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超人エリーザベト〜ニーチェを売った妹〜
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投稿者 中川隆 日時 2022 年 1 月 26 日 02:32:35: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ニーチェの世界 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 27 日 19:53:18)

超人エリーザベト〜ニーチェを売った妹〜


週刊スモールトーク (第280話) 超人エリーザベト〜ニーチェを売った妹〜
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-280/


超人エリーザベト〜ニーチェを売った妹〜
■哲学者ニーチェの妹

哲学者ニーチェの人生は波瀾万丈である ・・・ 皮肉に満ちて。

正気の時代は無名で、気が触れると「狂気の哲学者」で有名になり、死して後、「ナチスの予言者」となった。

天才画家ゴッホを彷彿させる切ない人生だが、ゴッホ同様、ニーチェに責任があるわけではない。じつは、ニーチェの名声は彼が正気を失った後、偽造されたものなのである。しかも、偽造したのがニーチェの妹だというから、皮肉な話だ。

とはいえ、偽造されなければ、ニーチェは無名で終わっていた。

偽りの名声か、ありのままの無名か?

まさに、究極の選択だが、ニーチェが生きていたら、きっと、後者を望んだだろう。プラトンなみに理想論と抽象論を愛した人物だから。

では、「ニーチェ」はいかにして偽造されたのか?

ニーチェは、発狂した時点で、哲学者としての寿命は尽きていた。しかも、原稿の多くは未発表だった。このままでは、ニーチェが世に出る術はない。

ところが、その術を提供した人物がいた。ニーチェの実の妹、エリザーベト・ニーチェである。彼女は、兄ニーチェの価値を見抜き、一山当てようともくろんだのである。

エリザーベトは、兄ニーチェの2歳年下で、目がクリっとした愛くるしい女性だった。だが、問題はそこではない。彼女は羊の皮をかぶった怪物だったのである。

■天才プロデューサー
エリザーベトは、商売の天才、まれにみる辣腕プロデューサーだった。しかも、その小さな身体の中には、「鉄の心臓」と「小型原子炉」が秘められていた。それが、揺るぎない信念と無尽蔵のエネルギーを発生し、とてつもない大業を成し遂げたのである。

彼女がプロデュースしたプロジェクトは3つ。
1.哲学の至宝「ニーチェ・ブランド」を確立したこと。
2.南米パラグアイにドイツ人植民地「新ゲルマニア」を建設したこと。
3.ニーチェをナチスのプロパガンダに利用し、ナチスを正当化し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたこと。

一目して、AKB48、テーマパーク、村おこしとは一線を画すことがわかる。すべて、歴史を変えた大プロジェクトなのだから。そのすべてが、愛くるしい一人の女性によって成し遂げられたことに驚かされる。

エリーザベト恐るべし ・・・

そもそも、エリーザベトには、尋常ではない信念があった。人の道にはずれ、利にさとく、日和見的ではあったが、その時々で迷いがみじんもないのだ。

それは信念ではなく、思い込みでは?

ノー!

単純な思い込みではない。

エリーザベトの「望み」は、たいてい、「真実」や「正義」に反するものだったが、彼女の中では完全に一体化していた。つまり、「望み=真実=神の摂理」だから、みんな私に従って当然、と本気で信じていたのである。彼女の「望み」が「真実」なら、変わるはずがないのだが、目先の利益にしたがってコロコロ変わった。ところが、彼女がそれに気付いた形跡はない。自己実現への熱い思いが、真っ当な論理を溶解したのである。

だから、エリーザベトの信念は思い込みではない。本人も気付かないほど巧みに偽装された「真実=信念」なのである。これほどタチの悪い”信念”はないだろう。

とはいえ、「鉄の心臓」が生んだ信念と、「小型原子炉」が発生する無限のエネルギーは、とてつもないものを生み出した。発狂した無名の学者から、哲学史に残る「ニーチェ・ブランド」を創造し、ナチスのプロパガンダに利用し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたのだから。

なるほど ・・・

ニーチェ・ブランドとナチスの予言者はつながった。では、南米パラグアイのドイツ人植民地は?

じつは、この3つには共通項がある。

エリーザベトには3つの信念があった。人の道にはずれた「人種差別(反ユダヤ主義)」と「国粋主義」と「全体主義」である。この3つは、言わずと知れたナチスのテーゼ、だから、エリーザベトがナチスに加担したのも無理はない。

でも、それと、ドイツ人植民地とどんな関係が?

じつは、最初にこの植民地計画を立案したのは、エリーザベトの夫ベルンハルト・フェルスターだった。彼は、狂信的な反ユダヤ主義者で、ユダヤ人に汚染されたドイツを捨てて、南米パラグアイに新天地を求めたのである。それに、心から賛同し、率先して計画を推進したのが妻エリーザベトだった。

というわけで、ニーチェ・ブランド、ドイツ人植民地、ナチスの予言者は、すべて、エリーザベトの信念にもとづいている。

話をナチスとニーチェにもどそう。

エリーザベトが、ニーチェ・ブランドをナチスのプロパガンダに利用したのは、ナチスに心酔したからだが、理由はそれだけではない。彼女は利にさとく、商売上手だった。つまり、ソロバンをはじいたのである。

具体的には ・・・

ナチス政権に加担し、その見返りとして、国から資金を引き出し、ニーチェ・ブランドの諸経費にあてる。あっと驚く厚かましいソロバンだが、それが現実に成功したのだから、仰天ものである。

ということで、エリーザベトは、ナチスのイデオロギーをニーチェ哲学で理論武装しようとした。

ところが、一つ問題があった。

ニーチェは、人種差別、国粋主義、全体主義を嫌悪していたのである。つまり、ナチスのイデオロギーとは真逆。

■ニーチェとナチス
ニーチェは人種差別主義者ではなかった。

当時、ドイツのみならず、ヨーロッパ中が反ユダヤ主義に染まっていたが(デンマークは除く)、ニーチェはそれを嫌っていた。

一方、ニーチェがユダヤ教を批判したことは事実である。ただし、彼が批判したのはユダヤ教の教義であって、信者のユダヤ人ではない。実際、ニーチェはユダヤ教だけではなく、キリスト教も同じ論理で批判している。つまり、人種とは何の関係もないのだ。

では、ニーチェはなぜそれほどユダヤ教・キリスト教を嫌ったのか?

ユダヤ教もキリスト教も、現実世界で国家権力に敗北したが、その恨みを晴らすために、精神世界をでっちあげたと考えたのだ。

具体的には ・・・

われわれは国家権力に迫害され、虐殺されたけど、本当に負けたわけじゃない。精神世界、つまり、道徳の観点でみれば、暴力をふるった方が負け。つまり、われわれは本当は勝者なのだ。

負けを素直に認めればいいものを、卑屈な話ではないか?

そこで、ニーチェはこれを「奴隷道徳」とよんで、さげすんだ。弱者を救済するための方便と考えたのである。詭弁を弄して、正当化しようが、根本はひがみとねたみではないか。ニーチェは、このような価値観を「ルサンチマン(フランス語で「ひがみ・ねたみ」)」とよんで、忌み嫌った。

つまり、ニーチェは、ユダヤ教とキリスト教の道徳的価値観を否定したのであって、ユダヤ人を差別したわけではない。

さらに、ニーチェは、国粋主義も全体主義も嫌悪していた。

国粋主義は民族主義のお仲間である。自分の国や民族は最高で、自分たちさえ良ければ、他はどうなってもいい。たとえ、我々に滅ぼされようとも(いますよね、こんな国や民族)。

一方、全体主義は、個人より国家の利益を優先する。国が戦争が勝つためには国民が何十万、何百万人死のうが関係ない!

ヒドイ ・・・ やっぱり、全体主義は「悪」?

じつはそうでもない。現実は複雑なのだ。

たとえば、戦争は勝ってなんぼ。負けたら「個人」の不幸度は極大化するから。第二次世界大戦で、原爆を落とされ、領土を割譲され、戦後70年経っても悪者呼ばわりされる哀れな日本をみれば、明々白々。

つまり、戦争をやるからには絶対に勝たねばならない。そのためには、全体主義が必要なのである。君どうしたの?体調悪いんなら敵前逃亡してもいいよ、など、個人の都合を優先して、戦争に勝てるわけがないではないか。

しかし、プラトン主義的な理想と抽象の世界にハマったニーチェは、現実世界で有効な全体主義を理解できなかった。というか、国家や組織のような「集合」の力を考えようともしなかった。「個」の力の偉大さを神話のように語り続けたのである。

ニーチェは、民主主義、社会主義、全体主義、国粋主義、民族主義 ・・・ イデオロギーと名のつくものは、すべて否定した。イデオロギーは「大衆=マス=集合」を支配する概念で、「個」の力を削ぐと考えたのだろう。

ニーチェは、人間はかくあるべしと考えた ・・・

健全な欲望、たとえば、権力欲、金銭欲、名誉欲、欲望を押し殺してはならない。それは自然の摂理に反するから。ニーチェは、このような純粋な欲望を「力への意志」とよび、それを秘めた人間を「超人(オーヴァーマン)」とよんで讃えた。

さらに、ニーチェは「超人」と「ルサンチマン」がせめぎ合う未来も予言した。

ルサンチマンは、信仰によって骨抜きにされ、自分の欲望を直視することができない。さらに、自分というものがなく、「群れ」でしか生きられない。だから、本当は弱虫。ところが、それを認めず、道徳をでっちあげて、自分は上等だと言い張る。こんな独りよがりの妄想が、長続きするわけがないと。

その結果 ・・・

誰も神を信じなくなる。信じてもらえない神は、神ではない。ゆえに、神は死んだのだと。

その瞬間、道徳も崩壊する。

なぜか?

一神教の信者が道徳を守るのは、神罰を恐れるから。ところが、神がいなくなれば、神罰もなくなる。つまり、「神が死んだ」瞬間、道徳も崩壊するのだ。

神が死んで、道徳が崩壊すれば、よりどころを失ったルサンチマンは滅ぶ。しかし、超人は生きのびる。何事にも束縛されない「自由」と、自己実現の「意志」で、新しい価値観を生み出せるから。

これが、ニーチェの「超人思想」である。

こんな粗野で、暴力的で、背神的な思想をぶち上げ、大胆にも「アルコールとユダヤ教・キリスト教を二大麻薬」と言い切ったのである。

一方、ヒトラーは、第9回ナチス全国党大会で、「ボリシェヴィキ(ロシア共産主義)とキリスト教は二大麻薬」と宣言した。

なんか似ている?

似ているどころではない。

ニーチェの教義は、「力への意志」、「超人」、「背神」 ・・・

「力への意志」は、女流映画監督レニ リーフェンシュタールが撮ったナチスのプロパガンダ映画「意志の勝利」を彷彿させる。さらに、「超人」も「背神」も、ナチスの理念そのもの。力強く、斬新で、カッコイイ、でも、暴力的で危険だ。根っこにあるのは「力への賛美」、「反宗教」 ・・・ ナチスまんまではないか!

エリーザベトはココを突いた。

ニーチェの原稿から、文脈を無視して、大衆を惹きつける威勢のいい語句をピックアップし、断片的に散りばめて、ナチスのイデオロギーを正当化したのである。

つまり、エリーザベトにとって、ニーチェの創作物は便利な宣伝の道具にすぎなかった。もちろん、ナチスにとっても。

とはいえ、エリーザベトに悪意はない。彼女の名誉のために一言付け加えなければならない。

エリーザベトは、自己実現のために兄とナチスを利用したが、それに負い目も引け目も感じていなかった。神経が太いのではない。考えがおよばなかったのだ。エリーザベトは、兄ニーチェの哲理を心から崇拝し、それが、ナチスのイデオロギーと一致していると信じ、それを融合させようと真剣にプロデュースしたのである。ニーチェと違い信心深かったエリーザベトは、それが神の摂理だと、信じて疑わなかった。

この世で、もっとも恐ろしいのはこの手の錯覚である。

私利私欲ではなく、立派な大義があり、神の助けがあると信じているから、一切の迷いがなく、無敵なのだ。歴史に残る大業は、この手の錯覚から生まれたものが多い。そもそも、ふつうの信念、ふつうの努力、ふつうのやり方で、大業がなせるわけがないではないか。

というわけで、ニーチェは死して後、ナチスのシンパにされてしまった。それどころか、ナチスのイデオロギーの理論付けに加担させられたのである。ナチスは全体主義、ニーチェは個人主義という、決定的かつ相容れない矛盾があるにもかかわらず。

だからこそ、エリーザベトは偉大なのである(皮肉ではなく)。誰も成し遂げられない難事業を一人でやってのけたのだから。たとえ、それが人の道に反していたとしても。

プロデューサーとは無から有を生み出す魔術師である。場末のステージで歌っていたパッとしないユニットも、名プロデューサーにかかれば、国民的大スターにのしあがる。捏造(ねつぞう)だろうが、でっち上げだろうが、成功して価値を生むようになれば、ホンモノである。これが、プロデューサーの醍醐味だろう。

では、エリーザベトは、いかにして大業を成し遂げたのか?

まずは、原点「ニーチェ・ブランドの確立」から。

■ニーチェ・ブランド
大哲学者フリードリヒ・ニーチェは、勇ましい「超人思想」をぶちあげ、自ら「超人(オーヴァーマン)」たらんとしたが、行き着いたのは狂気の世界だった。

1889年1月3日、トリノの街を散歩中に、老馬が御者に鞭打たれるのをみて、泣き崩れ、そのまま気が触れたのである。

ところが、このとき、ニーチェはまだ無名で、原稿の多くは未発表だった。このままでは、ニーチェは歴史年表から消える。

さて、ここで、名プロデューサー、エリーザベトの登場である。

ニーチェは、発狂後、精神病院に入れられたが、たった半年で医者に見放された。その後、ナウムブルクの実家にもどって自宅療養したが、その頃から名が知られるようになった。新聞が、「ナウムブルクの狂気の哲学者」として書き立てたからである。

ナウムブルクに巣くう精神異常の天才哲学者 ・・・ 大衆の野卑な好奇心を惹き付けるにはうってつけのネタである。次に何が起こるか?

エリーザベトはこのチャンスを見逃さなかった。

まず、彼女が目をつけたのがニーチェの未発表の原稿である。

ナウムブルクの狂気の哲学者、未発表の原稿が発見される!

ブレイク間違いなし ・・・

事実、ニーチェは、発狂した時、膨大な未発表の原稿を残していた。ところが、それは原稿というより、思いつきやアイデアのたぐいで、メモ用紙に殴り書きされていた。何の脈絡もない、断片的な語句 ・・・ これでは出版はおぼつかない。

では、エリーザベトはどうしたのか?

エリーザベトにとって、兄の原稿はチンプンカンプンだった。哲学の素養以前に、思考力に問題があったのだ。のちに、エリーザベトが創設したニーチェ館のメンバーのルドルフ・シュタイナーは、こう言っている。

「(エリーザベトは)兄上の学説に関してはまったく門外漢だ ・・・ 細かな差異を、いや、大ざっぱであれ、論理的であれ、差異というものを把握する感覚が一切欠けているのだ。あの人の考え方には論理的一貫性がこれっぽちもない。そして、客観性というものについての感覚も持ち合わせていない ・・・ どんなことでも、自分の言ったことが完全に正しいと思っている。昨日は間違いなく赤かったものが、今日は青かったと確信しているのだ」(※1)

見込みなし ・・・

ところが、エリーザベトは典型的な問題解決型人間だった。問題の難しさなどどこ吹く風、問題解決にまっしぐら、解決のためなら手段を選ばず。自分ができなければ、できる人間にやらせればいいのだ。

ニーチェの落書き原稿は、手に負えないものだったが、それを解読できる者が一人だけいた。ニーチェの友人ペーター・ガストである。エリーザベトは、ガストを雇い、ただちに、原稿の編集を命じた。

一方、ナウムブルクの実家に移されたニーチェは、母フランツィスカが面倒を見ることになった。

エリーザベトの凄いのは、この二つを完全に自分の管理下においたことである。

原稿の編集をガストに、ニーチェの身の回りの世話を母フランツィスカに任せ、注意深く管理したのである。

エリーザベトは、
1.未発表の原稿を出版する。
2.ナウムブルクの狂気の哲学者の”悲劇ぶり”を継続的にアピールする。

この二つが、「ニーチェ・ブランド」の両輪であることを見抜いていたのである。

ところが、このような多忙な時期に、エリーザベトはもう一つのプロジェクトをスタートさせる。

南米パラグアイのドイツ人植民地である。

しかも、このプロジェクトは、プロデュースしただけではない。あろうことか、夫と連れだって、自ら辺境の地パラグアイに旅立ったのである。

歴史的大プロジェクトを3つ同時進行させる?

このようなパワーは一体どこから生まれるのか?

「鉄の心臓」と「小型原子炉」 ・・・

兄ニーチェは「超人」を目指して破綻したが、妹のエリーザベトは正真正銘の「超人・オーヴァーマン」だったのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-280/
 

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コメント
1. 2022年1月26日 02:39:06 : iX88sM1xeI : YklKUVBXVDRyTEk=[3] 報告
週刊スモールトーク (第281話) アーリア人植民地計画T〜人種の純化〜
2015.03.07
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-281/


■「人種の純化」計画
男が熱く語り、女が大げさに相づちをうつ。愛を語り合う恋人同士ではない。 女は、目が大きく、愛くるしい顔立ちで、名をエリーザベトといった。かの大哲学者ニーチェの妹である。男は、ハンサムで背が高く、名をフェルスターといった。この二人は夫婦で、よからぬ話題で盛り上がっていたのである。

その話題というのが ・・・ 南米パラグアイで、ドイツ人のドイツ人によるドイツ人のための植民地を建設する。 「ドイツ人」を「アーリア人」に読みかえれば、ナチスの「人種の純化」計画そのもの。人の道に外れた危険な計画である。

この計画を最初に思いついたのは夫のフェルスターだった。フェルスターは狂信的な反ユダヤ主義者で、ユダヤ人に汚染されたドイツを捨てて、地球の裏側でドイツ人植民地を建設すると、触れ回っていた。 「南アメリカなら我々の新しいドイツが見つけられる。そこでは、ドイツ人が純粋なドイツ精神を育むことができるのだ。パラグアイの未開の地の真ん中に築かれる『新ゲルマニア』は、いつの日か、大陸全体をおおい尽くす、誉れ高き新しい祖国の核となるであろう」(※1)

抽象的で雲をつかむような話だが、意味するところは重大である。 われわれは、南アメリカで「新ゲルマニア」を建設する。そこは、純粋なドイツ精神が宿る心臓である。その精神は、やがて南アメリカ全土をおおい尽くし、ドイツの第二の祖国となるだろう ・・・ と言っているのだから。

不吉なことに、「新ゲルマニア」は50年後に成立するドイツ第三帝国の世界首都「ゲルマニア」を暗示していた。そして、皮肉なことに、どちらも見果てぬ夢で終わったのである。 とはいえ、「南アメリカ移住」は、この時代、珍しいことではなかった。1880年代前半までに、すでに、数十万人のドイツ人が南アメリカに渡っていたからである。ただし、彼らの動機は「人種の鈍化」のような高邁なイデオロギーではなかった。単に食い詰めていたのである。

1871年、ドイツ帝国(帝政ドイツ)が成立し、ドイツが統一された後も、ひどい不況が続いていた。何千、何万というドイツ人が貧困にあえぎ、移住に望みをつないだのである。さまざまな移民協会が設立され、多くのドイツ人が南アメリカに渡った。 行き先は、たいてい、ブラジルかアルゼンチンだった。すでに、多くのドイツ人が住んでいたからである。ところが、フェルスター夫妻が目指したのは、実績のないパラグアイ。 なんで、よりよってそんな所に? 変わり者だから? たしかに。 でも、それだけではない。じつは、「パラグアイ」がとりわけ突飛というわけではなかったのだ。フェルスターの前にパラグアイに入ったヨーロッパ人がいたのである。

■南アメリカ探検
大航海時代、多くのヨーロッパ人が、一山当てようと、新大陸に押しかけた。ポルトガル人アレヒオ・ガルシアもその一人だった。彼はアメリゴ・ベスプッチの探検の後を継いで、漁夫の利を得ようとしていた。 ベスプッチは「アメリカ大陸の第一発見者」の名誉を巡って、コロンブスと争ったイタリアの航海者である。コロンブスが上陸したのはアメリカ大陸ではなく、周辺海域の小島だった ・・・ それに最初に気づいたのがベスプッチだった。

彼は、「ヨーロッパ人で初めて北アメリカに到達したのはこの私だ」 と主張して譲らなかった。 結果、新大陸はアメリゴ・ベスプッチの名をとって「アメリカ」と命名された。コロンブスの名を冠した「コロンビア」とはならなかったのである。 その後、ベスプッチは、ブラジルの海岸沿いに南下して、のちにラプラタ川と呼ばれる川を発見した。ベスプッチは、この川のどこかを抜ければ、南アメリカ大陸の反対側に出て(太平洋側)、スパイスアイランドに行けると考えた。ところが、ベスプッチは探検を途中で中止してしまった。 そこに目をつけたのが、アレヒオ・ガルシアである。ベスプッチの探検を継承し、手柄を横取りにしようとしたのである。

もし、成功すれば、「ヨーロッパ → 南アメリカ → (太平洋) → スパイスアイランド」の新航路を独占し、莫大な富が得られる。 ガルシアは、スペイン人の水先案内人ファン・ディアス・デ・ソリスを雇い、意気揚々、船出した。1515年の夏、探検隊はラプラタ川の河口に到着した。ベスプッチが探索を中止したあたりである。ガルシアはそこから調査を開始した。 ガルシア隊がマルティン・ガルシア島につくと、チャルア・インディアンの一団がいかにも親切そうに身振り手振りで水先案内人を差し招いた。ファン・ディアス・デ・ソリスは浜にあがった。そして、かわいそうにたちまち食べられてしまった。先導者を失った一行は逃げ去った(※1)。

こうして、ガルシアの目論見は頓挫した。ところが、その後、原住民から、耳寄りの話を聞いた。南米の山奥に財宝ザクザクの帝国があるというのだ。それを奪う方が、新航路を発見して貿易でチマチマ稼ぐより、よほど手っ取り早い。そう考えたガルシアは、早速、行動を開始した。ところで、この財宝ザクザクの帝国だが、かの「インカ帝国」である。 1524年頃、ガルシア隊は、現在のパラグアイの首都アスンシオンに入った。そこで、ガルシアは2000人のインディアン(チルグアノ族)を仲間に引き入れた。その後、川をさかのぼって、インカ帝国のはずれに到着した。そこで、住民を殺して回って、莫大な財宝を手に入れた。こうして、ガルシアは征服に必要な兵力と資金を手に入れたのである。あとは、インカ帝国を征服するのみ。

ところが ・・・ 1525年の暮れのこと、突然、ガルシアに災難が降りかかった。ガルシア隊のインディアンが裏切って、ヨーロッパ人を一人残らず殺したのである。その後、インディアンは遺された財宝を山分けして、何が気に入ったのか、その場所に住みついた。アンスシオン(現在のパラグアイの首都)の北方、150マイルのあたりである。その360年後、ここに、新ゲルマニアが建設がされるのである。 こうして、インカ帝国征服の手柄は、1533年、スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロに転がり込んだのである。歴史は、いや、人生は何が起こるかわからない。

ということで、パラグアイに入った最初のヨーロッパ人は、アレヒオ・ガルシア。フェルスターではなかったのである。 ところで、ガルシア隊が全滅したのに、なぜ、最期の状況が分かるのか? ガルシア隊の消息を追った人物がいたから。名をセバスチャン・カボットというスペイン人航海者である。 なんと物好きな? ノー、ノー! お目当てはガルシアが略奪した金銀財宝。 1526年、カボットは4隻の船と600人の部下を引き連れて、パラグアイを北上した。その後、アスンシオンの北方、150マイルあたりで、川岸に住むグアラニー部族と遭遇した。未開の部族で、暮らしぶりも貧乏なのに、どういうわけか、大量の銀を貯えている。 これは怪しい、ガルシアの財宝に違いないと、にらんだカボットは、無慈悲にも財宝を取り上げてしまった。それがよほど嬉しかったのか、記念に、その川をラプラタ川(スペイン語で「銀の川」)と命名した。

ではその後、パラグアイはどうなったのか?

200年間のスペイン植民地をへて、1811年に共和国として独立を宣言した。ところが、その後、歴史上もっとも凄惨な戦争に巻き込まれるのである。

■史上最悪の三国同盟戦争
戦争は、いつの時代も凄惨だ。 史上初の世界戦争、第一次世界大戦では1000万人が戦死した。つづく、第二次世界戦では7000万が犠牲になった。そのうち3000万人が、ドイツとロシアが戦った東部戦線である。しかも、半数が民間人というから、独ソ戦の凄まじさがわかるというものだ。この戦いは、英雄も、超兵器も、胸のすくような戦術もなく、肉切り包丁で斬り合う消耗戦だったのである。 第二次世界大戦は、空爆の被害も突出している。

たとえば、1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾は、広島市の92%の建物を破壊し、20万人の命を奪った。 さらに、ドイツの都市ドレスデンへの無差別爆撃も凄まじい。1945年2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの重爆撃機1000機以上が出撃し、街の85%を破壊した。さらに、ドレスデン市民数万人が即死し、最終的に20万人が死んだ。 ドレスデン生まれの作家エーリヒ・ケストナーはこう書いている。 「あの都市美を創造するのに300年以上の歳月を要したのに、それを荒れ地と化すのには数時間でこと足りた」 驚くべき残虐行為だが、戦争は勝てば官軍、どんな残虐行為も正当化されるのだ。それが最も顕著だったのが第一次、第二次世界大戦だろう。

ただし、”凄惨さ”において、これを凌駕する戦争がある。 1864年〜1870年、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟とパラグアイが戦った「三国同盟戦争」である。 この戦争の何が凄惨なのか? 負けた側のパラグアイの死亡率 ・・・ 全人口の50%。 戦争で国民の半分が死んだ?!

イエス。

パラグアイの人口の推移をみれば明らかだ。戦前は52万なのに、戦後は21万人。 ラテンアメリカ、いや、世界史上もっとも凄惨な戦争といっていいだろう。 この戦争は5年で終了したが、その後もゲリラ戦が続き、捕虜はサン・パウロの奴隷市場で売り飛ばされた。さらに、パラグアイの領土は戦前の3/4にまで減らされ、イギリスの支配下に組み込まれ、国体も失った。 ところが、さらに深刻な問題があった。軍が壊滅的な損失をこうむり、成人男子のほとんどがいなくなったのである。国や組織を支えるのは、ヒト・モノ・カネ、中でも重要なのは「ヒト」である。パラグアイはそこが欠落していた。これでは、国家再建は難しい。

■未開のパラグアイ
そんな荒廃したパラグアイに人生を賭けたのがフェルスターだった。 一体、なぜ? 未開の土地と住民は、真っ白なホワイトボードのようなもの。人の道に外れた人種差別だろうが、独りよがりのイデオロギーだろうが、はた迷惑な植民地だろうが、思う存分描けるから。

フェルスターは「反ユダヤ」の妄想に取り憑かれていた ・・・ ユダヤ人どもは、ドイツの芸術や道徳を堕落させ、その悪意にみちた陰謀の一環として、出版界まで支配しつつある。自分が書いた本が売れないのも、そのせいだと。 さらに、フェルスターは、宗教改革の創始者マルティン・ルターの言葉を座右の銘にしていた。

「キリスト教徒よ、おぼえておくのだ。悪魔を除けば、本物のユダヤ人ほど残酷で悪辣で暴力的な敵はいないことを」(※1)

つまり、フェルスターは、生死に関わる生活の困難さや不便さよりも、イデオロギーを選んだのである。 しかし ・・・ どう考えても、パラグアイは間違いだった。 パラグアイの暑さは殺人的で、土地は痩せ、穀物も育たない。インフラは皆無で、鉄道はもちろん、道らしい道もない。水道もなく、井戸を掘ってもすぐに枯れ、飲み水にも事欠く。こんな不毛の土地で、文明化されたドイツ人が生きていけるはずがないではないか。

ところが、そんな劣悪な環境でも、鉄の心臓と小型原子炉をもつ超人エリーザベトは平気だった。しかし、夫のフェルスターはそうはいかない。勇ましいのは反ユダヤ主義だけで、あとは”並”だったから。 人間は、身の丈を超えて、大言壮語を吐くのは危険である。行動に移すのはさらに危険である。ヘタをすると命を落とすから。そして、フェルスターもご多分に漏れずそうなった。勇ましい演説とは裏腹に、哀れな最期をとげたのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)

http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-281/

2. 2022年1月26日 02:40:18 : iX88sM1xeI : YklKUVBXVDRyTEk=[4] 報告
週刊スモールトーク (第282話) アーリア人植民地計画U〜ヴァーグナー神話〜
カテゴリ : 人物思想歴史2015.03.21
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-282/


アーリア人植民地計画U〜ヴァーグナー神話〜
■優生学の時代
アーリア人の神話は強力である。

最強の人種にして、文明を担う者、そして、地球の支配者、それがアーリア人 ・・・ だったはずなのに、今では、カスピ海周辺からイランやインドに流れ着いた集団、で落ち着いている。

ではなぜ、それが神話にまで登り詰めたのか?

ことの発端は、19世紀、フランスで出版された書「人種の不平等論」までさかのぼる。この中で、著者アルテュール・ゴビノーは、白人が最も優秀で、とりわけアーリア人が一番で、「支配人種」とまで持ち上げたのである。

さらに、ゴビノーは恐るべき警告を発している。

「黒、黄、白の肌の色の違いは、自然が設定した人種の『壁』、だから温血は禁じるべきである。混血で人種の『壁』が崩壊し、文明が退化するから」

混血で、なぜ文明が退化するかわからないが、「黒、黄」側にしてみれば、心穏やかではない。ところが、これを正当化したのが「優生学」だった。

「優生学」は、19世紀、フランシス・ゴルトンを起源とする気味の悪い学問である。一言でいうと「人間の品種改良」。

本来なら、倫理的な非難をあびてしかるべきなのだが、当時、世を騒がせていた「ダーウィンの進化論」に後押しされた。結果、20世紀初頭に大きな成功をおさめるのである。

というのも ・・・

ダーウィンの進化論のキモは「自然淘汰と適者生存」 ・・・ 弱者が滅び、強者が生き残る、つまり、自然による生物改良。

一方、優生学のキモは「生殖による人間改良」 ・・・ 優秀な人間同士が結婚し、優秀な子孫を残す。つまり、人為的な人間改良。

というわけで、優生学の「人間改良」は進化論の「生物改良」によって理論付けされたのである。こうして、優生学はヨーロッパで広く認知されていく。ところが、その結末は恐ろしいものだった。ナチスドイツが、優生学を盾に、ゲルマン人至上主義、ジェノサイド(民族絶滅)を正当化し、歴史上最大のユダヤ人迫害を引き起こしたのである。

ところが、それも長く続くかなかった。

第二次世界大戦後、アウシュヴィッツをはじめナチスの強制収容所の蛮行が明らかになると、世界は震撼した。結果、優生学はナチスのお仲間にされ、「疑似科学」の烙印までおされたのである。

しかし ・・・

遺伝子とDNAが解明された今、優生学は疑似科学とは言えない。そもそも、優生学のキモ「生殖による人間の品種改良」は古くから行われてきた。支配者や成功者が、自分の娘に頭の良い婿を迎え、優秀な子孫をのこそうとしたのは、その一例である。

実際、IQの高い両親からは、80%の確率で、IQの高い子供が生まれるというデータもある。身長はもっとわかりやすい。突出して背の高い両親からは、ほぼ間違いなく背の高い子供がうまれる。この相関関係は統計学で、因果関係は遺伝学で説明できるので、真実といっていいだろう。

というわけで、人間も生物なのだから、「農作物の品種改良」がアリなら、「人間の品種改良」もアリ ・・・ 倫理的な問題はさておいて。

ただし、優生学が成立したからといって、「ユダヤ人が劣等で、アーリア人が優等」とは限らない。この二つは別の話だから。それどころか、ノーベル賞受賞者とお金持ちにユダヤ人が多いのだから、「ユダヤ人が優等」かもですよ。

ところが、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、優生学と反ユダヤ主義はいっしょくたにされた。それを真に受けたのが、哲学者ニーチェの妹エリーザベトと夫のフェルスターである。この二人は極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたと考えて、南米パラグアイで植民地「新ゲルマニア」の建設をもくろんだのである。

■ヴァーグナーの世界
 そもそも、エリーザベトとフェルスターを結びつけたのは、他ならぬ「反ユダヤ主義」だった。しかも、その仲介者というのが、大哲学者ニーチェと大音楽ヴァーグナーというから驚きだ。しかし、断じて言うが、ニーチェは人種差別主義者ではない。

では、ヴァーグナーは?

夫婦そろって反ユダヤ主義者(フェルスターほどではないが)。

リヒャルト・ヴァーグナーは、19世紀ドイツの大音楽家で、ロマン派歌劇の王様である。「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指輪」などの作品で知られるが、輝かしい名声の裏側に、アーリア人至上主義、国粋主義者という闇の部分がある。とはいえ、自ら、台本を書き、作曲、歌劇の構成、指揮まで手がけるのだから、万能型の天才だったのだろう。

さらに、ヴァーグナーには尋常ならざるカリスマがあった。この頃、ヴァーグナーはスイスのルツェルン湖畔にあるトリプシェンを拠点にしていたが、そこに、ヴァーグナー信奉者がおしかけたのである。トリプシェンの邸宅は、さながら「ヴァーグナー・ワールド」のメッカだった。

そのヴァーグナーの取り巻きの一人が、若き日のフリードリヒ・ニーチェだった。彼は、自著「この人を見よ」のなかで、こう書いている。

「ほかの人間関係ならば全部安く売り払ってもいい。しかし、あのトリプシェンの日々だけはたとえどんなに積まれても、私の人生から引き離して手放すつもりはない。信頼と解決と崇高な偶然の日々、深遠な瞬間に満たされた日々だった」(※1)

さらに、ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中で、公然とヴァーグナーと賛美した。その卑屈な論調に、大きな批判が巻き起こった。一方、ヴァーグナーは大喜びで、「こんな美しい書物は読んだことがない」と絶賛した(あたりまえですね)。

そんなこんなで、ニーチェのヴァーグナーへの入れ込みようはハンパではなかった。1870年7月には、妹のエリーザベトまでトリプシェンの邸宅に引き入れている。しかも、ヴァーグナー家の子供達のベビーシッターとして。なんと、卑屈な!

ところが、エリーザベトは、たちまち、ヴァーグナー・ワールドのとりこになった。

一方、ニーチェのヴァーグナー熱はだんだん冷めていく。その時期、ニーチェは不眠症、頭痛、嘔吐感に悩まされたが、それが原因だったかはわからない。

ではなぜ、ニーチェはヴァーグナーに失望したのか?

エリザーベトは、トリプシェンの邸宅の様子をこう書いている。

「大広間をのぞいてみると、そこには少なくとも40人ほどの楽長、若い音楽家、文筆家たちがヴァーグナーとの面会を待っていた。年配の人たちは低く抑えたような声で語り、若い人々は美しい畏敬の表情で耳を傾けていた」(※1)

卑屈な追従者に囲まれ、それにご満悦のヴァーグナー ・・・ そんな世界が、ニーチェには安っぽく見えたのである。彼はこう書いている。

「まさに身の毛もよだつ人間たちの集まりだ。出来そこないは一人とて欠けてはいない。反ユダヤ主義者さえもだ。哀れなヴァーグナー、なんという境遇に陥ってしまったことか!豚に囲まれている方がまだましだ!」(※1)

一方、エリザーベトはこの安っぽい世界がお気に入りだった。

それにしても、ヴァーグナーのカリスマには驚くばかりだ。音楽を解さない者まで虜にするのだから。じつは、そんな門外漢の取り巻きがもう一人いた。のちにエリザーベトと結婚するベルンハルト・フェルスターである。

■フェルスターの企て
フェルスターは、この頃、ベルリンの学校教師をしていたが、トリプシェンのヴァーグナー・ワールドに入り浸りだった。

ヴァーグナーに取り入って、反ユダヤの援助をとりつけようとしていたのである。ところが、ゼンゼン相手にされない。そこで、ヴァーグナーお気に入りのニーチェ兄妹の妹エリーザベトに近づいたのである。

フェルスターはエリーザベトに「反ユダヤ主義とドイツ人の魂の復活」を熱く語った。彼女はすぐに賛同した。似た者夫婦だったのだろう。ところが、兄ニーチェはそれが気に入らなかった。フェルスターが信奉する人種差別と国粋主義を嫌悪していたから。

ニーチェは、人種と国家を超えた個人主義を尊んだ。なかでも、健全な欲望を実現しようとする人間を「超人(オーヴァーマン)」とよんで讃えた。これがニーチェの超人思想である。

フェルスターはエリーザベトという同志を得て、ますます自信を深めた。そして、反ユダヤ主義を加速させていく。

1880年11月8日、フェルスターは、ベルリンで事件を起こした。仲間たちと「反ユダヤ」で盛り上がったあと、ユダヤ人と乱闘騒ぎをおこしたのである。フェルスターは逮捕され、90マルクの罰金を払ったが、人種差別主義者たちの間で、大いに株を上げた。

フェルスターの主張は単純だった。

「ユダヤ人はあこぎな商売をして、ドイツ文化を破壊しようとしている」

そして、東ゴート族の法典の一節を付けくわえるのだった。

「祖国を裏切った者は、みな裸の木に吊されるのだ」

フェルスターは、ユダヤ人をおとしめるのに労を惜しまなかった。学校教師をしながら、時間をどうやりくりしたのかわからないが、「反ユダヤ」署名を26万7000もかき集め、嘆願書を添えて首相官邸に持ち込んだのである。

ところが、反応はゼロ。というのも、このとき、ドイツ帝国の首相は名宰相ビスマルク。彼のような合理主義者・現実主義者が、浮ついたイデオロギーに賛同するはずがない。というわけで、フェルスターの努力はムダに終わった。

一方、ニーチェの方は、病状が悪化し、バーゼル大学を辞職せざるをえなくなった。その後、ヨーロッパを放浪しながら、在野の哲学者として活動を続けた。

しかし、ニーチェの哲学は自らを破滅に追い込んだ。彼の哲理は、粗野で暴力的で、神をも怖れない、しかも、水も漏らさぬ論理で、一寸のスキもなくたたみ込んでいく。一瞬の安らぎも許さないのだ。

このような救いのない哲理は、ニーチェの女性観にも反映されている。37歳のとき、彼はこう書いている。

「真の男が求めるものは2つある。危険と遊びだ。それで真の男は女性を求めるのだ、もっとも危険な遊びとして」

ニーチェは街の女と遊んで梅毒に感染したが、もちろん、それを言っているのではない。とすれば、皮肉な話ではないか。

また、このような女性観はニーチェの感情的未熟さをあらわしている。万華鏡のような女性の多様性、多面性を見ようともしないのだから。

話をフェルスターにもどそう。

乱闘騒ぎを起こした2年後の1882年、フェルスターは度を超した人種差別主義が祟って学校を追放される。一方、エリーザベトとの関係は良好だった。人の道に外れた反ユダヤ主義で盛り上がったのだろう。

そして、1880年、フェルスター夫妻にとって決定的な出来事が起こる。二人が信奉するヴァーグナーが「宗教と芸術」のなかで、もってまわった言い方で、こう主張したのである。

「高貴な人種と高貴ならざる人種との混合が、人類最高の特質を損ないつつある。アーリア人種の純粋さを保つことによってのみ、人種の復活は成し遂げられる ・・・ 食糧を供給するのに十分肥沃な『南アメリカ大陸』に人々を移住させることを阻むものは一つもない」(※1)

フェルスターはこれに飛びついた。あのヴァーグナーが南アメリカ大陸移住を正当化してくれたのだ。そもそも、「南アメリカ移住」はフェルスターにとって一石三鳥だった。第一に、ヴァーグナーの忠実な信奉者であることをアピールできる。第二に、ユダヤ人に汚染されたドイツから脱出できる。そして、なにより、フェルスターは失業中だった。

■新ゲルマニア
フェルスター夫妻の南アメリカ移住の目的は恐るべきものだった。アーリア人共和国「新ゲルマニア」の建設、つまり、「人種の純化」にあったのだから。

1883年、フェルスターは南アメリカに旅立った。新ゲルマニアを建設する場所を探すために。出発する前、彼はエリーザベトに2つの約束をした。ドイツに帰ったら結婚すること、栄えある第一次開拓団の共同指導者となって、南アメリカに渡ること。ドラマチックで芝居がかったことが大好きだったエリーザベトは大喜びだった。

一方、 ヴァーグナーは自分のアイデア「南アメリカ移住」を実践するフェルスターに気を許したのか、励ましの電報を打っている。

「ヴァーグナーより一言挨拶を。君の夢に祝辞を贈る。よい旅を」

フェルスターにとって幸先のよいのスタートだった。

その後、フェルスターは2年かけて、南アメリカ大陸中央部を調査した。そして、ついに、「新ゲルマニア」にふさわしい国を見つけた。パラグアイである。理由は、三国同盟戦争で人口が半減していたこと、ユダヤ人に汚されていない未開の地であること。また、パラグアイの移民局も有利な条件で土地を譲渡してくれそうだった。

この間、エリーザベトは、夫にせっせと手紙を書き送っている。

「やがてあなたの旗のもとに、開拓者たちが群がり集まることでしょう。この計画はきっと成功します」

内助の功というか、なんというか、NHKの大河ドラマ「功名が辻」の山内一豊の妻を彷彿させる。エリーザベトもまた夫をその気にさせる天才だったのだろう(この時まだ結婚していなかったが)。

フェルスターの留守中も、彼女は精力的に働いた。人種差別を鼓舞するパンフレットを配り、「新ゲルマニア」建設の資金と同志を集めたのである。

このような人種差別主義は、ベルリンのような都市部では眉をひそめられたが(表向きは)、ドイツ南部の田舎では受け容れられた。ビアホールで一席ぶつと、泡立つビールを前に、テーブルを叩いて賛同してくれる者がいたのである。彼らはドイツの経済的困窮はユダヤ人のせいで、自分たちを父祖伝来の土地から追い出したのもユダヤ人だと信じていた。

1885年3月、フェルスターはドイツに帰国し、エリーザベトと結婚した。ところが、兄ニーチェは結婚式に出席しなかった。憎むべきフェルスターが、最愛の妹を奪う結婚式を、なぜ祝わなければならないのか!

その後、エリーザベトとフェルスターは国中をまわり、ヴァーグナー協会で、移民協会で、ビアホールで、「新ゲルマニア」を熱く語った。その甲斐あって、移住希望者が100名ほど集まった。それが多いか少ないかはビミョーだが、人気のブラジルやアルゼンチンならいざ知らず、ロクな実績もない未開のパラグアイに、なぜ移住する気になったのか?

人間は千差万別、だから、こんな物騒な話にのる者がいるのである。

たとえば、
1.熱烈な反ユダヤ主義者。
2.食いっぱぐれて後がない者。
3.天国の下僕より、地獄の帝王を望む者。
4.単にだまされやすい人たち。

こんな一癖も二癖もある開拓団が、三癖も四癖もあるフェルスター夫妻に率いられ、パラグアイに移住したのである。もちろん、結末は惨憺たるものだった。

《つづく》

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)

http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-282/

3. 2022年1月26日 02:41:16 : iX88sM1xeI : YklKUVBXVDRyTEk=[5] 報告
週刊スモールトーク (第283話) アーリア人植民地計画V〜パラグアイ移住〜
カテゴリ : 思想歴史2015.04.04
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-283/


アーリア人植民地計画V〜パラグアイ移住〜
■出航
1886年2月15日、ボロボロの蒸気船がドイツのハンブルク港を出航した。ドイツ南部で結成された開拓団である。南米パラグアイに移住して、アーリア人植民地「新ゲルマニア」を建設しようというのである。

ここで、「移民団」ではなく「開拓団」と強調したのは理由がある。目的地がブラジルやアルゼンチンのような開拓済みの植民地ではなく、三国同盟戦争で焦土と化したパラグアイだから。何もない新地から町を建設するのである。

事実、この開拓団の意識は高かった。他の植民団のように「食いつなぐ」ためではなく、「アーリア人植民地=人種の純化」というイデオロギーを支えにしていたから。たとえ、それが人の道に外れたものであっても。

開拓団は、14家族100名で構成され、ニーチェの妹エリーザベトとその夫フェルスターが共同指導者に就いた。元々、この計画はフェルスターの独断と偏見の産物だったからである。

開拓団のメンバーのほとんどが、ドイツ南部のザクセンの出身だった。共同指導者のフェルスター夫妻がザクセン出身なので、手っ取り早く、出身地で募集した、わけではない。募集はドイツ全国で行われていた。

ではなぜ、参加者がドイツ南部に集中したのか?

「新ゲルマニア=アーリア人至上主義」をかかげていたから。この時代、ヨーロッパでは反ユダヤ主義が吹き荒れていたが、首都ベルリンはまだ良識が残っていた。だから、公然と反ユダヤを叫ぶことは、分別のないこととされたのである。

ところが、ザクセンは違った。

ドイツが経済的困窮にあるのは、ユダヤ人があこぎな商売をして、ドイツ人から搾取しているから ・・・ が共通認識になっていたのである。実際、ビヤホールで反ユダヤ主義をぶちまけると、酔っ払いが、ビールジョッキの泡を飛ばして、喝采してくれた。

そもそも、ドイツ南部のザクセン(州都:ドレスデン)や、バイエルン(州都:ミュンヘン)は、古くから、反ベルリン(反体制)の意識が強かった。ヒトラー率いるナチスが政界に進出したときも、ミュンヘンでは支持されたが、ベルリンではなかなか票が伸びなかった。つまり、ベルリンが嫌えば、ドイツ南部のバイエルンやザクセンが好む、そんな風潮があったのである。

それに ・・・

ドイツ人にとって、パラグアイは地球の裏側にある未知の国だった。ライフラインも一から手造りという有様で、「文明」の「ぶ」の文字もない。じつは、それまでにも、パラグアイに入植したヨーロッパ人はいた。ところが、ほとんどが命を落とすか、行方不明になっていた。そんな物騒な所に移住するのは、よほど切羽詰まっているか、ものを知らない田舎者である。少なくとも、インテリを自負するベルリン市民ではない。

とはいえ、プライドの高いアーリア人(ザクセン人)がそれを認めるはずがない。

そんな風潮の中、フェルスターが、

「ユダヤ的害悪を廃した共同体をパラグアイでつくろう!」

と言い出したので、うってつけの大義名分ができたのである。

つまり、冒頭の開拓団は全員「アーリア人種基準」で選ばれた人々だった。少なくとも、開拓団員はそう信じていた。

ところで、開拓団は、その後どうなったのか?

■到着
開拓団が乗った船は、蒸気船とは名ばかりの、いつ沈んでもおかしくない老朽船だった。

NewGermania航海は困難をきわめ、さながら大航海時代の奴隷船だった。女子供を含む100人の団員は、虫の食ったビスケットをかじりながら、半分腐った水をすすりながら、食いついないだのである。1ヶ月後、南アメリカのモンテビデオに着岸したときは、全員が疲労困憊だった(鉄人エリーザベトを除いて)。
とはいえ、370年前に、この地に上陸したマゼラン隊にくらべればまだマシだろう。

というのも、マゼラン隊に同行したピガフェッタの航海記によると、

「ビスケットは粉くずになって、虫がわき、水は腐敗していた。牛の皮、オガクズ、ネズミ、何でも食べた。隊員の歯茎が腫れて食べれなくなり、19人が死に、30人が重病になった。健康な者はわずかしかいなかった」

そこまでして、金銀財宝が欲しい?

なんて余裕をかましている人は、いつまでたってもビンボーのまま。いい思いをしたければ、リスクを冒さなくては!(程度にもよるが)

その程度を超えたのがマゼラン隊だった。3年におよぶ大航海を終え、スペインのサン ルカール港に帰還したとき、5隻の船は1隻に、265名の乗員は18名に減っていた。

生還率「7%」!?

しかも、隊長のマゼランも、フィリピンの戦闘で、大岩に直撃され即死していた。だから、新ゲルマニア開拓団の航海などマゼランの世界周航からみればピクニックみたいなもの ・・・ とまでは言わないが、次元が違うのだ。

とはいえ、新ゲルマニア開拓団の苦労もハンパではなかった(現代人からみれば)。

腐ったビスケットと水を飲み込みながら、やっとモンテビデオに着いたのに、そこがゴールではなかったのだ。さらに、小型の蒸気船でパラナ川を北上するのである。夜になると、蚊の大群が襲いかかり、団員の皮膚の下に卵を産み付けた。かゆいのでかくと、皮膚がただれ、腫れ上がる。苛酷な気候に耐えきれず命を落とす子供もいた。

モンテビデオを出航して、5日後の1886年3月15日、開拓団はアスンシオンに着いた。現在のパラグアイの首都である。つまり、ここでやっとパラグアイ。

このとき、フェルスターは43歳、エリーザベトは39歳、「知力×体力×気力」が人生で最も充実する時期である。

じつは、フェルスターの最終目標は、パラグアイ植民地「新ゲルマニア」の建設ではなかった。南アメリカ全土を包含する「アーリア人共和国」の建国 ・・・ 壮年よ大志を抱け!というわけだ。

とはいえ、たった100名でどうやって領土を拡大するのか、を考えた形跡はない。

フェルスターは誇大妄想だった?

あたらずとも遠からずだが、驚くべきことに、計画の成功をフェルスター以上に信じる者がいた。妻のエリーザベトである。

エリーザベトは、開拓団の中で一際目立っていた。小柄な身体で、コマネズミのように動き回る。酷暑なのに、黒ずくめの服装を脱ごうともしない。まさに、鉄の心臓と小型原子炉を内蔵した怪物なのだ。

ところで、アスンシオンに着いた開拓団は、その後、どうなったのか?

足止めを食らって、前に進めなかった。

なぜか?

信じがたいことに、土地の譲渡契約がまだ締結されていなかったのである。

フェルスターが、「新ゲルマニア」に選んだのは、アスンシオンの北150マイルにあるカンポ・カサッシアという地域だった。面積は600平方キロメートルで、今の金沢市ぐらい。とはいえ、三国同盟戦争ですっかり荒廃し、インフラは皆無だった。だから、どう考えても二束三文。

ところが ・・・

地主のソラリンデは、欲をかいて、法外な値段をふっかけてきた。フェルスターは仰天した。土地譲渡の契約がまとまらなければ、開拓団はドイツに引き返すしかない。

そこで、フェルスターは、パラグアイ政府を巻き込むことにした。

余談の許さない交渉が続いたが、ついに、落としどころがみつかった ・・・
1.フェルスターはパラグアイ政府に手付け金2000マルクを支払う。
2.パラグアイ政府は地主ソラリンデに8万マルク払う。
3.ソラリンデはフェルスターに4万エーカーを譲渡する。

本来、フェルスターが払うべき「8万マルク」が「2000マルク」で済んだのだから、フェルスターの一人勝ち?

ノー!

そんなうまい話はない。とんでもない条件がついたのである。2年以内に最低140家族が入植しないと、土地は没収!

ちなみに、このときフェルスター夫妻率いる第一次開拓団は14家族だった。2年で、その10倍の家族が入植する ・・・ 絶対ムリ。とはいえ、実現しなかったら、土地はすべて没収され、入植者から集めた金を返納しなければならない。そうなればフェルスターは破産だ。

ところが、こんな物騒な契約書に、フェルスターは嬉々としてサインした。

なぜか?

2年で140家族なんて楽勝!と思ったのだ。

一体、何を根拠に?

何の根拠もない ・・・ だから、3年後に自殺に追い込まれるのである。

こうして、命と引き替えの契約書が締結された。その後、開拓団はアスンシオンを出発し、パラグアイ川を船でさかのぼった。それから、ウシと牛車で陸路を行き、一週間後に目的地に到着した。新ゲルマニアの予定地カンポ・カサッシアである。

そのカンポ・カサッシアだが、写真で見るかぎり、ジャングル ・・・

■建設
そのジャングルで、新ゲルマニアの建設が始まった。まずは、家とライフライン、中でも優先されたのが、フェルスター夫妻の邸宅だった。1888年3月、大邸宅は完成し、盛大な落成式がおこなわれた。このとき、エリーザベトは42才、アーリア人植民地「新ゲルマニア」の母であり、ゆくゆくは、ドイツ第二の祖国「アーリア人共和国」の女王になるのだ。

得意の絶頂にあったエリーザベトは、ドイツにいる兄ニーチェに手紙を書いた。

「新ゲルマニアには輝ける未来があります。兄さんも早くパラグアイに来てください」

それに対し、ニーチェはこう返信した。

「反ユダヤ主義者は、みんなまとめてパラグアイへ送りだしたらどうだろう?」

フェルスター夫妻の邸宅は完成したが、植民地建設はこれからだった。2年以内に140家族が入植しないと、土地は没収されるのだ。そこで、フェルスターとエリーザベトは、入植者を集めるため、新ゲルマニアを「希望の楽園」として宣伝した。

いわく ・・・

現在、学校は建設中です。牧師を呼ぶための基金の計画も進んでいます。もうすぐ、新ゲルマニアと外部世界を結ぶ鉄道も開設されます。純朴なパラグアイ人が召使いになるために集まってきます。食べ物は木に成っているので、不自由しません。まるでエデンの園です。

さらに、「早い者勝ち」をあおることも忘れなかった。

いわく ・・・

新ゲルマニアには、すでに、パン屋、靴屋、大工、鍛冶屋、製材所があります。でも、まだチャンスはあります。洋服屋、皮なめし職人、配管工、ビール醸造業者なら大歓迎です。

こんな希望に満ちた話が、ドイツのケムニッツ植民地協会の会長マックス・シューベルトに届けられた。そして、それが、そのまま入植希望者に。

ふつうに考えればキナ臭い話なのに、真に受ける者がいた。

というのも、その後2年間で、40家族がパラグアイに旅立ったのだ。ところが、その1/4が途中で断念し、結果、100の分譲地のうち70が売れ残った。

なぜか?

新ゲルマニアはフェルスター夫妻が言うような「希望の楽園」ではなかった。地上の「地獄」だったのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
(※2)長澤和俊 著「世界探検史」白水社

http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-283/

4. 2022年1月26日 02:42:03 : iX88sM1xeI : YklKUVBXVDRyTEk=[6] 報告
週刊スモールトーク (第284話) アーリア人植民地計画W〜新ゲルマニア伝説〜
カテゴリ : 思想歴史2015.04.18
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-284/


アーリア人植民地計画W〜新ゲルマニア伝説〜
■新ゲルマニアの真実
フェルスター夫妻は、新ゲルマニアを「希望の楽園」と喧伝したが、本当は「地獄」だった。 でも、現地に行けばすぐ分かるのに、なぜそんなウソを?

2年以内に、140家族以上入植しないと、新ゲルマニアの土地が没収されるから。そうなれば、新ゲルマニアは破綻し、フェルスターは破産する。だから、「楽園」と言い切って、入植者を募るしかなかったのである。

いわく ・・・ 気候は快適です、食べ物は木に成っています、純朴なパラグアイ人が召使いになりたがっています、もうすぐ学校と教会ができます、そのうち、鉄道も開通するでしょう ・・・ ようこそ、アーリア人のユートピア「新ゲルマニア」へ! ところが、現実は ・・・ 気候は殺人的で、大地を焦がすような暑さが続く。

かと思えば、突如、バケツをひっくり返したような猛雨が襲う。動物は溺れ死に、柵は跡形もなく押し流される。雨水が天井を突き抜けて、家の中は水浸し ・・・ 一体、どこがユートピアなのだ?

しかも、土壌は粘土質で、耕すのに骨が折れ、作物は育たない。井戸は30メートル以上掘らないと水源に達しない。しかも、水量が少ないのですぐに干上がる。 それに ・・・ 食べ物は木に成っています ・・・ そんな木、どこにあるのだ? 純朴なパラグアイ人が召使いになりたがっています?

では、パラグアイ人と接触したヨーロッパ人の証言を紹介しよう。

「パラグアイ人は男も女も素っ裸で暮らしている。父が娘を売り、夫は妻を売る。ときには兄が妹を売ったり、食料や物と交換したりする。捕虜を捕らえると、まず、太らせてから食べる。われわれが豚を太らせるのと同じだ。そして、おおむね、彼らは怠惰で仕事が嫌いである」(※1)

家族を売り飛ばし、人肉を食うのが、純朴? 怠惰で仕事が嫌いなのに、召使いになりたがる? ところが ・・・ しばらくすると、ドイツ人はパラグアイ人の悪口を言わなくなった。 「勤勉」なドイツ人がパラグアイ人なみに「怠惰」になったのである。 日中は何もせず、寝て過ごす。暑い時に、ムリして働くと、熱射病にかかるから。つまり、「怠惰」はパラグアイ人が生き残る術だったのである。

というわけで、新ゲルマニアの建設は遅々として進まなかった。2年たっても、水道も道路もなく、住居は不衛生な共同住宅のまま。世界に冠たるドイツ人が、こんな惨めな暮らしをしていたのである。 一体、これのどこが、ユートピアなのだ? もし、これがドイツ本国に知れたら? 誰も新ゲルマニアに来なくなる。 そこで、フェルスターはウソの上塗りをするしかなかったのである。しかし、ウソはいつかばれる。そして、その日がついに来たのである。

■新ゲルマニアの暴露本
1888年、ユリウス・クリングバイルという陰気な男が、妻と二人で新ゲルマニアにやって来た。アーリア人のユートピアで一旗揚げようと。 クリングバイル夫妻は、まず、フェルスター邸を訪れた。偉大な共同指導者フェルスター夫妻に敬意を表するために。

ところが ・・・ クリングバイルは邸宅をみて仰天した。場違いなほど立派なのだ。美しく飾り立てられた壁、豪華な家具、ピアノまである。夕食には上等のワインまで振る舞われた。他の入植者たちのみすぼらしい共同住宅とは大違い。この格差は何を意味するのか? それにもまして落胆したのが、フェルスター夫妻だった。

夫のフェルスターは、落ち着きのない男で、一カ所にじっとしていられない。視線も定まらず、相手の顔を正視することもできない。これが、ドイツで英雄視されているあのベルンハルト・フェルスターなのか? 一方、妻のエリーザベトも負けず劣らず変人だった。 うだるような暑さの中、黒服で身を包み、手と口と足を同時に動かしながら、部屋中をぐるぐる歩き回る。コマネズミみたいで、ひどく滑稽なのだ。 そして、ロクに相手の顔も見ずに、機関銃のようにまくし立てる。植民地が成功していること、分譲地がどんどん売れていること、ゆくゆくは南米大陸をおおうアーリア人共和国になること ・・・ 現実と真逆の空虚な自慢話を、延々と聞かされたのである。

クリングバイル夫妻はウンザリした。こんな所で、一旗揚げようと思った自分たちがバカだった ・・・ そして、ときに、第一印象が未来を予言することがある。このときもそうだった。クリングバイル夫妻は、ささいなことでエリーザベトと大げんかし、植民地を去ったのである。 ところが、帰国した後も、二人は腹の虫がおさまらなかった。そこで、腹いせに暴露本を出すことにした。タイトルは、「ベルンハルト・フェルスターの植民地・新ゲルマニアの真相を暴く」。

いかにも挑発的だが、1889年の暮れに出版されるや、大反響をよんだ。 そして、内容は、タイトルよりはずっと挑発的だった ・・・ アーリア人のアーリア人による植民地などまがい物で、フェルスターは大ペテン師である。夫婦そろって愛国者をきどっているが、じつのところ、貧しい者を食い物にしている大悪党である。実際、自分は、新ゲルマニアの宣伝を真に受けて、とんでもない目にあった。こんな悪事を放置してはならない。政府は、ただちに介入すべきである。 ・・・ 身もふたもない。 もちろん、エリーザベトは黙っていなかった。彼女に好意的だった「バイロイター・ブレッター」紙上でクリングバイルを大いに非難したのである。

さらに、入植者たちに自分と夫を賛美する手紙を書かせた。 いわく ・・・ ベルンハルト・フェルスター(エリーザベトの夫)は誠実で信頼できる人です。また、エリーザベトはクリスマスに子供たちのためにケーキを焼いてくれます(※1)。 ケーキがどうしたというのだ? いまだに、入植者は掘立小屋暮らしだというのに。

この騒動をみて、ケムニッツ植民地協会のマックス・シューベルト会長はフェルスターに疑いを持った。 彼の言っていることは本当なのか? そこで、シューベルトは、真相を見極めるまで、植民地基金を新ゲルマニアに送金しないことにした。 フェルスターにとって、これは命取りだった(比喩ではなく)。すでに、銀行に多額の借金があり、利子の返済すらできなくなったのだ。 フェルスターは大言壮語だが、じつのところ、小心者だった。借金を返すあてもなく、入植者は増えるどころか、減るばかり。このままでは、新ゲルマニアは破綻する。そうなれば、フェルスターも破産だ。

嫌気がさしたフェルスターは、アスンシオン(現在のパラグアイの首都)に近いドイツ人居住区サン・ベルナルディノに移り住んだ。 そして、ホテル「デル・ラーゴ」に引きこもり、酒びたりの毎日。ところが、気が晴れるどころか、酒の量は増えるばかり ・・・ 典型的な「アル中&うつ病」である。 一方のエリーザベトはすこぶる元気だった。逃げ出した夫に、励ましの手紙を書き送るほどだった。

じつは、エリーザベトとフェルスターは似たもの夫婦だった。 神、ヴァーグナー、反ユダヤ主義、ドイツ万歳!そして、自己中 ・・・ ここまでは同じなのだが、違うところもあった。 フェルスターは凡人で、エリーザベトは兄チーチェが言う超人(オーヴァーマン)だったのだ。 実際、フェルスター夫妻をこきおろしたクリングバイルでさえ、こう言っている。 「彼女(エリーザベト)は賞賛すべき人になっただろう。もし、その英雄的な才能をあのような邪悪な目的に使わなかったら」 誉めているのか、けなしているのか? もちろん、誉めているのだ。

■フェルスターの死
1889年6月2日、フェルスターはエリーザベトに手紙を書いた。 「私は苦しんでいる。いつになったら事態は好転するのだろう」 自分を哀れんで、神頼み? 「おまえはもう死んでいる」( 北斗神拳ケンシロウの決め台詞) ・・・ そして、それが現実になった。 翌朝、ホテル・デル・ラーゴの一室で、フェルスターは遺体となって発見されたのである。46年の生涯だった。

ところが、エリーザベトは転んでもタダでは起きなかった。痛ましい夫の死を利用したのである。 いわく ・・・ 「わが夫ベルンハルト・フェルスターは敵の中傷と、植民地に対する責任から、心を病んで死んだのです」 さすがはエリーザベト ・・・ でも事実は違った。 フェルスターは自殺したのである。ストリキニーネとモルヒネの死のカクテルあおいで。これに慌てたのがホテル側である。酒代を踏み倒されたのだから。ホテル側は、酒代を新ゲルマニアの分譲地でチャラにするよう説得され、しぶしぶ受け入れた。

結局、4年たっても、新ゲルマニア事業は進展しなかった。土地の所有権さえ、まだ手にしていないのだ。このままでは、新ゲルマニアは破綻する。新しい経営者が必要だ。 1890年、新ゲルマニア事業は「パラグアイ新ゲルマニア植民地会社」に買い取られることになった。引き受けたのは、ドイツ人、イタリア人、スペイン人、イギリス人、デンマーク人からなるグループである。

ところが、エリーザベトは気に入らなかった。アーリア人のユートピアを、なぜ、外国人にくれてやるのだ! さっそく、エリーザベトはドイツに帰国した。新ゲルマニアを取り戻す資金を集めるために。 エリーザベトは「ベルンハルト・フェルスターの植民地・新ゲルマニア」を編集して、1891年春に出版した。これで、資金と入植者を一網打尽にしようというのである。 この本の中で、エリーザベトはいつものノリで、嘘八百をならべたてた ・・・

「パラグアイの気候は私には天国です。あちらの食べ物はすばらしくかつ安価で、入植者たちはみんな一様に健康で幸福です。じつのところ、パラグアイについて言っておかなければならない最悪のことは、暑さのためにクリームがうまく固まらないということです」

新ゲルマニアを取りもどすためなら、この程度のウソは屁でもなかった。エリーザベトは鉄の心臓と小型原子炉をもった超人なのだ。 1892年8月、エリーザベトは新ゲルマニアに良い知らせをもち帰った。牧師の派遣が決まったのである。 牧師? 牧師が一体何をしてくれるというのだ? 気候を温暖にしてくれる? 穀物の収穫を増やしてくれる? 飲み水を増やしてくれる?

銀行マンが(お金をもって)来てくれるほうがよっぽどマシではないか。 そして ・・・ ここで、大事件が起こる。 新ゲルマニアの内部から裏切り者が出たのである。古参メンバーのフリッツ・ノイマンが、本国のケムニッツ植民地協会にちくったのだ ・・・

「(新ゲルマニアは)水道もなければ、道路もありません。われわれは自然の力によって追い出されてしまいました。小屋も農地も崩壊しています。フェルスターの事業は完全な失敗でした。そもそも、ここに人々を連れてきたことからして罪深いことですが、さらにそのあとにつづくように他の人々を説得したことは犯罪です」(※1)

・・・ 身もふたもない。 この報告を読んだケムニッツ植民地協会のマックス・シューベルト会長はついに決断した。エリーザベトを新ゲルマニアから追放する!

■新ゲルマニアの黄昏
エリーザベトは計算高く、機を見るに敏だった。見込みがないなら、傷口が広がる前に撤収あるのみ!

タイミング良く、兄ニーチェの病状も悪化していた。兄の面倒をみるために、ドイツに帰らなければならない。エリーザベトにとって渡りに船だった。 そうと決めたら、エリーザベトの行動は早かった。家と土地を売っ払い、新ゲルマニアに別れを告げたのである。憤激した入植者の一団が追いかけてきたが、彼女は振り向かなかった。歩いて立ち去ったのである。1893年8月、エリーザベトはアスンシオンを出航し、パラグアイに二度と戻らなかった。

帰国後、1895年1月に、エリーザベトは、こんな弁解がましい記事を寄稿している。 「私には、別の仕事が私の時間とエネルギーを要求しています。たった一人の愛する兄、哲学者ニーチェの世話をすることです。兄の著作を守り、その人生と思想を記述しなければなりません」(※1) この発言は注目に値する。もし、この決断がなかったら、哲学者ニーチェが名声を得ることも、ナチスの教義がニーチェの哲理で正当化されることもなかったのだから。 新ゲルマニアであれだけの失敗をやらかし、ペテン師、大悪党と罵倒されてもどこ吹く風、誰が何を言おうが知ったこっちゃない。それが、鉄の心臓と小型原子炉をもつエリーザベトなのだ。

そもそも、新ゲルマニアは壮大にみえるが、本当は砂上の楼閣だった。イデオロギーという実体のない概念で組み立てられていたのだから。 結局、フェルスターは自殺し、エリーザベトは新しい人生を見つけた。ところが、新ゲルマニアの入植者は未だに地獄から抜け出せない ・・・ 誰がだまして、誰がだまされたかは明らかだ。

とはいえ、フェルスター夫妻は、詐欺師でも大悪党でもなかった。 ただ、自分の欲望に忠実だったのである。自己中と言われれば、それまでだが、ニーチェに言わせれば、己の欲望を直視し実行する「超人(オーヴァーマン)」なのだ。 こうして、新ゲルマニアは空中分解した。南米大陸を支配するアーリア人共和国にも、ドイツの第二の祖国にもならなかったのである。 ところが ・・・ 新ゲルマニア伝説はそれで終わらなかった。

新ゲルマニアは植民地として今も存続しているが、問題はそこではない。ナチスの戦犯ヨーゼフ・メンゲレがからんでいるのだ。 メンゲレは、ナチスドイツのマッドサイエンティストで、「死の天使」として怖れられた。アウシュヴィッツ第2収容所「ビルケナウ強制収容所」の主任医師として、数々の人体実験を行ったのである。

■メンゲレ伝説
メンゲレは、第二次世界大戦後、他のナチス高官同様、南アメリカに逃れた。南アメリカはドイツ人植民地が多く、ドイツ人に寛容だったからである。とくに、パラグアイはドイツとは馴染みが深かった。1888年にドイツ人植民地「新ゲルマニア」が建設され、1932年には、南アメリカ初のナチ党が結成されている。

メンゲレの逃亡は謎が多いが、定説によると ・・・ 1959年、パラグアイの市民権を獲得。その後、ノイローゼになってブラジルの片田舎に移り住み、1979年に水泳中に心臓発作で死亡。遺体は1985年に掘り出されて、国際的な専門家チームによって本人と確認された。 ところが、1991年、専門家の一人がサンパウロのエンブ墓地から掘り出された遺体はメンゲレでないと言いだしたのだ。こうして、メンゲレ伝説はよみがえった。しかし、最期はどうであれ、メンゲレが1980年頃まで生きて、パラグアイとブラジルにいたことは確かだ。であれば、メンゲレが新ゲルマニアにいたとしてもおかしくない。

1991年3月、イギリスの作家ベン マッキンタイアーは、100年前にエリーザベト夫妻が住んだ大邸宅フェルスターホーフの前に立っていた。現在の新ゲルマニアを取材するためである。その集大成が著書「エリーザベト・ニーチェ(※1)」だが、その中に、興味深い証言がある。 証言しているのは、現在の新ゲルマニアに暮らすドイツ人入植者だが、内容は驚くべきものだ。

「私は(新ゲルマニアで)メンゲレを目撃した」

と言っているのだから。もし、それが本当なら、メンゲレ伝説にあらたな一章が加わる。さっそく、その証言を紹介しよう。

【マグダレーナ・フィッシャーの証言】

1950年代に、ブラントと称する男が農機具を売りに植民地にやってきた。その男は医者でもあり、貧しいドイツ人の家族の面倒を見ながら、山の方へよく旅をしていた。子供たちにはとてもやさしかった。しかし、人とはつきあわず、その理由をせんさくする人もいなかった。そして、ブラントは1960年頃から姿を見せなくなった。ブラントの正体(メンゲレ)がわかったのはずっと後になってからだ。

【機械部品店を経営しているヘルマン・シュテルンの証言】

1979年に、フリードリヒ・イルクという男が植民地にやってきた。70才くらいで、髪はグレー、前歯が1本なかった。空軍のパイロットをやっていたそうだ。正真正銘のナチで、ヒトラーは誤解されていたんだ、といつも言っていた。小さな土地をもっていて、そこでせっせと働いていた。やがて、うつ病にとりつかれるようになった。とても神経質な男だった。いつも全然眠らないみたいで、朝方3時、4時でも、彼の小屋にはローソクの火が見えた。医学の本を何百冊ももっていて、いつもそれを読んでいた。 その後、イルクは頭がおかしくなって、アスンシオンの精神病院にいれられた。

1985年7月、イルクは自殺した。 2年後、ヘルマンは、メンゲレの死体発掘の新聞記事をみて、メンゲレの昔の写真を見た。その瞬間、メンゲレがイルクだと確信したという。ヘルマンによれば、イルクは食事のときのナイフの持ち方が独特で、鉛筆のように握っていた。メンゲレもそういう食べ方をしていたという。

もし、これが事実なら、1979年に水泳中に心臓発作で死亡し、埋められたのはメンゲレではない。 注目すべきは、ブラジルで死亡したとされる1979年が、イルクが新ゲルマニアにやって来た年と一致すること。つまり、メンゲレは1979年に、ブラジルで死を偽装し、パラグアイに逃れ、新ゲルマニアで第二の人生を送ろうとしたのかもしれない。 「あの男(イルク)はメンゲレだった。私にはわかるんだ」 とヘルマン・シュテルンは断言する。 マグダレーナ・フィッシャーはブラントがメンゲレだと言い、ヘルマン・シュテルンはイルクがメンゲレだと言う。だれもが自分なりのメンゲレ伝説をもっているわけだ。

ところで、彼らは新ゲルマニアの創始者、フェルスター夫妻のことを覚えているのだろうか? 世代は代わったが、伝説は語り継がれているという。 フェルスターは尊大な男だった。一方、エリーザベトは勇敢な女性だった。それに美しかった。彼女の魅力はおそろしく耐久力があることだった。 というわけで ・・・ 現在の新ゲルマニアでも、エリーザベトは鉄の心臓と小型原子炉を持った超人として語り継がれている。そして、新ゲルマニア伝説とはエリーザベト伝説のことなのである。

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
(※2)長澤和俊 著「世界探検史」白水社

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5. 2022年1月26日 02:43:21 : iX88sM1xeI : YklKUVBXVDRyTEk=[7] 報告
週刊スモールトーク (第285話) エリーザベト伝説T〜ニーチェブランドの創作者〜
カテゴリ : 人物歴史2015.04.25
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-285/


エリーザベト伝説T〜ニーチェブランドの創作者〜
■第二の人生
パラグアイのドイツ人植民地「新ゲルマニア」は崩壊寸前だった。

植民地の悲惨な状況が暴露され、入植する者がいなくなり、創設者のフェルスター夫妻でさえ植民地を去ったのだから。妻のエリーザベトは故郷のドイツへ、夫のベルンハルトは黄泉の国へと。もっとも、エリーザベトの場合は、去ったのではなく、追放されたのだが。

ところが、エリーザベトは落ち込まなかった。第二の人生を見つけたのである。兄ニーチェの著書を独占販売して金儲け!

兄の名声で金儲け? このバチ当たりが!

・・・ ではなく、事実はその逆。

じつは、現在に到るニーチェの名声は、妹エリーザベトのおかげだったのである。もし、エリーザベトがいなかったら、ニーチェは無名の学者で終わっていただろう。ニーチェが発狂した時点で、主要な著書はまだ発表されていなかったから。もっとも、その場合、「ナチスの協力者」という汚名を着せられることもなかったが。

それにしても、エリーザベトの頭の切りかえの早さ、変わり身の早さはどうだろう。

人生をかけたプロジェクトが失敗し、夫が自殺したのに、落ち込むこともなく、新しいプロジェクトに、打ち込めるのだから。一体どんな神経をしているのだ?

と、悪口をいう前に、彼女を見習うべし!

彼女の辞書には、後悔、悩み、ストレスなど、金にならない単語は登録されていないのだから、と、誉めているのか、けなしているのか、自分でもわからない。

というわけで、エリーザベトは、第二の人生に胸を膨らませて、ドイツに帰国した。彼女が、ナウムブルクの実家に帰ると、ニーチェは以前より大人しくなっていた。大声をあげることも、暴れたりすることもない。一日中、黙って、宙を見すえているのだ。

ところが、エリーザベトは、この”痛ましい姿”をお金に替えることを思いついた。

兄の心の病で金儲け?

あさましい! と責める前に、一体どうやって?

天才哲学者、狂気の世界へ、波瀾万丈の人生 ・・・

でも、そんなベタなやり方でうまくいく?

同情で気を惹いても、一過性の話題で終わるのは見えている。大衆は、飛びつきやすく、飽きやすいものだから。

ところが、エリーザベトはこの難儀なプロジェクトを成功させた。驚くべき手法で。

■ニーチェ・ブランド
エリーザベトの兄ニーチェは優れた哲学者だったが、自分が構築した哲理に押し潰されてしまった。勇ましい「超人思想」をぶち上げ、自ら実践した結果、心の病にとりつかれたのである。しかも、最も重い統合失調症に。老馬が御者に鞭打たれるのをみて、泣き崩れ、そのまま発狂したというから、ことは深刻だ。

ところが、エリーザベトはその「痛ましい姿」を「超人」に昇華させたのである。

どうやって?

「狂人=弱者」→「狂人=普通じゃない=超越的存在=超人」

目の覚めるようなコペルニクス的転回だ ・・・

でも、そんなカンタンにいく?

それが、うまくいくのだ。

じつは、狂人を超人にすり替えるのは難しいことではない。常識と論理を捨てればいいのだ。そもそも、正攻法で考えても、答えは見つからないから。

ではどうすればいい?

「神話」にすればいい。神話なら、なんでもアリだから。

ただ、エリーザベトが、論理的に考えて、この手法にたどり着いたとは思えない。そもそも、「自分が神話を作っている」ことにも気付かなかっただろう。彼女は筋道立てて考えるということができない。つまり、行動した結果、「ニーチェ神話」ができあがっていたのである。バカにしているのではない。天才だと言っているのだ。

じつは、天才エリーザベトには協力者がいた。彼女の側近のルドルフ・シュタイナーである。彼は詩人であり、詐欺師でもあったが、その才能を用いて、ニーチェをこう讃えた。

「ニーチェが、ひだのある白い部屋着に身を包んで横たわり、濃い眉の下の深くくぼんだ目を見開いて、バラモンのように凝視し、問いかけるような謎に満ちた顔をして、思索家らしい頭を獅子のように威厳に満ちて傾けるのを見れば、だれしも、この男が死ぬなどということはなありえない、この男の目は永遠に人類の上に注がれることだろう、という感じがするのだった」(※1)

だまされていはいけない。ここに書かれているのは、自分の身の回りの世話さえできない廃人なのだ。それが、シュタイナーの呪文にかかると、バラモン、獅子 ・・・ 超人?!

これほど見事に人をだませるのは、詐欺師しかいないだろう。

これが、言葉の力、宣伝の力、プロデュースというものなのである。

ところが、詐欺師、いや、協力者は他にもいたのだ。ニーチェの信奉者、ハリー・ケスラー伯爵である。彼は、慎重に言葉を選びながら、シュタイナーの主張を増幅させた。いわく、

「彼はソファーで眠っていた。その巨大な頭を右に傾けて垂れ、胸に沈めていた。まるで、重すぎて首では支えきれないかのようだった ・・・ 病人とか狂人というよりも死人のようだ」

そして、驚くべきことに、協力者は音楽界にもいたのである。

1896年、音楽家リヒャルト・シュトラウスが、ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」をモチーフに交響曲を書いたのである。曲名もそのまま、「ツァラトゥストラはかく語りき」。この楽曲は、スタンリー・キューブリックのSF映画のカリスマ「2001年宇宙の旅」に使われ、一躍有名になった。

こうして、ニーチェは正気を失った後、急速に名声を得ていく。もちろん、すべて、エリーザベトのおかげ。ニーチェは自分の身の回りのことさえできないのだから。

ここで、エリーザベトの名誉のため少しフォローしておこう。このままでは腹黒い守銭奴で終わりそうなので。

じつは、エリーザベトは腹黒い守銭奴ではなかった。彼女は、兄ニーチェが有名になるのを心底望んでいたのである。兄ニーチェを心から尊敬し、偉大な哲学者、預言者だとかたく信じていたから。だから、複雑な守銭奴なのである(フォローになったかな)。

とはいえ、エリーザベトは自分を有名にすることも忘れなかった。彼女はこう言い切っている。

「フリッツ(フリードリヒ・ニーチェのこと)には、どこかたぐいまれなところがあることを幼いときから見て取り、その確信を口にした、たった一人の女の肉親が、妹のこの私なのである」(※1)

さらに ・・・

エリーザベトは、ニーチェ本の編集にまで口を出した。

ちょっと待った、彼女は哲学を理解できるの?

ムリ。

エリーザベトの側近のルドルフ・シュタイナーによれば、

「(エリーザベトは)兄上の学説に関してはまったく門外漢だ ・・・ 細かな差異を、いや、大ざっぱであれ、論理的であれ、差異というものを把握する感覚が一切欠けているのだ。あの人の考え方には論理的一貫性がこれっぽちもない。そして、客観性というものについての感覚も持ち合わせていない ・・・ どんなことでも、自分の言ったことが完全に正しいと思っている」(※1)

やっぱり、ムリ。

ところが、エリーザベトの編集付きのニーチェ本は評判がよかった。というか、飛ぶように売れたのである。エリーザベトは哲学の素養も論理的思考も持ち合わせていなかったが、セリフのセンスだけは抜群だったのだ。

たとえば ・・・

新ゲルマニアはまがいもので、それを喧伝するフェルスター夫妻はペテン師だと、非難されたとき、エリーザベトは反論したが、返す刀で、反ユダヤ同盟を一刀両断にしている。反ユダヤ同盟は、夫のフェルスターと同じ反ユダヤ主義なのに、夫に資金援助をしなかったからである。

そのときのエリーザベトのセリフがふるっている。

「おお、反ユダヤ主義のみなさん、恥知らずにも、あなた方のもっとも理想的な指導者の一人を見捨てることが、あなた方の誠実さですか、勇敢さですか ・・・」(※1)

エリーザベトは哲学や論理は苦手でも、大衆をたぶらかす言霊(ことだま)には精通していたのである。

■エリーザベトの野望
狂人を超人に仕立て上げ、話題性を高め、本の販売数を増やして一儲けする ・・・ エリーザベトの野望はそんなものではなかった。もっと、大きな野望があったのである。

「ニーチェ・ブランド」の確立。

そのための最初のステップが「ニーチェ資料館」の設立だった。この資料館をニーチェ・ブランドの象徴にすえて、露出を増やし、有名にして、書籍以外の商売をもくろんだのである。

具体的には、ニーチェの著作(ワンソース)を、多角的に活用して、書籍以外の形態で収入を得る。これは、現在のデジタルコンテンツの最先端手法で、「ワンソース・マルチ展開」とよばれている。

つまり、エリーザベトは、100年未来の最先端手法を駆使していたのである。プロデューサーの訓練も受けていないのに、どうやって閃いたのだろう。

1894年2月2日、ナウムブルクの実家で「ニーチェ資料館」が開館した。ニーチェの著書、手紙、そのほか、ニーチェにまつわるあらゆるものが詰め込まれた。ここに来れば、ニーチェ・ワールドが堪能できるわけだ。

1897年4月20日、ニーチェの身の回りの世話をしていた母フランツィスカが他界した。エリーザベトは、これを機に、兄とニーチェ資料館をヴァイマルに移そうと考えた。ヴァイマルは、ドイツ古典研究の中心であり、ゲーテー、シラー、リストなど著名な文化人を輩出している。だから、ニーチェにふさわしい町だと考えたのである。

とはいえ、ヴァイマルで新しい資料館を開館するには大金が必要だ。それはどうしたのか?

ニーチェを崇拝する友人で、お金持ちのメータ・フォン・ザーリスが出した。そのお金で、ヴァイマルを見渡す丘の上にある豪壮なジルバーブリック館を買い取り、資料館に改造したのである。一階には、ニーチェの著書、手紙、日記、絵画が展示された ・・・ ところが、その横に、パラグアイ時代のエリーザベトにまつわる品々、ベルハンルト・フェルスターの胸像まで展示された。ニーチェ資料館、それとも、エリーザベト資料館?

ヴァイマルに新しいニーチェ資料館(ジルバーブリック館)が開館すると、ヨーロッパ中の知識人が押しかけた。悲劇の天才哲学者ニーチェの世界を堪能しようと。こうして、ニーチェの知名度は増し、著書は難解な哲学書にもかかわらず、売れ続けた。ニーチェの健康が悪化すると、さらに名声は高まり、本の販売数もうなぎのぼりだった。すべて、エリーザベトの思惑通り。

そして、いよいよ「ワンソース・マルチ展開」の大攻勢が始まる。

1898年10月に、アルノルト・クラーマーが「椅子にすわる病めるニーチェ」と題する彫像を製作した。もちろん、アートとして。それを見たエリーザベトは閃いた。これで一儲けできる!

クラーマーの彫像をテンプレートにして、サイズの違うレプリカを製造・販売したのである。居間や書斎に飾れば、最強の知的オブジェになるし、いっぱしの哲学者気分にもひたれる。実際、このレプリカは飛ぶように売れた。エリーザベトの商売上手には脱帽だ。

1900年8月25日、ニーチェは風邪をこじらせて、あっけなく死んだ、まだ、55歳だった。

エリーザベトはこの機会を逃さなかった。「ニーチェの死」が下火になる前に、ジルバーブリック館を大改装し、「ヴァイマルにニーチェあり!」を大々的にPRしたのである。

ところが、エリーザベトの野望はこんなものではなかった。

この頃、毎年、バイロイトでワーグナー歌劇祭(バイロイト音楽祭)が開催され、多くの知識人が訪れていた。そのため、バイロイトはドイツ文化の中心の感があった。

そこで、エリーザベトは「ニーチェのヴァイマル」を得意の宣伝でピカピカに飾り立て、「ワーグナーのバイロイト」を蹴落として、ドイツ文化の中心にすえようとしたのである。

■力への意志
さらに ・・・

エリーザベトは、ニーチェの著書を売るだけでは満足しなかった。なんと、ニーチェの未完の書まで出版したのである。

ニーチェは死んでいるのに、どうやって?

じつは、ニーチェのメモを理解できる人物が一人だけいた。ニーチェの信奉者で、親友のペーター・ガストである。そこで、エリーザベトはガストを再雇用した。

ガストは、ニーチェが書いたり、棄てたりした、試行錯誤の産物を継ぎはぎして、一冊の本を創りあげた(恐ろしいことにエリーザベトの指示に従って)。この怪しげな本は「権力への意志」と命名され、1901年にドイツで出版された。そして、ニーチェの代表作の一つになったのである。

しかし、忘れてはいけない。ニーチェは「権力への意志」という本は書いていない。書いたのはエリーザベトとその仲間なのだ。

とはいえ、この本がニーチェの哲理から大きく逸脱しているとは思えない。

なぜなら、エリーザベトにそんな創造力はないから。

この本に登場する「力への意志」は、ニーチェ哲学の根本をなす概念で、人間が高みを目指す力の源を意味している。この言葉は、ニーチェの代表作「ツァラトゥストラはかく語りき」に初めて登場し、超人思想やルサンチマンの土台となった。

というわけで、エリーザベトは、ニーチェの未完の書までお金に替えたのである。まるで、ギリシア神話のミダース王ではないか。触ったものすべてを黄金に変えるのだから!

こうして、ニーチェが死んだ後も、エリーザベトはこの世の春だった。ニーチェの著作で実入りはいいし、寄付を申し出る奇特な金持ちも後を絶たなかったから。

その中の一人が、スウェーデンの銀行家エルネスト・ティールだった。ある日、彼からエリーザベトに一通の手紙が届いた。寄付の申し出なのだが、金額がハンパではない。彼はニーチェの熱烈な崇拝者だったのである。

エリーザベトにとって、願ったり叶ったり、ところが、一つ問題があった。エルネスト・ティールはユダヤ人だったのである。エリーザベトは極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたからと、わざわざ、遠路パラグアイまで行って、アーリア人植民地を建設したのだから。

そんなわけで、ユダヤ人から寄付は受け取れません! ・・・ なら、いさぎよかったのだが、そうはならなかった。1907年9月、エリーザベトは30万ライヒスマルクを受け取ったのである。その後も、エリーザベトは、お金が必要になると、ティールに無心するのだった。それでも、ティールは文句一つ言わず、お金を出し続けた。30年間の寄付の総額は数十万マルク。もちろん、エリーザベトは、気がとがめることもなく、すべてを使い切った。

なんという女 ・・・ いや、待てよ、むしろ、いさぎよいのではないか?

「ニーチェ・ブランド」という大義ために、偏屈な人種差別を我慢したのだから。

ノンノン、そうではない。

エリーザベトの反ユダヤ主義は、単に日和見的なものだったのだ。後に、エリーザベトはこのユダヤ人富豪が大好きになり、家族ぐるみで付き合うようになったのだから。

《つづく》

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)

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6. 2022年1月26日 02:44:24 : iX88sM1xeI : YklKUVBXVDRyTEk=[8] 報告
週刊スモールトーク (第286話) エリーザベト伝説U〜ドイツ革命〜
カテゴリ : 人物歴史2015.05.09
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-286/


エリーザベト伝説U〜ドイツ革命〜
■第一次世界大戦
1914年7月28日、第一次世界大戦が始まった。

アーリア人至上主義、国粋主義、菜食主義に凝り固まったエリーザベトは血をたぎらせた。さっそく、気合いの入った論文を新聞に寄稿している。

「ツァラトゥストラは立ち上がれ、戦えという、ドイツ人への大いなる呼びかけである。すべてのドイツ人の中に、戦士が息づいている」

「ツァラトゥストラ」は、哲学者ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」に登場する主人公で、「超人」の象徴である。

つまり、
1.ツァラトゥストラは超人である。
2.ツァラトゥストラはドイツ人に宿る。
3.ゆえに、ドイツ人は超人である。

こんなベタな三段論法で、国民をそそのかしたのである。とはいえ、このような煽動は、ドイツ政府にとっても好都合だった。超人が戦争に負けるはずがない、たとえ、それが信じられなくても、国民の戦意ベクトルは増大するだろうから。

そこで、ドイツ政府はニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」を前線の兵士に配布することにした。結果、「ツァラトゥストラはかく語りき」は大ベストセラーになり、版元のエリーザベトは大儲けだった。さすがはエリーザベト、商売上手ですね!

とはいえ、「ツァラトゥストラはかく語りき」を著した本人のニーチェは、草葉の陰で泣いていたことだろう。

ニーチェの高邁な哲理が、戦争のプロパガンダと金儲けに利用されたのだから。実際、このプロパガンダ本は、1914年から1919年にかけて16万5000部も売れた。今の日本で、3万部売れればベストセラーなので、「爆買い」ならぬ「爆売れ」である。

戦争まで商売に利用するとは、一体どういう性根なのだ!と憤慨する前に ・・・ じつは、エリーザベトは、本気で戦争に興奮していたのである。金儲けと戦争のどっちが大事だったかは、今となっては知る由もないが、この場合、大した問題ではないだろう。

戦争によほど興奮したのだろう、エリーザベトはこんな寄稿もしている ・・・

「神の正義とドイツ国民の優れた力とは、この巨大で邪悪な嵐に打ち勝つことを我々に許すのだ。かくして、我々は多大の痛ましい犠牲は払ったものの、ドイツが伝説の英雄にして勝者となって、このまことに困難な時を乗り切るであろうことを、神とともに確信することができるのである」(※1)

何が言いたいのかサッパリだが、

「戦って死んでね、きっと、いいことあるから」

ぐらいの話だろう。

ところが、ドイツ兵がいくら死んでも、いいことはなかった。

ドイツは戦争に負けたのである。

■背後からの一突き
1918年11月10日早朝、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、全財産を特別列車に詰め込んで、オランダにトンズラした。国の最高指導者がイの一番に逃亡するのはいかがかと思うが、もっと大きな問題があった。残されたドイツである。上を下への大混乱に陥ったのである。

戦後のドイツは、君主制から共和制に移行し、国名も「ドイツ帝国」から「ヴァイマル共和国」に変わった。初代大統領は社会民主党のフリードリヒ・エーベルト、つまり、「社会主義革命」が起こったのである。この政変は「ドイツ革命(11月革命)」とよばれるが、日本では意外に知られていない。「フランス革命」は有名なのに、不思議な話だ。

ちなみに、エーベルトは元馬具職人だった。これに驚愕したのがドイツ国民である。ドイツ帝国の輝けるホーエンツォレルン王朝が一夜にして消滅し、馬具職人あがりの社会主義者が政権をとったのだ!

さらに、驚愕を超えて憤怒したのが、エリーザベトだった。彼女は、極めつけの保守主義者で、どこの馬の骨ともわかない馬具職人(かけことば?)が国家元首になるのが我慢ならなかったのである。

エリーザベトは、ドイツ国民にむかってこう訴えた。

「社会主義者が、勇敢なドイツ兵士たちを背後から刺したのだ!」

さらに、首相のマックス・フォン・バーデン公に戦争続行を訴える手紙を書き送った。ヴェルサイユ条約のような屈辱を受け容れればドイツは二度と立ち上がれないと。

とはいえ、ドイツ革命の引き金は、キール軍港のドイツ水兵の反乱である。戦争が嫌で反乱を起こしたドイツ兵を、どうやって戦場にもどすのだ?

こんなエリーザベトの行状を憂いだ人物がいた。ニーチェの崇拝者、ハリー・ケスラー伯爵である。彼は日記にこう書いている。

「この老婦人(エリーザベト)は、70代になってもなおハイティーン娘で、あの男にこの男にと、17才の少女のようにお熱をあげてしまうのだ」(※1)

ちなみに、「背後の一突き」は、歴史的名文句となった。つまり、エリーザベトの言い分は、あながち的外れというわけではなかったのだ。

事実、この時代、大多数のドイツ国民はこう考えていた ・・・

ドイツは戦いに負けたのではない。社会主義の連中とユダヤ人どもが、卑怯にも背後からとどめを刺したのだ!

さらに、社会主義者たちはもう一つの汚名も着せられた。

「11月の犯罪者たち」。

1918年11月11日、パリのコンピエーニュの森で、第一次世界大戦の休戦条約が締結された。「休戦条約」とは聞こえはいいが、ドイツの「敗戦条約」である。しかし、問題はそこでははない。条約に署名したドイツ側の代表は、社会主義ドイツ「ヴァイマル共和国」のマティアス・エルツベルガーだったのである。つまり、「背後の一突き」の主犯。そこで、社会主義者たちは調印式の「11月11日」をとって、「11月の犯罪者たち」とよばれたのである。

皇帝の戦争の後始末をさせられた挙げ句、これでは浮かばれない。

■エリーザベトの破産
こうして、エリーザベトはムカツク毎日を送っていたが、1923年、さらにムカツク事件がおこる。この頃、ドイツはハイパーインフレが進行し、マルクが通貨としての用をなさなくなっていた。

1923年の為替レートを見てみよう。
・6月:1ドル=100万マルク
・8月:1ドル=500万マルク
・10月:1ドル=10億マルク
・11月:1ドル=4兆2000億マルク

マルクがドルに対し大暴落しているのがわかる(5ヶ月で42万分の1)。輸入物価が暴騰するのはあたりまえ。1ドルの輸入品を買うのに支払うマルクが、
「100万マルク→500万マルク→10億マルク」
とつり上がっていくのだから。

じつは、2015年の日本も、同じトレンドにある。政府が円安に誘導し、輸入物価が上がり、国内品の物価も上昇基調にあるのだ。

もっとも、日本の場合は、
・2011年10月:1ドル=75円
・2015年5月:1ドル=120円

4年間で「40%」の下落なので、大したことはない。1923年のドイツの「42万分の1」にくらべれば。

ちょっと待った!大事なことを忘れている。

1923年のドイツがどうであれ、ドルベース(世界基準)で円資産が40%も目減りしているのだ!インフレと円安から財産を守る手を打たないと、気が付いたら、財産が半減していたなんてことになりますよ。

話を1923年のマルクにもどそう。

11月15日、ドイツ政府は無価値になった「マルク」を廃止し、新通貨「レンテンマルク」を採用した。

これに仰天したのがエリーザベトである。それはそうだろう。80万ゴールドマルクにのぼるニーチェ基金が紙切れになったのだから。しかし、究極のプラス志向人間、エリーザベトはこう考えた ・・・ お金なんか、どこかのカモに、貢がせればいいのだ、ドンマイ、ドンマイ。

カモ?

ニーチェの崇拝者のこと。

事実、エリーザベトは「カモ」を取っ替え引っ替え、たくましく生き抜いたのである。

その中の一人が、ガブリエーレ・ダンヌンツィオだった。

ダンヌンツィオは、イタリア・ファシズムの先駆者で、独裁者ムッソリーニにも影響を与えた出来物である。もっとも、本業は詩を書くことで、ニーチェを讃える詩を書いてエリーザベトに捧げた。

さらに ・・・

1908年、先のムッソリーニが、ニーチェの「権力への意志」を読んで感銘をうけ、エッセイ「力の哲学」の中で大いに讃えた。いわく、

「ニーチェは、19世紀最後の4半世紀で最も意気投合できる心の持ち主だ」

エリーザベトの照準がムッソリーニに向けられたことは想像に難くない。あとは、実弾を発射するのみ。その機会は20年後に訪れた。ムッソリーニが大出世したのである。

1929年2月11日、すでに、イタリアの政権をとっていたムッソリーニが、ローマ教皇とラテラノ条約を締結したのである。この条約の締結は、ムッソリーニの名声とカリスマをいやが上にも高めた。イタリア王国とローマ教皇庁の69年続いた対立「ローマ問題」を解決したからである。

ラテラノ条約により、ローマ教皇庁のあるエリアが「バチカン市国」としてイタリアから独立した。さらに、カトリックがイタリアで特別の宗教であることも認められた。そのかわり、ローマ教皇庁は対外的には中立であること、イタリア国内の政治に口出ししないことが定められた。

エリーザベトはこの機を逃さなかった。さっそく、ベルリンのイタリア大使に宛てて、こんな手紙を書いている。

「私は、もはや、閣下にムッソリーニ首相への私の全身全霊からの賞賛の意を表さずにはいられません ・・・ 首相閣下はヨーロッパばかりでなく全世界の卓越した政治家であられますが、その尊敬すべき偉大な首相の行動力のうちに、いくばくかのニーチェ哲学が潜んでいることを見いだすことができましたことを、私はまことに誇りに存じております」(※1)

なんとも卑屈な文面だが、「ニーチェ哲学が潜んでいる」と手前ミソな文言を混入することは忘れていない。さすがはエリーザベト。

とはいえ、先のケスラー伯爵に言わせれば ・・・ 「また、新しい男を見つけてお熱を上げた」。

つまり、詩人であれ、ファシストであれ、聖人あれ、悪党であれ、ニーチェを讃える者は、すべて、エリーザベトのカモなのだ。

ちょっと言い過ぎたカモ。

くだらないシャレはさておき、エリーザベトの財政難はどうなったのだろう?

マルクが紙切れになり、ニーチェ基金が空になったのだから、ジルバーブリック館(ニーチェ資料館)の維持はムリだし、贅沢な暮らしもおしまい。というのも、これまでの大スポンサー(大カモ)のエルネスト・ティールが破産寸前だったのである。

■新たなスポンサー
エリーザベトは痛感した。

どんな金持ちでも、個人には限界がある。長期間、安定して、資金援助できるのは巨大な組織のみ、たとえば政党、できるなら政権政党がいい。国家権力の保護を受けるのだから、これに優るものはない。

そこで、エリーザベトが目を付けたのが ・・・ なんと、ナチスだった。

悪魔に魂を売った老婆!と弾劾されそうだが、事実は少し違う。

元々、ナチスとエリーザベトは似た者同士だったのである。

ナチスの教義は、反ユダヤ主義、アーリア人至上主義、全体主義、侵略主義 ・・・ どれをとっても人の道にはずれたものだが、エリーザベトもその熱烈な信奉者だったのである(日和見的ではあったが)。つまり、ナチスを悪魔というなら、エリーザベトも同類で、断じて、魂を売ったわけではない。

誉めているのか、けなしているのか ・・・ まぁ、どっちでもいいだろう。

ところが、この頃のナチス(ナチ党)は、政党の体をなしていなかった。演説も、ビヤホールで、酔っぱらい相手に、共和国政府と外国(特にフランス)を口汚くののしるだけ。

さらに、驚くなかれ、この頃、ナチ党の党首アドルフ・ヒトラーはムショ暮らしだった。クーデター(ミュンヘン一揆)に失敗し、刑務所に拘置されていたのである。

ナチ党は、与太者やゴロツキの集まりで、いわゆる烏合の衆だった。そこへ、親分のヒトラーが戦線離脱したものだから、党は大混乱。内部分裂をおこし、権力闘争にあけくれていた。1925年、ヒトラーが釈放されて、ナチ党を再結成したものの、国会の議席数は「14」。一方、第一党の社会民主党は「150」。これで、どうやって政権をとるというのだ?

ところが、1929年10月24日、ウォール街で株が大暴落すると、世界大恐慌が発生した。世界にとっては災難だったが、ナチ党には恵みの雨だった。ナチ党が大躍進し、ヒトラー内閣が誕生する原動力になったのだから。

じつは、世界大恐慌で最もダメージをうけたのはドイツだった。すでに、ハイパーインフレと大量失業で国は破綻寸前だったのに、未曾有の大不況が襲いかかったのだ。弱り目に祟り目とはこのことだろう。

こんな食うや食わずの状況で、平和や協調を訴えたところで、カエルの面にションベン。そこで、ナチ党は、敵をでっちあげて、猛攻撃し、大衆の怒りに火をつけたのである。「怒り」はどん底で生き抜く最良の栄養源なのである。

そんなナチ党の成長を、エリーザベトは注意深く見守っていた。

ナチ党は信条的には、エリーザベトのお仲間である。だから、ナチ党に取り入れば、資金援助を引き出せるかもしれない。そうなれば、昔のように、ジルバーブリック館をピカピカに飾り立て、エリーザベト自身も贅沢な暮らしができるというわけだ。

そのための条件は二つ。ヒトラー内閣が成立すること、政権内部にコネをつくること。

それを、エリザーベトは虎視眈々と狙っていたのである。

そして、そのときが、ついに来る。ヒトラーが政権をとったのである。しかも、合法的に。

それは、歴史の方程式が創り出した必然ではなかった。俗物図鑑から抜け出てきたような俗物どもが、私利私欲をぶつけ合ってできた産物、つまり、予測不可能な歴史だったのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
(※2)「ヒトラー全記録 20645日の軌跡」 阿部良男 (著) 出版社: 柏書房

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7. 2022年1月26日 02:45:17 : iX88sM1xeI : YklKUVBXVDRyTEk=[9] 報告
週刊スモールトーク (第287話) エリーザベト伝説V〜ヒトラー内閣誕生の謎〜
カテゴリ : 人物歴史2015.05.16
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エリーザベト伝説V〜ヒトラー内閣誕生の謎〜
■世界大恐慌とナチス
ナチ党(ナチス)が政権をとって、ヒトラー内閣が誕生する ・・・ などというのは荒唐無稽のSF小説のようなものだった。少なくとも、1932年までは。

1928年5月20日、第4回国会総選挙の結果を見ると、
1.社会民主党(153):穏健な左派
2.国家人民党(78):保守的な右派
3.中央党(61):カトリック系の中道派
4.共産党(54):過激な左派(ナチ党と社会民主党の天敵)
5.人民党(45):リベラルな右派
6.民主党(25):リベラルな左派
7.ナチ党(12):国家社会主義(民族主義×全体主義×侵略主義)
※()内は議席数。

ナチ党は第7位で議席数は「12」、第一党の社会民主党は「153」。これで、どうやって政権をとるのというだ?

このまま、世界が推移していれば、ナチ党は過激な発言で世間を騒がすゴロツキ政党で終わっていただろう。その場合、「ヒトラー内閣」は誕生しないので、第二次世界大戦が勃発する確率は激減する。

ところが、1929年の世界大恐慌がすべてを台無しにした。

この頃、ドイツは第一次世界大戦の敗戦で、莫大な賠償金を課せられ、マルクが暴落し、輸入物価は暴騰していた。しかも、深刻な物不足でハイパーインフレが発生し、コーヒーを注文して飲み終わると値段が2倍!というウソのような世界だった。

さらに、10年続いた大不況で、企業や農場が次々に閉鎖され、国中に失業者があふれていた。

そこへ、世界大恐慌が直撃したのである。インフレに持ちこたえていた唯一の金融資産「株」が暴落し、経済は完全に破綻した。異次元の大不況が発生し、1928年に「130万人」だった失業者は、1932年末には「600万人」に膨れ上がった。このときの失業率は「40%」、労働者の半分が失業したのである。

ところが、政府の失業対策は雀の涙のようなものだった。失業手当がもらえるのは、申請者の10人に1人、それもわずか6週間だった。それが過ぎると、福祉団体のスープ配給所に行くよう指示されたのである。この頃、ドイツの国民食は「塩漬けのニシンに家庭菜園のジャガイモ」というつつましいものだった。

そんな中、ナチ党が掲げたのが「ヴェルサイユ条約の破棄」だったのである。ところが、初めから、ドイツ国民が諸手を挙げて賛同したわけではない。

「ヴェルサイユ条約」は、ドイツの植民地をすべて取り上げ、莫大な賠償金を課し、軍備まで制限していた。屈辱的だが、条約を破棄すれば、連合国との協調が壊れ、国際的に孤立する。それを怖れたのである。

とはいえ ・・・

2人に1人が失業しているのに、協調や孤立やら悠長なことを言っていられない。こうして、ドイツ全体が「ヴェルサイユ条約の破棄」に傾いていく。もちろん、それはナチ党の躍進を意味していた。

それに拍車をかけたのが、ヒトラーの巧みな演説だった。彼の演説は独善的で教条的だが、カンタンで分かりやすい。しかも、核心を突く。

たとえば ・・・

1935年5月1日、テンペルホーフ飛行場でのヒトラーの演説 ・・・

「我々は一体何をもっているか?一平方キロに137人の人口がある。しかも、植民地はまったくない。原料もない。外国為替も資本もない。あるものといえば、過重な負担、犠牲、課税、そして低賃金ではないか。我々は何をもっているか?ただ一つのものしかもっていないのである。それは我が国民である」(※2)

ヴェルサイユ条約が我々を破滅に追い込んでいる。だが、私にはドイツ国民がいる ・・・ 国民がどう思うかは明らかだ。

そもそも ・・

ドイツ国民は、「第一次世界大戦の全責任はドイツにある」というヴェルサイユ条約の前提に反発していた。しかも、この条約で、ドイツ陸軍は10万人に制限され、飛行機も戦車も持てないのだ。警察に毛が生えた程度の兵団では、敵軍に攻め込まれたらひとたまりもない。デモ隊ぐらいならなんとかなるだろうが。

だから、「ヴェルサイユ条約破棄」が国民に支持されるのはあたえりまえ。

さらに、ヒトラーは、国民が最も望んでいることも約束した。失業をなくすこと。実際、ヒトラーは「失業ゼロ」を最大の公約にしていた。

1929年9月28日、国家人民党のフーゲンベルクは、「解放案」を政府に提出した。国家人民党は保守派の代表格で、社会民主党に次ぐ大政党である。

ところが、内容は小野党のように過激で挑発的だった。
1.ヴェルサイユ条約の戦争責任および一切の賠償金支払い義務を撤廃すること。
2.ドイツの披占領地区から、連合軍は即時撤退すること。
3.諸条約に署名したドイツ政府の大臣もしくは代表者を、反逆罪で処罰すること。

ナチ党が言い出しそうなことではないか!

ところが ・・・

この案を起草したのはナチ党のヴィルヘルム・フリックだった。というのも、国家人民党は反リベラル、反社会主義という点でナチ党のお仲間だったのだ。ちなみに、国家人民党は後にナチ党に吸収されている(国家人民党首フーゲンベルクはためらっていたが)。

こうして、1929年の世界大恐慌を境に、ナチ党の支持者が急増していく。この年の12月末には、ナチ党員は17万6426人、ナチ党の私兵「SA(突撃隊)」は10万人に達した。

ナチ党の私兵? SA(突撃隊)?

SA(突撃隊)は、ナチ党の政治集会を警備する目的で創設されたが、実質は党の軍隊だった。

それが、10万人?

ここで、先のヴェルサイユ条約を思いだそう。ドイツに許された陸軍は10万人。つまり、ナチ党の私兵団はドイツ陸軍と同数だったのである(装備は国軍が上だったが)。さすがはナチス、政府やライバル政党に無言の圧力をかけるため、武力まで用意していた?

そうではない。

当時のドイツは、政党が私兵団をもつのは”普通”だったのである。

たとえば、
・ナチ党:SA(突撃隊)
・国家人民党:鉄兜団
・社会民主党:国旗団
・共産党:赤色戦線闘争団

ちなみに、SA(ナチ党)と赤色戦線闘争団(共産党)の路上の乱闘騒ぎも”普通”だった。

■ナチス12議席から第一党へ
1929年の世界大恐慌に始まり、1931年のドイツの金融恐慌を経て、1932年末の「失業率40%」で、失業者はこぞってナチ党の支持に回った。

ところが、ナチ党に加担したのは失業者だけではなかった。大企業の社員や公務員までがナチスに票を入れたのである。彼らは職を得ていたが、至る所で「失業」と「貧窮」を目にしていた。そこで、明日は我が身かも ・・・ と不安に駆られたのである。その漠然とした不安がナチ党の躍進を後押ししていた。

ヒトラーは、それを見逃さなかった。

彼は、国難にあって、無為無策の共和国政府、ドイツの富を奪い、名誉を踏みにじった冷酷な連合国、この二つの忌まわしい災厄を、一刀両断にしたのである。彼はいつでもどこでも、国民の側に立っていた。上から目線ではなく国民の目線で訴えたのである。彼は、高みに立つ皇帝でも大統領でもない、国民と同じ場所に立つ頼れる護民官なのだ。

そして、その護民官が目指したのは「大ドイツ帝国」の復興だった。ドイツ国民はそれに賭けたのである。

その結果 ・・・

ナチ党は、1928年の「12議席」から、4年後に「230議席」を獲得し、第一党に上りつめた。そして、翌年には、ヒトラー内閣が誕生したのである。

2015年の日本に当てはめると、4年後に、社民党や共産党が政権をとるようなもの。もちろん、このようなイベントが、歴史の方程式に従って、理路整然と生まれたわけではない。

では、どうやって生まれたのか?

これまで、歴史学では、歴史はいかにして作られるかが論じられてきた。原因と結果の因果律が作るという「決定論」。そして、「個人と偶然」が作るという「偶然論」である。本来、この二つは異質なロジックなので、どっちが正しいか論じることは不毛。とはいえ、歴史学では「決定論」が優勢である。たとえば、「歴史の必然性」を著したイギリスのアイザイア・パーリンは「決定論」を「個人の力」で変えることはできないと言い切っている。

とはいえ、「ヒトラー内閣」のようなレアなイベントは、「個人と偶然」で説明するのが手っ取り早い。実際、この歴史は、超がつくほど個性的なキーマンの産物だった。あのヒトラーでさえ影が薄くなるような ・・・

ニーチェの言う「超人」?

ノー、俗物。

ではさっそく、その俗物キーマンを紹介しよう。

第一のキーマンは、ドイツのヒンデンブルク大統領。ドイツ(ヴァイマル共和国)の国政の最高責任者は首相だが、首相の任命権は大統領にあった。しかも、大統領は、閣僚の任命権、国会の解散の決定権を有し、内乱などの非常時には国民的諸権利を停止し、軍を動員することができた。

帝政とどこが違うのだ?

皇帝がいないこと。

もっとも、大統領は疑似皇帝のようなものだが。

じつは、ヒンデンブルクは生粋の政治家ではない。軍人出身で、第一次世界大戦でロシア軍を破った英雄である。しかも、生まれも育ちも貴族。であれば、ガチガチの保守主義者、権威主義者をイメージするが ・・・ ビンゴ。実際、ヒンデンブルクは、民主主義も平和主義も大嫌いだった。信じがたいことに、彼は国民も政治家も信用せず、軍だけを信頼していたのである。

第二のキーマンは、クルト・フォン・シュライヒャー。軍人出身だが、政治的陰謀が大好きで、「政治将軍」の異名をとった。ヒンデンブルク大統領の信任が厚いのをいいことに、やりたい放題。自分が出世することしか頭になく、ドイツの未来など二の次という超俗物だった。しかも、偏屈で、根に持つタイプで、やり方がエゲツなかった。そのため、支持者といえるのはヒンデンブルクと軍人時代の部下ぐらいだった。

第三のキーマンは、フランツ・フォン・パーペン。彼も軍人出身だが、特技は乗馬だけという、何の取り柄もない男だった。じつは、特技以前に、知能の低さが取り沙汰されるほどだった。しかも、不誠実で野心家というから、極めつけの俗物である。

ではなぜ、こんな男が、混乱の時代にキーマンになれたのか?

貴族出身で、金持ちの娘と結婚したから。それに、ヒンデンブルク大統領の覚えもめでたかった。では、英雄ヒンデンブルクが、なぜ、こんな小者をひいきにしたのか?

パーペンが仲間を裏切って、ヒンデンブルクについたから。

パーペンは、中央党に属していたが、1925年の大統領選挙で、中央党の候補マルクスではなく、ヒンデンブルクを支持したのである。あまりの無節操さに、中央党から除名されそうになったが、カネにものいわせて、難をまぬがれていた。

ここで、ヒトラーもキーマンに入れるべきなのだが ・・・ 入れていいものやら。というのも、この物語の主役はシュライヒャーとパーペンなのである。この二人の個性の強さはどん引きもので、ヒトラーの影が薄くなるほど。しかも、彼らは犬猿の仲、かつ天敵で、熾烈な権力闘争を繰り広げたのである。その結果 ・・・ ひょうたんから駒、それが「ヒトラー内閣誕生」だった。

そこに至る歴史は、ドンデン返しに次ぐドンデン返し、まさに、真実は小説より奇なり。

では、その驚くべき歴史を紹介しよう。

■パーペン内閣
世界大恐慌が始まって、3年後 ・・・

ドイツ(ヴァイマル共和国)は混乱の極みにあった。経済システムは破壊され、国民生活は破綻し、政権は目まぐるしく交代した。

当時のドイツの有力な政党は、
1.社会民主党(左派)
2.国家人民党(右派)
3.中央党(中道)

の3党だったが、いずれも単独過半数にはとどかず、合従連衡をくりかえしていた。

1932年5月30日、中央党を核とするブリューニング内閣が瓦解した。世界大恐慌の対応に失敗したのである。じつは、ブリューニング内閣の仕掛人は第二のキーマン、シュライヒャーだった。彼は次期内閣も自分が取り仕切ろうと画策していた。首相の任命権はヒンデンブルク大統領が握っていたが、シュライヒャーはその側近中の側近だったのである。

ブリューニング内閣崩壊後、シュライヒャーが首相に推した人物は ・・・ なんと、パーペンだった。なぜ、犬猿の仲、天敵のパーペンなのか?

この頃、シュライヒャーは、パーペンは頭が弱いのでカンタンに操れると考えていたのだ。実際、シュライヒャーの周囲からはこんな声が上がった。

「パーペンは人の上に立つ器ではない。どうして、あんな者を推すのか?」

これに対し、シュライヒャーはこう答えたという。

「そんなことは百も承知だ。あいつに人の上に立たれては困るんだ。彼は帽子みたいなもんだからね」

こんな身もフタもない理由で、1932年6月1日、パーペン内閣が成立したのである。ただし、すべてシュライヒャーの力というわけではない。ヒンデンブルク大統領が個人的にパーペンを気に入っていたのである。保守主義、貴族主義、権威主義のお仲間だったから。

一方、黒幕のシュライヒャーは国防相に就任した。フィクサーとして、パーペン内閣を影から操ろうというのだ。ちなみに、この内閣は、閣僚9人のうち7人が貴族出身者だった。メディアからは「男爵内閣」と揶揄され、国民の人気も最低だった。口の悪いナチ党のゲッベルスに言わせれば、

「ブルジョア的な与太者内閣」

言い得て妙、さすがナチ党の宣伝担当。

さらに、他の政党からは、嫌われるか、バカにされるか、無視されるか、支持者は皆無で、世にも希な不人気内閣だった。

ところで、パーペンの所属する中央党はどうしたのだ?

じつは、数々の裏切り行為によって、パーペンは中央党から除名されていたのである。

ところが ・・・

ヒトラー率いるナチ党だけは、内閣批判を控えていた(支持はしていない)。

なぜか?

ヒトラーとパーペンは裏取引をしていたのである。ナチ党はパーペン内閣を批判しない、そのかわり、パーペンはナチ党に2つの便宜を図る。

一つ目は、当時、ナチ党のSA(突撃隊)が数々の暴力沙汰で、禁止命令を受けていたが、それを解除する。二つ目は、国会を解散する。ヒトラーは、今、国会を解散し、総選挙に持ち込めば、第一党になれると踏んでいたのである。

とはいえ、ヒトラーはパーペンにベッタリというわけではなかった。彼はパーペンから入閣を要請されたが、拒否している。不人気なパーペン内閣に与し、ナチ党のイメージが悪化するのを怖れたのである。つまり、つかず離れず。一方、ナチ党のゲッベルスは、この「ブルジョア的な与太者内閣」と一刻も早く手を切るべきだと考えていた。

1932年6月2日、パーペンは、首相就任宣誓で国会解散を要求した。6月4日、ヒンデンブルク大統領は議会に解散を命じ、総選挙が決まった。さらに、SA(突撃隊)の禁止命令も解除された。パーペンはヒトラーとの約束を守ったのである。

1932年7月31日、総選挙の結果、ナチ党は第一党にのぼりつめた。改選前の107議席から230議席と急伸したのである。得票率は37.4%で、過半数にはおよばなかったものの、正真正銘の第一党。これで、ヒトラー内閣誕生!?

そうはならなかった。

首相を任命するヒンデンブルク大統領がヒトラーが嫌いだったから。

ヒンデンブルクは貴族主義と権威主義と保守主義の権化で、ヒトラーのような、出の悪い、学のない、成り上がり者を蔑んでいた。だから、初めから、ヒトラー内閣の芽はなかったのである。とはいえ、国民が選んだ第一党のナチス党から入閣させないと、国民が不満をもつ。

そこで、パーペンはナチ党に閣僚のポストを提供することにした。ところが、ヒトラーはこの申し出を断った。首相以外は受けない、と言い放ったのである。

1932年8月5日、今度は、シュライヒャーがヒトラーと面会し、副首相として入閣するよう求めた。しかし、結果は同じだった。そこで、シュライヒャーはヒトラーを首相にするようヒンデンブルクに提言したが拒否された。

8月13日、このドタバタに業を煮やしたヒンデンブルクは、ヒトラーと会談し、副首相になるよう求めた。ところが、ヒトラーは「首相以外は受けない」を繰り返すばかりだった。

そこで、パーペンは大きなニンジンをぶら下げた。もし、ヒトラーが副首相として入閣するなら、その後に首相の地位を譲ってもいい ・・・ ところが、それでもヒトラーは首を縦に振らなかった。

普通の政治家なら、乗ってしかるべき譲歩案なのに、ヒトラーはなぜ拒否したのか?

副首相という「ナンバー2」に甘んじたら最後、国民は、ナチ党を妥協的で日和見的とみなすだろう。だから、完全無欠の「ナンバー1」か、それとも、「ゼロ」かの二択。

芝居がかった美学を好むヒトラーの考えそうなことだ。

こうして、政府首脳とナチ党の会談は決裂した。

ところが、ここで、ナチ党内部で不満の声があがる。

ナチ党が第一党なのに、なぜ、ヒトラー内閣ではなく、パーペン内閣なのだ?

とくに、ナチ党のSA(突撃隊)の不満は大きく、武装蜂起を求める声まであがった。SAは、軍事訓練は受けていたが、ドイツ正規軍のような「しつけ」はされていない。しかも、隊員のほとんどは、20歳前後と若く、仕事にあぶれた、粗暴で無教養な集団なのだ。

ところが、狡猾なヒトラーはこれを利用した。

「荒くれどものSAが武装蜂起をたくらんでいる」という情報をそこら中に流し、パーペンにプレッシャーをかけたのである。パーペンは縮み上がり、ヒトラーを首相にすることも考えたが、ヒンデンブルクに拒否された。

1932年9月12日に国会が召集され、パーペンが所信表明演説をしようとしたとき、異変が起きる。共産党議員がパーペン内閣不信任の緊急動議を提出したのである。議会は大混乱に陥り、一旦、休会することになった。

パーペン内閣は貴族主義・保守主義の権化なので、共産党は天敵である。だから、共産党がこんな挙に出ても不思議ではない。とはいえ、共産党だけでこの動議を通すことはできない。

ところが ・・・

共産党の天敵のナチ党がこの動議に賛成したのである。結果、不信任決議案は512対42の大差で可決された。

追い込まれたのがパーペンである。残された道は一つ、議会を解散するしかない。さっそく、ヒンデンブルク大統領に泣きつき、解散に持ち込んだのである。ところが、それを狙っていたのがヒトラーだった。「内閣不信任 → 議会解散 → 総選挙」で議席数をさらに伸ばす。たとえ、過半数はとれなくても、議席が増えれば、偏屈なヒンデンブルクもヒトラー内閣を認めざるをえないだろう。

ところが ・・・

1932年11月6日、総選挙の結果、第一党のナチ党は前回の「230議席」から「196議席」へ大きく議席数を減らした。さらに、第二党の社会民主党も「121議席」に後退する。

では、どの党が増えたのか?

共産党。「100議席」を獲得し、第二党の社会民主党に肉薄したのである。

これを見て震え上がったのがパーペンだった。右派の権化のパーペンにとって、左派の権化、共産党は天敵だから。これで、ナチ党の協力が欠かせなくなった。

11月9日、パーペンは、ヒトラーに副首相就任を再度要請した。ナチ党も議席数を減らしたので、今度は乗ってくるかもしれないと考えたのだ。ところが、ヒトラーは強気だった。「首相以外は受けない」を繰り返したのである。

これに業を煮やしたのがシュライヒャーだった。

パーペンの体たらく、無能ぶりに腹を立て、パーペンに総辞職を求めたのである。ヒンデンブルクもこれに同意し、11月17日、パーペン内閣は総辞職した。

■シュライヒャー内閣
一方、ヒンデンブルクは、日替わり定食のような政権交代にウンザリしていた。彼の望みは、議会の第一党が過半数をとり、安定政権を樹立すること。但し、保守派に限られるのだが。

1932年12月1日、ヒンデンブルク大統領は、混乱した事態を収拾するため、パーペンとシュライヒャーを招集した。追い詰められたパーペンは、恐るべき提案をする。国軍を出動させて、議会を停止し、憲法を変えて、大統領権限を強化するというのだ。早い話が軍事クーデター。

ところが、シュライヒャーはこれに反対した。

国軍を使ってクーデターを起こすなんて、政治家としての信義にもとる、と考えたわけではない。これを機に、パーペンを失脚させ、自分が首相になろうとしたのだ。

シュライヒャーの提案は、「政治将軍」の名に恥じないものだった。頭のてっぺんから足のつま先まで陰謀、陰謀、陰謀。

その陰謀、いや、提案というのが ・・・

まず、シュライヒャーが首相に就任し、その後、ナチ党の一部を取り込んで分裂させる。これで、ナチ党のリスクは軽減されるはずだ。さらに、シュライヒャーは閣僚にこう言って恫喝した。

「ぐずぐずしていると、ナチがSAを使って内乱を起こすかもしれない。そうなれば、国軍が鎮圧するのは不可能」

国の正規軍が、党の私兵に負ける?

その可能性はあった。ヴェルサイユ条約によって、ドイツ陸軍は「10万人」に制限されていた。しかも、戦車も航空機もない、警察予備隊のようなもの。一方、SAは私軍なので、ヴェルサイユ条約の効力がおよばない。実際、この時期、SAの兵数は国軍より多かった。しかも、2年後の1934年には、兵数「300万人」というからどっちが国軍かわからない。

というわけで、「SAの軍事クーデター」は閣僚を脅すには十分だった。結果、シュライヒャーを支持する声が大勢を占め、パーペンに退陣を求めたのである。パーペンはヒンデンブルク大統領に泣きついたが、事がここに及んでは是非もない。パーペンの泣き言は却下された。

12月2日、パーペン内閣は瓦解し、シュライヒャーが首相に就任した。

どんでん返しにつぐどんでん返し、恐ろしい権力闘争である。

首相に就任したシュライヒャーは、さっそく、ナチ党の分裂をはかった。彼が目を付けたのは、ナチ党の有力幹部グレゴール・シュトラッサーである。この頃、ナチ党内部には、首相に執着し、入閣を拒否するヒトラーに不満を抱く一派があった。このままでは、いつまでたっても野党のままだから。そして、この不満分子が、シュトラッサーの周辺に集結していたのである。

だから、シュトラッサーとヒトラー離反させれば、ナチ党は分裂し、脅威は半減する、とシュライヒャーは読んだわけだ。

ところが ・・・

このシュライヒャーとシュトラッサーの接触を嗅ぎつけた人物がいた。パーペンである。パーペンは自分の内閣を崩壊させたシュライヒャーに恨み骨髄で、シュライヒャーの失脚を虎視眈々と狙っていた。

そんなとき、シュライヒャーとシュトラッサーが密談したというから、飛んで火に入る夏の虫、パーペンはさっそくヒトラーにちくった。

当然、ヒトラーは激怒した。党員が、党首をさしおいて首相と密会したのだから。シュトラッサーは党の役職を解任され、完全に影響力を失った。シュライヒャーの計画は失敗したのである。

これで、パーペンの腹の虫が治まったわけではない。シュライヒャーへの復讐はまだまだ続く。

1932年12月16日、紳士クラブの席上、パーペンはシュライヒャーの退陣とヒトラーの入閣を声高に説いた。その後も、ことあるごとに、シュライヒャーに噛みつくのだった。

こうして、慌ただしい1932年が終わろうとしていた。

年が明けて、元旦、風刺誌「ジンプリチシムス」1933年1月1日号に、こんな記事がのった。

「確かに言えることは一つだけ、俺たちはそれで万々歳さ、ヒトラーはおしまいだ、この総統の時代は過ぎた」(※3)

国内外のほとんどの新聞の年末年始のコメントも、この見解で一致していた。というのも、ナチ党は議席数を減らしつつあり、そもそも、第一党になっても組閣の見込みがないのだから。だから、ドイツの民主主義は守られた、ヒトラーはもうおしまいだ、と。

ところが、その真逆の予言をした者がいた。ベルリンの有名な占星術師ハヌンセンである。

1933年1月1日、ハヌンセンは、ヒトラーのオーバーザルツベルクの山荘に訪ねて、1月30日の首相就任を予言したのである。

さて、どっちが的中したのか?

現実は、不吉な方に向かっていた。

1933年1月4日、大銀行家クルト・フォン・シュレーダーの邸宅で、ヒトラーとパーペンの会談が行われた。

そこで、5つの合意が成立する。
1.シュライヒャー内閣を倒すこと。
2.ヒトラーとパーペンの対等の内閣を樹立すること。
3.ヒトラーが首相に就任すること。
4.社会民主党、共産党、ユダヤ人を国家中枢から追放すること。
5.ナチ党の債務を解消すること(銀行家シュレーダーが莫大な資金援助を約束)。

この会談は、ヒトラーとパーペンにとって実りのあるものだった。ヒトラーにしてみれば、党の深刻な資金難が解消され、首相への足掛かりができる。一方、パーペンは宿敵シュライヒャーを首相の座から引きずり下ろせる。メデタシ、メデタシ ・・・

これを聞き知ったシュライヒャーは激怒した。さっそく、ヒンデンブルクのもとに飛んで行って、自分が同席しない限りパーペンと会わないようクギを刺したのである。ところが、この時すでに、ヒンデンブルクの腹は決まっていた。シュライヒャーに替えて、パーペンを首相にしようと ・・・ その前は、パーペンに替えてシュライヒャーを首相にすえたのにね。

1933年1月22日、ナチスの幹部リッベントロップの自宅で、重大な会談が行われた。出席者は、ヒトラーとパーペン、さらに、ヒンデンブルク大統領の息子オスカー・フォン・ヒンデンブルク。オスカーはヒンデンブルクの息子で、大統領の信任が厚かった。

この会談の6日後、1月28日、パーペンとオスカーは、口をそろえて、ヒンデンブルクにこう進言した。

「ヒトラーを首相に指名しても、何の問題ありません」

これで、ヒンデンブルクの腹は決まった。ヒトラーは気に入らないが、この政治的難局を乗り切るには、第一党の党首を首相にするしかない。それにお気に入りのパーペンと息子のオスカーも問題ないと言っていることだし。

仰天したのがシュライヒャーである。劣勢を挽回するには、ヒトラーを寝返らせるしかない。

そこで ・・・

1月29日、シュライヒャーは、腹心の陸軍統帥部長クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトをヒトラーの下へ送り込んだ。そして、パーペンの悪口を山ほど吹き込んだあげく、寝返るよう説得したのである。しかし、ヒトラーの気持ちは変わらなかった。首相の任命権はヒンデンブルク大統領にあり、その息子オスカーがパーペン側についている。なんでわざわざ、負け犬と手を組む必要があるのだ?

シュライヒャーの敗北は決定的だった。

そこで、シュライヒャーの腹心、陸軍統帥部長ハンマーシュタインは恐るべき提案をする。それは ・・・ 起死回生の軍事クーデター。ハンマーシュタインは、そこまでして、ヒトラー内閣を阻止したかったのである。というのも、彼はヒトラーが大嫌いで、ヒンデンブルク大統領に、

「何があっても、ヒトラーを首相にしてはいけません」

と再三訴えていた。

ところが、肝心のシュライヒャーが、土壇場でクーデターに反対したのである。

なぜか?

クーデターを起こせば、ヒトラーとパーペンを抹殺し、恩あるヒンデンブルク大統領の顔に泥を塗ることになる。それに、万一失敗したら、ただではすまない。反逆者として銃殺されるだろう。そのプレッシャーに耐えられなかったのだ。こうして、シュライヒャー派の軍事クーデターは歴史年表から消えた。

ここで、歴史のIF ・・・ もし、このとき、国軍のクーデターが起こっていたら?

不意を突かれたヒトラーは落命していた可能性が高い。そうなれば、歴史は大きく変わっていただろう。その後のヒトラーの独裁もなく、第二次世界大戦も起こらないから(たぶん)。

■ヒトラー内閣誕生
1933年1月30日午前11時15分、アドルフ・ヒトラーが首相に任命された。ヒトラー内閣が誕生したのである。黒幕のパーペンはナンバー2として、副首相に就任した。

ここで、思い出し欲しい。

1933年1月1日、占星術師ハヌンセンが、1月30日ヒトラーの首相就任を予言したことを。怪しい八卦占いの類が、理論に基づく予想に勝ったのである。

意気消沈したシュライヒャーは、これを機に、政治の第一線から退いた。ところが、腹の虫が治まらなかったのか、その後、ヒトラー批判を始める。心配した友人は、控えるよう警告したが、シュライヒャーは止めなかった。偏屈で、根に持つ性格がそうさせたのである。

いつの世でも、このような性癖は災厄を招く。

翌1934年6月30日、ナチ党内部で大規模な粛清が行われた。「長いナイフの夜」事件である。ヒトラーに批判的だったSA(突撃隊)トップのエルンスト・レームが逮捕されたのである(後に銃殺)。ところが、同日、シュライヒャーが妻とともに、ゲシュタボに射殺された。シュライヒャーはSA(突撃隊)とは何の関係もなかったのに。つまり、シュライヒャー夫妻は”ついでに”殺されたのである。

冷静に考えれば、この事件は重大である。軍の最高幹部が夫婦で射殺されたのだから。しかも、誰がやったかも分かっている。

ところが、軍部はこれを一切追求しなかった。新しい指導者ヒトラーに遠慮したこともあるが、シュライヒャーの人望がなかったのも一因だろう。

「偏屈と恨み」は、時として身を滅ぼすことがある。

これは肝に銘じておくべきだろう。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶというが、このような経験からは学べない。後がないから ・・・

《つづく》

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
(※2)「ヒトラー全記録 20645日の軌跡」 阿部良男 (著) 出版社: 柏書房
(※3)ヒトラー権力掌握の20ヵ月 グイド クノップ (著), 高木 玲 (翻訳) 中央公論新社

http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-287/

8. 2022年1月26日 02:46:12 : iX88sM1xeI : YklKUVBXVDRyTEk=[10] 報告
週刊スモールトーク (第288話) エリーザベト伝説W〜ナチスを利用した女〜
カテゴリ : 人物歴史2015.05.23
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-288/


エリーザベト伝説W〜ナチスを利用した女〜
■エリーザベトの標的
ヒトラー内閣が誕生して、最も恩恵をうけたのは、言うまでもない、エリーザベト・ニーチェである。

お仲間のナチ党が政権をとったのだから、うまく取り入れば、「国の資金援助」も夢ではない。そうなれば、ルバーブリック館(ニーチェ資料館)は安泰だし、エリーザベトも贅沢な暮らしができる、メデタシ、メデタシ ・・・

ところが、一つ問題があった。ナチスの誰に取り入ればいいのか?

党首のヒトラー、大幹部のゲーリングやゲッベルスは最高なのだが、敷居も最高。というのも、エリーザベトは有名といっても、虎(兄ニーチェ)の威を借るキツネにすぎないから。とはいえ、下っ端相手では「資金援助」など夢のまた夢。やはり、閣僚ではなくては ・・・

この時、ヒトラーをのぞけば、入閣したナチ党員は二人いた。ナチ党のナンバー2のゲーリング無任相と、ヴィルヘルム・フリック内相である。ゲーリングは第一次世界大戦のドイツ空軍の撃墜王で、愛想がよく、雄弁なので、経済界と国民に人気があった。ところが、何でも欲しがる「クレクレタコラ」で、とくに絵画には目がなかった。

一方のフリックは、法学博士で弁護士、司法の専門家だった。そんな経歴を見込まれて、ドイツの司法のナチ化を担当していた。ところが、司法の独立にこだわったり、ゲシュタポの無法な捜査に憤慨したり、ブレまくりだった。それが災いして、党内の出世街道からはずれていく。特に、権力の亡者、ヒムラーとの権力闘争に敗れたのは致命的だった。

とはいえ、ヒトラー内閣が誕生した時点では、フリックはナチ党の有力な幹部で、内相(内務大臣)という要職にあった。しかも、ナチ党員のゴロツキや、ほら吹きの中にあって、ピカピカのインテリ。それは風貌にも表れている。

ここに、1923年のミュンヘン一揆の裁判の際に撮られた写真がある。眼光鋭いヒトラーや、胸を張った勇ましい将官に混じって、途方にくれたような紳士が立っている。物憂げで、遠くを見つめる目は、うだつのあがらない会計士だ。ところが、エリーザベトが標的に定めたのがこのフリックだった。

フリックが内相に就任すると、エリーザベトは、すぐに歯の浮くような祝辞を送っている。すると、フリックからさらに歯の浮くような返事が返ってきた。

「奥様、私は、奥様もいつの日か、尊敬する兄上(ニーチェ)のような戦士として、ドイツ国民の自由を求める運動に身を捧げてくださる、と信じております」

もちろん、フリックは本気でそう思ったわけではない。

エリーザベトにヨイショして、ニーチェの超人哲学を、ナチスの教義に利用しようとしたのである。

事実、フリックは、エリーザベトのご機嫌取りに奔走した。まず、ニーチェの著作権の期間を延長する法案を議会に提出した。それが棄却されると、今度は、ジルバーブリック館の公的助成金の交付を約束した。もちろん、エリーザベトは大喜びだった。

そのときのエリーザベトの礼状が面白い。

「私は、ヒトラー氏がニーチェのなかに見出したものが理解できます。それは、私たちに必要不可欠な英雄的タイプです。国家社会主義とニーチェを結ぶものは、両者に宿るこの英雄的精神なのです」

うまいこと言うが、だまされてはいけない。

たしかに、国家社会主義とニーチェは英雄的精神を包含するが、だからといって、この二つが「つながっている」ことにはならない。むしろ、現実はその逆。というのも、ニーチェは国家社会主義を忌み嫌っていたから。つまり、「国家社会主義とニーチェを結ぶもの」は何もないのだ。というわけで、ニーチェは、エリーザベトとナチスから利用されていたのである。

■第一のカモ、ヴァーグナー
じつは、ナチスに利用されたのは、ニーチェだけではなかった。19世紀ドイツの大音楽家リヒャルト・ヴァーグナーもしかり。

ヴァーグナーは、ロマン派オペラの王様で、楽曲は荘厳で、英雄崇拝、力への信仰を彷彿させる。気分を高揚させて、若者を戦場に送り込むにはうってつけだ。さらに、ヴァーグナー自身、反ユダヤ主義、アーリア人至上主義、国粋主義の信奉者だった。ヒトラーのお仲間がここにもいたのである。

ヒトラーは、1923年5月の青年時代からヴァーグナー家に出入りしていたが、首相になってからも続いた。また、ヴァーグナーの歌劇・楽劇を演目とするバイロイト音楽祭には必ず出席していた。

1933年7月のバイロイト音楽祭にも、ヒトラーはヴァーグナー家を訪ねている。この頃、大音楽家リヒャルト・ワーグナーはこの世になく、ヴァーグナー家は代替わりしていた。ただし、代替わりといっても、ワーグナーの血統ではない。息子のジークフリートの妻ヴィニフレート・ヴァーグナーである。ジークフリートが死去し、妻のヴィニフレートがヴァーグナー家を取り仕切っていたのである。

ではなぜ、ヒトラーは、ヴァーグナーと血のつながりもないヴィニフレートを訪ねたのか?

ヴィニフレートに惹かれていたから。

彼女は36歳と若く、しかも、熱烈なヒトラー賛美者だった。そんなこともあり、二人は相思相愛、再婚のウワサまであった。では、二人はどの程度の関係だったのだろう。

1942年3月10日夜、ヒトラーは気を許した部下にこう言っている。

「若い頃の私には、多少の孤独癖があって、人とつきあわずにいられた。しかし、私はずいぶん変わった。今は孤独には耐えられない。何よりも好きなのは綺麗な女性と一緒に食事をすることだ」(※2)

ヒトラーは女好きだった?

一方、極端にストイックなところもあった。だから、関係の深度は、今となっては知る由もない。とはいえ、スキャンダラスな話は残っていないので、ストイックが優勢だったのだろう。

こうして、「ヴァーグナー」はヒトラーにとって至高のブランドとなった。彼は、ナチスの曲にヴァーグナーの音楽を多用し、バイロイトをナチスの音楽の聖地にしようとした。さらに、バイロイト音楽祭とヴァーグナー家を援助し、ヴィニフレートをバイロイト音楽祭の総監督に就任させたのである。

そして ・・・

1933年、ナチスが政権を取ると、ヒトラーのヴァーグナーびいきは加速した。バイロイト音楽祭には、ヒトラーだけでなく、ナチス首脳全員を出席させたのである。

エリーザベトは、それが羨ましかった。

そこで、彼女は、「バイロイト音楽祭 & ヴァーグナー家」に対抗して、「ヴァイマルのジルバーブリック館 & ニーチェ家」を目論んだ。バイロイトが「音楽の聖地」なら、ヴァイマルは「哲学の聖地」というわけだ。そうなれば、ジルバーブリック館とエリーザベトはヒトラーの援助が受けられる。それはドイツ帝国の庇護を意味するのだ。

■第二のカモ、ニーチェ
1933年2月2日、エリーザベトはドイツの内相フリックに手紙を書き送った。

「喜びあふれる熱狂の大波が、全ドイツに打ち寄せています。愛するべき総統アドルフ・ヒトラーが、今やドイツ帝国の頂点に立たれたからです。その歓喜の奔流の中には、国家人民党と鉄兜団が入っています。これは心に愛国的な感性をもつ人々が夢見てきた状況であり、国家人民党と鉄兜団(国家人民党の党軍)を帝国内閣に受け容れたときの総統の立派な行動が与えた深い感銘は、言葉ではとても言い表わすことができません」(*1)

何が言いたいのかよくわからないが、
1.ヒトラーがドイツの政権を取ったことは喜ばしい。
2.国家人民党を受け容れたヒトラーは寛大である。

ぐらいの話だろう。

文面から、ヒトラーへの熱い思いが感じられるが、じつのところ、エリーザベトのナチズム支持は日和見的なものだった。ただし、日和見を意識したわけではない。その瞬間は本気だったのである。

エリーザベトは、フリック内相を口説き落とすと、いよいよ、本丸攻略にかかった。言わずと知れたヒトラー総統である。

エリーザベトはヒトラーに歯の浮くような賛美の手紙を書き、ジルバーブリック館を訪れるよう催促した。ヒトラーが来訪すれば、ジルバーブリック館とエリーザベトに箔がつく。そうなれば、ニーチェブランドの価値は急上昇し、彼女の実入りも増えるというわけだ。

で、ヒトラーはどうしたのか?

驚くなかれ、7回もジルバーブリック館を訪れている。

しかも、ヒトラーはパーフォーマンスも忘れなかった。感慨深げにニーチェの胸像を眺めたり、ニーチェの著作を熱心に読むフリをしたり。そして、最後にエリーザベトに敬意を表するのだった。エリーザベトが狂喜乱舞したのは言うまでもない。

では、ヒトラーはなぜそこまでして、エリーザベトに気を遣ったのか?

ヴァーグナーの楽曲同様に、ニーチェの哲学に感動したから?

ノー!

そもそも、ヒトラーはニーチェの著作は読まなかった。彼の読書は、歴史、地理、戦記に偏っていたのである。第一次世界大戦中、戦場でショーペンハウアーを読んだという記録もあるが、たぶん、つまみ食いだろう。

しかし ・・・

ヒトラーは著作は読まなくても、ニーチェの何が利用できるかを知っていた。

ヒトラーが目を付けたのは、ニーチェの哲理ではなく、「言霊(ことだま)」。つまり、文言のロジックではなく、エモーション、つまり、人間の意識を高揚させる「霊力」である。

たとえば ・・・

「力への意志」、「超人」のような勇ましい言葉や、神話を彷彿させる芝居がかった言い回し。それらはすべて「力の賛美」であり、若者を戦場に送り出すための方便だった。そして、そのような文言が、何の脈絡もなく抽出され、断片的に引用されて、ナチスの教義に利用されたのである。

しかし ・・・

ニーチェは、民族主義、国粋主義、民主主義、ありとあらゆるイデオロギーを毛嫌いしていた。さらに、彼は盲目的に力を賛美したわけではない。既存のイデオロギーに左右されず、自分の内なる声に従って、自己実現せよ、と説いたのである。つまり、ニーチェの力の賛美は「個人主義」であって、ナチスの「全体主義」ではない。つまり、主義主張が真逆なのだ。

では、ヒトラーはそれに気付いていた?

そこは重要ではないだろう。ニーチェの哲理が真逆のロジックで適用されたことが問題なのだ。

そして、これに加担したのはヒトラーだけではなかった。エリーザベトも同罪である。

彼女は、ニーチェの著作から、文脈を無視した引用や、一部分だけの引用によって、反ユダヤ主義をほのめかしたのだから。

たとえば ・・・

「ニーチェはつねにはっきりと見ていた、ユダヤ人の振る舞いがドイツにおいてはいかに相容れないものかを」

ニーチェがこのような曖昧で不正確な主張をするはずがない。ところが、それが本当かもしれないと思えてくるから不思議だ。これは、核心部分を抽象化し、黙示的に物語る、手の込んだ引用なのである。

そもそも、ニーチェはユダヤ人を差別しなかった。ユダヤ教は批判したが、キリスト教と同じロジックで、一神教の教義を非難したのである。

ニーチェの宗教観は道徳に向けられていた ・・・

ユダヤ教もキリスト教も世俗の支配者に迫害されたが、力で反撃することはできない。そこで、「道徳」という概念を作り上げ、力に訴える者は「悪」、それを享受する者を「善」としたのである。つまり、現実世界の敗北を、概念世界で復讐したわけだ。ところが、ニーチェはこのような者を「ルサンチマン(ひねくれ者)」とよんで蔑んだ。

つまり、ニーチェはユダヤ教やキリスト教の「道徳」を非難したのであって、ユダヤ人を差別したわけではない。

早い話、ニーチェは妹の金儲けとナチスの教義に利用されていたのだ。ところが、不思議なことに、彼はそれを予言していた。彼の著書にこんな一文があるのだ。

「最悪の読者は、略奪団のような真似をする。彼らは利用できるあれこれのものを持ち去るのである」

ニーチェは自分の未来の予言者でもあったわけだ。

■崩壊するニーチェ・ブランド
ニーチェとナチスが一体化するにつれ、ドイツ国外でのニーチェの価値は下落する一方だった。

たとえば、ノーベル文学賞を受賞した哲学者バートランド・ラッセルは、

「ニーチェは、ただの誇大妄想狂で、丘の上のリヤ王、不能者で危険分子で、警察国家の予言者である」(※1)

当たらずとも遠からず。でも、ちょっと言い過ぎ。

さらに、ナチスが大嫌いで、ドイツを脱出した社会学者ジョージ・リヒトハイムによれば、

「もし、ニーチェがいなかったら、SS(ナチス親衛隊)は東ヨーロッパにおける大量殺人計画を遂行しようというインスピレーションを欠いていたといっても過言ではない」(※1)

こちらは、「過言」どころか「暴言」。

というのも、SSは「大量殺人」のインスピレーションをニーチェから得たわけではない。単に、ヒトラーに命令されたのである。事実、ヒトラーは、東ヨーロッパに生存圏を拡大することが、ドイツが生き残る唯一の道と信じていた。

その証拠もある。

1939年8月22日朝、外相のリッベントロプは、ソ連との不可侵条約をまとめるためモスクワに向かった。そのとき、ヒトラーはリッベントロプにこう言っている。

「ソ連との条約は締結されるだろう。ポーランド戦はまもなく起こる。ポーランドとの戦争目的は『ポーランドの絶滅』にある」

ポーランドの絶滅!?

そう、ヒトラーはポーランド人を支配しようとしていたのでない。ポーランド人を抹殺して、ドイツ人を入植させるつもりだったのである。

つまり ・・・

ヒトラーはニーチェに感銘を受けたわけではない。彼のブランドと著書を利用しただけなのである。そして、ニーチェの資料館「ジルバーブリック館」は、「ナチの予言者」としての宣伝効果は絶大だった。だから、ヒトラーはジルバーブリック館に足を運んだのである。

「ヒトラーのジルバーブリック館訪問」は、ヒトラーにとってはナチズムのため、エリーザベトにとってはニーチェブランドと自分の贅沢な生活を維持するため、つまり、ヒトラーとエリーザベトはお互いに利用していたのである。ニーチェを媒体にして。

哀れなのはニーチェ、きっと、草葉の陰で泣いていただろうが、嘆き悲しむ人物がもう一人いた。ニーチェの崇拝者ハリー・ケスラー伯爵である。彼は、ニーチェがこれ以上ひどい目にあうのを見ていられないと言い残し、パリに亡命した。

1934年、エリーザベトはヒトラーの秘書ハンス・ハインリヒ・ラマースから一通の手紙を受け取った。

「兄上の仕事の普及につとめておられるあなたの奉仕に対し、月額300ライヒスマルクの名誉終身恩給を給付いたします」

エリーザベトの計略は、まんまと成功したのである。ところが、それも長くは続かなかった。

■エリーザベトの死
1935年11月初め、エリーザベトはインフルエンザに感染した。それでも、元気に口述筆記を続けていたが、11月8日、突然ベッドに倒れ込んだ。そして、二度と立ち上がらなかった。享年89歳、鉄の心臓と小型原子炉がついに停止したのである。

11月11日、エリーザベトの追悼式が営まれた。午後1時、ナチスのSS(親衛隊)、SA(突撃隊)、ヒトラーユーゲントがジルバーブリック館への道筋に整列した。午後3時、ヒトラーが到着。ヒトラーは、自ら、月桂樹をエリーザベトの柩の上においた。さらに、ニーチェ家の墓のある小さな教会には鉤十字が飾られた。それは、ニーチェとナチスの蜜月時代の終着駅でもあった。

それから4年後、第二次世界大戦が始まった。ドイツ軍は、航空機と戦車を連携させる画期的な「電撃戦」により、イギリス大陸軍を本国に追い返し、ヨーロッパの大半を征服した。ところが、ソ連侵攻でつまづき、アメリカが参戦すると状況は一変した。西方から米英軍、東方からソ連軍に挟み撃ちにされ崩壊、1945年5月7日、ドイツは無条件降伏した。

1946年12月、ソ連軍はヴァイマルに侵攻した。ナチスに加担したジルバーブリック館は閉鎖され、職員は逮捕されるか、殺害された。ニーチェ財団は解体され、ニーチェの名声も地に落ちた。

それから45年経った、1991年 ・・・

東西ドイツが統一され、ジルバーブリック館は博物館として蘇った。

博物館?

そう、ジルバーブリック館は、超人の象徴から、超人たちの夢の跡に成り果てたのである。

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
(※2)「ヒトラー全記録 20645日の軌跡」 阿部良男 (著) 出版社: 柏書房
(※3)ヒトラー権力掌握の20ヵ月 グイド クノップ (著), 高木 玲 (翻訳) 中央公論新社

http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-288/

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