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「誰が誰をなぜ殺したのか」辺見庸(乱調@rantyo3141)
http://www.asyura2.com/16/senkyo211/msg/275.html
投稿者 烏滸の者 日時 2016 年 8 月 14 日 23:02:10: hk3SORw2nEVEw iUef9YLMjtI
 



琉球新報 12日
再掲】相模原・障害者・殺傷事件「誰が 誰を なぜ 殺したのか 上・下」(辺見庸)
乱調@rantyo3141 2016年8月13日 00:17
https://twitter.com/rantyo3141/status/764118689620701185
 

相模原障がい者殺傷「誰が誰をなぜ殺したのか」辺見庸(上) 
 相模原の障害者施設殺傷事件で、作家の辺見庸氏が事件についての思いをつづった原稿を寄せた[1]
(琉球新報 2016年8月11日) 

 惨劇が照りかえす現在/底なしの穴の深さ


 わたしらは体に大きな穴を暗々とかかえて生きている。その空しさにうすうす気づいてはいる。しかし突きとめようとはしない。穴の、底なしの深さを。かがみこんで覗きでもしたら、だいいち、なにがあるかわかったものではない。だから、穴などないふりをする。空しさは空しさのままに。穴は穴のままに、ほうっておく。いくつもの穴を開けたまま笑う。うたう。さかんにしゃべる。穴ではなく、愛について。ひきつったように笑い、愛をうたい、空しくしゃべる。黒い穴の底に、愛がころがり落ちてゆく。
 相模原の障がい者殺傷事件の容疑者はとっくにつかまっている。だが、誰が、誰を、なぜ殺したのか―こんな肝心なことが正直よくわからない。のどもとにせりあがってきているものはある。それを言葉にしようとする。言葉がボロボロとくずれる。白状すると、わたしは夜中に思わず嗚咽してしまった。闇にただよう痛ましい血のにおいにむせたのではない。人間にとってこれほどの重大事なのに、その "芯" を語ろうとしても、どうしてもうまく語りえないだけでなく、わたしの内奥の穴が、仮説という仮説をのみこんでしまうのだ。それで泣けてきた。
 惨劇からほの見えてくるのは、人には@「生きるに値する存在」A「生きるに値しない存在」―の2種類があると容疑者の青年が大胆に分類したらしいことだ。この二分法じたいを「狂気」と断じるむきがあるけれども、だとしたら、人類は「狂気」の道から有史以来いちども脱したことがないことになりかねない。生きるに値する命か否か―という存在論的設問は、じつのところ古典的なそれであり、論議と煩悶は、哲学でも文学でも宗教でもくりかえされ、ありとある戦争の隠れたテーマでもあったのだ。
 たぶん、勘違いだったのだろう。自他の命が生きるに値するかどうか、という論議と苦悩には、これまでにおびただしい代償を支払い、とうに決着がついた、もう卒業したと思っていたのは。それは決着せず、われわれはまだ卒業もしていなかったのである。あらゆる命が生きるに値する―この理念は自明ではなかった。深い穴があったのだ。考えてもみてほしい。あらゆる命が生きるに値すると無意識に思ってきた人びとでも、おおかたはあの青年へのきたるべき死刑判決・執行はやむをえないと首肯するのではなかろうか。つまり「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の識別と選別を、間接的に受けいれ、究極的には後者の「抹殺」をみんなで黙殺することになりはしないか。
 だとしたら…と、わたしは惑う。だとすれば、死刑という生体の「抹殺」をなんとなく黙過する人びとと、「抹殺」をひとりで実行したかれとの距離は、じつのところ、たがいの存在が見えないほどに遠いわけではないのではないか。少なくとも、われわれは地つづきの曠野にいま、たがいに見当識をなくして、ぼうっとたたずんでいると言えはしないか。
 ナチズムは負けた。ニッポン軍国主義は滅びた。優勝劣敗の思想は消えうせた。天賦人権説はあまねく地球にひろがっている。だろうか? ひょっとしたらナチズムやニッポン軍国主義の「根」が、往時とすっかりよそおいをかえて、いま息を吹きかえしてはいないか。7月26日の朝まだきに流された赤い血は、けっして昔日の残照でも幻視でもない。「一億総活躍社会」の一角からふきでた現在の血である。それは近未来の、さらに大量の血を徴してはいないか。
 あの青年はいま、なにを考えているだろうか。悪夢からさめて、ふるえているだろうか。かれにはヒトゴロシをしたという実感的記憶があるだろうか。「除草」のような仕事を終えたとでも思っているだろうか。生きる術さえない徹底的な弱者こそが、かえって、もっとも「生きるに値する存在」であるかもしれない―そんな思念の光が、穴に落ちたかれの脳裡に一閃することはないのだろうか。
 

相模原障がい者殺傷「誰が誰をなぜ殺したのか」辺見庸(下) 
(琉球新報 2016年8月12日) 

 痙れんする世界のなかで/冷静な探問こそ必要


 目をそむけずに凝視するならば、怒るより先に、のどの奥で地虫のように低く泣くしかない悲しい風景が、世界にはあふれている。「日本で生活保護をもらわなければ、今日にも明日にも死んでしまうという在日がいるならば、遠慮なく死になさい!」。先だっての都知事選の街頭演説で、外国人排斥をうったえる候補者が、なにはばからず声をはりあげ、聴衆から拍手がわいたという。かれは11万4千票以上を得票している。わたしの予想の倍以上だ。これと相模原の殺傷事件の背景を直線的にむすびつけるのは早計にすぎるだろう。けれども、動乱期の世界がいま、各所で原因不明のはげしい痙れん症状をおこしているのは否定できない。
 あの青年が衆院議長にあてた手紙には、愛と人類についての考えが、こなごなに割れた鏡のかけらのように跳びはねている。「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意…」の文面が、ガラス片となって目を射る。「全人類が心の隅に隠した想い」とは、ぜんたいの文脈からして、重度障がい者の「抹殺」なのである。障がい者 は生きるに値せず、公的コストがかかるから排斥すべきだというのが、人びとが「心の隅に隠した想い」だというのだろうか。これが「愛する日本国、全人類の為」というのか。ひどい、ちがう!と言うだけならかんたんである。
 凶行のあったその日も、その後も、世界はポケモンGOの狂騒がつづき、テレビは「真夏のホラー(映画)強化月間」に、リオ五輪中継。リアルとアンリアルのつなぎ目がはっきりしない。そう言えば、善意と悪意の境界もずいぶんあいまいになってきた。障がい者19人を手ずから殺めた青年に、犯行の発条となる持続的な悪意や憎悪があったか、いぶかしい。戦慄すべきは、殺傷者の数であるよりも、これが「善行」や「正義」や「使命」としてなされた可能性である。
 惨劇の原因を、たんに「狂気」に求めるのは、一見わかりやすい分だけ、安直にすぎるだろう。「誰が誰をなぜ殺したのか」の冷静な探問こそがなされなければならない。世界中であいつぐテロもまた「誰が誰をなぜ殺したのか」が、じっさいには不分明な、俯瞰するならば、人倫の錯乱した状況下でおきている痙れんである。そうした症状はなにも貧者のテロのみの異常ではない。
 米軍特殊部隊は2011年、パキスタンでアルカイダ指導者ウサマ・ビンラディンを暗殺したが、その前段で、中央情報局(CIA)のスパイがポリオ・ワクチンの予防接種をよそおってビンラディン家族のDNAを採取していたことはよく知られている。ワクチン接種がポリオ絶滅のためではなく、暗殺のために利用されたのだ。結果、パキスタンでポリオの予防接種にあたる善意の医療従事者への不信感がつのり、反米ゲリラの標的となって殺される事件がことしもつづいている。ポリオ絶滅は遅れている。それでも米政府はビンラディン殺害を誇る。「米国の正義」を守ったとして。
 正義と善意と憎悪と "異物" 浄化(クレンジング)の欲動が、民主的で平和的な意匠をこらし、世界中で錯綜し痙れんしている。7月26日のできごとはそのただなかでおきた、別種のテロであるとわたしは思う。あの青年は "姿なき賛同者" たちを背中に感じつつ、目をかがやかせて返り血を浴びたのかもしれない。かれが純粋な「単独犯」であったかどうかは、究極的にかくていできはしない。石原慎太郎元東京都知事は、前世紀末に障がい者施設を訪れたときに、「ああいう人ってのは人格があるのかね」と言ってのけた。新しい出生前診断で "異常" が見つかった婦人の90%以上が中絶を選択している―なにを物語るのか。
 「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の二分法的人間観は、いまだ克服されたことのない、今日も反復されている原罪である。他から求められることの稀な存在を愛することは、厭うよりもむずかしい。だからこそ、その愛は尊い。青年はそれを理解する前に、殺してしまった。かれはわれらの影ではないか。(作家)
 


へんみ・よう 44年宮城県生まれ。96年まで共同通信記者として北京、ハノイ特派員などを歴任。「自動起床装置」で芥川賞、「もの食う人びと」で講談社ノンフィクション賞、詩集「生首」で中原中也賞、「眼の海」で高見順賞を受賞。近刊に「増補版1★9★3★7(イクミナ)」。
 

投稿者注[1]
2016年09月02日付(!)の「辺見庸ブログ」記事によれば次の通り。


◎論考「誰が誰をなぜ殺したか」を共同通信が配信
相模原の障がい者殺傷事件についての辺見庸執筆の論考「誰が誰をなぜ殺したのか」(上下2回)を、共同通信が「特別寄稿」として加盟各紙に配信しました。上は「惨劇が照りかえす現在」、下は「痙れんする世界のなかで」のタイトルがつけられています。新聞の行字数で各160行。
筆者は、このできごとをあらゆる見地からきわめて深刻にうけとめており、さしあたりの初歩的見解を共同通信編集委員室出稿の記事として、したためました。しかし、「オキモチ」やリオ五輪その他の喧噪にかき消され、新聞掲載率は低いとみこまれます。ですので、どの新聞がいつ拙稿を掲載したか、追って本ブログでお知らせしますので、よろしかったらご一読ください。
障がい者殺傷事件(辺見庸ブログ 2016年09月02日)


いくら「新聞掲載率は低いとみこまれ」るといってもこの記事を掲載した新聞はほかにもあっただろう中で、琉球新報の記事の切り抜きをツイートしてくれた乱調@rantyo3141さんに感謝したい。(投稿者) 


関連投稿リンク


天皇陛下の「お気持ち」表明について 辺見庸 阿修羅サイトでは「天皇の人権」を主張する投稿ばかり 政治的堕落はどちらか (ダイナモ 2016年8月9日)
忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!(補記)― 辺見庸ブログ(烏滸の者 2016年8月11日)
忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!(補記2)― 辺見庸ブログ(烏滸の者 2016年8月12日)
忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!(補記3)― 辺見庸ブログ(烏滸の者 2016年8月13日)


これらは「辺見庸ブログ」に「私事片々」として公開され数日にわたって追記された文章だが、すでに元ブログでは削除されている。身辺雑記的な「私事片々」の文章はいつもすぐに削除されてしまう。かなり私的な性格の強い文章であるということを念頭においたうえで、まだ読んでいなければ併せて読んでみることをお勧めする。(投稿者)
 

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コメント
 
1. 2016年8月15日 01:14:19 : bdcWHc5lIs : Iey26BhC67o[357]
「ナチズムは負けた。ニッポン軍国主義は滅びた。優勝劣敗の思想は消えうせた。天賦人権説はあまねく地球にひろがっている。だろうか?ひょっとしたらナチズムやニッポン軍国主義の「根」が、往時とすっかりよそおいをかえて、いま息を吹きかえしてはいないか。」

安倍晋三氏によってですよね…
分かります。


2. 2016年8月15日 06:18:31 : hY3Bc0QcZU : m43zveijWQQ[1]
内容を”美しく”誤魔化すタイトルを法案名
に付して国民を誤誘導している政権。

これに国民が”国民総動員”されている。


3. 2016年8月15日 07:48:23 : GA4YyiB7bw : RGUFFfwNyVg[6]
最後の文章、障碍者を殺した人は、辺見庸の影でもあることを認めているわけだ。ま、社会評論家やジャーナリストではなく作家だから、こうかかざるを得ないというのはわかる。

しかし、肉親ならいざ知らず、障碍者看護をする人たちに「愛情」まで求めるのはどうか。必要なのは健全な職業的な倫理観じゃないのかな。

自分は本当にこの人たちを愛せるのか・・・と根本的すぎるモンダイを自問自答し始めるとかえって袋小路にはいっちゃうような気もする。作家ならば、悩んでみせるのが仕事だから、それでもいいんだろうが。

で爺


4. 人間になりたい[114] kGyK1ILJgsiC6IK9gqI 2016年8月15日 16:39:36 : vew34TeHNk : O3QpYgKaGX8[116]
辺見庸さんはなにやら深刻に悩んでいるらしいが、一つの誤解が混乱の原因ではないのだろうか。

>人には@「生きるに値する存在」A「生きるに値しない存在」―の2種類があると容疑者の青年が大胆に分類したらしいことだ。
>人類は「狂気」の道から有史以来いちども脱したことがないことになりかねない。
>二分法的人間観は、いまだ克服されたことのない、

人、人類、人間という言葉を同じような意味で使っているが、それぞれ意味合いが異なる。人類には、人間と人間ではない人がいる。人とは、人間と人間ではない人の総称である。人類とは生物学的な意味での動物の種の名称である。人間とは、動物の行動規範である本能が壊れ、動物として生きることができなくなった人類が、生存のために自前の行動規範を作る必要に迫られ、隣人愛を社会的行動規範の根底として受け入れた人のことである。
その人間が生きる場が社会である。人間、愛、社会の三位一体が壊れると人類は生存できない。従って社会で生きるためには、政治も経済も文化も伝統も全て人間性が判断基準にならなければならない。ただし人間、愛、社会とは人類が作り出した妄想であり絶対的な根拠などないので、必ず矛盾が生じる。死刑制度もその一つであるが、障がい者殺傷事件と同一視はできない。天賦人権説も人間の生き方の必要性から産み出されたもので神から与えられものではない。
人類=人間、ではない。人間として考えれば「生きるに値する存在」「生きるに値しない存在」という問題自体が存在しない。なぜなら他者を愛する存在が人間だからである。汝の敵を愛せよとまで言う人もいるくらいだ。人間ではない人の社会的行動規範の根底は自己愛である。自分にとって損か得か、好きか嫌いかが判断基準である。そして自己愛を突出させ他者に強制する。
障がい者殺傷事件の容疑者は衆議院議長への手紙や供述内容などを見れば、明らかに人間になれなかった人である。子供の行動規範である自己愛から成長できないまま社会へ出てしまった人である。障がい者は社会の負担になるとか言って、自分を正当化しているが、これは、石原慎太郎が尖閣に貧しい漁民のための船泊まりをとか、似非右翼や歴史修正主義者が、天皇、日の丸、愛国を自分の美化、正当化に利用するのと同じことである。
人類は全て障がい者として生まれる。未熟児で生まれるため、生きるために必要な本能が使いもにならなくなった。本来は動物として生きることができないので滅亡する。その障がいを負った最も弱い者を並々ならぬ愛をもって献身的に支え、粘り強く見護ることによって人間という変則的な生き方ながら、人類は生存することができるようになった。これが本能を超えた隣人愛と人間の起源だ。
障がい者を生きるに値しない存在と見ることは隣人愛と人間の否定である。このような風潮が蔓延すれば人類は人間としての生き方ができなくなり滅亡することになる。


5. 2016年8月15日 22:39:41 : c9xg1LUlkw : KP2z753QBOk[4]
人間間引きをやるとどーなるか、アホはかんがえられんのだろう。


最初はこの犯人にように、・・・次はネトウヨなどが処分されるんだよ。

時間はかからない。


知能検査されて成績悪かったやつはポアされちゃう。


民族同士、国家同士を戦争させてアホから順にポアする制度はもう実施中。

今はそういう時代にもう200年も。


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