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ベトナム戦争の時代
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/723.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 4 月 02 日 22:57:17: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 東西冷戦の時代 投稿者 中川隆 日時 2020 年 4 月 02 日 01:00:13)

ベトナム戦争の時代


映像の世紀 第9集 ベトナムの衝撃〜アメリカ社会が揺らぎ始めた〜



 

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コメント
1. 中川隆[-13098] koaQ7Jey 2020年4月02日 23:05:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1809] 報告

ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。
つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html


▲△▽▼


60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3


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ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html

2. 中川隆[-13097] koaQ7Jey 2020年4月02日 23:20:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1810] 報告

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/

3. 中川隆[-13096] koaQ7Jey 2020年4月02日 23:22:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1811] 報告

重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。
http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする
http://maru101.blog55.fc2.com/blog-date-201408.html

▲△▽▼


ang********さん 2009/6/22 07:16:49
重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427486559


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
https://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280


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重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


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2001 年 4 月 26 日 重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
 細井 保(ジャーナリスト)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html

 重信房子とよど号犯の関係

 日本赤軍最高幹部の重信房子は、平成十二年十一月に大阪で逮捕された。これまでの新聞報道によると、重信は数年前から日本への入国を繰り返し、日本から北京などにたびたび渡航していた。北京を拠点のひとつにして、偽造旅券を使って世界各地に渡航していた。使われたパスポートの偽造には、よど号犯グループが関った可能性が高い。

 日本赤軍は昭和四十六年(一九七一年)、共産主義者同盟赤軍派(共産同赤軍派)のメンバーのうち、レバノンに出国した重信房子、奥平剛士等によって組織された。結成以降、日本赤軍はパレスチナ・ゲリラと共同し、または単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各地で展開してきた。彼らが起こした事件の中で最も忌しい事件は、昭和四十七年(一九七二年)五月、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港での銃乱射事件だ。奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人が自動小銃を乱射し、一般旅行者ら九十六人を殺傷(うち死亡二十四人)した。

 よど号グループは、同じ赤軍派の一つで、故・田宮高麿ら九人だ。彼らは昭和四十五年(一九七〇年)三月によど号をハイジャックして北朝鮮に渡った。彼らの“宿命”について、高沢皓司氏が著書『宿命−よど号亡命者たちの秘密工作』(新潮社刊)に描いている。北朝鮮で彼らの革命幻想は打ち砕かれ、彼らは北朝鮮の思想に思想改造され、北朝鮮の対外工作員に変じていく。よど号犯のうちには粛清された者、死亡した者もいるが、なお五名が現在、平壌市周辺で執筆業や貿易会社を営むなどしていると伝えられる。

 警察の発表によると、重信が使用していたパスポート二通のうち一通は、約三年前に取得されたものだ。これは、よど号犯グループの関係者が使用していた複数の偽造旅券と、旅券番号の一部が一致するなど、数多くの共通点がみられる。

 重信は偽造パスポートを使って、最近の約三年間に五回以上日本へ入国し、出国先はいずれも中国方面だった。そして、北京を拠点によど号犯グループのメンバーの関係者と接触を続けていたとみられる。関西の赤軍派支援グループのメンバーも北京などに渡航し、現地のホテルなどでひそかに会合を持っていたとみられる。

 平成八年(一九九六年)夏には、重信が当時滞在していた北京から、ひそかに北朝鮮に入国していた可能性がある。この夏、平壌で各国の革命を目指すグループの集会が開かれた。この集会に参加するため北京から北朝鮮に入ったとみられる。重信が集会前後に、よど号犯グループメンバーと接触していた可能性もある。この集会は、各国の革命家やグループなど数十人規模で、日本赤軍の新たな拠点づくりとも関連していたとみられる。参加者の中で重信は重要な役割を果たしていたとされ、この集会に参加する目的で北京を出国した可能性が高いとみられる。

 また平成十二年五月にも、重信が中国・北京に滞在していたことが、CIAによって確認されている。

 日本赤軍は近年、レバノンを活動の拠点とする一方、中東以外の地域に新たな拠点構築を目指し、世界各地で活動を展開していた。しかし、平成七年(一九九五年)、ルーマニアで浴田由紀子が逮捕され、平成八年、ペルーで吉村和江が逮捕、城崎勉がネパールで身柄拘束された。こうした中、平成九年(一九九七年)二月、レバノン国内に潜伏していた日本赤軍のメンバー五人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。本拠地ともいえるレバノンにおいて、政府当局によりメンバーが逮捕されたことは、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味している。メンバーの大量検挙と合わせて、組織として極めて大きな打撃を受けたものとみられる。そこで、重信らは日本へと目を向けてきたのではないか。

 警察の捜査によると、重信の家宅捜索では、新たな組織の構想を記した文書が押収されている。文書は「人民革命党綱領」と「綱領解説」と題されていた。

 人民革命党とは日本国内で革命を実現し権力を奪取するための組織で、平成三年(一九九一年)八月、シリア・ダマスカスで結党された。重信は相次ぐメンバーの逮捕で弱体化した組織を立て直すため、国内で人民革命党の旗揚げを目指し、党綱領をまとめ、来春から活動する計画だったとみられる。同党は運動方針などで対立している国内組織や支援者を一本化して、革命で政権を奪うことを目標にしている。
 東京地裁で先に開かれた拘置理由開示の手続きで、重信容疑者は「来春、いつ司法に身をゆだねてもよい準備を完了する予定だった」と述べた。その旗揚げの準備が完了する前に、最高幹部・重信房子を逮捕したことは、日本警察の功績だろう。

 これまでの報道を通じて、重信に関して二つの疑惑が浮かび上がってくる。よど号グループとの関係、さらに北朝鮮及び中国政府との関係である。この疑惑はオウム真理教と北朝鮮・よど号犯グループの関係に関する疑惑へとつながっていく。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html


金正日の極秘指令を受けたよど号犯

 重信ら日本赤軍はよど号犯グループと昭和五十年代から提携をもってきたとみられる。もとは同じ共産同赤軍派である。よど号犯には重大な事実がある。それは、彼らは北朝鮮の指令を受けて、日本国内及び国際的にさまざまな活動をしてきたという事実である。そして、そこに浮かび上がってくるのがオウム真理教との関係なのである。

 よど号犯グループと親しいジャーナリストが高沢皓司氏である。高沢氏は長年彼らを取材してきたことをもとに著書『宿命』を書いた。この本は平成十一年度の講談社ノンフィクション賞を受賞した。

 その後、高沢氏は平成十一年八月から十月にかけて、「週刊現代」に「『オウム真理教と北朝鮮』の闇を解いた」という記事を掲載した。十一回に及ぶ連載の中で高沢氏は、オウム真理教と北朝鮮の闇の中に、赤軍派、よど号犯グループの存在があることを明らかにしている。

 連載の中で、高沢氏は驚くべき事実を公表した。氏によると、昭和五十七年(一九八一年)五月六日、よど号犯は金正日から直筆の極秘指令を受けた。その指令書は実在している。指令書の内容は金日成主義によって日本革命を準備・達成せよ、というものだ。金正日は自衛隊工作や軍事クーデターの中核的人間の育成などを指示していた。よど号犯は指令に従って、対日工作を行ってきたのだという。

 よど号犯グループは金正日から指令書を受けるより前に日本赤軍と接触していた。早くも昭和五十年代(一九七〇年代後半)から、彼らは東欧等で複数回接触していた。これは今回の重信逮捕でわかってきたことである。

 よど号犯グループは日本赤軍のために、偽造旅券を手配していた可能性が高いtp見られている。昭和五十五−五十六年(一九八〇−一九八一)ごろ、日本赤軍の戸平和夫が使用した偽造旅券は、北朝鮮に拉致された疑いの強い男性のパスポートと旅券番号などが酷似していた。

 よど号犯グループは金正日のロボットとなって対日工作を行う一方で日本赤軍との連携を深めていったとみられる。当時、日本赤軍は中東での足場を次第に失い始め、新たな活動拠点を探して東南アジアなどで広域に活動するようになった。よど号犯グループとの連携は、これ以後の日本赤軍に大きな活動力を与えただろう。その背後には金正日の存在があると推測される。

 よど号犯の日本工作活動はメンバーの相次ぐ逮捕などのために、昭和六十年代(一九八〇年代後半)に挫折した。よど号犯による工作が挫折した後、北朝鮮は、ある集団を工作の対象として目をつけた。それがオウム真理教だった、と高沢氏はみている。
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なぞの多いオウム真理教事件

 オウム裁判は進んでいる。判決も続々と出ている。しかしオウム事件にはあまりにも謎が多い。ジャーナリストの一橋文哉氏は独自の取材によってオウム事件を追及している。平成七年に月刊誌「新潮45」(新潮社刊)に、一橋氏は追跡記事を数度に亘って掲載した。その原稿をもとに平成十二年七月、単行本『オウム帝国の正体』(新潮社刊)が発刊された。

 一橋氏が書いているように、一連のオウム事件は疑惑に包まれたまま真相がほとんど明らかにされていない。オウム真理教の存在が、国民に広く知られるようになったのは、平成元年(一九八九年)十一月四日の坂本弁護士一家拉致殺人事件だ。その翌年、平成二年二月、麻原彰晃は真理党を創設し、二十五人の候補を立てて国政選挙に打って出た。しかし、それは惨敗に終わり、教団は深刻な財政危機に陥ったとみられる。ところが、その年の五月には熊本県波野村に六ヘクタールの土地を購入。そして翌三年にはロシアを訪問、エリツィン大統領の側近のロボフに面会して、「ロシア日本大学」構想を打ち上げる。麻原は平成四年には信者三百人を引き連れてロシアを訪問、政権中枢に接触して本格的な布教活動を開始した。

 一体、どこからこれだけのことをする巨額の資金が出てきたのか。その背後には、オウム真理教に資金を提供した団体があるのではないかとみられている。統一教会と創価学会が、疑惑の対象として挙がっている。また「オウムは金のなる木」として、オウムに食い込んだ暴力団の存在が浮かび上がっている。

 その後、オウム真理教は平成六年六月二十七日には、松本サリン事件、七年二月二十八日には、東京・目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件を起こした。そして遂に、同年三月二十日、東京都心部で地下鉄サリン事件を起こす。死者十二名、被害者五千五百名以上という大事件だった。

 これは単発のテロではない。「井上メモ」が示しているのは、オウム真理教の計画には天皇陛下が国会にお出ましになっているときに、国会の周辺で、サリンを大量に散布するというものがあった。計画は未然に防ぐことができたが、もし実行されていたらどのような結果となっていたか、慄然たるものがある。

 オウムはサリンによる無差別大量テロに続いて、国家中枢テロを行って、クーデターを起こし、さらにはアメリカ、ロシアを巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こそうとしていたともみられている。

 オウム真理教はサリン事件の十日後、三月三十一日、国松孝次警察庁長官を狙撃する。そして四月二十四日、オウム真理教幹部の村井秀夫科学技術省大臣が、オウム本部前で刺殺された。一橋氏は一連の事件の中でも三つの事件は、特に疑問が多いとしている。つまり坂本弁護士一家拉致事件、国松長官狙撃事件、村井刺殺事件だ。一橋氏は徹底した取材によって、多くの疑問点を記している。

 そこから浮かび上がってくるのは、オウムに関っていた暴力団、疑惑のある宗教団体、そして大物政治家の存在である。この方面はある段階で「上から」捜査にストップがかかった。捜査当局はオウム事件を、オウム真理教単独による犯行として処理しようとしている。また、裁判において検察は、この方面については、ほとんど何も追及しようとしていない。重要点の多くに関係する早川は、裁判において、この領域に関しては固く口を閉ざしたままだ。

 早川はオウム真理教と北朝鮮・ロシアの関係についても明らかにしていない。毒ガス、偽ドル、麻薬、銃火器、潜水艦、軍用ヘリコプターなどオウム真理教の一連の事件は、日本史上、かつてない国際的な事件である。さらには核兵器製造に関する情報がやりとりされていた可能性もある。背後には北朝鮮や暴力団とのつながり、オウムをロシアに紹介した元代議士、その背後にいるとみられる大物政治家、ロシアにおける国際的な武器商人の暗躍等々、日本の内外を結ぶ組織的な関与が見え隠れする。これが単に噂の類ではないことは、CIAがオウム事件の調査を行い、アメリカの上院で大部の報告書が出されていることを知れば、わかるだろう。

 事件の真相は日本の警察、司法によって、ほとんど何も明らかにされていない。オウム事件は深い闇に閉ざされたまま次々に判決が出されている。徹底的に事実を追求していけば、類例を見ない大スキャンダルが暴露され、また国際的な大問題となる可能性があるのだろう。
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よど号犯、オウム工作に関与か

 オウム真理教の一連の事件の背後には、北朝鮮やロシアの影がある。高沢氏は金正日がよど号犯を使って行っていた日本破壊・攪乱工作が挫折した後、それを「ちがう筋で見事に実行したのが、オウムではなかったのか」とみている。

 高沢氏はよど号犯グループは、北朝鮮のオウム工作に関っていたことを強調する。それを明らかにするのが、北朝鮮のオウム工作員Aの存在であると、氏は書いている。同氏によると、オウムには北朝鮮の主体思想(金日成・金正日を絶対化した思想)を身につけた工作員Aが潜入していた。その頃からオウムは急激に変質・過激化した。Aは村井秀夫科学技術省大臣に重用されて武器製造に関与していた。平成七年(一九九五年)三月二十日、オウム真理教は東京で地下鉄サリン事件を起こしたが、サリンの製造責任者は村井だった。

 Aに連なる潜入工作員は複数いたことが明らかになっている。その一人、霜島隆二は医師としてオウム真理教付属医院に入り、林郁夫の下で働いていた。霜島は共産党系の病院に医師として勤務していた時にオウムに入信した。ある日突然、都内にある北朝鮮系の病院に移り、さらにオウム付属病院へ移った。霜島は以後、林の右腕となり、麻酔剤、電気ショック、LSDなどを用いて、信者に洗脳を行っていた。

 これらの方法は、高沢氏によると「北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつ」だ。北の毒ガス等の兵器開発と「まったく同じ軌道上にあるもの」という。しかも霜島は「教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの『イニシエーション』を行える立場にあった」とみた。それゆえ、北朝鮮のオウム工作は麻原自身に及んでいたと考えられる。

 工作員Aはオウム事件でオウムの幹部が逮捕された後にオウムを脱会し、スペインのマドリッドへ飛んだ。高沢氏はマドリッドでAを取材した。Aは一連のオウム事件当時のオウム信者である。Aは高沢氏に対し、今でも主体思想は「すばらしい思想」だと言い、主体思想の作成者の黄長Yから直接指導を受けたと明かす。マドリッドは北朝鮮の工作拠点のある街。その土地は、柴田泰弘らよど号犯とその妻たちが、北朝鮮による日本人留学生を北朝鮮に拉致する等の活動拠点としていた場所だ。中でも柴田はマドリッドにしばしば滞在して活動していた。高沢氏によると、Aは柴田と同じホテルに宿泊していたことが明らかになっている。

 柴田泰弘は昭和六十三年(一九八八年)五月に、北朝鮮帰国者の偽造旅券で日本に潜入帰国をしていた時に逮捕された。しかし、平成六年(一九九四)七月に刑を終え出所している。柴田の逮捕は、対日工作を進める北朝鮮にとって打撃だったのだろう。高沢氏の著書『宿命』によると「事態を重く見たピョンヤンからは日本潜伏中の工作員に緊急の帰国指示命令が平壌放送を通じて流された」「柴田泰弘の国内での逮捕と、その後につづく一連の事態はよど号グループにとってすべての日本潜入工作が挫折したことを意味していた。…妻たちへの緊急の帰国指令は、からくも彼女たちの国内での逮捕だけはまぬがれさせたのである」という。

 柴田は出所後も、よど号グループのスポークスマン、「自主日本の会」などの活動を活発に続けている。北朝鮮及びオウム真理教との関りも持続していたとみられる。

 北朝鮮による日本人拉致事件は、なにも解決していない。日本国政府は北朝鮮に対して非常に弱腰であり、「拉致」を「拉致」として主張すらしていない。今後、この事件を解明するには、よど号犯グループによる日本人拉致の実態を明らかにされなければならないだろう。それは、金正日と北朝鮮政府の国家的な国際犯罪を暴露することになろう。

 オウム真理教へのよど号犯の関与は、偽ドルについても考えられている。偽ドルは北朝鮮が偽造して、世界に広く使用しているものだ。

 よど号犯の一人、田中義三は平成八年(一九九六年)、タイのパタヤで偽ドル札を使用したとして起訴された。この事件については、平成十一年(一九九九年)六月に無罪になり、拘留先のタイ・バンコクから昨年六月二十八日、日本へ移送された。田中が使った北朝鮮の偽ドルは「スーパーK」だった。彼が北朝鮮から出国したとき、北京を通過した可能性が高いとみられている。

 オウムの元幹部の証言によると、早川建設省大臣はドイツから精巧な印刷機を手配し、北朝鮮の偽ドル印刷に関係していたという。その一方、オウムには、外部から多額の資金提供を受けていた疑惑がある。それは、赤軍派・よど号犯の田中義三が使用して逮捕された偽ドル、スーパーKだった疑いが濃いと、高沢氏は言う。もしそうだとすれば、赤軍派・よど号犯とオウム真理教は、北朝鮮の偽ドルへの協力という点でもつながってくる。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/99.html


オウムの北朝鮮コネクション

 オウム真理教と北朝鮮の関係についてに疑惑は、多数の死傷者を出したサリンやその他の武器にも関っている。この点において、よど号犯の関与はわかっていない。

 工作員Aがサリン製造責任者の村井に重用されていたことを再確認しておこう。
 高沢氏は言う、「オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに北朝鮮の工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである」と。

 金日成の著作集には、毒ガスや細菌兵器についての大量の論文。教示がある。朝鮮戦争後、北朝鮮では毒ガスや細菌兵器の研究が行われている。そして麻原らにサリンなどの知識を吹き込み、オウムを北朝鮮型の組織体系に誘導した工作組織が存在すると想定されるのだ。

 オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

 早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

 一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

 村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

 その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。
 早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

 というのも、オウムは日本の原子力発電所に関する膨大な機密書類を手に入れていたのだ。村井らが約二百人もの作業員を潜入させて収集したものだ。専門家も初めて見るようね詳細な資料だ。こうした原発の機密資料が、早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性がある。そして、早川が北朝鮮の窓口としていたのは、北朝鮮の核兵器関連物資やIC機器の調達を行う部署、「第二経済委員会」だった可能性が、最も高いと、高沢氏は書いている。

 早川は、国際的な「死の商人」風のところがある。これに対し、村井は物理学の専門家であり、原発のデータを理解することができた。村井は早川とともに北朝鮮に渡航し、関係を持っていた。村井は究極の教団武装化として核開発を考えていた。北朝鮮も核開発のために、日本の技術とデータを必要としてオウムを利用していた。両者の利益は一致していたとも考えられる。

 オウムの一連の事件への「北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた」と高沢氏は言う。しかし、その真相は謎のままだ。北朝鮮は既に核兵器の開発を進め、既に数発の核兵器を持っているのではないかという観測がある。こうした国が連合赤軍など国際的なテロ組織とつながりを持ち、いや国際的なテロ組織を領導しようとしていたとすれば、どうだろうか。そうしたテロリストが、核兵器を掌中にしたならば、世界は震撼するだろう。勿論、掌中にあるのはサリンや生物化学兵器であるかも知れない。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/100.html


赤軍派とオウムを結ぶ線

 オウム真理教が一連の事件を起こしたのか。それとも、外国の工作や国内の諸団体の関与によって操られていたのか。

 高沢氏は北朝鮮の存在を重く見る。氏はオウムは北朝鮮に「徹底して領導され、誘導され、利用され尽くしたともいえるのでは」と高沢氏はみる。「サリンをはじめとした一連のオウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば予行演習でもあり得たのである」と。首都中枢の霞ヶ関を狙ったサリン事件については、北朝鮮が「日本の危機管理のずさんさと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るためにこそ、攪乱工作の第一歩は必要だった」と述べている。

 もしそうだとすると、赤軍派・よど号犯グループは、こうした北朝鮮のオウム工作にどの程度関っていたのか。そして、重信ら日本赤軍はそれを関知していたのか。

 よど号犯グループは、中国北京を重要な拠点として活動してきた。平成八年の夏、重信房子は北京からひそかに北朝鮮に入国し、平壌で開かれた各国の革命を目指すグループの集会に参加したらしい。当然、重信はよど号犯グループメンバーと接触していただろう。

 日本赤軍の重信は、よど号犯グループが北朝鮮の国際工作員となっていることを知りながら、彼らとともに活動してきた可能性がある。それは同時に日本赤軍が、北朝鮮の対日工作や世界戦略に協力する、あるいは金正日の指令に従って動いてきたということを示唆する。

 実態はまだ明らかでないが、北朝鮮という国に重信や国際的なテロリストが集まるということは、当然、北朝鮮政府・指導部は、これを承知していたとみるべきだろう。北朝鮮政府は一体、何のためにこのような国際テロリスト集会を自国で開催したのか。そして、日本赤軍に対して何を提供し、また何を求めたのか。

 重信は北京を拠点として、日本や北朝鮮などでの活動をしてきたとみられる。果たして中国政府は日本赤軍やよど号犯グループと関りはないのか。

 今後、国際的な赤軍派の活動を解明してゆけば、オウム事件とそれに関る外国勢力の存在に、ぶつかるにちがいない。そこにメスを入れるとき始めて真相が見えてくるのではないのか。これは外交問題となることは必至である。

 いずれにせよ、やがて日本の政・官界の恥部や、暴力団などの絡む闇の権力が光に曝されるだろう。日本の背骨まで蝕むガンの病巣は、皮膚の下で破裂寸前にまで膨れ上がっているからだ。

(了)

(細井 保 (ジャーナリスト) 「重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係」『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/101.html

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重信房子

重信 房子(しげのぶ ふさこ、1945年9月28日 - )は、日本の新左翼活動家、革命家。元赤軍派中央委員、日本赤軍の元最高幹部である。

ハーグ事件の共謀共同正犯として有罪となり、懲役20年の判決を受けた。
現在、東日本成人矯正医療センターにて服役中。


生い立ち

東京都世田谷区で4人兄弟の次女として生まれた。父の重信末夫は四元義隆と同郷の鹿児島県出身で、第二次世界大戦前の血盟団事件に関与した右翼団体金鶏学院の門下生であった(血盟団メンバーと報じられることがあるが、メンバーではなく事件にも一切関与していない)。房子はこの父の影響を強く受けた。少女時代は「小さな親切運動」に熱心に取り組み、表彰を受けた[1]。また、文学少女でもあった[1]。東京都立第一商業高等学校卒業後、キッコーマンで働きながら小学校教員を目指し[2]、明治大学文学部史学地理学科の夜学に通う。大学では文学研究会で『一揆』というミニコミ誌を出していた[1]。


学生運動

大学入学後、夜学連に参加し[3]、2年次に文学研究会が属していた研究部連合会の事務長を務めていた[3]重信は学費値上げに絡んで明大闘争に参加した。この際、後に連合赤軍山岳ベース事件でリンチ殺人の犠牲となった遠山美枝子(二部法学部、麒麟麦酒勤務)と知り合う。明大闘争において全学連における立場を失墜させた共産主義者同盟(第二次ブント)の再建に協力してほしいとオルグされ、加入[4]。系列の明大現代思想研究会、二部の社会主義学生同盟の責任者として活動。神田カルチェ・ラタン闘争にも関わった[5]。その後分裂した共産主義者同盟赤軍派に創立メンバーとして加わる。塩見孝也ら幹部が逮捕され弱体化する中で主導権を握った森恒夫と対立した。


日本赤軍

重信は1971年に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。奥平剛士と偽装結婚(奥平剛士は1972年5月、民間人ら23人を殺害、計100人以上を無差別殺傷したテルアビブ空港乱射事件のテロ行為で死亡)をし、「奥平房子」という戸籍を得て2月28日に出国した。なお重信は、後にパレスチナ人男性と結婚した。

その後、奥平剛士らとパレスチナで日本赤軍を結成し、創設当初は「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等と称し、その名称さえきちんと定まっていなかったが、1974年以降、「日本赤軍」を正式名称とした。

重信が「最高指導者」となった日本赤軍は、レバノンのベカー高原を主な根拠地に「革命運動」を自称し1970年代から1980年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携し、一連のハイジャックや空港内での乱射事件などの無差別殺人を起こした。さらに外国公館の政府要人やハイジャックした飛行機の乗客を人質に取って、身代金や仲間の奪還を目論む事件を起こしたり、外国公館に攻撃をするなど、多数の民間人をも巻き込んだテロ事件を繰り返し世界各国から非難を受けた。


逮捕

その後重信は「ハーグ事件」への関与で国際手配を受けたものの逃亡を続け、不法に入手した偽造旅券を使って日本に不法入国し、その後しばらく大阪市西成区のマンションに潜伏していた。

2000年、日本赤軍の支援者を視察していた大阪府警警備部公安第三課は視察対象者が重信に似た女性と接触していたのを現認し視察・捜査を開始。重信はホクロが特徴となっていたが化粧でホクロを隠していたものの、特有のタバコの吸い方や、重信に似た女が某所で飲んだ際に使用されたコーヒーカップから指紋を採取、照合したところ重信の指紋と一致したことから公安第三課は女が重信であることを突き止めると、ハーグ事件から26年後の11月8日に潜伏していた大阪府高槻市において旅券法違反容疑で逮捕された。なお、大阪から警視庁への移送には東海道新幹線が用いられ、逃亡を防止する為グリーン車の個室に閉じ込めての移送となった。

重信が逮捕の際に押収された資料、それを報じた新聞などによれば、重信は1997年12月から2000年9月に、自ら他人になりすまして日本国旅券を取得し、関西国際空港から計16回にわたって中華人民共和国などに出入国を繰り返し、また1991年から日本での「武力革命」を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立。またそれを足がかりとして、日本社会党との連携を計画していたとされる。

なお「希望の21世紀」は同事件に関連し、警視庁と大阪府警の家宅捜索を受けたが、日本赤軍との関係を否定している。また社会民主党区議の自宅なども「希望の21世紀」の関連先として同時に捜索を受けたが、社会民主党は「何も知らなかったが事実関係を調査する」とした。また、重信が残した多数の証拠品により支援組織が解明され、会社社長・教諭・医師・病院職員が次々に重信を匿った犯人隠避の疑いで検挙された。


解散

2001年には獄中から、組織として事実上崩壊していた日本赤軍の解散を発表している。2009年6月に、初めて産経新聞のインタビューに応じ、過去の活動について「世界を変えるといい気になっていた」と語った。一方で「運動が行き詰まったとき、武装闘争に走った。世界で学生運動が盛り上がっていたが、故郷に戻り、運動を続けたところもあった。私たちも故郷に戻って運動を続けていれば、変わった結果になったかもしれない」と自責の念にも駆られていたとも述べた[6]。


ハーグ事件裁判

起訴

重信は1974年9月13日に日本赤軍がフランス当局に逮捕されたメンバー(山田義昭)を奪還するために、オランダのハーグで起こしたフランス大使館占拠事件、いわゆる「ハーグ事件」への関与をめぐり、逮捕監禁罪・殺人未遂罪などでの共謀共同正犯で起訴された。

検察側は日本赤軍が実行翌日に犯行声明を出したり、その他の日本赤軍の刊行物からパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整を依頼していたこと、事件後の会議で重信が準備不足などを反省する発言をしたとする元メンバーらの供述などの証拠から、ハーグ事件について首謀者として犯行を主導したと主張し無期懲役を求刑した。これに対して弁護側は「ハーグ事件当時、日本赤軍が組織体制を確立しておらず、PFLPの作戦であったから重信が指示・指導する立場ではなかったうえ、謀議があったとされる時期にはリビアにいてアリバイがある」と無罪を主張した。

東京地方裁判所は2006年2月23日に「重信被告は武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整をPFLPに依頼するという重要な役割を担っていた」と認定し、さらにアリバイについては「共謀の詳しい内容や時期、場所は明らかではないが、被告がアラブ諸国の協力組織を介するなどして実行犯と共謀しており、アリバイとして成立しない」と認定した。量刑は「自らの主義や主張を絶対視し、多数の生命、身体への危険を意に介さない身勝手な犯行であり、真摯な反省がみられない」としたが、一方で「犯行の重要事項については実行犯の和光晴生が決定しており、被告は中核的立場を担ったものの犯行を主導したと断言できない」とし、検察が求刑していた無期懲役を退けて懲役20年の判決を言い渡した[7]。


懲役

これに対して重信の娘の重信メイと主任の大谷恭子弁護人は同日控訴した。控訴審では弁護側と検察側双方が、1970年代から1980年代にかけ重信と同様に世界各国でテロ事件を起こし多数の民間人を虐殺し、フランスで終身刑を受けているテロリストの「カルロス」受刑者から、「ハーグ事件」の指揮系統や武器提供の経緯についての証言を得て、裁判所に提出された。

2007年12月20日に東京高等裁判所は一審判決を支持し、控訴を棄却した[8]。重信は上告したが2010年7月15日に棄却が決定し刑が確定した[9]。重信は上告棄却決定に対する異議申し立てを行ったが、2010年8月4日に最高裁判所第2小法廷(竹内行夫裁判長)は棄却する決定をし、懲役20年とした一・二審判決が確定し重信はその後服役した。ただし、未決勾留期間の810日の3年を刑期に算入するため実質17年となり重信の出所予定は2027年となった。


その他

八尾恵(よど号グループの柴田泰弘の元妻)の『謝罪します』には、「1970年代後半に北朝鮮に在住し始めた時の夫の柴田のアルバムに、日本赤軍の重信房子がチマチョゴリを着て2歳くらいの娘と一緒の写真があった」と書かれており、重信とよど号グループとの関係が指摘されている。

和光晴生は1974年に北朝鮮当局に資金援助を求める手紙を見せられたこと、そして翌1975年に重信が北朝鮮に渡航したことと、その後、同国の「主体思想」に基づく「思想闘争」という活動形態が組織内部に持ち込まれたことを述懐している[10]。

但し、重信自身は和光の述懐の内容について「穿ち過ぎ」であるとし[11]、「思想闘争」や「自己批判」を行う「援助会」に関してはイスラエルやヨルダン政府などとの闘いの中で生まれたものだ、として否定している[12]。また、足立正生は1974年に日本赤軍に合流した際に年長者として思想や組織、革命に関しての議論を活発にさせたと述懐しており[13]、全てが北朝鮮やよど号グループの影響なのかは判然としない面がある。

公安関係者には「重信ファン」が少なからずいたという[14]。

2018年現在、東日本成人矯正医療センターにて抗がん剤の治療を行っている。

著書

『わが愛わが革命』講談社、1974年 [15] パレスチナ解放闘争史: p.260 - 263

『十年目の眼差から』話の特集、1983年
『大地に耳をつければ日本の音がする 日本共産主義運動の教訓』ウニタ書舗、1984年
『ベイルート1982年夏』話の特集、1984年
『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎、 2001年
『ジャスミンを銃口に 重信房子歌集』幻冬舎、2005年
『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社、2009年
『革命の季節 パレスチナの戦場から』幻冬舎、2012年


共編著

『資料・中東レポート』1-2(日本赤軍との共編著)ウニタ書舗、1985-86年[16][17]
『重信房子の半生記』サンデー毎日連載、構成:竹中労、1985-1986年
『赤軍 1969→2001総特集』足立正生夫妻、山本万里子、中山千夏、平岡正明、松田政男、平井玄他、河出書房新社、2001年
『日本赤軍!世界を疾走した群像』和光晴生、足立正生、若松孝二、塩見孝也、小嵐九八郎、聞き手 図書新聞 2010年
『丸岡修自述―元・日本赤軍軍事指揮官告白録』 風塵社、2013年
『天皇制と共和制の狭間で』 小沢信男、日野百草、山本健治、藤田真利子、天野恵一、松田ひろむ、高橋武智、鹿島正裕他、第三書館、2018年[18]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E4%BF%A1%E6%88%BF%E5%AD%90

4. 中川隆[-13095] koaQ7Jey 2020年4月02日 23:38:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1812] 報告

ジョン・F・ケネディ第35代大統領は東西冷戦体制を終わらせようとしたのでに殺された

2017.01.27
シークレット・サービスのベテランがヒラリー支持を表明、トランプ警護を全うしないことを示唆

アメリカの場合、大統領を含む要人の警護はシークレット・サービスの役割になっている。1865年に偽造通貨の取り締まりなどを目的として財務省の機関として創設され、大統領の警護が任務として定められたのは1951年のこと。現在は国土安全保障省(DHS)の指揮下にある。

 その機関に23年近く所属しているというエージェントのケリー・オグラディが公務員の政治活動を規制するハッチ法を愚弄して大統領選挙の期間中にヒラリー・クリントン支持を表明、ドナルド・トランプが大統領になった場合、警護の責任を全うしないことを示唆していたとして問題になっている。


 ジョン・F・ケネディ第35代大統領が1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された際、シークレット・サービスが大統領警護の任務を放棄していた疑いが持たれている。シークレット・サービスで最初のアフリカ系エージェントで、1961年にケネディの指名で大統領警護の任務に就いたアブラハム・ボールデンによると、機関の内部でもケネディ大統領を嫌う人物は多く、大統領が銃撃されたら道を空けるという「ジョーク」が雑談の中で口にされていたという。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)実際、暗殺当日の映像を見るとシークレット・サービスの動きに疑問点がある。

 大統領が暗殺された翌年、ボールデンは内部文書を関係者に売ろうとしたとして逮捕され、6年間を刑務所で暮らすことになった。ボールデン自身はこの疑惑を否定、でっち上げだとしている。ケネディ警護を担当していた一部エージェントによる過度の飲酒などの不品行をウォーレン委員会で証言しようとしていたという。

 オグラディはトランプがアメリカやそこに住む女性や少数派にとって大きな災難をもたらすと主張しているが、人類を死滅させかねない核戦争については触れられていない。第2期目のビル・クリントン政権、ジョージ・W・ブッシュ政権、バラク・オバマ政権は露骨な軍事侵略を継続、ユーゴスラビア、アフガニスタン、イラク、リビア、シリア、ウクライナなどを戦乱に巻き込み、破壊と殺戮の限りを尽くしてきた。その口実が人権、民主化、自由などだが、勿論、それは看板だけの話で中身は逆だ。別に「民主主義の押し売り」をしようとしているわけでもない。

 政府機関の動きに疑惑が持たれているのはケネディ大統領の暗殺だけではない。公民権運動の指導者として知られているマーチン・ルーサー・キング牧師やケネディ大統領の弟であるロバート・ケネディにも言える。

 ベトナム戦争に関する国防総省の秘密文書、いわゆるペンタゴン・ペーパーズを明らかにしたことで知られているダニエル・エルズバーグは宣誓供述書の中で、キング牧師を暗殺したのは非番、あるいは引退したFBIの捜査官で編成されたJ・エドガー・フーバー長官直属のグループだとする話を聞いたと語っている。この話は下院暗殺特別委員会のウォルター・ファウントロイ議員から話を聞いたブラディ・タイソンが話していたという。タイソンは国連大使だったアンドリュー・ヤングの側近だった人物だ。ただ、ファウントロイ議員は後にこの話を否定している。(William F. Pepper, “The Plot to Kill King,” Skyhorse, 2016)

 なお、エルズバーグはウィリアム・コルビーCIA長官の指示でペンタゴン・ペーパーズを公表したと言われ、この公表自体に裏の事情があるのだが、今回はそこへ足は踏み入れない。

 キング牧師は1968年4月4日にテネシー州メンフィスで暗殺された。この時、軍の部隊も動いていたと言われている。1956年にバス内で引き起こされた人種差別に抗議して始めたバス・ボイコット運動から公民権運動を率いることになったキング牧師はその後、労働/貧困問題、そして反戦運動に取り組んでいく。

 そのキングが1968年に殺された理由として指摘されている演説がある。1967年4月4日にニューヨークのリバーサイド教会で行ったもので、ベトナム戦争に反対する声を上げようと訴えるものだった。

 ちなみに、ケネディ大統領は暗殺される5カ月前の1963年6月10日、アメリカン大学の学位授与式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行っている。アメリカの軍部や情報機関の好戦派を押さえ込み、ソ連との核戦争を回避することに成功したケネディはパクス・アメリカーナ(超大国アメリカによる世界支配)を否定し、ソ連との平和共存を訴えたのである。

 1968年3月にはロバート・ケネディ上院議員が大統領選に出馬すると表明、当選する可能性は高いと見られていた。キング牧師の弁護士だったウィリアム・ペッパーによると、ケネディ議員はキング牧師側に対し、彼が民主党の大統領候補になった場合に牧師を副大統領にしたいと打診してきたという。(John L. Potash, “Drugs as Weapons Against Us,” Trine Day, 2015)そのロバート議員は1968年6月5日に暗殺された。大統領に就任したなら兄の暗殺を再調査する意向を示していたとも言われている。

 女性や少数派の差別に取り組むことは許されるが、労働問題に取り組んだり戦争に反対すると命が危うくなるように見える。それが支配のルールなのだろうか。そうした意味で、ロシアとの関係改善を公言しているトランプは危険な立場にいると言える。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201701270000/


 アメリカでは支配層が望む選挙結果以外は受け入れられない。例えば、1932年の大統領選挙でニューディール派でウォール街と対立関係にあったフランクリン・ルーズベルトが当選すると、ウォール街はクーデターを計画している。これは失敗に終わったが、その頃はまだ支配層の力が足りなかったということだ。

 ジョン・F・ケネディもそうして一例だろう。選挙戦ではタカ派的な言動をしていたケネディだが、大統領に就任してから巨大企業の行動を規制、通貨発行権を政府の手に取り戻そうと計画、キューバに対する軍事侵攻に反対、ソ連との平和共存を訴えていた。イスラエルのパレスチナ弾圧にも批判的だった。支配層にとって好ましくないこの大統領は暗殺によって排除されている。

 被支配者である庶民が自分たちの計画に同意させる仕組みも重要。有力メディアやハリウッド映画を使ったプロパガンダ、教育という名の洗脳で庶民の意思をコントロールしようとしている。「安全保障」を口実にした情報の統制も人びとを操るために行っている。支配層による情報統制は1970年代から世界的な問題になっていたが、日本人は鈍感で、そうした話を「リベラル派」や「活動家」なども興味を持とうとしなかった。

 第2次世界大戦の前からアメリカの支配層は有力メディアをプロパガンダ機関と見なしていた。ルーズベルトを大統領の座から引きずり下ろし、ファシズム政権を樹立しようというクーデターを計画した際、新聞で偽情報を流すことも計画に含まれていた。

 大戦後、ウォール街は組織的な情報統制に乗り出す。そこで始められたプロジェクトがモッキンバードで、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、そしてワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハムが中核グループを形成している。ダレスは破壊工作のドン的な存在で、ウィズナーやヘルムズはその側近。グラハムも大戦中、情報活動に従事していた。(Deborah Davis, “Katharine The Great”, Sheridan Square Press, 1979)

 ヘルムズがCIA長官だった時期にウォーターゲート事件が起こり、ワシントン・ポスト紙が「大統領の犯罪」を追及、デタント(緊張緩和)を打ち出していたリチャード・ニクソンを排除することに成功した。その時の社主はフィリップと結婚していたキャサリン・グラハム。世界銀行の初代総裁だったユージン・メイアーの娘だ。

 同紙でこのスキャンダルを追いかけたのは若手記者のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインだが、バーンスタインは1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、その直後に「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。400名以上のジャーナリストがCIAのために働き、1950年から66年にかけて、ニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供しているとCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)

 しかし、アメリカで報道統制が強化されるのはその後。ベトナム戦争でアメリカが敗北したのは国内で反戦運動のためだと好戦派は考え、運動を激しくした責任は戦場の実態を伝えるメディアにあると評価した。自立したジャーナリストは邪魔な存在だと支配層は考え、統制を強化していく。

 先日、心臓発作で急死したウド・ウルフコテはドイツの有力紙、フランクフルター・アルゲマイネ紙(FAZ)の元編集者だが、彼によると、ジャーナリストとして過ごした25年の間に嘘を教わったことは、嘘をつき、裏切り、人びとに真実を知らせないこと。多くの国のジャーナリストがCIAに買収されているとしている。その結果、ヨーロッパの人びとはロシアとの戦争へと導かれ、引き返すことのできない地点にさしかかっていると考え、2014年2月にこの問題に関する本を出したという。

 西側、特にアメリカの有力メディアを有り難がる「リベラル派」や「革新勢力」がいたとするなら、一種の「トロイの木馬」だと思った方が良いだろう。ラベルで騙すのはアメリカ支配層の得意技だ。

 TPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)も巨大資本が国を支配する仕組みで、被支配階級、つまり大多数の人間から基本的な権利は奪われてしまう。フランクリン・ルーズベルトの定義によると、この仕組みはファシズムにほかならない。


1953年のイラン、54年のグアテマラ、60年のコンゴ、73年のチリは悪名高い。2003年にジョージア(グルジア)で実行されたバラ革命、2004年から05年にかけてウクライナで行われたオレンジ革命もそうだと言える。最近では2013年から14年にかけてネオ・ナチを使って成功させたウクライナのクーデター、アル・カイダ系武装集団やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)を使ったリビアやシリアに対する軍事侵略も選挙結果の否定にほかならない。民主主義の破壊とも言える。アメリカの支配層は反民主主義なのだ。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201701270000/

アレン・ダレスやライマン・レムニッツァーと同じようにソ連を先制核攻撃しようと目論んでいたひとりがカーティス・ルメイ。この好戦派グループとケネディ大統領は対立、キューバ侵攻作戦ではアメリカ軍が軍事侵攻することを認めず、ミサイル危機を話し合いで解決する。つまり、ソ連を攻撃するチャンスを潰してしまった。

アメリカ軍がキューバ軍を装って「テロ」を繰り返し、キューバに軍事侵攻するというストーリーのノースウッズ作戦も拒否した大統領はダレスをはじめとするCIA幹部を解任、レムニッツァーの議長再任を認めない。レムニッツァーはNATOを指揮するようになるが、NATOには秘密部隊が存在、イタリアやフランスで要人暗殺や擬装テロを繰り返すことになる。

テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーやルメイを含む好戦派は1963年の終わりにソ連を奇襲攻撃する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。そのために偽旗作戦のノースウッズも作成されたのだが、1963年6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。そして11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。その翌年、日本政府はルメイに対し、勲一等旭日大綬章を授与している。

アメリカの支配層にとって核兵器は一貫して攻撃のためのもの。これが「抑止力」や「核の傘」の実態だ。守りという点から考えると沖縄に基地を集中させるのは得策でないが、使い捨ての出撃基地だと考えれば納得できる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708070000/


2017.09.27
イスラエルにコントロールされているイラクのクルドが「独立」すれば「第2のイスラエル」になる

イラクのクルド組織が「独立」を問う住民投票を実施、圧倒的な多数が賛成したようだ。アメリカに侵略されて破壊されたイラクの現状、投票の仕組みを考えれば当然の結果だろう。

圧倒的な多数が独立に賛成したという点はクリミアに似ているが、両者は決定的に違う。クリミアはキエフでネオ・ナチが成功させたクーデターに反対しての行動だったが、クルドの場合はアメリカやイスラエルの中東支配のために行動しているからだ。前者は侵略に反対してのことであり、後者は侵略の一環だ。クルドの独立国家ができたなら「第2のイスラエル」になる。

前にも書いたが、イラクのクルドは遅くとも1960年代からイスラエルの支配下にある。当時の指導者、ムラー・バルザニはイスラエルの情報機関、モサドのオフィサーになったとも言われている人物だが、その息子、マスード・バルザニは現在の指導者。イスラエルはクルドを支援する目的でクルドが盗掘した石油を買っている。

西側の政府や有力メディアはイスラエルの利益になる組織や人物は実態に関係なく、好意的に扱う。そのため、クルドも英雄的なおとぎ話の主人公として語られてきた。

21世紀だけでもイラクやシリアをはじめとする中東、リビアがある北アフリカ、ロシアに接したウクライナなどを侵略、破壊と殺戮を繰り広げてきたアメリカはイスラエルの強い影響下にある。議員の圧倒的多数はイスラエルの忠実な僕だ。

アメリカがイスラエルに逆らわなくなるのは1967年からだと言えるだろう。1963年11月22日に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領は生前、イスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んでいる。同国のダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディ大統領は送りつけているのだ。核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告していた。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)

それだけでなく、ケネディ大統領は「イスラエル建国」のために故郷を追われて難民化したパレスチナ人の苦境に同情、住んでいた家へ戻り、隣人と平和的に暮らす意思のある難民の帰還を認めた国連決議194号の履行を支持していた。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)

ケネディ暗殺を受け、副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンは上院議員の時代から親イスラエルで知られ、そのスポンサーはイスラエルの建国や核兵器開発のスポンサーだった富豪のエイブ・フェインバーグ。ハリー・トルーマンのスポンサーでもあった。フェインバーグと並ぶイスラエルの後ろ盾と言える人物はフランスを拠点にしていたエドモンド・アドフル・ド・ロスチャイルド。そのシオニズム信仰は祖父譲りのようだ。

親イスラエルのジョンソンが大統領だった1967年6月8日、アメリカ海軍の情報収集戦、リバティがイスラエル軍に攻撃されている。乗組員のうち34名が死亡、171名が負傷しているが、イスラエル軍の執拗な攻撃は船を沈没させ、乗組員を皆殺しにすることが目的だった可能性がきわめて高い。

アメリカとイスラエルはこれを「誤爆」で処理したが、アメリカの艦船だと報告、命令に背いて攻撃しなかったイスラエル軍のパイロットは処罰されている。状況から考えてもアメリカの情報収集戦だということをわかった上での攻撃だった。

この攻撃で沈没を免れたリバティは壊された通信機器を修理、第6艦隊へ救援を要請、すぐに空母サラトガから複数の戦闘機が向かおうとしたのだが、艦隊司令官やホワイトハウスは引き返すように命令している。救援に向かうのはその約1時間後だった。

この時の遣り取りは近くにいたアメリカ海軍の潜水艦や上空を飛んでいた電子偵察機が記録していたが、命令でデータは破棄され、リバティの乗組員には沈黙が命じられた。そうした隠蔽工作の責任者だった人物はジョン・マケイン・ジュニア(ジョン・マケイン上院議員の父親)だ。

実は、攻撃の2カ月前、ジョンソン政権で秘密工作を統括していた303委員会がフロントレット 615という計画を始めている。イスラエル政府の一部と手を組み、アメリカ軍がエジプトとの戦争に介入する口実を作ることが目的だった。その一部、サイアナイド(シアン化合物)作戦でリバティを沈没させようとしたと言われている。

しかし、リバティを沈没させられず、生存者がいたことから作戦は破綻してしまった。もし、計画通り沈没させていたなら、ソ連とアメリカとの核戦争が始まっていただろう。イスラエルはアメリカ支配層の弱みを握ったとも言える。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709270000/


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2017.10.21
選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている

投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。

より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。

比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。

1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。

そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。

日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/


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2017.10.22
JFK暗殺に関する資料を公開する意思をトランプ大統領は示したが、重要証拠は処分済みの可能性
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710210000/

1963年11月22日のジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する未公表の資料を10月26日までに公開する方針をドナルド・トランプ大統領は示した。1992年10月26日に発効したJFK記録法は25年のうちに公開することを求めている。

暗殺直後に設置されたウォーレン委員会はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だとしているが、この結論を信じていない人は少なくない。重要な証拠や証言が改竄、隠蔽、あるいは処分され、非論理的な説明がなされているからだ。そうした批判の声はすぐに広まり、それを押さえ込むために使われ始めた「呪文」が「謀略論」だ。支配層にとって都合の悪い事実、指摘、分析などが出てくるとこの呪文が連発される。

しかし、ケネディ大統領の公式見解に対して疑問を表明する人は後を絶たず、1991年に公開されたオリバー・ストーン監督の映画『JFK』は話題になった。この映画がJFK記録法を成立させた大きな理由だ。

この映画の主人公はニューオリンズの地方検事だったジム・ギャリソンがモデル。大統領暗殺に絡み、ギャリソンは1969年に実業家のクレイ・ショーを逮捕、起訴するが、その理由はショーが重役を務めていたパーミンデックスという会社にメスを入れたかったからだと見られている。

ウォーレン委員会が犯人だとしているオズワルドは厚木基地での任務を終えた後、カリフォルニア州のエル・トロ基地でロシア語の試験を受けて不合格になり、1959年9月に名誉除隊、イギリスを経由してフィンランドのヘルシンキにあるホテルへチェックインしているが、この間、軍用機を使ったと推測する人もいる。民間航空を利用すると、日程的に無理があるからだ。そしてフィンランドからソ連へ入る。オズワルドがヨーロッパへ渡る際のチケットを買った会社がインターナショナル・トレード・マートで、その理事にショーが含まれている。ショーはサントロ・モンディアール・コメルシアールやパーミンデックスの理事でもあった。

サントロはイタリアにおける反コミュニスト工作に協力、パーミンデックスはアルジェリアの独立に反対するフランスの軍人グループへ資金を供給していたとイタリアでは報道されている。

その軍人グループとは1961年に創設された反ド・ゴール派の秘密組織OAS(秘密軍事機構)。イタリア政府もサントロとパーミンデックスを危険な存在だと認識、1962年に国外へ追放する。両者は本部をヨハネスブルクへ移動させた。(Jim Garrison, “On The Trail Of The Assassins”, Sheridan Square Press, 1988)

パーミンデックスがスイスで設立された当時の社長兼会長、ルイス・モーティマー・ブルームフィールドはイギリスの破壊工作機関SOE(特殊作戦執行部)の出身。第2次世界大戦後、SOEは対外情報機関MI6に吸収される。MI6とSOEはアメリカの情報活動や破壊活動の師匠的な存在の機関だ。ブルームスフィールドはカナダでシオニスト運動を指導していたとも言われている。

ケネディ大統領の暗殺を調べたウォーレン委員会は委員長がアール・ウォーレン判事、そのほかのメンバーはウォール街の弁護士で大戦後には高等弁務官としてナチスの幹部を保護していたジョン・マックロイ、やはりウォール街の弁護士で大戦中から戦後にかけて破壊活動を統括、CIA長官にもなったアレン・ダレス、FBIと関係の深いジェラルド・フォードも含まれていた。暗殺直後の週末、ダレスはバージニア州にあるCIAの極秘施設、ファームに身を潜めていたという。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

オズワルドの単独犯行説を支持していたのはマックロイ、ダレス、フォードの3人で、3人の議員は疑問を持っていた。そのうちのひとり、ヘイル・ボッグス下院議員はCIAと関係が深く、当初は単独犯行説を支持していたのだが、途中で見方を変えている。このボッグス議員はアラスカで飛行中、行方不明になった。

この暗殺では多くの証人や関係者が死亡しているが、そのひとりがマリー・ピンチョット・メーヤー。後にCIAの秘密工作に深く関与することになるコード・メーヤーと結婚、離婚した後にケネディ大統領と愛人関係になったことで知られている。妹はニュウーズウィークの幹部編集者だったアントワネット・ピンチョット・ブラドリーと、大学時代からの親友はアレン・ダレスの側近で破壊活動でも名前が出てくるジェームズ・アングルトンとそれぞれ結婚している。

マリーは機密情報を知りうる立場にいたのだが、ウォーレン委員会が報告書を出した3週間後の1964年10月12日に散歩中、射殺された。ハーバード大学で心理学を教えていたティモシー・リアリーによると、「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」とマリーは語っていたという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983)

ケネディ大統領の暗殺はシャルル・ド・ゴール暗殺未遂、マーティン・ルーサー・キング牧師やロバート・ケネディの暗殺にもつながっている可能性が高く、事実が明らかになるとひとりの暗殺に関する話では済まなくなるだろう。

当然、重要な証拠は廃棄済みで、証人も消えてしまった。マインド・コントロールを目的としたMKウルトラ、キューバへアメリカ軍が直接軍事侵攻、さらにソ連との核戦争を視野に入れていた偽旗作戦のノースウッズ、イスラエル軍がアメリカの情報収集戦リバティを攻撃して多くの死傷者を出した事件などでは証拠が廃棄されている。出てくる資料は廃棄し損なったものだけだ。ケネディ大統領暗殺も似たような状況だろうが、それでも全資料の開示は重要だ。


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フーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)
1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。

その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。

ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。

計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。

それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934)

その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。

こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。

ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。

OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。

この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。

その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると​、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。

この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201711080000/


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FBI長官、発生2日後に陰謀説を警戒、何を語るケネディ暗殺事件文書
樫山幸夫 (産經新聞前論説委員長)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11158

 ジョン・F・ケネディ米大統領の54回目の命日が11月22日(日本時間23日)にやってくる。中年以前の人たちには、なじみが少ない名前かもしれないが、若くして超大国の指導者となり、在任3年足らずで暗殺された悲劇の大統領だ。2017年1月に離任したキャロライン・ケネディ前駐日大使の父親といったほうが、通りはいいかもしれない。

ケネディ暗殺についてはいまなお謎が多いが、それに関する機密文書が公開された。膨大な量にのぼり、現在、米内外の記者、研究者らによる精査の真っ最中だ。情報機関の横ヤリで、多くの文書が公開を見送られ、事件の全容解明に結びつく資料は少ないとみられているが、いくつか興味深い事実も明らかになっている。

容疑者殺害で多くの謎が未解明に

 ケネディ大統領暗殺事件は1963年11月22日(日本時間23日)に起きた。大統領は再選めざしてテキサス州を遊説、ダラス市内をオープンカーでパレード中、何者かに狙撃され頭部などに銃弾を受け死亡した。現場の通り沿いの教科書倉庫ビルで働くリー・ハーベイ・オズワルド(当時24歳)という元海兵隊員が、6階の窓からライフル銃で大統領を撃ったとして、事件直後に逮捕された。オズワルドは2日後にダラス警察署内でナイトクラブ経営者のジャック・ルビーという男に撃たれ死亡した。

 ケネディ氏の死後、副大統領のリンドン・ジョンソン氏が大統領に昇格、同氏は真相を解明するために、事件から1週間後の11月29日、連邦最高裁長官(当時)のアール・ウォーレン氏を委員長とし、当時下院議員だったジェラルド・フォード氏(その後、大統領)ら7人のメンバーからなる委員会(通称、ウォーレン委員会)を設置した。委員会は延べ500人以上から証言を求めるなどして調査を行い、翌年9月に「オズワルドの単独犯行」という報告書を提出した。しかし、疑問点が数多く未解明のまま残っていたため、いまなおさまざま憶測がなされている。   

 1991年に制作されたオリバー・ストーン監督の「JFK」もそうした疑問に根差した映画だった。もっとも強い疑問は、オズワルドの単独犯行なのか、動機は何かーだ。オズワルド自身は犯行を否定、本格的取り調べが始まる前に殺害されているために、疑問が残るのは当然だった。

今でも6割以上が陰謀説信じる

 未解明の謎は、憶測に発展する。

「大統領と実弟のロバート・ケネディ司法長官がマフィアの取り締まりを強化したために報復を受けた」

「米国と冷戦状態にあったソ連(当時)、やはり敵対していたキューバが関与していたのではないか」

「ケネディ大統領の外交政策を嫌う中央情報局(CIA)のクーデター≠セった」

 ジョンソン大統領の関与説まで流布され、半世紀を経た2013年の世論調査では、61%にのぼる米国民がいまだに陰謀説を信じているという結果が出た。


 公開で、明らかになった興味深い事実を見るとー。


オズワルド暗殺予告

•FBI(連邦捜査局)のフーバー長官(当時)が事件翌々日の11月24日、「前夜、FBIダラス支局に、オズワルドを殺害する委員会≠フメンバーと名乗る男から電話があった。ダラス警察の責任者に連絡したが、適切に保護がなされていると請け合った。今朝、もう一度連絡したが、十分な保護がなされているということだった。しかし、実際は、なにもされていなかった」と部内で語った(1963年11月日24日のFBI内部文書)

•フーバー長官は、「オズワルドが死んだという以外に何もわからないが。オズワルドが真の暗殺者であることを示す何かを公開する必要がある。そうすれば国民を納得させられるだろう。ジャック・ルビーは、共犯者はいないといっている」と語った(同文書)

•キューバの駐カナダ大使のケネディ暗殺に対する反応は喜ぶべき、幸せなこと≠セった。しかしオズワルドがキューバ・フェアプレー委員会≠ニいう団体に関係していたことから、米国で反キューバ感情が起こるのを警戒して、キューバの国連大使が駐カナダ大使に、深刻ぶった¢ヤ度をとるように求めた(1963年11月27日のCIAオタワ支局から本部あて報告)

ソ連はジョンソン大統領関与説

•CIAの通信傍受記録では、オズワルドは1963年9月、メキシコシティのソ連大使館を訪ねた際、ソ連行きのビザのことで、領事と話したが、この領事はKGB(旧ソ連の情報機関、国家保安委員会)の要員だった(1963年11月23日のCIA内部から副長官代理へのメモ)

•FBIの(ソ連内部の)情報源によれば、ソ連はオズワルドとは何の関係もないと主張している。KGBは、「ジョンソン大統領が事件に責任があることを示すデータをもっている」といっている(1963年12月1日のフーバー長官からマービン・ワトソン大統領特別補佐官へのメモ)

•FBIの情報源によると、ソ連は、ケネディ大統領の暗殺によって米国内のリーダーシップが失われ、無責任な将軍たちがソ連にミサイル攻撃を仕掛けてくるのではないかと恐れていた(同)

•ケネディ暗殺の25分前、英国のローカル紙に「ビッグ・ニュースがあるからロンドンの米大使館に連絡しろ」と電話があった。地元警察が英国の情報機関、MI5を通じてCIAに連絡した(1963年11月26日のCIA副長官からFBI長官あてのメモ)

 ケネディ暗殺に関連する文書は過去にも随時、公開されてきたが、ことし7月から11月月までは、5回にわたって約3万1000件が順次公開された。

 注目されたのは10月26日の公開だった。ケネディ暗殺の機密指定を25年後に解除するという1992年の法律の期限が、この日で切れるため、すべての機密文書が日の目を見るのではないかと期待が高まっていた。

 ところが、CIAのポンペオ長官らが、安全保障上の問題を理由に解除延期を要請。トランプ大統領は法律に従って公開を容認する方針を示していたが、当日になって一転、CIA、FBIの要請を容れ、一部非公開を決めた。

 情報機関が公開に反対することについて、諜報活動の実態が明らかにされるのを避けたいという思惑と、大統領暗殺を防げなかった不手際≠ェ暴露されることを恐れているのではないかなどの憶測もなされている。

 未公開分については、今後180日間に公開の是非が検討される。11月以降公開されたのは、指定解除に問題なしと判断されたとみられる。

 米国立公文書館に保存されているケネディ大統領暗殺に関連する公文書は全部で500万ページにものぼるというが、10月22日のロイター電子版は、これらが全面的に公開されても、リー・ハーベイ・オズワルドの動機についてあらたな大きな情報は期待できないとする一方で、マフィアやキューバの存在を指摘する陰謀説も将来にわたって、消えないだろうという研究者の分析を伝えている。


ケネディ暗殺に関して、筆者はワシントン在勤中の2003年11月、故大統領の40回目の命日にあわせて、ウォーレン委員会メンバーで当時、ただひとり健在だったジェラルド・フォード元大統領(在任、1974年ー77年、2006年死去)にインタビューし、陰謀説などについて聞いてみたことがある。


妻に男らしさ≠ンせるのが動機

Q:ウォーレン委員会の報告は正しい結論という確信には今でも揺るぎはないか?

 元大統領「委員会は全員一致で、オズワルドが暗殺実行犯、国内外のいかなる陰謀についても証拠はなかったという結論に達した。(1979年の)下院特別委員会も同様の報告を取りまとめている。私自身、この二つの結論に対していかなる疑問ももっていない」

Q:しかし、あなたは回想録「和解への時」のなかで、「ウォーレン報告は必ずしも完全ではない」と述べている。

「暗殺事件というものはいつでも疑問に包まれたものだ。リンカーン大統領の暗殺だって、100年以上たったいまでもさまざまな憶測がなされている。批判というものは常にある。委員会の結論は正しい」

Q:1979年の下院特別委員会報告は、マフィアによる陰謀の可能性にも言及している。 

「マフィアの関与というのは、“あったかもしれない”という推測にすぎない。下院委員会の報告もオズワルドの犯行という結論には同意しているはずだ。陰謀の証拠は、どの調査でもみつかっておらず、マフィアによる犯行という推測には同意できない。

Q:ウォーレン報告では、オズワルドの犯行の動機が解明されていない。

「(オズワルドの)妻やその他の人たちの証言によると、オズワルドは精神的な問題を抱えていたようだ。日ごろから夫人に軽侮されており、それを見返すために“男らしい”、劇的なことをしてみせる必要があった。それが大統領暗殺にかりたてたとみるべきだ」

 20世紀最大の謎のひとつといっていいケネディ大統領暗殺事件。当時を知る人たちにとっては、忘れようにも決して忘れることのできない事件だ。未解明のまま、歴史の闇に消えていくのだろうか。

いまなお語り継がれるケネディ神話

 第35代、1961年1月、選挙で選ばれた大統領としては最年少の43歳で就任した。父親は元駐英大使というボストンの名門の出身、若くてハンサム、美しい妻、ジャクリーン夫人という存在もあって、その周辺は華やかさに包まれ、米国だけでなく全世界でその人気を誇った。第2次世界大戦では魚雷艇艇長として活躍、日本軍との戦闘で、自らも負傷しながら部下を救ったという英雄でもあった。悲劇的な最期と相まって、理想化された人物像、その時代は「ケネディ神話」と呼ばれ、いまだに追慕する米国民は少なくない。

 政権の司法長官をつとめた実弟のロバート・ケネディ氏が、兄の死から5年後、大統領選挙運動中にやはり暗殺されたことも、「神話」をいっそう劇的なものにしている。

 現代において、大統領が多くの国民の目の前で撃たれ、その瞬間が全世界でテレビ放映された衝撃は大きく、暗殺事件にとどまらず、大統領やその家族らにまつわる書物、映画などが数多く制作された。夫人の愛称をタイトルに、夫を失ったのちの、その生き方を描いた映画「ジャッキー」が今春、わが国でも公開された。


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本ブログでは何度か指摘したが、アングロ・シオニストは遅くとも20世紀初頭からロシアを侵略する戦略を始動させている。日本もその手先として使われた可能性が高い。
第2次世界大戦後、ドイツとの死闘で疲弊したソ連を破壊するため、アメリカの好戦派は1957年にドロップショット作戦を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊しようとしていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、ルメイを含む好戦派は​1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定​にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していた。これが「核の傘」である。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。

ソ連消滅後、ロシアはボリス・エリツィン大統領の時代に国の資産は略奪され、軍事力も大幅に低下した。アメリカ支配層の内部でもそうした感覚は21世紀に入っても残っていたようで、キール・リーバーとダリル・プレスはフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)の2006年3/4月号で、​ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できると主張​している。

ネオコンをはじめとするアメリカの好戦派は今でもロシアや中国を核戦争で脅している。米ロ、米中間で相互に核兵器発射はしない体制を構築しているということはない。正常な感覚の持ち主なら、この状況を知れば恐怖するだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201712010000/


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2018.01.23
自由と民主主義を破壊し続けるアメリカが中東に執着する理由(その1:ウォール街の利権)

日本にはアメリカを「自由と民主主義の旗手」と呼ぶ人もいるが、そのアメリカを支配してきた人々は民主的に選ばれた政権を軍事力、あるいは破壊活動で破壊してきた。つまり「自由と民主主義の破壊者」がその実態であり、彼らのターゲットのひとつがシリアにほかならない。アメリカによる侵略、破壊、略奪は大統領の個人的な資質によるのでなく、構造的な問題なのである。大統領を交代させても問題は解決しない。公的な情報の全面公開、巨大企業や富豪から特権を剥奪し、資本の移動を制限、オフショア市場を禁止するなど民主的な「レジーム・チェンジ」が必要なのだ。

シリアに限らず、欧米諸国は世界規模で植民地化を進めていた。言うまでもなく植民地は露骨な略奪の仕組みであり、その仕組みがなければ欧米の資本主義体制は維持できなかった。当然、植民地では人々の意思が暴力的に封印され、富は奪われていく。

植民地化は戦争から始まる。そこで、アメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー少将は戦争を不正なカネ儲けの手段だと言ったわけだ。有り体に言うなら、押し込み強盗だ。

しかし、アメリカでは1932年の大統領選挙でこうしたカネ儲けに反対する人物が当選してしまう。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。そこでウォール街の住人たちはニューディール派を排除するためにクーデターを計画する。この計画を議会で明らかにしたのがバトラー少将。クーデターを成功させるためにはバトラーを抱き込む必要があったのだが、その工作に失敗したということだ。バトラーはクーデター派の中心はJPモルガンだとしている。

接触してきたクーデター派に対し、バトラーはカウンター・クーデターで対抗すると警告、またバトラーの話を聞いて取材したポール・フレンチは議会によると、クーデター派は「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と答えたという。

JPモルガンは関東大震災以降、日本の政治経済に大きな影響力を持った巨大金融機関。そのJPモルガンの総帥と結婚した相手のいとこ、ジョセフ・グルーをハーバート・フーバー大統領はアメリカ大使として日本へ送り込んだ。その前年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こし、1932年には「満州国」の樹立を宣言している。

当然のことながら、植民地やファシズムに反対する姿勢を見せていたルーズベルト政権が日本の中国侵略に対して厳しい姿勢で臨むことになる。日本はアメリカの情勢変化に対応できなかった。日本の支配層はウォール街の傀儡だからだ。

植民地やファシズムに反対していたルーズベルトはドイツが降伏する前の月、1945年4月に急死、第2次世界大戦が終わると欧米諸国は植民地の継続支配と目論むのだが、それに異を唱える人物がアメリカの上院に現れた。1957年7月にジョン・F・ケネディ上院議員がアラブ世界の自己統治とアラブ諸国に対する帝国主義的な介入の終焉を訴えたのだ。

ケネディは1961年に大統領となり、軍や情報機関の好戦派が目論んだソ連に対する先制核攻撃を阻止、63年6月にはアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える「平和の戦略」を宣言する。

テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1960年10月から62年9月までJCS議長を務めたリーマン・レムニッツァーやSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。そのために偽旗作戦のノースウッズも作成されたが、この目論見の前にもケネディ大統領が立ちはだかった。そのケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801230001/


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2018.03.23
東京の下町が米軍の空爆で10万人前後の市民が焼き殺されて73年経つが、変わらない米支配層の体質


 今から73年前の3月9日から10日にかけて東京の下町、深川、城東、浅草などがアメリカ軍の投下した焼夷弾で火の海になり、7万5000人から20万人の非戦闘員が殺された。焼夷弾とは一種のクラスター爆弾で、中には38個の小爆弾が収納されていた。上空約610メートルで子爆弾はバラバラに飛び散り、建造物や地面に到達すると数秒後、焼夷剤のゲル化ガソリンが燃え上がる仕組み。


 日本の軍や警察による政策が被害を拡大させた要因のひとつではあるだろうが、アメリカ側の作戦や戦略を徹底的に検証することも重要だ。たとえ、それが不都合な真実であったとしても。


 この時の爆撃は典型的だが、ターゲットは軍事工場でなく一般市民。先住民を殲滅したように、日本の市民を皆殺しにしようとした作戦であり、都市部の爆撃は「無差別」でなく「計画的」だったとする人もいる。


 この作戦を指揮したアメリカ空軍のカーチス・ルメイは広島と長崎に対する原爆投下、あるいは朝鮮戦争における空爆の責任者でもある。1950年6月に勃発した朝鮮戦争でルメイは朝鮮半島北部の78都市と数千の村を破壊、多くの市民を殺している。ルメイ自身の話では、3年間に人口の20%にあたる人を殺したという。勿論、カーチス・ルメイが独断で行った大量殺戮ではないだろう。彼の周辺には仲間がいる。


 ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官に就任、朝鮮戦争が休戦になった翌年の54年にはソ連を核攻撃する作戦を立てている。それによると、600から750発の核爆弾をソ連へ投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すことになっていた。


 ​SACが1956年に作成した核攻撃計画に関する報告書​によると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下するとされている。軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだが、市民の大量虐殺自体も目的だ。この当時もSAC官はルメイ。


 この計画で攻撃目標とされた都市はモスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が含まれていた。


 日本列島が中国に対する攻撃の拠点として想定されていたことは確かだろう。1953年4月に沖縄では布令109号「土地収用令」が公布/施行され、基地化が強引に進められた。土地の強制接収は暴力的なもので、「銃剣とブルドーザー」で行われたと表現されている。


 沖縄の基地化が進められていた1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーは後に統合参謀本部議長に就任、ルメイを同じようにキューバへの軍事侵攻、ソ連への核攻撃を目論んでいる。つまりルメイとレムニッツァーは仲間。第2次世界大戦の終盤、アレン・ダレスはフランクリン・ルーズベルト大統領の意向を無視してナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」を実行したが、レムニッツァーもその作戦に参加していた。


 レムニッツァーとダレスを引き合わせたのはイギリスの軍人。連合軍大本営最高司令官だったイギリス人のハロルド・アレグザンダー伯爵だ。レムニッツァーはイギリスの貴族に憧れを持っていた人物で、シチリア島上陸作戦の際に知り合い、アレグザンダーから目をかけられることになった。


 この人脈が影響したのか、1960年10月にレムニッツァーは統合参謀本部議長へ就任、CIA長官になっていたアレン・ダレスとキューバへの軍事侵攻を目論む。その背後にはソ連や中国に対する先制核攻撃計画があった。この攻撃計画にはダレス、レムニッツァー、ルメイも参加している。


 レムニッツァーとルメイはジョン・F・ケネディ大統領と激しく対立した。ケネディ大統領がソ連に対する先制核攻撃に反対、戦争の準備だったキューバ侵攻作戦ではアメリカ軍の直接的な介入を阻止する。


 キューバ軍を装って「テロ」を繰り返し、キューバに軍事侵攻するという「ノースウッズ作戦」をレムニッツァーは1962年3月に国防長官のオフィスで説明するが、ロバート・マクナマラ長官は拒否する。(Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)ケネディ大統領はその年の10月、レムニッツァー議長の再任を拒否した。そのレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがハロルド・アレグザンダーだ。


 再任拒否の直前、1962年8月にアメリカの偵察機U2がキューバで対空ミサイルの発射施設を発見、10月にはアメリカ軍がキューバを海上封鎖する自体になっていた。いわゆるキューバ危機だが、これを外交的に解決したケネディ大統領に好戦派は反発、ダニエル・エルズバーグによると、その後、国防総省の内部ではクーデター的な雰囲気が広がっていたという。(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)


 本ブログでは何度も書いてきたが、レムニッツァーやルメイのような好戦派は1963年の後半がソ連を核攻撃するチャンスだと考えていた。先制攻撃に必要なICBMが準備できる見通しで、ソ連が追いつく前に戦争を始められると考えていたのだ。


 ところが、1963年6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのはその年の11月のことだ。その翌年、日本政府はルメイに対し、「勲一等旭日大綬章」を授与した。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803230000/


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 1961年1月からアメリカ大統領になったジョン・F・ケネディはイスラエルのレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙を送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告している(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)のだが、そのケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されてしまった。

 副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンは議員時代から親イスラエル派の中心的な存在で、富豪のエイブ・フェインバーグを後ろ盾にしていた。この人物はベングリオンから信頼され、ハリー・トルーマン大統領のスポンサーとして知られているが、フランスのエドムンド・ド・ロスチャイルドと同じようにイスラエルの核兵器開発を資金面から支えていたという側面もある。


 1969年からアメリカ大統領を務めたのはリチャード・ニクソン。その補佐官だったヘンリー・キッシンジャーは彼のスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語ったという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803280000/

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情報と資金の流れていく先に権力は存在する。その流れが変化すれば体制の変革が起こるということでもある。したがって支配層はそうした流れの変化が起こらないように努めるわけだ。秘密保護法の制定や1970年代から米英主導で行われた「金融改革」の主要な目的のひとつもそこにある。アメリカで内部告発を防止するための仕組みが1970年代から強化された理由も同じだ。アメリカの場合、「国家安全保障」も情報隠蔽の理由に使われている。例えば、国防省との取り引きがあると、企業は情報の開示を免れることができるのだ。権力犯罪を内部告発すると厳罰に処されるということは本ブログでも書いてきた。

 情報を統制するため、第2次世界大戦の前から新聞は巨大資本に支配されていた。戦後間もない1948年頃からメディアを支配するためにモッキンバードというプロジェクトがアメリカでスタートしたことも知られている。そのプロジェクトの中心になっていた人物がワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハム、戦時情報機関のOSS、戦後創設されたCIAで大きな影響力を持ち続けたアレン・ダレス、ダレスの側近だったフランク・ウィズナーとリチャード・ヘルムズの4人。この4名は秘密工作(テロ活動)にも深く関与していた。ダレスとウィズナーはウォール街の弁護士で、ヘルムズは母方の祖父が国際決済銀行の初代頭取。グラハムの場合、妻のキャサリンの父親が世界銀行の初代総裁だ。

(Deborah Davis, “Katharine The Great”, Sheridan Square Press, 1979)


 フィリップ・グラハムはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される3カ月前に自殺、キャサリンがワシントン・ポスト紙の社主に就任している。キャサリンはウィズナーの妻、ポリーと親しかった。


 ワシントン・ポスト紙の編集部でキャサリンから目をかけられていたベンジャミン・ブラッドリーの妻がトニー・ピンチョット。その姉にあたるマリーはOPC/CIAの幹部だったコード・メイヤーと結婚していた時期がある。離婚後、ジョン・F・ケネディと親密な関係になったのだが、ウォーレン委員会がケネディ大統領暗殺に関する報告書を公表した3週間後に射殺された。マリーは生前、ケネディ大統領暗殺の内幕を知っていることをうかがわせる発言をしていた。


 リンドン・ジョンソン政権でアメリカはベトナムを本格的に軍事侵攻して泥沼化、反戦気運が高まった1972年の大統領選挙では戦争反対を明確にしていたジョージ・マクガバンが民主党の大統領候補に選ばれ、民主党の幹部は慌てる。そこでヘンリー・ジャクソン上院議員を中心に反マクガバン派がグループを組織する。それがCDM(民主党多数派連合)。ネオコンはこのグループを核にして編成されていく。一般党員に支持されたマクガバンを民主党幹部が潰したのだ。


 その結果、当選いたのがリチャード・ニクソン。そのニクソンがデタント(緊張緩和)を打ち出すと支配層内の好戦派が激怒、スキャンダルが浮上する。それがウォーターゲート事件だ。このスキャンダルでワシントン・ポスト紙が活躍したのは必然だった。


 ウォーターゲート事件を追及したワシントン・ポスト紙の若手記者のうちボブ・ウッドワードは少し前まで情報将校だったこともあり、取材の大半はカール・バーンスタインが行ったと言われている。そのバーンシュタインはニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、その直後に「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。有力メディアがCIAの影響下にある実態を明らかにしたのだ。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)ウォーターゲート事件の内幕と見ることもできる。


 公文書の改竄も報道統制も根はひとつ。権力者による情報支配だ。その情報支配を妨害するメディア、サイト、個人が現在、攻撃されている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201804030000/


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​ 1972年の選挙で勝利したリチャード・ニクソンもベトナム戦争の現実を無視できず、デタント(緊張緩和)政策を推進する。大統領選挙が行われた年の2月に彼は中国を訪問して毛沢東や周恩来と会談、ベトナム戦争から手を引く動きも見せた。1973年1月にはパリ休戦協定が調印されて停戦が実現している。そのニクソンがウォーターゲート事件で1974年に辞任、副大統領から昇格したジェラルド・フォード大統領はホワイトハウスからデタント派を粛清、好戦的な政策へ戻している。


 このフォードを破ってジミー・カーターが大統領となった1977年にバーンシュタインはワシントン・ポスト紙を辞め、その直後に「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いた。それによると、400名以上のジャーナリストがCIAのために働き、1950年から66年にかけてニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供しているとするCIA高官の話を紹介している。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)


 バーンシュタインの記事はウォーターゲート事件の内幕と解釈することもできる。本ブログでも繰り返し書いてきたが、戦後間もない1948年頃からメディアを支配するためにモッキンバードというプロジェクトがアメリカでスタートしている。


 そのプロジェクトの中心になっていた人物がワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハム、戦時情報機関のOSSや戦後創設されたCIAで大きな影響力を持ち続けたアレン・ダレス、ダレスの側近だったフランク・ウィズナーとリチャード・ヘルムズの4人だ。(Deborah Davis, “Katharine The Great”, Sheridan Square Press, 1979)


 フィリップ・グラハムはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される3カ月前に自殺、キャサリンがワシントン・ポスト紙の社主に就任している。キャサリンはウィズナーの妻、ポリーと親しかった。新社主もCIAと緊密な関係にあったのだ。


 ワシントン・ポスト紙の編集部でキャサリンから目をかけられていたベンジャミン・ブラッドリーの妻がトニー・ピンチョットで、その姉にあたるマリーはOPC/CIAの幹部だったコード・メイヤーと結婚していた時期がある。離婚後、ジョン・F・ケネディと親密な関係になるが、ウォーレン委員会がケネディ大統領暗殺に関する報告書を公表した3週間後に射殺された。マリーは生前、ケネディ大統領暗殺の内幕を知っていることをうかがわせる発言をしていた。


 第2次世界大戦後、ベトナムが独立を目指したのに対し、それを阻止するためにフランスが軍事介入する。アメリカもその方針を支持していた。ところが1953年5月にフランス軍はディエンビエンフーで北ベトナム軍に包囲され、翌年5月に降伏する。その4カ月前、1954年1月にジョン・フォスター・ダレス国務長官は国家安全保障会議でベトナムでのゲリラ戦を準備するように提案している。その年の夏、ダレス国務長官の弟であるアレン・ダレスが長官だったCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、破壊活動を開始した。この時の大統領はアイゼンハワーだ。


 それに対し、1961年から大統領になったジョン・F・ケネディはベトナム戦争から手を引く決断をしていた。1963年10月、ケネディ大統領はアメリカの軍隊をインドシナから撤退させるためにNSAM(国家安全保障行動覚書)263を出したのだ。


 NSAM263によると、1963年末にアメリカの軍事要員1000名を撤退させ、65年12月までに1万1300名を完全撤退させるとしている。そうした動きは秘密でなかったようで、米軍の準機関紙、パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙は「米軍、65年末までにベトナムから撤退か」という記事を掲載している。


 しかし、この覚書が出された翌月にケネディはテキサス州ダラスで暗殺され、新大統領のリンドン・ジョンソンは同年11月26日付けでNSAM273を、また翌年3月26日付けでNSAM288を出し、NSAM263を取り消してしまった。


 ケネディが暗殺された11月22日に「大統領」、つまりジョンソンはベトナム駐在のヘンリー・ロッジ大使と話し合い、「南ベトナムに関する討議」の内容を再検討、NSAM273を作成したとされている。この討議は暗殺直前の11月20日にホノルルで行われていた。


 ホノルルの会議にはディーン・ラスク国務長官やC・ダグラス・ディロン財務長官のほか、内務長官、労働長官、商務長官、そして農務長官が参加しているのだが、NSAM263の作成に関与したマクナマラ国防長官とロバート・ケネディ司法長官は出席していない。アメリカが本格的な軍事介入を始める口実に使われた偽旗作戦、トンキン湾事件が引き起こされたのは1964年8月のことだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201804050002/

​​​ こうして始められたベトナム戦争にマーチン・ルーサー・キング牧師は明確に反対していたが、こうした発言に困惑する人もいた。人種差別に反対する公民権運動の指導者という位置づけからの離脱を受け入れられなかったのだ。リバーサイド教会でも彼の周囲のそうした雰囲気を口にしている。平和と公民権は両立しないという人もいたという。


 ロン・ポール元下院議員によると、当時、​キング牧師の顧問たちは牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していた​という。そうした発言はジョンソン大統領との関係を悪化させると判断したからだが、牧師はそうしたアドバイスを無視したのである。


 大統領の意思には関係なく、戦争に反対し、平和を望む人々をアメリカの支配システムは危険視している。例えば、FBIが1950年代にスタートさせた国民監視プロジェクトのCOINTELPRO、CIAが1967年8月に始めたMHケイアスもターゲットはそうした人々だった。


 MHケイアスによる監視が開始された1967年はキング牧師がリバーサイド教会でベトナム戦争に反対すると宣言、またマクナマラ国防長官の指示で「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」が作成された年でもある。この報告書の要旨、つまり好戦派にとって都合の悪い部分を削除したものをニューヨーク・タイムズ紙は1971年6月に公表した。いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」である。


 この報告書を有力メディアへ渡した人物はダニエル・エルズバーグだが、エルズバーグはその後、宣誓供述書の中でキング牧師を暗殺したのは非番、あるいは引退したFBI捜査官で編成されたJ・エドガー・フーバー長官直属のグループだと聞いたことを明らかにしている。


 その話をエルズバーグにしたのはブラディ・タイソンなる人物。アンドリュー・ヤング国連大使の側近で、エルズバーグは国連の軍縮特別総会で親しくなったという。タイソンは下院暗殺特別委員会に所属していたウォルター・ファウントロイ下院議員から説明を受けたとしているが、ファウントロイ議員はその話を否定している。(William F. Pepper, “The Plot to Kill King,” Skyhorse, 2016)


 キング牧師暗殺から2カ月後、次の大統領選挙で最有力候補だったロバート・ケネディ上院議員はカリフォルニア州ロサンゼルスのホテルで殺された。上院議員を暗殺したのは60センチ以上前を歩いていたサーハン・サーハンだとされているが、検死をしたトーマス・ノグチによると、議員の右耳後方2・5センチ以内の距離から発射された3発の銃弾で殺されたのだという。この結果は現場にいた目撃者の証言とも合致する。サーハン・サーハンが犯人だとするならば、議員の前にいた人物の発射した銃弾が議員の後ろから命中したことになる。


 1991年12月にソ連が消滅した直後からアメリカの有力メディアはユーゴスラビアでの組織的な住民虐殺を宣伝、1999年3月にはNATO軍はユーゴスラビアを先制攻撃した。この宣伝は嘘だったことが判明している。


 2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されると、詳しい調査が行われる前にジョージ・W・ブッシュ政権は「アル・カイダ」の犯行だと断定、アル・カイダ系武装集団を弾圧していたイラクのサダム・フセインを倒すために同国を先制攻撃している。この時に口実として大量破壊兵器が使われたが、これも嘘だった。


 2011年にはリビアやシリアで戦争が始まる。西側は「独裁者」による「民主化運動の弾圧」を阻止すると主張していたが、これも嘘だということが明確になっている。アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの三国同盟とイギリスとフランスのサイクス-ピコ協定コンビ、そしてオスマン帝国の復活を妄想するトルコと天然ガスのパイプラインの建設をシリアに拒否されたカタールなどが侵略の黒幕だった。その間、本格的な軍事侵攻を正当化するためにさまざまな嘘が宣伝されてきたことは本ブログでも繰り返し書いている。


 この間、西側で反戦運動は盛り上がっていない。沈黙しているのだ。沈黙を正当化するために侵略勢力が提供した作り話を受け入れている。事実を見れば西側の政府や有力メディアが主張していることが嘘だということは容易にわかるのだが、嘘だと認めるたなら、破壊と殺戮を認めるのか、あるいは支配層を批判しなければならなくなる。リベラル、あるいは革新勢力を名乗る人々は破壊と殺戮を認められない。支配層の作り話を受け入れざるをえないのだ。


 日本が敗戦した直後、映画監督の伊丹万作はこんなことを書いている:戦争が本格化すると「日本人全体が夢中になって互に騙したり騙されたりしていた」。「このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオの馬鹿々々しさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心に且つ自発的に騙す側に協力していたかを思い出してみれば直ぐに判ることである。」(伊丹万作『戦争責任者の問題』映画春秋、1946年8月)


 より正確に表現するなら、「騙されたふりをしていた」のだろう。そうしたことをしているうちに、その嘘が事実だと錯覚しはじめたかもしれないが、始まりは「騙されたふり」だったのではないだろうか。事実を語るには、それなりの覚悟が必要だ。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201804060000/

事実に追い詰められた人びとが逃げ込む「陰謀論」という呪文
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809020001/
2018.09.03 櫻井ジャーナル

 少なからぬ日本人が「アメリカ様」を信仰している。「世の中はアメリカ様の描いた予定表にしたがって動く」のであり、「アメリカ様の御言葉こそが真実」で、その「御言葉」に異を唱えることは許されないという態度だ。その「御言葉」が嘘だと言うことを事実に基づいて説明する人物が現れたなら、「陰謀論」という呪文を彼らは唱える。

 本ブログでも書いたことがあるが、「陰謀論」という呪文が盛んに使われるようになったのはジョン・F・ケネディ大統領が1963年11月22日に暗殺された後のこと。新大統領のリンドン・ジョンソンはアール・ウォーレン判事を委員長とする調査委員会を設置するが、その中にはリチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキン。

 大戦中から破壊活動を指揮、ケネディ大統領にCIA長官を辞めさせられたダレスや世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守ったマックロイ、フーバーFBI長官に近かったフォードがメンバーに含まれ、ランキンはCIAとFBIにつながっていた。ダレスの側近で1966年6月から73年2月までCIA長官を務めたリチャード・ヘルムズによると、彼がダレスを委員にするように説得したのだという。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 この委員会で専任だったのはダレスくらいで、調査はダレスを軸に動いていく。そして出てきたのはリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行説。この報告書が出ると疑問が噴出、疑惑の目はCIAへ向けられる。その後の調査でオズワルドはFBIに情報を提供していた可能性が高いとも言われている。少なくともウォーレン委員会の主張は矛盾だらけで、説得力は全くない。

 その報告書が出た3週間後、1964年10月12日に散歩していたひとりの女性が射殺された。ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーだ。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれていた。

 この女性が1958年まで婚姻関係にあったコード・メイヤーはCIAの幹部として秘密工作に関わっていた。アレン・ダレスの仲間だったわけだ。

 ケネディ大統領が暗殺された直後、マリーは友人でハーバード大学で心理学の講師をしていたティモシー・リアリーに電話し、泣きながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983)

 その後も多くの人がケネディ大統領暗殺に関して調査、今ではオズワルドの単独犯行説を信じる人は少数派だろうが、有力メディアやアカデミーの世界でウォーレン委員会の説に異を唱えると「陰謀論」扱いだ。

 ソ連が消滅した後、1990年代からアメリカを中心とする西側の政府や有力メディアは証拠を示すことなく、自分たちに都合の良いストーリーを「事実」として露骨に宣伝することになった。そうした傾向は特に21世紀に入ってから強くなり、今では事実を探すことが困難なほどだ。

 ここに来て新たに使われ始めた呪文に「偽情報」とか「偽報道」というものがある。当初は西側の政府や有力メディアに向けられていた表現だが、それを批判者側へ向けている。勿論、証拠や根拠は示さない。「アメリカ様の御言葉を信じろ」ということだ。西側はすでにカルト化している。

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 1961年にはOAS(秘密軍事機構)なる秘密組織が作られている。ド・ゴールに反発する軍人らによって構成される組織だが、その黒幕もCIAの破壊工作部門。OASはこの年の4月にマドリッドで開いた会議でクーデターを計画する。

 まず、アルジェリアの主要都市、アルジェ、オラン、そしてコンスタンチンの支配を宣言し、その後でパリを制圧するという計画。その中心にはモーリス・シャレをはじめとする4名の将軍だった。

 それに対し、アメリカ大統領に就任して間もないジョン・F・ケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。クーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということを意味しているわけで、CIAは驚愕する。その後、ド・ゴール大統領はSDECE長官を解任、SDECEの暗殺部隊と化していた第11ショック・パラシュート大隊を解散させた。


 クーデターに失敗したOASだが、その一部は1962年8月にパリでド・ゴール大統領の暗殺を試み、失敗している。暗殺計画に加わったメンバーは9月にパリで逮捕され、全員に死刑判決が言い渡された。ただ、実際に処刑されたのはジャン=マリー・バスチャン=チリー大佐だけ。ド・ゴールを救ったケネディ大統領は1963年11月に暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809240001/


2018.09.24
ロシア軍機の撃墜でも登場するフランスという国(その2)


 イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相の父親、ベンシオンはポーランドからパレスチナへ移民した人物で、大学時代にジャボチンスキーの「修正主義シオニスト世界連合」へ参加、1940年にはアメリカへ渡り、ジャボチンスキーの秘書になった。


 その直後にジャボチンスキーは死亡するのだが、死んだ後もベンシオンはアメリカで活動を続け、パレスチナへ戻るのはイスラエルの「建国」が宣言された翌年、1949年のことだ。1950年代からはアメリカの大学で教鞭を執っている。


 アメリカでエマニュエル・マクロンに近いのはヒラリー・クリントン、ベンヤミン・ネタニヤフに近いのはドナルド・トランプだ。


 マクロンは昨年(2017年)5月の大統領選挙で勝利、大統領になったのだが、そのときのライバルがマリーヌ・ル・ペン。フランスの裁判所はル・ペンのダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)批判に絡み、彼女に精神鑑定を受けさせるように命じた。ル・ペンにつけられた「極右」というタグに影響され、「左翼」や「リベラル」を自称している人の相当部分は反射的に敵視する。彼女からなら言論の自由を奪ってもかまわないという発想なのだろうが、その矛先は全ての人びとに向けられる。


 アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権が2003年にイラクを先制攻撃した際、フランスはアメリカ政府の命令に従わず、戦争に反対した。そのときのフランス大統領はド・ゴール派のジャック・シラク。その後、シラクはスキャンダルに巻き込まれ、2011年12月に有罪判決を受けている。


 シャルル・ド・ゴールは1959年から69年にかけてフランス大統領を務めた人物。アメリカ支配層とは一線を画していた。


 フランスはイタリアと同じようにコミュニストの影響力が強かった国で、それはCIAの積極的な秘密工作につながる。1947年にフランスで社会党政権が誕生すると、その内部大臣だったエドアル・ドプは、右翼の秘密部隊が創設されたと語っている。その黒幕はアメリカとイギリスの支配層だったと見られている。


 その年の夏、アメリカのCIAとイギリスのMI6は秘密部隊を使い、「青計画」と名付けられたクーデターを実行、シャルル・ド・ゴールを暗殺しようとする。発見された文書によると、まず政治的な緊張を高めるために左翼を装って「テロ」を実行し、クーデターを実行しやすい環境を作り出すことになっていた。フランスの情報機関SDECEも関与してたと見られている。


 1961年にはOAS(秘密軍事機構)なる秘密組織が作られている。ド・ゴールに反発する軍人らによって構成される組織だが、その黒幕もCIAの破壊工作部門。OASはこの年の4月にマドリッドで開いた会議でクーデターを計画する。


 まず、アルジェリアの主要都市、アルジェ、オラン、そしてコンスタンチンの支配を宣言し、その後でパリを制圧するという計画。その中心にはモーリス・シャレをはじめとする4名の将軍だった。


 それに対し、アメリカ大統領に就任して間もないジョン・F・ケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。クーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということを意味しているわけで、CIAは驚愕する。その後、ド・ゴール大統領はSDECE長官を解任、SDECEの暗殺部隊と化していた第11ショック・パラシュート大隊を解散させた。


 クーデターに失敗したOASだが、その一部は1962年8月にパリでド・ゴール大統領の暗殺を試み、失敗している。暗殺計画に加わったメンバーは9月にパリで逮捕され、全員に死刑判決が言い渡された。ただ、実際に処刑されたのはジャン=マリー・バスチャン=チリー大佐だけ。ド・ゴールを救ったケネディ大統領は1963年11月に暗殺された。


 ド・ゴール暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出した。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのは1995年のこと。完全復帰は2009年、ニコラ・サルコジが大統領だったときだ。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809240001/

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ソ連がICBMの生産でアメリカに追いつく前なら核戦争でアメリカは圧勝できるとライマン・レムニッツァーJCS議長やカーティス・ルメイ空軍参謀長を含む好戦派は考えた。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、​1963年後半に核攻撃するというスケジュールを決めた​とされている。その作戦を実行する上で最大の障害だったジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。

2018.10.04
沖縄の米軍基地は先制核攻撃のために建設され、その計画は今も生きている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201810040000/


 沖縄県知事選で翁長雄志前知事の政策を継承するとしている玉城デニーが勝利した。名護市辺野古へ新しい基地を建設するという計画に沖縄県民は反対している。そのことを改めて示したと言える。


 沖縄県にある基地を存続させたがっているのは日本政府であり、アメリカ政府は執着していないという議論がある。悪いのは日本政府であり、アメリカ政府は悪くないと言いたいのだろうが、これには疑問がある。

 ヨーロッパを見るとアメリカ軍/NATO軍はロシアとの国境近くまで勢力を拡大し、国境近くにミサイルを配備している。東アジアでは韓国にTHAAD(終末高高度地域防衛)を強引に持ち込み、日本はイージス・アショアが配備される。中国やロシアとの国境近くにミサイルを配備しているのだ。その理由は先制核攻撃の態勢を整えたいからにほかならならず、沖縄の基地を放棄できないのもそのためだ。


 アメリカやイギリスの巨大資本は第2次世界大戦の前からソ連が的だった。ウォール街はドイツと深く結びついていた。そのドイツが軍の主力にソ連を攻撃させるが、スターリングラードで反撃にあって壊滅、1943年1月に降伏する。これでドイツの敗北が決定的になった。

 そこで慌てたのがイギリスとアメリカの支配層。両国はソ連との新たな戦争について協議している。イギリスではウィンストン・チャーチル首相が中心になったが、アメリカではアレン・ダレスたちOSSの幹部がフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でドイツ側と接触している。


 そして1945年5月、ドイツが降伏した直後にチャーチル首相はJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、5月22日に提出されたのがアンシンカブル作戦。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。これはイギリスの参謀本部が反対して実現していない。7月5日には総選挙があり、保守党は敗北してチャーチルは辞職した。下野したチャーチルは大戦後に冷戦の開始を宣言、ソ連に対する核攻撃をアメリカのハリー・トルーマン大統領に要請したことは本ブログでも書いてきた。


 核兵器を手にしたアメリカはソ連に対する先制核攻撃を目論む。例えば1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)


 1954年になると、SAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(前掲書)


 実際にソ連を先制核攻撃するための準備が始まったのは1957年だと言われている。この年の初頭に作成されたドロップショット作戦では、300発の核爆弾をソ連の100都市で使うというもので、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(前掲書)


 核爆弾の運搬手段は戦略爆撃機かICBM(大陸間弾道ミサイル)。1959年の時点でソ連は事実上、ICBMを保有していなかった。ソ連がICBMの生産でアメリカに追いつく前なら核戦争でアメリカは圧勝できるとライマン・レムニッツァーJCS議長やカーティス・ルメイ空軍参謀長を含む好戦派は考えた。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、​1963年後半に核攻撃するというスケジュールを決めた​とされている。その作戦を実行する上で最大の障害だったジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。


 ケネディ大統領は1962年にレムニッツァーの議長再任を拒否するが、イギリス軍の幹部によってNATO軍の司令官に就任する。大戦中、このイギリス軍幹部の紹介でレムニッツァーはアレン・ダレスと知り合い、ナチス幹部を救出するサンライズ作戦に参加した。これはルーズベルト大統領に知らせず実行されている。


 1950年代に沖縄では「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていく。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になった。これがアメリカの先制核攻撃計画と密接に結びついていることは言うまでもないだろう。そうした土地の接収が行われていた1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めた人物がライマン・レムニッツァーだ。


 この当時からアメリカの基本戦略に変化はない。ロシアとの戦争に突き進む姿勢を見せていたヒラリー・クリントンを批判、ロシアとの関係修復を主張して大統領になったドナルド・トランプだが、有力メディア、議会、司法省/FBIからの執拗な攻撃を受け、今ではロシアや中国との軍事的な緊張を高める政策を打ち出している。それがアメリカ支配層の意思であり、日本の政治家、官僚、マスコミはその意思に従う。改憲や緊急事態条項はそうした背景から出てきている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201810040000/


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1962年にソ連がキューバへ中距離ミサイルを配備したときのアメリカ側の反応

 当時、ジョン・F・ケネディ大統領はキューバを海上封鎖したが、カーティス・ルメイ空軍参謀長などJCS(統合参謀本部)の強硬派は大統領に対し、即日ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたという。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 1950年代にアメリカ軍やCIAの好戦派はソ連に対する先制核攻撃計画を始動させ、1963年の後半に実行するつもりでいた。ICBMでアメリカはソ連を圧倒できるという判断から立てられた計画。ソ連は中距離ミサイルで反撃するしかなく、そうしたミサイルをソ連が配備できる場所であるキューバを軍事的に制圧しようとした。それが1961年4月に実行されたピッグス湾侵攻作戦で、これはアメリカ軍の直接的な介入が想定されていた。これをケネディ大統領が止めたのだ。

 ルメイの仲間にはJCS議長だったライマン・レムニッツァーも含まれ、偽旗作戦でキューバを軍事侵攻するという作戦を1962年に作成している。これもケネディ政権に拒否され、その直後にレムニッツァーは議長再任を拒否された。このレムニッツァーはNATO軍のトップになるが、これはイギリス軍の幹部の計らいがあったからだと言われている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201810220000/


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当時、アメリカでは軍や情報機関の好戦派がソ連に対する先制核攻撃を計画、その準備を始めていた。 こうした好戦派はドイツとの戦争で疲弊したソ連の状況を熟知、核兵器やその運搬手段の開発状況からアメリカは核戦争で圧勝できると信じていた。その実行期日として設定されたのが1963年。
この計画の前に立ちはだかったジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。

​2018.11.07
中間選挙には関係なく、米国支配層の基本戦略は侵略とファシズム化(その1)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811070000/


 アメリカの中間選挙でもドナルド・トランプを悪役として描く人が少なくない。これまでニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポストアメリカ紙といった有力メディアは国外での侵略を正当化し、国内ではファシズム化を推進するために嘘をつき続けてきた。その有力メディアが必死に攻撃しているということは、トランプにはまだ希望があるということを意味しているのだろう。


 トランプを排除すればアメリカは民主的な国になるかのような主張もある。「左」とか「リベラル」と見なされている有名人の中にもこうした妄想を口にする人がいる。これは非常に危険なことだ。国外での侵略と国内でのファシズム化は少なくとも1970年代以降、政権に関係なく続いてきたアメリカ支配層の基本戦略なのである。


 言うまでもなく、アメリカはヨーロッパからの移民が「異教徒」、つまりインディアンと呼ばれる先住民を虐殺、土地を占領して生まれた国だ。ヨーロッパのキリスト教徒はこうした殺戮をしてもかわないと考えていたのだろうが、こうした考えを持っていたヨーロッパ人はメイフラワーでアメリカへ渡ったピルグリム・ファーザーズやその後継者たちに限らない。11世紀終盤から13世紀にかけて中東を侵略した十字軍も同じ思想に基づいている。この時点で一部のキリスト教徒はカルト化している。


 しかし、侵略とファシズム化がシステム化されるのは比較的最近。アメリカの憲法を麻痺させる上で重要な役割を果たしたのは2001年10月25日に成立した「愛国者法(USA PATRIOT Act / Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act / テロリズムの阻止と回避のために必要で適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化するための法律)」である。


 ニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されたことを受け、1カ月あまりで書き上げられた340ページを超す法律で、議会はこれを1週間で承認している。これだけの分量の法律をこの程度の期間で書きたことには驚く。承認前にこの法律を呼んだ上が議員が多いとも思えない。


 憲法の機能を停止させるこの法律がこれほど短期間に書き上げられた理由は、すでに準備が整っていたからにほかならない。1982年にロナルド・レーガン大統領が承認したCOG(政府の継続)プロジェクトによって地下政府を構築する作業が始まったのだ。


 伝えられているところによると、ジョージ・H・W・ブッシュ、ドナルド・ラムズフェルド、リチャード・チェイニー、ジェームズ・ウールジーたちで構成される上部組織と、官僚、将軍、CIAの幹部、「引退」した軍人や情報機関員など数百人で編成される下部組織に分けられていた。この計画では、仕組みを作るだけでなく演習も実施している。この地下政府を始動させる当初の条件は核戦争の勃発だったのだが、1988年に出された大統領令12656によって国家安全保障上の緊急事態に変更された。そして2001年9月11日に国家安全保障上の緊急事態が発生したとされたわけだ。(​つづく​)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811070000/


2018.11.07
中間選挙には関係なく、米国支配層の基本戦略は侵略とファシズム化(その2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811070001/

 COGプロジェクトと並行して思想戦が始められている。「民主主義」といった標語、タグを使い、人びとの心理を操ろうということ。国内向けは「プロジェクト・トゥルース」、国外向けは「プロジェクト・デモクラシー」と名付けられた。


 このプロジェクトで中心的な役割を果たしていたウォルター・レイモンドはCIAのプロパガンダ担当オフィサーで、1982年からNSC(国家安全保障会議)のスタッフになっている。(Robert Parry, “Secrecy & Privilege”, The Media Consortium, 2004)


 COGの源流は1958年にドワイト・アイゼンハワー政権が設置した地下政府。本ブログでも繰り返し書いてきたが、当時、アメリカでは軍や情報機関の好戦派がソ連に対する先制核攻撃を計画、その準備を始めていた。沖縄の軍事基地化が強引に進められた理由もここにある。その当時、琉球民政長官だったのが好戦派のひとりでアレン・ダレスと親しく、後に統合参謀本部議長になるライマン・レムニッツァーだ。


 こうした好戦派はドイツとの戦争で疲弊したソ連の状況を熟知、核兵器やその運搬手段の開発状況からアメリカは核戦争で圧勝できると信じていた。その実行期日として設定されたのが1963年。この計画の前に立ちはだかったジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。


 このときに設置された地下政府は9つの局で構成され、それぞれの長も決められた。その後、ひとりが交代になったことから、この局長候補たちは「アイゼンハワー・テン」と呼ばれている。この計画はFEMA、そしてCOGにつながった。


 世界制覇が計画され、国外での侵略の準備が始まるのはソ連が消滅した直後の1992年2月。国防総省では次官だったポール・ウォルフォウィッツを中心に​DPG草案​が作成されたのだが、これは世界制覇を目的としていた。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリン。ウォルフォウィッツを含むネオコンは、ソ連の消滅によってアメリカが唯一の超大国になり、国連を無視して単独で行動できるようになったと考えたのだ。


 ウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官によると、ウォルフォウィッツは1991年の段階でイラク、シリア、イランを殲滅すると口にし、9/11の10ほど後にはドナルド・ラムズフェルド国防長官たちは侵略予定国のリストを作成していた。イラクからはじまり、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そして最後にイランだ。ジョージ・W・ブッシュ政権がイラクを先制攻撃したのは2003年3月、11年にはバラク・オバマ政権がシリアやリビアをジハード傭兵で侵略しはじめる。

 ブッシュ政権はアメリカ軍を主力とする正規軍で攻め込んだが、当初の予定とは違って親イスラエル政権を樹立することに失敗、イランに近い体制になった。そこでアメリカのネオコンはイスラエルやサウジアラビアと手を組み、アル・カイダ系のジハード傭兵を使うことになる。その方針に基づき、オバマ大統領は2010年8月にPSD-11を出し、ムスリム同胞団を主力とする傭兵で体制転覆を目論んだのである。


 ところで、国内のファシズム化や国外での侵略で中心的な役割を果たしてきたのはネオコン。基本的にはシオニストで、元トロツキストが多いと言われている。この勢力が台頭してくるのは1972年の大統領選挙だった。


 当時のアメリカはベトナム戦争で疲弊、反戦的な機運が高まっていた。そこで支配層を動揺させる事態が生じる。戦争に反対していたジョージ・マクガバン上院議員が民主党の大統領候補に選ばれてしまったのである。


 民主党の幹部は慌てる。そこでヘンリー・ジャクソン上院議員を中心に反マクガバン派が形成され、マクガバンを落選させるための工作が始まった。マクガバンの周辺にいたのはポール・ウォルフォウィッツ、リチャード・パール、ダグラス・フェイス、エイブラム・シュルスキー、エリオット・エイブラムスなど、後にネオコンの中枢になる若者たちだ。


 反マクガバンのキャンペーンではジョージア州知事だったジミー・カーターも率先して参加、そのカーターに目をつけたのがデイビッド・ロックフェラーとズビグネフ・ブレジンスキーだ。カーターは1976年の大統領選挙で勝利するが、イスラエルへの忠誠度が足りなかったこともあり、再選されなかった。


 選挙では共和党のリチャード・ニクソンが勝利するが、デタントへ舵を切ったことから好戦派は反発する。そうした中、ウォーターゲート事件が起こり、1974年8月に辞任し、副大統領だったジェラルド・フォードが昇格した。フォードはJ・エドガー・フーバーFBI長官と親しく、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する委員会で委員を務めている。


 このフォード政権でデタント派は粛清される。特に重要だとされているのは、CIA長官と国防長官の交代。CIA長官は議会でCIAの秘密工作の一端を明らかにしたウィリアム・コルビーからジョージ・H・W・ブッシュへ、また国防長官はジェームズ・シュレシンジャーからドナルド・ラムズフェルドへ替わっている。

 1970年代の半ばから巨大資本によるメディア支配が強化され、気骨あるジャーナリストは排除される。その一方で情報機関では内部告発が難しくなるようにシステムを変更、議会の監視から逃れるために「民営化」を進めた。この民営化は他国の情報機関とのネットワーク化を推進、各国政府の情報機関コントロールは難しくなっていく。そしてCOGがはじまり、ソ連消滅をはさんでウォルフォウィッツ・ドクトリンへとつながるわけだ。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811070001/

2018.01.17
差別反対は許されても戦争反対は許されないアメリカという国(前)
ドナルド・トランプ大統領が批判されているひとつの理由に彼の差別的な言動がある。そのトランプは2016年の大統領選挙、あるいはその選挙で当選した直後はロシアとの関係を修復しようとしていた。その政策は彼を当選させた一因だが、有力メディアはそれが許せずに「ロシアゲート」なる話を作り上げ、特別検察官を任命させることに成功した。大統領選挙でライバルだった民主党のヒラリー・クリントンは戦争ビジネスや巨大金融資本を後ろ盾にする人物だ。

1929年1月15日に生まれたマーチン・ルーサー・キング牧師は人種差別と戦い、ベトナム戦争に反対、そして50年間の1968年4月4日に暗殺された。キングと親しくしていたロバート・ケネディは同じ年の6月6日に殺されている。ロバートの兄で大統領だったジョン・F・ケネディと同じように公式見解は単独の個人的な犯行だが、「政府機関」が暗殺に関与したと疑う人は少なくない。

1968年2月、アメリカがベトナム戦争で負けていると印象づける出来事があった。解放戦線が南ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)や古都のユエなどで攻勢、北爆の停止とパリ和平会談の開催へとつながったのだ。アメリカ支配層は大きく揺れていた。

アメリカはドワイト・アイゼンハワー政権の時代にベトナムへ軍事介入を始めていたが、ケネディ政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラの回顧録によると、大統領は1963年10月にアメリカ軍をベトナムから撤退させる決断をしていた。(Robert McNamara, “In Restrospect”, Random House, 2005)そのために出されたのがNSAM(国家安全保障行動覚書)263だが、これは副大統領から昇格したリンドン・ジョンソン大統領が取り消し、本格的な軍事介入へと進んだ。

軍事介入を正当化するために使われたのが1964年8月の「トンキン湾事件」。アメリカの駆逐艦マドックスが8月2日に、また4日にマドックスと僚艦のC・ターナー・ジョイが北ベトナムの魚雷艇に砲撃されたとジョンソン大統領は宣伝、7日にアメリカ議会は「東南アジアにおける行動に関する議会決議(トンキン湾決議)」を可決したのだ。(Douglas Valentine, "The Phoenix Program," William Morrow, 1990)そして1965年2月には報復と称し、北ベトナムに対する本格的な空爆「ローリング・サンダー作戦」を始めた。

このトンキン湾事件はOPLAN34Aと名づけられた計画が関係していた。この計画をジョンソン大統領は1964年1月に承認、統合参謀本部直属の秘密工作部隊SOG(特別作戦グループ、後に研究監視グループに名称変更)が編成された。そのメンバーは陸軍のグリーン・ベレー、海軍のSEALs、そして空軍特殊部隊から集められ、司令官は陸軍大佐が務めている。(John L. Plaster, "SOG," Simon & Schuster, 1997)

この作戦の一環として1964年7月30日に南ベトナムの哨戒魚雷艇が北ベトナムの島、ホンメとホンニュを攻撃、北ベトナムは高速艇を派遣して対抗した。攻撃した哨戒艇は姿を消してしまうが、そこではアメリカの駆逐艦、マドックスが情報収集活動をしていたのだ。31日にはSEALsのふたりが20名の南ベトナム兵を率いてハイフォン近くのレーダー施設を襲撃している。この襲撃に対する報復として北ベトナムは8月2日にマドックスを攻撃したと言われている。なお、マドックスを攻撃した北ベトナムの艦船はアメリカ軍機などの攻撃で撃沈された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801160000/


2018.01.17
差別反対は許されても戦争反対は許されないアメリカという国(中)

こうして始められたベトナム戦争は泥沼化、1965年10月にはアメリカ国内で組織的な反戦運動が始まり、67年にはマクナマラ国防長官の指示で「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」が作成されている。この報告書の要旨、つまり好戦派にとって都合の悪い部分を削除したものをニューヨーク・タイムズ紙は1971年6月に公表する。これがいわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」だ。

この報告書を有力メディアへ渡したダニエル・エルズバーグはその後、宣誓供述書の中でキング牧師を暗殺したのは非番、あるいは引退したFBI捜査官で編成されたJ・エドガー・フーバー長官直属のグループだと聞いたことを明らかにしている。

エルズバーグは1964年からマクナマラ国防長官の下で特別次官補を務め、2年間を南ベトナムで過ごしている。その時の上司はCIAの破壊工作部門に所属し、旧日本軍の略奪物資を回収するプロジェクトに参加していたエドワード・ランズデール少佐(後に少将)。その後、ランズデールはCIAのキューバに対する秘密工作を指揮、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる。

ベトナム戦争でCIAは軍の特殊部隊と手を組み、反米色が強いと見られる地域の住民を皆殺しにする秘密作戦、フェニックス・プログラムが1967年から始められた。「解放戦線と関わりを持つと殺される」という恐怖心をベトナム人に植えつけるための一種の心理戦だったと見る人もいる。似た戦略をCIAはその後も繰り返す。例えばラテン・アメリカにおける「死の部隊」、そして中東におけるアル・カイダ系武装勢力やダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)だ。

フェニックス・プログラムを提案したNSC(国家安全保障会議)のロバート・コマーは1967年5月にDEPCORDS(民間工作と革命的開発支援担当のMACV副官)としてサイゴン入りし、MACVとCIAは共同でICEXを6月に始動させている。本ブログで何度か言及しているジェドバラにその人脈はつながる。ICEXはすぐ、フェニックス・プログラムと呼ばれるようになるが、それを現地で指揮したひとりが後のCIA長官、ウイリアム・コルビーだ。このコルビーがエルズバーグにペンタゴン・ペーパーズを明らかにするよう命令したとも言われている。CIA長官時代、コルビーは議会で情報機関の秘密工作の一端を明らかにし、支配層の逆鱗に触れることになった。

1968年3月16日にソンミ村のミ・ライ地区とミ・ケ地区で住民がウィリアム・カリー大尉の率いる部隊に虐殺されている。犠牲者の数はアメリカ軍によるとミ・ライ地区だけで347人、ベトナム側の主張ではミ・ライ地区とミ・ケ地区を合わせて504人だという。この虐殺もフェニックス・プログラムの一環だった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801170001/

2018.01.18
差別反対は許されても戦争反対は許されないアメリカという国(後)

ソンミ村での虐殺が広く知られるようになったのは1969年11月のこと。この事件に関するシーモア・ハーシュの記事が報道されたのだが、虐殺の直後に従軍していた記者やカメラマンはその事実を知っていたにもかかわらず報道していない。後の国務長官、コリン・パウエルは少佐としてベトナムへ派遣されているが、彼もこの事件について知ったいたことを明らかにしている。(長くなるのでこの話はこれ以上深入りしない。)

ところで、エルズバーグにキング牧師を暗殺したのはFBIのチームだと話したのはブラディ・タイソンなる人物。アンドリュー・ヤング国連大使の側近で、エルズバーグは1978年に開かれた国連の軍縮特別総会で親しくなったという。タイソンは下院暗殺特別委員会に所属していたウォルター・ファウントロイ下院議員から説明を受けたとしているが、ファウントロイ議員はその話を否定している。(William F. Pepper, “The Plot to Kill King,” Skyhorse, 2016)

キング牧師が人種差別と戦う切っ掛けになる出来事が引き起こされたのは1955年12月。アラバマ州モンゴメリーで公営バスで白人に席を譲ることを拒み、ジム・クロウ法(人種分離法)違反の容疑でローザ・パークスが逮捕された事件を切っ掛けだ。その後、キング牧師は公民権運動の指導者として知られるようになり、FBIの監視対象になる。

しかし、この段階では要注意人物にすぎない。危険人物と見なされるようになるのは1967年4月4日だと考える人もいる。この日、キング牧師はニューヨークのリバーサイド教会でベトナム戦争に反対すると宣言したのだ。

ロン・ポール元下院議員によると、当時、​キング牧師の顧問たちは牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していた​という。そうした発言はジョンソン大統領との関係を悪化させると判断したからだが、牧師はそうしたアドバイスを無視した。その結果、支配層の中でリベラル派とされる人々と対立することになる。差別反対は許されても戦争反対は許されないとポール元議員は考えている。

FBIは1950年代に国民監視プロジェクトのCOINTELPROを開始、CIAは1967年8月にMHケイアスという監視するプログラムを始めている。当初、COINTELPROはコミュニストをターゲットにしていたが、途中でその矛先を平和運動に向ける。CIAも監視対象は戦争に反対する人々だ。デタント(緊張緩和)に政策を切り替えようとしたリチャード・ニクソンがスキャンダルで排除され、ロシアとの関係修復を訴えたトランプが激しく攻撃されたことも偶然とは言えないだろう。

キング牧師暗殺から2カ月後、次の大統領選挙で最有力候補だったロバート・ケネディ上院議員はカリフォルニア州ロサンゼルスのホテルで殺された。上院議員を暗殺したのは60センチ以上前を歩いていたサーハン・サーハンだとされているが、検死をしたトーマス・ノグチによると、議員の右耳後方2.5センチ以内の距離から発射された3発の銃弾で殺されたのだという。この結果は現場にいた目撃者の証言とも合致する。サーハン・サーハンが犯人だとするならば、議員の前にいた人物の発射した銃弾が議員の後ろから命中したことになる。

(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801180000/


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2018.11.15
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(1/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811140000/

 シンガポールで11月14日から15日にかけてロシア-ASEAN首脳会議が開かれ、ASEAN各国の首脳はウラジミル・プーチン露大統領と相次いで会談している。そのひとりが日本の安倍晋三首相だ。その際、安倍は「1956年(日ソ)共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速させることでプーチン大統領と合意した」のだという。


 安倍政権は今後、ロシアと平和条約の交渉をするだろうが、条約の調印に到達する可能性は小さい。日本とロシアが真の意味で友好的な関係築くことをアメリカ支配層は許さないだろう。そうしたことを安倍自身だけでなく、アメリカもロシアもわかっているはず。この交渉自体、アメリカの命令かもしれない。ロシアや中国と日本が真に友好的な関係を築けるのはアメリカを支えるドル体制が崩れてからだろう。


 この共同宣言は1956年10月、内閣総理大臣だった鳩山一郎がソ連を訪れ、ソ連閣僚会議議長のニコライ・ブルガーニン首相と日ソ共同宣言に署名したもので、同年12月に発効している。この宣言は当時のアメリカ支配層を激怒させたが、発効した事実は消せない。プーチン大統領もこの宣言からスタートせざるをえない。


 鳩山一郎を首班とする内閣がスタートしたのは1954年12月。鳩山首相だけでなく、重光葵外務大臣、河野一郎農林大臣、石橋湛山通産大臣たちもソ連や中国と友好関係を結ぼうと考えていた。1955年6月にはロンドンのソ連大使館で米ソ両国は国交正常化の交渉を始めている。


 重光は8月末にアメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談、その際に重要な提案をしている。「相互防衛条約」の試案を提示、その第5条で「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始」、「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛六箇年計画の完遂年度の終了後おそくとも九十日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」としている。


 1945年4月にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死した後、ホワイトハウスではニューディール派の影響力が急速に低下、ウォール街が実権を握る。新しく大統領になったハリー・トルーマンのスポンサーだった富豪のアブラハム・フェインバーグは裏でシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供、イスラエルの核兵器開発を資金面から支えた人物だ。


 トルーマン政権は国民党に中国を支配させようとしたが、1948年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒、49年1月に解放軍は北京に無血入城した。5月にはアメリカの破壊工作組織OPCが拠点にしていた上海がコミュニストに制圧される。中華人民共和国が成立するのはその年の10月のことだ。そうした流れの中、OPCは拠点を日本へ移動させている。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)


 1949年には国鉄を舞台とした「怪事件」が相次ぎ、それを口実として労働組合など左翼と見なされる人びとが弾圧された。その事件とは7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件だ。


 1950年10月にOPCはCIAに吸収されたが、その4カ月前、6月25日に朝鮮半島で戦争が勃発している。その直前にジョン・フォスター・ダレスは東アジアを歴訪、日本では6月22日にニューズウィーク誌の東京支局長だったコンプトン・パケナムの自宅で開かれた夕食会に参加した。日本側からは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康正、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三が出席している。そのダレスに対し、天皇から軍国主義的な経歴を持つ「多くの見識ある日本人」に会い、「そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべき」だとする口頭のメッセージが伝えられたという。メッセンジャーはパケナムだ。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811140000/


2018.11.15
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(2/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811130000/


 1951年1月にジョン・フォスター・ダレスが率いる講和使節団が来日、占領後の日本をめぐる交渉が始まる。ダレスは日本に対し、自分たちが「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を求めようとしていた。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)


 少なくともウォール街にとって朝鮮戦争が対中国戦争の一環だと言うことを示唆する出来事が1951年4月に引き起こされている。ウォール街が作り出したCIAの軍事顧問団が約2000名の国民党軍を率いて中国領内に侵入、一時は片馬を占領したのだ。翌年の8月にも国民党軍は中国侵攻を試みたが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わる。


 この当時、CIAやアメリカ軍の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を計画していた。例えば、1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれ、この戦争を戦うために特殊部隊のグリーン・ベレーが創設されている。(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)


 好戦派の中心メンバーのひとり、カーティス・ルメイは日本や朝鮮半島で非武装の住民を大量虐殺した作戦の責任者で、1948年から57年にかけてSAC(戦略空軍総司令部)、空軍副参謀長を経て61年から65年にかけて空軍参謀総長を務めている。


 SACは1954年、ソ連に600から750発の核爆弾を投下し、118都市に住む約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)SACが1956年に作成した核攻撃計画に関する報告書によると、ソ連、中国、そして東ヨーロッパの最重要目標に対しては水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下することになっていた。


 攻撃目標とされた大都市にはソ連の都市だけでなく、中国の北京も含まれている。沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められ、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーはルメイと同じ好戦派で、1960年から62年にかけてのJCS議長。キューバへアメリカ軍を侵攻させる口実として偽旗作戦が計画されたが、その中心メンバーでもあった。レムニッツァーの議長再任はジョン・F・ケネディ大統領が拒否した。


 ルメイやレムニッツァーを含む好戦派は1957年初頭、ソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成した。それによると300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)


 鳩山政権はこうした中、ソ連との友好関係樹立を目指していた。重光外相は1956年8月上旬の頃に歯舞島と色丹島の返還というソ連案を受け入れ、平和条約を締結しようと言い始めたが、同月下旬に態度を一変させ、国後と択捉も要求するようにという訓令を出す。2島返還でソ連と合意したらアメリカは沖縄を自国領にすると恫喝されたとアメリカの国務長官だったジョン・フォスター・ダレスからその間に言われたのだという。そうした脅しにもかかわらず、鳩山首相は共同宣言に署名したわけだ。


 共同声明が発効した1956年12月に鳩山は辞任、CIAとの関係が指摘されている岸信介、つまり安倍晋三の祖父が後継総理になると見られていたが、鳩山と政策が近かった石橋湛山が勝ってしまう。


 ところが、アメリカにとって好都合なことに石橋が自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったと言われているが、石橋は退陣せざるをえなくなり、岸が総理臨時代理として政府を動かすことになる。正式に岸が首相となるのは1957年2月のことだ。


 アメリカの支配層は日本が中国やソ連/ロシアに接近することを嫌ってきた。彼らの長期目標は中国やソ連/ロシアの制圧であり、日本は侵略の拠点だからだ。日本のそうした立場は明治維新の当時から変化していない。安倍は岸と同じように、アメリカ支配層の手先だ。


 その安倍は今年(2018)年9月、ウラジオストックで開催されたEEF(東方経済フォーラム)でロシアに対して平和条約の締結を呼びかけたのだが、プーチンから「いま思いついた。平和条約を前提条件なしで結ぼう。今ここでとはいわない。今年末までに結ぼうではないか」と逆に提案され、安倍は返答できなかったという。安倍の発言はアメリカ支配層が書いたシナリオに沿うものだったはずだが、プーチンの逆提案はそこに書かれていなかったのだろう。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811130000/


2018.11.16
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(3/4)​
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811150001/


 現在、東アジアではロシアと中国を中心に状況が大きく変化しつつある。その中心にはロシアの鉄道とパイプラインの建設、中国の一帯一路プロジェクトがある。そうした状況の変化を象徴する出来事が朝鮮半島で展開されている。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、イギリスやアメリカはユーラシア大陸の沿岸部を支配し、海運を押さえて内陸の中国やロシア/ソ連を締め上げようとしてきた。それに対抗してロシアは鉄道を建設したのである。


 帝政時代、ロシアはモスクワとウラジオストクを結ぶシベリア横断鉄道の建設を計画、1891年に着工して1916年に完成させた。その鉄道を朝鮮半島へ延ばそうという計画もある。それと並行して天然ガスや石油のパイプライも建設、東アジアをビジネスで結びつけ、経済的な発展を目指そうというわけだ。


 その計画のネックになっていたのが朝鮮。1991年12月にソ連が消滅、後ろ盾を失った朝鮮はイスラルや統一教会との関係を強めたとも言われている。その朝鮮に対し、​ロシアのドミトリ・メドベージェフ首相は2011年夏、110億ドル近くあったソ連時代の負債の90%を棒引きにし、鉱物資源の開発などに10億ドルを投資すると金正日に提案している​。2011年12月に金正日が急死するが、翌年の4月にはロシア議会がこれを承認している。(金正日の急死に暗殺説があることは本ブログでも紹介したが、今回はこの話を割愛する。)


 今年のEEFで朝鮮は自国の鉄道と韓国に鉄道を結びつけることに前向きな姿勢を見せた。こうしたプロジェクトの実現はアメリカの世界制覇プロジェクトを揺るがす。そこで使われているのが「制裁」。この「制裁」はロシア、中国、韓国で進めているプロジェクトの阻止が目的だろう。


 韓国の動きを牽制するため、バラク・オバマ大統領は自分たちの忠実な下僕である日本を使おうとした。韓国を自分の支配下から離れないように日本との関係を強化させようとしたのだ。


 日本と韓国が対立している原因のひとつが慰安婦の問題。オバマ大統領は日韓両国の首脳との会う際、数年にわたり、毎回のように慰安婦の問題を採りあげて両国の対立を解消させようとしていたという。これは同政権でNSC(国家安全保障会議)の安保副補佐官だったベン・ローズの話だ。


 朴槿恵が韓国の大統領だった2015年12月に日本と韓国の外務大臣は「日韓間の慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」と発表したが、文在寅政権になって状況が変わる。外務大臣直属の検証チームは2017年12月、その合意は朴槿恵と安倍晋三の側近ふたりによる秘密交渉で進められた結果であり、慰安婦だった女性の意見が十分反映されなかったと指摘したのだ。


 そして今年、つまり2018年の3月26日に金正恩朝鮮労働党委員長は特別列車で北京へ入って釣魚台国賓館で中国の習近平国家主席と会談、4月27日に朝鮮の金正恩労働党委員長と文在寅大統領が板門店で会談、緊張緩和の方向へ動き始める。


 文大統領と金委員長が会談する前日、アメリカ政府はCIA長官だったマイク・ポンペオが朝鮮で金委員長と握手する様子を撮影した写真を公表した。4月1日頃、つまり中朝首脳会談の直後に撮影されたようだ。アメリカの存在をアピールしたかったのだろう。


 紆余曲折はあったが、今年6月12日のシンガポールでドナルド・トランプ大統領は朝鮮の金委員長と会談、朝鮮半島の完全な非核化が確認された。その日、トランプは2017年4月6日のシリアに対するミサイル攻撃は中国への威嚇だったと語っている。


 おそらくトランプの発言は事実だが、この攻撃によって判明したのはロシアの防空システムが優秀だということ。この出来事に限らないが、2015年9月30日に始まったシリア政府の要請に基づくロシア軍の軍事介入はロシア軍の強さを証明することになった。アメリカ軍を恐れる必要はないと朝鮮も判断しただろう。


 2017年4月6日の攻撃では59機のトマホーク(巡航ミサイル)が発射され、そのうち目標へ到達したんは23発。6割強が撃墜されたことになる。アメリカにとっては嫌な結果。その1年後にもアメリカ軍はシリアをミサイルで攻撃するが、ロシア側は前年の反省から短距離用の防空システム、パーンツィリ-S1を配備していた。それが友好で、約7割のミサイルが撃墜されたと言われている。アメリカ軍の攻撃は威嚇になっていないだろう。


 シンガポールでの米朝会談から間もない6月22日、トランプ大統領は朝鮮を「尋常でない脅威」だとし、制裁を続ける方針を示した。その日、韓国の文大統領はロシアでウラジミル・プーチン大統領と会談、平和的な朝鮮半島の非核化を目指すことで一致、国境を越えたエネルギー・プロジェクトを推進し、FTA(自由貿易協定)に関する話し合いを始めることで合意したという。ロシア、中国、韓国、そして朝鮮は手を組み、アメリカは孤立した形だ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811150001/


2018.11.16
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(4/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811160000/


 アメリカのバラク・オバマ政権が仕掛けたウクライナのクーデターは中国とロシアを戦略的な同盟国にした。この関係は崩れそうもない。アメリカの影響下にあるものの、韓国はロシアや中国に接近、ビジネス上の関係は深まっている。日本の大企業もロシアや中国との取り引きなしに生き残ることは困難で、中ロとの接触は強まっていた。


 しかし、ロシアと中国が主導する形で和平が進み、経済が発展することをアメリカ支配層は認められない。ドルを使った金融マジックで世界を支配しているアメリカに生産能力はなく、ドルが基軸通貨の地位から陥落すればアメリカの支配システムは崩壊する。各国がドル決済をやめたなら、アメリカの金融マジックは破綻する。そうした流れを止めるため、アメリカはロシアと中国を軍事的に脅しているが、効果はない。


 朝鮮半島の問題でアメリカが受け入れそうな条件は、核兵器開発を放棄させた上で軍事侵略するリビア・モデル、体制の違う国を統一させて全体をアメリカが制圧して支配地域を拡大させるドイツ・モデル、疲弊した状況を利用して庶民を低賃金労働者として西側巨大資本のカネ儲けに奉仕させるというベトナム・モデル。アメリカの支配地域を拡大させるものでなければ、アメリカは受け入れない。


 日本とロシアとの関係でも同じことが言える。日本がロシアや中国と友好的な関係を結ぶことをアメリカ支配層は望まない。アメリカ支配層に従属することで自分の地位と収入を約束されている政治家や官僚、その周辺の学者やマスコミ関係者なども同じだ。


 日本の検察やマスコミは東シナ海を「友愛の海」にしようと提案していた鳩山由紀夫を2010年に首相の座から引きずり下ろした。次に菅直人が首相に就任するが、この内閣ができて間もなく、石垣海上保安部は「日中漁業協定」を無視して中国の漁船を尖閣諸島の付近で取り締まり、日本と中国との関係を壊しにかかる。当時の国土交通大臣は前原誠司だ。2011年9月に首相は菅直人から野田佳彦へ交代、野田は「自爆解散」して2012年12月からは安倍晋三が首相に就任した。


 経済的にはロシアや中国との関係を強める方が日本にとって有利。業種にもよるが、日本の大企業が中国との取り引きなしに維持できなくなって久しい。前にも本ブログで書いたように、日本の大企業もアメリカ支配層の戦略に耐えられなくなり、日本の経済界は水面下でアメリカ離れを画策している。政治家や官僚のようなアメリカ支配層の代理人と違い、大企業の忍耐が限界に達することも否定できない。そうした中、日本では大企業のスキャンダルが相次いで発覚したのは興味深い「偶然」だ。


 日本で推進されてきたTPP(環太平洋連携協定)は巨大資本のような私的権力が国を支配する体制を築くことが目的で、トランプのFTAはアメリカがターゲット国を支配する仕組みだ。こうした仕組みができてしまえば、日本は主権を完全になくし、ロシアや中国とまともな取り引きができなくなる。別個の戦略が交錯しているが、日本を支配し、食い物にしようとしている点で大差はない。


 アメリカの支配層は単にカネ儲けしよとしているだけでなく、世界制覇を目指している。これは1992年2月に国防総省のDPG草案という形で作成された。草案作成の最高責任者は国防長官だったリチャード・チェイニーで、作業の中心はポール・ウォルフォウィッツ国防次官だった。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。


 その翌年の12月にソ連が消滅したことでアメリカは唯一の超大国になったと彼らは認識、他国に配慮することなく、つまり国連を無視して単独で世界制覇に乗り出すという宣言だ。そのドクトリンに日本を組み込むという宣言が1995年2月に発表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」だ。そのレポートに基づいて安倍首相も日本をアメリカの戦争マシーンに組み込みつつある。


 ちなみにその前年、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月20日には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、同じく3月30日に警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負う。そして8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙は日本航空123便に関する記事を掲載した。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811160000/

5. 中川隆[-13094] koaQ7Jey 2020年4月02日 23:42:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1813] 報告

ジョン・F・ケネディ第35代大統領は東西冷戦体制を終わらせようとしたのでに殺された 2


アメリカにとって日本は属国であり、自分たちの利益を実現するための道具にすぎない。アメリカ支配層と同盟関係にあると言えるのはイギリスやイスラエルの支配層だけだろう。

 それを象徴する連合体が存在する。アメリカのNSAとイギリスのGCHQを中心とする電子情報機関で編成されたUKUSA(ユクザ)だ。


 このUKUSAはファイブ・アイズと呼ばれることがあるが、それはNSAとGCHQのほかにカナダのCSE、オーストラリアのASD、ニュージーランドのGCSBがその連合体に参加しているからだが、最初の2カ国と残りの3カ国では立場が全く違う。


 言うまでもなく、この5カ国はアングロ・サクソン系。イスラエルとは緊密な関係にあるが、他の「同盟国」は属国にすぎない。そうした「同盟国」の大半には情報機関が存在するが、いずれもアメリカ支配層の指揮下にあると見られている。


 かつてソ連の内務官僚は支配下の国々をコントロールするため、各国の情報機関を利用していた。同じことをアメリカの支配層も行っている。さらに、NATO、ANZUS、安全保障条約といった軍事同盟も支配のために使われてきた。


 日本には世界情勢を客観的に分析せず、闇雲に軍事力を誇示したがる人が支配層にも被支配層にもいる。そうした人々を操ってきたのがファイブ・アイズの支配層だが、歴史の転換期に日本人を暴走させ、その結果の責任をすべて負わせようとする可能性は否定できない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901010002/


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利害の対立が強まっているアメリカへの従属を続けるEU 《櫻井ジャーナル》 2019.01.10
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901100000/

 アメリカとEUとの利害対立が強まっている。エネルギー源の問題は特に顕著だ。例えば、現在ロシアとEUは新たなパイプライン、ノード・ストリーム2の建設計画を進めているが、アメリカはこの計画を潰そうとしている。イランからの石油輸入も止めるために圧力を加えてきた。


 本ブログでは何度も指摘してきたように、アメリカやイギリス、つまりアングロ・サクソン系の支配層はユーラシア大陸の周辺部、つまり西ヨーロッパ、パレスチナ、アラビア半島、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ地域を支配して内陸部を締め上げようというのだ。この地域をハルフォード・マッキンダーは内部三日月帯と名付けた。


 その西端の外側にあるのがイギリス、東端の外側が日本。こうしたイギリスの世界制覇戦略において日本は重要な意味を持っている。19世紀にイギリスは中国(清)を略奪するためにアヘン戦争を仕掛けたが、内陸部を支配するための地上部隊が圧倒的に不足、そこで日本が目をつけられたのだ。国家神道の日本を作り上げた明治維新もその後の日本の大陸侵略もそうした視点から見直す必要がある。


 内部三日月帯という包囲網を築くためにはパレスチナとアラビア半島を支配する仕組みが必要だが、その仕組みとして機能しているのが1948年に作られたシオニストの国であるイスラエルと1932年に作られたワッハーブ派の国であるサウジアラビアだ。


 この海の包囲網を機能させる上で1869年に完成したスエズ運河の役割も重要。この運河は1875年にイギリス系企業の所有になり、82年にイギリス軍は運河周辺の地域を占領する。この運河が存在しないなら、船はアフリカ大陸の南端を回らなければならない。


 第1次世界大戦(1914年から18年)と第2次世界大戦(1939年から45年)でヨーロッパ、ソ連/ロシア、中国などは破壊と殺戮で疲弊、イギリスやアメリカの支配層が世界に君臨する時代に入った。(詳細は割愛)


 第2次世界大戦の終盤にイギリスのウィンストン・チャーチル首相がイギリス軍、アメリカ軍、ドイツ軍でソ連を奇襲攻撃しようとしていたことも本ブログで繰り返し指摘してきた。ドイツ軍との戦闘でソ連は消耗、侵略のチャンスだと考えたのだろう。


 つまり、大戦後、ソ連が軍事侵攻してくるような状況にはなかった。そこで組織されたNATOの主要な目的はヨーロッパの支配。NATOが組織される前から「NATOの秘密部隊」は編成され、そのひとつがイタリアで爆弾テロを繰り返したグラディオだ。


 イタリアと同じようにコミュニストの力が強かったフランスでも米英は秘密工作を実行している。フランスで1947年に社会党政権が誕生すると、その内部大臣だったエドアル・ドプは右翼の秘密部隊が創設されたと語っているが、これがフランスにおける「NATOの秘密部隊」。その年の夏、アメリカとイギリスの情報機関は秘密部隊を使い、クーデターを目論む。そのクーデターでシャルル・ド・ゴールを暗殺しようとしたという。


 この計画は成功しなかったが、1961年になるとOAS(秘密軍事機構)という秘密組織が作られた。ド・ゴールに反発する軍人らによって構成されていたが、その黒幕はCIAの破壊工作(テロ)部門。OASはこの年の4月にマドリッドで開いた会議でクーデターを計画する。


 この年、アメリカではジョン・F・ケネディが大統領に就任していた。この計画を知ったケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。選挙期間中、ケネディは「タカ派」だと見られていたが、実際は違った。


 ケネディの発言はクーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということを意味しているわけで、CIAは驚愕する。その後、ド・ゴール大統領は計画に参加していたと見られるフランスの情報機関SDECEの長官を解任、SDECEの暗殺部隊と化していた第11ショック・パラシュート大隊を解散させた。


 それでも諦めないOASの一派は1962年8月にパリでド・ゴール大統領の暗殺を試み、失敗している。暗殺計画に加わったメンバーは9月にパリで逮捕され、全員に死刑判決が言い渡されたが、実際に処刑されたのはジャン-マリー・バスチャン-チリー大佐だけ。ド・ゴールを救ったケネディ大統領は1963年11月に暗殺された。


 ド・ゴール大統領は暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍をNATOの軍事機構から離脱させ、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出した。ド・ゴールはNATOの正体を熟知していた。


 フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのはソ連消滅の4年後、1995年になってからのこと。完全復帰はその14年後だ。


 その間、2003年にアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権はイラクを戦争攻撃した。大量破壊兵器を口実に使っていたが、これが嘘だということは攻撃前から指摘されていた。この攻撃にフランスやドイツは参加していない。


 当時、フランス大統領としてアメリカ政府の姿勢を批判していたジャック・シラクはド・ゴールの流れをくむ政治家だという。そのシラクは大統領を退任した直後、2007年からスキャンダル攻勢にあい、職員架空雇用の容疑で起訴されて2011年には執行猶予付きながら禁固2年が言い渡された。


 現在、EUはイランとの貿易を継続する方策を検討しているらしいが、アメリカ支配層の圧力で前に進んでいない。その間、イランはロシア、中国、トルコ、イラク、インドなどの国々との関係を強めている。


 2014年にバラク・オバマ政権がウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを進めた際、ビクトリア・ヌランド国務次官補とジェオフリー・パイアット駐ウクライナ大使との電話での会話がインターネット上に公開された。その中でヌランドは話し合いでの解決を模索していたEUへの不満を「EUなんかくそくらえ(F*ck the EU)」という表現で表している。イランやノード・ストリーム2の問題でもアメリカ側は同じようなことを口にしているかもしれない。




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2019.03.16
先制核攻撃を目論んできた米国の好戦派はその政策を放棄しない

 アメリカ軍のトップ、​ジョセフ・ダンフォード統合参謀本部議長は上院軍事委員会に出席、軍事政策を変更して核兵器の先制使用を禁止することに反対​すると述べた。


 核兵器が開発して以来、アメリカの好戦派はその先制使用を目論んできた。当初、そのターゲットはソ連。今はロシアと中国を想定しているだろう。これまで先制核攻撃を実行しなかったのは、準備が整う前にソ連が反撃能力を持ってしまったからだ。アメリカがロシアや中国を圧倒できると信じる状況になれば、核攻撃をいつ始めても不思議ではない。


 第2次世界大戦でドイツが降伏した直後、1945年5月に米英軍数十師団とドイツの10師団米英独でソ連を奇襲攻撃するアンシンカブル作戦を立てさせた​ウィンストン・チャーチル首相は下野した後の1947年にアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んだ​と伝えられている。


 その2年後、アメリカの統合参謀本部はソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容を含む研究報告を作成、1952年には初の水爆実験を実施、54年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を立てている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)


 1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(前掲書)このドロップショット作戦は実行するつもりだったと見られている。


 アメリカが初めて水爆実験に成功したのは1952年11月だが、ソ連も53年8月に成功させている。この間隔から考えてソ連は独自に開発しているのだが、放射性物質の分析から技術的にはソ連が上だということが後に判明した。


 それでもアメリカ支配層が先制核攻撃に積極的だった理由は核弾頭の数とその運搬手段。核弾頭をターゲットまで運ぶためには戦略爆撃機かICBM(大陸間弾道ミサイル)が必要なのだが、1959年の時点でソ連は事実上、このタイプのミサイルを保有していなかった。


 アメリカが必要なICBMを準備でき、しかもソ連が準備できていないタイミングで先制核攻撃をすると考えた好戦派の中には統合参謀本部議長だったライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったカーティス・ルメイが含まれていた。そして1963年後半に先制攻撃するというスケジュールが決まったと​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授​は主張している。


 しかし、この計画には大きな障害が存在した。ジョン・F・ケネディ大統領である。アメリカ側の計画を察知していたであろうソ連がキューバへ中距離ミサイルを持ち込んでいることが発覚したのは1962年10月。ICBMに対抗するためだったのだろう。


 アメリカの軍や情報機関の好戦派は即時攻撃をジョン・F・ケネディ大統領に要求したが、大統領は話し合いで解決してしまった。1963年後半に予定した先制核攻撃計画でもケネディ大統領は大きな障害。その障害が取り除かれたのは1963年11月22日のことだった。大統領がダラスで暗殺されたのだ。


 暗殺の直後、CIAはソ連やキューバが黒幕だとする偽情報を流したが、FBIがその事実を新大統領へ伝え、米ソ開戦には至らなかった。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、レムニッツァーは1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めている。沖縄では1953年に布令109号「土地収用令」が公布/施行され、武装したアメリカ兵を動員した暴力的な土地接収が行われる。いわゆる「銃剣とブルドーザー」による接収だ。1955年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になった。その後、現在に至るまで沖縄はアメリカ軍の基地に苦しめられている。


 沖縄の基地問題はアメリカの先制核攻撃計画と密接に結びついている。CIAは沖縄を中国や東南アジアに対する秘密工作の拠点として使ってきたが、それだけではないのだ。アメリカ軍が沖縄をはじめとする日本に基地を建設している目的を「防衛」だと考えるべきではない。


 そうした意味で、2006年当時は非常に危険な状況にあった。アメリカ支配層の機関誌的な存在である​フォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載されたキール・リーバーとダリル・プレスの論文​によると、アメリカ軍の先制第1撃でロシアと中国の長距離核兵器を破壊できるようになる日は近いというのだ。つまりアメリカはロシアと中国との核戦争で一方的に勝てるとこの筆者は考えていた。おそらくアメリカ支配層の相当部分もそう考えていたのだろう。アメリカは2002年にABMから離脱している。


 この分析は2008年に崩れ去る。この年の8月、イスラエルやアメリカの支援を受けたジョージア軍が南オセチアを奇襲攻撃したのだが、ロシア軍の反撃で侵略軍は粉砕されてしまったのだ。つまり、アメリカやイスラエルの軍隊はロシア軍と同じような規模で衝突すると負けるということ。さらに、シリアでの戦争でロシア製兵器の性能は高いことが確認された。


 アメリカ軍は通常兵器での戦闘でロシア軍に勝てない。先制核攻撃で圧倒することも難しい。そこで、自分たちに従属しないと人類を死滅させると脅しているように見える。

 そしてアメリカ軍は2010年7月にポーランドとイージス・アショアの設置で合意、ルーマニアが続いた。日本も購入することになっているこのシステムが使用するランチャーは攻撃型の巡航ミサイルであるトマホークと同じで、ソフトウェアーを変更すれば攻撃用の兵器になるとされている。韓国へはTHAAD(終末高高度地域防衛)を強引に配備した。アメリカが先制核攻撃を放棄したなら、この軍事的な脅しが使えなくなってしまう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903150000/

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2019.04.20
マラー特別検察官の正体

 特別検察官のロバート・マラーは胡散臭さい人物である。経歴を見ると、1988年にパンナム103便の爆破事件で主席捜査官を務めている。この事件の責任はリビア政府に押しつけられたが、実際はCIAが実行した疑いが濃厚。この事件を利用して「リビア制裁」が実行された。


 またBCCIという銀行のスキャンダルの捜査を司法省で指揮した。この銀行はCIAがアフガニスタンで行っていた秘密工作の資金、麻薬取引の儲けなどをロンダリングしていたことで知られているが、その真相を隠蔽したのだ。


 2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとアーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された当時はFBI長官。この攻撃の背後にサウジアラビアとイスラエルが存在している疑いが濃厚だったのだが、これも封印した。


 もうひとつ注目されているのが結婚相手。1966年にアン・キャベル・スタンディッシュと一緒になったのだが、この女性は1953年4月から62年1月までCIA副長官を務めたチャールズ・キャベルの一族。


 チャールズやダレスは統合参謀本部議長だったライマン・レムニッツァーや空軍参謀総長だったカーティス・ルメイらと一緒にキューバ侵攻を目論んでいる。


 まず亡命キューバ人を使った軍事侵攻を実行したが、それは失敗することが見通されていた。彼らはその失敗を口実にしてアメリカ軍を直接、軍事侵攻させるつもりだったのだが、それをケネディ大統領は阻止、中心者たちを追い出したのである。そのケネディは1963年11月22日にダラスで暗殺されたが、チャールズの弟であるアール・キャベルは1961年から64年までダラス市長を務めていた。


 またダレスの側近のひとりで1959年1月から62年2月にかけてCIAの破壊工作(テロ)部門を統括していたリチャード・ビッセルはマラーの親戚。ビッセルもケネディ大統領に解任されている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904200002/

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 いわゆる偽旗作戦だが、これはアメリカ支配層の常套手段でもある。例えば、1898年にキューバのハバナ港でアメリカの軍艦メインが爆沈した事件。アメリカはスペインが爆弾を仕掛けたと主張、「米西戦争」を開始、ラテン・アメリカを植民地化する。フィリピンもこの戦争で手に入れたのだが自作自演説は消えていない。


 統合参謀本部やCIAの好戦派はドワイト・アイゼンハワー政権の時代からキューバへの軍事侵攻を計画していた。当初の予定では、亡命キューバ人の部隊に奇襲攻撃をさせ、その部隊を救援するという口実でアメリカ軍が攻撃するという手順になっていたが、アメリカ軍の侵攻はジョン・F・ケネディ大統領に阻止された。


 そのケネディは1961年11月にアレン・ダレスCIA長官を、62年1月にはチャールズ・キャベルCIA副長官を、62年2月には秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長も解任している。


 好戦派のひとりであるライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長はそれでも侵略を諦めず、1962年3月にノースウッズと名づけられた偽旗作戦を国防長官に説明、拒否されている。その後も議長は大統領を説得しようとするが失敗、1962年10月にケネディはレムニッツァーの議長再任を拒否した。


 ノースウッズに関連した資料の大半は廃棄されてしまったので詳細は不明だが、残された文書によると、キューバのグアンタナモにあるアメリカ海軍の基地をキューバ側のエージェントを装って攻撃、グアンタナモ湾に浮かぶアメリカの艦船を爆破してその責任をキューバに押しつけることが考えられている。


 また、マイアミを含むフロリダの都市やワシントンでプラスチック爆弾を爆発させてキューバのエージェントを逮捕、事前に用意していた書類を公表してキューバ政府が実行したと人びとに信じさせる計画もあった。


 また、民間旅客機の撃墜も演出しようとしていた。フロリダ州にあるエグリン空軍基地で民間機のコピー機を作り、本物の航空機は自動操縦できるようにする。


 CIAが選んだ人びとを乗せたコピー機を本物として通常のフライトのように離陸させ、途中で無人の本物と入れ替える。コピー機はエグリン基地へ降り、無人機はフライト・プランに従って飛行、キューバ上空で救助信号を出し、キューバのミグ戦闘機に攻撃されていると報告、その途中で自爆するというシナリオになっていた。


 これらはノースウッズに含まれるテロ行為の一部にすぎないのだが、好戦派がキューバ制圧にこれほど執着する理由は、当時、彼らが計画していたソ連や中国に対する先制核攻撃にあったと見るべきだろう。


 アメリカ軍が1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市に落とすることになっていたのだが、そのために必要な戦略爆撃機やICBM(大陸間弾道ミサイル)の準備にはある程度の時間が必要。


 ​アメリカが必要なICBMを準備でき、しかもソ連が準備できていないという条件を満たすのは1963年の後半​だと考えられていた。レムニッツァーは議長でなくなっていたが、好戦派仲間のカーティス・ルメイ空軍参謀長がいる。


 そして1963年11月22日、ケネディ大統領は暗殺された。CIAはキューバ犯行説、ソ連黒幕説を流して「報復攻撃」へ誘導しようとするが、失敗した。


 ベトナムへ軍事介入する口実として使われた1964年の「トンキン湾事件」も偽旗作戦のひとつとして有名。アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に砲撃されたとアメリカ政府は宣伝、1965年2月には「報復」と称して本格的な北ベトナムに対する空爆を始めているが、この事件の背後にはアメリカの特殊部隊による作戦があった。


 この特殊部隊の指揮下にあった南ベトナム軍の哨戒魚雷艇が1964年7月に北ベトナムを攻撃、北ベトナムが派遣した高速艇が到着したときには姿を消してた。そこには情報収集活動をしていたアメリカの駆逐艦、マドックスがいるだけ。北ベトナムはマドックスを「報復」として攻撃したと言われている。


 アメリカでは北ベトナムからの先制攻撃で戦闘になったとされ、議会は「東南アジアにおける行動に関する議会決議(トンキン湾決議)」を可決、1965年2月からアメリカ軍は「ローリング・サンダー作戦」を開始、ベトナムへの本格的な軍事介入になる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905130000/


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2019.11.22
56年前に殺されたケネディ大統領と現在の米国の落差

 今から56年前、つまり1964年の11月22日にアメリカ大統領だったジョン・F・ケネディが暗殺された。ソ連との平和共存を訴え、ベトナムからの撤兵を決断、イスラエルの核兵器開発を止めようとし、巨大企業の横暴を批判、通貨の発行権を私的権力から取り戻そうとした人物が殺されたのだ。


 そして現在、アメリカではロシアとの軍事的な緊張を高め、中東に派兵、ラテン・アメリカや東アジアで軍事的な恫喝を続け、イスラエルのパレスチナ人弾圧を支援、私的権力による独裁体制を樹立するための政策を推進しようとする勢力が圧倒的な力を持っている。


 来年には大統領選挙が予定されているのだが、いわゆる「2大政党」、つまり共和党と民主党はこの枠組みの中で活動している。有力メディアも同じことだ。


 こうした政党に属しながら侵略戦争に反対し、TPP(環太平洋連携協定)を批判、銀行業務と証券業務を分離させて投機を抑制していたグラス・スティーガル法を復活するべきだと主張している民主党のタルシ・ガッバード下院議員は議員仲間だけでなく有力メディアからも攻撃されてきた。


 ガッバードほど度胸はないようだが、彼女と似たことを口にしているバーニー・サンダース上院議員も似たような状況にあり、2016年の大統領選挙ではヒラリー・クリントンを候補者に内定していたDNC(民主党全国委員会)からも足を引っ張られた。その策略を明らかにする電子メールを公表したのがウィキリークスだ。


 現在、民主党の最有力候補と言われているのは前副大統領のジョー・バイデンだが、ウクライナにおけるスキャンダルでどうなるかわからない。


 アメリカの支配層は自分たちを世界の支配者だと思い込んでいる。神に選ばれたと信じているのかもしれない。そこで自立しようとする政権は許さない。従属度が足りないと判断された政権は買収、恫喝、暗殺、クーデター、軍事侵略などの対象になる。ターゲットを属国化するためだ。2013年当時のウクライナもそうした状況下にあった。


 そこでバラク・オバマ政権のネオコンはネオ・ナチのグループを使ってクーデターを仕掛け、2014年2月にビクトル・ヤヌコビッチ大統領の排除に成功した。ヤヌコビッチは2010年の大統領選挙で勝利している。クーデターの中心にいたひとりが国務次官補だったビクトリア・ヌランドだ。


 このクーデターでは副大統領だったジョー・バイデンもキエフへ入るなど暗躍しているが、ヤヌコビッチが排除された2カ月後にその息子であるハンター・バイデンが天然ガス会社ブリスマ・ホールディングス(本社はキプロス)の重役になった。


 すでに本ブログでも書いたことだが、後に​ブリスマはハンターやデボン・アーチャーが経営するロズモント・セネカ・ボハイなる会社へ2014年11月から15年11月までの間に350万ドルが支払われている​。アーチャーはエール大学の出身だが、そこでルームメートだったのがジョン・ケリー元国務長官の義理の息子であるクリス・ハインツ。


 当時、ウクライナの検事総長だったビクトル・ショーキンはブリスマ、そのオーナー、ハンター・バイデン、ジョー・バイデン、大統領だったペトロ・ポロシェンコ、ポーランド大統領だったアレクサンデル・クファシニェフスキーを捜査していたが、これは潰された。


 ウクライナ側の説明では、解任を求める圧力は2015年終わりから16年初めにかけての数カ月にわたったという。圧力をかけてきたのはアメリカ大使館で、その工作の黒幕はオバマやジョージ・ソロスが関係しているNABU(ウクライナ反汚職局)だと言われている。


 この話を浮上させたのはジョー・バイデン自身だ。2018年1月23日にCFR(外交問題評議会)で自慢したのである。10億ドル欲しければ検事総長だったビクトル・ショーキンを6時間以内に解任しろと恫喝、実際に解任されたと語ったのだ。その話をドナルド・トランプ大統領はウクライナのボロディミル・ゼレンスキー大統領との電話で口にしたが、それを民主党やアメリカの有力メディアは内政干渉だと主張する。


 判明している事実からすると、トランプ大統領の発言を内政干渉だと言うわけにはいかないが、クーデターを仕掛けて政権を転覆させる行為は明らかに内政干渉。ショーキンを解任させたのは、発覚しそうになった不正行為の揉み消し工作のようにしか見えない。


 バイデンが来年の大統領選挙で勝ち残れると考えるのは楽観的すぎるだろう。そうなるとエリザベス・ウォーレン上院議員が民主党の大統領候補に選ばれる可能性が出てくる。


 ウォーレンはハーバード大学の教授から上院議員になった人物で、TPP(環太平洋連携協定)に反対、崩壊状態の公的な医療や教育を問題にしてきた。内政問題ではまともな主張をしている。


 しかし、外交や安全保障問題になると違う。ネオコンを含むアメリカのシオニストは昔から資金を出す代償として外交や安全保障問題を任せるように求める。内政に口だしはしない。ネオコンから見てウォーレンは許容範囲の中にいる。


 以前から指摘されているが、ウォーレンはパレスチナ問題でイスラエルを批判しない。今回のボリビアにおける軍事クーデターでは「クーデター」という用語を使わず、ヘアニネ・アニェスを「暫定大統領」として認めている。


 これもすでに書いたことだが、アニェスは2013年4月14日、先住民の伝統行事を悪魔の儀式だとし、先住民は都市から乾燥した高原地帯へ行けとツイッターに書き込んだキリスト教系カルトの信者。ファシストとつながるアメリカ支配層の手先だ。


 また、ベネズエラに対する兵糧攻めを支持し、選挙で選ばれたニコラス・マドゥロ大統領を独裁者だと批判する一方、「暫定大統領」を自称するアメリカの傀儡、フアン・グアイドを認めている。


 アメリカは軍事侵略で世界に破壊と殺戮を広げ、略奪を続けている。エリザベス・ウォーレンがそうした行為を批判しているようには見えない。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911210000/

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2020.02.10
カーク・ダグラスが死ぬ前に息絶えていたハリウッド

 俳優のカーク・ダグラスが2月5日に103歳で死亡した。ジョン・フランケンハイマーが監督した「5月の7日間」は軍の好戦派によるクーデターがテーマの作戦だが、その映画で彼は主役を演じている。


 この映画の原作はジャーナリストのフレッチャー・ネベルとチャールズ・ベイリーが1962年に書いた小説。1961年7月にアメリカ空軍の参謀総長に就任したカーティス・ルメイをインタビューしたことが小説を書くひとつの切っ掛けになったとされている。


 言うまでもなく、ルメイは第2次世界大戦の終盤、東京を含む日本の都市を焼夷弾を使った空爆で焼き尽くし、多くの非戦闘員を殺した作戦の責任者であり、広島や長崎へ原子爆弾を投下する上で重要な役割を果たした。


 1948年にはSAC(戦略空軍総司令部)の司令官就任、50年6月に勃発した朝鮮戦争でも日本に対する以上の空爆を実施、朝鮮の人口の20%を殺したと本人も認めているほどだ。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下したのは約16万トンだが、朝鮮戦争で投下された爆弾は約63万5000トンに達する。


 ネベルとベイリーがインタビューした当時、ルメイはライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長と同じようにソ連への先制核攻撃計画に参加、その準備としてキューバへアメリカ軍を侵攻させようとしていた。


 このふたりを含む好戦派の計画を阻止したのが1961年1月に大統領となったジョン・F・ケネディで、1962年9月にはレムニッツァーの再任を拒否している。


 その前にはCIAの長官と副長官が解任されている。1961年11月には長官だったアレン・ダレスを、62年1月には副長官だったチャールズ・キャベルを大統領はCIAから追い出したのだ。ルメイをSACの司令官に留めたことがケネディにとって致命傷になったと考える人もいる。


 ソ連に対する先制核攻撃の準備が進められる中、アメリカ国内ではファシズムに反対する人びとの粛清が始まる。映画界へもその波は押し寄せ、下院の非米活動特別委員会が1947年9月にハリウッドのシナリオ作家、監督、俳優ら19名に対して召喚状を送り、10月23日に出頭するように命じている。


 そのうちのひとりはドイツから亡命していた著名な劇作家のベルトルト・ブレヒト。指定された日に実際、証言させられたのは11名だった。そのうちブレヒトを除く10名が「ハリウッド・テン」と呼ばれている。


 そのうちのひとりが脚本や小説を書いていたドルトン・トランボで、自分の名前で仕事することができなくなった。トランボが自分の名前を取り戻したのはスタンリー・キューブリックが監督、カーク・ダグラスが主役を演じた1960年公開の「スパルタカス」。映画のクレジットにトランボの名前が明記されたのだ。


 しかし、現在のハリウッドは支配層の利益に反する作品を作ることは不可能な状態になっている。表現の自由は失われた。エル・サルバドへアメリカの軍や情報機関が関与している実態を描いた1986年公開の「サルバドル」、ベトナム戦争を描いた86年公開の「プラトーン」、89年公開の「7月4日に生まれて」、93年公開の「天と地」、あるいは87年公開の「ウォール街」や91年公開の「JFK」を監督した​オリバー・ストーン​によると、冷戦が終わってから情況は悪くなり、今では軍を批判したりイラク戦争を取り上げることが困難になっているという。有力メディアと同じように、単なるプロパガンダ機関になったということだ。


 以前にも書いたことだが、「5月の7日間」を映画化するようフランケンハイマーに頼んだのはケネディ大統領である。1962年にホワイトハウス報道官のピエール・サリンジャーを介して依頼したのだが、その大統領は映画が公開される3カ月前にテキサス州ダラスで暗殺された。当時、ダラスの市長はチャールズ・キャベルの弟だ。


 映画の原作が書かれる切っ掛けになる話をしたルメイに対し、ケネディ大統領が暗殺された翌年に日本政府は「勲一等旭日大綬章」を授与している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002100000/

6. 中川隆[-13091] koaQ7Jey 2020年4月03日 11:47:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1816] 報告

マリリン・モンローとジョン・F・ケネディ

モンローの肉体を嘗めたユダヤ人 / ハリウッドに張られた蜘蛛の糸 (後編)
ゴイム(異教徒)を妻にするユダヤ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580296.html


マリリン・モンロー
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テレビ東京が2013年頃、朝の時間帯に昔懐かしい「奥様は魔女(Bewitched)」を再放送していた。綺麗なカラー映像に修正されたコメディー番組を観た方も多いんじゃないか。

このアメリカ・ドラマは元々、昭和40年代に放送されたシットコム・コメディーで、主役のサマンサを演じたエリザベス・モンゴメリー(Elizabeth V. Montgomery)とダーリン役を演じたディック・ヨーク(Dick York)は今でも有名だ。義母のエンドラを演じたアグネス・モアヘッド(Agnes Moorehead)も意地悪の魔女が板に付いていて、とても印象に残る女優であった。米国にはこういった雰囲気を醸し出す、憎いくらい上手な演技をする脇役がいるからすごい。人気ドラマ「ダイナスティー」のジョアン・コリンズ(Joan Collins)みたいな実力派がいるから、ややもすると緩みがちな連続ドラマが引き締まる。

ちなみに、今回「奥様は魔女」を調べてみたら、日本版も制作されていたそうで、人気女優の米倉涼子がサマンサ役を演じていたそうだ。知らなかった。まさか日本人バージョンがあったなんて。観てないから何とも言えないが、おそらく駄作なんじゃないか。日本人がアメリカドラマを模倣して成功した例は少ないだろう。

ドラマじゃないけど、以前に野口五郎がサンタナのヒット曲「スムーズ(Smooth)」を拝借し、「恋はメラメラ」という題にして唄っていた。サンタナのオリジナル版では、人気歌手のロブ・トーマス(Rob Thomas)を起用して素晴らしい出来だったが、野口五郎の方は一度聴けば恥ずかしくて耳を塞ぎたくなるほどの代物である。元曲をあれほど無惨にしたカヴァー曲も珍しい。


  脇道に逸れたから話を戻すと、ドラマの中で美人妻を演じたエリザベス・モンゴメリーは、何とプロデューサーのウィリアム・アッシャー(William Asher)と結婚していたのだ。

彼はユダヤ人の父親とカトリック信徒の母親を持つユダヤ系アメリカ人だが、ユダヤ人支配のハリウッドでは一般的にユダヤ人制作者と見なされていた。

我々とってショックなのは、貞淑な妻を演じていたエリザベスが、私生活では同性愛者や妊娠中絶を支持する筋金入りの左翼活動家であったことだ。確かに、「奥様は魔女」の中にも人種差別を取り上げたエピソードがあって、黒人を対等に扱うサマンサの姿があった。今から思えば、1960年代後半から1970年代にかけて放送されていた番組だから、リベラル色が強くてもしょうがないと考えられるが、「奥様は左翼だった」じゃ笑えない。

それにしても、売れっ子女優がユダヤ人プロデューサーと結婚するなんて、いかにもハリウッドらしい現象である。もし、彼女が一般人女性のままだったら、ユダヤ人と結婚せずに普通の白人男性と結婚していたんじゃないか。

こんな異人種間結婚を見ているから、ユダヤ人に警戒心を抱く西歐系白人や、藝能界に入りたがる娘を叱る親がいるのだろう。仔羊を狼の群れに解き放つようなものだから、まともな親が反対するのも無理はない。それに、生まれてくる孫がユダヤ人の血統なんて考えただけでも恐ろしい。


左: エリザベス・モンゴメリー
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中央: ウィリアム・アッシャー
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右: 「奥様は魔女」
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マリリン・モンローを取り巻くユダヤ人

  ユダヤ人がうじゃうじゃいるハリウッド村は、藝能界というより匪賊や傭兵がたむろする無法地帯と考えた方が的確である。こんな蟻地獄に入って行く若者が跡を断たないんだから、エンターテイメント業界は麻薬に満ちた魔界と呼んでもいい。

米国史の中でも輝かしい1960年代、後世に名を残すこととなった人気女優マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)も、ユダヤ人の魔の手に落ちた悲惨な一例であった。

父親は不明だが、グレイディス・パール・ベイカー(Gladys Pearl Baker)の娘として生まれた、ノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jean Baker)は、義父の「モンロー」姓をつけて藝能界にデビューした。

彼女はラルフ・グリーンソン(Ralph Greenson/ 本名Romeo Greenschpoon)という名うてのユダヤ人を自分の精神科医として雇っていた。このユダヤ人はモンローが自殺した時のセラピストであった。彼はマリリンの精神を安定させるために、過度な薬物治療を行っていたらしい。何かマイケル・ジャクソンに「プロポフォル(propofol)」を過剰投与したコンラッド・マレー(Conrad Murray)医師を思い出してしまう。

こんな麻酔薬(鎮静薬)を個人の邸宅で与えてしまうなんて信じられないが、アメリカという異常な国では非常識が罷り通る。たぶん、グリーンソンも自信満々の医師で、どんどん睡眠導入剤や鎮静剤をマリリンに与えていたのだろう。彼女の友人が証言していたが、マリリンはグリーンソンに会えば会うほど衰弱していったそうだ。


  マリリンの周りには矢鱈とユダヤ人が多かった。グリーンソンの妹エリザベスは、ユダヤ人ミルトン・ミッキー・ラディン(Milton “Mickey ” Rudin)と結婚しており、そのラディンは有力な人脈を持ち、エンターテイメント業界で活躍する法律家であった。そして、彼はマリリンの顧問弁護士も務めていたのである。彼女と昵懇の出版業者アーサー・ジェイコブズ(Arthur Jacobs)や、娯楽企業のMCAで彼女のエージェントを務めるジェイ・カンター(Jay Kantor)とモート・ヴィナー(Mort Viner)もユダヤ人だった。

出演作でもユダヤ人監督に重宝されており、「七年目の浮気」や「お熱いのがお好き」ではビリー・ワイルダー(Billy Wilder)が監督だったことは有名だ。「恋をしましょう」だとジョージ・クコー(George Cukor)が監督で、「帰らざる河」ではオットー・プレミンジャー(Otto Preminger)が総指揮を執っていた。マリリンの個人マネージャーのナターシャ・ライテス(Natasha Lytess)もユダヤ人で、いつも一緒にいたから、二人はレズビアンの関係か、と疑われるくらいだった。また、ユダヤ人写真家のミルトン・グリーン(Milton Greene)も、マリリンのマネージャーになって親しく付き合っていたから、彼女との仲を噂にする者もいたという。


  売春の伝統が根強い韓国では、体で仕事を取る藝能人が多いそうで、悲惨な運命を辿った女性も少なくない。

我が国の藝能界でも所謂「枕営業」があるそうで、さほど人気のない女性藝人は、演技力や歌唱力よりも、有力制作者とか大御所に体を提供して、望む仕事を獲得するらしい。

マリリン・モンローも名声と幸運を摑むために、誰彼となくベッドを共にしたという。

ユダヤ人が跋扈(ばっこ)するハリウッドだから、マリリンが「春」を売った相手も当然ユダヤ人だった。ユダヤ人のテッド・ジョーダンによると、マリリンはキャリアを進展させる為なら誰とでも寝たそうだ。

(Ted Jordan, Norma Jean: My Secret Life with Marilyn Monroe, William Morris & Co., New York, 1989, p.121)

また、アンソニー・サマーズ(Anthony Summers)によれば、彼女がフォックス社と最初のコンタクトを持った時、そのキーパーソンはベン・リヨン(Ben Lyon)で、彼もマリリンと性的関係を持っていたらしい。シェイラ・グラハム(Sheila Graham)も、マリリンが未来のキャリアの為にリヨンと寝たことを述べている。

マリリンの肉体を堪能したリヨンは、キャスティング・ディレクターのソル・ウルツェル(Sol Wurtzel)を呼びつけ、「デインジャラス・イヤーズ」という1947の映画で使ってやれと命じ、マリリンはちょっとした脇役を与えられたという。何とも生々しい裏話だが、藝能界って多かれ少なかれ、こんな横槍が入ってくる。

大物プロデューサーがいきなり素人の小娘をドラマに押し込んだり、ニュース番組の「お天気お姉さん」に任命したり、とやりたい放題の横暴をはたらく。周りのスタッフは大迷惑だけど、有力者に睨まれたら自分の出世が危なくなるから、長いものに巻かれてしまうのだ。

視聴者だって、あまり人気のない女優がどこからともなく新ドラマに抜擢されるから、「どうしてこんな女優が、いきなり重要キャストに抜擢されたんだ?」と訝(いぶか)しく思うだろう。でも、「大人の事情」が絡んでいるから仕方がない。


中央: ナターシャ・ライテスとマリリン・モンロー
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  「美女と野獣」という映画があったけど、美女のマリリンに群がる野獣は本当に多かった。

被服業界の大御所たるヘンリー・ローゼンフェルド(Henry Rosenfeld)も、白くて美しい肌を嘗(な)めた薄汚いユダヤ人の一人だった。彼はアトランティック・シティーにある自宅にマリリンを招き、自分のスピード・ボートに乗せて、甘い一晩を過ごしたそうだ。

マリリンは映画業界で顔が利く、悪名高いユダヤ人ギャングのバグジー・シーゲル(Bugsy Siegel)とも寝ていたらしい。彼の伝記は映画化されたので、このシーゲルについて知っている日本人もたくさんいるんじゃないか。日本もそうだが、藝能界と暴力団は裏で繋がっているから、堅気の人間が毛嫌いするのも分かる気がする。


マリリンのセックス・ライフは10代の頃から既に始まっており、17歳の時にはテッド・ジョーダン(Ted Jordan / 本名 Edward Friedman)と交際していて、彼は後に『ノーマ・ジーン』という本を書いて、マリリンとの性生活を暴露していた。

このジョーダンにはテッド・ルイス(Ted Lewis / 本名 Theodore Leopold Friedman)というミュージシャンの叔父がいて、マリリンはこのルイスとも寝ていたというのだ。彼女が麻薬を覚えたのは、このルイスからであった。本当に腐った奴らである。

  後に有名女優となる野心家のノーマ・ジーンは、のし上がるためには何でもすると心に決めており、ジョーダンにも、誰とでもセックスをするし、その心構えもできている、と語っていたそうだ。

そこで有言実行のマリリンは、著名なゴシップ・コラムニストで、ユダヤ人のウォルター・ウィンチェル(Walter Winchell)と寝たらしい。しかし、一介のコラムニストと性交したくらいでは、ハリウッドで大女優にはなれない。

まだ無名のマリリンはコロンビア・ピクチャーズのハリー・コーン(Harry Cohn)社長に近づいた。「またユダヤ人か !」とウンザリするが、映画会社の社長や重役にはユダヤ人が多いからしょうがない。

このユダヤ人社長はマリリンを自分のヨットに乗せ、夜のクルージングに誘ったそうだ。美しい獲物を捕まえたコーンは、マリリンに向かって服を脱げ、と命じたという。彼女は言わるままに服をぬぎ始めた。すると、あろうことか、この助平ユダヤ人は、自分のペニスを握りながら彼女に近寄ってきたのだ。

大抵の女性なら、「えっぇぇ!! 何 ! 嫌だ!!!」と真っ青になって叫ぶだろう。マリリンも同じで、彼女はコーンを拒絶したそうだ。そりゃそうだろう。こんな変態ユダヤ人とセックスするなんて、どこか精神が異常じゃないとできない。

マリリンに肘鉄を食らったコーンは、とても激怒したそうで、マリリンは「あんなに怒った人を見たことがない」、と語っていたそうだ。

(Ted Jordan, Norma Jean : My Secret Life with Marilyn Monroe, William Morris & Co., New York, 1989, p.91)


左: マリリン
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  自分のペニスを握って近寄ってくるユダヤ人なんて、想像しただけでも背筋に戦慄が走る。いくら出世のためとはいえ、マリリンの眼に映る発情したコーンの姿は、余りにも酷かったのだろう。若い娘なら当然である。

しかし、権力者を怒らせたマリリンは、コーンからの報復を受けた。彼女はコロンビアの撮影所に出入りすることを禁じられたそうである。かつて、マリリンは藝能界の実情を語っていた。

  プロデューサーが女優に台本に関して話があるからオフィスに来いという時があるでしょう。でもね、それは台本の打ち合わせじゃないのよ。・・・私はプロデューサーたちと寝たわ。もし、寝ていないと言ったら嘘になるもの。

  1955年に20世紀フォックス社と大きな契約を結んだ時、彼女はようやく不動の地位を手にした女優になれた。そして、マリリンはこう呟いたという。

「私はもう二度と、あいつ等のペニスをしゃぶらないわ」、と。

マリリンは年を重ねる毎に反ユダヤ的感情が募ったようで、大御所のジョー・シェンク(Joe Schenck)のことを「あの糞ユダ公(that Jew shit)」と呼んでいたらしい。他のハリウッド・ユダヤ人に対しても、「あのユダ公 ! とか、このユダ公 !」と罵っていたようだ。しかし、彼女は後にユダヤ教に改宗するが、この反ユダヤ感情は妨げにならなかったらしい。やはり、女優の頭はどこか普通と違うのだろう。


中央と右: マリリン・モンロー
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  マリリンは性的に弄ばれていたが、政治的にも利用されていたようだ。精神科医のラルフ・グリーンソンは、彼女の指導者みたいな身分になっていたが、彼には別の顔があった。このユダヤ人は積極的な共産党員で、コミンテルンにも係わっていたという。そして、彼の妹エリザベスの証言によれば、兄のラルフは熱心なシオニストで、イスラエルとの太いパイプを持っていたそうだ。

まったく、ユダヤ人のコミュニストって本当に多いんだから嫌になる。かつて、ハリウッドの共産主義者をあぶり出す「赤狩り」が行われたけど、真っ赤なユダヤ人の映画監督や脚本家、プロデューサーなどが至る所にいたから、保守派のアメリカ人が怪しんだのも当然である。

よく知られているのは、左派が多数を占めるユダヤ人に対するチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)の警告である。この「アメリカ第一主義」を掲げる大空の英雄はこう述べた。

  ユダヤ人は我が国にとって最大の脅威である。彼らは我々の映画界、出版界、ラジオ局で広範囲な所有権を持ち、我々の政府において絶大な影響力を行使しているのだ。
(Harold Brackman, The Attack on “Jewish Hollywood”: A Chapter in the History of Modern American Anti-Semitism, Modern Judaism, Vol. 20 , 2000,p.5.)

  ユダヤ人の害悪については、リンドバーグのみならず、他の議員も警戒心を強めていた。例えば、ミュズーリ州選出のジョン・ランキン(John Rankin)下院議員は、ユダヤ人が合衆国政府の転覆を狙った最大の陰謀の一つに責任がある、までと述べていたのである。また、彼は大胆さを以て、米国においてユダヤ人は反政府活動の温床である、と喝破していたのだ。 現在の政治家なら絶対に口に出来ぬ発言である。しかし、当時のアメリカには、まだ言論の自由が残されていた。保守派のアメリカ人が1950年代を懐かしんだのも理解できよう。

ついでに言えば、マリリンと結婚した三番目の夫アーサー・ミラー(Arthur Miller)は、ユダヤ人の劇作家であったが、これまたハリウッドのユダヤ人らしく極左活動家で、黒人に対する人種差別に反対し、労働活動にも熱心に係わっていた人物である。彼も真っ赤なユダヤ人仲間を持っていたので、反共の闘士ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)議員に目を附けられていた。彼は下院の反アメリカ活動調査委員会に召喚されたことがあるが、仲間を裏切ることを拒否し、断じて口を割らなかったという。ユダヤ人にとったら、愛国心よりも同胞愛の方が大切だからねぇ。


  マリリンがセックスした中で最も権力を持っていた男と言えば、やはりジョン・F・ケネディー大統領だろう。

大統領と姦通したマリリンがもたらす寝物語は、グリーソソンにとって貴重な情報源となったはずだ。いくら大統領とはいえ、惚れた女とベッドを共にすれば、何てことはない雑談の中で、国家機密に繋がる重要な情報を漏らすことだってあり得る。当時は冷戦真っ只中。合衆国大統領がどんな考えなのかを直に知る絶好の機会だ。

特に、コミュニストのグリーンソンは、ソ連やキューバに対する外交方針や、イスラエルに関する大統領の考えを知りたかったはず。だから、セラピストのグリーンソンに何でも打ち明ける、警戒心が全く無いマリリンは「便利な馬鹿(useful idiot)」だった。

  大女優になっても精神的に不安を抱えるマリリンは、何でも医者に頼る癖がついていたという。当時のハリウッドでは、リー・シュトラスバーグ(Lee Strasberg)という精神分析医が非常に持て囃されていた。大物俳優といえども、人には言えぬ悩みを抱えているだろうから、誰かしら相談役になる人が必要だったのであろう。だから、こうした弱点を持つ有名人を食い物にするセラピストがいたのも当然で、こうした悪徳医は患者にとっての「神」を演じていたのである。

自分の判断一つで大女優や二枚目男優を操ることができたから嬉しくてたまらない。名優のマーロン・ブランドーには、ベラ・ミッテルマンという精神科医がついていたが、ブランドーはシュトラスバーグについても述べていた。ブランドーの評価では、シュトラスバーグは俳優が集まるスタジオに来る人々を餌食にする冷血漢であったという。しかも、相当な野心家で自分勝手ときている。

彼は自分自身を、まるで神託を告げる司祭か、新興宗教の教祖のように思っていたらしい。彼にたぶらかされた人々は、シュトラスバーグをラビ(ユダヤ教の教師)の如く崇めていたという。ところが、マリリンはこんな類いの精神科医に傾いていたのだ。

日本でもよく藝人が、怪しい霊媒師とか占い師に嵌まることがあるけど、アメリカでも似たような事が多い。マリリンはフロイトの精神分析にも興味を示したそうで、彼女は実際フロイドの娘アンナ・フロイトにロンドンで会っていた。彼女の診断でも、マリリンは相当精神を病んでいたらしい。


左: マーロン・ブランドー
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右: マリリン
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  精神的に不安定なマリリンだったから、薬の過剰摂取で死亡したのだろう。だが、彼女はある意味、主治医のハイマン・エンゲルバーグ(Hyman Engelberg)とセラピストのラルフ・グリーソンに殺されたようなものだ。グリーンソンは助手に鎮静剤の投与を指示していたのだ。しかし、投与されたバルビツール酸系薬が多すぎたため、マリリンは副作用を起こして心不全となり、若くしてこの世を去ることになった。助手からの報告を受けたグリーンソンが、彼女の部屋に駆けつけた時には、既にマリリンは死亡していたという。

後に、色々な陰謀説が囁かれたが、実際は薬物中毒による死亡である。それにしても、哀れな最期だ。おぞましい枕営業を経て、大女優への道を駆け上ったのに、その栄光を味わう精神が衰弱していたのとは。

華やかな藝能生活を送っていた人気女優が、裏では薬漬けの日々を送っていたのだ。何の苦労だったのか分からなくなる。


右: マリリンとジョー・ディマジオ
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  何はともあれ、マリリンの人生には色々な男がいた。映画界の大物やマフィアのギャングと寝ていたかと思えば、野球選手のジョー・ディマジオと再婚したり、はたまたフランク・シナトラと浮き名を流したり、と寄り添う男の幅が広い。

中でも、ジョン・F・ケネディーとロバート・ケネディーとのダブル不倫は有名だ。

英雄は色を好むと言うが、このケネディー兄弟は異常である。
世間はハーバード大卒の爽やかな紳士と評するが、一皮剝けば下半身がだらしないアイリス系移民の倅(せがれ)たちである。兄が肉体関係を結んだ女に、弟も手をつけるなんて、恥知らずというか変態に近い。

一方、マリリンにも倫理観がこれっぽっちも無かった。女房や子供を持つ男と姦通しても平気なんだから。これではユダヤ人たちがマリリンのことを「シクサ(Shiksa)」、則ち「穢れたケダモノ」と呼んでも致し方ないじゃないか。

マリリンからすれば、男を踏み台にして出世したつもりだろうが、セックス相手からすれば、精液を噴射できる共同便所に過ぎない。

ただ、ユダヤ人に蔑まれながらも、ユダヤ人のアーサー・ミラーが結婚してくれたんだから、これだけでも彼女にとって救いになる。たぶん、ミラーは本気で彼女のことを愛していたのだろう。

ただし、ミラーがマリリンのことを「トロフィー・ワイフ」と見なしていたら残念だ。仮に、そうであっても仕方がない面もある。冴えない容姿のユダヤ人作家が、世間が持て囃す金髪美女を手に入れたのだ。親戚や友人に自慢したくなるのも無理はない。三番目の旦那なんだから、マリリンだって贅沢な要求はできないだろう。


凌辱される同胞の女性

  マリリン・モンローが送った波瀾万丈の人生は、多くの事を我々に教えてくれる。

まづ、藝能界はヤクザの世界、ということだ。堅気の娘が足を踏み入れる職場ではない。

ハリウッドは賤しいユダヤ移民が築き上げた悖徳の帝國で、当初はアメリカ白人に媚びて映画界の社会的イメージを向上させたが、一旦巨大な帝國が出来上がれば、そこに飛び込んでくる白人娘を娼婦と見なした。

憧れのハリウッドに旅立つ女優の卵は、狼の群れに迷い込むひよこと同じだ。
映画での配役を獲得すべく、ユダヤ人達に“輪姦”されても、必要経費としか考えない。娘の藝能界入りを許した両親は、娘が裏で凌辱されている事に気づかないんだから、まさに「知らぬが仏」だ。

日本人の親も充分認識すべき現実である。娘がモデルとかアイドル、女優になりたいと言い出し、それを許すなら、可愛い娘を穢らわしいヤクザや下劣な朝鮮人どもへ「生け贄」として差し出した、と諦めるべきだ。


左: 桃井かおり
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右: 「エロスの甘き香り」
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  ちょっと痛ましい話になるけど、女優の桃井かおりには国際政治学者の桃井眞(ももい・まこと)がいた。1991年に起きた湾岸戦争の時、報道番組に出演していたのを覚えている方もいるだろう。桃井かおりは少女時代、英国にバレー留学していたことがあり、どうも可愛い孫娘が立派なバレリーナになるようと、バレリーナの祖母が望んだらしかった。父親の真は娘をたいそう可愛がったようで、まさしく箱入り娘として育てたらしい。しかし、白人ばかりのバレー教室に通っていたかおりは、黄色いアジア人ということで劣等感を抱き、バレリーナになる夢を断念する。

帰国したかおりは演劇を始め、親に内緒で女優になっていた。一時は勘当されたこともあったそうだ。父親が女優業に反対したのも当然であろう。とりわけ、出演した映画の中にエロ作品があったからもう大変。映画ファンならロマン・ポルノ作品の「エロスは甘き香り」や、70年代らしい「けだるさ」を表現した「もう頬づえはつかない」をご存知だろう。

大切に育てた娘が、見知らぬ男と裸でからむベッドシーンを見て、父親の桃井眞はどんな気持ちだったのか? もしかしたら、劇場へは行っていないのかも。そもそも、娘の裸を銀幕で見たいと思う父親はいないだろう。だって、相手の男優が娘の肌を嘗めたり、乳房を揉んでいるんだぞ。怒りと悲しみで胸が張り裂けてもおかしくはない。映画を観る以前に、涙がこぼれてくるじゃないか。


右: 「もう頬づえはつかない」の桃井かおり
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  若い娘を凌辱するユダヤ人はトンデモないが、それを平然と行うユダヤ人の心情とは如何なるものなのか?

一番考えられるのは、欲望剝き出しの世俗主義者という点だ。
純情な白人娘を裸にすれば、大金が儲かるからドンドン淫乱な映画を作るのは分かる。だが、その根底には、西歐社会への憎悪が漲っているのだろう。

ユダヤ人にしてみたら、アメリカ社会は西歐白人が作ったもので、彼らの祖先が築いたものではない。米国は散々ユダヤ人をイジメてきた西歐人が建てた国家であるから、彼らの倫理観や価値観、伝統文化をを守る必要性はどこにも無いのだ。

キリスト教徒が仲間の女性に求める貞操観念や立居振舞い、女性らしさ、気高さなんて、むさ苦しい生活を送ってきたユダヤ人にとって、何の意味も無いし、犬の糞みたいに踏み潰しても気にならない。むしろ、踏み潰すことに快感を覚える。

興味深いことに、ユダヤ人の監督や脚本家は、喜んでキリスト教徒の家庭を愚弄するが、ユダヤ教徒の家庭や価値観を馬鹿にすることは滅多にない。

キリスト教徒の西歐系アメリカ人であれば、「そんなに伝統的価値観を毀したいなら、まづ最初に因習的なユダヤ人社会をターゲットにしたらどうか」と提案したくなる。なぜなら、男尊女卑で人種差別の激しいユダヤ人コミュニティーには、リベラル派のユダヤ人が攻撃したくなるような材料がごまんとあるからだ。わざわざ異教徒(ゴイム)たる西歐キリスト教徒に、その矛先を向けていないで、身近な同胞のコミュニティーを批判する方が先じゃないのか。

「社会正義」をふりかざす赤いユダヤ人は、普通に黒人を「黒いケダモノ」と呼ぶユダヤ人のオバちゃんを非難しろ。


中央: ユダヤ人女性
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右: ユダヤ人男性
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  米国のユダヤ人を見れば、いかに異人種と共存することが危険であるか、が判るだろう。

現在のアメリカでは同性愛者を擁護したり、黒人を礼讃するTVドラマが着々と作られている。すでに長いこと左翼作品が日常にしっかりと組み込まれているから、一般人はもはやその異常性を不思議と感じないのだ。

日本でも藝能界やマスコミに朝鮮人や支那人が浸透し、正常な日本人の精神を歪めている。

そして、藝能界に魅せられた少女たちが、どんどん卑劣な連中に犯され、それが表面に浮き出で問題になることはない。暴露される前に握り潰されるからだ。

ヤクザ的な藝能関係者やアジア系の大物にとって、日本人娘の肉体は、どれほど侮辱しても構わない肉の塊だ。みんなで廻して凌辱すれば、「あの淫売女め !」と酒場で笑い罵ることができ、ますます酒が旨くなる。大日本帝國に支配された朝鮮人にしたら、祖国の同胞が成し遂げられなかった復讐を、個人レベルで果たしたことになるだろう。

そして、日本人の女を性的に従属させることは、被征服民にとって勝者の証となる。ユダヤ人に加え支那人、朝鮮人といったアジア人に対抗できない気弱な民族は、徹底的に打ちのめされるまで被害に気づかない。毎回言うけれど、後悔が先に立ったことはないんだぞ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580296.html

▲△▽▼


海軍特殊部隊(Navy SEALs)出身で、プロレスラーにもなったジェシー・ヴェンチュラ(Jesse Ventura)は、ミネソタ州民の熱狂的な支持を得て、同州の知事に当選した。
彼は鋭い判断力と強固な意志を持っているが、敵を作りやすい独立独歩の奇人である。この俳優上がりの知事は、既存の政党が大嫌いで、かつては「独立党」や「改革党」に属していたが、今では「緑の党」に心を寄せているそうだ。

ベンチュラ元知事は合衆国政府の不正や腐敗にも敏感で、ジョン・F・ケネディー暗殺の本を書いたり、9/11テロの疑惑を追及するテレビ番組でも人気を博していた。

彼がオズワルド単独説に疑念を抱き、イタリア製のライフルを用いて実際に狙撃を試みた番組は圧巻だった。

元エリー部隊の軍人でも不可能な「狙撃」を、下っ端の通信兵に過ぎない海兵隊員ができたなんて、とても信じられない。この検証実験を観たアメリカ人は、狙撃に失敗するヴェンチュラを目にして「えぇぇっ〜」と驚き、ますます政府の報告書に疑念を抱いたという。

ちなみに、オズワルドはソ連に亡命する前、厚木基地に勤務する通信兵だった。(ゴルゴ13より優秀な通信兵スナイパーなんて・・・、嘘みたい。)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68773915.html

▲△▽▼

ニュービーはあるエピソードを紹介している。
時は、ジョン・F・ケネディー大統領まだ生きていた頃。彼はアイゼンハワー政権から引き継いだCIAの極秘作戦(covert operation)、通称「マングース作戦(Operation Mangoose)」を1961年に承認し、キューバのフィデル・カストロを失脚させてやろうと考えた。

何しろ、当時のアメリカは「ピッグス湾上陸作戦(Bay of Pigs Invasion)」で失敗した後だから、どうしても次の手を打つ必要があった。とりわけ、面子を潰されたCIAは躍起だった。軍を出し抜いてカストロを排除しようと思ったら、殊のほかCIAの作戦が杜撰で、上陸作戦のメンバーは窮地に・・・。

焦ったCIAは大統領に爆撃機の支援を仰ぐが、ケネディーはこれを却下。最終的に、CIAに協力した地下組織のキューバ人はカストロ側に捕まってしまう。


(左 : ジョン・F・ケネディー / フィデル・カストロ / チャールズ・カベル / 右 : アール・カベル )

当時、CIAの副長官を務めていたのは、合衆国空軍のチャールズ・カベル将軍(General Charles Cabell)だ。1962年1月、ケネディー大統領は作戦の失敗を咎めてカベル将軍を解任。だから、この空軍大将が激怒したのも不思議じゃない。殺したくなるほどケネディーを憎んだんじゃないか。

そして、CIAに恥をかかせたケネディー大統領は、翌年の1963年11月22日、遊説先のテキサス州ダラスで暗殺された。(これは「エルム街の悪夢」じゃなく「エルム通りの惨劇」だ。)

時のダラス市長は、カベル将軍の弟であるアール・カベル(Earle Cabell)。何とも“出来すぎた”シチュエーションだよねぇ〜。(ちなみに、この暗殺事件には副大統領のジョンソンやハワード・ハントが深く関わっていた。そして、「マングース作戦」を指揮したのは合衆国空軍のエドワード・ランズデール少将だ。この軍人は実に興味深いが、ここでは立ち入らないことにする。)

  戦争には幾つかの形態があって、ミサイルや白兵戦を用いる直接攻撃もあれば、政治宣伝を使って内部混乱を狙う間接攻撃もある。この他に、敵国の経済をメチャクチャにして民衆の暴動を煽り、反体制派に政府転覆を肩代わりさせるという手口もある。

ケネディー政権の了承を取り付けたCIAは、キューバ経済を徹底的に破壊して、カストロ政権を打倒しようと考えた。その一環として目を附けたのは、キューバ経済を支えるサトウキビであった。ニュービーが接触した元CIA局員の話によれば、彼がまだ新人職員であった頃、上司から二つの箱を渡され、この中身をキューバの上空からサトウキビ畑に播いてやれ、と言われたそうだ。

こうして最初の任務を命ぜられた新米は、セスナに乗ってキューバ上空に向かい、目標の地点で箱の蓋を開けると驚いた。そこには感染したダニが一杯詰まっていたのだ。

でも、命令は絶対だ。彼は飛行機の扉を開けると、急いで箱を逆さまにしてダニを振り落とした。身震いするほどの恐怖だったが、即座に扉を閉めて、さっさと帰還したそうだ。

(なるほど酷い作戦だけど、アメリカの諜報機関は敵国人を「人間」とは思わない。もし、キューバ人が同じ事をしたら、何年経ってもアメリカ人はキューバ人を赦さないだろう。)

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68797866.html


7. 中川隆[-13090] koaQ7Jey 2020年4月03日 11:53:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1817] 報告

マリリン・モンローとジョン・F・ケネディ 2


ケネディを撃ったのは、運転手とグラシノールの丘の狙撃手です。

つまり、実行犯として逮捕されたオズワルドは、一切関係なかったというわけです。

この事件は、初めから計画されていたシナリオどおりの暗殺でした。

それにしても、ケネディは、なぜ暗殺されたのでしょうか?

理由の一つは、前にも述べましたが、人種差別問題、CIAとの確執、麻薬とマフィアの撲滅、軍需産業の縮小、ベトナム戦争撤退など、彼の政策は、シークレットガバメントに逆らう行為だったからです。

また、他にも彼は米政府を支配するシークレットガバメントから、自由を取り戻そうとしたり、

連中が支配している貨幣発行権を取り戻したり、

さらには、パレードの日に、シークレットガバメントの存在を、国民の前で発表しようとしていたのです。

だから、邪魔者とされ、この世から消されたのです。

ケネディは暗殺される前に、シークレットガバメントの存在を、彼の愛人だった「マリリン・モンロー」に話しています。

それを聞いたマリリン・モンローは、知人のジャーナリストに、そのことを電話で喋ってしまいました。

電話の内容は、CIAが盗聴。

マリリン・モンローもまた、邪魔者として暗殺されたというわけです。

〈マリリン・モンロー〉


ケネディが暗殺され、マリリンモンローが暗殺され、これだけでは終わりませんでした。

実はケネディの次男も殺され、

三男は車で秘書と共に海に転落させられ、秘書が死亡・・・

以後、その恐怖で三男は政界から去ってます。

マイケル・ジャクソン、ジョン・レノン、ダイアナ妃、尾崎豊、中川昭一などは、
ケネディ同様にシークレットガバメントの命令で何者かによって暗殺された人たちです。

ファシズム国家である米国では、政府に反対する発言や行為は非常に危険で、それは警察や軍も敵に回すことになるのです。

ケネディ暗殺後、当時の副大統領だった「リンドン・ジョンソン」が中心となり、
ケネディ暗殺に関する資料や証拠物件をまとめた「ウォーレン報告書」という調査報告書が存在します。

この報告書には、事件の詳細を2万ページにも及んで記載しています。

が、その内容は未だ明らかにされていません。

〈ウォーレン報告書〉


副大統領だったリンドン・ジョンソンが、ケネディの後、大統領に就任しました。

ジョンソンは、フリーメイソンのメンバーでした。

シークレットガバメントは、彼が大統領に就任すれば、米国をコントロールするのに好都合だったのです。

だから彼をケネディの後の大統領に据えたのです。
http://sekainoura.net/oworen.html


マリリンを殺した4人の男たち
1960年代アメリカ暗殺史の系譜と符号

「1962年6月、モンローの女優としての評判は下降線を辿っていた。モンローはCIAと組織の陰謀を知っていた上、著しく精神の安定を欠いていた。7月にはボビー(ロバート・ケネディ)との関係も切れ『何もかもばらす』と脅しをかけるようになった。

彼女の電話を盗聴し逐一監視していたCIAは、復讐にかられた麻薬中毒のモンローに全てを暴露されることを恐れ、ムーニー(サム・ジアンカーナ)に彼女の始末を依頼した。

 1963年8月5日、殺し屋たちは暗くなるのを待って、午前零時前に自宅に侵入した。すでに彼女はボビーの医師が鎮静剤を打っていたおかげで、ぐったりしていた。

彼らはマリリンを裸にすると、口をテープで封じ、医師が特別に処方したペントバルビタールの座薬を注入した。

口から致死量の睡眠薬を服用させれば嘔吐しかねないが、座薬は肛門膜組織から直接血管に吸収され、胃から検出されるものは何も無い。彼らは彼女が完全に意識を失ったのを確認すると、テープをはがしマリリンの口元をきれいに拭いて、そして静かに消えて行った」
---「DOUBLE CROSS」by Sam Giancana and Chuck Giancana P370-373より抜粋


 モンローの死因を扱ったテレビ番組はこれまで何度か放映されてきたが、その決定的な真相に迫るものは何一つなかった。せいぜい死亡当日にボビーが彼女と言い争いをしていた程度に留まるもので、ためにボビー犯人説を示唆するという、無責任なものであった。

確かにボビーはモンローと会ってはいたが、司法長官という立場上からも暗殺までするとは考えられない。そのことを最も熟知し、徹底して利用したのがCIAだった。しかもCIAはFBIを使ってボビーが訪れた痕跡すら消して、その後の司法長官としてのボビーに圧力をかけるようになる。つまり恩を売ったわけだ。

しばらくは大人しくしていたボビーも、その潔癖な正義感から再び不正に挑むようになる。激怒した彼らは大統領でもあった兄を公開処刑してボビーに警鐘を鳴らす。自分たちに逆らう者はこうなるのだと・・・だが、ボビーはかえってそれを契機に発奮すると大統領選にうって出る。これこそが彼らが最も恐れていたことであった。再び闇の政府が始動する。その結果が1968年6月6日だった。
http://oriharu.net/gabana_n/zaakan/hibi0506/hibi-niisi-050607.htm


▲△▽▼


マリリン・モンローから19歳のインターンまで、ケネディが流した浮名
2013年11月18日 13:45 発信地:ワシントンD.C./米国
http://www.afpbb.com/articles/-/3003473


【11月18日 AFP】ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領は多くの魅力的な女性に囲まれていた。妻のジャクリーン(ジャッキー、Jacqueline Kennedy)はもちろん、大統領就任を後押しした母親のローズ。それから映画スターに、ホワイトハウスで働く10代のインターン、マフィアと関係のある女性……。

 50年前に暗殺されたケネディが、多くの女性たちと複雑な関係にあったことに疑いの余地はない。

 彼がこうした女性たちを、大統領に上りつめ権力を維持するうえで助けになる人物として大切にしてきたのか。あるいは自分の旺盛な性欲を満たすために、彼女たちをもて遊んだだけなのだろうか。

「ケースバイケースだ」と言うのは、10月に『The Kennedy Half-Century: The Presidency, Assassination and Lasting Legacy of John F. Kennedy(ケネディ半世紀)』を上梓し、ベストセラー作家となったラリー・サバト(Larry Sabato)氏だ。

「JFKは、力や影響力のある人々に対しては上品で礼儀正しく振る舞った。だが彼の性欲は飽くことがなかった。今日で言うなら、彼は若く美しい女性を性の対象として扱っていたのだ」と、バージニア大学(University of Virginia)政治学センターのセンター長も務めるサバト氏はAFPに語った。

 ケネディの人生の中心にいたのは、妻のジャッキーだ。旧姓ジャクリーン・ブーヴィエ(Jacqueline Bouvier)は1929年7月、裕福な家庭に生まれた。彼女の洗練されたファッションスタイルには、世界中が注目した。

 ケネディがテキサス(Texas)州ダラス(Dallas)で暗殺されたとき、ジャッキーはあのオープンカーで彼の隣に座っていた。その後の数時間、彼女が夫の血が飛び散ったシャネルのピンクのスーツを着替えることを拒んだのは有名な話だ。「犯人たちがジャックに何をしたのか見せてやりたい」と、彼女は言った。

 ケネディ家は現代アメリカの恵まれた家庭を象徴するイメージを世間に与え続けたが、大統領のプライベートは愛人に囲まれた生活だった。

 最も有名なのは女優のマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)だ。ハリウッドのセックスシンボルは、1962年の民主党の資金集めパーティーで、色気たっぷりに「ハッピーバースデー」を歌った。誕生日を祝ってもらったケネディは喜びを隠さなかった。

 今年8月に出版された『These Precious Few Days: The Final Year of Jack with Jackie(貴重な数日間:ジャックとジャッキーの最後の年)』の著者でジャーナリストのクリストファー・アンダーソン(Christopher Andersen)氏によれば、ジャッキーは2人の関係を知っていただけではなく、モンローに夫を譲ってあげると告げたという。

「あなたがホワイトハウスに入って、ファーストレディーとしての責務を負って、すべての問題を抱えればいいのよ」と、ジャッキーはモンローに語ったといわれる。モンローは1962年8月、薬物の過剰投与で亡くなった。

 ジャッキーの言う「問題」には、ジュディス・キャンベル・エクスナー(Judith Campbell Exner)のことも含まれていたかもしれない。彼女がケネディと2年間、熱い関係にあったことは、歴史家たちも認めるところだ。

 ホワイトハウスのインターンだったミミ・ビアーズリー(Mimi Beardsley)の場合は、ケネディに言い寄られたときはまだ19歳だった。彼女が言うには、男性と性的関係を持ったのはケネディが最初で、初めてのセックスはケネディ夫妻の寝室だった。その後、2人は大統領のバスタブでアヒルのおもちゃで遊ぶほど親しくなる。2人の関係は1年半続いた。

「後悔していない。私は若かったし、誘惑された。その事実は変えられない」と、彼女は2012年に出した回顧録で記している。

 ケネディがいったい何人の売春婦を雇ったのかは誰にもわからない。だが護衛たちが、ソ連との核戦争前夜ともいわれた時代に、スパイ行為や脅迫を恐れるに足る人数だったことは確かだ。

「彼はときに、少し問題がある女性をそばに置こうとする傾向があった」と、ケネディの護衛を務めていたアンソニー・シャーマン(Anthony Sherman)氏は1997年にABCテレビのドキュメンタリー番組で語っている。素性が怪しい女性たちだ。

 サバト氏も、「JFKは大統領職と家族を何度も危機にさらした。外国の諜報機関が彼の問題行動について何らかの情報を得ていたのは、ほぼ確実だ」と語っている。

 母親のローズ・ケネディ(Rose Kennedy)が息子の女遊びを知っていたのは間違いない。彼女もジャッキーと同じく、夫の数々の浮気に耐えた女性だ。実業家で大使も務めたケネディの父親ジョセフ(Joseph Kennedy)は、1920年代に当時の映画スター、グロリア・スワンソン(Gloria Swanson)と3年間、愛人関係にあった。それは、まるで40年後のケネディとモンローを予兆させるような関係だった。(c)AFP/Robert MACPHERSON

8. 中川隆[-13089] koaQ7Jey 2020年4月03日 11:54:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1818] 報告

アメリカ軍は敵を強大に見せかけるほど予算を貰えるので、なるべく敵を強く見せようとする


アメリカ軍は自国の敵を強大に見せかけるほど予算を増やしてもらえるという利害関係があるので、なるべく敵を強く見せようとします。

冷戦時代「ソ連には4000発の核ミサイルがあり、米国は叶わない」と主張したが、実際には数発しか発射可能な核ミサイルを持っていなかった。


ソ連やロシア戦闘機を強く見せかけるのも恒例で、そうする事で新型戦闘機の開発予算を獲得しました。

中国製兵器についても大体は「アメリカ製に匹敵する」と書かれているが、大概にしろという感じです。

例えば中国の原子力潜水艦は、現実に外洋にでて稼動しているものが1隻もなく、従って米国にミサイルを撃ち込めないとされている。


アメリカ軍人や軍関係機関の言い分を真に受けていると、今にも中国やロシアが米本土に上陸するように思えてくる。
http://www.thutmosev.com/archives/66172033.html#more  


9. 中川隆[-13087] koaQ7Jey 2020年4月03日 12:06:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1820] 報告

アメリカ軍は敵を強大に見せかけるほど予算を貰えるので、なるべく敵を強く見せようとする _ 2


2016年09月27日
中国が輸出する潜水艦の中身 Uボートの改良版
http://thutmose.blog.jp/archives/66172033.html

70年前のUボートをここまで改良したのは立派、039A型潜水艦
引用:http://image01w.seesaawiki.jp/n/2/namacha2/f8102e2090aac208.jpg


米軍が中露の兵器を褒める理由

中国はこのところ潜水艦の輸出攻勢を掛けていて、と言っても成約はパキスタンとタイだけだが、多くの国に売り込んでいる。

潜水艦の性能は現代兵器の中でもとりわけ秘密にされていて、外部に公開されることは無いとされている。

それでも断片的な情報や、技術的な変遷を辿ることで、その性能を推測する事ができる。

どの国でもそうだが、輸出用兵器は自国で使用する兵器より性能を落とすもので、日米や欧米も例外ではない。

ソ連やロシアが輸出する兵器もダウングレードした物で、中国が輸出するのも当然、国内向けより劣っている。

すると中国が自国で使用している兵器の性能が分かれば、輸出仕様のレベルもおのずと察せられます。


情報量としてはアメリカ軍やアメリカ研究機関が多いのだが、過去の例から信憑性が低い事が多い。

アメリカ軍は自国の敵を強大に見せかけるほど予算を増やしてもらえるという利害関係があるので、なるべく敵を強く見せようとします。

冷戦時代「ソ連には4000発の核ミサイルがあり、米国は叶わない」と主張したが、実際には数発しか発射可能な核ミサイルを持っていなかった。


ソ連やロシア戦闘機を強く見せかけるのも恒例で、そうする事で新型戦闘機の開発予算を獲得しました。

中国製兵器についても大体は「アメリカ製に匹敵する」と書かれているが、大概にしろという感じです。

例えば中国の原子力潜水艦は、現実に外洋にでて稼動しているものが1隻もなく、従って米国にミサイルを撃ち込めないとされている。


アメリカ軍人や軍関係機関の言い分を真に受けていると、今にも中国やロシアが米本土に上陸するように思えてくる。


中国製潜水艦の性能とは

中国は最新の大型原子力潜水艦094Aを開発中で、094型原潜の改良大型版とされている。

これは093型原潜の改良大型版で、ロシアからヴィクターIIIの技術を導入して建造された。

当時ソ連崩壊で金銭的に困窮していたので、原潜でもミサイルでも、何でも外国に売っていました。


094型は4隻が建造され、やはりロシアの技術協力を受けていました。

水中からのミサイル発射実験は確認されておらず、実戦配備もされていないと考えられている。

ただ試験的に外洋に出ている姿は数回確認されているが、潜水艦は外国から「確認」されてはならないので、問題を抱えていると想像できる。


射程8000Kmの弾道ミサイルを水中から12発発射できるのだが、戦力にはなっていない。

まとめて言うと、まだ中国は実用段階に達した原潜を一隻も保有していません。

次に通常型潜水艦を見ていくと、原潜を含めて既に、米軍の71隻を超えて保有数世界一になっています。


中国最新の通常潜水艦は039A型潜水艦で、フランスの技術協力でAIP(非酸素動力)機関が搭載されています。

フランスってのは独裁者にも平気で軍事援助する国だが、それは本題と関係ないので脇に置きます。

パキスタンやタイに輸出するのはこのAIP付き039A型潜水艦と見られているが、039型潜水艦にAIPを追加した物です。


原子力潜水艦は一隻も実戦配備されていないが、こうして写真を撮ってもらうため、時々遠洋航海している
2dtubnb
引用:http://oi39.tinypic.com/2dtubnb.jpg


Uボートの改良版を今も使う中国

番号を逆に辿れるので非常に分かり易いのだが、033型、035型、039型ときて039A型になりました。

基本設計は033型の改良なのだが、この033型がとんでもない代物なのだった。

ソ連の633型潜水艦を中国に技術供与した国産潜水艦が033型で、当然本家の633型の劣化版でした。


ソ連の633型潜水艦は通称ロメロ級で1957年建造開始で、今も現役で使用されているとの事です。

613型潜水艦の改良版であり、613型は1949年建造開始で、沿岸警備用に設計されたが大型化して本格潜水艦になった。

ソ連がドイツを占領したときにUボートの設計図をぶんどって、ドイツの潜水艦技術者を連行して作らせた物でした。


新しい技術が追加されているとはいえ、ナチスのUボートを真似した潜水艦を、今も現役で使用しているのです。

ソ連は50年前の米ソ宇宙競争で開発したロケットと宇宙船を、現在も使用し続けていて、問題が無い限り変えようとしない。

潜水艦も問題がないので変更しないのだと思うが、本人の勝手ではあります。


60年前から改良してきた潜水艦は日米欧の潜水艦と比べてどうなのかに興味が引かれるが、現実の戦争が起きない限り分からない。

歴史上、潜水艦同士が戦った事は一度も無いので、ロシアや中国の潜水艦が日米より劣っていても、問題は起きないのです。

中国の潜水艦は旧ソ連のコピーなので、現在のロシア潜水艦より、さらに劣っていると言われています。


「うるさい」「故障が多い」「発表値だけ高性能」なので、数が米軍を超えても実戦で役立つかは疑問です。

そもそも実戦のためではなく、見せ付けるための潜水艦だとしたら、実用性は必要ないのかも知れません。

中国が自前で高性能な潜水艦を建造する計画はなく、現代版Uボートで満足しているようです。


▲△▽▼


2016年12月26日
中国の空母「遼寧」 宮古島沖を通過し太平洋で軍事演習
宮古島沖を通過する遼寧
引用:http://www.yomiuri.co.jp/photo/20161225/20161225-OYT1I50017-L.jpg


南西諸島周辺で外国軍艦を規制する必要性

中国海軍は12月24日、空母「遼寧」と所属艦隊が、西太平洋で訓練を行うと発表しました。

12月16日に「遼寧」の艦隊は渤海で初めての実弾演習を実施し、艦載機J15から対艦ミサイルや対空ミサイルを発射したと発表しました。

12月23日から24日にかけても空中給油訓練などを行ったと発表し、J15が空母から離陸する映像などをテレビ放送しました。


24日午後には海上自衛隊の護衛艦が東シナ海の公海上で、「遼寧」や駆逐艦、補給艦など合計8隻で航行しているのを確認しました。

防衛省は発見した場所を明かしていないが、護衛艦が目視したということは、南西諸島の宮古島周辺の可能性がある。

中国国防部から日本政府に対して連絡があり、航空機の離発着はしていないようだと防衛省は発表している。


12月10日には戦闘機など6機の中国空軍機が宮古島周辺を通過しており、日本政府は航行を規制していない

国際海洋法では公海上で航海の自由が保証されていて日本も批准しているが、他国に脅威を与えず静穏に通行するなどの条件がある。

脅威かどうかの明確な定義は無いので、武器を搭載した軍艦は「脅威だ」「武力による威嚇だ」と日本が主張すれば、いつでも航行を止める権利がある。


冷戦時代には旧ソ連の軍艦が日本の海峡を何度も通過したが、日本政府が「通さない」と宣言すれば通過させてやる義務は無い。

ロシアは現在も千島列島周辺の公海で外国軍艦の航行を禁止しているし、アメリカはハワイやグアム周辺などでの外国軍艦の航行を許してはいない。

中国はもちろん南シナ海などの「公海上」で、外国軍艦が航行することを禁止しています。

日本が尖閣諸島周辺や南西諸島周辺の「公海」で外国軍艦を通すか通さないかは政府次第だが、通さないなら通さないという一貫性が求められる。


展示用空母が初航海

9月25日には40機以上の中国空軍機が宮古島周辺を通過しており、いつでも沖縄や宮古島を攻撃し占領できる能力を誇示している。

これが海洋法の「他国に脅威を与えない」状態とは到底考えられないが、安倍首相はなんの対策も取らず抗議もしていない。

中国軍艦や航空機が太平洋に出ることが何を意味するかというと、中国はいつでも日本のシーレーンを封鎖して輸出入を止めさせることができる。


冷戦時代にはソ連がこれをやろうとして日米と軍拡競争になり、日本は「不沈空母」になってソ連軍艦を通さず、アメリカ軍も今より強かった。

ソ連海軍は太平洋に出ることが出来ず、ウラジオストックに閉じ込められたまま外洋に出ることなくソ連崩壊を迎えました。

空母「遼寧」は旧ソ連空母を買い取って改造した空母で、遼寧を模倣した2番艦と3番艦の建造をし、さらに原子力空母の建造を目指している。


ソ連型空母の特徴はカタパルト(射出機)を持たず、しかも艦載機が短距離離陸や垂直離陸できない点にあります。

西側空母は全てカタパルトを装備するか、垂直離陸できる艦載機を運用しているが、ソ連型は基本的に離陸できない。

水平に離陸すると海に突っ込んでしまうので、スキージャンプ型の斜面をつけて斜めに離陸するのだが、重量に対する離陸速度を得られない。


対策として燃料を空にしてギリギリとし装備も最低限にして、離陸して旋回して動画と写真撮影だけして着艦します。

「展示用空母」といわれているゆえんで、ソ連・中国型空母は燃料満タンでは離陸できないのです。

中国が建造する2番艦と3番艦は全長が少し伸びるが、カタパルトが無いのは同じなので、フル装備だと海面に突っ込むのは変わらない。


では遼寧は一体何をしに太平洋まで出てくるのかと言えば、離陸してミサイル発射する動画を撮影し、それを公開すること自体が目的でしょう。

ソ連もこうした見せるための軍事演習を良くやっていたし、ソ連空母自体が実用性皆無の「見せるためだけの空母艦隊」でした。
http://thutmose.blog.jp/archives/68241117.html


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「遼寧」なんてこわくない 張りぼて中国空母の致命的な欠陥〈AERA〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170117-00000211-sasahi-cn
AERA 2017年1月23日号

 中国海軍の虎の子、空母「遼寧」が、悠々と台湾を一周した。米大統領交代直前というタイミングに重なったが、“張り子の虎”との評価も。

 2012年9月に就役した中国の空母「遼寧」(5万9千トン)が、4年以上たった昨年12月25日、初めて太平洋に姿を現した。普通このような大型艦は、就役後間もなく外洋に出て訓練、実験を始めるが、何かと不具合が多かったのだろう。

 同艦はロシアの唯一の空母「クズネツォフ」の2番艦として1988年に進水したが、ソ連崩壊で工事は中断、港内に放置されていた。中国がそれをスクラップとしてウクライナから購入、02年に大連に曳航した。さび付いた半完成の艦を、図面・資料もなしに修復、装備し、なんとか10年後に就役させただけでも感心だ。

●ソ連が造った失敗作

 同型艦の「クズネツォフ」自体がほぼ失敗作で、90年末に就役後、26年間で長期外洋に出たのは9回ほどだ。「クズネツォフ」も「遼寧」も艦載機を加速して発進させる「カタパルト」を持たないのが最大の弱点だ。米空母は長さ76メートルの鋼管(シリンダー)4基を飛行甲板の下に設置、高圧蒸気を吹き込んでピストンを前進させ、それとつながる甲板上の金具(シャトル)で重さ約30トンの艦載機の前輪を押して、一気に時速約270キロに加速して射出する。私もカタパルト発進を経験したが、すさまじい衝撃で「乗用車なら2.7キロも飛ぶ」という。このカタパルトを造るノウハウは米国にしかなく、国産にこだわるフランスの原子力空母「シャルル・ドゴール」も米国製のC13カタパルトを使っている。

 垂直離着陸ができる戦闘・攻撃機「ハリヤー」(英国開発)や米海兵隊用の「F35B」を使えばカタパルトなしでも空母はできるから、旧ソ連も同種の航空機を開発しようとしたが、失敗に終わった。そこでソ連はSu(スホーイ)27など新鋭戦闘機のエンジン2基の推力が、戦闘機の重量を若干上回り、垂直上昇も可能であることを利用、飛行甲板の先端を14度上に反らせ、力まかせに発進させる手を考えた。「クズネツォフ」「遼寧」はこのタイプだ。

●満タンでは発進できず

 だが、遼寧が搭載する「J15」戦闘機(ロシアのSu33を国産化)は燃料を減らし、ミサイル、爆弾も最小限にしないと発艦できない。また大型レーダーをつけ、高空から敵機を見張る早期警戒機は、エンジンの出力が低く、カタパルトがないと発艦できない。早期警戒機がないと、敵機が低空飛行で水平線の下に隠れて接近し対艦ミサイルを発射するのを防げず、空母は容易な標的になる。

 ロシア、中国、インドはやむなく、レーダーをつけたヘリコプターを使っているが、米空母などの早期警戒機と比べ、ヘリは飛行高度が低く、航続時間は短く、レーダーも非力で遠くは見張れず、「ないよりまし」程度でしかない。

 米空母は飛行甲板に何十機もの艦載機を上げ、4基のカタパルトで20秒に1機を発進させる。だが、「遼寧」などでは戦闘機が飛行甲板の後部から滑走を始めるから、甲板上には数機しか待機できず、一度に出撃する機数はごく限られる。米空母は有事には戦闘・攻撃機55機を搭載、近く「ジェラルド・フォード」が就役し、空母は11隻になるから計605機、一方、「遼寧」は戦闘機約20機を搭載可能だから雲泥の差だ。

 中国は空母1隻を建造中で、さらに1隻を造る気配だが、飛行甲板先端を上に反らせているようで、カタパルトはないのだろう。米海軍は新型空母に「リニアモーター」列車の原理による「電磁カタパルト」を採用し、中国も研究はしているようだが、実現するとしても相当先の話だ。

 空母の戦力差だけでなく、中国海軍の対潜水艦能力は極めて低いから、艦船攻撃用の優秀な原潜57隻を有する米海軍に対抗し、中東などとの長大な海上通商路を守ることは将来もまず不可能だ。

 最大の貿易国家である中国は輸入資源と海外市場に対する依存度を高めれば高めるほど、世界的制海権を握る米国との協調をはからざるを得ない立場にある。(軍事評論家・田岡俊次)

▲△▽▼


2017年02月28日
米軍事費大幅増と中国のインスタント空母

中国は最近遼寧につぐ2番目の空母を建造中で、世界の専門家を驚かせています。

専門家が驚いているのは性能ではなく建造速度の速さで、到底考えられないほどの高速で完成に近づいています。

コードネーム001A空母は2015年に骨組みが衛星写真で確認され、2016年には空母の形になり、2017年には進水し、2020年に就役する。


作り始めたと思ったらすぐ完成する中国の空母
引用:http://n.sinaimg.cn/mil/20160624/7JTM-fxtniax7823843.jpg


中国のインスタント空母

進水までたった2年、完成まで5年だが、他の国の空母と比べてこれは際立って異常だと言える。

遼寧は旧ソ連が1985年12月に建造開始して完成は2012年9月、フランス空母シャルル・ド・ゴールは1989年4月開始で2001年5月就役で12年間でした。

米最新空母ジェラルド・R・フォード級は2009年建造2017年に就役予定、イギリスのクイーン・エリザベス級は2009年建造2017年就役予定です。


ロシア空母アドミラル・クズネツォフは1982年9月建造1990年12月就役、実際に運用されるようになったのは2015年以降でした。

これらの空母は建造期間が8年以上で、建造に至るまでにどれも長い議論があり、計画段階からは15年か20年はかかっています。

それが中国空母は議論は一切無しでいきなり建造を始めて2年後にはもう進水するのです。


米空母1隻の建造費は約50億ドルで艦載機も同じくらい、さらに50年間で同じくらいのメンテナンス費用などがかかるので2兆円になります。

もっと小型の空母でも1兆円は掛かし、空母艦載機の議論で大抵は揉めに揉めて、計画は二転三転するものです。

イギリス空母はもうすぐ完成なのに艦載機をどうするか決まっておらず、「不要になったら転売しようか」などと議論しています。


空母はあらゆる兵器の中でも飛びぬけて高額なので、こうした議論が起こるのが正常で、何も無い事がおかしいのです。

中国の新空母が完成したとしておそらく性能は遼寧とほぼ同じ、艦載機も遼寧の改良型を運用するでしょう。

アメリカの空母艦載機は数百機製造するが、中国の空母艦載機は10機か20機しか製造しないので、試作機でしかありません。


空母の性能は艦載機で決まるが、少なくとも100機は製造して運用しないと信頼性を確保できないので「空母を6隻作ろう」と言っています。

泥縄式に空母部隊を拡張するようだが、果たして現実に使い物になるのか、既に破綻寸前の中国政府の財政は耐えられるのか疑問です。
http://thutmose.blog.jp/archives/69633822.html

10. 中川隆[-13086] koaQ7Jey 2020年4月03日 12:10:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1821] 報告

詳細は


アメリカ軍は敵を強大に見せかけるほど予算を貰えるので、なるべく敵を強く見せようとする
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/681.html

ケネディはヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/126.html

ケネディ米大統領暗殺、55年目の真実…ジョンソン副大統領“黒幕”説が広まる(Business Journal)
http://www.asyura2.com/18/kokusai24/msg/547.html

J・F・ケネディ-は何故暗殺されたのか?
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/325.html

J・F・ケネディ-は何故暗殺されのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/904.html

J・F・ケネディ-は FRBを公有化しようとして暗殺された
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/297.html

誰がケネディーを殺したか?
http://www.asyura2.com/12/kokusai7/msg/447.html

11. 中川隆[-13085] koaQ7Jey 2020年4月03日 12:17:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1822] 報告

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html

重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html

欧米人が植民地経営の方法として洗練させていった分割統治政策とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/297.html

馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/105.html

馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html

これがチャンネル桜関係者とアホ右翼が信じている「ユダヤ陰謀史観」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/505.html

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