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[番外地11] アメリカ帝国の崩壊は予想以上に早いペースで進んでいる 保守や右翼には馬鹿し
1. 中川隆[-12520] koaQ7Jey 2023年6月10日 06:45:11 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[1]
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アメリカ帝国の崩壊は予想以上に早いペースで進んでいる
 第2次世界大戦で大きな戦禍を免れ、ドイツや日本が略奪した財宝を手に入れ、ドルを基軸通貨にしたアメリカは支配システムを築いた。ソ連というライバルは存在していたものの、ドイツの軍事侵攻で大きな損害を受け、結局立ち直ることはできなかった。

 そのソ連が1991年12月に消滅、ネオコンをはじめとする好戦派はアメリカが「唯一の超大国」になったと信じ、翌年の2月には国防総省のDPG(国防計画指針)草案という形で世界制覇プランを作成した。国防次官だったポール・ウォルフォウィッツが作成の中心だったことから「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。

 自分たちの思い通りに世界を動かせる時代が来たと考え、旧ソ連圏、西ヨーロッパ、東アジアなど潜在的ライバルを潰し、資源国を制圧しようというわけだ。ライバルがいないという認識から軍事力を全面に出してくるのだが、その切っ掛けになったのは2001年9月11日に引き起こされたニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)への攻撃。そして2003年3月にジョージ・W・ブッシュ政権はイラクを先制攻撃する。

 この時点ではネオコンだけでなく、ネオコンに従属する勢力も自分たちの天下が来たと有頂天になっていたが、すぐに雲行きが怪しくなる。サダム・フセイン体制を倒し、フセインを殺すことはできたが、親イスラエル体制の樹立には失敗、親イラン政権ができてしまう。戦乱もおさまらない。

 そこでバラク・オバマ政権はイスラム同胞団やサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)を中心とする戦闘集団を編成、リビアやシリアに対する軍事侵攻を2011年春に始めた。この手法はオバマの師にあたるズビグネフ・ブレジンスキーが作り上げたものだ。

 リビアでは2011年10月にムアンマル・アル・カダフィ体制が倒され、カダフィ本人はその際に惨殺されるのだが、シリア軍は強く、バシャール・アル・アサド政権を倒せない。そこでオバマ政権はアル・カイダ系武装集団への軍事支援を強化、2014年には新たな武装集団としてダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)を登場させた。

 その頃からアメリカ/NATO軍を介入させようとする動きをオバマ政権は見せ始める。オバマ政権のアル・カイダ系武装集団支援を危険だと警告していたマイケル・フリンDIA局長を2014年8月に追い出し、戦争に慎重な姿勢を見せていたチャック・ヘーゲル国防長官やマーチン・デンプシー統合参謀本部議長も解任された。ダーイッシュが残酷さを演出していたのはアメリカ/NATO軍を介入させる環境作りだったと見られている。

 デンプシーは2015年9月25日に退役、5日後の30日にロシア軍がシリア政府の要請で介入、ダーイッシュを敗走させた。そこでアメリカはクルドを新たな手先として使い始めるのだが、これでアメリカとトルコの関係が悪くなる。軍事介入したロシア軍はその強さとロシア製兵器の優秀さを世界に示し、アメリカへの恐怖が世界的に弱まっていく。

 オバマ政権は中東でダーイッシュを編成するだけでなく、ウクライナでは2013年11月からネオ・ナチを使ったクーデターを開始、14年2月にビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒してネオ・ナチ体制を築いた。

 アメリカやその従属国はクーデター体制をすぐに承認するが、ヤヌコビッチの支持基盤だった東部と南部の住民はクーデターを拒否、内戦が始まる。アメリカ政府はウクライナを制圧することでロシアからEUへ天然ガスを運ぶパイプラインを抑えたが、その目的はロシアから大きな市場を奪い、EUからエネルギー資源の供給源を断つことにあった。

 アメリカのCIAとイギリスのMI6は2014年の9月から12月まで香港で反中国の「佔領行動(雨傘運動)」を仕掛けているが、これによって中国政府はアメリカやイギリスが中国を支配しようとしていることを理解する。

 天然ガスの新たな市場が必要なロシアはエネルギー資源の供給源を必要とする中国に接近、アメリカという共通の敵が出現したこともあり、強力な同盟ができあがる。そしてロシアと中国を中心とする世界秩序に参加する国が増えているのだ。

 そのひとつがサウジアラビアであり、5月19日にサウジアラビアのジッダで開かれたアラブ連盟の首脳会議ではシリアが復帰している。ウクライナもゲストとして参加しているが、相手にされていない。ロシアも中国もアフリカやラテン・アメリカと関係を強めている。

 こうした動きに危機感を持ったのか、好戦的な政策の中心にいるジェイク・サリバン国家安全保障担当補佐官が5月7日にサウジアラビアを訪問、6月6日にはアントニー・ブリンケン国務長官も同国を訪れた。ロシア、中国、イラン、シリアなどアメリカ支配層にとって好ましくない国との関係修復にブレーキをかけ、イスラエルとの国交正常化を訴えたが、希望通りの結果は得られなかったようだ。

 アメリカ帝国の崩壊は予想以上に早いペースで進んでいる。
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/156.html#c1

[近代史5] 天皇一族は反日売国奴でアメリカ金融資本のエージェントだった 中川隆
8. 保守や右翼には馬鹿し[216] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年6月10日 08:24:20 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[2]
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田中角栄 - 野次る反角栄の団体に向かってぶった演説(1974年の参議院選挙の際) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=x4D5OOU5TRU


バブルへGOな日本、危機が人をつくり平和は無能をつくる
2023.06.09
昭和天皇とともに日本の繁栄は終った

https://twitter.com/BlueSpiritBlues/status/1123192778047930368 BlueさんはTwitterを使っています_


落ちる所まで落ちたら日本は復活する

一般にその国の株価が上昇するのは近い将来経済が拡大すると思われているからで、株価が下がるのは将来その国が衰退するか不況になると思われているからとされています

過去を見ると全てその通りではないものの、確かに株価の大きな上下に続いて国が好景気になったり不況になる関連性が見られました

日経平均の史上最高値は1989年12月末の3万8915円で1年後の年末は2万3848円まで急降下したが人々に危機感はなかった

日はまた昇るとかトンネルは出口前が最も暗いなどが流行語になり、循環的は不況は長くても数年で終わると99%の日本人は考えていました

バブル的な流行はバブル崩壊後にむしろ加速していて越後湯沢に誰も買わないリゾートマンションが林立したが、多くはバブル崩壊後に建設されていました

バブル的な空気は1995年1月16日まで続いたが17日未明に阪神大震災があり、この日から目に見える形で日本の衰退や没落が始まりました


同年3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件があり日本中が戒厳令のようになってあらゆる施設からゴミ箱が撤去され、すべてのイベントが中止された

オウムも大震災も数十年前から問題があったのに放置していたのが分かり国民の国家への信頼が喪失し、政治も大混乱を起こし指導者不在になった

1993年に小沢グループが自民党を離脱したことで自民党は過半数を割り非自民7党連立政権で細川護熙が首相になった

だが93年5月に北朝鮮が弾道ミサイルノドンを発射すると米クリントン政権は北朝鮮空爆を決定し日本に協力を求めたが、社会党が拒絶して連立から離脱した

社会党は「北朝鮮との友好的な政策」を条件に自民党と連立し、自民党と日本政府が北朝鮮に謝罪しつづける奇妙な時代が到来した

自社さ連立は1998年まで続き次は創価学会を母体とする公明党と自民党が連立し、日本は政治も経済も大混乱を起こして衰退から崩壊への道を辿った


30年間人材に恵まれなかった日本
すべての始まりは1989年1月7日の昭和天皇崩御、同年6月4日の天安門事件とソ連邦崩壊で、日本を取り巻く国際環境も日本そのものも変わってしまった

平成天皇は昭和天皇と違い日本や日本人の悪口を言いふらす悪癖があり、「おことば」として流布され日本を侮辱し貶めるのが日本の大義のようになった

平成30年は悪夢の30年間になり、東京や大阪にはホームレス数万人が路上生活をしているのに政府は有効な対策を取ろうとはしませんでした

2000年代の小泉政権下で好景気があったが2007年から始まった世界経済危機で帳消しになり、麻生総理は「お前らは怠けていたから貧乏になったんだ」などと言う一方で韓国など外国には「1兆、2兆」とお金を配りまくり日本を経済崩壊させた

世界経済危機の時の首相は麻生太郎氏で、この人はおそらく自民党で最悪の経済音痴だが自分では「経済通」だと思っていて安倍政権でも日本経済を破壊し続けた

2010年代の安倍政権でも好景気があったが世界中すべて好景気なのに消費増税を2回やり「全世界で日本だけ不況」という信じがたい成果を出した


もし安倍首相が2013年に襲撃されてなくなって消費増税しなければ、今頃日本のGDPは2倍になっていたかも知れません

つくづく思うのはバブル崩壊の数年前から日本の指導層に人材がいなくなっていた事で、最近30年で特筆すべき人は誰に聞いても居ないと思います

理由はおそらく「危機が人を作り幸福はバカをつくる」という事で、ロシアの侵攻前にコメディアンだったゼレンスキーは侵攻後に最も有能な政治家になりました

日本の高度成長期からバブル期にかけて教育を受けた人に有能な人は1人も居なかったが、戦前から戦時中の教育を受けた人は人材の宝庫でした

普通に考えると戦前や戦時中にまともな教育を受けたと思えませんが、戦時下という危機が人材を育て危機を乗り越えた人たちは優秀な人材になりました

バブルが崩壊して30年以上が経ってやっと崩壊後に育った人たちが社会を率いるようになると、日本は失われた数十年から抜け出せるでしょう
https://www.thutmosev.com/archives/275497e.html

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/105.html#c8

[近代史3] 日本を二等国にした反日売国奴の平成天皇 中川隆
40. 中川隆[-12519] koaQ7Jey 2023年6月10日 08:24:51 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[3]
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田中角栄 - 野次る反角栄の団体に向かってぶった演説(1974年の参議院選挙の際) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=x4D5OOU5TRU


バブルへGOな日本、危機が人をつくり平和は無能をつくる
2023.06.09
昭和天皇とともに日本の繁栄は終った

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落ちる所まで落ちたら日本は復活する

一般にその国の株価が上昇するのは近い将来経済が拡大すると思われているからで、株価が下がるのは将来その国が衰退するか不況になると思われているからとされています

過去を見ると全てその通りではないものの、確かに株価の大きな上下に続いて国が好景気になったり不況になる関連性が見られました

日経平均の史上最高値は1989年12月末の3万8915円で1年後の年末は2万3848円まで急降下したが人々に危機感はなかった

日はまた昇るとかトンネルは出口前が最も暗いなどが流行語になり、循環的は不況は長くても数年で終わると99%の日本人は考えていました

バブル的な流行はバブル崩壊後にむしろ加速していて越後湯沢に誰も買わないリゾートマンションが林立したが、多くはバブル崩壊後に建設されていました

バブル的な空気は1995年1月16日まで続いたが17日未明に阪神大震災があり、この日から目に見える形で日本の衰退や没落が始まりました


同年3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件があり日本中が戒厳令のようになってあらゆる施設からゴミ箱が撤去され、すべてのイベントが中止された

オウムも大震災も数十年前から問題があったのに放置していたのが分かり国民の国家への信頼が喪失し、政治も大混乱を起こし指導者不在になった

1993年に小沢グループが自民党を離脱したことで自民党は過半数を割り非自民7党連立政権で細川護熙が首相になった

だが93年5月に北朝鮮が弾道ミサイルノドンを発射すると米クリントン政権は北朝鮮空爆を決定し日本に協力を求めたが、社会党が拒絶して連立から離脱した

社会党は「北朝鮮との友好的な政策」を条件に自民党と連立し、自民党と日本政府が北朝鮮に謝罪しつづける奇妙な時代が到来した

自社さ連立は1998年まで続き次は創価学会を母体とする公明党と自民党が連立し、日本は政治も経済も大混乱を起こして衰退から崩壊への道を辿った


30年間人材に恵まれなかった日本
すべての始まりは1989年1月7日の昭和天皇崩御、同年6月4日の天安門事件とソ連邦崩壊で、日本を取り巻く国際環境も日本そのものも変わってしまった

平成天皇は昭和天皇と違い日本や日本人の悪口を言いふらす悪癖があり、「おことば」として流布され日本を侮辱し貶めるのが日本の大義のようになった

平成30年は悪夢の30年間になり、東京や大阪にはホームレス数万人が路上生活をしているのに政府は有効な対策を取ろうとはしませんでした

2000年代の小泉政権下で好景気があったが2007年から始まった世界経済危機で帳消しになり、麻生総理は「お前らは怠けていたから貧乏になったんだ」などと言う一方で韓国など外国には「1兆、2兆」とお金を配りまくり日本を経済崩壊させた

世界経済危機の時の首相は麻生太郎氏で、この人はおそらく自民党で最悪の経済音痴だが自分では「経済通」だと思っていて安倍政権でも日本経済を破壊し続けた

2010年代の安倍政権でも好景気があったが世界中すべて好景気なのに消費増税を2回やり「全世界で日本だけ不況」という信じがたい成果を出した


もし安倍首相が2013年に襲撃されてなくなって消費増税しなければ、今頃日本のGDPは2倍になっていたかも知れません

つくづく思うのはバブル崩壊の数年前から日本の指導層に人材がいなくなっていた事で、最近30年で特筆すべき人は誰に聞いても居ないと思います

理由はおそらく「危機が人を作り幸福はバカをつくる」という事で、ロシアの侵攻前にコメディアンだったゼレンスキーは侵攻後に最も有能な政治家になりました

日本の高度成長期からバブル期にかけて教育を受けた人に有能な人は1人も居なかったが、戦前から戦時中の教育を受けた人は人材の宝庫でした

普通に考えると戦前や戦時中にまともな教育を受けたと思えませんが、戦時下という危機が人材を育て危機を乗り越えた人たちは優秀な人材になりました

バブルが崩壊して30年以上が経ってやっと崩壊後に育った人たちが社会を率いるようになると、日本は失われた数十年から抜け出せるでしょう
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[近代史3] 平成とは何だったのか _ アメリカの属州化の完遂 中川隆
11. 中川隆[-12518] koaQ7Jey 2023年6月10日 08:25:14 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[4]
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バブルへGOな日本、危機が人をつくり平和は無能をつくる
2023.06.09
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一般にその国の株価が上昇するのは近い将来経済が拡大すると思われているからで、株価が下がるのは将来その国が衰退するか不況になると思われているからとされています

過去を見ると全てその通りではないものの、確かに株価の大きな上下に続いて国が好景気になったり不況になる関連性が見られました

日経平均の史上最高値は1989年12月末の3万8915円で1年後の年末は2万3848円まで急降下したが人々に危機感はなかった

日はまた昇るとかトンネルは出口前が最も暗いなどが流行語になり、循環的は不況は長くても数年で終わると99%の日本人は考えていました

バブル的な流行はバブル崩壊後にむしろ加速していて越後湯沢に誰も買わないリゾートマンションが林立したが、多くはバブル崩壊後に建設されていました

バブル的な空気は1995年1月16日まで続いたが17日未明に阪神大震災があり、この日から目に見える形で日本の衰退や没落が始まりました


同年3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件があり日本中が戒厳令のようになってあらゆる施設からゴミ箱が撤去され、すべてのイベントが中止された

オウムも大震災も数十年前から問題があったのに放置していたのが分かり国民の国家への信頼が喪失し、政治も大混乱を起こし指導者不在になった

1993年に小沢グループが自民党を離脱したことで自民党は過半数を割り非自民7党連立政権で細川護熙が首相になった

だが93年5月に北朝鮮が弾道ミサイルノドンを発射すると米クリントン政権は北朝鮮空爆を決定し日本に協力を求めたが、社会党が拒絶して連立から離脱した

社会党は「北朝鮮との友好的な政策」を条件に自民党と連立し、自民党と日本政府が北朝鮮に謝罪しつづける奇妙な時代が到来した

自社さ連立は1998年まで続き次は創価学会を母体とする公明党と自民党が連立し、日本は政治も経済も大混乱を起こして衰退から崩壊への道を辿った


30年間人材に恵まれなかった日本
すべての始まりは1989年1月7日の昭和天皇崩御、同年6月4日の天安門事件とソ連邦崩壊で、日本を取り巻く国際環境も日本そのものも変わってしまった

平成天皇は昭和天皇と違い日本や日本人の悪口を言いふらす悪癖があり、「おことば」として流布され日本を侮辱し貶めるのが日本の大義のようになった

平成30年は悪夢の30年間になり、東京や大阪にはホームレス数万人が路上生活をしているのに政府は有効な対策を取ろうとはしませんでした

2000年代の小泉政権下で好景気があったが2007年から始まった世界経済危機で帳消しになり、麻生総理は「お前らは怠けていたから貧乏になったんだ」などと言う一方で韓国など外国には「1兆、2兆」とお金を配りまくり日本を経済崩壊させた

世界経済危機の時の首相は麻生太郎氏で、この人はおそらく自民党で最悪の経済音痴だが自分では「経済通」だと思っていて安倍政権でも日本経済を破壊し続けた

2010年代の安倍政権でも好景気があったが世界中すべて好景気なのに消費増税を2回やり「全世界で日本だけ不況」という信じがたい成果を出した


もし安倍首相が2013年に襲撃されてなくなって消費増税しなければ、今頃日本のGDPは2倍になっていたかも知れません

つくづく思うのはバブル崩壊の数年前から日本の指導層に人材がいなくなっていた事で、最近30年で特筆すべき人は誰に聞いても居ないと思います

理由はおそらく「危機が人を作り幸福はバカをつくる」という事で、ロシアの侵攻前にコメディアンだったゼレンスキーは侵攻後に最も有能な政治家になりました

日本の高度成長期からバブル期にかけて教育を受けた人に有能な人は1人も居なかったが、戦前から戦時中の教育を受けた人は人材の宝庫でした

普通に考えると戦前や戦時中にまともな教育を受けたと思えませんが、戦時下という危機が人材を育て危機を乗り越えた人たちは優秀な人材になりました

バブルが崩壊して30年以上が経ってやっと崩壊後に育った人たちが社会を率いるようになると、日本は失われた数十年から抜け出せるでしょう
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[近代史5] 天皇・外務省と日本の官僚・政治家・マスコミは中国のエージェント 中川隆
5. 中川隆[-12517] koaQ7Jey 2023年6月10日 08:25:39 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[5]
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バブルへGOな日本、危機が人をつくり平和は無能をつくる
2023.06.09
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一般にその国の株価が上昇するのは近い将来経済が拡大すると思われているからで、株価が下がるのは将来その国が衰退するか不況になると思われているからとされています

過去を見ると全てその通りではないものの、確かに株価の大きな上下に続いて国が好景気になったり不況になる関連性が見られました

日経平均の史上最高値は1989年12月末の3万8915円で1年後の年末は2万3848円まで急降下したが人々に危機感はなかった

日はまた昇るとかトンネルは出口前が最も暗いなどが流行語になり、循環的は不況は長くても数年で終わると99%の日本人は考えていました

バブル的な流行はバブル崩壊後にむしろ加速していて越後湯沢に誰も買わないリゾートマンションが林立したが、多くはバブル崩壊後に建設されていました

バブル的な空気は1995年1月16日まで続いたが17日未明に阪神大震災があり、この日から目に見える形で日本の衰退や没落が始まりました


同年3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件があり日本中が戒厳令のようになってあらゆる施設からゴミ箱が撤去され、すべてのイベントが中止された

オウムも大震災も数十年前から問題があったのに放置していたのが分かり国民の国家への信頼が喪失し、政治も大混乱を起こし指導者不在になった

1993年に小沢グループが自民党を離脱したことで自民党は過半数を割り非自民7党連立政権で細川護熙が首相になった

だが93年5月に北朝鮮が弾道ミサイルノドンを発射すると米クリントン政権は北朝鮮空爆を決定し日本に協力を求めたが、社会党が拒絶して連立から離脱した

社会党は「北朝鮮との友好的な政策」を条件に自民党と連立し、自民党と日本政府が北朝鮮に謝罪しつづける奇妙な時代が到来した

自社さ連立は1998年まで続き次は創価学会を母体とする公明党と自民党が連立し、日本は政治も経済も大混乱を起こして衰退から崩壊への道を辿った


30年間人材に恵まれなかった日本
すべての始まりは1989年1月7日の昭和天皇崩御、同年6月4日の天安門事件とソ連邦崩壊で、日本を取り巻く国際環境も日本そのものも変わってしまった

平成天皇は昭和天皇と違い日本や日本人の悪口を言いふらす悪癖があり、「おことば」として流布され日本を侮辱し貶めるのが日本の大義のようになった

平成30年は悪夢の30年間になり、東京や大阪にはホームレス数万人が路上生活をしているのに政府は有効な対策を取ろうとはしませんでした

2000年代の小泉政権下で好景気があったが2007年から始まった世界経済危機で帳消しになり、麻生総理は「お前らは怠けていたから貧乏になったんだ」などと言う一方で韓国など外国には「1兆、2兆」とお金を配りまくり日本を経済崩壊させた

世界経済危機の時の首相は麻生太郎氏で、この人はおそらく自民党で最悪の経済音痴だが自分では「経済通」だと思っていて安倍政権でも日本経済を破壊し続けた

2010年代の安倍政権でも好景気があったが世界中すべて好景気なのに消費増税を2回やり「全世界で日本だけ不況」という信じがたい成果を出した


もし安倍首相が2013年に襲撃されてなくなって消費増税しなければ、今頃日本のGDPは2倍になっていたかも知れません

つくづく思うのはバブル崩壊の数年前から日本の指導層に人材がいなくなっていた事で、最近30年で特筆すべき人は誰に聞いても居ないと思います

理由はおそらく「危機が人を作り幸福はバカをつくる」という事で、ロシアの侵攻前にコメディアンだったゼレンスキーは侵攻後に最も有能な政治家になりました

日本の高度成長期からバブル期にかけて教育を受けた人に有能な人は1人も居なかったが、戦前から戦時中の教育を受けた人は人材の宝庫でした

普通に考えると戦前や戦時中にまともな教育を受けたと思えませんが、戦時下という危機が人材を育て危機を乗り越えた人たちは優秀な人材になりました

バブルが崩壊して30年以上が経ってやっと崩壊後に育った人たちが社会を率いるようになると、日本は失われた数十年から抜け出せるでしょう
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http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/702.html#c5

[番外地11] ロシアはウクライナに侵攻した。これに対してアメリカやEUや日本はロシアに経済制裁を行い、ロシアの持っているドルを封鎖 保守や右翼には馬鹿し
1. 中川隆[-12516] koaQ7Jey 2023年6月10日 10:15:07 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[6]
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ゼレンスキー氏は本物の戦争犯罪者であり、ウクライナ人の虐殺の加害者である。
2022年2月末、ロシアはウクライナに侵攻した。これに対してアメリカやEUや日本はロシアに経済制裁を行い、ロシアの持っているドルを封鎖し、西側諸国がコントロールできるドル中心の決済システムからロシアを追放した。また、それだけではなく、西側の対ロシア経済制裁に加わらない国にも同じ脅しをちらつかせ、世界各国を反ロシアで団結させようとした。

だがアメリカとヨーロッパと日本以外の国々は、「悪」であるロシアをこらしめる勧善懲悪の物語に喜んで参加しただろうか? 残念ながらそうはならなかった。インドはこの馬鹿げた戦争においてどちらの側にも付かないようにしている。ハンガリーは、ヨーロッパの国でありながら、最初から「最優先の目的はこの戦争に巻き込まれないこと」であるとしている。

何故彼らは西側の話に乗らなかったのか? 何故ならば、彼らは例えば日本人とはまったく違う形でウクライナ情勢を見ているからである。

日本人の多くはロシアが「突如」ウクライナに攻め込んだと思っている。だがそれが「突如」に見えるのは、単に日本人がそれまでのウクライナ情勢について何も知らないからである。

ウクライナで起こった2014年のマイダン革命さえ知らずに日本人がウクライナ情勢に意見を持っているのは微笑ましい。

実際には、アメリカとEUによって支援された暴力デモ隊が当時選挙で選ばれていた親露政権を追い出し、アメリカの外交官ビクトリア・ヌーランド氏が決めた親米政権がその後のウクライナを支配した。それがマイダン革命である。

その後、大統領が代わっても引き続きアメリカの補助金漬けにされたウクライナの政治家たちは、アメリカ人の代わりにウクライナ人を犠牲にしてロシアを攻撃するアメリカの意向を支持し続け、2022年にゼレンスキー大統領がロシアに対する核兵器の保有をちらつかせたところでプーチン大統領のレッドラインを踏んで戦争になったのである。

真珠湾攻撃に言及したゼレンスキー大統領が広島の原爆には言及できない理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/21836

つまりゼレンスキー氏は本物の戦争犯罪者であり、ウクライナ人の虐殺の加害者である。

だがアゾフ連隊さえ正義の軍団として報道する日本を含む西側の偏向報道は、ロシアが「突如」ウクライナを攻めたという意味不明の報道を繰り返すばかりである。そんな戦争は有り得ない。それまでの経緯を報じられないのは、それまでの経緯を報道するとウクライナ政府に不利になるからである。そうしたものはすべて報道されない。

日本の公安調査庁、ウクライナ国家親衛隊のアゾフ連隊がネオナチであるという記述をホームページから削除
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/23002

人権団体アムネスティ、ウクライナ政府の人間の盾戦略を非難
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/26868

だが日本人が好もうが好むまいが、西側の偏向報道から自由な人々は別の見方をする。アメリカがドルを使ってインドなど無関係の国々を脅し、自分の対ロシア戦争に巻き込もうとしている。NATOは東京に事務所を置こうとしており、これは日本人がウクライナ人のようにアメリカ人の代わりに殺されるということなのだが、日本人は馬鹿なのでこれを笑って見ているばかりである。
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/159.html#c1

[番外地11] ロシアはウクライナに侵攻した。これに対してアメリカやEUや日本はロシアに経済制裁を行い、ロシアの持っているドルを封鎖 保守や右翼には馬鹿し
2. 中川隆[-12515] koaQ7Jey 2023年6月10日 10:43:16 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[7]
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柏原竜一さん以外の人が本当に全員知性が劣化しているのか? それとも柏原竜一さんの頭がおかしいのか?

ゼレンスキー氏は本物の戦争犯罪者であり、ウクライナ人の虐殺の加害者である。
2022年2月末、ロシアはウクライナに侵攻した。これに対してアメリカやEUや日本はロシアに経済制裁を行い、ロシアの持っているドルを封鎖し、西側諸国がコントロールできるドル中心の決済システムからロシアを追放した。また、それだけではなく、西側の対ロシア経済制裁に加わらない国にも同じ脅しをちらつかせ、世界各国を反ロシアで団結させようとした。

だがアメリカとヨーロッパと日本以外の国々は、「悪」であるロシアをこらしめる勧善懲悪の物語に喜んで参加しただろうか? 残念ながらそうはならなかった。インドはこの馬鹿げた戦争においてどちらの側にも付かないようにしている。ハンガリーは、ヨーロッパの国でありながら、最初から「最優先の目的はこの戦争に巻き込まれないこと」であるとしている。

何故彼らは西側の話に乗らなかったのか? 何故ならば、彼らは例えば日本人とはまったく違う形でウクライナ情勢を見ているからである。

日本人の多くはロシアが「突如」ウクライナに攻め込んだと思っている。だがそれが「突如」に見えるのは、単に日本人がそれまでのウクライナ情勢について何も知らないからである。

ウクライナで起こった2014年のマイダン革命さえ知らずに日本人がウクライナ情勢に意見を持っているのは微笑ましい。

実際には、アメリカとEUによって支援された暴力デモ隊が当時選挙で選ばれていた親露政権を追い出し、アメリカの外交官ビクトリア・ヌーランド氏が決めた親米政権がその後のウクライナを支配した。それがマイダン革命である。

その後、大統領が代わっても引き続きアメリカの補助金漬けにされたウクライナの政治家たちは、アメリカ人の代わりにウクライナ人を犠牲にしてロシアを攻撃するアメリカの意向を支持し続け、2022年にゼレンスキー大統領がロシアに対する核兵器の保有をちらつかせたところでプーチン大統領のレッドラインを踏んで戦争になったのである。

真珠湾攻撃に言及したゼレンスキー大統領が広島の原爆には言及できない理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/21836

つまりゼレンスキー氏は本物の戦争犯罪者であり、ウクライナ人の虐殺の加害者である。

だがアゾフ連隊さえ正義の軍団として報道する日本を含む西側の偏向報道は、ロシアが「突如」ウクライナを攻めたという意味不明の報道を繰り返すばかりである。そんな戦争は有り得ない。それまでの経緯を報じられないのは、それまでの経緯を報道するとウクライナ政府に不利になるからである。そうしたものはすべて報道されない。

日本の公安調査庁、ウクライナ国家親衛隊のアゾフ連隊がネオナチであるという記述をホームページから削除
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/23002

人権団体アムネスティ、ウクライナ政府の人間の盾戦略を非難
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/26868

だが日本人が好もうが好むまいが、西側の偏向報道から自由な人々は別の見方をする。アメリカがドルを使ってインドなど無関係の国々を脅し、自分の対ロシア戦争に巻き込もうとしている。NATOは東京に事務所を置こうとしており、これは日本人がウクライナ人のようにアメリカ人の代わりに殺されるということなのだが、日本人は馬鹿なのでこれを笑って見ているばかりである。
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/159.html#c2

[近代史4] 世界最大の対外純資産に惑わされるな!国が強くならないデフレ日本の経常収支サイクル 中川隆
9. 保守や右翼には馬鹿し[217] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年6月10日 11:59:50 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[8]
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ポジャール氏: アメリカは量的緩和を再開しドルは暴落する
2023年6月9日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/37330

元クレディスイスの短期金利戦略グローバル責任者のゾルタン・ポジャール氏が、Bitcoin 2023において基軸通貨ドルが現在既にマーケットシェアを失っている様子について説明しているので紹介したい。

ウクライナ戦争と基軸通貨ドル

すべての始まりはロシアのウクライナ侵攻である。2022年2月末、ロシアはウクライナに侵攻した。これに対してアメリカやEUや日本はロシアに経済制裁を行い、ロシアの持っているドルを封鎖し、西側諸国がコントロールできるドル中心の決済システムからロシアを追放した。また、それだけではなく、西側の対ロシア経済制裁に加わらない国にも同じ脅しをちらつかせ、世界各国を反ロシアで団結させようとした。

だがアメリカとヨーロッパと日本以外の国々は、「悪」であるロシアをこらしめる勧善懲悪の物語に喜んで参加しただろうか? 残念ながらそうはならなかった。インドはこの馬鹿げた戦争においてどちらの側にも付かないようにしている。ハンガリーは、ヨーロッパの国でありながら、最初から「最優先の目的はこの戦争に巻き込まれないこと」であるとしている。

何故彼らは西側の話に乗らなかったのか? 何故ならば、彼らは例えば日本人とはまったく違う形でウクライナ情勢を見ているからである。

日本人の多くはロシアが「突如」ウクライナに攻め込んだと思っている。だがそれが「突如」に見えるのは、単に日本人がそれまでのウクライナ情勢について何も知らないからである。

ウクライナで起こった2014年のマイダン革命さえ知らずに日本人がウクライナ情勢に意見を持っているのは微笑ましい。

実際には、アメリカとEUによって支援された暴力デモ隊が当時選挙で選ばれていた親露政権を追い出し、アメリカの外交官ビクトリア・ヌーランド氏が決めた親米政権がその後のウクライナを支配した。それがマイダン革命である。

その後、大統領が代わっても引き続きアメリカの補助金漬けにされたウクライナの政治家たちは、アメリカ人の代わりにウクライナ人を犠牲にしてロシアを攻撃するアメリカの意向を支持し続け、2022年にゼレンスキー大統領がロシアに対する核兵器の保有をちらつかせたところでプーチン大統領のレッドラインを踏んで戦争になったのである。

真珠湾攻撃に言及したゼレンスキー大統領が広島の原爆には言及できない理由
つまりゼレンスキー氏は本物の戦争犯罪者であり、ウクライナ人の虐殺の加害者である。

だがアゾフ連隊さえ正義の軍団として報道する日本を含む西側の偏向報道は、ロシアが「突如」ウクライナを攻めたという意味不明の報道を繰り返すばかりである。そんな戦争は有り得ない。それまでの経緯を報じられないのは、それまでの経緯を報道するとウクライナ政府に不利になるからである。そうしたものはすべて報道されない。

日本の公安調査庁、ウクライナ国家親衛隊のアゾフ連隊がネオナチであるという記述をホームページから削除
人権団体アムネスティ、ウクライナ政府の人間の盾戦略を非難
だが日本人が好もうが好むまいが、西側の偏向報道から自由な人々は別の見方をする。アメリカがドルを使ってインドなど無関係の国々を脅し、自分の対ロシア戦争に巻き込もうとしている。NATOは東京に事務所を置こうとしており、これは日本人がウクライナ人のようにアメリカ人の代わりに殺されるということなのだが、日本人は馬鹿なのでこれを笑って見ているばかりである。

ドルからの離脱

しかしより賢明な国はアメリカから距離を置こうとしている。最優先課題はドルからの離脱である。ドルを持っていれば、アメリカの都合に従わない人々は無条件で資金を奪われかねない。

ブラジルのルラ大統領がBRICSの国々に、貿易においてドルやユーロではなく自国通貨で決済するよう促したのにはそういう背景がある。それは死活問題である。中国はもう長らくゴールドを買い込んでいる。こうした動きについてポジャール氏は次のように述べている。

今のように、一定以上の大きさの国々が同時に、常に使われてきたユーロやドルを避けて自国通貨を使おうとする歴史上の例を見たことがない。

過去12ヶ月で、貿易に関する融資における人民元のシェアは1%から5%に上がった。ユーロのシェアは8%だが、15年や20年かけてそうなった。

いくつかの変化が起きており、視線をやっておくべきだ。何故ならば、それはすべてコモディティ売買や貿易における融資や外貨準備などにおけるドルのシェアを犠牲に進んでいるからだ。

こうしたドルからの離脱の話はここ1年ほど報じられてはいる。だが具体的にどのようにドルからの離脱が起こっているのか、理解している人は少ないだろう。

だがポジャール氏は金利市場や国際市場のスペシャリストである。彼は、金属やエネルギーなどのコモディティの取引や貿易においてドルが使われないとどういうことが起こるかを次のように説明してくれている。

とても簡単な例を挙げよう。コモディティはドルで決済されるのでコモディティ市場を例に取るが、仕組みはこうだ。コモディティのトレーダーが銀行に行き、融資を確保し、船を借りる。もう一度融資を確保し、船に燃料を入れる。更にもう一度融資を確保し、原油を輸送してくれる人員を雇う。

これは美しくシンプルな仕組みだ。銀行がローンを組むたび、新たな預金が生じる。そのお金は原油を売った人に行き、更にそのお金は中央銀行に行き、中央銀行は国債のオークションで国債を買う。

それが仕組みだ。お金がすべてドル建てであれば、それはすべて米国債のオークションに行く。別の通貨であれば、例えば半分ドルで半分別の通貨なら、半分が別の通貨の国債に行き、米国債に行く資金は半分になる。

ドルを持っていない人がドルで決済しようとすると、ドルを借りることになるのである。

ここでは何度もマネーサプライ(市中に存在する現金と預金の総量)の議論をしているが、誰かがお金を借りるとお金の総量は増える。誰かが銀行口座に入れた1万円が、貸し出されると同時に誰か別の人の預金口座の1万円にもなるからである。

1万円が2万円になる。増えたお金が国債市場に流れてゆき、国債に対する買い圧力になる。

イギリスが無茶苦茶なばら撒き政策をしようとしたときに英国債が暴落した一方で、アメリカがコロナ後の現金給付で同じことをしたときに米国債が暴落しなかったのは、世界中で使われている基軸通貨ドルには、それを借りようとする(つまりドルを増やそうとする)人が世界中に居て、彼らが国債の買い圧力を維持しているからである。

サマーズ氏: 景気後退で財政支出する国はイギリスの二の舞になる
基軸通貨の終わり

だがその状況もウクライナ以降変わりつつある。ポンドが基軸通貨でなくなった時のように、世界の通貨の使用のような大きな問題は、緩やかにしか移り変わりはしない。

世界最大のヘッジファンド: 大英帝国の基軸通貨ポンドはいかに暴落したか
だがポジャール氏が説明するように、少しずつ状況が変わりつつある。彼はこう続ける。

それが問題を生む。ローンが組まれたときに発生するお金、オークションに流れるお金が、これまでのようには生じなくなる。いくらかのお金は人民元やインドルピーや他の通貨に流れるからだ。

こうした資金が米国債を買わなければ、そして中国やインドが米国債を避けるならば、誰かが米国債を買わなければならなくなる。その巨大な穴を満たすことができる買い手は、1つしか有り得ない。

ポジャール氏は次のようにいう。

究極的には中央銀行が解決策になる。政府はマネタイズされなければならない。中央銀行にはその方法がある。量的緩和だ。

量的緩和とは中央銀行が紙幣を印刷して国債などを買うことである。だが中央銀行が紙幣を刷ると、ドルが下落するという難点がある。

ドルと米国債の下落

要するに、結局はドルか米国債のどちらかが下落することは避けられないのである。それは日本を含むほとんどの先進国が同じ状況にある。

だがドルが下落するならば、米国債が結局は価値を失うことに等しい。

ポジャール氏は、米国債(つまりドル)は購買力を失うのかと聞かれて、次のように述べている。

そう思う。それが究極的な問題だ。

そして他の国も多かれ少なかれ同じようになるだろう。なかなか楽しみな展開ではないか。

世界最大のヘッジファンド: 日本は金利高騰か通貨暴落かを選ぶことになる

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/37330

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/989.html#c9

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
305. 保守や右翼には馬鹿し[218] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年6月10日 18:28:43 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[9]
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雑記帳
2023年06月07日
考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html

 考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。本論文は考古学的観点から、アジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大の様相を検証しています。本論文は、日本語祖語と朝鮮語祖語の起源はマンチュリア(満洲)南部にあり、朝鮮半島には朝鮮語祖語よりも日本語祖語の方が早く流入し、その後で朝鮮半島に流入した朝鮮語祖語が日本語祖語をじょじょに駆逐し、一方で日本語祖語は弥生時代早期に日本列島に流入し、「縄文語」をじょじょに駆逐した、と推測しています。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。「日本語」と「日琉語族」を適切に訳し分けた自信はないので、混乱があるかもしれませんが、本論文の趣旨からすると、まだ日本語と琉球諸語が分岐する前を主要な対象としているので、「日琉語族」と訳すべきところが多いかもしれません。また、考古学用語については、定訳があるのに変な訳語になっているものも少なくないかもしれません。近年の古代ゲノム研究と本論文の知見を合わせて、そのうちアジア東部の古代史をまとめよう、と考えています。以下、敬称は省略します。


●要約

 言語学的観点から、日本語祖語と朝鮮語祖語は、マンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分かれた、と想定されています。年代順では日本語祖語が朝鮮語祖語よりも先に到来した、という言語学的見解が意味するのは、日本語祖語がまず朝鮮半島に入り、そこから紀元前9世紀頃となる弥生時代早期に日本列島へと拡大した一方で、朝鮮半島南部における朝鮮語祖語の到来は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化と関連している、ということです。同じ土器製作技術を共有する偏堡(Pianpu)文化と無文(Mumun)文化と弥生文化の系譜は、日本語祖語の拡大を示唆します。

 一方、移民が遼東半島から朝鮮半島へと移動し、粘土帯土器文化を確立しました。この人口移動は恐らく、燕(Yan)国が東方へ領土を拡大する中での、社会および政治的理由に起因しました。粘土帯土器文化の朝鮮語祖語は後に朝鮮半島へと拡大し、次第に日本語祖語を追い払っていき、朝鮮語の前身となりました。本論文では、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を検証し、とくに土器様式と土器製作技術の系譜に焦点を当てます。


●近年の研究動向

 先史時代における言語拡散がヒトの移住を伴う農耕の拡大と関連している、との見解は、コリン・レンフルー(Colin Renfrew)により初めて提唱されたよく知られた仮説であり(Renfrew1987)、インド・ヨーロッパ語族の拡大は農耕の拡散を伴っていた、と示唆されています。レンフルーは、故地がアナトリア半島南部中央にあった農耕民が、紀元前7000〜紀元前6500年頃までにギリシアへと拡大した、と論証しました。この拡散は、農耕民がヨーロッパへと到達し、インド・ヨーロッパ語族の下位群を形成するまで続きました【現在では、後期新石器時代〜青銅器時代にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへと拡散した集団がインド・ヨーロッパ語族をもたらした、との見解が有力です(関連記事)】。レンフルーはさらに、移住してきた農耕民と在来の中石器時代の人々との間の3000年以上にわたる交流も論証しました。インド・ヨーロッパ語族がギリシアへ拡大した紀元前7000年頃から、ブリテン諸島へ拡大した紀元前4000年頃にかけてです(Renfrew1987、Reference Renfrew1999)。この仮説は「農耕・言語拡散仮説」と呼ばれることが多く、農耕余剰から生じた人口増加と結びついています。

 ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)も、アジア東部において同様に農耕の拡大は言語の拡大と関連している、と仮定しました(Bellwood2005)。この仮説によると、シナ・チベット語族は黄河中流域において雑穀に基づく農耕とともに起源がある一方で、長江中流地における稲作に基づく農耕民と関連するミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族はアジア南東部へと移動し、オーストロアジア語族を形成しました。さらに、中国南部で稲作農耕を行なっていた人々が話していたタイ・チワン諸語は、アジア南東部でオーストロアジア語族の一部へと発展しました。さらに、オーストロネシア人は台湾からインドネシアとオセアニアへと南方へ拡大しました。

 一方で、以下の5語族は伝統的に、「アルタイ諸語」と分類されており、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です。近年では、「トランスユーラシア語族」という用語がこれら5語族の記述に使われてきており、地理的には、東方では太平洋、西方ではバルト海と黒海と地中海まで広がっている巨大な語族を指します(Robbeets and Savelyev2020)。ユハ・ヤンフネン(Juha Janhunen)は、トランスユーラシア語族の故地は現在のモンゴル東部とマンチュリア南部と朝鮮半島に位置している、と提案しました(Janhunen and Karttunen2010)。マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)も、トランスユーラシア語族の拡散の背後にある原動力として、レンフルーやベルウッドなどの農耕拡散仮説を支持しています(Robbeets2020)。ロベーツは、大日本語族が遼東半島で話されており、朝鮮半島を経由して稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた、と主張しました(Robbeets2020)。

 著者【宮本一夫、以下、著者で統一します】は対照的に、日本語祖語が朝鮮半島南部から稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた一方で、遼東半島から朝鮮半島への日本語祖語の拡大は稲作農耕の拡大と関係していなかった、と提案しました(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。李濤(Tao Li)も、トランスユーラシア語族祖語、とくにツングース語族祖語の拡散の背後にある原動力としての農耕拡散仮説を批判しました。李濤は、トランスユーラシア語族祖語の拡散における農耕拡散仮説について、考古学的証拠には不確実性と限界がある、と主張しました(Li2020)。李濤も、ロシア極東への雑穀農耕の拡大とツングース語族祖語との間のつながりを示唆しました。(Li et al., 2020、Hudson and Robbeets2020)。

 最近、マーク・ハドソン(Mark J. Hudson)とマーティン・ロベーツは、遼東地区から朝鮮半島への大朝鮮語族祖語の拡大は、朝鮮半島中期新石器時代の紀元前3500年頃における雑穀農耕の拡大と関連していた、と提案しました(Hudson and Robbeets2020)。しかし、金壮錫(Jangsuk Kim)と朴辰浩(Jinho Park)は、雑穀の導入は新石器時代朝鮮半島の櫛目文(Chulmun)物質文化に影響を及ぼさなかったようであり、新石器時代における中国北東部(遼西および遼東地区)と朝鮮半島の土器様式は明確に異なっている、と述べました(Kim and Park2020)。

 著者も、先史時代のアジア北東部には農耕発展の4段階があった、と仮定しました(Miyamoto2014、Miyamoto2015a、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。第1段階は、紀元前3300年頃となる、マンチュリア南部から朝鮮半島およびロシア極東への雑穀農耕の拡大を含んでいました。第2段階は、紀元前2400年頃となる山東半島から遼東半島への水田稲作の拡大でした。第3段階は、石庖丁と平型凸刃石斧(flat plano-convex stone adze)を含む新たな磨製石器と関連する、灌漑農耕の拡大でした。第3段階には、湿田(イネ)と乾田(雑穀やコムギなど)で構成される第三の農耕体系の導入がありました。この灌漑農耕も、山東省から遼東半島を通って朝鮮半島へと紀元前1500年頃に広がりました。最後に、第4段階は、日本の九州北部への灌漑農耕の拡大を含んでおり、紀元前9世紀頃に始まります(宮本., 2018)。アジア北東部における農耕拡大の4段階の発展過程に関するこの理論は、一部の農耕民が気候状態の寒冷化によりもたらされた人口圧に起因して、穀物を栽培するために、狩猟採集民社会の土地に移動し、穀物を栽培した、という理由に基づいています。

 本論文で著者は、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を再検証し、とくに土器様式の系譜と製作技術に焦点を当てます。農耕の拡大は、朝鮮半島南部から九州北部への農耕の拡大を除いて、必ずしも日本語祖語と朝鮮語祖語の拡散と関連していなかった、と著者は提案します(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。


●日琉語族と朝鮮語の研究史

 日琉語族と朝鮮語はアルタイ諸語に分類される、とみなす言語学者もいます(Ruhlen1987)。編年体系では、これらは比較的浅い言語であり、日琉語族と朝鮮語は大ツングース語族から分岐した、というわけです(Unger2009)。朝鮮語と日本語との間の背後にある言語学的相互作用は、日琉語族(日琉語族祖語)がまだ朝鮮半島の一部で話されている時に起きました(Janhunen2005)。高句麗の地名データからは、日琉語族と同語族の言語が朝鮮半島で話されていた、と示唆されます。さらに、紀元後8世紀以前の地名に含まれる日本語起源の地名は通常、鴨緑江(Yalu River)の中央部および北部地域、とくに高句麗地区に分布しています(Endo2021)。したがって、日琉語族は元々朝鮮半島で用いられていた、と仮定されていますが、朝鮮半島南端の人々の一部だけが日琉語族を話していた、と示唆した学者もいます。

 李濤と長谷川寿一は、日本語の59の言語変種から得られた語彙データに基づくベイズ系統分析を用いて、日本語祖語の祖語について2182年前頃と推定しました(Lee and Hasegawa2011)。日本語は朝鮮半島で話されていたので、日本語は朝鮮半島の無文文化と日本列島の弥生文化の両方で話されていた、と考えられています(Whitman2011)。さらに、文献学者は、日本語が人口拡散を通じて弥生時代最初期において朝鮮半島から日本列島へと拡大した、と考えています(Whitman2011、Vovin2013、Unger2014、Hudson et al., 2020)。したがって恐らく、日本語は紀元前9世紀頃から紀元後3世紀頃までの弥生時代に、日本列島で話されていたのでしょう。

 マーシャル・アンガー(Marshall Unger)は、日本語祖語と朝鮮語祖語もその1系統である大ツングース語族の故地が山東省から遼寧省に至る渤海湾周辺地域だったならば、ツングース語族祖語話者が北方と北東、最終的にはシベリア東部へと移動した一方で、朝鮮語祖語話者は分岐してマンチュリア南部へと移動したことを意味する、と提案しました。マーシャル・アンガーは、日本語祖語話者が水田稲作の知識を朝鮮半島へともたらし、朝鮮語話者は朝鮮半島へと移動し、日本語祖語話者を追い払った、とも結論づけました(Unger2014)。朝鮮語は細形短剣(朝鮮式短剣)文化の出現とともに、遼寧省から朝鮮半島へと広がった、と考えられています(Whitman2011)。

 マーティン・ロベーツなどは、雑穀農耕の拡大とともに、大日本語祖語が遼東半島から朝鮮半島に至る地域で紀元前3500〜紀元前1500年頃に話されていた、と仮定します。日本語祖語は半島日本語(Para-Japonic)から分岐し、九州へと拡大して紀元前900年頃に農耕を伴う弥生文化になりました(Robbeets et al., 2020)。マーティン・ロベーツの解釈は、日本語と朝鮮語の祖先話者が紀元前四千年紀に渤海沿岸と遼東半島にいた可能性を示唆しています。マーティン・ロベーツはベイズ推定を用いて、日本語と朝鮮語が紀元前1847年頃に分岐した、と示唆しています(Robbeets, and Bouckaert., 2018)。朝鮮半島南部の新羅は、その言語が中世および現在の朝鮮語の直接の祖型で、全ての先行言語を遅くとも紀元後7世紀までには置換しました。

 日本語祖語と朝鮮語祖語に関する言語学的研究によると恐らく、日本語祖語は朝鮮半島で話されており、朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部においてトランスユーラシア語族から分岐し、朝鮮半島へと拡大したのでしょう。日本語祖語は恐らく、稲作農耕とともに弥生時代に日本列島へと拡大したものの、日本語中央方言(Central Japanese)が紀元後4世紀〜紀元後7世紀となる古墳時代と飛鳥時代に古朝鮮語(恐らくは百済語)から強い影響を受けた、と示唆する言語理論が存在します(Unger2009)。これは、弥生文化の開始が朝鮮半島南部の無文文化に強い影響を受け、この地域からの一部の移民が九州北部へと移動した、と考えられているからです(Miyamoto2014、Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Hudson et al., 2020)。日本語祖語が弥生文化の開始期に移民とともに朝鮮半島南部から九州北部へと広がったならば、日本語祖語は無文文化の人々により話されていた、と推測できます。


●考古学的文脈における言語の拡散に関する問題

 九州北部の「縄文人」と「弥生人」の形質人類学的差異はひじょうに明確で、九州北部の「弥生人」は大陸部の(無文文化)の人々と身体が類似しています(中橋., 1989、Hudson et al., 2020)。朝鮮半島南部からの移民が九州北部において先住の「縄文人」と混合し、その結果生まれた「弥生人」は、次第にこの地域で優勢になりました(田中・小澤., 2001)。紀元前9世紀〜紀元前6世紀となる弥生文化の早期には、これらの人々は灌漑農耕の一形態である水田で稲を栽培していました。これらの人々は、新たな石庖丁などの新たな磨製農耕石器、支石墓などの埋葬慣行、朝鮮半島南部の無文文化に属する壺様式である、壺(necked jar)や祖型板付壺土器など様々な土器様式を発展させました。さらに、環状集落と木棺埋葬が夜臼式2期に出現しました。

 九州北部における縄文文化と弥生文化の移行期は3段階に区分でき、縄文時代晩期黒川期から、板付式土器の出現をもたらした弥生時代早期板付1式までとなります(表1)。弥生時代早期の夜臼式1期となる弥生文化の出現は、宇木汲田貝塚で発見された炭化したイネ粒に基づいて、紀元前9世紀〜紀元前8世紀頃となる較正年代で紀元前842〜806年頃(4点の標本の中央値データ)と年代測定されています(宮本., 2018)。これらの段階は、朝鮮半島南部の無文文化からの移民と、九州北部の「縄文人」との間の遺伝的混合過程を表している、と考えられています(田中・小澤., 2001)。以下は本論文の表1です。
画像

 縄文時代黒川期の紀元前13世紀〜紀元前11世紀頃の寒冷化の最初の期間(宮本., 2017)に、朝鮮半島南部と九州北部との間に短期間の接触があります。田中良之は、朝鮮半島のコンヨル(Konyol)式土器を模倣した黒川式土器の縁の下の点の並びや、貫川遺跡で見つかった石庖丁などの考古学的証拠に基づいて、一部の移民が黒川期に朝鮮半島南部から九州北部へと到来した、と提案しました(田中., 1991)。これは、紀元前1200年頃のより寒冷な気候条件とも関連しています(宮本., 2017)。土器の走査電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope、略してSEM)ケイ素分析から得られた証拠により示唆されているように、イネはこれ以前ではなくとも、恐らくはこの時点までに九州に広がっていました。

 黒川式縄文土器は、瀬戸内東部(内海地域もしくは近畿)地域に起源があり、九州北部へと次第に西方へ広がった(縁帯無文土器文化とは異なる)帯文深鉢(banded deep bowl)の拡大を通じてしだいに夜臼式土器へと変わっていき、縄文時代晩期の黒式土器を弥生時代早期の夜臼式土器に置換しました。夜臼式土器は2種類の連続で構成されます。それは、縄文土器様式に基づく深鉢と、無文文化に基づく壺です(Miyamoto2016、宮本., 2017)。夜臼式1期(紀元前9世紀〜紀元前8世紀)と夜臼式2期(紀元前7世紀〜紀元前6世紀)には、無文文化が朝鮮半島の異なる2ヶ所から拡大しました。夜臼式1期には、南江(Namgang River)から唐津と糸島平野まで広がり、夜臼式2期には、ナグトンガン川(Nagtonggang River)から福岡平野にまで広がりました(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。夜臼式2期は、その最初の場所である福岡平野の板付式土器(弥生時代前期)の発達に先行します。したがって、紀元前6世紀〜紀元前5世紀頃には、無文土器に影響を受けた板付式壺が、夜臼式期の縄文土器の深鉢を置換しました。以下では、「移行」期は夜臼式1期および2期を指します。夜臼式は水田稲作の存在のため弥生時代と見なされていますが、完全にそろった弥生文化は板付1式まで固定されませんでした。九州北部における縄文時代と弥生時代早期との間の移行期は、推定300年間です(宮本., 2017)。

 土器の様式と系譜だけではなく、土器製作技術も、弥生時代と縄文時代では異なります。夜臼式1期無文土器文化の影響を通じて壺が追加されましたが、縄文土器の深鉢が縄文時代と弥生時代の移行期には依然として使われていました。板付式壺は弥生時代前期の板付式1期に確立しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。この時点で、土器製作技術は全体的に、縄文時代から変化しました(家根., 1984、家根., 1997、三阪., 2014)。縄文土器に用いられた比較的薄い粘土の平塊(slab)とは対照的に、弥生土器の製作には比較的に広い粘土の平塊が用いられました(図1)。弥生土器の平塊は、その前の平塊の外面に付着されますが、縄文土器の平塊は土器の内面に重ねて付着されました。弥生土器の表面は、木片の端を用いて滑らかにされていましたが、縄文時代晩期にはこの作業を行なうために貝殻が用いられました(図1)。弥生土器は地上にてさほど精巧ではない粘土窯で焼成されましたが、縄文土器は野外で焼成されました(小林他., 2000)。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、縄文土器と弥生土器との間に明確に存在しました。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、無文土器から採用されました。土器製作の新技術が、無文文化により最初に影響を受けた夜臼式ではなく、縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式で完全に確立されたのは、興味深いことです。縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式土器は、最終的には新たな土器製作技術の4特性から構成されました。以下は本論文の図1です。
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 縄文時代から弥生時代への移行では、土器様式を超えたさせなる文化的変化も明らかです(表1)。水田や新様式の土器や新形態の磨製石器が、黒川期後の夜臼1期の福岡平野で見つかっています(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Fujio2021)。その後、環濠集落が夜臼式2期に確立しました。木棺のような新たな埋葬習慣が、夜臼式2期と板付式1期の頃に始まりました(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。文化的特性は、夜臼式1期と夜臼式2期の期間に経時的に追加されました。支石墓は夜臼式1期には確立していませんでしたが、その分布は九州北西部を含む唐津と糸島平野に集中していました。しかし、木棺が朝鮮半島から福岡平野にもたらされ、次に夜臼式2期に福岡平野から他地域へと広がりました。副葬品として木棺には磨製石器短剣が伴いました。支石墓と木棺との間の導入と分布の時期の違いは、朝鮮半島での磨製石器短剣の種類による分布地域の違いとともに、朝鮮半島からの文化の二重起源を示唆します(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。したがって、弥生文化は無文文化の二重拡散で確立しました(表1)。板付1式の時までに、灌漑農耕社会が形成されました(宮本., 2017、Fujio2021)。

 弥生文化の確立とともに、板付式土器が生まれたことは、日本列島における独立した農耕社会の発展を意味しました。九州北部における弥生文化の新たな農耕民は瀬戸内海と近畿地方に移動し、そこでは新たな農耕民と先住の「縄文人」が再び混合しました。考古学的証拠は、土地の無文文化と対応する日本語祖語文化が朝鮮半島南部から九州北部へとどのように広がったのか、という問題への答えを提供します。前節では、黒川期に九州北部にイネがどのように広がったのか、水田を伴う稲作は夜臼式期にどのように急増へと広がったのか、説明されました。無文文化に影響を受けた支石墓や磨製石器や土器様式を含む文化的変化が、夜臼式1期に出現しました。したがって、定義上、弥生文化は紀元前9世紀〜紀元前8世紀となる夜臼式1期に始まった、と言うことができます。

 したがって、この知見から、日本語祖語は夜臼式1期に無文文化からの移民とともに九州北部へと広がった、と言うことができますか?無文文化に影響を受けた壺など新たな土器の種類は、九州北部において夜臼式1期に出現しました。しかし、夜臼式1期における多数の新たな種類の壺や他の縄文様式の土器壺は、縄文土器の製作技術を用いて製作されました。無文土器文化と同じ土器製作技術を用いて製作された、壺や板付式壺を含めて弥生式土器は、板付1式期に出現し、その年代は紀元前6世紀〜紀元前5世紀です(宮本., 2018)。著者の見解は、日本語祖語がこの時点で九州北部において「縄文語」を置換した、というものです。

 「縄文人」は夜臼式1期に、栽培穀物保存のための壺と調理用の縄文式深鉢を製作した少数の無文文化移民とともに、九州北部に移住しました(田中・小澤., 2001)。こうした人々は、縄文土器製作技術を用いて、農耕生活のために無文文化の壺を模倣した、と考えられています。しかし、板付1式期には無文文化の土器様式と製作技術が変化しました著者は、「縄文人」が九州北部で「縄文語」を置換した日本語祖語を介して、新たな土器様式と製作技術を教えられたのではないか、と提案します。その後、弥生時代前期には、新たな板付式土器様式と製作技術が福岡平野を中心とする九州北部から、九州北西部と瀬戸内海地域と近畿地域を含む西日本にまで広がりました。この場合、一般的には「縄文人」の子孫とされる九州北西部の「弥生人」でさえ、板付式土器がそうであるように、同じ弥生土器を製作できた、と注目するのは興味深いことです。

 形質人類学的分析は、九州北西部の「弥生人」に属する人骨を、「縄文人」と同じと同定してきました(中橋., 1989)。最近のDNA研究では、紀元後1〜紀元後2世紀の弥生時代末と年代測定された九州北西部の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体では、「縄文人」と「渡来系弥生人」両方のゲノムを有している、と示されています(篠田他., 2019、関連記事)。しかし、別のDNA研究では、九州北西部の佐賀県唐津市大友遺跡の初期「弥生人」は依然として「縄文人」だった、と示唆されています(神澤他., 2021、関連記事)。九州北西部の初期「弥生人」は遺伝的に無文文化人と異なりますが、無文文化の土器製作技術に基づいて弥生土器を製作できました。これは、九州北西部の初期「弥生人」が、日本語祖語を介して、弥生土器の製作技術について学ぶことができたからです。


●日本語祖語の拡散理論についての考古学的説明

 日本語祖語が弥生文化の開始において九州北部へと拡大し、板付1式期に「縄文語」を完全に置換した、との仮説が正しければ、問わねばならない問題は、どのようにどこから、無文土器文化に相当する日本語祖語文化が朝鮮半島に入ったのか、ということです。この問題を解決するため、初期農耕の拡大とは無関係な文化的接触を説明する、土器製作技術への焦点が選択されます。

 弥生土器と朝鮮半島南部の無文土器との間には、おもに以下の4点の特性の観点で、同じ土器製作技術が存在しました。それは、(a)広い粘土平塊、(b)その前の平塊の外面に付着する平塊、(c)木片の端で土器表面を滑らかにすること、(d)地面であまり精巧ではない粘土窯での焼成です。朝鮮半島南部の無文土器文化は、初期と前期と後期の3段階に区分されます(表2)。初期は、縁帯(band-rim)土器により特徴づけられ、前期はガラクドン(Garakdon)様式とコンヨル様式、つまりヘウナムリ(Heunamri)式と駅三洞(Yeoksamdong)式の土器により示され、後期はヒュアムリ(Hyuamri)式と松菊里(Songgunni)式で構成されます。以下は本論文の表2です。
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 三阪一徳は、朝鮮半島の新石器時代土器と無文土器との間の土器製作技術を分析しました(Misaka2012)。その分析によると、土器製作技術における4点の特性は、初期から後期まで無文土器文化を通じて見られました(図2)。対照的に、新石器時代土器の製作技術にはそうした4点の特性がありません。新石器時代土器と無文土器との間のそうした違いは、縄文土器と弥生土器との間に存在したものと同じです。この場合、初期の土器である縁帯土器は、系譜的に他地域の土器から広がったに違いありません。土器のSEMケイ素分析から、朝鮮半島における稲作は無文文化土器初期の縁帯土器期に始まった、と示唆されます(Son et al., 2010)。金壮錫と朴辰浩は、稲作農耕民の移住は中国北東部から朝鮮半島への言語拡散をもたらした、と示唆しました(Kim, and Park., 2020)。したがって、無文土器の製作様式がどのようには最初に始まったのか、注意を払う必要があります。以下は本論文の図2です。
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 朝鮮半島南部における最初の無文土器は、紀元前1500年頃以降の最初期無文土器文化における縁帯土器です。縁帯土器は、朝鮮半島北部〜中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)土器と関連している、と考えられており(Ahn J2010、Bae2010)、それは、土器の模様と他の側面では家屋計画の類似性のためです。したがって、ゴングウィリ式土器は、最初期の無文土器の縁帯土器と関連している、と考えられています。無文文化は朝鮮半島南部に起源があるものの(Miyamoto2016、宮本., 2017)、比較的広い粘土平塊、外側から付着される粘土平塊、木片の端で滑らかにされることや粗放的な粘土窯での焼成など、無文土器の土器製作技術の起源は新石器時代櫛目文土器では確認されませんでした。

 朝鮮半島北西部では、マンチュリアの遼東地区における偏堡文化の影響(図3-3)が、ナムケヨン(Namkyeong)の櫛目文土器と結びつき、無文文化におけるパエングニ(Paengni)式土器を形成しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。偏堡文化は、前期と中期と後期の3段階に区分されます(Chen and Chen1992)。偏堡文化の初期(図3-1〜3)は、土器編年によると、遼西地区の東側に分布しています。しかし、シャオズフシャン(Shaozhushan)文化の中期層の呉家村(Wujiacun)期は、偏堡文化の分布の周辺に位置する遼東地区に分布します(図3-4)。偏堡文化の中期および後期は呉家村期文化を置換し、遼東地区と朝鮮半島北西部に広がりました(図3-5)。偏堡文化は朝鮮半島北西部の櫛目文土器に影響を与え、櫛目文土器の系列に壺の新様式を加えました。以下は本論文の図3です。
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 偏堡文化により影響を受けた壺(図3-3)は、朝鮮半島西部における新石器時代末期の櫛目文土器ナムケヨン1および2式で構成されます。この事象は、紀元前2400年頃のアジア北東部における農耕化の第二段階とも一致しました(図4)。対照的に、朝鮮半島北部〜中央部では、偏堡文化の影響(図3-1および2)は、鴨緑江中流と上流のシムグウィリ(Simgwiri)遺跡の1号住居で、ゴングウィリ式土器を生み出しました(図4)。このゴングウィリ式土器は、朝鮮半島南部では無文土器の最初期の縁帯土器へと発展しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。以下は本論文の図4です。
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 日本人の学者により1941年に発掘された、遼東半島の上馬石(Shangmashi)貝塚で発見された土器の製作技術に焦点が当てられました(Miyamoto2015b)。分析結果は、以下のような土器製作技術の4点の特性の存在を示します。それは、(a)比較的広い粘土平塊を用いての平塊製作、(b)内面ではなく外面への粘土平塊の付着、(c)木端で滑らかにすること、(d)地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。土器製作技術のこれらの4点の特徴が、新石器時代から前期鉄器時代までの編年体系で偏堡文化期にのみ限られているのは、たいへん興味深いことです(表3)。木端で粘土表面を滑らかにすることは、偏堡文化ではひじょうに多く見られます。偏堡文化における、木端で粘土表面を滑らかにすることと、あまり精巧ではない粘土窯を用いての焼成技術も、上馬石遺跡を除いて他の遺跡でも認められます。これらの結果から、偏堡文化はゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文土器文化における新たな土器製作技術の出現とつながっている、と示唆されます(図4)。以下は本論文の表3です。
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 朝鮮半島の無文土器は、隣接地域の土器様式が、偏堡文化によるこれらの地域への拡散過程と影響を介して、偏堡文化の土器様式へと変化した時に確立しました。したがって、偏堡文化土器で用いられた新たな土器製作技術は、ゴングウィリ式土器への偏堡文化の影響を介して無文土器へともたらされました。このように、土器製作技術の観点で同じ4点の特性を有する土器様式が、朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して、遼東半島の偏堡文化から朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました。そこから、朝鮮半島南部の無文文化と同じ4点の特性を有するこの土器様式が、西日本の弥生文化に広がりました。これら4点の特性を有する同じ系譜の土器様式の拡大は、言語、つまり日本語祖語を媒介しての同じ情報の広がりを示唆します(図5-1)。以下は本論文の図5です。
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 しかし、偏堡文化と縁帯土器との間のこれら土器様式の変化は、約1000年の長い時間を要し、無文土器文化の始まりは朝鮮半島南部で紀元前1500年頃でした。この頃に、磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がりました。したがって、朝鮮半島南部における無文土器文化の確立は、二重の状況で構成されました。それは、アジア北東部における農耕化の第2段階の偏堡文化などを基盤に形成されたものの、アジア北東部農耕化の第3段階における生計活動の変化により確立しました。

 日琉語族はどこに起源があったのでしょうか?日琉語族は稲作農耕の影響により彩られていませんでした。日琉語族にはイネに特化した語彙が含まれていなかった、と考えられています(Whitman2011)。日琉語族にイネに特化した語彙がなかった理由は、日琉語族の起源が恐らくは遼西東部にあったからです。雑穀農耕を伴う初期偏堡文化は、おもに遼西地区東部に分布しています(図3-4)。土器製作技術の分析から、無文土器は偏堡文化に由来した、と示唆されるので(Miyamoto2016)、日琉語族も偏堡文化に起源があった、と提案されます(図5-1)。

 無文文化はその後、紀元前1500年頃に、山東半島から遼東半島を経た稲作農耕社会により影響を受けましたが、無文文化集団は日本語祖語を話し続けた、と考えられます。これは、アジア北東部における農耕化の第3段階でのことです。日琉語族が同じ頃にアジア北東部における農耕化の第4段階での稲作拡大と同じ頃に無文文化経由で九州北部へと広がったならば、縄文時代と弥生時代との間の移行は、伝統的な「縄文語」と日琉語族との間の言語における移行と同じである、と提案できます。このように、少数の無文文化の人々が九州北部へと移住し、「縄文人」と混合した場合、日琉語族も九州北部へと拡大した、と考えられます。さらに、九州北部における在来の「縄文語」と日琉語族との間の移行は、夜臼式土器1期から板付1式土器期への土器様式における移行と同じくらいの時間を要した、と推測されます。「縄文語」は、上述のように人々が無文文化集団により話されていた日琉語族で新たな土器技術を学んだので、同じ過程を経て日琉語族により置換された、とも考えられます。


●朝鮮語祖語の拡散の論についての考古学的説明

 上馬石貝塚遺跡の分析(Miyamoto2015b)も、土器様式が紀元前千年紀半ばに変化したことを示唆します。紀元前6世紀〜紀元前5世紀となる尹家村(Yinjiacun)文化青銅器時代の長首壺(Long-necked pot)と粘土縁壺(clay-rimmed jar)は、遼西地域から遼東地域にかけて分布していました。この新たな土器は遼東半島から朝鮮半島南部へと到来し、初期鉄器時代の粘土帯土器へと発展して、遼東半島の人々が朝鮮半島へと南方へ移住したことを示します(Miyamoto2016、宮本., 2017)。

 移民が遼東半島から朝鮮半島へと移住し、粘土帯土器文化を確立した理由は、より寒冷な気候条件だったからではありませんでした。むしろ、好まれる理論は、北京地域に位置する燕国が燕山(Yanshan)山脈を越えて東方へ侵入したので、当時の社会における社会的および政治的要因だった、というものです(宮本., 2017、宮本., 2020)。燕は遼西地区東部の首長と政治的に接触し、紀元前6世紀と紀元前5世紀には燕国の覇権を押し付けました。尹家村文化第2期における遼西東部から遼東半島への人々の東方への移動は、遼東半島から朝鮮半島への別の移住の契機となりました。この過程で、尹家村文化第2期は朝鮮半島へと広がり、紀元前5世紀頃となる青銅製細形短剣を含む、粘土帯土器文化の確立につながりました。この時点で、農耕集落は考古学的記録から消えました(Ahn2010)。遼西東部に起源があるこの粘土帯土器文化は、明確には水田稲作とは関連していないものの、雑穀およびコムギ農耕と関連しています。

 一方、マーク・ハドソンとマーティン・ロベーツは、朝鮮語大語族祖語は日本語祖語の前に遼東半島から朝鮮半島へ雑穀農耕とともに紀元前3500年頃に拡大した、と主張しました(Hudson, and Robbeets., 2020)。しかし、櫛目文土器と農耕用石器を有する雑穀農耕は、紀元前3500年頃に盛上文(Yunggimun)土器文化に代わって、朝鮮半島の北西部と中西部から南部へと広がりました(Miyamoto2014、宮本., 2017)。農耕用石器を伴う雑穀農耕は、紀元前五千年紀に遼西から遼東半島および朝鮮半島西部へと広がりました(Li et al., 2020)。さらに、土器様式は小珠山(Xiaozhushan)文化火葬土器を有する遼東半島と櫛目文土器を有する朝鮮半島との間で明確に異なります(Kim, and Park., 2020)。したがって、遼東半島から朝鮮半島への言語拡散の理論が、紀元前四千年紀における朝鮮半島南部への農耕用石器を伴う櫛目文土器の拡大と考古学的に関連していた、と考えるのは困難です。

 朝鮮語がこの移住とともに朝鮮半島へと広がり、細形短剣文化を形成した、と考えられています(Whitman2011)。遼西東部地区から朝鮮半島へのこの文化的影響は、中国の戦国時代における燕国によりもたらされた継続的な領土の脅威のため逃げてきた人々を伴う、朝鮮語祖語の拡大を示唆します(宮本., 2017、宮本., 2020)。この文化は、マンチュリアの遼東地区の涼泉(Liangquan)文化もしくは尹家村文化第2期に起源があり、拡大しました。初期鉄器時代は朝鮮語の広がりと関連しているので、朝鮮語の起源地も遼東地区東部にあった、と仮定されます(図5-2)。粘土帯土器文化は、三国時代へと直接的に変わっていく先三国時代文化期に、類似の形態へと発展しました。三国時代の新羅の言語は、確実に朝鮮語です(Robbeets2020)。したがって、朝鮮語祖語は粘土帯土器文化期に話されていました。粘土帯土器文化は、系譜的に無文文化とつながりませんでした。

 このように、日本語祖語は粘土帯土器文化初期に朝鮮語祖語により置換された、と推測されます。日本語祖語は朝鮮半島で話されており、弥生文化の開始期に日本列島へと広がりました。一つの言語の別の言語への置換は、朝鮮語祖語が中国北東部から朝鮮半島へと朝鮮前期鉄器時代に広がった、というマーシャル・アンガーの見解と一致します(Unger2014)。一方、金壮錫と朴辰浩は、朝鮮語祖語が細形短剣とともに入ってきた、というジョン・ホイットマン(John Whitman)の提案(Whitman2011)に疑問を呈しています(Kim, and Park., 2020)。遼寧式短剣を有する中国北東部の遼西および遼東の粘土帯土器文化は、細形短剣が独自に発展した朝鮮半島へ拡大しました(宮本., 2020)。その後、粘土帯土器文化は、中国の燕国と先三国時代となる漢代の楽浪(Lelang)郡より影響受けて、鉄器を製作しました。したがって、粘土帯土器文化の人々が三国の直接的な祖先で、朝鮮語祖語を話していた、との仮定が合理的です


●まとめ

 言語学的研究では、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、と示唆されています(Unger2014、Robbeets et al., 2020)。日本語祖語はまずマンチュリア南部から朝鮮半島へと、次に弥生文化の開始期に九州北部へと広がりました。朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部から朝鮮半島へと広がり、次第に日本語祖語を追い払いました。

 偏堡文化と無文文化と弥生文化の土器は、さまざまな年代にわたって相互に系譜的に関連している、と提案されており、とくに、以下の4点の特性を示す、同じ土器製作技術があります。それは、広い粘土平塊、その前の平塊の外面に付着させる平塊、木片の端で土器表面を滑らかにすること、地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。これらの同じ土器製作技術は、言語を介して継承された、と考えられています。これが、偏堡文化と無文文化と弥生文化の系譜系列が日本語祖語の拡大を示唆している理由です。したがって、偏堡文化の日本語祖語は紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました(図5-1)。

 日本語祖語は灌漑稲作農耕の拡大とともに紀元前9世紀に九州北部に到達し、紀元前6世紀〜紀元前5世紀の九州北部の板付式土器期に「縄文語」を完全に置換しました。過程として、この言語置換は約300年間にわたって起きました。この場合、人々はその遺伝的構成の観点では必ずしも変化しませんでした。板付式土器を伴う日本語祖語話者は福岡平野から到来して西日本へと移住し、西日本では弥生時代前期に日本語がしだいに在来の「縄文語」を置換しました(図5-1)。紀元前3世紀頃に始まる弥生時代中期の跡には、弥生文化は東日本に依然として存在していた縄文土器伝統とは急速に異なっていきました。それにも関わらず、日本語祖語は紀元後2世紀〜紀元後3世紀となる弥生時代後期から古墳時代の開始までに、これらの地域で在来の「縄文語」をじょじょに置換していった、と考えられています。

 紀元前6世紀と紀元前5世紀に、中国の東周時代(春秋時代)の燕国は、燕山山脈を越えてその領域を拡大し、遼西地区において首長に政治的に影響を及ぼしました。この時から、尹家村文化第2期の移民が紀元前5世紀に遼西東部から遼東を経て朝鮮半島へと向かい、そこで粘土帯土器を確立しました。粘土帯土器自体は、遼東半島の紀元前二千年紀の双砣子(Shuangtuozi)文化期の第2および第3段階に始まりました。遼西東部から朝鮮半島南部への粘土帯土器の広がりは、朝鮮語祖語の経路を示唆します(図5-2)。

 日本語祖語と朝鮮語祖語両方の故地は考古学的証拠に基づくと同じで、両者は近い語族です。しかし、アジア北東部における両言語間の拡散の時間的違いは約1000年で、両言語の広がりは、九州北部の弥生時代開始期におけるアジア北東部の農耕の4番目の拡大を除いて、農耕の人口拡散とは無関係でした。考古学的説明に基づく日本語祖語と朝鮮語祖語のこの拡散仮説は、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、という言語学的仮説(Unger2014、Robbeets et al., 2020)を必ずしも妨げません。むしろ、拡散仮説は言語学的仮説を支持します。


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https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c305

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
13. 中川隆[-12514] koaQ7Jey 2023年6月10日 18:29:30 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[10]
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雑記帳
2023年06月07日
考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html

 考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。本論文は考古学的観点から、アジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大の様相を検証しています。本論文は、日本語祖語と朝鮮語祖語の起源はマンチュリア(満洲)南部にあり、朝鮮半島には朝鮮語祖語よりも日本語祖語の方が早く流入し、その後で朝鮮半島に流入した朝鮮語祖語が日本語祖語をじょじょに駆逐し、一方で日本語祖語は弥生時代早期に日本列島に流入し、「縄文語」をじょじょに駆逐した、と推測しています。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。「日本語」と「日琉語族」を適切に訳し分けた自信はないので、混乱があるかもしれませんが、本論文の趣旨からすると、まだ日本語と琉球諸語が分岐する前を主要な対象としているので、「日琉語族」と訳すべきところが多いかもしれません。また、考古学用語については、定訳があるのに変な訳語になっているものも少なくないかもしれません。近年の古代ゲノム研究と本論文の知見を合わせて、そのうちアジア東部の古代史をまとめよう、と考えています。以下、敬称は省略します。


●要約

 言語学的観点から、日本語祖語と朝鮮語祖語は、マンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分かれた、と想定されています。年代順では日本語祖語が朝鮮語祖語よりも先に到来した、という言語学的見解が意味するのは、日本語祖語がまず朝鮮半島に入り、そこから紀元前9世紀頃となる弥生時代早期に日本列島へと拡大した一方で、朝鮮半島南部における朝鮮語祖語の到来は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化と関連している、ということです。同じ土器製作技術を共有する偏堡(Pianpu)文化と無文(Mumun)文化と弥生文化の系譜は、日本語祖語の拡大を示唆します。

 一方、移民が遼東半島から朝鮮半島へと移動し、粘土帯土器文化を確立しました。この人口移動は恐らく、燕(Yan)国が東方へ領土を拡大する中での、社会および政治的理由に起因しました。粘土帯土器文化の朝鮮語祖語は後に朝鮮半島へと拡大し、次第に日本語祖語を追い払っていき、朝鮮語の前身となりました。本論文では、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を検証し、とくに土器様式と土器製作技術の系譜に焦点を当てます。


●近年の研究動向

 先史時代における言語拡散がヒトの移住を伴う農耕の拡大と関連している、との見解は、コリン・レンフルー(Colin Renfrew)により初めて提唱されたよく知られた仮説であり(Renfrew1987)、インド・ヨーロッパ語族の拡大は農耕の拡散を伴っていた、と示唆されています。レンフルーは、故地がアナトリア半島南部中央にあった農耕民が、紀元前7000〜紀元前6500年頃までにギリシアへと拡大した、と論証しました。この拡散は、農耕民がヨーロッパへと到達し、インド・ヨーロッパ語族の下位群を形成するまで続きました【現在では、後期新石器時代〜青銅器時代にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへと拡散した集団がインド・ヨーロッパ語族をもたらした、との見解が有力です(関連記事)】。レンフルーはさらに、移住してきた農耕民と在来の中石器時代の人々との間の3000年以上にわたる交流も論証しました。インド・ヨーロッパ語族がギリシアへ拡大した紀元前7000年頃から、ブリテン諸島へ拡大した紀元前4000年頃にかけてです(Renfrew1987、Reference Renfrew1999)。この仮説は「農耕・言語拡散仮説」と呼ばれることが多く、農耕余剰から生じた人口増加と結びついています。

 ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)も、アジア東部において同様に農耕の拡大は言語の拡大と関連している、と仮定しました(Bellwood2005)。この仮説によると、シナ・チベット語族は黄河中流域において雑穀に基づく農耕とともに起源がある一方で、長江中流地における稲作に基づく農耕民と関連するミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族はアジア南東部へと移動し、オーストロアジア語族を形成しました。さらに、中国南部で稲作農耕を行なっていた人々が話していたタイ・チワン諸語は、アジア南東部でオーストロアジア語族の一部へと発展しました。さらに、オーストロネシア人は台湾からインドネシアとオセアニアへと南方へ拡大しました。

 一方で、以下の5語族は伝統的に、「アルタイ諸語」と分類されており、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です。近年では、「トランスユーラシア語族」という用語がこれら5語族の記述に使われてきており、地理的には、東方では太平洋、西方ではバルト海と黒海と地中海まで広がっている巨大な語族を指します(Robbeets and Savelyev2020)。ユハ・ヤンフネン(Juha Janhunen)は、トランスユーラシア語族の故地は現在のモンゴル東部とマンチュリア南部と朝鮮半島に位置している、と提案しました(Janhunen and Karttunen2010)。マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)も、トランスユーラシア語族の拡散の背後にある原動力として、レンフルーやベルウッドなどの農耕拡散仮説を支持しています(Robbeets2020)。ロベーツは、大日本語族が遼東半島で話されており、朝鮮半島を経由して稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた、と主張しました(Robbeets2020)。

 著者【宮本一夫、以下、著者で統一します】は対照的に、日本語祖語が朝鮮半島南部から稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた一方で、遼東半島から朝鮮半島への日本語祖語の拡大は稲作農耕の拡大と関係していなかった、と提案しました(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。李濤(Tao Li)も、トランスユーラシア語族祖語、とくにツングース語族祖語の拡散の背後にある原動力としての農耕拡散仮説を批判しました。李濤は、トランスユーラシア語族祖語の拡散における農耕拡散仮説について、考古学的証拠には不確実性と限界がある、と主張しました(Li2020)。李濤も、ロシア極東への雑穀農耕の拡大とツングース語族祖語との間のつながりを示唆しました。(Li et al., 2020、Hudson and Robbeets2020)。

 最近、マーク・ハドソン(Mark J. Hudson)とマーティン・ロベーツは、遼東地区から朝鮮半島への大朝鮮語族祖語の拡大は、朝鮮半島中期新石器時代の紀元前3500年頃における雑穀農耕の拡大と関連していた、と提案しました(Hudson and Robbeets2020)。しかし、金壮錫(Jangsuk Kim)と朴辰浩(Jinho Park)は、雑穀の導入は新石器時代朝鮮半島の櫛目文(Chulmun)物質文化に影響を及ぼさなかったようであり、新石器時代における中国北東部(遼西および遼東地区)と朝鮮半島の土器様式は明確に異なっている、と述べました(Kim and Park2020)。

 著者も、先史時代のアジア北東部には農耕発展の4段階があった、と仮定しました(Miyamoto2014、Miyamoto2015a、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。第1段階は、紀元前3300年頃となる、マンチュリア南部から朝鮮半島およびロシア極東への雑穀農耕の拡大を含んでいました。第2段階は、紀元前2400年頃となる山東半島から遼東半島への水田稲作の拡大でした。第3段階は、石庖丁と平型凸刃石斧(flat plano-convex stone adze)を含む新たな磨製石器と関連する、灌漑農耕の拡大でした。第3段階には、湿田(イネ)と乾田(雑穀やコムギなど)で構成される第三の農耕体系の導入がありました。この灌漑農耕も、山東省から遼東半島を通って朝鮮半島へと紀元前1500年頃に広がりました。最後に、第4段階は、日本の九州北部への灌漑農耕の拡大を含んでおり、紀元前9世紀頃に始まります(宮本., 2018)。アジア北東部における農耕拡大の4段階の発展過程に関するこの理論は、一部の農耕民が気候状態の寒冷化によりもたらされた人口圧に起因して、穀物を栽培するために、狩猟採集民社会の土地に移動し、穀物を栽培した、という理由に基づいています。

 本論文で著者は、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を再検証し、とくに土器様式の系譜と製作技術に焦点を当てます。農耕の拡大は、朝鮮半島南部から九州北部への農耕の拡大を除いて、必ずしも日本語祖語と朝鮮語祖語の拡散と関連していなかった、と著者は提案します(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。


●日琉語族と朝鮮語の研究史

 日琉語族と朝鮮語はアルタイ諸語に分類される、とみなす言語学者もいます(Ruhlen1987)。編年体系では、これらは比較的浅い言語であり、日琉語族と朝鮮語は大ツングース語族から分岐した、というわけです(Unger2009)。朝鮮語と日本語との間の背後にある言語学的相互作用は、日琉語族(日琉語族祖語)がまだ朝鮮半島の一部で話されている時に起きました(Janhunen2005)。高句麗の地名データからは、日琉語族と同語族の言語が朝鮮半島で話されていた、と示唆されます。さらに、紀元後8世紀以前の地名に含まれる日本語起源の地名は通常、鴨緑江(Yalu River)の中央部および北部地域、とくに高句麗地区に分布しています(Endo2021)。したがって、日琉語族は元々朝鮮半島で用いられていた、と仮定されていますが、朝鮮半島南端の人々の一部だけが日琉語族を話していた、と示唆した学者もいます。

 李濤と長谷川寿一は、日本語の59の言語変種から得られた語彙データに基づくベイズ系統分析を用いて、日本語祖語の祖語について2182年前頃と推定しました(Lee and Hasegawa2011)。日本語は朝鮮半島で話されていたので、日本語は朝鮮半島の無文文化と日本列島の弥生文化の両方で話されていた、と考えられています(Whitman2011)。さらに、文献学者は、日本語が人口拡散を通じて弥生時代最初期において朝鮮半島から日本列島へと拡大した、と考えています(Whitman2011、Vovin2013、Unger2014、Hudson et al., 2020)。したがって恐らく、日本語は紀元前9世紀頃から紀元後3世紀頃までの弥生時代に、日本列島で話されていたのでしょう。

 マーシャル・アンガー(Marshall Unger)は、日本語祖語と朝鮮語祖語もその1系統である大ツングース語族の故地が山東省から遼寧省に至る渤海湾周辺地域だったならば、ツングース語族祖語話者が北方と北東、最終的にはシベリア東部へと移動した一方で、朝鮮語祖語話者は分岐してマンチュリア南部へと移動したことを意味する、と提案しました。マーシャル・アンガーは、日本語祖語話者が水田稲作の知識を朝鮮半島へともたらし、朝鮮語話者は朝鮮半島へと移動し、日本語祖語話者を追い払った、とも結論づけました(Unger2014)。朝鮮語は細形短剣(朝鮮式短剣)文化の出現とともに、遼寧省から朝鮮半島へと広がった、と考えられています(Whitman2011)。

 マーティン・ロベーツなどは、雑穀農耕の拡大とともに、大日本語祖語が遼東半島から朝鮮半島に至る地域で紀元前3500〜紀元前1500年頃に話されていた、と仮定します。日本語祖語は半島日本語(Para-Japonic)から分岐し、九州へと拡大して紀元前900年頃に農耕を伴う弥生文化になりました(Robbeets et al., 2020)。マーティン・ロベーツの解釈は、日本語と朝鮮語の祖先話者が紀元前四千年紀に渤海沿岸と遼東半島にいた可能性を示唆しています。マーティン・ロベーツはベイズ推定を用いて、日本語と朝鮮語が紀元前1847年頃に分岐した、と示唆しています(Robbeets, and Bouckaert., 2018)。朝鮮半島南部の新羅は、その言語が中世および現在の朝鮮語の直接の祖型で、全ての先行言語を遅くとも紀元後7世紀までには置換しました。

 日本語祖語と朝鮮語祖語に関する言語学的研究によると恐らく、日本語祖語は朝鮮半島で話されており、朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部においてトランスユーラシア語族から分岐し、朝鮮半島へと拡大したのでしょう。日本語祖語は恐らく、稲作農耕とともに弥生時代に日本列島へと拡大したものの、日本語中央方言(Central Japanese)が紀元後4世紀〜紀元後7世紀となる古墳時代と飛鳥時代に古朝鮮語(恐らくは百済語)から強い影響を受けた、と示唆する言語理論が存在します(Unger2009)。これは、弥生文化の開始が朝鮮半島南部の無文文化に強い影響を受け、この地域からの一部の移民が九州北部へと移動した、と考えられているからです(Miyamoto2014、Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Hudson et al., 2020)。日本語祖語が弥生文化の開始期に移民とともに朝鮮半島南部から九州北部へと広がったならば、日本語祖語は無文文化の人々により話されていた、と推測できます。


●考古学的文脈における言語の拡散に関する問題

 九州北部の「縄文人」と「弥生人」の形質人類学的差異はひじょうに明確で、九州北部の「弥生人」は大陸部の(無文文化)の人々と身体が類似しています(中橋., 1989、Hudson et al., 2020)。朝鮮半島南部からの移民が九州北部において先住の「縄文人」と混合し、その結果生まれた「弥生人」は、次第にこの地域で優勢になりました(田中・小澤., 2001)。紀元前9世紀〜紀元前6世紀となる弥生文化の早期には、これらの人々は灌漑農耕の一形態である水田で稲を栽培していました。これらの人々は、新たな石庖丁などの新たな磨製農耕石器、支石墓などの埋葬慣行、朝鮮半島南部の無文文化に属する壺様式である、壺(necked jar)や祖型板付壺土器など様々な土器様式を発展させました。さらに、環状集落と木棺埋葬が夜臼式2期に出現しました。

 九州北部における縄文文化と弥生文化の移行期は3段階に区分でき、縄文時代晩期黒川期から、板付式土器の出現をもたらした弥生時代早期板付1式までとなります(表1)。弥生時代早期の夜臼式1期となる弥生文化の出現は、宇木汲田貝塚で発見された炭化したイネ粒に基づいて、紀元前9世紀〜紀元前8世紀頃となる較正年代で紀元前842〜806年頃(4点の標本の中央値データ)と年代測定されています(宮本., 2018)。これらの段階は、朝鮮半島南部の無文文化からの移民と、九州北部の「縄文人」との間の遺伝的混合過程を表している、と考えられています(田中・小澤., 2001)。以下は本論文の表1です。
画像

 縄文時代黒川期の紀元前13世紀〜紀元前11世紀頃の寒冷化の最初の期間(宮本., 2017)に、朝鮮半島南部と九州北部との間に短期間の接触があります。田中良之は、朝鮮半島のコンヨル(Konyol)式土器を模倣した黒川式土器の縁の下の点の並びや、貫川遺跡で見つかった石庖丁などの考古学的証拠に基づいて、一部の移民が黒川期に朝鮮半島南部から九州北部へと到来した、と提案しました(田中., 1991)。これは、紀元前1200年頃のより寒冷な気候条件とも関連しています(宮本., 2017)。土器の走査電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope、略してSEM)ケイ素分析から得られた証拠により示唆されているように、イネはこれ以前ではなくとも、恐らくはこの時点までに九州に広がっていました。

 黒川式縄文土器は、瀬戸内東部(内海地域もしくは近畿)地域に起源があり、九州北部へと次第に西方へ広がった(縁帯無文土器文化とは異なる)帯文深鉢(banded deep bowl)の拡大を通じてしだいに夜臼式土器へと変わっていき、縄文時代晩期の黒式土器を弥生時代早期の夜臼式土器に置換しました。夜臼式土器は2種類の連続で構成されます。それは、縄文土器様式に基づく深鉢と、無文文化に基づく壺です(Miyamoto2016、宮本., 2017)。夜臼式1期(紀元前9世紀〜紀元前8世紀)と夜臼式2期(紀元前7世紀〜紀元前6世紀)には、無文文化が朝鮮半島の異なる2ヶ所から拡大しました。夜臼式1期には、南江(Namgang River)から唐津と糸島平野まで広がり、夜臼式2期には、ナグトンガン川(Nagtonggang River)から福岡平野にまで広がりました(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。夜臼式2期は、その最初の場所である福岡平野の板付式土器(弥生時代前期)の発達に先行します。したがって、紀元前6世紀〜紀元前5世紀頃には、無文土器に影響を受けた板付式壺が、夜臼式期の縄文土器の深鉢を置換しました。以下では、「移行」期は夜臼式1期および2期を指します。夜臼式は水田稲作の存在のため弥生時代と見なされていますが、完全にそろった弥生文化は板付1式まで固定されませんでした。九州北部における縄文時代と弥生時代早期との間の移行期は、推定300年間です(宮本., 2017)。

 土器の様式と系譜だけではなく、土器製作技術も、弥生時代と縄文時代では異なります。夜臼式1期無文土器文化の影響を通じて壺が追加されましたが、縄文土器の深鉢が縄文時代と弥生時代の移行期には依然として使われていました。板付式壺は弥生時代前期の板付式1期に確立しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。この時点で、土器製作技術は全体的に、縄文時代から変化しました(家根., 1984、家根., 1997、三阪., 2014)。縄文土器に用いられた比較的薄い粘土の平塊(slab)とは対照的に、弥生土器の製作には比較的に広い粘土の平塊が用いられました(図1)。弥生土器の平塊は、その前の平塊の外面に付着されますが、縄文土器の平塊は土器の内面に重ねて付着されました。弥生土器の表面は、木片の端を用いて滑らかにされていましたが、縄文時代晩期にはこの作業を行なうために貝殻が用いられました(図1)。弥生土器は地上にてさほど精巧ではない粘土窯で焼成されましたが、縄文土器は野外で焼成されました(小林他., 2000)。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、縄文土器と弥生土器との間に明確に存在しました。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、無文土器から採用されました。土器製作の新技術が、無文文化により最初に影響を受けた夜臼式ではなく、縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式で完全に確立されたのは、興味深いことです。縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式土器は、最終的には新たな土器製作技術の4特性から構成されました。以下は本論文の図1です。
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 縄文時代から弥生時代への移行では、土器様式を超えたさせなる文化的変化も明らかです(表1)。水田や新様式の土器や新形態の磨製石器が、黒川期後の夜臼1期の福岡平野で見つかっています(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Fujio2021)。その後、環濠集落が夜臼式2期に確立しました。木棺のような新たな埋葬習慣が、夜臼式2期と板付式1期の頃に始まりました(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。文化的特性は、夜臼式1期と夜臼式2期の期間に経時的に追加されました。支石墓は夜臼式1期には確立していませんでしたが、その分布は九州北西部を含む唐津と糸島平野に集中していました。しかし、木棺が朝鮮半島から福岡平野にもたらされ、次に夜臼式2期に福岡平野から他地域へと広がりました。副葬品として木棺には磨製石器短剣が伴いました。支石墓と木棺との間の導入と分布の時期の違いは、朝鮮半島での磨製石器短剣の種類による分布地域の違いとともに、朝鮮半島からの文化の二重起源を示唆します(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。したがって、弥生文化は無文文化の二重拡散で確立しました(表1)。板付1式の時までに、灌漑農耕社会が形成されました(宮本., 2017、Fujio2021)。

 弥生文化の確立とともに、板付式土器が生まれたことは、日本列島における独立した農耕社会の発展を意味しました。九州北部における弥生文化の新たな農耕民は瀬戸内海と近畿地方に移動し、そこでは新たな農耕民と先住の「縄文人」が再び混合しました。考古学的証拠は、土地の無文文化と対応する日本語祖語文化が朝鮮半島南部から九州北部へとどのように広がったのか、という問題への答えを提供します。前節では、黒川期に九州北部にイネがどのように広がったのか、水田を伴う稲作は夜臼式期にどのように急増へと広がったのか、説明されました。無文文化に影響を受けた支石墓や磨製石器や土器様式を含む文化的変化が、夜臼式1期に出現しました。したがって、定義上、弥生文化は紀元前9世紀〜紀元前8世紀となる夜臼式1期に始まった、と言うことができます。

 したがって、この知見から、日本語祖語は夜臼式1期に無文文化からの移民とともに九州北部へと広がった、と言うことができますか?無文文化に影響を受けた壺など新たな土器の種類は、九州北部において夜臼式1期に出現しました。しかし、夜臼式1期における多数の新たな種類の壺や他の縄文様式の土器壺は、縄文土器の製作技術を用いて製作されました。無文土器文化と同じ土器製作技術を用いて製作された、壺や板付式壺を含めて弥生式土器は、板付1式期に出現し、その年代は紀元前6世紀〜紀元前5世紀です(宮本., 2018)。著者の見解は、日本語祖語がこの時点で九州北部において「縄文語」を置換した、というものです。

 「縄文人」は夜臼式1期に、栽培穀物保存のための壺と調理用の縄文式深鉢を製作した少数の無文文化移民とともに、九州北部に移住しました(田中・小澤., 2001)。こうした人々は、縄文土器製作技術を用いて、農耕生活のために無文文化の壺を模倣した、と考えられています。しかし、板付1式期には無文文化の土器様式と製作技術が変化しました著者は、「縄文人」が九州北部で「縄文語」を置換した日本語祖語を介して、新たな土器様式と製作技術を教えられたのではないか、と提案します。その後、弥生時代前期には、新たな板付式土器様式と製作技術が福岡平野を中心とする九州北部から、九州北西部と瀬戸内海地域と近畿地域を含む西日本にまで広がりました。この場合、一般的には「縄文人」の子孫とされる九州北西部の「弥生人」でさえ、板付式土器がそうであるように、同じ弥生土器を製作できた、と注目するのは興味深いことです。

 形質人類学的分析は、九州北西部の「弥生人」に属する人骨を、「縄文人」と同じと同定してきました(中橋., 1989)。最近のDNA研究では、紀元後1〜紀元後2世紀の弥生時代末と年代測定された九州北西部の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体では、「縄文人」と「渡来系弥生人」両方のゲノムを有している、と示されています(篠田他., 2019、関連記事)。しかし、別のDNA研究では、九州北西部の佐賀県唐津市大友遺跡の初期「弥生人」は依然として「縄文人」だった、と示唆されています(神澤他., 2021、関連記事)。九州北西部の初期「弥生人」は遺伝的に無文文化人と異なりますが、無文文化の土器製作技術に基づいて弥生土器を製作できました。これは、九州北西部の初期「弥生人」が、日本語祖語を介して、弥生土器の製作技術について学ぶことができたからです。


●日本語祖語の拡散理論についての考古学的説明

 日本語祖語が弥生文化の開始において九州北部へと拡大し、板付1式期に「縄文語」を完全に置換した、との仮説が正しければ、問わねばならない問題は、どのようにどこから、無文土器文化に相当する日本語祖語文化が朝鮮半島に入ったのか、ということです。この問題を解決するため、初期農耕の拡大とは無関係な文化的接触を説明する、土器製作技術への焦点が選択されます。

 弥生土器と朝鮮半島南部の無文土器との間には、おもに以下の4点の特性の観点で、同じ土器製作技術が存在しました。それは、(a)広い粘土平塊、(b)その前の平塊の外面に付着する平塊、(c)木片の端で土器表面を滑らかにすること、(d)地面であまり精巧ではない粘土窯での焼成です。朝鮮半島南部の無文土器文化は、初期と前期と後期の3段階に区分されます(表2)。初期は、縁帯(band-rim)土器により特徴づけられ、前期はガラクドン(Garakdon)様式とコンヨル様式、つまりヘウナムリ(Heunamri)式と駅三洞(Yeoksamdong)式の土器により示され、後期はヒュアムリ(Hyuamri)式と松菊里(Songgunni)式で構成されます。以下は本論文の表2です。
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 三阪一徳は、朝鮮半島の新石器時代土器と無文土器との間の土器製作技術を分析しました(Misaka2012)。その分析によると、土器製作技術における4点の特性は、初期から後期まで無文土器文化を通じて見られました(図2)。対照的に、新石器時代土器の製作技術にはそうした4点の特性がありません。新石器時代土器と無文土器との間のそうした違いは、縄文土器と弥生土器との間に存在したものと同じです。この場合、初期の土器である縁帯土器は、系譜的に他地域の土器から広がったに違いありません。土器のSEMケイ素分析から、朝鮮半島における稲作は無文文化土器初期の縁帯土器期に始まった、と示唆されます(Son et al., 2010)。金壮錫と朴辰浩は、稲作農耕民の移住は中国北東部から朝鮮半島への言語拡散をもたらした、と示唆しました(Kim, and Park., 2020)。したがって、無文土器の製作様式がどのようには最初に始まったのか、注意を払う必要があります。以下は本論文の図2です。
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 朝鮮半島南部における最初の無文土器は、紀元前1500年頃以降の最初期無文土器文化における縁帯土器です。縁帯土器は、朝鮮半島北部〜中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)土器と関連している、と考えられており(Ahn J2010、Bae2010)、それは、土器の模様と他の側面では家屋計画の類似性のためです。したがって、ゴングウィリ式土器は、最初期の無文土器の縁帯土器と関連している、と考えられています。無文文化は朝鮮半島南部に起源があるものの(Miyamoto2016、宮本., 2017)、比較的広い粘土平塊、外側から付着される粘土平塊、木片の端で滑らかにされることや粗放的な粘土窯での焼成など、無文土器の土器製作技術の起源は新石器時代櫛目文土器では確認されませんでした。

 朝鮮半島北西部では、マンチュリアの遼東地区における偏堡文化の影響(図3-3)が、ナムケヨン(Namkyeong)の櫛目文土器と結びつき、無文文化におけるパエングニ(Paengni)式土器を形成しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。偏堡文化は、前期と中期と後期の3段階に区分されます(Chen and Chen1992)。偏堡文化の初期(図3-1〜3)は、土器編年によると、遼西地区の東側に分布しています。しかし、シャオズフシャン(Shaozhushan)文化の中期層の呉家村(Wujiacun)期は、偏堡文化の分布の周辺に位置する遼東地区に分布します(図3-4)。偏堡文化の中期および後期は呉家村期文化を置換し、遼東地区と朝鮮半島北西部に広がりました(図3-5)。偏堡文化は朝鮮半島北西部の櫛目文土器に影響を与え、櫛目文土器の系列に壺の新様式を加えました。以下は本論文の図3です。
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 偏堡文化により影響を受けた壺(図3-3)は、朝鮮半島西部における新石器時代末期の櫛目文土器ナムケヨン1および2式で構成されます。この事象は、紀元前2400年頃のアジア北東部における農耕化の第二段階とも一致しました(図4)。対照的に、朝鮮半島北部〜中央部では、偏堡文化の影響(図3-1および2)は、鴨緑江中流と上流のシムグウィリ(Simgwiri)遺跡の1号住居で、ゴングウィリ式土器を生み出しました(図4)。このゴングウィリ式土器は、朝鮮半島南部では無文土器の最初期の縁帯土器へと発展しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。以下は本論文の図4です。
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 日本人の学者により1941年に発掘された、遼東半島の上馬石(Shangmashi)貝塚で発見された土器の製作技術に焦点が当てられました(Miyamoto2015b)。分析結果は、以下のような土器製作技術の4点の特性の存在を示します。それは、(a)比較的広い粘土平塊を用いての平塊製作、(b)内面ではなく外面への粘土平塊の付着、(c)木端で滑らかにすること、(d)地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。土器製作技術のこれらの4点の特徴が、新石器時代から前期鉄器時代までの編年体系で偏堡文化期にのみ限られているのは、たいへん興味深いことです(表3)。木端で粘土表面を滑らかにすることは、偏堡文化ではひじょうに多く見られます。偏堡文化における、木端で粘土表面を滑らかにすることと、あまり精巧ではない粘土窯を用いての焼成技術も、上馬石遺跡を除いて他の遺跡でも認められます。これらの結果から、偏堡文化はゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文土器文化における新たな土器製作技術の出現とつながっている、と示唆されます(図4)。以下は本論文の表3です。
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 朝鮮半島の無文土器は、隣接地域の土器様式が、偏堡文化によるこれらの地域への拡散過程と影響を介して、偏堡文化の土器様式へと変化した時に確立しました。したがって、偏堡文化土器で用いられた新たな土器製作技術は、ゴングウィリ式土器への偏堡文化の影響を介して無文土器へともたらされました。このように、土器製作技術の観点で同じ4点の特性を有する土器様式が、朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して、遼東半島の偏堡文化から朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました。そこから、朝鮮半島南部の無文文化と同じ4点の特性を有するこの土器様式が、西日本の弥生文化に広がりました。これら4点の特性を有する同じ系譜の土器様式の拡大は、言語、つまり日本語祖語を媒介しての同じ情報の広がりを示唆します(図5-1)。以下は本論文の図5です。
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 しかし、偏堡文化と縁帯土器との間のこれら土器様式の変化は、約1000年の長い時間を要し、無文土器文化の始まりは朝鮮半島南部で紀元前1500年頃でした。この頃に、磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がりました。したがって、朝鮮半島南部における無文土器文化の確立は、二重の状況で構成されました。それは、アジア北東部における農耕化の第2段階の偏堡文化などを基盤に形成されたものの、アジア北東部農耕化の第3段階における生計活動の変化により確立しました。

 日琉語族はどこに起源があったのでしょうか?日琉語族は稲作農耕の影響により彩られていませんでした。日琉語族にはイネに特化した語彙が含まれていなかった、と考えられています(Whitman2011)。日琉語族にイネに特化した語彙がなかった理由は、日琉語族の起源が恐らくは遼西東部にあったからです。雑穀農耕を伴う初期偏堡文化は、おもに遼西地区東部に分布しています(図3-4)。土器製作技術の分析から、無文土器は偏堡文化に由来した、と示唆されるので(Miyamoto2016)、日琉語族も偏堡文化に起源があった、と提案されます(図5-1)。

 無文文化はその後、紀元前1500年頃に、山東半島から遼東半島を経た稲作農耕社会により影響を受けましたが、無文文化集団は日本語祖語を話し続けた、と考えられます。これは、アジア北東部における農耕化の第3段階でのことです。日琉語族が同じ頃にアジア北東部における農耕化の第4段階での稲作拡大と同じ頃に無文文化経由で九州北部へと広がったならば、縄文時代と弥生時代との間の移行は、伝統的な「縄文語」と日琉語族との間の言語における移行と同じである、と提案できます。このように、少数の無文文化の人々が九州北部へと移住し、「縄文人」と混合した場合、日琉語族も九州北部へと拡大した、と考えられます。さらに、九州北部における在来の「縄文語」と日琉語族との間の移行は、夜臼式土器1期から板付1式土器期への土器様式における移行と同じくらいの時間を要した、と推測されます。「縄文語」は、上述のように人々が無文文化集団により話されていた日琉語族で新たな土器技術を学んだので、同じ過程を経て日琉語族により置換された、とも考えられます。


●朝鮮語祖語の拡散の論についての考古学的説明

 上馬石貝塚遺跡の分析(Miyamoto2015b)も、土器様式が紀元前千年紀半ばに変化したことを示唆します。紀元前6世紀〜紀元前5世紀となる尹家村(Yinjiacun)文化青銅器時代の長首壺(Long-necked pot)と粘土縁壺(clay-rimmed jar)は、遼西地域から遼東地域にかけて分布していました。この新たな土器は遼東半島から朝鮮半島南部へと到来し、初期鉄器時代の粘土帯土器へと発展して、遼東半島の人々が朝鮮半島へと南方へ移住したことを示します(Miyamoto2016、宮本., 2017)。

 移民が遼東半島から朝鮮半島へと移住し、粘土帯土器文化を確立した理由は、より寒冷な気候条件だったからではありませんでした。むしろ、好まれる理論は、北京地域に位置する燕国が燕山(Yanshan)山脈を越えて東方へ侵入したので、当時の社会における社会的および政治的要因だった、というものです(宮本., 2017、宮本., 2020)。燕は遼西地区東部の首長と政治的に接触し、紀元前6世紀と紀元前5世紀には燕国の覇権を押し付けました。尹家村文化第2期における遼西東部から遼東半島への人々の東方への移動は、遼東半島から朝鮮半島への別の移住の契機となりました。この過程で、尹家村文化第2期は朝鮮半島へと広がり、紀元前5世紀頃となる青銅製細形短剣を含む、粘土帯土器文化の確立につながりました。この時点で、農耕集落は考古学的記録から消えました(Ahn2010)。遼西東部に起源があるこの粘土帯土器文化は、明確には水田稲作とは関連していないものの、雑穀およびコムギ農耕と関連しています。

 一方、マーク・ハドソンとマーティン・ロベーツは、朝鮮語大語族祖語は日本語祖語の前に遼東半島から朝鮮半島へ雑穀農耕とともに紀元前3500年頃に拡大した、と主張しました(Hudson, and Robbeets., 2020)。しかし、櫛目文土器と農耕用石器を有する雑穀農耕は、紀元前3500年頃に盛上文(Yunggimun)土器文化に代わって、朝鮮半島の北西部と中西部から南部へと広がりました(Miyamoto2014、宮本., 2017)。農耕用石器を伴う雑穀農耕は、紀元前五千年紀に遼西から遼東半島および朝鮮半島西部へと広がりました(Li et al., 2020)。さらに、土器様式は小珠山(Xiaozhushan)文化火葬土器を有する遼東半島と櫛目文土器を有する朝鮮半島との間で明確に異なります(Kim, and Park., 2020)。したがって、遼東半島から朝鮮半島への言語拡散の理論が、紀元前四千年紀における朝鮮半島南部への農耕用石器を伴う櫛目文土器の拡大と考古学的に関連していた、と考えるのは困難です。

 朝鮮語がこの移住とともに朝鮮半島へと広がり、細形短剣文化を形成した、と考えられています(Whitman2011)。遼西東部地区から朝鮮半島へのこの文化的影響は、中国の戦国時代における燕国によりもたらされた継続的な領土の脅威のため逃げてきた人々を伴う、朝鮮語祖語の拡大を示唆します(宮本., 2017、宮本., 2020)。この文化は、マンチュリアの遼東地区の涼泉(Liangquan)文化もしくは尹家村文化第2期に起源があり、拡大しました。初期鉄器時代は朝鮮語の広がりと関連しているので、朝鮮語の起源地も遼東地区東部にあった、と仮定されます(図5-2)。粘土帯土器文化は、三国時代へと直接的に変わっていく先三国時代文化期に、類似の形態へと発展しました。三国時代の新羅の言語は、確実に朝鮮語です(Robbeets2020)。したがって、朝鮮語祖語は粘土帯土器文化期に話されていました。粘土帯土器文化は、系譜的に無文文化とつながりませんでした。

 このように、日本語祖語は粘土帯土器文化初期に朝鮮語祖語により置換された、と推測されます。日本語祖語は朝鮮半島で話されており、弥生文化の開始期に日本列島へと広がりました。一つの言語の別の言語への置換は、朝鮮語祖語が中国北東部から朝鮮半島へと朝鮮前期鉄器時代に広がった、というマーシャル・アンガーの見解と一致します(Unger2014)。一方、金壮錫と朴辰浩は、朝鮮語祖語が細形短剣とともに入ってきた、というジョン・ホイットマン(John Whitman)の提案(Whitman2011)に疑問を呈しています(Kim, and Park., 2020)。遼寧式短剣を有する中国北東部の遼西および遼東の粘土帯土器文化は、細形短剣が独自に発展した朝鮮半島へ拡大しました(宮本., 2020)。その後、粘土帯土器文化は、中国の燕国と先三国時代となる漢代の楽浪(Lelang)郡より影響受けて、鉄器を製作しました。したがって、粘土帯土器文化の人々が三国の直接的な祖先で、朝鮮語祖語を話していた、との仮定が合理的です


●まとめ

 言語学的研究では、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、と示唆されています(Unger2014、Robbeets et al., 2020)。日本語祖語はまずマンチュリア南部から朝鮮半島へと、次に弥生文化の開始期に九州北部へと広がりました。朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部から朝鮮半島へと広がり、次第に日本語祖語を追い払いました。

 偏堡文化と無文文化と弥生文化の土器は、さまざまな年代にわたって相互に系譜的に関連している、と提案されており、とくに、以下の4点の特性を示す、同じ土器製作技術があります。それは、広い粘土平塊、その前の平塊の外面に付着させる平塊、木片の端で土器表面を滑らかにすること、地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。これらの同じ土器製作技術は、言語を介して継承された、と考えられています。これが、偏堡文化と無文文化と弥生文化の系譜系列が日本語祖語の拡大を示唆している理由です。したがって、偏堡文化の日本語祖語は紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました(図5-1)。

 日本語祖語は灌漑稲作農耕の拡大とともに紀元前9世紀に九州北部に到達し、紀元前6世紀〜紀元前5世紀の九州北部の板付式土器期に「縄文語」を完全に置換しました。過程として、この言語置換は約300年間にわたって起きました。この場合、人々はその遺伝的構成の観点では必ずしも変化しませんでした。板付式土器を伴う日本語祖語話者は福岡平野から到来して西日本へと移住し、西日本では弥生時代前期に日本語がしだいに在来の「縄文語」を置換しました(図5-1)。紀元前3世紀頃に始まる弥生時代中期の跡には、弥生文化は東日本に依然として存在していた縄文土器伝統とは急速に異なっていきました。それにも関わらず、日本語祖語は紀元後2世紀〜紀元後3世紀となる弥生時代後期から古墳時代の開始までに、これらの地域で在来の「縄文語」をじょじょに置換していった、と考えられています。

 紀元前6世紀と紀元前5世紀に、中国の東周時代(春秋時代)の燕国は、燕山山脈を越えてその領域を拡大し、遼西地区において首長に政治的に影響を及ぼしました。この時から、尹家村文化第2期の移民が紀元前5世紀に遼西東部から遼東を経て朝鮮半島へと向かい、そこで粘土帯土器を確立しました。粘土帯土器自体は、遼東半島の紀元前二千年紀の双砣子(Shuangtuozi)文化期の第2および第3段階に始まりました。遼西東部から朝鮮半島南部への粘土帯土器の広がりは、朝鮮語祖語の経路を示唆します(図5-2)。

 日本語祖語と朝鮮語祖語両方の故地は考古学的証拠に基づくと同じで、両者は近い語族です。しかし、アジア北東部における両言語間の拡散の時間的違いは約1000年で、両言語の広がりは、九州北部の弥生時代開始期におけるアジア北東部の農耕の4番目の拡大を除いて、農耕の人口拡散とは無関係でした。考古学的説明に基づく日本語祖語と朝鮮語祖語のこの拡散仮説は、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、という言語学的仮説(Unger2014、Robbeets et al., 2020)を必ずしも妨げません。むしろ、拡散仮説は言語学的仮説を支持します。


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https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c13

[近代史3] 韓国人と縄文人のルーツ 中川隆
19. 中川隆[-12513] koaQ7Jey 2023年6月10日 18:29:57 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[11]
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雑記帳
2023年06月07日
考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html

 考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。本論文は考古学的観点から、アジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大の様相を検証しています。本論文は、日本語祖語と朝鮮語祖語の起源はマンチュリア(満洲)南部にあり、朝鮮半島には朝鮮語祖語よりも日本語祖語の方が早く流入し、その後で朝鮮半島に流入した朝鮮語祖語が日本語祖語をじょじょに駆逐し、一方で日本語祖語は弥生時代早期に日本列島に流入し、「縄文語」をじょじょに駆逐した、と推測しています。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。「日本語」と「日琉語族」を適切に訳し分けた自信はないので、混乱があるかもしれませんが、本論文の趣旨からすると、まだ日本語と琉球諸語が分岐する前を主要な対象としているので、「日琉語族」と訳すべきところが多いかもしれません。また、考古学用語については、定訳があるのに変な訳語になっているものも少なくないかもしれません。近年の古代ゲノム研究と本論文の知見を合わせて、そのうちアジア東部の古代史をまとめよう、と考えています。以下、敬称は省略します。


●要約

 言語学的観点から、日本語祖語と朝鮮語祖語は、マンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分かれた、と想定されています。年代順では日本語祖語が朝鮮語祖語よりも先に到来した、という言語学的見解が意味するのは、日本語祖語がまず朝鮮半島に入り、そこから紀元前9世紀頃となる弥生時代早期に日本列島へと拡大した一方で、朝鮮半島南部における朝鮮語祖語の到来は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化と関連している、ということです。同じ土器製作技術を共有する偏堡(Pianpu)文化と無文(Mumun)文化と弥生文化の系譜は、日本語祖語の拡大を示唆します。

 一方、移民が遼東半島から朝鮮半島へと移動し、粘土帯土器文化を確立しました。この人口移動は恐らく、燕(Yan)国が東方へ領土を拡大する中での、社会および政治的理由に起因しました。粘土帯土器文化の朝鮮語祖語は後に朝鮮半島へと拡大し、次第に日本語祖語を追い払っていき、朝鮮語の前身となりました。本論文では、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を検証し、とくに土器様式と土器製作技術の系譜に焦点を当てます。


●近年の研究動向

 先史時代における言語拡散がヒトの移住を伴う農耕の拡大と関連している、との見解は、コリン・レンフルー(Colin Renfrew)により初めて提唱されたよく知られた仮説であり(Renfrew1987)、インド・ヨーロッパ語族の拡大は農耕の拡散を伴っていた、と示唆されています。レンフルーは、故地がアナトリア半島南部中央にあった農耕民が、紀元前7000〜紀元前6500年頃までにギリシアへと拡大した、と論証しました。この拡散は、農耕民がヨーロッパへと到達し、インド・ヨーロッパ語族の下位群を形成するまで続きました【現在では、後期新石器時代〜青銅器時代にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへと拡散した集団がインド・ヨーロッパ語族をもたらした、との見解が有力です(関連記事)】。レンフルーはさらに、移住してきた農耕民と在来の中石器時代の人々との間の3000年以上にわたる交流も論証しました。インド・ヨーロッパ語族がギリシアへ拡大した紀元前7000年頃から、ブリテン諸島へ拡大した紀元前4000年頃にかけてです(Renfrew1987、Reference Renfrew1999)。この仮説は「農耕・言語拡散仮説」と呼ばれることが多く、農耕余剰から生じた人口増加と結びついています。

 ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)も、アジア東部において同様に農耕の拡大は言語の拡大と関連している、と仮定しました(Bellwood2005)。この仮説によると、シナ・チベット語族は黄河中流域において雑穀に基づく農耕とともに起源がある一方で、長江中流地における稲作に基づく農耕民と関連するミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族はアジア南東部へと移動し、オーストロアジア語族を形成しました。さらに、中国南部で稲作農耕を行なっていた人々が話していたタイ・チワン諸語は、アジア南東部でオーストロアジア語族の一部へと発展しました。さらに、オーストロネシア人は台湾からインドネシアとオセアニアへと南方へ拡大しました。

 一方で、以下の5語族は伝統的に、「アルタイ諸語」と分類されており、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です。近年では、「トランスユーラシア語族」という用語がこれら5語族の記述に使われてきており、地理的には、東方では太平洋、西方ではバルト海と黒海と地中海まで広がっている巨大な語族を指します(Robbeets and Savelyev2020)。ユハ・ヤンフネン(Juha Janhunen)は、トランスユーラシア語族の故地は現在のモンゴル東部とマンチュリア南部と朝鮮半島に位置している、と提案しました(Janhunen and Karttunen2010)。マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)も、トランスユーラシア語族の拡散の背後にある原動力として、レンフルーやベルウッドなどの農耕拡散仮説を支持しています(Robbeets2020)。ロベーツは、大日本語族が遼東半島で話されており、朝鮮半島を経由して稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた、と主張しました(Robbeets2020)。

 著者【宮本一夫、以下、著者で統一します】は対照的に、日本語祖語が朝鮮半島南部から稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた一方で、遼東半島から朝鮮半島への日本語祖語の拡大は稲作農耕の拡大と関係していなかった、と提案しました(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。李濤(Tao Li)も、トランスユーラシア語族祖語、とくにツングース語族祖語の拡散の背後にある原動力としての農耕拡散仮説を批判しました。李濤は、トランスユーラシア語族祖語の拡散における農耕拡散仮説について、考古学的証拠には不確実性と限界がある、と主張しました(Li2020)。李濤も、ロシア極東への雑穀農耕の拡大とツングース語族祖語との間のつながりを示唆しました。(Li et al., 2020、Hudson and Robbeets2020)。

 最近、マーク・ハドソン(Mark J. Hudson)とマーティン・ロベーツは、遼東地区から朝鮮半島への大朝鮮語族祖語の拡大は、朝鮮半島中期新石器時代の紀元前3500年頃における雑穀農耕の拡大と関連していた、と提案しました(Hudson and Robbeets2020)。しかし、金壮錫(Jangsuk Kim)と朴辰浩(Jinho Park)は、雑穀の導入は新石器時代朝鮮半島の櫛目文(Chulmun)物質文化に影響を及ぼさなかったようであり、新石器時代における中国北東部(遼西および遼東地区)と朝鮮半島の土器様式は明確に異なっている、と述べました(Kim and Park2020)。

 著者も、先史時代のアジア北東部には農耕発展の4段階があった、と仮定しました(Miyamoto2014、Miyamoto2015a、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。第1段階は、紀元前3300年頃となる、マンチュリア南部から朝鮮半島およびロシア極東への雑穀農耕の拡大を含んでいました。第2段階は、紀元前2400年頃となる山東半島から遼東半島への水田稲作の拡大でした。第3段階は、石庖丁と平型凸刃石斧(flat plano-convex stone adze)を含む新たな磨製石器と関連する、灌漑農耕の拡大でした。第3段階には、湿田(イネ)と乾田(雑穀やコムギなど)で構成される第三の農耕体系の導入がありました。この灌漑農耕も、山東省から遼東半島を通って朝鮮半島へと紀元前1500年頃に広がりました。最後に、第4段階は、日本の九州北部への灌漑農耕の拡大を含んでおり、紀元前9世紀頃に始まります(宮本., 2018)。アジア北東部における農耕拡大の4段階の発展過程に関するこの理論は、一部の農耕民が気候状態の寒冷化によりもたらされた人口圧に起因して、穀物を栽培するために、狩猟採集民社会の土地に移動し、穀物を栽培した、という理由に基づいています。

 本論文で著者は、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を再検証し、とくに土器様式の系譜と製作技術に焦点を当てます。農耕の拡大は、朝鮮半島南部から九州北部への農耕の拡大を除いて、必ずしも日本語祖語と朝鮮語祖語の拡散と関連していなかった、と著者は提案します(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。


●日琉語族と朝鮮語の研究史

 日琉語族と朝鮮語はアルタイ諸語に分類される、とみなす言語学者もいます(Ruhlen1987)。編年体系では、これらは比較的浅い言語であり、日琉語族と朝鮮語は大ツングース語族から分岐した、というわけです(Unger2009)。朝鮮語と日本語との間の背後にある言語学的相互作用は、日琉語族(日琉語族祖語)がまだ朝鮮半島の一部で話されている時に起きました(Janhunen2005)。高句麗の地名データからは、日琉語族と同語族の言語が朝鮮半島で話されていた、と示唆されます。さらに、紀元後8世紀以前の地名に含まれる日本語起源の地名は通常、鴨緑江(Yalu River)の中央部および北部地域、とくに高句麗地区に分布しています(Endo2021)。したがって、日琉語族は元々朝鮮半島で用いられていた、と仮定されていますが、朝鮮半島南端の人々の一部だけが日琉語族を話していた、と示唆した学者もいます。

 李濤と長谷川寿一は、日本語の59の言語変種から得られた語彙データに基づくベイズ系統分析を用いて、日本語祖語の祖語について2182年前頃と推定しました(Lee and Hasegawa2011)。日本語は朝鮮半島で話されていたので、日本語は朝鮮半島の無文文化と日本列島の弥生文化の両方で話されていた、と考えられています(Whitman2011)。さらに、文献学者は、日本語が人口拡散を通じて弥生時代最初期において朝鮮半島から日本列島へと拡大した、と考えています(Whitman2011、Vovin2013、Unger2014、Hudson et al., 2020)。したがって恐らく、日本語は紀元前9世紀頃から紀元後3世紀頃までの弥生時代に、日本列島で話されていたのでしょう。

 マーシャル・アンガー(Marshall Unger)は、日本語祖語と朝鮮語祖語もその1系統である大ツングース語族の故地が山東省から遼寧省に至る渤海湾周辺地域だったならば、ツングース語族祖語話者が北方と北東、最終的にはシベリア東部へと移動した一方で、朝鮮語祖語話者は分岐してマンチュリア南部へと移動したことを意味する、と提案しました。マーシャル・アンガーは、日本語祖語話者が水田稲作の知識を朝鮮半島へともたらし、朝鮮語話者は朝鮮半島へと移動し、日本語祖語話者を追い払った、とも結論づけました(Unger2014)。朝鮮語は細形短剣(朝鮮式短剣)文化の出現とともに、遼寧省から朝鮮半島へと広がった、と考えられています(Whitman2011)。

 マーティン・ロベーツなどは、雑穀農耕の拡大とともに、大日本語祖語が遼東半島から朝鮮半島に至る地域で紀元前3500〜紀元前1500年頃に話されていた、と仮定します。日本語祖語は半島日本語(Para-Japonic)から分岐し、九州へと拡大して紀元前900年頃に農耕を伴う弥生文化になりました(Robbeets et al., 2020)。マーティン・ロベーツの解釈は、日本語と朝鮮語の祖先話者が紀元前四千年紀に渤海沿岸と遼東半島にいた可能性を示唆しています。マーティン・ロベーツはベイズ推定を用いて、日本語と朝鮮語が紀元前1847年頃に分岐した、と示唆しています(Robbeets, and Bouckaert., 2018)。朝鮮半島南部の新羅は、その言語が中世および現在の朝鮮語の直接の祖型で、全ての先行言語を遅くとも紀元後7世紀までには置換しました。

 日本語祖語と朝鮮語祖語に関する言語学的研究によると恐らく、日本語祖語は朝鮮半島で話されており、朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部においてトランスユーラシア語族から分岐し、朝鮮半島へと拡大したのでしょう。日本語祖語は恐らく、稲作農耕とともに弥生時代に日本列島へと拡大したものの、日本語中央方言(Central Japanese)が紀元後4世紀〜紀元後7世紀となる古墳時代と飛鳥時代に古朝鮮語(恐らくは百済語)から強い影響を受けた、と示唆する言語理論が存在します(Unger2009)。これは、弥生文化の開始が朝鮮半島南部の無文文化に強い影響を受け、この地域からの一部の移民が九州北部へと移動した、と考えられているからです(Miyamoto2014、Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Hudson et al., 2020)。日本語祖語が弥生文化の開始期に移民とともに朝鮮半島南部から九州北部へと広がったならば、日本語祖語は無文文化の人々により話されていた、と推測できます。


●考古学的文脈における言語の拡散に関する問題

 九州北部の「縄文人」と「弥生人」の形質人類学的差異はひじょうに明確で、九州北部の「弥生人」は大陸部の(無文文化)の人々と身体が類似しています(中橋., 1989、Hudson et al., 2020)。朝鮮半島南部からの移民が九州北部において先住の「縄文人」と混合し、その結果生まれた「弥生人」は、次第にこの地域で優勢になりました(田中・小澤., 2001)。紀元前9世紀〜紀元前6世紀となる弥生文化の早期には、これらの人々は灌漑農耕の一形態である水田で稲を栽培していました。これらの人々は、新たな石庖丁などの新たな磨製農耕石器、支石墓などの埋葬慣行、朝鮮半島南部の無文文化に属する壺様式である、壺(necked jar)や祖型板付壺土器など様々な土器様式を発展させました。さらに、環状集落と木棺埋葬が夜臼式2期に出現しました。

 九州北部における縄文文化と弥生文化の移行期は3段階に区分でき、縄文時代晩期黒川期から、板付式土器の出現をもたらした弥生時代早期板付1式までとなります(表1)。弥生時代早期の夜臼式1期となる弥生文化の出現は、宇木汲田貝塚で発見された炭化したイネ粒に基づいて、紀元前9世紀〜紀元前8世紀頃となる較正年代で紀元前842〜806年頃(4点の標本の中央値データ)と年代測定されています(宮本., 2018)。これらの段階は、朝鮮半島南部の無文文化からの移民と、九州北部の「縄文人」との間の遺伝的混合過程を表している、と考えられています(田中・小澤., 2001)。以下は本論文の表1です。
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 縄文時代黒川期の紀元前13世紀〜紀元前11世紀頃の寒冷化の最初の期間(宮本., 2017)に、朝鮮半島南部と九州北部との間に短期間の接触があります。田中良之は、朝鮮半島のコンヨル(Konyol)式土器を模倣した黒川式土器の縁の下の点の並びや、貫川遺跡で見つかった石庖丁などの考古学的証拠に基づいて、一部の移民が黒川期に朝鮮半島南部から九州北部へと到来した、と提案しました(田中., 1991)。これは、紀元前1200年頃のより寒冷な気候条件とも関連しています(宮本., 2017)。土器の走査電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope、略してSEM)ケイ素分析から得られた証拠により示唆されているように、イネはこれ以前ではなくとも、恐らくはこの時点までに九州に広がっていました。

 黒川式縄文土器は、瀬戸内東部(内海地域もしくは近畿)地域に起源があり、九州北部へと次第に西方へ広がった(縁帯無文土器文化とは異なる)帯文深鉢(banded deep bowl)の拡大を通じてしだいに夜臼式土器へと変わっていき、縄文時代晩期の黒式土器を弥生時代早期の夜臼式土器に置換しました。夜臼式土器は2種類の連続で構成されます。それは、縄文土器様式に基づく深鉢と、無文文化に基づく壺です(Miyamoto2016、宮本., 2017)。夜臼式1期(紀元前9世紀〜紀元前8世紀)と夜臼式2期(紀元前7世紀〜紀元前6世紀)には、無文文化が朝鮮半島の異なる2ヶ所から拡大しました。夜臼式1期には、南江(Namgang River)から唐津と糸島平野まで広がり、夜臼式2期には、ナグトンガン川(Nagtonggang River)から福岡平野にまで広がりました(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。夜臼式2期は、その最初の場所である福岡平野の板付式土器(弥生時代前期)の発達に先行します。したがって、紀元前6世紀〜紀元前5世紀頃には、無文土器に影響を受けた板付式壺が、夜臼式期の縄文土器の深鉢を置換しました。以下では、「移行」期は夜臼式1期および2期を指します。夜臼式は水田稲作の存在のため弥生時代と見なされていますが、完全にそろった弥生文化は板付1式まで固定されませんでした。九州北部における縄文時代と弥生時代早期との間の移行期は、推定300年間です(宮本., 2017)。

 土器の様式と系譜だけではなく、土器製作技術も、弥生時代と縄文時代では異なります。夜臼式1期無文土器文化の影響を通じて壺が追加されましたが、縄文土器の深鉢が縄文時代と弥生時代の移行期には依然として使われていました。板付式壺は弥生時代前期の板付式1期に確立しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。この時点で、土器製作技術は全体的に、縄文時代から変化しました(家根., 1984、家根., 1997、三阪., 2014)。縄文土器に用いられた比較的薄い粘土の平塊(slab)とは対照的に、弥生土器の製作には比較的に広い粘土の平塊が用いられました(図1)。弥生土器の平塊は、その前の平塊の外面に付着されますが、縄文土器の平塊は土器の内面に重ねて付着されました。弥生土器の表面は、木片の端を用いて滑らかにされていましたが、縄文時代晩期にはこの作業を行なうために貝殻が用いられました(図1)。弥生土器は地上にてさほど精巧ではない粘土窯で焼成されましたが、縄文土器は野外で焼成されました(小林他., 2000)。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、縄文土器と弥生土器との間に明確に存在しました。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、無文土器から採用されました。土器製作の新技術が、無文文化により最初に影響を受けた夜臼式ではなく、縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式で完全に確立されたのは、興味深いことです。縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式土器は、最終的には新たな土器製作技術の4特性から構成されました。以下は本論文の図1です。
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 縄文時代から弥生時代への移行では、土器様式を超えたさせなる文化的変化も明らかです(表1)。水田や新様式の土器や新形態の磨製石器が、黒川期後の夜臼1期の福岡平野で見つかっています(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Fujio2021)。その後、環濠集落が夜臼式2期に確立しました。木棺のような新たな埋葬習慣が、夜臼式2期と板付式1期の頃に始まりました(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。文化的特性は、夜臼式1期と夜臼式2期の期間に経時的に追加されました。支石墓は夜臼式1期には確立していませんでしたが、その分布は九州北西部を含む唐津と糸島平野に集中していました。しかし、木棺が朝鮮半島から福岡平野にもたらされ、次に夜臼式2期に福岡平野から他地域へと広がりました。副葬品として木棺には磨製石器短剣が伴いました。支石墓と木棺との間の導入と分布の時期の違いは、朝鮮半島での磨製石器短剣の種類による分布地域の違いとともに、朝鮮半島からの文化の二重起源を示唆します(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。したがって、弥生文化は無文文化の二重拡散で確立しました(表1)。板付1式の時までに、灌漑農耕社会が形成されました(宮本., 2017、Fujio2021)。

 弥生文化の確立とともに、板付式土器が生まれたことは、日本列島における独立した農耕社会の発展を意味しました。九州北部における弥生文化の新たな農耕民は瀬戸内海と近畿地方に移動し、そこでは新たな農耕民と先住の「縄文人」が再び混合しました。考古学的証拠は、土地の無文文化と対応する日本語祖語文化が朝鮮半島南部から九州北部へとどのように広がったのか、という問題への答えを提供します。前節では、黒川期に九州北部にイネがどのように広がったのか、水田を伴う稲作は夜臼式期にどのように急増へと広がったのか、説明されました。無文文化に影響を受けた支石墓や磨製石器や土器様式を含む文化的変化が、夜臼式1期に出現しました。したがって、定義上、弥生文化は紀元前9世紀〜紀元前8世紀となる夜臼式1期に始まった、と言うことができます。

 したがって、この知見から、日本語祖語は夜臼式1期に無文文化からの移民とともに九州北部へと広がった、と言うことができますか?無文文化に影響を受けた壺など新たな土器の種類は、九州北部において夜臼式1期に出現しました。しかし、夜臼式1期における多数の新たな種類の壺や他の縄文様式の土器壺は、縄文土器の製作技術を用いて製作されました。無文土器文化と同じ土器製作技術を用いて製作された、壺や板付式壺を含めて弥生式土器は、板付1式期に出現し、その年代は紀元前6世紀〜紀元前5世紀です(宮本., 2018)。著者の見解は、日本語祖語がこの時点で九州北部において「縄文語」を置換した、というものです。

 「縄文人」は夜臼式1期に、栽培穀物保存のための壺と調理用の縄文式深鉢を製作した少数の無文文化移民とともに、九州北部に移住しました(田中・小澤., 2001)。こうした人々は、縄文土器製作技術を用いて、農耕生活のために無文文化の壺を模倣した、と考えられています。しかし、板付1式期には無文文化の土器様式と製作技術が変化しました著者は、「縄文人」が九州北部で「縄文語」を置換した日本語祖語を介して、新たな土器様式と製作技術を教えられたのではないか、と提案します。その後、弥生時代前期には、新たな板付式土器様式と製作技術が福岡平野を中心とする九州北部から、九州北西部と瀬戸内海地域と近畿地域を含む西日本にまで広がりました。この場合、一般的には「縄文人」の子孫とされる九州北西部の「弥生人」でさえ、板付式土器がそうであるように、同じ弥生土器を製作できた、と注目するのは興味深いことです。

 形質人類学的分析は、九州北西部の「弥生人」に属する人骨を、「縄文人」と同じと同定してきました(中橋., 1989)。最近のDNA研究では、紀元後1〜紀元後2世紀の弥生時代末と年代測定された九州北西部の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体では、「縄文人」と「渡来系弥生人」両方のゲノムを有している、と示されています(篠田他., 2019、関連記事)。しかし、別のDNA研究では、九州北西部の佐賀県唐津市大友遺跡の初期「弥生人」は依然として「縄文人」だった、と示唆されています(神澤他., 2021、関連記事)。九州北西部の初期「弥生人」は遺伝的に無文文化人と異なりますが、無文文化の土器製作技術に基づいて弥生土器を製作できました。これは、九州北西部の初期「弥生人」が、日本語祖語を介して、弥生土器の製作技術について学ぶことができたからです。


●日本語祖語の拡散理論についての考古学的説明

 日本語祖語が弥生文化の開始において九州北部へと拡大し、板付1式期に「縄文語」を完全に置換した、との仮説が正しければ、問わねばならない問題は、どのようにどこから、無文土器文化に相当する日本語祖語文化が朝鮮半島に入ったのか、ということです。この問題を解決するため、初期農耕の拡大とは無関係な文化的接触を説明する、土器製作技術への焦点が選択されます。

 弥生土器と朝鮮半島南部の無文土器との間には、おもに以下の4点の特性の観点で、同じ土器製作技術が存在しました。それは、(a)広い粘土平塊、(b)その前の平塊の外面に付着する平塊、(c)木片の端で土器表面を滑らかにすること、(d)地面であまり精巧ではない粘土窯での焼成です。朝鮮半島南部の無文土器文化は、初期と前期と後期の3段階に区分されます(表2)。初期は、縁帯(band-rim)土器により特徴づけられ、前期はガラクドン(Garakdon)様式とコンヨル様式、つまりヘウナムリ(Heunamri)式と駅三洞(Yeoksamdong)式の土器により示され、後期はヒュアムリ(Hyuamri)式と松菊里(Songgunni)式で構成されます。以下は本論文の表2です。
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 三阪一徳は、朝鮮半島の新石器時代土器と無文土器との間の土器製作技術を分析しました(Misaka2012)。その分析によると、土器製作技術における4点の特性は、初期から後期まで無文土器文化を通じて見られました(図2)。対照的に、新石器時代土器の製作技術にはそうした4点の特性がありません。新石器時代土器と無文土器との間のそうした違いは、縄文土器と弥生土器との間に存在したものと同じです。この場合、初期の土器である縁帯土器は、系譜的に他地域の土器から広がったに違いありません。土器のSEMケイ素分析から、朝鮮半島における稲作は無文文化土器初期の縁帯土器期に始まった、と示唆されます(Son et al., 2010)。金壮錫と朴辰浩は、稲作農耕民の移住は中国北東部から朝鮮半島への言語拡散をもたらした、と示唆しました(Kim, and Park., 2020)。したがって、無文土器の製作様式がどのようには最初に始まったのか、注意を払う必要があります。以下は本論文の図2です。
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 朝鮮半島南部における最初の無文土器は、紀元前1500年頃以降の最初期無文土器文化における縁帯土器です。縁帯土器は、朝鮮半島北部〜中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)土器と関連している、と考えられており(Ahn J2010、Bae2010)、それは、土器の模様と他の側面では家屋計画の類似性のためです。したがって、ゴングウィリ式土器は、最初期の無文土器の縁帯土器と関連している、と考えられています。無文文化は朝鮮半島南部に起源があるものの(Miyamoto2016、宮本., 2017)、比較的広い粘土平塊、外側から付着される粘土平塊、木片の端で滑らかにされることや粗放的な粘土窯での焼成など、無文土器の土器製作技術の起源は新石器時代櫛目文土器では確認されませんでした。

 朝鮮半島北西部では、マンチュリアの遼東地区における偏堡文化の影響(図3-3)が、ナムケヨン(Namkyeong)の櫛目文土器と結びつき、無文文化におけるパエングニ(Paengni)式土器を形成しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。偏堡文化は、前期と中期と後期の3段階に区分されます(Chen and Chen1992)。偏堡文化の初期(図3-1〜3)は、土器編年によると、遼西地区の東側に分布しています。しかし、シャオズフシャン(Shaozhushan)文化の中期層の呉家村(Wujiacun)期は、偏堡文化の分布の周辺に位置する遼東地区に分布します(図3-4)。偏堡文化の中期および後期は呉家村期文化を置換し、遼東地区と朝鮮半島北西部に広がりました(図3-5)。偏堡文化は朝鮮半島北西部の櫛目文土器に影響を与え、櫛目文土器の系列に壺の新様式を加えました。以下は本論文の図3です。
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 偏堡文化により影響を受けた壺(図3-3)は、朝鮮半島西部における新石器時代末期の櫛目文土器ナムケヨン1および2式で構成されます。この事象は、紀元前2400年頃のアジア北東部における農耕化の第二段階とも一致しました(図4)。対照的に、朝鮮半島北部〜中央部では、偏堡文化の影響(図3-1および2)は、鴨緑江中流と上流のシムグウィリ(Simgwiri)遺跡の1号住居で、ゴングウィリ式土器を生み出しました(図4)。このゴングウィリ式土器は、朝鮮半島南部では無文土器の最初期の縁帯土器へと発展しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。以下は本論文の図4です。
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 日本人の学者により1941年に発掘された、遼東半島の上馬石(Shangmashi)貝塚で発見された土器の製作技術に焦点が当てられました(Miyamoto2015b)。分析結果は、以下のような土器製作技術の4点の特性の存在を示します。それは、(a)比較的広い粘土平塊を用いての平塊製作、(b)内面ではなく外面への粘土平塊の付着、(c)木端で滑らかにすること、(d)地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。土器製作技術のこれらの4点の特徴が、新石器時代から前期鉄器時代までの編年体系で偏堡文化期にのみ限られているのは、たいへん興味深いことです(表3)。木端で粘土表面を滑らかにすることは、偏堡文化ではひじょうに多く見られます。偏堡文化における、木端で粘土表面を滑らかにすることと、あまり精巧ではない粘土窯を用いての焼成技術も、上馬石遺跡を除いて他の遺跡でも認められます。これらの結果から、偏堡文化はゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文土器文化における新たな土器製作技術の出現とつながっている、と示唆されます(図4)。以下は本論文の表3です。
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 朝鮮半島の無文土器は、隣接地域の土器様式が、偏堡文化によるこれらの地域への拡散過程と影響を介して、偏堡文化の土器様式へと変化した時に確立しました。したがって、偏堡文化土器で用いられた新たな土器製作技術は、ゴングウィリ式土器への偏堡文化の影響を介して無文土器へともたらされました。このように、土器製作技術の観点で同じ4点の特性を有する土器様式が、朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して、遼東半島の偏堡文化から朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました。そこから、朝鮮半島南部の無文文化と同じ4点の特性を有するこの土器様式が、西日本の弥生文化に広がりました。これら4点の特性を有する同じ系譜の土器様式の拡大は、言語、つまり日本語祖語を媒介しての同じ情報の広がりを示唆します(図5-1)。以下は本論文の図5です。
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 しかし、偏堡文化と縁帯土器との間のこれら土器様式の変化は、約1000年の長い時間を要し、無文土器文化の始まりは朝鮮半島南部で紀元前1500年頃でした。この頃に、磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がりました。したがって、朝鮮半島南部における無文土器文化の確立は、二重の状況で構成されました。それは、アジア北東部における農耕化の第2段階の偏堡文化などを基盤に形成されたものの、アジア北東部農耕化の第3段階における生計活動の変化により確立しました。

 日琉語族はどこに起源があったのでしょうか?日琉語族は稲作農耕の影響により彩られていませんでした。日琉語族にはイネに特化した語彙が含まれていなかった、と考えられています(Whitman2011)。日琉語族にイネに特化した語彙がなかった理由は、日琉語族の起源が恐らくは遼西東部にあったからです。雑穀農耕を伴う初期偏堡文化は、おもに遼西地区東部に分布しています(図3-4)。土器製作技術の分析から、無文土器は偏堡文化に由来した、と示唆されるので(Miyamoto2016)、日琉語族も偏堡文化に起源があった、と提案されます(図5-1)。

 無文文化はその後、紀元前1500年頃に、山東半島から遼東半島を経た稲作農耕社会により影響を受けましたが、無文文化集団は日本語祖語を話し続けた、と考えられます。これは、アジア北東部における農耕化の第3段階でのことです。日琉語族が同じ頃にアジア北東部における農耕化の第4段階での稲作拡大と同じ頃に無文文化経由で九州北部へと広がったならば、縄文時代と弥生時代との間の移行は、伝統的な「縄文語」と日琉語族との間の言語における移行と同じである、と提案できます。このように、少数の無文文化の人々が九州北部へと移住し、「縄文人」と混合した場合、日琉語族も九州北部へと拡大した、と考えられます。さらに、九州北部における在来の「縄文語」と日琉語族との間の移行は、夜臼式土器1期から板付1式土器期への土器様式における移行と同じくらいの時間を要した、と推測されます。「縄文語」は、上述のように人々が無文文化集団により話されていた日琉語族で新たな土器技術を学んだので、同じ過程を経て日琉語族により置換された、とも考えられます。


●朝鮮語祖語の拡散の論についての考古学的説明

 上馬石貝塚遺跡の分析(Miyamoto2015b)も、土器様式が紀元前千年紀半ばに変化したことを示唆します。紀元前6世紀〜紀元前5世紀となる尹家村(Yinjiacun)文化青銅器時代の長首壺(Long-necked pot)と粘土縁壺(clay-rimmed jar)は、遼西地域から遼東地域にかけて分布していました。この新たな土器は遼東半島から朝鮮半島南部へと到来し、初期鉄器時代の粘土帯土器へと発展して、遼東半島の人々が朝鮮半島へと南方へ移住したことを示します(Miyamoto2016、宮本., 2017)。

 移民が遼東半島から朝鮮半島へと移住し、粘土帯土器文化を確立した理由は、より寒冷な気候条件だったからではありませんでした。むしろ、好まれる理論は、北京地域に位置する燕国が燕山(Yanshan)山脈を越えて東方へ侵入したので、当時の社会における社会的および政治的要因だった、というものです(宮本., 2017、宮本., 2020)。燕は遼西地区東部の首長と政治的に接触し、紀元前6世紀と紀元前5世紀には燕国の覇権を押し付けました。尹家村文化第2期における遼西東部から遼東半島への人々の東方への移動は、遼東半島から朝鮮半島への別の移住の契機となりました。この過程で、尹家村文化第2期は朝鮮半島へと広がり、紀元前5世紀頃となる青銅製細形短剣を含む、粘土帯土器文化の確立につながりました。この時点で、農耕集落は考古学的記録から消えました(Ahn2010)。遼西東部に起源があるこの粘土帯土器文化は、明確には水田稲作とは関連していないものの、雑穀およびコムギ農耕と関連しています。

 一方、マーク・ハドソンとマーティン・ロベーツは、朝鮮語大語族祖語は日本語祖語の前に遼東半島から朝鮮半島へ雑穀農耕とともに紀元前3500年頃に拡大した、と主張しました(Hudson, and Robbeets., 2020)。しかし、櫛目文土器と農耕用石器を有する雑穀農耕は、紀元前3500年頃に盛上文(Yunggimun)土器文化に代わって、朝鮮半島の北西部と中西部から南部へと広がりました(Miyamoto2014、宮本., 2017)。農耕用石器を伴う雑穀農耕は、紀元前五千年紀に遼西から遼東半島および朝鮮半島西部へと広がりました(Li et al., 2020)。さらに、土器様式は小珠山(Xiaozhushan)文化火葬土器を有する遼東半島と櫛目文土器を有する朝鮮半島との間で明確に異なります(Kim, and Park., 2020)。したがって、遼東半島から朝鮮半島への言語拡散の理論が、紀元前四千年紀における朝鮮半島南部への農耕用石器を伴う櫛目文土器の拡大と考古学的に関連していた、と考えるのは困難です。

 朝鮮語がこの移住とともに朝鮮半島へと広がり、細形短剣文化を形成した、と考えられています(Whitman2011)。遼西東部地区から朝鮮半島へのこの文化的影響は、中国の戦国時代における燕国によりもたらされた継続的な領土の脅威のため逃げてきた人々を伴う、朝鮮語祖語の拡大を示唆します(宮本., 2017、宮本., 2020)。この文化は、マンチュリアの遼東地区の涼泉(Liangquan)文化もしくは尹家村文化第2期に起源があり、拡大しました。初期鉄器時代は朝鮮語の広がりと関連しているので、朝鮮語の起源地も遼東地区東部にあった、と仮定されます(図5-2)。粘土帯土器文化は、三国時代へと直接的に変わっていく先三国時代文化期に、類似の形態へと発展しました。三国時代の新羅の言語は、確実に朝鮮語です(Robbeets2020)。したがって、朝鮮語祖語は粘土帯土器文化期に話されていました。粘土帯土器文化は、系譜的に無文文化とつながりませんでした。

 このように、日本語祖語は粘土帯土器文化初期に朝鮮語祖語により置換された、と推測されます。日本語祖語は朝鮮半島で話されており、弥生文化の開始期に日本列島へと広がりました。一つの言語の別の言語への置換は、朝鮮語祖語が中国北東部から朝鮮半島へと朝鮮前期鉄器時代に広がった、というマーシャル・アンガーの見解と一致します(Unger2014)。一方、金壮錫と朴辰浩は、朝鮮語祖語が細形短剣とともに入ってきた、というジョン・ホイットマン(John Whitman)の提案(Whitman2011)に疑問を呈しています(Kim, and Park., 2020)。遼寧式短剣を有する中国北東部の遼西および遼東の粘土帯土器文化は、細形短剣が独自に発展した朝鮮半島へ拡大しました(宮本., 2020)。その後、粘土帯土器文化は、中国の燕国と先三国時代となる漢代の楽浪(Lelang)郡より影響受けて、鉄器を製作しました。したがって、粘土帯土器文化の人々が三国の直接的な祖先で、朝鮮語祖語を話していた、との仮定が合理的です


●まとめ

 言語学的研究では、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、と示唆されています(Unger2014、Robbeets et al., 2020)。日本語祖語はまずマンチュリア南部から朝鮮半島へと、次に弥生文化の開始期に九州北部へと広がりました。朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部から朝鮮半島へと広がり、次第に日本語祖語を追い払いました。

 偏堡文化と無文文化と弥生文化の土器は、さまざまな年代にわたって相互に系譜的に関連している、と提案されており、とくに、以下の4点の特性を示す、同じ土器製作技術があります。それは、広い粘土平塊、その前の平塊の外面に付着させる平塊、木片の端で土器表面を滑らかにすること、地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。これらの同じ土器製作技術は、言語を介して継承された、と考えられています。これが、偏堡文化と無文文化と弥生文化の系譜系列が日本語祖語の拡大を示唆している理由です。したがって、偏堡文化の日本語祖語は紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました(図5-1)。

 日本語祖語は灌漑稲作農耕の拡大とともに紀元前9世紀に九州北部に到達し、紀元前6世紀〜紀元前5世紀の九州北部の板付式土器期に「縄文語」を完全に置換しました。過程として、この言語置換は約300年間にわたって起きました。この場合、人々はその遺伝的構成の観点では必ずしも変化しませんでした。板付式土器を伴う日本語祖語話者は福岡平野から到来して西日本へと移住し、西日本では弥生時代前期に日本語がしだいに在来の「縄文語」を置換しました(図5-1)。紀元前3世紀頃に始まる弥生時代中期の跡には、弥生文化は東日本に依然として存在していた縄文土器伝統とは急速に異なっていきました。それにも関わらず、日本語祖語は紀元後2世紀〜紀元後3世紀となる弥生時代後期から古墳時代の開始までに、これらの地域で在来の「縄文語」をじょじょに置換していった、と考えられています。

 紀元前6世紀と紀元前5世紀に、中国の東周時代(春秋時代)の燕国は、燕山山脈を越えてその領域を拡大し、遼西地区において首長に政治的に影響を及ぼしました。この時から、尹家村文化第2期の移民が紀元前5世紀に遼西東部から遼東を経て朝鮮半島へと向かい、そこで粘土帯土器を確立しました。粘土帯土器自体は、遼東半島の紀元前二千年紀の双砣子(Shuangtuozi)文化期の第2および第3段階に始まりました。遼西東部から朝鮮半島南部への粘土帯土器の広がりは、朝鮮語祖語の経路を示唆します(図5-2)。

 日本語祖語と朝鮮語祖語両方の故地は考古学的証拠に基づくと同じで、両者は近い語族です。しかし、アジア北東部における両言語間の拡散の時間的違いは約1000年で、両言語の広がりは、九州北部の弥生時代開始期におけるアジア北東部の農耕の4番目の拡大を除いて、農耕の人口拡散とは無関係でした。考古学的説明に基づく日本語祖語と朝鮮語祖語のこの拡散仮説は、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、という言語学的仮説(Unger2014、Robbeets et al., 2020)を必ずしも妨げません。むしろ、拡散仮説は言語学的仮説を支持します。


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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/427.html#c19

[近代史3] 日本語の系統とその遺伝子的背景 中川隆
6. 中川隆[-12512] koaQ7Jey 2023年6月10日 18:30:33 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[12]
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雑記帳
2023年06月07日
考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html

 考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。本論文は考古学的観点から、アジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大の様相を検証しています。本論文は、日本語祖語と朝鮮語祖語の起源はマンチュリア(満洲)南部にあり、朝鮮半島には朝鮮語祖語よりも日本語祖語の方が早く流入し、その後で朝鮮半島に流入した朝鮮語祖語が日本語祖語をじょじょに駆逐し、一方で日本語祖語は弥生時代早期に日本列島に流入し、「縄文語」をじょじょに駆逐した、と推測しています。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。「日本語」と「日琉語族」を適切に訳し分けた自信はないので、混乱があるかもしれませんが、本論文の趣旨からすると、まだ日本語と琉球諸語が分岐する前を主要な対象としているので、「日琉語族」と訳すべきところが多いかもしれません。また、考古学用語については、定訳があるのに変な訳語になっているものも少なくないかもしれません。近年の古代ゲノム研究と本論文の知見を合わせて、そのうちアジア東部の古代史をまとめよう、と考えています。以下、敬称は省略します。


●要約

 言語学的観点から、日本語祖語と朝鮮語祖語は、マンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分かれた、と想定されています。年代順では日本語祖語が朝鮮語祖語よりも先に到来した、という言語学的見解が意味するのは、日本語祖語がまず朝鮮半島に入り、そこから紀元前9世紀頃となる弥生時代早期に日本列島へと拡大した一方で、朝鮮半島南部における朝鮮語祖語の到来は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化と関連している、ということです。同じ土器製作技術を共有する偏堡(Pianpu)文化と無文(Mumun)文化と弥生文化の系譜は、日本語祖語の拡大を示唆します。

 一方、移民が遼東半島から朝鮮半島へと移動し、粘土帯土器文化を確立しました。この人口移動は恐らく、燕(Yan)国が東方へ領土を拡大する中での、社会および政治的理由に起因しました。粘土帯土器文化の朝鮮語祖語は後に朝鮮半島へと拡大し、次第に日本語祖語を追い払っていき、朝鮮語の前身となりました。本論文では、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を検証し、とくに土器様式と土器製作技術の系譜に焦点を当てます。


●近年の研究動向

 先史時代における言語拡散がヒトの移住を伴う農耕の拡大と関連している、との見解は、コリン・レンフルー(Colin Renfrew)により初めて提唱されたよく知られた仮説であり(Renfrew1987)、インド・ヨーロッパ語族の拡大は農耕の拡散を伴っていた、と示唆されています。レンフルーは、故地がアナトリア半島南部中央にあった農耕民が、紀元前7000〜紀元前6500年頃までにギリシアへと拡大した、と論証しました。この拡散は、農耕民がヨーロッパへと到達し、インド・ヨーロッパ語族の下位群を形成するまで続きました【現在では、後期新石器時代〜青銅器時代にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへと拡散した集団がインド・ヨーロッパ語族をもたらした、との見解が有力です(関連記事)】。レンフルーはさらに、移住してきた農耕民と在来の中石器時代の人々との間の3000年以上にわたる交流も論証しました。インド・ヨーロッパ語族がギリシアへ拡大した紀元前7000年頃から、ブリテン諸島へ拡大した紀元前4000年頃にかけてです(Renfrew1987、Reference Renfrew1999)。この仮説は「農耕・言語拡散仮説」と呼ばれることが多く、農耕余剰から生じた人口増加と結びついています。

 ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)も、アジア東部において同様に農耕の拡大は言語の拡大と関連している、と仮定しました(Bellwood2005)。この仮説によると、シナ・チベット語族は黄河中流域において雑穀に基づく農耕とともに起源がある一方で、長江中流地における稲作に基づく農耕民と関連するミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族はアジア南東部へと移動し、オーストロアジア語族を形成しました。さらに、中国南部で稲作農耕を行なっていた人々が話していたタイ・チワン諸語は、アジア南東部でオーストロアジア語族の一部へと発展しました。さらに、オーストロネシア人は台湾からインドネシアとオセアニアへと南方へ拡大しました。

 一方で、以下の5語族は伝統的に、「アルタイ諸語」と分類されており、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です。近年では、「トランスユーラシア語族」という用語がこれら5語族の記述に使われてきており、地理的には、東方では太平洋、西方ではバルト海と黒海と地中海まで広がっている巨大な語族を指します(Robbeets and Savelyev2020)。ユハ・ヤンフネン(Juha Janhunen)は、トランスユーラシア語族の故地は現在のモンゴル東部とマンチュリア南部と朝鮮半島に位置している、と提案しました(Janhunen and Karttunen2010)。マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)も、トランスユーラシア語族の拡散の背後にある原動力として、レンフルーやベルウッドなどの農耕拡散仮説を支持しています(Robbeets2020)。ロベーツは、大日本語族が遼東半島で話されており、朝鮮半島を経由して稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた、と主張しました(Robbeets2020)。

 著者【宮本一夫、以下、著者で統一します】は対照的に、日本語祖語が朝鮮半島南部から稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた一方で、遼東半島から朝鮮半島への日本語祖語の拡大は稲作農耕の拡大と関係していなかった、と提案しました(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。李濤(Tao Li)も、トランスユーラシア語族祖語、とくにツングース語族祖語の拡散の背後にある原動力としての農耕拡散仮説を批判しました。李濤は、トランスユーラシア語族祖語の拡散における農耕拡散仮説について、考古学的証拠には不確実性と限界がある、と主張しました(Li2020)。李濤も、ロシア極東への雑穀農耕の拡大とツングース語族祖語との間のつながりを示唆しました。(Li et al., 2020、Hudson and Robbeets2020)。

 最近、マーク・ハドソン(Mark J. Hudson)とマーティン・ロベーツは、遼東地区から朝鮮半島への大朝鮮語族祖語の拡大は、朝鮮半島中期新石器時代の紀元前3500年頃における雑穀農耕の拡大と関連していた、と提案しました(Hudson and Robbeets2020)。しかし、金壮錫(Jangsuk Kim)と朴辰浩(Jinho Park)は、雑穀の導入は新石器時代朝鮮半島の櫛目文(Chulmun)物質文化に影響を及ぼさなかったようであり、新石器時代における中国北東部(遼西および遼東地区)と朝鮮半島の土器様式は明確に異なっている、と述べました(Kim and Park2020)。

 著者も、先史時代のアジア北東部には農耕発展の4段階があった、と仮定しました(Miyamoto2014、Miyamoto2015a、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。第1段階は、紀元前3300年頃となる、マンチュリア南部から朝鮮半島およびロシア極東への雑穀農耕の拡大を含んでいました。第2段階は、紀元前2400年頃となる山東半島から遼東半島への水田稲作の拡大でした。第3段階は、石庖丁と平型凸刃石斧(flat plano-convex stone adze)を含む新たな磨製石器と関連する、灌漑農耕の拡大でした。第3段階には、湿田(イネ)と乾田(雑穀やコムギなど)で構成される第三の農耕体系の導入がありました。この灌漑農耕も、山東省から遼東半島を通って朝鮮半島へと紀元前1500年頃に広がりました。最後に、第4段階は、日本の九州北部への灌漑農耕の拡大を含んでおり、紀元前9世紀頃に始まります(宮本., 2018)。アジア北東部における農耕拡大の4段階の発展過程に関するこの理論は、一部の農耕民が気候状態の寒冷化によりもたらされた人口圧に起因して、穀物を栽培するために、狩猟採集民社会の土地に移動し、穀物を栽培した、という理由に基づいています。

 本論文で著者は、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を再検証し、とくに土器様式の系譜と製作技術に焦点を当てます。農耕の拡大は、朝鮮半島南部から九州北部への農耕の拡大を除いて、必ずしも日本語祖語と朝鮮語祖語の拡散と関連していなかった、と著者は提案します(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。


●日琉語族と朝鮮語の研究史

 日琉語族と朝鮮語はアルタイ諸語に分類される、とみなす言語学者もいます(Ruhlen1987)。編年体系では、これらは比較的浅い言語であり、日琉語族と朝鮮語は大ツングース語族から分岐した、というわけです(Unger2009)。朝鮮語と日本語との間の背後にある言語学的相互作用は、日琉語族(日琉語族祖語)がまだ朝鮮半島の一部で話されている時に起きました(Janhunen2005)。高句麗の地名データからは、日琉語族と同語族の言語が朝鮮半島で話されていた、と示唆されます。さらに、紀元後8世紀以前の地名に含まれる日本語起源の地名は通常、鴨緑江(Yalu River)の中央部および北部地域、とくに高句麗地区に分布しています(Endo2021)。したがって、日琉語族は元々朝鮮半島で用いられていた、と仮定されていますが、朝鮮半島南端の人々の一部だけが日琉語族を話していた、と示唆した学者もいます。

 李濤と長谷川寿一は、日本語の59の言語変種から得られた語彙データに基づくベイズ系統分析を用いて、日本語祖語の祖語について2182年前頃と推定しました(Lee and Hasegawa2011)。日本語は朝鮮半島で話されていたので、日本語は朝鮮半島の無文文化と日本列島の弥生文化の両方で話されていた、と考えられています(Whitman2011)。さらに、文献学者は、日本語が人口拡散を通じて弥生時代最初期において朝鮮半島から日本列島へと拡大した、と考えています(Whitman2011、Vovin2013、Unger2014、Hudson et al., 2020)。したがって恐らく、日本語は紀元前9世紀頃から紀元後3世紀頃までの弥生時代に、日本列島で話されていたのでしょう。

 マーシャル・アンガー(Marshall Unger)は、日本語祖語と朝鮮語祖語もその1系統である大ツングース語族の故地が山東省から遼寧省に至る渤海湾周辺地域だったならば、ツングース語族祖語話者が北方と北東、最終的にはシベリア東部へと移動した一方で、朝鮮語祖語話者は分岐してマンチュリア南部へと移動したことを意味する、と提案しました。マーシャル・アンガーは、日本語祖語話者が水田稲作の知識を朝鮮半島へともたらし、朝鮮語話者は朝鮮半島へと移動し、日本語祖語話者を追い払った、とも結論づけました(Unger2014)。朝鮮語は細形短剣(朝鮮式短剣)文化の出現とともに、遼寧省から朝鮮半島へと広がった、と考えられています(Whitman2011)。

 マーティン・ロベーツなどは、雑穀農耕の拡大とともに、大日本語祖語が遼東半島から朝鮮半島に至る地域で紀元前3500〜紀元前1500年頃に話されていた、と仮定します。日本語祖語は半島日本語(Para-Japonic)から分岐し、九州へと拡大して紀元前900年頃に農耕を伴う弥生文化になりました(Robbeets et al., 2020)。マーティン・ロベーツの解釈は、日本語と朝鮮語の祖先話者が紀元前四千年紀に渤海沿岸と遼東半島にいた可能性を示唆しています。マーティン・ロベーツはベイズ推定を用いて、日本語と朝鮮語が紀元前1847年頃に分岐した、と示唆しています(Robbeets, and Bouckaert., 2018)。朝鮮半島南部の新羅は、その言語が中世および現在の朝鮮語の直接の祖型で、全ての先行言語を遅くとも紀元後7世紀までには置換しました。

 日本語祖語と朝鮮語祖語に関する言語学的研究によると恐らく、日本語祖語は朝鮮半島で話されており、朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部においてトランスユーラシア語族から分岐し、朝鮮半島へと拡大したのでしょう。日本語祖語は恐らく、稲作農耕とともに弥生時代に日本列島へと拡大したものの、日本語中央方言(Central Japanese)が紀元後4世紀〜紀元後7世紀となる古墳時代と飛鳥時代に古朝鮮語(恐らくは百済語)から強い影響を受けた、と示唆する言語理論が存在します(Unger2009)。これは、弥生文化の開始が朝鮮半島南部の無文文化に強い影響を受け、この地域からの一部の移民が九州北部へと移動した、と考えられているからです(Miyamoto2014、Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Hudson et al., 2020)。日本語祖語が弥生文化の開始期に移民とともに朝鮮半島南部から九州北部へと広がったならば、日本語祖語は無文文化の人々により話されていた、と推測できます。


●考古学的文脈における言語の拡散に関する問題

 九州北部の「縄文人」と「弥生人」の形質人類学的差異はひじょうに明確で、九州北部の「弥生人」は大陸部の(無文文化)の人々と身体が類似しています(中橋., 1989、Hudson et al., 2020)。朝鮮半島南部からの移民が九州北部において先住の「縄文人」と混合し、その結果生まれた「弥生人」は、次第にこの地域で優勢になりました(田中・小澤., 2001)。紀元前9世紀〜紀元前6世紀となる弥生文化の早期には、これらの人々は灌漑農耕の一形態である水田で稲を栽培していました。これらの人々は、新たな石庖丁などの新たな磨製農耕石器、支石墓などの埋葬慣行、朝鮮半島南部の無文文化に属する壺様式である、壺(necked jar)や祖型板付壺土器など様々な土器様式を発展させました。さらに、環状集落と木棺埋葬が夜臼式2期に出現しました。

 九州北部における縄文文化と弥生文化の移行期は3段階に区分でき、縄文時代晩期黒川期から、板付式土器の出現をもたらした弥生時代早期板付1式までとなります(表1)。弥生時代早期の夜臼式1期となる弥生文化の出現は、宇木汲田貝塚で発見された炭化したイネ粒に基づいて、紀元前9世紀〜紀元前8世紀頃となる較正年代で紀元前842〜806年頃(4点の標本の中央値データ)と年代測定されています(宮本., 2018)。これらの段階は、朝鮮半島南部の無文文化からの移民と、九州北部の「縄文人」との間の遺伝的混合過程を表している、と考えられています(田中・小澤., 2001)。以下は本論文の表1です。
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 縄文時代黒川期の紀元前13世紀〜紀元前11世紀頃の寒冷化の最初の期間(宮本., 2017)に、朝鮮半島南部と九州北部との間に短期間の接触があります。田中良之は、朝鮮半島のコンヨル(Konyol)式土器を模倣した黒川式土器の縁の下の点の並びや、貫川遺跡で見つかった石庖丁などの考古学的証拠に基づいて、一部の移民が黒川期に朝鮮半島南部から九州北部へと到来した、と提案しました(田中., 1991)。これは、紀元前1200年頃のより寒冷な気候条件とも関連しています(宮本., 2017)。土器の走査電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope、略してSEM)ケイ素分析から得られた証拠により示唆されているように、イネはこれ以前ではなくとも、恐らくはこの時点までに九州に広がっていました。

 黒川式縄文土器は、瀬戸内東部(内海地域もしくは近畿)地域に起源があり、九州北部へと次第に西方へ広がった(縁帯無文土器文化とは異なる)帯文深鉢(banded deep bowl)の拡大を通じてしだいに夜臼式土器へと変わっていき、縄文時代晩期の黒式土器を弥生時代早期の夜臼式土器に置換しました。夜臼式土器は2種類の連続で構成されます。それは、縄文土器様式に基づく深鉢と、無文文化に基づく壺です(Miyamoto2016、宮本., 2017)。夜臼式1期(紀元前9世紀〜紀元前8世紀)と夜臼式2期(紀元前7世紀〜紀元前6世紀)には、無文文化が朝鮮半島の異なる2ヶ所から拡大しました。夜臼式1期には、南江(Namgang River)から唐津と糸島平野まで広がり、夜臼式2期には、ナグトンガン川(Nagtonggang River)から福岡平野にまで広がりました(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。夜臼式2期は、その最初の場所である福岡平野の板付式土器(弥生時代前期)の発達に先行します。したがって、紀元前6世紀〜紀元前5世紀頃には、無文土器に影響を受けた板付式壺が、夜臼式期の縄文土器の深鉢を置換しました。以下では、「移行」期は夜臼式1期および2期を指します。夜臼式は水田稲作の存在のため弥生時代と見なされていますが、完全にそろった弥生文化は板付1式まで固定されませんでした。九州北部における縄文時代と弥生時代早期との間の移行期は、推定300年間です(宮本., 2017)。

 土器の様式と系譜だけではなく、土器製作技術も、弥生時代と縄文時代では異なります。夜臼式1期無文土器文化の影響を通じて壺が追加されましたが、縄文土器の深鉢が縄文時代と弥生時代の移行期には依然として使われていました。板付式壺は弥生時代前期の板付式1期に確立しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。この時点で、土器製作技術は全体的に、縄文時代から変化しました(家根., 1984、家根., 1997、三阪., 2014)。縄文土器に用いられた比較的薄い粘土の平塊(slab)とは対照的に、弥生土器の製作には比較的に広い粘土の平塊が用いられました(図1)。弥生土器の平塊は、その前の平塊の外面に付着されますが、縄文土器の平塊は土器の内面に重ねて付着されました。弥生土器の表面は、木片の端を用いて滑らかにされていましたが、縄文時代晩期にはこの作業を行なうために貝殻が用いられました(図1)。弥生土器は地上にてさほど精巧ではない粘土窯で焼成されましたが、縄文土器は野外で焼成されました(小林他., 2000)。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、縄文土器と弥生土器との間に明確に存在しました。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、無文土器から採用されました。土器製作の新技術が、無文文化により最初に影響を受けた夜臼式ではなく、縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式で完全に確立されたのは、興味深いことです。縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式土器は、最終的には新たな土器製作技術の4特性から構成されました。以下は本論文の図1です。
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 縄文時代から弥生時代への移行では、土器様式を超えたさせなる文化的変化も明らかです(表1)。水田や新様式の土器や新形態の磨製石器が、黒川期後の夜臼1期の福岡平野で見つかっています(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Fujio2021)。その後、環濠集落が夜臼式2期に確立しました。木棺のような新たな埋葬習慣が、夜臼式2期と板付式1期の頃に始まりました(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。文化的特性は、夜臼式1期と夜臼式2期の期間に経時的に追加されました。支石墓は夜臼式1期には確立していませんでしたが、その分布は九州北西部を含む唐津と糸島平野に集中していました。しかし、木棺が朝鮮半島から福岡平野にもたらされ、次に夜臼式2期に福岡平野から他地域へと広がりました。副葬品として木棺には磨製石器短剣が伴いました。支石墓と木棺との間の導入と分布の時期の違いは、朝鮮半島での磨製石器短剣の種類による分布地域の違いとともに、朝鮮半島からの文化の二重起源を示唆します(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。したがって、弥生文化は無文文化の二重拡散で確立しました(表1)。板付1式の時までに、灌漑農耕社会が形成されました(宮本., 2017、Fujio2021)。

 弥生文化の確立とともに、板付式土器が生まれたことは、日本列島における独立した農耕社会の発展を意味しました。九州北部における弥生文化の新たな農耕民は瀬戸内海と近畿地方に移動し、そこでは新たな農耕民と先住の「縄文人」が再び混合しました。考古学的証拠は、土地の無文文化と対応する日本語祖語文化が朝鮮半島南部から九州北部へとどのように広がったのか、という問題への答えを提供します。前節では、黒川期に九州北部にイネがどのように広がったのか、水田を伴う稲作は夜臼式期にどのように急増へと広がったのか、説明されました。無文文化に影響を受けた支石墓や磨製石器や土器様式を含む文化的変化が、夜臼式1期に出現しました。したがって、定義上、弥生文化は紀元前9世紀〜紀元前8世紀となる夜臼式1期に始まった、と言うことができます。

 したがって、この知見から、日本語祖語は夜臼式1期に無文文化からの移民とともに九州北部へと広がった、と言うことができますか?無文文化に影響を受けた壺など新たな土器の種類は、九州北部において夜臼式1期に出現しました。しかし、夜臼式1期における多数の新たな種類の壺や他の縄文様式の土器壺は、縄文土器の製作技術を用いて製作されました。無文土器文化と同じ土器製作技術を用いて製作された、壺や板付式壺を含めて弥生式土器は、板付1式期に出現し、その年代は紀元前6世紀〜紀元前5世紀です(宮本., 2018)。著者の見解は、日本語祖語がこの時点で九州北部において「縄文語」を置換した、というものです。

 「縄文人」は夜臼式1期に、栽培穀物保存のための壺と調理用の縄文式深鉢を製作した少数の無文文化移民とともに、九州北部に移住しました(田中・小澤., 2001)。こうした人々は、縄文土器製作技術を用いて、農耕生活のために無文文化の壺を模倣した、と考えられています。しかし、板付1式期には無文文化の土器様式と製作技術が変化しました著者は、「縄文人」が九州北部で「縄文語」を置換した日本語祖語を介して、新たな土器様式と製作技術を教えられたのではないか、と提案します。その後、弥生時代前期には、新たな板付式土器様式と製作技術が福岡平野を中心とする九州北部から、九州北西部と瀬戸内海地域と近畿地域を含む西日本にまで広がりました。この場合、一般的には「縄文人」の子孫とされる九州北西部の「弥生人」でさえ、板付式土器がそうであるように、同じ弥生土器を製作できた、と注目するのは興味深いことです。

 形質人類学的分析は、九州北西部の「弥生人」に属する人骨を、「縄文人」と同じと同定してきました(中橋., 1989)。最近のDNA研究では、紀元後1〜紀元後2世紀の弥生時代末と年代測定された九州北西部の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体では、「縄文人」と「渡来系弥生人」両方のゲノムを有している、と示されています(篠田他., 2019、関連記事)。しかし、別のDNA研究では、九州北西部の佐賀県唐津市大友遺跡の初期「弥生人」は依然として「縄文人」だった、と示唆されています(神澤他., 2021、関連記事)。九州北西部の初期「弥生人」は遺伝的に無文文化人と異なりますが、無文文化の土器製作技術に基づいて弥生土器を製作できました。これは、九州北西部の初期「弥生人」が、日本語祖語を介して、弥生土器の製作技術について学ぶことができたからです。


●日本語祖語の拡散理論についての考古学的説明

 日本語祖語が弥生文化の開始において九州北部へと拡大し、板付1式期に「縄文語」を完全に置換した、との仮説が正しければ、問わねばならない問題は、どのようにどこから、無文土器文化に相当する日本語祖語文化が朝鮮半島に入ったのか、ということです。この問題を解決するため、初期農耕の拡大とは無関係な文化的接触を説明する、土器製作技術への焦点が選択されます。

 弥生土器と朝鮮半島南部の無文土器との間には、おもに以下の4点の特性の観点で、同じ土器製作技術が存在しました。それは、(a)広い粘土平塊、(b)その前の平塊の外面に付着する平塊、(c)木片の端で土器表面を滑らかにすること、(d)地面であまり精巧ではない粘土窯での焼成です。朝鮮半島南部の無文土器文化は、初期と前期と後期の3段階に区分されます(表2)。初期は、縁帯(band-rim)土器により特徴づけられ、前期はガラクドン(Garakdon)様式とコンヨル様式、つまりヘウナムリ(Heunamri)式と駅三洞(Yeoksamdong)式の土器により示され、後期はヒュアムリ(Hyuamri)式と松菊里(Songgunni)式で構成されます。以下は本論文の表2です。
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 三阪一徳は、朝鮮半島の新石器時代土器と無文土器との間の土器製作技術を分析しました(Misaka2012)。その分析によると、土器製作技術における4点の特性は、初期から後期まで無文土器文化を通じて見られました(図2)。対照的に、新石器時代土器の製作技術にはそうした4点の特性がありません。新石器時代土器と無文土器との間のそうした違いは、縄文土器と弥生土器との間に存在したものと同じです。この場合、初期の土器である縁帯土器は、系譜的に他地域の土器から広がったに違いありません。土器のSEMケイ素分析から、朝鮮半島における稲作は無文文化土器初期の縁帯土器期に始まった、と示唆されます(Son et al., 2010)。金壮錫と朴辰浩は、稲作農耕民の移住は中国北東部から朝鮮半島への言語拡散をもたらした、と示唆しました(Kim, and Park., 2020)。したがって、無文土器の製作様式がどのようには最初に始まったのか、注意を払う必要があります。以下は本論文の図2です。
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 朝鮮半島南部における最初の無文土器は、紀元前1500年頃以降の最初期無文土器文化における縁帯土器です。縁帯土器は、朝鮮半島北部〜中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)土器と関連している、と考えられており(Ahn J2010、Bae2010)、それは、土器の模様と他の側面では家屋計画の類似性のためです。したがって、ゴングウィリ式土器は、最初期の無文土器の縁帯土器と関連している、と考えられています。無文文化は朝鮮半島南部に起源があるものの(Miyamoto2016、宮本., 2017)、比較的広い粘土平塊、外側から付着される粘土平塊、木片の端で滑らかにされることや粗放的な粘土窯での焼成など、無文土器の土器製作技術の起源は新石器時代櫛目文土器では確認されませんでした。

 朝鮮半島北西部では、マンチュリアの遼東地区における偏堡文化の影響(図3-3)が、ナムケヨン(Namkyeong)の櫛目文土器と結びつき、無文文化におけるパエングニ(Paengni)式土器を形成しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。偏堡文化は、前期と中期と後期の3段階に区分されます(Chen and Chen1992)。偏堡文化の初期(図3-1〜3)は、土器編年によると、遼西地区の東側に分布しています。しかし、シャオズフシャン(Shaozhushan)文化の中期層の呉家村(Wujiacun)期は、偏堡文化の分布の周辺に位置する遼東地区に分布します(図3-4)。偏堡文化の中期および後期は呉家村期文化を置換し、遼東地区と朝鮮半島北西部に広がりました(図3-5)。偏堡文化は朝鮮半島北西部の櫛目文土器に影響を与え、櫛目文土器の系列に壺の新様式を加えました。以下は本論文の図3です。
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 偏堡文化により影響を受けた壺(図3-3)は、朝鮮半島西部における新石器時代末期の櫛目文土器ナムケヨン1および2式で構成されます。この事象は、紀元前2400年頃のアジア北東部における農耕化の第二段階とも一致しました(図4)。対照的に、朝鮮半島北部〜中央部では、偏堡文化の影響(図3-1および2)は、鴨緑江中流と上流のシムグウィリ(Simgwiri)遺跡の1号住居で、ゴングウィリ式土器を生み出しました(図4)。このゴングウィリ式土器は、朝鮮半島南部では無文土器の最初期の縁帯土器へと発展しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。以下は本論文の図4です。
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 日本人の学者により1941年に発掘された、遼東半島の上馬石(Shangmashi)貝塚で発見された土器の製作技術に焦点が当てられました(Miyamoto2015b)。分析結果は、以下のような土器製作技術の4点の特性の存在を示します。それは、(a)比較的広い粘土平塊を用いての平塊製作、(b)内面ではなく外面への粘土平塊の付着、(c)木端で滑らかにすること、(d)地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。土器製作技術のこれらの4点の特徴が、新石器時代から前期鉄器時代までの編年体系で偏堡文化期にのみ限られているのは、たいへん興味深いことです(表3)。木端で粘土表面を滑らかにすることは、偏堡文化ではひじょうに多く見られます。偏堡文化における、木端で粘土表面を滑らかにすることと、あまり精巧ではない粘土窯を用いての焼成技術も、上馬石遺跡を除いて他の遺跡でも認められます。これらの結果から、偏堡文化はゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文土器文化における新たな土器製作技術の出現とつながっている、と示唆されます(図4)。以下は本論文の表3です。
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 朝鮮半島の無文土器は、隣接地域の土器様式が、偏堡文化によるこれらの地域への拡散過程と影響を介して、偏堡文化の土器様式へと変化した時に確立しました。したがって、偏堡文化土器で用いられた新たな土器製作技術は、ゴングウィリ式土器への偏堡文化の影響を介して無文土器へともたらされました。このように、土器製作技術の観点で同じ4点の特性を有する土器様式が、朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して、遼東半島の偏堡文化から朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました。そこから、朝鮮半島南部の無文文化と同じ4点の特性を有するこの土器様式が、西日本の弥生文化に広がりました。これら4点の特性を有する同じ系譜の土器様式の拡大は、言語、つまり日本語祖語を媒介しての同じ情報の広がりを示唆します(図5-1)。以下は本論文の図5です。
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 しかし、偏堡文化と縁帯土器との間のこれら土器様式の変化は、約1000年の長い時間を要し、無文土器文化の始まりは朝鮮半島南部で紀元前1500年頃でした。この頃に、磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がりました。したがって、朝鮮半島南部における無文土器文化の確立は、二重の状況で構成されました。それは、アジア北東部における農耕化の第2段階の偏堡文化などを基盤に形成されたものの、アジア北東部農耕化の第3段階における生計活動の変化により確立しました。

 日琉語族はどこに起源があったのでしょうか?日琉語族は稲作農耕の影響により彩られていませんでした。日琉語族にはイネに特化した語彙が含まれていなかった、と考えられています(Whitman2011)。日琉語族にイネに特化した語彙がなかった理由は、日琉語族の起源が恐らくは遼西東部にあったからです。雑穀農耕を伴う初期偏堡文化は、おもに遼西地区東部に分布しています(図3-4)。土器製作技術の分析から、無文土器は偏堡文化に由来した、と示唆されるので(Miyamoto2016)、日琉語族も偏堡文化に起源があった、と提案されます(図5-1)。

 無文文化はその後、紀元前1500年頃に、山東半島から遼東半島を経た稲作農耕社会により影響を受けましたが、無文文化集団は日本語祖語を話し続けた、と考えられます。これは、アジア北東部における農耕化の第3段階でのことです。日琉語族が同じ頃にアジア北東部における農耕化の第4段階での稲作拡大と同じ頃に無文文化経由で九州北部へと広がったならば、縄文時代と弥生時代との間の移行は、伝統的な「縄文語」と日琉語族との間の言語における移行と同じである、と提案できます。このように、少数の無文文化の人々が九州北部へと移住し、「縄文人」と混合した場合、日琉語族も九州北部へと拡大した、と考えられます。さらに、九州北部における在来の「縄文語」と日琉語族との間の移行は、夜臼式土器1期から板付1式土器期への土器様式における移行と同じくらいの時間を要した、と推測されます。「縄文語」は、上述のように人々が無文文化集団により話されていた日琉語族で新たな土器技術を学んだので、同じ過程を経て日琉語族により置換された、とも考えられます。


●朝鮮語祖語の拡散の論についての考古学的説明

 上馬石貝塚遺跡の分析(Miyamoto2015b)も、土器様式が紀元前千年紀半ばに変化したことを示唆します。紀元前6世紀〜紀元前5世紀となる尹家村(Yinjiacun)文化青銅器時代の長首壺(Long-necked pot)と粘土縁壺(clay-rimmed jar)は、遼西地域から遼東地域にかけて分布していました。この新たな土器は遼東半島から朝鮮半島南部へと到来し、初期鉄器時代の粘土帯土器へと発展して、遼東半島の人々が朝鮮半島へと南方へ移住したことを示します(Miyamoto2016、宮本., 2017)。

 移民が遼東半島から朝鮮半島へと移住し、粘土帯土器文化を確立した理由は、より寒冷な気候条件だったからではありませんでした。むしろ、好まれる理論は、北京地域に位置する燕国が燕山(Yanshan)山脈を越えて東方へ侵入したので、当時の社会における社会的および政治的要因だった、というものです(宮本., 2017、宮本., 2020)。燕は遼西地区東部の首長と政治的に接触し、紀元前6世紀と紀元前5世紀には燕国の覇権を押し付けました。尹家村文化第2期における遼西東部から遼東半島への人々の東方への移動は、遼東半島から朝鮮半島への別の移住の契機となりました。この過程で、尹家村文化第2期は朝鮮半島へと広がり、紀元前5世紀頃となる青銅製細形短剣を含む、粘土帯土器文化の確立につながりました。この時点で、農耕集落は考古学的記録から消えました(Ahn2010)。遼西東部に起源があるこの粘土帯土器文化は、明確には水田稲作とは関連していないものの、雑穀およびコムギ農耕と関連しています。

 一方、マーク・ハドソンとマーティン・ロベーツは、朝鮮語大語族祖語は日本語祖語の前に遼東半島から朝鮮半島へ雑穀農耕とともに紀元前3500年頃に拡大した、と主張しました(Hudson, and Robbeets., 2020)。しかし、櫛目文土器と農耕用石器を有する雑穀農耕は、紀元前3500年頃に盛上文(Yunggimun)土器文化に代わって、朝鮮半島の北西部と中西部から南部へと広がりました(Miyamoto2014、宮本., 2017)。農耕用石器を伴う雑穀農耕は、紀元前五千年紀に遼西から遼東半島および朝鮮半島西部へと広がりました(Li et al., 2020)。さらに、土器様式は小珠山(Xiaozhushan)文化火葬土器を有する遼東半島と櫛目文土器を有する朝鮮半島との間で明確に異なります(Kim, and Park., 2020)。したがって、遼東半島から朝鮮半島への言語拡散の理論が、紀元前四千年紀における朝鮮半島南部への農耕用石器を伴う櫛目文土器の拡大と考古学的に関連していた、と考えるのは困難です。

 朝鮮語がこの移住とともに朝鮮半島へと広がり、細形短剣文化を形成した、と考えられています(Whitman2011)。遼西東部地区から朝鮮半島へのこの文化的影響は、中国の戦国時代における燕国によりもたらされた継続的な領土の脅威のため逃げてきた人々を伴う、朝鮮語祖語の拡大を示唆します(宮本., 2017、宮本., 2020)。この文化は、マンチュリアの遼東地区の涼泉(Liangquan)文化もしくは尹家村文化第2期に起源があり、拡大しました。初期鉄器時代は朝鮮語の広がりと関連しているので、朝鮮語の起源地も遼東地区東部にあった、と仮定されます(図5-2)。粘土帯土器文化は、三国時代へと直接的に変わっていく先三国時代文化期に、類似の形態へと発展しました。三国時代の新羅の言語は、確実に朝鮮語です(Robbeets2020)。したがって、朝鮮語祖語は粘土帯土器文化期に話されていました。粘土帯土器文化は、系譜的に無文文化とつながりませんでした。

 このように、日本語祖語は粘土帯土器文化初期に朝鮮語祖語により置換された、と推測されます。日本語祖語は朝鮮半島で話されており、弥生文化の開始期に日本列島へと広がりました。一つの言語の別の言語への置換は、朝鮮語祖語が中国北東部から朝鮮半島へと朝鮮前期鉄器時代に広がった、というマーシャル・アンガーの見解と一致します(Unger2014)。一方、金壮錫と朴辰浩は、朝鮮語祖語が細形短剣とともに入ってきた、というジョン・ホイットマン(John Whitman)の提案(Whitman2011)に疑問を呈しています(Kim, and Park., 2020)。遼寧式短剣を有する中国北東部の遼西および遼東の粘土帯土器文化は、細形短剣が独自に発展した朝鮮半島へ拡大しました(宮本., 2020)。その後、粘土帯土器文化は、中国の燕国と先三国時代となる漢代の楽浪(Lelang)郡より影響受けて、鉄器を製作しました。したがって、粘土帯土器文化の人々が三国の直接的な祖先で、朝鮮語祖語を話していた、との仮定が合理的です


●まとめ

 言語学的研究では、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、と示唆されています(Unger2014、Robbeets et al., 2020)。日本語祖語はまずマンチュリア南部から朝鮮半島へと、次に弥生文化の開始期に九州北部へと広がりました。朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部から朝鮮半島へと広がり、次第に日本語祖語を追い払いました。

 偏堡文化と無文文化と弥生文化の土器は、さまざまな年代にわたって相互に系譜的に関連している、と提案されており、とくに、以下の4点の特性を示す、同じ土器製作技術があります。それは、広い粘土平塊、その前の平塊の外面に付着させる平塊、木片の端で土器表面を滑らかにすること、地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。これらの同じ土器製作技術は、言語を介して継承された、と考えられています。これが、偏堡文化と無文文化と弥生文化の系譜系列が日本語祖語の拡大を示唆している理由です。したがって、偏堡文化の日本語祖語は紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました(図5-1)。

 日本語祖語は灌漑稲作農耕の拡大とともに紀元前9世紀に九州北部に到達し、紀元前6世紀〜紀元前5世紀の九州北部の板付式土器期に「縄文語」を完全に置換しました。過程として、この言語置換は約300年間にわたって起きました。この場合、人々はその遺伝的構成の観点では必ずしも変化しませんでした。板付式土器を伴う日本語祖語話者は福岡平野から到来して西日本へと移住し、西日本では弥生時代前期に日本語がしだいに在来の「縄文語」を置換しました(図5-1)。紀元前3世紀頃に始まる弥生時代中期の跡には、弥生文化は東日本に依然として存在していた縄文土器伝統とは急速に異なっていきました。それにも関わらず、日本語祖語は紀元後2世紀〜紀元後3世紀となる弥生時代後期から古墳時代の開始までに、これらの地域で在来の「縄文語」をじょじょに置換していった、と考えられています。

 紀元前6世紀と紀元前5世紀に、中国の東周時代(春秋時代)の燕国は、燕山山脈を越えてその領域を拡大し、遼西地区において首長に政治的に影響を及ぼしました。この時から、尹家村文化第2期の移民が紀元前5世紀に遼西東部から遼東を経て朝鮮半島へと向かい、そこで粘土帯土器を確立しました。粘土帯土器自体は、遼東半島の紀元前二千年紀の双砣子(Shuangtuozi)文化期の第2および第3段階に始まりました。遼西東部から朝鮮半島南部への粘土帯土器の広がりは、朝鮮語祖語の経路を示唆します(図5-2)。

 日本語祖語と朝鮮語祖語両方の故地は考古学的証拠に基づくと同じで、両者は近い語族です。しかし、アジア北東部における両言語間の拡散の時間的違いは約1000年で、両言語の広がりは、九州北部の弥生時代開始期におけるアジア北東部の農耕の4番目の拡大を除いて、農耕の人口拡散とは無関係でした。考古学的説明に基づく日本語祖語と朝鮮語祖語のこの拡散仮説は、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、という言語学的仮説(Unger2014、Robbeets et al., 2020)を必ずしも妨げません。むしろ、拡散仮説は言語学的仮説を支持します。


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