★阿修羅♪ > 近代史3 > 590.html
 ★阿修羅♪
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
先住民族は必ず虐殺されて少数民族になる運命にある
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/590.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 8 月 31 日 08:10:56: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 多文化共生は大量殺人を引き起こす 投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 25 日 10:21:26)

先住民族は必ず虐殺されて少数民族になる運命にある


ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類との共存期間で、以前は最大で数万年ほど想定されていましたが、近年では5000年程度との見解が有力です。


現在有力な年代観では、ヨーロッパにおいて現生人類が到来してから5000年以内に、ネアンデルタール人は絶滅したと考えられます(より正確には、ネアンデルタール人の 形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団は現在では存在しない、と言うべきかもしれません)。
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_37.html

▲△▽▼


先住民族は人間と思われないから人間狩りで抹殺される

地方局司会者が謝罪、共演の黒人男性に「ゴリラ似」 米
2019.08.28 Wed posted at 19:12 JST
https://www.cnn.co.jp/showbiz/35141884.html


ジェイソン・ハケットさんと視聴者に謝罪するアレックス・ハウスデンさん/KOCO


(CNN) 米オクラホマ州のテレビ局が放送する番組で、共同司会者の1人がもう一方の黒人男性についてゴリラに似ていると発言し、翌日の放送で涙ながらに謝罪した。

同州のCNN系列局KOCOテレビで朝の番組の司会を担当する男女2人のうち、白人女性のアレックス・ハウスデンさんが22日の放送中、オクラホマ市動物園のゴリラを取り上げたコーナーの後でもう一方の黒人男性、ジェイソン・ハケットさんに対し、「(ゴリラは)ちょっとあなたに似ている」と発言した。

ハウスデンさんは翌日の番組で「配慮に欠けた不適切な発言で皆さんを傷つけた」と視聴者に謝罪。ハケットさんにも「あなたは大好きな親友の一人。わざと傷付けるようなことは決してしない」と語り掛けた。

ただし、黒人の容姿をゴリラに例える言葉が人種差別的な意味を持つという問題には、直接言及しなかった。

ハケットさんは謝罪を受け入れ、「私も多くの皆さんも深く傷付いた」と率直に語った。ハウスデンさんと手を差し伸べ合い、自分にとっても親友の一人だと話した。

ハケットさんはさらに、この出来事が「言葉の大切さ」を知らせる「学びの機会」になるよう願っていると述べ、「私たちはお互いに相手が傷付く言葉、胸にこたえる言葉を理解し合わなければ」と呼び掛けた。
https://www.cnn.co.jp/showbiz/35141884.html


サブリミナル実験から、白人の潜在意識では「黒人≒類人猿」であることが判明(米研究)


「Not Yet Human: Implicit Knowledge, Historical Dehumanization and Contemporary Consequences(人間未満:暗黙知、非人間化の歴史、そして現代への影響)」

と題された研究レポートは、スタンフォード大学、ペンシルバニア州立大学、カリフォルニア大学バークレー校の心理学者らによる6年にわたる共同研究の集大成である。

それによると、多くのヨーロッパ系アメリカ人(白人)は意識下でアフリカ系アメリカ人(黒人)を類人猿と結びつけて見ていることが判明した。


サブリミナル実験に参加した被験者のほとんどは、白人の男子学生だ。

実験は、彼等に黒人男性あるいは白人男性の顔をスクリーン上でほんの一瞬見せた後、ぼやけた類人猿のスケッチを見せて、それが何か識別させるというもの。

黒人男性の顔のフラッシュを先行して見せられた場合、白人男性のそれを見せられた場合に比べ、被験者はずっと早くそのスケッチが類人猿のものであることを識別したという。

次セクションで少し詳しく説明するが、米国ではかつて黒人を類人猿になぞらえ、黒人差別を正当化していたのだが、被験者たちはこの黒人ー類人猿アソシエーションを知らない。

にもかかわらず、被験者たちの潜在意識の中にはこのアソシエーションが存在していることが、同実験から判明したわけである。


「黒人はいまだに人間として認められていないのです。

この国では、我々は今でも類人猿と同列に見られているのです。」


同研究では米ローカル紙の一つ『Philadelphia Inquirer』が1979年ー1999年の20年間に掲載した数百のニュースを調べているが、極刑の有罪判決を受けた黒人は、同じく極刑判決を受けた白人に比べて「野蛮な」「けだもの」「凶暴な」「残酷な」「気の荒い」等、類人猿と関連性のある言葉で表現される頻度が4倍もあったという。

また、「これらのニュースで、暗に類人猿であるかのように描写された者たちは、そうでない者たちに比べ、州政府により処刑されやすい傾向にあることも判明している。


「黒人≒類人猿」と本人が考えているというのではなく、無意識にそう捉えているというのは、差別される側にとって、かなり厳しい現実である。

意識下ということは、本人もコントロールしにくい領域であるからだ。
http://omoroid.blog103.fc2.com/blog-entry-177.html


▲△▽▼

キリスト教原理主義

キリスト教原理主義の本質は、主に米国が過去に行った過失を正当化できるからこそ普及しているのであり、キリスト教よりもユダヤ教の亜種に近い性質を帯びている。

プロテスタントといえば、多くの日本人はルター派とカルバン派しか思いつかないだろうが、英米のプロテスタントの多くは、英国国教会の亜種である。

英国国教会は、設立当初から血塗られている。
ローマ教会が離婚を許さないのを理由に、ローマ教会を離脱して英国王が首長となる教会を設立したのであるが、そのヘンリー8世は6人の妻を持ち、2番目の妻アン・ブーリンと5番目の妻キャサリン・ハワードを姦通罪で処刑している。6人のうち死別は3番目の妻ジェーン・シーモアのみである。
英国国教会の成立には、ローマ教会を通して仏の影響力を廃したかったのもあるだろう。アビニョン捕囚(1309〜77)の影響でフランスはローマ教会への影響力を強化していた。

また、ローマ教会自体が各国の王の上に己の存在を置く状態であり、英国内の反発があるからこそ、英国国教会は存続したのだろう。
つまり、設立自体が、エゴイズムとナショナリズムが動機である。
そのため、エリザベス一世時代に英国国教会から清教徒が反発して分離するのだが、彼らがローマ教会へ戻らずに新しい諸派を建てていった理由も、ナショナリズムによるローマ教会への反発があった。

もちろん、当時のローマ教会は相当腐敗していたのも事実だ。
つまり、英米のプロテスタントの場合、ルター派とカルバン派ほど純粋な動機とは言い難い部分が元来強かったのである。

ローマ教会を離れた時に、教皇に替わる宗教的権威は、何になるか。

自派内のヒエラルキーの頂点である。
古い宗派の中で頂点を極めることは難しいが、新派を建てれば己自身が頂点になりうる可能性がある。

「英国人は六十の宗派を抱えているが、料理のソースは一つだ」というイタリアの諺があるほど、英米のプロテスタントは多数の派がある。
己が宗教的権威になりたいという我欲こそが、多数の派が存在する理由の最大の要因ではないかと憶測している。

一番の問題は、聖書無謬性という偏向なのだが、これはルター派が聖書中心主義を唱えた影響から英米のキリスト教原理主義に多い。
キリスト教において本来一番大切なのは、イエス=キリストの言葉であった筈だが、イエス=キリストの言葉と矛盾する見解を米国人が頻繁に出すのは、聖書無謬性の影響ではないかと思う。

聖書無謬性、というよりも、旧約聖書無謬性こそが、キリスト教原理主義の中心に存在するのではないか。

旧約聖書は、無謬どころか矛盾だらけだが、キリスト教原理主義で重要視されているのは、旧約聖書の内容とヨハネの黙示録なのである。
ヨハネの黙示録の諸派にとって都合の良い解釈することと、旧約の内容が、キリスト教原理主義の根本のようだ。
これでは、キリスト教というよりも、選民思想が極端に強いユダヤ教の亜種である。

まず、北米インディアンの土地を奪ったことについては、「アメリカは約束の地である」と説明する。

鉄砲隊に向かって「特攻」を続けた北米インディアンを、虐殺し続けるのに当たって、「北米インディアンは聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と説明する。

奴隷貿易の中心は実は英国だったが、「黒人は聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と同様に説明している。

聖書の無謬性という信仰を利用することによって、自分達のエゴイズムや貪欲な物欲、選民思想を合理化できるのだ。

どんな人間だとて、異民族でも多数の人間を無差別虐殺すれば、潜在的に罪悪感を感じるものである。
もちろん、本物の「見せかけだけの善人」ならば、潜在的にも罪悪感を感じないだろうが。
米国人の心に在った潜在的罪悪感や不安感を薄れさせ、自らの虐殺・軍事的及び経済的侵略を正当化するために、聖書無謬性は、実に利用価値の高い説なのである。

聖書無謬性は、選民思想を強化し、エゴイズムの発現と経済侵略を正当化する。
だから、英国は「死の商人」として長年成功できたのだろう。日本で有名なグラバーも、英国の武器商人である。

第二次世界大戦後、英国の国土は荒廃していた。
戦争の被害のない米国が「世界の中心」となったのは必然であるが、その世界の中心とは、「世界の武器工場」なのである。この情けない地位は、この先当分揺るぎそうにない。

人殺しで儲ける「商売」は、私は世界中で最も卑しい職業だと思う。
殺傷兵器を多数生産することにも、自己正当化と合理化が必ず必要になる。
「我々は、民主主義を世界に普及するために武器を製造しているのである」とか工場で合理化の言葉を言わなければ、現場の労働意欲が必ず低下していく筈だからだ。

米国で武器を多数製造しなくても、たくさんある別の産業に大半を転換すればいいだけの筈だ。日本は、戦後ちゃんとできたのだから。
だが、恐らく、最早不可能だろう。

なぜなら、米国は「民主的な豊かな社会」から「憎悪と恐怖の対象」「言論を弾圧する強国」へと変質して行っているからである。
報復を恐れて先制攻撃し、無差別攻撃するために、他国民の憎悪と怒りが増し、死を賭しても抵抗を表したいという人々をどんどん増やしているという、ごく当たり前の論理が、米国人には理解できないようだ。

恐らく、欧米人以外の人々を、無意識下で「人間」と認めていないからである。

世界中から恨まれ憎まれていることを、米国人の大半が9.11まで気づかずに済めたのは、エバンジェリカルが米国民が潜在的に持つ罪悪感や不安感を合理化し、選民思想を強化してくれているためである。

戦争があるたびに、米国内のエバンジェリカルは信者数を増していく。
今や、聖書無謬性を信じる米国人が半数以上なのではないか。

【福音派】聖書の外典・偽書と「聖書の絶対不可謬性」

キリスト教史の中で、旧約聖書が正式に聖典の扱いを受けるようになった歴史は意外に浅く、トリエント公会議(1545)の時である。
2世紀には既に旧約聖書を認めない派が存在し、それに反対するためにも4世紀に聖書のラテン語訳が始まり、397年「正典」が一応決まった。

特に、ヨハネの黙示録を新約に残すかどうかで、随分揉めたらしい。
東方正教会は、長く認めていなかったという。

1世紀末に書かれたもので、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」の著者とは別人が書いているが、今でも諸説あり、作者が福音書作者でないと文献学等で否定されていることを聞くと激怒する宗派もあるらしい。

どの文書が聖書として認められるべきか否かで、長く揉めて来た歴史というのは、大抵の宗教にあることだ。例えば、「北伝仏教の経典の多数は偽書である」という研究もある(「梅原猛の授業 仏教」をご参照下さい)

そんな歴史があるのに、特に、キリスト教原理主義者達を中心に「聖書の絶対不可謬性」を固く信じているキリスト教徒が結構いるのだそうだ。

聖書の中には、これを聖書に含めるかで揉めた文書があるという歴史等を、清教徒は全く知らなかったらしい。そのため、アメリカを中心に「聖書の絶対不可謬性」という、珍奇な教義をもつ教団が多いのだそうだ。

しかも、彼らが「間違いがない」と主張するのは、大抵、本来は聖典ではなかった旧約聖書のほうで、新約と違って間違いだらけの書物だ。

旧約聖書は盲信されると、世界の迷惑になる話が多すぎるのだ。

聖書と言っても旧約聖書は、基本的に泊付けのために導入されたものであり、どう考えても新約聖書の「神」と矛盾している。
旧約聖書の「神」は、所詮民族宗教の神なので、イエスと違い、人を幸福にすることのない神なのだ。

その「神」とイエスが三位一体であると言ったものだから、それから、キリスト教の神は相当残虐な「神」に変化し、教会の教えも残虐なものに変質してしまったのかもしれない。

ローマカトリックが新教の発生と共に今までの教会のあり方を見直して現在に至るのと対照的に、「自分達こそ、(旧教の輩と違って)汚れなき者である」と主張し続けて来た人々は、随分人殺しが好きな人々になっていき、全く自分達の行動を振り返ろうとはしない。

「神に選ばれた」とか「(自分達だけは)清浄なるものである」とか、「アメリカは『神の国』である」とか言うのは、明らかな(誇大)妄想である。
民族宗教の神ならともかく、キリスト教の神が、そんなに驕り高ぶり尊大で、「自分達は選ばれているから何をやっても許される」といった論理で他国民を無差別虐殺するような信者を、そんなに高く評価するだろうか。

「汝の敵のために祈れ」と言った神がだ。

聖書を書き記したのは所詮古代ユダヤ人であり、聖書の中にサハラ以南の黒人、インド以東のアジア人、北米南米・オーストラリア・ミクロネシアの現地人の存在が書かれていないのは、単に、当時の古代ユダヤ人の知識が足らなかっただけである。

ところが、「聖書の絶対不可謬性」を盲信する人々は、聖書に出て来ない人々を「人間として認めてはならない」という、見解になりがちだ。

清教徒が最初にこの考え方を米国に伝え、英国の清教徒が奴隷貿易を擁護した。自分達は清い名を名乗り、その行動は実に血なまぐさい。

聖書が誤っていることを認めぬ代わりに、世界や現実のほうを自分達の信念に合わせようとすると、随分多数の人々の人権を侵害し、戦争を次々起こし、多数の国を弱体化させ、...たくさんの異教徒をアジア・アフリカ・南北アメリカで殺さなければならない。
実際に、合わせようと今まで努力してきたのが、アメリカ合衆国という国の「裏の歴史」ではないのだろうか。

「キリスト教原理主義のアメリカ」(p.94)では、「聖書の絶対不可謬性」を信じる信者の割合を表示している。

 ユニタリアン・ユニバーサリスト        6%
 統一キリスト教会              12%
 アメリカン・福音ルーテル教会        21%
 エビスコーパル・チャーチ(聖公会)     22%
 統一長老派教会               25%
 統一メソディスト教会            34%
 エホヴァの証人               51%
 チャーチ・オブ・クライスト         55%
 サザン・バプティスト会議          58%
 チャーチ・オブ・ナザレン          58%
 アセンプリーズ・オブ・ゴッド        65%
 ユナイテッド・ペンテコスタイル・チャーチ  69%
 チャーチ・オブ・ゴッド           80%
http://hoffnungenlied.cocolog-nifty.com/kaizen/cat1966234/index.html


▲△▽▼
▲△▽▼


帝国主義や他民族の支配・搾取は、農耕民だったユダヤ人ではなく、遊牧民だったゲルマン人の考え方 _ 2

RK: 彼らのやり方は、少数によって大多数の人々を管理して富を独占する。
  そのやり口を見ていると、まるで人間を家畜と考えていて、
  ある意味非常に効率的に管理支配していますね。

BEN:ここが農耕民族である日本人には理解しにくいところで、
  彼らの発想は非常に遊牧民的というか、非常に残酷なのです。

  乳牛でもちょっとでも乳の出が悪いとすぐ殺処分するし、
  主人の言うことを聞かない暴れるオスだと、すぐに断種して
  睾丸を抜いてしまうんです。

  だけどこれが農耕民族だと、牛や馬は家族扱いにして大切にする。
  彼ら動物は田畑を耕したり、荷物を運んだりする使役動物だから、
  日本の昭和初期頃までは家の中で大切に飼って、
  潰して食用にすることもあまりなかった。それだけ感覚がまったく違うわけです。

  事実、遊牧民たちは農耕民族のことを、草を食べる
  あるいは穀物と言い換えてもいいのですが、
  羊人(Sheeple シープル)と呼んでいます。

  その羊人である農耕民族を管理するために「羊飼い」としての一神教
  (キリスト教やユダヤ教)があり、その神を動かすことで
  全体を支配するという考えです。

  これまでもその発想でずっと世界を支配してきたのです。

  ですから支配者たちから見ればその他大勢の庶民は同じ人間ではなく、
  「羊人」という家畜にすぎません。

  だから増えて管理が面倒になれば「間引こう」となるし、
  劣等な種族は断種して子孫を作らせないようにする。

  家畜を使って利益を得れば、当然のように牧場主がすべてを奪い取る。

  文句を言えば餌を減らし、ムチで叩いて大人しくさせる。

  このようにして食料と軍事力で世界を管理・コントロールしている連中が
  存在しているのです。
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-a3d1.html

▲△▽▼

世界を操るグローバリズム-6〜「敵を妥協せず徹底的に叩く」というアメリカの精神的背景〜
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html

今回は、「敵を妥協せず徹底的に叩く」というアメリカの精神的背景について。

アメリカに移住したピューリタンは、「キリスト教原理主義」を貫いて、「エルサレムの建国」を「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」として、西部開拓(実際は先住民殺戮)を推し進めた。

この「キリスト教原理主義」の精神性が連綿と続いているという。

「キリスト教原理主義」は聖書(:福音)絶対であるのと同時に、選民思想であるという。これが他部族みな殺しを正当化させているとのこと。

元々、ヨーロッパ自体が

「古代・地中海周辺における皆殺し戦争の結果としての共同体の徹底破壊」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=330205

により、選民思想も登場してきているという背景があります。


ヨーロッパは、17世紀中頃に徹底殺戮の宗教戦争(:「神」と「悪魔」の戦い)をやめる条約を取り交わしました。しかし、アメリカ(に渡った移民)はその後も長きにわたって、みな殺しの殺戮を繰り広げてきたことが、今尚「敵を妥協せず徹底的に叩く」という精神性に繋がっているのだと思います。


以下、

世界を操るグローバリズムの洗脳を解く – 2015/11/27
馬渕睦夫 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%B4%97%E8%84%B3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4908117144

からの紹介です。

****************************

■アメリカを新しいエルサレムの地にする

イギリスでピューリタン革命が起こる前、宗教的な迫害を受けたピューリタンの一部の人たちは、新天地を求めてイギリスからアメリカ大陸に向いました。1620年にピルグルム・ファーザーズがメイフラワー号でアメリカに渡ったのです。

ピューリタン(清教徒)というのは、purity(純水、清浄)という言葉から来たものですが、文字通り、宗教的な純粋、純化を求めていた人たちです。

彼らは、当時のカソリックの腐敗した状況を見て、ルターの宗教改革をさらに徹底してやらなければいけないと考えました。

ある意味で、キリスト教の原理主義であり、相当極端な過激な思想であったと思われます。それゆえに、イギリス国内での迫害も強かったのでしょう。ピューリタンたちはイギリスで食い詰めた最下層の人たちだったという説もあります。

いずれにせよ、彼らの一部はイギリスを逃れてアメリカに移住しました。

彼らピューリタンは、司祭の言葉ではなく、聖書の言葉こそ神の言葉と考えて、聖書の言葉を忠実に実践しようとしました。そして「この地に自分たちにとってのエルサレムを建国しよう」と考えたのです。

ピューリタンたちは旧約聖書を重視しましたが、旧約聖書に忠実に従ったという点ではユダヤ人たちと考え方は同じです。

ユダヤ人は自分達を選民と考えていましたが、ピューリタンも自分達を現代の選民と考えて、アメリカという地をエルサレムにして、神の福音を世界に伝えようと考えました。これが「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」と呼ばれるものです。建国の精神に立ち戻って考えれば、アメリカと言うのは宗教国家であることが分かります。

彼らは、神の福音を伝えることを使命と考えていましたから、それを妨害する勢力は皆敵と見なしました。その観点に立てば、先住民の殺戮も正当化されました。

そして神の福音を妨害する勢力を西へ、西へとなぎ倒していったのがフロンティア・スピリットです。フロンティア・スピリットは、ピューリタニズムと表裏一体です。

西へ、西へと進んでいって最終的にたどり着いたのがカリフォルニア。そこから先は海に遮られています。しかし、太平洋を越えて福音を伝えようと考え、アメリカはハワイ、フィリピンに進出し、さらに日本、中国にも福音を伝えようと考えました。

このように、アメリカのたどってきた歴史は、マニフェスト・デスティニーの歴史と考えると筋が通ります。

■宗教国家のアメリカには「妥協」がない

現代のアメリカには、ピューリタニズムの精神はもうほとんど残っていません。アメリカの国体はすっかり変わってしまいました。国体は変質してしまいましたが、彼らのマニフェスト・デスティニーの考え方は変わっていません。アメリカ的な発想を世界に普及させる、あるいは押し付けるというやり方を続けています。つまり、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を世界に広げることが、一貫したアメリカの世界戦略です。

彼らは、「自分達は植民地主義者ではない。帝国主義者ではない」とずっと主張し続けていますが、実際の現象を見れば、遅れてきた帝国主義者の様相を呈しています。彼らは「門戸開放」という言葉を使いましたが、言い方を変えれば、「オレたちにも分け前をよこせ」という意味です。

神の福音を伝えることが目的であったにせよ」、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を広げることが目的であったにせよ、実質的には帝国主義と同じです。

建国の経緯を見れば、アメリカと言う国の本質は宗教国家であることが見えてきます。宗教を広げることを理念としている以上、彼らに妥協というものはありません。その点を理解しておくことが重要です。宗教国家の側面は、アメリカの戦争のやり方にも影響しています。

ヨーロッパにおける戦争というのは、妥協が成立することがよくあります。17世紀に宗教戦争によって疲弊しきったヨーロッパ諸国は、1648年にウェストファリア条約を結んで宗教戦争を止めることを決めました。

宗教戦争というのは、「神」と「悪魔」の戦いですから、悪魔は徹底的に叩くほかなく、どちらかが破滅するまで行われます。続けていけば際限が無くなり、ヨーロッパ全体が破壊されてしまうため、宗教を理由とした戦争を止めるウェストファリア条約が結ばれました。

ウェストファリア条約以降は、ヨーロッパでは戦わずして対立が終わることもありましたし、話し合いによって妥協が成立することもありました。

アメリカの場合は、選民思想によるマニフェスト・デスティニーが根本にあるため、アメリカにとっての戦争は、いずれも宗教戦争的意味合いが濃く、彼らには妥協というものがありません。

第二次世界大戦においては、アメリカは日本を徹底的に攻撃して壊滅状態に追い込みました。その後の占領政策では日本の国体を徹底的に潰そうとしました。一切の妥協はありませんでした。それが宗教国家のやり方です。

今は、ピューリタニズムのアメリカ的な精神を持った人たちは、ほとんどいなくなりました。アメリカの国体が変質して、宗教国家の要素はなくなっていますが、妥協しないやり方は変わっていません。
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html

▲△▽▼


2015年06月12日
青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動
https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html


 新石器時代〜青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動に関する、『ネイチャー』に掲載された二つの研究が報道されました。『ネイチャー』には解説記事(Callaway., 2015)も掲載されています。5000〜3000年前頃のユーラシアの青銅器時代には、精巧な武器や馬に牽引させる戦車が拡散し、埋葬習慣の変化が広範に確認されるなど、大きな文化的変容が生じた、とされています。この大きな文化的変容が、おもに文化のみの拡散によるのか、それとも人間集団の移動に伴うものだったのか、ということをめぐって議論が続いてきました。この問題は、インド-ヨーロッパ語族の拡散とも関係して論じられてきました。

 5000〜1300年前頃のユーラシアの住民101人のゲノムを解析した研究(Allentoft et al., 2015)では、青銅器時代のヨーロッパにおける大きな文化的変容は人間集団の移動に伴うものであり、インド-ヨーロッパ語族が青銅器時代にヨーロッパに拡散したとする仮説が支持される、との見解が提示されています。5000年前頃には、ヨーロッパ中央・北部のゲノムは中東からの初期農耕民やそれ以前のヨーロッパの狩猟採集民のゲノムに似ていました。しかし、ヨーロッパ中央・北部集団のゲノムは4000年前頃までには、カスピ海〜黒海の北側の草原地帯に存在したヤムナヤ(Yamnaya)文化集団のゲノムにもっと類似していました。

 この研究は、薄い肌の色は青銅器時代のヨーロッパにおいてすでに高頻度で存在したものの、乳糖耐性はそうではなかったことも明らかにしています。以前には、ヨーロッパの初期農耕民において畜乳はカロリー摂取の重要な手段であり、新石器時代から乳糖耐性には正の淘汰が働いていたのではないか、と考えられていたのですが、乳糖耐性に関しては、正の淘汰が働いたのは青銅器時代以降のことではないか、と指摘されています。この乳糖耐性は、ヤムナヤ文化集団によりヨーロッパにもたらされた、と推測されています。

 もう一方の研究(Haak et al., 2015)では、8000〜3000年前の69人のヨーロッパ人の全ゲノムデータが作成され、解析・比較されました。その結果、やはり青銅器時代における東方草原地帯(現在の国境線ではウクライナを中心とします)からヨーロッパへの大規模な人間集団の移動が示唆されました。ヨーロッパにおいて新石器時代の始まりとなる8000〜7000年前頃に、遺伝的にはヨーロッパの先住狩猟採集民とは異なり、初期農耕民と密接に関連した集団がドイツ・ハンガリー・スペインに現れました。一方でその頃のロシアには、24000年前頃のシベリア人と高い遺伝的類似性を有する狩猟採集民集団が存在していました。

 6000〜5000年前までには、ヨーロッパの大半の農耕民はその祖先集団よりも多くの狩猟採集民集団のDNAを有していました。一方でこの時期の東方草原地帯の牧畜民であるヤムナヤ集団は、ヨーロッパ東部の狩猟採集民だけではなく、中東の農耕民集団のDNAも継承していました。ドイツの後期新石器時代縄目文土器(the Late Neolithic Corded Ware)文化集団はそのゲノムのうち75%をヤムナヤ集団から継承しており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 この東方草原地帯由来のDNAは、遅くとも3000年前までには中央ヨーロッパ人の全標本に存在し、現在のヨーロッパ人には広く確認されます。この研究は、ヨーロッパのインド-ヨーロッパ語族の少なくともいくつかは、東方の草原地帯に起源があるだろう、と指摘しています。また、中央ロシアのアルタイ山脈近くの4900〜4500年前頃の集団にもヤムナヤ集団の遺伝的痕跡が確認され、インド-ヨーロッパ語族のアジアへの拡散との関連が想定されます。最近では、青銅器時代のヨーロッパにおいて男性人口の拡大があったのではないか、との見解も提示されており(関連記事)、青銅器時代のヨーロッパにおける文化変容は、大規模な人間の移動に伴っていた可能性が高そうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(Allentoft et al., 2015の引用と、Haak et al., 2015の引用)です。


集団遺伝学:青銅器時代のユーラシアの集団ゲノミクス

集団遺伝学:青銅器時代のユーラシアの集団変化

 青銅器時代は大きな文化的変化の時代であったが、その要因は知識の伝達と大規模な人の移動のどちらにあったのだろうか。今回、ユーラシア各地の古代人101人の標本から低カバー率のゲノム塩基配列を得て解析した研究で、この時代に起こった大規模な集団の移動や入れ替わりが明らかになった。得られた解析結果は、青銅器時代のヨーロッパ人では、淡色の皮膚はすでに普通になっていたが乳糖耐性はあまり広まっていなかったことを示しており、乳糖耐性に対する正の選択が働き始めたのは従来考えられていたよりも新しい年代だったことが示唆された。この研究で得られた知見は、インド・ヨーロッパ語族が前期青銅器時代に広がったとする別の報告(Letter p.207)とも一致する。


集団遺伝学:ステップからの大移動がヨーロッパでのインド・ヨーロッパ語族の成因の1つとなった

集団遺伝学:ヨーロッパの言語を変えたステップからの大きな一歩

 今回D Reichたちは、8000〜3000年前に生存していたヨーロッパ人69人の全ゲノムデータを作成した。その解析から、8000〜7000年ほど前に現在のドイツ、ハンガリーおよびスペインに当たる地域で、先住の狩猟採集民とは異なる初期農耕民の血縁集団が出現したことが明らかになった。同時代のロシアには、2万4000年前のシベリア人との類似性が高い独特な狩猟採集民集団が生活していた。6000〜5000年前までに、ロシアを除くヨーロッパの広い地域で狩猟採集民系統が再び現れた。西ヨーロッパ集団と東ヨーロッパ集団は約4500年前に接触し、現代のヨーロッパ人にステップ系統の痕跡が残された。これらの解析から、新石器時代の人口動態に関する新たな手掛かりに加えて、ヨーロッパのインド・ヨーロッパ語族の少なくとも一部がステップ起源だとする説の裏付けが得られる。この研究で得られた知見は、青銅器時代の古代人101人のゲノムについて調べた別の研究結果(Article p.167)とも一致する。


参考文献:
Allentoft ME. et al.(2015): Population genomics of Bronze Age Eurasia. Nature, 522, 7555, 167–172.
http://dx.doi.org/10.1038/nature14507

Callaway E.(2015): DNA data explosion lights up the Bronze Age. Nature, 522, 7555, 140–141.
http://dx.doi.org/10.1038/522140a

Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
http://dx.doi.org/10.1038/nature14317

https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html

▲△▽▼

2018年06月17日
人類史における移住・配偶の性的非対称
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_35.html


 人類史において、移住・配偶で性的非対称が生じることは珍しくありません。そもそも、有性生殖の生物種において、雄と雌とで繁殖の負担が著しく異なることは一般的で、大半の場合、雄よりも雌の方がずっと負担は重くなります。もちろん人類もその例外ではなく、人類史における移住・配偶の性的非対称の重要な基盤になっているのでしょう。とはいっても、それらが繁殖負担の性的非対称だけで説明できるわけではないのでしょうが。当ブログでも、人類史における移住・配偶の性的非対称についてそれなりに取り上げてきましたので、一度短くまとめてみます。

 霊長類学からは、人類の旅は採食だけではなく繁殖相手を探すものでもあり、他の類人猿と同じく人類の祖先も、男が生まれ育った集団を離れて別の集団に入り配偶者を見つけるのは難しかっただろうから、ゴリラのように男が旅先で配偶者を誘い出して新たな集団を作るか、チンパンジーのように旅をしてきた女を父系的つながりのある男たちが受け入れることから集団間の関係を作ったのではないか、との見解が提示されています(関連記事)。人類系統がチンパンジー系統と分岐した時点で、すでに配偶行動において何らかの性的非対称が存在した可能性は高いと思います。

 初期人類については、「華奢型」とされるアウストラロピテクス属や「頑丈型」とされるパラントロプス属において移動の性差が見られる、と指摘されています(関連記事)。具体的には、アウストラロピテクス属ではアフリカヌス(Australopithecus africanus)、パラントロプス属ではロブストス(Paranthropus robustus)です。240万〜170万年前頃のアフリカヌスとロブストスのストロンチウム同位体含有比の分析の結果、小柄な個体のほうが、発見された地域とは異なるストロンチウム同位体組成を有している割合が高い、と明らかになりました。初期人類では体格の性差が大きかった(性的二型)との有力説を考慮すると、初期人類においては、女性は男性よりも移動範囲が広く、出生集団から拡散していくことが多かったのではないか、と言えそうです。つまり、父方居住的な配偶行動があったのではないか、というわけです。ただ、初期人類の性的二型については、大きかったとの見解が有力ではあるものの、異論もあるので(関連記事)、体格の違いによる性別判断の信頼性は高くない可能性もあると思います。

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)についても、父方居住的な配偶行動の可能性が指摘されています(関連記事)。イベリア半島北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡で発見された49000年前頃のネアンデルタール人遺骸群のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析の結果、3人の成人女性がそれぞれ異なるハプログループに分類されるのにたいして、3人の成人男性は同じハプログループに分類されました。もっとも、これは父方居住的な配偶行動の証拠となり得るものの、そうだとしても、あくまでもイベリア半島の49000年前頃の事例にすぎず、ネアンデルタール人社会全体の傾向だったのか、現時点では不明です。

 ただ、現代人への遺伝的影響はほとんどなかったとしても、同じホモ属で現代人と近縁なイベリア半島のネアンデルタール人と、現代人とは属が違い、おそらくは現代人の祖先ではなさそうなアフリカヌスやロブストスにおいて、父方居住的な配偶行動が存在したのだとしたら、人類系統において父方居住的な配偶行動が一般的だった可能性は高い、と思います。元々人類社会は父系的な構造だったものの、ある時期から社会構造が多様化していったのではないか、というわけです。それが、現生人類(Homo sapiens)の出現もしくは現生人類系統がネアンデルタール人系統と分岐した後なのか、ホモ属が出現してネアンデルタール人と現生人類の共通祖先が存在した頃なのか、あるいはもっと古くアウストラロピテクス属の時点でそうだったのか、現時点では分かりませんが、早くてもホモ属の出現以降である可能性が高いかな、と考えています(関連記事)。

 現生人類とネアンデルタール人との交雑についても、性的非対称の可能性が指摘されています(関連記事)。現代人のミトコンドリアでもY染色体でも、ネアンデルタール人由来の領域は確認されていません。したがって、母系でも父系でも、現代人にネアンデルタール人直系の子孫はいない可能性がきわめて高そうです。しかし、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人の遺伝的影響は、X染色体では常染色体の1/5程度であることから(関連記事)、現生人類とネアンデルタール人との交雑では、現生人類の女性とネアンデルタール人の男性という組合せの方が多かったというか、一般的だったのではないか、とも指摘されています。現生人類女性とネアンデルタール人男性の組合せでは、その逆よりもネアンデルタール人のX染色体が交雑集団に伝わりにくい、というわけです。

 しかし、配偶行動の性的非対称だけで、現代人のX染色体と常染色体においてネアンデルタール人の遺伝的影響が大きく異なるとも考えにくく、適応度の低下も関わってくるのではないか、と思います。ネアンデルタール人のゲノムは領域単位で現代人に均等に継承されているのではなく、現代人において排除されていると思われる領域も存在します。ネアンデルタール人のX染色体上でも、繁殖に関連すると思われる遺伝子を含む領域の排除が指摘されています(関連記事)。また、Y染色体の遺伝子における現生人類とネアンデルタール人との違いから、遺伝的不適合が原因となって、ネアンデルタール人由来のY染色体が現代には継承されなかった可能性が高い、との見解も提示されています(関連記事)。現生人類と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)との交雑でも、X染色体と精巣に関わる遺伝子領域では、現代人にデニソワ人の痕跡がひじょうに少ない、と指摘されています(関連記事)。現時点では、現生人類とネアンデルタール人やデニソワ人など古代型ホモ属との交雑において、性的非対称があったのか、推測は難しいと思います。

 現代人では多様な移住・配偶行動が見られ、その中には強い性的非対称が存在する事例もあります。たとえば、15世紀末以降、アメリカ大陸にはヨーロッパから多数の人々が移住してきて遺伝的にも大きな影響を及ぼしましたが、この事例では大きな性的非対称が見られます。現代パナマ人は、mtDNAでは83%がアメリカ大陸先住民系ですが、Y染色体DNAでは約60%が西ユーラシアおよび北アフリカ系、約22%がアメリカ大陸先住民系、約6%がサハラ砂漠以南のアフリカ系、約2%がおそらくは中国またはインドの南アジア系となります(関連記事)。これは、単身男性を中心としたイベリア半島勢力によるラテンアメリカの征服という、歴史学など他分野からの知見と整合的です。

 ヨーロッパの事例と併せて考えると、大規模な征服活動では、移住・配偶行動に性的非対称が見られる傾向にある、と言えるかもしれません。青銅器時代のヨーロッパにおいては、ポントス-カスピ海草原のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団から精巧な武器やウマに牽引させる戦車が拡散し、埋葬習慣の変化が広範に確認されるなど、大きな文化的変容が生じ、古代ゲノム解析からも大規模な移動が推測される、と指摘されています(関連記事)。さらに、このヨーロッパにおける青銅器時代の大きな文化的・人的構成の変容にさいしては、男性人口拡大の可能性も指摘されています(関連記事)。精巧な金属器とウマを用いての、機動力に優れた男性主体の集団による広範な征服活動がヨーロッパで起きたのではないか、というわけです。

 ヨーロッパにおける青銅器時代と新石器時代初期の大規模な移住を比較した研究では、青銅器時代の大規模な移住は男性主体で、女性1人にたいして男性は5〜14人と推定されているのにたいして、新石器時代初期にはそうした性差はなかった、と推測されています(関連記事)。ヨーロッパの新石器時代は中東からの農耕民集団の移住により始まりましたが、外来の農耕民集団と在来の狩猟採集民集団とがじょじょに融合していったと推測されているように(関連記事)、征服的な移住ではなかったのかもしれません。

 ヨーロッパにおいては、青銅器時代の征服活動的な大規模移住において、男性が主体になって広範に拡散していった様子が窺えますが、それは例外的な事例だったかもしれません。上述したように、人類史において父方居住的な配偶行動が一般的だった可能性は高い、と思います。後期新石器時代〜初期青銅器時代の中央ヨーロッパにおいても、成人女性が外部から来て地元出身の男性と結婚し、地元の女性は他地域に行って配偶者を得たのではないか、と推測されています(関連記事)。mtDNAの解析の結果、時間の経過とともに母系が多様化していき、同位体分析の結果、大半の女性は地元出身ではなく、一方で男性と未成年では大半が地元出身である、と明らかになりました。また、地元出身ではない女性の子孫は確認されませんでした。

 中世初期のバイエルンにおいても、男性よりも女性の方が遺伝的に多様で、女性は婚姻のために外部からバイエルンに移住してきたのではないか、と推測されています(関連記事)。ヨーロッパに限定しても一般化できるのか、まだ確定したとは言えないでしょうが、征服的な移住では男性が主体となり、そうではない移住では性差があまりなく、安定期には人類史の古くからの一般的傾向が反映されて、男性が出生集団(地域)に留まる一方で、女性は配偶のために他集団(地域)に移住する、という傾向があるのかもしれません。こうした傾向が人類史全体に当てはまるのか、現在の私の知見ではとても断定できませんが、今後、そうした観点から色々と調べていこう、と考えています。
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_35.html


▲△▽▼
▲△▽▼


「先住民族」というのは悲しい言葉であることを日本人は分かっているのか? 2019.08.31
https://blackasia.net/?p=14477

最終的に日本を抹殺し、日本人を抹殺するためには、歴史の歪曲でも捏造でも言いがかりでも何でもするための論理が歴史プロパガンダである。この歴史プロパガンダの行く末に「日本人抹殺の正当化」があるいう事実に、日本人はいつになったら気づくのだろうか?(鈴木傾城)


泥沼のイスラエル・パレスチナ問題

「最初からそこに住んでいたから自分たちのものだ」という論理は歴史を見ていると成り立っていない。結局、動物界と同じく、弱肉強食の論理が民族・国家にも働いている。たとえば、イスラエル・パレスチナ問題もそうだ。

先住していたパレスチナ民族がユダヤ人に追い出され、少数民族化させられ、今も両者は泥沼の民族闘争を戦っている。2019年8月にもエルサレムでイスラエル治安部隊とパレスチナ人との衝突があったが、この両者が和解することはない。

ユダヤ人のバックには超大国アメリカがいて、ユダヤ人は国際ネットワークを持っている。一方のパレスチナ人は中東全域に同じイスラム教徒の支援者や支援グループを持っている。

イランもまたパレスチナの支援国家のひとつであり、だからイスラエルとアメリカはイランを敵視しているとも言える。すべてはイスラエル・パレスチナ問題だったのである。対立は根深い。

イスラエルの首相であるベンヤミン・ネタニヤフは「ホロコーストが起きたのは、パレスチナ人がヒトラーに進言したから」と捏造までを言っていたことがある。ネタニヤフ首相の真意がどこにあるのかは明快だった。


(1)パレスチナ人がホロコーストを進言した。
(2)パレスチナ人はユダヤ人にとって有害だ。
(3)パレスチナ人を抹殺しても当然の行為だ。


パレスチナ人を抹殺するためには、歴史の歪曲でも捏造でも言いがかりでも何でもするという姿勢がここにある。

どんな民族であっても歴史から消される可能性

強大な武力で先住民族を抹殺して我が物とする。

それは歴史の話でも何でもない。中国でも今それが起きている。チベットやウイグルで起きている中国共産党政府による「大虐殺」「大弾圧」は人権侵害以外の何者でもないが、中国はこの問題に関わってくる諸外国を「内政干渉だ」と激しく叫びながら世論封鎖し、民族浄化を押し進めている。

先住民族が元々住んでいる土地から追い出されたり抹殺されて乗っ取られる動きは、現実に私たちの目の前でいくらでも起きている。昔からそこに住んでいるから、将来もそこに住めるという保証はないのだ。

圧倒的なパワーを持つ異民族が怒濤の如く侵略して来ると、どんな民族であっても歴史から消される可能性がある。

これはアメリカ大陸で起きた残虐な歴史を見ても分かる。アメリカは白人たちの土地ではなかった。白人たちは侵略者であり、虐殺者だったのだ。侵略者は、元々そこにいた民族を執拗な虐殺によってほぼ壊滅状態に追いやって少数民族化させて、無害化したところで虐殺を止めて「彼らは先住民族だ」と定義した。

ネイティブ・アメリカンはもはやアメリカで大きな影響力は持っていない。民族は滅んでいないが、かつて自分たちの土地であったはずのアメリカ大陸でその存在はすぐに吹き消せるほど小さく、儚く、もろい。

南米でも侵略者がやってきて同じことが起きた。

先住民族は侵略者であるスペインに徹底的な虐殺で「少数民族化」させられた。残された若く美しい女性たちは侵略者の子供を産み落として子供たちの代から混血と化した。

「南米の混血女性が美しいのは、美しい女性だけを選別したから」なのである。

オーストラリアでも起きた。先住民族は、周辺国から大量流入した異民族を押しとどめることができず、征服され、虐殺され、混血化していった。


文化も歴史も言語も消されていく

民族が弱体化すると、民族が壊滅してしまう。

虐殺によって少数民族化するのも問題だが、その民族が時代に適応できなくなって自然に少数民族化しても同じ結果になる。

柔軟性を失った社会、成長を失った社会で生きる民族は、やがて自然抹消するか、周辺民族に吸収されて消されて行くか、もしくは荒々しく他民族に蹂躙されて抹殺されてしまう。

それは突然起きることもあるが、長い歴史の中で淘汰されることもある。たとえば、「少子高齢化に見舞われる民族」も、やがて活力を失い、いつしか少数民族となって、文化も、歴史も、言語も消されていくのである。

私たちは東南アジアに山岳地帯に少数民族がたくさんいるのを知っている。彼らはどんどん増えていくわけではない。逆だ。どんどん消えていく。

周辺国があまりにも強大で、自分たちがあまりにも無力であれば、意図的でなくても、やがて同化したり、無理やり同化させられたりする。そして、ゆっくりと消え去っていくことになる。

少数民族は独自の言語を持っているが、人々が消えていくと言語も急速に消滅してしまう。絶滅の危機に瀕している少数民族の言語は、ユネスコの言語調査によると2473言語ある。これらの言語は最後の話者が消えた瞬間に淘汰される運命にある。

中国では満州語、アメリカではインディアン諸語が絶滅が必至だと言われている。あまりにも政治的に無力になると、社会に力がなくなっていく。

そうすると、子供も自分たちの文化に失望を覚えて社会を飛び出して行く。そんな傾向が増えると、民族の言語も絶滅し、社会も消えるのだ。

少数民族とは、多くの地で「先住民族」だったことは指摘されてもいい。改めて考えて欲しい。「先住民族」というのは昔からそこに住んでいる民族という意味だ。しかし、今はその土地を支配していないという意味もそこに込められている。

今はそうではないから「先住民族」と言われて区別されているのである。昔から住んでいるから未来永劫にその民族の土地であるとは限らないということをこの「先住民族」という言葉は示している。

「先住民族」というのは悲しい言葉なのである。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

日本人を抹殺するための世論工作が進んでいる

日本は「まだ」少数民族ではない。人口1億2000万を抱える民族であり、しかも四方を海に囲まれて征服から守られてきた民族でもある。日本人は、その国土で長い歴史を育んできた。

しかし、グローバル化と文明の発達は、すでに海で守られているくらいではまったく無力なものとなっている。

周辺国が強大になり、日本が経済衰退に入ってから、まず小さな島から侵略されつつあることに多くの日本人が気づいている。実際、中国は尖閣諸島から沖縄までを自分たちのものにしようとして激しい侵略活動を行っている。

竹島は日本の島だが、韓国がそれを奪い取った後に実効支配しており、今度は対馬も自分たちのものであると言うようになっている。

北方領土はかつては日本の領土だったが、それはロシアに奪われたまま未だに帰ってこない。ロシアはこの奪い取った北方領土の先に、北海道を見据えている。

それは歴史的に日本人のものだったから、これからも日本人のものであるというのは幻想なのである。

中国・韓国・北朝鮮のような特定のアジア国家が、日本人を大虐殺して日本の領土を奪い取ったら、日本は日本人のものでなくなることくらいは小学生でも分かるはずだ。

中国が南京大虐殺で30万人殺されたとか、好き勝手に歴史を捏造して数字を増やしているが、日本人はその意味を分かっているのだろうか。

中国はそれを世界に喧伝することによって、自分たちは同じ数の日本人を抹殺する権利があるということを主張しているのである。歴史の捏造の先にあるのは、日本人の抹殺なのだ。日本人がそんな単純なことすらも理解できていない。

中国の論理はこのようなものだ。

(1)日本人はかつて中国人を大量虐殺した。
(2)日本人は中国人にとって有害だ。
(3)日本人を抹殺しても当然の行為だ。

最終的に日本を抹殺し、日本人を抹殺するためには、歴史の歪曲でも捏造でも言いがかりでも何でもするための論理が歴史プロパガンダである。この歴史プロパガンダの行く末に「日本人抹殺の正当化」があるいう事実に、日本人はいつになったら気づくのだろうか?

「先住民族」になっても気づいても、もう遅い。
https://blackasia.net/?p=14477


▲△▽▼


日本人のガラパゴス的民族性の起源 Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm


日本人のガラパゴス的民族性の起源 mtDNAハプロタイプ 2019年5月取得ツリー増補版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm


日本人のガラパゴス的民族性の起源 2018/10/18 日本人の源流考 v1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-8556] koaQ7Jey 2019年8月31日 08:28:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4197] 報告
ハクジンの作り方  


先日、アボリジニー女性と長く話をする機会があった。

彼女は推定40歳弱のアボリジニー女性。明日、生まれて以来一度もあったことのない姉に会うのに、とても緊張している、と言う。

私は、家庭の事情か、とちょっと思ったけれど(馬鹿な私)、よく聞いてみると、まだ一度もあっていない弟もいて、母親とは、3年ほど前、生まれて初めて会えた。という。
ベルギーに住んでいる弟もいるのよ。と写真を見せてくれた。

ヨーロッパ政府の先住民政策のことを少しでも知っている人ならすぐにわかると思うが、そう、これは、イギリス政府 (後にはオーストラリア政府)の先住民同化政策のひとつで、アボリジニー女性から生まれた赤ちゃんを出産後 母乳をやるのも許さず、すぐ取り上げ、ハクジン夫婦のもとで育てさせる。というもの。こうすることにより、アボリジニーのこども達は、親から文化を継承せず、イギリス人化する と考えたのだ。

私は知識としては知っていたけれど、まさか、こんな若い人がまだ、その政策の当事者として存在していることが、驚きだった。
私の勉強不足のせい、なのですが、ただ、この事実を豪州政府は公にはしない。
事実をしるためには、アボリジニーから聞いた話をドキュメンタリーにした本やビデオしかないのだ。

彼女曰く、この政策は、1980年まで続いた。だから今26歳以上のアボリジニ−は、みんな親を知らないで育った。「そんな最近まで!!」私には衝撃だった。
自分のこどもが、政府によって取り上げられ、2度と会えないのだ。親は子供の写真を見ることも、消息を知らされることも この制度が廃止されるまではなかったという。
たとえ、海外に行っても、死亡しても、知らされなかったのだ、と言う。


これだけでも、悲しいのに、彼女の話は終らない。

この制度は、ただアボリジニーを先祖から引き離し、イギリス人文化に馴染ませるためだけのものではなく、アボリジニーを抹殺するかわりに、彼らの肌を白くする政策でもあったのだ。

アボリジニーをひきとる親のほとんどは、女児を好む。

女児なら大きくなれば強姦し放題だからだ。そして妊娠させる。そしてその赤ちゃんの肌は母親より少し白くなる。だから、政府はそれをよしとしたのだ。

強姦したいハクジンの父親は、早ければ8歳くらいには、強姦すると言う。

彼女の周りでも、たくさんのアボリジニー女性がまだ幼い頃に強姦され、12、13歳で妊娠した人がいっぱいいたはずだ、と言う。もちろん 強姦された挙句生んだ赤ちゃんは、すぐ政府によって取り上げられるのだ。そしてその子も女児なら、運が良くなければ、強姦される運命だ。

男児はどうなるのか。地方や役人によっては、男児は、何の役にも立たないので、(アボリジニー女性は、ハクジン男性の性の遊びの役に立つが、アボリジニー男性がハクジン女性とセックスするのは、許されないし、アボリジニー女性と性交渉をすると、二人の赤ちゃんの肌の色は白くならない) 不必要として、生まれた直後 近くの壁にたたきつけて殺したのだ と言う。

私には、言葉も出なかった。

彼女は自分を育ててくれたハクジン両親はいい人で、とても幸運だったという。
統計などなくてわからないけれど、幸運なアボリジニーは少ない と言った。

彼女は自分の父親が誰だか知らないという。あるとき、病気で医者に行った時、医者から、両親にその病気をしたことがあるか、聞いていらっしゃい、それが予防に役立つと言われ、母親に父親の所在を聞いた。母親が インド人の男性だ、と教えてもらい、会いに行く直前、母親から止められて、何事かと思ったら、よく考えたら違うと言う。笑いながら、インド人だったら、あなたの肌はこんなに白くないわよね、と娘の肌をさすりながら言った と言う。で、父親は、アイルランド人、ハクジンだと言って、でも死んだのだ、と。


彼女は 父親に会うのはあきらめた、と言った。母親が話したがらないから。と。
考えてみればこのお母さんも 親から引き離されて、ハクジンの親の元、苦労して育ったわけだから、何があったかは、想像にかたくない。

彼女は、自分の肌をさすりながら、豪州政府はこの肌でもまだ白さが足りない、と言うわ。といった。肌の白さ、をこれほどまでに気にしながら生きていかなければならのは、信じられないほど理不尽だと思った。

彼女は言う。過去も悲しいけれど、今も悲しい。なぜかと言うと、時折話す、オーストラリア人(ハクジンだと思うけれど)は、総じてこの話を信じないと言う。政府がそんなことするはずない、と。彼女は、じゃあ、なぜ多くのアボリジニーがこんな都市に住んでいるの?各地にあった、トライブにいないの?なぜアボリジニーの言葉が話せないの?と聞くのだそう。

私には、ハクジンオーストラリア人が政府の行ったこの蛮行をしらないのはありえるとして、その本人からこういうことをされた、と言われて、政府がするわけない、と否定するその気持ちがよくわからない。
それほどまでに、政府を信じきっている気持ちが。いや、政府というか、ハクジンがそんな残酷なことをするわけない、とおもっているのかもしれない。

イギリス政府が行った数々の蛮行、植民地支配も何もかも習わず、海賊も彼らの誇り、アメリカ大陸の”発見”と勉強するし、あの土地の近代化をひたすら美化し、第一次大戦も、その後のすべての戦争も (ベトナム戦争、湾岸、今の戦争も)ひたすら、正義の戦いとして教わってきているからね。彼らは。ベトナムは、やるべきでなかった、とはいうけれど、政府には、ちょっと批判的でも、自国の兵士への同情だけ(ベトナムへはなし、)。

反省の”は”の字もない。

ここまで、国際社会の中で(おそらく、対非ハクジン国、民族にかぎって)イギリス系の自分達が間違っているわけない、という、強い信仰があるのだろうな。


一般の日本人が、沖縄の人から、占領された後、こういうひどいことを日本政府から、組織的にされた、と言われたら、頭から否定するかな。特に、強姦とか、殺人とか、そういうものは、抑圧につきものだし、あるかも、と思うのが、普通だと考えてしまう。

まあ、それはともかく、私はこの話をきいて、この国にいまでもひたすら起こりつづけている、先住民女児への、先住民男性からの強姦、性暴力事件の深層が、こういうところにあるのではないかと感じました。(下の方に投稿してあります。)

また、アボリジニー女性が強姦された事件で、容疑者がハクジン男性、アボリジニー男性にかかわらず、裁判員に女性が複数いても(ハクジンのみ裁判員)、裁判で有罪にならず、釈放されてくる事実を見て、アボリジニー女性らが、「私達が強姦されても、とにかく、ハクジン達は、彼らが女性であるか、男性であるかにかかわらず、同情はけっしてされない。どういうわけか、私達は、強姦されてもいい生き物と思われている」、と言った言葉の裏の意味が、今少し理解できる。

さらに、大学時代、クラスで見た(女性学の授業、フェミニスト系の女性教授の中には、アボリジニーのことを理解しようとする人はいる)まだ、上陸したばかりのイギリス軍がアボリジニ−を虐殺する物語のビデオですが、クライマックスは、偶然に森に入っていた9歳くらいの少女は殺されるのをまぬがれ、じっと木の陰から、自分の親、兄弟、姉妹を含む、部族全員がイギリス軍の手によって銃殺されるのを目撃する というような話だったのですが、悲しすぎて、涙がとまらなかった。

明かりがついて、60人くらいの生徒の誰ひとり(私以外全員ハクジン女性(一応見た目ですが)、涙ひとつ、うるうるした様子ひとつないのには、映画の内容以上に驚いたことを覚えています。が今、その理由がわかります。


ついでに書きますが、こちらでは、もちろん、ハクジンが全員ひどいのではありません。何とかしようとするハクジンだっているのです。

最近こういう不満がハクジンから出され、報道されました。

今では、アボリジニーの赤ちゃんが母親から強制的に奪われることはなくなりましたが、アボリジニー家庭はすさみ、アルコール中毒やら暴力やらで、親としてきちんと子育てできない家庭が多く、中には、ハクジン夫婦が 好意で親が落ち着くまで預かる制度があります。(これは、ある程度管理されていて、強姦などはできないようですが)
そのハクジンの親で、それは 自分の子供のように一生懸命面倒見る人もいるわけです。

その中で、学校にきちんと行かせ、宿題をさせ、ドラッグをすわないように ある意味愛情こめてしつけている親がいました。政府はその親に対し、こういう”質のいい”子育てをするのは、契約違反だから、すぐ止めないと、告訴する、というのです。

腹を立てた親が、テレビ局に話して公になったわけです。
政府いわく、先住民のこどもはいずれ、ドラッグを吸い、しつけもろくにできない親元に返るのだから、かけ離れたことをするのは だめ。ということです。


ハクジン親は、親がたとえ吸っても、あなたは自分の身体のため、やめなさい。と教えて何が悪い、また、勉強に興味を持ち、学校に行く習慣ができれば、その子の将来の利益になる、と主張しました。

また、別の アボリジニーの子供をあずかった親からも こんな政府への不満がテレビ局にとどきました。

このこどもが自分のこどものように可愛く、将来は頑張って欲しいから、その子と別れる時、将来大学に行きたくなったら私に連絡しなさい。援助してあげる、と言ったそうです。それを知った政府にそんなことはするなと言われた、と。不公平だと。

あづかった親は、言う。政府は他の子に対し不公平だというが、本当の理由は違う。
彼らは、アボリジニーに、その地位を向上してほしくないのだ。

話をもとのもどすと、そのアボリジニー女性に、私は ここはあなたの土地よ。と言ってしまった。
むなしいだけなのに。

マオリの人に、私たちは、同じ先住民でもアボリジニーよりずっとましなんだ。といっていたことが胸にしみた。

どうなったら、彼らの幸せはやってくるのでしょうか。
私は、彼女に、日本人には、伝えるから、と約束しました。
http://www.asyura2.com/0601/social3/msg/428.html


1813年にノースカロライナで奴隷の家庭に生まれたハリエット・ジェイコブズの例を挙げてみよう。彼女は12歳の時にジェームズ・ノーカムに売られ、彼はほどなく彼女に対して性的交渉を持ち始めた。その後ジェイコブズが彼女のメモワールで回顧しているように、ノーカムは彼女に「私は彼の持ち物だった;全てにおいて彼の意志に服従しなければならない」と告げたのだ。

そして、彼女はそうした。ジェイコブズは時には所有者の手をなんとか逃れる事が出来たとはいえ、彼は確かに彼女を所有していた。彼女とセックスをする為に、ノーカムは時には彼女に新しい洋服や他のプレゼントを約束した。時には単純に彼女の喉元に剃刀を突き付けた。そしてそれは、我がアメリカの同胞よ、我々がレイプを呼ぶ行為だ。


算数をしよう。1850年から1860年の間に、黒人奴隷の数は約20%増加した。だが、歴史家のジョエル・ウィリアムソンが計算した通り、奴隷にされた「ムラート(混血奴隷)」の数は驚きの67%も増加したのだ。もっと率直に言えば、黒人奴隷の肌は色が薄くなっていった。白人の所有者達が彼等をレイプしたからだった、という事だ。本当に単純な事だ…そして、酷い事だ。

偉大なるアフリカ系アメリカ人奴隷廃止論者フレデリック・ダグラスが自伝で物語った通り、黒人女性奴隷は「彼女の所有者の父親、息子、もしくは兄弟のなすがまま」だったのである。黒人女性は奴隷商人にも虐待され、彼等は次の白人に彼女達を売り飛ばす前によくレイプした…そして、次の性的強制劇に入る。

疑いの余地もなく、所有者とセックスする為に選ばれたかもしれない奴隷はいただろう。だが、間違った選択肢が自分を売り飛ばしたり、酷い時には殺されたりすると知っている場合に、セックスを「選択する」とはどういう意味なのか?

所有者の中には生活スペースを共有したり、この関係から産まれた子供達を可愛がったりして、奴隷を伴侶のように扱った所有者達も中にはいるようだ。だが、もっと頻繁には、彼等は何事もなかったように振る舞っただけだった。自分達の鼻先で起こっている事態を無視した所有者の白人の妻や娘も同じだった。


そのようなわけで、我々もやっている。何人のアメリカ人の子供が独立宣言の父であるトマス・ジェファーソンが彼の奴隷に子供を産ませた事を知っているだろうか?そして、どれだけのアメリカ人の両親が子供達にこれを知って欲しいと思っているのだろうか?
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/7253a111def132e53dc3d00f01e92977


黒人奴隷もやはりインディオの奴隷と同じ道をたどり、男性は労働力として、女性は性的搾取の対象として扱われた。黒人女性は家事を行ったり、白人の子どもに乳を与えて育てたり、言葉を教えたりする一方で、農園の主の妾として働いた。そのため、黒人は白人の異常な性愛と家庭生活に強く影響したのだ。

大農園の家父長制や奴隷制は、支配階級にある白人達に倒錯した性生活を与えた。若い頃から性的な関係を持ち、親が子に金を渡してでも女を抱かせ、次々と奴隷に手を出していったことで性病が広まり、一方で性病を治すには若い処女とセックスすることが一番の治療であるという迷信まで広まった。そういった理由から瞬く間に性病が広まり、奇形児が誕生するなどの弊害が生まれた。奴隷制の主従関係はまた、白人にサディズムを植え付けるという効果をもたらした。白人の子どもに与えられた奴隷の遊び相手は、殴られるだけのサンドバッグのようであり、そこからはぐくまれたサディズムは、時に黒人に対しての不条理な行為となった。サディズムに関しては、社会に出ていく機会がある男性は、自分の行為が持つ間違

いに気付く機会を持つことが出来たが、農園の中で守られて育った白人女性にはその間違いを知る機会がなく、時に残虐な行為を行うこともあった。しかし、白人女性にとって常に世話をしてくれる黒人奴隷は唯一の理解者でもあり、時には駆け落ちの手助けをすることもあった。黒人奴隷は労働力でもあったが、同時に資産でもあった。結婚するときには嫁入り道具と共に送られることもあったのである。

2. 中川隆[-8555] koaQ7Jey 2019年8月31日 08:30:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4198] 報告
オーストラリア先住民の運命

白人の入植=土地の収奪、虐殺、アボリジニによる抵抗、アボリジニ社会の崩壊 

アボリジニ人口の激減

 1788 推定30万人〜100万人

 1861 18万人

 20世紀前半 6万人

オーストラリアにおける入植期のずれ

1820-30年 牧羊業の発展、自由移民の増加
   (土地が無償あるいは定価で提供された)→ 土地の収奪

1829年 全オーストラリアが英国の領有となる
〜 1850年代  NSW, Vic, Tas, SA, WA, Qld自治植民地成立
   
1901     オーストラリア連邦成立


タスマニアの場合:虐殺、「絶滅」

人口の激減
1788 - 1861 4500人 → 18人
1876 「最後のタスマニア人」トルガニーニ死亡、しかし「絶滅」は事実に反している
                      
 今日約7000人のタスマニア・アボリジニがいる


1803 イギリス人がタスマニア島に入植、「開拓」、匪賊の跳梁、アボリジニの殺害・強姦 → アボリジニの抵抗

1825 ニューサウスウェールズ植民地から分離してヴァンディーメンズランド植民地となる

1827 植民地政府はアボリジニの隔離に乗り出す、実効なし

1828 アボリジニに対する戒厳令、「生け捕り」のための賞金を出す、実質はほとんど殺害される

1830 「ブラック・ライン」(島の東南端に追い込んで捕獲しようとした計画、失敗におわりほとんどが殺害される)

1831 アボリジニの「保護」計画、フリンダース島のワイバリナ居留区にアボリジニを収容 → 2/3以上が死亡

1847 ワイバリナ居留区の生存者(46名)はオイスター湾居留区に移される
1876 最後の一人(トルガニーニ)の死亡でオイスター湾居留区は閉鎖される


ヴィクトリアの場合

タスマニアと同様に人口の激減

1788 - 1861 1万5000人 → 2384人


1830年代 キリスト教会によるミッション開設:「堕落した人々の教化」

1839 アボリジニ「保護官」任命、ポートフィリップ地区着任

1851 ニューサウスウェールズ植民地からヴィクトリア(ポートフィリップ地区)植民地が分離


http://opinion.nucba.ac.jp/~kamada/H19Australia/australia19-3.html
__________________

タスマニア人 皆殺し


19世紀の初頭までタスマニア民族が、暮らしていたタスマニア。
しかし、今はいない。

タスマニア人は一人残らず、イギリス人によって殺された。

アフリカを植民地にしたイギリス人は「猛獣狩り」の楽しみを覚えた。
イギリスの貴族は、今でもキツネ狩りをやってるように、ハンティングが
大好き。

そんなイギリス人が、オーストラリア、タスマニアにやってきた。
しかし、ここにはコアラとか、カンガルーしか住んでいなかった。

退屈した彼らはタスマニア人を狩るようになった。
まるでスポーツみたいにタスマニア人狩りを楽しんだ。

女も、子供も狩の対象になった。
そのあげく、一人もいなくなった。

ひとつの民族が皆殺しにされたという例はほかにない。
ヒトラーはユダヤ人殲滅をやろうとしたけど、結局未遂だった。
しかしイギリス人はタスマニア民族を全滅させた。 


タスマニアンタイガーと同じように、賞金をかけられ絶滅していった島の「いきもの」がいます。19世紀はじめのできごと、ときのタスマニア総督ジョージ・
アーサーは、「生きたまま捕えた成体につき5ポンド、幼体につき2ポンド」の賞金をかけます〔真の趣旨は絶滅を防ぐためだったらしいのですけれど〕。

しかし、結果は逆効果におわります。植民者達は隊を組み分担地域を決め
徹底的な「狩り」を始めてしまったといいます。抵抗するものは虐殺され、けっきょくこの大がかりな「狩り」で捕えられた成体2個体であったとのこと。

その後も、植民者が撃ち殺したり、文明のもたらした病気の蔓延で、このいき
ものの最後の一個体は、1876年に命を落とし、けっきょくその骨格は展示
品として博物館に並べられました。

・・・このいきものとは、タスマニアン・アボリジニ。

最後に生き残ったタスマニアン・アボリジニの女性はトルガニーニという名で、その生涯は、悲劇の歴史の縮図として語り継がれています。

タスマニア・アボリジニーであるトルガニーニの最後の言葉。
それは・・・・「山の裏に私を埋めて」。

良心的な医師たちによって彼女は埋葬されたが、すぐに墓はあばかれ遺体は
切り刻まれ、骨格は展示品として博物館に並べられました
http://airplant-herbcore.cocolog-nifty.com/herbcore/2006/11/post_644a.html


【タスマニア(Tasmania)】

1642年オランダ人探検家アベル・タスマンが到達し、当時のオランダ東インド会社総督ヴァン・ディーメンにちなんで「ヴァン・ディーメンス・ラント」と命名されました。

後にイギリスからの移住民により、タスマニア島と改名されました。
この頃はオーストラリア大陸の一部と考えられていたそうです。

島の原住民である「タスマニア・アボリジニ」は1830年代までブラック・ウォーと呼ばれる戦争を起こしていましたが、敗れ、フリンダーズ島へ強制移住させられるなど激減し、純血のタスマニア・アボリジニはハンティングの獲物とされたといった悲劇を経て1876年に絶滅しました。

1830年、兵士2000人と3万ポンドを注いだ大規模な原住民征討作戦以降で、(原因は土地の所有権争い:入植者には土地が無償あるいは定価で提供されたため、原住民タスマニアアボリジニを追い払った(人間狩りを行なった))

1804年に推定人口2500〜7000人だった原住民は300人くらいまで減らされ、以降、残像する者は漸次、原住民保留置に強制収容されたといいます。

移住者が持ち込んだ病原菌などにも免疫があるわけでなく、徐々に人数を減らし、
1847年には46人にまで減り、1876年、最後の純血の原住民トルガニーニが死亡しました。

現存するのは約100人の混血だけとされます。

1803
イギリス人がタスマニア島に入植、「開拓」、匪賊の跳梁、
アボリジニの殺害・強姦 → アボリジニの抵抗


1825
ニューサウスウェールズ植民地から分離してヴァンディーメンズランド植民地となる

1827
植民地政府はアボリジニの隔離に乗り出す、実効なし

1828
アボリジニに対する戒厳令、「生け捕り」のための賞金を出す、
実質はほとんど殺害される。

1830
「ブラック・ライン」
(島の東南端に追い込んで捕獲しようとした計画、
失敗におわりほとんどが殺害される)

1831
アボリジニの「保護」計画、
フリンダース島のワイバリナ居留区にアボリジニを収容 → 2/3以上が死亡

1847
ワイバリナ居留区の生存者(46名)はオイスター湾居留区に移される

1876
最後の一人(トルガニーニ)の死亡でオイスター湾居留区は閉鎖される


タスマニアン・アボリジニは、西洋人が植民地化する3万年以上も前から、外部との接触が全くなく独特の文化と習慣を守ってきました。

タスマニアが発見された時には、約4000人(諸説あり)のタスマニアン・アボリニがいたと言われています。

大昔はオーストラリアとアジアが陸続き、もしくはかなり近距離だったと学術的には言われてます。

その陸続きの時代に、インドネシア方面からオーストラリアへ渡った原住民が、タスマニアに住み着き、月日を重ねてオーストラリア大陸とタスマニア島が分離され、タスマニア原住民は完全に外部との接触が絶たれたと考古学的な見地で言われています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1424814339


___________________


イギリス人にとっての有色人種とは

マオリ戦士の首 平成19年10月30日

 先日下記のようなニュースがありました。


<マオリ戦士の首>故郷NZへの返還に仏政府が「待った」

 【パリ福井聡】フランス北部ルーアン市が、自然史博物館所蔵の「マオリ(ニュージーランドの先住民族)戦士の首」をニュージーランドに返還しようとしたところ、「事前に相談がなかった。勝手に返還するのはまかりならん」と仏政府が「待った」をかけた。

 同博物館は24日、返還協定を在仏ニュージーランド大使館と結んだ。しかし、アルバネル仏文化相が返還停止を求める行政訴訟を起こし、裁判所は協定締結前日の23日、返還停止を命じた。このため、返還協定締結にもかかわらず、首は当面、フランスにとどまることになった。

 返還が停止されたのは、顔の表面に入れ墨が施されたマオリ戦士ミイラの首。1875年に同博物館に寄贈され、96年まで一般展示されていた。同博物館は10年間の改築を経て今年再オープン。これを機にルーアン市側は「異文化と人間の尊厳への敬意を示すべきだ」(アルベルティーニ市長)、「忌むべき前世紀の密売史を閉じるべきだ」(同博物館館長)と返還を決めた。

 同博物館によると、西欧では19世紀、入れ墨入りの首が装飾品として人気を呼び、中には「輸出するため、頭部に入れ墨を彫られ、殺害された例もある」という。ニュージーランド側は「遺体の尊厳を守りたい」と92年に返還を呼びかけ、これまでに数カ国が応じてきた。

 仏文化省の顧問弁護士は「今回はマオリの首一つだが、今後、ルーブル美術館のミイラなどにも(返還の動きが)波及しかねない」と警戒、マオリの首数点を所蔵するパリのケ・ブランリー博物館も返還には慎重な姿勢を示している。

引用終わり

 「今回はマオリの首一つだが、今後、ルーブル美術館のミイラなどにも(返還の動きが)波及しかねない」

なんという醜い言い種でしょう。

<西欧では19世紀、入れ墨入りの首が装飾品として人気を呼び、中には「輸出するため、頭部に入れ墨を彫られ、殺害された例もある」という。>

 白人というものが、どのような人種であったかということがよく現されているニュースです。

 ニュージーランドのことではありませんが、オーストラリアにおけるアボリジニの運命も同じです。

 一七一七年から一七七六年の間、約四万人の囚人がイギリスからアメリカの植民地に送り込まれている。囚人はイギリスの監獄から船主たちに売り渡され、新大陸に到着すると今度はプランターへと転売された。それが、アメリカの独立戦争により崩壊した。アメリカがイギリスの囚人を受け入れなくなったのです。

 そのため、イギリスは行き場のなくなった流刑判決の囚人たちをテムズ川や軍港の牢獄船に収容し、公共事業などにその労働力を利用しようとしたが、年々増える流刑囚により収容しきれなくなり、オーストラリアに囚人を送り込む事となった。

一七八八年一月二五日にシドニー湾に到着した一一隻の船団にて送り込まれた囚人の数は史料により男性五六三〜五六八人、女性一八九〜一九二人、合計七五二〜七五九人と異なるそうです。

囚人の男と女の比率が四対一という事はどういう結果を招くか。囚人の男達は原住民であるアボリジニの女性を性欲のために強姦した。

 オーストラリアは流刑植民地であったために、流刑者だけでなく、一八〇〇年代になっての一般植民者も多く入植してくるようになる。オーストラリア人にそのルーツを尋ねると、ほとんどは一八〇〇年代にオーストラリアに来たと答えるそうであるが、つまり、わが家の祖先は囚人ではないと言っていることなのです。ところが、この一八〇〇年代の入植者とは本国にいる事の出来ない落ちこぼれ、ならず者、無法者が多かった。
 
 これらの白人が、オーストラリアの原住民であるアボリジニの人々に対してどのような感覚を持って接してきたかが手元にある「オーストラリアの歴史」(藤川隆男著 朝日新聞社刊 朝日選書四〇七 一九九五年)に書かれています。それによると、

 <イギリス政府は、アボリジニを文明人とは見なさなかった。イギリス法上では、タスマニアは征服されたのではなく、発見と植民により獲得された領土であり、そこに住むアボリジニは、市民権のないイギリス臣民として取り扱われた。

タスマニア全島はいまやイギリス国王の所有地であり、征服された国民としての権利さえ失ったアボリジニの土地を守る戦いは、単なる犯罪行為に過ぎなかった。

 「アボリジニはイギリス法の保護の下にある」との宣言が副総督によってしばしばなされたが、実際に保護の手が彼らに差しのべられたことはなかった。イギリス法はアボリジニを殺す権利があるということの偽善的な言い方に過ぎなかったのである>p二九〜三〇

<「アボリジニを民族として把え、その一般的な進歩やそれが習得した事物を比較考量してみると、たとえ野蛮人の間においてさえも、彼らは確実に極めて低い地位にいる。

彼らはおそらく、ホッテントットや寒風吹きすさぶマゼラン海峡に住む部族と順位争いをするのがせいぜいで、繊細なアフリカ人や忍耐強く用心深いアメリカ人や、優美で臆病な南海の島の住民と較べれば非常に見劣りがする。・・・・これほど文明から懸け離れた状態はほとんどないと主張できるだろう」


「自然状態は、崇高な研究や無限の推論をすることができる存在の幸福を増進するには、最も適さないものである。荒野の中の獲物を求めてさまよい歩く野蛮人は、我々の本性を堕落させ、苦しめるすべての感情によって醜悪な姿となった生き物である」>(シドニーの最初の四年間)士官ワトキン・テンチ)p四七〜四八


 これらはどういう事か。アボリジニを人間として見ていなかったのです。その結果、下記のような悲劇が起こされる事になる。

以下引用

 <一八二六年一一月、副総督アーサーは、入植者たちの強い要求に押されてアボリジニを武力で追い払う権利を彼らに与え、必要ならば軍隊による支援を行なうと宣言した。『コロニアル・タイムズ』紙によれば、これはアボリジニに対する公式の宣戦布告にほかならなかった。


 略)

 一八二九年一一月一日、副総督アーサーは定住地にいるアボリジニに対して戒厳令を布告した。これによって、理由のいかんを問わず、ヨーロッパ人がアボリジニを射殺しても起訴されない法的根拠が与えられたのである。

ここににアボリジニに対する絶滅戦争は最終局面を迎える。戒厳令とともに、定住地に残るアボリジニを掃討するための小規模な遠征隊が組織され、内陸部へ分け入ってアボリジニを捕獲あるいは射殺する任についた。

一八二八年から三〇年にかけて、遠征隊によって殺されたアボリジニの数は約六〇、捕えられた者は約二〇人と報告されている。

 略)

 彼の部隊(ジョン・バットマン率いる遠征隊)はペントモンド山の東側の斜面でアボリジニのキャンプ地を発見した。バットマンは奇襲攻撃かけようとしたが、銃が暴発したのでこれに失敗し、逃げるアボリジニに銃を乱射して、逃げ遅れた子供と女一人を捕らえただけでに終わった。しかし、農場への帰途で「幸運にも」彼は二人の傷ついたアボリジニを発見する。この二人の男は歩けなかったので殺さざるをえなかった、とバットマンは述べた。

バットマンは遠征の功績を認められ、二〇〇〇エーカーの土地を副総督アーサーから与えられた。彼は後にこれを売って七五〇ポンドの利益を得た。人間狩りには十分すぎるほどの報酬であろう。>p五三〜五四


 <ヴァン・ディーメンズ・ランド会社に雇われた牧羊夫たちは、アボリジニの女性を誘拐した。これを取り戻そうとしたアボリジニは、牧羊夫に攻撃をしかけ一人の男に重傷を負わせたが、逆にこの攻撃のリーダーだった人物も殺される。

アボリジニは、再度報復の為に二〇〇フィートの岸から三〇頭の羊を追い落とした。これに対し四人の牧羊夫は、アボリジニの部族に奇襲攻撃をかけて三〇人を虐殺して、同じ崖から突き落としたのである。

この崖はこの時の戦功を記念して「勝利の丘」と呼ばれるようになった>p五四〜五五


 <一八二九年の冬に、アーサーは定住地域に残るアボリジニの数を約二〇〇〇人と見積もっていたが、実際には一〇〇人にも満たなかった。それにもかかわらず、アボリジニの抵抗は弱まらなかった。

略)

 一八三〇年、アーサーは定住地に残るアボリジニを完全に相当する作戦を決定した。この作戦は地図のラインから出発して、アボリジニを捕らえるか殺しながら徐々に南に追い詰め、最終的にタスマン半島に追い込むことを目的としていた。

 一〇月七日、約二〇〇〇人の兵士、囚人、自由人が長大な人間の鎖を造って、アボリジニを南へ追い立てる作戦が始まった。カンガルー猟を思い越させる人間の鎖は「ブラックライン」として語り継がれていく。

彼らは一〇〇〇丁の銃と三万発の弾丸、三〇〇の手錠を用意して、七週間にわたって作戦を継続した。しかし、この作戦で捕えられたアボリジニは二人しかおらず、ほかに二人を射殺しただけに終わった。

当時の人々は、この作戦を大失敗であると批判したが、実はほぼ完全な成功を収めていたのである。アボリジニが二人しか捕獲できなかったのは、入植者の予想に反してアボリジニがもはやほとんど生存していなかったからであった。>p五六

 
 これは、今回のマオリ戦士の首の話と共通するもので白人というものをよく現す例です。

 オーストラリアでは二〇世紀になっても獲物としてのアボリジニ二狩りは行なわれていました。

<ニューサウスウエールズ州の国会図書館所蔵の日記には『一九二八年、今日の収穫、ウサギとアボリジニ二七人・・・・」という記述があった>(「残酷な楽園」隆籏学著より)私の引用は「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山正之著 廣済堂)p一七三より

 当然のことながら有色人種差別を制度化して白豪主義をとり続けていたオーストラリアでは、辛うじて生き残ったアボリジニの人々は、一九六〇年代までオーストラリア国民としてさえ認められていなかったのです。

タスマニア・アボリジニの悲劇


 タスマニア・アボリジニはオーストラリア大陸のアボリジニと人種的に別だったといわれていますが、すでにタスマニア・アボリジニが虐殺により全滅してしまった現在ではわかりません。
 
 アボリジニは、肌が黒いという以外は近隣のメラネシア人やアフリカの黒人とはまったく似ていない人種です。アボリジニの多くは金髪であり、特に子供においてはその特徴は顕著です。 

 アボリジニに対してのイギリス人はどのように接したか。「オーストラリア歴史の旅」(藤川隆男著)に下記のように書かれている。

 アボリジニは食糧のかわりに女性を提供したが、深刻な労働力不足に悩んでいた入植者は、女性よりも子供に魅力を感じた。

略)
 入植者はすぐにもっと手っ取り早い方法、誘拐で労働力の確保を目指すようになった。
略)

 アボリジニは、ヨーロッパ人との間にギヴ・アンド・テイクの原則に基づく友好的な関係を築き、侵略者と共存する用意はあったが、従来の生活様式その他すべての文化を棄て、ヨーロッパ人の社会に吸収されるつもりはなかった。他方入植者の側には、アボリジニを先駆者あるいは正当な土地の所有者として受け入れるつもりは全くなく、土地を奪い取った代価を払う必要があるなどとは考えてもみなかった。
 p五一

 白人侵略者の徹底した掃討作戦によってアボリジニが絶滅の危機に瀕していた時、一人の救世主が現れた。その名をジョージ・オーガスタス・ロビンソンという。彼は副総督アーサーの要請に基づいて、非定住地域に残るアボリジニを集め、白人の殺戮の手が届かない場所へ移住させる計画に着手した。
略)

 アーサーは、一八二六年の時点ではタスマニア北東部に原住民保護区を作る考えであり、ブラック・ラインのときには、タスマン半島をその安住の地とするつもりであった。しかし、そのいずれもが失敗した現在、アーサーはロビンソンの提案に同意し、バス海峡(タスマニアとオーストラリアを隔てる海峡)に浮かぶ小島に、残ったアボリジニを収容する施設を作ることに決定する。

 ロビンソンは、アボリジニの救世主ではあったが、白人の神に仕えていた。彼は、先祖伝来の土地から引き離すことによってのみ、アボリジニをキリスト教化し、優れた文明の本質を教え込むことができると信じた。彼は、アボリジニの文化をすべて奪い取ることが、アボリジニの救済の前提条件だと信じていたのである。このような考え方を当時の裁判所長官ベダーは、次のように批判している。

 「もし、アボリジニを離島へ送れば、彼らがこれまで亭受してきた移動の自由や狩猟の自由はなくなり、希望のない監獄に閉じ込められた生活の中で、彼らはすぐに衰減するであろう」

 しかし、ペダーに対し、アーサーは次のように反論した。

 「たとえアボリジニが離島の中で、我々のあらゆる善意に囲まれて滅亡したとしても、それは白人との戦いの中でアボリジニが英雄のごとく滅亡していくよりもはるかに望ましい」

 ロビンソンは、彼が集めたアボリジニがペダーの予言どおりに、白人の監視下で次から次へと死ぬのを横目で見ながら、彼らを絶滅から救うために、生き残ったアボリジニのすべてをタスマニア全島から集めることに全力を傾けた。

いまやロビンソンは手段を選ばなかった。実現するはずのない約束や銃の力を用いてもアボリジニの捕獲を続けた。

バス海峡にあるフリンダース島の収容施設には、一八三三年に四三人のアボリジニが、翌年には四二人が送り込まれた。しかし、この二年間で五一人のアボリジニが死亡している。

 フリンダース島では、アボリジニたちはヨーロッパ文明の「恩恵」を拒絶し、農業に従事することを拒んだ。

監督官たちは、これを口実として肉や新鮮な野菜をアボリジニに与えなかった。

アボリジニ一人が一日につき配給された食料は、塩づけ肉四五〇グラム、小麦粉四五〇グラム、ビスケット二二五グラム、砂糖七グラム及び塩である。

アボリジニは塩づけ肉を食べられなかったので、栄養不足を補うには狩猟をせざるをえなかった。しかし、多くの者は病気で狩猟ができないか、狩りを禁じられているか、あるいは何も狩るものがないかのいずれかであった。

p五八


 タスマニア・アボリジニが紳士と言われるイギリス人により亡ぼされた様子がよくわかります。そして、白人は他の地域でも同じ事を繰り返したのです。


最後のアボリジニ

 タスマニア島では三万七〇〇〇人(*1)いたとされるタスマニア・アボリジニですが、一八四七年、フリーダース島の収容所で生き残ったたった四七人のタスマニア島に送り返された。

 その時の状況について「オーストラリア歴史の旅」に下記のように書かれている。

以下引用

 この移動の主な理由は、フリンダース島の施設は経費がかかりすぎるという点にあった。彼らの行き先は、健康上有害という理由で放棄された衆人収容所であった。

 ここでは、アボリジニはより大きな自由と少しは栄養のある食事を一時的に与えられたが、マラリアなどの伝染病によって一八五四年までに彼らの数は一七人となる。

一八五五年に自治政府がタスマニアに成立した後は、食事が減らされ、収容所は廃虚のような有り様を呈する。

慈悲深い人道主義者たちの来訪も途絶えがちとなり、タスマニア政府は、彼らの滅亡を願って、最小限の支出さえも惜しむようになった。こうして、一八六八年にはついに三人のアボリジニが残るのみとなった。

「オーストラリア歴史の旅」藤川隆男著 朝日新聞社 p六〇


 そして、一八六七年五月八日に最後の純血タスマニア・アボリジニであったトルゥガニニが死に、その血は絶えた。

 一八一二年に生まれたトルゥガニニの母はアザラシ捕りの一団に刺し殺され、妹は同じくアザラシ捕りに誘拐され、のちに射殺されている。また彼女の婚約者は、彼女が木こりたちに誘拐されるのを防ごうとして溺れ死んだ。

 彼女は亡くなる時にその故郷に埋葬される事を望んだが、彼女の遺体はホーバート病院に移され、植民地首相の命令で、五月一一日に葬儀が行なわれて遺体は教会の前に手厚く葬られたが、イギリス人がその墓をあばき、三つのグループにより盗み出される事になる。最初のグループが頭部を盗み出し、次のグループがばらばらに切断された四肢と胴体を盗み出した。 

最後のグループはわずかな肉片しか残ってなかった。彼女の遺骨は考古学上の珍品として高い値がついたそうであるが、一八七八年、タスマニア王立協会の博物館がその遺骨を入手し、一九〇四年から一九四七年までその博物館で一般に公開された。タスマニアン王立協会のストックウェル博士にいたってはトルゥガニニの皮膚で煙草入れを作成し愛用していたという。

 やっとタスマニアのアボリジニの要求で政府が彼女の遺骨を火葬にすることを同意したのは一九七四年になってからです。

 このタスマニア・アボリジニに対してのイギリス人の接し方は、大東亜戦争における我国の捕虜収容所における収容者に対しての扱いと共通するところが多々あります。

 そして、アボリジニの人権が認められたのは大東亜戦争後、一九六〇年代になってからです。

http://www.tamanegiya.com/mario19.10.30.html


オーストラリアへの白人侵略者達の到来は、史上最も大規模な人種絶滅の殺戮の実例の開始を告げた。百年間のうちに、アボリジニー人口の80%(もっと大きい数字だと言う人さえいるが)もの人々が白人侵略者達に直接に殺されるか、あるいは、この侵略の結果として死亡した。

彼らの死は至る所にあった。いくつかの事例では、土地、水等の使用をめぐる特定の衝突から起きた手当たり次第の殺人の故であり、又、白人の集団によるアボリジニーの大集団の大量虐殺の故であった。

こうした殺戮は、アボリジニー狩りと呼ばれ、カンガルー狩りとほとんど同じ様な調子で行われた。

これらの殺戮は公認のことがよくあったが、公認されていたかどうかに関わらず、白人はほとんど、アボリジニー殺害の故に裁判にかけられる事はなかった。

信じられない様な残酷さについての報告は沢山ある。

あるアボリジニーの集団の数少ない生き残りが伝えた事件では、何人ものアボリジニーの赤ん坊が首のところまで土に埋められ、それらの首はどれだけ遠くに飛ばせるか競争するために蹴り飛ばされた。

同時に女性達は計画的に強姦され、そして膣を貫いて身体を串刺しにして殺された。

最後に男性達は生殖器を切り落とされ、放置されて出血多量で死んだ。

毒薬も又、アボリジニー達を殺すために計画的に用いられた。

毒入りの小麦粉が配られたり、あるいはもっとよく使われた手口としては彼らが生きていくのに必要としていた水の井戸に毒が入れられた。


 新しくある地域を奪い取った(植民した)時には、白人達は水利のある最良の平地へ素早く移動した。

その為アボリジニー達はどんどん、高所の乾燥し辺鄙な土地へと追いやられた。

アボリジニー達が川や井戸に近付こうとして銃撃されることはよくあった。

白人達は野性の動物も追い立てたり、殺したりし、それらの替わりに羊や家畜を連れてきた。

多数のアボリジニーが数少ない水資源と食糧の周りに集まっていたので、水と食糧の供給に対する圧力が大きくなり過ぎた時には、無数の者が餓死した。

 アボリジニーの女性達が強姦される事は頻繁にあったが、誘拐されて、検査官、羊飼い、垣根守り達の性的な、又個人的な奴隷にされることも多かった。

アボリジニー達の聖地は、ある時は無意識に、しかしそれ以上頻繁に意図的にその神聖さを冒涜された。儀礼上の営みは徹底的に打ち砕かれた。

黒人達のいかなる大規模な集いも、植民者達の集落に対する潜在的脅威と見なされて、解散させられた。残虐な形で解散させられる事も稀では無かった。

「ドリームタイム」伝説の、ある世代から次の世代への伝承は、諸々の部族集団の非常に多くの構成員が死亡したり離散したために、破壊されてしまった。

自分達の伝統的な土地を強奪されたことの心理的、又社会的影響が、巨大な衝撃を与えて、道徳的頽廃が生まれ、又一方で、アルコール(これも彼らには初めてのものだった)によって事態が一層悪化する中で、数多くのアボリジニーの集団の部族的生活の解体が進行した。

 アボリジニーのオーストラリア全体を乗っ取ろうとした事の経済上の動機は、当時イギリスで勢いのあった社会ダーウィニズムのイデオロギーによって補強されていた。

社会ダーウィニズムによれば、人類に進化の位階があり、あらゆる階級と人種のうち、上流階級の西洋白人男性は生まれながらにして優越した存在なのであった。

自分達よりも洗練されていない技術しか持たず、中央集権的政治構造や土地の固定した私的所有制をも持っていなかったアボリジニー達に遭遇した時、アボリジニー達はやがて死滅することが不可避な、原始的な「石器時代」の人間達であるとの見解が取られた。

従って、アボリジニー達の殺害は殺人とはならず、優越した進んだ文化と劣等の死滅しつつある文化との衝突の不可避の結果とされた。このような態度はオーストラリアに、今日まで長い間にわたって残って来た。

アボリジニーの大半は全国約250ヶ所の mission station(ミッション・ステーション:宣教師定住地)又は reserve(リザーブ:居留地)に集められた。

互いに言葉の通じない集団も、あるいは互いに関係を持つことがタブーとなっている集団も一緒くたに放り込まれた。これらの国家と教会によるミッション(宣教師定住地)は、キリスト教道徳とキリスト教への教化を特徴としていた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1310865348

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史3掲示板 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史3掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
近代史3掲示板  
次へ