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なかにし礼の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1234.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 1 月 04 日 12:37:07: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 川端康成の世界 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 27 日 19:27:00)


381可愛い奥様2020/12/27(日) 19:25:44.56ID:PCLbmfwo0

なかにし礼の実兄、中西正一の娘の中西美乃生は森田童子って知ってた?

森田童子の旦那がアドプロモーション社長の前田亜土(前田正春)
なかにし礼の兄は住吉連合の構成員だった、風吹ジュン軟禁事件の首謀犯
4人とも亡くなってるけど

豊悦がなかにし礼で、兄役がたけしのドラマが昔あったわ
現実はもっとドロドロだったんだね

なかにし礼はキャンディーズに1曲だけ作詞しているけど、
ナベプロとも何かありそうね
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/ms/1608963474/381


森田童子 ぼくたちの失敗
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1022.html

森田童子 ぼくたちの失敗
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html


▲△▽▼


なかにし礼
誕生 中西 禮三(なかにし れいぞう)
1938年9月2日満州国、牡丹江省牡丹江市
死没 2020年12月23日(82歳没)

職業 小説家、作詞家
最終学歴 立教大学文学部仏文科

代表作 作詩
『天使の誘惑』
『今日でお別れ』
『北酒場』
『石狩挽歌』
『時には娼婦のように』

小説
『兄弟』
『長崎ぶらぶら節』
『赤い月』
『夜の歌』

オペラ
『天国と地獄』
『ワカヒメ』
『静と義経』

主な受賞歴 日本レコード大賞(3回)
日本作詩大賞(2回)
直木三十五賞(2000年)

配偶者 石田ゆり(中西由利子)

なかにし 礼(なかにし れい、1938年9月2日 - 2020年12月23日)は、日本の小説家、作詞家。本名は中西 禮三(なかにし れいぞう)。

満州国の牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)に生まれる。元は北海道小樽市に在住していた両親は、渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満州からの引き揚げでは家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな影響を与えた。8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで小学校は東京と青森(青森市立古川小学校)で育ち、中学から東京品川区大井町に落ち着く[1]。青森市在住時には入会していた読売ジャイアンツのファンクラブの誘いで青森市営野球場での試合のバットボーイを担当したが、その試合は藤本英雄が日本初の完全試合を達成することとなった。東京都立九段高等学校卒業後、一浪して1958年に立教大学文学部英文科に入学する。中退と再入学と転科を経て、1965年に立教大学文学部仏文科を卒業する(立教仏文の第1期生)。その後、東京に在住。実兄は立大から学徒出陣として陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。

大学在学中、1963年に最初の妻と結婚する。一女をもうけ、1966年に別居、1968年に離婚する[2]。

元タカラジェンヌで、シャンソン歌手の深緑夏代に依頼されたことがきっかけで始めたシャンソンの訳詞を手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルのバーで『太平洋ひとりぼっち』(映画1963年公開)を撮影中の石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。石原に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1年後に作詞作曲した作品(後の「涙と雨にぬれて」)を自ら石原プロに持ち込んだ。それから数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」がヒットする。 1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の執筆や文化放送『セイ!ヤング』パーソナリティ、NHK『N響アワー』レギュラーなども務める。

1971年、週刊ポスト(7月9日号)に俳優や歌手などの乱れた関係を暴露する「芸能人相愛図」を掲載するが、後に、週刊ポストの記者から強要されて書かされたものだとして告訴。記者2人が逮捕される事件へ発展する[3]が、後に和解した。

若い時から繰り返した心臓疾患、離婚、特攻隊の生き残りで戦後、鰊漁に投資した兄の膨大な借金を肩代わりして返済に苦しむなどの困難を抱えたこともある。1998年にその兄を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆する。

テレビ朝日系列で放送されているワイドショー『ワイド!スクランブル』のコメンテーターを務めていたが、2012年3月5日の放送で、食道癌であることを報告。治療のため休業することを明らかにした[4]。医師たちから抗がん剤、放射線治療、手術という治療法の説明を受けるが、自身の心臓は長い手術や放射線治療には耐えられないと考え、インターネットを活用して陽子線療法の存在を見つける。2012年2月から6月にかけての闘病の様子は著書『生きる力 心でがんに克つ』に詳しい。闘病の結果がんを克服、同年10月に復帰。執筆、コメンテーター等の仕事も再開した。

2015年3月、自身のラジオ番組「なかにし礼「明日への風」」で癌を再発し、休養することを明らかにした[5]。その後、同番組を休止することが発表された[6]。

2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。2012年のがん闘病以降、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや核兵器・戦争への反対を訴える著述が多く、自ら「僕たち戦争体験者は若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」とも語っている。核兵器、原発に反対する歌「リメンバー」(歌唱:佐藤しのぶ)の作詩、毎日新聞からの依頼で書き起こした詩「平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう」など、平和で自由に生きることを人間の根源的な権利とする主張を続けている。2015年6月、『サンデー毎日』で小説「夜の歌」連載開始。戦争体験が自分をどう作り上げてきたか、自らの戦争体験に基づき内面的な葛藤を描いた、もう一つの自伝的小説と言える。2015年9月、『週刊現代』のインタビューで再発がんが消えたことを語り、公式サイトでも発表。テレビ出演などの活動も再開。

2016年4月、植え込み型除細動器(ICD)と心臓ペースメーカーを体内に植え込む手術を受ける[7]。2016年12月、サンデー毎日に連載していた「夜の歌」が単行本化され発刊。がん再発、穿孔による大量出血の危機が迫る危機的状況の中で書き始められた小説である。2016年、BS日テレの報道番組「深層NEWS」に毎月1回のペースでほぼ定期的に出演した。2017年10月、『サンデー毎日』でエッセイ「夢よりもなお狂おしく」連載開始。2018年10〜12月、読売新聞連載記事「時代の証言者」(「言葉を紡いで」なかにし礼)。

2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため東京都内の病院で死去[8][9]。82歳没。


作品

主な作詞曲

あ行
朝丘雪路 - 「雨がやんだら」(1970年)
梓みちよ - 「風来坊」(1968年)
アン・ルイス - 「グッド・バイ・マイ・ラブ」(1974年)
石川さゆり - 「風の盆恋歌」(1989年)
いしだあゆみ
「恋のシャドー」(1967年)
「喧嘩のあとでくちづけを」(1969年)
「あなたならどうする」(1970年)
「昨日のおんな」(1970年)
「何があなたをそうさせた」(1970年)
石原裕次郎
「男の嵐」(1967年)
「帰らざる海辺」(1967年)
「ひとりのクラブ」(1967年)
「サヨナラ横浜」(1971年)
「何故か愛せない」(1972年)
「不思議な夢」(1976年)
「みんな誰かを愛してる」(1979年)西部警察主題歌
「よこはま物語」(1980年)
「時間よお前は」(1982年)西部警察主題歌
「勇者たち」(1983年)西部警察主題歌
「さよならは昼下り」(1985年)
「わが人生に悔いなし」(1987年)
『男の詩/石原裕次郎 なかにし礼を歌う』アルバム(1972年)
市地洋子 - 「恋算数」(1970年)
岩崎宏美 - 「女優」(1980年)
岩崎良美
「赤と黒」(1980年)
「あなた色のマノン」(1980年)
小野木久美子 - 「マジカル・ナイト」(1979年、『ザ・スーパーガール』主題歌)
奥村チヨ
「恋の奴隷」(1969年)
「恋泥棒」(1969年)
「恋狂い」(1970年)
「中途半端はやめて」(1970年)
尾崎紀世彦
「五月のバラ」(1973年)
「許しておくれ」(1974年)
「サマー・ラブ」(1987年)

か行
川中美幸 - 「愛は別離(わかれ)」(1986年、『必殺仕事人X・旋風編』『風雲竜虎編』主題歌)
北島三郎 - 「まつり」(1984年)
北原ミレイ
「石狩挽歌」
「春」
キャンディーズ - 「哀愁のシンフォニー」(1976年)
黒沢年男/なかにし礼 - 「時には娼婦のように」(1978年、作曲も担当)
グラシェラ・スサーナ -「サバの女王」(1972年)
琴風豪規 - 「まわり道」(1982年)
小林旭 - 「思いやり」(1982年)
小柳ルミ子
「京のにわか雨」(1972年)
「冬の駅」(1974年)
「ひとり歩き」(1978年)

さ行
ザ・キング・トーンズ - 「暗い港のブルース」(1970年)
ザ・ゴールデン・カップス
「いとしのジザベル」(1967年)
「愛する君に」(1968年)
ザ・ドリフターズ
「ズッコケちゃん」(1967年)
「のってる音頭」(1968年)
「ドリフのズンドコ節」(1969年)※補作詞のみ
「大変歌い込み」(1969年)
「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」(1970年)※替詞のみ。原詞は野村俊夫
「冗談炭坑節」(1970年)
「誰かさんと誰かさん」(1970年)
「ドリフのおこさ節」(1970年)
「ドリフのツンツン節」(1971年)
「ドリフ音頭 北海盆歌より」(1971年)
「ドリフのツーレロ節」(1971年)
西城秀樹
「サンタマリアの祈り」(1980年)
「Blue Sky」(1988年)
「夏の誘惑」(1988年)
坂本スミ子 - 「夜が明けて」(1971年)
五月みどり - 「熟女B」
佐良直美 - 「風のメロディー」(1978年)
志学館中等部・高等部 - 「志学館高等学校校歌」(1983年)
島倉千代子 - 「愛のさざなみ」(1968年)
島津ゆたか
「ホテル」(1985年)
「くせになりそう」(1986年)
下成佐登子
「花のささやき」(1985年、世界名作劇場シリーズ『小公女セーラ』オープニングテーマ)
「ひまわり」(1985年、同上・エンディングテーマ)
菅原洋一
「知りたくないの」(1965年)
「今日でお別れ」(1969年、第12回日本レコード大賞受賞)

た行
タマコ
「私は私」(1970年/作曲:藤本卓也)
ザ・タイガース
「花の首飾り」(1968年)【補作詞】
「美しき愛の掟」(1969年)
ちあきなおみ - 「私という女」(1971年)
鶴岡雅義と東京ロマンチカ - 「君は心の妻だから」(1969年)
ザ・テンプターズ - 「エメラルドの伝説」(1968年)
TOKIO
「AMBITIOUS JAPAN!」(2003年)
「駅・ターミナル」(2003年)
玉井邦彦(東京放送児童合唱団) - 「あっそうか!」(1986年)
トニーズ - 「アカプルコの娘」(1967年)

な行
奈美悦子 - 「大阪ブルース」(1967年)
丹羽応樹 - 「恋路海岸」(1978年)
NEWS - 「星をめざして」(2007年)
野口五郎 - 「愛の証明」(1980年)

は行
ハイ・ファイ・セット - 「フィーリング」(1976年)【日本語詞】
橋幸夫
「そばにいておくれ」(1967年)
「少年時代」(1973年)
ハナ肇とクレージーキャッツ - 「酒のめば」(1969年)
氷川きよし
「櫻」(2012年、第45回日本作詩大賞受賞)
「母」(2020年、作詞家としての遺作)
ピーター(池畑慎之介☆) - 「夜と朝のあいだに」(1969年)
ザ・ピーナッツ
「恋のフーガ」(1967年)
「恋のオフェリア」(1968年)
「愛のフィナーレ」(1968年)
「ガラスの城」(1968年)
「帰り来ぬ青春」(1975年)
弘田三枝子 - 「人形の家」(1969年)
布施明 - 「バラ色の月」(1969年)
フランク永井 - 「生命ある限り」(1967年)
ザ・ブルーインパルス
「太陽の剣」
「夜明けに消えた恋」
「メランコリー東京」
「小さな恋人」
ペドロ&カプリシャス - 「別れの朝」(1971年-日本語詞)
細川たかし
「心のこり」(1975年)
「みれん心」(1975年)
「北酒場」(1982年、第24回日本レコード大賞受賞)
「星屑の街」
「酒場であばよ」
「人生航路」
「うかれ節」
「ねぶた」(2011年)
「津軽へ」(2012年)

ま行
前川清 - 「花の時・愛の時」(1987年)
黛ジュン
「恋のハレルヤ」(1967年)
「霧のかなたに」(1967年)
「乙女の祈り」(1968年)
「天使の誘惑」(1968年、第10回日本レコード大賞受賞)
「夕月」(1968年)
「不思議な太陽」(1969年)
「雲にのりたい」(1969年)【補作詞】
「涙でいいの」(1969年)
「土曜の夜何かが起きる」(1969年)
「自由の女神」(1970年)
「時は流れる」(1970年)
水原弘
「さよならは言えない」(1969年)
美空ひばり
「かもめと女」(1974年)
「むらさきの涙」(1974年)
「かすりの女」(1974年)
「初恋」(1974年)
「しのび泣き」(1974年)
「年下の人」(1974年)
「女の部屋」(1974年)
「許して下さい」(1974年)
「雨の日記」(1974年)
「金の星」(1974年)
「恨んでいます」(1974年)
「海で死んだ人」(1974年)
「傷心 (いたみ) 」(1976年)
「さくらの唄」(1976年)
「おんな酒」(1976年)
「われとわが身を眠らす子守唄」(1988年)
「終りなき旅」(1988年)
ムッシュかまやつ - 「20才のころ」【安井かずみとの共作】
森進一
「港町ブルース」(1969年)【補作詞】
「波止場女のブルース」(1970年)
森昌子
「バラ色の未来」(2006年)

や・ら・わ行
矢沢永吉
「いつか、その日が来る日まで...」(2019年)
「海にかかる橋」(2019年)
由紀さおり - 「手紙」(1970年)
RYTHEM - 「ブルースカイ・ブルー」(2003年)
レイジー
「地獄の天使」(1978年)
「ハローハローハロー」(1978年)
ロス・インディオス - 「知りすぎたのね」(1968年、作曲も担当)
和田アキ子
「涙の誓い」(1971年)
「美しき誤解」(1974年)
「バ・カ・ダ・ネ」(1985年)
「愛、とどきますか」(1992年)


アルバム

マッチ箱の火事(フォーライフ・レコード、1977年、なかにしが自ら全作詞・全作曲・全歌唱した作品)
黒いキャンバス(東芝EMI、1979年、なかにしが自ら全作詞・全作曲・全歌唱した作品)
昭和 忘れな歌〜なかにし礼アンソロジー〜(ユニバーサル ミュージック、2004年 - 作詞・訳詞曲を集めた3枚組アルバム)[10]
なかにし礼と12人の女優たち(日本コロムビア、2015年1月、映画・舞台・ドラマなどを通じて縁のある12人の女優たちがなかにし礼作品を歌唱)
なかにし礼と75人の名歌手たち(日本コロムビア、2015年11月) - 作家生活50周年記念のオムニバスアルバム [11]
なかにし礼と13人の女優たち(日本コロムビア、2016年9月、なかにし礼 作詩家・作家生活50周年記念アルバム、シリーズ第2弾)


クラシック音楽

ベートーヴェン「歓喜の歌」(交響曲第9番終曲の日本語訳)
モーツァルト歌曲集(日本語訳 音楽之友社)
西村朗:合唱曲「そして夜が明ける」(作詞 NHK全国学校音楽コンクール課題曲)
ジャック・オッフェンバック:オペラ「天国と地獄」(日本語訳)[12]
三木稔:オペラ「ワカヒメ」(台本)[13]
三木稔:オペラ「静と義経」(台本)[14]
三枝成彰:オラトリオ「ヤマトタケル」(台本)[15]
小六禮次郎:世界劇「眠り王 -愛とまごころの約束-」(作・構成)
小六禮次郎:世界劇「黄金の刻 -愛と永遠の絆-」(作・構成)
甲斐正人:世界劇「源氏物語」(作)


著書

詞集
『エメラルドの伝説』(作品集 新書館、1969年)
『シャンソン詩集141・さらば銀巴里』(さがみや書店、1991年)
『なかにし礼訳詞によるモーツァルト歌曲集』(音楽之友社、1991年)
『昭和忘れな歌―自撰詞華集』(新潮文庫、2004年)
絵本詩集『金色の翼』(響文社、2014年)
『平和の申し子たちへ 泣きながら抵抗を始めよう』(毎日新聞社、2014年)

創作
『花物語』(新書館、1970年、のち新潮文庫)
『昭和左膳只今参上』(東京スポーツ新聞社、1970年)
『大人の紙芝居・まぼろし劇場―丹下左膳 暁のG線上に死す』(継書房、1973年)
『兄弟』(文藝春秋、1998年、のち文春文庫、新潮文庫)
『長崎ぶらぶら節』(文藝春秋、1999年、のち新潮文庫、第122回直木三十五賞受賞)
『赤い月』(新潮社、2001年、のち新潮文庫、文春文庫、岩波現代文庫)
『てるてる坊主の照子さん』(新潮社、2002年、のち新潮文庫) - 2003年度のNHK連続テレビ小説『てるてる家族』としてドラマ化
『夜盗』(新潮社、2003年、のち角川文庫)
『さくら伝説』(新潮社、2004年、のち新潮文庫)
『黄昏に歌え』(朝日新聞社、2005年、のち幻冬舎文庫)
『戯曲 赤い月』(河出書房新社、2005年)
『戦場のニーナ』(講談社、2007年、のち講談社文庫)
『世界は俺が回してる』(『産経新聞』2009年1月1日-8月31日 角川書店、2009年)『イカロスの流星』文庫 -『世界は俺が回してる』の鍵となる曲を集めたイメージ・サウンドトラックCD(ソニー・ミュージックダイレクト、2009年)
『なかにし礼と12人の女優たち』(日本コロムビア、2015年)-12人の女優によるなかにし礼作詩曲の競演アルバム
『なかにし礼と75人の名歌手たち』(日本コロムビア、2015年)-作詩家・作家生活50周年記念アルバム。時代を追ってオリジナル歌手の歌唱で収録されたコンピレーションアルバム
『なかにし礼と13人の女優たち』(日本コロムビア、2016年)-女優たちによるなかにし礼作詩曲の競演アルバム、前作のヒットにより第2弾リリース。
『昭和レジェンド 美空ひばりと石原裕次郎』(テイチクエンタテインメント、2016年)-なかにし礼が手掛けた、美空ひばり・石原裕次郎のすべての音源を収録。
『夜の歌』(毎日新聞出版、2016年、のち講談社文庫) - がん再発との闘いの中で執筆開始した「サンデー毎日」連載小説の単行本化。


随筆・その他
『ズッコケ勝負―終わりなき愛の遍歴』(双葉社、1969年)
『青春の愛について』(新書館、1972年)
『遊びをせんとや生まれけむ〜なかにし礼の作詩作法』(毎日新聞社、1980年)
『音楽への恋文』(共同通信社、1987年) - 「音楽の話をしようす」(改題、新潮文庫)
『翔べ!わが想いよ』(東京新聞出版局、1989年、のち文春文庫、新潮文庫) - 自伝
『時には映画のように』(読売新聞社、1997年) - 「口説く」(改題、河出文庫)、「恋愛100の法則」(改題、新潮文庫)
『愛人学』(河出書房新社、1997年、のち河出文庫)
『天上の音楽・大地の歌』(音楽之友社、2001年)
『道化師の楽屋』(新潮社、2002年、のち新潮文庫)
『さくら伝説―松坂慶子写真集』(フォーブリック、2002年) - 原作・監修
『人生の黄金律 自由の章―なかにし礼と華やぐ人々』(2003年、清流出版)- 対談集
『月夜に飛んで人を斬る』(作画:ふくしま政美、芳文社、1979年)- 劇画原作
『三拍子の魔力』(毎日新聞社、2008年)
『歌謡曲から「昭和」を読む』NHK出版新書 2011
『人生の教科書』(ワニブックス、2012年)
『生きる力 心でがんに克つ』(講談社、2013年)
『天皇と日本国憲法 反戦と抵抗のための文化論』(毎日新聞社、2014年)
『生きるということ』(毎日新聞社、2015年)
『闘う力 再発がんに克つ』(講談社、2016年)
『芸能の不思議な力』(毎日新聞出版、2018年)
『がんに生きる』(小学館、2018年11月)
『わが人生に悔いなし 時代の証言者として』(河出書房新社、2019年7月)
『作詩の技法』(河出書房新社、2020年10月)

翻訳
ドーデ『哀愁のパリ・サッフォー』(角川文庫、1970年)
ラディゲ『ラディゲ詩集』(弥生書房、1973年)

映画
コント55号とミーコの絶体絶命(1971年、出演)
超能力だよ全員集合!!(1974年、出演)
時には娼婦のように(1978年、原案、脚本、出演)
動天(1991年、企画、原作)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E7%A4%BC


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なかにし礼『兄弟』
https://www.miray.tv/2019/03/01/%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%ab%e3%81%97%e7%a4%bc%e3%80%8e%e5%85%84%e5%bc%9f%e3%80%8f%e3%81%ae%e3%81%82%e3%82%89%e3%81%99%e3%81%98/

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「兄弟」と「赤い月」をつないだ直木賞 なかにし礼さんを悼む
2020年12月27日
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122700099&g=soc

 なかにし礼さんが23日に亡くなった。82歳だった。数々の名曲で昭和の流行歌最盛期を彩り、小説家としても活躍した多才な人だが、「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受けたことは、なかにしさんの創作活動にとって大きな意味を持っていた。歌詞と小説。何をどう書くか。昭和から3時代を駆け抜けた表現者が、リレーからマラソンへ転じた瞬間でもあった。

  ◇  ◇  ◇

 2012年に食道がんが見つかり、克服した後で15年に再発。近年はテレビで話すのを聞くと、年齢のせいもあってか声が枯れ気味だったなかにしさん。そのたびにあの日の声を思い出した。

 00年1月14日に直木賞受賞が決まり、その2、3日後だったと思う。当時、文化部で文芸担当をしていた筆者に電話があった。「申し訳ない」。かすれた声。すぐに事情を察した。受賞決定直後からお祝いの電話やら何やらがひっきりなしで寝る時間もなく、風を引いてしまったという。

 一般紙は芥川賞・直木賞に選ばれた人に受賞エッセーを寄稿してもらうのが常で、当時は弊社も地方紙向けに配信しており、各候補者に「選ばれた時には」と依頼してあった。その締め切りを延ばしてほしいとのこと。

 過去の受賞者から、家の中が祝いの花で埋まると聞いていた。文学賞の場合、それまでの関係者だけでなく、新作を書いてほしい出版社からも花が届く。レコード大賞を何度も受けたなかにしさんでさえ「おろおろとするほど」だった。「大変でしょう。お体が良くなってからお送りください」「ありがとう」。幸い、さほど日を置かずに原稿が届いた。

 「長崎ぶらぶら節」が候補作になると聞いて、選考会前にインタビューしていた。直木賞候補になるのは2回目だった。前回は98年上半期。初めて発表した小説「兄弟」がノミネートされた。才能は評価されたが、次作を見ようとなって受賞には至らなかった。自らの体験を題材にした作品であることが、大きな理由の一つだった。

 誰の人生にも物語はある。だから人は一生に一つなら小説を書ける、ともいわれる。新作のテーマに行き詰まって自分の体験を書く小説家も少なくない。

◇昭和から平成へ、リレーからマラソンへ

 だが、「兄弟」は「兄が死んだ。/姉から電話でそのことを知らされた時、私は思わず小さな声で『万歳!』と叫んだ。」という痛烈な書き出しで始まる。終戦によって、生まれ育った旧満州(現中国東北部)で「地獄」を見たなかにしさんの人生を、さらに壮絶にした兄への愛憎。戦後、北海道でニシン漁への投機に失敗し、多額の借金を作った兄。その後もゴルフ場開発に手を出して失敗し、売れっ子作詞家の弟がばく大な借金を背負った。生半可な物語ではなかった。

 なかにしさんは昭和から平成への変わり目を機に、いったん作詞を離れて小説家への転身を決めている。「昭和への思いが強くて、昭和だから歌を書けたという気持ちもありましたから」

 「歌詞というのは、言いたいことを全部書いちゃいけないんですよ。作曲家、歌い手、聞き手が想像を膨らませる余地を残しておかないと。みんな書いちゃったら曲も歌も入り込めない」

 いわゆる「ベタ」な歌詞が増えた昨今と違い、昭和の流行歌の書き手はみんなそうだった。だから時代を超えて歌い継がれるのだが、なかにしさんから直接聞くと、改めて説得力を感じた。受賞エッセーでは、歌を作詞家と作曲家、プロデューサー、歌手による4×100メートルリレーに、小説をマラソンに例えている。

 作詞家としては、想像力をかき立てる言葉を選び抜き、七五調を排し、立教大時代に訳詞を手掛けたシャンソンの風を吹き込んで数々の名曲を書いたが、表現者としては、全てを吐き出したわけではなかったのだろう。北原ミレイが歌った「石狩挽歌」(1975年)は、ニシン漁をモチーフにした名曲だが、歌詞では兄との相克を書き尽くせなかった。

 「兄弟」の書籍刊行は98年。平成も10年になっていた。この間、古今東西の名作を次々と読み、物語の展開や文学の修辞を学んで「小説家の脳をつくる修行」をしていた。決して天賦の才に任せた華麗な「早替わり」ではなかった。「兄弟」は自伝的とはいえ、小説として昇華させた自負もある。だから直木賞の選に漏れた理由には、納得し切っていない様子だった。

◇「地獄」を書き残すために

 それならと書いたのが「長崎ぶらぶら節」だった。長崎の芸者・愛八と郷土史研究者が、忘れられていた長崎の古い歌を掘り起こしていく、実話を題材にした物語。オペラ制作のために聞いた民謡のCDがきっかけで長崎を訪ねると、ちょうど「愛八をしのぶ会」が開かれていて、取材の糸口ができたという。「これは自分が書かなくてはと、運命みたいなものを感じた」と、ソフトな口調で熱く話した。

 優れた小説の条件の一つは、胸突き八丁を書き切れたかどうか。マラソンなら30〜35キロの壁。「長崎ぶらぶら節」も、選考委員には「まだ少し作詞家の癖が残っていて、ここぞというところをスーッといく感がある」との声があった。

 その点はなかにしさんも分かっていたと思うが、自らの体験ではない物語で直木賞を受けたことが、満を持していた次作「赤い月」の執筆を大きく後押しした。

 終戦前夜から旧満州で死線をさまよい、ハルビンへの逃避行、引き揚げまで、阿鼻(あび)叫喚の1年余を「事実だけで」書いた。執筆中から「これを書くために生きてきた」と話していた大作。「怖くて行けない」と言っていたハルビンを再訪したのは、刊行から3年後の04年だった。

 以後も「てるてる坊主の照子さん」「戦場のニーナ」「夜の歌」などの小説を書き、オペラ、ミュージカルなども手掛けた。それぞれの技法を知り、最もふさわしいと思う手法で人々に伝えてきた表現者。「地獄」から生還し、その後は聴衆や読者へ伝えることに力を尽くしていたから、人と会う時は肩の力が抜けたようにスマートだったのかもしれない。

 ある時、筆者が十代の頃、身の程知らずにも作詞家志望だったと明かすと、「そうだったんだ。新聞記事は言いたいことをしっかり伝えないといけないから、歌とは対極じゃないの。でもそれも大変な仕事だ」と優しく励ましてくださった。もしも今、なかにしさんが若かったら、ネットの海を前にどうしただろう。

 直木賞前の取材の終わり際、筆者が開いていた「長崎ぶらぶら節」の書籍に手を伸ばした。「サインをしましょう」。頼んではないのに、「スタア」だなあと思っていると、バッグから筆を取り出した。毛筆の美しい文字で書かれたサイン入りの受賞作は、転勤のある我が家を避けて実家へ運び、今も大切に飾られている(時事通信社・若林哲治)。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122700099&g=soc


▲△▽▼

なかにし礼生い立ち〜家族と兄弟仲に無謀過ぎる兄に振り回された半生
https://oitachi-ima.com/sakka-oitachi/2977/

現在ではコメンテイターとしても顔を見なくなった
作詞家のなかにし礼さん。

妻に元女優の石田ゆりさんを持ちその姉にいしだあゆみ
さんが見えるなかにし礼さんの生い立ちや家族と兄について
壮絶な過去を追ってみようと思います。

昭和歌謡曲の作詞を多数担当し、数々のヒット作を
世に送り出したなかにし礼さん。

1998年からは小説家としても活動し、2000年には
『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞されています。

またラジオやテレビ番組でのコメンテーターなど様々な
顔を持ち活躍を続けています。

そんななかにし礼さんの生い立ちから兄に振り回された
半生などをまとめてご紹介します。

なかにし礼プロフィール
本名 中西 禮三(なかにし れいぞう)
生年月日 1938年9月2日(80歳2018年9月現在)
職業 小説家、作詞家
出生 満州国の牡丹江省牡丹江市
学歴 東京都立九段高等学校、立教大学文学部英文科

大学在学中にシャンソンの訳詞を手がけました。

1964年に『知りたくないの』のヒットを機に
作詞家になり、『今日でお別れ』『石狩挽歌』
『時には娼婦のように』など約4000曲の作品を残し
日本レコード大賞など数々の賞を受賞されています。

その後は作家活動を開始し1998年に『兄弟』次作に
『長崎ぶらぶら節』など作家としても数多くの
作品を残されています。

なかにし礼の生い立ち〜裕福だった満州時代と家族
なかにし礼さんの両親はなかにし礼さんが
生まれる前に北海道の小樽から、旧満州(中国東北部)
に渡りました。

醸造業を営むなかにし礼さんの両親は関東軍に
お酒を納め、ガラス工場やホテルも経営し成功を
収めていたそうです。

なかにし礼さんは従業員に「坊ちゃん」と呼ばれ
当時は相当な裕福な家庭で育ちました。

その後なかにし礼さんが小学1年生の時に終戦し
満州から引き上げて8歳の時に小樽に戻りました。

その時に家族とともに何度も命の危険に遭遇し
その時の体験が以後の活動に大きな影響を
与えたと言われています。

戦前戦後を生きた人特有の壮絶な体験をなかにし
さんも体験されていたようですね。

今では想像もつかないような壮絶な経験から
数々の作品が誕生しているのかもしれませんね。

なかにし礼さんは当時の混乱の様子を実体験に
基づいて『赤い月』という小説を書かれています。

なかにし礼の家庭崩壊の始まりは戦後の兄の傍若無人から
なかにし礼さんには14歳も年の離れた兄がいました。

14歳とかなり年齢の離れた兄弟だったため恐らく
なかにしさんの年齢(現在80歳)では徴兵制度で
戦争に駆り出される年齢には届いていませんでした。

だが14歳も年上の兄は当然徴兵で日本男児の義務と
して戦争に駆り出されているはずです。

兄は戦時中特攻隊に所属していて生き延び、終戦後
何とか命からがら生き延びた少数派の一人として
なかにし礼さん達家族の元へ帰ることができました。

父親の死後、一家の大黒柱として祖母、母、姉から
頼りにされましたが、戦後の兄は人が変わったように
破滅的で大金を投資しては失敗し、一家はすぐさま借金を
抱える事に没落したそうです。

頼りにするどころか兄の自暴自棄な精神状態に巻き込まれて
一家はどんどん貧乏になっていったそうです。

戦争が一人の青年に与えた影響はやはり生還してきた
極一部の強運を持ったなかにし礼さんのお兄さんであれ
人生観を破壊される程のインパクトとショックがあって
の変貌だったのでしょう・・・
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なかにし礼の兄に振り回された半生と絶縁
ただこの時代の長男と言ったらもうそれはそれは特別な
存在で14歳も年下の弟が意見うぃ言えるような立場では
ありません。

どうにか家庭を立て直したいなかにしさんら兄弟を
傍目にちっとも元に戻りそうにない兄の尻拭いがこの
時代特有の兄弟関係でかなり壮絶な目にあうことに・・・

なかにし礼さんには兄の借金を肩代わりしていた
時期があるそうです。

作曲家として起動に乗り世間でいう成功者となりつつ弟が
夢に向かう最中になかにし礼さんは兄に振り回され
憎しみを抱くようになったそうです。

なかにし礼さんがどんどん有名になりお金を稼ぐように
なっても兄がどんどんなかにし礼さんから借金して
浪費してしまいます。

最後にはなかにし礼さんの名義でお金を借りて
全てを使い切ってしまうほどでした。

なかにし礼さんは兄の借金を返済するのに
大変苦労されたそうです。

その金額も破格の7憶円もの大金を肩代わりしていたとか。

普通なら返しきれない量の借金だったんですね。

ただそんな兄を疎ましく思いつつ兄を憎むが兄嫁が
長男の嫁であるため、献身的になかにしさんらの
母親の介護をしていたこともあり兄を切り離すことが
できなかったそうです。

だがそれも母親が生きているうちは何とか我慢しても
母親が亡くなり家族ができたなかにし礼さんは兄と縁を
切る覚悟をしたそうです。

当然でしょう・・・

あまりにも傍若無人な兄の振舞いは限度を超え過ぎです。

なかにし礼さんもほとほと嫌気がさしていたのでしょう。

縁を切ってからは16年間一切会わず兄が亡くなったと
電話があったときは内心喜んだそうです。

この辺りの心境がなんともリアリティがあります。

そんな兄との関係を自らの体験に基づいた自伝小説
『兄弟』は直木賞候補にもなり1999年にはテレビ朝日の
開局40周年スペシャルとしてドラマ化されています。

「兄さん、死んでくれてありがとう」
という有名な台詞がありますが聞いたときは
衝撃的でした。

今書いてても相当インパクト大過ぎます。汗

でも自分に置き当てたら、死んでくれてありがとう〜では
済まされないとは思いますが・・・

だって7億ですよ。

せめて自分が稼いだ金で借金して欲しいものです・・・

兄弟とは言え人のお金を、身勝手過ぎます。

なかにし礼さんのデビュー作にして代表作の『兄弟』
を読んだことがない方はぜひチェックしてみましょう。


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おわりに

現在は2012年に食道がんを患い完治するも2015年に再発しこれも克服したなかにし礼さん。

戦争が幸いして精神状態が破綻したであろう兄弟の莫大な借金を身勝手で理不尽な借金と分かりながら返済を続けてきたなかにし礼さんは絶望的な半生を送って相当苦労されています。とは言えそんな兄さんもお亡くなりになられましたし改めて戦争の恐ろしさを考えさせられるエピソードでした。

現在も精力的に活躍を続けどんな状況でも希望を失わずに生きてきたなかにし礼さんの作品をぜひ読んでみてください。
https://oitachi-ima.com/sakka-oitachi/2977/  

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コメント
1. 中川隆[-8632] koaQ7Jey 2021年1月04日 12:46:41 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[9] 報告
【弟:なかにし礼】兄:中西正一の画像↓死因や年齢も
2020-12-25
http://mybouzu.info/entertainment/%e3%80%90%e5%bc%9f%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%ab%e3%81%97%e7%a4%bc%e3%80%91%e5%85%84%e4%b8%ad%e8%a5%bf%e6%ad%a3%e4%b8%80%e3%81%ae%e7%94%bb%e5%83%8f%e2%86%93%e6%ad%bb%e5%9b%a0%e3%82%84%e5%b9%b4%e9%bd%a2

今回は、作詞家の「なかにし礼」さんを取り上げます。

2020年11月2日、風吹ジュンさんの事務所独立を巡る誘拐事件が「デイリー新潮」にて取り上げられました。

実は、この誘拐事件に礼さんと”その兄”が関与していたのです。


一体、礼さんの兄とはどんな人物なのでしょうか?


風吹ジュン誘拐事件に「なかにし礼」と兄が関与していた

風吹ジュンさんの誘拐事件についてデイリー新潮は次のように報じています。

かなり古い話になるが、
1974年9月に「風吹ジュン誘拐事件」が起きた。

当時、
風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、
レコードがヒットしても月給は23万円に過ぎなかった。

これに不満を持ち、
倍の月給を提示してきたガル企画という事務所に移籍してしまった。

そんな折、
フジテレビで収録を終えた風吹の前に、
旧所属事務所であるアドプロのマネージャーなど3人が現れ、
風吹の腕をつかんで連れ去ってしてしまったのである。

彼らは風吹をホテルに軟禁状態にし、
事務所移籍を考え直すよう迫ったのだ。

風吹が

「翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならない」

と言い、階下に降りたところ、
待ち構えていた大勢の警官によって保護されることとなった。

人だかりの中には包帯を巻いたガル企画の石丸末昭社長の姿もあった。

この間、石丸社長は、暴力団の事務所で監禁され、
暴行を受けていたというのだ。

風吹を軟禁した中には作詞家のなかにし礼もいたが、
石丸社長は自身の解放の条件として、
風吹との契約を解除するよう、
なかにしの実兄の中西正一から迫られたという。

(2020年11月2日配信)

上記の通り、礼さんの兄である正一さんは風吹さんの契約を解除するように、移籍先の事務所社長を脅迫していたのです。

世間の反応
この記事読んで、春馬くんの事が浮かんだわ。

日本の俳優仲間が何も言わないのは、
芸能界は闇が深いからなのかな…

余計なことを言って、
明日は我が身だとすれば恐くて誰も何も発言出来ないし…

誰も何も言ってくれないから、
余計にそう思ってしまう。

風吹ジュンさんにこんな事があったなんて知らなかった。

表に出てないだけで、
他にもたくさんあるんだろうな…

芸能界の闇、暴力団とのつながり、
かねてから色々ささやかれていますが、
膿を出しきって変革する時が来ているのではないでしょうか。

脅しとか、パワハラであることは勿論、度がすぎれば犯罪です。

マスコミ含め、
業界のあり方が変わらないと、
ブラックすぎて視聴者もドン引きです。

デイリー新潮さん、
他の媒体が春馬事件を避けている中、記者魂を感じます。

今この内容に触れるということは
ふんわりと外堀から掘り進めているのでしょうか。

今後も期待しております。

芸能界は裏社会との駆け引きなど、
旧態依然としていることはよくわかりました。

兄:中西正一の画像あり
礼さんと共に風吹さんの誘拐事件に関与していた正一さんですが、彼はどんな人物なのでしょうか?

そこで、兄について調べたところ、以下の画像が確認されたのです。


※「http://01670167.blog74.fc2.com/blog-entry-2013.html?sp」より引用

礼さんは兄との関係を「兄弟」というノンフィクション作品として発表しています。

その著書によると、兄は放蕩の限りを尽くしており、16年間にも亘って絶縁状態だったと言います。

礼さんは兄が作った巨額の借金を返済する日々に追われており、正一さんが亡くなった時は「万歳」と口にしたようです。

死因や年齢は?
兄の正一さんは1996年に死去されています。

兄が放蕩して作った借金を長年尻拭い。

家と青山のビルを2軒売っても
72年当時で3億円以上の借金が残った。

借金を払い終えた2年後に兄が他界(=96年)。

※「https://www.pasonica.com/なかにし礼/」より引用

著書「兄弟」によると、兄は14歳年上とのこと。

つまり、死去した1996年当時、正一さんの年齢は72歳だったことになります。

ただ、具体的な死因については一切公表されていないため、不明となっています。

【12月25日追記】なかにし礼が死去↓持病の心疾患(心臓病)とは?
2020年12月24日、礼さんが都内の病院で死去していたことが分かりました。

ただ、死因については公表されておらず、詳細は不明となっています。

なかにし礼(本名:中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが24日、
東京都内の病院で死去した。

82歳。

死因は明らかにされていないが、
1カ月ほど前に持病の心疾患で入院していた。

※「スポニチアネックス」より引用
(2020年12月25日配信)

上記の通り、礼さんは心臓に持病を抱えていたのです。

この記事では持病の心疾患については言及されていませんが、その病名は「心筋梗塞」でした。

http://mybouzu.info/entertainment/%e3%80%90%e5%bc%9f%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%ab%e3%81%97%e7%a4%bc%e3%80%91%e5%85%84%e4%b8%ad%e8%a5%bf%e6%ad%a3%e4%b8%80%e3%81%ae%e7%94%bb%e5%83%8f%e2%86%93%e6%ad%bb%e5%9b%a0%e3%82%84%e5%b9%b4%e9%bd%a2


▲△▽▼

中西正一(なかにし礼兄)の顔画像は?死因や風吹ジュン誘拐事件とは?
2020年12月25日
https://www.youtube.com/watch?v=h_bmvRcVc68


日本歌謡界を代表する作詞家のなかにし礼さんが今月23日に都内の病院で亡くなっていたことが分かりました。

なかにし礼さんと言えば、お兄さんについて実話を素に小説『兄弟』を書かれていますね。

ドラマ化した際には、『兄弟〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』というタイトルに衝撃を受けた人は多いのではないでしょうか。

そこで今回は、なかにし礼さんの兄である中西正一さんについて調べてみました。


中西正一は『風吹ジュン誘拐事件』に関与していた!?

 かなり古い話になるが、1974年9月に「風吹ジュン誘拐事件」が起きた。当時、風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、レコードがヒットしても月給は23万円に過ぎなかった。これに不満を持ち、倍の月給を提示してきたガル企画という事務所に移籍してしまった。そんな折、フジテレビで収録を終えた風吹の前に、旧所属事務所であるアドプロのマネージャーなど3人が現れ、風吹の腕をつかんで連れ去ってしてしまったのである。彼らは風吹をホテルに軟禁状態にし、事務所移籍を考え直すよう迫ったのだ。

 風吹が「翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならない」と言い、階下に降りたところ、待ち構えていた大勢の警官によって保護されることとなった。人だかりの中には包帯を巻いたガル企画の石丸末昭社長の姿もあった。この間、石丸社長は、暴力団の事務所で監禁され、暴行を受けていたというのだ。風吹を軟禁した中には作詞家のなかにし礼もいたが、石丸社長は自身の解放の条件として、風吹との契約を解除するよう、なかにしの実兄の中西正一から迫られたという。

引用:https://news.yahoo.co.jp/articles/473c7caf4981ce89cc8c73f49230e93c87e7d5de

報道の内容から分かるように、なかにし礼さんの兄である中西正一さんは、風吹ジュンさんの移籍先である“ガル企画”の石丸社長対し、『風吹ジュンさんとの契約解除』を理由に脅迫していたようです。

ネットの声
・この記事読んで、春馬くんの事が浮かんだわ。
日本の俳優仲間が何も言わないのは、芸能界は闇が深いからなのかな…
余計なことを言って、明日は我が身だとすれば恐くて誰も何も発言出来ないし…
誰も何も言ってくれないから、余計にそう思ってしまう。

風吹ジュンさんにこんな事があったなんて知らなかった。
表に出てないだけで、他にもたくさんあるんだろうな…

・デイリー新潮さん、他の媒体が春馬事件を避けている中記者魂を感じます。今この内容に触れるということはふんわりと外堀から掘り進めているのでしょうか。今後も期待しております。
芸能界は裏社会との駆け引きなど、旧態依然としていることはよくわかりました。

・この記事が出てきたのは、今でもこのような事件が起きているんでしょう。。。
一般人には、理解し難い世界ですが、春馬さんの死によって、闇雲にしてきた事が未だ続いている現実に驚愕しています。闇が暴かれる日が来る事を願うばかりの毎日です。

引用:Yahooコメント

中西正一の顔画像は?
中西正一さんの顔画像について調べてみるとずいぶん昔のものですが、下記の画像が見つかりました。

中西正一の死因は何?
中西正一さんは、1996年に72歳で亡くなられましたが、死因については情報がありませんでした。

新たな情報があり次第追記していきます。

中西正一(なかにし礼兄)の顔画像は?死因や風吹ジュン誘拐事件とは?まとめ
今回は、中西正一(なかにし礼兄)の顔画像は?死因や風吹ジュン誘拐事件とは?についてまとめてみました。

なかにし礼さんの兄・中西正一さんは、1996年(72歳)に亡くなられていましたが、死因については現時点では情報がありませんでした。

また、1974年に起きた『風吹ジュン誘拐事件』の裏には、中西正一さんも関与していたという事実があったようです。

新たな情報があり次第追記していきます。
https://www.youtube.com/watch?v=h_bmvRcVc68



▲△▽▼

《脱法芸能12》風吹ジュン誘拐事件──弱小事務所間の紛争は暴力がモノを言う
2014年10月14日 カテゴリー 星野陽平《脱法芸能》
http://www.rokusaisha.com/wp/?p=5062

私は拙著

『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E8%8A%B8%E8%83%BD%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%B9%B2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B&hvadid=386583246371&hvdev=c&jp-ad-ap=0&tag=asyuracom-22&ref=pd_sl_56sgc3vz17_b

の中でこう書いた。

「芸能資本の力の源泉は有力タレントを所有することにある。だが、タレントは『モノを言う商品』であり、放っておけば芸能資本の手から離れていってしまう。それを防ぐために必要なのは、(1)『暴力による拘束』、(2)『市場の独占』、(3)『シンジケートの組成』の三つである。これは古今東西を問わず、同じ構造だ」

1974年9月に発生した「風吹ジュン誘拐事件」は、(1)「暴力による拘束」に分類されるものだった。


歌の下手さが衝撃だったデビュー曲「愛がはじまる時」(1974年5月ユニオンレコード)

◆デビュー曲25万枚ヒットでも風吹の月給は23万円

富山県出身の風吹ジュンは、京都で中学を卒業した後、18歳で上京し、銀座のクラブで働いていた時にスカウトされた。有名写真家デビッド・ハミルトンがユニチカのカレンダー用に撮影した写真が話題となり、1974年5月、「愛がはじまる時」でレコードデビューし、25万枚が売れ、一躍スターとなった。

当初、風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、レコードがヒットしても月給は23万円にすぎなかった。事務所に相談できる人がいないこともあって、9月9日、風吹に倍の月給を提示したガル企画に移籍した。その矢先、事件が起きた。

同月12日午後8時過ぎ、フジテレビで収録を終えた風吹がスタジオから出てくると、旧所属事務所のアドプロのUマネージャーなど3人が現れ、風吹の腕をつかんで局の隣にある喫茶店に連れ出した。

風吹がガル企画の石丸末昭社長に電話で連絡をしてみると、「ジュンか、石丸だけどね、君はU君の指図どおりに動いていいんだ。わかるか」と言われた。そこで風吹はUに従って車で品川のホテル・パシフィックへ向かった。

ホテルに3つ取っていた部屋の真ん中に風吹が入ると、アドプロの社長、前田亜土が現れて、「お前は、自分の二重契約を知ってるのか。オレのところにいればいいんだよ」と言った。

さらに作詞家のなかにし礼の実兄である中西正一が風吹とガル企画の専属契約の委任状を見せ、「ほら、これをみればもう納得もいっただろう」と言い、代わる代わる人が入れ替わって、風吹の事務所移籍を非難した。

そのうちなかにし礼が現れて、風吹の腕をつかんで、「そろそろ、あんたにも事態がどうなっているかわかってきただろう」と言った。

そのまま全員でベンツに乗って高輪プリンスホテルに移動し、また風吹への説得が始まった。そして、なかにし礼がやってきて、「要するにアドプロで仕事をすればいいのサ」と言った。

そんなやりとりが延々と続いた後で風吹が翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならないと言い、風吹、U、なかにしの3人で階下に降りたところ、待ち構えていた大勢の警官によって風吹が保護された。そして、人だかりの中には包帯を巻いた石丸社長の姿もあった。

◆筋書きを書いた「黒幕」なかにし礼

石丸社長の身に何があったのか?

同月12日午後5時ごろ、石丸社長はガル企画で働くYマネージャーがなかにし礼の事務所にいたときに作った借金の返済するため、暴力団、住吉連合系大日本興業のI事務所を訪れていた。

石丸社長がIに60万円の借金を返すと、部屋にいたIの子分たちがドアの前に立ちふさがり、別の子分からハンガーで顔面を殴られ、ゴルフのアイアンで、頭や首、手などを叩かれ、残りの3人からも殴る蹴るの暴行を受けた。そして、Iが「床に正座しろ!」と怒鳴った。

やがて奇妙なことに、なかにし礼から電話が入り、Iが「いま石丸を監禁してる。お前の友人だろう。この石丸の身柄を引き取らないか」と、なかにしに言った。Iが石丸社長に「お前からもなかにしに頼んだらどうだ」と言うので石丸社長も受話器を取り、「礼さん、お願いだ、身柄を引き取ってくれないか」と懇願した。だが、なかにしは「いや、それはだめですね、石丸さん」と言って電話を切った。

「オレがもう一度なかにし礼に頼んでやろう」と言ってIがなかにしに電話をかけ、石丸社長が「お願いだ、なんとかしてくれないか」となかにしに頼んだが、なかにしは「いやだめだね」と言ってまた電話を切った。

また、しばらくすると、礼から電話があり、実兄の中西正一に頼めと言った。そこで石丸社長は中西正一と電話で話すことになったが、その際、中西正一は、石丸社長の身柄引き取りの条件として、風吹ジュンが石丸社長に書いた委任状を渡し、風吹との契約を解除し、石丸社長がなかにし礼に貸した280万円の借金を帳消しにすること、を突きつけた。

恐怖のあまり、この条件を石丸社長が飲むことにしたところ、フジテレビの隣にある喫茶店から電話があり、風吹と話をさせられたのだった。

午後8時30分ごろ釈放された石丸社長は、病院に行ってケガを治療してもらい、事務所に戻り、弁護士と相談してから警察に通報し、警視庁に出頭した。事態を重く見た警視庁は、パトカー20台と警官80人を高輪プリンスホテルに動員し、風吹を保護した。

そして、9月20日、風吹と石丸社長らは、連名でなかにし礼、中西正一、アドプロの前田亜土、大日本興業のIらを相手に監禁、強要、強盗傷人などの罪で告訴した。

この事件で筋書きを書いた「黒幕」とされたのが、なかにし礼だった。アドプロ社長の前田亜土の妻はなかにし礼の実兄の中西正一の次女。なかにし兄弟はとおにアドプロの重役であり、石丸社長を襲ったIは金融面でアドプロと繋がりがあったという。

一方、なかにし礼側の主張によれば、石丸社長の親戚には九州の暴力団組員がいて、石丸社長は風吹の移籍問題でもそれを持ち出してアドプロを脅していたという。

◆暴力沙汰は「諸刃の剣」

なぜ、このような問題が起きたのだろうか、ということを考察してみたい。

まず、風吹ジュンをめぐって争奪戦を演じた石丸社長と前田亜土は、もともと芸能界とは縁がなかったということがある。石丸社長は上野で鉄鋼業を営んでおり、ガル企画を設立したのも、風吹と個人的に「私の芸能活動についてすべてを石丸氏に委任します」と一筆もらってからのことだった。前田亜土にしてもイラストレーター上がりで、芸能事務所を始めたのも風吹を抱えることになってからのことだった。

大手の芸能事務所であれば、業界団体の日本音楽事業者協会(音事協)に加盟しているが、音事協ではタレントの引き抜きは禁じており、基本的にこの種のトラブルは起こらない。風吹ジュン誘拐事件は、芸能界のメインストリームを外れた弱小事務所同士だからこそ起こった事件だった。そして、弱小事務所同士の紛争は暴力がモノを言う。

だが、風吹の移籍トラブルは、誘拐事件として大きく報道されたため、風吹を奪った側のなかにし陣営は大きなダメージを受け、結局、風吹の所属先は、ガル企画に落ち着いた。また、風吹自身も、この事件によって経歴詐称なども暴かれ、大きくイメージダウンを余儀なくされた。

タレントの引き抜きなどで、芸能界では暴力事件が起こることもある。だが、事件が明るみに出ると、タレントを奪う側としても、奪われる側としても、そして、業界全体としてもダメージは大きい。そのため、芸能界では諸刃の剣ともいえる暴力が発動されることは滅多にない。そもそも、引き抜きを未然に防止することが重要であり、そのために音事協という組織があるのだ。

(星野陽平)
http://www.rokusaisha.com/wp/?p=5062


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【追記 18-07-28】
ネット上には、どこからともなく、彼女が著名な作詞家の姪らしいという噂が流布されていた。なかにし礼、という固有名詞を挙げてあるものも最近では少なからず、先日このふたりをキーワードにして検索。その結果から次のふたつに注目してみた。

松風亭日乗:densukedenden.blogspot.com/2013/12/blog-post_18.html

「なかにし礼」のコメントが作家作詞家なかにし礼本人なのかどうか。別人がそんな事をしてどんな意味があるのか私にも謎だが、ネットは何でもありというのも確かな経験則である。とした上で、「自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてる」 と断定しているのは、上に紹介した10年の朝日新聞の記事内容を踏まえれば首肯できない。
「自殺誘発ソング」の旗手だったとはいえども、近親者(配偶者であるとは後で判る)との死別、自らの病いに苦しむ有様は、バチが当たったと反省しているのではないか、とでも形容されていい状態だったからだ。

永井均 tweet:twitter.com/hitoshinagai1/status/852547262966243328
永井均はヴィトゲンシュタインを読んでいた時にお世話になった。判り易い説明で核心がストンと腑に落ちたという記憶がある。はるか昔の話だ。
スレッドを辿ると愛憎相半ばする書き込みに意表を衝かれるが、「深く深く納得した。事実は小説より奇なり!」という言葉に導かれて、なかにし礼『兄弟』を読む事に。報告は後日。


【追記 18-08-01】

文学作品として鑑賞しようとは思わなかった。私小説形式の自伝として、童子との関連で目を通した。

登場人物名でいうと、兄の次女、中西美以子が童子に該当する。それ以外に年齢的にマッチする近親者はいない。

兄夫婦は小樽、東京、青森と流れ、再び上京して、すぐ次女が生まれる。
特攻崩れを自称する兄は人格破綻者に近くなり、「事業」を目論んでは失敗して借財を膨らませ、弟の禮三(なかにし礼)が作詞家として成功した後は、「家長」として弟の稼ぎを犯罪的な手法で平然と流用する。

なかにしの2度目の結婚を契機に彼らは暮らしを別にするが、これが71年。童子デビューの2年前になる。

この後も、兄の巨額の尻拭いは6年後の母の死を経て更に2年後の訣別まで続く。ざっといえば童子の活動期間とほぼ一致する時期である。

このような係累を持つ人間なら、誰でも秘匿しようとするだろう。
この事はとてもよく判るが、彼女の父親がこの黄金を生む娘をどのように利用したか、あるいは利用しようとしたかについて、『兄弟』は全く触れていない。というよりもその前に、自分の姪が童子である事は、匂わされてもいない。

また、童子がなかにしの姪であるとすれば、阿久悠と並んで稀代の作詞家たる彼の血を引いたと、つい思いたくもなるが、彼自身の作品であるという可能性はないのか。小説より奇なり、とは、実はこのような、あるいは更に別の、この作品から離れた事情を指摘しているのではないか。


【追記 18-08-07】

この歌もそうか、あの歌もそうか、というミューズの化身のような時代が、作詞家なかにし礼には確実にあった。しかしその初期から中期にかけて、恥部とでもいうべきふたつの事件の中心人物として、彼はマスメディアの集中砲火を浴びた。「芸能界相愛図」事件と風吹ジュンへの拉致監禁事件である。いうまでもなく『兄弟』では片鱗も窺う事ができない。

前者はこの文章と関わりを持たないので省略。後者について、最も詳細に説明された記事を次行に紹介しよう。

デジタル鹿砦社通信:《脱法芸能12》風吹くジュン誘拐事件

ここに登場するアド・プロモーション社長前田亜土の名前が、童子のマネージャ兼配偶者として彼女の死後、私たちの聞き及ぶところとなった。

事件とその後の収束期間を考えれば直後といえるような時期に童子はレコード・デビューしているのだが、何故ここに犯罪的なプロダクションの社長が関わってくる事になるのか。浮世離れしたシンガーソングライターの背景に広がる闇の世界、はたまた汚濁の池に咲く白蓮、とでもいうべきだろうか。いやはや何とも。


【追記 18-08-09】

匿名掲示板の「森田童子について語りませんか Part.4」スレから。

森田童子の夫、前田亜土は
森田童子を手掛ける前に
風吹ジュンの事務所社長(アドプロダクション)だった

安月給などの劣悪条件で風吹ジュンを拘束
風吹ジュンが事務所移籍を画策
移籍先の社長を暴行し風吹ジュンを
ホテルに拉致して脅したのが
例のあの風吹ジュン事件

なかにし礼と兄が前田亜土を業界に引き入れた
アドプロダクションはなかにし兄弟が重役

森田童子の事務所、海底劇場は
アドプロダクションの次に作った事務所
事務所自体も同じマンションの部屋を
そのまま使ってた

風吹ジュンからしたら森田童子は
聴きたくない歌手だったろうね(No 564)
という事のようではあるが、
吹雪(ママ)ジュンの件についてどっちが悪かった誰が悪かったとかは別の話だからどうでもいい

問題は前田亜土の妻であった森田童子が中西正一の娘だというのは事実かどうか
もし事実ならなかにし礼の書いた『兄弟』によって森田童子の背景が少しは明らかになる(No 599)

と、理性的な意見交換がされている。好むと好まざるとに関わらず、事実を特定するような「証言」の登場も、おそらくは時間の問題だろう。
http://www.ne.jp/asahi/cyberpunk/freedom/article/moritadoji.htm


▲△▽▼

1976年の荒涼と森田童子
http://www.ne.jp/asahi/cyberpunk/freedom/article/moritadoji.htm

 1976年、ぼくには食事を共にしてくれるガールフレンドもなく、考えて
いることの出口は見つからず、軽い神経衰弱にしてやられながら、ラスコーリ
ニコフのようにうろちょろしていた。春先の風邪を放置したせいで肺炎になり、
この年の後の半分はベッドの上で過ごさざるを得なかった。森田童子の歌をベ
ッドの上で聞いたりしては、ますます荒涼とした場所に落ちていく自分自身を
どうすることもできなかった。

 2・3日前、どこでなのか判らないが、確かに森田童子の歌を聴いた。
 TVでも、この1週間のうちに聴いたような気がする。信じられないけど。
uploading nifty 93.??.??

「高校教師」のテーマソングを何処かで耳にしていた私が、1976年に貴方は何をしていたか、というネット上の質問に回答している。
「高校教師」をロクに知らなかったのは、せっせと 夜学に通っていた からだ。

詩と決別したランボーは砂漠の商人になり、歌と決別した彼女は家庭に落ち着いた。83年にステージから退いたのだから高校生くらいの子供がいたって不思議ではない。

時には子供にハラハラし、時には "Lady Madonna" を口ずさみ、時にはPCに向かって「森田童子」を検索して、びっくりするほどの量が表示されて苦笑したりする。増えてきた白髪は気にせず、週2回は近くのアスレチッククラブに通い、環境保護運動に熱心に関わっている……

という風に、無名市民として穏やかな日々を送っているのだろうか。恙なしや?

この投稿を、森田童子という不世出の個性の為に、ここに掲載した。

記 01-06-15

【追記 10-07-16】

朝日新聞の記事が彼女に触れていた(5月22日)。山坂いくつもあるのが人生だと、ここでも実感させられる。

記事の中の「病」に拘ってみると、彼女は学齢からして在学中に1年の遅れが生じ、更に高校中退後3年ほど北海道で療養生活を送っている。

『さよなら ぼくの ともだち』は友人の死を契機にここで生まれたのだが、してみると、この時期からの長患いの後遺症のようにも思える。最終部分を引用したい。
『ぼくたちの失敗』が、テレビドラマ「高校教師」の主題歌になってヒットしても、再び歌おうとはしなかった。彼女の消息を知る人を介して、その真意を問う対話がしたいと打診してもらった。だが、とても親しかった人との唐突な死別とみずからの病で、「手紙すら書けないほど憔悴している」という返答があった。危ういバランスでつなぎとめられている世界が、まだそこにはあった。

しかしこの署名記事には、「森田童子」を偽名だとするのが論外だとしても(もちろん戸籍名ではないが、「偽名」とは文章のプロとして気は確かか?)、詰めの甘い箇所が少なくない。例えば「ひとり遊び」のレコーディングとCD制作(2003年)を知らなかったのだろうか。それとも判り易いプロットに当て嵌めるため意図的に無視したのか。後者であれば気持ちは半分だけ判る、といっておこう。

詞の中に飼い馴らしたかの「ぼく」や「きみ」の無数の死も、生身の人生には耐性を育まなかった。あるいは、成熟という名の感受性の劣化をこそ彼女は拒否し続けているのか。


【追記 18-07-02】

古い友人と久しぶりにメールのやりとりをしていたら、彼女の訃報がネットに流れた。私のGメール・アカウントは moritadoji.inochi で、不可思議な符合に驚いたと触れていた。まだ若いのに、と続いていたが、私としては「そうだったのか」と深く寂かに納得するものがあった。

彼女については謎が多い。公表された情報が少ないのだから当然かもしれないが、例えば誕生年や出生地は複数の情報が流れていて、どこからも訂正されず始末が悪い。

私が折に触れて参照したのは次行のサイトで、しかしながら長らく更新されておらず、いわばアーカイブ状態だ。

森田童子研究所:www.gogorocket.jp/doji/h/

また、このサイトで頻繁に登場する「犬のしっぽ」さんのサイトは既に消滅しているが有難い事に次行のミラー・サイトがあって、
「犬のしっぽ」ミラー・サイト:www.minus273.eu/mirrors/douji/
ここから彼女の年表を覘いてみよう。

52年1月15日、東京生まれ
68年、高校入学

なのだが、順当にいけば高校入学は67年だからどちらかが間違っている筈で、そうでなければ入学以前に1年の遅れが生じている。
70年、高校を中退。暇にまかせてふらふらと旅に出る。

とあるが、やはり同じサイトの、雑誌「ラジオマガジン」のインタヴュー記事によると事情は異なる。一部を引用すると、

彼女は高校半ばにして不幸にも胸をやみ,転地治療という形で3年間を北海道で過ごした。その時代,'60年代末期は学園闘争が激しく吹き荒れていた頃だった。
そしてこの記事に従うと、極めてデリケートかつエキセントリックな神経と感受性に言葉を失いそうになるが、自分の過去を捏造するとも、思えない。また、
失われた青春の残像を拾い集めて五線のキャンバスに描き続ける詩織人−森田童子 31歳。

と結ばれていて、83年1月の時点で31歳、つまり誕生年が52年である事を前提にしている。誕生年53年説の元祖は、実は JASRAC 会報に載った訃報(65歳と表示)ではないのかと睨んでいる。
記事の最後にも触れてある80年の黒テント公演はTVドキュメンタリとして放送された。下の静止画はその最終部のものだ。

写真:森田童子(もりたどうじ)、TVドキュメンタリ『夜行』より

私(わたくし)達のコンサートが不可能になってゆくさまを見てほしいと思います。そして、私達の歌が消えてゆくさまを見てほしいと思います。ひとつの時代の終わりに向けて、私達の最後の切ない夢を、見てほしいと思います。
無垢なリリシズムと甘味なセンチメントに包まれた魔法のような世界が、そこには確かにあった。


http://www.ne.jp/asahi/cyberpunk/freedom/article/moritadoji.htm


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2012年6月21日
そうか、森田童子がいたんだ
https://densukedenden.blogspot.com/2012/06/blog-post_21.html

大福さんのブログを読んで、森田童子のことについて書きたくなった。

森田童子を知ったのは、高校生の時だ。友川かずきがディスクジョッキーをしていた「若いこだま」というラジオ番組で『さよならぼくのともだち』を聴いたのだと思う。(私はこの番組で、三上寛、なぎらけんいち、ジャニス・ジョプリンなどを知った。)甲高い繊細なその声を聴いて、私はケイト・ブッシュみたいだと思ったのを憶えている。

石岡のレコード屋で、童子のデビューアルバム『グッドバイ』を見つけて買った。ジャケットの彼女は、もじゃもじゃのカーリーヘアに丸いサングラスをかけ、革ジャンを羽織っていた。まるで少年のような容貌で、「ぼく」と「きみ」の歌を歌う童子は、性を超越した存在に思えた。

保育園から高校まで一緒だったH君から『マザースカイ』と『ア・ボーイ』の2枚のアルバムをダビングしてもらった。私はこの3本のテープを持って、川崎のアパートに引っ越していった。

特に『マザースカイ』は好きだったな。1曲目の『ぼくたちの失敗』からラストの『今日は奇蹟の朝です』まで、緊密な統一感にあふれた、まさにトータルアルバムと呼ぶべきものだった。

1980年に出た『ラストワルツ』。これも買ったが、これを川崎の四畳半で聴いていると、我ながらやばいと思った。このままいったらまずいよなあと、『たとえばぼくが死んだら』を聴きながら思ったものだ。

そういえば、昔聴いた、なぎらけんいちのライブアルバムで、なぎらがこんなことを言っていた。

山崎ハコの歌を聴いていると、条件反射的に暗くなって死にたくなる。そこで『パブロフのハコ』という歌を作った。

ハコも暗いが、森田童子は超弩級に暗い。以前ツアーで一緒に回った時があった。ある街で、宿で打ち上げをやったが、そのうち外に出ようということになった。童子も誘ったが行かないという。そこで「じゃあそこにいて」と言って皆で出かけた。

2、3時間して帰ってくると、童子は出かけるときと寸分たがわぬ姿勢で同じ場所に座っていた。

深入りすると危険だという雰囲気と、深入りせずにはいられない魅力が森田童子にはあった。(ラストアルバムとなった『狼少年』も、私はしっかり買った。)
大福さんも書いていたが、ドラマ『高校教師』での森田童子ブームには違和感を覚えたな。あの時発売されたベスト盤は90万枚以上売れたという。当時は意地でも買わなかったけど、今思えば、90万人の人が童子の歌に心を揺さぶられたということなのだな。

あのブームでも、森田童子は表に出なかった。新聞記者の取材には、「今は普通の主婦なのでそっとしておいてほしい」と言ったという。
現在、森田童子と道ですれちがっても誰も彼女とは気がつくまい。しかし、カムバックしないということは、今の生活が彼女の守りたい幸せなのだろう。

そうか、あの森田童子が主婦か。よかったなあ。彼女が平凡な幸せを手に入れたことは、私にとってもささやかな希望に思えてくる。
森田童子、間もなく60歳に手が届くはずである。
投稿者 densuke 時刻: 23:13

4 件のコメント:

なかにし礼 さんのコメント...
彼女の歌が一部の敏感過ぎる人達の、生きようかなそれとも死のうかなという、危うい紙一重の精神状態にあるところを、死んじゃいなよこっちへおいでよと死のスイッチを押させたのは負の一面として事実。

森田童子は手放しで称賛出来ない、ある意味自殺誘発ソングで何人も自殺に追いやった批判も加えられるべき人物。あれだけ死ぬだの死にたいだの死を甘美に唄った自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてるのはなんたる皮肉。


2013年12月2日 2:07
たそがれ さんのコメント...
森田童子を検索していて、このブログにたどり着きました。
あの世界観は唯一無二ですね。
それにしても彼女の歌が自殺誘発ソングとは。
僕は彼女の歌に生きることの意味を聴きました。

2014年4月15日 15:02
匿名 さんのコメント...
わたしも生きる意味を感じています。

2014年6月26日 11:05
匿名 さんのコメント...
自殺誘発ソングだなんて、浅すぎる。
童子の歌に救われた人もいっぱいいる。

2018年4月22日 23:35
https://densukedenden.blogspot.com/2012/06/blog-post_21.html

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2013年12月18日水曜日
「そうか、森田童子がいたんだ」のコメント

以前書いた森田童子の記事に、「なかにし礼」さんからコメントをいただいた。
コメント内でお返事しようかと思ったのだが、少し落ち着いて考えたいので、記事にすることにする。
「なかにし」さんのコメントの全文は以下の通り。

「彼女の歌が一部の敏感過ぎる人達の、生きようかなそれとも死のうかなという、危うい紙一重の精神状態にあるところを、死んじゃいなよこっちへおいでよと死のスイッチを押させたのは負の一面として事実。

森田童子は手放しで称賛出来ない、ある意味自殺誘発ソングで何人も自殺に追いやった批判も加えられるべき人物。あれだけ死ぬだの死にたいだの死を甘美に唄った自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてるのはなんたる皮肉。」

森田童子の歌を聴いて自殺した人がどれほどいるか、私には分からない。ただ、いても不思議はないと思う。私自身、童子の歌を聴きながら、あの記事で書いたように、「深入りしたら危険だ」という思いと「深入りせずにいられない」という思いがせめぎ合っていた。

死への誘惑という点でいえば、文学の方がよりポピュラーだと思う。芥川龍之介の晩年の作品なんかまさにそうだし、中原中也の詩や宮澤賢治の童話だって死に近い。極め付きは太宰治か。太宰の弟子を自認していた田中英光なんか、太宰の墓前で自殺したくらいだ。しかし、彼らはその落とし前をつけるように、早死にしたり自殺したりした。とすれば、そのような作品を世の出した者は死ななければならないのか、という話になる。

人間には死に近づく時期がある。だからこそ、古今東西、死に近い作品は多いのだ。しかし、そこから逃れられれば、それはそれでいいじゃないか。森田童子は、とにかく生き延びたのだ。彼女が死の誘惑から逃れることができたとすれば、それはそれで喜んであげてもいいと思う。

今、昔のアルバムが結構CDで復刻されているけど、森田童子のオリジナルアルバム復刻の話は聞かない。単にセールスが見込めないのか、それとも本人の了解が得られないのか。

もし、森田童子が昔の作品が世に出ることを頑なに拒んでいるとすれば、それが彼女なりの落とし前のつけ方なのかもしれない。
投稿者 densuke 時刻: 21:58


匿名 さんのコメント...

森田童子の強烈なファンです。自殺誘発ソングとのご指摘ですが、とんでもない評価ではないでしょうか。童子の歌は自殺とかいう負の行為に逃げないで真剣に向き合った歌です。どうしようもない悲しみに背かない詩で優しく僕たちを癒してくれた詩です。現実に背を向けた詩では癒せない時も人生の中にはあると思います。

2014年4月28日 3:35
http://densukedenden.blogspot.com/2013/12/blog-post_18.html

2. 中川隆[-8604] koaQ7Jey 2021年1月04日 22:27:45 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[41] 報告
18tattyanneko2018/10/15(月) 10:15:52.09

なかにし礼の小説「兄弟」は森田童子ファンなら必読です
これを読むといろんな事がわかりますが、他の資料と照らし合わせるともっと詳しいことが見えてきます

たとえば、なかにし礼の他の著作で「翔べ!わが思いよ」というのがあります
1989年、東京新聞に連載された自伝です

なかにし礼と森田童子こと中西美乃生さんは1968年から1971年まで、東京都中野区にある同じ家に暮らしていました
前回引用した部分、美以子さんが十五歳のときから十八歳までです

一方でなかにし礼は「なかにし礼商会」を1970年に設立
1973年に解散しています

この会社に前田亜土がいたのです
以下は「翔べ!わが思いよ」新潮文庫版、232ページからです

中野区江原町に土地を買い、そこに家を建てた。北青山三丁目に小さなビルが売りに出たので、即金で買った。

思いもかけぬと言ったら嘘になる。ついに、待ちに待ったというべきか。とにかく、意外に早く大きな幸運がやって来たのだ。
三十歳になったばかりの私は、夢の中にいるように呆然としていた。
中野の家には兄の家族や母も一緒に住んだ。千家和也や初信之介といった弟子たちも寝泊まりしていた。

北青山のビルには″なかにし礼商会″という名の会社をつくり、私が社長になって、社の真似事をやつた。ワイワイただ騒いでいるだけのもので、会社らしい目的も実行力も持ち合わせていなかった。と言ったら、その時の仲間の、杜洋之輔、前田亜土、
沢井貞夫などにすまない気もするが、社長の私が言うのだから間違いなかろう。だけど、ワイワイ騒ぐというのは楽しいものだ。お祭り騒ぎ……有頂天……。
そういえば『日本の祭り』というチャンとした仕事もしたっけ。
年末のレコード大賞は残念ながら『いいじやないの幸せならば』に決まった。

https://imgur.com/vpbAlrK.jpg


じっさいにこのころ、なかにし礼の著作を前田亜土がいくつか装丁をしています
この本にあるように前田亜土もなかにし礼の家に寝泊まりしたかもしれません

こうして森田童子こと中西美乃生さんと、前田亜土さんこと正春さんが出会ったのでしょう
美乃生さんはまだ未成年だった頃ですね

19tattyanneko2018/10/15(月) 10:16:15.57

それからもう一つ、この文章で考えたことがあります

なかにし礼の弟子、千家和也と初進之介がなかにし礼宅に寝泊まりしていたという部分です

つまり家で作詞の仕方を教えていたわけで、そのときに森田童子も教わったんじゃんないかと想像しました
森田童子の歌は書きっぱなしポエムじゃなくて、ちゃんとした流行歌の歌詞になってます

詞のアクセントとメロディーを合わせる、聴かせどころに新奇なフレーズを使うといった作詞の基本などもこのときに学んだんじゃないでしょうか
だからあれだけすごい曲ができたのでは

私としては世の中に流布している「森田童子の作品はなかにし礼の代作説」より「森田童子はなかにし礼に教えを受けた仮説」のほうがそれらしく思えます

20tattyanneko2018/10/15(月) 11:43:19.49

ちょっと調べてみました
中西家は父方も母方も石川県出身ですね
森大河の本名「対馬」という名字は津軽地方土着のものです
だから血縁関係はないでしょう


21tattyanneko2018/10/15(月) 12:03:45.06

ついでに「森田」についても調べてみました
北陸地方に多い名字ですね
とくに金沢あたりです
なにか関係があるのかもしれません

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1539527568/

3. 中川隆[-8592] koaQ7Jey 2021年1月05日 01:31:11 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[54] 報告
315伝説の名無しさん2018/11/13(火) 15:28:00.86
>>316
宗教はともかく
森田童子の父親 中西正一がヒロポンのせいで人格破綻していたので
普通の家庭でなかったことは確かだわね


464伝説の名無しさん2019/04/07(日) 14:01:35.82

新婦人1963年3月号(*より一部抜粋)
■若い芸術家■舞台美術家/前田亜土

私が生まれたのは一九三九年出生地は北海道阿寒である。幼い頃小学校の仲間から「ギリ」という渾名をたてまつられてその頃の私はその意味が解らずに父に問うた挙句、父の叱責を招いたものだが、今想えば、それはギリアックの略であったらしい。

中学校を終えた私は住みなれた清き阿寒の湖をあとに或る満月の夜「家」の鎖を断ち切る為、家出をしたのだが、青函連絡船で海峡を渡る数時間、私は甲板の手摺に靠れたまま滑らかな海を見続けた。

海上に浮遊していた、腐りかけの林檎、セルロイドの血、何かを中にくるんだ菰包、針のない柱時計、――

昭和14年3月生/武蔵野美校卒/劇団表現座所属


471伝説の名無しさん2019/04/09(火) 14:39:32.89
>>464
なかにし礼(1938年9月2日生まれ)と
前田亜土(1939年3月生まれ)は、
同学年だったんですね。


466伝説の名無しさん2019/04/07(日) 17:26:37.53

森田童子の生年月日は1952年1月15日が正しいです


486伝説の名無しさん2019/04/12(金) 23:17:23.23

風吹ジュン誘拐監禁ですが、暴力団とか事件の詳細はどうでもいいです。
ここで興味深いのはアドプロモーションの社長が森田童子の夫、役員が父と叔父だということです。

1974年9月に事件が起きて、1年後に森田童子がレコードデビューしてます。
デビューアルバムには松村慶子をはじめ、当時の一流のスタッフで、なかにし礼が懇意にしている人たちが集まってます。

まるで、もう一度、風吹ジュンに代わってアイドルを売り出そうとするかのようです。

これは想像ですが、風吹ジュン事件で中西、前田ファミリーは負債を負ったことでしょう。

そこでアイドル風吹ジュンの穴埋めとして、家族の一員の前田美乃生さんを森田童子にして歌わせたんじゃないでしょうか。
もちろん本人に有り余る才能があったればこそでしょうが。

たぶんこれはそんなに外れたことじゃないと思います。
そう考えると、森田童子の歌や正体を隠していたことなど違った見方ができるんじゃないでしょうか。


488伝説の名無しさん2019/04/13(土) 09:15:24.33

週刊平凡 1974年10月10日号
「風吹ジュンがなかにし礼さんを強盗傷人罪などで告訴!」(*抜粋)

9月20日―。東京・高輪警察署に一通の告訴状が提出された。
告訴人は風吹ジュン、『ガル企画』の石丸末昭社長、同・杠洋之輔マネジャーの3名。

被告訴人はなかにし礼氏(本名・中西礼三)、実兄の中西正一氏、『アドプロ』の前田亜土社長、同プロの宇野マネジャー、それに住吉連合の幹部・岩井政道氏、その配下・小川利行氏の6人。

岩井氏と小川氏は即日、高輪署に逮捕された。
今後の捜査の状況によっては、人気作詞家・なかにし礼氏に、司直の手がのびないという保証はどこにもない。

『ガル企画』が発足したのは9月9日だが、発足以前にはなかにし礼氏自身も経営者のひとりとして参加予定だったという。それを石丸社長があえて外したのはなかにし氏の評判がかんばしくなかったためといわれる。なかにし氏が、これをおもしろく思うわけがない。

さらに『アドプロ』の前田亜土社長の夫人・美乃生さんは中西正一氏の娘さんである。彼にとっては姪に当たるわけだ。金の卵に逃げられた親類のため、芸能界に顔をきくなかにし礼氏がひと役買って出た気持ちを思えば、あわれである。


495伝説の名無しさん2019/04/14(日) 02:09:28.18

本名を出して素顔を公開したら色んな事がバレてしまうし、
売れてしまったら週刊誌が正体をつきとめようとつけ回る。
だから正体を隠し、わざと売れないようにメディア露出を避けていたのかな。
そしてそれは引退後も。

497伝説の名無しさん2019/04/14(日) 02:46:19.80

いろんなことがはっきりわかった。昔の平凡記事アップしてくれた方ありがとう。
森田童子(中西美乃生→前田美乃生)という名前が報道されていたので
本名では活動できなかったわけだね。
だいぶ謎が解けた。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1539527568/

4. 中川隆[-8584] koaQ7Jey 2021年1月05日 03:25:25 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[62] 報告
748伝説の名無しさん2018/09/25(火) 13:24:33.67

『兄さん、お願いだから死んでくれ〜』っタイトルでドラマ化もされてるね
なかにし礼役はトヨエツで兄役はビートたけし

あの気性の激しい兄の娘だったんだ?

弟の印税を使い込んでは何度も会社潰してたらしいからそりゃ素性明かせねーわな
いろんな方面から恨まれてたろうし
娘をデビューさせたのは金儲けしたい兄(父)の差し金か?

兄は華麗にアコーディオンを弾きこなす音楽センスがあったらしいから
童子は受け継いだのだろうね


756伝説の名無しさん2018/09/25(火) 19:11:31.53>>757
>>748
童子が頑なに正体を隠していたのとリンクしますね。
1994年に亡くなってるなら、
ミリオンセラーでブレイクした時は介護中だったんだろうか。


757伝説の名無しさん2018/09/25(火) 19:20:20.47
>>756
小説を読めば父親がどうやって死んだか書いてある。

768伝説の名無しさん2018/09/26(水) 02:10:36.33

ネットで兄弟のあらすじを読んだがなかにし礼と森田童子が一時期同居してたなんて信じられないような事実だな
童子の学費もなかにし礼が払ってたらしいが


774伝説の名無しさん2018/09/26(水) 16:23:16.87

森田童子さんのちょっとした関係者です。
検索しててここを見つけて最初の方から読んできました。

公的証明書をUPしている人へ。
今すぐ削除した方がいいですよ。
あなたのやっていることでご遺族に具体的な実損が出た場合、ご遺族は弁護士を通して間違いなくあなたを訴えるでしょう。
どなたかが書いていたように死者に個人情報保護法やその他の法律はほとんどの場合適用されません。

ですが、死者が生存中に秘密にしていたことを死後に他人が公開して、存命しているご遺族等に実損等が出た場合はその限りではありません。
死者が存命中に秘密にしていた理由がそれを回避するためであると考えられるからです。
簡易版ではなく、全判例を検索すればその手の判例がいくつも出てきます(有料になりますが)。

森田童子さんには自らの個人情報を公にできない理由がありました。
身近な人で知っている人は知っていることです。
だから誰もが口をつぐんでいるのです。
それは亡くなった今も同じです。
ご遺族は生きていらっしゃるのですから。

森田童子さんの遺されたものは単に楽曲群というだけではありません。
それによって作られた様々な人の思いでや費やされた時間、記憶といった無形のものがたくさんあり、それはここに集っていらっしゃる皆さんも同じでしょう。

ここを読んでずいぶんと罪深いことをする人がいるものだと信じられない思いなのですが、
書いてしまったものはしょうがありませんね。
ただ、せめて公的書類などは削除できるものなら削除してあげませんか?

森田童子さんが存命中に隠し通したことを、亡くなられてから赤の他人が公開することは墓荒らしと変わらないくらい、いやもしかしたらそれ以上の死者とご遺族への冒涜です。

人間として知りたいと思う気持ちがあるのはわからなくもありませんが、それをこうした場で公開する人を僕は心の底から軽蔑します。

どうか皆さん、彼女の歌をいつまでも忘れないでいてあげてください。

長々と失礼しました。
僕はできればここのような精神的暴力の場を知りたくなかったです。


786tattyanneko2018/09/26(水) 19:20:07.58>>799
>>774
森田童子こと前田美乃生さんの情報を書き込んだものです

丁寧なご忠告ありがとうございます
掲示板にて返事させていただきます

お尋ねしたいのですが、あなたは森田童子さんのどのような関係者でしょうか?
また私の行為でご遺族にどのような実損が出るのでしょうか?

なぜこのような質問をさせていただくかといいますと、あなたの書き込みがいたずらである可能性を考えているからです
たいへん失礼かと存じますが、できる範囲で結構ですからお答えください
またそれを裏付ける資料も提示していただければ幸いです
その内容によりリンク先の画像の削除を考えます
掲示板への書き込みが憚られるようでしたら私が公開しているメールアドレスに送ってください

送られたメールについては秘匿することをお約束します

こんなにいろいろ暴露している人間を信じられないとお考えかもしれませんが、今まで公表したことは全て合法な資料と、私の推測だけです

また推測については錯誤はあるかもしれませんが虚偽は書いておりません
ですので「公開しないでほしい」と一言添えてメールを下されば、それについては公開しません

それから、そんな事は考えられないのですが、もしも仮にこの件で訴訟になった場合は訴状を含めて全ての裁判資料をここで開示しようかと思ってます


791伝説の名無しさん2018/09/26(水) 21:50:40.08

↑あんた、なかにし礼??
なかにし礼に実害あるの?????????

794伝説の名無しさん2018/09/27(木) 00:25:32.03

ここってホントになかにし礼が、カキコしてるんじゃない??


811tattyanneko2018/09/27(木) 20:22:40.80

なかにし礼の小説「兄弟」は森田童子ファンなら必読です

これを読むといろんな事がわかりますが、他の資料と照らし合わせるともっと詳しいことが見えてきます

たとえば、なかにし礼の他の著作で「翔べ!わが思いよ」というのがあります
1989年、東京新聞に連載された自伝です

なかにし礼と森田童子こと中西美乃生さんは1968年から1971年まで、東京都中野区にある同じ家に暮らしていました
前回引用した部分、美以子さんが十五歳のときから十八歳までです

一方でなかにし礼は「なかにし礼商会」を1970年に設立
1973年に解散しています

この会社に前田亜土がいたのです
以下は「翔べ!わが思いよ」新潮文庫版、232ページからです

中野区江原町に土地を買い、そこに家を建てた。北青山三丁目に小さなビルが売りに出たので、即金で買った。

思いもかけぬと言ったら嘘になる。ついに、待ちに待ったというべきか。とにかく、意外に早く大きな幸運がやって来たのだ。
三十歳になったばかりの私は、夢の中にいるように呆然としていた。
中野の家には兄の家族や母も一緒に住んだ。千家和也や初信之介といった弟子たちも寝泊まりしていた。

北青山のビルには″なかにし礼商会″という名の会社をつくり、私が社長になって、社の真似事をやつた。ワイワイただ騒いでいるだけのもので、会社らしい目的も実行力も持ち合わせていなかった。と言ったら、その時の仲間の、杜洋之輔、前田亜土、
沢井貞夫などにすまない気もするが、社長の私が言うのだから間違いなかろう。だけど、ワイワイ騒ぐというのは楽しいものだ。お祭り騒ぎ……有頂天……。
そういえば『日本の祭り』というチャンとした仕事もしたっけ。
年末のレコード大賞は残念ながら『いいじやないの幸せならば』に決まった。

https://imgur.com/vpbAlrK.jpg

じっさいにこのころ、なかにし礼の著作を前田亜土がいくつか装丁をしています
この本にあるように前田亜土もなかにし礼の家に寝泊まりしたかもしれません

こうして森田童子こと中西美乃生さんと、前田亜土さんこと正春さんが出会ったのでしょう
美乃生さんはまだ未成年だった頃ですね

812tattyanneko2018/09/27(木) 20:23:12.86

それからもう一つ、この文章で考えたことがあります

なかにし礼の弟子、千家和也と初進之介がなかにし礼宅に寝泊まりしていたという部分です
つまり家で作詞の仕方を教えていたわけで、そのときに森田童子も教わったんじゃんないかと想像しました
森田童子の歌は書きっぱなしポエムじゃなくて、ちゃんとした流行歌の歌詞になってます

詞のアクセントとメロディーを合わせる、聴かせどころに新奇なフレーズを使うといった作詞の基本などもこのときに学んだんじゃないでしょうか
だからあれだけすごい曲ができたのでは

私としては世の中に流布している「森田童子の作品はなかにし礼の代作説」より「森田童子はなかにし礼に教えを受けた仮説」のほうがそれらしく思えます


昨日の>>774の自称関係者の方からはメールもなにもありませんでした
なのでこれはいたずらだと判断して引き続き書き込みをしました
もしも連絡したいことがおありなら、いつでもお待ちしております
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/legend/1533661210/

5. 中川隆[-8583] koaQ7Jey 2021年1月05日 03:31:44 : FULbsDkRs2 : ZWhRdW00Ni9sWUk=[63] 報告
918伝説の名無しさん2018/10/08(月) 14:15:53.69

ここ、ホントになかにし礼がカキコしてるだろ

中西太とか森田拳次とか前田美波里とかの
今40〜50代の世代さえ、ググって調べないとよくわからない固有名詞書いてるの
80歳ぐらいの爺さんじゃないと説明つかんわ

6. 中川隆[-8565] koaQ7Jey 2021年1月05日 22:24:38 : BlPirF74G2 : TVZFcWFqMFVsL1E=[2] 報告
なかにし礼の兄の死因・兄の借金&母について。食道がんを克服して近況は
2020.12.25
https://asuneta.com/archives/47005


ワイドショーのコメンテーターを務めるなど、お茶の間でもすっかりおなじみの顔となったなかにし礼(なかにしれい)さん。

直木賞作家であり、時代を彩る名曲の数々を手がけたキャリアの長い作詞家でもあります。

ドラマ化されて話題を呼んだ著作『兄弟』は、実の兄に振り回された半生を描いた自伝的小説でした。

兄の死因や兄の借金をはじめ、なかにし礼さんにとっての母の存在、食道がんを克服した闘病生活などをまとめて紹介します。

目次
なかにし礼の壮絶な過去。兄の死因は?
兄の借金の肩代わりをしていたなかにし礼
なかにし礼の母は人生最大のヒロイン
なかにし礼の食道がんとの闘病
なかにし礼が逝去
なかにし礼の壮絶な過去。兄の死因は?

1998年に刊行され、直木賞候補になった『兄弟』は、なかにし礼さんの実体験に基づいた小説です。
テレビ朝日の開局40周年スペシャルとして、『兄弟〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』というタイトルでドラマ化されました。

物語は16年前に絶縁した兄の訃報を受けた主人公が、兄の死を感謝するというショッキングなシーンで始まります。

なかにし礼さんの兄の直接的な死因は不明ですが、14歳年上の兄は特攻隊の生き残りでした。

父親の死後は一家の大黒柱として頼りにされるはずでしたが、戦争体験を経て、人が変わったように破滅的な性格になっていたそうです。

その自暴自棄な精神状態に一家は巻き込まれていくことになりました。

なかにし礼さんが以前の兄に抱いていた印象は、けんかが強く、アコーディオンを華麗に弾きこなす、おしゃれで頼れる兄。

ところが戦後の兄は、事業に失敗しては借金を繰り返す、横暴で破滅的な兄。

戦争が一人の人間に及ぼす影響について、改めて考えさせられる事例です。

けんがが強い、頼れる兄でさえも、人生観や人格を破壊されるほどの体験をしたのでしょう。

兄の死に顔を見る気はなかったというなかにし礼さん。

しかし兄の戦友から戦争の悲惨さを聞かされ、虚勢を張らなければ生きていけなかった生き残りたちの悲しみを知って、ようやく顔を見る決心をします。

そして、いざ兄の顔を見た時、あれほど苦しめられ、憎んでいた兄なのに、涙があふれてきたそうです。

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兄の借金の肩代わりをしていたなかにし礼
シャンソンの訳詞の仕事で生計をたてられるようになり、最初の結婚をしたなかにし礼さん。

その後、歌謡曲の歌詞を書き始め、それが次々にヒット。

家計も潤い、半身不随になった母の面倒をみていた兄夫婦と同居生活を始めます。

ところが兄はお金を勝手に使いこみ、働いても働いても借金が増えていく生活に。

その借金の肩代わりをしていた時期があったようです。

やがて兄はニシン漁などの事業の度重なる失敗から多額の借金を抱えることに。

それでも兄弟の縁を絶たなかったのは、病気の母を介護してくれていた兄嫁の存在があったからでした。

あげくの果てには、兄はもう自分では借りられなくなったのか、弟の名義を拝借するようになったといいます。

印税を使いこむ兄を告訴もできず、日々作詞の仕事に追われるなかにし礼さん。

不幸中の幸いがもしあるとすれば、この頃のハードワークがなかにし礼さんの才能を開花させるのに一役買ったかもしれないということでしょう。

兄は、地獄を見なければ、よい歌詞は書けないとよく言っていたそうですが、この言葉の意味は納得できるものです。

しかし、やがて母が亡くなり、なかにし礼さんはとうとう兄と縁を切る決心をします。

なかにし礼の母は人生最大のヒロイン
なかにし礼さんは、1938年、旧満州で生まれました。

両親はその5年前に北海道の小樽から旧満州に渡り、醸造業、ガラス工場やホテル経営で成功をおさめていたそうです。

少年時代は「坊ちゃん」と呼ばれ、裕福な家庭で育ちました。

そんな生活が一変したのは、1945年8月、旧ソ連が日本に宣戦布告し、旧満州に侵攻してから。

出張中だった父を残し、母、姉との逃避行が始まります。

紛れ込んだ軍用列車に敵軍の戦闘機が迫り、列車から逃げようとすると、母は「ここに隠れていなさい」と言い、なかにし礼さんを座席の下に押し込みました。

母と姉は列車を飛び降りて逃げたそうです。

列車は機銃掃射に襲われ、多くの乗客が死亡。

襲撃後に戻ってきた母は、今度は息子にこう言い聞かせました。

この先は母の言うことさえ信じてはいけないこと。

自力で逃げのび、生きること。

この言葉が、まだ6歳だったなかにし礼さんの意識を変え、大人に成長してがんを患った際も生きる力になったといいます。

わが子にこう諭さなければならなかった母のつらい胸中、戦争の過酷さ、不条理さを感じるエピソードです。

母のことを「わが人生最大のヒロイン」と言うなかにし礼さん。

その母をモデルに、旧満州からの引き揚げ体験を描いた『赤い月』はロングセラーとなり、映画化・テレビドラマ化・ラジオドラマ化されています。

なかにし礼の食道がんとの闘病
2012年3月5日、コメンテーターを務めるワイドショーで食道がんであることを公表し、すべての仕事をキャンセルして闘病生活に入ったなかにし礼さん。

すでにステージVだったそうです。

医師からは抗がん剤治療、放射線治療、手術という提案がありましたが、心臓に不安を抱えていたなかにし礼さんは、先進医療の陽子線治療を選択。

がん患者の誰もが受けられる治療法ではありませんが、陽子線治療が実ってがんを克服しました。

同年10月に復帰し、執筆やコメンテーターの仕事も再開しています。

その後も3ケ月おきに検診を受けていましたが、2015年2月に食道のリンパ節に再発。

今回は陽子線治療は使えませんでした。


がんが前回陽子線を当てた付近にあり、気管支に密着していたため、そこに再び陽子線治療を施すと、気管支に穴が開いてしまう可能性があったそうです。
なかにし礼さんは、手術中に心臓が止まったらもはやしかたがないという覚悟で手術に臨み、その後抗がん剤治療を受けることに。

9月には再発がんが消えたことを発表し、テレビ出演などの活動も再開しました。

『闘う力 再発がんに克つ』は、八方ふさがりのなかでの手術の選択や心境の変化などを記したリアルな闘病ノンフィクションです。

なかにし礼が逝去
1938年9月2日生まれで2020年は82歳を迎えた、なかにし礼さん。

しかし12月23日に心筋梗塞が原因で逝去されました。

心筋梗塞への対処は行なっており、2016年4月に突然死を回避するための手術を受けていたことがわかりました。

致死性不整脈を感知して治療する植え込み型除細動器(ICD)や心臓ペースメーカーを体内に埋め込んだようです。

不整脈は心臓突然死の最大の原因といわれていますから、突然死の恐怖が消え、大きなストレスから解放されたことになりますね。

過去に心室細動を原因とする心筋梗塞を発症し、心臓の能力が健常者の約半分しかなかったというなかにし礼さん。

それまでは心室細動の再発による突然死の恐怖と常に隣り合わせの状態でした。

体調も、再発時の抗がん剤治療で衰弱はしたものの、回復していたとのこと。

腫瘍マーカーも正常値以下だったそうです。

2019年3月には日本オペラ協会創立60周年記念公演としてオペラ『静と義経』を新制作、上演。

6月にはエッセイ『わが人生に悔いなし 時代の証言者として』を出版しました。


食道がんに打ち克った時に最初に考えたのは、やり残したことがあるのではないかということだったそうです。
戦争体験や兄との愛憎などの壮絶な過去を経て、二度もがんから生還したなかにし礼さん。

今では想像もつかないような実体験から数々の作品が誕生しているのかもしれませんね。

https://asuneta.com/archives/47005

7. 中川隆[-8547] koaQ7Jey 2021年1月06日 12:42:57 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[6] 報告
フィーリング ハイファイセット
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88+++%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0++1976%E5%B9%B4


作詞:なかにし礼
作曲:モーリス・アルバート
編曲:田辺信一
レーベル:東芝EMI/EXPRESS
リリース:1976年12月1日










フィーリング 歌詞
歌:ハイ・ファイ・セット


ただ 一度だけの
たわむれだと 知っていたわ
もう逢えないこと
知ってたけど 許したのよ
そうよ 愛はひとときの
その場かぎりの まぼろしなの

※Feeling oh…Feeling
Oh…Feeling 泣かないわ※

今 あなたと私が
美しければ それでいい
そうよ 愛は男と
女が傷つけあう ふれあいなの
今 あなたと私が
美しければ それでいい

(※4回くり返し)


8. 中川隆[-8534] koaQ7Jey 2021年1月06日 13:49:22 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[19] 報告
石狩挽歌 北原ミレイ
なかにし礼作詞、浜圭介作曲


YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%9F%B3%E7%8B%A9%E6%8C%BD%E6%AD%8C%E3%80%80%E3%80%80%E5%8C%97%E5%8E%9F%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%82%A4






海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)の ヤン衆がさわぐ
雪に埋もれた 番屋の隅で
わたしゃ夜通し 飯を炊く

あれからニシンは どこへ行ったやら
破れた網は 問い刺し網か
今じゃ浜辺で オンボロロ
オンボロボロロー


沖を通るは 笠戸丸
わたしゃ涙で にしん曇りの 空を見る
燃えろ篝火(かがりび) 朝里(あさり)の浜に
海は銀色 ニシンの色よ

ソーラン節に 頬そめながら
わたしゃ大漁の 網を曳く
あれからニシンは どこへ行ったやら
オタモイ岬の ニシン御殿も


今じゃさびれて オンボロロ
オンボロボロロー
かわらぬものは 古代文字
わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る




「石狩挽歌」は、1975年6月25日に発売された北原ミレイの8枚目のシングル。
なかにし礼作詞、浜圭介作曲。同年の日本作詩大賞の作品賞を受賞した。

2007年発売のシングル「雨の思い出」のカップリング、及び2008年発売のアルバム「全曲集〜雨の思い出〜」には、曲調の早い3分30秒ほどの新録音バージョンが収録されている。

挽歌とはエレジー、つまり悲しみを表現した歌のことである。

石狩の海の鰊漁を舞台に、大きな夢を見て それをつかめないままに終わってしまう男、そんな男と人生をともにする女の気持ちが、鮮やかな情景とともにうたわれている。

なかにし礼自身の幼少時の体験、兄に対する複雑な気持ち、人生に対する想いが織り込まれている。なかにし礼には、15歳年上の、破滅傾向で疫病神のような兄・正一がおり、その兄が引き起こすトラブルや葛藤が人生にしつこくつきまとった。幼少時、なかにし家は貧困の中にあり、兄はバクチのような鰊漁を行ったことがあり、せっかく大漁に恵まれたのに、それで満足せず、わざわざ本州まで運んで高く売ろうとしたために、結局せっかくの鰊も腐らせてしまい、全てを失い膨大な借金だけが残ってしまった[2]。そして一家は離散することになった。なかにしの内にある、そうした原体験とでも呼べるようなものがこの歌には込められているのである。

ある時期、なかにし礼は作詞に行き詰まっていたが、そこに兄が現れ、兄自身が「鰊のことを書けばいいじゃないか」と言ったという[3]。そうしてこの作品は生まれた。ただし、こうした体験をただそのまま表現しただけでは なかにしの体験をしていない人の心にはすんなり響かないだろうから、聞く人と気持ちを共有できる言葉を詩に織り込んだ、といった主旨のことを なかにし礼はあるテレビ番組のカメラに向かい語っていたことがある。

ヒット当時に北原歌唱版のものが有線放送でさかんに流れ一気に日本人の心に焼きつき、また八代亜紀もテレビで歌唱、その後も石川さゆりや坂本冬美らによるカバーなどもテレビで視聴され、近年でも氷川など若手の歌手も歌うなど、多くの歌手によって歌い継がれ聞かれ続けている。

歌碑
小樽市の西北に位置する祝津岬にある鰊御殿の旧青山別邸(小樽市祝津3丁目63)には、石狩挽歌の記念石碑と なかにし礼直筆の歌碑がある。
9. 曙を待望するもの[11] j4yC8JHSll2Ct4LpguCCzA 2021年1月06日 15:39:06 : FAt0kYWxVo : VVlMOUVwaVF1dzY=[570] 報告
大変惜しいひとがなくなってしまった。中西さんは勿論作詞家であり小説家である功績は私が言うまでもないくらいの巨星でした。しかし私はテレビのコメンテーターを高く評価しています。あの当時は確か小泉政権だったと記憶しています。そのコメンテーターとしての仕事ぶりはまさに歯に衣着せぬ単刀直入で政府に切りつけるものでした。今のワイドナショーのコメンテーターたちが中西さんの詰めのあかでも煎じてのましてやりたいくらいですよ。それでもさすがに政府の横やりで降板となりました。私の周りを含めて「満州」帰りの人には何か一本筋の通ったところを感じます。

10. 中川隆[-8520] koaQ7Jey 2021年1月06日 19:59:55 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[35] 報告

なかにし礼作詞の歌詞一覧 - 歌ネット
https://www.uta-net.com/lyricist/20593/
11. 中川隆[-8519] koaQ7Jey 2021年1月06日 20:13:13 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[36] 報告
「別れの朝」ペドロ&カプリシャス(前野曜子歌唱版)

別れの朝 ペドロ&カプリシャス - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%88%A5%E3%82%8C%E3%81%AE%E6%9C%9D+%E3%83%9A%E3%83%89%E3%83%AD%EF%BC%86%E3%82%AB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9





歌:ペドロ&カプリシャス

作詞:なかにし礼

作曲:JUERGENS UDO

別れの朝 ふたりは
さめた紅茶のみほし
さようならの くちづけ
わらいながら 交わした
別れの朝 ふたりは
白いドアを開いて
駅につづく 小怪を
何も言わず 歩いた

※言わないで なぐさめは
涙をさそうから
触れないで この指に
心が乱れるから※

△やがて汽車は 出てゆき
一人残る 私は
ちぎれるほど 手をふる
あなたの目を見ていた△

(※くり返し)
(△くり返し)

あなたの目を見ていた






「別れの朝」は、1971年(昭和46年)10月にリリースされた日本のバンド・ペドロ&カプリシャスのメジャー・デビューシングルである。ペドロ&カプリシャスの代表曲のひとつである。


原曲はオーストリアの歌手・ウド・ユルゲンスの作曲、ヨアヒム・フックスベルガーの作詞による Was Ich Dir Sagen Will(直訳は「君に伝えたいこと」。『夕映えの二人』(日本語詞・堀内みち子)の原曲でもある)のカバーである。

なお原曲の歌詞と、なかにし礼が担当した日本語詞はかなり異なっている。


ペドロ&カプリシャスの初代ボーカルだった前野曜子が歌唱。

週間オリコンチャートではいきなり4週連続で1位を獲得し、シングル売り上げも55.7万枚を記録。ペドロ&カプリシャスとしては最大のヒット曲となった。

初代ボーカル・前野がペドロ&カプリシャスを脱退後、2代目ボーカル・高橋まり(現:橋真梨子。ペドロ&カプリシャス時代のアルバム『華麗なるニュー・ポップスの世界』には橋のリード・ボーカルによるバージョンが収録されている)や、3代目ボーカル・松平直子の他、菅原洋一、テレサ・テン、朱里エイコ、藤圭子、世良公則、秋元順子などもそれぞれ同曲の日本語詞をカバーしている。
12. 中川隆[-8517] koaQ7Jey 2021年1月06日 21:12:08 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[38] 報告

今日でお別れ - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%A7%E3%81%8A%E5%88%A5%E3%82%8C


作詞:なかにし礼
作曲:宇井あきら
オリジナル:菅原洋一











歌:菅原洋一
作詞:なかにし礼
作曲:宇井 あきら

今日でお別れねもう逢えない
涙を見せずにいたいけれど
信じられないのそのひとこと
あの甘い言葉を
ささやいたあなたが
突然さようなら言えるなんて

最後のタバコに火をつけましょう
曲ったネクタイなおさせてね
あなたの背広や身のまわりに
やさしく気を配る
胸はずむ仕事は
これからどなたがするのかしら

今日でお別れねもう逢えない
あなたも涙を見せてほしい
何も云わないで気安めなど
こみあげる涙はこみあげる涙は
言葉にならないさようなら
さようなら








13. 中川隆[-8516] koaQ7Jey 2021年1月06日 21:20:44 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[39] 報告
悪いけど、なかにし礼には才能が全く無い

世の中には音楽がわかる人が殆どいないんだ。

14. 中川隆[-8514] koaQ7Jey 2021年1月06日 23:09:43 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[41] 報告
なかにし礼の曲がどれ位酷いかは、同時代の歌謡曲と比較してみればすぐにわかります:


1970年代, 1980年代の日本歌謡曲名曲集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/255.html

谷村新司 いい日旅立ち
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/741.html

かぐや姫 神田川 _ 1970年代 四畳半フォークの時代
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/284.html

中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html

森田童子 ぼくたちの失敗
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1022.html

森田童子と中島みゆきの二人は本当の天才ですね。

15. 中川隆[-8514] koaQ7Jey 2021年1月07日 10:18:46 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[1] 報告

因みに、なかにし礼は、自分が作詞の仕方を教えて、デビューにも尽力した自分の姪の森田童子の名歌を自殺誘発ソングだとしか思っていなかったんですね:


なかにし礼の森田童子の歌へのコメント...

彼女の歌が一部の敏感過ぎる人達の、生きようかなそれとも死のうかなという、危うい紙一重の精神状態にあるところを、死んじゃいなよこっちへおいでよと死のスイッチを押させたのは負の一面として事実。

森田童子は手放しで称賛出来ない、ある意味自殺誘発ソングで何人も自殺に追いやった批判も加えられるべき人物。あれだけ死ぬだの死にたいだの死を甘美に唄った自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてるのはなんたる皮肉。
https://densukedenden.blogspot.com/2012/06/blog-post_21.html

▲△▽▼

2013年12月18日水曜日
「そうか、森田童子がいたんだ」のコメント

以前書いた森田童子の記事に、「なかにし礼」さんからコメントをいただいた。
コメント内でお返事しようかと思ったのだが、少し落ち着いて考えたいので、記事にすることにする。

「なかにし」さんのコメントの全文は以下の通り。

「彼女の歌が一部の敏感過ぎる人達の、生きようかなそれとも死のうかなという、危うい紙一重の精神状態にあるところを、死んじゃいなよこっちへおいでよと死のスイッチを押させたのは負の一面として事実。

森田童子は手放しで称賛出来ない、ある意味自殺誘発ソングで何人も自殺に追いやった批判も加えられるべき人物。あれだけ死ぬだの死にたいだの死を甘美に唄った自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてるのはなんたる皮肉。」

森田童子の歌を聴いて自殺した人がどれほどいるか、私には分からない。ただ、いても不思議はないと思う。私自身、童子の歌を聴きながら、あの記事で書いたように、「深入りしたら危険だ」という思いと「深入りせずにいられない」という思いがせめぎ合っていた。

死への誘惑という点でいえば、文学の方がよりポピュラーだと思う。芥川龍之介の晩年の作品なんかまさにそうだし、中原中也の詩や宮澤賢治の童話だって死に近い。極め付きは太宰治か。太宰の弟子を自認していた田中英光なんか、太宰の墓前で自殺したくらいだ。しかし、彼らはその落とし前をつけるように、早死にしたり自殺したりした。とすれば、そのような作品を世の出した者は死ななければならないのか、という話になる。

人間には死に近づく時期がある。だからこそ、古今東西、死に近い作品は多いのだ。しかし、そこから逃れられれば、それはそれでいいじゃないか。森田童子は、とにかく生き延びたのだ。彼女が死の誘惑から逃れることができたとすれば、それはそれで喜んであげてもいいと思う。

今、昔のアルバムが結構CDで復刻されているけど、森田童子のオリジナルアルバム復刻の話は聞かない。単にセールスが見込めないのか、それとも本人の了解が得られないのか。

もし、森田童子が昔の作品が世に出ることを頑なに拒んでいるとすれば、それが彼女なりの落とし前のつけ方なのかもしれない。
http://densukedenden.blogspot.com/2013/12/blog-post_18.html

16. 中川隆[-8513] koaQ7Jey 2021年1月07日 10:22:24 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[2] 報告
森田童子 - (best)僕たちの失敗 ベスト・コレクション





1. ぼくたちの失敗
2. 蒼き夜は
3. 雨のクロール
4. 蒸留反応
5. 哀悼夜曲
6. 孤立無援の唄
7. さよならぼくのともだち
8. 逆光線
9. サナトリウム
10. 男のくせに泣いてくれた
11. 春爛漫
12. G線上のひとり
13. ラストワルツ
17. 中川隆[-8512] koaQ7Jey 2021年1月07日 10:36:35 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[3] 報告
ロフト創業者が見たライブハウス50年
フラッと現れた森田童子の暗くて沈んだ歌声に恋心を抱いた
公開日:2020/12/07 06:00 更新日:2020/12/07 06:00
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/282135

森田童子の1枚目のオリジナル・アルバム「GOOD BYE グッドバイ」

 新型コロナに翻弄された2020年も12月を迎えた。ライブは<密>を避けて<配信>というスタイルに変わり、演者とファンとの間に存在していた<濃密なつながり>は分断され、音楽を熱く実体験することができなくなった。コロナ禍はいつ収束するのか? 先が見えない。夜中に一人で酒を飲みながら、森田童子の悲しい調べに身を委ねる。青春時代の思い出が走馬灯のようによぎる。あれは……本気の恋だったのだろうか?

 1973年の秋というよりも、夏の終わりと言った方がいいかもしれない。その年の6月に西荻窪ロフトが北口商店街の一角にオープンした。秋口に入っても残暑が厳しく、店前の(東京)女子大通りの打ち水が、キラキラと光り輝いていた。


 森田童子がふらっと現れて「すいません、私もここで歌えますか?」と聞いてきた。彼女のトレードマークとなったサングラスも掛けてなかったし、クルクルのカーリーヘアでもなかった。まるで少女のようだった。

売れていない歌い手が売り込みに行く際、さすがに真っ黒のサングラスはないだろう――ということだろうが、彼女の素顔を見たのは、この時が最初で最後だったような気がしてならない。

 手渡された一本のテープを聞いた瞬間、大きな衝撃が脳天を突き抜けるように走った。「なんて暗い歌なんだ!」。そう思いながら、じっくり歌詞を読み込むと<あの政治の季節>が、まざまざと思い出された。私たちが遮二無二に闘ってきた「大学闘争時代の挫折」をこれでもか! これでもか! と突き付けられた。「どうして彼女は挫折した者にしか分からない心情を歌詞にして歌えるのか?」。不思議でしょうがなかった。同時に大きな好奇心が芽生えた。

 学園紛争で高校を中退し、72年の友人の死をきっかけに自作自演で歌い始めたというが、それにしても<革命を叫びながら機動隊にやみくもに突撃していった>私自身の全共闘運動時代の原風景を想起させる歌に「この少女の過去に何があったのだろうか?」と思わないではいられなかった。

暗くて、そして沈んだ歌声。そう言われていたが、個人的にはちょっと違う。あくまで<あの独特の雰囲気>が、そう思わせたのだろう。後で知ったが、恋人が学生運動中に自殺したという。

 彼女は、いつもロフトのステージの上で涙を流しながら歌っていた。


 私は、森田童子に恋心を抱いていた。


▲△▽▼


「高校教師」の森田童子死去 「ロフト」オーナーが語る謎の素顔
太田サトル2018.6.21
https://dot.asahi.com/wa/2018062000015.html?page=1

本名も素顔も、謎の多いアーティストだった(※写真はイメージ)

 1993年放送のドラマ「高校教師」の主題歌「ぼくたちの失敗」などで知られるシンガー・ソングライターの森田童子さんが、心不全のため4月24日に亡くなっていたことがわかった。65歳だった。デビューは75年。森田さんをデビュー前から83年末の活動休止まで約10年間見守った、ライブハウス「ロフト」グループのオーナー、平野悠さんが振り返る。

「ここで歌えるんですか?」

 まだ20歳ぐらいだった彼女が、デモテープを手に、平野さんの前に現れた。テープを受け取っただけで、そのときの印象はあまり覚えていないそうだ。

「テープを聴いて、その声質とリアリティーのある詞に、ぶっ飛びました。しかし、当時の音楽状況の中で、これがウケるとは思えませんでした」

 平野さんが言うには、当時は日本のロックが一気に市民権を得た時代。

「これからはロックだという時代に、太宰がどうしたとか、誰かが死んだとかいうようなことを、いつもボロボロ泣きながら、顔じゅう涙で濡らしながら歌ってたんです。友達が学生運動の最中に倒れて死んだ。そのひとのことを歌いたくて始めたんだということをよく言ってました」

 そんな彼女の歌に惹きつけられた若者が、ロフトに足を運んだ。

「コートの襟立てて、ボロボロのズボンはいて、だいたい一人で……。自分の生きる意味がわからない、うまく生きられない、行き場を失った若者が救いを求めるように集う場所でした」

 本名も素顔も、謎の多いアーティストだった。

「決して寡黙ではないけど、自分のことについては、絶対に話しませんでした。服装も、黒ずくめ以外見たことなかったですね」

 83年末の新宿ロフトでのコンサートが、表舞台に姿を現した最後だったと平野さんは振り返る。活動休止から10年後、ドラマであらためて脚光を浴びた当時も、一度も彼女は表舞台に姿を現さなかった。

「『私は専業主婦です。もう人前に出て歌うことはありません』と言い、ステージに出なかった。彼女の美学だよね」

(本誌・太田サトル)

※週刊朝日 2018年6月29日号

https://dot.asahi.com/wa/2018062000015.html?page=1


▲△▽▼


ロフト創業者が見たライブハウス50年
「ワラシ」森田童子の引退ライブは葬式のように静かだった
公開日:2020/12/21 06:00 更新日:2020/12/21 06:00
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/282780


ロフト発行の刊行物「ルーフトップ」/(提供:ロフトプロジェクト)

 1983年12月。森田童子は新宿ロフトでのライブを最後に引退した。その10年前の73年。彼女は西荻窪ロフトで初めてライブハウスのステージに立った。今でもファンたちは、西荻窪ロフトを「聖地」と呼んでいると聞いた。私が、デビューから引退までを見届けた唯一のミュージシャンとなった彼女は2018年4月、静かに65歳の生涯を閉じた。

 私が「ワラシ」と呼んだ森田童子は、とても不思議な女性だった。リハーサルを終え、本番までの間に西荻窪ロフトの隣の喫茶店に行き、2人でおしゃべりすることがあった。

 一緒にアルコールを飲んだことは一度もないから……飲めなかったのだろう。定かではないが。

 いつも彼女にこう問うた。「君の歌を聴いているとそれなりに想像はつくが、君の過去に一体何があったんだ?」。いつもニコニコするばかりでワラシは、何も答えようとはしなかった。政治的な話もしなかった。彼女の心情は、ステージから類推するしかなかった。

それでも少しずつ、口を開いてくれるようになった。マネジャーの話題になったことがある。

 後に彼女のダンナとなるマネジャーのMさんとレコード会社は「明るくて万人受けする曲」を作ってメジャーの仲間入りを狙っていたが、ワラシはかたくなだった。


 新宿ロフトでの引退ライブ。初期の曲をメインに選び、いつものように客席は静かだった。

 彼女が「この曲を最後に歌手生活に終わりを告げることにします」と話しても、店内はまるで葬式のようにシーンとしていた。選曲自体、最後のこだわりだったと思う。

 ライブの後、いつものようにレコード即売会を開いた。ファンの差し出すレコードすべてに長いメッセージを丁寧に書き込んでいた。これも見慣れた光景だった。

 亡くなる前年の17年のころから体調を崩し、入退院を繰り返していたと聞いた。76年リリースの「ぼくたちの失敗」が93年にテレビドラマのテーマ曲に採用され、瞬く間に100万枚の大ヒットになっても、ワラシは素顔も本名も明かさず、ひっそりと生きていた。

 森田童子の歌声はか細く、柔らかく、幻想的だった。彼女がステージで流す涙が、あまり話題にならなかったのは、ステージの暗く落とした照明のせいだったのか……。

▲△▽▼


ロフト創業者が見たライブハウス50年
森田童子の引退10年後「ぼくたちの失敗」がミリオンセラー
公開日:2020/12/14 06:00 更新日:2020/12/14 06:00
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/282456


 1973年に西荻窪ロフトでライブハウスデビューを果たした森田童子は、10年後の83年12月に新宿ロフトのステージに立ち、これを最後に引退した。さらに10年後。彼女の旧作「ぼくたちの失敗(76年)」のCDが、100万枚に迫る大ヒットを記録した。TBS系の金曜ドラマ「高校教師」(93年1〜3月放映)の主題歌に採用されたのだ。

 当時のテレビドラマの主題歌は、大半がレコード会社とのタイアップだった。


 ところが「高校教師」の脚本を書いた野島伸司さんはタイアップを断固拒否。一部狂信的ファンはいたが、まだ無名の存在でしかなかった歌い手の曲を採用した。

 新たにベスト盤が発売され、オリジナルアルバム7枚がCDで再発売された。森田童子の再デビューを期待する声が湧き上がり、中には「古巣のロフトで彼女のライブが実現したら凄いことになりますね」と言ってくる人もいた。が、彼女はかたくなに再デビューに背を向け、その素顔をさらすことはなかった。

彼女は、私が恋心さえ抱いた最初で最後の女性ミュージシャンだった。

 ロフトのステージで森田童子は、決して上手じゃなかったギターを弾きながら、ボロボロと涙を流しながら歌っていた。


 客席には小汚いジーパンをはき、ヨレヨレのコートの襟を立て、小脇に文庫本を抱える<孤独でネクラな雰囲気を醸し出している男>ばかり。

 ライブ中、いつも会場はシーンとしていた。

 あの狂おしい政治の季節が終わり、世間は<可愛らしい夢><小さな幸せ><素晴らしき人生>を渇望していた。彼女は<憂鬱><絶望><孤独><自殺>といったキーワードを掲げた曲を愚直に歌い続けた。挫折感に打ちひしがれ、時代に置いていかれる焦燥感にさいなまれた<学生運動崩れ>の男性ファンは、森田童子の世界観にグイグイ引きずり込まれた。

暗くて沈んだ歌声と評されるが、か細くて透明感のある歌声だったと私自身は思っている。

 67年の羽田闘争で京大生・山崎博昭さんが命を落としたことを契機に高校生だった彼女は学生運動に深入りし、そして恋人だった大学生のO氏が自殺してしまう……。


 80年代に入るとメッセージソングは絶滅危惧種となり、ロフトのブッキング担当者に「森田童子なんか入れたら業界の笑いものになります」と言われ、絶句したことを鮮明に思い出す。

 ♪地下のジャズ喫茶 変われないぼくたちがいた 悪い夢のように時がなぜてゆく だめになったぼくを見て 君もびっくりしただろう 春のこもれ陽の中で 君のやさしさに埋もれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ♪


平野悠「ロフト」創業者
1944年8月10日、東京都生まれ。71年の「烏山ロフト」を皮切りに西荻、荻窪、下北沢、新宿にロフトをオープン。95年に世界初のトークライブ「ロフトプラスワン」を創設した。6月、ピースボート世界一周航海で経験した「身も心も焦がすような恋」(平野氏)を描いた「セルロイドの海」(世界書院)を刊行。作家デビューを果たした。

18. 中川隆[-8511] koaQ7Jey 2021年1月07日 10:50:39 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[4] 報告
因みに、1970年代に名曲を次々に出した かぐや姫も中島みゆき も森田童子も全員学園闘争の敗残者だったのです:



中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


時代 -ライヴ2010〜11- (東京国際フォーラムAより)





中島みゆき難解な名曲「誰のせいでもない雨が」2011-10-24
https://ameblo.jp/lupin-akane/entry-11057745125.html


You Tube で この歌を カバーしている 人が

1番を砂川闘争 2番を学生運動 はともかく
3番を洞爺丸事故と 想定した

と 書いてあったが、突拍子も無い同じ事 想像する人 世の中に いるんですね 
驚いたよ  


誰のせいでもない雨が降っている
しかたのない雨が降っている
黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている
眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも
すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は
眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は
時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は
されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている
日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと
早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を
沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと
跣(はだし)の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

中島みゆき 難解な名曲の1つです

みゆきさんの歌は 多くのインテリが様々な解釈をしています

しかし本人は 「ああ こういう解釈もあるのかぁ」といっさい

弁解や解説は致しません

それがまた 多くの 解釈を生むのでしょう


学生運動 左翼系の活動家の心情がテーマとして歌われている

というのが 定説になっているようです


1番の歌詞は どこか「砂川闘争」を思わせるような 感じです

2番の歌詞

「怒りもて石を握った指先は」
「眠れる赤子をあやし抱き」
「怒りもて罪を穿った唇は」
「時の褥に愛を呼ぶ」
「されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は」
「されど 私の裏切りは」

七・五調の文学的表現ですが どのフレーズも ???一見なんのこったか 

しかし 元活動家が 過去を想い 志半ばで 挫折した己の 現在の心情と見ると 

なるほどそうかな とも思えてきます

3番 最も難解な歌詞

私はなぜか 飢餓海峡の「洞爺丸事件」を想像してしまいました

 岩内で放火強盗殺人事件が起き 町は大火となります

 その日 港を出る 洞爺丸が台風で沈み 大勢の犠牲者がでます 

岩内といえば みゆきさんの 故郷ですね なにか結び付けたくなります

そして いきなり出てくる「滝川」と「後藤」とはいったい何者か


「月日すべての悲しみを癒せ  おおぅお〜」

無邪気な少女が 意味も分からず 口ずさんでいるような 

たどたどしい 歌い方で歌い終えています


消し去りがたい 過去を引きずる者にとって 

最後の 「おおぅお〜」 は 

胸を掻き毟られることだろう


みゆきさんは 数ある歌の引き出しの中から

敢えて意図して この歌い方をしたのだろうか
https://ameblo.jp/lupin-akane/entry-11057745125.html



▲△▽▼



学生運動の歌をあらためて聴く 「誰のせいでもない雨が」(中島みゆき)

 今回は中島みゆきの「誰のせいでもない雨が」を、私なりに解釈していこうと思います。

 「神田川」で、いっしょに暮らしていた二人は、運動の志のせいかどうかはわかりませんが、結局は別れてしまいました。

 一方、この「誰のせいでもない雨が」は、「神田川」の主人公が恐れた、まさにその通りになった、女性活動家の歌だと思います。
 道浦母都子に、

ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いにゆく

という句があります。

 大義を掲げた運動をしていて、いくら目的に関係のないものはみんな排除しようとしても、「人間らしさ」というものは抑えきれないのでしょう。

 中島みゆきのこの歌の女性は、誰かと恋愛関係になり、子供が生まれ、結局、高邁な目標よりも平凡な日常を選んで、運動から降りてしまいます。

 学生時代、権威に反対する運動へ身を投じた人の多くは、結局は世の流れに呑み込まれ、男は平凡な勤め人に、女は平凡な母親に、恐らく彼ら・彼女らが「こうした人生には埋没したくない」と思っていたその人生に落ち着いていきました。

 自分の変わり身に何の痛みも覚えず、さっさと会社で出世している人もたくさんいますが、罪悪感のような落ち着かない気持ちを抱えて毎日を送っている人もいます。

 この歌の女性は明らかに後者であり、この歌の「雨」は彼女が感じている後ろめたさ、やり場のない気持ちの象徴です。

 黒い飛行機がそっと通るくらいですから、世界は、彼女が考えるまともな場所に、全くなってはいません。

 それでも彼女は今では、かつて投石した手で赤ん坊を抱き、罪を糾弾した唇で愛情を囁きます。

 運動から降りてしまった自分は非難されても「仕方ない」、でも、人間である以上、りんごが自分の重さで落ちていくように、今の生活を選び、落ち着いていったのもまた「仕方ない」ことだ、彼女に降るのはたぶんそんな「雨」です。

 「寒さに痛み呼ぶ片耳」とは、活動中に怪我を負った耳を指すのかもしれないし、活動家たちのメッセージを、今では全身を傾けては聞けないが、さりとて無視したくもないという落ち着かない気持ちの比喩なのかもしれません。

 その他、私の勝手な想像ですが、「港を出る前に沈んだ船」は、改革が何らかの具体的な実行段階に移される前に、頓挫させられたこと、「火を止めに来る早過ぎる伝令」とは、もうあきらめなさいと囁く、体制側の声のような気がします。
それでも船は沈みきれず、火の海で燃えます。

 運動から降りてしまった彼女は、そうした成り行きや、かつての仲間である滝川と後藤が逮捕されたという知らせをやりきれない思いで受け止めながら、時間が気持ちを鎮めてくれるのをひたすら待っている、これはそういう歌ではないかと思います。


 あらためて考えてみると、「誰のせいでもない雨」って、すごい言葉です。

 この一言で、「私にはこうするしかなかった」「どう思われようと受け入れるしかない」「世界の現状の中で暮らしていくしかない」

 「人間とは悲しいものだ」等、様々なイメージが喚起されます。

 中島みゆきは、本当に凄い歌手だと思います。
http://nekosabu.blog.fc2.com/blog-entry-69.html
19. 中川隆[-8510] koaQ7Jey 2021年1月07日 11:02:25 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[5] 報告
かぐや姫や中島みゆき、森田童子の歌詞の意味が良くわからない難解な名曲は学生運動の挫折に関係している様ですね:


かぐや姫 神田川 1973年9月20日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB++%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D

中島みゆき 誰のせいでもない雨が - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E8%AA%B0%E3%81%AE%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E9%9B%A8%E3%81%8C

中島みゆき キツネ狩りの歌 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D%E7%8B%A9%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%AD%8C


1970年代過激派の醜い内ゲバを描いたキツネ狩りの歌

中島みゆき は高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか

▲△▽▼

2017年06月05日 中島みゆき 『生きていてもいいですか』 キツネ狩りの歌

 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。

 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。

 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。

最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、
70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。
http://oresuki.dreamlog.jp/archives/70903289.html


中島みゆきさんの「結婚」につながりそうな噂


現在は独身とのこと。結婚歴もなくずっと独身ですって。
なぜ結婚しなかったのでしょうね。

そういえば、松山千春さんと熱愛したんじゃなかったっけ?〔中略〕

某ギタリストの彼氏とホテルから朝帰りする写真を撮られたことあるし。

高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか。

某プロデューサーと不倫関係で、同棲してるとか。

もっと深刻なのが、同〇愛〇だとか。
https://entertainment-topics.jp/43047

ang********さん 2010/6/4 08:52:30

狐狩りの歌です。

曲名は忘れました。中島みゆきさんの物凄く古いアルバムで、狐狩りの歌の歌詞を知りたいです。

狐狩りにいくなら
なら●●●●●
ねぇ 狐狩りは素敵さ
ただ生きて戻れたら

●には何が入りますか?

i_a********さん 2010/6/5 15:26:32
♪きつねがりにいくなら〜
『ララ、きこえるょ〜』
♪きつねがりはすてきさ〜
ただ生きてもどれたら、ね

cs8********さん 2010/6/4 21:26:50

本当の歌詞を書くよ

「内ゲバのことも忘れず」

恋人を殺された中島みゆきの怒りが垣間見られる・・・と思っている。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441756209

えのき堂‏ @skoda130rs

中島みゆきの「キツネ狩りの歌」は革共同の内ゲバについて歌っていると言われているが、確かにこの歌詞はそういうものを想起させるものだと思う。

内ゲバ云々については昔、京大吉田寮のプレハブ部屋に住む中島みゆきファンの京大生から聞いたのだった。

10:18 - 2011年12月1日
https://twitter.com/skoda130rs/status/142306665130246144

20. 中川隆[-8509] koaQ7Jey 2021年1月07日 11:04:07 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[6] 報告
歌詞の意味は良くわからない難解な名曲というのはすべて背後の不気味で恐ろしい世界を垣間見せるものばかりです。

それに対して、なかにし礼の歌詞はすべて明解ですが、表面的で底が浅く、悪い意味での職人仕事なんですね。


いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは… _ 能の幽玄について
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html

Those Were The Days _ リリアン・ギッシュが独身を通した理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/487.html

イリーナ・スルツカヤ _ Let it be _ ジョン・レノンを殺した組織とは
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/551.html

アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html

クラシックの作曲家はアル中、 ジャズ・ロックのミュージシャンは全員麻薬中毒
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/917.html

まともな人間は音楽家になれない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html

ベートーヴェンの真実 _ ベートーヴェンは何故お金に困る様になったのか?
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/569.html

ブラームス最晩年のクラリネット曲に秘められたメッセージとは
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/434.html

21. 中川隆[-8508] koaQ7Jey 2021年1月07日 11:28:56 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[7] 報告
細川たかし 北酒場 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97%E3%80%80%E5%8C%97%E9%85%92%E5%A0%B4+


作詞:なかにし礼/作曲:中村泰士/編曲:馬飼野俊一





北酒場
歌:細川たかし
作詞:なかにし礼
作曲:中村泰士

北の酒場通りには 長い髪の女が似合う
ちょっとお人よしがいい くどかれ上手な方がいい
今夜の恋はタバコの先に 火をつけてくれた人
からめた指が 運命(さだめ)のように 心を許す
北の酒場通りには 女を酔わせる恋がある

北の酒場通りには 涙もろい男が似合う
ちょっと女好きがいい 瞳でくどける方がいい
夢追い人はグラスの酒と 思い出を飲みほして
やぶれた恋の 数だけ人に やさしくできる
北の酒場通りには 男を泣かせる歌がある

今夜の恋はタバコの先に 火をつけてくれた人
からめた指が 運命のように 心を許す
北の酒場通りには 女を酔わせる恋がある






22. 中川隆[-8507] koaQ7Jey 2021年1月07日 11:39:59 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[8] 報告
なかにし礼作詞の歌詞一覧 - 歌ネット
https://www.uta-net.com/lyricist/20593/4/
23. 中川隆[-8506] koaQ7Jey 2021年1月07日 11:48:31 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[9] 報告

石原裕次郎 わが人生に悔いなし - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%A3%95%E6%AC%A1%E9%83%8E%E3%80%80%E3%82%8F%E3%81%8C%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AB%E6%82%94%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%97





わが人生に悔いなし

【作詞】なかにし礼
【作曲】加藤登紀子

鏡に映る わが顔に
グラスをあげて 乾杯を
たった一つの 星をたよりに
はるばる遠くへ 来たもんだ
長かろうと 短かかろうと
わが人生に 悔いはない

この世に歌が あればこそ
こらえた涙 いくたびか
親にもらった 体一つで
戦い続けた 気持ちよさ
右だろうと 左だろうと
わが人生に 悔いはない

桜の花の 下で見る
夢にも似てる 人生さ
純で行こうぜ 愛で行こうぜ
生きてるかぎりは 青春だ
夢だろうと うつつだろうと
わが人生に 悔いはない

わが人生に 悔いはない



『わが人生に悔いなし』(わがじんせいにくいなし)は、1987年4月21日発売[1]の石原裕次郎のシングル。石原の生前にリリースされた最後のシングルとなる。


石原裕次郎が、かつて作詞家の仕事を世話したこともあるなかにし礼に直接作詞を依頼し、加藤登紀子が作曲した曲で、なかにしはそのいきさつを石原慎太郎の『弟』のあとがきで記している。

石原が静養中、1987年2月23日から3日かけてハワイ(オアフ島のドルフィンスタジオ)でレコーディングしている。シングル売上はテイチクエンタテインメント調べで累計85万枚(2005年5月現在)。

同シングルの発売の約3か月後の同年7月17日、石原は肝細胞癌により52歳で死去した。
24. 中川隆[-8483] koaQ7Jey 2021年1月07日 18:49:13 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[33] 報告
『心のこり』
作詞はなかにし礼、作曲は中村泰士


藤圭子 心のこり





心のこり/石川さゆり 1979.9.3放送 演歌(東京12チャンネル) 




心のこり 歌詞

作詞:なかにし礼
作曲:中村泰士

私バカよね おバカさんよね
うしろ指 うしろ指 さされても
あなた一人に命をかけて
耐えてきたのよ 今日まで
秋風が吹く 港の町を
船が出てゆくように
私も旅に出るわ 明日の朝早く

私バカよね おバカさんよね
大切な 大切な 純情を
わるい人だと 知っていながら
上げてしまった あなたに
秋風の中 枯葉がひとつ
枝をはなれるように
私も旅に出るわ あてもないままに

私バカよね おバカさんよね
あきらめが あきらめが 悪いのね
一度はなれた 心は二度と
もどらないのよ もとには
秋風が吹く つめたい空に
鳥が飛び立つように
私も旅に出るわ 一人泣きながら



『心のこり』(こころのこり)は、1975年4月1日に発売された細川たかしのデビューシングル。

作詞はなかにし礼、作曲は中村泰士。冒頭の『私バカよね、おバカさんよね…』という歌詞が印象的である。

デビュー曲ながら、オリコンで1位を獲得する。また、この年の年末の音楽賞レースでは「ロマンス」の岩崎宏美と激しく新人賞を競り合い、第17回日本レコード大賞の最優秀新人賞は細川に獲得が決まった。また、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」(14位まで)以来の1位から10位(12位まで)の、すべての順位にランクされるという記録を達成している。

当初は「私バカよね」という曲名だったが、新人のデビュー曲ということで、挨拶回りに不都合が生じるため、「心のこり」に改題された。この「心のこり」という曲名は、コロムビアの泉明良ディレクターが歌詞を繰り返し口ずさんでいるうちに突然ひらめいた、歌詞には全く登場しないフレーズである[1]。80万枚を売り上げる大ヒットとなった。
25. 中川隆[-8482] koaQ7Jey 2021年1月07日 19:52:32 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[34] 報告

知りたくないの
作詞: なかにし礼
作曲: ロバートソン

知りたくないの - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE


菅原洋一 知りたくないの 1965 / I Really Don't Want to Know




菅原洋一 知りたくないの/芽生えてそして/愛のフィナーレ/今日でお別れ 昭和の歌





知りたくないの 西田佐知子






知りたくないの(昭和39年)
作詞: なかにし礼
作曲: ロバートソン
唄: 菅原洋一

あなたの過去など
 知りたくないの
  済んでしまったことは
   仕方ないじゃないの

あの人のことは
 忘れてほしい
  たとえこの私が
   聞いても言わないで

あなたの愛が まことなら
 ただそれだけで うれしいの
  ああ愛しているから
   知りたくないの
    早く昔の恋を 
     忘れてほしいの





「知りたくないの」(しりたくないの、I Really Don't Want to Know)は、ドン・ロバートソン(英語版)が作曲し、ハワード・バーンズ (Howard Barnes) が作詞した、ポピュラー音楽の楽曲。1953年に発表された。

日本語では、かつては「たそがれのワルツ」としても知られ、英語原題を音写した「アイ・リアリー・ドント・ウォント・トゥ・ノウ」が曲名とされることもある[2]。


おもなバージョン

最も広く知られるバージョンは、レス・ポール&メリー・フォード(英語版)が1953年に録音したもので、1954年の年間トップ100入りを果たした。アンディ・ウィリアムスは、1963年のアルバム『Days of Wine and Roses and Other TV Requests』でこの曲を取り上げた。

ほかにも、エルヴィス・プレスリー(1970年)や、エディ・アーノルドらによる録音がある。ジョニー・ロドリゲス(英語版)のバージョンにはスペイン語の歌詞が盛り込まれている。トミー・エドワーズ(英語版)のバージョンは、1960年にポップ・チャートのトップ20入りを果たした。

ロニー・ドーヴ(英語版)のバージョンは、1966年にダイヤモンド・レコード(英語版) #208 としてリリースされた。

ジェイソン&ザ・スコーチャーズ(英語版)は、1985年のアルバム『Lost and Found』に、オルタナティヴ・カントリー(英語版)のバージョンを収録した。

ジョン・トラボルタは、2004年の映画『ママの遺したラヴソング』の中で、この曲を歌っている。

アン・マレーによる、1950年代の楽曲をカバーしたアルバム『Croonin'』にも、この曲は収録されている。

ジェリー・リー・ルイスは、2010年のヒット・アルバム『Mean Old Man』に、この曲を収録した。


日本語による歌唱

日本では、まずエディ・アーノルドのバージョンが『たそがれのワルツ』という曲名でヒットしたが、1964年になかにし礼が『知りたくないの』という曲名で日本語詞をつけ、菅原洋一が歌って1965年に発表されたバージョンが、1967年になってからヒット曲となった。

菅原盤は1965年10月に「恋心」のB面として発売されたが、1967年にジャケットを入れ替えて再発、有線放送をきっかけに同年春から夏にかけて大ヒット。なかにし礼にとっては、作詞家としての最初の成功作となった。


なかにし訳詞版『知りたくないの』のカバー

黛ジュン - 1967年2月15日発売の1stアルバム『恋のハレルヤ』にて。
南野陽子 - 2015年1月21日発売のコンピレーションアルバム『なかにし礼と12人の女優たち』にて。
鈴木京香 - テレビドラマ『浅田次郎ドラマスペシャル 琥珀』(2017年9月15日、テレビ東京)にて、鈴木演ずる平井幸子が劇中で歌った。
26. 中川隆[-8481] koaQ7Jey 2021年1月07日 19:53:56 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[35] 報告
あなたと昭和の作詞家(78)なかにし礼ー前篇
2020年12月27日
https://ameblo.jp/macogi0312/entry-12646499264.html


◎あなたの過去など知りたくないの

 昭和を代表する作詞家というと西條八十、佐伯孝夫、石本美由起、星野哲郎、阿久悠そして、なかにし礼の名前が浮かんでくる。その、なかにしが12月23日に死去した。昭和13年生まれの82歳だった。

 中西の生涯は自伝的小説「赤い月」「兄弟」を読むと、まさに波瀾万丈だった。北海道小樽に住んでいた両親は旧満州の牡丹江に渡って酒造業を営み、そこでなかにしは生まれた。酒造業は大成功をおさめ財をなしたが、やがてソ連軍が侵攻してきて父親は死去、母親はなかにしと姉を連れて死線をさまよいながら命からがら小樽へ引き揚げてきた。

 戦後になって復員してきた兄がニシン漁に手を出して失敗、多額の借金を抱え込んだため小樽に居ずらくなって一家は東京へ出てくる。なかにしは働きながら都立九段高校から立教大学文学部仏文科を卒業した。在学中からフランス語の経験をいかしてシャンソンの訳詞を始める。

 昭和38年なかにしは最初の妻と結婚、新婚旅行先の伊豆の下田のホテルのバーで映画のロケに来ていた石原裕次郎と偶然出会う。この時に裕次郎から「シャンソンの訳詞なんかで食っていけるの。日本の歌を書きなよ。自信作が出来たら持っておいでよ」と勧められたことがきっかけとなって作詞家の道に入る。以来、作詞の数は4000曲に及ぶ。

 「知りたくないの」(昭和40年・訳詞・菅原洋一歌)〽あなたの過去など 知りたくないの 済んでしまったことは 仕方ないじゃないの

 なかにしの最初のヒット曲。このヒットで作詞家としてやっていく自信がついたという。「過去」という言葉が歌詞に使われたのは初めてといい、これが歌のポイントになっている。比較的短い詞だが無駄な言葉は一つもなく完璧な仕上がりになっている。

 「涙と雨にぬれて」(41年・作詞作曲・松平直樹、田代美代子、和田弘とマヒナスターズ)〽涙と雨にぬれて 泣いて別れた二人 肩をふるわせ君は 雨の夜道に消えた

 裕次郎の言葉にあまえてなかにしは、この歌を石原プロに届ける。裕次郎は覚えていてレコード化され、そこそこのヒットになった。いい歌だったし、私はちょうどそのころ失恋したので身につまされてよく歌っていた。

 「知りたくないの」のような素晴らしい詞を書くなかにしをレコード会社が放っておくはずがなく、この後44年にかけて作詞依頼が殺到、次々とヒット曲が生まれる。

 「恋のハレルヤ」(42年・鈴木邦彦・黛ジュン)〽ハレルヤ 花が散っても ハレルヤ 風のせいじゃない ハレルヤ 沈む夕陽は ハレルヤ 止められない

 「天使の誘惑」(43年・同)〽好きなのに あの人はいない 話相手は涙だけなの 幸せはオレンジ色の 雲の流れに 流れて消えた

 「夕月」(43年・三木たかし)〽おしえてほしいの 涙のわけを 見るもののすべてが 悲しく見えるの

 なかにしの感性が光るこの3曲で黛は一気にスターダムに駆け上がった。ミニスカートで歌う姿はあの時代を象徴していた。後に日活ロマンポルノに出演したのには驚いた。

 「天使の」は日本レコード大賞を受賞。「夕月」は黛主演で映画化され、一般公募で選ばれた相手役は現千葉県知事の森田健作だ。

 「恋のフーガ」(42年・すぎやまこういち・ザ・ピーナッツ)〽追いかけて 追いかけて すがりつきたいの あの人が消えてゆく 雨の曲がり角

 宮川泰編曲のティンパニーの激しく歯切れのよいイントロが印象的で、ピーナッツの歌唱力と相まって和製ポップスの名曲となった。なかにしはこの詞で日本レコード大賞作詞賞に輝いた。

 「人形の家」(44年・川口真・弘田三枝子)〽顔もみたくないほど あなたに嫌われるなんて とても信じられない 愛が消えたいまも

 「夜と朝のあいだに」(44年・村井邦彦・ピーター)〽夜と朝のあいだに ひとりの私 天使の歌をきいている 死人のように 

 この2曲にも、これまでの日本の歌にはなかったような新鮮でみずみずしい感覚の言葉がちりばめられている。捨てられた女を「ほこりにまみれた人形みたい」と表現し、眠れない夜を過ごす人に「お前も静かに眠れ」とささやいている。

 「恋の奴隷」(44年・鈴木邦彦・奥村チヨ)〽あなたと逢ったその日から 恋の奴隷になりました あなたの膝にからみつく 子犬のように…悪い時はどうぞぶってね あなた好みのあなた好みの 女になりたい

 世のご婦人方が眉をひそめそうな歌だが、女性の心理、生理の一面を鋭く鋭くついて、なかにしの面目躍如といったところ。「あなた好みの女になりたい」は流行語にもなった。

 この時期、アイドル系歌手以外にもさまざまな歌詞を提供している。正統派歌謡曲ともいうべき「君は心の妻だから」(44年・鶴岡雅義・東京ロマンチカ)、島倉千代子の新境地を開いた「愛のさざなみ」(43年・浜口庫之助)、男女の心の機微を歌った「知りすぎたのね」(42年・作詞、作曲・ロス・インディオス)などジャンルを問わずヒット曲を生んだ。                            (黒頭巾)

https://ameblo.jp/macogi0312/entry-12646499264.html

27. 中川隆[-8480] koaQ7Jey 2021年1月07日 20:46:57 : ZAmZh6mKuA : OElLMUprbS85UXc=[36] 報告

恋のフーガ ザ・ピーナッツ
1967.08 作詞:なかにし礼 作曲:すぎやまこういち 編曲:宮川泰


恋のフーガ ザ・ピーナッツ - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%81%8B%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%80%80%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%84






Lyrics: 恋のフーガ♪♪ザ・ピーナッツ

追いかけて
追いかけて
すがりつきたいの
あの人が消えてゆく
雨の曲がり角

幸せも

想い出も
水に流したの
小窓打つ
雨の音
頬ぬらす涙

はじめから(はじめから)

結ばれない(結ばれない)
約束のあなたと私

つかのまの 戯れだと

みんなあきらめて
泣きながら はずしたの
真珠の指輪を


はじめから(はじめから)

結ばれない(結ばれない)

約束のあなたと私


かえらない面影を
胸に抱きしめて
口づけをしてみたの
雨のガラス窓


ドゥン ドゥビ ドゥバ

ドゥン ドゥ ドゥビ ドゥバ
パヤ パヤパヤ

ドゥン ドゥビ ドゥバ

ドゥン ドゥ ドゥビ ドゥバ
パヤ パヤパヤ

ドゥン ドゥビ ドゥバ

ドゥン ドゥ ドゥビ ドゥバ
パヤ パヤパヤ

ドゥン ドゥビ ドゥバ

ドゥン ドゥ ドゥビ ドゥバ
パヤ パヤパヤ・・・・




「恋のフーガ」は、1967年に発表されたザ・ピーナッツの楽曲。「恋のオフェリア」/「恋のロンド」などの「恋」シリーズの楽曲の一つであった。

2003年8月に小柳ゆき、2005年2月にはW(ダブルユー)がカバーした。


この曲はタイトルに「フーガ」とあるが、音楽学上の定義ではフーガの形式をとっていない。編曲を担当した宮川泰は当初、フーガのイメージを出すアレンジを試みたが行き詰ってしまい、吹っ切って「少し怖い感じ」にアレンジした。

イントロダクションの演奏にティンパニを使用したことによる切れのいい音と、これにピーナッツの伸びのあるダイナミックな歌唱が加わった結果、恋に破れた悲しい歌詞の情景をズタズタに「破壊」してしまうまでに至った。

作曲したすぎやまこういちもこの功績を認め、すぎやまは作曲で得た印税の一部を宮川に分けた。通常、日本で編曲のみ手がけた場合は、契約で一定の報酬額しかもらえないため、このような事例は異例である。

また作詞のなかにし礼はこの年、この作品の功績で1967年の日本レコード大賞作詞賞を受賞する。

ザ・ピーナッツ盤には英語バージョンも存在していた。これは2004年6月にキングレコードより発売されたザ・ピーナッツ レア・コレクションなどに収録されている。

ザ・ピーナッツ盤は1967年の『第18回NHK紅白歌合戦』でも歌われ、その映像はNHKにモノクロ映像が保管されており、特別番組でその部分が放送されたこともあった。



28. 中川隆[-8449] koaQ7Jey 2021年1月10日 07:52:01 : EIiHQzwffw : dHYzN2hYY3Zic1k=[2] 報告
なかにし礼の曲には品が無いんですね。
29. 中川隆[-8218] koaQ7Jey 2021年1月16日 12:50:05 : rerJEANHFY : aXNjZy9RLkFCLk0=[14] 報告
昭和の作詞家(79)なかにし礼ー中篇
2021年01月01日
https://ameblo.jp/macogi0312/entry-12647547800.html


◎あれからニシンはどこへ行ったやら

 昭和40年代の後半に入っても、なかにし礼の快進撃は続く。

 「今日でお別れ」(昭和45年・宇井あきら作曲・菅原洋一歌)〽今日でお別れね もう逢えない 涙を見せずに いたいけれど 信じられないの そのひとこと あの甘い言葉を ささやいたあなたが 突然さようなら 言えるなんて

 「手紙」(同・川口真・由紀さおり)〽死んでもあなたと 暮らしていたいと 今日までつとめた この私だけど

 「雨がやんだら」(同・筒美京平・朝丘雪路)〽雨がやんだら お別れなのね 二人の思い出 水に流して

 「京のにわか雨」(47年・平尾昌晃・小柳ルミ子)〽あまだれがひとつぶ頬に 見上げればお寺の屋根や 細い道ぬらして にわか雨がふる

 「別れの朝」(46年・日本語詞・ペドロ&カプリシャス)〽別れの朝 ふたりは さめた紅茶のみほし 

 「グッド・バイ・マイ・ラブ」(49年・平尾昌晃・アン・ルイス)〽グッバイ・マイ・ラブ この街角で グッバイ・マイ・ラブ 歩いてゆきましょう

 いずれも別れの歌。「今日で」は日本レコード大賞受賞曲。「京の」だけは日本調で、京の家並みににわか雨が降ってくる情景が浮かんできて私の好きな歌だ。aった

 昭和50年になって、なかにしにとって生涯忘れられぬ「一曲」が生まれる。

 「石狩挽歌」(浜圭介・北原ミレイ)〽海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)のヤン衆がさわぐ 雪に埋もれた 番屋の隅で わたしゃ夜通し 飯を炊く あれからニシンは どこへ行ったやら 破れた網は 問い刺し網か 今じゃ浜辺で オンボロロ オンボロボロロ

 戦後復員してきたなかにしの兄はニシン漁に手を出す。三日間だけ網の権利を買い取るもので、三日間にニシンが獲れれば大金持ち、獲れなければ大きな借金が残るというバクチみたいなものだ。奇跡的に三日目にニシンの群れが来てバクチは当たったが、そのニシンを本州に運べば儲けはさらに何倍にもなると聞いた兄は船で新潟へ運ぼうとする。ところが船が大時化に会ってニシンは売り物にならなくなって借財だけが残る。そこから、なかにし一家の流転が始まる。

 「兄貴が鰊漁に手を出し、あの鰊漁の光景を子供の俺に見せてくれたからこそ、この歌は生まれた。この歌はわが家の悲しいさすらいのテーマソングとしてずうっと私の心に鳴りつづいていたものなのだ。それを私は満身の怒りをこめて吐きだした」

 その後ニシンは何故か獲れなくなり昭和32年に北海道のニシン漁は終わる。この歌はそのニシン漁と自らの少年時代にささげるなかにしの挽歌である。小樽の祝津岬にあるニシン御殿(旧青山別邸)になかにし自筆によるこの歌の歌碑が立っている。

 この「石狩挽歌」から三年後、もう一つの代表曲が生まれる。

 「時には娼婦のように」(53年・作詞作曲・黒沢年男)〽時には娼婦のように 淫らな女になりな 真赤な口紅つけて 黒い靴下はいて 大きくあしをひろげて 片眼をつぶってみせな 人差し指で手まねき 私を誘っておくれ バカバカしい人生より バカバカしい ひとときがうれしい

 性的なきわどい歌詞で眉をひそめるむきもあったが、性的な表現も表現の自由に含まれると考えるなかにしは動じなかった。悲惨な戦争体験をしたなかにしにとって、戦後の平和と自由は何よりも大切な守るべきものという信念を持っていたのだ。果たしてこの歌は大衆に支持されて大ヒットした。なかにしは「去勢されたような声で歌うニューミュージックへの挑戦状だった」とも語っている。

 バカバカしい人生だから、たまにはバカバカしいことでもやらないとやっていけない。私もそんな気持ちになることがあるし誰もがそうだろう。

それでいいじゃないかと開き直るところが、なかにしの真骨頂だ。                           (黒頭巾)

https://ameblo.jp/macogi0312/entry-12647547800.html

30. 中川隆[-7845] koaQ7Jey 2021年1月24日 13:06:50 : kqBY7beTjw : V3J5dllMME5LdEk=[16] 報告
昭和の作詞家(80)なかにし礼ー後篇 2021年01月16日
https://ameblo.jp/macogi0312/entry-12650602787.html


◎わが人生に悔いなし

 作詞家として押しも押されぬ存在になったなかにし礼は昭和57年に「北酒場」(中村泰士作曲・細川たかし歌)で「天使の誘惑」「今日でお別れ」に続く三回目の日本レコード大賞に輝く。なかにしの作品としては珍しく明るい歌だが、どうした因縁か作曲の中村と作詞のなかにしが昨年12月に相次いで死去してしまった。

 「わが人生に悔いなし」(昭和62年・加藤登紀子・石原裕次郎)〽鏡に映る わが顔に グラスをあげて 乾杯を たった一つの 星をたよりに はるばる遠くへ 来たもんだ 長かろうが 短かろうと わが人生に 悔いはない

作詞家になるきっかけをつくってくれた恩人である裕次郎に捧げた歌。なかにしはこの歌詞を「裕次郎さんのためにつくったから」と加藤に送った。加藤が「なぜ私に」と聞くと「おまえも俺と一緒のものを見てきた。おまえなら安心できるんよ」。加藤も同じ満州からの引揚者だ。加藤は「裕次郎さん歌っている姿が浮かんできて曲が出来た」と語っている。

 裕次郎はこの年の2月に静養先のハワイでこの曲と「北の旅人」の2曲をレコーディングした。発売は4月、その三か月後に裕次郎は死去したため最後の曲となった。詞の中にある「長かろうが 短かろうと わが人生に悔いはなし」」が心にしみる。なかにしは余命幾ばくもない裕次郎の心境をおもんばかって書いたのだろう。この歌を耳元で聴くと裕次郎の声は幾分か細くなっている。最後の力を振り絞って歌っている感じがする。

 昭和が終わって平成になると、なかにしの心に大きな変化が生じる。

 「昭和から平成に変った時、私の中でもなにかが変わった。歌を書きたいという思いが急激にしぼんでいった。私はこの時初めて自分の書いてきた歌は、そのほとんどが恋歌の体裁をとってはいたけれど、すべて昭和という時代への愛しさと恨みの歌であり、幻の故郷満州を恋うる望郷の歌であったことに気がついた。昭和が終わったら、そんな感情をぶつける相手がいなくなってしまっていた。私の胸のなかに、歌では表現できないなにかが、もっと別な方法でしか表現できないなにかが、わだかまってきたのかもしれない」

 平成4年、もともと心臓が弱かったなかにしは大きな心臓発作で倒れる。闘病生活のなかでなかにしは「歌とは別の方法」、つまり小説の勉強を始める。そして平成10年、借金を繰り返しそれを弟の自分に押し付けてくる疫病神のような兄との確執を綴った「兄弟」で作家デビュー、同12年に「長崎ぶらぶら節」で直木賞に輝く。どうしても書き残しておきたかった満州からの辛い引き揚げの体験は「赤い月」(13年発刊)で描いた。

 なかにしは33歳だった昭和46年に歌手石田ゆりと二度目の結婚をした。石田はまだ二十歳、しかもデビュー直前だったため石田の両親は猛反対、石田の事務所も激怒したが、二人は意志を貫いた。石田の実家は大阪池田市のパン屋で長女はグルノーブル五輪のフィギャースケート日本代表選手の石田治子、次女が歌手・俳優のいしだあゆみ、四女がゆり。この一家をモデルにしたのが「てるてる坊主の照子さん」(同14年)で、NHKの朝ドラ「てるてる家族」の原作になった。小説以外にもエッセイや評論を多数出しているが、その中でなかにしは戦争体験者として平和と自由の大切さを繰り返し訴えている。

 なかにしは心臓の病のほかにも食道癌とも闘うなど満身創痍の状態だったが、その中で気力を振り絞っておおくの歌や小説で人々に感動を与えた。令和元年に出した最後の自伝的エッセイのタイトルは「わが人生に悔いなし」だった。本人にとって精一杯生きた「悔いのない人生」だったのだろう。                                                           (黒頭巾)

https://ameblo.jp/macogi0312/entry-12650602787.html

31. 2021年12月12日 13:36:42 : 2HgCum6vhM : dEUvbTVqOG9EN0k=[32] 報告

「知りたくないの」 日本語詞:なかにし礼 、作曲:ドン・ロバートソン
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/742.html

「フィーリング」 日本語詞:なかにし礼 、作曲:Morris Albert
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/696.html

32. 2022年1月23日 20:23:44 : SqaUv9RCQ6 : UGxERWhFLnBXOUE=[17] 報告
2022.01.23
業界騒然! 謎の歌手・森田童子の父親が「なかにし礼の兄だった」事実が意味すること
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91686


なかにし礼『血の歌』と『兄弟』をめぐって

作詩家なかにし礼とシンガーソングライター森田童子が叔父と姪の関係であることを明らかにしたことで、『血の歌』(毎日新聞出版)が話題を集めている。同時にこの作品は、短篇ではあるが、なかにしのヒット作『兄弟』(1998年、文藝春秋)と表裏をなす重い内実をたたえている。

『兄弟』は作詩家から小説家になったなかにしの初めての本格的長篇。特攻隊の生き残りで、事業の失敗や弟名義での借金でなかにしを破滅にまで追いこむ常軌を逸した兄(話題となったテレビドラマではビートたけしが演じた)となかにしの愛憎と葛藤を描いた小説で、「兄さん、死んでくれてありがとう」と主人公が独白する結末が当時、大きな反響を呼んだ。そのモデルである兄の娘(次女)が、何と森田童子だったのだ。

映画の中のなかにし礼と森田童子
音楽史において、大衆の心に響く歌謡曲の作詩家であるなかにしと、孤高のシンガーソングライターの森田は対極的な存在であるが、映画史においては、この叔父と姪は踵を接し、1978年にともにスクリーンデビューしている。

森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット


この年に公開された大森一樹監督の『オレンジロード急行』で、森田童子のメジャーデビュー作『さよなら ぼくの ともだち』が初めて映画の挿入歌として使われ、同年に公開された『時には娼婦のように』(小沼勝監督)はなかにし礼の同名曲の大ヒットを当てこんで製作されたからだ。

『時には娼婦のように』は、《当時、(兄が作った─引用者註)借金に追われている時期で、好条件を提示されたこともあり、原案、脚本、音楽、さらには主演までこなした》(『わが人生に悔いなし─時代の証言者として』、河出書房新社)となかにしが語るロマンポルノであるが、なかにし礼のバイオグラフィにおいてはきわめて重要な作品である。

この映画に現れる心臓発作と性への耽溺、兄の借財を背負わされる弟、複数の女性との同棲、なかにしが第二の故郷と呼ぶ青森への郷愁といったなかにしの人生に欠くべからざる光景が、なかにしがのちに書く『翔べ!わが想いよ』('89年、東京新聞出版局、新潮文庫、文春文庫)から『夜の歌』(2016年、毎日新聞出版、講談社文庫)にいたる自伝小説のプロトタイプ(試作品)になっているからだ。


なぜこの原稿が書かれたのか
この作品を起点として、なかにしを「戦争と歌謡曲を交響楽(シンフォニー)のように、硝煙とエロスをカットバックで描いた作家」と評した、私の『夜の歌』講談社文庫版('20年)の解説を読んだなかにしは、私を西麻布「キャンティ」に招いてくれた。だが、交遊が始まってまもなく、2020年12月になかにしは突然他界した。死後に机の引き出しから発見された未発表原稿をなかにしの子息で音楽プロデューサーの中西康夫が刊行したのが、『血の歌』である。


『血の歌』は作家の死後に刊行された未発表原稿の常として、多くの謎につつまれている。

どうして作者がこの原稿を書いたか、が第一の謎である。後記で中西康夫が『血の歌』は1995年に執筆されたと推測しているように、『血の歌』は'96年に小説のモデルである兄(中西正一)が死去する1年前に、『兄弟』の習作として書かれたものと思われる。

『血の歌』は、兄が語り部に近い立場で書かれていることから、仮借なく兄を描いた『兄弟』よりも兄へのシンパシーが宿る。また、『血の歌』において戦時中に兄が操縦する戦闘機を失墜させる場面は、ほぼそのまま『兄弟』の完成稿に使われている。『血の歌』でなかにしは、兄の視点から娘(森田童子)を描き、同時に娘を小説の「狂言回し」に使えないかと模索していたと憶測できる。


では、なかにしはなぜ封印したのか
しかし、'95年の執筆当時、森田童子は音楽活動を停止中だったとはいえ、'93年に『ぼくたちの失敗』がテレビドラマの『高校教師』の主題歌として使われたことから再ブレイク中だった。なかにしや正一との関係が世間に知られれば、彼女のプライバシーや作品評価に差し障ると考え、なかにしは森田童子をモデルとする『血の歌』を封印したのだろう。

『兄弟』を担当した元文藝春秋の編集者・鈴木文彦は述懐する。

「『兄弟』執筆の前、お兄さんが亡くなられる以前に、かなり感情移入の激しい習作を読んだ覚えがおぼろ気にあります。当時、お兄さんをモチーフにしたいわゆる“兄モノ”の習作がいくつかあって、その一つが『血の歌』だったのではないでしょうか。森田童子については、兄の娘だとなかにしさんから直接うかがったことがあります。『血の歌』はモデル小説の引きの強さがありますが、森田童子が存命だった執筆時点では、彼女のプライバシーにも配慮していたので、発表には至らなかったのではないかと思います。結果として、お兄さんの死を待って長篇仕立てで『兄弟』に結実し、なかにしさんの代表作になっていきます」

『兄弟』という大作に濃密に関わった編集者ならではの見方と言えるだろう。

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父から見た娘、また娘から見た兄という視点が削られ、弟から見た兄という視点で小説を一貫させたことで、『兄弟』の構成は堅牢になり、作品は直木賞候補になるなど大きな評価を得た。『血の歌』は『兄弟』のいわば試作品であったのだ。

そのようにいったんボツにした草稿をなかにしはなぜ残していたのか、が第二の謎である。後記で中西康夫が書くように、なかにしはつねに原本(草稿)を廃棄していたという。彼が『血の歌』だけを残しておいたのは、将来何らか形での発表を意図していたと考えるのが自然だろう。

次に湧き上がる謎は、なかにし礼が森田童子の音楽的才能をどのように捉えていたかという点である。その謎を解き明かしてくれたのが、『血の歌』では「お貞さん」、『兄弟』では「藤原慶子」と呼ばれて作中に登場する辣腕音楽プロデューサーの松村慶子である。彼女は'64年に『知りたくないの』(菅原洋一)で作詩家・なかにし礼を、'74年に『さよならぼくのともだち』で森田童子を、ともにメジャーデビューさせた。

松村は「礼ちゃんは童子を『手に負えない才能だ』と高く評価していて、本当は応援したかった」と証言した。しかし、森田童子は「叔父の七光りで世に出たくない」と反発し、松村も「メジャー過ぎて、どこか体制的な匂いがする礼ちゃんの姪ということはマイナスで、童子を反体制、非体制で売りたい」と戦略を立て、「森田童子との関係をずっと隠し通すこと」をなかにしに提案、なかにしがその約束を死ぬまで守り続けてくれたことを感謝する。


小説『時には娼婦のように』を構想していた
森田童子の音楽が、なかにし兄弟が育った満州牡丹江の裕福な家庭にあった音楽的な環境に胚胎していることは疑いがないだろう。しかし、森田は叔父の後ろ盾なしで自らの音楽世界を築き、父親の戦争中の失墜と戦後の堕落に対して全共闘世代の挫折感を対置させ、先行世代への鎮魂歌を歌いつづけた。彼女は中西家の「虚無という血」を引き継いだ、と私には思える。

「『血の歌』が出たとき、さすが礼ちゃんと感心したわね。童子と自分が死んだあと、すべてを明らかにする。礼ちゃんらしい見事な自己演出だと思った」と語る松村は、なかにしが『血の歌』の原稿を意図的に家族の目に付きやすい場所に置き、自分の死後の出版を暗に望んでいたと考える。中西康夫もそれが父の遺志だと信じている。なかにしとの共同作業で数々のヒット曲を生み出した辣腕プロデューサーと、なかにしと最も身近に接してきた子息の見解には、確かに説得力がある。

森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』


しかし私は、『血の歌』を読んで、一つの別な想像をめぐらせた。

私がなかにし礼と最後に会ったのは、なかにしが亡くなるちょうど2年前、'19年の12月だった。「キャンティ」で私と話すうちになかにしは、『時には娼婦のように』というタイトルで、'70年代の懶惰な日々を小説にしたいと思い立った。7人の女性が住み、彼女らの世話をする年配のマダムがいる一軒家。なかにしにはそこを訪ねて遊んだ日々があった。特権的な時間であったとは思うが、平和ボケの極みのような退廃と乱倫のなかに、なかにし独自の共生と気づかいの哲学を再発見しようとしたのかもしれない。なかにしはその時代を描きたいと切実な調子で言い始めたのだ。

その後、なかにしはその小説の構想を河出書房新社の担当編集者に持ちかけたと聞いたが、それが実現しないまま終命の時を迎えた。ここから先は私の憶測だが、なかにしはこの作品に、'74年の森田童子の歌手デビューを絡め、当時の音楽状況をふくめて回想しようと目論み、その時のために、いつか作品の形を与えようと思っていた草稿を机の引き出しに入れておいたのではあるまいか──。

こんなふうに『血の歌』は、さまざまな空想を喚起し、なかにし礼の死が創作活動を無残にも途絶させたことを、悲しみとともにあらためて思い起こさせる掌編なのである。

33. 2022年1月23日 20:26:34 : SqaUv9RCQ6 : UGxERWhFLnBXOUE=[18] 報告
2022.01.01
「僕たちの失敗」の森田童子の父親は、なんとあの人だった
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91082


なかにし礼の未発表作品に書かれたこと

作詩家であり、作家のなかにし礼が亡くなって1年が経つ。それにあわせ、死後に自宅から発見された未発表作品『血の歌』(毎日新聞出版)が刊行された。そこに書かれていた主題が、一部で波紋を呼んでいる。なかにしの代表作『兄弟』で描かれたあの破滅的な兄。その娘こそ、一世を風靡した森田童子であったのだ。つまり、森田は、なかにしの姪にあたる。なぜ、なかにしは森田との関係をここで明かすことになったのか。森田と交流もあった元『ガロ』編集長の高野慎三が記す。

テレビドラマ『高校教師』のあの歌声

かつて森田童子という類まれなシンガーソングライターが存在した。一部で熱狂的に支持されたようだ。その後1990年代前半に、テレビドラマ『高校教師』のバックに流れる「ぼくたちの失敗」で一般的に知られるようになった。そのときの語りかけるような音律と透き通る細い歌声が聞く者の心をとらえた。そして、「暗く悲しい歌」の歌い手として認知された。

森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』


森田童子の存在をはじめて知ったのはいつのことだろう。70年代の終わりに、わたしより一回り以上も若い青年たちが「一度聞いて欲しい」と録音テープを届けにきた。聞いてみて、「いやにセンチメンタルな歌だなあ」とそのときは思った。


突然の電話
従来、わたしは音楽にほとんど関心を持たなかった。クラシックも、ジャズも、ロックも聞いたことがない。戦前・戦後の歌謡曲のいくつかと、森進一や八代亜紀の2、3の歌を好んだ。

1970年以降のフォークソングにも馴染めなかった。森田童子の歌も私的な生活を言葉にしたフォークとさほど違いはないものとわたしは思い込んだ。

ただ、若い友人たちのこだわりが尋常ではなかった。森田童子のコンサートにしばしば出かけていたようだ。「ぼくたちの歌」と捉えているふしがうかがえた。この場合の「ぼくたち」とは1960年代後半の「反乱の季節」における高校生世代を意味する。たぶん、森田童子の歌のなかに自らを重ね合わせていたのだろう。その心情を理解できなくはなかったが、「青春の甘酸っぱさ」は願い下げたかった。

そんなある日、森田童子の関係者から突然の電話がある。用件は、「つげ義春さんの作品を使用したいのですが」との問い合わせだ。

わたしは1967年から71年までマンガ雑誌『ガロ』の編集長を務め、つげ義春さんを担当した。その縁で、辞めてからもつげさんの取次役のようなことをやっていた。つげさんに連絡を取ると即時に承諾。「使用料は考えないで」との言葉も伝えた。また別の日に「作品のタイトルをコンサート名にしてもいいですか?」と問われ、これもつげさんから了解を得た。

森田童子がつげ義春の愛読者であることを知って、わたしは新たに格別の興味を抱いた。それでも、もっと歌を聞いてみたいとまではならなかった。

森田はなぜつげ義春に執着したか
ところがである。「これから森田とお邪魔します」と、また電話があった。1時間ほどして、杉板づくりの大きなリンゴ箱を肩に担いだ男性が、わたしが営む小さな文具店のガラス戸を開けた。「森田がいろいろお世話になりました」と言うと、表通りの歩道をふり返った。帽子を深くかぶったサングラス姿の彼女が深々とお辞儀をした。あわててわたしも返した。パートナーと思われる男性は「これからつげさんにもお届けします」と急いで車に戻った。森田童子と接したのはこのときが最初であり、最後だ。

挨拶の言葉ひとつ交わすこともなかったが、感じのいい出会いだった。

同じころ、住まいに近い渋谷道玄坂裏の円山町のラブホテル街の電柱に「森田童子コンサート・夜行1」とか「大場電気鍍金工業所コンサート」とかのステッカーを見かけた。『夜行』は、つげ義春の新作を掲載した本だ。どれほど彼女がつげ義春に執着しているかを想った。いや、つげ義春だけではない。下町葛飾の労働者たちの60年安保闘争を描いた実弟のつげ忠男のマンガ集『懐かしのメロディ』に寄せて、彼女は「絶望と孤独の風景」と綴り、つげ忠男への限りない愛惜を表明した。

以後、森田童子との接点は途絶えたままになった。歌うことをやめ、東京を離れたと風のうわさが流れた。気になりだしてCDを購入し、ときどき聞いた。いくつもの歌詞から森田童子の立ち位置が想起され「ああそうだったのか」との思いに襲われた。つれ合いが森田童子の歌を聞きながら、台所でふと手を休め、「いい歌よね」と言う。そして「正しい歌だわ」と続けた。冗談じゃない、歌に正しいも正しくないもあるものか、と言い返そうとして、思いとどまった。

なかにし礼の『血の歌』が明かす森田童子の過去
森田童子より2歳年上のつれ合いは、森田童子の頑なな意思と、ときどきの危機意識を瞬時に受け止めたのかもしれなかったからだ。その「正しさ」とは「理念を持っている」ということではないだろうか。森田童子の歌は「闘い」の歌ではないかもしれないが、「抵抗」の意思を示す歌ではあるだろう。「正しさ」とは「抵抗」の謂いでもあるのだろうか。

「反乱の季節」を若者たちとともに闘おうとした作家・高橋和己の「孤立無援の思想」をモチーフとした歌もあった。つげ義春の「海辺の叙景」をイメージした作品もある。

いったい、森田童子とは何者なのか、と疑問を抱いた。しかし、わたしにはどのような情報も届かなかった。森田童子は謎に包まれたままの存在となった。それから20年が経ち、30年が経ち、予期しないときに訃報が飛び込んできた。わたしはつれ合いの遺影のある小さな部屋で、森田童子の歌を流した。

森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット


そして、いまになって、なかにし礼の未発表小説『血の歌』(毎日新聞出版)によって、森田童子の過去が明らかにされた(作品のなかでは「美納子」「森谷王子」となっている)。森田童子は、なかにし礼の姪だったのだ。なかにし礼の代表作である『兄弟』のモデルだった、「特攻帰り」で、戦後、放埒に生きたという実兄の娘だったのである。そのあまりに衝撃的な人間関係に驚きを禁じ得ないが、しかし、それらはある意味、充分に納得のいく事柄であった。

荒廃した父親を通して「戦後」を感知し続けた
《堕ちていくばかりの父親と、それに振り回される家族がいた。墜落を恐れながら、みずからさらなる墜落を求める父。あるいは美納子は中西よりも、いや中西の背中越しに、戦争の興奮を見てしまったのかもしれない。そして、興奮から遅れてやってくる、傷と孤独。それは美納子にとって、時代の儚さであり、自分の命の悲哀であったのではないか》(『血の歌』より)

森田童子の歌から感受される途方もない「暗さ」は、たんに父親という存在の個性に求められるべきではないだろう。青春期に戦争を体験した、いわれるところの純粋戦中派にとって、敗戦後をどのように過ごしたかは、ひとりの個人の問題に還元されるべきことがらではない。つげ忠男がいくつものマンガで描き続けた「特攻帰りのサブ」の生き死には、B29撃墜の戦闘機パイロットであった父親像とみごとにオーバーラップする。いわば、敗戦後における父親の自堕落な姿は、下町で虚勢を張る与太者の「サブ」と寸分の違いもない。

つげ忠男は、工場街の裏町で目撃した実像の与太者を通して「戦後」を凝視した。森田童子は、父親の荒廃した実像を通して「戦後」を触知した。つげ忠男の一連の作品が戦後の「正しさ」を描き留めたように、森田童子も「戦後」のなかで自らの「正しさ」を追い求めた。

『血の歌』は、森田童子の秘密に触れると同時に、戦争体験を経た「戦後」という時間の秘密をも物語る。森田童子の歌が存在する限り、つげ忠男の作品が存在するかぎり、「戦後」は終わらないのである。

34. 2022年1月23日 20:27:44 : SqaUv9RCQ6 : UGxERWhFLnBXOUE=[19] 報告
血の歌 Kindle版
なかにし 礼 (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09NQVTK1R/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B09NQVTK1R&linkCode=as2&tag=asyuracom-22&linkId=fcb312468f0c633b2dc696aa2dce0968


痛ましい歌声が、俺の胸を血まみれにする。
戦争の昂揚と絶望、そして戦後の果てない堕落。兄の人生を見つめたその娘は、「謎の歌手」に生まれ変わった。
代表作『兄弟』の原型にして、いまに鮮烈な未発表作品、なかにし礼の死後1年目に衝撃の単行本化!

35. 中川隆[-12935] koaQ7Jey 2022年8月25日 18:57:01 : XboiKyUdfk : bkZRZERuckkuZVE=[4] 報告
テレビドラマ なかにし礼『兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』(テレビ朝日 1999年)

脚本:竹山洋
制作:テレビ朝日、カズモ

動画
https://www.youtube.com/watch?v=nF7G3xh3hYI
https://www.youtube.com/watch?v=_RtekDfDZaY






「兄弟」はなかにし礼の小説である。

実兄・正一の人生を題材にした、自伝的小説となっている。

破滅的人生を送る実兄・正一に翻弄され、苦闘を強いられた弟・禮三の愛憎と葛藤を描いている。

1997年6月号から1997年12月号までオール讀物に連載(ただし10月号は休載)され、1998年に文藝春秋に刊行された。そして第119回直木賞候補になった。文庫本では2001年に文春文庫を、2004年に新潮文庫として刊行された。

テレビドラマ
『兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』のタイトルで、1999年3月10日にテレビ朝日の開局40周年記念スペシャルとしてドラマ化された。

キャスト
ビートたけし
豊川悦司
桃井かおり
高島礼子
工藤静香
麻生祐未
余貴美子
馬渕晴子
梨本謙次郎、坂本長利、生井健夫、村田則男、磯村千花子、芦田昌太郎、田島基吉、西田聖志郎、市村直樹、北河多香子、森たまき ほか
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%84%E5%BC%9F_(%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E7%A4%BC%E3%81%AE%E5%B0%8F%E8%AA%AC)


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