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天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 19 日 11:34:34: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない 投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 18 日 21:06:02)


天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨

従来 弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江人、後期は漢民族系朝鮮人で、完全に別民族です。

天皇一族は弥生時代後期に北九州に植民市を作り朝鮮との交易に従事し、漢文を書き、高価な中国製の鏡を大量に持って居たので、勿論漢民族系朝鮮人です。

漢民族の天皇一族が日本を乗っ取った手口

天皇一族は朝鮮を追われて日本に移民して以降

中国華北 → 韓国ソウル
→ 福岡県伊都国 → 日向、大和 、丹後 → 北九州、瀬戸内、畿内
→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土

の順に支配地域を広げて行った様です。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けて、遂に日本人(縄文人・弥生人)は少数民族となってしまいました。

中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html


・東トルキスタンでは、最大100万人のウイグル人が「再教育」の名目で中国当局により強制収容されている。遺された幼児たちは「幼稚園」に入れられ、中国人の名前もつけられ、民族も漢民族として登録される。両親が再教育施設から出られたとしても、自分たちの子供を見つけることもできない。「幼稚園」の子供たちは、自分が中国人であること、中国共産党へ感謝することを教え込まれる。

・内モンゴル自治区では「浄化政策」がもう進んでしまって、ここ70年で、人口約2400万のうち、モンゴル人は2割以下になってしまった。経済は中国人に握られ、伝統文化の絶滅が図られている。

・チベットでは、チベット語の学校教育が禁止され、今年になってチベット教の寺院にも共産党員が運営委員として入って監視するようになり、寺院にも習近平の写真が置かれ、共産党の旗を掲げなければならなくなった。
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201811/article_13.html


現時点でわかっている事を纏めると

日本は多民族国家で

陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった

水田は弥生初期に長江から北九州に伝わった

弥生人は九州に移住した少数の長江の男が縄文女性を現地妻として作った混血児の子孫
言葉は西日本の縄文人の話していた日本語をそのまま継続使用

漢民族系渡来人は弥生時代後期に北九州に植民市を作り、朝鮮と交易を行った。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けた


信仰対象によってどの民族か簡単に判別できます:


縄文人
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江人
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける

朝鮮からの漢民族系渡来人
中国鏡を神体とする太陽信仰


詳細は


日本人のガラパゴス的民族性の起源 0-0. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1
http://garapagos.hotcom-cafe.com/


稲の来た道論争
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku368.htm

稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm

4.呉の国と日本・稲作の渡来
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku358.htm#04

縄文時代に長江から九州に伝えられた照葉樹林帯文化
https://dankai.akimasa21.net/east-asian-evergreen-forest-culture/

遡る縄文稲作の年代
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html

長江人が九州に移住して作った吉野ヶ里遺跡の鳥居と鳥信仰
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

朝鮮を追われた天皇家が日本に移住して作った伊都国・邪馬台国での鏡信仰
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm  

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コメント
1. 中川隆[-13721] koaQ7Jey 2018年12月19日 11:48:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

「朝鮮と日本の神話を考える」 
上田正昭 京都大学名誉教授 (2002年1月26日 講演記録より)

 敬愛してやまない末本徹夫さんがお亡くなりなって早くも2周年になります。仏教で申しますと3回忌になりますが、徹夫さんは京都大学の先輩でもありました。学生でありながら京都市会議員に当選され、人権問題、とりわけ日朝友好促進に力を入れられました。末本徹夫さんを偲んでの2周年の集いに「神話の問題」の話をしてほしいと雛子さんから言われまして喜んで参上した次第です。末本徹夫さんの写真がここに置かれていますが、その志を受け継いでいきたいと念じております。

 今日は「朝鮮と日本の神話を考える」というテーマです。新しい歴史教科書の問題がありますが、歴史学も科学です。小説家の歴史ではなく、歴史的事実を正確に認識することが大前提になります。伝仁徳天皇陵も仁徳天皇が葬ってあるかどうか大変あやしいのですが、伝仁徳天皇陵は私が学長をしていました大阪女子大学の近くにある日本最大の前方後円墳です。巨大な前方後円墳の仁徳天皇陵と伝えられている古墳ですが、堺では大仙という地名がありますので、我々は大仙古墳と言っています。大仙古墳を天皇を尊敬する方々がご覧になったら全長六百メートルの古墳になる。天皇制に反対の方がご覧になったら二百メートルだ、ということでは学問として成り立たない。

歴史は解釈の問題も大事ですが、誰がどういう立場で言おうと、史実は変わらない。正確な史実をまず認識するということが学問としての歴史研究の第一歩です。神話についても皇国史観の人が解釈する神話と、左翼の人が解釈する神話で全く違う評価が生まれるということでは学問になりません。

神話の定義

そこで神話をどう定義するか。定義が正確でないと内容が間違って解釈されることになりかねないと思います。「神話」という漢字の熟語は中国の古典にもありません。漢字文化圏である朝鮮半島の古典にも神話という漢字の熟語はありません。中国の『三国志』にも神話という文字はない。翻訳漢字です。日本の学者が1890年代に英語のmyth,mythusを「神話」と漢字に訳したものです。神話という翻訳漢字は失敗であったと思います。神話は神様の話という単純なものではありません。

日本の古典の中に神話に類似する用語があるか。「神語」というのはあるんです。『日本書紀』、皇極天皇2年、同3年の条、西暦643・644年の条に「神語」と文字があります。「カムガタリ」という方が皆さんがお考えになっている神話の意味がより正確に言えると思います。神の語りです。神話の定義は神話学者の数ほどあると言われるようにいろんな定義があります。

ギリシャ神話とか文字に記録された神話は神話の本来の姿ではないんですね。記録された神話は第二次、第三次の神話です。書かれた神話は本来の神話とは違うということです。文字を知らない人や、民族でも神話を持っています。なぜなら神の語りだからです。耳から口へ、口から耳へと語り伝えていくものが本来の神話です。文字に属するのではなく言葉の世界に属します。ホーリー・ラングウェッジ、聖なる言葉が神話の大事な点です。

沖縄の研究も復帰前から進めてまいりました。沖縄での国際会議にもたびたび招かれています。沖縄が本土に復帰する以前、米軍が占領していた時代、沖縄に行くにはパスポートがいった時代です。その時代から沖縄の調査をしていますが、本島から先島つまり宮古、八重山諸島など台湾に近いところです。

たとえば宮古島では神話が伝わっていますが、記録にはない。巫女さん、「ツカサ」のおばあさんたちが神話を言葉として語り伝えている。祭りの場で伝えられる。記録としてはないわけです。祭りに参加しなければ神話は聞けない。日常は語られません。男子禁制なので入れない。ツカサの神話の語りを録音させてほしいと申し入れて、

「祭りの場でもないのに語れません」

と拒否されました。お供えをして帰ろうとしたらおばあさんが

「待ってなさい。あなたは神の子だという御告げがあったから語ってあげます」

と録音させていただいたこともありました。

記録された神話

 『記・紀神話』といわれているものは、語られた神話ではなくて書かれた神話です。『古事記』は3巻あっては上巻に神話が書いてある。『日本書紀』は30巻ありまして、巻第一と巻第二が神代の話です。『古事記』は和銅5年、西暦712年正月28日に完成しましたが、時の天皇家の立場から作為的に記録されたものです。天武天皇の勅語に

「偽を削り、実を定める」

と書いてある。天皇家の立場からこれはふさわしくないというのは削ってある。天皇家の立場から書いている。神話のすべてを書いてあるわけではありません。


例えば今日の話について皆さんは、私の言葉を速記するなら別ですが、上田の話はここは大事だなと思う箇所を書いておられる。全部書いているわけではない。皆さんの日記でも全部正確に書いているとはいえない。都合の悪いことは自分の都合のいいように書く。日記だから本当のことが書いてあると思ったら間違いです。将来、孫が読むかもしれない。「おじいちゃんはこんなに立派だった」と第三者を予想して書いている場合もある。

記録する時には作為がある。歴史学をやるものは、書かれたものが全て本当だと思うようでは歴史研究をする資格がない。どこが本当で、どこがウソか文献批判が必要です。ラブレターはそれの最たるものです。「私はあなたを愛しています」と書くわけです。その瞬間はそう書くんです。口説くために。騙されて結婚して今日に至っている人もたくさんいると思います。ラブレターの文献批判をしていない。

自由民主党の新聞に書いている内容と共産党の新聞に書いている内容では違うことがありうる。一つの事実がさまざまに記録されるわけです。新聞が書いているからその通りだと思ってはいけない。毎日新聞の立場がある。朝日新聞には朝日の立場がある。6紙くらい読んでどれが真実かと考える。

 これは文字による記録の限界なんですね。書かれた神話には誇張の潤色が入る場合がある。『古事記』や『日本書紀』が日本の神話のすべてだと言っていたら、神話を教科書に載せる資格は全くない。こんな教科書で勉強するのは気の毒です。戦争中はそういう教育を受けた。神話を疑ってはいない。神武天皇橿原宮で即位された。「紀元は二千六百年、ああ一億の」という時は中学2年生でした。昭和15年。私は級長でしたから並んで国旗掲揚をしました。

紀元二千六百年の元年は西暦ではB.C.660年です。縄文時代の晩期の頃です。弥生時代の前です。そういう時代に日本国ができたというのは、少し勉強したらちょっと待ってくれと言わざるをえない。日本国家が縄文時代にできたなんてことはありえない。邪馬台国よりはるかに昔の話ですよ。邪馬台国の卑弥呼の時代は紀元後3世紀前半の話です。そのときから900年くらい昔の話です。日本国が誕生したという考えには幼稚園の子どもでも待ってくれと言わざるをえないのではないでしょうか。だけどそれは『日本書紀』に書いてあるわけです。『日本書紀』に書いてあるからその通りですと言うていたら、ウソということになるわけです。

神話とはなにということを理解していただかないと、これからお話する日本と朝鮮の神話の問題も間違ってくると思います。神話はまさに聖なる言葉でした。

神話とよく似た言葉には「伝説」「昔話」があります。語り伝える口頭伝承です。言葉の世界に属していますが、しかし内容はみな違うんです。

神話は神様が出てくる。この世のはじめ、天地開闢と関係がある。

「この世のはじめにおける神と人との重要な出来事を語り伝えた聖なる言葉」

が神話です。ハレは非日常、ケは日常。神様をお祭りするハレの時に着る着物が本来の晴れ着です。日本人の晴れ着は祭りの日に着る着物です。ケ着は日常の着物です。ハレの非日常の聖なる時と場の語りが神話です。神の行いを信じるという信仰が神話にはある。語られている内容がどんなに非合理であっても。

国産み神話。イザナギとイザナミの命が鉾を天空から海中に下ろして、それが塩で固まって島ができた。次々に国を生んでいく。塩が固まって島ができる、国土ができる。全く不合理な話ですが、語っている人、聞いている人が信じていた。信仰です。祭りの場に参加していないと聞けない。信じてかつてそのような出来事があったことを深く信じている。

 ところが伝説というのは全く違うんです。ある特定の物に則して語られる。伝説には神様が登場しなくてもいい。即物性がある。弘法大師が池をつくられた。弁慶が運んだ石がある。義経が腰をかけた石がある。何か物に則して伝説は語られる。語られている内容は自分たちの祖先がやってきたこととして語る。伝説には何年何月何日、「頃は元禄15年12月14日」は忠臣蔵の日ですが、日時まで物に則して語られる場合がある。

昔話は語られる内容が全く違う。どの昔話でも「昔、昔、あるところに」と時がわからない。伝説は特定している。昔話は特定しない。「で、あったとさ」と語りの最後は結ばれる。もちろん土地の言葉で語られる。伝説や昔話はケの語りです。いろり端で語る。「昼の話はネズミが笑う」という諺がありますが、夜、語られる。

神話はケの語りではない。神を祀るというハレの時と場で語られる。文字を知らないどこの民族でも神話はある。朝鮮民族には朝鮮民族の神話があり、日本民族には日本民族の神話があるわけです。それが後に記録化される。日本の場合は記録化された神話としては『古事記』『日本書紀』が有名です。

『古事記』『日本書紀』以外も我々の祖先のことが書かれているものがあります。『風土記』があります。『古語拾遺』は西暦807 年にまとめられたものです。『風土記』は各国々で編纂されましたから国々にあります。語り部の神話の記録もあります。『万葉集』の中にも『延喜式』にもあります。『先代旧事本紀』の神話もある。『古事記』や『日本書紀』だけが日本神話のすべてではないということを押さえておかないといけないと思います。

朝鮮の神話では

 朝鮮の神話はどうか。もちろん朝鮮民族の神話も最初から文字で書かれたわけではない。好太王碑文は有名ですが、その冒頭は建国神話で、高句麗の祖先はこういう人たちであったと語っているわけです。25、26年前、高句麗文化展がありました。京都市立美術館で朝鮮民主主義人民共和国から貴重なものを送っていただきました。京都を皮切りに巡回されました。私は西日本の高句麗文化展の責任者だったんです。東日本の責任者は騎馬民族説で著名な江上波夫先生でした。

碑は高さが6メーター38センチあります。これをレプリカにして送ってきましたが、美術館に入らない。京都の場合は屋外に展示しました。そのはじめに高句麗の神話が書いてある。広開土王という高句麗の王様の石碑が彼の子どもの長寿王の2年の時に建った。西暦414年、5世紀のはじめです。[史料5]この碑文が有名なのは、碑文に

「由来朝貢而倭以辛卯年来渡」。

西暦391年に倭人が海を渡ってきた。「百殘」は百済です。「新羅以為臣民」と書いてあります。

倭イコール大和朝廷と解釈しているのは歴史的事実に反します。

倭をどう解釈するか問題があるのですが、北九州を中心にする倭の勢力が海を渡ってきて、朝鮮半島の百済、新羅、伽耶を破って臣民にしたと書いてある。

これを明治以来の日本の政府はかつて朝鮮半島は日本の属国であったということをこの碑文を証拠に言ったわけです。その中心になったのは東京帝国大学の先生方ではなく、陸軍参謀本部なのです。そのことを明らかにしたのが、在日の歴史家の李進熈さんです。和光大学の名誉教授の考古学者です。

陸軍参謀本部が改ざんしたのだというのが李さんの説です。李説が発表された時、中国の学者も韓国の学者も台湾の学者も日本の学者もショックを受けた。好太王碑文の陸軍参謀本部の改ざん説が契機になりまして、好太王碑の研究が前進しました。その功績は高く評価していますが、改竄説には賛成してはいないのですが、李さんの問題提起がなければ好太王碑の研究はあれほど盛んになるとは思われません。

共和国の学者も好太王碑についての論文も書きました。中国の学者も書きました。好太王碑をめぐって大変な論争を展開することになります。その火付け役をしたのが李進熈さんです。このことはちゃんと認めないといけないと思います。

 好太王碑が立っているところは中国の吉林省にある集安、鴨緑江を挟んで対岸は朝鮮で共和国の皆さんが歩いておられる姿が見えます、川を挟んで。

その碑文の調査に私は3回行きました。碑文の文字は残っているのですが、剥落して判読できないところも若干あります。

 この碑文が大事なひとつは高句麗の神話が記述されている事です。

朝鮮にも古典はたくさんあります。たとえば『三国史記』がありますが、『古事記』や『日本書紀』より出来たのははるかに遅いんです。1145年に編纂の命をうけて書かれました。12世紀のなかば、日本でいえば平安時代の終わりです。平清盛の頃に書かれた神話を高句麗の本来の神話として議論してはいけない。

高句麗の神話は5世紀にあったということは好太王碑文を見たらわかるわけです。この碑文ができたのは414年です。414年の好太王碑文の最初に神話が書いてある。

「惟昔始祖 牟王之創基也」。

朱蒙が高句麗の基を築いた祖先である。

「出自北夫餘天帝之子」、

天の神様の子どもであって、お母さんは「河伯女郎」なり。河の神の娘である。お父さんは天の神様。お母さんは河の神の娘である。卵を裂けて世に降りる。生まれながらにして聖。

高句麗には5世紀のはじめのころに建国神話があったということは、好太王碑文によってわかるわけです。もちろん書かれた神話ですが、そういう神話が5世紀のはじめに高句麗にあったことを物語っているわけです。

 昨年12月23日の天皇誕生日の前の12月17日、宮中で記者会見があった。記者クラブが7つ質問している。その中の一つが

「来年はワールドカップで日韓共催でやる。天皇はどう思われるか」

という質問に

「自分の先祖である桓武天皇の生母高野新笠は百済武寧王の子孫であった。
韓国とのゆかりを感じます」

と語られたわけです。私にもすぐ朝日新聞社からコメント依頼がきました。私が感動したのは、人物の交流が皇室を含めてあったのだけれども

「不幸な関係があったということも忘れてはなりません」

とちゃんと言っておられる点ですね。そこがあまり報道されてないんです。

 私は朝日のコメント依頼に「そこが大事だ。それを書いてくれなければコメントしない」と申し上げたのです。1月16日、京都新聞には載りませんでしたが、共同通信が後追いの記事を出しました。なるほどと思ったのは「誕生日の記者会見くらいは自分の言葉で言わせてほしい」と言われたそうです。宮内庁のチェックはなかったようですね。宮内庁は大慌てになったということを1月16日の共同通信配信で知りました。私はその日、松江に行っていまして、山陰中央新報で知りました。実はこれは、神話の問題とも関係があります。


桓武天皇のお母さんの高野新笠は、勅撰の歴史書である『続日本紀』が明記するとおり武寧王の子孫ですが、延暦8年12月に亡くなります。お葬式は正月にあった。葬ったのは大枝の沓掛にある旧山陰道の右手の山の中腹。そこに高野新笠のお墓があります。階段を登らないと行けません。延暦9年1月にお葬式をしている。

『続日本紀』に新笠の伝記が書いてある。どういう人だったかということを書いて百済の神話を書いている。そこに書いてあるものを読むと

高句麗の建国神話と百済の建国神話が同じであったことがわかります。今、残念ながら朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国は分断されていますが、百済の建国の神話と高句麗の建国神話は同じです。在日の皆さんが自分の祖国の神話も知らずにいるというのでは残念です。

朝鮮と日本の神話の類似性

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。

 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。

朝鮮と日本の神話の相違性

 日本の神話と朝鮮の神話は極めて類似性がある。
玄界灘を隔てて隣り合っている国ですから共通性がある。
日本の神話と朝鮮の神話には共通性がある。

比較というのは似ている点だけをすることではない。どこがどう違うかということを正しく理解することが極めて重要です。朝鮮の文化と日本の文化のどこが共通しているか。

日本の中に朝鮮の文化がこんなにたくさんある。
遺跡めぐりをしても朝鮮の文化が各地にある。
それにあわせてどこがどう違うかという、共通性だけでなく独自性も見ていないと、本当の友好、連帯はできない。全く同じだったら改めて勉強する必要はないんです。キムチと漬物の文化とは違うじゃないですか。

なぜ違ってきたのかを正しく理解しなければ、本当の連帯はできない。同じだと言ってばかりいると「日鮮同祖論」になる。祖先は同じなんだから日本に朝鮮が併合されてももとは一緒ではないかという論理と類似のものになってくる。どこがどう違うかということだけを言っていても具合悪いんですね。共通性と独自性の両方を理解することが必要だと思います。


 書かれた日本の神話と、書かれた朝鮮の神話の決定的に違うところが三つあります。それも知っておく必要がある。

クシの峰、天降った山の名は類似している。

けれども、日本の神話では「荒ぶる神」がいた。降ってきて平定するんです。

高天原から降って「言向和平」する。

朝鮮の神話では違う。民衆が

「どうか神様降ってください」

とお祈りすると降ってくる。 [史料4]「又曰 

皇天所以命我者 御是處 惟新家邦 為君后為茲故降矣 称須掘峯頂撮土 歌之云 亀何亀何」。

もしもし亀よ亀さんよと歌うわけです。

「首其現也 若不現也 燔灼而喫也」。

亀さんの姿を現せ、そうでなければ焼いて食べるぞと。民謡だと思います。

「以之踏舞 則是迎大王・歓喜踴躍之也」。

神が降ってきたといって民衆が喜び、踊り回る。

「歓喜踴躍」する。すばらしいシーンです。


 朝鮮の高句麗や百済、伽耶の神話の場合は卵が天から降ってきて、それが割れて中から誕生する。卵から生まれるという卵生型は日本の神話にはありません。

 そして朝鮮の神話ではお供を連れて天降ってこない。単独降臨です。

日本ではお供の神様がついてくる。

アメノコヤネの命は中臣氏の祖先です。瓊瓊杵尊と一緒に天降ってくる。

後の天皇家の周辺の有力貴族の祖先も一緒に天降ってくる。
朝鮮には檀君神話を除いて随伴神伝承はないんです。
後の時代はお供が増えますが。そのように内容が違う。


 もとは共通であったはずの朝鮮と日本の神話がなぜこのように違ってきたのか。

語られた神話、『古事記』『日本書紀』に書かれる段階で、すでに我が国には天皇制があった。

天皇制を背景にできあがった『古事記』『日本書紀』の神話に対して、朝鮮の場合は貴族の合議制。王者はいるのですが、貴族が合議しながら政治をやる(和白制)。

よりデモクラティックな民主的な要素の強い朝鮮社会と、我が国のように天皇制を中心にする社会体制ができあがっている。記録化の背景が違ってくる。社会の仕組みが違うので神話の内容も専制的なものになっていく。極めてデモクラティックな朝鮮との違いができたのではないかというのが私の説です。文庫本(日本の神話を考える)をお持ちの方もおありのようですが、そこにも詳しく書いておりますので参考にして下さい。

 韓国、朝鮮は日本と最も近い国です。善隣友好、隣と仲良くできなくて、どうしてアメリカ、ヨーロッパと仲良くできるか。近くで対立しているようでは、国際化日本にはなれないと思います。そのためには日本の文化と韓国、朝鮮の文化のどこが共通しているかを確かめると同時に、なぜこんなに違ってきたのかということを相互に詳しく理解しなければ本当の信頼関係は生まれないと思います。国際化ということは、相手を知ることがまず第一です。

我々が朝鮮の文化、朝鮮の歴史、朝鮮の生活を知る。そして己を知る。自分を知る。日本人が日本を知らなくて国際化なんてできません。在日の皆さんもそうです。朝鮮の皆さんが朝鮮のことを知らなくてどうして国際化ができますか。朝鮮民族が日本のことだけを知っているのではなく、己を知ることも大事です。いかに友好の関係史があったか。そのことにあわせて極めて不幸な侵略の歴史、大変なご迷惑をかけた、拭うことのできない歴史も忘れてはなりません。

共通の認識と共にどこがどう違うか。異質性、独自性の認識が正しい理解を生むのだと思います。共通性もありますが、違う点もあることをよくご理解いただきたいと思います。以上で終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました

質問 三つだけ教えてください。

@神話は科学的に実証することができるかどうか。
A真床追衾(まとこおふすま)について。
B邪馬台国について。

上田 神話を正しく理解するには書かれた神話、記録化した時にどこにどう手を加えたということを知ることが大事です。原像を復元することはむずかしいと思います。しかしその作業をなおざりにはできません。

 2番目の真床追衾。マは形容語で、寝床の床です。高御座の台です。
被りものを被って降臨する。オブスマは被りもの。スマは中が空洞になっているものです。

 3つ目に邪馬台国、卑弥呼の時代は3世紀前半です。
邪馬台国は私の考えでは前期邪馬台国と後期邪馬台国に二つに分けて考えられる。

後期邪馬台国は畿内の大和だと思います。前期は九州だと考えています。

講談社学術文庫『大和朝廷』に私の説が書いてありますのでお読みください。大王家の祖先は邪馬台国の卑弥呼になるのですが、神武天皇が北九州から入ってくる。北九州から大和に入ってくる伝承を全くの架空とは断言できない。西から東に王権が移ったということがあったに違いない。考古学は1、2世紀の文化は畿内大和より北九州の方が進んでいる。3世紀では畿内大和が進んでいる。

弥生時代の前期は九州の方が進んでいる。弥生時代後期は断然大和が進んでいる。2世紀後半に遡る可能性がある。最近は畿内説の方が調子がいい。畿内説から九州説に寝返った人もいるが、私は一貫して畿内説ですが、生え抜きの畿内ではない。邪馬台国後期の畿内論です。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html

2. 中川隆[-13720] koaQ7Jey 2018年12月19日 11:57:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

「朝鮮隠し」 と 「日本神話」

「白村江の戦」で新羅に破れ国を追われた百済人は、故郷を追われた怨念もあったであろうか、追われた身としてではなく「天から降臨した神の子」として新天地づくりに熱情を傾けた。自分たちの国として、自分たちの位置づけを明確化し、故郷に対する優越意識を高めるために、「朝鮮隠し」なるものを発揚させたのである。

「日本」という国号を作り、「我々は日本人である」という意識高揚が、現日本人の祖先の位置づけを曖昧化させた。朝鮮系の地名・人名を変え

加羅→唐 高麗→呉 金→今、

その風潮は1300年経った現在も消えず、朝鮮の痕跡を顕在化させまいとする歴史が今でも点灯している。

「日本神話」の真実

ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催されたとき、アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開された。その際、上田氏の

「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」

という記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、

日韓の天孫は山頂に降臨しており、共通点が多い

と主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘しているという。


日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。「日本神話」は、主に八世紀初めに書かれた「記紀」の記述がもとになっている。

この説は、「駕洛国記」による韓国の降臨地「亀旨kuji」と「記紀」による降臨地「久志」の音がそっくりであることからも否定できないという。

日本にも朝鮮にも、「仏教」以前から「神道」が存在している。

「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れに日本も乗っていることになる。

弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道」をもちこんだのはごく自然な流れだろう。

梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、

「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、

スサノオは朝鮮半島から出雲へ来た

という説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。

スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」

と述べている。さらに、梅原猛は、著書『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』で、

「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。
スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。
新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。
古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」


と述べている。

出雲市の斐伊川の上流に「鳥髪」という所がある。

市町村合併によりその地名なくなったが、奥出雲の「鳥上小学校」「鳥上公民館」の「上 かみ」は「髪」の音から転用した語である。

AD四世紀ごろ スサノオは韓国の「소머리 somoli 牛頭」から奥出雲の「鳥髪(とりかみ)」へ渡来し、「たたら流し」のリーダーとして名を成した人であるという。

スサノオは砂鉄によって「草薙の剣」を作った偉人という伝説があり、「草薙の剣」はヤマタノオロチの尾にあった剣のことである。「記紀」の神話を書く際に、フィクションのモデルにされたのはスサノオであろうという説がある。奇妙に思うかもしれないけれども、

「記紀」を書いたのは渡来人(主として百済のエリート)であり、「記紀」が書かれるより300年前の伝説の人 スサノオも渡来人である。

「日本神話」の成立についてのこのような話は、現在の日本人にとって想像を超えた物語に聞こえるだろう。


「소머리 somoli 牛頭」と「鳥髪(とりかみ)」は同じ言葉で、「소 so 牛」が「새 se 鳥」に転訛し、「머리 moli 頭 髪」は「鳥髪」の「髪」と同じ言葉であるという。

スサノオが天から降りて来たという神話は、朝鮮の「天孫降臨神話」を模したものでフィクションに過ぎない。このような真実を、馬鹿馬鹿しい想像によるものであると影に移し、「記紀」が書かれて1300年たった現在ですら「スサノオ」と「ヤマタノオロチ」は日本神話の真髄である。朝鮮の影が映っている歴史は影に過ぎないと追跡せず、朝鮮由来の歴史は朦朧と曖昧化されている。従って、日本の古代史の書籍には「謎である」という解釈が目立ち、日本語のルーツは明治以来150年にたってもわからないのだから、今後も「謎だらけ」であろうと豪語する学者らしき人の書籍が店頭を飾っている。
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1eca.html

[庚戌国辱100年紙上座談会・上]韓日元老6人が100年を論ずる
◇古代からの韓日交流史 2010年04月14日 中央日報/中央日報日本語版

−−韓国と日本は古代からさまざまな交流をしてきた。 お互いどんな影響を及ぼし合いながら現在の社会文化を形成してきたと考えるか。

梅原猛=中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。
私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、

出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。

『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。 これは新しい考えだ。

弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。 したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を越の国の支配から独立させた。

出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。 大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。

(神話に出てくる)スサノオが韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。

新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。 古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。

朴泰俊(パク・テジュン)=古代韓国は日本に文明を伝授した。
ポスコがある迎日湾の村には、『三国遺事(サムグクユサ)』に記録されている新羅時代の「延烏郎細烏女」という夫婦の話が伝えられている。

この夫婦が日本に‘太陽と月’(光)を伝え、王と王妃に推戴されたという話だ。

‘光’は文明を意味する。

1973年に迎日湾には日本の協力で新しい‘光’が誕生した。 溶鉱炉の光、すなわち浦項製鉄だった。 迎日湾を背景に両国間でやり取りした‘光’の話は、両国関係の未来を照らす灯火と考えてもよい。 韓日間には日本の侵略と植民地という痛ましい歴史もあったが、お互い助け合いながら発展した時期も多かった。
http://japanese.joins.com/article/246/128246.html?sectcode=&servcode=A00

3. 中川隆[-13719] koaQ7Jey 2018年12月19日 12:00:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

大林組 出雲大社本殿の復元
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/izumo/p01.html


出雲王国は実在したか?


結論から言ってしまえば、この問いに対する私の答えはYESである。後で述べるような意味合いにおいてであるが、出雲に象徴される一大「山陰王国」は実在したと思う。しかもその「王国」は、はるか紀元前後から大和朝廷が成立する古墳時代まで続いていた可能性がある。

1984(昭和59)年の夏、神庭・荒神谷遺跡からの大量銅製品の出現は、従来の出雲観を塗り替えたと言ってよい。それまで出雲には目立った遺跡・遺物は出土しないとされていた為、日本史上多くの謎を秘めていたのである。

なぜ「古事記」「日本書紀」に出雲関係の記事が多いのか、日本神話はどうしてああまで出雲を取りあげているのか、山陰の鄙びた一地方である出雲に、伊勢神宮を上回る規模で最古・最大の神社が存在しているのはなぜか? 

これらは誰にも解けない謎として、過去多くの研究者や古代史マニア達を悩ませていたのだ。


神話の持つ歴史性にさほど信頼を置かない歴史学者や考古学者にとっては、山陰地方に考古学的遺物・遺跡の少ないことが、「記紀」の歴史性を否定する理由にもなっていた。「記紀」の出雲神話や「出雲の国風土記」はもっぱら文学者や民俗学者の研究対象だったのである。

それが今回の発見で、全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る358本の銅剣、銅矛16本(翌'85年)が出土した。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土したのである('85年)。日本神話の故郷は、一気に考古学最前線としてのアプローチを受ける事になった。


この時から出雲に対する認識は一変したと言える。

誰もが、出土した銅剣のその量の多さに驚き、多くの疑問が各方面から提示され、本格的な研究もやっと端緒についた 1996年(平成8年)、今度は加茂岩倉遺跡から実に39個もの銅鐸が一挙に出土した。トンボ、シカなどの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人は殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。出雲はふたたび世間の耳目を集める事になった。更に同じ年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。もはや出雲は何もない国ではなくなったのである。誰もが出雲王国の存在を予感した。


更に、1992(平成4)年から昨年(1998年)まで発掘調査された鳥取県の「妻木晩田遺跡」の出現は、後述するようにその周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えたと言ってもよい。


私が表題に掲げた「出雲王国」というのは、ただ島根県だけを指しているのではないことをご理解いただきたい。現在では出雲と言えば島根県という事になるが、私の考える「出雲王国」というのは出雲を中心として、西は山口県から東は丹後半島から、もしかすると能登半島を通り越して現在の糸魚川あたりまでの広い範囲を考えている。

勿論、ただ一つの国がこれらの広い範囲を支配・管轄していたとは考えられない。2000年前の紀元前後に、王をいただいた唯一つの行政機関がこれらの地域を統括していたとは一寸想像し難い。しかし中国においては「漢王朝」があの広大な領土を統治していたのであるから全く可能性が無いわけではないが、現在の所この地方にそれを窺わせる文献も考古学的知見も存在してはいない。私の言う「王国」とは「文化圏」と同義である。北九州、畿内とは異なる、環日本海文化を共有する集団が存在していたと考える。


クニとしてはそれぞれ独立し、王や首長のもと原始国家を形成していたと思われるが、これらの人々はある一つの大きな事実で互いに結びつき、文化圏を同じくしていた。それは「渡来」である。彼ら環日本海地方の人々は、出身地方こそ違え、皆朝鮮半島からの「渡来人」であった。

一部中国大陸からの人々も居たかもしれない。北九州と同様な、或いはそこよりも進んだ文化と技術を携えた人々が、段階的に日本海側に渡来したのである。

それは縄文末期もしくは晩期にその萌芽を見て、弥生期に入って本格的に形成され古墳時代中期頃まで続いたと考えられる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku.html

我が国に現存する五つの風土記の内、「出雲国風土記」のみがほぼ完全形で伝えられている。成立年代や編作者もあいまいなものが多い中、「出雲国風土記」のみは、天平五年(733)、出雲国造出雲臣広嶋(いずものくにのみやっこ・いずものおみひろしま)編という事がわかっている。この風土記は、神社・寺院・山川・地名の由来、地方の物産などの他に、出雲の国が出来た由来を伝える「国引き物語」など、他の風土記にはない内容を多く伝えており、当時の様子を知ることが出来る第一級の史料である。


「国引き神話」によると、古代の出雲は小さく領土が不足しているので四つの国から土地を引いてきて今の形にしたとある。

現在の島根半島である。衛星からの写真で島根半島を見ると、大きく四つの山塊に別れている事が見てとれる。


「三穂の埼」みほのさき・・・・・・・・・・美保関町北浦・稲積から松江市手角町にかけての東側の岬。美保神社がある。

「闇見の国」くらみのくに・・・・・・・・・・・鹿島町多久川から美保関町北浦・稲積までを言う。闇見の神が鎮座する。

「狭田の国」さだのくに・・・・・・・・・・・・平田市小津から鹿島町多久川の切れ目までを指す。佐太大神が鎮座する。

「八穂米支豆支の御埼」やほしねきづきのみさき・大社町日御碕から平田市小津・平田までを指す。ここに出雲大社がある。

地質学的には、島根半島は約7000年前には日本列島から離れた横に細長い独立した島であった。3000年から2500年ほど前に現宍道湖の東側・西側が地続きになり宍道湖が出来、弓ヶ浜半島も陸続きとなって中海も湖となった。1200年ほど前、弓ヶ浜半島の付け根が再び海となり中海は湾となり、現在に至っている。

神話は例えば三穂の埼を、高志(越:北陸地方。)の国から弓ヶ浜半島を綱にして、大山を杭に引き寄せたという荒唐無稽なものであるが、その地形的な成り立ちと一致しているのには驚かされる。また西側の杵築(きづき)の御崎は、遠く新羅の国から引き寄せたとあるが、衛星も地図もない時代にただ想像力だけでこういう壮大なスケールの物語を作った古代人には圧倒される。


しかし実は、古代出雲人が単なる想像力だけで新羅の国を持ち出したのではない事は明白だ。環日本海ル−トとでも呼ぶべき、大陸・半島との交流が相当昔から存在していたと見るべきだろう。

地図を見れば一目瞭然だが、朝鮮半島東側の新羅からは、実は北九州に行くよりも出雲や伯耆・若狭あたりの山陰・北陸へ行く方が自然である。対馬海流の流れを見ても、逆らってわざわざ松浦に行く事はない。

こぎ出せば海流に乗って自然に出雲あたりへ流れ着くのだ。北九州に負けず劣らず、山陰地方にも古くから大陸・半島からの渡来が行われていたと推測できる。とりわけ出雲では他の地域に先駆けて朝鮮半島と交易を行い、最新ハイテク技術である金属加工法を獲得していたのではないか? 

技術とともにその技術を伝える人々も渡来してきたはずだ。人的交流も盛んだったはずである。その成果が冒頭の358本の銅剣につながるのだろう。


スサノオ、オオナムチを中心とする出雲神話は、我が国神話(記紀)の約3分の1を占めている。8世紀初頭に成立した古事記・日本書紀がここまで出雲を取りあげた、或いは取りあげねばならなかった理由は一体何であろうか。

出雲は、記紀が成立した時代にそれほど重要な、又は重要な記憶を秘めた場所であったのか。


出雲の最高神、大国主(オオナムチ:大国主の命)は、遠く高志(越)のクニまで進出し糸魚川の翡翠製産をもその勢力下に納めようとするほどの権勢を誇っていたが、この出雲王朝に悲劇は突然訪れる。

高天原の天照大御神(アマテラス)と高御産巣日神(タカミムスビ)は孫の火瓊瓊杵(ホノニニギ)を下界へ降ろし、大国主以下の神々に出雲の統治権を高天原に譲るよう交渉させようと試みるのである。しかし第一陣、第二陣の使者達は出雲側の懐柔に会い使命を放棄してしまう。三度目の使者、建御雷(タケミカヅチ)と天鳥船(アメノトリフネ)は出雲の稲佐の浜(出雲大社東岸)に降り立ち、建御雷は、波頭に突き立てた刀の刃先にあぐらをかくという奇怪な格好で大国主と「国譲り」の交渉を開始する。

大国主は即答せず、長男の事代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。事代主は大国主に国譲りを勧め、自らは沈む船の中に隠れてしまう。そこで大国主は国譲りを決意するが、末子建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建御雷に信濃の諏訪まで追いかけられ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、ここに「出雲の国譲り」が成立する。

大国主は国譲りにあたって、高天原の神々の子らと同様の壮大な宮殿造営の条件を出す。高天原はこれを了承し、大国主の為に多芸志の浜に宮殿を造る。


この宮殿について日本書紀は、


(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。

(2).田を作る。

(3).海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。

(4).天の安川に打橋を造る。


....などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)を大国主の祭祀者として任命する。

(この天穂日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の宮司はその83代目にあたるとされている。)


以上がいわゆる「出雲の国譲り」と称される神話の概要である。古事記と日本書紀で細部は異なるが、話の大筋は同じである。この神話を巡っての解釈も諸説あり、神話の中に何らかの史実性を見いだそうとするもの、全くの創作だとするもの、
殆ど史実ではないかと唱えるものなど様々だ。私見では、かなりの確率でこの話は史実に基づいているのではないかと考える。そう仮定すると、出雲の重要度、弥生以後の我が国の展開が矛盾なく説明できると思う。


皇学館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかって大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。

又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(るざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地である、と考えている。これは現在のところ、学会では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文化的な先進性を認めたとしても、それは元々大和にあったのだという発想である。

特に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。

しかしながら私には、大和に文化が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的なように思える。どうしてあんな辺鄙な盆地に突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?

渡来によらず、縄文からどうしていきなり青銅器や稲作を始められるのか?

渡来文化しかありえないではないか。


しかも大陸・半島からいきなり大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。

渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ南下した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱かった奈良盆地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。


大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないような気がする。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとんでもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。

「記紀」によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日命(アメノホヒノミコト)が天下る。

天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大国主の命の領地であった(可能性が高い)大和には、邇芸速日の命(ニギハヤヒノミコト)が天下る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。邇芸速日の命の降臨は神武東征の前であり、出雲の国譲りの後のように思われる。

「杵築(きづき)を見たということは、これはただ珍しい社殿を見たにとどまらず、それ以上のものを見たことになるのである。杵築を見るという事は、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・・・ 悠久な古代信仰の脈拍にふれることなのである。」

明治 23年(1890)9月13日夜半、出雲大社に初詣したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、翌14日、唯一昇殿を許された外国人として、この感動・衝撃的体験をその著書「杵築」で語っている。(昭和50年、恒文社刊 小泉八雲著「杵築」平井呈一訳)


出雲大社十六丈復元図(「日本のやしろ出雲」美術出版社)によれば、古代の出雲大社は、実に巨大で異常な高さを持つ。

往古三十二丈、中古十六丈の社伝が残っていて、現在が八丈(24m)であるから、大昔(創建時)には96mの高さを誇っていた事になる。現在の伊勢神宮が9mである事を考えると出雲大社がいかに高さを主張していたかが理解できる。96mがほんとに建っていたのか、48mにしても、古代にそんな建造物製作が可能であったかについては、大林組プロジェクトチームによる「出雲大社の復元」に詳しい。

復元図を見ていると、この建物は何かに似ている。初めは何かわからなかったが、左右に建っている柱でようやくわかった。

これは縄文・弥生の遺跡から発見される「高床式建物」である。柱がぐーんと伸び、階段も広く長くなっているが、これはまさしく高床式建物ではないか。

高床式建物が渡来文化の賜(たまもの)だとすれば、これは見事にその文化の行き着いた先を表わす「象徴」である。むしろその為にこそ、大国主は高天原にこの宮殿を建てさせたのかもしれない。また、その条件を呑みこの宮を建てた高天原にとっても、出雲はそれほどの強大な権力と見なされていたのであろう。階段の端は遠く稲佐の浜まで続いていたとされている。大国主の命が、宮殿から海に遊びに行く時のために、高橋と浮き橋と天の鳥船が造られたと「日本書紀」は伝えるが、この絵を見ていると宮殿から遙か日本海の彼方を眺めては、自らの父祖の地を想っている大国主の姿が目に浮かぶようである。

1665(寛文5)年10月10日、出雲大社の東方200mの摂社(せっしゃ:本社の付属社で、本社に祀られている神以外を祀る。

勿論本社の神と関わりが深い神々を祀るのが普通である。)「命主神社」裏において、石の切り出し作業中、硬玉(ヒスイ)製勾玉と銅戈が発見された。後世この鑑定が行われているが、硬玉は、京都大学原子炉実験室による成分解析の結果、新潟県糸魚川地方の産とほぼ認定され(近似値を得た)、銅戈は、中細形と言われる形式であり、弥生時代中期に北部九州で濃密な分布があり、鋳型も春日市を中心に多く発見されている。

糸魚川は越(高志)の国とも呼ばれ、大国主がここを訪れ奴奈河比売(ぬなかわひめ)に求婚した話も残っているし、また銅戈とともに出土した土器片は、北部九州に多く見られる木葉文がくっきりと残されており、出雲が北部九州から越の国まで広く交流していたことはほぼ間違いない。北九州と糸魚川を結ぶ環日本海ルートのちょうど中間の位置に出雲はある。

「古事記」によると奴奈河比売訪問の後、大国主は倭国行脚を想起し「出雲国造神賀詞」には大国主の和魂(にぎたま)を大和の三輪山に祀るとある。大和は、出雲の支配下にあった事をうかがわせる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku1.html

4. 中川隆[-13712] koaQ7Jey 2018年12月19日 18:57:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

ros********さん 2012/11/13 23:45:16

オオナムチについて。

福岡県朝倉市にオオナムチ神社という神社があります。

質問します。

@このオオナムチ神社は、日本で最も古い神社だと聞きましたが、これは本当ですか。
逆に言えば、日本で最も古い神社は、どこなのでしょうか。

Aオオナムチ⇒オオクニヌシノミコト
として同一視されているそうですが、オオナムチ自体は、何の宗教のどんな神なのでしょうか。

____


aki********さん 2012/11/18 10:25:00

日本最古の神社は、縄文時代の日本に建っていた、という説を採らせて頂きます。天津神が渡来する前から、縄文時代の日本にも神社があった、一万年の歴史を持つ、と思います。

伊勢神宮の内宮などに、心の御柱と呼ばれるものが建っています。これに注目します。廣田神社に天照大神荒魂、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とあります。撞賢木厳之御魂は、撞=依り憑く、賢木=御神木、厳之御魂=男神の魂、です。その後に続くのは、おそらくこの神を奉斎した巫女の名前。御神木に依り憑く男神の魂を奉斎する巫女を神格化した神、と読めます。男神が依り憑く御神木こそが、伊勢神宮の内宮にある心の御柱と考えます。

神は一柱二柱と数えます。これは、神が宿る御神体の御柱を数えるところから来たもの。三内丸山遺跡や諏訪の祭りを観察すれば、神が依り憑く巨大な柱の存在が明確になってきます。三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉です。数千年から一万年前まで遡れるかもしれません。

猿の子供のメスは、木の枝を赤ん坊に見立てて、お人形遊びをして、母親の心を学んでいきます。宗教を生みだすアニミズムの発想の原型は、母親の尻尾を獲物に見立てて追い回して遊ぶ、子猫にも認められるそうです。哺乳類がもともとアニミズム的な発想をする習性を持つ動物だとすれば、人類はまだ猿だった時代から、原始宗教を持っていた可能性があります。猿の時代から依り代として使ってきた木の棒を巨大化して大地に建てれば御柱です。これが神社の原型です。扶桑信仰の扶桑は、日出国の日本に縄文時代から建っていた。これは、間違いないと思います。それもおそらく最初は蛇と関わりが深い蒲葵だった。しかし、現在の神社のような建築物はまだなかった、御神体の柱だけだった可能性もあります。

オオナムチの蛇神のほうですが、縄文の模様を観察していると、縄模様に蛇の頭が付いたものが散見されます。たしかに蛇は土坑祭祀と関連があるのかもしれません。土坑に見立てた縄文の壺の穴の周囲にも蛇がトグロを巻いて守っていたのだと思います。壺に入れたものに腐敗などの邪気が寄り付かないように。縄文人達が注連縄模様を描いたものを、考古学者が縄文と名付けたのが真相と思います。

壺の中で蛇を飼う昔話は、常陸国風土記のヌカヒメ伝承があります。蛇を飼育する容器が神聖視されて祀られていたことが分かる伝承です。

鏡とは、カカメが転化したもので、カカ=蛇、メ=目で、本来は蛇目のことだったそうです。鏡餅は、カガ=蛇、ミ=身で、蛇がトグロを巻いた姿に見立てて飾ってあるものと考えられます。また神社の御神木とされるナギ(梛)の木は、ナギ=蛇の木だったと思われます。

オオナムチは、政争に敗れて出雲に島流しになる前は、縄文として描かれていた時代からの日本の神だった、と思います。日本神道には渡来系の天津神だけでなく、縄文時代からそのまま引き継がれた在来系の国津神の系列があり、オオナムチは後者かと。ただ、大陸の扶余に渡る前の巫女達が、縄文時代の日本に存在した可能性もあり、両系統は同根で、明確な区分はないのかもしれない。すでに日本最古の神社や信仰の姿を示す証拠品は出土しているものの、現代人はその情報をまだ整理しきれていないと考えます。

銅鐸に刻まれた、太陽の三態を表す記号、朝『\』昼『○』夕『/』とか、火起こしの回転運動に由来する、火(日)の神の力を召喚するパワーを表す、左右の連結された渦巻とか、いろんなものが残っているものの、我々はまだその信仰の姿を十分読み解けていません。


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aka********さん 2012/11/18 01:56:35


神道施設の成立過程から順に明らかにしていきましょう。

神道は、八百万の神々を祀っていますから、多くの信仰が習合しています。そのほとんどは自然崇拝と祖霊崇拝です。自然崇拝は霊山や島や磐座や塚や御神木など、自然物が対象(御神体)ですから、本来は建物を建てて祀るものではありませんでした。神社は社(ヤシロ)とも言い、元は屋代です。代(シロ)とは、お祓いして清められた神が降臨する場所のこと。そこに建てられるのが屋代です。古い時代は仮の宮とされ、神事のときだけ存在して、用がなくなれば解体されていました。

対して、祖霊崇拝の場合は、生前の業績を称えて祀るのが基本ですから、生前の住まいである宮を子孫が大切に保存したり、霊廟を建てることもありました。神宮と神社の違いは、神宮は貴人の住まいが原点というところです。一般的に、神社には依り代となる御神体を祀る神棚の類はあっても、神様が寝起きしたり座る場所はありません。しかし、祖霊崇拝の場合は、依り代となる現人神(生き神)の巫女が寝起きしたり座る、神座がなくてはなりません。両者の違いを、皇室関係の神社とそれ以外と解説するケースが目立ちますが、神道施設が生まれた過程から見れば、不自然な俗説です。

神道のルーツは扶余の名前の由来になった扶桑信仰にあります。扶桑とは日が昇る場所に立つ同根二柱の神木の夫婦神のことで、現在はイザナギとイザナミと呼ばれていますね。扶桑信仰を作った人々は、後の狛犬のモデルになった狼犬を連れて、日本から大陸に渡っています。おそらく縄文時代の鬼界カルデラの大噴火のときに、噴煙による日照条件の悪化に伴う食糧危機を避けるため、青森県まで逃げて、そこから海外脱出した人々です。大陸から祖先の国を拝んだのが、扶桑信仰の始まりだったと推測できる神話が、日の巫女の王の家の神庫に残っています。扶桑信仰は今でも、初日の出を拝む大和民族の風習として残っていますね。つまり、神道の朝日を拝む歴史は七千年程度あると考えられます。

その長い歴史から見ると、神社という言葉は、かなり新しい時代に生まれた高句麗語&日本語です。扶余から派生した高句麗も、太陽信仰の国でした。神庫に残る故老の伝承を総合すると、高句麗は日の巫女の王が宮を構えていた五女山の神宮(高天原)の境内都市から生まれているようです。天照大神の原型となった女神は明姫(アカルヒメ)と言い、東明聖王の母とも妹ともされています。夜明けの情景から太陽が昇る→夜明けを神格化した明姫から太陽を神格化した東明聖王が生まれてくる→天照大神から皇統が生まれた、というのが、天津神の一族が日本へと渡来してもたらした、祖霊崇拝の日拝の神事を起点とする太陽信仰の原初の姿です。

高句麗の国教の姿を伝える中国の文献には、国母とその息子の王の二霊廟を祀っているとあります。あるとき高天原に難民が押し寄せて、国難を解決するために、明姫は豊葦原瑞穂の国(日国)への里帰りを託宣しました。渡来後の宮はヒメコソと呼ばれたようです。これを古い朝鮮語で「姫の社」という意味だと指摘する人々がいますが、私達は神宮を指す古い高句麗語と認識しています。つまり、最も古い日本の神道系の建物は、明姫を奉斎する日の巫女達が住まう神宮で、最初の入植地姫島のヒメコソだった、ことになります。

オオナムチは大国主の別名です。出雲の神々は四国に入植した渡来氏族が奉斎していた神々で、畿内に移動して大和朝廷の基盤を作りましたが、政権闘争に敗れて出雲へと島流しになっています。前方後円墳の原型は、近畿地方に出現するより百年古い時代から四国で痕跡が認められます。また出雲の神々の信仰実績は四国から見つかっています。つまり、オオナムチは、明姫の日国への里帰りの託宣に従って、九州から四国にかけて入植した人々が奉斎していた蛇神の名残りです。

蛇信仰は纏向型祭祀(土坑祭祀)や東盟祭用の隧穴に棲む蛇から生じたもので、注連縄は雌雄一対の蛇の交尾を表したシンボルです。大地母神の多産の象徴であるホトを表しているのが隧穴で、トンカラリン遺跡などにも見ることが出来ます。天岩戸伝説も隧穴信仰から派生しています。鏡の光を当てると、天照大神がなんだろうと思って岩戸から出てきたエピソードがあります。これは、日矛鏡で陽光を反射して作った、太陽神の男性のシンボル(日矛)の光で、多産を祈願して大地母神のホトを突く神事が元になっている表現です。箸墓古墳のホトを箸(隧神の男性の象徴の木の棒)で突いたという伝承もこの系統です。天照大神が隧穴(天岩戸)から出たとき、再び入らないようにと注連縄を渡したことからも、隧穴とそこに棲む神遣の蛇への信仰の関係が見て取れますね。隧穴と一対の男神のシンボルとして蛇信仰が考えられることもあり、蛇神のオオナムチも古い隧穴信仰の名残りの一つなのです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1097174915


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aki********さん 2012/10/31 13:54:35

天照大神は女神とされていますが、なぜ伊勢神宮などに男神の装束が奉納されているのですか?

ベストアンサーに選ばれた回答


aka********さん 2012/11/4 08:51:34


日の巫女の王を襲名した斎の巫女としてお答えします。

日本人は初日の出を拝む風習を持っていますが、神道本来の太陽信仰の姿は、為政者の宗教改革によって見えなくなっています。詳細は省きますが、蘇我馬子は天皇暗殺に飽き足らず、皇祖大兄を名乗って皇統に割り込み、没後は天照大神・男神として祀られるように画策しました。皇祖神・蘇我馬子を後世の人々は否定したものの、太陽信仰の姿が定かでなくなってしまい、本来の太陽神もろとも封印される形になったのです。日本の国姓の姫を母系継承する当家や他の幾つかの社家が、より古い時代の太陽信仰の姿を伝承しています。しかし、天皇記や国記が燃やされるなど、焚書が横行したので、神庫と古い書物の存在は秘匿されたのです。

天照大神は、日本の国号と記紀神話が成立したときに創作された新しい神です。より古い時代に「天照国なになに」という名で祀られた天照系の神々がいますが、そのなかに女神が単体で祀られたケースは見当たりません。信仰実績がないのですから、蘇我馬子達の暴挙が否定された後で、記紀神話が創作された時に、新しく設定された皇祖神と分かります。

記紀神話以前の古い国母神は、比売許曽(ひめこそ/姫の社という意味の古い高句麗語)に祀られていた明姫(アカルヒメ)でした。阿加流比売(アカルヒメ)という音写しか一般に知られてませんよね。天照大神・荒魂・瀬織津姫もまた記紀神話から除外されて、神社からもその名を消されていった女神です。隠蔽体質が顕著です。古い日女神達や建国にまつわる神話は、新たな日本国の神話と信仰を確立する妨げになるので、日本書紀に掲載されませんでした。本当の王統の誕生を祝うお祭りは、京都の葵祭です。建国神話はこのお祭りと一対一対応する桃太郎の昔話として知られています。

詳細を省きますが、アカルヒメが新羅から渡来した女神という神話は真に受けないでください。特有の仮託された表現で構成されているものを、矛盾に気付かずに、太陽神と巫女神が夫婦喧嘩したとか、元祖ストーカー王子と解釈するのは間違いです。書き手の地理的感覚や時間軸も混乱しています。阿加流比売を奉斎する巫女集団が大陸の高天原から渡来した時期は、黄巾の乱の後、卑弥呼登場の少し前です。

記紀神話成立以前の本来の太陽信仰を再生するうえで、国外の和人文化の記録が参考になります。
纏向型祭祀(土坑祭祀)と高句麗の東盟祭の類似性が指摘されています。中国大陸東岸の長江文明の稲作が日本まで伝わってきたことから分かるように、東夷とも倭(和)人とも呼ばれた人々の渡来によって、縄文時代は弥生時代に変わっていきました。黄巾の乱で発生した難民の渡来は、弥生時代を古墳時代に変えていきました。山東半島から纏向遺跡に至る東進ルート沿いに、和人文化圏が形成された時代がありました。高句麗地域(渤海湾岸文明)の朝日に対する信仰は東明信仰です。これを漢民族は扶桑信仰として書き残しています。高句麗では国母神とその息子の男王神の二霊廟を祀っているという記述も残ります。

明姫は「日が明ける」という意味を持つ日女神です。夜明けを神格化した女神です。夜明けから生まれてくるのは太陽です。太陽を神格化した男神が東明聖王です。夜明けが産む太陽。明姫が産む東明聖王。皇祖神・天照大神(女神)が産み出した皇統。高句麗の国母神とその息子の男王神に対する信仰とも対応します。

飛鳥と書いても明日香と書いてもアスカと読みます。飛鳥はじつは「日が明ける(新しい)」を意味する古い高句麗語(祝詞の吏読のルーツ)の音写です。朝鮮語でも「日が明ける」と「飛ぶ鳥」は「날 새/ナルセ」で同音です。「明日」は「日が明ける」の漢語表記です。語尾の「香」は「郷」の音写です。つまり飛鳥郷(京)は、国母(皇祖神)とされた日女(姫)神の明姫の名にちなんだ太陽(東明)信仰の王都なのです。

記紀神話は、イザナギとイザナミの男女一対の神による国産みから始まります。これは陰陽思想に基づきます。天照大神も陰陽思想の影響を受けて設定された太陽神です。天上に輝く陽の存在(太陽)は男神で、その光を受けて人の姿を取るとき、陰の存在の女神の姿を取るとされます。ですから、太陽神・天照大神の依り代となる巫(かんなぎ)は、生き神扱いの男装の巫女なのです。

記紀神話のなかで、スサノオは天照大神のことを姉と呼びます。また、スサノオと対峙するとき、女性の髪形を解いて男装する描写があります。人の姿をした天照大神は、記紀神話の伝承でも女神として描かれます。私が天照大神と心身一体の状態になって神座に座るときに着る神服もまた、男装の剛装束です。皇室から伊勢神宮に奉納される神服も男神用です。普通の人が着るには、やや大きめに作られた物が奉納される慣習があるのは、日の巫女の王の一族は体が大きいことが知られてきたからです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1296497722

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aki********さん 2012/11/13 22:28:43

高句麗は朝鮮ですか大陸(中国?)ですか?民族的に文化的に言語的にどうなのか、それぞれの視点からお願いします。


補足
回答ありがとうございます。

高句麗が騎馬民族だったことを示す、文献なり遺跡なりは残っているのでしょうか?

高句麗は農業大国扶余の分国という情報をネットで拾い読みしましたが、これは間違っているでしょうか?


ベストアンサーに選ばれた回答

aka********さん 2012/11/15 08:36:25


高句麗国の神宮(高天原)の日の巫女の王の忌名と姫姓を受け継ぐ、社家の者としてお答えします。

高句麗は扶余と同じツングースで、北から来たと思っている人も多いようですが、じつはスンダランドが消滅したことで、中国大陸東岸を北上した人々の血がかなり入っているようです。言語的に日本語と近いことは数詞の一致などから見て取れます。固有語レベルで共通性がほとんどない現在の朝鮮語と日本語の関係と比べると、大違いです。とはいえ、地理的に隔たった分だけ差異が認められます。文献研究者が吏読と思っている言葉の多くが、じつは高句麗語というケースが多々あります。当家では日の巫女の王の名を襲名する者は高句麗語(文語的)を第一言語として育てられるので、はっきり認識出来るのですが、そうでない一般の日本人は、失われた言語についてほとんど認識出来ないと思います。

縄文人達は、鬼界カルデラの大噴火の災厄から逃れるために、海外脱出しています。疎開先に東北平原の地域を選んだ人々もいたようです。日の昇る方角に二柱の祖先神が立っていると考える、扶桑信仰が誕生しました。扶は寄り添って立つ同根一対の御神木を指す言葉で、扶余の国名になったようです。この二柱の神々は、現在の日本神話ではイザナギ・イザナミと呼ばれていますね。

扶余国は広大な平野に興った国ですが、寒冷化の影響を受けやすい地域です。太陽の力が陰ったのは王の人徳に問題があるからだという噂が広まって、民から責められた出来事を、漢民族が書き留めています。食糧難が発生して南下を余儀なくされた結果、高句麗や百済が派生したと見るべきでしょう。

高句麗は扶余と同じ太陽信仰の国でした。国母神とその息子の男王の二廟を祀っていることを漢民族が記録しています。これは、夜明けが太陽を産む→明姫(アカルヒメ)が東明聖王を産む→天照大神(神功皇后)が皇統を産んだ、という形で、皇室神道へと繋がっています。高句麗国が半農の国だったことは、東盟祭を観察すれば明らかです。隧穴を大地母神のホトに見立てて、隧神の男性のシンボル(箸=丸太の棒)で突いて、翌年の豊穣を祈願するお祭りをしていました。現代の新嘗祭の原型となった、纏向型祭祀(土坑祭祀)と共通します。箸墓古墳の箸でホトを突くという伝承は、墓の主の死因ではなく巫女が主宰した祭祀形態の伝承です。後世の人々が意味を取り違えたのです。隧穴は高句麗式の石組みのトンカラリン遺跡として日本にも残ります。隧神の箸は日矛鏡で反射した陽光(日矛)へと変り、隧穴を照らす形になりました。天岩戸伝説にも見ることが出来ますね。五穀豊穣を祈願する祭祀は農耕文化の象徴です。当家の主食は今もヘンプ(麻の実)の醗酵粥の醍醐です。東明聖王は朱蒙(弓の名手)の異名を持ちますから、半狩猟民族です。当家の者はボーラや印地の技を伝えています。

扶桑信仰は神仙思想と習合して、東夷=倭人=和人の人々の、蓬莱(日本)への東進を促す原動力になりました。和人文化圏が、山東・遼東半島付近から纏向の地まで広がっていたようです。もし東征だったら、男性は移動しても女性の移動は見られない筈です。ところが、九州の弥生の遺跡からは、縄文に見られないミトコンドリアの遺伝子の型、N9aやZが見出されます。今日の日本人と共通性を持ったパターンが、山東半島や遼東半島付近まで分布しています。つまり女性を伴っての移動だったのです。ところが、男性が担うY染色体のO2bのほうは、かつての和人文化圏に沿った分布が見られません。朝鮮半島付近は、後から男性のみの集団が侵入してY染色体を上書きしています。つまり侵略を受けたのですね。

天照大神の原型となった日の巫女の王が、難民達に日国への里帰りの託宣を下して、自ら日本に渡来して大王家(後の天皇家)を産みだした結果、高句麗の精神文化と言葉が日本にもたらされました。飛鳥や大和や息長などは、高句麗語の音写が変化せずに現代まで残ったものです。この時はO3の型を持った人々が大勢含まれていたと思われます。東明聖王が5部族を無血統一した故事に由来する、和を尊ぶ大和民族の精神に導かれた豊葦原瑞穂の国への里帰りの入植だったようです。京都や奈良の湿地帯の干拓事業を行ったので、古くから日本に住んでいた人々の土地を奪ったわけではないようです。平和的な入植だったので、Y染色体のD2遺伝子などが駆逐されずにちゃんと日本には残っていますね。

高句麗は半農半狩猟の民族で、言語や精神文化は日本が受け継いでいます。難民となって移動した人々は、Y遺伝子で見るとO2bやO3のほうが多いようです。多くの高句麗国の人々は大陸に残ったようですね。東進しやすかったのは、高句麗の民よりも半農・半漁労の人々だった、ということでしょう。

当家の神庫に残る故老の伝承を裏付けるものが多く見出せます。それなりに史実を反映していると思われます。

質問した人からのコメント

2012/11/15 09:09:10

高句麗に大和民族の精神的ルーツがあるという姫様のお家の伝承を元にした御説を以前から読ませて頂いてきましたが、遺伝的な痕跡まであったとは驚きです。

東北平原の土地は肥沃で中国最大の食糧生産地ですが、寒冷化が当時の扶余のヘンプの生産にどういう影響を与えたのか詳しく知りたくなってきました。日女神のお家の主食が米でなく麻の実の発酵粥の理由が、なんとなく分かってきました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1197169726

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ikz********さん 2012/10/19 16:29:16
日ユ同祖論 信憑性はどの程度なのでしょうか。

言語が似ている、歌をヘブライ語にすると意味が通る(君が代、かごめかごめ、 ソーラン節など)という具体的な共通点から、遺伝子が中国韓国人にはないものをもつという根拠不明なものなどが上げられます。

某掲示板では、宗教観が違いすぎる、戦前の白人コンプレックスの日本の学者が作り上げたものだとしているのをみて妙に納得してしまいました。確かにユダヤ教と神道、仏教は違いすぎます。まず一神と多神、偶像崇拝禁止と仏像とで明確です。

ただはっきりどちらに分があるとは判断しにくい部分が多いため詳しい方いたらよろしくお願いします。


aki********さん 2012/10/21 01:10:58

歌の類似性と言えば、和歌がインドの民謡と共通性が高いほうが注目に値すると思います。今でも日本人は海外の文化を輸入して、独自に発展させる才能を発揮していますが、昔もそうだったと考えるべきだと思います。ただし、ヘブライ語と日本語の類似性は他の言語と同程度で、かなり低いと思います。多くは音が似ているだけのコジツケになっていると感じます。

本当に日本語と近いのは、大陸の高句麗語です。言語が近縁かどうかを観察するとき、真っ先に見るのが数詞と言われています。日本語と高句麗語の数詞の比較を行うと、朝鮮語などよりもはるかに近縁の言語という結果が出るようです。

高句麗は滅亡して、その人々は女真族と名を変え、今は満州族と呼ばれています。

彼等は清帝国を築いたわけですが、清の時代に遭難した日本の商人が北京に行って驚いたのが、一二三四ではなく、ヒ・フ・ミ・ヨの日本語の数え方がそのまま通じたことだそうです。高句麗の流れを汲む女真族の言葉を話す人々と、北京で普通に接触できたようです。

百済は扶余・高句麗から枝分かれした王室で、朝鮮半島は異民族支配されていました。

そのため、百済の王室と民は異なる言語を話しているという指摘が、中国側に残っています。

神道の世界には古い朝鮮語が数多く残っていると指摘されることがありますが、実際にはそれが失われた高句麗語という説も出てきています。


高句麗語は日本語と同じ膠着語です。

系統が違う漢民族の言葉と文字がいきなり日本に輸入されたわけではなく、まず漢民族の言葉と直接接していた高句麗語が漢字表記されるようになり、それが、高句麗と近い山東半島や遼東半島付近の海人の手を経て日本にもたらされて、古い神道の祝詞の言葉などが作られていったと考えられます。

纏向型祭祀と高句麗国の東盟祭の類似性も、かなり指摘されているようです。

倭人文化圏が北九州から済州島を経て山東半島や遼東半島付近に分布していたと認識している中国側の史料が幾つか散見されるようです。

卑弥呼寒冷期と呼ばれる地球規模の寒冷化に伴って、飢饉に直面した高句麗地域の人々が日本に渡来した結果、弥生時代が古墳時代に変わっていったという説があるようです。

九州に山東半島原産の三眠蚕が入り、纏向(奈良)にも山東半島付近の製鉄と蚩尤(兵主・天日槍)の信仰が入っています。その結果、天照大神のモデルになった古い日女神を祭った比売許曽(ヒメコソ)神社が建てられるといった現象が起こったようです。

比売許曽は姫を祀る神社という意味の高句麗語(朝鮮古語)です。だから、比売許曽神社の末尾の「神社」は必要のない筈ですが、時代が下って元の意味が見失われた結果、付けられるようになったと考えられます。祝詞にも高句麗語由来の言葉が大量に入っている、というより、本来祝詞は高句麗語(吏読)だったそうです。謎が多いとされる「ひふみ祝詞」は、高句麗語として意味がほぼ通じる形で伝わっているそうです。飛鳥という都の名前も元は高句麗語のようです。

トルコからシルクロードを介して日本まで、膠着語圏が広範囲に広がっています。
文法的に近いため、日本語に輸入しやすかったことが考えられます。


たとえば、天皇を古い時代はスメラ・ミコトと呼んでいました。

シュメール文明と日本語の関係がかなり指摘されていますが、シュメール・ミグトと言えば、天降りた支配者のことで、日本語と音が似ているだけでなく、意味も一致しています。したがって、シルクロードを介して日本に入ってきたのは、なにも古代イスラエルの文化に限られるわけではないと思われます。

秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成になっていて、ペルシャ人の人骨が近くから出ているようです。

ササン朝ペルシャの滅亡に伴って、シルクロードに逃れた王子が中国に亡命し、妻子を安全な日本まで連れて来ているケースもあるようです。わずか数年で日本とペルシャは繋がる距離にあります。西の文化が日本に断片的に入っていても、不思議ではありません。仏教も入れば、ギリシャ彫刻もガンダーラの地域で形を変えながら伝わっています。

しかし、文化的影響が認められるからと言って同祖論を持ち出すのは、不自然すぎると感じます。それを言うなら、人類はアフリカ原産の動物で、皆同祖という話になります。

遺伝子に関しては本来akatamayorihimeさんが御専門の筈ですが、完全スルーしているようです。相手にする必要もない勘違い、ということだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1195894356

5. 中川隆[-13711] koaQ7Jey 2018年12月19日 18:59:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

2017-05-31 日本神話=朝鮮神話
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557


日本人が天から舞い降りた民族でもなければ日本から生えてきた民族でも無い以上日本人はどこからかやってこなければならない。そしてそれは間違いなく朝鮮半島であった。日本神話は確実に朝鮮神話に源流を持つ。日本神話で有名な八咫烏も高句麗のシンボルである。

↓高句麗の壁画に描かれた八咫烏

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八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。 日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、 導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏について - 熊野本宮大社 | 公式サイト

平安から鎌倉時代にかけて皇族や貴族から篤い信仰を受けた熊野神社の主祭神は朝鮮半島ソシモリ出身のスサノオであり、そのお仕えである八咫烏は高句麗のシンボルである。熊野神社は高句麗系渡来人の神社であったのだろう。スサノオは朝鮮半島のソシモリから虵の韓鋤の剣を携えやってきてヤマタノオロチを退治した。「虵の韓鋤の剣」は間違いなく朝鮮製の剣であろう。ヤマタノオロチは蛇である。日本の古くからの信仰は蛇信仰である。蛇信仰は注連縄や鏡餅や土器などに見ることができる。脱皮し永遠の命を持つと思われた蛇は信仰の対象であった。その蛇を朝鮮半島からやってきた神が朝鮮製の剣で退治したヤマタノオロチの神話は示唆的である。これは渡来人が蛇信仰の土着倭人を殺戮した歴史では無いだろうか。

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古神道とはどのようなものか考えたときそれは原始的なアニミズムであっただろう。その特徴を色濃く残す神社と言えば諏訪大社である。諏訪大社の巨木信仰はまさにアニミズムだろう。また諏訪大社ではソソウ神という蛇神やミシャグジ神を祀っている。柳田国男もこれを先住民族の信仰と考えた。諏訪大社の主祭神は建御名方神と八坂刀売神である。建御名方神といえば国譲り神話でこっぴどくやられた神であり八坂刀売神は記紀神話には存在しない諏訪土着の神である。おそらく土着の倭人が朝鮮系の民族に追いやられた歴史を反映していると考えられる。縄文の信仰を残す諏訪大社と国を譲らざるを得なかった神。偶然の取り合わせでは無いだろう。実際縄文系のDNAは日本の周縁へと追いやられている。朝鮮系渡来人である弥生系DNAは日本の中心に分布している。

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古神道を考える上で忘れてはならないのが出雲大社である。記紀の3分の1の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社には出雲系の神が祭られているという。間違いなく古神道といえるだろう。出雲大社の主祭神は大国主大神である。国譲りで国を明け渡さなければならなくなった神であり、大和へその地位を譲らなければならなかった古代出雲文明の神であろう。事実、大国主神は祟り神として知られている。大国主神は国津神の主祭神であり土着の神である。大国主神もまた縄文系の土着の倭人の神であろうか。出雲大社にも流れ着いた海蛇を祀る風習があるという。古代の蛇信仰も色濃く残した神社である。研究によれば出雲の人々のDNAは朝鮮人や中国人とは違うようだ。やはり出雲大社は土着の倭人の神社であるように思われる。

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比較的新しい信仰が天照大神信仰であろう。天照大神は天津神である。渡来人の神であろう。天照大神は機織りや稲作を行う記述があることからも渡来人であることが伺える。天孫降臨神話においても天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊は「この地は韓国に面して、笠沙の岬にも通じており、朝日と夕日が照らす素晴らしい土地である」と発言したように、朝鮮半島との関係をうかがわせる。天照大神は皇室の祖神であり、国家神道の主祭神である。大化の改新の後に皇祖神となったと言われている。持統天皇が日本書紀を編纂させた。その日本書紀が天照大神に特別な地位を与えたと言われている。
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557


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朝鮮と日本の神話の類似性
上田正昭 京都大学名誉教授(2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html


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高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032


高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。


春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注

1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91

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10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html


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昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16

あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。

高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。

いま、あのときの顔を思い出しています。

三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643

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hoh********さん 2016/2/13 01:29:09

神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?


pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588

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文献は語る −日本神話

1.天孫降臨


天孫降臨の話は、基本的には高天原の神々がその直系の神を高天原から地上の世界へ降ろし、地上を支配していた国津神たちから国土を譲り受ける、あるいはそのまま支配する話なのだが、これは以下のような構成になる。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

このうち(1)、(2)はオオクニヌシの支配する葦原の中津国、すなわち出雲地方のことで、この物語は天孫降臨よりも、「出雲の国譲り」としてのほうが知られている。しかしこれも意味合いから言えば天孫降臨である。「国譲り」とはぶんどった方の呼び方であって、取られた方からすれば略奪であり、占領である。

難波や日向に天下った際には特別な記事はないのに、出雲だけ何故建御名方神が抵抗したのか。おそらく、当時の国々の中では出雲だけが、高天原(天津神(渡来して北九州にいた集団)たちの国)に抵抗できるだけの体制(軍備・文化・技術等々)を持っていたからに相違ない。これは、出雲が北九州とは独立して、遙か昔からの先進文化を受け入れていたことを示している。

葦原中国を平定後、アマテラスは最初、我が子天之忍穂耳命(オシホミミノミコト)に、葦原中国を統治するように命じたが、オシホミミノミコトに子が生まれ、アマテラスは、その子番能邇邇藝(ホノニニギノミコト)を降臨させる。 最初命を受けたオシホミミノミコトが、降臨の役目を辞退してしまうのはなぜかよくわからない。アマテラスは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、伊斯許理度売命(イシコリドヒメ)、玉祖命(タマノオヤ)を孫のニニギノミコトに付けて、共に地上に行くように命じ ニニギノミコトに、八尺の勾玉(ヤサカノマガダマ)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、そして草薙剣(クサナギノツルギ)を授ける。更に、思兼神(オモヒカネノカミ)、天手力男神(タヂカラヲノカミ)、天石門別神(アメノイハトワケ)、らにニニギノミコトと一緒の天降りを命じた。ニニギノミコトには、

「この鏡を私の魂と思って、私の前で拝むような気持ちでいつも敬うように」

と下命した。一行の降臨を国津神の猿田彦神(サルタヒコ)が待ち受けていた。こうして、ニニギノミコトは、高天原を離れ、随行する神々と、途中、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降った。

この地は韓国に向き、笠沙の岬にまっすぐ道が通じていて、朝日がまぶしくさす国であり、夕日が明るく照りつける国でもあった。ニニギノミコトはここに宮殿を造るが、ニニギノミコトが天降った高千穂という伝説地は、宮崎県西臼杵郡高千穂町と宮崎・鹿児島両県にまたがる高千穂峰が有名である。天孫降臨の話は、古事記と日本書紀では若干違っており、日本書紀では本伝のほかに多くの異伝を伝えている。天上から地上への降臨による地上支配の発生という神話は、東アジアを中心にして多くの民族に共通し、それらを北方的な要素とみなす見解もある。 天孫降臨のあとは、いわゆる日向神話における山幸彦・ウガヤフキアヘズ命の誕生を経て、初代神武天皇へと直結する。


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古事記での「天孫降臨」


故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。
(倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年)


日本書紀での「天孫降臨」

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店1993年)

(注;)日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。


日向國風土記逸文での「天孫降臨」

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
(秋本吉郎校注「日本古典文学大系2 風土記」岩波書店)


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梅原猛は、この神話は一般に「天孫降臨」として知られるが、最初は「天子降臨」だったのではないか、という指摘をしている。この神話の原典は古事記・日本書紀・万葉集だが、万葉集が一番古い資料で、古事記・日本書紀では確かに 「天孫降臨」になっているが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではない。そこで梅原は、万葉集の原型が作られたのが、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時に、この孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、としている。なかなか興味深い推察である。


天孫が降臨した「高千穂」を巡っても諸説ある。古事記では、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)、日本書紀では「一書に曰く」と諸説あるため、高千穂峯(たかちほのたけ)、久志振流岳(くじふるだけ)などに降臨した事になっているが、宮崎県の高千穂町と、鹿児島の霧島山系・高千穂の峰が「高千穂峯」の本家争いをしているのは有名な話である。しかしその「くじふるだけ」という呼び方から、大分県の「久住岳」(くじゅうだけ)と言う意見もあるし、福岡県の英彦山には、天忍穂耳神が降臨されたという伝説があり、農業や鉱業などの守り神として今も信仰されている。


本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと言っている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)

 
また宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、 知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」
(『古事記』十七之巻)


前出梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく 新潮社刊」の中で、この本居宣長説について、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動したのではないかとこの説を補強している。

2000年9月14日(木)から17日の間、第38回歴史倶楽部例会で、「南九州/神話・遺跡の旅」と称して、宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡などを廻ってきた。高千穂町はほんとに山深い鄙びた町である。こんな所に神々が降ったとは一寸思えない。しかしそれは、一大生産地としての観点から見ればであって、神話に言うただ降りてきただけの「降臨の地」とすれば納得できない事ではない。山深い幽玄な雰囲気はそれを十分感じさせるだけの説得力を持っている。だが神話を離れて、外来民族か或いは他地方からの民族移動を「天孫降臨」だとすれば、この地はあまりに辺境すぎる。あまりにも山の中である。天孫ニニギの尊が、「葦原の中つ国」を治めるために降りて来るには一寸ばかり山峡すぎる。日向に三代に渡って住んだと記紀は書いているが、高千穂から日向の国へ移ったという記述はない。とすれば、降りてきた高千穂にニニギニミコト、ウガヤフキアエズ、カンヤマトイワレビコと三代住んだと考える方が自然だろう。それにしてはここはあまりにも山の中である。ここでは東に良い国があるなどという情報も到達しないのでは、と思える程辺境だ。


(以下古事記による。)

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爾くして、天照大御~・高木の~の命(みことのり)以ちて、太子(おおみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命に、

「今、葦原中國を平らげ訖(おわ)りぬと白す。故、言依(ことよ)」

さし賜いし隨(まにま)に降り坐して知らせ」

と詔りき。爾くして其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命、答えて、


「僕、將に降らんと裝束(よそ)える間に、子、生まれ出でぬ。 名は天邇岐志國邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能邇邇藝(あまつひたかひこほのににぎ)の命、此の子を降すべし」


と白しき。 此の御子は高木の~の女、萬幡豐秋津師比賣の命に御合して生める子、天火明(あめのほあかり)の命、次に日子番能邇邇藝の命【二柱】也。是を以ちて白しし隨に、日子番能邇邇藝の命に科(おお)せて、「此の豐葦原水穗の國は汝が知らさん國と言依さし賜う。


故、命の隨に天降爾くして日子番能邇邇藝の命、將に天より降らんとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上は高天原を光し、下は葦原中國を光す~、是れ有り。故、爾くして天照大御~・高木の~の命以ちて、天宇受賣の~に、

「汝は手弱女人(たわやめ)に有りと雖も、伊牟迦布(いむかふ)~と面勝(おもかつ)~ぞ。故、專(もは)ら汝往きて將に、

『吾が御子の天降らんと爲す道に、誰ぞ如此して居る』と問え」

と詔らしき。 故、問い賜いし時に答えて、

「僕は國つ~、名は猿田毘古(さるたびこ)の~也。出で居る所以は、天つ~の御子、天降り坐すと聞きし故に、御前に仕え奉らんとて參い向い侍る」

と白しき。


爾くして、天兒屋(あめのこやね)の命・布刀玉(ふとだま)の命・天宇受賣(あめのうずめ)の命・伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命・玉祖(たまのおや)の命、并せて五伴緒(いつとものお)を支(わか)ち加えて天降しき。是に其の遠岐斯(おきし)、八尺勾(やさかのまがたま)、鏡、及び草那藝の劍、また常世思金の~、手力男の~、天石門別(あめのいわとわけ)の~を副え賜いて詔らさくは、

「此の鏡は專ら我が御魂と爲て、吾が前を拜むが如く伊都岐(いつき)奉れ。次に思金の~は前の事を取り持ちて政を爲せ」

と、のりき。此の二た柱の~は、佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拜み祭る。次に登由宇氣(とゆうけ)の~、此は外宮の度相(わたらい)に坐す~也。


次に天石戸別の~、またの名を櫛石窓(くしいわまど)の~と謂い、またの名を豐石窓(とよいわまど)の~と謂う、此の~は御門の~也。次に手力男の~は佐那縣(さなあがた)に坐す也。故、

其の天兒屋の命は【中臣連(なかとみのむらじ)等の祖(おや)】。
布刀玉(ふとだま)の命は【忌部首(いんべのおびと)等の祖(おや)】。
天宇受賣(あめのうずめ)の命は【猿女君(さるめのきみ)等の祖(おや)】。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は【鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖(おや)】。
玉祖(たまのおや)の命は【玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖(おや)】。


故、爾くして天津日子番能邇邇藝の命に詔りて、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多那(たな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾くして天忍日(あめのおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挾み、御前に立ちて仕え奉りき。

故、

其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。

是に詔らさく、

「此地は韓國に向かい、笠紗(かささ)の御前に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國也。 故、此地は甚吉(いとよ)き地」

と、詔りて、底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て坐(いま)しき。


【ホノニニギの、諸文献における表記】

古事記 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子番能邇邇芸命
天津日子番能邇邇芸命
日子番能邇邇芸命
日本書紀 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
天之杵火火置瀬尊
天杵瀬尊
火瓊瓊杵尊
天津彦火瓊瓊杵尊

風土記 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
瓊瓊杵尊
哀能忍耆命

先代旧事本紀 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊


ホノニニギの神名の多さと長さは記紀にもあまり例がない。ちょっと異常と思えるほどだが、想像をたくましくすれば、北九州の高天原からあちこちへ降臨した神々がいたのではないかと思わせる。日向へ降ったホノニニギはその一人で、神話が形成されていく過程で、ホノニニギ一人に集約されたもののようにも思える。ホノニニギの「ホ」は「穂」であり、ニニギは「にぎにぎ」の意で「賑やかな」「賑わう」と解釈し、稲穂が豊穣に実っている様を表していると言われる。

また、ホノニニギは「天神御子」とも称され、神から天皇へ繋がる系譜上の重要なポイントに位置し、先に見たように、記紀編纂当時の、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の皇位継承問題の事情が反映されているのではないかとも言われる。日本書紀九段本書では、天孫降臨の任務は初めからホノニニギであり、赤ん坊の姿でマトコヲフスマに包まれて降臨している。ホノニニギは、崩じた後日本書紀によれば「可愛之山綾」に葬られ、現在その場所は、鹿児島県川内市宮内町や、宮城県延岡市北方の可愛岳などが想定されている。


「国譲り」神話を、何らかの史実を秘めた伝承であるとする立場からすれば、冒頭にも記したように、これは明らかに民族間の領土移譲を含めた権限委譲である。若干の武力抗争もあっただろうが、「国譲り」と表現されるような、圧倒的な軍事力の違いの前に、国を譲らざるを得ないような状況があったのだろうと想像できる。見てきたように、それは北九州の高天原に、出雲の葦原の中津国が屈したのだと考えれば、以後の歴史展開が、考古学の成果も含めて一番説明が容易である。そうやって北九州の、当時の日本列島で一番勢力が強かった一団が、出雲や畿内や南九州を屈服させていったのだろうと思われる。天孫降臨は、それらの屈服させた領地へ派遣する司令官とそのお供の武官達を任命した、いわば壮行会であり、辞令交付式だったのだろうと思われる。そして時代を経て、それは高天原と国津神たちの支配する中津国とのお話として神話となって伝承された。


高天原の神々が降臨に用いる乗り物は天の磐船であり、雲であり、その上に乗って大勢のお供とともに天下っている。これは明らかに海上を船によって移動したことを示唆している。陸上を馬や徒歩で移動したのであればこういう表現にはなっていない。これは高天原が少なくとも近畿ではなかったことを強く物語る有力な証左である。


2.日向三代


天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。

神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、すぐ側の西都原(さいとばる)古墳群を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここにあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研究がなされてもいいような気もする。


こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったものである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。


さて、ニニギの尊が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会う。迩迩芸命が名を尋ねると

「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫(このはなのさくやひめ)といいます。」

と答えた。そこでニニギは咲夜姫に結婚を申し込むが、咲夜姫は

「私の父に言って下さい」

と答える。そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、姉の石長姫も一緒に娶ってくれといい、婚礼用品を添えて二人の娘をニニギの元にさしだした。

ところが石長姫の方は醜女だったため、ニニギは大山津見神の所へ返してしまう。すると大山祇神は怒り、

「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持てたのに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」

と答えた。古事記は、だから代々の天皇の寿命は短いのだとコメントしている。

さて、その咲夜姫だが、ニニギとは一度しか交わらなかったのに、その一回の交わりだけで妊娠してしまう。ニニギは、1回交わっただけで妊娠するとは、と疑った。咲夜姫は、

「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」

と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落した。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命という。火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦である。山幸彦はまた、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名を持つ。


海の神の娘、豊玉姫神と結婚し、やがて鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産む。彼は豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚して、神武天皇が産まれる。


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是に天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗の御前に麗しき美人に遇いき。爾くして、

「誰が女ぞ」

と問いき。答えて、


「大山津見の~の女、名は~阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂う」

と白しき。また、

「汝、兄弟有りや」

と問いき。答えて、

「我が姉、石長比賣(いわながひめ)在り」

と白しき。 爾くして、

「吾は汝と目合(みあ)わんと欲う。奈何に」

と詔りき。答えて、

「僕は白すことを得ず。僕が父、大山津見の~、將に白すべし」

と白しき。故、其の父の大山津見の~に乞い遣りし時に、大きに歡喜びて其の姉の石長比賣を副(そ)えて、百取(ももとり)の机代の物を持たしめて奉り出だしき。故、爾くして其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟の木花之佐久夜毘賣を留めて一宿、婚爲き。爾くして大山津見の~、石長比賣を返ししに因りて大きに恥じて白し送りて、

「我(あれ)の女、二並(ふたりとも)に立て奉りし由は、石長比賣を使わさば、天つ~の御子の命、雪零り風吹くと雖も、恆に石の如くして、常わに、堅わに動かず坐さん、また木花之佐久夜毘賣を使わさば、木の花の榮ゆるが如く榮え坐さんと宇氣比弖(うけいて)貢進(たてまつ)りき。此く石長比賣を返らしめて、獨り木花之佐久夜毘賣を留むる。故に天つ~の御子の御壽(みいのち)は木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さん」

と言いき。故、是を以ちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等の御命(みいのち)は長くあらぬ也。


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豊玉姫は妊娠し、天津神の御子は海の中で生んではならないと地上へやってきた。そして渚に鵜の羽を茅葺(かやぶき)にした産屋を建ててくれと山幸彦に頼み、異郷の者が出産するときには、すべて元の国の姿になるので、出産現場を見ないでくれと頼む。山幸彦は見ないと約束するが、心配と好奇心で産屋を覗いてしまう。そこに居たのは、八尋(やひろ)ワニの姿に戻った豊玉姫がいた。驚く山幸彦に、約束を破って姿を見られたからにはもうここにはいられないと豊玉姫は、我が子ウカヤフキアヘズノミコトの世話を、妹である玉依姫神に託すと単身海の国へと戻っていった。


山幸彦ことホヲリノミコト(火遠理命)は、日向で580年生き、高千穂の山の西に葬られた。ホヲリノミコトの子、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)は、やがておばの玉依姫神と結ばれ、イツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)が生まれた。ワカミケヌノミコトの別名は、カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼昆古命)と言った。

ミケヌノミコトは常世国へ行き、イナヒノミコトは母のいる海原に入った。


故、後に木花之佐久夜毘賣、參い出でて、

「妾(あれ)は妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、是れ天つ~の御子にして、私(わたくし)に産むべきにあらぬが故に請(もう)す」

と白しき。爾くして、

「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める。是れ我が子に非ず。必ず國つ~の子ならん」

と詔りき。爾くして答えて、

「吾が妊(はら)める子、若し國つ~の子ならば、産むこと幸くあらず。若し天つ~の御子ならば幸くあらん」

と白して、即ち戸の無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞(ふさ)ぎて、方(まさ)に産まんとする時に火を以ちて其の殿に著(つ)けて産む也。 故、其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命【此は隼人(はやと)の阿多(あた)の君の祖(おや)】。 

次に生める子の名は、火須勢理(ほすせり)の命【須勢理の三字は音を以ちてす】。 

次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見(あまつひたかひこほほでみ)の命【三つ柱】。

(略)

是に海の~の女、豐玉毘賣の命、自ら參い出でて、

「妾(あれ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今産む時に臨みて此(これ)を念(おも)うに、天つ~の御子を海原に生むべくあらず。故、參い出で到れる也」と白しき。爾くして即 ち其の海邊の波限(なぎさ)に鵜の羽以ちて葺草と爲て産殿を造りき。

是に其の産殿の未だ葺き合えぬに御腹の急(にわ)かなるに忍(た)えず。故、産殿(うぶや)に入り坐しき。爾くして將方(まさ)に産まんとする時に其の日子に白して、「凡そ他(あた)し國の人は産む時に臨みて本(もと)つ國の形を以ちて産生(う)むぞ。故、妾(あれ)今本の身を以ちて産まんと爲(す)。願う妾を見る勿(なか)れ」


と言いき。是に其の言(こと)を奇しと思いて竊かに其の方(まさ)に産まんとするを伺えば、八尋和邇(やひろわに)と化りて匍匐(はらば)い委蛇(もごよ)いき。

即ち見驚き畏みて遁(に)げ退(そ)きき。爾くして豐玉毘賣の命、其の伺い見る事を知りて心恥(はずか)しと以爲(おも)いて、乃ち其の御子を生み置きて、

「妾は恆に海の道を通りて往來(かよ)わんと欲(おも)う。然れども吾が形を伺い見ること、是れ甚(いと)(はずか)し」

と白して、即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて返り入りき。

是を以ちて其の産める御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)の命と謂う。然くして後は、其の伺いし情(こころ)を恨むと雖ども戀(こ)うる心に忍(た)えずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌を獻(たてまつ)りき。 

(略)

故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命は、高千穗の宮に坐(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)。御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山の西に在り。是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命、其の姨(おば)の玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、五瀬(いつせ)の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛沼(みけぬ)の命。

次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命、またの名は~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命【四つ柱】。故、御毛沼の命は浪の穗を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は妣(はは)の國と爲(し)て海原に入り坐しき。


古代、南九州には隼人と呼ばれる一族がいた。山幸彦に降伏した海幸彦は、溺れたときの所作を演じ、ふんどしをつけ顔や手足を赤く塗り、俳優の技をして弟を慰めたといい、そして、この子孫が隼人であるといわれる。海幸・山幸神話は、皇孫である山幸彦に隼人の祖である海幸彦が服従するという、隼人の朝廷への服従起源でもある。この話は、もともと南九州にいた隼人族の伝承であったといわれており、その伝えていた芸能隼人舞の由来話という形で、その首長の前で演じられていたのではないかといわれている。猟具の交換を発端とする海底国への訪問、失った釣針などに類似する話としては、喜界島の「竜神と釣縄」という話があり、そのほか、パラオ等、インドネシアからミクロネシアにかけて類似した話が語られている。


日向国が、現実の南九州の日向であったかどうかについても色々な議論がなされている。日向とは現在の宮崎県ばかりでなく、大隈と薩摩を含んだ地域であるとすると、それは隼人族の住む未開の地でもあるので、皇室の祖先はそうした未開の地は原郷にしないという説もあるし、日向とは単なる「太陽の照らす聖地」という意味にすぎないという説もある。そもそも邪馬台国問題と同じで、或いはそれ以上に情報量は少ないので、神話や民俗学に興味がある者なら、いかようにも解釈できることになる。

日向三代の神話が全て隼人族の伝承だったとすると、「コノハナサクヤヒメの神話」「海幸山幸の話」も同じくインドネシア、ミクロネシアに類似した神話が多くあるので、隼人族そのものも南方種族ではないかとする説もあり、かなり有力視されている。しかし、日向三代神話が隼人の伝承であったとすると、これを大和朝廷が皇室の神話系譜の中に取り入れたのは何故なのか、またいつごろなのかという問題が残る。


北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたのだと解釈すれば、宮崎に残る西都原古墳群やこの神話の持つ意味も理解できる。日向に三代も住めば、そこが地理的に日本列島の統治にとって都合のいい場所ではないと判明したかもしれないし、もっと実りの多い、稲作に都合の良い平野を抱えた地方が東にあるという情報も、派遣した先兵や偵察隊が報告していたかもしれない。実際に、後に神武天皇と呼ばれる人物が東を目指して旅だった可能性も高いが、私が邪馬台国東遷説にいまだ同意できないのは、もし、高天原=北九州、天照大神=卑弥呼だとすると、その後の邪馬台国はどうなったのかという疑問が未だに解けないからでもある。邪馬台国から日向へ降りてきたニニギは日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。


3.神武東遷


初代の天皇である神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日向国に天下りした邇邇芸命(ニニギのみこと)の曾孫にあたる。神武の時期から人代で、それ以前は神代とされる。神武の一族は、日向国高千穂宮に住んでいたが、兄のイツセノミコトと共に、東国に豊かな土地を求めて移住を始め、豊国宇佐足一騰宮(あしひとつあがりのみや:

大分県宇佐市)、竺紫岡田宮(福岡県遠賀川河口)、阿岐国多祁理宮(たけりのみや:広島県府中町)、吉備高嶋宮 (岡山市高島)、青雲の白肩津(東大阪市日下町)、紀国男水門(大阪府泉南郡樽井町)、熊野村(和歌山県新宮町)、吉野の川尻(奈良県吉野郡)を経て、宇田(奈良県宇陀郡)へ到着した。

岡田宮に一年、多祁理宮に七年、高島宮には八年も滞在したとされる。瀬戸内海を渡った神武は、難波の津で長髄彦に抵抗され、兄・五瀬命を失うが、和歌山の大台ヶ原から大和に入り、長髄彦を破って大和の平定に成功し、辛酉年春正月一日に、橿原宮で即位し、百廿七歳で、橿原宮にて死んだ。


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宇佐に行く前、二人は速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で亀の甲羅に乗って釣をしている人間を見つける。お前は誰かと尋ねると国つ神だといい、海路をよく知っているというので案内人とし、サヲツネヒコ(棹根津日子)という名をあたえる。

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  一行は難波に上陸するが、登美(奈良市富雄町)の豪族、ナガスネビコ(那賀須泥昆古)が軍勢を率いて攻めてきた。戦闘はナガスネヒコが優勢で、イツセノミコトも敵の矢を受ける。イハレビコは

「日の神の御子である我々が、日に向かって攻め入ったのが良くなかった」

として、日を背にして敵を撃とうと紀州沖を南下し熊野から内陸をめざすが、兄のイツセノミコトは船上で絶命してしまった。今、イツセノミコトの御陵が紀伊の国の竈山にある。

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イハレビコは、和歌山から南に回って、熊野村に到着したが、大きな熊に出会い、やがて一行の兵士達は突然気を失い、次々に倒れ伏す。そのとき一振りの太刀をもった男が現れ、イハレビコに剣を献上した。この太刀で、イハレビコは熊野の山の荒ぶる神を退治した。この時剣を献上したタカクラジ(高倉下)が、イハレビコに剣を渡した訳を説明する。

夢をみて、夢にアマテラスとタカギノカミが現れ、二人は、タケミカヅチ神を呼び寄せて

『葦原中国はひどく騒然としており、我が御子たちは病み悩んでいるようだ。かの国はそなたが服従させた国なのだから、もう一度そなたがいって御子たちを助けてこい。』

と。タケミカヅチは、

『私が降らなくても、かの国を平定した太刀がありますから、このサジフツノカミ(佐士布都神)を降しましょう』

と、タカクラジが授かって届けに来たのだという。さらにタカクラジは、夢の中で、タカギノカミからの伝言を預かっていると言う。

「荒れすさぶ神がたくさんいるから、天つ神の御子をこれ以上奥に行かせてはならない。」

「今、天上からヤタガラス(八咫烏)を遣わそう。そして、そのヤカガラスが先導するので、その後についていくように。」

ヤタガラスの後を追いながら吉野川の川下にたどりついたカムヤマトイハレビコは、魚をとっている人物に出会った。 さらに進むと、井戸から尾の生えた人物に出会った。さらに、山に入ると尾の生えた人物が岩を押し分けで出てきた。それぞれ、天津神の御子が来るというので、出迎えにきた国つ神だった。そして、奈良県の宇陀という場所にたどりついた。タケミカヅチから授かったこの霊剣、サジフツノカミは別名、フツノミタマ(布都御魂)といい、現在石上神宮に鎮座している。


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これが神武東征神話の概略である。戦前は史実として流布され、戦後は一転して全面的に否定された。辛酉年は紀元前660年にあたり、1月1日は太陽暦の2月11日にあたるとされる。神武天皇は、なぜ辛酉年に即位したと考えられたのだろうか。中国人の革命思想は、天地を支配する天帝は、人民の中から仁の心に富んだ男を選び、愚民を支配する権力を委任する。

天子は道徳的な力に満ちた男であるが、その権力を譲られた子孫はそうとは限らない。人民を痛めつける天子は、もはや天子ではなく、新たに自分が天子だと自覚する男が、これを殺すことが正当化される。これを革命(革令)といい、このうち、辛酉年には新しい王朝が建てられるという。ただし、60年ごとの辛酉年ではなく、60年の21倍の1260年ごとの辛酉年である。600年代はじめ、推古天皇の摂政だった聖徳太子を責任者として、国史の編纂が行われた。西暦601年が辛酉年であり、ここから1260年さかのぼった紀元前660年が、神武天皇の即位の年と計算され、日本書紀にも引き継がれたのである。神武天皇は、紀元前660年の人物であり、この時期は縄文時代とされているから、とても実在の人物とはいえない。産能大教授の安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を示しているのである。


ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。

これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という私の史観と合致する。わたしはこの「神武東遷」に象徴される、九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、まだわからない。

だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的である。


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古事記・日本書紀に書かれている天孫降臨や神武東遷伝承が、大和朝廷の役人達によって机上で述作されたものであるという考え方は、全くの想像である。記紀が編纂されてから今日まで、そういう事を書いてある古文献は1点も存在しない。それを、述作されたものであるとか、創作されたものだとする考えは、完璧に主観的判断に基づいて、歴史をねつ造しているのと同じである。

歴史学者・考古学者たちの第二次世界大戦における敗戦のショックと、戦前・戦中を通じて、強権に確執を醸せなかった自らの贖罪を求める気持ちはよく理解できる。同胞が、戦時中に近隣諸国に対して行った行為に対して、それらの国々に対する謝罪の念も持って良い。しかし、そういったイデオロギーと学問の世界における真理の追究とは全く別物であるということに、もうそろそろ気づいても良い頃だ。古事記・日本書紀という、我が国最古の歴史書に書かれ、また多くの伝承を持ち、長きにわたって多くの研究がなされてきたこれらの日本神話が、戦後50数年間にわたって、歴史家によって殆ど無視され、語られもしなかった事実は全く異常としかいいようがない。教科書にも載せず、読み物にも書かれない今の現状では、やがて日本人は、自分たちの祖先が語った多くの神話と、その中にもしかしたら潜んでいるかもしれない歴史の核を、まるで理解できない、世界でも希有な民族になってしまう。


私は古代史を学んで、日本国家の成立を探り、天皇家の起源を探り、ひいては自分が誰なのかを探ろうとしている。それには、掛ければ色や形が変わって見えてしまう、イデオロギーというサングラスだけは絶対に掛けたくないと思う。
http://inoues.net/yamahonpen10.html

6. 中川隆[-13710] koaQ7Jey 2018年12月19日 19:00:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

実在したアマテラスの墓と八咫鏡

糸島郡の平原遺跡 2014-11-02


平原遺跡 :糸島郡前原町平原

昭和40年糸島郡前原町平原(当時、現在は平原市)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。

偶然の発見であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された。結果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原田大六は、2世紀中頃であるとしている。

遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。

この遺跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出土数としては我が国最多であった。

又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡であった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓だと想定している。

平成2年には、平原方形周溝墓出土品が国の重要文化財に。さらに、平成18年には国宝に指定されました。

副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されていて、銅鏡のなかには日本最大級の直径46.5cmの内行花文鏡が5枚ありました。ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一。

副葬品にネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多いことから、この墓に葬られた人物は女性で、特に超人的な力を持った女性ということで、卑弥呼の墓という説もあるほどです。


1号墓出土品(国宝)

大型内行花文鏡 4面(5面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、仿製鏡(日本製)、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡である。

内行花文鏡(内行花文四葉鏡) 2面

方格規矩鏡 32面、(鋸歯文縁方格規矩四神鏡が23面、流雲文縁方格規矩四神鏡が9面)

四螭文鏡 1面

メノウ製管玉 12個
ガラス製(瑪瑙:めのう)勾玉(くだたま) 3個、ガラス丸玉 約500個
ガラス小玉 一括(約500)
ガラス管玉 一括(30以上)
ガラス連玉 一括(約886)
耳璫(じとう、耳珠)3
素環頭大刀 1振
鉄鏃10
鉄やりがんな1
鉄のみ1
鉄斧1

 日本一大きな国産の内行花文八葉鏡四枚について、考古学者故原田大六(だいろく)はその図抜けた大きさと特異文様とが、伊勢神宮に関する種々の史料から内宮の御神体である八咫鏡( や たのかがみ)と同じものではないかと推察し、次のように述べている(『実在した神話』、学生社)。

「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

 森浩一氏も、この原田説を支持され、

「原田氏の生涯をかけての、この重要な研究が基本において修正を要しないとすれば、八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされたということになる」

と述べておられる(『日本神話の考古学』)。


 豊玉姫−玉依姫−イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう玉依姫ということになる。

その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、

「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」

とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。 

 その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。


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原田先生の報告書は『平原弥生古墳 大日霊貴の墓』

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。


tokyoblog April 2015 八咫の鏡

「咫(た)」とは円周の長さの単位で、1咫=8寸、直径2.5寸の円周(円周率3.2)とされている。
八咫鏡とは直径2尺、46センチの鏡という事になる。

平原遺跡からは、まさに直径46センチの国内出土最大の鏡が4枚出土している。御統は勾玉や管玉などを緒に通して首飾りにしたもので、五百箇の御統とは、珠が五百箇ある首飾りという事になる。平原遺跡出土の首飾りを写真で数えてみると約470個の珠があった
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E9%83%A1%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%81/


平原遺跡(ひらばるいせき)は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡。 曽根遺跡群の一つとして、昭和57年10月、国の史跡に指定。平成12年10月追加指定。

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63〜平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。

1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。


1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出されている。

その1号墓の副葬品の中には日本製と中国製の破砕した銅鏡片が多数あった。これらの破片は当初、39面分に復元されていた。

その後の調査の結果、従来4面に復元されていた直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡の破片が実は5面分の破片の可能性があると指摘された。(前原市調査報告書)。このうち1面が九州国立博物館、4面が伊都国歴史博物館に展示されている。

1990年の重要文化財指定時には、銅鏡の員数は39面分とされていたが、上述の調査結果をふまえ、2006年の国宝指定時の官報告示では、銅鏡の員数は40面分となっている[1]。この数は1つの墳墓から出土した銅鏡の枚数としては日本最多である(2009年現在)。

なお直径46.5センチメートルの鏡の外周は鏡の円周の単位で八咫(やあた)あることから、八咫鏡と同じ大きさになる。

この副葬された多数の銅鏡片は「人為的に破砕されたモノではない」と発掘責任者の原田大六は主張している[2]。

学術調査時に、2〜5号墓からは青銅器類の遺物は発見されず、出土した土器や石器類などから弥生時代後期の墓と推定された。5号墓から発見されたとする銅鏡の鈕部分2個は、この破片が土中から発見されたことから5号墓の発見に繋がっていることによる。


主な出土品

1号墓大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
耳璫 3破片
素環頭大刀 1


国宝指定名称は以下のとおり。

福岡県平原方形周溝墓出土品 銅鏡 40面分
玉類 一括
鉄素環頭大刀 1口
附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

5号墓銅鏡片 2


1号墓から出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を、その文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示している[5]。『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。

1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)[6]などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 原田大六はこの平原1号墓の主を玉依ヒメとし、大日孁貴であるという説を提示している[5]。

1号墓の東南にある直径約70センチメートルの縦穴を、発掘調査した原田大六は、湧水の存在から井戸として報告している。この縦穴を「前原市報告書」は大柱跡(穴中の土壌成分未調査)として、墓から見て東南の日向峠の方角に位置していることから、この大柱跡は太陽信仰に関係するものとの説を提示している。

墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六は「銅鐸や弥生式土器などの絵画に見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としている[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1


2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生  伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

1.伊都国と邪馬台国  柳田康雄先生


私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。

平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。

今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。

■ 弥生時代のクニと国の出現

弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。

現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。

そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。

銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15〜16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。

弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。

少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8〜10個出土した甕棺が出現する。

福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。

比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。

弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。

これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。

三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。


2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。

なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。


井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。


最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。

九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。

このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

■ 平原遺跡

平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。

王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。

王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。

鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。

棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。

10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。

墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。

頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。

墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。


出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。

この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。

また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。

しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。

また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。

つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。

平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。

平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。

耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。

耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。

平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。

平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。

右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。

平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。

三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。

ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。

伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。

■ 弥生終末から古墳時代

福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。

このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。

弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。

この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。

北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。

近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。

近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。

近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。

弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。

考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。

平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。

2.柳田先生の論点                             安本美典先生


邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。

■ 考えの一致する部分と異なる部分

柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。

また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。

邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。

いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。

北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。

骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。


■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について

洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。

下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。

平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。

奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147〜160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。

柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。

ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。


3.対談                         柳田康雄先生 VS 安本美典先生


■ 平原遺跡について

安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?

柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。

安本:女性の墓か?

柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。

また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。

■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現

安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?

柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。

■ 庄内式土器

安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?

柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。

庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。

九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

■ ホケノ山古墳

安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留T式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?

『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。

柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。

一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。

また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。

ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

■ 三種の神器

安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?

柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?

安本:璧という字は下に玉がついているので・・・

柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)

璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。

東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

7. 中川隆[-13709] koaQ7Jey 2018年12月19日 19:03:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

古代史の鍵・丹後 籠神社
太陽信仰もつ海人集団の拠点
「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。

 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。


浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。


 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/


京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。


古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。


もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。


丹後半島の古墳公園(加悦町)


倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html



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十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)


布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。


十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D

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神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html

奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm

8. 中川隆[-13708] koaQ7Jey 2018年12月19日 19:05:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

2018.08.27
ニギハヤヒ(饒速日命)とは|その正体や瀬織津姫が妻説など解説
https://shinto-bukkyo.net/shinto/kamisama/%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%83%92-%E9%A5%92%E9%80%9F%E6%97%A5%E5%91%BD/

ニギハヤヒとはどんな神様?

ニギハヤヒ(饒速日命/ニギハヤヒノミコト)という神様について調べたあなたは、どのような正体を持つ神様であると思っていますでしょうか。

アマテラスオオミカミと同一説

スサノオノミコトの子孫で物部氏の先祖という説

実は日本という国を最初に作ったという伝説の神様

はたまた宇宙人?

ニギハヤヒという謎に包まれた神様は、古事記や日本書紀という書物の中ではあまり多く語られていないのに、とても不思議で重要な神様の役割をしています。

それ故にたくさんの伝説があります。

今回はそんな様々な伝説がどうやって生まれたのか?

またそれらはどの程度あり得るのか?を見ていきましょう。

ちなみに、筆者の私の家は昔から石切劔箭神社にお参りをしている家庭に生まれたので石切さん(石切劔箭神社の通称)の説を基本的に信じていますが、どの説も間違っているとは考えていませんので、ご了承ください。

ニギハヤヒノミコトという神様には様々な俗説が

先ほど少し見ましたが、ニギハヤヒという神様には、たくさんの俗説(伝説)があります。

あまりにも突拍子もない俗説から、神話の中でさえもたくさんの理解があるため、ニギハヤヒという神様はとても謎の多い神様です。

簡単にどのような説があるのか、俗説以外にも、江戸時代から議論されているようなまじめな説など、少し上げてみましょう。
1アメノホアカリ(天火明命)という神様と同じ?
2オオナムチ(オオクニヌシ/大国主命)の子供?(スサノオの子孫)

ここは実は、ニギハヤヒという神様が古事記や日本書記以外で記された書物の中で出てくるもので、昔からの議論の対象となっている説です。

この他に、いわゆる俗説で次のような説もあります。
1ニギハヤヒは実はアマテラスオオミカミである!?
2ニギハヤヒの妻は瀬織津姫という神様!?
3ニギハヤヒは宇宙人?さらに同じく瀬織津姫も宇宙人でシリウス文明が…(?)
4ニギハヤヒは龍神を操る?
5ニギハヤヒは中国の皇帝が不老不死の薬を求めて日本に遣わした徐福と関連が?

と言った様々なにわかには信じがたい説がたくさん存在しています。

こういった説が一体全体どんな説なのかを考える上で、一般的に広まっている日本神話の中のニギハヤヒという神様について見ていきましょう。

ニギハヤヒは漢字で書くと

ニギハヤヒと言う神様はニギハヤヒノミコトと正式には呼ばれ、漢字では次のように書きます。
饒速日命
饒速日尊
邇藝速日命
櫛玉饒速日命

ニギハヤヒの別名は?

日本神話の他の神様の例に漏れず、ニギハヤヒもたくさんの名前を持っています。
櫛玉命

このほかに、古事記や日本書記以外の書物でニギハヤヒは別の神様と同一と考えられるという記述も存在します。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)

先代旧事本紀ではニギハヤヒは上でみた天火明命(アメノホアカリノミコト)と同一と見られます。

そのためアメノホアカリノミコトの持つ別名もニギハヤヒノミコトの別名とも考えられます。
天照國照彦天火明尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり の みこと)
天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)
彦火明命
膽杵磯丹杵穂命
天照御魂神

このたくさんの書物での一説にまとまらないことがニギハヤヒを謎めいた、伝説の多い神様にしているのです。


ニギハヤヒの日本神話の物語

たくさん説のあるニギハヤヒですが、まずは最も知られている日本神話の中での説を見ていきましょう。

ニギハヤヒの系図・関連する神様
登美夜毘売(とみやひめ,三炊屋媛(みかしきやひめ))(妻)
長髄彦(ながすねひこ)(義兄)
可美真手命(うましまでのみこと)(子)
神武天皇(カムヤマトイワレビコ)(後に臣下に下る)

日本書記・古事記以外の神話の中で関連する神
天照大御神(アマテラスオオミカミ)(祖母)
天香山命(アマノカグヤマノミコト)(子)
瓊瓊杵尊/邇邇芸命(ニニギノミコト)(弟もしくは子)
須佐之男命(スサノオノミコト)(祖父もしくは父)
大国主命(オオクニヌシノミコト)(父)
物部氏・穂積氏・古積氏・尾張氏(子孫)

ニギハヤヒが天磐船(アマノイワフネ)で河内国に降臨

ニギハヤヒの物語の参考はこちら
http://www.ishikiri.or.jp/yuisyo/mythology/

ニギハヤヒノミコトはアマテラスオオミカミから十種の瑞宝/十種神宝(とくさのかんだから)という人を治め、身や心の病をいやす霊力をそなえた様々な神器を受け、天磐船(アマノイワフネ)という船で高天原から降臨されました。

十種の瑞宝の中の有名なものは「フツノミタマの劔」と高天原から降臨した天津神である証明となる「天羽々矢(アメノハハヤ)」です。

これらを持ち、ニギハヤヒは神様として、河内国(今の大阪の東南の地域)に向かいます。

その当時、そのあたりは鳥見(登美/とみ)と呼ばれる地域で、長髄彦(ナガスネヒコ)という首長とその一族が治めていました。

その長髄彦(ナガスネヒコ)や一族はとても好戦的でしたが、天津神という神様のニギハヤヒと会いその先進的な文化の差を感じ争わずにニギハヤヒに従うことになりました。

そして妹の登美夜毘売(とみやひめ,三炊屋媛(みかしきやひめ))と結婚します。

十種の瑞宝/十種神宝(とくさのかんだから)

これは、以下に見る2つの鏡、1つの剣、4つの玉と3つの比礼(女性の服飾)です。
沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)
蜂比礼(はちのひれ)
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

ニギハヤヒと神武天皇の東征

ニギハヤヒが鳥見(登美/とみ)の里を治めて繁栄を謳歌していたときに、神武天皇(この当時は天皇ではないのでカムヤマトイワレビコと呼ばれている)が東征をされます。

神武天皇は大阪の浪速国の白肩津に上陸をされると、長髄彦(ナガスネヒコ)率いる軍勢に追い返されます。

一度は失敗しましたが、その後神武天皇は別のルートから攻めます。

そして長髄彦(ナガスネヒコ)のいる生駒山まで行きます。

そこで、長髄彦(ナガスネヒコ)とまた戦います。

その戦いの最中、神武天皇は自分がアマテラスオオミカミの玄孫であり、この土地を治めに来たと言いますが、長髄彦(ナガスネヒコ)はそのことを信じず戦闘が続きます。

やがて、金色のトビが空からやってきて、光輝き戦闘ができなくなります。

その時に長髄彦(ナガスネヒコ)はこのように神武天皇に伝えます。

「何ゆえこの土地を攻めるのか?私たちは天津神の櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)に従い、この土地を守っている。あなた(神武天皇)は天津神の子孫と言ったが、こちらはニギハヤヒノミコト様という天津神の元でこの土地を収めている。

お前は偽物の神様だろう!」と。

そこで、神武天皇と長髄彦(ナガスネヒコ)はそれぞれが自分たちが天津神に関わるものだということを天羽々矢を見せ合いました。

どちらも本物だとわかったのですが、長髄彦(ナガスネヒコ)は戦いをやめなかったためにニギハヤヒは長髄彦(ナガスネヒコ)を殺し、神武天皇に従うことを誓いました。

ニギハヤヒの物語の参考はこちら
http://www.ishikiri.or.jp/yuisyo/mythology/

ニギハヤヒにまつわる様々な説

ニギハヤヒは上記の物語がありますが、たくさんの説・物語を持っている神様と冒頭でも説明しましたが、他にどのような説や物語があるかを見ていきましょう。

ニギハヤヒの正体とは?

まず、ニギハヤヒという神様は、日本神話を記した有名な書物の日本書記と古事記でも統一した記述はありません。

他の書物ではさらに全く違う記述がされています、

ニギハヤヒはアマテラスオオミカミの孫?

ニギハヤヒはアメノホアカリと同一と書かれています。(先代旧事本紀)

アメノホアカリとニギハヤヒが一緒なのであれば、アマテラスオオミカミの子のアメノオシホミミと高木神の娘のヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれた子供がニギハヤヒということになります。

これは簡単に言うと、

天孫降臨で有名なニニギノミコトの兄を意味します。(父という記述をした書物も)

つまり、ニギハヤヒは天孫族というアマテラスオオミカミの系統で、神様の中でも特に位が高い神様で、

しかも葦原中津国に降臨をしたニニギノミコトより先に降臨していたということです。
アマテラスオオミカミについて詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
アマテラスオオミカミ(天照大御神)とは|伊勢神宮の神社史や神話の姿

ニギハヤヒは出雲王朝(スサノオ)の子もしくは孫?

播磨国風土記という、兵庫県の播磨地方の歴史を記した奈良時代の書物の中では、ニギハヤヒは出雲王朝の子孫と言われています。

出雲王朝を作ったきっかけは、アマテラスオオミカミの弟の神様であるスサノオノミコトとその子供のオオクニヌシノミコト(大国主命/オオナムチ)という神様です。

ニギハヤヒはその王朝から現在の奈良の大和地方に向かったとも言われています。
スサノオノミコトやオオクニヌシノミコトについて詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
スサノオノミコト(素戔嗚尊)とは|神話(ヤマタノオロチ等)、ご利益等を解説大国主命(オオクニヌシノミコト)とは?ご利益や神社の情報や国譲り等神話の物語も解説

ニギハヤヒは物部氏の始祖?

物部氏とは、奈良時代の蘇我氏が政権の中央に出るまで、政治・祭司の中心的な氏族として有名でした。

その物部氏はニギハヤヒノミコトの子孫と伝えられています。

物部氏をルーツとする武将は数多くおり、武士(もののふ)の家柄だとも言われています。

日本で最も古い家系図とも言われる海部氏の系図には様々な氏族がニギハヤヒ・天火明命の子孫と根拠が得られます。

ただし、様々な説が多くあるために、疑問視する人も存在します。

ニギハヤヒとアマテラスオオミカミの男性神?

ここからは少々スピリチュアルな説が続きます。

ニギハヤヒノミコトの正式な名前が、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)

と表記されます。

この名前の最初の天照(アマテラスともアマテルとも発音)の表記から、「太陽神」つまりアマテラスオオミカミの男性神として生まれたのではと主張する説があります。

そもそもイザナミノミコト・イザナミノミコトという双神で国ができたという話や、太陽神とは陽(男性神)で、月が陰(女性神)という考え方から日本の皇祖神がアマテラスオオミカミ(女性神)だけということに疑問を持つ人たちがいます。

この説はそういった人の推論の上に成り立っているものです。

古代のロマンを感じるものですね。

ニギハヤヒは宇宙人という説

スピリチュアルが好きな方がネット上にたくさんの意見を乗せていて、その一つにニギハヤヒは宇宙人であるという意見もあります。

これは学術的な背景を持っている説ではありません。

この説は、ニギハヤヒの妻の瀬織津姫という女神は、シリウス文明の女神であるという説や、エジプトその他神話を持つヨーロッパ・中東地域の神とつなげるという説の様です。

ニギハヤヒとユダヤ?

古代のロマンが好きな人なら「日ユ同祖論」と呼ばれる、イスラエルに存在した部族の一つが日本に流れ着き王朝を立てたというニコラス・マクラウド氏が明治時代に提唱した意見を聞いたことがあると思います。

この意見では、日本の神様の名前の音がヘブライ語に似ているウガヤフキアエズという神様がユダヤの王と同一という考え方等たくさんの説があります。

ニギハヤヒもその一つという考え方です。

ニギハヤヒと龍神(白龍)の関係がある説

これは後半で考察をする、ニギハヤヒの妻は瀬織津姫ではないか?という説に関わるものです。

ニギハヤヒの妻と言われる瀬織津姫は日本の神話には出てこないのに、神道の大祓詞にでてくる神様で大変謎の多い神様です。

この神様は龍神様であるという説が存在しニギハヤヒは龍神と関りがあるという説があります。

また、千と千尋の神隠しに出てくるハクという白龍になる少年。

彼はニギハヤミコハクヌシという本名を持っているためニギハヤヒと龍の関係に注目が集まったのかもしれませんね。

ニギハヤヒと徐福

さらにはニギハヤヒは徐福という中国の秦王朝の時代に皇帝から不老不死の薬を探して来いと日本に遣わされた人物と関係があるという説もあります。

大神神社(奈良)の大物主はニギハヤヒという説

また、大物主(オオモノヌシノカミ)というご祭神を祀る、日本で最も古い神社の一つと言われる大神神社(おおみわじんじゃ)にもニギハヤヒは関係すると言われています。

ただし、大神神社の公式の見解にはありません。

また三輪王朝と呼ばれる、仮説に基づく考えがあるなど、その真偽は不明です。


ニギハヤヒの妻は瀬織津姫?

上で見てきたようにニギハヤヒには本当かな?と思うような説がたくさんついて回っています。

その中でも特に根強い支持を集めているのが、このニギハヤヒと瀬織津姫が夫婦だったというものです。

瀬織津姫という神様は、先ほども述べましたが、日本の神話には出てこないが、大祓詞の中に名前が出てくる神様で、伊勢神宮の内宮(アマテラスオオミカミを祀る社)の別宮荒祭宮の別名が瀬織津姫であるという記述がいくつかの書物でされています。

他にも兵庫県西宮市の廣田神社では現在はアマテラスオオミカミを祀っていますが、以前は瀬織津姫を主祭神と祀っていたと戦前までの記録にはあります。

また、日本の神社の中で、ニギハヤヒと瀬織津姫と同一とみられる神々が一緒に祀られる神社があると言われてもいます。

ニギハヤヒがアマテラスオオミカミの男性神として、瀬織津姫がアマテラスオオミカミの女性神だという主張も存在します。

瀬織津姫について詳しく知りたい方はこちら

参考:瀬織津姫とは?封印された龍神・弁財天とも言われる伝説の神様を解説!

ニギハヤヒノミコトが祀られている神社・神宮

ニギハヤヒはそもそも神話内でも明確な表記がないことから上記で見たようなにわかには信じられない説が数多くあります。

それでも、重要な神様として、日本の各地でニギハヤヒノミコトを祀る神社が存在しています。

それらの神社について見ていきましょう。

石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

日本で最も有名なニギハヤヒノミコトとその子の可美真手命/宇摩志麻遅命(うましまでのみこと)を祀る神社です。

神話の中でニギハヤヒノミコトが降臨し、統治の中心とした場所と言われる河内の国にある神社で、ニギハヤヒの子孫の物部氏の有力氏族の木積氏が代々神主を務める神社です。

公式サイト:http://www.ishikiri.or.jp/

磐船神社(いわふねじんじゃ)

ニギハヤヒを祀る神社の中でも、ニギハヤヒが降臨されたときに乗っていたという天磐船(アマノイワフネ)だと言い伝えられる巨石がある神社です。

所在地:大阪市交野市私市9-19-1

籠神社(こもじんじゃ)

籠神社のご祭神は彦火明命(ひこほあかりのみこと)という神様で、ニニギノミコトの兄弟神として地上に降臨し籠神社のご祭神となったとされます。

この彦火明命の別名が「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」とされます。

籠神社は丹後国一宮という古くから皇室でも重要視されている神社であり、国宝の海部氏系図という、神代からの家系図が残る由緒正しい神社です。

さらにこの籠神社の伝承では、彦火明命は宗像三女神のイチキシマヒメ(市杵島姫命)を妻としたと言われています。

このイチキシマヒメは瀬織津姫と同一視される神様と言われています。

籠神社公式サイト:http://www.motoise.jp/index.php


ニギハヤヒの墓

ニギハヤヒは逝去された時、そのご遺骸は天に上っていったとされます。

そのため、ニギハヤヒが埋葬されたというお墓はありません。

ですが、ニギハヤヒの妻がニギハヤヒの遺言に従い、鳥見の白庭にニギハヤヒの遺品を埋めたという言われ、その鳥見の弓塚と言われます。

その伝説が語られる場所は現在も存在します。
饒速日命墳墓(奈良県生駒市白庭台5-9-1)
真弓塚(奈良県生駒市上町5002)

ニギハヤヒのご利益・ご神徳は?

様々な神社で祀られ様々なご利益御神徳をお持ちと考えられています。
腫物(癌等)の守護(石切神社)
病気平癒(磐船神社)
諸願成就

ニギハヤヒノミコトの神格
太陽神
穀物の神
呪術の神
航空の神
https://shinto-bukkyo.net/shinto/kamisama/%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%83%92-%E9%A5%92%E9%80%9F%E6%97%A5%E5%91%BD/

9. 中川隆[-13704] koaQ7Jey 2018年12月19日 22:27:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

巫女(みこ/シャーマン)
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/

御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

◆【性文化史関係一覧リスト】
http://miracle-jiyoudan.com/seibunka_yougo.html

をご利用下さい。

この文章は、

小論・【遊女(女郎)の歴史】
http://miracle-jiyoudan.com/yuuzyonorekisi.html


の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/

▲△▽▼

そもそも巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。

ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

 幼蛇を生むこと。

 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。

http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595


何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。 神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。

実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。 一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。

おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。

とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html

10. 中川隆[-10761] koaQ7Jey 2019年4月15日 19:16:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1287] 報告

2019年04月15日
古代の「鏡」「剣」「銅鐸」は神秘性を高める演出に使用された


このような鏡を10枚も使って光を卑弥呼に集めたら、神そのものに見えたでしょう


画像引用:https://i.ytimg.com/vi/_jQkRKwQlZ8/maxresdefault.jpg

青銅器は何に使われたのか

弥生時代から古墳時代にかけての古代日本には謎が多いが、出土する金属製品の意味も良く分かっていません。

特に多く出土してるのは「鏡」「剣」「銅鐸」の3つだが、どれも正確な意味は分かっていません。

このうち剣は一見すると戦いのためのようだが、当時の青銅剣は柔らかくて切れ味も悪いので使い物になりませんでした。




まず一回切りつけると折れるか曲がるかするようなものなので、大金を払って買うような価値はなかったのです。

買うと言えば「鏡」「剣」「銅鐸」のような青銅器は、大陸から運んだか、原料を運んで国内製造したとみられています。

いずれにしても大陸から運んだのですが、周や漢の王がタダで高価な青銅をくれるはずがありません。


日本側が交換品として差し出したのはおそらく水銀の原料となる辰砂で、当時同じ重さの金よりも高価でした。

水銀は塗料や染め物の他、口紅や医薬品などに使われた万能原料で、秦の始皇帝が求めた「不老不死の薬」も水銀の薬だったとされています。

辰砂は大陸でも取れたが需要が非常に大きかったので、日本の瀬戸内海周辺から紀伊半島から大量に輸出されました。


邪馬台国や初期のヤマト政権はこの辰砂を大陸に輸出して、交換品として青銅や鉄や進んだ知識を手に入れていました。

辰砂の最大の産地だった奈良県に藤原京や飛鳥京が建設され日本の中心地になったのも、辰砂よって得た富と無関係ではなかったでしょう。

さてこうして手に入れた「鏡」「剣」「銅鐸」ですが、実用的にはほぼ何の価値もないものでした。

鏡は古代のスポットライト?

すでに書いたように青銅剣は一度叩いたらへし折れるので戦いに使えず、実戦では石斧か石槍を使用していた筈です。

銅鐸は叩いて音を出して農作業の合図にしていたようですが、音を出す道具なら他にも手軽な方法はあったでしょう。

3つの中で最も意味不明なのは銅鏡で、大陸では日本ほど鏡に執着せず、一か所で大量に出土しては居ません。


3つの青銅器ともに本当の役割は権力者の権威をより高める事や、宗教的な価値に基づいていたでしょう。

金属というそれまでになかった素材で作ったものを神器とすることで、天皇や神官や権力者の権威はより高まった筈です。

実際にモノを切ることは出来なくても、青銅剣を持つことで神武天皇や卑弥呼には神秘的な力があるように見えた事でしょう。


銅鐸を叩くことで発する音色は現在の人が寺の鐘を聞くように、「神の音」のように聞こえたでしょう。

銅鏡は教科書に載っているのは実は裏側で、つるつるで何もない方が表なので、新品時には人の顔を写したはずです。

水面より鮮明に人の姿を写せる鏡は、鏡の奥が別な世界に通じているような神秘性を感じさせたはずです。


さらに鏡は太陽の光を反射させ一か所に集める事で、スポットライトのような効果を得る事ができる。

数十枚もの鏡を使って天皇や神官を明るく照らしたら、それを見た人々はこの世の物ではないように感じたでしょう。

このように青銅器は現実的な道具としてではなく、神秘性を高めるような演出に使用された可能性が高い。
http://www.thutmosev.com/archives/79559874.html

11. 中川隆[-10558] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:59:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1518] 報告
諏訪春雄通信 29
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm

という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。

諏訪春雄通信 27
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。

祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。

1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm

12. 中川隆[-10554] koaQ7Jey 2019年4月28日 07:03:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1526] 報告

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

13. 中川隆[-10515] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:20:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1571] 報告
古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694

14. 中川隆[-10506] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:49:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1580] 報告


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RO6D5A61LSNPK/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4796673482

15. 中川隆[-10499] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:13:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1588] 報告

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
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16. 中川隆[-10494] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:38:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1593] 報告

古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
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内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。


○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m


○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
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17. 中川隆[-9308] koaQ7Jey 2019年6月25日 08:19:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3185] 報告

本当にただの神話? 古事記・日本書紀の「神武東征」伝承から見える史実
「神武東征」伝承の真実を検証する@
宝賀 寿男 2017年10月05日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7078



高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

非合理な「神話」として
切り捨てられない伝承

 戦後の古代史学で主流となった津田史学(※『古事記』『日本書紀』を史料批判の観点から研究した津田左右吉の説)の影響で、神武天皇とその東征伝承は、天皇統治の正当化のための神話の一部で、史実性がないとみられてきた。とはいえ、遠い昔の建国事情については、『古事記』『日本書紀』(両書併せて「記紀」という)ともに大和朝廷の創始者、初代の天皇として「神武天皇」をあげるから、この人物の的確な検証は欠かせない。

 この両書が描く神武天皇につては、ともに東征伝承が大部分を占め、大筋はほぼ同じだが、遠征の具体的な経路など若干異なる点がある。比較すると、『古事記』のほうが割合簡潔で、素朴な感じがする。そこには、金色の鵄(とび)が窮地の神武天皇を救った金鵄伝承はなく、最大の敵である長髄彦(ながすねひこ)との大和での戦は、古代歌謡のひとつである久米歌にしか見られない。その一方『書紀』のほうが詳しく書かれるから、主に同書に拠って見るほうが分かりやすい。そのあらすじは上段を見ていただくとして、先に主な道筋を簡単に紹介しておこう。

 筑紫の日向に居た神武は、兄とともに、畿内の大和に統治の良き地を求めて、東征に出発した。まず、筑紫の宇佐に至り、次に筑紫の岡之水門に行き、安芸、吉備を経て、国津神(くにつかみ)の珍彦(うづひこ)が出迎えた速吸之門(明石海峡)を通る。浪速の渡りを経て河内の草香邑に上陸。これを迎え撃った、のちに宿敵となる長髄彦と日下の坂で戦ったが敗れ、そこで退いて南回りで海路を進むことになる。

 紀伊の名草郡竃山で、先の日下の戦で重症を追った兄の五瀬命が死去した。ここで、指揮官が神武に替わり、八咫烏の道案内などで行軍し、熊野から大和の宇陀に入って賊軍を討伐した。鳥見では、長髄彦と決戦で苦戦する中、金色の鵄に助けられ、敵軍にあった物部氏の祖先が長髄彦を殺して帰順してきたので、残余の賊を討って大和を平定し、畝傍山付近の橿原で即位した、というものである。

 その後に、皇后の選定や東征の論功行賞、皇祖神の祭祀なども行ったと『書紀』の記事に見える。

 この伝承を現代的な視点で改めて検討してみると、総じて史実の原型が窺われる面がある。東征の随行者や服属者などから見ても、出発時の神武一行は少人数であって、「邪馬台国東遷」という国家的な規模ではなかった。本国の王位を望めない王族庶子・神武兄弟の新天地への展開が東征の主な目的であったからだ。非合理な「神話」だとして頭から切り捨てることはできだろう。

 東征伝承に現れる神異現象についてお、具体的に太陽神信仰を表すものなど合理的な解釈ができるのものも有る。地理の面から東征伝承を見ていこう。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7078

「天孫降臨」の地“日向”は、本当は何処なのか?
「神武東征」伝承の真実を検証するA
宝賀 寿男 2017年10月08日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7107




高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

「日向=宮崎」説を覆す
「日向=北九州」説

 神武東征伝承が疑問とみられる理由として、まず出発地「日向」にある。
 葦原中国の大己貴神に国譲りをさせて天孫が降臨した地が、僻遠の南九州の「日向」、宮崎県とされる。その後の天皇家とまるで縁のない地で三代(日向三代)を過ごしてから、大和入りを図るという筋書が荒唐無稽で、これにより神武東征の史実性は根底から崩れているとされる。

「日向」とは、もともと南九州全域を指し、後に薩摩・大隅の文理で日向一国となるが、異民族的な色彩の隼人が住む未開地であった。これが皇室の現実の発祥の地でありえたかは疑問が大きい。

 記紀の編者が「日向」を日神の子孫と称する皇室の先祖が住む土地にふさわしいとみて、天孫降臨させた結果、日向と大和を結びつける必要性のために、「神武東征」は日神思想による観念から生まれたもので、歴史的事実ではない」とみられることになってしまったのだ。

 この「日向=宮崎」説には最近まで多くの疑問が出されてきた。実際の「日向」は北九州で、福岡県の玄界灘沿岸にあったとの見解が多い。旧地名でいえば筑前の早良郡・怡土(いと)郡の地域であり、現在の地名では福岡市の西区あたりから糸島市にかけての地となる。ここが、福岡平野の那珂川流域にあった海神族の国「葦原中国=奴国」を屈服させて天孫降臨があった地域だとされる。

『書紀』には「筑紫の日向」と表現され、『古事記』でも「竺紫の日向の高千穂」、「この地は韓国(からくに)に向ひ、……、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」と書かれてあり、こうした地理的状況に筑前海岸部は合致する。西区と糸島市との境界あたりには日向峠・日向山や槵触(くしふる)山の地名も残る。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7107


河内の支配者に大敗した神武天皇
「神武東征」伝承の真実を検証するB
宝賀 寿男 2017年10月12日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7129



高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

河内を支配する長髄彦に敗れ
熊野へ迂回した神武天皇

 神武東征伝承の出発地「日向」について、「日向=宮崎」説には最近まで多くの疑問が出されてきた。実際の「日向」は北九州で、福岡県の玄界灘沿岸にあったとの見解が多い。

 一方、宮崎のほうは、景行天皇の九州巡幸のときその言葉により初めて「日向」と名付けられたと『書紀』にあり、それまでは『襲国(そのくに)』と呼ばれていた。日向三代のうちの二代(ホオリ、ナギサ)が海人族の王族女性(豊玉姫、玉依姫)と通婚したとも記紀にある。

 考古学的にも、怡土(いと)郡に三雲遺跡など、早良郡にも吉武高木遺跡など、双方に著名な弥生遺跡がある。日向峠のほぼ真東に位置する吉武高木遺跡からは、朝鮮製の鏡・剣・玉という日本最古の三種の神器セットも出た。津田左右吉博士も、皇室の筑紫紀元を否定する確証がないという。

 さらに一行は岡之水門を通り、速吸の門から浪速の渡り、日下の津(東大阪市の日下町)と進んで河内で上陸した。当時の大阪平野の地理では、浪速の湾入が河内平野に大きく入り込む潟湖となり、そこに上町台地が突き出していたとみられ、この行軍経路は当時の地理に符号する。浪速の渡りとは、河内内海の入口の上町台地の先端あたりで、そこに生國魂神社が鎮座する。この祭神、生島足島神こそ、天照大神(原型は男性神)の実体であった。

 河内内海の中生駒山頂を目印にして進むと日下の津に着く。そこで上陸した軍は、生駒越えを図って日下の坂で待ち受けた長髄彦に大敗し兄の五瀬命は負傷した。このため進路変更を余儀なくされ、浪速に引き返し和泉・紀伊と南に大きく迂回する行路をとることになった。

 紀ノ川の河口部に位置する紀伊の名草郡では、兄の五瀬命が落命して竃山で葬った。当地の竈山神社は五瀬命を祭神とする。この時点で、行軍の指揮者が神武に変更となった。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7129


神武天皇一行を襲った、二度の危機の謎
「神武東征」伝承の真実を検証するC
宝賀 寿男 2017年10月15日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7154


高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

「毒気」により正気を失った軍を
救った高倉下とは何者か?

 神武東征伝承において、河内を支配する長髄彦に敗れ熊野へ迂回した神武天皇紀は、進路変更を余儀なくされ、浪速に引き返し和泉・紀伊と南に大きく迂回する行路をとることになった。

 紀伊東北部の竃山から先の進軍行路がまた問題となる。『古事記』ではすぐ熊野の悪神の被害に遭う話となるが、『書紀』ではこの「熊野」が明確に紀伊南部の熊野地方だと解して、熊野灘で暴風に遭い、神武の兄の二皇子の入水伝承などに続く。荒海で有名な熊野灘までなぜ行ったのかという大迂回の謎がある。

 名草郡で地元の地理に明るい大伴氏の祖・道臣命を得たのに、極めて不自然な話であり、普通に考えれば、大和入りの古代の幹線ルートであった紀ノ川を遡上したと解される。だから、二皇子の遠征随行も、その入水も、疑問が大きい。

 神武軍は紀ノ川遡行を目的として、その河口部に向け南進した。日神の御子だから日に向って戦うのを避けたというのは、記紀編纂時の解釈にすぎない。弥生後期当時の浪速の湾入や紀ノ川などの地理状況を踏まえた行動を、これまでも在地者による行路誘導によりとっていた。道案内者無しでの熊野灘航行やけわしい山路の熊野〜吉野間の往行はありえない。

 高地性集落遺跡も潮岬から新宮という熊野にかかる地域には見られないからだ。

 紀伊から宇陀に至る過程で、神武一行は熊野の「高倉下(たかくらじ)」なる者に救われた。高倉下が夢の教えに従って神武に献上した神剣フツノミタマの霊力により、土地の悪神の出した毒気により正気を失っていた軍衆は、それによって覚醒した、と記紀に見える。早くに紀ノ川遡上説を唱えた鳥越憲三郎氏は、紀ノ川上流域に高倉下の居住地「熊野」があったとする。

 ところで「毒気」とは硫黄や水銀の出す毒気とみられる。紀ノ川流域には鉱物資源が豊富で、丹砂(水銀と硫黄の化合物で、産地を「丹生(にふ)」という)や鉄が採取され、丹生神社の分布が多い。『書紀』では、事件は「仁敷(にふ)」で賊酋を殺したときに起きたと記される。

 高倉下は、別名が手栗彦(たぐりひこ)という尾張氏族(尾張連・海部直など)の祖であった。『旧事本紀』の「天孫本紀」には、のちに長髄彦を捨て神武に帰順する饒速日命(にぎはやひのみこと)の子とされるが、本来の系譜は、海神族の豊玉彦の曾孫で、海導者・珍彦の従兄弟にあたる。だから、天孫族計の饒速日とは男系が別であり、饒速日の女婿だとみられる。その縁で「熊野」に居住していたのだろう。

 危難を救った神剣はのちに神武からウマシマチ(饒速日の子)に与えられ、その後に物部氏が奉斎した石上神宮に神宝として納められた。

 こうした諸事情から、高倉下の居住地は、紀伊國那賀郡あたりであろう。当地には式内社海神社(現紀の川市神領)があり、最深は海神の豊玉彦命で、和泉山脈の最高峰葛城山の南西麓にある。同じ名で大和の葛城山の東麓に高倉下の本貫地「高尾張邑(たかおはりむら)」もあった。高倉下の帰服には、同族の珍彦の手引もあった。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7154


八咫烏(やたがらす)は三本足のカラスではなかった! その正体は……
「神武東征」伝承の真実を検証するD
宝賀 寿男 2017年10月19日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7190



高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

「八咫烏」とは三本足のカラス
ではなく人だった!?

 東征をする神武一行だったが、大和入りの道はまだ険しく、熊野の山中で道に迷ってしまう。この苦境の一行を、天照大神のお告げを受けた「八咫烏(やたがらす)」と道臣命が道案内して、大和の宇陀に入り、穿(うかち)邑(宇陀市菟田野宇賀市あたり)に至った。宇陀から、賊酋たちの討伐がまた始まる。

 これらの案内も、高倉下の霊剣献上も、天照大神のお告げだというが、この神異や霊夢がなくとも話に特段の問題はないし、八咫烏は神武の同族の出であった。宇陀には式内社の八咫烏神社が宇陀市榛原高塚にあり、その子孫という者が後世まで居たと伝えるから、八咫烏一族の居地の一つが宇陀にあったとみられる。

「八咫烏」は太陽にいる三本足の烏を表すが、実際には動物のカラスではなく、その名が鴨健角身命(かもたけつのみのみこと)といわれる人物で、天孫族の鳥トーテミズムと太陽神信仰に基づく通称にすぎない。その別名は多く、少彦名(すくなひこな)神とか三島溝咋耳(みしまみぞくいみみ)命、天日鷲(あめのひわし)命ともいうが、東征当時の該当者は生玉兄日子(いくたまえひこ)命であり、鴨健角身命の孫であった。

 紀伊の竃山から大和の宇陀までの具体的経路は、『古事記』と『書紀』とで若干の歳があるが、現実の地理で見ると『古事記』のほうが妥当で合理的である。

 記紀編纂時には「熊野」の概念が紀南の現・熊野地方にほぼ固定されていたようであり、熊野大迂回伝承は冒険譚としては面白くても、東征当時の史実原型はそうではなかったということである。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7190

神武天皇の最大の敵「長髄彦(ながすねひこ)」とは何者か
「神武東征」伝承の真実を検証するE
宝賀 寿男 2017年10月22日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7218


高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

神武天皇の前に立ちはだかる
長髄彦とは何者か?

 大和での戦いは『書紀』が詳しく記すように、当初から苦戦続きの長髄彦(ながすねひこ)が東征の最大の敵であった。だから、宴席の長髄彦を殺害し、衆を率いて神武に帰順した物部氏の遠祖の功績が大きかった。この帰順社の名を、記紀共に饒速日命(にぎはやひのみこと)とするが、『旧事本紀』の「天孫本紀」などから見て、その子の宇摩志麻治命と思われる。

 饒速日の系譜は、記紀や『新撰姓氏録』には記載がないが、天津端という天孫のしるしをもつ者だと『書紀』にある。神武に先立って大和入りした天孫という、天皇家統治に不都合な伝承すら記される。『姓氏録』では天孫の部に置かれない物部氏族だが、「天孫本紀」では天照大神の太子の天忍穂耳の子の天火明命が饒速日にあたるとある。

 神武と物部氏は、同じ天孫族の出だが、神武自体は伊都支分家の出で、物部の傾倒も高天原の嫡統から早く別れていた。具体的には、葦原中国を降伏させたフツヌシ神(天目一箇命)の子が饒速日とみられる。

『書紀』によると、神武に先立ち、天磐船に乗って天降りしてきた饒速日を、長髄彦は主君と仰いで仕え、妹を后としたことで、神武に敵対した。ここでは、天孫族の一員の他の土地からの移遷を「天降り」と記すことに留意される。

『古事記』では、逆に饒速日が神武の行軍を追いかけてきたと記すが、これは『書紀』や『旧事本紀』にある、“饒速日が先”のほうが妥当である。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7218


神武天皇、実在の可能性
「神武東征」伝承の真実を検証するF
宝賀 寿男 2017年10月29日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7270


高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

「金の鳶」の正体は鳥トーテミズムと
太陽神信仰を併せ持つ天孫族

 神武侵攻のときには大和地方には「ヤマト原国家」ともいうべき部族連合体が作られ、その祭祀具が銅鐸とみられる。長髄彦(ながすねひこ)殺害の有無には異説あるが、その子孫は東西の二派に分かれて畿内から退散し、東へ行ったのは信州諏訪に落ち着き諏訪族となった。その祖神の建御名方命こそ、長髄彦の別名で、系譜は三輪の大物主神の弟である。西へ退散した一派は、四国南部の地域に勢力を長く保ち、阿波の長国造や土佐の土佐・波多両国造を出した。これら退散経路や遷住地には海神族祭祀や後期銅鐸の出土がある。

 部族連合軍である長髄彦軍は強く、当初の河内でも大和でも、神武郡はおおいに苦戦した。そんな中、大和の鳥見の地にて、一羽の「金の鵄(とび)」が神武の弓の先に留まり、強烈な日明を発し照り輝いたので、賊軍の志気をおおいにくじいたという、いわゆる金鵄伝承である。戦前の金鵄勲章にも名を残すほどの大功であった。実は金鵄も動物の鳥ではなく、鳥トーテミズムと太陽神信仰を併せもつ天孫族の一員の表象であったから、これも神異とするにあたらない。

「金鵄」の実態について、早くに平田篤胤が「天加奈止美命」(「加奈」は金、「止美」は鵄の意味)の異名をもつ忌部の祖神・天日鷲命だと指摘した。私も検討の結果、ほぼ同様の結論(鴨県主の祖・八咫烏で、かつ忌部の首の祖・天富命)になった。京都の下鴨神社の社伝でも、「金鵄=八咫烏」とする。

 関連していうと、神武天皇即位後の4年には、鳥見山の中に祭祀の場を築いて皇祖天神を祀ったと『書紀』に見える。『古語拾遺』には忌部氏の祖・天富命が御幣を用いて祝詞をのべ皇祖天神を祀り、これが忌部氏の祭祀菅掌の由来だと記される。この地は、宇陀市榛原という説もあるが、やはり金鵄の霊験があった桜井市外山(とび)の鳥見山であろう。当地には式内社の等弥神社があり、その境内からは八咫烏の像が出た。神社の旧地は、鳥見山中の斎場山だといわれ、祭祀用臼玉が多数出ている。同社に上ッ尾社・下ッ尾社があるのも鵄との関連を示唆する。

 ここでは、地理的な問題を中心に見てきたが、とくに触れなかった年代論や人物論などの問題でも、神武天皇について十分に合理的な理解ができる。この辺を結論的にいえば、神武の活動期は弥生後期頃の西暦2世紀後葉頃とみられ、その創業関係者は、崇神天皇を取り巻く人々の各々五世代ほど祖先にあたる系譜が諸氏に伝えられる。神武崩御後の綏靖天皇による兄・手研耳命(たぎしみみのみこと)殺害事件が記紀ともに伝えられることも併せ考えて、崇神とは別人であり、総合的、具体的に神武天皇の史実性を考えるほうが妥当である。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7270

18. 中川隆[-9307] koaQ7Jey 2019年6月25日 08:21:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3186] 報告

何故、古代史の舞台は奈良盆地なのか?・・・大阪は河内湖、大和は湿地帯だった。
 
何故、古代史の舞台が畿内でも奈良の山奥から始まるのか、そして次第に河内に舞台が移っていくのか、不思議に思われる。

この謎は実は現在の地形を前提に考えているからで、かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であり、大和は標高60m以下は大湿地湖だったとされている。

縄文中期以降、海退が始まり、次第に陸地が広がって行くという地理学的な前提をふまえると、古代史の舞台が奈良の山奥から始まるという謎も解けてくる。


>奈良盆地の東方の山裾を縫うように、細々と南北に続く道がある。その名を「山の辺の道」という。

古社寺や名所旧跡、古墳などが道沿いに点在し、古代の面影をよく残している・・・

人が住むところに道ができるのは当たり前だが、ではなぜ「山の辺の道」は標高60m〜70mの高度を保ちながら三輪山の山麓をめぐっているのだろうか。

その理由を大和湖の存在に求める学者がいる。

三輪山麓に人類が住みついた縄文前期の約6千年前、大和盆地にはまだ巨大な淡水湖が存在し、その湖岸にできた道が山辺の道の最初の姿だというのだ。


>その後次第に土地が隆起し大和川ができると、湖水が排出されて平野部が広がっていった。土地が干上がるにつれて、人々は平野部へ移り住みはじめ、弥生時代には、平野部の沼地を利用して稲作農耕を営むようになった。

しかし、弥生時代とそれに続く古墳時代を通して、「山の辺の道」は相変わらず大和盆地の東側を結ぶ主要道路でありつづけた。その証拠に、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、第11代垂仁天皇の纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)、第12代景行天皇の纒向日代宮(まきむくひしろのみや)など上代宮跡伝承地は標高60mの線上にある。

http://www.bell.jp/pancho/travel/yamanobe/preface.htm


この大和湖を最初に唱えたのが、樋口清之博士で、博士は神武東征の地も標高60m付近にあることから、神武神話の時代には大和は大湿地帯であったと考察している。

http://somo.seesaa.net/article/32163752.html


宝賀寿男氏は弥生時代の遺跡群も標高50−70mに存在していることと、文献的整合性から神武神話の年代を弥生時代に設定している。

半島、九州の動乱の影響により畿内へと逃げ延びてきた神武にとって、湿地帯故に土木造成次第では農地を切り開くことが可能だった大和の地は、絶好のフロンティアであったのであろう。(勿論、ナガスネヒコら縄文人らの抵抗はあったであろうが、先に入っていたニギハヤヒや鴨族の支援もあって九州で縄文人支配を経験済みの神武にとってはさほど難しくはなかったのであろう。)

以下は、

当時のイメージ地図 リンク
http://somo.seesaa.net/upload/detail/image/2yamatoko-imaji.JPG.html

奈良盆地が都になる必然

何故、奈良に最初の都ができたのか?

古代の高低差地図リンク
http://blog-imgs-42.fc2.com/a/t/a/atamatote/asuka_naniwa_0.jpg


も参照してみてください。


朝鮮半島から攻め入られたとき、生駒山山系を第一の防衛線、奈良盆地を第二の防衛線とし、最後の砦として三輪山を背にして都を築いた、と読めます。

平安遷都はエネルギー問題だった!

―地形で解く日本史の謎リンク
http://shuchi.php.co.jp/article/1794


から引用させていただきます。


-------------------------------------------------

 21世紀の現在の地形から見ると「なぜ、奈良盆地が都になったのか?」が理解できない。

 ともかく奈良盆地は大阪湾から離れていて内陸に入っている。さらに360度周囲は山で、他の土地との連絡も悪い。奈良はどこから見ても交通の要所とはいえない。
(中略)

 なぜ奈良が日本最初の首都になったかを3〜4世紀の地形の上に立ちシミュレーションしてみよう。

 今の大阪平野は、当時は湿地帯であった。大坂湾は上町台地を回り込み内陸の奥まで入り込んでいた。

 また、今の大和川は堺市へ流れている。しかし、奈良時代の大和川は奈良盆地を出ると向きを北に変え、大坂湾に流れ出ていた。堺へ流れている今の大和川は、江戸時代に掘られた人工の水路なのだ。

 奈良が都になる4世紀頃、大坂平野の奥まで海と川が混じる湿地帯が広がっていた。まさに河内と呼ばれた地であった。

 船で瀬戸内海から大坂湾に入り、上町台地を回り込み、大和川を遡ると生駒山、金剛山の麓まで行くことができた。中国大陸から生駒山麓の柏原市まで直接舟で行けたのだ。柏原で小舟に乗り換え生駒山と金剛山の間の亀の瀬を越えると、もうすぐそこは奈良盆地であった。

 この奈良盆地には、大きな湿地湖が広がっていた。その湿地湖を利用すれば奈良盆地のどこにでも舟で簡単に行くことができた。

 奈良盆地全体が、大坂湾の荒波を避ける穏やかな自然の内港のようであった。
 舟を利用すれば奈良盆地は便利がよく、ユーラシア大陸との連絡も容易であった。

 奈良盆地が日本の都になったのは、地形から見て合理的であった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=315461

19. 中川隆[-9294] koaQ7Jey 2019年6月25日 19:22:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3205] 報告

奈良盆地の原風景 〜古代奈良湖の残影〜
2013年10月31日 | 奈良大和路散策
https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7

 以前から不思議に思っていたことがある。近鉄奈良線に乗って生駒トンネルをくぐり、奈良まで行く場合の全線の高低差の話である。電車は上町台地の地下(大阪上本町駅)を出て鶴橋方面へやや下ると、あとは平坦な河内平野を真東に進み、やがて枚岡、瓢箪山、石切と急激に高度を上げて、生駒山の斜面をやや北方向に駆け登ってゆく。まるで登山電車並みの勾配を軽快に走る近鉄電車の醍醐味を味わえる区間だ。しかもここらからの大阪市街地の風景は絶品だが、その話はまたにして、やがて生駒トンネルをくぐると再び真東に進路を取り、生駒、東生駒、富雄、学園前と進む。しかし、生駒トンネルを通過すると不思議なことに電車は下降せずにほぼ水平に奈良に向けて快走する。あれだけの急勾配を登ってきたのに。と言うことは奈良盆地の標高は河内平野の標高より高い、ということなのだろうか?

 早速調べてみた。奈良盆地の標高は40mから60mほど。一方、生駒山を隔てた河内平野のそれは1〜3m。やはりこれだけの高低差があるのだ。ちなみに上町台地は一番高いところが38m(大阪城のあるあたり)、天王寺あたりで16mだそうだ。生駒山は642m、二上山が517m、山辺の道の東にそびえる龍王山は517m、三輪山は467mである。奈良盆地はこれらの山塊に囲まれた比較的標高の高い盆地(上町台地よりは高い)であることを認識した。

 現在の河内平野は、かつては河内湖、さらに時代をさかのぼれば上町台地(砂嘴であったという)を挟んんで瀬戸内海とつながった海水湖であった。したがって海抜が0に近いのも理解できるような気がする。やがては流入する土砂で湖底が上がり、干上がって平地になっていった。今は大阪のベッドタウン、日本の製造業を支える東大阪の町工場群、河内のおっちゃん、おばちゃんでにぎわうソウルフルな地域である。もはや河内湖の痕跡も面影もないが、上町台地か生駒山から展望すると確かにここがかつては海、湖であったとしても不思議ではない地形に見える。

 一方、河内平野とこれだけの比高差がある奈良盆地には、かつて古代奈良湖があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は東西16km、南北30km、矢田丘陵、馬見丘などはあるものの総面積300平方キロメートルの比較的平坦な盆地である。今は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、王寺から亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目、すなわちあの二上山のある穴虫峠のあたりから高低差を一気に下り河内平野に流れ込んでいる。200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化で古代奈良湖の水が河内へ流出し始めたと考えられている。さらに、古代奈良湖は、縄文後期から弥生時代にかけて、地底の隆起や大和川からの流出増(これには農業のための人為的な流路変更も考えられるとする研究者もいる)などにより、水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。何時頃まであったのかの確認が研究課題となっているが、後述のように様々な考古学、歴史学上の事績、記述にもヒントが隠されているようだ。

 なるほどこういう地形の大きな変遷があったのか。世の中にはこのようなことを研究しておられる先生方もいて、様々な研究成果が発表されている、特に最近は南海トラフ地震の被害想定や、海抜0メートル地帯である上町台地西側の大阪の中心部(難波八百八橋の水の都であった)や、東の河内平野(かつて海。湖であった)の防災対策、亀の瀬地域の大和川の土砂災害対策などの現実的な要請から、古代の地形変動に関する研究が盛んだ。また歴史学の視点からも様々な研究がなされている。私は研究者ではなく、通りがかりの「時空旅行者」なので、その詳細には立ち入らないが、太古の地形が歴史上のいくつかの出来事や風景描写、考古学的な発掘の意味を説明してくれている点はとても興味がある。
 
 いくつかのエピソードを並べると、

? 奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されている。それ以下には見つかっていない。やがて稲作農耕を主体とする弥生時代に入ると、弥生遺跡は標高40mでも見つかるようになる。すなわち、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯は肥沃な地味で稲作に適していたことから弥生人が定住し始めた証拠だと言う。湖畔に豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。

? また、古代の山辺の道がほぼ標高60mの高さで山麓を南北に通っているのは、かつての湖や通行に支障のある湿地帯をさけて形成された証拠だと言う。当初は人々の頻繁な自然往来で踏み分けられた道であったのだろうが、その重要性から権力者により官道として整備されていったのだろう。その後平地に造られた上津道、中津道、下津道より時代をさかのぼる最古の官道と言われるゆえんだ、と。

? 万葉集巻の一に舒明天皇御製の歌がある。
 「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は」
この「海原」はかつて香具山の北にあった埴安の池のことを指している、と唱える万葉集の研究者もいるが、この池も埋め立てられて、今香具山に登っても海や湖はおろか,池もも見えない。6世紀当時ははるか北に奈良湖の姿があったのであろうか。だとすると山と湖と水田で満たされた盆地はさぞ美しい風景だったことだろう。

? 斑鳩の法隆寺の南大門の前に鯛石という1×2メートルの踏み石が表面を露出させて埋まっている。地元ではこの鯛石まで水が来ても大丈夫と言い伝えられている。今見るとどこに水があるのか、という法隆寺界隈だが、創建当時は消滅寸前の奈良湖はこの斑鳩辺りに存在していて、創建時の斑鳩宮、法隆寺は近いところに建っていたのかもしれない。そうなると聖徳太子は飛鳥京へ毎日太子道を馬で通っていたとされるが、実は斑鳩からは船で飛鳥へ渡っていたのではないか。ちなみにこの鯛石のある地点の標高は50mで大和川の水位40mよりは高い位置にある。

 たしかに地形的に見ても、歴史的に見ても、「古代奈良湖存在説」はあまり荒唐無稽な感じではない。現在の奈良盆地の150余の中小河川の大和川一局集中の地形を見ても、かつての大きな水源の存在の痕跡を感じることが出来よう。さらに稲作農耕中心の生産手段と富の所有分配という経済体制、政治的支配機構、社会システムが確立されていったヤマト王権の時代の下部構造には、こうした水運に役立つ古代湖や河川とそれに連なる肥沃な湿地帯、神の権威を感じる甘南備型の山に囲まれた「まほろば」すなわち奈良盆地(大和盆地)が無くてはならなかった。まさにそうしたステージの一角、山懐(山の処)すなわちヤマト(大和)にヤマト王権が成立していったと考えれば、やはりこの盆地の舞台設定は、箱庭的であるが、国家誕生の揺籃としてはパーフェクトな設定ではないかと思う。


https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/1a/e080e77ea19c21ed40a5f43e9b34ad6e.jpg

(奈良湖推定図。この図によれば、縄文遺跡は水辺、湿地帯をさけて山麓の微高地に分布しているが、弥生時代の農耕集落(唐古鍵遺跡など)は湿地帯に分布している。面白いのは古墳時代から飛鳥時代の古墳や宮殿・宮都跡は稲作生産の拠点である水辺・湿地ではなく三輪山の山辺に分布している。やがては湿地の無い盆地南の飛鳥の地に遷っている。この図はネットの図形検索で出てきた図で、あちこちのブログで引用されている。しかし、いくら調べても出典が明らかでない。以前「近畿農政局のHP」に掲載されていたものではないかと思う。作者不詳だがよく出来ているので引用させてもらった)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/e8/fe71c8bbed362bd353858b8a95dbed6f.jpg

(奈良湖から亀の瀬を通って河内平野に流出する大和川の構造を示した図。高低差がある分だけ、亀の瀬地区は古代より大和川の流水による地盤崩壊などの災害の多いところであったようだ。奈良湖は最後は斑鳩の辺りに小規模に残り、やがては消滅していったのだろう。これも上図同様、出典が明らかでないがわかりやすいので引用させてもらった)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/92/4c34343109fc06091a8b3a8bc9b36947.jpg

(上町台地大阪城付近から展望した河内平野の今。高層マンション辺りが近鉄八尾駅前。かつてはこの辺り一帯は河内湖であった。二上山と左手の生駒山との切れ目あたりが亀の瀬、穴虫峠)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/15/0dca563980b9b718dee3cb64dedee8e8.jpg

(山辺の道の背後にそびえる龍王山山頂から奈良盆地を俯瞰する。この一帯に古代奈良湖があったと言われている。正面が二上山、その右側の山稜の切れ目が亀の瀬、大和川が河内平野に流入する所だ。手前の緑は崇神天皇陵。他にも箸墓古墳、景行天皇陵など大型の古墳がずらりと並ぶ大倭古墳群)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/69/67b040beb8603d584f70d66ad61df869.jpg

(龍王山からの二上山の展望。右奥の山向うに,うっすらと河内平野の町並みが見える)
https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7

20. 中川隆[-9289] koaQ7Jey 2019年6月25日 19:32:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3210] 報告


 『逆・日本史3』樋口清之著 から
 大和平野標高六〇メートル地点の謎
http://kamnavi.jp/jm/yamato.htm


 石器時代の終わりごろの遺跡が、奈良県全体で、約三〇〇近く発見されている。これらの遺跡は、大和の吉野渓谷から始まり、宇陀・三輪を通って大和平野に降りてくるが、平野の周縁部に広がるだけで、中央の平坦部にはまったくないのである。そして、周縁にある遺跡は、いずれも標高六〇メートルほどの線までである。
 これが弥生文化の一八〇〇年ほど前の遺跡になると、標高五〇メートルの線まで下りてくる。もっとも標高の低い島根山古墳も、やはり標高五〇メートルの線で止まっている。

 これはどういうことかというと、石器時代には標高六〇メートルが、古墳時代には標高五〇メートルが、人間が生活できる極限線だったことを意味している。それ以下の低い土地には何らかの障害があって、人間が住むことができなかった。

 そして、住むことができなかった障害とは、そこに水があったからである。標高五〇メートル以下の土地はすべて、かつては水中であった。つまり、大和湖の湖面が、二七〇〇〜二八〇〇年前の石器時代には標高六〇メートルの線にあり、一八〇〇年ほど前の弥生時代には、標高五〇メートルまで水位が下がったということなのである。

 なぜ、北九州にではなく、大和に都ができたのか

 弥生文化が、おもに西日本で発達し、なかでも大和と北九州に大きな文化圏ができたことはよく知られている事実である。だが、なぜ、大陸文化を早くから受け入れた九州に王朝ができず、大和に日本の古代王朝が誕生したのだろうか。
 それは、大和平野に巨大な湖があり、時がたつにつれて、水位が下がっていったことに大きな原因があったと思われる。

 水位が下がったのは土地がしだいに隆起したからであるが、水が引いたあとの湖畔の土地はよく肥えていて、農業にもっとも適した土地であった。しかも、大和平野は周りを山に囲まれているため、強い風を防ぎ、夏は蒸し暑くて、水田で稲を栽培するのには好条件であった。また、地形が複雑で土地の高低差があり、斜面に恵まれていたことから、大和地方に水田稲作農耕がいち早く発達し、それが大和王朝を生んだのである。

たかばみさん提供奈良湖


 記紀に書いてあることを、学問的根拠もなしに頭から否定してしまうのは、戦前、神話をすべて鵜呑みにして「歴史」としたことと同じくらい滑稽な話である。
 なぜなら、神武天皇の話の内容は、じつは古代の大和に存在したいくつかの歴史的事実の印象や伝承を編集、つまり日本の古代社会の雰囲気を如実に表現した部分が、数多く含まれているからである。

 たとえは、地名である。

 神武天皇は九州の日向を出発し、東へ進んで大和に入ると、長髄彦・兄猾・弟猾・土蜘蛛などの未開人を平定し、畝傍山のふもとの橿原の宮で天皇の位に即いた、ということになっている。

 この長髄彦や兄猾・弟猾・土蜘蛛などがいたという土地や、橿原など、神武天皇に関係のある地名が『日本書紀』や『古事記』などに三三カ所ほど挙げられているが、これらの地名を大和の土地にあてはめると、すべて標高六○メート〜線以上に存在していることがわかる。

 しかも、その土地ほ、大和湖のまわりの小高い所で、縄文式土器の出土する遺跡とぴったり一致しているのである。

 神武天皇伝承が、奈良時代にだれかが勝手につくりあげたものなら、うっかり、標高六〇メートル線以下の、古代においては湖底にあたる地名も出る可能性がある。奈良時代には土地の隆起がいちじるしく、大和潮は幻の湖になっていた。 昔は水位が六〇メートル線にあったなどということは記録に残されていないからである。

 とくに驚くべきことは、神武天皇の都とされている橿原が、ちゃんと存在していたことである。

http://kamnavi.jp/jm/yamato.htm

21. 中川隆[-9285] koaQ7Jey 2019年6月25日 19:36:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3214] 報告

伝承は何年くらい伝わり・残るものか: 2016年12月28日


神話と考古学の間 創元社 (1973)  末永 雅雄, 三品 彰英, 横田 健一
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%A8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E3%81%AE%E9%96%93-%E6%9C%AB%E6%B0%B8%E9%9B%85%E9%9B%84/dp/4422201115


このところ物部氏の出自について、なるべく推測を交えずに語ることが出来るよう
にと様々な本を当たっています。

ただ多くの人たちが関心を持ってきた一族ですので、その量が半端ではありません。
少々時間が掛かります。

そこで今日はそんな調査の中で見つけた一つの説をご紹介します。

タイトルにある「伝承は何年くらい伝わり、残るものか」というものです。

「神話と考古学の間」という末永氏という考古学者と文献史学の先生たちの対談集
で、この点に触れています。

結論から言えばおおよそ400年と言っています。

末永先生という方は故人ですが、橿原考古学研究所の初代所長を務めた方です。
大学を出ずに色々な経験を積んで来られた異色の人物です。
ある時、町史編纂に関わっていました。

その家に伝わっていた話しを調べてみると、数百年前に実際にその通りだったと
いうことに出会われたそうです。

神武天皇は橿原の宮で即位したと伝わりますが、これは作り話しで橿原の宮は想
像の産物とされていました。

ところが昭和13年から始まった末永先生も加わった調査で縄文から弥生時代に
掛けての遺跡が発見されました。

現在の大鳥居の付近では、大きなカシの木の根も出てきました。畝傍山あたりか
ら持ってきた土で、土地の高低を調整し大きな広場を作ってお祭りをしたらしい
のです。その時の一群の土器も出てきました。

末永先生の話では、弥生の終わり頃1世紀辺りと見られる土器も出てきたので
す。

日本書紀には神武天皇が

「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。
ここに都を造るべきである」

と言われ都造りに着手したとあります。

私は神武天皇の即位年、辛酉を121年と見ています。
調べれば調べるほど奇妙な一致が出てきます。

庶民の家の話しが数百年残っていたとすると、皇家や大きな豪族の伝承などは、
より残り易いと考えていいでしょう。

記紀には考えていた以上に史実が含まれていた可能性があります。
http://newkojiki.com/2016/12/28/%E4%BC%9D%E6%89%BF%E3%81%AF%E4%BD%95%E5%B9%B4%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%84%E4%BC%9D%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%83%BB%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8B/


22. 中川隆[-9262] koaQ7Jey 2019年6月30日 05:57:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3287] 報告
長浜浩明の神武天皇即位 紀元前70年説は間違い


長浜浩明は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

▲△▽▼


長浜浩明は神武東征が河内潟の時代だと主張していますが、河内湖Tの時代が正しい:


河内湖の名残
http://feynmanino.watson.jp/5697_kawachi2.html


邪馬台国とはなんぞや?(43) - altairposeidonのブログ

・古大阪平野の時代:約2万年前
・古河内平野の時代:約9000年前
・河内湾Iの時代:約7000年〜6000年前
・河内湾IIの時代:約5000年〜4000年前
・河内潟の時代:約3000年〜2000年前(BC1050年〜BC50年)
・河内湖Iの時代:約1800年〜1600年前(AD150年から350年)
・河内湖IIの時代〜大阪平野I・IIの時代:約1600年前以降
http://altairposeidon.hatenablog.com/entry/2018/10/11/000000


▲△▽▼


霊(ひ)の国の古事記論54  若御毛沼命の河内湖通過(「神武東征」)時期について
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html


1.「神武東征」か?

御毛沼命と若御毛沼命(後の神倭伊波礼琵古(磐余彦)命、8世紀に神武天皇と諡(おくりな))兄弟のいわゆる「神武東征」については、史実説と虚構説に分かれ、史実説については、記紀史実説(薩摩半島の山幸彦の子孫の征服説)と邪馬台国東征説・東遷説が見られる。

私の説(『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』、ブログ「霊の国の古事記論」)は、「薩摩半島の山幸彦(山人:やまと)の子孫の傭兵部隊の仕官を求めての移動説」であり、「若御毛沼命実在・東征否定説(傭兵隊移動説)」という「おおむね真実、一部虚偽」という第3の説である。


御毛沼命・若御毛沼命兄弟の移動は「東征」か「傭兵隊の移動」か?


 
 なお、第10代崇神天皇以前、第15代応神天皇以前、第26代継体天皇以前の3つの天皇非存在説についての検討はいずれまとめたいが、私の記紀判断の基準に照らし、神話時代を含めた登場人物については、実在人物をモデルに創作されたアマテラスを除き、ほぼ実在していた人物と考える。

 


2.神話時代の年代論について 

 皇国史観は神武即位を「BC660年」としたが、那珂通世は「AD元年」、久米邦武は「AD6年」、とし、高木修三氏は『紀年を解読する』(2000年)において「BC29年」、長浜浩明氏は『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』(2012年)において「BC70年」とした。

 これらに対して、記紀の年代分析において初めて統計的に科学的分析を行ったのは、安本美典氏である(図参照)。氏は古代の天皇、中世・近世の将軍、中国・西洋の王の在位年数から、古代大王の平均在位年数を約10年とし、神武即位を「AD271年頃」とする統計的な推定を行った。

 30〜40代天皇の即位年の直線回帰による私の追試では「AD277年」であり、私はこの安本説を全面的に支持する。


30〜40代天皇の即位年の直線回帰によるスサノオ大神・大国主神16代の即位年の予測


 なお、この記紀年代の統計的分析において、安本氏はアマテラスより前の王について検討されていないが、私は古事記神話が始祖としている天御中主までの分析を進めた。

 詳しくは前著『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』を参照いただきたいが、結論だけを述べると、AD57年の「委奴国王」の遣使、107年の「倭王師升」の遣使、「100余国を7〜80年支配した王朝」、146〜189年頃の「倭国大乱」、100余国のうちの30国をまとめた「卑弥呼」の238年の遣使、弟王との後継者争いで共立された「壱与」の266年の遣使との照合性について検討を行い、「委奴国王」はスサノオ、「倭王師升」は淤美豆奴(オミズヌ)、「100余国を7〜80年支配した王朝」はスサノオ・大国主王朝7代」、「倭国大乱」は大国主の後継者争い、「卑弥呼」はアマテラスと考える。


3.「神武東征」の時期について

 統計的な分析による安本氏の神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)について、物証の裏付けはないのであろうか?

 その鍵となるのは、記紀に描かれた若御毛沼らの行動である。その記述は次の通りである。

@古事記:「その国(注:吉備国)より遷り上り幸(い)でましし時、亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙あげて来る人に、速水門(はすひのと)で遇(あ)ひき。・・・故、その国より上り行でましし時、浪速(なみはや)の渡を経て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てたまひき」

A日本書紀:「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり。三月の丁卯の朔丙子(十日)、遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」

 この「速水門」「浪速の渡」「はやき潮」「遡流而上りて」「草香邑の青雲の白肩津」の記述がその時期を特定する鍵となる。


(1) 「速水門」はどこか?

 古事記の「速水門」は吉備出発後の記述であり、考えられるのは備讃瀬戸か明石海峡であるが、備讃瀬戸には「門」と呼べるような狭い海峡はなく、潮流も緩やかで、地形・海流の両方からみて「速水門」と呼べるような場所はない。「速水門」は幅4kmで両側の山が迫って「門」にふさわしく、潮流の早い明石海峡とみて間違いない。

 古田武彦氏は『古代は輝いていたU』において、明石海峡は「平穏、清明の海」とし、「速水門」に相応しいのは鳴門海峡としているが、これは全くの事実誤認である。四季、何十回と明石海峡を小さな渡し船で渡った私の経験でいえば、明石海峡の潮流は早い。


海上保安庁 六区豆知識「海の流れについて」


 海上保安庁のデータでみると、最大潮流は鳴門海峡10.5ノット、明石海峡6.7ノットであり、備讃瀬戸の3.4ノット、播磨灘の0.4〜0.5ノット、大阪湾の0.3〜0.5ノットと較べると、明石海峡を「速水門」と見るべきである。

 一方、日本書紀は「速水門」を筑紫の宇佐への途中に置いているので、豊予海峡(最大6ノット)になる。しかしながら、豊予海峡は14kmと広く、「門」と言えるような地形ではない。

 また、黒潮に洗われる笠沙半島を拠点にした隼人族(海幸彦)が豊予海峡を越えるのは苦もなかった筈であり、海岸沿いに行けば日向から宇佐、岡水門へと移動するのに迷うこともない。水先案内人を頼む必要があったとは思えない。

 舟で豊予海峡説(最大6ノット)や関門海峡(同9ノット)を越えるのは大変と思われるかも知れないが、下げ潮に乗れば楽々である。私は船折瀬戸(同9ノット=時速17q、村上水軍の根拠地の大島と伯方島の間の瀬戸)を潮流に乗って小型ヨットとカヌーで下ったことがあるが、広い海を早い潮流に乗って移動するのは、狭い川の急流を下るのと較べて何の危険もない。10〜20人乗りの丸木舟の舷側に板を張った重心の重い当時の舟なら、これらの海峡を通過するのに案内人は必要ない。仮に、どうしても下げ潮での通過が怖いなら、潮待ちして、12時間ごとの満潮時か干潮時の停潮期に渡ればよいがそんなことをする海洋民はいないであろう。

 奈良盆地にいて海を知らない日本書紀の編集者達は、若御毛沼たちが未知の海に東征の冒険に乗り出したことを印象づけるために、地形も潮流も舟も知らず、「速水門」を明石海峡から豊予海峡に変えたと見てよい。


(2) 「遡流而上りて」はいつの時代か

 若御毛沼らは2月11日(3月上旬)に吉備をたち、「速水門」を経て、「浪速の渡」を通り、3月10日に「白肩津」に着いたというのであるが、それは史実であろうか、史実ならいつの時代であろうか。孫引きデータで不安ではあるが、以下、検討したい(いずれ、原データにあたりたい)。

 前述の古田武彦氏の『古代は輝いていたU』によれば、弥生・古墳期(約1800〜1600年前:執筆当時から計算しなおすとAD185〜385年)頃の大阪には河内湖があり、若御毛沼らはこの河内湖を舟で進み、「白肩津」に着いたとしている。

 長浜浩明氏の『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』にはさらに詳しい図が紹介されているので、その図とHP「水都大阪」のデータを参考にさせていただくと、河内潟・河内湖・河内平野は、次の4つの時代に区分される。


A 河内潟時代(BC1050〜50):湾口が広い、海水湾の時代

B 河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150):干潮時には湖水の水が海に流れ、満潮時には海水が侵入する汽水湖の時代

C 河内湖淡水湖時代(河内湖1の時代、AD150〜350):湾口が狭まって海水の流入がない淡水湖の時代

D 陸地化時代(AD350〜):陸地化が進む時代


 日本書紀は「遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」としているが、それはどの時代のことであろうか?

 まず、河内潟時代(BC1050〜50)は、河内潟は満潮時も干潮時も海水が満ちており、広い流路で外海と内海は結ばれ、「遡流而上りて」はありえない。


AD185〜385頃の河内湖(古田武彦著『古代は輝いていたU』)


BC1050〜50の河内潟(長浜浩明著『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』)

          
 AD150〜350年頃の河内湖T(前同)


 5世紀以降の大阪平野(HP「水都大阪」より)


 次の、河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150)は、「浪速(なみはや)の渡」のあたりで湾口は狭まり、満潮時には上げ潮が湖内に流入し、干潮時には下げ潮が湖内から流出する。

 想定される当時の「河内湖」より大きさがやや小さい浜名湖(日本1の汽水湖)でみると、上げ潮の速さは2ノット(1m/s)、下げ潮は3〜4ノット(1.5〜2.0m/s)で、その潮流の範囲は湾口からわずかに前後それぞれ1qほどの狭い範囲である(伊東啓勝他「インレット周辺の流況特性把握調査」(『水路 第154号』より)。

 この下げ潮の3〜4ノット(1.5〜2.0m/s)というと、軽いカヌーの中速であり、この程度の流れなら簡単に漕ぎ上ることができる。カヌーや競技用ボートが高速で8〜10ノット(4.0〜5.0m/s)程度、26人の漕ぎ手のペーロン船が9ノット(4.5m/s)程度とされているから、汽水湖の下げ潮に逆らっても、特に苦労することもなく遡ることができる。私は琵琶湖の水がただ1カ所流れ出る瀬田川(流速は確かめられなかった)をエイトで何度も往復したことがあるが、軽い性能のいい競技艇ではゆっくり漕いでも楽に流れの速い瀬田川を遡ることができた。

 ただ、浜名湖には流入する大きな川はないのに対し、河内湖には滋賀・丹波・京都・奈良の広範囲な流域から水を集める淀川や木津川、大和川などから流入しており、若御毛沼たちが漕ぎ上ったのが冬の渇水期とはいえ、大阪湾への流出口の水流は浜名湖よりはかなり早かったに違いない。

 若御毛沼らが10〜20人ほどの重い準構造船(丸木舟の舷側に板を張って高くしたもの)を「遡流而上りて」漕ぎ上るとなると、その通過時期はAD150〜350年の河内湖淡水湖時代とみて間違いない。

彼らには急流の浪速の渡を漕ぎ上ったことが強く印象に残り、「遡流而上りて」と伝わった可能性が高い。

 繰り返しになるが、大阪湾と河内潟が広い湾口でつながっていた河内潟時代や、上げ潮のある汽水湖時代には、「遡流而上りて」という表現はでてこないであろう。


(3) 「草香邑の白肩津」はどこか?

 「草香邑の白肩津」については、生駒山麓の日下町を当てる説が多いが、私はそこから2.3qほど下った「枚岡」を比定する。「7」を「しち」「ひち」と発音する例などからみて、「しらかた津」は「ひらかた津」の可能性が高く、この地を奈良の登美・春日への最短距離の奈良街道が通っていたことからみても、白肩津は「枚岡」の湖岸にあった港(津)の可能性が高い。

 その時代は生駒山麓の陸地化が進んだ河内湖淡水湖時代(AD150〜350)ではありえない。その時代が河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150)であることは、「白肩津」からも裏付けられる。

 完全に陸地化した後の8世紀の記紀作者が、「浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき」「遡流而上りて、径に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」というような文章を創作することができないことは言うまでもない。これらの記述には、8世紀の記紀作者が知ることのできない「秘密の暴露」が見られる。

 以上、「速水門」「はやき潮」、「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩津」という記紀の記述は後世の創作ではなく、若御毛沼らがAD150〜350年の河内湖T時代にこの地にきた実際の体験であることが明らかである。

これは、安本氏の統計的分析による神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)を裏付けている。

いわゆる「神武東征」は、卑弥呼時代より後になり、神武即位「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しない。


4.「浪速国」の地名由来について

 日本書紀の「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり」という若御毛沼による地名命名説話は、記紀や風土記の天皇命名地名の怪しさを示している。

 日本書紀の編集者は古事記の「速水門」=明石海峡を豊後水道に置き換えたために、その代わりに明石海峡を「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ」とし、若御毛沼が「名付けて浪速国とす」としたが、明石は播磨の地であり、この地を浪速と名づけることはありえない。そもそも古事記は「浪速(なみはや)の渡」という地名を載せており、若御毛沼らがこの地に来る以前から、「浪速」「難波碕」の地名があったことは明らかである。

 なお、私は安本美典氏の北九州から奈良盆地への「地名ワンセット東遷」の指摘は重要と考えるが、九州の地名を持ってきた人々は、もっと前のスサノオ・大国主一族であると考える。「地名ワンセット東遷」を「神武東遷」の証拠とすることはできない。

 若御毛沼らの「東征」より先にこの地に「浪速」地名があったことが、それを証明している。


5.「草香邑の白肩津」の由来について

 前述のように「白肩(しらかた)津」は「枚潟(ひらかた)津」であったと私は考えるが、「枚潟」というと、関西の人は淀川を遡った「枚方」と考え、「牧」の当て字から「牧場」のイメージを持つかも知れない。

 しかし、「草香邑の白肩津」となると、「日下(くさか)」の南にある「枚岡」の麓の「枚潟」(平潟)にあった「津」(港)とみて間違いない。この地に、河内国一之宮の枚岡神社があることと、奈良街道が通っていたことからみて、河内湖時代にはこの地が重要な拠点港であったことが明らかである。

 大国主を「国譲り」させて後継者となった「天穂日神」の子の「天日名鳥命、天夷鳥命、武日照命」が「天比良鳥命」とも言われることからみて、「枚=比良」は「日名(夷、日)」と同じであった可能性がある。「はら(腹、原)」「あちら、こちら」の「ら(羅)」は、「はな(鼻)」「ひな(女性の性器=霊(ひ)の宿る所)」などの「な(那、奈)」と同じく、「場所、土地」を示すからである。

 記紀によれば、「ひ=日=霊(祖先霊)」であることから考えると、「比良」は「霊羅」で「霊(ひ)の降り立つ聖地」という意味になる。「天日名鳥命」が「出雲祝神」とも呼ばれていることから考えると、この「枚潟(ひらかた)津」は出雲族の祖先霊(磐霊(いわひ):磐座(いわくら)に宿る祖先霊)を祀る聖地であった可能性が高い。

 若御毛沼らを傭兵として受け入れず、追い返した「長髄彦(ながすね)彦」が「登美能那賀須泥毘古」と書かれていることをみると、「長髄彦(ながすね)彦」(森浩一氏は「長洲根彦」説)はこの地から生駒山を越えた登美にかけて支配した王であり、この地はその交易と祖先霊信仰の拠点であった可能性が高い。

 さらに、「草香邑」は現在、「日下(くさか)」の地名として残っているが、出雲市の日下には、出雲国風土記に登場する古社の「久佐加神社」があり、「草香邑」はこの地からきた出雲族の居住地であった可能性が高い。枚岡神社の所在地が「東大阪市出雲井町」であることや、「青雲の白肩津」という記紀の記述と合わせて考えると、この地が大国主の子孫の王の拠点であったことは確実であろう。


6.「亀に乗ったサヲネツ彦」のいわゆる「神話的表現」について
 古事記には、早水門で「亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙げて来る人に遇(あ)ひき」に会った、という印象的な記述が見られる。

 この記述から、「神武東征は、亀に乗った浦島太郎伝説をもとに作られた」というような結論を導き出すことはできるであろうか?


 まず「亀の甲に乗りて」は次のような現実的な解釈が可能である。

 第1の仮説は、「亀の形のような幅広型の舟に乗って釣りをしていた漁師」の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性である。

 第2の仮説は、「亀の甲羅のような板舟(幅広のサーフボード)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性である。

 第3の仮説は、「桶の舟(たらい舟)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承の「桶」が「瓶(かめ)」に変わり、さらに「亀」に変わって、「亀の甲に乗りて」となって伝わった可能性である。「桶から瓶」、「瓶から亀」への「伝言ゲーム」ミスである。

「浦島太郎伝説をもとにした創作説」が成立するためには、この3つの説を否定しなければならない。

 さらに、「打ち羽挙げて来る人」(打羽挙来人)がある。まず亀に乗って竜宮城に行き来した「浦島太郎伝説引用説」ではこの部分は説明が付かない。しかしながら実際の舟を想定すると、「打羽」は帆船の「帆」となり、合理的な解釈が可能である。「うちわ・うちは(団扇)」の語源は「打ち羽」とされており(『日本語源大辞典』)、この風を起こす道具は風を受ける道具でもある。

 「サオネツ彦」は浦島太郎のように亀に乗った人ではなく、帆を張った「亀型の幅広舟」か「板舟」、「たらい舟」に乗った漁師の可能性が高い。それは、九州沿岸に見られる舟ではなかったために印象深く言い伝えられたものと考えられる。

 若御毛沼兄弟らは、浦島太郎のような空想的な神話上の人物ではなく、釣りをしていた漁師に若御毛沼らが「汝は海道を知るや」と、「浪速の渡」から「白肩津」への水路の案内を頼んだとみるのが妥当である。


7.「神武東遷」について

 以上の検討結果をまとめると、「若御毛沼傭兵部隊東遷」について、次の事実が明らかである。

@ 「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩之津」の記述は、8世紀の記紀編集者の創作ではなく、河内湖淡水湖時代(河内湖1の時代:AD150〜350)の印象的な体験談である。

A 若御毛沼による「浪速国」の地名由来は、日本書紀編集者の創作である。

B 「草香邑の青雲の白肩之津」の地名は、この地の王が出雲の大国主の子孫の可能性が高いことを示している。

C 「亀に乗ったサヲネツ彦」は「浦島太郎伝説」を元にした後世の創作ではなく、実際の印象的な体験談(伝承の過程で変容した可能性が高い)である。


8.神武東遷時期の確定は「邪馬台国畿内説」を否定する

 以上の検討により、若御毛沼傭兵部隊の奈良盆地への移動は「AD271年頃」(私はAD277年頃)より少し前となり、神武即位「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しない。
 この結果は大きい。

 邪馬台国畿内説の崩壊である。卑弥呼(248年頃死亡)の時代より、少し後の271〜277年頃に「神武傭兵部隊の東遷」があったことが証明されるからである。

 神武より8〜14代後の倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫(第7代孝霊天皇の皇女)や倭姫(第 11代垂仁天皇の皇女)、神功皇后(14代仲哀天皇の皇后)を卑弥呼(248年頃死亡)とする畿内説の全面崩壊である。

古事記によれば、天照大御神からオシホミミ命―ニニギ命―ホホデミ命―ウガヤフキアエズ命―若御毛沼命(神武)と続くが、アマテラスは「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で生まれ、ニニギ命・ホホデミ命・ウガヤフキアエズ命は薩摩半島の笠沙で死んでいる。アマテラスは大和とは無縁である。

 なお、言うまでもないが、記紀神話創作説や2〜9代天皇の「欠史8代説」を採用するなら、天照大御神や倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫、倭姫などを歴史上の人物として論ずることがそもそもナンセンスである。記紀からアマテラスだけを「つまみ喰い」するような行儀の悪い考古学者やそれをもてはやす朝日・NHKなどのマスコミ人がいることは、この国の知性の崩壊状況を示しているといわざるをえない。  141019 帆人(日向 勤)
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html

23. 中川隆[-9261] koaQ7Jey 2019年6月30日 06:00:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3288] 報告

長浜浩明の神武天皇即位 紀元前70年説は間違い _ 2


長浜浩明の「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です:

日本書紀(現代語訳・口語訳の全文)
太歳甲寅11月〜戊午年春3月
https://nihonsinwa.com/page/859.html


原文

十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫国岡水門。

十有二月丙辰朔壬午、至安藝国、居于埃宮。

乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備国、起行館宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。

戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速国、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。

三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內国草香邑雲白肩之津。

現代語訳

太歳甲寅11月
11月の9日に神武天皇は筑紫国(ツクシノクニ)の岡水門(オカノミナト=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しました。

太歳甲寅12月
12月の27日に安芸国の埃宮(エノミヤ=広島県府中町)に滞在しました。

乙卯年春3月
乙卯年(キノトウノトシ)の春三月の6日に吉備国(キビノクニ)に入り、行館(カリミヤ=仮宮)を作って滞在しました。これを高嶋宮(タカシマノミヤ)といいます。三年滞在している間に、船を揃え、兵食(カテ)を備え、ひとたび兵を挙げて天下(アメノシタ)を平定しようと神武天皇は思っていました。

戊午年春2月
戊午年(ツチノエウマノトシ)の春2月の11日。皇師(ミイクサ)はついに東へと向かいました。舳艫(ジクロ=船首と船尾)がぶつかり合うほどに沢山の船団でした。難波之碕(ナニワノサキ)に到着すると、潮が速いところがあった。それでこの場所を浪速国(ナミハヤノクニ)といいます。また浪花(ナミハナ)といいます。今、難波と呼ばれるのはこれらが訛ったものです。

訛は與許奈磨盧(ヨコナマル)と読みます。

戊午年春3月
三月の10日。流れを遡(サカノボ)って、河内国(カワチノクニ)草香邑(クサカムラ)雲(アオクモ)白肩之津(シラカタノツ)に到着しました。
https://nihonsinwa.com/page/859.html

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日本書紀(原文) 日本書紀巻03/神武天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html


~日本磐余彥天皇 ~武天皇

~日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉依姬、海童之少女也。天皇生而明達、意礭如也、年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命。

及年卌五歲、謂諸兄及子等曰「昔我天~、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃~乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歲甲寅。

其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是國~、名曰珍彥、釣魚於曲浦。聞天~子來、故卽奉迎。」又問之曰「汝能爲我導耶。」對曰「導之矣。」天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彥椎、此云辭毗、此卽倭直部始祖也。行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。

十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。

十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。

乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備國、起行宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。

戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速國、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。

三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內國草香邑雲白肩之津。

夏四月丙申朔甲辰、皇師勒兵、步趣龍田。而其路狹嶮、人不得並行、乃還更欲東踰膽駒山而入中洲。時、長髄彥聞之曰「夫天~子等所以來者、必將奪我國。」則盡起屬兵、徼之於孔舍衞坂、與之會戰。有流矢、中五瀬命肱脛。皇師不能進戰、天皇憂之、乃運~策於沖衿曰「今我是日~子孫而向日征虜、此逆天道也。不若、退還示弱、禮祭~祇、背負日~之威、隨影壓躡。如此、則曾不血刃、虜必自敗矣。」僉曰「然。」於是、令軍中曰「且停、勿須復進。」乃引軍還。虜亦不敢逼、却至草香之津、植盾而爲雄誥焉。雄誥、此云烏多鶏縻。因改號其津曰盾津、今云蓼津訛也。初、孔舍衞之戰、有人隱於大樹而得兔難、仍指其樹曰「恩如母。」時人、因號其地曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。

五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。亦名山井水門。茅淳、此云智怒。時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢「慨哉、大丈夫慨哉、此云宇黎多棄伽夜被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。

六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。戸畔、此云妬鼙。遂越狹野而到熊野~邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天~、母則海~。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持~。三毛入野命、亦恨之曰「我母及姨並是海~。何爲起波瀾、以灌溺乎。」則蹈浪秀而往乎常世ク矣。

天皇獨與皇子手硏耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津亦名丹敷浦、因誅丹敷戸畔者。時、~吐毒氣、人物咸瘁、由是、皇軍不能復振。時彼處有人、號曰熊野高倉下、忽夜夢、天照大~謂武甕雷~曰「夫葦原中國猶聞喧擾之響焉。聞喧擾之響焉、此云左揶霓利奈離。宜汝更往而征之。」武甕雷~對曰「雖予不行、而下予平國之劒、則國將自平矣。」天照大~曰「諾。諾、此云宇毎那利。」時武甕雷~、登謂高倉下曰「予劒號曰韴靈。韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。今當置汝庫裏。宜取而獻之天孫。」高倉下曰「唯々」而寤之。明旦、依夢中教、開庫視之、果有落劒倒立於庫底板、卽取以進之。

于時、天皇適寐。忽然而寤之曰「予何長眠若此乎。」尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲、而山中嶮絶、無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢、天照大~訓于天皇曰「朕今遣頭八咫烏、宜以爲ク導者。」果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰「此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣、我皇祖天照大~、欲以助成基業乎。」是時、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、蹈山啓行、乃尋烏所向、仰視而追之。遂達于菟田下縣、因號其所至之處、曰菟田穿邑。穿邑、此云于介知能務羅。于時、勅譽日臣命曰「汝忠而且勇、加能有導之功。是以、改汝名爲道臣。」

秋八月甲午朔乙未、天皇使徵兄猾及弟猾者。猾、此云字介志。是兩人、菟田縣之魁帥者也。魁帥、此云比ケ誤廼伽瀰。時、兄猾不來、弟猾卽詣至、因拜軍門而告之曰「臣兄々猾之爲逆狀也、聞天孫且到、卽起兵將襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潛伏其兵、權作新宮而殿內施機、欲因請饗以作難。願知此詐、善爲之備。」天皇卽遣道臣命、察其逆狀。時道臣命、審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰「虜、爾所造屋、爾自居之。」爾、此云飫例。因案劒彎弓、逼令催入。兄猾、獲罪於天、事無所辭、乃自蹈機而壓死、時陳其屍而斬之、流血沒踝、故號其地、曰菟田血原。已而弟猾大設牛酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班賜軍卒、乃爲御謠之曰、謠、此云宇哆預瀰。

于儾能多伽機珥 辭藝和奈陂蘆 和餓末菟夜 辭藝破佐夜羅孺 伊殊區波辭 區旎羅佐夜離 固奈瀰餓 那居波佐麼 多智曾麼能 未廼那鶏句塢 居氣辭被惠禰 宇破奈利餓 那居波佐麼 伊智佐介幾 未廼於朋鶏句塢 居氣儾被惠禰

是謂來目歌。今樂府奏此歌者、猶有手量大小、及音聲巨細、此古之遺式也。是後、天皇欲省吉野之地、乃從菟田穿邑、親率輕兵巡幸焉。至吉野時、有人出自井中、光而有尾。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是國~、名爲井光。」此則吉野首部始祖也。更少進、亦有尾而披磐石而出者。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是磐排別之子。」排別、此云飫時和句。此則吉野國樔部始祖也。及緣水西行、亦有作梁取魚者。梁、此云揶奈。天皇問之、對曰「臣是苞苴擔之子。」苞苴擔、此云珥倍毛菟。此則阿太養鸕部始祖也。

九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。時、國見丘上則有八十梟帥梟帥、此云多稽屢、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置焃炭。其女坂・男坂・墨坂之號、由此而起也。復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。磯、此云志。賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通。天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有天~訓之曰「宜取天香山社中土香山、此云介遇夜摩以造天平瓮八十枚平瓮、此云毗邏介幷造嚴瓮而敬祭天~地祇嚴瓮、此云怡途背、亦爲嚴呪詛。如此、則虜自平伏。」嚴呪詛、此云怡途能伽辭離。

天皇、祇承夢訓、依以將行、時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑或本云、葛城邑也、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、臣竊爲天皇憂之。宜今當取天香山埴、以造天平瓮而祭天社國社之~、然後擊虜則易除也。」天皇、既以夢辭爲吉兆、及聞弟猾之言、u喜於懷。乃使椎根津彥、著弊衣服及蓑笠、爲老父貌、又使弟猾被箕、爲老嫗貌、而勅之曰「宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣。基業成否、當以汝爲占。努力愼歟。」

是時、虜兵滿路、難以往還。時、椎根津彥、乃祈之曰「我皇當能定此國者行路自通、如不能者賊必防禦。」言訖徑去。時、群虜見二人、大咲之曰「大醜乎大醜、此云鞅奈瀰爾句老父老嫗。」則相與闢道使行、二人得至其山、取土來歸。於是、天皇甚ス、乃以此埴、造作八十平瓮・天手抉八十枚手抉、此云多衢餌離嚴瓮、而陟于丹生川上、用祭天~地祇。則於彼菟田川之朝原、譬如水沫而有所呪著也。天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。又祈之曰「吾今當以嚴瓮、沈于丹生之川。如魚無大小悉醉而流、譬猶范t之浮流者艨A此云磨紀、吾必能定此國。如其不爾、終無所成。」乃沈瓮於川、其口向下、頃之魚皆浮出、隨水噞喁。

時、椎根津彥、見而奏之。天皇大喜、乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸~。自此始有嚴瓮之置也。時勅道臣命「今、以高皇産靈尊、朕親作顯齋。顯齋、此云于圖詩怡破毗。用汝爲齋主、授以嚴媛之號。而名其所置埴瓮爲嚴瓮、又火名爲嚴香來雷、水名爲嚴罔象女罔象女、此云瀰菟破廼迷、糧名爲嚴稻魂女稻魂女、此云于伽能迷、薪名爲嚴山雷、草名爲嚴野椎。」

冬十月癸巳朔、天皇嘗其嚴瓮之粮、勒兵而出。先擊八十梟帥於國見丘、破斬之。是役也、天皇志存必克、乃爲御謠之曰、

伽牟伽筮能 伊齊能于瀰能 於費異之珥夜 異波臂茂等倍屢 之多儾瀰能 之多儾瀰能 阿誤豫 阿誤豫 之多太瀰能 異波比茂等倍離 于智弖之夜莽務 于智弖之夜莽務

謠意、以大石喩其國見丘也。既而餘黨猶繁、其情難測、乃顧勅道臣命「汝、宜帥大來目部、作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜而取之。」道臣命、於是奉密旨、掘窨於忍坂而選我猛卒、與虜雜居、陰期之曰「酒酣之後、吾則起歌。汝等聞吾歌聲、則一時刺虜。」已而坐定酒行、虜不知我之有陰謀、任情徑醉。時道臣命、乃起而歌之曰、

於佐箇廼 於朋務露夜珥 比苔瑳破而 異離烏利苔毛 比苔瑳破而 枳伊離烏利苔毛 瀰都瀰都志 倶梅能固邏餓 勾騖都都伊 異志都々伊毛智 于智弖之夜莽務

時、我卒聞歌、倶拔其頭椎劒、一時殺虜、虜無復噍類者。皇軍大ス、仰天而咲、因歌之曰、

伊莽波豫 伊莽波豫 阿阿時夜塢 伊莽儾而毛 阿誤豫 伊莽儾而毛 阿誤豫

今、來目部歌而後大哂、是其緣也。又歌之曰、

愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒

此皆承密旨而歌之、非敢自專者也。時天皇曰「戰勝而無驕者、良將之行也。今魁賊已滅、而同惡者、匈々十數群、其情不可知。如何久居一處、無以制變。」乃徙營於別處。

十有一月癸亥朔己巳、皇師大舉、將攻磯城彥。先遣使者徵兄磯城、兄磯城不承命。更遺頭八咫烏召之、時烏到其營而鳴之曰「天~子召汝。怡奘過、怡奘過。過、音倭。」兄磯城忿之曰「聞天壓~至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。壓、此云飫蒭。」乃彎弓射之、烏卽避去、次到弟磯城宅而鳴之曰「天~子召汝。怡奘過、怡奘過。」時弟磯城惵然改容曰「臣聞天壓~至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」卽作葉盤八枚、盛食饗之。葉盤、此云毗羅耐。因以隨烏、詣到而告之曰「吾兄々磯城、聞天~子來、則聚八十梟帥、具兵甲、將與決戰。可早圖之。」

天皇乃會諸將、問之曰「今、兄磯城、果有逆賊之意、召亦不來。爲之奈何。」諸將曰「兄磯城、黠賊也。宜先遣弟磯城曉喩之幷說兄倉下・弟倉下。如遂不歸順、然後舉兵臨之、亦未晩也。倉下、此云衢羅餌。」乃使弟磯城、開示利害。而兄磯城等猶守愚謀、不肯承伏。時、椎根津彥、計之曰「今者宜先遣我女軍、出自忍坂道。虜見之必盡鋭而赴。吾則駈馳勁卒、直指墨坂、取菟田川水、以灌其炭火、儵忽之間出其不意、則破之必也。」天皇善其策、乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至、畢力相待。先是、皇軍攻必取、戰必勝、而介胃之士、不無疲弊。故、聊爲御謠、以慰將卒之心焉、謠曰、

哆々奈梅弖 伊那瑳能椰摩能 虛能莽由毛 易喩耆摩毛羅毗 多多介陪麼 和例破椰隈怒 之摩途等利 宇介譬餓等茂 伊莽輸開珥虛禰

果以男軍越墨坂、從後夾擊破之、斬其梟帥兄磯城等。

十有二月癸巳朔丙申、皇師遂擊長髄彥、連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄、飛來止于皇弓之弭、其鵄光曄U、狀如流電。由是、長髄彥軍卒皆迷眩、不復力戰。長髄、是邑之本號焉、因亦以爲人名。及皇軍之得鵄瑞也、時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也。昔孔舍衞之戰、五瀬命中矢而薨、天皇銜之、常懷憤懟、至此役也、意欲窮誅、乃爲御謠之曰、

瀰都瀰都志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 阿波赴珥破 介瀰羅毗苔茂苔 曾廼餓毛苔 曾禰梅屠那藝弖 于笞弖之夜莽務

又謠之曰、

瀰都々々志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 宇惠志破餌介瀰 句致弭比倶 和例破涴輸例儒 于智弖之夜莽務

因復縱兵忽攻之、凡諸御謠、皆謂來目歌、此的取歌者而名之也。時、長髄彥乃遣行人、言於天皇曰「嘗有天~之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。饒速日、此云儞藝波揶卑。是娶吾妹三炊屋媛亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛遂有兒息、名曰可美眞手命。可美眞手、此云于魔詩莽耐。故、吾以饒速日命、爲君而奉焉。夫天~之子、豈有兩種乎、奈何更稱天~子、以奪人地乎。吾心推之、未必爲信。」天皇曰「天~子亦多耳。汝所爲君、是實天~之子者、必有表物。可相示之。」

長髄彥、卽取饒速日命之天羽々矢一隻及步靫、以奉示天皇。天皇覽之曰「事不虛也。」還以所御天羽々矢一隻及步靫、賜示於長髄彥。長髄彥、見其天表、u懷踧踖、然而凶器已構、其勢不得中休、而猶守迷圖、無復改意。饒速日命、本知天~慇懃唯天孫是與、且見夫長髄彥禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。

己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。丘岬、此云塢介佐棄。又和珥坂下、有居勢祝者。坂下、此云瑳伽梅苔。臍見長柄丘岬、有猪祝者。此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。夫磐余之地、舊名片居片居、此云伽哆韋、亦曰片立片立、此云伽哆哆知、逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地、因改號爲磐余。

或曰「天皇、往嘗嚴瓮粮、出軍西征、是時、磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。屯聚居、此云怡波瀰萎。果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。」又皇師立誥之處、是謂猛田。作城處、號曰城田。又賊衆戰死而僵屍、枕臂處、呼爲頰枕田。天皇、以前年秋九月、潛取天香山之埴土、以造八十平瓮、躬自齋戒祭諸~、遂得安定區宇、故號取土之處、曰埴安。

三月辛酉朔丁卯、下令曰「自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未C餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之コ、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。」

是月、卽命有司、經始帝宅。

庚申年秋八月癸丑朔戊辰、天皇當立正妃、改廣求華胄、時有人奏之曰「事代主~、共三嶋溝橛耳~之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。」天皇ス之。九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。

辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子~八井命・~渟名川耳尊。故古語稱之曰「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰~日本磐余彥火々出見天皇焉。」初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。

二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。珍彥、此云于砮毗故。又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名K速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。

四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天~、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天~焉。

卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。秀眞國、此云袍圖莽句爾。」復、大己貴大~目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是ク而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」

卌有二年春正月壬子朔甲寅、立皇子~渟名川耳尊、爲皇太子。

七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲。明年秋九月乙卯朔丙寅、葬畝傍山東北陵。
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html


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古事記 中の卷 神武東征


大和国造の先祖サオネツヒコ
https://nihonsinwa.com/page/404.html


原文の読み下し文

また「従ひて仕へ奉らむや」と問ひたまへば、「仕へ奉らむ」と答へ曰しき。かれここに、槁機を指し渡し、その御船に引き入れて、即ち、名を賜ひて槁根津日子と号けたまひき。こは倭国造等の祖なり。


現代語訳

その亀に乗って釣りをしていた人に
「わたしたちに従い、仕えないか?」
と尋ねると

「お仕えしましょう」
と答えました。

その人に槁機(=竿)を差し渡して、兄弟神の船へと引き入れました。
そして槁根津日子(サオネツヒコ)という名前を授けました。
この人は倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)などの先祖です。


日本書紀の対応箇所
太歳甲寅冬十月−1 椎の木の竿の先を渡して
https://nihonsinwa.com/page/855.html

那賀須泥毘古との戦い
https://nihonsinwa.com/page/405.html


原文の読み下し文

故、その国より上り行でましし時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき。この時、登美の那賀須泥毘古、軍を興して待ち向へて戦ひき。


現代語訳

その国から出発して東へと向かいました。
浪速の渡(ナミハヤノワタリ)を通って白肩津(シラカタノツ)に船を泊めました。
そのときに、登美(トミ)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が兵を集めて待ち受けていて、戦争になりました。
https://nihonsinwa.com/page/405.html


盾を取り出して戦いました
https://nihonsinwa.com/page/406.html


原文の読み下し文

ここに御船に入れたる楯を取りて下り立ちたまひき。故、其地を号けて楯津といひき。今に日下の蓼津と云ふ。


現代語訳

那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が戦いを挑んできたので、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ命)と五瀬命(イツセ命)は船から「盾」を取り出して船から下りて戦いました。その土地を名付けて盾津(=タテツ)といいます。現在は日下の蓼津(タデツ)といいます。


日本書紀の対応箇所
戊午年夏四月 退却の判断
https://nihonsinwa.com/page/863.html


手痛い矢を受けるイツセ命
https://nihonsinwa.com/page/407.html


原文の読み下し文

ここに登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負ひたまひき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賎しき奴が痛手を負ひぬ。今より行き廻りて背に日を負ひて撃たむ」と期りて、南の方より廻り幸でましし時、血沼海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。故、血沼海といふ。


現代語訳

登美毘古(トミビコ=ナガスネヒコ)と戦ったとき、
五瀬命(イツセ命)は手に登美毘古の痛矢串(イタヤグシ=矢を受けた傷)を負いました。

傷を受けたとき、五瀬命(イツセ命)は言いました。

「わたしは日の神の皇子なのに
日に向かって戦ってしまった。
これは良くなかった。
だから、卑しい奴に痛手を負わされた。
これからは回り道をして、太陽を背にして戦おう」
と誓い、南から回って血沼海に到着して
その手の血を洗いました。

それで「血沼海(チヌノウミ)」と呼ぶようになりました。


日本書紀の対応箇所

戊午年夏四月 退却の判断
https://nihonsinwa.com/page/863.html

五月丙寅朔癸酉 五瀬命の雄叫びと死
https://nihonsinwa.com/page/903.html


紀伊国の男乃水門で死亡
https://nihonsinwa.com/page/903.html


原文の読み下し文

其地より廻り幸でまして、紀国の男之水門に到りて詔りたまはく、「賎しき奴が手を負ひてや死なむ」と男建びして崩りましき。故、その水門を号けて男の水門と謂ふ。陵は紀国の竈山にあり。


現代語訳

その地(地沼海)から更に回って、紀伊国の男乃水門(オノミナト)に着いて言いました。

「卑しい奴によって、手に傷を負って、死ねるか!」
と雄雄しく振舞いましたが、
死んでしまいました。

その水門(ミナト=港)を名づけて男乃水門(オノミナト)というようになりました。イツセ命の墓は紀伊の国の竈山(カマヤマ)にあります。


日本書紀の対応箇所

戊午年夏四月 退却の判断
https://nihonsinwa.com/page/863.html

五月丙寅朔癸酉 五瀬命の雄叫びと死
https://nihonsinwa.com/page/903.html


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古事記 中巻-1/神武天皇〜開化天皇 原文
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html

~倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。

亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。自多下三字以音。亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國~。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。

故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古自登下九字以音興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立、故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。故爾詔「吾者爲日~之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」期而、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。

故、~倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時、大熊髮出入卽失。爾~倭伊波禮毘古命、倐忽爲遠延、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以音。此時、熊野之高倉下此者人名賷一横刀、到於天~御子之伏地而獻之時、天~御子卽寤起、詔「長寢乎。」故、受取其横刀之時、其熊野山之荒~、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。

故、天~御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大~・高木~二柱~之命以、召建御雷~而詔『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷~可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都~、亦名云甕布都~、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上~宮也。降此刀狀者、穿高倉下之倉頂、自其墮入。故、阿佐米余玖自阿下五字以音汝取持、獻天~御子。』故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而獻耳。」

於是亦、高木大~之命以覺白之「天~御子、自此於奧方莫使入幸。荒~甚多。今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道、從其立後應幸行。」故隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、作筌有取魚人。爾天~御子、問「汝者誰也。」答曰「僕者國~、名謂贄持之子。」此者阿陀之鵜飼之祖。從其地幸行者、生尾人、自井出來、其井有光。爾問「汝誰也。」答曰「僕者國~、名謂井氷鹿。」此者吉野首等祖也。卽入其山之、亦遇生尾人、此人押分巖而出來。爾問「汝者誰也。」答曰「僕者國~、名謂石押分之子。今聞天~御子幸行、故參向耳。」此者吉野國巢之祖。自其地蹈穿越幸宇陀、故曰宇陀之穿也。

故爾、於宇陀有兄宇迦斯自宇以下三字以音、下效此也弟宇迦斯二人。故先遣八咫烏問二人曰「今天~御子幸行。汝等仕奉乎。」於是兄宇迦斯、以鳴鏑待射返其使、故其鳴鏑所落之地、謂訶夫羅前也。將待擊云而聚軍、然不得聚軍者、欺陽仕奉而、作大殿、於其殿內作押機、待時。弟宇迦斯先參向、拜曰「僕兄・兄宇迦斯、射返天~御子之使、將爲待攻而聚軍、不得聚者、作殿其內張押機、將待取。故、參向顯白。」

爾大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命、二人、召兄宇迦斯罵詈云「伊賀此二字以音所作仕奉於大殿內者、意禮此二字以音先入、明白其將爲仕奉之狀。」而、卽握横刀之手上、矛由氣此二字以音矢刺而、追入之時、乃己所作押見打而死。爾卽控出斬散、故其地謂宇陀之血原也。然而其弟宇迦斯之獻大饗者、悉賜其御軍、此時歌曰、

宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。此五字以音。阿阿音引志夜胡志夜 此者嘲咲者也。

故、其弟宇迦斯、此者宇陀水取等之祖也。

自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲訓云具毛八十建、在其室待伊那流。此三字以音。故爾、天~御子之命以、饗賜八十建、於是宛八十建、設八十膳夫、毎人佩刀、誨其膳夫等曰「聞歌之者、一時共斬。」故、明將打其土雲之歌曰、

意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯

如此歌而、拔刀一時打殺也。
然後、將擊登美毘古之時、歌曰、

美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟

又歌曰、

美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟

又歌曰、

加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟

又擊兄師木・弟師木之時、御軍暫疲、爾歌曰、

多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥

故爾、邇藝速日命參赴、白於天~御子「聞天~御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。

故、如此言向平和荒夫琉~等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。

故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣自阿以下五字以音生子、多藝志美美命、次岐須美美命、二柱坐也。然更求爲大后之美人時、大久米命曰「此間有媛女、是謂~御子。其所以謂~御子者、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美。故、美和之大物主~見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。此二字以音。下效此。爾其美人驚而、立走伊須須岐伎此五字以音、乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、卽娶其美人生子、名謂富登多多良伊須須岐比賣命、亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣。是者惡其富登云事、後改名者也。故、是以謂~御子也。」

於是七媛女、遊行於高佐士野佐士二字以音、伊須氣余理比賣在其中。爾大久米命、見其伊須氣余理比賣而、以歌白於天皇曰、

夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟

爾伊須氣余理比賣者、立其媛女等之前。乃天皇見其媛女等而、御心知伊須氣余理比賣立於最前、以歌答曰、

加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟

爾大久米命、以天皇之命、詔其伊須氣余理比賣之時、見其大久米命黥利目而、思奇歌曰、

阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米

爾大久米命、答歌曰、

袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米

故、其孃子、白之「仕奉也。」於是其伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上。天皇幸行其伊須氣余理比賣之許、一宿御寢坐也。其河謂佐韋河由者、於其河邊山由理草多在。故、取其山由理草之名、號佐韋河也。山由理草之本名云佐韋也。後、其伊須氣余理比賣、參入宮內之時、天皇御歌曰、

阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯

然而阿禮坐之御子名、日子八井命、次~八井耳命、次~沼河耳命、三柱。

故、天皇崩後、其庶兄當藝志美美命、娶其嫡后伊須氣余理比賣之時、將殺其三弟而謀之間、其御祖伊須氣余理比賣患苦而、以歌令知其御子等、歌曰、

佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須

又歌曰、

宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流

於是其御子聞知而驚、乃爲將殺當藝志美美之時、~沼河耳命、曰其兄~八井耳命「那泥此二字以音汝命、持兵入而、殺當藝志美美。」故、持兵入以將殺之時、手足和那那岐弖此五字以音不得殺。故爾其弟~沼河耳命、乞取其兄所持之兵、入、殺當藝志美美。故亦稱其御名、謂建沼河耳命。

爾~八井命、讓弟建沼河耳命曰「吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故、吾雖兄不宜爲上、是以汝命爲上治天下、僕者扶汝命、爲忌人而仕奉也。」故、其日子八井命者、茨田連、手嶋連之祖。~八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也。~沼河耳命者、治天下也。

凡此~倭伊波禮毘古天皇御年、壹佰參拾漆歲。御陵在畝火山之北方白檮尾上也。

~沼河耳命、坐葛城高岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・河俣毘賣、生御子、師木津日子玉手見命。一柱天皇御年、肆拾伍歲。御陵在衝田岡也。

師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命自伊下三字以音、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。次師木津日子命之子、二王坐、一子孫者伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之祖、一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。天皇御年、肆拾玖歲。御陵在畝火山之美富登也。

大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命自訶下四字以音、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。天皇御年、肆拾伍歲、御陵在畝火山之眞名子谷上也。

御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。

大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。二柱。自賦下三字以音。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。天皇御年、壹佰貳拾參歲、御陵在玉手岡上也。

大倭根子日子賦斗邇命、坐K田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。

故、大倭根子日子國玖琉命者、治天下也。大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口、以言向和吉備國也。故、此大吉備津日子命者、吉備上道臣之祖也。次若日子建吉備津日子命者、吉備下道臣、笠臣祖。次日子寤間命者、針間牛鹿臣之祖也。次日子刺肩別命者、高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直之祖也。天皇御年、壹佰陸歲。御陵在片岡馬坂上也。

大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命色許二字以音、下效此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。自比至都以音。又娶河內青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命、自比至士六字以音。此者膳臣之祖也。

比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣那毘二字以音、生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。

此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。

此天皇御年、伍拾漆歲。御陵在劒池之中岡上也。

若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。此天皇、娶旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣、生御子、比古由牟須美命。一柱。此王名以音。又娶庶母・伊迦賀色許賣命、生御子、御眞木入日子印惠命印惠二字以音、次御眞津比賣命。二柱。又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命意祁都三字以音、生御子、日子坐王。一柱。又娶葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣、生御子、建豐波豆羅和氣。一柱。自波下五字以音。此天皇之御子等、幷五柱。男王四、女王一。故、御眞木入日子印惠命者、治天下也。

其兄・比古由牟須美王之子、大筒木垂根王、次讚岐垂根王。二王。讚岐二字以音。此二王之女、五柱坐也。

次日子坐王、娶山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨此一字以音生子、大俣王、次小俣王、次志夫美宿禰王。三柱。又娶春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣、生子、沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘賣命・亦名佐波遲比賣此沙本毘賣命者、爲伊久米天皇之后。自沙本毘古以下三王名皆以音、次室毘古王。四柱。又娶近淡海之御上祝以伊都玖此三字以音天之御影~之女・息長水依比賣、生子、丹波比古多多須美知能宇斯王此王名以音、次水之穗眞若王、次~大根王・亦名八瓜入日子王、次水穗五百依比賣、次御井津比賣。五柱又娶其母弟・袁祁都比賣命、生子、山代之大筒木眞若王、次比古意須王、次伊理泥王。三柱。此二王名以音。凡日子坐王之子、幷十一王。

故、兄大俣王之子、曙立王、次菟上王。二柱。此曙立王者、伊勢之品遲部君、伊勢之佐那造之祖。菟上王者、比賣陀君之祖。次小俣王者、當麻勾君之祖。次志夫美宿禰王者、佐佐君之祖也。次沙本毘古王者、日下部連、甲斐國造之祖。次袁邪本王者、葛野之別、近淡海蚊野之別祖也。次室毘古王者、若狹之耳別之祖。

其美知能宇志王、娶丹波之河上之摩須郎女、生子、比婆須比賣命、次眞砥野比賣命、次弟比賣命、次朝廷別王。四柱。此朝廷別王者、三川之穗別之祖。此美知能宇斯王之弟、水穗眞若王者、近淡海之安直之祖。次~大根王者、三野國之本巢國造、長幡部連之祖。

次山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。迦邇米三字以音。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。此王、娶葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王。三柱。此王者、吉備品遲君、針間阿宗君之祖。又息長宿禰王、娶河俣稻依毘賣、生子、大多牟坂王。多牟二字以音。此者多遲摩國造之祖也。

上所謂建豐波豆羅和氣王者、道守臣、忍海部造、御名部造、稻羽忍海部、丹波之竹野別、依網之阿毘古等之祖也。

天皇御年、陸拾參歲。御陵在伊邪河之坂上也。
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html

24. 中川隆[-9260] koaQ7Jey 2019年6月30日 06:02:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3289] 報告

チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html


▲△▽▼


【我那覇真子「おおきなわ」#74】
長浜浩明〜韓国人とは遠縁だった!遺伝子から探る日本人のルーツ[桜R1-6-21] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7CPxmCGtjR0

【我那覇真子「おおきなわ」#75】
長浜浩明〜遺伝子が証明!沖縄の先祖たちは、日本本土から移住した縄文人だった[桜R1-6-28] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BezxJ6uRi1g

25. 中川隆[-9260] koaQ7Jey 2019年6月30日 06:40:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3289] 報告

という事で

長浜浩明は基礎学力ゼロの完全なアホだった

という結論で間違い無いです。

しかし、右翼は何故こんな詐欺師の言う事をすぐに信じるのかな?

26. 中川隆[-9257] koaQ7Jey 2019年6月30日 06:51:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3292] 報告

右翼がその論拠にしている自称専門家については


チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html

西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html

自ら 映画『主戦場』 を宣伝してくれる右派出演者たち
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/486.html

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html

吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html

自称 中国・朝鮮問題の専門家 加瀬英明 : 慰安婦問題の最高権威 吉見義明のことは「知りません」、秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』は「読んだことない」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/488.html

チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html

27. 中川隆[-9253] koaQ7Jey 2019年6月30日 06:57:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3296] 報告

日本の右翼のバイブル _ ニセユダヤ人 モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html

28. 中川隆[-8674] koaQ7Jey 2019年8月26日 02:45:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4075] 報告

◆日本神話の源流 2016年10月28日
https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru/e/00c1636e1c904cfe1241e6c4017993ad


 さて、書紀における海幸山幸の説話は本編のほかに一書が第1から第4まである。それぞれに内容がしっかりと書かれていて全部合わせるとかなりのボリュームになり、神代巻の中では出雲神話に次ぐ文量である。このことは海幸山幸神話が神代巻の中でも特に重要な意味を含んでいるということだ。

 文化人類学者の後藤明氏によると、海幸山幸神話には釣針喪失譚、異境探訪譚、大鰐に乗る話、異類婚のモチーフなどが見られ、これらのモチーフは東南アジアや南太平洋にその源流が認められるという。後藤氏が雑誌「Seven Seas」に投稿された記事をもとに少し確認しておきたい。

 海幸山幸神話は弟の山幸彦が兄の海幸彦の釣針を失くしてしまうことが発端になる。これと同じような発端を持つ神話はスラウェン(旧セレベス島)の北端のミナハッサ地方に伝わる話など、インドネシア付近に多く、さらに釣針を失くして探しに行く話は同じくインドネシアのチモール島、ケイ島、メラネシアのソロモン諸島、あるいはミクロネシアのパラウ諸島など南太平洋に連綿と見いだせるという。

 次に大鰐に乗る話。海幸山幸神話の一書(第1)や一書(第3)では山幸彦が海神の宮から戻るときに鰐に乗って戻ったとあり、また一書(第4)では海神の宮に行くときに鰐に乗っている。鰐は古事記の因幡の白兎にも登場する。この鰐は鮫であると言われているが、中国の揚子江流域には淡水性の鰐がおり、東南アジアのマレー鰐もかつては中国南部海岸にまで棲息していた可能性があるらしい。鰐が日本に棲息していたかどうかはわからないが、中国から鰐の知識が持ち込まれて鮫のイメージと融合して定着した可能性があるという。そして鰐のような大きな水棲動物に乗って海上を移動する話はマレー半島をはじめとする東南アジアに多く見つけられる。

 山幸彦は海神の娘の豊玉姫と結婚したが、この豊玉姫は鰐であった。このように人間と動物との結婚は異類婚と呼ばれる。ベトナム、ミャンマー、カンボジアなど東南アジアの王権起源の神話にはこの異類婚が多く、人間の男が動物の女と結婚して息子を作り、その子が新たな王国をつくるというストーリーが一般的だという。

 これに対して、学習院大学の名誉教授で芸能史学者の諏訪春雄氏の説を見てみたい。諏訪氏によると、記紀の天孫降臨神話は朝鮮半島から内陸アジア地域にかけて広く分布する祖神の天降り神話に由来するという定説に対して、南方の長江流域の少数民族社会にも祖先が穀物を持って天から下ったという神話や伝説が流布していることから、天孫降臨神話は北方諸民族の山上降臨型神話によってその骨格が形成され、これに天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる南方農耕民族の神話が融合して誕生した、と唱えた。出雲の根の国神話についてもその由来を長江流域の少数民族の神話や伝説に求めることができるという。さらに諏訪氏は、東南アジアの兄妹始祖洪水伝説の系列に属するとされていた記紀の国生み神話が、実は長江流域に数多く発見される洪水神話に基づくことを論証し、東南アジアで発見される洪水神話もその分布状況から判断して中国から伝播したものである、つまり洪水神話はその源流は長江流域であるとしている。そしてこれと同じ理屈で、海幸山幸神話の原型も長江流域の伝承が取り込まれたのだと主張する。

 諏訪氏によると、海幸山幸神話のみならず日本神話の源流を東南アジアに求める傾向があり、その理由を2つ挙げている。第1の理由は、中国神話の調査が不十分だったということ。中国は幾度も王朝が交替したが、そのたびに新しい歴史が作り直され、前王朝の遺制が破壊されて体系的な神話や伝承が後世に残されなかったということ。第二の理由は、それに比べて東南アジアの研究がはるかに進んでいたということ。しかもその研究のほとんどは欧米の学者によるものだという。欧米の研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くために著しく立ち遅れていた。これによって日本神話の原型を東南アジアに求める傾向が強くなったという。
 
 海幸山幸神話は東南アジアから来たものか、それとも中国長江流域からのものか。東南アジアに由来するとする考えが通説のようであるが、私は諏訪氏の主張に一票を投じたい。神話の源流地とはその神話を書かせた当事者の源流地に他ならないと考えるからである。これまで何度も書いてきたように、記紀編纂を命じた天武天皇の源流は中国江南の地である、とするのが私の考えであるから。
https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru/e/00c1636e1c904cfe1241e6c4017993ad

29. 中川隆[-8672] koaQ7Jey 2019年8月26日 02:59:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4077] 報告

第109回 二宮報徳会 A-2宮脇淳子先生講演
中編「かわいそうな歴史の国の中国人」2015.7.26 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jyAe4tRrue4

に出て来ますが


華南では川を江と書く

華北では川を河と書く

朝鮮では川を江と書く

つまり、朝鮮の稲作文化は長江の稲作民の文化が山東半島から朝鮮西岸沿いに海路を伝わったもの

弥生文化も朝鮮から伝わったものではなく、山東半島から朝鮮西岸沿いに海路を伝わったもの

30. 中川隆[-14898] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:22:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1990] 報告

「大嘗祭」の秘密の儀式とは! 新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり…秋篠宮は“宗教色”の強さを指摘し国費支出に異議
https://lite-ra.com/2019/11/post-5090.html


2019.11.14 「大嘗祭」に秘密の儀式が!新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり… リテラ

    
    平成の大嘗祭(神社本庁HPより)


 本日14日から15日にかけて、天皇の代替わり儀式のなかで最重視される「大嘗祭」が行われる。大嘗祭は、代替わりした天皇が初めて行う「一世一度」の新嘗祭。その内容の多くは非公開で行われるが、これまでの研究から、その実態は一連の代替わり儀式のなかでもとりわけ宗教色が強いことがわかっている。

 だが、国民主権や政教分離の原則に反する大嘗祭の問題に、安倍政権はまったく触れぬまま進めてきた。いや、テレビなどのマスコミも表層的な解説でお茶を濁すばかりで、正面から大嘗祭を論じることはほとんどない。

 だとすれば、本サイトがその本質をあらためて伝えておく必要があるだろう。

 まず言っておかねばならないことは、大嘗祭の実相は単なる「豊作を祝う農耕儀礼」ではなく、明らかな「宗教儀式」である、ということだ。

 明治新政府がクーデターで幕府を倒した後、日本の政治支配層は「世界で唯一の天皇を中心とした神の国」という思想を国家神道として体系化し、国民支配の基盤にした。その流れで、天皇神格化と国家神道を徹底するために旧皇室典範と登極令をつくり、それまで国民の知らないところでこじんまりと行われていた皇室祭祀を大々的に執り行うようになった。つまり、大嘗祭を大きくクローズアップすること自体が、政治権力の作り上げる「祭政一致」のイメージ装置であったのだ。明治以来の日本政府は、皇室の宗教性を表に出すことで国民の支配に利用したわけである。

 しかも、だ。大嘗祭は、新たな天皇が皇祖神とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)らに穀物を供え、新天皇自らも口にすることで豊穣と国民の安寧を祈る儀式と説明され、半年以上前から当日にかけて、多岐にわたる儀礼が執り行われる。だが、そのなかには具体的な内容がまったく明かされていない儀式がある。

 それが、これまでの大嘗祭研究で注目されてきた、霊的・性的な意味合いをもつ“秘密の儀式=秘儀”の存在である。

 本祭の夜、新天皇が大嘗宮の悠紀殿および主基殿に籠ってなされる儀式のことだ。一般参列者はもちろん報道関係も完全にシャットアウトされたなか、天皇は11月14日夕方から翌15日未明まで、ふたつの殿の内陣に合計8時間にわたって引きこもる。

 このとき、新天皇は供えた新稲をアマテラスと一緒に食す〈共食〉の儀を行うと説明されるが、この共食の儀は、悠紀殿と主基殿で二度繰り返されることを除けば、毎年の新嘗祭と同じだ。しかし、それではどうして大嘗祭が特別な皇位継承儀礼であるかの説明がつかない。

 そして着目されたのが、内陣の構造だ。両殿内部には天皇と神の席がしつらえられており、ここで対座して〈共食〉をすることになっている。ところが、これが中心儀礼の割には部屋全体から見ると片隅に追いやられており、内陣の中心・大部分を占めるのは八重畳(やえだたみ)の寝座なのだ。そしてこの寝座を使って〈秘儀〉が行われている、というのが最も有力な説として浮上してきたのである。

 言っておくが、寝座を使った秘儀の存在は、都市伝説として語られているわけではない。神道や歴史学の分野でも本格的に議論されてきたものだ。その先鞭をつけたのが、民俗学の権威で、戦前は国家神道の強化にも多大な影響を与えた折口信夫である。

 折口は大嘗祭がおこなわれた昭和3年の前後にかけて、自身の天皇論と大嘗祭に関する論考を積み上げていった。それらのテーマを総合的にまとめたのが、昭和5年に発表された「大嘗祭の本義」だ。折口はこのなかで、寝具を天孫降臨神話で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまって地上に降り立ったとされる「真床覆衾(マドコオフスマ)」に見立て、天皇が布団にくるまる儀式の存在を唱えた。

■折口信夫が指摘した「前天皇との同衾」「性の解放」の儀式の存在

 折口がこの見立てに不可欠な要素として持ち出したのが、「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天子様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

 折口は「真床覆衾(マドコオフスマ)」「天皇霊」に付随して、「先帝同衾」という説も唱えている。これは前天皇の亡骸と新天皇の肉体というふたつの〈御身体〉を〈一つの衾で覆うて〉、復活のための儀式を行ったというものだ。折口によれば、古代には生死を明確にする意識がなく、平安期でも生死がはっきりしなかったので、「天皇霊」が前の身体に戻るか別の身体に移るかを確認する必要があった。そのための「同衾」だという。

 折口の説はその後、発展されるかたちで、さまざまな論考を生み出した。その一つが「聖婚儀礼」だ。あけすけにいえば、大嘗祭の夜、天皇による性行為が行われるという説である。

 大嘗宮の悠紀・主基両殿に入ることが許される人間は極めて限られる。その内構造は大きく二つにわかれており、御座と神座がある内陣(「室」という)には、天皇以外に「采女(うねめ)」という身の回りの世話をする女官の代表ひとりしか入れない。日本史学者の岡田精司氏らは、この采女を性行為の相手と見た。地方豪族から貢上された采女と「聖婚」することで服従を誓わせる儀礼があったのでないかと推定したのである。

 また、折口は、悠紀・主基両殿以外での性的な儀式の存在を指摘している。大嘗祭において、天皇は悠紀・主基両殿に籠る前に、廻立殿という併設の殿舎で「大忌の御湯」「小忌の御湯」と呼ばれる二度の沐浴=聖水儀礼を行うことで「穢れ」を払うという。史料によれば、この沐浴時に天皇は「天羽衣」を着用したというのだが、折口は〈元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである〉などとして、なんと、天羽衣とフンドシを結びつけた。そして〈物忌みの褌を締めて居る間〉は〈神秘たる霊力をして発散させぬ為〉の〈極端なる禁欲生活〉だとし、その〈解放の時〉が〈性の解放〉であると見立て、こう続けている。

〈天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生じるのである。〉(「大嘗祭の本義」)

■平成の大嘗祭でも秘密のうちに執り行われた主紀殿、悠紀殿の儀

 ちなみに、御所には「内掌典」と呼ばれる処女の巫女がおり、その内掌典がこの「大忌の御湯」「小忌の御湯」に立ち会うとされてきた(実際、昭和天皇の代には、本当に若い頃からずっと俗世界と関係を絶った4人の女性が御所に住んでいたが、その後、交代制になった)。

 しかも、ここで指摘しておかなければならないのは、かくも異様な儀式の存在を述べた折口の説を当時、当局が容認していたという事実だ。前述したように、折口が前後に天皇論・大嘗祭論を展開した昭和3年は、大嘗祭の実施年であったと同時に、治安維持法の最高刑が死刑へ改められた年であり、「三・一五事件」と呼ばれる共産党への大弾圧も行われた。

 ところが、折口の説は取締の対象とならなかっただけではなく、当時、国家神道推進の中心人物によって堂々と紹介されてもいる。近代神道の創始者であり、内務省神社局考証課長でもあった宮地直二が東大の神道講座で「天皇霊」論を講義したのである。

 もちろん、大嘗祭に、折口らの主張する秘儀があったとしても、途中からは、実際に性的行為や前天皇との同衾が行われていたわけではなく、模擬儀礼として行われているだけという可能性が高い。

 また、民主主義下で初めて行われた平成の大嘗祭では、海外メディアが秘儀をめぐる報道を繰り広げたことを政府が憂慮。わざわざ宮内庁が事前に会見で「(大嘗祭に)特別な秘儀はなく、特別な御告文にもそのような思想はない」と否定した(ただし、折口が性的儀式の存在を指摘した「大忌の御湯」「小忌の御湯」の儀については、会見で具体的内容について質問がとんだものの、宮内庁は説明を拒否している)。

 しかし、その平成の大嘗祭にしても、大正や昭和の大嘗祭とまったく同じように、長時間、徹底して秘密裏に執り行われたことは事実だ。

■秋篠宮は大嘗祭の“宗教色”を指摘し、国費でまかなうことに疑義

 平成の大嘗祭を取材した元朝日新聞皇室担当記者でジャーナリストの岩井克己氏は、当時のことを〈午後五時過ぎから午後九時過ぎまで約四時間にわたって天皇の悠紀殿の儀が行われたが、殿内での天皇の「秘儀」はもちろん、廻廊を歩む姿も諸役の動きも全く見えない。奏されたという神楽歌など楽部の奏楽もほとんど聞こえず、ただひたすらじっと座って寒さを我慢しただけで終わった〉と振り返っている(「選択」2014年1月号)。

 今回も、殿内での儀式は当然のように非公開にされている。政府は大嘗祭を「国事行為」ではなく「皇室の行事」と位置付けることでお茶を濁すと同時に「公的性格がある」という二枚舌を使う。その費用は宮廷費つまり公費から支出されることにかわりはなく、大嘗祭だけで約24億4000万円が費やされる予定だ。

 むしろ、その宗教性と国民主権・民主主義の“本質的な不和”については、現在の皇室のほうが自覚的ですらある。昨年、秋篠宮文仁親王は誕生日に際した記者会見で、「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」などと公に疑義を呈した。

「大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成の時の大嘗祭の時にもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、そのころはうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局、その時を踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています」

 だが、宮内庁は「聞く耳を持たなかった」という。秋篠宮文仁親王は記者会見で「そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」とまで踏み込んでいたが、結局、安倍政権は皇室が懸念する「宗教色の強い皇室行事」をなし崩し的に、事実上の国家行事にしてしまった。

 いずれにしても、大嘗祭の宗教性は明らかにもかかわらず、なし崩し的に本番を迎えようとしている。大嘗祭をめぐる国民主権と民主主義、そして政教分離の原則の議論は深まらないままだ。政治権力が天皇と皇室を国家神道に組み入れることで国民を支配した、明治から終戦までの大日本帝国。この国の政府と有権者は、いったい、いつまで“戦中”を引きずるつもりなのだろうか。

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