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[近代史4] プーチン大統領 中川隆
89. 中川隆[-6897] koaQ7Jey 2025年5月09日 06:56:04 : iJIrPVY2OM : bkVaWXg0UlphYUk=[1]
ウクライナ戦争の真実 専門家が語る露ウの血塗られた歴史的背景  宇山卓栄氏
https://www.youtube.com/watch?v=WWNGcqLhilE

宇山卓栄 _ ウクライナ人とユダヤ人とロシア人が互いに憎み合う様になった歴史的背景
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16901072
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/809.html#c89

[文化2] 詐欺師 曽野綾子と池田信夫に騙されるな 中川隆
11. 中川隆[-6895] koaQ7Jey 2025年5月09日 16:59:18 : iJIrPVY2OM : bkVaWXg0UlphYUk=[3]
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植草一秀の『知られざる真実』2025年5月 9日
お粗末な西田昌司参院議員
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2025/05/post-960ed7.html

自民党参議院議員の西田昌司氏が5月3日に沖縄県那覇市で開かれたシンポジウムで講演し、戦後の教育は間違っており「でたらめだ」と主張した。

さらに、沖縄県糸満市の「ひめゆりの塔」における沖縄戦で犠牲となった「ひめゆり学徒隊」の説明について

「何十年か前にひめゆりの塔を訪れ説明を読んだが、日本軍が入ってきてひめゆり(学徒)隊が死んだ。そして米国が入ってきて沖縄が解放されたとの文脈で書かれていた」

と述べた。

西田氏は、旧日本軍を念頭に

「亡くなった方は救われない。ひどい。歴史を書き換えられるとこういうことになってしまう」

と発言。

また、

「沖縄の地上戦の解釈はかなりむちゃくちゃな教育になっている」

とし、

「自分たちが納得できる歴史をつくらないといけない」

と述べた。

シンポジウムは神道政治連盟沖縄県本部、沖縄県神社庁、日本会議沖縄県本部が主催し、自民党沖縄県連が共催したもの。

西田氏の発言について、ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長は

「沖縄戦体験者の思いを踏みにじる発言だ」

との見解を示した(「沖縄タイムス」)。

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「沖縄タイムス」は普天間館長の言葉として、

「塔や資料館には西田議員が発言したような記述はない」

「資料館の展示は体験者の話がベース。

(西田氏の発言は)沖縄戦を体験した県民や、ひめゆり学徒隊の過酷な体験を否定する発言だ」

と批判したと伝えた。

この問題について西田氏は5月7日に記者会見し、

「国会議員になる前の20年以上前に視察に行ったことがある。

私が展示を見て、そう理解した。展示の文章は覚えてないが、そういう印象を持った」

と述べ,

「沖縄戦は民間の方もたくさん犠牲になったが、助けるために日本軍が行った。

日本人を守るために先人は戦い、犠牲になった人を悼むと同時に、なぜそういう戦争が起きたのかを、日本人自身が問いかけなければならないという文脈で発言した」

「結果として傷ついた人がいると報じられているが、意図するところではなかった。

それは切り取った報道に問題がある。それについては非常に遺憾に思う」

と述べた。

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同時に、記者団から発言を撤回するつもりがないかを問われたのに対し、

「事実を言っているので、もちろんない」

とした。

ところが、5月9日になって西田氏は一転して「ひめゆりの塔」の説明をめぐる自身の発言について、丁寧な説明を欠いたもので不適切だったなどとして、撤回する考えを示した。

お粗末すぎる対応。

歴史的事実を意図的に否定する言説を「歴史修正主義」と呼ぶ。

新しい史料が出た場合の学術的な修正とは違い、政治的な意図をもって歴史の評価を変えようとする動き。

「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍晋三元首相は、戦後の歴史教育を自虐的とする団体を支援した。

西田氏の発言もこの類いと言える。

1995年に村山首相が「村山談話」を発表した。

歴史的意義のある談話だった。

村山首相は過去の「侵略」、「植民地支配」を認め、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を述べた。

加害者が加害の事実を直視して認めた上で反省し、謝罪をする。

これによって許しを乞う。

これが〈和解の作法〉である。

過去を直視して悪事を率直に求めて反省して謝罪すること。

これは謙虚さと勇気を必要とする行動であり、これを自虐とは言わない。
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2025/05/post-960ed7.html
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/491.html#c11

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
58. 中川隆[-6894] koaQ7Jey 2025年5月09日 17:08:58 : iJIrPVY2OM : bkVaWXg0UlphYUk=[4]
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2025.05.09XML
ナチスと戦わなかったEU諸国とナチスと戦ったロシア、それぞれの戦勝記念日
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202505090000/

 第2次世界大戦は連合国の勝利で終わった。ヨーロッパ戦線で連合国と戦っていたのはドイツであり、戦勝記念日はドイツが降伏した日ということになるのだが、ヨーロッパは5月8日、ロシアは5月9日に祝っている。

 ヨーロッパでの戦争は1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻した時に始まったとされている。チェコスロバキアをドイツ軍が侵攻した際には黙認していたイギリスやフランスなどは9月3日に宣戦布告するのだが、それから半年間、本格的な戦闘はなかった。いわゆる「奇妙な戦争」の期間だ。

 イギリスやフランスだけでなくドイツも戦争の準備ができていなかったのだが、それだけでなく、ドイツはイギリスやフランスに対して和平を呼びかけ、拒否されている。ドイツは1940年7月に停戦を呼びかけた際、イギリスの権益を傷つける意思がないことを伝えるが、米英両国は応じなかった。(Patrick J. Buchanan, “Churchill, Hitler and ‘The Unnecessary War’,” Crown, 2008)

 ソ連軍は1939年9月17日にポーランドへ軍事侵攻するが、その直後にイギリスとフランスはイラン、シリア、トルコから飛び立った爆撃機でソ連のカフカスにある油田地帯を攻撃する計画を立てている。パイク作戦だ。1940年3月にはマークを消したイギリスの偵察機がイラクの飛行場を離陸し、バクーやバトゥーミの世紀湯施設を撮影。この攻撃が実行されてもドイツがダメージを受けることはなく、イギリス側の目的はソ連を崩壊させることにあったと見られている。(Michael Peck, “Operation Pike,” The National Interest, November 20 2015)

 真珠湾攻撃の半年前、1941年6月22日に300万人以上のドイツ軍はソ連に向かって進撃を開始。バルバロッサ作戦である。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人にすぎない。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーに退けられたという。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 何らかの理由でヒトラーは西側から攻められないと考えていたのだろうが、実際、西部戦線でドイツと戦ったのは事実上、レジスタンスだけだった。その前、1940年5月下旬から6月上旬にかけてイギリス軍とフランス軍34万人がフランスの港町ダンケルクから撤退しているが、その際にアドルフ・ヒトラーは追撃していたドイツ機甲部隊に進撃を停止するように命令、撤退を助けている。

 ドイツ軍は1940年9月7日から41年5月11日にかけてロンドンを空襲し、4万人から4万3000名の市民を殺害したというが、その間、ドイツ側がソ連へ軍事侵攻する準備をしていたはずだ。ロンドンへの攻撃は東への侵攻作戦を隠し、ソ連側の警戒を緩和させる陽動作戦だったとする見方もある。

 バルバロッサ作戦が始まる5カ月前、ソ連の外交官や情報機関はドイツ軍が6月にソ連侵攻作戦を始めるとクレムリンに報告していたが、ヨシフ・スターリンはその警告を無視したとされている。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ソ連に攻め込んだドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、8月後半になると前線部隊がモスクワまで約300キロメートルの地点に到達した。9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫る。

 ヒトラーは1941年10月3日にソ連軍が再び立ち上がることはないとベルリンで語っている。同じ頃、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官を務めていたヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しているのだが、それでもイギリスは動かない。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 開戦当初、ドイツ軍がモスクワ近くまで攻め込めた一因はスターリンが軍上層部を粛清したことにあるとも言われている。西側で宣伝されたほど多くはなかったようだが、それでも約2万人の将校と人民委員が逮捕され、その多くが処刑されたという。粛清のピークは1937年から38年にかけての時期だとされているが、その原因はスターリンが軍のクーデターを恐れたからだとも言われている。

 1917年の十月革命でボルシェビキは実権を握るが、その前からドイツとボルシェビキの関係は悪くなかった。ドイツ軍とソ連軍との関係も友好的で、スターリンはその関係を警戒していたのだ。

 革命の前、1914年7月に第1次世界大戦が勃発、ロシアもドイツと戦うことになるのだが、これにはグリゴリー・ラスプーチンの暗殺未遂が関係している。大地主や農民の代弁者で、ニコライ2世夫妻から信頼されていたラスプーチンはドイツとの戦争に反対、ロシアとドイツを戦わせようとしていたイギリスにとって邪魔な存在だった。


 そして1914年6月にオキーニャ・グセバという女性に腹を刺されてラスプーチンは入院、その間、ロシアでは総動員が命令される。ドイツは動員を解除するよう要求するのだが、その要求をロシアが断り、ドイツは8月1日に宣戦布告。こうしてロシアはドイツとの戦争に突入するのだが、ラスプーチンは8月17日に退院、ドイツとの戦争からロシアが離脱する可能性が出てきた。ラスプーチンを刺したグセバは精神病棟へ隔離されたが、二月革命の直後に法務大臣だったアレクサンドル・ケレンスキーが釈放している。

 1916年になるとイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関SIS(通称MI6)のチームをペトログラードへ派遣するのだが、そのチームには興味深いメンバが含まれていた。スティーブン・アリー、ジョン・スケール、オズワルド・レイナーだ。

 レイナーはオックスフォード大学の学生だった当時からロシアの有力貴族であるフェリックス・ユスポフ公と親密な関係にあった。アリーはモスクワの近くで1876年に生まれ、15歳の時にイギリスへ帰国、家族の経営するアリー・アンド・マクレランで働くようになるが、その裏では情報機関員として活動していた。スティーブンが生まれた場所はモスクワ近くの家はユスポフの宮殿で、父親はユスポフ家の家庭教師だったとも言われている。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。その際に3種類の銃が使われているが、トドメを刺したのは455ウェブリー弾。イギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだった。ユスポフは上流社会の堕落に憤り、犯行に至ったとされているが、世界の上流社会は堕落している。しかもユスポフ自身、問題のある生活を送っていた。

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。またユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

 1917年3月にロシアでは二月革命でカデット(立憲民主党)を中心とする臨時革命政府が成立したが、主導権を握ったのは資本家階級。メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)やエス・エル(社会革命党)も参加していたが、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか刑務所に入れられていた。ウラジミル・レーニンはスイスにいた。そのレーニンを含むボルシェビキの幹部32名をドイツは「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンは1917年4月に帰国した。言うまでもなく、十月革命はその後のこと。こうした背景があるため、革命後、ソ連とドイツの関係は良かったのである。両国の関係が悪化するのは米英金融資本をスポンサーとするナチスが台頭してからだ。

 ソ連へ攻め込んだドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月にソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲された。43年1月31日にフリードリヒ・パウルス第6軍司令官とアルトゥール・シュミット参謀長らがソ連軍に降伏、2月2日にはカール・シュトレッカー歩兵大将の第11軍団が投降し、事実上、ドイツの敗北が決まった。

 そうした展開に慌てた米英仏の首脳は1943年1月にカサブランカで会談、「ソ連勝利」の印象が広がらないように戦争を長引かせようと考えた。

 そして同年7月にイギリス軍とアメリカ軍はシチリア島へ上陸するのだが、その目的はコミュニストが主力のレジスタンス対策だったと言われている。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。日本の降伏も時間の問題になった。

 そうした中、1945年4月12日にルーズベルト大統領は急死、5月8日にベルリンでウィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印。その段階でイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連に対する奇襲攻撃を目論み、アンシンカブル作戦が作成された。同年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだが、イギリスの参謀本部がこの計画を拒否したので実行されなかった。

 チャーチルは1945年7月26日に辞任するが、46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を宣言する。​その翌年にはアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めた​。

 1951年4月にもチャーチルはソ連を核攻撃するという考えを口にしている。​自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話していたことを示す文書が発見された​というのだ。

 第2次世界大戦後、ナチスの元幹部や協力者の逃走をアメリカの国務省や情報機関は助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を秘密裏に開始、その年に作成されたNSC20では、「結果として戦争を起こし、ソ連政府を打倒する」という方針が示された。(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)

 第1次世界大戦から現在に至るまで「大英帝国」の対ロシア/ソ連戦争は続いている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202505090000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c58

[近代史3] アフター・ヒトラー 中川隆
33. 中川隆[-6893] koaQ7Jey 2025年5月09日 17:09:14 : iJIrPVY2OM : bkVaWXg0UlphYUk=[5]
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ナチスと戦わなかったEU諸国とナチスと戦ったロシア、それぞれの戦勝記念日
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202505090000/

 第2次世界大戦は連合国の勝利で終わった。ヨーロッパ戦線で連合国と戦っていたのはドイツであり、戦勝記念日はドイツが降伏した日ということになるのだが、ヨーロッパは5月8日、ロシアは5月9日に祝っている。

 ヨーロッパでの戦争は1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻した時に始まったとされている。チェコスロバキアをドイツ軍が侵攻した際には黙認していたイギリスやフランスなどは9月3日に宣戦布告するのだが、それから半年間、本格的な戦闘はなかった。いわゆる「奇妙な戦争」の期間だ。

 イギリスやフランスだけでなくドイツも戦争の準備ができていなかったのだが、それだけでなく、ドイツはイギリスやフランスに対して和平を呼びかけ、拒否されている。ドイツは1940年7月に停戦を呼びかけた際、イギリスの権益を傷つける意思がないことを伝えるが、米英両国は応じなかった。(Patrick J. Buchanan, “Churchill, Hitler and ‘The Unnecessary War’,” Crown, 2008)

 ソ連軍は1939年9月17日にポーランドへ軍事侵攻するが、その直後にイギリスとフランスはイラン、シリア、トルコから飛び立った爆撃機でソ連のカフカスにある油田地帯を攻撃する計画を立てている。パイク作戦だ。1940年3月にはマークを消したイギリスの偵察機がイラクの飛行場を離陸し、バクーやバトゥーミの世紀湯施設を撮影。この攻撃が実行されてもドイツがダメージを受けることはなく、イギリス側の目的はソ連を崩壊させることにあったと見られている。(Michael Peck, “Operation Pike,” The National Interest, November 20 2015)

 真珠湾攻撃の半年前、1941年6月22日に300万人以上のドイツ軍はソ連に向かって進撃を開始。バルバロッサ作戦である。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人にすぎない。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーに退けられたという。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 何らかの理由でヒトラーは西側から攻められないと考えていたのだろうが、実際、西部戦線でドイツと戦ったのは事実上、レジスタンスだけだった。その前、1940年5月下旬から6月上旬にかけてイギリス軍とフランス軍34万人がフランスの港町ダンケルクから撤退しているが、その際にアドルフ・ヒトラーは追撃していたドイツ機甲部隊に進撃を停止するように命令、撤退を助けている。

 ドイツ軍は1940年9月7日から41年5月11日にかけてロンドンを空襲し、4万人から4万3000名の市民を殺害したというが、その間、ドイツ側がソ連へ軍事侵攻する準備をしていたはずだ。ロンドンへの攻撃は東への侵攻作戦を隠し、ソ連側の警戒を緩和させる陽動作戦だったとする見方もある。

 バルバロッサ作戦が始まる5カ月前、ソ連の外交官や情報機関はドイツ軍が6月にソ連侵攻作戦を始めるとクレムリンに報告していたが、ヨシフ・スターリンはその警告を無視したとされている。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ソ連に攻め込んだドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、8月後半になると前線部隊がモスクワまで約300キロメートルの地点に到達した。9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫る。

 ヒトラーは1941年10月3日にソ連軍が再び立ち上がることはないとベルリンで語っている。同じ頃、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官を務めていたヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しているのだが、それでもイギリスは動かない。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 開戦当初、ドイツ軍がモスクワ近くまで攻め込めた一因はスターリンが軍上層部を粛清したことにあるとも言われている。西側で宣伝されたほど多くはなかったようだが、それでも約2万人の将校と人民委員が逮捕され、その多くが処刑されたという。粛清のピークは1937年から38年にかけての時期だとされているが、その原因はスターリンが軍のクーデターを恐れたからだとも言われている。

 1917年の十月革命でボルシェビキは実権を握るが、その前からドイツとボルシェビキの関係は悪くなかった。ドイツ軍とソ連軍との関係も友好的で、スターリンはその関係を警戒していたのだ。

 革命の前、1914年7月に第1次世界大戦が勃発、ロシアもドイツと戦うことになるのだが、これにはグリゴリー・ラスプーチンの暗殺未遂が関係している。大地主や農民の代弁者で、ニコライ2世夫妻から信頼されていたラスプーチンはドイツとの戦争に反対、ロシアとドイツを戦わせようとしていたイギリスにとって邪魔な存在だった。


 そして1914年6月にオキーニャ・グセバという女性に腹を刺されてラスプーチンは入院、その間、ロシアでは総動員が命令される。ドイツは動員を解除するよう要求するのだが、その要求をロシアが断り、ドイツは8月1日に宣戦布告。こうしてロシアはドイツとの戦争に突入するのだが、ラスプーチンは8月17日に退院、ドイツとの戦争からロシアが離脱する可能性が出てきた。ラスプーチンを刺したグセバは精神病棟へ隔離されたが、二月革命の直後に法務大臣だったアレクサンドル・ケレンスキーが釈放している。

 1916年になるとイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関SIS(通称MI6)のチームをペトログラードへ派遣するのだが、そのチームには興味深いメンバが含まれていた。スティーブン・アリー、ジョン・スケール、オズワルド・レイナーだ。

 レイナーはオックスフォード大学の学生だった当時からロシアの有力貴族であるフェリックス・ユスポフ公と親密な関係にあった。アリーはモスクワの近くで1876年に生まれ、15歳の時にイギリスへ帰国、家族の経営するアリー・アンド・マクレランで働くようになるが、その裏では情報機関員として活動していた。スティーブンが生まれた場所はモスクワ近くの家はユスポフの宮殿で、父親はユスポフ家の家庭教師だったとも言われている。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。その際に3種類の銃が使われているが、トドメを刺したのは455ウェブリー弾。イギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだった。ユスポフは上流社会の堕落に憤り、犯行に至ったとされているが、世界の上流社会は堕落している。しかもユスポフ自身、問題のある生活を送っていた。

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。またユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

 1917年3月にロシアでは二月革命でカデット(立憲民主党)を中心とする臨時革命政府が成立したが、主導権を握ったのは資本家階級。メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)やエス・エル(社会革命党)も参加していたが、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか刑務所に入れられていた。ウラジミル・レーニンはスイスにいた。そのレーニンを含むボルシェビキの幹部32名をドイツは「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンは1917年4月に帰国した。言うまでもなく、十月革命はその後のこと。こうした背景があるため、革命後、ソ連とドイツの関係は良かったのである。両国の関係が悪化するのは米英金融資本をスポンサーとするナチスが台頭してからだ。

 ソ連へ攻め込んだドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月にソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲された。43年1月31日にフリードリヒ・パウルス第6軍司令官とアルトゥール・シュミット参謀長らがソ連軍に降伏、2月2日にはカール・シュトレッカー歩兵大将の第11軍団が投降し、事実上、ドイツの敗北が決まった。

 そうした展開に慌てた米英仏の首脳は1943年1月にカサブランカで会談、「ソ連勝利」の印象が広がらないように戦争を長引かせようと考えた。

 そして同年7月にイギリス軍とアメリカ軍はシチリア島へ上陸するのだが、その目的はコミュニストが主力のレジスタンス対策だったと言われている。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。日本の降伏も時間の問題になった。

 そうした中、1945年4月12日にルーズベルト大統領は急死、5月8日にベルリンでウィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印。その段階でイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連に対する奇襲攻撃を目論み、アンシンカブル作戦が作成された。同年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだが、イギリスの参謀本部がこの計画を拒否したので実行されなかった。

 チャーチルは1945年7月26日に辞任するが、46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を宣言する。​その翌年にはアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めた​。

 1951年4月にもチャーチルはソ連を核攻撃するという考えを口にしている。​自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話していたことを示す文書が発見された​というのだ。

 第2次世界大戦後、ナチスの元幹部や協力者の逃走をアメリカの国務省や情報機関は助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を秘密裏に開始、その年に作成されたNSC20では、「結果として戦争を起こし、ソ連政府を打倒する」という方針が示された。(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)

 第1次世界大戦から現在に至るまで「大英帝国」の対ロシア/ソ連戦争は続いている。
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[近代史4] 英米はドイツ軍がソ連に勝てないとわかる迄は、ウォール街のエージェントのヒトラーと戦う気は全く無かった 中川隆
32. 中川隆[-6892] koaQ7Jey 2025年5月09日 17:09:32 : iJIrPVY2OM : bkVaWXg0UlphYUk=[6]
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2025.05.09XML
ナチスと戦わなかったEU諸国とナチスと戦ったロシア、それぞれの戦勝記念日
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202505090000/

 第2次世界大戦は連合国の勝利で終わった。ヨーロッパ戦線で連合国と戦っていたのはドイツであり、戦勝記念日はドイツが降伏した日ということになるのだが、ヨーロッパは5月8日、ロシアは5月9日に祝っている。

 ヨーロッパでの戦争は1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻した時に始まったとされている。チェコスロバキアをドイツ軍が侵攻した際には黙認していたイギリスやフランスなどは9月3日に宣戦布告するのだが、それから半年間、本格的な戦闘はなかった。いわゆる「奇妙な戦争」の期間だ。

 イギリスやフランスだけでなくドイツも戦争の準備ができていなかったのだが、それだけでなく、ドイツはイギリスやフランスに対して和平を呼びかけ、拒否されている。ドイツは1940年7月に停戦を呼びかけた際、イギリスの権益を傷つける意思がないことを伝えるが、米英両国は応じなかった。(Patrick J. Buchanan, “Churchill, Hitler and ‘The Unnecessary War’,” Crown, 2008)

 ソ連軍は1939年9月17日にポーランドへ軍事侵攻するが、その直後にイギリスとフランスはイラン、シリア、トルコから飛び立った爆撃機でソ連のカフカスにある油田地帯を攻撃する計画を立てている。パイク作戦だ。1940年3月にはマークを消したイギリスの偵察機がイラクの飛行場を離陸し、バクーやバトゥーミの世紀湯施設を撮影。この攻撃が実行されてもドイツがダメージを受けることはなく、イギリス側の目的はソ連を崩壊させることにあったと見られている。(Michael Peck, “Operation Pike,” The National Interest, November 20 2015)

 真珠湾攻撃の半年前、1941年6月22日に300万人以上のドイツ軍はソ連に向かって進撃を開始。バルバロッサ作戦である。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人にすぎない。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーに退けられたという。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 何らかの理由でヒトラーは西側から攻められないと考えていたのだろうが、実際、西部戦線でドイツと戦ったのは事実上、レジスタンスだけだった。その前、1940年5月下旬から6月上旬にかけてイギリス軍とフランス軍34万人がフランスの港町ダンケルクから撤退しているが、その際にアドルフ・ヒトラーは追撃していたドイツ機甲部隊に進撃を停止するように命令、撤退を助けている。

 ドイツ軍は1940年9月7日から41年5月11日にかけてロンドンを空襲し、4万人から4万3000名の市民を殺害したというが、その間、ドイツ側がソ連へ軍事侵攻する準備をしていたはずだ。ロンドンへの攻撃は東への侵攻作戦を隠し、ソ連側の警戒を緩和させる陽動作戦だったとする見方もある。

 バルバロッサ作戦が始まる5カ月前、ソ連の外交官や情報機関はドイツ軍が6月にソ連侵攻作戦を始めるとクレムリンに報告していたが、ヨシフ・スターリンはその警告を無視したとされている。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ソ連に攻め込んだドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、8月後半になると前線部隊がモスクワまで約300キロメートルの地点に到達した。9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫る。

 ヒトラーは1941年10月3日にソ連軍が再び立ち上がることはないとベルリンで語っている。同じ頃、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官を務めていたヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しているのだが、それでもイギリスは動かない。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 開戦当初、ドイツ軍がモスクワ近くまで攻め込めた一因はスターリンが軍上層部を粛清したことにあるとも言われている。西側で宣伝されたほど多くはなかったようだが、それでも約2万人の将校と人民委員が逮捕され、その多くが処刑されたという。粛清のピークは1937年から38年にかけての時期だとされているが、その原因はスターリンが軍のクーデターを恐れたからだとも言われている。

 1917年の十月革命でボルシェビキは実権を握るが、その前からドイツとボルシェビキの関係は悪くなかった。ドイツ軍とソ連軍との関係も友好的で、スターリンはその関係を警戒していたのだ。

 革命の前、1914年7月に第1次世界大戦が勃発、ロシアもドイツと戦うことになるのだが、これにはグリゴリー・ラスプーチンの暗殺未遂が関係している。大地主や農民の代弁者で、ニコライ2世夫妻から信頼されていたラスプーチンはドイツとの戦争に反対、ロシアとドイツを戦わせようとしていたイギリスにとって邪魔な存在だった。


 そして1914年6月にオキーニャ・グセバという女性に腹を刺されてラスプーチンは入院、その間、ロシアでは総動員が命令される。ドイツは動員を解除するよう要求するのだが、その要求をロシアが断り、ドイツは8月1日に宣戦布告。こうしてロシアはドイツとの戦争に突入するのだが、ラスプーチンは8月17日に退院、ドイツとの戦争からロシアが離脱する可能性が出てきた。ラスプーチンを刺したグセバは精神病棟へ隔離されたが、二月革命の直後に法務大臣だったアレクサンドル・ケレンスキーが釈放している。

 1916年になるとイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関SIS(通称MI6)のチームをペトログラードへ派遣するのだが、そのチームには興味深いメンバが含まれていた。スティーブン・アリー、ジョン・スケール、オズワルド・レイナーだ。

 レイナーはオックスフォード大学の学生だった当時からロシアの有力貴族であるフェリックス・ユスポフ公と親密な関係にあった。アリーはモスクワの近くで1876年に生まれ、15歳の時にイギリスへ帰国、家族の経営するアリー・アンド・マクレランで働くようになるが、その裏では情報機関員として活動していた。スティーブンが生まれた場所はモスクワ近くの家はユスポフの宮殿で、父親はユスポフ家の家庭教師だったとも言われている。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。その際に3種類の銃が使われているが、トドメを刺したのは455ウェブリー弾。イギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだった。ユスポフは上流社会の堕落に憤り、犯行に至ったとされているが、世界の上流社会は堕落している。しかもユスポフ自身、問題のある生活を送っていた。

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。またユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

 1917年3月にロシアでは二月革命でカデット(立憲民主党)を中心とする臨時革命政府が成立したが、主導権を握ったのは資本家階級。メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)やエス・エル(社会革命党)も参加していたが、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか刑務所に入れられていた。ウラジミル・レーニンはスイスにいた。そのレーニンを含むボルシェビキの幹部32名をドイツは「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンは1917年4月に帰国した。言うまでもなく、十月革命はその後のこと。こうした背景があるため、革命後、ソ連とドイツの関係は良かったのである。両国の関係が悪化するのは米英金融資本をスポンサーとするナチスが台頭してからだ。

 ソ連へ攻め込んだドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月にソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲された。43年1月31日にフリードリヒ・パウルス第6軍司令官とアルトゥール・シュミット参謀長らがソ連軍に降伏、2月2日にはカール・シュトレッカー歩兵大将の第11軍団が投降し、事実上、ドイツの敗北が決まった。

 そうした展開に慌てた米英仏の首脳は1943年1月にカサブランカで会談、「ソ連勝利」の印象が広がらないように戦争を長引かせようと考えた。

 そして同年7月にイギリス軍とアメリカ軍はシチリア島へ上陸するのだが、その目的はコミュニストが主力のレジスタンス対策だったと言われている。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。日本の降伏も時間の問題になった。

 そうした中、1945年4月12日にルーズベルト大統領は急死、5月8日にベルリンでウィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印。その段階でイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連に対する奇襲攻撃を目論み、アンシンカブル作戦が作成された。同年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだが、イギリスの参謀本部がこの計画を拒否したので実行されなかった。

 チャーチルは1945年7月26日に辞任するが、46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を宣言する。​その翌年にはアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めた​。

 1951年4月にもチャーチルはソ連を核攻撃するという考えを口にしている。​自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話していたことを示す文書が発見された​というのだ。

 第2次世界大戦後、ナチスの元幹部や協力者の逃走をアメリカの国務省や情報機関は助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を秘密裏に開始、その年に作成されたNSC20では、「結果として戦争を起こし、ソ連政府を打倒する」という方針が示された。(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)

 第1次世界大戦から現在に至るまで「大英帝国」の対ロシア/ソ連戦争は続いている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202505090000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/615.html#c32

[近代史4] 独裁者列伝 _ アドルフ・ヒトラー 中川隆
61. 中川隆[-6891] koaQ7Jey 2025年5月09日 17:11:15 : iJIrPVY2OM : bkVaWXg0UlphYUk=[7]
<■152行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2025.05.09XML
ナチスと戦わなかったEU諸国とナチスと戦ったロシア、それぞれの戦勝記念日
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202505090000/

 第2次世界大戦は連合国の勝利で終わった。ヨーロッパ戦線で連合国と戦っていたのはドイツであり、戦勝記念日はドイツが降伏した日ということになるのだが、ヨーロッパは5月8日、ロシアは5月9日に祝っている。

 ヨーロッパでの戦争は1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻した時に始まったとされている。チェコスロバキアをドイツ軍が侵攻した際には黙認していたイギリスやフランスなどは9月3日に宣戦布告するのだが、それから半年間、本格的な戦闘はなかった。いわゆる「奇妙な戦争」の期間だ。

 イギリスやフランスだけでなくドイツも戦争の準備ができていなかったのだが、それだけでなく、ドイツはイギリスやフランスに対して和平を呼びかけ、拒否されている。ドイツは1940年7月に停戦を呼びかけた際、イギリスの権益を傷つける意思がないことを伝えるが、米英両国は応じなかった。(Patrick J. Buchanan, “Churchill, Hitler and ‘The Unnecessary War’,” Crown, 2008)

 ソ連軍は1939年9月17日にポーランドへ軍事侵攻するが、その直後にイギリスとフランスはイラン、シリア、トルコから飛び立った爆撃機でソ連のカフカスにある油田地帯を攻撃する計画を立てている。パイク作戦だ。1940年3月にはマークを消したイギリスの偵察機がイラクの飛行場を離陸し、バクーやバトゥーミの世紀湯施設を撮影。この攻撃が実行されてもドイツがダメージを受けることはなく、イギリス側の目的はソ連を崩壊させることにあったと見られている。(Michael Peck, “Operation Pike,” The National Interest, November 20 2015)

 真珠湾攻撃の半年前、1941年6月22日に300万人以上のドイツ軍はソ連に向かって進撃を開始。バルバロッサ作戦である。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人にすぎない。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーに退けられたという。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 何らかの理由でヒトラーは西側から攻められないと考えていたのだろうが、実際、西部戦線でドイツと戦ったのは事実上、レジスタンスだけだった。その前、1940年5月下旬から6月上旬にかけてイギリス軍とフランス軍34万人がフランスの港町ダンケルクから撤退しているが、その際にアドルフ・ヒトラーは追撃していたドイツ機甲部隊に進撃を停止するように命令、撤退を助けている。

 ドイツ軍は1940年9月7日から41年5月11日にかけてロンドンを空襲し、4万人から4万3000名の市民を殺害したというが、その間、ドイツ側がソ連へ軍事侵攻する準備をしていたはずだ。ロンドンへの攻撃は東への侵攻作戦を隠し、ソ連側の警戒を緩和させる陽動作戦だったとする見方もある。

 バルバロッサ作戦が始まる5カ月前、ソ連の外交官や情報機関はドイツ軍が6月にソ連侵攻作戦を始めるとクレムリンに報告していたが、ヨシフ・スターリンはその警告を無視したとされている。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ソ連に攻め込んだドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、8月後半になると前線部隊がモスクワまで約300キロメートルの地点に到達した。9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫る。

 ヒトラーは1941年10月3日にソ連軍が再び立ち上がることはないとベルリンで語っている。同じ頃、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官を務めていたヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しているのだが、それでもイギリスは動かない。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 開戦当初、ドイツ軍がモスクワ近くまで攻め込めた一因はスターリンが軍上層部を粛清したことにあるとも言われている。西側で宣伝されたほど多くはなかったようだが、それでも約2万人の将校と人民委員が逮捕され、その多くが処刑されたという。粛清のピークは1937年から38年にかけての時期だとされているが、その原因はスターリンが軍のクーデターを恐れたからだとも言われている。

 1917年の十月革命でボルシェビキは実権を握るが、その前からドイツとボルシェビキの関係は悪くなかった。ドイツ軍とソ連軍との関係も友好的で、スターリンはその関係を警戒していたのだ。

 革命の前、1914年7月に第1次世界大戦が勃発、ロシアもドイツと戦うことになるのだが、これにはグリゴリー・ラスプーチンの暗殺未遂が関係している。大地主や農民の代弁者で、ニコライ2世夫妻から信頼されていたラスプーチンはドイツとの戦争に反対、ロシアとドイツを戦わせようとしていたイギリスにとって邪魔な存在だった。


 そして1914年6月にオキーニャ・グセバという女性に腹を刺されてラスプーチンは入院、その間、ロシアでは総動員が命令される。ドイツは動員を解除するよう要求するのだが、その要求をロシアが断り、ドイツは8月1日に宣戦布告。こうしてロシアはドイツとの戦争に突入するのだが、ラスプーチンは8月17日に退院、ドイツとの戦争からロシアが離脱する可能性が出てきた。ラスプーチンを刺したグセバは精神病棟へ隔離されたが、二月革命の直後に法務大臣だったアレクサンドル・ケレンスキーが釈放している。

 1916年になるとイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関SIS(通称MI6)のチームをペトログラードへ派遣するのだが、そのチームには興味深いメンバが含まれていた。スティーブン・アリー、ジョン・スケール、オズワルド・レイナーだ。

 レイナーはオックスフォード大学の学生だった当時からロシアの有力貴族であるフェリックス・ユスポフ公と親密な関係にあった。アリーはモスクワの近くで1876年に生まれ、15歳の時にイギリスへ帰国、家族の経営するアリー・アンド・マクレランで働くようになるが、その裏では情報機関員として活動していた。スティーブンが生まれた場所はモスクワ近くの家はユスポフの宮殿で、父親はユスポフ家の家庭教師だったとも言われている。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。その際に3種類の銃が使われているが、トドメを刺したのは455ウェブリー弾。イギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだった。ユスポフは上流社会の堕落に憤り、犯行に至ったとされているが、世界の上流社会は堕落している。しかもユスポフ自身、問題のある生活を送っていた。

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。またユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

 1917年3月にロシアでは二月革命でカデット(立憲民主党)を中心とする臨時革命政府が成立したが、主導権を握ったのは資本家階級。メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)やエス・エル(社会革命党)も参加していたが、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか刑務所に入れられていた。ウラジミル・レーニンはスイスにいた。そのレーニンを含むボルシェビキの幹部32名をドイツは「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンは1917年4月に帰国した。言うまでもなく、十月革命はその後のこと。こうした背景があるため、革命後、ソ連とドイツの関係は良かったのである。両国の関係が悪化するのは米英金融資本をスポンサーとするナチスが台頭してからだ。

 ソ連へ攻め込んだドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月にソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲された。43年1月31日にフリードリヒ・パウルス第6軍司令官とアルトゥール・シュミット参謀長らがソ連軍に降伏、2月2日にはカール・シュトレッカー歩兵大将の第11軍団が投降し、事実上、ドイツの敗北が決まった。

 そうした展開に慌てた米英仏の首脳は1943年1月にカサブランカで会談、「ソ連勝利」の印象が広がらないように戦争を長引かせようと考えた。

 そして同年7月にイギリス軍とアメリカ軍はシチリア島へ上陸するのだが、その目的はコミュニストが主力のレジスタンス対策だったと言われている。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。日本の降伏も時間の問題になった。

 そうした中、1945年4月12日にルーズベルト大統領は急死、5月8日にベルリンでウィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印。その段階でイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連に対する奇襲攻撃を目論み、アンシンカブル作戦が作成された。同年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだが、イギリスの参謀本部がこの計画を拒否したので実行されなかった。

 チャーチルは1945年7月26日に辞任するが、46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を宣言する。​その翌年にはアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めた​。

 1951年4月にもチャーチルはソ連を核攻撃するという考えを口にしている。​自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話していたことを示す文書が発見された​というのだ。

 第2次世界大戦後、ナチスの元幹部や協力者の逃走をアメリカの国務省や情報機関は助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を秘密裏に開始、その年に作成されたNSC20では、「結果として戦争を起こし、ソ連政府を打倒する」という方針が示された。(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)

 第1次世界大戦から現在に至るまで「大英帝国」の対ロシア/ソ連戦争は続いている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202505090000/
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