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皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 29 日 19:53:15: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 19 日 11:34:34)


皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式


厳かに執り行われる皇族の初夜。神武天皇の染色体だか遺伝子だかは、こうして受け継がれていった…


皇族初夜の儀式は束帯と十二単の正式な衣装をまとって宮中三殿の賢所で行う「賢所大前の儀」や、親と子の杯を交わす「朝見の儀」ら、一連の結婚の儀をとどこおりなく終えると初夜を迎えるための準備「入浴潔斎の儀」を行う。

簡単に言えば、風呂に入って身を清めるということだが、花嫁は巫女と呼ばれる女官[正式には神社の娘(処女)だが、実際は皇族に仕える中高年の女性が大半]と一緒に入浴する。

浴室に入ると花嫁は、仁王立ちのまま一切自分の体に手を触れてはならず、巫女が服を脱がせ、体の隅々まで洗う。

隅々というからには外側から触れることのできる内部(耳・口・鼻からアソコ・肛門など)にも手指を入れて清める。

これは暗に花嫁の生殖機能を確かめる意味合いも併せ持つと言われている。

ちなみに花婿も巫女と一緒に入浴し、同様に体を清めてもらうのだが、この時の巫女は花婿にとってみそぎ相手でもあり、すでに生殖機能については確認済みということになる。

みそぎとはつまり筆おろしの意。これは皇族代々の風習で、皇族の直系男子は年頃(15歳から18歳)になるとみそぎを済ませる。正式にはみそぎの段取りを教え込まれた巫女、つまり性技に長けた処女がお相手を務めるが、実際は経験豊富な熟女の女官になる。

入浴潔斎の儀を終えると「初夜装束」と呼ばれる白い着物に着替えて(その下には一切下着をつけない)いよいよ初夜の床入り。これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、平安の時代から続く伝統的な儀式である。

まず、花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。元々は3日間繰り返すものであったが、近代は初夜のみとされる。要するに初めてのセックスで子宝に恵まれるよう霊力を与える儀式ということらしい。

さらに特筆すべきは、以上の儀式には夫と妻、それぞれの身分を保証する、一組の男女が介添人(仲人夫婦にあたる立場の人で部屋の隅で行為の一部始終を見届ける)として立ち会っていることと、儀式が終了した(性行為を終えた)ということを知らせる露見という、お披露目する点である。

露見とは、寝所の扉を開け壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで座る夫婦の姿を廊下で待っていた親族に見せ、行為終了後は再び初夜装束に着替え、寝具(厚手の布団)の掛け布団を外しシーツに処女の証である血がついているところを見せるのが正式な方法である。

さらに皇族には「一世一代の秘事口伝」なるものがある。これは代々の帝が口頭で直接申し送りするもので…その中にはセックスに関する風習も多く含まれており初夜の段取りから作法、体位、出産しない時期の避妊法などが伝えられている。

この儀式、少なくとも大正天皇までは行われていただろうと推測される。それにしても、一般人にとっては驚愕の事ばかりだ。他人に初夜の一部始終を見てもらい、終いには「血のついたシーツ」を見せなければならない。

何れにしても、穢れを基本とした内容は、朝鮮半島からの影響が大きいと思われる。


歴代天皇で妾が一番多いのは、嵯峨天皇で29人。毎日違う女性を相手しても1ヶ月かかる。以下、桓武天皇が26人、清和天皇が25人、亀山天皇が21人、後醍醐天皇が20人となっている。金正日の喜び隊なみなのだ。
http://anarchist.seesaa.net/article/11013180.html


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皇族の性処理はタブー?天皇のセックス事情 2018年12月18日
https://thepartner.jp/3114


最近、小室圭さんと眞子様の婚約発表&延期や、新たな元号の発表でも話題の皇室。外からはうかがい知ることのできない世界ですが、そんな世界だからこそ気になってしまうの皇族のセックス事情。

天皇の初夜の迎え方や、やり方に関して特別なルールがあると言いますが、実際の所どうなのでしょうか。今回は、皇族のセックス・性処理事情について、歴史を踏まえて解説していきます。


天皇のセックスに関するしきたり

皇族には、代々の天皇から口頭で直接セックスに関する申し送りをするしきたりがあると言われています。これには皇室ならではのセックスに関する風習などが多く含まれており、初夜の作法、体位、出産しない時期の避妊法など多岐にわたります。

結婚をして、初夜を迎える者に対して代々申し伝えられているという仕組みです。こうした儀式・しきたりは、主に大正天皇の時代まで続けられていたと言われており、形式に変化はありつつも長い歴史の間続けられてきたと考えられています。

巫女の存在

こうしたしきたりの中でも重要な存在が、巫女です。皇室には巫女と呼ばれる女官が存在し、性において重要な役割を果たしてきました。女官は皇族の世話をおこなう女性たちのことで、性に関するものを含め多岐にわたる領域で役割を担ってきました。

皇室のセックスにおいては、巫女が重要な役割を果たしてきたと言われていますが、たとえば皇族の初夜において巫女がともに入浴するなど、数々の儀式において側には巫女がいたようです。

では、こうした儀式について見ていきましょう。

皇族の初夜の迎え方

皇族のセックスは巫女が手助けしますが、そのための準備や作法など、皇族の初夜はやらなければいけないことがたくさんあります。

初夜の床入りの際に白餅を用意しなければならなかったり、花婿と花嫁、巫女の3人で入浴をする入浴潔斎の儀など、皇族ではない私たちにとっては耳慣れないものばかり。

みそぎ

みそぎは皇室代々の風習で、皇族の直系男子である皇太子が、年頃(15歳から18歳頃)になると、性技に長けた巫女から性に関する技術を学ぶものです。

いわるゆる筆おろしの行為であり、このみそぎを担当した女官が巫女として、皇室男子の花婿とともに入浴をします。

入浴潔斎の儀

この入浴のことを、入浴潔斎(にゅうよくけっさい)の儀と呼びます。巫女とともに風呂に入り、体中を清めてもらいます。この際、花嫁も花婿も巫女とともに入浴すると言われています。

すでに述べた通り、ここで入浴する巫女はみそぎにおいて花婿に性に関する手ほどきをしており、花婿の生殖機能を確認しています。皇室にとって家系を途絶えさせないことは重要な役割のため、入浴潔斎の儀よりも前にみそぎを済まして、生殖機能に問題がないことを確認していることが大事なのです。

初夜装束を身につける

その後、花婿と花嫁は初夜を迎えますが、この時に初夜装束と呼ばれる着物を身に着けます。これは入浴潔斎の儀をすませた花嫁花婿が、初夜のために着る白い着物のことです。

この着物にはその下には一切何も下着をつけないと言われています。

初夜の床入り

いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

露見

床入りをへてセックスに至りますが、この際には介添人が、花嫁花婿のセックスの場に立ち会い、一部始終を見届けます。

またセックスが終わったあとは、寝所の扉を開けて、壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで寝ている夫婦のシーツに処女の証である血がついているところを確認する役目も果たします。

現在の皇室におけるセックス事情は?

以上、皇室に代々伝わるセックスに関する話を紹介しました。皇室のセックスにおいては、巫女含めて3人で入浴をしたり、他人にセックスを見届けられなければいけなかったりと、一般人には驚きのしきたりが数多くあります。

もちろんこれらの儀式は、歴史的な皇室においておこなわれてたきもので、現在の天皇家において、どの程度まで続けられているかは不明です。一般的に、明治・大正天皇の時代までは儀式が重んじられていたと言われていますが、一部の儀式については現在も残っている可能性もあります。

ただし、人権意識が高まった現在においては、こうした儀式が天皇や皇室にとって負担になっている事実もあり、SPがついていたり、日々の行動が制限されているとはいえ、皇室や天皇も普通の人と同じような生活をすることが目指されていることから、あくまでも歴史的なセックスの儀式・しきたりだと考えていた方が良さそうです。
https://thepartner.jp/3114



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>花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。

>新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。

>いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

>花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16
あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。


空港まで車で三宅さんを迎えに行った。


高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。


あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。


天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。


いま、あのときの顔を思い出しています。


三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643

 

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コメント
1. 中川隆[-11077] koaQ7Jey 2019年3月29日 19:55:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[944] 報告

天皇霊について二三の事(メモ)


 天皇霊とはあまり聞いたことのない言葉かもしれないが、民俗学の創始において折口信夫博士が唱えた興味深い説の一つである。藤原氏の隆盛と他氏の没落の元となったことなのでここに置くこととした。


天皇霊とは、狭義にいえば天皇家の祖霊である。

祖霊はイエの祖先の御霊の集合体で、どのイエにも個々人にも存在し、さして特別なものではないが、天皇家の祖霊は大大和のうちでも最も力の強い祖霊であるとみなされ、とくに「天皇霊」と呼んだ。

天皇霊は天皇に即位するものに宿る。返していえば、天皇になるにはその霊を宿さねばならない。そしてそれを宿す儀式が即位後の秋に行なわれる「大嘗祭」 なのである。


 この大嘗祭の内容は秘中の秘で明らかにはされていない。しかし、ある程度のことは漏れ伝わってい て、それによれば天皇は殿中で三つの儀式を行なうとされる。


 一、「霊水沐浴」。白い帷子(天羽衣)をきて水風呂に浸かり、浴槽の中で着ている物を脱ぎ去る。

 二、「神人共食」。その年、悠紀田と主基田から取れた米を神と共に食する。

 三、「御衾秘儀」。衣に包まり眠る。


 この三つである。

 直接的に見ると、霊水沐浴は禊であり、天羽衣を脱ぎ去るのは地獄の「脱衣婆」が衣を剥ぎ取るのと 同じで、この世の穢れをすべて衣に移してしまい綺麗な体になることが目的である。

天羽衣の名は「日御子」のイメージからそう呼んだのであろうか、天皇が異人であることを強調している。

そして神人共食をすることでその「ケ」、つまり自然の力をその体内に取り込む。

また、御衾秘儀で神と共に添い寝することで「神婚」をするのである。

 異見として、これを「誕生の模倣」と見る向きもある。

つまり霊水に浸かり天羽衣を脱ぐことにより「羊水と胞衣からの離脱」を、「神人共食」で「歯固め」を、衣に包まることで「おくるみ或いはむつき」をあら わしているというのだ。

確かに「御衾秘儀」は『古事記』の「天孫降臨」に見られる「真床覆衾」(ニニギの 命があまりにも幼かったので天から降ろすときに包んだオクルミのこと)に比定されるのは揺るがないところだと思われる。多面的に見た場合そういう意味合いも含まれているのは否定はできないが、まずは 単純に見るべきであろう。

 最後の三、は古代中国にも見られる風習であると白川静先生が述べられているのを読んだことがあるし、古代バビロニアにも神降ろしの巫女との「神婚」による王位継承がなされたことをご指摘いただいてもいるので、おそらくこの御衾秘儀は相手のあって行われたものである可能性もある。

ではこの相手は誰か。

思うに「伊勢斎王」なのではないだろうか。

伊勢斎王は天皇の即位のたびに新しくなる。仕事は といえば伊勢神宮に天皇の代わりに年三度の奉幣をするだけである。だがこの斎王にはもっと重要な 仕事、「神降ろし」をするための、天皇霊の依り代であったのではないか。

柳田國男先生は

「神を降ろす には巫女とこの言葉を伝える司祭が必要であった。」

と述べられている。これは天皇と斎王の関係をよくよくあらわしている。

斎王は天皇霊をその身に降ろし、天皇はその口から発する言葉に従い政(まつり ごと=祀り事)を行なう。『魏志倭人伝』に描かれた卑弥呼とその弟の関係にそっくりではないか。(斎 宮と天皇の「神婚」は近親姦というタブーを神を介することで神聖化している。)

折口信夫先生によれば 「神婚」は神降ろしの巫女との添い寝と、先帝(の骸)との添い寝が考えられるとおっしゃっておられる。

エロスとタナトスが交錯する儀式。

いずれにしても、いつまでそのようなことをやっていたかは知る由もな く、その後はもっと形ばかりになり、先帝の御衣を身にまとうばかりとなったのだろう。

 これにより分かることは、天皇には二度の即位儀礼があるということである。

はじめは「即位礼」。そして「大嘗祭」。

即位礼は中国の皇帝の即位式を真似たもので、いわば対外的に見せる「昼の儀」であ る。

一方、大嘗祭は夜に秘して行なわれる「夜の儀」で、天皇を天皇足らしめる為の儀式はこちらなの である。


 ではこの天皇霊はどのように創造されたのか。

おそらく大化の改新以後、天智天皇から聖武天皇の 在位中に、祭祀を司っていた中臣氏により成形されたと推定される。それまで一大王家の祖霊であった 神を様々な工程を経る事で、日本全体を覆うまでの巨大な霊体に仕立てるのだから並の作業ではなか ったはずだ。それは取りも直さず「天皇霊=国家神」の創造であり、その先には「現人神」という危うい 一面も内包して誕生した思想であった。

 大化の改新以前でも天皇家(正しくは「大王家」であるが)の祖霊は特別な扱いを受けてきたが、けして国家の神ではなかった。そして天皇家の祖霊を祀る御諸山、いわゆる三輪山での祭祀は他氏と同じように族長たる天皇自らが司っていたのである。

そう、実は伊勢神宮が天皇家の祖霊を祀る地になったのは、そのかなり後になってからのことで、それまでは御諸山が天皇の祖霊の坐ます地(今でもお盆 には死者が山から帰ると言い伝えられる地域もある)であった。

この「天皇家の祖霊」を「国家神」とし、 御諸山から伊勢へと遷したのは、思金命を祖とする中臣氏であった。

古来より、中臣氏は忌部氏と共に 祭祀を職掌としいたが、両氏が祭祀してきたのは「国の霊(いまだアミニズムが抜け切らない自然と一体になっている神)」で、けして天皇家個人の祖霊ではなかったはずである。ところが、いつしか「天皇家の祖霊」は「国家の神」となり、両氏はこれを祭祀するようになっていたのである。

中臣鎌子が中大兄皇子の側近となり名を藤原鎌足に改めた頃から、不十分であった「大王」から「天皇」への移行を完全なも のにするため、様々な試みがなされている。「天皇家の祖霊」を「国家の神」と成すべく、中臣(藤原)氏 が奔走したのもその一端であったと見られる。

 まず、今までの歴史を再編することからこの作業は始まった。

天皇家の始祖を「日の光の神=アマテルの神」とし(これは元々そう云われていたのかもしれない)、これを天上の最高神にした。

と同時に『アマテラスオオミカミ』と改められた神の名は、天皇家の祖霊に付けられた名前でもあった。

この神を、三輪山から伊勢へと移したのもこの頃である。

なぜ伊勢か?

疑問はあるが、太陽神を日の昇る地、どこよりも早く日が拝せる地に祀るのは自然な考えであろう(鹿島神宮も香取神宮も海が近く、東が開けてい る。)。

元々伊勢は磯部氏の所領であったが、天皇家に献納され(というより壬申の乱で取り上げられた)、条件がよいとして遷宮の地と白羽の矢が立ったらしい。わざわざ遷宮させたのは、天皇家の神か ら国家の神へと変貌させるため、旧来染み付いた「祖霊」の記憶から切り離す意図があったのだろう。

三輪山は「大王家の祖霊を祀った地」の記憶を払拭するかのように、大国主命の和霊「大物主命」を祀り、のちに大田々根子(大三輪君)の一族にこれを祀らせている。寺山修二が「書き換えられない過去 はない」といったというが、まさに天皇家として新たな一歩を踏み出すためにすべての過去は都合の良いよう書き換えられた。

この功が認められてか、すでに奈良後期に中臣氏は朝廷で祭祀をつかさどる神祇官で重きをなし、平安初頭には神祇の官位を独占しいたため、他氏の介入は皆無となっていた。

これを憂いた斎部広成は『古語拾遺』を著し、史書の誤謬を指摘し、古来からの職掌の重要性を説き、 中臣氏の専横の非を論じたが、その後も改善は見られなかった。(少々脱線をする。この祭祀を司った 中臣氏と忌部氏、あるいは軍事を司った大伴氏と物部氏(衰退ののちに佐伯氏)など特定の職掌には必ず専らとする家が二つある。これは天皇が新たに即位するたびに斎王が入れ替わるように、各職掌の家も入れ替わったため「二家」あるのではないか。

時代が下るとその制度自体も明確さを失い、上記のようなことが起こったのである。膳部を任されていた安曇氏と高橋氏の争いも『高橋氏文』の上奏にまで発展している。)

「天皇霊」は稲の霊である。このような見解もある。なぜ「大嘗祭」に天皇霊を降ろすのか、という疑問に 対し、かなり傾いた答えではあるが、納得できる点も多く存在する。

 天皇はまず「神人共食」をし、その身に天皇霊を降ろす。

そうすると、本朝でもっとも強い「ケ」の塊で ある天皇霊は、天皇の身の中に充満する。「ケ」をたくさんに取り込んだ天皇はこれを小分けにし、「幣帛」にこめて、これを各地に配布する(奉幣)ことにより、ケが枯れていた各地に天皇霊が撒かれれ、国 はまた再生するのである。(民俗学講義になってしまうが、ここでいう「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」は今一般 化されている「日常・非日常」の考え方とは違っている。

「ケ」は一種のエネルギーであり、生活をしてい るとだんだんに減ってくる。これが涸れて無くなると「ケ・ガレ」の状態となる。この状態を元に戻すため、 「ハレ」を作り、「ケ」を集め取り込むのである。)つまり天皇霊がケガレを回復してくれるのである。

 戦後まもなく、昭和天皇が各地を巡幸したことがあった。この行為は荒野となった日本の国土を「反閇」して清め、天皇霊を撒くことで「ケ」で満たそうとしたのだとみられている。
http://www8.plala.or.jp/furan/page064.html

2. 中川隆[-11073] koaQ7Jey 2019年3月30日 07:04:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[948] 報告

10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。

例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。

古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。

終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。

当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。

日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。

現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。


38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係していなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において戦争経験者が多く存在する時代ですし、天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではないといえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

3. 中川隆[-11068] koaQ7Jey 2019年3月30日 07:47:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[953] 報告

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられた。


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みぽりんの韓国歳時記
シルトック ー古代のお餅ー
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/6347/c3.html


近所の市場に、キムチや塩を貯蔵するときに使う瓶を買いに行った時のことです。買い物を済ませてから、そこら辺に並べてある、壺や植木鉢も見物していたのですが、何やら植木鉢のように見える焼き物を発見しました。というのは見た目には植木鉢そっくりなのですが、底の穴が1個ではなく、3個くらいあるのです。

「パンジーを植えたらぴったりだけど、これでは土や小石が水と一緒に流れ出てしまう。一体これは何かしら。」と数ヶ月間考えたのですが、ある日女性雑誌に「シルを使って作るお餅」という特集を見つけました。そしてこの底にボコボコと穴の開いている器が、植木鉢ではなく、「シルトック」という名前のお餅を作るときに使う道具「シル」だということが分かったのです。  

シルトックはこの「シル」の底に、「シルミッ」という底敷きをひき、その上にうるち米の粉を入れて、底の穴を通して上がってくる、高温の蒸気で蒸して作るお餅です。紀元前の青銅器時代の住居跡からも「シル」が出土していて、韓国の最古のお餅と言っても過言ではないと思います。

ーいろいろなシルトックー  

さて一口にシルトックと言っても、歴史が長いだけあって、バラエティーに富んでいて、作る人やお店によっても千差万別、何種類あるのか分からないくらいです。さすが古代のお餅はすごいな、と感嘆してしまいます。   

まずはシルトックの代表格、「ベクソルギ(白雪肌)」。
うるち米の粉に少量の水と白砂糖を交ぜて作るので、出来上がったお餅が真っ白なところから、この名前が付きました。でもいくら上手に作っても、あまりお勧めできる味にはなりません。主材料がお米の粉と砂糖だけなのですから、それも当然のことでしょう。

子供の百日祝いや、一歳の誕生日には欠かせないお餅なのですが、まるで白いブロックの山のように、積み上げられたベクソルギは、食用と言うよりも観賞用で、食欲がグッと落ちてしまいます。

次は、ぱさぱさに煮た小豆とお米の粉を、サンドイッチの様に交互に入れて作るパッシルトック(パッは小豆のこと)です。

普通シルトックと言ったら、これを指すくらい有名で、シルトックの代名詞ようになっています。特にお店の開店祝いには欠かせないお餅なのですが、これも味の方は今一歩で、「あの美味しくない小豆のお餅。。。」などと悪口を言われている、悪名高きお餅です。

5色や7色に見事に層を作ったムジゲトック(ムジゲは虹)も、お祝いの席ではとても人気のお餅ですが、見た目ほど美味しくないのが難点です。今度こそ美味しいはずだと、期待して食べて、失望してしまった人は私だけではないはずです。  

さてシルトックも栗やナツメ、干しぶどう、ユズの砂糖付けなどがたっぷり入ったザッカビョン(雑果餅)や、ヨモギの粉を混ぜて作ったスッkトック(スッkはヨモギの意味)、カボチャ入りのホバクトック(ホバクはカボチャのこと)など、盛りだくさんに具をミックスしたものは非常に美味です。ただどれも出来損ないの蒸しパンのように、口当たりが、ぼそぼそがさがさとしていて、手放しで誉めまくれないのが残念なところです。そして昔ながらのシルトックは、「うっ!何だこれは」の一言で終わってしまう。う〜ん。苦しいところですね。
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/6347/c3.html

4. 中川隆[-10579] koaQ7Jey 2019年4月27日 12:59:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1497] 報告

以下の『RAPT 新・貴方に天国から降り注がれる音楽を 』

へのリンクを貼るとコメントできなくなります:


『RAPT 天皇が行う「大嘗祭」はまさに悪魔崇拝そのものです。』

を読みたければ Google 検索して下さい


▲△▽▼


06 4月 『RAPT 天皇が行う「大嘗祭」はまさに悪魔崇拝そのものです。』


ある読者の方から、天皇の行う儀式「大嘗祭」が悪魔崇拝そのものであるとのメールをいただきました。 (上の画像は「大嘗祭」の一場面)

「大嘗祭」というのは、新しい天皇が即位した後、一番最初に行う「収穫祭」のことです。

○大嘗祭 – Wikipedia

その読者の方の話によると、1990年に発刊された「噂の真相」という雑誌に、この「大嘗祭」についての詳細が書かれてあったとのことで、早速、その雑誌のコピーを送っていただきました。

で、今回はその雑誌の記事をそのままここに掲載します。

これまでこのブログを長く読んできて下さった方なら、以下の記事を読めば「大嘗祭」が悪魔崇拝そのものであることがすぐにお分かりいただけることと思います。

また、このブログを余り読んでいない方にとっても、以下の記事を読めば、天皇がいかに頭のおかしな人物であり、「大嘗祭」がいかに税金のムダ使いであるかがお分かりいただけると思います。(実際、この「大嘗祭」のために税金を使うことは違憲であるとの説もあるそうです。)

なお、以下のリンク記事を読んでいただけば、この「大嘗祭」が悪魔崇拝に他ならないことをさらに具体的に理解できることと思います。

○〈閲覧注意〉チベットは悪魔崇拝の聖地です。

○〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。

○この世の神はとかく悪魔だらけ。ヨガ、アセンション、アガルタ関連の話には要注意です。

○神社仏閣に潜む悪魔たち。またはアガルタから悪魔のメッセージを伝える人たち。

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■神秘のヴェールに覆われた大嘗祭における秘儀の真相

1989 年、昭和天皇の死で凍りついたメディア状況の中で、「自粛ムード」を批判し、その空虚な実態を暴き続けた『噂の真相』が、翌年、明仁天皇の即位に際して天皇家最大の秘密である「大嘗祭」に迫った。

編集部が未だこれを超える天皇論は存在しないと自負する慧眼の批判研究。


■秘儀を否定する宮内庁の異例の見解

皇室の公的行事として強行することが決定されたのみで、中身については一貫して秘密裡に準備進行されていた天皇明仁の大嘗祭、その式次第がこの10月19日、宮内庁より公表された。

延々4 時間にも及ぶ記者会見を関いて発表された儀式の概容は、ひとことでいえば、予想通り登極令を焼き直しにした神道色まるだしの中身、という表現で十分なものだろう。それよりもこの会見で注目されたのは、記者の質問を受ける形で宮内庁幹部が大嘗祭における〈秘儀〉の存在を正式に否定したことの方である。

「特別の秘儀はなく、天皇が神前で読みる御告文にもそのような思想はない」

かねてより国会答弁等では〈秘儀〉に対する否定的見解をのべたこともある宮内庁だが、マスコミに対して、しかも具体的な根拠を提示する形で「ない」と断言したのはきわめて異例といえるだろう。

これは言い換えれば、宮内庁が直接的に対応せざるをえないほど、「秘儀の存在」がある種のリアリティをもって語られはじめていることの裏返しに他ならない。

実際、昭和天皇の死去以降、まず、宗教学、民俗学、歴史学といったアカデミズムからのアプローチが盛んになり、大嘗祭が近づくにつれて、及び腰ながらも〈秘儀〉を活字にするマスコミも登場するようになった。また、海外のメディアまでがこの〈秘儀〉に強い関心を示しはじめている。

そして何より、我々の問で、様々な風説がまことしやかに流布しはじめているのだ。日く、

「天皇は大嘗祭で窓きものがついたようにトランス状態になる」

「深夜、大嘗宮の中で女性と性的な行為をするらしい」

「昭和天皇のミイラと一緒に寝る儀式がある」

「稲穂に天皇が精液をかける儀式が大嘗祭の骨子だ」

■霊魂が新天皇に付着する!?

単なる無責任なデマ、としか思えないこれらの風説は、あながち無根拠というわけでもない。むしろ、ある種の本質をいいあてているとさえいえる部分もあるのだ。

大嘗祭の中心儀礼は大嘗宮に建てられた悠紀殿・主基殿の閉ざされた内陣に、夕刻から朝にかけて新天皇が引き縫ってとり行う儀式である。

この中で行われている儀式として明らかになっているのは、秋にとれた穀物を皇祖である天照大神に供え、共にこれを食べる〈福鋲供進の儀〉以外にない。

これをうのみにすれば、大嘗祭は毎年秋に行われる新嘗祭と全く同一の内容、つまりは瑞穂の国・稲作国家の祭紀王たる天皇による単なる収穫儀礼、ということになる。

しかし、にもかかわらず、大嘗祭は天皇としての神格を継承させる一世一代の儀式なのだ。加えて、大嘗祭では新嘗祭の約三倍以上もの長時間にわたって新天皇が悠紀殿・主基殿両殿内陣に引きこもることになっている。だとすれば新嘗祭と同一の中身のはずがない。

神との〈共食〉以外に何か儀式が隠されているのではないか、そんな疑惑が大嘗祭に関して浮かびあがってくるのも当然のことだろう。

そして着目されたのが、内陣の構造、だ。両殿内部には天皇と神の席がしつらえられており、ここで対座して〈共食〉をすることになっている。

ところが、これが中心儀礼の割には部屋全体から見ると片隅に追いやられており、内陣の中心・大部分を占めるのは八重畳の寝座、つまりベッドなのだ。

そしてこのべッドを使って〈秘儀〉が行われている、というのが最も有力な説として浮上してきた。

この〈寝具の秘儀〉を最初に指摘したのはご存知のように民俗学者・折口信夫である。

折口は講演「大嘗祭の本義」で寝具を天孫降臨神話でニニギノミコトがくるまって地上に降り立ったとされる〈マドコオフスマ〉に見たて、このベッドの布団に天皇がくるまる儀式の存在を唱えたのである。

さらに折口がこの〈マドコオフスマの儀〉に必要不可欠な要素として提示したのが、〈天皇霊〉の存在だ。

大嘗祭で布団にくるまっている聞に〈天皇霊〉が天皇の肉体に付着し、そのことによってはじめて完全な天皇になる、というのである。

つまり、天皇の肉体は霊魂の容れ物にすぎず、大嘗祭は霊魂が新天皇の肉体を借りて復活する、神性の継承儀式であると主張したのだ。

(註: この〈天皇霊〉とはすなわち悪魔のことなのでしょうか。)

前述の「トランス状態」の風説は、この〈天皇霊〉が付着する時間を指している、といえなくもない。

実際、狂信的な神道家の間では天皇の霊能力なるものが本気で信じられているらしく、例えば、昭和の大嘗祭で福岡が主基斎田に勅定、された際、すべての祭事をとりしきったといわれる古神道家・川面凡児などは天皇が大嘗祭はおろか、毎日朝夕に「イメ」なるトランス状態に陥るといっている。

(註: 要するに、毎日、悪魔と交信しているというわけです。)

天皇の霊魂がたえず霊界と現界を往来し天皇は霊界をも統治しているという説である。

さすがにここまでマッドな説になると、まともにとりあげられることはないが、本質的には〈天皇霊〉論もこの種の奇説と同一なのだ。

そして、儀式の意味づけを行った折口の意図とは全く関係なく、〈天皇霊〉の存在そのものが、今や神道界では常識となっているという。

(註: 天皇がこの世で最大の霊力を持っているとの疑いは、私もこれまで何度も書いてきました。例えばこちら。私はこの折口氏のことは全く知りませんでしたが、彼と同じことを類推せざるを得ない幾つもの状況証拠があちこちから見付かっていたわけです。)

■新天皇は前天皇の死体と同衾か

(註: 同衾とは一緒に寝ること。つまり、前の天皇の死体(ミイラ)といっしょに寝るという儀式があるとのこと。)


折口の〈マドコオフスマ〉〈天皇霊〉を深化発展させる形で、その後〈秘儀〉に関する様々な考察が登場した。

〈先帝同衾〉説もそのひとつである。他ならぬ折口信夫自身が「大嘗祭の本義」講演の翌年、「古代人の思考の基礎」と題された講演でこの説を開陳している。

折口によれば、古代には生死を明確にする意識がなく、平安期でも「生きてゐるのか、死んでゐるのか、はっきりわからなかった」。

生き返るのか、別の肉体に魂が移るのかを判別する必要があったのだ。そこでもとの天皇霊のついていた肉体(=先帝の死体)と新しく霊のつくべき肉体(=新天皇)を「一つ会で覆うて」復活のための儀式を行ったのだという。

その後、生死の区分が明確化してくるにつれて二つの肉体を別々の場所に置くようになる。

もともとは一つしかなかったと思われる大嘗宮主殿が悠紀殿と主基殿に分かれてくるのはそのためで、片方に前天皇の死体を置き、もう一方に新天皇が入る。

表は別々となるが趣旨は同様で、復活とそれを果たせない場合は〈天皇霊〉の移動が行われる、というのが折口の唱える説の概容だ。

この〈先帝同衾〉説は当時からかなり広範に流布されていたらしく、折口以外にも「天照大神の死骸(いったいそんなもの、がどこにあるんだろうか?)と同衾する」といった説を唱える神道家もいたという。

現代でもこの〈先帝同衾〉を支持する学者は多く、谷川健一、山折哲雄など、民俗学・宗教学もこの説に立っている。ことに山折は比較王権の視座から、フランスやダライ・ラマの場合にも同様の例があったとし、〈先帝同衾〉説を補強している。

(註: 出ましたね。ダライ・ラマといえば「チベット仏教」、「チベット仏教」といえば悪魔教です。)

もっとも、物理的に考えれば、〈崩御〉からかなりの時間を経過している大嘗祭で前天皇の死骸と共寝する、というのは不可能に近い。

折口〈先帝同衾〉説を真正面から継承しているひとりである歴史学者の洞富雄も、これは模擬儀礼であるとしている。寝座の側に靴をおいてあるのもそのためで、前天皇、が寝座に績たわっていると想定して行われる儀式、というわけだ。では、前出の「ミイラ」の風説はやや飛躍しすぎ、なのだろうか。

しかし、一方ではこの〈先帝同衾〉が大嘗祭ではなく、〈崩御〉の直後に実際に行われているのではないか、との噂もある。この〈先帝同衾〉に直接的なイメージを与えているのが、〈残〉の儀礼である。

天武天皇の時には二年二カ月にも及んだと記録されている、この儀式は復活儀礼としての性格が色濃く漂っており、昭和天皇の〈崩御〉の際も、〈殖宮の儀〉として死後13日目から40 日目までの長期にわたってとり行われた。

むしろ大嘗祭よりも、この聞に実際に前天皇の死骸と寝る秘密の風習が、天皇家には残っているのではないか、というのだ。

(註: 実はミイラと「密教」も密接な関係があります。詳しくは後にご説明します。)

■大嘗祭の本質は性的行為なのか。

〈マドコオフスマ〉の延長線上に浮かびあがるもうひとつの〈秘儀〉説に(聖婚儀礼)がある。〈聖婚〉というのはもってまわったいい方であり、要するに大嘗祭で天皇による性的行為がおこなわれる、というものだ。

大嘗宮正殿の中にまで入れる人間はきわめて限定されている。そのしつらえを見ると、御座(天皇の席)と神座をのぞけば、関白の座と宮王の座、そして数人の采女の座しかない。

しかも内障にまで入れるのは天皇と采女の代表ひとりで、残りの人間は外陣にとどまることになっている。

そして内陣と外陣はカーテンによってさえぎられている。大嘗祭とは、また、男女が二人きりで夜をすごす儀式でもあるわけだ。

この采女を性行為の相手として見るのが、歴史学者の岡田精司らである。采女とは「宮中で炊事・食事などをつかさどった女官、大化以前は地方の一家族の子女から選んで奉」(岩波古語辞典〉られた女性である。

つまり、子女と性交することで、豪族に服従を誓わせた服属儀礼との説だ。

同じく采女を性行為の対象として見る西郷信網は、その根拠として「国造が新任の日に、神官の采女と称して百姓の女と婚」したという「淫風」が平安初期まで続いていたことをあげている。

一方、性的行為の相手を神だとする説もある。穀神に擬せられた王と穀母神に扮した花嫁が交わり、豊穣を祈るという習慣が古代オリエントをはじめ、日本以外でも広くおこなわれていることは、文化人類学の成果としてすでに明らかにされているところだ。

(註: この古代オリエントで行われた儀式のことを「悪魔崇拝」と呼びます。)

吉本隆明も神の代理としての女性と「性行為」を行うことで〈対幻想〉を〈共同幻想〉として同致させようとする模擬行為と見ている。

いずれにしても、大嘗祭がある種の性的な意味合いをおびている、とする研究は少なくない。実をいえば、折口信夫もまた、性交儀礼の存在を示唆しているのだ。

(註: チベット仏教でも密教でも、本物の女性と性交する儀式と、空想で性交をする儀式と両方行いますね。詳しくはこちらとこちら。なので、この説がかなり信憑性の高いものであることが分かります。)

しかし、同じ折口の「天皇霊」論がいたるところで紹介・引用されているにもかかわらず、この部分は完全に黙殺されている。そして、たしかに折口の展開した説は、マスコミやアカデミズムが黙殺せざるを得ないほど大胆なものだった。

折口が性行為を示す場所として推定したのは自らが着目した悠紀殿・主基殿内陣の寝座ではなく、両殿の北にある廻立殿だった。

天皇は両殿に引き箆もる儀式の前に、ここで「小忌の湯」という湯を使い、体を清めることになっている。つまりシモジモ風にいえば風呂場だ。

そして「西官記」「江家次第」等にはここで天皇が〈天羽衣〉をまとっているという記述が登場する。折口はこの〈天羽衣〉があろうことかフンドシであるとし、廻立殿の儀ではじめてこれを解き、性の解放をするという。

そして、フンドシを解くのが、丹波から送りこまれた処女であり、天皇はこの処女と性交する、と説くのである。

(註: 結局、悪魔教はいつもこういう性的なところに行き着きます。ちなみに、「丹波」とは以下の地域を指します。)


いったい何が学説的根拠となっているかは不明だが、ある神道研究家の一人はこんな感想をもらす。

「天皇の儀式では中心の儀礼よりも、その直前の儀礼が全体の本質をあらわしていることが多い。即位礼の本質を賢所大前の儀が表わしているように。そういう意味では廻立殿の儀が性交儀礼としての大嘗祭の性格をあらわしている可能性はあるだろう」

■宮内庁〈秘儀〉否定の舞台裏

霊魂、性、血……。様々な〈秘儀〉に関する論考の多くは、結局、折口をその出発点としている。折口が講演「大嘗祭の本義」を発表したのは昭和の大嘗祭を2 カ月後に控えた、昭和3 年9 月のことである。

この年は同時に、治安維持法の最高刑が十年から死刑へ改められた年であり、「三・一五事件」と呼ばれる共産党への大弾圧も行われた。

そんな中で、かくも異様な儀式の存在を暴いた説が放置されていたのはいったい何故か。いや、取締の対象とならなかっただけではない。折口の説はその後、国家神道推進の中心人物によって堂々と紹介されてもいる。

近代神道の創始者であり、内務省神社局考証課長でもあった宮地直二が東大の神道講座で「天皇霊」論を講義したのである。

これは、つまり、〈秘儀〉説が現人神という明治憲法下の天皇制にとって都合の悪いものではなかった、という事実を意味している。むしろ、国家体制にある種のイデオロギー基礎として歓迎され、積極的に流布されたのだ。

(註: 要するに、実際に天皇はこのような怪しげな儀式を行っていたし、神道家たちはその儀式を行うことを誇りに思っていたわけです。だからこそ、この儀式について人前で堂々と講義していたわけでしょう。)

事実、〈天皇霊〉論をはじめとする〈秘儀〉に関するあらゆる考察は、天皇に神性を与えるという意味においても、ミステリアスな部分を増幅させるという意味においても、有効に機能してきたのは確かなのである。

ところが、平成の大嘗祭に際して、宮内庁はこの〈秘儀〉の存在を全面否定した。〈秘儀〉だけならまだしも、大嘗祭は「穀物が豊かに実りますように、との祈願が中心で「天皇が神と一体化するという儀式ではない」とその神性をも完全否定したのである。

かつては小学校の教科書にさえ〈大神と天皇とが御一体になりあそばす御神事〉 と明記されていたものと全く同一の儀式を、である。

このことは大嘗祭の準備が本格的に始まろうとしていた昨年秋、宮内庁で行われたある人事と無関係ではない。大嘗祭の祭杷をつかさとるのは天皇家の私的使用人である掌典職だが、中でも最も古く、中心人物と考えられていた永田忠興掌典補が更迭されたのだ。

永田はまた、掌典職の中でも最も強硬な伝統墨守派で、ことあるごとに政府・宮内庁の妥協的な動きと衝突してきた人物でもあった。

「右派ジャーナリズムに宮内庁批判の情報をリークし続けていたのもこの永田さんだといわれてますね。ただ、宮中祭紀については最も詳しい人物だったし、今回の大嘗祭も永田さんがとりしきると考えられていた。

〈秘儀〉の有無についても天皇以外に知っている人間がいるとすれば、彼ぐらいだったかもしれない。その永田さんを更迭した、というのは政府・宮内庁が象徴天皇制の下で大嘗祭の性格を変える必要がある、と考えたためだろう」(宮内庁詰め記者)

(註: さすがに現代においては、こんな淫乱かつ醜悪な儀式を行っているということを世間に知られるのはマズイと思ったのでしょう。)

そして永田の後任として新たに外部から送り込まれたのが、鎌田純一祭杷課長である。

国学院出身で祭紀学の学者でもある鎌田は、永田とはうってかわってきわめて柔軟な人物といわれる。

今回の大嘗祭はすべて、この人物を中心に本来の掌典とは別の、学者・研究者を中心とした委嘱の掌典によるプロジェクトチームによって準備進行されているという。そして、前述の記者会見では鎌田自身が根拠をあげて〈秘儀〉を否定したのである。

おそらくこうした動きは、現在の自民党政府の天皇制に対する位置づけの延長線上にあるのだろう。

現政権は戦前天皇制復活を単純にめざしているわけではない。もちろん、そういう勢力が存在していることは確かだが、主流はむしろ、女性誌による皇族の芸能人化などを利用しながら国際化社会と象徴制に対応しうる形で天皇制を維持・強化していこうという方針だと思われる。

事実、中曽根内閣時代に当時の官房長官・後藤田正晴を中心にして、こうした路線は確認されており、答察官僚出身の藤森昭一を宮内庁長官にすえ、侍従職の大半を官僚出身者にぎりかえるなど、皇室を政府のコントロール下に置く作業が着々と進められてきた。

そしてこれまでの代替り儀式は時代に対応した形で、操作を加えながら極めて巧妙かつソフトに行なわれてきたといっていいだろう。いわば、今回の大嘗祭はその集大成なのだ。

■神社本庁による操作とある論文

しかし、常に右派勢力からの圧力にさらされてきた宮内庁がここまで〈神性〉否定を明言できたのは、最近になってスイ星のごとくあらわれた若手学者の存在に負うところが大きい。

国学院大学助教授・岡田壮司(前山山・岡田精司とは別人)がその人で、まさに神道界本流に位置する新進気鋭の研究者である。

岡田は昨年からいくつかの論文を発表、折口の〈マドコオフスマ〉〈寝具の儀〉〈天皇霊〉論をすべて根拠のないものと断じ、完全否定した。

さらには大嘗祭で天皇が「霊威を享受する」とはしながらも、神と一体化することはない、とその神性付与すらも一蹴したのである。

右翼民族派がよく黙っているものだ。それはともかく、あらゆる分野でほぼ定説となっていた折口の論考を真っ向から否定した論文はこれがはじめてといえる。

しかも、それは「天皇霊」の存在が常識化している神道界から、中でも折口が祖と呼ばれる国学院神道から出てきたのである。大嘗祭を研究する若手歴史学者はその辺の事情をこう語る。

「岡田さんの登場は完全にターニングポイントとなった。論旨自体はたいしたことはないが、神道界からああも完全否定されるとね。

学説的には今はもう〈秘儀〉がどんどん否定される方向に向かいはじめている」

たしかに、最近も〈秘儀〉否定のイデオローグとしてマスコミにも登場し、宮内庁見解に格好のお墨付きを与える形となっている。

おそらく、岡田の出現は偶然ではないだろう。それは、神道界本流、つまり神社本庁全体の意志だ、と見る向きも少なくない。

岡田がはじめて折口説を否定するとく短い論文を吋国学院雑誌』に掲載したのは昨年の夏のことである。この直後、神社本庁の前統理であり、今も神道界に大きな影響力を持つといわれる桜井勝之進が岡田を呼び、二人が会談したという情報がある。

つまり、この席で桜井は岡田にバックアップを約束し、岡田はその意を受けてさらに大きな論文・単行本等を発表、反折口説のイデオローグとして本格的に活動を開始したのではないかと推定されるのだ。

事実、桜井はこの問、岡田論文を補強するような発言を神社本庁関係の一肩書をあえて使わずに何度かおこなっている。

それにしても、戦前の天皇制復活を目論み、常に「伝統墨守」を叫んできた極右団体・神社本庁までが大嘗祭における神性継承的性格を否定しはじめたのはなぜだろうか。

「戦前は有効だった折口説も、現代では逆に作用しかねない、との政治的判断でしょう。怪奇な儀式として反対勢力の攻撃材料にされたり、海外メディアの好奇の目に閲されたりということになりかねない。

神道というのは何よりカタチを重視しますからね。形式さえ伝統に則っていれば、意味づけで後退してもいい、との判断です」(神社本庁関係者)

しかも、神社本庁は公式には何ら神性継承の〈秘儀〉を否定してはいない。無名の若手学者をプロパガンダに使うことで、自らは陰に隠れたまま、〈秘儀〉説安二時的に隠蔽しようとしているだけなのだ。

そして、宮内庁の〈秘儀〉否定もまた、神社本庁・桜井勝之進の働きかけによるものともいわれている。

また、やはり国学院で教鞭もとっている掌典・鎌田純一が岡田を招き、勉強会を開いたとの未確認情報もある。いずれにしても、一連の〈秘儀〉否定の流れは、神社本庁|岡田壮司宮内庁の巧妙な連携プレーであることはほぼ間違いないところだろう。

つまり、天皇護持勢力がこぞってある穫の操作をしなければ、現在の環境下でこの大嘗祭を強行することは難しい、と判断したのかもしれない。そして彼らは何よりも、天皇制というカタチの延命をとりあえず優先させたのだろう。

(註: これだけの情報化社会になった今、「大嘗祭」の内容をすべて公にしてしまうと、この儀式が「悪魔崇拝」そのものであることに気付く人が出てくるのではないか、と懸念したわけでしょう。そして、実際に私たちがそれに気付いてしまいました。)

■明仁天皇は〈秘儀〉を行うのか!?

では、こうした体制下で行われる天皇明仁の大嘗祭にはもはや〈秘儀〉など存在しないのだろうか。たしかに、無個性な平成の新天皇とおどろおどろしい〈秘儀〉は結びつかないし、天皇自身が式の簡略化を望んでいるとの情報もある。

(註: この世にはそのように表面だけを見て物事を判断する脳天気な人がいます。このブログでも、そんなコメントを書いてくる人が何人かいました。)

また、そもそも〈秘儀〉があったとしても、すでに平安期において形骸化しているだろう、との見方が一般的だ。

しかし、その一方ではこんな説もある。在野の神道研究家が語る。

「大嘗祭によらず、天皇家には一世一代の秘事口伝があるというのは常識です。つまり、第三者を介さず、天皇から天皇へと直接伝えられる送り事がある。

セックスの処理、密教秘伝の出産コントロール法などもそのひとつといわれています。その中にはおそらく大嘗祭における〈秘儀〉も含まれているはず」

(註: 天皇がルシファーを召喚するプロであり、その奥義を代々継承しているのではないか、との記事を私もずっと前から書いてきました。例えばこちら)

さらに興味深いのは宮内庁が〈秘儀〉否定の記者会見を聞いた時の出来事である。折口信夫が「フンドシを解くことで天皇が性交に向かう」とした廻立殿の小思の湯の儀について、ある新聞記者からの質問に、宮内庁は「お湯を使う、ということ以外は一切いえない」とつっぱねたのだという。

悠紀殿・主基殿の儀についてはかなり詳細に根拠を示し、〈秘儀〉を否定した宮内庁の一変した態度を考えると、小忌の湯の儀にある種の性交儀礼の名残りが残っている可能性はあるのかもしれない。

(註: そこまでつっばねると、かえって誰もが怪しく思うしかありませんよね。)

しかし、結論めいたことをいえば〈秘儀〉の有無というのはさして大きい問題ではないのではないか。仮に〈秘儀〉があったとしてもそれは神の偽装にすぎず、収穫儀礼であったとしても農耕民族の祖という偽装にすぎない。

神聖祝される神社の洞内部が実はカラツポであるように、そもそも大嘗祭には中身などない。あるのは、どのようにでも語ることのできる、カタチだけだ。

(註: これはこの記者の完全な間違いですね。悪魔崇拝者たちはこれらの儀式を通して、本気で「悪魔」にお祈りを捧げているはずですから。)

それゆえに時の国家権力や時代状況によって〈大神と御一体になりあそばす御神事〉にも〈国民の平和を祈念する行事〉にもなりうる。今は否定されている折口〈天皇霊〉論が再復活する可能性も十分に残されているのだ。

これは〈大元帥〉にも〈一家でテニスに興じるマイホームパパ〉にもなりうる天皇制の本質でもある。かつてロラン・バルトは天皇制を〈空虚な中心〉と呼び、柄谷行人は〈ゼロ記号〉にたとえた。そして天皇制は〈ゼロ〉であるがゆえにしぶとく生き永らえ、しかも時の権力の有効なイデオロギー装置となってきたのである。

問題は、大嘗祭に宗教色があるかないか(あるにきまってる)、内廷費か宮廷費か(どちらも国民の税金なのだ)ではない。この恐るべき〈ゼロ〉に我々がどう対処していくかの主体性こそが問われているのである。

(註: ゼロならば本当にゼロにしてほしいものです。天皇制を今すぐ廃止してください。それこそが今の日本にとって最も必要な政策であると私は考えます。)

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折口氏の学説が本当であるということは、このブログの読者の方ならばすぐにお分かりいただけることと思います。

何せ、「チベット仏教」や「密教」で行われる儀式と、この「大嘗祭」で行われる儀式はとてもよく似ています。

なぜ似ているのかというと、これらの宗教がどれも悪魔崇拝だからです。悪魔崇拝という同じ一つのカルトが、「チベット仏教」「密教」「神道」という別々の仮面をかぶっているに過ぎないのです。

で、「チベット仏教」や「密教」では、こういった儀式を本当に行っているわけですから、「天皇」もまたこのような儀式を行っていたとしても何ら不思議ではありません。

また、「現天皇」が「先帝(前の天皇)」のミイラと一緒に寝るという儀式も、あり得ないことではありません。なぜなら悪魔教である「密教」とミイラとは切っても切り離せない関係にあるからです。

実は「密教」にはミイラ仏(即身仏)というものがあります。

ミイラ仏とは、断食しながら死ぬまでお経を唱えつづけてミイラとなった僧侶たちのことで、そのミイラを仏として奉っている寺院がこの日本には各地にあります。以下がそのミイラ仏の数々です。

○知られざる日本のミイラ信仰…永き苦行の末の『即身仏』という驚異 – NAVER まとめ

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この僧侶たちはミイラになるために、自ら「漆(うるし)」を飲みながらお経を唱え、自分の体を防腐処理していたそうです。

「漆」は毒物なので、これは完全な自殺行為にあたるわけですが、そんな悪魔的な所業を「密教」では尊い行いと見なされていたわけです。本当に「密教」はどこからどこまでも悪魔的です。

しかも、こんなただの骸骨を神のように崇めるわけですから、まさに狂気の沙汰としか言いようがありません。

このように悪魔崇拝者たちはミイラを神のように崇めるところがあるので、同じ悪魔崇拝者である「天皇」が「先帝(前の天皇)」のミイラと一緒に寝る、という儀式を行っていたとしても何ら不思議ではないのです。

しかし、こんな気違い沙汰を行う「天皇」が、かつての日本では神のように崇められていたわけですし、今でも「日本会議」や「神社本庁」といった極右団体が、この「天皇」を再び神として担ぎ上げようとしています。本当にあり得ないことです。

○日本の裏社会のエージェントが目指す道はただ一つ。国家神道の復活です。

我々庶民としては、「天皇」が日本(ひいては世界)の頂点に立っていてほしくはありませんので、彼らのそんな下らない計画がいち早く頓挫することを願うばかりです。



○こちらの記事もどうぞ
•天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。
•日本の裏社会のエージェントが目指す道はただ一つ。国家神道の復活です。
•アルバート・パイクが予言した第三次世界大戦について。
•悪魔のバフォメットと長崎の平和祈念像とアメリカ初代大統領のジョージ・ワシントン像とが同じポーズをしている理由。
•教皇派=太陰暦=月の王国。天皇派=太陽暦=太陽の王国。世界の構造がますますシンプルに見えてきました。
•徳川家康が行った鎖国とキリスト教禁教令の本当の意味。果たして徳川家康は悪魔崇拝者だったのか。
•地下鉄丸の内線とGHQと徳川家康とエリザベス女王とイエズス会の奇妙なつながり。東京の地下には教皇派の秘密施設も眠っている。


8 Comments


@joe
Posted at 00:45h, 07 4月

RAPT様

記事の更新、ご苦労様です。
実は、わたしの祖父が折口信夫の弟子だったので
ちょっとびっくりしました。

さて文中、RAPTさんが
>(註: この古代オリエントで行われた儀式のことを「悪魔崇拝」と呼びます。)
と書かれておられますが、こんなサイトを見つけましたので
貼らせて頂きます。
http://kurodakango.web.fc2.com/02.html

>三笠宮殿下は「皇室の祖先はオリエ ントにある」と考えて
と考えておられるということですから、そういうことなのでしょうね。

失礼いたしました。


アモリフェラ
Posted at 09:42h, 07 4月

お疲れ様です。「やっぱりね」という感想でした。学研 Books Esoterica 『神道の本』 に(P.144)「大嘗祭の謎」という項目があります。 そこ、ちょっと引用します。
…大嘗祭は、内容的には前儀、本儀、後儀と分けられる。その中で本儀は大嘗祭の悠紀殿、主基殿で天皇みずからがとり行う神事で、神饌を捧げ、ともに食し、その間に天皇の礼拝、御告文などの奏上などがある。ところが、公式の記録のほとんどが、天皇の所作について、なぜか避けるかのように詳しく触れていない。
…折口の考えはこうだ。…真床追衾とは、物忌みの最中に外の光を避けるためにかぶるものであり、それを取り除いたときに、完全な天皇となる。つまり、忌み籠る日嗣の皇子に天皇霊が入って、完全な天皇となる。肉体には生死があるが、この肉体を充足する魂は常に不変不滅の存在であり、たとえ肉体は変わっても、この魂が入るとまた同一の天皇となる。天皇霊はただ一つであり、それを持つ者が日の御子、すなわち天皇であると考えたのだ。(引用終わります。)
要するに、八重畳=真床追衾というのは、せまい部屋で、亡くなった先の天皇の魂を受け継ぐ儀式をやることですが、内容は秘密なのだと。その儀式では采女(うぬめ)の献上など性的行為なんかもやるらしいことが書かれています。それにしても、あの無責任男の「昭和天皇」の魂をそっくりそのまま受け継いだ人物(神?)が、今上天皇なわけで…。おんなじ魂なら、きっとまたおんなじ事をやるに違いないと思うのは私だけでしょうか。ヤバイです。
「真床追衾」という四文字熟語、同じ布団で寝るとでもいう意味なのでしょうか?同じ布団で寝ると、魂が転移して「完全な天皇となる」というのも気味悪いですね。戦争狂で守銭奴だった昭和天皇と同一の魂ですよ、また同じことを繰り返さないでほしいですね!!
戦争だけは阻止せねば、と思うこのごろです。upありがとうございます。


ショコラ
Posted at 11:39h, 07 4月

今回はコメント少ないですね。
ということでちょっと長めですが失礼します。

上の記事でちょっと気になったのが、私が住んでいる秋田がその大嘗祭りの悠紀というのに選ばれていたことです。
あと風説とはいえ、稲穂に天皇が精液を・・・というのは、このブログで知った密教の儀式以来の衝撃です。
秋田では夏に竿灯祭りという稲の豊作を祈ったお祭りがあり、今年は東北六魂祭という、東北6県のお祭りを一堂に開催するお祭りが秋田であります。(5月30日・31日)
震災後からはじまったお祭りのようですが、私としては、このお祭りが被災者の方たちのためになるとはあまり思えません。
しかも去年は山形、今年は秋田と、被災地ではない場所での開催。

それから、去年は国民文化祭というのが秋田で行われ、皇太子も来県していました。
知事に、22年前の減塩運動のことを聞いたとの一場面があったとのニュースがありました。
秋田は、癌がもっとも多い県ということで、減塩が盛んに叫ばれてきました。
これが平成の初めの頃です。
で、みなさんの今の秋田のイメージはどうでしょうか?
そうです。自殺率ワースト1の県です。

減塩をしすぎるとどうなるかは、ネットで調べればすぐに出てきます。
簡単に言うと、やる気が湧いてこなくなり「うつ」になるのです。
ですから秋田ではうつ患者が異常に多く、そこから自殺につながっているのです。

県民性でしょうか、ほとんどの中高年の方は真剣に減塩をしています。
だから、この皇太子の質問は、なんとなく悪魔の質問のように聞こえてくるわけです。

どっちにしても「がん」か「うつ」になるシステムですから。

あと余談ですが、ずっと前に県の職員が知事の代わりに天皇に宛てたお手紙(国体か何かのとき)の中で「悪天候」と打とうとして、間違って「悪天皇」と打ってしまい、上司のチェックもないまま出したそうで処分されていました。
その職員は確信犯だったのでは?と今となっては思ってしまいます(笑)。


五輪の書
Posted at 12:08h, 07 4月

近代の天皇の血筋とあり方を精査すればなぜ右翼等がマンセイするのかわかりますよね。敬称が必要なのでしょうか。全て繋がっているのです。一方向からだけでは理解出来ないですね。政治も経済も医療も宗教もすべて俯瞰して見ることですね。目を瞑って象をいろんな人が一箇所触っているようなもんです。


yum
Posted at 13:46h, 07 4月

おかげさまで、繋がりというものが色々見えて来ている今日この頃です。
そして、ミイラと言えば。
子どもの頃、母親がいとこと私を連れて、上野にある国立博物館でやっていたエジプト展(?)に連れて行ってくれた事がありました。
その時は突然行こうと思ったらしく、時間が遅くなり、観ている途中で閉館の時間が来てしまいました。
ちょうどガラス張りの箱の中の横たわっているミイラの前で、館内の証明が突然落とされたので、今もその時の事が印象深く、そこだけ憶えているぐらいです。
当時は自から興味を持っていた事ではなかったですし。
まだ人も他にもいたりで、もちろん真っ暗になってしまった訳ではなかったのですが、
そんな事から「ちょうどミイラの前でねー。」と思い出話になってしまいました。
ミイラなんて不気味であまり見たくなかったから、帰ることになってちょうど良かったのですが。
ー個人的な話を長々とすみません・・・。
即身成仏された方のミイラを見て、エジプト展のミイラと重なってしまいました。
やはり不気味ですね。こんなお寺には正直行きたくないです。個人的には。
最近は、他のお寺に行くのもどうかなと。
お正月に都内のお寺での祈祷に、たまたま時間があったので参加していただいた御札。
この頃はどうしようかと。お返しに行こうと考えているぐらいです。
その宗派を考えてしまったことからなのですが。
色々と知る事は神社仏閣には営業妨害になってしまうでしょうが、
だからと言って、そのままいつまでもこの時代、同じ自分ではありません。
考えているから、こちらのブログにも出合えましたし。
それがこの時代です。

また、以前動画でフルフォード氏が、「日本はイスラエルからの影響がある」という話に「いや、むしろエジプトからの影響の方が多いと聞いている」と言っていた場面があったのですが、どなたから聞いたのかは知りませんが、やっぱり日本ということから、天皇家もそっちの流れからの諸々の儀式がある所とー。
今回の記事を読みながら、神道とはそういう世界なのだと あらためて思わされました。

そして、大嘗祭で調べていると、飛鳥昭雄氏の話なども出て来たのですが、飛鳥氏はアマテラス、イコールイエス・キリストという見解をお持ちのようですね。
自分には、そこがそうじゃないと思えるから、その説を受け入れるものでありませんが、
大嘗祭の最奥義について、 「イエス・キリストの死と復活を自らなぞることにより、人間としての皇太子は死に、天皇として復活する。これが最奥義である。」と色々語った最後に主張されていました。(るいネットより)
でも、それなら、アマテラス イコール ルシファーが、イエス・キリストにすり替わっている話としか思えません。

いずれにしろ、大嘗祭というのはやはり何かよく分からない行事ですね。


ネメシス
Posted at 00:57h, 09 4月

ショコラさんの「今回はコメント少ないですね」を受けて。

というか、今回のこの記事に於ける記述は決定的というか、
ぐうの音も出ないというのが本当の所ではないでしょうか。
こういったオカルトの分野にはまったく疎い僕のようなド素人ですら、
「こりゃ、『悪魔崇拝』の儀式、そのものじゃん!(笑)」と
一瞬にして納得出来る内容ですもん。

ラプトさんも仰る様に、今までこのブログ内で明らかにされてきた
チベット仏教の教義やら、密教の灌頂における儀式との共通点が
素人目にも明らかです。

今まで、別に半信半疑という訳ではないのですが、
ここのブログ記事を読みながら一方では圧倒されつつも、
もう片方では今までの感情に後ろ髪を引かれる思いも
正直、少なからずはあったのですが、
今回の、この儀式についての記述を読み、吹っ切れました。

今までは知り合いなどと皇室関係の話題を話すときも、
ごく自然と「敬語」を使ってきたのですが、
(これは対話の相手の感情にも気を使ってということもありますが)
この記事を読んだ後では、正直、
「こんな連中に何でわざわざ『敬語』を使わなければならんの?」とすら
思い始めてしまった自分が居ます。


ショコラ
Posted at 12:07h, 09 4月

ネメシスさん

同感です。

話が世界や宇宙規模のことになると、どうしても現実味が薄れてきますが、
このように本当に身近なところで悪魔崇拝的なことが行われていると現実味が湧いてきますね。

なので、私も身近で感じたことで何か気づきがあれば、ある程度精査してコメントしていきたいと思います。


縄文人救済委員会
Posted at 21:01h, 26 11月

 最近発売された以下の本に、古代の洞窟で太鼓などを叩き、暗闇の状態も利用して、人をトランス状態にさせる儀式?が行われていたと書かれています。
 そして、このトランス状態になると、いくつかの原始的な幾何学的模様が視覚できるそうです。その模様の種類の中には、うずまき、格子(おそらく十字)が含まれています。太陽崇拝(悪魔崇拝)はここから来てるとすれば、この宗教の起源はもはや人類が文字を発明した時期からある、と言えるかもしれません。
 またこの本には他に、古代のシャーマンが頭がくっ付いたままの動物の毛皮を身にまとっていた、とも書かれています。これは人と獣の合体=5+6=11なのでしょうか?

最古の文字なのか? 氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く | ジェネビーブ ボン・ペッツィンガー, Genevieve von Petzinger, 櫻井 祐子 |本 | 通販 | Amazon
https://www.amazon.co.jp/dp/4163905596

▲△▽▼


5. 中川隆[-10578] koaQ7Jey 2019年4月27日 13:08:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1498] 報告

プチエンジェル事件と大嘗祭
https://twitter.com/pencil19937/status/1091658902326800385


pencil‏ @pencil19937 3:25 - 2019年2月2日
彼らのやっている事は悪魔崇拝です。過去にローマ法王とエリザベス女王が5万人にわたって性的幼児虐待、人身売買、幼児虐殺、そして幼児を食べていたことがわかっている。

プチエンジェル事件はこれを日本でも行われている事を裏付けるような事件。

pencil‏ @pencil19937 · 2月2日
【プチエンジェル事件】

この事件の建物は小沢一郎の資金管理団体「陸山会」が所有。
https://newsmatomedia.com/petit-angel

顧客リストには医者、弁護士、政治家、皇太子の名前も。
https://www.google.com/amp/s/naruzu3.exblog.jp/amp/29341158

事件後、犯人が自殺。この事件の取材をしていた人物は殺害されている。何か隠そうとしてるとしか思えない。


pencil‏ @pencil19937 · 2月2日
小沢一郎は皇太子妃と近い関係にあるので顧客リストに載っていてもおかしくない。
今年皇太子が天皇に即位しますが、即位後に行う儀式「大嘗祭」が悪魔崇拝儀式なのでローマ法王などだけではなく、天皇も悪魔崇拝をしていることが分かる。この事件は天皇家絡みの可能性大


かこちゃん‏ @j6bENMZvGajJaiH · 2月3日
闇の都合の悪いことは何でも小沢・皇太子妃に転嫁する清和会。警察が現場に乗り込んだら秋篠宮がいたが皇宮警察が連れ去ったと読んだことがある。いい加減にして!


だいわピュアラブ‏ @daiwaryu1121 · 4月14日
プチエンジェル事件の真相を書きました。
プチエンジェル事件で有名な未成年少女売春クラブプチエンジェルの少女に会いました。プチエンジェルの仕切りはやはり住吉会でした。 https://daiwaryu1121.com/post-5959/

https://twitter.com/pencil19937/status/1091658902326800385

6. 中川隆[-10577] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:06:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1499] 報告

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

7. 中川隆[-10571] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:23:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1505] 報告
天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ _ 2

『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』/工藤隆インタビュー
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html


長江流域の少数民族イ(彝)族の女性(左)と著者 中国四川省美姑(メイグー)大涼山地区の以作(イーヅオ)村にて。(1997年3月17日、撮影・工藤綾子)


『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E2%80%95%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E9%9A%86/dp/4121024621


を刊行した工藤隆さん。いま話題になっている「大嘗祭」とは、どんな儀式なのか、どのような特徴と歴史があるのか、伺いました。

――大嘗祭とはそもそもどういった儀式でしょうか。

工藤:大嘗祭は、天皇が即位した後に一度だけ行う大規模な新嘗(にいなめ)祭のことです。新天皇は、まず神器(じんぎ)を渡されて践祚(せんそ、即位)し、少しあいだを置いて即位の礼を行い、践祚の半年〜1年半後くらいに大嘗祭を行います。新嘗祭は、伊勢神宮のアマテラスオオミカミに新稲を捧げるとともに天皇もそれを食する毎年冬至ごろの祭りでした。

しかし、このような毎年の新嘗祭が、天皇位継承儀礼の一連の流れの最後の部分に組み込まれたのは、600年代末の天武・持統天皇のころだったようです。それ以前のニイナメ儀礼がどのような性格のものだったのかについては、よくわかっていません。『古事記』『日本書紀』の神話や『万葉集』の東歌(あずまうた)などによれば、新嘗祭の主役は〈女〉だったらしく、また東南アジアの水田稲作儀礼の文化人類学的報告によると、やはり稲収穫儀礼の主役は〈女〉でした。これらのことを手がかりに、ニイナメ儀礼の起源に迫っていけば、結果として大嘗祭の起源も見えてくることになるでしょう。

――それでは大嘗祭という祭りの特徴はなんでしょうか。

工藤:「祭り」には、限られた当事者だけがかかわる「秘儀」の部分と、地域の人々も参加して行われる「公開」の部分とがあります。普通、「祭り」というと、御輿担ぎや、山車(だし)の引き回しなど、地域の人々が参加して賑やかに行われる「公開」の部分がイメージされます。しかし、大嘗祭の最も重要な部分は「秘儀」にあたりますので、一般人には公開されません。その「秘儀」の部分は、大嘗祭を進行させている関係者および新天皇しか知ることができません。しかも、大嘗祭が行われる大嘗殿の中での具体的な所作は、天皇自身でさえも口外することが許されません。

そのため私たちは、平安時代の儀式書や、江戸時代に桜町天皇のときに復活した大嘗祭について国学者が書き残して公開した史料(閉門の罰を受けた)などを参考にして、推測するのがせいぜいです。それらによれば、大嘗殿の中では、新天皇は、神社で神主が神に供え物をして拝礼しているのと同じようなことをしていたらしいと推測されます。

しかし、大嘗殿の中には、中央にベッド状のものが置いてあるのですが、伊勢神宮のアマテラスオオミカミの座もあり、天皇はそのアマテラスの座に面して座って供え物を捧げます。このとき、中央のベッド状のものは使用されないのです。
ということは、中央のベッド状のものは、古くからの稲の祭りであるニイナメ儀礼の残影であり、本来は、つまり弥生時代にまでさかのぼれば、稲の神がこのベッドにやって来ていたと考えられます。

600年代末の天武・持統天皇のころに本格的に制度が整えられはじめたと思われる大嘗祭は、伊勢神宮の神事形式を援用しつつも、それとは別に、弥生時代に起源を持つ水田稲作儀礼であるニイナメ儀礼の痕跡も、中央のベッド状のものとして取り込んだと考えられます。その名残りが今でも大嘗祭に残っているのです。

また、大嘗殿内の「秘儀」の直前までの式次第の部分は、ある程度平安時代の儀式書に記述されています。それによると、そのなかで最も重視されているのは稲と、その稲から造られる神酒(みき)と、それらに密接にかかわる「造酒児」(サカツコ、「造酒童女」とも書く)1人を筆頭とする6名の女性たちです。

これらの儀式書から見える大嘗祭は、奈良・平安時代に形式化が進み、また洗練度を高めたものの記録ですから、縄文・弥生時代にまでさかのぼる原型的なニイナメ儀礼からは大きな変質を経ていると思われます。しかし、そのような平安朝大嘗祭でも、特に稲、神酒と、それらにかかわるサカツコを筆頭とする女性たちが重要な存在であったことは、原型的なニイナメ儀礼の残影として重要です。

このように、古いニイナメ儀礼の痕跡を残していることが大嘗祭の大きな特徴だと言えます。

――これまでも大嘗祭についていろいろなアプローチの本が刊行されたと思いますが、本書の特徴はなんでしょうか。

工藤:大嘗祭は、ニイナメ儀礼としての誕生から、天皇位継承儀礼の一角に組み込まれて現代に至るまでの間に、かたちをいろいろと変えてきました。大きく分けると次の4つの段階があったと考えられます。

@大嘗祭の原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方
A男王たちが覇権を争った古墳時代のあり方
B600年代末ごろの大嘗祭整備開始期のあり方(初期大嘗祭)
C700年代以後の、式次第が完成して固定化される平安時代のあり方

このうちの@とAの、弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方、すなわち大嘗祭の原型を中心に論じているのが本書の特徴です。従来の大嘗祭論は、そのほとんどすべてがC700年代以後の、式次第が完成して固定化された平安時代のあり方を論じるものでした。それは、平安時代の『儀式』『延喜式』という漢文で書かれた儀式書の記述の範囲内での正確さを求めるのが、文献証拠に基づく学問的手法としては堅実かつ安全なものと思われていたからです。

しかし、平安朝の儀式書からは、まずB600年代末ごろの初期大嘗祭の形がわかりません。ましてや、@とAの弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方を論じるためには、文字記録がまったくないのですから、文化人類学や日本民俗学の事例を手がかりにして論じていくことが必要になります。

私は、大嘗祭の本質・原型・源に迫るための切り札は、この文化人類学・日本民俗学の報告に基づくモデル理論だと判断しましたので、本書ではそれを、@その原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方に迫る部分で活用しました。この点が本書独自の特徴でしょう。


――それでは、そのモデル理論についてくわしくお聞かせ下さい。

工藤:伝統的な国文学の世界では、文化人類学の現地調査報告を取り入れることにとても消極的です。つまり、日本列島の外の地域の民俗資料にまで視界を広げることに消極的です。

しかし、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が登場する700年代以前には、仮に弥生時代以来と限定しても千数百年の、無文字文化の時代があったのです。その時代の文化状況がどうなっていたのかを考えるには、特にアジア全域の文化人類学の報告を手がかりにして、日本列島民族の儀礼形態を推測するモデル理論に頼るのは当然のことなのです。

多くの国文学者が傾倒している折口信夫(おりくちしのぶ)を純粋ヤマト文化主義者だと思っている人が多いようですが、実は彼は、柳田国男との対談で「私などの対象になるものは、時代がさかのぼっていくことが多いので、エスノロジーと協力しなければならぬ」(1950年、第二柳田国男対談集『民俗学について』筑摩叢書、1965年)と述べています。

日本の民俗芸能のほとんどは、その始まりは中世か近世です。出雲神楽・備中神楽・高千穂神楽などいわゆる「神代(じんだい)神楽」も、内容こそアメノイワヤト神話など『古事記』に素材をとっていますが、実は中世・近世に始まったものであり、どんなに古く見たとしても平安時代くらいまでしかさかのぼれません。

折口が、新野(にいの)の雪祭り、愛知の花祭り、坂部(さかんべ)の冬祭り、下伊那の霜月祭りといった奥深い山村の祭りに古代的なものを感じ取ったことは有名ですが、実はそれらの祭りが形成されたのは、ヤマト国家が形成されて数百年を経たあとの、中世・近世期でした。

折口自身も、それらでイメージされる古代像よりもっと古い源にまでさかのぼるには、「エスノロジー」(文化人類学=民族学)の報告の助けが必要だと感じていたのです。そこで彼は、沖縄本島、また石垣島など八重山地域にまで足を延ばし、日本本土の内側の祭り・民俗だけをモデルとする限界を突破しようとしました。彼は、大正10年(1921)、大正12年(1923)、昭和10年(1935)の計3回、沖縄を訪問しました。当時の沖縄調査は、時間のかかる船旅であり、現地でも移動や日常生活でかなりの困難があったと思われます。

また折口は、当時は日本領だった台湾にも行きました。しかし、アジア全域の少数民族文化の調査は、国際情勢、交通・通信網の未発達そのほかさまざまな時代の制約があったので、折口は実現できませんでした。もし折口が現代に壮年期を生きていたら、おそらく彼はアジア辺境の少数民族の村にまで足を踏み入れたことでしょう。

現在は、個人でも中国辺境の少数民族の村に民俗調査で入れる時代になりました。航空機、車、通信手段が発達し、また日本の経済力伸長のおかげで調査経費の工面も楽になりました。今や、日本の古代文学を始原から考えようとする発生論的古代像は、折口が時代の制約ゆえに実現できなかったこと、つまり「エスノロジーと協力」することで得られる、より高度な水準を目指す段階に入りました。

私も折口と同じように、日本国内の民俗行事を見歩いたのち、石垣島・西表島も含めて、沖縄全域の祭りを訪問しました。そのようななかで、沖縄の先の長江(揚子江)流域に、原型的な文化を伝えている多数の民族が存在することを知り、1994年以来、中国雲南省を中心としてアジア各地の少数民族文化の現地調査に踏み出しました。これらの調査からは、日々の生活と密着し祭式のなかで歌われている“生きている神話”の実例や、実際に配偶者や恋人を得るという実用の目的で行われている“生きている歌垣”にも触れることができました。それらの素材をモデルにして、『古事記』の古層や、歌垣の原型を想定できたのです。

――そのような研究をされてきたなかで、とくに本書執筆にさいしての御苦労がありましたらお聞かせ下さい。

工藤:このように、20年以上にわたる少数民族文化の調査から、大嘗祭の原型をとらえようとしたのですが、ここで本当の意味での「執筆の苦労」が登場しました。というのは、日本列島に流入したジャポニカ米や水田稲作技術の源が長江以南地域だとはわかったのですが、肝腎のその地域の少数民族の稲作儀礼に、〈女〉が主役の水田稲作儀礼の典型的な事例が残っていなかったからです。『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの伝承や、また東南アジアの水田稲作儀礼のように、主役を〈女〉が務める稲収穫儀礼の実例に出会えなかったのです。ハニ族のように、田から稲を刈り取ってきて家の中の先祖棚に供えるところまではその家の主婦が務めていても、そのあとの宴席となると男戸主が主役になってしまうのです。

そこで、女性原理濃厚な長江以南地域の在来の文化に、北方から南下してきた男性原理の漢族文化が重なって、〈女〉が主役の前段と〈男〉が主役の後段という二重構成になったという分析にたどり着きました。そうすると、日本古代の弥生時代にもすでに、縄文時代以来の女性原理が濃厚な基盤の上に、男性原理が濃厚な文化が重なったと考えることができました。のちの大嘗祭においても、前段は女性であるサカツコが主役、後段の大嘗殿の中では原則として男性である天皇が主役という二段構成になっていることも、同じような意味であると理解してよいのでしょう。


――日本古代の文化も、二重構成になっていたのですね。

サミュエル・ハンチントンが、世界をキリスト教圏、イスラム教圏、東方正教圏(ロシア)、仏教圏、中国、そして日本と分けたうえで、「文化と文明の観点からすると、日本は孤立した国家である」と述べています(『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書、2000年)。また同書で、「日本が特徴的なのは、最初に近代化に成功した最も重要な非西欧の国家でありながら、西欧化しなかったという点である」とも述べています。

日本がそのような位置づけになったのは、私は、日本文化の基層が長江以南地域の少数民族文化と共通しているからだと考えています。これらの少数民族文化には、以下のような3つの特徴があります。

まず、その宗教は、教祖、教典、教義、教団、布教活動の揃った本格宗教でなく、自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)が中心になっていることです。仮に本格宗教が流入しても、アニミズム、シャーマニズムの側に引き寄せて変形させてしまっています。

第二に、その少数民族の持つ世界観が、自然と密着したアニミズム、シャーマニズムを背景にした神話世界を中心に据えていることです。

第三に、その集団・民族は、〈国家〉樹立を目指さず、仮に〈国家〉らしきものを作っても弱小であることです。

長江以南の少数民族文化は、国家を作らず、あるいは作ったとしても弱小であっただけでなく陸続きでもあったために漢族の侵攻によって国家を維持することが出来ませんでした。いっぽうで古代日本は、大陸とのあいだに海の防護壁があったおかげで、大陸国家からの直接の侵略を受けませんでした。しかし、国家の樹立や運営の実用的かつリアリズム型の知識だけはその大陸国家から学ぶことができました。その結果、それらとは逆方向の、もともと持っていたアニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質も濃厚に残すことになったのです。

日本は、この、リアリズム型の知識と、それとは逆の方向性の文化資質を抱え込んで、およそ1400年間、〈国家〉としての体裁を維持して21世紀の現代にまで至っています。このとき、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質は、ほとんどDNAのように現代日本文化の基層として生き続けています。この点が、「西欧化しなかった」(ハンチントン)という指摘の意味でしょう。

――来たるべき次代の大嘗祭にさいして、わたしたちはどういったところに注目するとよいでしょうか。

工藤:1868年の明治新政府の登場によって、日本の社会制度には大きな変化が生じました。天皇制については、「大日本帝国憲法」が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としたように、天武天皇のように武力王でもあった初期天皇制の時代に歴史を逆戻しする一方で、天皇の呪術王的側面では、女性神職を廃止するなど卑弥呼以来の女性性の部分は排除しました。明治天皇には、富国強兵政策のなかで、武力王・軍事王の姿が求められたのです。そのような潮流のなかで、それまで重要視されていたサカツコという童女も明治天皇の大嘗祭では廃止され、大正・昭和・平成の大嘗祭でも復活しませんでした。

しかし、このサカツコは、『古事記』『日本書紀』神話の中でニイナメ儀礼を行っているアマテラスオオミカミやカムアタカシツヒメ(どちらも女神)、巫術の女王卑弥呼、そして、長江以南アジアの〈女〉が主役の水田稲作儀礼などの残影と考えてよい存在です。簡略化された形ででもよいですから、次回の大嘗祭ではサカツコの復活を望みたいと思います。

もう一つ、大嘗祭の行われる旧暦11月下旬は、新暦では冬至のころにあたります。この時期は、季節的な衰弱・仮死の冬から復活し、春を引き寄せようとする鎮魂祭が行われる時期でもありました。この自然界の生命力復活の祭祀に、収穫された稲(稲の仮の死)からの翌年の稲の子の誕生の儀礼が重ね合わされ、そこにさらに新天皇復活の祭祀が重なって、大嘗祭が形成されたのでしょう。

ということは、この祭りは冬至のころすなわち新暦では12月下旬に行われないと、自然界の生命力復活という大きな呪的目的が見えにくくなるのです。旧暦の11月を新暦の11月にそのまま移したために、季節感に1か月余のズレが出てしまったのです。
ということで、できるならば、大嘗祭の期日を新暦の12月下旬(冬至のころ)に移すとよいのです。それができないのならば、想像力で、きょうは実は太陽の力が最も弱まる冬至のころで、暗くて寒い冬の極みなのだと時間をずらして、大嘗祭の報道に接するとよいでしょう。


――最後に若い人たちへのメッセージがありましたらお聞かせください。

工藤:21世紀の日本にも、その基層には、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質が、濃厚に生き続けています。このような文化資質は、西欧的な近代化を基準とすれば、“後れた文化”という印象を受けるでしょう。しかし、西欧的近代化には大きな副作用があります。その最大のものが自然破壊です。

1700年代のイギリスでの産業革命以後、資本主義経済が地球規模に広がり、21世紀の現在では、発展途上国を含めて全世界でGDP(国内総生産)を競い合う時代になりました。地球環境の汚染と、地球財の消尽が加速度的な勢いで進行しています。そのうえ、核兵器や原子力発電所の登場によって、地球の生活環境の全体が一気に崩壊に向かう可能性さえ見えてきました。
このようなときにこそ、日本の基層文化であるアニミズム系文化が、そのような生存環境崩壊の流れに対して、ブレーキ役を果たすでしょう。アニミズム系文化には、自然と共に生きる思想があります。生態系を重視するエコロジー思想とも通じていますし、またアニミズム系文化の節度ある欲望の感覚は、「GDPはほどほどに」という抑制された生産・経済活動の可能性を示唆するでしょう。

またアニミズム系文化は、近代合理主義が取りこぼしがちな人間存在の曖昧領域を許容し、寛容さを示す心性も持っています。また神話が示す世界は、人々の空想力を豊かに展開させてくれますし、恋歌文化の伝統は、潤いのある感性を育てます。そして、縄文文化に典型的なように、女性原理が強いので平和志向も強いのです。
そのうえ、日本文化には、島国文化・ムラ社会性という特性もあり、そこには、人と人の和をたいせつにする助け合い精神や寛容の精神のような得がたい美徳があります。

ただし、これらの文化資質は、近代合理主義を基準とすれば、たしかに国際政治の現場などにおいて現実的思考を取りにくいという側面もあります。そこで、近代合理主義の側のリアリズム的思考もしっかり取り入れて、その弱点を補う必要はあります。
日本は、古代に、〈国家〉を目指さない少数民族文化の特徴を持っていたにもかかわらず〈国家〉を樹立し、それを21世紀の現代にまで維持してきています。古代国家形成期の経験を生かして、明治期の近代化にも成功しました。したがって、その歴史体験から得られた知恵も動員して、今後とも、アニミズム系文化の伝統と近代文明を融合させるべく、模索を続けていくことが必要です。

最後に付け加えます。私が20歳のころ(1962年)は、まだ1945年までの、軍国主義ファシズムと結びついた天皇制に対する嫌悪感が、教養人一般の感情に強く残っていました。その結果、天皇存在そのものはもちろん、天皇と密接な関係を持つ『古事記』や伊勢神宮に対しても同じような反感と違和感をいだく教養人が多かったのです。

しかし、敗戦後の新憲法で、天皇から武力王(軍事王)・政治王としての側面が除かれました。残ったのは、アニミズム系の祭祀・行事・和歌などの継承者としての文化王的側面です。したがって、敗戦後72年を経た現在では、天皇・『古事記』・伊勢神宮に親しみを感じることが、そのまま右翼的な国粋主義思想や、偏狭な愛国主義に向かうのではない道が見えてきています。アニミズム系文化を継承しているそれらは、エコロジー思想にも通じる、地球規模の文化遺産としての普遍性を持っています。そのような文化特質が、かなりの高水準で達成されつつある西欧的近代化と併存している点にこそ、21世紀日本の独自性があるのです。

最近、若い人たちが、伊勢神宮など神域とされるようなところを指して「パワースポット」と言ったりしているようです。それは、それらの地域に凝縮されている、縄文・弥生時代以来の、人間生存の原型的生命力のようなものを感受しているからでしょう。私たち人間の生存の原点を見つめようとしているという意味で、それはとてもよいことです。ただし、その感性を過剰な神秘主義や偏狭な愛国主義に向かわせないような、心のしなやかさを持ち続けてほしいと思います。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html

8. 中川隆[-10568] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:37:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1508] 報告

大嘗祭の本義 折口信夫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html


     一

最初には、演題を「民俗学より見たる大嘗祭」として見たが、其では、大嘗祭が軽い意義になりはせぬか、と心配して、其で「大嘗祭の本義」とした。

題目が甚、神道家らしく、何か神道の宣伝めいた様なきらひがあるが、実は今までの神道家の考へ方では、大嘗祭はよく訣らぬ。民俗学の立場から、此を明らかにして見たい。

此処で申して置かねばならぬのは、私の話が、或は不謹慎の様に受け取られる部分があるかも知れない、といふ事である。だが、話は明白にせぬと何も訣らぬ。話を明白にするのが、却つて其を慕ふ事にもなり、ほんとうの愛情が表れる事にもなる。或は、吾々祖先の生活上の陰事カクレゴト、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出す様になるかも知れぬが、其が却つて、国の古さ・家の古さをしのぶ事になる。単なる末梢的な事で、憤慨する様な事のない様にして頂き度い。国家を愛し、宮廷を敬ふ熱情に於ては、私は人にまけぬつもりである。

     二

まづ「にへまつり」の事から話して見る。「にへ」は、神又は天皇陛下の召し上り物、といふ事である。調理した食物の事をいふので、「いけにへ」とはちがふ。生贄イケニヘとは、生ナマのまゝで置いて、何時でも奉る事の出来る様に、生イけてある贄の事である。動物、植物を通じていふ。

只今の神道家では、にへといへば、生ナマなものをも含めて言ふが、にへといふ以上は、調理したものを言ふのである。御意の儘に、何時でも調理して差し上げます、といつて、お目にかけておくのが、生贄イケニヘである。ほんとうは食べられる物を差し上げるのが、当り前である。生物ナマモノを差し上げるのは、本式ではない。この贄の事から出発して、大嘗祭の話に這入りたい。

大嘗祭は、古くはおほむべまつりと言うて居る。おほんべ即、大嘗に就ては、次の新嘗・大嘗の処で話す事にして、此処では、まづまつりの語源を調べて見る事にする。此まつりといふ語がよく訣らぬと、上代の文献を見ても、解決のつかぬ事が多い。

まつりごととは、政といふ事ではなく、朝廷の公事全体を斥して言ふ。譬へば、食国政・御命購政などゝ言ふし、平安朝になつても、検非違使庁の着駄チヤクダの政などいふ例もある。着駄チヤクダといふのは、首枷クビカセを著ける義で、謂はゞ、庁の行事始めと言つた形のものである。ともかくも、まつり・まつりごとは、其用語例から見ると、昔から為来シキタりある行事、といふ意味に用ゐられて居る。

私は、まつる・またすといふ言葉は、対句をなして居て、自ら為る事をまつると謂ひ、人をして為さしむる事をば、またすと謂ふのであると見て居る。日本紀を見ても、遣又は令といふ字をまたすと訓ませて居る。

一体、まつるといふ語には、服従の意味がある。まつらふも同様である。上の者の命令通りに執り行ふことがまつるで、人をしてやらせるのをまたすといふ。人に物を奉る事をまたすといふのだ、と考へる人もあるが、よくない。人をしてまつらしむる事、此がまたすと謂ふのである。させる・してやらせる、此がまたすである。
日本の太古の考へでは、此国の為事は、すべて天つ国の為事を、其まゝ行つて居るのであつて、神事以外には、何もない。此国に行はれる事は、天つ神の命令によつて行つて居るので、つまり、此天つ神の命令を伝へ、又命令どほり執り行うて居る事をば、まつるといふのである。

処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行いたしました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になつた。古典に用ゐられて居る「祭り」といふ言葉の意味は此で、即御命令によつてとり行ひました処が、かくのごとく出来上りました、と報告する、神事の事を謂ふのである。

まつりは、多くは、言葉によつて行はれる。即、仰せ通りに致しましたら、此様に出来上りました、と言つた風に言ふのである。此処から段々と「申す」といふ意味に変つて来る。そして、復奏する事をも「申す」といふ様になり、其内容も亦、まつるの本義に、近づく様になつて来た。

まをすとは、上の者が理会をして呉れる様に、為向ける事であり、又衷情を訴へて、上の者に、理会と同情とをして貰ひ、自分の願ひを、相手に容れて貰ふ事である。こひまをす(申請)などいふ語も、此処から出て来たのだ。此様に、大体に於ては「申す」と「まつる」とは、意義は違ふが、内容に於て、似通つた所がある。此点は又、後に言ふ事にする。

     三

日本の天子様は、太古からどういふ意味で、尊位にあらせられるか。古い文献を見ると、天子様は食国ヲスクニのまつりごとをして居らせられる事になつて居る。だから天孫は、天つ神の命によつて、此土地へ来られ、其御委任の為事をしに来らせられた御方である。

天子様が、すめらみこととしての為事は、此国の田の生ナり物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国ヲスクニのまつりごとである。

食ヲすといふのは、食クふの敬語である。今では、食ヲすを食クふの古語の様に思うて居るが、さうではない。食国ヲスクニとは、召し上りなされる物を作る国、といふ事である。後の、治ヲサめる国といふ考へも、此処から出てゐる。食ヲすから治ヲサめる、といふ語が出た事は、疑ひのない事である。天照大神と御同胞でいらせられる処の、月読命の治めて居られる国が、夜の食国ヲスクニといふ事になつて居る。此場合は、神の治ヲサめる国の中で、夜のものといふ意味で、食すは、前とは異つた意味で用ゐられて居る。どうして、かう違ふかと謂ふと、日本の古代には、口で伝承せられたものが多いから、説話者の言語情調や、語感の違ひによつて、意味が分れて行くのである。此は民間伝承の、極めて自然の形であつて、古事記と日本紀とでは、おなじ様な話に用ゐられてゐる、おなじ言葉でも、其意味は異つて来て居る。時代を経る事が永く、語り伝へる人も亦、多かつたので、かうした事実があるのである。

さて、食国ヲスクニをまつる事が天子様の本来の職務で、それを命令したのは、天つ神である。古事記・日本紀では、此神を天照大神として居る。此点は、歴史上の事実と信仰上の事実とが、矛盾して居る。歴史上では、幾代もの永い間、天子様は一系で治めていらつしやる。信仰上では、昔も今も同様で、天つ神の代理者として、此土地を治めておいでになる。此土地を御自分の領土になさる、といふ様な事や、領土拡張の事などは、信仰上では、御考へなさらない。天子様は、神の言葉を此国にお伝へなさる為に、お出でになつたのである。此意味がかはつて、神に申し上げる報告の意味が、出たのである。

吾々の考へでは、働かなければ結果が得られない、と訣つて居るが、昔は、神の威力ある詞を精霊に言ひ聞かせると、詞の威力で、言ふ通りの結果を生じて来る、と信じて居た。此土地の精霊は、神の詞を伝へられると、其とほりにせねばならぬのである。貴い方が、神の詞を伝へると、其通りの結果を生じたのである。此が、まつるといふ事で、又食国ヲスクニのまつりごとである。

私は、祭政一致といふ事は、まつりごとが先で、其まつりごとの結果の報告祭が、まつりであると考へて居る。祭りは、第二義的なものである。神又は天子様の仰せを伝へる事が、第一義である。処が、天子様は、天つ神の詞を伝へるし、又天子様のお詞を伝へ申す人がある。そして又、此天子様の代理者の詞を伝へる人がある。かうして段々、上から下へ、と伝へる人がある。此天子様のお詞を伝へる人をまつりごと人といふ。日本紀には、大夫・宰等の文字が宛てゝある。此大夫や宰は、高い位置の官吏ではないのに、何故まつりごと人などいふ、尊い名称で呼ばれるか。此は、前に言うた様に、段々下へ/\と行くからである。かうした人々の事を、御言持ミコトモチといふ。此意味で、天子様も御言持である。即、神の詞を伝達する、といふ意味である。

神の代理をする人は、神と同様で、威力も同様である。譬へば、神ながらの道などいふ語は、天子様の為さるゝ事すべてを、斥して言ふのであつて、決して神道といふ事ではない。天子様は、神ながらの方で、神と同様といふ事である。神ながらは、信仰上の語であつて、道徳上の語ではない。此意味に於て、天子様のお言葉は、即、神の御言葉である。日本の昔の信仰では、みこともちの思想が、幾つも重なつて行つて、時代が進むと、下の者も上の者も同様だ、と考へて来た。そして鎌倉時代から、下尅上の風も生じた。日本の古来の信仰に、支那の易緯の考へ方を習合させて、下尅上と言うたのである。此話は、幾らしても限りのない事であるが、申さねば、贄祭りのほんとうの意味が知れないから、述べたのである。

古い時代のまつりごとは、穀物をよく稔らせる事で、其報告祭がまつりである事は、前にも述べた。此意味に於て、天子様が人を諸国に遣して、穀物がよく出来る様にせしむるのが、食国の政である。処が穀物は、一年に一度稔るのである。其報告をするのは、自ら一年の終りである。即、祭りを行ふ事が、一年の終りを意味する事になる。此報告祭が、一番大切な行事である。此信仰の行事を、大嘗祭オホムベマツリと言ふのである。

此処で考へる事は、大嘗と、新嘗との区別である。新嘗といふのは、毎年、新穀が収穫されてから行はれるのを言ひ、大嘗とは、天子様御一代に、一度行はれるのを言ふのである。処が「嘗」といふ字を宛てたのは、支那に似た行事があつて、それで当てたのである。新嘗の用語例を蒐めて考へて見ると、新穀を召し上るのを、新なめとは言へない。なめるといふ事には、召食メシアガるの意味はない。日本紀の古い註を見ると、にはなひといふ事が見えて居る。万葉集にも、にふなみといふ言葉があり、其他にへなみと書かれた処もある。

今でも、庄内地方の百姓の家では、秋の末の或一日だけ、庭で縄を綯なひ、其が済むと、家に這入る。此を行ふには、庭へ竈を造つて、其日一日は、庭で暮すらしい。日本紀の古註に見える庭なひと言ふのは、其であらう。此事は、考へて見ると、一種の精進で、禁慾生活を意味するのである。だが、庭で縄を絢ふから、庭なひだとしてはいけない。此には、何かの意味があつて、庭で縄を綯ふのであらう。
にはなひ・にふなみ・にひなめ・にへなみ、――此四つの用語例を考へて見ると、にへ・には・にふは、贄と同語根である事が訣る。此四つの言葉は、にへのいみといふことで「のいみ」といふことが「なめ」となつたのである。発音から見ても、極近いのである。結局此は、五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活である事を意味するのであらう。新しく生つたものを、神に進める為の物忌み、と言ふ事になるのである。神様の召し上りものが、にへであることは、前にも言うた通りであるが、同時に、天子様の召し上りものも亦、にへである。さうすると、新嘗の大きな行事であるから、大にひなめといひ、それからおほんべとなつたことが訣る。

此大嘗と新嘗とは、どちらが先かは問題であるが、大嘗は、新嘗の大きなものといふ意味ではなくて、或は大は、壮大なる・神秘なるの意味を表す敬語かも知れぬ。此方が或は、本義かも知れぬ。普通には、大嘗は天皇御一代に一度、と考へられて居るが、古代ではすべて、大嘗であつて、新嘗・大嘗の区別は、無かつたのである。何故かと言ふと、毎年宮中で行はれる事は、尠くとも御代初めに、行はれる事の繰り返しに過ぎない、といふ古代の信仰から考へられるのである。御代初めに一度やられた事を、毎年繰り返さぬと、気が済まぬのであつた、と見るべきである。其が新嘗である。新嘗のみではなく、宮中の行事には、御代初めに、一度行へば済む事を、毎年繰り返す例がある。だから、名称こそ新嘗・大嘗といへ、其源は同一なものである。

此新嘗には、生物ナマモノのみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い/\物忌みが行はれる。単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。民間には、其物忌みの例が残つて居る。常陸風土記を見ると、祖神ミオヤガミが訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟ワセの初嘗ニヒナメで、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。そこで祖神は、筑波岳で宿止ヤドメを乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇ツヽシミツカヘ承つた、とある。此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。

猶、万葉集巻十四に、

にほとりの 葛飾早稲カツシカワセをにへすとも、そのかなしきを、外トに立てめやも
誰ぞ。此家ヤの戸おそぶる。にふなみに、わが夫セをやりて、斎イハふ此戸を

新嘗の夜の、物忌みの有様の見えて居る歌である。此歌などは、もう神の来る事が忘れられて、たゞの男女関係の歌のやうに見えるが、猶、神が来たといふ原義が見えて居る。神の来たのが、愛人が来るやうに考へられて来たのだ。ところが、この新嘗に似た行事が、まだ他にもある。其は神嘗祭である。そこで、神嘗祭の話に移る。

     四

神嘗祭・神今食・相嘗祭、此三つは新嘗祭に似て居る。だから、まづ神嘗祭から話を進めて見る。これは、新嘗祭と相対して行はれた祭りであつて、九月に行はれる。伊勢の神宮に早稲ワセの走穂ハツホを奉る祭りであると考へられて居る。天子様の新嘗に先立つて行はれる。此より前の六月と十二月とにも同様な行事が行はれる。神今食といふのが其である。此神今食を、或人々は「かむいまけ」と読んで、新米を奉るのだとして居るが、十二月の方はともかくも、六月には、まだどの様にしても、新米は出来ないから、此説は同意出来かねる。猶、神今食に奉るものは、早稲の初穂ではなくて、古米を奉るのであらう、と私は考へて居る。

だが、従来、神今食と、神嘗と、新嘗とは、区別が判然して居ない。私は、新米を奉るのと、古米を奉るのとの違ひであらう、と考へて居る。何故かと言ふと、神今食の直前に行はれるのに、月次祭がある。此は、六月と十二月とに行はれる。つまり、一年を二つに分けて、行うたのである。此事は、平安朝に見えて居る。この月次祭の後、直に、つゞいて行はれるのが、神今食である。月次祭の時は、日本中の大きな社の神々が、天子様の許に集まつて来る。その集まつて来た神々に、天子様が、物を食べさせて、おかへし申すのが、神今食である。

一年に二度行ふといふのは、大切な祭りは、一年を二期に分けてする習慣が出来てからの事である。つまり、夏の終りを年の終りと考へ、又、年の終りの冬毎に神が来る。其神に御馳走して帰すのが、神今食である。此は、よく考へて見ると、新嘗を二つに分けて、日をちがへて行つた、といふ事になる。月次祭は、新嘗祭の変化したもので、新嘗祭を行ふ中に、変態な習慣が行はれ出したのである、と考へられる。

神嘗祭とは、諸国から奉つた処の、早稲の走穂ハツホを、宮廷で整理して置かれて、九月になつてから、伊勢の大神に奉られることである。諸国から、初穂を朝廷へ奉る使を、のさきのつかひといふ。荷前使と書くのである。古くから神嘗祭と言うたか、どうか。或は、新嘗といふ支那訳が出来てから後に、神の新嘗といふ意味から、神嘗と言うたのかも知れぬ。ともかくも、神嘗祭は、前に言うた相嘗祭と、関聯させて話さねばならぬ。

諸国から稲穂を奉るのは、鎮魂式と関係があるから、此処で話して置く。諸国から稲穂を奉るのは、宮廷並びに、宮廷の神に服従を誓ふ意味なのである。日本では、稲穂は神である。其には、魂がついて居る。国々の魂がついて居る。魂の内容は、富・寿命・健康等である。諸国から米を差し上げるのは、此等の魂を差し上げる事になる故に、絶対服従といふ事になる。米の魂が身に入ると強くなり、寿命が延び、富が増すのである。そして、此魂たる米を差し上げることを、みつぎといふ。たゞつぎといふ事もある。

かうして、諸国から差し上げた稲穂を、天子様は、御自分で召食メシアガらぬ先に、上の方かたで居られる処の伊勢の大神に奉られる。奉り物は、料理した御飯と、料理せない稲の穂のまゝのを二通り、はざ木にかけて、差し上げる。此をかけぢからといふ。かうして、諸国から到来した米を、天子様が自ら、伊勢の大神に差し上げるのは、祖神に魂を差し上げる事になり、即服従を誓はれる事になるのである。

かうした関係は、民間にもある。本家・中本家・小本家といつた風に分れて居る家では、各の家で、子分を持つて居る。其子分が小本家へ奉つた物を、小本家では中本家へ、中本家では、小本家から奉つたものと、自分の子分の奉つたものとを一処にして、大本家へ差し上げる。此場合には、到来物だから差し上げます、と言うて奉るのである。かうして子方から、次第に、上へ差し上げて行く。すると、献上物としての威力は、其効力を増し、且強くなる。此は信仰上の事実であつた。

上述の様な次第で、神嘗と新嘗とは、大分違つたものである。新嘗は、後にこそ刈り上げ祭りの様になつて居るが、ほんとうは、神の命令に依つて行つた、農事の報告であり、神嘗は、諸国から宮廷へ奉つた稲穂を整理して、更に、伊勢大神宮へ奉る行事である。処が、諸国から奉つた稲の魂を、天子様が更に、上位の神に奉られる行事は、他にもある。即、相嘗祭で、十一月の中の卯の日に行はれる。卯の日が二度しかない時は、上の卯の日に行はれる。新嘗祭よりは、一まはり先の卯の日に行はれるのである。此時は、宮廷から畿内の近辺の大きな社に、稲穂を供へる。此が、相嘗祭である。又、天子様のお血筋や、外戚の陵墓にも奉る。此を荷前ノサキといふ。

約言すると、地方から、宮廷へ奉る処の稲の初穂を、九月に入つて、伊勢へ奉るのを神嘗といひ、其他の神々又は、大きな社に奉るのを相嘗と言ひ、陵墓に奉るのを荷前ノサキと言ふのである。何れも、新嘗祭と前後して行はれたのである。本来は、神に奉るのは相嘗と云ひ、其以下の神で、而も天子様の尊敬する神、又は、天子様の御血つゞきの方に差し上げるのを荷前、と言うたのである。

此等の行事が済んだ後で、新嘗祭が行はれたのだ。新嘗祭は正式には、十二月の中の卯の日に行はれたのである。此処で問題となるのは、卯の日といふ干支を用ゐる事が、果して、古代からあつたかどうか、と言ふ事である。現在知り得る範囲では、日を数へる事よりは、干支を数へる暦法の方が古い、と云へよう。尠くも、支那の古い暦法を伝へた漢人種や、朝鮮人種が、天孫民族と同時に、或はそれ以前に、渡来して居た事は事実である。

新嘗祭其他、すべての行事をするのに、干支に依つて定められる以前は、占ひによつてきめた。此がいつの間にか、干支に依つて、定められるやうになつたのである。かうして日を定めて、十一月の中の卯の日、又は、下の卯の日に、新嘗祭をするのである。此を秋の祭りといふ。

延喜式の祝詞を見ると、大和の龍田の風神祭祝詞がある。此は、五穀の稔る事を祈り、さて稔ると、斯様々々に出来ました、と言うて、秋祭りをして、五穀を奉るのである。此処の秋祭りといふのは、四季でいふ「秋」ではなくて、新嘗祭といふ意味であつて、農事に関係ある語である。処が、相嘗祭は、龍田風神祭の詞の中には、見えては居ないが、古から無かつたとは見られない。中世から、何かの原因で絶えた、と見るべきである。

祝詞の、秋祭りに就て考へて見ても、新嘗、又は相嘗は、今の暦法上の秋ではない。だが、其を秋祭り、と古くから言うて居る処を見ると、秋に就ての考へ方が、昔と今とでは差異があつたのであらう。事実、地方の秋祭りは、早稲の刈り上げ前に行はれるのであつて、晩稲の刈り上げが済んでからやるのは、正式の秋祭りではなくて、其は家々の祭りである。何故、斯うして家々即、地方では、早く秋祭りをするか、と言ふと、朝廷へ奉る荷前ノサキの使と同時に、国々の神の祭りをする為である。朝廷の新嘗祭と前後して、諸国で神に差し上げる。此が秋祭りの始めである。もう一つ、後の理由であるが、稲の花の散つた後が大切だから、やるのである。

此二つの考へが一つになつて、今の秋祭りが行はれるのである。だから、今民間に行はれて居る秋祭りは、ほんとうの秋祭りとしてのものではなくて、寧、家々の祭りと見てよろしい。社の祭りではないのである。新嘗祭と同様なものが、ほんとうの秋祭りである。田舎の秋祭りは、新嘗祭よりも、早く行はれる。新嘗を中心にして考へると、少しく変だが、認容出来ぬ事はない。前に挙げた処の「にほどりの」と言ふ歌にしても、其地方で勝手に、祭りを行うた処から、出来た歌で、宮廷よりは先に、行つた消息が窺はれる。

宮廷の新嘗祭は、日本中の稲の総括りの様なものである。秋祭りには、前述の意味と、もう一つは、冬祭りともいふべき程の意味とがある。さて、秋祭りが、同時に冬祭りに当るのに、どうして冬祭りと言はぬかといへば、其は、秋祭りには、祭りの最古い意味があるが、冬祭りは、少し意味が違つて居るからである。

     五

私の考へでは、一夜の中に、秋祭り・冬祭り・春祭りが、続いて行はれたものであつて、歳の窮キハマつた日の宵の中に、秋祭りが行はれ、夜中に冬祭りが行はれ、明け方に春祭りが行はれるのである。

そして、続いて、初春の行事が行はれる、といふ順序である。此が後に、太陰暦が輸入せられてから、秋・冬・春といふ暦法上の秋・冬・春が当て篏められて、秋祭り・冬祭り・春祭りとなり、更に其中へ夏祭りが、割り込んで来たものと思ふ。

冬祭りとは何かと言ふと、歳、窮つた時期に、神がやつて来て、今年の出来たものを受けて、報告を聞き、家の主人の齢を祝福し、健康の寿ぎをする所の、祭りを言ふのである。古い書物を見ると、秋祭りの晩には、尊い方がやつて来られた事が、書いてある。神の来られた事を忘れた後には、自分よりも身分の高い人を頼んで、来て貰つて居る。後世の宴席に、又は祭事に当つて、正客の習慣は、遠い昔に、其起原のある事が知れる。即、秋祭りとは、主人より遠来の神に、田畑の成績の報告をする事である。そして冬祭りとは、此秋祭りが済んで、客神マレビトが主人の為に、生命の寿ぎと、健康の祝福とをする事である。同席で行はれても、両者の間には、区別は明らかにある。

此処で「冬」といふ言葉を考へて見る。ふゆは、殖ゆで、分裂する事・分れる事・枝が出る事などいふ意味が、古典に用ゐられてゐる。枝の如く分れて出るものを、取扱ふ行事が、冬の祭りである。ふゆは、又古くは、ふると同じであつた。元来、ふるといふ事は、衝突する事であるが、古くは、密着するといふ意味である。此処から「触れる」といふ意味も出て来る。

日本の古代の考へでは、或時期に、魂が人間の身体に、附着しに来る時があつた。此時期が冬であつた。歳、窮つた時に、外から来る魂を呼んで、身体へ附着させる、謂はゞ、魂の切り替へを行ふ時期が、冬であつた。吾々の祖先の信仰から言ふと、人間の威力の根元は魂で、此強い魂を附けると、人間は威力を生じ、精力を増すのである。

此魂は、外から来るもので、西洋で謂ふ処のまなあである。此魂が来て附着する事を、日本ではふるといふ。そして、魂の附着を司る人々があつた。毎年、冬になると、此魂を呼んで附着させる。すると春から、新しい力を生じて活動する。今から考へると、一生に只一度つければよい訣だが、不安に感じたのでもあらう。毎年繰り返した。新嘗を毎年、繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものだ、との考へである。此復活の信仰は、日本の古代には、強いものであつた。

古代信仰に於ける冬祭りは、外来魂を身に附けるのだから、ふるまつりである。処が後には、此信仰が少し変化して、外来魂が身に附くと同時に、此魂は、元が減らずに分割する、と考へて来た。此意味が、第二義のふゆまつりである。

日本紀の敏達天皇の条を見ると、天皇霊といふ語が見えて居る。此は、天子様としての威力の根元の魂といふ事で、此魂を附けると、天子様としての威力が生ずる。此が、冬祭りである。処が後には、或時期に於て、此魂は分割するのだ、と考へ出して来た。そして分割の魂は、人々に分けてやつた。此分割の一つ/\の魂は、着物を以てしるしとした。一衣一魂として、年の暮に、天子様は、親しく近い人々に、着物を分配してやられた。此を御衣配といふ。天子様以下の人に於ても、やはり、家々の氏ノ上の魂は分割する。其を衣に附けて分配した。此を衣配キヌクバりというた。此が近世まで続いて、武家時代になつても、召し使ひに為着シキせを呉れるといふ習慣があつた。

此魂の分割、衣分配の信仰は、冬祭りの第二義である。此祭りの事を鎮魂式といふのである。たまふり、又はみたまふりといふ。後世になると、たましづめといふ。たましづめといふのは、人間の魂が或時期に於て、游離し易くなるから、其を防ぐ為と、又既に、游離した魂を落ちつかせる為で、此考へ方は、後のものである。支那にも、此に似た行事があつて、鎮魂と謂うて居た処から、日本のたまふりをも鎮魂と訳したのである。その大元は、外来魂を身に附ける事が、第一義。更に、分割の魂を、人々の内身へ入れてやる事。此が、第二義。そして、鎮魂を意味するのが、第三義である。

此鎮魂の行事は、非常に重大なもので、宮廷では、十一月中に、日を卜ひ定めて行うた。処が、たまふりの祭りの中にも、もう一つ違つた祭りがある。それは、魂を附着する、といふ意味の理会が変つて、目下の者が、自分の主人又は、長上の人に服従を誓ふ為に、自分の魂の主要なものを、相手の長上なり、主人なりに献上して了ふといふ祭りである。それで主人或は、目上の人は、元来の自分の魂と、目下が持つて来て奉つた魂とを合せて持つ事になるから、上位の人となる。此行事がやはり、天子様の御代初めに行はれた。其が又、新嘗の如く、毎年繰り返される事になつた。此行事も亦、みたまふりの一の意味である。

上述の如く、生きて居る人が、自分の魂の大部分を、長上に奉る事をみつぎといひ、目下が献つた数多の魂と、元来天子様の持つて居られる魂とを一処にして、其を分割して臣下が頂くのをば、みたまのふゆといふ。そして、此為の行事即、祭りの事をみたまのふゆ祭りといふ。結局冬祭りは、魂分割の祭りで、年の暮には、此魂の切り替へに関する行事が、いろ/\と行はれた。後世になると、年に二度、盆と年の暮れとに行はれた。更に其が、盆と正月とに行はれる事になつた。

元来、冬祭りと秋祭りとは、引続いて一日の中に行はれたのであつたが、漸次分れて来て、秋祭りを十一月、冬祭りを十二月に行ふ様になつた。かうなつて来てからは、十一月に行はれるのをば鎮魂祭といひ、十二月に行はれるのを、普通には御神楽といひ、内侍所の御神楽ともいふ。此二つは共に、鎮魂祭である。十一月の方の祭りは、元来日本にあるみたまふりの祭りで、十二月の方のは、後に、宮中へ這入つて来た処の鎮魂ミタマシヅメの祭りである。

天子様に、下から魂を差し上げる時期は、大体に於て、冬の祭りと一定して居つたが、後には、春行はれることになつた。併し、処によると、違つた時期にも差し上げた。此は、国や家によつて、違つてゐるのである。譬へば、出雲の国造家では、国造の代替りには、其年と、其年の翌年と、引続いて二度、京都へ出て来て、天子様に魂を奉る儀式をした。

     六

前にも言うた通り、宮廷の鎮魂式には、三通りある。

一、猿女の鎮魂  鈿女の鎮魂法の事をいふ。高天原伝来のもの。
二、物部の鎮魂  物部氏に伝来されて居る処の石ノ上鎮魂法。
三、安曇の鎮魂  奈良朝の少し前、宮廷へ這入つた、と見るべき鎮魂法。


此三つの中、猿女鎮魂と、石ノ上鎮魂とは、合体して了うた。最後に這入つた処の、阿曇アヅミの鎮魂式は、海人部の者が取扱つたもので、此は、特殊な面白味があつたので、日本元来のみたまふりとは異つた待遇を受けて、十二月に行はれる事になつた。古来の日本流のがみたまふりで、阿曇のは、たましづめの意義が、主なる要素をなして居る。外来魂を身に附けるのが、古い意義の、日本伝来のみたまふりで、魂の発散を防止し、且既に、発散した魂をして、鎮まらせる。此が、阿曇のたましづめ即、御神楽である。

とにかく、鎮魂式といふのは、群臣から天子様に、魂を差し上げる事だ、とわかればよい。同時に、冬というても、時代によつては、十月の事でもあり、十一月の事でもあり、又十二月の事でもあつた、といふ事を承知してかゝらねばならぬ。

此鎮魂を行ふと、天子様はえらくなる。併し、かうした行事を毎年やるのは、どうした事か。一代に一度やれば、よろしいのであるが、昔の人は、魂は一年間活動すると、もう疲れて役に立たなくなる、と考へて居たから、毎年やるのである。毎年々々、新しく復活して来ねばならぬ、と考へて居つたからである。

恐れ多い事であるが、昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た。天子様の御身体の事を、すめみまのみことと申し上げて居た。みまは本来、肉体を申し上げる名称で、御身体といふ事である。尊い御子孫の意味であるとされたのは、後の考へ方である。すめは、神聖を表す詞で、すめ神のすめと同様である。すめ神と申す神様は、何も別に、皇室に関係のある神と申す意味ではない。単に、神聖といふ意味である。此非常な敬語が、天子様や皇族の方を専、申し上げる様になつて来たのである。此すめみまの命に、天皇霊が這入つて、そこで、天子様はえらい御方となられるのである。其を奈良朝頃の合理観から考へて、尊い御子孫、という風に解釈して来て居るが、ほんとうは、御身体といふ事である。魂の這入る御身体といふ事である。

此すめみまの命である御身体即、肉体は、生死があるが、此肉体を充す処の魂は、終始一貫して不変である。故に譬ひ、肉体は変つても、此魂が這入ると、全く同一な天子様となるのである。出雲の国造家では、親が死ぬと、喪がなくて、直に其子が立つて、国造となる。肉体の死によつて、国造たる魂は、何の変化も受けないのである。

天子様に於ても、同様である。天皇魂は、唯一つである。此魂を持つて居られる御方の事を、日の神子ミコといふ。そして、此日の神子ミコとなるべき御方の事を、日つぎのみこといふ。日つぎの皇子とは、皇太子と限定された方を申し上げる語ではない。天子様御一代には、日つぎのみこ様は、幾人もお在りなされる。そして、皇太子様の事をば、みこのみことと申し上げたのである。

天子様が崩御なされて、次の天子様がお立ちになる間に、おほみものおもひ(大喪)といふのがある。此時期は、日本に於ては、日つぎのみこの中のお一方が、日の御子(天子様)となる為の資格を完成する時、と見る事が出来る。祝詞や、古い文章を見ると、「天のみかげ・日のみかげ」などゝいふ詞がある。此詞は普通には、天子様のお家の屋根の意味だ、と云はれて居るが、宮殿の奥深い所といふ事である。そこに、天子様はおいでになるのである。此は、天日に身体を当てると、魂が駄目になる、といふ信仰である。天子様となる為の資格を完成するには、外の日に身体をさらしてはならない。先帝が崩御なされて、次帝が天子としての資格を得る為には、此物忌みをせねばならぬ。此物忌みの期間を斥して、喪といふのである。喪と書くのは、支那風を模倣しての事で、日本のは「裳」或は「襲」であらうと思ふ。

大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちやんと御寝所が設けられてあつて、蓐・衾がある。褥を置いて、掛け布団や、枕も備へられてある。此は、日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此御寝所に引き籠つて、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂ミタマフリの行事である。此処に設けられて居る衾は、魂が身体へ這入るまで、引籠つて居る為のものである。裳といふのは、裾を長く引いたもので、今の様な短いものゝみをいうては居ない。敷裳などゝいうて、着物の形に造つて置いたのもある。此期間中を「喪」といふのである。

或人は、此お寝床の事を、先帝の亡き御身体の形だといふが、其はよくない。死人を忌む古代信仰から見ても、よろしくない。猶亦、或人は、此が高御座だといふが、此もよくない。高御座に枕を置いたり、布団をおく筈はない。高御座は、天子様がお立ちになつて、祝詞を申される場所であつて、決してお寝になる場所ではない。此処では、何も、ものを仰せあらせないから、高御座と考へる事は出来ぬ。
古代日本の考へ方によれば、血統上では、先帝から今上天皇が、皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫で居られる。御身体は御一代毎に変るが、魂は不変である。すめみまの命といふ詞は、決して、天照大神の末の子孫の方々といふ意味ではなく、御孫といふ事である。天照大神との御関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。

此重大な復活鎮魂が、毎年繰り返されるので、神今食・新嘗祭にも、褥が設けられたりする事になる。大嘗祭と、同一な様式で設けられる。復活を完全にせられる為である。日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲衾マドコオフスマと申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此真床襲衾マドコオフスマこそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすがともなり、皇太子ヒツギノミコの物忌みの生活を考へるよすがともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。此は、日本紀の話であるが、此を毎年の行事でいへば、新嘗祭が済んだ後、直に鎮魂祭が行はれ、其がすんで、元旦の四方拝朝賀式が行はれる。だが此は、元は、一夜の中に一続きに行はれたもので、秋祭りの新嘗祭と、冬祭りの鎮魂祭即、真床襲衾から出て来られ、やがて高御座にお昇りなされて、仰せ言を下される。此らの事は元来、一続きに行はれたのであるが、暦法の変化で、分離して行はれる様になつたのである。

日嗣ぎの皇子ミコが、日の皇子(天子様)におなりなされると、天子様としての仰せ言が下る。すると、群臣は天子様に対して、寿言ヨゴトを申し上げる。寿言の正確な意味は、齢を祝福申し上げる、といふ処にある。すめみまの命の御身体に、天子霊が完全に這入つてから、群臣が寿言を申すのだ。寿言を申すのは即、魂を天子様に献上する意味である。群臣等は、自分の魂の根源を、天子様に差し上げて了ふのだ。此程、完全無欠な服従の誓ひは、日本には無い。寿言を申し上げると、其語について、魂は天子様の御身に附くのである。

天子様は倭を治めるには、倭の魂を御身体に、お附けにならなければならない。譬へば、にぎはやひの命が、ながすね彦の方に居た間は、神武天皇は戦にお負けなされた。処が、此にぎはやひの命が、ながすね彦を放れて、神武天皇についたので、長髓彦はけもなく負けた。此話の中のにぎはやひの命は、即、倭の魂である。此魂を身に附けたものが、倭を治める資格を得た事になる。

此大和の魂を取扱つたのは、物部氏である。ものとは、魂といふ事で、平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には、鬼の字を、ものといふ語にあてゝ居る。物部氏は、天子様の御身体に、此倭を治める魂を、附着せしむる行事をした。此が、猿女鎮魂以外に、石イソノ上カミの鎮魂がある所以である。

此処で、猿女の鎮魂式を考へて見る。さうすると、日本人の生死観がよく訣る。元来、日本の古い信仰では、生と死との区別は、不明瞭なものであつた。人が死んでも、魂をよび戻せば生きかへる、と思うてゐた。そして、どうしても魂がかへらぬとあきらめるまでは、略ほぼ一年間かゝつた。此一年の間は、生死不明の時期で、古い文献を見ると、殯宮モガリノミヤ、又はあらきの宮と言うて居るが、此は此魂を附着せしめようとして居る間の、信仰行事を斥していふのである。御陵を造つて居る間が殯宮だ、といふ考へは、後の考へ方で、支那の考へが這入つて来て居る。
殯宮の間に於ける天子様を、大行天皇と申上げて居る。此も亦、支那流の考へが混つて居る。此期間中は、生死不明であると共に、日つぎの皇子が、裳(襲)に籠つて居られる期間である。

猿女鎮魂の起原ともいふべきは、天ノ岩戸の一条の話である。天照大神は、天ノ岩戸に籠られた。そして、天ノ鈿女命は、盛んなる鎮魂術をやつた。それで、一度発散した天照大神の魂は、戻つて来て、大神は復活した。魂を附着せしむるといふ事は、直に死を意味するものとはならない。此処から考へても、あの大嘗祭の時の蓐の行事が、真に死骸だと考へる事は出来ぬ。

此蓐の行事の、毎年繰り返されるのが、神今食・新嘗祭などの蓐である。蓐に籠る度数が、多ければ多いだけ、威力を増す、といふ考へである。こんな考へ方からして、天子様は、御一代の間に、毎年新嘗をせられて復活されるのである。そして、毎年復活して、新しい威力ある御身体を以て、高御座にお昇りなされて、祝詞を下されるのである。

     七

此処で春の祭りの話をする。春の祭りは、大嘗祭と、即位式と、四方拝と、もう一つ朝賀式とを兼ねたもので、正月の元日から三日の間に行はれるのである。

大宝令――詳しくは養老令――を見ると、五つの詔書々式が残つて居る。其中の主なものは二つで、此は、外国に対しての詔書々式で、他の三つは、国内に対してのものである。此は、大・中・小の三つに分れて居るが、大体から見て、内・外は対をなして居るもの、と見る事が出来る。

内国に対する詔書中、大きな事に用ゐられる書式は、最初の書き出しの言葉に、

明神御大八洲天皇詔旨アキツミカミトオホヤシマグニシロシメススメラガオホミコト……咸聞モロ/\キコシメセトノル

といふ詞を、此書式の詔書のはじめに、据ゑねばならぬ。次に、外国即、朝鮮に対しての詔書には、同じく養老令を見ると、大八洲天皇詔旨の代りに、御宇日本天皇詔旨と書いて居る。(「高御座」参照。全集第二巻)

斯くの如く、国内に対しては大八洲天皇といひ、外国には御宇日本天皇といふのである。そして此言葉を唱へられる場合は、初春か、又は、即位式の時である。此点から見ても、即位式と、初春とは同一である、といふ事がわかる。

其意味は、大八洲は皆私のものだ、といふ意味である。そして、御宇日本天皇といふのは、此言葉を受ける人は、皆日本の天子様の人民になつて了ふ、といふ信仰上の言葉である。支那に対しては、言へなかつた。朝鮮にのみ用ゐられた。朝鮮の任那の国をば、内屯倉ウチミヤケとよんで居つた。うちみやけは、朝廷の御料を収めて置く処といふ意味である。

初春の詔書の全体の意味は、即位式の詔書の意味と、全く同一である。内屯倉ウチミヤケは、天子様の御言葉の勢力が及んだ証拠で、此大八洲天皇とか、御宇日本天皇とかいふ言葉を聞くと、もう、人々の心も身も、天子様のものになつて了ふ。後にこそ、大八洲・御宇日本と分けて用ゐられて居るが、語の及ぶ効力は同一で、其間に、少しの距たりも無かつたのであらう。即、此語の及ぶ範囲が、天子様の御領土といふ事になる。

日本歴史で、知り得る限りでは、大和国の山辺郡の大倭村が、やまとの本地であつたらしい。其が次第に拡がつて、今吾々の考へて居る程の、広さになつたのであらう。猶日本紀によつて、仮説を樹てゝ見れば、日本の宮廷は、或時期の間、筑紫の方面に栄えられた事を伝へて居る。筑紫の山門ヤマト郡の名称が、神武天皇の大和に入られたのと同時に、ついて来た名称とも考へられる。とにかく、何故に、全国到る所をやまとと言うたかといふと、前に言うた通り、明神御大八洲天皇詔書……咸聞といふ、言葉の勢力が及ぶ範囲、といふ意味である。この信仰を度外視しては、何故に日本全体をやまとと言うたか、といふ事は訣らぬ。戦争で領土が拡まつた、といふ考へのみでは、説明は出来ぬ。

又、続日本紀を見ると、天子様は、御代初めに、何か仰せ言を下される時に、大倭根子何々天皇、と最初に言ひ出される。古事記にも、日本紀にもある。「根子」の古い例は、山背根子・難波根子等である。根子は、神主・君主といふ事である。昔は、神主は即、君主であつた。大倭根子といふと、大倭の地方全体の神事を司る人即、君主といふことになるのである。後には、日本全体の祭主、即君主との意味になつて来た。かうした天子様のお言葉も、古い時代は、口頭で言はれたが、奈良朝頃から、文書に書いてやられる事が行はれた。此を宣命といふ。此宣命が、飛鳥ノ宮の末頃からは、文書の形式が定まる様になり、天皇御即位の年の、春の初めには、必、宣命をお下しなされた。後になつて、御即位の式と、朝賀の式とが分れても、両方共に、仰せられるお言葉は、似たものである。

宮廷の儀式をみると、春の儀式と、即位式と沢山、似た処がある。昔から、即位式と、大嘗祭とは同じだ、といふ学者は、沢山ある。昔は必、同一な者であつたと思ふ。そして、此式が春行はれるものだ、と考へられる様になつた。

さて、春といふ語の本義が、不明である。草木の芽が発する事を「はる」といふ処から言ふのだ、と言はれて居るが、ほんとうの事は訣らぬ。其他、いろ/\と言はれて居るが、不明である。そして、春といふ用語例の、古い処も訣らぬ。何にしても、はるかす・はるく・はるなど考へて見ると、開けるといふ意味があるらしい。

今此処で、民間の春の行事からして、宮廷の春の行事を考へて見る事にする。俳句の歳事記を見ると、逆簑岡見といふ事がある。此は、大晦日の夜、簑を逆に着て、小高い所へ上つて四方を見ると、来年一年の村の吉凶・五穀の豊凶等、万事が見えるといふのである。此風習は、春の前に当つて、山の尾根伝ひに、村を祝福しに来た、神のあつた事を語るものである。

日本では、簑は、人間でないしるしに着るものである。処が、百姓は簑を着るが、此は、五月の神事の風習が便利だから、其神事の風を真似て了うたのである。すさのをの命は、千位置戸を負はせられて、爪をぬかれ、髪を抜かれ、涙も唾も痰も皆とられて、為方が無いから、青草を束ねて簑として、下つたと言うて居るし、奈良朝以前の風習と思ふが、簑を着て人の家に這入ると、這入つた人から、科料を取るといふ事もある。此は、簑は神の着るもので、神が来ると、祓へをしなければならぬから、其入費を科するのである。簑について神が来るので、簑を着て来る人から、入費をとるのである。今でも、民間には、人の家へ簑を着て行く時は、必、外でぬいで這入れ、というて居る。

又、前の岡見の話に還るが、高い山から、里に近い岡の上に神が来て、村人の為に、来年の様子を言うてくれた。此は、大晦日の夜から、明け方にかけてのことである。此風が替つて、今度は里人が神になつて、簑をきて、岡へ上つて行つた。こんな習慣が固定して出来たのである。神のやつてくれたのを、人間がやる様になり、神の祝福の語からして、人間がやつて見ても訣る、といふ風に変つて来たものである。

考へて見ると、ににぎの尊も、山の尾根伝ひに、降臨されて居る。一体、日本へ来られた神々は、皆高い所から、山の尾根伝ひに下つて来られて居る。此信仰上の事実が、今でも国々村々には、ざらに残つて居る。

処で、春といふのは、吾々の生活を原始的な状態に戻さうとする時であつて、其には、除夜の晩から初春にかけて、原始風な信仰行事が、繰り返される事になつて居る。つまり、原始時代に一度あつた事を毎年、春に繰り返すのである。古代の考へでは、暦も一年限りであつた。国の一番始めと、春とは同一である、との信仰である。此事からして、天子様が初春に仰せられる御言葉は、神代の昔、ににぎの尊が仰せられた言葉と、同一である。又、真床襲衾を被られ、其をはねのけて起たれた神事、そして、日の皇子となられた事など、其がつまり、代々の天子様が行はせられる、初春の行事の姿となつて居るのである。

     八

元旦の詔詞は、後には書かれて居るが、元は、天子様御自分で、口づから仰せ出されたものである。だからして、天子様の御言葉は、神の言葉と同一である。神の詞の伝達である。此言葉の事を祝詞ノリトといふ。今神主の唱へる祝詞は、此神の言葉を天子様が伝達する、といふ意味の変化したものである。

のるといふのは、上から下へ命令する事である。上から下へ言ひ下された言葉によつて、すべての行動は規定される。法・憲・制等の文字に相当する意義を持つて居る。祝詞は正式には、天ツ祝詞ノ太祝詞といふのである。のりとは、のりを発する場所の事で、神座の事である。而して、此神座で発する言葉が、祝詞である。「天つ祝詞の太祝詞ごと」とは、神秘な壮大崇高な場所で下された御言葉、といふ事である。此尊い神座の事を高御座といふ。

高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。だから、祝詞を唱へる所は、どこでも高御座となる。そんなら、御即位式の時に昇られる高御座は、何を意味するかといへば、前述の様に、天が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持つて居る所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天のみかどなどいふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持つて居る処、といふ意味である。みかどといふ語が後には、天子様の版図の事にもなるのは、此意味であり、後には、天子様の事をも申し上げる様になつて来て居る。

高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる。かうして、時も、人も、所も、詞も、皆元へかへる。不思議な事に、天上にある土地の名が、其々地上にもある。天の安河原は、天上の土地の名であるが、近江の国にもある。天上に高市タケチがあるかと思へば、倭にも高市郡がある。天上から降つて来た土地だなどいふ伝説も、かうした信仰から出たのである。

天子様は、申すまでもなく、倭の神主であらせられて、神事が多い故に、常に御物忌みをせられなければならぬ。殆ど一年中祭りをして居らせられねばならぬ。此は、信濃の国の諏訪の神主に見ても知れる様に、年中祭りに忙殺されて居る。天子様は、日本中の神事の総元締めで、中々やりきれない。そこで、日本には中臣といふ御言詔持ミコトモチが出来た。此中臣は、天子様と群臣との中間に居て、天子様の御言葉を、群臣に伝達する職のものである。

それから、天子様と、神との中間に在るものを、中天皇ナカツスメラミコトといふ。万葉集には、中皇命と出してある。此中皇命の役に立つものは、多くは、皇女或は后などである。

中臣は主として、天子様の御言葉を伝達するのが、為事であつた。元来なら、天子様が申されるはずの祝詞をも、中臣が代理で申すのだ。だから後には、中臣の詞が、祝詞と云はれる事になつた。今ある祝詞は、平安朝の延喜年間に書きとられたものである。平安朝には、斯様に、固定して居たのであらう。其前には、常に詞章が変化して居た、と見るべきである。後には、中臣の家一軒に定まつて了ひ、且、次第に勢力を得て来た。此は御言葉伝達ミコトモチの職をつとめたからである。

今ある祝詞は、一般に古いものとされて居るが、実は古い種の上に、新しい表現法が加はつて居る。神代ながらのものは無い。奈良朝又は平安朝頃の手加減が加はつて居る。古い姿のまゝでは、訣らなかつたのである。時代々々で理会し易い様に、変へて了ふ。又、故意になさずとも、口伝の間に、自ら誤りが生ずる。祝詞の中では、何の事か訣らなくなつて、手のつけようのなかつたと思はれる部分が、古いものである。天つ神の言葉とされて居るのを、天子様が高御座で唱へられるのが、古い意味の祝詞である。中臣の手に移つてからは、祝詞の価値は下つて了うた。

奈良朝の少し前頃から、地方の神々が、朝廷から良い待遇を受けて居る。平安朝では、地方の神々に、位を授けて居る。朝廷の神は別として、それ以外の地方神は、精霊の成り上りで、天子様よりは、位が下の筈である。だから、天子様から位を授けられるのも、尤な事である。併し、位を授けられてからは、漸次地位が高くなつて来て、遂には天子様と同じ程の位のものにも考へられて来た。其で地方神に申される言葉が、対等の言葉づかひで申される様になつて来た。処が、伊勢の天照大神に対しては、天子様の方が、下位に立たれて居る。だから、天子様が伊勢の大神に申される御言葉は、元来寿言ヨゴトの性質のものである。だが、延喜式では、前者も後者も等しく、祝詞と称して居る。

かうした訣で、祝詞には、今日から見れば、種々の意味があるが、ほんとうは天子様が、高御座で仰せ出されるのが、祝詞である。祝詞の中では、春の初めのが、一番大切である。古くは、大嘗祭の後に、天子様の即位式があつた。昔は、即位式といつて、別にあつた訣ではない。真床襲衾からお出になられて、祝詞を唱へられると、即、春となるのである。

元来、大嘗祭と、即位式と、朝賀の式とは、一続きである。其間に於て、四方拝といふのは、元来は、天子様が高御座から、臣下や神に対して、お言葉を下される事を斥して、言うたのであつたが、後に、支那の道教の考への影響を受けて、天子四方を拝すといふ様になつて了うた。

     九

此処で大嘗祭に奏上される寿詞に就て言うて見る。

寿詞とは服従を誓ふ時に、即、自分の守り魂を奉る時に、唱へる言葉である。此は国々に伝はつて居る物語と、同様なものである。後には変化して、宮廷と自分等の氏々、又は、国々との関係の、初めを説く様になつた。其で、宮中に仕へて居る役人等は、自分の職業の本縁・来歴を説く物語を申し上げる。朝廷に直接に、仕へて居る役人のみでなく、地方官・豪族の首長、又、氏々の長なども、地方を又は、氏々を代表して、寿詞を申し上げる。此事は、近世まで、初春の行事に、其儀を留めて居る。一年に二度行はれたらしい様子も、盆の行事に、其名残りが見えて居る。今日民間でも、初春に「おめでたう」といふのは、おめでたく今年一年間いらせられまする様に、といふ寿詞の最大事な部分が、単純化されたものである。此を言ふのが、即、服従を誓ふ所以である。

処が、初代から、朝廷に仕へて来た人々の寿詞と、国々で申し上げる寿詞とは、性質が違うて居る。初代からのものは、自分の職業の神聖なる所以と、来歴とを説くし、国々のは、天子様に服従した来歴・関係を物語るのである。譬へば、天孫降臨の時に、ににぎの尊がつれて来られた、五ノ伴ノ緒の子孫等の申される寿詞は、古いものであるが、朝廷と国々との関係を申し上げる物語は、新しい寿詞である。此寿詞をば、大嘗祭・即位式・元旦此三つの場合に申されるのである。後には、春と大嘗祭との二度、代表者で、間に合せる事になつた。

元旦の朝賀の式に、天子様が祝詞を下される式は、奈良朝には既に、陰に隠れて了うて、群臣が寿詞を申し上げに出る式のみとなつた。此は、物部とか、蘇我とか、大伴とかいふ、高い氏の代表者が出て、申し上げるのであつた。処が、大嘗祭の時には、中臣氏が代表して、寿詞を申し上げるのである。即、自分の家の職業を申し、天寿を祝福して、百官を代表するのである。同時に、諸国の寿詞が奉られるが、此諸国の寿詞の話は、後に言ふ事にして、此処では、中臣の寿詞の話をする。
後世では、大嘗祭の第二日目の辰の日の卯の刻に、中臣ノ天神ノ寿詞を奏上する。天子様は、此より少しまへに、悠紀殿へ御出御になり、つゞいて皇太子・群臣が着座する。そこへ神祇官の中臣が、榊の枝を笏に取り添へて、南門から這入つて、定座に着いて、寿詞を申し上げる。即位式にも、全く此と同様な事を行ふ。此から見ても、即位式と大嘗祭とは同一であると言へる。

では、中臣ノ天神ノ寿詞とは何かといふと、全く中臣の寿詞で、天つ神の寿詞ではない。元来、この寿詞は、藤原頼長の台記の中に書きとられたのが、残つたものである。康治元年に、近衛天皇が、即位式を挙げられた時に用ゐられたのを、書きとつたものである。実に、偶然な幸ひであつた。

寿詞の大体の意味は、次の如くである。

中臣の遠つみ祖である処のあめのこやねの命、皇御孫尊にお仕へ申してあめのおしくもねの命をして、二上山に登らしめて、其処で、天神にお尋ね申さしめられるには、皇御孫尊に差し上げる御膳の水は、如何致したらよろしうございますか、と申された。すると、天神の教へ諭されるには、其は、人間界の水と、天上の水とを一処にして、差し上げねばならぬ。あめのおしくもねの命は又、お尋ねした。然らば、其を得るには、如何致したらよろしうございますか、と問ふと、天神は、玉串をお授けになつて、言はるゝ事に、此玉串を地上に立てゝ、夕日の時から、朝日の照り栄える時まで、天つ祝詞と太祝詞を申せ。かく申せば、その祝詞の効力に依つて、直に兆象が顕れる。そして若蒜が五百個、篁の如く生える。そこを掘つて見ると、天の八井が湧く。その水をとつて奉れ、と教へられた。だから、此をおあがりなさいませといふ。

つまり、中臣としての聖職の歴史を申し上げるのである。此縁故・来歴によつて、悠紀・主基の地方の米に、天つ水をまぜて、御飯を炊き、お酒をこしらへて、天皇に差し上げる。此をお召しあがりなされると、天子様は健康を増し、弥栄えに栄えられるのである。

中臣家は、水の事を司る家筋である。だから、天子様の御湯殿にも、仕へる。そこからして、后が出る事にもなる。つまり中臣は、水の魂を天子様に差し上げる聖職の家である。言ひ換へれば、中臣の家は、水の魂によつて生活して居る家筋である。其故、水の魂を、天子様に差し上げるといふ事は、自分の魂を差し上げる事になる。中臣は、群臣を代表して居るから、他の臣たちのも、此意味で、各々の家筋の魂を天子様に奉る事になる。昔は、神事と家系とは、切り離す事の出来ぬ、深い/\関係があつたのである。

譬へば、大伴家にしても、本来は、宮廷の御門を守つた家筋である。一体「伴」といふのは、何にてもあれ、宮廷に属して居るものをいふ語であつて、大伴は御門の番人である。記・紀を見ると、門の神をば、大苫部と言うて居る処がある。大苫部と大伴部とはおなじで、門をお預りして居る役人といふ事である。後世は、かういふ職の役人も増して来て、物部の家筋の者も、御門の番人となつて来た。そこで、門部の発達をも見る様になつた。平安朝では、大伴は単に、伴というて居る。

大嘗祭の時に、悠紀・主基の御殿の垣を守る為に、伴部の人と、門部の人とが出る。此は両者同一な役を勤めるが、元来は、異つた系統の者である。此等の御門の番人は、元来は或呪言を以て、外来の悪い魂を退けたのである。此等の家筋の頭をば、伴造と云ひ、其部下の者をば、伴部又は部曲というて居る。此頭即、伴造は、種々あるが、神主の地位に居たのであつた。神主たる職業を以て、天子様に仕へて居た。此者達が、後には官吏化して、近衛・衛門・兵衛等の職が出来た。此等は、大伴部・門部・物部等が、元来の家筋を離れて、官吏化して出来たものである。平安朝にはもう、むちやくちやになつて、庭掃きの者に至るまで「殿守の伴のみやつこ」などゝ言ふ様になつて了うた。だが、大嘗祭の時には、昔の形を復活して、大伴部・門部・物部等の人々の代表を、官人から任命して、御門警衛の任に用ゐられた。

     一〇

次には、大嘗祭の時の、御所の警衛の話をして見る。

一体、物部といふ語には、固有名詞としての意味と、普通名詞としての意味とがある。八十物部(八十武夫)といふ様に、此部に属する者は、沢山あつた。物部も、其中の一つである。広く言へば、魂を追ひ退けたり、ひつつけたりする処の部曲が、物部である。大伴が代表者となつたのは、大倭の魂を取り扱つたからである。大嘗祭の時に、物部の任務が重大視されるのも、此故である。物部氏が、本流は亡びたが、石イソノ上カミ氏が栄えてゐて、大嘗祭の時に、大切な御門の固めをした。門の処に、楯と矛とを樹てゝ、外敵を差し止める事をした。此楯を立てゝ、宮廷を守る事を歌つたのが、万葉集巻一に出てゐる。

健男マスラヲの鞆トモの音すなり。物部モノノフの大臣オホマヘツギミ楯立つらしも(元明天皇御製)

此歌に和せられたのが、

我が大君。物な思ほし。尊神スメガミのつぎて給へる君なけなくに(御名部皇女)

此御製は、大嘗祭の時に、物部の首長が、楯を立てる儀式をしてゐる様子を歌はれた、即興の歌である。和せられた方のは、天皇が何か考へて居られるを見てとつて「何もそんなに、お考へなさらずとも、いゝではありませんか。あなた様は、尊い神様が、順次にお立てになつた所の、尊い御方ですもの」との意である。

大嘗祭などの重大な儀式に当つて、楯を立てるのは、悪い魂が邪魔をすると、それを物部が追ひ払ふ為である。口では、呪言を唱へて、追ひ払ふ事をするが、具体的には、此楯を立てる。又、矛をも振り、弓をも鳴らす。かうして、宮廷の御門を固めるのみではなくて、海道四方の関所を固めた。日本の三関といはれて居る所の逢坂・不破・鈴鹿などは、何れも固められた。全く宮殿の御門を固めるのと同一な考へからやるのである。

さて、大嘗宮は、柴垣の中に、悠紀・主基の二殿を拵へてあつて、南北に門がある。天子様は、まづ悠紀殿へ出御なされて、其所の式をすませ、次に主基殿へお出でなされる。古来の習慣から見ると、悠紀殿が主で、主基殿は第二義の様である。すきは、次といふ意だと言はれて居る。悠紀のゆは斎む・いむなどの意のゆで、きは何か訣らぬ。そして、ゆき・すきとなぜ二つこしらへるのか、其も訣らぬ。だが、大体に於て、推定は出来る。

日本全国を二つに分けて、代表者として、二国を撰定し、其二国から、大嘗祭に必要な品物をすべて、持つて来させて、この二殿で、天子様が御祭りをなされる。昔は或は、宮廷の領分の国の数だけ、悠紀・主基に相当する御殿を建てたものかも知れぬ。そして、天子様が大きなお祭りをせられたのかも知れぬ。そして、此御祭りの中に、いろ/\の信仰行事が取り込まれて来て、天子様の復活祭をも行はれる様になつたのであらうと思ふ。

天子様は、悠紀・主基の二殿の中に、御蓐を設けられるのは、何時の頃からか、よく考へて見ると、何も左様な褥の設けられねばならぬ、といふ理由はない。悠紀殿・主基殿の二个所で、復活なされる必要はない。大嘗宮の外に、復活式をせられる場所がなければならぬ。悠紀殿・主基殿へ出御なさるのは、新嘗を御うけなされる為であらう。

大嘗祭の時には、廻立殿をお建てになるが、恐らく此が、天子様の御物忌みの為の御殿ではなかつたか、と考へられる。此宮でなされる復活の行事が、何時の間にか、悠紀・主基の両殿の方へも移つて行つて、幾度も此復活の式をなさる様になつたのであらう。次に、風俗と語部の話をして見たい。

     一一

昔は、大嘗祭の時には、ゆき・すき二国からして、風俗歌が奉られた。平安朝の頃は、其国の古歌を用ゐて居た。後には、其国から出た、古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、都の歌人が代表して歌を作る様になつた。

此風俗歌は、短歌の形式であつて、国風クニフリの歌をいふのである。此国ふりの歌は、其国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふりは、たまふりのふりで、国ふりの歌を奉るといふ事は、天子様に其国の魂を差し上げて、天寿を祝福し、合せて服従を誓ふ所以である。

ふりは、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)にもいひ、歌にもいふ。ふりといふと、此二つを意味するのである。歌をうたつて居ると、天子様に、其歌の中の魂がつき、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)を舞つて居ると、其※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)の中の魂が、天子様に附着する。諸国の稲の魂を、天子様に附着せしめる時に、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)や歌をやる。すると、其稲の魂が、天子様の御身体に附着する。

此魂ふりの歌を、いつでも天子様に申し上げる。其が宮中に残つたのが、記紀のふりの歌である。今残つて居るのは、短い長歌の形をして居る。国風の歌の出発は、呪詞と同様に、諸国の寿詞中から、分裂して出来たもので、つまり、長い呪言中のえきすの部分である。長い物語即、呪言を唱へずとも、此部分だけ唱へると、効果が同様だ、といふ考へである。大嘗祭の歌は、平安朝になると、全く短歌の形になつてゐる。

大嘗祭には、かうして、ふりの歌が奉られて居るが、一方、卯の日の行事を見ると、諸国から、語部が出て来て、諸国の物語を申し上げて居る。平安朝には、七个国の語部が出て来て居る。

美濃  八人    丹波  二人    丹後  二人    但馬  七人
因幡  三人    出雲  四人    淡路  二人

皆で、廿八人である。昔から、此だけであつたかどうか、其は訣らぬ。又、此だけの国が、特別な関係があつての事か、其も訣らぬ。恐らく、或時に行はれた先例があつて、其に倣つて、やつた事であらう。其が又、一つの例を作つて、延喜式には、かう定まつて居たと考へればよい。平安朝以前には、此よりも多くの国々から出たのか、或は、此等の国々が、代表して出たのか、其辺の事もよく訣らぬ。

何処の国にも、語部の後と見るべきものはあるが、正しく其職は伝はらない。語部は、祝詞・寿詞を語るものゝ他に、歴史を語るものもある。奈良朝を中心として、一時は栄えたが、やがては、衰へて了うた。大嘗祭の時に出て来る語部は、ふりの歌の本縁を語るのである。歌には又※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)が附いて居るから、此歌の説明をすると、其由来の古さも感ぜられる。随つて、其歌の来歴も明らかになり、歴史づけられるのである。かうした訣で、大嘗祭には、語部は、歌の説明に来たのである。語部も、もう此辺になると、末期のもので、此から後は、どうなつたかよく訣らぬ。鎌倉や室町の頃になると、もう全く、わからなくなつててゐる。さて、国風の歌は奉らなくなつても、語部は出て来て居る。そして、風俗歌を出したのは、悠紀・主基二国だけである。

此国風の中で、一種特別なものが、東歌であつて、即すなはち東の風俗である。不思議な事に、此東の歌や※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)は、大嘗祭には参加しない。此は、東の国は大嘗祭が固定して了うて後に、天子様の領分になつた国であるからである。東がまだ、日本の国と考へられないうちに、大嘗祭は、日本の生活古典として、固定して了うて居たのだ。吉野の国栖や、薩摩の隼人が歌を奏するのに、東だけがやらぬといふのは、東が新しく領土となつたといふ証拠である。平安朝になつてから、何かの機会にやつと、宮中に奉られたのである。尤此より先に、万葉集には既に、東歌が採られて居る。古今集には、勿論ある。そして東遊び(寿楽)も、宮中へ這入つて居る。此は、何かの儀式の時に、東歌や、東遊びが、宮中で行はれ出したのに違ひない。

東歌が、どんな時に、宮中に這入つたか、略目当てはつく。此は、東の諸国から、荷前の使が行く時に、宮廷で奏したのであらう。即、東の国の稲の魂を持つて行つて、服従を誓うた時の歌が、東歌である。只、大嘗祭が行はれる時期と、東の国で、荷前を奉る時期とが、合つて居た為であらう。

平安朝に入つてから、風俗といへば、主として、悠紀・主基二国のものと考へられては居るが、其は、此二地方が注意にのぼり易く、且繰り返される場合が、多かつた為である。だが、東遊中の風俗歌は、主として、東の国のものが残つて居る処を見ると、風俗といふのは、何も悠紀・主基二国のものと限つて居つたわけでもない。寧、風俗歌は、東が主だと信ぜられて居つたと思はれる。

悠紀・主基の国では、稲穂を中心として、すべての行事が行はれる。稲穂は、神様の取り扱ひを受けて居る。其役員には、男・女共に定められる。女の方では、郡領の娘が造酒子サカツコに定められる。造酒子サカツコは、地位の高い巫女である。男の方は、稲実の君が定められる。此で、酒と米との役人が出来た訣である。――昔の考へでは、酒と米との間に、劃然とした区別はなかつた――それから、造酒子サカツコの下には、酒波さかなみが一人、篩粉コフルヒが一人、共造アヒツクリが二人、多明ためつ酒波が一人あるが、此等は皆、酒に関する巫女である。男子の方は、稲実の君の外に、灰焼一人、採薪四人が定められる。猶、歌女二十人、其他、いろ/\の役割りが定められる。然も、酒の事に仕へるのみかと思ふと、さうではない。山へ行つて、薪や御用の木を伐る時に、一番先に斧を入れたり、又野原へいつて、御用の茅を刈るのも、造酒子サカツコの為事であつた。

此人々は、時期が来ると、稲を積んで都へ上り、土地を選んで、そこへ斎庭を作る。後世は大抵、北野につくられた。そして大嘗祭の前に、大嘗宮へ運んで来る。つまり、此等の人々は、稲の魂を守つて都へ上り、其で酒もこしらへ、御飯も焚きして、其を天子様の御身体に入れる、といふ信仰上の行事を行うた。

稲の魂は、神の考へが生ずる、一時代前の考へ方である。外来魂の考へである。此魂を身につけると、健康になり、農業に関する、すべての権力を得ることにもなる。大嘗祭の中へ、稲穂を入れる時には、警蹕の声をかける。警蹕は、神又は天子様の時でないと、かけない。そして、警蹕のかけ方で、何処の国、何処の誰といふ事が訣つた位である。

警蹕の意味は「尊い神が来た。悪い者よ。そこをどけ」といふ事である。此で見ても、稲穂が大切な尊いものであつた事が知れる。此稲魂の事をば、うかのみたまといふ。うかはうけで、召食メシアガリものといふ事で、酒の方に近い語である。

悠紀・主基の二个国は、何時頃から定められたか訣らぬが、近代は、亀卜で定められる。昔は、何かの方法があつたのであらう。延喜式で見ても、御幣について上る国を以て、其とする様だ。これを国郡卜定と言うて居る。だが、悠紀・主基の国といふのは、大抵、朝廷の近くの国である。そして、東は悠紀・西は主基とされる。御殿もやはり、此様にこしらへる。つまり、大倭朝廷を中心として、其進路の前後を示したのであらう。或は、往き・過ぎの意かも知れぬ。ともかく、悠紀は大和の東南、主基は西北に当つて居る。此二国が定まる前は、新嘗屋が沢山造られて、其をば、天子様は一々廻つて御覧なされた事と思ふ。

悠紀殿・主基殿は、おなじ囲ひの中にあつて、両殿の界は、目隠しだけである。後世は、立蔀を立てゝ拵へられた。立蔀というても、椎の青葉で立てられたもので、此は、昔の青柴垣の形である。南北に御門がある。御殿は、黒木を用ゐる。黒木といふのは、今考へる様に、皮のついたまゝの木といふ事ではなくて、皮をむいて、火に焼いた木の事である。かうすると、強いのである。昔は京都の近くの八瀬の里から、宮殿の材木を奉つた。此を八瀬の黒木というた。後世には、売り物として、市へも出した。此黒木を出すのが、八瀬の人々の職業であつた。とにかく、此は、神秘な山人の奉る木で、此の黒木で造つた御殿の周囲に、青柴垣を拵へたのである。

かうして、尊いお方の御殿を拵へるのに、青柴垣を以てした事は、垂仁記のほむちわけの命の話にも見えて居る。

故、出雲に到りまして、大神を拝み訖ヲへて、還りのぼります時に、肥河の中に黒樔橋クロキノスバシを作り、仮宮を仕へ奉りて、坐マさしめき。こゝに、出雲国造の祖、名は岐比佐都美キヒサツミ、青葉ノ山を餝カザりて、其河下に立てゝ、大御食献らんとする時に、其子詔りたまひつらく、此川下に、青葉の山なせるは、山と見えて、山にあらず。若ケタシ、出雲の石※イハクマ[#「石+囘」、209-14]の曾宮ソノミヤに坐す、葦原色許男アシハラシコヲ大神を以て斎イツく祝ハフリが、大庭か、と問ひ賜ひき。こゝに、御伴につかはさえたる王等、聞き歓び、見喜びて、御子をば、檳榔アヂマサの長穂の宮に坐マせまつりて、駅使を貢上りき。

此話は、ほむちわけの命をして、青葉の山を拵へて、国造の岐比佐都美がお迎へしようとしたのである。即、青葉の山は、尊いお方をお迎へする時の御殿に当るもので、恐らく大嘗祭の青葉の垣と、関係のあるものであらう。かの大嘗祭の垣に、椎の若葉を挿すのも、神迎への様式であらう。尊い天つ神にも、天子様にも、かうするのである。

此、青葉の垣は、北野の斎場では、標の山として立てられる。此は平安朝にはへうのやまと発音されて居るが、其は誤つて音読したからである。本来はしめのやまで、神のしめる標シルシの山といふ事である。神様を此標の山に乗せて、北野から引いて来て、悠紀・主基の御宮にお据ゑ申す。標の山は神の目じるしとしてのものである。だが後には此標の山は、どうなつて了うたかわからぬ。

併し、此標の山の形のものは、近世まで、祭りの時は引き出す。屋台とか、山車ダシとか、お船とかいふ様なものは、此標の山の名残りの形と見る事が出来る。松本の青山様も、此様式のものであらう。

先に引いた垂仁記のは、古い形のものであらう。此が常に、尊い神や、人をお迎へする時に造られたのであつて、大嘗祭にも注意せられたのである。後世、祭りとして、一番「標の山」が用ゐられたのは、夏祭りの標本なる、祇園の祭りである。祇園祭りといふのは、ほんとうは、田植ゑのさなぶりの祭りで、田の神に振舞ひをする祭りであつて、本来は農村の祭りであつた。其が、だん/\と農村から出て、道教の考へと一処になり、怨霊の祟りの考へと一つになつて、御霊の信仰が強くなつた。京都などでは、殊に此考へが盛んになつて、五个処に御霊様を祀つて、御霊会を行ひ、神を慰め、悪事をやめて貰つたのである。こんな風で、後には、悪い事を防ぐ神と信じられて来て、其が仏教と習合して、牛頭天王様であると考へて来たのである。そして、其牛頭天王の垂跡が、すさのをの命だといふ様になつた。すさのをの命は、農業の神だから、直に一処にして了うたのだ。此時も「山」を出し、其山を中心として、祭りを行ふのである。こんな風で、後には、夏祭りには、鉾や山が行はれるやうになつた。

次に天子様の御禊の話をして見る。

     一二

大嘗祭の用意として、十一月は全体、物忌みの月である。これを散斎と言うて居る。其中で、大嘗祭の前二日と、其当日とをば、殊に、致斎と呼ぶ。散斎は割合に自由な物忌みといふ事で、穢れた事や、神事上の絆れた問題には与らない、といふ程の意味である。致斎の方は、昔は絶対な物忌みであつたらうが、令の規定以来、少しく軽くなり、十月の末日と定められて、山城の京都では、加茂川の某地点で、御禊を行はせられた。かうした御禊は、伊勢の斎宮・加茂の斎院を定められる時も、予めなされる。天子様・斎宮・斎院の御禊は、同一な格式でなされる。平安朝になると、音読してごけいと言うて居るが、古くは、みそぎと言うて居る。

此所で、少しく、みそぎ(禊)とはらへ(祓)との区別をいうて見る事にする。
祓へといふのは、穢れ又は、慎しむべき事を冒した場合、又は彼方からして、穢れや慎しむべき事がやつて来て、此方に触れた時に、其を贖ふ為に、自分の持つて居るものを提供して、其穢れを祓ふ事である。神は、此贖ひ物を受けて、其穢れを清めて呉れるのである。元来、祓へは、神事に与る人が、左様にして呉れるから、他動風なものである。自分からするのならはらひであるが、はらへと他動風に昔からいうて居る。

次に、みそぎといふのは、神事に与る為の用意として、予め、身心を浄めておくことである。家でも、神の来べき時には浄める。謂はゞ、みそぎは、家でも身体でも、神に接する為の資格を得る方法である。後世の神道家は、吉事祓へ・悪事祓へと対照して言ふが、元来、吉事に祓へはない筈である。吉事をまつため、迎ふる為の行事は、禊ぎである。其に対して、祓へは悪事を前提として行はれるものである。謂はゞ、祓へは後世の刑罰に当るものである。

宮廷で大祓へというて居られるのは、実は禊ぎであつて、平安朝の初期から、間違うて居る。だが、まづ罪といふ事を考へて見る。大祓へのうちに、祓ふべき罪・穢れ即、神に対して、慎しむべき事を罪といふ。其中で「天つ罪」といふのは、天上の罪といふ事で、普通にはすさのをの尊が、天上で冒した罪を斥していふ。それから此国で慎しまねばならぬ罪を「国つ罪」といふ。国つ罪の中には、勿論慎しまなければならぬ事のあるのは勿論だが、又さうでなく、何でも無い様なのがある。譬へば、這ふ虫の禍罪ワザハヒ・たかつどりの禍、かういふのがある。此は、鳥や蛇が家に這入つて来たのは、此家が、神の家になつたといふ標で、其故に慎しまねばならぬ、といふ意味である。

奈良朝の頃でも、此禊ぎと祓へとを混用して、両方とも慎しみ、と考へて居る。祓へは、贖罪として、祭りの費用を出す行事であるし、禊ぎはよい事を待ち迎へる為に、予め家又は、身心を清浄に、美しくする行事である。

日本古来の信仰からいふと、一度呪言を唱へると、何でも新しくなる。それで、新嘗祭の新室も、一言呪言を唱へて、其で、新室と信じきつて居つた。其事が、大嘗祭にも行はれ、また米を食べる神今食の時にも行はれる。其を宮廷では、大殿祭といふ。此は、祭りの行はれる前の日の夜明け方に、仮装した神人が、宮廷を浄めて廻る。家を浄める為である。そして其後で、祭りが行はれる。此清浄になつた家、即大殿へ、神様がお出でになると、天子様は御一処に、此処で御飯をおあがりなされる。凡て神様の来られるお祭りは、神様に振舞ふといふ事が、行事の中心になつて居るものである。

大殿祭は、大嘗祭の時にもあるのであるが、此は、悠紀殿・主基殿が出来ると、直に早く行はれる故に、隠れて見えないのである。此大殿祭の間、天子様は御身浄めの為に、御湯殿へ御這入りになつて居られる。つまり、天子様は、禊ぎをして居られる訣である。

神の祭りの時に、一番初めに出て来る人は、御馳走を享けられる神ではなくて、御殿を浄める為の神人である。此浄めの為に来る人々を、平安朝の考へでは、山人だとされて居る。山人は、山の神に仕へる神人である。本来は山の神が自ら来て、御殿を清めて呉れた、と考へて居るのである。此清浄にされた御殿へ客人神マレビトカミが来て、天子様と御一処に、御飯を召し上るのである。此御殿を清める時の詞を、延喜式によれば、大殿祭祝詞というて居る。

ほかひといふのは、祝福すること、又は其詞、或は動作などをくるめていふのである。此言葉を祝詞というたのは、平安朝の事で、元来は鎮詞イハヒゴト、又は鎮護詞イハヒゴトなどゝいふべき詞である。其語の性質から見ても、仲間の親分が、子分に申し聞かせ、又は相談する様な物言ひぶりである。「かうだから、お互ひに、かうしようぞ」といふ意味が、主要な部分である。上から下への、のるではない。
かうして見ると、山の神は、土地の精霊の代理者で、同じ仲間の者同志である、其精霊の代理者が、精霊を鎮まらせるのである。さて、此いはひごとが済んだ後で、本式な祭りが行はれるのである。

大嘗祭の時は、大殿祭は既に済んで居るので、卯の日には、其行事が見えないが、お湯へお這入りになる事は、屡行はれる。本来は、此湯へ這入つて居られる時に於て、一方では、御殿のほかひが行はれて居るのである。大嘗宮は、紫宸殿の前で、南に建てられる。東には廻立殿が造られる。そして、紫宸殿から廻立殿への出御は、廊下を渡つてなされる。

廻立殿といふのは、悠紀・主基両殿へお出でになる御用意の為に、設けられた御殿で、いはゞ祭事の為に、お籠りになる御殿である。

此御殿の名称が、何の故に廻立殿とよばれるか、其は訣らぬ。そして、此廻立殿の御儀式は、外部からは、一切訣らぬものにされて居る。廻立殿は、東西五間、南北三間の御殿である。西側三間を、天子様の居られる所とし、東側二間は、竹の簀子にしてある。此所が、茶の湯所となつて居るが、なにか、忌斎の場所らしい。天子様は、大嘗祭の卯の日の儀式にも、始終、この廻立殿へ出御なされる。そして、御湯をお使ひなされる。此処で、此お湯のお話をする事にする。

     一三

湯は斎ユに通ずる音で、古く湯といつたのが、果して、今の吾々の云ふ所の温いものかどうか、一寸疑問である。斎川水といふ事もあつて、此は、天子様の御身体をお浄めになる水で、用水でも、池でも、泉でも、何でも左様にいふのである。だから、斎川といふのは、御禊に使ふ水をいふ事である。此斎川水が段々と変化して、終には湯にまでなつた、と見るべきである。

日本の古い信仰では、初春には、温い水が遠い国から、此国土へ湧き流れて来る、と信じて居つた。そして事実、日本には温泉が多い。こんな事からして、いづる湯についても、神秘な考へを持つて居つた。温泉は、常世の国から、地下を通つて来た温い水で、禊ぎには理想的なもので、そこで、斎川水ユカハミヅとして尊重されたものである。又さうでなくとも、斎川水は温いと信じて居つた。こんな風な信仰から、禊ぎには、温い水を用ゐる様になつた。だから古い書物に、湯とあつても、其は、今日の吾々の考へて居る温湯である、と直ぐに、極めつける事は出来ぬ。

藤原の宮から奈良・飛鳥の宮にかけては、天子様が時々、湯に行かれたり、温泉を求められたりした事が、記・紀・万葉集などには、非常に多く出てゐる。此温泉へ旅行せられるのは、今日の吾々の様に、たゞの遊山や避暑ではなく、御禊の信仰の考へから見ねばならぬ。とにかく、以上いうた様な信仰から、宮廷の斎川水の考へは、温い湯と変つたので、又其を直にゆと申す事になつた。此湯に這入られると、尊い方となられるのである。日本にある処の、天の羽衣伝説は、此禊ぎと深い関係を持つて居る話である。天上から降つた処女が、天の羽衣を脱いで、湯に這入つたら、人間になつてしまつた。又、天の羽衣を奪ふと、人間になる。かういふ筋の話は沢山あるが、此天女の羽衣の話の源をなすものは、丹波の天の真名井マナヰの、七人の天つ処女の伝説である。

天の真名井の話で見ると、七人の天女の中で、羽衣を奪はれた一人の娘が、後には、伊勢の外宮の豊受大神となられた。此七人の天つ処女の縁故で、丹波からは、八処女が、宮廷へも、伊勢へも出て来て、禊ぎの事に奉仕する。不思議なのは、禊ぎに奉仕する処女が、其尊い方の后となられる、習慣の見えて居ることである。だから、或時期の間は、丹波氏の娘が、宮廷へ仕へて、后となつて居る。さうでなくとも、丹波氏の娘の形式をとつて、后となつて居る。

先に申した所の、天の羽衣を脱いだから人間になつて了うた、といふのは誤りで、脱げば、物忌みから解放されたのだから、神人とならねばならぬ筈だ。御禊をせられた尊い方は神であり、羽衣をぬがれた処女は、或任務を果たす為の、巫女である。巫女は神に仕へる、最高な女である。

此処で、話をずつと、後世へ引き下げて言うて見る。汚い話のやうであるが、今より二百年前までは、御湯へ這入る時に、湯具・褌などは、締めたまゝ這入つた。ほんとうは、湯に行く時は、褌を二筋持つて行つた。一筋は締めて居り、一筋は這入る時に締め換へて這入る為の用意である。何の為に、締め換へて這入るのか。此は、陰所を見せては恥づかしい、といふ考へからでは、決してない。

元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである。民間では、褌をするのは、一人前の男になつた時のしるしだと言はれて居る。十五歳になると、褌を締めて、若衆宿へ仲間入りの挨拶に行く。此行事の事を、袴着というて居る。此が、女の方だと、裳着といふ。正式には、男女共に、二回ある筈だ。

第一回は、村の子どもとなる為で、五六歳頃にやる。平安朝頃の貴族たちの仲間でも、やかましく行はれた。源氏物語など見ても、書いてある。次のは、をとこ・をとめになる為の行事としてゞある。我々は、二度の行事をすまさぬと、一人前の男女には、なれなかつたのである。今日では略して、一回だけしか行はぬが、ほんとうは、二回あつた。第一回の時には、お宮参詣マヰリをして、それで子どもになつて、村の小さな神に仕へる資格を得る。子どもが、道祖神のお祭りをするのは、何処にでもある。二回目がすむと、村の産土の神に仕へる資格を得る。此二度の袴着を終つたものを、をとこ・をとめといふ。ふんどしはじめ・ゆもじはじめがすむと、立派な一人前の男女になる。だから、一人前の男女になつてから、初めて褌を締める、ゆもじをするといふのではない。男女になる前提の行事として、此事が行はれるのである。

此物忌みの褌を締めて居る間は、極端なる禁欲生活をせねばならぬ。禁欲というても、今日の我々の考へる様な、鍛錬風な生活ではない。神秘なる霊力をして発散させぬ為の禁欲である。処が或期間、禁欲生活をすると、解放の時が来る。すると、極めて自由になる。此処で初めて、性の解放がある。さうして、此紐を解いて、物忌みから解放されるのが、湯の中である。即、斎川水ユカハミヅの中である。天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけなさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生ずるのである。

昔から、湯の信仰に就ては、わりあひに考へられて居なかつたが、今考へて見ると、不思議な事が多い。譬へば、御湯殿腹などいふ子どもゝある。そして、お湯殿腹の子、というて重んぜられた、傾向がある。さうかと思ふと、又、垢掻き女に子どもが出来るのは当然だ、とも云はれて居る。此等の事は、日本の昔の産湯の話をして見ると、判然として来る。

一体昔は、今の世の乳母の役をする者が、四人あつた。大湯坐オホユヱ・若湯坐ワカユヱ・飯嚼イヒガミ・乳母である。此大湯坐は、主として、産児に産湯をつかはせる役目をする者、つまり湯の中へ、御子をお据ゑ申す役目なのである。若湯坐も同様である。乳母は、乳をのませる者、飯がみは、飯や食物を嚼んで、口うつしに呉れる者である。

まづ御子が産れると、其御子をば、豪族に附托して、養育せしめる。昔でいふと、其家筋を壬生氏といふ。壬生氏は、壬生部といふ団体の宰領である。

此話で名高いのは、反正天皇がお産れになつた時、天皇の為に、河内の丹比氏が、壬生部となつて、御育て申し上げた。其で、丹比の壬生部氏といふのである。御子が生れると、此氏の者の中から、四人の養育係が選定せられる。前にいうた所の、大湯坐・若湯坐は、高い身分の者から出る。大湯坐はつまり、水の神として、禊ぎの御世話をする役目である。御子がお産れになつた時に行はれるのが、第一回の禊ぎである。

此禊ぎをおさせ申して居る一方に於て、氏の上は、天つ寿詞を申して居る。水の魂をして、天子様となるべき尊いお方におつけ申すのだ。水中の女神が出て来て、お子様のお身体に、水の魂をおつけ申して、お育て申す儀式である。だから、壬生部の事を、入部ニフベとも書いて居る。「入」は水に潜る事であつて、水中に這入る事である。それから、大湯坐は主で、若湯坐は附き添への役である。

此第一回の禊ぎの形を、天子様は、毎年初春におやりなされる。生れ替つて、復活する、といふ信仰である。大湯坐は、年をとつた女で、若湯坐は、年の若い者がつとめる。それから事実に徴して見ると、大湯坐は、天子様の后となるし、若湯坐は、皇子の后となる傾きが見えて居る。飛鳥以前の后は、天子様の御家の禊ぎの行事に、奉仕した女がなつた。丹比氏は、元来禊ぎの事を司つた家筋で、宮廷及び伊勢のお宮へ、八処女を奉つて居る。此八処女は、五節の舞姫に関係があるが、其事は後に言ふ事にする。

     一四

日本の昔の語に、天つ罪・国つ罪といふ並立した語のある事は、前に述べた。其天つ罪とは、すさのをの命が、天上で犯された罪で、其罪が此国土にも伝はつて、すべて農業に関する罪とされて居る。つまり、田のなり物を邪魔するのが、此国でいふ処の天つ罪である、とされて居る。だが今では、罪といふ語が、余りに新しい意味の罪悪観念に這入り過ぎて居る様である。天つゝみのつみの語原は、他に無くてはならぬ。

万葉集を見ると、雨障・霖禁・霖忌など書いて、あまつゝみとよませて居る。

あまつゝみ常する君は、久方の きのふの雨に こりにけんかも(巻四)

此歌は、いつも雨つゝみをしてゐるあなたは、昨日の雨で外出が出来ずに、懲りた事でせう、といふ意だとされて居るが、実は男、女の禁欲生活をして居る意味の罪である。

猶、此事を考へるのに、手がゝりとなるのは、景行記に見える次の話である。景行天皇が、美濃の国造の祖神、大根王の娘、兄媛・弟媛を、皇子大碓命をして召し上げさせられた時、大碓命は、媛二人を我ものとしてしまひ、他の娘を奉つた。そこで、天子様はお憤りなされて「つねに、長眼ナガメを経ヘしめ、又婚メしもせず、惚モノオモはしめたまひき」とある。普通には、此ながめのめは男女相合ふ機会の事を言ふから、其間を長く経る事をば、長目を経るといふのだとしてゐる。だが、此ながめは、霖禁に関係がありさうだ。

さて、此ながめ・ながむといふ言葉の意味は、平安朝頃になると、「ぼんやりして何も思はず」といふ位な風になつて居る。もう一つ伊勢物語の例を挙げると、

起きもせず、寝もせで夜をあかしては、春のものとて、ながめくらしつ

此等のながめは長雨で、長雨のふりつゞ頃の、物忌みから出た言葉であらうと思はれる。長雨の物忌み、即、雨のふりつゞくころの、慎しみから出た言葉であらうと思ふ。

かうして考へて来ると、天つ罪は、天上の罪ではない。本義は、五月の田植ゑ時の慎しみ、即、雨つゝみ(雨障・霖禁)である。今でも、処によると、田植ゑ時に夫婦共寝せぬ地方がある。田植ゑの頃は、一年中で一番、長雨のふりつゞく時期であつて、此間は、村の男女は、すつかりと神事関係になつて了うて、男は神、女は巫女となるのである。

四月の頃、女は山に籠つて成女戒を受け、躑躅の花をかざして下りて来て、今年の早処女をつとめる。此は、田植ゑの神事に与る巫女の資格で、田植ゑの終るまで処女の生活をする。此処で考ふべきは、処女生活といふ事であるが、此には三通りあつた。一つはほんとうの処女、此はまだ男を持つた事のない女(一)。次に或期間のみ男に逢はぬ女、即、或期間だけ処女生活をする女(二)。次は床退サりをした女、即、或年齢に達すると、女は夫を去つて、処女生活に入る信仰があつたが、さういふ様な女(三)。此床退りの女は、其以後の生活は、神に仕へるのである。後世のお室様といふのは、此の事をいふのだ。平安朝には床退りした女は、尼となつて仏事に入り、処女生活をしたのである。

さて女は、五月の田植ゑの済むまでは、男を近づけない。男の方でも女に触れない。此期間は男女共に、袴や裳に標を附けて、会ふ事をしない。此間の事をながめをふるといふのである。一軒の家に同居して居ても、会はない。前の、景行天皇の話の、媛をして、長眼を経しめたまふといふのは、媛にお顔を見せながら、霖雨中放つて置いて、性欲的の苦しみをなさしめたといふ事である。其が固定してながめとなり、性欲的な憂鬱からして、ぼんやりして居る事を表す語になつたのである。

平安朝になつてからのながめは、美しい意味に替つて来て了うたので、根本は、性欲的の憂鬱の状態を言ひ表す語である。

五月の物忌みが雨つゝみで、此が天つ罪となるには、すさのをの命が元来、田の神で、其犯された罪を一処にして了うたのだ。すさのをの命は、仏教では牛頭天王にされて居る。悪い方の田の神である。其悪い方の田の神を祀つて、いたづらせぬ様に守つてもらふ所から出た、信仰である。悪い神も祀られると、よい事をするといふ考へ方である。さて、此すさのをの命に対する慎しみが、天つ罪である。其がちようど雨の時の慎しみと、同じ時期に当つて居る。

神は普通には、夜出現するが、田植ゑ時には、昼間出て来る。夏祭り神事の中心は、昼間行はれる。昼間、田を植ゑて居ると、神が来て田を囃してくれる。後世では、田植ゑの前後にのみ囃しをするが、本来は植ゑて居る最中に、囃すのである。後には、囃す田も固定して、はやし田といふ名も出て来て居る。又、田植ゑの初めに囃して、其で、後やらぬ様になつた所もある。此囃しに来る神は、仮装して出て来る。此仮装がやがて、田舞ひを生む。そして田舞ひが、猿楽と合体して、田楽が出来る。男女共に顔を隠して、神の形になつて居る。五月の田植ゑの時は、昼は勿論、夜も神が廻つて歩いて居るから、男女相逢ふことは出来ぬ。だが、さなぶりの時から自由になつて、男女の語ひは許される。

此所で、不思議な誤解が一つある。其は神事が始まれば、物忌みは無い訣であるが、其がある事である。播磨風土記を見ると、田植ゑ女を大勢でかまつて、隠し所を断ち切つたといふ話がある。だから、雨つゝみといふのは、田植ゑの始まる前の、物忌みである事が知れる。其が、いつか田植ゑの済むまで続くものだ、と考へられて来たのである。此は、男の資格を得る為の褌が、いつか褌するのが男の資格だ、と考へられて来たのと、同一である。

ふんどしは、ふもだし・ほだし・しりがひ・おもがひ・とりがひなどゝ同一なもので、又たぶさき・たぶさくなどいふ語も、同一である。たぶさくとは、またふさぐといふ事で、着物の後の方の裾を、股をくゞらして前の方に引き上げて、猿股みたいにする事で、子どもの遊戯にも、今日は廿五日の尻たくり、といつて、此形をする。元来は、人間のふんどしも、馬のふもだしも同一任務のもので、或霊力を発散させぬやうに、制御しておくものである。そして、物忌みの期間が済むと、取り避けるものである。事実朝廷の行事に見ても、物忌みの後、湯殿の中で、天の羽衣をとり外して、そこで神格を得て自由になられ、性欲も解放されて、女に触れても、穢れではない様になられる。

先にもいうたが、大湯坐・若湯坐などが、御子を育てゝ行く間に、湯の中で、若い御子の着物をとりさけて、まづ其御子に触れられるのは、若湯坐である。大湯坐は、前述の如く、御子の父君につかへる。

此みづのをひもを解くと同時に、ほんとうの神格になる。そして、第一に媾あはれるのが、此紐をといた女である。さうして、其人が后になるのである。だが此事は、もう奈良の頃は忘れられて了ひ、此行事以後、御子を育てる所の、乳母の役になつた。さうして、若い乳母即、子守りである人が、お育て申した方の妻となる。其証拠は、うがやふきあへずの尊が、御叔母玉依姫と御夫婦になられた、とあるのをみても訣る。元来、めのとといふ言葉は、妻の弟といふ事で、乳母の弟が、妻になつた事を意味してゐるのである。

不思議な事に、后になられる御方は、水の神の娘、又は水の神に関係の深い女である。かの丹波氏の家筋も、水の神に深い関係を持つて居る。世が下つてからは、丹波氏の資格を以て、藤原氏が禊ぎを司る事になり、其家から后が出た。

一体御湯殿は、平常でも、非常に重ぜられて居た。「御湯殿の上の日記」も、平安朝からのものではあらうが、女の手になつたもので、断篇ながら、参考にはなる。此で見ても、湯棚・湯桁は、神秘な行事の行はれた所である事が、察せられるのである。即、湯棚には天子様の瑞ミヅの緒紐ヲヒモを解く女が居て、天子様の天の羽衣、即ふもだしを解くのである。

話を元へ戻して、大嘗祭第一回に天子様が湯へお這入りになるのは、紫宸殿の近くで行はれるのかと思ふが、正式には廻立殿で行はれたのである。平安朝には既に、行はれなくなつて了うたらうが、太古は必、行はれたのである。此問題は、天の羽衣の話と関係がある。天人の話の天の羽衣と同一で、飛行の衣とする話は、逆に考へられて了うたからである。天子様の、天の羽衣をおぬがせ申し奉るのが、八処女のすべき勤めである。今では、廻立殿から大嘗宮へ行く道に敷かれてある布の事を、天の羽衣と称へて居るが、其は何かの間違ひである。或は、羽衣ではなくて、葉莚ハゴモといふのであらう。此は、延喜式にも、見えて居る。葉莚は、天子様が、お通りなされる時に敷いて、通られると、直に後から巻いて行くものである。其を今では、新しく道を拵へた形であると言うて居る。一寸合理風でほんとうらしいが、やはり誤りである。

天子様はかくして、悠紀殿・主基殿へ行かれるが、其間に、折々お湯にお這入りになられる。とにかく、日本の后の出る根本は、水の神の女で、御子をして、神秘な者にする為事を、司る所から出て居るのである。
次に直会の事をいうて見る。

     一五

直会は、直り合ふ事だと云はれて居るが、字は当て字で、当てになるまい。元来なほるといふ語は、直日の神の「直」と関係のある語で、間違ひのあつた時に、匡正してくれる神が、直日の神だから、延喜式にある所の、天子様の食事の時につかへる最姫・次姫の事から考へて見ねばならぬ。天子様が食事をせられる時に、此最姫・次姫は「とがありともなほびたまへ……」といふ呪言を唱へる。此は、よし、手落ちがあつたとしても、天子様の召し上り物には間違ひのない様に、といふ意味のとなへ言である。普通には、座をかへてものする時に、なほると言うて居る。此は或は、二度食事をする事から出た解釈かも知れぬ。大嘗祭の行事に見ても、一度食事をせられてから、座を易へて、もう一度、自由な態度でお召し上りなされる。此が直らひの式である。つまり、ゆつたりと寛いだ式である。そして、其席上へ出る神も亦、直日の神と言はれて居る。平安朝に入つてからは、直日の神といふのは、宴会の神、又は遊芸の神となつて居るのも、此考へから出たのである。

大嘗祭の直会の時には、大和舞ひが行はれ、田舞ひが行はれ、舞姫の舞ひも行はれる。そして、すべての人は、今までの厳重な物忌みから、開放される。直会ナホラヒは、一口に言へば、精進落ちともいへる。だが、精進とは、仏教の考へから、魚を食はぬ事を斥していふが、本来は、禁欲生活・物忌み生活を言うた語である。
昔は、正式な祭りが済んでも、猶、神が居られた。そして、祭りの後で、豊かな気分で宴席に臨んで、くだけた饗応を享けて帰られたのである。肆宴トヨノアカリ(豊明楽)といふのは、此行事をいふのである。とよのあかりとは、酒を飲んで、真赤な顔になるからだといふが、ほんとうは、よく訣らぬ。ともかく、とよのあかりのうちに、神を満足させて帰す、といふのが本義であらう。

大嘗祭に来られる神は、どんなお方か、よく訣らぬ。天子様は、神を招く主人でいらつしやると同時に、饗宴をなされる神である。つまり、客であり、又神主でもある。神の為事を行ふ人であると同時に、神その者でもある。だから、極点は解らぬ。結局、お一人でお二役つとめなされる様なものである。

他の家々でいふと、新嘗祭の時には、主人よりも格式の上の人を招いて、客になつてもらふ。此は其昔、尊い神が来られた形を見せて居るのである。

次に、五節の舞ひの話をして見る。五節といふのは、五節イツヨの舞ひを舞うたから言うたのではあるまいか。五節イツヨの舞ひは、天子様の寿命を祝福する舞ひで、天子様の禊ぎの時に、竹で御身の丈を計つて、御身の長さだけの処へ標シルシをつける。此を節折ヨヲリと言ふ。折ヲリは繰り返すといふ事で、竹で幾度も/\、繰り返して計る。かうする事は亦、天子様の魂の事と関係がある。平安朝頃までの信仰によると、天子様の魂には、荒世の魂・和世の魂と言うて、二つあつたのである。其で、天子様の御身の丈を竹で計るにも、二度計つたのである。竹で計つて着物を拵へて、其着物を、節折ヨヲリの式に与つた人々に、分配なされる。あらよの御衣ミソ・にぎよの御衣ミソといふのが、此である。

かう考へて来ると、五節の舞ひの時も、実は天子様の御身の丈を、五度繰り返して計つたのではなからうか。さうして、其行事に出る女が、五節の舞姫といふのであつたらうと思はれる。そして五節に出る女は、天子様の食事の事に与つた女である。すると、供饌に与つた女が、衣を進め、節折もし、舞ひも舞うたのである。舞ひを舞ふといふのは、みたまふり(鎮魂)の意味のもので、他の意味ではなかつた事と思ふ。

古く、神服女カムハトリメの舞ひといふ事も見えて居る。此は、着物を取扱ふ女の舞ひといふ事で、後の五節の舞ひと同一である。だから五節舞も神服女舞も同一で、正式には八人で舞うたのだらうと思ふ。神の八処女の事は、前にもいうた。
五節の舞姫の仕へる所を、五節の帳台といふ。そして、五節の帳台の試みといふ事が行はれる。此は、舞姫をして、天子様が、女にせしめる行事である。平安朝頃のものを見ると、舞姫が、何とかかとかいうて、言ひ騒がれて居るのも、此帳台の試みの考へから見ねば訣らぬ。

五節の舞ひがすむと、其後に悠紀・主基両殿の式の名残りとして、国風クニフリの奏歌が行はれる。各其国の国司が、歌人や歌姫を引きつれて行つて、やるのだ。そして、其後に、忌みを落す舞ひがある。此を解斎舞といふ。此がすむと、凡て此祭りに与つた人・神が、皆散らばる形になる。其時も、式に与つた人たちは、お酒や御飯を頂く。それから各人は、忌服をぬいで、散会する。散会の時は、男も女も乱舞して、躍り狂うて帰る。

一体宴会の時は、二度目の食事をすませて、最後の食事の時に、主人側から舞姫が出で、客人側からは、いろ/\の持ち芸が出る。つまり、此は主人に答へる形である。うたげは、打ち上げといふ事で、盛んに手を拍つてやる事である。此乱舞の時に、巡の舞ひというて、正座の客から次第に、下位の客に廻つて行つてやる。

此中に、一つ面白いのは、家の精霊が出て舞ふ形のものがある。滑稽な風をしてやる。此は、今見ても、地方の神社の祭りの時に、滑稽な踊りをするが、皆此精霊の舞ひから出て居るのである。今の民間の宴会は、神事の直会ナホラヒ以後の形をとつてやつて居るのである。

此処で一寸、附け加へて置く。天子様をもてなす役は、藤原氏がやつた。藤原氏の家は、宴会に使用する道具を、大事にして居る。朱器・台盤は、藤原氏の家長が、大切に保存して伝へて居る。此は、藤原氏は、朝廷に仕へて、祭りのある時は、神をもてなす役をして居たからである。客人マレビトをもてなすに大切なのは、道具である。其道具を預つて居るのが、藤原氏であつた。今日でも、民間に、椀貸伝説はいくらも残つて居る。

私は、直会と宴会とを同一だ、とは思はぬ。宴会の方は、客人側が主人に替つて、大いに騒いだものと考へる。大嘗祭に於ける客人の式も、三段に考へられる。

一、供饌の式
二、直会の式
三、宴会ウタゲの式

かうなると思ふ。
たゞ、此間に於て、客が主人になり、主人が客になり、主人か客か訣らぬ様な場合が多い。其は、長い間に於て、其時代々々で、祭りが合理化されて、其に又、種々の説明が加へられて、今日の如くに変化したからである。

ともかくも、大嘗祭は、平安朝に固定して、今日に及んだもの故、神代その儘、そつくりのものとは考へられない。吾々は、其変化のうちに、隠れて居る所を見たいものである。

以上、長々と話しはしたが、極荒筋のものである。今年の十一月に行はれる大嘗祭は、宮内省の方々も緊張して、出来るだけ古の形をとる、といつて居られるから、有り難い大嘗祭を拝める事と思ふ。

大分話が混み入つて、味のない、雑然たるものに終つてしまうた。だが、私の考へは、大体申したつもりである。


底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
※「昭和三年講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html

9. 中川隆[-10565] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:50:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1511] 報告

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く 2019/03/01


平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)© SHOGAKUKAN Inc. 提供平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)

 新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *

 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】

 天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


 前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

※SAPIO2019年4月号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E7%A7%98%E5%84%80%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%80%81%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E4%BE%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F/ar-BBUdNGb#page=2

10. 中川隆[-10563] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:00:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1513] 報告

2019.03.01 SAPIO
「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神(あまてらすおおみかみ)や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *
 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】


天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

【PROFILE】工藤隆●1942年栃木県生まれ。東京大学経済学部卒、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得退学。大東文化大学文学部日本文学科講師・助教授・教授を経て、現職。著書に『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』(中公新書)などがある。

※SAPIO2019年4月号
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

11. 中川隆[-10560] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:20:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1516] 報告
諏訪春雄通信 27 「大嘗祭」
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。

諏訪春雄通信 15
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm

諏訪春雄通信 18
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm

ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm

12. 中川隆[-10553] koaQ7Jey 2019年4月28日 07:05:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1527] 報告

諏訪春雄通信 29
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm

という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。

諏訪春雄通信 27
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。


祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。

1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm



▲△▽▼

天皇が行う祭祀(悪魔崇拝)のルーツ

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

13. 中川隆[-14899] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:21:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1991] 報告
「大嘗祭」の秘密の儀式とは! 新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり…秋篠宮は“宗教色”の強さを指摘し国費支出に異議
https://lite-ra.com/2019/11/post-5090.html


2019.11.14 「大嘗祭」に秘密の儀式が!新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり… リテラ

    
    平成の大嘗祭(神社本庁HPより)


 本日14日から15日にかけて、天皇の代替わり儀式のなかで最重視される「大嘗祭」が行われる。大嘗祭は、代替わりした天皇が初めて行う「一世一度」の新嘗祭。その内容の多くは非公開で行われるが、これまでの研究から、その実態は一連の代替わり儀式のなかでもとりわけ宗教色が強いことがわかっている。

 だが、国民主権や政教分離の原則に反する大嘗祭の問題に、安倍政権はまったく触れぬまま進めてきた。いや、テレビなどのマスコミも表層的な解説でお茶を濁すばかりで、正面から大嘗祭を論じることはほとんどない。

 だとすれば、本サイトがその本質をあらためて伝えておく必要があるだろう。

 まず言っておかねばならないことは、大嘗祭の実相は単なる「豊作を祝う農耕儀礼」ではなく、明らかな「宗教儀式」である、ということだ。

 明治新政府がクーデターで幕府を倒した後、日本の政治支配層は「世界で唯一の天皇を中心とした神の国」という思想を国家神道として体系化し、国民支配の基盤にした。その流れで、天皇神格化と国家神道を徹底するために旧皇室典範と登極令をつくり、それまで国民の知らないところでこじんまりと行われていた皇室祭祀を大々的に執り行うようになった。つまり、大嘗祭を大きくクローズアップすること自体が、政治権力の作り上げる「祭政一致」のイメージ装置であったのだ。明治以来の日本政府は、皇室の宗教性を表に出すことで国民の支配に利用したわけである。

 しかも、だ。大嘗祭は、新たな天皇が皇祖神とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)らに穀物を供え、新天皇自らも口にすることで豊穣と国民の安寧を祈る儀式と説明され、半年以上前から当日にかけて、多岐にわたる儀礼が執り行われる。だが、そのなかには具体的な内容がまったく明かされていない儀式がある。

 それが、これまでの大嘗祭研究で注目されてきた、霊的・性的な意味合いをもつ“秘密の儀式=秘儀”の存在である。

 本祭の夜、新天皇が大嘗宮の悠紀殿および主基殿に籠ってなされる儀式のことだ。一般参列者はもちろん報道関係も完全にシャットアウトされたなか、天皇は11月14日夕方から翌15日未明まで、ふたつの殿の内陣に合計8時間にわたって引きこもる。

 このとき、新天皇は供えた新稲をアマテラスと一緒に食す〈共食〉の儀を行うと説明されるが、この共食の儀は、悠紀殿と主基殿で二度繰り返されることを除けば、毎年の新嘗祭と同じだ。しかし、それではどうして大嘗祭が特別な皇位継承儀礼であるかの説明がつかない。

 そして着目されたのが、内陣の構造だ。両殿内部には天皇と神の席がしつらえられており、ここで対座して〈共食〉をすることになっている。ところが、これが中心儀礼の割には部屋全体から見ると片隅に追いやられており、内陣の中心・大部分を占めるのは八重畳(やえだたみ)の寝座なのだ。そしてこの寝座を使って〈秘儀〉が行われている、というのが最も有力な説として浮上してきたのである。

 言っておくが、寝座を使った秘儀の存在は、都市伝説として語られているわけではない。神道や歴史学の分野でも本格的に議論されてきたものだ。その先鞭をつけたのが、民俗学の権威で、戦前は国家神道の強化にも多大な影響を与えた折口信夫である。

 折口は大嘗祭がおこなわれた昭和3年の前後にかけて、自身の天皇論と大嘗祭に関する論考を積み上げていった。それらのテーマを総合的にまとめたのが、昭和5年に発表された「大嘗祭の本義」だ。折口はこのなかで、寝具を天孫降臨神話で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまって地上に降り立ったとされる「真床覆衾(マドコオフスマ)」に見立て、天皇が布団にくるまる儀式の存在を唱えた。

■折口信夫が指摘した「前天皇との同衾」「性の解放」の儀式の存在

 折口がこの見立てに不可欠な要素として持ち出したのが、「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天子様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

 折口は「真床覆衾(マドコオフスマ)」「天皇霊」に付随して、「先帝同衾」という説も唱えている。これは前天皇の亡骸と新天皇の肉体というふたつの〈御身体〉を〈一つの衾で覆うて〉、復活のための儀式を行ったというものだ。折口によれば、古代には生死を明確にする意識がなく、平安期でも生死がはっきりしなかったので、「天皇霊」が前の身体に戻るか別の身体に移るかを確認する必要があった。そのための「同衾」だという。

 折口の説はその後、発展されるかたちで、さまざまな論考を生み出した。その一つが「聖婚儀礼」だ。あけすけにいえば、大嘗祭の夜、天皇による性行為が行われるという説である。

 大嘗宮の悠紀・主基両殿に入ることが許される人間は極めて限られる。その内構造は大きく二つにわかれており、御座と神座がある内陣(「室」という)には、天皇以外に「采女(うねめ)」という身の回りの世話をする女官の代表ひとりしか入れない。日本史学者の岡田精司氏らは、この采女を性行為の相手と見た。地方豪族から貢上された采女と「聖婚」することで服従を誓わせる儀礼があったのでないかと推定したのである。

 また、折口は、悠紀・主基両殿以外での性的な儀式の存在を指摘している。大嘗祭において、天皇は悠紀・主基両殿に籠る前に、廻立殿という併設の殿舎で「大忌の御湯」「小忌の御湯」と呼ばれる二度の沐浴=聖水儀礼を行うことで「穢れ」を払うという。史料によれば、この沐浴時に天皇は「天羽衣」を着用したというのだが、折口は〈元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである〉などとして、なんと、天羽衣とフンドシを結びつけた。そして〈物忌みの褌を締めて居る間〉は〈神秘たる霊力をして発散させぬ為〉の〈極端なる禁欲生活〉だとし、その〈解放の時〉が〈性の解放〉であると見立て、こう続けている。

〈天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生じるのである。〉(「大嘗祭の本義」)

■平成の大嘗祭でも秘密のうちに執り行われた主紀殿、悠紀殿の儀

 ちなみに、御所には「内掌典」と呼ばれる処女の巫女がおり、その内掌典がこの「大忌の御湯」「小忌の御湯」に立ち会うとされてきた(実際、昭和天皇の代には、本当に若い頃からずっと俗世界と関係を絶った4人の女性が御所に住んでいたが、その後、交代制になった)。

 しかも、ここで指摘しておかなければならないのは、かくも異様な儀式の存在を述べた折口の説を当時、当局が容認していたという事実だ。前述したように、折口が前後に天皇論・大嘗祭論を展開した昭和3年は、大嘗祭の実施年であったと同時に、治安維持法の最高刑が死刑へ改められた年であり、「三・一五事件」と呼ばれる共産党への大弾圧も行われた。

 ところが、折口の説は取締の対象とならなかっただけではなく、当時、国家神道推進の中心人物によって堂々と紹介されてもいる。近代神道の創始者であり、内務省神社局考証課長でもあった宮地直二が東大の神道講座で「天皇霊」論を講義したのである。

 もちろん、大嘗祭に、折口らの主張する秘儀があったとしても、途中からは、実際に性的行為や前天皇との同衾が行われていたわけではなく、模擬儀礼として行われているだけという可能性が高い。

 また、民主主義下で初めて行われた平成の大嘗祭では、海外メディアが秘儀をめぐる報道を繰り広げたことを政府が憂慮。わざわざ宮内庁が事前に会見で「(大嘗祭に)特別な秘儀はなく、特別な御告文にもそのような思想はない」と否定した(ただし、折口が性的儀式の存在を指摘した「大忌の御湯」「小忌の御湯」の儀については、会見で具体的内容について質問がとんだものの、宮内庁は説明を拒否している)。

 しかし、その平成の大嘗祭にしても、大正や昭和の大嘗祭とまったく同じように、長時間、徹底して秘密裏に執り行われたことは事実だ。

■秋篠宮は大嘗祭の“宗教色”を指摘し、国費でまかなうことに疑義

 平成の大嘗祭を取材した元朝日新聞皇室担当記者でジャーナリストの岩井克己氏は、当時のことを〈午後五時過ぎから午後九時過ぎまで約四時間にわたって天皇の悠紀殿の儀が行われたが、殿内での天皇の「秘儀」はもちろん、廻廊を歩む姿も諸役の動きも全く見えない。奏されたという神楽歌など楽部の奏楽もほとんど聞こえず、ただひたすらじっと座って寒さを我慢しただけで終わった〉と振り返っている(「選択」2014年1月号)。

 今回も、殿内での儀式は当然のように非公開にされている。政府は大嘗祭を「国事行為」ではなく「皇室の行事」と位置付けることでお茶を濁すと同時に「公的性格がある」という二枚舌を使う。その費用は宮廷費つまり公費から支出されることにかわりはなく、大嘗祭だけで約24億4000万円が費やされる予定だ。

 むしろ、その宗教性と国民主権・民主主義の“本質的な不和”については、現在の皇室のほうが自覚的ですらある。昨年、秋篠宮文仁親王は誕生日に際した記者会見で、「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」などと公に疑義を呈した。

「大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成の時の大嘗祭の時にもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、そのころはうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局、その時を踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています」

 だが、宮内庁は「聞く耳を持たなかった」という。秋篠宮文仁親王は記者会見で「そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」とまで踏み込んでいたが、結局、安倍政権は皇室が懸念する「宗教色の強い皇室行事」をなし崩し的に、事実上の国家行事にしてしまった。

 いずれにしても、大嘗祭の宗教性は明らかにもかかわらず、なし崩し的に本番を迎えようとしている。大嘗祭をめぐる国民主権と民主主義、そして政教分離の原則の議論は深まらないままだ。政治権力が天皇と皇室を国家神道に組み入れることで国民を支配した、明治から終戦までの大日本帝国。この国の政府と有権者は、いったい、いつまで“戦中”を引きずるつもりなのだろうか。

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