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櫻井よしこ はその時点で一般大衆に受けそうな意見を受け売りしてるだけの無知蒙昧・無定見なオバサン
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/217.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 06 日 09:01:33: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 05 日 11:48:55)

櫻井よしこ はその時点で一般大衆に受けそうな意見を受け売りしてるだけの無知蒙昧・無定見なオバサン


「私は捏造記者ではありません」 ー 植村(札幌)訴訟結審
http://article9.jp/wordpress/?p=10720


2018年7月13日 澤藤統一郎の憲法日記

植村隆元朝日新聞記者が、櫻井よしこらを訴えた名誉毀損損害賠償請求訴訟(札幌地裁)が先週の金曜日(7月6日)に結審した。判決言渡は11月9日の予定。原告・弁護団そして支援者は意気軒昂である。

櫻井よしこや西岡力らは、産経や週刊文春、WiLLなどを舞台に、植村隆を「捏造記者」として攻撃した。櫻井や西岡に煽動されたネット右翼が、植村本人だけでなく、その家族や勤務先の北星学園までを標的に攻撃して、大きな社会問題となった。問題とされた植村隆の朝日の記事は、1991年8月のもの。常軌を逸したバッシングというほかはない。

ことは表現の自由やジャーナリズムのありかたにとどまらない。従軍慰安婦をめぐる歴史修正主義の跋扈を許すのか、安倍政権を押し上げた右翼勢力の民族差別やリベラル派勢力への攻撃を默過するのか、という背景をもっている。

私も、同期の友人たちと語らって、植村・北星バッシングへの反撃の声をあげた。そのときの率直な気持は、この社会の動向に、薄気味悪さだけでなく恐ろしさを感じていた。伝えられている、あのマッカーシズムの雰囲気を嗅ぎ取らざるを得なかったのだ。この訴訟、この判決は、この社会の健全さを占うものとしての重みをもっている。

リベラルバネが多少は働いて、いま櫻井よしこや西岡力の影響力は明らかに落ちてきている。判決が、植村ではなく櫻井よしここそが「捏造ジャーナリスト」であることを明らかにするものとなるよう期待したい。

「植村裁判を支える市民の会」が立派なホームページを作っている。
http://sasaerukai.blogspot.com/

そのサイトから、結審(2018年7月6日)の法廷と、2年前3か月の第1回法廷(2016年4月22日)での、原告植村隆渾身の意見陳述を引用しておきたい。

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     結審(2018年7月6日)法廷での意見陳述

今年3月、支援メンバーらの前で、直前に迫った本人尋問の準備をしていました。「なぜ、当該記事を書いたのか」、背景説明をしていました。こんな内容でした。

私は高知の田舎町で、母一人子一人の家で育ちました。豊かな暮らしではありませんでした。小さな町でも、在日朝鮮人や被差別部落の人びとへの理不尽な差別がありました。そんな中で、「自分は立場の弱い人々の側に立とう。決して差別する側に立たない」と決意しました。そして、その延長線上に、慰安婦問題の取材があったと説明していました。

その時です。突然、涙があふれ、止まらなくなり、嗚咽してしまいました。

新聞記者となり、差別のない社会、人権が守られる社会をつくりたいと思って、記事を書いてきました。それがなぜ、こんな理不尽なバッシングにあい、日本での大学教員の道を奪われたのでしょうか。なぜ、娘を殺すという脅迫状まで、送られて来なければならなかったのでしょうか。なぜ、私へのバッシングに北星学園大学の教職員や学生が巻き込まれ、爆破や殺害の予告まで受けなければならなかったのでしょうか。「捏造記者」と言われ、それによって引き起こされた様々な苦難を一気に思い出し、涙がとめどなく流れたのでした。強いストレス体験の後のフラッシュバックだったのかもしれません。

本人尋問が迫るにつれ、悔しさと共に緊張と恐怖感が増してきました。反対尋問では再び、あのバッシングの時のような「悪意」「憎悪」にさらされるだろうと思ったからです。

「そうだ、金学順(キム・ハクスン)さんと一緒に法廷に行こう」と考えました。そして、金学順さんの言葉を書いた紙を背広の内ポケットに入れることにしたのです。

この紙は、私に最初に金学順さんのことを語ってくれた尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生の著書の表紙にあった写真付の著者紹介の部分を切り取ったものです。その裏の、白い部分に金学順さんが自分の裁判の際に提出した陳述書の中の言葉を黒いマジックで、「私は日本軍により連行され、『慰安婦』にされ人生そのものを奪われたのです」と書きいれました。

私の受けたバッシング被害など、金さんの苦しみから比べたら、取るに足らないものです。いろんな夢のあった数えで17歳の少女が意に反して戦場に連行され、数多くの日本軍兵士にレイプされ続けたのです。絶望的な状況、悪夢のような日々だったと思います。

そして、私は、こう自分に言い聞かせました。「お前は、『慰安婦にされ人生を奪われた』とその無念を訴えた人の記事を書いただけではないか。それの何が問題なのか。負けるな植村」

金さんの言葉を、胸ポケットに入れて、法廷に臨むと、心が落ち着き、肝が据わりました。

きょうも、金さんの言葉を胸に、意見陳述の席に立っています。

私は、慰安婦としての被害を訴えた金学順さんの思いを伝えただけなのです。

そして「日本の加害の歴史を、日本人として、忘れないようにしよう」と訴えただけなのです。韓国で慰安婦を意味し、日本の新聞報道でも普通に使われていた「挺身隊」という言葉を使って、記事を書いただけです。それなのに、私が記事を捏造したと櫻井よしこさんに繰り返し断定されました。

北海道新聞のソウル特派員だった喜多義憲さんは私の記事が出た4日後、私と同じように「挺身隊」という言葉を使って、ほぼ同じような内容の記事を書きました。記事を書いた当時、私との面識はなく、喜多さんは私の記事を読んでもいなかったのです。喜多さん自身が直接、金学順さんに取材した結果、私と同じような記事を書いた、ということは、私の記事が「捏造」でない、という何よりの証拠ではないでしょうか。その喜多さんは、2月に証人として、この法廷で、櫻井よしこさんが私だけを「捏造」したと決め付けた言説について、「言い掛かり」との認識を示されました。

そして、こうも述べられました。「植村さんと僕はほとんど同じ時期に同じような記事を書いておりました。それで、片方は捏造したと言われ、私は捏造記者と非難する人から見れば不問に付されているような、そういう気持ちで、やっぱりそういう状況を見れば、違うよと言うのが人間であり、ジャーナリストであるという思いが強くいたしました」この言葉に、私は大いに勇気づけられました。

1990年代初期に、産経新聞は、金学順さんに取材し、金学順さんが慰安婦になった経緯について、少なくとも二度にわたって、日本軍の強制連行と書きました。読売新聞は、「『女性挺身隊』として強制連行され」と書きました。

いま産経新聞や読売新聞は、慰安婦の強制連行はなかったと主張する立場にありますが、1990年代の初めに金学順さんのことを書いたこの両新聞の記者たちは、金さんの被害体験をきちんと伝えようと、ジャーナリストとして当たり前のことをしたのだと思います。私は金さんが、慰安婦にさせられた経緯について、「だまされた」と書きました。「だまされ」ようが「強制連行され」ようが、17歳の少女だった金学順さんが意に反して慰安婦にさせられ、日本軍人たちに繰り返しレイプされたことには変わりないのです。彼女が慰安婦にさせられた経緯が重要なのではなく、慰安婦として毎日のように凌辱された行為自体が重大な人権侵害にあたるということです。

しかし、私だけがバッシングを受けました。娘は、「『国賊』植村隆の娘」として名指しされ、「地の果てまで追い詰めて殺す」とまで脅されました。

あのひどいバッシングに巻き込まれた時、娘は17歳でした。それから4年。『殺す』とまで脅迫を受けたのに、娘は、心折れなかった。そのおかげで、私も心折れず、闘い続けられました。私は娘に「ありがとう」と言いたい。娘を誇りに思っています。

被告・櫻井よしこさんは、明らかに朝日新聞記者だった私だけをターゲットに攻撃しています。私への憎悪を掻き立てるような文章を書き続け、それに煽られた無数の人びとがいます。櫻井さんは「慰安婦の強制連行はなかった」という強い「思い込み」があります。その「思い込み」ゆえなのでしょうか。事実を以て、私を批判するのではなく、事実に基づかない形で、私を誹謗中傷していることが、この裁判を通じて明らかになりました。そして誤った事実に基づいた、櫻井さんの言説が広がり、ネット世界で私への憎悪が増幅されたことも判明しました。

「WiLL」の2014年4月号の記事がその典型です。金さんの訴状に書いていない「継父によって40円で売られた」とか「継父によって・・・慰安婦にさせられた」という話で、あたかも金さんが人身売買で慰安婦にされたかのように書き、私に対し、「継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった」「真実を隠して捏造記事を報じた」として、「捏造」記者のレッテルを貼りました。「捏造」の根拠とした「月刊宝石」やハンギョレ新聞の引用でも都合のいい部分だけを抜き出し、金さんが日本軍に強制連行されたという結論の部分は無視していました。

しかし、櫻井さんは、私の指摘を無視できず、2年以上経っていましたが、「WiLL」と産経新聞で訂正を出すまでに追い込まれました。実は、訂正文には新たな間違いが付け加えられていました。金さんが強制連行の被害者でないというのです。日本軍による強制連行という結論をもつ記事に依拠しながらも、その結論の部分を再び無視していました。極めて問題の大きい訂正でしたが、櫻井さんの取材のいい加減さが、白日のもとに晒されたという点では大きな前進だったと思います。支援団体の調べでは、この種の間違いが、産経、「WiLL」を含めて、少なくとも6件確認されています。

提訴以来3年5か月が経ちました。弁護団、支援の方々、様々な方々の支援を受け、勇気をもらって、歩んでまいりました。絶望的な状況から反撃が始まりましたが、「希望の光」が見えてきたことを、実感しています。

そして櫻井よしこさんをはじめとする被告の皆さん、被告の代理人の皆さん。長い審理でしたが、皆様方はいまだに、ご理解されていないことがあると思われます。大事なことなので、ここで、皆様方に、もう一度、大きな声で、訴えたいと思います。

「私は捏造記者ではありません」

裁判所におかれては、私の意見を十分に聞いてくださったことに、感謝しております。公正な判決が下されることを期待しております。

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    第1回法廷(2016年4月22日)での原告意見陳述

■「殺人予告」の恐怖
裁判長、裁判官のみなさま、法廷にいらっしゃる、すべての皆様。知っていただきたいことがあります。17歳の娘を持つ親の元に、「娘を殺す、絶対に殺す」という脅迫状が届いたら、毎日、毎日、どんな思いで暮らさなければならないかということです。そのことを考えるたびに、千枚通しで胸を刺されるような痛みを感じ、くやし涙がこぼれてきます。

私は、2015年2月2日、北星学園大学の事務局から、「学長宛に脅迫状が送られてきた」という連絡を受けました。脅迫状はこういう書き出しでした。

「貴殿らは、我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するだけでなく、南朝鮮をはじめとする反日勢力の走狗と成り果てたことを意味するものである」

5枚に及ぶ脅迫状は、次の言葉で終わっています。

「『国賊』植村隆の娘である●●●を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス」

私は、足が震えました。

大学に脅迫状が送られてきたのは2014年5月末以来、これで5回目でした。最初の脅迫状は、私を「捏造記者」と断定し、「なぶり殺しにしてやる」と脅していました。さらに「すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を痛めつけてやる」と書いていました。

娘を殺害する、というのは、5回目の脅迫状が初めてでした。もう娘には隠せませんでした。「お前を殺す、という脅迫状が来ている。警察が警戒を強めている」と伝えました。娘は黙って聞いていました。

娘への攻撃は脅迫だけではありません。2014年8月には、インターネットに顔写真と名前が晒されました。そして、「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。自殺するまで追い込むしかない」と書かれました。こうした書き込みを削除するため、札幌の弁護士たちが、娘の話を聞いてくれました。私には愚痴をこぼさず、明るく振舞っていた娘が、弁護士の前でぽろぽろ涙をこぼすのを見て、私は胸が張り裂ける思いでした。

なぜ、娘がこんな目にあわなければならないのでしょうか。1991年8月11日に私が書いた慰安婦問題の記事への攻撃は、当時生まれてもいなかった高校生の娘まで、標的にしているのです。悔しくてなりません。脅迫事件の犯人は捕まっていません。いつになったら、私たちは、この恐怖から逃れられるのでしょうか。

■私への憎悪をあおる櫻井さん
櫻井よしこさんは、2014年3月3日の産経新聞朝刊第一面の自身のコラムに、「真実ゆがめる朝日報道」との見出しの記事を書いています。このコラムで、櫻井さんは私が91年8月に書いた元従軍慰安婦の記事について、こう記述しています。

「この女性、金学順氏は後に東京地裁に 訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている」。その上で、櫻井さんは「植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じ」ていない、と批判しています。しかし、訴状には「40円」の話もありませんし、「再び継父に売られた」とも書かれていません。

櫻井さんは、訴状にないことを付け加え、慰安婦になった経緯を継父が売った人身売買であると決めつけて、読者への印象をあえて操作したのです。これはジャーナリストとして、許されない行為だと思います。

さらに、櫻井さんは、私の記事について、「慰安婦とは無関係の「女子挺身隊」と慰安婦が同じであるかのように報じた。それを朝日は訂正もせず、大々的に紙面化、社説でも取り上げた。捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断定しています。

櫻井さんは「慰安婦と『女子挺身隊』が無関係」と言い、それを「捏造」の根拠にしていますが、間違っています。当時、韓国では慰安婦のことを「女子挺身隊」と呼んでいたのです。他の日本メディアも同様の表現をしていました。

例えば、櫻井さんがニュースキャスターだった日本テレビでも、「女子挺身隊」という言葉を使っていました。1982年3月1日の新聞各紙のテレビ欄に、日本テレビが「女子てい身隊という名の韓国人従軍慰安婦」というドキュメンタリーを放映すると出ています。

私は、神戸松蔭女子学院大学に教授として一度は採用されました。その大学気付で、私宛に手紙が来ました。「産経ニュース」電子版に掲載された櫻井さんの、そのコラムがプリントされたうえ、手書きで、こう書き込んでいました。

「良心に従って説明して下さい。日本人を貶めた大罪をゆるせません」

手紙は匿名でしたので、誰が送ってきたかわかりません。しかし、内容から見て、櫻井さんのコラムにあおられたものだと思われます。

この神戸の大学には、私の就任取り消しなどを要求するメールが1週間ほどの間に250本も送られてきました。結局、私の教授就任は実現しませんでした。

櫻井さんは、雑誌「WiLL」2014年4月号の「朝日は日本の進路を誤らせる」という論文でも、40円の話が訴状にあるとするなど、産経のコラムと似たような間違いを犯しています。

このように、櫻井さんは、調べれば、すぐに分かることをきちんと調べずに、私の記事を標的にして、「捏造」と決めつけ、私や朝日新聞に対する憎悪をあおっているのです。

その「WiLL」の論文では、私の教員適格性まで問題にしています。「改めて疑問に思う。こんな人物に、果たして学生を教える資格があるのか、と。植村氏は人に教えるより前に、まず自らの捏造について説明する責任があるだろう」

「捏造」とは、事実でないことを事実のようにこしらえること、デッチあげることです。記事が「捏造」と言われることは、新聞記者にとって「死刑判決」に等しいものです。

朝日新聞は、2014年8月の検証記事で、私の記事について「事実のねじ曲げない」と発表しました。しかし、私に対するバッシングや脅迫はなくなるどころか、一層激しさを増しました。北星学園大学に対しても、抗議メールや電話、脅迫状が押し寄せ、対応に追われた教職員は疲弊し、警備費は膨らみました。

北星学園大学がバッシングにあえぎ、苦しんでいた最中、櫻井さんは、私と朝日新聞だけでなく、北星学園大学への批判まで展開しました。

2014年10月23日号の「週刊新潮」の連載コラムで、「朝日は脅迫も自己防衛に使うのか」という見出しを立て、北星学園大学をこう批判しました。「23年間、捏造報道の訂正も説明もせず頬被りを続ける元記者を教壇に立たせ学生に教えさせることが、一体、大学教育のあるべき姿なのか」

同じ2014年10月23日号の「週刊文春」には、「朝日新聞よ、被害者ぶるのはお止めなさい “OB記者脅迫”を錦の御旗にする姑息」との見出しで、櫻井よしこさんと西岡力さんの対談記事が掲載されました。私はこの対談の中の、櫻井さんの言葉に、大きなショックを受けました。

「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起しているものがあるとすれば、それは朝日や植村氏の姿勢ではないでしょうか」

櫻井さんの発言には極めて大きい影響力があります。この対談記事に反応したインターネットのブログがありました。

「週刊文春の新聞広告に、ようやく納得。もし、私がこの大学の学生の親や祖父母だとしたなら、捏造で大問題になった元記者の事で北星大に電話で問い合わせるとかしそう。実際、心配の電話や、辞めさせてといった電話が多数寄せられている筈で、たまたまその中に脅迫の手紙が入っていたからといって、こんな大騒ぎを起こす方がおかしい。櫻井よしこ氏の言うように、「錦の御旗」にして「捏造問題」を誤魔化すのは止めた方が良い」

私はこのブログを読んで、一層恐怖を感じました。ブログはいまでもネットに残っています。

櫻井さんは、朝日新聞の慰安婦報道を批判し、「朝日新聞を廃刊にすべきだ」とまで訴えています。言論の自由を尊ぶべきジャーナリストにもかかわらず、言葉による暴力をふるっているようです。「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起している」のは、むしろ、櫻井さん自身の姿勢ではないか、と思っています。

■「判決で、救済を」

「言論には言論で闘え」という批判があります。私は「朝日新聞」の検証記事が出た後、複数のメディアの取材を受け、きちんと説明してきました。また、複数の月刊誌に手記を掲載し、自分の記事が「捏造」ではないことを、根拠を上げて論証しています。にもかかわらず、私の記事が「捏造」であると断定し続ける人がいます。大学や家族への脅迫もやむことがありませんでした。こうした事態を変えるには、「司法の力」が必要です。

脅迫や嫌がらせを受けている現場はすべて札幌です。櫻井さんの「捏造」発言が事実ではない、と札幌で判断されなければ、こうした脅迫や嫌がらせも、根絶できないと思います。

私の記事を「捏造」と決めつけ、繰り返し世間に触れ回っている櫻井さんと、その言説を広く伝えた「週刊新潮」、「週刊ダイヤモンド」、「WiLL」の発行元の責任を、司法の場で問いたいと思います。私の記事が「捏造」でないことを証明したいと思います。

裁判長、裁判官のみなさま。どうか、正しい司法判断によって、「捏造」記者の汚名を晴らしてください。。家族や大学を脅迫から守ってください。そのことは、憲法で保障された個人の表現の自由、学問の自由を守ることにもつながると確信しています。

(2018年7月13日)


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『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/26/antena-332/
佐藤和雄|2018年9月26日10:23AM 週刊金曜日
 
 尋問を終えた西岡力氏。東京・霞ヶ関。(撮影/高波淳)


「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。

東京地裁では、元「慰安婦」記事を「捏造」と記述され名誉を傷つけられたとして、元『朝日新聞』記者の植村隆・韓国カトリック大学客員教授が西岡氏らを相手取り、損害賠償などを求めた訴訟が2015年1月から続いている。

植村氏は1991年8月、韓国での「慰安婦」問題に取り組む市民団体への取材やその聞き取り調査に応じた女性(のちに記者会見で名乗り出た金学順さん)の録音テープを聞いてスクープし、同年12月にも証言を記事化した。

西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』2014年2月6日号で「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントした。

しかし、尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。金さんの記者会見を報じた韓国『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。

西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

(佐藤和雄・ジャーナリスト、大学非常勤講師、2018年9月14日号)


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2019年02月05日
無敵の太陽 櫻井良子の口車に気をつけろ ! - 朝鮮人の帰化を推進する妖婦
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68752820.html


  日本には“偽装保守か”が本当に多い。一応、「保守系メディア」と呼ばれる産経新聞も、ついにメッキが剝がれたようだ。筆者は詳しく知らなかったが、新井浩文という男優が「強制性交」の容疑で逮捕されたという。この罪名と「強姦罪」が法的にどう違うのか判らないが、一般的には「婦女強姦」と呼ぶべきだろう。これに加えて、もう一つ問題なのが、マスコミの「通名」報道である。今回は珍しく、讀賣・毎日・東京新聞、NHK、フジテレビ、テレ朝、日テレが実名報道をしたが、TBSと朝日新聞、そして産経新聞が新井の国籍や本名「朴慶培(ボク・キョンベ)」を公表しなかった。新井のプロフィールによれば、在日北鮮人として青森県弘前市に生まれるが、2005年に南鮮の国籍を取得したそうだ。したがって、彼は日本人ではない。たとえ、日本で生まれ育って、日本語しか喋らなくてもだ。ただし、新井は「特別永住者」なので、有罪となっても国外追放にはならない。

Arai 1(左 / 新井浩文 )
  普通の在日外国人であれば、問答無用で退去強制処分となるはずだが、新井は1991年の「入管特例法」で後生大事に守られているから、たとえ実刑を喰らっても、日本から追い出されることはないのだ。在日朝鮮人や帰化鮮人は、こうした「特例」を「特権」ではないと言い張るが、こうした詭弁に屈服するのが現代日本人の弱さである。法務省の役人が「特権ではありません」と述べたからといって、それが何だ? 朝鮮人の圧力に平伏す政治家と、法学部で真っ赤に染まった官僚が“正常”な日本人と思うのは間違っている。だいたい、条約や法律が制定される前、朝鮮人の過去と犯罪について国民的議論がなされたことがあるのか? もし、NHKが「公共放送」を自称するなら、3時間の激論とか三日連続の討論番組を企画すべきだ。

  昭和の頃だと、在日鮮人の問題はA級クラスのタブーで、新聞のオピニオン蘭やテレビの報道番組で検証されるなんて事実上不可能だった。アホな国民が持て囃す岩波の広辞苑(第1版)では、「鮮人」という言葉自体が「蔑称」とされていたのだ。(普通の市立図書館だと初版は無く、たいていは第5版か第7版しか置かれているから誰も気づかない。) NHKでは日本人より朝鮮人の方が優先され、語学番組でも“気配り”が行き届いており、「朝鮮語講座」ではなく「ハングル講座」であった。「ハングル」って文字の名称で、「言語名」じゃないだろう。それなら、「英語講座」は「アルファベット講座」に変えるのか? 信じられないけど、今の子供は「李氏朝鮮」ではなく「朝鮮時代」と習うそうだ。つまり、「朝鮮」というのは特殊な期間の名称であり、差別的な響きを持つから、「韓国」というのが“正しい”というわけ。TBSは心の底から朝鮮人が大好きで、何が何でも「韓流ドラマ」という名称を貫き、筆者のように「南鮮ドラマ」と呼ぶ日本人を「極右」と見なしている。でも、「コリア(高麗)」という英語はOKなんだって! (じゃあ、筆者も日本式の「支那」ではなく、英語の「チャイナ」を使わなくちゃいけないね!)

  ここでは関係無いけど、映画業界や一般社会で、新井はどう評価されているのか? 筆者は映画『アウトレイジ・ビヨンド』で新井がチンピラ役を演じていたことは何となく覚えているが、その他の作品を観たことがないので、彼の演技力については何とも言えない。(マスコミは「名脇役」と持ち上げていたが、朝鮮藝人による仲間同士の褒め言葉なんじゃないか? 映画関係者の中には左翼や鮮人がウジャウジャいるから、新井を殊さら可愛がる素地があるのかも知れない。) 試しに、インターネットで彼の出演作を調べたら、もうビックリ。『寄生獣』や『ど根性ガエル』に出演していたというが、筆者は漫画やアニメの実写版があったことすら知らなかった。両方ともまだ観ていないけど、恐ろしいからやめておく。また昭和51年、仲代達矢が映画の『不毛地帯』に出演していたのは覚えているが、平成になってリメイク版のTVドラマがあったとは驚きだ。新井はこのドラマにも出演していたという。(最近のテレビ局はネタが尽きたのか、新作に困ると昔の名作をリメイクするみたい。) とりわけ驚愕したのは、新井が『真田丸』で「加藤清正」を演じていたことだ。「まさか!」と思ったが、本当にNHKが雇ったようなので、愕然とするというか、腹が立つ。よりにもよって、人気の高い名将役に朝鮮人俳優をあてるなんて、NHKの反日思想は呆れるほど徹底している。これなら将来、明治大帝や昭和天皇の役も朝鮮系俳優が演じることになるんじゃないか。


在日朝鮮人に帰化を勧める妖婦

  新井と同じく、日本で犯罪をしでかした在日朝鮮人は、南北を問わず皆「祖国」へ追い返すべきだ。もし、在日北鮮人が平壌に戻りたくなければ、南鮮側に引き取ってもらえばいい。異民族の日本人より、同胞の南鮮人なら文句は無いだろう。特別な地位を有する在日朝鮮人には、“特別”な取り扱いが必要で、よほどの事情がない限り、帰化禁止の原則を確立すべきだ。日本人と結婚したアメリカ人とかドイツ人で、日本に忠誠を誓うのであれば、日本国籍を与えてもいいが、朝鮮人や支那人といったアジア人は「忠誠」を「方便」と見なしているので、日本国籍を渡してはならない。国籍付与は同等の文明と生活水準を持つ外国人に限定すべきだ。アジア人にとって「言葉」は“無料(タダ)”の二酸化炭素でしかなく、何度吐いても苦にならず、それによって行動が拘束されることもない。だいたい、朝鮮人が「日本国民」になると、日系日本人にどんな利益があるのか? 日本に朝鮮人が増えると、日系人はそんなに嬉しいのか?

Sakurai 1(左 / 櫻井良子)

  以前、朝鮮人参政権(形式的には「外国人参政権」)が話題になったとき、故・三宅久之や櫻井良子(よしこ)は、「在日朝鮮人が参政権を欲しければ、日本国籍を取ればいいじゃないか」と述べていた。筆者はテレビを観ながら、「何言ってんだ、こいつらは! アホか !」と呟いてしまった。レンジの油汚れみたいに居坐る朝鮮人が、日本に帰化して参政権を得たら、もっと酷い状況になるじゃないか ! 櫻井氏は「国家基本問題研究所」を設立し、様々な見解を発表しているが、特別永住者に対する提案には絶対賛成できない。彼女は在日朝鮮人との「より良き関係」を構築すべく、特別帰化制度の提言を行っていたのだ。そして、この提言は“とんでもない”思想に基づいていた。(「参政権行使は国籍取得が条件ー特別永住者には特別帰化制度導入を」 国家基本問題研究所、2008年3月25日) 例えば、次の様な発想は左翼と同じだ。

  昭和20年以前より引き続き日本に在留する者とその子孫である特別永住者への配慮は、外国人地方参政権を認めることではなく、特例帰化制度導入でなされるべきである。

  櫻井氏たちは朝鮮人が帰化すれば日本に貢献すると思っている。「基本的視点」には以下のような記述があった。

  ■ 帰化をしてコリア系日本人として参政権を行使する道が自然であり、日本社会の多様化を進展させることにもつながる。


   ■ 現行の帰化制度は、特別永住者に一般外国人と同じ煩雑な手続きを求めている。

  朝鮮人を「日本国民」にすると、「日本社会の“多様化”が進展する」だと?! 馬鹿言うんじゃない! 「進展」どころか「弊害」が拡大するだけだ。そもそも、どんな日本人が朝鮮人による社会の発展を望んでいるのか? 櫻井氏によれば、近所の学校に朝鮮人の子供がたくさん通い、職場には朝鮮人の同僚が珍しくなく、朝鮮人と結婚するカップルも増えて、日鮮混血児が増えれば、日本社会が進展し、日本人が“より”幸せになるらしい。普通の日本人なら、「えぇぇ〜、朝鮮人だらけの生活なんてヤダぁぁ〜」と不平を述べるだろう。一般の日本人は口にしないが、もし、自分の子供が朝鮮人だらけのクラスに配属されれば、激昂して学校に乗り込み、「どうしてウチの子があんなクラスに入っているの!」と校長に詰め寄るはずだ。それに、将来、我が子が朝鮮人と結婚することになったら一大事である。名家の親だと想像したくないし、考えただけでも恐ろしい。

  櫻井氏は表面上、日本の朝鮮統治を糾弾しないが、ひそかに我が国の方針を非難している。彼女は「朝鮮人の帰化を簡単にせよ!」と要求しているが、朝鮮人だからこそ厳格に審査せねばならないんじゃないか! また、彼女の歴史認識、特に敗戦後の朝鮮人について無知だ。例えば、提言の文章には「社会保障などにおいては制度的「差別」が存在した時期もあった。しかし、日本が難民条約に加入し社会保障における内外人平等を実施した昭和57年頃から、それはほぼなくなった」と記されているが、外国人への福祉が我々のものと違うのは当り前じゃないか。いくら国際条約があるとはいえ、在日朝鮮人に国民健康保険の加入を許したり、生活保護を与えるなんて馬鹿げている。(難民条約など百害あって一利無しであるから、即刻破棄すべし。) だが、櫻井氏には左翼と同じ思想が流れていた。彼女の提言は次の様な言葉で締めくくられていた。
 


  私たちは歴史的経緯をふまえ、このような特別永住制度は維持されてよいと考える。・・・・・

  日本において、特別永住を認められている外国人が、帰化により日本国民としての権利を獲得し、義務と責任を果たそうと決断した場合、現行の煩雑な手続きを廃すべきだ。具体的には

@ 本人確認 「本国戸籍謄本」等と「外国人登録済み証明書」提出

A 帰化意思確認 「帰化許可申請書」と、法律を守り善良な国民となることを誓う「宣誓書」提出

  櫻井氏はこんな条件だけて朝鮮人を「日本国民」にしようとするんだから、彼女のどこが「保守派論客」なのか? こうした発想には、助言を行った鄭大均(てい・だいきん)の影響があるのだろう。彼は朝鮮人の父と日本人の母を持つ帰化鮮人だ。鄭氏は左翼鮮人と違い、日本による強制連行などを否定し、外見上、穏健な朝鮮人を演じているが、その根底には多民族主義が流れており、在日朝鮮人の帰化を促進しようと図っている。だいたい、朝鮮人が「善良な日本国民になります」と誓ったところで、誰が“どのように”検証するんだ? もし、「善良」でなかったら、役所が日本国籍を剝奪できるのか? 保守派の一般国民は非常に甘く、帰化申請をする朝鮮人の素性を確かめもせず、空気の振動に過ぎない「宣誓」だけで彼らを信じてしまう。なるほど、帰化1世は半島に戻りたくないから善良に暮らすだろうが、その子供や孫が善良になるとは限らない。朝鮮人であることに劣等感を持つ2世や3世は、西歐社会のムスリムと同じく、感情的に日本を憎み、我々の社会を変革しようとするはずだ。彼らは「民族の利益」ばかりか、「日本人への怨念」で政治活動をするから、脳天気な日系人では太刀打ちできない。

  筆者は以前にも櫻井氏を批判したが、それは彼女の根本思想に疑問を感じるからだ。櫻井氏は従軍慰安婦や南京事件、人権法案、拉致問題などで保守派論壇の側に立ち、『正論』や『WiLL』『Hanada』に意見を投稿して人気を博している。だが、筆者から見れば、彼女は保守派知識人の論調をなぞっているだけで、“これ”といった発見も無ければ、卓越した見識がある訳でもない。つまり、鋭い視点や判断力が乏しく、いたって凡庸ということだ。しかし、温和な口調で上品に話す態度がオバちゃんたちに好評で、“危険”な発言をしないから民放やNHKでも使いやすい。なぜなら、彼女は日テレでキャスターをしていたから、どんな相手でもインタビューが上手だし、ゲスト・コメンテーターとして招けば“期待通り”の対応を示すからだ。もし、中川八洋先生みたいなリーサル・ウェポンを招いたら、手榴弾を加熱するようなものである。場合によっては、番組自体が崩壊しかねない。中川先生は遠慮なく本当の事を口にするから、とんでもない爆弾発言が飛び交うはずだ。となれば、プロデュサーは生きた心地がしないだろう。だから、テレビ局は宮家邦彦とか森本敏のような、そこそこの肩書きがあって、操作しやすいボンクラを採用するのだ。

  一般の国民はテキパキと韓国批判を口にする櫻井氏を見て、気分爽快、拍手喝采となるが、彼女の正体はその言葉とは異質で、実に怪しい。例えば、2004年2月1日、彼女は東京で開かれた朝鮮人の集会に招かれ、そこでスピーチを行っていた。これは「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」という団体の設立記念集会で、会長は「高槻むくげの会」で知られる李敬宰(リ・キョンジェ)だ。この極左活動家は野心満々の帰化鮮人で、2006年に大阪府議選に出馬するが、あっけなく惨敗している。だが、我々が刮目すべきは、彼の目標と思想だ。李敬宰も日本を心から恨む朝鮮人で、「外国人がたくさん日本国籍を取った方が、早く天皇制を潰せます」と発言していた。この発想は誠に恐ろしい。確かに、今は無理でも、100年後には外人系国民が激増するから、「多数決原理」すなわち「人民投票」で皇室を廃絶することも可能となる。日本の皇室は「日系国民」が代々敬愛し、神聖なる皇統を守りたいと望むから、幾多の危機にもかかわらず脈々と存続してきたのだ。しかし、「天皇? 何それ?」とそっぽを向く「アジア系国民」が増えれば、“無用の長物”、“部族社会の残滓”、“無駄飯ぐらい”として処理されてしまうだろう。

  櫻井良子は藝者の如く、旦那衆の顔色に敏感だ。保守派読者を前にすれば韓国に厳しい意見を述べ、政治権力に近づきたければ安倍総理に胡麻を擦る。翻って、朝鮮人に招かれれば、主催者が喜ぶような「お世辞」を囁く。彼女は「在日コリアンの友へ」というテーマで講演を行ったが、その内容は『正論』や『WiLL』で述べる見解とは異なり、耳を疑うものであった。櫻井氏は朝鮮人の聴衆に向かって語りかける。

  歴史を振り返りなさい・・・・在日コリアンの人にも歴史を振り返って欲しい。日本の文化が朝鮮から来たのは歴然としている。奈良の大仏しかり。他の遺跡をみても日本の歴史文化は朝鮮半島から来たものから基礎が出来ている・・・・日本もそのことをちゃんと認めないのが不思議でならない。風下に立つと何か言われるんじゃないか、そんなことは引け目を感じることではありません。・・・・・私たちは文化を輸入しました・・・・しかし、私たちが誇りたいのは、日本に渡来文化が来た時に、その中から日本独自の文化を築き上げた、日本社会を築き上げたということ。日本人は朝鮮半島から教えてもらったけれども引け目は感じない。

  これを聞いた櫻井ファンのオバちゃん達は、「えっ ! 日本文化が朝鮮由来 ?!」、「朝鮮半島から教えてもらった?!」と声を張り上げ絶句するに違いない。あの乞食より貧乏な朝鮮から高度な文化がもたらされ、我が国の基礎になったなんて、どんな文献を読んだら、こんな見解が湧いてくるのか? 講演が行われた2004年(平成16年)といったら、第二次小泉政権の頃だぞ。世間の一般人でさえ朝鮮の実態を知っていたのに、櫻井氏は昭和40年代か50年代の頃に捏造された歴史観を持っていたのだ。

  櫻井氏はよく和服姿で登場し、日本文化を愛する保守派論客のように振る舞っているが、その精神が本当に愛国的なのか甚だ疑わしい。彼女は日本国籍をレンタル会員程度にしか思っていないのだ。在日朝鮮人は便利で快適だから日本に居坐っているのに、帰化手続きを済ませれば“まともな”日本人になると思っている。彼女は朝鮮人にこう語りかけていた。

  自分に甘えることなく、あの人のせいだと言い訳しないで一緒に生きていきましょう。そのために在日のコリアン人が日本国籍を取ってリーさん、ペクさんになって隣に住んでくれるように、ともに手を携えてこの国で生きていきましょう。

  「朝鮮人と手を携えて生きて行こう !」だと? 何を寝ぼけたことを言っているんだ?! 朝鮮人がいることで、我々がどれほど不愉快な日々を送ってきたのか、櫻井氏は知らないのか? もし、朝鮮人が素晴らしい民族なら、どうして彼らは日本や米国、ドイツで忌み嫌われるのか、答えてもらいたい。2000年代になって、朝鮮史の暴露本が数多く出版されたのは、朝鮮人に関する言論統制が緩み、隠蔽工作の綻びが現れてきたからだ。そして、北鮮が邦人拉致を認めたことで、遠慮無く朝鮮人を批判できたことも大きい。つまり、前世紀だと、日本人は「言いたいこと」を言えずに我慢していたということだ。

  マスコミは日本人の“排外主義”を批判しているが、日本人は「外人嫌い」の国民ではない。現実の日本を見れば、アメリカ文化やヨーロッパ文化が溢れているし、イギリス人やドイツ人、ノルウェー人が観光地に訪れれば、地元の人は親切に道案内したりする。「外人嫌い」という印象は、日本人が支那人や朝鮮人を嫌うからで、礼儀正しい西歐人なら大歓迎だ。NHKやTBSはアジア人に配慮して本当の事を告げず、漠然と「外国人観光客」と一括りにして報道するからズルい。ちゃんと「マナーの悪い支那人観光客」と言うべきだ。「高度人材」の受け容れでも、西歐人のエンジニアとか、英語教師、貿易商、銀行員などで「排外主義」が起きたことは無い。日本人が追放したくなるのは、沖縄や北海道の土地を買い占めたり、企業秘密を盗む支那人ビジネスマンとか、街中で小便をしたり痰を吐いたりする支那人である。日本という国は我々の祖先が血と汗と涙で築き上げた貴重な相続財産であるのに、左翼分子は気前よく支那人や朝鮮人に分け与えようとするから赦せない。櫻井氏も根本的には左翼と同じだ。彼女は2014年6月号の『SAPIO』で、次の様に述べていた。

  日本は鎖国して外国人を排斥すればよいということではありません。海外から優秀な人材を受け入れ、またはアジア諸国の人材を受け入れかつ育成することは非常に重要で、それが私の長年の持論です。

  アジアからの「優秀な人材」って、日本人が嫌がる介護職とか製造業、農業や漁業で働く契約奴隷のことか? アジアから労働者を受け容れたい企業というのは、低賃金で扱き使える家畜を求めている会社である。それに、「優秀な人材」と言えば聞こえが良いが、その実態はまちまちで、餃子造りの達人を自称する支那人とか、絶品カレーを作るインド人、鋳物工場で働くベトナム人だって、「高度な技術を有する人材」となってしまうだろう。櫻井氏は保守派を安心させるため、非現実的な提案を述べていた。すなわち、日本国籍を付与する際に、申請者が日本人が大切にしている価値観を理解しているかどうか、きちんと審査すべし、というのだ。しかし、どの役人がどんな基準で確認するというのか? 日本国籍を狙う支那人や朝鮮人なら、真面目な顔で「私は日本の文化が大好きです」と答え、平然と嘘をつくことができる。彼らにとり他人を騙すなんて朝飯前。これを知った日本人は憮然とするが、朝鮮人や支那人は我々に向かって、「騙される方が悪いんだよ ! この間抜け野郎!」と嘲笑うに違いない。アジア大陸では正直は美徳でなくアホの証拠だ。そもそも、マスコミを恐れる法務省の役人が、日本人を守るべく愛国心を持って厳しく審査するなんて有り得るのか。面倒な事を嫌がる役人は、ポケット・ティテッシュのように国籍を与えてしまうだろう。だから、申請書類を受け取ったら、事務的に右から左に流して、盲判を押すのが関の山だ。

  一部の保守派国民は気づいていると思うが、櫻井氏は「営業保守」である。彼女が保守派論壇に寄り添うのは、「もうリベラル左翼の評論家が持て囃される時代ではない」と察知したからだ。日テレに勤めていた元キャスターは、「進歩的知識人」では未来が無いと判断し、女性の論客が少ない保守論壇に「儲け口」見つけたのだろう。かつての小池百合子を思い出せば分かるじゃないか。昔、小池は雑誌『Voice』などに登場し、お得意のアラビア語をひけらかし、よせばいいのに外交や軍事にまで言及し、「私は野党の左翼議員とは違って、リアリズムを理解する国際派なのよ!」と気取っていた。そのハッタリが効を奏したのか、小池は短期間だが防衛大臣に就任できた。「まんまと引っ掛かったわね。これだから大衆はチョロいのよ ! ホホホ!!!」と高笑いする小池の声が聞こえてくるじゃないか。こういった妖婦にとって、国民を騙すなんてお茶の子さいさいだ。

  『正論』とか『Hanada』の読者はコロっと騙されるが、さすがNHKやフジテレビは櫻井氏の本性を判っているのか、時たま彼女をゲストに迎え、討論番組の目玉にしている。でも、それは彼女が真の保守派論客だからではなく、左翼ゲストの雰囲気を中和するだけの「便利な有名人」であるからだ。つまり、「左右両方の意見を聞いてますよ」というアリバイ作りの一環で、櫻井氏はヤバいことを言わない保守派もどきの「安全パイ」ということだ。一般人は詐欺師に騙されたと分かったとき、「えっ、あの真面目そうな人が・・・」と驚くが、悪い奴ほど笑顔が得意なんだぞ。 
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68752820.html

 

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コメント
1. 中川隆[-12390] koaQ7Jey 2019年2月06日 09:13:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

櫻井よしこ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%BB%E4%BA%95%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%93

生誕 1945年10月26日(73歳)
Flag of Colonial Annam.svg フランス領インドシナ連邦 ハノイ
(現:ベトナムの旗ベトナム社会主義共和国ハノイ市)

櫻井 よしこ(さくらい よしこ、1945年(昭和20年)10月26日 - )は、日本の政治活動家、ジャーナリスト、インターネット番組のニュースキャスター。

国家基本問題研究所理事長、言論テレビ株式会社会長(代表権なし)、「21世紀の日本と憲法」有識者会議代表、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」共同代表。

本名は櫻井 良子(さくらい よしこ)。

以前は本名の「櫻井良子」名義で活動していたが、1994年4月に「櫻井よしこ」の表記に改めた。 血液型はO型。


ベトナム民主共和国・ハノイの野戦病院で日本人の両親の間に生まれた。敗戦後、大分県中津市に住んだ後、母親(小千谷市出身)の郷里に近い新潟県長岡市に転居した[1]。

新潟県立長岡高等学校卒業[2]後、慶應義塾大学文学部に進学するが中退し[3]、ハワイ大学マノア校歴史学部を卒業。


ジャーナリスト・言論活動


2015年7月10日、『櫻LIVE』の収録を前に(伊藤穰一撮影)
英字新聞『クリスチャン・サイエンス・モニター』東京支局などを経て、1980年5月から1996年3月まで日本テレビ『NNNきょうの出来事』のメインキャスターを務めた。1993年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞[4]。1995年に薬害エイズ事件を論じた『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』で第26回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。なお、薬害エイズ事件で櫻井から追及された安部英は無罪判決を受け、櫻井は名誉毀損で訴えられた(後述)。

『「21世紀の日本と憲法」有識者懇談会』(民間憲法臨調)代表。2007年12月、国家基本問題研究所を設立し、初代理事長。2012年10月、インターネットテレビ「言論テレビ:櫻LIVE」を始める。2014年10月、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を、2015年8月には「平和安全法制の早期成立を求める国民フォーラム」を結成。2015年3月末、日本青年会議所にて「グローバルリーダー育成塾」を創設し塾頭[5]。

メディア出演

『報道2001』(フジテレビ)や『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)などの討論番組に、不定期で出演している。『新報道プレミアA』(フジテレビ・関西テレビ)ではレギュラーコメンテーターを務めた。

歴史認識

歴史事実委員会の委員の一人として、『ワシントン・ポスト』2007年6月14日号に、米下院121号決議の全面撤回を求め慰安婦動員に日本政府や旧日本軍の組織的・計画的強制連行はなかったと主張する意見広告「THE FACTS」を出した。決議は後に採択された。

平成19年(2007年)には南京事件を歴史的事実に基づかない政治的創作として描く映画『南京の真実』の賛同者に名を連ねた[6]。

沖縄戦における集団自決に関する大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判の大阪高等裁判所の判決(2008年10月31日)に対して、判決文の「大江氏の記述は真実性の証明があるとはいえない」、「資料で両隊長の直接的な自決命令は真実性が揺らいだ」としつつ、「各記述や前提の事実が真実でないと明白になったとまではいえない」と訴えを退けたことについて、「深刻な論理矛盾」、「世の中に通用しない曲がった理屈」、「真実を知る努力を十分にしていない」と批判した[7]。

新しい歴史教科書をつくる会の市販本『日本人の歴史教科書』(2009年5月発売)に寄稿した。また、平成20年(2008年)3月29日、「つくる会『沖縄問題』緊急シンポジウム」に講演者、パネリストとして出席した[8]。

世界

2008年1月23日、土井香苗(左)との人権に関する対談にて(伊藤穰一撮影)平成19年(2007年)長崎市長射殺事件で殺害された伊藤一長長崎市長の反米・反核平和志向に対して「長崎市長として核兵器を投下した米国を批判するのも十分にわかる。」と理解を示した[9]。

中国共産党に対しては、その体制、少数民族への弾圧、環境問題やコピー製品氾濫などの視点から厳しい姿勢をとっている。著書『異形の大国 中国』の冒頭では、「隣に中国という国が存在することは、天が日本に与え給うた永遠の艱難である」とした。また、北康利との対談で、「中国は日本と仲良くする気はありませんから。仲良くする気がない国と仲良くしようというのは卑屈」と発言[10]。

ジャーナリズム

2015年7月10日、『櫻LIVE』の収録を前に(伊藤穰一撮影)信奉するアンカーパーソンは、ロバート・ダンカン・マクニール[11]。

皇室

皇室には「2660年、125代の歴史がある」と考えている[12](皇紀を参照)。皇室典範改正問題では、旧皇族皇籍復帰派であり、女系天皇容認には絶対反対の立場を取る。悠仁親王誕生以前は「男系女子である愛子内親王を皇位につけ、代を繋げる間に、旧皇族に皇籍復帰して頂き、その後に傍系継承を行い、皇室の男系継承の伝統を守るべき」と主張していた。

昭和天皇が靖国神社へ親拝しなくなった理由を「三木武夫の私的参拝発言が原因であり、A級戦犯合祀問題は全く関係ない」と長年主張してきた[13]。平成18年(2006年)7月に、昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀に不快感を示したとされるメモ(富田メモ)が発見された事については、メモの信憑性を疑っており、また「政治に利用してはならない」等として、メモの影響で公人の靖国神社参拝に影響が出ることを懸念した。その後も信憑性についての疑いを捨てず、富田メモに関しては検証が必要と日本経済新聞に公開を求める主張を行い、首相による靖国参拝を支持する立場も堅持している。

徳仁親王妃雅子について、「西欧的な感覚を持つ」などとして皇室の担い手としての適性を危ぶみ批判する意見を表明したことがある[14][15]。

女性天皇の誕生は男系天皇制の下でも可能であるとしている。女系天皇の実現については、「愛子様が成人し鈴木さんという男性と結婚なさったと仮定する。男女にかかわらずお子さんに恵まれれば、第一子が即位し、女系天皇第一号となる。その時点で天皇家は、半分鈴木天皇になる」と述べている[16]。


国籍法改正・外国人参政権

外国人参政権付与法案を「亡国への第一歩」として反対しており、この件について民主党の「在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟」による勉強会に招かれ、参政権を得るには帰化をさせるべきで特別永住者については歴史的経緯を考慮して国籍取得の条件を簡素化する必要があるとする論を述べ、参加した議員からは「極めて共鳴した」(蓮舫)、「おおむね私の認識と同じだ」(牧義夫)と共感された一方、岡田克也からは「(私が在日韓国人の立場だったら)『選挙権を得たければ国籍を捨てろ』といわれたら許せない」との反論も出た[17]。一時間あまり熱弁をふるったが、議連からは面と向かって「ご意見はわかりました。しかし、外国人参政権付与は進めます」と言われた[18]。

平成20年(2008年)12月8日に改正された国籍法に対して、日本の危機、国会の司法への盲目的な追従、政治家の怠慢により他国の失敗事例をまねた、と酷評した[19]。

選択的夫婦別姓制度

選択的夫婦別姓制度について、「選択的夫婦別姓制度導入法案の源をたどれば、その考えは戦後の占領政策の下で行われた徹底的な家制度の破壊にいきつく」などとして反対している[20]。

原子力発電

福島第一原子力発電所事故後の平成23年(2011年)7月14日、産経新聞社主催の第256回全国縦断「正論」鹿児島講演会で講演し、「核をつくる技術が外交的強さにつながる。原発の技術は軍事面でも大きな意味を持つ」と主張し、「原発を忌避するのではなく、二度と事故を起こさないようにする姿勢こそ必要」と強調した[21]。

平成24年(2012年)12月8日、福島県郡山市の福島県双葉郡8町村の議員研修会で講演し、「年1ミリシーベルトの除染基準は古里再生のために緩和すべきだ」、「放射線には幅広い意見があるが、政治家は事実を見るべきだ。人類が持つ科学的事実は広島、長崎、チェルノブイリの疫学データしかない。国連科学委員会や国際放射線防護委員会は100ミリシーベルト以下の影響に有意性はないと結論付けている」、「科学的根拠のない年1ミリシーベルトを除染の基準にして大量の土砂を積み上げ、自分たちで新たな問題をつくり出している。大人は年20ミリシーベルト、子どもも10ミリシーベルトまでは大丈夫と、国の責任で言わなければならない。町村議は住民と一緒にうろたえていてはいけない」と発言した[22]。

沖縄基地問題

2014年11月9日、沖縄県知事選の最中に沖縄県豊見城市で行われた講演会で、「中国の脅威の最前線に否応なく立たされている沖縄を『力強い砦』にしないといけない」「中国に侵略されないような『防人』になって、もう一回、日本を盛り立てる」と、沖縄県の住民が防人になることを望む発言した[23]。

その他

2003年8月22日、伊藤穰一との住民基本台帳ネットワークに関する対談を前に(伊藤穰一撮影)福田康夫については「親中派」とみなし、平成19年(2007年)の自由民主党総裁選挙で福田が選出されると、「日本の国益を損ねる媚中外交が開始される」として政権発足前から懸念を表明した[24]。

田母神俊雄の航空幕僚長更迭について、「文民統制、曲解された日本の解釈」(週刊新潮 2008年12月11日号)、「誰もわかっていない文民統制」(WiLL 2009年2月号)などの記事において、「文民統制」をキーワードに田母神を批判した朝日新聞や「政府見解」に従わせようとする日本政府を批判した。選挙に選ばれたヒトラーも文民統制により軍を支配したものと言え、自衛官を村山談話をはじめとした政府見解に従わせ、政府が自衛官の思想も行動も統制するということは正しい姿ではないと主張した。

オーストラリア人の記者と結婚したが、3年で離婚した[25] 。

2009年4月、週刊新潮にて、CO2削減に予算を投入するのは日本国の富の無駄遣いであるとする一部研究者の考えを紹介し、「CO2は温暖化の原因ではないと考えるのが合理的だ」とする旨の見解を主張した[26](地球温暖化に対する懐疑論も参照)。
日本経済を再建し、中国の覇権拡大を阻止するためには、TPPへの参加は絶対に必要としている[27]。

共謀罪、住民基本台帳ネットワークシステム・住民票コードには反対で「国民共通番号制に反対する会」共同代表を務める。同会には斎藤貴男や佐高信も参加していた。

朝日新聞の報道姿勢には常に批判的であるが、その一方で赤報隊事件については「言論には飽くまでも言論で応じるべきで、卑劣な脅迫や家族への攻撃は断じて許せない。」と「赤報隊」を糾弾。その上で、「言論の自由こそ民主主義国日本の根本であることを、改めて強調したい。」と主張している[28]。

2014年4月13日、仏教系の新宗教である新生佛教教団の開教60周年記念大会が開催され、「今、なぜ憲法改正が必要か」と題した講演にて「日本人の価値観に沿った憲法をつくらなければならない」と主張した[29]。

日本の外交に関して、2002年以降の北朝鮮、韓国、中国に対する日本外交は失敗を続けており、外務官僚主導による外交にその問題の根があるとしている。特に北朝鮮との拉致問題に関する交渉では、セオドア・ルーズベルト大統領の発言、「外交は大きな棍棒片手に優しい声で」(棍棒外交)を引き合いに、力(強い圧力や制裁)の裏付けの無い善意や妥協では国益は守れないとの認識を示し、外務省の宥和的な交渉に負の側面があるとした[30]。

池田佳隆が2006年、政界進出前に刊行した『誇り高き国 日本 この国に生まれて本当に良かった』(ダイヤモンド社)の同著には櫻井が「絶賛」の帯を寄せている[31]。


批判

1996年、薬害エイズ事件についての記述を巡って安部英医師より毎日新聞などとともに名誉棄損で訴えられる。訴訟は一審が棄却、二審で逆転、損害賠償を命ずる判決が出たのち、安部の無罪判決の後の平成17年(2005年)6月に最高裁で再逆転・棄却となり原告の敗訴が確定した。ただし、最高裁の判決理由は、「真実と信じたことに相当の理由がある」というもので櫻井の記述が真実であると認めたものではなく[32]、安部の弁護団は、櫻井の取材方法は捏造に近いと主張している[33]。この直前から本名ではなく「――よしこ」のペンネームを使用するようになった。

同年10月、横浜市教育委員会主催の教師向け研修会で、福島瑞穂の慰安婦問題に対する姿勢について批判した。福島瑞穂によれば、櫻井から福島に対して「福島さんに対して実に申し訳ないことをしました。講演をしたときに、うっかり口がすべって、『従軍慰安婦の問題について福島さんももう少し勉強をしたらどうですか』と言ってしまったのです。本当に申し訳ありませんでした」という内容の謝罪を行ったという[34]。なお、同研修会では「従軍慰安婦は存在しなかった」という趣旨の話をしたことで、その後に櫻井が講演予定をしていた主催者へ「人権」を掲げる団体が抗議運動をしたため、主催者が講演の中止を発表するに至った。『読売新聞』は社説(2008年2月3日付)で言論の自由を妨害された事例として、この件を取り上げている[35]。もっとも福島は、櫻井とのそのような遣り取りは存在せず、講演録を見せられて心底驚いたと「創」1997年4月号で述べている[36]。

1997年、喘息患者の死亡はβ2刺激剤ベロテックの心臓への副作用が原因であり、これは薬害エイズ事件に続く薬害事件だと主張した(ベロテック問題)。櫻井は文藝春秋1997年6月号に、「喘息患者がつぎつぎに死んでゆく」と題した記事を掲載し同時に自らがキャスターを務める『NNNきょうの出来事』でも取り上げた。さらに、同誌9月特別号にて「NHKがごまかした『喘息薬害』」と続けて取り上げた。

池田信夫は「一種のaffirmative actionでメディアによく登場するが、中身はでたらめ」と評し[37]、また櫻井が住民基本台帳ネットワークにおいて「国民共通番号制に反対する会」の代表になっている活動について、「システムの中身も知らないでヒステリックに騒いだため、左翼の残党がこれに乗って『監視社会』反対運動を始めた」[38]などと自身のブログ内にて櫻井の活動をたびたび批判している。

2015年9月28日、9月27日に民主党からNHK日曜討論において岡田克也代表らに関する発言に事実誤認があったとして撤回と謝罪を求め批判された。櫻井は番組中で岡田克也が外相時代に集団的自衛権は必要と発言したとして180度意見が変わったと批判したが、岡田は外相時代にそのような発言はしていなかった[39]。櫻井は30日に発言は野党の幹事長時代だったと反論を発表したが、民主党はそのような事実はないとして再度撤回と謝罪を求める再質問状を送った[40]。これに対して櫻井は「再度の回答は不要」との返答を民主党へ送った[41]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%BB%E4%BA%95%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%93


要するに、頭の中はからっぽ、倫理観やジャーナリストとしての使命感はゼロ

金になりそうな事、一般受けしそうな事なら何でもやる只のオバサンという事ですね。

2. 中川隆[-12386] koaQ7Jey 2019年2月06日 11:34:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

櫻井よしこは、極端な右傾化の背景で超の字のつく豪邸を手にしていた やっぱり銭の亡者、金目の女 「別冊正論」が不自然に隠していたはずだ

2017年05月06日 14時00分07秒 | 安倍某とそのお友達

非一般ニュースはアカウント凍結‏ @kininaru2014111さんのツイート。

――日比谷神社か? 東京・港区の一等地にあるH神社。素盞嗚尊(すさのおのみこと)などを御祭神とする有名な神社。地上2階地下1階、総床面積約520平方メートルに及ぶ、個人の邸宅とは思えないような超のつく豪邸。〔13:30 - 2017年5月6日 〕—―

金と引き換えに

自分のジャーナリスト魂を売っていたのだな。

浅ましい女だ。


<追記>

m TAKANO‏@mt3678mtさんのツイート。

――「正体見たり枯れ尾花」とは、こういう時に使うのだろうな。「櫻井の正体見たり枯れ尾花」。“極右ビジネスの女王”と言おう。(笑)
〔18:50 - 2017年5月7日 〕—―

ネトウヨの女神って、

やっぱり彼女を崇める連中に相応しい

人格者だったわけだ!


2017年5月8日昼 記

〔資料〕

「“極右の女神”櫻井よしこは「神社」に住んでいた! 神社本庁と改憲運動の一方、神社の所有地に520uの豪邸」

   リテラ(2017.05.06)

☆ 記事URL:http://lite-ra.com/2017/05/post-3135.html

「別冊正論」特集がふれなかった櫻井よしこの自宅がある場所

 櫻井よしこといえば、安倍首相応援団の筆頭で、様々な民間右派組織の顔をつとめる“極右のマドンナ”。脂ぎった保守オヤジやネット右翼たちから絶大な人気を誇っているが、最近、その櫻井氏を丸ごと一冊特集した雑誌が発売されたのをご存知だろうか。

 産経新聞発行の「正論」の姉妹誌「別冊正論」。表紙には〈一冊まるごと櫻井よしこさん。〉、コンサバティブな白のジャケットに身を包んだ櫻井氏が、支持者たちを悩殺するおなじみの微笑みを浮かべている。

 その内容はまさに“アイドル本”と呼ぶにふさわしい。櫻井氏の論文や対談記事のまとめはもとより、櫻井氏の私生活にもスポットライトを当てているのが特徴だ。たとえば、巻頭特集である一週間「密着取材」レポでは、海苔を食べるときには醤油をつけた面を外側にしてご飯を巻くなど、櫻井氏のどうでもいい一面が明かされている。さらには「あなたは気付いているか 進化する『よしこヘアー』」なる専属美容師へのインタビューまで収録。たしかに、あの独特なボリューミーヘアの秘密は、ファンならずとも気にならなくもない。

 しかし、そんな〈一冊まるごと櫻井よしこさん〉の大特集にはひとつだけ、不自然にも書かれていないことがある。それは、櫻井よしこが“どこに住んでいるのか”ということだ。

 一つだけそれらしき記述はある。〈東京都心ながら静かで緑の多い住宅地〉。前述の一週間密着レポではそう書いているが、これは事実ではない。実は、櫻井氏は住宅地でなく、“神社のなか”に住んでいるのだ。

 東京・港区の一等地にあるH神社。素盞嗚尊(すさのおのみこと)などを御祭神とする有名な神社だが、そんなH神社の木々茂る東側入り口から境内に入ると、社殿の方へと向かう道脇に、衝立で囲われた一軒家がある。白を基調とした外観の巨大な鉄筋コンクリート造の建物。表札こそ見当たらないが、ここが「櫻井良子」の自宅である。

 登記簿によれば、地上2階地下1階、総床面積約520平方メートルに及ぶ、個人の邸宅とは思えないような超のつく豪邸。ちなみにこの建物には建築した2004年の翌年、2005年に1億7000万円の根抵当権がついているが、わずか6年で抹消されている。

櫻井よしこと神社本庁の関係、境内での改憲署名活動の「顔」にも

 いやはや、極右言論活動って儲かるんだなあ、と改めて感心するが、問題はその豪邸が建っている土地だ。こちらも登記簿をみてみると、なんとH神社の所有なのである。つまり、櫻井氏はH神社の境内の一角を借りて、この巨大な建物を建てた、そういうことらしい。

 となると、頭をよぎるのは、櫻井氏の政治活動と神社の関係だ。周知のように、櫻井氏は少し前から、全国で約7万9000の神社を統括している宗教法人・神社本庁とタッグを組んで、改憲や歴史修正主義的活動に取り組んできた。

 たとえば、そのひとつが、本サイトでも昨年1月レポートした、神社の境内で行われた憲法改正実現のための「1000万人」署名運動。これは神社本庁が、改憲団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の運動の一環として行っていたものだ。同団体は神社本庁も参加するあの日本会議のフロント団体だが、櫻井よしこはその共同代表をつとめている。

 その際一昨年、改憲署名活動が行われた神社には、櫻井氏の顔が大きく写し出されたポスターが貼られ、「国民の手でつくろう美しい日本の憲法」「ただいま、1000万人賛同者を募集しています。ご協力下さい」なる文言とともに笑みを浮かべていた。

 そんな櫻井氏が、神社の敷地内で生活しているなんて、これはちょっと生臭い匂いがしてくるではないか。実際、一昨年には、櫻井氏が住んでいるH神社でも改憲署名活動が行われ、拝殿や社務所に通じる門には櫻井氏のポスターがババーン!と貼られていた。

 櫻井氏のこうした神社界(神社本庁)と一体化した政治言論活動と、神社の土地を借り、巨大な建物を建てているということは何か関係があるのではないか。

 もちろん、寺社が敷地を借地にしているケースは珍しくはないが、借地上の建物は「非堅固建物に限る」「木造家屋に限る」という条件が付いているケースも多く、個人にこんな巨大なコンクリート造の建物を建てさせるというのは珍しい。しかも、櫻井氏の周辺からは「土地はただではないが、かなり格安で借りているらしい」という情報も入ってきた。

 そこで、まず、土地を貸しているH神社に電話で問い合わせてみた。すると、電話口の担当者は、櫻井氏の自宅の土地が神社の所有物であることは認めたが、「櫻井先生の自宅以外にも境内に3つのお家が建てられております。いずれも地代をいただいています」と無償提供ではないという。また、櫻井氏の言論活動と関係があるのではないか?という質問については「当神社と櫻井さんに個人的なつながりがあるからとか、櫻井先生が神社界に力をいれているから土地を貸しているということではない」と強く否定した。

 ところどころ、櫻井氏のことを「櫻井先生」と呼んでいることが気になるが、H神社は櫻井氏を敷地内に住まわせていることと櫻井氏の活動は無関係だというのだ。

 しかし一方で、櫻井氏は、自らの言論活動のなかで、H神社とその国家神道礼賛の主張を、土地を借りていることは隠したまま、PRしたことがある。

櫻井氏に質問状! 右傾化、神社本庁の急接近は自宅の土地と無関係か 

 櫻井氏が連載している「週刊新潮」(新潮社)のコラム「日本ルネッサンス」で、このH神社のことを大々的に取り上げ、元旦に開かれる歳旦祭で、H神社の宮司が「天皇陛下は、私たちよりずっと早く、陽も上がらない時間に、国民全員のために祈って下さっています。有難いことだと感謝せずにはいられません」とあいさつしたことを紹介。そのうえで、GHQが「神社神道を国教とする制度を廃止し、政教分離の原則を確立し、宗教と教育から軍国主義と超国家主義を除去」したと批判し、宮司のあいさつが「皇室の祈りは天皇家の私的行事に矮小化されて現在にいたっている」ことを嘆くものだと解説していた。

 また、櫻井氏の言論が地主への利益誘導ではなかったとしても、思想的な影響はどうなのか。櫻井氏はかなり前から改憲を主張していたし、タカ派的な論客ではあったが、90年代頃まではここまで戦前回帰、国家主義的な思想を声高にがなりたててはいなかった。むしろ、薬害エイズ事件などでは、国家犯罪を追及する姿勢も見せていた。

 それが、2000年代に入ると、GHQによる神道指令は誤りだったとの論陣を張って、極端な国家主義や歴史修正主義を声高に叫び始め、その思想をどんどんエスカレートさせていった。H神社の敷地に家を建てたのは、その極端な右傾化のまっただなかのことだ。ここに何かしらの“縁”がなかったと、はたして言い切れるのだろうか。

 ここはやはり、櫻井氏本人に聞いてみるしかないと、以下のような内容の質問状(要約)を送った。


・ご自宅の土地はH神社(質問状では実名)の所有ですが、地代はいくらですか。

・H神社所有の土地を借りることになった経緯をおしえてください。

・「別冊正論」の3月発売号〈一冊まるごと櫻井よしこさん。〉に登場し、プライベートについても公開されていますが、神社の敷地内に住んでいることを隠し、〈東京都心ながら静かで緑の多い住宅地〉に住んでいるとしています。その理由はなんですか。

・神社本庁および神社が担っている改憲や戦前回帰運動に協力し、その主張と内容を一にする言論活動を行なっていることに、神社から土地を貸与され、敷地内に建物を建てているという関係が影響を及ぼしているのではないですか。

・直接的な影響はなかったとしても、利害関係にある宗教団体の運動に協力し、その主張に沿った言論を展開することは、ジャーナリストとしての独立性、倫理に反していると考えますが、いかがですか。

・言論活動を検証してみると、以前は、ここまで右翼的、戦前回帰的な主張はしていませんでした。この主張の変化に、H神社との関係、もしくは神社本庁との関係が影響を及ぼしているのではないですか。

鈴木邦男氏も驚く櫻井氏の極端な右傾化の背景には…

 しかし残念ながら、締め切り期限から一週間以上たった現在でも、櫻井氏からの返事はない。

 ただ、少なくとも櫻井氏が神社の境内の土地を借りるというある種の利害関係にあること、その言論や活動がこの十数年の間に急速に右傾化し、いまや神社本庁と完全に歩調を一にしていることはまぎれもない事実だ。

 新右翼団体「一水会」元顧問の鈴木邦男氏が、ウェブマガジン「マガジン9」の連載コラムで、「櫻井よしこさんの思い出」と題して、その思想の変化を書いたことがある。80年代初期、鈴木氏が他の新右翼過激派とともに運動に没頭していたころ、当時「クリスチャン・サイエンス・モニター」の記者だった櫻井氏から外国人記者仲間との飲み会に誘われた時の思い出をひきながら、こう書いている。

〈「この人が鈴木さん。日本の過激な新右翼なのよ。怖いんです」と皆に僕を紹介する。「オー、ノー」とか、「テリブル」という声が上がる。それだけを覚えている。他は全て忘れたが。しかし、30年経った今、櫻井さんの方が怖いし、過激だ。〉

〈あの頃は、櫻井さんは中立だったし、やや左だったかもしれない。それなのに今は僕を飛び越えて右に進み、保守陣営の女神さまだ。〉
https://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/34af02db6c92d826d025906d40d18776「マガジン9」第123回 13年4月17日より)

3. 中川隆[-12385] koaQ7Jey 2019年2月06日 11:35:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告
>>2 のリンク

https://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/34af02db6c92d826d025906d40d18776

4. 中川隆[-12384] koaQ7Jey 2019年2月06日 11:48:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

週刊金曜日編集部 2018年12月07日
櫻井よしこ氏「私は歴史修正主義者ではない」
 「慰安婦」報道めぐる会見で釈明(長谷川綾)

11月16日、日本外国特派員協会で会見する櫻井よしこ氏。(撮影/高波淳)

「私はRevisionist(修正主義者)ではありません」
「私が歴史を都合のいいように書き換えているとは全然思っていません」

――元日本軍「慰安婦」証言記事を「捏造」と断じて植村隆・元『朝日新聞』記者から名誉毀損で訴えられた訴訟の札幌地裁判決を受け、櫻井よしこ国家基本問題研究所理事長が11月16日、東京の日本外国特派員協会で勝訴後初めて行なった記者会見は、成果を誇るはずが「弁明」を強いられる結果となった。


判決について、櫻井氏は、『朝日』が故吉田清治氏の加害証言を裏付ける形で、植村氏の記事を出したので批判したが、吉田証言の関連記事は嘘ですべて取り消された、として自身の正当性を強調。

「札幌地裁はきちんと認めた。高く評価したい」

と述べた。だが、司会者に

「日本で最も著名なHistorical Revisionist(歴史修正主義者)」

と紹介されると

「(特派員協会は)『慰安婦』問題だと『反日』になる」

と反発。イタリア人ジャーナリストのピオ・デミリア氏から、

植村氏と元「慰安婦」になぜ直接取材せず記事を書いたのか、
元「慰安婦」に何人会ったか、

を問われ

「『朝日』に質問状は出した」
「政治家や西岡(力)さんに取材したので『慰安婦』には(一人も)会わなかった」

と釈明した。


判決は、植村氏の「捏造」を認定していない。

「植村弁護団」の調査によると、1998年、『週刊新潮』4月9日号の連載記事で初めて、植村氏を名指しで「誤報」と批判。2014年に突然、「捏造」と断じ始めた。

「今でも捏造したと思っているか。なぜ、捏造という表現に変えたのか」

と筆者が尋ねると、櫻井氏はこう答えた。

「時間が経つにつれていろんなことが分かってきて、疑問が強くなったため、捏造したと言われても弁明できないのではないか、仕方がないだろうと書きました」

デミリア氏は会見後、首をすくめた。

「イタリアでは過去の戦争の問題に向き合えない人を、『否定者』と呼ぶ。彼女はそうだ」

(長谷川綾・新聞記者、2018年11月23日号)
https://blogos.com/article/343776/


参考

今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」_ 吉田清治の話はやっぱり事実だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/132.html


吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html


従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/137.html


5. 中川隆[-12383] koaQ7Jey 2019年2月06日 11:57:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告
【速報】櫻井よしこ氏のずさんな取材を司法が追認!?
植村隆氏の名誉を毀損したが「捏造」と信じたのは仕方なかった!?
「言論で勝って裁判で負けた、悪夢のような判決」! 2018.11.9
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/217.html?c4#cbtm

 元朝日新聞記者の植村隆氏(現・「週刊金曜日」発行人)が1991年8月、朝日新聞記者時代に執筆した元従軍慰安婦に関する記事をめぐり、植村氏が記事を「捏造」と繰り返し誹謗中傷した、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と株式会社新潮社、株式会社ワック、株式会社ダイヤモンド社を名誉毀損で札幌地裁に訴えていた裁判で、2018年11月9日、岡山忠広裁判長は植村氏の請求をすべて棄却する判決を言い渡した。

 IWJは判決を受けた札幌地裁前の旗出し、続く判決報告記者会見を生中継した。

 以下に、記者会見の内容を速報で伝える。

弁護団共同代表の伊藤誠一弁護士「不当で残念な判決だと考える。櫻井よしこ氏が3つの雑誌(週刊新潮、月刊WiLL、週刊ダイヤモンド)に書いた植村さんへの批判は、事実と異なる記事で、植村氏の名誉や社会的信用を毀損したことは認めながら、櫻井さんがそのような記事を書いた相当性が認められると。名誉毀損として、慰謝料を払わせるほどの違法はないとして、原告側の請求を棄却した。

 この訴訟の特徴は、著名なジャーナリストが責任ある言説をしていないことを問題にしました。当然行われるべき取材がなされないままで、櫻井さんは植村さんを攻撃した。

 櫻井さんの批判は、『言論の自由の中で違法とは言えない』という判決となっている。当然控訴して戦う」


▲伊藤誠一弁護士

■ハイライト


◦日時 2018年11月9日(金)15:30過ぎ〜(旗出し:15:45予定)/16:30〜(記者会見)
◦場所 札幌地方裁判所前/北海道高等学校教職員センター(札幌市中央区)
◦主催 植村裁判弁護団

弁護団声明についての説明「櫻井氏の言論によって、植村さんの名誉が傷つけられたことは認定されています。この判決は『捏造』との表現をめぐるものです。ジャーナリストのずさんな言説を免責する判決は非常に問題がある」

植村隆氏「悪夢のような判決。言論で勝って、法廷で負けてしまった。

 櫻井さんは本人尋問で間違いを認め、訂正を出した。この法廷と今日の判決がどうつながるのか?

 北海道新聞のOB記者でソウル特派員だった喜多義憲さんは、私が書いた記事の3日後に金学順(キム・ハクスン)さんに直接取材されて、キムさんが『挺身隊だった』と言っていることも確認して記事を書かれている。当時私は喜多さんと全く面識なく、喜多さんも私の記事を見てなかった。

 当時を知っている他社の記者が、『捏造であるとか虚偽であるとか、そのものが理解を超えた、言いがかりのように感じました』と証言した。

 利害関係のない人物の証言が判決に一切評価されていない。ジャーナリストの皆さん、これは悪夢ではないですか。正義が法廷で実現されていないんです。

 そして、判決要旨に『ハンギョレ新聞以外の報道にも養父または義父が営利目的で金学順氏を慰安婦にしたことを示唆するものがある』とあるが、裁判長、ふざけるな。ハンギョレ新聞を読んだのか?ハンギョレ新聞には、『養父または義父が営利目的で金学順氏を慰安婦にしたことを示唆するもの』など、出ていません。

 こんな判決を許したら明日は他のジャーナリストが同じ犠牲を受けるんですよ。それは、皆さんかもしれません。歴史の事実に向き合おうとするジャーナリストに対する不当な攻撃なんです。私は徹底的に戦います。ありがとうございました」


▲植村隆氏

神原元弁護士「判決は櫻井よしこさんが、『金学順さんが人身売買によって慰安婦になったと信じたのかもしれない、さらに植村さんが知っていて書かなかった、と櫻井さんが信じたとしても仕方ない』という、とんでもない不当判決だ」


▲神原元弁護士

弁護団「20数年前の記事に対して、ずさんな取材をした櫻井さんに、やさしい判決」

神原弁護士「この判決は櫻井さんの記事が虚偽であることすら証明できないとし、櫻井さんの意図についてはふれていない。この判決では事実なんかどうでもいいことになっている」

上田文雄弁護士「この裁判は市民の関心が非常に高かった。しかし、残念ながら判決は不当。

 一般市民が酔っ払って言っている話とジャーナリストの発信は違う。倫理性や真面目さについて、非常に低い水準で裁判所は判断した。まっとうなジャーナリストに対する侮辱だ」

朝日新聞記者「真実性の部分は、本人尋問などで、『櫻井さんの書いていることは真実ではない』との心証を裁判官は持ったと思いますが、どうか」

弁護団「真実性には裁判所はふれていない。櫻井さんを免責するものとなっている」

質問者「真実性を捨象して判断するということは、櫻井さんを、ジャーナリストに対してというより一般の人として扱っていることになる」

植村氏「ジャーナリストと一般の人は違う。こんなずさんなことが櫻井さんだと免責される。強い疑問があります」

質問者「植村さんが受けた実害を判決は考慮していないように思える」

植村氏「私の大学との契約が攻撃されたり、娘の顔写真がさらされて警備までついた。櫻井さんが私を捏造記者だと繰り返し攻撃したことが原因のはず。法廷で間違いを認めたのは櫻井さん」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/217.html?c4#cbtm


まあ、櫻井よしこは取材能力ゼロだし、知識も完全にゼロ

単に西岡力が拡散しているデマを繰り返しただけだから責任無いよね

まともな人は櫻井よしこの話なんか聞く訳ないしね

6. 中川隆[-12379] koaQ7Jey 2019年2月06日 12:11:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

2018.12.19
【Hanada, 2019.1号】徴用工問題に対する日本擁護論(櫻井よしこ×西岡力)
https://rondan.net/5043


Contents

1 慰安婦の次は徴用工
2 原告は徴用のはじまる1944年9月以前に募集に応じてきた
3 好待遇だった
4 個人請求権の消滅
5 国家間解決ではなく、国内消費向けの“徴用工”議論


慰安婦の次は徴用工

曲がりなりにも慰安婦問題については最終的・不可逆的に「日韓合意」が交わされてしまったこともあり、日韓歴史戦の焦点は徴用工問題に推移しつつあるように思えます。

徴用工問題にはさほど詳しくないのですが、保守論壇の日本擁護論の基調は、どうも慰安婦問題に対するものと同一のように思えます。つまり徴用工員は、@強制ではなく募集に応募した者であり、A好待遇の職場であり奴隷にのようなものではなく、B既に補償問題は解決済み、という三点が重要に思えます。

保守論壇が朝鮮人慰安婦を「売春婦」呼ばわりして罵倒しても、(韓国は勿論のこと)国際的理解が全く得られないことは明白です。このような言説は国民感情を煽るだけの国内消費向けであり、全く両国問題の解決に結びつきません。徴用工問題についても同じことが言えるのではないでしょうか。

そんなわけで今回紹介したいのは、櫻井よしこ氏と西岡力氏との対談「“徴用工”を焚き付けた反日日本人」(『Hanada』2019.1号)に説かれる、理論の骨子です。

原告は徴用のはじまる1944年9月以前に募集に応じてきた


2018年10月30日に韓国大法院(最高裁)が、新日鉄住金に元徴用工四名に対し四億ウォンの損害賠償支払いを命じる判決を下しました。この対談はそれを受けてのものです。まず原告両者が「徴用」でない点が問題視されます。


櫻井 つまり、原告四人はいずれも徴用の始まる四四年九月以前に、募集に応じて日本に働きに来た労働者だったわけですね。

この理論で日本を弁護することはあまり得策ではありません。これを裏返せば四四年九月以降に「徴用」された者に対しては支払いの義務があると認めなくてはならなくなります。「徴用」という語は、語義的に「強制性」が含意されます。

好待遇だった

また慰安婦が高給取りだった例をあげながら、徴用工員も好待遇で高収入だった点を力説します。


櫻井 企業側の募集に対して官が斡旋する際、該当する職場に行くか行かないかを労働者の自由意思によって決めることができました。納得いかなければ断る自由が彼らにはあった。


西岡 徴用工の待遇も決して悪くありませんでした。……広島の工場で月給百四十円を支給され、新しい寄宿舎にふかふかの布団があり、アワビや柿やみかんを食べながら毎晩酒盛りができた、と記されています。


こういう議論は本当によくないと思います。このような一部の証言だけを取り上げて、さも徴用工員全体が好待遇だったかのように決めつける言説は正しくありません。徴用工員の悲惨な一例は「花岡事件」を調べればよく解りますし、中国人徴用工四万人のうち七千人が亡くなった事実からも明らかでしょう。(野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社, 2009を参照)

個人請求権の消滅

このように「強制徴用でなかった」「好待遇だった」の二点は徴用工問題を解決するには明らかに弱い論点であり、国民感情を煽るだけの国内消費向けのものに過ぎません。

一方で、最後の一つ「1965年の日韓請求権協定で、一喝して個人請求問題は解決済み」という理解は、唯一国際的に通用する理論ではないでしょうか。


櫻井 国民即ち個人も、また法人も含めて全ての財産・請求権問題について「完全かつ最終的に解決された」と確認したわけですね。

しかし保守論壇の悪い癖で、余計な一言が多い。


西岡 …日本の資金をまとめて受け取り、…ダムや製鉄所、道路を造り、経済成長に繋げ、韓国国民全員を豊かにしたのです。
櫻井 その結果、「漢江の軌跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げたことは周知のとおりです。

日本が払った賠償金のお蔭で韓国の繁栄があるということでしょう。全く余計な一言です。韓国が豊かになったからといって、徴用工員個人の被害者感情が癒せるものではありません。

これとよく似た理論は、日韓併合に関する保守論壇の「日本の投資おかげで韓国は近代化できた」にも確認されます。そしてこのような言説が、韓国の被害者感情を癒すどこか、反日感情を焚き付けてることも言を俟ちません。よって真の国家間解決を目指すなら、このような言説は全く不要です。

国家間解決ではなく、国内消費向けの“徴用工”議論

この後、櫻井よしこ氏と西岡力氏は、徴用工問題を取り組む日本人関係者を「反日」と位置付けたり、韓国はあらゆる分野で異常な事態が起こっているだのと決めつけたり、“徴用工”問題を通して日本人の反韓感情を焚き付けてます。

このように両者の対論は、現実的な徴用工問題の解決を目指したものではなく、韓国に対する不平不満を煽る国内消費向けの議論に過ぎません。つまり、反韓感情を持った日本人に読んでもらうための文章だということです。

何事も被害者感情というものは、一度謝罪・賠償が済めば消えるというものではありません。仮に司法的に償いを果たしたとしても、その後に加害者が傲慢な態度を取っていたならば、元被害者の感情は穏やかではいられないでしょうし、その逆の状況もまた然りです。

せっかく1965年に解決していたはずの徴用工問題が、ここに来て蒸し返される要因の一つには、無意味に国民感情を煽る両国論壇の言説があるように思えます。
https://rondan.net/5043


▲△▽▼


2018.12.09
【トンデモ】保守による徴用工問題の否定論
(西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析」『歴史認識問題研究』2, 2018.3)
https://rondan.net/740


Contents

1 はじめに
2 やはり朝日新聞の陰謀
3 「強制連行」と「徴用」
4 「8割は自らの意志で出稼ぎ」だから「強制連行」ではないという謎理論
5 まとめ

はじめに

燻っていた徴用工問題について、とうとう韓国大法院(最高裁)が新日鉄住金(旧新日本製鉄)に賠償命令を下しました。今後、個人が日本企業に対して賠償請求する動きが加速するでしょう。

もちろん日本無罪を主張する保守にとってこれほどの屈辱はないわけで、早速、SNS上では日韓断交などを声高に叫ぶ輩が沸いています。議論は個人請求権の問題にとどまらず、徴用工への人格攻撃にまで発展していることは誠に残念なことです。しかし本当に日本の国益を考えるならば、隣国と仲良くすべきなのは明らかです。奇妙なプライドを捨てて良好な信頼関係を築いてさえいれば、このような事態にはならなかったでしょう。

このような動きのなか今回紹介したいのは、2018年3月に『歴史認識問題研究』という学術風雑誌の第2号に掲載された西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析」という論文風文章です。

この『歴史認識問題研究』という雑誌は保守系論調を発表するる傾向が強く、執筆者の西岡力氏も慰安婦問題などで日本無罪論を主張する論客の一人として知られます。

保守というのは不思議な生き物で、保守であれば必ず慰安婦問題も日本無罪論、そしてこの徴用工問題も一様に否定します。そして興味深いことに、慰安婦問題否定論の理論と、この徴用工問題否定論には共通点が見出せます。その点を中心に今回は、本論文の「はじめに」と「第一章 統計から見た朝鮮人「強制連行」説の破綻」を検討していきたいと思います。

やはり朝日新聞の陰謀

慰安婦問題の裏に朝日新聞の陰謀を主張している筆者の西岡氏は、この徴用工問題も朝日新聞が元凶だと冒頭部で宣言します。


韓国の文在寅大統領が2017年8月17日の記者会見で、いわゆる徴用工問題について「強制徴用された者個人が、三菱などをはじめとする相手の会社に対して持つ民事上の権利はそのまま残っている」として、1965年の協定で解決しているという従来の韓国政府の見解を覆した。これに他して日本政府は即時に抗議したし、日本のマスコミも一斉に批判した。歴史問題で韓国に同情的な朝日新聞も、欲18日の社説で「未来志向的な日本との関係を真剣に目指すなら、もっと思慮深い言動に徹するべきだ」と、文大統領を責めた。
しかし、実は文発言はわが国の一部政治家や外務官僚、そして朝日新聞などが誘発したものだった。文大統領は同年8月15日の演説で、以下のように述べている。
〈この間、日本の多くの政治家と知識人が両国間の過去と日本の責任を直視しようという努力をしてきました。その努力が日韓関係の未来的内的な発展に寄与してきました。こうした歴史認識が日本の国内政治の状況によって変わらないようにしなければなりません。〉
文大統領は、河野洋平元外相や朝日新聞らが行ってきた「事実を調べずにまず謝罪し人道的立場という理屈をつけてカネを払う」という対韓謝罪路線を高く評価し、筆者らや産経新聞、そして安倍晋三政権などが「事実に基づき、言うべきことは言う」という対韓是々非々路線を適していることを、非難しているのだ。

朝日新聞は社説で文大統領の徴用工発言を責めているのに、この発言の裏には朝日新聞がいるという謎理論です。しかもその根拠とされる文大統領の8月15日演説では「日本の多くの政治家と知識人が両国間の過去と日本の責任を直視しようという努力をしてきました」と言っているだけで、朝日新聞のことなど一言も言及していません。にもかかわらず、想像力たくましい西岡氏は、「河野洋平元外相・朝日新聞vs筆者ら・産経新聞・倍晋三政権」という有りもしない対立構造を一方的に提示します。しかも後者の立場を「事実に基づき、言うべきことは言う」という対韓是々非々路線と評価しています。ということは、慰安婦問題は事実に基づいて安倍首相は謝罪したということになるのですが、この矛盾に気付いておられるのでしょうか?


「強制連行」と「徴用」


ところで慰安婦問題を論じるうえで、それが「強制連行」であったのかどうかが大きな焦点となります。もちろんこの徴用工問題でも、その連行が強制であったのかどうかが重大な論点となります。

そして当然、保守論客である西岡氏は「強制連行」ではなく「戦時動員」であり、その労働も決して「奴隷労働」ではなかったと主張します。そしてその根拠は、「強制連行」ならば家族と離散しているはずであるが、彼らは家族を連れて日本に移動してきたこと、らしいです。

しかしこの主張は苦しいものです。「徴用」の「徴」の字は「呼び出す」「召し出す」の意味ですから、「自由意思に基づいて応募した」という意味にはなりません。

したがって「徴用」は「強制連行」の意味でも理解し得ます。ただし「強制連行」といっても、「首輪や足枷をつけて連行された」という意味だけに直結するわけではありません。たとえば赤紙によって「徴兵」されたとしても、その人は憲兵に取り押さえられて無理やり徴兵検査や戦場に連行されていくわけではないのと同様です。当時、赤紙配達員は「おめでとうございます」といって赤紙を届けていたそうです。本人はたとえ行きたくなくても、社会的圧力に屈して、自らの意思でそこに行かなければならないのです(喜んで戦地に行った人も少なからずいたようですが)。まして、当時朝鮮半島は植民地支配されており、その宗主国の意向に基づく徴用であったことも重要でしょう。

このような言葉の問題は従軍慰安婦問題をめぐっても確認されます。たとえば、その英訳は「Sex slave」なのか「Comfort woman」なのかという問題です。後者「Comfort woman」がより直訳なのですが、それではその重大性が伝わらないということで前者「Sex slave」の訳語が選ばれる場合もあります。しかし「Sex slave」(性奴隷)という語は意味が強すぎるきらいもあるため、この語が本当に相応しいかどうか非常に難しい問題です。もちろん保守は慰安婦は売春婦で自由意思があったから「Sex slave」(性奴隷)は全くないと主張するのであり、非保守は人権や人道上の問題を考えれば「Sex slave」(性奴隷)が相応しいと主張するわけです。

この様な言葉の選択をめぐる争いは、その問題の全体をイメージ付ける上で極めて重要なのですが、本筋の議論を措いて、時として言葉遊びになってしまってしまう場合もあるように思えます。

「8割は自らの意志で出稼ぎ」だから「強制連行」ではないという謎理論

また西岡氏は、@終戦時の在日朝鮮人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていたこと、A植民地時代の朝鮮で人口が増加したことや、B朝鮮からの不法渡航者が強制送還されていたことなどを根拠に「強制連行」を否定していますが、この主張にはやや問題があります。

まず、@「終戦時の在日朝鮮人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていた」ですが、これは明らかにオカシナ主張です。というのも「在日朝鮮人の全てが徴用工として来たわけないこと」は当然の前提です。そして、西岡氏自らが、終戦時の日本内地朝鮮人人口うち二割が動員現場(徴用先)にいたことを統計的に指摘しています。つまり、その二割の人々が今回の徴用工問題の焦点となっているのであり、その他の八割が焦点になっているわけではないのです。このオカシナ主張は、従軍慰安婦問題を論じるときに、「自らの意志で売春婦になった」論にも共通するものです。

そして、A「植民地時代の朝鮮で人口が増加した」、B「朝鮮からの不法渡航者が強制送還されていた」の問題も同様に、徴用された方々の人権とは全く無関係の話です。いくらそうだったからと言って、徴用された人がいるという事実には全く関係のないことです。こういうのを議論のすり替えというのです。日本な朝鮮半島に投資していたから、日本に侵略意思は無かった論とよく似ています。

まとめ

このように西岡氏の徴用工問題否定論は、従軍慰安婦問題否定論と非常に論旨がよく似ています。
1徴用工問題の裏に「朝日新聞」の存在を勝手に錯綜。(⇒慰安婦問題は「朝日新聞」の報道によって生まれた)

2「徴用」であるにも関わらず、言葉遊びで「強制連行」性を否定。(⇒慰安婦は売春婦のこと、性奴隷じゃないから「強制連行」性はない。)
3「在日朝鮮人の八割が出稼ぎで日本に来た」「不法渡航者は強制送還した」と言って話をすり替えて、残り二割の徴用工問題を矮小化。(⇒「あいつらは売春婦で金儲けのために慰安婦になった」「ルール違反で呼び寄せられた慰安婦を親元に返した」)

というようにまとめられるでしょう。また別の論文・記事では、徴用工の待遇について「貯金もできた!」「幸せだった!」という論調も他で見られますが、それもまた「慰安婦は高給取りだった!」と同じ理論です。恐るべき理論の一致と見るべきか。

徴用工がどれだけ悲惨であったのかは「花岡事件」を調べればよく解りますし、中国人徴用工四万人のうち七千人が亡くなった事実からも明らかでしょう。


(野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社, 2009を参照)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E2%80%95%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%BC%B7%E5%88%B6%E9%80%A3%E8%A1%8C%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%A0%B4%E3%81%8B%E3%82%89-%E9%87%8E%E6%B7%BB-%E6%86%B2%E6%B2%BB/dp/4784513345


*なお私個人の見解としては、「今になって韓国が突然方針転換して個人請求権を認めた」という点については、今後の日韓関係の行く末を考えるうえで憂慮すべき問題であり、その妥当性などについて種々に再検討する必要があると思います。しかし、だからといって徴用工を個人攻撃して、徴用工問題を矮小化するという保守の議論には賛同できません。
https://rondan.net/740
 


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花岡事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6


花岡事件(はなおかじけん)は、1945年6月30日に秋田県北秋田郡花岡町(現・大館市)の花岡鉱山で中国人労務者が蜂起し、日本人を殺害し、その後鎮圧された事件[1]。戦後、過酷な労働環境について損害賠償請求裁判が提訴された。


日中戦争の長期化と太平洋戦争の開始にともない、日本国内の労働力不足は深刻化し、政府は産業界の要請を受け、1942年(昭和17年)11月27日に「国民動員計画」の「重筋労働部門」の労働力として中国人を内地移入させることを定めた「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定した[2]。試験移入を行なった後、「一九四四年国家動員計画需要数」に捕虜を含む中国人労務者3万人の動員計画が盛り込まれた。

鉱山労働力が不足した戦争末期には、花岡川の改修工事などを請負った鹿島組により1944年7月以降に現地移入した中国人は986人に上り、1945年6月までにうち137人が死亡した。中国人労働者は過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜、国民党将校耿諄の指揮のもと800人が蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。しかし7月1日、憲兵、警察、警防団の出動により、釈迦内村(現・大館市)の獅子ヶ森に籠っていた多数の労働者も捕らえられ拷問などを受け、総計419人が死亡した。死体は10日間放置された後、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で3つの大きな穴が掘られ、埋められた。この後も状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が死亡した[3]。終戦後の10月7日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れた際、棺桶から手足がはみ出ている中国人の死体を発見した。外務省管理局は『華人労務者就労事情調査報告』において、死因については彼等の虚弱体質などによるものとして、過酷な労働条件が死因ではないと主張しているが、終戦後に彼等を手当てした高橋実医師によれば、彼等が帰国するまでの約2か月の間、一人の死者も出なかったという[4]。

1946年9月11日の秋田裁判判決では蜂起を指導した事件の首謀者に有罪判決が下されたが、アメリカ軍による横浜軍事裁判では、第七分所(秋田県花岡 藤田組花岡鉱業所)から11名が裁判にかけられ、1948年3月1日に鹿島組関係者の4名と大館警察署の2名の計6名に有罪判決が下され、そのうち鹿島組の3名が絞首刑の判決を受けた後、終身刑等へ減刑されている。


損害賠償訴訟とその後

1985年8月、当時、蜂起を指導した事件の首謀者である耿諄は、外信を紹介する『参考消息』で、花岡事件40周年の慰霊祭が行われたことを知った。その後耿は来日したが、当時の鹿島組(現鹿島建設)が「一切の責任はない、中国労工は募集によって来た契約労働者である、賃金は毎月支給した、遺族に救済金も出している、国際BC級裁判は間違った裁判である」と主張していることを知り、鹿島と再び闘う意志を持った。1989年、耿は公開書簡として、鹿島に以下の要求を行った。

・鹿島が心から謝罪すること

・鹿島が大館と北京に「花岡殉難烈士記念館」を設立し、後世の教育施設とすること

・受難者に対するしかるべき賠償をすること


1990年1月より、新美隆、田中宏、華僑の林伯耀を代理人として、鹿島との交渉が始まった。7月5日の共同発表[5]では、鹿島が花岡事件は強制連行・労働に起因する歴史的事実として認め、「企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」と明記された。

しかし、鹿島はその後、

・「謝罪」は「遺憾」の意味である(残念に思うが、謝る気はないという意味)。

・記念館の設立は絶対に認めない。

・賠償は認められない、供養料として1億円以下を出すことはあり得る。日中共同声明で中国側の賠償請求権は放棄されている。


と主張し、実質的には責任はないという見解を示した。1995年耿諄ら11名は、中国政府が個人による賠償請求を「阻止も干渉もしない」と容認姿勢を見せたことから、鹿島に損害賠償を求めて提訴した(弁護団長:新美隆)。要求内容は、耿が最初に要求した三条件であった。

耿諄らは中国におり、また高齢であることから頻繁な来日出廷は困難だったので、実際は新美、田中、林が原告の主導権を握った。1997年、東京地方裁判所は訴追期間の20年を経過しており、時効であるとして訴えを棄却した。原告は東京高等裁判所に控訴したが、原告となった元作業員らの証人尋問は行われず、新村正人裁判長は和解を勧告した。


和解

2000年11月29日に東京高裁で和解が成立。被告の鹿島側が5億円を「花岡平和友好基金」として積み立て救済することで決着が図られた。和解の内容は、以下の通りである。

1.当事者双方は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認する。ただし、被控訴人(被告。鹿島のこと)は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了承した。

2.鹿島は問題解決のため、利害関係人中国紅十字会に5億円を信託し、中国紅十字会は利害関係人として和解に参加する。

3.信託金は、日中友好の観点に立ち、花岡鉱山現場受難者の慰霊及び追悼、受難者及び遺族らの生活支援、日中の歴史研究その他の活動経費に充てる。

4.和解は、花岡事件について全ての未解決問題の解決を図るものである。受難者や遺族らは、今後国内外において一切の請求権を放棄する。原告以外の第三者より、鹿島へ花岡事件に関して賠償請求が行われた場合、中国紅十字会と原告は、責任を持って解決し、鹿島に何らの負担をさせないことを約束する。


この和解は、成立直後から日本の戦後補償を実現していく上で「画期的」なものとする報道が多かったが、野田正彰の取材によれば、この和解は弁護団側の独断によるもので、原告の本意ではなかったという。耿は、鹿島の謝罪を絶対条件とし、記念館の建設も希望、賠償額は譲歩してもよいと、田中らに意見した。耿は、和解の受け入れを迫る新美らに、負けても損害はないことを確認した上で「和解を受け入れなければ負けるというなら負けよう、負けても妥協せず、踏みとどまるならば道義的には勝利したことになり、百年後(暗に死後を意味する)も彼等の罪業を暴く権利がある」と意見し、和解には同意しないが黙認するという態度を取った。

しかし、新美らは和解を急ぎ、鹿島の出す金は賠償金ではないことも法的責任を認めないことも伏せ、和解の正文は伝えられなかった。耿は和解の内容を知ると「騙された」と怒り、耿など原告・遺族の一部は「献金」の受け取りを断ったという。また、2001年8月には「屈辱的和解」に反対する声明を出した。耿にとってこの結果は全面敗訴に他ならず、その上謝罪のない金を受け取ることは侮辱でしかなかったのである。

野田がこのことを毎日新聞[6]に寄稿すると、田中と林は野田に会いたいと人を介して伝え、会談した。田中は「直前に北京に出向いて骨子を示し、耿諄さんらの了承を得た」と主張し、林も「耿諄はすっかり英雄になったつもりでいる」と耿を批判した。さらに「耿諄は中山寮で人を殺しており、苦しんでいるはずだ」「耿諄はすっかり痴呆化しているそうだ」とも述べたという。野田は「田中らは負けて何も得られないよりも、どこかで妥協しカネを貰っていくのが幸せなのだ」と確信して疑わず、その結果原告の思いを軽視したと批判している。これらの野田の主張に対して、田中は同じく『世界』に「花岡和解の事実と経過を贈る」とする文章を寄稿し「野田は和解の基本的な事実経過について誤解しており、和解条項について原告団の了解を得ている」と反論した。


中国紅十字会に信託された補償金

その後「花岡平和友好基金」として中国紅十字会に信託された5億円は被害者本人やその遺族に支払われたが、千龍網が報じたところによると、補償金を受け取ったのは全被害者のうち半数の500人程度で、受け取った額も当初支払いが予定されていた額の半額程度だったという。中国紅十字会は基金の残高や用途について発表しておらず、中国国内では「基金の半分は中国紅十字会が自らの手数料として差し引いた」との見方もある[7]。中国紅十字会はこれを否定しているが、花岡事件を描いた著書『尊厳』の著者である李旻は「中間で巨額の資金が消え、金はどこに行ったか誰も知らない」と指摘している。


日本政府に対する訴訟

その後、花岡事件などに関連して、当時花岡鉱山などで強制労働に従事していた中国人の元労働者とその遺族らが、日本政府に対し計約7,150万円の支払いを求める訴訟を、2015年6月26日に大阪地方裁判所に起こした。同事件に絡んで日本政府を訴えるのは初のケースとなる。原告らは「中国人を拉致・連行し、強制労働に従事させた上、戦後も事実の隠蔽を続けた」と主張。また、劣悪な労働条件などが事件の背景として存在するにもかかわらず、憲兵などが拷問・弾圧を加えたとも主張している[8]。

2019年1月29日、大阪地方裁判所(酒井良介裁判長)で判決があり、請求を棄却した[9]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6


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花岡事件の証言
http://kisarazu.org/?page_id=62

戦時後期におきた花岡事件、日本人が知らなくてはならない昭和史の貴重な証言だと考え、抜粋して掲載しました。

著書には花岡事件に関わった人たちの戦後が書かれていますが、「本当の昭和史」編纂にあたって、なにより事件の被害者の証言に重点を置きました。

日本は本当に戦後が終わったのでしょうか?

歴史を正しく検証して、後世に伝える努力を全ての日本人に期待します。


前文省略〜

1971年9月5日、9月にはいった北海道は、すでに秋の気配が濃くなっていた。札幌市にある小さな中華料理店「北京飯店」の二階の一室に差し込んでくる暮れ時の陽にも、秋のおとずれがひそんでいた。

 この日の朝から、李振平・林樹森・劉智渠さんの三人から、わたしは話を聞いていた。三人とも太平洋戦争中の1944年に中国で日本軍に捕えられ、日本に強制連行されて秋田県の花岡鉱山で働かされたが、敗戦後は花岡事件の裁判の証人として日本に残され、そのまま日本に永住している人たちであった。花岡事件の起きた秋田県に生まれ、十年ほど前から強制連行されてきた中国人や花岡事件を調べてきたわたしは、その生き残りである三人をようやくの思いで探しあてて、林さんのお店の一室で話を聞いていた。

 振平さんも樹森さんも智渠さんも、温和な、礼義の正しい人たちであった。たどたどしい日本語で、二十数年前の記憶をさぐりながら話してくれた。しかし、次第に話が進んで花岡鉱山での強制労働に移り、日本人の補導員にささいなことから殴られ、蹴られて、仲間たちが次々と死んでいく場面になると、三人の目に涙がひかり、こぶしでテーブルを叩きながら語りつづけた。口調が激しくなってくると、中国の言葉になったが、語りつづける三人には聞き取りをしているわたしのことは眼中になくなり、二十数年前のいまわしい記憶をえぐり出してくるように語りつづけた。

 三人の話の一つ一つが、日本や日本人に突きつけている戦争責任の刃であった。わたしは三人の話の重さをからだで感じながら、ふと、二十数年前の一つの記憶を思い出していた。

 三人が強制連行されてきた花岡鉱山と同じ秋田県北の小さな村に、わたしは1935年に生まれた。太平洋戦争がはじまった1941年に国民学校へ入学し、敗戦の年は五年生であった。田植が終わってまもないある日、中国人の俘虜たちが花岡鉱山で暴動を起こして、わたしの村の山奥にも逃げてきたという話が、村中に伝えられた。花岡鉱山とわたしの村との間には、幾重にも重なった山と深い谷とがあるのに、それを越えて逃げてきたのだった。逃亡してきた俘虜たちは、山菜取りに行った娘を焼いて食ったとか、山奥の農家から牛や馬などを盗んで食っているという話も伝わり、村の人びとは恐怖にふるえあがった。

 日中は村中の男たちが動員されて、カマや竹ヤリなどを持って山狩りに歩き、夜になると山から集落に通じている道々にたき火をして夜警がついた。家々では竹ヤリを何本もつくり、食事の時は障子に立て、野良仕事に出る時は持って歩いた。寝る時は枕元に竹ヤリやナタなどを置き、いざという時にはいつでも手に持てるようにした。暗くなると外出する人もなく、空襲に備えて薄暗くした電灯の下に集まり、息を殺したようにひっそりとしながら夜を過ごした。

 こうして恐怖の日が三日ほどすぎて、山奥の炭焼き小屋にひそんでいた二人の俘虜が捕えられた。その晩は竹ヤリもナタも土間に置かれ、村中は喜びに湧いた。

 その翌日、捕えた俘虜を見に来いという知らせが役場からきたので、わたしの分校でも五年生以上の児童が、六キロも離れた本村まで見に行った。役場前の焼けつくような土の上に坐らされている中国人は、大勢の人が囲んでいるのでよく見えなかった。じりじりと照りつける太陽の下で、両手をうしろにして縛られている裸の上半身が、人垣が揺れるたびに見えた。かつかつガツガツに痩せたからだをおおっている肌の色は、人の肌には見えないほど汚れていた。

 「チャンコロのバカヤロー」
 「ぶっ殺してしまエー」

 周囲の人垣から、さかんに罵声がとんでいた。中国人は日本の敵であり、日本人を殺して食った鬼のような人間だということを頭から信じていたわたしたちは、先生の号令に合わせて、「チャンコロの人殺し」と叫びながら、中国人を囲んでいる人垣の外を、何度も何度も廻った……。

激した口調で語っている三人の前で、二十数年前の記憶を思い出しながら、「わたしも加害者だったのだ」と、胸が痛んだ。三人のそばにいることが耐えられなくなり、部屋からとび出していきたい衝動にかられた。「お前は聞き取りという第三者みたいなことをやっているが、それでいいと思っているのか」と、自身を責め立てられてならなかった。 

この日の一日にわたる聞き取りのあとも、聞き洩らした部分や不足な点を聞くために、何ども札幌に三人を訪ねた。この間に日中国交回復も行われたが、その時の三人の喜びようはたいへんなものであった。

しかし、それと同時に、中国での日本軍の戦争処理はもちろんのこと、日本国内での戦争処理にも頬っかむりをつづけている政府に対する三人の怒りは、非常に強かった。国と国との国交は回復したが、それを支える一人ひとりの両国民のつながりが回復する根になるのは、自分たちが過去に犯してきた行為に、ちゃんと後始末をつけるのが第一だという意味のことを、三人からきびしい口調で言われた。まったくそのとおりである。私は言葉もなくうなだれるよりなかった。

花岡事件が起きた大館市の人々のなかにも、「あれは戦争が生み落とした事件であり、いまさらそんなことを掘り出してなんになる」という空気が非常に強い。私はここ十年ほどの間に、何十回となく現地に足を運んできたが、この事件に取り組んだ当初も現在も、その空気はほとんど変わっていない。むしろ、この傾向が強くさえなってきている。というのは、なんらかの形で中国人の強制労働や花岡事件に関係のあった人たちが、地元の政界や実業界などのトップに立っている人が多くなっているために、「臭いものには蓋」式になっているのである。また、あの忌わしい事件には触れたくないと思っている人や、秋田県の恥だと考えている人も多く、わたしも直接に、あるいは間接に、「花岡事件をいじくりまわしていると、君の将来にとってプラスにならない」と、何度も注意された。

この著の中心をなしている三人の話は、三人の生き方の強さ、戦争のむごたらしさと同時に、わたしたち日本人に、戦争責任とは何か、人間が生きるとは何かということを、日常の生活感覚のなかで「問い」かけている。その「問われ方」は、人によってさまざまであろうが、問われたからといって、すぐに答えなくともいい。なによりもまず、三人の話の事実に「問われてほしい」という願いを込めてまとめている。

著者 野添憲治   1975年

中国人強制連行の証言記録

前文中略

東条英機内閣決定事項
昭和17年11月27日 華人労働者内地移入に関する閣議決定
昭和18年4月〜11月 華北労務者内地移入実施要項にて試験移入
昭和19年2月28日 華人労務者内地移入の促進に関する件、時間会議決定

「労工狩り」の実態

 次官会議で「華人労務者内地移入ノ促進二関スル件」が決定したことによって、中国人労務者の移入が本格化していくのだが、現地で労務者を集めるのを「労工狩り」といった。しかし、実際には、中国内で労働者を集める労工狩りは、軍部の手によって日中戦争のころから大々的におこなわれていた。とくに、北支方面軍司令官の多田駿が、1940年8月から10月にかけて八路軍との大戦で大損害を受けて首になり、1941年に岡村寧次が司令官となって、三光政策〈殺光(殺しっくす)、焼光(焼きつくす)、略光(うばいっくす)〉を実施するようになってから、いっそう苛酷をきわめるようになった。

 1941年8月下旬から9月初旬にかけて、中国華北の山東省博山西方地区で北支那方面軍一二軍の手で実行された博西作戦の労工狩りは、次のようなものであった。

真夜中の一二時、たたき起こされた私たちは、『こんどの作戦は、土百姓どもを一人残さず全部つかまえるんだ』という中隊長池田中尉の怒号のもとに、重い足を引きずりながら歩きつづけ、ようやく夜が明けたころ、風一つなく朝餉の煙が真っ直ぐに立つ、平和で静かな二百余戸の部落の近くに中隊は停止した。しばらくして分隊長松下伍長が、小隊長のところから帰ってくるなりいった。

 『オイツ、出発だ。部落にはいったら、片っぱしから老百姓(中国での農民の俗称)をとっ捕まえるんだ。いいか・・・。』というが早いか、道に半分あまり倒れている高梁の幹を、ブキブキ踏み倒し、部落に向かって歩き出した。

 分隊が部落にはいると、静かであった村が、カタカタ、ドンドン、バタクバタリ、ガチャンガチャンと、急に暴風でも来たように、一瞬にして嵐に化した」
※大木伸治「労工狩り」『三光−日本人の中国における戦争犯の告白』(光文社刊所収)

 こうして日本軍は、中国人の男を見つけるとかたっぱしから捕え、中国の東北地方や華北の鉱山、港湾荷役、軍事基地に連行して働かせていた。また、労工狩りで捕えられた中国人のなかには、初年兵の度胸試しの材料にされて、殺されていった人も多かった。

 中国での人狩り作戦は、二つの目的を持っていた。一つは、人狩りによって捕えた中国人を労務者として使う一方、奪った食糧は日本軍が現地補供として食べていた。もう一つは、日本軍の勢力の薄い地区を無人無物に近い状態にして、中国の抗戦の主体である八路軍を弱体化させる、という目的を持っていた。それだけに、1942年の閣議で中国労務者の内地移入が決められると、それを錦の御旗として労工狩りは激化していった。

 しかし、なんの罪もない中国の民衆が、暴風のような一瞬の労工狩り作戦に襲われ、夫や息子を奪われ、妻子を強姦や足蹴で痛めつけられ、食糧を持ち去られるうえに家まで焼き払われるのは、悲惨そのものであった。さきに引用した博西作戦の労工狩りは、次のようにつづいている。

 私たちは、隣の家の中を、つぎつぎと手当たりしだいにひっくりかえして見たが、ここでも、四十すぎと思われる女と、七、八歳の男の子が、隅のほうにちぢこまっていた。あせった私たちは、庭の隅まで、置いてあるものは全部放り投げた。奇麗に丸め、積み重ねた高梁を、半分あまり銃剣で突き倒していた時、私は手に異様なものを感じた。

 『おいツ、阿部、何かいるぞー』半ば後足で、おそるおそる、そっと高梁の束をかきわけた。一ツニツ三ツ目のとき、『アッ』私と阿部は後に一歩飛びさがった。そこには、日焼けした真っ黒な顔に、何か強い決心でもしているかのように、唇を噛みしめた四十歳(ぐらい)の男がうずまっていた。手に何も持っていない老百姓風と見た私は、おどろいて後にさがった姿勢をとり直すと、『コノ野良ッ。ビックリさせやがる。オイッ、阿部ッ、こいつは民兵かも知れんぞツ』と、いきなりグルグル巻きに縛りつけた。

手当たりしだいに引っ掻き回す暴行を、不安気にジッと見ていた先刻の女は、『快走々々』(早く歩け)と蹴り飛ばされ、罵倒されながら引きずられて行くこの姿を見ると、地面に頭を押しつけ、『老百姓老百姓大人々々』と声をあげて泣きながら、何か哀願している。子供は、銃剣の恐しさも忘れて、男の足にしがみついて、言葉のわからない私でも、この母子が何を訴えているのかわかった。『コンチクショウッ。こいつがこの野良を隠したんだッ。助けてくれなんてもってのほかだッ』

 私は、泥靴で女の肩から首筋を力まかせに踏みつけた。しかし、女は、『大人々々』と、何度も何度も頭をさげて泣いて哀願していたが、最後にもうどうにもならない。と見たのか、這うように家の中にはいって行くと、ボロ布に包んだ煎餅を両手で抱え、だいじそうに持ってくると、男の腰紐にくくりつけようとしがみついた。

 私たちはこれを見ると、『このあまツ、嘗めやがって。チェッ、人間並みに人の前でいちゃつきやがってツ』女の手より布包みをもぎとると、私は、『こんな本の葉っぱみたいなものを食っていやがるのかツ』と地べたに叩きつけ、軍靴で蹴り飛ばした。楊柳の葉がまじった煎餅がほうぼうに散った。子供を抱えるように、踏みつぶされた煎餅を、両手で地に伏し抱いている女の目から落ちる大きな涙は、ポタリポタリと煎餅の上に落ちている。

 『大人々々』土にまみれた煎餅を寄せ集め、哀願する女は、ジッと奥歯を噛みしめ、足にすがる子供をじっと見つめ、何か言っている男の顔を見ては、声をあげて涙を流していた。白酎の小ガメを片手に、先刻の婦人をいままで強姦していた小川が、のっそりはいって来た。

 『何をしているんだツ』キョロリとあたりを見回した。

 『ハア、こいつを連れて行こうとしたら、しがみついて離れないんです』私は、子供を殴りつけながら小川に言った。

 『馬鹿野良ッ。大の男が二人もかかって何をしているんだッ。手前ら嘗められているんだッ。そのガキも連れて行けッ。背のうぐらいはかつげるだろう』

 男にしがみついている子供の襟首を、わし掴みに表に引きずり出した。

 『大人々々、小孫(子供)、老百姓』と、気が狂ったように女は絶叫して、子供の足にしがみつこうとした。

 『ええい。うるさいアマだッ』私は阿部といっしょに女の横腹を銃床でドーンと突きあげた。

 こうして部落の隅々から、畑の中から荒らしまわった私たちは、十二時すぎ、部落の一角に中隊が集合した。腰の曲がった老人から子供まで150余名の老百姓が、取り囲んだ銃剣の中に坐らせられている」(大木伸治「労工狩り」『三光』)

 このような労工狩りは、日本の軍隊の手で中国のあらゆる所でくり返されていた。そのなかでもとくに労工狩りがひどかったのは、1942年9月から12月にかけて山東省でおこなわれた二一軍作戦であった。この時は大包囲作戦(うさぎ狩り作戦とも言った)という戦法をとり、包囲の網をだんだんと縮めていき、そのなかにいるものは敵兵であろうと住民であろうと、全部を捕虜にするというものだった。このうさぎ狩り作戦は、次のようにして実施された。

 「その作戦には、中国には真鐘の洗面器が多いのですが、その洗面器を持って、兵隊の銃を肩にかついで洗面器を叩いて歩き、それで海岸線や鉄道沿線に向って押したわけです。洗面器を叩いて一里歩くところもあるし、二里のところもあるし、それで部隊のぽうぽうで火が燃えるわけですよ。部落から部落をずっと押して行って、一八歳から四五歳までの男を全部集める。それと山羊、牛、豚、真鐘類を全部集めるわけです。部落民にそれを全部持たして一定の地域に集合させるわけです。

 そこに軍のトラックがきて、山羊は山羊、真鐘は真鐘、人員は人員でまと砂て連れていくのです。つまり戦闘が目的ではなく、物資掠奪と人員の徴発が目的なんです。これを10月から12月の末まで二ヵ月やったわけです。その集めた人はどうなったかというと、青島に相当大きい体育場があるわけですが、集めた男を収容したんです。しかし、そこに入りきれないで、第一公園の競馬場に入れたわけです。その数は何千だか何万だかわからんのです。それが青島から船でどっちに行ったのかわからないのですよ。花岡鉱山で中国人の捕虜が死んだということをきいたんですが、その人達は実際は捕虜じやないわけですよ。実際は捕虜でもなければ八路軍でもない農民ですよ」(大野貞美「真相」1958年6月号)

その後も日本軍は、「一九秋山東作戦」(昭和一九年秋山東省での作戦の意味)、「二〇春山東作戦」を次々とおこなって、大々的な労工狩りをしていった。逃げる者や反抗する者は射殺するように命令されていたので、収容所に引致される前に殺害された人も多かった。次の証言もそのことをよく示している。

 うさぎ狩りで捕えられた中国人はうしろ手に縛られ、「われわれの自動車隊のトラックによって運ばれた。まがり角やなにかの所で、トラックの速度がにぶると、彼らのうちのあるものは脱走を企てた。だが、彼らがトラックからとびおりてかけだせば、すぐトラックの上から日本車の機関銃や小銃にねらいうちされ、死んでいった」(元独立自動車第六四大隊の一下士官の証言)

 こうして狩り集められた中国人は、青島捕虜収容所をはじめ、済南・石門・大同・北京・郁鄙・徐州・塘浩の収容所に集められた。このうち青島と塘活は日本への乗船地なので、他の収容所にいれられた人たちも、日本に連行される時はこの二つのどれかに集結された。どれも北支那方面軍が直接に管理する収容所で、所長には軍人がなり、門には日本軍の衛兵所があり、着剣した兵隊が守っていた。収容所の周囲は電流を通じた鉄条網で囲んであるほか、さらにトーチカで囲み、二人の兵隊が絶えず巡回していた。運よく生きたまま収容所にいれられても、日本車に捕えられた瞬間から、中国人の生命はないも同様であった。しかも、その捕虜収容所の生活がまた、たいへんなものであった。

当時、第五九師団の陸軍伍長だった五十嵐基久は、済南捕虜収容所の模様を次のように証言している。

 「収容所の中には土間にアンペラがしいてあり、捕虜にされた中国人たちはそこに寝おきしていた。寝具はなく、暖房も全くなかった。中国人の医者と称する者がいたが、病気になっても、殆どほうっておいた。

伝染病らしくなれば病舎という物置小屋のようなところに隔離した。死ねば穴に投ぜられた。中国人たちを収容所の外に出すようなことはほとんどなかった」また、日鉄鉱業釜石鉱業所の出張員が中国人を連行してくるために青島収容所に行った時の模様を、「バラック建てで40〜50坪のところに700〜800名をおしこみ、暖、冷の処置なく疲労と寒気のため病人続出、その中より死亡者多数が出ていた」と語っている。50坪の小屋に800人が収容されていると、どんなにすくなく見ても一坪に16である。すし詰めにしないと、収容できるものではない。

 捕虜収容所に集められた中国人は、日本へ連行される直前に、財団法人華北労工協会・日華労務協会・国民政府機関・華北運輸公司・福日華工会社などの、強制連行を代行している統制機関に渡された。そのあと日本政府は、厚生省が指定した全国135事業所とのあいだに、「供出」と「使用」の契約書をとりかわしている。中国から乗船した数は3万8935人だが、「外務省報告書」によると、死亡者は次のようになっている。

 日本に上陸するまでの船内で564人が死亡し、さらに上陸後に、135事業所へ到着するまでのあいだに、248入が死亡している。各事業所に到着したのは3万8213人であった。連行される途中でもいかにひどい取扱いをしたかは、死亡したこの数字からだけでも知ることができる。

 しかも、どうにか各地の事業所に到着することができた中国人たちも、日本の企業や日本人の残虐非道な扱いのなかで、次々と犠牲となっていった。敗戦後の1945年12月7日に集団送還がされるまでに、事業場内死亡5,999人、集団送還後死亡19人の合計6,830人もの中国人が殺されている。乗船した総数3万8,935人にたいし6,830人が死亡しており、死亡者の比率は17・5%にあたる。しかも、そのうちの4,000柱近い遺骨がまだ日本全土に散らばっているほか、約500入を越すと推定されている日本に
残った中国人は、いま、各地でひっそりとこの世に生きていると見られている。

 これが中国人強制連行のあらましだが、中国人労務者を導入した135事業所のなかでも、秋田県北にある同和鉱業花岡鉱業所の工事を請負っていた、鹿島組(現在の鹿島建設)花岡出張所に連行されてきた中国人の死亡者がとびぬけて多いのである。三回にわたって花岡鉱山に連行されてきた986人のうち、死亡者が418入と、他の事業所に比べると、比較にならないほどの高率なのである。もう一つは、3万8,935人の中国人を連行して、6,830人も死亡させながら、不充分な形でも敗戦後に裁きがおこなわれたのは、花岡鉱山の鹿島組関係者だけだったことである。花岡鉱山でだけなぜ裁判が実施されたのかであるが、日本が敗戦となる約一ヵ月半ほど前の1945年6月30日の夜に、あまりにも少ない食糧や補導員たちの虐待に中国人が蜂起したからであった。蜂起の後処理が残虐をきわめ、数日間のうちに100人近い死亡者を出
したほか、蜂起の指導者たち13人は秋田市の監獄に押送され、国防保安法第十六条による戦時騒擾殺人罪で、無期懲役などの判決を受けたのだった。

 だが、敗戦後に日本へ駐留した米軍によって、今度は花岡鉱山の鹿島組関係者が逮捕され、米第八軍軍事法廷は、三人の補導員に絞首刑、鹿島組花岡出張所長に終身刑、大館警察署長と巡査部長には重労働二十年の判決を下した。だが、1953年頃にどの人も仮出所して責任はあいまいになったほか、連合軍裁判では、もっとも責任が重いはずの鹿島組社長をはじめとする日本建設工業会に所属する各社の最高責任者、華北労工協会などの労務統制機関の責任者、鹿島組の労務員、蜂起して山の中に逃げこんだ中国人を竹ヤリなどで殺した在郷軍人・青年団員・警防団員などは、裁判からはずされてその責任を問われることがなかったのである。

 花岡鉱山に連行された中国人の中から、裁判の証人として23人が送還されずに日本へ残された。しかし、裁判が終っても中国に帰らずに、そのまま日本にとどまった方が4人いる。北海道の札幌市にいる李振平(旧李光栄)・林樹森(旧劉当路)・劉智渠(旧劉沢)の三氏と、大阪にいる宮耀光氏の四氏であったが、1973年9月に林樹森氏が亡くなっているので、現存者は三氏である。 

    この記録は、宮氏を除いた三氏からの聞き書きが主体となってつくられている。


中国から花岡鉱山へ

「戦争と花岡鉱山」

 花岡鉱山は秋田と青森の県境にひろがる鉱山地帯にある、中規模のヤマでみる・この鉱山がその姿をあらわしたのは、他の鉱山にくらべると遅く、1885年に地元の人によって発見されてからだった。その後、鉱主も何度かかわったり、採掘が中止になったり、また再開されるという歴史を繰り返して、1915年に合名会社藤田組に経営が移った。その翌年から新しい鉱床が続々と発見されて大鉱山に成長し、1944年には花岡鉱業所として独立している。

 花岡鉱山は鉄道から距離的に近いうえに、良質の銅・鉛・亜鉛などを産出するので、採算のとれる鉱山として知られていたが、日中戦争がはじまったころから、軍需産業として生産が拡大されていった。太平洋戦争に突入すると、いっそう大幅な生産が要求されるようになり、1942年には花岡鉱山そのものが軍需工場に指定されて、月産3万トンから5万トンの生産が義務づけられ、増産につぐ増産がつづけられていった。

 だが、設備の不備、機械の不足、施設の老朽化などによって、産出量はなかなか伸びなかった。しかし、生産目標の達成は軍部からの至上命令であり、それがまた企業の利益とも結びついていたため、目標達成のために大量の人力を投入しなければならなかった。花岡鉱業所に残されている資料によると、鉱山の稼働員数は戦争が激化してくるにつれて、表1(下の「花岡鉱業所稼働工程表図」にも見られるように増大していった。とくに、最大の労働力を擁した1944年前後には、1万3,000人もの稼働人員を数えることができた。


◆その当時の稼働人員の内訳をみると、次のようになっている。

直轄人4,500人
朝鮮人4,500人(延べ人員)
徴用工
 挺身隊300〜400人
 勤奉隊300〜400人
 学徒隊300人
俘虜米人(英豪人含む)300人(最大の時は480人)
華人徴用工(東亜寮)298
諸負業者人夫 1,500人

となっている。鉱山労働者以外の人たちが、いかに多く鉱山労働に狩り出されていたかがわかる。

 さらに戦争が激化してくるにつれて、鉱山労働者も兵役につくようになったほか、怪我や病気などで入坑できなくなった坑夫の補充ができないために、労働力不足はいっそう深刻になっていった。そのため、徴用工の名目で国内から
狩りだされた寡婦・娘・少年たちまでが鉱山に動員され、15歳前後の少年たちや、20歳前後の娘たちまでが、坑内での地下労働を強制されるようになった。花岡鉱山ではこのように労需に追われて生産をあげるという形で、厖大な利益を確保している鉱山経営からすると、日本人も朝鮮人も働く道具の一つにすぎないことを、この事実は語っている。

 七ツ館事件後も、花岡鉱山では乱掘をつづけたが、いくつかの坑道の上を流れている花岡川の流れを変更しないと、七ツ館坑以外でもいつまた陥落が発生し、落盤や浸水などによって、発掘が中止されかねない事態になっていた。この危険を取りのぞくには、花岡川の流れを大幅に変更する必要があり、鉱山では水路変更計画を立案した。しかし、この水路変更の工事が火急を要することはわかっていても、増産に追われるだけで精一杯の花岡鉱山の手では、工事をおこなうのはムリな状態であった。そこで、鉱山採掘の一部を請負っている鹿島組に、この水路変更の工事を請負わせることになったが、鹿島組にしても新規の工事に労務者を集めてくることは不可能であった。この時に鹿島組で目をつけたのが、日本への連行が本決まりになった中国人労務者を使用することだった。

 鹿島組花岡出張所が、敗戦後に外務省へ提出した「華人労務者就労顛末報告」のなかで、その経過を次のように説明している。

 「工事を緊急きわまる短期間内に完成しようとしたため、大量の労務者を必要とし、その獲得に努力したが、時あたかも国運をかける大東亜戦争中期から後期におよび、日本人、朝鮮人労務者の充員はまったく至難の状態にあり、この唯一の解決策として昭和17年11月27日、日本政府決定による『華人労務者内地移入二関スル件』にもとづいて、華人労務者の急きょ移入就労をはかり、可及的速やかに工事竣工を期そうとした。そしてこの導入方針として、本社ならびに受け入れ事業場においてしばしば移入方針ならびに対策にかんする打合会を開き、内務、外務、厚生、軍需など関係各省の指示、指導事項にもとづいて慎重かつ万全を期し、統制団体である日本土木統制組合の援助と斡旋をうけ、現地供出機関である華北労工協会との契約諸項を遵守履行しようとつとめた」

 この報告書は全体にわたってあまりにもそらぞらしく、しかも責任のがれに終始した書き方をしているが、ともかく強制連行されてきた中国人は、こうして花岡鉱山の鹿島組花岡出張所に収容されて働くことが決まったのだった。


〜証言


李振平 
1921年に河北省河間県に生まれる。小学校卒業後に三年間ほど農業を手伝ったあと、人民解放義勇軍に入ったが、日本車に捕えられ、花岡鉱山に強制連行される。花岡鉱山では第一中隊第二小隊長として強制労働に従事。蜂起の時は主謀者のI人となり、秋田刑務所に入れられるが、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。中国代表部で衛兵の仕事をしたあと、東京や横浜などを転々と仕事をかえて移り住み、1956年に札幌に移る。札幌でも職をいくつかかえたあと、中国貿易輸出入の会社をつくり、現在はその社長をしている。

妻のほかに一男一女の子どもがある。


林樹森 
1917年に河北省寧普県に生まれる。小学校卒業後、会社勤めをしながら医者になる勉強をつづけ、やがて人民解放義勇軍に身を投じて医療の仕事に従事中に日本軍に捕えられ、花岡鉱山に強制連行され、看護班の仕事をした。敗戦後は病人の看護のために日本へ残り、そのまま裁判の証人となり、のちに中国代表部の衛兵の仕事をする。代表部を1953年にでてすぐに札幌に渡り、数々の仕事を転々とかえたあと、食堂を営む。1973年9月のある日、病苦と食堂の経営不振から服毒して自殺を図ったが、発見が早く助かるが、
9月26日に肝臓疾患に急性肺炎を併発して死亡。なお、知人たちがカネを出しあって、1973年の暮れにははじめて中国に行くことが決まっており、ふるさとの中国では二歳の時に生き別れた長男が、三十年ぶりの再会を待っていた矢先の死であった。死後には妻と中学二年生を頭に三人の子どもが残された。


 劉智渠 
1920年に河北省薪県郡均鎮に生まれる。小学校卒業後は。家業の農業に従事。十七歳で人民解放義勇軍に入る。一時、家に帰って農業をやり、二十歳の時に再び解放義勇軍に入り、日本軍に捕えられて、花岡鉱山に連行される。花岡鉱山では看護班に所属し、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。1964年10月に札幌に渡り、小さな屋台店から商売の仕事に入り、現在は新山観光株式会社の社長をしている。1951年に中国人俘虜犠牲者善後委員会が発行した「花岡事件」は氏のロ述によるもので、もっとも早く花岡事件の全貌を伝えた貴重な記録である。妻と一男一女がある。


李 
わたしね、1921年7月15日に河北省河間県に生まれたが、小さい時のこと、あまり覚えていないからね。小学校に入って終わったのが16歳の時で、中学校に行くつもりだったけど、もう日本の兵隊が毎日来るから、とても学校に歩いてられないでしょ。わたしだけでなく、ほとんどの子どもたち、そのために学校にいくのやめた。わたしの家、普通の農家だったので、農業の仕事手伝っていたが、一ヵ月のうちの半分は逃げていた。日本兵が襲ってきて、逃げなくてはダメだから、仕事にならないの。それでも三年くらいは農業の手
伝いしていたが、日本兵の来るの、だんだん多くなって、まったく仕事にならなくなってしまったさ。


 林 
日本兵、襲ってくるでしょ。逃げおくれて殺されたり、捕えられて連れていかれた同じ年ごろの人、かなりいたさ。
 李 友だち殺されたり、肉親を殺された人など、多かった。どうせ、毎日逃げとるでしょ。若い時だし、戦いしないとどうしようもないので、戦うこと決めた。いちばん最初に入ったのは人民解放義勇軍で、賀竜の部隊であった。それからゲリラになって、あっちこっち転戦して歩いたが、その間に、わたしたちの部隊のなかで、何百人も死んでしまった。ゲリラの戦いは、苦労ばかり多い。村に行くと、日本兵に見つかるから、行けないでしょ。夜中にこそっと行っても、村の人たちみんな逃げていない。家に残ったもの、日本兵来てみんな徴発して、なんにもない。腹減ってくると、ドロ水飲むね。死んだ人の上を、靴で踏みつけて歩く時もあるさ。ベトナム人の苦しみ、自分の体験とおしてよくわかる。戦争ひどいよ。

 林 
中国に来た日本兵、悪いの人多いよ。わたしの村に日本兵襲ってきたとき、妊娠している女の人を、何人もの日本兵が追いかけた。妊娠している人よく走れないよ。すぐつかまって、中国人も見てる前で、何人もの日本兵が強姦する。それ終わると、銃の先についた剣で妊娠した女の腹裂いて、赤子とりだすと、銃の先に刺して振りまわして、みんなで笑ってる。

日本兵、犬畜生より悪いね。あんなことばかりした日本兵、日本に帰ってきて、自分の家庭に入って、どんな顔して生きとるのか思うと、こわい感じするね。


 李
 1941年の春、わたしたちのゲリラ部隊、日本車に包囲された。包囲された距離、だんだん狭くなってくる。そのとき、わたしたちの部隊、鉄砲のタマも満足になく、武器も使えなくて、一週間でみんなつかまってしまった。あのとき、だいぶつかまった。つかまった人どれくらいだったかは、あっちこっち連れていかれて一緒でなかったので、よくわからない。一ヵ所にまとめられて、収容所まで歩くとき、何十人、何百人かがひと組になって連れていかれ、あっちこっちの収容所に入れられた。あのとき捕えられた人のなかで、中国の
東北の炭鉱に連れていかれた人も、だいぶいた。わたしと一緒に、石家荘の収容所に連れてこられたのは、十数人だったが、日本に連れてこられたのはわたしひとりだけね。石家荘の収容所には、1,000人くらいの人、つかまって入っていた。収容所は、日本軍が管理してた。わたしらいる時、収容所から逃げたの二人いたが、一人はすぐに銃で撃たれたね。一人は逃げたが、まもなく捕えられて収容所に連れてくると、みんなの見てる前で殴られたり、蹴られたりして、殺されたね。見せつけね。日本に連れてこられる時、石家荘の収容所の生活あまりひどく、みんなからだ弱っていた。からだ悪い状態のまま、日本に連れてこられた。 自分で立って歩けないような、からだの弱っている人ばかり、日本に来たさ。


 林
 わたしも石家荘の収容所に二ヵ月半ほどいたが、あそこでみんなからだ痛めた。食べもの悪く水も満足にないから、みんな栄養不良になったわけね。

李 収容所の食べもの、コウリャンのご飯と、醤油少し入ったスープだけね。それも一日に二回だけで、野菜や塩など、ぜんぜんないからね。あのとき、わたしたちなぜからだ悪くなったかといえば、河北省の人、コウリャンは少し食べることあるが、ご飯として食べたことないわけね。コウリャンは、アルコールの精がほとんどでしょ。コウリャンのご飯食べると、大便が出ないの。便所に行って、箸のようなものでえぐると、ポロポロ出てくるわけね。

 河北省では、コウリャンは豚の食べるもの。食べるもの少ないし、食べたものもこうだから、だんだんとからだ悪くなってくるの。そのうちにからだ弱ってきて、歩くこともできなくなってきた。一ヵ月以上も、歩けないでいた。石家荘に二ヵ月ばかりいて、わたしは這いながら、京の収容所に行く汽車に乗ったよ。


林 
北京の収容所で、わたしは李さんと一緒になったわけね。


李 
収容所の中じゃ、わからなかったけどね。石家荘から北京に行くとき、貨物の汽車に乗せられた。逃げられんように、有蓋車に乗せられて、戸を閉めてカギをするから、中にいる人、空気とれないの。あのとき、ちょうど六月の暑い時で、みんな縛られて、貨車の中に投げ込まれたでしょ。ひとつの貨車に25人も入ればいっぱいになるのに、100人以上も投げ込まれたでしょ。みんな豚みたいに、からだの上にからだのせていた。空気あまり入ってこないから、汽車が走ると、板目の狭いすき間からもれてくるわずかな空気に、鼻や口を押しつけてのみこんだね。おなかの方すくのはもちろん苦しいが、水いちばんほしいね。みんな縛られて、水ほしい、水ほしいって、声たてて泣くね。誰か小便あったら、それ自分で飲みたい気持になるの。その苦しみといったら、いまでも忘れられない……。北京の収容所に着いたら、ここはアワのご飯ね。アワのご飯は、河北省の人食べ馴れているし、消化もいいし、ここにIヵ月くらいいたら、どうにか立って歩けるようになった。やはり、栄養不良
で、みんなからだ悪くしてしまったわけね。ちょっと食べものよくなると、すぐ元気になるのだから、食べものがどんなに悪いか、わかるわけね。


中国での林さん

林 
わたしは1,917年に、河北省寧普県に生まれた。自分の家の先祖、みな医者だったが、わたしは、小学校でた16歳のとき、会社に入って働いたの。その会社の空気が、どうもわたしの性に合わない。その会社にあんまりいないで、やめて家に帰って、いろいろ考えてみた。うちの先祖はみな医者だから、わたしも医者になること考えて、こんどは北京に行くと、北京大学の医学部に入って、漢方薬の勉強した。ここで三年ばかり勉強してから、またくにに帰ってきたが、親は医者よりも商人になれと言った。二十歳すぎてから、また会社
に入った。その会社は、日本の綿会社の出張所であった。この会社に一年とちょっといたが、人いった頃は仕事なかなか盛んで、忙しかったね。


劉 
蘆溝橋事件の起きる前は、日本兵来ても、それほど悪いことしなかったね。悪いことやったけど、あんまりでなかった。この事件起きて、中国と日本と戦ってから、もうダメね。日本兵、中国人見つけると、殺して歩くという状態になったからね。
林 わたしね、蘆溝橋事件が起きるまで、綿会社に働いていた。この事件あって、中日戦争はじまったでしょ。そしたら、日本の兵隊毎日まわってくるさ。綿は綿花からとって、日本に輸出していた。戦争はじまって、輸出もできなくなった。会社にいても、仕事ぜんぜんないでしょ。いてもいなくても同じなので、会社やめてさ、また自分の家に帰ったの。家にいると仕事ないから、これからどういうふうに生きるか考えた。わたしの先祖、みんな医者でしょ。北京で医者の勉強したので、その方面で進もうと考えた。本買って読んだり、近所
の医者のところに住込みのようにして働きにいったりして、医者の勉強した。二十五歳のころになると、ようやく病人を診れるようになったさ。ところが、日に日に戦争ひどくなって、田舎の村にも日本兵が朝早くからやってくるさ。逃げれば危ないし、逃げなくとも危ないでしょ。もうどうにもならないさ。村の中にいて、落ち着いて暮らせなくなった。そのとき、考えたね。わたしの先祖や家族で、軍隊に入っている人、ひとりもいない。これではダメだと考えて、わたしは軍隊に入ることにしたさ。戦わないと自分たちの国、守れないからね。ほんとの軍隊ではないけど、八路軍の下に民兵みたいなものあるので、わたしはそこに入ったさ。わたしは軍服も着てないし、鉄砲も持ってないし、大きなカバン持って歩いていた。カバンの中にはいろいろな薬や、注射器など入れていた。そのころ、ゲリラの部隊の人が病気したり、怪我したりすると、あっちの村、こっちの村と、分散して農家にあずかるさ。その村の責任ある人のところに行き、病人のいる農家に行くさ。わたしは病人をみて、治療するさ。わたしがゲリラの部隊に入ったのは、こういう仕事するためだったからね。毎日のように、あっちこっちとまわって、病人をみて歩いたさ。



 わたしはゲリラの部隊にいたから、銃持って戦ったがね。食べもの少ないし、病気になったり、怪我する人も多かったさ。そういう人と一緒だと、戦えないし、逃げられないし、村の農家に頼んで置いていくからね。林さん、その人たちのことみていたわけね。



 日本兵は毎日、ひどいことばかりやってたさ。いまでも忘れられないこと、いっぱいあるよ。ある日の早い朝、昼はあぶないから、わたしは隣の村へ、まだ暗いうちに出発した。わたしが村を出てまもなく、日本兵はわたしのいた村を包囲した。日本兵は一軒一軒の農家襲って、食べものやニワトリなど、片っぱしから奪って車に積む。それから、女の人見つけると、片っぱしから一カ所に集めて、着物を全部はぎとって裸にした。四十人以上もの女の人たちに銃剣向けて、裸の踊りさせるね。まわりに集まった日本兵、その踊り見て、やんやとはやしたてる。恥ずかしさに負けた女の人たち、そばを流れてる川に、走ってとび込んでいく。川を流れていく女たちに、日本兵は鉄砲うってみんな殺したさ。わたし、高い木にのぼってかくれ、その様子見ていたが、あまりのひどさに、涙もでなかった。中国人はこんなこと、決してやらないよ。



 日本兵は男の人と同じに、抵抗もできない女や子ども、それに年寄りも手当たり次第に殺したし、蹴ったりしてかたわにしたからね。戦場になった中国の人たち、いくら被害受けたかわからないよ。



 村を襲う日本兵、まだ人が寝ているような、朝早くにやってくること多いさ。二回目に襲われた時は、山奥の農家にいた。その時は日本兵来たのに早く気がつき、自転車に乗って逃げたが、鉄砲どんどんうってくるので、自転車タマだらけになった。着ていた服にも、タマ当たったね。からだにタマ当たらなかったから、なんとか逃げることできた。だが、三回目の時はもうダメね。日本兵が来たのに気づいた時は、もう村が囲まれていたから、逃げるにも逃げられない。そのまま捕えられたのが、ゲリラに入って五ヵ月目のことさ。わたしは兵士だから仕方ないが、村の家には、兵士でない普通の人たくさんいるよ。日本兵来たとき、「わたし兵士じゃない、民間人だ」と叫んだ人も、みんな捕えられた。日本兵から見ると農民か、普通の民間人か、兵士なのか、よくわからないよ。それに、日本兵は働く人つかまえにくるのだから、男の人とみれば、八歳ごろの子どもでも、六十歳を越した年寄りでも、片っぱしから引っぱっていくのだからね。



 あとでわかったのだが、彼ら日本兵の目的は、人狩りだったからね。



 日本兵につかまった人、みんな広場に集められたさ。どの人も、着のみ着のままで、なんにも持ってないね。みんな広場の土の上に、坐らされたさ。日本兵の偉い人が、何かさかんに言ってるけど、何を言ってるのかぜんぜんわからないの。わたしそれを見ながら、あの人は何を言ってるかわからないけど、いいことではないと考えたよ。実際にそうなったが、わたしにはその時、妻と二歳になる子どもがいたの。もうどうなっても仕方ないさ、と覚悟はしてるけど、やはり心残るね。偉い人の話が終わって、しばらくたってから、向こうの農家の庭先に、土の固まりがあるでしょ。日本兵がその土くれ拾って、坐っている人の上になげるでしょ。その土くれ頭に当たった人をナワで縛り、トラックのそばに連れていって乗せるの。最初はなにやっているのかわからず、おかしかったけど、この土くれが頭に当たったらたいへんね。抵抗なんかできないまま、トラックに乗せられて、連れていかれるのさ。わたしの頭に土くれ当たった時は、目の前が真っ暗になった。トラックに人がいっぱい乗ると、
土くれなげるのやめて、トラックは走ったさ。それから石家荘の収容所に連れていかれて、トラックからぞろぞろ落とされたさ。



 石家荘の収容所に入ったら、みんな同じね。普通の民間人も、八路軍も、蒋介石の兵士もいる。年は八歳ごろの子どもから、上は七〇歳近い老人もいたさ。


林 
わたしの入った石家荘の収容所は、テント張りになっていた。建物の収容所には、つかまった人がいっぱいいて、人りきれないのでテント張ったらしいが、テントは雨露防ぐだけで、まわりには何にもないの。わたしらはここに連れていかれると、着ているもの全部ぬがされてしまったさ。逃走するの防ぐために、裸にしたわけね。夜になっても、土間にアンペラも敷かないし、空いた場所には小便や痰、吐いたものや下痢したものが散らばっているので、横になることもできないさ。食べるものも、一日に二回だけね。コウリャンの飯が小さな碗にもられて、一つだけ配られるの。腹へるし、寒いし、疲れはでてくるし、このまま死ぬんじゃないかと、何回も思ったね。


李 
わたしは建物の中で寝たよ。蒲団はないが、板の上にちゃんと寝たからね。同じ収容所でも、違ってたわけね。


林 
テントの中でも、飢えと疲れと寒さで、死ぬ人多かったよ。夜が明けると、日本兵が巡視にまわってくるさ。地面に横になってる人あれば、軍靴で蹴ったり、棒で殴ったりするね。生きてる人は、それでビックリして立ち上がるけど、死んだ人は動かないからね。死んだ人があると、そばの人に死体かつがせて、収容所のうしろの方に運んでいくわけね。わたしも二回、死んだ人運んでいったが、そこに大きな穴が掘ってあって、穴が死体でいっぱいになると、上に土かぶせるの。野良犬が夜中にその死体を掘りにきて、人間の骨をバリバリと音させて食ってる音、よく聞こえた。石家荘の収容所は、まるで地獄だったさ。


李 
テントの収容所のご飯、どうだったか。


林 
コウリャンの飯と、醤油が少し入って、ニラの刻んだのちょっと浮かんでいるスープだけ。李さんたちと同じね。コウリャン飯食べると、大便でないから、みんな苦しんだ。これでからだ悪くした人、多いね。あとで北京の収容所に行ったら、アワのご飯ね。これは自分たちもよく食べるから、おいしく食べた。これで、わたしもからだよくなったさ。


中国での劉さん

劉 
わたしの生まれたの、河北省蘇県郡均鎮で、1920年のことね。河北省には工業ないから、どの家も農家ね。わずかより土地ないから、中国でももっとも貧乏な地方さ。つくったものは、半年くらいあるかどうか。あと食べるものないから、働かなければならないけど、働く仕事もあまりないよ。小麦の刈る時と、秋の収穫の時に、土地を多く持ってる農家に、日給で働きに行くの。一年に三ヵ月くらいより、働くことできないよ。働いても、食事代くらいのものさ。1937年、数えで一七歳のとき、ゲリラ戦はじまり、わたしも参加した。その当時の中国では、百姓の金持たち、みんなライフルあるからね。10万人とか20万人に警察ひとりよりいないから、治安の維持できないでしょ。畠いくら持っていれば、ライフルー丁持っている義務あったの。そのライフルぜんぶ出して、カネのある人はカネ出して、人あれば人出して、協力して抗日するのやったの。指導者は遠くから来て、わたしたち組織された。武器あまりないから、わたしたちのような少年、なんにも持ってないさ。腕章だけしか持ってないからね。もう少しよくなれば、手榴弾持っているだけさ。はじめのころ、まだ日本の軍隊いなかったが、そのうちに北京方面からやってきた。わたしたち、あまり戦争の訓練受けてないから、日本兵来たら、山の中に逃げた。こんど、日本兵ビラまいたの。手榴弾とピストルを持っていなければ、許されて自分の家に帰れる、過去は問わないということ、ビラに書いてあるの。わたしなんにも持ってないから、こんど家に戻って、また農業やったの。こんな人、多かったよ。だけど、まだゲリラとつながりあるでしょ。わたし少年だから、目立たないけど、大人では恨みのある人、日本兵に密告されるでしょ。日本兵すぐ来て、調べもしないで首を斬る。多くの人、こうして殺された。二十歳のとき、百姓の仕事やめて、またゲリラに入った。八路軍もかなり組織されていたから、わたしも三ヵ月の訓練受けた。それから選ばれた人、また三ヵ月の訓練受けた。わたし生まれてはじめて、学校に入ったよ。この時はじめて、抗日の思想教えられたね。わたし、物心ついてから、安心して寝たことないよ。


李 
わたしたちの少年時代、いつも何かに襲われてる感じで、ピクピクしていた。


劉 
訓練終わってから、ゲリラになって、日本兵と戦ったさ。1944年の4月のことね。まだ朝の暗いうちに、わたしたち4人、隊長の命令受けて、河北定県の停車場に行ったの。今晩おこなわれることになっている、敵の鉄道破壊に備えて、土地の情勢をさぐりに行ったわけね。鉄道のまわり調べていると、突然、銃声がしたの。わたしたち、すぐに逃げようとしたけど、15、6人が射撃しながら進んできた。わたしたちも応戦したけど、すぐ弾丸なくなって、捕えられたの。この部隊、偽政府(汪精衛政権)の鉄道護路隊の中国人ね。二人の日本兵いて、指導していた。こんど、両手うしろに縛られて、汽車に乗せられた。わたしの着いたの、石門俘虜収容所ね。日本の将校と通訳に訊問されて、何回もピンクやゲンコツ貰ったけど、わたし、訓練受けた組織の一人だから、殺されると思った。訊問終わると、全部着物ぬがされて、裸にされて、テントの中に入れられたの。わたしの入ったテントの中、真っ裸の人、1,000人ぐらいもしゃがんでいるよ。しゃがみつづけていると、足とか腰痛くなるでしょ。少しでも動くと、監視の日本兵走ってきて、梶棒で叩くの。夜になっても、横になることできないの。着物つけてないし、土でしょ。横になりたくともできないさ。夜になると、テントのなか、夜風が吹き抜けるので、寒いの。ひと晩中、ふるえていた。眠ると、このまま死んでしまう気持ね。眼閉じたり、開いたり、眠つたのか、眠らないのか、自分でもわからないね。



 石門収容所の食べ物、どうだったか。


劉 
林さんたちと同じよ。コウリャン飯で、一人に小さな碗で一つ。二口か三口食べると、もうおしまいね。腹なでても、どこにご飯人ったか、ぜんぜんわからない。これが、一日に二回だけでしょ。こんど、水もないの。1,000人もいるテントに、水はひと桶よりこないでしょ。分けることできないくらい、少ないからね。日本戦争に負けるまで、飲み水で苦しんだね。わたしのいたテントの中でも、たくさんの人死んだ。死んだ人たちの顔、いまでもちゃんと思い出せるね。5月に入ってから、わたしたちに着物渡されたの。その着物きる
と、収容所の庭に集められたでしょ。日本人の将校、「こんど、特別な恩典で、お前たちを北京の西苑更生隊に送ることになった。一日も早く、真人間になれ」と叫んでるの。このことの意味、通訳でわかったのだけど、すぐ汽車に乗せられた。この車、荷物とかカマス運搬する有蓋車だから、窓もなければ、坐席もないの。手をうしろに縛られて100人ほど乗ると、貨車の戸閉められて、外からカギかけられるでしょ。李さんの場合と同じね。空気人ってこないでしょ。その貨車に、一昼夜くらい乗ったけど、食べ物も水も、一回も配られないの。

飢えはなんとか我慢できるけど、喉の渇き、とても我慢できないの、水ほしい、水ほしい、と狂い出しそうになった。わたしの乗ってた車で、一人窒息で死んだ。西苑更生隊に着くと、こんどは建物の中に入れられたの。石門収容所みたいにテントでないから、坐ったり、横になることもできたね。


李 
食べる物どうだった……。


劉 
トウモロコシのお粥、一日に二回配られるの。量少ないけど、コウリャンのご飯よりいいよ。ここで嬉しかったこと、水いくらでも飲めたことね。構内に溝あって、山の上から、水どんどん流れてくるの。毎日、その水飲むことできるの。この水のおかげで、どれくらいの入、助かったかわからないね。ここでも、たくさんの人死んだ。日本兵に殴られて死ぬ人もあったし、食べ物少いから、からだ弱いの人、すぐ病気になるの。病気になると、隔離室に送られるの。隔離室に入ったら、もう終わりね。元気になってもどってきた人、わたし見たことない。隔離室に行くと、底が引き出し式になった、大きな棺桶おいてあるの。この棺桶、一度に十数人の屍体入るね。亡くなると、次々にその棺桶に入れて、一杯になると、わたしたちにそれかつがせるの。遠くに運んでいくと、深い穴掘ってあるの。その上に棺桶おいて、引き出しを引くと、屍体が穴の中に落ちるようになっているの。その上に土かぶせて、次に運んだ時に、その上にまた屍体落としてくるわけね。たくさんの人死んで、部屋の中、広い感じになっていくでしょ。すると、また新しい人たち、どっとやってきた。そうだ、西苑にいた時のことで、いまでも忘れることできないのある。ある日、わたしたち昼食していると、広場に集まれと命令きたでしょ。外に出ると、広場の真ん中に国旗立てる旗竿あって、裸にされた一人の中国人、縛られているの。通訳の説明だと、屍体運んで行った途中に逃げて、捕えられたもので、これから処刑するというの。歩兵銃を持った一小隊来ると、銃の先に、銃剣つけていた。こんど、二人の兵隊、隊長の命令で、銃剣つき出して、縛られた人に突撃していったでしょ。からだに二本の銃剣ささった時の叫び声、いまでも聞こえるよ。それ終わると、死んだ人のからだに、二人の兵隊が組になって、次々と突撃していくの。一小隊みんな突き終わると、縛られた人のからだ、めちゃくちゃになっていたさ。殺された人たちのこと思うと、いまでも胸痛いよ。


地獄のような貨物船

李 
北京の収容所に二ヵ月ばかりいて、それから青島の収容所に運ばれた。この間に、多くの人死んだよ。青島に三日ほどいてから、こんど船に乗せられたけど、船に乗る前は、どこに連れていくとも、ぜんぜん知らされなかった。船に乗せられて、どこに連れていかれるのか考えると、覚悟していても、不安で仕方なかったさ。船に乗るのことはじめてだから、不安も大きいわけね。


林 
わたしはね、北京の収容所から汽車に乗せられて青島に着いたけど、収容所には一泊だけで、船に乗せられた。どこに連れていかれるのか、誰も知らないからね。船に乗るとき、日本の兵隊が銃持って、両側についていたさ。逃げられるといけないからね。このとき、一緒に船に乗った人、確か300人と聞いた。


劉 
わたしたち、西苑にいた人には、日本に連れていくと、はっきり言ったよ。七月の中ごろのことね。わたしたちに着物渡して、広場に集めたでしょ。そこで、「君たち、日本に送って土工の仕事させる」と、日本の将校言ったよ。こんど、日本に行くこと選ばれた人たち汽車に乗せられたでしょ。めずらしく客車だったけど、どの出入口にも日本の兵隊ついて、きらきら光る銃剣持っているさ。きらきらの光る銃剣見るたびに、殺された人のこと思い出して、胸が痛いよ。途中、日本兵の油断見て、一人の中国人、窓からとび出して逃げたの。
それ見た日本兵、めちゃくちゃに銃うったけど、命中したかどうか、汽車そのまま走ったからわからない。青島収容所に一泊して、次の日、船に乗せられた。この船、日本に行く船と、わたしわかっていた。                       


李 
わたし知らないから、どこに連れていくのか、ぜんぜんわからないよ。みんなうしろ手になわで縛られて、日本の兵隊、銃剣持って両側に並んでいるあいだ通って、船に乗ったの、七月中旬ごろのことね。船に乗ったら、また汽車の中と同じ状態よ。わたしたち乗った船、石炭運ぶ貨物船でしょ。石炭いっぱい積んでいて、わたしたちその石炭の上に乗せられた。船に乗るとなわとかれたけど、七月ごろの黄海のなか、もう真夏でしょ。石炭のつまった船倉に入れられて、しかも頭の上に、厚い鉄の蓋してあるから、暑いったらないよ。まる
でセイロの中みたいに暑い。


林 
石炭の上に坐ると、鉄の蓋までのあいだ、いくらもないね。背の高い人、頭つくくらいの高さよ。それに、陸が見える間は、逃げられるといけないから、鉄の蓋しまったままでしょ。甲板の上にも出さないの。それでもね、水入れてよこすとき、ちょっと蓋あけた時に、船倉からとびだして、海にとびこんだ人あったけど、助かったかどうかね。陸から、だいぶ離れた様子だったからね。


李 
船の中、水ないでよ。食糧も、わたしたち食べるもの、ぜんぜんないでしょ。持ってきたトウモロコシの粉あっても、船倉の中、水も火もないから、マントウつくることできないの。結局、わずかに配られる水と、粉をまぜて固め、ボロボロのマントウみたいなものつくって、一つ一つ配給した。生のマントウ、少しずつちぎって食べたけど、これ食べると、いっそう水飲みたくなるの。喉から胸にかけて、渇きで、火ついたみたいに痛むの。


林 
水一日、たった一回より配給ないでしょ。その水でマントウつくるから、一人にひと口かふた口より渡らない状態よ。        


李 
日本の船員きて、船のなか、水たくさんないから、みんな我慢して、少しずつ飲んでくれと言われた。だけど、船倉のなか、セイロの中に入ってるみたいに暑いでしょ。我慢のできない人、大勢いて泣いとるよ。泣いてもしようがないけど、苦しければ泣くね。泣いても声だけで、涙でてこないよ。あのとき、船の中に一週間ばかりいたけど、死ぬような毎日ね。


劉 
港から船でた二日目の晩に、鉄の蓋あけてくれて、甲板に出ることできた時あったの。港から遠くなって、逃げることできないと考えたわけね。海にとび込んでも、死ぬだけのこと、誰の目にもはっきりしているからね。そのとき、誰か小さいバケツ見つけて、みんなのズボンのひもはずしてつなぎ、長くして海の水汲んだね。みんなでその水飲んだけど、黄海の水、にがくて、辛くて飲めないの。口に入れて、ちょっと飲んだけど、みんな吐いたよ。それでも、水ほしい人、うんと飲んだけど、その人たち、後でもっと苦しんだよ。口の中や喉かきむしって、苦しがったね。


李 
わたしたちの乗った船、沖縄にひと晩とまったね。船のどこか壊れたの、修理する音したけど、アメリカの飛行機の空襲あって、船停泊しても、わたしたちのこと、甲板に出さないの。日本軍、勝っていることばかり聞いてたから、アメリカの飛行機の空襲見て、わたしたちびっくりしたね。


林 
確か、琉球にも、ひと晩ぐらい停泊したね。アメリカの飛行機きて、船進めることできないわけね。五日目から、船の中の水なくなったといって、水ぜんぜんくれないさ。石炭むれて、船倉の中の空気、まるでストーブの中に顔入れてるみたいに苦しいさ。船の中の生活、収容所の生活より、もっともっと苦しい。からだ弱ってるの人多いから、船に酔う人多いでしょ。便所あっても、行くことできないから、石炭の上にやるでしょ。その匂いもひどいよ。


劉 
船の中での生活、ほんとに苦しかったね。食べる物いっぱいあっても、船倉の中で、船酔いひどいから、食べたかどうかわからないね。


李 
わたしたちの乗った船、だいたい一週間で、目本の下関に着いたね。船降りるとき、ちゃんと歩けるの人、そんなにいないよ。食べるもの少ないし、水ぜんぜんないでしょ。それに、最後の二目くらい、歩くこともできないから、足立たないの。船降りると、整列して点呼やったけど、300人乗ってきたのが、297人になっていたよ。一人はトラックで青島の収容所から、船に運ばれる間に逃げて、射たれて死んだでしょ。一人は海にとび込んだし、一人は病気で死んだね。病死した人、そのまま海に投げられて、終わりになったさ。


林 
点呼終わると、日本軍の命令で、ボロボロの服着てるの、ぜんぶぬいで棄てたさ。それから風呂に入って、全身消毒された。いい服配給になって、それ着た。わたしたち下関に着いた晩、ここに泊まったけど、ご飯も水もぜんぜんこないの。


李 
日本は魚の国でしょ。日本に着くと、うんと魚食べられると思ってたけど、水も渡してくれないよ。次の日ね、おにぎり二つくれたの。何日も食べてないから、みんなそのおにぎり、呑みこんでしまった人多いよ。下関から花岡まで、四日間も汽車に乗っていたけど、この間にもらったの、駅の弁当一つだけね。木の弁当箱まで、バリバリ食べたいような気持ね。あのときの297人の人たち、五十歳以上の人たち20人くらい、一六歳より少ない少年が6入ぐらいでしよ。あとの人はみんな、二十代から三十代の青壮年たちでしよ。いちばん腹の減る年ごろに、四日の間に駅の弁当一つで、水もなんにもないから、おなかすいて気違いのようになるの。あたりまえのことね。


林 
わたしたち乗せられた汽車、有蓋車でしょ。その貨車の中に押し込められカギかけられるから、中に空気入ってこないの。中国で乗った時の汽車と同
じね。みんな壁の板張りの、板と板の隙間に口や鼻つけて、空気吸ったよ。でも、汽車とまると、空気人ってこないでしょ。その時は汽車の中、もう地獄のような暑さね。とまった汽車、出発するとき、みんな隙の方に倒れてしまうの。立っていること、ぜんぜんできないくらい、みんな弱っているわけね。


劉 
汽車走ったり、とまったりするけど、わたしたちのこと、貨車の外に出さないでしょ。大便、小便、みんな貨車の中ね。夏の暑い時でしょ。空気あまりないから、その匂いだけでも、からだ弱るね。


李 
花岡に着いたの、汽車に乗って、四日目の昼のことね。貨車のドアあけられても、立って線路に降りることのできる人、何人もいないよ。みんな貨車から線路にころがり落ちたさ。わたしね、貨車から落ちた時に腰打って、息止まったような気持して、しばらく立てなかったさ。するとね、日本の憲兵来て、木刀で突くの。やっと立っても、ふらふらして歩くことできないの。


林 
花岡に着いた日、はっきり覚えてないけど、確か八月八日のことね。わたしたち花岡に着くまで、汽車の中で二人死んだから、花岡に来たの295人ね。よく途中で死なないで、花岡まで来ることできたと、いまでも不思議に思うね。


苛酷な労働の中で(中山寮の中国人)

 中国で捕えられてのちの苦しい収容所生活のあと、貨車、貨物船、貨車と乗り継いでの強制連行の旅が、それこそ死の旅そのものであったことは、前章の三人の話から十分に知ることができる。太平洋戦争も末期に入って、海上や国内の交通は安全を保てなくなってきており、食糧不足もかなり深刻になってきていた。それにしても、真夏に、立っていることもできないほど多くの中国人を貨車の中に押し込めたまま、不足している食べ物はともかくとして、ふんだんにある空気や水さえ十分にあたえようとしなかった。貨物船で下関に着いてから花岡鉱山に到着する四日の間に、中国人たちが口にすることができた食べ物は、駅弁一つにすぎなかった。しかも、食べ物もあたえないでカツカツにやせ細った中国人を花岡鉱山に連行して、水路変更工事という大規模な土木工事をやらせようというのだから、たいへんなことであった1944年8月8日に花岡鉱山に連行されてきた第一次の295人の中国人たちは、鉱山の近くにある姥沢につくられた寮に収容された。その寮は鉱山町から三キロほど離れており、かなり急な勾配の山道を登らなければならなかった。寮の名は中山寮といったが、中山寮の建っている場所からは、民家が一軒も見えなかったし、鉱山町からも中山寮は見えなかった。日本人の目から中国人を隔離すると同時に、中国人からも日本人を隔離していた。

 中山寮は三棟の建物から成り立っていた。寮の中は汽車のように真ん中が通路で、両側が板を敷いた座席と寝床の兼用で、上下の二段となっていた。板間の上に坐ると、背の高い人は頭がつかえるほど低かった。中央に石油ランプが一つ下がって、ほの白い光で殺風景な部屋を照らしていた。もう一棟の片側には、食堂、炊事場、事務所、補導員の宿直室、倉庫などが並んでいた。

 二棟の大きな建物から少し離れたところに、重病人を収容する部屋のほかに、遺骨安置室と看護人のいる看護棟が建っていた。この看護棟の近くに死体焼き場があったが、後になってたくさんの人が死ぬようになると、死体を焼く木や、遺骨を入れる木箱の支度ができなくなったので、穴を掘って埋めるようになった。そのため、中山寮の近くにある山の中腹は、人を埋めた穴が並んで鉢巻き状となり、それが鉱山町からもはっきりと見えた。のちにこの山は、地元の人たちから鉢巻き山とよばれるようになり、恐怖の目で見られるようになった。

花岡鉱山に連行された中国人たちの一日は、ようやく朝が明けたばかりの山間で鳴り響く軍用ラッパの音ではじまった。ラッパの音で目が覚めると、板の間に坐った。着たきりなので着替える必要はないし、布団は一枚も配られなかったので、たたむ仕事もなかった。顔を洗う手拭も歯ブラシもないので、坐ったまま大きなあくびを二、三回やり、上げた手をおろした拍子に目を何度かこすり、それから顔を二、三回なでると、朝の準備は終わった。

 ようやく朝の陽がさしてきたころ、食事が配られた。朝食は昨晩の食事と同じに、味もあまりついてない煮たフキ1本と、饅頭が一つだけであった。みんなは呑み込むようにして食べた。

 食事が終わると、中山寮の前に整列した。伊勢寮長代理や現場の補導員たちも集まり、東京の宮城に向って遥拝した。それが終わると、伊勢寮長代理の訓話がはじまった。

「みんなはじめて花岡に来だのだから、特別待遇として最初の一週間だけ休憩をあたえるが、その後は本格的な作業に入ってもらう。だが、この一週間も遊んでいるのはもったいないから、寮の整理をする以外の人は、山を開墾して畑をつくることにする。この仕事も大東亜建設に尽す義務のひとつだから、なまけたりしないで精いっぱいに働け……」

 訓話は通訳から伝えられた。その後で、全員の編成がおこなわれた。全員を1大隊とし、その下に中隊を置き、中隊の下に小隊を置いた。小隊の中では、10人の班編成をした。最初は三中隊、9小隊に分けられたが、1945年に入って第二次と第三次とが連行されてきてからは、4中隊、12小隊に分けられた。最初の編成を図で示すと、下図のようになる。

 大隊長には耿諄がなったほか、副隊長には羅世英、書記には劉玉卿、軍需長には任鳳岐、看護長には劉玉林が任命された。また、中隊長には李克金、張金亭、王成林が任命されたし、小隊にもそれぞれ小隊長が置かれた。林樹森と劉智渠は看護班に所属していたし、李振平は第二小隊長であった。

 また、鹿島組花岡出張所と、中山寮とに勤務して、直接に中国人たちを扱った日本人は、次の人たちであった。(なお、年齢は全部が1944年8月現在である)


鹿島組花岡出張所

所長は河野正敏(40)で、中山寮長も兼ねていたが、中山寮に出向くことはあまりなく、出張所にいることが多かった。河野の下に労務課長の柴田三郎(45)、労務係の高久兼松、佐藤勇蔵、配給係の塚田亀夫などのほかに、女子事務員も合めて約20人前後の人たちが勤務していた。


中山寮
 もと裁判所の書記であった寮長代理の伊勢知得(40)の下に、庶務が2人、補導員が8人、医務担当が1人いた。しかし、医務担当の高橋豊吉は医師の資格もない元衛生兵で、一日に看護棟に一回顔を出すだけで、あとは中山寮の中にいたが、病人に手をかけることはほとんどなかった。また、鉱山病院の大内正医師は、死亡書を言いなりに書くだけで、病人の治療にあたることはあまりなかったという。

 しかも、伊勢と庶務の越後谷義勇、補導員の石川忠助をのぞいた7人は、全員が兵隊経験を持っていた。それも、7人のうちの6人が中国大陸帰りの傷痍軍人であり、中国人に対してもっとも狂暴にふるまったのは、この人たちだったのである。中国の戦場で中国人たちを虫ケラ同様に扱った軍隊生活を、花岡で中国人連行者の上に再現させたのだった。中国帰りの6人は、片言にしても中国語のわかる人たちであった。その6人とは、小畑惣之介(32)、福田金五郎(35)、古谷四郎(25)、長崎辰蔵(30)、猪股清(30)、檜森昌治(35)であった。また、補導員の一人である清水正夫(25)は中国混血で、中国語が非常に上手だった。

この清水もまた、思いっきりに狂暴の牙をふるって、多くの人たちを死に追いやり、中国人からもっとも憎しみの目を向けられた一人であった。三人の会話の中にも出てくるが、軍需長になった任鳳岐はその地位を利用し、それでなくとも少ない食糧の中から、その量をごまかして中国人に食べさせずに、家に帰る補導員に渡したり、自分で売って遊廓に行くなどの行為で憎しみを買い、蜂起の時にはいちばん先に殺された。この二人の例でもわかるように、血のつながる同胞たちを自分の手で痛めつけ、苦しませたということは、今日的問題としても十分に考えたい事実である。

 それに、兵役経験のない越後谷義勇(19)と石川忠助(40)の二人は、あまり中国人をかばいすぎるとして、同僚たちから快く思われていなかった。この二人は、しばしば中国人を助けたり、こっそりとかくれて食べ物などをあたえていた。そのため、蜂起は二人が宿直でない晩を選んで実行されたことでもわかるように、中国人たちから信頼されていた。中国人にたいして狂暴を振わなかったのが、兵役経験のない二人であったことも、さきにあげた事実と同様に、考えたい問題である。

 このほかに、大館警察署長の三浦太一郎、その下にいた特高警察の後藤健三などが、中国人たちを監視するために、毎日のように中山寮や作業現場に来ていた。また、華北労工協会から通訳として派遣されてきていた于傑臣と、同じく華北労工協会から来て本部にいた木村初一などがいた。

こうした状況の中で、第一次連行者の295人は重労働についたのである。特別待遇の一週間がすぎると、本格的な重労働に入った。早朝から数キロも離れた現場に行くと、花岡川の流れを変更する工事に取りかかった。しかし、土木機械は一つもなく、なわで編んだモッコと、スコップやツルハシだけという人の力だけをあてに、岩石の多い平地に幅二丈に深さ三丈の川を掘るのだから、現場で働く中国人にとっては、重労働の連続そのものであった。

 しかも、毎日の食べ物といえば、一回に小さな饅頭一つと、フキかゴボウの煮たのが一本というように、極端に貧しかった。また、衣服も不十分そのもので、雪が降りはじめても、着ているのはシャツ1枚だけであった。また、板間のベッドにはゴザさえも敷いておらず、雪が降りだしてから毛布が一枚だけ配られるという状態だった。

 また、鹿島組補導員たちの残虐な数々の行為は、多くの中国人たちを死に追いやったり、一生不治の怪我をさせたりした。食べ物が悪くてからだが弱っているために、掘った川底から土や石を運び上げることができないといっては梶棒で殴られ、腹が減るので裏山で草を取って食べているのが見つかると、死のリンチを受けるという状態だった。ほとんど毎日のように仲間たちが殴る蹴るの暴行を受けて殺されたり、栄養失調と重労働のために、20歳代の若者たちが次々と看護棟に送り込まれていった。看護棟には医者がくることはなかった  し、薬もひとかけらもあたえられなかったので、林さんの記憶によると、看護棟に入った人で再び丈夫になったのは一人だけで、あとの人たちは死んでいったという。

 1944年夏から1945年の夏にかけてというように、日本の戦局がますます悪化してきた状況下での出来事であり、「戦時中だから仕方なかったのだ」と、中国人たちにたいする行為を弁護する人が、現在でもかなりいる。だが、三回にわたって鹿島組花岡出張所で連行してきた986人のうち、死亡者は418入と多いのにくらべて、同じ場所の同和鉱業花岡鉱業所に連行されてきた298人のうち、死亡者は11人だったことをあわせて考えると、いかに鹿島組の場合がひどかったかがわかる。


食糧を奪う補導員

 敗戦後に民間団体の手で作成された『現地調査報告書』には、次のような話が収録されている。中国人が連行されてきたころに、花岡の役場に勤めていた人は、「すべてのことが軍の秘密だといって役場には知らされず、食糧の配給のことも、県から直接にやられていた。何人きたのか、どうして死んだのか、なんで死んだのかも役所ではわからなかった。食糧はピンハネされていたようで、真っ黒い蕗二本、皮をむかないものと、まん頭一ツわたされていたのを見ました。汪精衛の方からよこされて、鉱山に直接に使われていた人達は、同じ配給であったそうだが、わり合いしっかりしていたから、鹿島組は本当にひどいことをしたものだ」と語っている。

 この話でもわかるように、鹿島組に連行されてきた中国人が、とくに苛酷な扱いを受けたのであった。それは、毎日の重労働と同じように、中国人たちがもっとも苦しめられた食べ物の場合もそうであった。それでなくとも少なく配給される食糧の中から、鹿島組の幹部や中山寮の補導員たちが、自家用として運んでいったり、あるいは大量に売り払って飲み食いのカネにされていたのである。食べ物が少ないために多くの中国人たちが栄養失調となりそれが原因で病気になったり、あるいはからだが弱って仕事ができないといっては、補導員
に殴り殺されていったのである。

 補導員たちの多くは、大館市から中山寮にかよっていたが、戦時中に大館市大町に住んでいた嶋田展代さん(故嶋田普作代議士の長女)は、その当時の記憶を次のように語っている。

 「わたしたちのいた大町の管原さん宅の奥のいちばんいい部屋に、花岡鉱山の鹿島組出張所長をしていた河野正敏さん一家が借りられていました。そこには、立派な防空壕(わたしたちも何度か入りました)があり、それは母から聞いた話によると、朝鮮人(当時は中国人とは言わなかった)がつくったものだそうです。わたしたちはいつも食糧難でしたが、奥の河野さん宅には、見たこともない角砂糖があったり、うどん粉があったり、美しい奥様がいつもきれいにしていらしたのが、まるで別世界のように、わたしには見えました」

 『現地調査報告書』の中でも、蜂起した時に殺された補導員の近所に住んでいる人の話として、「彼らの家では、いつも食糧が豊富であった。われわれのところはますますひどい状況になっていくのに、彼らの食生活はますます豊かになった。彼らが中国人の食べ物をピンハネしているのだと噂されていた。中国人に殺されたと聞いて、近所では、当然だと話しあった」と記録されているのをみても、食糧が補導員の手で勝手に持ち出されており、しかもその量は、近所の噂になるほど多かったのである。

 食べ物だけではなく、毎日の労働についても同じであった。中国人たちがあまりにも少ない食べ物の増加や、労働条件の改善などを要求するたびに、鹿島組ではその報復として、翌日から建設週間というのを計画し、さらに厳しい労働を押しつけてくることがしばしばだった。建設週間に入ると、補導員の指定した普段よりも多い一日の仕事量を達成しない組は、暗くなっても帰寮したり、食事をとったり、休んだりすることが許されず、真夜中までも働かされた。

 目撃者の一人は、「食べものがひどい上に労働の過重は、とても朝鮮人の比ではなかったのです。夏の日の長いころですが、日もすっかり暮れてうすぐらくなってから、ふっと泣き声が耳につく。出てみるとあの人たちです。水路工事に使う長い杉の立木を、二人で、さきっぽとさきっぽをかついでいる。二人とも顔は見えないが、足など火箸みたいにやせている。腹はすいている。木は重い。二人はちょうど四つ五つの子供が泣くように悲しくて泣く時のように、暗がりに木の重みでふらつきながら、こう、声をひいて泣いているのです。すると横についている監督が、これみろとばかりに棍棒でなぐる」と言っている。
(松田解子「花岡鉱山をたずねて」−『新しい世界』より 


 少ない食べ物と、長時間にわたる厳しい労働の中で、多くの人たちが怪我をしたり、あるいは病気になったりして看護棟入りをしたり、仕事ができないといっては、補導員に殴る蹴るの扱いを受けて死んでいった。ある時、看護棟入りをする人や、死亡者が続出することが鹿島組本社の注意をひき、一人の医師が鉱山病院から中山寮に派遣されたことがあった。しかし、この医師は病気の治療にきたのではなく、本当の病気なのか、それとも仮病を使っているのかを検査に来たのだった。答える声にちょっとでも力があったり、歩いたりすることのできる人はみんな仮病と診断され、看護棟から中山寮に移されて補導員に梶棒をくわされてから、強制的に現場へ追い出されていった。

 やがて、花岡鉱山にも冬が訪れ、みぞれの降る季節となり、地面は凍りつくようになった。しかし、秋田の冬がはじめての中国人には、夏シャツの上に一組の作業衣が支給されただけで、目撃者のある坑夫は、「冬でも丸はだかに近いぼろシャツ一枚に、背中に雪よけの菰、足にはぼろわらを巻いて、凍った水に脛から股までひたして働かされていた」と『現地調査報告書』の中で語っている。しかも、寮で寝る時に着る一枚の毛布が渡されたのも、雪が降り出してからのことであり、それまでは板の上に着たきりの姿で横になっていたというから、正気の沙汰ではなかった。厳しい冬が終わりをつげるころになると、約八ヵ月前に295人が花岡鉱山に来たのにその三分の一にあたる90人ほどの人たちが死んでいたほか、再起不能の病人や怪我人が40人近くでていた。働く人が減っていくにつれて、仕事は生き残った人たちの上に重くのしかかるようになった。だが、死んでいく人はますます多くなり、工事を順調にすすめていくことができなくなってきた鹿島組では、再び中国人たちを連行してくる計画をたてた。そして1945年5月に587人、同じく6月4日に98人の中国人たちを、新しく花岡鉱山に連行してきたのだった。


 新しく中国人たちがやってくると、鹿島組の補導員たちはその見せしめとして、何人かの中国人を多くの人たちの面前で殺害していった。しかも、食べ物はいっそう悪くなってきたほか、秋田県労働課の指示によって、これまでよりも朝晩二時間の作業時間の延長を中心とした工事突貫期間が実施された。こうした残虐な仕打ちの中で、多くの中国人たちは、「生きているよりは、死んだ方が楽だ」と考えるようになった。


毎日の死体焼き

 林 
花岡鉱山についた晩、会食するのこと言っていた。なに出るか楽しみにしてたら、夜遅くなってから出たの、イワシー匹と饅頭一つね。寮の中に、わたしたちのご飯つくる人いないでしょ。わたしたちの中から料理つくれる人選んでつくったから、遅くなったの。饅頭ね、うどん粉少しより入ってないの。あとはリンゴのカスとか、ドングリの粉でしょ。あとは知らない草みたいなもの、いっぱい入っている。ふわふわしないから、ぜんぜん饅頭の味しないの。だけど、おなか空いてるから、イワシと饅頭、すぐになくなったさ。イワシの頭も骨も、みんな食べた。大きい骨も、残さないね。


 李 
配給のうどん粉、もともと少ないのに、寮長や補導員たち、その粉家に持っていったり、売って、夜、外へ飲みに歩くか、遊びに行くかするでしょ。もともと少ないもの、こうして取るから、もっと少なくなるわけね。足りない分は、山のドングリの粉とか、リンゴのカスとか、干した草などまぜて、饅頭つくるの。その饅頭も、小さいったらないの。わたしたち、重労働者でしょ。一人で一回に、10個以上も食べられる大きさよ。それがたった一個でしょ。しかも、おなかの空いてる時でも、うどん粉の少ない饅頭固くて、ノドを落ちていかないの。そのままの状態で食べた人もいたけど、わたしはその饅頭ほぐして、おかゆ作るの。昼は現場に出るからそんなことできないが、朝と晩はいつもおかゆにして食べた。おかゆにすると、ノド落ちてゆくね。


 劉 
まったくあの饅頭、人間の食べるものでないの。腹の中に入ったら、30分もすると、下痢になってしまうの。下痢はじまると、足とか手とか腫れてくるさ。その腫れたところ指で押すと、ぽこんとひっこむの。中国でつかまえられた時から、食べものこの状態でしょ。からだ弱ってくるのも、当然のことね。


 李 
花岡に着いた次の日に、班編成やったさ。このこと、鹿島組からの命令ね。耿諄大隊長は、船に乗ったとき、もう決まっていたさ。この人、国民党軍の上尉で、性格弱いところあったけど、なかなかできる人ね。その下に、中隊を全部で四つ作って、中隊長置いたの。

 中隊の下に小隊つくって、それから10人の班にしたの。1中隊の中に3小隊つくったから、全部で12小隊あって、その上に小隊長いるの。1つの班には、班長いるの。このほかに、書記、軍需長、看護長がいて、看護長の下に看護班あって、三人の人いたの。これ、だいたいの班編成ね。わたしは前にも言ったけれど、第一中隊の第二小隊やったの。班編成終わると、鹿島組の人や補導員たち、これからの生活とか仕事のこと、隊長や中隊長とか小隊長を集めて教えたね。わたしたちや小隊長、そのこと班の人たちに伝えるわけね。


 劉 
わたしと林さん、看護班にいたでしょ。花岡に着いて三日間、寮の中やまわり整理したね。寮の前に井戸掘ったり、便所つくるの仕事もした。ほかの人たち、畑つくるの仕事した。こんど、川を掘る仕事に出ると、病人とか怪我人が出てきたね。


 林 
看護班の仕事、病人のひと看護することより、死んだ人を焼くの仕事多かった。人死ぬと、寮のうしろにある山に運んでいくの。それから木集めて焼いて、最初は骨をカメに入れたけど、こんど、だんだん多く死ぬのでカメなくなり、木の箱つくって入れたさ。わたしたちのいる看護班の小屋、寮と少し離れたところにあったでしょ。わたしたちのいる部屋と、働けない重病人のいる部屋があって、その奥に、遺骨の箱置いた安置室あったの。わたし中国で、医者のような仕事したでしょ。それで看護班に入ったけど、薬一つもないし、包帯もないよ。重病の人あっても、怪我した人あっても、水でひやしてやるか、背中とか腹さすってやるだけね。結局、病気になると死ぬだけね。大きな怪我した人も同じさ。高橋という、元衛生兵の医務担当の人いたけど、この人、わたしより病気のこと知らないから、なんにもやらないの。一日に一回だけ、看護室に、「どうした」と、顔を出すだけね。鉱山病院にも、大内正という医者いて、わたしたち中国人のことみることになってたけど、看護室に来て治療に当たったの、一回もないでしょ。死んだ人あると、死亡届を書きにくるだけね。その時も、事務所に来て、補導員から聞いたまま書くだけさ。わたしたちにも聞かない。自分で死体みて、手をふれて調べたこと、一回もないの。一日に何人も死ぬ日つづくと、病院で聞き。ながら、死亡届書いたこともあったさ。病気になる人多いのに、医者もこうでしょ。わたしのほかは、誰も病気のこと知らない。わたし、病気の原因わかっても、薬ないからなんにもしてやれない。死ぬのを待っているだけね。


李 
病気といっても、ほんとの病気の人、少ないよ。食べ物悪いし、少しだけでしょ。普通の日でも、朝6時から晩の6時まで、土方の仕事するでしよ。からだやせてふらふらして、どの人もちょっと強い風吹くと、倒れてしまうよ。足の太さも、腕より細いからね。みんな、栄養失調と寒さからきてる病気ね。だから、倒れて重病室に運ばれると、みんな確実に死ぬわけね。死ぬの日、遅いか、早いだけのことね。重病室に入って、生きのびた人、一人だけね。


 林 
わたしたち中山寮に入った最初のとき、死ぬ人あまりいなかったが、日がたっていくと、死ぬ人多くなってきた。だんだんと、からだ弱まってきたからね。はじめての時は、何日かおきに一人か二人死んでいたが、冬に入ると、一日に二人も三人も死ぬ日あるよ。病気になる人も、だんだんと多くなってくるさ。結局、倒れたらダメよ。これ、李さんの言うとおりね。わたし看護班にいたから、中国人のからだのこと、よくわかるの。少しカゼひいて、現場に出られない状態になって、看護棟に運ばれてくるでしょ。それから三日か四日、長くとも一週間寝ていると、もう終わりさ。ぜったいに死ぬよ。病気になって、仕事に出ないと、それでなくとも量の少ない饅頭の大きさ、また小さくなるの。いくらも食べることできないから、からだもっと弱って、病気に勝てないわけね。


 劉 
それでも夏の間、わたしたち山に登って、よく草食べたさ。昼の休み、いくらかあるでしょ。補導員たちに見つからないように、いろいろな草食べたさ。これで、わたしたちだいぶ助かったね。こんど、雪が降ると、この草食べることできないわけね。雪食べても、腹いっぱいにならないからね。


 李 
食べものこんなに悪くて少ないうえに、中山寮の設備も、ぜんぜんダメだからね。わたしたち花岡鉱山に来たの、8月の半ばのことでしょ。昼は暑いけど、夜はもう寒いからね。わたしたち、日本の気候に馴れてないから、とくに寒いの。寝るところ、上下二段のベッドで、板は敷いとるけど、蒲団も毛布も、一枚もないの。着替えるものも持ってないから、そのままごろっと横になるだけね。腕枕にして寝たの。疲れてるから眠るけど、夜中に寒さに気がついて、何度も何度も目が覚めるの。だから、夜も十分に眠れないからいからだもっと疲れるわけね。


 林 
せめて、アンペラぐらい敷いとるといいけど、それもないからね。中山寮のあるところ、かなり高い山の中腹でしょ。夜になると、冷たい風吹きおろしてくるから、寒いの。羽目板の隙間から、その寒い風入ってくると、からだカタカタふるえてくるの。足縮めて、丸くなって寝ても、寒くて死にそうな思いね。


 劉 
中山寮の中に、風呂もないでしょ。からだ、垢だらけでしょ。カミソリもないから、頭の髪やひげ、のび放題さ。一枚きりの衣服、ぼろぼろでしょ。わたしたちの姿、地獄で難行苦行している亡霊みたいさ。


難儀な川掘り作業

 李 
仕事もきついからね。花岡に来て三日間は、寮の中の片づけや、寮のまわりの整理したでしょ。それから四日間は、特別待遇ということで、土方の仕事に出ないで、山を開墾して、畑づくりの仕事したの。この期間終わると、川を掘る仕事に出ることになったでしょ。朝は五時になると、軍用ラッパ鳴って、起こされるでしょ。寒いし、おなかすいとるから、その前に目覚ましていること多いね。顔洗う水もないし、手拭もないから、朝の仕度は、便所に行くだけさ。朝のご飯は、饅頭一つに、皮のついたままのフキ煮たの一本か、細いゴボ
ウの煮たの一本か出て、もう終わりでしょ。わたしはおかゆに煮て食べたから、時間少しかかったけど、腹いっぱいにならないから、あとは水飲むだけね。その水も、あんまり多く飲んでいるの補導員に見つかると、すぐ棍棒とんでくるから、水もあまり飲めないよ。


 林 
労働するの時間、朝の6時からはじまるでしょ。中山寮から川掘る現場まで、かなり遠いね。わたしたちの看護班も、はじめは病人いないから、土方の仕事に歩いたよ。誰か死ぬ人あると、中山寮に運んできて、焼いたけどね。


 李 
遠いさ。あれ、四キロはあるよ。それに、山の坂道が半分以上あるからね。朝くだっていく時はいいけど、晩に帰る時はたいへんさ。途中で息切れて、何度も休むね。休むの見つかると、補導員の梶棒とんでくるから、息切れそうになっても、なかなか休めないの。仕事は、平たい地面のところ深く掘って、水流してくる川つくることでしょ。仕事のやり方、補導員が大隊長に話して、大隊長から中隊長、それからわたしたち小隊長、それから班長に伝わっていくの。仕事の終わる時間、だいたい午後の6時となってるけど、6時に帰れる人、
何人もいないさ。ひとりが一日働く分として、川を掘る面積、1uずつ割り当てられるの。6時までにその分の仕事終わった人は帰れるけど、その分終わらなかったら、暗くなっても帰れないさ。晩の8時ころまで働く人もいたさ。


 劉 
仕事のできない人、わたしたちの寝るころ、中山寮に帰ってくる人もいた。ふらふらして、寮の中も歩けない状態ね。指でポンと押すと、倒れてしまいそうな歩き方ね。その人、次の朝、また6時に仕事に行くでしょ。何日もしないうちに、看護に運ばれてきて、死んでしまうわけね。ひとり一日に1uの面積掘るの仕事、あまりひどいよ。


 林 
現場で働く人、何班にも分けられたでしょ。一班は10人だから、10u割り当てられるわけね。平たい地面のところ、川に掘るわけだから、石が多いでしょ。その掘った石、川の上に運び上げないといけないけど、力ないから、上に運び上げるの仕事、たいへんさ。何十キロもある大きな石、三人か四人かかっても、上にあげることできないの。途中まで上げて、力なくなって、また川に掘った底に落としてしまうこともあるの。そのこと、補導員に見つかるでしょ。牛の皮の干したムチや、棍棒でもって、上に運べない人たちのこと叩く
の。倒れるとカネのついた軍靴で、倒れてる人のからだ、どんどん踏んで叱るの。こうして殺された人、かなり多いさ。


 李 
もっとひどいのことね、晩の8時か9時までかかっても、10uの割り当てられた分、掘れない班もあるでしょ。遅くなって、坂道ふらふらに登って、中出寮に帰ってきても、こんど夜のご飯減らされるの。その時によって、三分の一に減らされるか、半分に減るかするから、からだぜんぜんダメになるね。働きながら倒れる人、多くなってきたの。倒れて重病室に運ばれると、もう終わりさ。あの時の状態、どの人もガラガラにやせて、歩いてもふらふらだから、大きな石運べないの、当然のことよ。


 林 
わたしね、誰とだったか二人で、遠い山から、長い杉の木かつがされたことあったの。生木の長い木だから、重いでしょ。川掘っているところまで来ないうちに、暗くなってしまったの。足ふらふらして、おなかすいて目まいするでしょ。わたしの相棒倒れたの。すると補導員来て、梶棒で叩くでしょ。泣きながら立ち上かって、また二人でよろよろ運ぶの。夜の8時、現場に着くと、二人ともあと動けないの。補導員の清水が、早く寮に帰れと、また梶棒ふるってくるさ。このとき、もう死んでもいいと思った。わたしの相棒、そのとき清水に腕折られて、一生かたわになったよ。


 李 
補導員のろくでなしは、一つの中隊に二人か三人、一つの小隊長に一人はついているからね。わたしたちを殺すために、補導員がいるようなものさ。


 劉 
わたしたちのからだ、やせ細って、歩くのもふらふらの状態でしょ。ところが補導員、なにを食べてるか知らないが、みんな元気でしょ。その元気な人たち、わたしたちのことカー杯に叩くのだから、たまったものでないよ。補導員たちのからだ、肥ってくるほど、わたしたち死に近づいていくような状態だったさ。


 林 
わたしたち、日本人のことばよくわからないね。補導員に「オーイツ」と呼ばれると、もう叩かれるか、踏みつけられるかでしょ。この叫ぶの聞くと、もうからだ固くなったさ。いまでも補導員たちの叫ぶの声、よくわかるね。


 李 
補導員たち、中国のことばわかるの人多いね。ほとんどの人たち、わたしたちの言うのわかるの。だからわたしたち、あまり文句や悪口、言ったりできないの。そのこと聞こえると、また棍棒とんでくるからね。花岡鉱山の普通の人たちも、補導員と同じ態度の人ほとんどね。わたしたち、寮から現場に行く途中に、鉱山社宅とか、家のそば通って行くでしょ。わたしたちのこと見ると、大きな声出して笑うし、子どもたちは、わたしたちのこと見ると石投げてよこした。助けてくれた人、少しはあったかもわからないが、わたしには一度もなかったね。わたしたち髪ぼうぼうに伸びて、ひょろひょろにやせて、目ぎょろぎょろして、風呂に入ったのこと一度もないから、からだの匂いするからね。きたないお化けか思って近づかないの、あたりまえのことね。


 林 
わたしも民間の人に助けられたこと、一度もないさ。わたしたちと道路で会うと、道路わきまで逃げて、黙って見ていたさ。わたし、いまでも思い出すこと、一つあるの。わたしたち、道路に何か食べられるもの落ちていると、なんでも拾って食べたでしょ。そのこと、補導員見つけると、「こら、犬ども」と叫んで、叩くでしよ。腹減ってるから、食べられそうなものあると、なんでも拾って食べたい気持ね。そのこと毎日見ている人、道路のそばに住んでいる女の人ね。わたしたち通ると、腐ったような食べ物、わざと道路に投げてよこすの。わたしたち、それほしいけど、補導員そのこと見てるから、手出せないでしょ。ひとりの入、我慢できなくて、それ拾って口に入れたら、補導員走ってきて、梶棒で何度も頭とか顔叩いたの。その人、片方の耳から血出して倒れたけど、その入、それから片方の耳聞こえなくなったの。ひどいことする女の人いるね。わたしその時のこと思うと、いまでもその女の人の顔わかるよ。憎いよ。草食べて飢えしのぐ。


 李 
花岡にいた時のわたしたちは、日曜も祭日も、ぜんぜんなかったさ。休んだ日、1944年の大晦日に半日と、1945年の元旦の一日だけね。あとの日、どんなに天気の悪い日でも、仕事に出た。しかも、食べ物悪いうえに、少ないでしょ。どの人も、骨と皮ばかりにやせて、生きた顔してる人、ひとりもいないよ。


 林 
わたしたちほとんどの人、農家の生まれで、小さい時から労働してきたから、働くのこと、なんともないよ。働くのこと、好きな人多いよ。だけど、花岡では、食べる物少しよりくれないで、無理に労働させるでしょ。からだ弱って、歩く力のない人、石運ぶ力のない人あると、棍棒で殴ったり、小突いたりするわけでしょ。これではどうにもならないよ。働くこと好きな人でも、働くことできないよ。


 劉 
中国にいた時も、わたしたち、そんなにいい生活してなかったさ。八路軍に入ってからの生活、苦しかったこと多い。食べ物もいいもの少なかったけど、たくさん食べていたからね。腹いっぱい食べると、力出てくるし、働けるけど、饅頭一つに、ゴボウかフキの煮たの半分か一本では、働く力出てこないのは当然ね。


林 
あんまり腹減ってしようがないから、昼休みの時間になると、補導員のいない時に、そっと山に登って、草を取って食べるの人多いよ。だけど、日本の草のこと、どれ食べられるか、食べられない草か、わたしたちよくわからないでしょ。草食べたあと、腹痛む人もあったし、口から白いアワふいて、山ころげまわって苦しんで死んだ人も、一人か二人あったさ。
そのこと見ても、腹減ってくると、また草食べに行くでしょ。わたしたちの手にはいる食べ物といえば、草とか水よりないからね。


劉 
その草食べるのことも、補導員がいるとダメだからね。草食べているの見つかると、また梶棒で殴られるからね。わたしたち、腹減って苦しんでいること、いちばんよく知っているの、補導員たちでしょ。その補導員たち、わたしたち草食べているの見ると、怒るわけでしょ。どんな気持の人たちか、ぜんぜんわからないよ。


李 
夏の間は、それでも草食べられるからいいが、秋になるとその草も枯れて、食べられないからね。食べる物、どこからも拾うことできなくなるよ。しかも、秋だんだん深くなると、骨と皮ばかりにやせたからだ、寒さいちばんこたえるさ。わたしたちの着てるもの、下関に着いた時にもらった夏用の一重物が、二枚よりないよ。履物も破れてしまって、素足がまる見えさ。雪とか、凍った砂とか、冷たい水とか、いつも入ってくるからね。足は凍傷にかかって、感覚なくなっているよ。手袋なんか、一つもないよ。素手で、凍った土や石、雪つかんで働いたさ。


林 
靴下もぜんぜんないからね。雪降ってから、ワラを少しずつ集めて、貯めておくの。そのワラ貯ってから、履くものつくってはいたさ。このワラの靴はいても、足だけかくせることできるけど、あとはかくせないから、濡れるだけね。秋田の冬、雪が深いでしょ。多い時は、腰までも雪があるさ。その雪の中で、半分も破れた履物の上に、ワラで編んだ靴のようなものはくだけで、仕事に出るのだから、苦しいの当然よ。あの時の凍傷のあと、いまも寒くなると痛むね。この傷のあと痛むと、あのころのこと思うよ。忘れようとしても、わたしのからだ忘れさせてくれないわけね。


 李 
着るものだって、ボロボロの下着の上に、薄くて黒いワイシャツのようなもの、たった一枚でしょ。薄いから、強い風吹くと、肌に風ささってくるね。雪降ってる日だと、からだみんな濡れてるから、とくに寒いさ。冬になってから、セメントの入ってきた紙の袋見つけて、ワイシャツの下にその紙まいて、着た人もいたさ。セメントの袋そんなにないから、あたらない人は、ワラで編んだゴザみたいなもの着てる人もいるさ。わたしも、はじめはセメントの袋見つけて着だけど、紙だから濡れるとすぐ破れるから、俵をゴザのように、自分
で編み直しだの着たさ。強い風の吹く日は、ゴザの上からからだに風をとおしてくるから、寒いよ。ぶるぶるふるえて、働くこともできないさ。わたしたち、まるでドロボウみたいなかっこうしていたさ。吹雪の強い日は、寒くて、唸るような声たてて、泣いとる人多いよ。雪の中で働いていて、倒れると、もうそのまま死んでいること多いね。倒れてから死ぬのじゃなくて、死んでから雪の上に倒れる人多いね。


 林 
死んでいく人、最初からわたしたちの手にかかるさ。わたしと劉さん、看護班にいたからね。花岡に来た最初のころは、一人ひとりていねいに焼いていたし、遺骨入れるカメもあったさ。ところが、だんだん多く死んで、焼く木が不足したり、遺骨入れるカメとか、木箱なくなってきたでしょ。こんど、山に丸い穴掘って、一人ひとり埋めて、だれ死んだかわかるように、本に名前書いて立てたよ。これ、あとで掘ったけど、誰のものかちゃんとわかるさ。こんど、冬になって、病気になる人多くなって、一日かひと晩に、五人も六人も死ぬ日がつづくようになったよ。もっと多くの人、一日かひと晩のうちに死んだこともあったさ。こんな時、わたしたち三人の看護班だけで、死んだ人運んだり、穴掘ったりすること、間に合わないの。土凍ってるから、そんなに穴も掘れないでしょ。わたしたちの中でも、病気の人いたからね。こんど、からだの弱い人、三人か四人、死んだ人運んだり、埋めたりする仕事、専門にやるようになったさ。それでも間に合わないと、わたしたちも手伝うさ。こんど、伊勢寮長代理の命令で、山の中腹に、大きな穴掘ったね。深さもだいぶあるさ。わたしと李さんの二人、戦争終わってから、そこに行ってみたことあるけど、大きな一つの穴に、遺骨掘った人の話聞くと、八十何人が入っていたと言っていた。死んだ人、山の中腹にかついでいくと、その穴に入れて、上の方に土かぶせるのでなく、白い石灰あるでしょ、その石灰まいて終わりさ。次の日に、また死んだ人あると、その上にまた死体入れて、石灰まくわけね。その大きな穴から掘られた人、全部そうして埋めたから、どこの人かわからないよ。三日と
か四日、死んだ人なくて、その穴のところに行かないでいると、犬とか猫とか、いたちが穴の中に入って、人間の屍体、食べていることもあるさ。腕とか足とか、食われてなくなっているところもあるさ。食われて散らばっているもの、誰の腕か足か、もうわからないね。冬になって、雪深くなるでしょ。中腹の穴のところまで、運んでいけないことあるさ。その時は、中山寮のそばに雪の穴掘って、死んだ人その穴に埋めて、あとで雪少なくなってから、穴に運んで埋めたこともあったさ。これ、わたしたち勝手にやったことでなく、鹿島組か補
導員の命令ね。生きとる時も、わたしたち虫ケラのようにされたが、死んでからも同じだったさ。


 李 
冬の寒い時のこと、口で言えない苦しみね。着ているもの少ないし、はいとるもの破れとるでしょ。しかも、仕事は川をつくるのことだから、掘った溝の中に、雪のまざった水、膝まであることもあるさ。着物は、上から下まで、全部濡れとるでしょ。暗くなってから、中山寮に帰るね。手足しびれて、やせた足や手の肌の色、黒いような、死んだ人の色のようになって腫れてるよ。こんな時の手足、どんなに叩かれても、痛くないの。火で、腫れた手足あたためると、こんど痛むの。あまりの痛さに、火にあたって、ヒエヒエ泣いとる人いるよ。濡れた着物つけたまま、火にあたって乾かすでしょ。花岡に来てから、一度も洗ったことないから、乾くと鮫の皮みたいにザラザラしてくるから、ぜんぜんあたたまらないさ。冬がきても、着物つけたまま、あとなんにもないから、ベッドの板の上に横になっているだけでしょ。寒いから、ひと晩中ふるえつづけているさ。次の朝、起きようとしても、足とか手が動かないの。板の上に起きあがって、足や手をだんだんに動かして、歩けるように馴らしていくさ。晩に寝る時、次の朝、生きて目が覚めるのかなと、いつも思ったよ。


 林 
わたしたち看護棟にいること多いから、その苦しみは、李さんたちほどでなかった。食べ物悪い、着るもの少ない、夜も寒くて眠れないのつづけば、病人の多くなるの当然さ。冬になってから、いったん病室に送りこまれてくると、次の朝に死んでること多いさ。からだ弱って弱って、死にそうになってから、病室に来るからね。看護棟には、薬も病入用の食べ物もないから、どうしようもないよ。


劉 
雪がたくさん積ってから、第三中隊の人、二人にかつがれて病室に運ばれてきたことあった。彼のからだ、全身びしよ濡れで、氷のように冷えていたさ。目固く閉じて、人事不省になっているの。補導員に殴られて、ダムの中に落ちた二人が、引き上げられてきたわけね。手足にさわると、氷のように冷たいし、耳にロつけて名前呼んでも、ぜんぜん動かないの。胸のあたりに、小さな温みあって、低い息が聞こえるので、生きてるのこと知らせているわけね。だけど、看護棟に火もないから、お湯もやれないし薬もないでしょ。いろいろ考えたあげく、わたし庭に出て、死んだ人焼くための薪持ってきて、火燃やして、暖めてやろうと思っだの。薪持ってこようとしたら、軍需係の任鳳岐が来て、「薪どこに持っていくのか」言うの。「病人のこと温めるためさ」と言うと、この薪、死人を焼くためのものだから、ダメだというの。任鳳岐の奴、もう中国人の心忘れていたわけね。彼の反対で、薪持ってこれなかったけど、そのとき、怒りが胸いっぱいになって、どうすることもできなかった。その晩のうちに、病人は死んだけど、次の日、彼のからだ温めてやることができなかった薪で、彼の屍体焼いたの。口惜しいので、涙流れて仕方なかったよ。


死人の肉を食べる

李 
正月近くなってから、軍隊用の毛布、一人に一枚配給されたよ。この毛布かぶって寝てから、夜も眠られるようになったね。だけど、外はもっと寒くなってきたでしょ。こんど、配給になった毛布ね、からだから腕、それに足と、研究して上手に巻いて、その上にシャツ着て毛布をかくし、外の仕事に出たよ。これやると、あまり寒くないからね。このこと、補導具に見つかると、大変よ。梶棒とんできたり、蹴られたりするからね。ほとんどの人、毛布巻いたけど、この毛布のおかげで、死なないで助かった人、だいぶあるよ。あの毛布着なかったら、わたしも寒さに負けて、死んでいたかもしれないさ。


林 
わたしたち看護班も、毛布からだに巻いたよ。これで、前に比べると暖かくなったけど、こんど、うんとシラミ出たね。わたしたちに配られた毛布についてきたか、日本軍につかまってから、風呂に入ったこと、ただの一度もないでしょ。着替えるものもないから、からだも着物もアカだらけだからね。自分たちのからだから湧いたのか知らないけど、いっぱいからだについたよ。仕事から帰って、小さい饅頭食べて、お湯腹いっぱいのんで、きょうも生きられたと思っとると、シラミの奴、動き出してくるの。痒くて痒くて、もう黙っていられないの。背中に手入れてかくと、皮膚弱っているから、すぐ傷ついて、血流れるの。腹のあたりに、手入れてかくと、爪の間に、シラミ何匹もはさまってくるよ。一人のからだに、何百匹とついとるから、大変よ。夜中にも痒くて、何度も目が覚めるね。着替えるものないから、シラミのついた着物、洗うこともできないからね。


李 
シラミも、昼間は出ないね。なんにも痒くないの。寒いから、シラミも動かないわけね。


劉 
もう一つある。シラミわたしたちのからだの血吸っても、わたしたちのからだ、昼間は半分死んでるでしよ。感じない、ということもあるね。


林 
シラミたくさん湧いて、間もなく正月になったね。わたしたち、花岡に来たころは、誰も時計持ってる人いないし、中山寮の中に、暦もなかったの。あとでわかったことだけど、わざと暦、寮に置かなかったわけね。最初のうちは、誰もきょうは何日か、知らずにいたね。こんど、病人が出るようになって、死ぬ人たくさん出てくると、死んだ人の死亡報告書かく必要あったから、わたしたちの看護棟にだけ、暦一枚きたね。その暦で、はじめてきょう何日かということ、わかるようになったよ。正月きたことも、その暦でわかったね。


李 
大晦日の晩だったかね。日本に来て、わたしたちはじめて肉食べたの。あの時のうまかったこと、いまでも忘れることできないよ。よく覚えてるよ。


林 
大晦日の日、馬の頭と内臓が、わたしたち中出寮に渡されたわけね。肉のいい部分、鹿島組の人とか、補導員たち家に持っていったさ。わたしたち、その頭と内臓、料理したの。みんなで同じ部屋に集まって、食べたさ。


李 
あとのき、食べ終わってから、部屋の中に集まってる人見たけど、中国から一緒に花岡へ来た295人のうちで、死んだ人が90人ばかり、病気の人が40人ばかりいたね。年寄の人はほとんど死んで、あれは焦補学だったか、ひとりより生きていなかったさ。来年の大晦日の時には、この中から何人の顔見られるか、と誰かが言ったとき、部屋の中の人たち、しんとなったこと、いまでも覚えてるよ。今晩か、あすに死ぬの、殺される人、どの人か誰も知らないからね。自分かもしれないからね。


林 
わたしたち花岡に来てから休んだの、大晦日の午後と、元旦の一日だけね。大晦日は肉食べたけど、元旦になると、もうなんにもごっそうはないさ。いつもの小さな饅頭一つと、ゴボウかフキの煮だの、半分か一本だけだからね。


李 
正月すぎてから、この食べ物では、わたしたちのからだもたない。仕事のするのもムリだから、もっと食べる量、多くしてほしいと、わたしたち何度も、鹿島組の河野所長に要求したさ。鹿島組の事務所、中山寮から少し離れたところにあるの。そこに、大隊長や中隊長などと一緒に行って、河野所長の前に坐って、土に頭つけて、もっと量多くしてくれと頼んだよ。とくに、病人の食べ物、わたしたちと同じ量にしてほしいと頼んだよ。病気になったり、からだ弱くなって働くのことできなくなると、看護棟に入れられるでしょ。働かなくなると、食べ物の量も、半分にされてしまうわけね。半分のものもらってきて、カユにして食べていたでしょ。それでなくても小さい饅頭が、半分になるわけでしょ。病人だから、体力つけなければいけないのに、これでしょ。だから、病人になって看護棟に来る人たち、みんな死んでいくわけね。その病人たちの食べ物、わたしたちの食べるのと、同じ量にしてくれと要求すると、事務所の人たち来て、なに言うかと、わたしたちのこと梶棒で叩いたり、軍靴で踏みつけたりするの。もっと困ったこと、わたしたち、もっと食べる物多くしてほしいと要求に行くと、次の日から何日かのあいだ、饅頭の大きさ、もっと小さくなることね、見せしめに、小さくするわけね。これにはわたしたち、ほんとに困ったよ。


劉 
正月すぎてから、変わったこともう一つあるよ。正月の前の饅頭の中にも、リンゴのカスとかドングリの粉入っていたが、本当のウドン粉も、いくらか入ってたさ。正月すぎると、饅頭の中に、ウドン粉ぜんぜん入っていないさ。リンゴのカスもわずかより入らなくなって、なんだかわからない木の皮の粉など、入っているの。口の中に饅頭入れると、臭くて、砂みたいにザリザリして、固くて、とても食べられたものでないの。こんな食べ物ばかりつづくから、からだの弱い人、年寄の人、栄養ぜんぜんとれないから、どんどん死んでいくよ。冬になって、雪いっぱい積もると、食べ物、どこからも拾えないからね。


李 
からだやせて、腹の減る日つづくと、頭のおかしくなる人出てきたね。からだの弱い人、これに早くかかるよ。真夜中に食べ物のこと叫んで、とび起きる人も出てくるさ。わたしの小隊に、李相子という人いた。この人、からだ非常に弱いから、仕事の現場に、とても連れていかれないの。伊勢寮長代理に何度も頼んで、冬のころから、この人に、死んだ人焼いたり、土に埋めたりする仕事させていた。林さんたち看護班のほかに、そんなことだけする人、三人か四人いたからね。それだけ、死んでいく人多かったわけね。現場か、中山寮で死んだ人あると、裏の山に運んでいくの。木集めて屍体焼いたり、木集められない時、穴掘って埋めたりすること、専門にやっていた。そうした人焼くの仕事する人、わたしたち労働する人たちより、食べ物の量が少ないの。病人よりは、いくらか多いけどね。結局、あの人我慢できなくなったわけね。ある晩、わたし発見したね。寝るところの上に、木でつくった自分の箱持ってるの。わたしはじめは、なんの箱かなと思っていた。いつかの晩、李相子が、その箱の中に手入れて、なにか食べているの見たの。なにを食べているのかな思って、次の日、彼がいない時に、その箱の中、さがしてみたでしょ。箱の中に、焼いた、赤いような肉人っているの。寮の中に、勝手に食べられる肉あるわけないから、なんの肉か、ぜんぜん見当つかないの。最初、これが人間の肉とは、思わなかったさ。彼に、これなんの肉か聞いたの。はじめは、いくら聞いても、言わなかったが、何度も聞いてるうちに、人間の肉であること言ったの。わたしびっくりして、その箱取り上げて、食べないように言ったの。だけど、また何日かすると、また人間の肉持ってきて、食べるの。わたしも、一回は叩いたさ。死んだ人の肉食べるのこと、人間のすることでないと言ってね。それに、死んだの人、もしか伝染病あるかもしれないでしょ。お前は、人間でないと怒ったの。あとで、考えたね。そのころのわたしたち、口の中に入れるものあったら、なんでも入れたい気持ね。そのこと、人間のやることじゃないけど、腹減ってるの状態、もう一年近くつづいとるわけでしょ。その苦しみの気持、わたしにもよくわかるの。腹減ってる時の苦しい状態、いま話しても、わかっ   てもらえないことね。


林 
わたし、人間の肉食べること見たことないが、耿大隊長の言うの、聞いたことあるの。耿大隊長が看護棟に来て、死んだ人を焼きに行く人の中で、缶詰のフタで、屍体の肉とって食べとる人いる、これはいかんと言っていた。李相子のほかにも、かなりの人、人間の肉食べたらしい。


李 
人間の肉食べられてることわかった時、この姿、こんどはわたしの姿になるかもしれないと思った。わたしも、我慢できなくなったら、人間の肉でも何でも、食べる気持になるだろうと思ったの。このこと、あの当時のわたしたちの本当の気持ね。
 


蛮行重ねる補導員

林 
花岡鉱山には、わたしたち中国人のほかに、朝鮮の人と、アメリカの捕虜も来ていること、知ってはいたの。アメリカの人とは、あまり近づかせないようにしていたけど、朝鮮の人とは、仕事のやり方わからないことあると、現場に来て、働きながら教えてくれることあったの。そんな時、昼一緒に食べるの見ると、朝鮮の人、わたしたちよりいいもの食べとるね。わたしたちのように、ひょろひょろにやせていないの。わたしたち、腹減らしているの見て、自分たちの食べ残したものとか、余分な食べ物とか、こっそり持ってきて、補導員の見てない時に、それをくれるの。そんないい人、朝鮮の人の中にも、何人もいたよ。その時の嬉しかったこと、いまでも忘れないよ。どこの国でも、いい人はいるよ。朝鮮の人たちの着てる服も、わたしたちのものより厚いし、いいもの着てるから、寒くないわけね。


李 
そのこと、アメリカ人の場合も同じね。わたしたちと顔合わせること、ほとんどないし、近づかせないようにしていたわけね。わたしたちの中山寮より上の方の、一キロばかり離れたところに寮あって、そこに入っているの知っていたよ。アメリカ人の寮にいる人、どれくらいかよく知らないが、400人くらいはいたね。アメリカの人の食べる物、わたしたちよりずっといいの。わたし、見たことあるの。アメリカ人の食べる物、トラックか馬車で途中まで運んでくるでしょ。それから上は、道路悪いから、わたしたちの寮のすぐ上におろ
して、それからアメリカの人が、上の寮に運んでいくの。おろして運ぶ時に、袋や俵、破れるのがあるでしょ。その破れた穴から、中に入っているもの、こぼれるの。アメリカの人、そのこぼれたの拾って、一生懸命にポケットに入れたり、口に入れるかしとるの、わたし見たの。あれは米でないけど、麦かなにかね。わたしたちより、ずっといいもの食べているさ。わたし、その場所に一度行って、10粒くらい拾って食べたことあるけど、本物の麦かなにかね。味でわかるよ。わたしたち、現場へ働きに行く途中、ときどき働きに出るアメリカ人と、道路ですれ違うことあるの。わたしたち言葉わからないし、話しかけるところ補導具に見つかると、梶棒とんでくるから、誰も話しかけないよ。お互いに顔見たまま、通りすぎるだけね。アメリカ人の場合も、わたしたち中国人より、からだやせていないでしょ。顔色もいいよ。わたしたち中国人だけね。ひょろひょろにやせているの。


 劉 
いちばん悪いの、補導員や鹿島組の人たちね。わたしたちに配給にきたもの、家に持っていくわけね。それでなくとも少ない食べ物、ますます少なくなるわけね。わたしたちと同じ中国人で、軍需長の任鳳岐も悪いの。この人、宿直して次の夕方に家に帰る補導員に、わたしたちにきた配給の中からとったもの、紙とか袋に包んで、渡しているの何回も見たよ。彼だけね、一緒に来た中国人の中で、太っているのは。それでなくとも少ない食べ物の中から、補導員がいいものだけ家に持っていくから、わたしたちの分、ますます少なくなるわけね。あの任鳳岐のろくでなしのために、何人の人、飢えて死んだかわからないよ。だから、彼だけは殺されたの。同胞を売ったから、補導員と同じに、皆の憎しみかっていたわけさ。蜂起のとき彼いちばん先に殺された。殺されるの理由、十分あったさ。同胞を売って、自分だけまるまると太ってること、許されないよ。


 林 
わたしたち、補導員のこと、鬼とか、豚とか、鬼豚とか呼んでいたけど、その鬼のような補導員の中で、二人だけ、わたしたちの味方する人いたよ。一人は越後谷義勇さんね。戦争終わってから、この越後谷さんを、わたしたち札幌に招待したことあるけど、越後谷さんに助けられた人多いね。


 李 
越後谷さんの家、花岡から離れた早口にあったでしょ。宿直にあたらない晩、早口の家に帰るね。次の朝、鉱山に働きに来る時、自分の家から、米とかアワみたいなもの、少し持ってくるの。補導員に見つからんように、服のポケットにかくして持ってくるから、少ないわけね。こんど、わたしたちの仕事の現場で、お湯わかしてるでしょ。その大きな湯わかしの中に、ポケットの米そっと入れて火にかけると、薄いおカユみたいなものできるでしょ。そのおカユみたいなお湯、わたしたちに飲ませてくれるの。ほかの補導員見ても、お湯飲んでるとしか見えないでしょ。越後谷さんが現場に来ない時は、晩に寮の中で、わざとお湯わかして、そのお湯の中に米とかアワとか入れて、わたしたちの寝てるところに持ってきてくれるの。服のポケットに、いろいろな食べ物入れてきて、ほかの補導員のいない時、そっと渡してくれたりしたの。わたしたち、その食べ物で、どんなに助かったかわからないさ。鬼みたいな寮の中の日本人にも、こんないい人もいたね。


 林 
正月の元旦のことね。あの時も、越後谷さん、早口から中山寮まで来たね。自分の家でつくったもち持ってくると、小さく切って、わたしたちに配ったの。寮の中の人多いし、少しより持ってこないから、食べた人少ないけど、その気持ね、嬉しいの。越後谷さんのような人、もっと花岡にいると、蜂起なんかなかったね。だから、蜂起の時も、越後谷さんのこと、殺さないように気を配った。越後谷さん宿直室に泊まっている晩に蜂起すると、暗いから、彼どこにいるかわからないでしょ。間違って殺すと、たいへんということになるからね。だから、彼の泊まっていない晩選んで、蜂起をやったの。補導員とか、鹿島組の日本人だったら、誰でもいいから殺せばいいということではなかったさ。悪いことしない人は、殺したくないという気持は、誰にでもあったの。


 劉 
越後谷さんね。この人、まだ少年でしょ。仕事も、事務所で帳面つけてるのこと多いの。直接に、中国人の働いてる現場に来ること、少ないからね。わたしたちのいた看護棟には、毎日のように来たけどね。この人、まだ若いから、軍隊教育みたいなもの、あまり身につけていなかったわけね。越後谷さんのほかに、補導員の中に、もう一人、いい人いたでしょ。


林 
いたいた、石川ね、石川忠助さんね。この石川さんも、わたしたちのこと、助けてくこと多いよ。越後谷さんみたいに、食べる物持ってくることもあったし、あまり殴ったりしなかったからね。補導員の中で二人だけね、わたしたちのこと考えてくれた人は。あとの人たち、みんな鬼豚だったさ。


 李 
この石川さんも、わたしたちの目の前で、二人の中国人を、殴って殺しだの知ってるょ。石持てないほどからだ弱っている人、梶棒で叩けばそのまま倒れてすぐに死ぬの、あたりまえのことね。それも、頭とか顔とか、どこでも叩くのだから、どうにもならないよ。それでも石川さん、福田とか清水にくらべたら、はるかにいい人ね。


 林 
梶棒で叩く時、めくらめっぽうに、どこでも好き勝手に叩くでしょ。梶棒歯にあたると、みんなバサッと落ちるね。梶棒で頭とか顔叩かれて、痛いでしょ。痛いから、頭とか顔に、手あげるでしょ。こんど、その手を叩くの。どの人も、一本か二本か、みんな指が折れとるよ。ひどいものさ。補導員の中でも、小畑と福田がいちばんひどかったさ。この清水わたしたちと同じ中国人でしょ。父か、母だったか、中国の人ね。それで、中国人に悪いのことするのだから、どうしようもないよ。背の低い小畑、この人いちばん悪い。何十人の人
殺したかわからないよ。寮長代理の伊勢、この人も根性の悪い人ね。ひどいことばかりしたよ。戦後になって、この伊勢と、一度会ったことあるよ。伊勢は大館の市役所の職員になって、立派な服着ていたけど、わたしのこと見ても、なんにも言えないの。下ばっかり見ているね。


 李 
食べ物悪くて、栄養失調が原因で死んだり、補導員に殺されたりした人、春になると100人越していたよ。わたしたちと一緒に花岡に着いた人、295人でしょ。そのうちの三分の一の人、死んでしまったわけね。からだ弱って、看護棟の中にいる人も、30人くらいだったさ。中山寮の中に、あまり人いなくなったよ。からっぽになってきたさ。わたしの小隊の中でも、十何人か死んでいたからね。ところが、冬終わって、雪消えると、川掘るの仕事がほんとにはじまったでしょ。働けるの人、半分くらいよりいないから、生き残った人たちの仕事、ますます多くなるの。雪の中でひと冬生きて、どの人もからだ弱ってきてるでしょ。それに仕事多くなってきたから、たいへんよ。


 劉 
寒いのから、暖かくなってくると、からだ疲れて、ダメになってくるのね。春になって、看護棟に来るの人、多くなってきたからね。新しい中国の人たち、中山寮に連れてこられたの、この時ね。


蜂起する中国人(繰り返される拷問)

 中国人たちが残忍非道な虐待に抗して蜂起したのは、1945年6月30日の深夜のことであるが、それまでに死亡した中国人は、次のとおりであった。

1944年8月8日の第一次連行者295人のうち121人。
1945年5月5日の第二次連行者587人のうち23人。
6月4日の第三次連行者98人のうち4人。

前後三回にわたって連行されてきた980人のうち、140人が死んでいるが、このほかに病気や殴られた怪我で身動きのできないのが約50人、一生不治の怪我をした人が生存者の四分の一くらいにおよぶといわれる状態であった。
    〈このままでいると、みんなが殺されてしまう〉

 中国人たちはせっぱつまった脅迫感におびやかされ、こう考えるようになっていた。敗戦 直後に、花岡鉱山に派遣されて中国人を診断した高橋実医師は、
「もはやかれらは、死か抵抗かのいずれかを選ぶよりほかに道はなくなった。それは、このひとびとがついに奴隷であることにがまんしきれなくなった日”であった」(「ひとつの事実」−『社会評論』 一九四六年七月号)と書いているが、まさにそのとおりであった。こうした状況の中で、蜂起は計画され、実行されたのであった。

 蜂起の計画は、耿大隊長をはじめ、中隊長や小隊長たちの間で、綿密な計画と周到な準備のもとにすすめられた。第二次や第三次連行者たちが洩らした消息、「日本の戦況は日一日と不利になり、空襲も激しさを加えているから、日本本土への上陸作戦も間近い」という情報が、蜂起の計画をいっそう早めた。

 蜂起の計画は、6月30日の晩飯のあとに、耿大隊長から全員に伝えられた。

 「李克金は20人を連れて、事務所の窓口を守る。劉玉卿は30人を連れて、四方の要地に伏兵をおく。これは、補導員の脱出と逃亡を防ぐのだ。李黒成は電話線の切断を担任する。張金亭は20人を連れて、室内に入って敵を殺す。それから張賛武は比較的強壮な同志80人を連れて、米国人俘虜収容所の日本兵を襲撃する。劉錫方は20人の同志を連れて、花岡警察局を襲撃する。看護班の任務は、外で全員が漱起したのを見すまして、直ちに病人を山の上に移すのである。そして最後に、羅士英の監督の下に放火し、中山寮全部を焼き払う。

手を下すのは、深夜、補導員たちの熟睡したのを見てやる。このために今晩は、全員が本当に寝てしまってはならない。仕事を分担された同志たちはすべて鍬をこっそり身辺に隠し敵を殺す武器にする」(劉智渠述・劉永姦・陳苓芳記『花岡事件−日本に俘虜となった一中国人の手記』中国人俘虜犠牲者善後委員会刊)だが、このように綿密な計画をたてたにもかかわらず、待っているのにしびれをきらした張金亭が、まだそれぞれの人が任務の部署につかないうちに、軍需室に入って任鳳岐を殺した。任の悲鳴があまりにも高かったので、補導員の逃亡を防ぐために配置されることになっていた人たちが、まだ寮の中にいるうちに、補導員の宿直室になだれ込んだ。猪股清と檜森昌治の二人は宿直室で殺され、あとは窓を破って逃亡した。そのうち、小畑惣之介と長崎辰蔵は追いつめられて殺されたが、あとの人たちは逃げていった。そして五分もたたないうちに、事件を知らせるサイレンが、深夜の鉱山町に鳴りわたったのである。

 このため、計画の中にあった米軍人俘虜の解放も、花岡警部派出所の攻撃も、中山寮の放火も中止となり、約800人の中国人たちは、われ先にと暗闇の中に逃亡していった。しかも、リーダーもなく、サイレンが高々と鳴り響く暗い夜中に、ひょろひょろにやせた人たちの逃走なだけに、決して早いものではなかった。朝が明けて気がつくと、かなり遠くまで逃げたつもりのものが、花岡鉱山が目の前に見える高さ250メートルほどの岩場の多い獅子ヶ森という山の中腹に、大部分の中国人たちがいたのである。しかも、病人や落伍者たちは、蜂起してから二時間もたたないうちに、寮からそれほど離れていない場所で捕えられた。獅子ヶ森にたてこもらなかった中国人は、山を越した隣の村とか、国道に添って青森県境に逃げるなど、ほとんどの人がバラバラになった。

 花岡鉱山での中国人の蜂起は、大きな衝動をあたえた。その鎮圧のために多くの警官や民間人が集められたが、『秋田県警察史』(下巻)はその状況を次のように記録している。

 「事件発生の7月1日から、平静になった7月6日まで、大館、花輪、扇田、鷹巣、米内沢、ニツ井、能代、青森県大鰐の各警察署で動員した延人員は、警察官494人、警防団7,544人、一般民間人13,654人、計21,692人で、このほか警察部をはじめ県内各署から延536人が取調べなどで動員された。また、秋田、青森各地区憲兵隊、弘前憲兵司令部から延222人、仙台俘虜収容所第七分所(花岡町所在)から警備隊員延25人、秋田地区警備隊から7人が出動した。花岡町における民間団体としては在郷軍人179人、鉱山青年学校延122人、警防団延128人、鉱山警備隊延52人、鉱山男子義勇隊延127人、同女子義勇延140人、鹿島組延724人、秋田士建121人、清水組延155人が出動した」警察の資料によると、延べ24,106人が鎮圧に動員されたのだが、このように厳重に警戒された中で、空腹と疲労で衰弱しきった中国人は次々と捕縛され、花岡鉱山の共楽館という劇場の広場に集められた。しかも、獅子ケ森などで抵抗した十数人の中国人は、日本刀とか竹ヤリなどで殺されたが、殺した人たちというのが警察とか憲兵ではなく、民間人である消防団員や青年団員などであった。

 また、獅子ケ森からさらに遠くへ逃げた人たちも、各町村の消防団員や青年団員などに捕えられて、花岡鉱山に引っぱられてきた。その当時、花岡鉱山に勤めていたある娘さんは、目撃したことをこう語っている。
                  
「小坂線の汽車の中で、二人ずつつながれてくるのをみた。フラフラしているのに、力いっぱい丸太でなぐられていた。本当にかわいそうなものだった。それでもその時、敵の国の人間だと教えられていたから、にくいと思ってみていた」(『現地調査報告書』)また、山奥に逃げ込んで、山狩りされて捕えられた人たちの場合も、悲惨なものであった。隣の早口村の山奥にある山田集落に逃げた中国人の模様を、消防団長は次のように語っている。

「この山田部落にも、五、六人の中国人が山を越えて逃げてきた。警察から、部落に放火するかもしれないから、消防団でつかまえてつれてきてほしいと連絡があり、二人つかまえて花岡の共楽館につれていったが、二人でしばられ、坐らされていたのを目撃した。その二、三日後、山田部落の保滝沢で三人つかまえたが、ヒローコンパイその極に達し、ロもきけない状態であった。中国戦線から復員した若者二人が中国語で話しかけたが、返事もできない状態で、それが気にくわぬと軍靴で顔をふむ、蹴る、殴るをした。この人たちが殴ったためかどうかは知らぬが、とにかく三人とも死んでしまった」(『現地調査報告書』)

 こうして共楽館前に集められた中国人たちは、二人ずつうしろ向きに縛ら
れ、砂利の上に坐らされた。真夏の太陽がジリジリと照りつける炎天下に、水も食べ物もあたえられず、三日三晩にわたって拷問と虐殺がつづけられた。共楽館前の広場での中国人を見た鉱山労働者は「全くフラフラにつかれはててから逃げだしたのだろうから、つかまえられて共楽館前につれてこられただけで、死んでいたものが多かったろう。全部二人ずつ後手にしばられて、坐らされていた。あの暑い時、三日三晩も坐らされ、たたかれたのだから、ただでさえたまったものではない。便所へゆくのも二人つながれたまま、死んだ相手をひきずりながら、みな用を足していた。出る小使はみな血であった。ところが、水ものまされずのどがかわききった彼等は、それに口をつけてのんでいるものもあった。本当に気の毒だ、かわいそうだと思っても、ピストルや剣をつきつけた将校がゴウ然とかまえて、憲兵や警官を指揮しているのを見ると、誰も口にだせるものではなかった。言ったらすぐにやられる。血気の多いものはぶんなぐったり、つついたりした人も沢山あった。あの当時は、あの様な気持にされてしまっていたのだ」と語っている。(『現地調査報告書』)

三日三晩にわたって、残虐非道な拷問を受けて殺された中国人は、113人であった。


敗戦後も重労働続く

 四日目に、花岡派出所の留置場に入れられている主謀者の13人を除いて、再び全員が中山寮に収容された。こんどは、棍棒を待った補導員にかわって、武装した警官が監視にあたるようになった。数日後からは、主食の饅頭に混っているものがいくらか少なくなったほかは、以前と変わらない重労働がつづけられるようになった。この後も、病気で倒れる人や、警官などに殴られて死ぬ人などが、あとをたたなかった。

 その当時、大館警察署長として鎮圧の先頭に立った三浦太一郎は、二七年後にそのことを回顧して、次のように語っている。

 「(蜂起して)つかまえた人たちは、共楽館へ連れていかれました。ところがね、アメーバ赤痢だとか、いろいろな病気をもった連中でしょ。だから、鉱山の慰安施設である共楽館の中に入れるわけにはいかないと鉱山側がしぶるんですな。考えればムリもないが、そのとき私は腹がたった。そうこうしているうちに、警防団が出てきたりして、警備隊とか応援にきた入らが、結局、共楽館に集められたんです。あとで広場に放置したということになってしまったが、二日目からは、食糧もちゃんと与えましたよ。共楽館で拷問が行われたといいますが、そんなことはない。あえいでいる中国人の顔へ水をふきかけてやり、助けてやったりしたものです。横浜のB級裁判では、そんな証言は取り上げられなかった。『敗戦国民が何をいうのか』のひとことで終わりですよ」
(「日本で中国人は何をされたか」−『潮』一九七二年五月号)


 三浦が言うように、中国人にたいして拷問も虐待もなく、食糧もちゃんとあたえられていたとすれば、共楽館前だけで121人の死亡者が出るはずがない、と考えるのが普通であろう。一方、花岡派出所の留置場に入れられた13人のリーダーたちは、一週間にわたって拷問を受けたのちに、秋田市の秋田刑務所に移されたが、その状況を『秋田県警察史』(下巻)では、こう記している。

 「事件発生以来逃亡者の捜査、逮捕に主力を傾注した結果、7月7日にいたり752人を逮捕、謀議参加または殺人実行行為者としてつぎ13人を国防保安第十六条第二項の戦時騒擾殺人罪で送局した。

(筆者注・カッコ内は年齢)
 首魁=耿淳(30)謀議参与=李克金(28)孫道敦(44)張金亭(32)趙書林(36)劉錫財(32)劉玉郡(30)劉玉林(37)殺人=宮耀光(22)李広衛(27)張賛武(23)楷万斌(27)李秀深(23)」

 だが、8月15日に日本が無条件降伏をした二日後の8月17日に、内務省主管防諜委員会から敗戦にともなう「華人労務者ノ取扱」について、関係者に通達が出された。その内容は、中国人の労務を中止し、賃金を払い、衣食を支給し、留置者は即時釈放し、死亡者の遺骨を整理し、送還の準備をせよ。というものであった。

 しかし、こうした通達がとどいても、鹿島組花岡出張所では中国人たちを解放するどころか、敗戦前とまったく同じ状態のままで、強制労働をつづけさせた。鹿島組傘下の死亡者を見ると、八月は49入、9月は68人、10月は51人が死亡している。

 その後、9月2日に日本は連合軍の降伏文書に署名し、長くて暗い戦争は正式に終わった。

日本軍が捕虜にした連合国軍人や抑留者にたいしても、

 一、捕虜と被抑留者を虐待したものの処罰
 二、捕虜と被抑留者にたいする解放、保護、送還
 三、捕虜と被抑留者にかんする報告

の三点をくり入れた「降伏文書」や「連合国最高司令官総司令部一般命令第一号」などが発令され、中国人の強制連行と労役も終わりをつげたにもかかわらず、鹿島組花岡出張所の中国人たちには、戦争状態がつづいていたのだった。

 花岡の中国入たちが日本の敗戦を知ったのは、日本がポツダム宣言を受諾してから1ヵ月半もすぎた9月中旬のことである。ある日、一台の飛行機が花岡の上空に飛んでくると、花岡にある仙台俘虜収容所第七分所のアメリカとオーストラリア人たちに、物資を投下した。

 はじめて日本の敗戦を知った中国人たちは、すぐに仕事をやめて中山寮に帰り、今後の対処の仕方などを検討した。しかし、そこに入ってきた鹿島組の係員は、「仕事に出ないと飯を食べさせない」と威嚇するし、三浦大館署長も寮に入ってくると、「指示を聞かない人は容赦をしない」とおどした。

 中国人たちが敗戦の内容を知ったのは、その翌日に、花岡派出所に留置されていた通訳の于傑臣が釈放されて中山寮にもどってからだった。日本は無条件降伏をしたことや、耿隊長たち一三人は秋田刑務所で無事であることも知らされた。耿隊長たちはすでに死刑にされたと、中国人には知らされていたからだった。

 このことは、秋田刑務所に収容されている13人の場合も同じであった。ポツダム宣言受諾後も日本の敗戦は知らされず、戦争状態がそのままつづいていた。しかし、1945年9月15日に、秋田に進駐する第八先遣隊として、ページ少佐以下の将校たちが山形県の新庄からジープで秋田入りすることが決まったが、その四日前の9月11日に、秋田地方裁判所では、起訴していた13大の中国人に、大急ぎで判決をいいわたしたのである。

 叛乱罪を主張した憲兵隊が解散され、特高もなくなってしまったにもかかわらず、「『戦時』の騒擾殺人罪を、『戦後』に裁判した」(石飛仁『中国人強制連行の記録』太平出版社)のであった。しかも、占領軍が進駐してくることを知って、その直前にあわてたように裁判をしたのである。形式的にしろ、中国人たちの弁護にあたった秋田市弁護士会長は、この時の「法廷は国法の尊厳に輝いていた。わずかに法灯を守りつづけた人たちが、世評をよそに三ヵ月の苦労をつづけて、今日の判決に導いた誠意に慰められた」と、判決後に語ったという。
(赤津益造『花岡暴動』三省堂新書)


 
虫ケラのように殴殺

 林 
新しい中国の人たち来だの、あれは春になってからのことだったね。はじめに600人ばかり来て、それからひと月ばかり遅れて、また100人ばかり来たさ。その人たちみんな入ったから、こんど、中山寮の中狭くなったね。一人分のベッドに、二人も三人も寝るようになったさ。新しく来た人たち、わたしたちみたいにひょろひょろやせてないし、元気な人多いでしょ。それに、中山寮のいろいろなこと、知らない人多いからね。新しい人たち来た時、何人もの人たち、補導員に殴り殺されたよ。見せしめね。


 李 
わたしの小隊に、薛同道という人いたの。この人のからだ大きいから、とくに腹減るわけね。その日も、腹減ってどうしようもないから、仕事の途中に、裏山に登って、青くのびた草食べていたわけね。仕事終わって、寮に帰る点呼とったら、わたしの小隊でひとり足りないわけね。補導員が小畑だから、とくに悪いよ。小畑は、「逃げたに違いない。みんなで探せ」と、山とか田んぼとか探した。そのとき、裏山で草食べてる薛さん見つかったさ。縛って寮の前に連れてくると、新しく花岡に来た人たち集めて、みんな見ている前で、梶棒で叩いたね。頭でも、首でも、背中でも、どんなとこでも、好き勝手に叩くさ。倒れると、こんど踏むわけね。薛さんのからだ、血流れて、腫れてくるの。気失った薛さん、病室に運び込まれて、ひいひいと苦しそうに呻いて、三日後に死んでいったさ。わたし、薛さん死んだ晩、病室から寮に帰ってくると、耿大隊長に言ったね。「わたしたち、このままでは生きられない。生きる方法ないか」と。耿大隊長、黙って首を振るだけのことね。


 林 
からだ弱って、看護棟に運ばれて来た人に、趙老人という人いた。花岡に来た年寄の中で、いちばん長く生きたの、この趙老人ね。この人に、趙青児という息子いて、わたしと同じ看護班にいたの。親子で一緒に、日本軍につかまったわけね。趙老人が息引きとった時、趙青児そばにいて、大声でおんおん泣きだしたさ。そこに、小畑人ってきて、泣いている趙青児のこと足で蹴って、「死ぬやつは死なしておけ。泣くやつあるか」と叫ぶわけね。自分の親死んで、悲しくない人、どこにいるね。日本人の補導員、畜生よりもひどい人ばかりね。
人間の心、ひとかけらも持っていないよ。


 劉 
誰だったか、中国に帰るのことできた人でね、空腹の日つづくから、頭おかしくなったわけね。いつだったか、お昼の時、自分の分の饅頭食べてから、ほかの現場に、食べる物下さいと行ったわけね。そのこと補導員に見つかって、半殺しになったの。叩かれたり、煙草の火つけられたり、レール真っ赤に焼いて、足の間に挾まれたりして、お尻の肉、焼けとけちやったよ。あの人、いまでもお尻の肉ないと思うよ。看護棟に運ばれてきたけど、薬もないから、たいへんさ。傷ひどくなって、もう死ぬ状態になったさ。その時、日本の敗戦の
ことわかって、アメリカのペニシリン手に入ったの。それに、食べ物もよくなったでしょ。あの人、めずらしく助かったわけね。敗戦わかるの、もう一週間おくれていたら、いのちなかったね。この人の助かった理由、第三回目に来た人で、まだあまりからだ弱っていなかったの。わたしたちと同じに来た人だったら、もう助からなかったね。


 李 
新しい中国の人たち来てまもなく、仕事する時間、朝と晩で二時間ほど長くなったでしょ。それに、食べる物悪いから、腹減ってくるの当然さ。腹減って、草食べてるの見つかると、叩いて殺したり、片輪になるほど叩いて怪我させるのだから、ひどいよ。もっとひどいこと、同じ中国人に梶棒で叩かせることね。道路に捨ててあるもの拾って食べたとか、歩きながら道端の草引っぱって食べたとか、理由にならないようなことで、縛って寮に連れてくると、わたしたちを集めるの。一人ひとりに梶棒持たせて、縛ってある人のこと、叩かせるわけね。はじめのうちはいくら言われても、誰だって殴ったりしないでしょ。すると、補導員たち、命令きかないといって、叩かない人たちのこと、殴るの。どんなことされるかわからないし、殴られると痛いから、叩くようになるの。相手が痛くないように、叩こうとするから、力人らないでしょ。そのこと悪いといって、また叩くの。何人かで一人の人を叩いて、気が遠くなって倒れるでしょ。そのこと見ると、補導員たち喜ぶわけね。こんなひどいことないよ。人間のやることじゃないよ。


 林 
見せしめということもあったけど、中国人にそんなことやらせて、喜んでるわけね。叩かれる人もたいへんだが、叩く人もたいへんなわけね。


 李 
一日に一人か二人か、補導員に叩かれて死ぬ人あるよ。怪我して動けない人も、どんどん増えていくね。補導員たち、悪いことした人を叩き倒すと、こんど、わたしたち中隊長や小隊長集めて、「お前たち、教育するの足りない。だから、草食べに歩く。人の捨てたもの、拾って食べるのは、人間のクズだ」と、わたしたちのこと叩くの。死ぬほどは叩かないけど、毎日だからたいへんさ。自分の生きるの、あとIヵ月あるか、ニカ月あるか、そのたびに考えたよ。叩かれた人、すぐに死んでいくから、そのこと、いつ自分の身の上にふりかかってくるかわからないさ。


 林 
叩かれると、すぐ死ぬ人多いよ。気絶して、看護棟に運ばれてくるでしょ。その晩のうちに、血吐いて死ぬ人ほとんどね。どんなにひどい殴られ方したか、これだけでもわかるね。


 劉 
棍棒で殴ったり、殴り殺したりするのこと、寮の中でもあったさ。栄養のある補導員たち、力いっぱい、思いっきり殴るからね。いまくらいの元気あれば、棒で少し叩かれても、死ぬことないよ。栄養失調になって、ようやく息しているの状態で、歩いても空腹でめまいするからね。叩かれて倒れても、わざと倒れたと思うとるから、倒れた人のこと、また叩くから死ぬわけね。だから、1945年の三月ごろになると、一日に五、六人も倒れることあって、蜂起する時は、みんな倒れてしまうの状態だったからね。蜂起したの原因、これ一つね。


 李 
毎日のように誰か殺される日つづいていたとき、劉沢玉も、夜中に食べる物さがしに出たの、見つかったの。寮の前とかうしろに、ちょろちょろの水流れる小さい川、たくさんあるの。その小さい川の中に、小さなカニとか魚がたくさんいるからね。補導員が寝た夜中に、川に行って、それ取って食べるわけね。たくさんの人、夜中に寮から出て、それ取って食べたけど、運悪く、劉さん見つかったわけね。ひと晩、縛られたまま、寮のそとになげられていた。次の朝、わたしたち小隊以上の人、みんな事務所に集められたさ。伊勢が劉さんの罪のこと説明してから、わたしたちに、劉さんのこと殴らせようとしたの。だけど、わたしたち前に、同胞の人殴って、気絶させたことあったでしょ。その時、どんなことあっても、わたしたち殴り殺されても、同胞を殴ることはしまいと、相談して決めていたの。こんど、わたしたちに叩くように、脅迫したり、殴ったりしたけど、誰も叩く人いないでしょ。そのこと悪いといって、劉さんのこと裸にして、六人も七人もかかって、好き勝手に棍棒で叩いたり、靴はいた足で蹴ったり、踏んだりするの。劉さん痛いから、大声あげて、泣きながら机の下に逃げていくでしょ。机の下から引っぱってきて、またどんどん叩くの。気絶するでしょ。バケツに水汲んできて、倒れとる劉さんにかけるで史よ。気がつくでしょ。また、「このヤロウー」と叫んで叩くの。事務所の中、劉さんの大便でたのとか、晩に食べたカニの吐いたのとか、いっぱいちらばったね。もう弱って、立って逃げられないね。それでもまだ叩くから、こんど、転んで逃げるでしょ。からだに大便とか、吐いたのとかつくの。それ、人間のかっこうじゃないね。こんど、清水がね、鉱山で使うレールあるでしょ。そのレール、炊事場のかまどの火で、赤く焼いたの持ってきたの。あの時のこと、いまでもはっきりと覚えとるよ。息もつけないほどになって、倒れとる劉さんの股に、その赤く焼けたレール差し込んだの。劉さん、悲鳴あげて、その赤く焼けたレール、手でよけようとするでしょ。手が黒い煙だして、焼けていくの。焼ける音もするさ。こんど、補導員が何人も寄って、劉さんの手とか足押さえて、股にそのレールあてたの。部屋の中、人の焼けた煙で、いっぱいになったさ。劉さん、こうして殺されたの。わたしたち、そのこと全部見ていた。手助けすると、自分も殺されるかわからないから、誰も黙っていたけど、そのやり方、あまりにもひどいよ。


 林 
苦しい殺され方した劉さんのこと思うと、いまでも涙出るよ。あの朝早く、事務所に来いと、看護棟にいたわたしたちに連絡あったでしょ。わたしと誰か三人か四人か、事務所に行ったでしょ。劉さんの屍体、早く持って行けと叫ばれて、看護棟に運んだけど、もうその時死んでいたよ。めちゃくちゃに殴られて、顔の形もちゃんとわからないくらいにね、殴られて、顔の形、変わっているの。殴られたところとか、レールで焼かれた股とか、血が出たり、ベトベトしているの。もうこれ、人間の姿じゃないよ。病室に入れたでしょ。あまりのひどい仕打ちに、病気とか怪我の人たち、みんな声出して泣いたさ。そこに清水の鬼豚人ってきて、「泣いているの誰だ。早く埋めてしまえ」と、どなって歩くの。その朝のうちに、穴掘って埋めたけど、劉さんの殺され方、いちばんひどいね。


蜂起を計画

 李 
わたしの寝ている部屋、大隊長のすぐ隣なの。劉さんが殺された夜中に、わたし、大隊長のところに、話にいったの。「このままではわたしたち、いつ殺されるかわからない。早く逃げよう」と言ったの。大隊長、このとき覚悟決めたね。これ、蜂起のはじまりなの。わたしたちの蜂起、戦争敗けるの時までのびていたら、もっと多くの人たち殺されていたね。わたしたち、どうせ死ぬか、殺されるかするの、わかっていたさ。朝くると早く起こされ、仕事に出るでしょ。夜は暗くなってから、寮に帰ってくるでしょ。食べ物ぜんぜん悪いから、
立って歩くのもようやくの状態よ。それに、毎日のように、誰か殺されてるでしょ。生きていく気持、ぜんぜんないよ。早く死にたい、死ねばいまより楽になる、そう考えている人ほとんどね。どうせ、遅いか早いか、わたしたち殺される。このまま殺されるのだったら、わたしたちの同胞殺したり、わたしたちを苦しめた奴らを、この手で殺してやれというのが、当時のわたしたちの気持ね。このままにしていると、わたしたちみんな殺されるという気持、どの人にもあったさ。蜂起して、失敗しても、もともとさ。どうせ、一ヵ月か二ヵ月すれば、自分にも殺されるの当たるの、確実でしょ。生き残れる道、一つもないからね。日本まもなく敗けるのわかっていたら、もっと我慢して待っていたよ。中山寮に新聞もラジオも、なんにもないから、戦争どうなっているか、ぜんぜんわからないでしょ。新しく中国から来た人たちの話聞くと、日本の戦争、かなり苦しくなってることわかったけど、一ヵ月半の後に敗戦になるほど敗けてきていること、わたしたちぜんぜんわからないでしよ。死んでもともと、生きるには蜂起するよりほかになかったさ。


 劉 
わたしは看護班にいたから、その蜂起のこと、相談されたことなかったけど、一度でいいから、早く中国に帰りたい気持、誰にもあったね。病室で死んでいく人たちのほとんど、最後に、中国に帰りたいとか、母とか、妻、子どもの名前よんで、息引きとっていったからね。


 李 
いちばん最初に、蜂起の計画を相談したの、大隊長の耿譚でしよ、それに趙樹林、李克金とわたしの四人だったの。みんな劉沢玉の殺されるの見た、中隊長と小隊長たちね。相談するとしても、たいへんよ。昼は、とてもできる相談じやないでしょ。話してるの見つかるだけで、殴られるからね。劉さんの殺された日の晩、仕事から帰って、饅頭一つの夕食終わって寝たでしょ。夜中に、何回か補導員がまわってくるね。そのまわってくるの終わって、次にまわってくるまで、四人で大隊長のところに集まったの。そこで、蜂起すること決めたの。この計画、補導員たちに洩れるとたいへんでしょ。はじめから、多くの人に、話拡げないようにしたの。補導員まわってくるから、あまり長い時間、相談もできないでしょ。ちょっと集まって、相談するでしょ。こんど、便所に立ったふりして、また自分のところにもどって寝るでしょ。そんなこと、ひと晩に何回もやって、だんだんと相談固めていったの。計画かなり固まってから、口の固い人にだけ、またこの計画の話拡げていったの。蜂起の計画に参加したの、8入だったよ。あとの人たち、このことぜんぜん知らないさ。蜂起する晩になってから、全員に知らせたわけね。


 林 
わたしたちに知らされたの、蜂起の晩の9時ころだったからね。はじめはビックリしたけど、みんな、すぐその気になったからね。


 李 
計画の中で、わたしたちどうするか、詳しく決めて、その担当も決めたの。近くに、朝鮮の人たちの入ってる、東亜寮というのあったの。その寮のこと、知っている人多いよ。アメリカ兵のいるところは、知らない人多いね。アメリカ兵いることわかっていたし、だいたいの方角も見当つくが、場所は知らない。最初の計画から、わたしたちだけでなく、東亜寮の朝鮮人やアメリカ兵も解放して、一緒に立ちあがるのこと決めていたの。わたし、中国でゲリラの経験あるでしょ。からだ強くて、ゲリラの経験あるの70入ばかり連れて、東亜寮とかアメリカ兵のいる寮の日本人襲って、武器とりあげて、解放した人たち一緒に連れていく計画だったの。確か劉錫さんだったか、彼は20人くらいの同志連れて、花岡の警察派出所襲って、武器奪うことにしていたの。武器がいくらかあるの、知っていたからね。わたしたちの手に、武器ぜんぜんないでしょ。蜂起しても、武器ないと、なんにもできないでしょ。わたしたちだけで、800入くらいでしょ。それに、朝鮮人が300人くらい、これにアメリカ兵たち入れると、1,300人くらいになると考えたの。これに武器あれば、たいへん力になるという計画だったの。夜中に蜂起して、山の中に逃げるわけね。食糧も倉庫から持っていくから、当分食べられるでしょ。皆で山の中を逃げて、海に出るの。海の港か浜に、ボートか船あったら、それ盗んで乗り、中国に帰りたいと考えたの。それだけわたしたち、中国に帰りたかったの。わたしたち、かなり詳しく計画したよ。宿直室に寝てる補導員を襲う人たち、窓から逃げる人を待ち伏せする人たち、電話の線を切る人など、みんな決めたの。


 劉 
わたしたち看護人に伝えられた仕事、全員が蜂起したの見て、山に病人を運ぶことだったさ。


李 
病気とか怪我の人たち、たくさんいたからね。計画どおりみんなやってから、中山寮に火つけて、焼くことにしていたの。計画できて、実行することになったでしょ。わたしと張金亭さんの二人、その日、仮病使って休んだの。腹痛くて、仕事に出られないといってね。昼の間に、寮の中とか、事務所の様子など、二人で詳しくさぐったの。そしたら、補導員の中でもいちばん悪いの小畑と福田が、その晩は家に帰ることになっていた。それに、わたしたちによくしてくれる越後谷さん、この晩は泊まりに当たっているのわかったの。いい人は、殺されないでしょ。夜中に襲うと、どの人かわからないから、殺してしまうかもしれないからね。計画に参加した人たち、飯場に帰ってきてから、そのこと相談したの。やはり、そのことダメと決まったの。こんど、蜂起のする日、6月30日の深夜に延期したの。誰の気持も同じね。わたしたちによくしてくれた人、殺されないからね。6月30日の日も、わたし仮病使って休んだけど、その日、誰か補導員の一人来て、「お前、仮病使っている」と、寝ている上から、どんどん叩かれたけど、吐くの真似して、寝ていたの。30日の晩、越後谷さんともう一人の石川さんの二人、寮に泊まらないことわかったの。あとの補導員とか通訳たち、みんな寮に泊まることわかったでしょ。この日よりないと、この晩に蜂起すること決めたの。だけど、早く知らせると、どこから洩れるかわからないでしょ。蜂起する直前まで、秘密にしておいたの、いつものように小さい饅頭食べて、みんなでシラミ取りしたりして、寝る時になってから、中隊長や小隊長が自分の部下に、蜂起のこと伝えたの。その時の時間、
もう9時すぎていたと思うよ。


早すぎた蜂起

李 
蜂起のことみんなに伝えてからまもなく、小畑が見回りに来たの。戸開けて入ってくると、大きな足音たてて、部屋のなか回って、出て行ったね。わたし、身動きもしないで黙っていたけど、からだ汗ビッショリさ。蜂起の計画のこと、バレるのじやないか、誰か小畑の前にとび出して、蜂起のこと知らせるのではないかと思って、ピクピクしたよ。それから11時までの時間の長いこと、たいへんよ。からだ疲れてるけど、眼冴えているでしょ。眠ること、とてもできないさ。あまり部屋の外に出ると、あやしまれるから、ダメでしょ。寝ながら、いろいろのこと考えたさ。もう死ぬかもしれないからね。でも、わたしたち中国人に ひどいことばかりした補導員たちに、まもなく復讐するのことできるから、死んでも残念だという気持、あまりなかったね。ただ、一度中国に帰りたいの気持、これ、強かったさ。


林 
わたしのいる看護棟の病人とか、わたしたち看護班が蜂起のこと知ったの、看護長の劉玉林が知らせてくれてからのことね。病気の人たち、劉さんの話、黙って聞いていたね。補導員の奴らに、もっともひどい仕打ちされたの、病人たちだからね。それなのに、自分の手で仕返しのできないこと、残念なわけね。みんなの気持、蜂起うまくいってくれと、祈るようだったさ。蜂起はじまると、みんなで助けあって、山に逃げていくこと、わたしたちにきた命令ね。


劉 
蜂起の計画知らされてから、怪我の人、たいへんだったさ。傷口とか折れた手足とか、ちゃんとしておかないとダメでしょ。だけど、包帯もぜんぜんないでしょ。こんど、わずかに残っている着物さいて、包帯つくったの。だけど、準備してるのこと、補導員に見つかると、たいへんだからね。かくれて、少しずつやったの。


李 
夜中の11時ころ、わたしたちこっそり起きると、それぞれの部署につく人たち、起こして回ったの。どの人もみんな、目だけギョロギョロさせて、目覚ましたまま寝ていたね。自分の担当するの場所、みんな決まっていたけど、もう一度、確認して歩いたの。わたしは蜂起がはじまる前に、中国にいた時にゲリラの経験のある人70人ばかり連れて、東亜寮の近くまで行って、蜂起の起こるの待っている予定だったの。蜂起はじまると、すぐに日本人の監督襲って、朝鮮の人、解放することになっていたでしょ。ところが、わたしたち70人ばかり集まって、東亜寮に向かおうとしていた時、寮の中で、ギャアという大きな男の悲鳴聞こえてきたの。わたし、ビックリして寮の中に入ったでしょ。もう、任鳳岐が殺されているの。張金亭が早まって、事務所とか宿直室の窓口とか、その他の部署にみんながつかないうちに、任の奴を殺してしまったわけね。いま考えると、張の気持もわかるさ。蜂起の時間がくるの、いまかいまかと、居ても立ってもいられない気持ね。それで、我慢できなくて、手を出してしまったわけね。だけど、計画より早く、任が殺されたでしょ。その悲鳴、あまりにも大きかったわけでしょ。寝ている補導員たちに聞こえて、逃げられるとたいへんでしょ。寮の中暗いのに、計画よりも蜂起早まったものだから、みんなあわてたわけね。手にスコップとかツルハシとか持って、勝手に宿直室にとび込んでいったの。だけど、逃げるのに備えて、宿直室の窓の外を囲むことになっていた人たち、まだ部署についていなかったわけね。しかも、宿直室の中、暗いでしょ。誰がどこに寝ているか、ぜんぜんわからないからね。あとでわかったけど、このとき、宿直室の中で殺しだの、檜森と猪股の二人だけね。あとの人たち、みんな窓から逃げたの。それを追いかけて殺したの、長崎と小畑だけさ。あとの補導員たちに、逃げられてしまったわけね。生き残った福田、これいちばん悪いね。清水も助かったさ。いちばん悪いのことした補導員たち、殺せなかったわけね。計画より早く、やってしまったからさ。こんど、それからがたいへんだったさ。逃げた補導員たち、すぐ会社とか、警察に走っていくでしょ。それから大騒ぎになること、わかっていたからね。計画より早くやったために、アメリカ兵とか朝鮮人の解放もダメ、警察を攻撃することもできな
かったし、寮に火つけることも、やれなかったさ。食べ物も、つくる時間なかったからね。最初の計画ちょっと狂っただけで、みんなダメになってしまったの。


林 
わたしたち、中山寮から離れた看護棟にいたでしょ。蜂起のあるの、いまか、いまかと待っていたさ。待っている時間、長いわけね。我慢して、心を落ち着けて、待っていたさ。

夜中になって、寮の方で人の叫ぶ声したでしょ。それからたくさんの人が叫ぶ声とか、ガラスの割れる音とか、板が破れる音とかするね。劉さん、起きあがると、ランプに火つけたでしょ。みんな、起きあがったね。計画だと、補導員たち殺してから、食べ物たくさんつくり、それ食べてから持っていくことだったから、あまりあわてなかったの。時間があるからね。

だけど計画失敗したのこと、知らせてきたでしょ。食べ物つくる時間ない、すぐ山に逃げろと、知らせがきたでしょ。はじめの計画だと、50人ばかりいた病人たち、みんなで手分けして、一緒に連れて行くことだったけど、このことできなくなったわけでしよ。早く逃げないと、警察やってくるというので、起きあがれる人たち、我慢して起きて、病室から出たの。

起きあがって歩けない人たち、入口まで這い出してきたね。這うこともできない人たち、「待ってくれ」「ぼくも連れていってくれ」と、病室の中で叫んでるの。わたしたち何人かの看護人、歩けない人たち助けたり、背負ったりして病室の外に出たけど、重病の人多いでしょ。とても、みんな連れていけないの。寮の人たち、バラバラになって逃げ出していくの、暗い中で見えるでしょ。わたしたちも、気がせくわけね。早く逃げていきたい気持、誰でも同じさ。

計画だと、看護棟にも火つけて、焼くつもりだったの。だけど、動けない重病人たち、病室の中に残っているから、焼くのことできないでしょ。そのままにして、逃げたの。看護棟のそばに、水の流れる小さな川あるさ。その川が流れてくる山に、逃げ出していったの。外は暗いでしょ。どこに逃げていけばいいのか、ぜんぜんわからないからね。


李 
計画失敗したものだから、逃げた補導員たち、すぐ鉱山町に走ったでしょ。寮の中の人たち、まだ半分も逃げないうちに、下の方で警報のサイレン鳴ったり、半鐘鳴ったりするの、聞こえてくるでしょ。鉱山町の中で、電灯とかたいまつの明り、激しく動くの見えるの。

そんなこと見たり、聞いたりすると、早く逃げたいという気持、強くなってくるね。不安も出てくるでしょ。みんな、どこに逃げていくというあてもなく、走り出してしまうわけね。

それに、武器もぜんぜんないでしょ。何人かの人、スコップとかツルハシ持って逃げたけど、それもわずかな人たちね。重いから、走る途中で捨てた人、ほとんどさ。食べる物持った人も、何人かいたけど、それもわずかね。ほとんどの人たち、手ぶらで逃げていったの。暗いから、どこに逃げていけばいいのか、わからないわけね。中山寮からかなり離れたところに、高い山あるの、前から見て知っていたでしょ。暗い中で、その高い山だけ、ちゃんと見えるわけね。その山のかげに逃げれば、遠くまで逃げられると考えていたから、その山に向かって逃げたの。何人か先になって走ると、その後についてみんな走っていくわけね。田んぼとか鉄道とか越えて逃げたその山、岩とか本とかいっぱいあって、ひどいさ。暗いから先見えないし、あわてて逃げるから、岩にぶつかったり、木にぶつかったりして、手からも足からも、血が出るわけね。それでも、ぜんぜん痛いと思わないの。早く遠くへ逃げていきたい気持で、どの人も夢中だからね。この山の名前、後になって聞いたけど、獅子ヶ森というところね。これ覚えたの、ずっと後のことさ。


林 
わたしたち病人と一緒だから、そんなに走れないでしょ。あっちの谷のぼる、こっちの山のぼるでしょ。坂ころがり落ちたり、本にぶつかって倒れる人多いの。だから、長い時間歩くと、みんなバラバラになってしまったさ。病室からいくらか外に出て、あとはそのままという重病の人も、わりに多かったよ。


李 
いま考えると、もっといい逃げ方あったね。いまになると、そのことよくわかるけど、あの時はべつね。獅子ヶ森という山、わたしたち逃げていく目標でなかったけど、どこに逃げていけばいいのかわからないから、見える高い山を目標にしたわけね。はじめに計画した時、どの方角に逃げていくか、ちゃんと決めていたの。だけど、はじめの計画狂ったでしょ。先になって、みんなを引っぱっていく人、いなくなってしまったさ。みんなバラバラに逃げたから、どうにもならないよ。それでも、かなり遠くまで逃げた考えでいたけど、朝が来て、あたり見えてくると、わたしたちたくさんの人がのぼっている山のすぐ下に、家があるわけね。花岡鉱山も、ちょっと遠くの目の前に見えるさ。ぜんぜん遠くに逃げていないわけね。それに、夜明けると、もう警察とか、消防団の人とか、いっぱいの人たち、わたしたちのいる山を取り囲むようにしているのが見えるの。夜、明けると、わたしたちのからだ、もうふらふらね。骨ばかりにやせて、食べ物少ない毎日だったでしょ。そのからだで、ひと晩寝ないで、歩きつづけたわけでしょ。もう、腹の中になんにも入っていないさ。空腹になっても、山の上だから、飲む水もないの。これだから、戦いになっても、どうにもならないよ。山に来た時、もう膝ガクガクして、動けなかったからね。食べ物あったら、もっと遠くへ逃げられたけど、そんなものないから、とても無理ね。戦ってすぐに負けるの、わかっていたの。


拷問の明け暮れ

林 
夜明けても、わたしたち病人と一緒だから、ぜんぜん遠くへ逃げられないわけね。わたしも、看護棟からどれくらい逃げたかな。いくらも離れていなかったさ。朝が明けたころ、警察の人が来て、わたしたち看護班を捕えたね。疲れてるから、戦うのことぜんぜんできないよ。わたしたち捕えられると、二人がひと組に縛られて、トラックに乗せられたさ。病人は逃げることできないから、そのままね。病人たち、山からまた病室に運ばれたの、いつのことかわからないよ。わたしたち乗せたトラック、花岡派出所の近くに、大きな鉱山の劇場あるでしょ。その劇場の前、砂利敷いた広場ね。その広場に降ろされたの。縛られたまま砂利の上に、正座させられたから、足とか嬬痛いよ。この広場に連れてこられたの、わたしとか劉さん、いちばん最初ね。坐らされると、手拭で目かくしされたでしょ。目かくししたの、わたしたちの首、斬り落とすためかな思ったね。その方が、叩き殺されたり、食べ物なくて餓え死にさせられるより、ずっと楽だと思ったさ。こんな苦しいのことイヤだ、早く死にたいと思っていたから、死ぬのこわくなかったさ。


 李 
岩山に集まったの、何人いたかな。少なく見ても、300人はいただろうかね。何力所かに固まっていたけど、どの人も、動けないほど疲れているね。食べる物ぜんぜんないでしょ。太陽高くなってくると、暑いでしょ。みんな、動くこともできないさ。わたしたちのいる岩の山囲んで、警察とか消防団とかの人たち、いっぱいいるの見えるでしょ。人乗せたトラック、どんどん走ってくるでしょ。どうなるのか、だんだん心配になってくるでしょ。朝だいぶ進んでから、警察とか消防団の人たち、いっせいにわたしたちのいる山に登ってき
たね。みんな、鉄砲とか、日本刀とか、竹ヤリとか持っているでしょ。わたしたちの中で、武器持っている人、誰もいないさ。こっちが負けるのこと、確実にわかるからね。それでもわたしたち、鉄砲とか日本刀持って、山登ってくる人たちに、石投げたり、棒きれふったりして戦ったさ。でも、かなわないわけね。鉄砲でうたれたり、日本刀で斬られたりで、何人もの人たち、山の上で殺されたね。こんど、捕えられるでしょ。二人が一組に縄で縛られて、山から下って、花岡の劇場の前まで歩かされたの。トラックに乗せられた人もいたけど、トラックの数少ないから、歩かされた人多いよ。わたしたちのこと見た農家の人とか、鉱山の人たち、石投げてきたり、ツバ吐いてよこしたりするの。なにか大声で言ってるけど、その意味わからないよ。だけど、蜂起のこと、怒っていることだけは確かね。劇場の前に着いたでしょ。ふらふらで、倒れた人もいたよ。こんど、二人一組に、背中合わせに縛られて、砂利の上に坐らされたの。ちょうど、真夏でしょ。食べ物もくれないし、水もないでしょ。目の前ぼんやりして、なんにも見えないほど、ふらふらになったの。でも、二人が一緒に縛られとるでしょ。一人ふらふらすると、二人とも倒れてしまうの。すると、警官とか憲兵が走ってくると、そのこと悪いといって、棍棒で頭とか背中を、パンパンと叩ぐの。二人一緒だから、坐らされても疲れるわけね。それに、一人のひと弱っていると、二人とも倒れるから、叩かれることも多いわけね。


 劉 
昼ころになると、真夏の太陽、ジリジリと照りつけるからね。前の晩、小さい饅頭一つ食べただけで、ひと晩、田んぼの中走ったり、山登ったりしたわけでしょ。もう、誰の腹の中にも、なんにも入っていないさ。しかも、暑い太陽、まともに受けているからね。砂利の上に坐るから、脚が痛むさ。少し動くと、梶棒とんでくるでしょ。地獄よりもひどいところさ。


 林 
いちばん苦しいの、水飲みたいことね。口の中とか喉、ピリピリ痛むよ。「水ほしい」「水ちょうだい」と、何人もの人たち言ったよ。そのこと言うと、何か大声で叫びながら、棍棒とんでくるの。いま考えても、よく生きていたと思うよ。憲兵の中で、ひどい人もいたよ。水飲みたい言うと、桶に水汲んで、わたしたちのそばに持ってくるでしょ。その水、ヒシャクに汲んで、目の前につき出してよこすの。飲みたいでしょ。うしろに縛られている人を引っぱって、顔を近づけていくわけね。すると、その水の入ったヒシャク、だんだん遠くしていくの。こんど、倒れるでしょ。そのこと悪いと、また棍棒とんでくるわけね。最後にその水、目の前の砂利にあけたり、頭にふっかけたりするの。水、頭から顔に伝わって、流れるでしょ。その水、舌を出してなめるの。そのことおかしいといって、みんなで笑うの。あんなことやる人に、人間の心ないよ。日本の人、ひどいことばかりするの多いね。


 李 
劇場の前、引っぱられてきた人で、だんだんいっぱいになってきたでしょ。そのわたしたちのこと見ようと、女の人とか、子どもとか、たくさん来たね。何か大声で叫んで、わたしたちの顔に、ツバ吐いて、帰っていく女の人もいたよ。子どもの中には、わたしたちのいるところに来て、顔とか腕とか、叩いて歩くのもいたよ。遠くから、石投げてよこす女の子どももいるね。わたしたち縛られてるから、そんなことされても、よけることできないよ。黙って、睨みつけているだけね。こんど、二日目になって、生死のあいださまようようになると、睨みつけることもできないさ。されるがままの状態ね。


 林 
砂利の上に、三日二晩も坐らされていたけど、食べ物とか水、ぜんぜんぐれないの。夜になっても、横になって、寝ることもできないの。四日目になって、スイトンみたいなもの、お椀にたった半分だけ出たね。いま考えても、生きていたこと、まったく不思議ね。みんな、疲れと空腹で、ふらふらしているでしょ。倒れる人、多くなるわけね。どうにもならなくなって倒れると、そのこと悪いといって、棍棒で叩かれるから、死ぬ人多くなるわけね。死んでも、そのままにしておくよ。二人一緒に縛られとるうち、一人死んでもそのままにしておくでしょ。わたしの背中に縛られた人、名前も誰かわからないよ。からだの弱い人だったわけね。劇場の前に引っぱられてきた日の夕方、もう死んだよ。死んだ相手のからだ、だんだん固くなってくるでしょ。すると、重くなっていくの。一人でもたいへんなのに、死んだの人ひとり背負っているのだから、苦しいさ。こんど、次の日になると、死んだ人、だんだん臭いしてくるの。重くて、臭いしてきて、どうにもならないよ。こんど、晩になるでしょ。犬とか、猫とか、何匹も集まってくるの。死んだ人の足とか手とか、食べようとするの。食べるもの奪い合って鳴いたり、骨を噛むの音、夜中になると聞こえてくるの。生きてる人にも、かぶりついてくるの。わたしの膝にも、爪かけてきた猫いたけど、追うにしても、声出ないよ。疲れて、からだぜんぜん動かせないさ。わたしは食べられなかったけど、あとで聞くと、食べられた人もいたわけね。地獄よりもひどいところだったさ。


劉 
わたしたちのからだ、裸のような状態だからね。昼は暑いし、こんど、朝方は寒いでしよ。寒くて、からだがカタカタさ。これじゃ、なにをされなくとも、死んでしまうさ。


 李 
わたし、劉さんとか林さんみたいに、劇場の前に坐らされたの、半日くらいのことね。わたしたち捕えられて、連れてこられると、すぐに言ったの。蜂起のこと、わたしたち計画した、わたしたちの手でやった、ほかの人たち関係ない、早く寮に帰してほしいとね。わたしたちリーダー13人、すぐに花岡派出所に連れていかれたさ。ほんとは、計画に参加したの8人ね。だけど、あとの5人、わたしたちのちょっとした不用意のために、リーダーの中に入れられたの。8人はみんな、もう覚悟決めてるからいいけど、あとの5人、泣いてるよ。わたしたち関係ない、殺されるのイヤだと。その人たちの気持、よくわかるね。自分たちで計画したことでないからね。わたしたち、あとでそのこと何回も言ったけど、警察で認めてくれないよ。わたしたち13人のほかに、中心になった人、まだいるかと、ほかの人たち拷問にかけて、聞いたわけね。からだとか、ズボンとかに、いくらか血のついてる人いるでしょ。すると、その人、日本人殺した犯人でないかと、拷問にかけるの。リーダーになった人たち、
必ず殺される、生きられると、誰も思っていないからね。


 林 
病人でも同じだったさ。自分で転んで、傷つけて、血流してる人いるでしょ。その人、補導員のこと殺した人かもしれないと、劇場の中に連れていくの。劇場の中、拷問にかける場所ね。何時間かたって、劇場の中から運ばれてくるでしょ。もう動けないね。病人のひと拷問にかけるのだから、当然ね。劇場の中から、死んで出てくる人もいたね。劇場の中、どんなことあったか知らないけど。


 李 
わたしたち13人、花岡の派出所に入れられたでしよ。こんど、どんな計画して、誰と誰が補導員たち殺したか、詳しく自白させようとしたの。だけど、誰もそのこと、詳しく言わないの。どの人も、わたしたちみんなでやった、あとの人たち、ぜんぜん関係ないと言うだけでしょ。こんど、調べてる警官たち怒ってね。一人ひとり、劇場の中に連れていくの。天井の高い、がらんとした劇場ね。人った時に、とうとうここで殺されるのかと思ったよ。劇場の中に入るでしょ。何人かで、ビンタンくわせるの。わたしたち、立ってもふらふらの状態でしょ。一つビンタンくうと、もうその場に倒れるさ。倒れると、また立だされるでしょ。するとまた、ビンタンとんでくるの。そんなこと、何回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、長い木の腰掛けあるでしよ。その腰掛けに、仰むけに縛りつけられるの。それから、桶に水汲んできて、口と鼻から注ぎ込むの。苦しくて、息もつけないでしょ。からだ動かそうとしても、縛られとるから、動けないでしょ。「苦しい!」と叫ぼ
うとしても、口とか鼻に水いっぱい入ってるから、声出ないでしょ。また、そんな元気もないから、気を失ってしまうわけね。ところが、気失ってしまうと、こんど、腰掛けを逆さに立てるの。頭が下になるでしょ。すると、からだの中に入った水、こんど、口や鼻から出るでしょ。水出ると、わたしたち息を吹き返すわけね。その時の苦しいこと、とても言えないよ。ひと思いに殺してくれと、何度も叫んだよ。声にならないけどね。息を吹き返すでしょ。すると、また腰掛け水平にして、口と鼻にまた水を注ぎ込むの。気を失うと、また腰掛け逆立てにするでしょ。こんなこと、三回もつづけてやられると、もうダメよ。自分の力で、派出所まで歩いて帰れないよ。リヤカーに乗せて運ばれて、留置場の中に放っぽり出されるの。わたしだけでなく、13人、みんな同じことやらされるでしょ。でも、8人の誰も自白しないでしょ。5人は関係ないから、わたしじゃないと叫ぶだけね。こんど、次の日になると、また、劇場の中に連れていかれるの。こんどまた、なにをされるかわからないから、恐いさ。

 通訳来て、みんな白状しろ、許してやるからと言うでしょ。だけど、ひと口も言わないでしょ。こんど、太い注射器持ってくるの。桶の中の水、その注射器の中にいっぱい入れるでしょ。ハシゴの上に、わたしのからだ縛りつけて、その注射器腹にさして、水を腹の中に入れるの。何度もやると、やせてへこんでる腹、丸くふくらんでくるの。誰か靴のまま腹の上にあがって、腹の上ではねて、ふくれた腹ふむの。すると、口とか耳とか鼻からとか、腹の中の水、ふき出してくるの。その時の苦しいこと、たいへんよ。このこと、四回も五回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、天井から垂してある針金に、両方の親指縛りつけて、その針金を、上に巻き上げるでしょ。からだ宙吊りになると、こんど、尻でも脚でも、棍棒でめちゃくちゃに殴るの。痛いから、ぶらん、ぶらんと動くでしょ。親指の皮、べろっと抜けて、からだ下に落ちるの。そのとき、ほとんどの人、気絶してしまっているけど、まるで、犬か猫みたいな扱い方されたね。


生き地獄の毎日

 林 
わたしたち共楽館の前の広場に、三日二晩いたけど、食べ物も水も、ぜんぜんないでしょ。一日に一回は、共楽館の中に引っぱられて、お前、暴動に参加したろ、人殺したろと、拷問受けるでしょ。わたしそのこと知らない、わたし関係ないと言っても、信用しないの。嘘つくなと、殴る、蹴るをつづけるわけね。共楽館の中で死んだ人、建て物のわきに運んできて、積んでおくよ。三日の間に死んだ人、何人いたかな。いっぱい積んであったさ。20人くらいはいたね。広場でも死んだ人多いね。昼も夜も、あっちこっちで死ぬよ。昼は死ぬ人わかるけど、暗い時は、誰死んだかわからないよ。朝になって、明るくなると、死んでる人見えてくるの。あっちでも、こっちでも、死んだ人見えるわけね。死んだ人も、そのまま広場に捨てられてあるでしょ。朝になるでしょ。ハエがいっぱい飛んでくるの。死んだ人の口とか目とか、ハエがついて黒くなっているさ。そのハエこんど、生きてるわたしたちの口とか鼻にも、飛んでくるでしょ。わたしたちのこと、死んでいると思っているわけね。いま思うと、ハエも区別つかないほどになっているわけね、生きとる人か、死んだ人か……。それくらい、生きとる人もひどくなっていたわけね。


 李 
わたしたち13人、ひどい拷問受けたけど、殺そうとしなかったね。憲兵とか、警官たち言うに、お前たち日本人殺した、裁判にかけて死刑にする、それまで、殺さないで生かしておく、というようなこと、わたしたちに言うの。わたしたち、日本語よくわからないから。それでも、同じこと何度も言われるから、言ってることの意味、わかってきたけどね。いま考えても、あんなにされて、生きていたの、不思議なくらいね。わたしたち13人、花岡派出所の留置場に一週間ほどいたけど、一日に少ない時で三回、多い時だと五回から六回
も、共楽館の中に引っぱり出されて、いろいろな方法で拷問受けた。わたしたち8人が責任者、わたしたち計画した、日本人も殺したこと、何回もしゃべってあるでしょ。だから警察の人たち、蜂起のこと全部、ちゃんとわかっていたわけね。それでも、留置場から引っぱり出して、殴ったり、叩いたり、水槽の中に水入れて、その水にわたしたちの首つかまえて、入れたりするの。もう、なにも言うことないでしょ。それでも、拷問するわけね。


 林 
わたしたち、砂利の上に坐らされて三日目になると、もう坐っているのことできないさ。みんな、いまにも倒れそうに、ふらふらしているさ。何日も、水もなければ、食べ物もないでしよ。舌も唇も、カサカサして、火がついたように熱いさ。夜中に、小雨があったの。両手縛られてるから、雨掬うことできないでしょ。顔流れてくる雨、舌出してなめるの。その雨のうまいこと。半分死んでいたのが、この雨で生き返ったわけね。わたしだけでなく、この雨で生きのびた人、かなり多いよ。四日目の昼ころ、スイトンみたいなもの、椀に半分配られて、それ食べたでしょ。こんど、スイトン食べてから、中山寮に帰ることになったの。

共楽館から中山寮まで、距離だいぶあるね。それに、坂道多いでしょ。縛られていた縄とかれて、歩けと言われても、立てる人いないよ。石ころの上に、三日二晩も坐ってたわけでしょ。膝とかすねに、大きな傷ついてるの。その傷の中に、砂利とか土とか、いっぱい入っとるでしょ。なんとか立っても、歩くと、こんど傷痛むの。平たいところだと、なんとか立って歩いたけど、坂道になると、とても歩けないでしょ。みんな這ってのぼったけど、膝とかすねの傷、石とか砂にぶつかるから、痛いでしよ。血が流れてくるの。痛いから、黙ってるでしょ。すると、早く歩けと、棍棒とんでくるの。泣いても、声出ないし、涙も出てこないさ。共楽館から寮まで行く途中に、死んだ人もいるよ。四日目に寮にもどって、次の日、わたしたち看護人に、共楽館の広場の屍体、片づけるように命令されたの。だけど、自分で動くこともできない人、ほとんどでしょ。どうやって死んだ人たち、山の上まで運んでくるのことできるね。


 劉 
あのとき、看護長もいないから、わたしと林さん、交渉したね。わたしたちの力で、運んでくることできないと……。このとき、殴らないで、そのことわかってくれたね。そんなこと、花岡に来てからはじめてのことね。それだけ、わたしたちの弱っているの、わかったわけね。こんど、わたしたちに、大きな穴、二つ掘らせたの。わたしたちその時、この大きな穴に、死んだたくさんの同胞たちの屍体埋めるのかな、それとも、わたしたちが殺されて埋められるのかな、と考えたね。穴できて、何日かあとに、朝鮮の人たち、広場から屍体運んでくると、大きな二つの穴に、たくさんの屍体投げ入れて、土かぶせたの。わたしたち看護班の人たち、同胞たちの屍体の上に、土かぶせたの。大きな二つの穴のほかに、小さな穴、もう一つ掘ったの。その穴の中に、任鳳岐をひとりだけ埋めろというの。わたしたちの同胞を食いものにした入、死んだ後も特別の扱いうけること、不満で仕方なかったけど、一人だけ埋めたよ。命令だからね。日本、戦争に負けてから、わたし三回ばかり、花岡鉱山に行ったよ。遺骨のことで行ったのだけど、二回目に行った時、日本の赤十字とか、東京の華僑総会の人たちとも一緒ね。大きな穴二つあって、その穴の中に、まだたくさんの骨残っているの。その骨拾って、水で洗って、干してから箱に入れたけど、これが広場で殺された人たちの骨ね。何日も、水も食べる物もなくて殺され、何十人も一つの穴に投げ込まれて、骨はバラバラに捨てられて、あまりかわいそうで、涙ばかり出たよ。


林 
わたしたち看護班は、次の日から働いたけど、ほかの人たち、二日目から仕事に出たの。仕事に出る朝、みんなを寮の前に集めて、共楽館の前で、わたしたちを拷問する時、指揮をとった三浦署長と、河野所長の訓話あったの。日本の通訳、そのこと、わたしたちに知らせてくれたけど、そのとき、耿太隊長以下13人の主犯たち、すでに死刑になっている、と話あったの。わたしたちそのこと聞いて、ビックリしたの。なかには、鼻すすりあげて泣く人もいたけど、いま考えると、李さんたちまだ、花岡派出所の中にいたわけね。そんな嘘言って、わたしたちのこと、脅したわけね。


劉 
わたしたちは次の日から働いたし、工場で働く人は、二日目から仕事に出だけど、食べ物の量、前よりいくらか多くなったほかは、なんにも変わったことないね。仕事はきついし、補導員のかわりに剣を下げた警官が監督につくようになっても、わたしたちのこと殴るの、前と同じね。蜂起する前より楽になったことぜんぜんないよ。


敗戦後も戦争状態

 李 
わたしたち、花岡派出所に入れられて何日目かな、こんど、通訳の于傑臣も投げ込まれてきたの。このとき、みんなビックリしたさ。夜中になって、見回りの人あまり来なくなってから、みんなで彼に聞いたの。蜂起の状態のことも、わたしたちぜんぜん知らなかったからね。わたしたち殺したの、檜森と猪股が寮の中で、小畑と長崎が寮の外で、あとの補導員たち生きていること知ったの。そのこと聞いて、みんなガックリしたね。こんど、大館警察署の留置場から、両手を前に縛られて、トラックに乗せられたの。どこに連れていかれるのか、ぜんぜん知らされないでしょ。銃殺される場所に連れていかれるのかなと、何度も考えたりしてね。トラックに長い時間乗せられて、大きな町の中とおって、こんどトラックが停まって蹴り落されたけど、そこが秋田刑務所だったの。于は秋田の刑務所に来なかったから、ぜんぶで13人来たわけね。


 林 
蜂起のあと、通訳は日本人がやっていたよ。于傑臣のこと、ぜんぜん見かけなかったから、蜂起のとき、殺されたのかと思ったよ。あとで、留置場から出てきて、わたしたちに日本の敗戦のこと、知らせてくれたけど、戦争終わってからも、いつ中国に帰ったのか知らないよ。わたしたちと、まったくべつに来た人だからね。


 李 
秋田刑務所の中で、わたしたち、一人ひと部屋ね。毎日、取り調べ受けたし、殴られることもあったけど、ご飯は三回あるし、蒲団あるし、ゆっくり眠れるし、刑務所の中、天国だと思ったさ。だけど、刑務所のご飯の量、ぜんぜん少ないの。ご飯の中味、大豆三分の一、麦三分の一、米三分の一ね。ぜんぶ食べても、ふた口か三口でなくなるよ。お腹の中、ぜんぜん感じないわけね。わたし、いつもご飯くるでしょ。こんど、箸で、椀の中の大豆一つ一つとって、数えながら食べるの。お椀の中に大豆、だいたい30粒ほど入っているの。

 大豆食べ終わると、こんどは麦を箸で拾って、これも数えながら食べるの。麦は、だいたい50粒ほど入っているね。大豆と麦食べると、米はいくらもないから、すぐ食べ終わるさ。なんにもすることないから、一日三回、こんな食べ方して、時間をかけていたさ。こんど、独房の中に、小さな窓あるでしょ。その窓見ながら、太陽どこまでくると、三回のご飯のくる時間、わかるようになったの。太陽の動くの見ながら、ご飯まだかなと、そのことばかり考えていたよ。だけど、お椀に半分くらいのご飯だと、すぐにお腹すくでしょ。便所に立ってもいけないよ。立つただけで、もう頭ふらふらするの。刑務所に来て10日ばかりたったある晩、わたし、夢見たの。中国で別れたままの兄弟とか、亡くなった母のことなど、みんな夢の中に出てきたの。刑務所の朝、早いでしょ。六時になると、みんな起きるの。ひとり部屋だけど、隣の人と、話しすることできるの。わたし、朝起きると、夢見たのこと、隣の人に言ったの。兄弟や母たち、夢の中に出てきた、なにか悪いのこと、なければいいがと…。そのあとですぐ、ご飯運ばれてきたの。いつもの日より、ご飯のくる時間早いの。これ、ちょっとおかしい、何事かある、わたしの夢当たったと思ったよ。ご飯食べると、たくさんの人来て、独房の戸のカギとって、わたしたち13人、みんな外に出されたの。ははあ、、、きょうはこのまま銃殺されて、いのちなくなる日かな思った。13人手錠かけられて、トラックに乗せられたの。わたしたち乗ったあとに、おにぎりも積んだの。わたしそれ見て、いよいよほんとだ、人殺すとき、腹いっぱい食べさせて殺すと、わたし聞いていた。いつか死刑にされると思っていたから、べつにこわくないけど、腹いっぱいに食べて殺されるのこと、いい気持と思った。トラックで遠くに運ばれて、人目のつかないところで殺される、そう思ったの。ところが、わたしたち降ろされたの、裁判所の前ね。裁判所の中で、わたしたち13人並んだでしょ。こんど、警察の人来て、わたしたちを片っぱしから殴っていくの。なんで殴られるのか、ぜんぜんわからないよ。裁判官たち、わたしたち殴られるの見ていても、なんにも言わないの。なかには、笑って見ている人もいるよ。この日、第一回の裁判あったわけね。はじめの時に、わたしたち、自分の国の住所とか家族の名前、どうして日本に連れて来られたか、ぜんぶ言ったの。ほんとのこと言って、通訳されるでしょ。わきに立ってる警察の人、嘘つくなと殴るの。嘘でないよ。わたしの言ってること、ほんとのことね。ほんとのこと言うと、殴られるのだから、どうしようもないよ。わたしたち言ったあとで、検事の人かな、わたしたち13人に言ったの。あんたたち、暴動起こした、何人もの日本人殺した、中国人の誰と誰が、日本人の誰を殺した、とちゃんと言うの。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よくわからないよ。でも、聞いてわかっただけでは、みんな嘘のことね。日本人の補導員殺したのことだって、誰がやったのか、わたしたちでもわからないよ。それを、誰と誰がやったことにしているから、おかしいわけね。第一回の裁判あってから、10日くらいたってからのことかな。夜中に、刑務所の上の空、たくさんの飛行機とぶ音聞こえるの。まもなく、すぐ近くで、爆弾の落ちる音とか、機関銃の音とか、聞こえてくるの。わたし中国にいた時、中国解放義勇軍のゲリラしてたわけでしょ。だから、戦争はじまっていること、わかるの。わたしたちにも厚い帽子くばられて、一人ひとりに、銃砲待った憲兵がついたの。戦争で日本が負けてきていること、ぜんぜん知らされていないでしょ。どこの飛行機来ているのか、どうして爆弾落とされているのか、わからないね。だけど、たいへんなことになっていることだけは、わかったね。看守の顔も、憲兵の顔も、ひどく変わっていたからね。その次の日か、二日後のことかな、刑務所の中に吊しているもの持ち去ったり、貼り紙を剥いだりしているの。いま思うと、このとき、日本は戦争に負けていたわけね。そのことかくして、わたしたちに教えてくれないから、日本の人たちなにをやっているのか、不思議だったよ。なにやっているんだろと、隣の人と話したけど、誰もほんとのこと、わからないよ。


 林 
中山寮にいたわたしたちも、同じだったさ。蜂起の時のムリが出たり、食べ物の量、前と同じに少ないから、病人どんどん多くなってくるの。看護棟の中いっぱいになると、寮の中にも、病人の部屋つくったよ。いま考えると、日本が戦争に負けてからも、同じように重労働させられ、食べ物も少ないから、中国人は毎日のように死んでいったさ。日本が戦争に負けてからでもさ……。8月ころから、鹿島組の人とか、警官たちの様子、かなり変わってきたことわかったけど、まさか、日本が戦争に負けたとは、誰も思わないからね。そんな
こと聞くと、殴り殺されることわかっているから、誰も聞かないからね。わたしたち、日本が戦争に負けたことわかったの、9月に入ってからのことだったさ。いつの日だったか、はっきり覚えてないけど、わたしたちの働いている頭の上、すれすれに飛行機とんできたの。それから、落下傘に大きな荷物つけて、いくつも、いくつも落としていったの。その荷物、同じ花岡鉱山に捕虜になってきている、アメリカ兵のものだってことわかったの。もう戦争終わったのこと、そのことでわかったの。それまでは、誰も知らせてくれなかったからね。


 李 
刑務所にいるわたしたちに、暦渡してくれないでしょ。独房にいると、ほかのこと見ることもできないから、きょう何日か、ぜんぜんわからないわけね。飛行機の爆撃あって、刑務所の中の貼り紙剥がされて、だいぶたってから、第二回の裁判開かれたの。このとき、無期懲役は誰と誰、15年の懲役は誰と誰と判決あったけど、わたしたち日本のことば、ぜんぜんわからないでしよ。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よく聞きとれないよ。こんど、刑務所に帰ってから、隣の人と話し合って、その隣の人また隣の人と話し合って、
死刑になったのは誰なのか、無期になったのは誰なのか、確かめ合ったの。耿太隊長一人が死刑で、わたしは確か、15年の懲役だったようだけど、はっきりしないの。このとき、判決あってから、裁判官言うの。この裁判に不服だったら、上告することできる日本の法律ある。上に上告するのこと、いっこうにかまわないと言うの。だけど、わたしたちその方法わからないよ。わたしたち弁護士いるのかどうか、ぜんぜんわからないからね。どうやればできるのか、相談する人もいないからね。


 林 
それ、ことばだけのことね。わたしたち、上にもっていったとしても、勝てるわけないでしょ。だいいち、もっていく方法知らないのだからね。上にもっていっても、簡単に負けるさ。そして、死刑か、懲役ね。


李 
あとで開いたけど、わたしたちの判決あったの、日本が戦争に負けたあとの9月になってからと聞いて、ビックリしたさ。だけど、正直言って、死刑になると思っていたから、15年の懲役と聞いて、軽いと思ったの。


後文省略〜


以上、日本が行った「労工狩り」中国人強制連行の記録よる被害者の証言を終わりますが、野添憲治・著「花岡事件の人たち」には政府と企業戦後処理、などが書かれています。現在を生きる私たちにとっては想像を絶する事件と、戦後処理のみすぼらしさや責任逃れなど、目を覆いたくなる恥ずかしさを覚えます。
http://kisarazu.org/?page_id=62


3. 中川隆[-12412] koaQ7Jey 2019年2月05日 19:43:50: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
▲△▽▼


看板を使い分ける西岡力の狙い 2011/11/11
https://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/43537126.html


 怪人二十面相でもあるまいに、時と場合に応じて活動家「救う会」会長、文化人「国際基督教大教授」の看板を使い分け、世論を欺いているのが西岡力さんである。

 北朝鮮に行った事も見た事も無いのに、安明進(元北朝鮮工作員、実は韓国情報部要員)とグルになって北朝鮮に行って見てきた様な嘘をついて家族会を欺き、産経などのマスコミや拉致世論を誘導してきたことは再三指摘したので、今では知る人ぞ知る公知の事となった。

 しかし、西岡さん、反省することを自虐的と心得てか、これまでの嘘について謝罪するどころか、知らぬ顔の半兵衛。手を変え品を変え世論を欺いている。

 拉致問題を人権侵害と憤慨し、家族会に同情している人々の多くは、西岡さんがもともと憲法や人権を軽視する戦前肯定的な国家主義的思想の持ち主であることは知らないだろう。

 知らないままに無意識の中で、拉致問題は「人権侵害」から「主権侵害」へと刷りかえられ、マインドコントロールされている。

 西岡さんの思想をはっきりと示すのが、産経新聞の雑誌『正論』12月号の妄想文「危険水位を超えた『慰安婦』対日謀略」である。

 都合の悪い反対意見を謀略、工作と言い換えて封殺しようとするのは被害妄想症の西岡さんの常套手段だが、同一文でも「韓国が日本統治下の『慰安婦』問題を蒸し返し、これまでになく深刻な状況に陥っている」として、その背景を分析ならぬ妄想している。
 
 周知のように韓国の憲法裁判所は今年8月、「韓国政府が日本に元慰安婦の賠償を請求する外交交渉をしないのは憲法違反」とする判決を下した。それを受けて韓国外交通商部は9月、2国間協議を日本に提起した。

 それに対して西岡さんは「1965年の日韓基本条約に伴う請求権協定で両国間の個人の賠償請求権は消滅している。韓国憲法裁判決は外交上の常識を否定する倒錯した論理」と、身勝手な理屈で噛み付いている。
 
 さらに「事態がここまで悪化したのは、支援団体などが『慰安婦は日本国が強制した性奴隷』という歴史の虚構を国際社会に蔓延させたことが背景にある」とし、持論の「従軍慰安婦は娼婦」を持ち出して、被害妄想的な反論をしている。

 「親北朝鮮左派勢力による息の長い反日・日韓分断謀略工作の結実だ」にいたっては支離滅裂、病気というしかない。

 さらに、「日本が事なかれ的に謝罪を繰り返し、慰安婦強制連行の虚構を放置してきたことが、謀略勢力につけ込む隙を与えてきた。虚構の排除策に早急に取り組むべきだ」と“提言”しているが、所構わず噛み付く狂犬かと、首を傾げたくなる。

 拉致問題で反対意見を「北朝鮮工作員」「反日」と排撃する手法とそっくりである。
 
 今の世の中、妄言は捨てるほどあるが、小賢しい西岡さん、「東京基督教大学教授」の肩書きを使って、「大学教授がそこまで言うのだから、何か根拠があるのだろう」と素朴に信じる人々を取り込もうとしている。

 歴史門外漢らの出鱈目歴史教科書を作った「つくる会」代表の藤岡さんも東大教授の肩書きを使ったから、名刺にもこれからは気をつけなければならない。

 問題は、西岡さんが「救う会」会長の肩書きを隠している、つまり、使い分けていることだ。

 詐欺師でもあるまいに、あれこれ使い分けながら人々をたぶらかすのはいただけない。
 
 拉致問題は人権侵害と憤慨する人々が、「救う会」会長が女性の人権を蹂躙する暴言を吐いていると知ったらどう思うだろうか。反発、黙殺、「拉致問題は主権侵害だから矛盾しない」と肯定する、の三つであろう。

 西岡さんの狙いは最後の肯定派育成であるが、一般的にはそれをマインドコントロールという。

 西岡さんが拉致問題に首を突っ込んだのは人権に関心があったからではなく、持論の国家主義的な主張に使えるネタと判断したからだとの指摘が以前から出されていたが、外れていない。

 捏造情報でも何でも使って拉致問題をこじれさせてきたのは、日朝友好を妨害する政治的な目的と結び付いているとみられる。

 彼らの邪な思惑に振り回され、無為に歳月を費やす愚はもう繰り返してはならない。
https://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/43537126.html

7. 中川隆[-12374] koaQ7Jey 2019年2月06日 14:00:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告


櫻井よしこ氏の詐欺的な手法 2012年05月
http://exiv2.blog32.fc2.com/blog-entry-441.html


 櫻井よしこ氏の書いたものについて みんなに聞こえるように独り言。


 ずいぶん昔ですが (これはお蔵入り記事だったのでそうなったのですが)、沖縄戦に関してウェブ検索をしていたら、櫻井よしこ氏の 『沖縄戦、県民疎開に尽力した知事』 という記事(氏のブログにも同じタイトルで掲載あり) にたまたまつき当たりました。

 普段、彼女の書いたものは 「結論」だけを探し読みするのだが (「結論」が先にあって、それに都合のいい事実を拾い集めているだけで 分析とかは何もないから)、たまたま情報を探すのが目的だったので順を追って読んでみた。

 その記事の前半部分で、

 92歳の梅○氏に電話し 「県民決議」に関する発言について尋ねたときのことを、

「予告なしの問い合わせにもかかわらず、梅○氏は4年前の発言について人物、日付、場所など、極めて具体的に語る。 実体験でなければこうした詳細は出てこないだろう。」 

と書いている。
 (いちいち引用しないので、氏のブログを見ながら、この記事を読んでください。)

 しかしだ。 梅○氏のした実体験は、「石川重徳さんに会って話を聞いた」 ということである。 「県民決議」 を実体験したわけではない。
 「県民決議」の部分は、「実体験」 した(らしい)石川重徳さんから 梅○氏が聞いた話(伝聞) にすぎない。

 ところが、櫻井よしこ氏の手に掛かれば、それが、あたかも梅○氏が 「県民決議」を 「実体験」したことを証言して、それが 「極めて具体的」だった。 したがって、「県民決議」の存在は間違いのないものなのだ との錯誤を生じさせる (意図をもって書かれている)。
 まったく詐欺的な手法である。

 (なお、氏の記事の (前半部分の)主題が、梅○氏が 「石川重徳さんから話を聞いた」のかどうかであれば、これらは梅○氏の実体験なので、今回の指摘は当てはまらない。 わたしは、「県民決議があったかどうか」 が主題であると考えて、以下に続ける)

 刑事訴訟法を勉強すると 「伝聞法則」というのがある。 「伝聞」と「実体験」とでは 証拠価値に大きな違いが設けられているが、その理由は 「伝聞」には嘘が入り込みやすいからです。

 社会科学の文章で 「伝聞」と「実体験」のすり替えは 許されない反則技なのです。

 櫻井よしこ氏の書いたものには、こうしたトリックを駆使して、証拠となるデータや根拠のない話を、あたかも間違いなき真実であるかの様に見せかけたものが多い印象がある。

 それはなにより、証拠となるデータや根拠を示せない話が多いことを意味する (逆に言えば、根拠なしで済ませられるので悩む必要がなく、結論だけはスパッと明確で潔い)。

 また記事の内容については、わたしは 「県民決議」があったかどうかを知らないし、調べてもいないから肯定も否定もできないけれども、しかし、櫻井よしこ氏が、「予告なしの問い合わせにもかかわらず、・・・実体験でなければ こうした詳細は出てこないだろう。」 と言うのなら、わたしもこう言うほかない。

 「実体験でもないことについて、詳細が、極めて具体的にすらすらと出てくるのは、詐欺師の常道だ。」と。

 もう一度確認しておくが、梅○氏が実体験したのは、「石川重徳さんから話を聞いた」 もしくは (その体験を)「4年前に発言した」ことであって、「県民決議」は、他人から話を聞いただけ(伝聞) である。

 もし、突然の電話にも関わらず、梅○氏が 「県民決議」の日のことを、極めて具体的にすらすらと詳細を語ったというなら、(櫻井よしこ氏のロジックによれば) 梅○氏はあらかじめ用意していた嘘を吐き出しただけ という可能性が高いと考えることもできる。

 「県民決議」は、梅○氏の「実体験」 ではないのだから。

 なお、以上は、わたしがそのように考えているということではない。 「県民決議」の存在を否定も肯定もしないし、ましてや 梅○氏が嘘を語る詐欺師かどうかも関知しない。

 ここでは、ただ、櫻井よしこ氏の文章の詐欺的な手法を紹介したうえで、あくまでも 「櫻井よしこ氏のロジックに従い、国語的に正しく解釈すると、こう読めるのではないか」 という国語解釈を示したものである。

 ところで、櫻井よしこ氏は、(中国に対する私怨の情は見られるものの) 右傾思想家というよりは、金になるからこの路線でという 『作家』なので、排他的右傾思想の人のツボを心得ている。

 (彼女の本を読む)排他的右傾思想の人の多くは、(他者を貶めることによる)気分的高揚を求めていて、こむずかしい理屈を追うなぞまっぴらごめん。 彼女の本は (期待通りに)結論は決まっていて、取り上げる事実は すべて結論に素直に直結する 単純明快さが売りになっている。

 このため 「センセーショナルな事実」を お決まりの結論に直結させるために 上述のようなトリックが多用されることになる。

 文末に 「信じるか信じないかはあなた次第」って書いてないかと いつも探すんだけどね。

 どんな世界でも 派手なパフォーマンスにばかり注目が集まり、地道に真摯に取り組んでいる人が陽の目を見ないというのはやり切れないですね。

みんなに聞こえるようにいう独り言 2

 櫻井よしこ氏は、「正論」と称して法的根拠を無視したような主張ばかりしているが、たまに法律を持ち出すと、これまた都合のいい用法に終始する。

 例えば、韓国併合は 「日韓併合条約を結んで行われたものだから」と、法的根拠を前面に正当性を訴える。

 しかし、弱者強者がはっきりした関係で結ばれた場合、法的手続きさえ整っていれば、「相手国にとっても正当」といえるのだろうか。

 それなら、こういう事実があるが、正当性をすんなりと受け入れられるのか。
 ポツダム宣言8条には、「日本は野蛮な侵略国家であり、満洲、台湾を盗取し、朝鮮を略取し隷属させた」 と書かれたカイロ宣言を受け入れるべしと書かれている。

 日本は、そのポツダム宣言を受諾して サンフランシスコ講和条約を結んだのであるから、「野蛮な侵略国家であり、満洲、台湾を盗取し、朝鮮を略取しました」 と認めたわけだ。

 とすれば、中国や韓国がいまだに繰り返す非難に対して、日本は反駁することが困難になる (賠償問題は別として)。

 なにより、日韓併合条約は、ポツダム宣言受諾によって覆されることになる。

 弱者強者がはっきりした関係で結ばれた (不平等な)条約や国際宣言が、弱者にとっても正当であるなどということはないのである。

 日米安保条約も同様にである。


みんなに聞こえるようにいう独り言 3

 某質問掲示板に 「沖縄の人は・・豚の頭なんて普通は捨てるような部位も食べようという卑しさに、東京人の私は引きます」との書き込みがありました。

 (正確には 「チラガー」のことだと思うが) これに対しては、「他者の文化を貶める行為」などの批判が並んだ (ちなみに 豚の頭が捨てられるなんてことはありません。 でぃきらんぬーめ)。

 そんななかに 「豚頭 ラーメン」 で検索してみろって回答があった。

 な〜るほどザ・春の祭典スペシャル。 わたしも知らなかった(スーパーのパック詰めしか知らないのではいけないなどと書いたばかりだが)。

 行列のできるラーメンのまったりしたコクは、豚の脳みそから出てるのねぇ。

 もっといじめちゃうと、東京の「焼きトン」は、わざわざ肛門とかを指定して食べるよね (テッポウとか名前でごまかしてるけど)。

 「中国人はサルの脳みそを食べる」なんてGメン75以来のネタもさ、もうやめたら。

 思うに、カルト宗教でもネトウヨでも、教祖とか先導者(煽動者?)は、とんでもない嘘つきで邪悪であるが、それに盲従している人は、痛々しいほどに素直で純真な人ということもよくある。

 ものすごく純粋に人を救いたいとか 国を守りたいとかを考えている人が、邪悪な先導(扇動)者達に取り込まれてしまう。

 この世の中は、純粋すぎるのも危険ですよ。 疑うこと(=自分で考えること)も覚えないとね。


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★ From よしこ

前のも楽しいですが
Makaniさんのこういうこっそりと言いつつバッサリ斬る記事も大好きです(^w^)

この人何だかよくわかりませんよね…

良い事を言ってるようで必ず裏があるように感じてなりません。

見ててコワい〜
。。(ノ>ω<)ゝ


2012.05.03.Thu / 17:09 / URL [ 訂正 ] / PAGE TOP△

★ From Makani

>よしこさん
はいたい
どぅちゅいむにーよぉ

ほんとにメーゴーサーだよね。
とてもテレビ的な人で
インパクトのある出来事を持ち出してきて
間をすっ飛ばして、結論だけは単純明快だから
なんだかすごいように聞こえちゃうんだよ。

2012.05.03.Thu / 21:30 / URL [ 訂正 ] / PAGE TOP△

★ From うみんちゅ

はじめまして。

「櫻井よしこ」「沖縄」をウェブに入力したら、ここのブログにたどりつきました。

櫻井よしこさんのブログを一度見てみてください。

最近知って衝撃的だったのが、彼女の沖縄に対する差別意識です。

そもそもこれだけ影響力の強い人が、全国民に対して1パーセントにも満たない沖縄県民にたいして、ものすごいバッシングを繰り返しているのがあたしには「いじめ」に感じる。

彼女は普天間基地を辺野古に移したいようですが、そもそも日本全土に対し0.6パーセントにも満たない沖縄に74パーセントもの基地負担をさせていることに対してなど一言もいたわりの言葉を出さないことにも腹が立ちます。

「捨て石」にした過去もそうですが、沖縄の痛みに寄り添う言葉を一言もかけないどころかいつも沖縄を攻撃してばかり。

あたしからすると彼女は危険人物です。

2012.05.28.Mon / 21:13 / [ 訂正 ] / PAGE TOP△

★ From Makani

>うみんちゅさん
コメントありがとうございます。

ヴェトナムで生まれて、中国に身ぐるみはがされて
命からがら逃げてきたらしいので
中国に恨みを持っている節はありますが、
基本的には「流行作家」だと思います。

金になることを書いているだけで
中身はすっからかんです。
ただし、影響力は大きいのが怖いですね。

『てんtoてん』の記事も読んでください。
カヌチャベイリゾートのことを書きました。

勝共連合、日本会議あたりで検索を

2012.05.29.Tue / 19:39 / URL [ 訂正 ] / PAGE TOP△

http://exiv2.blog32.fc2.com/blog-entry-441.html

8. 中川隆[-12373] koaQ7Jey 2019年2月06日 14:02:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

改憲派のリーダー・櫻井よしこは「言論人の仮面をかぶった嘘つき」だ! 憲法学者・小林節が対談を捏造されたと告発
http://lite-ra.com/2016/05/asyuracom-2206.html


2016.05.02. 憲法記念日特別企画◉改憲勢力のインチキを剥ぐ! 櫻井よしこは嘘つきだ!小林節が告発 リテラ


 櫻井よしこといえば、安倍首相と二人三脚で改憲運動を引っ張っている、“極右論壇”のマドンナ。「美しい日本の憲法をつくる国民の会」共同代表、極右改憲団体「民間憲法臨調」代表など、戦前回帰を狙う日本会議ダミー団体のトップを務め、さまざまな場所で憲法改正の必要性を叫び続けている。

 もっとも、櫻井氏については、作家の百田尚樹センセイや先日逮捕された田母神俊雄サンとは違って、トンデモぶりを指摘する声は少ない。むしろ、多くの人が“上品な保守言論人”のようなイメージを抱いているようだ。

 ところが、そんな櫻井氏にこんな辛辣な批判の声が上がっている。

「櫻井さんに知識人、言論人の資格はありません。言論人の仮面をかぶった嘘つきです」
「櫻井さんの言説は理論ではなく、櫻井さんの好き嫌いを表現した感情論、あるいは櫻井グループの利害を表現した損得論に過ぎないということです。バカバカしい」

 こんな発言をしたのは、憲法学者の小林節・慶應義塾大学名誉教授だ。もともと、自民党の改憲論議に付き合ってきたタカ派の改憲論者で、近年、安倍政権の立憲主義を無視した暴挙に危機感を表明したことで知られる小林教授だが、最近、「月刊日本」(ケイアンドケイプレス)2016年4月号のインタビューに登場、櫻井氏を苛烈かつ理路整然と批判しているのである。

「公開討論を求める! 嘘だらけ・櫻井よしこの憲法論」と題されたこのインタビュー記事で、小林教授はまず、櫻井氏の人物像についてこう語る。

「もともと民主主義の基本は、正しい情報に基づいて国民が国家の方向性を判断するということです。しかし私に言わせると、安倍政権は嘘キャンペーンを張って、国民を騙しています。そのことで櫻井さんが大きな役割を果たしている。美人で、経歴が良くて、表現力もあるから、一般国民はコロッと行ってしまう。このままでは安倍政権や櫻井さんの嘘に騙されて、国民が判断を誤りかねない状況です」
「私の経験から言うと、櫻井さんは覚悟したように嘘を発信する人です」

「覚悟したように嘘を発信する人」とはどういうことか。小林教授は、かつて櫻井氏とともに日本青年会議所のパネルディスカッションに登壇したときのエピソードを例にあげる。そこで櫻井氏は「日本国憲法には、『権利』は19か所、『自由』は6か所も出てくるのに、『責任』や『義務』は3か所ずつしか出てこない。明らかに権利と義務のバランスが崩れている。そのせいで日本人は個人主義になり、バラバラになってしまった」というような主張をしたという。これに対し、小林教授はその場でこう反論した。

「櫻井さんの主張は間違っています。法律には総論と各論があり、総論は全ての各論に適用されます。日本国憲法では、『公共の福祉』を定めた憲法12条と13条が総論として、ちゃんと各条が認めた個々の人権全てに制限を加えています」

 加えて小林教授は、そもそも憲法は国民の権利を定め国家に義務を課すものだということ、いわゆる国民の三大義務の「納税」「勤労」「教育」は国家存続に必要不可可決がゆえに例外的なものであることを説明。つまり、櫻井氏が言う“「義務」に比べて「権利」が多すぎる”という主張をはっきりと退けたのだ。

 小林教授が語っているのは一般的な教科書にも必ず登場する“憲法の基本中の基本”。櫻井氏がこんなことも知らなかったというだけでも呆れる話だが、小林教授がこの憲法の基本を指摘すると、櫻井氏は「顔面蒼白になって、それから目線が合わなくなり、その日は挨拶もせずに帰っていった」と言う。ようするにぐうの音も出ずに遁走したらしいのだ。

 だが、櫻井氏は、小林教授から誤りを指摘されて以降も、こうした嘘の憲法論を講演会などで繰り返し述べている。小林教授が「私に論破されてギャフンと尻尾を巻いて逃げておきながら、相変わらず確信犯的に同じ誤った情報、つまり嘘を垂れ流し続けるのは、無責任かつ不誠実極まりない」と、強い言葉で批判するのももっともだろう。

 しかも、櫻井氏の不誠実さは、何も憲法に関する知見のなさだけに限らない。小林節教授は、前述の「月刊日本」のインタビューでかつて櫻井陣営から受けた卑劣な“発言捏造事件”を暴露している。

 以前、小林教授が「週刊新潮」(新潮社)で、外国人参政権について櫻井氏からインタビューを受けるという企画を受けたときのこと。だが、取材当日、櫻井氏本人は登場せず、中年男性のアシスタントが聞き手としてやってきたという。そこで、小林氏は櫻井側からこんな“提案”を受けたという。

「そのやりとりの中で、向こうが『櫻井は『納税は公共サービスの対価だ』と言っている。これを小林先生のセリフにしてほしい。バシッと決まりますから』と言ってきたから、私は『その主張は間違っています。憲法学者として嘘を言うことはできません』と断りました」

 ようは、ただでさえ別人によるインタビューであることに加え、なんと櫻井氏側は、完全なる“ヤラセ”を仕掛けていたのだ。小林教授が言ったことにして自説を広めようとする詐欺的行為も下劣きわまりないが、しかも、小林教授が誤りを指摘したにもかかわらず、あとで掲載されたものを見ると「堂々と『納税は道路や水道や教育や治安等の行政サービスの対価である』と書いてあ」ったという。

 しかも、どうやらこうした手口は、櫻井氏の得意技であるらしい。実は櫻井氏は10年ほど前にも、勝手に発言を捏造したことを告発されている。
 
 月刊誌「創」(創出版)1997年4月号で、まだ国会議員になる前の福島瑞穂氏が、従軍慰安婦の議論に関して櫻井氏とこんなやりとりがあったことを明かしているのだ。

〈1996年12月上旬頃、桜井さんから電話がかかってきた。「福島さんに対して実に申し訳ないことをしました。講演をしたときに、うっかり口がすべって『従軍慰安婦の問題について福島さんももう少し勉強をしたらどうですか』と言ってしまったのです。本当に申し訳ありませんでした」といった内容の謝罪の電話であった。12月29日ごろ、講演録の冊子を見て心底驚いた。
「私は福島さんを多少知っているものですから、あなたすごく無責任なことをしているんではないですか、というふうに言いました。せめてこの本を読み、せめて秦郁彦さんの研究なさった本を読み、済州新聞を読み、そして秦郁彦さんなどの歴史研究家の従軍慰安婦の資料を読んでからお決めになったらどうだろう、吉田清治さんの本を証拠として使うこと自体がおかしいのではないかと言ったら、ウウンまあ、ちょっといろいろ勉強してみるけど──というふうにおっしゃってましたけれども……」となっているのである。
 講演や話し言葉のなかで、うっかり口がすべったり、不確かなことをしゃべってしまうことはもちろんある。しかし、この講演で話されている私との会話は、全く存在しない架空の虚偽のものである。〉

 ようするに、櫻井氏は論敵である福島氏との虚偽の会話をでっちあげ、さも自分が言い負かしたかのように語っていたのである。

 櫻井氏の嘘が露呈したケースは他にもある。たとえば、2006年、日経新聞が元宮内庁長官・富田朝彦が遺した1988年4月28日のメモ(いわゆる富田メモ)から、昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に強い不快感をもって参拝を拒否していたことをスクープした際は、それを否定しようと、資料を完全に読み違えて「日経は世紀の誤報だ」とがなりたてていた。

 また、2014年には、女系天皇を否定し、旧宮家の復活を主張するために、『文藝春秋』のインタビューで「かつては、必要な血筋の方を天皇に据えるべく、六百年を遡ったこともある」とまるっきりのデタラメを口にし、小林よしのり氏から、「とにかく、信じられない間違いだらけ!! こんなバカな間違いを平気ですることで、明白です。櫻井よしこは、皇統のことなんか、一切真面目に考えてもいないのです!!!」と一刀両断されている。

 まさに、小林教授のいうように、櫻井氏は自分の主張を貫き通すために、平気で「嘘を発信」しまくってきたのだ。こんな人物をアイドルのように祭り上げる右派論壇の頽落たるや、もはやため息もでないが、しかし問題にすべきは、安倍首相が櫻井氏を重用して、いま、積極的に“政権別働隊”として改憲のための世論操作を仕掛けていることだろう。

「大きな嘘でも幾度となく繰り返せば、最終的に人々はその嘘を信じる」とはナチスドイツの宣伝省大臣だったゲッベルスの言葉だが、やはり、安倍政権はこのナチの手法に倣っているらしい。“エセ言論人”と安倍政権の策謀に、われわれは決して騙されてはならない。

(宮島みつや)

 

9. 中川隆[-12372] koaQ7Jey 2019年2月06日 14:04:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

櫻井よしこ、竹田恒泰が森友学園からもらった金は? 籠池前理事長が極右文化人の「高額講演料」を暴露!
http://lite-ra.com/2017/06/post-3232.html

2017.06.10 櫻井よしこ、竹田恒泰の森友講演料は? リテラ


 加計学園問題にメディアの注目が集まり、最近、報道が下火になっている感のある森友学園問題だが、今週、興味深い証言が出てきた。

 森友学園問題追及を牽引した著述家・菅野完氏が「週刊朝日」(朝日新聞出版)6月16日号に寄稿。そのなかで、森友学園を礼賛してきた極右文化人たちの塚本幼稚園での講演料が、籠池泰典前理事長の口から暴露されているのだ。

 それによれば、たとえば櫻井よしこ氏の場合、森友学園での講演料は実に1回80万円だったという。秘書からは「通常は100万円ですが、幼稚園だから、少し安くします」という話になったというが、それにしても80万円は高額だ。籠池前理事長は「ありがたい話」と感謝しているようだが、教育機関の幼稚園、一般の人たち相手の講演で80万円も取るとは、びっくりではないか。

 本サイトでも以前お伝えしたように、塚本幼稚園では、名だたる極右文化人やタカ派政治家がこぞって講演をし、HPに推薦の声を寄せていた。今回、名前の挙がった櫻井氏はもちろん、百田尚樹氏、曽野綾子氏、青山繁晴氏、竹田恒泰氏、渡部昇一氏、中西輝政氏、田母神俊雄氏、中山成彬氏、平沼赳夫氏……。しかも、連中は森友学園の問題が起きると、態度を豹変、話をすり替えたり無関係を装ったりして、いっせいにそっぽを向いている。

 それでも、籠池前理事長の口からは、そんな掌を返した極右文化人に対して恨み節は聞かれないのだが、一人だけ例外がいた。「明治天皇の玄孫」を自称する“皇居の方から来ました詐欺芸人”こと竹田恒泰氏だ。記事によると、籠池前理事長は菅野氏にこう語ったという。

「あの人、テレビに出てなんや我々の方が寄付をせびったみたいなこと言うてたやろ? おまけに、講演料が安いとまで言うてたやろ? なんでそんなこと言うんかいな?」

 同記事によれば、籠池前理事長は2010〜15年にかけて、竹田氏に講演を少なくとも3回、教職員研修などを複数回依頼したと証言。籠池前理事長によると「講演料は1回90万。研修は1回20万」だったという。だとすれば、桜井よしこ氏を上回るかなりのギャラを竹田氏は要求したことになる。

 他方、菅野氏が竹田氏に問い合わせところ、竹田氏は「講演料90万」を否定。森友学園での講演は過去に2回、講演料はそれぞれ20万円で、確定申告しているので記録が残っていると回答したという。

竹田恒泰が『バイキング』で語っていた掌返しの籠池ディス

 講演料は90万円か20万円か──。竹田氏の回答だけを聞いていると、籠池理事長のほうが吹いているようにも思えるが、しかし、そうとも限らない。というのも、竹田氏は森友学園の講演料について、以前、テレビで嘘をついていたからだ。

 竹田サンは籠池前理事長の証人喚問の翌日、3月24日の『バイキング』(フジテレビ)に生出演していて、改めて確認してみると、塚本幼稚園での講演料について語っていた。

 番組のなかで竹田サンは、例の籠池前理事長が昭恵夫人から100万円を受け取ったと証言したことについて、「昭恵夫人は名誉校長やってるんですから、そりゃ自分のお金を寄付することぐらいなんの問題もないわけでしょ」と安倍政権をフル擁護。渡辺えりから「100万円も寄付するもんなんですか」と疑問を呈されると、早口でこんなふうにまくしたてたのだ。

「いや、私もね『金出してくれ』って散々言われたんです、籠池さんから。私、何度もお会いしてますから。でね、違う、(寄付)しなかったの。で、総理がね、『あの人しつこい』って言ったじゃないですか。ホントしつこいんですよ! もうガンッガンくるんです! 私、過去に2回講演に行ってるんですね。それでまず『寄付をくれ』と。『なんなら役員になってくれ』と。『名誉校長だってお願いしたい』って言われたんですね。で、一応話聞いたんですよ。そしたらお金の集め方が、結構乱暴で。なんかいつまでにあと3億必要でこれがないとどうのとか、いや、それは先の話なのに、なんでそんな来月までにね、3億必要なんだって意味わかんないし」

 さらに竹田サンは左手で電話の受話器を持つジェスチャーをしながら、こう続けた。

「しかも『いつ出してくれるんですか!? 今週ですか!? 来週ですか!?』みたいな、なんか借金取りに追われてるみたいな感じで。それでもし私がね、お金出したら当然広告塔として使われていたわけですよ。で、ちょっと違和感があったのでお断りしたんですね。そしたら勝手に名前使われて。講演に行ったのは事実なんですけど、小学校の推薦人としてなんか推薦の言葉まで捏造されてホームページに出てるんですよ。だって推薦は断ってんですから。勝手にそういうことする人なんですよ」

 だったら、なぜ森友問題が発覚する前に抗議しないのか不思議だが、今回、籠池前理事長が「週刊朝日」で怒っていたのはこの発言だろう。たしかに、自己保身のためにここまで手のひら返しのディスを広げられたら、籠池前理事長ならずとも、文句の一つも言いたくなる。

竹田サンは少なくとも実際の半分の金額に

 しかも、竹田サンはこのあと、「僕が(名誉校長を)断ったので安倍昭恵さんに行ったわけですよ」と言いだすなど、ノリノリで森友問題を自己宣伝に使っていたのだが、MCの坂上忍から「講演料はいくらだったんですか?」と聞かれると、声のトーンを微妙に下げて、こう語り始めた。

「講演料は、あの、私は、自衛隊と学校に関しては一切金額交渉をするなということにしてるんですね。いくらとは言いませんけども、そんな大きい金額じゃない。学校ですから当然。ただ一回目は(講演場所が)一箇所だったんですね。平成23年かな。次、平成25年はもう一個、いま閉じちゃったらしいんですけど開成幼稚園と塚本幼稚園と両方やったんですよ」

 で、ニヤニヤしながら、こう付け加えたのだった。

「そしたらまあ、当然、倍もらえるのかなあと思ったら、同じ金額だった(笑)」

「自衛隊と学校は特別」などと言いつつ「倍もらえるのかと思っていた」。“元皇族詐称芸人”の品性下劣ぶりには今さらながら辟易とさせられるが、問題はここからだ。

 東国原英夫氏から、「(籠池氏は)昭恵夫人には10万円お渡ししたと言ってるじゃないですか。(竹田さんの講演料は)10万円より上ですか、下ですか?」と尋ねられると、竹田サンは掌をヒラヒラさせながら、しれっとこう答えていたのである。

「まあ、まさにそのぐらいの話です。幼稚園だからそんなもんですよ。むしろ50万、100万っていったらちょっとおかしいですよね」

 そう。竹田サンは、東国原が口にした「10万円」ぐらいの話だと言ったのだ。前述したように、菅野氏に籠池前理事長が語った竹田氏の講演料は90万円、竹田氏の主張は20万円。竹田サンの主張のほうを信じたとしても、テレビではその半分くらいの金額だと嘘をついていたことになる。これで、今回の「20万円」という反論をそのまま信じろと言っても無理があるだろう。

 いずれにしても、教育機関からこれだけの高額講演料を受け取りながら平気で「大きい金額じゃない」などというのだから、このネトウヨのアイドルがいかに普段、講演料で荒稼ぎしているかがよくわかるだろう。

 それは他の極右文化人も同様だ。本サイトでも以前、お伝えしたとおり保守、極右論壇では、この種の「高額講演会ビジネス」が完全に常識になっているのだ。

櫻井も百田も100万円以上!高額講演会で金を稼ぐ保守ビジネス

 4月2日『そこまで言って委員会NP』(読売テレビ)では、MCの辛坊治郎が「この番組出てる方みなさんの大半はね、この番組すごくギャラも少ないんですけど、この番組出て講演で稼ぐ」と暴露し、出演していた竹田サンは「それはタブーです!」とおどけていた。

 もちろん、辛坊が言う「講演で稼ぐ」というのは、JC(青年会議所)やライオンズクラブ、有力企業や保守系政治団体などが主催し、ホテルなどの大箱で催されるものがほとんどで、“顧客”は一般人ではなく企業経営者や地元の実力者だ。たとえば、安倍政権応援団として沖縄ヘイトを垂れ流している東京新聞の長谷川幸洋氏の場合、昨年6月には新潟県内のホテルで「安倍政権と今後の日本」と題した講演会を行なっているのだが、その主催は、新潟県異業種交流センター県央支部で、後援は燕三条青年会議所だった。

 長谷川氏とテレビで共演したことのある評論家によれば、長谷川氏は共演者に対し、嬉しそうに「講演やったほうがいいよ、講演は儲かるよ」と力説していたという。安倍政権の応援団にテレビや講演会のオファーが次々舞い込む現状に笑いが止まらないのだろう。

 実際、極右文化人の講演料の相場はかなりの高額だ。講演会での講師派遣などを手がける株式会社エスエンタープライズのHPによれば、前述した櫻井よしこ氏の講演料の「目安」は実に100万〜150万円と記載されていた。一方、リベラル系のジャーナリストや評論家の場合は「声がかかるのは市民団体や労働組合、大学などがほとんどで、もらっても交通費程度で数万円。10万円はまずないですよ」(ジャーナリスト)というから、文字通り“桁違い”である。

 ちなみに、いま、一橋大学学祭での講演会中止でピーピー言っている作家の百田尚樹センセイの場合、講演会講師の紹介・派遣を仲介する株式会社ペルソンのウェブサイト「講演依頼.com」によれば、料金は「非公開」ながら、予算「120万円以上」の講師にカテゴライズされている(高っ!)。

 数々の差別言辞と言論弾圧発言を撒き散らしてきたこのネトウヨ作家の教育機関での講演に、学生らが反対の声を上げるのは当然のことだが、その百田センセイはTwitterで〈学生相手ということで、通常の半額以下のギャラで受けたのになあ〉など投稿している。実行委員会側に少なくともうん十万円の講演料を要求したと考えていいだろう。

 そういえば、百田センセイは先月『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)に出演し、コテンパンにされた後も〈もしかしたら、私のギャラは田原氏を除いて、出演者の中で一番高かったのかもしれない(最初の提示の約2倍を要求したから)。意外に、そういうのが敵意を生んだかな〉とツイートしていた。なぜ、これほどまでにカネの話に固執するのだろうか。

 安倍政権に乗って、メディアや講演でひっぱりだこの極右文化人たち。しかし、森友問題で籠池前理事長の思想に共鳴していたはずの連中が、揃いも揃って見事なまでの保身に走ったことが証明するように、結局彼らは「保守」の看板を使って私腹を肥やしているだけなのだ。国民は、この「保守ビジネス」の実態にそろそろ気がついたほうがいい。

10. 中川隆[-12371] koaQ7Jey 2019年2月06日 14:05:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

演壇から飛び降りパっと消えた櫻井よしこ! 2017/07/16 11:14
http://79516147.at.webry.info/201707/article_260.html
 

 リテラの室井佑月の連載対談「アベを倒したい!」第6回ゲストは憲法学者の小林節さん。とてもためになる話ばかり。みんなで学ぼう。

 彼女は顔を真っ青にして、目も合わせないで、私を無視して帰りましたよ、と小林さん。

****************

室井 そういえば、先生は櫻井よしこさんを憲法問題でやりこめちゃったことがあるんですよね。

■櫻井よしこら改憲勢力が語る“権利と義務はセット”論のデタラメ

小林 櫻井さんがデタラメばかり言うからです。以前日本青年会議所のパネルディスカッションで一緒になった際、櫻井さんはこんなことを言い出したんです。

「憲法は“権利”が19箇所、“自由”が6箇所も出てくるのに“責任”は3つしかない」と。つまり義務と権利のバランスが悪いから日本は個人主義的になってしまった。だから義務を増やすべきだと言うんです。

たとえば「国を愛する義務」や「国防の義務」「国旗に敬礼する義務」などを義務化すべきだと。

それに対しもちろん反論しました。法律には総論と各論があり、総論はすべての各論に適用される。憲法12条と13条に総論として「公共の福祉」があり、各条が認める権利に制限を加えている。

しかし納税、勤労、教育は国家存続に不可欠なので、国の責任として例外的に3つの義務を課しているのだと。数だけで権利と義務のバランスを語るのはナンセンスです。

私は彼女にこうも言いました。「憲法というのは、国家権力から国民の権利や命を守るためのものなんだ」と。私たちの国では国民が王様だから、国を支える3つの義務以上を課すと、憲法じゃなくなるんです。

室井 なるほど。国民の権利は最大限に、義務は最低限に、というのが憲法のありようなんですね。櫻井さんは先生の話にどう反応したんですか?

小林 顔を真っ青にして、目も合わせないで、私を無視して帰りましたよ。しかも、その後も櫻井さんは、間違った憲法論をいろんなところで話している。

私の弟子で、安倍さんに愛されて止まない長島昭久(衆議院議員)くんの政治資金パーティーで、櫻井さんが挨拶していたんですが、以前と同じ3つの義務について話しているんです。

「みなさん、憲法はおかしいじゃないですか。権利と義務はともなわなきゃいけませんよね」と。僕は、長島くんに恥をかかせちゃいけないと思ったし、そこでは質問も反論もしないでおこうと黙って聞いていた。

すると、演説が終わったとたん、彼女、階段も使わずに演壇からポーンと飛び降りて、一番前の真ん中の僕が座っている前まで来て、「先生、お久しぶり! 私、次があるから失礼します」と言って、パっといなくなったんです。

僕に何かを言わせる機会を与えず、逃げたんですよ。

昨年も『週刊朝日』で僕と櫻井さんの対談企画があったんですけど、前日に編集長の元に電話があって、「小林さんの書いたものを色々と読んだけど、とうていご一緒できませんわ」と断ってきたそうです。

室井 敵前逃亡か。でも、そういう無知で、戦前の日本を復活させたいと思っている人たちが安倍さんの最大のブレーンで、日本会議の改憲運動を担っているわけだから、彼らの改憲が、自衛隊の追加条項や教育の無償化で終わるわけがないですよね。

最近、言わなくなっていますけど、直前になると、緊急事態条項を憲法に盛り込むとか言いだしそうな気がしてるんです。続く。

11. 中川隆[-12370] koaQ7Jey 2019年2月06日 14:09:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告


尖閣愛国詐欺に似た匂いがする 2014/03/13
http://schmidametallborsig.blog130.fc2.com/blog-entry-965.html?sp


 桜井よしこさん「中韓が国家戦略として歴史攻撃 日本は冷静かつ十分に反論を」※に、東京都の尖閣募金詐欺を思い出すような集金が呼びかけられている。

 中国や韓国による「歴史攻撃」(桜井さん)に対抗するために、金を寄越せというものだ。

米国は訴訟社会であり、[「歴史攻撃」とやらに反撃する]裁判には高い費用がかかる。日本にいて出来ることは経済的支援である。支援の宛先は「歴史の真実の会寄付金口座」、三井住友銀行六本木支店(支店番号619)、口座番号は普通預金口座の7544532である。

桜井よしこ「中韓が国家戦略として歴史攻撃 日本は冷静かつ十分に反論を」
と、集金を呼びかけている。

 しかし、名前が胡散臭い。「歴史の真実の会」とは何事だろうか。事実ならまだ良いが、真実となると胡乱である。日帝への抵抗は、新中国や韓国の建国神話を形作っている。中国の対日抵抗は事実であるが、韓国のそれは怪しい。だが、韓国人からすると歴史の真実である。

 真実は、事実よりも偉い言葉であり、事実と異なっていても許されるものだ。「歴史の真実の会」※※ という名前を見ると、韓国人の建国神話と同じように、日本は朝鮮支配や大陸進出で善行をしたとでも言い出しかねないような雰囲気がある。

 その中身も怪しい。歴史真実委員会とあるが、中身はいつもの神がかり右翼である。5人の名前が書いてあるが、すぎやまこういち、屋山太郎、櫻井よしこ、花岡信昭、西村幸祐と、いつも判子を押したように出てくる面子に過ぎない。

 さらに、集めた金を何に使うとも書いていない。活動実績はホームページをひとつ作っただけ。「いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から再考するサイト」がそれだが、中身は何もない。金集めのお願いをするなら、何に使うのかを書くものだが、そこはいつものネトウヨ作文を載せているだけ。何にお金がかかるのかを述べていない。

 桜井よしこさんは、米国での訴訟支援に使うようなことを行っているが、歴史真実委員会側にはその趣旨は一言も書いていない。その点で、あまりにも杜撰な集金であるように見える。

 ある意味で、東京都の尖閣防衛詐欺募金よりも酷いかもしれない。尖閣詐欺は、一応は目的は示していたし、東京都が受け皿になった。思慮の足りない自称愛国者から詐欺的にお金を集めたが、都がもっているので横領はないし、今後の使い方についても議論され、公表される。決算もあるだろう。

 対して「歴史の真実の会寄付金口座」は、目的も示されなければ、お金についての取り扱いについての説明もない。おそらく、使ったお金について、使途や決算もないだろう。

 そのような、あやしい募金を信じるものではない。同じように、金を投じることだけで愛国的満足感を得るのならば、保守系でも日本財団や三笠保存会に寄付したほうがよいだろう。日本財団は欲望にまみれた汚い金でも世のために綺麗に使っている。三笠保存会は三笠保存以外に金の使い道もない。あとあと後悔することもないが如何か。

※  桜井よしこ「中韓が国家戦略として歴史攻撃 日本は冷静かつ十分に反論を」(櫻井よしこ オフィシャルサイト、2014.3.8)http://yoshiko-sakurai.jp/2014/03/08/5184

※※ 「歴史事実委員会」『いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から再考するサイト』(歴史の真実の会)http://www.ianfu.net/sinjitu/rekishijijitu.html

http://schmidametallborsig.blog130.fc2.com/blog-entry-965.html?sp

12. 中川隆[-12275] koaQ7Jey 2019年2月10日 21:06:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く
―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた(小学館文庫) – 2002/8/1
櫻井 よしこ (著)
https://www.amazon.co.jp/GHQ%E4%BD%9C%E6%88%90%E3%81%AE%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%93%8D%E4%BD%9C%E6%9B%B8%E3%80%8C%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E7%AE%B1%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%91%AA%E7%B8%9B%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F%E2%80%95%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%A6%B3%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%97%E3%81%A6%E6%AD%AA%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%AB%BB%E4%BA%95-%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%93/dp/4094028862


内容紹介

これは一体「真相」か「洗脳」か!?

敗戦後、GHQ占領政策の一環として制作されたラジオ番組「眞相箱」。歴史の真実に巧妙に虚偽を散りばめながら日本の“犯罪"を日本のお茶の間に告発し続け、“帝国主義の悪が民主主義の正義に屈した"という観念を植え付けた。

本書は「眞相箱」を採録した貴重な本を復刻し、GHQの巧妙な操作を櫻井よしこ氏が詳細に解析する。

戦後日本人の歴史観を紐解き、戦争とは何か、日本人はどうあるべきかを問う問題作。戦後日本人の歴史観はこうして歪められた! 文庫書き下ろし。


これは「真相」か、それとも「洗脳」か!?
敗戦直後、GHQは占領政策の一環として「太平洋戦争の真相を日本国民に知らせる」ためのラジオ番組を作った。それは「真相はかうだ」「真相箱」「質問箱」と名称を変えながら、三年にわたりお茶の間に日本の犯罪を告発し続けた。

真実の中に虚偽を巧妙に散りばめ“帝国主義の悪が民主主義の正義に屈した”との観念を植え付けるGHQの思惑は成功し、いつしか日本人の歴史観や戦争観を規定した。

「真相箱」の原作本を復刻、戦後日本の混迷を招いた「問題の書」を白日の下にさらし、桜井よしこ氏が徹底解析する。

▲△▽▼


2019.02.09
【トンデモ】小さな真実を重ねて大きな空想を信じさせる
(櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002)
https://rondan.net/301


Contents

1 はじめに
2 『真相箱』の何を批判するのか
3 「真相箱」の持つ役割への過剰な評価
4 「真相箱」やWGIPを糾弾して何を訴えたいのか

はじめに

終戦後、GHQによって「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(WGIP)と巷で言われるところの、アメリカ主導のプロパガンダ活動があったことはよく知られています。多くの保守の方々は、このWGIPを、戦後日本諸悪の根源であるかのように攻撃します。

たとえば江藤淳氏は、このWGIPを「戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖した」(『閉ざされた言語空間』文芸春秋, p. 228)と評価したり、高橋史朗氏は「日本人の美しい心が破壊され、内的自己崩壊が謀られた」(『「日本を解体する」戦争プロパガンダの現在』宝島社, p. 13)と評価しています。もしこれが本当ならば、とてつもない陰謀がGHQによって実行されたことになります。

もちろんこれとは逆の見解もあり、数少ない信頼できる保守論客として高名な秦郁彦氏は、上記の陰謀論に対して「果してそんな大それたものだったのか」と述べています。また、近年刊行されました研究書、賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム:GHQ情報教育政策の実像』(法政大学出版, 2018)も、GHQの対日情報教育は、江藤淳氏らが主張するような陰謀論の類ではない点を指摘しています。

ところで本記事で検討していく、保守界の女王である櫻井よしこ氏は、前者の立場に立ち、このWGIPが日本人を洗脳する謀略(!)であると理解しています。しかし、不思議な現象がここで起こります。アメリカがこのような洗脳謀略によって日本を自虐史観に陥れたのであれば、当然アメリカに対して謝罪と補償を求めるべきところです。しかし、櫻井氏は慰安婦問題についてアメリカの新聞に広告記事を載せてしまうほど精力的にもかかわらず、なぜかこのWGIPについてはアメリカ側に苦情を言ったという話は聞きません。

此れと同じ矛盾は他の保守論客にも確認されます。たとえば、WGIPの第一人者(?)である高橋史朗氏も、その著書の中で散々WGIPによる洗脳を糾弾しておきながら、非難の矛先はアメリカではなく、なぜか朝日新聞・南京事件・慰安婦問題に向かいます。

このように保守本で取り上げられるWGIPには奇妙な論理構造が確認されます。そこで本記事では、WGIPの一貫として実施されたラジオ放送をまとめた書籍版『真相箱』に対する保守論客の理解を検討したと思います。具体的に取り上げるのは、櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002)です。

『真相箱』の何を批判するのか

1945(昭和20)年12月9日から、GHQ主導の下、ラジオ番組「真相はかうだ」が放送され、その後も「質問箱」「真相箱」と名前を変えながら1948年まで再放送され続けました。これらの放送をまとめて刊行されたものが、『真相箱 : 太平洋戦争の政治・外交・陸海空戦の真相』(コズモ出版社, 1946)です。この放送を通じてGHQが力を入れて訴えたかったことは次の六点であると指摘されます。


・戦時中の日本軍大本営発表は嘘ばかりだった。

・捕虜になった日本兵は連合軍の待遇がよいことに驚き、自由のみに感謝の日々を送った。

・ポツダム宣言はこの上なく人道的で寛大かつ非懲罰的な幸福条件である。

・原子爆弾の投下は、膨大な破壊を被るという連合軍側の予告を、日本の指導者が無視し、何ら回答しなかったために実行されたのだ。

・戦時中の軍指導者たちが戦争犯罪人の指名を受けるのは当然である。

・日本国民はこれまでの過ちを反省して、青年たちは世界に他れる新日本の建設に立ち上がるべきだ。


 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002, p. 17
すなわち、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)での大本営発表の嘘を暴きつつ、連合国側が把握している真実を伝えるというストーリーです。これに対して櫻井氏は次のように指摘します。


確かに、当時の日本軍の大本営発表が虚偽に満ちていたことは疑うべくもない。ただ、GHQの放送が巧みなのは、…中略…連合軍側は正直で日本軍の大本営発表はまったく嘘八百だったと繰り返すことだ。大本営発表の嘘について実感がある分、日本国民は米国側の「正直」を信じ込まされていくのだ。

 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002, p. 21

歴史の真実に巧妙に虚偽を散りばめながら日本の”犯罪”を日本のお茶の間に告発し続け、”帝国主義の悪が民主主義の正義に屈した”という観念を植え付けた。

 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002, 書籍紹介
つまり、「大本営発表の嘘を暴くことでアメリカ側の信頼度を高めさせ、歴史の真実を忠実に教えているふりをしながら、その中に巧妙な虚偽を散りばめて、GHQの都合のいいように思想誘導を図った」というようにまとめられるでしょうか。「虚偽」という言葉が相応しいかは解りませんが、GHQ謹製のラジオ番組ですから、アメリカ側の思惑に都合のいいように編集されている事実は否定できません。この点について櫻井氏の批判は正しいと言えます。

「真相箱」の持つ役割への過剰な評価

しかし、この「真相箱」によって、「日本人が洗脳された」という言説は余りにも大げさです。話を面白おかしく針小棒大にするのは保守の悪い癖です。櫻井氏は、洗脳された日本人の影響が現代まで続いていると主張します。


この種のラジオ放送を三年余も継続して聞かされれば、ある時点から嘘や歪曲やすり替えを正していくのに疲れて、ふと根気を失うのではないかという気がした。
欺瞞の洪水に逆らうのを諦めてしまうのだ。諦めれば流れの中に身を沈めるか、一緒に流されていく。説明するのに疲れた大人たちが沈黙を守る間に、新しい世代がその欺瞞に染まっていく。その先に出現したのが、現在の日本の姿である。米国の対日再教育、洗脳というべき検閲と情報操作によって、私たちの考え方や価値観は無意識のうちに日本断罪の影を引いているはずだ。

 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002, pp. 440-441
この様な言説は、あまりにも「真相箱」やWGIPの効力を過激に評価しています。

というのも終戦直後、GHQ統治が始まる前の世論調査の段階で、人々の間に、軍部に対する責任追及の言説が起こったことや、戦争の重圧から解放されて民主主義的色彩が徐々に強くなってきていることが日本側資料に残っています(萩野富士夫『「戦意」の推移』校倉書房, 2014, pp. 145-157)。

このように「真相箱」やWGIPが始まる以前から、日本人の間で、軍国体制に対する断罪意識が自発的に芽生え、民主主義の新たな未来を主体的に択ぶ動きがあったのです。したがって今現在の日本はこうある責任は、紛れもなく日本人にこそ責任があるのであり、「真相箱」やWGIPに責任転嫁するのは無責任と言うものでしょう。

「真相箱」やWGIPを糾弾して何を訴えたいのか

確かに櫻井氏が指摘するように「真相箱」はWGIPの一環として行われた対日プロパガンダです。櫻井氏の持つ価値観ならば、WGIPが洗脳工作の一環であり、「真相箱」は真実の中に虚実を混ぜてアメリカの望む方向に思想誘導する欺瞞だと思えてしまうことも理解できます。

しかしながら櫻井氏と必ずしも見解の一致しない私にとって、この『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』こそ思想誘導の欺瞞を感じてしまいます。つまり、小さな真実を重ねて、櫻井氏の抱く大きな「空想」を読者に信じさせようとしているということです。例えば次のような一文に、櫻井氏が信じ込まさせたい「空想」の一端を感じずにはいられません。


第二次世界大戦での日本の戦いは、一面でアジアでの植民地主義の一掃に力を貸したとか、アジアの幾つかの国々の独立を促したなどとの考えは、軍国主義として排斥された。

 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002, p. 44
https://rondan.net/301

13. 中川隆[-9285] koaQ7Jey 2019年6月26日 05:33:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3214] 報告

社会科学者の随想 2019年05月08日

櫻井よしこ,従軍慰安婦問題に関して2世紀に跨がった二枚舌遣い,かつてのリベラル的なニュースキャスターも,いまではネトウヨ風に国粋・保守・反動陣営のただのアイドル・オバさん
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1074664307.html


【櫻井よしこ著『櫻井よしこが取材する』(ダイヤモンド社,1994年)に記録されていた「ジャーナリスト本来の〈よしこの面影〉」は,いまいずこ】

【言論界関係人士にみる「資質と才能」と「思想と精神」の劣化および溶融現象】

【従軍慰安婦問題に関する典型的二枚舌的な見解変節の「実例:櫻井よしこ」】

【この国を凋落させ,衰退させる一途に拍車をかけてきた安倍晋三政権の体たらく的なくだらなさ】


 @ 徃住(とこずみ)嘉文「 櫻井よしこ氏は『慰安婦』を『日本軍強制説』で報じていた」(『週刊金曜日 オンライン』2019年4月19日 6:20PM,『週刊金曜日』2019年4/19号,http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2019/04/19/news-38/)『週刊金曜日オンライン』2019年4月19日櫻井よしこ
 『朝日新聞』の日本軍「慰安婦」の記事を「強制連行を捏造した」と非難している櫻井よしこ氏が,自身も「日本軍によって強制的に従軍慰安婦にさせられた女性たち」とテレビ,雑誌で報道していたことが分かった。自身の報道を棚にあげ,他者を「捏造」呼ばわりするのはアンフェアではないだろうか。

“   望月衣塑子ツイート2019年5月2日櫻井よしこ
 櫻井よしこ氏がキャスターを務めていた日本テレビのニュース番組「NNNきょうの出来事」とみられる動画がある。1992年12月9日,東京で開かれた「日本の戦後補償に関する国際公聴会」を,櫻井氏に瓜二つの女性はこう放送した。

 「第2次世界大戦中に,日本軍によって強制的に従軍慰安婦にさせられた女性たちが,当時の様子を生々しく証言しました」。画面では「韓国人元慰安婦」の字幕とともにチマチョゴリ姿の元「慰安婦」が公聴会の壇上で叫ぶ。「私の一生を台無しにして! 日本政府は隠さないでしっかり謝罪したらどうなの!」

 男性アナウンサーの声。「これは元従軍慰安婦らから事情を聴き日本政府に謝罪と戦後補償を求める公聴会です。今回初めて名乗り出たオランダや北朝鮮の元従軍慰安婦8人が当時の様子を生々しく語りました」。

 壇上では元「慰安婦」たちが泣いている。字幕の説明。「感極まって,韓国と北朝鮮の元慰安婦が抱き合った」。中国の元「慰安婦」,万 愛花さん(64歳,当時)のインタビューもある。「私は15歳でした。日本軍に襲われて両手両足を押さえられ,乱暴されました」。約3分弱の動画だ。

 フェイクの時代だ。万が一にもと日本テレビに動画の確認をお願いした。「放送したものがすべて。答えられない」。櫻井氏からも「裁判中なので」と取材を断わられた。

  ※「責任痛感すべき私たち」※


 しかし,櫻井氏は1992年7月18日号の『週刊時事』(時事通信社)でもつぎのように書いている(前掲した画像資料のこと)。

“櫻井よしこ 東京地方裁判所には,元従軍慰安婦だったという韓国人女性らが,補償を求めて訴えを起こした。強制的に旧日本軍に徴用されたという彼女らの生々しい訴えは,人間としても同性としても,心からの同情なしには聞けないものだ。

 売春という行為を戦時下の国策のひとつにして,戦地にまで組織的に女性達を連れていった日本政府の姿勢は,言語道断,恥ずべきであるが,背景にはそのような政策を支持する世論があった。とすれば,責任を痛感すべきは,むしろ,私たち1人ひとりである。

 櫻井氏は,この記事などを再録し『櫻井よしこが取材する』(ダイヤモンド社)を1994年に出版した(右上画像はこの本の表紙カバーと帯)。少なくともこの年まで,櫻井氏は,日本が国策として強制的に「慰安婦」にしたと伝えていたことになる。ちなみに,手元にある本は櫻井氏のサイン入りだ。フェイク本ではおそらく,ない。
(徃住嘉文・報道人,2019年4月19日号)

“ ※同上記事の編注):元『朝日新聞』記者の植村 隆氏が,元日本軍「慰安婦」に関する記事を「捏造」とされ名誉を傷つけられたとして,櫻井氏を訴えた札幌訴訟について,〔2019年〕4月19日(金)発売の『週刊金曜日』4月19日号が詳しく報じている。同誌は書店などで販売する紙版のほか,アプリを使った電子版でも購読できる。


 さて『櫻井よしこが取材する』(ダイヤモンド社,1994年)は昔,櫻井自身が従軍慰安婦問題について公表していた文章,「従軍慰安婦問問題の責任」(前出の『週刊時事』1992年7月18日号に初出)を,27−29頁に収録していた。この「従軍慰安婦問題」に関する “その3頁分” を画像資料のかたちで,以下に紹介しておく。これは,櫻井自身が従軍慰安婦問題について「取材して書いた文章であった」はずである。


櫻井よしこ『櫻井よしこが取材する』27頁

櫻井よしこ『櫻井よしこが取材する』28頁

櫻井よしこ『櫻井よしこが取材する』29頁


 また本ブログ内には,関連する記述がいくつかあるが,2018年11月12日に公表されたつぎの1編のみ紹介しておく。


“ 主題「安倍晋三を忖度する裁判官が下した従軍慰安婦問題関係の判決,政権のための審理をしないと左遷される裁判官の『へっぴり腰:判断』」

  副題1「従軍慰安婦問題の『裁判』に関して,『櫻井よしこ側の非』は確実に認めるが,植村 隆からの『櫻井に対する損害賠償の請求』は認めないという腸捻転の判決は,安倍晋三という『個人の首相』を忖度しただけの『国策的でありかつ反市民的な,そしてネトウヨ的な』偏向裁判」

  副題2「従軍慰安婦が歴史的に存在した事実を認めたくない安倍晋三君の意に,そのまま即した判決を下した裁判所・裁判官の『気の毒な利害状況と精神状態』」

  副題3「権力・支配・体制側の単なる召使いになり下がっている日本の裁判所は,安倍晋三サマのための判決しか出せないというみじめな現状」

  リンク先 ⇒ http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1073122842.html

 A「慰安婦問題検証映画『主戦場』で極右論客たちが衝撃のトンデモ発言! 櫻井よしこ,杉田水脈,テキサス親父,加瀬英明…」(『リテラ』2019.04.27 11:30)

 a) 戦中の日本軍による慰安婦問題を題材にした映画『主戦場』が,反響を呼んでいる。

 出演者には杉田水脈衆院議員やケント・ギルバート氏,藤岡信勝氏,テキサス親父ことトニー・マラーノ氏,櫻井よしこ氏などといった従軍慰安婦を否定・矮小化する極右ネトウヨ論客が勢揃い。「慰安婦はフェイク」と喧伝する歴史修正主義者たちと,慰安婦問題に取り組むリベラル派の学者や運動家らがスクリーンのなかで “激突” するドキュメンタリー作品だ。

 同作の見所はなんといっても,慰安婦問題をめぐる国内外の “論客” を中心とする30名余りへのインタビューだろう。

 櫻井よしこ氏ら “極右オールスターズ” の面々は「慰安婦は売春婦だった」「合法であり犯罪ではない」「慰安婦像設置の背景には中国の思惑がある」などの主張を展開。これに対して,吉見義明・中央大学名誉教授や「女たちの戦争と平和資料館」の渡辺美奈事務局長,韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の尹 美香常任代表らが反論を展開する。

『リテラ』2019年4月27日櫻井よしこ画像

 出演者らは顔を付きあわせて討論するわけではないが,論点を明確にして構成されていることで主張の対立点や強度を意識しやすく,ハイテンポなカット割りも相まって飽きさせない。映画は双方の主張を取材や資料を用いて細かく比較・検証し,その矛盾や恣意性を明らかにしていく。

 b) とくに,本サイトがオススメする同作の鑑賞法は,歴史修正主義者の口から発せられる主張のトンデモさをじっくりと吟味することだ。

 たとえば保守派の重鎮で,慰安婦否定論者の加瀬英明氏(日本会議代表委員)の場合,「慰安婦問題に関して正しい歴史認識をしている歴史家は?」と聞かれて「私がそのひとり」と自認する。

 しかし驚くことに,加瀬は慰安婦問題研究の第1人者のひとりである吉見名誉教授のことは「しりません」と嘯く。それどころか,保守派の歴史家である秦 郁彦・千葉大学名誉教授の著書すら「読んだことない」「人の書いたものあまり読まないんです。怠け者なもんで」などと宣うのだ。

 ちなみに,加瀬氏は「『慰安婦の真実』国民運動」という団体の代表も務めている。この極右団体は昨〔2018〕年,監事(当時)の藤井実彦氏が台湾で慰安婦像を蹴り,大きな国際問題になったことも記憶に新しい。ほかにも,同会は加瀬氏自身の名義で地方地じたいが慰安婦問題を扱う映画を後援することにクレームをつけている。そんな人物が,基本的な慰安婦研究すら「しらない」「読んだことない」などと恥ずかしげもなく開陳するのだから,呆れてものもいえない。

 c) もちろん,右派のトンデモはこれだけではない。右派陣営のインタビューからは明確な人種差別・性差別の意識が浮かび上がる。

 たとえば杉田水脈は “米国での慰安婦像設置のバックにいるのは中国” などといい出し,「どんなにがんばっても中国や韓国は日本より優れた技術がもてないからプロパガンダで日本を貶めている」と陰謀論を全開。さらには「日本が特殊なんだと思います。日本人は子どものころから嘘をついちゃいけませんよと(教えられてきた)」「嘘は当たりまえっていう社会と,嘘はダメなのでほとんど嘘がない社会とのギャップだというふうに私は思っています」とヘイトスピーチを連発する。
 補注)この水田水脈のとくにアジア諸国における企業経営の実態,それも技術水準に関する見解(?),「中国や韓国は日本より優れた技術がもてない」という思いこみは,まったく根拠のない四半世紀前であれば一部でいえたかもしれないそれであった。水田は,自分が産業経済・産業経営の実態に関して “本当に無知である” (まともな知識も情報ももちあわない点)をわざわざ告白するために,そのように発言したとしか受けとりようがない。

 また,テキサス親父は「慰安婦像をみにいったとき,私は(像の顔にかぶせるための)紙袋をもっていった。それがふさわしいと思ってね。ブサイクのガラクタには紙袋がお似合いだ」などと笑いながら語り,テキサス親父のマネージャーである藤木俊一氏は,「フェニミズムを始めたのはブサイクな人たちなんですよ。要するに誰にも相手されないような女性。心も汚い,みた目も汚い。こういう人たちなんですよ」といい放つ。


 映画のなかでもナレーションで「差別意識が元慰安婦は偽証しているとの考えにつがっているようだ」とはっきり指摘されていたが,まさにそのとおりとしかいいようがないだろう。

 註記)https://lite-ra.com/2019/04/post-4682.html

 d)「暴かれるIWG−報告書の虚構と櫻井よしこの調査費支払いの事実」 慰安婦問題をめぐる右派の性差別的・人種差別的な態度については,映画の後半でも「元修正主義者」と紹介される女性が証言する。

 補注)IWGとは「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班」の略字イニシャル。後段にも出てくる。

 保守界隈に身を置いた立場から否定主義者たちの振るまいについて語るのだが,実はこの女性は,数年前まで「ネクスト櫻井よしこ」として保守論壇で注目を浴び,実際,右派の月刊誌にもなんどか寄稿したことのある人物。だが,あるときから「ナショナリスト」たちの主張を疑うようになり,いまは距離を置いているという。

 さらに,この女性が “否定主義者の嘘” を告白する場面は,映画『主戦場』のハイライトのひとつとなっている。詳しくは劇場で直接みていただきたいのだが,ここでは予備知識として,あるいは鑑賞後のための補足情報として記しておこう。


 はじまりは,産経新聞が2014年11月1日の紙面で「著名な米国のジャーナリストが日本の慰安婦問題の調査に本格的に取り組み始めた」として,マイケル・ヨン氏というフリージャーナリストを紹介したことだった。


 これに続けて産経は,同月27日付で「慰安婦『奴隷化』文書なし 米政府2007年報告に明記」と題した記事を掲載。ともに古森義久・ワシントン駐在客員特派員による署名記事である。書き出しはこうだ。

 「米政府がクリントン,ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で,日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「助成の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった」。


 記事のいう「大規模な再調査」というのは,2007年に米政府がまとめた「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班米国議会あて最終報告」(通称・IWG報告書)のことを指している。


 産経は,「慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト,マイケル・ヨン氏とその調査班と産経新聞の取材により,慰安婦問題に関する調査結果部分の全容が確認された」として,IWG報告書のなかに「慰安婦関連は皆無」だったことを根拠に「日本側の慰安婦問題での主張の強力な補強になることも期待される」と書いた。


 マイケル・ヨン氏は「IWG報告書をスクープ」ともてはやされ,『正論』(産経新聞社)や『週刊文春』(文藝春秋)でも「報告書は『20万人の女性を強制連行して性奴隷にした』という事実がいっさいないことを証明している」などと触れまわった。


 これ以降,保守界隈では「結果的にIWGは『慰安婦を軍が強制連行などして性奴隷とした証拠はなかった』とするもの」(ケント・ギルバート)などとして広く流通。要するに,IWG報告書は右派陣営から “慰安婦問題の犯罪性を否定する切り札” として扱われてきた。

 e) ところが,である。映画『主戦場』では,このIWG報告書をめぐる右派の言説が見事にひっくり返される。実は,前述の「元修正主義者」の女性こそ,ヨン氏とは別の米国人とともにくだんの報告書を「発見」した人物で,いわば真のオリジネーター。その彼女が,映画のなかで後悔の言葉とともに語るのが ,“IWG報告書をめぐる右派の宣伝がいかに虚構であるか” という具体的な説明なのだ。

 しかも,映画のなかでは名指しこそされていないが,マイケル・ヨン氏は慰安婦問題をめぐって,普通ではとうてい考えられない額の「調査費」まで受けとっていたとされる。実際,ヨン氏は自身のブログに〈櫻井女史らは,私に調査をするようにお金を支払った〉と記しているのだ。あまりに生臭い話だが,映画ではこの「高額調査費」問題についても監督が櫻井氏に直撃しているので,ぜひ櫻井氏の “反応” をスクリーンで確認してほしい。
 註記)https://lite-ra.com/2019/04/post-4682_2.html

 ちなみに,映画の公開前には,出演者に極右歴史修正主義者やネトウヨ文化人が多数ラインナップされていることから「否定派の宣伝になるのではないか」との懸念の声もネット上で散見された。だが,この映画は単なる「両論併記」で終わらない。


 f) 本作が映画デビュー作となるミキ・デザキ監督は,1983年生まれの日系アメリカ人2世。日本での英語教師や YouTuber,タイでの僧侶経験もあるという異色の映像作家だ。


 2013年に YouTube で,日本社会のなかのレイシズムの存在を指摘したところ,ネトウヨに炎上させられた。そうしたなかで,朝日新聞の植村 隆・元記者に対するバッシングを目の当たりし,慰安婦問題への関心を高めたという。両陣営から介入されないため,クラウドファウンディングで資金を集めて『主戦場』を製作した。

 デザキ氏は本サイトの取材に対し,「両方の主張のどちらがより筋が通っているかを比較するべき」と語る。

 「論点を並べて “どっちもどっちだ” というやり方は,実のところ政治的なスタンスの表明にほかなりません。慰安婦問題に関しては,いま日本では右派の主張がメインストリームになっている。そこに挑戦を示さないことは,彼らのいいなりになるということであり,その現状を容認することにほかなりませんから。日本のメディアの多くは両論併記を落としどころにしていますが,それは,客観主義を装うことで,語るべきことにライトを当てていないということ。単に並べるだけでなく,比較することで生まれる結論があります」。

 g) 従軍慰安婦をめぐる否定派 / 肯定派の「論争」にスポットライトを当てながらも,決して “どっちもどっち” にならない映画『主戦場』。終盤では,日本の歴史修正主義の背景にある極右団体「日本会議」や安倍晋三首相に連なる戦後日本政治の流れもフォーカスされる。


 一般公開に先駆けておこなわれた日本外国特派員協会での上映会後の質疑応答では,デザキ監督に対し否定派の言論人から批判的な質問も飛んだ。


 4月19日には,日本会議が〈この映画には,日本会議に関して著しい事実誤認が含まれている〉などとする声明をHPで公表。


 4月25日発売の『正論』ではケント・ギルバート氏が「とてもみるに値しない映画」などとこき下ろしている。


 まさに大慌てといった感じだが,要するに,それだけ否定論者たちの核心に迫った映画だということだろう。いずれにせよ,判断するのは観客だ。(編集部)
 註記)https://lite-ra.com/2019/04/post-4682_3.html

 B「『私は歴史修正主義者ではないし日本会議とは何の関係もない』!? 植村 隆氏による名誉毀損裁判の判決を受け,櫻井よしこ氏が日本外国特派員協会での記者会見で弁明連発! 墓穴掘りまくり!! 」(『IWJ』2018.11.16,記事公開日:2018.11.19,https://iwj.co.jp/wj/open/archives/435811)(取材・文:IWJ編集部 文責:岩上安身)

 以下は,特集「IWJが追ったヘイトスピーチ問題〈特集 戦争の代償と歴史認識〉」(2018年11月22日全文書き起こしを追加,27日に加筆修正)である

 −−「私はリビジョニスト(歴史修正主義者)ではないし,日本会議とは,なんの関係もありません」。記者会見の冒頭,司会者から「リーディング・リビジョニスト(歴史修正主義の指導者)」と紹介され,日本会議との深い関係も指摘されたジャーナリストの櫻井よしこ氏は,「一方的な見方をしているのではないか」と述べ,「話の前提が間違っている」と強く否定した。

 しかし,どう抗弁しようとも,櫻井氏が「草の根改憲運動」を進める日本会議の会長である田久保忠衛(ただえ)氏や前会長の三好 達(とおる)氏とともに「美しい日本の憲法を作る国民の会」共同代表であることは公の事実である。改憲推進の旗振り役として,ことあるごとに広告塔の役割を果たしてきた櫻井氏のいう「なんの関係もない」とは,単に「日本会議のメンバーとして登録はしていない」というだけに過ぎない。

 2018年11月16日,櫻井よしこ氏は,元朝日新聞記者の植村 隆氏から従軍慰安婦の記事をめぐり名誉毀損で訴えられていた裁判の判決について,日本外国特派員協会(FCCJ)で記者会見をおこなった。

 1)櫻井よしこ氏
 元朝日新聞記者の植村 隆氏(現・『週刊金曜日』発行人)が1991年8月,朝日新聞記者時代に執筆した元従軍慰安婦に関する記事をめぐり,記事を「捏造」と繰り返し誹謗中傷した,ジャーナリストの櫻井よしこ氏と櫻井氏の記事を掲載した株式会社新潮社,株式会社ワック,株式会社ダイヤモンド社を植村氏が名誉毀損で札幌地裁に訴えていた裁判で,2018年11月9日,岡山忠広裁判長は植村氏の請求をすべて棄却する判決をいい渡した。

 判決は,「櫻井氏の記事には植村氏の社会的評価を低下させる表現があったが,櫻井氏が参照した資料には,櫻井氏が真実だと信じるに足る相当の理由があった(真実相当性)ため,櫻井氏の表現は名誉毀損に当たらない」というものだった。

 しかし,裁判の過程で櫻井氏は,植村氏を批判した記事の根拠とした,朝鮮人従軍慰安婦,金 学順(キム・ハクスン)さんの訴状の記述が実際には書かれていないことを指摘され,これを認め,訂正している。

 判決にある「真実相当性」とは,いいかえれば,真実であると信じられるまで十分取材を尽くしたか,ということを問われているわけであるから,櫻井氏の取材が「ずさんであった」と批判は当然であろう。植村氏と植村氏の弁護団は,判決のあった〔11月〕9日,控訴することを表明している。

 2)植村 隆氏(2018年11月10日,IWJ撮影)

“【関連して付記されていた「記事の題名」の紹介】

 ※−1 【速報】櫻井よしこ氏のずさんな取材を司法が追認!? 植村 隆氏の名誉を毀損したが「捏造」と信じたのは仕方なかった!? 「言論で勝って裁判で負けた,悪夢のような判決」!(2018.11.9)

 ※−2 櫻井よしこ氏は,なぜ司法に「特別扱い」されたか? 改憲運動を草の根で推進する「日本会議の広告塔」だからではないか!?(11.9) 植村 隆氏裁判札幌地裁判決後の報告集会でIWJ代表・岩上安身が緊急事態条項の加憲に警鐘を鳴らす!(2018.11.9)

 ※−3 「ジャーナリスト」櫻井よしこ氏への名誉毀損訴訟 まさかの不当判決!! 「悪夢のような判決。言論で勝って,法廷で負けてしまった」(〜11.10) 岩上安身による元朝日新聞記者で現・週刊金曜日発行人の植村 隆氏・小野寺信勝弁護士インタビュー(2018.11.10)

〔記事本文はここから→〕 〔11月〕16日のFCCJでの記者会見でイタリアの「Sky TG24」の記者から「ジャーナリストとして,なぜ,植村氏に話を聞いて記事を書かなかったのか?」と質問された櫻井氏は,


 「植村氏は朝鮮半島問題の研究者である西岡 力(つとむ)氏の対談の申しこみを2回断わっている。ワックが植村氏へ反論のための紙面提供を申し出たが,それも断わっている。私は朝日新聞に質問状を送ったが『木で鼻をくくったような』回答だった。だから植村氏には話を聞かなかった」と答えた。

 櫻井氏が名前を挙げた西岡氏は,当時『現代コリア』編集長で現在は麗澤大学客員教授で,公益財団法人モラロジー研究所歴史研究室長。植村氏の記事が出た翌年の1992年より書籍や雑誌で記事の批判を繰り返し,1998年以降は,記事を「悪質な捏造」といって執拗に攻撃し,櫻井氏同様植村氏から名誉毀損で東京地裁に訴えられている被告である。

 自分と政治的立場が同じ西岡氏やワックの要請に応じなかったから,また,朝日新聞社の対応が悪かったからという自分の執筆活動とは無関係な理由で,自分が批判している当の本人である植村氏に取材しないまま「捏造」と攻撃することが正当とされると考えるのはあまりに馬鹿げた論理であって,話にならない。

 さらに「Sky TG24」記者に,「何人くらいの慰安婦に話を聞いたのか」と質問された櫻井氏は,以下のように答えた。

 「私は何十年も慰安婦問題を取材してきた。河野(洋平)官房長官,加藤紘一氏,外務省審議室長をしていて当時インド大使になっていた谷野作太郎氏,官房副長官の石原信雄氏,駐日韓国大使など,幅広く多くの人に取材しました。それにくわえて朝鮮半島問題の専門家である西岡氏などの話も聞いていた。慰安婦の方が語ったことの記事も読んだ。私なりに取材を尽くしたと思っているので,慰安婦の方に話を聞いてはおりません」。

 自慢話のように,長々と著名人の名前をあげてみたものの,要するに櫻井氏は朝鮮人慰安婦問題においてもっとも重要な証言者である慰安婦本人にいっさい取材をしていないということも認めたのである。(引用終わり)


 つまり,櫻井よしこは自著『櫻井よしこが取材する』(1994年)から1歩も前進することもない状態でもって,いいかえれば,従軍慰安婦問題に関しては独自の取材をしないまま,この問題に対して「事実を認める立場」から「全面的に否定する立場」に跳躍的に退歩していった。


 しかも,櫻井よしこがそのさい披露してきた立場の変化は,どこまでも言論人として基本的必要な「事実に対する調査:徹底した取材」を欠いていながら,自分が認めたくない「歴史の事実」を闇雲に否定・排除する意向だけを強弁する態度を明示していた。

 3)櫻井よしこの足跡−歴史意識の混濁化と不覚−
 問題の核心には,櫻井よしこがなぜ,従軍慰安婦問題に関する「自身の立場」をそのように「自己において矛盾するほかない方向の立場」にまで変えていったかにあった。

 最近における櫻井の言論は,たとえば「櫻井よしこ氏『憲法改正なくしてわが国の再生はない』」(『産経ニュース』2019/5/3(金)18:33 配信,https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190503-00000543-san-pol)からも伝わってくる。彼女がその後において主張するに至った「妄想的な歴史の観念」像は,「敗戦という大失敗にはまった旧大日本帝国」まで以前を郷愁するがゆえに,それまでの時代において日本が重ねてきた「歴史の過ち」を,いっさい認知したくないからであった。


 櫻井よしこ〔だけでなく同類の人たちはみなそうであるが〕は,「憲法改正なくしてわが国の再生はない」というとき,彼ら・彼女らの念頭に置かれているのは「明治憲法(大日本帝国憲法)」的な国家体制の陳腐な復活であって,21世紀の「この先にふさわしい:新しいそれ」ではない。


 明治の時代(司馬遼太郎風に表現すれば「坂の上の雲」を追い求めて,しれも自分の足下をよくみないで走りまわったすえ,結局コケてしまった「櫻井よしこ」の「みっともない姿」が目に浮かぶ。

 ジャーナリストの櫻井よしこ氏は〔5月〕3日,都内で開かれた改憲派の集会で講演し,「令和の時代,立派な日本国としての歩みをさらに強めなければならない。憲法改正なくして,わが国の本当の意味の再生はない」と述べていた。

 憲法を改正しさえすれば,それで日本が「過去に栄光あったかのように映った時代」が(具体的にそれはいつだったか? そのような時代が本当に存在していたか?),必らず再来させうるし,間違いなく再興も確実にできるとでも考えているとしたら,これこそ「思いつき的な妄想どころか,完全なる白日夢である」。

 日本の政治・経済のうち経済を考えてみればいい。この後においてのこの国であるが,高齢社会がさらに高度化(深刻化)していく体制のなかで,かつての高度経済成長時代のような,あるいはこれに代わる躍動的な経済活性化が,どうやったら期待できるというのか。

 補注)ここまで落ちこんだ日本の政治・経済の実態・真相に関する分析は,最近作としてはまず,金子 勝『平成経済 衰退の本質』(岩波書店,2019年4月),つぎに,斎藤貴男『戦争経済大国』(河出書房新社,2018年4月)を挙げておく。


 前述中に登場していた安倍晋三の腹話術「人形」みたいな国会議員である杉田水脈は,これらの本のなかに書いている「敗戦後史としての日本経済盛衰の全行程」について,実は,なにもしらない・分からない〈第2次安倍政権内の・おバ▲〉国会議員の1人であった。


 より正確に批判して表現するとしたら,無知蒙昧状態のまま「国会議員」をやっている愚かな女性議員(しかも日本の全女性にとっては仇敵みたいな人物)であった。

 C 大日本帝国憲法(明治憲法)のおどろおどろしさ

 現行の日本国憲法を改正〔?〕(改悪!)し,旧大日本帝国憲法に似ている「新しい憲法」を制定してみたところで,お里は(高が)しれている。明治時代の「坂の上の雲」をもう一度夢みてみたいと思う(渇望する)のは,勝手である。だが,それでもって,21世紀における日本の政治・経済の起死回生が期待できるとか,あるいは,その程度でしかない「保守・右翼の立場」からでも,なにかよりよい変革を導きうるとでも思いこんでいるのか? 

 わけても「従軍慰安婦問題の歴史的な起源」を全面的に否定したがり,明治の時代を懐かしく思い,その時代に似たこの国の姿を追想像するしか「能のない」安倍晋三・一統は,あまりにも「自国の過去」「歴史に対する理解」が貧しすぎる。歴史を否定するにせよ,歴史を変えたいにせよそうである。

 E・H・カーは「歴史は,現在と過去との対話である」と説明していたが,もっぱら「現在に関する認識」は放置したうえで,おまけに「過去との対話」など大嫌いなまま,その「過去」が無条件でいいものだと盲信(誤信)できた安倍晋三政権的な特定の政治集団こそが,まさしく「現状のごとき〈国難〉的状況」にまで陥った「この国の惨状そのもの」をもたらしてきた。

 大日本帝国憲法(明治23:1890年)の冒頭におかれた「告文」のなかに「皇祖皇宗」「皇考」という用語が,いったい何回出ていたか。これほどまで神がかり的な文章にしておくべき憲法の前文の1種でないと,アジアで唯一後発した「大日本帝国」は,米欧帝国主義国にはとても対抗できないといった「劣等意識」(「西洋芸術と東洋〔日本?〕道徳」といった作風になる「強がり・負け惜しみの精神」)を強烈に抱いていた。

“告文
皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ~靈ニ誥ケ白サク皇朕レ天壤無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟~ノ寶祚ヲ承繼シ舊圖ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ發達ニ隨ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ內ハ以テ子孫ノ率由スル所ト爲シ外ハ以テ臣民翼贊ノ道ヲ廣メ永遠ニ遵行セシメu〻國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶c諦攝iスヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト俱ニ擧行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ
皇考ノ威靈ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ
皇祖
皇宗及
皇考ノ~祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及將來ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ
~靈此レヲ鑒ミタマヘ
 補注) なお,皇考とは,在位中の天皇が亡くなった先代の天皇を指す語である。ここでは孝明天皇になる。
 まるで呪術のような文章であった。なかんずく,明治の結果:失敗は「古代史を近代史のなかにもちこみ,〈疑似神国:神聖国家〉を構想した点」が根本の原因になっていた。それでも,旧大日本帝国が体験させられた “歴史的な敗戦(敗北)の意味” は思いだしたくないらしく,いまとなっては「明治の時代」のなかになにもありうるはずもない〈宝物〉を,もう一度掘り出せるつもりでいる。しかし,21世紀のいまの時代にそのような実体はどこにも,なにもみつからない。

 明治「維新」は1868年を区切りになされたが,その後の1945年まで「77年間分の決算」は「昭和20年間分の敗北:戦時体制の終了」をもって締められた。この「歴史の失敗」を事実そのものとして,換言すれば「失敗とみなせない=〈倒錯の歴史感覚〉」そのものが,敗戦から70年以上も経った現在にもなって「またもやはっきりと」頭をもたげている。「東京裁判史観」を全面否定したところで,敗戦までの77年間における「負の歴史」じたいが「観念の世界」において一挙に払拭・消去できるわけなどない。


 大日本帝国憲法よりも,そして日本国憲法よりもいい憲法を作るための改正ならともかく,『歴史の歯車』をともかく逆に回したいだけの安倍晋三政権1派には,実のところ,まともな「歴史観」など不在であった。自分たちの頭で新しい歴史を創造できず,むろん未来への展望すら開けていない。


 明治憲法をマネしたい,だから旧日本軍(陸軍だけでなく海軍も同列であったが)のなかには「従軍慰安婦」など存在しなかった,そのような制度などありえなかったと,それも必死になって「歴史のウソ」をいいはってきた。したがって,この問題の解決に前向きであるかのような姿勢は示そうとしないまま,ただ一方的に否定しつくす考えしかもちあわせなかった。

 21世紀の現在にあってもまだ「歴史の捏造作業」,すなわち,「あった事実」を「なかった歴史:無」にしておき,なおかつ同時に,19世紀末に制定されていた明治憲法がすばらしかったかのように回想したい時代精神に,「明日はない」。それよりも,改憲するならするでなぜ,21世紀のこの先を “それこそさきどりできる憲法” を作ることに考えが及ばないのか?

 従軍慰安婦問題を “イチジクの葉っぱ” でただ隠したがるような政治姿勢は,大相撲の力士たちの星取り表にたとえていえば,「大東亜(太平洋戦争)の完敗」を,つまり成績「2勝13敗」のような事実を認められない十両西10枚目の力士のごとし……。それでも「2勝」はしていた(?)と,なおいいはるのだから,物笑いのタネにしかならない。

 安倍晋三の唱えた標語「戦後レジームからの脱却」は,在日米軍基地に首根っこを抑えられたまま,現在の日本国に関する地位を一方的かつ想念した主張であった。そのかぎりで「その脱却」はもともと無理難題であったし,できることといったらせいぜい「戦後レジームそのものの保守」化,いいかえればアメリカへの従属体制の強化である。現に安倍晋三はいつも,トランプが喜ぶ対米従属国家体制の深化・進展に全面的な協力を惜しまない。


 トランプの「お尻を舐める」ような米日主従国際関係のなかで,大日本帝国時代の従軍慰安婦問題くらいは “なかったことにしておきたい” という気持は分からなくはないものの,相手(その被害者・犠牲者)を完全に無視しなければ成立しない話題であった。


 裁判所までが安倍晋三「忖度判決」を下したところで,従軍慰安婦問題の抹消ができるわけはない。「そのもつ歴史の意味」を軽視する「国家司法の基本姿勢」は,世界中から軽蔑の視線を浴びる。このことに無頓着なこの国に特有である自己閉塞症状が露骨に現われていた。

 敗戦後史としての「対米従属国家〈日本〉」の意味を,つぎの D で考えてみたい。

 D「〈耕論〉)9条,受け取る世代は 江藤祥平さん,栗山リンダさん」(『朝日新聞』2019年5月8日朝刊13面「オピニオン」)から江藤祥平の意見を聞く

 日本国憲法が施行されて72年。原点にあるのは,第2次世界大戦での敗戦という経験だ。いま日本社会では,敗戦国としての日本像も,経済大国としての戦後日本像もしらない世代が多数になりつつある。新たな世代は9条という遺産(レガシー)をどう受けとるのか。

 江藤祥平(憲法学者,1981年生まれ)は「 “虚構” だからこそ引き受ける」という題のもとに,以下のように語っている。若干ははぶき任意に選択して段落を引用する。

 a) 2002年,米国留学した私の目に映ったのは大規模なデモの光景でした。報復的な戦争に突き進む自国政府への反対の声。他方,米国主導のイラク戦争に加担した日本は “私たちは戦争していない” という空気でした。独仏と比べても積極的に戦争を支持した国なのに,政府も国民も戦争の当事者性を引き受けていない,責任の不在を印象づけられる出来事でした。

 そんな時代に育ったせいでしょうか。「戦後日本は民主主義と平和主義の豊かな国になった」といわれても,私にはそれは虚構,フィクションとしか思えませんでした。防衛を米国に肩代わりしてもらうことで自身は経済成長に専念し,米軍基地の負担は沖縄に押しつけることでなり立っていた側面が,戦後日本にはあるからです。

 b) 憲法9条の存在じたいには意味があったと私は考えます。軍拡を抑え,軍事力で問題を解決しようとしない日本の基本姿勢は,国際社会の信頼をえてきました。ただし,どこまで「下からの平和主義」だったかは疑問です。市民運動もありましたが,とくに1970年代以降は市民も無関心を深め,政治や法律のプロに任せっきりだったように思います。

 昨今の集団的自衛権の行使容認にしても,それを食い止めうる「われわれ」が存在しなかったのが現実でしょう。そんないまだからこそ,9条の原点に立ち返るべきだと私は思います。憲法前文と9条の特徴は,自国だけではなく世界の平和をも実現しようとする崇高な理想が刻みこまれている点だと私はみます。

 自衛権の行使を否定しているとは考えませんが,「戦力」に当たる実力の保持は禁止しており,他国の武力に対して劣勢に立つことが織りこみずみです。他国の侵略には国連など国際社会による介入で対応することが前提とされてもおり,現実の世界をみれば,相当の覚悟を要することです。しかし,それでも正義の原理にもとづく国際社会を作りあげる取り組みを国民に求めたのが9条です。

 c) 他国の平和にまで配慮したものですから,真剣に受け止めるなら,戦争より覚悟が必要になります。9条がこうしてある意味で常軌を逸しつつ,歴史の一歩先をいく性格を帯びた背景には,多大な犠牲者を生んだ先の大戦の経験があります。倫理の側面からみれば,弱き者たちから叫ばれた「殺すなかれ」という要求を受けとめたものともいえるでしょう。

 しかし,平和な国際社会を実現する覚悟をもつ「われわれ」が立ち上がったかといえば疑問です。政治は米国に追従し,国連に本来の役割を果たさせる改革を使命とはしてきませんでした。もちろん政治は国民の映し鏡です。国民に覚悟がないから,覚悟しないことが政治家の得になったのでしょう。

 9条の理想を追求する日本国民という物語は,それが虚構であるからこそ,引き受ける覚悟がなければなり立ちません。あえて9条という宿命に賭ける覚悟です。現実政治をみれば,そうした「われわれ」が立ち上がるみこみは小さいでしょう。しかし,その細い道筋を絶やさず追求しつづけることが必要なのだと私は考えます。(聞き手 編集委員・塩倉 裕)(引用終わり)


 日本国憲法第9条はいうまでもなく,「在日米軍基地」の実在によって裏支えされてきた。その第1条から第8条の「天皇・天皇制」の問題も合わせ鏡の要領で存在させられてきた。だが,江藤祥平は新聞紙上に公表されたインタビュー記事のなかでは,天皇関連への言及はない。


 在日米軍基地の問題に関する発言も,憲法学者としてごく人並みであって,格別の含意は示唆されていない。日本国民「だけの立場の問題」が特別にあるかのようにも語っている。だが,そうした論理・議論だけでは,安倍晋三たちのような「改憲したい欲望」をまともにとりあげ,対抗するための理論・思想の準備はしにくい。

 憲法の「第1条から第8条まで」と「第9条」とのあいだには,日本が敗戦してからずっと置かれている「在日米軍基地の存在」の問題があった。この問題はもちろん,憲法学者が本格的に議論してきたものの,最近ではもとは素人であった矢部宏治の議論がその論点を分かりやすく解説してくれている。

 日本国の現状はいまだに半国家であり,つまり半独立国だといっても過言ではない。この現実を踏まえない9条擁護の主張も,安倍晋三たちにおける改憲の欲望も,日本に暮らし生きているわれわれの日常生活とはかけ離れている。安倍の改憲への意欲が,現状のごとき「対米従属国家:日本」の現状を,さらに固定化させる役目を発揮しないとはかぎらず,むしろその方途に向かう〈危険性〉のほうが確実に大である。


 「戦後レジームからの脱却」? 誇大妄想である。在日米軍基地をすべて撤去してから,そのような夢想をいいだしたらよいのであって,そのあとになってようやく,日本がアジアの東端に位置する国家としてどのような役割を果たすべきかについても,おのずと議論の方途が開け,そのための具体的な目標も設定できるかもしれない。


 現在のところ,どうみてもトランプの飼い犬みたいな「迷・忠犬:シンゾー」に,そうした国際政治次元の任務・課題にとりくめと指示したところで,「ネズミに向かい人間の乗る馬車を引け」というに等しい。


 このままだと日本は,今後に向けて凋落・衰退の一途しか展望できない。安倍晋三には,その展望「観」をくつがえすだけの政治理念も体系理論も,そして政治家としての覚悟も力量もない。いままでに彼が成就させてきた「日本を破壊していくための為政」であれば,これだけは確かに結果を出せている。まったくもって,にっちもさっちもいかないこの国にさせたのが,この安倍晋三という名の「亡国・国難の首相」である。
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1074664307.html

14. 中川隆[-9540] koaQ7Jey 2020年11月29日 01:17:13 : fhXpTNTSFo : d2lndk56TWlqQjI=[33] 報告
安倍晋三が植村隆と櫻井よしこの裁判めぐり「植村記者の捏造確定」とデマ投稿! 裁判で捏造が明らかになったのは櫻井なのに(リテラ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo277/msg/565.html


2020.11.28 安倍晋三が植村隆と櫻井よしこの裁判めぐりデマ投稿! リテラ

    
    安倍晋三Facebookより

 元朝日新聞記者の植村隆氏が、「従軍慰安婦」問題に関する記事をめぐり「捏造記者」などと攻撃を受け、櫻井よしこ氏らを名誉毀損で訴えていた裁判で、19日に最高裁が一審・二審に続き、植村氏の請求を棄却した。

 この判決が不当判決であることは後述するが、呆れたのは、安倍晋三・前首相がこの判決に大はしゃぎしてとんでもない行動に出たことだ。判決を報じた産経新聞のニュースを自身のツイッターとFacebookでシェアし拡散、さらにFacebookではこんなコメントまで付けたのである。

〈植村記者と朝日新聞の捏造が事実として確定したと〉〈いう事ですね〉

「桜を見る会」前夜祭をめぐって真っ赤な嘘をついていたことがバレても、なんの説明責任も果たそうとしない人間が、こういうことだけネトウヨ脳まる出しでしゃしゃり出てくるのだから始末に負えない。

 しかも、これ、中身が完全なデマなのだ。先日、この安倍前首相のFacebookの投稿に対し、植村氏側が「事実無根」「名誉毀損」であるとして記事の削除を求める内容証明を送ったことが明らかになったが、当然だろう。

 断っておくが、これは判決が不当だと考えているから言っているわけではない。実際の判決の内容と照らしても、安倍前首相の「植村記者と朝日新聞の捏造が事実として確定した」という投稿は、完全なデマなのだ。

 そのことを説明するために、まず裁判の内容を簡単に振り返っておこう。2014年、朝日新聞が「従軍慰安婦」をめぐる「吉田清治証言」の報道を取り消した問題で、右派メディアやネトウヨから袋叩きにされるという状況が起きたが、その際、バッシングの対象になったひとりが植村元記者だった。

 実際は、植村氏は朝日が虚偽だと認めた「吉田清治証言」とは無関係だったのだが、過去に「従軍慰安婦」の記事を執筆していたため、「人身売買であるのに強制連行されたと書いた」とされ、「植村は捏造記者だ!」と総攻撃を受けたのである。非常勤講師を務めていた北星学園大学には脅迫が殺到、さらに本人だけでなく娘にも殺害予告が届くなど、“リンチ”とも呼べる状況が続いた。

 だが、植村氏はこうした理不尽なバッシングに泣き寝入りするなく、ひとつひとつ根拠のないことを実証的に反論。「捏造記者」などと攻撃した極右言論人と出版社に対し、名誉毀損の損害賠償を求める裁判を起こした。

■安倍の投稿はデマ!裁判所は植村氏の「捏造」を「確定」なんてしていなかった

 今回、そのひとつである櫻井よしこ氏との裁判で、最高裁が植村氏の請求を棄却したというわけだ。

 しかし、最高裁は植村氏の記事を「捏造」だなどと一言も言っておらず、一審=札幌地裁の判決を支持したにすぎない。

 そして、札幌地裁もまた、植村氏の記事を「捏造」だと認定していない。長い判決文の隅から隅まで読んでも、「原告の記事は捏造であった」「原告は捏造記者である」、あるいは「原告は事実と異なることを知りながら記事を執筆した」などといった記述は一切出てこない。

 それどころか、判決文は櫻井氏側の主張のほうを「真実であると認めることは困難」としていた。

 櫻井氏は植村氏を攻撃する記事で“金学順さんは継父によって人身売買されて慰安婦にさせられたのに、植村氏はそれを知りながら意図的に書かないことによって強制連行を印象付けようとした”という主張を展開していたのだが、判決文は〈「継父によって人身売買され慰安婦にさせられた」という事実が真実であると認めることは困難である〉と言及していたのだ。

 判決自体は植村氏の請求を棄却しているが、それは櫻井氏の記事が「真実」と認められたわけではなく、「真実と信じる相当の理由があった」ことが認められたからにすぎなかった。名誉毀損裁判では表現の自由を尊重する立場から、それが真実でなかったとしても、真実だと信じてもやむをえない状況や理由、つまり「真実相当性」があれば、悪意はないとして違法性は阻却されることになっている(実際の裁判ではそういうふうには運用されていないが)。今回はそれが適用されたに過ぎず、櫻井氏の主張の真実性、つまり植村氏の記事が捏造であることが事実と認定されたわけではないのだ。

 にもかかわらず、安倍前首相は「請求棄却」という点のみをもって、「植村記者の捏造が確定」などというまったくのデマを拡散。植村氏への個人攻撃を扇動した。

 安倍前首相は以前、菅直人元首相から訴えられた裁判でも、同様のすり替えデマをやっている。福島原発事故の後、安倍前首相がメルマガで〈やっと始まった海水注入を止めたのは、何と菅総理その人だったのです〉〈これが真実です〉と断言したが、これは完全にデマだった。海水注入を止めるよう指示したのは東京電力の武黒一郎氏であり、福島第一原発の故・吉田昌郎所長はその指示を無視して海水注入を継続させたというのが“真実”であり、これは吉田所長も証言していた。

 しかし、東京地裁が「記事は事故対応の詳細が判明する前に発信されていた上、菅元首相の資質や政治責任を追及するもので公益性があった」などとして真実相当性を認め、菅直人氏の請求を棄却すると、安倍首相は「私をおとしめようとした訴訟で、菅氏に猛省を求めたい」などと説教強盗のようなコメントを出したのである。

■櫻井氏は存在しない記述をもとに植村氏を「捏造」と攻撃していた

 自分にとって都合のいいように事実を歪めてSNSでデマを拡散する──そのやり口は一国の首相経験者とは思えないネトウヨ脳まるだしぶりではないか。

 もっとも、今回の問題については、安倍前首相のデマ拡散以外にもうひとつ指摘しておかなければならないことがある。それは、裁判所の判決の不当性だ。

 先に、植村氏の請求棄却の理由となった「記事の真実相当性」について、名誉毀損裁判では表現の自由を尊重する立場から、それが真実でなかったとしても、真実だと信じてもやむをえない状況や理由があれば、悪意はないとして違法性は阻却されることになっていると説明したが、実はメディア報道をめぐる最近の名誉毀損裁判では、この真実相当性が認められて勝訴するケースはほとんどない。ほんの少しでも間違いや証明できない記述があれば、報道した側の敗訴というのがほとんどなのだ。

 ところが、この裁判では「真実相当性」が信じられないくらい拡大解釈されて判決が下されている。というのも、今回の櫻井氏の場合は、「真実と信じる根拠」そのものが存在しない捏造だったからだ。

 裁判所は判決で、櫻井氏が「金学順氏は継父によって人身売買された女性」と信じた根拠として、「金学順氏が日本国政府を訴えた訴状」「金学順氏を取材した内容をまとめた臼杵氏執筆の論文」の記載などをあげた。だが、そもそもこれらの資料には、そんな記述など一切ない。

 そのことは、2018年3月23日の第11回口頭弁論の櫻井氏の本人尋問で暴かれ、櫻井氏自身も誤りを認めている。

 まず、この口頭弁論で問題になったのは、「WiLL」(ワック)2014年4月号の記事(「朝日は日本の進路を誤らせる」)。櫻井氏は〈日本を怨み、憎んでいるかのような、日本人によるその捏造記事〉などと植村氏を批判するために、前述した金学順さんの訴状をもちだし、こう書いていた。

〈訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと、三年後、十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている。
 植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とはなんの関係もない「女子挺身隊」と結びつけて報じた。〉

 つまり、櫻井氏は「訴状には金学順さんが継父によって40円で売られ、さらに再び継父によって連れられて慰安婦にさせられた、という記述があるのに、植村氏はこれを無視するという意図的な捏造報道を行った」と攻撃していた。

 ところが、実際の金学順さんの訴状には、櫻井氏が言う「継父によって四十円で売られた」なる記述は、存在していなかった。つまり、櫻井氏のほうが訴状にないことを“捏造”して、植村氏に対し「捏造記者」などという攻撃を繰り返していたのである。

■なぜ根拠そのものが捏造だった櫻井氏に「真実正当性」が認められたのか?忖度による不当判決

 それだけではない。原告側弁護士から「継父によって四十円で売られたという話の根拠はなんなのか」と問い詰められた櫻井氏は、1992年2月の月刊「宝石」(休刊/光文社)の臼杵敬子氏執筆の記事からの引用の間違いだったと釈明した。

 これが裁判所の言う「金学順氏を取材した内容をまとめた臼杵氏執筆の論文」なのだが、実は、その臼杵論文=「宝石」記事にも、やはり「継父によって四十円で売られた」「十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた」なる記述はなかった。

 また、裁判所はもうひとつ、櫻井氏が信じた根拠として「韓国の新聞報道」も挙げており、これは櫻井氏側が証拠として提出したハンギョレ新聞と思われるが、ここにも、「宝石」などと同様の〈生活が苦しくなり、14歳の時に母親に平壌にあるキーセンの検番に売られた。3年間の検番生活を終えた金さんが最初の就職だと思って検番の養父についていった所は、兵士3000人余りが所属する北中国・鉄壁鎭の日本軍小部隊の前だった〉とあるだけで、慰安所にお金で売られたという記述はなかった。

 それどころか、このハンギョレ新聞にも、〈私を連れていった養父も当時、日本人にカネももらえず私を武力で奪われたようでした〉という、強制連行の記述があった。

 いずれにしても、法廷でこうした事実を突きつけられた櫻井氏は、金学順さんの訴状に記載されていない記述についての自らの誤りを認め、「WiLL」2018年7月号は訂正文を掲載。また、産経新聞2018年6月4日付でも同様の誤りを訂正している。

 にもかかわらず、札幌地裁の判決は、こうした資料をもとに、櫻井氏が「金学順氏が継父によって人身売買されて慰安婦にされた女性であると信じた」ことは「相当の理由がある」というのだ。

 この裁判長は本当に提出証拠や本人尋問の記録をちゃんと読んでいるのか。もし読んでいて、この判決を出したのだとしたら、何らかの政治的意図があったとしか考えられない。

 実際、安倍政権下では、原発をめぐる訴訟や家族制度をめぐる訴訟などで、地裁レベルから政権を忖度する判決が連発されていた。

 そして、同じく植村氏が西岡力氏と文藝春秋を相手どり東京地裁に訴えた裁判でも、西岡氏らのデタラメと嘘が明らかになっているにもかかわらず(詳しくは過去記事参照)、一審・二審と植村氏側の請求が却下されている(植村氏は最高裁に上告)。 

 本サイトでは以前、安倍官邸が最高裁判事の人事にも介入していたことを報じたことがある(https://lite-ra.com/2017/03/post-2997.html )が、政権忖度によって、裁判所も歴史修正主義に汚染されてしまっているのではないか。

 しかも、その裁判所の不当判決を利用して、歴史修正主義勢力・ネトウヨの親玉である安倍前首相がさらなるデマを拡散するという最悪の事態。こうした状況を押しとどめるためにも、植村氏にはぜひ、内容証明で記事削除を求めるだけでなく、安倍前首相を名誉毀損で訴えてもらいたい。

15. 中川隆[-12993] koaQ7Jey 2022年7月18日 20:41:44 : 4B2kSXMFZ6 : L3gyYjd3bC5MT1k=[7] 報告
櫻井よしこ、西岡力ら日本の右派と韓国の諜報機関が癒着と韓国メディアが報道! 櫻井は否定も両者をつなぐキーマンの存在
2021.08.23
https://lite-ra.com/2021/08/post-5997.html


 櫻井よしこと韓国・情報機関との癒着疑惑が一部で話題になっている。櫻井といえば、極右の女神として、嫌韓を煽る言論をおこなってきた一人。ところが、8月10日、韓国のテレビ局MBCの報道番組『PD手帳』で、韓国の情報機関である国家情報院(以下、国情院)の元職員が、国情院と櫻井よしこが理事長を務める極右シンクタンク「国家基本問題研究所」(以下、国基研)との癒着を告発したのだ。

 国情院の元職員は、元慰安婦女性や元慰安婦支援団体が来日する際、国情院がその情報を日本の公安を通じて日本の極右ヘイト団体に流していたこと、日本の別の右派団体が韓国を訪れた際には、直接、接待したり、庁舎でブリーフィングするなど支援してきたことを明かした。

 そして、この接待や庁舎でのブリーフィングの相手として、櫻井よしこが理事長を務める「国家基本問題研究所」の名前を挙げたのだ。

 番組では、櫻井よしこや国基研が大きな影響力を持つに至った背景に、韓国・国家情報院が、国基研の評議員を務める西岡力(「拉致被害者を救う会」会長)などを通じて北朝鮮に関する情報を提供してきたことにある、と指摘。

 しかも、元職員は、国情院から国基研に対して資金提供がおこなわれていたことも証言した。

 これが事実なら、ふだん、何かにつけてリベラルメディアや野党を「韓国のスパイ」「中国のスパイ」呼ばわりしている櫻井よしこ氏らこそ、海外の諜報機関とつながり、利用されていたことになる。

 一体どう申し開きするのか注目されていたが、しがし、桜井氏は13日にこの報道を「国基研は国情院を含むいかなる外国政府機関から支援を受けたことはありません」と否定、「韓国の公共放送であるMBCの一連の報道は名誉毀損行為であり許されません」などと猛抗議した。

 たしかに、資金提供や接待については一方的な証言であるため、事実とは断定できない。

 だが、櫻井氏ら国基研が、韓国の諜報機関である国情院の人脈とつながりがあるのは間違いなさそうだ。

櫻井よしことともに文在寅攻撃を繰り返す、元駐日韓国大使館公使
 その一端がかいま見えるのが、桜井氏が2018年に出版した『韓国壊乱 文在寅政権に何が起きているか』(PHP新書)という嫌韓本だ。同書は元駐日韓国大使館公使の洪熒(ホン・ヒョン)氏という人物との共著だが、洪熒氏は桜井氏の国基研の客員研究員で、櫻井氏のネット番組にも頻繁に出演したり、櫻井氏が執筆する記事にもコメントを寄せたりしている。

 ところが、『PD手帳』によると、この洪熒氏は前身のKCIA時代から韓国の諜報機関・国情院の出身で、日本での活動資金も国情院が提供し続けてきたのだという。国情院担当記者や元国情院幹部が洪熒氏の経歴について証言、さらに告発者である元職員も洪熒氏について、退職した国情院の先輩に国情院が資金を提供していた旨を証言しているのだ。

 番組では、洪熒氏と元国情院院長の李丙h(イ・ビョンギ)氏の密接な関係を指摘していたが、このイ・ビョンギ元院長は朴槿恵前大統領の側近で、安倍前首相と朴前大統領がカネで慰安婦問題を封じ込めようと強行した2015年の「日韓慰安婦合意」の秘密交渉の仕掛け人だったことが、文在寅政権の検証により明らかになっている(ちなみに、この「日韓慰安婦合意」は日本の右派からも評判が悪く、安倍政権を批判する声が上がったが、『PD手帳』はそんななかで、櫻井氏は「外交的に大きな成果」と強く支持していたことを指摘していた)。

 洪熒氏がKCIA、国情院の所属だったという明確な証拠はないが(ちなみに『PD手帳』は洪熒氏と櫻井氏に直撃したが、両人は取材を拒否)、洪熒氏の経歴を見ると、韓国陸軍士官学校を卒業し、軍、国防部に所属した後、外務部へ転職、駐日韓国大使館で参事官と公使を務めている。

 韓国陸軍といえば、軍事独裁をしいた韓国右派の源流・朴正煕大統領の出身母体だ。

 また、洪熒氏の日本での言論活動を見ていると、国情院のPRのような主張も展開している。

過去の右派政権とつながってきた国家情報院が文在寅大統領ツブシのために日本の右派を利用?
 しかし、韓国の諜報機関である国情院が櫻井氏ら日本の右派に接近しているとしたら、目的は何なのか。

 以前はもっぱら北朝鮮脅威論の喧伝だったが、最近はもっと大きな目的が加わっていると見られる。

 それはずばり、日本における文在寅政権叩きの扇動だろう。実際、櫻井氏のネット番組などで、前出の洪熒氏は、徹底的に文在寅政権批判を展開。「文在寅は朝鮮労働党のスパイ」「中国共産党のスパイ」などというフェイクニュースまで流している。

 国情院はもともと軍事政権下で反体制派を弾圧してきたKCIAの流れをくんでおり、その後も右派政権とべったりの関係を築いてきた。とくに、朴槿恵前大統領の時代はその力を増大させ、民主化運動や反対派の監視・弾圧に動いてきた。

 ところが、検察改革とともに国情院改革も公約に掲げた文在寅政権は、2018年に全面的に法改正し、政治的独立性と透明性の強化をはかるなど、国情院改革を進め始めた。

 昔ながらの国情院主流派はもともと右派政党寄りのうえ、自分たちの力を削ごうとする文政権はどうしてもつぶしたい存在なのだ。

 実際、洪熒氏は、文在寅政権が発足してからは、その国情院改革を「無力化」「保守派の粛清」などと徹底的に攻撃し続けている。

 そして、櫻井氏もこれに呼応するように、国情院の新体制を批判している。
文在寅大統領は国情院改革のために、民主派の金大中元大統領の側近だった朴智正氏を情報院院長に就任させたが、朴智正情報院長が2020年12月に来日、菅首相や二階幹事長と会談すると、櫻井氏は週刊誌の連載で、この洪熒氏からコメントをもらって、朴情報院長があたかも北朝鮮の金正恩国家主席に操られているかのような推測記事を書いていた。

日本と韓国の右派の癒着の背景に、安倍晋三の祖父と朴槿恵の父親の「親友関係」
 いずれにしても、韓国の諜報機関「国家情報院」もしくはその周辺にいる右派と櫻井氏ら「国家基本問題研究所」がなんらかのかたちでつながっている可能性は高い。

 韓国の国家情報院や右派は文在寅政権攻撃を煽るため、櫻井氏らは嫌韓を煽り、日本の慰安婦や徴用工問題をなきものするため、お互いを利用してきたのではないか。

 こうした関係の背景には、歴史的な経緯もある。戦後、日本による植民地支配から解放されて以降は、ずっと反日姿勢が強いと考えられがちな韓国だが、政治の水面下においては、長らく日本の右派との協調的関係を築いてきた。とくに、朴正煕元大統領が軍事クーデターで実権を握って以降は、韓国軍事政権と日本の自民党政権の間でお互いの利権を共有する“蜜月関係”を築いてきた。

 とくに、「安倍晋三の祖父」である岸信介と「朴槿恵の父」である朴正煕の「親友」関係は有名で両者の間ではさまざまな利権や不正の疑惑がささやかれてきた。

 それから60年がたって、安倍晋三を支持する日本の極右・歴史修正主義勢力と、朴槿恵前大統領の時代に権勢を振るっていた勢力の連携が再び顕在化し始めたというのは偶然ではないだろう。

『反日種族主義』出版も日韓右派の連携、元・駐韓大使の武藤正敏氏も朴槿恵グループと…
 実際、日本の極右と韓国の右派勢力・旧政権グループがつながっているケースはこれだけではない。
 
『PD手帳』では、西岡氏の歴史修正主義本『でっちあげの徴用工問題』の韓国語版翻訳者ら2人を国基研が表彰、菅首相や萩生田文科相が祝辞を寄せていたことは番組でも紹介されていたが、1人は韓国で出版された日本擁護の歴史修正主義本『反日種族主義』の著者の1人でもある。この『反日種族主義』も日韓右派の連携によって生まれた【https://lite-ra.com/2019/11/post-5103.html】。

 また、テレビが日韓問題を扱う際、韓国通のコメンテーターとしてしょっちゅう登場する元・駐韓大使の武藤正敏氏も、韓国の朴槿恵前大統領の周辺とつながっているといわれるひとりだ。

 今回の『PD手帳』の報道は、ある意味、日韓右派のこうした構造的癒着に光を当てたものといっていいだろう。

 しかし、残念ながら、この問題が話題になったのはネットの一部だけ。マスコミは一切触れていないし、逆に、嫌韓や文在寅攻撃の報道ばかりがあふれている。

 だが、日本のメディアがしたり顔で解説している文在寅政権攻撃には、韓国の民主化運動を弾圧した朴正煕軍事政権を源流とする右派勢力発の恣意的な情報が数多く含まれていることを忘れてはならない。日本の嫌韓報道は、日本国民の韓国への差別感情と敵対感情を煽っているだけではない。韓国の民主主義を後退させる行為にも加担しているのである。

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