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かぐや姫 神田川 _ 1970年代 四畳半フォークの時代
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/284.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 05 日 12:10:40: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: いい日旅立ち _ 山の向こうで待っている人とは… 投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 05 日 10:32:22)


かぐや姫 神田川 _ 1970年代 四畳半フォークの時代

四畳半フォークとは、フォークの中でも、恋人同士だけの貧しい暮らし(四畳半の部屋に同棲など)における純情的な内容を中心とした、主に1970年代の作品のことを指す。
代表例としては、かぐや姫の「神田川」や「赤ちょうちん」などがある。


かぐや姫 神田川 1973年9月20日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB++%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D

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かぐや姫 赤ちょうちん 1974年1月10日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB++%E8%B5%A4%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%A1%E3%82%93

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かぐや姫 なごり雪 1974年3月12日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB++%E3%81%AA%E3%81%94%E3%82%8A%E9%9B%AA&sp=mAEB

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伊勢正三「22才の別れ」  1975年2月5日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=22%E6%89%8D%E3%81%AE%E5%88%A5%E3%82%8C

22才の別れ【昨日、悲別で】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=nNuaBXhD2Gg

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「夢一夜」 作詞:阿木燿子 作曲:南こうせつ 1978年10月25日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%8D%97%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%9B%E3%81%A4+++%E5%A4%A2%E4%B8%80%E5%A4%9C++1978%E5%B9%B4

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雅夢 愛はかげろう「愛はかげろう」 1980年9月25日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%9B%85%E5%A4%A2%E3%80%80%E6%84%9B%E3%81%AF%E3%81%8B%E3%81%92%E3%82%8D%E3%81%86&sp=mAEB

 

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コメント
1. 中川隆[-11703] koaQ7Jey 2019年3月05日 12:39:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[285] 報告

かぐや姫 「妹」 1974年5月20日
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB+%E5%A6%B9&sp=mAEB

2. 中川隆[-11702] koaQ7Jey 2019年3月05日 13:19:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[286] 報告

かぐや姫 僕の胸でおやすみ 1973年7月1日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB+%E5%83%95%E3%81%AE%E8%83%B8%E3%81%A7%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%BF+
3. 中川隆[-11701] koaQ7Jey 2019年3月05日 13:26:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[287] 報告

2018.10.03
【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!
やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!
https://otokake.com/matome/9yxVqR


1970年代前半に隆盛を極めたフォークソング。その筆頭格に挙げられるグループ「かぐや姫」の代表曲が「神田川」です。肩を寄せ合い同棲生活を送る男女の純愛を描いた歌詞は女性目線と思われていますが、実は、知られざる事実が。「やさしさが怖かった」理由には、当時の若者を取り巻いていた驚きの時代背景があったのです。

フォークソングの代表曲

「かぐや姫」最大のヒットソング

【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!の画像


1973(昭和48)年9月、3人組のフォークグループ「かぐや姫」がリリースした「神田川」。

リーダーの南こうせつが、ラジオ局の放送作家だった喜多條忠(当時の表記は喜多条忠)に作詞を依頼しました。

喜多條は学生時代に同棲していた彼女との思い出をモチーフに、わずか30分ほどで書き上げたといいます。

出来上がった歌詞を喜多條からの電話で聞いた南は、その場でメロディーが浮かんだそうです。

「神田川」は、同年7月発売のアルバム「かぐや姫さあど」に収録されました。

南がDJを担当していたラジオの深夜番組でオンエアしたところ、リスナーからリクエストが殺到。

哀愁漂うバイオリンの音色も印象的な「神田川」はシングル曲としてリカットされ、ミリオンセラーを記録しました。

70年代の若者文化のシンボル的な曲で、神田川に架かる東京都中野区の橋のたもとには歌碑が建立されています。


切なくも美しい歌詞と旋律を併せ持った名曲をお聴きください。透き通るハーモニーも聴きどころです。

「四畳半フォーク」の代名詞

【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!の画像


「神田川」の代名詞でもあるのが「四畳半フォーク」という言葉。

1960年代に米国で広がったフォークソングは、ボブ・ディランやピーター・ポール&マリーなどに代表される若者の音楽でした。

人種差別反対やベトナム反戦のメッセージを込めた、プロテストソングと呼ばれるフォークです。

同時代の日本もまた、日米安保闘争や東大・日大闘争をはじめとする学生運動が盛んでした。

プロテストソングは社会派フォークのミュージシャン、作品を生み、若い世代の閉塞感や憤りを代弁します。

しかし、国家権力にねじ伏せられた学生運動は70年代に入ると行き詰まり、リアリティーを失いました。

「虚無」に陥った若者たちの心をつかんだのは、個人のささやかな生活や恋愛を歌ったフォークソング。

生活派フォーク、私小説フォークと呼ばれる、歌詞も旋律も日本的なウェット感に包まれた音楽です。

こうした曲はやがて「四畳半フォーク」と称されるようになります。

地方の親元を離れ、東京や大阪などの大都会に出てきた当時の学生の平均的な住まいが、四畳半一間の安アパート。

彼らの生活感を象徴したキーワードが「四畳半」だったのです。

ちなみに、「神田川」の歌詞には「三畳一間の小さな下宿」というフレーズが登場します。

J-POPの源流

時代を反映する力

【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!の画像


「四畳半フォーク」という言葉を初めて使ったのは、松任谷由実(当時は荒井由実)だったとも言われています。

貧乏じみた生活のわびしさを追憶する暗い雰囲気の曲を、揶揄(やゆ)するニュアンスが含まれています。

1972(昭和47)年に発売された、ある週刊誌には「四畳半フォーク」をプロテストソングと対比した、こんな記述が。

「去勢されたロック・フォーク」

「四畳半ムードのいかにも男女のカッタるい感じの歌」

しかし、当時の若者にとって「四畳半フォーク」の世界にこそ、リアリティーがあったことは否めません。

他愛のない日常をありのまま切り取って表現する手法は、後のJ-POPに脈々と受け継がれます。

「何でもない毎日にこそ、その時代を生きる人々の息遣いがある」という事実。

若者たちの等身大の世界を歌って共感を集めたのが「四畳半フォーク」でした。

その時代の空気を作品として永遠に残せる音楽の素晴らしさを、見事に証明してみせたといえます。

古い社会への抵抗

【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!の画像


「四畳半フォーク」の定番と言える恋愛の舞台が「同棲」です。

婚前交渉などもっての外だったのはもちろん、自由恋愛さえ憚(はば)かられていた当時。

日本社会の古く、息苦しい価値観を打ち壊そうという若者たちの行動が「同棲」という形で顕在化したのです。

「神田川」がリリースされる前の1972(昭和47)年には、漫画「同棲時代」が大ヒットします。

時に傷付け合いながらも、深く愛し合う恋人たち。

しかし、精神的にも経済的にも未熟なカップルを待ち受けていたのは、破滅的な別れでした。

「四畳半フォーク」で歌われる2人の暮らしも困窮を極め、未来の明るさなど感じられないものがほとんど。

爪に火を灯すような生活で味わう惨めさや葛藤が、ディテールまで赤裸々につづられています。

あまりにも刹那的な純愛に全てを捧げた情念は、時代を隔てたリスナーの胸にも響くのです。

「神田川」の歌詞が意味するもの

女性目線の歌?

【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!の画像

貴方は もう忘れたかしら
赤い手拭 マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに
いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私の 身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ

出典: 神田川/作詞:喜多條忠 作曲:南こうせつ


「神田川」もまた、貧しさの中で営まれた同棲生活を追憶した曲です。

神田川が流れる、都心の「三畳一間の小さな下宿」。

男女の暮らしが貧しいものであることは、容易に想像できます。

寒空の下、首に手拭いを巻いて銭湯に出掛ける2人。

相手が出てくるのを外で待つ間に、すっかり冷え切った湯上がりの髪。

凍えた身体が震えるのに合わせて箱の中で鳴る、使い古された石鹸。

そんな身体を抱くしか術がない切なさ。

貧しさゆえの。何とも言えない悲哀が伝わる描写です。

ところで、この歌詞の語り手は男性、それとも女性でしょうか。

冒頭の「忘れたかしら」という言葉遣いから、女性を連想するのが自然なように思えます。
https://otokake.com/matome/9yxVqR


「やさしさが怖かった」理由
https://otokake.com/matome/9yxVqR?page=2


実は男性目線だった?

若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった

出典: 神田川/作詞:喜多條忠 作曲:南こうせつ


曲が進むにつれ、歌詞からは別の疑問も湧いてきます。

それは「貴方のやさしさが怖かった」という告白。

「やさしさ」が怖いとは、何を意味するのでしょう。

想像されるのは「相手が何か隠し事をしているのではないか」という疑念。

あるいは、経済的に困窮する中で「相手の『やさしさ』が、いつまで続くのだろうか」という不安です。

しかし、喜多條自身は後の新聞対談で、驚くべき真相を明かしています。

学生運動の最中、機動隊と衝突する激しいデモ活動に明け暮れていた自分。

疲れ果てて帰ると、学生運動と無縁の彼女は穏やかにカレーライスを作っている。

そんな彼女を見ていると、平穏な暮らしについ心を奪われそうになる。

しかし、それは活動家としての自分の信念を揺るがせることに他ならない。

自分のために料理を作る彼女の「やさしさ」こそが、自分にとって最も怖いことなのだ。

つまり、「神田川」のサビは、男性の視点で書かれた歌詞だったのです。

男女の目線が入り混じった歌詞


新聞対談の中で、喜多條はさらなる真相も明かしています。

横丁の風呂屋の外で待たされていたのは、自分でもあるということ。

当時の若い男性の間で流行していたのは、女性と見紛うような長髪。

喜多條は「神田川」の歌詞の語り手が男性であるか女性であるかは「よく分からない」とも発言しています。

過ぎ去った同棲生活を振り返る中で、濃密な時間を共にした男女の思いが交錯した曲。

それが「神田川」だったのです。

時代の記憶

「ニューミュージック」へ

【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!の画像


一世を風靡した「四畳半フォーク」の終焉は、あっけないものでした。

その理由は、世の中が急速に豊かになったから。

国民的規模でもたらされた経済的余裕は、若者の関心を消費生活、つまり物欲の充実に向かわせます。

若者たちは消費生活を犠牲にする「同棲」をしてまで、社会に抗(あらが)うことをやめました。

過去に追いやられた学生運動に郷愁を感じることもない彼らが熱を上げたのは、都会的な「ニューミュージック」。

重苦しい生活感を排した、ファッショナブルな歌詞とサウンドが特徴です。

荒井由実が1stアルバム「ひこうき雲」をリリースした75年、「かぐや姫」は解散します。

受け継がれる精神

【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!の画像


21世紀の現代に「四畳半フォーク」はそぐわないでしょう。

しかし「平凡な毎日」の素晴らしさを歌い、若者の心に寄り添うフォークの精神が消えることはありません。

例えば「ゆず」「19」「コブクロ」「うたいびとはね」。

90年代後半ムーブメントを起こしたネオ・フォークのアーティストたちは、J-POPの主流であり続けています。

アコースティック・ギターを抱えた彼らの曲に、奇をてらった過激なメッセージはありません。

「四畳半フォーク」の精神は、今の音楽にしっかりと受け継がれているのです。

まとめ

70年代フォークの旗手、吉田拓郎も


「かぐや姫」と並ぶ70年代フォークの代表選手といえば、吉田拓郎。

彼もまた、激動の時代を生きた若者の代弁者でした。

大ヒットした名曲の数々を、OTOKAKEライターが紹介しています。


吉田拓郎おすすめ楽曲を紹介!カラオケでも歌える曲を大ヒットシングル&アルバムから厳選! - 音楽メディアOTOKAKE(オトカケ)
https://otokake.com/matome/zcweA7


60〜70年代フォークソングの代表格・吉田拓郎。井上陽水などとレコード会社を設立したり、楽曲を森進一に歌ってもらったり、と何かと大反響を呼んだ超有名人です。こんな素晴らしいアーティストを時代の流れとともに風化はさせぬ!ということで吉田拓郎の珠玉のフォークソング集をご覧いただきましょう。

「かぐや姫」の名曲「なごり雪」


女性フォークシンガーのイルカが歌ったことで知られているこの曲。

もともと「かぐや姫」の曲。「かぐや姫」のメンバー、伊勢正三が作詞・作曲したものです。

1974(昭和49)年に発売された「かぐや姫」の大ヒットアルバム「三階建の詩」に収録されました。

「22才の別れ」「赤ちょうちん」といった名曲が収録されています。

後世に歌い継がれている「なごり雪」を、なぜイルカがカバーしたのか?

OTOKAKEライターが解き明かした記事です。
https://otokake.com/matome/9yxVqR?page=2

4. 中川隆[-11700] koaQ7Jey 2019年3月05日 13:30:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[288] 報告

イルカ なごり雪 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AB++%E3%81%AA%E3%81%94%E3%82%8A%E9%9B%AA

2017.12.31
イルカ「なごり雪」ってどんな雪?!
伊勢正三が手がけた永遠の名曲!歌詞の意味を紐解いてみた!
https://otokake.com/matome/1gu8Xk


1970年代の曲でありながら、いまだ多くの歌手に歌い継がれている名曲「なごり雪」。実は、イルカさんが歌っているのもカバー曲だった、って知ってましたか?名曲にまつわるエピソードを添えて、歌詞の意味を紐解きます。

山崎とま


名曲「なごり雪」、まずはお聴きください!

イルカさんの歌う、「なごり雪」です。

名曲を特集した歌番組などでは、必ずといっていいほど紹介される曲なので、幅広い世代に知られていますよね。

この「なごり雪」、原曲を歌っていたのは別の人だった、って知ってましたか?

そんな昭和を代表する名曲、「なごり雪」について詳しく見ていきましょう♪

「なごり雪」ってどんな曲?

イルカ「なごり雪」ってどんな雪?!伊勢正三が手がけた永遠の名曲!歌詞の意味を紐解いてみた!の画像


1974年、フォークグループ『かぐや姫』のアルバム『三階建の詩』の収録曲として発表されました。

メンバーは、リーダーの南こうせつ(ギター)、山田パンダ(ベース)、伊勢正三(ギター)の3人

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB_(%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97)


「22才の別れ」や「神田川」などのヒット曲があり、「なごり雪」が収録された『三階建の詩』も、オリコンアルバムチャートで1位、年間チャートでも5位にランクインしています。

当時を知る往年の方々には何を今更…と思われそうですが、とても人気があるグループだったんですね!

それぞれが作詞作曲を担当し、リードボーカルを取ることができますが、今回ご紹介している「なごり雪」は伊勢正三さんが作詞作曲を手がけた曲です。

イルカさんのカバーバージョンが大ヒット!


『三階建の詩』をリリースした翌年、レコード会社への不信感などから、かぐや姫が解散。

最後にリリースしたアルバムがオリコンチャートの100位圏内に186週ランクインし続けるという、人気絶頂での解散でした。

解散後、伊勢正三さんと旧知の仲だったイルカさんのプロデューサーから、「なごり雪をカバーさせて欲しい」と依頼されたそうです。

そこで、ファンから根強い人気があったものの、かぐや姫としてシングルカットしていなかった「なごり雪」を提供する流れになりました。

そして1975年、イルカさんのカバーによるシングル「なごり雪」をリリース、大ヒットするのです。

最初は歌うことをためらっていた?


かぐや姫が歌った原曲の「なごり雪」は、アルバム曲でありながら、ファンからとても人気のある曲でした。

それを知っていたイルカさんは「かぐや姫のイメージを壊したくない」と、最初は自分が歌うことをためらっていたそうです。

もし当時のイルカさんが歌わなければ、かぐや姫ファンの思い出の曲、で終わっていたかもしれません。

また、「なごり雪」のイメージがイルカさんの歌声にぴったりハマっていたからこそ、ここまで世に広まり、現在まで歌い継がれる名曲になったのでしょうね。

世代を越えて共感される歌詞

イルカ「なごり雪」ってどんな雪?!伊勢正三が手がけた永遠の名曲!歌詞の意味を紐解いてみた!の画像


おそらく、上京して出会った大学生が主人公ですよね。

大学を卒業して故郷に帰る「君」を、東京に残る「ぼく」が駅まで見送りにきている場面です。

歌詞の舞台は東京ですが、作者の伊勢正三さんは故郷の大分県の津久見駅をモチーフにしているそうです。

場所が東京でなくとも、恋愛だけでなくとも、様々な場面で、様々な別れの曲としても受け取れるものがありますよね。

二度と会うことがないかもしれない別れ

汽車を待つ君の横で
ぼくは時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
「東京で見る雪はこれが最後ね」と
さみしそうに 君がつぶやく
なごり雪も 降る時を知り
ふざけすぎた 季節のあとで
今 春が来て 君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった

出典: なごり雪/作詞:伊勢正三 作曲:伊勢正三


当時の時代背景を考えると、九州や東北新幹線なども全線開通していないはずですし、もちろん格安航空もなかった時代ですよね。

各駅停車を乗り継いだり、夜行列車に乗ったり、本州との橋やトンネルがなく、連絡船やフェリーを使わなければならなかったり。

当時の地方出身者にとっての東京は、現在よりも気軽に行ける場所ではなかったのだと思います。

地元に戻ってしまえば、もう一度東京で生活することはもちろん、もう二度と遊びに行くことすらないかもしれない。

きっと、君もぼくも、いつか来る別れや、その後の将来のことを考えないようにして、東京で出会ったふたりの刹那的な恋愛を謳歌していたのではないでしょうか。

それぞれの歩む道が違ってしまったふたり
https://otokake.com/matome/1gu8Xk

伊勢正三が手がけた永遠の名曲!歌詞の意味を紐解いてみた!_ 2
https://otokake.com/matome/1gu8Xk?page=2

動き始めた
汽車の窓に 顔をつけて
君は何か 言おうとしている
君の口びるが
「さようなら」と動くことが
こわくて 下を向いてた
時が行けば 幼い君も
大人になると 気づかないまま
今 春が来て 君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった

出典: なごり雪/作詞:伊勢正三 作曲:伊勢正三


故郷へ続く汽車の窓越しで、向かい合うふたり。

「さようなら」という言葉に、「行かないで」と言うことは簡単だと思いますよね。

しかし、ここで引き留めることは「君」の両親からすると、娘と結婚するということに近いのではないでしょうか。

当人同士というより、両親や親戚の意見、家と家との繋がりが最も重要視されていた当時は、今よりももっと結婚に対するハードルが高かったように思います。

そこまでの仲ではなかったのか、「君」の両親を納得させられるような「ぼく」ではなかったのか。

子供っぽい恋愛ばかりを繰り返す日々を過ごしているうちに、「君」も自分自身の道を進む日が来てしまった。

もしかしたら、ふたりが将来のことをもっと真剣に考えていれば違った結末になったかもしれません。

また、真剣に考えていたとしても、歌詞と同じような別れを迎える運命だったのかもしれません。

いずれにせよ、こういう別れになることは、お互いが一番よくわかっていたのだと思います。

何も言えないぼくは、いくら引き留めたくとも、別れから目を逸らして下を向いているしかなかったのでしょう。

思い出の日々を惜しむように降る雪

君が去った ホームに残り
落ちてはとける 雪を見ていた
今 春が来て 君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった 

出典: なごり雪/作詞:伊勢正三 作曲:伊勢正三


君が行ってしまったホームで、雪を見ているぼく。

降っている間は雪ですが、地面に落ちるととけて、雪ではなくなってしまいます。

もしかしたら、落ちてはとける雪に、君との思い出と別れを重ねているのかもしれません。

この曲には「今 春が来て 君はきれいになった」「去年よりずっと きれいになった」というフレーズが繰り返されていますよね。

これは、君の年齢的な成長、外見的な綺麗さもちろんあると思います。

それに加えて、自立して自らの道を歩き始めた、大人の女性になった強さや美しさも同時に描いたフレーズだと思います。

ぼくは、別れがきてしまった時、その美しさに気づかされてしまった。

そして、余計に名残惜しい気持ちが、雪のように降っては消えていったのではないでしょうか。

「なごり雪」とは?


タイトルにもなっている「なごり雪」。

辞書などには「名残の雪」で載っていて、春が来ても消え残っている雪、春が来てから降る雪、という意味で春の季語でもあります。

この曲が発売された頃は、勝手に日本語を作るな、「なごり雪」ではなく「なごりの雪」にしろ、と言われたこともあったそうです。

しかし、今ではすっかり定着し、2013年に日本気象協会が選んだ「季節のことば36選」にも「なごり雪」として選ばれています。

また、「名残」は元々”余波”と書いて”なごり”と読む言葉で、波が打ち寄せ、後に残った海水や海藻などを意味していました。

そこから転じて何かの後に残る余韻や影響を表し、平安時代ごろにはすでに人との別れを惜しむ意味でも使われています。

この曲のタイトルとしては、卒業=春が来て降る雪、そして人との別れを惜しむように降る雪、という感じでしょうか。

なごり雪ではない”雪”が降っていた冬は、ふたりはまだ学生。

ほんの少し前の学生時代を思い出しているような、余韻も感じる言葉選びですよね!

後世に引き継いでいきたい名曲

イルカ「なごり雪」ってどんな雪?!伊勢正三が手がけた永遠の名曲!歌詞の意味を紐解いてみた!の画像


「なごり雪」は、イルカさんが歌ってヒットした後も、様々なアーティストによって歌い継がれています。

古くは天地真理さんや榊原郁恵さんに始まり、近年ではアイドルの松浦亜弥さんや仮面女子、桑田佳祐さんや徳永英明さん、ロックバンドのMUCCやPENICILLINなど。

発売から40年あまりが経っていますが、今後もたくさんのアーティストに歌われていくはずです。

きっと、世代やジャンルを超えて人の心に残るからこそ、後世に引き継がれる名曲になっているのでしょう。
https://otokake.com/matome/1gu8Xk?page=2

5. 中川隆[-11699] koaQ7Jey 2019年3月05日 14:59:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[289] 報告

「神田川」の歌詞の謎 2010-01-07
https://ameblo.jp/sappawayya/entry-10428864397.html

『神田川』という歌をご存知だろうか。俊郎でなく、南こうせつとかぐや姫が1973年に発表した歌だ。1970年代を代表する歌といってもいいだろう。おそらく、ご両親が口ずさむのを聴いた方もおられるだろう。私自身も、父母から教えられて、自分でもよく歌っていた。

 〜〜〜〜
貴方はもう忘れたかしら
赤い手ぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた 

洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私のからだを抱いて
冷たいねって言ったのよ
若かったあの頃何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった
 〜〜〜〜


さて、この歌詞の最後の部分、「ただ貴方のやさしさが 恐かった」が、謎めいているように感じないだろうか?私は子供のときから、意味が分からず、ただ何となく、「女性の複雑な心情でも表しているんだろう」とぐらいにしか思っていなかった。母も、「好きでたまらないと、もし裏切られたらなんて不安がふとよぎる」というようなことを言っていたと記憶している。

皆さんは、この「ただ貴方のやさしさが 恐かった」の本当の意味をご存知だろうか?数年前私は、テレビか雑誌かで偶然この意味を知って衝撃を受けた。


ところで、母は別の部分も変だといってた。それは、

「一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて・・・」

の件である。母が言うには、「普通、風呂の時間が長いのは女の方で、待っている男がイライラさせられるもん」だそうだ。日常的に銭湯を利用したことの無い世代に属する私には、・・・まして一緒に銭湯に行く女性もいない私には・・・実感がないことではあるが、確かに女性の方が長風呂、というステレオタイプが無根拠でなかろうとは想像に難くない。

・・・実は、この母の何気ない感想が、謎を解く鍵であったのだ。

1960〜70年代は、学生闘争や革命の理想に燃えた若者たちの時代で、南こうせつたちも、革命の理想や世の矛盾を多く歌に乗せていた。

ヘルメットを被って覆面をして、機動隊のバリケードに突っ込んでいく、そんな無骨な男たちにとって、家に帰って同棲する愛する女性と過ごす、ひと時の安らぎ・・・歌の二番に描かれている、貧しくても小さな幸せ・・・

 〜〜〜〜
貴方はもう捨てたのかしら
二十四色のクレパス買って
貴方が描いた私の似顔絵
うまく描いてねって言ったのに

いつもちっとも似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の指先見つめ
悲しいかいってきいたのよ
 〜〜〜〜

この静かな幸せは、当時の騒然とした学生闘争とは全くの異質だった。闘争に明け暮れる男は、この小さな幸せに一息をつき、ああ、このまま時が止まればいいのに・・・・・・と、

革命の理想も、正すべき世の矛盾も忘れてしまいそうで、

そんな風に、自分の生きがいを捨てて家庭に安住してしまいそうになるのが

「怖かった」

そうなのである。

お分かりになるだろうか?そう、この歌は、女性の心情を詠んでいるのではなく、革命に生きる男性の心情を詠んでいるのである。この歌の主人公は、男。作詞者、喜多條忠は自分の心情を詠んでいたのである。語り口が女性的なので騙されていたが・・・くどいようだが、「ただ貴方のやさしさが 恐かった」というのは、「ただ貴女のやさしさが 恐かった」というのが本当で、


「やさしい貴女との幸せな日常に、自分の使命を忘れてしまうのが恐い」

という意味なのだ。


とすると、歌の第二の謎の部分、「一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて・・・」で、待っていた「私」は男性ということになる。やっぱり女性は長湯というステレオタイプに沿った歌だった。

それにしても、「洗い髪」っていうと、普通の感覚では女性の長い髪を連想するのではないか?・・・と思われることだろう。1970年代・・・上に挙げたYou Tubeにあるレコード・ジャケットからも分かるように、当時は 男も長髪にするのが流行っていたんだよ。

「大丈夫、俺も今、上がったところだから」と、見栄をはる男の、湯冷めした身体をぎゅっと抱きしめて、「冷たいね」という女

萌えまくるじゃねぇか、畜生め。リア充氏ね!!

こういう事実を知ると、歌の印象、ぐっと変わってくるでしょう?

・・・・ごめんなさい、嘘つきました。

いえ、百パー嘘じゃないんです。「あなたのやさしさが恐かった」ってのは、学生闘争に明け暮れる男の心情吐露が元々なのは事実なんですね。作詞者、喜多條忠がこのフレーズを思いついたのは、上に述べた背景からです。

でも、歌自体は、男が主人公でも、女が主人公でもなく、両者の目線が渾然としているそうです。だから、銭湯の外で待ってた人、似顔絵を描いた人、「悲しいかい」って聞いた人、どれが男でどれが女か、どれが同一人物で、どれとどれが違う人なのか、分からないんだそうです。

分からないってのは、作詞者自身が、「わたしにも分かりません」といってるからなんですね。当時長髪だった作詞者は、風呂屋で待ったことも待たせたことも経験しているそうです。

ある意味、歌の聞き手が自分の経験に照らし合わせて、勝手に補い、勝手に解釈でき、十人十色に共感できる、そういう自由さが、この歌が広く売れた理由かもしれません。

だから、「女性の複雑な心情でも表しているんだろう」というような私の単純な解釈も、「好きでたまらないと、もし裏切られたらなんて不安がふとよぎる」という母の恋の駆け引き的解釈も、間違いとは言い切れないわけで。

歌謡曲でも、詩でも、和歌でも、だいたい広く親しまれているのは、オープンなんだよね。情景が頭にすぐに描けるような、詳細で緻密な表現があるのに、個人個人の心に描かれる情景は、それぞれ違っているような・・・・個性的で且つ、普遍的な性質が、求められているんだろうね。
https://ameblo.jp/sappawayya/entry-10428864397.html

6. 中川隆[-11697] koaQ7Jey 2019年3月05日 17:08:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[292] 報告

高田馬場 - Google マップ
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92169-0075+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8C%BA%E9%AB%98%E7%94%B0%E9%A6%AC%E5%A0%B4/@35.7119403,139.6937261,15z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x60188d39eafe1791:0x1fda01873a3630d4!8m2!3d35.7130489!4d139.7002322?hl=ja

「神田川」に行ってきた 1 2010/6/22
https://blogs.yahoo.co.jp/hisahiko_satoh/25776348.html


以前からの念願だった、「神田川」散歩に行ってきました。

南こうせつとかぐや姫の歴史的名曲「神田川」の舞台を訪ねて、そぞろ歩きをしてきました。

四畳半フォークの名作「神田川」の舞台は高田馬場でした。
高田馬場から、神田川沿いを歩き、「三畳一間の小さな下宿」〜「横丁の風呂屋」をまわってきました。

JR高田馬場の駅を降りてすぐに東口の川に出て、そこの神高橋から、高塚橋、戸田平橋を過ぎて源水橋までのちょうど真ん中あたりにありました。

【写真】

@「三畳一間の小さな下宿」だった場所です。
 今は、「高田馬場アドレス」というマンションになっています。

A「下宿」があった場所から下流を見た神田川。

 こんな川を見ていたのでしょう。
 下宿の窓からは「大正製薬」のネオンが見えたそうです。
 数年前までネオンがありましたが、今は無くなり、ビルも増えているため見えなくなっています。

B対岸から見た「下宿」。左から2個目のベージュのマンションです。
https://blogs.yahoo.co.jp/hisahiko_satoh/25776348.html

「神田川」に行ってきた 2
https://blogs.yahoo.co.jp/hisahiko_satoh/25786755.html

「三畳一間の小さな下宿」があった場所からさらに下流に行くと、まさに都会という様相になります。

面影橋のところで神田川から南下して、「二人で行った横丁の風呂屋」に行きます。

【写真】

@「二人で行った横丁の風呂屋」、「安兵衛湯」があった場所です。

 「安兵衛湯」は平成2年に廃業し、今は「カーサ・ステラ」というマンションになっています。

 旧名称は「クワイエット西早稲田」でした。
 手前の白い建物になっている場所は「ローズ文具店」という文房具屋さんでした。

 奥は戸塚第一小学校です。
 ここで、小さな石鹸をカタカタさせて待っていたのでしょう。

 ネットの情報では、安兵衛湯は、「西早稲田3−1−3にあった」となっているようですが、所在地が違います。

 実際の場所は120〜130m位西側です。ここの横丁は茶屋町通りと呼ばれています。

Aもうひとつの「横丁の風呂屋」、「加増湯」があった場所です。

 「横丁の風呂屋」としては「安兵衛湯」のほうが知られているようですが、「加増湯」もそうでした。

 今は、「スカイコート早稲田壱番館」になっています。
 明治通りと早稲田通りの交差点「高田馬場口」です。
 向かって正面が北、左が高田馬場駅方面です。
 ここで、小さな石鹸をカタカタさせて待っていたのでしょう。

わたしは「加増湯」が廃業する前に、たまたまここを通りかかった時に、外観だけ見たことがありました。
その時は忙しかったので帰ってしまったのですが、今思えば『中に入っておけばよかった』と思います。
https://blogs.yahoo.co.jp/hisahiko_satoh/25786755.html

「神田川」に行ってきた 3
https://blogs.yahoo.co.jp/hisahiko_satoh/25800968.html


【「神田川」誕生】


昭和22年に生まれた喜多条忠は、昭和41年に早稲田大学に入学しました。
そして、2年の時に1年生の池間みち子と出会います。

喜多条は、みち子が住んでいた神田川沿いの下宿に転がり込んで、同棲を始めます。

そこから、成田闘争の闘士として夜中まで闘争に行き、ボロボロになって下宿に帰ってきて、ヘルメットを置き、みち子の手料理を食べて寝る生活をしていました。

しかし、1年半でみち子とは別れました。


大学中退後の昭和45〜46年頃は、喜多条はアルバイトを転々としていましたが、偶然再会した先輩から文化放送の仕事を紹介され、いつの間にか文化放送の放送作家に落ち着いていました。

そんな折、喜多条がいつものように仕事をしていると、背後から喜多条を興味深そうに見ていた青年がいました。

彼こそ、明治学院大学に入学、日本クラウンに認められてデビューし、PRのために放送局回りをしていたかぐや姫の南こうせつでした。

1年先輩の喜多条の誘いで2人は飲み友達になり、仲良くなりました。

昭和48年、南は喜多条に『詞を書いてほしい』と頼みました。

『締め切りはいつか』と聞くと、『今日が締め切りだ』と言うので、『それは無理だ』と言いましたが、『出来上がったら連絡する』という事になりました。

南から作詞を頼まれたその日、徹夜をした喜多条は、タクシーで東中野の自宅に向かいました。

そして、ちょうど早稲田通りの小滝橋交差点の神田川にさしかかった時、喜多条の目に「神田川をきれいに」という看板が見えました。

『そういえば、大学時代に彼女と一緒に神田川沿いに住んでいた』事を思い出した喜多条は、家に着くと、書くともなく「神田川」とタイトルを書きました。
『書けそうだ』と感じた喜多条は、一気に詞を書き上げました。

女性の回想という形にはしたものの、内容はあくまでも喜多条自身の思いでした。

「若かったあの頃、何も怖くなかった」まで書くのにかかった時間は、たったの15分でした。

しかし、何かが抜けていると感じました。
そこで、続けて、「ただ・・・・・・・が怖かった」としました。

喜多条は、カレーライスを作っていたみち子の姿、タマネギを刻むまな板の音などを思い出して、「ただあなたのやさしさが怖かった」と結びました。彼女があまりにも優しすぎて自分がだめになってしまうという意味で書いたのです。

ちなみに、『一緒に出ようねって言ったのに、いつもわたしが待たされた』というくだりは、喜多条が風呂屋にあったいけすに夢中になって見入っていたために、彼女を待たせてしまったという事です。

詞が書けた喜多条はすぐに南に電話をしました。
FAXなど無い時代でした。

喜多条は、『「神田川」の神は神様の「神」、田は田んぼの「田」、川は三本川の「川」だ』と説明をしました。

喜多条が歌詞を読みながら、南が書き終わると、南は『出来たら連絡する』と言って、一旦電話を切りました。

南から電話が掛かってきたのはそれからわずか5分後だったので、喜多条は驚きました。

実は、この5分というのは、南がギターを取りに戻っていた時間だったのです。
南は電話越しに「神田川」を唄ってみせました。この時「神田川」が誕生しました。

【写真】

@大正製薬。
 下宿からネオンが見えていた大正製薬。
 今はネオンが取り外されています。

A「茶屋町通り」と呼ばれている横丁です。
 2人はこの横丁を通ったのでしょう。
 右に入ると安兵衛湯、左は早稲田通りが平行して走っています。

Bもうひとつの「横丁の風呂屋」、「加増湯」があった、
 明治通りと早稲田通りの交差点「高田馬場口」です。
 白いビルの場所が「加増湯」でした。
 向こう側が高田馬場駅方面です。

(参考文献)
「神田川」新潮社
https://blogs.yahoo.co.jp/hisahiko_satoh/25800968.html


「神田川」に行ってきた 4
https://blogs.yahoo.co.jp/hisahiko_satoh/25807636.html

【奇跡的ヒットへ】

「神田川」は昭和48年7月に発売されたアルバム「かぐや姫さあど」に収録されました。

しかし、プロの作曲家、作詞家からの批評は散々なものでした。

『何のひねりもないレポートのようだ』
『同じメロディーの繰り返しで退屈だ』

南こうせつは、自らのラジオ番組で、いろいろなシングルの曲を放送した後で、余った時間にアルバムに入っている無名の曲を放送していました。
そして、自分の「かぐや姫さあど」から、「神田川」を選曲して放送した1週間後でした。

喜多条が担当していた文化放送の音楽リクエスト番組で、「神田川」が1位になってしまったのです。

喜多条は冗談だと思いましたが、冗談ではありませんでした。

日本クラウンも大変な事になりました。

演歌の日本クラウンが、素人同然の作詞、作曲した曲をシングルカットしていいのか、というものでした。

しかし、「神田川」をシングル化させたのは、「艶歌の竜」との異名をとっていた、大正12年生まれの音楽ディレクター馬渕玄三(当時50歳)でした。

馬渕玄三は、社員に『お前たちの耳は節穴か、これは歴史に残る名曲になる。これを世に出さなかったら日本クラウンの恥になるんだぞ』と激を飛ばしたのです。
そして、売れても70万枚だった時代に、「神田川」は150万枚の大ヒットになりました。

これは、今で言えば300万枚のヒットに匹敵します。

なお、「神田川」の史跡探訪については「神田川に行ってきた1〜」に書いてありますのでよかったらご覧になってみて下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/hisahiko_satoh/27242342.html

【写真】
昭和58年の「安兵衛湯」です。ネットより。

参考文献
「郷愁の東京」主婦の友社
https://blogs.yahoo.co.jp/hisahiko_satoh/25807636.html

7. 中川隆[-11673] koaQ7Jey 2019年3月06日 13:49:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[318] 報告

鬼束ちひろ なごり雪 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%AC%BC%E6%9D%9F%E3%81%A1%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%80%80%E3%81%AA%E3%81%94%E3%82%8A%E9%9B%AA+&sp=mAEB
8. 中川隆[-11396] koaQ7Jey 2019年3月18日 16:58:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[604] 報告

なぜ連合赤軍とオウム真理教は敗北したのか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926

戦後日本における大きな反体制組織と言えばあさま山荘事件を起こした連合赤軍と、その後に登場するオウム真理教だろう。

20世紀の喧騒を象徴する2つの組織、そしてあさま山荘事件と地下鉄サリン事件という2つの事件に関与している。

21世紀になってからは同時多発テロがアメリカで起き、その後現在のISIS系のテロが欧州で頻発しているが日本からはどこかそういった反体制運動は消滅しつつある。

むしろ日本の右傾化が進み、比較的政治的にも治安的にも安定するようにはなったというのが大きな流れだ。

連合赤軍とオウム真理教の敗北というのは、左翼の敗北、そして宗教の敗北だったと見ることもできる。「反体制」で勝つことはできないということが彼らが残した歴史的な意味合いだろう。

日本で反体制勢力は大きな戦力を持つ事ができず権力を打倒できないことに気付いたため、その後大きな動きは起きなくなっている。

結局のところ自動小銃を密造しようとしたが試作品を作ることが精いっぱいだったオウム真理教、猟銃で少数の人間が訓練することしかできず内ゲバで瓦解した連合赤軍、彼らは必然的に敗北した。

またオウム真理教は選挙に出馬するが惨敗し結局地下鉄サリン事件のようなテロリズムに走っていき、日本で左派政党が政治的に勝利することは限られた回数しかない上にやはり「政権交代」はそれぞれ敗北した。

宗教アレルギーだと言われる日本でオウム真理教が勝利することは難しく、同時に「日本の左翼はレベルが低い」と言われるように高度な政権運営を行う事は出来なかった。

自民党や官僚という体制は非常に強固であり、今後何かの革命を起こそうとするならば権力者側や体制側に活路を見出さなければならないだろう。

オウム真理教にしても連合赤軍にしてもそれほど大きなことは成し遂げることができず、簡単に体制に滅ぼされてしまった。

せいぜいちょっとした反抗期だった少年が教師や親に大人しくさせられたように、その後日本から何らかの抵抗運動は消滅する。

オウムのハルマゲドンは東京上空からヘリコプターでサリンを散布する寸前まで行ったか結局その試みは阻止され、今では「ひかりの輪」が細々と存続している程度でしかない。

連合赤軍を始めとしたあの頃の極左や学生運動というのも80年代に入れば消滅していくことになる。

東アジア反日武装戦線は三菱重工爆破事件を起こしたが、こちらの知名度は非常に低く社会的なインパクトはなかった。

その後何らかの抵抗運動といえば、ネオ麦茶事件や宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗、秋葉原加藤とやまゆり園植松が登場するが彼らの個人的な衝動は社会を変革させることができなかった。

結局そういった抵抗は個人や地下組織では限界があり、やはり政権を掌握しなければナチス・ドイツやソビエト連邦のような事はできない。

少し爆破したり、路上で誰かを刺殺したすること程度の規模で終わってしまう。

現在ISISが自動車を使ったテロを実行しており、そちらは規模が巨大化しているがそれでも数十人が限度だ。ノルウェーでも銃を乱射したテロがあり、この時は「FPSならこのキルレシオは驚異的」と言われていたが、革命に匹敵する変革を起こすことには失敗した。

秋葉原加藤は騒がれたが、やまゆり園植松は既に風化しているように、現代からそういうった反抗や反逆を賞賛するムードは消滅しつつある。

「大人しい事」や「怒られない事」が最適解になり、連合赤軍とオウム真理教が敗北したことで誰も似たような事をやらなくなった。

更に個人的な反抗ですら今では社会に大きなインパクトを与えられなくなっており、抽象的な見方かもしれないが「熱量」自体が世の中から消えている。

かと言ってそのような行動を美化するわけではない。

大東亜戦争末期の特攻作戦を美化したところで、それは軍事的に敗北だったとしか言いようがない。特攻作戦に従事した青年や、オウム真理教の信念に共感した純粋な信者や、革命による変革に社会の理想を求めた連合赤軍構成員の個人の心意気自体はもしかしたら美しかったかもしれないが軍事作戦や革命行動としては敗北している。

またISISの散発的な自動車テロでも彼らが掲げるイスラム領土の再獲得を実現できるとは思えない。

ただ単に路上で車を暴れさせて終わりではなく、「戦車戦」や「戦略爆撃」、「本土決戦」をやる領域に入っていかなければならないと自分は考えている。個人が銃を乱射して一般市民を巻き込むという事も非常にレベルが低い話であり、そもそもテロという手段が間違っているだろう。

「もっとデカいことをやりたいけど、仕方ないからテロをする」という事例が今までの出来事であり、彼らはナチスやソ連にはなることができなかった。

モンゴル帝国、オスマン・トルコ、大英帝国、オランダ海上帝国、スペイン太陽帝国、大東亜共栄圏、ソビエト社会主義共和国連邦、ナチス・ドイツ、そして超大国アメリカ合衆国、そのレベルのことをやろうとしている人間がたかが少し一般市民を攻撃するだけのテロで終わってはいけないと自分は考えている。

しょぼいテロで終わりたいわけではなく、オウムや連合赤軍程度の小さい反抗で終わりたくもない。

ソ連やナチスドイツという虐殺国家、そしてイギリスとアメリカというアングロサクソンによる二大巨悪、スペインとモンゴルという二大畜生、日本をそのレベルに到達させようとした場合大東亜共栄圏や満州国が限度だったというのはどうしても規模が小さい。

実は日本がもっとも世界的に存在感を示したのは太平洋戦争ではなく、ジャパンアズナンバーワンに始まる1980年代の好景気の時代であり軍事よりも経済で世界を制圧した。

その理論を応用するならば次なる革命は「ペンは剣より強し」という考え方に基づき「言論」による変革、そして体制側の人間を取り入れなければならない。

そういった日本の黄金期時代を経験したことが無いバブル崩壊以降のゆとり世代としてはどうしてもそのことを寂しく感じてしまう。

明治維新を実現した幕末の世代や、戦後復興を支えた世代に比べて、「最近のゆとり」というのはどうしてもやることが小さいと言われても仕方がない。

おそらく「大日本帝国越える国作ろうぜ」と考えている自分のような人間は希少であり、そうんなことすら誰も考えていないんだろうなということに疑問を感じる。

それはおそらく中二病であるが、「デカい国」を作ろうとするような若者が台頭し始めてきたのが過去の歴史でもある。

「明治維新や昭和維新をやろうとしていた時代の若者すげぇ」と思うし、戦後昭和の世代もエネルギーも半端無い。

そういう世代を見ているとゆとり世代の一人として虚無感があり、この世代って歴史において何も残らないんだろうなという諦めにも似た感情がある。

ただ単に衰退していく日本に巻き込まれ、反抗もできず、いや抵抗すらせず大人しく消えていくのがゆとり世代なのだろうか。

情熱的になることも反抗することもダサいというひたすら大人しい世代になりつつあることに寂寥感を抱かずにはいられない。

世間的には大人しいと言われていたオタクがアニメや漫画の世界だけでは派手にやっていた時代すら終わり、最近では日常アニメに代表されるように創作の中ですら大人しくなり癒しばかり求めている。

エヴァンゲリオンやコードギアスすらなくなり、日常アニメに癒ししか求めなくなった姿を見ると日本人の情熱はどこにも存在しなくなっているだろう。

アイドルも「自分でも手が届きそう感」を重視するようになり、もはや親近感のあるユーチューバーの時代になってきている。

「その辺の普通の人たち」やありふれた日常の幸せに癒しを求める時代が到来している。

日本人の夢や希望、野心や反抗意識、そういったあらゆるものが小さく大人しくなってきている。

不良も人を殴らず窓ガラスを割らず、非行に走らず、ネットユーザーも民度が高くなりオタクは創作の中ですら大人しくなり、富や発展を求めなくなっていく。

「諦めムード」があらゆるものを支配していくのが今の日本文化なのだろう。

現実では駄目だけどアニメやアイドルには華やかなものを求めようとしていた人達すら少なくなり、自由にできる世界ですら現実や日常を求めるようになった。極左も大人しくなりシールズのようにカジュアルに騒ぎたいだけであり、過激な宗教家や新興宗教も減っている。

天理教や創価ですら深刻な信者離れや二世、三世の離脱が進んでいる。

むしろ元気なのは近隣諸国や新興国であり、日本に憧れる海外のオタクや先進文化に憧れる人々も減りつつある。仕方ないからクールジャパンと宣伝し、日本スゴイデスネーの発言を求める番組が増えているが、現実には街の綺麗さや水道水の美味しさ、治安の良さぐらいしか誇る物が無くなってきている。

その一方で中国に敵うわけがないという考えが当たり前になっており、韓流も捏造だとは言えなくなっているほど浸透している。

そしてそこに悔しさを感じる人すら減り、日本がオワコンだということを誰も疑問視しなくなる段階に入り始めている。

そんなムードの時代に「革命と戦争しようぜ、大日本帝国越えようぜ」と言ってる人間がいたとしても、電波で誰も本気に思わないのは仕方がないのだろう。

反逆に憧れず、日常で満足して、もはや想像や妄想をするエネルギーすら残されていない程に日本人は疲弊し老化しているというのが日本の現実なのだ。

みんな忙しいし革命どころじゃないし、癒しを求めるのが精いっぱいでそれすら手が届きにくくなっている。

高級車や豪邸に憧れるエネルギーも無くなっている世代が「大国の建国」という壮大なものを求めなくなるのは必然なのだろう。

バイクで暴走したり車を改造したりする気力も無くなり、実際にそれを出来る経済的な余裕も無くなっている。

しかしながら大人しい若者に罪は無く、彼ら、いや僕らが悪いと言うよりも若者から元気を奪う社会のほうが圧倒的に悪い。

その一方で社会を批判する人すらもはやいなくて、目先の癒しにしか興味がない同じゆとり世代にも違和感がある自分がいる。

社会が悪いとすら思わず、それが当たり前のことだとして受け入れている世代がとうとう現れ始めてしまった。

連合赤軍やオウム真理教は社会が悪いからそれを壊してでも変えようと考えていたが、80年代に入ってそんなこと無理だしって時代になって、21世紀はとうとう社会が悪いとすら思わなくなった。社会が悪いという事にもしかしたら薄々気づいているが、それを行ったところで仕方がないしイイネ!を押しあっていれば嬉しくなって、その不満も紛らわすことができる。

そういう時代にそりゃ革命なんて起こせないわけであり、そんな情熱持ってる暑苦しい奴なんて自分以外もはやいなくなっている。

「ワルしようぜ」と思ってる不良が一人治安のいい学校にいるとそりゃつまらないわけで、自分が世の中や最近のネットがつまらないといってるのはもしかしたらその感覚に似ているのかもしれない。

皆中三になってしまって「おまえいい加減に中三になれよ、そろそろ高校生だぜ」と中二病の少年が言われているような感覚でもある。

皆誰かのタイムライン汚したくないしドン引きされたくない、そんな奴らばっかりになったら世の中は面白くない。

しかしゆとり世代はそういった空気に特化した協調性の高い世代になりつつある。

「空気読むことや怒られないことが最も上手い世代」というのがゆとり世代論の総評なのではないか。

しらけ世代以上にしらけてる、それが僕らゆとりだ。

そういう世代論を語る人がいなくなり、それを面白いと思う人すらもいない。

「俺って変なのかな」とか「世の中間違ってるよな」と言ってる奴がもう自意識過剰で中二病扱いされる空気になっているのならば、そんな時代から歴史を変えるような強力な個人が現れるわけもない。

大人しい世代や癒しにしか興味がない世代が主流になれば日本が復活する見込みがないのは必然だと言える。

明治維新を起こした世代は「日本は列強に対抗しなければならない」と思い、戦後の高度経済成長を成し遂げた世代はひたすらに「裕福になりたい」という思いが強かった。

欲がない世代とよく言われるが、何も強い衝動が無いのがゆとり世代でもある。

いや「癒されたい」という思いが強いのかもしれない。

「公務員が一番の夢になった時代って面白くないよね」とも言えるし、じゃあユーチューバーに憧れる世代はどうなのかという問いかけも必要だろう。

逆にこれだけゆとり世代が大人しいと、今度はユーチューバーに憧れる世代が主流になれば文化的には面白くなっていく可能性を秘めている。

「安定した人生を送りたい」と考えているのがゆとり世代だとすれば、「好きなことをしていきたい」というのがこれからのユーチューバー世代なのだろうか。

そう考えるとまさにゆとり世代というのは「谷間世代」であり、日本という国が変わっていくサナギの地味な時期でもあるのかもしれない。

そしてそのサナギ状態であることや大人しいと言われることに特に不満も無いのがゆとり世代でもある。

あまりにも「これだから最近のゆとり世代は」と言われすぎて、「はいはい俺らゆとり」という状態になっており逆らう意欲すらない。それ以前に大人しいことがかっこ悪い事だとも思わなくなり、やはりそういう世代が何かをする気になれないのは必然だろう。

この世代に希望があるとすれば「ゆとりつまらないと思ってるゆとり」みたいな層をどれだけ増やしていけるかにかかっているのではないか。

大事なことは空気を読むことではなく、空気を変える事だろう。

社会に対して不満があるのならばもっとガンガン発言し、「なんかおかしいよね」という雰囲気を作っていくことが最初の第一歩なのではないか。

この空気に従っていれば気付いたときには飲みこまれてしまっているだろう。

「停滞感」を感じているならまだマシで、停滞が普通になり過ぎればもはや疑問にすら思わなくなる。

自分がいじめられていることを自覚している生徒は何らかの解決策を導き出すか反抗しようとするが、もはや「おまえいじめられてるんだぜ」と言われないと気付かない人はある意味悲しくも無く幸せなのかもしれない。

徐々にゆとり世代が、上の世代にいじめられていることに慣れ過ぎて、これがいじめだと気付かない状態になっているのではないか。

「やっぱ俺らいじめられてるわ」ってことに気付きなさないといけない時期に来た。

じゃあ「いじめの主犯格誰だよ」って言ったら、それは高齢者なわけで主犯格を一回殴り倒さないといじめは終わらない。

オウム真理教や連合赤軍はある意味若者として社会と戦おうとした。

しかし今の若者世代からそういう組織が現れてくる見込みはない。SEALDsは反逆組織のようで実はただ単に身内でイイネ!を押しあうだけの集団でしかなかった。

「一緒に酒飲めば敵の上陸防げます」と言ってるような連中の勢いがなくなっていくことはある意味当然だったと言える。

「若者なら何かできる」とか「俺らエネルギッシュな若者だし」というエネルギーすらなくなり、若いってだけで自慢するの良くないよねという風潮になってきて、高齢者や中高年層が主流になってきている。

若者が多数派だった時代にあった"調子乗り感"が今のゆとり世代からは消えつつある。

ゆとり世代といういじめられっ子がこれからどう反逆するのか、それとも「俺はイジられてるだけ」とかいじめられる日常に慣れ過ぎて何も気づかなくなるのか、今の時期はまさに世の中がどうなっていくのかとい分水嶺の時期なのではないだろうか。

連合赤軍やオウム真理教でもなければ、SEALDsでもない、そんな組織を作り上げなければ革命は実現できない。

ロシア革命の時代からちょうど1世紀が過ぎようとしている、そして後にナチスの政権掌握も訪れる。

世界史の潮流が1世紀おきに変わるのであればもうすぐ何かが起こる可能性は否定できない。

https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926

▲△▽▼

今の時代やはり暴力革命は成立しえない
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737

理想的共産主義社会の実現のために若者が革命を志していた「政治と闘争の季節」は1960年代までであり、70年代に入りカジュアルな文化や新しい庶民の生活スタイルが普及するようになると見限られるようになっていく。

サブカル文化を取り扱った番組を見て、70年代から現代の若者文化に近い潮流が始まったと知った。ものすごく簡単に言えば政治がそこまでかっこいいものじゃなくなったり、他にもっと楽しいことができたり、あまりにも暴力的で過激になり過ぎたことで若者から見放されていったというのが大きな流れだ。

他に楽しいことができたし、物凄く戦わなければならない理由も無くなった。

70年代ですら見限られて衰退していった暴力革命を今しようとしたら誰もついてこないだろう。

実際極左が多いイメージのある京都大学でもかつての中核派的な活動をしようとしていた学生が、一般学生に排斥されているようである。

結局日本の左翼というのはそういう活動の昂揚感にしか興味が無く何かに反対している興奮が好きな人が多いが、どう頑張っても少人数で細々とやり何も実現できない「左翼ごっこ」の領域を出ない結果にしかならない。

京大のような高学歴大学に進学すれば革命を志している凄い過激派がいるんだろうなという漠然とした幻想はは一般学生から白い目で見られて崩壊するのである。


日本の過激派「中核派」をフジテレビ・みんなのニュースが特集!その実態とは? - NAVER まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2147079950621838601?&page=1


このまとめでも「反対することが多くて忙しそう」と皮肉られていたが、反安倍だの、反改憲だの反原発、反米だのやることが多すぎてしかも少数しか集まらないため結局過激な暴走に少人数だけが走るようになる。

しかしそんなものは連合赤軍が山荘において少人数が猟銃で訓練する程度にしかならず、フルオートのアサルトライフルで武装した組織には勝てないのである。

若者だけでなく多くの人が「そんなことをしてもしょうもない、第一自分の生活で忙しい」と思っており、興味もなければ情熱を抱く体力すらない程に疲弊しているのが現代日本社会だ。

更に60年代と70年代前半の極左過激派があれだけ元気だったのは、それだけ世の中が激動の時代だったという事でもある。

東西冷戦真っただ中で、いつソ連と戦争が始まってもおかしくない状況だった上にまだ沖縄も返還されていない時代だった。

沖縄に核兵器が配備されていたことに関するドキュメント番組を見たのだが、当時の冷戦の状況は今とは比較にならない程緊迫していた。

最近の若者がなぜ政治熱が無いのかといえば、状況が違うというのもあるのかもしれない。あれだけ面白い材料やニュースがあれば、それは政治熱が高まるに決まっている。

ベトナム戦争やキューバ危機が歴史の教科書に出てくる単語ではなかった時代の話なのだ。

逆に言えば今何か特別昂揚感を刺激するようなニュースがあるかと言えば、せいぜい北朝鮮がミサイルを発射するぐらいでそれすらもう日本人は感覚が麻痺して慣れ切っている。それを言えば更に日本人が血気盛んだった戦前はもっと大きな出来事のオンパレードだったため若者が情熱を持ちやすかった。

ソ連すら知らない今の世代がせいぜい北朝鮮が虚勢を張っているだけの小粒化した共産陣営に抵抗しようとも思わないし、そこに憧れを抱かないのも必然だろう。

言葉に語弊はあるかもしれないが、当時の極左は今思えば楽しかったのではないだろうか。未だに学生運動の情熱を持っている当時の世代が、今も中核派や核マル派を一応続けているらしいが当時の熱狂を忘れられない時代遅れの人々かそこに憧れる世代しかもはや存在していない。

かつて従来の既成左翼を批判した新左翼が今は旧左翼になっている、そんな皮肉もこの記事では綴られている。


高齢化し数も減少 若者から見限られる中核派・革マル派の現状|NEWSポストセブン
https://www.news-postseven.com/archives/20151226_369124.html?PAGE=1#container

そしてこの記事で旧世代の左翼を見限った新世代の左翼の代表格だったSEALDsですら結局は平和と叫んで心酔したいだけのお笑い集団でしかなかった。

全ては時代背景に行き着く問題で、今真剣に厚く語れる政治問題そのものが存在しないというのが大きい。

ソビエト連邦という総本山がありまだ社会主義への幻想があった時代とは全てが違う。ベトナム戦争でかわいそうなベトナムの人々が犠牲になっているという共感できるニュースも無い。

渋谷で暴動を起こしたり、大学を占拠したり企業のビルを爆破したり山荘に強奪した武器を持って立てこもるには相当なモチベーションと情熱、そして信念が必要だろう。

日本で革命が起きない理由はそういったモチベーションを掻き立てる物や反対するものが無いということが大きい。

大多数の日本人はなんだかんだで米軍が日本の防衛に役立っているという事をわかっているため、特に反対しようという気にもならないし、かと言って中国や北朝鮮もそれほど脅威には感じられないため憲法を改正しようという危機感も無い。

左右両方の方面で特別エネルギーを沸かせるような要因そのものが無い。

福島の原発の事があったとしても電力が必要だという現実路線が日本人の中で優先されるし、北朝鮮がミサイル実験を断行しても憲法まで変えようという気にはならない。自衛隊と安保、日米同盟で十分対処できるしそもそも攻撃してこないということを現実的に理解している。

イギリスがその場の雰囲気でなんとなく後先考えずEUを離脱したり、アメリカでトランプが就任したりする姿を見ると日本人って飛び抜けた方向にはいかないというか平均的に賢いのかもしれない。

つまり日本人自体が非常に現実的な思考をしている上に、日常に忙しくそして疲れている、そして特に強い衝動を引き起こすような出来事もないため何も起こらないというのが実情だ。

中核派の学生が演説しても今時一般学生からは白い目で見られるのと同じで、あらゆる政治活動、いやいろんな流行や現象が今は「盛り上がっているのは一部だけ」という目で見られるようになった。

昔はオリンピックに興味がないと言う人は現実ではなかなか共感してくれる人がいなかったが、今ではネットでオリンピックに興味が無い人でも集まれる。

ハロウィンが新しく文化現象になろうとしても、一部の馬鹿が騒いでいるだけということをネットで言いやすくなった。

「そんなことする体力よくあるなぁ、興味ないや」という意見が言いやすくなったし、実はそういう人たちがサイレントマジョリティだった。

一回立ち寄った喫茶店のマスターと少し政治の話をしたことがあるのだが学生運動全盛期ですら「左翼は頭がおかしい」と思っている人が大多数だったようである。

今の日本はそういった静かな少数派が力を持つ時代であり、多くの人が実は静かな少数派の一人であることを自覚している。

そしてそういうサイレントマジョリティの意見がむしろ今はむしろメジャーな意見になっている。

例えば「流行に興味がない」という人が増えたが、昔もおそらく何らかの流行に興味が無い人の方が多数派だったがそれを言いにくい空気があった。

今では逆転しており、流行に盛り上がる人の方が恥ずかしいという冷めた空気感が漂っているし、特にネットはそういう現象を叩く傾向にある。流行に興味が無い事や冷めていることが恥ずかしい事ではなくなった結果、特に大きなことも起きなくなったというのが今の時代だ。

既に日本は大きなムーブメントが発生しにくい土壌になっており、大多数がそれなりに満足できる妥協案が最も強いという民主主義の原則が支配的になっている。

日本というのは自ら変わる国ではなく外圧で変わる国でもある。

ペリー来航や欧米列強の脅威が迫らなければ今も江戸時代や徳川幕府が続いていた可能性も否定できないだろう。

実際徳川幕府は世界でも例を見ない程続いたある種の軍事政権の一つであり、天皇制の歴史も非常に長い。

余程変わらないといけない大きな理由、多くの場合は外圧がない限り日本で大きな変革は実現しえない。

変える理由がない時は変えないという当たり前の事であり、無難な日々や昨日と同じ日常を安全に迎えられることに幸せを見出してきた農耕民族でもある。

無計画でもなんでもとにかく行動して変えてやろうという強い衝動を持ちにくく、忍耐力のある民族であることは間違いない。

おそらく次の衆院選は政権交代には至らないが、かと言って改憲が可能な程与党が大勝するわけでもないというどちらとも言えない結果になるだろう。

現政権を打倒しなければならない強い理由もなければ、現政権を強化して憲法を変えるほどの脅威もやはりない。

当然ながら私設組織や地下組織が独自に武力革命を起こすこともないだろう。

また少し平和を叫んでいれば楽しくなったような気になる市民団体がちょっと出てきて話題にもならず選挙後消えていくだけでしかないはずだ。

革命

激動の時代を味わいたいとか、凄い変革を見たいという人はあまり期待しない方がいいだろう。

そういう雰囲気に熱狂する体力もないほど今の日本人は疲弊しており、まずそういう興味や衝動を持っている人が限られる。

貧しいなりに娯楽が充実していてそれなりに不満も紛らわせたり、ささやかな楽しみと最低限の安全は存在する。

「昔に比べてしょぼくなったがそれでも絶望的に悪いわけではないから仕方ない」と受け入れる、それが日本人の基本的な考え方になっている。

皆それぞれ不満はあるがそこまでして変えようと思わないぐらいには我慢できる忍耐力があるのが日本人でもある。ただしその堪忍袋の緒が切れたときには思ってもみなかったぐらいの行動を起こすが、それでも実は江戸城の無血開城を実現したり本土決戦を回避したりどこかで優しく大人しい部分はある。

今の日本は特に何かを起こさなければならない時期でもない平和な期間だともいえる。

江戸幕府がものすごく長く続いたのと一緒で、戦後日本という体制はせいぜい70年程度の物で体制という物は続く時は大きな変化も無く続く物なのである。

大きな変革や革命が起こるとするならばやはり何らかの外圧がなければならないだろう。基本的に和を尊び妥協案を探すか、大人しく忍耐する日本人が我慢できない程の何かが起きればそれは起きるかもしれない。

そういうエキサイティングな何かが見たければ海外に行くという手段もある。

チェ・ゲバラがキューバ革命を実現した後にボリビアにまた革命をしに行ったのはもしかしたらその昂揚感が目的だったのではないかと自分は思っている。

フィデル・カストロが現実的な政治を行い、ゲバラが理想とする更なる革命を実現しなかった姿を見て彼はボリビアに次なる戦場を求めた。その結果彼はこの世を去ることになるのだが、ゲバラ的なロマンチストは理想と闘争を求めずにはいられないのかもしれない。

実際日本人でも日本赤軍はパレスチナに軍事訓練に行ったり、よど号で北朝鮮に向かおうとした。彼らは海外で軍事訓練を受けて日本での革命のための準備をしようとしていたようだが、革命や理想のために頑張っているという充実感を欲するならばそれは海外にあるだろう。

ある意味今の日本で革命が起きなくてつまらないと思っていたりそれが不可能だと諦めている人たちの先駆けが彼らだったのかもしれない。

国内で余程大きな歪が生じるか、何らかの大きな外圧が起こる以外、今特に大きな変革を望む必要性は左右両方の面で存在しない。

「70年間戦争をしなくて済んだ」というのは平和主義者の常套句だが、日本の戦後の八方美人外交というのはある意味日本が国際社会で生き残るための最適解だったと数百年後歴史評論家に語られる時が来るのではないだろうか。

天下太平の世では革命など起こす必要が無い、江戸幕府発足後70年の頃に生きていた人たちはまさかアメリカの歴史並に長く続くとは思ってもいなかっただろう。

案外戦後日本の体制はこれから大きな変革も無く江戸幕府のように200年以上続く体制なのかもしれない。

https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737

9. 中川隆[-11328] koaQ7Jey 2019年3月20日 21:09:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[677] 報告

世代間闘争論、あるいは団塊の世代の精神的病理について 2008年03月30日
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3acf222a439537072916d8c0c85a3fe5


 このブログの今年の1月9日の記事で赤木智弘さんの「希望は戦争」について触れ、私も「もうこうなったら世代間戦争だとでも言いたくなってくる」と書いたことがありました。

 月刊『創(つくる)』の今月号を読んでいたら作家の雨宮処凛さんが、「『世代間闘争』問題」という記事を載せていました。その記事に触発されて、「世代間闘争問題」を再度論じてみたいと思います。

 いま全国でロスジェネ世代のフリーターや派遣・非正規労働者の労働組合が次々に設立されていくという感動的な現象が進行しています。各地で立ち上がった人々に対して心からの声援を送ります。皆さまがんばって下さい。心から応援します。

 さて、雨宮さんの記事は、京都の若者向け労働組合「ユニオンぼちぼち」のパネルディスカションの際に起こった「事件」を書いたものでした。パネルディスカッションは、反貧困そして生存のため、若者がどのように連帯していけばよいのか真剣に話し合うものだったそうです。その際、フロアーにいた団塊の世代の学生運動経験者らしいオジサンが、「甘えるな」「一人一人がしっかりしていない」「戦略意的に生きてこなかった結果」などと、すごいケンマクで「フリーター=自己責任論」をまくしたて、あげくの果てには会場にいた生活保護受給者に対し、「生活保護を受けられるだけでも有り難いと思え」などと暴言を吐いたというのです。

 雨宮さんは、「そんな言葉を聞くたびに、猛烈に胃が痛くなる。人に責められる前に、当事者は死ぬほど自分を責めている。責めに責めて、私の周りでも多くの人が命を絶った。そのたびに、思うのだ。言葉は簡単に人を殺せるのだ」と書いていました。

 団塊の世代には確かにこの種の人間が多い。残念なことですが。私自身、長い間「フリーター研究者」として過ごしてきて、団塊の世代の人々からその種の言葉をもらって傷ついた経験があります。このブログにも、団塊世代とおぼしき人からその類のことを書きこまれてすごく傷ついたことがありました。もちろん団塊の世代すべてがそういう人なわけではありませんが、残念ながら、かなりの割合でこういう人々が存在することも事実です。

 なぜ団塊の世代の人にはこういう人が多いのだろう? 基本的に社会科学のイロハも分かっていないとしか思えない。社会科学の「イ」の字でも分っていれば、以下のことはすぐに分かるでしょう。

 ロストジェネレーションの悲劇は、日本企業が土地ころがしのバブル生成に狂奔し、日本政府がそのバブルを放置し、ついにそれを崩壊に追い込んだことによって生み出されたこと。その背後にはプラザ合意から日米構造協議と続いた米国による市場原理主義イデオロギーに基づいた一連の内政干渉があること。バブルに踊らされたのは団塊の世代の人々であり、ロスジェネ世代の人々には何の責任もないこと。それなのにバブル崩壊の被害をロスジェネ世代が一身に背負っていること。

 いわば犯罪者たちがそのまま食い逃げし、無罪の人々が冤罪で牢獄につながれているようなものです。こうしたことが分かれば、まずは団塊の世代として、ロスジェネ世代に謝罪の一言もあってもよいと私は思うのです。なぜハレンチにも自己責任論をまくしたてて、若者を傷つけ、死に追いやっているのか。あまりにもひどい。
 
 彼ら・彼女らが社会科学の「イ」の字も分っていないのは、彼らが学生時代ゲバルトばかりして暴れ回っていたため、全く基礎的な教養がないことと関係があるのでしょうか?
 彼・彼女らはマルクスぐらいちゃんと読んでいたと思っていたのですが、暴れるのに忙しくてマルクスもちゃんと理解していなかったのではないですか? 

 私は、いわゆる「全共闘運動」というものに対して決定的に嫌悪感を抱いています。全共闘が掲げた「大学解体」「自己否定」などという全く訳の分らないスローガンには怒りを覚えます。運動の目的も何も分らない。甘ったれもいいところだ。そんならアンタたちがトットと大学を退学すればよいだけじゃないですか。何で勉強したい人々の邪魔しながら大学をバリケード封鎖などしなければならないのですか?

 連帯などはじめから求めていないから、各個人がバラバラに孤立していくしかなかったのです。彼らは破壊しか知らず、創ることなど何もできなかった。信州大学全共闘で破壊活動ばかりしていた猪瀬直樹が、小泉政権による日本破壊政策の片棒を担いだのは、象徴的なことだったと思います。

 いや、全共闘の中でも評価できる運動もあります。日大全共闘です。私から見て日大の運動は評価できますが、東大含めそれ以外の大学の運動は全く評価できません。日大全共闘は、「学園の民主化」というきわめて正当で具体的な課題を掲げて闘い、運動の目的がハッキリしていたと思います。そして皆が共通目標に向かって連帯し、協力することによって確かな成果を勝ち取っていったと思います。

 だから日大全共闘OBは、学生運動経験を人生における輝かしい出来事としてポジティブに評価でき、その後の人生においても運動経験を前向きに活かしている方が多いと思います。それは人間同士が連帯して何かを生みだすことの素晴らしさを、彼・彼女らが運動の中で学んだからだと思います。

 その他の大学の全共闘が掲げた「大学解体」「自己否定」などという運動の目的も何もサッパリ分らないメチャクチャなスローガンからは何も生まれません。目的が分からないから連帯などしようがない。「自己否定」から「自己責任」へ。連帯のすばらしさも経験することのできなかった彼らは、アトムへと分解し、徹底的に個人主義的な思考になってしまったのではないでしょうか。

 運動の中で何も得るもの、誇れるものも何も得られなかった彼・彼女らは、「運動なんかバカがするものだ」みたいなことを自分の子どもたちに平気で言って、人々が生きやすい社会をつくるために力をあわせて政治を変えていこうとする努力そのものも否定するようになりました。彼らは極度のニヒリズムに陥って個人主義的になり、自己責任論をまくしたてるようになってしまったのではないでしょうか。

 彼らは学生時代に暴れていただけで勉強していないにも関わらず、社会に出て自分が努力したから、個人の力で頑張ったから何とか成功してきたと勘違いしているのです。勘違いしてナルシズムに浸っている。それでロスジェネ世代に対して、「努力が足りない」「頑張らないのが悪い」「甘えるな」などと暴言を吐くのです。

 あなたたちが社会人になった70年代は、頑張ればどうにかなる時代だったのですよ。個人の力でも何でもない。90年代には個人の力で頑張ってもどうにもならなようない社会構造ができあがってしまったのです。派遣労働の自由化などによって。

 10%の経済成長を遂げている時代の失業者者も「自己責任」、マイナス成長の時代の失業者も同じく「自己責任」なのですか? バカも休み休み言いなさい。
 
 全共闘の人々が犯罪的だと思うのは、彼らがバカげた運動をしたせいで、その後の日本人の大多数が社会運動そのものに決定的にネガティブなイメージを持つようになってしまったこと。そして民衆が歴史を動かすという具体的イメージを日本社会が失ってしまったことです。学生運動が実際に社会を動かしてきたフランスや韓国などの活力比べて、日本がここまで硬直してどうしようもなくなっているのも一重に全共闘運動の責任だと思うのです。すでにして彼らは、こうして後の世代に多大な負債を残しているというのに、あろうことかこの期に及んで、貧困に苦しむ若い世代の新しい運動に対して、「自己責任」と罵倒しながら冷水を浴びせかけるなんて、私には断じて許せない。彼・彼女らに対しては断固として闘わねばならないと思います。
 
 いま全国で起ちあがっているロスジェネ世代は、団塊ジュニア世代でもあります。ぜひ両親の世代をギャフンと言わせるだけの成果を勝ち取りましょう。そして「団塊の世代の呪い」による日本の社会運動の沈滞を、創造的に乗り越えていきましょう。
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3acf222a439537072916d8c0c85a3fe5

分断統治への反撃 ―こんどはこっちが分断する番だ 2008年04月25日
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/e41b39579770bca33cadde5f17c8faa6


 まず、一つ前の記事がだいぶ物議をかもしだしたようですので、続きを書きます。なぜあんなことをを書こうと思ったのかを説明します。

 あの記事は、少なからぬ団塊の世代の方々を傷つけてしまったようです。私は、あの記事で「ニヒリストかつナルシスト」という精神的傾向を持つ全共闘崩れの一群の方々を批判しました。もちろん私は、前向きにポジティブに生きておられる元全共闘の団塊の世代の方も少なからず知っています。ですので、心の中では「ああ、ステレオタイプなこと書いちゃってすいません」と謝りながらも、なおかつ敢えて書きました。

 というのも、「俗流若者論」で若者が攻撃され、若者が打ちひしがれているという現状があり、それに対するささやかな抵抗として「俗流団塊論」で少しくらい言い返してやったって、バチは当たらないだろうと思ったのです。レッテル貼りにはレッテル貼りで対抗し、レッテル貼り攻撃してきた上の世代の方々に自省を促したかったという点があります。

 赤木智弘さんの『若者を見殺しにする国 −私を戦争に向かわせるものは何か』(双風社、2007年)の第1章は「強大な敵としての俗流若者論」でした。それは、上の世代から放たれる「最近の若者は・・・・」という不当なレッテル貼りに対する抗議の文章です。それを読んで、共鳴したというのも、あれを書いた動機の一つです。

 私は、このブログを始めてからというもの、若者たちとの論争をだいぶしてきました。中国・韓国に対する差別的バッシングにあけくれる若者たちとの論争です。私もカーッとなって「差別はやめろ」などと口泡飛ばすような論争をしてきました。

 しかしながら、最近になって、「自分は分断の罠にはまっていただけなのではなないだろうか?」と自省するようになったのです。中国・韓国を叩いてウサを晴らそうとする、絶望的な状況に追い込められた若者の気持ちも分かります。絶望的な状況に置かれて未来が見えない中、しかも自己責任論で上の世代からバッシングされる中、「自分よりダメな人々」を求めて、韓国・中国に攻撃の矛先を向けてしまっているのでしょう。人間は弱いものです。これだけ格差が増大したら、そうなってしまうのも仕方ないです。

 市場原理主義のグローバル化によって絶望的な状況に追い込まれた若者のやるせない不満のはけ口として、中国・韓国を利用しようとしているのは、『諸君!』や『正論』などに寄稿するご老人方です。そしてその背後には、アジア諸国を分断して混乱させながら、日本の従米状態を恒久化させようとする米国の戦略があります。日本人に「中国は怖い」というイメージを徹底的に刷り込むことによって、日本が米国の半植民地状態にあることを恒久化させ、日本を米国とって便利なATMマシーンとして機能させ続けようというわけです。ちなみに、『諸君!』という雑誌は、そもそもCIAの工作資金で創刊されたものです。

 西洋帝国主義のお得意は分断統治戦略。大英帝国はインドを植民地統治するにあたって、イスラム教徒とヒンドゥー教徒が互いに争うように仕向けさせ、彼らの怒りの矛先が英国に向かわないようにしました。そのせいでインドとパキスタンの分裂とその後の抗争の悲劇が生まれたわけです。

 日本国内で、米国のエージェントのようになって反中・反韓論を威勢良く展開しているご老人方、豪邸に住んで何不自由なく暮らしている方々は、いまの若者の絶望的な状況に共感できる一片の感性も持ち合わせていない。彼らは、自分たちの世代の責任でここまで日本をダメにしてしまったという、その犯罪を覆い隠そうとするかのように、若者の目を国内矛盾からそむけさせようと、意図的に中国・韓国に対する敵意を煽りたてようとしているのです。だから右派雑誌ときたら、中韓批判やら民主党批判やら朝日新聞批判の特集ばかりで、格差社会批判の特集など組もうとしないのです。それで「日本の格差など中国に比べればはるかにマシだ」などという、およそ反論にもなっていないハレンチな開き直り論を展開するのです。

 あれらの雑誌に寄稿する人々は、中国・韓国批判の一方では、自己責任論をあおりたて、市場原理主義を礼賛する人々でもありました。宮台真司氏の言うところの「ネオリベ右翼」です。「ネオリベ右翼」は、方法論的個人主義を大前提とする市場原理主義を礼賛しながら、なおかつ国家主義を煽りたてるという、とてつもなく矛盾した人々です。

 それで、市場原理主義を正当化するところの新古典派経済学がどんな学説なのか分かっているのかといえば、彼らは不勉強で全然知らない。知らないままに、ただただ米国に迎合して資本主義万歳、構造改革万歳を唱和してきただけ。だから、自分の思想がとてつもなく矛盾しているという事実そのものにも気付かない。救いようのない愚かな人々です。

 しかも、ああした反中・反韓雑誌に寄稿している方々の少なからぬ人々が、元左翼活動家だったりするで唖然とします。そのような無節操な人々が信用できるわけないでしょう。「左翼はバカだ」という若者の皆さん。少なくとも日本の左翼は本当にバカだと私も思います(ただ、外国の左翼はあまりバカでない人たちも多いですが・・・)。そのバカな左翼思想にかぶれていたような浅薄な人々なんて、右翼になった今も変わらずバカなのだと思いませんか?

 絶対にあの無節操な元左翼右翼たちを信頼してはいけません。若者たちを、彼らバカな元左翼右翼の影響下から引き離すにはどうしたらよいのだろう、私たちが分断されるのではなく、彼らを分断するにはどうすればよいのだろう、それがあの文章を書いた主要な問題意識です。手始めに全共闘崩れの構造改革礼賛論者の精神的病理の分析をしようと思ったのです。
  
 「分断統治戦略」とはよく言ったものです。私なんか、まんまと支配層の策謀に引っかかって、分断の罠にはまりこんでいたのかも。私は、格差社会を批判する、中国だけでなく米国もちゃんと批判するような右派の方々は好きです。いままで、私たちが分断されてしまっていた。これからは彼らを分断してやりましょう。まずは政治的ヌエのような存在である「ネオリベ右派」を社会的に孤立させ、その思想的影響力を消滅させることだと思います。

https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/e41b39579770bca33cadde5f17c8faa6

10. 中川隆[-11286] koaQ7Jey 2019年3月22日 13:43:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[720] 報告

七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。

ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。

この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。

なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

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比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


2019年度の寺子屋ゼミは「比較敗戦論」を通年テーマにすることにした。

どうしてこのようなテーマを選ぶことになったのか。それについて姜尚中さんとのトークセッションで語ったことがある。
そのときの講演録を再録しておく。講演があったのは2016年

敗戦国は日独だけではない

 今回の「比較敗戦論」というタイトルは、問題提起という意味でつけました。特に僕の方で用意した結論があるわけではありません。ただ、歴史を見るときに、こういう切り取り方もあるのだというアイディアをお示ししたいと思います。

「比較敗戦論」という言葉は『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんと対談をしまたときにふと思いついたのです(この対談はその後、『日本戦後史論』(徳間書店、二〇一五年)という本にまとまりました)。

『永続敗戦論』での白井さんの重要な主張は「日本人は敗戦を否認しており、それが戦後日本のシステムの不調の原因である」というものでした。「敗戦の否認」というキーワードを使って、戦後七〇年の日本政治をきわめて明晰に分析した労作です。

ただ、僕が思ったのは、白井さんと話をしていて、日本人が戦後七〇年間にわたって敗戦経験を否認してきたということは全くご指摘の通りなんだけれども、日本以外の敗戦国ではどうなのか、ということが気になりました。日本以外の他の敗戦国はそれぞれ適切なやり方で敗戦の「総括」を行ったのか。その中で日本だけが例外的に敗戦を否認したのだとすれば、それはなぜなのか。そういった一連の問いがありうるのではないかと思いました。

白井さんの言う通り「敗戦の否認」ゆえに戦後日本はさまざまな制度上のゆがみを抱え込み、日本人のものの考え方にも無意識的なバイアスがかかっていて、ある種の思考不能状態に陥っていること、これは紛れもない事実です。でも、それは日本人だけに起きていることなのか。他の敗戦国はどうなっているのか。多の敗戦国では、敗戦を適切に受け容れて、それによって制度上のゆがみや無意識的な思考停止を病むというようなことは起きていないのか。よく「ドイツは敗戦経験に適切に向き合ったけれど、日本はそれに失敗した」という言い方がされます。けれども、それはほんとうに歴史的事実を踏まえての発言なのか。

まず僕たちが誤解しやすいことですけれど、第二次世界大戦の敗戦国は日独伊だけではありません。フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらは連合国が敵国として認定した国です。それ以外にも、連合国がそもそも国として認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア自由国、満州国、中華民国南京政府があります。これだけの「国」が敗戦を経験した。でも、僕たちはこれらの敗戦国で、人々が敗戦経験をどう受け容れたのか、どうやって敗戦後の七〇年間を過ごしてきたのかについて、ほとんど何も知りません。例えば、「フィンランド国民は敗戦をどう総括したか」というような研究は、フィンランド国内にはしている人がいるのでしょうけれど、僕はそれについての日本語文献のあることを知らない。でも、「敗戦の否認」という心理的な痼疾を手がかりにして現代日本社会を分析するためには、やはり他の敗戦国民は自国の敗戦をどう受け止めたのか、否認したのか、受容したのかが知りたい。敗戦の総括をうまく実行できた国はあるのか。あるとしたら、なぜ成功したのか。敗戦を否認した国は日本の他にもあるのか。あるとしたら、その国における敗戦の否認は、今その国でどのような現実を帰結したのか、それを知りたい。「敗戦の否認」が一種の病であるとするなら、治療のためには、まず症例研究をする必要がある。僕はそんなふうに考えました。


フランスは果たして戦勝国なのか

 このアイデアには実はいささか前段があります。枢軸国の敗戦国というと、ふつうは日独伊と言われます。けれども、フランスだって実は敗戦国ではないのか。僕は以前からその疑いを払拭することができずにいました。

ご承知の方もいると思いますが、僕の専門はフランス現代思想です。特にエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者を研究してきました。その関連で、近代フランスにおけるユダヤ人社会と彼らが苦しんだ反ユダヤ主義のことをかなり長期にわたって集中的に研究してきました。そして、そのつながりで、19世紀から20世紀はじめにかけてのフランスの極右思想の文献もずいぶん読み漁りました。

 僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究書も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、一九八九年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

 歴史的事実をおさらいすると、一九三九年九月にドイツのポーランド侵攻に対して、英仏両国はドイツに宣戦布告します。フランスはマジノ線を破られて半年後の六月にフランスは独仏休戦協定が結ばれます。フランスの北半分はドイツの直接統治領に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入ります。第三共和政の最後の国民議会が、ペタン元帥に憲法制定権を委任することを圧倒的多数で可決し、フランスは独裁制の国になりました。そして、フランス革命以来の「自由、平等、友愛」というスローガンが廃されて、「労働、家族、祖国」という新しいファシズム的スローガンが掲げた対独協力政府ができます。

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスを行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。

 対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。地下活動という性質上、レジスタンスの内実について詳細は知られていませんが、初期の活動家は全土で数千人規模だったと言われています。連合国軍がノルマンディーに上陸して、戦局がドイツ軍劣勢となってから、堰を切ったように、多くのフランス人がドイツ軍追撃に参加して、レジスタンスは数十万規模にまで膨れあがった。この時、ヴィシー政府の周辺にいた旧王党派の準軍事団体などもレジスタンスに流れ込んでいます。昨日まで対独協力政権の中枢近くに人たちが、一夜明けるとレジスタンスになっているというようなこともあった。そして、このドイツ潰走の時に、対独協力者の大量粛清が行われています。ヴィシー政権に協力したという名目で、裁判なしで殺された犠牲者は数千人と言われていますが、これについても信頼できる史料はありません。調書もないし、裁判記録もない。どういう容疑で、何をした人なのか判然としないまま、「対独協力者だ」と名指されて殺された。真実はわからない。

アルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士でしたけれど、戦後その時代を回想して、「ほんとうに戦ったレジスタンスの活動家はみな死んだ」と書いて、今生き残って「レジスタンス顔」をしている人間に対する不信を隠そうとしませんでした。このあたりの消息は外国人にはなかなかわかりません。

シャルル・ド・ゴールもその回想録の中で、ヴィシー政府壊滅後のフランス各地の混乱に言及して、「無数の場所で民衆の怒りは暴力的な反動として溢れ出した。もちろん、政治的な目論見や、職業上の競争や、個人的な復讐がこの機会を見逃すはずもなかった」と証言しています。(Charles De Gaulle, Mémoire de guerre, Plon, 1959, p.18)

 国防次官だったシャルル・ド・ゴールはペタン元帥が休戦協定を結んだときにロンドンに亡命して亡命政府を名乗りますけれど、もちろん彼の「自由フランス」には国としての実体などありません。国際法上はあくまでヴィシー政府がフランスの正統な政府であって、自由フランスは任意団体に過ぎません。そもそもド・ゴール自身、フランスの法廷で欠席裁判のまま死刑宣告されているのです。

ド・ゴール以外にも、フランソワ・ダルラン将軍、アンリ・ジロー将軍といった軍の実力者がいて、フランスの正統な代表者の地位を争っていました。最終的にド・ゴールが競争相手を排除して、自由フランス軍のトップに立ちますけれど、それでも一交戦団体に過ぎません。44年にド・ゴールが「フランス共和国臨時政府」を名乗ったときも、アメリカもイギリスもこれを承認するのを渋りました。ド・ゴールが一交戦団体に過ぎなかった自由フランスを「戦勝国」にカテゴリー変更させたのは、彼の発揮した軍事的・外交的実力によってです。44年、ノルマンディー上陸後西部戦線でのドイツ軍との戦闘が膠着状態にあったとき、ド・ゴールはこの機会にフランスを連合国に「高く売る」ことに腐心しています。回想録にはそのことが率直に書いてあります。

「戦争がまだ長引くということは、われわれフランス人が耐え忍ばなければならない損失、被害、出費を考えれば、たしかに痛ましいことである。しかし、フランスの最優先の利害を勘案するならば、フランス人の当面の利益を犠牲にしても、戦争の継続は悪い話ではなかった。なぜなら、戦争がさらに長びくならば、アフリカやイタリアでそうだったように、われわれの協力がライン河・ドナウ河での戦闘にも不可欠のものとなるからである。われわれの世界内における地位、さらにはフランス人がこれから何世代にもわたって自分自身に対して抱く評価がそこにかかっている。」(Ibid., p.44、強調は内田)

 ド・ゴールは、パリ解放からドイツ降伏までのわずかの時間内に、フランス軍の軍事的有用を米英に誇示できるかどうかに戦後フランスの、国際社会における立場がかかっているということを理解していました。ほんとうにこのときのフランスは綱渡りだったのです。ノルマンディー上陸作戦の時点ではド・ゴールの自由フランスの支持基盤は国内のレジスタンスだけでした。それが戦局の推移に伴ってそれ以外のフランス人たちも自由フランスを自分たちの代表として承認する気分になり、最後に米英はじめ世界の政府がド・ゴールの権威を承認せざるを得なくなった。ですから、ド・ゴールが「国を救った」というのはほんとうなのです。対独協力国、事実上の枢軸国がいつのまにか連合国の一員になり、さらに国際社会の重鎮になりおおせていたわけですから、これはド・ゴールの力業という他ありません。

でも、このド・ゴールが力業でフランスの体面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。ほんとうを言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。

イタリアは戦勝国ではないのか

 僕たち日本人はイタリアがどんなふうに終戦を迎えたかについてはほとんど知るところがありません。世界史の授業でもイタリアの敗戦については詳しく教えてもらった記憶がない。教科書で教えてもらえないことは、映画や小説を通じて学ぶわけですけれども、イタリアの終戦時の混乱については、それを主題にした映画や文学も日本ではあまり知られておりません。『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、一九四五年)にはイタリアのレジスタンスの様子がリアルに描かれていますが、僕が知っているのはそれくらいです。ですから、ナチスと命がけで戦ったイタリア人がいたことや、イタリア人同士で激しい内戦が行われていたという歴史的事実も日本人はあまり知らない。

一九四三年七月に、反ファシスト勢力が結集して、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が主導して、ムッソリーニを20年にわたる独裁者の地位から引きずり下ろしました。そして、首相に指名されたピエトロ・バドリオ将軍は水面下で連合国と休戦交渉を進めます。その後、監禁されていたムッソリーニをドイツの武装親衛隊が救い出して、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を建て、内戦状態になります。最終的にドイツ軍はイタリア領土内から追い出され、ムッソリーニはパルチザンに捕らえられて、裁判抜きで処刑され、その死体はミラノの広場に逆さ吊りにされました。イタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニのファシスト政権に引導を渡し、ドイツ軍を敗走させた。ですから、イタリアは法理的には戦勝国なんです。でも、たぶん「イタリアは戦勝国だ」と思っている日本人はほとんどいない。自分たちと同じ敗戦国だと思っている。

たしかに、戦後イタリアを描いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)のような映画を観ると、街は爆撃でひどいことになっているし、人々は食べるものも仕事もなくて、痩せこけている。「ああ、イタリアも日本と同じだ」と思っても不思議はない。でも、違います。イタリアは戦勝国なんです。だいたい、イタリアは一九四五年七月には日本に宣戦布告しているんです。

 フランスとイタリアを比べれば、フランスよりイタリアの方がずっと戦勝国条件が整っている。フランスは先ほど述べたように紙一重で戦勝国陣営に潜り込み、国連の常任理事国になり、核保有国になり、今も世界の大国としてふるまっています。それは一にシャルル・ド・ゴールという卓越した政治的能力を持つ人物が国家存亡のときに登場したからです。ド・ゴールがいて、ルーズベルトやチャーチルと一歩も引かずに交渉したから、フランスは戦勝国「のようなもの」として戦後世界に滑り込むことができた。でも、イタリアにはそんなカリスマ的な人物がいませんでした。戦争指導者であったヴィットリオ・エマヌエーレ三世とバドリオ将軍は、ドイツ軍がローマに侵攻してきたとき、市民を「無防備都市」に残したまま自分たちだけ逃亡してしまった。そのせいでイタリア軍の指揮系統は壊滅しました。戦後の国民投票で国民たちの判断で王政が廃止されたのは、このときの戦争指導部の国民に対する裏切りを国民が許さなかったからです。

フランスとイタリアのどちらも「勝ったんだか負けたんだかよくわからない仕方で戦争が終わった」わけですけれど、フランスにはド・ゴールがいて、イタリアにはいなかった。それが戦後の両国の立ち位置を決めてしまった。

でも、僕はこれを必ずしもフランスにとって幸運なことだったとも、イタリアにとって不幸なことだったとも思わないのです。イタリアは「敗戦国みたいにぼろぼろになった戦勝国」として終戦を迎えました。戦争の現実をありのままに、剥き出しに経験した。戦勝を誇ることもできなかったし、敗戦を否認する必要もなかった。だから、彼らの戦争経験の総括には変なバイアスがかかっていない。

先日、イタリアの合気道家が僕の道場に出稽古に来たことがありました。稽古のあとの歓談のとき、「そういえば君たち、昔、日本に宣戦布告したことがあるでしょう」と訊いてみました。たぶん、そんなこと知らないと思ったんです。意外なことに、彼はすぐに苦笑して、「どうもすみませんでした」と謝るんです。「イタリアって、どさくさまぎれにああいうことをやるんです。フランスが降伏したときにも仏伊国境の土地を併合したし。そういう国なんです。申し訳ない」と。僕は彼のこの対応にびっくりしました。自国の近代史のどちらかというと「汚点」を若いイタリア人が常識として知っているということにまず驚き、それについて下手な言い訳をしないで、さらっと「ごめんね」と謝るところにさらに驚きました。事実は事実としてまっすぐみつめる。非は非として受け容れ、歴史修正主義的な無駄な自己弁護をしない。そのとき僕は「敗戦の否認をしなかった国民」というものがあるとしたら、「こういうふう」になるのかなと思いました。

イタリアは「ほとんど敗戦」という他ないほどの被害を蒙った。内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。「まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ」と受け止めた。だから、戦争経験について否認も抑圧もない。

フランスの場合は、ヴィシーについてはひさしく歴史的研究そのものが抑圧されていました。先ほど名前が出ましたベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』はヴィシーに流れ込む十九世紀二○世紀の極右思想史研究ですが、この本が出るまで戦後四四年の歳月が必要でした。刊行されたときも、保守系メディアはこれに集中攻撃を加えました。「なぜせっかくふさがった『かさぶた』を剥がして、塩を塗り込むようなことをするのか」というのです。それからさらに30年近くが経ちますが、ヴィシー政府の時代にフランスが何をしたのかについての歴史的な研究は進んでいません。

ナチスが占領していた時代のフランス人は何を考え、何を求めて、どうふるまったのか。いろいろな人がおり、いろいろな生き方があったと思います。それについての平明な事実を知ることが現代のフランス人には必要だと僕は思います。ド・ゴールが言うように「自分自身に対して抱く評価」を基礎づけるために。でも、それが十分に出来ているように僕には思えません。フランスの場合は「敗戦の否認」ではなく、対独協力国だったという歴史的事実そのものが否認されている。その意味では、あるいは日本より病が深いかもしれない。


 現在の政治状況と敗戦の総括との関係

 本来なら、ヴィシー政府の政治家や官僚やイデオローグたちの事績を吟味して、「一体、ヴィシーとは何だったのか、なぜフランス人は民主的な手続きを経てこのような独裁制を選択したのか」という問いを徹底的に究明すべきだったと思います。でも、フランス人はこの仕事をネグレクトしました。ヴィシー政府の要人たちに対する裁判もごく短期間のうちに終えてしまった。東京裁判やニュルンベルク裁判のように、戦争犯罪の全貌を明らかにするということを抑制した。ペタン元帥や首相だったピエール・ラヴァルの裁判はわずか一ヶ月で結審して、死刑が宣告されました。裁判は陪審員席からも被告に罵声が飛ぶというヒステリックなもので、真相の解明というにはほど遠かった。この二人に全責任を押しつけることで、それ以外の政治家や官僚たちは事実上免責されました。そして、この「エリートたち」はほぼそのまま第四共和政の官僚層に移行する。

 レヴィによれば、フランスにおいて、ヴィシーについての歴史学的な検証が進まなかった最大の理由は、ヴィシー政府の官僚層が戦後の第四共和政の官僚層を形成しており、彼らの非を細かく咎めてゆくと、第四共和政の行政組織そのものが空洞化するリスクがあったからだということでした。事情を勘案すれば、フランス政府が、国家的選択として対独協力していたわけですから、それをサボタージュした官僚はうっかりするとゲシュタポに捕まって、収容所に送られるリスクがあったわけです。組織ぐるみの対独協力をせざるを得なかった。だから、一罰百戒的に、トップだけに象徴的に死刑宣告を下して、あとは免罪して、戦後の政府機構に取り込むことにした。それは当座の統治システムの維持のためには、しかたなかったのかも知れません。

ですから、ヴィシーについての歴史学的な実証研究が始まるのは、この官僚たちが現役を引退した後になります。一九八〇年代に入って、戦後四〇年が経って、ヴィシー政府の高級官僚たちが退職したり、死んだりして、社会的な影響がなくなった時点ではじめて、最初は海外の研究者たちが海外に流出していたヴィシー政府の行政文書を持ち出して、ヴィシー研究に手を着け始めた。フランス人自身によるヴィシー研究は『フランス・イデオロギー』が最初のものです。戦争が終わって四五年後です。「ヴィシーの否認」は政治的に、意識的に、主体的に遂行された。でも、そのトラウマは別の病態をとって繰り返し回帰してきます。僕はフランスにおける「イスラモフォビア」(イスラーム嫌悪症)はそのような病態の一つではないかと考えています。

 フランスは全人口の一〇%がムスリムです。先日のテロで露呈したように、フランス社会には排外主義的な傾向が歴然と存在します。大戦後も、フランスは一九五〇年代にアルジェリアとベトナムで旧植民地の民族解放運動に直面した時、暴力的な弾圧を以って応じました。結果的には植民地の独立を容認せざるを得なかったのですが、独立運動への弾圧の激しさは、「自由・平等・友愛」という人権と民主主義の「祖国」のふるまいとは思えぬものでした。そんなことを指摘する人はいませんが、これは「ヴィシーの否認」が引き起こしたものではないかと僕は考えています。「対独協力政治を選んだフランス」、「ゲシュタポと協働したフランス」についての十分な総括をしなかったことの帰結ではないか。

もしフランスで終戦時点で自国の近過去の「逸脱」についての痛切な反省がなされていたら、五〇年代におけるフランスのアルジェリアとベトナムでの暴力的な対応はある程度抑止されたのではないかと僕は想像します。フランスはナチス・ドイツの暴力に積極的に加担した国なのだ、少なくともそれに加担しながら反省もせず、処罰も免れた多数の国民を今も抱え込んでいる国なのだということを公式に認めていたら、アルジェリアやベトナムでの事態はもう少し違うかたちのものになっていたのではないか。あれほど多くの人が殺されたり、傷ついたりしないで済んだのではないか。僕はそう考えてしまいます。

 自分の手は「汚れている」という自覚があれば、暴力的な政策を選択するときに、幾分かの「ためらい」があるでしょう。けれども、自分の手は「白い」、自分たちがこれまでふるってきた暴力は全て「正義の暴力」であり、それについて反省や悔悟を全く感じる必要はない、ということが公式の歴史になった国の国民には、そのような「ためらい」が生まれない。フランスにおけるムスリム市民への迫害も、そのような「おのれの暴力性についての無自覚」のせいで抑制が効きにくくなっているのではないでしょうか。

 他の敗戦国はどうでしょう。ハンガリーは最近、急激に右傾化して、排外主義的な傾向が出てきています。タイも久しく穏やかな君主制でいましたけれども、近年はタクシン派と反タクシン派が戦い続けて、国内はしばしば内戦に近い状態を呈しています。スロバキアとかクロアチアとかにもやはり政治的にある種の不安定さを常に感じます。

戦争後は、どの国も「この話はなかったことに」という国民的合意に基づいて「臭いものに蓋」をした。当座はそれでよかったかも知れません。でも、蓋の下では、抑圧された国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。だから、ハンガリーの現在の政治状況や、タイの現在の政治状況が、それぞれの国の敗戦経験の総括と全く無関係かどうかということは、かなり精密な検証をしてみないとわからない。そこには何らかの「関連がある」という仮説を立てて検証をしてみてよいのではないか。してみるだけの甲斐はあると僕は思います。


 ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。

 日本人にも敗戦が一種の解放感をもたらしたということは事実だったでしょう。けれども、八月一五日を「解放の日」だと言う人はほとんどいません。表だってそう発言するのは、かなり勇気が要る。けれども、実感としては、それに近いことを思っていた日本人は少なくなかったと思います。

 小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(松竹、一九六二年)の中で、笠智衆の演じる今はサラリーマンをしている駆逐艦の元艦長平山と、加東大介の演じるかつての駆逐艦の乗組員坂本が、町なかでばったり出会うという場面があります。坂本が平山を誘って、トリスバーのカウンターに座ってウィスキーを飲む。この時に坂本が「ねえ、艦長、もしあの戦争に勝っていたらどうなったんでしょうね」と問う。平山は静かに笑いながら、「負けてよかったじゃないか」と答える。そうすると、坂本は「え?」と一瞬怪訝な顔をするのですが、ふと得心したらしく、「そうかもしれねえな。ばかなやつが威張らなくなっただけでもね」と呟く。これは敗戦がもたらした解放感についての、あの世代の偽らざる実感だったんじゃないかなと思います。

 僕は一九五〇年生まれで、父はもちろん戦中派なのですが、僕が小さい頃に、父が会社の同僚を家に連れてきて飲んでいるときに誰かが「負けてよかったじゃないか」と呟くのを僕は二三度聞いたことがあります。特に力んで主張するというのではなく、何かの弾みにぽろりと口にされる。そして、その言葉が口にされると、男たちは皆黙り込む。それで怒り出す人もいないし、泣き出す人もいない。それは思想とは言えないものでした。敗戦の総括としてはあまりに言葉が足りない。けれども、おそらくこれが戦中派の実感だったと思います。それが世代的な実感として、言挙げしないでも共有されている限り、そのような敗戦の総括もそれなりのリアリティーを持ち得た。けれども、そういう片言隻句だけでは、彼らの思いが輪郭のしっかりした思想として次の世代に継承されることはありません。


 恥ずべき過去も含んだタフな物語

 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


 歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

 カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四〜九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。

【Q&A】


ナラティブの力

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにく行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

 こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

 僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

11. 中川隆[-11215] koaQ7Jey 2019年3月25日 03:07:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[795] 報告

日本の左翼、全学連(西暦1993年)平成5年 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z0q8JvwZbmo


左翼(さよく、英:left-wing, leftist, the Left)または左派(さは)とは、政治においては通常、「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」を指すとされる。

「左翼」は急進的、革新的、また、革命的な政治勢力や人を指し、社会主義的、共産主義的、または、無政府主義的傾向の人や団体をさす。

対義語は「右翼」や「保守」である。

「左翼」「右翼」の語源はフランス革命である。「左翼」という表現は、革命後の国民議会で議長席から見て左側の席を、共和派や世俗主義などの急進派が占めた事に由来する。

「左翼」という用語は、通常、「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」を指し、革命運動、社会主義、共産主義、社会民主主義、アナキズムなどを支持する層を指すことが多い。
同時に、「左翼」は相対的な用語であり、何を「左翼」や「右翼」と呼ぶかは時代・国・視点などによって変化する。また「左翼」という言葉はレッテル貼りに使われる場合も多い。

左翼と呼ばれる勢力には、多かれ少なかれ根底には専制政治や弱肉強食的な資本主義に対する懐疑がある。左翼は平等、労働条件の改善、社会保障、福祉、平和などを追求する場合が多い。

左翼は総称であり、非常に幅広い潮流を含んでいる。たとえば目標とする国家については、市民や労働者の自治を重視するサンディカリスム、政府を否定する無政府主義、逆に国家の積極的な介入を重視する福祉国家、執権党が一党独裁を行うソ連型社会主義などがある。

また変革の方法についても、資本主義の枠内での社会改良主義、議会制民主主義のもとで将来的には社会主義社会を目指す平和革命主義、武力革命を行うべきとする暴力革命主義などがある。

身分制度や封建主義などに反対して近代化と富の増大を求める面では、資本主義と同様に近代主義・啓蒙主義・自由主義の側面がある場合がある。
逆に、資本主義による伝統的な地域共同体の破壊や労働者の搾取に反対する面では、保守主義の側面がある場合もある。

ヨーロッパ、特に大陸では「左派」と政党や政治家が自ら公称することは珍しくない。
一方でアメリカ合衆国では「左派」「右派」とも批判的な文脈では使われるが、自称する例は少ない。
一般に左派は「リベラル」と称されるが、1980年代以降の政治家はこの呼称で定義されることも避け、中道的立場を強調することが多い。
これは「保守」を強調する政治家が一定存在し、また「保守」と定義されることを避ける政治家があまりいない点と異なる。

政党の内部において、党内の「左派」「右派」と呼ばれる例も多い。たとえば、旧日本社会党では、社会民主主義的な勢力は「社会党右派」、労農派マルクス主義の流れをくむ勢力は「社会党左派」と呼ばれた。

12. 中川隆[-11211] koaQ7Jey 2019年3月25日 03:18:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[799] 報告

東大全共闘 安田講堂 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q5qq0jW1yTE
https://www.youtube.com/watch?v=X7xcOi4fpro

13. 2019年5月21日 22:43:12 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[981] 報告
ダ・カーポ スペシャルステージ
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燃えよヒラゴン
2017/02/27 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=XVX3GBoYyO4
14. 中川隆[-15203] koaQ7Jey 2019年12月07日 15:51:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2268] 報告
鬼束ちひろ なごり雪

15. 中川隆[-15202] koaQ7Jey 2019年12月07日 15:54:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2267] 報告
かぐや姫 なごり雪 2005

16. 中川隆[-13070] koaQ7Jey 2020年4月20日 18:49:05 : at6ayMU0Ck : WklkR3pzU3dhZmM=[52] 報告
残酷を直視できない「事なかれ主義」の日本人 2020年04月20日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1097.html

「残酷を直視できない事なかれ」は1960年代末の全共闘運動のなかで、すでに見られた。

 「命を賭して」なんて勇ましいかけ声があふれかえるなかで、東大安田講堂や新宿の路上騒乱でも、飛び交うのは命どころか、せいぜい、石と火炎瓶程度にすぎなかった。

 対する警察側も、せいぜい警棒とジュラルミンの盾、それに催涙弾程度だった。
 「命を賭した」ならば、実弾が飛び交うのが筋であり、結末は天安門事件のように残虐な死体の山ということになるべきだった。

 私も興奮しながら参加した、あの当時のデモも、結局、かけ声ばかりで、残酷を直視する姿勢はなく、「事なかれ主義」が横行していたのである。

 今回の新型コロナ騒動の全体像が、日を追うごとに鮮明になりつつあるが、それらの流れのなかで、浮き上がってきた問題点も、はっきり見え始めている。
 私が、1月末の報道(主に羽鳥MS)から一貫して感じているのは、日本政府や関係者の共通点、うんざりするほどの「事なかれ主義」である。

 安倍晋三がコロナ禍をひどく軽く考え、オリンピック開催を第一義に情報操作する姿勢を見せていたのは、はっきり分かった。
 PCR検査をしたがらないのも、疫病パンデミックという恐ろしい事態を矮小化、小さく、軽く見せようとして、なんとか無理矢理でもオリンピックを実現したい、という軽薄な考えの上に、見せかけだけの対策を行っている姿がはっきり見えていた。

 とにかく、事態の深刻さを直視したくない。政権の人気取りだけは大げさに報道するが、直面する事態を軽く見せかけ、すぐにでも解決できるようにしか公表しない。

 期待していた「オリーブの木」の黒川君までも、コロナ禍に関して「事なかれ」姿勢が見えたので、本当にがっかりした。そういう姿勢では、これからの恐ろしい時代を真正面から切り開くことなどできるはずがない。
 靖国神社を参拝するなどの無益な冒険を敢行できるなら、もっと真剣に問題を受け止められるはずだ。

 メディアの司会者の大半も、事態の深刻さを理解できている者は、テレ朝の玉川徹を除いて、ほとんどいなかった。
 日本人は、どうして、ここまで現実にある問題の矮小化=「ことなかれ」が好きなのだろう?
 私は、「残酷を直視できない」日本人の文化的パーソナリティに大きな問題があるような気がしている。

 外国映画やドラマを見ていると、日本では、まずお目にかかれない残虐シーンが、これでもかと豊富に出てくる。
 フリンジ・NCIS・Bones・lie to me 手元にあるDVDをみても、ほぼすべてのドラマが、まるで残虐シーンの競争をしているように、これでもかと破損腐敗した遺体をリアルに題材にしている。

 戦争映画でも、ライアン・地獄の黙示録・プラトーン・フルメタルなど、すべての映画に、銃弾で頭が吹っ飛ぶシーンとか、銃器自殺とか、本当の殺人シーンを再現しているような迫力のある残酷シーンが目白押しだ。

 翻って、日本映画やドラマで、遺体の出てくるシーンがあったとしても、アンチリアリティの制約でもあるのかと思える実に抽象的で陳腐な表現ばかり。
 人が死んでいても、アメリカドラマのように脳味噌が吹き飛んだり、腐敗してウジが湧いていたり、血糊が変色して黒ずみ、真っ黒の臓物が飛び出していたりするシーンは、ほとんど見たことがない。

 以下は、残酷と称する映画の予告編だが、アメリカの映画関係者が見たら、お笑い芸人の遊びにしか見えないだろう。
 https://www.youtube.com/watch?v=DK0Z2F06U5A

 血が噴き出たり、肉片が飛んだりの現実感が希薄なのだ。だから、座頭市など日本映画のチャンバラシーンは、現実感のない観念的な映像ばかりだったので、「殺人でなく、体操にすぎない」と、海外では不評だった。
 後に、勝やタケシが、少しはリアリティのある殺陣を公開してみても、どこか芝居じみて現実感に乏しい表現から逃れられないでいる。

 テレビドラマで、毎回死体が登場する、沢口靖子の科捜研シリーズとか、内藤剛志の刑事シリーズなども、24時間経た遺体の血糊が顔料赤のままになっていて、リアリティからほど遠い子供だまししか感じ取れず、現実感・空気感・肌に染み入る衝撃を感じることができないことにより、とてもアホらしくて見ていられない。

 日本製の映画やドラマが評価されないのは、こうした真実・現実から乖離した観念的でリアリティのない表現ばかりであることが最大の原因だろう。演出家たちは、かつて川内康範が作詞のリアリティを得るため日航機事故の遺体置き場に通ったような努力が必要だろう。

 というより、こうした「残酷を直視できない事なかれ」は、戦後のある時期までは、戦争の残虐を体験させられたことの反作用だったのだろうが、その後、日本人から勇気や精神的タフネスを奪うために、意図的に演出された路線だったような気さえするのだ。

 もう少し言えば、これはCIAの日本国民コントロール政策に含まれた陰謀だったかもしれない。
 「血を見ることを嫌悪する」心優しい日本人ばかり作って、小さな犠牲を厭わず戦闘的な姿勢を奪い去る仕掛けだったかもしれないのだ。
 こうした傾向は、1960年代末の全共闘運動のなかで、すでに見られた。

 「命を賭して」なんて勇ましいかけ声があふれかえるなかで、東大安田講堂や新宿の路上騒乱でも、飛び交うのは命どころか、せいぜい、石と火炎瓶程度にすぎなかった。
 対する警察側も、せいぜい警棒とジュラルミンの盾、それに催涙弾程度だった。
 「命を賭した」ならば、実弾が飛び交うのが筋であり、結末は天安門事件のように残虐な死体の山ということになるべきだった。

 私も興奮しながら参加した、あの当時のデモも、結局、かけ声ばかりで、残酷を直視する姿勢はなく、「事なかれ主義」が横行していたのである。
 「これが日本人の文化的パーソナリティ」と言ってしまえば、それまでだが、世界の他国では、アメリカの映画やドラマに出てくる残酷こそが真実なのだ。
 日本人は、あるべき真実を、たくさんのオブラートで包んで、雰囲気だけを味わって「行き着くべきところに行き着かない」という臆病さがあると考えるべきだろう。

 こうした日本的臆病が、今の日本政府の「事なかれ主義」による重い重い、無意味な政策の羅列につながっていて、日本人が事態を正しく直視することを妨げている。
 それどころか、日本的事なかれ主義は、今や、ネット界の主流にもなってしまっている。
 ユーチューブも、残酷シーンがわずかでも含まれている動画は、片っ端から削除していて、昔のような自由な情報収集が不可能になっている。
 今、私が、この文章のなかで「残酷シーン」を紹介しようとしたら、ほぼすべてのシーンが削除されてしまって、これでは「残酷」とは何であるのか、子供たちに理解させることさできなくなっている。

 まさに日本流事なかれ主義が、世界のSNSを制覇しているような状況で、かつてイスラム国が捕虜の首を切断する生々しい映像も、今や探し出すことさえできない。
 逆に言えば、ネットSNSを利用している世界中の読者は、世界には残酷が存在しない、蝶と花だけの世界であるかのような洗脳をもたらしているのではないか?

 ネット上には、ネットの残酷シーンに拒絶反応を示して、追放を要求する知性も思索もない馬鹿が溢れているが、現実社会が蝶や花だけの世界と勘違させられている連中が、いざ、コロナ禍のような事態に遭遇して、対策を正しく考えることなどできるはずがない。

 我々の人生には、苦もあれば楽もあり、天国もあれば地獄もある。人生に真正面から対峙し、苦難を克服するには、良いことも悪いことも、あらゆるすべての情報が必要なのだ。
 ユーチューブのように、「残酷排除」のような愚かな姿勢では、子供たちは正しい人生観を持てなくなる。
 我々は、すべての真実を隠蔽しないで見せるメディアを必要としているのではないのか?
 もう、いいかげん「事なかれ主義」は追放されなければならない。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1097.html

17. 中川隆[-6162] koaQ7Jey 2021年4月01日 11:17:59 : ioAjLYoQAE : YUlsd0dYaE9mS0U=[25] 報告
「22才の別れ」と「なごり雪」の謎 2016-02-05
https://ameblo.jp/kashii-ucchan/entry-12508916848.html


どちらとも万人が認める名曲です。
「22才の別れ」は”風”、「なごり雪」は”イルカ”が唄ったシングル盤が有名です。
両曲とも「かぐや姫の伊勢正三」の作詞・作曲によります。
楽曲としての最初の発表は”かぐや姫”の4枚目のアルバム「三階建の詩(さんかいだてのうた)」の中です。


●アルバム「三階建の詩」  左から山田パンダ・南こうせつ・伊勢正三




「三階建の詩」は1974年3月の発売です。 ”かぐや姫”は前年1973年の「神田川」で大ブレークしています。
”南こうせつ”は「3人全員が平等に曲作りに参画した新しいアルバムを作ろう」と提案します。
それが「三階建の詩」です。”三階建”とは”三人で作った”と言う意味です。

全12曲の内、三分の一の4曲に”伊勢正三”が絡んでいます。
4曲の中の2曲が「22才の別れ」と「なごり雪」です。
同じ時期に作られました。後から触れますが、この「同じ時期」がポイントです。

「三階建の詩」を発表した1年後(1975年)の4月に”かぐや姫”は解散し、それぞれ独自の活動を開始します。

”伊勢正三”は”大久保一久”と「風」を結成、「22才の別れ」でシングルデビュー。
”伊勢正三”と親交が深い友人の一人に”シュリークス”と言うフォークグループのリーダー”神部和夫”がいました。「かぐや姫」の”山田パンダ”は、以前は”シュリークス”のメンバーでした。
ある日”神部和夫”は”伊勢正三”に頼みました。
「”なごり雪”を女房の唄でシングルカットさせてくれないだろうか?」
”神部和夫”の若き奥さんとは”神部としえ”=”イルカ”です。

こうして2枚のシングルレコードは大ヒットします。
近年、この2曲は歌詞の意味について、「噂」と言うか「謎」が囁かれています。

先にこの2曲を聴いてみましょう。

22才の別れ  you-tube   fujimarumasaさん提供





22才の別れ       作詞・作曲  伊勢正三


あなたに「さよなら」って言えるのは 今日だけ
明日になって また あなたの 暖かい手に触れたら
きっと言えなくなってしまう そんな気がして
わたしには 鏡に映った あなたの姿を見つけられずに
わたしの 目の前にあった 幸せに すがりついてしまった


わたしの 誕生日に 22本の ローソクをたて
ひとつひとつ みんな 君の 人生だねって言って
17本目からは 一緒に火をつけたのが きのうのことのように
今はただ 5年の月日が 長すぎた春と 言えるだけです

あなたの 知らないところへ 嫁いでゆく 私にとって

ウウウ〜 ウウウウ〜 ウウウウウ〜


一つだけ こんな 私の わがまま 聞いてくれるなら
あなたは あなたのままで 変わらずに いてください そのままで

なごり雪  you-tube   fujimarumasaさん提供




なごり雪         作詞・作曲  伊勢正三


汽車を待つ 君の横で 僕は 時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
「東京で見る雪は これが最後ね」と
さみしそうに君がつぶやく 

なごり雪も降る時を知り ふざけ過ぎた季節のあとで
* いま 春がきて 君はきれいになった
去年より ずっと きれいになった

動きはじめた 汽車の窓に 顔をつけて 君は何か 言おうとしてる
君のくちびるが 「さよなら」と 
動くことが こわくて 下を向いてた

時がゆけば 幼い君も 大人になると 気づかないまま
* 繰り返し

君が 去った ホームにのこり 
落ちては 溶ける 雪を 見ていた
* 繰り返し

去年より ずっと きれいになった
去年より ずっと きれいになった




2曲とも若い男女の”別れ”を唄っています。
”伊勢正三”ファンの間で囁かれている「謎」とは・・・

「2曲の中で描かれている男女は、同じカップルではないのか?」

同じ別れを「22才の別れ」では彼女が唄い、「なごり雪」では彼氏が唄った。
この様に考えているファンをブログの中で何人か探し出しました。

最初に話したように、この2曲はアルバムの中で同時期に作られています。
よって、”伊勢正三”が2曲の詩でイメージした男女は同じ可能性が高いのです。
男とは”伊勢正三”自身だとする見方をしたブログもありました。

ただ、これらの件に関して”伊勢正三”自身はコメントを出していません。
ファンの各人が独自に想像から浪漫を組み立てて行くしかありません。
先のファンのブログも参考にして、うっちゃんは以下の様に考えました。

「”A太郎”と”B子”の物語」です。


1951年(昭和26年)、”A太郎”は大分県津久見市郊外で生まれました。大分県の片田舎で育った”A太郎”は都会での成功を夢見て勉学に励みます。高校は大分市の有名校「大分舞鶴高校」へ進学。
音楽部(クラブ活動)で活躍していた3年生の時、1学年後輩で同郷(津久見)出身の”B子”と知り合い、お互いに淡い好感を持つようになります。

”A太郎”はエンジニアを目指し、東京の大学の工学部への進学を決めます。
”A太郎”が東京に旅立つ日、”B子”は津久見駅で見送り、「来年、自分も勉強して東京の大学へ行くから」と想いを伝えます。3月の末なのに小雪が降ってました。
”A太郎”が東京に出て来た1969年(昭和44年)は”東京大学本郷キャンパス安田講堂の占拠”など全共闘運動による大学生運動のピークでした。

1960年代後半は学生による”日米安全保障条約”の延長阻止とベトナム戦争反対運動など反米感情の高まりが活発化していました。学生たちは様々なサークル等を拠点として、討論や学習を繰り返しました。その力は大学運営の民主化などを求める闘争ともなり、全国に波及し、安田講堂事件を引き起こしたのです。

そんな中での次の年、”B子”は東京の女子大学の受験に合格し、上京して来ました。
親元からの僅かな仕送りとバイト代だけでの生活は苦しく、お互いに愛を感じた時期を境に、”B子”は”A太郎”の御茶ノ水の下宿で一緒に住むことにしました。
御茶ノ水の下宿の横には神田川が流れていました。

1970年(昭和45年)の”大阪万博”の開催など日本社会が豊かになり、また、1972年(昭和47年)の沖縄返還によって反米感情は薄れて行き、学生達は潮が引くかのように運動から遠のいていきました。

学生運動に染まっていた”A太郎”も気が抜けた毎日を過ごしていました。そこに、先に上京していた大分舞鶴高校の先輩が「一緒にフォークグループをやらないか」との誘い。
”A太郎”は大学を中退し、大好きだった音楽の道に進みます。

エンジニアを目指していた”A太郎”の心変わりに”B子”は少し心配にはなりましたが、彼を信じて応援していました。
高校生の時に知り合った”B子”のそんな純粋な姿に”A太郎”は益々彼女の愛を想い感じるのでした。

”A太郎”と先輩の音楽活動での収入は殆ど無かったが、彼は希望に満ちて前を見つめていました。そんな苦しい生活の中でも、”A太郎”と”B子”は強い愛で結ばれ毎日を過ごしていました。
そして2年の時が経ちました。


”B子”は卒業と共に”A太郎”と別れることになります。
1年前から大分の両親が薦める縁談の話を承諾し、九州の福岡へお嫁に行くことになったのです。
”A太郎”は”B子”がお嫁に行く理由で別れるなんてことは知りません。
”A太郎”は「別れなくてはならない」と言う事実だけが、まだ信じられないのです。

この時代、女性が大学に行く割合は数割で、殆どが中学・高校で仕事に就き、22歳から25歳までにお嫁に行ってました。
”B子”は大学を卒業した時点で適齢期になってました。
「愛があれば何もいらない」と、本気で思ってました。
”B子”の大分の両親は経済的に安定した男性との結婚を強く希望しています。
帰郷する度に、両親は”B子”の幸せな結婚を望んでいることを本人に伝えます。
”A太郎”はと言えば、頭の中は音楽のことでいっぱいで、”B子”との結婚なんて考えたこともありません。

”B子”は”A太郎”を愛しているのに、「結婚して社会生活を営んでいけるのであろうか?」と言う不安と疑問が頭から離れず、悩んでいました。

そして、別れる日の前夜と当日にそれぞれの詩になりました。



”B子”の”A太郎”に対する想い。
「私を愛し続けてくれた日々」=「長すぎた(楽しかった)春をありがとう。」
「貴方の現在の音楽に対する純粋な気持ちを見ていると、私の結婚感とはどうしても一致しない貴方がいるんです」=「わたしには 鏡に映った あなたの姿を見つけられずに・・・」
「貴方とはもう会えない」=「東京で見る雪は これが最後ね」
「私は両親を裏切れない、それと貴方との将来をどうしても描ききれない自分がいるの」=「目の前にあった 幸せに すがりついてしまった」
「でも、私は貴方の純粋な気持ちは好きなのです。貴方がいつの日か成功することを祈っています」=「あなたは あなたのままで 変わらずに いてください そのままで」


東京駅で見送る時の、”A太郎”が”B子”に対する想い。
「初めて会ったのは君が17歳の時だった」=「17本目からは 一緒に火をつけた」
「僕はいつの時でも君を心から愛していたよ」=「ふざけ過ぎた(楽しかった)季節」
「僕が東京へ行く時、君が見送りに来てくれた。あの時も雪が降っていたことを思い出す」=「君が 去った ホームにのこり 落ちては 溶ける 雪を 見ていた」
「僕は音楽のことばかりに夢中で、しかも君がいつも傍にいてくれたのを当たり前の様に思っていたので、君の女性としての成長に気が付かなかった。ごめんね。今日は、とてもきれいだよ」=「時がゆけば 幼い君も 大人になると 気づかないまま いま 春がきて 君はきれいになった 去年より ずっと きれいになった」
「僕の自分勝手な想いのために、大切なB子を失ってしまった。とても哀しい。」



と言うことで、うっちゃんは2曲の中の男女は同じカップルとします。



”A太郎”が”伊勢正三”の投影かどうかは皆さんの想像にお任せします。
もし、そうだと仮定しましょう。
”A太郎”が先輩(南こうせつ)と組んだグループ(かぐや姫)は数年後に「神田川」と言う曲で大ブレークします。そして、その翌年「三階建の詩」(アルバム)の中で、”A太郎”の「22才の別れ」と「なごり雪」の2曲が発表されたのです。


「神田川」など、いわゆる「四畳半フォーク」と呼ばれる貧しい生活をする若者を唄った曲がこの時代の特徴です。
自分達が貧しかった想いを詩にした名曲が数多く残っています。
飽食時代である現在のミュージシャンには、実感として書くことが難しいテーマなのかも知れません。


うっちゃんの思い出の一曲


香椎浪漫

https://ameblo.jp/kashii-ucchan/entry-12508916848.html
18. 中川隆[-6160] koaQ7Jey 2021年4月01日 11:23:52 : ioAjLYoQAE : YUlsd0dYaE9mS0U=[28] 報告
なごり雪


19. 中川隆[-6138] koaQ7Jey 2021年4月01日 21:58:51 : ioAjLYoQAE : YUlsd0dYaE9mS0U=[61] 報告
なごり雪 歌詞の意味・解釈
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/nagoriyuki.html


女性フォークシンガー イルカのカバーで有名なかぐや姫のヒット曲
『なごり雪』は、かぐや姫(フォークバンド)が1974年にリリースした楽曲。アルバム『三階建の詩』に収録された。

作詞・作曲は、かぐや姫メンバーで当時22才前後の伊勢正三(いせ しょうぞう)。同アルバムには、同じく伊勢正三の作詞作曲による『22才の別れ』も収録されている。

翌年の1975年に女性フォークシンガーのイルカがカバーし、彼女にとって『なごり雪』は最大のヒット曲となった。

かぐや姫 ベスト盤

この曲が世に出るまで、「名残の雪(なごりのゆき)」という言葉はあったが、「なごり雪」という言葉はなかった。つまり伊勢正三による造語。

『なごり雪』がヒットしてから、曲名の造語について批判が寄せられ、「勝手にこんな言葉を作られては日本語の乱れを助長する。『名残の雪』に変えたらどうだとまで言われた。」という。

2013年、日本気象協会は「季節のことば36選」を選定。「3月のことば」の一つに「なごり雪」が選ばれた。これを知った伊勢はとても喜び、「胸のつかえが下りた気分」と語っている。



【YouTube】 なごり雪 伊勢正三・イルカ・南こうせつ





歌詞の意味・解釈
『なごり雪』歌詞には、いくつか解釈が分かれる歌詞があるように思われる。まずは、1番の歌詞を次のとおり引用する。

汽車を待つ君の横で僕は
時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる

東京で見る雪はこれが最後ねと
さみしそうに君がつぶやく

なごり雪も降る時を知り
ふざけすぎた季節のあとで
今春が来て君はきれいになった
去年よりずっときれいになった

<引用:伊勢正三『なごり雪』1番の歌詞より>

1番の歌詞では、特に「ふざけすぎた季節のあとで」と「なごり雪も降る時を知り」の所が、その意味や解釈について様々な受け止め方があるのではないだろうか。一つずつ補足してみたい。

ふざけすぎた季節のあとで
「ふざけすぎた季節」とは、大学生など20才前後の若い男女が謳歌する人生の春、いわゆる青春時代を意味していると考えられる。

ここでの「季節」とは、春夏秋冬のような天文学的・気象学的な「季節」ではなく、人生全体を通して見た場合の、特定の物事が盛んに行われる時期を表す言葉。

特に青春時代を表す際に使われることが多く、例えば『なごり雪』の2年前(1972年)にリリースされた歌謡曲『太陽がくれた季節』の歌詞でも、「青春は 太陽がくれた季節」のように、青春時代を表す語句として用いられている。

さらにさかのぼれば、石原慎太郎が1955年(昭和30年)に発表した短編小説『太陽の季節』における「季節」も、こうした用法の一つと言えるだろう。

また、『なごり雪』の2年後(1976年)には、森田公一とトップギャランのヒット曲『青春時代』の歌詞において、次のように「季節」が用いられている。

二人はもはや 美しい
季節を生きてしまったか
あなたは少女の時を過ぎ
愛を悲しむ女(ひと)になる
青春時代が夢なんて
あとからほのぼの想うもの
青春時代の真ん中は
胸に刺(とげ)さすことばかり

<引用:阿久悠『青春時代』2番の歌詞より>

これらのように、『なごり雪』がリリースされた1970年代には、「季節」という言葉が青春時代を表す語句として、歌謡曲でよく用いられていたことが分かる。

『なごり雪』においては、ふざけすぎた季節の「あとで」となっており、人生の春を謳歌した青春時代は終わり、二人は就職や結婚など現実的な大人の世界へ旅立っていく時期であることが示唆されている。

ちなみに、『なごり雪』作詞者の伊勢正三氏は当時22才前後であり、大学に進学していれば、大学生活を終えて企業に新卒入社している頃の年齢。作者の年代的にも、大学時代のカップルが卒業の節目に別れを迎えるというストーリーには強い関心を持っていたことだろう。

これを裏付けるように、『なごり雪』が収録されたアルバム『三階建の詩』には、伊勢正三氏が作詞・作曲を手がけた『22才の別れ』という歌があり、これも大学時代の男女とその別れがモチーフとなっている(歌詞については後掲する)。

なごり雪も降る時を知り
『なごり雪』の歌詞で最も解釈が分かれるのが、この「なごり雪も降る時を知り」という一節ではないだろうか。

曲の解釈は、それを聴く人がそれぞれ自分に納得のいく意味を見出す自由があってしかるべきであり、何が正解で何が間違いということはない。

参考までに、当ページの筆者の個人的解釈を述べるとすれば、「なごり雪も降る時を知り」とは、「降るべき時を知り」であり、それは「(もう)降るべきではない時を知り」であり、ついには「止むべき時を知り」の意味合いに帰着する。そして「止むべき時」とはすなわち、青春時代の終わりを意味する。

ここでの「雪」は、学生時代のフワフワして簡単に風に舞うような浮ついた「夢の時間」の象徴であり、それはやがて溶けて崩れて消える儚さと脆さに満ちたおぼろげな存在。

春になり女性との別れの時が迫っているというのに、学生時代の淡い季節を名残惜しむかのように駅のホームで降り続ける「なごり雪」は、まだ精神的に大人になり切れない男性の儚く未熟な内面を暗示したものであり、すでに気持ちが未来へ向かっている女性とのコントラストとなっている。

学生時代を名残惜しむこの男性は、駅のホームで女性を見送る日になって初めて、もう儚い雪のような夢の時間は終わったんだとようやく自覚したのかもしれない。それが「なごり雪も降る時を知り」(止むべき時を知り)という表現に表れているように感じられる。「今春が来て」の「今」も同様。

それはまさに学生時代という「はしゃぎすた季節」が終わり、名実ともに新たな人生の節目「春」が来た瞬間であり、相手の女性が精神的にも大人の女性になって、まだ学生気分に名残がある子供じみた男性にとっては、余計に「きれいになった」ように見えるのだろう。

2番以降の歌詞
参考までに、2番以降の歌詞については次のとおり。蛇足になりかねないので、以降の歌詞については皆さまそれぞれの解釈にお任せすることとしたい。

動き始めた汽車の窓に顔をつけて
君は何か言おうとしている
君の口びるがさようならと動くことが
こわくて下をむいてた

時がゆけば幼い君も
大人になると気づかないまま
今春が来て君はきれいになった
去年よりずっときれいになった

君が去ったホームにのこり
落ちてはとける雪を見ていた
今春が来て君はきれいになった
去年よりずっときれいになった

<引用:伊勢正三『なごり雪』2番以降の歌詞より>

東京で見る雪
歌詞の「東京で見る雪」について若干補足。作詞者の伊勢正三氏によれば、『なごり雪』の舞台である駅のホームとは、本人の出身地である大分県津久見市の津久見駅がモチーフだそうだ。

なごり雪の舞台のモチーフとされる津久見駅

写真:なごり雪の舞台のモチーフとされる津久見駅(出典:Wikipedia)

モチーフとなった津久見駅(つくみえき)は、大分県津久見市中央町にあるJR九州(九州旅客鉄道)日豊本線の駅。津久見市は大分県の東海岸に位置する。

2009年10月から津久見駅で『なごり雪』が特急発着時のメロディに採用され、翌年には駅構内に『なごり雪』の歌碑(記念碑)が設置された。

伊勢正三『22才の別れ』
最後に、伊勢正三『なごり雪』が収録されたアルバム『三階建の詩』に同じく収録された『22才の別れ』について簡単にご紹介。

上述のとおり、これも『なごり雪』を手がけた伊勢正三氏が作詞・作曲した作品。『なごり雪』は男性視点の歌だったが、『22才の別れ』では、同じようなシチュエーションで女性視点の歌になっているのが大変興味深い。それはまるで『なごり雪』のアンサーソングのよう。

【YouTube】 22才の別れ かぐや姫





『なごり雪』との比較のため、伊勢正三『22才の別れ』の歌詞を次のとおり引用する。『なごり雪』の歌詞を思い浮かべながら聴いてみると、面白い発見があるかもしれない。

あなたに「さよなら」って言えるのは今日だけ
明日になってまたあなたの暖い手に触れたら
きっと言えなくなってしまう
そんな気がして…
私には 鏡に映ったあなたの姿を見つけられずに
私の目の前にあった幸せにすがりついてしまった

私の誕生日に22本のローソクをたて
ひとつひとつが みんな君の人生だねって言って
17本目からはいっしょに火をつけたのが
きのうのことのように…
今はただ 5年の月日が永すぎた春といえるだけです
あなたの 知らないところへ嫁いでゆく私にとって

ひとつだけ こんな私のわがまま聞いてくれるなら
あなたは あなたのままで
変らずにいて下さい そのままで

<引用:伊勢正三『22才の別れ』歌詞より>

この『22才の別れ』については、伊勢正三が後日談で次のように語っている。

制作の経緯を伊勢正三自らが語っている。

それ〔注:「なごり雪」〕に反して、「22才の別れ」は計算して作った。実は、この2曲は同じアルバムに入っている。1974年に発表された「三階建の詩」というアルバムだ。このアルバムには2曲書いた。最初に「なごり雪」を、その次にもう1曲別の作品をレコーディングした。だけど、なんだか気に入らなかった。「これは売れないなぁ」と直感してしまったのだ。だから、1日待ってもらうことにした。その日、家に帰って、絶対売れる歌を作ってやろうと思った。そうして、徹夜で作ったのが「22才の別れ」だ。だから、「なごり雪」は自分の好きな世界が自然に沸き上がってできた作品、「22才の別れ」はヒットを意識して作った作品だ。

<引用:ウィキペディア『なごり雪』より>

http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/nagoriyuki.html
20. 中川隆[-6136] koaQ7Jey 2021年4月01日 22:19:51 : ioAjLYoQAE : YUlsd0dYaE9mS0U=[64] 報告
なごり雪 映画




哀切か、痛恨か。……
失われしは 少女の恋か、古里への想いか。
二十八年前の名曲に乗せて、
今流す、
日本の涙。
さあ、皆さま、涙しましょう。

大林宣彦監督作品

伊勢正三作 「なごり雪」より。


なごり雪は、2002年9月28日に公開された大林宣彦監督の日本映画作品。
伊勢正三作詞・作曲の楽曲「なごり雪」をモチーフとする。
映画の原案も伊勢正三による。



▲△▽▼


22才の別れ 映画





22才の別れ (Lycoris 葉見ず花見ず物語)

2007年8月18日に公開された大林宣彦監督の日本映画作品。大林の大分三部作の第2作である。
『なごり雪』に続き伊勢正三作詞・作曲の楽曲「22才の別れ」をモチーフにして母娘二代にわたる恋の物語を描く。
21. 中川隆[-6133] koaQ7Jey 2021年4月01日 22:48:41 : ioAjLYoQAE : YUlsd0dYaE9mS0U=[68] 報告
大林宣彦 なごり雪 (大映 2002年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1047.html

大林宣彦 22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語 (角川ヘラルド映画 2007年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1048.html

22. 中川隆[-6044] koaQ7Jey 2021年4月03日 21:58:57 : jgSxyjNUpc : anNESFVpRHplbUU=[55] 報告
>>21 の映画は伊勢正三「なごり雪・22才の別れ」の歌詞とは何の関係も無い話になっていますね。
何でこんな見当外れの映画作ったのかな?
23. 中川隆[-16601] koaQ7Jey 2021年9月04日 19:25:14 : lfMPkM3TSo : bnlyNS4uQTdRaWc=[25] 報告
鬼束ちひろ なごり雪


24. 中川隆[-13102] koaQ7Jey 2022年5月05日 10:20:12 : m9zPNkFjnY : TEswdGJjbnltVDY=[6] 報告
なごり 雪 イルカ 本人
https://kazuyasu.net/otgree/%E3%81%AA%E3%81%94%E3%82%8A-%E9%9B%AA-%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AB-%E6%9C%AC%E4%BA%BA

「なごり雪」は、伊勢正三が作詞・作曲したかぐや姫の楽曲。1974年、かぐや姫のアルバム『三階建の詩』の収録曲として発表された。翌1975年にシングル発売されたイルカによるカバーバージョンがヒットを収め、以降、日本の早春を代表する歌の一つとして歌い継がれ、また、さまざまなアーティストによってカバーされている。歌詞の中では東京の駅が舞台となっているが、伊勢本人は出身地である大分県津久見市の津久見駅をモチーフにしたと語っている。2002年にはこの歌の世界観に対する独自の解釈に基づき、大林宣彦監督が大分県臼杵市でロケを行い『なごり雪』として映画化した。このサウンドトラックのために伊勢が再録音、シングルとしても発売された。歌詞を載せようと調べていたところこの「なごり雪」について詳しく解説されていたブログがあったので掲載します。, 「なごり雪」は「かぐや姫」の伊勢正三さんが作詞・作曲した名曲ですが、同時期に伊勢さんが作った「22才の別れ」を聴くことで、より理解が深まります。まずは「なごり雪」の歌詞から検証します。なごり雪作詞/作曲:伊勢正三汽車を待つ君の横で 僕は時計を気にしてる季節はずれの 雪が降ってる東京で見る雪は これが最後ねとさみしそうに 君がつぶやくなごり雪も 降るときを知りふざけすぎた 季節のあとで今 春が来て 君はきれいになった去年よりずっと きれいになった動き始めた汽車の窓に 顔をつけて君は何か 言おうとしている君のくちびるが さようならと動くことがこわくて 下をむいてた時がゆけば 幼い君も大人になると 気づかないまま今 春が来て 君はきれいになった去年よりずっと きれいになった君が去った ホームにのこり落ちてはとける 雪を見ていた今 春が来て 君はきれいになった去年よりずっと きれいになった伊勢さんのインタビューによると、この曲は「今 春が来て君はきれいになった」というサビの部分が、突然曲付きで頭に浮かび、後は、どうやって全体の曲と詩をそこに持っていくか、そのストーリー作りをいくつも行ったと答えてます。以下は私の解釈になりますが、なごり雪の世界観は70年代当時の学生たちの心境の変化や風潮を反映しています。その頃は学生運動が盛んで、学生は髪を伸ばし、ある者は闘争に走り、またある者はギターを弾いて反戦歌を歌っていました。1969年に東大安田講堂事件が起こり、1971年にはジョンレノンが「イマジン」を発表し、1972年には浅間山荘事件が起こります。学生運動は下火になり、長髪の若者は髪を切って就職します。夢から覚め(あきらめ)、現実の中に組み込まれていくわけです。1975年に発売されたバンバンの「『いちご白書』をもう一度」にこのあたりの風潮が反映されています。一方で、音楽で自己表現していた若者の中には、就職せずに音楽で生活しようとプロを志す人たちもでてきます。そういった時代背景を基に、1974年に「なごり雪」が発表されます。この歌が単なる男女の別れだったら彼女は汽車に乗って東京を離れる必要はありません。彼女が彼と別れる理由と東京を離れる理由は、彼以外の別の男性と結婚することになったからです。両親の勧めで縁談か何かで地元に戻ることになったのかもしれません。彼には彼女をつなぎとめるほど経済的自立はできていません。まだ就職をせずに、なにか別の道を夢見ている若者なのでしょう。音楽で生きていこうとする伊勢さん自身が投影されているのかもしれません。「ふざけすぎた季節」は二人で「夢を見ていた季節」です。そして「時がゆけば 幼い君も 大人になると 気づかないまま」とは知り合った頃は幼くみえた彼女が、いつのまにか現実を直視する大人の女性になっていたことに気づけなかった自分に対する後悔の念を表現しています。そんな自分のふがいなさに彼女の心変わりを責めることは出来ず、彼は精一杯のエールを心の中で彼女に対して送ります。それが、「今 春が来て 君はきれいになった 去年よりずっと きれいになった」の部分です。春は季節以外にも人生の春、つまり結婚を表します。そして結婚という現実を選んだことは別にやましいことではなく、成長して大人になった君は去年よりずっときれいだと表現しています。表面的なきれいさだけを表現したわけではありません。一緒になれないのは自分のせいで、君の心に曇りはないと、彼なりに精一杯のエールを送っているわけです。私は「なごり雪」の世界観をこういう風に解釈していましたが、「22才の別れ」を聴いたときにそれは確信できました。元々、かぐや姫のアルバム「三階建の詩」に収める曲を提供するために伊勢さんは「なごり雪」ともう1曲用意していました。しかしレコーディング当日、その曲が気に入らず、1日だけ待ってくれと言い、徹夜で作り上げたのが「22才の別れ」です。たった1日で名曲を作り上げる伊勢さんの非凡さもさることながら、この曲の歌詞は「なごり雪」と対になっていることに気づかされます。以下は「22才の別れ」の歌詞です。22才の別れ作詞/作曲:伊勢正三あなたに「さようなら」って言えるのは今日だけ明日になって またあなたの暖かい手に触れたらきっと言えなくなってしまうそんな気がしてわたしには鏡に映ったあなたの姿を見つけられずにわたしの目の前にあった幸せにすがりついてしまったわたしの誕生日に22本のローソクをたてひとつひとつがみんな君の人生だねって言って17本目からは一緒に火をつけたのがきのうのことのように今はただ五年の月日が長すぎた春といえるだけですあなたの知らないところへ嫁いでゆくわたしにとってウウウーウウウウウ・・・ひとつだけこんなわたしのわがままきいてくれるならあなたはあなたのままで変わらずにいてください そのままで歌詞を読むと、このカップルは17歳の頃から付き合っていることが分かります。そして5年の月日が流れ22才になります。22才は大学4年生。学生が就職活動し、社会人を目指す歳です。22才の誕生日の頃はまだ彼に希望を持てた。幸せだった頃です。でも大学を卒業した後、彼は就職もせず、将来が不安になります。そんな中、経済的に自立できている別の男性との結婚話がもちあがり、選択を迫られる中、彼女は彼がまだ現実を見つめずに夢を追っていることに付いていけなくなります。そして、別の男性と結婚することを選択します。それが、「わたしには鏡に映った あなたの姿を見つけられずにわたしの目の前にあった 幸せにすがりついてしまった」という部分です。歌詞の後半にはそれがはっきりと書かれています。「あなたの知らないところへ 嫁いでゆく わたしにとって」これでこの曲の主題ははっきりしてきました。「長すぎた春」は「ふざけすぎた季節」でもあります。そして最後に彼女から彼へのエールがあります。「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」「なごり雪」の中で「動き始めた汽車の窓に 顔をつけて 君は何か言おうとしている 君のくちびるが さようならと動くことが こわくて 下をむいてた」とあるので、彼は彼女の言葉を知りません。実際に「さようなら」と言ったのかもしれませんが、彼女は「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」というエールを送っていたとも受け取れます。このように「なごり雪」は「22才の別れ」と一緒に聴くことで、その世界観がはっきりしてきます。「なごり雪」はあるカップルの別れを男性側の視点から描いた歌で、「22才の別れ」は女性側の視点から描いた歌だということが分かります。だからぜひ、「なごり雪」は「22才の別れ」と一緒に聴いてください。『22才の別れ』. 商品名:イルカ - なごり雪 - 1,200円。総在庫10万枚超 レア盤から名盤まで1985年創業、凄腕専門スタッフがどのジャンルにも対応します . 森羅万象〜イルカ セレクトベスト〜 40周年記念第一弾 5th 2011年 2月2日: CD CRCP-20467-68 Jasmine&Rose: 40周年記念第二弾 ライブアルバム. 落ちてはとける 雪を見ていた F ConE Dm C7 / 今春が来て君は きれいになった F ConE Dm 去年よりずっと きれいになった F ConE Dm 去年よりずっと きれいになった 動画. 5つ星のうち4.8 9. cd ¥3,821 ¥3,821 ¥3,981 ¥3,981. 翌年の1975年に女性フォークシンガーのイルカがカバーし、彼女にとって『なごり雪』は最大のヒット曲となった。 この曲が世に出るまで、「名残の雪(なごりのゆき)」という言葉はあったが、「なごり雪」という言葉はなかった。つまり伊勢正三による造語。 『なごり雪』がヒットし … 作詞 : 伊勢正三/作曲 : 伊勢正三. 動画プラス. 1996年〜2000年, outofjisさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?

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25. 中川隆[-10877] koaQ7Jey 2024年4月16日 17:24:18 : HONZEEU5Kw : cVFmQW5SS1dDU2s=[7] 報告
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2024年04月16日
飯山陽が劣勢な理由 / 左翼の長い影
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956522.html

日本の若者は国家意識を無くした

student riots in Japan 213Japan in 1980s
(左 : 全共闘に精を出す大学生 / 右 : 80年代のバブル景気に浮かれた日本人)

  日本の政治が混迷し、没落の一途を辿っているのは、日本人にデモクラシーが適していないからだ。そもそも、民衆が代議士を選ぶことじたいが間違っている。「政治は武士の役割」というのが日本の國體(constitution)だ。幼い頃から忠君愛国を叩き込まれた武士と、目先の利益だけを追求し、受験勉強が唯一の苦労というのが平民の子供だから、才幹と気概の点で後者は比べものにならない。

  しかも、昭和の教育が劣悪で、敗戦となるや、共産主義者と反日主義者が大繁殖。日本の政治を“左傾化”させ、“鬱血状態”や“没落の悪循環”に導いたのは、何も占領軍だけのせいじゃない。アメリカ軍の“威光”を利用して出世を謀った「敗戦利得者」や学生運動で“有頂天”になった「アンファン・テリブル(enfant terrible)」*にも原因がある。(*「他人に迷惑を掛けても平気なガキども」という意味。) 歐米諸国と同じく、我が国も「高学歴社会」となっているから、政治家や官僚、企業経営者、地方公務員、ホワイトカラーの専門職、研究所や工場の技術者などは、程度の差こそあれ、「大卒者」で占められている。となれば、大学教師は未成年の精神構造に大きな影響を与える立場にあるはず。日本人の精神がどこか異常で、奇妙なくらいに歪曲しているのは、小学校から大学に至るまで、左翼陣営の「非国民化イデオロギー」が浸透しているからだ。

  日本の先を歩く米国では、幼稚園から大学までリベラル派の独擅場となっている。以前、ブルックリン・カレッジのミシェル・ランバート(Mitchell Langbert)准教授と、ヘテロドックス・アカデミー(Heterodox Academy)研究所のショーン・スティーヴンス(Sean Stevens)所長が大学教員に関する調査を行ったことがある。彼らが実施した教員の政治意識調査によれば、民衆党支持者が共和党支持者を大きく上回っており、約「9対1」の割合であることが判った。(Christian Schneider, 'Democratic professors outnumber Republican ones by 9 to 1 ratio, according to new data', The College Fix, January 22, 2020.)ランバート氏とスティーヴンス氏は、政党に登録している1万2千372名をサンプルにして大学教授の政治指向を調査したが、驚くことに、そのうちの48.4%が民衆党員であり、共和党員はたったの5.7%しかなかった。これが一般国民だと違っており、29%が民衆党員で、26%が共和党員となっている。この調査では、政治献金についても質問がなされており、民衆党の候補者に献金した教授と共和党の候補者に献金した教授の比率は、「95対1」であったというから、まさしく目眩がする数字だ。

  たぶん、日本でも状況は似たり寄ったりだろう。国立や私立の区別はなく、ほとんどがプロ左翼かピンク・リベラルとなっている。今では「遠い昔の出来事」となっているが、1960年代から70年代にかけての大学は、左翼分子の特殊部落であった。文学部や法学部、教育学部、史学部などはもちろんのこと、自然科学を専攻する学生でも、全学連や全共闘に加わって暴れ回っていた。明治から昭和の前半くらいまで、教師と学生との私的な交流というものがあったが、フランスの極左学生みたいな連中が増えたことで、日本の伝統はズタズタになってしまった。教授を皆の前で罵倒し、吊し上げることを喜んでやっていたんだから、支那の文化大革命と同じだ。

Jean-Pierr Duteuil 213343(左 / ジャン・ピエール・デュトゥール)
  1968年5月には悪名高きフランスの左翼暴動が起きたけど、日本でもこれに触発されたのか、左巻きの大学生がキャンパスで猿真似に興じていた。パリの5月暴動で学生の先頭に立っていたのは、札付きの“赤い三人衆”で、ドイツ生まれのアシュケナージ・ユダヤ人たるダニエル・コーン・ベンデット(Daniel Cohn-Bendit)、アルザス出身のユダヤ人であるアラン・ジェスマル(Alain Geismar)、そしてPSUに属していた社会主義者のジャック・ソヴァジョ(Jacques Sauvageot)であった。コーン・ベンデットの親友であったジャン・ピエール・デュトゥール(Jean-Pierr Duteuil)は、アナーキストのマルキスト。父親も筋金入りのマルキストであったから、親子代々の共産主義者だ。

Daniel Cohn Bendit 0324Alain Geismar 21334Jacques Sauvageot 324Oda Makoto 992
( 左 : ダニエル・コーン・ベンデット / アラン・ジェスマル / ジャック・ソヴァジョ / 右 : 小田実)

日本の左翼学生も様々で、ある者はマルクス・レーニン主義の心酔者。また、ある者はスターリンの独裁政治を批判し、志半ばで斃れたレオン・トロツキーを尊敬するクルクルパー。ユダヤ人の共産主義に馴染めない田舎者は、毛沢東主義者となって「アジアとの共存」を掲げていた。小田実(おだ・まこと)に感化された極左は、ベトナム戦争に反対し、観念論で「アジアとの連帯」を呼びかける始末。

Ooe Kemzaburo 324(左 / 大江健三郎)
  ちなみに、小林秀雄から「気味の小説は小説じゃない」と酷評にされた小説家の大江健三郎は、フランスの左翼やユダヤ人哲学者のサルトル(Jean-Pierr Sartre)に憧れていたのか、ナイト・クラブの酌婦の前では「僕、アルジェ生まれ」と嘯(うそぶ)いていた。一緒に居た阿川弘之は「何言ってやがんだ! お前は愛媛生まれじゃないか!」と腹を立てていたけど、遠藤周作は隣で笑っていたのかも。

  とにかく、呆れてしまうが、当時の左翼学生は“本気”なのか“ファッション”なのか、何が動機で学生運動に参加したのか判らない。だだ、60年安保闘争の世代と同じく、70年代に新左翼にのめり込むような連中は、カルト宗教の信者と変わりがなかった。ヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持って機動隊に突っ込んだ連中は、まさしく人生を棒に振ってしまったし、逮捕された者は「前科者」となって、まともな就職先が見つからなかった。闘争の末に障碍者となった学生は、「後悔先に立たず」を実感する。しかし、上手く立ち回った連中は、藝能界やマスコミに潜り込んだ。法学部の学生は、仙谷由人のように法曹界を土俵とし、人権派弁護士になっていた。朝鮮人の支援者になる弁護士が多いのも、左翼教育の結果である。

Kan Naoto 8243(左 / 菅直人)
  「ズルカン」と呼ばれた菅直人は、東工大の暴力学生ではなかったが、日本への憎しみを“売り”にする「市民活動家」へと変貌していた。師匠の市川房枝からも「駄目な奴」と思われていたのに、マスコミの支援で我が国の総理大臣になれたんだから、永田町には悪魔と貧乏神が混在しているんだろう。だいたい、民主党の「サポーター」には国籍条件が無かったから、在日朝鮮人が「サポーター」になっていてもおかしくはなかった。

  菅直人はあるインタビューで自分の過去を偽っていた。「暴力では社会は変えられない。私はもともと、社会の矛盾をひとつひとつ解決していくという改革派なんです。そういう意味では、いまに至るまで挫折感はない」*と語っていたが、単に“卑怯者”だから仲間を見捨てただけだろう。 (*註 / 臼井敏男『叛逆の時を生きて』朝日新聞出版、2010年, p.197.)後に、機動隊を率いていた佐々淳行が茶化していたけど、菅直人は武闘派の学生じゃなかった。第五列や第六列といった後方に隠れ、逃げ足だけは早い卑劣漢であったから、障碍者にならず、弁理士になれたのだ。菅は「市民運動」とやらに邁進したが、その根底には松下圭一(法政大学教授)のドス黒い政治思想が流れていた。

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(左 / 坂本龍一)
  「元左翼」というのは藝能界 にも潜んでいる。例えば、都立新宿高校で左翼運動に熱心だった故・坂本龍一は、東京芸大に進んでYMOを結成したが、高校時代は左翼生徒であった。1980年代、シンセサイザーを演奏する坂本氏は、大量の電気を浪費するが、一向に気にする様子はなかった。「エコロジー」なんて頭の片隅にも無かったはずだ。当時は一風堂の土屋昌巳と同じで、「JAPAN」のデイヴィッド・シルヴィアンに憧れたのか、お化粧の方に夢中だった。

  ちなみに、同校で運動に加わっていたのは、坂本氏の先輩で、後に安倍内閣で官房長官となる塩崎恭久だ。塩崎と坂本の二人は、機動隊が入る前の安田講堂に足を運んだそうで、中にいた全共闘の学生らと話すことが出来たという。なるほど、生徒会長になった不良生徒(塩崎氏)が、荒れ狂う東大に赴いて、「自由」や「個性」を学んだというわけだ。さすが、二年生を率いて校長室を占拠する生徒会長は、ひと味もふた味も違っている。

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(左 / 塩崎恭久 )
 大臣を経験した塩崎氏は、議員を引退すると地元の愛媛で里親の支援をしているそうだが、自身の「転向」をどう思っているのか? だいたい、高校生の時からバリケード封鎖をしていた不良生徒が、政界に入って厚労大臣となり、不憫な子供に“温かい家庭”を斡旋するんだから、機敏なカメレオンだってビックリだ。息子の塩崎彰久はオヤジの地盤を引き継ぎ、今では自民党の代議士で、厚生労働政務官となっている。ホント、岸田文雄に林芳正、河野太郎、小渕優子、小泉進次郎といい、永田町にはボンクラの世襲議員がゾロゾロいる。一般国民というのは、自分の投票で子や孫の将来を台無しにしているが、その自覚が無いところに真の悲哀がある。

  演出家のテリー伊藤も、日本大学で学生運動に勤しんだ一人である。ただ、機動隊との衝突で一生涯の障碍を背負ったから悲惨だ。彼が機動隊から逃れる時、後ろに居た誰かが石を投げたという。不幸にも、その石が偶然、彼の左目に当たってしまい、伊藤氏は斜視になってしまった。藤竜也みたいに、同大学の芸術学部に入って映画界にスカウトされる方が、よっぽどマシである。下らない大学をさっさと辞めて、大好きなスポーツ・カーを買った方が遙かに健全だ。真田広之も日大の学生だったが、左翼分子にはならず、役者の世界に入った。二枚目俳優だから当然だけど、デビューして直ぐに『忍者武芸帖 百地三太夫』の主役なんだから凄い。(筆者も劇場で観たけど、真田氏の出演作品の中では一番いい。現在、彼はハリウッドの『Mortal Kombat』や『Shogun将軍』に抜擢され、ステレオタイプの「日本人」を演じているが、昔の方が良かった。)

  NHKの贔屓を得た小説家の高橋源一郎も、横浜国大で暴れ回ったうちの一人だ。彼は学生運動で逮捕されたり拘留されたりと、散々な青春時代を送っていたが、後に小説を書いて有名人となった。拘置所では“沈黙”を貫いたそうで、朝八時から夜の八時まで、12時間もずっと下を向いて黙っていたというから、ある意味“真面目な奴”だ。でも、取り調べの後に独房入りだから、正常な精神状態ではなかったはずだ。実際、一種の失語症に罹ったみたいで、喋るときの発音が難しくなったそうである。大学を除籍になり、筋肉労働者になっても、小説家になれたんだから良かったじゃないか。しかも、明治学院大学で教授になれたし、無事退職したことで“オマケ”として附いてくる「名誉教授」にみなれた。しかし、国際学部の学生はどんな気持ちで彼の授業を受けていたのか?

ポルシェに乗っていた左翼学生

  大学で暴れていた一般の左翼学生というのは、一種の“お遊び”に興じていた不真面目な人々で、内心では政府転覆など考えてもいなかった。要するに、みんなでワッショイ、ワッショイ、と騒いでいると、何となく自分が日本全体を動かしているように思えたのである。令和の大学生が聞けばシラけてしまうが、全共闘に共鳴するアホな学生は、「チェ・ゲバラに倣え、我らも社会主義革命を!」とか、「差別の元兇たる天皇制を打倒せよ!」、「ベトナムを侵掠する米帝國に反対!」「在日米軍基地を許すな!」と本気(?)で叫んでいた。

  筆者が高校生の時、御茶ノ水駅附近にある楽器店でギターを買ったことがある。そのついでに神田の三省堂に立ち寄ろうとしたが、途中で目にした明治大学の風景のせいで気分が悪くなった。入り口や塀には汚い看板がズラリと並んでおり、殴り書きの文字(日本や米国を呪う罵倒のスローガン)が踊っているように見えた。当時、筆者は看板を眺めながら、「アルフォンス・ミーシャ(Alfons Maria Mucha)のようなアール・ヌーヴォー風じゃなくてもいいから、もっと美しい文字で綺麗なイラストを附ければいいのに・・・。」と思ったものである。しかし、怨念に凝り固まった学生には、美術的センスは皆無だ。どいつもこいつも紅衛兵みたいな奴らばかり。「安保反対」を掲げながら「国防軍の創設」を主張しない学生は、一体どんな頭をしているのか? 左翼学生というのも呑気なもので、フォーク・ギターを片手に、ボブ・ディランやジョン・レノンの歌を奏でて喜んでいる。一方、ノンポリの学生達は酒を飲みながら、共産主義の幻想に酔いしれていた。

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(左 : 学園闘争に熱中する日本の大学生 / 右 : パリで抗議行動に没頭するフランスの大学生)

  ゲバ棒を振るう学生達も甘えん坊だ。自分たちは思いっきり火焔瓶を投げつけているくせに、いざ機動隊が反撃すると「暴力反対!」と叫ぶ。彼らは警察官が決して発砲しないことを確信していたから、安心して角材を振り回していた。国家に刃向かっても、“国家権力(暴力装置)”は決して民衆を射殺しない、と信じ切っている。支那大陸で北京政府に反抗したら、即座に“皆殺し”か戦車で轢き殺されるのがオチだ。北朝鮮なら学生全員が逮捕され、どこかの広場で公開処刑だろう。もしかすると、あっさりとした銃殺じゃなく、「てるてる坊主」みたいに軒先で縛り首だったりして。場合によっては、牢獄で餓死とか。

  まぁ、みんなと一緒に「武力闘争」をしているうちは、危険なようで気楽である。ところが、いざ卒業が目の前にチラつくと大変だ。おちゃらけ学生は急に“現実”が怖くなる。長髪でジーンズ姿の青年も、就職面談となれば、長い髪を切って清潔感を出すしかない。彼らは親に買ってもらった背広を着込み、真剣な面持ちで会社に赴く。面接で過去を詮索されないか、とヒヤヒヤする青年は、慎重に言葉を選びながら答える。でも、過去がバレて不合格になれば意気銷沈だ。もし、晴れて合格となれば「ああ良かった!」と胸をなで下ろす。

  在学中に勉強しなかった学生は、どうしたものかと思い悩んだ。でも、「体育会系」を前面に出してアピールすれば何とかなった。「一生懸命頑張ります!」と言えば鉄鋼メーカーに入れることもあったし、営業部では忍耐と体力が重要だ。理系の学生ならもっと有利で、金属プレス加工や化学製品のメーカー、あるいは精密部品の製造企業に受け容れられたりする。ちょっとコネがあれば総合商社に入れたし、テレビ局や新聞社、出版社は「ゴキブリ・ホイホイ」みたいな受け容れ先だった。元々労働組合やリベラル知識人が強いから、“学生運動の落ちこぼれ”でもOK。上司にも「左翼シンパ」や「左翼崩れ」がウヨウヨ居るから大丈夫。読売のナベツネだって元左翼(共産主義者)じゃないか。

  東京大学や早稲田大学、日本大学、法政大学などで左翼運動に係わっていた連中は、どこから“資金”を得ていたのか判らないが、上層部の学生には“とんでもない奴”が紛れていた。例えば、早稲田大学の荒岱介(あら・たいすけ)は飛び抜けている。彼は1965年に法学部に入るが、1968年に除籍となっていた。荒氏は「社学(社会主義学生同盟)」の委員長や「全国学生対策部長」に就任した人物で、東大安田講堂の闘争では兇器準備結集罪で指名手配を受けていた。彼は1969年4月に逮捕され、裁判に掛けられて有罪判決を受ける。刑務所には三年間服役し、1977年に出所したそうだ。塀の中に入る人間というのは“懲りない面名”なのか、荒氏は人生で七回も逮捕されたという。ちなみに、府中刑務所では民族派右翼の野村秋介(のむら・しゅうすけ)と一緒だった。

  学生運動を知らない世代は、マスコミのプロパガンダ記事に騙され、純粋で真剣な学生が腐敗した政府に反抗したと思っている。だが、教室を占領した連中なんて、ほとんどが“チンピラ左翼”か“俗物”でしかない。令和の大学生が驚いてしまうのは、荒氏が「ポルシェ」に乗っていたことだ。彼は世間の倫理道徳や組織上層部の説教が嫌いで、自らの欲望を満たすことに何の躊躇(ためら)いも無かった。荒氏は言う。

 ・・・そういうこと(道徳主義)に若者を縛り、革命的規律という名の下に、好きなことをさせない、何を買っちゃいけないとか言って、市民社会からかけ離れていくということを、俺は突破したくてね。当然、若者がBMWに乗りたいというのもいいわけじゃない。・・・俺は文化に出あいたかったんだよ。自動車はドイツ生まれで、ポルシェで言えばフェルナンド・ポルシェが作った文化である。そういう文化を知りたい、乗って味わいたいと思った。そんなの当たり前だと思う。(宮崎学『叛乱者グラフィティ』朝日新聞社、2002年、pp.84-85.)

  平成の緊縮財政で貧しい生活を“当然”と考えるようになった学生からすれば、「いった、どんな奴なんだ?」と思ってしまうだろう。しかし、1950年代から70年代までの日本だと、意外にも高額所得者の子供で左翼になる者が少なくなかった。(「元左翼財界人」に関しては別の機会で紹介したい。) チェ・ゲバラに憧れ、ベトナム戦争に反対し、人民解放のために革命を目指す荒氏であったが、段々とレーニン主義者や新左翼に懐疑的となったそうだ。彼は1990年代になると従来の思想を棄ててしまい、今度は「エコ左翼」というか、世田谷か吉祥寺に棲息する「環境革命家」へと転向する。荒氏によれば、左翼闘争はゲバ棒から火炎瓶、さらに重火器から爆弾へとエスカレートするので、世間との隔たりが大きくなってしまうという。彼は次のように述べた。

  まぁ、現実との関係においては、現実に理論が接近するんじゃなくて、現実に理論が接近できなくなってしまって、あるべき姿の方向に現実を接近させろというふうにますますなっていったんだよ。(上掲書、p.88)

  つまり、左翼学生がどんな理想を語りかけようが、世間の人々は振り向かず、むしろ軽蔑の眼差しで“距離を取る”という訳だ。確かに、1970年代の新左翼運動の頃から、一般の大学生には、ある種の“変化”が訪れていた。安保闘争の世代は、Tシャツにジーンズといった薄汚い格好であったが、新世代の学生は、米国のアイビィー・ルックを真似て、紺色のブレザーにネクタイを締めていた。街を歩くと、身綺麗な若者が、「VAN」のロゴが印刷された紙袋を手に提げ、友人や恋人と楽しそうに話している。こんな光景を目にした若者からすれば、新宿や代々木でマルクス理論を語るなんて野暮天だろう。恋人と一緒に銀座へ赴き、ウィンドー・ショッピングを堪能する方がいい。ウッドストックでのヒッピー姿なら分かるけど、麻布や目黒、あるいは新橋や神楽坂で、日本人がヒッピー・スタイルを真似ても、それは滑稽でしかない。

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(左 : 東部の有名大学に通うエリート学生 / 右 : アイヴィー・スタイルのアメリカ人 )

  高級ブランドのVANで身を包んだお坊ちゃん達は、早稲田や法政の田舎者とは違っていた。美形の女子学生と一緒に喫茶店に入り、ジャズでも聴いている方が“格好良く”思えたのだ。一世を風靡したVAN-JAC社は、1978年(昭和53年)に営業不振で潰れてしまうが、1980年代の大学生は、もう学生運動には戻らなくなっていた。好景気は青年の精神を変えてしまうものだ。この世代は小難しい哲学議論より、ショット・バーに通って仲間と談笑したり、人気のディスコで踊り明かす方をキャンパスライフと考える。デートになればスポーツカーを用意し、女の子を乗せて軽井沢に直行だ。苗場のスキー場に赴けば、ロマンティックな夜で意中の女性を口説こうとする。「ブハーリン」と聞いても、「それ、ロシアのウィスキー?」と尋ねる世代に、共産主義革命なんて無理だろう。

  それでも、学生運動が忘れられない世代は、財界やマスコミ界で息を潜め、嘗ての仲間や後輩の左翼学生を支援する。朝日新聞と連携するテレビ朝日などは、『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞を得た猪瀬直樹を持て囃し、「朝まで生テレビ」や「ビートたけしのTVタックル」に招いていた。当時の一般視聴者は猪瀬氏の過去や素性を知らず、『昭和16年夏の敗戦』を書いた著者とか、道路公団を批判する反骨の知識人、と思っていた。(『国民新聞』の読者は違うけど。)

Inose Naoki 823(左 / 猪瀬直樹)
  東京都の副知事から都知事に登り詰めた猪瀬氏は、作家になる前に、信州大学の全共闘議長を務めていた。闘争は1969年6月、文学部のバリケード封鎖から始まったというが、猪瀬氏は全共闘の主力部隊を率いていたそうである。しかし、学生運動には国家を根本的に変える中身が無かった。口先だけの学生達は、単なる観念論じゃだ。動物園で飼われているナマケモノが、「百獣の王」を気取っているようなものだ。職員から餌をもらっているシマシウマに、弱肉強食のジャングルなど解らない。学生運動にのめり込んでいた猪瀬氏も、何となく「世間の風」という“壁”に気づいていたのだろう。

  ある時、彼は国際反戦デーや佐藤栄作首相の訪米阻止のために上京するが、そこで目にした光景は彼の人生を変えるものであった。東京にやって来た猪瀬氏は、新宿の裏通りでコーラを買おうとしたそうだ。そこで、猪瀬氏は表通りから裏通りに足を運んだわけだが、迷い込んだ場所にはパチンコ屋があって、軍艦マーチが流れていたという。突然、猪瀬は通りを一つ隔てただけで“別の世界”があることに気づく。彼は当時を回想し、次のように述べていた。

 そこには日常性があるわけですよ。そのころから、学生運動はこんなものだな、という自覚はあった。学生運動で世界が変わるなんて思っていなかった。日常性の連続がふつうの生活なんです。そして日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえなおさないといけにないと思った。(臼井敏男『叛逆の時を生きて』、p.145.)

  猪瀬氏によれば、1960年代の学生運動は、69年の佐藤訪米阻止闘争で終わったそうである。(上掲書、p.144.) 「あの時点で九割の人は学生運動を止めた」というから、岩波書店の『世界』や『朝日ジャーナル』で活躍していた左翼知識人は、闘争時代の「残滓」なのかも知れない。猪瀬氏は信州大学を卒業後、東京の出版社に勤め、そこの給料で大学院への資金を貯めるにしたそうだ。

  まぁ、左翼組織が強い明治大の大学院だから、心からの“転向”は無かったと思うが、『週刊ポスト』に連載を持ったり、実際の政治に係われば、イヤでも“現実の世界”が判ってくる。学生時代には“綺麗事”を並べていればそれで良かったが、実際の仕事になれば汚いことだって進んでやるしかない。代表作の『ミカドの肖像』だって、“ネタ本隠し”があったそうで、元ネタは早川和廣の『堤義明 悪の帝王学』や草野洋の『西武商法 悪の構図』であったという。たぶん、“パクリ本”とバレるのが恥ずかしかったのか、猪瀬氏は引用先の出典を挙げていなかった。でも、佐野眞一がそれを暴露したから万事休す。『ミカドの肖像』を作成するに当たって、ノンフィクション作家の池田房雄とジャーナリストの岩瀬達哉が協力したそうだ。この二人がネタになりそうな題材とデータ集めに奮闘したそうで、猪瀬氏は触れられたくない過去の暴露に怒っていた。

  最近、国会議員の裏金問題化や悪徳知事の横暴が話題となっているが、そもそも日本人にはデモクラシーなんて“体質”に合わない。選んでいる国民が、選んだ政治家を嫌っているんだから本末転倒である。例えば、愛知県の大村秀章知事は、衆議院で出世の見込みがないと分かった鞍替え組で、津田大介に理解を示すなんちゃって左翼。静岡県の川勝平太知事は、支那人と昵懇で国益の売却者だ。しかも、大学教授の時からパワーハラスメントの常習者ときている。徳島県知事に鞍替えした後藤田正純は、“下半身検査”で不合格となった不適格議員。2000年から2022年まで、ずっと再選を果たしてきたのに、なぜか一度も大臣になれず、衆議院に見切りをつけての知事選だった。

  赤く染まった北海道は、反日や共産主義者の産地となっている。知事の鈴木直道は北海道出身じゃないけど、支那人に国土を明け渡す売国奴。有名な「夕張リゾート」は2017年、支那企業の「元大(げんだい)リアルエステート」に“たった2億円”で売却されてしまい、2019年になると、この支那企業が香港系のファンドに15億円で転売だ。本当に酷いけど、これが現実の北海道である。二階俊博に可愛がられるくらいだから、鈴木知事がどんな人物なのか、誰にでも分かるだろう。

  今、東京15区の補欠選挙が世間の注目を集めているが、世論調査で首位に立っているのは、共産党の支援を受けた立憲民主党の酒井菜摘(さかい・なつみ)である。二番手は日本維新の金澤結衣(かなざわ・ゆい)で、日本保守党の飯山陽(いいやま・あかり)は、地元民からの知名度を得るだけで精一杯。もし江東区民が正常なら、飯山氏がトップに立っているはずだけど、地元民は「この人誰?」といった反応だ。

飯山あかり00213(左 / 飯山陽)
  飯山氏は移民流入の深刻さを解っているので、平穏な暮らしを望む庶民からすれば、彼女が最も相応しい国会議員となるはず。だが、一般国民は左翼教育のせいで健全な判断能力を持たない。普段は常識的な人でも、政治となれば、ちょっと左寄りとなってしまい、無意識のリベラル派で候補者を選ぶ。左翼教育の影は長く、薄くなったように思えても、人々の脊髄に残っている。我が子や地元の将来を大切にする庶民が、知名度だけで左翼分子に投票し、自ら「故郷の破壊者」となってしまうんだから、本当に憐れだ。せめて自民党支持者の七割くらいが飯山氏に投票するのであれば、まだ救いがある。しかし、左巻きにされた国民が正常な判断を下すとは思えない。乙武候補がコケたことくらいが救いである。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956522.html

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