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第一次大戦がヨーロッパを変えた
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 22 日 13:09:14: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 20世紀初めはこういう時代だった 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 20 日 10:36:36)

第一次大戦がヨーロッパを変えた


映像的世紀02 大量殺戮的形成(一戰)



 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-13590] koaQ7Jey 2020年3月22日 13:15:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1314] 報告

メリー・ホプキン 『Fields of St. Etienne』


Mary Hopkin - Fields of St. Etienne










▲△▽▼


サン・エティエンヌの草原 2010年02月08日
https://blog.goo.ne.jp/nostalgia2014kk/e/811229823bf796954e565bbf3a11f157

 昨年、メリー・ホプキンのCDを買ったので、このところよく聴いています。
 今を去ること40年くらい昔にビートルズが作ったアップルレコードからデビューした女性歌手で、ロシア歌謡を「悲しき天使」と言う題名で世界的に有名にした歌手です。愛らしい少女だったような印象がありますが、もう還暦のオバ(ア)さんです。

 この曲が目当てでCDをこの買いましたが、最近はまってよく耳にしているのは「The Fields Of St. Etienne」。
 元トワ・エ・モアの白鳥英美子さんが自分のレコードに吹き込んだこともあるうたですが、戦争に行って帰らない幼馴染を思い、あのトウモロコシ畑で共に遊んだ日は帰らないと言う反戦歌です。

 よく聴いてみるとバックで演奏しているのがビートルズらしく、エンディングのコーラスにポール・マッカートニーが入っているような気がします。

 時代が違うとは言え、白鳥英美子バージョンのほうが音質はもちろん、演奏も歌唱力も洗練され完成されていますが、メリー・ホプキン版のビミョーな下手さ加減や垢抜けなさが妙に琴線に触れます。


Through the fields of St Etienne
Amidst the corn I wonder
In my hand an ear of corn
The morning dew has kissed

Here beneath the skies
I lay with my lover
While the summer winds gave it clouds of war

Au revoir my love
Though the reasons pass me
Why we can't remain in the fields of St. Etienne

Weaving proudly, singing loudly
Being young and foolish

He was going never knowing
He would not return
Singing songs of war
Filled with God and country
Marching down the road with the boys that day

Au revoir my love
Though the reasons pass me
Why we can't remain in the fields of St. Etienne


サン・エティエンヌの野原をぬけ
とうもろこし畑を私は彷徨う
とうもろこしを手に持ち
朝露がキスをする

この空の下で
私は恋人と寝そべっていた
夏の風が空に戦争の雲を作るまで

さようなら私の愛
理由はわかってはいるけれど
なぜ私たちはサン・エティエンヌの野原に留まることができないのか

誇らしげに手を振り高らかに歌いながら
若くそして愚かにも
二度と戻れないことを決して知ることもなく
神と祖国愛の戦争の歌を歌いながら彼は行った
あの日、若者たちとあの道を行進して

さようなら私の愛
理由はわかってはいるけれど
なぜ私たちはサン・エティエンヌの野原に留まることができないのか
https://blog.goo.ne.jp/nostalgia2014kk/e/811229823bf796954e565bbf3a11f157

サン・エティエンヌの草原を抜け
とうもろこし畑の間を歩く
朝霧にぬれた穂を手にして
この同じ空の下
恋人の傍らに横たわったあのころ
夏の風は戦争と言う名の雲を集めていた

もう帰らない愛
わかってはいるのだけれど、、
どうして、ふたり、あのままでいられなかったの?
このサン・エティエンヌの草原に

誇らしげに手を振り 大声で歌い
幼く、愚かしく、、
二度と帰れぬとは知らず発って行ったあの人
神の名と愛国に彩られた歌を歌い
あの日、沢山の少年たちと並んで行進していた。。

(フランス語)さようなら 私の愛
解ってはいるのだけれど
どうして、ふたり、戻れないの?
この サン・エティエンヌの草原に

さようなら 愛しい人
解ってはいるのだけれど
どうして、ふたり戻れないの?
この サン・エティエンヌの草原に・・

https://ameblo.jp/tadashi999/entry-12140187784.html
2. 中川隆[-13589] koaQ7Jey 2020年3月22日 13:41:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1315] 報告

イグナツィ・パデレフスキ Ignacy Jan Paderewski 1860年11月18日 - 1941年6月29日

ポーランド・クリロフカ出身 19世紀のカリスマピアニスト
ポーランド共和国・3代目首相


伝説のスーパースター
19世紀最大のピアノの巨匠
ポーランド独立運動の象徴的存在
アメリカ大統領トルーマンにピアノ指導
ポーランド共和国初代首相に就任
類いまれなカリスマ性
ショパン研究家
http://ameblo.jp/maritaka0504/entry-10577139972.html


▲△▽▼



洛南蓄音機で  ラ・カンパネラ ''LA CAMPANELLA'' Ignace Paderewski





Paderewski Chopin Waltz 1917




Paderewski recorded this Chopin Waltz in c# minor op.64 no.2, for Victor in New York City on May 23,1917. Matrix C 19923-2


パデレフスキ 画像
http://www.google.co.jp/search?q=Paderewski&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=wdJcUZjKDKi9iAe9r4CABw&ved=0CJgBEIke&biw=998&bih=892

パデレフスキ ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD

パデレフスキ - YouTube
http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD&oq=%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD&gs_l=youtube-reduced.12...0.0.1.44.0.0.0.0.0.0.0.0..0.0...0.0...1ac.

Paderewski - YouTube
http://www.youtube.com/results?search_query=Paderewski&oq=Paderewski&gs_l=youtube-reduced.12..0l3.2365.2365.0.3483.1.1.0.0.0.0.542.542.5-1.1.0...0.0...1ac.e7cOgo0BEqQ



▲△▽▼


イグナツィ・パデレフスキはポーランド(現在のウクライナ)のポドリア地方・クリロフカ出身のピアニストです。 政治家でもあり、元ポーランドの3代目首相でもあります。 首相になったピアニストとして知られています。

パデレフスキは12歳でワルシャワ音楽院に入学してナタリヤ・ヤノータにピアノを習い、グスタフ・ログスキに音楽理論を学びました。

1883年にウィーンに留学して テオドル・レシェティツキ に師事しました。

パデレフスキは現役当時、圧倒的な人気を博した伝説的なカリスマピアニストでした。

人気の理由は完成された演奏もありますが、それ以上にカッコいいルックスにありました。

金髪の情熱的なカールと篤いまなざし、神秘的な容姿など、パデレフスキがステージに立つと美神が舞い降りたようだと伝えられています。


パデレフスキは十九歳で結婚し、一児の父となったと思う間も無く妻と死別。しかも子供は重度の身体障害児だったので、周囲は心配して音楽教師の口を見つけてくれたが、ピアニストの夢を捨て切れず、止めてしまったという。

そんな若者の夢に惚れ込んだ女性が、彼に本格的な勉強を勧め、二四歲でウイ—ンに旅立つ。

やがて、科学者マリ— ^キュリー夫人も聴きに来たというコンサ—トで、まばらな聴衆は、青年の自由奔放な演奏に巻き込まれ、彼は「恐ろしいほどの成功」を収めた。


ステ—ジに登場したパデレフスキ—は音楽の美神が降り立ったかのような魅惑に溢れていたそうだ。しかも、彼は七、八力国語を操ったという。彼の内に潜むこうした才能ゃ魅力を、かってどんな教師達も見抜くこと、或は予見することが出来なかったという。

聴衆は殆んどが女性で、彼がステージに登場すると一種の集団ヒステリーが起きたそうだ。






▲△▽▼


イグナツィ・パデレフスキ(Ignacy Paderewski)
1860年11月6日ポドリアのクラウフカ生、1941年ニューヨーク没

ポーランドのピアニスト、作曲家、政治家

ショパンの楽譜を買ってもらう時、

「コルトー版にして。」とか

「パデレフスキ版で。」

などと、楽譜を指定することがよくあります。

パデレフスキは、ポーランドを代表する、ピアニストで、作曲家でもありましたが、初代ポーランド大統領でもあるのです。

彼は、ある意味、スーパースターだったとも言えるでしょう。

裕福な家柄に生まれたパデレフスキでしたが、生まれて間もなく母親は亡くなりました。

そういう意味では、何事も欠けたところのない幸福・・・というより、孤独も感じていたのではないでしょうか?

しかし、幼い頃から、音楽の才能を認められ、高名な音楽教師を家庭教師として雇い、次いで12歳の時には、ワルシャワ音楽院に学ぶこととなりました。

多くの著名な教師から、ピアノ、音楽理論、和声、対位法などを学び、18歳でここを卒業するとともに、同音楽院のピアノ科の教師になりました。

その後も、作曲、ピアノの研鑚を積み、当時の高名なピアノ教師レシェティツキーのもとで、ピアノを学び続けました。

レシェティツキーは、パデレフスキの奏法に技術的な根の深い問題が多すぎるのを見て、ピアニストの道を断念するように助言しましたが、1年間ストラスブール音楽院で教師を務める傍ら、熱心に練習を積み、再びレシェティツキーに師事することが許されました。

パデレフスキは、自身のピアニスト生活は1888年ウィーンがデビューの地であるとみなしていましたが、1883年パリで最初の演奏会をした時から、すでに巨匠への階段を昇り始めていました。

世界中で殺人的な演奏会スケジュールをこなす傍ら、夏休みには1889年以来永住の地となったスイスのモルジュ市にある、ヴィラ・リオン‐ボソンで作曲にも没頭しました。

第1次世界大戦勃発後、彼はポーランド国民の為に、援助委員会や救済基金を設立しました。

同時にアメリカ合衆国を中心とした演奏活動を行い、ポーランド独立を訴えました。

1918〜21年には、一時演奏・作曲活動を中止し、政治活動に専念しました。

1919年、独立を回復したポーランド共和国の首相兼外相に就任し、

国を代表してヴェルサイユ条約に署名しています。

1922年には、再び演奏活動と夏期講座の教授活動に復帰しました。

また1936年にはイギリス映画「ムーンライト・ソナタ」にも出演しています。

1937年、新ショパン全集の編集に着手しましたが、実際に出版されたのは大2次大戦後となりました。

ナチのポーランド侵攻後は、アメリカに渡り祖国支援のための大々的なキャンペーンを行いましたが、これが彼の最後の旅となりました。

彼はニューヨークで客死し、アーリントン国立墓地で国葬が行われました。

彼の演奏は、「レシェティツキー・タッチ」でしたが、時には華麗であるが、あまりに誇張され飾られ過ぎている・・・

と、批判もしています。

彼自身は、見かけの派手な効果以前に、楽譜に忠実な演奏解釈と、音楽感情の移入を心がけました。

その天分、音楽性、直感、たゆまぬ努力によって、彼は独自の演奏様式を作り上げました。

パデレフスキーのレパートリーの中心は、ショパン、リストといったロマン派のものが中心ですが、ほとんどすべてのリサイタルで、1曲目にベートーヴェンのソナタをおいたということです。

80年の彼の人生は、全く非の打ちようがないほど充実していますが、やるべき時に、全精力を傾け、音楽活動だけでなく、政治にも大きな役割を果たし、素晴らしい人生を全うしたといえるでしょう。

しかし、それは彼のたゆまぬ努力の結果であり、正しい考えを持ち、現実に甘んじることなく、常に誠心誠意、仕事をしてきた結果だと思うのです。

何気なく手にとっている、ショパンの楽譜ですが、このような素晴らしい仕事の結集とも言えるでしょう。
http://nishino-pianoschool.blog.ocn.ne.jp/blog/2010/08/post_7035.html


見る人が見れば誰にでも直ぐにわかる事なのですが

パデレフスキの客観的評価は上にもちゃんと出ていますね:


『レシェティツキーは、パデレフスキの奏法に技術的な根の深い問題が多すぎるのを見て、ピアニストの道を断念するように助言した。』




パデレフスキのヨーロッパでの全録音


◎ショパン   ワルツ第2番「華麗なるワルツ」
        夜想曲第5番 作品15の2
        ワルツ第7番 作品64の2
 ストヨフスキ 愛の歌 作品26の3(初出)
 シューベルト(リスト編) きけ,きけ,ひばり
 シューマン  夜曲第4番 作品23の4
 ショパン   ポロネーズ第3番「軍隊」
        夜想曲第18番 作品62の2
        12の練習曲 作品25〜第9曲「蝶々」(初出)
                   〜第3曲 ヘ長調(初出)
 パデレフスキ メヌエット 作品14の1
        夜想曲 作品16の4(初出)
 メンデルスゾーン 無言歌第4巻〜第4曲「心の悲しみ」
 


 メンデルスゾーン 無言歌第1巻〜第3曲「狩人の歌」
 ドビュッシー 映像第1集〜第1曲「水に映る影
 リスト    ラ・カンパネラ(初出)
 パデレフスキ 幻想的クラコヴィアク 作品14の6(初出)
 ショパン   夜想曲第5番 作品15の2
        12の練習曲 作品10〜第12曲「革命」
                   〜第7曲 ハ長調
        12の練習曲 作品25〜第1曲「エオリアンハープ」
                   〜第2曲 ヘ短調
        12の練習曲 作品10〜第3曲「別れの曲」
 パデレフスキ 幻想的クラコヴィアク 作品14の6
 シューベルト(リスト編) きけ,きけ,ひばり
 


 シューマン  幻想小曲集〜第1曲「夕べに」
             〜第2曲「飛翔」
             〜第3曲「なぜに」
 ショパン   ワルツ第2番「華麗なるワルツ」
        マズルカ第13番 作品17の4
 ショパン(リスト編) 乙女の願い
 ショパン   12の練習曲 作品25〜第7曲 嬰ハ短調
 リスト    ラ・カンパネラ
 ストヨフスキ 愛の歌 作品26の3
 リスト    演奏会用練習曲集〜第2曲 ヘ短調
 ショパン(リスト編) 乙女の願い
 ショパン   子守歌
 メンデルスゾーン 無言歌第1巻〜第3曲「狩人の歌」
 ルビンシテイン ワルツ・カプリース 変ホ長調
 

   パデレフスキ(ピアノ)

   英APR APR 6006 (2CD)


 歴史的なピアノ録音を数多くリリースしている英APRから,パデレフスキ
のヨーロッパ全録音という,大変希少な復刻盤CDが発売になりました。

 パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860-1941)は,ロシア領ポーラン
ドのポドリア地方のクルィウフカ(現ウクライナ領)に生まれ,ウィーンでレ
シェティツキに学び,1887年に同地でピアニストとしてデビューし,翌年
以降,パリ,ロンドン,アメリカでリサイタルを行いますが,その演奏はたち
まちにして評判となり,異様なほどの人気と賞賛を博するようになります。

 1900年頃からは作曲にも傾注するようになって演奏活動は急激に減少し,
1909年からワルシャワ音楽院長を務めました。

 1911年7月にはスイスのモルゲスでHMVに初めてのレコーディングを
行い,翌年にはパリとロンドンでもレコーディングを行います。本CDに収録
されているのはこの3回のレコーディングセッションでの全録音です。

 1913年にアメリカに移住し,翌1914年には米ヴィクターにレコーディ
ングを行いますが,同年,第1次世界大戦が勃発すると,パリの「ポーランド
民族委員会」のメンバーとしてポーランド独立のための活動に積極的に関わり,
1919年にポーランドが独立すると首相兼外務大臣となり,この職を辞して
からも国際連盟のポーランド大使を務めました。

 1922年に政界から引退して演奏活動に復帰し,再び米ヴィクターに数多
くの録音を行いました。

 パデレフスキのピアニストとしてのキャリアは上述のように,第1次世界大
戦とそれに続く時期の政治家としての活動によって中断しているのですが,パ
デレフスキの録音で入手容易なのは米ヴィクター録音が主で,これまでCD化
されていたのも9割方この米国録音でした。

 そのため,録音におけるパデレフスキの演奏もこれらの米国録音で語られる
ことが少なくないのですが,これらで聴かれるパデレフスキの演奏は,歳を重
ねるにつれて懐深さとスケール感を有しながらも,主観的で大袈裟とも言える
テンポ・ルバートやデュナーミクの変化を聴かせるようになっていき,賛否が
分かれるところでもありました。

 SP時代から愛好家の間では,パデレフスキの録音は1911〜2年のヨー
ロッパ録音の方がずっと良いというのが常識だったようなのですが,アコース
ティック録音ということもあって,入手は容易ではなく,これまでまとめて聴
く機会がありませんでした。

 今回の復刻は,1911〜2年のヨーロッパ録音を全て収録しており,これ
までリリースされていなかった録音についても,メリーランド大学のインター
ナショナル・ピアノ・アーカイヴに保管されていた未発表のテスト・プレス盤
から復刻して収録されています。

 非常に長い前置きになってしまいましたが,さっそく聴いてみると,復刻の
状態は予想以上に良好で,スクラッチノイズも抑えられていますし,ピアノの
タッチや響きも明瞭に聴き取ることができます。

 肝心の演奏は,形容する言葉に窮するほどの素晴らしさで,明瞭で粒立ちの
良いタッチ,明るく気品のある響き,デリケートで生気に満ちたフレージング,
格調高いパッセージワーク,そして決して過剰になることのない,ほどよく抑
制された表現など,ピアノ演奏の1つの理想,1つの究極を聴く思いがします。

 この演奏を聴くと,世界中が賞賛したというパデレフスキの演奏の姿は斯く
やと思わされますし,同時に米国録音で聴かれる演奏とのギャップの大きさを
改めて認識させられます。

 それにしても,これほど素晴らしく偉大な演奏が,これまで容易に聴くこと
ができなかったというのは,それこそ人類的損失だったのではないかと思いま
すし,それが良好な復刻によって完全復刻されたというのは,快挙であり偉業
であろうと思います。

 そんなわけで,これは控えめに言っても,100年を超えるピアノ録音の歴
史の中にあって最も偉大な演奏が刻み込まれた録音の1つであり,聴く者の演
奏観や審美観を変えかねないほどのインパクトと感銘をもたらしてくれる,時
代を超越した必聴の名演として,強力に推薦したいと思います。
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/cdreviews/2009-1/2009031501.htm



詳細は

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ _ 才能はともかくオーラだけは凄い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/432.html
3. 中川隆[-13588] koaQ7Jey 2020年3月22日 13:55:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1316] 報告

ワルシャワに生きるショパン - ワルシャワの苦悩と愛国心が生んだ音楽の伝統 -
もう1つの美しい公園とパデレフスキ像

 ワジェンキ公園でも十分に豊かなのに、この公園に隣接してもう1つ美しい公園がある。このウヤズドフスキ公園は、ワジェンキ公園と比べて知名度が低いくて規模が小さいからか、観光客の姿をほとんど見かけない。しかしワジェンキ公園よりも優美で、ワルシャワが美しい公園にめぐまれた町であることを改めて実感するような場所である。

ここにも1体の立派なピアニストの銅像が立っている。ショパンと同じくピアニスト兼作曲家で、しかもポーランドの首相にまで登りつめた真の愛国家、パデレフスキの銅像である。

ウヤズドフスキ公園とパデレフスキ像

 パデレフスキは24歳になってから本格的にピアニストを目指した遅咲きながら、情熱的なプレイスタイルや上品でカリスマ性のあるいでたちで女性ファンをとりこにし、アメリカを中心にアイドル的な人気を誇った。

パデレフスキのトレードマークであった金髪の巻き毛ほしさに、はさみをもってパデレフスキを襲った女性ファンもいたほどだ。

パリのサル・エラールにおけるデビューコンサートには同郷のキュリー婦人も参加しており、初舞台とは思えない堂々ぶりは皇帝のようだったと証言している。

演奏活動のみならず、ピアノ曲からオペラまで作曲したり、ショパンの楽譜全集を編集したりもしている。ポーランド語、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語を操り、知的な語り口でヴィクトリア女王をはじめとした各国の要人とも親交が深かった。

第一次世界大戦ではポーランド独立のために奔走し、ポーランドが独立した1918年には首相にまで選ばれた。第二次世界大戦が勃発し、再度苦しみを味わったポーランドのために、再度立ち上がろうとしたパデレフスキは、直後の1940年にアメリカで80年の生涯を終えた。ポーランドに自由が戻った時に自分の墓をポーランドに移すことを決めていたが、それがかなったのは1992年になってからのことであった。

 2010年はショパンの生誕200周年のみならず、パデレフスキの生誕150周年の年でもあった。ワジェンキ公園のショパン像には無数の人が集まって写真を撮っているが、ウヤズドフスキ公園のパデレフスキ像には、情熱的な真っ赤なバラが囲んでいるだけで、まったくといってよいほど人気がない。ワジェンキ公園の混雑を避けてゆっくりするために来た人と思われる人がぱらぱらといるぐらいである。

パデレフスキ像は王座に座る皇帝のような姿で表現されており、まるでショパンの大胆で感傷的な銅像とは趣が違っている。人々に常に注目され激動の人生を送ったパデレフスキと、病弱で人前に出るのを嫌ったショパンのそれぞれの銅像は、お互いの人生とは間逆の結果になっている。
http://www.europe-museum.com/classic_music/composer_city/em768


▲△▽▼


パデレフスキーはポーランドのピアニスト兼作曲家。

政治家・外交官としても活躍し、第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代の首相。

Paderewskiはポーランド発音ではパデレウスキ。

Ignacy は Ignace とフランス語表記されたり、Ignaz とドイツ語表記されることがある。
日本ではパデレフスキとも表記されている。


ポドリア地方の寒村クルィフカ(現ウクライナ領)生まれ。

父親は経済学研究者だったが、出身はポーランド系の小貴族。生母はパデレフスキーを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキーは遠戚者によって育てられた。

最初は個人教師についてピアノを学んでいたが、1872年(12歳)ワルシャワ音楽院に進学し、ナタリエ・ヤノータ(クララ・シューマンおよびブラームスの門下)に師事。

1878年(18歳)ワルシャワ音楽院を卒業し、そのままピアノ科の教官になる。

1880年(20歳)アントニーナ・コルサクーヴナと結婚。しかし、翌年に生まれた長男アルフレッドに障害がある事が判明し、さらにその年の10月に妻アントニーナが死去。

1881年(21歳)ベルリンに留学。フリードリヒ・キールとハインリッヒ・ウルバンに作曲理論を師事。

1884年にウィーンに移り、テオドール・レシェティツキに入門。

1885年(25歳)レシェティツキの紹介により、ストラスブルグ音楽院教官として着任。2年間、音楽理論とピアノを担当。

1887年(27歳)、ウィーンに戻り正式にコンサートデビュー。

1889年パリ(29歳)、さらに1890年(30歳)ロンドンでもデビューして大成功をおさめる。ちなみにパリ・デビューは当時少年だったアルフレッド・コルトーも客席で聴いている。


1884年にレシェティツキの門を叩いたパデレフスキーは、ピアノ演奏法を基礎の基礎から徹底的にやり直しさせられたと伝えられる。

レシェティツキは、師のツェルニーの教則本をパデレフスキーに与え、パデレフスキーはそれを毎日10時間(実際はもっと長時間だったという証言もある)練習したという。

とはいえ、プロ志望には余りにも遅い24歳の入門者に、レシェティツキは最初は難色を示したという。

その入門希望者と来たら…テクニックは不完全で、規定の速度で演奏するのもままならない腕前しか持ち合わせていなかった。それ以前に、ピアニストを目指すには24歳という年齢はあまりに遅すぎた。

ピアニスト志望者は普通は10歳までに専門教育を受け、15〜6歳の頃にはある程度の技術は完成されていなければならない。18歳で音楽大学に入ってあちこち矯正されているようではプロにはなれない。

まして24歳と云えば音楽大学入学どころか、下手すれば大学のさらに上の大学院を出ようかという年齢である。

それでもパデレフスキー青年がレシェティツキ門下の末席に座る事が許されたのは、パデレフスキーが「ポーランド系ユダヤ人」であった事が関係していた可能性がある。

実はレシェティツキは、ピアニストとして成功するための基本要素として「ユダヤ人」である事と「ショパンと同じポーランド系」である事を提言していたからである。

もしもパデレフスキーがポーランド系ユダヤ人でなかったら、果たしてレシェティツキが入門を許したかどうか…。

それでもレシェティツキは入門を許したとは言え、パデレフスキーが後に(あれほど壮絶かつ空前の大成功をおさめる)世界的なカリスマ演奏家にまで昇りつめるとは夢にも思っていなかったので、パデレフスキーにさっさと教職を紹介して、ウィーンから彼を遠ざけてしまう。悪い言い方をすれば厄介払いのつもりだったのだろう。

しかし、結果としてパデレフスキーはレシェティツキを頼る他はなく、スポンサーを見つけて再びレシェティツキのもとに通い始め、訓練を受けたのち漸くウィーンデビューをさせてもらえた。


これがきっかけとなってパデレフスキーはスターダムを昇りはじめ、「あのパデレフスキーの師匠」としてレシェティツキの名声が決定的になった事は運命の悪戯というものだろう。

レシェティツキは直接・間接指導を含め生涯に約1800人の弟子を指導したが、パデレフスキーの成功が無ければこれほどの入門志願者が門を叩いたかどうかは判らない。だが、門下の証言によればレシェティツキはどんな弟子に対しても辛抱強く教えたそうだから、スタートの遅かったパデレフスキーをとりあえず引き受けてくれる奇特なピアノ教師はおそらくレシェティツキをおいて他には居なかったであろうと推測する。(たとえパデレフスキーがポーランド系ユダヤ人であったにせよ。)

パデレフスキーのパリ・デビューが行われたサル・エラール(ピアノメーカー『エラール』のホール)は、ポーランド貴族の末裔達やパデレフスキーの知り合いが駆け付けたものの、満席には程遠い客入り(聴衆の一人、ポーランドの物理学者マリー・キュリー夫人の証言)だった。

ショパン、シューマン、リストの曲が並んだコンサートは圧倒的なまでの成功をおさめ、やはり聴衆の一人だったアルフレッド・コルトー(当時11歳)は『ステージに神が舞い降りたかのようだった』と後に回想している。

コンサートは聴衆総立ちのスタンディングオベーションと万雷の拍手で幕を閉じ、観客だった指揮者ラムルーとコロンヌの二人が興奮してパデレフスキーの楽屋に駆け付けて共演を申し込んだ時、パデレフスキーは震え上がってしまった。

なにしろパデレフスキーは晩学だったが故に、オーケストラと共演するピアノ協奏曲のレパートリーなどひとつも無かった。

そればかりか、この日パデレフスキーがコンサートで弾いたプログラムが、パデレフスキーの「人前で演奏できるレパートリーの全て」だったのだ。

もちろんウィーンデビューの時とまったく同じプログラム。それもレシェティツキから3年間シゴかれまくって毎日長時間かけてやっと作り上げた「なけなし」のレパートリーである。

パデレフスキーは、プロを目指したのが遅かったために、通常のピアニストが少年から青年に至る時期に経験する『レパートリーの蓄積』が欠落していたのだ。それをパデレフスキーは誰よりもよく自覚していた。だからこそパリデビューがいかに成功しようが、これから先の事を考えて暗澹とした思いにしかならなかったのは無理もない。


しかし、パデレフスキーはサイボーグ並みの意志の強さと根性を持っていた。

持ち前の精神力で「長時間練習」をこなし、更なるレパートリーを蓄積して行く。1891年のアメリカ公演の時、パデレフスキーは1日おきのコンサートをこなしながら、コンサートの無い日に17時間の猛練習を続けたという。

アメリカ公演でのパデレフスキーは実に半年で100回以上のコンサートをこなし、ピアノ界のスーパーアイドルとなった。この時パデレフスキーは31歳。(下の画像)

その人気の凄まじさは半端なものではなく、おそらくパリ時代のフランツ・リストが唯一対抗出来たのではないかという超絶の人気だった。

……例えば、パデレフスキーがステージに登場するやいなや女性達は集団ヒステリー状態になってステージに殺到。(コンサートを始めるどころではなかったろう)

最後の演奏が終わるとアンコールを要求する拍手と歓声・金切り声・断末魔などが沸き起こり、それが1時間以上も続く。レパートリーの少なかったパデレフスキーは、このアンコール地獄でかなりのレパートリーを拡げる事になった。

アメリカの聴衆はひとたび熱狂すると世界一恐ろしい。

なにしろ、かの名優オーソン・ウェルズがラジオドラマで「火星人来襲」のドラマを朗読した時、それを実際のニュースと早トチリして全米が大パニックになった事もある国民性のアメリカ人である。

パデレフスキーの追っ掛け集団もコンサートツアーが進むにつれて次第に見境いがなくなって行く…。

サイン欲しさの女性ファンが楽屋や入口付近に隠れているのはまだいいほうで、中にはハサミを持った女性ファンが待ち伏せし、パデレフスキーを見るなり襲い掛かった事もあった。

殺されるか…と覚悟をしたパデレフスキーだったが、女性ファンが欲しかったのはパデレフスキーの命ではなく彼のブロンドの髪の毛だった。(…ここまで来ると完全に変態ストーカーである。)

こうして、変態ストーカーと化した熱狂的女性ファン達の見境いの無い襲撃をかいくぐりながら、パデレフスキーは半年で100回以上のコンサートをこなし続けたのであった。


パデレフスキーの演奏風景を描いた風刺画。右下の小箱には『私の髪の毛です。ご自由にお持ち下さい』と書かれている。


かのホロヴィッツやミケランジェリ、現代のブレンデルは自己所有のピアノを専属の調律師とともにコンサート会場に持ち込む。そのポリシーは来日公演であっても変わる事がない。自ら用意したピアノのコンディションが納得出来なければコンサートそのものをキャンセルしてしまう例(ミケランジェリ)もある。

いやはや、世界の超一流ともなると公演ツアーに大変な経費をかけるものだと溜息が出る。


だが世の中、上には上がある。

絶頂期のパデレフスキーのコンサートツアーはピアニストというより、王侯貴族も顔負けの超VIPツアーであった。

アメリカ国内を移動する際はパデレフスキー専用列車を使う。列車は車輌ごとパデレフスキー所有物だったばかりか、パデレフスキーのコンサートスケジュールに合わせてパデレフスキーコンサートツアー専用ダイヤ(もちろんパデレフスキーが購入したもの)で運行した。

列車には愛用のエラールのピアノが2台(専属調律師付き)、移動中の長時間練習の時に調律出来るよう2台搬入したと伝えられている。

さらに長時間練習の疲労を和らげるための専属マッサージ師、パデレフスキーの好みの料理人チーム、主治医、執事、秘書、専属ガードマン、夫人と子供たち、……こうした大名行列のような専用列車を見るために集まる群集、群集、また群集。


そうしたパデレフスキーでも、ドイツやロシアでは冷遇された。特にロシアからすれば分割統治下にあるポーランド人は人間以下という偏見があった。パデレフスキーもそのあたりは判っていたが、ペテルブルグでは帝政ロシアのユダヤ人に対する差別政策もあり、ロシアの首都(当時)ペテルブルグにユダヤ人は24時間しか滞在出来ない…という法律があった位である。ポーランド系ユダヤ人であるパデレフスキーなど、世界がどんなに騒ごうが意地でも認めない…という雰囲気が漂っていた。

ロシアはこの時、日露戦争に敗れていた直後であり、さらに第一次ロシア革命によって帝政ロシアは末期状態に突入して行く。

1914年のサラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件により、オーストリアはセルビアに宣戦布告、第1次世界大戦が勃発する。ポーランドを分割統治していたオーストリア、ロシア、プロシア(ドイツ)は両陣営に分かれて戦う事になり、ポーランド国内は両陣営に別れたポーランド人達が内戦さながらに銃を向け合う悲劇に陥る。

54歳のパデレフスキーはここで立ち上がった。

当時居住していたアメリカで、自ら亡命ポーランド人10万人を集めてポーランド独立義勇軍を組織。さらにジュネーブ湖畔の別荘を売り払って資金を作る。

ただならぬ事態を察してパデレフスキー邸に取材に押し寄せて来た新聞記者達に対し、パデレフスキーは「ポーランド独立までは演奏活動を封印する」と宣言する。

一日練習を怠っただけで腕の筋肉が硬くなってしまう晩学ゆえのハンディを持っていたパデレフスキーにとって、演奏活動を休止する事……すなわちピアニストとしての「死」を意味する。

しかし、パデレフスキーは「祖国の英雄ショパンが見る事が出来なかったポーランド独立を果たすのは、今をおいて他にはない」と記者達に語った。

目に涙をため、断腸の思いで自宅ピアノの蓋を閉じるパデレフスキーの悲痛な姿は記者達によって撮影され、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストを筆頭に全世界の新聞のトップで公開された。

祖国の独立のために、ポーランドの生んだ世界ピアノ界のスーパースター・パデレフスキーが私財を投げうって立ち上がったというニュースに、全世界に散っていた亡命ポーランド人達の勇気は百倍した。

しかし、それはポーランドの独立と引き替えに、パデレフスキーが自らのコンサートキャリアに事実上の終止符を打った事に他ならなかった。


1917年、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生し、翌年ポーランド人民共和国が誕生。晴れて念願の祖国独立を勝ち取ったパデレフスキーの感慨は想像を絶するものだったろう。

民族の英雄・独立の指導者として乞われて政治の檜舞台に押し出されたパデレフスキーは、1919年にポーランド人民共和国首相(兼・外相)となり、パリ講和会議に出席した。

政治的手腕はさすがに専門政治家とはいかなかったものの、母国語のポーランド語以外に英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語を母国語同様に喋れた語学力、加えてピアニストとして活躍していた頃の世界的人脈が、この時モノを言ったのである。

しかし、各国首脳はポーランドの首相パデレフスキーと接していて、複雑な気持ちだったという。例えば、フランスの政治家ジョルジュ・クレマンソー(1841年〜1929年)との間にこんな会話があった。


クレマンソー:貴公はあの著名な大ピアニストとして活躍されていた、あのパデレフスキー殿でおられますかな?

パデレフスキー:その通りです。

クレマンソー:そして、現在ではポーランド共和国の首相でおられる……。

パデレフスキー:…そうですが。

クレマンソー:お気の毒に……なんという転落!


クレマンソーもまた、大ピアニスト・パデレフスキーのファンだったのである。

政治の世界を去ったパデレフスキーを熱狂的なアメリカ人ファンが後押しし、ついに1922年、コンサート活動を再開する。

全盛期の輝きは戻って来なかったものの、ファンはパデレフスキーが祖国独立の為にピアニストとしての貴重なキャリアを犠牲にした事を知っていた。
それでも、すっかり錆びついたテクニックから演奏される音楽は、それが所々に破綻しかけた演奏であっても紛れもない「パデレフスキー節」であり、パデレフスキーにのみ可能な超一流の洒落弾きであった。

今日、ピアノロールやSPに残されているパデレフスキーの録音は、どの曲もパデレフスキーの個性と気品に溢れており、少年時代「君はピアニストにはなれない」と言ったピアノ教師達の感覚を疑いたくなる。パデレフスキーは確かに超人的な練習をした。しかし、パデレフスキーの気品は決して練習で身につけられるようなものではなく、理屈抜きに「持って生まれたセンス」だと感じるのは私だけだろうか。

私もピアニストの端くれとして、持って生まれたものか後天的なものかは、演奏を聴けば間違いなく判る。ひょっとして、師のレシェティツキはパデレフスキーに『…もしや』と感じていたのかも知れない。

ニューヨークのマディソンスクエアガーデンを単独で満員札止めに出来るのは、パデレフスキーかモハメド・アリ(ボクシング)かマイケル・ジョーダン(バスケットボール)くらいのものだそうだ。こんな桁違いのピアニストは、あと300年は出て来ないのではないかと思う。

パデレフスキーの作曲したピアノ曲は、メヌエットがあまねく有名だが、ピアノ協奏曲イ短調もなかなかの名曲である(VOXレーベルからマイケル・ポンティの演奏するレコードが有り)。
http://www.pianist-sonobe.com/pianist_library/h/Paderewski.html


▲△▽▼


パデレフスキも30代まではまともな演奏をしていた様ですね。

しかし、ピアニストの場合は20代、30代の天才というのは存在しないのですね。

早熟だったコルトーやホロヴィッツでも40才過ぎてやっと巨匠に成った位ですから。

欧米の女性を熱狂させた20代、30代のパデレフスキーもエルビス・プレスリーやビートルズと同じ類の人気だと思った方がいいですね。

しかし、パデレフスキーに限らず、ポーランドの人間はみんなどこかおかしいですね。

ポーランドはヨーロッパの朝鮮みたいなものなのかな:

ポーランドの噂

1.東郷ビール。 これってフィンランドのはず。 フィンランドにもそんなモンねぇよ。 実際にある。ただし海軍元帥シリーズの一つとして。 正確には「あった」だね。つーか、「東郷ビール」なんていうネーミングは現地で存在してすらいない。フィンランドの超ローカルなAmiraaliという地ビール(92年に製造中止)のラベルの24人の海軍提督のうちの一人が東郷だったというだけ。「東郷ビール 伝説」あるいは「東郷ビール 伝説 独り歩き」でググろう!。

2.ズブロッカ 養命酒に似た味。
中に植物の茎が1本入ってるウォッカ。


3.世界最強の酒、「SPIRYTUS REKTYFIKOWANY(スピリタス)」 これをポーランド人は乾杯で何杯も一気飲みする。
度数96%だっけ?ほとんど工業用の精製アルコールと変わらん・・確か日本で売ってるビンのラベルには「火気厳禁」とか印刷してあった気がする。
普通に水気の入ったビンの感覚で持ち上げるとほとんどアルコールなので軽くてびびる。 日本酒みたいに薄い酒は慣れていないのか、かえって飲み過ぎてつぶれるらしい。

4.コペルニクス、キュリー夫人、ヨハネパウロ2世もポーランド出身。 「コペルニクスはドイツ人だ!」なんて言うと・・・。
クラクフ空港の愛称はヨハネパウロ2世空港。

5.バッハもこの国出身。 当時ドイツ(神聖ローマ帝国)領の地域だよね?違った?
指揮者・クレンペラー(ドイツ人)の生地も今はポーランド。
大バッハはアイゼナハの生まれだけど、あそこは当時からドイツ領では。ポーランドの民族音楽であるポロネーズを作曲してたりはしたけど。

6.ショパンって確かこの国じゃなかったっけ? 当たり。
ワルシャワの空港はフレデリック・ショパン空港
ワルシャワ近郊生まれ。但し父はナポレオン戦争に従軍してそのまま土着したフランス人(母は勿論生粋のポーランド人)。ショパンという姓も本来はフランスの姓。フルネームもフランス語式とポーランド語式の両方がある。

日本のピアニストでショパンの3度の練習曲を速く弾けない人が非常に多い。 同じく作品10・2番半音階の練習曲も弾けないピアニストが多い。 上記の二人はヘタレ音大卒の模様


彼の写真を見たらドラクロアの絵とのギャップが大きく、失望した。

7.初代首相(兼外相)は「メヌエット」で有名な作曲家&ピアニストのパデレフスキだった。


8.第二次世界大戦後国土がずれた。東側はソビエト領となったが、ドイツ東部をもらったため。

9.首都はワルシャワ。第二次世界大戦など対戦のたびに破壊されたが現在は復興した。 旧市街を完全再現したはずが、街の片隅に寸法ミスがある。

10.1980年代に共産党の一党独裁が崩壊。 時の共産党第一書記ヤエゼルスキは大のロシア嫌いだったがポーランドの為になにも言わなかった。盲目の指導者でサングラスをかけていたが、その視力はソビエトとの戦いで失ったもの 一部ウソ。ヤルゼルスキはむしろ心情的に親ロシア派。あくまでもポーランドの独立を守ろうとしたのであって、ロシア嫌いというわけではない。本人もよく「スラヴの同胞」という表現を使う。

ちなみにヤルゼルスキは戦後の歴代指導者の中で一番国民から嫌われている。理由はユダヤ系だったから(現地でポーランド人が教えてくれた)。帝政ロシアの頃から属国の統治手段として異民族出身の指導者を充ててロシアに対する反感を和らげようとしていた。「スラブの同胞」と言う表現はあくまで恭順の意を示しただけに過ぎない。


11.ドイツ第三帝国が築いた収容所の跡が残っている。 オシフィエンチム(ドイツ語でアウシュヴィッツ)収容所。世界遺産となっている。
同様にドイツ第三帝国が築いた総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(現地名はヴィルチィ・シャニェツ)」も跡地ながら残っている。ちなみにかなり僻地にあるため、敷地内にはホテルまで隣接している。

12.各地にはドイツ軍の残していったブンカー(壕)が残っていたり、近年では近海にドイツ海軍の空母が沈んでいることが判明したりと、ドイツ軍の置き土産には事欠かない国。街角では何故か鉄十字章がひっそりと売られていることも。 ワルシャワの軍事博物館にナチス展みたいのがあってマウザーやパンツァーファウストが展示してありその筋にの人にははたまらない

13.人口は3800万、日本の関東地方と同じ。

14.ドイツ軍に戦車で攻め込まれたとき馬で対抗しようとした。 でも、ポーランド騎兵の獰猛さは有名だったため、ドイツ兵はびびりまくっていた。本気で勝てるのかと疑っていた節もある。 実はヒトラーが割譲を要求したのは伝統的なプロイセン民族の土地(ドイツ人、ヒトラーが言うアーリア人の土地)で、実際、この地域では第一次世界大戦終結後ドイツ系住民に対する迫害が起きていた。その度合いは初期のホロコーストなど真っ青である。

だがポーランドは突っぱねた上軍備で脅したのでヒトラーがブチきれて戦車で蹂躙された。だいたいポーランドが他国に侵攻されるときの理由はこういう態度なのだが、勝っている方の尻馬にのって被害者ヅラするため始末に負えない。アメリカがあっさりソ連にくれてやったのは相手するのが嫌だったから。長い記事 ウソくさ!いったいどこで読んだんだそんなホラを・・・

ヒトラーはチェコでドイツ人の多い所だけくれればいい、という約束を破った前科があったから、ポーランドが拒絶するのは当たり前。 チェコのそれはチェコ側のお家騒動が原因。

そもそも西プロイセンにはドイツ系よりポーランド系のほうが多数を占めていたからポーランド領になったのだが どうもフランスと挟撃すればいずれ勝てると考えていた節がある。仏との同盟は秘密同盟だった。戦争回避を第一に考えるなら普通は公表する。

日本人はあのにっくっきロシア人に日露戦争で勝った国なので「黄色人種だか身長は自分たちと同じくらい」と勝手に思い込んでいる。背の低い日本人がポーランド人におまえ何人かと聞かれた場合、「おまえはベトナム人か?、朝鮮人(韓国人)か?、中国人か?、もしかして日本人か?」と必ずもったいぶって「もしかして」がつくはず。


歴史を見れば分かるけど、もともとポーランドは愛国心は強いけど異教徒・異民族に寛容な国柄だからね。 ドイツ侵攻に際してポーランド国内ではドイツ系に対する虐殺事件が起きている(ブロンベルグ血の日曜日事件)。これに対してドイツ系ポーランド人が自発的に組織した自警団が報復している。

プロイセンはドイツ騎士団の東方植民でドイツ人が大量移住した土地だが植民者はドイツ人に限らず西側は長年ポーランド王領、プロイセン王国は宗教や民族に無頓着に移民を受け入れる多民族国家だったので「プロイセン人」はかなり多民族と混ざっていた。

当時のポーランドはどさくさに紛れてソ連の領土を掠め取ってるし、ドイツが攻めて来たときにも隙あらばドイツを逆に占領しようとしたのが当時の文書から分かっている。まぁ東の大国ソ連と西の大国ドイツ両方から恨まれてたんだね。
ちなみに当時のポーランドは非常に領土的野心が高い国と言われていたのも分かっている。

パデレフスキ首相が当時はれっきとしたドイツ領だったポーゼンで「ここはポーランドの領土」と演説したことからも明らか。 ぶっちゃけ、当時のポーランドはドイツに負けないくらいの陸軍大国だった。でも重工業化に失敗して機械化が遅れていたので、イギリスとフランスはポーランドがもって2・3ヶ月だろうと思っていた。なので2国とも最初から見捨てる気満々だった。


でもポーランド侵攻時のドイツの戦車は弱く、むしろ優秀な野砲がポーランド軍を蹂躙したと言って良い。

「騎兵隊で戦車部隊に突撃した」という逸話は実は従ドイツ軍イタリア人記者の「作り話」らしい。


15.美人と「ミリタリー系の雑誌」には事欠かない。前者は街中で、後者はキオスクで。 Wikiでその手のを捜してると、「English」のリンクが無いのに「Polski」と繋がっているという事がよくある。

ワールドカップの各国美女サポーターを集めたサイトを見たが、Brazilと並んでPolandのページが異様に多かった。美人が多いのはどうやら間違いないと思う。 世界有数の美女大国だが、30も過ぎるとウエストのないおばちゃん体系に...


16.最盛期は15世紀。

17.田舎の踏み切りは、列車が通過する前後で最低でも30分は閉じている。 目で見て渡れと…。

18.犯罪者の護送に在来線を使う。ちなみに車内では護送される犯罪者は手荷物の収納部屋のような場所に入り、その入り口の両脇を銃器を持った軍人さんがガッチリとガード。

19.何かあるたびに無くなったり分裂したり移動したり復活したりと忙しい国。 ヨーロッパのいじめられっ子。

4,5回ほどロシアに小突きまわされてるのに何度も不死鳥のごとく蘇る。国歌にすら「まだポーランドは滅びていない」というフレーズが入っている。 ちなみに国歌の名前は「ドンブロフスキのマズルカ」、ポーランドの友人に聞いても意味は知らんとのこと。

何度潰されても、虐げられてもしぶとく復活。ポーランドの子供は自国の歴史を学校で習うと愛国心が高まるそうだ。

800年間でもリトアニアに併合され、ドイツ・オーストリア・ロシアに全領土を没収され、第一次世界大戦後再び現れ、今度はドイツとソ連に侵略され、また復活したがソ連に西部を半分持ってかれドイツ東部が領土となり…今に至る。結構いそがしい国だ。

リトアニアに併合されていたというのは無理かも。ポーランド国王がリトアニア公爵を兼ねていた同君連合(西洋史にはちょくちょくあること)でした。ちなみに日韓併合も世界史的に見ると同君連合に分類されるようです。 ポーランド女王とリトアニア大公の結婚という比較的穏健な手段で連合している。ちなみに、女王様は御年11歳で三十路の大公殿下にお輿入れ。


実は結構自分から手を出したこともあるが、一般的にはヤラレ役のイメージが強すぎて目立たない。 ドイツ(チュートン)騎士団をぶちのめしたことも。 リトアニアと連合軍を組んですっごいかっこいい勝ち方をしてた。


20.帝政ロシアに虐められた時、シベリアに流されたポーランド人の子供を日本が世話したので結構日本に対する感情が良い。 そして阪神大震災でその恩返しをした。 阪神大震災の時「今こそ我等ポーランド人が日本人に70年前の恩返しを」という事で多くの被災孤児を招待して手厚くもてなしたとか。

でも国民単位では反日らしい。 そんなことはない。8月6日と9日には原爆犠牲者のための追悼をしてくれてますよ。 そう言うなら「ドイツをいじめると日本人はいい顔をしない」ということもそろそろ理解して欲しい。 そんなこと思う日本人はあまりいない。そもそもドイツはナチス時代にいじめられても仕方ないだけのことをしてるからなぁ(仕返しもしたけど)。 それが結構いるとこにはいる

そもそもドイツ国民の殆どは、同盟を結んでいた事なんて知らない。全く知らないよ。マジで。


ポーランドが反日国家なんて聞いたことがないよ。 むしろどちらかと言えば親日。シベリア孤児のこともあるし、クラクフには日本に関する博物館もある。


21.今でもロシアが嫌い。 ドイツも嫌い。本当はアメリカも好きではないが、「新しい欧州」扱いしてくれるから表には出さない。

その割りに御祭りではロシア人の商人が自国の空軍のパイロットスーツや、果ては日本なら遊就館にでも収蔵されていそうなン十年前の錆びて穴の開いた鉄帽やドラムマガジンを平然と売っている。というかそれ確実に何か憑いているだろ。

が、最近はポーランドの方からロシア側に関係修復を望んでいる。ロシア側も両国の関係進展を望んでいる。エネルギー、防衛の関係で時間はかかりそうだがこの両国の関係がよくなればEUとしてはおいしい。

アメリカへの愚痴意見は両国とも合致している。
ロシア人のエリートがワルシャワに訪問したら、ホテルでも冷たい態度を取られる。

22.でもロシアが嫌いな他の国家(大半はベタベタの親日)からは日本とドイツが第三次世界大戦を起こしたら、ポーランドとイタリアと韓国だけはなんとしてでも締め出そう、と思われている。 日本とドイツが手を結ぶより、日本とアメリカとイギリス+英連邦が組む可能性が高そうなんだが、その場合はどうするんだろ。この場合は戦争する以前にこの新連合国の勝利が決定していそうなんだが。

たぶんドイツやフランスは戦争に参加せず、中国などが敵になりそうな気がする。

アメリカ+日本+英連邦の「新連合国」とロシア+中国の「新似非共産圏」とドイツ+フランス+イタリアの「新枢軸国」でどうか。南米・アフリカ諸国は一番親しい国もしくは一番金をくれる国に付く。 中東なくないすか?

どうせ戦争になったら世界中のみんな「絆」なんて忘れて「金」と「勝利」にしがみつく様になるんだろう。今は仲が良くても心底では「もしアイツが裏切ったときのために一応装備しておこう」と思ってる人が少なからずいる。そう思ったら・・・しょせん世界中の「共存」と「友情」なんてその程度なんだ・・・って落ち込む。


23.ショパン国際コンクールが開催される。 昭和40年代内田光子が2位で、日本はいまだに優勝できない。 日本のピアニズムを認めたくないらしい。


24.去年(2005年)双子の兄が首相・弟が大統領という兄弟政権が誕生。 ドイツが大嫌いだ。ついでに口シアも。

インターネットで、2人の写真を並べて違いを判別するゲームがある。
ソ連に虐げられた日本人とは結構ウマが合うかもしれない。
そりゃそうだ。何回も理不尽な理由で攻め込まれてるからね。

25.国旗の赤と白を逆さまにするとモナコ(=インドネシア)の国旗になる 共産国家になっても、旧来の国旗の意匠を頑として変えなかった(他の東欧国の多くは社会主義っぽい紋章や赤い星を国旗に加えたケースが多い)この国旗にかけるポーランド人の思いはただならぬものがあるそうだ。 国章も、鷲の頭の王冠が消えただけで特に社会主義っぽくはなっていなかった。


26.インドネシアと紛らわしい国旗なので、配色を忘れたら、マルマインを思い出すべき。 じゃあ、マルマインとビリリダマの区別が付かなくなったらどうするの?

27.民族ジョークではイタリアをも凌ぐバカの名産地だが、本来の国民性は勤勉らしい。 戦争でボロ負けしてから必死こいて挽回するから、「一人が電球を持って残り四人がテーブルを回す」とかいう言い草になったんじゃないのか?

かなり我の強い国民性らしい。国王を差し置いて貴族同士が権力争いをしてたら(ポーランド継承戦争)気づけば国そのものが無くなっていた

どうやら、アメリカに大量に移住したポーランド系の移民がロクに英語を話せなかったから・・というのが事の真相らしい。元々は勤勉な国民性なので、二世・三世になって医者や代議士、大学教授等多くのエリートを輩出している。


28.国歌がなかなかかっこいい。 歌い出しが「ポーランドは滅びず 我等が生きる限り」か。ポーランドらしいな(笑) もともとポラン族という民族の集落だったらしい。

旧ユーゴスラビア国歌「スラブ人よ」と同じメロディー。元はスロバキア発祥で現在も同国の第二国歌。

そして何故かイタリアの名前が歌詞にある。ポーランドとイタリアは仲が良いみたいだ。 アンケートによればポーランドが一番好きな民族はイタリア人らしい。次が日本人とフランス人、次がイギリス人、アメリカ人。


29.餃子が名産。 ピエロギと申します。

30.映画・戦場のピアニスト 邦題 The pianist で有名。 「原題」では?
"AVALON"は"The Matrix"よりもクール。

31.アメリカンジョークでは、ポーランド人は時代遅れのバカという扱い。 有名なのは「Polish Remover」の話。

時代背景が古いハリウッド映画(舞台はアメリカ)など見ていると、ポーランド人やアイルランド人を馬鹿にした表現があったりする。何故?国が何度もなくなっているから?


32.あるポーランド人男性によれば、ポーランド女性は身も心も世界で最も美しいのだが、不幸なことに脳みそが入っていないのだそうだ。 どういう意味?おバカさんってこと?


33.ポーランド語人口が少ないにもかかわらずWikipediaの記事数では日本語、スペイン語を上回る第4位になっている。 ポーランド語版Chakuwikiがあったらいいのにw

ワールドワイドで売られている電機製品等では最近意外にポーランド語対応製品が多い。デジカメとかコピー機とか(日本製品で)。
日本ではwikipediaは自己満足の世界と理解されたから。ポーランド人はおバカだからまだそれに気づいていない。

34.「ポーランド人」「ポーランドの」を意味する英語Polish(ポウリッシュ)は、小文字にすると意味ばかりか発音まで変わってしまう唯一の英単語。 polish(ポリッシュ)……磨く。 ポーランドの柱。

polishの発音はパリシなんだが・・・。Polishならわかるけど アメリカ人でも気付かない人が多いらしく、作家のアイザック・アシモフが何回もネタに使っている。


finnishを無視するな。 完了はfinishなのだぜ!


35.ポーランド語は異常に「z」をよく使う。 特に頭文字に多い。

36.王天君にしてヤムチャ。

37.5月3日は憲法記念日。日本と一緒。


38.(9 + 13) * ( 24 - 2 ) を * + 9 13 - 24 2 と書く。 その逆が 9 13 + 24 2 - * ポルスキーもあながちバカばかりではないようだ.


39.たまにドイツに過去の清算だの言いがかりをつけてくるが、 モンゴル帝国が攻めてきた時、当時のドイツである神聖ローマ帝国と共にモンゴルの侵略と戦ったことはすっかり忘れている。 大昔から他人種と戦うなんて大陸はつながってるなあ。いまでもポーランドの路線はロシア経由で中国やモンゴル、北朝鮮にもつながっている。 侵略されたら戦うのは当然だろう。神聖同盟でロシア、オーストリアと組んでオスマントルコと戦ったりもしている。この時にポーランド騎兵の対外的な名声が高まった。

その四十年後に繋がってない日本もモンゴルと戦っている。西のヨーロッパから東の島国まで攻め込んでモンゴルも忙しい国だ。


40.ポーランド騎兵には羽が生えていた。 あの羽根飾りはカッコイイ。

41.ポーランド人はアメリカやイギリスに多く移民しており、親米らしい。 ロシア語までも嫌っている。英語がブームらしく、日本語も人気で始めた。 戦前はドイツ語とロシア語がブーム。戦中から戦後は英語ブーム。


42.チェチェン人を保護している。『殺してやる』というほどロシアを嫌っている人々に共感しているみたい。 さすが大のロシア嫌い。

ソビエト陣営所属の共産国家「ポーランド人民共和国」時代で3回も反ソ連暴動起こしてるしな・・

43.ポーランドのドラゴンボールzのopeningはなぜかナメック星編中心。 ハンガリーもポーランドと同じバージョン。

フィリピンの英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語バージョンはかっこいい。

44.♪さぁ踊ろう ポーレチケ、ポーレチケ、ポーレチケ…

45.優秀な人はみんな西に行ってしまったので、残っている人はそれなり。日本で言えば山口か鹿児島か。「ポーランド人は外国にいって成功するんだ(キューリー夫人とかショパン)」と真顔で語る波蘭人。

46.国が何度も消滅する歴史を持っているためかどこの国であろうと虐殺、弾圧が行われると真っ先に反応して講義する。天安門事件の慰霊碑が立てられているのが好例。

47.第二次大戦のポーランド軍最高司令官はヴワディスワフ・シコルスキという。 気持ちい? 女性ならシコルスカ/Sikorska、シコシコ・スカスカ、はぁー

48.ナチスドイツから2500人のユダヤ人の命を救ったイレーナ・センドラーというポーランド人がいた。 ナチスドイツ軍に処刑されたと思われたが実は生きていたという奇跡の物語。


49.ただいま日本語がブームである。 なんと日本ポーランド情報技術大学なんてのがワルシャワにある


50.ナポレオンが好き。(一時的に、ワルシャワ公国としてポーランドを独立させたから) 国歌の歌詞に「ボナパルトがいい例だ 勝つ方法を見せてくれた」との一節がある。

その結果ポーランドにはフランス語が元の言葉も多いとか
ボナちゃんの愛人がポーランド人。


51.ポーランドは西側の中古の路面電車を買っている、そしてリニューアルをする。 JR西日本とJR四国のような感じである。

52.ポーランド人はドイツとロシアも両方嫌っているが、ロシアのほうが嫌いだろう。 ポーランドはドイツ語を好んでいる。何しろ出稼ぎに便利。ドイツ語とポーランド語は違う系統だが隣国なのでよく通じる。 内心嫌いだが、金のためのドイツ語だろ?

ポーランド旅行ではドイツ語表記が多いので、ドイツ語がわかれば結構よいかも。
しかしロシア語で話すと横柄な態度を取られる、また第二次大戦後にロシアにより東側陣営にさせられた苦痛がある。 しかしポーランドではロシア語教育が復活している。まあBRICsだから。

ドイツは消極的選択肢で好かれている。まあナチス式敬礼しただけで逮捕するからね。一応はドイツは敗戦したし。 これはバルト3国、チェコ、スロバキアでも同じ事。


53.ポーランドは客車大国で、特急列車も高速鉄道も客車。高速鉄道を作らず、飛行機と競争しない旧共産圏の名残。 ドイツから鉄道を乗り継ぐ際にここを境にユーラシア大陸の極東まで特急列車はほとんどが客車になり、シベリア鉄道は超長距離だから特急は客車しかない、中国のハルビンで動力分散型の高速鉄道が見られる。

ちなみにベラルーシを越えると線路幅どころか車高も変わる。 標準軌のヨーロッパと直通運転の際にロシア国内では車高が高いCIS列車と車高の低いヨーロッパ車両の組み合わせが見られる。[1]

なんと日本に次ぐ早さで高速鉄道を開通させていた。ただし路線に見合った性能の高速列車の導入はこれから。


54.イタリアと仲がいい。

55.ポーランドとインドネシアは似た国旗以外にもナチスに関係がある。

56.東欧革命後に西側の安い労働力として毎年6%前後の成長しており、2008年ではGDPは世界18〜20位だった。ポーランドは旧共産圏で経済成長率が高い。 勤勉なポーランド人は英語が好きで、近年は嫌いな国の言葉のドイツ語、ロシア語教育に熱心である。

恵まれた国に隣接する国は飛躍的に経済成長する現象。アメリカとメキシコ、日本と韓国、ドイツとポーランド、イギリスとアイルランド。 シンガポールとマレーシア。ギリシャとトルコも?だけどスペインとモロッコ、オーストラリアとパプアニューギニア、イスラエルとエジプトは?


57.弱いイメージがあるが、リトアニア大公国との同君連合時のヤゲウォ朝(ヤギェウォ朝)はヨーロッパでも最強クラスの国家だった。ちなみに受験でポーランドの王朝が聞かれたら100%ヤゲウォ朝 昔から軍事的にもそこそこ強力な国だったが、ドイツ・ソ連の東西両国が強烈過ぎた。ナチス占領下でもワルシャワで数十万の武装市民がナチスSS武装親衛隊相手に壊滅状態になるまで徹底抗戦したりと、よく言われる「ヘタレ」のイメージでは無い。

58.ポーランド人は金持ちがドイツに留学、貧乏がロシアへ留学するらしい。 ポーランドは一応はドイツ語は学ぶ。

59.移民として行く国はイギリス。ドイツは当たり前だが少ない。

60.ウクライナとの関係はよくわからない。どっちも反ロシア ポーランドとロシアの綱引きのようなもの。綱(ウクライナ)を少しでも自陣に近づけようとしあっている。

ポーランドには12万人のウクライナ人がポーランドで就業登録している。ポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性で、彼女たちに家計の全てを頼る家庭がウクライナには多いという。
どっちも美人大国!♪


西部ウクライナは歴史的にポーランドの影響を受けた地域で、ウクライナ語も東スラヴ語だが語彙はかなりポーランド語化しているのでポーランドとの心理的距離は近い。

61.18世紀に隣国によって分断され国が消滅、まるで現在のクルディスタン状態に・・・


62.童謡「森へ行きましょう」はこの国の民謡。 ポーランド語では「Szła dzieweczka(シュワ・ジェヴェチュカ)」と言い、「あの娘は歩いている少女」という意味らしい。

63.実はポーランドは17世紀においてオスマン帝国とマトモにやりあえる位の大国であった

64.ポーランド人は馬鹿といわれているがそれはジョークだけ、実際欧州でも1〜2位を争うほどIQが高い人が多い。

65.酒屋やスーパーのお酒売り場においてウォッカは売り場の7割ほどを占める でも最近若年層はワインを飲む人が増えてきた

66.ロシアとどっちがウォッカの元祖かしょっちゅう論争してる 記録上一番古い蒸留所はポーランドにある

67.最近はデスメタルの聖地。しかも、ものすごいテクニック(特に驚異的ドラマーが多い)と音圧、激しさ...ポーランド人の国民性?

68.G8の中で6ヶ国は好きで2ヶ国は大嫌いその国はどこでしょう?。 新大陸のアメリカとカナダは移民が多いから好き。極東の島国の日本は日露戦争の影響で大好き。ヨーロッパの連合国のイギリス、フランス、枢軸国でもすぐ脱落したイタリアは大好き。

ポーランドを侵攻したドイツ、ロシアは大嫌い。


69.フランスの環境相ナタリー・コシュースコ=モリゼはポーランド独立の闘士コシチューシコ伯爵の兄の子孫。

70.ポーランドの英雄ピウスツキの兄の子孫が北海道にいる。本国の家系は途絶えたらしい。
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

2012年 6月30日〜7月3日ワルシャワ旅行

 お休みと週末を利用してワルシャワを訪れた。毎回体調不良や予定があわず何度となく旅程を延期していたため、色々な意味で大きな犠牲を払った上での三度目の正直であった。ホテル・フレデリック・ショパンにチェックインし、仕事も多忙を極める時期でもあったため、なるべく体力を使わないように慎重に観光した。

訪問の主な目的はショパン、キュリー夫人、パデレフスキの足跡をたどり、彼らが育った土壌の文化、雰囲気、ポーランドの空気を体に染み込ませること。飛行機の中や晩ホテルで寝る前、その世界になるべく近づけるよう最近パリで購入したアルド・チッコリーニの演奏によるショパン作曲ノクターン集の音楽を聴いた。コペルニクス、パデレフスキ、ミケヴィッチについては、彼らの像をみることしかできなかった。

初日はショパン音楽院に通う友人と久しぶりに再会し、彼の案内でショパン音楽院を見学し、練習室でショパンの弾き合いをした。そこで先日のショパンコンクール審査員らの裏話を聞いたり、友人との会話を楽しんだりした。晩はマクドナルドでポーランド人の味覚を確認すべく、ビッグマックを食べた。

二日目は一人で観光。ショパン博物館には昔から本などでよく見かけた絵やショパンのピアノなどが展示してあった。ショパンの家は残念ながらあいていなかった。市街地の中心にある宮殿の小ささには驚いた。宮殿の大きさ、豪華さがその国の国力におよそ比例していると考えているが、このサイズは東アジアでいえば朝鮮国より小さく、琉球国よりやや大きいという感じであろうか。

キュリー夫人の生家、キュリー博物館にはパリのキュリー博物館(キュリー研究所)より多くの写真があった。その多くがパリの写真であり、パリで見たことがあったが、その中にもワルシャワでしか見られない少女時代の写真や、レアな写真もあった。パリのキュリー研究所で今自分がいる建物は100年前から外見は何も変わってなかった。

キュリー夫妻は、笑っている写真が1つも残っていない。長女のイレーヌは研究者になり、ノーベル賞を受賞したが、やはり笑った写真が1つもない。職業柄であろうか。次女のエーヴはピアノにハマり研究者にならず、いつもニコニコ美人で有名人の娘として社交界に出入りし、ノーベル平和賞をもらった組織のトップと結婚し、母の思い出を書いた伝記はベストセラーとなり、この時まだ102歳?で健在であった。

研究をした彼女の家族は全員放射能を浴び白血病で若くして亡くなった(父親は事故死)が、彼女は姉の2倍生きた。


生家をみる限り、伝記などで美化されるとなる生まれの貧しさは必ずしも正しくはないようである。それなりの家に育っていたようである。


晩は旧市街地でサッカーワールドカップ、フランス対ブラジル戦を見ながら地ビールを味わった。

三日目は午後から友人と合流し、南の離宮と有名なショパン像があるワジェンキ公園に向かい、ショパン像隣でのショパン音楽院教授によるショパンの演奏を聴いた。野外に粗末なピアノを置き、アンプとスピーカーを通しての演奏だったため、演奏者にもあまりやる気が感じられなかった。建築などで有名だった旧名門ワルシャワ工科大学前を通過し、晩は旧市街地で夕食をとった。

四日目は友人とショパンの家に行ってみたが、またしても開いていなかった。そのまま空港行きバスにのり、パリに帰った。二度と訪れないような気がして寂しさを感じた。
http://nanomicroscientist.blogspot.jp/2012/07/63073.html

4. 中川隆[-13587] koaQ7Jey 2020年3月22日 15:58:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1317] 報告

セルゲイ・エイゼンシュテイン 十月(1928年。Октябрь)

レーニン率いるボリシェヴィキが権力を掌握した十月革命の模様が描かれる。
この作品には実際に革命に参加した人々が多く参加しており、エイゼンシュテインの天才的な映像技術とともにそのリアリズムは際だっている。


October (Ten Days that Shook the World) (1928) movie

5. 中川隆[-13586] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:02:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1318] 報告

十月
https://movie.walkerplus.com/mv12030/


監督
セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン 、 グリゴーリ・アレクサンドロフ

脚本
セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン 、 グリゴーリ・アレクサンドロフ

撮影 エドゥアルド・ティッセ

音楽 ディミトリ・ショスタコヴィッチ

美術 ヴァシリ・ゴブリーギン

ソビエトが生んだ偉大な映画作家セルゲイ・M・エイゼンシュテインがソビエト革命十周年記念映画として製作した作品。

彼一流のモンタージュを、ヴィジョン構成の方法として用い、一九一七年の三月から十一月までの激動するソビエトをとらえている。

監督・脚本は前記のセルゲイ・M・エイゼンシュテイン。また、共同監督・脚本にグリゴーリ・アレクサンドロフが名を連ねている。撮影はエドゥアルド・ティッセ、音楽はディミトリ・ショスタコヴィッチ、美術はV・ゴブリーギンが担当。無声。


革命前夜のソビエトは、大きく揺れ動いていた。帝政ロシアの第一次大戦の連戦連敗により、ツアーリズムは最期をむかえ、社会生活の困難にストライキが頻発。そのような情勢に、ボリシェビキの指導者レーニンは、来たるべき革命は、プロレタリア革命であることを強調。そして、四月にスイスより帰国したレーニンは、「いっさいの権力をソビエト(評議会)へ!」というスローガンを唱えた。

このレーニンの方針は、メンシェビキや社会革命党の主張と、根本的に対立、次第に激化した対立をひきずったまま、六月中旬に、ペトログラードにて第一回全ロシア・ソビエト大会が開かれたが、ボリシェビキは少数で、メンシェビキと社会革命党のにぎる臨時政府と、戦争継続への支持が強かった。しかし、七月一日に四〇万の人々によって、戦争反対のデモが起きた。

その後、ボリシェビキに対する強い弾圧が加えられ、レーニンはフィンランドに亡命。九月に入ると、ロシアの食糧事情は極度に悪化し、ボリシェビキの支持者は増加し、亡命中のレーニンは、武装蜂起をうながした。十月二十日、ひそかにペトログラードに帰ったレーニンは、中央委員会に参加、蜂起は第二回ソビエト大会の前日、十一月六日と決定した。

当日、軍事委員会の蜂起指令により、労働者の赤衛軍は、各連隊の兵士、クロンシュタットの水兵と共に行動をおこし、要所を占領。十一月七日(露歴十月二十五日)午前十時、軍事革命委員会は、臨時政府の倒壊とソビエト政権の樹立、講和会議の開催、地主的土地所有の廃止などを宣言。そして、赤衛軍が冬宮を攻撃する砲声がとどろく中で第二回全ロシア・ソビエト大会がスモルヌィで開かれ、すべての権力をソビエトに移すことを宣言した。
https://movie.walkerplus.com/mv12030/

6. 中川隆[-13585] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:08:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1319] 報告
エイゼンシュテイン「十月」のモンタージュ
BeauMale 2012.2.20
http://beaubeau.jp/yuki/october.html

セルゲイ・エイゼンシュテインの「十月」である.制作年外が 1927 年というのと 1928 年というのがあるが、恐らく制作は 27 年で 28 年に公開ということではないかと思う.原作はジョン・リードの「世界をゆるがした十日間 (ちくま文庫)(Ten Days that Shook the World)」である.これの岩波文庫版を読んだが滅法面白い.アメリカのジャーナリストである彼はボルシェヴィキと行動を供のしていたのでレーニン贔屓である.ロシア革命はニューヨークの資本家から資金が提供されていたという話もある.エイゼンシュテイン自身はハリウッドに呼ばれたことがあるし、チャプリンなどとは仲が良かったらしい.尚この映画はサイレントであるが、DVD は音楽と群衆の声と馬の足音や銃声などの効果音が入っている.また、サイレントにしては字幕が非常に少なく画面だけで解るようになっている.

モンタージュはフィルム編輯のことである.エイゼンシュタインの編輯はカットで割ってその画面をどう繋ぐかにある.異なったものを繋いで一つの意味を作り出すと言うことに主眼が置かれている.冒頭の皇帝の銅像、群衆、銅像に縄を掛ける、群衆の歓呼という異なったショット群の繋ぎが意味を生成する.

参考:

YouTube - Search results for Octobre Eisenstein
https://www.youtube.com/results?search_query=Octobre+Eisenstein&search_type=search_videos&search=Search



全編のヴィデオがあるのだったらこんなに写真を拾う必要なかったが、以下は冒頭の部分を全ショットを拾ってみた、大きな彫像が九つのショットに分けられている.一回映せばよいのを何故カットを割って画面を作るかというと、これこそが画面に強度を与え、リズムを与えるからである.前回取りあけたラオール・ウォルシュの「限りなき追跡」の冒頭の駅馬車がカットを割ることによって力強さを獲得している.あのように一つの動きを幾つものカットに分けていく技法を Cutting on action [en] とかアクション・カッティングスというが、あるところに載っていたラオール・ウォルシュの「白熱」の解説に

この映画や「死の谷」など、ウォルシュの絶好調時を思うと、今のハード・アクションなんてちゃんちゃらオカシくって観てられない。暴力は溢れてるけど、映画自体の活動(アクション)が無いんですよ、今の映画は。

とあってこのアクションとはカッティング・オン・アクションまたはアクション・カッティングのことである.少し前に井口奈己という監督の「犬猫」を評して小津安二郎や成瀬巳喜男やベルトルッチやキアロスタミや黒沢清が共存しているというのでそれは凄いと DVD を買って観たが、なるほど箇々のショットは誰を思わすというのがあるが強度がないと感じた.思うにそれはこの意味でのアクションが無いことだと思う.



最後から二つ目のショットでこの像がアレキサンダー三世だと解ってそれも束の間、群衆が走り出す.そのシーンも角度を変えて幾つかのショットに分割される.




そしてまた皇帝像に戻る.今度は梯子が掛けられ何人かが登り綱を架ける.




そして綱が引かれる所でシーンは兵士、労働者、農民の歓声を上げている群像へと変わる.




ロシア革命の歴史を知らない人はこれがレーニン達の起こした「10月」革命と思うかも知れない.それ程に革命の熱気と祝祭空間がここには溢れている.面白いことに歓声は皇帝像が引き倒されてから起きるものだが綱が引かれる段階で起きている.この歓声の後実際に引き倒されるのであるが手や足がもげ、首がもげ最後に胴体が台から引き摺り落とされるという経過を辿る.その後もう一度群像の歓呼の画面が再現される.その様子は下のヴィデオにある.この革命は第二革命と言われた二月革命である.第一次大戦の連合国側に加わって参戦したロシアの民衆は三年近く続く戦争にうんざりして兎に角皇帝ツアーを退位させて、ブルジョワ政党による臨時政府を樹立した.

YouTube - TheFirstMinutesofOctober [en] この冒頭シーンのみ抜粋




併し祝祭気分は何時までも続かない.皇帝を退位させても何も変わらないのだ.戦争は継続され、兵士は塹壕で苦しんでいる.その様子も勿論複数のショットで表現されている.



そして飢えである.雪の中何時間も配給に並ぶ人々は映されている.時間が経つと雪の中で倒れるものが続出する.



四月、そんなときに待っていた人が帰ってきた.スイスに亡命中のレーニンである.ドイツは東西に戦線を広げていて、ロシアと対峙している東部戦線が離脱することを願っている.レーニンをロシアに送り込めば混乱が起きるかもと踏んでフィンランド経由で送り返した.ペテログラード(今のサンクトペテルブルク)はピヨートル大帝が作った都市でそれ以来ロシアの首都であったが、そのフィンランド駅に民衆はレーニンを今か今かと待ち構えていたのである.レーニンは革命は労働者農民によってなされたと演説する.



政権は臨時政府にあるが、無産階級からなるソヴィエトも力を持っていて二重の政府があるような状態であった.併し、段々臨時政府に対して不満を募らせ七月には大々的な武装デモを行うようになった.



レーニンらのボルシェヴィキは彼らを沈めようと必死になった.この写真はトロツキーだと思うが冷静に自重しろと呼び掛けているが民衆の声にはかき消されてしまう.



そこに大々的に臨時政府の反撃が行われる.デモ隊に対して実弾を発砲して弾圧を開始した.そして逃げ惑う人々



馬車を引く白馬が流れ弾に当たり、労働者地区から市の中心部に繋がる跳ね橋が上げられ馬が宙吊りになる.跳ね橋を上げれば労働者のデモ隊は市の中心に近付けない.



労働者を傘で刺しもしたブルジョワ夫人達が嬉々としてボルシェヴィキの機関誌「プラウダ」をネヴァ川に捨てる.



スモーリヌイの修道院にあったボルシェヴィキの本部はこの有様.



臨時政府の首班には陸海軍大臣兼任のケレンスキーが就いていた.ケレンスキーはこの映画一番の美男子である.



皇帝達の玉座に座るケレンスキーは今や皇帝としてこの映像が繰り返し一緒に挿入されナポレオンとも比較される.



反乱した兵士は前線に送られ、トロツキーを始め多くのボルシェヴィキの幹部は逮捕され、レーニンも潜伏を余儀なくされる.自然というものの描写のないこの映画で唯一こうした自然が描写される.舟で行く人がレーニンなのだろうか墨絵のような画面である.



そこに新事態が発生した.最高軍司令官に任命されたコルニロフ将軍が軍を掌握し、保守派の支持を集め革命で獲得した兵士の権利を剥奪しケレンスキーに同調を求めてきた.ケレンスキーはそこまで妥協は出来ない.今や二人の皇帝が並び立つ事態である.併し、ケレンスキーは保守派も離れボルシェヴィキからも支持を得られない.孤立無援の状態である.コルニコフ将軍は英国製戦車までも持つ機械化部隊で首都ペテログラードを目指して進撃している.



臨時政府は事態をこまねいてみているだけである.地下に潜伏中のボルシェヴィキが立ち上がった.捕まった同士は解放され、



民衆はスモーリヌイのボルシェヴィキの許に続々と集まった.武器庫が解放され武器が人々の手に渡る.



コルニロフ軍が軍用列車でペテログラードに近づくと列車は止められ、兵士達はボルシェヴィキに着く.各地で同じ事が起き最早軍隊は統制が取れない状態である.とてもかなう相手ではないがコルニロフ軍は自己崩壊してしまった.ボルシェヴィキの勝利である.



ボルシェヴィキの中央委員会が開かれ今後が話し合われる.トロツキーは時期尚早として政権奪取に反対する.トロツキーは理念的でマルクスの歴史の展開を信じているのであろう.先ずブルジョワ革命が起きそれが成熟してプロレタリア革命だと思っているようである.



レーニンは即時に政権を武力で奪取しなければまた弾圧されて散り散りになると現実的である.



結局武力による政権奪取を主張するレーニンの考えが通って政策が決定された.武器が配られ臨時政府のある冬宮が包囲される.また市内の重要拠点は全て占拠される.



アヴローラ号 もボルシェヴィキに着いてネヴァ川で冬宮に向けて大砲の照準が合わせる.



冬宮を守るのは士官学校の生徒と、この女性軍団と、コサック砲兵隊しかいない.女性軍団の兵士達は皇帝のビリヤード台であられもない姿で化粧をしたり寛いでいる.



一方、全ロシアのソヴィエト大会が開かれている.この組織が最高議決機関なのである.全戦代表、水兵代表、シベリア代表、と文字通り全ロシアから集まっている.政党もボルシェヴィキの他にもメンシェヴィキ、社会革命党などが来ている.政権奪取の賛否は圧倒的多数でレーニン達ボルシェヴィキの武力蜂起による政権奪取が支持される.これで公式に武装蜂起は承認されたのである.



冬宮は包囲されたがこのまま突撃すれば死傷者が出る.革命側から降伏勧告の最後通牒の軍使が遣わされる.これがこの映画では珍しい縦の構図である.



軍使は女性軍団の司令官に通報を渡す.渡すとき字幕が入ってこれがおかしい、女性軍団が何だい小父さんとでも言ったのであろう、小母さんと言いかけて同胞、最後通牒ですと渡す.最後通牒は閣僚にまで渡されるがケレンスキーはいない.ボルシェヴィキが武装蜂起を決めてからその様子を見るためか亡命のためかアメリカの国旗をつけた高級車で市内を走っていたが行方知れずである.最後通牒への解答は延々と来ない.



解答が来ない間、コサック砲兵隊はボルシェヴィキのオルグが入り降伏してしまう.女性軍団も多くが降伏する.それでも解答は延々と来ない.閣僚らはなすすべも無く寝転んだり座っているだけである.そんな閣僚の一人が窓の飾りに描かれた竪琴を指で爪弾くとロダンの「春」という彫刻が映され、そこに女性軍団の一人がやってくる.物語の大筋とは全く関係無い画面であるが、この革命劇の唯一のエロティシズムを表現している画面だと思う.以下このショットも全て拾ってみた.



一向に解答が来なくて待っていた軍使も引き上げた.そして一斉攻撃が始まった.



冬宮は千を越す部屋数のある巨大な宮殿であるが革命軍は突入する.殆ど抵抗もないまま制圧してしまった.捕虜になった士官学校生が皆宮殿の銀のスプーンやフォークを盗んで隠し持っているのはおかしい.



そしてレーニンによってプロレタリア革命が成就したことが告げられ、プロレタリア国家を建設しなければならないと宣言される.



今から観れば表現過多の所もあるが、この映画の力強さは素晴らしい.その力強さ細かくカット割りした画面によるものだと言う思いが強くなった.

http://beaubeau.jp/yuki/october.html
7. 中川隆[-13584] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:13:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1320] 報告

エイゼンシュテイン監督「全線(古きものと新しきもの)」、「十月」を観る
〜 ショスタコーヴィチ「交響曲第12番『1917年』」が流れる 2019年01月14日
https://blog.goo.ne.jp/tora6yoshi/e/7c98571ca0e1aa028b58b07cfbdb7c49

現在、高田馬場の早稲田松竹では、ソビエトが生んだ偉大な映画監督セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(1898−1948)の生誕120年・没後70年祭を開催中です  

昨日、「全線(古きものと新しきもの)」と「十月」の2本立てを観ました

「全線(古きものと新しきもの)」はエイゼンシュテイン監督・脚本による1929年ソ連映画(モノクロ・無声・90分)です

ロシアの貧しい農村で働く農婦マルファは、農業教師指導のもとに小さな協同組合を作る 組合では牛乳分離機という新しい機械を手に入れ牛乳の生産に取り組むが、それが評判になり組合員が増える 種牛も組合共有で飼育する。収穫の時期になると従来の牛や馬ではなく機械(トラクター)の必要を感じるようになり、マルファは組合の代表者として町へ出て官僚主義の役人と交渉する その留守中、種牛は富農の手によって毒殺されてしまう しかし、マルファたちはトラクターを手に入れ機械化による新しい農業の時代を切り開いていく
     

出演者は主人公の農婦マルファ以外は全員素人ということに驚きます この映画では1925年の「戦艦ポチョムキン」で新たに実験的に取り組んだ特殊なモンタージュ技法を使用しています それは、空に牛の姿が浮かび上がる映像として結実しています

この作品は無声映画なので、最初から最後まで90分間いっさい音がありません そのため睡眠不足の状態で観ると途中で目が閉じる可能性が高いので気を付けた方が良いと思います

それにしてもよく分からないのは「全線」という邦題です。「古きものと新しきもの」は、「古きもの=従来のしきたり・やり方、新しきもの=機械化・合理化」といった意味だろうと理解できますが、「全線」は理解できません。「全線不通」の全線ですか? 私は頭が良くなので理解できません

「十月」はエイゼンシュテイン監督・脚本による1928年ソ連映画(モノクロ・109分)です

帝政ロシアの第一次世界大戦での連戦連敗により、1917年にはツァーリズム(絶対君主制)は最期を迎え、社会生活の困難にストライキが頻発していた そのような情勢の中、指導者レーニンは来たるべき革命はプロレタリア革命であることを強調した そして4月にスイスから帰国したレーニンは「いっさいの権力をソビエト(評議会)へ!」というスローガンを唱えるが、この方針は、メンシェビキや社会革命党の主張と根本的に対立するものだった 

6月にペトログラードで第1回全ロシア・ソビエト大会が開かれたが、レーニンが率いるボリシェビキは少数派で、メンシェビキと社会革命党の握る臨時政府と、戦争継続への支持が強かった。しかし、これに対し7月に40万人規模の戦争反対のデモが起きた その後、ボリシェビキに対する強い弾圧が加えられ、レーニンはフィンランドに亡命する。

9月に入るとロシアの食糧事情は極度に悪化し、ボリシェビキの支持者は増加、亡命中のレーニンは武装蜂起を促した。10月20日 密かにペトログラードに帰ったレーニンは、中央委員会に参加、蜂起は第2回ソビエト大会の前日、11月6日と決定した。当日、軍事委員会の蜂起指令により、労働者の赤衛軍は各連隊の兵士らと共に行動を起こし、要所を占領する 11月7日(ロシア歴10月25日)午前10時、軍事革命委員会は、臨時政府の倒壊とソビエト政権の樹立、講和会議の開催、地主的土地所有の廃止などを宣言した

 そして、赤衛軍が冬宮を攻撃する砲声が轟く中、第2回全ロシア・ソビエト大会がスモルヌィで開かれ、すべての権力をソビエトに移すことを宣言した

    

この作品はエイゼンシュテインが、ソビエト革命十周年記念映画として製作した作品で、1917年の3月から11月までの激動するソビエトを描いています この映画でも特殊なモンタージュ技法を駆使した映像表現を見せています

この映画は無声映画であるにも関わらず、音声のみならず音楽まで入っています 映画の冒頭ではショスタコーヴィチの「交響曲第12番作品112『1917年』」の第1楽章が流れます また、映画の末尾では同曲の第4楽章が流れます 曲のサブタイトルにあるように、この曲は1917年のロシア革命を描いた作品なので、これ以上この映画に相応しい音楽もないでしょう また、この映画では彼の他の作品(ヴィオラ・ソナタ?)なども流れます

ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906−1975)が「交響曲第12番作品112」を作曲したのは1961年で、初演も1961年です したがって、エイゼンシュテインが1928年に製作した無声映画に、後からショスタコーヴィチの交響曲や彼の作品、その他の音声を加えて編集したことになります 

因みに「交響曲第12番」は第1楽章「革命のペトログラード:モデラート〜アレグロ」、第2楽章「ラズリフ:アダージョ」、第3楽章「アウローラ号:アレグロ」、第4楽章「人類の夜明け:アレグロ〜アレグレット」の4楽章から構成されています 
エイゼンシュテインの巧みな映像表現にショスタコーヴィチの音楽が加わることにより、より一層深みが増し 作品の芸術的価値が高められています

https://blog.goo.ne.jp/tora6yoshi/e/7c98571ca0e1aa028b58b07cfbdb7c49

8. 中川隆[-13583] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:16:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1321] 報告

ショスタコーヴィチ: 交響曲 第12番 ニ短調 Op.112 「1917」 ムラヴィンスキー 1984








EVGENI MRAVINSKY 30 April.1984
Leningrad Philharmonic Symphony Orchestra

1. 「革命のペトログラード」Moderato - Allegro 12:03
2. 「ラズリフ」Allegro - Adagio 11:24
3. 「アウローラ」Allegro - Allegretto 4:47
4. 「人類の夜明け」Allegro - Allegretto 10:15
9. 中川隆[-13582] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:18:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1322] 報告

レーニンの実像  


ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」

内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。

http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm

10. 中川隆[-13581] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:24:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1323] 報告

レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm

4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作

11. 中川隆[-13580] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:25:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1324] 報告

ロシア革命の始まり 皇帝は自ら災厄を招いた


市民運動に皇帝が同調したため勢いづき、革命に発展した
引用:http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22976000195.jpg


優柔不断な皇帝と革命農民

最後のロシア皇帝ニコライ2世は一言でいえば、優柔不断なうえに騙されやすかったと言われている。

例えば自分で決めた事でも前日に母親が意見を言うと変更し、当日に妻が苦情を言うとまた変更してしまった。

こうした突然の変更は、抗議を聞きたくないので他の人に無断で行われ、その度に皇帝は信用を失った。


優柔不断なのに騙されやすく、信じてはいけない相手ほど簡単に信じる傾向があった。

事実を告げるものは遠ざけられ、嘘の報告をする大臣とか、怪しげな助言者などの話を良く聞いた。

ロシア帝国は外部からの力というよりは、皇帝や周囲の人々の間違った行いによって、内部崩壊していた。


ニコライの祖父アレクサンドル2世の時代に、既にロシアは混乱していて、皇帝は何度も襲撃されていました。

アレクサンドル2世は市民運動家の爆弾によって1881年に逝去し、このころ既に社会主義思想が蔓延していました。

社会主義思想の始まりは皮肉にもアレクサンドル2世が行った農奴解放によって、それまでの農奴が市民になったからだった。


ロシア農民は欧州と同様に、領主の所有物でしかなく、土地についてくる付属品だった。

農民の生活は過酷で脱走や反乱が頻発したが、力で制圧していたので、農民と支配層の関係は欧州より敵対的だった。

農奴解放によってこうした不満をもつ農民は市民に昇格し、過激な革命運動を起こした。


皇帝が市民運動を奨励した

アレクサンドル2世の息子であるアレクサンドル3世は強権的な治世で秩序を保ち、用心深かったので爆弾でなくなる事もなかった。

だが1894年には病没し、「性格が弱く女々しい」と評判のニコライ2世が即位し、滅亡の道を歩き始める。

ニコライ2世は父親が決めた結婚を拒否し、ドイツ生まれのユダヤ人と、父親の死を待ち望んだかのように結婚している。


妻のアレクサンドラはユダヤ教は改宗したものの、ロシア語をほとんど話せず、ロシア人を嫌い、生涯にわたってニコライ2世の足を引っ張った。

またアレクサンドラには狂信的なところがあり、煽動者ラスプーチンをを招き入れたのも彼女だった。

ニコライ2世の戴冠式の後、市民に「ふるまい」が行われたが、市民が祝賀会場に行く道を作らず、将棋倒しで2000人がなくなった。


ニコライ2世は責任者を処罰せず、何事も起きなかったように振る舞ったが、このパターンはニコライの一生涯に渡って繰り返される。

ニコライ2世は性格が弱かったため、市民活動が活発になると簡単に同調してしまい、市民代表に権力を与えていった。

こうした経緯はフランス革命を引き起こしたルイ14世と同じであり、政治に参加するようになった活動家はますます凶暴化していきました。


ロシアの貴族や右派権力者達は新皇帝の威厳を高め、市民運動を押さえ込むため、「危険の無いちょっとした遊び」を考え出した。

それがロシアの極東進出で、清国や朝鮮や小さな島々を手に入れて領土を増やせば、不満を押さえ込めると考えていた。

ニコライ2世は皇太子時代に日本を訪問していたが、戦争にリスクがあるとは考えなかった。


革命の前年、革命が始まるとわずか2週間で部下全員が皇帝を裏切った
1898827
引用:https://www.syl.ru/misc/i/ai/329459/1898827.jpg


ロシア帝国の崩壊

日露戦争では序盤で一進一退が続いたものの、日本海海戦で海軍が全滅し、ロシア軍は大きな打撃を受けて敗戦してしまった。

戦前の計算では日本軍数人でやっとロシア軍1人と同等と考えられていたので、負けると想定したロシア人は一人も居なかった。

敗戦は社会主義運動を勢いづかせ、皇帝側は権威を失墜させてしまった。


ここでニコライは致命的な間違いを侵し、社会主義に同調して政治参加の道を開いてしまいました。

ニコライは市民とは直接話し合えば理解し合えるという考えに取り付かれ、市民らを宮廷に招いて話し合おうとしました。

ニコライ2世を危険視したロシア貴族達は、秘密警察を使って活動家を攻撃したり、逆に皇帝側を攻撃したりしました。


1905年1月9日、社会主義指導者のガポン神父は市民数千人を引き連れ、ニコライ2世の宮殿に行進したが、実はガボン神父は秘密警察のスパイであり、ロシア貴族の回し者だった。

市民らは待ち伏せていた秘密警察の攻撃で1000人以上が無くなったが、貴族と右派はこれでニコライの「市民寄り」姿勢を正すつもりだったとされている。

だがこの事件はロシア革命への引き金を引いてしまい、ニコライ2世とその家族は1917年頃までに全員がなくなっている。


側近達はニコライに事実を知らせず、「少数の暴徒が攻撃してきたので、止むを得ず反撃した」というフィクションを信じ込まされた。

ニコライは戴冠式の事故の時と同様に、何事もなかったように振る舞い、これには社会主義者だけでなく、皇帝側の軍人らも疑問を抱いた。

抗議運動が活発化すると、正規軍から次々に寝返りが出て、最後は自分の部下にまで裏切られて拘束されてしまいました。


1917年2月23日の2月革命で最初の小規模のデモから、暴動が拡大しニコライの部下全員が裏切るまで、たった2週間しかかからなかった。

優柔不断で無能な皇帝と新興宗教の教祖に入れあげた皇妃、嘘の報告ばかりする大臣、陰謀をめぐらす貴族、皇帝を憎む農奴出身テロリスト、煽動されやすい愚かな民衆。

こうした人々の相互作用によって、ロシア帝国は滅んだのでした。
http://www.thutmosev.com/archives/73310030.html

▲△▽▼

ニコライ2世の最後 亡命を拒否して帝政復古に期待していた

いつも姉に抱かれている息子のアレクセイは病弱で動かせないため、一家は脱出できなかった。
引用:https://learnodo-newtonic.com/wp-content/uploads/2015/03/Nicholas-II-Family-from-left-to-right-Olga-Maria-Nicholas-II-Alexandra-Anastasia-Alexei-and-Tatiana.jpg


ロシア脱出を拒否した皇帝

ニコライ2世はロシア革命が起きた1917年2月の後、3月7日に革命政府に拘束されたが、その前後に何度も逃げ出すチャンスがあった。

革命発生時にニコライ2世は第一次大戦を指揮するため前線に居り、妻と子供たちの皇帝一家は首都ペトログラード近郊の邸宅に居た。

軍司令官でもあるニコライ2世は、ひとまず不利な条件でも戦争を停止し、軍主力を首都に戻すべきだった。


だがニコライ2世は家族に会う事を最優先し、少数の側近を連れただけで、列車(当時最も早かった)で首都に向かった。

だが革命は鉄道沿線にも及んでおり、列車は途中で停止させられ、退位の文章に署名させられたうえに拘束されてしまった。

2月革命を起こしたのはニコライ2世が作った議会で、この時にはまだ皇帝が復活できる可能性もあった。


また軍や旧政府の人々には皇帝に忠実な人も居て、ロシアを脱出するのも不可能ではなかった。

だがニコライ2世は「ロシアを捨てる事はできない」と言い、また生来病弱な長男アレクセイが脱出に耐えられないのもあって脱出しなかった。

議会の臨時政府はニコライ一家を首都からトボリスクに移したのだが、これは皇帝一家を逃がそうとした可能性が高いと言われている。


というのは臨時政府はニコライ2世が作った議会であり、皇帝を退位させた後は国外に脱出してくれた方が、好都合だった。

トボリスクの守備隊は何度か交代しているが、ニコライ2世には好意的であり、脱出が可能な状態に置かれた。

この時もニコライはロシアを脱出する事に消極的で、まだ帝政復活や地位の回復に期待を持っていた。


トボリスクで臨時政府に軟禁されていた頃、まだのどかで脱出可能だった。
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引用:https://i.pinimg.com/736x/5e/4f/56/5e4f5604cafac0e8d922281d871c6394--russian-revolution-nicholas-dagosto.jpg


ソヴェトが権力を握る

トボリスクの警備は緩く、守備隊は皇帝に好意的であり、1917年8月から11月までの3ヶ月間、臨時政府はニコライ一家に逃げて欲しいと考えていた。

国民の皇帝一家への怒りは凄まじく、処刑するよう圧力が掛けられていたが、臨時政府はあくまで法に基づいて新政府を作ろうとし板ばさみになっていた。

最も望ましい解決法は、皇帝一家がみっともなく国外逃亡する事で、もう臨時政府は皇帝に配慮する必要がなくなる。


革命の前半には皇帝と政府には話し合いが持たれ、臨時政府は皇帝を葬るつもりは持っていなかった。

ニコライ2世はロシア脱出というプランにはついに同意せず、10月革命によって臨時政府は倒され、レーニンのソヴィエトが権力を握った。

臨時政府は強硬なレーニンらが主導するソヴェト評議会に代わり、レーニンは皇帝を葬り去ることで、自分が皇帝になろうとした。


ロシア革命後にすぐソヴェト連邦ができたのではなく、ロシアの中にいくつもの政府があり、いくつものソヴェトが主導権争いをしていた。

社会主義革命を目指す赤軍に対して、非社会主義を目指す白軍が一時期、赤軍を倒すかのような勢いを示した。

ニコライ2世家族は白軍が自分たちを救出して、再び皇帝に返り咲くというような期待も抱いていた。


だが実際には白軍は共産主義には反対していたが、ニコライ2世を助けたり、皇帝に復帰させようとは考えていなかった。

白軍が目指したのは皇帝の居ない民主国家であり、圧制で国民の恨みを買っていた皇帝に、生きていてもらっては困るのでした。

白軍は公式には皇帝に近い立場であり、多くは旧帝国軍の将校や兵士だったので、皇帝を保護したら再び帝位に就けざるを得なくなる。


最後の数ヶ月を過ごしたエカテリンブルクのイパチェフ館、カメラを没収されたので一家の写真はない。
Ipatiev_House_in_1918
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a4/Ipatiev_House_in_1918.jpg


レーニン皇帝の野望

そこで白軍はわざと皇帝一家が閉じ込められていたエカテリンブルクには進軍せず、ニコライが追放されるか葬られるのを待っていた。

レーニンのペトログラード・ソヴェトは自分が手を汚す危険を恐れ、監禁しているウラル・ソヴェトに勝手にやらせようとした。

というのは内戦で頻繁に支配者が交代している状況では、皇帝に手を下した者は白軍によって標的にされる恐れがあった。


1918年4月にエカテリンブルクに移された一家は「囚人」として扱われ、外出や散歩も禁止され、脱出は完全に不可能になった。

警備兵もかつての皇帝守備隊から旧農奴崩れのソヴェト軍に代わり、農奴たちは皇帝を心底憎んでいた。

臨時政府時代には兵士が邸宅に入ってくることはなかったが、1918年になると農奴兵が1階部分を占拠し、皇帝一家は2階に押し込められた。


扱いはどんどん酷くなり、皇女たちは部屋のドアを閉めるのを禁止されたり、兵士と共同トイレを使ったりした。

トイレに行くには兵士らの詰め所前を通らねばならず、兵士らが使ったトイレは汚れ切っているという具合だった。

最後には窓を開ける事が禁止され、外の景色が見えないように高い塀を作り、窓には板を打ち付けた。


囚人として最後の日々を送る

洗濯や風呂やシャワーを浴びるのも全て禁止、家の中や各自の部屋にも兵士らが歩き回るという状況だった。

ニコライ一家は避難するに当たって持てるだけの宝石を持ち込んだが、兵士らは荷物をあさっては盗んでいった。

ここに至ってニコライ2世はやっとロシアを脱出するべきだったと後悔するが、今はドアを開けるにも農奴兵の許可が必要であった。


最後の日である1918年7月17日、深夜の2時すぎに家族を起こし、「暴動で危険だから避難しろ」と言って全員を地下室に連れて行った。

小さな窓がある半地下室なのだが、周囲に音を聞かれないために、1階や2階ではなく地下室を選んだ。

刑を執行したボルシェビキたちは、白軍の報復をおそれて痕跡を隠し、残った宝石類も盗んでいった。


ニコライ2世を葬ったレーニンは自身が新たな皇帝になり、強権国家のソビエト連邦を作った。

皇帝を退位させた2月革命は、民主主義的な国家を作る目的だったが、世界最悪の恐怖国家になった。

ニコライ2世のロシアは皇帝の優柔不断さゆえに、世界で最も自由だったのだが、10年後には世界で最も自由がない国になっていた。
http://www.thutmosev.com/archives/73745071.html

12. 中川隆[-13579] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:26:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1325] 報告

1918年11月11日に第1次世界大戦は休戦するが、その前からロシア侵略開始

 1918年、つまり今から100年前の11月11日に第1次世界大戦は休戦になった。その2日前にドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位している。この戦争ではドイツを中心とする同盟国とフランス、イギリス、ロシアを中心とする連合国が戦った。日本は連合国側についている。


 途中、1917年11月にロシアではボルシェビキが資本家主導で戦争を継続する方針だった臨時革命政府を倒し(十月革命)、ボルシェビキを率いていたウラジミル・I・レーニンは即時停戦を指示している。臨時革命政府にはメンシェビキや社会革命党(エス・エル)が参加していた。ロマノフ朝を支えていたのは地主貴族と産業資本家で、そのうち戦争をカネ儲けのチャンスと考える資本家がロシアを乗っ取ったようにも見える。


 臨時革命政府で法務大臣に就任したのはエス・エルのアレクサンドル・ケレンスキーだが、この人物を通じてイギリス政府やシオニストは新政府に影響を及ぼしていたと見られている。ケレンスキーは後に首相となる。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)


 この大戦でドイツは東のロシア、西のフランス、ふたつの戦線を抱えていた。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたボルシェビキ。この党の幹部は1917年3月にロマノフ朝が倒された際(二月革命)、国外に亡命しているか、刑務所に入れられていた。そこでドイツ政府はボルシェビキの幹部を「封印列車」でロシアへ運ぶ。レーニンは1917年4月にスイスから帰国した。


 十月革命で軍事的に重要な役割を演じるレフ・トロツキーが二月革命当時にいたのはニューヨーク。そのころはメンシェビキのメンバーだった。トロツキーは1917年3月にニューヨークを離れ、途中で彼の乗った船がイギリス海軍に拿捕されてしまうが、4月には釈放された。ロシアへ着いたのは5月に入ってからだ。その後、トロツキーはボルシェビキに加わる。


 ロシアで実権を握ったボルシェビキはドイツと1918年3月に講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結ぶ。交渉の過程でドイツは領土などで過大な要求をしてくるが、レーニンは党内の反対派を抑えて講和を成立させた。


 これに対し、イギリス、フランス、アメリカ、日本などは1918年8月にロシアへ軍隊を派遣し、ボルシェビキ政権を潰す目的で干渉戦争を開始する。日本は1万2000名をウラジオストックへ駐留させるだけだとして軍隊を派遣した。干渉戦争に参加した国々にとって十月革命は想定外の出来事だったのだろう。


 この年の11月に事実上、大戦は終了するが、日本は増派で7万人を上回る兵員を送り込み、1922年までシベリアにとどまった。この際、日本軍は金塊を持ち帰っている。この問題は憲政会の中野正剛による質問で表面化した。


 持ち帰られた金塊は1万2000キログラムに達すると現在では考えられているが、そのうち8割ほどは朝鮮銀行の下関支店へ運ばれ、そこから大阪造幣局へ移されたと信じられている。またルーブル金貨は朝鮮銀行か横浜正金銀行で日本の通貨に換金されたと推測されている。(金原左門著『昭和の歴史 1 昭和への胎動』小学館、1988年)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811120001/


13. 中川隆[-13578] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:26:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1326] 報告

2018.12.08
戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(1/3)


 ウクライナ軍のガンボート(砲艦)2隻とタグボート1隻が手続きを無視、無断でロシアが領海と定めているケルチ海峡へ入ったのは11月25日のことだった。その前日にウクライナ軍はウクライナ東部、ドネツクにある中立地帯の一部を占領している。事実関係をチェックすると、ウクライナ政府のロシアに対する挑発だったことは間違いない。


 ウクライナでは来年(2019年)3月に大統領選挙が予定されているが、現職のペトロ・ポロシェンコは人気がなく、このままでは再選が難しい。そこでケルチ海峡の事件を利用して大統領選挙を延期させるつもりだと推測する人もいた。


 こうした挑発行為はアメリカ政府の許可がなければ不可能だという考えから、ドナルド・トランプ政権がロシアに対して軍事的な揺さぶりをかけていると見る人もいる。2016年の大統領選挙の際、トランプはロシアとの関係修復を訴えていたのだが、大統領に就任した直後にマイケル・フリン国家安全保障補佐官が解任に追い込まれて以来、政権は好戦派に引きずられている。


 そのトランプはINF(中距離核戦力全廃条約)からの離脱を口にしているが、この流れは2002年から始まっている。ジョージ・W・ブッシュ政権が一方的にABM(弾道弾迎撃ミサイル)から離脱したのだ。この頃、ロシアが再独立への道を歩み始めたことと無縁ではないだろう。


 アメリカ/NATO軍がソ連との国境に向かって進軍を開始したのは1990年の東西ドイツの統一が切っ掛け。その際、ジェームズ・ベイカー米国務長官はソ連の外務大臣だったエドゥアルド・シェワルナゼに対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、東へNATOを拡大することはないと約束したとされている。


 ベイカー自身はこの約束を否定していたが、ドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに対し、そのように約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックは語っている。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)


 また、ドイツの外務大臣だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーによると、1990年2月にシェワルナゼと会った際、彼は「NATOを東へ拡大させない」と約束、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(2/3)


 アメリカ支配層は軍事力でソ連/ロシアを恫喝、服従させて世界の覇者になろうとしている。その戦略が遅くとも1904年までさかのぼれることは本ブログでも繰り返し書いてきた。


 その当時、ポーランドをロシアから独立させようという運動が存在した。プロメテウス計画と呼ばれているが、その指導者はユゼフ・ピウスツキ。


 その後継者ともいうべき人物がブワディスラフ・シコルスキーである。第2次世界大戦中はロンドンへ逃れ、イギリス政府の庇護下、亡命政府を名乗っていた。1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が執務室で休止、その翌月にドイツが降伏すると、ウィンストン・チャーチルの命令でJPS(合同作戦本部)は米英数十師団とドイツの10師団がソ連を奇襲攻撃するという内容のアンシンカブ作戦を作成した。


 シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと考えていた人物で、ビルダーバーグ・グループの生みの親としても知られている。


 ドイツ軍の主力がソ連へ攻め込んだ時、イギリス政府は手薄になったドイツの西部戦線を攻撃せず、傍観している。チャーチルは父親の代からロスチャイルド資本に従属していたが、そうしたイギリスの支配層はソ連を制圧、あるいは破壊するためにナチスを使ったとも言える。この戦争でソ連は疲弊、アメリカの支配力は増した。


 ピウスツキが活動を始めたころに第1次世界大戦があり、ドイツが破壊される。ドイツはフランスとロシアに挟まれ、不利な状況にあった。イギリスもドイツに宣戦布告していたが、そのイギリスはロシア制圧を長期戦略にし、反ロシアのポーランド人を助ける。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(3/3)


 当時、ロシアは農業を収入源にする大土地所有者と戦争をビジネス・チャンスと考える新興の産業資本家が2本柱だった。皇帝は軍人の意見もあり、戦争に傾いていくが、農民の意見を聞くということで皇帝がそばに置いていたグリゴリー・ラスプーチンは戦争に反対。皇后もやはり戦争を嫌っていた。


 軍事的な緊張が高まる中、1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され、開戦の危機が高まる。そこで7月13日に皇后はラスプーチンに電報を打っているが、その日に彼は腹を刺されて重傷を負う。8月中旬にラスプーチンは退院するが、7月28日に大戦は始まっていた。


 その後も皇后やラスプーチンは国が滅びるとして戦争に反対するが、1916年12月30日に拉致のうえ、射殺された。ロシア皇太子らが暗殺したと言われているが、黒幕はイギリスの情報機関SIS(通称MI6)だとする説がある。


 1916年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を始めとする情報機関のチームをペトログラードへ派遣したが、その中に含まれていたオズワルド・レイナーはオックスフォード大学で皇太子の「友人」。このチームが暗殺の実行部隊だと推測する人がいるのだ。


 当時の状況を考えると、ラスプーチンが重傷を負わず、暗殺もされなかったなら、皇后と手を組んで参戦に反対していたはず。大土地所有者や農民も戦争に反対だ。参戦しても早い段階でロシアが戦争から離脱したならドイツは兵力を西部戦線に集中、アメリカが参戦する前に勝利していた可能性がある。


 ラスプーチンが暗殺された直後、産業資本家を中心とする勢力が3月に革命で王政を倒す。いわゆる「二月革命」だ。そこにはメンシェビキやエス・エルが参加していた。この当時、レフ・トロツキーはメンシェビキのメンバーで、ニューヨークにいた。


 二月革命の際、ウラジミール・レーニンをはじめとするするボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか、刑務所に入れられていて、革命に参加していない。そうした亡命中のボルシェビキの幹部をドイツは「封印列車」でロシアへ運んだ。ボルシェビキが即時停戦を主張していたからである。


 結果としてボルシェビキ政権が誕生、ロシアは戦争から離脱するのだが、アメリカの参戦で帳消しになる。イギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはそのボルシェビキ体制を倒すため、1918年に軍隊を派遣して干渉戦争を始める。


 ロシア革命とはふたつの全く違う革命の総称であり、ボルシェビキは最初の革命には事実上、参加していない。第2次世界大戦でドイツ軍を倒したのはソ連軍で、アメリカ軍やイギリス軍は勝負がついた後、ウォール街とナチス幹部が話し合いを進めるのと並行してヨーロッパで戦っただけだ。しかも、ドイツが降伏するとイギリスはロシアを奇襲攻撃しようとした。


 結局、ふたつの大戦でソ連/ロシアやヨーロッパは破壊され、その一方で戦場にならず、軍需で大儲け、ドイツや日本が略奪した財宝を手に入れたアメリカは世界で大きな力を持つことになった。


 しかし、アメリカはその地位から陥落しそうだ。アメリカは中東やアフリカなど資源の豊かな地域だけでなく、東アジアやヨーロッパで軍事的な緊張を高めている。これは1992年に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリンに沿うもの。東アジアやヨーロッパを戦争で破壊するつもりかもしれない。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080002/


14. 中川隆[-13577] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:27:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1327] 報告

2020年01月18日
ソ連と酷似してきた中国 急激な成長と衰退

レーニン像の周囲に集まり、倒そうとするソ連の人々
1992F1 (15)
引用:http://web.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/Lenin/1992F1%20(15).jpg


中国の急激な成長期が終わり、衰退期に入ると予測されているが、共産国家は衰退期を上手く乗り切れない。

崩壊したソ連は発足から急成長を続けたが、たった一度の衰退期を乗り切れずに崩壊した。


ソ連化する中国


最近の中国は何から何まで過去のソ連にそっくりで、双子の兄弟のようです。

かつて共産国家ソ連はユーラシア大陸のほとんどを勢力下に置いて、世界を支配するかに思えました。


ベトナム戦争でアメリカが敗れ、ソ連側が勝った頃に拡大は頂点に達し、ソ連が新たなリーダーになるように見えた。


中国もリーマンショック頃まで急拡大し、、世界のリーダーになるのは時間の問題と思われました。

不思議な事にアメリカに挑む新興勢力は必ず、米国の7割程度の国力をピークに、衰退期に入る。

ソ連と戦後日本がそうだったし、中国も同じくらいのGDPで頭打ちになり、衰退期に入りました。


「7割の法則」が在るのかどうか知りませんが、アメリカの衰退時期と新興国家の成長期が重なるとこうなっている。

ソ連は1917年のロシア革命で誕生したが、伝説のように市民が蜂起した訳ではなく、ドイツの悪巧みで発生した。

当時第一次大戦で負けそうだったドイツは、対戦相手のロシアで革命を起こさせて有利にするため、レーニンを送り込んだ。


レーニンはロシア人だがドイツに亡命して国家崩壊を企む人物で、日本で言えば麻原彰晃レベルの人間でした。

普通は誰も相手にしませんが、ロシアは大戦や財政危機で国民生活が破綻しており、飢えた人々はレーニンに従った。

ロシア革命とは麻原彰晃が敗戦を利用して日本の皇帝になったようなもので、当然ながらソ連は帝政時代より凶悪な国家になった。


世界共産革命が使命


一方中華人民共和国が生まれた経緯はソ連以上に奇怪で、当時日本帝国と中華民国(今の台湾)が戦争をしていました。

中華民国は日本との戦争で疲弊してボロボロになり、そのせいで国内の対抗勢力の共産軍(毛沢東)に敗れました。

大戦終了後に、余力があった共産軍は大陸全土を支配し、中華民国は台湾島に追い払われて現在の中国ができた。


ソ連、ロシアともに成立過程を嘘で塗り固めていて、ソ連は民衆蜂起、中国は日本軍を追い払った事にしている。

両国とも本当の歴史を隠すためか、盛大な戦勝式を行って国民の結束を高めるのに利用しています。

ソ連・中国ともに共産国家であり、「全世界で共産主義革命を起こし世界統一国家を樹立する」のを国是としている。


因みに「ソビエト連邦」は実は国家ではなく、全世界共産化の勢力範囲に過ぎませんでした。

中国もまた地球を統一し共産化する事を大義としていて、だから際限なく勢力を拡大しようとします。

資本主義を倒して地球を統一する市民団体が中国やソ連で、相手が従わなければ暴力と軍事力で共産化します。


だから共産国家は必ず軍事国家で破壊的であり、平和的な共産国家は存在しません。

世界革命に賛同した国(軍事力で服従させた国)は衛星国家として従わせ、東ドイツや北朝鮮のようになります。

共産国家は勝ち続ける事が使命であり、負けることは絶対に許されず、負けは神から与えられた使命の挫折を意味します。


理念で結束した人々は成長期には強いが、上手く行かなくなると脆い
201203171516178521-2379290
引用:http://image.hnol.net/c/2012-03/17/15/201203171516178521-2379290.jpg


負けたら国家消滅する共産国


ソ連は1978年に軍事的空白地のアフガニスタンに侵攻したが、10年間武装勢力と戦った末に撤退しました。

無敵国家ソ連はタリバンとの戦争に敗れ、僅か2年後にソ連は崩壊してしまいました。

ソ連崩壊の原因は様々な説があるが謎に包まれていて、外貨不足、インフレ、マイナス成長、食糧不足などが挙げられている。


しかしそれで国家が滅ぶのなら、もっと滅んで良い国は山ほどあるし、苦境から立ち直った国もあります。

ソ連が崩壊した本当の理由は『世界革命が挫折してしまい、共産主義の大義が無くなった』からだとも解釈されている。

日本のような民族国家なら、負けても同じ民族が再び協力して立ち直りますが、理念で集まった国は一度の負けで崩壊します。


ソ連は理念を失ったために崩壊し、革命前の民族国家ロシアに戻る事にしました。

共産主義の特徴は理念で集まって急激に成長するが、一度理念が失われるとバラバラになってしまう。

ソ連と中国の共通点として、急激な成長と急激な衰退、外貨不足、民族弾圧や無数の収容所、報道規制、経済指標偽造などが挙げられる。


軍事力を強化してやたら虚勢を張るのも共産国家の共通点で、北朝鮮でさえ「アメリカを火の海にできる」と主張している。

ソ連もあらゆる兵器全てで「アメリカを超えている」と主張したが、崩壊後に全て嘘なのが判明した。

中国も次々と新兵器を登場させ「全て日米を凌駕している」と宣伝するが、実際はブリキのオモチャに過ぎません。


兵器の性能では共産国家は資本主義国家に絶対に勝てないので、正面から戦おうとしないのも共通点です。

「いつでも日本を倒せる」「アメリカなどいつでも倒せる」と言いながら現実には逃げ回るのが、彼らの戦略です。

逃げながらスパイ活動やサイバー攻撃で相手国に侵入しようとし、多くのスパイや工作員を養成する。


ソ連を最終的に破滅に追い込んだのは、最後の書記長であるゴルバチョフの改革政策でした。

ボロボロの共産国家に市場原理主義を導入した結果、国家のシステムが破綻して生産活動ができなくなりました。

昨日まで国家公務員だった農民が、今日から市場経済だから自力で生きろと言われても、できる筈がありませんでした。


中国は習近平主席の元、大胆な国家改革を行おうとしたが、失敗して元の共産主義土木経済に逆戻りした。


中国のGDPの半分は公共事業つまり土木工事で、鉄道や空港や高速道路などを毎年「日本ひとつ分」建設している。


土木工事をやめると急激な経済縮小が起きるので、誰も住まない年を建設し、誰も乗らない高速鉄道を走らせている。


ソ連末期には経済がマイナス成長を隠して、プラス成長と発表していましたが、中国もそうしています。
http://www.thutmosev.com/archives/41996082.html

15. 中川隆[-13576] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:29:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1328] 報告

ネオコンと呼ばれる集団の中には「元トロツキスト」が多いとも指摘されている。レオン・トロツキーの信奉者だったということだが、このトロツキーは謎の多い人物である。
 1917年3月にロマノフ朝が倒されているが、その「二月革命」(帝政ロシアで使われていたユリウス暦では2月)に参加した政党は立憲民主党(通称カデット)、社会革命党(エス・エル)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)だが、主導したのは資本家。革命の目的は資本主義体制の確立にあった。一気に社会主義を目指そうとしたボルシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)は幹部が亡命していたり、刑務所に入っていたことから事実上、参加していない。ウラジミール・レーニンはスイス、二月革命当時はまだメンシェビキのメンバーだったトロツキーはニューヨークにいた。

 この臨時革命政府は第1次世界大戦に賛成で、ドイツとの戦争を継続する意思を示していたのだが、ボルシェビキは即時停戦を訴えていた。そこで西と東、ふたつの方向から攻められていたドイツはレーニンたちボルシェビキの幹部をモスクワへ運んでいる。紆余曲折を経てボルシェビキは11月に実権を握った。これが「十月革命」だ。臨時革命政府の首相だったアレクサンドル・ケレンスキーは1918年にフランスへ亡命、40年にはアメリカへ渡っている。

 革命の象徴的な存在であるレーニンを1918年、エス・エルの活動家だったファニー・カプランが狙撃、重傷を負わせている。この暗殺未遂事件の真相は明らかにされていない。レーニンは1921年頃から健康が悪化して24年に死亡しているが、その死にも謎がある。

 トロツキーはヨシフ・スターリンとの抗争に敗れて1929年にソ連を離れ、40年にメキシコで暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803240000/

16. 中川隆[-13575] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:31:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1329] 報告

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05


石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html

17. 中川隆[-13573] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:42:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1331] 報告


ロシア革命|100年後の真実





【ロシア革命】@ 10月革命は 首都ペテルグラードソビエト議長 トロツキーの演説から始まった



【ロシア革命】 A 内戦とトロツキーの赤軍創設



【ロシア革命】 B レーニンの死去 ソビエトはトロツキーではなくスターリンを後継者に選んだ



【ロシア革命】 C スターリンの時代



【ロシア革命】 D 党内派閥争いから粛清



【ロシア革命】 E 強制収容所



【ロシア革命】 F スパイ ゾルゲ



【ロシア革命】 G 祖国防衛戦争



【ロシア革命】 H ソビエト軍の満州国侵攻



【ロシア革命】 I ソビエトの崩壊



【ロシア革命】 J スターリン主義の亡霊




【ロシア革命】 K 【フランス映画】THE ASSASSINATION OF TROTSKY トロツキーの暗殺)




18. 中川隆[-13564] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:07:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1340] 報告

スペイン風邪(1918-1919流行、死者三千万人)


スペインかぜ(1918 flu pandemic, Spanish Flu)とは、1918年から1919年にかけ、全世界的に大流行したインフルエンザの通称。

当時20億人の世界人口の3割が感染して、5000万人が死亡したといわれるが、疫学研究者の説によれば、地球上のほぼ全員が感染した可能性がある

 発生源は、1918年3月のアメリカ・カンザス州の米軍基地。

 その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。


 新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。

 感染者は約5億人以上、死者は5,000万人から1億人に及び、当時の世界人口は18〜20億人であると推定されているため、全人類の3割近くがスペインかぜに感染したことになる。感染者が最も多かった高齢者では、基本的にほとんどが生き残った一方で、青年層では、大量の死者が出ている。


 日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡、米国でも50万人が死亡した。 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。

 流行の経緯としては、第1波は1918年3月にアメリカ合衆国デトロイト市やサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍(第一次世界大戦における)と共に大西洋を渡り、5〜6月にヨーロッパで流行した。

 第2波は、1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり、重篤な合併症を起こし死者が急増した。

 第3波は、1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。また、最初に医師・看護師の感染者が多く、医療体制が崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。

このパンデミックは、今回の新型コロナウイルス流行と似ている。初期に、医療関係者の大規模な感染が起きて、医療体制が崩壊したことがパンデミックを招いている。

 また、病原体が次々に突然変異を起こして、どんどん致死性の強いものに変化し、免疫を持たない若者たちを直撃して大量死に追いやった。したがって、新型コロナウイルスの致死性・毒性は、これから急激に変化する可能性があることを意味している  


▲△▽▼

スペイン風邪(1918-1919流行、死者三千万人)で死んだ著名人

ギヨーム・アポリネール(文学者)
マックス・ヴェーバー(政治学者)
グスタフ・クリムト(画家)
エゴン・シーレ(画家)
ヴェストマンランド公エーリク(スウェーデン王子)
ヤーコフ・スヴェルドロフ(政治家)
エドモン・ロスタン(劇作家)
チャールズ・ヒューバート・パリー(作曲家)
竹田宮恒久王(皇族)
末松謙澄(政治家、元内務大臣)
徳大寺実則(公爵、元内大臣)
島村抱月(劇作家)
村山槐多(画家)
野村朱鱗洞(俳人)
辰野金吾(建築家)

19. 中川隆[-13563] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:09:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1341] 報告

#184 ドキュメント Discovery Chanel
スペイン風邪の猛威 死者2400万人とも言われる20世紀最大のインフルエンザ


20. 中川隆[-13562] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:13:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1342] 報告

戦争より恐れられた病 Posted October. 25, 2018 09:24,
http://www.donga.com/jp/article/all/20181025/1516046/1/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%88%E3%82%8A%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%97%85

昨今、インフルエンザは、1本のワクチン接種でそれほど心配しなくて済む病気だが、100年前までは、人類の歴史を揺るがした恐怖の病気だった。特に1918年に発生したスペイン風邪は、第1次世界大戦とかみ合って流行し、5000万人以上の命を奪った大災害だった。オーストリアの将来を嘱望されていた若い画家エゴン・シーレも、その災いを避けることができなかった。

シーレは、クリムトを凌ぐ才能が認められた天才画家であり、赤裸々なエロヌード画で20世紀の初め、ウィーン美術界を揺るがした問題作家でもあった。死への不安と恐怖、性的欲望をよどみなく表わした彼のヌード画は、しばしば芸術とわいせつの間で激しい論争をまき起こした。

1915年、シーレは4年間一緒に暮らした貧しい恋人の代わりに、中間層出身のエディトと結婚した。結婚から4日後、第1次世界大戦に徴兵されたが、軍でも才能を認められ、いくつかの展示会に参加して名前を知らせた。1918年は彼の名声がピークに達した年だった。ウィーン美術界の巨匠クリムトの死亡後、3月に開催された「分離派」の展示会で、シーレは作家として大成功を収めた。絵の価格が高騰し、肖像画の注文が殺到した。ようやく経済的にも精神的にも安定した時期を迎えたのだ。さらに嬉しいことに、妻が結婚から3年ぶりに妊娠したことだった。この絵は、まもなく生まれてくる子供を待つ喜びで、シーレが描いた家族画である。母にすがりつく赤子と、その赤子と同じ場所から見つめる母、そして家長として家族を守るというジェスチャーを取っている画家自身の姿が描かれている。何もかけていない純粋で無邪気な家族の肖像である。

しかし、幸せもつかの間。同年10月28日、ウィーンにまで広がったスペイン風邪で、エディトが妊娠6カ月のお腹の子供と一緒にこの世を去った。3日後、シーレもインフルエンザに感染して、この世を去った。彼がわずか28歳の時だった。当時スペイン風邪の犠牲者数は、第1次世界大戦の死者の3倍を超えた。戦争より恐ろしい災害は、まさにインフルエンザだったのだ。

http://www.donga.com/jp/article/all/20181025/1516046/1/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%88%E3%82%8A%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%97%85

21. 中川隆[-13561] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:16:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1343] 報告

エゴン・シーレの世界


天才画家 「エゴン・シーレ Egon Schiele」1906年−1911年の絵画まとめ




エゴン・シーレ(1890年6月12日 - 1918年10月31日)は、オーストリアのウィーン分離派の象徴主義、表現主義の画家。

シーレは28歳という若さで世を去ったがその短い生涯で大量のドローイングや水彩画、油彩画を残っている。

1906年はウィーン美術アカデミーに入学した。

1907年にクリムトとの出会って、シーレに初期の作品は影響を与えられた。

1909年、アカデミーを正式に退校して、本格的に独自の活動を開始した。
その後ゴッホやドイツ表現主義の画家達(ヤン・トーロップ、エドヴァルド・ムンク)の絵画を目の当たりにし、自らの芸術観に多大な影響を与えられた。

1910年から1911年に、女性だけでなく子供や自分ヌードの自画像も急増した。



エゴン・シーレ「Egon Schiele」(1912−1918) 絵画集 U
https://youtu.be/2_c2rbQqdaw

デッサンの魅力「エゴン・シーレ Egon Schiele」素描 裸婦
https://youtu.be/Zp0wofj9FQ4

愛と官能の画家 「グスタフ・クリムト Gustav Klimt」 絵画集
https://youtu.be/_6IJ1YRSDcg

デッサンの魅力「グスタフ・クリムト Gustav Klimt」素描 T 人物
https://youtu.be/yMd8RX7_Unw

デッサンの魅力「グスタフ・クリムト Gustav Klimt」素描U 裸婦
https://youtu.be/RZpCUJUNTTI

「後期印象派画家」ロートレック(Toulouse-Lautrec)の絵画集
https://youtu.be/vqiaglFs938

「白黒ペン画の鬼才」オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)の挿絵集
https://youtu.be/q9VqWi4XoUY

裸体画 「モディリアーニ Amedeo Modigliani」絵画集 U ヌード 裸婦
https://youtu.be/-2QziPVUPnU

ウィーン分離派の画家 「マクシミリアン・クルツヴァイル Max Kurzweil」
https://youtu.be/Kj0yXLhVinM
22. 中川隆[-13560] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:24:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1344] 報告

ヒトラーがエゴン・シーレの作品を忌み嫌い、憎んでいた理由


ヒトラーの嘘と絵画 − 彼はなぜ芸術家になれなかったのか?
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html


――エカキで作家・マンガ家、旅人でもある小暮満寿雄が世界のアートのコネタ・裏話をお届けする!

 かのショートショートの名手・星新一の短編に、こんな話があるのであらすじを紹介しよう。

 オーストリアのとある町。貧しい画家志望の青年が、愛する女性とのデート資金を求めて質屋にやってくる。担保の質物は何と青年自らが描いた絵。青年は「金を貸してください」と懇願するが、当然、質屋に絵は一顧だにされず「こんな絵で金は貸せません」とキッパリ断られてしまう。そして下記のやりとりが行われる。

「やっとデイトの約束までこぎつけたんです。お願いです、お金を貸してください。お金は必ず返します。ご恩は忘れません」

「だめですな。そんなことで金を貸していたら店はやっていけません。私たちユダヤ人は冷静なんです。甘く見ちゃ困りますな」

「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる・・・」

「そんなにすごんでも、だめなものはだめですよ。さあ、お帰りください、アドルフ・ヒットラーさん」

(星新一『さまざまな迷路』(新潮社)/「ことのおこり」より)

 絵のサインを見ながら主人は、青年の名前言うのだが、彼がすごい剣幕で帰ったあとも、その狂気じみた目つきを思い出し「いずれなにかやらかすかもしらんな」とつぶやくのだった…。もちろん、ユダヤ人質屋が若きヒトラーに金を貸さなかったのは、星新一のフィクションだ。

 しかし、ヒトラーが画家志望の青年だったことは有名な事実で、実際ヒトラーが描いた絵は何点も世に残されている。彼の美術に対する情熱は相当なものだったようで、当時オーストリアで名門校だったウィーン美術アカデミーを受験している。しかし、成績不振ということで受験に失敗。

ヒトラーが描いた絵「YouTube」より
https://www.youtube.com/watch?v=mALbFREo-bk

 その時の恨みやコンプレックスが逆に独裁者ヒトラーを生んだ原動力ともなったわけだが、こちらがその、オーストリア時代に彼が描いたという絵である。

 見ての通り、独創性のない普通の風景画で、レベル的には“上手な素人絵”というくらいだ。これらの絵を見て、ヒトラーの演説にあるようなエキセントリックで妙に人の心を揺さぶる何かを期待した人は、きっと肩すかしを食らった気分になるだろう。


 ところが、ヒトラー本人は自らの絵について「古典派嗜好」と自負していたそうで、当時台頭してきた、いわゆる「世紀末美術」(幻想的で退廃的な性格を有する作品)やアール・ヌーヴォーといった新しい芸術運動にはむしろ嫌悪感すら抱いていたという。


■真実を吐き出す「世紀末美術」を憎んだヒトラー

 一方でこの絵を見てほしい。こちらは、同じ時代に世紀末美術の騎手として活躍し、わずか28歳の若さで亡くなったエゴン・シーレの作品だ。

エゴン・シーレ1915年作「死と乙女」
http://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

 絵画とはある意味、心の中に溜まっている澱(おり)を吐き出す作業なのだが、ヒトラーの絵と比べ(比べることもないが)、まさに強烈な個を解き放っており、肉体と精神すべてを吐き出してキャンバスに塗布したような絵だ。

 もちろん、ヒトラーはエゴン・シーレの作品を忌み嫌い、憎んでいたという。

 実はエゴン・シーレ。ヒトラーより1歳下にあたるのだが、彼が受験に失敗した1年前にウィーン美術アカデミーに入学していたという経緯があるのだ。元来、世紀末美術の台頭に嫌悪感を抱いていたヒトラーだったが、このことでさらに激しい憤りを抱き、独裁者となってからは徹底的に彼らやアカデミーを「退廃芸術」と呼び、弾圧下に置いたのだ。そして、1930年代にヨーロッパで隆盛していた抽象美術や表現主義、バウハウスなどはもちろん、印象派以降の近代の美術はすべてNG。当時、ユダヤ人らが所有していた絵画は財産と一緒にことごとく没収され、略奪され破壊された。

 これは弾圧の対象こそ違えど、まさに星新一の短編を地で行った話ではないだろうか。

「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、オレを認めなかったきさまら退廃芸術家とアカデミー会員全部に仕返ししてやる…」

 さすがは星新一。物事の本質をきちんと捉えているではないか。

 一方でヒトラーが奨励した絵は、農村の労働と大家族を描いた風俗画や、優美で健康的な裸体画、牧歌的風景画、モニュメントとしての巨大彫刻など、芸術としてみると面白くも何ともないものだったのだ。

■ヒトラーの矛盾

 さて、絵とは面白いもので、美しいものを描けば美しくなるというものではなく、立派なものを描けば、それによって人が感動するというものでもない。

adolfhitler4.jpgヒトラーの絵「YouTube」より

 アートに必要なものの一つとして、本当に心の中、体の中にある(自分にとっての)真実を正直に吐き出すことがある。そういった意味において、ヒトラーの絵画は自分にウソをついた絵であり、だからこそ魅力的ではないのかもしれない。

 その理由として、ヒトラーには昔から「ヒトラーユダヤ人説」や「非アーリア説」があとを絶たない。これには、ヒトラーの父親・アロイスが実際には血の繋がった父親ではない可能性や、あるいはアロイス自身が私生児だった可能性があるなどさまざまな憶測が飛び交っているが、要するに、ヒトラーには出生の秘密と謎があったということだ。

 さらに、ヒトラーはアイロスと折り合いが悪かった。そして、“生粋のハプスブルク君主国の支持者”だったアロイスに憎しみを抱いたことが、後のアーリア至上主義、ドイツ民族主義へと走る第一歩となったとも言われている。

 しかしこれは、明らかに大きな自己矛盾だ。ほかにも、ヒトラーは自身を“極貧だった”と吹聴していたが、実際にはそうでもなかったなど、彼はあらゆる独裁者がそうであるように、さまざまな過去を隠し、ウソをウソで固めた人生を送っていたのだった。

 しかし、言葉や経歴でウソが言えても、絵というのはそういう意味でウソがつけない。それは眠ければ寝る、腹が減れば食べるというように、体がウソをつけないのと同じことだ。

 ヒトラーの絵が持つ、えも言えぬ寂しさや荒涼とした風景は彼そのものだったのかもしれない。だが、人の気持ちを惹きつけるには、あまりに貧相なものに違いない。彼は、自分自身を絵で表現するができなかったのだ。

 それにしても、ヒトラーの記事を書いていたら頭の芯を締められるような疲労におそわれた。やはり、何かわるいものがついているのかもしれないな。
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html


アドルフ・ヒトラーによって描かれた35枚の絵画
http://musey.net/mag/35

ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーが、政治家へと転身する前は画家を目指していたことはよく知られている。

ヒトラーは、1905年に実業学校を退学した後で、ウィーンにある名門美術学校「ウィーン美術アカデミー」への入学を希望するものの、「写実性はあるものの、独創性に乏しい」とされて試験に落とされてしまった。

世紀末美術を嫌悪したヒトラー

当時のウィーンをはじめとするヨーロッパでは、幻想的・退廃的な「世紀末美術」や「アール・ヌーヴォー」と呼ばれる新しい美術の流れが盛んに台頭していたが、ヒトラー自身はこうした運動に興味を示さないどころが、嫌悪感すら抱いていたと言われる。

ヒトラーが受験に失敗する1年前には、世紀末美術の旗手であるエゴン・シーレが同校に入学しているが、彼自身は著書『我が闘争』の中で、20世紀以降のダダイスムやキュビズムについて「狂気であり堕落であり病気である」と断じた上で、これらが「ボルシェヴィズムの公認芸術である」とまで述べている。

そんなヒトラーは、人物画よりも風景画・建築画を好んで描いており、いくつもの習作やデッサンなども残っている。これまで、ヒトラーの作品については様々な評価が見られたが、もし彼がそのまま凡庸な画家になり損ねた青年として人生を終えたならば、ほぼ確実にこれらの作品を我々が目にすることはなかっただろう。

以下では、彼の30枚の作品をまとめてご紹介しよう。


ヒトラーは愛犬家としても有名であり、ジャーマン・シェパード・ドッグのメス「ブロンディ」を飼っていた。ちなみに、ヒトラーの愛人であるエヴァ・ブラウンはブロンディを嫌っており、ブロンディを蹴とばしていたことが知られているという。


彼は、第一次世界大戦によって荒廃した街並なども描いている。後に、こうした風景を自らの手によってつくり出すことになる。


ディズニー作品も

なんとその中には、ディズーのピノキオと白雪姫に登場する小人を描いた水彩画もある。これはノルウェー北部の戦争博物館で発見されたもので、ヒトラーが所有していた絵画に隠されていた。
http://musey.net/mag/35

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アーリア人の赤ん坊を増やせ ! / 同種族を憎むように改造されたアメリカ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html


フリーダが持っていた出生の秘密

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(写真 / ナチス政権下りの理想的ドイツ人少女)
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  最近のテレビでは予算不足なのか、昔のビデオを集めて懐メロ番組を流す時がある。大きい子供を持つ父親とか母親でも、往年のスターやアイドル歌手を再び目にして大はしゃぎするんだから、若い時の熱狂は一生消えないのだろう。でも、贔屓とするアイドル歌手がいなかった筆者には、残念ながら一緒に懐かしむことができない。とは言え、筆者にも松田聖子とか中森明菜を好きだった友人がいた。しかし、同級生にアバ(ABBA)とかノーランズ(The Nolands)のファンはいなかったから寂しかった。それでも楽しい思い出は尽きない。

今のCDとは違って、LPのアルバムだとジャケットのサイズが大きくて、それぞれのミュージシャンが独自のアイデアを用いてデザインしていたから、ある種の藝術みたいな趣があった。小学生の頃、近所のレコード店に行ってアバのアルバムを注文し、そのレコードが届いたとの知らせを受けた時は嬉しかった。早速、自宅のオーディオ・セットにレコードをかけ、「ヴレヴー(Voulez Vous)」とか「エンジェル・アイズ(Angel Eyes)」「アズ・グッド・アズ・ニュー(As good as new)」といった名曲を毎日のように聴いて、「コンサートに行けたらなぁ」と悔しかったのを今でも覚えている。

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左: ノーランガ
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右: ABBA
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  日本でも1970年代後半から80年代初頭にかけてアバは人気で、ディスコ・ブームも重なっていたから、「ギミ ! ギミ ! ギミ !」とか「ダイシング・クィーン」がよく流れていた。ちなみに、筆者が印象に残っているディスコ・ミュージックと言えば、松田優作のTVドラマ『探偵物語』で使われていた「ディスコ・トレイン(Disco Train)」(歌 / セクシー・リズム・セクションズ)と、沖雅也・柴田恭兵が共演していた『俺たちは天使だ』に挿入されていた「You Can Do, I Can Do」である。(これらの曲はユーチューブにアップされているので、確認したい方は曲名をタイプして検索すれば試聴できます。たぶん、「あの曲か!」と想い出す人もいると思う。) 日本でも成功を収めたアバは、1980年代初頭に解散してしまったが、各メンバーは独自に音楽活動を始めていた。リード・ヴォーカルのアグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Fältskog)とフリーダ・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)は、そけぞれソロ・シンガーの道を歩むようになていった。

  個人活動を始めたフリーダであったが、新曲の「I know there's something going on」はそれほどヒットせず、アバ時代と比べると凋落の様相を否めない。しかし、彼女はドイツ貴族の奥方となった。アバのメンバーであった頃、フリーダはキーボード奏者のベニー(Benny Andersson)と結婚していたが、まもなく離婚してしまい、それでもバンド活動を続けていたという過去がある。人気絶頂で「アバ」というバンドが解散し、ソロ・シンガーになったフリーダは、造園家で伯爵の称号を持つハインリッヒ・ルッツォ・ルウス(Heinrich Ruzzo Reuß)と結婚し、スウェーデンの歌姫からドイツ人のお妃(プリンセス / Prinzessin Reß von Plauen)へと変身していたのである。普通なら、人も羨む華やかなシンデレラ・ストーリーとなるのだが、フリーダには人に話したくない出生の秘密があった。

Anni Frid 2Anni Frid & Benny 2Heinrich Ruzzo Reuss 1

左: アグネッタとフリーダ
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中央: 夫婦となったフリーダとベニー
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右: 再婚したフリーダと夫のハインリッヒ・ルッツォ・ルウス
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  1945年11月に生まれたアニ・フリード(フリーダ / Anni-Frid Lyngstad)は、シニ・リングスタッド(Synni Lyngstad)を母に、アルフレッド・ハーゼ(Alfred Haase)を父に持つ。母のシニは片田舎に住むノルウェー人女性で、まだ18歳の乙女であった。一方、父親のアルフレッドは、ノルウェーを占領したドイツ軍に属する24歳の軍曹であったという。彼は派遣された街でこの娘と出逢い、彼女の姿に惹かれてしまった。この娘に惚れてしまったアルフレッドは、ジャガイモの詰まった袋をプレゼントして交際を始めたそうだ。

現在では笑い話になってしまうが、戦時下の1943年、ノルウェーでは食糧不足が深刻だったので、こうした贈り物は大変貴重であったらしい。逢い引きを続ける若い二人が親密になるのに時間はかからず、彼らは程なくして肉体関係を結ぶようになった。だが、アルフレッドには彼女を幸せに出来ない事情があった。何と、彼は故郷に妻子を持つ既婚者であったのだ。(Ross Benson, "Abba girl's Nazi secret", Daily Mail)

Synni Lingstad 1Alfred Haase 1Alfred Haase & Frida

(左: シニ・リングスタッド / 中央: アルフレッド・リングスタッド / 右: 父のアルフレッドと再会したフリーダ)

  不倫と敗戦は若い二人を引き裂く。1945年、シニは身籠もるが、恋人のアルフレッドは祖国に帰還することになった。悪い時に悪い事は重なるようで、さらなる不幸が彼女を襲うことになる。ノルウェーの寒村に残されたシニは、周囲からの冷たい視線を浴びることになった。村の者は皆、誰が赤ん坊の父親なのかを知っていたので、彼女が街を歩けば、人々は彼女に向かって「このドイツ人の淫売女 !」と罵ったそうだ。敵国の男と情事を交わしてしまったシニとその母アグニーは村八分となり、時が経つにつれ人々からの仕打ちに耐えきれなくなった。そこで、地元に居場所を無くした親子は、隣国のスウェーデンに逃れ、新たな生活を求めるようになったという。(当時、母のアグニーは夫を亡くした寡婦であったそうだ。) スウェーデンに新居を構えたシニは、ウェイトレスとして働くが、間もなく腎臓を患い、21歳の若さで亡くなってしまう。母を失ったフリーダはまだ2歳であった。こうして幼いフリーダは祖母の手で育てられ、寂しい子供時代を過ごしたそうだ。大人になってから、彼女は幼年時代を振り返っていたが、友達はそう多くなかったという。フリーダは父がドイツ軍人であると聞かされていたが、祖母のアグニーは偽の話を孫に伝えていた。すなわち、父のアルフレッドは海路でドイツに帰る途中、船が沈没して亡くなったと教えていたのだ。後にフリーダが父の真相を知ったのは、アバが人気を博していた1977年の頃であったという。

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(写真 / 若い頃の「フリーダ」ことアニ・フリッド)
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アーリア人の赤ん坊を繁殖させる施設

  ドイツ軍人のアルフレッド・ハーゼがノルウェー人娘のシニ・リングスタッドと恋に落ちたのは、偶然の出来事だけではなかった。彼の恋愛は「レーベンスボルン(Lebensborn / 生命の泉)」計画の一環でもあったのだ。エリート組織たる親衛隊(SS /Schutzstaffel)を率いていたハインリッヒ・ヒムラー(heinrich Himmler)は、第三帝國を支える金髪碧眼のアーリア人を増やすことを目論み、ドイツ各地に「レーベンスボルン・ホーム」を創設した。ヒムラーの考えでは、理想的な容姿を備えたエリート部隊の男性が、健康で若いアーリア人の女性と肉体関係を結べば、アーリア人の赤ん坊がたくさん生まれ、ゲルマン民族の肉体が維持できるらしい。もし、個人の自由に任せていると、“へんちくりん”な種族と結婚してしまうから、政府の特別機関が制禦せねばならないという訳だ。こうして、優秀な北方種族の純血性を守り、その優越種族を繁殖させるためには、特別な制度と施設が必要である、との思想がドイツに浸透し始めたのである。

Heinrich Himmler 1Lebensborn 5
(左: ハインリッヒ・ヒムラー / 右: レーベンスボルン・ホームで育つアーリア人の赤ん坊)

  ヒムラーは理想の種族でドイツ帝國を満たすことに心血を注ぐ一方で、彼の民族が持つ血統を穢す劣等人種を憎んだ。ドイツ民族の将来を憂いたヒムラーは、薄汚いスラヴ系民族やタカリ民族のユダヤ人、浮浪者のジプシーなどを排斥しようと決心したのである。彼はまた、腐敗と悪徳が蔓延る都会を嫌悪したので、レーベンスボルン・ホームを美しい田園地帯に建てることにした。現在の日本人にはピンとこないだろうが、ワイマール共和国時代には、ホモ風俗とかキャバレーが花盛りで、おぞましい繁華街には売春婦がたむろっていたというから、ヒトラーやヒムラーはこうした悖徳(はいとく)をドイツ全土から一掃した。「極悪人」の烙印を押されたヒトラーだが、意外にも彼は潔癖症で、倫理・道徳的腐敗に対して峻厳だった。美術を愛したヒトラーからすれば、ゲイ同士のセックスとかストリップ劇場などもっての外。ところが、社会道徳など一顧だにしない世俗的ユダヤ人の中には、ゲイとかレズビアンを用いてキャバレーを経営したり、変態趣味やSMショーとかを商売にして儲ける奴がいたそうだ。

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(左: マグヌス・ヒルシュフェルド / 右: 男同士でダンスを楽しゲイのむカップル)

  さらに、マグヌス・ヒルシュフェルド(Magnus Hirschfeld)というユダヤ人学者がセックス学(sexology)で有名だったから、ヒトラーやナチ党の愛国者たちが激怒したのも当然だった。この状態は、メル・ゴードン(Mel Gordon)の著書『官能的パニック(Voluptuous Panic)』を繙けば一目瞭然だ。日本人の読者は、ヒルシュフェルドが丸裸の女性を椅子に坐らせ、その手で彼女の性器を開闢させている写真に驚くだろう。こうした本は大学図書館にも無いから、ほとんどの日本人はワイマール期の社会風俗を知らずに、ナチ・ドイツの風紀取締を非難することになる。まぁ、性器丸出しのゲイやレズビアン、性的な幼児趣味、SMプレー、といった写真が満載の本なんて、公共図書館に置くことができないから、大学生でも第三帝國以前のドイツを理解していないのだ。(筆者はこの本を所蔵しているが、その中に掲載されている写真を紹介できない。ブログ運営のライブドア社の検閲が厳しいしこともあるが、実際、あまりにも卑猥な写真なので、いくら鈍感な筆者でも掲載をためらってしまうのだ。どうか、ご勘弁頂きたい。)

  勇敢なアーリア人戦士と美しいアーリア人の母が住むドイツを理想郷としたヒムラーであったが、いくつかの強引な政策もあったから、批判者が出て来ても不思議ではなかったし、排除されたユダヤ人から恨まれることも当然あった。しかし、彼の方針は英米で行われていた社会政策と同じものであったし、現在の福祉制度に通じているから興味深い。レーベンスボルン計画では、由緒正しいSS隊員と健康なアーリア系女性との婚姻が奨励されており、レーベンスボルン・ホームは未婚女性とその赤ん坊、あるいは既婚者との不倫で子供を産んでしまった女性などを保護し、彼らの面倒を見ていたという。ナチ党は逞しい金髪の戦士と家庭を守る母親を理想とし、帝國の未来を担うゲルマン人の子供を産むよう宣伝したし、そうした出産を半ば国民の義務と見なした。こうしたナチスの方針が「悪」なら、日本の武士は単なる殺人鬼だし、家庭を守る専業主婦も否定されねばならない。

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(写真 / ゲルマン系の母親と赤ん坊)
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  そこで、ゲルマン人の出生率を上げるため、ドイツは幾つかの社会政策を推進した。例えば、10歳以下の子供を3人以上持つ母親は、商店の順番待ちの列で優先的に扱われる「名誉母親証」を与えられたという。また、地方の行政当局は、こうした母親達に家賃と公共料金の割引をする制度を採用し、これから家庭を築こうとする若いカップルには、人種的適合性が証明されれば、独身者からの特別税を財源とした融資が行われたそうだ。子供が一人生まれるごとに融資額の四分の一が免除されたという。ということは、四人目を持てば借金がチャラになるということだ。(キャトリーン・クレイ / マイケル・リープマン 『ナチスドイツ支配民族創出計画 』柴崎昭則 訳、現代書館、1997年、 p.92)

  レーベンスボルン・ホームに熱心だったヒムラーと開業医のグレゴル・エーブナー(Gregor Ebner)は、既婚未婚を問わず、とにかく良い血統を持つゲルマン人の子供を増やしたかった。そこで、赤ん坊を養うことが困難な母親を受け容れて、レーベンスボルン・ホームの看護婦が代わりに養育する場合もあったという。とにかく、レーベンスボルン・ホームは魅力に満ち溢れていた。施設は中世の城を思わせる外観をもち、田園地帯にある高級リゾート・ホテルのようでもあった。当時、出産費用は一人頭400マルクであったが、エーブナーは素晴らしい血統を持つ1000名の子供を確保できるのなら、さしたる出費ではないと考えていたそうだ。資金は様々な方法で調達されていて、レーベンスボルン協会の会員からも徴集していた。会員数は1万3千人。そのうち8千名がSSに所属し、766名は各地の警察組織に属する者であった。会費は月に最低27マルクであったが、父親としての義務を果たしていないSSの隊員は、罰としてなのか、余計に会費を払わねばならなかった。しかも、28歳までに最低2人の子供を持たないSS隊員は、より多くの金額を払わねばならなかったそうだ。(上掲書 p.105)

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(左: グレゴル・エーブナー

中央: ドイツ人の若い女性
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右: 少女と一緒のハインリッヒ・ヒムラー
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  それでも、レーベンスボルン計画を維持するには資金が足りなかったようで、1939年、経済省は拡大する赤字を補填すべく100万マルクの補助金を交付したという。日本政府も少子化対策を取るなら、ナチ・ドイツのレーベンスボルン計画をちょっとは参考にすべきだ。国会議員や地方議員、政府の役人はこぞって児童施設の増加を叫ぶが、肝心の国民はセックスをしても結婚しないし、子供すら産まないから少子化が益々深刻となっている。多少のお金をあげても日本人女性は妊娠を嫌がるし、幼稚園が充実すれば「待ってました」とばかりに外で働くから、専業主婦が減って職業婦人が増えてしまう。子供を増やして生活がキツくなるんなら、子供を産まずに所得を上げようとするのは人情だ。ちょっと脇道に逸れるけど、日本の税制は将来を担う国民に対して酷だ。若い夫婦が借金して新居を構えても、その家屋に固定資産をかけて多額の税金を搾り取るんだから、幸せな家庭を築こうなんて思わない。これじゃあ、まるで懲罰金だ。住宅ローンを返済しながら、年金、国民健康保険、市民税、県民税、ガソリン税の二重課税、自動車取得税、車検に加えて消費税のアップじゃ、重税を払うために働いているようなものである。もし、子供を4、5人産んだら住宅借金を棒引きにして、固定資産税も軽減ないし免除となれば、若い夫婦もちょっとは夜の営みに励むかも知れない。

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(写真 / ナチス時代のドイツにおけるゲルマン系少女たち)
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  ナチ・ドイツの崩壊でハインリッヒ・ヒムラーの評価は最低だが、彼がSSのために考案した儀式には注目すべき言葉がある。夏至と冬至の儀式に集まった民衆は、次のように唱和しなければならなかった。

  我々は祖先を尊敬し、その前で跪く。祖先の血は、使命と責務として我々の中に流れている。

  血縁共同体によって、男は遺産を守る義務を負わねばならない。
  存在することの意味は、遺産を結実へと展開することである。
  生命の輝きを保つ聖なる場所を守るのは、家族である。
  男とその妻は、生命の芽を授け、それを担い、そして伝播させる。
  我々の子供たちは、我々の交わりと存在の証明である。
  そして、我々の孫たちは、我々の偉大さを証拠立てるであろう。
  (上掲書 p.64)

  ドイツ史を研究する日本の左翼学者は、頭ごなしにナチスを糾弾するが、ドイツ国内でアーリア系、つまり北方種族のドイツ人が増える事に問題は無いはずだ。確かに、ポーランドを侵掠し、現地人を弾圧したことは非難されるべきだが、侵略戦争なら歐米各国とも常習犯である。英国はアジアやアフリカに宏大な植民地を獲得し、現地の有色人種を蔑み、レイシズムに基づく秩序を形成して、現地人を奴隷の如くこき使っていた。インド人やビルマ人、アフリカ人からすれば、ドイツ人もイギリス人も変わりはないし、自由や博愛を掲げていたフランス人など完全に偽善者だ。ドイツ人を非難するアメリカ人だって、国内では黒人を家畜として働かせていたし、黒人との混血を忌み嫌い、一滴でも黒人の血が混じった子供は白人と見なされなかった。これは、ユダヤ人の祖父母を持つユダヤ系混血者を「ドイツ人」と見なさなかったナチスと同じである。アメリカ人は嫌がるけど、ナチ党はアメリカの人種法を参考にしていたのだ。当時の西歐世界はどこでも人種差別が横行していたし、他国への侵掠とか劣等人種の征服などは伝統的行為であったから、殊さら騒ぎ立てる程のものでもなかった。

恨み骨髄のユダヤ人

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(写真 / ユダヤ人の集団)

  しかし、ドイツやその他の西歐諸国に住むユダヤには赦しがたかった。彼らは千年以上も異国にタカってきた寄生民族なのに、自らを正当な「ドイツ国民」と考えていたのだ。しかし、ナチ党が台頭すると、如何なる高位高官のユダヤ人も単なる「ユダヤ人」に貶められたから、大騒ぎしても無理はない。以前なら、強欲な領主や君主を札束でビンタすれば、迫害の手が緩んだし、条件次第では引き続き居住が許され、有能なユダヤ人であれば、秘書とか財務官といった手下になることができた。ところが、ヒトラーは甘っちょろい貴族とは決定的に違っていたのである。彼はユダヤ人の袖の下に屈しなかったのだ。ナチスは法律を以てユダヤ人を炙り出した。例えば、


(1) 氏名変更の禁止。ユダヤ人がドイツ風の名前をつけることを禁止したのである。

(2) ユダヤ人の商店はユダヤ人が所有していることを隠してはならない。

(3) ユダヤ人組織は当局に登録せねばならない。

(4) ユダヤ人は自分がユダヤ人であるとこを示す書類を持ち歩かなければならない。

(5) ユダヤ人は不動産業、金貸し屋、工場経営、調査業、結婚仲介業、看護婦、巡回販売員などを営んではならない。

(6) ユダヤ人はドイツ人の劇場に入ってはならない。

(7)ユダヤ人の子供はドイツの学校から排除される。


  これ意外にも様々な禁止条項があった。こうした条例は他国にも適応され、フランスがドイツに占領された時、そこに住むユダヤ人はケルト系のフランス人と区別された。すると、今までフランス人が営んでいると思っていた商店が、実はユダヤ人の店であったとわかってフランスの庶民が驚く、といったケースがあったそうだ。しかも、「こんなに多くあったのか !」と驚嘆したというから面白い。反ユダヤ主義の伝統が根強かったフランスでは、ドイツ人によるユダヤ人迫害に協力する人が少なくなかった。忌々しいユダヤ人を排除してくれたんだから、征服者にしては「良い事」をしたものだ。

  第三帝國の崩壊はドイツ人にとって悲劇であったが、戦勝国の英米にとってもある意味「敗北」であった。経済的に疲弊した英国は別にして、国内に損害が無かった米国も意外なしっぺ返しがあったのだ。あろうことか、ナチスを悪魔にして糾弾したアメリカ人は、自国内で人種差別が出来なくなってしまった。ナチスのユダヤ人迫害はドイツ人の独創ではなく、以前から継承されてきた排除思想が基になっていたのに、まるでドイツ人だけがユダヤ人を虐待したかのような印象操作が戦時中に行われていたのである。ドイツ人が如何なる人種政策を取ろうとも、アメリカ人はそれとは無関係に、従来の人種差別を継続してもよかったのだ。なぜ戦勝国が敗戦国のせいで人種混淆社会になるのか? そもそも、合衆国の白人兵はユダヤ人を救うために参戦したのではないし、黒人との平等を求めて日本兵と戦ったわけでもない。ところが、奇蹟的に生き残った白人兵が帰国すると、国内にはユダヤ人を始めとする戦争難民が押し寄せ、ついでにアジア系移民に関する法的制限も撤廃されてしまったのである。

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(左: ユダヤ人の子供 / 右ユ: ダヤ人の移民)

  激戦に勝ったら厭なユダヤ人を引き受けることになるなんて、まったく馬鹿げている。同じ種族のドイツ人、特に戦争孤児や夫を亡くした母子家庭のゲルマン人なら受け容れてもいいだろう。事実、ジェイムズ・イーストランド上院議員は、戦争で住処を無くしたドイツ難民を優先しようと述べていた。ところが、優先的にやって来たのはむさ苦しいユダヤ人とか、東歐や南歐からの貧民、その他の不愉快な劣等民族であったから、地元のアメリカ人は眉を顰めていた。案の定、住みついたユダヤ人家庭からは筋金入りの共産主義者や、ピンクの左翼、リベラル派気取りのゴロツキ、空論を弄んで社会に害をなす知識人、白人社会にケチをつける左巻きのジャーナリスト、真っ赤に染まった藝能関係者などが輩出されたのである。以前、当ブログで紹介したように、公民権運動で黒人を焚きつけたのはユダヤ人活動家であったし、異人種混淆を奨励する映画を作っていたのもユダヤ人であった。

  映画界やテレビ局、その他の娯楽産業を牛耳ったユダヤ人は、盛んにナチ・ドイツを侮蔑し、ドイツ人が犯したユダヤ人への暴虐、迫害、ガス室殺人などをアメリカ人に吹き込んだ。それにより、上流ないし中流家庭の白人たちは、兇悪犯のドイツ人を蛇蝎の如く嫌うようになってしまった。映画に現れるナチ高官は決まって残忍冷酷で、米軍に銃を向けるドイツ兵は、皆ロボットのように上官に従い、ケダモノのように民間人を殺しまくる。一方、アメリカ兵は人情味に不溢れた正義漢として描かれている。南洋で投降する日本兵を撃ち殺す卑劣なアメリカ兵とか、絨毯爆撃で女子供を皆殺しにするパイロット、焼夷弾で民間人を焼き殺すよう命じる米軍将校などは描かれない。もちろん、占領下の東京や横浜で日本人女性を強姦する黒人兵とか、少女を凌辱する白人兵などは無視。悪いのはナチズムのドイツ人とファシズムの日本人のみだ。

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左: 二枚クリステン・スチュワートとテレサ・パーマー
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右: 二枚ティファニー・ティッセンとアレクサンドラ・ダダリオ
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  こうしたプロパガンダ映像で洗脳されたアメリカ白人は、同種族のドイツ人を殊さら憎み、異人種であるはずのユダヤ人に親近感を覚える。しかし、日本人の目から見れば、西歐系アメリカ人とアーリア系ドイツ人は同胞に見えてしまう。もし、第二次大戦を闘った高齢の白人が子供や孫の配偶者を選ぶとしたら、必ず同種族の西歐人を望むだろう。戦争が終わって帰還した白人兵は、たいてい白人娘と結婚し、自分と“似た”子供をもうけた。ここでは直接関係無いけど、白人俳優には他人なのによく似ている者がいる。例えば、女優のテレサ・パーマー(Teresa Palmer)とクリステン・スチュワート(Kristen Stewart)は、アメリカ人の目から見ても似た者同士だ。また、映画「ベイウォッチ」に出演したアレクサンドラ・ダダリオ(Alexandra Daddario)と、TVドラマ「ホワイト・カラー」で人気者となったティファニー・ティッセン(Tiffani Thiessen)も、ちょっと見ればよく似ている。これは彼女たちの親が同じ白人同士で結婚し、祖先からの遺伝子を守ってきた結果、同じタイプの容姿が保存されたという実例ではないのか。

住むなら白人地区

  口では綺麗事を述べる人でも、自分のお金を使う時には本音に忠実となる。例えば、いくら南鮮人を擁護する左翼評論家でも、自分の財布で自家用車を買おうとすれば、韓国の「現代(ヒュンダイ)」ではなく、トヨタとかホンダの日本車、あるいはメルセデス・ベンツやBMWいった高級車を選んでしまうだろう。第一、朝鮮のクルマなんか恥ずかしくて友達に見せられない。また、米国に派遣された日本人社員が現地で自宅を購入したり、子供の学校を探そうとすれば、おのずと白人の住宅地に目を向け、グレた子供が少ない白人学校を選んでしまうだろう。アメリカの白人だって「レイシスト」の日本人に賛同するはずだ。しかし、現在では、北方種族だけのドイツ村とか、白人ばかりが住む高級住宅地は評判が悪い。でも、日本人の不動産鑑定士が土地を調べれば、黒人やヒスパニックがひしめく地域より、西歐系アメリカ人だけが住む地域の方に高い評価額をつけてしまうだろう。実際、裕福なアメリカ白人は白人が圧倒的に多い高級住宅地に屋敷を構える。以前、ビル・クリントン夫妻の豪邸を紹介したが、黒人やヒスパニックに同情的なリベラル・カップルは、有色人種が少ないニューヨーク郊外の白人地域に新居を購入していたのである。

Hispanic family 5Muslim Immigrants 2

左: アメリカにやって来るヒスパニック移民
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右: アメリカにやって来るムスリム移民 )

  アメリカの白人は敗者の日本人に向かって、「オレ達の国は自由を尊ぶデモクラシーなんだ。お前らみたいに奴隷根性で暮らしている未開人じゃない」と説教するが、彼らに果たして本当の自由があるのか? 例えば、ヒムラーが夢見た金髪碧眼のゲルマン人ばかりで形成される田園地帯が現れたら、裕福な白人層は我先にと土地購入に奔走するだろう。幼稚園や小学校には黒いアフリカ人や褐色のアラブ人が皆無で、どの子供も白い肌に薔薇色の頬をし、大きな青い瞳を輝かせている。こうしたブロンドの幼児は、縮れ毛の黒人が発する独特のアクセントで喋らず、卑猥なダンスに興味を示すことも無い。健全な白人家庭が多くなれば、刑務所に収監された父親とか、福祉金に頼るアバズレ女房、麻薬でラリっているストリート・ギャング、売春婦と大して違わないズベ公、なども激減するだろう。貧困家庭の黒人生徒なんて、卒業後は刑務所に就職するため学校に通っているようなものだ。白人だけの共同体が社会的に公認されれば、リベラル派を気取ったインテリ夫婦だって、アーリア人村に引っ越したくなる。

そもそも、北方種族ばかりのドイツになったからといって、生粋のドイツ人がどんな損害を受けるというのか? 日本人のみならず、西歐系アメリカ人は冷静に考えてみるべきだ。例えば、ドイツ人に生まれた事を誇る親が、金髪を靡かせるアーリア人だらけの幼稚園を訪れて、「うぁぁぁ〜、北歐種族だらけだぁ ! 怖ろしい! こんな幼稚園にウチの子を入れることはできないわ!」と叫ぶのか? たぶん、それとは真逆だろう。もしかしたら、「まぁ、何て素晴らしい幼稚園なの ! どの子もみんな可愛らしいわ! ウチの子もここに通わせたい !」と、うっかり口を滑らすんじゃないか。「ゲルマン系」「アーリア系」「アングロ・サクソン系」と何でもいいが、西歐系アメリカ人はなぜ自分たちの理想を追求しないのか不思議である。

baby girl 1girl 15baby 15

(写真 / 忌み嫌われるアーリア系の幼児たち)
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  もし、アメリカが「自由の国」ならば、黒人やユダヤ人がギァアギャア騒ごうとも、好ましいタイプの白人だけで住宅地を持ったり、北方種族だけの小学校を作ったり、会員制の白人ゴルフ・クラブを開設すればいいじゃないか。民間組織における「受容」と「排斥」は自由であるべきだ。建国以前、イギリス人入植者は自分の好きなように神様を拝めるよう渡ってきた。彼らは新大陸に根づき、アングリカン教会から指図されず独自の教会を設立し、好き勝手な聖書解釈を行っていたのである。それなのに、アングロ・サクソン入植者の子孫は、自分の好きな者たちだけと暮らすことを禁止され、ユダヤ人が提唱する反米教育や不道徳な価値観に抵抗できない。英国のプロテスタント信徒はカトリック教会に反抗できたのに、ユダヤ人団体の前では隷属するなんて情けない。プロテスタントはユダヤ人の下僕なのか?

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(左: 歓迎されるユダヤ人の大人たち / 右: 大切にされるユダヤ人の子供たち)

  ユダヤ人が哀れな難民として入国した頃は、借りてきた猫みたいにおとなしかったが、この異民族は財力や権力を身につけると、次第に地元民の西歐人へ文句をつけるようになった。白人ばかりのコミュニティーはレイシズムの温床だから駄目。アングロ・サクソン人を始めとするゲルマン種族を称讃するのは、反ユダヤ主義に繋がるから禁止。米国をキリスト教国と定義することは、信仰の自由を阻碍することになるから破棄。西歐文明、とりわけイギリス文化を継承することは、多民族・多文化主義を否定するものだから、テレビや学校の教育プログラムから抹消。こんなアメリカ社会に変貌しているのに、アメリカの白人はフランクフルト学派の毒が廻っているせいか、まったく気づかない。その前に、「ネオ・ナチ」という言葉を聞くだけで震え上がってしまうのだ。ただ、筆者の言うことを理解するアメリカ人も居ることはいる。しかし、彼らは社会的地位を失うことを恐れるから、絶対に賛同することはない。こんな具合だから、綺麗事でしかない理想を語るリベラル派が幅を利かせているのだろう。

白人の赤ん坊は高い

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(写真 / レーベンスボルン計画で理想的モデルとされそうなアーリア人の男女と家族)
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  とにかく、レイシズムを否定するアメリカ社会であるが、養子縁組となれば白人の赤ん坊を望む白人夫婦は多い。もし、アメリカにレーベンスボルン・ホームのような養育施設があって、ヒムラーのように純粋なゲルマン人の赤ん坊を斡旋してくれたら、感涙にむせるカップルがたくさん出てくるだろう。事実、白人の赤ん坊は需要過多で、供給が極めて少ない。だから、白人の赤ん坊は値が高く、その次に白人系のヒスパニック、アジア系と値段が下がり、黒人は最低価格だ。幼くても買い手が付かない。売れ残った黒人の子供が成長してしまえば、もう絶望的である。子供が欲しい白人カップルは、しぶしぶ黒人を引き取るが、ユダヤ人カップルはユダヤ人の養子にこだわるし、異民族の子供を欲しがらない。ユダヤ人は二重思考を恥としないからね彼らは白い肌の子供を優先的に迎え入れ、たまにへそ曲がりのユダヤ人カップルが黒人を養子にする程度。しかし、西歐系白人に対しては人種平等を押しつける。(それなら、パレスチナ難民の子供を養子に迎えればいいのに。)

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左: 黒人の赤ん坊
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中央: 支那人の赤ん坊
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右: ヒスパニック系の子供
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   気前よくユダヤ難民を受け容れたアメリカ人は、本当に愚かである。自分の国なのに“くつろぐ”ことができず、常に異国に居るような気分になるし、周りを見渡せば黒人、アラブ人、南米人、支那人、インド人などが目に付く。しかも、言論の自由があるはずなのに、絶えずユダヤ・メディアの検閲が光っている。そして「自由」と「デモクラシー」を掲げて対外戦争をすれば、その都度、望みもしない難民がやって来るのだ。第二次世界大戦でユダヤ人、朝鮮戦争で朝鮮人、ベトナム戦争でベトナム人、イラク戦争でイラク人、ソマリアの紛争ではソマリア人が雪崩れ込んで来た。こんな結末なら、ナチ・ドイツを徹底的に破壊しなけりゃよかった、と歎きたくなる。日本人が高齢のアメリカ白人を捕まえ、「1950年代以前のアメリカと1960年代以降のアメリカと比べたら、どちらが良いのでしょうか?」と尋ねたら、彼らは声を小さくして「そりゃあ、戦前の方さ」と囁くだろう。「でもなぁ、ワシの孫は黒人との混血児なんだよ」という悲しい告白もあったりして、気の毒なインタビューになったりする。

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(写真 / 高値がつきそうな白人の子供)
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  日本人で歴史を研究する者は圧倒的に文系が多いから、歴史を違った角度から考えるという習慣がない。自然科学や数学を専攻する者なら、自然現象をあらゆる角度から考察し、様々な仮説を立て実証したり、研究したりするだろう。たとえ、「定説」であっても、それを疑い、自分で検証するし、学会の大御所が提唱した仮説といえども決定的ではない。ところが、歴史学会に所属する学者だと、長老教授の「史観」に逆らうことはないし、「定説」通りに論文を書けば、やがて正教授になれる。何も無理して有力教授に挑戦する必要はないし、黙って従えば自分も大御所になれるんだから、学会の主流に逆らうのは愚の骨頂だ。アメリカの学会も似たり寄ったりで、かつてアングロ・サクソンが主流だった米国はユダヤ人の天下になってしまった。ナチスにだっで見倣う点はあるだろう。アメリカ人はナチスのユダヤ人虐殺を非難するが、その立派なアメリカには中絶賛成派の「プロ・チョイス」勢力が存在する。「赤ん坊殺し」をチョイス(選択)の問題にするんだから驚く。たしかに、胎児は喋らない。いや、喋ることができない。母親に殺された赤ん坊は天に訴えるしかないのだ。それなら、未婚の母から捨てられた子供を養育したレーベンスボルン・ホームの方が遙かにマシだ。ユダヤ人の子供を殺すことが残酷なら、まだ母親のお腹にいる赤ん坊を殺すことだって悪である。案外、中絶賛成派のフェミニストは、ヒトラーが待つ地獄に直行するかも知れないね。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html


ナチスが嫌った醜い藝術
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html

頽廃芸術が横行したワイマール時代

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(上絵画 2枚 / ヒトラーの作品)

  今回のブログは1、2年前から発表しようかどうか迷った記事である。ナチス時代のドイツを知るには、ワイマール時代の社会状況を知る必要があるのだが、その一部があまりにも卑猥なのであからさまに伝えることが出来ない。しかも、ブログ運営会社のライブドアによる「検閲」があるので、たとえ「歴史的事実」でも「破廉恥な現実」を掲載すれば、当ブログの閉鎖を余儀なくされるからだ。それでも、歴史の真相を求める日本人には、偏向史観ではない具体的で“生々しい”情報が不可欠なので、肝心なエロ絵画を載せられないが、とりあえず紹介することにした。

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(左: アドルフ・ヒトラー / 中央: カール・トルッペ Karl Truppe と Franz Triebsch によるヒトラーの肖像画 / 右: アルベルト・シュペーア )


  第三帝國の総統となったアドルフ・ヒトラーが、若い頃、画家を志していたことは有名である。したがって、この伍長上がりの政治家は美術に関しては少々うるさく、自らのドイツ帝國を偉大な藝術で飾ろうと思っていた。ヒトラーがベルリンを壮大な首都にしようとした「ゲルマニア世界都市計画(Welthaupstadt Germania)」は有名で、その担当者に建築家のアルベルト・シュペーア(Berthold K. H. Albert Speer)を据えたこともよく知れられている。現在では、ヒトラーと言えば「極悪人」というレッテルが貼られているので、やることなすこと一切が非難の的になっている。だけど、もし敗戦がなく、目論見通りベルリンの再開発が遂行されていたら、たぶん絢爛豪華な帝都の誕生となったであろう。

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左: ドイツ人の少女
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中央: ナチス時代のドイツ人女性
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右: ナチ党のポスター
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  もっとも、追い出されたユダヤ人は恨み骨髄だ。しかし、好ましいアーリア人で賑わう街はヨーロッパ諸国の注目を集め、不動産価格が高騰するのは間違いない。きっと、好奇心旺盛な日本人も、世界に冠たる偉大な都市を見物しようと、ベルリンに押し寄せるんじゃないか。現在の歐米人のみならず、日本人も「ユダヤ人の視点」でしかドイツ史を観ないけど、もし、ゲルマン人の目でヒトラーの帝國を眺めれば異なった感想を持つはずだ。

例えば、仮にドイツの住民がアーリア系ドイツ人ばかりになったとする。そうなると、いったい誰が困るというのか? 日本人観光客で、金髪碧眼の北歐人が集まる商店街とか教会を眺めて、「気持ち悪る〜い」と感じる人はいないだろう。日本人女性だと、ゲルマン人の子供が楽しく遊ぶ幼稚園を見て、「アっ! かわいぃ〜い」と声を上げるんじゃないか。日本人の亭主だと、ブロンド美女の保母さんに“うっとり”する姿を女房に見られて、「アンタ、どこ見てんのよ !」と叱られたりしてね。

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左: ヒトラーとドイツ人の少年
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ドイツ軍士官
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右2枚: 理想的なアーリア人女性
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それに、ドイツを訪れたオランダ人やイギリス人の観光客が「あれ〜ぇ? 白人ばかりだ。ユダヤ人がいなくて寂しいなぁ」と愚痴をこぼすのか? ユダヤ人が大嫌いな愛国的フランス人なら、「アレマン人(ドイツ人)は素晴らしい ! ぜひ、我が国もユダヤ人を駆逐しよう !」と叫ぶに違いない。また、 ユダヤ人を大学やホテルから閉め出したアメリカ人も、同種族のドイツを旅行して感動するはずだ。帝國陸軍から派遣された日本人だって、ゲルマン人ばかりのドイツに違和感は無く、ユダヤ人が居なくても不便はない。ちょうど、江戸や大坂に朝鮮人が居なくても寂しくないのと似ている。

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左: ドイツ人の少年
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中央: ドイツ軍士官の家庭
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右: 1950年代のドイツ人女性
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  ナチ党やヒトラーの評判が悪いのは、ドイツを敗戦に導いたことにあるのだが、ユダヤ人や左翼分子が歐米の学会を牛耳っているのも、見過ごせない原因の一つである。ヒトラーにより追放されたユダヤ人は、アメリカやブリテン、カナダなどの西歐世界に移住し、その地で反ナチス本を大量に出版した。したがって、ドイツの事情に無知な一般人は、「ほとんど」と言っていいくらい、ユダヤ人の洗脳を受けている。フランクフルト学派のユダヤ人を迎入れたアメリカはその典型例で、今でもユダヤ人が撒き散らかした害悪により、訳も解らず“のたうち回って”いるのだ。これは丁度、見知らぬ他人から魚を貰って食ったら、その内蔵に水銀が溜まっていたり、回虫のアニサキス(Anisakis)が潜んでいたことから、食後にもがき苦しむのと同じ症状である。

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(上絵画 / ヒトラーによる風景画)

  排除されたユダヤ人の中には藝術家もいて、彼らは亡命先で散々ナチスを呪った。そして、この呪詛を聞いた現地人もユダヤ人アーティストに同情したものである。しかし、この亡命者たちは一体どのような作品を世に送り出していたのか? なぜ、ヒトラーやナチ党員たちは、彼らを排斥したのか? 日本人としては事の善悪を越えて、その理由を知りたい。我々は迫害されたユダヤ人の怨念だけを鵜呑みにするのではなく、迫害した側のドイツ人による言い訳にも耳を傾けねばならないと思う。とりわけ、1942年3月27日にヒトラーが述べた意見は傾聴に値する。ヒトラー曰わく、

  ワイマール共和国時代が特にひどかった。これは美術界におけるユダヤ人の影響力の怖さを如実に物語っている。ユダヤ人どものやり方は信じがたいほどの図々しさだった。インチキ美術評論家の協力も得て、ユダヤ人どうしでの間で競り上げて、ナイーヴな人々に屑同然の絵を最高傑作と思わせるのに成功したのだ。自らの知的水準には自負を抱いていたはずのエリートたちさえ、ころりとだまされた。今、ユダヤ人の財産没収のおかげで奴らのペテンの証拠が続々と手に入るというわけだ。屑同様の絵をだまして高値で売った金で、反対に過小評価した傑作をばかみたいな安値で購入する。-----これがやつらのペテン藝術の極みともいえる手口だったのだ。著名なユダヤ人から徴発した財産の目録に目を通していつも驚くのは、そこに本物の芸術品ばかりが載っているということだ。(『ヒトラーのテーブル・トーク』 下巻、吉田八岑 訳、三交社、1994年 p.31)

  確かに、ユダヤ人の富裕層はヨーロッパの名画を買い漁っていたようで、ナチスが彼らから奪い取った作品には目を見張るものがあった。最近だと、ナチスに協力した画商のヒルデブラント・ガーリット(Hildebrany Gurlitt)が隠し持っていた絵画に注目が集まったことがある。彼の息子で隠遁生活を送っていたコルネリアスが、ある失態を犯してしまい、盗品が表に現れるという事件が起きた。(Michael Kimmelman, "The Art Hitler Hated", The New York Review of Books, June 19, 2014) 戦災で失われたと思われていた多数の絵画が見つかってドイツ人は驚嘆。その中には、「頽廃藝術(Entartete Kunst)」作品も含まれていたそうだ。ヨーロッパ人の美を愛するヒトラーにとって、ユダヤ人や現代画家の美観は許せなかったそうで、総統は美術展に足を運ぶ度に、その「塗りたくった絵」を取り外させたという。たとえ、プロイセン・アカデミーの“お墨付き”が与えられた作品であっても、「無価値なもの」に対しては容赦無くふるい落としたらしい。

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(左: オットー・ディックスの作品 / 中央: ポール・クリーの作品 / 右: エーリッヒ・ヘッケル)

  ヒトラーによると、アカデミーの会員はきちんと任務を果たさず、いつも仲間内で“なあなあ”で済ませ、ある宗教担当大臣はユダヤ人の罠に嵌まって“とんでもない駄作”に賞を与えてしまったそうだ。しかも、騙された人々は最初、「これは難解な作品だ」などと一応納得した顔をして、「作品の深層と意味を洞察するためには、提示されているイメージの世界に浸る必要がある」と、もっともな“ご託”を並べたという。そう言えば、日本でも西洋美術展が開催されると、評論家気取りの連中が適当な「講釈」を垂れるし、門外漢の一般客は、その「値段」を聞いて作品の「価値」を決める傾向が強い。庶民はピカソやムンクの作品を観たってチンプンカンプン。「こんなの子供の落書きだよなぁ」と心の底で思っても、その値段が何十億円と聞けば、「うぅぅ〜ん、やはり筆のタッチがひと味違うな !」と急に意見を改めたりする。

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(左: パブロ・ピカソ / ピカソの作品 / エドワルド・ムンク / 右: ムンクの作品)

  だが、ヒトラーによる美術批評家への意見は手厳しい。「一般論として、アカデミーの類いは傾聴に値する程の意見を発表しない」そうで、教授どもは落ちこぼれか、枯渇した老人くらいであるという。たとえ、才能豊かな者がいても、彼らは1日に2時間と教えられないそうだ。(上掲書 p.32) ヒトラーの美術論によれば、真の藝術家は他の藝術家たちとの接触を通して育って行くものらしい。かつて、巨匠といわれた画家たちは、工房の助手としてスタートし、技術と器用さで秀でた者、あるいは将来価値のある作品を生み出せそうな者だけが、徒弟の地位へと昇ったそうである。ヒトラーはルーベンスやレンブラントの例を挙げていた。これなら我々にも解る。例えば、「偉大」と称されるピカソなんかより、フェルメールの油絵の方がよっぽど素晴らしいし、ラファエロの聖母像も傑作だ。ヨーロッパの評論家はムンク(Edvard Munch)の『少女と死』とか『思春期』を称讃するけど、日本人には葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の美人画とか版画の方が解りやすい。

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(左: フェルメールの名作「真珠の耳飾りをつけた少女」 / 中央: レンブラントの「善きサマリア人」 / 右: レンブラントの「愉快な仲間」)


エロ・グロ作品を描いていた亡命者

  ヒトラーは、当時の風潮に不満を漏らしていた。ドイツの美術学校では自由放任の方針を取っていたようで、天才なら最初から自分のしたいようにしてもよい、と考えていたらしい。しかし、ヒトラーは「天才画家であっても、最初は皆と同じように学習から始めねばならぬ」と考えており、「たゆみない努力によってのみ、描きたいものが描ける」と信じていた。そして、総統は絵の具の混合をマスターしていない者や、背景の描けない者、解剖学を学んでいない者は、大した画家にはならないだろう、と結論づけていた。そこで、ヒトラーは「曾てのように現代も、画家の卵は親方の工房で美術の伝統にどっぷり浸かりながら訓練を受けるべきだ」という。なぜなら、ルーベンスやレンブラントの作品を観ると、弟子と師匠が描いた部分の区別が附きにくかったからである。つまり、ルーベンスやレンブラントの弟子たちは、師匠と同じ技量を身につけていたということだ。

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(左: ゲオルク・グロス / マックス・ベックマン / エルンスト・ルドウィック・キルヒナー/ 右: エーリッヒ・ヘッケル)

  このように、ヨーロッパに根づく伝統的美意識を愛したヒトラーだから、その伝統を無視する抽象画とか表現主義の作品は許せなかった。ヒトラー率いるナチ党が「頽廃藝術家」と評した者といえば、ゲオルク・グロス(Georg Grosz)や、オットー・ディックス(Otto Dix)、マックス・ベックマン(Max Beckman)、エルンスト・ルドウィック・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)、パウル・クリー(Paul Klee)、ルシアン・フロイト(Lucian Freud)、エーリッヒ・ヘッケル(Erich Heckel)などが挙げられる。特に、ユダヤ人と思われがちなゲオルク・グロスは札付きのワルで、キリスト教の家庭に育ったドイツ人であったが、思想的には真っ赤な共産主義者であった。彼はドイツ共産党に属していたけど、ソ連を訪問し、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev / ユダヤ名Hirsch Apfelbaum)やレーニンと会ったことで失望したそうだ。グロスは形だけではあるが、共産主義から足を洗い、風刺画家に専念したらしい。

  ところが、このグロスは単なる絵描きではなかった。ナチ党の台頭により米国へ亡命したグロスには、マーティー(Marty)という息子が生まれ、この倅(せがれ)はマスコミを相手に父親の偉大さを宣伝していたが、ある作品に関しては沈黙を守っていた。彼はある記者のインタビューを受けて、「父の風刺画や油絵、鉛筆画はベルリンの頽廃と腐敗を厳しくも情熱的に描いていました」と述べている。(Rosie Millard, "My father, the famous artist", The Independent, 17 March 1997) しかし、マーティーは父親の藝術を概ね讃美するも、その恥部だけは巧妙に避けていたから狡(ズル)い。この息子は父のエロ・グロ作品を人前で堂々と掲げるべきだ。グロスの作品総てを知らぬ一般人は、ナチスに迫害された可哀想な藝術家としか思わないが、彼の描いた「卑猥な絵」を目にすれば、ご婦人方は両手で顔を覆ってその場を去るだろうし、美術品愛好家の紳士なら、「何だ、この下品な絵は !」と叫ぶに違いない。日本人もグロスのエロ絵画を見れば、なぜナチ党が彼を「ボルシェビキ風の敵No.1」と評したが判るだろう。

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(上3 枚 / ゲオルク・グロスの作品)

  憐れな亡命者と思われているグロスは、文字にするのも憚れるような卑猥な絵を描いていた。例えば、性器を剝き出しにした女や、客のペニスを膣に挿入する淫売、巨根をしゃぷる痴女、うつぶせの女を背後から襲う男、醜悪な体型をした中年女など、“おぞましい”としか言いようのない作品を残していたのだ。(ライブドア社の禁止規定に抵触するので、実際の生々しい「猥褻作品」を掲載できなくて残念である。でも、規則だから仕方ない。) とにかく、グロスは露骨に性器を描写していたから、とても一般公開などできない。米国の敬虔なキリスト教徒なら卒倒間違いなし。仮に、美術館の壁に掛けることが出来たとしても、訪問客から猛抗議を受けて、即座に展覧会は中止されるだろうし、主催者は責任を取ってクビになるはずだ。こうなれば、一般のアメリカ人もグロスへの同情を失い、「頽廃芸術」が何であったのかが解る。でも、ユダヤ人や左翼ジャーナリストは困るだろう。ヒトラーは絶対的な悪なのに、その追放政策が正しく思えてしまうからだ。したがって、反ナチス派の評論家や歴史家は事実を隠す。

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(左2枚 : ルドウック・キルヒナー / 右2枚: マックス・ベックマン )

  ルドウィック・キルヒナーの作品は卑猥でなかったが、彼の描く人物はどれも醜くて、観ていると暗い気分になる。なるほど、描かれた人物は印象的だが、お世辞にも「美しい」とは言えず、どちらかと言えば「病的」と評した方がいい。ちなみに、キルヒナーは精神病を患っており、展示会に出した自作を撤去されてから一年後に自殺している。フランクフルトのアカデミー会員をクビになったマックス・ベックマンや、700点以上者作品を撤去されたエーリッヒ・ヘッケルの絵も全体的に陰鬱で、部屋に飾ってみたいとは思えない作品である。だいたい、ベックマンの作品などを模範にしたい絵描きがいるのか? 蛭子能収をちょっと上手くしたくらいで、ザビエル山田といい勝負だぞ。(ザビエル山田は漫画『愛の泉』や『オヤジの吐息』の作者である。) 美術評論家は彼らの作品を「素晴らしい」と褒めちぎるんだろうが、一般人ならこんな絵を高値で買おうとはしないし、政治献金の代用品であっても買いたくない。個人の敷地で催されるヤード・セール(庭先の販売会)だと、せいぜい5、6ドルの値札しかつかないんじゃないか。筆者の好みから言えば、安彦良和先生の油絵(例えば、「ガンダム」のシャーとかセイラの人物画)とか、荒木飛呂彦先生が描くジョジョの直筆ポスターなどの方が遙かに価値がある。

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(左と中央 : エーリッヒ・ヘッケル / 右: ルドウィッヒ・マイトナー )

  ユダヤ人の画家になるともっと酷い。ルドウィッヒ・マイトナー(Ludwig Meidner)の絵を見ると、何かの病気を患っているんじゃないか、と思えてくる。だが、彼よりも不愉快なのは、ルシアン・フロイトだ。彼は有名な精神科医であるジクムント・フロイドの孫としても知られている。ルシアンの描く女性などを観ていると、日本人だってヒトラーの反論に賛成するんじゃないか。例えば、ぶくぶくと太った醜い女性とか、性器丸出しの男性などを観れば吐き気がする。ナチ党員たちはゲルマン人女性の美しさや清らかさを称讃したのに、ユダヤ人画家ときたら、北歐種族の肉体的美しさを否定し、それを無視するどころか、却って醜悪にして「美術」と称する。西歐婦人の気品を台無しにした挙げ句、反対の肉体を讃美するんだから、ドイツ人じゃなくても不快になるじゃないか。ヨーロッパ人にとったら、美しい人間というのは、古代ギリシア人が理想とした女神とか、ルネッサンス期の巨匠が描いた英雄である。

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(左ルシアン・フロイド / 中央と右: フロイトの作品)

  しかし、ヨーロッパ人、特にキリスト教徒のゲルマン人を憎んだユダヤ人は、いじめっ子民族の肉体を讃美したくない。アーリア人の肉体美を描くことは、敵対者の優越性を認めることに繋がるし、セム種族の肉体的劣等性を認めることになるからだ。ユダヤ人は一般的に捻れた性格を持っている。美しいゲルマン人女性に憧れる一方で、彼女たちからの侮蔑に耐えねばならぬ運命を有しているからだ。ユダヤ人は西歐人に対しては、人種平等の説教を垂れるが、仲間内では西歐白人女性を獲物にしているから卑劣だ。(イスラエルの売春宿では、西歐人女性のような東歐女性が人気で、フィリピ人女中やアフリカ人娼婦は安値でランクが落ちる。それにしても、貧乏なルーマニア人やウクライナ人、ロシア人の女性を半ば騙して、次々に密輸するユダヤ人の女衒はあこぎだ。TBSの金平茂紀は朝鮮人娼婦なんか放っておいて、スラヴ系娼婦を取り上げればいいじゃないか。看板番組の『報道特集』で「報道」しろ !)

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左: キャメロン・ディアス
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ジェニファー・アニストン
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テリー・ポロ
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右: ジェニファー・ハドソン
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ユダヤ人は多民族主義を唱えるくせに、性慾となれば白人女性一本槍だ。 恋愛映画を造るハリウッドのユダヤ人たちは、決まって相手方を西歐人美女にする。例えば、ユダヤ人男優のベン・スティラー(Ben Stiller)は『メリーに首ったけ』ではキャメロン・ディアス(Cameron Diaz)を共演者にしたし、『アロング・ケイム・ポリー(Along Came Polly)』ではジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)を、『ミート・ザ・ペアレンツ』ではテリー・ポロ(Teri Polo)を恋人役にした。ところが、どのユダヤ人男優も、有名司会者のオプラ・ウィンフリー(Opra Winfrey)とか、ジェニファー・ハドソン(Jennifer Hudson)、タラジ・ヘンソン(Taraji Henson)、クィーン・ラティファ(Queen Latifah)などを恋人役にはしないのだ。(もしかして、黒人への嫌悪と差別なのか ?)

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(左: タラジ・ヘンソン / オプラ・ウィンフリー / クィーン・ラティファ / 右: コートニー・コックス)

大ヒットTVドラマ『フレンズ』でもユダヤ人的嗜好が滲み出ていた。このドラマを制作したプロデューサーのデイヴィッド・クレイン(David Crane)とマルタ・カフマン(Marta Kauffman)は共にユダヤ人で、ドラマの中でもロスとモニカのゲラー兄弟をユダヤ人に設定していた。兄のロス・ゲラーを演じたデイヴィッド・シュワイマー(David Schwimmer)はユダヤ人だけど、妹役のモニカを演じたコートニー・コックス(Courtney Cox)はイギリス系アメリカ人である。呆れてしまうのは、ユダヤ人のロスが憧れるレイチェル役に、西歐系女優のジェニファー・アニストンを起用していたことだ。『フレンズ』にはユダヤ人女優のリサ・クドローがいたのだから、彼女をフィービー役ではなく、レイチェル役にすれば良かったのに、と思ってしまうが、クレインとカフマンにしたら、いかにも「ユダヤ人のカップル」になってしまいそうで、本能的に嫌がったのだろう。もし、ニューヨークに住む「フレンズ」が、全てユダヤ人となったら、不愉快というか余りにも“リアル”過ぎる。たぶん、制作担当者はユダヤ色を薄めるためにも、異教徒の西歐人をキャストに混ぜたんだろう。

Lisa Kudrow 4David Schwimmer 2Marta Kauffman 1David Crane 2
(左: リサ・クドロー / デイヴィッド・シュワイマー / マルタ・カフマン/ 右: デイヴィッド・クレイン)

  ユダヤ人は現実社会でも、ユダヤ人女性や黒人、アジア系女性に興味を示さず、西歐系女性に性的興奮を覚える。ユダヤ人の大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインシュタインについては、以前このブログで触れたからここでは繰り返さない。でも、最近またもやユダヤ人によるセクハラが暴露されたので紹介する。日本ではあまり知られていないが、ミネソタ州選出の上院議員にコメディアン上がりのアル・フランケン(Al Franken)がいる。一連のセクハラ騒動に感化されたのか、彼にセクハラを受けたと表明する女性が現れた。被害者はリーアン・トゥイーデン(Leeann Tweeden)という美女で、以前は水着のモデルや『プレイボーイ』誌のグラビア・モデルを務めたことがあり、現在はテレビ番組の司会やレポーターを務めているそうだ。

Al Franken 1Al Franken 3Harvey Weinstein 1
(左: アル・フランケン / 中央: リーアン・トゥイーデンの胸を鷲摑みにするフランケン / 右: ハーヴェイ・ワインシュタイン )

事件は2006年、彼女が中東アジアに派遣された米軍を慰問した時に起きた。アル・フランケン議員はリーアンが寝ている隙に彼女の胸を鷲摑みにしたり、彼女が嫌がるのに無理矢理キスを迫ったそうだ。(Juana Summers and M.J. Lee, " Woman says Franken groped, kissed her without consent in 2006", CNN, November 17, 2017) セクハラ事件が表沙汰になると、フランケン議員は彼女に謝罪したそうだが、いくら冗談でも有名人の身分を忘れて卑猥な行為をするなんて、アホといか言いようがない。でも、どうしてユダヤ人は黒人とか支那人女性に対しては「いやらしい」事を企てないのか。「人種的平等を考えろ」とは言わないが、獲物に「人種的偏見」を持っているんじゃないかと疑いたくなる。

Leeann Tweeden 3Leeann Tweeden 4

左: 司会者としてのリーアン・トゥイーデン
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/8/a/8a1cb7ea.jpg

右: モデル時代のトゥイーデン
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/9/9/99308ef1.jpg


怨念が動機になっている美意識

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(左: ヤンケル・アドラー / 右3枚: アドラーの作品 )

  話が逸れたので元に戻す。ナチ党は頽廃藝術をユダヤ人の“せい”にしているが、こうした趣味に人種は関係無さそうだ。確かに、ヤンケル・アドラー(Jankel Adler)のようにポーランド系ユダヤ人の画家がいたけど、オットー・ディックスのようなドイツ人の画家もいたのだ。民族性と美的感覚の関連は不明確だが、二人の絵画は本当に美術なのかどうか判らない。現代の我々が見ても、アドラーの絵は気分が落ち込むほど陰惨である。ただし、ディックスが描いた絵の方が遙かに酷い。ディックスの描く女性など本当に醜く、お金を払って見る藝術とは思えないし、ヒトラーの言うように駄作と評する方が適切である。彼が描いた裸婦など殴り書きみたいだし、赤ん坊を抱く母親の絵は貧相というより怖い。ガリガリの赤ん坊なんてどうかしている。これじゃあ、アメリカ人だってナチスに賛同したくなるじゃないか。

Otto Dix 4Otto Dix self-portrait-with-museOtto Dix Sailor & Girl
(左: オットー・ディックス / 中央と右: ディックスの作品 )

  昔、ヨーロッパでは既存の秩序や常識を否定し、破壊的感情を肯定したダダイズム(Dadaism)が流行ったけど、ユダヤ人には“しっくり”する運動だった。とにかく、ユダヤ人は西歐世界の伝統や秩序を覆したいと願っている。自分の種族が築き上げた訳でもない価値観など紙屑以下。タバコの吸い殻を揉み消すように、西歐人の理想を足で踏みにじりたいのだ。そして、自分たちを“抑圧”し続けた憎い白人を倒したい。だから、アーリア人の美しさを貶して、醜い人物像を「素晴らしい」と言い換えたり、変態的描写を「斬新なタッチ」として言いふらすのだろう。彼らにとり、異教徒の美意識を破壊することは快感なのだ。

Otto Dix Pregnant Woman 2Otto Dix Mother & ChildOtto Dix Ladies of the NightOtto Dix Pregnant woman
(上絵画 / ディックスの作品)

  全共闘世代なら馴染み深いだろうけど、1960年代から1970年代にかけて前衛芸術なるものが“進歩的”と目されていた。フランス語の「アヴァン・ギャルド(avant-garde)」を口ずさみ、寺山修司とか大島渚たちが訳の解らぬ映画を作っていたのを覚えている人も多いだろう。ジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコが、へんちくりんな踊りを披露していたけど、あれも前衛藝術の一種らしい。音楽でも奇妙なものがあり、ユダヤ人音楽家のアーノルド・ショーエンバーグ(Arnold F. W. Schoenberg)とか、ニューヨーク生まれのロシア系ユダヤ人モートン・フェルドマン(Morton Feldman)が有名だ。まぁ、音楽の趣味は人それぞれだから、余計な事をせずに市場に任せておいた方がいい。

Morton Feldman 1Arnold Schoenberg 1Yoko Ono 2
(左: モートン・フェルドマン / 中央: アーノルド・ショーエンバーグ / 右: ヨーコ・オノ)

  一般的に藝術は「自由」な方が良いけど、人々の精神に及ぼす影響も無視できないので、国家が介入する場合もやむを得ない。例えば、公園や路地裏で公然と映画のセックス・シーンを撮影するのは非常識だし、歩行者天国の日曜日に鞭を握ったSMの女王様が闊歩すれば、親子連れの一般人は目を背けるだろう。また、百貨店の展示会だって、しわくちゃの老婆を題材とした全裸写真とか、中高年ゲイが互いにペニスを握りしめているスナップ写真とかは論外だ。でも、西歐ではたまにある。米国で問題になったけど、小便の中に埋もれるキリスト像という絵画が公開され、世間の非難を浴びたこともあるのだ。藝術作品の弾圧は賛成できないが、常識を越えた「藝術」に一定の制限があってもおかしくはない。

  ナチスによる私有財産の没収は違法だが、ヒトラーたちが「頽廃藝術」に憤慨した気持ちも分かる。ヒトラー総統が自分の帝國だから美しくしたい、と考えてもおかしくはない。「盗人にも三分の理」があるように、ナチ党にも1%くらい擁護論があってもいいんじゃないか。日本人にとって重要なのは、ナチスが怒った理由とその経緯を“具体的”に調べることだ。ユダヤ人の本だと“抽象的”に書かれているだけで、不都合な歴史が省略されている場合が多い。「書物の民」は偶像崇拝を嫌って文字を重視し、映像や視覚を回避する傾向が強いから、我々はどのような素性の者が、如何なる思想で批判しているのか検証してみる必要がある。案外、ユダヤ系著者の素顔と正体を知ったら、「えっ、こんな人なの?!」と驚くんじゃないか。(ワイマール時代のドイツについては、別の機会で述べてみたい。ただし、当ブログが閉鎖命令を受けたら不可能になってしまうだろう。もしかしたら、今回が最終回となってしまうかも知れないので、引っ越しを考えているところです。)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html

23. 中川隆[-13559] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:29:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1345] 報告

額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

【題名】額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年2月9日(木)19時15分〜19時30分
【司会】ふせえり


ここ数日、肌寒い日が続いていますが、もう直にジメジメと湿気の多い梅雨の季節になるのかと思うと、うっとおしい限りです。雨の日は美術館の来場者が減ってゆっくり絵画を鑑賞することができることが多いので、個人的に雨の日の美術館巡りを好んでいます。未だ病気が完全に本復した訳ではないので、家で美術館関係の映像を見て過しています。

https://f.hatena.ne.jp/bravi/20120613192142
エゴン・シーレ作「死と乙女」(1915年)

先日、グスタフ・クリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」等の作品について記事を書きましたが、今日はクリムトの愛弟子で世紀末ウィーンで活躍した表現主義の画家エゴン・シーレの「死と乙女」について書きたいと思います。最愛の恋人との別離を描いた「死と乙女」はエゴン・シーレの最高傑作と言われ、ゴツゴツした岩の上で抱き合う二人はシーレと彼のモデルで恋人でもあったヴァリー・ノイツィルを描いたものですが、1911年にシーレはクリムトから彼のモデルであったヴァリーを譲り受け、その後4年間に亘ってシーレのモデルを務めますが、この間にバリーの代表作の殆どが創作されています。

上述のとおり、この絵は最愛の恋人との別離を描いたもので、死と別離がテーマになっています。この絵の男性はシーレで「死」を象徴し、女性はヴァリーで「女神」(シーレにとってヴァリーは出世作を数多く生み出す契機となった運命の女神)を象徴しています。シーレは跪いている男性モデルを正面から描写していますが、寝そべっている女性モデルは脚立の上から描写しています。この2つの異なる視点から描いた男性モデルと女性モデルを1つの絵として合体することによって、この絵を見る者に不安定な印象を与えています。これは2人の別れを暗示するために意図的にこのような描き方がされたものです。なお、この絵はシーレがヴァリーに別れを告げて、ヴァリーがシーレに泣きついているところを描いたものですが、男性の右手は女性を突き放そうとし、また、男性の背中に回している女性の両指はきつく結ばれず別れを拒絶していないように見えます。シーレは、他の資産家の娘(エディット)と結婚するためにヴァリーに別れを告げていますが、その際、毎年夏に一緒に休暇を過そう(即ち、愛人として関係を続けよう)とヴァリーに持ち掛けたところ、ヴァリーはこの提案をきっぱりと断って涙を見せずに立ち去ったそうです。これにシーレはショックを受けますが、この絵の男性モデルの見開かれた目はその時の驚きを表現したものです。このようにシーレは被写体の内面までもキャンバスに描き込んだ作家であり、この絵が見る者に強い印象(メッセージ性)を与える理由はそこにあるのかもしれません。


https://f.hatena.ne.jp/bravi/20090712074119
エゴン・シーレ作「縞模様の服を着たエディット・シーレ」(1915年)

※上掲の「死と乙女」と比べると、同じ作家が描いたとは思えないほど被写体によって画力に違いがあります。

なお、「死と乙女」という標題は、若い娘が清らかなままあの世に召されることを意味し、当時、絵画や文学の主題として数多く用いられてきましたが、その標題のとおり1917年にヴァリーは23歳の若さで従軍看護婦として戦地で病死します。(因みに、同年にクリムトも他界しています。)更に、その翌年、シーレの妻エディットがスペイン風邪で病死し、その3日後にシーレもスペイン風邪でこの世を去っており、この絵はシーレとヴァリーの運命も占っていた怖い絵とも言えそうです。「一枚の絵は百の言葉を語る」という諺がありますが、この絵はシーレとヴァリーの人生をも語る含蓄深い一枚と言えると思います。

https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

24. 中川隆[-13360] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:03:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1544] 報告
映像の世紀 第2集 大量殺戮の完成〜塹壕の兵士たちは凄まじい兵器の出現を見た〜


25. 中川隆[-13015] koaQ7Jey 2020年4月22日 15:20:03 : 13OAtnQgho : d2VxeFFzSXBVMTI=[24] 報告

NHKスペシャル 新・映像の世紀 第1集「百年の悲劇はここから始まった」


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