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東海アマ 名古屋の記憶
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投稿者 中川隆 日時 2019 年 6 月 20 日 13:17:09: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


東海アマブログ 名古屋の記憶 その1  2009年12月23日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html


 台風と火葬場

 古い話だが、名古屋市中村区の、私の通った小学校の向かいに市営火葬場があって、当時、いつでも黒い煙を勢いよく上げていた。

 火葬場から校舎まで、わずか100mほど。遺体を焼くイヤな臭いが、いつでもあたりに立ちこめ、弁当を食べる時間も容赦はなかった。どうにも我慢できない不快な生臭さは髪の燃える臭いだと聞いた。

 火葬場の周囲には、死者の骨灰が堆く積もっていた。なぜか犬猫の死骸を捨てにくる人がいて、筵を剥がすと、そこに腐敗した無惨な遺骸があり、死の臭いに満ちた場所だった。

 その小学校に入学して、まもなく伊勢湾台風がやってきた。一晩中、もの凄い風で、バリバリと物の壊れる音が絶え間なく、父母も近所の人も、真っ青な顔で窓を打ち付けたり、家に支柱を立てたりしていた。

 夜中、「庄内川の堤防が切れそうだ、避難の支度をしろ」
 と町内会役員がずぶぬれになって伝令に来た。父母は、子供達に手伝わせて、ありたけの荷物を二階にあげた。
 まんじりともできないまま、恐ろしい夜が去り、朝が来た。外に出て、あたりを見渡すと、見慣れた風景はなく、まったく別世界だった。

 あたり一面、見渡す限り泥の海、膝上までの浸水、塀はすべて吹き倒され、屋根瓦もなかった。辛うじて家は建っていたが、近所の建物で完全に壊れたものも多かった。水は半月以上も引かなかった。
 わずか数百メートル離れた運河のある町内で、死者が出ていた。全体では五千名を超える死者、太平洋戦争以来の大惨事となった。

 大人達は凄惨な状況に驚いていたが、それでも、諦め顔で黙々と復旧作業を行った。みんな悲しんでいたが誰も動揺していない。大人達は自然災害とは桁違い、未曾有の恐怖、戦争を経験して、まだ十数年しか経っていなかった。
 戦時中、名古屋は三菱重工などで戦闘機を作っていた代表的な軍産都市であって、B29の絶え間のない猛爆に曝された。焼夷弾の雨や絨毯爆撃に逃げまどうことを思うなら大したことはないのだ。

 学校が再開されたのは一月もしてからだった。校舎には家を失った大勢の避難民が生活していて、私たち子供は階段で授業を受けた。教室の窓には洗濯物がひらめいていた。
 全国から支援物資が続々と到着した。みんな、わがことのように被災を心配し、なけなしの衣類や金を送ってくれた。人情の厚い時代だった。
 でも、みな貧しく、衣類の行き渡らない男の子が、女物の衣類を着ていたりした。

 その頃、向かいの火葬場の煙が凄まじいものになっていた。連日連夜、深夜でも真っ黒な煙が消えることはなかった。それも、とてつもなく臭い。魚の腐った臭い。遺体が腐乱していたからだ。子供でも臭いを我慢できず、弁当も食えなかった。

 すでに時間がたち、腐乱した溺死体は黒く変色し、数倍に膨張していた。棺桶など、とうになく、「どんごろす」という袋に包まれていた。

 学校帰り、決して近寄ってはいけないと先生に言われながら、仲間と近寄り、遺体の足を触って遊んでいた。先生は知っていても注意もしない。
 逃げまどった凄まじい爆撃に比べれば、台風など、そよ風のようなものだ。死者数千は凄いが、太平洋戦争の死者は数百万だった。台風は一過性の悲劇にすぎないのだ。

 赤線のこと
 
 当時、名古屋の繁華街は、名古屋駅から栄町に向かう広小路通りだったが、もう一つ、私の住む中村区に大門という赤線地帯があり、広小路が昼間の、表の繁華街なら、大門は夜の、裏の繁華街だった。

 赤線という名称は、すでになかったが、人々はまだ、そう呼んでいた。当時、遊郭はトルコ風呂と名前を変えていた。今ではソープランドになっている。確か、トルコから留学していた男性が、「トルコという名をやめよ」 と抗議したからとか記憶している。

 大門には、夜な夜な、欲望を求めて全国から男達が集まってくる。1960年頃は絶頂期で、大変な数の人たちが大門を拠り所にして食べていた。
 戦争未亡人は全国に数百万人もいた。みんな食べて行くのが大変だった。苛酷な生活の前に戦前の封建倫理観は崩壊し、体を売る仕事にでもありつけるだけでも幸福な時代だった。

 容姿に自信のある若い女性だけが大門で働くことができた。トルコ風呂女子従業員というのは凄いエリートだった。収入も相当なもので、男、数十人分を稼ぐ女性も珍しくなかった。だから当時の未亡人女性達の憧れだったのだ。
 誰でもが大門遊郭で仕事できるわけではない。容姿に自信がなかったり、歳をとりすぎていたりした女性も多かったから、そんな人たちの仕事も現れた。

 戦後、大門と栄町を結ぶ4キロメートルほどの街路には、夕方になると無数の屋台が現れた。一畳ほどの小さな手押し屋台、カーバイドの灯り、沸々と煮えたぎる大鍋に煮込まれていたのは「ドテ」と呼ばれたホルモンだ。名古屋らしい赤味噌を甘く味付けした味だった。甘くしたのは保存性を良くし、煮汁をムダにしないためだった。

 串カツも、このドテ汁につけて食べた。これが後に、味噌カツになった。煮汁で煮込んだウドンは味噌煮込みウドンになった。小さなイスが数脚、安い料金で辛い仕事を終えた男達が毎夜群がって飲み、食べた。

 (*「味噌煮込みウドン」は、江戸時代から三河・伊勢の塩を牛に乗せて信州に運ぶ馬喰たちが、信州・甲州の「ほうとう」を携行食とし、味噌汁に入れて食べた習慣が発展し、「きしめん」や煮込みウドンなどに変わったと考えられるが、名古屋地方における味噌煮込みの普及は、こうした屋台からであった)

 屋台の営業主は、ほとんど戦争未亡人だった。屋台を作って彼女たちに貸していたのは稲葉地一家や住吉連合会系のヤクザやテキヤだった。

 毎日なにがしかの金を払って屋台を借りる。もちろん、それだけでは食えないから、本当の仕事は営業後にあった。屋台を片づけてから、客の男と寝ることで、食べていた女性が多かった。ちょっと年齢が上がりすぎたり、子供が多かったりした場合、トルコ風呂に勤めるのは難しく、こうして客を確保していたのだ。

 数キロに及ぶ大門から栄町への屋台街道は、1964年、東京オリンピックを前にして、名古屋市当局によって強制的に壊滅させられた。

 「国際都市、名古屋」の見栄えが悪い、ヤクザの巣窟とか理由をつけられて、無理矢理撤去させられた。いわゆる公娼地帯だったが、それを語る世間の口が、封建感覚の残る市当局幹部のお気に召さなかったに違いない。それで、大勢の女性達が仕事を失った。当局は、一切、彼女らの面倒を見なかった。みんな仲間内で助け合って苛酷な運命を凌がねばならなかった。

 少しでも蓄えのある者は、自分で安い小さな店を借りて、小さな店を再開する者が多かった。こうした屋台が、名古屋のホルモン、ドテ文化を創り出し、今も続く一杯飲み屋、赤提灯などの礎となったのである。

 名古屋市当局は都市計画について驚くほど傲慢で、強圧的なやり方で進め、常識外れの強引な行政手法だった。

 戦後、小林橘川という市長が現れ、絨毯爆撃で持主所在不明となった土地を、戦争による混乱に乗じて、正規の法的手続きを無視して収容を重ね、強引に日本一広い道路を造った。おかげで市内全部がレース場のようになり、世界一の交通死亡事故多発都市となった。

 よく考えて見れば、戦死者の複雑な相続権が、戦後、あれほどの短期間に整理がつくはずがない。あんな都市計画が見事に実現できるはずがない。それを、やった。

 屋台撤去も、そうした同じ手法で、現在でも、ホームレス対策に同じ体質が見え隠れしている。万博を前に、都心部に住むホームレスを庇護施設に退去させたが、それは万博期間と、その後半年だけの庇護で、用が終わればホームレスを放りだし、何の手助けもしない。この寒さで、大勢のホームレスが凍死していても公表さえもしない。

 伊勢湾台風で持ち主不明となった多くの土地も、民法を無視した異常な手続きで大企業に売却されていった。相続者公告も形式だけで、20年不明なら、どんどん市有地に繰り入れてしまい、片っ端から利権として利用したのである。
 極めつけは、中村区新富町などの庄内川堤防付近のスラム街だった。屋台を強制撤去した頃、同じように不法占拠として堤防スラムの撤去を行ったのだが、これは20年にわたる居住実績、民法の占有権、居住権が大きな壁となっていたが、ある日、突然、スラム全部が燃える大火となり、たくさんの人が焼け死んだ。

 この事件をきっかけに、焼失地をバリケードで固め、強制撤去へと結びつけた。この大火は、市当局と結託した暴力団による放火だったと言われている。不法占拠などが問題になった地区では、必ず、市当局に都合のよい事件が起きるのである。


 ヤクザ

 中村区は暴力団の街だった。それは東海地方最大の赤線地帯、大門の利権にヤクザが群がっていたからだ。束ねるのは、当時、稲葉地一家と呼ばれた地付きのヤクザだった。シルクハットを被った大親分がいた。まるで勝新浅吉親分の映画に出てくるみたいだった。

 祖母が、近所に住んでいた大幹部宅に家事手伝いに入ったことがある。いつでも抜き身の日本刀が飾ってあり、税務署員など役人が訪ねてくると、庭で振り回していたそうだ。たいてい、それを見た役人は真っ青になって引き下がった。

 祖母は、その親分を、とても親切で良い人だと語っていた。祖母も明治生まれ、90歳過ぎて、老人ケアセンターにボランティアに出るくらいの人だから、何事にも動ぜず根性の座った女で先方にも気に入られたようだ。

 当時の娯楽と言えば、夜の赤線、未亡人の屋台、そして映画、パチンコ、キャバレー、すべてヤクザが絡んでいた。今の数倍のヤクザが街を徘徊していた。

 当時の中村区では、もっとも大きな産業が大門の赤線地帯、次に国鉄、三菱重工など民間産業だったと思う。学校には、それらの子弟と農家の子弟が集まっていた。最大勢力が、赤線地帯の子供達だった。ヤクザと飲食店の子弟である。私は第二勢力、国鉄職員の子供だった。

 小中学校とも、まだ戦後十数年、親たちは引き揚げや疎開帰還、戦争復員世代、戦地で苛酷に痛めつけられてきているから気の荒い者が多かった。教育の柱はゲンコツだった。何か失敗をしでかすと、ものも言わずにゲンコツが飛んできた。先生も同じだ。

 でも、みんな死線を彷徨い、とてつもない苦労して生きて帰って来た人たちだ。本心はとても優しかった。どんな、ひどい失敗でも、ケンカをしても、最後は大目に見てくれた。「生きてくれてさえいれば いいんだよ」 と、その目が語っていた。

 だが、子供達の世界は苛酷だった。ただでさえ歪んだヤクザ者の社会、その家庭のやり場のない鬱憤を抱えて子供達は学校にやってきた。学校は修羅場となる。イジメの嵐、暴力吹きすさぶクラス。

 私は小中学校時代、毎日、学校に殴られに通ったという印象しか残っていない。楽しい思い出など、ほとんど記憶にない。だから卒業後、クラス会なども行った記憶がない。

 中学生にもなれば、男子生徒は殴り倒され、女生徒は強姦される。教師が家庭指導に行けば、名うてのヤクザが若い者を引き連れて待ちかまえている。誰もが臭いものにフタ、見てみぬふりをするしかなかった。

 国鉄子弟は、おとなしい者が多く、もっぱらやられ放題、だが成績の良い者が多かった。農家の子弟は、急速に都市化が進む地域で、畑を売って巨額の資金を手にし、今でも豪邸に住む者が多い。

 一番苦しんでいたのは当のヤクザ子弟だったと思う。当時、一番虐められた思いでのあるYは、その後、何かの事件で無期懲役となった。生徒会長まで勤め、スポーツ万能だったO組長の息子は、後に二丁拳銃のOと異名をとり、ヤクザ社会でも一目置かれる存在だったが、覚醒剤に溺れ、飛び降り自殺した。

 大門のヤクザも、時代とともに様変わりした。
 最初、シルクハット率いる稲葉地一家の天下だったが、やがて全国組織、山口組の侵入が起きた。元々、山口組は三代目、田岡の時代まで、神戸港湾組合を中核に、全国の港湾荷役を支配する博徒だった。

 名古屋港も、荷役元締めの大手海運会社は大部分山口組の傘下にあり、荷役会社の部長クラスともなれば、刺青を彫っていないと舐められて仕事にならないと言われた。
 後に、私が、大型トラック運転手として笹島鉄道荷役や築地港湾荷役に関わった時代も、まだボウシン、荷役監督などは、みんな刺青が欠かせなかった。ヤクザ組織は、社会の中核をなしていたのである。

 そうして荷役系ヤクザ、山口組がじわじわと縄張りを拡大し、弘田組、弘道会など、本部直系の大組織が大門に関わり始めると地元ヤクザとの間に抗争が頻発し、毎日のように大門や駅裏で血生臭い事件が続いた。

 やがて地回りのヤクザ・テキヤは姿を消し、古くからある稲葉地一家系列の組も、すべて山口組傘下に加わることで延命をはかるようになった。今では稲葉地に本部のある弘道会が名古屋周辺のヤクザの主導権をとった。

 それどころか、弘道会、司(篠田)会長は、2005年、山口組六代目会長に就任さえした。しかし、影響力甚大と見た警察に狙い撃ちされ、ボディガード拳銃所持で起訴され、6年服役となったのは、まだ最近のことだ。

 私は1993年頃から、大門のつばめタクシー、中央交通に所属していたが、どのタクシー会社も、ヤクザ社会と密接な関係があることを思い知らされた。大門ヤクザの力は強大で、裏で折り合いをつけなければ商売にならなかったのである。

 タクシーで弘道会幹部を迎えに行く。本部まで片道800円ほどの道程。彼は降りるとき、いつも千円札を投げてよこした。痩身、目つきの鋭さに圧倒された。私が迎えに行き始めた頃、組抗争の殺人犯として懲役15年の刑期を終えたばかりだと言った。

 司会長も乗せたことがあるが、とても穏やかで紳士的な人物、チップもはずんでくれた。タクシーの運転手などと小馬鹿にした姿勢は見られない。贅肉のそぎ落ちた精悍な人相、素早い身のこなし、山口組組長ともなる人物は、やはりただ者ではない。

 あれほど賑やかで、名古屋駅から大門に至る太閤通や駅裏銀座通は、雑踏で人が歩くのも困難だったほどなのに、いつのまにか秋風が忍び寄ってきた。大門の灯が薄くなりはじめたのは1980年代だったと思う。

 景気高揚とともに、キャバレーやトルコ風呂に特化していた既製の業界の殻を破って、多様な風俗産業が台頭してきた。キャバクラ・イメクラ・ピンサロ・ヘルスなど、ヤクザによる支配を嫌って、風俗が既存の赤線地帯を飛び出した。名駅周辺や栄界隈で、新手の風俗が雨後のタケノコのように生え始め、やがて古い大門に閑古鳥が鳴くようになった。

 私も、トラックの運転手をしていて配偶者に恵まれず、性欲処理に、そうした新しい風俗に通った。トルコ風呂はソープランドど改名したが、既存の管理体制に縛られて、すでに新鮮味を失い、若い娘達は自由の約束された新しい風俗で稼ぎ始めた。客は若い娘がいいに決まっている。大門に足を向ける客は激減した。

 90年代、私が大門のタクシー会社で働いた頃、夜といえども、大門で客を拾うのは困難になっていた。立派な門構えのヤクザ事務所でも、若衆がヒマを持て余していた。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html  

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コメント
1. 中川隆[-9447] koaQ7Jey 2019年6月20日 13:24:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3033] 報告

本当に食えない時代がやってきた……


東海アマブログ 本当に食えない時代がやってきた…… 2019年05月03日
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【仙台発】ついに「大人食堂」 食べられなくなった非正規労働者(田中龍作ジャーナル)

  http://tanakaryusaku.jp/2019/05/00020062


 以下引用

  子供が満足に食べられなくなったのは、大人が食べて行けなくなったからだった―

 仙台市のユニオンとNPO法人が、今夕、生活に困窮する非正規労働者や失業者たちに無料で食事を提供した。「大人食堂」である。(主催:仙台けやきユニオン/ NPO法人POSSE)

 メニューは「チキンもも肉のトマト煮」「もやしのナムル」にご飯と味噌汁。カップラーメンなども提供された。
 
 非正規労働者は2,100万人(総務省2018年調べ)。彼らの平均年収は178万円(国税庁2016年調べ)だ。月収にして15万円未満である。家賃と光熱費を払えば、手元に残るのは良くて5万円位だろう。これでどうやって食べて行けというのか。

 主催者によると、これまでの労働相談はパワハラや賃金未払いが中心だった。だが最近は「家賃が払えない」「1日2食しか食べられない」といった生活相談が増えてきた。伝統的な労働相談ではなくなったのだ。

 ユニオンがフードバンクと交渉して食料を調達したこともある、という。

 主催者は「労働相談と生活相談をセットにしなければならなくなった」と厳しい表情で語った。仕事と住まいと食は三位一体なのである。

 3ヵ月ごとに契約更新される非正規労働者の女性(40代)は、「こんなにたくさん食べられるとは思っていなかった。満足」と頬をゆるめた。

 田中が知る派遣労働者は100円ショップのおにぎりが、50円になる夕方まで待ち、飢えを凌ぐ。

 全国各地に「子ども食堂」ができたように「大人食堂」が各地に登場するのは間違いない。

 引用以上
******************************************************************

安倍晋三・麻生太郎政権が登場する前、我々は、普通に働いている人が、まさか本当に食事もできないほどの貧困に襲われる時代が来るとは想像もしていなかった。
 しかし、その予感はあった。

 戦争を知らない世代である安倍晋三や麻生太郎が、大金持ちが不遇であるとの勝手な思い込みによって、経団連の大金持ちたちのためだけに減税奉仕する政治を始めることが明らかだったからだ。

 1987年に、松原照子という予言者が、『宇宙からの大予言−迫り来る今世紀最大の恐怖にそなえよ』という本を出版した。

宇宙からの大予言―迫り来る今世紀最大の恐怖にそなえよ – 1986/12
松原 照子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%88%E8%A8%80%E2%80%95%E8%BF%AB%E3%82%8A%E6%9D%A5%E3%82%8B%E4%BB%8A%E4%B8%96%E7%B4%80%E6%9C%80%E5%A4%A7%E3%81%AE%E6%81%90%E6%80%96%E3%81%AB%E3%81%9D%E3%81%AA%E3%81%88%E3%82%88-%E6%9D%BE%E5%8E%9F-%E7%85%A7%E5%AD%90/dp/4876201374


 この本のなかで、彼女は、後の世に(25年後に)安倍という首相が登場し、日本は恐ろしい事態になると明確に予言している。

 http://happism.cyzowoman.com/2013/07/post_2814.html


 以下引用

「恐怖の男・安倍氏は、男に生まれながら男人形として、日本の名で世界を歩くでしょう。『はい、わかりました』、この言葉をためらわず言える政治家は生き、少しでも躊躇した政治家に、いい役が回ることはありません」

 「その人こそ、わが国が『戦争』の言葉を身近に感じる流れを作る人物であり、操り人形です。政治家たちのランクを、国民1人ひとりが見極め、日本の国のために命を捧げられるほどの人間選びをしなければ、草も口にできなくなります」

 引用以上

 まさに、安倍晋三の登場を預言しているのだ。そして、予言の通りに、日本の民衆は驚くほど貧しくなり、「草を口にする」ことさえ困難になりつつある。

 Coco壱番屋の創業者であった宗次徳二氏は、親に捨てられ孤児院で暮らし、引き取られた里親がギャンブル狂で、子供のうちは食べるものもなく、学校に弁当も持参できず、野山の雑草を食べて飢えをしのいでいたといわれる。

 https://oitachi-ima.com/jjitugyouka-oitachi/3638/

 しかし、宗次氏の子供時代、1950年代は、まだ日本中に人情が満ちていた時代で、貧しい飢えた子供を見かけたなら、みんな放っておくことができない人たちばかりであった。

 「助け合う」という価値観を大切にしていた日本の素晴らしい時代で、みんなが貧しかったが、特別に貧しくて飢えているような子供は寄ってたかって助けたものだ。

 だが、今は違う……。

 自民党機関誌の産経新聞さえ、日本の子供の貧困率は6名に1名と指摘している。
 https://www.sankei.com/column/news/150516/clm1505160001-n1.html

 今は、我々の子供時代と違って人情社会ではない。弱肉強食、何でも自己責任、弱者はイジメられ、死ねといわれる社会になってしまっている。

 安倍晋三や麻生太郎は、まさに、「弱者を殺す」ために登場してきた政治家である。

 竹中平蔵らの思想による自民党政治によって格差社会が成立し、年収150万円程度で生活させられる人も普通になってしまった。

 実は、小泉政権で竹中平蔵が登場するまで、日本社会では、最低免税ラインというのがあって、年収180万円以下は非課税だったのだ。

 小泉政権で何が起きたのかは、当時の赤旗に記録が残っている。

 https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-03/2005070302_01_4.html

 松原照子の預言に竹中平蔵はないが、本当は、小泉、安倍や麻生の背後霊は竹中平蔵なのだ。

 竹中平蔵は、堂々と「日本は格差社会になる(する)」と語っている。
 http://saigaijyouhou.com/blog-entry-2129.html

 そしてグローバリスト、竹中平蔵の意思によって、日本国民は桁違いに貧しくなった。

 若者たちは、今や車に興味はないというが、その実態は、購入する100万円級の金を工面できず、また年間最低30万円ともいわれる税金、燃料代、保険代などの維持費を支払う余力のある者がいなくなったのである。

 親たちも、年金を削られ、子供を支援するだけの余裕がないのだ。

 この十数年、大量に登場してきたシングルマザーたちは、子供を抱えて、年収150万円程度で生活を強いられ、家賃を年間50万円以上支払えば、残りは100万円に満たず、光熱費の残りは月額5万円程度しか残らない。

 これを食費にあてるしかないが、母子が食べてゆくに二人で日、千円の食費ならマシな方で、一食あたりの予算は100円台ということになる。

 これで、もし子供が病気になったりしたら、たちまち食費が消えることになり、飢えて路傍を彷徨う運命に至る。

 私も、長い間、日本社会の末端の変容を見続けてきたが、前世紀末、1990年代は、まだ日本人のライフスタイルは豪奢で、夜の繁華街は大賑わいだった。

 当時タクシー運転手で稼いでいた私の月収は、おおむね30〜40万円はあった。

 ところが、日本の景気の大転換点がやってきた。それは1997年、山一証券の倒産である。世の中の景気を肌で感じることのできるタクシー運転手は、景気の現実をもっとも敏感に察知することができる。

 このときから日本経済と繁華街の姿が激変した。

 私の月収は、いきなり10万円もダウンした。金づるといってもいい繁華街から人が消えたのである。

 タクシーで流していても、1時間に一人の客も見つからない時代がやってきた。

 それから、日本社会は、かつての賑わいを取り戻すことは二度となかった。日本社会は「失われた20年」という長期の経済停滞リセッションを起こすことになった。

 極端な不景気現象が起きた原因は、間違いなく3% →5%への消費増税である。

 1989年竹下登内閣によって導入され税率3%でスタート。1997年、橋本龍太郎政権時に3%から5%へ引き上げられ、2014年4月から安倍政権によって8%へと17年ぶりに引き上げられたわけだが、引き上げてから二年ほど経ると、日本社会は、激しい消費不況を引き起こしてきた。

 理由ははっきりしている。社会経済の原動力である大衆の購買力を削いだからである。

 経済というのは、大金持ちの消費が動かしているわけではない。生活費用は、大金持ちでも貧乏人でも、さほどの差はない。大金持ちの余剰金は、消費ではなく投機に向かうのであって、本当の商品循環を支えているのは、最底辺の大衆による生活費の支出なのである。

 また経済の波は、「人を見て動く」性質のある大衆の「雰囲気経済力」によって定まるといってもいい。

 その経済を本当に支えている土台を、自民党政権は破壊してしまったのだ。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-509.html

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-621.html

 最初のうちは、夜の繁華街を謳歌していたサラリーマンたちは、安酒場へとシフトしていった。それは2010年前後までだろう。それから、高級クラブやバー・キャバレー、パチンコ・競馬といった金のかかる娯楽施設に人々は行かなくなり、代わりに身近な喫茶店やコンビニが盛況になった。

 ところが2014年以降は、そんな喫茶店や安居酒屋からも人々が消え始めた。コーヒーを飲む金さえも惜しむようになったのである。

 自販機の飲料さえ売れなくなった。

 高級な酒は売れなくなり、焼酎など安酒の需要が増えた。パチンコ屋やスナックは次々に店を閉め始めた。

 2018年になれば、そうした傾向が完全に定着し、なるべく金のかからない観光施設に人々が集まり、巨大遊園地のような金のかかる施設には閑古鳥が鳴いている。
 ディズニーランドとか、ユニバーサルとかが繁盛しているような報道が多いが、実態はそうでもない。二線級のレゴランドとか、スペイン村とか、地方の遊戯施設は顕著で、連休でもない限り、本当に悲惨なほどガラガラである

 高級なレストランに人は集まらず、大衆食堂が盛況になった。

 私が行くようなスーパーマーケットでは、夕方7時頃から値引き安売りが始まるのだが、そんな時間に、値引き品を狙った客たちが争奪戦を演じるようになった。
 とりわけ、一食あたりの食費が数百円以下のシングルマザーたちは必死である。また年金暮らしの老人たちも、調理に金がかかるし、後始末も大変なので、値引き弁当に殺到するようになった。

 こうした生活状況は、前世紀の感覚からすれば、まったく考えられないほど深刻な貧困化を示しているとしか思えない。

 確かに、こんな状況では「子ども食堂」どころではない。「大人食堂」が必要なのだ。

 ホームレスではない普通の生活者が、まともに食えない時代になったのである。

 「食えない時代」何が起きるのか? というと、これは世界的に相場が定まっている。

 戦後、戦争未亡人が劇的に出てきて、食えない子連れの彼女らは、どうやって窮乏を凌いだのか?

 私のブログに、その一部が書いてある。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html

 若者たちの就職先が消えた。しかし食わねばならない。こんなときに登場してくるのが戦場である。

 多くの若者たちが「食うために」兵士になるしかなく、その兵士が行く先は、戦場であるとともに、戦場にも匹敵する恐怖の原発事故現場である。
 アメリカの若者たちは、徴兵制度ではなく、自らの意思で、他に仕事がないために軍隊に入り、地獄の中東に向かうのである。

 日本の若者たちも、他に仕事がなく、自衛隊に行くか、フクイチ事故現場に行くかということになるだろう。

 「食えない」という現実がもたらすものは、「命の値段」の大バーゲンセールなのである。

 やがて、私も「大人食堂」のお世話にならねばならなくなる、かもしれないが、こんな山奥には作ってもらえないだろう。

 山に入って、キノコや山芋を掘り出す毎日になるのかもしれない。
 
 私は、もう、まともな社会が回復するのは無理なような気がしている。
 もしも希望があるとすれば、何度も書いてきたように、自給自足の農業共同体生活が生み出されることくらいだ。

 もう一人では生きてゆけない。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-731.html

2. 中川隆[-9315] koaQ7Jey 2019年6月23日 20:59:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3174] 報告
東海アマブログ 大家族生活の良さ 2019年06月16日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-777.html


 柳田国男が、明治42年(1909年)に、白川郷を訪れたとき、大家族生活の印象を書き残している。

 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2279832.html

 土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことはおりおりある例なり。ただこの村の慣習法はあまりに厳粛にて、戸主の他の男子はすべて子を持つことを許されず、生まれたる子はことごとく母に属し、母の家に養われ、母の家のために労働するゆえに、かくのごとく複雑な大家内となりしのみ。
 狭き谷の底にてめとらぬ男と嫁がぬ女と、あいよばい静かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりというべきか。

 首を回らせば世相はことごとく世紐なり。寂しいとか退屈とか不自由という語は、平野人の定義皆誤れり。歯と腕と白きときは来たりてチュウビンテンメンし、頭が白くなればすなわち淡く別れ去るという風流千万なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみこれを独占し、我らはとうていその間の消息を解することあたわず。

 引用以上

 ちなみに「チュウビンテンメン」という用語は、ネット上で探しても出てこない。広辞苑や大言海でも無理かも知れない。「秋風帖」という柳田の著作には漢字で出てくるものの、今では誰も理解困難だ。

 柳田が言いたかったことは、「白川郷の大家族生活には孤独が存在しない」ということである。しかし、冒頭の私のブログに書いてあるように、昭和初期には、女性たちは、高山や岡谷、富山などの紡織産業に出稼ぎに出ていて、ひとたび外の世界の「自由」に触れた者たちは、再び白川郷に戻らなかった。

 白川郷の労働が激しかった理由は、たぶん戦国時代に、煙硝=硝酸カリの製造法が発見され、その最適地として知られたのが飛騨合掌家屋であったことだろう。
 雪深く湿度が高い環境と、一軒家に多数の人々が暮らしているので、原料となる屎尿・青草の入手が容易な白川郷や五箇山では効率的な煙硝の製造が可能だった。加賀藩や高山藩が煙硝製造に焦って、住民たちに年貢の代替として無理な負荷をかけ続けた事情は容易に窺える。

 白川郷には男女の集団生活があったが、彼らはプライバシーに飢えていた。
 我々が、大家族生活の利点に憧れるとき、最も警戒しなければならないことが、人が多すぎてプライバシーがもたらす休息が失われることの可能性である。

 大家族には生活上の利点が実に多い。

 何よりも、食事、洗濯、買い物などで、たくさんの消費を効率的に満足させられるのである。一度にたくさんの仕事をするから、孤立した小家族に比べて、一人あたりの消費は実に合理的に行える。

 間違いを犯しても、仲間がすぐに指摘してくれるし、分からないことは教えてもらえる。
 
 生活の必要経費と労働量は、小家族と大家族では極めて大きな差が生じる。

 何よりも、一人主婦が家事を行うのと、数名でワイワイガヤガヤと共同して行うのでは、同じ家事でも雲泥の差、共同には人生の楽しさのエッセンスが詰まっている。

 一人の仕事はつまらない。人は共同にこそ人生のすべての楽しみを得られるように設計されているのである。

 洗濯機や冷蔵庫、掃除機など家電製品で考えれば、数名でも数十名でも同じ道具と時間ですんでしまうので、たくさん買いそろえる必要がない。

 老人や病人の介護が、一人の主婦に負担が集中する小家族とは比較にならないほど楽であり、何か困ったことが起きても、よってたかって解決する人が、たくさん出てくるのである。

 人が死んだときも、全体に及ぶ影響は、家族の規模が大きいほど小さなものになる。悲しみも、みんなが和らげてくれる。「孤独」って、どこの話? ということになるのだ。

 ここでネット上で、大家族生活の合理性について書かれているサイトを参照してみよう。

 山上家の節約術が凄い!家族10人で月30万円!?
 https://xn--bck9etdz48puxcfxu.net/bigfamily/bigfamly/yamagamike

 大家族貧乏ゆうり家の究極のこだわり節約術
 https://yuurin4children.com/daikazokusetuyaku/

 大家族すぎて生活苦に陥っている家庭の悩み https://mikle.jp/theme/%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%8B%A6+%E5%A4%A7%E5%AE%B6%E6%97%8F/

 これらの記事は、私の子供時代の家族感覚からすれば、大家族でもなんでもなくて、「普通家族」のものにすぎないが、それでも生活の大変さと、家族が多いことでの不便と合理性について触れている。

 私は「大家族生活」を考える場合、単位としては10〜20名程度を想定していて、10名以下は「普通の家族」であると思う。

 それに血縁ばかりが家族になるわけでなく、家族というより「共同体志向」を念頭に考える必要があると思っている。

 逆に大家族制度の不合理性=不便性について、ネット上で実情と意見を探しているのだが、なかなか発見することができない。

 小家族の合理性について探しても、まず出てこない。つまり、「小家族で良かった」との記事は見たことがない。

 「大家族はいいですよ」という記事はたくさん見かけるのだが、大家族のせいで自殺に追い詰められたとか、人生が窮屈で死にそうだとかの苦情を探すのは困難なのであり、小家族で幸せだったとの賛美も見つからない。

 せめて、「トイレが足らなくて、我慢してるうちに漏れちゃった」というような具体的な不便記事を探しても見つからない。
 
 それでも、大家族を未経験の人が真っ先に深刻に不安視するのが、プライバシーの侵害であり、隠し事ができないことへの恐怖であり、たくさんの人と同居することの閉塞感、圧迫感であろう。

 実際問題として白川郷の若い娘たちが、苛烈な冬の野麦峠を越えて、女工哀史に描かれた凄惨なほどの岡谷の生糸紡織産業に就業し、一日16時間の辛い肉体労働を強要されても、故郷に帰らなかった事情は、8畳間に同性の10人以上もが寝起きする合掌家屋の生活に、よほど嫌気がさしていたのではないかと思う。

 そこで、我々が窮乏する生活上の要請から、再び大家族生活に回帰するにあたって、個人のプライバシーと、大家族の合理性を、どのように両立させるか明確なビジョンを持って、計画的に準備することが必要というのが私の考えである。
 もうギュウギュウ詰の生活を我慢できる人も少ないだろうから、一定のプライバシーは、どうしても確保しておかないと、集団=共同体生活も成り立たないと考えている。

 そこで参考になるのが、ヤマギシ会のシステムである。
 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2348506.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-23.html

 私は1973年頃、新島淳良がヤマギシ会の理事長だったころ、特別講習というのに参加したのだが、この頃のヤマギシ会は、本当に素晴らしかった。
 何より、参画者の女性たちが美しかった。化粧など誰もしていなかったが、人生や人間関係に対する喜びにあふれた表情は、一目見ただけで忘れられないほど美しいものだった。

 当時のヤマギシ会は、まだ貧しくて、みんな粗末なトタン張りの小屋に住んでいたが、それでも、ヤマギシズムと呼ばれた放し飼いに近い養鶏法が生活の主軸になっていたから、養鶏法をモデルとしたシステムに、人間も生活していたのである。

 ドーム型の長屋を区割りして個室が作られていたが、個室は四畳半くらいで、数名が生活していた。

 食事も洗濯も風呂も、すべて共同で行われ、強制は一切なく、本人の自主性だけに依拠した共同体がうまく機能していた。

 問題が出ると研鑽会が開かれ、みんなで意見を出して解決していた。

 大切なことは、ヤマギシ会においては、粗末ではあったが、それなりの個人のプライバシーが確保されていたということで、我々が共同体を志向するときも、必ず、共同性とプライバシーを両立させる生活システムを考える必要があると思う。

 その後、80年代末にも私は関わったのだが、その頃になると、いろいろな問題が噴出し、いわゆる「問題組織」とレッテルを貼られるようになったが、私は、詳細を知らない。ただ、結構豪華な個室が与えられていたことが印象に残っている。
 ちょうど70年前後の全共闘運動が80年代に近くなると、悪い意味での変質が起きていたことに似た、組織の統治に関する問題がたくさん出てきて、私は幻滅させられることが多く、ヤマギシとの関わりも失われた。

 リーダーが専用のベンツに乗って外出する姿を見たとき、「ヤマギシも終わったのか?」と強い不安に駆られた記憶がある。つまり、もの凄く儲かっていたことで、ヤマギシズムの本質を見失ってしまったのではないか? と私には思えた。

 今の段階では抽象的にしか語れないのが残念だ。当時は、私自身が地獄の釜のなかにいるような精神状態で、何をどうすべきかのビジョンが、まるで生み出せなかった。

 資本主義の爛熟過程では、みんな物質的欲望と見栄に取り込まれ、愛を見失い競争だけが生き甲斐になるような、人間性を見失った時代になってしまうのだが、それがバブル時代だったと思う。

 私もバブル時代の中で、価値観を見失い苦悩したが、今、再び、60年代のような民衆の貧しさが復活して、真実を見抜こうとする価値観が復権してきているような気がする。

 豊かさは人を愚かにするが、貧しさは人を賢明に育てるのである。みんなが貧しくなって、再び、我々の前に真実が姿を現しはじめた。それが共同体の復権であると、私は思う。

 共同体=すなわち大家族生活のことである。人が金ではなく、人に依拠して生き抜いてゆく。この世の本質は、金や差別ではなく、人間と、その愛であると気づいた人たちが、手を取り合って新しい社会を形成してゆくのである。

 まだ資本主義の競争社会に影響を受けて、人ではなく、技術や集団、組織の虚構に目を奪われて、「この世には人間と自然しかない」という真実を見抜けない人たちがたくさん生きている。

 彼らは、コンピュータ社会、IT・AIに過剰な幻想を抱き、それが人を支配するようになると勘違いしているが、決してそうではない。世界の本質は人間であり、金ではなく、技術でも権力でもない。
 人間だけを見つめて生きるために、我々には大家族=共同体生活が必要なのだ。

 また、共同体は、「そうしなければ生きてゆけない」という切羽詰まった現実の上に築かれるものであり、誰か頭の良い、えらーい人が登場してきて共同体社会を指導して回るわけではない。

 みんな、ときには「いやいや」団結し、共同してゆくのであって、団結のなかで、新しい価値、大きな合理性としての共同体生活を見いだしてゆくものだと私は思う。

 何度も書いているのだが、30年前に松原照子が予言したとおり、「日本人は草も食べられない」ようになりつつあり、もう大都会では餓死するしかない時代が目前に迫っていると思う。

 テレビでやってる山奥の「ポツンと一軒家」こそ、真の桃源郷になる時代が近づいているように私には思われるのだ。

 今は90歳近い老人が少人数で最期の日を待っているが、やがて、ここに若者たちが、未来を担う共同体を作り出す日がやってくると私は信じている。 
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-777.html

3. 中川隆[-9314] koaQ7Jey 2019年6月23日 21:05:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3175] 報告

東海アマのブログ 2009年10月28日
大恐慌の本当の意味 その7
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/1805329.html


 日々、生活恐慌が身近に迫ってくる。企業は次々に倒産し、やがて銀行も倒産しはじめれば取り付け騒ぎから預金封鎖に至るのは目に見えている。

 アメリカでは、10月26日現在で、ついに年初より銀行倒産が106行となり、預金保障機構(FDIC)がペイオフの支払いさえ危うい事態になっている。

 3兆円ほどの預託金を銀行から集めて、当座の破綻保障に充てたい考えらしいが、次々に倒産が連鎖して、あとどれほど倒産するのか見当もつかないうえ、シティ・バンカメ・メリルクラスの大銀行が倒産すれば、一行だけでリーマンを上回る負債が闇に消えるのだ。

 保障など不可能なのは見え透いているわけで、だから全米の銀行に取り付け騒ぎが広がっている。もはや銀行を信用する者などいない。

 銀行というものは、地域に独立した存在ではなく、多くは国際的に為替準備や株式持ち合いをやっており、もしアメリカ大銀行が倒産すれば、その負債は地球を駆けめぐり、あらゆる銀行に深刻な影響を及ぼすのである。

 例えば、日本の四大銀行、とりわけ三菱UFJあたりは、その株式の8割以上を外資が保有し、経営権を握られていると船井幸雄が暴露していた。

 だから、倒産寸前の苦境に立たされているJPモルガンに対して1兆円もの出資ができる、というより、損失を引き受けさせられたわけだ。いわば三菱UFJの日本預金が人質に取られたということで、モルガンの破綻とともに、1兆円の日本資産が消えてゆくのである。

 アメリカでの銀行倒産ラッシュは、いずれ必ず日本に波及し、アメリカで預金封鎖が実施されたなら、数十日で日本でも起きると見るべきである。

 こうなれば、BIS規制によって銀行は店を閉じるしなかい。もちろん貿易為替も不可能になり、たちまち輸出入が途絶えることになる。

 今のところ、IMFのSDR(通貨引き出し権、国際電子マネー)を前提に、そこから銀行が借り入れて存続する計画と思われるが、コモディティ・バスケットという金や資源などの価値を担保として権利が設定される見通しで、日本のように金も資源も持たない国は、SDRは実に小さなものでしかなく、世界最貧国に転落するのが確実で、もちろん輸入産業は壊滅するだろう。

 大衆の生活は大変なことになる。知らないうちに銀行預金が封鎖されて、当座の生活に必要な数十万円程度しか下ろせなくなる。

 それどころか、石油・穀物などにハイパーインフレが発生し、ドルも円も、どんどん価値を失い、やがて、あらゆる現金が紙屑に転落することになる。

 こうなれば、カネでモノを購入できる時代は終わり、当分の間、物々交換が復活するだろう。

 混乱のなかで、米や麦など穀物一食分を単位とする地域通貨が自然発生し、やがて長い時間をかけて秩序が回復することになるのだろう。

 問題は、価値交換の秩序が回復するまで、果たして生き延びることができるのか? ということだ。

 というのも、ドルや円の価値が下落して紙屑に変わるなら、たちまち貿易がストップし、食料が手に入らなくなる。

 今、スーパーを見れば豊富な物資が山積みされているが、こんなものは仕入れが止まれば、わずか一週間で空っぽになるはずだ。

 飲食店も供給不能になり、本当に食べ物が消えてしまうのだ。

 こうなったとき、都会にいたなら地獄だ。筆者のように過疎の田舎にいれば、とりあえず最低限の食物を手に入れるのは可能だと思う。

 だから口を酸っぱくして、備蓄せよ、プランターでもいいから作物を自給せよ、田舎に移住せよ、友と手を携えて農業共同体を構築せよと書き続けてきた。

 人間は、決して一人では生きられない。「人」という字は、二人が互いにもたれ合っている様を表象したもので、まさに人間の本質を表している。

 信頼のおける友と団結して、自給自足体制を造り、この苦境を乗り切らねばならないのだ。

 人と団結できない者は淘汰されるしかない。今の若者に多い「挨拶のできない人」なんてのは、残念ながら生き抜ける資質がないということで、自殺を考えた方がよい。

 まずは、誰にでも明るく挨拶し、互いに手を取り合って、協力、協調する姿勢を示すことが団結の第一歩なのだ。

 通貨の信用が消えてしまった社会で用いられる流通は、最初に物々交換になり、次に食料単位となる。つまり一食分の食事で、これだけの仕事をしてほしいという契約が成立するわけで、それから一食分の食事を単位とした地域通貨が登場し、最後に、信用のおける大規模な組織が、地域を代表して通貨を発行することになる。これが国家レベルの通貨に発展してゆくわけだ。

 こうしたプロセスは法則的なもので、おそらく、どんな社会でも同じ経過をとるであろうことは、民俗学を深く学んできた者なら見当がつく。

 その「信用のおける組織」というものは、優れた指導体制が確立し、生産力の強い農業共同体であろう。

 「仲間と手を携えて自給自足の農業共同体を作る」

 とかけ声をかけても、実際にうまく機能する共同体は非常に限られていて、大恐慌の前から綿密に準備された、例えば「ヤマギシズム」や「癒しの郷」のようなグループに限られるだろう。

 ほとんどの共同体は、出発しても、基本的な挨拶さえできない、学歴を鼻にかけたり、ブランド品を自慢してみたり、利己主義に洗脳された若者たちが中核になったとしても100%失敗するしかない。

 それを牽引、領導するのは、心底から利他主義を身につけた中高年や老人たちである。

 農業に対して深い造詣と長い経験を持った人を軸にして、暖かい心の持ち主が数名集まれば、共同体の中核ができあがる。

 若者たちは、まずは挨拶の仕方から習う必要があり、農作を通じて人間性を磨かねばならない。

 これまで資本主義体制のなかで学ばされてきた、専門性の高い学問など屁理屈にすぎず、ほとんどの場合、現実生活に役に立たない無用の長物なのだ。農作実践のなかで、もう一度、本当の学問を学び直さなければならないだろう。

 作物の育て方、収穫の仕方、保存の仕方、木工・鉄工の技術、医療や介護の知識、現実の生活に必要な、あらゆる知識と学問を、もう一度学び直す必要があり、共同体のなかに学問所を設けて、病気の直し方、椅子の作り方、料理、洗濯、建築など、すべて勉強して真の学問を身につける必要があるだろう。

 どうして若者たちが利己主義に洗脳されて、団結や協調を忘れてしまっているのか? きちんと反省し、問題解決の道筋を確認しなければ決してうまくゆかない。

 こうした農業共同体は、それまでの一夫一婦制家族の常識観念を根底から覆すものになるだろう。

 一夫一婦制家族は、実は、資本主義の要求に応じて作られた制度である。そもそも、男系社会が成立して以来、夫婦は一夫多妻制であった。これが長い歴史のなかで女性の権利拡大とともに一夫一婦制になったわけだが、本当の理由は、企業活動の要請であった。

 すなわち、大きな企業体や工場のなかで、労働者が安心して働き、企業組織に従属するために、一つの目的価値として一夫一婦制家庭の所有、子供の育成の体制を作り出したのだ。

 資本主義企業が成立する前、農村社会にあっては、基本的に共同体社会であり、実質、多夫多妻制といってよいものであった。

 日本においても、実に1960年代まで、西日本の広い地域で、そうした多夫多妻制共同体社会が息づいていた。

 例えば、筆者は30年前に徳山ダム予定地で水没する運命だった徳山村に入って民俗調査した経験がある。

 このとき、土地の飲み屋のママが『毎晩、若い衆が「やらせろ」と忍んでくるので本当に困る』 とこぼしていたのに驚いた。

 実は、徳山など西日本の閉ざされた村では、フリーセックスに近い伝統が息づいており、後家さんが若衆の性教育をする義務があった。それは共同体社会の伝統であった。

 女子は初潮が来れば離れに住まわせ、赤飯を配った。これが「おいで」の合図で、その晩から近所の若衆が娘の元に夜な夜な忍んでくる。これを「夜這い」と呼び、1960年代まで、西日本では、ありふれた習俗だった。

 当然、子供ができるが、お腹が膨らめば、娘は忍んできた若衆のなかから一番気に入った男を夫に指名する権利があった。若衆は、これを拒否することはできなかった。もし拒否すれば、村から叩き出されるほどの指弾を浴びた。 夫指名はお腹の子の種男である必要はなかった。どうせ、生まれた子供は、村の共同体みんなで育てるのであって、誰の子でも構わないのだ。子供は村全体の財産であり、みんなで育てる義務があった。村の共同体では、困ったことは、みんなで相談して解決するのであって、一人でも飢える者を出すことは許されず、餓死するときが来れば、みんなで一緒に餓死したのである。そこには貧しくとも、孤独という苦悩は皆無であった。
 
 やがて若衆が都会に出るようになり、都会の家畜的労働者の習俗を村に持ち帰ることによって、夜這いも廃れ、共同体も瓦解していったが、祭りなどには、そうしたフリーセックスの習慣が遅くまで残り、1980年代まで村の祭りは無礼講であり、どの人妻と寝ても良かった。できた子供が、父親の子である必要があるのは、権力と財産を相続する必要のある名主や武家に限られいて、共同体生活をしてきた民衆には、受け継ぐべき権力も財産もなく、したがって父の子を特定する理由がなかったのである。

 この当時の人間価値観というものは、人間が心から解放された原点にあるもので、人々は利他主義を最大の価値として、生き甲斐として生き抜いてきた。

 「夜這い」にあって、どのような女性に人気が集まったのか? 宮本常一の記録を読めば、男たちに本当に人気があった女性は、今で言う「させ子さん」であった。

 つまり、どんな男が忍んできても、決して拒絶せず、優しく下半身を開いてくれる女性であり、男たちは、その優しさに打たれ、争って妻に求めようとした。

 今では「公衆便所」などと軽蔑される、誰とでも寝る女性こそ、女の鏡であり、もっとも素晴らしい、利他主義の優しい女性であり、それを妻にすることが最大の栄誉だったわけだ。

 今後、都会の若者たちが過疎の田舎に移住して、農業共同体を結成して生き抜こうとするとき、これまでのような見てくれ重視、ブランド重視の愚かしい発想はクソの役にも立たない。

 本当に求められる人間の資質は、利他主義であり、誰に対しても分け隔てのない心優しさであることを知っておくべきだ。

 こうして、資本主義の社会が崩壊し、原始共産的、共同体社会が復活してゆくことになる。

 新しい社会の主役は女性たちである。男どもは、資本主義の古い価値観から容易に醒めることはない。見栄や権力欲、蓄財に憧れ、人間の本質を見失いやすいのだ。

 しかし女性たちは、男と違って、まずは子供を育てやすい社会を望むのである。
 ブランド品やヨン様に夢中になっている馬鹿女性でも、共同体に入れば、あっというまに、仲間と語らって、みんなで子供を育て、いたわり合う楽しさに、価値観が激変してしまうだろう。

 自由な性交が保障された共同体社会では、生まれてくる子供の親を特定できるのは母子しかない。DNA検査など資本主義の価値であって、自分の生んだ子を特定し、生まれた母を特定できる社会では、必ず母系氏族が成立するのである。

 したがって、農業共同体はやがて母系氏族社会に変わってゆくだろう。

 共同体が大きくなると、必要に応じて細胞のように分裂増殖することになる。このとき、女王蜂が分蜂するように、母系家族が独立してゆくはずだ。それぞれの母の氏姓による共同体が増殖してゆくだろう。
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/1805329.html

4. 中川隆[-9306] koaQ7Jey 2019年6月24日 08:01:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3183] 報告
2009年4月6日 ●ゲーゲーと部落問題 - 東海アマのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/287659.html

未明の2時頃になると、筆者宅の電話が突如鳴り出す。面倒くさがって取らないでいると何時間でも鳴り続けているので、とると「ゲーゲー ウーウー」と薄気味悪い男の声が延々と続く。

 ホラー映画を見過ぎた気の弱い女性なら、「ジェイソンが現れた!」と、恐怖のあまり卒倒しかねない。

 幸い、筆者は、単独ロッククライミングや沢登りで相当に怖い思いを楽しみ、熊だろうがマムシだろうが死体だろうが霊だろうが(みんな見たぞ!)遭遇しても、「なるようになるさ」主義で、恐怖には滅法強いほうだったからよかったが、うっとおしいのには本当に腹が立った。

 何せ、固定も携帯も同時に、間断なくかかってくるので、コードを抜くか、スイッチを切るしかなく、大切な電話が使えなくなってしまうのだ。筆者ばかりでなく、友人の芸能人や、実家の近所の同姓の人にもかけまくっていたらしい。おかげで友人が恐怖し、人間関係が壊れてしまったこともあった。まったく無関係の同姓のご近所様には申し訳ない限りだ。

 それが十年以上も続いている。もちろん録音を持って警察(当時、名古屋中村警察署・刑事課)に何度も出向いた。事情聴取の最中にかかってきて、警官にもそれを聞かせた。しかし、それでは犯罪にならないと言われて追い返された。

 メールもたくさん来た。「オマエを殺す!」というものも数回含まれていた。それでも警察は動かなかった。仕方なしに、今度は電話に出て、「馬鹿野郎、ゲーゲー死ね!」と怒鳴りまくったが、向こうは、ますますいきり立って執拗にかけ続けてきた。

 いったいヤツ(ゲーゲーウーウーと名付けた)は、電話代をいくら使ったのだろう? 故意に携帯を通話料の高いプランに設定し、毎分80円くらいで、数時間もかけさせ続けたので、おそらく月間では数十万円になったはずだ。それでも、やまなかった。

 これほど長いと、激怒もウンザリも通り越して、明鏡止水、悟りの境地かと思う人が多いかもしれないが、実は、未だに性懲りもなく煮えくりかえるような思いで怒っている。

 こんな電話が最初に来たのは、過去ログを見ると1998年頃になっているから、11年も前で、これが未だに続いていると書けば読者も驚くだろう。

 たぶん、筆者が天皇制についての批判を書いた直後に、いつもかかってくるような気がしていたから、おそらく偏執狂右翼の嫌がらせかと思っていた。

 
 最初の頃は、年に数回、一度始まると数ヶ月も続く。夜中の二時頃からと、昼間の二時頃から、いずれも数時間電話がかかりっぱなしになり、取ると、ひたすら「ゲーゲー ウーウー」ばかりで、まともな会話はない。

 怒鳴りつけようが、「オマエのカーちゃんデベソ!」と言おうが平気の平左でゲーゲーやっている。2002年頃、これを録音して「これがゲーゲーだ!」と称して公開したときは、2ちゃんなどネット界隈で話題になったものだ。

 その当時、録音のなかに豊郷小学校の校内放送が入ったことから、これが彦根近郊の豊郷町付近から発信されていることが分かった。またゲーゲーウーウーの声が、おそらく重度脳性麻痺障害によるものだと思えた。さらに母親らしき女性の近所つきあいの声も含まれていた。

 そこで、これらの情報を頼りに、豊郷町に何回か出向き、調査して歩いたところ、ある家にたどり着いた。終日見張ったが、母親が見えたものの確証がとれず引き上げた。

 その後、このことをHPで公開したところ、しばらく、この嫌がらせ電話はかからなくなった。

 ところが、二年もして、筆者が「明治天皇の正体は大室寅之佑だ」などと書くと、またかかってくるようになった。おおむね2〜3年に一度かかってきて、数十日続いてやむわけだ。その間、ときどき久木と名乗る人物から謝罪するようなメールが来ていたが、もちろん許すわけがない。

 そうこうしているうちに、今年、またメールが来て、数年ぶりに粘着嫌がらせ攻撃が再開された。

 今度のは深刻だった。電話に加えて、勝手に筆者の名前とメルアドを使い、数百のさまざまな申し込みをしていた。なかには戸塚ヨットスクールの入校届けや、デリヘル会員、仕出しやの出前などもあった。ダッチワイフの通販申し込みまであった。

 しかし多くは、注文先が怪しんで配達しなかったようだ。だが、筆者のメルアドは凄まじいことになった。注文するはずのない、購読や案内が数百も届いているのだ。これを削除するだけでも大変で、まともなメールを見るのに苦労するようになった。

 今度は本気になって怒り、ゲーゲーからのメール情報を頼りに調査したところ、ついに10年ぶりに本人の正体にたどり着くことができた。

 メールにあった人名地名は、すべて豊郷町高野瀬固有のものだったため、高野瀬のいたるところに電話をかけて、深夜に嫌がらせ電話をする人物に心当たりがないか聞いて回ったのだ。

 そうしたら数名から感触があり、まったく同じ嫌がらせ電話を受けている人から該当人物を教えていただけることになった。ゲーゲーは、筆者だけでなく、近所遠方を問わず、あらゆる人に対して嫌がらせを繰り返していたのだ。

 そして、それは高野瀬の山本某であるとの指摘だった。そこで調べてみると、まさしく数年前に行き着いた家と一致した。さらに、ゲーゲーが発信元を隠し忘れて、本当の番号でかけてきてしまった。それは、教えてもらった家の番号であり、そこに電話すると本人が出て、苦節十年、とうとう本人にたどり着くことができたわけだ。
 
 山本ゲーゲーは、単に嫌がらせ電話やメールだけではない。筆者のプライバシー問題や、事故などのことを、さまざまな他のサイト掲示板に誹謗中傷文を書き続けていた。多くのサイトで、そのアドレスは書き込み禁止処分を受けていたので、誹謗中傷と嫌がらせだけに人生のすべてをかけているような人物である。

 おかげで、筆者が観光バスの臨時運転手に採用されるときに参照されて拒否されたり、人間関係を壊されたり、深夜寝ている最中に電話されて、不眠になったりと、さんざんな目に遭い続けてきた。

 筆者は、過去の激怒感情が累積して爆発しそうになっていて、もし当人に会うことでもあったら絶対にタダですまないことが分かるので、会わずに事情を説明して警察に委ねることにした。

 幸い、中津川警察が取り上げてくれていて、なんとかなりそうだが、今日現在、まだ数百回の嫌がらせ電話が続いている。

 山本ゲーゲーの身元を調査すると、重度脳性麻痺障害者で、ほとんど家から出ないで終日ネットで嫌がらせに邁進しているようだ。家は母との二人暮らしで、父親はいないが、地元の名士だったとのこと。兄は名古屋で医師をしているように聞いた。

 調べてゆくと意外なことが浮かび上がってきた。


 豊郷小学校といえば文化財級の建築で有名で、その保存をめぐって、前町長と住民がトラブルになり報道されたことを記憶されている人も多いだろう。もちろん、素晴らしい建築物で、耐震強度だって手抜きインチキ建造物に比べれば全然問題ないが、前町長が勝手に解体をはじめ、訴訟になって住民側が一応勝訴しているわけだ。

 この前町長と山本の関係が分かってきて驚いた。彼の親族は、みな地元の名士ばかりだったのだ。そして、さらに奥の深い問題が見えてきた。

 それは山本からのメールに「エタの岩瀬」と筆者を侮蔑する表現が繰り返し使われていたのだが、なんでエタなのか不思議だったが、実は、豊郷町こそ、彦根藩の被差別集落地域だったのだ。

おまけに山本は、その子孫だった。前町長も同じだ。

 そこで、豊郷小学校を前町長が忌み嫌った理由について、ある事情が思い当たったわけだが、具体的な内容は、証拠がないので書くことを憚られる。


 山本ゲーゲーと部落問題に接点があった。

実は、筆者の実家も、近所に被差別集落があった。ここは処刑場だったことが分かっている。実家は、その真上に建っていたので、書けば、皆が驚くような激しい霊障が多かった。その周囲に処刑業務を委託された被差別民がいたわけだが、そのことを書いたことがあった。

 そういえば、それからまもなく山本の嫌がらせ攻撃が始まったのである。

 そこで、山本問題を分析するには、部落問題の解説を始めるしかない事情になった。

 筆者は子供の頃、よく学校で「エタ」とか「四つ」とか言われて侮蔑されていた。実際には余所から来たので無関係だが、子供時代、相手を侮蔑するための最高表現だったのだ。

 ところが、筆者は、その意味を知らずちんぷんかんだったおかげで、怒ることさえできなくて不思議なばかりだった。今でも、ほとんどの子供が、部落問題が隠蔽されているために、その事情を知らされてもちんぷんかんぷんだろうと思う。

 理解できるようになったのは中学生以降のことであり、高校の社会研究会で初めて事情を知った。

 部落問題が深刻に生き続けているのは、名古屋より以西の地域なので、関東以北の人たちは、ほとんど事情に疎いのだろうと思っている。おそらく穢多という言葉すら知らない人が多いはずだ。

 それは、あえて、この歴史や同和問題を隠蔽し「臭いモノにフタ」をしてきた教育体制の問題がある。しかし、隠すだけで問題が解決するはずがない。それは潜行し、人々の心の奥深く、B型肝炎ウイルスのように息づき、再び差別の炎が燃え上がる日を待っている。

 それは徹底的に明るみに出して、真正面から議論するしか本質的な解決を得られないものであり、そのために、日本の国民大衆は、差別問題の究極の本質を思い知らなければならないのである。


 日本には恐ろしいほど深刻で激しい部落民差別が連綿と続いてきた。

 士農工商階級の下に穢多・非人階級があり、彼らは処刑役や牛馬解体、汚穢処理などを強要され、この結果、「最低の仕事をする人たち」と社会全体からみなされ、人間でない非人と言われることになった。

 江戸時代、藩体制では、城の南西、二里ほどの地点に、処刑場が設けられ、そこに被差別集落が作られた。豊郷は彦根藩の処刑場ということになる。ちなみに筆者の実家も名古屋城の南西にある。江戸の場合も、南南西の鈴ヶ森に作られた。

 ここで罪人と称する犠牲者を殺害する役目を強要されたことにより、民衆の直接の恨みをかうことになり、それが権力を守るクッションの役目を果たしたのである。

 人ではない非人に税務はなかったため、一番最下層のひどい暮らしを強要されながら、実は、上部階層は実に裕福だった。権力も心得たもので、不満のガス抜き用に、京都の貧乏公家の娘が売られてくることも多く、部落には凄い美人がいると噂されたものだ。
 
 今回、山本問題を詳しく分析するために、別の機会に部落問題を真正面から取り上げようと思っている。

 日本の畜産・食肉業界の闇は、すべて部落問題にあり、このルーツは、朝鮮半島における儒教体制による差別システムが百済王国とともに持ち込まれたというのが筆者の推論である。

 近いうちに、この問題を山本問題や豊郷小学校問題とともに取り上げるつもりだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/287659.html

5. 中川隆[-9305] koaQ7Jey 2019年6月24日 08:02:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3184] 報告

2009年4月7日 ● 部落問題 - 東海アマのブログ

筆者は中学生の頃から社会問題に関心を抱き、さまざまな集会や催し物に顔を出し、高校でも社会科学研究会に所属して熱心に取り組んだ。高校一年頃から、ベトナム反戦デモに参加し、日中友好協会(正統本部)に出入りしたりしていた。

 部落解放同盟や日朝友好協会などにも出向いたが、そこにいた人物の人相風体、雰囲気が非常に悪く、足が竦んでかかわる意欲を持てなかった。あの団体は、人間解放の目的ではなく利権目的であると、なんとなく分かったものだ。

 社会問題に強い関心を抱いた大きな理由は、筆者の住む名古屋市中村区が問題の多い被差別地域だったからだ。

 今でも、名古屋駅から徒歩10〜20分という絶好の条件でありながら、居住地として異様な不人気で、土地の値段も東部に比べて信じられないほど安いという背景は、歴史的な差別問題と切り離して考えるわけにはいかない。

 といっても、その事情を詳しく知っている者はほとんどいないが、通った中学校では、ケンカをしたときの蔑称として「エタ」とか「四つ」という言葉が飛び交っていた。筆者も、よく「エタ」と罵られたものだ。

 それが何を意味するか、当初はちんぷんかんぷんだったが、やがて、驚くほど深く激しい差別の歴史を知るようになり、部落問題というのは日本社会の根底で、物凄く大きな意味があるのではないか、と思うようになった。

 江戸時代、社会の最底辺で残酷な弾圧処刑を行う権力への怒りを、直接処刑役を強要されていた「穢多」に向けることで、矛先がすり替えられる卑劣な支配体制が敷かれていた。

 明治政府が徴兵・納税の平等のため身分差別を撤廃し、「平民解放令」が出てからも、民衆の心の底に淀んだ差別観念が消えることはなく、むしろ潜行して、ときに激しく燃え上がった。
 
 政府は、こうした差別観念に対して、真正面から、その誤りを議論させるのではなく、ただ「見ざる、言わざる、聞かざる」の「臭いモノにフタ」という隠蔽政策をとった。

 このことで部落問題は、逆に本質的解決が遠のいてしまい、人々の心の底に呪われた澱として残ることになった。

 差別観念こそ、実は日本社会が分け隔てのない人情社会を見失い、「自分は選ばれた人間だ」という逆の選別意識を産み出し、社会の構造的悪化をもたらした本質であることに気づかねばならない。日本の学歴エリートへのおぞましい羨望は、実は、こうした差別意識が担保したものだったと誰が指摘してきただろうか?

 今こそ、我々は差別の呪縛から解き放たれ、逆に、エリート意識、選抜主義の愚かさに気づくべき時代がやってきたと認識すべきである。

 「優秀な人」など幻想にすぎず、実際には何の価値もないこと、「穢多・部落民」は差別されるべき何の理由も存在しないことを明確にすべきであり、これは真正面から隠さずに取り上げるべきなのである。

 今の50歳以下の人たちで差別事情を知る人は少ない。すでに、かつてのような壬申戸籍や部落総監などは消え、ワープロの変換用語からさえ、穢多・非人・部落などの文字が消されているのが実情だ。ただ同和という言葉のなかに歴史的な片鱗が残されているわけだが、それすら意味を理解している人は少ないだろう。

 だが、部落問題は隠され続けたが故に、解決したわけではなく、むしろ陰湿に潜行しているのが実情だ。また、地名や文化にまつわる負の遺産、事情を教えないことで、地域社会に対する民俗学的理解も異様な抑圧を受けているのである。


 何があったのか?

 例えば、筆者の子供時代、1970年頃までは、岡林信康の「チューリップのアップリケ」で歌われたような結婚の悲劇などはザラというより常識であって、その差別感覚は広く国民に浸透し、部落民とレッテルを貼られたなら、結婚はおろか、まともな就職さえできなかった。とりわけ役所・銀行・大企業は、出身地を調査し、それが部落総監に記載されているなら絶対に採用しなかった。

 その差別が、どれほど広範で、深刻、激烈なものだったか、ほとんどの人が陰湿な差別を知らなくなった今こそ、再び陽光に晒すべきなのだ。

 部落の地名なども隠蔽され、それを公開するならば激しい非難が浴びせられた。だが、それは間違っている。隠せば問題が解決するわけではない。潜行するだけなのである。その証拠に、最近、再び、2ちゃんなどでエタ呼ばわりが拡大している風潮がある。

 
 また、大本・天理・黒住など江戸末期〜明治の近代宗教発祥地は、すべて峻烈な部落差別地域と重なっている。

また創価学会も朝鮮籍の成田作によって巨大化した。今でも在日者の熱烈な信仰を集めている。これは、差別がどれほど人々の心に重い悲しみを与え、救いを求めていたかを示すものなのだ。

 差別が現実の世界で解決されないものならば、人は心の世界で解決し、幻想や虚構に委ねようとする。差別を直視せず隠蔽している限り、人々の心の傷は永遠に癒えることはなく、いつまでも宗教や金儲け、権力など幻想の世界に逃避するしかないのである。

 そして、差別の主役であったはずの権力世界にすら、深刻な影響を及ぼしている。

 小泉純一郎は父親が在日朝鮮人であり、竹中平蔵・野中広努は部落民出身であった。

こうした出身は、かつて絶対に上層部に行くことができなかった。だから能力のある者は外国に向かったのである。そして、都合よく権力を獲得すると、今度は被差別の怨念が、国家への復讐という形で現れたのかもしれない。

 彼らの行ったことも差別の解決ではなく、金儲け思想への逃避であり、国民全体を金融幻想に巻き込み、日本国家そのものを破滅に追いやることになった。やはり心底では、自分たちをひどい目に遭わせた差別国家に復讐したかったにちがいない。

 被差別地域の特徴は、地理的に好条件でありながら、高度経済成長期でさえなぜか開発が行われなかったという特徴がある。それは差別者が作った「部落地名総監」(帝国興信所)に記載されていたからだ。


 江戸期に穢多部落が固定されたとき、為政者は風水上の理由から、城の南西に処刑場を設置した。

だから基本的には、全国の主要な城の南西に深刻な差別地域が存在している。

筆者の育った名古屋市中村区でも、城の四里南西であり、深刻な差別に溢れていた。

 これまで隠されてきた事実に真正面から光をあてて直視することこそ解決への真の道程であると筆者は考える。隠蔽は百害あって一理なしだ。

「部落であったことが分かれば土地の値段が下がる」という経済的理由での隠蔽が多かったが、これも決して隠しおおせるものではなく、逆に風評を深刻化させるだけなのである。


 学区に大門という旧赤線歓楽街を抱えていた小・中学では、部落問題よりもヤクザ問題の方がはるかに深刻で、被差別問題が話題になることは、それほど多くなかった。

 しかし、区内にある烏森(カラスの舞う森→処刑場)・万場(ヨロズ場→死体処理)・八田(毛皮を張る田→肉加工)という地名から分かるように、中村区周辺に被差別の深刻な歴史が隠されていた。おおむね食肉・毛皮加工業者の集まる地域は関係が深い。

 名古屋周辺では、甚目寺町が尾張藩最大の未解放集落で、筆者の育った中村区の他、千種区王子地区(市営団地になった)や、牧野・笹島地区などがあった。ここでは主に牛馬解体・毛皮・馬具・皮革・肥料製造が行われていた。

 この地域の宗派は曹同宗が多く、部落民の檀家には戒名に獣の字を入れるという悪質な差別行為を続けてきた。(牛捕院乳起信士のように)筆者の姉が曹同宗の古刹に嫁入りしているが、禅宗は、元々、武家の帰依が多いことから差別意識の非常に強い伝統があるようだ。

 筆者の子供の頃、人を侮蔑する最大の表現が「四つ」であり、これは四足を意味し、すなわち江戸時代から牛馬解体などに携わった被差別部落民に対する最悪の蔑称である。未解放部落は動物・畜生に関連してイメージつけられていた。

 こうした「四つ」という侮蔑用語について、中部圏に住む現在の40〜70歳の人たちにとって重く陰湿な記憶がある。80歳以上では徴兵制があったため、むしろ同情心が強い。

 少し社会の本質を観察してきた人なら、差別の本質は、社会的な身分差別制度、階級分化によって、上から下への一方的な服従を強いられ、この屈辱感、悔しさを、上に対して反発できない人は、何の罪もない下の人たちに向けて憂さを晴らすというメカニズムに気づいているはずだ。

 例えば、一家の父親が、会社で上司から理不尽なパワハラを受けて鬱憤を貯めて帰宅するとしよう。

 父親は帰宅後、憤懣が収まらず、母親に向けて発散しようとする。従順な母親は、理不尽な夫の怒りを受け止めきれず、やはり不満を心に貯める。今度は、それを我が子に向けて発散しようとする。子供も、なんで母親が怒っているのか理解もできず、憤懣が募り、今度は飼犬に向けて当たり散らす。

 飼犬も怒られた理由が分からずストレスを貯めて、今度はネコや別の犬や、生物に対して当たり散らすのである。こうして父親の憤懣が、家族や地域全体に拡大再生産されてゆくメカニズムが存在している。

 部落差別の本質も、このメカニズムから一歩も外れることのない単純素朴なものだ。

 かつて日本は激しい差別社会であった。おそらく、それは朝鮮百済王国の差別制度がそのまま日本に持ち込まれ、別の発展を遂げたものであろう。

 支配階級が機能するためには、対極底辺に被差別階級が必要なのである。

士農工商の身分差別では、農民の憤懣のやり場がないために、さらに、その下に穢多・非人階層を必要とした。処刑や汚穢処理を強要し、「汚れた人」というイメージを作り出し、権力に対する理不尽の怒りを彼らへの蔑視にすり替えていったのである。

 しかし、それでは穢多部落民は、憤懣のやり場をどこに持ってゆけばよいのか?

 それも、ちゃんと考えられていた。

人でない非人たちには納税義務はなく、このため江戸時代、もっとも裕福な階層こそ穢多だったのだ。

 全国穢多総差配であった弾左衛門屋敷は浅草〜吉原の広大な敷地にあり、内部における豪華さは将軍家以上とも謳われたものであり、そこには京都の貧乏公家から特級美女ばかりが買われてきていた。

 また全国の被差別集落の名主たちの裕福さも目を見張るものであり、江戸期を通じて、もっとも貧しさから遠い階層であった。

さらに、牛馬解体を一手に引き受け、鎌倉仏教による肉食禁止のタンパク質不足のなかで、唯一恵まれた供給源があった。

 そして処刑業務委託から、実は凄腕の武人揃いだったともいわれる。

今の大相撲理事長もそうだし、江戸末期の著名な剣豪も部落出身者が多い。

有名なところでは近藤勇・沖田総司・斉藤弥九郎などだ。

力道山や大山枡達も在日朝鮮人であった。

 被差別者こそ、実はいつの時代、どの社会でも、もっとも強大な実力を備えるのである。

 部落差別問題は、隠蔽された結果、潜行し、忘れ去られたかもしれないが、実はまったく解決されていない。思い出される機会があれば、必ず復活するのである。

 だからこそ、2ちゃんで差別用語が飛び交い、軽薄な気分で人を侮蔑する風潮の拡大している現在、まさに真正面から取り組む必要が出てきていると考える。

 差別システムこそは、国家権力の生命線である。「人の上に人を置けば、人の下に人を置かねばならない」のである。

今の日本社会でも、かつて穢多だった被差別階層が、今度は犯罪者、オチこぼれ階層に代わってきている。

 日本は、社会の底辺に新たな穢多階層を産み出そうとしているのであり、それは、学歴体制のオチこぼれであり、貧しい派遣労働者の階層なのである。

 今、穢多非人の歴史を見つめることにより、これから、彼らが新たな穢多として固定してゆくメカニズムを指摘し、それを根底的に断固として阻止する必要がある。

コメント


はじめまして、東海アマさん。私は中村区に在住している者です。

以前にも中村区内の集落(用水に沿った所)について被差別部落だと書かれてありましたが、それはどういう根拠に基づいたのですか?

私はその場所から東に少し行った所に住んでますが部落とは聞いておりません。昔、三昧があったからですか?

それと刑場はどこにあったのですか?

そんな話も聞いておりません。烏森という地名だけで刑場があったと判断されておりませんか?

どの本を見ても刑場があったとは書かれておりません。あの場所を被差別部落とする根拠、中村区に被差別部落が多いという根拠を教えていただけませんか?
2010/5/16(日) 午後 9:56 [ 中村区在住者 ]

本当に知りませんか? それだけ隠蔽が進んでいるということですね
あの近所に住んでいた者なら常識ですが しかし、勝手な曲解が多いので、この件についてはコメントしません 自分で調べてください
2010/5/17(月) 午後 9:50 [ - ]

なお私が調査した1970年頃には図書館にデータが残されていましたが、1990年頃、同和対策が国家的に進んでから完全な隠蔽路線に向かい、そうした類の文献は、すべて始末処分されているようです
簡単に入手するのは不可能でしょう 土地の古老に聞いてみてください
2010/5/17(月) 午後 9:53 [ - ]

うーん、難しい問題であるので自分で調べるにしても限界がありますね。
ちなみに私の親は地元のT中を卒業しておりますが、一切部落の話を聞いてないと言っておりますが。隠しているようにも思えないので単に知らないだけかもしれません。

いずれにせよ、歴史を知りたい気持ちはありますが難しい問題なのでうかつに行動できないのもまた事実です。私の住む中村区が貴殿の申す部落地区であることに、その根拠が何なのか疑問に思いメールさせていただきました。
文献が処分されているのであれば貴殿の申すように地元の古老に聞くしかありませんね。
2010/5/17(月) 午後 10:37 [ 中村区在住者 ]

私も日吉・豊国組です
ヒントは、江戸時代風水思想による、城の南西2〜4里に処刑場や汚穢処理場 牛馬解体場を設置しました
これは全国の城下町、すべて同様です

多くの場合、処刑場や牛馬解体場ではカラスが繁殖し、カラスを意味する地名が付くことが多い 鈴ヶ森なんかも同じです

穢多非人は処刑人など処刑場関連の世話を強要された
そうした未解放部落の近くに処刑場があった
部落は用水を必要とした
その名残は、皮革産業 肥料産業 食肉産業などで現在にも残っている

とりわけ皮革食肉業界の大半は、同和事業で優遇されてきた
食肉会社が暴力団と結託して問題を起こすことが多いのは同和との関連
2010/5/18(火) 午前 6:02 [ - ]

ちなみに私は部落在日差別者ではありません その正反対です
高校生の頃、部落解放同盟や朝鮮総連に行って活動を志しましたが、いずれも政治的姿勢ではなく、明らかな利権の巣窟であり、運営者が暴力団絡みであったことを知って参加をやめました
2010/5/18(火) 午前 6:04 [ - ]

ということは、用水沿いの集落は戦前以前からあった、ということですよね?

以前私が地元に住む人からこの集落について聞いたのは、戦後在日の人たちがその地に移り住んだのでは、とのことでした。この場所に限らず駅西や庄内川堤防にも移り住んだときいております。

ですから、昔からの集落ではなく戦後できた集落であるという認識を私は持っておりました。しかしながら、すぐ目の前に柳街道、南には佐屋街道が走るという交通の要所でもあり、また名駅開発時には周辺住民を他市へ移動させたとの記録、江戸期における古地図では中学近くで何かを塗り潰した痕跡もみられ、貴殿のおっしゃる差別につながる何らかの歴史的背景があったのかもしれません。
2010/5/18(火) 午後 7:28 [ 中村区在住者 ]

私が学生時代の頃、バイト先で用水沿いに住む同年代の人と一緒に働いたことがありました。特に問題もなく職場で差別もなかったはずです。
中学でも、私同様知らない人ばかりなのか差別などなかったです。
ちなみに親は当時日吉ではなく隣のS学区だったので地元について貴殿ほど詳しくないように思われます。
歴史背景や被差別部落とする根拠は完璧とは言えませんが少し理解できたとおもいます。
2010/5/18(火) 午後 7:39 [ 中村区在住者 ]

差別を克服するために大切な姿勢は、決して臆病に隠蔽することではありません
すべてを明らかにし、真正面から戦うことです
勇気がなければ克服などできるはずはない 臆病者は隠蔽するばかり
2010/5/21(金) 午後 9:04 [ - ]


4か所で地元老人に聞き取りを行いました。

用水反対側、T中及びk中近く、K通りを渡った所ですがいずれも地元で話題が話題だけに一部の人しか聞けておりません。

結論は、地元で刑場の話は聞いたことない、火葬場なら小学校近くにあったが、とのことでした。

江戸期の古地図でもK通り沿いには住んだ形跡がなく、集落も限られていました。

これが限界でしょうかね、地元民としては。結局、闇に包まれたままです。
現在緑地公園化された場所がそうなのかもしれませんが、現在差別がないのであれば静観するしかないのでしょうか?
ただ真実が知りたいだけなのですが・・・
2010/5/22(土) 午前 1:53 [ 中村区在住者 ]

40年ほど前に確認した江戸時代の地図では、現在の黄金駅から黄金中学校にかけての地域に明らかに意図的に忌避された空白があり、ここが処刑場だったようです

ちなみに実家の敷地内には三カ所の祠があって、処刑者のものだったと指摘した人物がいました

烏森駅付近だったと指摘する人もいます
しかし、こうした古い情報を同和対策法に基づいて資料を隠蔽してしまったため、今では探すことの困難です

要点は、米野や烏森など古い明瞭な集落があったが、なぜか地図に載らない古い集落もあった不自然に記述のない広い地域がある

そこには普通に存在すべき寺社すらなく、畑地の記録さえない

コーミソースとトヨクニ中学、黄金中学、黄金駅などに囲まれた地域はこの意味で不可解です
朝日文左衛門の鸚鵡記を見ると、ますます謎が深まります
2010/5/23(日) 午前 10:53 [ - ]

なお古老といっても、私の実父が90才ですが、ほとんど知りませんよ

55年前に当地に移住 それより古い戦前の情報を知っている人は、すでにほとんどいません
J病院近く用水沿い集落は、私がいたとき、まだ実存していて、通る度にうまそうなホルモンの臭いが漂っていました
服部の畜産施設は、すべて名残です

それでも戦前の、こうした事実を知る古老がどこかに必ずいるはずです
角割町付近がよいと思います
熊野町や京田町は、すべて、この半世紀の移住者ですから、まるでダメです
米野でも良いかも
2010/5/23(日) 午前 11:00 [ - ]


やはり処刑場は存在したのですね。

私も江戸時代の古地図で確認しましたが、明らかに塗り潰した個所があり、貴殿のご指摘する箇所と一致します。

私はあるとすれば米野か烏森の街道近くかな、と思っておりました。
貴殿を疑っていたわけではありませんが、今までの数多くの失礼な発言をお許し下さい。
2010/5/23(日) 午後 9:07 [ 中村区在住者 ]

貴殿からご指摘のあった町名はおっしゃるとおり、移住者が中心の町で聞き取りの際にそれがよく分かりました。
用水沿いの集落は親が子供の当時とあまり変化がなく、廃品回収されてる人もなかにはいます。独特な雰囲気はまだありますが、地元で差別する人も減り今後変化が期待されます。

私も差別は反対です。しかし歴史を隠匿するやり方には同意できません。過去を暴くのと歴史を解明するのでは意味が違うのです。
2010/5/23(日) 午後 9:23 [ 中村区在住者 ]

烏森という地名が差別の根拠だったとするなら
東京の新橋にある烏森も同じように差別のあった地域ということなのですか?
2011/5/7(土) 午前 7:46 [ とおりすがった人 ]

昭和20年代〜30年代の名古屋生まれの名古屋育ちの人に話を聞いてごらん。
あなた知りたい区名、町名、そこもどこの並びからそういうふうだったか、事細かに教えてくれますよ
2012/9/11(火) 午後 6:35 [ ななし ]

日教組じじぃか?中華北京に洗脳された、ウォーギルトインフォメーションプログラムの延長かい?
2015/10/25(日) 午後 5:23 [ お疲れさん ]
http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/320276.html

6. 中川隆[-9304] koaQ7Jey 2019年6月24日 08:03:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3185] 報告

2009年4月8日 ● 続 部落問題 - 東海アマのブログ


近藤勇や沖田総司が部落民と書いたら、異議が出たが、実は筆者も確実な証拠があるわけでなく、状況証拠による推理である。

 近藤の実家は調布飛行場内にあった宮川家だが、当時、飛行場などに接収される地域は容易な被差別集落が多かったことに加え、新撰組が奈良の被差別集落から剣士を公募していた事情があり、そうした人間関係を構築できたのは同じ出身だからと推理した。また後に大名を目指したコンプレックスの強さも傍証要素である。

 沖田は、白河藩士の子だが、養子であって出自は定かでない。当時、出身がどうであれ、素養・素質があれば養子縁組という手段での身分転換が広く普及しており、わずか8歳で近藤の元に出される事情は、被差別民のような非常に軽い身分からの養子であったことを示すと考える。斉藤弥九郎も同じで氷見の仏生寺村(弥助)を調べれば分かる。

 明確な証拠もなく断定的に書いたのは、筆者の問題であり軽薄であったかもしれない。以上訂正しておきたい。


 日本の部落差別制度は、どのように成立したのか? 

今では大きな謎だが、筆者は、朝鮮儒教における古代差別システムが百済王国の移住とともに、日本に持ち込まれたと推理している。

 古代朝鮮において、儒教体制における、カーストにも類似した非常に苛酷な差別制度があったことが知られている。百済王国では16階級もあり、さらに、それぞれ細分化された地位があった。

 秦の始皇帝の子孫を称する女真扶余族だったが、中華文明の影響を強烈に受けて、後に苛酷な形而上学を展開する李氏朝鮮の原型となる儒教的差別様式が、すでに完成していたと考えられ、科挙制度まであったことが、その証拠と考える。

 百済王国が日本に移住したのは1600〜1400年ほど前と考えられ、蘇我氏が百済重臣であったことは、すでに歴史学会の定説であろう。高松塚はじめ、ほとんどの古代遺跡に百済文化様式が明瞭に見えている。

 聖徳太子以降の天皇家、豪族支配下における民衆支配のシステムも、最初から明確な身分差別制度に貫かれている。ここでは長くなるので、興味があれば各自で調査されたい。

 日本史における古代賤民の記述は、遣隋使あたりには明瞭で、生口という奴隷が中国に献上されたことが有名である。当時、権力を持たない大衆は生口・奴卑であり、家畜としての扱い以外のものではなかった。それは王〜太夫階級権力者の所有財産にすぎなかった。

 部落差別制度の直接の創始は、おそらく大宝律令における賤民規定ではないかと考える研究者が多い。

 賤民身分が固定し、権力とともに強固に構築されるメカニズムは、「人の上に人を作れば、人の下に人が作られる」という原理によるものだ。

 すなわち、人の認識は「対立の統一」という思考法に規定されており、例えば、「明るい」という概念を理解するためには「暗い」という概念が同時に必要とされる。「光」は「闇」と共にでなければ決して認識されることはない。

 この意味で、天皇など頂点に君臨する支配階級を認めるためには、社会の最底辺にいる賤民と同時にでなければ人は認識できない仕組みを持っている。このため、高貴な天皇を作り出すためには、同時に卑しい賤民をも作らなければならないのである。

 最初に、「エライ人と卑しい人」概念の導入によって、人々は差別の存在を知る。そして、そのなかで自分の位置を表現しようするわけで、「自分がエライ人」であると認識するためには、自分の下に「卑しい人」を作り出す必要がある。

 このメカニズムによって、差別階級はどんどん細分化されてゆく仕組みをもっており、とりわけ差別思想の大好きな儒教社会では階級細分化が進んだ。

 例えば、李氏朝鮮にあっては、基本は良民・賤民の分化でありながら、やがて両班・中人・常民・賤民と分化し、さらに賤民だけで8種類と細分化されて、全部で30を超す身分差別体系が成立してゆく。

 こうした差別思想は現代にも引き継がれていて、北朝鮮では現在54階級の差別体系が生きているとされる。ちなみに、やはり差別の大好きな特権階級クラブであるフリーメーソンでは33階級あり、上流階級になる気分も大変だと分かる。

 このなかで、李氏差別体系のなかで現代にまで生きる白丁(ペクチョン)階級と、日本の穢多・非人階級の類似性が指摘されている。

 いずれも社会の最底辺で、家畜解体・汚穢処理・皮革処理・処刑などに携わることを強要され、社会全体の憎しみを直接浴びる立場で、権力者を守る防波堤にさせられていた。

 処刑を命令する両班・武家階級は、公開処刑において、民衆を直接殺す役割を白丁・穢多にしておくことで憎悪が彼らに向かうわけであり、怒りの矛先を直接浴びずにすむことになったわけで、権力維持の大切なシステムであったことがわかる。

 例えば、1950年前後に、韓国政府が120万人の自国民を大量虐殺した保導連盟事件では、おそらく白丁階級が直接の殺害に当たらせられたことで、民衆の憎悪を浴びて政府批判の緩衝となった。白丁階級に対する差別意識は激化し、事実を明らかにすることもできず沈黙が続いたことで、この事件が闇に葬られる原因になったと考えられる。

 江戸期から明治中期までは権力による処刑は基本的に見せしめのため公開されていて、その直接の殺害役を部落民が強要されていたという事実が、民衆の怒りの矛先を、どれほど部落民にすり替えさせ、歴史的な蔑視感情を醸成するのに役立ったか、誰にでも分かるはずだが、多くの人たちは理性よりも目先の感情に依存するものであり、このことにより、部落差別の恐ろしいほどに深刻な実態が形成されていったのである。


 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」

 「ありゃー、ありゃー」と、犠牲者に槍を突き立てる穢多に対する憎悪は、凄まじい怨念として民衆の心の底に沈殿していった。このことで、穢多集落に対する偏見と憎悪が累積し、一切のコミュニケーションは閉ざされ、部落は陸の孤島となった。

 そして、彼らの住む地域そのものに対する憎悪まで醸成されていった。それが「部落地名総鑑」という本になり、そこに掲載された地域は、例え、商業的価値がどれほど有利であろうと顧みられず、異様に安い値で取引されても、それでも住みたがる人は少ない。

 筆者は、そうした土地で育った。その中心地では、歴史的に死弊家畜解体を穢多だけに許された事情から食肉文化が発展し、いつも美味しそうなホルモンの臭いが漂っていた。いっておくが、現在の超人気、焼肉ホルモン食文化は、まさしく被差別部落由来である。部落の人たちに感謝する気持ちがない者は、食べる資格などない。

 関東では浅草に将軍家より豪華な弾左衛門屋敷があり、隅田川沿いに大規模な汚穢処理場が広がっていた。江戸住民の、あらゆる汚穢は、すべて現在の立石〜千住界隈の屎尿処理田に集められ、数年間も腐熟させて、素晴らしい肥料となり、江戸庶民の食生活を支えたのである。

 被差別部落の果たした役割は、まさしく3K仕事(汚い、きつい、嫌われる)であり、民衆の忌み嫌う仕事を一手に引き受けて人々の生活を底辺で支え続けたのである。

 その代償は、徹底的な差別であり侮蔑であった。だが、今、我々の生活で、ゴミ屎尿処理、肥料製造などの仕事を蔑視でもしようものなら、たちどころに凄まじい汚穢のなかに住むことになる。我々は、そうした仕事を引き受けてくれている人たちに、心から感謝の念を抱かねばならない。

 それとともに、歴史的に庶民の生活を底辺で支え続けた未解放集落の人たちに対する評価を根底から改める必要がある。

 今、我々が、ここに生きていられるのも、彼らの辛い仕事の積み重ねのおかげである。今こそ、穢多階級が、どれほど素晴らしい仕事を続けてくれたのか、民衆を文句も言わずに支えてくれたのか、心の底から感謝の気持ちをこめて問い直さねばならないのだ。

 人間が生きている以上、ウンコも出す、人も家畜も死ぬ、ゴミもたまる、そうした汚い処理仕事から顔を背けるならば、たちどころに我々の生活は行き詰まり、ひどいことになる。

 そんな人の嫌がる仕事を続けている人を蔑視するなど、とんでもない愚かな話であって、そんなヤツは、今後、クソ小便の始末も自分でやりやがれ、ゴミも自分で始末しろ! 人様の努力に世話になっておきながら、「四つ」とか蔑称をつけて差別するとはなにごとだ!

 これまで、少しでも、そうした仕事を軽蔑した人は、たった今からでも、彼らに土下座して詫びよ!

 ネットで検索すると、面白半分で、被差別集落について侮蔑感丸出しで書き込んでいるゴミ、阿呆が後を絶たないが、社会の最底辺の人たちこそ本当に社会を支えてくれる聖人なのだと理解できないクズであり馬鹿野郎どもだ。とっとと失せろ!

 しかしながら、とりわけ戦後、民主主義教育の名の下で、部落問題を真正面から議論せずに「臭いモノにフタ」の愚かな対応を行って、事実を隠蔽しまくったツケにより、部落問題は深く潜行してしまい、今では同和対策事業がヤクザの資金源になったり、未解放部落がヤクザ、非合法活動の温床になったりと、負の遺産が蓄積されてしまっている。

 我々は、今からでも、部落問題を真正面から取り上げ、何一つ隠さず、正々堂々と議論する必要があるのだ。


 とりわけ、畜産食肉事業に、同和対策の闇が構築されてしまっている。

 例えば、ハンナン・フジチク・丸明など食肉偽装詐欺問題は、ほとんどすべて同和利権問題であり、それが意図的に隠蔽されてきた問題である故に、闇に光が差し込みづらかったのである。

 すなわち、警察もマスコミも、同和事業に介入しようとすれば、部落解放同盟(今では暴力団幹部に占拠されている)がたちどころに猛烈な抗議を行うことで聖域化している事情があり、これを利用して暴力団が行政からカネをせびり、脱税など非合法工作や食肉偽装の温床となっている。

 この文章も、いずれ抗議や嫌がらせを受けるかもしれないが、そのときは真正面から対決するつもりだ。

 同和事業では嫌がらせが奥の手になってしまっている。筆者が、山本ゲーゲーという人物から10年以上にわたって嫌がらせを受けている事情はすでに書いた。ゲーゲーは筆者のことを「エタ」とメールに書いていた。

 そこで調べて見ると、彼こそは被差別集落のなかに育った重度障害者であり、彼が他人への嫌がらせを生き甲斐にしている事情が、部落問題と無関係でないと分かってきた。

 これ以上、具体的に書くわけにはいかないが、だいたい想像していただきたい。

 部落問題を考える上で、一番大切な視点は、日本の未解放部落こそ、日本でもっとも底辺でありながら、人々の生活を真に支える大切な仕事をしてくれてきた人たちということだ。その彼らを差別するような了見は、あまりに愚かである。ただ、部落問題が、日本における食肉・畜産そして狩猟の問題と密接に結びつき、深刻な事情が潜在していることを指摘しておく。
http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/331372.html

7. 中川隆[-9303] koaQ7Jey 2019年6月24日 08:04:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3186] 報告

手紙 岡林信康(放送禁止歌) 
https://www.youtube.com/watch?v=jLYY-tClxH0


手紙


岡林信康 作詞/作曲

私の好きな みつるさんが
おじいさんから お店をもらい
二人いっしょに 暮らすんだと
うれしそうに 話してたけど
私といっしょに なるのだったら
お店をゆずらないと 言われたの
お店をゆずらないと 言われたの


私は彼の 幸せのため
身を引こうと 思ってます
二人はいっしょに なれないのなら
死のうとまで 彼は言った
だからすべて 彼にあげたこと
くやんではいない 別れても
くやんではいない 別れても


だけどお父さん お母さん
私は二度と 恋はしない
部落に生まれた そのことの
どこが悪い どこがちがう
暗い手紙に なりました
だけど私は 書きたかった
だけど私は 書きたかった
http://www.fukuchan.ac/music/j-folk1/tegami.html


被差別部落の女性の遺書がベースになっているといわれ、部落差別を正面から取り上げた­超A級の名曲ですが、各メディアが放送を自粛したためか、ほとんどメディアで流される­ことがなかった作品でした。

私にとっては、差別問題というものをほとんど知らなかった少年時代に衝撃とともに聴い­た記憶があり、戦争の愚かさを心にしみこませてくれたのが、フォークルの「イムジン河­」だったなら、様々な差別問題について、そして人の心に宿る悲しい闇について考える最­も大きなきっかけをくれた歌は、この「手紙」だったように思います。

当時、そうした歌がそれぞれ放送されることがほとんどないという異様な扱いを受けてい­たわけですが、そのことがまた、これらの歌は世の中の真実、歪みを正面から逃げずに歌­っていたのだ、と感じさせてくれるようです。
https://www.youtube.com/watch?v=lPuv06Rsd8g


日本・部落史 by 東海アマ


* 「私のニセモノに注意?@tokaiama
 @take1only 岡林信康の「手紙」は、完全な実話です。この手紙は遺書でした。

彼女が自殺されてから岡林は歌詞に改編したのです。
だから、真実だけが持つ凄まじい力が私たちの心を殴り倒すのです」


 * 「私のニセモノに注意?@tokaiama
 名曲中の名曲「手紙」を決して世に出さなかったマスコミ。もちろん朝日新聞も同じです。

本当の理由は、当時、彼らマスコミが人事採用に壬申戸籍(部落名鑑)を利用し橋下徹のような部落地域出身者を絶対に採用しない事実を曝露されたくなかったのです。「部落」は禁句となりフタをして隠されました」


 手紙、チューリップのアップリケ、どちらも、岡林ソングの中では、私が絶対にパスする歌です。絶対に、二度と聞きたくない歌です。

 以前これらを耳にしたのは、もう40年も前です。

 その頃、岡林のアルバムを2枚、買いました。『見る前に飛べ』と、『おいらいち抜けた』でした。どちらも、すぐに「欲しい」という友人にくれてやりました。

 90年代に、久しぶりに「ペンノリ」の歌が入っているCDを買いました。これは、全体的に良い歌が集まっていました。

 しかし、そうでしたか、私が、一度耳にしただけで、もう絶対に聞きたくない、と思ったのは、「部落ソング」だったのですか。

 今でも、絶対に聞きたくありません。

 いかに岡林ソングであろうと、私は、死ぬまで絶対に聞かないでしょう。

 暗すぎます。

 あんな暗さで、人生が生きていけるはずがない、と私は思いました。

 その一方には、加山雄三の、潮風の匂いに満ちた甘い湘南サウンドがあるのに、なんでわざわざあんな暗い歌を聞かなくてはいけないのか。

 当時、私はそう思ったものでした。「白い砂の少女」「アイ・フィール・ソー・ファイン」。この世界には、ビューティフルなものがあります。

 しかし、好き嫌いの次元ではなく、それが日々の現実の生活だった人がいたとは。

 いや、歌というのは、現実の生活を前提にして生まれてくるものですから、そのような生活を送っている人がいるだろうことは察しられましたが、私は関わりたくないと思いました。

 今でもそうです。

 「部落」とはなんぞや? 私には、永久(とこしえ)に関係のないもの。

 個人的・私的にはそう思いますが、しかし、律令理性論から見ると、東海アマさんがつぶやく「日本・部落史」は面白いです。

 * 「私のニセモノに注意?@tokaiama
 日本中で部落差別問題が激しく人々を傷つけた地域は、必ず百済から渡来した秦氏の進出地域でした。京都大阪の間には見えない民族の塀が立ち塞がっています。奈良や岡山でも同じです。関東でもそうでした。

そこには特権階級秦氏による差別システムが成立していたのです。日本に「白丁」を持ち込んだ秦氏」

 * 「私のニセモノに注意?@tokaiama
 @YUKARING1222 一度、西日本の差別の史跡を旅してごらんなさい。水平社や解放同盟に行ってみるのもいい。まずは島崎藤村の破戒を読んでごらんなさい。
同和関係者は暴力団ばかりなので幻滅しないでね」

 * 「私のニセモノに注意?@tokaiama
 @tetsuyan1112 かもしれないが、分かりません。それより、秦氏の進出した地域に不思議なことに原子力施設ができるのです。福島も六カ所も泊も。

島津氏も秦氏でした。西郷が朝鮮白丁に憤激して征韓論を主張したのも島津氏の差別と関係があると思っています」
http://8706.teacup.com/uedam/bbs/11495

8. 中川隆[-9302] koaQ7Jey 2019年6月24日 08:06:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3187] 報告

東海アマブログ  自由と人間解放 2019年06月18日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-779.html


 私が若くて元気だった半世紀前は、仲間たちに共有する価値観として「人間解放」という概念が普及していた。

 この言葉は、最近では巷で聞かなくなってしまったのだが、検索エンジンに入れればたくさんヒットする。

 半世紀前、1970年前後に、「人間解放」という言葉が流行った理由は、たぶん、差別問題がクローズアップされ、部落名鑑の出版による結果、企業の人事担当者が、未解放部落や在日朝鮮人を選択的に排除することが常識になっていたこと、こうした不合理な差別への怒りが共有されていたことが大きいと思う。

 実際問題として、私は実家が名古屋市中村区で、図書館に行って、自分の家の情報を江戸時代に遡って調べたところ、まるで、地上に存在しない ブラックホールであるかのように、すっぽりと情報が抜け落ちていたことで、自分の住む土地が非常に奇っ怪な情報喪失を起こしている現実に驚かされた。

 そこで、ますます興味を持って調べて見ると、近所には「カラスの森」という地名があり、用水沿いに毛皮を処理する零細業者がひしめいていたり、私が子供の頃から、学校で、いじめっ子から「四つ」という蔑称を投げつけられることがあったりと、深刻な未解放部落問題が存在する地域であることが分かった。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-247.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-245.html

 以下は、私の記事をヤフーブログが勝手に削除したため阿修羅掲示板から引用するのだが、引用者の4153番というのは原発推進派の極右で、たぶんアゴラの編集メンバーで、私を部落民と嘲笑する目的で転載したようだ。
 http://209.54.50.129/12/cult10/msg/795.html

 別に私が部落民であっても差し支えないが、実際は、実父が1950年前後に、名古屋機関区のSL運転手で、勤務先に近い、中村区の土地を非常に廉価で購入できたことで、当時、千種区覚王山から転居したものだった。
 (今でも、この周辺の土地は不可解に安い)

 1960年代後半に、岡林信康が、部落問題を告発するフォークソングの名曲を次々に発表し、当時の我々の心を突き刺すような鋭さで、差別問題をクローズアップした。

 https://www.youtube.com/watch?v=YlOToxOxOME

 https://www.youtube.com/watch?v=lbiCLUwFwTY

 この手紙という曲は、岡林が実話であると明かしている。当時は自殺した女性の名前も分かっていたが、今ではネットから削除されてしまっている。

 私の記憶でも、未解放部落の居住者や、在日朝鮮人には明確な差別があった。私の住んでいた中村区は、大門という赤線地帯があって、当時はすでにソープランド街へと変わっていたのだが、こうした風俗産業には、付随する在日系の暴力団関係者が非常に多く、私が通う小中学校でも在日者・暴力団子弟は一大勢力だった。
 名古屋を代表するパチンコ産業のメッカが中村区だったのだが、同級生だった正村の娘(パチンコ創始者の)以下、これも大半が在日者だった。

 名古屋の在日者は、民団系よりも総連系が圧倒的に強力だった。パチンコ業界の大半も総連系である。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html

 当時、在日者と部落名鑑出身者は、絶対に一流企業、とりわけ銀行や商社などには入社することができず、どんなに成績優秀であっても人事が不良品をはねるように除外したので、在日者と部落出身者の就職先といえば、真面目な者はプロ野球、ボクシング、格闘技などのスポーツ界、そして一大勢力になっていたのが芸能界で、あとは土木建築と暴力団くらいしかなかった。
  https://honuryoma.wordpress.com/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0/%E8%8A%B8%E8%83%BD%E7%95%8C%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%9C%A8%E6%97%A5%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%80%8E%E5%AE%98%E5%A0%B1%E3%80%8F%E3%81%AB%E5%B8%B0%E5%8C%96%E3%81%AE/

 メンバーを見ると、蒼々たる顔ぶれどころじゃない。スポーツ界と芸能界から在日者を排除したなら、業界そのものが成立しないほどである。

 また世界的な名声を得ている空手も、極真会館の創始者は崔永宜(大山倍達)現館長は文章圭(松井章圭)であり、また主立ったメンバーの多くも在日者で、もし極真がまとまって祖国に帰国でもしたら、日本空手界は崩壊してしまう。

 また芸能界でも、五木ひろし・都はるみ・和田アキ子ら大御所メンバーの多くが在日者で、これも日本を追放されたら芸能界の半分が消え失せてしまいそうだ。
 プロ野球界も、金田正一・張本勲を筆頭に、実力者の数割が在日者で占められている。

 どうして、こうなっているかというと、戦後における在日朝鮮・韓国人・部落民に対する激しい差別の結果である。つまり、彼らの行き場は芸能界・スポーツ界・土建業界・暴力団業界など、極めて少なかったので、みんな必死にがんばったのだ。

 当時は、こうした差別に対する底辺の人々の怒りが共有され、浸透しはじめた時期で、民族差別や出身差別に対し、激しく憤る人々が「人間解放」というスローガンを掲げて差別撲滅運動を行ったのである。

 そこで、「人間解放」という言葉の持つ意味が、本来の概念を外れて、在日者の人権擁護という方向にずれてしまったので、もっと広い普遍的意味での人間解放に関する議論が、小さくなってしまった印象もある。

 本当の意味での人間解放とは、在日者差別も含めて、人を見下し、差別することで、自分の優位性に満足したいという姑息な精神構造こそが、人間社会を息苦しく狭い、愚かなものにしているというわけで、偏狭で硬直した差別的精神性を克服しようというものだった。

 そもそも、解放された精神性からは、戦争や核武装や階級差別などという発想は出てこない。死刑制度推進や天皇制賛美も出てこない。

 それらは「未解放精神」とでもいうべき矮小で卑屈な利己主義から生まれるものであり、人を許さず、制裁処分するという発想しかなく、旧日本軍の極右思想を受け継いだものといってもいい。

 自由の本当の意味もまた、牢獄に閉じ込められた肉体が解放されて自由になるのではなく、自らの硬直した差別観念が、自分の精神的牢獄作りだし、自らの心が閉じ込められていることから、「自分で作り出した牢獄から脱出しよう」という意味なのである。

 人が不自由と言う場合、大半が、実は自分で不自由を作り出しているのであって、そのことに気づけば自由になれるのであり、それは、肉体が牢獄にあって閉じ込められていても、心は束縛から自由であるという意味でもある。

 我々の人生は、極めて限られた空間と時間のなかにあって、人によって活動領域は大きく違う。熊の活動範囲は数十キロもあるが、蟻は数メートルしかない。しかし、それで蟻は熊より不自由かといえば、決してそうではない。小さな空間で、短い一生を終えたとしても、その生の充実感に違いがあるわけではない。

 生物は、それぞれの生のなかで、それぞれの必要に応じた活動を終えて生を全うするのであって、これは人間も、まったく同じ。

 広い活動範囲の人も、狭い活動範囲の人も、長い人生でも短い人生でも、その生の全うのなかで得られるものは変わらない。

 自由とは自ら作り出すものであり、狭い広いは関係なく、財産や権力の多寡も関係ない。

 「人間、立って半畳、寝て一畳、一日4合の飯」と信長が指摘したことになっているが、人間に「身の丈」という制限があったとして、それを大きく越えることに意味があるわけではない。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html

 一人の寝るスペースは一畳しかなく、立つスペースは半畳しかない。食べられる量は最大4合しかない。寝床が百人分あっても寝られるのは一人分だけ、テレビが100台あっても同時に見られるのは一台だけ、乗れる車も一台だけ、それなのに、必要を越えた無駄な所有に走るなという意味である。

 このことを理解することで、「人間の自由」の本質的な意味を知ることができるのだ。自分の限界を知って、本当の自由を享受できること。

 これこそ「人間解放」であると、先人たちは教えてくれている。

 「ものごとの本質を見よ」と先人は教えている。

 武田信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
 と語ったが、この意味は、見せかけに騙されるな、本当の城は人間であり、本当の石垣も本当の堀も人間なのだと指摘している。
 この世は人間がすべてであり、物質に騙されるなというわけだ。

 現代は、コンピュータが発達して、IT・AIが人間のすべてを定めて、人の生活まで変えてしまい、我々はコンピュータの奴隷になるしかないと、一部の愚かな評論家が言っているが、これも、ものごとの本質を見ることができない愚かすぎる思考であり、人間を定めるのは人間しかないことを忘れている。

 コンピュータが直接人間を支配するように見えても、そのコンピュータを操るプログラムと、システムの背後に鎮座しているのは人間なのだ。

 コンピュータが支配するのではない、人間がコンピュータを使って支配するのだ。

 我々が自由になり、人間解放に向かうということの意味は、この本質を知るということであって、背後にいて人々を操ろうとしている人間を知ることである。

 我々は、自分から自由になり、人間から自由になるのであり、その結果として人間解放という社会に至るのである。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-779.html

9. 中川隆[-8761] koaQ7Jey 2019年8月19日 21:16:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3982] 報告

 50年前 2019年08月19日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-843.html

 藤圭子が2013年、新宿のマンションから飛び降り自殺したのは衝撃だった。
 彼女が「新宿の女」でデビューしたのは1969年、ちょうど今から50年前だ。
 私は、毎日のように都心でのデモに参加して催涙弾に逃げ惑い、小便横町でホッピーに泥酔しながら聞いた藤圭子の歌が岡林信康と同じくらい好きだった。

 西口公園のベンチの上で一晩を過ごしていると、どこからともなく、すばらしく上手な藤圭子の歌が聞こえてくる。
 歌のうまさ、情緒的に聞かせる迫力ときたら、当時の歌謡御三家、美空ひばり、島倉千代子、都はるみよりも上を行くのではと思ったほどだ。
 確か、私より、二つほど年上なのだが、ほぼ同世代なので、こんな凄い子が突然、芸能界に旋風を巻き起こしている姿に拍手喝采だった。

 藤圭子には学歴もなく、親子で日暮里のトンネル通路に野宿していたこともあると聞き、その極貧の環境から這い上がって、圧倒的な実力で一世を風靡する姿は感動的だった。
 https://www.youtube.com/watch?v=MoVKTIO5S64&t=4777s

 地下トンネルといえば、「火垂るの墓」の冒頭に、清太が三宮駅の構内で餓死した姿が目に浮かぶ。同じ頃、敗戦直後だが、上野駅の地下歩道に暮らす数百名の戦災孤児たちが、毎日のように餓死していったことが知られる。
 日本が戦争に負けて、戦火から解放されたのは、1945年だが、それから20年以上経た、1960年代末でも、まだ「戦後」から抜け出せていなかった。

 権力側としては、1964年の東京オリンピックを戦後の終わりとしたかったようで、戦争のさまざまな残渣を、東京に来る観光客の目から逸らすための工作を行って、上野地下道からも野宿者を追放していたが、藤圭子一家は、まだトンネルのなかにいた。
 上のドギュメンタリーにも描かれているが、戦争中と同じように、圭子は食うや食わずで、太れない体質になり、その衣装は小さすぎて誰も着ることができなかったという。
 オードリーヘップバーンも、戦火のなかで、同じように食べ物がなくて太れない体になったと言っている。

 何度か書いたが、名古屋市の赤線大門から栄に至る広小路通りに、夕方になるとカーバイドの屋台が延々と並んで、ドテと酒を売ったのだが、本当は、これは戦争未亡人たちが、体を売って生活費を稼ぐための舞台だった。
 これが、東京オリンピックの前に、一斉に摘発されて姿を消した。ちょうど、この頃から、政府とメディアは、「敗戦」を「終戦」と言い換えるようになった。
 政府は、戦争未亡人たちの生活を、ろくに支援しようとしなかった。彼女らは、助け合って、赤提灯の小さな飲み屋を開業し、現在の居酒屋文化につながっている。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html

 いわゆる「妾」という一夫多妻制度も、戦争未亡人たちを救うためのものでもあった。
 https://higonosuke.hatenablog.com/entry/20070119

 イスラム文化における多妻制も、同じ意味を持っていたのだ。

 だが、どんなに政府が、「戦後」を見せかけだけで消そうとしても、それは、決して終わっていなかった。
 東京では戦後が消えても、地方にはしっかりと残っていて、そんな地方から藤圭子一家は上京してきたのだ。
 私には、藤圭子という存在が、「戦後」の民衆の苦難を背負って登場した菩薩のように見えた。
 バブル時代に突入してゆくなかで、ウソではない、世間から遠く隠された真実の日本を、歌の中で垣間見せてくれた。

 藤圭子が日暮里のトンネルに野宿していたころ、私は早朝5時に、高田馬場駅前で日雇いの仕事を探した。
 オリンピックの景気高揚を引き継いだ70年代初めの好況時に、高田の馬場で、建築現場の仕事をすると、5000円くらいもらえて、それだけあれば、当時は三日くらい楽に過ごすことができた。

 当時は、年金をかけられるような、ゆとりのある給与をもらっている人も少なく、社会保証制度そのものも未熟な時代だったから、こうした「たちんぼ」と呼ばれる人足寄場の存在は、何の保証もない底辺の生活者にとって最後の命綱であり、救いだった。

 当時、立川に住んでいたのだが、新宿から立川に向かって、よく歩いたものだ。金がなかったわけではない。ただ、歩きに歩いて、東京の雰囲気を肌で感じたかったのだ。 仕事のないときは、奥多摩に向かった。当時は、まだ山渓地図もなくて、地理院の五万図が頼りだった。自分の歩いたルートに赤線を書き込んでゆき、地図が真っ赤になってゆくのが嬉しくてたまらなかった。

 歩くというのは、私にとって青春と同義語だった。
 同時に、藤圭子や岡林信康の歌も青春だった。なんで、藤圭子に惹かれたかといえば、当時、バブルに向かう資本主義社会の最盛期で、社会全体に金儲けを目的にしたウソが満ちていて、無垢のお嬢様や、セレブ、上流階級への憧れという価値観がテレビでもてはやされていた時代のなかで、彼女の持つ虚飾のなさ、恵まれない、社会から排除される立場の、マイナーな価値観に引き寄せられたのだ。

 時代は、本当に「戦後」を粉砕する破壊力に満ちたバブル時代に突入していった。
 原動力になったのは、たぶん田中角栄だろう。
 角栄が登場したのは1972年であり、日本を本当にアメリカから独立させようとしたことが原因で、CIAによってロッキード事件に嵌められて追放されたのが1974年であった。
 その間に「日本列島改造論」を打ち上げ、赤字国債を発行して大規模な景気浮揚を行ったことで、バブル時代が始まったのだ。

 我々、反原発派にとって角栄は、日本に原発を導入した正力松太郎、原発利権をゼネコンに癒着させた中曽根康弘とならんで、原発利権三羽ガラスであり、いってみれば福島第一原発事故の遠因であり、これから日本民族を滅ぼすことになる放射能汚染=悪魔の元凶であるともいえる。
 しかし、紛れもなく、戦後を本当に終わらせた張本人であった。

 50年前、1969年、「巨人・大鵬・卵焼き」の時代。
ニクソンが第37代アメリカ合衆国大統領に就任し、ラオスやカンボジア、そして北ベトナムに大規模な爆撃を始めたことで、ベトナム戦争の泥沼が劇的に拡大した。
 当時、本多勝一の現地報告にも触発されて、私は勉強や学歴どころではなくなった。結構な進学校にいたのだが、右翼的な教師と衝突して、嫌気がさし東京に出奔した。
 そして、毎日のように催涙ガスの漂う都心のデモに参加していた。

 美濃部亮吉東京都知事が、東京都主催の公営ギャンブルを廃止した。博打は人を幸福にするものではないと美濃部は初めて公的立場で叫んだ。
 今の、安倍晋三や麻生太郎ら、公営博打推進者たちに、耳元で音量を千倍にして聞かせてやりたい。

 7月20日 - アポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たす。
 これは、当初から、「映像がインチキだ、まるで月面に空気があるような物理法則に反した映像は、地上で撮影されたものだ」という批判が巻き起こっていた。
 真空下では、月面走行車が巻き上げた砂塵が、必ず放物線を描いて地面に落下するが、公表された映像は、おかしなものばかりだった。
 真空下における着陸船の噴射制御は、今でも超高度な難易度があり、当時の技術では不可能。
 https://www.voynich.com/moon/index.html

https://www.youtube.com/watch?v=2WIs_PwSqCA

 時代は、まだウソに満ちていた。
 CIAは、戦後日本に最大級の警戒心を持ち、米国の意向から外れる政権を絶対に許さなかった。角栄が追放されたのも、そうだし、橋本龍太郎が殺されたのも、CIAによる自民党政治家への警告だった。
 https://ameblo.jp/ghostripon/entry-12237022306.html

 50年を経た、現代に至って、政治のウソは力を失うどころか、ますますウソの上にウソが建設されるような、巨大な虚構となった。
 私は美濃部亮吉が、「博打は人々を不幸にする汚い仕組み」と言えた半世紀前にこそ、今よりも大きな知性と真実が存在したと思う。

 トランプが登場し、知性というものが、この世のどこかに消えてしまったかのようだ。
 中国やブラジルの独裁政権によって、ロシアのタイガや、アマゾン、カリマンタンなどの巨大森林地帯が、商業目的で無残な皆伐を受け続けている結果、地球上は、一目散に滅亡に向かって駆け出しているようにさえ思える。

 毎年のように凄まじい酷暑がやってくる。
 これは、森林伐採の直接の影響である。巨大森林は地球気象の緩衝としての役割を果たしてきたのだから。
 地球気象はクッションを失って、極端から極端に変化するようになった。シリコンバレーでは60度という気温まで観測され、そして、今度は春秋を失って、いきなり厳冬がやってくる。
 決して「地球温暖化」ではない。むしろ、地球は小氷期に確実に向かっている。酷暑は、森林という緩衝材を失ったせいなのだ。
 我々は、これから、秋のない厳冬を経験させられるだろう。それも、経験したことのないような極低温で、水道管も上水道システムも、一度で壊れてしまうような代物だ。

 50年前には、世界に知性があった。当時の指導者なら、地球環境を激変させる、こうした愚かな産業優先主義に歯止めを打ち込んだことだろうが、今は違う。

 トランプもプーチンも、習も文も、安倍も、もちろんブラジルのボルソナールも、自分の利権以外に何一つ興味のないクズばかりだ。

見る間に地球が壊れてゆく。安倍晋三が登場して、見る間に日本政府が壊れていったのと同じだ。人間も壊れてゆく。

 東京電力が放出した放射能により、子供たちの知性が失われてゆく。大人たちは認知症になってゆく。何もかも壊れてゆく。

 50年前に、誰が、こんな現実を予想しただろう?
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-843.html

10. 中川隆[-9869] koaQ7Jey 2019年9月15日 08:55:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2918] 報告

霊との遭遇
2019年09月14日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-869.html

 私の家から車で30分程度で、恵那市笠置山の8合目駐車場(海抜950m)に行くことができる。
 山頂は1120mくらいだから、駐車場から標高差170m、およそ45分程度で、山頂まで歩いてゆくことができて、帰路も30分程度だ。
 登山道を使えば、往復15分は短縮できるが、夏場はアブやブヨが多くて鬱陶しいので、9合目まで作られている車道を利用するほうがよい。
 きれいなトイレも二つあって、用足しには心強い。ときどき内緒でトイレの掃除もしている。
kasagiyama2.jpg

 
 大分前から肺機能に深刻な障害が出て、呼吸トレーニングのために、このルートを、年間、数百回は歩いている。朝、5時過ぎに自宅を出て、8時には帰宅する。
 昨年は、高峰湖遊歩道を歩くことの方が多かったのだが、棘草の藪がひどくなり、マムシとの遭遇が増えたので、今年は笠置山に行くことの方が多くなった。
 ここは標高が1000m前後と高いので、夏場は涼しくて歩きやすいのだ。ただし、全身にハッカ油スプレーをたっぷりかけないと、アブ・ブヨにひどい目に遭う。

 こちらに移住したのが2003年で、通算では、たぶん1000回以上は、笠置山のさまざまなルートを歩いている。
 10年以上前までは、笠置山のようなパッとしない低山に来る人は少なくて、山頂近くまで車道が整備されているし、あんまり面白い山ではなかったのだが、その後、ボルダリングに最適な岩がたくさんあることが知られ、最近では、休日にボルダークライマーが数十台も車を連ねてやってくるようになった。

 私も若い頃は、屏風山Pや御在所、南山などに通い詰める日曜クライマーの端くれだったのだが、交通事故で鎖骨が偽関節になってから登れなくなって、とても残念な思いをしている。
 もし体が正常なら、笠置山の岩場に詳しい私が、たくさんの新ルートを開拓するのだが。

 移住前に、初めて登ったのは30年以上前だが、このときは姫栗登山口から3時間以上かけて登ったように思う。このときは、まさか、この山を千回以上も歩き回るなど予想もしていなかった。

 登山口は、姫栗の他、蛭川口、中野方ダム口、廃道になっている中野方口、月光寺ルートなどがあり、バリエーションもそこそこ多い。
 中野方ダムルートは、長い尾根道で、ところどころ熊の糞が落ちていて、いつ出会うかと薄気味悪い。カモシカや鹿との遭遇など、全然珍しくない。
 この数年、9合目駐車場のすぐ上にも、しょっちゅう熊の糞が現れるようになり、鈴をつけないと怖い思いをする。

 熊糞は、熊が昔、肉食動物だった時代の痕跡で、消化管が短いため、内容物が未消化で残ることが多く、べちゃ糞になっているのが特徴だ。二日もすると、酵母が含まれていて発酵し、真っ白のカビだらけになってしまう。
 新鮮な熊糞を見つけると、登山道に近寄らないように、念のため爆竹を鳴らしておく。すると半月くらいは新しい糞が姿を消すのだ。

 笠置山周辺では、熊の目撃情報が、年間数十回もあって、今年は、蛭川口JT別荘地のイノシシ罠檻に小熊がかかった。
 親熊が心配されたが、結局発見できず、小熊は、そのまま笠置山に放された。
 糞の大きさから、山頂付近に出没する熊は、20K前後の小熊のもので、たぶん、この熊だろうと予想している。

 山頂には立派な笠木神社の奥社が作られていて、そこから向こう側に降りると、ヒカリゴケの洞窟がある。
 30年前に来たときは、洞窟の全部が光り輝いて荘厳な光景だったが、十数年前から盗掘者が増えて、ヒカリゴケが盗まれるようになった。一時は光ってる苔が存在しない絶滅状態にさえなった。
 ヒカリゴケは、洞窟の特殊な環境条件でしか生育しないので、持ち帰っても枯れてしまうだけだが、増殖させて一儲けを企むアホがあとを絶たない。
 最近、少しずつ復活しているのが救いだ。

 もう十数年も登り続けているので、たくさんの参拝者や登山者を見てきた。
 そのなかで、本当に奇妙な人と遭遇したことが今日の主題だ。
 実は、私には弱いながらも霊感があって、山頂のベンチで休んでいると、ときどき、頭のなかの霊視スクリーンに、鮮明な人物が写ることがある。

 霊視スクリーンを説明するのは難しいが、仏壇の前で手を合わせているとき、亡くなった親族の顔が浮かんできたり、墓の前で死者が見えたりする類いのものだ。
 私の場合は、例えば事故の数ヶ月前に、自分が事故にあって骨折する姿が見えていた。
 
 神社の前で、何回か人間の顔が鮮明に見えて、「あなたは死んだのですか?」と問いかけると、泣きそうな顔で頷く姿を確認したことがある。
 そのときは30歳前後の若い男だった。もちろん、すぐに消えてしまう。
 笠木神社のような由緒のある古い社には、自分が死んだことを理解できない死者が救いを求めて寄ってくるのだろうと思った。

 なかには、新興宗教団体だろうか、ドラや鐘を鳴らしながら、どんちゃか山頂まで行進してくる集団もいた。全員が無表情なのが奇妙だった。
 それから、いったい何を目的にして登ってくるのだろうかと訝るような、不思議な姿の人も少なくない。

 あるとき、小柄で小太りの、暴走族風の若者が登山道を歩いていた。荷物は何も持っていなくて、てっきり車で来たのだろうと思った。
 その姿が不思議なのは、なぜか印象が希薄なのだ。とても話しかけたい雰囲気ではない。
 「こんにちは……」と、ちゃんと挨拶するのだが、私が先に下山してみると、9合目にも8合目にも、そのほか、車が止められそうなスペースの、どこにもバイクも車もなく、いったい、彼は、どうやって笠置山に登ってきたのか不思議だった。
 また、いつまで待っても、彼は下山せず、忽然と姿が消えた。
 他の登山ルートは、数時間もかかるので、飲料や食料、防寒具などの荷物を持参しなければ無理だ。
 それに、全体の雰囲気が、どうみても参拝者や登山者ではないのだ。まるで暴走族の青年(少年?)が、バイクを捨てて歩いてきたように見えた。

 彼を見たのは一度だけではない。同じ場所で、少なくとも2回以上は出会っていると思う。
 そこで、私は江原啓之の動画を見ていて、「ああ、彼は霊なのかもしれない」と思うようになった。

 https://www.youtube.com/watch?v=IQRkCpEyXvk

 そう思うと、辻褄の合うことが多かった。そもそも、車がなく、手ぶらで来られるような山ではないし、出会ったときの印象が、あまりにも奇妙で希薄だった。生きた人間らしいオーラが出ていなかった。

 江原に言わせると、生前の自分に未練を持っていると、死後も、例えばサラリーマンだったなら、雑踏を歩いたり、通勤電車に揺られたりという状態を求めて霊が人に見えるように姿を現すのだという。
 人に見られることで、自分が、この世につながっていると満足したいのだという。
 通勤電車には、そんな霊が、数十名も乗っている。彼らを追いかけていると、忽然と姿が消えるのが特徴だという。

 雑踏にも霊がたくさん歩いているという。霊も人恋しいのだろう。神社にはとくに多い。
 昔、タクシーの運転手をやっているとき、客から、この種の話をたくさん聞いた。
 名古屋市内で、よく霊が出ると評判の神社は、柳橋交差点から南に少し歩いた白龍神社、そして、中村区では環状線沿いの中島八幡社、ここは、鳥居の下に、いつでも霊が座っているのだという。
 目の前の環状線で自転車に乗っていてトラックに轢かれて死んだ老人がいて、彼が、自分を殺したトラックが通りかかるのを待っているのだと客が言った。

 江原によれば、霊は日常的に普通に姿を現しているが、誰も気づかないらしい。
 この世への未練の断ちきれない死者が大部分で、死後に、自分がかつて行った場所に現れて、生きている人に見てもらいたいらしい。

 その後は、満足して消えてしまうが、ときには、強烈な怨念を持った霊が、生きている人に憑依して悪さをすることもある。
 このとき、憑依する相手は、必ず「波動の合う霊」である。
 取り憑くのはオーラなのだという。死者に取り憑かれた人は、オーラが変わる。どのように変わるのかは、今のところ情報がない。

 私は、絞首刑で殺された凶悪犯が霊憑依したことに気づいたことがある。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-354.html

 宅間守は、池田小学校で8名の児童を殺害して、志願して短期間の待機で絞首刑になった。しかし、死後、「これは宅間だ!」と思った事件が、いくつも続いた。
 宅間の霊は、「児童=8名殺害」というワードで、自分がやったと誇らしげに示しているのだ。
 書いているうちに、波動が合ってきて気分が悪くなった。
 今日はこの程度にしておく。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-869.html

11. 中川隆[-14778] koaQ7Jey 2020年1月06日 19:11:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1767] 報告
昔の生活がもたらしたもの 2020年01月06日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-988.html

 テレ朝の「何これ珍百景」のなかで、広島県の山中で、野性的な生活を送る大家族の姿が何回か放映された。
  http://today247.info/nanikore-sakamoto/

 電気は来てるがテレビはなく、幼い子供たちが自分で薪を割って調理し、五右衛門風呂も薪炊きだった。
 この光景を見て、今、65歳以上の我々の世代は、なんとも微笑ましい、懐かしい光景に、ひどく郷愁を呼び覚まされただろう。

 日本に、ガスや石油のエネルギーが供給されるようになったのは、東京都心部では大正時代と早かったが、地方都市では、1960年前後まで普及しなかった。私の子供時代も、1950年代は、風呂は薪炊き、調理は石油コンロだった。
 私も、広島の坂本家のように、子供時代から鉈で薪を割って風呂の支度をしていた。
 風呂や調理にガスが普及したのは、おそらく1959年の伊勢湾台風がきっかけだったように思う。

 このとき、名古屋市内の南部、西部、港湾部の多くが壊滅的被害を受け、膨大な災害死者が残した個人的権利を踏み潰しながら、巨大な都市計画が実行された。
 道路復旧拡幅とともに、一気に近代化が加速したのだ。
 大規模な社会的変革がもたらされるためには、この種の巨大災害が大きな役割を果たすことが多い。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html

 母親は、手間のかかる木炭七輪や石油コンロから解放され、やっとガス調理具を手に入れることができた。やがて、風呂もガス炊きに代わった。
 1960年代というのは、毎日違う世界が展開されるように思えるほど、日本人のライフスタイルを劇的に変えていった。
 母親は、洗濯板からも解放され、サンヨー電気の洗濯機を使うようになった。
 毎日、氷をセットしなければならない木製冷蔵庫も、やがて電気を通じるだけで冷えるナショナルの電気冷蔵庫に代わった。

 この時代の凄まじい生活変革の嵐のなかで、電気冷蔵庫によって氷屋さんは乾物屋さんとともに消えていった。八百屋さんも、スーパーマーケットに代わりつつあった。
 小さな個人商店が、どんどん淘汰されゆく時代だった。

 だが、まだコンビニもホームセンターもない時代で、人々は、基本的にライフスタイルを自分で設計し、製作しなければならなかった。
 街には小さな金物屋があったが、十分な資材も工具もなく、各人の創意工夫が腕の見せ所だったのだ。
 ちょうど私が、田舎暮らしに移って、ホームセンターやスーパーまで車で30分もかかる過疎地域であるため、基本的に、完成品よりも、基礎資材と工具を入手し、創意工夫によって、何でも自作する必要に迫られているのと同じで、家を直すのも、食事を作るのも、全部自分でやらねばならない時代だったのだ。

 1960年代は、「何でも自分でやらねばならない時代」と形容してもよい。もちろん、それは明治時代から連綿と続く文化のなかにあったのだが、ライフスタイルの爆発的変化のなかで、とりわけ激しい社会の変化について行くには、大きな創造力が要求されたのだ。

 この時代、人々の意識を劇的に変革したものは、たくさんあるが、わけてもオピニオンリーダーはテレビだっただろう。
 1959年、昭和皇太子の結婚があった。これがテレビを普及させた大きな契機だったといわれる。そして、その年、伊勢湾台風の来襲による巨大な被害が、全国に放映され、日本人はテレビを通じて、日本全体で情報を共有する時代が始まったのだ。

 だから、オリンピックの行われた1960年代というのは、もの凄い時代だった。
 人々は、テレビや出版物によって巨大な情報網を得ただけでなく、社会の劇的変革を経験させられたのだから。
 そして、この巨大な知的刺激のなかで、日本の戦後高揚期が始まったのだ。
 人々は、たくさんの情報の前に、創意工夫にあふれ、世界トップクラスのイノベーションを生み出し続けた。

 まず、戦後日本最高の時代だったといえるだろう。
 しかし、これをもたらした要因を考えたなら、私は、戦争という巨大災厄に打ちひしがれ、15〜20年の無我夢中の模索のなかで、やっと戦後文化が結実を始めたこと。
 「あの惨禍を二度と経験したくない……だから平和で、人間性を謳歌する文化を作りたい」
 という強烈なモチベーションが背景としてあったように思う。
 それは、60年代後半から登場してきた、バエズやPPM、岡林や高石のフォークソングのなかにも現れている。

 この時代の、凄まじいイノベーションをもたらしたものは、私には、戦後日本社会の「不足」だったように思える。
 老人たちは、戦時中の砂糖不足の経験から、食品が甘くないと納得しなかった。
 食品企業は、「甘ければ売れる」という発想から、サッカリンやチクロなど化学甘味料を多用した。大企業は、排気や排水が環境を汚染することに関心を抱くよりも、金儲けだけに関心を抱いた。
 こんな不条理と、「不足」のコラボレーションが、新しい、より安全で合理的な時代への希望を人々に強く期待させた。

 環境を破壊する大企業の金儲け一辺倒の姿勢に怒った市民運動が大きな力を発揮するようになり、水俣や昭和電工、古河鉱業などの公害闘争も、人々に
 「どんな社会を作らねばならないのか?」
 大きな教育的効果をもたらした。

 我々は、今から60年前に起きた巨大な社会変革の意味を原理的に捉えておく必要がある。それが、安倍晋三一味によって、無茶苦茶に壊された日本社会を再建するために本当に必要なものを教えてくれる。
 安倍自民党のもたらした歴史的災厄を十分に研究し、子供たちの「持続可能な未来」のために生かさねばならないのだ。

 安倍を追放して、消費税を廃止したなら、たちまち景気は劇的に回復し、もの凄い商業の拡大が見込まれるのだが、それが新たな公害=廃棄物の激増による環境破壊を生まないか? 新たな景気のなかで、人々が60年代のような素晴らしいイノベーションを構築できるのか?
 を考えておく必要がありそうだ。

 上に説明したように、60年代のイノベーションは、社会全体の「不足」と合理的生活への飢餓が前提にあったように思える。
 しかし、今の子供たち、若者たちは、「不足」を感じていないし、合理的生活も安全なライフスタイルも強く求めているようには思われない。
 広島の坂本家にような野性的なライフスタイルを送っている家庭も、極めて希であって、子供たちが生活のなかで新しい合理性を追求してゆく環境にいるとも思えない。

 私は、コンピュータ、IT社会、AIに隷属する人生を求めるような、ゲームやプログラミング教室に子供を通わせる暇があるなら、坂本家のような野性的生活のなかで、山羊や鶏と触れあって「自然と人間生活」という巨視的視点のなかで、「何でもできる子供」を育てることこそ「持続可能な未来」を約束するものだと、何度も書いてきた。

 子供は大自然のなかで、全力で肉体を解放するような野生を獲得させることが、今後の人生にとって、社会にとって、一番大切であると確信している。
 坂本家の子供たちは、素晴らしい大人になるだろう。
 どんな巨大な災厄が来ても、自分たちの力で克服してゆける人間に育つだろう。

 都会の学校は、過疎の廃校を利用して、年に数ヶ月の共同体生活を経験させるべきであり、自分で耕して種を蒔き、収穫して調理する技術と自信を教育することこそ、真実の教育であると確信している。

 私は、小学生のとき、学校で習った縫製知識が、未だに役立っていて、自分で衣類の補修や改造を行っている。ミシンも使っている。
 こんな大切な知識より、IT社会の奴隷としてのプログラミング知識の方が上だとは思えないのだ。プログラムが、大震災後の混乱のなかで、どれほど役立つというのか?

 子供たちを社会の奴隷に育てるな! 大自然のなかで主人公に育てよ!
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-988.html

12. 中川隆[-14224] koaQ7Jey 2020年1月22日 18:49:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1085] 報告

本当に食べるもののなかった時代 2020年01月21日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1005.html

 壱番屋カレーチェーンの創業者、宗次徳治さんが、孤児院で育ち、里親に引き取られても地獄のような生活で、学校に弁当を持ってゆけず、昼休みになると学校の裏で一人で過ごしていたというエピソードは、聞く方も辛い。
https://oitachi-ima.com/jjitugyouka-oitachi/3638/

 宗次さんは、1948年生まれだから、今は72歳だ。今の70歳代は、「団塊の世代」と呼ばれ、もの凄くたくさんの子供がいた時代である。
 一学級に60人もの子供がひしめいていた。机も椅子も足らなかった。私の時代さえ、50人近くいた。
 当然、競争も激しかったが、みんな貧しかった。
 実は、当時、学校に弁当を持って行けない児童は、たくさんいた。

 まだ食糧事情も悪い時代だから、弁当を持っていける子だって、決して贅沢ではなかった。田舎では、ジャガイモやサツマイモをふかしたものが弁当箱に入っている程度、児童はみんなお腹を空かしていた。

 給食制度ができたのは、弁当を持参できない子供が、あまりにも多かったからだ。
私も経験した、1950〜60年代の給食といえば、コッペパンと脱脂粉乳、今なら口に入らないほどお粗末な食事だったが、当時は、それでも美味しかった。お腹が満たされるだけマシだったのだ。
 やがて、おかずがつくようになり、近所にオリエンタルの工場があったので、鯨肉の入ったカレー味のモヤシ野菜炒めが一番多かった。

 ちなみに、私は1960年代はじめ頃まで、肉と言えば鯨肉と豚小間肉しか知らなかった。
 肉屋に買い物に行っても、買ってくるのはコロッケだった。当時、「貧乏人の味方、焼酎、たばこはシンセイ」という歌があったが、まさに貧乏人の味方コロッケだった。

 日本の米作の増産が軌道に乗ったのは、1960年代半ば以降で、東京オリンピックのころまで、寒冷地では米が取れない地域が多かった。
 私の住む中津川では、栗と五平餅が名産なのだが、米で作る五平餅は、今から半世紀以上も前、最高の贅沢だった。当時、米は今のように大量に生産できなかったからだ。

 私は、昔、民俗学を学んでいたので、地方の生活に関心を持って、日本人が豊かになる前の時代を調べて歩いたことがある。
 内陸部の寒冷地では、豊かな米作が可能な場所の方が少なくて、そんな地域では、ほとんど寒冷地でも採れる蕎麦かジャガイモが主食になっていた。暖地では稗が主食だった。
 だから、蕎麦が名産になっている地域は、1960年代まで米が多く採れなかった地域で、蕎麦や芋類が大切な主食だった。
 また内陸部では、沿岸部のような豊富な海産物蛋白質を得られなかったので、動物性蛋白質といえば、まずは川魚、次に蚕や地蜂や蝗など昆虫類を良く食べた。
 信州では、飢饉になると虫を食べ、山芋を掘った。
 当時は、イノシシや熊などは大ご馳走として片っ端から捕獲して食べられたので、今よりはるかに少なかった。

 戦後、大量の引き揚げ者が還ってきたものの、もう、みんなを食べさせる土地がなくて、やむをえず、「開拓」が広く行われた。
 まだ「未開の地」として、十分な余裕があったのは、第一に北海道や青森だが、苛酷な気象だった。
 それでも、意を決して北海道に渡った人々は、斧と鍬を抱えて原生林を開墾し、最初に馬鈴薯をたくさん作った。

 https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2019/03/06/121469

 家族が1年を過ごせるほどの馬鈴薯の収穫に成功すれば、それを食べながら、どんどん農地を増やしてゆける。やがて、蕎麦やトウモロコシや豆類も作れるようになる。
 だから馬鈴薯は、開拓の希望そのものだった。最初は、決して美味でなく、腹が満ちればよかった程度だが、男爵イモの普及から、品種改良が進み、大切な食料になっていった。

 信州や岩手の開拓地も、気候的には北海道なみの苛酷さがあって、やはり米が採れず、蕎麦や馬鈴薯が主食になった。南方の開拓地では、サツマイモが主力だった。
 そもそも、薩摩軍が日本最強といわれた理由は、よく育つ甘藷のおかげで食料の心配が少なかったせいである。

 さて、ここから主題だが、もしも今年、巨大震災が発生して、極端な食料不足に陥った場合、都会や近郊農地は修羅場になってしまう可能性があるので、結局、「ぽつんと一軒家」で紹介されているような、過疎の山村に退避して、食料を自給することになる。

 都会では、子供たちにプログラミングを学ばせることが流行っているようだが、残念ながらコンピュータは食料を生産してくれない。腹を満たしてくれることもない。
 そこで、人間の歴史的な知恵を総動員して、過疎の田舎に移住して、食料を生み出す段取りを考えなければならない。
 日本経済が崩壊して輸入が途絶えれば、日本社会は、たちまち食糧危機に陥る。都会に住んでいては、他人の食料を盗むことくらいしか手がないのだ。

 私は、極端な食糧不足のなかで何が起きるのか、考えてきた。
 大都会では、近郊の農家に人々が押し寄せ、食料をねだるのは、敗戦後の混乱期と同じだ。しかし、今では、秩序の崩壊から、食料泥棒が横行するにちがいない。
 だから、移住するなら、泥棒がやってこれないほどの深い山村がいいと書いてきた。食料とともに石油も輸入できなくなるので、たぶん車も使えなくなるだろう。
 そこで、私は「ポツンと一軒家」のある過疎の限界集落に注目している。

 千年も続いた過疎集落なら、過去千年間、集落を破壊するような災害がなかったことを意味するし、山村ならば良質な飲料水が容易に手に入る。
 また、放棄された畑地は、簡単な手入れで立派な田畑を作ることができる。廃屋も手入れすれば、寝泊まりには不自由しないだろう。
 まずは、最初の一年、北海道開拓史に学んで、馬鈴薯を大量に生産する。一人あたり200Kgも収穫できれば、一年間飢えずに過ごせる。

 馬鈴薯の収量は、病気や事故がなければ、一反(300坪)あたり1〜2トンは採れる。つまり5人の1年分の食料だ。
 だから、仮に、10人の互助会(共同体)を結成して、過疎の田舎にダーチャを確保し、1年分の食料を生産するためには、最低2反(600坪)の畑地があればいいことになる。
 今は、山村で放棄された畑地が無数にあるので、その程度の畑地を確保するのは、決して難しいことではない。

 あとは、燃料の薪を集めたり、少し贅沢なおかずを作ったり、みんなで助け合って生活を楽しめば良い。
 繰り返すが、コンピュータは食事を用意してくれない。
 また株投機で儲ければいいと思ってる人も多いだろうが、基本的に博打はゼロサムゲームであり、負けたときには餓死の運命しか残されていない。

 とりあえず、子供たちの未来をつないでゆける方法は、過疎の山村にダーチャを共有することしかないのだ。
  http://www.ruralnet.or.jp/ouen/mes/m408.html

 助け合い共同体を考える上で、数の多いスケールメリットは、あまり勧められない。
 人数が増えると、分業による合理化が必須となり、組織の上に立つ者に権力が生まれるからである。これは社会発展史史を研究してきた者なら、誰でも理解できることだ。
 権力が生じれば、組織内に格差ができて上下関係ができてしまう。それでは楽しい共同体にならないのである。

 私は、おおむね10〜20名を共同体(互助会)の一単位と考えている。それ以上、人が集まらない方が合理的だ。数が少なければ分業が通用せず、一人が、どんな仕事もこなさねばならず、大変だが特権階級が成立することはない。
 あんまり少ないと、老人介護や子育てが大変になってしまう。

 以上は、「捕らぬ狸の皮算用」なのだが、もしも飢饉や食糧危機が訪れた場合、人間には、今の我々の生活からは想像もできないような潜在能力があることを知っておいた方がいい。
 実は、縄文時代の人々は、三食どころか、毎日の食事にありつくことは困難だった。出土遺骨から、数十日程度の絶食は珍しくなかった。だから平均寿命は30歳に満たなかった。
 現代の、クマやイノシシも同じで、毎日の食事など、とんでもないのだ。
 人類が、毎日一食を得ることができるようになったのは、古代から中世にかけてであるが、毎日三食という習慣は、実は大正時代以降のことにすぎない。

 つまり、人間の体は、一日一食生活に、余裕を持って適応できるのである。それどころか、人には冬眠の能力さえ眠っているといわれる。
  https://www.dplay.jp/article/science/0000000067

 タモリやタケシも、一日一食主義だといわれる。本当に食べ物がなくなれば、まずは、一日一食にし、次に三日に一食にしても、十分に耐えてゆける能力が人間には備わっているのである。
 だから、「飢える」ということには、それほど心配しなくていい。
 「水が飲めない」という場合でも、比叡山の千日回峰行者は、9日間の不眠不臥、不飲、不食の修行をしなければならないが、あまり死んだ者は聞かない。

 まあ、人には、食べなくとも簡単には死なないという性質があることを知っておけば、多少の食糧危機には慌てずにすむだろう。
 だから、最初に考えるべきは、住む場所とともに、食料生産のための「ダーチャ」をどう確保するかなのだ。

 そして、何よりも、「信頼できる仲間」が必要である。私も、一人で過疎地帯に住んでいる人を知っているが、他人との交流がないと、人間、どんどん退化して廃人に向かってゆくのである。
 私なども、人との付き合いがないと、どんどん認知症が進み、家もゴミ屋敷になって、片付けるという習慣さえ失ってしまう。
 だから、仲間を作るというのは、何よりも大切であって、他人に完全主義を求めてはならない。人に厳しいと、誰も寄ってこなくなる。

 人を集めるには「優しい性格」が必要である。突き詰めれば「利他主義」ということなのだが、利他主義の波動を持っている人には、同じ波動を持った人が近寄ってくるという「波動の法則」を江原啓之が指摘している。
 そんな波動の自然体でいれば、黙っていても、信頼のおける仲間が集まってくるというわけだ。

 新自由主義者のような利己主義に洗脳された人は、利他主義者を見ると軽蔑したくなるらしい。とても嫌な人間に見えて近寄れない。
 利己主義者には、利己主義者が寄ってくる。利他主義者には詐欺師も近寄ってこれないのである。
 だから、自分と波長の合う人を見つけ、子供たちの未来のために、余生を捧げるという考え方が一番合理的だろうと私は思う。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1005.html

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