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天才ヒトラーは薬物中毒で破滅した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/361.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 20 日 00:53:14: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 世紀の捏造? ”ガス室はなかった” は本当か? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 14 日 09:31:50)


天才ヒトラーは薬物中毒で破滅した


ヒトラーのカルテ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=9y68Yndc5SU


天才ヒトラーの破滅への道

HITLER (DC)(全06回)
HITLER (DC) 01|THE OPPORTUNIST イメージ戦略の秘密 - YouTube
HITLER (DC) 02|THE ACTOR 救世主の誕生 - YouTube
HITLER (DC) 03|THE FUHRER 人種差別への道 - YouTube
HITLER (DC) 04|THE VICTOR 勝利の陰で - YouTube
HITLER (DC) 05|THE MONSTER 挫折と堕落 - YouTube
HITLER (DC) 06|THE DOWNFALL 破滅へのカウントダウン - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bTZJE9Ijl4I&list=PLBjWXHGDgc8YGJdoDHkBXhMGtKWlEn7Yu&index=1
https://www.youtube.com/results?search_query=HITLER+%28DC%29+&sp=mAEB

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天才ヒトラーの精神が異常になった経緯

ヒトラーとドラッグ:第三帝国における薬物依存 – 2018/9/26
ノーマン・オーラー (著), 須藤 正美 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%96%AC%E7%89%A9%E4%BE%9D%E5%AD%98-%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4560096511


内容紹介

「錠剤の形をしたナチズム」の実態に迫る

ヒトラーの主治医テオドール・モレルは、一本の注射で体調不良を解決する頼りがいのある医師だった。

ヒトラーはホルモン剤、鎮痛剤、覚醒剤、そしてモレルへの依存を深め、不調のたびに投薬や注射を求めるようになった。

第二次世界大戦が始まり、ヒトラーは誇大妄想にとりつかれ、現実遊離が目につくようになり、軍事作戦能力も徐々に失われていった。足を引きずり、腰も曲がって、くたびれた老人のように見えた。

一方、前線兵士は薬物によって「猛獣と化す」ことが目標とされ、無謀な作戦に投入され、総統大本営も制御を失い、もはや究極の破滅に突き進むしかなかった……。

ヒトラーとモレルの危険な関係は、大戦の命運を左右したのか?

本書は、ヒトラーと第三帝国が薬物に深く依存していたことを暴き、世界的ベストセラーとなった歴史ノンフィクションだ。歴史学者ハンス・モムゼンが本書の「あとがき」で、「これまでの全体像を変える本」と評したのをはじめ、イアン・カーショー、アントニー・ビーヴァーら専門家も賛辞を寄せている。著者は作家らしく、逸話を満載し、史料もきちんと渉猟し、早く続きを読みたくなるような、手に汗握る展開をみせる。


内容(「BOOK」データベースより)

「患者A」と主治医の危険な関係、大戦の命運は左右されたのか?「錠剤の形をしたナチズム」の恐るべき実態に迫る、傑作ノンフィクション!英『ガーディアン』年間最優秀図書(歴史部門)選出!


カスタマーレビュー

yasq di Fontana
兵士には覚醒剤を、総統には麻薬を!  驚きのドラッグワールド・第三帝国
2018年11月12日

覚醒剤メタアンフェタミン(1893年に日本人長井長義が合成し1919年にこれまた日本人緒方章が結晶化に成功)が太平洋戦争中の特攻隊で使われていたという話はよく聞くが、これをさらに徹底的に使ったのがナチス・ドイツだった。あの電撃的なポーランド・ベルギー・フランスへの快刀乱麻ともいうべき進攻のスピードは兵士に大量投与された覚醒剤によるものだったとは!

一方で、ヒトラーは戦況の悪化とともに主治医モレルに投与されるオキシコドンに依存。軍首脳部もほとんどがジャンキー状態。暗殺未遂後はコカインまでも加わる。

こうして、上層部はジャンキーの集団となり安全な地下壕みたいとところから無茶苦茶な指示を乱発し、兵士は戦場で覚醒剤漬けにされ独ソ戦の頃にはダメダメな状態に。

最後にベルリンに籠った頃にはヒトラー用のドラッグも底を尽き彼は激しい離脱症状の中で自殺。

あまりにも戦況の変化と薬物乱用がきれいにシンクロするのに驚く。最高指導者がドラッグ依存だとしたら、だれも彼へのドラッグ投与を拒めない。世界史的な出来事がドラッグで突き動かされ得るという恐怖。

当時の日本の軍中枢にこんなことがあったとは聞かないが、本土決戦前に証拠が消されたのかもしれない。まあ、しらふでヒトラーと同じようになっていたと考えるとそれもまた怖い話だが。

オキシコドンはアメリカでは近年も安易に鎮痛薬として処方されてかなり問題になっていますね。日本に持ち込もうとして逮捕された某自動車メーカーの外国人役員も。決して過去の話ではない。


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ヒトラーは「ヤク中」だった? 
ナチス・ドイツの驚くべき薬物事情を暴く『ヒトラーとドラッグ』 2018/10/10
辻田真佐憲 作家・近現代史研究者


『ヒトラーとドラッグ 第三帝国における薬物依存』白水社
ノーマン・オーラー/著 須藤正美/翻訳

戦時下の日本では、苛酷な戦闘や労働をやり抜くため、「ヒロポン」などの覚醒剤が広く使用された。本書は、同じく(いやそれ以上に)ドラッグ漬けだった、かつての同盟国ナチス・ドイツの驚くべき「ヤク中」ぶりを明らかにする。

ドイツ版の覚醒剤は、「ヒロポン」と同じメタンフェタミンの「ペルビチン」だ。著者はこれを「錠剤の形をしたナチズム」と呼ぶ。独裁体制下の厳しい肉体・精神労働も、数日間ぶっ通しの電撃戦も、これなしには考えられなかった。

「いわゆる覚醒剤は爆弾のように的確に命中し、ウィルスのように瞬く間に広まり、食卓の切り分けられたパンや一杯のコーヒーのようにありふれたものとなった」。ナチスのスローガン「ドイツよ、目醒めよ!」は、覚醒剤によって達成されたのである。

もちろん、ナチス・ドイツも薬物天国だったわけではなく、コカインやヘロインは取り締まられていた。だが、1938年に誕生した「ペルビチン」は画期的な新薬として放置(それどころか推奨)された。この点は、戦時下の日本とよく似ている。

だが、最高指導者が「ヤク中」だった点は、ナチス・ドイツでしか見られない。そう、ほかならぬヒトラーもまたドラッグ漬けだったのだ。

自身の健康状態を詮索され、あれこれ指図されることを嫌うヒトラーは、体調不良を注射1本ですぐに治してくれる便利な医者を求めた。それに応えたのが、主治医のモレルだった。

モレルは、求められるがまま、あらゆる薬剤を合成してヒトラーに注入した。戦局が悪化すると、そこにはコカイン、コデイン、オイコダールなどの依存性が高い向精神薬も多く含まれるようになった。そして「ペルビチン」も。たしかに体調はすぐに回復する。だが、薬が切れると体調は以前より悪くなる。するとまた注射を求める――。悪循環だった。

著者はドイツやアメリカの公文書館を訪れ、モレルのメモを読み解いて、「患者A」に注入されたホルモン調合剤、ステロイドその他の有効成分、医薬品などをリストアップしている。その数の多さには驚かされる。

総統大本営では、それまで塞ぎ込んでいたヒトラーが、突然元気になって、自信に満ちて作戦指導する姿も見られたという。「ハイル・ヒトラー」ならぬ「ハイ・ヒトラー」。支離滅裂な作戦は、ドラッグで高揚した状態のなかで指示されていたかもしれないのだ。

表紙の呆然としたヒトラーの写真は1944年秋に撮られた有名なものだが、これほど本書にふさわしいものもあるまい。薬物にこじつけすぎとの指摘もあるものの、それをおいても、読み応えのある一冊である。
https://honsuki.jp/review/9035.html



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歴史学者ら「ヒトラーは重度の薬物中毒だった」 2015年09月11日
https://jp.sputniknews.com/life/20150911884675/

アドルフ・ヒトラーは何種類もの麻薬を使用していた。
中でもお気に入りはメタンフェタミンだった。
麻薬を投与していたのは主治医テオ・モレル氏だ。

La Stampa のドイツ特派員、トニ・マストロブオニ氏が発表した。InoPressaが伝えた。


アドルフ・ヒトラーは何種類もの麻薬を使用していた。中でもお気に入りはメタンフェタミンだった。麻薬を投与していたのは主治医テオ・モレル氏だ。La Stampa のドイツ特派員、トニ・マストロブオニ氏が発表した。InoPressaが伝えた。


第三帝国ではスポーツ選手、芸術家、軍人、さらには主婦も麻薬を使用していたという。

「メタンフェタミンは特に第二次世界大戦時のナチスドイツで流行していた」とマストロブオニ氏。

麻薬は元気を出し、長時間にわたり多幸感を持続させるための薬として使われていた。調合を行なったのはフリッツ・ハウシルト医師。この医師は1936年のベルリン五輪で活躍した米国人スポーツマンに対する「ベンゼドリン」の効力に注目した。しかし薬物には依存性があり、悲惨な結果がもたらされた。メタンフェタミンはすぐに第三帝国で人気となった。スポーツ選手、歌手、試験期間中の学生らが服用した。メタンフェタミン工場は主婦用に有効成分入りのお菓子まで開発した。

第二次世界大戦が始まると、兵士の間で薬物が急速に流行した。「Der totale Rausch(完全なる陶酔)」という著書をもつノルマン・オーラー氏は、麻薬は対仏電撃戦(1940年)だけでなくヒトラー自身の行動にも影響した、と主張している。「医師と麻薬がナチズムの内部構造の多くを説明してくれる」とオーラー氏。

オーラー氏によれば、1941年以降、ヒトラーは奇行が目立つようになった。演説にも麻薬の影響が明らかに出始めた。ヒトラーは1349日の間に800回以上メタンフェタミン、ステロイドその他薬物の注射をうち、1100錠以上の錠剤を飲んだ。

ヒトラーがメタンフェタミンを常用していたことは昨年英国の学者らによって発見されている。第二次世界大戦中に米国軍事諜報班によって集められた書類によれば、兵士もメタンフェタミンを使用していたし、ヒトラー自身も愛用していたという。
https://jp.sputniknews.com/life/20150911884675/


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南京大虐殺等の日中戦争での日本兵の残虐行為も覚醒剤が原因だった:

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html


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知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史〜芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった!
辻田 真佐憲
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659


芸能界の薬物汚染と太平洋戦争

近年、有名人の薬物事件があとを絶たないが、これは何もいまにはじまったことではない。歴史を振り返れば、太平洋戦争の敗戦直後から、芸能界に薬物汚染は広まっていた。当時よく使われたのは覚醒剤、いわゆる「ヒロポン」である。

漫才師で、のちに参議院議員に転身した下村泰は、1984年6月の国会質疑において、ヒロポン中毒に陥った歌手たちの奇行を、次のように赤裸々に証言している。

いわく、楠木繁夫は、ギャラの契約をせず、「ヒロポンを一升瓶で何本くれたら幾日間行く」といって仕事をしていた。

いわく、霧島昇は、ヒロポン中毒が進み、1曲歌っては「幕を閉める」といったり、アンコールまでいっているのに「アンコールまだだ」といったりして、司会の自分を困らせた。

いわく、樋口静雄は、幻覚症状に陥って、目が機械のように「チャっと」異様な動きをし、「天井の隅で今おれをねらっている刺客がいる」と妄想を語ったりした(第101回国会、社会労働委員会、第11号より)。

なぜ彼らは揃いも揃って、重度の覚醒剤中毒に陥ってしまったのだろうか。

その理由についても、下村は次のように証言している。

「昭和20年代(引用者註:1945〜1954年)にはヒロポン中毒というのがありまして、これは旧軍が持っていたものを市中にばらまいたと言っても過言ではないと思うんです」

つまり、日本軍の保管していた覚醒剤が、敗戦後市中に出回り、「ヒロポン中毒」を引き起こしたというのである。


このように日本の薬物汚染は、戦争の歴史と無縁ではない。それどころか、アヘン、モルヒネ、ヘロインなどの薬物は、日本の植民地統治とも深く関係していた。

薬物事件が注目される今日、こうした暗い歴史を紐解くのも決して無駄ではあるまい。以下では、世界有数の「麻薬大国」だった日本の知られざる一面を紹介したい。

なお、現在日本の法律では、「覚醒剤」「大麻」「麻薬及び向精神薬」「アヘン」が区別されているが、本稿では一括して「薬物」もしくは「麻薬」と呼ぶことにする。

台湾領有とアヘン専売制のはじまり

日本と薬物中毒との本格的な接点は、1895年の台湾領有にさかのぼる。

日本ではそれまで、政府の厳格な取り締まりによって、アヘンの蔓延と無縁だった。ところが、日清戦争の勝利により事情が急変した。清より割譲された台湾は、中国でもっとも早くアヘン吸煙がはじまった場所のひとつであり、同地にはアヘン吸煙者が大勢住んでいたからである。日本はここでアヘン問題に対応せざるをえなくなった。


この問題に対し、日本は「漸禁政策」で臨んだ。いきなりアヘン吸煙を禁止にするのではなく、徐々に減らしていく。そうすることで、混乱を防ぎ、植民地統治を円滑に行おうとしたのだ。そのため、台湾ではアヘンの専売制が敷かれ、アヘンの売買・所有には「特許」が必要となった。

だが、不幸なことに、ここで日本はあることに気づいてしまう。海外から輸入したアヘンを台湾で売りさばくだけで、濡れ手で粟のように利益が得られる。これは、植民地統治の財源になるのではないか――、と。この結果、アヘン専売は「金のなる木」とみなされ、「漸禁政策」は実態を失い、有名無実と化していった。

台湾におけるアヘン吸煙特許者の数は、最大時(1900年)で約16万6千人(台湾人口の6.1%)にも達した。同年度の台湾総督府のアヘン収入は約423万円である。小学校教員の初任給が10円ほどだった時代の話だ。

なお、念のため付け加えておけば、アヘン中毒者に対する矯正事業は、国際的な批判を受けて、1930年以降に推進された。台湾におけるアヘン吸煙は、常習者の死亡や原料の供給停止もあり、太平洋戦争下にようやく根絶された(劉明修『台湾統治と阿片問題』)。

アヘンの専売は、1905年に租借権を獲得した遼東半島先端の関東州でも行われたが、やはりここでも多くの富を日本にもたらした。

アヘン専売制に味をしめた日本は、その後アヘンの国産化にも着手。原料であるケシの生産地には、消費地の台湾ではなく、アヘンが厳禁されていた内地(主に和歌山県、大阪府)と朝鮮が選ばれた。生産地と消費地を分けることで、アヘンの管理・統制を効率的に行い、利益の最大化を図ったのである。

こうして日本は、次第にアヘンのもたらす利益に魅入られ、蝕まれていった。

「麻薬大国」への道とモルヒネ密売

鎮痛剤のモルヒネは、アヘンを原料に作られる。医療用にも使われるが、麻薬としての使い道もあった。

日本は長らく英国とドイツよりモルヒネを輸入していた。ところが、第一次世界大戦の勃発とともに供給がストップしたため、急遽国産化に踏み切ることになった。1915年には、星製薬(社長の星一は、小説家・星新一の父)がモルヒネの製造に成功。その後、他社でもモルヒネの製造が開始された。

このような国産モルヒネは、当初より麻薬として流通した。特に、朝鮮ではそれが顕著だった。


朝鮮では、モルヒネの量産化とともに第一次世界大戦が終結し、在庫がだぶついてしまった。そこで日本政府は製薬会社を保護するため、朝鮮でモルヒネの販売制限を緩和し、在庫の処分を図った。アヘンは禁止なのに、モルヒネは許可。これは明らかにダブルスタンダードだった。この結果、朝鮮では10万人規模のモルヒネ中毒者が出現した

(倉橋正直『阿片帝国・日本』)。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4763410342/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4763410342&linkCode=as2&tag=gendai_biz-22


その後も、日本の麻薬の生産は拡大し続け、1935年の国際連盟の統計によれば、日本のモルヒネ生産額は世界第4位に達した。モルヒネより合成され、より依存性が高いヘロインの生産額にいたっては世界第1位。コカの葉より生産されるコカインの生産額も、やはり世界第1位となった(倉橋、前掲書)。日本は、ついに世界有数の「麻薬大国」になったのである。

当然ながら、これだけの量の麻薬は国内で消費しきれない。ではどうしたのか。今日、日本人(朝鮮人含む)の密売人たちが、国産モルヒネを中国(特に租界があった天津や上海など)で大量に売りさばいていたことが判明している。在留邦人は治外法権で守られていたので、中国側は逮捕や処罰ができない。密売人たちはこの仕組みを悪用し巨万の富を得たのである。

日本は、麻薬取り締まりに関する国際条約に調印・批准していたが、邦人の密売取り締まりには消極的だった。麻薬の密売は、国内で食い詰めた者の貴重な資金源でもあったからだ。こうした日本の態度は国際的にも批判されたが、取り締まりは遅々として進まなかった。

麻薬の利益でアジア太平洋戦争の戦費を賄う

1930年代に入り、日本が中国大陸に侵出するようになると、麻薬の生産・販売は一層組織的に行われるようになった。

日本が中国各地に作ったいわゆる「傀儡政権」では、財源確保のため、ことごとくアヘンの専売制が敷かれた。満洲国、蒙疆政権、冀東防共自治政府、汪兆銘政権(南京政府)などがそうである(広中一成『ニセチャイナ』)。


1932年に成立した満洲国では、主に熱河省でアヘンが生産され、ほかの地域に供給された。生産地と消費地を区別し、管理する手法は、ここで応用されたわけだ。

同じ手法は、中国本土にも適用された。中国本土では、主に蒙疆政権の綏遠省がアヘンの生産地に選ばれた。中国にはもともとアヘン吸煙者が大勢いたため、アヘンは売れに売れた。こうしてもたされた莫大な利益は、日本の戦費・占領統治費を賄ったのである。

たとえば、日本軍占領下の南京市では、占領1周年の1938年12月に、月間の市収入の23.1%をアヘン販売で賄っていた(小林元裕『近代中国の日本居留民と阿片』)。この結果、蔣介石政権のもとで減少しつつあったアヘン吸煙は、ふたたび増加に転じてしまった。

これほどまでアヘンを生産・販売・使用した戦争はほかに例を見ない。そのため、日中戦争の実態はアヘン戦争だったという指摘もある(江口圭一『日中アヘン戦争』)。その指摘に納得するほどに、日本の麻薬政策は大規模かつ巧妙だった。

なお、1941年12月に太平洋戦争がはじまると、日本は東南アジアでもアヘンの専売に着手した。シンガポールでは、英国のアヘンを押収し、精製工場を復旧して、マレー、スマトラ、ボルネオなどに製品を供給。こうしたアヘンの収入は、1942年3月から9月分までで570万7500ドルに達し(当時1ドル=1円)、第25軍(シンガポール攻略担当)軍政部の経常部歳入の約50%、臨時部歳入を加えた全歳入の約25%を占めた(江口、前掲書)。

戦時中の日本は、「日満支(中)の提携」「東亜新秩序」「アジアの解放」「大東亜共栄圏」などのスローガンを高らかに掲げていた。だが、その実態はかくのごとしであった。日本の理想は、薬物で醜く黒ずんでいたのである。


戦争のために配布された覚醒剤

一方、1940年代に入ると、日本本土でも薬物の害が蔓延しはじめた。日本で主に使われたのは覚醒剤である。

覚醒剤の成分は、メタンフェタミンもしくはアンフェタミンである。このうち、メタンフェタミンは、日本の薬学者・長井長義によって19世紀末にエフェドリンより抽出された。

ただし、その中枢神経興奮作用は1930年代に入ってドイツで発見され、「ペルビチン」の名前で商品化された。ちょうどナチス・ドイツの時代だ。


なお、アンフェタミンも同じころに製品化され、英米では「ベンゼドリン」、ドイツでは「エラストン」などの名前で商品化された。これらの商品は、眠気を覚まし、疲れを吹き飛ばす特効薬として、大いにもてはやされた。その危険性はいまだ認識されていなかったのである。

ちなみに、ヒトラーは、1930年代後半より主治医となったモレルよりアンフェタミンを投与され、健康を害したといわれている。

このような欧米の動きを受けて、日本でも1940年代にメタンフェタミンやアンフェタミンが次々に商品化された。メタンフェタミンでは、大日本製薬の「ヒロポン」、参天堂製薬の「ホスピタン」、小野薬品工業の「ネオパンプロン」、富山化学工業の「ネオアゴチン」。アンフェタミンでは、武田薬品工業の「ゼドリン」、富山化学工業の「アゴチン」などがあげられる。1940年代に覚醒剤を製造した会社は23社にのぼったという

(佐藤哲彦ほか『麻薬とは何か』)。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/410603638X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=410603638X&linkCode=as2&tag=gendai_biz-22


この時期に覚醒剤が量産されたのも、戦争と無縁ではなかった。日本はこのころ日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争の開戦も控えていた。労働力や戦力の拡大のため、覚醒剤は「魔法の薬」と考えられたのである。「ヒロポン」開発に関わった医学者の三浦謹之助は、当時、覚醒剤の開発について「最も目下の時局に適合するもの」とあからさまに述べている。

副作用の認識がなかったこともあり、覚醒剤は軍需品として大量生産された。特に、激務の航空部隊に配布されたようで、冒頭に名前をあげた参院議員の下村泰(陸軍の飛行戦隊に所属)も、戦時下に使用したと証言している。なお、覚醒剤はアンプルのほか錠剤でも配布されたという。

このような覚醒剤は、1945年8月の敗戦により不要となり、市中に流出してしまった。その結果、冒頭で引いたようにひとびとが「ヒロポン中毒」になったのである。昼夜を問わず多忙な芸能人の間には、特に蔓延したといわれる。

覚醒剤の有害性は戦後になって広く認識されるに至り、1951年ようやく法律で規制された。


国家が麻薬に取り付かれる恐ろしさ

このように、日本における麻薬の生産・販売・消費は、植民地統治や総力戦と密接に結びついていた。現在でも、日本では他の国より覚醒剤の使用が多いというが、そんなところにもかつての麻薬政策の影響が残っている。

覚醒剤といえば、北朝鮮が外貨獲得のために製造し、密売しているとも指摘される。事実ならば批判されるべきだが、それはまさにかつて日本がやっていたことでもある。歴史を知らず、「日本こそやっていたではないか」と反論され、口ごもるようではあまりに情けない。歴史を学ばなければならない所以である。


個人が麻薬の魅力に取り付かれるのはおそろしいことだ。だが、国家が麻薬の魅力に取り付けられることはもっと恐ろしい。「麻薬大国」日本はまさにそうだった。

その歴史は、反面教師として、今後も参照され続けなければならないだろう。有名人の薬物事件も、そうした歴史を知るきっかけになれば怪我の功名かもしれない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659

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覚醒剤については


女性受刑者の40%は「覚醒剤」で刑務所に。女たちは知らずして堕とされる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/307.html

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html

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ヒトラーの様な覚醒剤中毒者が経験する被害妄想と恐怖体験はこの動画に上手く描写されています:


【ホラー】 コワイ女 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=1SYZG44duWM

 

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コメント
1. 中川隆[-10662] koaQ7Jey 2019年4月20日 01:05:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1398] 報告

リンク訂正

ヒトラーの様な覚醒剤中毒者が経験する被害妄想と恐怖体験はこの動画に上手く描写されています:


【ホラー】 コワイ女 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=1hDMX_hkZhw
https://www.youtube.com/watch?v=NWMWyqr2gfI

2. 中川隆[-10656] koaQ7Jey 2019年4月20日 13:40:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1405] 報告

覚醒剤中毒者を敵にまわすとこういう目に遭う:

エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン
Job-Wilhelm Georg Erwin von Witzleben


ヒトラーはあらかじめ

「陰謀者たちの死の苦しみをできるだけ長くせよ。連中にはいかなる慰めを与えてはならない。連中を家畜の生肉の様に吊るせ。」

と命令、ヴィッツレーベンの絞首刑執行は上半身裸にし、ピアノ線の輪に首を通し時間をかけて首を絞め、さらに執行人たちは苦しみもがく被処刑者のズボンを脱がすなど、徹底して人間としての尊厳を傷付ける、非常に残忍な方法で処刑したという。


エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン(Job-Wilhelm Georg Erwin von Witzleben, 1881年12月4日 - 1944年8月8日)は、ドイツの軍人。

第二次世界大戦中のドイツ国防軍陸軍元帥。ヒトラー暗殺計画に加担して処刑された。

ヴィッツレーベン家はテューリンゲンに起源を持つ由緒ある貴族の家系で、代々軍人を輩出してきた。ヴィッツレーベンはそのプロイセン王国の分家にブレスラウで生まれた。プロイセン士官学校を卒業後、1901年に少尉として「ヴィルヘルム王」擲弾兵連隊に配属される。1910年、中尉に昇進。

1914年に第一次世界大戦が始まると第19後備歩兵旅団長副官を務め、10月に大尉に昇進し後備第6歩兵連隊で中隊長となった。のち同連隊で大隊長に任命される。ヴィッツレーベンはこの大戦でヴェルダン、シャンパーニュ、フランドルの戦いに従軍し、重傷を負って第一級と二級鉄十字章両方を受章した。回復したのち1918年に参謀教育を受け、終戦時は第121歩兵師団で主席参謀を務めていた。

ヴァイマル共和政でも軍に残り、中隊長となる。1923年、第4師団参謀の少佐としてドレスデンに転属。1928年、第6歩兵連隊で大隊長となり、翌年中佐に昇進。1931年、大佐に昇進し第8連隊長に補される。1933年、ハノーファーの第6軍管区歩兵部隊指揮官に転じる。1934年、ドイツ国防軍と名を改めた軍で少将に昇進し、ポツダムの第3歩兵師団長に就任。ヴェルナー・フォン・フリッチュの後任としてベルリンの第3軍管区司令官となったのち、中将に昇進して1935年には第3軍団司令官となった。1936年、歩兵大将に昇進。

反ナチ運動

1934年の「長いナイフの夜」でシュライヒャー前首相やフォン・ブレドウといった軍人が不法に粛清されたとき、ヴィッツレーベンは国防軍首脳に対して特別調査委員会の設置を要求しており、以降ナチ党に対する反対者となっていた。1938年2月、ヒトラーの戦争を辞さない外交政策に反対した陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュに対する、ナチ党の失脚工作の不法も非難した。

同年のズデーテン危機の際は、ベック参謀総長、カナリス国防軍情報部長、ヘプナー中将、シュテュルプナーゲル参謀次長らといった将官と共にヒトラー打倒のクーデターを計画し、首都ベルリンの駐留部隊をおさえているヴィッツレーベンは大きな役割を担っていたが、ミュンヘン会談でヒトラーが成功を収めてしまったために中止となった。1938年11月、フランクフルト・アン・デア・オーダーの第2軍団司令官に左遷。翌1939年もハンマーシュタイン=エクヴォルト上級大将によるクーデター計画に加わり、演習を視察するヒトラーを逮捕する計画だったが、これも成功しなかった。

第二次世界大戦が始まると、ヴィッツレーベンは上級大将に昇進して西部戦線の第1軍司令官に任命された。1940年5月のフランス侵攻ではレープ上級大将のC軍集団隷下でドイツ第1軍を指揮した。6月14日にマジノ線を突破し、フランス軍部隊を降伏に追い込んだ。この戦功で騎士鉄十字章を受章。さらにフランス降伏後に多くの同僚と共に陸軍元帥に昇進した。1941年にはゲルト・フォン・ルントシュテットの後任として西方軍司令官に任命されたが、1941年6月に開始されたバルバロッサ作戦後に彼はヒトラーを再び非難し、病気を理由に更迭された。

陰謀と処刑

1944年7月20日の、ルートヴィヒ・ベック元参謀総長やクラウス・フォン・シュタウフェンベルクを中心とするヒトラー暗殺計画「ヴァルキューレ作戦」において、ヴィッツレーベンはクーデター成功の暁には国防軍総司令官就任が予定されていた。「ヴァルキューレ」発動に伴う作戦命令は、ヴィッツレーベンの名によって出された。彼はクーデター派の軍事的最高位の人物であったが、当日は積極性を欠いていて出遅れた感が有ったのは否定できないだろう。正装して元帥杖を持ち、クーデター派の“作戦遂行司令部”ベルリン・ベンドラー街の国内予備軍司令部に現れたのは、ようやく午後8時頃。その頃にはクーデター失敗が明らかになっていた。彼はシュタウフェンベルクらの不手際を非難し、これ以後の協力を拒否し、1時間ほどで司令部から退去。ベルリンから約80kmほど離れた友人の荘園に潜伏したが、翌21日正午頃そこで逮捕された。

軍籍にある者は、民間人を対象とする普通裁判ではなく、軍法会議で裁かれるのが通常である。ヒトラーは被告人全てをローラント・フライスラーが裁判長を務める人民裁判所の公判に付すように命令した。このために軍籍にある被告人は、先ず8月2日に設置されたドイツ国防軍名誉法廷(de)で審問されて軍籍を剥奪された上、ナチス党の特別裁判である人民裁判所に委ねられた。国防軍の名誉法廷に関わった軍人はルントシュテット元帥を長としてカイテル、シュロート、キルヒハイム、クリーベル、グデーリアンである。ここでフォン・ヴィッツレーベン元帥を含む55名が軍籍を剥奪された。

1944年8月7日、ヴィッツレーベンとヘプナー、ハーゼ、シュティーフ、ベルナルディス、ハーゲン、クラウジング、ヴァルテンブルクの合計8人は共に人民裁判所での最初の見せしめ報復裁判にかけられ、その裁判の模様は映像が残っている。裁判長フライスラーは開廷にあたり、ヴィッツレーベンに「名誉ある国民のみに許される」ナチス式敬礼をすることを禁じた。獄中でゲシュタポの厳しい取調べを受けて痩せたヴィッツレーベンは、わざとサスペンダーやベルトを外して出廷させられ、始終ズボンを腰のところで押さえていなくてはならなかった。その姿をフライスラーは「見苦しい!何故ズボンを弄くっているのかね?この薄汚い老いぼれめ!!」と嘲笑した。翌8月8日、ヴィッツレーベンは死刑の判決を受けたが、その際フライスラーに向かってこう言い返した。

「 君は我々を死刑執行人に引き渡す事が出来る。だが3カ月もすれば怒り苦しめられた民衆が君にツケを払わせ、君は生きたまま路上を引きずり回される事になるだろう 」

ヴィッツレーベンら政治犯が処刑された、ベルリン・プレッツェンゼー拘置所の一室。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3#/media/File:Gedenkstaette_Ploetzensee01.jpg


部屋の奥にある梁に吊るされ処刑された。


8月8日の夕刻、ベルリンのプレッツェンゼー刑務所の処刑場。レールのような鉄の梁に肉を吊るす鉤とピアノ線のようなワイヤーロープが垂れ下がる。

7月20日事件に関し、人民裁判所で死刑判決を受けた被告人のうち、ヴィッツレーベンは最初に絞首刑にされた。ヒトラーはあらかじめ

「陰謀者たちの死の苦しみをできるだけ長くせよ。連中にはいかなる慰めを与えてはならない。連中を家畜の生肉の様に吊るせ。」

と命令し、神父・牧師など宗教関係者の立会いを禁じた。目撃者の証言によると、部屋の隅のテーブルにはブランデーの瓶とコップが置いてある。さらに映像撮影用カメラと強烈なライトが用意されていた。

執行は上半身裸にし、ピアノ線の輪に首を通し時間をかけて首を絞め、さらに執行人たちは苦しみもがく被処刑者のズボンを脱がすなど、徹底して人間としての尊厳を傷付ける、非常に残忍な方法で処刑したという。

そのような残忍な方法で処刑されたにも関わらず、ヴィッツレーベンは取り乱す事無く、ドイツ帝国軍人として、最高位の元帥として終始威厳を保ったという。続いてヘプナーら7人も順番に一人ずつ同様な方法で処刑された。

処刑の模様はヒトラーに見せるため撮影された。また見せしめのため陸軍士官学校で上映されたが、それは激しい反発を巻き起こした。処刑の映像を見てヒトラーは楽しんだという説と、嫌がったという説の両方がある。いずれにせよ、ドイツの敗戦間近にヒトラーはフィルムの廃棄を厳命し、戦後連合軍関係者が捜索したが、今日に至るまで発見されていない。

戦後のドイツではヴィッツレーベンは反ナチの闘士として顕彰されており、その名を冠した通りや学校が数多く存在する。ベルリン・プレッツェンゼーの処刑場跡は現在、反ナチ抵抗運動記念館となり、鉄の梁と鉤が保存されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3

3. 中川隆[-10121] koaQ7Jey 2019年5月26日 20:28:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2228] 報告

 再び大麻問題 2019年05月26日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-755.html


 KAT-TUNの元メンバー・田口淳之介容疑者と女優の小嶺麗奈容疑者は22日、東京・世田谷区の自宅マンションで乾燥大麻数グラムを所持していたとして、厚生労働省の麻薬取締部に現行犯逮捕された。

 https://www.huffingtonpost.jp/entry/taguchi-taima-drug_jp_5ce798dee4b0a2f9f28cab00

 このニュースに対して、大麻使用で執行猶予中である高樹沙耶は、以下のように書いている。
 https://hochi.news/articles/20190524-OHT1T50076.html

 また、国家権力に迎合する右翼思想の持ち主として知られる松本人志は、「大麻合法化論を言う人は自分で大麻をやっている人だけだ」と語っている。 https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/05/26/kiji/20190526s00041000101000c.html

 私も大麻合法化論者だが、残念ながら、私は1970年頃、ベトナム戦争の最中に立川基地の米兵から、大麻をもらって吸った経験が一度あるだけで、あとは合法麻薬も含めて、一切経験がなく、松本人志の勝手な思い込みはウソである。
 しかし、合法化されたなら、一度は経験してみたいと願っている。

 すでに私は、大麻使用取締問題について、社会的にみて、タバコや酒と比較して毒性や依存性が低く、無意味なものであることを何度も書いている。
 羽鳥モーニングショーの玉川徹も、田口逮捕に関係して、タバコと比べて耽溺性・依存性・有害性が低い大麻だけを悪者にするメディアはおかしいと批判している。
 
 元KAT-TUN田口淳之介・小嶺麗奈の大麻逮捕報道で玉川徹も疑問! 酒やタバコも依存性あるのに“大麻だけ悪”はフェアじゃない
 https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_kat-tun/

 私も、すでに玉川と同じ視点で、何回も大麻問題を書いている。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-391.html

 これを書いてから、見知らぬ人物が、私の土地の周囲をうろうろするのを見たので、おそらく私が大麻を栽培吸引していると思い込んだ警察か麻取関係者だろう。

 大麻取締に賛成する人たちの主張は、「大麻に手を出せば、次々に毒性の強い麻薬使用がエスカレートしてゆき、最終的に人格破壊を引き起こす」というものだが、実際には、それは権力側の主張を調べずに鵜呑みにしてオウム返ししているにすぎず、事実認識を完全に見誤っている。

 厚労省による「大麻が身を滅ぼす」というような告白・宣伝も、官僚の頭のなかで描かれた妄想作文にすぎない。
 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000180755.html

 むしろ、こんなウソを書いているから、自分でやりたくなるのだ。
 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45230130U9A520C1CC1000/

 私の経験からいうと、薬物濫用は社会の常識である。
 大手タクシー会社の周囲にある喫茶店に行くと、昼間から勤務時間中に運転手がたむろしていることがあるが、これはシャブの取引であることが多い。タクシー運転手のような深夜業務は、眠気覚ましに覚醒剤に手を出す者が多い。
 客にも暴力団関係者がいて、走行中に隠語で販売を示唆されることもある。

 これは1970年代の経験だが、この頃、私は大型免許を取得し長距離トラックを運行したことがある。眠くなって浜名湖や足柄のような大型パーキングに入ると、決まって誰かが忍び寄ってきて「眠気覚ましがあるよ」とか持ちかけてくる。
 もちろんシャブ売りだが、本当のターゲットは、むしろ観光バスの運転手であった。

 トラックは適当にパーキングに入って眠れるが、観光バスは、客がいるため、それが許されない。ところが、眠気覚ましの本当に効く妙薬がないのだ。
 あられを食べたり、ガムを噛んだり、コーヒーを飲んだりで醒ませる眠気は一時的なもので、最悪、運転しながら眠っている自分に、ハッと気づくことさえある。
 そこで、違法行為だと知りつつ、事故を起こして身を破滅させるより、確実に眠気を覚ませるシャブに手を出すのである。どちらが罪が重いかといえば、事故を起こした方だからだ。
 
 「眠気覚ましの妙薬がない」このことは「絶対に寝てはならない」いくつかの職種にとって、非合法と知りつつもシャブに手を出さざるをえない喫緊の理由になっている。
 航空機パイロット、列車運転手、バス運転手、タクシー運転手などである。
 実は、シャブ=ヒロポンというのは、日本軍の研究機関によって、零戦などのパイロットが眠気を催さない薬として開発したものだった。
 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/040500003/041100003/

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E9%95%B7%E7%BE%A9

 私などは、長距離運行中に、どうしても眠気を覚ませないとき、最後の手段として、タバコの火を腕に押しつけて火傷させるという方法を用いた。これはめちゃくちゃに効いた。一発で、眠気が完全に覚めたが、精神的な後遺症が残る。
 トラック運転手のなかには、手の甲が火傷だらけという人も珍しくないが、それは、こうした事情なのだ。
 これに比べればシャブ=ヒロポンの方がはるかにマシだが、これも寝たいときに眠れないという後遺症が残る。

 そこで、シャブのお得意様であるパイロットたちは、次のフライトに備えて無理矢理眠るため大量の酒を飲むのが普通で、この1・2年、パイロットがアルコール検出で罪に問われることがある本当の事情は、実はパイロットが日常的にシャブを常用しているため、睡眠コントロールがきかなくなっているのである。

 これも公然たる秘密だが、実は、自衛隊も米軍も、世界の多くの空軍が、パイロットに覚醒剤を供与しているのである。あるいは航空会社もそうかもしれない。
 これも観光バスと同じで、事故を起こすより薬物の方がマシという切羽詰まった事情からなのだが、世間に知られると困るので、もちろん秘密裏に配布しているのである。 「パイロットはシャブ中患者、睡眠のためにアルコール依存症になる」と考えておいた方がよいいかもしれない。

 http://untiwar.jugem.cc/?eid=243
 
 以上のような事情で、日本における薬物濫用の真の姿は、メディアの報道とはかけ離れたものである。
 観光バスなど運転手・パイロットからシャブを取り上げたら、もの凄い数の深刻な事故が起きるだろう。バスや旅客機は禁煙なので、手を火傷させることができないからだ。
 その意味では、運転手やパイロットの薬物は、耽溺目的では決してなく、乗客を守ろうとする意思でもあることを知っておいた方がよい。
 シャブを禁止させる前に、「間違いなく効く眠気覚まし」を開発してから文句を言えということだ。

 つまり、薬物濫用は、決して、人間の堕落的意思、耽溺性要求ばかりでなく、実用上の要求があるわけだ。
 また大麻については、現在カンナビノイドの重要な薬効が論議されていて、外国ではパーキンソン氏病などの治療に欠くべからざる地位があり、日本だけが、世界のカンナビ治療ブームから取り残されているのである。

 https://www.youtube.com/watch?v=PwBnogYTdZw

  マリファナの合法化進む、薬効研究が盛んに
 https://style.nikkei.com/article/DGXMZO87342950X20C15A5000000/

 大麻の薬効と規制・・・騙され続けてきた70年間
 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=317076

 なぜ、これほど優れた医薬品が「人を破滅させる麻薬」として認定され、不可解な取締の対象になってきたか?
 私のブログでも何度も説明した。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-391.html

 それは、1920年にアメリカで成立した禁酒法時代に、大麻がアルコール耽溺の代替品として用いられたことに対し、当時のアメリカ政府高官の大半が、ユダヤ人・モルモン教徒など禁欲主義者で占められていたため、大麻に対する憎悪が感情的に累積し、何が何でもアルコールや大麻のような快楽薬物を社会から排除するという強い意志を抱いたことである。

 また、大麻は、あらゆる病気に対し強い薬効を示したため、当時勃興中だったアメリカ医療薬品産業が、商売敵である大麻の排除を狙った。
 https://www.youtube.com/watch?v=HpE3ouEdeJQ

 https://www.youtube.com/watch?v=ftK8cJ_O8YM

 日本政府は、主体性を失い徹底的にアメリカに隷属している事情から、大麻問題も深く考えることなく、アメリカ=モルモン教徒・ユダヤ教徒に盲従したといってもよい。

 本来、大麻の薬害というなら、タバコや酒よりも、はるかに低いものであって、取締の対象にするならば、先にタバコも酒も排除されなければならないのである。
 https://togetter.com/li/51054

 大麻は、数千年の大昔から神道など日本文化と切り離せない本質的な要素を築いてきた。
 https://matome.naver.jp/odai/2151632859100820201

 衣類だけでなく、あらゆる繊維や、民間薬としても利用されてきた長く深い歴史があった。
 ところが、戦後、自民党のアメリカ盲従勢力が、アメリカ官僚の嫌悪感をそのまま日本に持ち込んで禁止してしまったのである。
 そこには、科学的・合理的な意味はほとんどなく、モルモン教倫理観への盲従だけがある。この価値観は、日本の伝統的文化を破壊するものであり、アメリカに盲従すべき必然性など、まったく存在しないのである。

 薬物依存性問題の解決は、まずは眠れない職種について対策を考えることと、有効な睡眠阻止薬を開発することなどが先だろうと私は思う。
 薬物に耽溺しなくとも、人生を楽しめる趣味を若者に拡大することも大切だ。
 私の若い頃は、年間50回以上の登山で、薬物どころではなかったのだから。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-755.html

4. 中川隆[-9842] koaQ7Jey 2019年6月05日 19:20:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2593] 報告

「ヒトラーは薬物中毒だった」
ドイツ人作家が描く新たなナチス像
2019/6/5 17:47 (JST)
https://this.kiji.is/507449169787913313?c=39546741839462401


ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーは薬物に依存していた。ビタミン注射に始まり、鎮痛薬や覚醒剤。会議前に1本、気分が優れず1本…。第2次大戦で旧ソ連との戦闘が激しくなると、ほぼ毎日注射した。依存度が高まるにつれ手の震えもみられる。やがて統率力を失い、ナチスは内部崩壊した―。そんなドイツ史の知られざる一面を描いた歴史書が2015年、ドイツで刊行され、話題を呼んだ。30カ国以上に翻訳され、映画化も企画されている。日本では

『ヒトラーとドラッグ―第三帝国における薬物依存』(須藤正美訳、白水社)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%96%AC%E7%89%A9%E4%BE%9D%E5%AD%98-%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4560096511


として出版された。著者はベルリン在住の小説家ノーマン・オーラー氏で、薬物を処方したヒトラーの主治医テオドール・モレルのカルテなど史料数千点をドイツや米国の公文書館で調べ、史実を掘り起こした。3月下旬、来日したオーラー氏にナチス・ドイツの薬物依存の実態や著書に込めた思いを聞いた。

(共同通信=外信部・平野雄吾)

 ―ヒトラーと薬物の関係を調べ始めたきっかけは?

 直接のきっかけはディスクジョッキー(DJ)をしている友人の勧めです。彼の友人がベルリンで1940年代に建てられたアパートから覚醒剤の錠剤を偶然見つけたらしく、DJの彼が実際に飲んでみたらとてもハイになったと教えてくれました。この話を聞いて調べたくなりました。友人が飲んだのはペルビチンという商標名の覚醒剤で、1錠に約3ミリグラムのメタンフェタミンが含まれています。1錠飲むとコーヒー100杯分の効果があり、2〜3日間眠らなくても問題なく、エネルギーも湧き出て多幸感が得られるとされています。

 実は、ドイツは覚醒剤の大量生産を始めた世界で最初の国家です。メタンフェタミンを初めて合成したのは日本の薬学者、長井長義ですが、ドイツ人科学者がペルビチンの生産手法を確立しました。その結果、気分を高揚させるとしてペルビチンは社会に広く出回り、主婦は服用して家をもっときれいにしたし、労働者はさらに働くようになりました。生産性が高まるので、ナチス政権にとっては非常に好都合でした。余談ですが、食欲が減退するのでダイエット効果があるとしてチョコレートにさえメタンフェタミンが混ぜられ、女性たちに飲まれました。友人のDJが飲んだのはこの時代に製造された錠剤です。

 ―薬物の危険性を誰も指摘しなかったのか。

 当時の保健大臣レーオ・コンティは一時のメリットの後に悪影響があり、国民がまひしていくと指摘しています。彼は1939年11月、ペルビチンを購入時に処方箋が必要な薬剤に指定しましたが、実際には多くの薬局で処方箋がなくても購入できました。

 疲労と眠気を克服できるペルビチンは当然、ドイツ軍で重宝されました。軍は兵士にペルビチンを服用させ戦闘に向かわせます。特に1940年のフランス侵攻(いわゆる電撃戦)では効果が絶大でした。戦車を運転する兵士は昼夜を問わず進軍できたのです。フランス兵は眠るが、ドイツ兵は眠らない。薬物による戦略的アドバンテージがドイツ軍にはありました。その結果、フランス軍は敗北。フランス人はドイツ人を超人だと思ったようですが、単なる薬物効果でした。

ヒトラーの薬物依存を暴いた「ヒトラーとドラッグ―第三帝国における薬物依存」(左) 著者のドイツ人作家ノーマン・オーラー氏(右)

 ―調査の経緯は?

 テオドール・モレルというヒトラーの主治医の名前は多くのドイツ人に知られています。ただ『変わり者の医者』として扱われ、何をしたのかについてはほとんど分かっていませんでした。ドイツ連邦公文書館のサイトでモレルに関する史料が西部コブレンツの公文書館にあると分かり、訪ねてみるとモレル手書きのカルテなどが大量にありました。これらを見つけられたのは大変幸運でした。史料の閲覧記録を見ると、私の前は約20年前に1人見ただけで、この50年間にも2〜3人しかいません。主治医というヒトラーをよく知る立場だったにもかかわらずモレルの記録が軽視されていた証しで、歴史家たちの怠慢だと思っています。

 モレルはベルリンの開業医でしたが、ビタミン剤を患者に注射する診療所として人気でした。ヒトラーの友人で写真家のハインリヒ・ホフマンがここの患者だった関係でモレルはヒトラーに出会い、1936年以降、主治医になります。ほぼ連日のようにヒトラーの診療に当たり、「患者A」という名前の記録を付け続けました。注射した薬物の名前やヒトラーの容態などを書いています。なぜなら、ヒトラーに何かあった場合にゲシュタポ(秘密国家警察)から追及されるのを恐れ、証拠を残しておく必要があったのです。

 連合国軍のドイツへの空爆が激しくなると、生産工場が破壊され薬物が入手できなくなります。注射を打てなくなったモレルは1945年4月に解雇され、ドイツ南部バイエルン州の小さな村に疎開しますが、書き続けた記録は常に持っていたのです。ドイツ降伏後、米軍に発見され2年間にわたり尋問を受けました。記録は米軍が押収、その後、一部がドイツ政府に引き渡され、最終的に公文書館に移されます。私は米首都ワシントンの公文書館にも行き、合計数千点の史料を渉猟しました。

 ―ヒトラーの薬物効果は?

 ヒトラーは、より健康になるためにビタミン剤を注射するようになりました。ヒトラーは菜食主義者で酒も飲まず、健康のイメージを作り上げていましたが、薬物に依存していきます。独ソ戦が始まっていた1941年8月、重いインフルエンザにかかり戦況会議を欠席しました。ビタミン剤よりも強い薬が必要となり、ホルモン剤や新陳代謝の促進剤、ペルビチン、ついにはオイコダールと呼ばれるアヘン系鎮痛薬を日常的に使用するようになります。1943年7月の独伊首脳会談で、気分が優れなかったヒトラーはオイコダール注射で乗り切ります。イタリアの独裁者ムッソリーニは戦況悪化から同盟関係の見直しを模索していましたが、ヒトラーは薬物効果で多弁になり3時間ぶっ通しで話したのです。ムッソリーニを圧倒し、戦線離脱の話をさせませんでした。言わばドーピングのヒトラーとしらふのムッソリーニです。モレルは「閣下は私に、今日の成功は君のおかげだとおっしゃった」と記録しています。

―この著書で訴えたいことは?

 ヒトラーは薬物に依存し、ドイツ軍にもドイツ国民にも薬物がまん延していた。いずれも重要な話です。ナチス・ドイツは薬物で妄想的になり、現実を理解できない非理性的な社会に陥ったと言えます。ナチス・ドイツは人種イデオロギーを掲げましたが、そのイデオロギーを浸透させる手段として薬物も利用したのです。そして自ら内部崩壊しました。

 この本の直接の執筆動機は友人らが見つけたペルビチンの話ですが、もともと私はナチス・ドイツについて本を書きたいと思っていました。私が10代だった1980年代、祖父がナチスやヒトラーを賛美していました。「ナチス時代は社会に秩序や規律があった」と言うのです。戦争中、鉄道技師だったという祖父はドイツ東部出身で、ソ連軍の侵攻からドイツ西部へ逃げた経験もあって、反共主義者だったのですが、戦後40年以上たってもヒトラーを支持していました。私は祖父の姿勢に疑問を持ち、ナチス・ドイツにはずっと関心を抱いていました。

 ヒトラーは酒を飲まず菜食主義者の健康的なイメージを作り上げる一方で、薬物に依存。社会には秩序や規律があるように思い込ませる一方で、覚醒剤がまん延する。ナチス・ドイツはうそで塗り固められていたのです。こうしたナチス神話のようなものを脱構築するというのが今回の私の挑戦でした。多くの歴史家は薬物については詳しくなく、これまで調べなかったのでしょう。もしナチス時代に薬物がなかったら?そうしたら1940年の段階でドイツ軍は英仏軍との戦いに負けていたでしょう。これはあくまで推測に過ぎませんが、そういう小説を書くのも面白いかもしれません。

インタビューに答えるノーマン・オーラー氏

○ノーマン・オーラー氏 1970年2月4日、ドイツ西部ツバイブリュッケン生まれ。北部ハンブルクのジャーナリズム学校やベルリン大で学ぶ。米ニューヨークなどでジャーナリストとして活動した後、ミステリー小説「クォータマシーン」(未邦訳)で1995年、小説家としてデビューした。
https://this.kiji.is/507449169787913313?c=39546741839462401

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