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レヴァント人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/305.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 01 日 20:46:04: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: エジプト人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 30 日 10:52:24)

レヴァント人の起源


雑記帳 2018年08月22日
レヴァント南部の後期銅器時代の人類集団のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201808/article_35.html


 レヴァント南部の後期銅器時代の人類集団のDNA解析結果を報告した研究(Harney et al., 2018)が報道されました。レヴァント南部の後期銅器時代の物質文化は、質的に前後の時代と異なります。レヴァント南部後期銅器時代の文化の特徴は、定住密度の増加・聖域的な場所の導入・二次埋葬における骨壺の使用・公的儀式の拡大・銅や玄武岩や象牙の人工物の象徴的文様の彫刻や絵画的表現などです。レヴァント南部の銅器時代には、埋葬や儀式慣行の点で大きな変化が見られます。また、レヴァント南部の後期銅器時代には、「蠟型法」として知られる銅鋳造技術が用いられていました。このような文化的特徴は、レヴァント南北で共有されています。しかし、レヴァント南部の後期銅器時代の文化は、上述したようにレヴァントの前後の時代の文化とほとんど関連していないので、その起源について議論されてきました。一方の仮説は芸術的な模様に基づき、北メソポタミアのような北方からの移民によりもたらされた、というものです。もう一方の仮説は、レヴァント地域集団がこれらの文化を発展させ、北方との類似性は文化交流に起因しており移住の結果ではない、というものです。

 本論文はこれらの仮説の検証のため、イスラエル北部の上ガリラヤ(Upper Galilee)地方にあるペキイン洞窟(Peqi’in Cave)の人類遺骸のDNAを解析し、合計22人からゲノム規模のデータを得ました。イスラエルの気候条件はDNAの保存に適していないので、貴重なデータと評価されています。ペキイン洞窟は長さが17m、幅が4.5〜8mで、擬人的な模様のある200点以上の骨壺や杯などが発見されており、600人以上が埋葬されたと推定されています。ペキイン洞窟は銅器時代のレヴァントでは最大級の墓地となります。直接的な放射性炭素年代測定の結果、ペキイン洞窟は後期銅器時代となる紀元前4500〜紀元前3900年前頃を通じて使われていた、と推測されています。

 農耕が始まった頃の中東の人類集団のゲノム規模の解析結果から、当時のアナトリア半島・イラン・レヴァントの人々は相互に現代のヨーロッパ系と東アジア系ほどに異なっていたものの、青銅器時代までには相互の移住・交雑により中東の人類集団は均質化していき、現在のような遺伝的類似性が形成されました(関連記事)。イランの初期農耕民と遺伝的に最も類似している現代人は、イランのゾロアスター教徒です(関連記事)。ペキイン洞窟銅石器時代集団(PCh)の遺伝的構成は、レヴァントの新石器時代農耕民集団(NL)から57%、イランの銅器時代集団(ICh)から17%、アナトリア半島の新石器時代農耕民集団(NA)から26%と推定されます。一方、青銅器時代のレヴァントでは、紀元前2490〜紀元前2300年前頃となるヨルダンのアインガザル('Ain Ghazal)遺跡の人類集団が、遺伝的には、56%がNL系統に、44%がIch系統に由来する、と推定されています。

 このようにPChは、その前の新石器時代レヴァント農耕民集団とも、その後の後期青銅器時代レヴァント南部集団(LBSL)とも、遺伝的構成が大きく異なっていました。銅器時代には、アナトリア半島やイラン方面から住民がレヴァントに移住してきて、レヴァントにおいてかなりの遺伝的影響を与えて、均質化も進展していき、その傾向は青銅器時代にも続いたようです。PChはゲノム規模のデータでも遺伝的に比較的均質な集団と推定されていますが、Y染色体ハプログループでも、10人中9人がT系統(そのうち、より詳しく分類できた8人はT1a1a)に分類されるように、均質だったようです。レヴァントの人類集団のY染色体ハプログループは、続旧石器時代や新石器時代ではEが、青銅器時代ではJが優勢でしたから、レヴァントでは父系の点でも、新石器時代〜銅器時代〜青銅器時代にかけて、時代の移行にともない大きな変化があったようです。PChのDNA解析は、レヴァントにおける新石器時代と青銅器時代の古代DNA研究の空白期間を埋めるという意味でも貴重です。PChの遺伝的影響は、LBSLにはほとんどないようですが、レヴァント北部の後期青銅器時代の集団には一定以上あるようです。また、アフリカ東部の現代人集団にはレヴァントからの遺伝的影響が指摘されていますが、その中にPChは含まれていないようです。

 上述したように、レヴァントにおいては銅器時代に大きな考古学的変化が見られ、それが人々の移住によるのか、移住ではなく文化的交流の結果なのか、という議論が続いてきました。本論文は、上述の古代DNA解析の結果から、人々の移住による影響が大きかったのではないか、との見解を提示しています。上述したように、PChは、NLを基層に、Ich(17%)とNA(26%)の遺伝的影響で成立しましたが、埋葬習慣や人工物の模様など、レヴァント南部の銅器時代の文化のいくつかは、考古学的にはアナトリア半島と北メソポタミアの新石器時代の文化に起源があったかもしれない、との見解が以前から提示されていました。本論文の古代DNA解析の結果は、そうした考古学的見解と整合的と言えそうです。Ichは、メソポタミアを経由してレヴァント南部へと拡散してきた、と考えられます。レヴァント南部の銅器時代の芸術的表現には、メソポタミアの、イナンナ(Inanna)やタンムーズ(Dumuzi)といった神々との関連も指摘されていました。また、レヴァントの冶金工芸品製作の知識と資源も、イラン方面やメソポタミアやアナトリア半島など北方・東方からもたらされた、との仮説も提示されてきました。

 レヴァント南部における大きな考古学的変化は、新石器時代から銅器時代にかけてと同様に、銅器時代から青銅器時代にかけても起きました。骨壺での二次埋葬の消失といった埋葬習慣や定住パターンの変容、遺跡の大規模な放棄、象徴的意味合いの人工物の激減などです。これも、人類集団の構成が大きく変わったことに起因する、と本論文は指摘します。上述したように、LBSLの遺伝的構成は、NL系統が56%、Ich系統が44%と推定されており、PCh に見られるNA要素が確認されていません。Ich系統の要素は、NLとPChにはなく、LBSLに見られるので、Ich系統は銅器時代までにはレヴァントに拡散してきた、と考えられます。LBSLは、Ichの最初の拡大のさいにNLとの融合の結果成立し、NA系統の影響を受けずにいた系統の残存集団か、あるいはレヴァント外でIch系統の影響を受けつつもNA系統の影響を受けずに成立し、後にレヴァントへ再度拡散してきたのかもしれません。いずれにしても、レヴァント南部では銅器時代から青銅器時代への移行において人類集団の交替と言えそうな大事象があり、それが考古学的記録に見える文化の大きな変化をもたらしたようです。本論文は、遺伝学と考古学のデータを組み合わせた分析は過去の社会の変化の仕組みについて豊富な情報を提供できるし、他地域にも適用できるだろう、と指摘しています。もちろん、文化変容が、新石器時代〜銅器時代〜青銅器時代のレヴァントのように、人類集団の置換とも言えそうな外部からの大規模な遺伝的影響を伴わずに起きた事例も少なくなかったでしょう。

 PChの表現型についても、興味深いことが明らかになっています。ヨーロッパ系現代人集団の青い目と関連しているアレルの頻度が、PChにおいて49%になるので、PChでは青い目は一般的だった、と推測されています。これは、NLにはほとんど見られないので、レヴァントの外部からもたらされた、と考えられます。また、ユーラシア西部系現代人集団において皮膚の色素沈着と関連しているアレルからは、PChにおいて明るい肌の色が一般的だった、と推測されています。ただ、単一部位に基づく皮膚の色素沈着に関しては慎重な検証が必要とも指摘されています。


参考文献:
Harney É. et al.(2018): Ancient DNA from Chalcolithic Israel reveals the role of population mixture in cultural transformation. Nature Communications, 9, 3336.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-05649-9

https://sicambre.at.webry.info/201808/article_35.html  

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コメント
1. 2020年9月24日 08:57:10 : FGqpD48T5s : RDVTamFLOWx0L1E=[8] 報告
雑記帳 2020年09月24日
新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_30.html


 取り上げるのが遅れてしまいましたが、新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成に関する研究(Skourtanioti et al., 2020)が報道されました。農耕開始以降、近東は複雑で初期国家水準の社会の形成において影響力のある地域で、19世紀以来大きな考古学的関心を集めてきました。過去10年の古代DNA研究の発展により、近東における新石器時代開始の過程に関する問題も明らかになってきました。アナトリア半島南部・中央部やレヴァント南部やイラン北西部の近東農耕民は在来の狩猟採集民の子孫で、この地域における狩猟採集から農耕への移行は、地域間のわずかな遺伝子流動を伴う生物学的に継続的な過程だった、と示されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 約2000年後、この状況は変わりました。これら前期完新世集団とは対照的に、アナトリア半島西部・中央部とレヴァント南部とイラン(ザグロス地域)とコーカサスの銅器時代および青銅器時代の集団は、相互に遺伝的差異がより少なくなっており、この期間は、より大きな地域にまたがる遺伝子流動の広範な過程により特徴づけられる、と示唆されます(関連記事)。しかし、この過程の時空間的範囲は、この広範な地域の中継地となり得るアナトリア半島中央部・東部の古代人ゲノムが不足しており、より高密度の標本抽出が必要となるため、よく理解されていません。現在まで、アナトリア半島全域にまたがる「新石器時代一式」の特徴の空間的分布からは、より広範な地域と相関する異質な複数回の事象の過程だった、と示唆されます。しかし、集団移動がアナトリア半島内のこれらの地域の形成に重要な役割を果たしたのかどうか、未解明です。

 アジア西部全域で、人々および物質および/あるいはアイデアの移動の考古学的証拠がよく記録されています。コーカサス南部では、考古学的研究から、後期新石器時代のメソポタミア北部との関係が示唆されており、アナトリア半島東部では、メソポタミア世界とほぼ関連している、いくつかの広範な事象により特徴づけられる文化的つながりのネットワークが証明されています。これらは、紀元前五千年紀における、メソポタミア南部のウバイド文化のトロス山脈まで達する、メソポタミア上流部への浸透を含みます。

 コーカサス南部では、紀元前五千年紀後半〜紀元前四千年紀半ばに、メソポタミア上流部からの強い影響により、この浸透が続きました。紀元前四千年紀半ば〜末にかけて、「中期および後期ウルク拡大」と呼ばれる別のメソポタミア南部の影響が、メソポタミア上流部とアナトリア半島東部のユーフラテス川とティグリス川の上流部に到達しました。同時に、一般的にはコーカサス南部起源と考えられているクラ・アラクセス(Kura-Araxes)文化が、紀元前3000〜紀元前2900年頃にアナトリア半島東部およびレヴァント北部・南部へと拡大しました。これらの事象の証拠は多くの発掘から得られており、とくに、アナトリア半島東部のマラティヤ平野のアルスラーンテペ(Arslantepe)遺跡の長期にわたる広範な発掘により明らかです。レヴァント北部では、メソポタミア北部との物質的つながりが紀元前四千年に出現し始め、広範な文化的接触もしくは集団移動の結果と考えられてきました。

 したがって、主要な問題は、人類集団・物質文化・アイデア・それらの組み合わせのうち、何が移動していたのか、ということです。これらの初期の発展は、中期青銅器時代(MBA)からの地中海東部における「グローバル化」の増加につながり、それは海陸の経路を通じての資源利用と管理の強化により特徴づけられます。しかし、中期および後期青銅器時代(LBA)の人類遺骸が不足しているため、人類の移動性の役割は不明確で、困難な問題になっています。この点で、トルコのアムク川流域のアララハ遺跡は、この時期の300人以上の被葬者が発見されているため、古代DNA研究の適用にとって例外的な格好の事例となります。

 この移動の性質の理解が、本論文の主題となります。本論文では、先史時代のアナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス南部低地の主要な遺跡の人類遺骸のゲノム規模データの、大規模な分析が提示されます。本論文の目標は、近東のこの地域のゲノム史を、新石器時代から中期および後期青銅器時代の相互につながった社会への移行にまたがって、体系的な標本抽出により復元することです。新たな古代のゲノム規模データセットは110人から構成され、アナトリア半島中央部・北部とアナトリア半島東部とコーカサス南部低地とレヴァント北部の4地域を含み、それぞれ期間は先史時代の2000〜4000年にまたがっています。

 紀元前六千年紀半ばのアナトリア半島北部・中央部およびコーカサス南部低地集団は密接につながっている、と明らかになりました。これらの集団は、アナトリア半島北部から現代のイラン北部となるコーカサス南部およびザグロス地域にかけて、遺伝的勾配を形成します。この勾配は、紀元前6500年頃の両地域を生物学的に接続する混合事象の後に形成されました。アナトリア半島全域の銅器時代および青銅器時代集団も、ほぼこの遺伝的勾配の子孫です。対照的にレヴァント北部では、銅器時代と青銅器時代の間の大きな遺伝的変化が特定されました。この移行期にレヴァント北部集団では、ザグロス・コーカサス地域およびレヴァント南部の両方と関連する系統を有する、新たな集団からの遺伝子流動がありました。これは、社会的志向、おそらくはメソポタミアの都市中心部の台頭に対応における変化を示唆していますが、まだ遺伝的に標本抽出されていません。


●標本分析

 124万ヶ所の系統特定に有益な一塩基多型を対象として、アナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス南部の4000年にわたる先史時代の110人のゲノム規模データが得られました。このうち9人の年代は紀元前六千年紀となる後期新石器時代から前期銅器時代(LN/EC)で、アナトリア半島中央部・北部のボアズキョイ・ビュユッカヤ(Boğazköy-Büyükkaya)と、アナトリア半島南部・レヴァント北部のテルクルドゥ(Tell Kurdu)と、コーカサス南部低地のアムク川流域のメンテシュテペ(Mentesh Tepe)およびポルテペ(Polutepe)で発見されました。残りの101人の年代は、紀元前四千年紀〜紀元前二千年紀となる後期銅器時代から後期青銅器時代(LC-LBA)で、アナトリア半島南部・レヴァント北部では現代のテルアッチャナ(Tell Atchana)となるアララハ(Alalakh)と現代のテル・マルディフ(Tell Mardikh)となるエブラ(Ebla)、アナトリア半島中央部・北部ではキャムリベルタルラシ(Çamlıbel Tarlası)とイクジテペ(Ikiztepe)、アナトリア半島東部ではアルスランテペ(Arslantepe)とティトリスヘユク(Titriş Höyük)、コーカサス南部低地ではアルハンテペ(Alkhantepe)です。

 詳細な集団遺伝分析では、網羅率や汚染など品質要件を満たしていない16人が除外され、合計94人のゲノム規模データが分析されました。このうち77人は加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代が得られました。これらは遺跡もしくは地域と年代により集団化されました。それは、ビュユッカヤEC(銅器時代)が1個体、キャムリベルタルラシLC(後期銅器時代)が12個体(近親者を除くと9個体、以下同様です)、アルスランテペEBA(前期青銅器時代)が4個体、アルスランテペLCが18個体(17個体)、ティトリスヘユクEBAが1個体、イクジテペLCが11個体、アララハ中期〜後期青銅器時代(MLBA)が26個体(25個体)、アララハ中期〜後期青銅器時代(MLBA)外れ値が1個体、エブラ前期〜中後期青銅器時代(EMBA)が11個体、テルクルドゥ前期銅器時代(EC)が5個体、テルクルドゥ中期銅器時代(MC)が1個体、コーカサス低地LCが1個体、コーカサス低地後期新石器時代(LN)が2個体です。

 これらのデータは、約800人の既知の古代人の遺伝的データと組み合わされました。その中で、アナトリア半島の17個体が本論文のアナトリア半島集団とともに分析されました。それは、テペシク・シフトリク(Tepecik-Çiftlik)遺跡のテペシクN(新石器時代)、バルシン(Barcın)遺跡のバルシンC(銅器時代)、ゴンドリュレ・ヘユク(Gondürle-Höyük)遺跡のゴンドリュレヘユクEBA、トパヘユク(Topakhöyük)遺跡のトパヘユクEBA、カマン・カレヒユク(Kaman-KaleHöyük)遺跡のK.カレヒユクMLBAです。


●アナトリア半島とレヴァント北部とコーカサス低地におけるLN/ECの遺伝的構造

 これまで、新石器時代アナトリア半島の遺伝子プールに関する知識は、西部のバルシンおよびメンテシェ(Menteşe)遺跡(本論文ではバルシンNとされます)と、中央部コンヤ平原のボンクル(Boncuklu)遺跡と、南部のテペシク・シフトリク遺跡からしか得得られていませんでした。これらの個体群の年代は紀元前九千年紀〜紀元前七千年紀で、本論文のLN/EC個体群へと継承されます。新石器時代から青銅器時代の近東の遺伝的構造を概観するため、まず現代人と古代人を対象に主成分分析が行なわれました。全体的に、バルシンN とイラン・コーカサス古代個体群との間で、LN/EC個体群はPC2軸に沿って散在しています。テルクルドゥECはPC1軸に沿って新石器時代および銅器時代レヴァント個体群へと僅かに移動します。ビュユッカヤECは、現在までに報告されているあらゆるアナトリア半島新石器時代個体からさらに離れて位置し、新石器時代および銅器時代イラン個体群へと移動します。コーカサス低地LN(ポルテペおよびメンテシュテペ遺跡)の2個体はPC2軸に沿って、ビュユッカヤECと銅器時代イラン個体群との間で上方に位置します。

 主成分分析で観察された質的差異を検証するため、f4統計によりユーラシア西部のより早期の集団と、LN/EC集団の遺伝的類似性が比較されました。ビュユッカヤECおよびコーカサス低地LNはバルシンNと、コーカサス狩猟採集民(CHG)およびイランNとのアレル(対立遺伝子)をより多く共有している点で異なりますが、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)やヨーロッパ東部狩猟採集民(EEF)やアナトリア半島の続旧石器時代個体やレヴァントの続旧石器時代・新石器時代個体群とは共有アレルが少なくなっています。qpAdm を用いてf4統計を要約することにより、ビュユッカヤECとコーカサス低地LNの両方を、バルシンN とイランN(24〜31%)の2者混合としてモデル化できます。主成分分析でバルシンN とビュユッカヤECの間の中間に位置するテペシクNも、同じモデルに適合します(イランNが22%)。イランNをCHGと置換することにより、ビュユッカヤECは適切なモデル(CHGが24%)が得られますが、コーカサス低地LNではこのモデルは適合しません。

 主成分分析と一致して、テルクルドゥECはバルシンN とイランNの混合の勾配には収まりませんが、古代レヴァント集団とのさらなる類似性を示します。f4統計では、テルクルドゥECは、同じ地域のほぼ1000年後の個体(テルクルドゥMC)を含む他のあらゆる新石器時代〜前期銅器時代のアナトリア半島集団よりも、先土器新石器時代レヴァント個体群(レヴァントN)とより多くの類似性を有します。バルシンNと比較すると、テルクルドゥECはヨーロッパ西部・東部・南東部の中石器時代狩猟採集民との類似性が有意に低くなっています。上述のバルシンN とイランN/CHGの混合モデルは、テルクルドゥECでは支持されません。代わりに、テルクルドゥECは、バルシンN とイランN(15.5±3.7%)もしくはCHGとレヴァントN(36.6±7.1%)の3者混合としてよくモデル化できます。


●新石器時代の混合と銅器時代および青銅器時代集団の共通の遺伝的構成

 LN/EC個体群とは対照的に、LC-LBA個体群はユーラシア西部人の主成分分析では密集し、イランとコーカサスとレヴァントとアナトリア半島西部の古代人集団により区分されるLN-EC勾配にほぼ収まります。本論文の仮説は、アナトリア半島中央部・北部および東部のLC-LBA集団がこのより古い遺伝的構造の子孫で、同じ系統構成を共有しているかもしれない、というものです。

 主成分分析と一致して、外群f3およびf4統計では、LN-EC勾配と類似しているLC-LBA集団の共通の遺伝的構成が示唆されます。まず、外群f3統計(ムブティ、LC-LBA、検証集団)では、共通の外群であるムブティからのLC-LBAと検証集団との間の平均的な共有された遺伝的浮動が測定され、検証集団がバルシンNやテルクルドゥECやビュユッカヤECのようなヨーロッパとアナトリア半島とレヴァント北部の新石器時代および銅器時代集団の時に、最高値に達しました。次に、バルシンNとテルクルドゥECを追加すると、f4統計(ムブティ、検証集団、バルシンN/テルクルドゥEC 、X)では、ユーラシア西部の一連の古代検証集団に関して、バルシンNもしくはテルクルドゥECとLC-LBA集団(X)との間の違いが特徴づけられます。イランNおよび/もしくはCHGは一貫して、テルクルドゥEC およびバルシンNと比較すると、LC-LBAとの過剰な類似性を示します。イランおよびコーカサスの銅器時代および青銅器時代集団は、年代的にLC-LBAにより近く、主成分分析ではイランN/CHGとLC-LBAの間に位置しますが、バルシンと比較すると、一部のLC-LBA集団とのみより多くのアレルを共有します。

 LC-LBA集団の共有された混合構成の時間的側面をさらに調べるため、最近開発された手法であるDATESを用いて混合年代が推定されました。上述のように、LN-EC勾配はバルシンNとイランN/CHGの割合の変化であり、両方が起源集団として選択されました。しかし、イランNおよびCHG両方の標本規模は小さく、イランNでは多くの一塩基多型が欠けているため、第二起源集団の代理としてコーカサス現代人(アルメニア、ジョージア、アゼルバイジャン、アブハズ、イングーシ)が用いられました。

 標本規模がじゅうぶんに大きく、LC-LBA集団で年代の古いLC(後期銅器時代)3集団(キャムリベルタルラシLCが9個体、イクジテペLCが11個体、アルスランテペLCが17個体)に焦点が当てられました。これら全個体の推定をまとめると、バルシンNとコーカサス現代人を遺伝子プールの代理として用いたさいに、105±19世代前という堅牢な混合年代が得られました。1世代28年と仮定すると、この推定はLC-LBA個体群の年代の3000年前頃の混合事象と等しく、紀元前6500年頃に相当します。ブレはあるものの類似の推定年代は、キャムリベルタルラシLCとイクジテペLCとアルスランテペLCという個々の銅器時代集団で観察されます。混合年代は別の2手法(ALDERおよびrolloffp)でも推定されましたが、全体的にはDATESと一致しました。

 さらに、コーカサス低地LN とビュユッカヤEC、コーカサスの既知のEBA個体群、イランC(銅器時代) を含む、EC(前期銅器時代)勾配上の他の古代集団にも分析が拡大されました。紀元前3100年頃のコーカサスEBA個体群はアナトリア半島LC個体群と類似しており、121±35世代前という類似の混合年代が得られました。重要なことに、より古いコーカサス低地LN2個体とビュユッカヤEC1個体(紀元前5600年頃)は、34±15世代前というもっと最近の混合年代が推定されました。これは暦年代で紀元前6500年頃となり、LC個体群から推定される混合事象の年代と一致します。


●銅器時代と青銅器時代集団の混合モデル化

 LC-LBA集団の系統構成を説明するには、バルシンNおよびイランNの両関連系統が必要だと示されましたが、時空間的にLC-LBA集団により近い古代集団の代替的組み合わせも、同様に適合モデルを提供できるかもしれません。真の人口史をより反映している可能性が高い妥当な混合モデルを得るには、密接に関連した候補起源集団間を正確に区別することが重要です。qpAdmを用いて、全LC-LBA集団が、一方は新石器時代アナトリア半島系統、もう一方はイランおよびコーカサス集団関連系統という2起源集団の混合として、モデル化されました。新石器時代アナトリア半島系統では、新石器時代もしくは前期青銅器時代の3集団(バルシンN、テルクルドゥEC、ビュユッカヤEC)が用いられました。イランおよびコーカサス集団関連系統では、イランNおよびCHGと、同じ地域のより新しい銅器時代および青銅器時代集団が用いられました。LC-LBA集団の混合兆候は、イランおよびコーカサス集団よりも古いものの、代理として用いられました。それはLC-LBA集団が、LC-LBA個体群に寄与したまだ標本抽出されていない遺伝子プールを表しているかもしれないからです。

 バルシンNとイランNの混合は多くのLC-LBA集団を適切に説明しますが、アララハMLBAとエブラEMBAとアルスランテペLCとバルシンCとコーカサス低地LCでは失敗しました。イランN関連系統の寄与は、21±9%〜38±6%です。バルシンNとCHGの代替モデルでは、CHG関連系統の推定寄与がわずかに高く、27±13%〜41±7%ですが、12集団のうち8集団はCHGとモデル化できません。銅器時代および青銅器時代集団では、イランCがイランNと類似の結果を示しますが、推定寄与の割合はより高くなります(34〜53%)。イランC自体は、イランNとバルシンN(37±3%)の混合としてモデル化でき、LC-LBAのモデル化の結果とよく一致します。対照的に、コーカサス集団、とくに銅器時代から青銅器時代(En/BA)集団は、ほとんどLC-LBに適合しません。

 バルシンNをテルクルドゥECと置換して、混合モデル化が繰り返されました。一般的にテルクルドゥECとのモデルは、LC-LBA集団とよく適合しますが、それはバルシンN(22個体)と比較してテルクルドゥEC(5個体)の標本規模がずっと小さいことに起因する、モデルと実際の対象集団との間の不一致を検出する統計的能力の低下の不自然な結果かもしれないので、注意が必要です。古代イラン集団とのモデルが複数のLC-LBA集団で適合しない一方で、テルクルドゥECとCHGの混合は、CHGの割合が13±19%から40±9%まで多様ではあるものの、バルシンCを除く全LC-LBA集団でモデル化できます。

 CHGを後のコーカサス集団と置換すると、同じくバルシンCを除いて、より高いコーカサス関連系統の寄与(40〜67%)を有する同じパターンが示されます。バルシンNを外群セットに追加後に分析を繰り返しても、ほとんどの結果は同じままでした。しかし、テルクルドゥECを有する同じ地域のLC-LBA2集団、つまりエブラEMBAとアララハMLBAはこのモデルから逸脱し、テルクルドゥECは単純な2者混合モデルでは適切な代理ではないかもしれない、と示唆されます。したがって、古代イラン集団は全体的に、コーカサス集団よりも代理として敵辣に機能するようですが、さらに比較するにはより高解像度のデータが必要です。

 ビュユッカヤECは、本論文のデータセットにおいては、アナトリア半島内でLC-LBA集団と類似の遺伝的構成を有する最初の個体です。したがって、後のLC-LBA集団がさらなる外部からの寄与なしに同じ遺伝子プールから派生した、という想定も検証されました。F4(ムブティ、X、ビュユッカヤEC、LC-LBA)統計からは、ビュユッカヤECがLC-LBA集団よりも、バルシンNのようなヨーロッパ・アナトリア半島農耕民とより多くのアレルを共有している、と示唆されます。同様に、バルシンNが外群に含まれる場合、ほとんどのLC-LBA集団はqpAdmでビュユッカヤECと姉妹集団としてモデル化できません。ほとんどのLC-LBA集団は、古代イラン/コーカサス集団の第二系統への追加により適切にモデル化されますが、アララハMLBAとエブラEMBAは、古代レヴァント南部集団からのかなりの寄与を必要とします。

 全体的に、qpAdm分析と組み合わせた、後期新石器時代および後期銅器時代集団の両方から得られた同じ混合年代の推定に基づくと、LC-LBA集団も新石器時代の遺伝的勾配から派生したものの、先行集団よりもかなり均質化していた、と示唆されます。イランの古代集団はコーカサス集団よりも東方の起源のより適切な代理となりますが、メソポタミア内からのまだ標本抽出されていない代理が、このイラン/コーカサス関連系統の真の歴史的起源集団を表しているかもしれないので、本論文の結果の字面通りの解釈は要注意です。


●青銅器時代レヴァント北部の遺伝的置換

 テルクルドゥとエブラとアララハの各遺跡により代表されるレヴァント北部は、4区分で最も顕著な遺伝的置換を示します。最後となる中期銅器時代テルクルドゥ1個体(テルクルドゥMC)の後の2000年以内に、アムク川流域内および周辺の集団(アララハMLBAとエブラEMBA)の遺伝的構成は、同時代のアナトリア半島人とほぼ同じに変化しました。しかし、ビュユッカヤEC とのqpAdmモデル化では、アララハMLBAとエブラEMBAは依然として、古代レヴァント南部集団とのつながりに関して、他のアナトリア半島集団と異なっている、と示唆されます。それらの違いはまた、エブラEMBA とアララハMLBA が、バルシンNやコーカサス集団のようなより古い集団との関係について他のLC-LBA集団とは異なっている、と示されるf4統計でも確認されます。

 さらに、バルシンN/テルクルドゥECおよび/もしくは古代コーカサス集団は、qpAdmではエブラEMBAおよびアララハMLBAを充分にモデル化できず、その仮定起源集団は真の祖先の適切な代理を表していない、と示唆されます。基底系統としてより古いテルクルドゥECと、地理的に近いアルスランテペLCとで、潜在的な代理起源集団として代替的なモデルを用いると、どちらも適合は改善されませんでした。しかし、混合モデルは、第三の起源集団としてレヴァント南部集団の追加により適切になり、この場合の各系統の割合は、テルクルドゥECが27〜34%、後のコーカサス集団が36〜38%、レヴァントEBAが28〜38%となります。

 テルクルドゥECの後の追加の遺伝子流動と一致して、アナトリア半島集団もしくはコーカサス集団の遺伝子プールを起源集団として用いると、アララハMLBAで他のLC-LBA集団よりも新しい推定混合年代が得られ、アナトリア半島LCとは78±27世代前(紀元前3880±746年前)、コーカサスEBAとは44±8世代前(紀元前3060±224年前)です。アナトリア半島LCもしくはコーカサスEBAのどちらかを一方、レヴァントCをもう一方の起源集団として用いると、指数関数的減衰は適合できませんでした。


●アララハにおける個体の移動性の証拠

 レヴァント北部のアララハMLBA全員の遺伝的分析は、主成分分析における外れ値のため、女性1個体(ALA019)を除いて行なわれました。ALA019は井戸の底で発見され、考古学的および人類学では、放射性炭素年代が紀元前1568〜紀元前1511年で、いくつかの治癒した外傷の証拠がある異常な埋葬を表している、と指摘されています。ユーラシア人の主成分分析では、ALA019は遺伝的に、古代イランおよびトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)の銅器時代および青銅器時代個体群とより密接でした。これらの集団は西から東の遺伝的勾配を表しており、バルシンNおよびイランNおよびシベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連する系統のさまざまな割合を有しています。

 主成分分析で観察されたALA019の遺伝的類似性は、外群f3統計で確認されました。コーカサスおよび西方草原地帯の他の古代集団も高い類似性を示しますが、f4統計(ムブティ、X、トゥーラン、ALA019)からは、ALA019が他のトゥーラン個体群とは、多かれ少なかれイランNもしくはWSHGと時としてアレルを共有することにより区別されると示唆され、この地域における遺伝的勾配の存在と一致します。メソポタミア南部のような近隣地域からの古代ゲノムの欠如を前提にすると、ALA019の起源として最も他可能性が高いのは、イラン東部もしくはアジア中央部のどこかです。


●青銅器時代前のアナトリア半島とコーカサス南部全域の遺伝的均質化

 本論文は、年代では紀元前六千年紀以降を対象とし、シリア(レヴァント北部)とアナトリア半島は4000年、コーカサス南部は2000年に及びます。さらに、混合年代の推定により、新石器時代へと1000年さかのぼることが可能となりました。アナトリア半島西部(マルマラ海周辺地域)とコーカサス南部低地への後期新石器時代/前期銅器時代(紀元前六千年紀)の遺伝的勾配が明らかになり、この遺伝的勾配は後期新石器時代の開始(紀元前6500年頃)以降の混合過程により形成されました。この勾配の東端はアナトリア半島(西部の)系統をわずかに伴うザグロス山脈を超えて、銅器時代と青銅器時代のアジア中央部にまで達しました(関連記事)。南方では、アナトリア半島系統はレヴァント南部の新石器時代集団に存在し、北方でコーカサス(のおもに山岳地帯)の銅器時代および青銅器時代集団に存在し、これは後期新石器時代の混合の結果である可能性が最も高そうです。

 広範な地域の遺伝的均質化の証拠は、父系でのみ継承されるY染色体系統からも得られます。この地域の全ての時空間的集団では、Y染色体ハプログループ(YHg)はほぼ共通してJ1a・J2a・J2b・G2aです。低頻度のYHg-H2・T1aも加えて、これらは新石器時代までさかのぼるか、すでに上部旧石器時代に存在していた(関連記事)遺伝的遺産の一部を形成します。いくつかの注目すべき例外は裏づけに乏しいものの、それにも関わらず、長距離移動と拡張されたYHg多様性の重要な証拠を提供します。たとえば、YHg-R1b1a2(V1636)・R1b1a1b1b(Z2103)は17000年以上前に分岐したと推定されているので、アルスランテペ遺跡の主要な期間にポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの早期の侵入の直接的証拠はありません。アララハ遺跡のALA084個体で見つかったYHg-L2(L595)は、以前には銅器時代イラン北部の1個体と、コーカサス北部のマイコープ(Maykop)文化後期の3人で報告されていました。このYHg-L2の3人は、本論文で示された共通のアナトリア半島/イラン関連系統の勾配に由来する系統を有しており、コーカサス山脈北側の草原地帯の南端にも達する、広範な分布を示唆します。

 紀元前七千年紀の西から東への遺伝的勾配の形成の年代推定により、常染色体と父系・母系の単系統という両方の指標で観察されたこれらの遺伝的標識の文脈化が、人類の移動性と社会経済的慣行の変化という考古学的証拠を伴って可能となりました。紀元前6500〜紀元前6400年頃は、アナトリア半島新石器時代の重要な分岐点でした。なぜならば、以前には食糧生産共同体が皆無かほとんどなかった地域に、定住共同体の突然で大量の拡大が見られたからです。その後、コーカサス南部では、新石器時代生活様式が突如出現し、紀元前6000年頃となる外来の家畜動物と栽培種の導入は、近隣地域の新石器時代集団とのある種の相互作用と、最終的には侵入を示唆しており、その中でザグロス地域とカスピ海地域に沿ったアナトリア半島南西部は、新石器時代文化導入の最も適した候補地の一つでした。

 これらの事象に関連して、近東内の家畜化されたヤギ集団の遺伝的構造が崩壊し始め、銅器時代までには近東全域のヤギの群が、新石器時代東西両集団からの系統を有する、と明らかになりました。この混合の正確な年代は不明ですが、人類と家畜との間の類似から、家畜は交易ネットワークを通じてのみ移動したのではなく、人々と共にも移動し、それは物質文化やアイデアや慣行も同様だった、と示唆されます。これは、たとえばコーカサス南部の円形新石器時代建造物により示唆されており、メソポタミア北部でとティグリス川およびユーフラテス川流域のアナトリア半島側で紀元前六千年紀に発展しつつあった、ハラフ伝統を想起させます。

 後期青銅器時代までの続く数千年に、遺伝的連続性はアナトリア半島北部・中央部と東部で持続し、これは後の集団との遺伝的類似性と、新石器時代後の新たな系統の欠如により支持されます。これは、この時期の激しい文化的相互作用の考古学的証拠に基づく集団変化に関する、以前の仮説とは矛盾します。たとえば、トルコの黒海沿岸のイクジテペ遺跡には、強いバルカンとの類似性を有する物質文化が含まれており、これは黒海全域の集団との直接的接触を示す、と議論されてきましたが、これらの接触は遺伝子流動を伴わないようです。

 アルスランテペ遺跡は別の代表的事例を提供します。前期銅器時代の始まりにおいて、アルスランテペ遺跡の考古学的証拠は、コーカサスとのつながりを有する牧畜民集団によるアルスランテペの占拠につながった、破壊的な社会政治的紛争の存在を強く示唆します。主成分分析とf4統計では、この期間の2個体は、コーカサスとポントス・カスピ海草原からの集団との過剰な類似性を示しますが、後のアルスランテペEBA個体群は、このコーカサスとの類似性を共有していません。これは、仮定された人口の相互作用が一時的で小規模だったに違いないものの、アルスランテペEBAの小さな標本規模(4個体)が検出に充分ではなかったかもしれない、と示唆します。微妙な遺伝子流動はアルスランテペ遺跡の最近の知見と一致しており、アルスランテペ遺跡を占拠したEBA牧畜民は、コーカサスからの侵入集団というよりはむしろ、ザグロス山脈周辺を移動するよく確立された在来集団だった可能性の方が高い、と示唆されます。

 アルスランテペ遺跡の遺伝的景観は、メソポタミア世界との相互作用に関して重要な示唆も有します。考古学的証拠では、紀元前四千年紀にメソポタミア集団はアナトリア半島南東部とシリア北部に植民地を確立し、これはウルク拡大と呼ばれる期間です。しかし、ウルクの拡大は、在来エリート層の経済・政治・文化的関心をメソポタミア南部へと新たに向ける、社会文化的変化の複雑で深い過程でもありました。アルスランテペ遺跡の人工物はこの複雑さを反映しており、本論文で示された遺伝的継続性は、遺伝子伝達なしに、在来集団がこれらより広範なウルクの特徴とアイデアを採用した、という考えを支持します。


●レヴァント北部における集団と領域国家の動態

 アナトリア半島の他地域とは対照的に、レヴァント北部は遺伝的構造で新石器時代後の変化を追跡できる近東の地域として際立っています。エブラ遺跡とアララハ遺跡の人類の遺伝子プールは、コーカサスとレヴァント南部の両方からの追加の遺伝的寄与を必要とするより複雑なモデルによってのみ説明できる、と明らかになりました。本論文で提案されたモデルにおいてコーカサスと関連する起源集団の包含は、この置換がレヴァントへのコーカサス南部のクラ・アラクセス文化の拡大と関連しているのかどうか、という問題を提起します。この拡大はレヴァントで紀元前2800年頃に記録されており、アナトリア半島東部およびコーカサス南部高地からの移動/移住と関連しているかもしれません。しかし、本論文の結果はいくつかの理由でこの想定を支持しません。まず、アナトリア半島東部のようなクラ・アラクセス文化のおもな拡大地域において、コーカサス関連系統の実質的な増加は見つかりません。次に、コーカサス南部高地からの集団は、クラ・アラクセス文化関連個体群も含めて、第二起源集団としても適合しませんでした。最後に、コーカサス南部からレヴァント北部への提案されている拡大経路の中間に位置する集団である、アナトリア半島東部のアルスランテペ遺跡個体群とのモデルも同様です。

 その結果、これらの解釈上の警告は、テルクルドゥ集団と青銅器時代エブラおよびアララハ集団との間の2000年に起きたかもしれない、複数の遺伝子流動事象を含む、代替的な歴史的想定の検討を必要とします。しかし、文字記録や考古学的および古気候学的証拠からは、より短い期間、つまり前期銅器時代の終わりが、政治的緊張と集団移動に関してひじょうに重要だった、と示唆されます。たとえば、この期間には、中期青銅器時代の始まりにエブラ遺跡は2回破壊され、再建されました。前期銅器時代の終わりから後期青銅器時代まで、アムク川流域へと侵入する人類集団に言及する文字記録は広範に存在します。これらの集団はアモリ人やフルリ人などと呼ばれましたが、その(文化的)自己認識の形成背景や地理的起源に関しては、まだ議論が続いています。最近の仮説では、これらの集団の到来が4200年前頃の大旱魃における気候変動による集団移動と関連づけられており、この大旱魃はメソポタミア北部のハブール川前流域の放棄と、近隣の居住可能地域の探索へとつながった、と指摘されています。

 これを考慮すると、アララハとエブラで推定された系統は、まだ標本抽出されていないメソポタミア北部のEBA集団遺伝的構成を最もよく表しているかもしれない、と示唆されます。次の中期〜後期青銅器時代には、王国/帝国間の領土支配の動態の変化がエブラおよびアララハの社会文化的発展に影響を及ぼしたとしても、遺伝的混乱の証拠は見つかりません。それにも関わらず、アジア中央部起源の可能性があるアララハ遺跡の1個体の事例は、中期および後期青銅器時代の地中海東部社会の「国際主義」の文脈内で解釈できるかもしれない知見です(関連記事)。この現象のさまざまな社会的特徴と、これらが個人の生活史にどのように反映されているのか、ということに関して、今後の研究が必要です。


●まとめ

 全体的に、本論文の大規模なゲノム分析は、2つの主要な遺伝的事象を明らかにします。まず、後期新石器時代に、アナトリア半島とコーカサス南部にまたがる遺伝子プールが混ざり、混合勾配が生じました。次に、前期銅器時代に、レヴァント北部集団が、メソポタミアからのまだ標本抽出されていない近隣集団を含む可能性が高い過程で、遺伝子流動を受けました。アルスランテペ遺跡において微妙で一時的な遺伝子流動を検出できるとしても、均質な銅器時代および青銅器時代のアナトリア半島集団の遺伝子プール内の地域規模の集団動態と関連する問題の解明は、現在の分析手法では解決できないかもしれない、と本論文は認識しています。

 さらに、本論文の標本抽出は数と地理的範囲において以前の研究との比較で拡大していますが、メソポタミアの人類遺骸の重要な地域ではまだ標本抽出されていません。したがって、本論文で提示された近東の遺伝的景観は示唆的ですが、まだ不完全です。それにも関わらず、前期〜後期青銅器時代間のアナトリア半島とコーカサス南部とレヴァント北部の累積的な遺伝的データセットからは、後期新石器時代と前期青銅器時代の遺伝的事象に続いて、この地域では遺伝的に異なる集団の侵入はなかった、と示唆されます。この結論は、複雑な青銅器時代の社会政治的実体の形成についての我々の理解に関して、ひじょうに重要です。


参考文献:
Skourtanioti E. et al.(2020): Genomic History of Neolithic to Bronze Age Anatolia, Northern Levant, and Southern Caucasus. Cell, 181, 5, 1158–1175.E28.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.044


https://sicambre.at.webry.info/202009/article_30.html

2. 2020年9月26日 09:21:05 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[6] 報告
雑記帳 2020年09月26日
青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_33.html

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析に関する研究(Agranat-Tamir et al., 2020)が報道されました。紀元前3500〜紀元前1150年頃となる青銅器時代は、現在のイスラエルとヨルダンとレバノンとパレスチナ自治政府とシリア南西部を含むレヴァント南部の形成期でした。この時期には、レヴァント南部全域の大規模な文化崩壊が起き(関連記事)、人口および文化的に後の時代が形成されていきました。

 紀元前1150〜紀元前586年頃となる鉄器時代には、フェニキアの都市国家と同様に、聖書に見えるイスラエルやユダヤやアモンやアラム・ダマスカスのような領域的王国が台頭しました。後期青銅器時代の大半において、レヴァント南部はエジプト帝国により支配されていましたが、鉄器時代後半には、メソポタミアを中心とするアッシリアやバビロニアといった帝国に支配されていました。考古学的および歴史学的研究では、青銅器時代と鉄器時代の間の大きな変化が指摘されています。それは、前期青銅器時代のクラ・アラクセス(Kura-Araxes)伝統と関連した北方(コーカサス)集団の文化的影響や、鉄器時代の始まりに西方から到来したペリシテ人のような「海の民」の影響です。

 青銅器時代のレヴァント南部の住民は一般的に「カナン人」、つまりカナンの地の住民と呼ばれています。カナン人という用語は、アマルナ(Amarna)やアララハ(Alalakh)やウガリット(Ugarit)の粘土板といった紀元前二千年紀のいくつかの記録や、紀元前8〜紀元前7世紀やそれ以降の聖書に見えます。聖書では、カナン人はイスラエルよりも前のカナンの地の住民とされています。紀元前二千年紀のカナンは都市国家の体系で組織化されており、支配層は都市中心から農村(と一部の牧畜民)を支配しました。これらの都市国家の物質文化は比較的均一でしたが、この均一性が遺伝的系統にまで及ぶのか、不明です。遺伝的系統と物質文化が完全に一致する可能性は低そうですが、過去の古代DNA分析では、時として強く関連すると示されています。他の事例では、遺伝子と文化の間の直接的一致は確立できません。本論文ではいくつかの事例が議論されます。

 以前の古代DNA研究では、レヴァント南部の4ヶ所の青銅器時代遺跡の13人のゲノム規模データが報告されています。紀元前2300年頃(移行期青銅器時代)となるヨルダンのアインガザル(‘Ain Ghazal)遺跡の3人、紀元前1750年頃(中期青銅器時代)となるレバノンのシドン(Sidon)遺跡の5人、紀元前1250年頃(後期青銅器時代)となるイスラエルのテルシャドゥド(Tel Shadud)遺跡の2人、紀元前1650〜紀元前1200年頃(中期および後期青銅器時代)となるイスラエルのアシュケロン(Ashkelon)遺跡の3人です。

 これらの個体群の系統は、それ以前の在来集団およびザグロス山脈の銅器時代の人々(以前はイランChLとされていました)と関連する集団との混合としてモデル化できます。青銅器時代シドン集団は、現代の同地域集団の主要な祖先集団(93±2%)としてモデル化できます。イスラエルのガリラヤのペキイン(Peqi'in)洞窟の銅器時代個体群の研究では、この在来集団の系統は、早期アナトリア半島農耕民と関連する追加の構成を含んでいた、と示されています(関連記事)。このアナトリア半島農耕民系統は、レヴァント南部の後の青銅器時代集団では見られませんが、シドンやアシュケロンの沿岸部集団は例外です。これらの観察は、銅器時代から青銅器時代の移行期における集団置換の程度を示しており、銅器時代文化と前期青銅器時代文化との間の中断を指摘する考古学的証拠と一致します。

 本論文は三つの問題を検証します。まず、カナン人の物質文化と関連した遺跡間の遺伝的均質性の程度の決定です。次に、ザグロスおよびコーカサス関連系統を青銅器時代レヴァント南部にもたらした遺伝子流動の、年代・程度・起源を解明するためのデータ分析です。最後に、追加の遺伝子流動事象が青銅器時代以降にどの程度影響を与えたのか、という評価です。これらの問題の解明のため、移行期青銅器時代から前期鉄器時代まで約1500年にまたがる、青銅器時代71人と鉄器時代2人のゲノム規模の古代DNAデータが生成されました。これらのデータがレヴァント南部における青銅器時代および鉄器時代の既知のデータと組み合わされ、現在のイスラエルとヨルダンとレバノンにまたがる、すべてカナン人の物質文化を示す9遺跡93人のデータセットが生成されました。

 異なる遺跡から標本抽出された個体群は、とくにシドンやアシュケロンのような沿岸部地域住民において、いくつかの事例では微妙ではあるものの有意な違いがあるにも関わらず、一般に遺伝的に類似しています。ほぼ全ての個体が、この時期以前の在来新石器時代集団と近東北東部集団との混合としてモデル化できます。しかし、混合の割合は経時的に変化し、青銅器時代におけるレヴァント南部の人口動態を明らかにします。現代のユダヤ人集団とレヴァントのアラブ語話者集団を含む、青銅器時代のレヴァントと地理的および歴史的に関連する現代人集団のゲノムは、青銅器時代のレヴァントと銅器時代のザグロス地域の集団と関連する人々から50%もしくはそれ以上の系統を有している、と示されます。またこれらの現代人集団は、利用可能な古代DNAデータではモデル化できない系統も示しており、青銅器時代以降のレヴァント南部への追加の大きな遺伝的影響の重要性が強調されます。


●データセット

 レヴァント南部の5遺跡から計73人のDNAが抽出されました。イスラエル北部のテルメギド(Tel Megiddo)遺跡からは35人で、その大半は中期〜後期青銅器時代ですが、1人は移行期青銅器時代、1人は前期鉄器時代です。ヨルダン中央部のバクア(Baq‛ah)遺跡からは21人で、その大半は後期青銅器時代です。イスラエル中央部のイェハド(Yehud)遺跡からは13人で、年代は移行期青銅器時代です。イスラエル北部のテルハツォル(Tel Hazor)遺跡からは3人で、年代は中期〜後期青銅器時代です。イスラエル北部のテルアベルベトマアカ(Tel Abel Beth Maacah)遺跡からは1人で、年代は鉄器時代です。1人を除く全個体のDNAは錐体骨から抽出されました。これらの新たなデータは、上述のレヴァント南部の青銅器時代の13人と、アシュケロン遺跡の鉄器時代の7人の既知のデータと組み合わされました。

 主成分分析では、777人のユーラシア西部現代人も対象とされました。ただ、常染色体で少なくとも3万ヶ所の一塩基多型(系統推定が堅牢となる閾値)が得られていない個体は除外され、古代人では68個体が分析対象とされました(図1B)。青銅器時代〜鉄器時代のレヴァント南部の個体群(青色および緑色)は密集したクラスタを形成しますが、イスラエル北部のメギド(Megiddo)遺跡のうち3人と、以前に外れ値として特定されたアシュケロン遺跡集団IA1(鉄器時代1)は例外です。現代人および古代人計1633人を対象にADMIXTUREを実行すると、主成分分析と定性的に一致しており、外れ値であるメギド遺跡とアシュケロン遺跡IA1集団以外の全個体は類似の系統を有する、と示唆されます(図1C)。以下、本論文で分析対象となった標本の場所(A)と主成分分析(B)と系統構成(C)を示した本論文の図1です。

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 データセット内の親族関係では、1〜3親等の関係にある17人が特定されました。この17人は7家族に分類され、テルメギド遺跡で5家族、バクア遺跡で2家族です。ほとんどの家族では、高い一塩基多型網羅率を有する構成員のみが分析に用いられました。メギド遺跡の外れ値3人のうち2人は、兄妹もしくは姉弟でした(家族4、I2189およびI2200)。低網羅率の個体群と密接な関係にある親族を除く62人が、さらなる分析に用いられました。


●複数遺跡間の高度の遺伝的類似性

 テルメギド遺跡の高網羅率の26人は、地理と考古学的期間と主成分分析に基づいて、移行期青銅器時代(メギドIBA、1人)、中期〜後期青銅器時代(メギドMLBA、22人)、鉄器時代(メギドIA、1人)、外れ値2人(メギドI2200およびメギドI10100)に区分されました。これらの集団と本論文のデータセットにおける他の集団が、より広範な地域とより古い年代を含む他の遺跡の既知のデータと比較されました。それは、前期青銅器時代コーカサス(アルメニアEBA)、中期〜後期青銅器時代コーカサス(アルメニアMLBA)、銅器時代ザグロス山脈(イランChL)、銅器時代コーカサス(アルメニアChL)、新石器時代レヴァント南部(レヴァントN)、新石器時代ザグロス山脈(イランN)、新石器時代アナトリア半島(アナトリアN)です。

 レヴァントの青銅器時代と鉄器時代の集団間の系統の割合における多様性を検証するため、qpWaveが用いられました。qpWaveは、潜在的な集団の組み合わせごとに、共通の祖先集団の子孫、つまりクレード(単系統群)と一致するのか、検証します。qpWaveはf4形式(Testi、Testj;Outgroupk、Outgroupl)の対称性検証統計の計算により機能し、検証対象(Testi、Testj)が外群に関してクレードを形成するならば、期待値はゼロです。遠い関係の一連の外群を用いると、メギドとアシュケロンIA1とシドンの外れ値を除いて、レヴァント南部の青銅器時代および鉄器時代の全個体は、外群に関して相互に対のクレードである、と明らかになりました。

 続いてqpWaveで集団の下部構造が調べられました。メギド遺跡の外れ値2人は、他集団とクレードを形成しませんでしたが、相互とはクレードを形成します。アシュケロンIA1はヨーロッパ系統を有している、と以前の研究では推定されており(関連記事)、同時代の集団と遺伝的に異なる事例は、とくに意外ではありません。qpWaveにおけるシドン遺跡個体群の有意な違いは、主成分分析において他のレヴァント南部青銅器時代集団と大まかにはクラスタを形成するという事実にも関わらず、注目に値します。それはとくに、シドン個体群がとヨーロッパ人関連の混合を有さない沿岸部のアシュケロン遺跡の2集団(青銅器時代と鉄器時代のアシュケロンLBAとアシュケロンIA2)とクレードを形成する、と明らかになったからです。

 この観察は、シドンとアシュケロンの両遺跡がレヴァント南部外の他の地中海沿岸集団とつながりのある港町だった、という事実と関連しているかもしれません。そのため、レヴァントの内陸部青銅器時代集団では欠けている系統構成がもたらされた、というわけですが、この仮説の検証は、地中海東方周縁部の高解像度の古代DNA標本抽出が欠けているので、困難です。シドン個体群の遺伝的特徴は、ペキイン洞窟の銅器時代レヴァント個体群が、シドン個体群へと一部の系統を伝えたものの、アインガザル個体群には伝えなかった、という以前の知見とも一致します。シドン個体群内の下部構造の証拠は見つかりましたが、一部はレヴァント南部内陸部集団とクレードを形成しており、シドン遺跡のかなりの「国際的」性質を反映しているかもしれません。

 より微妙な集団構造を明らかにするため、アルメニアMLBAやナトゥーフィアン(Natufian)のような遺伝的に検証集団とより密接な外群を追加して、qpWave分析が繰り返されました。このより強力な外群セットにより、バクアおよびメギドIBAも、残りの集団と対でのクレードになっていない、という証拠が提供されます。したがって、これらの遺跡間の遺伝的類似性の広範な観察を超えて、青銅器時代のレヴァント南部では、微妙な系統不均質も観察されます。


●青銅器時代のレヴァント南部における遺伝子流動

 以前の研究では、アインガザル遺跡とシドン遺跡の青銅器時代個体群は、それ以前の在来集団(レヴァントN)と銅器時代ザグロス山脈の人々と関連する集団(イランChL)の混合としてモデル化されています。レヴァントN関連系統を、アインガザル個体群は56±3%、シドン個体群は48±4%有している、と推定されています。qpAdmを用いると、レヴァントN関連系統の割合は、アシュケロンLBAが54±5%、アシュケロンIA2が42±5%と推定されます。次に、qpAdmを用いて本論文で報告されたデータの同じモデルを検証すると、ほとんどの中期〜後期青銅器時代集団は、レヴァントN関連系統を48〜57%有する、というモデルと適合しました。これらの系統の割合は統計的に区別できず、qpWaveで対でのクレードを形成することと一致する、という事実を確証します。広範な外群集団を用いた時でさえ、バクア集団だけはこのモデルに適合しませんでした。これは、バクア個体群全体の系統の不均質性の結果かもしれません。

 ザグロス関連系統構成を検証するため、起源と年代に焦点が当てられました。銅器時代ザグロスの人々は、現時点でこの系統構成の最良の代理集団ですが、青銅器時代におけるザグロスからレヴァント南部への直接的な文化拡大の考古学的証拠はありません。対照的に、青銅器時代のレヴァント南部集団とコーカサス(現代のコーカサスおよびアナトリア半島東部のような近隣地域)との間のつながりは考古学的に支持されています。これらの事象の年代に関して考古学では、紀元前三千年紀前半におけるコーカサスのクラ・アラクセス文化とレヴァント南部のヒルベットケラク(Khirbet Kerak)文化との間の類似性が指摘されており、文字記録の証拠では、たとえば紀元前14世紀のアマルナ文書のように、紀元前二千年紀における多くの非セム人や古代近東北東部のフリル語の個人名が記載されています。したがって、銅器時代ザグロス構成は、コーカサス、さらにはもっと直接的に古代近東の北東部地域を通ってレヴァント南部に到来したかもしれない、と推測されます。しかし、古代近東の北東部地域からの古代DNA標本はありません。この移動は、短期の波に限定されておらず、青銅器時代を通じて複数回の波があったかもしれません。

 遺伝子流動の起源が直接的にザグロス地域からというよりはむしろコーカサスからなのかどうか検証するため、qpAdmが実行され、イランChLが前期青銅器時代コーカサス集団(アルメニアEBA)と置換されました。その結果、コーカサスモデルはザグロスモデルと類似の支持を受ける、と明らかになりました。次に、アルメニアEBAをより古いコーカサス集団(アルメニアChL)およびイランChLの混合としてモデル化すると、アルメニアEBAはこのモデルに適合しました。まとめると、本論文のデータは、レヴァント南部におけるザグロス関連系統のレヴァント南部への到来経路が、コーカサス、もしくは直接的にザグロス地域あるいは中間地を経由してのものだった、というモデルと適合します。

 レヴァント南部におけるザグロス関連系統の混合の年代を検証するため、移行期青銅器時代から前期鉄器時代まで、本論文のデータセットにおける広範な年代の個体群が用いられました。個体群それぞれのqpAdmに基づく系統推定を用いると、ほぼ全ての個体は新石器時代レヴァントおよび銅器時代ザグロスと関連する集団の混合モデルと適合しました。例外の一つはメギドMLBA個体で、このモデルとの適合が弱くなっています。もう一つの例外はバクア遺跡の3人で、新石器時代レヴァントおよび銅器時代ザグロスとの混合としてのモデル化が困難であることは、系統の不均質性を反映しているかもしれない、と示唆されます。

 これらの結果は、外より多くの群集団を用いても定性的に変わりませんでした。本論文のデータセットで最古級となる移行期青銅器時代の個体群は、すでに有意なザグロス関連系統を有している、と明らかになり、この遺伝子流動が紀元前2400年前頃以前に始まった、と示唆されます。これは、紀元前三千年紀のクラ・アラクセス複合の人々が、レヴァント南部へと文化的にだけではなく、ある程度の人々の移動でも影響を与えたかもしれない、という仮説と一致します。本論文のデータも、移行期青銅器時代後のザグロス関連系統の割合の増加を示唆します。しかし、ザグロス関連系統の増加が中期〜後期青銅器時代に継続して起きたのか、複数回の異なる移住事象があったのか決定するには、個体数と期間が不充分である、と本論文は注意を喚起します。

 メギド遺跡の2つの外れ値(兄妹もしくは姉弟の組み合わせを含む3個体)は、レヴァント南部への遺伝子流動の年代と起源に関する追加の証拠を提供します。この3人はK10層で相互に近接して発見され、放射性炭素年代測定法で紀元前1581〜紀元前1545年(家畜)と紀元前1578〜紀元前1421年(埋葬)と推定されていますが、3人のうち1人(I10100)の骨の直接的な年代は紀元前1688〜紀元前1535年です。この3人が他の個体と異なっている理由は、コーカサスもしくはザグロス関連の遺伝的構成がずっと高く、北東からレヴァント南部への進行中の遺伝子流動を反映しているからです。3人のうち2人の新石器時代レヴァント構成は、I2200では22〜27%、I10100では9〜26%です。

 外れ値の兄妹もしくは姉弟(I2189とI2200)のストロンチウム同位体分析では、2人がメギド遺跡付近で育ったと示唆されているので、この外れ値3人が移民第一世代だった可能性は低そうです。これは、メギド遺跡の外れ値3人の直近の祖先がメギド遺跡に到来した可能性を示唆します。この仮説の直接的支持は、密接に関連する集団を含む敏感なqpAdmモデル化では、この2人のレヴァント南部の北東方向地域の起源集団として唯一機能するのが、アルメニアMLBAである一方で、イランChLおよびアルメニアEBAではない、という事実に由来します。外群にイランChLを追加しても、この結果は変わらないか、モデル化に失敗しません。他のレヴァント集団はどれも類似の混合パターンを示しません。これは、レヴァントへのある程度の遺伝子流動が青銅器時代後半に起きたことを示し、この遺伝子流動の起源がコーカサスだったことを示唆します。

 まとめると、本論文の分析は、コーカサスもしくはザグロス集団と関連する人々からレヴァントへの遺伝子流動が、すでに移行期青銅器時代には起きつつあり、それが一時的もしくは継続的に、中期〜後期青銅器時代において少なくとも内陸部の遺跡では持続した、と示します。


●青銅器時代以降のレヴァント集団のさらなる変化

 青銅器時代以降のレヴァントにおける集団変化を検証するため、さまざまな古代起源集団の混合としてのレヴァント地域アラブ語話者と、レヴァントにおける古代の人々の子孫(ユダヤ人)の伝統を有する集団がモデル化されました。qpAdmでは、外群と関連する集団と起源集団との間での混合は推測されませんが、ほぼ全てのレヴァント現代人および地中海集団は、古代集団が有していない、有意なサハラ砂漠以南アフリカ関連混合を有しています。

 これによりqpAdmの多くの主要な外群が除去され、この文脈での手法の有用性が減少します。とくに、qpAdmを適用して、ユーラシア西部現代人集団の大半への単一の機能するモデルを得ることはできませんでした。代わりに、LINADMIXと呼ばれる手法が開発されました。これはADMIXTUREの出力に依存し、制約付きの最小二乗法を用いて、対象となる集団への想定される起源集団の寄与を推定します。補足的な手法として、擬似ハプロタイプChromoPainter(PHCP)と呼ばれる手法が開発されました。これは、ハプロタイプに基づく手法であるChromoPainterの、古代ゲノムへの適用です。

 まず、これらの手法は、qpAdmでモデル化できた系統の割合の再計算により、本論文の文脈において系統の有意義な推定を提供する、と確証されました。LINADMIXとPHCPは両方とも、qpAdmと定性的に類似した推定を生成します。これらの手法をさらに確証するため、本論文と類似の設定で現代人集団の系統の割合を推定する能力を検証するよう設計された、シミュレーションが実行されました。そのために、第三のより遠い関係にある集団を有する場合とそうでない場合とで、2つの密接に関連した古代人集団の混合として、現代人集団が生成されました。

 どちらの手法でも、遠い関係の起源集団の系統の割合は最大4%のエラーで、密接に関連した起源集団の割合は最大10%のエラーで推定されました。したがって、LINADMIX の基礎であるADMIXTUREは、系統の割合を定量化する手法としてある程度の危険性があると知られているものの、本論文で分析された集団と類似した系統起源を有する個体群の事例では、本論文の結果から、LINADMIXとPHCPは両方ともひじょうに有益である、と示唆されます。

 現代人集団のLINADMIX分析では、一塩基多型で遺伝子型決定された293集団1663人の現代人および古代人のデータセットが用いられ、対照として用いられた現代のイングランド人・トスカーナ人・モロッコ人集団とともに、14の現代ユダヤ人およびレバノン人集団に焦点が当てられました。LINADMIXを用いて、現代人17集団のそれぞれが、4起源集団の混合としてモデル化されました。それは、(1)中期〜後期青銅器時代構成の代表としてのメギドMLBA(最大集団となります)、(2)ザグロスおよびコーカサスの代表としてのイランChL、(3)アフリカ東部起源集団の代表としての現代ソマリア人(この地域の古代人集団の遺伝的データが欠如しているため)、(4)後期新石器時代から前期青銅器時代の古代ヨーロッパ人の代表としてのヨーロッパLNBAです。

 また、17の現代人集団にPHCPが適用されました。PHCPとLINADMIXを比較すると、ソマリアとヨーロッパLNBAの構成に関して、またイランChLとメギドMLBAの組み合わされた寄与でも、よく一致する、示されます。しかし、イランChLとメギドMLBAのそれぞれの寄与に関して、おそらくはメギドMLBAとイランChLがすでにひじょうに類似した集団であるという事実のため、逸脱します。堅牢でLINADMIXとPHCPにより共有される結果のみを考慮するため、メギドMLBAとイランChLが、本論文の主要な結果として中東を表す単一の起源集団に組み合わされました。起源集団として青銅器時代レヴァント集団の異なる代表を用い、ADMIXTUREパラメータへの摂動を使用して、推定の堅牢性とこれらの結論が実証されました。これらの組み合わせによる結果から、レヴァントと関連する現代人集団は、青銅器時代レヴァント南部および銅器時代ザグロス地域からかなりの系統構成を有する、と示唆されます。それにも関わらず、他の潜在的な系統起源があり得るので、より多くの古代標本が洗練された人口史を可能とするかもしれません。

 また分析の結果、青銅器時代以降レヴァント南部に、ヨーロッパ関連系統(ヨーロッパ関連構成を41%有するアシュケナージ系ユダヤ人を除くと平均8.7%)と同様に、追加のアフリカ東部関連構成(アフリカ東部構成を80%有するエチオピアのユダヤ人を除くと平均10.6%)があった、と示されます。アフリカ東部関連構成は、エチオピアのユダヤ人とアフリカ北部人(モロッコ人とエジプト人)で最高となり、ドゥルーズ派を除く全てのアラブ語集団に存在します。ヨーロッパ関連構成は、ともにヨーロッパに居住した歴史を有するアシュケナージとモロッコのユダヤ人と同様に、ヨーロッパの参照集団(イングランド人とトスカナ人)で最高でした。この構成は、ベドウィンとエチオピアのユダヤ人を除く全ての他集団に、わずかながら存在します。

 予想通り、イングランドおよびトスカーナ集団には、中東関連系統はわずかしかありません。LINADMIXとPHCPでは、メギドMLBAとイランChLの相対的寄与の推定に不確実性がありますが、それにも関わらず、結果とシミュレーションからは、追加のザグロス関連系統が青銅器時代以降、レヴァント南部に浸透してきた、と示唆されます。最高のザグロス関連構成を有する集団を除いて、PHCPではザグロス関連構成のより低い程度が推定されているので、ザグロス関連系統のPHCPによる検出は、この構成の存在の指標である可能性が高そうです。じっさい、4起源集団全てのLINADMIXとPHCPの結果の検証では、多くのアラビア語集団における比較的大きなザグロス関連構成が観察され、ザグロスおよびコーカサスと関連する集団(必ずしも、これらの特定地域に由来するとは限りませんが)からの遺伝子流動は、鉄器時代後も継続した、と示唆されます。

 まとめると、現代人集団のパターンは、青銅器時代後に起き、おそらく歴史的文献で知られている過程と関連している、人口統計学的過程を反映しています。これらは、アラブ語集団に存在するものの、エチオピアではないユダヤ人集団にはより低い割合で存在するアフリカ東部関連構成を含んでおり、それはレヴァント集団へのザグロス関連の寄与と同様です。このザグロス関連構成は、検証されたうちでは北端の集団で最高となり、青銅器時代と鉄器時代の後でさえ、ザグロス関連集団の寄与があった、と示唆されます。


●まとめ

 本論文の結果は、歴史的記録や「カナン人」としての物質文化の共有に基づいて知られていた、紀元前二千年紀のレヴァント南部のおもな住民の包括的な遺伝的状況を提供します。本論文では、三つの基本的な問題に答えるため、詳細な分析が行なわれました。それは、これらの人々はどの程度遺伝的に均質だったのか、それ以前の人々との比較で可能性の高い起源は何なのか、青銅器時代以降、この地域ではどの程度系統に変化があったのか、ということです。

 以前の遺伝的分析では、レヴァント南部の中期〜後期青銅器時代の人々が、それ以前の在来集団(レヴァントN)と、銅器時代ザグロス関連集団とのほぼ等しい共有としてモデル化され、北東地域からレヴァント南部への移動が示唆されました。本論文はこの過程に関して、考古学と時空間的に多様な遺伝的データの両方を考慮に入れて、より詳細な分析を提供しました。この期間に、レヴァント南部とザグロス地域との間で直接的な文化的つながりの証拠はほとんどないので、コーカサスがこの系統の起源である可能性が高そうです。本論文はこれらのデータを用いて、これら2つの想定を比較し、遺伝的データが両方と適合する、と結論づけました。

 メギド遺跡の外れ値個体は、直近の祖先が移民第一世代だったと推測されますが、遺伝子流動が青銅器時代を通じて継続したことと、遺伝子流動の少なくとも一部はザグロスよりもむしろコーカサスに由来する可能性が高い、と示した点でとくに重要です。この外れ値2個体は、本論文のデータセットにおいて、ザグロスもしくはコーカサス関連系統の最高の割合を示します。この外れ値の分析は、ザグロスと比較してコーカサス起源の有意により強い証拠をもたらしますが、この結論は、ザグロス地域の中期〜後期青銅器時代の古代DNAデータが利用可能になれば、修正されるかもしれません。

 次に新石器時代レヴァント構成の低い2個体(兄弟のI10769とI10770)は、メギド遺跡の宮殿と関連している可能性が高い巨大墓の近くで発見されており、2人が支配的な社会的地位(カースト)と関連していた可能性を提示します。じっさい、遺跡で発見された紀元前15世紀の楔形文字の粘土板に記されているメギド遺跡のすぐ南に位置する町であるタアナク(Taanach)の支配者と、エジプトで発見された紀元前14世紀のアマルナ文書に記されたメギドとタアナクの支配者たちは、フルリ語(古代近東の北東部で話された言語で、コーカサスも含まれるかもしれません)の名前を有しています。これは、今まで示唆的ではあったものの、これらの都市の支配者集団の少なくとも一部は、古代近東の北東部に起源がある、といういくつかの証拠を提供します。

 本論文では、コーカサスは現在のアルメニアの古代集団により代表されますが、レヴァント南部と文化的つながりがあったと知られている地域は、もっと広範です。レヴァント南部への文化的影響の証拠は、おもに前期青銅器時代のクラ・アラクセス文化(考古学)と、中期〜後期青銅器時代のフリル語(言語的証明)に焦点が当てられます。これら二つの複合はコーカサスおよびアナトリア半島東部とその近隣地域に拡大しました。本論文で分析されたアルメニアの遺跡は、これらの文化のこれまでで最高の代表です。アルメニアの前期青銅器時代個体群(アルメニアEBA)は、前期青銅器時代のクラ・アラクセス文化墓地で、その後の中期〜後期青銅器時代個体群(アルメニアMLBA)は、アルメニア北西部のアラガツォトゥン(Aragatsotn)州で発見されました。本論文で分析された新石器時代および銅器時代のアナトリア半島個体群は、アナトリア半島北西部で発見されており、コーカサスの一部ではないことが重要です。銅器時代ザグロス個体群はイランのカンガーヴァル(Kangavar)渓谷で発見されており、クラ・アラクセス文化の影響の境界に位置します。

 「カナン人」という用語は大まかに定義されており、青銅器時代に都市国家で組織化されていた集団の集合を指しているので、原則として遺伝的一貫性に欠ける可能性があります。本論文で調査された個体群は、現在のレバノンとイスラエルとヨルダンの9遺跡に由来し、広範な地域にわたります。本論文の分析で明らかになったのは、シドン遺跡(およびバクア遺跡のより少ない個体)を除いて、これらの個体群が他の同時代および近隣の集団よりも、相互に密接であるという意味で均質である、ということです。これは、「カナン人」の考古学的および歴史学的分類が共有された系統と相関している、と示唆します。

 これは、紀元前二千年紀にエーゲ海地域観察されたパターンと類似しています。当時のエーゲ海地域では、ミノアやミケーネという文化的分類が、これら集団内の潜在的に微妙な系統の違いにも関わらず、複数の遺跡にわたって遺伝的同質性を示しました。別の事例は、ユーラシア西部草原地帯における紀元前三千年紀後期と紀元前二千年紀前期の「ヤムナヤ(Yamnaya)」牧畜民です。こちらは、紀元前二千年紀の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化複合で、類似の文化的慣行を共有する人々が広く異なる系統を有するように、他の場所で見られるパターンとは対照的です。いずれにせよ、本論文でも示されたそのような関連の検出だけでは、過去の集団的自己認識が遺伝学と関連していたことを証明できません。

 本論文で調べられた集団で、他集団とわずかに異なるのはシドンだけです。本論文は、この観察が誤差である可能性に対する証拠を提供します。むしろ、本論文の結果からは、シドン集団の相対的な遠隔は、シドン集団が遺伝的に不均質で、異なるレヴァント南部集団との類似を示す異なる個体群を有しているという事実に由来する、と示唆されます。紀元前二千年紀に、シドンは主要な港湾都市で、地中海東部とは交易関係でつながっていたので、顕著な遺伝子流動がもたらされ、内陸部の都市よりも集団が不均質になったかもしれません。これは、シドン集団に最も類似しているのが、同じく沿岸都市のアシュケロン集団である理由かもしれません。シドン集団と類似している唯一の内陸部集団がアベルベトマアカで、おそらくは沿岸部との地理的近接のためです。シドン集団以外ではバクア集団も、外群集団を多くすると、他の集団からやや逸脱します。バクア遺跡はシリア砂漠の端に位置しているので、この集団は、まだ遺伝的に標本抽出されていないより東方の集団と混合したかもしれません。これは、バクア遺跡の個体群がその系統パターンにある程度の変動性を示す、という事実に反映されている可能性があります。

 本論文は青銅器時代に焦点を当てていますが、鉄器時代の新たな2標本も報告しており、一方はメギド遺跡、もう一方はアベルベトマアカ遺跡で発見されました。この2人は、中期〜後期青銅器時代個体群で観察されたものと類似した系統パターンを示し、この地域の青銅器時代末の破壊が、各遺跡での遺伝的不連続につながったとは限らないことを示唆します。とくに、アベルベトマアカ遺跡とメギド遺跡はともに内陸部の都市で、青銅器時代から鉄器時代の移行期を通じての遺伝的連続性は、レヴァント南部の他の遺跡の典型ではなかったかもしれません。たとえば、ペリシテ人の沿岸部都市であるアシュケロン遺跡の鉄器時代2集団の一方(ASH_IA1)は、青銅器時代から鉄器時代の移行期に、ヨーロッパ南部関連集団の移動の証拠を示しました(関連記事)。

 かなりのサハラ砂漠以南のアフリカ人との混合を有する現代中東集団における系統の割合の推定は、地中海の異なる地域の混合の複数起源と同様に困難です。本論文ではこの問題が、二つの統計的手法の開発と、これらの手法間の比較、シミュレーション、入力の摂動に基づく推論の堅牢性の検証により対処されました。歴史的もしくは遺伝的にレヴァント南部と関連する14の現代人集団が調べられ、レヴァント南部集団系統へのアフリカ東部とヨーロッパと中東(レヴァント南部青銅器時代集団およびザグロス関連銅器時代集団の組み合わせ)の寄与が検証されました。アラビア語集団およびユダヤ人集団はともに、中東関連系統を50%以上有する、というモデルと適合します。これは、あらゆるこれらの現代人集団が、中期〜後期青銅器時代のレヴァントもしくは銅器時代ザグロスに居住していた人々からの直接的な系統を有することを意味するのではなく、むしろ、古代の代理が中東と関連し得る集団からの系統を有する、と示唆されます。

 ザグロスもしくはコーカサス関連系統のレヴァント南部への流入は、青銅器時代後も続いたようです。また、アフリカ東部関連系統が青銅器時代後に、ほぼ南から北への勾配でレヴァント南部に入ってきたことも明らかになりました。さらに、反対方向の勾配(北から南)を有するヨーロッパ関連系統も観察されました。レヴァント南部とザグロスから到来する系統構成の分離が困難であることを考慮すると、将来の研究の重要な方向性は、各現代人集団の系統の軌跡を高解像度で再構築し、レヴァント南部青銅器時代に由来する人々が、後の時代の他の人々とどのように混合したのか、過去3000年の豊富な考古学的および歴史的記録で知られている過程の文脈において理解することです。


参考文献:
Agranat-Tamir L. et al.(2020): The Genomic History of the Bronze Age Southern Levant. Cell, 181, 5, 1146–1157.E11.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.044


https://sicambre.at.webry.info/202009/article_33.html

3. 中川隆[-12026] koaQ7Jey 2023年12月09日 11:03:31 : SHHUQPOQXA : c254eW5TR2puN2s=[8] 報告
<▽39行くらい>
津本英利『ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16829202

メソポタミア人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/369.html

アナトリア半島人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/294.html

レヴァント人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/305.html

ペリシテ人の起源
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/777.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/301.html

フェニキア人の起源
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1005.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/292.html

レバノン人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/284.html

3-7. Y-DNA「J」   セム度・メソポタミア農耕民度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-7.htm

シュメール神話の人類創世
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14139520

西洋の達人が悟れない理由
03. 中川隆 2011年1月29日 U. エロスの深層
神様が人間を創った理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

アナーキストが誰にも相手にされない理由 _ 一般大衆は自由であるよりも支配されることを望んでいる
アダムとイブはサタンのお陰で神の専制支配から逃れることが出来た。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/737.html

異教徒は「人間」ではないので殺してもいい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/798.html

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