教観が違いすぎる、戦前の白人コンプレックスの日本の学者が作り上げたものだとしているのをみて妙に納得してしまいました。確かにユダヤ教と神道、仏教は違いすぎます。まず一神と多神、偶像崇拝禁止と仏像とで明確です。

ただはっきりどちらに分があるとは判断しにくい部分が多いため詳しい方いたらよろしくお願いします。


aki********さん 2012/10/21 01:10:58

歌の類似性と言えば、和歌がインドの民謡と共通性が高いほうが注目に値すると思います。今でも日本人は海外の文化を輸入して、独自に発展させる才能を発揮していますが、昔もそうだったと考えるべきだと思います。ただし、ヘブライ語と日本語の類似性は他の言語と同程度で、かなり低いと思います。多くは音が似ているだけのコジツケになっていると感じます。

本当に日本語と近いのは、大陸の高句麗語です。言語が近縁かどうかを観察するとき、真っ先に見るのが数詞と言われています。日本語と高句麗語の数詞の比較を行うと、朝鮮語などよりもはるかに近縁の言語という結果が出るようです。

高句麗は滅亡して、その人々は女真族と名を変え、今は満州族と呼ばれています。

彼等は清帝国を築いたわけですが、清の時代に遭難した日本の商人が北京に行って驚いたのが、一二三四ではなく、ヒ・フ・ミ・ヨの日本語の数え方がそのまま通じたことだそうです。高句麗の流れを汲む女真族の言葉を話す人々と、北京で普通に接触できたようです。

百済は扶余・高句麗から枝分かれした王室で、朝鮮半島は異民族支配されていました。

そのため、百済の王室と民は異なる言語を話しているという指摘が、中国側に残っています。

神道の世界には古い朝鮮語が数多く残っていると指摘されることがありますが、実際にはそれが失われた高句麗語という説も出てきています。


高句麗語は日本語と同じ膠着語です。

系統が違う漢民族の言葉と文字がいきなり日本に輸入されたわけではなく、まず漢民族の言葉と直接接していた高句麗語が漢字表記されるようになり、それが、高句麗と近い山東半島や遼東半島付近の海人の手を経て日本にもたらされて、古い神道の祝詞の言葉などが作られていったと考えられます。

纏向型祭祀と高句麗国の東盟祭の類似性も、かなり指摘されているようです。

倭人文化圏が北九州から済州島を経て山東半島や遼東半島付近に分布していたと認識している中国側の史料が幾つか散見されるようです。

卑弥呼寒冷期と呼ばれる地球規模の寒冷化に伴って、飢饉に直面した高句麗地域の人々が日本に渡来した結果、弥生時代が古墳時代に変わっていったという説があるようです。

九州に山東半島原産の三眠蚕が入り、纏向(奈良)にも山東半島付近の製鉄と蚩尤(兵主・天日槍)の信仰が入っています。その結果、天照大神のモデルになった古い日女神を祭った比売許曽(ヒメコソ)神社が建てられるといった現象が起こったようです。

比売許曽は姫を祀る神社という意味の高句麗語(朝鮮古語)です。だから、比売許曽神社の末尾の「神社」は必要のない筈ですが、時代が下って元の意味が見失われた結果、付けられるようになったと考えられます。祝詞にも高句麗語由来の言葉が大量に入っている、というより、本来祝詞は高句麗語(吏読)だったそうです。謎が多いとされる「ひふみ祝詞」は、高句麗語として意味がほぼ通じる形で伝わっているそうです。飛鳥という都の名前も元は高句麗語のようです。

トルコからシルクロードを介して日本まで、膠着語圏が広範囲に広がっています。
文法的に近いため、日本語に輸入しやすかったことが考えられます。


たとえば、天皇を古い時代はスメラ・ミコトと呼んでいました。

シュメール文明と日本語の関係がかなり指摘されていますが、シュメール・ミグトと言えば、天降りた支配者のことで、日本語と音が似ているだけでなく、意味も一致しています。したがって、シルクロードを介して日本に入ってきたのは、なにも古代イスラエルの文化に限られるわけではないと思われます。

秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成になっていて、ペルシャ人の人骨が近くから出ているようです。

ササン朝ペルシャの滅亡に伴って、シルクロードに逃れた王子が中国に亡命し、妻子を安全な日本まで連れて来ているケースもあるようです。わずか数年で日本とペルシャは繋がる距離にあります。西の文化が日本に断片的に入っていても、不思議ではありません。仏教も入れば、ギリシャ彫刻もガンダーラの地域で形を変えながら伝わっています。

しかし、文化的影響が認められるからと言って同祖論を持ち出すのは、不自然すぎると感じます。それを言うなら、人類はアフリカ原産の動物で、皆同祖という話になります。

遺伝子に関しては本来akatamayorihimeさんが御専門の筈ですが、完全スルーしているようです。相手にする必要もない勘違い、ということだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1195894356


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実はとてつもなく古かった日本語 2018 05.01
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more


日本語は、もしかすると世界最古の言語であり、しかも世界で最も美しい言語かもしれません。

かつて谷村新司がロンドン交響楽団をバックにレコーディングをしたことがあります。
そのとき日本語の素晴らしさを再認識し、日本語を大切に歌っていくことを信念にしたそうです。

ディズニー・アニメの『アナと雪の女王』は、世界的ヒットとなったアニメ映画ですが、そのなかの挿入歌の『レット・イット・ゴー、ありのままで』は、世界25ヶ国語に翻訳され、それぞれの国の歌手が歌ったものが youtube で公開されました。

このとき、世界中の人たちが驚き、そして圧倒的な人気をはくしたのが日本語バージョンです。

Let It Go - Behind The Mic Multi-Language Version (from Frozen) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BS0T8Cd4UhA

松たか子ver(日本語吹替版)「Let It Go」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=4DErKwi9HqM


それは、歌った松たか子さんの声の素晴らしさももちろんあるでしょうが、日本語による発声が、メロディに+αの効果をもたらしたのかもしれません。

どこの国でも、それぞれにお国自慢があります。
ここで日本語が世界一だと述べるつもりは毛頭ありません。
ただ、ひとついえることは、どうやら日本語には、他の言語にはない、不思議なところがあるということです。

ひとつは言霊(ことだま)です。
言葉に魂が宿る。

ではどうして言葉に魂が宿るのかというと、日本語が実はもともとそのように構造された言葉だからなのだそうです。

構造とは、日本語の文法や発音や語彙のことです。

つまり、自然との共生を大切に育くむこと、自然を征服したり、人と自然とどちらが上かのような上下構造をもとうとするものではない文化の下で、人と自然とが対等な関係を育んで来たのです。

2つ目はオノマトペ(仏:onomatopee)です。
オノマトペというのは擬声語を意味するフランス語です。

擬声語は、たとえば

わんわん、メーメー、ブーブー、ニャーオ、ホウホウといった動物の鳴き声を真似たものや、

ドキドキ、パチパチ、バキューン、チリーン、ドカン、カリカリ、バタン、ガタピシ、ガタンゴトン、パチバチ、ビリビリ、ジュージュー、グワァ〜ン、パタパタ、ボキポキなどなど、音を真似たもの、

あるいは、

おずおず、おどおど、めろめろ、ふらふら、きゅんきゅん、きらきら、ぴかぴか、ぐずぐず、ツルツル、サラサラのように、本来音を発しない感情などを言葉で表現するものなどのことです。

おもしろいことに、擬声語(オノマトペ)は、言語ごとに、表現がまったく異なります。

冒頭にあるのは、その違いを示した絵本の抜粋で、クリックしていただくと当該ページに飛びますが、たとえば食事をするときは、日本では「PAKU PAKU」ですが、英語では「CHOMP」、フランス語では「MIAM」、イタリア語では「GNAMグナム」、Korea語では「NYAM」です。

キスは日本語では「CHU」ですが、英語では「MWAH」、China語では「BOH」です。
つまり言語によって擬声語(オノマトペ)は、まったく異なります。
ということは、それぞれの言語圏においては、音がそのように聞こえているということです。

そして日本語の擬声語(オノマトペ)は、China語やKorea語ともまったく異なるものです。

ということは、日本語はChinaやKorea半島からの輸入語では絶対に「ない」ということです。


それだけではありません。

日本語は、この擬声語(オノマトペ)が、他の国の言語と比べて著(いちじる)しく多いのです。
その数、なんと5千語です。

日本語の単語数は、たとえば『日本国語大辞典』の収録単語数が50万語です。
このことは、日本語の1%、およそ100語にひとつが擬声語(オノマトペ)であるということです。

そして単語の中には、日常生活でよく使われるものと、そうでない(たとえば学術用語)ものがあります。

オノマトペは日常的によく使われる語です。
早い話、今朝起きたとき、ご家族に「ぐっすり寝れた?」と聞く。
その「ぐっすり」というのがオノマトペです。

しかし睡眠は「ぐっすり」などという音は立てません。
ではなぜ「ぐっすり」というのかというと、「ぐうぐう、すやすや」寝ているからです。
その「ぐうぐう+すやすや」が短縮されて「ぐっすり」です。

「ぐうぐう」も「すやすや」も、なんとなく、そのような音を立てているといわれれば、なんとなくそうかもしれないと思われるかもしれません。
では、

 風が「そよそよ」と吹く
 太陽が「かんかん」に照る
 白い雲が「ぽっかり」浮かぶ
 星が「きらきら」光る

などはどうでしょうか。

風は「そよそよ」などという音をたてないし、太陽は「かんかん」なんてしゃべったりしません。

ではなぜこのようなオノマトペが使われているのでしょうか。

実は、自然がそのような音を立てているのではなくて、受け止める側が自然が発する音をそのように聞いているのです。

このことについて考古学者の小林達雄先生は、「人々が、人と人との間で行うコミュニケーションのための言語活動と同じか、あるいはそれに近いレベルで自然と向き合い、自然との間で活発な言語活動を行ってきた結果」(『縄文文化が日本人の未来を拓く』p.134)と述べておいでです。

つまり、日本語は「自然と対話しながら発達してきた言語」なのです。

だから欧米人にはただの雑音にしか聞こえないカエルの鳴き声や虫の声も、日本人には美しい秋の音色となって聞こえる。なぜ美しいのかといえば、それは人がカエルや虫たちとコミュニケーションしているからです。

では日本語は、いつ頃の時代から形成されはじめたのでしょうか。
言語の発達には、ムラの形成が欠かせません。
なぜならムラを営むには、言語が必要だからです。
そしてそれは磨製石器の登場と時期を同じにするというのが世界の考古学会の定説です。

世界の磨製石器は、おおむね7千年前以降のものです。
中には2〜3万年前のものもあります。

 シベリアの2万年前のもの
 ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
 オーストリア中部の2万9000年〜2万1500年前のもの。

など、ほんの数例です。

ところがこれらは、異常に早過ぎる磨製石器であって、作成経緯等はすべて不明です。
そして、その後に起こるおよそ7千年前の磨製石器の時代(新石器時代)と接続していないのです。

ところが日本の磨製石器は、3万年前の磨製石器だけが単独であるのではなくて、昭和48年に東京・練馬区石神井川流域の栗原遺跡で2万7000年前の地層から磨製石斧が発掘され、また同じときに千葉県三里塚からも磨製石斧が出土、以後、秋田から奄美群島まで、全国135箇所から400点余の磨製石器が発掘されています。

そして1万7千年前には縄文時代が始まるのですが、なんとものの見事に、その縄文時代の文化へと、磨製石器の時代が接続しているのです。

ちなみに長野県日向林遺跡から出土した60点、長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点の磨製石器に用いられている石は、伊豆の神津島から運ばれてきた石です。

つまり当時の日本人は航海術に長け海洋さえも自在に往来していたことも伺わせています。

こうしたことから、英国のJ・ラボックという考古学者は、

「日本列島の住民は世界に先駆けること二万数千〜三万年前に新石器時代を迎えていた。」

と述べています。

言い方を変えると、これはつまり、日本は世界最古の文明を持っていたことが証明されている国である、ということです。

そして磨製石器の登場と言語の登場、そしてムラを営むための神話の登場が重なるものであるならば、日本語は、およそ3万年前には生まれ、そこから現代に至るまで、ずっと続いている世界的にも稀有な言語である、ということになります。
そしてそれが可能になったのは、日本人が殺し合いや、自然への征服を好まず、人と人、人と自然が常に調和することを好む民族であったからです。

というより、調和を好むという日本人の性質は、最低でも3万年という途方もない長期間のなかで、最終的に生き残ってきた性質である、ということができます。

おもしろいもので身勝手な文化、自分さえ良ければという文化は、一時的な成功を手に入れることができても、必ず最後に崩壊し、再起不能になります。
ところが調和を大切にする文化は、一時的にどん底に落とされても、必ずまた再生し復活します。

植物には一年草と多年草があります。

最近は品種の改良によって、どちらも美しい花を咲かせますが、もともとは一年草の多くは、だいたい派手な花を咲かせるのに対し、多年草の花は、わりと地味な花が多いです。
地味だけれど、ずっと咲き続けます。
まるで日本人そのもののようです。

日本人は、はっきりとわかっているだけでもおよそ3万年、ずっと自然と調和し共生する道を選んできました。

だから日本語には擬声語(オノマトペ)が圧倒的に多いのです。


コメント


新宿の縄文人は、どんな言葉を話していたか?

東京の新宿のど真ん中、皇居の御堀端から2q程の地点から、縄文時代中期や後期(5千年前〜4千年前)の人骨が多数出土した事がありました。

江戸時代の遺跡を調査すると、その下から縄文時代や弥生時代の古い遺跡が続いて出土する事がありますが、その場合、江戸時代以降の大開発等によって、無残に破壊されていてる場合が多いそうです。

僅かな貝殻の堆積が確認されたとはいえ、分厚い貝層が存在しない内陸の地域から、多数の人骨がまとまって出土すること自体が非常に珍しく、当時現場は大変な興奮に包まれたそうです。

当時、保存状態の良かった、40代ぐらいの男性の顔が復元されました。

やや長めの顔に、上下に潰れた長方形の眼窩、彫りの深い目元の頭蓋骨は、ヨーロッパ人の様な風貌、あるいは、若い頃の宇梶剛士さんに似たイケメン風に仕上がりました。

彼のミトコンドリアDNAのハプロタイプは北方系と言われるA、一方彼の近くに葬られていた別の人骨は、南方系と目されるM7aだったそうです。

様々な地域をルーツに持つ縄文人たちが、新宿の地で仲良く暮らしていたのですから興味深いです。

日本語が「どのように成立したか分からない」と言われる所以は、様々なルーツを持つ人々の言葉が、極めて長い時間をかけて、ゴチャゴチャに混じり合った結果ではないかと思います。
2018/05/14(月) 11:38 | URL | 疑問 #iydQorAY[ 編集]


外国人に日本語で話しかける時にこの擬声語は使わない方が良いそうです。

擬声語に相当する外国語がないので、彼らにはさっぱり分からないようです。

また、行けなくも無いなどの二重否定もダメ。

日本人なら、何とかすれば行けると理解できますが、外国人は
理解できないようです。

外国人にとって日本語は本当に難解のようですが、
この言語を意識せず使いこなしている
我々は本当、凄いのかもしれませんね。
2018/05/14(月) 13:40 | URL | 名無し #mQop/nM.


新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘

新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘
http://www.city.shinjuku.lg.jp/video/video_jm01.html
https://www.youtube.com/watch?time_continue=607&v=P7VUMR0Mvzo

これですね。
2018/05/14(月) 14:31 | URL | KI


加賀町二丁目遺跡の関連本が出版されています。>KIさん

KIさんへ

動画等のご紹介ありがとうございます。

加賀町二丁目遺跡に関しては、講談社から関連書籍も出版されています。

『おどろきの東京縄文人』(瀧井宏臣著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E4%B8%96%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89-%E7%80%A7%E4%BA%95-%E5%AE%8F%E8%87%A3/dp/4062870029

という本です。

この本は、考古学少年から考古学おじさん・おばさんまで、幅広い層の人々が興味深く読める内容になっていると思います。

映像で見るのと、写真で見るのとでは、復元された縄文人の顔の印象は少々異なりますね。

映像の方はバックが暗めで、陰影が強調されていますが、写真の方は細部まで鮮明に写っていますので、少し印象が違ったのかも知れません。
写真で見ると、かなり欧米風味の顔に見えます。

個人的に注目されたのは、12号人骨(復元された縄文人)が腰にぶら下げていた、イルカの下顎の骨のアクセサリーです。

縄文人は、イルカやクジラやサメやエイ等も捕獲していたことが分かっていますが、丸木舟しかない時代ですから、漁の腕前は、現代人と比較しても大したものだったと思います。
2018/05/15(火) 09:54 | URL | 疑問 #iydQorAY
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more

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オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー
http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html

 6月18日の北海道新聞朝刊に興味深い記事が掲載された。

5〜13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに北大の研究グループが成功。オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかったというもの。

また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦紋人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。


アイヌ民族と共通性

 大学院理学研究員の増田隆一准教授(進化遺伝学)らのグループで、日本人類学会の英語電子版「アンスロポロジカル・サイエンス」に発表した。同グループは、道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体を分析。うち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した。

その結果、ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っているハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことがわかった。現在、カムチャッカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。

  一方、縄文人―続縄文人―擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、縄文人や現代の本州日本にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。
http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html


ニヴフ人とアイヌ語

ニヴフ語はアイヌ語や日本語、朝鮮語と同じように系統のわからない、いわゆる孤立語である。アイヌ語やウィルタ語といった隣り合った言語とも長い接触の歴史があるが、借用語程度の共通語彙しかなくお互いの言語が通じあうことはない。

ニヴフ人はかつて狩猟、漁労、採集を主な生業としていたが、最近の研究では中国(清)と日本との仲介貿易として知られる「サンタン交易」の重要な担い手であったことも明らかになってきた[1]。蝦夷錦や鉄器、毛皮といった商品を積んだ交易船を水面に走らすたくましい海洋交易民族でもあったのだ。
http://ext-web.edu.sgu.ac.jp/hidetos/HTML/mombetsuhandout.htm


ニヴフ語


ニヴフ語は少し昔までギリヤーク語と言われた。こう言うと聞いたことがあると思う人もいるだろう。サハリンが樺太といわれた時も、その遙か昔からニヴフ語はアイヌ語の隣にあった。つまり日本語の向こう隣にあった。奈良・平安時代にオホーツク海沿岸にオホーツク文化という古代文明があった頃、ニヴフの人たちは網走や稚内とか西は江差の方まで活動していたという見方もある。いまでこそニヴフの人たちが主に住んでいるところはサハリンの中部以北とアムール川の下流だけになってしまったが、ニヴフ語は日本地域の諸言語の中の一つであることになる。アイヌの人たちニヴフ人とのつき合いはもちろん古い。しかし日本人との触れあいも稀ではない。例えば間宮林蔵がアムール川を遡って清朝の出先交易所デレンへ行ったとき、同行して案内してくれたのはニヴフの人たちであった。

ニヴフの人たちがどこから来たかを問うのは愚問かも知れない。縄文以来その辺りに住んでいたと考えるほかはないからである。だから当然ニヴフ語も昔からそこにあって、アイヌ語と隣り合っていたに違いない。ところがこの両言語を比べて似ているところはない。おそらく親類ではない。それどころかニヴフ語はアイヌ語よりもむしろ日本語の方に似ている。といっても共通な語彙があるわけではない。ただ文法に構造に比較的共通な面が見られるというに過ぎない。

それに何と言っても人のすがた形がわれわれにそっくりなのには驚く。日本のスーパーマーケットではニヴフ人がレジで叱られる。「日本人のくせに日本語の計算できないの」というわけである。一方、アムールの店では日本人をニヴフ人と区別する目安ははいているジーンズの出来くらいのものである。

アムールの下流には2000人ほどのニヴフ人がネギダール人などと一緒に住んでいる。殆どニヴフだけの村もまだ2,3箇所は残っている。しかし家でも道路でも店でもニヴフ語は聞かれない。名の知れたおばあさんのところへ行って頼んで話していただけれるのがやっとである。一方サハリン全体でもやはり2000人を少し越える位のニヴフ人が住んでいる。だがこちらでは州議会にニヴフの代表を送ったり、著名な作家が活動していたり、あちこちの博物館に学芸員をやっていたり、ニヴフは大活躍である。『ニヴフ語』という新聞(月刊)も出している。だがそれでもニヴフ語が家庭語になっている家は一・二軒か、それもあのおばぁちゃんとあの娘との会話だけかなと言えるくらいである。

公教育でニヴフ語を正課にしているところはアムールとサハリン合わせて二校である。もっとも随意科目としてニヴフ語教室をおくところがほかにいくつかある。それにしては立派な教科書が1970年代から作られ、学習用の辞書も読本もある。しかも北西方言(アムール下流と北西サハリン)と南東方言(サハリンのトゥミ川流域以南)に分かれて、結構使われている。それでもニヴフ語はすでに生活語として使われてはいない。全員がロシア語の母語話者になってしまっている。昔話を語るひとも数えるほどしかいない。この言語の先行きは見えない。いまのところ完全に先細りである。あのお婆さんが亡くなったらどうするんだと思うばかりである。そして事実、一昨年はあの方が、去年はあの人が、という有様である。

しかし『ニヴフ語』の編集と配布に精を出している姿を見て、たとえ余所者であっても、何か手伝いたいと思う。本やビデオ番組を作る手助けでもできればと願う。「危機言語」だなどとよそよそしいことを言わないでほしい!このほれぼれするほどに立派な言語を必死にに守ろうとするひとたちがそこに生きているのだから。

《金子亨:言語学(2006年掲載)》
http://www.chikyukotobamura.org/muse/low060402.html


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アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書) – 2016/2/8
瀬川 拓郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87-%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%80%AC%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E9%83%8E/dp/4480068732


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
 


日本人や日本文化が世界で最近、注目されている。
理由や現象は敢えて並べないが、一言で表せば思考方法や行動、言語等が人類の本源的、源流的であるという点。裏返せば独自的、孤立的、世界中に広がった他の地域、人類との類似が少ないという点ではないだろうか。

最近の研究で言語学的にも遺伝子的にもそれは証明されてきており、人種の孤島として縄文人、アイヌ人の事を書いた著書の一説を紹介したい。

「アイヌと縄文」〜瀬川拓郎著
>「人種の孤島」としての縄文とアイヌ

本土人、琉球人、アイヌの遺伝的多様性の分布を見ると、それらは他の東アジア人や、ヨーロッパ人と混血した中央アジアの人々(ウイグル人、ヤクート人)のまとまりとは反対の方向に分布しています。

 現代の本土人、琉球人、アイヌは直線状にならび、この順でアジアの人々から離れていきます。直線の延長上にはかれらの共通祖先である縄文人が想定できます。つまり本土人、琉球人、アイヌのDNAを特異な方向に「引っ張って」いるのは縄文人であり、そのことは縄文人が現代のどの人類集団とも大きく異なる特徴を持っていたことを物語っているのです。

縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように嚙み合い、彫が深く、鼻が高いといった形質的な特徴をもっていました。これはアイヌにも共通します。そのアイヌは形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、1960年代に総合調査が行われ、歯冠の形などから本土と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論付けらました。

ただし、先のアイヌの特徴は一般的なモンゴロイドとは異なるものです。一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです。

つまり、私たちが常識のようにみなしているアイヌ=モンゴロイド説は学界で完全に受け入れられているわけではありません。形質人類学者の百々幸雄はアイヌがどの人類集団とも異なる、現生人類という大海に浮かぶ「人類の孤島」であるとし、アイヌと縄文人は「出アフリカ」をはたした現世人類が、ヨーロッパ人とアジア人に分化する以前の状態を保っているのではないかと述べています。(百々2007年)
このこととかかわって興味深いのは、同学者の山口敏が旧人のネアンデルタール人のあとに出現した、化石現生人類のクロマニョン人と縄文人の類似性を指摘し、縄文人の形態的特徴は、現生人類のなかの古層に属すると見なされている事です。

 日本列島の縄文人は北海道から沖縄まで形質的な共通性をみせています。かれらは地域性がはっきり認められず、均質な形態をもつ人々でした。つまり縄文時代の日本列島には、アイヌにうかがわれるような「モンゴロイド離れ」した人々が暮らしていたのです。

1万年以上続いた縄文時代には、日本列島をとりまく朝鮮半島、中国、台湾、サハリンとの交流はほとんどありませんでした。そのため縄文人のヒトとしての特異性はかなり純粋に保たれてきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

同様に言語学でも日本語、アイヌ語は世界中の言語から孤立している。

>日本列島を含むユーラシア大陸では2500以上の言語が話されています。ただし、同系関係を辿っていくと、これらのほとんどはアルタイ系言語、シナ・チベット系言語、インド・ヨーロッパ系言語のようなわずか10あまりの大きな「語族」にまとめられます。

その中で同系関係がたどれず系統的に孤立していた言語はわずかに9つにすぎません。さらにその約半数が日本列島の周辺に集中している。日本語、アイヌ語、朝鮮語、サハリン先住民のニブフ語です。

これ以外はピレネー山中のバスク語、西シベリアのケット語、インド中部のニハーリー語、東ヒマラヤのクスンダ語でいずれも人里から離れた辺境地帯の言語である点が共通しています。

言語学者の松本克己はこのうち日本列島周辺に集中する日本語、アイヌ語、朝鮮語はかなり旧い時代につながっていたと述べています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=312916


▲△▽▼

縄文体質は日本語を通じて我々の心に息づいている
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3361.html

縄文体質はさまざまな方法で、分野で人々の暮らしに、文化に、心に残存していきました。しかしその影響力の中で最も大きなものはなんでしょうか?私は間違いなく日本語だと思います。

日本語は縄文時代に作られた言語であり、もっと言えばその以前、旧石器時代、さらにホモサピエンスが登場した時代に人類が言語を作り出した最も旧い古語を母体にしています。日本列島には縄文時代、それ以降も様々な大陸人が渡来し、定着していきましたが、彼らはいずれも母国語を持ちながらも日本に定着する為に日本語を使えるようになり、2世代、3世代を経て日本人になっていきます。それは現代でも同じで、アメリカ人であっても生まれて直ぐに日本で生活し、日本語で育った子どもは顔は西洋人でも心はまったくの日本人です。(テニスプレーヤーの大坂なおみや野球のダルビッシュ有などを見てもわかるでしょう)日本人は日本語で考えるから日本人になれるのです。

縄文―弥生―平安から江戸時代、明治、昭和、そして現在まで、日本語はほとんどその骨格を変化させず、時々の外来の文化を取り込んできました。るいネットでは日本語で検索するだけで100以上の投稿が掲載されています。

その中で縄文体質がどのように日本語を通じて我々の血肉に、心になっていったか、それを推し量る投稿をいくつかダイジェストで紹介します。


これらを読んで改めて思うのは日本語教育の大切さ、今学校教育で最も必要なの英語教育ではなく母国語を使った思考力育成教育ではないでしょうか?


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=312916


これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。


縄文語は抹殺されなかった
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=307372&h_d=1433&m_d=rpc


人類学でほぼ定説になっているのは、日本列島には縄文時代の一万年にわたってアイヌ人を含む南方モンゴロイド系の縄文人が生活しており、紀元前二・三百年ごろ北方モンゴロイド系の渡来人が移入してきたことである。

しかし、大量の渡来人が一挙に押し寄せてきて、日本列島を席巻してしまったわけではなかった。縄文人が抹殺されたり、奴隷にされたりして、日本列島から縄文文化が消滅したわけでもなかった。大陸からある程度の集団的な渡来があったとしても、この時代の渡航技術からして先住民を一気に駆逐したり虐殺したりできるほどの大規模な移動はできなかった。

渡来人の移入以前、縄文人は、前期からすでに日本列島にはひろく住んでおり、土器の生産に従事し、相互に交流していた(ヒスイが糸魚川で産出し加工され、日本列島に広く流通していた例など)。縄文人はかなり均質化した文化をもっており、とすれば、地域差はあったにしろ、異言語の乱立するような状況は考えにくい。縄文前期からすでに縄文語という原日本語が形成され始めたのではないかと著者はいう。

(中略)

とすれば、言語もまた制圧と断絶という形で入れ替わったとは考えにくい。しかも日本語は、様々な学説はあるものの、現在までのところ琉球語以外にその同族関係が証明されていないという。「周辺言語との同型性を証明する比較方法の手がかりがつかめないとするならば、日本語は、日本列島が孤立して以来一万年の間に、この島国の中で形成されたと考えなければならない」と、著者は主張する。確かに、二千数百年前に渡来した弥生人が縄文語を消滅させてしまったなら、大陸のどこかに弥生語ときわめて親近性の高い言語が残っているはずなのに、それが見つからないのだ。日本語は、縄文文化とともに始まり、断続なく現代に連なる長い歴史ももっているというべきだろう。


原始日本人の感覚は、「ひらがな」によって継承されている
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=321391

文字を持たない時代の言語とその感覚を、現代まで引継いでいるのは、世界の中でも「ひらがな」のみという。どんな文字も、「てにをは」のひらがなにし組み立てることで、話し言葉しかなかった原始日本人の感覚を伴った理解ができる。「ひらがな」が、日本人の縄文体質を継承する基盤になっているということ。

日本語の感覚はひらがなの言葉やひらがなの使い方の中に脈々と継承され続けているのです。ひらがな以外の文字は他国の先進文明や新しい技術・考え方などを日本語として取り込んできたものなのです。


日本語の凄さ〜お互いが分かり合うこと(日常会話)に特化した言語〜
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=333010


日本語を含め計4ヶ国語を勉強した方が、日本語の秘密=日本語の凄さを書いてくれている。この日本語の凄さを読めば読むほど、日本語ほど相手と意思疎通を図るのに適した言語は無いのではないかと思えてくる。


○主語がなくても通じる

日本語は、主語がなくても通じます。良い例が、「愛してる」。
誰が、誰を、愛していると言わなくても、「愛してる」と言うだけで意味が伝わりますね。誰も日本語で「私はあなたを愛しているよ」なんて長ったらしいフレーズは使いません。

しかし、英語では「I love you」、中国語では「我愛(あなた)」を普通に使います。


○言葉を入れ替えても通じる

日本語は、英語や中国語に比べて言葉の並びをあまり気にしない(法則性が少ない)と感じます。例えば、英語で「Where are you now?」

日本語では、「今どこにいるの?」・「どこにいるの今?」・「どこに今いるの?」どれも不自然でなく使うことができます。

しかし、英語では「Now where are you?」とは言いません。なぜか説明できないけれど、しっくりきません・・・。もちろん「Where are now you?」とも言いませんよ。


思考するための最高の言語:日本語
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=332003


・・・日本語が思考言語としてはこれぼど適したものはないということになります。

特にアイデアや発想の広がりは、他の言語の比較にならないものだということができます。

問題は、その特徴を使いこなしているかどうかということになります。
枠にはまった思考や、限られた知識に縛られた思考では、せっかくの日本語のチカラを生かしていないことになります。


日本語が作る脳〜日本人の“縄文体質”や“本源性”は日本語を母語とする限りは失われない!?A
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=291491&h_d=1433&m_d=rpc


角田教授の発見で興味深いのは、自然音を言語脳で受けめるという日本型の特徴が、日本人や日系人という「血筋」の問題ではなく、日本語を母語として最初に覚えたかどうか、という点で決まるということである。

その端的な例として、南米での日系人10人を調査したデータがある。これらの日系人は1名を除いて、ポルトガル語やスペイン語を母語として育った人々で、その脳はすべて西洋型であった。唯一日本型を示した例外は、お父さんが徹底的な日本語教育を施して、10歳になるまでポルトガル語をまったく知らずに過ごした女性であった。その後、ブラジルの小学校に入り、大学まで出たのだが、この女性だけはいまだに自然音を言語脳でとらえるという完全な日本型だった。


日本語とポリネシア語の共通性〜ともに母音を中心として認識する言語
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=285350


日本で日本語を母語として育った在日の人々は、完全な日本型になっている。こう考えると、西洋型か日本型かは人種の違いではなく、育った母語の違いである可能性が高い。「日本人の脳」というより、「日本語の脳」と言うべきだろう。角田教授の今までの調査では、日本語と同じパターンは世界でもポリネシア語でしか見つかっていない。

世界の言語のほとんどは子音を中心に認識するものです。

ヨーロッパ語もアラビア語も中国語も、口から空気を出す時に障害を作って変化をつける子音によって音声の認識をしています。

子音は感覚的には、相手との距離を保ち威嚇する発音体系ということができるのだそうです。子音語族(こんな言い方があるのかどうかわかりませんが)においては、会話をすることによって、相手との対立や違いを明確にしていくことができるようです。

母音は息で制動を付けなくても、声帯の振動をそのまま伝えることで発することができる自然な音です。痛いときには「うー」と奥の方から自然に発せられます、感動した時には「おー」と自然な音が発せられます。母音は自然に発せられる音からできています。

母音を中心とした言語である日本語やポリネシア語の話者は、母音を言語脳がある左脳で聞いています。


『生きる力を育てる教育』〜日本語の力(番外編)こんこんと流れる日本人の心の地下水脈
http://web.kansya.jp.net/blog/2012/05/001281.html


子どもの頃に暗誦した言葉で意味の分からなかった所も、人生の経験を積み重ねていくうちに、ふと分かる瞬間が訪れる。嬉しい事や悲しいことがあった時に、子どもの頃に暗誦した言葉がふと思い浮かんで、その言葉の持つ深い意味に気づく。そういう経験を積み重ねると、その言葉を口ずさむだけで、自分の人生の様々な場面が思い起こされるようになる。子どもの頃に暗誦した言葉は長い人生において、自分を導き、支え、励ましてくれる道連れとなる。老人方の「喜び」とは、そういう道連れに恵まれた幸福であろう。

自分が共に生きた言葉を、また子や孫の世代が習い覚えてくれるなら、それはまた大きな喜びである。自分はこの世から去っても、自分がともに人生を歩んだ言葉は後の世代が大切に受け継いでくれる。自分はいなくなっても、自分が大切にした根っこは、後の世代が大切に引き継いでくれるのだ。

国語はこのようにして世代を貫いて民族の心の地下水脈をなす。暗誦文化が衰退したといっても、たかだかこの1,2世代のことである。現在の世代が忘れていても、国語の地下水脈はこんこんと流れ続けている。


日本語が美しい理由

言葉はその音が単なる記号ではない。
その音が持つイメージから言葉は作られる。太古、精霊を見て、観念を発明したとき、彼らの感覚にしっくりくる発音が与えられたはずだ。
日本は幸い、太古から民族、文化、言語がずっとつながっている。
日本語が持つ語感は、日本の風土の中で作られた言葉が変化しながらもずっとつながりを持っている。

だから日本語には擬態語が多い。

カラカラ、クルクル、コロコロ
サラサラ、ソロソロ、スルスル
タラタラ、ツルツル、トロトロ

Kは回転する固体、Sは乾いた空気の摩擦、Tは粘性のある液体のイメージだ。

日本人ならみんな共有できる音のイメージ。新しく擬態語を創ってもすぐ通用する。ところが、外国人にはこれが理解できない。

無数の音節単位を認識する他国の言語では、各音に対する性格付けがほとんど不可能。

音の語感だけで雰囲気の解る日本語発音体系、それを太古から途切れずに発達させることが出来た。

日本語は美しい。

黒川伊保子 「日本語はなぜ美しいか」 より

サクラサク、この語感の美しさ。みんなが共有できることの幸せ。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3361.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

12. 中川隆[-13784] koaQ7Jey 2018年12月12日 07:36:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22015] 報告

中国文明はコーカソイドによって築かれた
https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n414702


↓以下の通り。


「中国といえば黄色人種の代名詞的存在です。しかし、漢字を発明した古代漢族と現在の漢族は、遺伝的なつながりがほとんどないとみられています。漢王朝が崩壊後、北方の異民族が流入して人口は3分の1〜6分の1に減少したと推定されています。しかも、流入した北方民族を含めて人口が3分の1〜6分の1に減少したのですから、古代漢民族の減少はそれ以上だった推定されます。その後、鮮卑族と呼ばれる北方民族が統一王朝を建設し、隋、唐と長い間支配が続きます。現在の漢民族は唐時代に民族の基礎が形成されており、現在のイタリア人と古代ローマ民族以上に別物といわれています。現在の中国では、古代漢語といえば清王朝時代の満州人の影響下にあった漢語を指すようです。


 古代漢族は、現在の中国と違った文化をもつ謎の多い民族です。そんな漢民族ですが、最近の近代的な考古学的手法の発達により、遺骨やミイラのDNA分析の結果が断片的に報告されるようになってきました。2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表しました。その結果は、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近いという結果になり、現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらなというものでした。


 一方、3000年前〜1500年前の中国西部は、白人が支配する地域であったことがほぼ定説になりつつあるようです。新疆ウイグル自治区の楼蘭の美女と呼ばれるミイラは、白人のミイラとして知られています。中国西部では600体もの白人のミイラが見つかっています。北京から400、500km南東に位置している山西省の大原市からも白人が埋葬された墳墓が見つかっています。このことから1500年前にはすでに白人がかなり移住していたと考えられます。


 漢文は異民族との情報交換のために発達した文章といわれています。つまり、漢文は文章のためのものであり、当時、話された言葉をアルファベットや万葉仮名のように示したものではありません。つまり、当時話されていた言葉を記録した資料が極端に少なく、検討する余地はかなりあるようです。ひょっとすると、漢文は当時のシナ系言語と全く異なる白人の言語をつなげる架け橋だったのかもしれません。


これらの白人はコーカソイドと呼ばれる人達で、いわゆるトルコ系民族と言われる人たちです。トルコ系民族は、少なくとも5世紀ごろにはシベリア地域にも移住していたとみられています。そう考えてみると、中国にもトルコ系民族が移住していても何の不思議もありません。東京大学の植田教授らは山東半島周辺に白人の居住地があったことを指摘しています。現時点では、白人が中国のどの程度の位置を占めていたのか不明ですが、今後DNAの研究が進むにつれ、これまでの歴史の常識が大きく覆されるかもしれません。漢字は白人が発明したもので、山東半島出身の孔子は白人だった可能性が高いです。


テュルク(トルコ系民族とその分布)

http://ja.wikipedia.org/wiki/トルコ系」


「東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らが、中国で発見されている遺骨のDNA分析の結果を発表しました。


調査の対象となったのは、


1、約2500年前の春秋時代の人骨

2 約2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨

3 現代の臨シ住民


です。


これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨シ人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。


どういうことかというと、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は、現代「ヨーロッパ人」の遺伝子に非常に近い。


約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は、現代の「中央アジアの人々」の遺伝子と非常に近い。


現代の臨シ住民の遺伝子は、現代「東アジア人」の遺伝子と変わらない。


つまり、2500年前の支那大陸で、春秋戦国時代を築いていた集団は、現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団であった、すなわり、いまの支那人たちとは、まるで異なる集団であったということです。


言いかえれば、2500年前から2000年前の500年間に、支那では大きな遺伝的変化が生じた、つまり、支那大陸では、大規模な人類の移動があったということです。


そもそも中国語と英語を含むヨーロッパ系言語では、文法や語順のなどが、非常に似通っています。


たまたま文字が漢字であるため、見た目のイメージはまるで異なる言語にみえるけれど、語族として考えたら、日本語と中国語よりもはるかに支那語は、ヨーロッパ系言語に近い。


しかも、ひとくちに中国語といっても、支那は広大な大陸です。

さまざまな方言があり、外国語並みにたがいに言葉が通じない。

文法や語順、あるいは基本的名詞に至るまで、まったく違うものもあり、もはやその言語は、互いに別な言語というほうが、はるかに正しいです。


たとえば、我々が中国語口座を受けると、「声調」は「四声」と教わるけれど、これは北京語の話であり、広東語は九声、福建語は八声もある。

上海語と客家(ハッカ)語は六から七声です。


また、北京語には濁音がないけれど、南方語には、濁音が存在する(日本語の影響?)。


フランス語と、英語は、語順等は似ているけれど、母音の数がまるで異なります。当然、異なる言語とされている。国籍も別です。

支那にある諸方言を考えたら、これらをひとまとめに、同一言語であるとみる方が、むしろ異常です。


中国四千年の歴史なる言葉は、そもそもが、三皇五帝(さんこうごてい)なる支那の神話伝説時代の帝王からきている言葉です。


三皇は神、五帝は聖人で、それらは支那の伝説の時代である「夏」の時代(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)よりも古い時代の皇帝だというのだけれど、これも大載礼記、史記、戦国策、易経、礼記、淮南子、世経、三統経、資治通鑑外記などで、誰が皇帝であり、誰が帝王だったのかすら、全部言い分が異なっています。


炎帝(姜王)などは、礼記と准南子に登場するけれど、体が人間で、顔は牛だったというから、そもそも人類であったかどうかすら疑わしい。

要するに、これらは単なる神話とされ、いまでは、その実在は誰も認めていません。


三皇五帝のあとにくる「夏王朝」にしても、いまからちょうど四千年あたり前から470年続いき、その後「殷」に滅ぼされたとされているけれど、これも、その実在性がかなり疑わしいとされている。


結局支那で考古学的にはっきりとその存在が証明されているのは、「殷王朝」で、これは、紀元前17世紀頃から紀元前1046年の王朝です。遺跡もある。


そして遺跡があるおかげで、この時代の殷王朝を形成した人々が、いまの漢民族とは、まるで異なる遺伝子を持った別な民族であったということが立証されてしまっています。


時代が下って、西暦220年頃の三国志に登場する関羽とか張飛とかのを見ると、関羽は、髭(ひげ)の長い巨漢、張飛は、ずんぐりむっくりの巨漢です。


遺伝的特徴からしたら、髭(ひげ)の薄い漢民族の特徴というよりも、関羽あたりは北欧系のノルウェーの海賊(バルカン民族)の特徴をよく備えているし、張飛の遺伝的特徴も、漢民族的特徴はまったくなくて、どうみても、北欧系のドワーフです。


関羽や張飛の姿は北欧系のコーカソイド

の遺伝的特徴そのものである


そしてこの時代の人骨からは、先に述べたとおり、明らかにヨーロッパ系の遺伝子を持った遺伝子・・・漢民族とは異なる遺伝子を持った人骨・・・が発見されています。

さらに時代をさかのぼると、支那の文明の始祖として、20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)遺跡が発掘されました。仰韶遺跡は、紀元前5000年から同3000年まで続いた文化です。


遺跡からは、彩文土器、竪穴住居、磨製石斧などが出土し、彼らが粟などの栽培や、豚や犬の飼育、鹿などの狩猟を行っていて、竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用していたことは、明らかになっています。


しかし、そこで発見された彩陶土器は、西アジア、中央アジアから伝来したものです。

つまり、どうやら工具的にも、ここの文化を構築した人たちは、東洋系の人種ではなく、コーカソイド系の人たちだったようです。漢民族的特徴を示す物は、残念ながら発見されていません。」


つまり、モンゴロイドが「独自の文明」と自惚れている「中華文明」とはコーカソイドと云う人種によって築かれたのだ。
https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n414702

▲△▽▼

2008年10月16日
ミトコンドリアDNAでは母方の祖先が分かるが、Y染色体のDNAからは父方の祖先が分かる。
「常に男女が同程度の人数で移動した」とは限らないので、Y染色体のDNAも調べる必要がある。


南米大陸全体での先住民族のDNAを持つ人の割合は、ミトコンドリアDNAでは82.8%だったのに対し、Y染色体ではわずか8.6%だった。

Y染色体で先住民族のDNAを持たない人の父方の祖先は、大航海時代以降南米に入ったヨーロッパ系(侵略者)又はアフリカ系(奴隷)の人々である。

比較的「南米以外」からの影響が少ないと見られていたペルーの山岳部の住民でも、同様の傾向があった。

先住民族のDNAを持つ人の割合は、ミトコンドリアDNAでは94.2%だが、Y染色体では46.0%しか居なかった。
http://d.hatena.ne.jp/psw_yokohama/20081016/p1

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 23:19:37 ID:9w/WmKTM

ところが中南米人の遺伝子調べると
母系は先住民、父系はヨーロッパ人と綺麗に分かれてる
ハーレム状態


94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 23:36:51 ID:GKFrYljf
>>93
人種構成は、

ペルーが、インディオ47%、混血40%、欧州系12%、東洋系等1%

ボリビアが、インディオ55%、混血32%、欧州系13%

メキシコが、インディオ30%、混血55%、欧州系(スペイン人)15%


97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/05(火) 12:35:59 ID:OriNBOP5
>>94
それは人種構成だから遺伝子の数値とズレがあるよね

例えばアルゼンチンは白人国家とされてるけど

ブエノス・アイレスの隣のラ・プラタ市の遺伝子調査だと
mtdna(母系)は45%が先住民、Y染色体(父系)の90%がヨーロッパ系

インディオが少ないとされるブラジルでも調査すると
mtdna(母系)の32%が先住民、28%が西アフリカ人となる
Y染色体(父系)の方はこれまた90%以上ヨーロッパ系になる


つまり人種的に黒人、インディオに分類されても
男系にかぎっては過去に白人の祖先をもつやつがとても多い

それに人種的にブラジルは白人、ムラート、黒人に分類されるが
実際は先住民ともかなり混血してることがわかる

あとアメリカ黒人男性の20%は白人を祖先に持つ
逆にアメリカ白人への黒人の遺伝子的影響はわずか0.7%
アメリカ白人への先住民の遺伝子的影響は3.4%

これらの数値はつい先日英語サイトから拾ってきたもの

ブラジルの数値はちゃんとした論文で具体的な方法まで書いてあったから
かなり信用できると思う
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/geo/1094725063/l50


「 見た目はモンゴロイドだが、Y遺伝子はコーカソイド 」 はありうるか? 性染色体と常染色体の動きの違いから解明
 

(315336)から、O系統の言語の語順は初めからSVOであったわけではなさそうだと展開しました。しかし、O系統(中国人、東南アジア人)が、C系統やD系統(モンゴロイド)より、R系統(印欧語族)に近いという問題はいまだ残っています。

O系統は、インドから東南アジア、さらにニュ−ギニア方面へ展開したK系統が、(火山の噴火などが原因か?)大陸側、中国南部方面へ戻った時に生まれた系統か?(他のストーリーも考えられると思う)

その時何が起こったかですが、命からがら逃げてきたK系統の男がモンゴロイドの女と交わって作った集団ということと思われる。(必ずしも強姦ということではなく、モンゴロイド側が受けいれたか?)

その場合、K→O系統の遺伝子が半分残るはずだが、Y遺伝子(性染色体)と違って、常染色体(性染色体以外の一般の染色体)はオスとメスの間を行ったり来たりしながら伝えられていくので、必ず後世に伝えられるというわけではない。(Y遺伝子は、他の部族の男が入らないなら、O系統のY遺伝子が必ず後世に伝わっていく。)

その環境で生きていくのに不適切な遺伝子なら、世代を重ねるごとにどんどん淘汰されていき、Y遺伝子以外は、つまり「常染色体」に乗っていたK系統→O系統(コーカソイド系統)の持ち込んだ遺伝子はほどんど消えてしまうということも十分ありうる。

モンゴロイドの男は集団に入ってくることなく、モンゴロイドの女を集団に組み込んでいけば4世代もすればコーカソイドの血は10分1のにうす
まってしまう。Y遺伝子だけはそのままコーカソイドのものが残る。

今のところ、中国人や東南アジア人は、このように成立した、「Y染色体はコーカソイド、常染色体はほとんどモンゴロイド」の種族と考えます。これが、正しいなら、オスが移動してY遺伝をどれだけ撒き散らしても土地(環境)に根付いたメスが伝える常染色体の形質が、いくらでも巻き返してくるということかと思われます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=315337





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日本人のガラパゴス的民族性の起源

  黄河文明の古代遺跡から発掘される人体はコーカソイドの特徴を持っていることは、考古学ではよく知られています。 これは寒冷地適応や黄砂適応を獲得するまえのY-DNA「O3」はY-DNA「CF」の子孫としてふさわしい彫深の外観であったことを示しています。

同様に典型的なフラットフェースのモンゴル人Y-DNA「C3c」も、本来は兄弟亜型Y-DNA「C2」と「C4」のニューギニア先住民やアボリジニと同じく いかつい彫深顔であったことが容易に推測できます。これほど寒冷地適応は厳しい環境要因だったのです。


  アイヌ民族のmtDNA「Y」はオホーツク文化で古代アイヌ民族を征服した古代ニヴフ族がもたらしたものでしょう。 その古代ニヴフ族は東北アジア系Y-DNA「C3c」のツングース系かモンゴル系と考えられます。

明治期でもアイヌ人男性の一部はコーカソイドと考えられたほど端正な顔立ちだったので、 いづれにせよ寒冷地適応を獲得する前の東北アジア集団が北海道に渡ってきたことになります。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm





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失われた文明 メソポタミア エデンの回帰 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tI-s-9k02dk



▲△▽▼

新シルクロード 01 「楼蘭 四千年の眠り」(2005年1月2日) - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%96%B0%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89+++%E6%A5%BC%E8%98%AD+%E5%9B%9B%E5%8D%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A

2014年12月18日 砂漠に消えたロプノール湖畔に3800年前に住んでいたヨーロッパ系住民
http://eurasianhistory.seesaa.net/article/410834192.html


新疆ウイグル住民の遺伝子は、今でも、60%がヨーロッパ系です。

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/2-thumbnail2.png.html


ニューヨークタイムズの記事(英語)

A Host of Mummies, a Forest of Secrets
ミイラが眠る、柱群の秘密

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/1-thumbnail2.png.html


Liu Yu Sheng

SYMBOLISM Archaeologists believe the hundreds of 13-foot poles at the Small River Cemetery in a desert in Xinjiang Province, China, were mostly phallic symbols.
象徴主義(シンボリズム)− 考古学者は、中国、新疆ウイグル自治区の小河墓遺跡に立つ、長さ4mの柱群は、男根の象徴と考えます。

By NICHOLAS WADE  Published: March 15, 2010
ニコラス・ウェイド  出稿:2010年3月15日

http://www.nytimes.com/2010/03/16/science/16archeo.html?pagewanted=all&_r=1&
In the middle of a terrifying desert north of Tibet, Chinese archaeologists have excavated an extraordinary cemetery.
チベットの北にある不毛の砂漠の真ん中で、中国の考古学者らが、驚くべき墓を発掘しました。

Its inhabitants died almost 4,000 years ago, yet their bodies have been well preserved by the dry air.
約四千年前に埋葬された遺体が、乾燥のため、非常に良い状態で保存されていました。

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/8-thumbnail2.png.html

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/4-thumbnail2.png.html

A 3,800-year-old mummy, the Beauty of Xiaohe, found at the Small River Cemetery.
小河墓で発見された3800年前のミイラ「小河の美女」

The cemetery lies in what is now China’s northwest autonomous region of Xinjiang, yet the people have European features, with brown hair and long noses.
墓場は、新疆ウイグル自治区にあり、中国領ですが、住民はヨーロッパ人に似ていて、茶色の髪と高い鼻です。

Their remains, though lying in one of the world’s largest deserts, are buried in upside-down boats.
遺体は、世界最大級の砂漠に葬られているのに、ひっくり返した舟が、被せられています。

And where tombstones might stand, declaring pious hope for some god’s mercy in the afterlife, their cemetery sports instead a vigorous forest of phallic symbols, signaling an intense interest in the pleasures or utility of procreation.
死後の神の慈悲を願って、墓石の代わりに、この墓に立てられた柱群は、男根の象徴で、快楽と子孫繁栄への強い関心の表れと考えられます。

The long-vanished people have no name, because their origin and identity are still unknown.
大昔に消えた名も無い人々が、どんな民族で、どこから来たかは不明です。

But many clues are now emerging about their ancestry, their way of life and even the language they spoke.
でも、彼らの血統や生活様式や言語についての証拠が、発見されて来ています。

Their graveyard, known as Small River Cemetery No. 5, lies near a dried-up riverbed in the Tarim Basin, a region encircled by forbidding mountain ranges.
その第五小河墓は、踏破困難な山脈で囲まれたタリム盆地の、干上がった河床近くにあります。

Most of the basin is occupied by the Taklimakan Desert, a wilderness so inhospitable that later travelers along the Silk Road would edge along its northern or southern borders.
盆地の大部分を占めるタクラマカン砂漠は、人を寄せ付けぬ不毛の土地で、後のシルクロードの旅人らも、南か北のルートを取りました。

In modern times the region has been occupied by Turkish-speaking Uighurs, joined in the last 50 years by Han settlers from China.
現在、この地域は、トルコ系の言葉を話すウイグル族が住み、50年前からは、漢族の入植者も加わりました。

Ethnic tensions have recently arisen between the two groups, with riots in Urumqi, the capital of Xinjiang.
新疆ウイグル自治区の首都ウルムチでは、最近、民族感情の対立が激化しています。

A large number of ancient mummies, really desiccated corpses, have emerged from the sands, only to become pawns between the Uighurs and the Han.
砂の中から大量に見つかった古代のミイラは、正に乾燥した遺体ですが、ウイグル族と漢族の対立で、火に油を注ぎました。

The 200 or so mummies have a distinctively Western appearance,
およそ二百体のミイラは、はっきりと西洋人の特徴を持っています。


WELL PRESERVED The mummy of an infant was one of about 200 corpses with European features that were excavated from the cemetery.
良い保存状態の嬰児のミイラ。 この墓場から発掘されたヨーロッパ人の風貌を持つ約200の遺体の一つ。

and the Uighurs, even though they did not arrive in the region until the 10th century, have cited them to claim that the autonomous region was always theirs.
そのため、歴史的には十世紀よりも後に、この地に住み着いたウイグル族は、ここが、古来より自分たちの土地だったと主張します。

Some of the mummies, including a well-preserved woman known as the Beauty of Loulan, were analyzed by Li Jin, a well-known geneticist at Fudan University, who said in 2007 that their DNA contained markers indicating an East Asian and even South Asian origin.
保存状態の良い楼蘭の美女を含む、複数のミイラのDNAを分析した、復旦大学の遺伝学者金力(上海、ふくたんだいがく、ジン・リ副学長)は、2007年に、東アジアと南アジアの人種であろうと発表しました。

The mummies in the Small River Cemetery are, so far, the oldest discovered in the Tarim Basin.
小河墓のミイラは、今の所、タリム盆地で見つかった最古です。

Carbon tests done at Beijing University show that the oldest part dates to 3,980 years ago.
北京大学の放射性炭素年代測定によると、一番古い所は、3980年前と分かりました。

A team of Chinese geneticists has analyzed the mummies’ DNA.
中国の遺伝学研究チームが、ミイラのDNAを分析しました。

Despite the political tensions over the mummies’ origin, the Chinese said in a report published last month in the journal BMC Biology that the people were of mixed ancestry, having both European and some Siberian genetic markers, and probably came from outside China.
ミイラの人種について政治的緊張があるにもかかわらず、中国の研究者らは、先月、BMCバイオロジー誌(訳注:BioMed Central, UK 生物医学センター、イギリス)に、論文を発表しました。ヨーロッパとシベリアの遺伝子を持つ、中国以外から来た人々だと。

Evidence that a West-East admixed population lived in the Tarim Basin as early as the early Bronze Age
http://www.biomedcentral.com/1741-7007/8/15

The team was led by Hui Zhou of Jilin University in Changchun, with Dr. Jin as a co-author.
研究チームは、吉林大学(きつりんだいがく)の周慧がリーダーで、金力博士と共著です。

周慧(Hui Zhou)吉林大学(Jilin University)教授
http://life.jlu.edu.cn/?mod=teacher&act=view&id=12

All the men who were analyzed had a Y chromosome that is now mostly found in Eastern Europe, Central Asia and Siberia, but rarely in China.
分析を行った男性のミイラのY染色体は、現在の東ヨーロッパ、中央アジア、シベリアに分布するタイプで、中国のタイプは、ほとんどありませんでした。

The mitochondrial DNA, which passes down the female line, consisted of a lineage from Siberia and two that are common in Europe.
女系に伝わるミトコンドリアDNAは、主にシベリアのタイプで、二例がヨーロッパのタイプでした。

Since both the Y chromosome and the mitochondrial DNA lineages are ancient,
Y染色体とミトコンドリアDNAが、両方、古いタイプなので、

Dr. Zhou and his team conclude the European and Siberian populations probably intermarried before entering the Tarim Basin some 4,000 years ago.
周博士(周慧)の研究チームは、およそ4000年前にタリム盆地に侵入する前に、ヨーロッパ人とシベリア人が、混血していたと結論しました。


(訳注:”Dr. Zhou and his team”「周博士と彼のチーム」とありますが、周博士は女性なので、”his team” 「彼のチーム」ではなく、”her team” 「彼女のチーム」とすべき。周博士の写真は男性のように見えますが、女です!)

The Small River Cemetery was rediscovered in 1934 by the Swedish archaeologist Folke Bergman and then forgotten for 66 years until relocated through GPS navigation by a Chinese expedition.
小河墓は、スウェーデンの考古学者フォルケ・ベリイマンが、1934年に再発見しましたが、忘れられていました。中国の探検隊は、GPSで、その66年後に、位置を突き止めました。

Archaeologists began excavating it from 2003 to 2005.
考古学者らは、2003年から2005年に発掘を行いました。

Their reports have been translated and summarized by Victor H. Mair, a professor of Chinese at the University of Pennsylvania and an expert in the prehistory of the Tarim Basin.
発掘の記録を翻訳・要約したのは、ペンシルベニア大学の中国語教授ヴィクター・H・メーアで、タリム盆地の先史時代の専門家です。

As the Chinese archaeologists dug through the five layers of burials, Dr. Mair recounted, they came across almost 200 poles, each 13 feet tall.
中国の考古学者らが掘り下げた所、墓場は、五層あり、メーア博士が数えた所、高さ13フィート(4メートル)の柱が、約200本のありました。

Many had flat blades, painted black and red, like the oars from some great galley that had foundered beneath the waves of sand.
柱の多くは、平たく加工されていて、黒と赤に塗られ、砂の大海の下に埋れた巨大なガリー船から突き出た櫂(オール)のようです。

At the foot of each pole there were indeed boats, laid upside down and covered with cowhide.
各柱の下には、本当にボートが埋められていて、ひっくり返った状態で、牛革が被せてあります。

The bodies inside the boats were still wearing the clothes they had been buried in.
ボートの中の遺体は、埋葬された時の衣服が、そのまま残っています。

They had felt caps with feathers tucked in the brim, uncannily resembling Tyrolean mountain hats.
被っているフェルト製の帽子は、つばに鳥の羽が縫い付けられていて、不思議なほどチロリアンハットに似ています。

They wore large woolen capes with tassels and leather boots.
飾り房付きの、ゆったりとした毛織物のケープを纏い、革のブーツを履いています。

A Bronze Age salesclerk from Victoria’s Secret seems to have supplied the clothes beneath — barely adequate woolen loin cloths for the men, and skirts made of string strands for the women.
下着は、まるで、青銅器時代のビクトリアズ・シークレット社(訳注:アメリカの下着メーカー)の販売員から調達したようです。ぎりぎりの大きさの男性用ふんどしや、女性用のビーズのスカートです。

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/5-thumbnail2.png.html


Many of the women buried there wore string undergarments like the one in this drawing.
多くの埋葬された女性は、この絵のような、紐の下着をはいていました。

Within each boat coffin were grave goods, including beautifully woven grass baskets, skillfully carved masks and bundles of ephedra, an herb that may have been used in rituals or as a medicine.
舟型の棺には、副葬品があり、草できれいに編んだ籠や、精巧に彫られたお面、麻黄(マオウ)の束などです。麻黄は、儀式や医療で用いられたのでしょう。

In the women’s coffins, the Chinese archaeologists encountered one or more life-size wooden phalluses laid on the body or by its side.
中国の考古学者は、女性の棺に、木製の実物サイズの男根が、一つ以上、体の上か脇に置かれているのを見つけました。

Looking again at the shaping of the 13-foot poles that rise from the prow of each woman’s boat, the archaeologists concluded that the poles were in fact gigantic phallic symbols.
女性の棺の舳先から聳え立つ13フィート(4メートル)の柱の形から、考古学者は、巨大な男根の象徴と考えます。

The men’s boats, on the other hand, all lay beneath the poles with bladelike tops.
一方、男性の棺の上の柱は、先が櫂のように平たくなっています。

These were not the oars they had seemed at first sight, the Chinese archaeologists concluded, but rather symbolic vulvas that matched the opposite sex symbols above the women’s boats.
始め、櫂のように見えた柱は、女性の棺と反対の性、女性器の象徴と、考古学者は結論しました。

“The whole of the cemetery was blanketed with blatant sexual symbolism,” Dr. Mair wrote. In his view, the “obsession with procreation” reflected the importance the community attached to fertility.
「墓全体が露骨な性的象徴である。」と、メーア博士は書いています。子孫繁栄への執着は、集団にとっての生殖重要性を反映していると言えるでしょう。

Arthur Wolf, an anthropologist at Stanford University and an expert on fertility in East Asia, said that the poles perhaps mark social status, a common theme of tombs and grave goods.
スタンフォード大学の人類学者で東アジアの生殖能力専門家のアーサー・ウルフは、柱が、社会的地位を示すと言います。墓や副葬品が示すのと同じです。

“It seems that what most people want to take with them is their status, if it is anything to brag about,” he said.
「たぶん、死後の世界に、社会的地位を持って行ったのです。」

Dr. Mair said the Chinese archaeologists’ interpretation of the poles as phallic symbols was “a believable analysis.”
メーア博士は、中国の考古学者が、柱群を男根の象徴と考えるのは、妥当な分析だと言います。

The buried people’s evident veneration of procreation could mean they were interested in both the pleasure of sex and its utility, given that it is difficult to separate the two.
埋葬された人々の、生殖へのはっきりした崇拝は、性の快楽と有用性を重視していたからでしょう。二つを切り離す事はできません。

But they seem to have had particular respect for fertility, Dr. Mair said, because several women were buried in double-layered coffins with special grave goods.
彼らは、生殖に大きな敬意を払っていたようです。何人かの女性は、二重の棺に特別な副葬品と一緒に、葬られていました。と、メーア博士は言います。

Living in harsh surroundings, “infant mortality must have been high, so the need for procreation, particularly in light of their isolated situation, would have been great,” Dr. Mair said.
厳しい自然環境では、乳幼児死亡率が高かったはずで、生殖が重要だったでしょう。特に、孤立した状態では。

Another possible risk to fertility could have arisen if the population had become in-bred. “Those women who were able to produce and rear children to adulthood would have been particularly revered,” Dr. Mair said.
別の問題の可能性もあります。近親交配では、出生率が下がります。子供を産んで、成年まで育てられる女性は、特に、尊敬を集めたでしょう。

Several items in the Small River Cemetery burials resemble artifacts or customs familiar in Europe, Dr. Mair noted.
小河墓の葬制と埋葬品は、ヨーロッパに似ていると、メーア博士は言います。

Boat burials were common among the Vikings. String skirts and phallic symbols have been found in Bronze Age burials of Northern Europe.
バイキングも舟を一緒に埋めました。北ヨーロッパの青銅器時代の墓からも、紐スカートや男根が見つかっています。

There are no known settlements near the cemetery, so the people probably lived elsewhere and reached the cemetery by boat.
墓の近くからは、住居跡が見つかっていません。人々は、どこかに住んでいて、墓場に舟で来たのでしょう。

No woodworking tools have been found at the site, supporting the idea that the poles were carved off site.
木材加工の道具は、その場所では見つかっていないので、柱は、別の場所で加工された可能性があります。

The Tarim Basin was already quite dry when the Small River people entered it 4,000 years ago.
小河墓地方に人々が入植した4千年前には、タリム盆地は、すでに、かなり乾燥していました。

They probably lived at the edge of survival until the lakes and rivers on which they depended finally dried up around A.D. 400.
彼らは、紀元後400年に、生活の糧だった湖と河が完全に干上がるまで、そこで、ぎりぎりの生活をしていたのでしょう。

Burials with felt hats and woven baskets were common in the region until some 2,000 years ago.
フェルトの帽子と編んだ籠の副葬は、この地域で、約2000年前まで見られました。

The language spoken by the people of the Small River Cemetery is unknown, but Dr. Mair believes it could have been Tokharian, an ancient member of the Indo-European family of languages.

小河墓の人々の言語は分かりませんが、メーア博士は、古いインド・ヨーロッパ語派のトカラ語の可能性があると考えます。

Manuscripts written in Tokharian have been discovered in the Tarim Basin, where the language was spoken from about A.D. 500 to 900.
タリム盆地では、トカラ語の文書が見つかっています。紀元後500年から900年に、当地で、話されていました。

Despite its presence in the east, Tokharian seems more closely related to the “centum” languages of Europe than to the “satem” languages of India and Iran.
トカラ語は、東方に分布していましたが、インド・イラン系の「サテム語」ではなく、ヨーロッパの「セントゥム語」に近いです。

The division is based on the words for hundred in Latin (centum) and in Sanskrit (satam).
この分類は、単語の「百」が、ラテン語で「セントゥム」、サンスクリット語で「サタム」と成る事から来ています。

The Small River Cemetery people lived more than 2,000 years before the earliest evidence for Tokharian, but there is “a clear continuity of culture,” Dr. Mair said, in the form of people being buried with felt hats, a tradition that continued until the first few centuries A.D.
小河墓の人々は、トカラ人の2千年以上も前に住んでいましたが、メーア博士は、文化の明確な継続性があると言います。フェルト帽子を副葬する習慣は、紀元後数世紀まで続きました。
http://eurasianhistory.seesaa.net/article/410834192.html


2016年02月21日 小河墓遺跡の古環境を花粉分析で復元 中国新疆
http://eurasianhistory.seesaa.net/article/434094909.html


小河墓遺跡の古環境を花粉分析で復元(英語)
Buried in Sands: Environmental Analysis at the Archaeological Site of Xiaohe Cemetery, Xinjiang, China

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E5A293E381AEE6A798E5AD90-thumbnail2.jpg.html

Jin-Feng Li, Idelisi Abuduresule, Francis M. Hueber, Wen-Ying Li, Xin-Jun Hu, Yue-Zhuo Li, Cheng-Sen Li mail

http://www.plosone.org/article/info%3Adoi%2F10.1371%2Fjournal.pone.0068957

小河の王女
http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E381AEE78E8BE5A5B3-thumbnail2.jpg.html


Abstract
要約

Palynomorphs extracted from the mud coffins and plant remains preserved at the archaeological site of Xiaohe Cemetery (Cal. 3980 to 3540 years BP) in Lop Nur Desert of Xinjiang, China were investigated for the reconstruction of the ancient environments at the site.
中国、新疆のロプノール砂漠にある小河墓遺跡(3980年〜3540年前)の植物化石と泥の棺に含まれていた花粉化石を研究し、付近の古環境を再現しました。

The results demonstrate that the Xiaohe People lived at a well-developed oasis, which was surrounded by extensive desert.
研究の結果、小河人は、広大な砂漠の中の良く発達したオアシスに住んでいました。

The vegetation in the oasis consisted of Populus, Phragmites, Typha and probably of Gramineae,
オアシスの植生は、ポプラ属(Populus)、ヨシ属(Phragmites)、ガマ属(Typha)と、おそらく、イネ科植物(Gramineae)で

コトカケヤナギ.jpg

ヨシ属.jpg

ガマ属.jpg

while the desert surrounding the oasis had some common drought-resistant plants dominated by Ephedra, Tamarix, Artemisia and Chenopodiaceae.
オアシス周辺の砂漠には、マオウ属 (Ephedra)、 ギョリュウ属(Tamarix / 御柳)、 ヨモギ属(Artemisia)、アカザ科(Chenopodiaceae)などの耐乾燥植物が主でした。

マオウ(Ephedra).jpg

御柳.jpg

ヨモギ属(Artemisia).jpg

梭梭 アカザ科(Chenopodiaceae).jpg

This present work provides the first data of the environmental background at this site for further archaeological investigation.
今後の考古学研究で参考にすべき、遺跡周辺の最初の生態学的データを提供します。


Introduction
序説

In the past Xinjiang formed an important bridge connecting the Eastern and Western races of Eurasian continents
かつて、新疆は、東洋人と西洋人を繋ぐ、重要な架け橋でした。

and became famous for the ancient Silk Road going to Central Asia and Eastern Europe from China.
ここは、中国から中央アジア、東ヨーロッパに至る古代のシルクロードで、有名です。

Consequently, the archaeological discoveries in this area are always of great interest (e.g. Loulan City).
従って、この地域での考古学的発見は、常に大きな興味を惹きます。(楼蘭など)

Signs of human activities can be traced in Xinjiang for 10,000 years [1].
新疆では、人類活動の痕跡は、一万年前からあります。

Stone tools discovered at the site of Astana are nearly 5000 years old [2].
アスタナ遺跡では、発見された石器の年代は、およそ五千年前です。

Many cemeteries were discovered since the 1970s, such as the Gumugou Cemetery (around 3800 B.P.) [3], Wufu Cemetery in the Hami District with an age of nearly 3300-3000 years old [4].
1970年代以来、多くの墓場が発見されました。グムゴウ墓場(約3800年前)や、ハミ(哈密)地区にある、およそ3300年から3000年前のウフ墓場です。

During the period from 3000 to 2000 B.P., a group of people lived in the Turpan Basin and adjacent area,
3000年から2000年前には、トルファン盆地や周辺に、人々が住み着いていました。

and their different cemeteries, such as the Yanghai Tombs (ca. 2800 B.P.) [5], Yuergou Site (2400-2300 B.P.) [1], as well as many much younger sites,
彼らの墓地は、他にも、ヤンガイ墓地(2800年前)、ユエルゴウ遺跡(2300〜2400年前)があり、さらに、もっと後の時代の墓地も多数あります。

reveal much about the lives and beliefs of these peoples.
それらは、彼らの生活や宗教について、多くの事を教えてくれます。

Many mummies were found well-preserved in this area, owing to the dryness of the desert and the desiccation of the corpses [6].
乾燥した砂漠の気候が、遺体を干からびさせたため、多数の保存状態の良いミイラが発見されています。

The fantastic mummies and the delicate relics from the archaeological sites in Xinjiang, including the artifacts and crops,
新疆の考古学的遺跡の素晴らしいミイラや、工芸品や穀物を含む繊細な遺物は、

can tell us amazing stories: what the world looked like at any given point in time and space [7].
時空を越えた過去の世界の様子を、的確に語りかけてくれます。

The plant remains found at these sites provided an opportunity to study the ancient plants and their utilization by local people, as well as their bearing on environmental changes in the past.
これらの遺跡で見つかる植物の遺物は、古代の植物について、住民がその植物をどのように利用したか、過去にどのような環境変化があったかの研究を可能にします。

Some archaeobotanical researches have been done in Xinjiang in the past few years, mainly focusing on the relationship between plants and people [5,8–10] and also on the environmental data extracted from artifacts [11,12].
過去数年間に新疆で、いくつか考古学的研究がなされましたが、研究の焦点は、植物と人間の関係や、さらに、工芸品から得られた環境に関するデータです。

In the present contribution, the palynomorphs extracted from the mud coffins and plant remains found at Xiaohe Cemetery are investigated comprehensively for the reconstruction of the historical environments in Xiaohe.
本研究では、小河墓の古代の環境を再現するために、泥の棺に含まれる花粉と小河墓の植物遺骸を研究しました。

Site description
遺跡についての説明

The Xiaohe (“Small River”) Cemetery was first discovered in 1911 by an aboriginal hunter named Ördek who played a part in Dr. Sven Hedin’s discovery of the Loulan ruins around 1910-1911 [13].
小河墓の発見者は、オルデクと言う名の現地の猟師で、彼は、1910年から1911年頃のスヴェン・ヘディン博士による楼蘭遺跡の発見にも貢献しました。

Two decades later, a Swedish archaeologist Folke Bergman, coined the name for this graveyard, and excavated 12 burials guided by Ördek in 1934 [13].
約二十年後、スウェーデンの考古学者フォルケ・ベルグマンは、この墓所を命名し、オルデクの案内で1934年に12体の被埋葬者を発掘しました。

After that, the cemetery was forgotten for more than sixty years until the Relics and Archaeology Institute of Xinjiang Uygur Autonomous Region excavated this graveyard in detail in 2002 [14].
その後、この墓地の存在は、2002年にレリクスと新疆ウイグル自治区考古学研究所が詳しく発掘調査するまで、六十年間以上忘れられていました。

The rediscovery of Xiaohe Cemetery was considered to be one of the top ten archaeological discoveries in 2004 in China.
小河墓の再発見は、2004年の中国の考古学的発見のトップテンの一つでした。

About 170 tombs have been excavated since then, but unfortunately many of them were destroyed by treasure hunters.
その後、約170個の墓が発掘されましたが、残念なことに、その多くは墓泥棒に壊されていました。

The Xiaohe Cemetery, with an area of about 2500 m2, is some 4 km away from the Small River (Xiaohe, in Chinese), a downstream branch of Kongque River in Lop Desert (Figure 1) [15], and also about 175 km east of the Loulan ancient city in Xinjiang [14].
小河墓の面積は約2500pで、位置は、ロプ砂漠を流れるコング川の下流部の支流からおよそ4kmであり、新疆の古代都市楼蘭の約175km東です。

With its hillock shape the Xiaohe Cemetery forms a well-defined landmark on the flat desert.
小河墓は丘なので、起伏のない平らな砂漠では目立ちます。

The top of the cemetery possesses many upright wild poplar poles and more fallen ones [13] (Figure 2).
墓地の頂上には、ポプラの木の柱が林立していますが、それ以上の数の倒れた柱もあります。

These poles were thought to be the remains of a house which had lost its roof a long time ago [13].
これらの柱は、ずっと昔に屋根が無くなってしまった建物の名残りと考えられます。

Two main kinds of trunks stood in the cemetery, i.e. the multi-prismatic shaped poles (= pole monuments in Bergman, 1939 [13]) are all placed in front of females’ tombs and the oar-shaped ones (= oar-like monuments in Bergman, 1939 [13]) in front of those of males.
墓地に立てられている柱には、二種類あります。多角形の柱は、全てが女性の墓の前に立てられています。そして、オールの形の柱は、全てが男性の墓の前にあります。

Some archaeologists inferred that these poles were the symbols of fertility worship of Xiaohe People [13].

これらの柱を、小河墓に住んでいた人々の多産信仰の象徴と考える考古学者もいます。
The multi-prismatic shaped poles represent the phallus and the oar-shaped ones represent a vulva.
多角形の柱が、ペニスを表し、オール型の柱が、外陰部を表すと考えるのです。


小河墓の地図
http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E5A293E381AEE59CB0E59BB3-thumbnail2.jpg.html

Figure 1. Map showing the Lop Region and the location of Xiaohe Cemetery (modified from [13]).
図1.ロプ地区と小河墓の位置

小河墓の見取り図
http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E5A293E381AEE8A68BE58F96E3828AE59BB3-thumbnail2.jpg.html

Figure 2. Plan diagram of the Xiaohe Cemetery.
図2.小河墓の見取り図

(a) mud coffin BM28; (b) mud coffin BM 1; (c) mud coffin M100; (d) mud coffin M75
(a)泥棺BM28  (b)泥棺BM1 (c)泥棺BM100 (d)泥棺BM75
(plan in top left corner revised from [14]).

Most of the coffins, which are made from the wood of Populus euphratica Oliv., have an elliptical shape.
コトカケヤナギ(Populus euphratica)の材木で作られた棺の多くは、楕円形です。

コトカケヤナギ.jpg

However, some coffins are rectangular in shape and covered by a layer of mud.
しかし、長方形で表面を泥で固めた棺もあります。

These are called “mud coffins” (Figure 3a).
これらを「泥棺」と言います。

The result of 14C dating revealed that the age of the lowest layer of Xiaohe Cemetery is 3980 ± 40 yr BP [16], which is the oldest archaeological dating record in Xinjiang.
炭素14年代測定で、小河墓の最下層は、3980年前(±40年)と分かりました。これは、新疆の考古学的年代測定の最古のケースです。

Desiccated wheat grains from the cemetery were dated to approximately 3760–3540 yr BP [17].
墓地で見つかった乾燥した小麦の種子の年代は、およそ3760年から3540年前です。

パンコムギ(Triticum aestivum).jpg

Hence, the currently known age of Xiaohe Cemetery is about 3980 to 3540 yr BP, which was between early Xia (2070–1600 BC) to early Shang Dynasty (1600–1046 BC) in China, i.e. early Bronze Age.
現在分かっている小河墓の年代は、およそ3980年から3540年前で、中国史では、夏王朝(紀元前2070年から紀元前1600年)の初期から、殷商時代(紀元前1600年から紀元前1046年)の初期に当たります。これは、青銅器時代の初めです。

Many well-preserved mummies were found in this cemetery. Bergman described a lady with very strong European characters (e.g. brown hair, fine aquiline nose).
墓地では、多くの保存状態の良いミイラが見つかりました。ベルグマンは、はっきりしたヨーロッパ人の特徴を持つ女性のミイラについて記述しています。(茶髪、はっきりした鷲鼻)

小河の王女
http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E381AEE78E8BE5A5B3-thumbnail2.jpg.html

DNA analysis from 30 mummies found here also demonstrated that the Xiaohe People were a West-East admixed population, which constitutes the earliest genetic evidence for an admixed population settled in the Tarim Basin [16].
ミイラ30体のDNAを分析した所、小河墓の人々は、東西の混血集団と分かりました。タリム盆地に居住した混血集団の最古の遺伝子的証拠です。

図3泥棺と柳の葉.jpg

Figure 3. The mud coffin M75 (a); sample collected from the coffin (b); and the leaves of Populus euphratica found in the grave (c to f).
図3. (a) 泥棺M75 (b) 泥棺から採取したサンプル (c ~ f) 墓の中にあったコトカケヤナギの葉


Materials and Methods
材料と方法

In 2003, we completed our archaeological research at the site of the Xiaohe Cemetery and collected four mud samples from each of the mud coffins (BM-1, BM-28, BM-75 and M-100) (Figure 2, 3 b) for laboratory study.
2003年に小河墓での現地調査を終了し、研究室で分析するために四つの泥棺(BM-1、BM-28、BM-75、M-100 )から各一つずつ泥のサンプルを採取しました。

Meanwhile, we also collected many leaves of P. euphratica in one of the tombs with poplar remains (Figure 3 c–f).
さらに、墓の一つからコトカケヤナギの葉を多数採取しました。

In the laboratory, we first weighed 30 grams of each sample and put them into beakers with distilled water containing 1 milliliter of a suspension of Lycopodium spores (ca. 83,500 grains per milliliter).
研究室で、各サンプルから30gを測り取り、1㎖のヒカゲノカズラ胞子(1㎖に83,500粒)を加えた蒸留水に入れてミキサーにかけました。

After immersion for 48 hours, the samples were sieved using a mesh with the pore size of 1 mm2.
48時間水に浸した後、穴のサイズが1㎟のメッシュで、漉しとりました。

The residue was mainly composed of macrobotanical remains and livestock hairs (Figure 4 c).
メッシュに引っかかったのは、主に大きな植物破片と家畜の体毛です。

The screenings were prepared for a palynological study using the heavy liquid method [18].
分析用の花粉を取り出すために、重液法を用いました。

We counted the contents of three slides from each specimen to obtain a representative sample of the palynomorphs (Table 1).
各サンプルから三枚のスライドの花粉化石をカウントしました。

図4.サンプルから得られた花粉以外の物 (a) 藁 (b) 羊の糞 (c) 家畜の毛.jpg

Figure 4. Other materials found from the samples. (a) straws; (b) piece of sheep manure; (c) livestock hairs.
図4.サンプルから得られた花粉以外の物 (a) 藁 (b) 羊の糞 (c) 家畜の毛

花粉計数.jpg

Table 1. Pollen counting data of the samples.
表1. 各サンプルの花粉を計数


Results and Discussion
結果と検討

Palynological analysis
花粉分析

Totally, 96 pollen grains, belonging to nine types of palynomorphs, were found in the four palynological samples (Table 1) and all taxa were identified applying single-grain technique [19] (Figure 5, Figure 6; the only pollen grain of Alnus was lost during the preparation for the scanning electronic microscope).
4つのサンプルから、9種類の花粉化石が96粒得られました。そして、単粒法を用いて、すべての分類群を同定しました。一粒だけ見つかったハンノキ属の花粉化石は、走査電子顕微鏡のプレパラート作成時に紛失しました。

Most of the taxa are common in arid areas (e.g. Chenopodiaceae, Artemisia, Ephedra, Tamarix and Gramineae).
分類群のほとんどは、乾燥地帯に見られる植物です。
(アカザ科、ヨモギ属、マオウ属、ギョリュウ属、イネ科)

Chenopodiaceae is well-adapted to dry and saline environments.
アカザ科は、乾燥した塩分の多い環境に良く適応しています。

Artemisia normally grows in arid or semi-arid habitats.
ヨモギ属は、通常、乾燥地帯や半乾燥地帯に生育します。

Ephedra is a common shrub of dry, open sites and is predominantly a warm desert-steppe plant restricted to both meteorologically and physiologically dry areas [20].
マオウ属は、乾燥した開けた土地の低木で、主に、気象的・物理的に乾燥した温暖なステップ砂漠に見られます。

Tamarix is one of the most common woody plants in Xinjiang [21].
ギョリュウは、新疆で最も普遍的な樹木の一つです。

Gramineae pollen grains are often used as an indicator of openness.
イネ科の花粉は、しばしば、土地が開けている度合いの尺度に用いられます。

However, these grass pollen are one of the most ubiquitous and readily recognized pollen types found in terrestrial sediments.
もっとも、イネ科草本の花粉は、陸上の土壌には、どこでも普遍的に含まれています。

Although these monoporate grains differ in size, surface texture and annular width, these features do not permit reliable recognition at the subfamily level [22].

これらの単孔粒は、大きさ、表面の形状、ランド幅が異なっていても、これらの特徴で、亜科まで分類する事はできません。

Moreover, the pollen wall of Gramineae is thin, and is low in sporopollenin, hence has a poor preservational potential [23].
さらに、イネ科の花粉壁は薄く、スポロポレニンも少ないので、保存されにくいです。

These factors suggest that the pollen cannot be transported far and are easily damaged when buried in soil.
これらの要因から、花粉は遠くから持ち込まれたものではなく、また、土中で壊れやすい事が分かります。

However, based on the number of reeds (Phragmites sp.) found in the graves, it seems reasonable to believe that most of the Gramineae pollen in our samples belong to Phragmites.
ところで、墓地内で多くの葦(ヨシ属)が見つかった事から、イネ科の花粉の多くが、ヨシ属だと推定できます。

Corylus and Alnus, as wind-pollinated taxa very readily overproduce airborne pollen grains, and are the normal elements found in lake sediments and soil.
ハシバミ属とハンノキ属は、大量に花粉をまき散らす風媒花植物であり、それらの花粉は、湖沼土壌や堆積物中に普通に含まれます。

ハシバミ.jpg

Alnus ハンノキ属.jpg

The grains of these two taxa may come from the forests on the mountains surrounding the study areas.
これらの二つの分類群の花粉は、研究対象地の周辺の山地林から飛来した可能性があります。

図5 花粉写真1.jpg

Figure 5. Palynomorphs found from the samples collected from the mud coffin.
図5.泥棺から採取したサンプル中の花粉化石

The first column shows pollen grains under light microscope;
左の写真は、光学顕微鏡で見た花粉粒

the middle column shows the previous grains under the scanning electronic microscope;
真ん中の写真は、同じ花粉粒を、走査電子顕微鏡で見たもの

and the last column shows the surface details under scanning electronic microscope.
右の写真は、走査電子顕微鏡による詳細な表面形状

(a) Ephedra; (b) Typha; (c) Artemisia; (d) Chenopodiaceae.
(a) マオウ属 (b) ガマ属 (c) ヨモギ属 (d) アカザ科

図6 花粉2.jpg

Figure 6. Palynomorphs found in the samples collected from the mud coffin.
図6.泥棺から採取したサンプル中の花粉化石

The first column shows pollen grains under light microscope;
左の写真は、光学顕微鏡で見た花粉粒

the middle column shows the previous grains under the scanning electronic microscope;
真ん中の写真は、同じ花粉粒を、走査電子顕微鏡で見たもの

and the last column shows the surface details under scanning electronic microscope.
右の写真は、走査電子顕微鏡による詳細な表面形状

(a) Gramineae; (b) Corylus; (c) Tamarix.
(a) イネ科 (b) ハシバミ属 (c) ギョリュウ属

Compared with the taxa mentioned above, the presence of Typha pollen in the assemblage is more interesting.
以上の分類群に加えて見つかったガマ属の花粉は、非常に興味深いです。

As an aquatic, Typha can normally live in a variety of wetland habitats, and their pollen grains can be frequently found in peat and lignite beds [24].
水生植物であるガマ属は、通常、様々な湿地に生育し、その花粉粒は、泥炭や亜炭の湖沼底土壌中で普通に見られます。

Hence the occurrence of Typha pollen illustrates that there was surface water close to the Xiaohe People’s residence.
つまり、ガマ属の花粉の存在は、小河墓の人々の住居のそばに湖沼があった事を示します。

The mud which covered the coffins may have been obtained from the habitat of the Typha.
棺を覆う泥は、ガマが生育する場所で得られた可能性があります。

Plant remains
植物の遺骸

At a traditional funeral in China, people always put something precious into the coffin and/or grave, in the hope that the dead person can live better with these objects in another world.
中国の伝統的な埋葬では、常に棺の中や墓穴の中に、貴重品が副葬されました。死者が、あの世で、これらの品物を使って生活できる様にです。

Those relics found in tombs provide us with an opportunity to learn about the culture of the ancient people and the environment in which they lived.
墓地で見られるこれらの慣習は、古代人がどのような環境や文化の中で生活していたかを教えてくれます。

Several kinds of plant remains were found during the first excavation of the cemetery by Bergman,
ベルグマンによる墓地の最初の発掘で、数種類の植物遺骸が見つかりました。

i.e. the poles made of Populus euphratica, Ephedra twigs, Tamarix twigs, grains of bread wheat (Triticum aestivum) [17], Jiji grass (Achnatherum splendens), reed (Phragmites sp.) and grains of broomcorn millet (Panicum miliaceum) [13,14,17].
コトカケヤナギ(Populus euphratica )で作られた柱、マオウ(Ephedra)の枝、ギョリュウ(Tamarix)の枝、パンコムギ(Triticum aestivum)の種子、芨芨草 (ジジソウ:Achnatherum splendens)、ヨシ属(Phragmites sp.)、キビ(Panicum miliaceum)の種子です。

ジジソウ.jpg

キビ(Panicum miliaceum).jpg

パンコムギ(Triticum aestivum).jpg

DNA analysis of the wheat grains confirms that the grains found here are similar to hexaploid bread wheat [17].
小麦の種子のDNA分析で、それが、六倍体のパンコムギに近い事が分かりました。
(訳注:二倍体のタルホコムギと四倍体のデュラムコムギを交配して栽培種の六倍体パンコムギができたと考えられます。)

As broomcorn millet grains always show up together with wheat grains in the graves [14,17], we can presume that broomcorn millet was also cultivated by then.
キビの種子とコムギの種子が両方ある事から、当時、コムギとキビが栽培されていたと推測できます。

Populus euphratica is the characteristic element of the common desert riparian forest in Northwest China [25].
コトカケヤナギは、中国北西部の河畔林に特徴的で普遍的に見られる樹木です。

As a common shrub with medicinal function, Ephedra was considered as a magic plant by the Lop people.
普通に見られる薬効のある低木であるマオウを、ロプ住民は、魔法の植物と考えました。

Also, it is very common to find Ephedra branches in most of the graves of the ancient Lop people in the Lop Nur area, such as LF, LS and LD graveyards [26], Cemetery 36 [26], Gumugou cemetery [27] and graveyards around Loulan ancient city [28].
マオウの枝は、ロプヌール地区の古代ロプ住民の墓所内で、しばしば見つかります。LF墓所、LS墓所、LD墓所、第36共同墓地、グムゴウ共同墓地、楼蘭古代都市周辺の墓場などです。

Some Chinese archaeologists suggest that this phenomenon is a kind of plant worship and call it ephedra worship [27,28].
これを、信仰の一つと考えて、マオウ信仰と名付ける中国の考古学者もいます。

マオウ(Ephedra).jpg

The medical use of Ephedra has been known for several thousand years in China.
中国では、数千年来、マオウの薬効が知られていました。

As a central nervous excitant, ephedra was also used in ceremonies to produce feelings of exhilaration by various religious groups including Hindus [29].
中枢神経刺激性のマオウは、高揚感を喚起する目的で、ヒンドゥー教を含む、様々な宗教の儀式で用いられました。

As an ingredient of Haoma or Soma, ephedra has been used for millennia in both Iran and India [30] as a beverage to achieve longevity and immortality [31].
マオウは、ハオマやソーマの成分の一つであり、イランとインドで数千年間、長寿や不死の飲み物として用いられました。
(訳注:ソーマは、ヴェーダの祭祀で用いられる一種の興奮飲料で、 ハオマは、ゾロアスター教において重視される神酒)

The intention of putting tamarisk twigs in the burials has never been studied yet.
ギョリュウの枝を副葬する目的については、未研究です。

御柳.jpg

The grains of wheat (Triticum aestivum) were normally found together with the ephedra twigs (or fragments) in graves [28].
パンコムギ(Triticum aestivum)の種子は、通常、マオウの枝(または破片)と一緒に、墓の中で見つかります。

Moreover, some dried porridge of millet was also preserved in some graves [13].
さらに、干からびたキビのお粥が、いくつかの墓で見つかりました。

These plant remains indicate that wheat and millet were also very precious for the ancient people.
これらの植物遺骸は、ここの古代人にとって、小麦とキビが大変な貴重品だった事を示唆します。

Other plant and animal matter
他の植物と動物由来の物

The straws (Figure 4 a) found in the mud samples were used to reinforce the mud for construction purposes.
泥のサンプル中で見つかった藁は、泥の構造物を強化するために使われました。

This technique is still widely used in the countryside of China.
この工法は、現在でも中国の田舎で、広く使われています。

These straws may have originated from wheat and/or millet.
これらの藁は、小麦やキビの茎だと思われます。

The appearance of the livestock hairs (Figure 4 b) and the sheep manure (Figure 4 c) in the samples illustrates that the earth used to make the covering layer of the coffins must have been obtained from a place frequented by the animals.
サンプル泥中への家畜の毛や羊の糞の混入は、棺を覆う泥が、動物が頻繁に通る場所から採取された事を示します。

The occurrence of many/numerous bones and furs in the Xiaohe Cemetery [13,14], suggests that some of the Xiaohe People were living as herdsmen.
小河墓にある大量の骨や動物の毛は、小河墓の人々が牧畜を営んでいた事を示唆します。

Environmental analysis
環境分析

Based on the plant analyses presented above, the presence of both xerophytic and hydrophytic plants (e.g. Typha) demonstrate that there was enough water in the Small River at that time though it lies in the expansive Lop Desert.
上記の植物分析で、乾生植物と水生植物(ガマ属:Typha )の両方が見られる事から、当時は、広大なロプ砂漠を流れていた小河(Small River)に十分な水量があった事が分かります。

ガマ属.jpg

In the surrounding desert, there were many Ephedra, Tamarix, Artemisia and some members of the Chenopodiaceae plants.
周辺の砂漠には、多くのマオウ属(Ephedra )、ギョリュウ属(Tamarix )、ヨモギ属(Artemisia )と、いくらかのアカザ科(Chenopodiaceae )植物がありました。

マオウ(Ephedra).jpg

御柳.jpg

梭梭 アカザ科(Chenopodiaceae).jpg

ヨモギ属(Artemisia).jpg

The people apparently collected the ephedra and Tamarix for medicinal or religious use from the neighboring arid terrains.
明らかに人々は、医学的、または、宗教的目的で、マオウとギョリュウを、周辺の乾燥地帯から採取しました。

However when the people lived there the site was a well-watered wetland along the Small River.
しかしながら、この人々が住んでいた頃は、この場所が、小河(Small River)沿いの水量豊富な湿原でした。

There the rich alluvial soils of the flooded areas served to support the growth of their crops, and provide areas where livestock could be sustained/raised.
その氾濫原の肥沃な沖積土壌が、穀物の栽培と家畜の飼育を可能にしていました。

Moreover, this location was the habitat of the common Populus euphratica which served in the construction of their houses and coffins.

さらに、この場所には、コトカケヤナギ(Populus euphratica)が普遍的に生育していて、家屋や棺の材料になりました。

コトカケヤナギ.jpg

So although the regional natural environment was very dry, the hydrological living conditions were good enough along the small river for the Xiaohe People to survive.
地域の自然環境はとても乾燥していましたが、小河(Small River)沿いの水利的生活環境は、小河墓人にとって良好でした。

Conclusions
結論

Much research has shown that the climate in the Lop Nur region has been very dry since the Early Holocene [32–34].
多くの研究者が、ロプヌール地域の気候が、完新世の初期以降、とても乾燥している事を示しました。
(訳注:完新世は、約1万年前から現在まで)

However, the so-called dry climate is actually a kind of meteorological myth.
しかし、その乾燥気候は、実際には、気象学的神話に過ぎません。

Fed by melt-water from the Tianshan Mountain, the runoffs of the rivers into the Tarim Basin are actually quite considerable, especially in summer time.
天山山脈の雪解け水が流れ込む川は、タリム盆地に、特に夏季に、かなりの水量を注ぎ込みます。

Many oases depend on such seasonal rivers.
多くのオアシスは、この様な季節的河川に依存しています。

During 3600-3000 a BP, the lake of Lop Nur was very large and there were many deltas around it.
3600年から3000年前までは、ロプヌール湖はとても大きく、周辺には、多くの三角州がありました。

Fishing and hunting were very common at that time [35].
当時は、漁労と狩猟が、活発に行われていました。

According to historical documents, the water area of Lop Nur was still very large during the Jin Dynasty (AD 226-420) [36].
歴史的文書によると、ロプヌール地方の水量は、晋時代(紀元226年から420年)には、まだ豊富でした。

Based on this work, the living environment of the Xiaohe People was a very well developed oasis of deltas, which was surrounded by extensive desert.
本研究で、小河墓人の生活環境は、広大な砂漠で囲まれた、よく発達したオアシスと三角州だったと分かりました。

The main taxa of the vegetation in the oasis were Populus euphratica, Phragmites, Typha and maybe other weedy Gramineae.
オアシスの植物の主な分類群は、コトカケヤナギ(Populus euphratica)、ヨシ属(Phragmites)、ガマ属(Typha)と、おそらく、イネ科(Gramineae)の草本でした。

However, outside the oasis, drought-resistant taxa dominated the vegetation, e.g. Ephedra, Tamarix, Artemisia and members of the Chenopodiaceae.
ところで、オアシスの外には、耐乾燥性の植物分類群が主流でした。マオウ属(Ephedra)、ギョリュウ属(Tamarix)、ヨモギ属(Artemisia)、アカザ科(Chenopodiaceae)です。

The Xiaohe People mainly lived on animal husbandry.
小河墓人は、主に、牧畜で生計を立てていました。

However, they also attempted to cultivate cereals such as bread wheat and broomcorn millet.
しかし、パンコムギやキビなどの穀物の栽培も試みていました。

キビ(Panicum miliaceum).jpg

パンコムギ(Triticum aestivum).jpg

Most of the coffins in the cemetery are canoe-shaped, which may suggest that the Xiaohe People spent some of their lives on water.
墓地の棺の多くは、舟形です。これは、小河墓人が水上生活もしていた事を示唆します。

Bergman [13] inferred that because there are no known settlements near the cemetery, the people probably lived somewhere else along the river and reached the cemetery by boats.
ベルグマンは、墓地の近くには住居跡が見つかっていないので、人々が川沿いの別の場所で暮らし、舟で墓地を訪れたと考えました。
http://eurasianhistory.seesaa.net/article/434094909.html


タクラマカン砂漠から大量に出土中国最古のミイラ群
横堀克己=文  新疆文物考古研究所=写真提供
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107.htm


木棺の中から姿を現した女性ミイラ【M11】

中国の西部、新疆ウイグル自治区の中央部に、中国最大の砂漠、タクラマカン砂漠が広がっている。ここは太古からシルクロードが走り、東西の文化が出会ってきた舞台である。

有名な楼蘭(ローラン)や「さまよえる湖」のロプノールから西に約百キロの砂漠の中に、「小河墓地」があることは70年以上前から知られていた。しかし、長くその存在は砂漠の砂に埋もれて分からなくなっていた。

今世紀になって、小河墓地は再び発見された。そして全面的な発掘調査が行われた。その結果、墓地からは164体ものミイラが発見され、しかもその最下層から発見されたミイラは、科学的鑑定の結果、紀元前2000年にまでさかのぼることが判明した。

さらに、DNA鑑定によって、最下層のミイラは、モンゴロイド(東洋系)とコーカソイド(白人)の混血であることが分かった。

この発見によってタクラマカン砂漠は、東と西の人種が初めて出会い、融合して、独自の文化を発展させた可能性が出てきた。

詳しい学術的報告は近く発表されるが、本誌は新疆文物考古研究所の全面的協力を得て、小河墓地の発掘調査の全容を紹介する。

mirra1 半世紀後に甦った墓地


【砂漠に消えた遺跡】

小河墓地の全景

1934年、中国政府から調査の依頼を受けたスウェーデンの考古学者、ベルグマン博士は、地元の猟師オルドックの案内で、タクラマカン砂漠の中を流れる孔雀河から南に分かれた支流の小河をさかのぼっていた。そして小河から4キロ入った砂漠の砂丘の上に、高い枯れた木の柱が無数に立っているのを発見した。

近寄って見ると、枯れた木は死んだ樹木ではなく、人工的に立てられ、長く強風に晒されて白くなり、亀裂が入っていることが分かった。足元には人骨や毛織物の破片が落ちており、黒い長髪の残るミイラの顔面も見つかった。

この場所は、地元では「有上千口棺材(千を超す棺がある)」と伝承されている墓地だった。ベルグマンはここを「小河5号墓地」と命名し、12基の墓を発掘し、ミイラや木屍(遺体の一部または全部を木でつくったもの)を持ち帰った。

そして1939年、ベルグマンは『新疆考古研究』を発表した。この中でベルグマンは小河墓地の規模の大きさや特異な墓葬形式を紹介し、ロプノール早期の文明ではないかとして世界の考古学界で大きな反響を呼んだ。

ところが長い戦乱や混乱の中で、小河墓地の存在はいつしか忘れ去られ、その場所さえ分からなくなってしまった。

小河墓地が砂漠の中で再び発見されたのは、半世紀以上経った2000年12月11日である。新疆文物考古研究所の王炳華研究員(現在、中国人民大学国学院の特別招聘教授)が深圳のテレビ映画撮影クルーに同行し、GPSなどを用いてついに小河墓地を探し当てたのだった。

【砂丘を越えて発掘現場へ】


砂漠の中を行くには、専用の車両を使わなければならない
2002年12月、国家文物局の許可を得て新疆文物考古研究所は小河墓地考古隊を編成し、1カ月間の小規模な試掘を行うことになった。

タクラマカン砂漠は新疆ウイグル自治区南部にある中国最大の砂漠。北は天山山脈、南は崑崙山脈に囲まれたタリム盆地の中央部にある。東西約千キロ、南北約400キロ、面積33万7600平方キロ。流動砂丘が85%を占め、砂丘の高さは普通80〜150メートル、中には200〜300メートルに達するものもある。

小河墓地は、そのタクラマカン砂漠の東部、有名な楼蘭古城遺跡から175キロ西にあり、もっとも近い集落であるアラカン鎮からも36キロ離れた砂漠のど真ん中に位置している。

12月26日、考古隊は二両の砂漠用トラックに発掘機材や物資を満載し、ロプノールの西側の農墾兵団34団のティエカンリク鎮を出発し、水のないタリム河を越え、小河墓地に向かった。まる二日走っても、直線距離で十数キロしか走れず、27日夜、トラックはとうとう砂に車輪を取られ、動けなくなった。

GPSで観測した結果、小河墓地までまだ15キロ余りあった。考古隊はここで三つの班に分かれ、一班はそこに荷物とともにとどまって野営し、イディリス・アブドゥラスト新疆文物考古研究所長ら5人の班は1人30キロの荷物を背負って小河墓地に向かい、もう一班は来た道を戻って住民からラクダを借りに行った。イディリス所長らは十数時間後、小河墓地に到着、その他の班はラクダで荷物を運び、2003年1月3日までに発掘現場に勢ぞろいした。

【林立する木は生殖崇拝】


発掘作業に従事する考古研究者たち

小河墓地は高さ約7メートルの砂丘の上にあり、長さ74メートル、幅35メートル、約2500平方メートルの範囲に、周囲を木製の杭で作られた木柵に囲まれていた。そして砂丘の表面には、さまざまな形をした太い胡楊木(ポプラの一種)の立木が全部で140本立てられていた。

胡楊木の立木は、ベルグマン博士が小河古墓を発見したときのまま、数千年の強風と烈日に晒されて立っていた。調査の結果、立木はその下に埋められた棺の前方に立てられており、男性の棺の前に立てられた立木は舟の櫂の形をしている。女性の棺の前に立てられた立木は柱状であった。

櫂は、大きなものは高さが約2メートル、幅約70センチもあり、小さなものは高さ1メートル30センチ、幅10センチほどであった。櫂の表面は黒い塗料が塗られ、櫂の柄は赤く塗られていて、柄の底は七重の旋回文様が彫りこまれているものが多い。

女性の棺の前に立てられた柱状の立木は、高さが1メートル50センチから1メートル80センチで、形状はさまざまである。先端はどれも赤く塗られ、毛糸がぐるぐると巻きつけられている。この櫂状と柱状の立木はいったい何を意味しているのか。学者たちは櫂状の立木は女性性器を、柱状の立木は男性性器をそれぞれ象徴していると考えている。小河墓地がつくられた時代、人々は生殖崇拝の観念を持ち、多産を願っていた、と考えられる。

また一部の立木の先端に小さな銅片がはめ込まれているものも発見された。楼蘭の遺跡からすでに青銅器が見つかっており、この時代すでに、シルクロードを通じて青銅器の交易が行われていたことを示している。

考古隊は砂丘の下にテントを張り、小河墓地の実測調査や表面に露出している棺やミイラの整理、収集を行った。砂丘の上には棺材やミイラの残骸、毛織物などが散乱しており、自然破壊だけでなく人による盗掘も行われ、140基以上の墓葬がすでに破壊されたと推定された。

また考古隊は、砂丘の東の平坦な場所で3メートル近い八角形の木柱を発見、その付近から厚い木板や横梁、白い粘土などを見つけた。これはベルグマンが小河墓地を発見した当時、あったという「立木」と「木造の小屋」の跡ではないかと推定されたが、中にあったという「木棺」と「女性のミイラ」は跡形もなく消えていた。

考古隊は3週間をかけた試掘調査で、地表に露出した四基の木棺を発掘・整理したが、その棺の一つを開けて見ると、驚いたことに中からミイラではなく、木でつくられた135センチの「木屍」が出てきた。「木屍」は木で顔や四肢がつくられていた。
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107.htm

mirra2 ミイラはこうして発掘された
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_2.htm


【砂嵐で中断された発掘】

南区のもっとも下の第5層と一部の第4層がついに姿を現した

試掘調査の結果を踏まえて2003年10月からは、イディリス新疆文物考古研究所長を隊長に、全面発掘が行われることになった。10月は砂漠の気候が比較的安定し、条件が良い。数十トンの発掘機材や生活物資を小河墓地の下まで運びこまなければならない。そのルート探しのため、イディリス隊長ら二人が道路のあるアラカンから徒歩で砂漠を進み、発掘現場までの200キロ以上を往復した。

 ルート探しに時間がかかり、12月末になってタリム河が結氷したので考古隊は3日をかけて砂漠を越え、2003年の元日に現場に到達した。そこにテント村をつくって、農民工を雇って本格的な発掘調査が始まった。

 12月の砂漠は零下34度にまで冷え込む。日中、太陽が出れば暑くなり、昼夜の温度の差が激しい。砂嵐もたびたび襲ってくる。しかし、水は貴重品なので、頭を洗うのはもったいない。そこで男性の隊員たちは髪の毛をきれいに剃ってしまった。

 しかし発掘は3カ月でいったん中止された。春から夏にかけて猛烈な砂嵐に襲われたからである。考古隊は、発掘現場に看守のガードマンを残して引き揚げた。後にガードマンはあまりの孤独に、精神に異常をきたしたという。2004年9月から、今度は新疆文物考古研究所と吉林大学辺疆考古研究センターが合同で発掘が再開され、2005年3月に発掘は終了した。

 その発掘の『簡報』は2007年10期の雑誌『文物』に掲載されたが、それは、発掘調査の一部であり、全面的な報告書の作成は現在も進められている。発掘の全容を知るために、5月、新疆ウイグル自治区のウルムチに飛び、新疆文物考古研究所でイディリス所長を訪ねた。また、小河墓地発掘の全過程に参加した李文瑛・同研究所副研究員から詳しく話を聞いた。

【中国最古のミイラと判明】

発掘現場近くに建てられたテント村

発掘調査の結果、小河墓地は南区と北区に分かれており、北区からは28基の墓葬が、南区からは139基の墓葬がそれぞれ発掘された。これに、すでに破壊された190基を加えると357基の墓葬があったことになる。

 出土したミイラは、全部で145体。いずれも「干屍」であり、エジプトのミイラのように、人為的処理をくわえてつくられたものではなく、自然に乾燥したものである。内訳は男性54体、女性79体、性別不明12体。その中に子どものミイラは19体あった。

 このほかに「木屍」が10体(男性8体、女性2体)、体の一部が「木屍」で一部がミイラのもの二体(いずれも男性)が発掘された。「木屍」が何の目的で埋葬されたのかははっきりしない。研究者たちは、行方不明になり、遺体のない人の代わりに埋葬された、あるいは遺体の一部がなんらかの理由で損壊され、その部分を木で補った、または他の墓地から改葬された、などの仮説を立てている。

 いずれにせよ、145体の「干屍」と10体の「木屍」が一カ所の墓地から一度に出土したことは、世界的に例がない。

 南区の墓葬は、時代順に5層に分かれていることが判明した。一番表層の第1層からは13基、その下の第2層から27基、第3層から23基が発見された。炭素14の崩壊による年代測定の結果、1〜3層の絶対年代は紀元前1450〜1700年と分かった。

 第3層の下は約1メートルの砂が堆積し、その下に第4層があり、38基の墓葬が発見された。さらにその下には最下層の第5層があり、やはり38基の墓葬が確認された。これを炭素14により年代測定すると、紀元前1700年から2000年であることが判明した。

 これまで中国で発見された最古のミイラとされる有名なミイラ「ローランの美女」は紀元前1800年といわれるので、小河墓地の最下層から出土したミイラは中国最古のミイラと言える。


【続々発掘されたミイラ】


マントを取り除いた女性ミイラ【M11】

第1層、第2層から発掘されたミイラは、一般に頭を東、あるいは東北に向け、まっすぐ体を伸ばして上向きに寝ている。一部の死者の顔には、赤い線条が描かれ、体全体に乳白色の糊状の物質が塗られている。

 死者は頭にフェルトの帽子を戴き、足には革靴を履き、腰に腰当を着け、身に毛織物のマントを巻きつけている。副葬品は、身につけた衣服や首飾り、腕輪のほか、どの墓にも必ず、マントの外の右側に、草で編んだカゴが置かれている。死者の体の上には、大量のマオウ(麻黄)の小枝や動物の耳、動物の筋をよって作られた短い縄が置かれている場合が多く、体の下には小麦やトウモロコシの粒がばらばらに置かれている。そのほか、細長いタマリスク(紅柳)の棒や鳥の羽でつくられた羽飾りなどがよく見られる。

 墓の主人の性別の違いによって、着ている服装や副葬品は明らかな違いがある。例えば、男性のマントの穂(垂れ下がり)はスカートにあることが多く、女性のマントの穂は首から肩に多い。男性の腰当は帯のようで、女性のは短いスカートのようだ。男性の棺の前にある櫂の立木の両側には、死者が使う弓と木製の矢が別々に立てられ、体の上には羽のついた矢が置かれている。女性は、体の上に「木祖(木制の男根)」や革袋、木の櫛が置かれている。さらに特別な一部の副葬品、例えば牛の頭、人面をはめ込んだ木製の杖などは、墓主の身分と関係があるかもしれない。 

 出土した多くのミイラの中で、保存が比較的良く、小河古墓の典型的なミイラを紹介しよう。

【M11】

第1層、南区の東端の中央部にあり、墓地の砂丘の頂部から発掘された。ミイラは、保存がよく、美しい顔立ちが印象的である。


発掘された女性ミイラ【M11】

木製の棺は長さ2.2メートル。棺の上は3枚の牛の皮で覆われ、棺頭は黄色、棺尾は白、中央部は斑の牛皮。その上に白いマント、マントの上に12本のタマリスクの枝が置かれていた。

墓の主は成年女性で、頭を東に向け、仰向きに手足をまっすぐ伸ばし、頭と脛と足先以外は全身を大きな白い毛織のマントで包まれている。

女屍の身長は152センチ、全身に乳白色の糊状のものが塗られている。体はやや豊満で、胸部、腹部が著しく肥満している。眼窩は深く落ち窪み、亜麻色の長い睫毛、高くまっすぐな鼻、少し開けた口、薄い唇。髪は亜麻色で多く、自然に頭の真ん中でわかれて胸にまで達する。

棺内には白色の羊のフェルトでつくられた円い帽子、白色の羊毛で編まれた毛織のマント、短いスカート式の腰当、革靴、首飾り(玉珠、白色石珠、黒色石珠を連ねたもの)、ブレスレット(淡青色の蛇紋石玉を連ねたもの)、木製の留め針(マントをとめる)、櫛、草で編んだカゴ、小動物の皮でつくった皮袋、羽飾り、木祖などがあった。

【M13】

南区の北側の砂丘の第一層から出土したミイラも保存状態がよい。蓋の板は11枚で、板の上に黒色の直線が描かれている。棺の上は3枚の牛皮で覆われている。

墓主は成年の女性。頭を東に向けている。頭と足、脛のほかはすっぽりと白地に大きな赤い縦じま文様の毛織のマントで包まれている。

マントの外の腹部の上方には、大きな牛の角が置かれていた。屍体の右腰骨に立てかけるように、フェルトで蓋をした草篭が置かれていた。

そのほか、円形の銅片7枚がついた毛織物の腰当、乳白色の糊状の物質が塗られた革靴、珠を連ねた首飾り、腕飾りを持っていた。左乳房には木彫の人面像が置かれ、右腹部には大きな皮袋と3本の羽飾りがあった。左腕の外側には木祖が一つ、右手の下に二個の小さな石があった。また、タマリスクの枝、木製の櫛、黍の粒、麻黄の小枝、動物の耳などが出土した。

女屍の身長は150センチ。死者の顔とマントから出ている大腿部は乳白色の糊状の物質が塗られていた。顔はやや痩せ、両方の頬の下は深く落ち込み、頬骨は高く、眼窩は深く落ち窪んでいる。口をしっかりと閉ざし、明らかに扁平で長い。亜麻色の頭の髪は短く、顎よりも長くない。髪の毛にも糊状の物質が塗られていた。顔面部の糊状物質をとり除くと、額から鼻にかけて赤い横線が描かれていることが分かった。

木彫人面像は、長さ9.1センチ、幅6.7センチ、鼻の高さ2センチ。平面は楕円形で、正面は誇張された目、耳、鼻、口、眉が浮き彫りにされ、背面は内側に凹型になっている。人面の表面にはきわめて薄い皮状の物質が糊付けされており、その上に赤い色が塗られている。人面は眉が発達し、眼窩は落ち窪み、二つの小さな珠をはめ込んで眼球とし、鼻は高くそびえ、鼻梁は7本の細い紐が横に載せられている。口の形は長方形で、白い羽の管を切断してつくった八個の「歯」がはめ込まれている。額の頂上部に小さな孔があり、おそらく紐を通したものであろう。  

【M24】

矢や棒を持った男性のミイラ【M24】

南区の中部の地表から1.7メートル下の第2層から発掘された。第1層の3つの墓と第2層の2つの墓の下にあった。棺は4枚の牛皮で覆われ、墓主は成人の男性で、身長164センチ。毛織物のマントで体をすっぽりと覆われ、腹部の上には赤や黒に塗られた大きな牛の頭が置かれていた。体の右側には、矢や先の尖った棒などが多数置かれていた。

棺内から発見された人面像を象嵌した木仗は長さ66セン。これは墓主の身分を象徴していると思われる。

【M100】

南区の第4層と第5層と北区からは、特徴のある棺が発見された。それは棺の蓋の上が泥で固められている「泥棺」である。南区の第4層の【M75】、第5層の【M100】、北区の【BM1】【BM2】は「泥棺」であった。

【M100】の蓋を開けると、中から長さ134センチ、幅40センチの12枚の板からつくられた木製の板室があり、その中から墓主である成人女性とともに、木製の人形や木罐などの副葬品が出ていた。【BM1】【BM2】も墓主は女性で、木製の人形が出土した。

李文瑛・副研究員は、この「泥棺」を女性の占い師(巫女)の墓ではないかと見ている。これがもっとも深い層から出てきたことや、上層部からは出土しないことなどから見て、巫女を中心とする社会から男性の族長を中心とする社会に移行していったのではないか、と言っている。

【M19】

第2層からは嬰児のミイラが発掘された。毛織物に包まれていて目鼻立ちがはっきりしている。子どものミイラには嬰児も幼児もあったが、全体的にみて子どもの死亡率がとくに高いということはなかった。

ミイラとともに動物の耳や小麦などが出土した。発掘当初は男の子か女の子か分からなかったが、棺の近くに櫂が立てられていたことから、男の子と推定された。
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_2.htm

mirra3 4000年前に存在した社会は
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_3.htm


イディリス・アブドゥラスト新疆文物考古研究所長

小河墓地の発掘によって、いまから4000年前に、タクラマカン砂漠には、かなり文明の発達した社会が存在していたことが明らかとなった。そのころ中国では、最古の王朝である夏王朝が起こり、エジプトでは古王朝が終わり、12王朝が始まったころである。東西の文明を結ぶシルクロード上にあったと思われる小河古墓を築いたのは、どんな人たちであったのか、どんな社会を形成していたのか。発掘の総責任者であるイディリス・アブドゥラスト新疆文物考古研究所長に話を聞いた。

――小河墓地の最下層から出土したミイラの人種は?

■イディリス所長 これまで楼蘭など新疆ウイグル自治区の遺跡から出土した非常に古いミイラは、コーカソイド(白人)と考えられてきました。小河墓地の遺跡から発掘されたミイラも、外見的には眼窩が落ち窪み、鼻は高く、コーカソイドのようでした。しかし、最下層のミイラの一部を北京大学加速器実験室で鑑定してもらったところ、この5月、驚くべき報告を受けました。それはDNA鑑定の結果、モンゴロイド(東洋系)のDNAも発見されたというのです。つまり彼らはコーカソイドとモンゴロイドの混血の可能性が出てきたのです。

これは、4000年前かそれ以前に、シルクロードで、西から来たコーカソイドと東から来たモンゴロイドがタクラマカン砂漠で初めて出会い、混血したことを想像させます。壮大な人種の移動と融合が考えられるのです。

――彼らの「村」の規模はどのくらいでしょうか。

■イディリス所長 500年から600年の間に約350基の墓をつくったのですから、「村」の規模はそれほど大きなものではなかったでしょう。墓地と集落とはそう遠くは離れていないと思われますが、墓地を中心に10キロ四方からはいまのところ住居址は見つかっていません。

――彼らはどんな社会をつくっていたのでしょうか。

■イディリス所長 男女の性器を象徴する木柱や木櫂が大量に出土したことや、女性ミイラが男根を象徴する「木祖」を持っていたことなどから考えて、彼らは、生殖崇拝の信仰を持っていたと考えられます。これは「万物の豊産」の願いを反映しています。死後に顔面を白く塗ったり、赤い線を描いたり、人面像や木製人形を副葬したりしていることから見て、この時代にすでに宗教が存在していたことは明らかです。

――どのようなものを生産し、どのように暮らしていたのでしょうか。

■イディリス所長 棺の中から大量の小麦やトウモロコシが出てきました。小麦は鑑定の結果、人為的に改良された種類であることが分かりました。この小麦には大量の水が必要であり、当時は灌漑が行われ、小麦の畑が一面に広がっていたと思われます。

また、棺は3枚の牛皮で覆われているのが普通で、棺の中や木柱に大きな牛の頭蓋骨がいっしょに葬られていることから考えると、牧畜が盛んに行われていたと思われます。一つの棺を作成するのに、少なくとも3本の胡楊木が伐られたので、当時は胡楊木がかなり生い茂っていたと考えられます。

しかしこの一帯の自然は脆弱で、いったん破壊されると回復することができないため、ついに砂漠化してしまったと推定されます。

――外部の他の部族との戦争や争いがあったのでしょうか。 

■イディリス所長 男性の棺から矢が見つかっているうえ、鳥や小動物の羽や毛皮が見つかっているので、狩猟が行われていたことは確かです。武士のようなミイラも発見されていますが、ただ、多くのミイラの中で刀傷のあるのは一体だけで、矢傷など大規模な戦争を示す証拠はありません。おそらく平和な生活だったのでしょう。

人民中国インターネット版 2009年2月5日
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_3.htm




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2014年9月 8日 遺伝子系統と文化は必ずしも一致しないという話(1)

このページの地図を参照しながら読んでください。
http://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml


ミトコンドリア遺伝子やY染色体を使って、民族移動の歴史をたどることができるという話は聞いたことがあると思います。遺伝子の痕跡が「人間」の移動を説明していることは間違いありません。しかし、ある集団の中で遺伝子に変異が生じた時期とその集団が新しい文化を獲得した時期は必ずしも一致しません。


その一例をY染色体のRハブロタイプの分布に見つけました。R1bとR1aというハプロタイプは中央アジア・欧州・イラン・インドに広く分布し、印欧語族の分布範囲とも重なるため、印欧語族の遺伝子ではないかとも言われています。

R1bは1万年くらい前にカフカス山脈付近で原形が生まれ、6千年前にバルカン半島に進入し、3千年前にはアイルランドやイベリア半島西端にまで到達したと考えられています。

現在R1bが人口の50%を超えているのはアイルランド、英国、フランス、スペインでこれはローマ帝国とゲルマン人の侵入以前にケルト人の文明が広がっていた地域です。できたばかりのころのローマ共和国はケルト人に圧迫されていました。ローマ人の方が臣従していたという説もあります。ケルト人は牧畜と簡単な農耕をし、馬車を持っていました。

しかし面白いことにR1bが一番多く住むのはスペインのバスク地方で、バスク人の母語はバスク語なのです。バスク語は系統不明の言語で、印欧語とは全然関係がありません。

同じくR1bの比率が高いのはアイルランドとスコットランドとフランスのブルターニュ半島です。そこにはブリトン人やピクト人などが住んでいたといわれています。彼等が話す言語は非常に原始的なケルト語、もしくは系統不明の言語だったとも推測されています。ローマがこれらの地域に進入してきた際、彼等は車輪を持たず、牧畜もしていませんでした。

つまりケルト人は生粋の印欧語族なのですが、R1bが非常に多い地域の人たちは必ずしも印欧語族ではないのです。そして移動を始めた頃のR1bは車輪を持たず、農耕も知らない狩猟採集民でした。かといって彼等が野蛮だったかというとそうではなく、ミトコンドリア遺伝子から、彼等はアルプスで見つかったミイラのアイスマンと同系統と推測できるのですが、アイスマンは高純度の銅器を持ち、縫合された衣類を着て、医療を受けた形跡もあり、成熟した狩猟採集民でした。

R1bは東にも進んでいて、、3〜4千年前のタクラマカン砂漠(中国西部)の遺跡で金髪でコーカソイドの特徴を持った骨のミイラが発見されています。オアシス都市に残る文書から、彼等がケルト語に近い言語を使っていたことがわかっています。

現在でも中国の羌族、チベット族、満州族の一部にR1bを持つ人がいます。古代中国で羌、西戎、玁狁、狐とされた遊牧民はR1bを持つ人々であった可能性があります。

タクラマカン砂漠にオアシス都市を作った人たちは、農耕をし、都市をつくり、ケルト語に近い言語を話す人たちでした。そこよりもさらに東に進んだ羌、西戎、玁狁、狐はバスク人、ブリトン人、ピクト人に近かった可能性があり、必ずしも農耕はせず、印欧語も話していなかったかもしれません。

口語としての漢語は文法が英語と異常に似ています。英語というのはラテン語やゲルマン語と比較して語順に混乱があり、副詞と前置詞を多用する特徴があります。この英語の副詞と前置詞は、古代には動詞だった可能性があるのですが、英語と漢語は中央アジアを出発したばかりのR1bが使っていた言語ではないかと私は推測しています。

まあ、さすがに英語と漢語を同一系統と結びつけるのは話が飛躍しすぎかもしれませんが、R1bと印欧語と農耕は必ずしも一致しないのです。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-aee4.html

遺伝子系統と文化は必ずしも一致しないという話(2)


欧州西端と中国北部まで到達したR1aを仮にR1a第1陣、英仏西中心部とタクラマカンで繁栄したR1aを仮にR1a第2陣とします。彼等が持っていた技術を並べると次のようになります。

R1b第1陣・・・遊牧、原始的な印欧語、銅の精練、鍼灸?

R1b第2陣・・・遊牧、畑作、印欧語(ケントゥム派)、乗馬、車輪

民族が次のようになります。

R1b第1陣・・・バスク人、ピクト人、ブリトン人、羌、玁狁、狐

R1b第2陣・・・ケルト人、トカラ人、月氏


ケントゥム派は印欧語の分類です。印欧語は印欧祖語におけるkをkで発音するかs(ts)で発音するかによってケントゥム派とサテム派に分類できます。

サテム派印欧語を使うのははスラブ人とイラン人とインド人(ヒンドゥー語)です。東側のイラン人とインド人は自らをアーリア人と自称しました。19世紀と20世紀前半のドイツの国粋主義者は自らをアーリア人と規定しました。これはインドを圧倒的な武力で制圧した(と当時は信じられていた)アーリア人とゲルマン人を同一視したいという願望から生まれた説ですが、言語と遺伝子からは、イランとインドのアーリア人に最も近いのはゲルマン人ではなくてスラブ人です。

このサテム派印欧語族の分布とよく一致するY染色体がR1aです。R1aはポーランド、ベラルーシ、ロシア、イランに多く分布し、インドではバラモン階級に多く出現します。カスピ海を中心としてC字を倒したように分布しているので、元々カスピ海を中心とした地域に居住していて、何らかの理由で東西に広がっていって、故地からは出て行ったことが容易に推測できます。

アーリア人とスラブ人がインドと欧州に現れた時期は遅いため、歴史の記録に残っています。アーリア人がインド西北部に現れたのは3,500年前です。アーリア人と推測されるメディア人とペルシャ人がバビロニアに現れたのは3,000年前です。

しかしです。私たちはここで再び印欧語族とハブロタイプRを結びつける説の反証を見つけます。現在カスピ海周辺に多く分布するハブロタイプはJ2です。J2は現在のアルメニア、アナトリア半島(トルコ)、ギリシャ、南イタリアに多く分布します。


これらに地域に住む人たちが使う言語はアナトリア半島以外は印欧語です。アナトリア半島に住む人がトルコ語を話すのは、千年前に中央アジアからトルコ人が侵入してきて、トルコ語を強制したからです。それまではアナトリア半島に住む人たちはギリシャ語を話していました。

J2系はバビロニア文明を作った人達ということになっています。そしてJ2aはR1aの故地であるカスピ海沿岸を占領しています。だとするとおかしなことになります。東側(カスピ海周辺)と西側(バルカン半島)で辻褄が合わないのです。

東側のシナリオはこうなります。5千年前にはカスピ海周辺にアーリア人 (R1a)が住んでいました、そこに南からバビロニア人(J2)がやってきて、アーリア人を追い出しました。アーリア人は2千年かけて時計回りにカスピ海を一周して、3千年前にイラン側からバビロニアに侵入しました。

西側のシナリオはこうなります。まずバルカン半島に東側からバビロニア人と同じ遺伝子をもつJ系が侵入。次に南側から古代エジプト人と同じ遺伝子をもつと推定されるE系が侵入。R1bはギリシャには入って来れなかったと推測されています。最後に1,500年前になってスラブ人(R1a)がギリシャ車に侵入しました。

ギリシャ語はケントゥム派印欧語族なのに、だれがバルカン半島にギリシャ語を持ち込んだのか不明なのです。

この矛盾はハブロタイプRとインド・ヨーロッパ語の発明者を同一視することによって生じています。最初に言ったように遺伝子の発生と文化の発生は必ずしも一致しないのです。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-873c.html

遺伝子の系統と文化は必ずしも一致しないという話(3)


欧州の学者はR系はインド・ヨーロッパ語を生み出した人達と考えています。けれども、ギリシャ・アナトリア半島にはR系の侵入を受けなかったのにインド・ヨーロッパ語を話すギリシャ人がいます。

この矛盾を解く鍵はヒッタイト人にあります。ヒッタイトは3,000年ほど前にアナトリア半島に現れた遊牧民で、強力な戦車軍団をもち、世界で初めて製鉄に成功した人達です。ヒッタイト語はケントゥム系印欧語族ではないかとされています。


現在J2が30%以上分布するのは、東からアルメニア・トルコの首都アンカラ周辺・シリア沿海部・アナトリア半島西部・ボスポラス海峡・中央イタリア・カラブリア・シチリア東部です。

アンカラ周辺はかつてヒッタイトの首都ハットシャがあった地域です。ボスポラス海峡とアナトリア半島西部にはギリシャと似た文明を持つ都市群がありました。有名なトロアはその代表的な都市です。中央イタリアはローマに先行する文明であるエトルリア文明があった地域で、カラブリアとシチリア東部は古くからギリシャの植民地がありました。

エトルリア人と古代ローマ人は自分たちはアナトリア半島西部にかつてあった都市トロイの末裔であるという始祖伝説をもっていました。古代ローマ人がJ系であるとこの始祖伝説には信憑性があることになります。

アナトリアより西に分布するJ系はインド・ヨーロッパ語を話す人達であり、さらにJ系ではないかと推測されるヒッタイト人が使ったというヒッタイト語はかなり古くにラテン語やギリシャ語から分離したと推測されています。

そしてJ2系はフランス、スペイン、英国南部に10〜20%分布しています。これはケルト人の地域です。

整理してみましょう。

1.R1b第1陣が話していた言葉は非常に原始的なインド・ヨーロッパ語、あるいはインド・ヨーロッパ語を話していなかった可能性がある

2.南回りで広まったインドヨーロッパ語(ヒッタイト語・ラテン語・ギリシャ語)を伝えたのはR系ではなくJ2系の可能性が高い

3.R1a(アーリア人・スラブ人)の故地であるカスピ海沿岸にはJ2系が住んでいる


これらの事実から導きだされるのは、インド・ヨーロッパ語を生み出したのはR系ではなくJ2系であるということです。J2系はメソポタミア文明の中心になった人達です。メソポタミア文明を担った人達の言語はインド・ヨーロッパ語ではありません。

しかし、遺伝的には近くても全く違う言語を話すことはそうおかしなことではありません。

•約1万年前にJ2系がカフカス山脈付近でインド・ヨーロッパ語を発明。

•そのとき既にR1bは西と東に広がりつつあった。最初に出発したR1b系はインド・ヨーロッパ語を知らなかった。

•J2とRは8千年くらい前にカフカス山脈で合体。この合体部族は遊牧・簡単な畑作・都市が融合した文明を作る。彼等は畑作と都市をメソポタミアから学んだのかもしれないし、あるいは独自に編み出したのかもしれない。

•J2+Rが南回りに進んだのがヒッタイト人・エリトリア人・ローマ人

•J2+Rにエジプトからの入植者(E系)が合体してできたのがギリシャ人。

•J2+Rが北回りに進んだのがケルト人とトカラ人。

•やがて6千年くらい前にJ2+Rの集団の中からR1a遺伝子が登場これがスラブ人とインド・イラン・アーリア人の祖先となる。彼等の間でサテム派の発音が流行して、サテム派のインド・ヨーロッパ語が生まれる。


というように整理できるのではないでしょうか。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-a902.html

遺伝子の系統と文化は必ずしも一致しないという話(4)


R1b+J2が出発した後にもカスピ海周辺にはR+J2が住んでいたと考えられますが、5千年前に彼等は故地を出て行き東と西に拡散します。西に進んだのがスラブ人で、カスピ海を時計回りに進んだのがインド・イラン・アーリア人です。両者はR1aの遺伝子をもっていました。


しかし「アーリア人」とR1aを同一視するのは早計で、高度な乗馬技術を持つアーリア人は3千年前から1,500年前にかけて、中央アジアから何度もメソポタミア・イラン高原・タクラマカン砂漠に侵入するのですが、遺伝子の分布からはアーリア人とされた人達には様々な組み合わせがありそうなのです。

1.スラブ人・・・R1a

2.インド・アーリア人・・・R1a+R2+J2

3.パクトリア人・スラブ人・スキタイ人・・・R1a+J2

4.ソグド人・ホラズム人・・・R1a+J+Q

5.月氏人・トカラ人・・・R2b+J


このことから、サテム派インド・ヨーロッパ語を発明したR1a+J2が中央アジアに住む様々な民族と融合したのがアーリア人るといえます。

スキタイ人・月氏人・トカラ人は研究者によってアーリア人に含めたり含めなかったりします。スキタイ人が話していた言語は不明です。月氏人とトカラ人が話していたのはケントゥム派インド・ヨーロッパ語です。アーリア人の要素をサテム派インド・ヨーロッパ語であるとすると、彼等はアーリア人には含まれなくなります。

また、ホラズム地方やドナウ川下流域や黒海北岸では4〜5千年前の都市と農耕の痕跡が見つかっています。今ではインドと東アジアでメソポタミアの影響を受けずに独自に農耕が始まったことはほぼ確実ですが、これらの地域でも、独自に農耕が始まっていた可能性があります。

ホラズム地方に多いのはR1aとQの合体部族で、Qはシベリアの狩猟採集民とネイティブアメリカンに多いハプロタイプです。ホラズム人は定住性が高かったと言われています。また、彼等はインダス文明に鉱物を供給していた人達かも知れません。


ドナウ川下流域や黒海北岸に多いのはI2aで、この遺伝子は1〜2万年前にヨーロッパで独自に発生したと言われています。欧州の学者は聖書の影響が強すぎるのか、欧州の農耕は全て中東起源と考えるのが主流らしいですが、I2aによる欧州独自の農耕都市文明を想定しても良いのかもしれません。

I2aは欧州全域に広がっているので、氷河期が終わった後に最初に欧州全域に広がったのは彼等で、独自の言語を使用していた可能性があります。R1b

はI2aの中心部(ドナウ川流域)を避けるように分布し、しかし融合もしています。

I2aとR1bの関係は日本の縄文系と弥生系の関係に近いのかもしれません。


1.1〜2万年前・・・I2aは成熟した狩猟採集民で、ドナウ川流域から黒い森にかけての森林地帯で狩猟採集生活をしていました。一部は簡単な畑作をしていました。

2.8千年前・・・そこにまず狩猟採集民のR1b第一陣がやってきた。彼等は寒冷でやや暮らしにくく、I2aがあまり分布していなかったアルプス・バスク・ブルターニュ半島・アイルランド・ブリテン島に住むようになった

3.6〜8千年前・・・次に牧畜と灌漑農業の技術を持つR1b(ケルト人)がやってきた。彼等は狩猟採集には適していない草原や低地を開拓して住んだ

4.黒海沿岸からカスピ海にかけてスラブ人(R1a)が分布

5.I2a,R1b,R1aがヨーロッパ全体で混血し合う

6.3〜4千年前・・・騎馬技術を持つJ2+R1bが黒海沿岸に侵入、スキタイ人(I2a+J2+R1b)が生まれる

7.3,500年前・・・スキタイ人がカスピ海沿岸からスラブ人を追い払う

8.スキタイ人から逃れたスラブ人に押されて、インド・イラン・アーリア人が南下


R系ハプロタイプの分布とインド・ヨーロッパ語族の分布の間の矛盾から、私なりに西洋の民族移動を推測してみました。ヨーロッパの縄文人とも言えるI2aがどのような文明を持っていたのか。5千年前には中央アジアで高度な都市文明を作っていたと考えられるQ系とネイティブアメリカンとの関係など西洋の古代も未解明で興味深い話題がたくさんあります。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9ad4.html





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ドキュメンタリー 文明の道「第05集 シルクロードの謎 隊商の民ソグド」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FdBYI5F36To&index=24&list=PL68Eg7O2Flae_s6n1BfiPUGgs6t80-qrA

ソグド人は、色黒の肌、深目、高鼻、多鬚などのコーカソイドとしての身体的特徴が挙げられる。


ソグド人の言語はソグド語である。ソグド語は印欧語族イラン語派に属する中世イラン語の東方言のひとつであり、同じ仲間としてはホラズム語、バクトリア語、コータン語がある。

紀元前6世紀にソグディアナがアケメネス朝の支配下に入ると、アケメネス朝からアラム文字が流入し、初めはアラム文字でアラム語を記していたが、次第にアラム文字でソグド語を記すようになり、最終的にアラム文字を草書化してソグド文字を開発し、ソグド文字でソグド語を記すようになった。やがてソグド人が商人として各地に散らばったため、ソグド語・ソグド文字は中央アジアのシルクロードにおいて国際共通語となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B0%E3%83%89%E4%BA%BA




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シルクロード 謎の民/タクラマカン砂漠/楼蘭の 末裔? - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vJy4Mx7QKKk&index=17&list=PL68Eg7O2Flae_s6n1BfiPUGgs6t80-qrA

2016年05月21日
日中共同制作番組  「シルクロード謎の民 〜タクラマカン砂漠 楼蘭の末えい?〜」顛末(てんまつ)記 BY 池上達則
https://www.nhk.or.jp/bs-blog/2000/245289.html

番組の舞台は世界で2番目に大きな、中国タクラマカン砂漠。

「死亡之海(死の海)」と呼ばれる世界でも有数の乾燥地帯。しかしこの砂漠の奥深くに、周囲から孤絶した“謎の民”がいる!?

古代シルクロードの文化を守りながら生きる人々の暮らしを描き、その歴史ミステリーを紐解いて行くドキュメタリー番組。旅人は俳優の満島真之介さんです。


“かなりあやしいな…”

番組のきっかけは2015年春、中国・北京テレビからの連絡でした。タクラマカン砂漠のど真ん中に、謎の民がいると言うのです。北京テレビとNHKエンタープライズは番組制作の提携を進めており、中国のレアな情報が舞い込んできます。しかしこの知らせには、正直半信半疑でした。

でも調べていくうち、色々分かって来ました。

● 砂漠の奥深くにオアシスがあり1500人が暮らしている(よし!)

● 他の新疆ウイグル自治区で無くなった古代の風習が残っている(よし!)

● 近くの町から240キロ。砂漠に道は無く陸の孤島である(よし!)

● 既に携帯電話が通じ太陽光発電の設備も入りつつある(あれ!?)

● 住民は砂漠をバイクに乗って移動する(あれ!?)

● 緑の瞳をした美しい女性たちが暮らしている(よし!)


まもなく砂漠に舗装道路が作られ、オアシスの伝統的な暮らしもあと数年で消えてしまう。変わりつつある状況を含め番組にしようと、紆余曲折を経ながら、国際共同制作のプロジェクトが立ち上がることになりました。

オアシスの暮らしを3つの家族を通じて描きました。詳しくは是非番組をご覧頂ければと思うのですが、私が一番魅了されたのは、視力を失いながらも子どもを育てるヤコプ父さん。オアシスの主な生業である羊の牧畜が出来ないので、漢方薬掘りなど日雇い作業で収入を得ています。子どもが村を出て町の小学校で寄宿生活をしており(村の学校は小学3年までしか通えない…)仕送りが必要なのです。


実は私も2人子どもがいて保育園に通わせています。もちろんヤコプ父さんほど生活は大変でなく、パパとして頑張ってもいないのですが、彼を見て話しを伺っているうちに、肩の力が抜けて行きました。初めは“謎の民”の神秘的な生活を描かなくてはと緊張していたのですが、次第にどこの世界でも同じである、家族やふるさとを思う気持ちを、同じ目線で描けばいいのだと教えてもらったような気がしたのです。


最後の取材が終わり、オアシスを離れるときに、私はロケの間はいていた綿入れのズボンをヤコプ父さんにお渡ししました。ヤコプ父さんは茹でたての羊の肉を私たちにくれました。大変貴重なごちそうを、私の中古ズボンと引き換えに頂き、大変申し訳ない気持ちでした。

ただもし今年の冬にヤコプ父さんが綿入れのズボンをはき、少しでも暖かく過ごしてくれたら…そう想像するだけで私の心も温かくなるのです。
https://www.nhk.or.jp/bs-blog/2000/245289.html

ケリヤ(克里雅)人:楼蘭王国の末裔か?
http://www.geocities.jp/kjbmh507/minzoku/eikou/matuei.pdf


ケリヤ人発見の経緯 スヴェン・ヘディンは1896年1月コータンから北へタクラマカン砂漠に入り、古代都市 の廃墟を発見する。その後、タクラマカン砂漠を横断して、シャヤルを目指して、ケリヤ 河沿いに北へ移動する。このときガイドから、聞く。

「町の下手のケリヤ・ダリヤの森のなかには、およそ150人の人たちが住んでおり、
他の人間とは行き来せず、あらゆる街道から遠く離れて、それ自体一つの世界を構成して
おり、いかなる政府当局の手もここまでは及ばない、死のように静かな砂漠の海に囲まれ たところである。 ・・・・・・ ここには羊飼いの家族が二組住んでいたが、彼らは露天で焚き火を囲んでいた。まるで
野蛮人のようだった。彼らは小さな子供に取り囲まれていたが、子供たちが着ている物と
いえば、一枚の毛皮だけだった。この泊まり場のそばで、彼らは300頭の羊を放牧して
いた。男たちの幾人かは、われわれがはじめて見るようなとても風変わりな靴をはいてい
た。靴といっても、それは野生のらくだの足を足だこや蹄のついたままをはいていたので
ある。この野蛮人のような家族もすぐに打ちとけて、みな写生させてもらうことができた ほどである。・・・・・」

出典:『スウェン・ヘディン探検記 (全9巻)』 深田久弥ほか監修 白水社 第2巻 アジアの砂漠を越えて(下)

こうして、ケリヤ人は西欧に紹介され一大反響を得るのだが、当のケリヤ人は相変わら ず静寂な砂漠の中でのんびりと暮らしていた。

20世紀の50年代末、中国政府の役人がこの地に派遣され、达里雅布依郷を設立し、
郷の役所を開いた。しかしながら文革中であったので、ケリヤ(克里雅)人はまたもや人々 から忘れ去られた。 20世紀の80年代のある日、石油探査に携わっていた技術者が目の前の不思議な光景に 唖然と立ちすくんでしまった。 その後、多くの報道機関が入り、「タクラマカン砂漠の中央に原始部落を発見す・・」 と、大報道を開始したのである。 1989 年,新疆ウイグル自治区の役人が視察に入った。そして、学校、病院を建て、電 気、水道を引き、郵便局や電話局を設けた。ケリヤ人は桃源郷の生活から一気に現代文明 の中に引き込まれたのである。

ケリヤ人が暮らすダリヤブイ(达里雅布依)郷の达里雅(ダリヤ)はウイグル語で河の
意味、布依(ブイ)は岸辺の意味、郷は中国の行政区分で村にあたる。达里雅布依郷は「河 の岸辺村」となる。総人家305戸、総人口1321人の村である。 ケリヤ人はケリヤ(克里雅)河の中下流域の両岸に住んでいる。ホータンの東・于田か らケリヤ(克里雅)河に沿ってタクラマカン砂漠を約220km北上すれば、ケリヤ人に合う ことができる。

写真 14-1 現在のケリヤ人

現在の生活ぶり 彼らは現在に至るまで古濮な民族文化と原始的な生活を保ってきた。彼らは幾世代もの
家族が同じ屋根の下で寝起きした。老人を敬い、外部の者と婚姻する者は少なく、砂漠の 原始部落と呼ばれてきた。ケリヤ人は遊牧を主としてきたが、現在では農耕を営み始めた。

ダリヤブイ(达里雅布依)郷には数十戸の人家が集中している。郷政府の管轄する範囲 は南北 500 キロ近くに及ぶ。南に住む者が北に住む者の婚礼に参加するには二週間近く掛 かる。郷政府の者がケリヤ村を巡回するにはラクダか馬に荷物を積み、8日を掛けるとい う。 郷にはイスラム風の建物が一軒ある。大きな建物で周囲の建物と比較できないくらい 美しい建物である。この家の主人は郷の長であり、大変見識の広い人であるという。 ケリヤ人が一番困っていたのは水である。郷政府が井戸を掘るまでは大変な苦労があっ たと言う。 ケリヤ人はダリヤブイ(达里雅布依)郷を引き払い条件の良い土地に引っ越すことを嫌
っている。牧畜している山羊はこの地方の草花を食料としており、他の雑草は食べないの で引っ越せないという。 そして郷政府は彼らにダカ(大卡)車(大八車に似ている)を給付した。彼らはダカ
車で柴木や羊皮を于田県まで運び、貴重な塩や茶と交換している。


写真14-2 ケリヤ人の村落

ケリヤ人のルーツ 多くの説が流れており、いまだ検討中のようであるが、その代表的な三つの説を紹介し よう。

1 タクラマカン砂漠の土着民族であろうとする説である。・・が、これでは周囲が納得しない。

2 南に約 900 キロ下るとチベットの阿里地区にいたる。ここはかつてグゲ王朝があった所である。ラダック王朝に滅ぼされ(1630 年)、タクラマカン砂漠に逃げ込んだグゲ王朝の末裔である、とする説が有力である。


3 ところがこの説にも満足しない人々がいる。この「河の岸辺村」から東に約 450 キロの位置に、かつて楼蘭王国が栄えた。しかし、2000 年前、謎のまま忽然と消えてしまった。
その楼蘭王国の末裔が住み着いた、とする説である。


ま、どの説に満足するかは読者次第です。また別の新説を出すのも一興かと思います。

現在ケリヤ人は行政上ウイグル族に組み入れられているが、生活習慣の多くの面でウイ グル族と異なっている、とされている
http://www.geocities.jp/kjbmh507/minzoku/eikou/matuei.pdf



▲△▽▼


中国・トルファン2012・・・(10)ウルムチ 旅の終わりに“楼蘭の美女”と会う
http://4travel.jp/travelogue/10668846

旅行時期 2012/04/14 - 2012/04/22 (2012/05/10投稿)


トルファンからウルムチ経由で上海へ。
途中、ウルムチの博物館で、約3,800年前に埋葬されたと言われている“楼蘭の美女”に対面します。

http://4travel.jp/travelogue/10668846

表紙写真は、その“楼蘭の美女”を復元したものです。


お昼頃ウルムチのバスセンターに到着。なんとかタクシーをゲットして博物館へ向かいます。


1階には、新疆に暮らす12民族の衣装・装身具・住居などが展示されています。

先ずはウイグル族の男女が迎えてくれます。
2000年調査で、新疆ウイグル自治区人口の45%がウイグル族、40%が漢族です。


http://4travel.jp/travelogue/10668846


こちらはタジク族ではないでしょうか。

なお、展示文物については、「地下博物館」アスターナ古墳出土品が中心になりますが、主だったものはEの「アスターナ古墳」編で紹介しましたので、こちらでは省略します。

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各民族の風俗、出土文物の展示と並んで、ウルムチ博物館で充実しているのが、ミイラなどのタクラマカン砂漠に埋もれていた古墳に関する展示・紹介です。

先ずは「小河墓」(しょうがぼ)遺跡

“有名な楼蘭(ローラン)や「さまよえる湖」のロプノールから西に約百キロの砂漠の中に、「小河墓地」があることは70年以上前から知られていた。
しかし、長くその存在は砂漠の砂に埋もれて分からなくなっていた。

今世紀になって、小河墓地は再び発見された。そして全面的な発掘調査が行われた。その結果、墓地からは164体ものミイラが発見され、しかもその最下層から発見されたミイラは、科学的鑑定の結果、紀元前2000年にまでさかのぼることが判明した。

さらに、DNA鑑定によって、最下層のミイラは、モンゴロイド(東洋系)とコーカソイド(白人)の混血であることが分かった。

この発見によってタクラマカン砂漠は、東と西の人種が初めて出会い、融合して、独自の文化を発展させた可能性が出てきた”【人民中国】

http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/25/32/40/src_25324026.jpg?1336633079


「小河墓」(しょうがぼ)遺跡の模型ですが、男根を象徴する先端の尖った墓標の下には女性の棺が、軍配のような女性性器を象徴する墓標の下には男性の棺が埋まっているそうです。

船のようなものは舟形棺です。「小河墓」の名が示すように、かつてはこの地には河が流れていました。船は冥界へ旅立つ死者の乗物ということでしょう。

この遺跡からは、約4000年前の小麦も発券されており、小麦、ひいては文明の伝播を考えるうえで重要視されています。


http://4travel.jp/travelogue/10668846


「小河墓」遺跡には数百体のミイラが埋葬されているそうですが、その中でも印象的なのが「小河美女」とも呼ばれるこのミイラです。
後ほど紹介する「楼蘭の美女」よりは、はるかに“美女”の名にふさわしい美しいミイラです。

長いまつ毛まで残っており、推定年齢は20歳、身長160cm。コーカソイド(白色人種)系と見られています。フェルトの帽子には鷹の羽飾りとお洒落でもあります。

顔には白いクリーム状のものが塗られているそうですが、腐敗防止のためなのか、死化粧なのかはわかりません。

ウルムチ博物館では、この「小河美女」に関するものは目にしませんでしたので、「新シルクロードの旅(講談社)」からの転載写真です。


http://4travel.jp/travelogue/10668846


こちらは且末(しょまつ チャルチャン)遺跡に埋葬されていた女性のミイラで、約2600年前のものと推定されています。

コーカソイドとモンゴロイド両方の特徴を兼ね備えているそうです。

且末は、楼蘭から400〜500kmはなれた、タクラマカン砂漠の南縁、
かつての西域南道に位置するオアシスです。


http://4travel.jp/travelogue/10668846


こちらが、有名な「楼蘭の美女」
約3800年前に埋葬されたと推定されており、年齢は45歳、身長は152cmで、「小河美女」とほぼ同時期です。

楼蘭王国が歴史に登場するのは紀元前176年ですから、「楼蘭の美女」は楼蘭王国より千数百年古い時代のものになります。

人種的にはコーカソイド(白色人種系)です。


復元された容貌
http://4travel.jp/travelogue/10668846


在りし日の「楼蘭の美女」
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13. 中川隆[-13783] koaQ7Jey 2018年12月12日 07:39:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22015] 報告

古代のDNAから判明した驚きの10の発見 2017年03月09日
http://karapaia.com/archives/52235294.html


 人類の歴史を語るものは、書き残されたものだけではない。遺伝子のなかにも存在する。遺伝子研究が進むに従い、遺伝子は、これまでの定説をくつがえす思いがけない文化の起源をおしえてくれたり、伝染病の大流行を生き延びるために必死で進化していたことがわかった。更には何万年もの間、変わらずに連綿と続いている遺伝子もある。

 そんあ古代のDNAは謎を解いてくれるのと同時に、新たな謎をうむこともある。ここではそんなDNAに導かれた10の発見を見ていこう。

10. アメリカ大陸の原住民と文明接触の悲劇「コロンブス交換」

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image credit:Smithsonian Magazine

 ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到達したことによって、現地の人たちの間に伝染病が広まった。この初めての接触による悲劇は、コロンブス交換と呼ばれる。すべては、1492年にクリストファー・コロンブスが新世界にたどり着いたときに始まった。

 それ以前にも、アメリカ大陸には結核などの病原体はあったが、ヨーロッパから船によって持ち込まれた天然痘、麻疹、黄熱病、流感などのように爆発的に広まるものではなかった。

 理論的に考えると、外部の影響にさらされることなく、長いこと独自の社会を築いていたアメリカ先住民の免疫性が脆弱だったせいといえるかもしれない。2016年のカナダのツィムシアン族のDNA研究から、ついにその証拠が発見された。古代と現代のふたつのグループを比較すると、免疫に関係する遺伝子に大きな変化があったことがわかったのだ。

 ヨーロッパ人と接触後、天然痘がツィムシアン族を分裂させた歴史的根拠がある。遺伝的多様性があまりないせいで、天然痘によって部族の57%が死んだのだ。

 現在のツィムシアン族は、さまざまな先祖から多様な遺伝子を受け継いでいる。古代の部族は、その土地の病気に適応した特定の遺伝子配列をもっていた。彼らの子孫の遺伝子は、新たに入ってきた病気に負けずに生き残るために選択的進化を遂げた結果、生まれたものなのだ。


9. アイルランド人の起源

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image credit: BBC

 アイルランド人のルーツは、新石器時代のひとりの女性と青銅器時代の3人の男性の中に見つけることができた。この女性はバリナハティ・ウーマンと呼ばれていて、1855年にベルファスト近くの5200年前の墓から発見された。

 彼女のゲノム配列は2015年に判明し、現在のスペインやサルディーニャ島の人たちと遺伝子的に似ていることが明らかになった。おもしろいことに、彼女の祖先は中東の出身だということもわかった。

 青銅器時代、東ヨーロッパからやってきた人たちがアイルランドに定住した。3人の男性の先祖は、ウクライナやロシアに隣接するポントス草原の出身だ。4000年前の青銅器時代のグループが、現在のアイルランド、ウェールズ、スコットランドの人たちと遺伝的にもっとも近い。

 アイルランド人には、特徴的な遺伝子傾向がある。乳製品の消化に適しているが、ヘモクロマトーシスという鉄分の過剰蓄積を起こしやすい。この障害は、前述の4人のうち女性と男性ひとりに見つかったが、それぞれ異なった遺伝子変異を起こしていた。

 男性のほうは乳製品を消化できる遺伝子を持っていたが、女性にはなかったのだ。この4人のゲノムは誰も現代のアイルランド人のゲノムとは完全に一致せず、むしろケルト民族をつくった一部のグループとの類似を示していた。


8. コマ人の土器から発見された交易の痕跡

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image credit:iflscience.

 コマ人とは、かつて西アフリカ、現在のガーナのあたりに住んでいた人々のことだ。もし、彼らの特異な習慣がなければ、永遠に彼らの文化は考古学者に見過ごされてしまっていたかもしれない。

 コマの人々は、奇妙な素焼きの人形を残している。この独創的な人形は人や動物を表わしているが、ときにはそれらが合体させたものもある。土塁のひとところにまとめてためこまれているのが見つかった。

 研究者たちは、こうした人工物からDNAを抽出して、彼らの目的を探ろうと考えた。しかし、乾燥した環境で、熱い砂の中に何世紀もの間埋められていたものから採取したDNAは劣化が激しく、使い物にならなかった。

 しかし、驚いたことに土器には、かつて中に入っていたものの遺伝的素材が残っていて、まだ分析に使うことができた。

 もっとも驚いたことは、オオバコ、バナナ、松など、600〜1300年当時にはその土地にはなかったはずのものの残滓が見つかったのだ。この地方の芸術文化は、世界でもっとも熱い砂漠である西アフリカとサハラに広がる、安定した交易路をもっていたに違いない。


7. 東アジア大陸の不変のDNA

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image credit: sciencemag

 生きている人間のDNAが8000年もの間、ほとんど変わらないことはまれだ。古代社会では、頻繁に移住が行われ、世界のいたる場所で遺伝子が混ざりあったはずだ。ところが、東アジア大陸は例外だった。

 1973年、極東ロシアにある悪魔の門の洞窟で人間の遺体が見つかり、石器時代の女性からDNAが検出された。新石器時代以降、遺伝子的介入がほとんどなかったおかげか、彼女の遺伝子は現代のある地域の民族とかなり一致していた。

 これは、中国の少数民族オロチョン族やホジェン族のようなトゥングース語を話す人たちに当てはまる。現在でもトゥングース語を使っているのはウリチ族だ。

 ロシアと中国と北朝鮮の国境付近に住んでいる彼らが、注目されるのにはふたつの理由がある。まず、彼らはごく最近まで古代狩猟採集民族の生活スタイルを維持してきた。次に、彼らはずっと遺伝子が変わらない同じ集団からの直接の子孫のようだ。基本的に新石器時代の狩猟民族と同じ集団で、悪魔の門の洞窟で見つかった女性もここに属していた。


6. 民族移動の歴史を塗り替えたモタ・マン

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image credit:Los Angeles Times

 モタ・マンは、民族移動の歴史全体を塗り替えたエチオピア人だ。およそ4500年前に死んだが、その遺伝子が彼についてのすべてを語ってくれる。

 これまで、現生人類は7万年前にアフリカに別れを告げ、中東、ヨーロッパ、アジアへ広がり、中東やトルコの農民がアフリカの角と呼ばれる地域(エチオピア)に出戻ってきたと信じられてきた。

 発見されたモタ洞窟からその名をつけられたこのエチオピア人は、古代アフリカ人の最初のゲノム配列を提供してくれた。モタの年代は、これまで考えられていた逆流入ユーラシア人よりも古いものだった。

 知られているグループよりももっと以前に、アフリカに戻ってきた別のグループがいたのだ。しかし、モタ・マンは、アフリカ以外で発達した遺伝子はもっていなかった。肌や目の色が明るく、トルコや中東のユーラシア人のように乳製品を消化できない乳糖不耐性をもつ遺伝子のことだ。

 モタの謎めいた先祖について掘り下げるうちに、研究者たちはある古代人とのおもしろい符合を発見した。それは7000年前のドイツのLBK族だ。モタのユーラシア人先祖がLBK族出身なら、ユーラシア人がアフリカに定住して広がったときの話は違ってくるだろう。


5. デンマーク最後のヴァイキング王の母親の謎

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image credit:dnainthenews

 ヴァイキングの謎は、最近ふたりの王族の歯髄を調べたことで解決された。デンマークの最後のヴァイキング王で1074年に亡くなったスヴェン(エストリドセン)2世だ。

 ロスキレ大聖堂に彼と母親のエストリッドの墓があり、母親の遺体は、大聖堂の祭壇近くの柱のところに安置されているという。

 スヴェン王の墓は疑いようもなかったが、柱のところに埋葬された女性が本当に王の母親なのか、疑問をもつ専門家もいた。

 幸いなことに、母親とその子どもの血縁を示すそのものずばりな方法がある。子どもにミトコンドリアDNAを伝えるは女性のみなので、遺伝子配列が一致するかを調べればいい。

 ところが、スヴェン王とエストリッドのミトコンドリアDNAは違っていた。彼女は王の母親でなかっただけでなく、とても若かった。エストリッドの享年は70歳と記録されているが、この女性は35歳くらいだった。

 おもしろいことに、スヴェン王には義理の娘がふたりいて、両方ともエストリッドという名前で、しかもふたりとも女王になっている。彼女たちの年齢の若さや名前や王族の地位を考えると、どちらかがロスキレに埋葬された可能性はありえる。


4. ロンドンの多民族性を物語る発掘遺骨

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image credit: BBC

 現代のロンドンっ子たちの祖先は、2000年近く前にこの地に定住したようだ。大英博物館に所蔵されている4体の遺骨が、その起源や出現についてさまざまなことをおしえてくれた。

 ほぼ完全に残っている骨は、通称"ラントストリートのティーンエイジャー"と呼ばれている。この14歳の少女のDNAは彼女が北アフリカで育ったことを示している。彼女のミトコンドリアDNAは、南東ヨーロッパからのもので、彼女はブルーの瞳をしていたが、骨格の特徴はサハラ砂漠以南の人々のものだ。

 "マンセルストリート・マン"は45歳の男性で、黒い瞳と髪は母親が北アフリカ出身のDNAを持っていたことを示している。彼はロンドンで育ちで、意外なことに糖尿病による骨の疾患を患っていた。現代の白人西洋人男性の間ではよくある病気だ。

 ある男性の骨は損傷が激しく、もしかしたら剣闘士だったのかもしれない。年齢は36〜45歳くらいで、肉体的にひどく暴力を受けた痕跡がある。どこかよそで生まれたが、東ヨーロッパや中東からのミトコンドリアDNAを受け継いでいた。

 "ハーパーロード・ウーマン"(写真)は、もともとここに住んでいたブリトン人で、ローマ風のライフスタイルを享受したらしい。彼女の墓にはローマの遺物がたくさんおさめられていた。そして、彼女のDNAは驚くべきことを示していた。肉体的には女性だったが、遺伝子的には男性だったのだ。


3. ヨーロッパでおきた謎の民族大移動により遺伝子マーカーが消滅

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image credit:Live Science

 オーストラリアの研究者たちが、ある民族移動の謎を解こうとして、別の謎を見つけてしまった。

 7500年前にトルコ出身の農民たちがヨーロッパに定住したのかどうかを確認するために、ドイツやイタリアから発掘された複数の骨を調べた。これら古代の骨は、7500年〜2500年前のさまざまな文化のものだった。

 調査から、最初の汎ヨーロッパ人たちはトルコからやってきて、繁栄したことはわかった。だがそれから、およそ4500年前にその遺伝子マーカーがどいうわけか消滅してしまった。

 消滅の理由がなんであれ、ゆっくりした変化ではなかった。当時、明らかになっていないなんらかの歴史的な出来事が起こって、突然大規模な民族移動が起こったようだ。あまりにも劇的な移動だったので、ヨーロッパの人口や遺伝系統までもが変わってしまった。

 文化全体の遺伝子まで変えてしまうほどの大移動を引き起こした張本人たちは誰なのか、それほどの大人数で新たな野を目指した理由はなんなのか、誰にもわかっていない。イベリア半島にいたベル・ビーカー人がケルトの言語に痕跡を残しているため、彼らがその容疑者といえば容疑者と言えるかもしれない。


2. 権力をもっていたギリシャの女性たち

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image credit: Andreas Trepte

 かつて、古代ギリシャの女性たちは男性の所有物のように扱われていたと思われていた。しかし、新たなDNA研究によって、それは間違いである証拠が出てきた。

 マンチェスター大学の研究者がギリシャ、ミュケナイの発掘現場に向かった。ヨーロッパで最初の都市国家に建てられた城砦の創設者について知るためだ。

 ミュケナイの支配者の墓から、35体の遺骨が発掘されたが、DNAがちゃんと分析できたのは4体だけだった。ひとりは女性で、彼女はかなりの影響力をもつ立場にいたようだ。権力者の妻と考えられ、遺伝子配列が一致した4人のうちのひとりでもあり、その豪華な墓は、権勢を誇る夫の影響と思われた。

 しかし、DNA検査と復顔から、彼らはきょうだいであることがわかった。その女性は王と同等の地位と影響力をもち、これは当時の女性が権力をもつ地位に就くことができたことを示していると専門家たちは考えている。

 180度見方が変わるこの大転換を発見した考古学者たちは、初期の男ばかりの考古学者たちが、男性優位の偏見で古代社会を見た結果、こうした間違いが生じたのだと考えている。


1. 黒い髪・青い瞳のスペインの洞窟人の謎

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image credit:The Guardian

 2006年、北西スペインの洞窟の奥深くから2体の遺骨が見つかった。両方とも7000年以上前の中石器時代人の男性で、30代くらいのふたりの骨は良好な状態だったが、有効なDNAはひとりの臼歯からしか採取できなかった。

 その結果は、進化に関するこれまでの定説がくつがえされてしまった。

 ゲノム解析によって再現されたその男性の顔は驚くべきものだった。浅黒い肌、黒い髪なのに、瞳はブルーだったのだ。彼は現代ヨーロッパ人だと考えられていたため、もっと白い肌をしているはずで、これは珍しいことだ。

 思いがけない目の色は、ブルーへの変異が肌の白さへの変異よりも前に起こったことを示している。これまでは、この変異の順番は逆だと思われていた。

 彼は別の謎も解消した。のちに農民が誕生したとき、ほかの動物の病原体から身を守る必要が出てきて、免疫システムが急に発達したと研究者たちは考えていた。しかし、狩猟採集生活をしていた中石器時代人は、すでに身を守る術をもっていたのだ。

 今日、遺伝子的に彼らにもっとも近い人種は、スウェーデン人やフィンランド人だ。
http://karapaia.com/archives/52235294.html



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14. 中川隆[-13782] koaQ7Jey 2018年12月12日 07:42:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22015] 報告


古代エジプト人のDNA分析からわかった彼らの起源。
彼らはアフリカよりも中東に近いことが判明(ドイツ研究)2017年06月06日
http://karapaia.com/archives/52240315.html


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 古代エジプト人のDNAを新たに分析したところ、彼らはアフリカ人というより、トルコ人やヨーロッパ人に近いことがわかったという。

 今回、ドイツのチュービンゲン大学と、イェーナにあるマックス・プランク人類歴史科学研究所がチームを組み、古代を研究するときの正式な遺伝子データベースをまとめるため、初めて研究を行った。

 紀元前1400年〜紀元400年頃の古代エジプトのミイラからDNAを抽出し、それを分析した結果、彼らは遺伝子的には地中海地方の人々と近いことがわかったという。

現代のエジプト人は古代エジプト人というよりアフリカ人を祖先にもつ

 Nature Communicationsに発表された内容によると、この研究で現代のエジプト人は古代エジプト人というより、サハラ以南のアフリカ人の先祖を共有していることがわかったという。

 さらに、古代エジプト人は当時の中近東の人たちとより近いこともわかった。

 エジプトは、世界的な交易の中心地であるため、古代の人口などを調べるのに好都合な場所なのだ。

 昨今、古代人のDNA分析は進歩している。このデータを使えば、エジプト人の起源や来歴について現代のわたしたちの理解を促す良い機会が得られる。

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ミイラのDNAの保存状態が鍵

 ただし、マックス・プランク研究所長のヨハネス・クラウスによると、有効なDNAがきちんと保存されている可能性について、懐疑的な面もあるという。

 「エジプトの気候は暑く、多くの墓は湿度も高い。ミイラを作るのに使われた化学物質が、DNAを劣化させる原因になる場合もあるだろう。エジプトのミイラのDNAが長い間きちんと保存されているとは考えにくい」と語る。

 だが、このようなミイラからでも核DNAを抽出して、それが研究するに足る信頼性があることを示した研究者たちの技量は画期的で、ミイラの直接研究の幅がさらに広がったといっていい。

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 研究チームは、中央エジプトのナイル川流域のアブシール・エル・メレクから発掘された151体のミイラと、チュービンゲン大学とベルリン先史学博物館にあるフェリクス・フォン・ルシャン頭蓋コレクションが管理する2体の人類学コレクションの中からのサンプルをとった。

 最終的に90体のミイラからのミトコンドリアDNAを採取し、3体からゲノム規模でのデータセットを抽出した。

 そこで集めたデータを使って、考古学的、歴史的データと、現代のDNA研究から引き出したこれまでの仮説を試験した。

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 チュービンゲン大学のアレクサンダー・ペルツァー教授は、特に興味を引いたのは、アブシール・エル・メレクの古代の住民の遺伝子構造が変化しているのか、そのまま変わらないで継続しているのかを見ることだったという。

 「アレクサンダー大王やほかの外国勢力の支配が、古代エジプトの人々に遺伝子的な痕跡を残したかどうかを知りたかったのです」

 研究チームは、古代の人たちが外国の支配によって遺伝子レベルでの影響を受けたのかどうかを判断するために、古代の人たちDNAと現代のエジプト人のDNAを比べてみた。

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古代エジプト人は、中東の人々に近い遺伝子を持つことが判明

 その結果、古代エジプト人は、現在のシリア、ヨルダン、イスラエルやレバノンであるかつてのレヴァント地方の人たちともっとも近いことがわかった。

 さらに、新石器時代のアナトリア半島(トルコ南部)やヨーロッパの人々とも関連があることがわかった。

 マックス・プランク研のリーダー、ウォルフガング・ハックはつけ加える。「アブシール・エル・メレクの社会は、わたしたちが研究した1300年の間で特に大きな変化をこうむらなかった。つまり、この人たちは外国の支配に遺伝子的な影響は相対的に受けなかったということだ」

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 データによると、現代のエジプト人は、古代エジプト人ではなく、サハラ以南のアフリカ人とおよそ8%の割合で核DNAレベルの先祖を共有していることがわかる。

 研究チームは、エジプトのミイラが研究に仕える信頼できる古代のDNAの源であると証明できたことを誇りに思っていて、これがエジプト人の来歴の詳細をより正確に理解するのに役立つと信じている。
http://karapaia.com/archives/52240315.html


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15. 中川隆[-13781] koaQ7Jey 2018年12月12日 07:44:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22015] 報告

エジプト人は「古代」と「現代」とでルーツが違う!
数千年前のミイラをDNA解析して判明!

 「古代エジプト」といえば、ピラミッド、ファラオ、ツタンカーメン、ヒエログリフ、ロゼッタ・ストーン、太陽暦、クレオパトラなどを連想するだろうか?

 紀元前3000年頃に澎湃(ほうはい)として興きた第1王朝から、紀元前30年に共和制ローマがプトレマイオス朝を滅ぼすまでの数千年間。どのような歴史絵巻に彩られながら、人々の血脈と足音が黒い大地に刻まれて来たのか?

 そんな想像力を激しく掻き立てる衝撃的な事実が明らかになった。

紀元前約1400年〜西暦400年頃に埋葬された古代エジプト人のミイラをDNA解析

 ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所のJohannes Krause氏らは、エジプト中部のナイル川沿いのアブシール・エルメレク遺跡で、紀元前約1400年〜西暦400年頃に埋葬されたと推定されるミイラ151体を発掘した。

 そのうちの90体のミトコンドリアDNAを解析し、3体のDNAのゲノGWAS(ゲノムワイド関連解析)を行い、「古代エジプト人」と「現代エジプト人」のルーツを探求した。

 その結果、「古代エジプト人」のミイラと「現代エジプト人」のDNA解析の結果、驚くべき真実が明かされた――。


「古代エジプト人」は地中海東岸のアラブ諸国の人々に近く、

「現代エジプト人」はサハラ以南のアフリカ人に近い事実が判明したのだ

(『Nature Communications』オンライン版「HealthDay News」5月31日)。


 今回の研究の目的は、古代エジプト人が受けた他民族による侵略や交雑によるヒトゲノムの変化と推移を探ることだった。

 Krause氏によると「エジプトの高温、墓の中の高湿、ミイラに使用された化学物質の変質などによって、ミイラのDNAは損傷を受けやすい。今回のミイラのDNAの抽出・解析の成功は、古代エジプト人が歩んだ足跡を解明する大きな突破口になるだろう」という。

なぜ「古代エジプト人」は「地中海東岸の人々」に近い?〜めまぐるしい侵略と交雑

 建国以来、古代エジプト王朝は、統治力の弱体化や内乱などによって攪乱され、目まぐるしく変遷し続けた――。

 エジプト第2中間期(紀元前1663年〜紀元前1570年)、第13王朝のヌビアが独立したが、第14王朝などの小諸侯が対立。紀元前1663年頃にパレスチナのヒクソスという異民族が第15王朝を簒奪すると、地中海東岸のパレスチナも平定する。

 続くエジプト新王国時代(第18〜20王朝)に入り、紀元前1540年頃、上エジプトを治めていた第17王朝のイアフメス1世が第15王朝のヒクソスを追放して南北エジプトを統一。以後、地中海東岸のパレスチナやシリアへ意欲的に進出するだけでなく、首都テーベを拠点にティグリス・ユーフラテス川流域から西アジアに及ぶ一大帝国を擁立、古代エジプト王朝は黄金期を迎える。

 以後、第18王朝の繁栄は続くが、紀元前1346年頃、アメンホテプ4世は、勢力を伸ばしたヒッタイトにパレスチナやシリアの属国を次々と奪われ、国力が衰微。紀元前1333年に即位したツタンカーメン王は夭折。だが、紀元前1291年にセティ1世が北シリアへと遠征後、古代エジプト最大の王ラムセス2世による第20王朝は、最盛期へ向う。

 しかし、紀元前1070年頃に最後の偉大なファラオと呼ばれた第2代のラムセス3世の死後、第20王朝は崩壊。その後の約1000年間は、国力が一気に衰退する。

 紀元前332年、アレクサンダー大王が全土を征服。紀元前31年にオクタウィアヌス率いるローマ軍に敗北。クレオパトラ7世が自殺し、プトレマイオス朝は滅亡。古代エジプトの王朝時代は終焉する――。

 つまり、紀元前約1400年頃の古代エジプトは、地中海東岸のパレスチナやシリアを支配していたことから、周辺諸国との民族的な交雑が進んだため、古代エジプト人は遺伝的に地中海東岸の人々に近いという、今回のDNA解析の結果につながったのだ。

なぜ「現代エジプト人」は「サハラ以南のアフリカ人」に近い?〜この1300年間、他国の征服を受けていない

 今回の研究のもう1つの成果は、「GWAS(ゲノムワイド関連解析)」によって、この1300年間にアブシール・エルメレクの地域に住む人々のDNAに大きな変化はなく、他国の征服による遺伝的な影響は受けていない事実と、現代エジプト人は古代エジプト人に比べるとサハラ以南のアフリカ人の系統に8%ほど近い事実が判明した点だ。

 Krause氏は、サハラ以南のアフリカ人のDNAがエジプトに流入するようになったのは、過去1500年以内と推察する。

 ちなみにGWASは、ヒトゲノム上に存在する50〜100万種のSNP(スニップ:一塩基多型)を位置マーカーとして使い、ヒトゲノム中に特定の個人の疾病に関連するSNPを見つけ出し、ゲノム配列の個人差や、疾病に関わる多因子形質と変異の関係を統計的に調べる解析法だ。
http://healthpress.jp/2017/06/post-3052.html



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

16. 中川隆[-13789] koaQ7Jey 2018年12月12日 07:51:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22024] 報告

【衝撃】青い目の人間は、たった1人の共通祖先を持っていることが判明! 遺伝子HERC2の突然変異がもたらした神秘 2017.09.29
http://tocana.jp/2017/09/post_14583_entry.html

 世界中にいる青い瞳を持つ人々は皆、6000年ほど前に黒海周辺で暮らしていた、たった一人の人間の子孫であることが判明したという。英紙「Independent」の記事に反響が広がっている。


■瞳の色はどうやって決まるのか?

 ご存じの通り、世界には日本でもおなじみの黒や茶色から青や緑など、さまざまな目の色をした人間がいる。目の色を決めるのはメラニン色素の割合といわれ、メラニンの量が多い順に、虹彩の色は黒、茶色、緑、青になる。

 本来、人間の瞳の色はブラウンのみだったというが、ある突然変異が原因で青い目を持つ人々が生まれるようになった。それはHERC2という遺伝子上の、ほんの一塩基に生じた変異である。HERC2遺伝子は色素生産に関わるOCA2遺伝子の調整役を担っている。OCA2は目や毛髪、皮膚のメラニン生産に関わっていることで知られている。アルビノ(先天性白皮症)の原因となる遺伝子の一つでもある。

 変異を持ったHERC2遺伝子はOCA2の働きを妨げ、虹彩にメラニンの黒い色素ができないようにし、瞳の色を青くする。ヨーロッパ系で青い瞳を持つ全ての人々は、このほんの一箇所の遺伝子変異を持っているという。

 そして驚くべきことに、この変異は1万〜6000年前に黒海周辺で生まれた、たった一人の人間に由来しているという。その人間こそ、青い瞳を持つ全ての人々の遠い遠い祖先なのだ。

■お酒の強さで祖先がわかる?

 さて、DNA上のたった一箇所の遺伝子変異が、見た目や体質に大きな影響を与えているケースは他にも多数ある。日本で有名なのは、2型アセドアルデヒド脱水素酵素(ALDH2)の例だろう。

 ALDH2は体内でアルコール代謝に関わっており、ほんの少しの遺伝子上の違いがアルコールに強いか弱いかを決めている。アルコールは肝臓で有毒なアセトアルデヒドに変化し、さらに分解されて無害な酢酸に変わる。ALDH2に遺伝子変異が起こっていると、アセトアルデヒドの分解に時間がかかる。ほんの少しお酒を飲んだだけで赤くなり、頭痛や吐き気などを催すのは、体内に生じたアセトアルデヒドの毒性によるものだ。

 お酒の飲めない、俗に言う下戸タイプの遺伝子変異を持つのは、日本人を含むアジア系の人種のみといわれており、白人や黒人はほぼ全員がアルコールに強い酒豪の遺伝子を持つ。逆に酒に弱くなる遺伝子変異は日本を含む東アジア地域で見られ、おそらくは2〜3万年ほど前に中国南部地域で生じたのではないかと推測されている。


ALDH2遺伝子変異の分布。円グラフ上で薄緑・緑色で示されているのが下戸の遺伝子を持つ人の割合。
http://tocana.jp/2017/09/post_14583_entry_2.html


 酒の弱さは日本人の民族的特徴ともいわれている。遺伝子は両親から一つずつ伝えられるが、酒に弱い遺伝子を少なくとも一つ持つ日本人は全体のおよそ40%とされる。そして、日本人のおよそ5%は“下戸タイプ”の遺伝子しか持たないとされる。なお、そのような「真の下戸」は飲酒を楽しむことができない。酒で気持ち良くなるより先に、眠気や頭痛、吐き気などに襲われてしまうからだ。

 青い目や酒を受け付けない体質だけでなく、耳垢の乾湿や髪の毛の太さなども、たった一箇所の遺伝子変異がもたらした変化である。最近では遺伝子変異の地域的な分布や系統樹を追うと、その発祥の時代や場所がわかるようになってきた。体質や見た目から自分の祖先をたどり、その歩みを想像するのもまた一興である。
(吉井いつき)

参考:「Independent」、「Business Insider」、「Science Daily」、ほか
http://tocana.jp/2017/09/post_14583_entry.html


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青銅器時代のスコットランドの女性、移民の子孫と判明 DNA分析
2018.12.04 Tue posted at 17:11 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35129613.html

DNA分析で復元した青銅器時代のスコットランドに住んでいた女性の容姿/Hew Morrison
https://www.cnn.co.jp/photo/l/863487.html

(CNN) 4250年以上前に英スコットランドで死亡した女性の遺骨について、調査に当たる考古学者のチームは4日までに、欧州大陸からの移民の子孫のものであることが判明したと発表した。DNA分析で明らかになった。

遺骨はスコットランドのケイスネスにある遺跡で1987年に見つかっていた。

研究論文の筆頭著者であるマヤ・フール氏によれば、「エバ」と名付けられたこの女性は、黒髪と茶色の瞳を持ち、肌の色は現在南欧に住む人々に近かった。

これまでは赤毛に青い瞳の女性として描かれてきたが、法医学の専門家の描写で、より正確な顔の復元を生み出した。

DNA分析はハーバード大学医学大学院とロンドン自然史博物館の研究者が実施。スコットランドの学会誌に結果を発表した。

これによれば、エバは若い頃に病気を患ったものの、回復して活動的な生活を送るようになった。身長は非常に高く、牛の骨と一緒に埋葬されていたことから、牛の飼育に従事していたことがうかがえる。


従来の研究では、赤毛に青い瞳の女性だったと考えられていた/Hew Morrison
https://www.cnn.co.jp/photo/l/863488.html


生きていた時代は初期青銅器時代で、従来の推定を若干さかのぼる。死亡時には18〜25歳だった。

数世代前に北欧からスコットランドへの移住の流れがあり、エバの家族もその一員として移住していたとみられる。

共著者のトム・ブース氏によれば、以前のDNA研究で既に、紀元前2500年前後に欧州大陸から大規模な人の移動があり、一帯の人口構成や文化を変化させたことが分かっていた。


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2014/01/27(月) 【AFP=時事】
約7000年前にスペインに住んでいた狩猟採集民のDNAは、欧州人が従来考えられていたよりはるかに最近まで浅黒い肌をしていたことを示唆しているとの調査報告が26日、英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された。


北アフリカ地域の狩猟採集民、木の実を食べて虫歯に 研究

 スペインの進化生物学研究所(Institute of Evolutionary Biology)などの研究チームが発表した論文によると、

スペインにある深い洞窟系で発掘された「ラブラナ1(La Brana 1)」と呼ばれる古代の男性の骨格の歯から採取した遺伝物質を調べたところ、浅黒い肌に青い瞳という珍しいな組み合わせが明らかになったという。


 ラブラナ1が生きていた、1万年から5000年前の中石器時代の欧州人は、その高い緯度から紫外線レベルが低く、すでに白い肌をしていたと考えられていた。

 論文の共同執筆者の1人、進化生物学研究所のカルレス・ラルエサフォックス(Carles Lalueza-Fox)氏は、AFPの取材に

「これまで、欧州地域では白い肌の色がかなり早期に、後期旧石器時代には進化していたと考えられていたが、これは明らかに事実と異なる」

と述べる。

「この個体は、色素沈着遺伝子にアフリカ系の変異を持っていた」

 後期旧石器時代は今から5万年前〜1万年前までで、その後の中石器時代は約5000年前まで続いた。

以降、欧州では新石器時代に入る。


今回の研究をみる限り、肌の白い欧州人は、以前考えられていたより「かなり後」に、おそらく新石器時代になってからようやく現れたとラルエサフォックス氏はみている。古代の狩猟採集民は新石器時代に農耕民になった。

 こうした生活様式の変化で食生活が変わり、ビタミンDの摂取量が減少したことも関係しているかもしれないと同氏は指摘する。

 天然のビタミンDが欠乏すると、人間の皮膚は太陽光線に当たることで自らビタミンDを作り出すことができる。

浅黒い肌では白い肌より合成する量がかなり少ないため、このことが白い肌に変化するための進化の誘因となったとされる。

■現代欧州人では見られない「組み合わせ」

 ラルエサフォックス氏の研究チームは、ラブラナ1で青い目と黒い髪の遺伝因子も発見した。

 肌の正確な色合いまでは判別できないが、青い目との組み合わせは今日の現代欧州人では見られないものだと研究チームは指摘する。

 人類の最古の共通祖先は浅黒い肌をしていたが、アフリカを出て北方の太陽光が少ない寒冷な気候の地域に移動するにつれて肌の色が白くなったという説は広く受け入れられている。

 そしてその後の民族移動と混血によって、現代人が持つ様々な肌の色合いが生じた。

 ラブラナ1は、ゲノム(全遺伝情報)が完全に解読された最初の欧州の狩猟採集民だ。

現代人との比較調査では、スウェーデン人やフィンランド人などの北欧人種と最も高い関連性を持っていることが分かった。

 またラブラナ1は、その後の人類が獲得したような、ミルクやでんぷんを容易に消化できるようにする遺伝子変異をまだ獲得していなかったことも、この調査で明らかになった。こうした適応は、 新石器時代の農業の誕生と同時期に発生したと思われる。

 ラブラナ1のゲノムの特徴が実際にどれほど広範囲に及んでいたかを判定するには、さらに多くの中石器時代人のゲノムを解析する必要があると論文の執筆者らは述べている。【翻訳編集】 AFPBB News(終)

AFP=時事 1月27日(月)14時19分配信
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1390802317/

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ヨーロッパ諸語のルーツは東欧。DNA分析で判明 2015.03.06

論争が続く英語を含むヨーロッパ諸語の起源。論争に終止符を打つ新発見となるか

4500年以上前にドイツ中部で埋葬された男性の人骨。
この後、東欧から移住した考えられる集団とは、共通の祖先を持たないことがわかった。(PHOTOGRAPH BY JURAJ LIPTAK, LDA SACHSEN-ANHALT)


 ヨーロッパ大陸全域で話されている言語のルーツはどこにあるのか。

このほど行われたDNA分析で、約4500年前、現在のロシアとウクライナにまたがる草原地帯から移動してきた牧畜民が使った言語がルーツとする説が発表された。

 長く狩猟採集が続いた先史時代のヨーロッパで、農耕が始まったことは画期的な出来事と位置付けられている。ヨーロッパでの農耕は、東方の農耕する集団がヨーロッパへ移動したことから始まったとされる。

 ところが2015年3月2日、科学誌「ネイチャー」に、ヨーロッパへの集団の大移動は1度だけではなく、2度あったとする研究論文が発表された。この説では

最初の集団の移動は新石器時代に現在のトルコにあたるアナトリアからのもの

そして第2波は4000年後、現在のロシアに当たるステップ地帯から中央ヨーロッパへの大移動だったという。

そして英語を含むヨーロッパ言語の基礎になったのは、ステップ地帯から移動した集団がもたらした言語だというのだ。

 論文の共著者で、ハーバード大学医学大学院の遺伝学者ヨシフ・ラザリディス氏は、

「ヨーロッパに最初にやってきた人々は狩猟採集民でした。
そこへ農耕民がやってきて狩猟採集民と混ざり合いました。
その後、東から新たな集団がたくさん移動してきたのです」

と語る。

 今回、第2の大移動があったことが明らかになったのは、ラザリディス氏らの研究チームが現代ヨーロッパ人の起源を解明しようと、ヨーロッパの古代人69人の骨から採取したDNAを調べたことがきっかけだった。

標本となった古代人の人骨は3000〜8000年前までと幅広いもの。
標本同士だけでなく、現代ヨーロッパ人との間でもDNAが比較された。


 調査の過程で、古代の狩猟採集民と新石器時代に流入した農耕民の痕跡が見つかった。

これは、これまでの説を裏付けるもので、予想通りだった。

ところが彼らを驚かせたのは、約4500年前、ロシアとウクライナにまたがる平地や草原からの大集団が移住したことを示す痕跡が見つかったからだ。

予想だにしない結果だった。


ヨーロッパへの集団移動は2段階

 数千年間、狩猟採集民の小集団が暮らしていたヨーロッパ大陸に、初めて変化が起こったのは、約8000年前のこと。

アナトリアから北上した農耕民が、新しい技術と生活様式をヨーロッパにもたらし、現在の定住生活の基礎を築く。考古学者の間では、この出来事を「新石器革命」と呼んでいる。

 その数千年後に、再び外からヨーロッパ大陸に人類の大移動があったことを決定づけたのは、ある2つの集団の DNAに多くの共通性が見られたため。

1つは黒海の北岸で見つかった5000年前の人骨で、考古学で「ヤムナ」と呼ばれる集団に属するものだった。

もう1つは、約4500年前に現在のドイツ中部ライプチヒ近郊で葬られた4人の人骨だ。こちらは「コーデッドウェア文化」に属する人々だった(「コーデッドウェア」とは、ヨーロッパ北部で広範囲にみられる当時の土器の特徴的な文様のことで、それにちなんでこう呼ばれる)。

 ヤムナ文化に属する集団と、コーデッドウェア文化に属する集団の間には、500年の開きがある。さらに地理的にも1600キロは離れている。それにもかかわらず、両者は判明できた部分で75%(おそらくは100%)共通の祖先をもつと考えられたのだ。

論文の著者の1人で米ハートウィック大学の考古学者デビッド・アンソニー氏は、「両集団の間には、直接の遺伝的関連がみられる」と話す。「控えめに言っても、近い親類だということです」

 そして、着目すべきは、コーデッドウェア文化に属する人のDNAが、それより数千年前の現在のドイツにあたる地域に暮らしていた農耕民の DNAと共通性が認められなかったことのほうだろう。

つまり、これは過去に「侵略」と言ってもいいほど劇的なヨーロッパへの流入があったことを示す証拠だ。

「集団が丸ごと入れ替わったと言っても過言ではない出来事だったのではないでしょうか」

とラザリディス氏は考えている。


ルーツ論争は決着か?

 今回、遺伝学から示された「ステップ地帯からヨーロッパへの大規模な移動があった」という事実は、言語学者や考古学者の間でインド・ヨーロッパ諸語の起源をめぐる論争を再燃させるだろう。

インド・ヨーロッパ諸語には400以上の言語が含まれ、英語、ギリシャ語、アルバニア語、ポーランド語といった現代の言語から、ラテン語、ヒッタイト語、サンスクリット語など古い言語まで数多い。

 言語学者らは、すべてのインド・ヨーロッパ諸語の生みの親であるインド・ヨーロッパ祖語が最初に話されていた場所をめぐり、数十年もの間も議論してきた。

「アナトリア仮説」派は、1万年前かそれ以前に現在のトルコに住んでいた農耕民が最初にインド・ヨーロッパ語を話していたと主張する。紀元前6000年ごろ彼らがヨーロッパにたどり着き、言語もそのときに流入したというのだ。

 対する「ステップ仮説」は、黒海とカスピ海の北に広がる広大な平原をインド・ヨーロッパ祖語の生まれた土地と考える。

アンソニー氏は、この地に車輪が伝来して「ステップ地帯の経済に革命を起こした」と話す。この説を支持する人々は、多くのインド・ヨーロッパ諸語で「車軸」(axles)、「(家畜に荷車を引かせる棒)ながえ」(harness poles)、「車輪」(wheel)といった単語が共通していると指摘する。どれも、ヨーロッパで新石器革命が始まってからずっと後に考案されたものだ。

 だが、どちらの説も決定的な裏付けがなく、議論は長いこと前進していなかった。そんな中、今回の研究成果は両者の勢力図を変えるかもしれないと多くの研究者が考えている。ステップ仮説に説得力を持たせるのに必要な移住の証拠がつかめたからだ。

 とはいえ、これでインド・ヨーロッパ諸語のルーツをめぐる論争に決着がついたとはいえない。まだ説を補強しなくてはいけないことも多いからだ。

確かに、遺伝学と言語学のデータは、インド・ヨーロッパ祖語が約4500年前にステップ地帯を経てヨーロッパに入ったという説を支持するものだ。だが、バルセロナ大学の遺伝学者カルレス・ラルエサ=フォックス氏によれば、

「祖語の最も古い系統がどこで生まれたのかは、依然としてはっきりしない」

だという。同氏によれば、インド・ヨーロッパ祖語発祥の地は、さらに別の地域かもしれず、ステップ地帯は源流の言語が南欧、イラン、インドなどに入った複数のルートの一つにすぎない可能性もあるという。

 今回の研究論文を発表した著者らも、その点は認めている。しかし、彼らの主張は揺らいでいない。ラザリディス氏は

「ステップ地帯がインド・ヨーロッパ諸語の唯一の発祥地かどうかは不明だ」

としながらも、

「この地域についてもっとデータが集まれば、多くの疑問に答えられるはずだ

」と強調した。

4000年以上前にドイツで埋葬された若い女性の人骨。DNAを分析したところ、東欧から移住してきた牧畜民との関連が強いことがわかった。
(PHOTOGRAPH BY LDA SACHSEN-ANHALT)

文=Andrew Curry/訳=高野夏美
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150305/438058/

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コーカサスはバルカン半島並みの遺伝子が複雑な地域
http://garapagos.hotcom-cafe.com/


  コーカサス地域は最古の民族ともいわれるアルメニア人やスターリンの生まれたジョージア(旧グルジア)人が居住する地域です。

アルプスで発見されたアイスマンのY-DNAが「G」であることから、アイスマンの先祖の発祥の地はコーカサスだろうと言われています。 5000m級のコーカサス山脈が中心に位置する高度の極めて高い土地になり、恐らくアイスマンの系統は同じ高度地域のアルプスに移動してきた可能性があります。

  バルカン半島と同様に、多民族、多言語、複数の宗教が交錯する地域になります。

そして古代遺伝子のY-DNA「F」から初期に分化したコーカサス遺伝子のY-DNA「G」、 次の世代でクロマニヨン人/ノルマン・バルカン遺伝子のY-DNA「I」、メソポタミア農耕民・セム族遺伝子のY-DNA「J」が恐らく分化発祥した地と考えられています。

  少し時代が下がると、欧米の主要遺伝子であるY-DNA「R1a」と「R1b」が移動を開始したときに「R1a」は恐らく黒海の北方から南下し、 「R1b」はカスピ海南岸/イラン北部あたりから北上しコーカサスに入ったと考えられているようです。

  イラン人のペルシャ帝国、テュルク語族のチムール帝国、セルジュクトルコ帝国やモンゴル族が後代に覇権を握り、テュルク語族のオスマントルコ帝国解体後は ロシア更にソ連が支配者となり、ソ連の解体後ロシア内に留まった地域と独立した地域に分かれています。

  この地域の複雑に加え、国境を接するトルコやイランそして独立国を持てなかった最大の民族クルド人がこの地域をますます複雑にしています。   それでも混沌の国インドに比べれば大した民族数・言語数ではありませんが、宗教が加わり少なくともバルカン半島並みの複雑さになっています。   

しかしバルカン半島は民族の人口が比較的大きく、それなりにまとまっているのですが、コーカサスは数千人程度の人口の民族(部族程度か)も 多く、高度の高い地域で隔離され孤立し希少民族化してきたような様相を示しています。


  Y-DNA調査では2001年のWells論文が最も古く、まだ亜型名が確立する前で分類に若干疑問が残るのですが、 2004年にNasideらがWellsデータを改めて見直し亜型名に当てはめたため、Wells論文は使えるものになりました。

民族としてはルトゥール人(Rutulians)のように狭い地域に局在している民族もあれば、 チェチェン人(Chechens)のように複数の地域にまたがって居住している民族もあります。 スヴァン人のように1種類の遺伝子亜型が大多数を占める民族もあれば、複数の遺伝子が拮抗する民族もあり、 民族の成り立ちが単純ではないことを調査の結果は示しています。

  おそらくコーカサスの歴史に相当精通していても、遺伝子の流れを説明・解明するのは難しい気がします。 当ガラパゴス史観も以前集めた論文を再度読み直して今回Y-DNAの亜型分布を提供しますので、本サイトをご覧になった方は、自分なりのコーカサス民族の動きを、 コーカサスの歴史と併せて構築してみて下さい。


コーカサスは山岳地帯を中心に 西は黒海、東はカスピ海に挟まれた独特の地域になります。

ノアの箱舟のアララト山は上図左のTurkeyの国名のすぐ右そばになります。

原始キリスト教の7つの教会は全てアナトリアにありましたが、40年前にその中の1つをイスタンブール駐在時代に訪れています。 いまはイスラム教のアナトリアですが、実はキリスト教の確立した重要な土地でもあるのです。


・上図左は、国名とロシアの地方名が分かります。Wikipediaから拝借しました。

・上図右は、このY-DNA調査の代表的な民族の調査地域を表しています。論文から拝借しました。

・下図左は、民族と言語の分布図ですが、興味のある方はWikipediaの原本をご覧ください。
  
・古代遺伝子の1つであるY-DNA「F」は、インド亜大陸で現代文明人の大半を占めるY-DNA「G」以下の全ての遺伝子を分化させる基礎を築きました。
  
・この地からY-DNA「G」はコーカサスに移動し古くはアルプスで発見された「アイスマン」、近代ではソ連の「スターリン」を生み出しました。
  
・「F」は「G」と「HIJK」に分化し、「HIJK」は更に「H」と「IJK」に分化し、「H」はインド亜大陸に居住したようですが、インド亜大陸では主役になれず、一部はジプシー化しました。
  
・またコーカサスは、「IJK」からY-DNA「I」,「J」と「K」が分化したのではないかと考えられています。
  
・Y-DNA「I」は、後にクロマニヨン人となり、さらにバイキングのノルマン系「I1」とバルカン系「I2」を分化させました。
  
・Y-DNA「J」は、後にセム系の「J1」とメソポタミア農耕民系の「J2」に分化し、「J2」は「G」と共に肥沃な三角地帯に移動しメソポタミアに農耕文明を興したようです。
  
・「K」はさらに「LT」と「K2」に、「LT」は「L」と「T」に分化し、「L」はインダス文明系のちにドラヴィダ人を形成したと考えられています。
  
・「T」はアメリカ第三代ジェファーソン大統領の遺伝子です。
  
・「K2」からシベリア・ウラル系遺伝子「N」、極東系遺伝子「O」、インディオ系遺伝子「Q」そしてインド・アーリアン系遺伝子「R」が分化し、      

「R1」からインド・スラブ系遺伝子「R1a」とケルト・ゲルマン系遺伝子「R1b」が分化しました。


結果をまとめて見ました。古い遺伝子頻度の高い順に主要な民族をご紹介します。

  
2001年頃のWellsの論文から2011年の比較的新しい論文まで新旧データが入り混じっていますが、他に参照できるデータもないのでそのまま強引にご紹介します。

  この地域はアレキサンダー大王の古くから各帝国が占領してきており、どの遺伝子がどの時代から居住していたのかはなかなか難しい問題ですが、

Dagestan のギリシャ語を話す集団はアレキサンダーの一団の末裔と考えれているようです。

モンゴル帝国のY-DNA「C」も占領軍の末裔としてカルミーク(Kalmyk)人に残っています。

  ペルシャ帝国時代のイラン系も存在し、インド・スラブ系の「R1a」は「R1b」と分化し移動を開始した古代系の末裔と、近代ソ連人の系統が混じっているはずです。

またゲルマン民族の大移動を行ったY-DNA「R1b」のケルト・ゲルマン系の末裔がロシアのバシキール(Basikir)人やバグバラ(Bagbalal)人やテュルクメン(Turkmen)人として残っています。

「R1b」は恐らくアナトリアから更に南下しアフリカ大陸に入り、チャド語系の民族を形成し、その移動の事実はアフリカ神話にも残っています。


  古代人の移動は、出アフリカによるホモサピエンスの大移動、Y-DNA「Q」の出シベリア後のアメリカ大陸の北南縦断の大移動、オセアニア集団の東南アジアからの出アジアなど 国境が制限している現代社会からは想像も出来ないほどダイナミックで広域なものでした。

  それほど古くは無くてもシベリア系遺伝子Y-DNA「N」のシベリア大陸横断によるウラル化があります。

  我々現代人は民族、言語、風俗習慣など国境が確立されてしまった環境の中で生きているため、人々の違いに敏感ですが、 実はネアンデルタール人とホモサピエンスの交配による遺伝子の受け継ぎの事実など、 古代に遡れば上るほど人々は違いを越えて交配しあい、新しい土地で新しい遺伝子が分化してきているのです。


1.スヴァン人(Svans)

  アルメニア人が世界最古の民族と言われていますが、遺伝子調査の結果だと 古代遺伝子の1つであるY-DNA「F」の頻度が高い、スヴァン(Svan)人やルトゥリア(Rutulian)人のほうが古いかもしれませんね。

  スヴァン人はジョージア(グルジア)とロシアの国境のグランドコーカサス山脈の南山麓に居住しています。 要する「G」によって標高の高い土地に追い出されたと考えられます。

  同じ古代遺伝子Y-DNA「D」頻度の高いチベット人がY-DNA「O3」にチベット高原に追い出され、 最極東の日本列島に同じ「D」縄文人が残ったように。僻地に古代が残る例のような気がします。

2.ルトゥリア人(Rutulians)

  ロシア・ダゲスタンのグランドコーカサス山脈の北山麓の狭い地域に局在しています。
「G]の頻度も高いので「G」の拡張に伴い「G」が入り込んできたようです。

3.アバジニア人(Abazinians)

  スヴァン人のすぐ北隣、グランドコーカサス山脈の北山麓に居住しています。

元は同じ集団だった可能性もあります。

「F」と「G」が同程度なので、「G」の拡張で入り混じり民族が分かれたのかもしれません。

「R1a」も多いのですが後世のスラブ系なのか、 インド・アーリアンがインドに移動する途中で留まった系統なのかは、もっと調査が進み子亜型/孫亜型などがはっきりしてくると解明されるはずです。
また少数ですがモンゴル帝国の名残のY-DNA「C」も残っています。

4.シャプスグ(Shapsugs)人

  最もY-DNA「G」頻度の高い民族ですが、現存人口約8000人の半数以上は現在イスラエルに居住しています。つまりユダヤ教徒になります。

ロシアのAdygeiに残りは居住しているようですが、こちらはスンニ派イスラム教徒だそうです。


5.オセット人(Ossetians)

  コーカサス紛争で話題になるオセット人は調査地域によって出現頻度がかなり変わります。東方正教会(Eastern Orthodox)もあればスンニ派イスラム教もあります。 遺伝子の地域差が大きく、Y-DNA「I」や「J2」が多い地域もあれば、「F」が多い地域もあり、 古代から紛争の中心地であり、遺伝子が入り乱れてきたことが十分に推測できます。


6.アルメニア(Armenians)人

  調査により大きく出現頻度が変わります。

WealeのデータはY-DNA「G」が基本で、そこにY-DNA「R1b」が交配している結果が見事に出ていますが、 他の論文では、「J2」、「I」や「R1a」が主要遺伝子になっています。

アルメニアもオセット同様古代から戦争や紛争の土地であったことが読み取れます。


7.ジョージア(グルジア)人

  スターリンの出身地ですが、Y-DNA「G」にY-DNA「J2」がかなり交配しており、メソポタミア農耕文明は「J2」と「G」によって興ったと考えられているので、 いずれにせよこのコーカサスの黒海沿岸の低地で農耕の芽が育ち、移動先の肥沃な三角地帯メソポタミアで農耕の花が開いたと考えるとありそうな話です。


8.チェチェン(Chechens)人

  チェチェン紛争で知られる民族ですが、Y-DNA「J2」と「J1」が主要な「J」遺伝子民族になります。
イスラム教ですが、どの宗派にも属さないムスリムも多く、 スンニ派のシャーフィイー学派もあり、なかなか難儀な土地のようです


9.アゼルバイジャン(Azerbaijanis)人

  カスピ海沿岸の低地に望むコーカサス一帯では最も平地の多い土地になります。
そのためかメソポタミア農耕民系遺伝子のY-DNA「J2」が主要遺伝子になっています。


  10.クルド(Kurds)人

  オスマン帝国の解体後に一時期クルディスタン王国が、戦後一時期クルディスタン共和国ができたが、いずれも大国の思惑で瞬間的にできた国家で終わってしまいました。

遺伝子的にはトルコ国内に包含される本家クルディスタンのクルド人の調査結果がないため主要遺伝子が何なのかは残念ながらわかりません。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/


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新石器時代の人間の骨からペスト菌、人口激減の謎解明か スウェーデン
2018.12.10 Mon posted at 16:01 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35129877.html

新石器時代の女性の骨から記録上最古のものとなるペスト菌が検出された/Karl-Göran Sjögren, University of Gothenburg

(CNN) スウェーデンの研究チームがこのほど、5000年前に死亡した20歳の女性の遺伝子素材からこれまで知られるなかで最古となるペスト菌のサンプルを発見したとする論文を学術誌に発表した。

今から5000〜6000年前、新石器時代の欧州の農耕社会は劇的な人口減少に見舞われたが、その原因については現在に至るまで決定的な答えが出ていない。今回のペスト菌の発見により、疫病の流行が原因の一部だった可能性が浮上した。

上記の20歳の女性は、スウェーデン南部にある墓の中で、同時代ごろを生きた78人とともに埋葬されていた。別の人物からも同じペスト菌が検出されたため、研究者らは当時伝染病が流行していたとの見方を示している。

従来、欧州におけるペストはユーラシア・ステップと呼ばれる地域からの移住者が持ち込んだ疫病と考えられてきた。ユーラシア・ステップは現在のハンガリーから中国にまでまたがる広大な草原地帯で、ここからの移住者がその後新石器時代のコミュニティーに取って代わったとみられている。

しかし今回の発見により、ペストが北欧へ到達したのはユーラシア・ステップからの移住が起きた時期をはるかにさかのぼる可能性が出てきた。研究者らはヒトがかかる疾患としてのペストの起源はおよそ6000年前、人口1万〜2万人の「巨大集落」がつくられ始めたころだと論じている。不衛生な環境や人口過密の状態、動物の存在などを通じて、ペストが危険な疫病へと進化した可能性があるという。

ペストによって新石器時代のコミュニティーの人口が激減したところへユーラシア・ステップからの移住者が流入し、欧州全域で暮らすようになった。以後、欧州に住む人々の遺伝子構造はこれらの移住者のものへと変化したと、上記の論文は分析する。

論文の筆頭著者を務めたコペンハーゲン大学のシモン・ラスムセン准教授は、ペストの流行が石器時代の社会を崩壊させ、その後の大量移住で現代のヨーロッパ人の遺伝子が生み出されたと結論した。


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ゲルマン人の大移動をゲノムから調べる
西川伸一 9/27
https://news.yahoo.co.jp/byline/nishikawashinichi/20180927-00098231/


ゲルマン人が形成したロンゴバルド王国の首都パヴィーア(写真:アフロ)


恐らく高校生の時だと思うが、西ローマ帝国の没落と同時に、多くの民俗がヨーロッパに相次いで移動し現在のヨーロッパ人が形成される事を学んだ。この最初がゲルマン人の移動で、ゴート、フランク、ブルグンド、ロンゴバルドなどの王国が形成される。私達がアングロサクソンと呼ぶのはこの系統だ。一方、それ以前の住民には当然ローマ帝国を代表する南の人たちの系統が存在し、私達がラテン系と呼んでいる人と考えればいい(この考えは検証したわけではなく私が勝手に想像していると理解してほしい)。この時代のことは、ローマ側から見た記録と、あとはさまざまな遺物から検証されているが、ゲルマン人側からの詳しい記録はそれほど多くないようだ。従って、特に侵入初期のゲルマン人の生活については、他の資料からの考察が求められていた。

今日紹介する米国ストーニーブルック大学、イタリアフィレンツェ大学、ドイツマックスプランク人類史研究所が合同で発表した論文は、ロンゴバルド王国がハンガリーから北イタリアにかけて形成される過程での民族間の交流を、ロンゴバルド王国の身分の高い戦士とその家族が代々葬られた墓から出土した遺骨のDNAを解読することで明らかにしようとした研究で、9月12日Nature Communicationsに掲載された。タイトルは「Understanding 6th-century barbarian social organization and migration through paleogenomics (6世紀の蛮族社会構成と移動を考古ゲノミックスから理解する)Nature Communications 9, 3547 :https://www.nature.com/articles/s41467-018-06024-4)。

まず読後の印象から始めたい。これまで古代人のゲノム解析の論文を多く読んで来たが、この研究は考古学的な検証とゲノム解析の両方を丹念に対応させた総合的な考古学の論文で、読んでいて高校時代に学んだ歴史を思い出すとともに、この墓に葬られている家族の有様がありありと浮かんでくる大変興味深い論文だった。

ロンゴバルド王国は現在の東ヨーロッパにあるローマ統治地区パンノニアのゲルマン人が、北イタリアからハンガリーにかけて築いた大きな王国で、パヴィーア(写真)を首都にしていた。この研究ではロンゴバルド王国の両端に位置する、ハンガリーのソラッドと北イタリアのトリノに近いコルレーニョの2箇所に残る、王国成立初期のゲルマン人の大きな墳墓を考古学的、ゲノム科学的に調べている。

墓に残る副葬物を調べることで、この墳墓に家族の中心人物から、言って見れば庶子のような家族の中でもあまり尊重されていないメンバーまで、一族として葬られていることがわかる。そして、葬られた本人の重要性に応じて階層的に埋葬されている。今回ゲノム解析から、葬られているメンバーが一つの家族であることがハッキリと確認された。

重要なのは、 考古学的な検証から判断される家族内の序列が、それぞれの個体が引き継いでいるゲルマン系のゲノムの割合で概ね決まっている点だ。こうしてわかってきた序列から脚色を交えて、次のように話を纏めることが出来るだろう。


ロンゴバルド王国成立過程で、侵入したゲルマン民族はラテン系のローマ人を征服し、ラテン系の女性を家族として迎えるようになる。しかし同じ家族でも、多くの場合ラテン系の血を多く受け継ぐ家族は差別されていることが、副葬品の有無や墓の中心からの距離などからわかる。なかには特に愛されたのか、ラテン系の女性とその子供の中には副葬品と共に葬られている例外も存在する(愛は民族を超える!)。

ゲルマンとラテンの融合は、時間をかけて進んでいく。ソラッドでは中心部に埋葬される男性のほとんどがゲルマン系で、ラテン系は女性に多いことから、まさにゲルマンがラテンを征服した過程が、家族内にそのまま反映されている。一方コルレーニョになると、よりゲノムレベルでの多様性が増している。ストロンチウムの同位体を使って、葬られたメンバーがその土地で一生を過ごしたのか、他の土地からやってきたのかを調べることができるが、ソラッドではラテン系もゲルマン系もゲノムに関わらずこの土地で育ったのではなく移動してきた人たちだ。すなわち王国成立初期に、ゲルマンの戦士の家族がラテン系のメンバーを融合しながら、ソラッドに移動してきたことを示している。一方コルレーニョでは、ラテン系のゲノムを持つメンバーはほとんどコルレーニョ育ちの人たちだ。またゲルマン系も、世代が進むとコルレーニョ育ちであることが確認できる。すなわち、この地域ではゲルマン戦士家族の定着が進む過程を見ることが出来る。

私なりにだいぶ脚色してしまったが、考古学、アイソトープによる生活圏測定、そしてゲノムの各解析が見事に一致したエキサイティングな研究だと思う。そして何よりも書かれた歴史が存在する有史時代でも、ゲノムも加えた総合的研究が今後ますます重要であることがわかる。これまでのように、遺物の解析からあとはすぐ想像の世界に入るのではなく、より厳密な考証が可能になってきた。

文理融合の掛け声倒れの我が国を残して、世界の歴史学は随分先に行ってしまった気がする。
https://news.yahoo.co.jp/byline/nishikawashinichi/20180927-00098231/


▲△▽▼

次の記事はいい加減な話なのですが、面白かったので一応転記しておきます:
2018年08月20日
アーリア人による侵略の歴史と現在〜混血で同化回路が失われる〜
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2018/08/7976.html


アーリア人とは、西洋人の祖先、広くはインド・ヨーロッパ語族の民族に共通する祖先と言われている古代の種族で、世界史の教科書では、インダス文明に侵略し滅ぼした民族と記されていることもしばしば。

アーリア人は超古代にエジプト→メソポタミア→インダス→中国と侵略を重ねそこで他民族と混血していった。それが、言葉の作り、文型が同じとなっている理由として指摘できる。インドヨーロッパ語族も中国語も、みな主語+動詞のSV、SVC、SVOで構成されている。それだけでなく、脳構造も同様になっている。

実は、古代のアーリア人により侵略との相似が、近現代にも起こっている。南北アメリカ大陸では西洋人あるいはスペイン人やポルトガル人が、アジア諸国のタイ・フィリピン・ハワイ・オーストラリアなどではイギリス人が、アーリア人という名前に代わっただけの侵略が繰り返されてきた。

そして今、日本でも同じことが繰り返されようとしている。移民(=観光客招致という触れ込み)で、あらたなるアーリア人による侵入が行われている。

以下、

井口和基氏のブログ
https://quasimoto2.exblog.jp/238706176/

より引用します。(文字の着色は引用者による)


(前略)かつて私がアメリカに留学した頃、仲の良い長身のアマゾネスのような金髪碧眼のアメリカ人女性がいたが、彼女から「あんたは(白人とは)目だけが違う」と言われたのであった。確かに目だけはチンギスハン型の腫れぼったい目というやつだった。モンゴル人の目。

ちなみに西洋人になぜモンゴル人が嫌われるようになったか?については諸説あるが、一番はチンギスハンによる蒙古襲来の記憶。そして、西洋人がキリスト教を信じるようになって、いわゆる「悪魔の目」をその東洋人型の目に描くようになったからである。

万物を見通す目=イルミナティーのシンボルマークは、古代エジプトのイシス神の目、それがホルスの目になり、最終的には悪魔主義者の目、イルミナティーのシンボルマークになったものであるが、もともとは古代エジプトの神々の目から来たわけだ。

ところが、古代エジプトでもアーリア人の侵入の3000年前以前の超古代エジプト人は人種がアジア系、というより、我が国で言えば縄文系に近い人種であった。だから、ルクソールの巨石、カルナック神殿の神々はみな日本人のような体型と顔形をしているわけである。

超古代ミステリー5:世界の謎の碑文は神代文字で読めるのだ!つまり日本語だった!

それがアーリア人の侵入支配の後にはいわゆる西洋人型のクレオパトラのようになった。

ちょうどアメリカ大陸が古代アメリカはアジア人型のネイティブインディアンやインディオが住んでいたが、そこにスペイン人のコルテスやピサロのような残忍な白人が侵入して支配した後では、現地人の顔形がすっかり変わってしまったというのと似ているのである。
同じことはヒマラヤの南、超古代インドでも起こった。西側からアーリア人がインドに侵入した。

これがインドにバラモン(=ブラフマン=金髪碧眼の人=アーリア人)が侵入した。いわゆるアーリア人の侵入という出来事である。3000年前のことである。

その結果、我が国の士農工商のように、カースト制度が生まれたのである。

とまあ、これはわざと士農工商とカースト制度を同列にする戦後の日本の自虐史観で書いたものだが、実際にはこれはまったく違うものであった。

我が国の士農工商はあくまで社会の職業上の区分であって、人種的なものではない。しかしインドのカーストは明確な人種差別のカーストであり、金髪碧眼種のバラモンことBrahman(ブラフマン)が一番上につき、その下にハーフ層。その下に土着人。そして一番下が最下層の貧困層というものである。

バラモン教というは単に当時のバラモン層が持ち込んだアーリア人の悪魔教(=拝火教)がベースになった。だから、悪魔教じゃだめだということで、バラモンからブッダが登場したのである。

中世近代になり、これと同じことが北中南米のインディオ支配で全く同じことが繰り返され、南米ではインドのカーストと同じことが今現在も残っているのである。アメリカもすでにそうなっているし、オーストラリアやニュージーランドは人種殺戮で原住民がまったく少なくなって絶滅危惧種になった。オーストラリア人となったアングロサクソン人が、現地人をハンチングで人間狩りを行ったからである。
ヒマラヤの北の中央アジアでもいわゆるトルコ経由、ウィグル経由で、アーリア人が侵入したのである。

これが「秦氏」の祖先であり、金髪碧眼種であった。秦の始皇帝の時代である。中国でも超古代中国と3000年前以降の古代中国とでは人種が全く違うのである。

ちょう古代中国では、日本で言う縄文系のアジア人が古代王朝、夏や殷(=商)を作っていた。殷(いん)は、沖繩や台湾と同相の文化を持つ。一言で言えば、超古代日本人の一派である。だから、その殷が最初にいわゆる「漢字」の祖先を生み出していた。つまり、「殷文字」である。

それが、周の時代にアーリア人の中国への侵入がはじまって、いわゆる「春秋戦国時代」になり、その後に、中国大陸はアーリア人に支配され、いわゆる「秦」(しん)が誕生し、後の「漢(かん)」へと変遷していく。

中国の歴史

ここに中国人化した(つまり、漢字を使う)アーリア人が誕生した。これが「あやひと=アーリア人」=「漢人」である。(「あやひと」については、ブログ1で検索)

KANOという台湾の野球映画があるが、その中で「漢人、萬人、日本人、漢人は力が強く、萬人は足が早い。日本人は守備に長けている」というセリフがあるが、漢人が力が強いというのは、これが原因なのである。

要するに、いわゆる中国人の代名詞である「漢人」というのは、白人種であるアーリア人を祖先に持つ混血アジア人のことである。

3000年前の中国の春秋戦国時代がなぜ起きたか?

これは、我が国において、なぜ戦国時代が起きたか?と非常によく似ているのである。

我が国でも戦国時代には西洋白人種が渡来してきて我が国を乗っ取りを計った。その中で、日本人同士で内部抗争させて有力な部族を殺し合いさせ、弱体化したところで、一気に外人が支配するという古典的手法が用いられた。そう考えるべきなのである。

これはすでに超古代エジプト、超古代インド、超古代中国、中世の南北アメリカ大陸、そして東南アジア、最終的に我が国日本まで続いてきたと見るべきなのである。

中国5000年の歴史というのは真っ赤な嘘で、中国には後半の3000年の歴史しかない。最初の2000年は縄文系のアジア人の時代であり、戦国時代以降の中国人とは体型も顔形も文化も歴史もまったく異なるのである。

中国人は足がすっとしている。

その理由はこれまで椅子とベッドの生活だからだというようなことがいわれたが、それは嘘で、実際には単にもともと西洋人型のコーカソイドの遺伝のせいなのである。だから、いまでも中国人の足には、西洋人同様に内股型やX脚が多いのである。

いまのアラブ人やエジプト人が、アラブ人化エジプト人化したアーリア人だとすれば、いまのインド人はインド人化したアーリア人であり、いまの中国人の漢人は中国人化アジア人化したアーリア人にすぎないのである。

だから、言葉の作り、文型が同じなのである。インドヨーロッパ語族。中国語。みな主語+動詞のSV、SVC、SVO。。。である。

言葉が同じなら、性格や特性もいっしょ。基本的に残虐である。

というわけで、この事実は公然の秘密になっている。

その後、近現代になって似たようなことが、南北アメリカ大陸ではアーリア人という名前ではなく、西洋人、あるいはスペイン、ポルトガルが、アジア諸国のタイ、フィリピン、ハワイ、オーストラリアなどでは、アーリア人という名前ではなく、西洋人、あるいはイギリス人という名前に変わって行われたにすぎないのである。

そしていままさに我が国で再び同じことが繰り返されそうとしている。観光客招致という触れ込みで、あらたなるアーリア人侵入が繰り返されるのである。

アーリア人は、3200〜3500年前に突如、中央アジアに登場したと言われており、出自が不明とされている。引用元では火星から来たエイリアンではないか、とも記されており、謎が多い。


(前略)歴史をよく紐解けば、約3000年ほど前、正確には3200年ほど前から3500年ほど前に突然中央アジア、ヒマラヤの北西部にアーリア人と呼ばれる人種が登場した。あるいは、もっと西の中近東のいわゆるシュメール文明の地にアーリア人が登場した。

アーリア人とシュメールの神話のニビルの神々とは非常によく似ているのである。Aryanアーリアンと英語のAlienエイリアン(=外人=異国人)とはほぼ同じ語源と見てよいだろう。なぜなら、古代ではrとlの区別やyとiの区別やbとVの区別はなかったからである。

Y遺伝子のハプロタイプ研究ではこのことははっきりでていて、A, B, C, D, E, F,…, O, P, Q, R,ときて、西洋人はRである。一方縄文系日本人がCおよびDである。チャイナ人やコリア人はOである。不思議なことに米インディアンはQである。つまり、フィンランドのラップ人=金髪碧眼のアジア人はおそらくPやQであり、その一派が北米に渡ったのだろう。

人類の「Y染色体」ハプログループ分布と「シッチンの人類創世説」に矛盾があるか?

ところで、一般の標準理論では、北南米のインディアンのルーツはアジアから渡ったと考えられているが、ハプロタイプを自然にみれば、北欧の原住民はラップ人のようなアジア系だったわけだから、古代の縄文系のアジア人が西へグリーンランド経由で渡ったと考えたほうが理にかなっている。場所が近いし、渡りやすい。遺伝子的にもすでにラップ人として北欧にPで住んでいて、それがQに変わったと見るほうが自然なのである。アジアはOだから、O→P→Qと行くには時間がかかる。
そんなわけで、やはりこの地球史を見る場合には、「アーリア人」というものを研究しないとまったく真実が見えないのである。それがわからないと、なぜヒトラーがあれほどまでに「アーリア人」にこだわったのかの理屈も理解不能なのである。


アーリア人とは何者か?

我が国では西洋人の祖先、金髪碧眼の先祖程度、あるいは、北欧バイキングの先祖、白人西洋人のご先祖さま程度にしか理解されていないのかもしれないが、それでは本当の地球の歴史は理解出来ない。また、いま我が国でリアルタイムに起きていることの意味が理解出来ないに違いない。

さらに興味深い考察として、混血によって脳構造も変わるという分析がなされてある。これにより日本人が持つ「情緒」=同化たらしめる共認原回路が失われるというのだ。


(前略)外人さんと混血すると脳が日本人脳ではなくなり、いわゆる最大の日本人の特徴である「情緒」が理解できなくなるのである。

なぜか?

これはまだほとんど研究されていないが、というのも、脳科学そのもののリーダーが西洋白人だから、理解不能だし、モティベーションが日本人とは別になるからなのだが、人間の特性は前頭葉ではなく、頭頂葉から後頭葉にあるのである。

前頭葉は物事の処理系であって、人間性の発露ではなかったのだ。

対談 小原實晃・横山賢二 第2部 「心の構造と大脳」

ところがいまだ西洋医学や西洋(=白人種)の生物学や脳科学では、前頭前野に人間性の発露があるという認識にすぎない。

しかし、前頭前野はいわゆる知性、知能、知的処理、こういう「知」に関する部分であって、これは自我、自己、自意識の発露の場にすぎない。

この意味では普通の動物にもある。

しかし、人としての共感とか、日本人がいう「情緒」というようなものは前頭前野や前頭葉には存在しない。

だ・か・ら

だから、西洋語には「情緒」という概念がない。存在しないのである。

日本語の「情緒」を英語に翻訳するとemotionになってしまう。しかし、emotionは情熱とか感情という意味になり、我々日本人が感じる「情緒」とはまったく異質のものになる。

感情=喜怒哀楽なら猿にも動物にもある。人間特有のものではない。

人間特有なものが「情緒」なのだが、それがアーリア人には存在しない。

3000年前から存在せず、いま現代も存在しない。

ということは、そういうことを認知する機能が存在しないということになるわけですナ。

つまり、彼らの脳にはそういう機能がないから認知できず、したがってそういう言葉も概念も生まれなかった。

とまあ、そういう結論になるわけだ。
この情緒は頭頂葉の作用なのである。この頭頂葉のもっともよく発達した人種民族が我々日本人である。

西洋人の頭蓋骨は上下がぺちゃんこだが前後に長い。前頭前野はよく発達しているから自己中になる。分析力は有る。また、後頭部も発達しているから、運動能力も高い。

しかし頭頂葉がまったく発達していないから、彼らには情緒が理解できない。だから、いわゆるスピリチュアルの人が生まれにくい。

それに対して、日本人の場合は頭頂葉が発達しているから、前頭葉があまり発達していなくて分析力は弱かったとしても、情緒を理解する。したがって、日本人は生まれながらのスピリチュアルの人が非常に多い。

その差が現在において同じ高度先進国でありながら、社会の雰囲気がここまで違ってきた理由なのである。

(中略)

虫の泣き声など少しも気にせず、虫を残酷に潰して殺す。そんな白人の子供はハワイにはわんさかいる。そういう人間になるわけである。

まあ、それから教育を受けて、徐々にまともな人間に変わる場合があるが、基本はいっしょである。ユダヤであろうが、クリスチャンであろうが、イスラムであろうが、ヒンドゥーであろうが、仏教であろうが、その点はまったく同じである。

日本人はつねに最初は相手の気持ちに立って考えようとするが、白人脳はそういうことはありえない。四六時中自分が主である。(後略)

以前のエントリーでも触れているが、上記引用を含めて考えると、移民→混血による日本の弱体化とは、脳構造つまり意識構造をも変えてくということ。本源の人類が持っていた共認機能の基底部にある同化回路が失われることを意味する。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2018/08/7976.html



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17. 中川隆[-13793] koaQ7Jey 2018年12月12日 08:09:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22030] 報告

白人が他民族を征服した場合は美女だけ残して、不細工な女、35歳以上の女と男は全員殺す.

魔女狩りでもいい女だけ残してブスは全員殺した.


これを1万年の間 毎日毎日繰り返して やっと今の美しい金髪碧眼の白人ができたんですね.


RK: 彼らのやり方は、少数によって大多数の人々を管理して富を独占する。
  そのやり口を見ていると、まるで人間を家畜と考えていて、
  ある意味非常に効率的に管理支配していますね。

BEN:ここが農耕民族である日本人には理解しにくいところで、
  彼らの発想は非常に遊牧民的というか、非常に残酷なのです。

  それはユダヤ人の割礼なんかもそうですが、
  乳牛でもちょっとでも乳の出が悪いとすぐ殺処分するし、
  主人の言うことを聞かない暴れるオスだと、すぐに断種して
  睾丸を抜いてしまうんです。

  だけどこれが農耕民族だと、牛や馬は家族扱いにして大切にする。
  彼ら動物は田畑を耕したり、荷物を運んだりする使役動物だから、
  日本の昭和初期頃までは家の中で大切に飼って、
  潰して食用にすることもあまりなかった。それだけ感覚がまったく違うわけです。

  事実、遊牧民たちは農耕民族のことを、草を食べる
  あるいは穀物と言い換えてもいいのですが、
  羊人(Sheeple シープル)と呼んでいます。

  その羊人である農耕民族を管理するために「羊飼い」としての一神教
  (キリスト教やユダヤ教)があり、その神を動かすことで
  全体を支配するという考えです。

  これまでもその発想でずっと世界を支配してきたのです。

  ですから支配者たちから見ればその他大勢の庶民は同じ人間ではなく、
  「羊人」という家畜にすぎません。

  だから増えて管理が面倒になれば「間引こう」となるし、
  劣等な種族は断種して子孫を作らせないようにする。

  家畜を使って利益を得れば、当然のように牧場主がすべてを奪い取る。

  文句を言えば餌を減らし、ムチで叩いて大人しくさせる。

  このようにして食料と軍事力で世界を管理・コントロールしている連中が
  存在しているのです。
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-a3d1.html


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23. 中川隆[-13806] koaQ7Jey 2018年12月12日 17:59:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22072] 報告

原人もネアンデルタール人もタスマニア人も劣等民族の民族浄化で抹殺された


2015/07/20
タスマニア人を絶滅させた白人さま
https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-276.html


.
日本人よりもイルカが大事なシー・シェパードですが、白人はオーストラリアの原住民タスマニア人を絶滅させています。

1770年、イギリスがオーストラリアを発見したとき、タスマニア島には約20万人の原住民がいました。

のち、オーストラリアはイギリスの囚人を送る流刑地にされましたが、その囚人たちと当局によってタスマニア人はスポーツの一種として、または日曜日の行楽として捕らえられ、虐殺されました。

そしてとうとう、106年後の1876年、タスマニア人は絶滅してしまいました。

【タスマニア人】
goshu_tasi1.jpg

【赤い部分がタスマニア島】
goshu3.jpg【地図出典】・ウィキペディア−タスマニア州

最後のタスマニア人の遺骨は博物館に陳列


イギリスがオーストラリアに第一回の移民を送ったのは、オーストラリア大陸発見から17年後の1787年でした。

移民の人数は1044名、そのうち囚人が696名、自由移民が81名、その他は役人や守備隊員でした。

その後.5年間にわたってイギリスがオーストラリアに送った囚人の数は57600人あまりにのぼりました。これらの囚人は機会があれば原住民を遅い、部落ごとみな殺しにすることもあったそうです。

白人による虐殺はオーストラリアだけにとどまらず、当時、ニュージーランドに植民したイギリス人の最大多数が、マオリ人の絶滅を望んでいました。

白人の望みは褐色人種の排除でした。

【マオリ族】
goshu_maori1.jpg


マオリ族の娘。
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白人の暴行はオーストラリア原住民の子どもにまでおよび、その罪状は

「土人の子供を不具にしたもの、その耳や鼻を斬り落したもの、又は土人の小指を斬ってパイプの栓にしたもの……」

といったものでした。これらの罪を犯しても、白人が受ける罰はムチ打ちだけだったそうです。

イギリスは他国からの非難をかわすため、人口統計を廃止し、原住民の虐殺を続けました。

そしてとうとう、1876年5月8日、この世界でたった一人になってしまった純血タスマニア人が息を引き取りました。

彼女は

「わたしが死んだら、山の陰に葬って」

と遺言したにもかかわらず、その遺骨は見せ物としてホバートの博物館に陳列されました。


日本人はこういう白人の残虐さと人を人とも思わぬ人種差別をよく知っていました。ですから、大東亜戦争を起こしたのです。

日本は自衛のためもありましたが、日本が白人と戦わねば絶滅という災いがアジア全体を襲っていたでしょう。

大東亜戦争で日本軍がまっ先に進軍していった所は、イギリスのアジア侵略の拠点ばかりです。

【香港】
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【上海】
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【シンガポール】
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投降するイギリス軍。
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【オーストラリア】
Kavieng3.jpg

濠州爆撃。
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白人が原住民から奪った土地に建設した都市アデレード。
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原住民のものだったはずの豊かな資源。写真はリーエル鉱山。
goshu2.jpg

【オーストラリアに割譲されたパプアカビエンの原住民と日本軍】
kavien1.jpg

【日本がカビエンに建設した学校】
Kavieng1.jpg

【カビエンの原住民】
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【すもうをとるパプアの子どもたちと日本軍】
Kavieng6.jpg

【韓国のあまっちょろい捏造歴史】

こうして大東亜戦争をふりかえると、日本の戦争は民族主義と言うよりも人種主義と言ってもよさそうです。

特ア三国がああなのは、大中華小中華そろって「夷(い)をもって夷を制する=外国を引きこんで敵と戦わせる」+「事大主義」という民族性なので、白人と戦いもせず、ソッコーで下僕になったからです。

北東アジアの中華セットがアジアで嫌われているのは、戦後の行状のみでなく、戦前、戦時中の白人に迎合した彼らの行為が軽蔑されているからです。


大東亜戦争では日本人も白人に残虐な殺され方をしましたが、ご先祖さま方は白人の残虐さをじゅうぶん承知した上での宣戦布告だったのだと思います。

日本人にしてみれば、

有色人種の一人種をまるごと絶滅に追いこんだ白人が「イルカやクジラを救う」と言う方がコワイ

といったところでしょうか。

「日本人よりもイルカやクジラの方が大事だ」 と彼らは言っているのですから。


TPPやら防衛やらで白人と組むのは気が進みませんが、日本政府はやる気満々のようですし、しかたないですね。


【金髪碧眼てのは、そんなにエライのか?】


反日色強めるワトソン容疑者 「日本は地球上で最も恐ろしい国家」 慰安婦問題や南京事件にも言及 
2015年7月17日 産経ニュース

 シー・シェパード(SS)創設者、ポール・ワトソン容疑者が最近、声明の反日プロパガンダ色を強めている。捕鯨やイルカ漁とは関係ない韓国との慰安婦問題や中国との南京事件問題に言及し、「日本の教科書はまるでそうした出来事がなかったかのように残虐行為の言い逃れを行っている」などと批判したり、昭和天皇の言葉を取り出し「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでいるのは鯨やイルカたち」と“こじつけ論”を展開する。さらに、「日本は地球上で最も恐ろしい国家」として福島第一原発事故の影響で多くのイルカが死んでいるとも述べ、状況をあおり、支持者に対して、鯨やイルカたちを救えるのはシー・シェパードだとアピールしている。

 国際刑事警察機構(ICPO)に国際手配されているワトソン容疑者は昨年7月にフランスに逃亡。以来、フェイスブック(FB)の公式ページで1日に4〜5回、声明を発表している。 (後略)

【参考記事】
・クジラ映画製作の日本人女性監督を“攻撃” 脅迫のメッセージも 「どんな妨害にも負けない」と意気込む監督 2015年7月12日 産経ニュース

・豪州政府、野良猫200万匹の駆除に乗り出す 2015年7月19日 スプートニク

本記事の資料


(  )内は管理人による注釈です。

「土人」という言葉はそのまま掲載しています。

なぜなら、昭和の中ごろ、「カルピスのマークは黒人だ!差別だ!」、「ちびくろサンボのちびくろは差別だ!」というサヨクの言葉狩りの流れで、「土人」という言葉が狩られたからです。

「土人」という言葉も狩ってしまえば、歴史が知られることはありませんから。


白人は一種のスポーツとして日曜の行楽としてオーストラリア原住民をみな殺しにした

出典:1942(昭和17)年 五車貿易出版部 大神田軍治 「世紀の決戦:日本はどう発展するか」

⑷ 可憐なる濠州土人
 
 英国が濠州に第一回の移民を送ったのは一七八七年である。全員一千四十四名、其(そ)の中(うち)囚人が六百九十六名、自由移民が八十一名、其の他は官吏、守備隊員や其の家族であった。

 斯(か)くて濠州は流刑植民地として其の出発を遂げたのであるが、一七八八年から向う五ヶ年間にニュー・サウス・ウェールスに五万七千六百余人の流刑者は送られたのである。

 即(すなわ)ち陽気で、無邪気で、正直な濠州土人の中に十数万の兇暴な囚人が放たれたのであって、兎(うさぎ)の群(むれ)に餓(う)えた狼を放ったようなもので、機会ある毎(ごと)に土人を襲い、時に部落を鏖殺(おうさつ:みな殺しにする)する暴挙もあり、土人狩りを一種のスポーツとして日曜の行楽として公然行われるのであった。

 其の結果百万を数えられた土人も今日(いま)は二万人内外、雑種を加えて五万二千人に減じてしまった。

 ニュージーランドのマオリ族は数十万から四万人に、二十万人のタスマニヤ土人は陰惨苛烈(いんさんかれつ)な土人狩りによって、現在は全く絶滅してしまったのである。

 以上は単に有名な事実の一端を拾ったに過ぎないのであるが、太陽の没することなき英国の植民政策、多くこれ、かかる悪政の所産である。

最後のタスマニア人の遺骨は博物館に陳列された

出典:1941(昭和16)−1942(昭和17)年 日本拓殖協会 「拓殖叢書 第7集 濠洲」 七、原住民族

「眠れぬままに想い浮ぶ、先日ダーイン滞在中に州長官の好意で奥地へ四、五十哩(マイル)、野牛の悠々たる草野に車を駆ったとき、一陣の風とともに、草叢(ブッシュ)の蔭(かげ)から飛び出したカンガルーの群、そのあとから手槍を提げもって飛び出した凄(すご)い叢人(ブッシュマン)の姿。

ああ私は、何と面白い然(しか)し凄まじい土地に居(い)るのだろう。生き残った最後の純血タスマニア人、ツルカニが、 『妾(わたし)を山の蔭に葬って』 との言葉を残して一八七六年五月八日、哀れ呼吸をひきとった。その切なる願いにもかかわらず彼(か)の女の骨骸はいまホバートの博物館に陳列されている。そしてそれと同時に世界の原人タスマニア人は絶えた。

濠洲聯(連)邦および各州政府は濠洲の各地に強制収容地を作って、市の周囲に住む土人を収容している。然(しか)しそれは文字通り収容であって、その保護、教化は全く各種伝導団体に任せられている ── のみならず、中央濠洲、北濠洲にはまだ凶悪極まる土人も野犬のごとく彷徨している。」

・白人は濠洲原住民の子供を不具にし、耳や鼻を斬り落し、小指を斬ってパイプの栓にした
・白人最大の希望は褐色の土人を除くこと&マオリ族の絶滅
・英国は人口統計を廃止して最後のタスマニア人が死ぬまで「人口は増大しつつある」と主張した

出典:1940(昭和15)年 刀江書院 国際経済学会編 「英国植民政策史」 第二章 真理の否定

一、濠洲に於ける囚人政策

 ヴァンディメンスランドの流刑地に於ける土人は次第に滅亡して行った。

 現地の英国総督の命令をみれば、一八一〇年頃、英人が土人をどういう風に取り扱ったか、又(また)、英人の暴行にはどんな罰が課せられたかがはっきり判(わか)る。即ち、

「土人の子供を不具にしたもの、その耳や鼻を斬り落したもの、又は土人の小指を斬ってパイプの栓にしたもの……」

は笞(ムチ)刑によって罰せられるの程度である。

 当局の始めた獵(猟:か)り集めによって、タスマニア人は殺されたり、捕えられたりした。英国がこの島を占領した当時は未(いま)だ約二十万の土人がいた。この中(うち)、生き残った三百十人は一八三五年にファーノー群島のフリンダース島に移された。一八四八年にはこの島に男十三人、女二十二人、男児五人、女児五人を残すのみとなった。

 オーバーレンダーの報告によれば、

「一八五四年にはまだ十六人のタスマニア人がいた、数年後には最後の六、七名の土人をホバードタウンに連れて来た。一八六六年には四人のタスマニア人、即ち、女三人と二十七歳の男一人が生きていた。一八七六年には最後のタスマニア人の女、ララ・ルックが七十六歳で祖先の許(もと)に帰って行った」 と

 英国の学者、ケンブリッヂのトリニティー・カレッヂのバチェラー・オブーアーツ、男爵W・W・ストリックランド卿は一九〇六年に次の様(よう)に書いている。

「タスマニアや濠洲に就(つ)いて詳しく語るのは無駄である。タスマニアではその原住民は既に悉(ことごと)く英人のために虐殺されてしまった。濠洲のアリマン原住民も、同系統の人種の手によって、やがては同じ運命を辿(たど)るであろう……

 ニュー・ジーランドでは英人の最大多数が、密かに、だが熱心に、マオリ人の絶滅を望んでいる。

 濠洲では輸入された白い野獣が、褐色の人種、もっと正確に言えば、自分は除くが、同じ人種系統に属する濠洲の土人は除かず、全人種に対して憎悪を公言し、自分達の最大の希望は褐色の土人を除くことにありと主張して憚(はば)からない。……海峡植民地では土人の人口は急激に減少しつつある……」

更に、ストリックランドは彼の研究を次のごとく結論している。

「東半球に於けるかかる記録を見ると、未開の民族を指導し、彼等(かれら)に福祉と幸福とを与えることは、吾々(われわれ)のみが有する秘密であるという英人の言葉も、そのままに受(うけ)とれない。英国人は ── 問題が英国にとって有利に発展するような地方では、それは実際には、すべての土人にも有利なのである ── というが如(ごと)き仮定にもとづ)く無限の独裁力によって、その目的を達して来たのである。英国がもしかかる狡猾なる手段によらないでその目的を達したのであるとすれば、或(あるい)はそう言い得られるかも知れない。かかる自惚(うぬぼれ)がその程度を越して、遂には基礎的な人口統計も不必要だとして、廃止されるに至った。かくして土人を絶滅するための適当な手段が探られた。その最後の代表者がなくなるまで、人口は 『飛躍的に』 増大しつつあると主張していた。」

 濠洲及びその地方の諸島に於ける英国植民地政策の事実は、この地に於ける英国の支配が始って以来今日に至る迄(まで)、真理を無視した英国的良心 ── 而(しか)して(そして)かかる良心が決定的なポイントであるのだが ── とでも言い得るであろう。

白人の人種差別−タスマニア人をみな殺し、白濠主義をとなえて有色人種の移民は不許可

出典:1942(昭和17)年 軍事教育研究会 大倉要 「戦争と国際問題」 二、大東亜を組成する国家と地域

濠洲

 濠洲は英の自治植民地で、一七七〇年発見以来、英の流刑植民地として囚人のみを送られ、一八三六年メルボルン市建設、同五一年金鉱発見以来発達した。

面積七七〇万方粁(平方キロ)で、我国の十二倍もあるが、人口は九州より遥かに少く六百十万人である。英流の虐殺か、細菌主義か、土着人のオーストラリア族は減少し、タスマニア族は絶滅して、白濠主義を唱えて東洋人を移住せしめない(させない)。

従って耕地は全土の一パーセントに過ぎず、然(しか)し小麦年産額は一億八千万ブッシェルに達し、英の穀倉となっている。其の他、綿花、米、煙草、砂糖等を産し、殊(こと)に羊毛は世界第一である。鉱産物は南阿(南アフリカ)米に次いで世界第三位の金を主とし、石炭、銀、鉛、銅、錫(すず)、鉄等を産する。 

戦後.抹消された白人の非人道的行為

出典:1942(昭和17)年 二見書房 中井良太郎 「史考大東亜戦争」 第四章 米国の対日挑戦を推進した老獪悪辣の英国

(二) 英国の罪悪

 濠洲を罪人の流島とし、濠洲土人を鏖殺(おうさつ:みな殺しにする)して今日残す所なきが如き(絶滅させてしまったように)非人道を敢(あえ)てするのが英人の本性である。

 理不尽なる阿片(あへん)輸入に依り、阿片戦争を挑発して支那蚕食(さんしょく:他の領域をじわじわと侵略すること)を初め、香港や九龍を奪い、上海を我物(わがもの)とし、支那各地に勢力を植え付けた歴史は周知の通りである。


出典:1928(昭和3)年−1932(昭和7)年 新光社編 「世界地理風俗体系 XXIII」

タスマニヤ土人

 濠洲大陸と一元帯水(いちげんたいすい)のタスマニヤ島に住んでいた土人は、オーストラリヤ人と並記されるのが常であるが、体質や文化からいうと、寧(むし)ろメラネシヤ人に近かった。

その言語は漆着語(しっちゃくご)で、接頭語と接尾語とをもっているが、メラネシヤ語とは縁が遠い。

その身長は一・六六メートルで、顔は斜顎(しゃがく)であり、頭形示数(とうけいじすう)は七六乃至(ないし)七七を示し、鼻は扁広(へんこう)である。毛髪は縮れている。この種族は絶滅した。

 独(ひと)りタスマニヤ人のみならず、オーストラリヤ土人も年々人口減少し、一八五一年に五五、〇〇〇人あったものが、一八八一年には三一、七〇〇に減じた。南オーストラリヤのナリンイェリ族の如きは、一八四二年に三、二〇〇人の成員をもっていたのに、一八七五年には五一一人しかもっていなかった。

こうした現象は、文明的移住民との生存競争のために敗れてしまう結果である。
https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-276.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

24. 中川隆[-13808] koaQ7Jey 2018年12月12日 18:01:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22075] 報告

現在リアルタイムで行われている劣等民族の民族浄化については

中国人のウイグルでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/280.html

中国人のチベットでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/282.html




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

27. 2018年12月13日 00:52:36 : VSrI9Pyv3E : JGMD5DdeIpQ[1] 報告
専門分野でしょ。ってことで。メキシコ湾に突如現れた原油分解の微生物群の活躍奇譚を思い出すねぇ。
REM********************
http://www.afpbb.com/articles/-/3201455

地下深部に広大な「生命体の森」 国際研究で発見

2018年12月12日 16:19 発信地:タンパ/米国 [ 米国 北米 日本 アジア・オセアニア ]
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南アフリカ・コパナン金鉱の地下1.4キロの深さに生息する線虫類(2018年12月10日提供、資料写真)。(c) AFP PHOTO / Gaetan Borgonie(Extreme Life Isyensya, Belgium)/HANDOUT

【12月12日 AFP】海底をおよそ2500メートル掘り下げた地下に、数十万年から数百万年にもわたって存在してきた可能性のある微生物を含む、広大な「生命体の森」が存在するという発見が米ワシントンで開かれた米国地球物理学連合(American Geophysical Union)の会議で発表された。

 地底の極端な温度や気圧にもかかわらず豊富に存在するこの生命体は、これまで存在が知られてこなかった。何も摂取せずに岩から放出されるエネルギーのみを取り入れて生きており、動きは遅く、まるでゾンビのような状態で存在しているという。

 2009年に地球内部の秘密を探るために専門家数百人が集まって結成された国際共同研究機関「深部炭素観測(ディープ・カーボン・オブザーバトリー、Deep Carbon Observatory、DCO)」が、過去10年に及ぶ研究の最新結果を発表した。

 DCOによると、地球上の生物のうち、細胞核を持たない単細胞の有機体であるバクテリア(細菌)やアーキア(古細菌)のおよそ70%が地下に存在する。そうした「深部地下生物(ディープライフ)」は炭素重量換算で150億〜230億トンに相当するという。

 米オレゴン州立大学(Oregon State University)で宇宙生物学と海洋学を教えるリック・コルウェル(Rick Colwell)氏は「地球の深部地下生物圏は巨大だ」と述べ、これまでに発見された生命体は「非常に素晴らしい、極限の生態系」だと表現した。

 発見された単細胞有機体の一つは、海底の熱水噴出孔の中で見つかったもので、121度の環境でも増殖が可能な超好熱菌「Strain 121」(学名:Geogemma barossii)の可能性があるという。

 コルウェル氏は「地底の奥深くには少なくとも地表と同等か、ともすればそれを超えるかもしれない遺伝的に多様な生命体が存在しており、われわれはその多くについてまだ解明できていない」と語った。

■地表生物とは明確に異なる

 地下深部で生きる同様の奇妙な微生物は、火星など他の惑星の地底にも存在する可能性があるという。

 日本の海洋研究開発機構(Japan Agency for Marine-Earth Science and Technology、JAMSTEC)の稲垣史生(Fumio Inagaki)氏によると、大半の深部地下生物は地表の生物とは明確に異なるという。

 JAMSTECの地球深部探査船「ちきゅう(Chikyu)」を使って海底深部まで掘削し、採取された試料は、科学者らに深部地下生物に関する詳細な観察をもたらした。稲垣氏はAFPに対し、「これらの微生物は非常に長い間、ただそこに存在していた」と述べた。

 こうした古代の炭層から採取され、研究室へ持ち帰られた微生物や細菌にグルコースを与えると、一部は目覚めたという。

 科学者らは深度5000メートルを超える地下でも生命体を発見しており、稲垣氏によると生命体の限界となる境界の在りかはまだ突き止められていないという。

【翻訳編集】AFPBB News

28. 2018年12月13日 15:30:20 : JIY1sdNlGo : co7U_wqZ@s0[64] 報告
それで、カルトを学校で教えるの? アホじゃないの。
29. 2018年12月13日 23:26:26 : unLWhOiSo2 : WCgSbqFe7DI[1] 報告
>それで、カルトを学校で教えるの? アホじゃないの。

日本の学校では、進化論には数種あって結論は出ていない、という教え方。
ダーウィン絶対で決めつけてないよ。

今西錦司が日本人だということもあるね。

このスレッドの趣旨は、遺伝学の成果を支持するべき、ということでは?


「DNAバーコード」大規模解析、進化の新事実が浮き彫りに
http://www.afpbb.com/articles/-/3176567

中立進化説 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AA%AC

進化論を否定する発見が今週ありましたがどう思い
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11191763036

30. 2018年12月14日 00:43:57 : IDVAda2tto : hJmamKHl3t4[1] 報告
ナンバリングから見て実質的に完全削除コメが相当数ある。なんで?どういう理由?
31. 中川隆[-13804] koaQ7Jey 2018年12月14日 10:17:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22129] 報告
>>30


最近阿修羅では、体制側に都合の悪いコメントを書くとすぐに、初期非表示ではなく完全削除される様になった

阿修羅管理人と中国工作員グループとは互恵関係になったのかな?

馬渕睦夫
日本では5万人の中国人が工作活動に従事している:

河添恵子#8-1 ゲスト:馬渕睦夫★リアルに存在するスパイ&工作員の実態 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ukhGim45GB0


河添恵子#8-2 ゲスト:馬渕睦夫★ディープステートが支配する世界 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Pxqk80onq6I

収録日:2018年9月11日

今回のテーマは「スパイ(工作員)」映画やドラマの中だけじゃない、リアルスパイのお話をお送りします。

 

・スパイ(工作員)の存在

・トランプ大統領の21世紀の赤狩り

・馬渕大使のスパイ体験談

・スパイ3要素:1.接触 2.取込 3.操作

・海外駐在のあるある→有能な秘書は当局と通じている

・ソ連時代のモスクワ、ウズベキスタン、トルクメニスタンでのエピソード

・<中国・統一戦線工作部の幹部養成用教材について>
教材にはその手口について「団結できそうな勢力を欠かさず取り入る」「相手に友好、寛容の態度で接する」。
一方「海外の敵対勢力に対しては冷血無情に完全孤立させる」と明記されている
英フィナンシャルタイムズ紙 2017年12月20日より

・日本には中国のスパイ(工作員)が5万人

・あなたの隣にいるスパイ

・一皮剥いた世界の現実に対応する力

・『Silent Invasion: China's Influence in Australia』
(静かなる侵略:オーストラリアへの中国の影響)
著:クライブ・ハミルトン(チャールズ・スタート大学教授)

・中国は 民主主義を利用して 民主主義を破壊する 

・中国の民主主義的破壊活動

・日本人は「金・名誉・異性」に対する免疫力を持て

・国民一人一人の免疫力が重要

・民主主義を利用して民主主義を潰す、それが共産主義のやり方

・日本の左翼も同じ方法論を採用している(知ってやってる人と知らずにやっている人がいる)

・共産主義国家の作り方・・・平和(自由・平等)を唱える→内戦・革命にもっていく→共産党政権を作る

・それは中国だけではなく、世界各地、そしてアメリカ内でも起こっていること

・ディープ・ステート(Deep State)
米国内の影の政府、背後にいる権力者のこと トランプ氏はそれらと
戦っている人物であると右派評論家等が定着させた言葉
同タイトルで英FOX製作MI6・CIA関連のドラマも人気

・ディープ・ステートが操るアメリカ
 大統領任命、議会、司法省、FBI、メディア、全てがディープ・ステートの手足になっている

・トランプ批判記事の狙い
・トランプ VSディープ・ステートの戦い真っ最中
・ロシア革命以降、百年の歴史を改める
・「ユダヤ系の大資本家が左翼のバックにいる」ことを自覚しましょう

Q. スパイ(工作員)の見分け方


▲△▽▼


因みに、僕が最近 阿修羅掲示板で中国関連スレにすべてウイグルでの民族浄化の話をコメントしていたら、
中国関連のスレが滅多に投稿されなくなった。

つまり、阿修羅で中国関連のスレを投稿していたのは殆どが中国の工作員だった訳だ。

阿修羅掲示板の全投稿の 7割以上を投稿している自称 赤かぶ 氏も中国の工作員グループだろうね。
阿修羅掲示板で反安倍とか護憲とか反原発の投稿をしているのも殆どが中国の工作員だね。

そもそもモリカケとかどうでもいい小さな話題で毎日毎日同じ様なスレを何千個も投稿するのが異常なんだ。

だから、阿修羅では僕みたいな反中の人間が嫌われて迫害・投稿妨害されるんだ。

IQ が低いアホは 平和、友愛、多民族共生とかいう言葉に弱いから、すぐに中国の工作員に騙されて洗脳されてしまう




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

32. 茨城市民[64] iO@P6Y5zlq8 2018年12月16日 19:36:02 : 2mB9WkmAoY : Yeyevk@VMl4[26] 報告
>27.
 このスレッドの趣旨は、遺伝学の成果を支持するべき、ということでは?

〇そうかもしれない
 関係者から見れば、ダーウィンの進化論はデータに基づいた進化論であるが、それは種内の変異は説明できても、大進化、すなわち、種から種への進化は説明できていない。遺伝学から見れば、猿から人間への進化はDNAの変化であるが、そのDNAの変化の説明は、まだ、できていないということと思われる。
 草々

33. 2018年12月27日 10:26:42 : 9Hspskmge6 : Q8F5JjavKJE[1] 報告
閉鎖系宇宙的思考を排除する傾向を打出すということ。これは、国民学校的洗脳教育からの脱却を目指すと云う事に同じ。教育の根本思想の見直し。教育は、多様性を根本として存在する。それはそれぞれにより自由な発言を赦す場を醸成することにある。強制力無くより自然に全体性に対しての個々の責任の自覚を促す場を目指すと云う事になる。生命の源泉へ人とはどう寄り添うものであるのかをきちんと認識できることまでが人間的教育の最大の目的でもある。生命本来の姿を取り戻せるか否かの岐路にあたるのがこの時期。そしてこの流れに至るのは必然の条理。のるかそるかはそれぞれの中身に委ねられる。反る者ははじきとばされるというだけ。
34. がらくた箱[44] gqqC54Ktgr2UoA 2018年12月31日 08:15:55 : VoAsV2BxFg : _xg8fbGsg@g[2] 報告
ビッグバン宇宙論の否定は、プラズマ宇宙論にパラダイムが変わることを意味している。プラズマ宇宙論では、ヴェリコフスキーの「衝突する宇宙」が再評価されるだろう。これは進化論の否定にもつながり、造化を認めることになる。つまり、誰かが人間を作った。たぶん、太陽系もデザインされたシロモノだ。
これは確かに都合が悪い。

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