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[医療崩壊9] <流産率は70%を遥かに超えている>ファイザーのワクチンは中絶薬より効果的 「もう一つ大きなニュースがある」(ニコニコ動画… 赤かぶ
328. 豊岳正彦[-16925] lkyKeJCzlUY 2023年8月18日 15:00:50 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[1]
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原爆投下人体実験は良心無きファシズムテロリストの自国民無差別殺害ショックドクトリン汚職戦争犯罪
ameblo.jp/hougaku-masahiko/entry-12816572650.html
旧約聖書創世記以来地球の虐殺略奪ショックドクトリン戦争犯罪テロリストはイスラエル(モサド)と子分イギリス・ロスチャイルド(MI6)アメリカ・ロックフェラー(CIA)であり、
彼らより古くて数が多く力があるエコノミックドクトリンは中国華僑である。
前者は全く良心がない。後者は良心を簡単に捨て去る。
いずれも政教一致カルトである。
カルトは常に自我絶対の利己他害選民妄想に陥っているので必ず自滅し、
政教分離して妄想を捨てた無我平等の忘己利他仏教徒三宝帰依仏国に未来永劫敗れ去るのみである。
__________________

「すべての声は訴える」を全世界の子供の教科書に掲載しよう!
2012年8月20日
   こどもの原爆被爆体験詩集『原子雲の下より』の序文に寄せて
       峠 三吉 
   (未発表遺稿から下関原爆展事務局書き起こし文に≪加筆≫)
////////////////////////////////
すべての声は訴える
青空に雲が燃えていたら
アスファルトの道路が 熱気にゆるんでいたら
雑草や埃(ほこり)の匂いが風に立ちこめていたら
戦後七年
決して明るくなってゆかぬ生活の疲労の中で
広島の人々は
ふとあの悲惨な日々の感覚に打たれることを
炎の中の瓦礫(がれき)の下の呼び声に憑(つ)かれることを
訴えどころのない憂憤(ゆうふん)に ひそかに拳をふるわして耐えていることを
此(こ)の詩集を手にするあなたに知ってもらいたい
それは決して遠い記憶ではない
今、眼に映っている対岸の建物の壁が
突然破れ、瓦がはげ落ち
頭脳の奥で閃光(せんこう)がひらめいても
それは決して新しい事件に遭遇(そうぐう)したのではなく
それは
自分の生きようとする正しい力が
何か巨大にして非人間的な圧力によって
遂(つい)にうち負かされてしまったのだ という絶望感で
受けとられるものにちがいない
此の詩集を読もうとする多くの人に知ってもらいたい
広島の、そして長崎の人間は
原爆の炎の中から脱出して起ち上がろうと努めつつ
その意味する欺瞞(ぎまん)的な力の中で
まだ必死にもがいている
もがいていながらも
私たちは
あの炎と血膿(ちうみ)のしみついた皮膚の感覚で
愛する妻子や父母を茸(きのこ)雲の下で見失った
涙にまみれた体で
今はもう知ろうとしている
原爆を戦争に直接関係の無い老若男女の日本人の上に投下し
その後にわたってその所有を独占しようとし
その脅威(きょうい)をふりかざして
世界を一人占めにしようとして来た意志
日本が侵略されるという囁(ささや)きを吹き込み
再軍備にかり立て
そのような政策に反対する国民の口に破防法(はぼうほう)という
猿ぐつわを噛(か)ませる意志が
すべて一つのものであるということを
もうはっきりと知ろうとしている
そして
此の詩集をお読みになるあなたも
きっと知るにちがいない
私たちが一個の人間として
正しく幸福に生きようとするねがいを
何時(いつ)の時代でも 常にはばんで来たものがあったとすれば
その力こそまさに此の暗い意志であり
その権力こそまさに
私たちを戦争にひきずりこむものであったということを
噫(ああ)そして 私たちは知ることが出来る
世界最初に原子爆弾を頭上に落(おと)された日本人だという
黄色い皮膚にかけて
漆黒(しっこく)の瞳(ひとみ)と流れる黒髪にかけて知ることが出来る
今はもう
戦争を、その物欲と権力保持のために欲(ほっ)する
一握りの、人間と呼ぶに価(あたい)しない人間以外の≪ものたちへむけて≫
世界中の
真実と労働を愛するすべての人々と共に
腕を交(く)みあって
平和へのたたかいを進めてゆくことこそが
私たちの正しく幸福に生きようとする
人間としてのねがいを
達成(たっせい)する唯一(ゆいつ)の道であるということを
私たちは日本人として
植民地支配に苦しんで来た
アジアの人間として
知ることが出来る
そのために
そうだ、それを信じるために
多くの語り難(がた)い苦痛を越え
多くの語ることによる危険をしのぎ
老人も主婦も、未亡人も、青年も
又、勇気ある教師にみちびかれた子供達も
すべての人々が
血と涙にいろどられた叫びを
此の詩集に寄ってあげているのだ
///
どうか
此の信頼と愛が
戦争を憎み 原爆を呪(のろ)う無数の声の中で
大きな稔(みの)りを持つように
その声の底にかくれつつ 永遠に絶(た)ゆることのない
地下からの叫びが
生きている私たちの力によって
癒(いや)されるように!
原爆が再び地上に投ぜられることなく
原爆を意図するものが 世界中の働く者の力によって
一日も早く絶滅されるように!
此の詩集はそのためにあなたにおくられるのだ
一九四五年八月六日、午前八時十五分
広島に世界最初のウラニュウム二三五爆弾が投下され
九日 午前十一時
長崎にプルトニウム爆弾が投下された
広島では全人口四十万のうち
二十四万七千の生命が奪われた
軍事的には
勝負をそれのみで決しうるほどの力はでないといわれる
原子爆弾が
なぜこのような悲惨な現実を呼び起こしたか
落とされた広島は
無防備の市民の上であったし(長崎では市街に近い宗教地域の上であった)
落とされた時間は
市民をまるで屠殺場(とさつじょう)のように中心部に集めていた
それらはすべて
見事に計画されていたといえる
あの茸(きのこ)状をした雲の下には何があったか
そこにあったのは
疎開(そかい)できぬ児童を集め、あるいは勤労奉仕に生徒を集めた学校、陸軍関係のみでも五万人の患者を収容していた病院、青年の出払ったのち堆積(たいせき)する事務に追われていた官庁、銀行、聖戦の勝利を祈らされていた教会、主人をとられ主婦と子供で守っていた商店であり
それらはすべて破壊されたが
炎の海の外側にあった多くの軍需工場は(三菱造船、三菱重工、旭兵器、日本製鋼、兵器被服廠−西条・八本松へ疎開−東洋工業、油谷重工等)
窓、扉、天井が破壊された程度で殆(ほとん)ど無傷であり
国鉄は三日間でその機能を回復した実状であった
その炎の海で死んだのは
勤め人、学生、小児などの老若(ろうにゃく)市民であり
兵隊にしてもすでに出しつくされたあとの力弱い兵隊であった
一九四五年の春から夏にかけて
日本中の都市が夜毎(よごと)に焼きつくされる
戦争の炎の前で
広島はあわれな生きもののように顫(ふる)えつづけていた
今夜こそ危ない
今夜こそ焼かれる、という噂(うわさ)
あるいは広島は水攻めにするのだというような噂によって
夜闇(よるやみ)にまぎれては逃げようとする市民、橋の畔(ほとり)にひかえて逃がすまいとする軍や自衛隊≪原文まま≫
飢えた隣組(となりぐみ)の行列の間(あいだ)を
野菜を満載した軍のトラックが走りすぎる混乱の中で
河が白く埋まるほど、七月末 空から撒(ま)かれた七種類のビラには
原爆の廃墟(はいきょ)と同じ絵が描かれてもあったが
すでに疎開のすべはなく(そのビラを持っていると死刑にすると脅され、警察が人をやとって船を出し、拾い上げて焼却させた)
それでも五日の夜、広島をいよいよ焼き払うと
ビラが落とされたという
二、三日前からの噂によって
市民の多くは周辺の山や畑に逃(のが)れ、濃い闇空の銀河のもと
不安な一夜を明かした
夜半、豊後水道より広島湾上空へ
二百のB29は侵入し旋回数十分 広島を襲うと見せて
突然進路を西南方へ変え
光市の方面へ飛び去った
明け方 空襲警報は解除され
県内に侵入している敵機は四機、そしてやがて離脱したと
ラジオは報じ
七時五十分、警戒警報も解除された
この時、市民はB29の爆音をきいたが
黒めがねをつけた米人の乗員が
人類の恥辱(ちじょく)をのせた三機によって
高々度より侵入しつつあった事を誰が知り得たろう
そして今夜も無事に済んだとほっと安堵(あんど)した人々が
家に帰り、急いで朝食を済まし(朝食の炊事の火はまだ消えるほどの時ではなかった)
出勤者は仕事場へ、学生、生徒は学校から作業場へ
隣組は市の周辺町村から市の中心部へ
畑仕事をやめて松根掘りに日をあかしていた郡部からの義勇隊もそれらと一緒に市の真ん中へ・・・・・・
それは統計ではかり出したように
一日の中で最も多数の市民が屋外に溢(あふ)れている時間であった
此の広島という都市の、雛鳥(ひなどり)のような中心部
この選ばれた時間
広島はどんな無心な表情をしていただろうか
爆心直下の広島中央郵便局では(本局とよんでいた)
丁度(ちょうど)夜勤と日勤者の交替時(どき)にあたり
全員六百名が 古めかしい煉瓦(れんが)造りの建物内に充満し
一人の老小使いのみが
玄関わきの塵溜(ちりため)にごみを捨てに出ていたところだった
七、八百米(メートル)東北方の練兵場では
丁度その朝入隊した男たちが(中年の兵隊か一度病気で帰り再度招集されたものたちであった)
軍服をつけて整列し
見送りの家族が旗などをもって
名残(なごり)を惜しんでいる時だった
千米はなれた県庁では、防空当直二百名が帰宅し
他の庁員が出勤し動員学徒の少女たちが掃除バケツをもって廊下を歩いていたとき
約千五百米の市役所裏 雑魚場町の一帯では
県立高女、県立一中、私立二中、女学院高女、女子商業、その他の一、二年生が教師に指揮されて疎開家屋のあと片付けにとりかかっていたところ
又同所、あるいは同じ距離の土橋町一帯では市近辺よりの隣組、義勇隊の老人や子どもを背負った主婦たちが
同じ仕事にとりかかろうと集合して汗を拭(ふ)いていたときだった
///
二千米はなれた横川町の狭い商店街は郊外より
市内へ出勤する人の群(むれ)で埋まり
三千米はなれた家庭では作業へ、あるいは職場へ家族を送ったあとの年よりが幼児が朝食のあと始末に働こうとしていた
ああ そのような
戦争の末期の不安のなかで
常に天皇を頭(かしら)とする権力者たちの意のままに
父や夫や息子をさし出し
ダイヤも金も、あらゆる財産を投げ捨て
ぼろをまとい大豆を囓(か)じり野草をたべながら
従つてきた国民が
その愚かなほどに無心の表情を
八月の青空にむかって曝(さら)していたとき
TNT二万トン爆弾より強力な
グランド・スラムの二千倍以上の爆破力を有する
そしていまや
太陽の力が源泉となる勢力が(八・六トルーマン声明)(二〇〇〇呎(フィート)直下の温度は摂氏三〇〇〇〜四〇〇〇度−ロスアラモス科学研究所「原子兵器の効果」より。トルーマン大統領がいかにもやさしくヒルダと呼んだ)
上空五百米(メートル)に於いて放射されたのである
大部分の子供達が此の詩集の中で「ピカッー」と光ったという印象を伝えているほど
この時の光線の印象は強烈なものであり
体験者たちは
赤・紫・白・黄・紺色・橙(だいだい)色だったと様々な感じを伝えているが
その強烈な光りは
それを直視したすべての人の視力を奪い
その瞬間から広島の悲劇は始まったのである
中央郵便局は未曾有(みぞう)の衝撃を真上から浴びて瞬時に倒潰し全員死亡老小使いのみ一人生き残っていたが二、三日後に死亡し
練兵場の一隊は全部赤剥(む)げになったり
半裸で作業中の兵隊はみじめであった
真黒く炭化したりして散乱した(軍関係の死亡者は一二五、八二〇人と算出されている)
県庁で圧殺(あっさつ)をまぬがれた人々は水を求めて河岸へいざり寄り
万代橋の西詰では二日後まで死体の山が
河底から土手より高く重なって盛り上がっていた
疎開家屋のあと片付にとりかかっていた中学校、女学校の下級生徒たち、又それを引率指揮していた先生たちの
最後の模様をどのようにつたえたらよいだろうか
思い思いの服装に新しい麦ワラ帽をかぶったり
歌を唄いつつ友人とふざけあったり 作業場に到着した
すべて十三、四才の少年少女たちが
突然の(不意の)閃光に出あい 打ち倒され
煙のはれ間やっと起き上がったものは
すでに花のようなもとの姿は奪われて
頭髪は焼け、前日に黒く染めた着衣は焦げ飛び、皮膚は剥(は)がれて肉が露出し 顔はふくれた
降(ふ)りくる石や材木に打たれた傷は石榴(ざくろ)のように口をあけて
その場で死んだものの骨、水槽の中に教師に抱かれて死んでいる死体
母を呼び 教師を呼び、歩けぬものは腹這(はらば)って比治山方面へ逃れて行く
土橋方面の隣組は多くが火傷(やけど)の傷手(いたで)と焔(ほのお)に追われ
天満(てんま)川に這い降りて水に流されたらしく この辺りの消息はよくわからない
家庭の悲惨も同じであった
瞬時に倒潰(とうかい)した家屋の間から 焔に包まれる最後まで
助けを求めて掘られた腕(倒壊した家の下敷きになった子供を救ってくれと哀訴(あいそ)する母親の必死の顔付(かおつき)は、長く忘れる事が出来ない)
熱いよう熱いようの 細々とつづいたよび声は遂にとだえても 助けの力を得ることなく
広島全市が焼けはてて骨となっても
骨のひらい≪拾い≫手さえ帰って来ない
此の時 たつ巻をよび風をつのらせる炎の上、市の西北一帯に真黒い豪雨が降り
己斐(こい)の山上にしばらくかかっていた虹の色は生き残った人々の記憶につよく残っている
夜に入っても全市の炎は明々(あかあか)と空を焦がしている
このとき市の周辺の町村の
病院、学校、お寺、個人の家などには
逃れてきた人々が折り重なって倒れ
次々と口鼻から血を吐いて死んでゆきつつあった
(義勇隊を送った部落は軒並(のきなみ)に二人、三人死に、探しにゆく。葬式を出す。怪我(けが)をして帰ってくる割当の罹災者はなだれこんで眼も当てられぬ光景)
看護の婦人会など夜になると恐怖のために逃げ帰る程だった
こうして即死したものは骨とドクロになり(一中の焼跡にはドクロが机の配列の通りに並んでいて手に取ろうとすると灰となって崩れた。中心部では骨も何も無い)
火傷のものは一週間から八月中旬までの間に
膿(うみ)と蛆(うじ)にまみれたまま次々と死に
九月頃 無数の蝿(はえ)が発生した
八月二十日頃より原爆症が始まった
体に無疵(むきず)のものが髪がぬけ 急に下痢(げり)、嘔吐(おうと)、発熱し口からの出血は止まらず 全身に斑点(はんてん)が現れ死亡する
この手のほどこしようもないこの症状が
生き残った人々の上を襲った(ひどいものは白血球が五百まで減少した。健康体で七千〜八千、一千以下では生命が危ない)
薬品類はすでになく
栄養を、新鮮な果物を、といってもこの時国民の誰が
それらを手にし得(え)よう
このような時でさえ一部の病院では
金のあるものは あたう限りの治療をうけ
身よりも金もないものは形ばかりの治療で放置された
そして一方火傷の人々は
幾度(いくたび)皮膚が貼っても又その底からの膿(うみ)で破れ
その苦痛は自殺を欲(ほっ)する苦しみ
このような中で死ぬものは死に 残るものは残ったが
戦後七年間の歩みの中で
この原爆の影響がどのように尾をひいているか
東雲(しののめ)付中≪附属中学≫で生徒たちに「生い立ちの記」を書かせたら殆ど全部のものが原爆のことにふれていたというほど
広島の人々の間にしみ通っている原爆が
ケロイドにより原爆症により いかなる被害を及ぼしているか
広島の中心地にいる人は体験者が殆んどいない、
それは大抵(たいてい)の家が一家全滅してるからだ
あの驚きのために気のふれた(健忘性失語症)子供
馬鹿になった(記憶喪失)青年
治療ののぞみない体に絶望のあまり自殺をしようとするもの
それらの悲しみと苦悩は
すでに今迄(まで)の年月の間で耐ええぬものは死に
耐えうるものは踏みこえて来たものの
顔面のケロイドのために平常は家にひきこもり、八月六日の命日のみには
爆心地の供養塔に参りにゆく姿の見られる娘さんたちの
胸に秘めた涙は何によって慰められる事が出来よう
///
又 詩の中にもかかれているように 禿(はげ)よ禿よとけいべつされる
子供たちの悲しみを誰が癒(いや)してやれようか
しかも 七年たった現在でも尚(なお)、「原爆の子」の伊藤久人君が今春死亡したように
原子爆弾症は継続して起こりつつあり 戦後現在まで全く何ともなかった者が急に白血球の減少 又は急増(きゅうぞう)を来(きた)して死に瀕(ひん)しつつあること
又 遺伝的悪影響が科学者(ハックスレ−)によって説(とな)えられ
ワシントン二二・三・十六発AP共同は米陸海軍軍医ならびに科学者からなる原子爆弾の被害調査委員会が、広島および長崎の爆撃生存者について医学的調査をつづけて来たが、二十六日生存者の間から数名の奇形児が生まれたことを発表した。但し原爆が直接の原因であるとの確証はまだあがっていない(毎日三・二八)
と報じられるようでは
一体どうなるであろう
そして又 それらはすべて治療の方法がなく、その見通しさえないとしたら
又落(おと)された時どうなるのであろう
原子爆弾の使用されぬことを
再び戦争の起こされぬことをねがう必死の声は
この苦悩の中から叫び出されているのだ
一九四五年 ドイツの降伏後三ヵ月でソヴェートは日本に宣戦すると決まった
 ヤルタ会談が二月に終り、四月一日米軍は沖縄に上陸
同≪四月≫五日小磯内閣は退陣
同日モロトフ外相が、日ソ不可侵条約の不延長を通告して来た
五月八日ドイツはついに無条件降伏をしたが
ソヴェートの戦力消耗を待つように、第二戦線の形成をおくらし≪遅らせ≫ていた米英がスターリングラードの反撃より急に赤軍が攻勢に転じると、作戦上の無理をおしつつ イタリーやノルマンディーに上陸し、ベルリンの争奪戦が行なわれる
そのような中で
日本の戦力もすでに打ち滅(ほろ)ぼすべき敵ではなく
早く飼いならして次の相手に使用すべくねらわれていた
然(しか)も日本の財閥と軍閥はそれを知って、国民を本土決戦の叫び声の中においやりながら(君が代をうたい、「日本は勝ちますね」と先生に死の前にささやいた女生徒〈進徳高女〉のようなものはどこにでもいた)
天皇制を保持(国体ゴジ≪護持≫)しながら戦争を終えるケイキ≪契機≫をつかもうとねらっていた
二人の客に媚(こ)びを売る女のように
前総理大臣広田をソヴェートに当たらせ
横浜銀行スイス代表者にアメリカ実業団との交渉をさせようとした
六月二十一日 沖縄での日本軍の組織的抵抗は終り
七月十六日 ニューメキシコで世界最初の原子爆発が行われた
その翌日ポツダム会議開催
二十六日同宣言発表
すでに八月八日にソヴェートが対日宣戦布告するのは明瞭であるし
そうなれば赤軍がいかに短時間で日本に到着するかは充分予測される
このような中で
「何故原爆を使用するなら、連合国主催の実験でその威力を示しその基礎に立って日本に最後通牒を発し、責任の負担を日本人自身にゆだねなかったか」
といい
この詩集の中で子供たちが
「なぜ広島に落したか」と責め
「どうせ落るなら砂漠におちろ」とうたっても
「もし原爆投下の目的がロシアの参戦前に日本を叩(たた)き潰(つぶ)すことにあったとすれば、ないしは少(すくな)くともその目的が日本の崩壊(ほうかい)に先立つロシアの参戦をして名ばかりの参戦に留(とど)まらしめることにあったとすれば・・・・・・」
そのようなことは時間的にも
又そうでなくとも考えられなかったのである
こうして八月六日、広島の上に原子爆弾一号は投下された
そうして八月九日、ソヴェート軍が満州国境より急速力で
南下しはじめた朝、長崎に二号が投下された
かくして十四日
日本はポツダム宣言を受諾(じゅだく)し
終戦の詔勅(しょうちょく)が出された
その中で天皇は
「加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル」といわれている
K・T・コムプトン博士は「原子爆弾の使用がアメリカ人、日本人の数十万−おそらくは数百万の生命を救ったという確固たる信念をいだくに至った」とのべ
とにかくこれによって
日本は降伏し 米国は一挙に日本を占領し
日本の天皇と財閥、軍閥はその力を保存したまま国民の前に
戦争をやめるいいわけを得たかたちとなった
そうしてこのことがその後(のち)効果をあげるために
どんなに言いひろめられたかを見るのは興味深い
先ず 原子爆弾の絶対的な威力をつたえる言葉が流布(るふ)された
「この威力 正に火薬二万トンに匹敵」(中国二〇・八・一五)
「今後七十年は棲(す)めぬ−戦争記念物広島、長崎の廃墟−」(毎日二〇・八・二四)
「死者なほも続出」(朝日二〇・八・一三)
「広島の被害世界一」(中国二〇・九・四)
そして永(なが)く原爆のことを書くことが禁止されていた
この恐怖とともに
原爆こそ日本の救い主だった、感謝すべきだ
原爆は平和をもたらしたものであり、広島の犠牲者は平和のための殉教者(じゅんきょうしゃ)のように扱われ、家族を失った人々はそれをもって諦(あきら)めようとした
諦めさせるには広島が真宗(しんしゅう)の伝統的地盤であるということはもって来(こ)いであったし
長崎もカトリックの地盤、しかもわざわざ信徒たちの居住地の上に落としたのも意味のない事ではないと思われるのだが(医科大学、養育院、天主堂のある町はずれの地区)
かくして「ノーモア−ヒロシマズ」が叫ばれ
片方でアメリカを美化し
片方で広島では平和を売り物にすることとなった(広島平和記念都市建設法案が二四年めでたく議会を通過する)
毎年の八月六日 爆心地の平和塔の前で市が主催する平和祭は、花火をうちあげ鐘(かね)や鳩(はと)や展覧会や踊りの大会と賑(にぎ)やかにくりひろげられ、五人の孤児たちが父母に再会しようと少年僧になったことがもてはやされ、ミス・ヒロシマが長崎の土をはらはらふりかけたりするが、生き残った人々の根深い反発を受けた
しかし一九四九年、ソヴェートの原爆所有が明らかとなり
一九五〇年六月二十五日、朝鮮戦争が始まってより
その声が変化してきたのを私たちは知っている
///
今までの悲惨さによる威嚇(いかく)から(水素バクダン!)
原爆の記憶を抹殺(まっさつ)しようとする動きに変わってきた
原爆広島の象徴(しょうちょう)になってきた産業奨励館のドームを崩し
原爆娘は戦犯(せんぱん)を慰問(いもん)させられ
原爆一号といわれる十六回の手術を繰り返したK氏のケロイドの体も日赤から追放し
一方、精神養子の運動が行われ
広島の廃墟と魂(たましい)の傷痕(きずあと)を緑の芝生と植民地的文化によって埋めつくそうと変わってきた
再軍備は原爆投下の意味の延長であり
その中ではすでに戦争を否定(ひてい)する平和の声は弾圧(だんあつ)される(一九五〇年の官制的なものも平和祭の全面的禁止!)
そして一九五一年の八月六日の式典には朝鮮戦線からのパイロットが参列し
広大学長は戦争を肯定(こうてい)する平和をとなえる
この中で誰が沈黙(ちんもく)していられるだろうか
広島の 長崎の
いや日本人としての私たちがどうして黙って居(お)れようか
この詩集の中で大人たちは「死ぬ前でないと本当のことはいえぬ」
という叫び声をあげた
子供たちは真向(まっこう)から戦争と原爆反対の声をはり上げる
この仕事の中で結ばれた子を失った主婦は、夫を失った未亡人は、ケロイドの娘は共(とも)に立ち上がって原爆を落としたものに対し「つぐないを!」と叫ぶ
流された血はつぐなわれねばならぬ
しぼられた涙は拭(ぬぐ)われるべきだ!
しかも未(いま)だ この詩集に現れたものの何倍、何千倍の声が
心の奥に秘(ひ)められているならば!・・・・・・
/////////////////////////////////
2012.8.20豊岳正彦投稿

戦争と原発事故は人災の極致でありともに地球に対する最悪の犯罪である。すなわち核兵器と原発は同じものである。
峠三吉は36歳で死去したがこの世の戦争のすべてを見通して子供たちのためにこの詩を遺した。
この詩に書かれた自分の物欲や征服欲支配欲を満たすために戦争を起こして他人を殺戮することを何とも思わない人間と呼ぶに価しない人間以外のこのようなものたちをこれ以上この世に作り出さないために、
「すべての声は訴える」を全世界の子供の教科書に掲載しよう!
すべての子供たちを心正しく心優しく育てることこそが人間に天与された使命である。

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原爆投下人体実験は良心無きファシズムテロリストの自国民無差別殺害ショックドクトリン汚職戦争犯罪
ameblo.jp/hougaku-masahiko/entry-12816572650.html
旧約聖書創世記以来地球の虐殺略奪ショックドクトリン戦争犯罪テロリストはイスラエル(モサド)と子分イギリス・ロスチャイルド(MI6)アメリカ・ロックフェラー(CIA)であり、
彼らより古くて数が多く力があるエコノミックドクトリンは中国華僑である。
前者は全く良心がない。後者は良心を簡単に捨て去る。
いずれも政教一致カルトである。
カルトは常に自我絶対の利己他害選民妄想に陥っているので必ず自滅し、
政教分離して妄想を捨てた無我平等の忘己利他仏教徒三宝帰依仏国に未来永劫敗れ去るのみである。

産婦人科も男がお産できるわけがないのに妊娠出産を掌るのが男の産婦人科だというでたらめにもほどがある。ヒポクラテスに誓に精神科も産婦人科も外科もすべて否定してあるように精神科と産婦人科と美容整形性転換手術委は直ちに医師免許はく奪せよ。これらの偽医者はすべて人間の法益「身体生命と私有生活財産」を一方的に侵害し破壊し略奪する法治社会の不倶戴天の敵である。もちろん刑法で犯罪者を罪刑法定日本六法で粛々と断罪する。これが世界に冠たる仏法君子菩薩日本国民だ。

_____________________

日韓対立の真の原因は伊藤博文にある。西郷隆盛の和韓論を陰謀で葬った伊藤はその後欧米に強要された不平等条約を朝鮮王朝に対して強要した。その治外法権の下で朝鮮国王妃に対して無法な殺害テロを起こしたのが「閔妃暗殺事件」である。
https://y-history.net/appendix/wh140

アメリカはこの伊藤博文の悪行を日韓に対する地位協定で無かったことにできるのか。歴史の捏造を両国に強要できるのか。まあ岸田はエマニュエルに日本人の臓器を売り渡した売国奴だから金のためなら歴史の捏造も無知だから平気だろうが、日韓地位協定によって国母を一方的に殺され太平洋戦争で一方的に

被ばくさせられ対米特攻死を強要された韓国の人たちが岸田に日本の国の割譲を要求した時馬鹿で無知だからすべて売国するであろうね。アメリカはもともとネイティブアメリカンを皆殺しにして建国した無法の国であり、外国を侵略するとき自国民をテロで大量に殺して偽旗作戦で他国に罪を擦り付けて大量破

壊兵器の核攻撃をかけるしか能がない反人道虐殺略奪モサドバカである。歴史のないバカ者に孫呉の兵法などない。まあバカしか総理をやらせないとモサドが言ってたが岸田と林はこれ以上ない売国にうってつけのバカ者だということだ。日本人の特別司法公務員警察官検察官裁判官は、自分の子や孫の臓器を

岸田と林によってわずかな金とハニトラでラームエマニュエルにマイナ保険証で抜き取られ切り刻まれて売り飛ばされてもよいなら、刑訴法239条2項を無視して岸田と林と自公政権からはした金もらって喜んでおけ。国を守る本当の国士は貴様ら汚職公務員下克上下郎ではない。自衛官消防官海上保安官である。

太平洋戦争は大英帝国陸軍元帥が日本の国体(もともとそんなものはない。日本の国体は国のまほろば大和の海と山である)を偽称して日本国民を400万人大量に殺したモサドの偽旗作戦自国民殺害略奪テロだったが、失敗したのだ。賢い日本人は日本国憲法第9条でモサドバカによる日本占領を防いだ。馬鹿の

一つ覚えでも今度は天皇じゃない下僕内閣だからそんなもんに騙されるほど愚かなバカはディープステートの0.001%しかいないぜw日本人は文武両道武士道の国民である。地球の人口の0.0001%の外道犯罪者ばかに騙されるほど愚かなのは三代前は外国人の偽日本人のホントの売国奴東大慶応大医者弁護士無芸

大食芸人低能ばかだけだよw日本の国を先祖伝来武士道で守る自衛官と消防官と海上保安官が売国奴のジェノサイドテロリストを六法全書で一網打尽にして牢にぶち込むさ。まあとりあえず、法益を守る特別司法公務員が六法全書に従って国益法益「国民の身体生命と私有財産」を一方的に侵害する刑事犯罪者を

刑訴法239条2項で全員憲法76条謙虚摘発するかどうかじっくり見物させてもらう。特別司法公務員が汚職するなら国益が侵害されて国家が崩壊するから、その時国家を守り国民の身体生命と国土を守る自衛官消防官海上保安官が一致協力して売国汚職反逆者を全員逮捕して国外へ永久追放するさw極刑犯罪だが

殺しはせぬよ日本人は先祖代々永代不殺生戒を守る仏教徒だからなw国家神道みたいな明治22年伊藤博文アル中脳内発症選民妄想新興宗教政教一致カルト邪宗外道のファシズム独裁ハムラビ法典親不孝テロリストなど、動物でも虫魚でも草木土石でも相手にせぬよw

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【図説】サミット開催 BRICS諸国の概要、拡大の展望
https://sputniknews.jp/20230818/brics-16826979.html
sputniknews.jp
【図説】サミット開催 BRICS諸国の概要、拡大の展望

このあとは北朝鮮がBRICSに入るから当然韓国もBRICSに入るだろうwそれは全部ロスチャイルドフリーメーソン廃仏毀釈スパイ伊藤博文の売国悪業「明治六年政変」の因果応報だ。
http://asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c187
西郷隆盛が訪韓していれば不平等条約など結ばなかった。山岡鉄舟とともに天下一武士だからな。

江藤新平を刑部官から追い落として佐賀の乱をでっちあげて殺し萩の乱で長州藩最後の武士前原一誠を殺し西南戦争で維新回天の偉業を成し遂げた世界一の武士西郷隆盛を殺した後汚職やり放題の長州藩エタヒニン岩倉具視三条実美伊藤博文山県有朋が富国強兵汚職で国民を大量に虐殺した足尾銅山利根川鉱毒事

件がフリーメーソン馬鹿の一つ覚えの自国民虐殺テロだよ。現行刑法で言う刑法146条水道毒物等混入大量殺人組織犯罪だ。鉱毒は銅を精錬するときに触媒として大量に使う砒素が主成分だ。徳川旗本武士田中正造翁が決死覚悟して明治天皇に直訴した。
hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-7ebc.html

林芳正の刑法146条違反メガソーラー鉱毒砒素垂れ流し殺人汚職はエタヒニンの血脈がなせる業だ。エタは大陸から渡来した敗残王族天皇一族、ヒニンは大陸から渡来した天皇手下の暴虐殺人弾圧略奪の暗殺専門忍者だよ。いずれも日本人じゃないから血にこだわるのさw但し馬鹿だから良心がなく

親孝行を知らない、一神教政教一致拝金唯物略奪反社無法カルトだけどねw
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c135

伊藤山県林と違って、岸家も佐藤家も松岡家も乃木家も毛利藩以前から武士の家系であり、安倍家は神武以来の東北海人族武士平安時代安倍比羅夫子孫末裔である。
だから安倍ちゃんはハニトラ汚職にはまった菅直人林芳正の非人家系が死ぬほど嫌いだったのさ。仏教徒三代武士は嘘と汚職を最も嫌うからな。

安倍ちゃんの書道達筆は武士のしつけだよ。

会津藩武士がなぜ長州藩を毛嫌いするか。戊辰戦争で鶴ヶ城を攻略したのは薩摩藩の武士板垣退助であるのに。それは武士じゃない非人の山県有朋が率いる長州軍が越後長岡藩で河合継之助に苦戦して会津攻略戦に参戦できず戦後に到着したため下らぬメンツで山県が会津藩の戦死者を葬ることを禁止して永く野

ざらしにさせたからである。人としての情けのかけらもない後醍醐天皇と同じ愚かな政教一致カルトエタヒニンの悪行だった。非人山県狂介の世俗の地位をかさに着た無慈悲暴悪を会津の人々は深く心に恨んだのである。

ハワイ王国は明治維新政府が誕生してすぐに日本の明治天皇に宛ててカメハメハ大王が日本国の一州として加えてほしいと国書を送ってこられたが、海軍力でアメリカを打ち破る自信がなかった天皇と西郷ら武士が去った側近のエタヒニンは断った。西郷が政府にあれば必ずハワイは日本と対等通商条約を結び

親しく国交を開いてアメリカの侵略を防いだであろうに。


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アメリカが朝鮮とベトナムでさんざんやったことは非戦闘員の虐殺なら知ってるぜw原爆は使わなかったがルメイのナパーム弾窒息爆撃はやりまくったがあれが空戦かwしかもあれだけやって結局戦争に負けとるしwこういうのを馬鹿というんだw
http://www.asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c328

[政治・選挙・NHK158] 松井知事「日本人ならごくごく自然なこと」  (産経ニュース)  : 靖国で不戦を誓うのは 政治家として当然のこと 真相の道
194. 豊岳正彦[-16933] lkyKeJCzlUY 2023年8月18日 17:12:34 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[2]
<■333行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
閔妃暗殺事件
y-history.net/appendix/wh1403-037_1.html
1895年10月、朝鮮で実権を持っていた親露派の王妃閔妃を、宮中に乱入した日本公使らが殺害した事件。事件の背景には三国干渉によって親露派と結ぶ閔氏が台頭したことに対して、日本が反閔妃の大院君を利用して巻き返しを図ろうとしたことがあげられる。しかし王妃などに対する直接的な凶行は国際的な批判も受け、また朝鮮民衆の反日感情も強まったことから日本は朝鮮での発言権を弱め、かえって親露派が勢いづいた。
 みんびあんさつじけん。朝鮮王朝は、日清戦争の結果として1895年4月に締結された下関条約において、清の宗主権が否定されたことによって、属国としての立場から通常の独立国家であることが確定した。日本は朝鮮に対する強い指導権限を得たと判断し、並行して行われていた甲午改革といわれる近代化政策に介入し、その立場を強めようとした。ところが、直後のロシアを中心とした三国干渉があり、日本が遼東半島を清に返還せざるを得なくなったことで、朝鮮の政府内部にロシアと結んで日本の勢力を排除しようとする親露派が形成された。その中心には高宗の王妃として政治上の実権をふるうようになった閔妃(明成皇后、びんひ、ミンビ)がいる、と見られるようになった。
 そのような情勢のもと、1895年10月8日未明、日本公使三浦梧楼は公使館員、日本軍の京城守備隊などに日本人浪人を加えて朝鮮王朝の王宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った。そのうえで大院君を王宮に入れ、高宗に対し、親露派を一掃し日本の協力の下で政治改革を進めることを強要した。この一連の王妃殺害事件と政権の交代を乙未事変(乙未は当年の干支)ともいう。

『閔妃暗殺』
 この事件は一国の公使が在任国の宮廷でその王族を殺害するという前例のない出来事であった。しかし当時日本では、事件は閔妃と大院君の内紛に三浦公使が巻き込まれたにすぎないという理解と、公使の行動も日本の国益を守る愛国心から出たものであるという同情が一般的で、国内から非難がわき起こることはなかった。また関係者の証言や記録もあえて真実は語らないという態度のものが多く、事件の実情は闇に包まれていた。そのなかで1988年に角田房子が『閔妃暗殺』を発表してベストセラーとなり、初めて日本でも広く知られるようになった。歴史書ではないが、両国の史料をよく調べた力作であるので、それにそって事件の詳細を見てみよう。

三浦梧楼という人物
 三浦梧楼は長州出身の軍人であったが、彼が韓国駐在の公使となったのは、前任の公使で同じ長州の井上馨の推薦によるもので、伊藤博文と山県有朋が決定した。井上は日清戦争後の駐韓公使として閔妃を何とか日本側に引きつけようと努力(例えば300万円の援助を約束するとか)を重ねたが、閔妃の親ロシア姿勢を変えることができず、最終的な手段として閔妃を除くことが必要と密かに考えるに至った。そこでその実行に適した人物として三浦が選ばれた。三浦はある決意≠もって韓国に赴任した。三浦梧楼は戊辰戦争や西南戦争で活躍し、直情径行の人として知られて、士官学校校長や学習院院長を務めた人物である。
 閔妃殺害事件はさすがに対外的にも問題となったので、公使としての三浦梧楼の責任が問われ、事件後召還されて広島で裁判となった。しかし直接関与の証拠はないとして無罪となった。彼はその後も長州閥の旧軍人として優遇され、晩年には枢密院顧問となっている。彼の回顧録が公刊されていて、様々な自慢話が語られているが「朝鮮事件」の一節は、自分の判断で実行したと語るだけで詳細は言葉を濁しており、「我輩の行為は是か非か。ただ天が照臨ましますであろう。」と結んでいる。<三浦梧楼『観樹将軍回顧録』中公文庫 p.290>

暗殺決行
 三浦の計画では、皇帝が親露派の閔妃に動かされて、日本軍人を顧問としている理由で解散させられることになった訓練隊が反乱を起こし、その混乱に乗じて閔妃を殺害、反閔妃の大物大院君を担ぎ出して親日派政府を樹立するというものであった。当初、1895年10月10日に決行と決めたが、訓練隊の解散が早まりそうになったため急遽、8日深夜に変更、三浦は公使館員堀口九万一や民間人の漢城新報社長安達謙蔵(後の政治家)、同社員の小早川秀雄らとはかり、実行要員として大陸浪人と言われるようなごろつき連中をあつめ、日本軍の馬屋原少佐にも連絡して態勢を整えた。大院君の決起という形をとるため浪人の岡本柳之助らがその幽閉先に向かい、寝所に押し入って強引に説得した。しかし大院君がすぐに腰を上げなかったため予定より時間をくっていまい、王宮に着いたのは明け方になってしまった。そのため、夜陰に乗じて閔妃を殺害するという計画は不可能となり、王宮に侵入しようとした日本軍と侵入者たちと王宮守備隊との銃撃戦となった。宮中に乱入した日本兵と抜刀した民間人は、閔妃をさがして駆けめぐり、女官などに手当たり次第に暴行を加えた。たまたま宮中にいたアメリカ人顧問やロシア人技師もそれを目撃した。この乱戦の中で閔妃は斬殺されたが、直接の下手人はわかっていない。後の裁判では日本の軍人だったという証言もあったが、他に数名の民間人が自分こそは下手人だと名乗るものがあり、結局は不明とされた。事件後宮中に入った三浦公使は閔妃を確認するとすぐに焼却を命じ、遺骨は宮中に埋められたとも、池に投げ込まれたとも伝えられている。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 現在は新潮文庫>

事件のその後
 その時の伊藤博文内閣の外相陸奥宗光は病気療養中で、西園寺公望文相が外相臨時代理を務めていた。西園寺は未曾有の事件に不審を抱き、ただちに小村寿太郎政務局長を現地に派遣した。小村が10月17日に西園寺に出した調査報告は三浦公使が使嗾(そそのかす)したものと断じたので、同日、公使を召喚し、罷免した。
 国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼らを裁判にかけたが、証拠不十分で無罪となった。朝鮮の金弘集内閣は日本の圧力を受け、事件の解明を行おうとしなかったために民衆の反日感情は強まり、1896年1月、王妃である閔妃の殺害に憤激して「国母復讐」を掲げ、最初の反日武装闘争である義兵闘争が起きる。日本兵を含む政府軍が義兵鎮圧に向かい、首都の防備が手薄になったすきに、親露派はクーデタを起こし、高宗をひそかにロシア公使館に移して金弘集政権を倒して親露派政権を樹立した(2月)。閔妃暗殺事件は結局日本に有利な状況を作り出すことはできず、その後、ロシアはさらに朝鮮への影響力を強め、日本との対立が深刻化して日露戦争へと向かっていく。

参考 彼らを駆り立てたもの
 実行犯の一人である小早川秀雄は「朝鮮とロシアの関係をこのまま放置しておくならば、日本の勢力は全く半島の天地から排斥され、朝鮮の運命はロシアの握るところとなり、・・・これは単に半島の危機であるばかりか、まことに東洋の危機であり、また日本帝国の一大危機といわねばならない。この形勢の変動を眼前に見る者は、どうして憤然と決起しないでおられようか」と書いている。彼は韓国に来る前は熊本の小学校の先生だった。

(引用)このように全員が「閔妃暗殺は、日本の将来に大いに貢献する快挙である」と信じて、一点の疑いも抱いてはいなかった。《逆効果にはなりはしないか。日本を窮地に追いこむ結果になりはしないか》と思い悩んだり、ためらったりした人はいない。彼らの多くが、殺人は刑法上の重大犯罪であり、特に隣国の王妃暗殺は国際犯罪であることを知らなかったわけではない。しかしそれが、国のため≠ナあれば何をやっても許される、それをやるのが真の勇気だという錯覚の中で、殺人行為は「快挙」となり、美挙≠ニ化した。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 p.306>

 角田房子の著作は現在では細部で誤りが訂正されているが、大筋では事件を正しく捉えている。どのような視点から見ても事件を正当化することはできない。また、無視したり、忘却することはできない。日本にとっても忘れたい事件であるが、事実に目を向けていくことが現在の日韓関係を良くしていく上でも必要である。<作成 2013/‎3/‎25>

閔妃暗殺事件 2023/2/15 <追記>
 以上、角田房子氏の『閔妃暗殺』を紹介したが、歴史事実として閔妃及び閔妃殺害事件について、最近の歴史書ではどのように説明されているか、改めて検証してみよう。
事件の発生 1895年10月8日未明、朝鮮王朝の王宮(景福宮)で、王妃の閔妃、宮内大臣李耕植が殺害された。襲撃したのは日本軍京城守備隊(公使館付武官楠瀬幸彦ら)、公使館員(堀口九万一ら)、公使館警察官、大陸浪人と言われた一般人(安達謙蔵ら)からなる日本人と、訓錬隊幹部禹範善が指揮する朝鮮人部隊が加わっていた。宮中には国王と王太子、閔妃がいたが、最も奥まった乾清殿にいた閔妃は踏み込んだ暴漢に殺害され、さらに兵士らによって遺体を焼かれた。王妃を守ろうとした侍衛隊長洪啓薫は戦死した。同日深夜、事件に先立ち岡本柳之助(朝鮮宮内府顧問)は漢城郊外に蟄居中の大院君を訪ねて説得、宮中に伴い、閔妃殺害後に大院君は高宗に会い、事態を収束させることを告げ、10日には閔妃を廃妃とした。
日本政府への報告 10月8日の公使館員らの動きを知らされていなかった日本領事館一等書記官内田定槌は事件当日に東京の原敬外務次官に第一報を送り「王妃を殺害したのは守備隊のある陸軍少尉である」と伝えた。事件が一段落してからの外務省への正式な報告では、内田書記官は「独り壮士輩のみならず、数多の良民、及び安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員、及守備隊迄を煽動して、歴史上古今未曾有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為実に残念至極なる次第に御座候」と報告した。<金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009 高文研 p.249,254>

事件の背景と経過
 1895年春の三国干渉によって日本が遼東半島を清に還付したことから、朝鮮王朝内で閔妃を中心として親ロシア派の勢力が強まった。それに対して反閔氏政権の巻き返しが始まる情勢となった。まず大院君は4月に孫の李呵Oが東学と結んで国王の廃位を目論んだという陰謀が明るみに出たことによって、蟄居させらていたので、閔妃に反撃する機会を狙っていた。親日派の中心にいた朴泳孝はかつての甲申政変の首謀者で、日本に亡命していたが、日清戦争中に日本公使井上馨の推薦で朝鮮に戻り、金弘集内閣に協力していた。朴泳孝は軍の改革を進めようとして日本士官によって訓練された訓錬隊を編制し、王宮を警備に当たらせようとしたが、高宗・閔妃は強く反対し、7月6日に朴泳孝は閔妃を除こうとした疑いで反逆罪に問われてしまった。そのため朴泳孝は難を避けて、二度目の日本亡命に向かった。訓錬隊に代わってアメリカ人士官の指導のもとで侍衛隊が設置されたので、訓錬隊には閔妃を恨むものが現れた。
日本公使三浦梧楼 三浦梧楼は9月1日、漢城に入り、3日に前任者井上馨と共に国王高宗に信任状を提出した。その後も井上と引き継ぎの協議をしている。井上は親露派に関心を向けている閔妃を日本側に取り込もうと300万円の寄付と電信電話線の朝鮮への譲渡を提案していたが、いずれも閔妃に拒否されていた。それをうけて三浦公使はより強い手段で日本の立場を守る必要があると考え、公使館の杉村濬、朝鮮政府とパイプのある岡本柳之助らと秘密裏に協議し、大院君、訓錬隊の禹範善らとも連絡をとりながら計画を練った。構想では大院君と訓錬隊がクーデタをおこして閔妃政権を倒し、その混乱を日本軍が鎮定して親日派政権を樹立しようとしたものと思われる(杉村濬の残した手記などで確かめられる)。 ただし最初から閔妃の殺害を計画していたかはわからない。三浦公使は、かつて日清戦争直前の1894年7月23日に、日本軍が朝鮮王宮を襲撃して占領し、大院君を擁立して親日政権を建てたことが「成功体験」としてあったので、今回もその再現を狙ったとも考えられる。
閔妃殺害の実行 襲撃は日本人、朝鮮人からなる多数の実行者によって行われた。殺害現場は凄惨なものがあった。直接に殺害した人物を一人として特定することは困難で、日本の軍人、兵士、いわゆる壮士の中には自分こそ最初の一太刀をふるったとか、とどめを刺したとか、死体を確認したとか、運んで火葬にしたとか、様々な証言がある。集団で行われた殺害行為であり、一人の行為ではないので、「誰が閔妃を殺したか」という問は意味をなさない。閔妃殺害集団の主力となっていたのは日本人であったが、朝鮮人の訓練隊員が加わっていたことも事実である。<詳細は、木村幹『高宗・閔妃』2007 ミネルヴァ書房 p.246-256 を参照>
国際問題化 計画では閔妃殺害は深夜に行い、実行者は暗いうちに宮廷外に出る予定だったが、大院君引き出しに手間取り、結局犯行を終えて引き上げるのが早朝となってしまい、宮中にいたロシア人政治顧問やアメリカ人軍事顧問に、日本人が血刀を下げて意気揚々と引き上げるところを目撃されてしまったため、国際問題化した。14日、アメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』は「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性三人を殺害した」という第一報を10日に漢城から発進したが、東京でさし止められていた、と報じた<原田敬一『日清・日露戦争』2007 岩波新書 p.193>。またイギリス人のジャーナリストは事件の詳細を取材し、英字新聞に発表した。このあたりの事情は、事件の前後に朝鮮に滞在したイギリス女性旅行家イザベラ・バードの記した旅行記『朝鮮紀行』(講談社学術文庫刊)に詳しく記されている。<イザベラ・バード/時岡敬子訳『朝鮮紀行』1998 講談社学術文庫 p.351-361>
裁判 事件の国際問題化に困惑した日本政府は10月15日に外務省政務局長小村寿太郎を派遣、現地調査に当たらせた。小村は三浦梧楼公使、杉村公使館員、岡本朝鮮政府顧問など被疑者40数名を帰国させ、日本で裁判を受けさせることになった。他に関与した軍人は広島の第五師団で軍法会議にかけられることになった。
 朝鮮政府では日本に対する不信の増大を背景に大院君と親日派は力を失い、訓錬隊は解散となり、閔妃廃妃の詔勅も撤回された。12月1日に閔妃の死が正式に発表され、葬儀が執り行われた。同時にその死因は訓錬隊と日本公使館、そして日本人壮士の王宮襲撃にあったことが発表され、その処罰がなされることになった。金弘集政府は事件の収束を早めようと裁判を急ぎ、朝鮮王朝法部は謀反事件の犯人として朴鉄、李周会、尹錫禹の三名を逮捕し、12月29日に死刑判決が出された。彼らはいずれも計画には参加していないと主張したが、実行に加わったことを自白したため、有罪とされた。日本人実行犯に対しては、当時の朝鮮王朝では日朝修好条規が日本人に治外法権を認めている不平等条約であったので、日本人を裁く事はできなかった。
 朝鮮で朝鮮人三人の犯行と確定したことを受け、1896年1月20日、広島地方裁判所の予審において三浦前公使以下は事件への関与は認定されたものの、閔妃殺害の実行に関しては証拠不十分として免訴となり、広島の軍法会議でも全員無罪という判決となった。領事裁判権の時代だったので漢城の日本人に対する領事裁判も行われたが、取り調べる側の領事にも王宮侵入に加わった者がいるありさまだった。<山辺健太郎『日韓併合小史』p.120>
事件の影響 訓錬隊と日本公使館守備兵による王宮襲撃事件としての閔妃暗殺事件は、朝鮮王朝内の親露派、親米派にも深刻な危機意識を引き起こし、彼らの中に米露両国の公使館に避難し、対抗する形で武装クーデタを企てるものが現れた。11月28日、アメリカ人ダイらに率いられて王宮攻撃を試みたが王宮の親衛隊に阻止されて失敗した。これは「春生門事件」ともいわれ、国王周辺は極度の緊張感に覆われた。親露派・親米派のクーデタを鎮圧した親衛隊の背後には依然として宮中に留まっている大院君がいるのではないか、と疑われたからである。<木村幹『前掲書』p.258-260>
 そのような緊張が続く中、民衆の中に「国母」閔氏を殺害した日本人の犯行に対する非難が高まっていたが、金弘集内閣は日本に妥協的でその関与責任の追及をしなかったことで不満が強まっていった。金弘集内閣は開化政策を進めることで民衆の不満を解消しようと12月に断髪令を出した。しかしそれは伝統的な髷を切る事への民衆の素朴な反発を呼び起こすこととなり、各地で武装した民衆運動が起こった(初期の義兵闘争)。
 いずれにせよ、閔妃暗殺は、国際的な批判を呼び起こして朝鮮における日本の国際的な発言力を弱めたこと、一時的な親日政府を作ったものの、民衆の反日意識を初期の義兵党争へと点火させたこと、高宗を露館播遷に追いこみ親ロシア派の台頭を許したこと、などから日本外交の大きな失点となった。
高宗の露館播遷 1896年2月11日、国王高宗は突然、景福宮からロシア公使館に遷るという「露館播遷」を決行した。それはロシア公使ウェーバーの後援による親ロシア派の一種のクーデタであり、それによって日清戦争以来の親日的な姿勢を保ってた改革派政権が崩壊したことを意味していた。露館播遷に反対した総理大臣金弘集らは激昂した民衆に撲殺された。
 高宗は同時に詔勅を発表し、「禍乱の張本人」として閔妃事件の時の軍務大臣趙義淵、訓錬隊隊長禹範善、その他の名前を挙げ、民衆に直ちに斬首して朕の観覧に供せよ、と呼びかけた。恐れた趙義淵は逃亡し、禹範善は日本に亡命した。禹範善は王太子(後の純宗)も「国母」を殺害した人物して名前を挙げており、日本亡命後に朝鮮王朝の放った刺客によって殺されている。

残された謎

日本政府はどこまで関わっていたか 現在は日本では三浦梧楼公使と現地の外交官・軍人・大陸浪人といわれる民間人が謀議したことまでは明らかになっており、実行にも彼らが加わったことは確実なので、日本の関与とされるのは避けられないが、問題は政府・外務省や軍の中枢(大本営や参謀本部)は知っていたかどうか、である。政府や軍中枢が事前に知っていたか、については否定的な見解が多い。ただし、最近では前公使井上馨の関与、あるいは朝鮮半島の電信線の確保を図るという軍事目的が強かったとみて当時の実質的な軍の最高の地位にいた川上操六参謀副長が、三浦梧楼と共謀したという視点も提出されている。<金文子『前掲書』2009>
大院君ははたして首謀者であったか 事件の首謀者は大院君であり、実行犯の中心は訓錬隊の朝鮮人兵士だった、日本人はそれに協力しただけである、とする説は当時の朝鮮政府の公式見解であり、日本人の関与を否定する際によく引き合いに出される。大院君が首謀者である可能性は、その閔妃に対する敵愾心の強さから、当然考えられるが、日本の協力がなければ軍事クーデタは不可能であっただろう。その際、大院君側が日本に働きかけたというのは、それまでの日本に対する姿勢から見て非現実的で、やはり、いつものように日本側が大院君を利用したとみるのが妥当であろう。
何のために凶行に至ったか 閔妃殺害は意図されていたが、偶然だったか、という議論は、当日の日本軍人、壮士たちのさまざまな証言から、当初から殺害目的であったことはあきらかである。では何のため殺害したのか、という問が残る。平たく云えば、当時の漢城にいた日本人の中に、日清戦争で勝利して朝鮮を独立させてやったのに、ロシアにその立場を奪われる、という危機感を持つようになり、愛国心から立ち上がった、という心情なのであろう。事件が明るみに出たときには、事件は血気にはやった民間人がやったことだと、まず宣伝された。もしそうだとすれば、近代的な外交交渉を掲げる法治国家であれば、そのような暴発は国家が抑えるのが通常であろう。ところが徐々に明らかになったことは公使や軍人の公的な立場にあるものの関与だった。そのレベルになると、三国干渉を受け入れざるを得なかったことで傾いた朝鮮での日本の地位を、なんとか回復するための国家的意図があった、ということになる。それは日露戦争期の保護国化を経て、1910年の韓国併合へと向かっていく。

 現在の一般的な近代の歴史理解では、1895年の朝鮮王朝王妃の閔妃を暗殺した事件に、日本の公使館や軍人、民間人が深くかかわっていたことは認められている。角田房子の『閔妃暗殺』が出た頃に比べれば大きく変わった。ところが、2000年代に入ってからか、日韓関係の風向きが怪しくなるにつれて、事件への日本人の関与を否定するような論調が現れている(wikipedia 乙未事件の項参照)。しかし実は、日本の事件当時の公式見解こそが、閔妃暗殺事件の本質は朝鮮内部の政治抗争であり、それに日本の一部の軍人、民間人が巻き込まれたものであり、日本人実行者は犯罪行為は認められず、国としても関与していない、というものだった。最近のネットで散見するような見方は、戦前の言説をなぞっているだけなのだ。
 第二次大戦後の研究の自由の進展でようやく日本公使館、軍、民間人の行為が明らかにされたのだが、国家レベルでは公式見解は変わっておらず、ましてや謝罪はない。120数年前の過去の出来事として忘却しよう、という姿勢のようだ。今必要なのは、戦前の公式見解に戻るのではなく、また事件を忘却したり、無視するのではなく、また歴史教育の現場では、微妙な問題だからと云って触れるのを避ける、といったことではなく、歴史の文脈の中に事実を正しく位置付けていく作業であろう。 <追記について> このサイトの「閔妃暗殺事件」の項が、角田房子の『閔妃暗殺』を根拠としている事への批判のメールをいただいたことから、改訂をしようと思ったことがきっかけです。メールでは、「角田氏の著作が一部は間違えているが大筋では間違いない」という根拠はあるのか、という質問でした。そのため、改めて角田氏以後の朝鮮史関係の主な本を勉強し直しすることにしました。その結果、まさに大筋では間違いないことが確かめられましたので、記事を改訂することはせず、<追記>としてその後の勉強で判ったことの要点のまとめることにしました。高校生の受験勉強にはいささか馴染まないかも知れませんが、歴史の事実を探求するという作業の一例ともなるかと思い、公開します。
 なお、角田氏の著作で誤りとされる部分の一つは、表紙に使われた閔妃の写真ですが、それは最近の研究では閔妃ではない、とされるようになっていることを含みます。またメールをくれた人は、閔妃を「国母」とするのは誤りで、角田の本が信用できない証拠だ、と言っています。しかし、閔妃は民衆からは「国母」と云われており、実子の王太子も「国母」と呼んでいますから間違いとは云えないと思います。またメールでは閔妃は宗教に凝って大金を貢ぐといった人で、国民からは恨まれていたと書いてありました。閔妃が「悪女」だとう説も戦前の暗殺事件直後から盛んに宣伝されたことで、それは殺されても仕方ない女だったんだ(福沢諭吉あたりが盛んに宣伝したと言われています)、というニュアンスがあり、いただけません。ここでは閔妃を弁護しても仕方がありませんが、閔妃の項でその人物像としてイザベラ=バードの観察を多く引用しておきました。
 またメールではわたしの記事は角田の本の誤りである日本人犯人説をくりかえすだけで、偏向しており「歴史を偽造」するものだ、このような自虐的な記事を書くから韓国の人が誤解し、日韓関係を悪くしているのだ、という見解が述べられていました。これには曲解も甚だしいと呆れるばかりですが、メールへの反論も含めて勉強の結果を<追記>として書き加えました。また誤解を避けるため、引用、紹介に当たっては、偏らないように極端な論者は避け、定評のある著者や広く認められている新書など(残念ながら日本語文献だけですが)からに限定しました。勿論、すべての参考文献に当たったわけではないので、まだ勉強は続くことになります。<2023/2/15 記>

http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c194

[政治・選挙・NHK158] 松井知事「日本人ならごくごく自然なこと」  (産経ニュース)  : 靖国で不戦を誓うのは 政治家として当然のこと 真相の道
195. 豊岳正彦[-16953] lkyKeJCzlUY 2023年8月19日 11:21:32 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[3]
<■88行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
外国の王妃を伊藤博文は手下に宮殿で襲わせて暗殺させた。手下は田布施あたりのエタヒニンだよ、伊藤はヒニンだからな暗殺専門の忍者だ。死体は焼いて骨にしてどこかに隠して証拠隠滅して、治外法権で無罪だ。コロナで病院で医者に殺されて焼かれて骨だけ帰ってきた志村けんさんと朝鮮の王妃は同じ目にあってる。地球のエタヒニン暗殺専門殺人犯は医者だよ。治外法権は裁判官が決めたから弁護士も全員共犯だ。w


地球のエタヒニンロックフェラーフリーメーソンマッカーサーは大英帝国陸軍元帥ロスチャイルドフリーメーソンヒロヒトと共謀して沖縄を艦砲射撃でぶち壊して上陸して女子供を焼き殺したり引き裂いたりグラマンで空から撃ち殺したりルメイが焼夷弾で酸欠死させて焼いて骨にしたり戦争犯罪兵器の原爆を2発も落として治療なしのデータを集めて隠蔽したり、自分が勝手に東条英機を冤罪の南京虐殺の罪を擦り付けて死刑にして日本の領土を分捕って米軍基地立ち入り禁止で基地外に出てきては殺人強姦強盗器物損壊窃盗何でもかんでもやり放題で地位協定無罪だぜ。そんなばかに何が作れるのかw全部パクリやないかwそれをありがたがってる岸田林日本政府三権憲法違反汚職犯罪者公務員売国国家叛逆罪のお前らの知能の低さにはミミズもびっくりだわw

伊藤は内閣総理大臣だ。つまり国の代表が組織的殺人罪の首謀者だ。総理大臣が殺人を犯したら、ヒットラーでも死んでも有罪だし死んでも謝罪もしてないなら国全体が総理の殺人の責任を免れないから、現総理を国を代表する殺人犯として逮捕して国際刑事司法裁判所に召喚してもらって裁いてもらえば国民の謝罪は終わるだろ。総理も国のために処刑されたら英雄だから靖国にお祭りしてあげるよ。安心して処刑されてくれ。これで日米韓三国融和だよw

「三浦梧楼の回顧録が公刊されていて、様々な自慢話が語られているが「朝鮮事件」の一節は、自分の判断で実行したと語る。」朝鮮事件すなわち暗殺事件だから自分の判断で暗殺実行したと自白してるだろ。組織的殺人罪では殺人を直接命令してなくても主犯は死刑だぜ。工藤会裁判で判例がある。伊藤は三浦に親露派の王妃勢力を打破せよと命令して三浦が王妃暗殺実行したが、伊藤が孝明天皇を暗殺したことは安重根も斬奸状に書いているくらい当時の国際関係上周知の事実だよ。伊藤は暗殺テロ常習犯だ。工藤会総裁と同じだね。だから伊藤に忖度して三浦が暗殺テロしたのさwロシアと米国の証言もあるだろwアメリカにも伊藤総理の部下が朝鮮国の王妃を殺害したという記録がある。総理が国家を代表するから伊東の犯罪責任は岸田がとることになる。いやなら総理辞めたら済むことだ。林に譲ってやれ伊藤博文か三浦梧楼の系譜に近いんだからw
岸田は親米親韓親中だが、お前ら岸田と同じく韓国の反日教育が好きなんかw

近現代史を教えてやるよ。
伊藤博文は教科書に何も出とらん。まず幕末明治維新で何もしとらん。山県有朋も。功山寺決起の時最初に参加したという与太話もあるが騎馬の前原一誠が真っ先という話もある。伊藤はグラバー亭でも坂本龍馬や西郷隆盛と話をしたとかないやろ。明治維新は武士の仕事だから、武士で無かった伊藤や山県は表舞台に登場できない。そのままならよかったが、毛利公の痛恨事は彼らを見せかけの藩士にしたことだ。裏口入学のwもともと奇兵隊は武士だけでなく無法無頼のごろつきも参加したので、長州藩の武士と非常に対立したことは記録にある。高杉晋作が藩主側近と対立したのも奇兵隊の無学無法なごろつきが原因だ。長州藩の弱点は明治維新が成る前に武士が大方死んでしまって残ったのが大村益次郎と前原一誠くらいだったということだ。桂小五郎はもともと武士じゃない藩医の息子(医者は日本でも中国でも奴隷だよw)だから、武士のたしなみの朱子学も兵学も儒学も習ってないから薩長同盟も決断力に欠けてなかなか結べなかったのさw明治新政府が薩摩の西郷と大久保ばかり目立つのも長州に武士が居なかったからだ。江藤新平が武士として伊藤と山県と七卿公家の汚職を公家諸法度などで追及したのも当たり前だ、長州には公家と非人しかいなかったから。大村益次郎は上野の彰義隊と戦ったあと死んだし、その後戊辰戦争で活躍したのは薩摩以上に安芸広島藩の私兵神機隊(護国神社軍神第一号)であるし、新政府ができても前原一誠は東京で伊藤山県と公家どもが学問もせずやたら土地を買い占めて猟官渉猟しながら豪邸を建てて宴会してるのを見て嫌気がさして新潟へ知事として出向してその後政府をやめて萩に帰った。武士たちは富貴を得て宴会するために維新回天に命を捨てて戦ったんじゃないからだ。久坂玄瑞高杉晋作と並んで松陰門下の三羽烏だった前原一誠には長州の公家と非人どもの破廉恥で乱れた富貴追求が我慢ならなかったのだ。だから伊藤は明治六年政変後真っ先に佐賀の乱で江藤新平を殺した後すぐに萩の乱で前原一誠を殺したのさ。だから毛利公も結局明治維新に何の功績もないやろ。裏口で武士にした非人伊藤博文に下克上されて明治維新の手柄を全部さらわれたというわけだ。遊び人だった吉田茂が昭和天皇の口利きのもと裏口で東大に入学して卒業し英語もしゃべれないのに英国大使になったのは昭和天皇の祖父長州出身の大室寅之助が明治天皇だったからだよ、岡山の箕作は関係ないね。もし箕作が明治天皇だったら長州閥なども靖国神社も生まれたはずがないからね。特に靖国神社はもともとが高杉晋作が下関長府桜山に作った吉田松陰門下の仏式招魂場だからな。長州藩士大村益次郎が私費で九段に移転して、大村益次郎の死後に長州出身明治天皇が詔勅して靖国神社という仏式招魂場を東京の鎮守神にしたのである。だから天皇は靖国で神事を行わない。これが真実である。大室寅之助田布施の力士隊隊員が伊藤博文に誘われて力士隊に入ってなければ天皇になることができなかったが、長州藩を禁門の変で朝敵にした孝明天皇と皇太子は生かしておけないから、伊藤博文が京都で孝明天皇を暗殺したのは、朝鮮国にまで広く知られた史実だよ。これが安重根の斬奸状だ。ロスチャイルドフリーメーソンスパイ伊藤博文の朝鮮国王妃暗殺という組織的殺人罪極悪犯行こそが日韓関係日朝関係を壊した最大の原因である。岸田は謝罪できるかなw歴史を知らんバカ者にはアメリカの言うなりになるしか道がないかwそれが地獄への直行便だがねw
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c195

[政治・選挙・NHK158] 松井知事「日本人ならごくごく自然なこと」  (産経ニュース)  : 靖国で不戦を誓うのは 政治家として当然のこと 真相の道
196. 豊岳正彦[-16961] lkyKeJCzlUY 2023年8月19日 12:49:44 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[4]
<■93行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
野良猫丸
@wildcat_x
·
9h
Replying to @lyuzhngyn1 and @AARKdbWeK7hQeCV
外交文書とか、政府間のやりとりを記録するのに「ウソ」を書く必要ありませんよね。
いわば、マンション管理委員会の議事録と同じ。

わざわざ、閔妃をねらうくらいなら、大院君と高宗の身柄を確保して「ウチの嫁は離婚したよ」と一言いってもらえばそれで解決よ。
それで権限ゼロになるし。
_______________________

豊岳正彦
@lyuzhngyn1
·
8h
お前ら法律知らんから教えたる。
法益は「身体生命」と「生活私有財産」
アウトは極刑犯罪。戦争行為すべてアウト。
http://asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c135

第九条 死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。


(内乱)

第七十七条 国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。

一 首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。

(外患誘致)
第八十一条 外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。

外患誘致罪の法定刑は死刑のみ

(外患援助)
第八十二条 日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者は、死刑又は無期若しくは二年以上の懲役に処する。

外患援助罪の法定刑は、死刑、無期懲役、2年以上の懲役

(現住建造物等放火)
第百八条 放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船又は鉱坑を焼損した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

(激発物破裂)
第百十七条 火薬、ボイラーその他の激発すべき物を破裂させて、第百八条に規定する物又は他人の所有に係る第百九条に規定する物を損壊した者は、放火の例による。第百九条に規定する物であって自己の所有に係るもの又は第百十条に規定する物を損壊し、よって公共の危険を生じさせた者

も、同様とする。
激発物破裂罪の法定刑は、死刑または無期懲役、もしくは5年以上の懲役

(現住建造物等浸害)
第百十九条 出水させて、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車又は鉱坑を浸害した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。

現住建造物等浸害罪の法定刑は、死刑または無期懲役、もしくは3年以上の懲役

(汽車転覆等及び同致死)
第百二十六条 現に人がいる汽車又は電車を転覆させ、又は破壊した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
2 現に人がいる艦船を転覆させ、沈没させ、又は破壊した者も、前項と同様とする。
3 前二項の罪を犯し、よって人を死亡させた者は、死刑又は無期懲役に処する。

(水道毒物等混入及び同致死)
第百四十六条 水道により公衆に供給する飲料の浄水又はその水源に毒物その他人の健康を害すべき物を混入した者は、二年以上の有期懲役に処する。よって人を死亡させた者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

(殺人)放置しておくことで人が死亡することが予想されるとき(溺れている人がいるなど)に、そのまま放置した場合にも適用される

第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

決闘殺人罪は、決闘罪ニ関スル件(明治二十二年法律第三十四号)

第三条 決闘ニ依テ人ヲ殺傷シタル者ハ刑法ノ各本条ニ照シテ処断ス

決闘殺人罪の法定刑は、死刑または無期懲役もしくは5年以上の懲役

組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律
第三条 次の各号に掲げる罪に当たる行為が、団体の活動(団体の意思決定に基づく行為であって、その効果又はこれによる利益が当該団体に帰属するものをいう。以下同じ。)として、当該罪に当たる行為を実行するための組織により行われたときは、

その罪を犯した者は、当該各号に定める刑に処する。

組織な殺人罪の法定刑は、死刑または無期懲役もしくは6年以上の懲役

(強盗致死傷)
第二百四十条 強盗が、人を負傷させたときは無期又は六年以上の懲役に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。

(強盗・強制性交等及び同致死)
第二百四十一条 強盗の罪若しくはその未遂罪を犯した者が強制性交等の罪(第百七十九条第二項の罪を除く。以下この項において同じ。)若しくはその未遂罪をも犯したとき、又は強制性交等の罪若しくはその未遂罪を犯した者が強盗の罪若しくはその未遂罪をも犯したとき

は、無期又は七年以上の懲役に処する。

3 第一項の罪に当たる行為により人を死亡させた者は、死刑又は無期懲役に処する。

爆発物使用罪
爆発物取締罰則
第一条 治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスルノ目的ヲ以テ爆発物ヲ使用シタル者及ヒ人ヲシテ之ヲ使用セシメタル者ハ死刑又ハ無期若クハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

爆発物使用罪の法定刑は、死刑または無期懲役・無期禁錮、もしくは7年以上の懲役・禁錮

航空機の強取等の処罰に関する法律第2条に規定
ハイジャック中に人を死に至らしめるなどの犯罪
(航空機強取等致死)

第二条 前条の罪を犯し、よつて人を死亡させた者は、死刑又は無期懲役に処する。

航空機墜落等致死罪とは、空港の設備を破壊したり、飛行中の航空機を何らかの方法で墜落させ、人を死に至らしめる犯罪。

航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律第2条

前二項の罪を犯し、よつて人を死亡させた者は、死刑又は無期若しくは七年以上の懲役に処する。

海賊行為致死罪
海賊行為によって人が死に至った場合に適用。海賊行為とは、暴行や脅迫によって、船舶を強取する、運行を支配する、船舶内の財物を強取することなど。
海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律
第四条 前条第一項又は第二項の罪を犯した者が、人を負傷させたときは無期又は

六年以上の懲役に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。

人質殺害罪
人質を取り、金銭を要求したり、逃走ルートを確保したりするなど、強要行為をしたときに、人質を殺害する犯罪。

人質による強要行為等の処罰に関する法律
第四条 第二条又は前条の罪を犯した者が、人質にされている者を殺したときは、死刑又は無期懲役に処する。
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c196

[政治・選挙・NHK158] 松井知事「日本人ならごくごく自然なこと」  (産経ニュース)  : 靖国で不戦を誓うのは 政治家として当然のこと 真相の道
197. 豊岳正彦[-16969] lkyKeJCzlUY 2023年8月19日 20:17:42 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[5]
<■80行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
https://twitter.com/wildcat_x/status/1692580468204753282
ばか1匹目野良猫丸
@wildcat_x
外交文書とか、政府間のやりとりを記録するのに「ウソ」を書く必要ありませんよね。
いわば、マンション管理委員会の議事録と同じ。

わざわざ、閔妃をねらうくらいなら、大院君と高宗の身柄を確保して「ウチの嫁は離婚したよ」と一言いってもらえばそれで解決よ。
それで権限ゼロになるし。
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バカ2匹目
twitter.com/NEWquisan/status/1692687407723041079
くあさん01式
@NEWquisan
歴史を勉強しましょう
_______________


Sputnik 日本
@sputnik_jp
【特集】トルソワ選手、中国でのアイスショーについて語る 「中国公演は素晴らしかった」 http://dlvr.it/Sts2th https://pic.twitter.com/hCAsRA7FfV


中国とロシアは官民一体となって両国和親しているね。岸田が対ロ制裁するなら中国は日本よりロシアを選んで対日制裁してくるが、日本を占領統治してるイスラエルモサドアメリカCIAの腐れポチ岸田は対ロ制裁強化して親中路線とるならばアメリカと中国に両方からどやされるが、どうするのかねwマー頭が空っぽだから親に背いてアメリカの狂犬にしっぽを振るだけか、親不孝のばか者めwもともと大英帝国陸軍元帥大日本帝国憲法絶対不可侵現人神軍事独裁「ニセ国体」愚鈍嘘つき犯罪者ヒロヒトが勝手に始めた太平洋戦争で、ヒロヒトスパイに外患援助された虐殺偏執狂犯罪者ルーズベルト米軍が、日本の沖縄を艦砲射撃でぼこぼこにして上陸して日本人の女子供を手りゅう弾で爆殺し火炎放射器で焼き殺し、本土に卑劣な原爆落として都市大空襲してグラマンで女子供を狙い撃ちで銃撃するしか能がないアメリカのトップ卑劣ガンの、国連憲章に違反して法益不平等の占領犯罪契約を押し付けた戦争犯罪が、昭和天皇全権委任憲法違反嘘つきコソ泥国益詐欺吉田茂がサンフランシスコの地下室で単独秘密調印した日米安保地位協定一体化密約共謀共同正犯だが、お前らは吉田茂同様日本の都市を焼夷弾で焼き払って工業生産を壊滅し民間人労働者ご先祖様たちを家族もろとも焼き殺した大勲位ルメイ空爆とトルーマン原爆が、戦争を終わらすための正義の爆弾だったとかあほ丸出しで信じてるのかなw
とんだ無恥無学無能低能蒙昧の愚か者だな親不孝の極みだぜwまあお前らは極楽往生はあきらめなw子孫のために独立独歩で戦ったご先祖様も自分を殺した敵に集団で一斉にしっぽを振る太鼓持ち子孫に供養されても仏さんみんな迷惑だろw
_______________________


是パーキンソン病じゃないなwパーキンソンは不動。不随意運動は舞踏病。診断が間違っとるwウソ診断で嘘投薬したら医師法20条違反だな。医師法は患者の法益「身体生命と私有財産」を医師の虚偽を以て侵害したら刑事犯罪だぜwだからこの場合全部無料奉仕なら医師法に触れないよw


コロナワクチンの接種同意書は嘘しか書いてないから署名しても法的に同意と認められない。同意なく致死性毒物を注射すれば医師法第1条違反診療契約偽造に基づく刑法故意の傷害殺人罪が成立。接種後に変死すれば刑訴法229条検視を行い胃内容と血液検査で毒物反応がなければそのまま接種した医師の故意に基づく刑法199条殺人罪が確定。刑法の相当因果関係。傷害殺人罪は医師のみに適用される。医師以外はワクチンが致死毒であることを知らないから。ヒポクラテスの誓いに反する人を殺す毒がワクチンである。化学工場で大量生産した麻薬と向精神薬はすべて致死毒である。植物そのものの乾燥大麻は致死毒ではないね。トリカブトは致死毒だが。毒キノコも、毒草もある。この鑑別は先人先達の知恵に頼るのみ。毒抜きも。まあ死ねば何もいらないがw


バカ3匹目
twitter.com/My068ddc7nB8SEd/status/1692820931255890352
ぴぇーる
@My068ddc7nB8SEd
https://twitter.com/lyuzhngyn1/status/1692819697266511912?t=8znOxfGDrFhd8mPxfwOIhw&s=19
まだコイツ生きとった。昨日遅かったから今まで呼吸ストップしててちょうど蘇生したんじゃないですかね?
豊岳正彦
軍隊以外の民間人への軍事攻撃は大昔から世界中で戦争法違反の刑事犯罪だから、刑法で全部裁かれる。アメリカは空戦してないぜ。いつも軍用機で民間人だけを平気で虐殺してるから、建国以来の昔から戦争法違反の殺人罪常習犯だ。だからヨーロッパの空戦にアメリカの戦闘機は参加してないやろ。
戦争行為はすべて刑法極刑犯罪だと六法全書で証明してやったろ。
日本の総理大臣伊藤博文が掌握してる軍隊が非戦闘員の外国王妃を宣戦布告なしに軍隊組織で暗殺したら伊藤博文が戦争犯罪人の首謀者で極刑で断罪されるにきまってるだろ。世界中のどの法律もいつもそうなってるわ。バカかお前ら。
アメリカとイスラエルとイギリスこそ人類史上最低最悪のテロ国家だよ。名誉?笑かすなwロスチャイルドフリーメーソンスパイ汚職と詐欺師と殺人犯伊藤博文に何の名誉がある?人をたくさん騙して殺した数が多いのが名誉か。そりゃ強盗殺人犯罪組織の無法者の外道な悪名で、人間が作る法治主義社会で人間の法益「身体生命と私有財産」を守る人間世界では恥であり最も罪が重い極刑犯罪だよ。伊藤博文の名誉って何か。答えろ日本国憲法9条違反の外道反社戦争犯罪者ども。
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c197

[政治・選挙・NHK158] 松井知事「日本人ならごくごく自然なこと」  (産経ニュース)  : 靖国で不戦を誓うのは 政治家として当然のこと 真相の道
198. 豊岳正彦[-16977] lkyKeJCzlUY 2023年8月20日 09:08:51 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[6]
<△26行くらい>
MI6は明治時代のロスチャイルドフリーメーソンであり、グラバーはロスチャイルドフリーメーソンのスパイ。だから長州ファイブはロスチャイルドフリーメーソンスパイである。アフリカに植民地を持つ国はイギリスとフランスであり、フランスはアメリカに自由の女神を送ったロックフェラーフリーメーソンの元祖であるが、いずれもモサドの子分である。だからジョン万次郎と福沢諭吉はロックフェラーフリーメーソンであり、これらはペリーの子分である。アメリカのユダヤ人はアメリカの建国以来ずっとFRBを支配している。そしてフリーメーソンは常に戦争を起こすために暗殺を用いる。独立戦争はロスチャイルドとロックフェラーの共謀共同正犯であり、独立戦争後の南北戦争によってアメリカのロックフェラーフリーメーソンは全土を支配した。ペリーはその長官であり、沖縄を手に入れて中国大陸進出の橋頭保にするために西海岸から出向して沖縄までやってきて、薩摩藩の武士の手ごわさを知って薩摩藩にここは薩摩の属国かと質問して、いや薩摩は江戸幕府の支配下であると聞き浦賀に向かったのであった。これが黒船来航である。この時ペリーは虚勢を張っていたが幕府老中阿部正弘はすでにアメリカ捕鯨船と交渉経験があり足元を見て丁重に追い返したのでペリーは1年後の再来を予告して帰ったのである。再度来航した時ハリスとジョン万次郎を連れてきて、阿部正弘と開港交渉に入った。幕府内は開港派と攘夷派で二分しておりもともと攘夷派だった安倍正弘は幕府の分裂を避けるため開港派の施策を採用して日米修好和親条約を結んだ。これは勅許をえずに強硬な開港派堀田正睦井伊直弼に配慮した者だったが、不平等条約であり、攘夷派の強い反発を受けて阿部正弘は老中首座を降りて次座となってその後は大老井伊直弼が攘夷派を一掃して安政の大獄を始めた。
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c198
[政治・選挙・NHK158] 松井知事「日本人ならごくごく自然なこと」  (産経ニュース)  : 靖国で不戦を誓うのは 政治家として当然のこと 真相の道
199. 豊岳正彦[-16976] lkyKeJCzlUY 2023年8月20日 09:17:06 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[7]
<■5701行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ここからコピペ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/edo-end02.htm
から
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/edo-end06.htm

第2章 堀田正睦と日米通商条約

1. 堀田正睦の登場

(1) 堀田正睦の世界観

 阿部正弘の死去を受けて、揺れだした幕府の屋台骨を支えることになったのは、その時、筆頭老中の地位にあった堀田正睦(まさよし)です。彼は今の成田空港にほど近い、千葉県佐倉11万石の領主でした。

 堀田家で有名人物というと、綱吉の治世初期に、大老として活躍し、天和の治といわれる一時代を築いた堀田正俊に、まず指を折るべきでしょう。彼の業績については江戸財政改革史の中で詳しく紹介しましたから、前から読んでくださっている方はご記憶と思います。

 堀田家はその後、阿部家同様、譜代中の名門として何人かの老中を出しつつ幕末を迎えます。たとえば田沼意次の生涯を紹介した際に、その最初の重要な出来事として、老中本多正珍等、幕閣の有力人物が大量に処罰された美濃郡上藩の百姓一揆について紹介しましたが、そのとき、直接処罰を担当した老中は堀田正亮(まさすけ)です。堀田正睦は、この名門から出た最後の老中です。

 彼は2回老中になり、2回とも失脚して終わっているという変わった履歴の持ち主です。最初に老中になったのは天保の改革の時で、天保12(1841)年に就任し、天保14(1843)年に忠邦の失脚に連座して、彼と一緒に罷免されています。そこで、その後しばらくの間は藩政に専念しました。彼は、水戸斉昭から蘭癖(らんぺき)があると悪口を言われたほどのオランダ好きで、蘭法医佐藤泰然(たいぜん)を招いて藩校と病院をかねた施設を建設し、順天堂と名付けています。これが後に今日の順天堂大学に発展します。

 当然、根っからの積極的開国論者です。「国運を振張するの道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」との信念を持っていました。

(2) 老中筆頭への就任

 阿部正弘は、一連の和親条約を結んだ際、水戸斉昭を幕政に参加させ、彼を通じて有力諸侯、特に島津斉彬(なりあきら)等との連携を深めていました。これに対して幕閣内からの反発が激しかったため、八方美人の正弘にしては珍しく強権を発動して松平乗全(のりよし)、松平忠固(ただもと)の二人の老中を安政2(1855)年8月に罷免しています。

 しかし、それで批判がやむどころか、阿部正弘は、逆に譜代大名の中で完全な孤立状態に陥りました。当時、大名は江戸城中に、それぞれの格式に応じた控え室を有していましたが、中でも最も重要なのが、溜まりの間です。ここに詰めることができるのは、会津松平家、高松松平家など徳川一門の一部と、井伊家、酒井家、堀田家など譜代中の最有力の家柄に限られていました。溜まりの間詰めの諸侯は、通常の意味での行政権は有していませんでしたが、重大事には諮問を受けて答申する権利を有していました。したがって、ここを敵に回してしまうと、老中といえども自由に活動することが困難になるのです。

 そこで、強権を発動したわずか2ヶ月後の安政2(1855)年10月に、阿部正弘は、堀田正睦を再び老中に就任させるとともに、老中首座の地位までも彼に譲ることにしたのです。これにより、溜まりの間との融和を計ろうとしたわけです。このあたり、八方美人の阿部正弘が、一人で右往左往している様が見えるようで、その性格上やむを得ないとは言いながら、気の毒になります。

 とにかく、こうして阿部正弘が一人芝居を演じている間に、彼の幕閣内での影響力は着実に低下していきました。前章に述べたように、彼は非常にあっけない死を迎えるのですが、この経緯から見れば、死ななければ失脚していただけのことであったろうと思われます。

(3) 堀田正睦時代の始まり

 安政4(1857)年6月に阿部正弘が死去するとともに、堀田正睦は名実ともに幕閣の最高責任者となります。彼の履歴や信念からみて当然の事ながら、この政権交代により、幕府の対外方針は一変しました。

 阿部正弘は、基本的には攘夷論者で、可能でありさえすれば家斉の異国船打払令を再び実施したいと願っていたほどの外国嫌いです。ペリーが来航した際にも、彼我の武力の圧倒的な落差を前に、薪水の供給などはやむを得ないとして承認したにしても、通商は絶対に拒否という方針で交渉に臨んだ事は前章で紹介しました。

 これに対し、先に述べたように、堀田正睦は根っからの開国論者です。そこで、この前年、まだ阿部正弘が実質的には幕府政策を動かしていた安政3(1856)年10月の時点で既に、川路聖謨や大久保忠寛、水野忠徳、岩瀬忠震(ただなり)などのブレーンサークルに対して、「近来、外国の事情もこれあり、この上貿易の儀御差し許し相成るべき儀もこれあるべきにつき、右取り調べ致すべし」と命じて調査・検討させています。

 したがって、堀田正睦が名実ともに幕閣の筆頭にのし上がった時点では、当然、幕閣全体をその新年の方向に引っ張っていこうとする意欲に燃えていたことでしょう。

 

2. 日米通商条約交渉

(1) ハリスの出府要求

 ハリスは、着任後、ねばり強く対幕交渉を行っています。ハリスは、確かに下田駐在の総領事に違いありません。が、それと同時に、米国大統領から通商を求める国書を携帯してきている特命大使でもあります。今日の国際慣行においても、一国の元首からの国書は、当然相手国の元首に大使自身が奉呈すべき性格のものです。そこでハリスは、国書は下田奉行に提出すればよいとする幕府側の提案を跳ね返し、江戸に自ら出府して、将軍に対して国書を奉呈し、老中と直接交渉することを主張してやみません。

 彼の交渉手法は、文字通り、脅したりすかしたりの両面作戦です。

 脅し文句は、交渉に応じないと、米国艦隊が来て、火力により条約を取り付ける、というものです。ペリー艦隊の端倪すべからざる偉容をみている幕府にとっては、これは大変効き目があります。

 すかし文句は二つあります。

 その一つ目は、米国は日本に好意的なのでこの程度の要求で済んでいるが、イギリスが来たらこんなものでは済まないので、今のうちに米国との間で有利な条約を取り交わし、それをたたき台にする方式で対英交渉に臨めば有利な立場に立てるというものです。これも、アヘン戦争における清国の厳しい状況を承知している幕府にとっては、非常に効果のある文句です。

 今ひとつは、幕府は貿易を独占することにより、諸侯に対して財政的に圧倒的に有利な立場に立てる、というものです。幕府の悲惨な財政状況をどの程度ハリスが承知していたのかは、よくわかりません。しかし、鎖国とは、長崎貿易を幕府が独占することにより莫大な利益を上げるという形態の通商形態をいう、ということは、ハリスはよく知っていたはずです。したがって、これもまた非常に説得力のあった論理でした。

 この時、ハリスに追い風が吹きました。故国から手紙を運んで蒸気フリゲート艦ポーツマス号がやってきたのです。そこで、ハリスはこの機を捉えて、有名無実の全権である下田奉行と話をしても埒があかないのであれば、ポーツマス号に乗って直接江戸に行き、老中と会談すると井上清直を恫喝しました。

 先に述べたとおり、堀田正睦は元々開国貿易派です。この機を捉えて閣議を統一することに成功し、幕府としてハリスの出府を許可する決定を下すことに成功します。

 もちろん根っからの攘夷派である水戸斉昭が、このような決定に賛同するわけがありません。彼は怒って海防参与の辞表をたたきつけます。また、尊皇論者として自分の行動を天皇に対して説明する必要を感じたのでしょう、「亜国官吏の外夷出府登城を許し、夷情切迫につき存じ寄り申上げ候」と題する建白書を朝廷に提出しています。

 譜代の名門の一人として、堀田正睦は水戸家が幕政に参画するという前例を無視した処置を苦々しく思っていたでしょう。だから、本音のところは喜々としてその辞表を受け取りたかったことでしょう。しかし、彼も政治家で、斉昭が下野することの持つ政治的危険性は十分承知していますから、将軍家を通じて一応慰留しようというポーズは見せています。

(2) 通商条約交渉の要求

 こうして閣内の邪魔者一掃に成功した堀田正睦は、ようやく正式にハリスに対して出府を許可することができました。ハリスは10月7日に下田を出発し、14日に江戸について、宿舎と定められた蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に入ります。

 蕃書とはすさまじい言い方ですが、オランダの書物を中心とする外国書籍を意味する当時の言葉です。もと幕府天文方に設置されていた蕃書和解御用(ばんしょわけごよう)を安政2(1855)年に独立の機関に発展させて洋学所と名付けましたが、翌安政3年にさらに蕃書調所と改名したもので、洋学研究所兼外交文書翻訳局というべきものです。さらに、このハリスが泊まった安政4(1857)年からは外国語教育も行うようになっています。要するに、外国人に対する接遇能力を持つ唯一の機関であったため、ここがハリスの宿舎とされたわけです。

 ハリスは19日に堀田正睦と面会して国書の写しとそのオランダ語訳を提出します。21日に江戸城に登城して国書を奉呈しました。これで、一応出府の目的は達成されました。

 しかし、これだけでは通商条約調印に向けて前進したことには、ほとんどなりません。そこでハリスは26日に再度堀田正睦を訪れ、延々6時間にわたって日本の開国の必要性を演説したといいます。もっとも、彼の英語をヒュースケンがオランダ語に訳し、それをさらに幕府オランダ語通事の森山多吉郎と名村常之介が日本語に訳するわけですから、実質的に話した時間は2時間という計算になります。それでも大演説には違いありません。堀田正睦だけでなく、川路聖謨、井上清直、岩瀬忠震、永井尚志、水野忠徳など堀田正睦のブレーンサークルは全員が参加してこの演説を聞いたようです。

 演説の内容は、上述した脅し文句とすかし文句を集約したものでした。特に英国を、日本にも阿片を輸出しようとしていると非難して、米国の友好政策の宣伝に務めていることが注目されます。さらに、経済学の初歩や西欧における商業規則の初歩を講義しました。

(3) 日米通商条約交渉

 堀田正睦は、先に述べたように、この時点では幕府主導による開国・貿易を実施することに腹を固めていましたから、別にハリスの演説によって考えを変えたりしたわけではありません。既定の方針に従い、この後、直ちに通商条約の細部検討にはいることを決意します。しかし、幕閣の中では筆頭老中といえども同等者中の第一人者であるに過ぎません。他の老中の説得には時間が掛かりました。

 上記の演説後、1ヶ月経ってもなお国書に対する回答に接することができなかったハリスは、11月25日に来訪した井上清直にきわめて脅迫的な言辞を用いて回答を督促しました。そこで、12月2日になって、堀田自身が直接ハリスに会い、交渉に入ることを告げました。

 A 日本側の担当者

 堀田正睦には、井上清直のような下僚に交渉の全責任を押しつけた阿部正弘のやり方が不当なことは判っていました。しかし、もちろん交渉の途中から担当者を全面的に変更することは好ましくありません。そこで、井上清直は引き続き交渉に当たることにしましたが、このほかに、当時目付の地位にいた岩瀬忠震(ただなり)を新たに全権に任命して交渉に当たらせることにしました。

 結果的に見ると、この岩瀬忠震を主席する人事は失敗だったといわざるを得ません。岩瀬忠震は有能という評判の高い人ですが、通商というものの本質を把握しておらず、下田条約よりさらにわが国に不利な条約を、自ら求めるようにしてまとめてしまうからです。

 B 米国のスタンス

 交渉は12月4日から始まりました。岩瀬忠震等は、当初、オランダと締結したのと同様の、従来の会所貿易を拡大した形で通商条約を締結しようとしました。しかし、ハリスは、それはペリーの結んだ神奈川条約第9条の最恵国待遇規定から、既に米国も享受できることになっている、と一蹴しました。その結果、交渉形式は、ハリスの用意した条約案の文言に対して岩瀬忠震が質問し、これにハリスが答えるという形で行われました。

 ここで我々が注意しておかねばならないことは、この当時は、欧米にとり、アヘン戦争に象徴されるように、むき出しの力による帝国主義的進出の時代だったということです。

 米国も、この直前の時期に、対メキシコ戦争によりカリフォルニアを奪い取っていることに示されるとおり、決してその例外ではなく、アジアにおける帝国主義的進出のチャンスをうかがっていたのです。少し後の1898年には、スペイン領だったキューバが独立しようとしたのを支援するという名目でスペインと戦争をして、フィリピン及びグアム島を奪い取り、その際、独立を求めるフィリピン人の大虐殺をやっています。同じ年には、ハワイ王家を陰惨な手段で滅ぼし、ハワイ諸島も併合しています。

 したがって、その米国の利益を代表するハリスもまた、堀田正睦に対する大演説で幕閣に思わせようとしたほどの博愛主義的な人物ではありませんでした。彼の用意した条約案は、天津条約ほどにはわが国に屈辱的な内容でないまでも、一方的に米国に有利な内容のものでした。すなわち、ハリスは、自由貿易の名の下に、日本側の無知につけ込んで列強がアジア諸国に強いたのと同じ不平等条約へと誘導したのでした。

(4) 条約の内容

 岩瀬忠震と井上清直は、決してハリスの条約案を丸飲みにしたのではありません。条約内容の重要性に鑑み、下田条約にもまして粘り強く交渉を進めました。ハリスも二人の粘り強さに閉口し、当初案に比べるとかなりの後退を余儀なくされたということです。その結果、アメリカ人の日本国内自由旅行権を否定したことこと等、その交渉において、一定の成果を収めたことは事実です。

 この条約交渉に当たって、最大の問題は、下田条約において既にハリスに承認済みの権利、すなわち金銀の等価交換や領事裁判権については、一議に及ばず承認している点にあります。

 A 通貨に関する規定

 岩瀬は、通貨交渉に当たってとんでもない失敗をしています。下田条約の締結に当たって井上が苦労して獲得した6%の改鋳手数料について「冗雑之手数」を省く目的から放棄するといいだしたのです。これには、相手方のハリスさえも唖然とさせ、説得に努めたほどです。

 そもそも岩瀬は、なぜか銀の含有量という概念が理解できず、洋銀1個と一分銀3個を等価交換するのは、1対3の割合でわが国に不利だという素朴きわまる発想から、内外貨の交換を回避しようとしたのです。しかし、自由貿易体制の下で、内外貨の交換をしようとしなければ、いやでも外国通貨の国内流通を認め、かつ、日本通貨の輸出を認める必要があります。そうでなければ、貿易は不可能です。

 そこで、ハリスの説得に対して、さらに日本の通貨の自由輸出を許可し、また外貨はすべて日本国内で自由に通用されるべき事を宣言してハリスを驚かせることになります。ここにわが国幕末期の経済を大混乱に陥れる馬鹿馬鹿しい規定が誕生することになるのです。

 B 領事裁判権

 この条約が不平等条約とされる最大のポイントは第6条にあります。すなわちアメリカ人のおかした刑事事件については米国領事に裁判権があり、また、民事事件についても領事に裁判権がある、というのです。これについては、典型的な治外法権とは規定の仕方が違っているため、治外法権を認めたわけではない、と岩瀬忠震を擁護する説もあります。が、ハリス自身が「第6条は日本にあるすべてのアメリカ人に治外法権を設定したものである」と述べていますから、その説は妥当しません。これは下田条約にあったものですから、岩瀬忠震・井上清直両人とも全く問題にせず、承認しています。

 C 関税自主権

 今ひとつの不平等条約の柱が関税率の自主決定権の否定です。第4条は、輸出入品は所定の関税を日本政府に納めると定めているだけです。が、条約付属の「貿易章程Trade Regulation」では、輸出税はすべて5%とされました。ハリスは密貿易を助長するとして輸出については無税を主張したのですが、幕府の持つ歳入確保の強い要求から、一律課税という線で妥結したのです。

 輸入税については、日本側が一律12.5%を主張したのに対して、ハリスは無税も含めて4段階に区分することを主張し、彼の主張が通りました。すなわち、日本に居住するアメリカ人に欠かすことのできない家具や書籍については無税としました。5%の税率の対象品は、日本にとり必需品と認識されたものです。すなわち船舶、捕鯨用品、米国、石炭、蒸気機械等がこれに当たります。最高税率の35%の対象品は、なくとも良い贅沢品と認識されたものです。これに当たるのは酒類だけです。必需品と贅沢品のどちらにも属さないものが、20%関税の対象品とされたのです。

 このように、この税率の違いは日本の利益を考えて決められたような印象を与えます。しかし、ハリスの本音によれば、「米国の貿易は5%の関税にとどまるのに対して、日本政府に多額の関税収入を提供するため、英国の製品については20%に、フランスの葡萄酒については35%」にするという形で決めた、というものであるようです。

 要するに、ハリスは、日本から米国への輸出を重視し、日本への米国からの輸入は、念頭に置いていなかったということです。当時、米国の極東貿易は、茶を中心とする米国への輸出にあったので、その輸出関税率を低く押さえようとしたのです。それに対して、米国の国内製造業は未だ国内需要を満たすほどにもなっておらず、従って日本の国内市場を販路として欲していなかったということが判ります。そこで、日本を販路として希望しそうな英仏の邪魔をすることだけを狙って、一般輸入品については、かなりの高率関税率を定めておいたというわけです。

 D 開港・開市場

 交渉に当たり、もっとも問題になったのは第3条でした。すなわち、開港場及び開市場を定めた規定です。日本側としては現状にとどめたかったのに対して、ハリスとしてはこれこそが自由貿易の眼目ですから、大幅に拡大したかったのです。ハリス自身の表現によれば、条約のセバストポリSebastopol of Treatyと呼ぶほどにハリスはこれを重視していました。セバストポリというのはクリミヤ半島の要衝の地にある要塞で、クリミヤ戦争の激戦地となったところです。

 激論の末、結局、開港場として、日米和親条約で承認済みの下田、函館のほかに、神奈川、長崎、新潟、兵庫の4港を追加し、開市場として江戸及び大阪を承認するという形で決着が付きました。

 このうち、長崎は昔からの開港場で問題がないので、神奈川とともに、最初に開港されることとされました。すなわち、西暦1859年7月4日です。これは日本歴では安政6年6月5日に相当します。条約正文では西暦で定めており、日本の年号は入っていません。ハリスがいかに優位的に条約交渉をしたのかが良く判ります。なお、下田は、神奈川の最寄りにあるということから、神奈川の開港後半年で閉鎖されることになりました。

 又、新潟も、実質的には外国との密貿易拠点として栄えていたため幕府の直轄地とされた町だったのであまり問題はないことから、神奈川・長崎開港の約半年後の西暦1860年1月1日から、開港することとしました。江戸の開市場は、1862年1月1日からとされました。

 これに対して、兵庫及び大阪は、京都に対して至近距離にあるため、朝廷に対する説得の時間を確保するため、いずれも1863年1月1日からとされました。実際、朝廷が大変な拒絶反応を示した事で、後に大問題になりました。

 E 輸出入品価格決定権

 このように、ほとんどの条項で、岩瀬達は不利な条文を飲まされています。これに対して、岩瀬達が勝ち得た最大の勝利は、輸出入品の価格決定権は日本側にあるとされた点です。すなわち、日本の税官吏が荷主の付けた価格に同意しないときは、税官吏自らそれに値を付け、その品物の買い入れを申し込むことができ、もし荷主がこれを拒むときは、荷主は税官吏の付けた価格に従って関税を納付することと決められたのです。

* * *

 ハリスと、岩瀬忠震=井上清直の交渉は合計14回に及びました。年も押し詰まった12月25日になってようやく条約案が完成しました。

(5) 条約勅許問題

 日米修好通商条約案の完成に先行して、12月15日付で、堀田正睦は次のような台命(たいめい=将軍の命令)を発しました。

「今日世界の形成は戦国七雄の姿なり、古来の制度に拘泥しては御国勢挽回の期なきを以て、非常の功を非常の時に望み、国威を拡張するの機会を得んと欲し、鎖国の制度を一変せしめんとの思し召しなれども、御国内人心の折り合い方もこれあり、今日のご処置の当否は国家治乱の境なれば、心づき候儀は早速に申し上ぐるべし」

 前半は、要するにこの際鎖国を廃止するという単純明快な決断を示しています。ところが、後半に来て、腰砕けになり、諸侯に意見の具申を求めています。このあたり、阿部正弘と同じく、八方美人路線が依然として健在のようです。というより、阿部正弘の八方美人路線がこの時期においては既成事実化し、その後継者としては、いやでもその路線を踏襲せねばならないところがあったようです。

 しかし、このように従来の方針を一変し、しかもその本音は、貿易利潤は諸侯には与えず、幕府が独占することにより、幕府だけが財政回復をしようというものなのですから、諸侯の賛同を得られるわけがありません。このようなものは、後の井伊大老のように、頭ごなしに申し渡し、抵抗するものは弾圧する外はないものなのです。

 案の定、条約締結に対する批難が囂々と巻き起こりました。もっとも、例によって本質を捉えた反対意見ではなく、攘夷思想に基づくものや、外国人は切支丹の魔法を使うと考えるもの、和議を是といえば、怯懦と嗤われるのではないかという怯懦からのものなど様々ですが、とにかく賛成論は諸侯からほとんどでてきませんでした。わずかな例外は、松平慶永や島津斉彬など、四賢公といわれる人たちだけでした。

 さらに、水戸家がお家芸の朝廷工作を猛然と展開して、京都の公家達を扇動しているというので、堀田正睦達幕閣の首脳部はすっかり頭を抱えてしまいました。このまま放置しておいたならば、先に行って京都からあれこれ口を入れられるかもしれない、それよりはこちらから先に上奏して同意を求めるのが一番、という結論になり、軽率にも調印伺いを行おうということになりました。

 そこでまず林大学頭などを派遣して報告しようとします。ところが、「条約は日本の安危に関わる大事なるに、幕府が林の如き小吏を以て勅許を請わしめたるは、朝廷を軽んじ奉るの所為なり」と逆に大変な反発を受けてしまいます。

 そこで、翌年2月、堀田正睦は、川路聖謨や岩瀬忠震を伴って上京し、9日に参内して日米通商条約草案を示し、また、将軍家定より孝明天皇宛に黄金50枚を奉呈し、これで勅許が得られると考えていました。

 これは決して甘い考えではありません。幕府が、原則として将軍が表にでて政治をすることはなく、老中に任されているのと同じように、朝廷では天皇が表に立って意思表示をすることはなく、五摂家(近衛家、鷹司(たかつかさ)家、九条家、二条家、一条家)が摂政なり関白なりの地位にあって、朝廷の意思を決定していたのです。朝廷の方が伝統が古いだけに、この原則はより強く遵守されていました。そして太閤鷹司正通(まさみち)も関白九条尚忠(ひさただ)も、世界の情勢が一変している以上、通商条約の調印はやむを得ない、と考えていました。ですから、普通ならすんなりと勅許は降りたはずなのです。

 ところが、ここで大変な逆転劇が起こりました。孝明天皇自身が、数百年の伝統を破って口を開き、条約への反対を唱えたのです。

 なぜ孝明天皇が反対したのか、その理由は今日に至るも判っていません。一説によると、孝明天皇の血筋は天皇家の中でも傍流に属し、歴代天皇に比して弱い立場にあったことから、発言権確保の機会を狙っていたのだといわれます。理由はともあれ、天皇は猛然と条約反対を唱えます。

 しかし、実力者である九条関白は、天皇の反対を黙殺して、規定方針通り勅許を下そうとしました。これに対し、天皇は五摂家を飛び越えて直接下級公家と結びつき、反対運動を展開しました。天皇の意思がこのように外部に漏れ出てしまっては五摂家といえども打つ手はありません。この結果、23日になってでた勅は、御三家以下の諸侯の意見を得てから改めて勅許を請えという内容のものとなりました。

 御三家の一つ、水戸家が開国に大反対であることは判り切っており、また、先に述べたとおり、諸侯に賛成意見がないこともまた既に判っています。したがって、これは不許可というのに等しいわけです。そうした状況に対する起死回生の一手として勅許を得ようとしたのに、それが完全に裏目とでたわけです。

 川路聖謨は、以前に奈良奉行をしていましたし、また、勘定奉行として、嘉永6(1854)年4月に皇居が焼けた際の修復工事を手がけていましたから、それらの時に培った人脈を生かして奔走を始めました。わずか20日ほどの間に数万両の小判をばらまいたといいます。しかし、3月11日になって天皇と結びついた88名の下級公家が、条約反対のデモ行進をするに及び、断念して、江戸に帰らざるを得なくなりました。なお、この88名の下級公家の一人に岩倉具視がいます。彼が歴史の上に登場してきた最初の機会でした。

 

3. 養君擁立問題

(1) 養君擁立の必要性

 話が少々過去に遡ります。ペリー来航の直後に将軍家慶が死去し、それに伴い家定が将軍位についたことは前章に述べました。問題は、この家定が、およそ暗愚で、ものの役に立たないことです。普通の時代であれば、暗愚で何もしない将軍はよい将軍とされます。老中が補佐すると称して自在に政治を司ることができるからです。

 しかしながら、なにぶん非常事態です。老中が処理するにも限度があります。誰が考えても、強力な将軍が出現して、リーダーシップを取ってもらわなくては幕府が崩壊しかねないことは判り切っています。幸い?家定は暗愚なだけでなく、病弱で、しかも、男性機能そのものに問題があるので、将来ともに子供ができないことは、当時既に広く知れ渡っていました。つまり、普通であれば廃嫡されて不思議ではなかった人物なのです。

 それが廃嫡されなかったのは、ひとえに彼の他に家慶の血を引く男子がいなかったからでした。家慶には実に14男13女があったのですが、皆早くに病死し、男子で成人するまで生き延びたのは、この家定一人だけだったのです。

 A 養君の候補者達

 家定の将軍就任直後から、以上のような事情から、養君、つまり養子を早く家定に取らねばならない、という議論が巻き起こります。幕府の法律によれば、養君なりうるのは御三卿及び御三家の当主だけです。この当時清水家は当主がいませんでしたから、候補は5人でした。

 日米通商条約に対する勅許が得られなかった安政5(1858)年時点で年齢順に見ると、尾張慶恕(よしくみ)35歳、田安慶頼(よしより)31歳、水戸慶篤(よしあつ)27歳、一橋慶喜(よしのぶ)22歳、紀伊慶福(よしとみ)13歳です。皆「慶」の字がついているのは、将軍家慶のいみなを一字拝領しているためです。

 このうち、尾張慶恕は、養父となるべき家定と同い年ですから、養君とするのには少々無理があります。田安慶頼は、実の兄の松平慶永が「俗中のもっとも俗人というべきなり」と酷評するような人物ですから、およそ支持者がありません。同じく、水戸慶篤は、実の父の斉昭が暗愚扱いしているのですから、やはり支持者がいません。

 したがって、養君候補と目されたのは、水戸斉昭の息子、一橋慶喜(よしのぶ)と、紀州家の当主徳川慶福(よしとみ)の二人だけ、ということになります。

 B 一橋慶喜と徳川慶福の優劣

 一橋家には、かつて、田沼意次を失脚させ、ついで松平定信を辞任に追い込んだ一橋治済(はるさだ)という怪物がいました。彼は、将軍家斉を筆頭に、各方面に自分の子供を送り込み、徳川一門を事実上自分の子供や孫だけで支配するほどの勢いを示していたことは、江戸財政改革史でも紹介しました。

 しかし、一橋宗家そのものは、その孫の代で絶えます。そこで、そこで田安家から治済の傍系の孫を養子を迎えますが、やはり継嗣に恵まれません。そこで将軍家慶の五男初之丞が跡を継ぎます。家慶自身が治済の孫ですから、これは治済の曾孫ということになります。

 なお、この初之丞に、幼き日の勝義邦(海舟)が小姓として仕えました。しかし、初之丞もまたわずか14歳で早世します。このことについて勝海舟は、晩年、俺は青雲の階梯を踏み外した、と言ったそうです。

 そこで、一橋家では、さらに再び田安家や、さらに紀州家から治済に血のつながる子供を養子に取りますが、いずれも皆早世し、明け御屋形(あけおやかた=当主不在の意味)となってしまいました。

 将軍家慶は、自分の嫡男の家定が暗愚で将軍職がつとまる器ではなく、したがって自分が死ねば、早晩養君の問題が起こることは、十分に承知していました。その場合、治済以来、事実上御三卿の筆頭の地位にある一橋家は重大ですから、明け御屋形となっているのは好ましくないと考えました。

 そこで、治済の血統にこだわらずに徳川一門を見回した場合、その時点では、養子に出せるほどの子福者は水戸斉昭しかいませんでした。そして、その子供の中でもっとも器量が大きいと評判なのが、七男の慶喜でした。斉昭としては、暗愚な当主慶篤に何かあった場合の世継ぎ候補として慶喜を考えていましたから、降るようにあった養子の話を断って水戸家に残しておいたのです。

 そこで、家慶は将軍家尊慮という形で斉昭の抵抗を排除し、一橋家を継がせたのです。弘化4(1847)年8月のことです。つまり、斉昭は部分復権はしたものの、本格復権は認められていなかった時点のことです。慶喜は、家慶に非常にかわいがられ、彼の存命中は事実上将軍後嗣扱いされていました。

 今一人の候補者である紀州家当主徳川慶福(よしとみ)は将軍家斉の実の孫であり、したがって家慶からみれば血の繋がった従兄弟です。すなわち家斉の子斉順(なりより)は、いったん清水家を継ぎ、その後紀州家に養子に入っていますが、慶福は、その斉順の子供なのです。

 将軍家の後継者は、建前としては、まず御三卿から出し、御三卿に人がいない場合には御三家から出すということになっています。したがって、このルールに従えば一橋慶喜が一番有利です。

 他方、徳川宗家との血の近さという点からいえば家康まで10数代も遡らなければ、将軍家と血縁が繋がらない一橋慶喜よりも、実の従兄弟である紀伊慶福の方が、はるかに有利ということになります。つまり、家格対血筋の争いです。

(2) 養君擁立を巡る派閥抗争

 不幸なことに、養君問題は、単なる後継者争いの域を超えた政治問題になってしまい、二派に分かれての激しい争いを引き起こしてしまいました。その派閥は、慶喜を支持するのが一橋派、慶福を支持するのが紀州派と呼ばれました。

 A 一橋派

 養君問題について、最初に動き出したのは松平慶永です。彼は一橋慶喜が人物と見て、1856年の時点で既に、その擁立に向けて運動を開始します。彼の盟友島津斉彬もこれに賛同し、慶喜の父斉昭も異存のあるはずはありません。すなわち、従来、阿部正弘を支援してきた有力諸侯が、今回は慶喜を支持するという形で運動が展開されることになります。尾張家も、御三家や有力諸侯に政治的発言権が認められる方が、自家にとってもよいと考えて、これに同調しました。つまり、御三家が、紀州家と水戸・尾張連合に分かれて対立することになったわけです。

 有力諸侯達が慶喜を押す場合のキャッチフレーズは、「英明、年長、人望」の三点です。すなわち、非常の場合であるので、幼年の養君は好ましくない、十分な判断力があり人望のある成長した養君が好ましい、というものです。つまり、この派の場合、家定の養君というのは名ばかりで、それが決まれば、家定には圧力をかけてすぐに隠居をさせ、新将軍に切り替えようという話であることは明々白々といえます。

 しかし、こうした支持勢力は、慶喜から見ればはっきり言って迷惑といえるでしょう。リーダーシップのとれる強力な将軍家は、当然独裁をするべきなのです。それなのに、このような諸侯の支持の上に立って将軍位についた場合には、将軍の権力を大幅に削減する雄藩連合の形で政局を運営せざるを得ないからです。

 かなり後のことになりますが、慶喜は酒に酔った上で、松平慶永、島津久光、それに宇和島藩主伊達宗城という彼の大事な支持者達に対し、面と向かって、天下の大愚物、大奸物と悪罵を放って、彼らを激怒させています。いかに慶喜が、彼らに擁立されるのを嫌っていたのかが判ると思います。そこで、慶喜本人は、この時期、再三にわたって後嗣辞退を幕閣に申し出ています。

 B 紀州派

 この問題に対する将軍家定の意見は単純です。慶喜は嫌いだ、慶福は我が子のようでかわいい、というのです。家定は先に述べたように1824年生まれ。これに対して一橋慶喜は1837年生まれですから、一回りほど慶喜の方が若いことになりますが、既に立派な青年です。家定がいくら暗愚でも、慶喜が養君ということになれば、あっという間に自分は引退させられるということくらいは理解できます。これに対して、慶福は1846年生まれですから、家定とは二回り近く違い、親子といっても不自然でない年齢差です。かわいいというのは本音でしょう。

 幕閣も紀伊慶福支持でほぼ固まっています。水戸斉昭と衝突して、阿部正弘から老中を罷免された松平忠固を、堀田正睦は、阿部正弘が死亡するとさっそく老中に復帰させ、勝手係、すなわち大蔵大臣に就任させています。忠固が、斉昭の子、慶喜を支持するわけがありません。堀田正睦もやはり斉昭は嫌いですから、同意見です。

 溜まりの間においても、その最有力者、井伊直弼は徹底した血統主義者ですから、家斉の実の孫の慶福を是と考えるのは当然です。

 また、徳川家の政治ファクターにおける隠れた大勢力である大奥では、この当時は家定の生母が君臨していました。彼女は、母親として当然の事ながら、実の孫の生まれるのを期待していましたから、養子を取ることには好意的ではありません。ましてや慶喜のように、息子家定の引退含みの養子には絶対に反対でした。

 島津斉彬は娘の篤子を通じて大奥工作を試みます。家定没後に出家して天璋院と号するようになった彼女は、姑として、嫁の皇女和宮をいびり抜いて勇名をはせます。が、この時点では、処女妻にすぎない彼女に、大奥の状況を左右するほどの力はありませんでした。

 結局、幕府内部における一橋慶喜擁立派の支持勢力は、阿部正弘が抜擢した川路聖謨や岩瀬忠震らのエリート官僚達だけでした。彼らは、日々現場で困難な対外交渉に当たっているのですから、こうした時代におけるリーダーシップの欠如による被害を誰より痛切に受けていました。ですから、わずか13歳の子供の将軍ではなく、22歳の青年の将軍を望んだのも無理はありません。しかし、この時点では、まだ彼らの意見は、幕閣を動かすほどの力はありませんでした。

 したがって、普通であれば、すんなりと慶福に決まるはずです。そこで、一橋慶喜擁立派は、最後の手段を使うことにしました。すなわち詔勅を得て、慶喜を将軍にしようとはかり、彼ら得意の京都工作を展開します。しかし、彦根藩主井伊直弼の逆工作の前にその謀略は潰えました。

 C 堀田正睦の寝返り

 ここで将軍後嗣問題にとんでもないどんでん返しが起こりかけます。前節に述べたとおり、堀田正睦は日米通商条約について勅許を得るために上京していましたが、3月11日の公家のデモに、あきらめて江戸に帰ることにしました。

 ところが、この段階になって突然、堀田正睦が慶喜擁立派に宗旨替えをしたのです。理由は単純で、尊皇攘夷で知られる水戸家の御曹司を将軍にし、また一橋慶喜擁立派の重鎮、松平慶永を大老ということにすれば、朝廷も軟化し、条約に対して勅許が得られるのではないか、と考えたからです。おそらく、対朝廷工作の中で、そのような印象を与えられたのでしょう。江戸帰着の二日後、堀田正睦は家定に謁して、慶永を大老に就任させることを進言します。

 しかし、これは手遅れでした。堀田正睦のいない間に、紀州派は、一橋派の京都での暗躍を察知し、堀田正睦の寝返りを予想して対策を講じていました。それが伊直弼の大老就任です。これについて既に家定の了解を取っていました。したがって、家定は、堀田正睦の言上を、大老になるのは、井伊家に決まっている、と一言ではねつけます。そして、その翌日、井伊直弼を正式に大老に就任させました。その結果、将軍後嗣は紀伊慶福ということに自動的に決まってしまいました。

 堀田正睦はその後、少しの間、老中の座にとどまります。しかし、井伊直弼は、この年6月19日に勅許がとれないままに、日米通商条約調印を断行しました。その上で、勅許を得ずに条約を調印した責任者という形で、堀田正睦と松平忠固二人は、同月22日に登城停止の処分を与えられます。そして、翌23日には老中職を罷免され、蟄居を命じられました。これは、彼らのどちらにとっても、二度目の失脚というわけです。

 しかし、堀田正睦の真の失脚原因は、将軍後嗣問題に当たって、紀州派から一橋派に寝返ったことにあるといわれています。その意味では忠固の失脚は、堀田正睦の巻き添えということもできるでしょう。

 堀田正睦は、そのまま二度と世に出ることなく、失意のうちに元治元(1864)年に死去することになります。

 

4. 堀田正睦の財政

 ここで本稿としての問題は、堀田正睦は、彼が責任者であった時代の財政をどのようにやりくりしていたか、という点です。彼の時代の財政の全体規模については判っていませんから、どこにどれだけ使用したのか自体が判りません。

 しかし、台場工事にも着工していましたし、対朝廷工作にも相当の費用がかかっていますから、阿部正弘時代に比べると、かなりの程度歳出規模が拡大していることは確実です。しかし、現実にどの程度の歳出規模であったかということは判りません。

 とにかく、これまでにない新たな支出要因が存在している以上、何らかの形でそれを賄わなければなりません。先に述べたように、輸出入両面にわたっての関税賦課を、岩瀬達がハリスの反対にも関わらずがんばり抜いたのは、まさにそれを意識してのことと思われます。

 しかし、これ以外の点については、特段の新規歳入手段は講じていません。各地の豪農や商人、特に大阪地方の豪商に、臨時の上納金を命じた事は判っています。だが、それが全体でどの程度の歳入額になっていたのかについても資料が不十分で、全く判りません。

第3章 井伊直弼と安政の大獄


 1. 井伊直弼の登場

(1) 譜代の棟梁

 武田信玄軍団の最精鋭部隊は、赤備え(あかぞなえ)と称して、鎧や甲を赤く染めていたため、戦場で非常に目立ちました。徳川家康は、武田氏滅亡後、この赤備えを使用することを、井伊直正(なおまさ)の部隊に許しました。とりもなおさず、井伊軍団に対して、徳川軍の最精鋭部隊であるというお墨付きを与えたに等しいことです。事実、その後、井伊の赤備えは、その精強ぶりを敵味方双方に畏怖されることになります。井伊直正は、関ヶ原の合戦に大功をあげ、明智光秀の拠点であった近江(滋賀県)佐和山18万石の大名となりました。

 その子直孝も大阪夏の陣の際に、木村重成(しげなり)=長宗我部盛近(ちょうそかべ・もりちか)の連合軍を撃破し、豊臣秀頼母子を自害に追い込むという大功をたて、近江彦根20万石の領主になりました。家光は、さらに5万石を加増して計25万石とし、彼を大老(たいろう)に迎えて幕政全体にわたって睨みを利かせるようにしました。

 この25万石という石高は譜代大名の中で最大の石高であったため、井伊家は、以後、「譜代の棟梁」と呼ばれるようになります。井伊家に対してはその後も再三加増があり、最大時には35万石となりました。

 大老というのは、徳川幕府では、老中の上席に立ち、幕政全体を統括する最高責任者です。が、常置の制度ではなく、特に問題が起きた時に限って置かれます。大老職に就けるのは井伊、酒井、土井、堀田の四氏に限られていました。特に井伊家の指定席的観があります。幕府存続中に9人が計10回大老に就任しましたが、そのうちの5人6回は井伊家からでていることから見ても、江戸幕府中における井伊家の家格の高さが判ると思います。もっとも、この家格の高さが災いして、井伊家は普通の老中には、なっていません(幕府の最初期に一人いるだけです)。大老になるか、溜まりの間に詰めて実質的に睨みを利かすというのが、井伊家の役割であったのです。


(2) 井伊直弼の前半生

 直弼(なおすけ)は文化12(1815)年、井伊家11代藩主直中(なおなか)の14男として生まれました。上に13人も男子がいては、普通なら間違っても家督を継ぐことなどあり得ない地位です。しかも将軍家斉が子供を大量生産して、あちこちの家中にむりやり養子として押し込んでいた時代ですから、彼には養子の貰い手もありません。このため、わずか300俵の捨て扶持を与えられ、32歳まで部屋住みとして暮らしました。自邸に「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けていた、ということから、この時期の彼の絶望感が伝わってくるような気がします。

 しかし、この間、彼は決して無為に暮らしていたのではありません。武道としては居合いや槍、学問としては禅や茶道、国学等を学び、いずれも一流の域に達したといいますから、非凡な資質を持つ人物であったことは確かです。特に、その国学の師となった人物が、井伊直弼の引き起こした安政の大獄で、井伊直弼の腹心として暗躍することになる長野主膳です。

 彼が32歳の時、ようやく幸運が巡ってきました。藩主である長兄直亮(なおあき)の子が死亡し、この時には他の兄たちも様々な理由からいなくなっていたため、代わって世継の地位につくことができたのです。さらに嘉永3(1850)年、彼が36歳の時、直亮が死亡したため、ついに彦根藩主の地位についたのです。


(3) 大老就任

 井伊家は東海道の要衝彦根を押さえ、特に至近距離にある京都に睨みを利かす位置にあります。しかし、それだけに尊皇思想に染まりやすいといえます。特に直弼は、国学を学んだだけに、その精神的バックボーンには尊皇思想があったことは間違いありません。

 それと同時に、譜代の棟梁として幕府至上主義でもありました。そして、溜りの間詰めの譜代大名として幕府の財政事情の厳しさを知っていただけに、開国して貿易利潤を幕府が独占する必要性も理解していました。
彼は、溜りの間を代表して、阿部正弘の路線を、有力諸侯に迎合するものとして厳しく批判し、阿部正弘に代わって堀田正睦を老中首座に押し上げるのに成功しました。

 その後に大きな政争となった家定の後嗣問題に当たっては、血統主義の立場から紀伊慶福(よしとみ)を支持し、一橋慶喜を支持する松平慶永や島津斉彬と対立しました。この戦いは、前章で述べたとおり、将軍、大奥、幕閣、溜まりの間、とすべての政治勢力が紀伊慶福を支持した結果、早い段階から圧倒的に紀州派に有利でした。

 そこで、一橋慶喜擁立派では、最後の切り札として詔勅を得るべく、松平慶永が腹心の橋本左内を、また島津斉彬がやはり腹心の西郷吉之助(後の隆盛)を京都に送り込んで対朝廷工作を行いました。直弼は、これを察知すると、彼の腹心である長野主膳を送り込んで対抗策を講じました。一橋派の工作は、一時は成功して、詔勅案に明確に慶喜擁立派のスローガンである「英明・年長・人望」の三語を書かせることができました。が、彦根を拠点にしているため、京都の内情に詳しい井伊家の底力はすさまじく、長野主膳は、最終稿の段階で、関白九条尚忠(ひさただ)に、その問題となる文言を削除させることに成功し、その結果、将軍継嗣に関する勅書は曖昧なものになりました。

 また、条約に対する勅許を得るのに失敗した堀田正睦の意見が慶喜擁立に変化したのを素早く察知し、彼が江戸に戻る直前に、直弼自らが大老の地位につくように将軍家定の説得を行い、成功しています。こうして、安政5(1858)年4月23日、直弼は大老に就任し、幕府建て直しのため、その強権を振るい始めるのです。


2. 条約の締結

 大老に就任すると、まず彼は、将軍後嗣を正式に紀伊慶福と決定し、5月1日に家定に正式承認させます。それに伴い、先例にしたがい朝廷にその承認を請うています。
 また、日米通商条約については、堀田正睦にハリスと再交渉をさせ、7月27日までの時間を得ます。そこで、その時間的余裕を利用して改めて朝廷から勅許を得ようとしたのです。


(1) アロー戦争と条約の調印

 6月13日、米国蒸気フリゲート艦ミシシッピ号が浦賀に入港してきて、アロー戦争で清国が破れた結果、英仏と清国の間で天津条約が締結されたことをハリスに伝えてきました。

 アロー戦争というのは、イギリス商船アロー号の中国人船員を清国当局が逮捕したことを口実として、英国とフランスが清国を相手に始めた侵略戦争で、第二次アヘン戦争とも呼ばれます。その結果締結された天津条約が、清国の主権を蹂躙した非常に不平等なものであることは、言うまでもないことです。

 さらに、その余勢を駆って、英国からエルジン伯爵が、またフランスからはグロ男爵がそれぞれ全権大使として、艦隊を率いて日本に来航し、清国との間に結んだ天津条約と同様の内容の条約を日本に強要しようとしているというのです。偶然、その6月16日にプチャーチンが座乗するロシアの軍艦アスコルド号が下田に入港し、この情報の真実性を裏書きしました。

 その前日の6月15日にポーハタン号が入港し、この時点における米国司令長官タトノールが座乗していました。先に紹介したとおり、このポーハタン号というのは、ペリーの2回目の来航時の旗艦だった船で、2415トンあり、当時としては世界最大、最強といえる艦の一つでした。つまりこの時点で、米国の強力な蒸気軍艦2隻が偶然浦賀に集中し、しかもそれを動かす権限を持つ人物が搭乗して来ていたわけです。ペリーの来航以来、最大の米海軍勢力をハリスは持ったことになります。

 極東におけるこの新事態こそ、条約調印に向けて日本の情勢を動かす好機と見て取ったハリスは、ポーハタン号に自ら搭乗し、江戸湾を神奈川沖まで侵入して堀田正睦と連絡を取りました。このような大型艦に神奈川沖まで侵入されては、幕府としてはかなりの威圧感を覚えざるを得ません。

 この結果、ハリスに言わせると、「日本政府は初めて敏速に行動した」のです。すなわち、交渉担当者の岩瀬忠震と井上清直の二人は、取るものもとりあえず咸臨丸に飛び乗って神奈川沖に駆けつけ、17日の深夜、ポーハタン号に乗船し、ハリスに面会しました。ハリスは、数十隻からなる英仏の連合艦隊が来航中であり、時間はきわめて切迫していると説きます。また、日米条約が締結されていれば、米国は日本のために友好的調停者として行動するであろう事を誓約するというのです。これに説き伏せられた岩瀬達は、引き返して堀田正睦の説得に成功し、この問題は閣議にかけられることになります。夜を徹して続けられた閣議は紛糾しました。が、堀田正睦、松平忠固の二人が即時条約断行論を唱えたため、井伊直弼もどうしてもやむを得ないのであれば無勅許調印をしてもよいという決断を下し、将軍の裁可を仰ぎました。

 岩瀬と井上がポーハタン号に戻ってきたのは、6月19日の正午過ぎでした。彼らは井伊直弼の命に反して、調印延期の可能性について全く交渉することなく、直ちに調印することとしました。この命令違反に対して井伊直弼の持った不快感が、後に岩瀬忠震らに大きな悲運を招く原因の一つとなります。

 そこでポーハタン号上に調印場が作られ、両国政府代表が日米通商条約の調印を行いました。ポーハタン号からこれを祝って放たれた21発の祝砲が、江戸湾に殷々ととどろき渡りました。この瞬間に、幕末は、新しい段階を迎えたわけです。


(2) 一橋派の弾圧

 井伊直弼は、6月22日に諸大名に総登城を命じて条約調印を発表しました。同時に、閣議の席で条約の即時調印を主張した堀田正睦、松平忠固の二人を、違勅調印を理由として老中から罷免することで、一橋派の攻撃の矛先を交わそうとしました。自分も、その決定に最終的に同意したことは、井伊直弼の、自分に都合のいい記憶からは抜け落ちていたのでしょうか。

 A 一橋派の一斉不時登城

 一橋慶喜は、これに対して、純然たる尊皇論者の立場から、翌23日、登城し、違勅調印について直弼を責め立てました。

 他方、政治闘争で一敗地にまみれた一橋派では、今後の打開策について検討しました。松平慶永を始め、彼らの中には開国主義者も多いのです。が、この違勅調印に井伊内閣の弱点があると見て、ここを攻めれば倒閣できるのではないか、と考えました。

 そこで翌24日、本来の登城日でもないのに一斉登城を決行し(これを当時の言葉で「不時登城」といいました。)、直弼を責め立てました。今流に言えば、労働組合員が勤務時間外に出勤して管理職を吊し上げるようなことをやったわけです。ただしこの場合は、吊し上げをした水戸斉昭・慶篤親子や尾張慶恕、松平慶永の方が、吊し上げられた井伊直弼より家格が上なので、井伊直弼はひたすら平身低頭するしかない、というまことに辛い状態でした。

 勢い込んだ一橋派では、翌25日にも不時登城を決行し、さらに吊し上げを続行しようとしました。しかし、井伊直弼は、彼らに、将軍後嗣が、朝廷の承認を受けて、紀伊慶福に正式に決まったことを発表することで、その出端をくじきました。

 B 直弼の反撃

 吊し上げを受けて怒り心頭に発した井伊直弼は、7月5日になって反撃に転じます。水戸斉昭に「急度慎(きっとつつしみ)」、尾張慶恕と松平慶永に「隠居・急度慎」、一橋慶喜及び水戸慶篤に「登城停止」をそれぞれ命じたのです。松平慶永は隠居に伴い春嶽と号する事になります。この号はよく知られているので、本稿でも、以後、彼のことは春嶽と呼ぶことにします。

 なお、家定はその直後、1858(安政5)年7月6日にわずか35歳で死亡します。脚気衝心(かっけしょうしん)、すなわち今日の言葉でいうところの心臓脚気が死因ということです。これにより、紀伊慶福が、その名を家茂(いえもち)と改め14代将軍となりました。ただし、井伊直弼は、次に述べるような一連の新規施策をする都合上、この段階で家定の死を公表することができず、その死の正式発表は1ヶ月後の8月8日となりました。

3. 安政の五カ国条約締結

(1) 専任外交機関の設立

 井伊直弼は、日米条約交渉を通じて、外交を担当する専門の機関を設立する必要性を痛感しました。そこで、まず閣内に、外国御用係老中を設けました。今日の外務大臣に相当する職と考えればよいでしょう。

 これまで、綱吉の改革以来、今日の大蔵大臣に相当する勝手係老中がいたことは紹介してきましたが、それを除けば、初めての専従制を導入したわけです。初代の外国御用係には、太田資始、間部詮勝、脇坂安宅(やすおり)、久世広周(くぜ・ひろちか)の4老中が任命されました。

 これに対応する形で幕府は安政5(1858)年7月8日に外国奉行の職を設けます。すなわち外務省を設置したわけです。外国奉行は今でいえば外務事務次官に相当します。初代奉行として水野忠徳、永井尚志、岩瀬忠震、井上清直、堀利煕(としひろ)の五名を任命します。ただし、このうち井上清直は、従来どおり下田奉行を、また堀利煕は函館奉行をそれぞれ兼任することとされました。むしろそれら開港地で外国人と折衝するにあたり、外国奉行の肩書きを与えたと言っていいでしょう。したがって実質的には、水野、永井、岩瀬の3人が初代奉行として活動することになります。

 この職は、高2000石とされましたから、高3000石の勘定奉行等に比べると少し低い職ですが、高1000石の普通の遠国奉行に比べると、ぐっと重職というところです。実をいえば、水野忠徳も勘定奉行経験者ですし、永井尚志に至っては、直接勘定奉行から外国奉行に配置転換されています。したがって、彼らにとっては、形式的には左遷気味のところがあります。が、むしろこの段階では適材適所が貫かれたと見るべきでしょう。それと処遇がかみ合わないのは、過渡期にはやむを得ないところです。外国奉行設置に伴い、海防係は廃止されました。

 なお、これまで長いこと勘定奉行兼海防係として対外交渉の第一線で活躍してきた川路聖謨は、井伊直弼の大老就任に反対してその逆鱗に触れて、これに先立つ5月6日に、既に西の丸留守居役に左遷されていたため、この人事から漏れています。この川路聖謨の左遷は、後に安政の大獄の一環として吹き荒れる人事粛正の嵐の、前触れともいうべきものです。

(2) 対英交渉

 この7月に、オランダ、ロシア及び英国の大使が、いずれも通商条約の締結を求めて江戸に入ってきました。水野忠徳達は、まずオランダ、ロシアと交渉して、米国と同一条件での条約を調印しました。オランダは日本との長い交渉がありますから、基本的に日本に同情的です。またロシアはまだ資本主義が未発達でしたから、日本との通商に強い要求をもっていなかったのです。そこで日本としてはいずれも交渉のしやすい相手だったわけです。

 その後で、やおら英国大使のエルジン伯爵との交渉に臨んだのです。英国の方では、ハリスが言ったとおり、6月に清国と天津条約を締結しており、本国政府は彼に、日本とも、天津条約と同一条件の条約を締結するように指示してきていました。しかし、水野らは米、蘭、露三国と同一条件の条約でなければ締結しないとがんばり、エルジンにそれを承知させて7月18日に、ほぼ同一の条件で日英条約を締結します。

 実は、この時点においては、アジアで活動中の英国商人はともかく、英国政府そのものはまだ日本との交渉に切迫感をもっていなかったのです。そのため、エルジンはロンドン出発に当たり、次のような指示を受けていました。

「強硬手段を用いて日本に新条約を押しつけることは、女王陛下の政府の意図するところではありません。我々は日本の政府と国民の好意を得ることを望んでいるのです。」

 この好意を象徴する行動として、日英条約が調印された18日に、エルジンは伴ってきた蒸気客船エンペラー号を日本に贈呈しています。日本名を蟠竜(ばんりょう)丸と呼ばれる船です。このような柔軟な対日姿勢が、やがて英国が米国に代わって対日列強外交の主導権を握るに至る原因をなすのですが、それは後のことです。

 そういうわけで、この時点では、エルジンはそもそも無理押しする意思はなく、したがって、水野が力こぶを入れるほどの問題ではなかったというのが真相であったようです。そもそもエルジンは、日本側との通訳さえ用意せずに来ていました。だから、ハリスがヒュースケンを提供すると、喜んで受け入れたのです。そして、ハリスが粘り強い交渉により獲得していた不平等条約もまた喜んで受け入れたというわけです。

 もっとも、細かく見ていくと、この日英条約は色々な点で日米修好通商条約に比べて、さらに英国に有利な内容になっています。エルジンの交渉技術の巧みさを示すものといえるでしょう。

 第一に、天津条約にあったのと同じ、一方的な最恵国待遇の規定が、日英修好通商条約には入っていることが注目されます。後年、英国領事のパークスは、日本とオーストリアとの間の通商条約締結に大いに尽力をします。それは決して博愛的な行動ではなく、その条約の中に、甚だしい不平等規定を挿入し、それにより英国も同一の条件を獲得するためのものだったのです。

 第二に、英国は、同国の主力輸出品である綿製品及び羊毛製品を5%関税にする事にも成功します。つまり、ここで簡単に幕府が譲ったことで、ハリスが日米条約の形で行った英国進出阻止の謀略は失敗に終わったわけです。

(3) 対仏交渉

 遅れてきたフランスのグロ男爵も、ハリスの斡旋でほぼ同一の条約を承諾し、9月3日に調印します。ヒュースケンは、フランス語も流暢でしたので、その際にも通訳として活躍します。フランス代表のグロ男爵は、フランスワインを日本に輸出するために、アルコールにかけられる35%という高率関税を軽減するように交渉しましたが、これは失敗に終わりました。

 これにより、いわゆる安政の五カ国条約がそろったことになります。

 結論的に言えば、ハリスの6月17日における英仏の脅威を強調した言動は、いわゆるお為ごかしの恫喝でした。彼の語った脅威は実際には存在していませんでした。もし幕府が、彼の恫喝に負けずに、事前に獲得していた期限までに何らかの手段で朝廷の勅許を獲得していれば、その後の歴史の流れはかなり違っていたものと思われます。歴史でifを言っても無駄なことではありますが・・。

 これらの条約は、明治にまで悪影響を及ぼした不平等条約でした。しかし、当時アジア諸国が欧米から押しつけられていた条約に比べると、遙かにわが国の主権を確保できたもので、その点では高く評価できます。実は、明治において不平等が云々されるに至る原因は、この時点での条約内容よりも、その後2回行われた条約の改悪による影響が大きいのです。それらについては後にお話しすることにしたいと思います。

 この時外国奉行であった者たちは、阿部正弘に抜擢されて以来、多年にわたりわが国外交の第一線で苦労してきたわけですから、五カ国条約の調印が済んだときには感無量の思いだったことでしょう。しかし、実はこの時既に、このエリート官僚達の運命は、彼ら自身の預かり知らないところで暗転していたのです。

4. 安政の大獄

(1) 戊午の密勅

 孝明天皇は、勅許もないのに幕府が調印を決行したということを聞き、激怒しました。そこで、井伊直弼に対して、無断条約調印の釈明を求める沙汰書を発し、それは安政5(1858)年7月6日に直弼の手元に届きます。それには、御三家並びに大老に対して、釈明のため、早々に上京するように命じていました。しかし、直弼は、三家は処分中であり、自分は政務多忙で、いずれも上京できない、と素っ気なく拒絶し、そのうちに使いの者が状況の上説明する予定である旨の返事を7月8日に送っただけでした。

 閣内で調整した結果、外国係老中の一人である間部詮勝(まなべ・あきかつ)を、事情説明に上京させることにし、その旨を7月末になって京都に伝えています。間部詮勝は、その姓で判るとおり、家宣の時、側用人として異数の出世を遂げ、新井白石とともに正徳の治を主導した間部詮房の子孫です。この時は、越前鯖江5万石の城主で、罷免された堀田正睦の代わりとして、井伊直弼によって6月23日に老中に任命されたばかりでした。

 この頃、政争に一敗した一橋派では、失地回復の手段として、再び朝廷カードを切ろうとしていました。まずその手始めに、井伊派である関白九条尚忠(ひさただ)を脅迫して辞職に追い込みました。そして、井伊直弼の素っ気ない態度にいよいよ怒り狂っている孝明天皇に近づき、8月8日にいわゆる戊午(ぼご)の密勅を発っさせる事に成功しました。戊午というのは、この年の干支です。この密勅の内容については、幕府に正式の記録がなく、写しと賞する文書がいくつか世の中に流布しました。しかし、大同小異ですので、そのうちの一つを、適宜現代語訳しつつ次に紹介します。

「この度、幕府諸有司から、宿次の奉書により、朝廷の許可なく仮条約に調印した旨申し来たった。右の通りならば、せっかく天朝より勅命を下した甲斐もなく、大樹公から京都に許可を求めに来た趣意も立たない。大樹公が賢明であるのに、幕府の有司はいったい何を考えているのかと(陛下は)不審に思われた。このようでは、外夷はさておき、国内の人心の折り合いにも影響して来るであろうと陛下はお心を悩ましていらっしゃる。その上、水戸前中納言、尾張、越前の諸侯も蟄居を命ぜられているという。どのような罪があったのかは知らないけれども、三家家門の儀は柳営の羽翼というべき大切な家筋であり、外夷入津・国事多難の日にあたり、このような状況では実に徳川家の盛衰に関わるので、陛下はお心を悩ましていらっしゃる。(したがって)三家、三卿、大老、閣老、国主、外様、譜代にて会議し、陛下のお心を安心させるような処置を執るようにと陛下は思し召されている。」

 冒頭にでてくる「宿次」というのは、宿場ごとに手紙をリレーして送る飛脚のことで、当時としてはもっとも早い手紙の送り方です。「大樹公」とは将軍を、また、「柳営」とは幕府をそれぞれ意味します。括弧書きは原文にはありませんが、補った方が判り易いと考えて挿入したものです。

 この勅書は、要するに、井伊直弼の一連の施策に対するあからさまな批判であり、また、水戸斉昭や島津斉彬の雄藩連合構想に対するお墨付きと言っていいものです。

 しかも問題は、この密勅が、まず水戸家に下され、ついで幕府に下された点にあります。このため、幕府としてはその内容が諸大名に漏れるのを防ぐことができないのです。

 このような密勅を周旋する行為は、当然の事ながら、禁中並びに公家諸法度をはじめとする幕府の法令の厳禁するところです。阿部正弘が、水戸斉昭の京都工作を暗黙のうちに認めて以来、その禁令にふれる行為が日常化してきて、ついにこのような密勅が下されるに至ったわけです。

(2) 間部詮勝上京

 ここにいたって、井伊直弼は、幕法を厳正に適用することにより、京都を徹底的に粛正することを決意します。したがって、間部詮勝の使命は、単なる釈明旅行とは全く異なる色彩を持つに至りました。詮勝は「この度は天下分け目のご奉公と存じ、一命にかけ勤め候心得にござ候」と悲壮な覚悟をして京都に乗り込みます。

 長い間、全く取り締まりがなかったため、水戸家の家臣をはじめとする勤王の志士たちの多くは全く無警戒でしたから、幕府としては違法活動の証拠を発見するのに苦労はしませんでした。

 間部詮勝の上洛に先行して、まず京都所司代酒井忠義(ただあき)の手により、この密勅の首謀者である梅田雲浜(うんぴん)が、9月7日に逮捕されます。

 さらに9月17日に間部詮勝が京都に入るとともに、京都と江戸にまたがる大量逮捕が開始されます。水戸藩では、家老安島帯刀(あじま・たてわき)以下20数名が逮捕され、越前藩では慶永の腹心橋本左内が逮捕され、さらに多数の公家の家臣が芋蔓式に検挙されるに至ります。また、薩摩の西郷吉之助も危うく捕まりそうになり、かろうじて逃走に成功しています。

 詮勝は、こうして十分に公家を威嚇した上で、10月19日には親幕的な九条尚忠を再び関白に復職させ、24日には家茂に対する将軍宣下を実現しました。そして、この日、入洛後37日目にして初めて参内(さんだい)すると、条約を無許可調印した責任は、水戸斉昭らの陰謀にある、と人を喰った報告をしました。

 その後も、儒者頼三樹三郎(らい・みきさぶろう=頼山陽の息子)を逮捕するなど、粛正を続行しました。その結果、12月31日には、条約調印はやむを得ざるところと「御氷解」したという天皇のお言葉をいただき、事実上、条約調印の勅許を獲得するのに成功したのです。

 こうして逮捕された者達は、あるいは厳しい取り調べに耐えきれずに獄中で死亡し、生き延びたものも、切腹、死罪、遠島、追放その他の厳しい処罰を受けたことはよく知られているとおりです。

(3) 一橋派の再弾圧

 この機会に、井伊直弼は、一橋派の徹底壊滅を計ることを決意し、安政6(1859)年2月に、一連の行政処分を下します。安政の大獄というと、上記の刑事罰の方が有名ですが、実は日本史的には、こちらの行政罰の方がはるかに重要です。刑事罰の対象者は小物であったのに対して、行政罰対象者は、この時点で現実に日本史を動かしていた大物ばかりだからです。

 皇族では、青蓮院宮(せいれんいんのみや=後の中川宮)に対して御慎永蟄居が命じられます。永蟄居というのは一生家から出てはいけないというのですから、今日の言葉でいえば、自宅監禁という終身刑です。公家では、戊午の密勅に名を連ねた太閤鷹司政道(たかつかさ・まさみち)や前内大臣三条実万(さねむつ)、左大臣近衛忠煕(ただひろ)、右大臣鷹司輔煕(すけひろ)等が、辞官・落飾(らくしょく)・御慎の処分を受けました。落飾とは、出家することです。

 また、大名では、尾張慶恕・堀田正睦等に対しては隠居・慎みが言い渡されました。

 もっとも峻厳を極めたのが水戸家に対してで、主犯格の斉昭が水戸にて永蟄居、当主の水戸慶篤に対して御差控(おさしひかえ)、一橋慶喜に対して御隠居・御慎みという処分が下されたのです。水戸斉昭は、結局この命令に活動を封じられたまま、万延元(1860)年8月15日に病没することになります。享年61歳。死因は脚気衝心といわれます。

(4) エリート官僚達の弾圧

 こうした政敵処罰は、先の刑事事件と直結していますから、理解可能です。が、井伊直弼は、さらにこの機会に、常識的には理解不可能な行動にでます。これまで彼の外交・内政の施策を忠実に実行してきたエリート官僚達に対して、一斉に処分を下したのです。

 直弼から見た場合に、彼らの言動が一橋派と見えたからに他なりません。処分された理由は大きく分けて二つあります。

 一つは13歳とまだ幼い家茂が将軍についたため、将軍そのもののリーダーシップは期待できなくなりました。そこで、官僚達は将軍に後見職を設け、それに一橋慶喜を当ててはどうかと井伊直弼に具申したのです。後見職を設けろという意見そのものは妥当ですし、挙国一致体制を作ろうと考えるならば、その職に慶喜を起用するのもまことに妥当です。

 しかし、政敵を起用する意思は、直弼には、全くありませんでした。後見職には、結局、田安慶頼を就任させています。この人は、実兄の松平慶永が、俗人中の俗人で、最悪のおべっか使いと酷評した人物です。そのような人物を起用し、正論を具申してくる職務に忠実な官僚を処罰するというあたりに、井伊直弼の政治家としての器量の小ささを端的に見ることができます。

 今ひとつは、遣米使節問題です。日米通商条約の調印の際、岩瀬忠震は、日本人に米国を見せることによって、条約締結に対して朝野に好ましい反応を引き起こすことが期待できるのではないかと考え、正式批准をワシントンでするのはどうかと、ハリスと交渉したのです。ハリスもそれは良いと積極的に賛同しました。

 岩瀬忠震は、自らが全権大使となって米国に渡り、それと同時に幕府及び諸侯中の家臣で、気概識見のある人々をも使節団のメンバーに加え、直接に米国を見せれば大いに啓発されるであろうと考えたのです。より端的に言えば、条約の締結に反対しているような人物でも、実際に米国を見せれば意見が変わるだろうと考えたわけです。少し後のことになりますが、長州藩では攘夷派の伊藤俊輔(後の博文)や井上聞多(後の馨)等を英国に密航させて欧米の文化に触れさせることにより、攘夷論者から開国論者に豹変させるのに成功していますから、この考えは悪い考えではないのです。

 しかし、諸侯中で、条約締結に反対している気概識見のある人といえば、この当時の状況下ではかなりの者が一橋派となります。したがって、これもまた、政敵を起用したり、便宜を図ったりするつもりなど、間違っても持っていない井伊直弼の逆鱗に触れることになりました。

 処罰のされ方には、人により厳しさに差異があります。が、それは、こうした一橋派を利するような考えを、直接井伊直弼に意見具申に及んだ者は首謀者として厳しく処断され、単なる一味徒党と見なされた者が比較的軽かったという事から来る違いです。

 水野忠徳は、前年9月に日仏条約に調印した直後、すなわち京都による粛正が始まると同時に既に罷免されています。

 岩瀬忠震も同じく前年9月にいったん作事奉行に左遷されていました。が、結局この時改めて永蟄居が命ぜられます。彼は、文久元(1861)年、失意のうちにわずか44歳で死亡することになります。死因は脚気衝心といわれます。
 永井尚志は、この時いったんは新設された軍艦奉行に転出しますが、結局8月になって罷免の上永蟄居が命じられます。

 川路聖謨は、この前年の5月、井伊直弼の大老就任の直後に、既に西の丸留守居に左遷されていた事は前述したとおりですが、井伊直弼の憎しみはなお消えず、この時改めて隠居・慎みが命じられています。

 井上清直は小普請奉行に左遷されました。比較的処分が軽かったのは、おそらく彼自身が政治的行動をしたのではなく、兄の川路聖謨の処分に連座したのでしょう。

 結局、初代の外国奉行のうち、この粛正を無傷で切り抜けたのは、遠い函館にいた堀だけでした。

 彼ら官僚達は、個人の意見は意見として、井伊直弼政権の下でも忠実にその職務を果たしていたことは、前節に紹介したとおりです。このむちゃくちゃといって良い粛正により、初代の外国奉行は壊滅状態となります。

 井伊直弼という人は、このように人に対する好き嫌いの感情の激しい人で、一時どんなに親しくても、嫌いになると我慢ができません。嫌いな人でも、有能であれば、その能力を生かすというやり方がまったくできないのです。先に初代の外国御用係老中(外務大臣)として紹介した間部詮勝など4人の老中達は、いずれも彼の盟友といって良かった人々ですが、彼らも、この前後の時期に、全員が老中から罷免されています。


5. 遣米使節

(1) ポーハンタン号

 井伊直弼には、外交という行政の一分野における高度の専門技術性が理解できなかったようです。すなわち、条約というものは、締結のために交渉することも確かに困難なことです。が、締結した条約を、現実に実施する段階になると、遙かに困難な事態が次々と起こり、その処理には有能な実務官僚が必要になる、という単純なことが判らなかったのです。そこで、条約締結が済んでしまえば用済みだから、いつ逆らうか判らない獅子身中の虫は処分してしまうのが一番、と考えたに違いありません。

 彼らエリートに代わって任命された新たに外国奉行に任命されたのは、村垣範正(のりまさ)や新見正興(しんみ・まさのり)達です。前者の村垣範正は、八代将軍吉宗が紀州から連れてきたお庭番の家筋です。お庭番の中では出世頭といえます。国内で、各地の情報の収集や分析をやらせれば、非常に有能な人物であったことは間違いないでしょう。

 彼らに予定されていた一番の大仕事は、米国軍艦ポーハタン号に乗ってワシントンに行き、日米通商条約を正式に締結してくることでした。おそらく、井伊の頭では、情報の収集は、お庭番に任せるのが適材適所という意識があったのではないでしょうか。しかし、外国情報の収集は、従来の日本国内での情報収集活動とはかなり事情が異なります。何よりも、それに先行する一般情報をもっているか否かが重要になるからです。ハリスも、この人選に対しては強い不満を表明しました。が、井伊直弼の人事は変わりませんでした。

 翌年1860年1月には、新任の外国奉行を団長とする遣米使節団が米国軍艦ポーハタン号に乗って出発し、無事に条約批准という使命を果たしてきました。が、気の毒にも、彼らは”忘れられた遣米使節”と歴史家に呼ばれています。
 遣米使節団の派遣目的は、確かに形式的には修好通商条約の批准です。が、実質的狙いは、わが国の歴史にインパクトを与え得るような人材に、実際に海外の文物に触れる機会を与えることにより、その後のわが国の国内世論そのものに影響を与えようということでした。

 しかし、それほどの能力を持つ逸材を乗せようとすれば、井伊直弼の逆鱗に触れることは、その直前の初代外国奉行の粛正に明らかです。そこで、村垣等の人選が事なかれ主義に終始するのも無理はありません。その結果、この使節団に参加した人々で、その後歴史上に名を出す人は、わずかに目付として随行した小栗忠順(おぐり・ただまさ)ただ一人に過ぎませんでした。

(2) 咸臨丸

 その護衛艦という格付けで、しかし実際には別行動を取った咸臨丸は、日本人初の太平洋横断という壮挙を行いました。それに加え、艦長勝義邦(海舟)や福沢諭吉など、その後の歴史の主役がずらりと参加していました。このため、この脇役の方が遙かに我々の印象に強く、遣米使節はこちらのような錯覚を覚えます。

 この航海では、便乗者となってされていたジョン・M・ブルック大尉の記録では、日本人に航海能力はなく、ほとんど彼とその部下が操縦したとなっています。これに対して、艦長だった勝義邦はもちろん、彼と仲の悪かった福沢諭吉も、口をそろえて、日本人だけの力による航海だったと強調しています。

 これは水掛け論で、厳密にどちらが正しいと決定することは不可能です。が、おそらくブルック大尉の方が正しいと考えて良いでしょう。なぜなら、この当時、日本人の航海術はお話にならないくらい低かったからです。

 幕軍が鳥羽伏見の合戦に敗れ、徳川慶喜が謹慎した後、榎本武揚は8隻の幕府海軍を率いて函館五稜角に脱走しますが、彼の艦隊のうち、実に6隻までが航海術のミスのため沈没しています(1隻は軍資金獲得のため売却し、明治時代になって外交問題になっています)。このため、彼の海軍は自然消滅してしまうのです。したがって、それよりかなり前のこの時点での幕府海軍の航海術は、それよりさらに低かったと考えるべきです。

 しかもこの年の北太平洋は、米国司令長官タトノールがその長い海軍生活の中で見たことがないというほどの悪天候で、ベテランの船乗りをそろえた巨艦ポーハタン号でさえ、予定外のハワイ寄港をしなければならないほどでした。それなのに、小艦の咸臨丸は、その悪天候をついて、驚いたことに無寄港でアメリカまで行っています。榎本艦隊のことを考えれば、この時点で、米海軍を上回るほどの卓絶した航海技術を咸臨丸乗組員が持っていたはずはないと断定できるでしょう。これに対して、ブルック大尉は、航海術と測量に関しては、世界史に名を残している名航海者でした。

6. 貿易の開始

(1) オールコックの着任

 安政5(1859)年5月、神奈川開港の数日前に、英国は駐日領事としてオールコック Rutherford Alcockを来日させます。彼は中国領事を経て日本に着任した練達の外交官です。後に本国の許可なく、独断で四カ国艦隊を組織し、下関砲台を攻撃させた責任を問われて本国に召還されるまで、英国の対日本外交をリードし、幕末史に大きな影響を与えた人物です。その3年間の日本滞在中の見聞を「大君の都」という著書で、世に残したことでも知られています。

 これより以後、ハリスの離任まで、オールコックとハリスは在日外交団の主導権を巡って死闘を演じることになります。

(2) 初期の貿易状況

 安政の五カ国条約と一口に言いますが、その条約の効力の発生時点は、それぞれの条約により異なりました。先に、日米修好通商条約で決まっていた神奈川及び長崎の開港日は西暦1859年7月4日と紹介しました。しかし、その後に締結された一連の条約では微妙に開港日が違い、一番早いのは日英修好通商条約で、西暦1859年7月1日とされていました。日本の年号でいうと、安政6年6月2日のことになります。そこで、最恵国待遇の規定から、これが神奈川の開港の日になったのです。

 実際には、水野忠徳の献言により、東海道の神奈川宿に代えて、そこからほど近い横浜が開港されることになります。最初、列強側は条約違反と文句を言いましたが、現地を見ると、船が停泊するのに、横浜の方が確かに優れているので納得しました。

 貿易を開始してみると、アジアに既に拠点を持っているイギリスが、わが国輸出入量の半ば以上を示すという調子で、最初から圧倒的に大きな貿易量を示しました。

 それでも米国はこの最初の年はわが国からの輸出に関する限り、全体の3分の1程度を占めるというまずまずの実績を示しました。しかし、翌1861年から南北戦争という国内戦争が始まったために、海外進出の余力がなくなってしまいました。そこで、米国は、以後、急速に対日貿易量が減少していってしまいます。南北戦争のピークである1863年には、対イギリス貿易量は、わが国の全貿易量の80%以上に達します。ペリーに始まる米国の一連の努力は、結果として英国を益するための、露払い的活動に過ぎないことになってしまったのです。

 とにかく、井伊直弼がベテラン官僚を2月に切り捨てて間もないこの安政6(1859)年6月に、英国の対日進出が本格化するわけです。この時点では、横浜、長崎、函館の3港が開かれました。

7. 貿易に伴う問題の発生

 貿易の開始されたとたんに、通商条約の抱えていた問題が表面化しました。

(1) 輸出の急増と国内物価の高騰

 第一の問題は輸出量の急激な増大です。それまでの鎖国時代においては、わが国は一貫して大幅な輸入超過状態で推移してきたことは、江戸財政改革史において紹介したとおりです。その時の主力輸入品は一貫して絹と木綿でした。初期においてはそれに対して金銀を以て支払い、後には金銀の流出を抑えるため、銅や俵物という輸出産品を開発することで、何とか輸入品代金の支払いを行うことを可能にしていたのです。おそらく幕府側としては、開国といっても同じような状況が、ただ対象国数が増えるだけ大型化して続くものと予想していたと思います。

 A 生糸の輸出急増

 横浜等を開港してみると、わが国の伝統的な輸入品である絹が、いきなり主力輸出品と化す、という誰も予想しなかった事態が起きました。最初期には、わが国からの輸出量全体の7割程度を生糸が占めているのです。

 欧米諸国は、日本の絹の品質の高さに驚嘆しました。世界最高の品質と、当時の書物には書かれています。なぜこんな逆転現象が起きたのでしょうか。

 開国前の文政から天保にかけての時期、幕府財政も疲弊していましたが、諸藩の財政もまた破綻の一歩手前でした。しかも諸藩は幕府と違って、金銀改鋳という打ち出の小槌を持っていませんでしたから、いずれも殖産興業により財政建て直しを行おうとしたのです。その場合、少ない生産量で換金価値の高い商品を狙うのは当然で、その結果、絹の生産量が延びていたことは確かと思われます。しかも、同じ生産量なら品質の高い生糸の方が高価に売れますから、品質管理に神経を集中するのも当然です。農家に副業的に生糸生産をさせるのではなく、品質管理をやりやすいように、小規模ながらマニュファクチャ生産に移行していたといわれます。これが、欧米の驚いた高品質の秘密と思われます。

 しかし、生糸は、この直前の時期まで我が国の主力輸入品だったほどですから、国内生産量が延びているといってもたかがしれていたはずです。これが爆発的に海外流出を始めたのですから、国内市場では大変な品薄になり、その結果、国内価格は一気に上昇しました。

 B 茶等の輸出急増

 ハリスは当初から日本の茶に目を付けていたくらいで、多くの人が、茶は、開国前からわが国の米国向けの主力輸出品になると考えていました。実際そのとおりの推移をたどりました。もっとも、わが国が生産するのは緑茶であるのに対し、欧米人が飲むのは紅茶です。そこで、初期においては、茶はいったん上海に送られ、そこで紅茶に加工されて米国に運ばれていました。後には、わが国で紅茶への加工まで行われるようになったので、直接対米輸出が行われるようになりました。この輸出急増に伴って、茶もまた、国内価格が一気に上昇しました。

 また、銅器、陶磁器、漆器など、わが国の工芸品は、化政文化の爛熟により極めて芸術的なレベルに達していたこともあって、やはり海外で爆発的な人気を呼びました。そのほか、欧州人の目から見て価値のありそうなものは何でも、貿易取引の対象となりました。

 C 輸入の急増

 鎖国時代は、わが国は常に輸入超過状態でした。開国により、輸入はさらに急増します。上述のとおり、絹は開国に伴い、輸出品になりますが、木綿は依然として輸入の花形でした。万延元年の時点だと、輸入量の半分までが綿布でした。

 江戸財政改革史で詳述したように、今日の我々の常識と異なり、綿製品は江戸時代を通じて絹に次ぐ高級品でした。国内木綿産業は、この高価な輸入木綿を競争相手として成立したものですから、半田というような不自然な生産形態で、高価な金肥を惜しげなく使用しても、価格競争力を持っていました。しかし、製品の品質はお世辞にも高いとはいえません。手で紡ぐため、糸は太く、しかも太さが一定しないからです。

 そこに近代工業が機械で生産した廉価な海外木綿がなだれ込んできたのです。有名な産業革命で、英国は既に蒸気力を利用して大量生産を行っていました。したがって、糸も細く、しかも製品の質も均質です。為替レートの壁は、このような高品質、低価格な外国製品の流入を防ぐ力はありませんでした。しかも、木綿は生活必需品という分類に入っていたので、輸入税はわずか5%でした。これでは、育ちつつあった国内木綿産業を守る保護関税としての機能は果たせません。この結果、国産木綿は大打撃を受けることになります。

 ただし、国内綿織物業者は、輸入綿糸を使用して着物向けの小幅綿布を生産することで活路を見いだしました。すなわち、外国木綿の雪崩込みは、その後のわが国産業の基本形態である加工貿易を形成するきっかけを作りだしたことになります。

 綿作農民はかなりの打撃を受けた模様です。ただ、1861年から始まった南北戦争により、米国南部の綿作地帯からの綿糸が入らなかったことから、世界的に一時、品薄になったおかげで、ただちには壊滅しなかったようです。国内綿作が本格的に壊滅するのは、南北戦争が終わった後、すなわち明治に入ってからになります。

 しかし、こうして貿易により、綿布に関するそれまでの生産形態が根底から変動せざるを得なくなり、輸出ドライブ同様に、国内経済混乱の一因となりました。

 D 国内物価の急騰

 輸出が急増した商品は、そのいずれの産業構造も、国内消費を念頭に置いてできていますから、輸出が急増したからといって生産量がそれに応じて直ちに増えるというわけには行きません。その結果、国内市場において品薄となり、そうした商品の国内価格は一斉に跳ね上がったことは上記の通りです。

 それらの多くは日常生活に使用される品ですから、当然、国内消費者物価全体が、それに引きずられて高騰を始めることになります。したがって、一般庶民の生活は一気に苦しくなりました。

 普通であれば、国内物価がそんなに値上がりすれば、輸出に自然と抑制がかかりそうなものですが、この時は、そうはなりませんでした。為替レートが国内の実勢物価に比べてかなり低く、少々値上がりしても、英国商人としては輸出すれば十分に利益があるような状態だったからに違いありません。

(2) 為替レートの過小評価問題

 輸出ドライブの最大の原因であった為替レートの過小評価問題は、正確に言うと二つの問題に分けることができます。江戸財政改革史に述べたとおり、江戸時代には、金銀銅三重本位制が採用されていました。すなわち、金貨、銀貨、銅貨がそれぞれ独立して国内流通しており、相互の交換比率は市場の需給関係から絶えず変動していたのです。その結果、第一に、銅貨と銀貨の国内交換レートと国際的な交換レートの乖離という問題があり、第二に銀貨と金貨の国内交換レートと国際的な交換レートの乖離という問題があるのです。この二つの問題が同時に発生したのですから、為替レート問題が深刻だったのも当然です。

 A 銅貨と銀貨の交換レート

 おそらく、この時点でのわが国の為替レートは、最初にペリーが締結した、銀1分=洋銀1ドルあたりが妥当な相場だったのでしょう。ペリー来航の時点では、この三つの本位通貨のうち、銅貨の交換価値を基準に基本的な対外レートが決定され、これを国内交換レートを基準にして銀貨に置き換えて表現したのがこの銀1分=洋銀1ドルだったのです。

 ところが、前述のとおり、ハリスとの交渉において、銀貨の交換価値を基準に対外レートを決定し直した結果、いきなりペリーの時の3分の1に邦貨の価値が切り下げられたのです。つまり、銀貨と銅貨の国内交換レートが、国際水準から大幅に乖離していたことがこの混乱の原因です。そして輸出の主力商品はいずれも日用品ですから、国内価格は銅貨で決定されていたのです。ですから、国内物価が3倍に跳ね上がらない限り、国際的に見れば何でも割安感があったに違いありません。

 B 銀貨と金貨の交換レート

 銀貨と金貨の国内交換レートが国際水準と乖離していたことから発生した重大問題は、わが国金貨の海外流出です。先に紹介したとおり、安政の通商条約では、貨幣は金貨、銀貨それぞれに、金銀の含有量に応じて等価交換することになっていました。そして主要決済通貨は銀貨と決め、交換レートは岩瀬忠震が下田条約で決まっていた交換手数料の6%を放棄した結果、34.5セント=銀1分ということに決まっていたのです。

 先に財政改革史で述べたとおり、一分銀というのはこの当時採用されていた本位制の区分でいうと金貨で、したがって固定レートで小判と交換することができます。すなわち一分銀4枚で金1両です。したがって、1両は1ドル38セントという計算になります。ところが小判1両の含有する金を国際的に評価すると、3ドル以上の価値があるのです。つまり、100ドル相当の金を直接小判に換金すると、30両程度にしかならないのに、100ドル相当の銀貨をいったん一分銀に交換し、それをさらに小判に換金するという手間をかけるとざっと70両以上の小判を手に入れられるというわけです。しかも岩瀬忠震が締結した条約では、わが国金貨の海外持ち出しそのものを認めていました。

 この事を発見した英国商人達は、貿易をそっちのけにして、一分銀の入手に狂奔することになります。それどころか英国公使館の職員までがこの濡れ手で粟の事業に手を出した模様で、処罰者を出しています。もっとも日本の両替商も、利にさとく、外国人相手では両替レートをかなりつり上げたようですから、計算通りの利潤が得られたのは最初期だけのようです。それでも、安全に何割かの利益が得られるとなれば、十分魅力的な商売であったことは間違いありません。

 当時の外字新聞の示す数字では、開港第1年度のわが国からの輸出総額は、英価に換算して100万ポンドでしたが、そのうち、現実の商品取引は20万ポンドで、残り80万ポンドは実は小判そのものの輸出だったというのです。80万ポンド相当の小判とは、約100万両にあたります。当時国内で流通していた小判の総量は1421万両程度と推定されていますから、たった1年で国内金貨量の7%が消えてしまったというわけです。

 これだけ通貨量が減少すればデフレ効果で物価の鎮静作用が起こりそうなものですが、そうはなりません。なぜなら、国内市場の中心は大阪にあり、大阪市場は銀本位制で動いているからです。流出した金貨の代わりに大量の銀貨が流入していました。しかも、岩瀬忠震はその外国銀貨の国内流通をも承認していました。ドル銀貨という言葉がなまって、泥銀と呼ばれていたようです。その結果、むしろ銀貨に関しては供給過剰に陥っています。これもまたインフレ原因となりました。

(3) 伝染病の流行

 第三の問題は、この条約が検疫ということを全く予定していない点にありました。これまでわが国はほとんど外国との直接交渉がなく、わずかに開いた窓であるオランダ貿易も、オランダ人達を長崎の出島という隔離室に閉じこめる体制で行われていましたから、海外から伝染病が持ち込まれても、自ずと水際で防ぐ体勢になっていたわけです。その結果、いわば国全体が無菌室のようなものでした。そこに外国との濃厚な接触が始まり、検疫体制が皆無といっていい状況でしたから、もろに伝染病に侵入されたのでした。

 すなわち、安政4(1857)年にインフルエンザの流行があったのを皮切りに、安政5年にはコレラ、安政6年には麻疹がそれぞれ大流行するという具合に、連年、それまであまり縁のなかった伝染病が猛威を振るい始めたのです。

 インフルエンザや麻疹というと、今日の我々は少々熱を出して寝込む程度の軽い病気と思います。が、全くの処女地におけるそれは、ペストやコレラ並の高い死亡率を持つ恐るべき病気なのです。

(4) 外国人の殺害事件

 最後の問題は、外国人の殺害事件が続発したことです。今日の我々は、ややもすれば外国人が殺害された原因を攘夷思想に求める傾向があります。が、実はむしろ外国人貿易商人そのものが、殺されるのにふさわしい?下劣な品性の持ち主達だった点に、より大きな原因がありました。

 なにしろ彼らは、祖国から遠く離れたアジアで一旗揚げようともくろんでいる連中です。彼らを保護しなければならない立場にある英国大使オールコック自身が、彼らのことを「ヨーロッパのscum(滓)」と呼ぶような品性下劣な人間達が大半でした。

 しかも中国などで貿易活動に従事する間に、彼らは、アジア人というものは、怒鳴りつけ脅しつければ無理を聞くものだという固定観念を身につけていました。したがって、彼らの日本人に対する態度は、アジア人蔑視を絵に描いたようなひどいものでした。

 そうでなくとも、神国思想がはびこり、西洋人といえば動物にも等しい輩という偏見が日本人側にある訳です。そこに、その現物教育のようなひどい態度を見せられれば、問題が起こらないわけがありません。

 安政6(1859)年7月27日にロシア艦船の士官1名、水兵2名が横浜で殺されるという事件が皮切りになります。同年10月11日にはフランス領事の中国人下男が同じく横浜で斬られました。翌年1月7日に英国公使館付き通弁伝吉がその公使館前で斬られました。同年2月5日にはオランダ商船の船長等がやはり横浜で殺されました。こういう調子で、欧州人やその関係者と見られたものへの襲撃事件が相次ぎます。

 民衆はこれに喝采を送りこそすれ非難する者はいません。したがって殺人犯達は公衆の面前で悠々と犯行を行い、悠々と立ち去るのです。それにも関わらず、目撃者が見つからないのですから、犯人は誰一人として逮捕されません。

 このため、外国人の間では、これは幕府が犯人達をそそのかしてやらせている政治的殺人だという噂が流れる始末です。自然、在江戸外交団と幕府の関係はぎくしゃくしたものにならざるを得ません。

*      *      *

 このような困難な対外問題が山積みになっているのに、井伊政権は全くの無策でした。井伊直弼が暗殺されたとき、民衆が快哉を叫んだのは、こうした無策に苦しめられていたからに違いありません。これらの問題も、対処能力を持つベテラン官僚達をばっさりと大量処分したことから起きた問題である事は明らかです。

8. 軍艦奉行に見る人事の混迷

 話は少し戻ります。ポーハタン号に随行して米国に行った咸臨丸は、阿部正弘が嘉永6(1853)年にオランダに注文しておいた船ですが、これが日本に届いたのは安政4(1857)年のことでした。その翌年には、さらに朝陽丸と鵬翔丸がそれぞれ届きました。

 これらの船に乗せる将兵は、安政2(1855)年に阿部正弘が開設した長崎伝習所で、既に訓練中でした。そこではオランダからカッテンディーゲを始めとする海軍士官が訓練教官として派遣されてきていました。

 こうして艦船が届き、わずかながらも海軍らしきものが誕生し始めましたから、それに対応して幕府内部に海軍省にあたる管理機構も作らねばなりません。これが軍艦奉行で、安政6(1859)年2月に置かれます。高2000石ですから、外国奉行と同格の職ということになります。

 この軍艦奉行の、井伊政権下の人事を見ると、いかに井伊直弼が個人的な好悪の感情から人事を混迷させていたかが良く判ります。

 軍艦奉行の初代は、先に述べたように永井尚志です。永井尚志は、初代の長崎伝習所総督であったばかりでなく、長崎が江戸から遠すぎるために、江戸に開設した軍艦教授所の初代所長でもあります。したがって最適の人材といえます。井伊直弼としては、本来なら、岩瀬忠震や川路聖謨と同様に処罰したいところだったのでしょうが、何せ外に人材がありません。そこでやむを得ず、任命したわけです。

 しかし、井伊直弼は先に述べたとおり好悪の感情の強い人で、気に入らない人間を、部下として使用することができません。彼にこの年8月27日まで勤めさせますが、そこで罷免し、永蟄居を命じています。

 職務の特殊性を考えると、しかし、その後任として務まる可能性があるのは、いくら気に入らなくとも阿部正弘の抜擢したエリート達の外にありません。そこで永井尚志に代わって8月28日に任命されたのが、初代外国奉行の中でも最初に罷免されていた水野忠徳です。彼はこの年の10月28日までこの職にあります。が、そこで井伊直弼は辛抱できなくなり、西の丸留守居に左遷します。

 しかし、外に人がいないのですから、その後任としては、再び気に入らないエリート達の中から起用する外はありません。今度はすでに小普請奉行に左遷されていた井上清直を任命することになります。まさに猫の目人事です。

 彼になってようやくある程度直弼との関係が安定し、そうこうしているうちに肝心の井伊直弼が暗殺されましたから、彼はある程度長期に軍艦奉行を勤めることができました。

9. 井伊直弼の財政

(1) 財政状況

 阿部正弘や堀田正睦の時代には、新規施策に着手するだけで、あまり実際の財政負担は増大しませんでしたから、前章の終わりに書いたように、上納金等を命ずることにより、幕府財政は何とかやりくりできていたようです。

 しかし、井伊直弼の時代になると、歳出増が本格化してきます。すなわち、咸臨丸と朝陽丸はいずれも代価は10万ドルです。鵬翔丸については判っていませんが、これよりは安かったと思われます。いずれにせよ、この代金を支払わねばなりません。また、届いた以上、維持管理費もかかるようになってきます。これも、わが国国内にドックがないのですから、ちょっとした修理でも一々上海まで行かねばならず、かなりの額になったはずです。長崎伝習所の維持管理費やオランダ人教官達への給与の支払いも必要です。

 ところが、井伊直弼は勘定奉行として活躍してきたエリート官僚達を処罰したばかりでなく、外国奉行や軍艦奉行など重要な官職についても、担当者をくるくる変えるなどして、人事の迷走を引き起こしています。頻繁な人事交代は、事務引継その他でよけいな費用のもとになったばかりでなく、長期安定的な財政的施策を展開することを困難にすることは間違いありません。この点において、井伊直弼の無能ぶりは、これまでに紹介してきた歴代の権力者の中でもずば抜けているといえそうです。

(2) 安政の金銀改鋳

 では、そうした支出増をどうやりくりしたのでしょうか。新たな歳入源として海外貿易による関税収入が登場してきた事は間違いありませんが、貿易が本格化するのは万延元年からで、安政6年の段階では、輸出入を合計しても150万ドル程度ですから、関税収入は数万ドル程度にとどまります。したがって、井伊政権の財政に寄与するところはほとんどありません。

 結局、彼がやったことは、財政に無能な幕府官僚の常套手段である金銀貨の改鋳です。

 安政6(1859)年に発行した安政小判は、それまで最悪の通貨であった天保小判が1枚3匁あったのに対して、1枚2.4匁と2割も重量が減少している、というずば抜けて劣悪な通貨です。同時に安政一分金も発行しています。これは一枚0.6匁と安政小判の正確に4分の1の重量です。両者併せて発行量は35万1千両です。その2割ですから7万両程度しか改鋳差益がありません。もちろん、改鋳の対象がより古い文政小判や元文小判であれば、差益はもっと大きくなりますが、いずれにしても、この当時の幕府財政規模からすれば高の知れた金額です。この程度のわずかの利益のために金貨の改悪を行ったという汚名を負わねばならないくらい、この時の幕府財政が逼迫していたことが判ります。

 また、一分銀の改鋳も行っています。すなわち、それに先行する天保一分銀は2.3匁の純銀だったのですが、銀の含有量を87.27%に落としたのです。したがって、12%程度の差益を手に入れられるというわけです。こちらの方は、明治初年まで改鋳が続けられ、発行総額は2547万1150両に達しています。しかし、このうち、井伊政権下でどの程度の発行量になったのかは判りません。

 天保一分銀の改鋳による差益が、阿部正弘政権下でも数十万両に達する巨額であったことを考えると、それより若干差益を拡大した安政一分銀による改鋳差益が、井伊政権を実質的に下支えしていたと推定して間違いないでしょう。

 しかし、この劣悪な一分銀の発行が、わが国通貨の対外価値を引き下げ、先に述べたとおり、国内的に大変なインフレを生んだのです。経済を全く理解していない愚策という外はありません。

 井伊直弼という人については、先に人事面から、厳しい評価をかきましたが、財政面から見ても、国際化時代の幕府を背負う器量のない小人物と評価せざるを得ないわけです。

10. 桜田門外の変

(1) 密勅の返納問題

井伊直弼の実施した一連の処分で、もっとも危機感を募らせたのが、水戸藩士でした。藩主一家が全員、身動きもできないほどの厳しい行政処分を受けたばかりか、家老をはじめとして多数のものが刑事処罰を受けたのですから、無理もありません。井伊直弼という人物の執念深さを考えれば、今後も改めて処罰が繰り返されることも予想され、下手をすると藩そのものが滅亡しかねないという恐怖をもったのも無理のないところでした。

 事実、追い打ちをかけるように、幕府は、前年朝廷が水戸藩に下した戊午の密勅を朝廷に返納するように、という勅書を獲得することに成功しました。この朝命を伝える幕府の使者として、12月16日に小石川の水戸藩邸に乗り込んだのが、この時点では若年寄であった安藤信正です。彼は殺気立つ水戸家の家臣に取り囲まれながら、堂々と水戸慶篤と交渉して、勅書を幕府を通じて朝廷に返還するという約束を取り付けるのに成功します。これにより、その有能ぶりを井伊直弼に認められ、彼は翌年正月に、老中に抜擢されることになります。

 しかし、勅書返納というのは、単に友達から来た手紙を出し手に返す、というのとは訳が違います。特にこの戊午の密勅の場合、永年尊皇にいそしんできた水戸藩の、一つの到達点とでもいうべき重要性を持つものです。したがって、これを返却するということは、それまでの水戸藩の努力のすべてを否定するに等しい意味を持ちます。そこで、藩内の尊皇過激派が激高したのも無理のないところです。

 井伊直弼という人は、自分に反対する者は、徹底的に叩き付けないと気が済まない人です。

 普通、幕府評定所で審理する刑事事件の場合、寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行の三者が協議して判決原案を作ると、老中は、将軍の温情を示すため、その罪をいくらか減じて判決とするものなのです。が、安政の大獄において、井伊直弼は原案どおりどころか、場合によっては原案よりも数等重い判決を下しました。行政罰の実施にあたっても、政敵処分はともかく、忠実な官僚達まで処分する必要はなかったと思えます。

 そして、水戸斉昭等、直接の政敵を叩いたのは判るとしても、ぎりぎりまで追いつめようとしたのはやはり間違いであったという外はありません。松平定信も、田沼意次を、繰り返し執念深く叩たきました。しかし、田沼家は新しく成立したばかりの藩でしたから、いくら弾圧しても、平の藩士が牙をむいて来るというおそれはあまりなかったのです。が、徳川創業以来、天下の副将軍としての誇りを持つ水戸家となれば話が違います。

(2) 水戸家の内乱

 過激派の藩士は、藩主慶篤の説得にも関わらず、いうことを聞きません。老公斉昭が直接に説得すれば、あるいは効果があったかもしれません。が、斉昭は水戸で永蟄居となっているので身動きがとれません。そこで書面により説得を試みるのですが、それでは役に立ちません。

 斉昭はやむを得ず、過激派の中でも首領格の者二人を逮捕しようとします。しかし、二人はそれを知って出奔し、同志を集めます。最後の手段として斉昭は兵を出してこれを攻撃したので、彼らは支えきれずに逃げ散ります。安政7(1860)年2月の出来事です。

 水戸家では、このことを幕府に届けたので、幕府では、会津から房総半島にかけての諸侯に命じ、警戒態勢を取らせました。また、過激派が江戸に潜り込んだ可能性もあるとみて、井伊直弼に対して、登城の際の警備を厳重にするようにとの勧告が警備当局より出されています。

 しかし、井伊直弼は、幕法により定められた以上の供回りをつけるわけには行かないと、この勧告を拒絶しました。幕法遵守ということを旗印として安政の大獄を実施した井伊直弼としては、どうしてもそういわざるを得ない立場にあったのかもしれません。しかし、これにより惨劇の起こる最後の条件が整えられたわけです。

(3) 雪の桜田門

 井伊直弼は、安政7(1860)年3月3日、江戸城に登城の途中で、水戸脱藩士17名及び薩摩脱藩士1名の、計18名により襲撃され、殺されました。

 襲撃の合図として、浪士の一人が発射したコルト拳銃の銃弾が、井伊直弼の致命傷になったといわれます。彼の開国政策によって、浪士程度の者でさえそうした武器が入手可能になっていたというのは、歴史の一つの皮肉というべきでしょう。

 幕法の厳正な遵守という直弼の政治姿勢そのものが、彼の命取りになったということは、今ひとつの大きな皮肉です。

 戦国の世に、井伊の赤備えと多くの敵を震え上がらせた井伊家藩士も、すっかり太平の世になじんでしまっていました。このため、わずか18名の小勢に無惨に蹴散らされました。

 3月というのは現在の暦でさえ、もう暖かい時期です。まして旧暦ですから、新暦でいえば4月に入っている時期です。そのため、この日の天候は、季節はずれの大雪が降るというだけでなく、雪と雨とが交互に激しく降るという最悪の状況でした。このため、侍達は皆、雨合羽を着ていたのです。もしかすると刀には柄袋をかけていたかもしれません。そのため、襲撃されてもとっさに刀を抜くことができなかった、という悪条件にあったのです。しかし、事前に警備当局からの警告があったことを思えば、そのような身支度をしていたことは、やはり士道不覚悟と評価する外はありません。

 かろうじて小物一人が藩邸に駆け戻って急を知らせるというていたらくでした。井伊家から後詰めの一隊が現場に駆けつけたときには、既に浪士達は、直弼の首を切り取り、持ち去ってしまっていました。ここに井伊直弼の恐怖政治は頓挫することになります。

 安政という年号は、ペリーの再来日という大事件に震駭した朝廷が、今後の政治の安らかであることを祈ってつけられたものでしょう。しかし、安政年間は、条約交渉を巡る幕府と朝廷の衝突、安政の大獄、そしてこの桜田門外の変と、政治的事件が立て続けに起こり、とても安政とはいえる状態ではありませんでした。そこで、朝廷ではこの事件直後の3月18日に、年号を万延と変えます。

 普通、桜田門外の変は、万延元年3月3日といいますが、事件の起きた段階ではまだ安政でした。したがって、正確には先に述べたように安政7年3月3日と言うのが正しいのです。

 

第4章 安藤信正と幕府絶対主義

1. 井伊直弼遭難対策

 A 安藤信正の出自

 家康の頃には、幕府の行政制度は軍事体制そのままで、平時の体制といえるようなものはほとんど存在していませんでした。家康が死亡し、秀忠が名実ともに政権の座についたあたりから、実質的に平時における行政機構といえるようなものが徐々に成立してきます。このように考えた場合、幕府最初の老中(その当時は年寄りと呼ばれていましたが・・)は、酒井忠世(ただよ)、土井利勝、安藤重信の三人と考えるのが妥当です。

 陸奥岩城平5万石の藩主である安藤信正は、この初代老中の一人である安藤重信の子孫です。したがって、これまで紹介してきた阿部正弘や堀田正睦を上回る譜代の名門で、井伊直弼等に比べてもほとんど遜色のないといえるほどの名家の出身であることが判ると思います。

 この譜代の名門という意識は、彼の為政全体を貫くきわめて重要な要素となります。本章のタイトルに、幕府絶対主義と付けましたが、それはこの特徴によるものです。すなわち、それまでの幕府政治が、幕府と日本の利益を同一視するというスタンスから行われてきたのに対して、彼の下における為政は、両者の相違を意識した上で、幕府の利益を確保しようとする方向で動き始めるのです。この姿勢は、これ以後、幕府滅亡まで、一貫して幕府官僚の意識の底流に存在し、時に表面に吹き出す形で歴史の流れを乱し続けるようになっていきます。その最初の頁を開いたのが安藤信正だったのです。

 話は少しそれますが、れっきとした幕府官僚でありながら、これ以後の幕府官僚を支配するようになったこの思想と明確に一線を画し、幕府の利益を犠牲にしてでも日本の利益を考えるべきだという姿勢を明確に示したのが、勝海舟ということになります。

 安藤信正は、文政2(1819)年生まれですから、井伊直弼が遭難死した安政7(1860)年の時点では41歳。まさに男の働き盛りという年齢で、歴史の檜舞台に突如登場してきます。

 B 桜田門事件の正規取扱い方法の問題点

 井伊直弼暗殺の急報を受け取った幕閣では早速、老中達が集まって鳩首して相談しますが、善後策が立ちません。問題は、井伊、水戸両家に対する処分をどうするかという点です。

 これまでの幕府の慣習法によれば、藩主がおのれの不覚により一命を落とした場合や、生前に跡目を相続する者を決定せずに藩主が死亡した場合には、その藩は改易ということになっています。井伊直弼の死の場合、この両方に該当します。したがって、正規の取扱法に従う限り、譜代の名家である井伊家といえども改易は免れません。

 この時代には赤穂浪士の先例が厳として存在しています。したがって、そのような事態に至ったら、井伊家の家臣としては、おそらく武士の面目を立てるため、水戸家を攻撃してその藩主暗殺を謀らざるを得ないと考えるでしょう。しかし、天下の副将軍家と譜代の棟梁家が戦うような事態になって、そもそも幕府は立ち行くことが可能なのでしょうか。

 水戸家の方も、大老襲撃に参加した藩士達はその前日に脱藩届けを出したばかりで、当然まだ受理もしていない段階ですから、家臣取り締まりの責任を問わねばなりません。しかし、井伊直弼があれだけ徹底的に処罰した後ですから、これ以上の処罰をしようと思えば、藩主の切腹か、藩の改易くらいしか残っていません。御三家に対して、そのような処罰を行うことが、そもそも幕閣には可能なのでしょうか。

 C 安藤信正の打開策

 前章に述べたとおり、安藤信正は、水戸家との交渉ぶりが井伊直弼の気に入り、その年の1月15日に老中に昇格したばかりですから、単に末席であるばかりでなく、閣僚経験も2ヶ月に満たないという新参者です。

 しかし、井伊直弼という人は、少しでも自分に逆らう人には我慢できず、老中に対しても激しい粛正を繰り返していました。その結果、この時点で幕閣に名を連ねていた老中達は、いずれも井伊直弼が独断専行することにおとなしく追随することにしか能のない、小粒のイエスマンばかりとなっていました。ですから、先輩老中はこの降って湧いた大事件に呆然とするばかりで、何ら建設的な意見を出すことができません。

 そこで、信正は、実に簡単な解決策を提示しました。それは、大老は襲撃はされたが死んでいないということにしよう、というコロンブスの卵的奇策です。

 確かに井伊直弼が生きていてくれさえすれば、上記の問題はすべてなくなります。しかし、井伊直弼は単に暗殺されただけでなく、その首を切り取られて暗殺者によって持ち去られており、しかもそのことは、多くの庶民が目撃しているのです。それを承知で、法の建前としてはまだ生きていると言い張ろうというのですから、これは実に人を喰ったアイデアです。

 外に何の思案も浮かばないのですから、これが閣議決定となります。早速井伊直弼は病気引き籠もりと発表され、将軍家茂からは病気見舞いと称して朝鮮人参が届けられ、奥医師も派遣されて、首のない死体をしかめつらしく診察しました。彼の死が公表されたのは、翌月、閏3月30日になってからのことですから、形式的には2ヶ月近くもその死を秘していたことになります。

 D 久世=安藤政権の誕生

 この奇案の実施を一任されたことにより、安藤信正は、一挙に幕閣の指導的立場に立つことになります。

 井伊直弼は、安藤信正との対比でいえば、幕府の利益が即日本の利益と考え、そして幕府の利益とは彼が利益と認めたものという考えの下に独裁路線を突っ走って、幕府内外の関係を完全にこじれさせてしまった人物です。

 したがって、安藤信正として、幕府の利益を追求しようとすれば、そうしたこじれを解消することを目指すことがまず必要であることは判りきった話です。そこで、井伊直弼内閣の継承内閣であるにもかかわらず、どこかの国の首相と違って、閣僚を全員留任させようなどとは間違っても考えません。それどころか、幕閣から井伊色を完全に消すことを、積極的に狙っていきます。

 そのために、彼は、まず先任の老中3名のうち、特に無能な2名を罷免し、代わりに、井伊とは関わりのなかった老中2名を新たに任命しました。さらに、以前に井伊直弼と衝突して老中を辞職していた硬骨漢の久世広周を改めて、老中に迎え、しかも彼に老中首座の地位を譲り、自分自身は外国係老中について、久世の陰で実務に専念する体制を作りました。

 普通、高校などの歴史の教科書では、この時代を安藤信正が為政の中心となった時代と説明します。が、このように首相は久世広周なのですから、厳密には久世=安藤連立内閣というべきです。実際、久世広周は単なるお飾りの首相ではなく、かなりの実力派でした。安藤信正が失脚した後も、数ヶ月間、その地位で頑張り、様々な施策を展開するだけの力を持っていたのです。そこで本稿でも以下、久世=安藤政権と呼ぶことにします。が、政権の実権を握っていたのが、安藤信正であることは間違いありません。

2. 協調と宥和の政策

 安藤信正として、第一の政治的課題は、井伊直弼の一連の強硬施策によりこじれきった朝廷との協調体制を確立することです。第二の政治的課題は、これもこじれきった一橋派との宥和政策を実施するです。

 A 公武合体

 朝廷との宥和政策を、当時は公武合体という言葉で呼んでいました。昔も今も、家どおしの結びつきを強める常套手段は婚姻政策です。

 幸い、将軍家茂は独身であり、孝明天皇の妹にちょうど似合いの年格好の和子(かずこ)という女性がいました。彼女は弘化3(1846)年生まれです。新郎の家茂も同じ弘化3年の生まれですから、二人は同い年なのです。そこで、この二人を結婚させれば、もってこいの公武合体策になる、というわけです。

 なお、幕府創世期には、逆に将軍秀忠の娘が天皇家に嫁しています。偶然にも、その女性も和子という名前でした。日本史の教科書では「まさこ」と読ませることが多いのですが、私の同僚が徳川家に問い合わせたところ、ただしくはやはり「かずこ」と読むのだそうです。

 この婚姻政策は、元々は井伊直弼の策でした。ただし、井伊直弼は、皇室の外戚として朝廷に幕府が君臨する手段としてこの婚姻を考えていたのです。これに対して、安藤信正は朝廷との融和策としてこのことを考えたのです。行為は同じでも、両者の基本的姿勢の違いには、非常に大きなものがあります。

 朝廷との協調体制を作ることは、井伊直弼の大弾圧の後ですから、常識的にはきわめて困難です。が、この時は一つの幸運がありました。朝廷の中心人物、孝明天皇自身が、先の戊午の密勅の文章に見られるとおり、きわめて親幕的な思想の持ち主だったことです。

 孝明天皇としては、井伊直弼のような発想の下で、将軍家の姻戚になるつもりはありませんでした。そこで、井伊政権からの婚姻の申請に対しは、天皇は、当初反発を示します。が、安藤信正のような発想であれば、これは申し分のない婚姻といえます。そこで、同年6月には早くも降嫁を認める意向を天皇は示しました。

 翌文久元(1861)年10月に和子は関東に下り、同12月に結婚式を執り行いました。家茂という青年が非常に気分の良い人物だったこともあり、夫婦仲も問題はなかったようです。唯一の問題は、養父家定の処女妻だった島津篤子が、姑としての立場から嫁いびりをしたことくらいでした。政略結婚の犠牲者である彼女としては、同じように政略結婚でありながら、幸福な結婚をする事ができた和子が妬ましかったのでしょう。

 B 皇妹降嫁の悪影響

 こうして無事に終了した皇妹降嫁ですが、安藤信正にとってはこの婚姻の実施はよいことだけではありませんでした。それどころか、二つの時限爆弾をその中に秘めていました。

 一つは、この婚姻によって尊皇派の連中が親幕的になるどころか、逆に和宮を犠牲にする幕府の横車政策として、幕府に対する反感をいよいよあおり立てる作用をしたことです。ついには、皇妹降嫁は廃帝の奸策にでるものなり、というデマまでが飛ぶ始末です。これが後の坂下門外の変の、直接の原因となります。

 今ひとつは、婚姻許可の詔勅に、今後10年以内に攘夷を実行することという条件が明示されてしまったことです。安藤信正は、降嫁を実現したい一心で、この条件を受諾する旨の報答書を老中連名で朝廷に提出してしまいます。

 もっとも、これは単に朝廷の圧力に屈して心にもないことを言った、ということではありません。その頃になると、前章に書いた貿易による国内政治への悪影響は顕著に認められるようになってきています。こうした国内政治への大きな不安定要因が、結局、幕府を滅亡させることとなったわけです。このことは、その時点で現に政権を担っている者であれば、よほど暗愚でもない限り、当然に判っていたはずです。そこで、幕閣自身が何とか貿易を抑止したいという欲求を持つようになってきています。ですから、むしろ朝廷に対する公約をてこに、貿易制限に向かおうという狙いが存在していた、と見る方が妥当です。

 実は、この皇妹降嫁工作と同時並行で、安藤信正は、非常にスケールの大きな財政政策を展開しています。後に詳しく紹介しますが、国益会所という組織を作って、外国との貿易利益を幕府が一手に収めることにより、国内経済を統制すると共に、幕府財政を立て直そうというものです。

 先に連載した江戸財政改革史の中で、鎖国とは、そういう名の幕府による貿易統制策にすぎず、貿易制限という意味はなかったと説明したことがあります。そのことは、鎖国体制に移行してからの方が、わが国の貿易量は増大しているのだ、ということにより明らかなのです。

 それと同じように、ここで安藤信正が朝廷に公約した鎖港なるものも、そういう名の、幕府による貿易統制策と考えると、その後の幕府の行動が良く理解できるようになります。彼が朝廷の要求を飲んだ裏側には、むしろ幕府に有利な貿易体制を朝廷の権威を借りて実現しようという狙いが見え隠れしていると、私は考えています。

 しかし、条約に反する内容を、朝廷に対して、日限を切って公約してしまったということは大きな意味を持ちます。したがって、この公約の履行問題は、その後、信正だけでなく、幕府そのものの上に重くのしかかってくることになります。

 C 一橋派との宥和政策

 旧一橋派に対する融和政策も急ぐ必要があります。が、幕府の権威を守る必要もありますから、既に下した処分を撤回するには、それ相当の大義名分が必要です。

 信正は、水戸斉昭がこの年8月19日に死去したのを、そのための機会と認識して、融和策を実施に移します。すなわち、幕府はその喪を発するに先立って、まずその永蟄居を解き、ついで、尾張慶恕や一橋慶喜等の謹慎も解く、という形で、井伊直弼の行った一連の行政処分を解除したのです。

 しかし、これによっても、一橋派の恨みは残り、とても本格的な融和とはなりませんでした。安藤信正が失脚した後に、追い打ち的処罰が彼に対して行われますが、それは一橋派の井伊直弼に対する恨みの側杖とでもいうべきものでした。

3. 経済混乱の打開策

(1) 五品江戸廻送令

 前章に述べたとおり、わが国経済は開港と同時に大混乱に陥っていました。井伊直弼はそれに対して無策でした。

 安藤信正は、実質的に政権を担うことになった直後の、万延元(1860)年閏3月19日に、さしあたっての策を講じます。有名ないわゆる五品(ごひん)江戸廻送令として知られる命令を発したのです。例により適宜現代語訳しつつ紹介すると、次のようなものです。

「神奈川御開港、外国貿易仰せ出され候に付き、諸商人ども一己の利得にこだわり、競って相場をせり上げ、商品を買い受け、直接に御開港場へ廻し候に付き、御府内入荷の荷物が減少し、諸色払底に相成り、難儀いたし候おもむき、聞こえ候に付き、当分のうち、左の通り仰せ出され候

 一 雑穀、

 一 水油、

 一 蝋(ろう)、

 一 呉服、

 一 糸

 右の品々に限り、貿易荷物の分は、すべて御府内より相廻し候はずに候間、在在より決して神奈川へ積み出し申すまじく候」

 要するに、商品が皆神奈川(実際には横浜ですが・・)に行ってしまった結果、江戸が品薄になって庶民が困っているので、特に生活必需品である五品については、当分の間は、いったんは江戸に回しなさい、江戸で余れば神奈川に回すから、というわけです。ここで水油といっているのは灯油、つまり行灯(あんどん)等に使う菜種油で、糸とは生糸の意味です。

 確かに雑穀から呉服までの4品については、日用品で、こういうものが払底すれば、庶民の生活に響くだろうということは判ります。しかし、同時にこのような日本人の日常に密着した商品が、この時代に万里の波濤を越えて欧州やアメリカまで運ぶ貿易の対象となるわけはありません。したがって、開港のために払底するというのはおかしな話です。実際、この時期の輸出統計を見ても、そこにこれらの品は上がっていません(正確に言うと、蝋は若干輸出実績があります)。

 それに対して、生糸は全く事情が異なります。江戸に住む一般庶民が、機織りをして自分の衣類を生産するとか、江戸市中に機織り工場がある、とかいう事実は全くありません。また、普通の庶民は絹織物を日常に着る、というようなことはありません。したがって、生糸が江戸に流れ込まなくなったからといって、庶民が困るということは絶対にあり得ません。その生糸がさりげなく最後についているというところから逆に、この五品江戸回送令の本当の狙いが、実は最後の生糸だけにあることが判ります。

 しかし、このような法令をわざわざ出すことで、安藤信正は何を狙ったのでしょうか。これについて、従来の通説は、開港場に地方商人が直接輸出品を売り込むようになったので、それまで独占的にそうした商品を扱っていた江戸の特権商人が打撃を受けたところから、幕府を動かして出させた、と説明しています。そうであるならば、これは輸出抑制策ではありません。単に江戸商人の利潤確保策です。

 井伊直弼時代の幕府財政は、先に紹介したとおり、金銀の改鋳益に頼る以外、何ら具体的な歳入増加策がありません。したがって、火の車であったと想像されます。これが出された時期から見て井伊直弼時代の決定事項を安藤信正が単に承継したと見ると、上記説明が説得力を持ちます。

 すなわち、江戸商人達は、多額の上納金を行うことで、この法令を井伊直弼から引き出すことに成功していたが、実際の命令を発する前に暗殺されたという訳です。しかし、この時点では、井伊直弼は生きていることになっているのですから、安藤信正はその決定をひっくり返すわけにも行かなかったと思われるのです。

 そこで、五品江戸回送令に従い、在方荷主の荷物は確かに建前上は、いったんは江戸に回されますが、実際には単に問屋の送り状を受けただけでそのまま横浜に送られることになりました。江戸商人は、送り状の発行に当たって利潤が確保できれば満足で、生糸の現物を必要としていたわけではないからです。したがってこの時点での五品江戸回送令は、貿易そのものには影響を与える措置ではありませんでした。

 しかし、万延元(1860)年も後半に入ると、何とか貿易量を抑止しなければ、わが国産業はすべて壊滅的な打撃を受けかねないことが明らかになってきます。そこで、開港・開市に対して安藤信正は消極に転じ、妨害的とさえいえる行動を様々な場面で見せるようになります。

 そのような立場から五品江戸回送令を見ると、これを利用して生糸の輸出抑制に利用できるということに、久世=安藤政権は気がつきます。そこで、翌年になって改めて五品江戸回送令を出し直します。こちらの方は、厳しく遵守させようとし、実際ある程度の効果を上げたと私は考えています。ただ、このような間接抑制策であるために、具体的な効果が現れてくるのには時間がかかりました。すなわち貿易統計的には、翌文久元(1861)年に貿易量の落ち込みが若干見られる程度に過ぎません。また、当然、金貨の流出という事態の解決策にはなりませんでした。

(2) 万延改鋳

 経済の混乱状態を打開するには、井伊直弼が処分を行ったエリート官僚達を起用して対応させれば良さそうなものです。が、幕府としては、政権を有する者が替わったからといって、手のひらを返すように処分を撤回するのは、その権威に関わるという意識があるのでしょう、彼らに対する処分はそのままです。

 したがって、エリートの一人、水野忠徳も、この時期は、まだ実権を回復していません。只の西の丸留守居役で、通貨問題の担当者でもなければ、通商交渉の担当者でもありませんでした。おそらく名門の御曹司たる安藤信正には、政権を継承した直後の時点では、井伊直弼が断行したエリート官僚達に対する処分がもっている問題性を理解できていなかったために違いありません。

 が、現実に対外交渉を実施している外国奉行達にとっては、彼らエリート達の実力は十分に理解できます。そして、他のエリート達は自宅謹慎を命じられて動きがとれないのに対して、水野忠徳だけは、閑職であれ、ちゃんと江戸城に出仕できる地位にいたのです。そこで現職の外国奉行達は積極的に彼の存在を容認し、重要な外交交渉に際しては、屏風の陰に隠れて彼が傍聴することを認めていたといわれます。交渉の要所にかかると、屏風の裏からメモ書きが回ってきたそうです。このためにこの時期、彼には屏風水野というあだ名があったほどです。

 そうして得た情報を、その鋭い頭脳で分析した水野忠徳は、少しも自分の得にはならないのに、幕府の役に立つ様々な建議をこの時期、積極的に行っています。先に神奈川に代えて横浜開港を建議したと書きましたが、それもこうした活動の一つです。

 この万延元(1860)年4月には、物価の騰貴と金貨の流出という二つの問題を同時に解決するすばらしいプランを再び建議しています。これほど有能な人物を、西の丸留守居に留め置いた安藤信正の器量の限界というものを感じさせます。

 A 貿易レート問題と改鋳の関係

 ここで、なぜ開港に伴ってこのような問題が発生したかを改めて考えてみましょう。

 開港に伴って物価が騰貴する理由は、通商条約が採用している為替レートが実勢に見合っていないために、外国から見てわが国産品に割安感があるためです。したがって、レートを改訂すれば、輸出ドライブは阻止できます。

 基本レートは銀貨を決済単位として決められていますから、銀貨を改鋳して、より高品位にしてやれば、やっかいな対外交渉などしなくとも、自動的に為替レートの改訂ができます。例えば、銀1分=1ドルというペリーの時点のレートに戻せば、外から見たわが国物価は一気に3倍以上に跳ね上がることになりますから、激しい輸出はいやでも止まるはずです。

 また、なぜ金貨が流出するかといえば、銀貨をベースとする為替レートに基づく小判の価値に比べて、海外の金の取引価格が高すぎるからです。しかし、わが国銀貨の対外価値を高めれば、自動的に小判の対外価格も高くなり、金の流出はやはり止まるはずです。仮に上記のように、銀1分=1ドルとすれば、自動的に小判は4ドルという計算になりますから、海外よりも金が高くなり、うまくいけば流出した金が戻って来るくらいになるはずです。

 したがって、物価の騰貴も、金貨の流出も、銀貨の高品位化というただ一つの国内政策で解決可能ということになります。

 そもそも、こうした問題が起こった原因は、この時期の一分銀が、幕府通貨史の中でも、きわだって粗悪な通貨だったことにあります。

 先に財政改革史で説明したとおり、田沼意次は、純銀で南鐐二朱銀を鋳造することにより、銀で金貨を作るという離れ業を行い、これにより、金銀二重本位制を打破しようとしました。この南鐐二朱銀は1枚で2.7匁の重量がありました。

 しかし、家斉の浪費から疲弊した幕府財政を救うため、水野忠邦は天保一分銀の発行に踏み切ります。1分は4朱に当たりますから、一分銀は南鐐二朱銀の2倍の価値があります。ところが、天保一分銀の重量は2.3匁と、南鐐二朱銀よりも15%も軽いのです。この劣悪な一分銀は安政元年まで一貫して鋳造・発行され続けており、最終的な発行量は総計で4520万0589両、1億8080万枚になります。さらにそれより粗悪な安政一分銀も、井伊直弼によって、この前年から発行が開始されていた事は、前章に紹介したとおりです。

 B 南鐐二朱銀の復活案

 ここまで説明すると、水野忠徳のアイデアが理解できると思います。彼は南鐐を復活し、これを為替レートを決定する際の基本通貨とすればよいと考えたのです。南鐐はその重量から計算すると43セント程度に相当します。しかも南鐐は二朱ですから1両はその8倍、したがって3ドル43セント程度になります。つまりこれが基本レートになれば、日本通貨はそれまでよりも約2.3倍強くなり、輸出にも歯止めがかかるし、金の流出も止まるということになります。

 しかし、水野忠徳は、どうせもう一度改鋳し直すなら、ついでに南鐐を少し増量してぴったり50セントにあたるようにすればよい、と考えたようです。つまり1両=4ドルです。そこまでしておけば将来におけるインフレを考えても、まず問題が起こることはないからです。しかも、原料となる銀は、外国貿易によりいくらでも流れ込んでくるのですから、材料不足によって困ることはないはずです。

 日本史の本には、水野のこのプランに対してハリスが強硬にクレームを申し立てたので、この案はわずか10日で流れた、と書いてあるものがあります。確かに、ハリスとしてはそのような策を取られては日本と貿易するうまみがなくなりますから、クレームを申し立てたのは事実でしょう。

 が、私は、外国からのクレームがこのプランが流れてしまった真の原因ではない、と考えています。なぜなら、この水野プランの長所は、為替レートの変更を、外国との交渉ではなく、国内における改鋳という処理だけで行いうる点にあるからです。いくら外国から苦情が来ても、それは幕府得意の、いつもの時間引き延ばし策を取って対応すれば足りることなので、この抜本対策を放棄する必要はなかったはずです。

 C 幕府財政の改鋳差益依存問題

 私は、幕府の財政事情が、このすばらしいアイデアを許さなかったのだと考えています。先に天保13年及び弘化元年の財政収支を紹介しました。それらの年度では、構造的に歳出超過になっており、改鋳差益によりかろうじてバランスがとれていました。

 久世=安藤政権の時期の財政収支は判っていません。が、関税収入がある程度見込めるようになっていたにせよ、長期的な安定財源足りうるかどうかは、まだ幕府に判っていません。したがって、改鋳差益に依存するしか収支の均衡を図る手段がない、と依然として考えられていたはずです。劣悪な天保一分銀が、井伊直弼によって、より劣悪化された安政一分銀に変えられ、久世=安藤政権もこの改悪策を継続実施した理由は、そこにあるはずです。

 先に述べたように、この年、皇妹和宮の降嫁による支出が予定されていました。幕府としては、井伊政権によりこじれきった朝廷との関係を修復するため、金に糸目を付けない歓迎をするつもりでいます。そこで、この婚礼行列は総勢6000人という規模に膨れ上がり、これが中山道の全行程を旅する事にしたのですから、純然たる旅費だけでも莫大なものになります。

 しかも、勤王の志士による和宮奪回計画の噂があったため、幕府は沿道警備に計29藩の藩士を動員したのです。それに要した費用をすべて財政の疲弊している各藩に負担させるわけには行きません。下賜という形を取るか、貸し付けという形を取るかは選択の余地があるにせよ、何らかの形で現実の資金を諸藩に提供する必要があります。

 したがって皇妹降嫁の旅が、幕府財政にとって大変な負担になるであろうことは、勘定方には容易に予想がついたに違いありません。最終的にいくらかかったかは判っていませんが、後に将軍家茂が上京した際には直接経費だけで80万両かかっています。片道旅行であること等を考えても、やはり数十万両という巨額が必要になるはずです。

 こういう大口支出が予定されているときに、一分銀の発行によって発生する年間数十万両の収益を放棄する余力は、幕府にはなかったはずです。これが当初の水野構想がつぶれた原因と、私は考えています。

 D 万延改鋳の内容

 そこで、水野忠徳は改めて次善の策を建議します。為替レートの改訂はあきらめて、金の流出だけでも食い止めようというのです。小判が国内的には一分銀の4倍の価値しかないのに、それに含まれる金の量が国際水準から見て高すぎることが流出原因です。したがって、国際水準からみて一分銀の4倍程度しか金を含んでいない小判を発行すれば、いやでも金の流出は止まるという、コロンブスの卵的な発想です。こうして発行されたのが、万延小判です。

 E 小判改鋳小史

 万延小判がそれまでの幕府の通貨管理の常識から見て、どれほど突出して劣悪なものであるかを理解していただくために、これまで折に触れて紹介してきた小判改鋳の歴史を、ここで簡単に振り返ってみましょう。

 幕府創設時の慶弔小判は4.76匁で金の含有率は87%でした。綱吉の改鋳により悪名高い元禄小判は目方は同じ4.76匁でしたが、金の含有率を57%に落としたものでした。大岡忠相によって発行された元文小判は重量を3.5匁に落としていましたが、含有率は66%と若干改善していました。水野忠成による文政小判は、重量は3.5匁のままですが、含有率を56%と元禄小判並に落としました。水野忠邦の天保小判は、含有率は57%と文政小判並ですが、重量を3匁に落としました。井伊直弼により安政年間に発行された安政小判は、含有率は依然57%と変えていませんが、前章に紹介したとおり、重量はさらに減らして2.4匁となっていました。これによる改鋳差益がこの厳しい時期、幕府財政を下支えしてきたわけです。

 F 万延の豆小判

 この最後に登場した安政小判という、我が国歴代の小判から見れば驚くほどの低品位通貨でさえも、国際的に見れば、大変な価値があった点に、幕末最大の問題があるのです。万延小判は、一両小判の持つ国際価値を、当時の為替レート並に下落させることを狙いました。

 その結果、万延小判は、金の含有率は57%という点では安政小判と変わっていませんが、目方がなんと0.88匁と、当時大量に出回っていた天保小判と比べると29%、直前の通貨である安政小判の37%にまで落としてしまったのです。この37%という数字が、たびたび引用してきた一分銀の為替レートとほぼ一致しているのに気がつかれる事と思います。従来の小判の3分の1ほどの大きさなので、豆小判というのが通称でした。

 万延小判の総発行量は62万5050両です。金銀改鋳のやり方としては、新旧両通貨を、額面どおり等価交換する方法と、含む金の量の減少に応じて増付付きで交換するやり方とがあります。新旧通貨を等価交換すれば、幕府に改鋳差益が転がり込みます。が、民衆は交換に抵抗しますから、新旧通貨の交換は遅々として進まず、経済混乱の原因となります。これに対して、増付付き交換をすれば、すんなりと事務が進むことは明らかです。

 大岡忠相の主導で行われた元文改鋳は増付付き交換であったため、ほとんど経済に混乱が起こらず、長期安定通貨を作り出すのに成功しました。この万延小判の改鋳に当たっても、幕府はこの増付交換方式を実施しました。すなわち天保小判1両を万延小判3両1分2朱と交換するという、極めて正確な等価交換を行ったのです。改鋳手数料だけ幕府の丸損になるという英断を下したわけです。

 一気に目方を3分の1に落とすというドラスティックな改鋳であるにもかかわらず、比較的混乱が少なく、豆小判が順調に流通したのはこのためです。幕府としては、金貨の激しい海外流出を防ぐために実施する改鋳なのですから、改鋳差益を稼ぐというような目の前の利益にこだわるわけには行かなかったのです。そして実際、金貨の流出はこれにより立派に阻止されました。

 しかし、高品位二朱銀の発行に比べて、この方法はいくつかのはっきりした欠点がありました。すなわち、これは国内的に見れば平価の切り下げです。したがって、金貨で示される名目物価が単純に3倍以上に跳ね上がります。通常平価の切り下げで問題になるのは、それに伴う便乗値上げです。この場合にもそれが起こったはずです。困ったことに、激しい輸出ドライブに伴う物価の騰貴が同時並行的に起こっていますから、便乗値上げかどうかを確実に識別する方法はありません。この結果、一般物価の騰貴が一段と促進されたわけです。

 ただ、この時期の日本にとり、救いであったのは、日本では依然として金、銀、銅三重本位制が通用していた、ということです。金貨の価値が三分の一に下落すれば、当然、銀貨(一分銀など金貨の補助通貨ではなく、丁銀や豆板銀のことです。)はそれに対して3倍強くなったはずです。したがって、銀貨をベースにしている上方商人にはあまり大きな影響はなかったはずです。

 また、銅貨も同様に、3倍強くなったはずです。したがって、銅貨を生活の基盤にしている一般庶民に対しても、直接的にはそれほどの打撃にはならなかったはずです。

 おそらく、一番苦労したのは、金貨を生活の基礎にしていた武士階級だったでしょう。だからこそ、この時期以降、下級武士ないし郷士と呼ばれる人々を中核として、急激に倒幕に向けて気運が高まっていくことになります。

 歴史の教科書などではいとも無造作に、この万延改鋳が、一般庶民をも直撃した幕末における激しいインフレの原因と書いてあるものが目立ちます。しかし、この改鋳自体は、このように、インフレ原因とはならない性格のものです。

 しかし、現実に、この後も激しいインフレが庶民を苦しめます。その原因は、この改鋳が行わなかった点、すなわち対外レート問題にあったのです。銅貨などが中国の同種銅貨に比べて約4分の1程度に低く評価され、その結果、日本の商品に大変な割安感があったという事実は依然として残っていたのです。そこで、金貨の流出がやんだ後においても、あらゆる生活必需品が激しい輸出ドライブのために品薄になり、激しいインフレが続いていったわけです。

 G 少額金貨の発行

 南鐐二朱銀や一分銀の持つ根本的な問題は、国内的には金貨として通用するものであるにもかかわらず、銀で作られたものであるために、国際的には銀貨として評価されてしまう点にありました。これを解決するために、この時、幕府は、小判の補助通貨を一斉に金貨に切り替えました。すなわち、田沼意次以来、営々と続けられてきた金銀二重本位制への挑戦をこの時、幕府は止めたわけです。これにより発行されたのが、万延二分金、万延一分金及び万延二朱金です。

 このうち、万延一分金は、金含有率は万延小判と一緒で、重量が0.22匁と正確に1両の4分の1になっています。しかし、これではあまりに小さくて、通貨として日常使用するのに不便でしたからあまり通用しませんでした。そこで、発行量もわずかです。

 この点を考慮し、重量を確保する都合から、金22%、銀78%という比率の合金で発行されたのが万延二分金と万延二朱金です。8割までが銀なのですから、外国人達から金色をした銀貨と悪口を言われたのも無理はありません。二分金は重量が0.8匁と万延小判とあまり違いがありません。二朱金は、その正確に4分の1の0.2匁です。劣悪通貨として評判の悪かった一分銀の重量が0.6匁でしたから、これを回収して若干の金を加えれば二分金、すなわち国内における価値が二倍の通貨が作り出せることになりますから、大幅な改鋳差益を確保できたことは間違いありません。

 金貨の海外流出により通貨の絶対量が不足していた時に、激しいインフレが発生したのですから、日常生活で使われる貨幣自体が、従来に比べて高額化しました。それでも、日常生活では小判で取り引きされるということは滅多にありません。日常生活の中心となる少額取引に使いやすい補助通貨は、このように極端に低品位化した通貨の発行であるにも関わらず、国内的には歓迎されました。

 安政一分銀も引き続き発行され続けました。これの場合には洋銀を市場から回収して改鋳していたのではないかという説が唱えられています。ここからもかなりの額の改鋳差益が上がることになります。

 こうして、いわば外圧が追い風となって、大きな改鋳差益を幕府は入手することができ、今後の様々な歳出増を賄い続けることが可能となりました。

 文久元年の場合、二分金など金貨改鋳に伴う益金が143万1967両、一分銀など銀貨改鋳に伴う益金は14万0257両、計157万2224両といいます。もっとも、当然ながらこれは平価の切り下げにより3倍に跳ね上がった金額ですから、弘化の頃の歳入と比較する際には3分の1に割り引かねばなりません。それでも50万両程度に達する計算です。

 二分金は、明治初年まで発行が続けられ、最終的には計4689万8932両も発行されました。毎年同じ量を発行したわけでもないでしょうが、単純に割り算すると毎年600万両弱が発行された計算になります。改鋳そのものにかかる費用が不明なので、正確な差益額は判りませんが、文久2年以降は、おそらく毎年新通貨で200万両程度にはなったはずです。狂乱物価という大きな犠牲を払った代わりに、幕府はついに巨大な歳入源を手に入れるのに成功したのです。

(3) 関税収入

 万延元年に入ると、貿易も本格化してきます。同年の輸出総額は471万1千ドル、輸入総額は165万9千ドルに達しました。

 これにより正確にいくらの関税収入があったのかはわかっていません。仮にすべての輸出入品が一律5%の関税率とすれば、新通貨で120万両以上の関税収入があったはずです。

 安藤信正が五品江戸回送令を利用して輸出量の削減を計った翌文久元(1861)に若干輸出量が減少したことを除いては、この後明治維新までの間、輸出は毎年著しい伸びを示し続けます。また、輸入は例外なく毎年伸びています。

 したがって、万延元年以降、幕府の崩壊までの間、改鋳差益と並んで、関税収入は幕府の重大な財政基盤となっていくことになります。

4. 久世=安藤政権の財政政策

 久世=安藤政権では、上述した万延改鋳では、結局、水野忠徳が当初建議した抜本策ではなく、金貨の流出防止だけを念頭に置いた策をとらざるを得ませんでした。したがって、物価の暴騰や輸出ドライブなど、貿易から作り出された問題に対しては、別途対策を立てる必要が生じました。

 生活必需品が海外に流出することによる品薄がインフレの原因であることははっきりしているのですから、日本という立場から見た場合、対策としてはそうした生活必需品の輸出制限であることは明らかです。先に朝廷に公約した条約の撤廃は、それを目指したものです。

 しかし、幕府の利益を第一に考える久世=安藤政権では、対策の順序が変わります。先に紹介したとおり、貿易による関税収入は、すでにこの時期の幕府財政は無視できないほどに巨大なものです。したがって、とるべき経済政策は、貿易量を適当に維持しつつ、同時により一層の増収をもたらして幕府の財政再建に結びつくものである必要がありました。それには、貿易の全面廃止ではうまくないのです。貿易による利益が幕府にだけ流れ込み、同時に物価騰貴を沈静できるような、適切な経済統制手段を設ける必要がありました。

 これを単なる観念論にとどめず、実際に具体的な対策にまでまとめ上げたところに、この政権の偉大さがあります。幕末と呼ばれる、本稿に取り上げた時期で、明確な財政政策を持っていた幕府政権は、この久世=安藤政権だけです。その点だけからでも、この政権はもっと注目される価値があります。

(1) 国益主法掛の設立

 ここで要求される政策は、経済統制手段の機能があり、同時に貿易による利潤を幕府が独占する手段である、という二面的性格を持っている必要があります。このことを安藤信正は早くから承知していたと思われます。なぜなら、井伊直弼の死が公表され、久世=安藤政権が正式に発足した直後の万延元(1860)年4月の時点で、早くもその政策が着手されたからです。

 その経済統制政策の中核機関として、この時に設立されたのが「国益主法掛(こくえきしゅほうがかり)」とよばれる存在です。

 これは、町奉行、勘定奉行、勘定吟味役という従来からの経済官僚に加えて、大目付及び目付を加えて設立された行政委員会で、政策立案ばかりでなく、その実施作業にも当たる強力な組織です。そして、5月にはこの国益主法掛の担当老中として筆頭老中の久世広周自身を任命し、また、担当若年寄や専任職員の任命も行いました。

 A 目付について

 これまで本稿では、目付という官職についてはあまり触れてきませんでした。勘定所が財政担当機関、すなわち今日の財務省に、そして勘定吟味役が財政に関する監察機関、つまり今日の会計検査院に相当する機関であるとするならば、目付は人事に関する監察機関、すなわち今日の人事院に相当する機関です。

 一口に大小目付といいますが、実際にはかなり複雑な役職に分かれます。

 「大目付」は、大名に対する監察機関です。従前は4〜5名が定数とされていました。が、弘化3(1846)年以降、定数が10名に増員されました。3000石相当の地位ですから、町奉行や勘定奉行と同格の重職です。が、大名を監察する地位にあるため、城中では万石相当の待遇がされました。将軍に直訴でき、老中も監察対象になるという点で、他国に例を見ない、極めて強力な人事監察機関でした。

 大小目付という言葉からすると、小目付という官職がありそうですが、実際には存在しません。旗本に対する監察機関は、正式には単に「御目付」と呼ばれます。定数はこの当時10名でした。1000石高の職ですから、遠国奉行と同等で、500石高の勘定吟味役よりも重職です。

 また、御目付は、お目見え以下の地位にある幕臣を監察する徒目付(かちめつけ)及び御小人目付(おこびとめつけ)、御中間目付(おちゅうげんめつけ)等を統括する職でもありました。

 現在の人事院が、人事監察だけでなく、人事行政一般を司るように、大小目付も広範な人事行政権を持っており、その支配下には数百人の官僚がいて、江戸城内外に目を光らせていました。

 大小目付は、その職の性質上、勘定吟味役同様に、いかなる誤りも許されないので、廉直な人物であることが要求されました。このため、徳川時代を通じて一貫して門閥・門地にこだわることなく、人材の抜擢登用が行われてきました。幕府の官僚機構の中では、勘定所と並んで、実力主義の支配する世界といえます。

 実力のある者が実権を握るのが、官僚機構というものです。その結果、この時点ともなると、幕政の実権は老中、勘定所及び目付に握られているといってよい状況にありました。

 水戸斉昭の懐刀であった藤田東湖が、斉昭にその旨を進講したと、福地源一郎が書き残しています。なお、東湖は幕府における第4の実力機関として奥御右筆をあげているそうです。これについては、幕府財政改革史に述べたことがありますが、今日でいう最高裁判所調査官に相当する役職です。藤田東湖がこれを指摘したのは、幕府の最高裁判所である評定所の判決を左右する力を持っていたからでしょう。

 B 佐藤信淵と国益主法掛の政策

 国益主法掛は、この幕府の実力機関のうち、奥御右筆以外のすべてをとりまとめたものとして設立されたわけです。いわば、幕府の最後の切り札というべき強力機関です。

 国益主法掛が実施した政策は、非常に幅広いものです。が、それらが単なる思いつきではなく、江戸中期の経済学者佐藤信淵(のぶひろ)の経済理論に基づいて行われた、というのも、この国益手法掛の大きな特徴です。

 佐藤信淵の思想は、絶対主義的性格を持っていました。すなわち彼によれば、全日本はただ一人の君主とその下に統一される八種の産業に従事する平等な八民とに分かれ、膨大な官僚機構の下に強大な常備民兵を備えているべきものなのです。

 したがって、その基本思想自体が、幕府を強大化し、日本全体を支配しようとしている官僚達にとってはもってこいの理論であるわけです。政策の展開に当たり、このような統一的な理論的アプローチが行われたということは、幕府では最初で最後ということができるでしょう。「国益」というネーミングそのものに、この政策を担当した彼らの気負いが、ひしひしと感じられるではありませんか。

 国益主法掛は、設立されるや否や、極めて多方面にわたって活動を開始しました。その政策名をざっとあげると、諸士救済策、物価引き下げ令、荒地起返(あれち・おこしかえし=荒廃した休耕田をもう一度農地に戻す事業)、陶器輸出策、機械試造、玉川上水水元模様替え、糸価調節、国益会所の設立などがあります。これら、多方面にわたる様々な事業を実際に実施し、または実施のための調査を行いました。

 先に五品江戸回送令が、万延元年閏3月に出された直後と、後に再度布告された時とでは、遵守のさせ方に違いがあると述べました。これも国益手法掛による再評価の結果と思われます。

(2) 国益会所

 国益主法掛の打ち出した様々な政策の中でも、最も重要なものが国益会所(こくえき・かいしょ)の設立です。

 先に述べたように、幕府は米国との通称条約の締結に当たり、永年オランダとの間で行ってきた、長崎会所を通じた貿易体制を、米国に対しても拡大する、という方針で臨みましたが、ハリスに一蹴されて、自由貿易を飲みました。

 A 国益会所の意義

 自由貿易のままでは、しかし、関税収入の確保は可能でも、鎖国時代と違い、貿易利潤そのものを幕府が得ることは不可能です。そこで、条約ではできなくとも、国内法の整備により、実質的に会所貿易を実現できないか、というアイデアが生まれてくるわけです。

 したがって、国益会所は、幕府が国内の全市場を支配するための中心機関となるべきものです。これを通じてすべての輸出入品を幕府の支配下におくことができれば、幕府は開国による利潤を独占することができるわけです。それは同時に国内の流通を統制する事を意味しますから、狂乱物価を抑制するなど、経済混乱の防止にも繋がります。

 この国益会所に、もっとも確実にその機能を発揮させるには、条約締結以前の鎖国体制に戻すことが一番です。そうすれば、いやでも貿易を幕府が完全に統制することができるからです。相手国が、オランダ一国であった状態から、イギリスなど多数の国に増大した状態へ移行した上で、それを幕府が一元的に統制できれば、それによる利益は長崎会所の比ではありません。ここに、久世=安藤政権が横浜鎖港という政策を打ち出し、朝廷に対して公約した真の理由がある、と私は考えています。

 B 理論対立と目付の敗北

 この国益会所への諸国の産物の買い集め方式を巡って、国益主法掛の二本の柱というべき勘定方と目付達との間に、深刻な理論対立が生じてしまいました。

 目付は、その官職の性格上、強権的な行き方を好みます。そこで、「すべての商人を管轄して、一挙に利権を官に帰せん」と主張します。

 これに対して、永年商業資本とつきあい、商業活動の難しさというものを知悉している勘定方は反対し、「不馴れの官吏をして俄かに商を括り、天下の方物を全括して漏らさざらん事は、勢い危うきを以て、まず商と相和し、これを懐口にして使い、漸を以てその利権を移し握らん」と主張しました。すなわち、最初から官吏がやろうとすると失敗するから、まず商人にやらせて路線を確立した上で、徐々に官に権限を移行しよう、というわけです。

 この結果、目付=急進派と勘定方=漸進派の対立となったわけです。

 久世広周は、最終的に、漸進派を以て妥当と判断しました。しかし、彼が決断を下すまでの間に、この対立があまりにこじれてしまったため、9月には、大小目付は全員が国益主法掛を罷免される、というところまで事態は発展してしまいました。幕府の実力派官僚のすべてを投入する、というプランはここに崩壊し、国益主法掛は片肺飛行になってしまったわけです。

 C 国益会所の廃止

 勘定方の下で、しかし、国益会所プランは順調に発展しました。このプランは最終的には全国の産物を江戸及び大阪に設ける会所によって総括しようという壮大なものです。しかし、さしあたりは江戸に会所を設立し、諸藩の物産と関八州、甲信及び伊豆の産物を豪商を手先にして買い集めようというものでした。

 12月には会所頭取が任命され、翌文久2年2月に国益会所が正式に発足しました。5月からは実際の事務を取り始めたのです。

 が、7月になって会所そのものが廃止されます。その理由は単純で、詳しくは後に述べますが、この構想の推進役であった安藤信正や久世広周など、久世=安藤政権を構成していた老中のほとんど全員が、その3月から6月までの間に失脚してしまったからなのです。

 商業を全面的に国家がコントロールしようという考え方は、最近では、ロシアや東欧圏諸国が押し進めて、結局失敗したことに明らかなとおり、基本的には無理の多い話です。しかし、この当時は、諸藩がいずれも財政危機乗り切りのため、同様の施策を展開し、成功していたわけです。

 したがって、少なくとも当初計画が念頭に置いていた天領部分については、十分に成功の可能性があったといえるでしょう。そして、部分的にしか成功しなくても、幕府には莫大な利潤が確保できたはずです。安藤信正達の失脚により、幕府は、惜しまれるチャンスを逃したといえます。

5. 久世=安藤政権の軍事政策

 幕府は基本的に軍事政権ですから、幕府が今後も存続し、一層支配力を強めていくためには、その軍事力の強化が絶対に必要です。そこで、久世=安藤政権にとっての急務は、幕府の戦闘能力を回復するということです。

 ところが、この時点での幕府の軍制は単に旧態依然としている、という程度の生やさしい状況ではありません。人事が門地、門閥、年功序列によって行われていた結果、前線指揮官であるべき地位に老人が多数いて、ものの役に立たないという状態でした。

 そこで、文久元(1861)年2月にまず御旗奉行、槍奉行、持ち頭及び先手という軍事上の重職であり、したがって長く平和が続く中で形骸化し、老人ばかりが任命されていた職に「極老の者」を任命しないこととしました。しかし、これはいわば急場の対策にすぎません。その程度のことでは、対外国軍との戦闘はもちろん、国内戦でさえも、とうてい満足に遂行できる状況にないことは、誰の目にも明らかです。

 そこで5月になると、積極的な軍制改革を行うことに決めました。その中核組織として、「海陸御備え並びに軍制取調御用」という委員会を発足させ、軍制改革構想を検討させたのです。このように、組織を素早く整備する、という点も、久世=安藤政権の大きな特徴と数えて良いでしょう。この委員会には、勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行及び大小目付という実力派を委員としたという点、国益主法掛と一緒です。この委員会には小栗忠順や勝義邦(海舟)等、後世に名を残す実力者が多数、委員として加わっていました。

 阿部正弘が、挙国一致体制の下でわが国防衛力の強化を図ろうと考え、様々な禁令を解除したことは先に触れました。これに対して、この委員会では、幕府の軍事力のみを強化することを目指したという点で、これも大きな方針の転換です。

 この軍制改革案は、軍制を完全に洋式のものに切り替えるという壮大かつ抜本的なものでした。すなわち陸軍については歩兵、騎兵、砲兵の三兵計1万3625人の常備軍の設立を目指します。海軍については、さしあたり、江戸及び大阪防衛のため2艦隊(艦船43隻、乗組員4904人)を作り、将来的には日本の沿岸全体を防衛するため、6艦隊(艦船370隻、乗組員6万1205人)を編成しようというものです。財政的にどこまで可能かはともかく、各艦隊ごとに艦種を想定し、各艦ごとの水兵の端数までも計算するという点で、大綱案であると同時に、精密な立案でもあったわけです。

 司馬遼太郎の『龍馬が行く』の中で、海舟を暗殺しようと訪ねた龍馬を相手に、海舟が海防論を説いて、逆に弟子入りさせる感動的な下りがあります。あそこで海舟が龍馬に見せたプランこそ、この「海陸御備え並びに軍制取調御用」委員会の研究の成果だったのです。

 これほどの大計画は、存続期間の短かった久世=安藤政権では、その具体的な実施にまで着手する時間的余裕がありませんでした。しかし、その後、幕府が存続する限り、続けられた軍事力強化努力は、この計画に則って行われました。その方向付けを決定した、という意味で、この政権の軍事面での努力を無視することはできません。

6. ヒュースケン殺害事件とその波紋

(1) プロイセンとの通商条約問題

 井伊直弼の暗殺後も、攘夷派浪人による外国人襲撃事件は後を絶ちません。万延元年9月には、フランス公使館員でイタリア人のナタールが傷害されています。しかし、何といっても当時江戸にいた全外交官を震駭させたのが、同年12月5日に起きたヒュースケン殺害事件でした。これは、かれがプロイセン使節団のために通訳活動をしている最中に起きた事件でした。

 プロイセンが東アジアに進出を考え、議会で承認を得たのは1843年のことですから、米国よりかなり早かったのです。しかし、それが実際に実現したのは1859年のことでした。欧州からの万里の波濤を越えて、特命全権大使オイレンブルク伯爵が横浜港に入港したのは万延元(1860)年7月19日でした。すなわち、安政の五カ国条約を決行した井伊直弼が暗殺された半年ほど後です。

 プロイセン使節団は、7月23日に上陸して赤羽接遇所に入り、通商条約の締結交渉に入ります。しかし、準備の悪いことに、日本側と言葉の通じる通訳を用意していません。そこで例によってハリスが申し出て、ドイツ語の堪能なヒュースケンが通訳を勤めることになりました。ですから、この時期、ヒュースケンは毎日のように接遇所に通っていたようです。接遇所は、米国公使館のあった麻布善福寺からは、歩いても10分くらいの距離でした。

 しかし、この条約交渉は難航しました。この時政権を握っていた安藤信正としては、その前月、10年以内の攘夷決行を条件に孝明天皇から皇妹降嫁の許可をいただいたばかりです。それは先にも述べたとおり、幕府そのものの長期構想でもあります。したがってそれとは逆方向の、貿易相手の拡大は、国益会所がきちんと機能を開始するまではやる気がありません。その結果、間違ってもプロイセンと修好通商条約を締結するつもりはなかったからです。

 この時期、ハリスは在江戸外交団のリーダーと自認しています。そこで、その地歩を固めるため、ハリスはプロイセンに対して助け船を出しました。

 先に述べたとおり、井伊直弼は、安政の5カ国条約で、神奈川開港の半年後の1860年1月1日の新潟開港を皮切りに兵庫の開港や江戸・大坂の開市場を行うと約束しています。安藤信正としては、プロイセンとの条約を締結できないのと全く同じ理由で、新潟開港以下の条約条項の遵守もまた、することができません。

 そこでハリスは、もし幕府がプロイセンと条約を締結するならば、神戸・新潟の開港及び江戸・大坂の開市については延期しても良い、と申し出たのです。

 そういう条件であるならば、安藤信正としても、たとえ短期的には孝明天皇が激怒するという問題を抱えても、長期的には好ましい結果が得られるわけですから、プロイセンと条約を締結することを考慮する余地はあったのです。

 もっとも、これについては順序が逆である可能性もあります。つまり、安藤信正が先にハリスに開港開市延期問題について泣きつき、ハリスがその代償としてプロイセン問題の解決を要求した、ということです。どちらであれ、この二つの異質の問題がハリスの手でワンセットにされたことだけは間違いないようです。

 そこで、このハリスの介入をきっかけに、プロイセンとの条約交渉は進展を見せ始めました。安藤正信は、函館から井伊の粛正を無傷で生き抜いた唯一の初代外国奉行である堀利煕を呼び寄せて主席代表に据え、また金貨の海外流出などでその冴えを見せた水野忠徳を、再度外国奉行に起用して、次席としてこれに当たらせたのです。

(2) ヒュースケン殺害事件

 ヒュースケンは、問題の万延元(1860)年12月5日の夜も、9時近くまで接遇所にいてプロイセン側と折衝し、馬で公使館に帰りました。3名の騎馬の武士が警護に就き、4名の下僕が提灯をもって付き従っていたということですから、必ずしも警備が手薄だったわけではありません。しかし、7名ほどの者に襲撃されて重傷を負い、その夜のうちに死亡しました。

 犯人について、当時はプロイセンとの交渉における主席全権である堀利煕の家臣という噂が立ちました。というのは、その直前の11月8日に、堀利煕が謎の自殺を遂げており、その原因がヒュースケンとの衝突だという噂が流れていたからです。

 当時の駐日イタリア大使が書いた「伊国使節アルミニヨン幕末日本記」という書は、次のような噂を伝えています。堀はヒュースケンに対して、その夜歩きが頻繁な事を、外国人の警備責任者としての立場から注意したのに対して、ヒュースケンはまことに横柄な態度で、「自分は外出したいときにはいつでも外出する。自分に刃向かう者があれば、いつでも撃退してみせる。」と公言したというのです。

 実際、ヒュースケンは日本人全体に対して、一般に見下した態度が目立ったようです。この返事に、堀は激怒し、安藤信正に対してヒュースケンを排除するように求めました。が、安藤がこれを退けたため、怒りのあまり堀は自殺した、というのです。そこで、これを遺恨に思った彼の家臣が、ヒュースケンを襲撃したのではないかと思われたわけです。

 もっとも堀の自殺原因については、福地源一郎は「幕府衰亡記」の中で違う説を書いています。幕府としては、ハリスの周旋により、プロイセンとは条約を締結するが、他の国との条約は、依然として峻拒するという方針だったのです。ところが、この当時、ドイツはプロイセンにより統一の過程にあり、この時点においては、プロイセンはドイツ関税同盟の盟主となっていました。そこで、条約書には、プロイセンの外、関税同盟に属する各国の名が書かれることになったのです。その数、実に18カ国です。プロイセンを除けばほとんどが重要性を持たない小国である、ということは、ここでは問題になりません。これまでに5カ国と条約を結んだことが問題になっているのに、さらに一気に18カ国と新規条約を締結するのは、あきらかに朝廷にした公約への違反です。

 そんな重要なことを、条約交渉が最終段階に入るまで、主席全権の堀が気がつかないでいた訳です。それでは安藤として、孝明天皇に対して顔が立ちません。そのことを安藤が怒って、激しく堀を叱責したことから、堀が責任をとって自殺したというのです。

 当時、福地源一郎は水野忠徳の部下です。その水野の実見談ということですから、こちらの方が確度が高いと思われます。

 ヒュースケン殺害の真犯人は、後になって薩摩浪士であることが判明しました。ヒュースケンを暗殺すれば、それにより幕府と列強の間がまずくなり、幕府が窮地に立つだろうということを狙って行ったものです。

 これまであった外国人襲撃事件は、先に述べたように、アジア人蔑視の姿勢を見せる西洋人に対する感情的な反発から起きたものでした。それに対して、この事件は、外国人との関係では初めての政治的暗殺事件ということになります。そして、その犯人達の狙いは見事に当たりました。

(3) 在江戸外交団の横浜引き上げ

 ヒュースケンの死は、幕府としては十分警護をしていたにもかかわらず、本人が不用心に出歩くということを繰り返したことから起きたのは明らかです。したがって、幕府として責任を負うべき筋合いのものとは思えません。

 が、先に述べたように、外国人襲撃事件が頻発することに加え、その犯人が一人も捕まっていませんでした。そういうことから、外国人側では、幕府による政治的暗殺ではないかと疑心暗鬼になっていました。つまり、幕府が暗殺からの警備を理由として、公使館警備の陣容を大幅に増強したため、公使館としての情報収集などが極端に不便になったからです。

 そこにヒュースケン事件が起こったものですから、外国人達が過剰反応を起こしたのも、ある程度は無理のないことです。そこで幕府は、害意のないことを示すポーズとして、急ぎプロイセンとの話し合いをまとめ、事件の10日後の万延元年12月14日には通商条約を調印しました。

 しかし、そのくらいのことでは、外国人達の動揺は収まりません。幕府が新潟開港を実施しようとしないのに腹を立てていた英国公使オールコックは、この機を捉えて、英国公使館にフランス及びオランダの代表を集め、数時間にわたって談合をしました。つまり、ヒュースケン事件に借口しながら、その直接当事者である米国の代表をわざと呼ばずに会議を開いたのです。米国に取って代わって、対幕交渉の主導権を持とうとする英国の野心が端的に見て取れる行動です。

 そして、幕府には外国人を保護する能力も誠意もないので、一時横浜に引き上げ、海兵隊の力を借りて自衛の道を講じようと決定しました。本来、在外公館は相手国の首府に駐在してこそ、その存在の意義があります。それを首府から一斉に離れるというのですから、かなり異常な決定です。

 オールコックはこれにより様々な狙いを同時に実現しようと考えていました。

 第一に、ハリスが勝手に約束した、開港・開市延期をもう一度元に戻すための圧力ということです。先に述べたとおり、日本の開国により最大の利益を上げているのは、先鞭を付けた米国ではなく、英国の商人です。彼らは、当然の事ながら一日も早い全面開国を待ち望んでいたわけです。ハリスが開港開市の延期を、自分と直接の利害関係がないプロイセン問題と結びつけて受諾したのも、漁夫の利を占めたイギリスへの憤りにあることは間違いないでしょう。

 第二に、それによりハリスの顔を潰すことで、これまでハリスが務めていた在日外交団の幹事役をオールコックに奪い取り、英国の対日影響力を増大しようということです。

 第三に、領土的野心です。横浜の外国人居留地を、中国における外国人租界のように、自らの武力で守る治外法権の地とすることを狙ったのです。

 特に、第一、第二の狙いが大きかったことは、本当の当事国であるはずの米国を除外してこの会談を開催したことに、良く現れています。

 万延元(1860)年12月16日に、オールコックはさっさと英国公使館を横浜に移転してしまいます。これを知った幕府は驚倒し、困惑しました。

 ハリスは、自分をあえて招かずになされた列国公使館を横浜に移すという決定には、絶対反対でした。何より、そのまま横浜移転に追随したりすれば、それまで2年近くもかけて営々と築いてきた在日外交団の幹事という地盤を失うことになります。そこで、オールコックに手紙を書いて巻き返しにでます。

 手紙の中でハリスは、第一に自分は江戸での居住に何ら不安を感じていないこと、第二にヒュースケンの死は、夜間外出が危険であることを幕府が繰り返し警告しているのに、これを無視したためであること、そして第三にその少し前にイタリアのナポリで起きたフランス公使暗殺事件にも関わらず、列国がナポリから撤退していない事実等を指摘しました。さらに、フランス公使やオランダ公使にこの手紙の内容を伝えて、彼らの了解を求めたのです。

 在外代表部が、その首都にいないというのはどう考えても異常な事態ですから、各国は結局ハリスに同調しました。こうして、オールコックの、少々非常識なデモンストレーションは失敗に終わり、万延2(1861)年1月21日には英国領事館自身も江戸に復帰する羽目になります。なお、この年は2月19日に年号が文久に変わります。

 したがって、この事件は、結果として、いたずらに在江戸外交団の中におけるハリスの優位性を高めただけに終わりました。

(4) ヒュースケン事件の後始末

 他方、ヒュースケン暗殺のニュースがワシントンに届くと、米国政府は、英・米・蘭・仏・露の軍艦をもって日本沿岸で軍事デモンストレーションをするように指示してきました。米国政府が、この時点でも、ペリー以来の砲艦外交を信じていることがよくわかります。硬軟取り混ぜた英国の外交に比べて、米国の姿勢が柔軟性を欠いていることが判ると思います。が、ハリスに直接動かせる艦船を与えたわけではありません。翌1861年から南北戦争が始まる、という時期なので、そんな余裕は米国政府にはないのです。

 したがって、ハリスとしては、この訓令に従うには、他国、特にイギリスを動かす以外に方法はありません。が、江戸に居住していても何ら問題はない、と断言しながら、そういう要請をすることは、彼とオールコックの関係がこじれきっているこの時点では、不可能なことでした。

 するとアメリカ本国は、それに代わる措置として、日本政府からヒュースケン暗殺に対する誠意ある回答を引き出すように指示しました。ハリスはそれを、日本から賠償金を取り立てるように、という意味の指示と考え、その後数ヶ月かけて幕府と交渉しました。これは、ヒュースケンの死は彼の自業自得であり、幕府に責任はない、と各国公使宛に公言したハリスとしては、実に変な行動です。

 先のイギリス公使館移転騒ぎなどでハリスに借りがあると感じていた安藤信正は、しかし、この交渉に結局応ずることにし、文久元(1861)年10月23日になって、1万ドルの賠償金を支払うことを承諾しました。関税収入の洋銀を直接これに充てて交付したようです。

 しかし、これは歴史的に見れば、大きな失敗でした。これにより幕府は外国人の襲撃事件で賠償金を支払うという前例を作ってしまったからです。以後、襲撃事件の都度、列強から賠償金をゆすり取られるようになります。そのピークが下関砲台砲撃事件で、幕府はその莫大な償金に苦労し、債務の大半を支払いきれずにいる間に滅亡して、明治政府に引き継いでしまうことになります。

7. 英国の対日政策の転換

(1) ロシア艦対馬占拠事件

 万延2(1861)年2月3日、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来て、そのままそこを占拠し、アジアの拠点としようとした事件が起きました。この時点で、幕府にはこれを強制退去させるだけの実力はありませんから、幕閣は狼狽しました。

 4月になって、ようやく遣米使節の一員としてワシントンから戻って間のない小栗忠順(ただまさ)を対馬に派遣しました。この間に対馬では、ロシア側が暴行や略奪を繰り返すことに対して、住民が怒って抵抗運動を展開し、死傷者を出していました。しかし、小栗忠順はきちんと退去を要求するどころか、ロシア側に脅かされて「拙者どもかぎりでは取り扱い候あいだ、急速江戸表へ立ち帰」って指示を仰ぐと称してそうそうに逃げ出し、指示のあるまでの間は「なるたけ穏便に取り扱い申すべく候」と通達する、という弱腰ぶりです。小栗忠順という人は、官僚としてはかなりの才人ですが、こういう厳しい状況に即応する能力までは持っていなかったようです。

 しかし、幕府以上に狼狽したのが英国公使オールコックです。クリミア戦争に敗れたロシアが、西への進出を諦めて、東に矛先を向けていることは明らかでした。この極東におけるロシアの脅威に対し、オールコックとしては早急に何らかの手を打つ必要がありました。彼は、ロシア艦が退去しない場合には、イギリスも対馬を占領して日本海における拠点にしようと意思を固めて、指揮下の軍艦オーディン号を派遣してロシア艦を威圧しました。この結果、8月に、ロシアは退去したので、イギリスによる対馬占拠という事態も起こらずに済みました。

 幕府は単純にオールコックがロシアを追い払ってくれたと考えたものですから、これにより、オールコックと幕閣の間に一定の信頼関係が生まれたことは確かです。

(2) 第1次東禅寺事件とその波紋

 幕府に対するオールコックの姿勢が大きく変わるのは、しかし、皮肉にも彼に対する攘夷浪士による襲撃をきっかけとしました。

 朝廷は、この万延(1861)2年の2月19日に早くも改元し、年号を文久とします。その文久元年5月28日夜、英国公使館のおかれていた高輪の東禅寺が、水戸浪士17名によって襲撃されたのです。

 この時点では、東禅寺の警備の主力は、旗本の子弟で編成していた別手組40名でした。この他に、中門の外を大和郡山藩が、また、裏手を三河西尾藩が警備しており、両藩併せて200人近い人間がいました。

 この厳重な警備の中にわずか17名で切り込んだのですから、まさに決死の覚悟といえます。実は、この水戸浪士達は、戊午の密勅返納に反対して、斉昭により追われた一派の残党です。すなわち、井伊直弼暗殺者の仲間ということです。幕府の厳しい残党狩りに将来の展望を失い、派手な死に場所を求めて切り込んだのでしょう。

 浪士達が、寺院内にどのように潜入したのかは判っていません。公使の寝室近くまで侵入したところで発見され、警備陣と斬り合いになります。結局、犯人のうち3人がその場で殺され、2人が重傷を負って捕縛されました。また、幕府は、事後に、直接襲撃したものばかりでなく、その一味も多数逮捕することに成功しました。

 英国人では、第一書記官のオリファントと、たまたま来訪していた長崎領事のモリソンが負傷しました。そのほかは、無事でした。が、警備陣は合計で20人以上の死傷者を出したのです。

 それまで、オールコックは幕府の行っている厳重な警備は、外国人を監視する事をかねての嫌がらせくらいに考えていたのです。が、目の当たりに浪士達の襲撃の恐怖を見て、考えが一変しました。確かに、貿易反対派の力は侮りがたいものがあり、したがって安易な開港場・開市場の拡大は、イギリスが条約を締結している相手政府を崩壊させるという悲劇の元となりかねないことを、はじめて理解したのです。

 もっとも、理解したということと、列強としての利権を確保することは別です。すなわち、オリファント、モリソンに対する賠償金ということで、オールコックは、ヒュースケン事件の先例に倣い、1万ドルづつ、計2万ドルを幕府からゆすり取っています。

 この東禅寺はさらに翌年5月にも襲撃されます。こちらの方は、その時期に東禅寺の警備を担当していた松本藩藩士1名が、やはり公使の寝室を襲おうとしてイギリス人水兵に発見され、水兵2名を斬殺し、自らも自殺した、というものです。この事件でも、幕府は賠償金として1万ポンドをイギリスから強請り取られています。

 この二つの東禅寺襲撃を区別するため、先に書いた水戸浪士による襲撃を普通第1次東禅寺事件と呼びます。

(3) 遣欧使節の派遣

 A 遣欧使節派遣までの経緯

 少々話は遡ります。ハリスの画策により実現した、この前年2月の遣米使節の出発を、オールコックは焦慮の念で見送っていました。それにより、米国が日本における主導権を確立することができることは明らかだからです。

 しかし、練達の外交官らしく、オールコックは直ちに失地の回復に取りかかります。すなわち、遣米使節がまだ出発の準備に追われている段階で、早くもオールコックは、江戸における米国の優位性を突き崩すべく、英国の外務大臣に、遣英使節招待案を書いて送っているのです。

 その後、井伊直弼が暗殺され、久世=安藤政権になるとともに、幕府ははっきりと貿易に対して消極姿勢を見せるようになります。オールコックは、自由貿易主義の優越性を信じていますから、その立場から何とか幕府を説得しようとします。しかし、幕府は攘夷浪人の横行や朝廷の反対を理由に、新潟等の開港・開市はおろか、横浜の鎖港までもほのめかす始末です。その結果、開港を促す交渉は完全に膠着状態に陥ってしまいます。

 そこで、オールコックとして考えられる唯一の打開策は、遣英使節の誘致ということになります。日本の為政者に欧州文明の優越を見せつけることで、攘夷や鎖港という政策は、時代に逆行するもので、列強側としては、到底受け入れ不可能であることを知らしめようというわけです。

 ちょうどロンドンで1862年5月から国際大博覧会が開催されることになっていました。だから、それにあわせて日本代表がイギリスに行けば、欧州の文明を一度に見ることができます。またそこで日本の優れた工芸品を展示することにすれば、日本からの輸出促進にも繋がると考えたわけです。

 幕府に打診したところ、幕府は喜んで応じてきました。ただし、幕府側の思惑は、オールコックとは全然別のところにあります。つまり、和宮降嫁を実現する際に、10年以内に再び鎖国体制に戻すという事を朝廷に公約しています。そこで、そのための了解を遣欧使節を派遣することで、本国政府から取り付けようというわけです。

 しかし、先に述べたように、東禅寺の襲撃にあうことで、オールコックの意見は劇的に変化しました。警備陣が出した甚大な損害を見て、浪人が、外人への嫌がらせに幕府がそそのかして動かしている暴力団では決してなく、幕府と外国人双方にとって、真に危険な存在ということを理解することができたのです。

 このように、幕府がいたずらに時間稼ぎをしているという先入観がなくなった後に開かれた、7月の9日及び15日の安藤信正のとの会見は、歴史的重要性を持ちました。それまでになかったほどのつっこんだ質疑応答が行われた結果、オールコックは、開港・開市問題で幕府が直面している危険がいかに大きなものかを、よく理解することができたからです。

 B 遣欧使節団の構成員

 文久元年12月22日、遣欧使節団は出発しました。幕府内部には、この時期の出発を、いたずらに攘夷論者を刺激するものとして難色を示すものがありました。しかし安藤信正は、これを断行すること決定したのです。この決断が、この翌年早々に起きる坂下門外の変の一つの原因となります。

 一行は、正使、副使、観察使の3名に、通訳その他36名の部下を従えて英国軍艦オーディン号で出発しました。遣米使節の時は80名の随員でしたから、それに比べると半分以下の規模です。これは幕府財政が苦しい折から、渡航費用を全面的に招待者側に依存したので、招待者側から人数の削減を求められたためです。

 招待費用を中心となって負担をしたのは英国ですが、そのほか、フランス、オランダ、ロシア等、わが国と条約を締結していた国が分担しました。したがって、使節はこれらすべての国を歴訪することになったわけです。

 正使は外国奉行兼勘定奉行の竹内保徳、副使は外国奉行兼神奈川奉行の松平康直、観察使となったのは目付の一人、京極高朗(きょうごく・たかあき)でした。

 実は副使は、当初、水野忠徳の予定でした。ところが、オールコックが強く異を唱えたのです。

 一連の外国人殺害事件の一つに、ロシア軍艦の士官殺害事件があります。その時、外国奉行水野忠徳は神奈川奉行の職を兼ねていたのですが、事件が起きたとき、その責任を問われて、外国奉行と神奈川奉行の職をともに解かれていました。

 オールコックは、そのようなロシア人襲撃事件の責任者とされた人物を遣欧使節の副使として派遣するのは、ロシアとの関係でまずい、と指摘したのです。おそらく、一連の外交交渉で幕府側の利益をもっとも明確に主張し、特に万延改鋳を推進したために、彼がオールコックに毛嫌いされていたことが真の原因でしょう。水野忠徳にとっては何とも不運な話でした。

 なお、この遣欧使節団の随員には福沢諭吉、福地源一郎、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪(みつくり・しゅうへい)等、維新後に活躍することになる俊秀達が多数含まれていました。この点、安藤信正の開明性を示すものといえます。井伊直弼政権下で、事なかれ主義の人選に終始した遣米使節のとの差を感じます。その意味でも"忘れられた遣米使節"に比べると遙かに重要な使節団でした。

 しかも、この使節団は、日本側が本当の目的とした通商条約の改正に成功したのです。短期的には、この点に、この使節団の最大の重要性があります。単に形式を整えに行っただけの遣米使節団との大きな相違です。

(4) 開港開市の延期

 オールコックは文久2年3月に一時英国本国に戻りました。その帰国に先立って、2月12日及び16日の二日にわたって、幕閣と最後の話し合いが行われました。この時、安藤信正は坂下門外の変で負傷していて欠席したため、もっぱら久世広周と話をすることになりました。久世は、開港・開市の延期がない限り、内乱の危機に直面していると訴えました。オールコックは幕府の窮状を理解し、幕府の提案に対して譲歩することを、ここに最終的に決意したのです。

 遣欧使節団は、当初パリに行って条約改正交渉をしますがうまく行かないので、ロンドンに行きました。しかし、英国外務省としては現地情報が十分ではないため対応できず、結局、使節団はそこでオールコックが英国に帰りつくまで1ヶ月も待たされることになります。

 しかし、オールコックは、帰国すると早速ラッセル外相に日本の状況を詳しく説明し、説得したので、英国政府は、オールコックの提案にしたがい、安政条約の修正を承諾することにしました。

 遣欧使節団との間で、新潟、兵庫両港の開港及び江戸及び大阪の開市を1863年1月1日から5年間延期することを認める、という条約(ロンドン覚書と呼ばれます)を締結したのは、文久2年5月9日のことでした。交換条件として、函館、横浜、長崎3港では条約をきちんと遵守すること、外国人を排斥する古法は廃止すること、等がついていますが、さしあたり特に問題になるようなものではありませんでした。

 日本市場に最大の利害関係を持つ英国が、このように譲歩したのですから、フランス以下の関係国もこれに倣います。この通称条約修正の成功により、幕府は攘夷の実行問題で一息つくことができるようになったのです。この激動期に5年の猶予は実に大きなものといえます。

 しかし、次に述べるように、この時点では既に久世=安藤政権は崩壊してしまっており、その後継者達も、この猶予期間を生かして幕府を立て直すことはできませんでした。5年後の1868年とは、明治元年として知られる年なのです。

8. 坂下門外の変

 安藤信正は、井伊直弼の場合と同じように、自分が攘夷派の浪士から襲撃される可能性が非常に高いことは十分に承知していました。そこで二つの予防策を講じていました。

 普通、老中が登城するのは、井伊直弼と同様、桜田門からです。しかし、市中を長く歩けばそれだけ襲撃の機会が増えます。そこで、彼は前例を破り、自分の上屋敷から最寄りの坂下門から登城することにしていたのです。

 また、剣術の達者なものを雇い、駕篭の回りに配置していました。もちろん、井伊家のように、柄袋をかけるような不用意なことはさせません。

 文久2(1862)年1月15日、安藤信正は、6人の水戸浪士に登城の途中を襲撃されます。

 襲撃者は井伊直弼襲撃の時と同様に、拳銃を一発発射した上で駕篭めがけて突進しました。しかし幸運にも、この拳銃弾ははずれました。駕篭脇の剣術使い達は、かねて予想していたところですから、一斉に迎撃します。安藤家の方が人数が遙かに多いこともあって、容易に襲撃者を切り伏せることができました。

 問題は、この雇われ剣客達が眼前の敵を深追いしすぎたところにありました。そのため、駕篭の脇に誰もいなくなってしまった瞬間が生まれてしまったのです。その時、遅れて飛び出した浪士が駕篭に駆け寄り、扉越しに数回刀を突き通しました。駕篭の中で、安藤信正は必死に身体を伏せて、攻撃をかわしました。そのおかげで致命傷は負わなかったものの、それでも、後頭部及び背中に3箇所の傷を負ってしまいました。

 襲撃そのものはホンの一瞬のことでした。安藤信正は、自分自身で坂下門まで出向き、襲撃にあって手傷を負ったので、今日は登城を取りやめる旨を、門を守る武士に告げた上で帰邸しています。その落ち着いた態度に、その場にいた者は皆、非常に感心したそうです。

 しかし、彼の落ち着いた行動も、市中にデマが流れるのを防ぐことはできませんでした。

 井伊直弼が暗殺されたときに、幕府は負傷しただけで生きていると発表したものですから、今回、軽傷にとどまったと発表しても、安藤信正は実際には死んでいるのだ、と、一時、デマが流れ、多くの者が信用してしまいました。

 また、無事であることが判ったあとでは、浪士に追われて足袋裸足で坂下門に逃げ込んだ、という悪質なデマが流れたりしました。

 実際には、軽傷でしたから、登城は遠慮したものの、病床から安藤信正は指示を出し、政治を動かし続けました。オールコック等、外国公使とも、病間で話をしたりしています。

9. 久世=安藤政権の崩壊

(1)謎の失脚

 襲撃から3ヶ月後の文久2(1862)年4月11日、安藤信正は老中職を免ぜられ、失脚します。そればかりか、彼とともに内閣を構成していた老中達は、この前後の時期に一斉に免職になっています。すなわち、三河岡崎藩主本田忠民が安藤信正より前の3月15日に、越後村上藩主内藤信親が5月26日に、そして久世=安藤政権で筆頭老中とされていた久世広周が6月2日にそれぞれ免職となります。久世=安藤政権で老中職を務めていた者で残ったのは、わずかに丹波亀岡藩主松平信義ただ一人という徹底した粛正が行われたのです。

 これまで幕府では、政権が変わっても、その中心人物が変わるだけで、閣僚の総免職ということはまずありませんでした。これに匹敵するほどの大粛正は、田沼政権末期に松平定信がやった大粛正が唯一の前例といえます。

(2) 崩壊の原因

 なぜ久世=安藤政権がこの時点で崩壊し、その手段としてこのような総免職の形を取ったのかは、幕末史の謎の一つです。政権崩壊の理由が説明できないものですから、普通、日本史の本では、漠然と「坂下門外の変が原因となって」という曖昧な書き方をしています。しかし、坂下門外の変が原因なら、その直後に失脚するはずで、3ヶ月も間があいたのは不自然です。また、変の直接当事者である安藤信正だけならともかく、全閣僚に及んだ理由も説明できません。

 普通、老中が失脚するには、将軍と衝突して免職されるか、閣内もしくは溜まりの間などの有力者と衝突して免職されるか、のどちらかです。

 この時点での将軍は家茂ですが、やっとかぞえの17歳。へそ曲がりを自認していた勝義邦(海舟)でさえ無条件の忠誠を誓っていたほどの、実に気分の良い若者だったということです。実際の政治を精力的に動かしている老中を失脚させ、自ら親政を行おうとするほどの意欲的な人物では、間違ってもありません。

 では、老中の中か、譜代大名、あるいは御三卿、御三家中に、彼を失脚させて政権を握るほどの実力者がいたのでしょうか。この時期にはそれもまったくいないのです。

 現役老中の中で、ただ一人粛正されずに生き残った松平信義は、翌年9月まで老中の座を暖め続けます。が、はっきり言って小物で、以後の政局でもキャスティング・ボードを持つことは、まったくありませんでした。

 その後の政権を担ったのは、本田忠民が罷免された3月15日に新たに任命された水野忠精(ただきよ)と板倉勝静(かつきよ)の二人です。前者は水野忠邦の息子であり、後者は、安政の大獄時に寺社奉行を務めていて、刑罰を緩やかにすることを主張して井伊直弼に罷免された人物です。確かに新鮮な人事ですが、いずれも少々小粒という感を免れません。彼らが、閣外から、上記大粛正をやってのけたとは、その後の彼らの政治能力を見ても、まず考えられないことです。

 では、将軍でも、老中でもない誰が、この大粛正を演出したのでしょうか。

 福地源一郎は、久世広周自身がやったのだという説を「幕末政治家」という本で書いています。つまり、安藤信正が井伊色を政権から一掃しようと努めたにもかかわらず、久世=安藤政権はなお井伊の後継政権と見られて、安政の大獄に対する恨みを浴びている所があったので、人心を一新するために、自分自身も含めた全閣僚の更迭を行ったのだ、というのです。つまり筆頭老中の自作自演だというわけです。

 しかし、自作自演ならば、普通、退陣後も一定の発言権を維持するものです。ところが、その後の政治は、いきなり彼らのそれまでの努力を否定する方向に走り出し、さらに久世や安藤は新政権から厳しい処分まで受けています。単なる人心の一新策としては、あまりに馬鹿げた後任人事です。したがって、新政権樹立に久世の意志が働いているとはとうてい思えません。

 国益会所問題で、勘定所側を安藤信正や久世広周が支持したため、それに敵対する大小目付から反発されたことが原因とする説も日本史の専門家の間では強く唱えられています。

 確かに坂下門外の変後における、目付達の、安藤信正に対する反発は、非常に強いものがありました。先に述べたとおり、信正は伏せて攻撃をかわしたものですから、その傷は後頭部や背中についています。昔から武士には、向こう傷は名誉で、後ろ傷は不名誉とする考え方があります。そこで変後に信正が傷が癒えて出仕すると、目付は一様に彼に反感を示し、強硬派の中には、安藤候がこの後もお勤めならば目付は一斉辞職をする、と脅かす者までいたほどです。

 しかし、下僚が反発する程度のことであれば、井伊直弼のようにばっさりとまとめて免職するなり、処分するなりすれば足りることです。内閣崩壊の原因とするのはうなずけません。そして、久世=安藤政権は、先に述べたとおり、自らの決定に目付が反対すれば、国益主法掛からばっさりと全目付を切り捨てるほどの実力と気概を持っていたのです。

 坂下門外の変が起きたとはいえ、代わりの実力者が台頭したのではないのですから、彼の実力が急に失われたとは思えません。また、仮に安藤信正自身の実力が変によって失われて、彼の失脚原因となり得たとしても、久世=安藤内閣そのものの総退陣の原因としては理解できないといわざるを得ません。

 島津久光からの圧力があったとする説もあります。久光は、4月16日に朝廷に提出した改革趣意書9箇条の中で、安藤信正の退陣を求めているのです。しかし、安藤信正の退陣は、この改革趣意書の提出より前の話なのですから、これも説得力を持ちません。

 もっとも、幕府は、安藤信正免職の前日である4月10日に、会津藩の松平容保(かたもり)と越前藩の松平春嶽の二候に対し、政治に関して発言して欲しいので、頻繁に登城して欲しいという旨の将軍命令を発しています。松平春嶽に対する政治的発言の許容は、明らかに朝廷の歓心を買おうとする行為です。しかし、同時に佐幕派の筆頭というべき松平容保に同じ事を言っているところは、バランス感覚に出たものと言えそうで、この時点では必ずしも朝廷一辺倒とは思えないのです。

 こうして現在ある説はどれも説得力に欠け、結果として謎の失脚としか言いようがないわけです。

 とにかく、安藤内閣が崩壊した理由は不明ながら、6月2日の久世広周の免職により、政権は水野=板倉連立内閣へと移行することになります。

 久世=安藤政権は、幕府が主体的に行動した最後の政権でした。それに先行する井伊政権の残した課題に積極的に取り組みました。井伊政権が経済その他の内政や外交で無能ぶりが目立つだけに、それとの対比で、久世=安藤政権は、その存続期間が短かった割には驚くほど多くの実績を上げた政権ということができます。

 それに代わって登場した水野=板倉連立内閣は、事実上、島津久光の圧力の下に京都のリモコン内閣とでもいうべきものとなり、松平春嶽政治総裁及び一橋慶喜将軍後見職を受け入れ、次章に述べるように、幕府を瓦解させる方向へ、もしくはそこまで行かない場合にも、少なくとも自らの努力による問題解決を投げ出しているものとなってしまいます。

 その意味では、久世=安藤政権が崩壊した瞬間に、正統的な徳川幕府の歴史は、その幕を閉じていた、ということができます。

 財政という面から見て重要なのは、この政変以降、幕府官僚内部の力関係が大きく変動し、勘定所出身者の発言力が地に落ちた、という点があります。代わって目付の発言が幕府行政を動かすようになるのです。

 社会が混乱しているときには、一般に、強硬意見が歓迎され、現実を見据えて一歩一歩改善しようというような意見は日和見主義と排斥される傾向があります。国益会所問題に見られるように、勘定所出身者は現実的解決を求めようと柔軟な姿勢を示すのに対して、目付は法令を出しさえすれば現実を動かせる、という錯覚をもっています。これ以後の幕府行政は、そうした現実から遊離した強硬意見によって支配され、幕府の没落を一層加速していくことになります。

(3) ハリスの帰国

 米国公使ハリスは、かねてから健康上の理由から辞任を希望していましたが、この時期、ようやくその許可がおりました。安藤内閣が崩壊しつつあった文久2(1862)年3月9日、ハリスは彼の解任に関するリンカーン大統領からの親書を将軍家茂に上呈するため、将軍家茂に謁見を求め、これは3月28日に実現しました。これに答えて、安藤信正は、将軍家茂の名で、ハリスの多年の功績に感謝する国書をリンカーンに出しました。

 ハリスは江戸を4月10日に出て、12日に横浜から出航する船で日本を離れたといわれています。11日の安藤信正の免職を、彼が去る前に知ったかどうかは微妙なタイミングといえます。

 ハリスの後任はプリュインRobert H. Pruynです。あまり幕末史に名を見せない公使です。彼は小人物で、彼を通じて幕府がアメリカから軍艦を買おうとした時、なぜかそれを個人的に斡旋してくれと依頼されたと誤解して(あるいはわざと曲解して)民間企業との間に入って利鞘を取ろうとしたものですから、幕府はあきれて、以後相手にしなくなってしまったためです。

 こうして、わが国幕末史で米国が活躍した日々も、ハリスの離日とともに終わりを告げることとなりました。

 ハリスは、ほとんど軍艦の支援も受けず、単身で日本を開国させるという偉業を成し遂げたのですから、本来なら、リンカーンから英雄として迎えられても良かったでしょう。しかし、実際にはほとんど相手にされず、その後、不遇のうちに没することになります。

 その原因は、ハリスの行動に彼特有の不明朗さがつきまとっていたことにあります。例えば、金銀比価の違いから小判の大量流出が起きたとき、英国公使館員の中にも、その利殖に手を染めて処罰されたものがいた、と先に書きました。ところが、ハリスの場合、そうした不正行為を取り締まる立場にいた彼自身が先頭に立って、小判の貯め込みをやっていたらしいのです。

 また、横浜の米国商人の保護もほとんどしなかったので、在日米人の間から彼の罷免要求がでていました。彼の帰国は、そうした不明朗さを糾弾されての罷免という要素が強かったので、とても凱旋将軍というわけには行かなかったのです。

第5章 松平春嶽と文久の幕政改革

1. 文久2年の政変

(1) 島津久光上京

 文久2(1862)年春、日本の西の端で、一人の男が、自分の力により、日本の歴史を書き換えようという決意を固めていました。島津久光です。通称を三郎といいます。

 島津家では、幕末期、最初は名君斉彬(なりあきら)が登場し、積極的な殖産興業に努めて国力を発展させました。また、阿部正弘や松平慶永等と親交を結んで、中央政界にも一定の発言権を確保していました。将軍家定の妻に一族の娘を送り込むのに成功したのはその成果の一つです。

 しかし、斉彬を支持する一派と、斉彬の異母弟久光を盛り立てようとする一派との間の陰惨な派閥抗争(直木三十五の代表作「南海太平記」にオカルトタッチで描かれています)の果てに、斉彬の子供達は皆不慮の死を遂げ、斉彬自身も安政5年に死去していました。斉彬は死去するに際し、藩内の紛争を終結させるべく、久光の子、忠義を後継者とし、久光をその後見人と指定しました。

 斉彬は単にスケールの大きな政治家であっただけでなく、出自に拘らずに人材を発見する能力のある人で、大久保利通、西郷隆盛など多数の有能な下級武士を抜擢していました。斉彬が死ぬと、彼らは精忠組という秘密結社を組織し、水戸藩士と呼応して脱藩して、井伊直弼を暗殺することを計画しました。

 既に脱藩用の船まで用意してあるというきわどいタイミングでこの情報をキャッチした久光は、彼らを呼び寄せ、斉彬の路線を今後とも継承する、と自ら説得して、この精忠組を自分の腹心とすることに成功しました。ただし、西郷隆盛だけは久光とそりが合わず、面と向かって悪口を言い放ったものですから流刑になっています。

 結局、井伊直弼の暗殺には、薩摩藩士は一人だけ参加しています。彼の場合、江戸詰の精忠組だったので、暗殺に参加することを中止する旨の連絡が届かなかったのです。

 こうして大久保利通以下の精忠組を取り込むことに成功した久光は、彼らを活用して藩政改革を行った結果、この文久2年春になって、いよいよ天下に向けて自分が動き出す準備は整ったと判断したのです。文化14(1817)年生まれですから、この年には45歳。まさに働き盛りです。

 彼は何と、700余の兵を率いて上京したのです。小銃隊を従え、更に一応荷物に偽装してあるとはいうものの、4門もの大砲まで引っ張っての進軍でした。藩主自身ではないとはいえ、外様大名が、これほどの大兵を率いて旅をしたのも、また、京都に堂々と顔を出したのも、徳川幕府始まって以来初めての大事件といえます。幕政盛んな頃であれば、これほどのことをすれば、島津藩といえども取り潰しは避けられなかったでしょう。

 そして、前章にも言及した改革趣意書9箇条を4月16日に朝廷に提出し、安藤信正の罷免、松平春嶽の政治総裁就任、一橋慶喜の将軍後見職を含む、朝廷による一連の幕政改革を建議したのです。

(2) 寺田屋事件

 当時、尊皇攘夷志士はすでに京都を席巻し、天誅と称して盛んに無益な殺人や強盗を始めていました。そこに、これほどの武力を備えた久光が登場したのですから、朝廷は喜び、この過激派の取り締まりを依頼したのです。

 この時、薩摩藩精忠組の中でも過激派の有馬新七を首領とする一派が伏見の旅館、寺田屋に集まり、京都襲撃を行おうとしていました。すなわち、京都において幕府を代表する機関である所司代邸に切り込んで、京都所司代を血祭りに上げ、それをてこに上京中の久光軍を動かして一挙に幕府を攻撃し、政権を朝廷に呼び戻そうという陰謀を巡らしていたのです。

 久光は、基本的には公武合体的思想の持ち主で、兄斉彬の遺志を承継して、雄藩連合で幕府を動かすのが妥当と考え、朝廷を利用してその方向に幕府政治を動かそうと考えて動き出したのです。したがって、幕府そのものを滅ぼそうとは間違っても考えていません。

 そこで、久光は、この暴動計画を聞いて激怒しました。有馬新七等と同じく精忠組である奈良原喜八郎ら8人を派遣して、薩摩藩士を召還することとしました。自ら慰留するというのです。しかし、召還を聞かなければ上意打ちをするように命じました。有馬新七が召還を拒んだ結果、精忠組同士の間で、激しい死闘を演じることになり、多数の死傷者を出しました。久光の非情な意思を内外に歴然と示した事件でした。これにより、薩摩藩の尊王攘夷過激派は壊滅します。

(3) 勅使下向

 久光のこの断固たる措置は、同じく公武合体はが主流を占めるこの時期の朝廷では好評でした。そこで、朝廷では大原重徳(しげとみ)を勅使として江戸に派遣することとし、久光とその率いる兵に、その警護を命じたのです。700余の薩摩軍が勅使を中心にして東海道を下るわけです。

 幕威盛んな時期であれば、大変な処罰を招きかねない行動です。が、京都所司代は、処罰を考えるどころか「島津三郎東下せば、幕府にては特別に礼遇ありてしかるべし」と江戸に報告しているのですから、既に腰が引けています。

 水野=板倉政権では、この報を聞いて震え上がります。そこで、事前に京都の歓心を買おうと、井伊直弼の命により隠居させられていた尾張慶恕及び一橋慶喜に登城を促し、5月7日に将軍家茂と対面させたりしています。

 勅使と島津久光は6月7日に江戸に到着し、10日に将軍に面会しています。勅諚(ちょくじょう)の原文は漢文で、かなりの長文ですが、それを要約すれば、外国がほしいままに暴れているのに、幕府はどうして良いか判らない状態にあるので、朝廷が知恵を貸そうということです。そして、最後に三つの具体的提案が書かれています。すなわち、第一に将軍が上洛して京都で政治を行うことを求め、第二に豊臣秀吉の故事に倣って大藩の藩主を五大老として、国政を決するに当たって是に計ることを求め、第三に一橋慶喜を将軍後継職に、松平春嶽を大老に、それぞれ就任させることを求める、というものです。

 ただし、この全部を飲め、というのではなく、どれでも良いから、この中の一つを飲め、という要求になっています。どれも駄目だ、といえば、せっかく皇妹和宮の降嫁によって実現した江戸と京都の間の協調体制が崩壊します。だから幕府としてはどれかを受諾しなければなりません。

 数日にわたり、幕府では抵抗しましたが、久光の武力をちらつかせての威嚇に腰が砕け、受け入れることになります。俗説によれば、大久保利通が隣室に刺客を伏せて幕府の幹部を脅したといいます。しかし、私はむしろ700余の武力そのものをちらつかせたのだと考えています。そうでなければ、数十万両の費用をかけて、薩摩からこれほどの軍勢をはるばる江戸まで動かした意味がないからです。

 いうまでもなく、将軍上洛は天文学的な費用が掛かり、幕府財政が逼迫し、艦船購入や軍備の拡充で支出が急激に増大している折から、実現は困難です。五大老という制度の導入は、文字通り幕府の崩壊を招きかねません。結局、一番受け入れやすいのは、第三の、れっきとした徳川一門である一橋慶喜と松平春嶽の処遇改善という要求であることはあきらかです。実際、久光の狙いも、これによりかっての一橋派の復活にあったことは明らかといえるでしょう。

 そこで、隠居させられていた一橋慶喜に、7月8日に、改めて一橋家を相続させた上で、将軍家後見職としました。

 また、翌7月9日に春嶽は政治総裁職に就任します。勅諚通りに春嶽を大老にせず、新たに政治総裁という職を作ったのは、先に述べたように大老という職は井伊家など特定の家柄だけから就任するという幕府の慣行を守るための苦肉の策というべきでしょう。

 しかし、同時に、この名称には諸外国の内閣制度を導入しようとする積極的な意欲も隠れています。以後、陸軍総裁、海軍総裁、外国総裁、会計総裁などの名称の職が幕府の滅亡までの間に次々と新設されるようになります。すなわち明治以降の名称でいえば、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、大蔵大臣などに相当する官職です。

2. 新政権の政策

(1) 政権の担い手

 一橋慶喜の側からこの政変を見ると、将軍後見職とは名ばかりで、実権を伴わない形ばかりの改革という感じでした。無能な老中達は、自分の上に責任者が生じたのを良いことに、徹底的に責任を回避するようになります。すなわち「老中も若年寄も概ね姑息偸安(とうあん=目前の安楽をむさぼること)にして、改革の誠意はなく、『いづれとも橋・越二公の御英断にあるべし』といいて、事毎に責任を避け」(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』より引用)る態度をとっていたからです。

 しかし、実際には大きな変革がそこには生じていたのです。すなわち、一橋慶喜は自分が単なるお飾りだったので、松平春嶽も同様の地位にあると思っていたのですが、これは錯覚でした。春嶽は、一橋慶喜を祭り上げておいて、実際にこの時期の幕府政治を動かしていたのです。

 春嶽には二人の重要なブレーンがありました。一人は、横井小楠です。彼は文化6(1809)年生まれの肥後藩士ですが、安政5(1858)年、すなわち安政の大獄で懐刀であった橋本左内を失った春嶽によって越前藩に招かれ、藩政改革を指導して大いに面目を施しました。当然、春嶽が政治総裁となるとともに、その補佐役として活躍するようになっていたのです。

 小楠は、「国是七策」を定めて、春嶽政権の施政方針としました。次の通りです。

 一 大将軍上洛して、列世の無礼を謝す

 二 諸侯の参勤を止めて術職(領内政治の報告書を将軍に提出する)となす

 三 諸侯の室家(妻子)を帰す

 四 外様譜代に限らず賢を選び、政官となす

 五 大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなす

 六 海軍を興し、兵威を強くす

 七 相対貿易を止めて、官交易をなす

 この国是の背景には、もはや幕府単独で外国の侵略をくい止められる状況にはないので、挙国一致体勢で臨む外はない、という小楠の思想があります。そのためには諸侯が財力を蓄え、外国と戦える体力を付けることが必要だ、ということになります。それを実現するには、無用の支出を意味する参勤交代を廃止し江戸屋敷を縮小して人質となっている妻子を国元に帰すことが必要というわけです(二及び三)。また、春嶽政権の基盤となっているのは、一橋派と呼ばれた雄藩なのですから、その藩主に幕政に発言する権限を認める必要があります。(四及び五)。六に言っている軍備の増強は、したがって、単に幕府軍備のみならず、雄藩のすべてに対する要望と理解すべきです。

 最後の七は、従来の日本史ではほとんど無視されていました。しかし、前章に説明したところを前提に見れば、ここで言っているのが、国益会所構想と同じものであることは明らかです。しかし、その国益会所は、春嶽政権の成立とともに廃止されています。なぜ廃止された国益会所構想が、ここに存在しているのでしょうか。

 そこで、春嶽政権の第二のブレーンである大久保忠寛(ただひろ)が登場してきます。

 幕府の中で実力を有する官僚集団として、勘定方と目付の二つがあったこと、国益会所を巡って両者が激しく対立し、久世=安藤政権は勘定方を支持して目付を切ったこと、を前章に述べました。その勘定方の支持者であった久世=安藤政権の崩壊は、当然の事ながら、勘定方の権力失墜を招きました。

 相対的に、久世=安藤政権の下で逼塞を余儀なくされていた目付の権力が大きく延びます。上述のように、新政権の無能な老中や若年寄が責任回避をして、いわば権力の真空状態が生じている中で、元々実力のある目付の権力が延びれば、それが幕府を動かす真の権力となるのは当然です。こうして、権力の下方移動ともいうべき現象が起きたのです。

 目付の中でも、この時期、突出して力を伸ばしたのが大久保忠寛です。彼は、この時点までは財政問題にも外国問題にも関わりを持たなかったため、本稿ではこれまで顔を出してきませんでした。が、彼も、阿部正弘が抜擢したエリート官僚達の一人という点では、これまでこの話で活躍してきた人々の一角を占めています。ただ、彼は目付として頭角を現してきたという点で、他の人々と違います。

 彼は、安政6年2月に京都町奉行になりましたが、他のエリート達と同様、一橋派であると認められてしまったことから、井伊直弼によって、同年6月に西の丸留守居に左遷され、ついで8月に罷免されています。が、文久元(1861)年8月に蕃書調べ所頭取となって復活し、10月には外国奉行に就任し、久世政権が崩壊した時期である、この文久2年5月には大目付となりました。7月には更に累進して御側御用取り次ぎとなりました。

 この大久保忠寛が、松平春嶽と緊密に結びついていたのです。まず何か改革の必要が生じると、その前夜に松平春嶽の屋敷へ大久保忠寛が行き、二人で夜半まで相談します。そして、翌朝出勤すると、評議の席で忠寛が話を切り出します。春嶽はもとより承知のことですから、それで行こうと直ちに決定を下します。しかも大小目付の大半は忠寛の親類といわれるような状況でしたから、目付達は一致して彼を支援します。この結果、一橋慶喜はもちろん、老中も若年寄も知らないところで、この時期の政策は決められ、実行されていったのです。

 目付としては、国益会所の基本構想そのものは支持しており、ただ勘定所流の漸進的なやり方に反対していたものですから、勘定所流に組織された国益会所は廃止したのです。そこで、その基本構想だけは、依然として小楠の国是七策の中に生きていたわけです。

(2) 春嶽の政策

島津久光は、江戸滞在中に、今度は自らの名で幕府に20余箇条の献言をします。これは基本的には小楠の国是七策と同様のものですから、ここでは繰り返しません。春嶽政権は、以後、忠実にそれを遵守していきます。その特徴を一言にまとめるならば、幕府と諸藩の利害が食い違う場面では、幕府ではなく、諸藩の利益を優越させる、という特徴を示します。これを久光の指揮下にある700の兵力の威嚇の下に、実現していくことになったのです。

 A 参勤交代の廃止

 これまで諸藩にとり、もっとも大きな財政負担は、参勤交代の旅行経費及び大名子女の住む江戸邸の維持費です。そこで、春嶽政権は、久光の提案を受けて、閏8月になると、まず参勤交代制の緩和に着手します。これまで1年置きの参勤交代を3年に一回に延ばし、しかも一回当たりの滞在期間を100日以内と緩和しました。したがって、参勤交代による財政負担が5割以上も大幅に削減されることになります。

 同時に、人質として江戸邸に居住を義務づけられていた大名の子女が、願い出れば帰国することも認められることになりました。これにより、江戸藩邸の維持費も大幅に縮減することができます。大名が江戸にいない間は、留守番だけをおいておけばよいことになるからです。

 しかし、これにより、幕府は、重要な大名統制手段を失ったことになります。福地源一郎が、幕府の滅亡の時点は、一橋慶喜による大政奉還ではなく、将軍家茂が勅諚を受け入れて、春嶽を政治総裁にした瞬間だと書いていますが、それはこのような政策が理由です。

 B 京都守護職の設置

 文久2年閏8月に京都守護職の制度が設けられ、春嶽と並ぶ親藩の雄、会津藩の松平容保が任命されました。

 京都守護職の任務はもちろん、攘夷派過激浪士の威圧です。これまで京都には、京都所司代の外、京都町奉行、禁裏付、二条城勤務の諸役、伏見奉行など数多くの職種が相互に独立して存在し、その相互の連絡の悪さが攘夷浪人の活動を容易にしていたのです。そこでこれらすべての役職を統括するものとして、京都守護職が設けられたのです。もちろん、雄藩藩主としては、主君の統制を離れて勝手に暴れる勤王の志士は苦々しいかぎりです。久光が江戸に来る途上で起こした寺田屋事件はこうした雄藩の意思の端的な表明です。

 容保に対しては、役料として5万石が支給されました。史上空前の役料というべきでしょう。容保は、守護職職員として自藩の藩士1000名を伴って上京しました。この空前の役料は、そのための費用を見たものです。守護職の役宅は、上京区の御所の左側、現在の京都府庁の所在地に設けられました。

 C 軍備の増強

 上述の参勤交代の廃止は、それにより生じた財政上の余裕を利して諸藩が軍備を増強することを目指したものです。しかし、さしあたり幕府直属の軍事力を強化することが、政治総裁として可能なことです。

 陸軍については、軍制改革を行い、歩兵、騎兵、砲兵の三兵を置くことにしました。しかし、幕府の直参を訓練する代わりに民間から募集することにした、という点が画期的です。

 歩兵については、この年、12月1日に江戸市中の浪士や町人、農民から公募したのです。フランス陸軍士官を教官とし、洋式訓練が行われました。西の丸に1組、神田三崎町に1組の計2組、2万人を予定したというから大変な人数です。もっとも実際にはそんなに大量の応募者はいませんでした。それでもその後2年間で3500人に達したと言うことです。

 編成は40人が1小隊、3個小隊をもって1中隊、5個中隊をもって1大隊、4個大隊で1組というものでした。制服は、ズボンに筒袖という洋装で、俗に茶袋と呼ばれていました。

 この歩兵の最高指揮官として設置されたのが歩兵奉行で、最初にその職に就いたのは小栗忠順です。もう一つ、この歩兵奉行で特筆しておくべきは、長く続いた足高の制が廃止され、代わりにお役金として800両が支給されることになったという点です。貨幣経済の時代に、米の形で給料を支給されても、換金しなければ実際には使用できないわけです。ところが、米の売却価格は、その時々の市場で変動しますから、いくらの収入になるのか判らない、というところが困るところです。新しい時代の管理職手当が現金支給となったのは、きわめて当然のことですが、同時に封建制の伝統を破るきわめて画期的なことです。

 また、この上司として、将来作られるであろう、騎兵や砲兵も統括する役職として陸軍奉行が設置されました。お役金として1500両が支給される、という地位です。最初にその職に就いたのは講武所奉行を勤めていた大関忠裕です。

 海軍の方では、すでに安政6年に軍艦奉行の職が設けられていたことは、先に述べました。文久2年の改革では、それまでは別に存在していた御船手、すなわち幕府創世以来の海軍も、軍艦奉行の下に統合され、文字通り、幕府海軍全体の指揮者となった点が大きな変更です。

 この時期、軍艦奉行の職にあったのは、井上清直、木村嘉毅(咸臨丸に乗った幕府使節)、内田正徳の三人でした。しかし、実務は大久保忠寛によって推挙された勝海舟が軍艦奉行並(なみ)という地位で切り盛りしていました。

 陸軍と違って海軍は、軍艦とそれを操作できる軍人があって活動することがはじめて可能になりますから、陸軍のように気楽に大風呂敷を広げるというわけには行きません。当初、幕府としては、前に久世=安藤政権時代に決めた海防計画に従い、膨大な海軍を建設しようとしたのです。しかし、勝海舟は、船だけ買っても、それを操作できる人間が全くいないため、実際にはそれは机上の空論であることを、春嶽や老中達の前で鮮やかに論証しました。

 結局、オランダに海軍技術を学ぶための留学生を送り出し、同時に10隻程度の船の注文をする、ということに落ち着きました。この時の留学生が、榎本武揚、津田真道、西周ら、幕末から明治にかけて活躍した俊才達です。

3. 春嶽政権の限界

(1) 報復人事

 春嶽という人は、当時名君としての評判の高かった人で、今でも高く評価する人は多いようです。しかし、私は、阿部正弘と同様に、彼の才能は優れた人材を発掘する、という点に存在し、実際の政治能力はさほどではなかったと考えています。

 すなわち、初期の春嶽の業績は、その懐刀といわれた橋本左内の能力によってもたらされたと考えています。春嶽の朋友、水戸斉昭が、その知恵袋であった藤田東湖を安政の大地震で失った後は、単なる攘夷派に成り下がったのと同じく、春嶽も、安政の大獄によって橋本左内を失った後は、馬脚を現す場面が生ずるようになった、と考えています。

 左内亡き後は、前に名を挙げた横井小楠と大久保忠寛の補佐よろしきを得て、春嶽は前に述べたような新政策を展開して活躍しています。しかし、初期においては、春嶽は背後に控え、もっぱら左内が表面に出て活躍していたので、春嶽そのものの無能が目立たなかったのに対して、この時期は、政治総裁として春嶽自身が表面に出て動かなければならないので、ブレーンがカバーしきれず、時として、彼の持つ無能が露呈してしまうことがある、という点です。

 その彼の馬脚の最たるものが、この文久2年11月に実施した、かっての政敵達への報復人事です。これ自体は、島津久光の要求に従ったものですが、彼個人の個人的復讐という面もあったはずです。

 すなわち、井伊家に対して10万石の召し上げを命じたのを皮切りに、間部詮勝に対して1万石召し上げの上、隠居慎み。この二つは、安政の大獄の当事者ですからまだ判らないでもありません。

 少々意外なのが、久世広周に対して1万石召し上げの上、隠居・永蟄居を、安藤信正に対して2万石召し上げの上、隠居・永蟄居をそれぞれ命じていることです。罪状はなんと井伊直弼死亡に際して、生きているなどと嘘をついた、ということです。あれは非常の際のやむを得ない判断というべきもので、因縁を付けているとしかいえません。

 これは政治路線の対立によるものと考えられます。すなわち春嶽が寄って立っている雄藩連合構想は、久世=安藤政権の推進した幕府絶対主義の対局に立つものです。春嶽もまた、反対者を許せない、という体質の持ち主だったわけです。

 彼らを筆頭に、合計23名もが様々な行政処分を受けています。挙国一致体制をとるべき時に、このように、旧怨をはらさずにはいられない精神というのは、醜悪と呼ぶ外はありません。

(2) 攘夷か開国か

 島津久光は、表面上、攘夷を叫んでいます。しかし、島津藩は昔から密貿易をやっていた家柄です。本音で攘夷と言っているのではありません。幕府主導による開国に反対といっているのです。そのために、いったん元に戻せ、というのが薩摩の本音です。そのことは幕府の方でも十分に承知しています。その幕府を率いる者として、春嶽の意見は、攘夷と開国の間で激しく揺れ動きます。

 当初、春嶽は従前からの一橋派としての路線を継承して、素朴に攘夷論を採り、したがって条約を破棄してもとの鎖国に戻そうと考えていました。これに対して、この時点では江戸町奉行の職にあった小栗忠順は次のように反論しました。

「政権を幕府に委任されているのは、鎌倉幕府以来のわが国で定まっている制度である。ところが近頃では京都から様々な注文が入るばかりでなく、諸大名からもいろいろと申し立ててくるようになった。そのため、いったん決めた政務を変更しなければならない事態に至るのは、もってのほかの政府の失態である。この上権威が振るわないことになれば、最後には諸大名に使役される存在に幕府がなってしまうであろう。」

 このような調子で毅然といわれると、たちまち春嶽は意見がひっくり返ります。こうして春嶽の意見の迷走にあって、幕府そのものが確固たる路線を立てることができません。

 この時期、大久保忠寛は恐るべき奇案を考え出しています。後に、坂本龍馬の献策により徳川慶喜が行った大政奉還がそれです。小栗忠順は、日本国の独裁政権としての徳川幕府の存続を願っています。これに対して、大久保忠寛は春嶽と同じく雄藩連合政権の最有力者という形でしか、徳川家を存続させる方法はない、と考えています。そのためのもっとも優れた方法は何か、といえば、大政奉還しかない、とこの知恵者は考え出したのです。

 後に詳述しますが、この時期、京都朝廷はさらに様々な干渉を幕府に対して加えてきます。そこで、そうした差し出口を一挙に封ずる決めてとして忠寛が考え出した策なのです。確かに、この時期であれば、朝廷側には全く為政能力がありませんから、大政奉還といわれたら、京都は驚き、あわて、辞を低くして幕府に政権を担い続けるよう懇願したであろうことは想像に難くありません。

 しかし、春嶽には、この劇薬的効果を持つ奇案を飲む勇気はありませんでした。

 この構想は、皆さんご存じのとおり、後に勝海舟の弟子である坂本龍馬が復活させて、土佐藩を通じて一橋慶喜に建議しました。その時点ではすでに時代は動いており、慶喜の思惑に反して朝廷はあっさりとそれを受け入れて、幕府が滅亡することになります。

(3) 大久保忠寛の失脚

 春嶽によって行われた安政の大獄に対する報復人事の一環に、なんと春嶽のブレーンである大久保忠寛が入るという珍事がこのとき起こります。先に述べたように、この時期、大久保忠寛は御側御用取り次ぎの重職にありました。が、彼はまず講武所奉行に配置転換されます。講武所奉行は役高5000石の重職ですが、御側御用取り次ぎと比べた場合には、政治的重要性は比較になりません。完全な左遷です。

 さらに、今度は大変な因縁を付けられたのです。先に、大久保忠寛は、安政の大獄時に京都町奉行をしていて、井伊直弼の逆鱗に触れ、免職されたと述べました。今回、忠寛の処罰理由は、免職になる以前の京都奉行としての活動に、事実不分明な取り扱いがあった、という点に求められています。これが何を意味しているのかは判りません。

 一説によると、彼はその支持基盤であった目付から攻撃されるようになり、一橋慶喜もこの動きに同調して慶喜自身が春嶽に、大久保忠寛の左遷を迫ったというのです。これも十分にあり得ることと思われます。目付達は、久世=安藤政権を憎むあまり、敵の敵は味方と考えて、大久保忠寛を通じて春嶽政権を支持したわけです。ところが、その政策の行き着くところは、幕府の弱体化にあったわけです。

 当然、排撃運動に転ずるのは目に見えた話です。祭り上げられるだけで実権がふるえず、腐っていた慶喜と結びついて、さしあたり、春嶽のブレーンである大久保忠寛をつぶしに行った、というわけです。

 また、一説によると、彼がこの時期、大政奉還を唱えたことが原因だというのです。この構想は、前に述べたとおり、実際に実施された時には幕府の滅亡を招きました。その意味で、この時点でしか役に立たない、まことに優れたアイデアであったと思われるのですが、ポーズだけであれ、政権を投げ出すという考えが春嶽の逆鱗に触れ、左遷されることになった、というのです。しかし、上に立つ者として、部下の特定の提案が気に入らないからといって一々左遷していたのでは人材は育ちません。人材登用の名手、春嶽の行動としては頷けないところがあります。

 そういう訳で、これについても謎というほかはないのですが、とにかく、真の原因がなんであれ、大久保忠寛の短かった全盛時代はこの時終わりを告げ、差し控えを命じられた、ということです。

 忠寛はその後、元治元(1865)年に5日だけ勘定奉行となりますが、4日後には罷免されます。彼が次に本格的に活躍するのは、幕府が滅亡した後になります。

 この前後の時期に、春嶽はもう一人の重要なブレーンである横井小楠を失います。12月19日、友人宅にいた小楠を、彼の出身地である肥後勤王党の刺客が襲いました。しかし、幸いにも身一つで逃れることができたのです。が、肥後藩は、狼藉者に対して向かっていかずに逃げたのは士道不覚悟も甚だしい、と切腹を命じたのです。

 肥後藩は、小楠という人材を理解できず、藩内に閉じこめて使おうとしませんでしたが、さりとてそれが他で活躍することも気に入らなかったのです。春嶽が小楠の優秀さを伝え聞いて、譲り受けようとしたときも、それを拒否し、派遣するにとどめていました。自分で使い切れなかった人材が、単に越前藩に止まらず、中央政界で活躍するのを見て、心穏やかではなかったため、この椿事を機会にかれを除こうとしたのです。

 春嶽の意を受けた越前藩が必死に嘆願した結果、切腹命令は撤回されましたが、小楠は帰藩を命ぜられ、かつ帰藩後は士籍を剥奪されました。

*       *        *

 なぜ、春嶽はむざむざと大事な二人のブレーンを失う羽目に追い込まれてしまったのでしょうか。それは、春嶽政権を実質的に支えた重要な要素である島津久光が、この時期には江戸にいなかったからなのです。それどころか、彼は大変な置きみやげを残して中央政界から姿を消していたのです。

4. 生麦事件

 少し時を遡ります。幕政大改革を実現した久光は、文久2年8月21日、早朝に江戸を立って、意気揚々と帰国の途につきました。東海道の沿道にある生麦村(現在の横浜市鶴見区)にさしかかったのは、午後2時くらいだったといわれています。

 生麦事件の名で知られる惨劇の主人公となったのは、4人の英国人です。すなわち、中国での商売をやめて英国に帰る途中、日本に寄ったリチャードソンRichardson、横浜在住の商人であるクラークCrarke、同じくマーシャルMarshall、マーシャルの姉妹で香港在住の英国商人の妻バラデールBorradaileです。

 この日、西暦だと1862年9月14日、日曜日でした。敬虔なクリスチャンであるなら、安息日ですから当然家に籠もって祈りでも捧げているはずです。しかし、英国公使オールコック自身がヨーロッパの滓と呼んでいた貿易商人達が、そんな殊勝なことをするはずはありません。彼らは不幸なことに、日曜日なので、馬で川崎大師まで見物に行ってみようと考えて東海道を行くうちに、久光の行列に遭遇してしまったのです。

 久光の行列は、只の大名行列ではありません。先に述べたとおり、大砲4門まで引いた700名の兵の行軍なのです。行列の中には、馬も数十頭いました。この他に、記録には残っていませんが、久光自身や兵の旅装などを運ぶため、常識的に考えて、人足が少なくとも1000人以上はいたに違いありません。したがって約2000人という大変な規模の行列です。

 この時代、東海道は場所によって道幅が違いますが、平均すればせいぜい二人が並んで通れるくらいし道幅がありません。したがって、大名行列が来れば一般庶民がその脇を歩く、ということは物理的に不可能です。土下座をしなければならない、とされていたのは、その意味で実に自然なことだったのです。

 この時、久光の行列は、先導隊がまず進み、その後に100m程度の間隔をあけて本隊が続いていたといわれています。仮に全員がきちんと2列に並び、かつ等間隔で整然と歩いていたと考えても、行列の長さは1km以上もある計算になります。しかし、出発してからかなり時間も経ち、疲れが出てくる頃合いですから、たぶんある程度行列はばらけていたでしょう。したがって、数kmにわたって、ある程度の固まりに分かれつつ、道一杯に広がって人の波が進んでいる、という状態であったに違いありません。

 リチャードソン達は馬に乗っているのですから、その高い位置から、行列がどの程度に密集していて、どの程度の長さがあるかを見て取ることは、容易にできたはずです。まともな神経のある人なら当然、馬から下りてこの行列の通行を待ったはずです。実際、彼らより前にアメリカ領事館書記官のヴァン・リードという人物がやはり馬に乗ってこの行列に遭遇しています。彼は、馬から下りて道ばたに退き、行列が通過し終わるまでそのまま控えていて、何の危害も受けていません。

 ところが、中国からやってきたリチャードソンとバラデール夫人はあきれたことに、密集した久光の行列に構わず馬を乗り入れたのです。おそらく、行列の長さを見て、その通過を待ったりしたら、どのくらい時間がかかるか判らない、と思ったのでしょう。そして、中国ではそんな具合に、地元貴族の行列に馬を乗り入れるような無礼なやり方がまかり通っていたのでしょう。

 これに対して、日本に住んでいるマーシャルやクラークは様々な対外国人テロによって、武士に対する恐怖を持っていますから、最初避けようとしたのでしょうが、リチャードソン等が行列に乱入したのを見て急いで追いかけました。そのため、10ヤードくらい遅れていたといいます。

 久光が今回江戸に来た大義名分は、要するに幕府が公約として掲げている攘夷を実行しないので、攘夷実行を可能にする為の知恵を貸す、ということです。したがって、久光に対して外国人から無礼な行動があれば、何らかの処置にでなければならない立場にあります。

 しかし他方、久光も、わが国政治の舵取りを務めようという野望に燃えているくらいですから、この時期の国際情勢の中で、外国人相手に、いきなり切り捨てごめんというような暴挙にでることの危険性は十分に承知していました。そこで、久光は帰国に先立ち、幕府に対して、外国人が騎馬で行列に乱入するなどの、無礼な行動があれば、堪忍できない場合があるので、大名往来に関するわが国の法律を幕府から各国公使の方に徹底しておいて欲しいという旨を届け出でています。

 幕府も、これを受けて、英国公使館を始めとする各国公使館にその旨を通知してあります。しかし、なぜかこのことが居留民へは周知徹底されていなかったのです。知っていれば、マーシャルなど日本在住の商人達がこんな危険な小旅行を企画するとは思えません。横浜駐在英国領事ヴァイスはあまり有能な人物ではありませんでしたから、彼の職務懈怠が原因と見るべきでしょう。

 島津家としては、事前にそこまで注意してあるのに、この中国呆けしたイギリス人達が、乱暴にも馬で乱入してきたのですから、対応は一つしかあり得ません。リチャードソンは腹部2箇所を切られて死亡、他の二人の男性が重傷、バラデール夫人だけが帽子を切り飛ばされ、馬が斬られて暴走してヒステリーは起こしたものの、無傷で逃げ延びることができました。さすがの薩摩隼人も、女性に剣を振り上げるのはためらわれたのかもしれません。

 横浜在住の英国商人の中から犠牲者がでたのはこれが最初です。そこで商人達は一斉にいきり立ち、港に停泊中の各国の軍艦から海兵隊を送ってその夜、久光の行列を攻撃し、下手人及び久光を逮捕するように、英国公使に求めました。

 先に述べたとおり、この時期、オールコック公使は、日英通商条約の改正のため帰国しており、英国公使館の責任者はニール代理公使でした。しかし、ニールは応じませんでした。私の見るところ、ニールが拒絶した理由は二つあったはずです。一つは、事件そのものが無神経な商人達が自ら招いて引き起こしたもので、自業自得だということです。今ひとつの理由は、そもそも攻撃しても勝てない、ということです。

 繰り返しますが、この久光の行列は只の大名行列ではありません。大砲数門を含む、れっきとした軍隊なのです。しかも自分たちのしたことの政治的意味は十分理解していますから、事件後ただちに外国人側からの攻撃を予想して、当初横浜のすぐ目の前の神奈川宿に泊まる予定であったものを、一つ先の保土ヶ谷宿まで足を延ばしました。そして、宿場内では、迎撃のため、大砲を要所に配置し、小銃隊も伏せて、何時攻撃があっても対応できる準備を整えて待ちかまえていたのです。

 この時期、薩摩隼人の剽悍さは必ずしも外国人達の知るところとはなっていません。しかし、ニールは職業外交官ではなく、駐在武官(陸軍中佐)です。このように近代兵器を備えて待ち伏せている部隊に陸上戦闘をして勝つためには、この久光軍を大幅に上回る大兵力を投入する必要があることは、十分に承知していたはずです。

 ところが、この時点で、横浜にある英国の武力は、停泊中の蒸気フリゲート艦ユーラリアス号ただ一隻です。同艦は排水量2371tと当時としては、世界有数の巨大艦です。が、蒸気艦であるため、乗組員は帆走戦艦に比べて著しく少なく、わずか450名程度しかいません。艦の安全のためにある程度残す必要がありますから、ぎりぎりまで出しても、せいぜい300名くらいしか兵力はないことになります。他国の軍艦からも若干出して貰うとか、商人から義勇兵を募るなど、あちこちから兵をかき集めても、その倍になるかどうか怪しいものです。つまり、島津軍を下回る人数で、しかも陸戦になれていない水兵を中心とした寄せ集めです。これでは間違っても勝てません。

 もっとも、襲撃しても勝てない、と正直に言ったのでは、興奮している商人達を説得することはできません。そこで、彼は冷静に、第三の理由を述べました。すなわち、仮に勝てたとすると、それは幕府の権威を失墜させることになる結果、内乱を引き起こすことになり、それでは英国がこれまで勝ち得てきた商業上の優位性を失うことになってしまうと説得しました。しかし、これが本音でない証拠に、その後、ニールは陸海軍の増強を本国や清国駐在官に求めているのです。

 しかし、差しあたりは戦争は不可能ですから、次善の策として、幕府に対して、生麦事件の犯人逮捕と厳重な処罰をニールは要求しました。

 これに対して、幕府は、老中水野忠精(ただきよ)及び板倉勝静(かつきよ)の連名で、大名領内には幕府の権力は及ばないので、貴意には添い難い、という趣旨の回答を出したのです。おそらく、これが対外関係で、幕府の滅亡を決定づけた致命的な発言だったと思われます。

 これまで幕府は、対外的には日本全土を支配する、という建て前を崩していなかったのです。そして英国側もそれを疑ってはいませんでした。だからこそ、幕府を盛り立てる以外に、日本との健全な貿易は維持することはできない、とオールコックも考え、条約改正に応じたわけです。

 ところが、水野や板倉は、無思慮にも、日本に、幕府以外にも当事者能力を持つ支分国家が存在することを明言してしまったのです。ニール代理公使は、この回答に接して、幕府の日本統治能力そのものに対して疑問を持ちました。

 先に述べたとおり、久光が帰郷した翌月である閏8月になると、参勤交代の緩和と大名子女の帰国が認められました。ニールは、これを、各大名が国元の防衛力を強化して、外国と戦う体制を確立するための手段と理解しました。確かにそれが春嶽政権の意図ですから、正しい分析です。おりしも、長州藩が、瀬戸内海沿岸に大規模に砲台建設事業を展開中という報告が入ってきました。また、久光も、帰国後、鹿児島湾の防御力増強に全力を挙げているであろう事は常識です。

 こうして、外国勢力が完全に疑心暗鬼になっている最中の文久3年2月1日、品川御殿山に建設中だった英国公使館が全焼するという事件が起きました。実はこれは、長州藩の過激派である、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)等の仕業でした。

 2月に入ると、ニールの要求に応えて、英国は、横浜の艦隊を増強し、最終的には12隻もの艦船を横浜に集結させました。これは幕末史上特定の外国勢力が集結させたものとしては空前の大海軍力です。こうして、十分な兵力を集められたので、これを背景にして、ニール代理公使は、2月19日、初めて幕府に対して強硬姿勢を示しました。生麦事件に対する幕府の無責任な対応に対するペナルティとして10万ポンド、先に述べた第2次東禅寺事件の遺族に対する賠償1万ポンドをそれぞれ要求する最後通牒を幕府に突きつけたのです。実際に兵力を手にするまでは具体的な要求を突きつけない、というこのあたりの行動は、いかにも職業軍人らしい慎重さといえます。

 また、幕府が久光の臣下を自分では逮捕できない、という以上、英国艦隊自身が薩摩に行き、加害者の処刑と遺族への扶助金並びに負傷者への慰謝金として2万5000ポンドの賠償金の取り立てを直接藩主に要求するであろう、と通知しました。

 ところが幕府はこれに対して返事を出すことができません。理由は簡単で、この時期、江戸に実は幕府の中枢メンバーはいなかったからです。将軍家茂自身が上京したのです。したがって、政治総裁松平春嶽、将軍後見職一橋慶喜はもちろん、老中以下、主立った官僚は皆それに随従して京都に行っていたからです。そのため、ニールに脅かされても、それに回答できる人間が全くいない、という状況にあったのです。

5. 将軍上洛

(1) 第2回勅使下向

 将軍上洛に至る経緯は少々複雑です。久光がまるで自分の創見のように売り込んだ公武合体策は、実は久光に先行して、長州藩士長井雅楽(ながい・うた)が提案し、藩主が承認して長州藩として久世=安藤政権と協議してきた航海遠略策の焼き直しに他ならないのです。この政策が久世=安藤政権の崩壊とともに、宙に浮いてしまったわけです。そこに、島津久光が手柄顔で意気揚々と勅使を奉じて江戸に入ったものですから、長州藩としては強い反感を持ちます。

 そこで、毛利家の世子は、久光が江戸に入る前日に、わざわざ久光とは道を変えて江戸を出て京に行きました。そして世論の主導権を握るために、あえて公武合体策ではなく、徹底した攘夷論で世論工作を始めたのです。毛利家は、その祖、元就の時代から権謀術数には非常に長けたところがあります。それがフル回転して京都で世論工作をしました。その結果、京都の論調は一気に攘夷論に傾きました。

 そのため、久光が全ての要求をのませ、更に生麦事件まで引き起こして京都に引き上げてきても、もはや京都の態度は彼に冷たいものとなっていました。風向きを見るに敏な久光は、それ以上京都に長居することを断念し、速やかに国元に帰って、来るべき対英国戦に向けて錦江湾全域を要塞化する作業に取りかかりました。

 長州藩は、こうした久光が消えた政治的空白をフルに生かして、公家のうちの過激派を焚きつけ、ついに朝廷世論を支配することに成功して、ここに第二の勅使が下向することになったのです。三条実美(さねとみ)及び姉小路公知(あねこうじ・きんとも)という過激公家の領袖が自ら勅使となりました。この勅使は10月27日に江戸に到着し、11月27日に将軍家茂に面会しました。到着から面会まで実に1ヶ月もかかったのです。理由は簡単で、何と答えたよいか、幕府の方で意見がまとまらなかったのです。

(2) 幕府の回答

 ここで朝廷が出した要求そのものは別に問題ではありません。攘夷を督促したに過ぎないのです。

 これに対して、攘夷を断行するのかどうか、肝心の松平春嶽の意見が固まっていないのです。京都守護職に決まった松平容保が京都の治安維持のためには攘夷を標榜する必要がある、と説けばそれに賛成します。驚いた一橋慶喜が開国論を説けばたちまちそちらに転向します。確かに難しい問題ではありますが、トップにこうくるくる意見が変わられては下の者は大変です。で攘夷派、開国派の両陣営から激しい批判を浴びると、辞表を提出する始末です。

 具合が悪くなると逃げる。これは、これ以後、幕府滅亡までの間、春嶽だけではなく、慶喜にも老中達にも共通して現れる名門の貴公子らしいひ弱い行動ですが、その最初の現れがこの事件だったのです。

 この時動いたのが勅使に随行して江戸に来ていた土佐藩の山内豊信(やまのうち・とよしげ)で、攘夷を標榜しない限り、関西は内乱状態に陥ると脅して、春嶽に辞表を撤回させ、幕府の意見を攘夷に統一させるのに成功したのです。

 しかし、攘夷をする、といっても具体的にどうしたら良いか判りません。そこで、この勅使に対し、幕府は将軍が上洛して委細を回答する旨を述べて、時間稼ぎをしてしまったのです。将軍上洛自体は、前に紹介した横井小楠の国是七策にあるとおり、春嶽の基本政策ですが、それを勅使に対して明確に時間を限定して回答してしまったのは大変な問題でした。

(3) 上洛経費

 将軍が上洛するのにかかる経費は大変なものです。結果的にいうと、家茂は2回上京し、その2回をあわせて約120万両を必要としました。第1回が約70万両、第2回が約50万両です。それだけの経費を投入すれば、内政・外交を充実するために様々な施策ができるはずなのです。それだけの経費を将軍上洛に投入して、それに代わる何かよい効果があるのか、というと、それがない、というところが最大の問題です。とにかく、効果以前の問題で、何と返事をしたらよいか自体が決まらないままに、この巨額の経費を投入することだけが決まってしまったのです。

 家茂が老中その他約3000人の供を従えて江戸を出発したのは、文久3年2月13日のことでした。寛永11(1634)年に家光が上洛して以来、実に230年ぶりの出来事です。

 この家光の先例にしたがい、出発に先立って京都市内の住民に銀5000貫(小判に換算してほぼ6万3000両)を、江戸市内の住民に金6万3000両をそれぞれ下賜しています。

 また、禁裏に金5943両、銀8貫722匁、米15万俵を献上しています。

 また、お供をしていく諸大名も財政が逼迫していますから、これに対する貸付金が11万両あまりとなっています。

 このように、直接経費以外に、様々な馬鹿馬鹿しい経費がかかるのが、将軍上洛というものなのです。

6. 政治総裁の逃亡

 春嶽には、京都情勢を甘く考えているところがありました。かつて橋本左内が春嶽の腹心として活躍していた時代には、難しいところは全部左内がやってくれましたから、春嶽は要所要所で顔を出し、左内から献言された台詞を吐いていればそれでことは足りました。何となく、春嶽は同じようなつもりでいたのでしょう。しかし、この文久3年春の時点で、現実に京都に彼が乗り込んだときには、彼には左内も小楠も大久保忠寛もいなかったのです。彼が初めて、自分の実力だけで政治の現場に立たされたわけです。

 しかも朝廷のごり押しは彼の予想を遙かに超えていました。

 将軍が京都に着いた翌日、将軍名代として参内した慶喜に対して下された勅書には、政治に関してはこれまで同様将軍に委任する旨の言葉があり、幕閣は安堵しました。ところが、その2日後に家茂自身が参内したときには、攘夷の決行のみを幕府に委任し、国内政治に関しては朝廷がかってに諸藩に命令する、というように勅書が書き換えられていました。攘夷派の激しい巻き返しを幕府は予想できていなかったのです。

 さらに、攘夷決行に日限を切るように、と迫られます。春嶽等は、将軍が江戸に帰った上で鎖港交渉を始めたい、とがんばったのですが、許されず、将軍名代としての地位にある慶喜が、ついに4月中旬と口走ってしまったのです。

 ようやく、将軍が京にいるだけかえって時間稼ぎができない、ということが判って、江戸に帰って鎖港交渉をしたいと要請するのですが、交渉は大阪で行え、といわれて江戸に帰ることが許されません。

 この辺り、全く交渉の余地がない、という感じでした。

 ここで、春嶽時代の終わりが来ます。彼は、辞表を書くと、夜逃げ同然に京から自分の藩に帰ってしまったのです。

 肝心の政治総裁春嶽がいなくては、一橋派の大名達もやる気をなくします。春嶽の懇望で上京していた島津久光も、山内豊信も、宇和島藩主伊達宗城(むねき)も、暇を乞うて相次いで勝手に帰っていってしまったのです。

 こうして、京都にある将軍家茂の補佐役は、慶喜と容保、及び老中水野忠精、板倉勝静だけとなってしまいました。まさに末期的症状ということができるでしょう。


第6章 小笠原長行と幕府の滅亡

 松平春嶽が、攘夷を実行しろという朝廷の恫喝におびえて、政権を投げ出して夜逃げ同様に国元に帰ってしまった以降、幕府には、その滅亡までの間、中心となって政権を担当する人がいなくなります。

 本来ならば、その任に当たるべきは、この時点における将軍後見職であり、また14代将軍家茂の死後は最後の将軍となった一橋慶喜です。しかし慶喜は、彼自身がくるくると気分が変わり、それに応じて極端に行動に振幅がある人物でした。しかも、自分の言動から必然的に生ずる結果に対する責任をとることを、少なくとも責任を追及されることを嫌う癖がありました。つまり、何かを言い出すことはできるのですが、自分自身の頭の中でそれに対する評価が変わると、その後始末は誰かがやってくれることを常に期待して、責任者の立場から逃げ出すという悪い癖です。したがって、政権の中心にあって、一定の方針の下に着実に行政活動を指揮監督し、必要に応じて自ら適切な行動をとる、ということはできませんでした。

 そして、なによりこの時期、彼は幕府政治の中心地である江戸にほとんどいません。したがって、彼を中心に据えて、これ以降の時期における幕府財政を説明することは不可能なのです。

 内閣としては、何度か触れたとおり、水野忠精と板倉勝静の連立内閣です。彼らの連立政権は非常に長く、安藤信正の失脚以降、幕府の滅亡まで一貫してその地位にあります。逆に言うと、無能、無難が売り物で、そのために長く政権の座に安住できたという程度の人物で、とても彼らの視点から幕末史を整理できるような人物ではありません。かっては、例えば田沼意次のように政権の首座にないにも関わらず、実質的に政治を動かしていた人物がいたりしたのですが、この時代には、古参の老中の中にも、他の老中を束ねて、政治の中心として活動できるほどの、才能と人徳を兼ね備えた人物はいませんでした。こうして、幕府という巨艦は舵取りを失った形で、幕末の風雲の中に突入し、沈没していくことになります。

 幕府にとって、ただ一つの救いは、これまで幕府行政を実際に取り仕切ってきた官僚達、具体的には勘定方と目付達は、依然としてやる気を失っていなかったという点です。その結果、この時期以降も、幕府は、これが滅びようとしている政権とは思えないほど、様々な積極施策を行い、上方における慶喜のむら気ある行動を、財政その他の面で下支えし続けます。確立した官僚機構のすごみというものなのでしょう。

 そして、この時期の幕府老中で、そうした下からの支援努力を集約して、幕府を助けようとして可能な限りの努力をし、最後には幕府そのものに殉じて滅びようとした人が一人だけいます。それが小笠原長行(ながみち)です。

 この時期、歴史家の目は薩長側に向けられています。そのため、その大きな活動にも関わらず、小笠原長行の名は、日本史の上ではほとんど知られていません。例えば、現在高校で使用されている数十冊の日本史教科書のどれにも、彼の名はまったく登場してこないのです。亡国の臣の運命とはこういうものなのでしょうか。

 小笠原長行という人は、幕末にいたって、突然登場した政治家です。その政治家としてのまことに短いながら華々しい活動の中で、たった2回だけ、出処進退を誤りました。我々凡人から見れば、生涯で2回の誤りは、問題にならないほどの少ない誤りです。しかし、幕府の運命がぎりぎりに迫り、徳川慶喜という実に気の変わりやすく、しかも部下に嘘を言って騙すことに全く良心の呵責を感じないという暗君を頂いて、彼が事実上、ただ一人で徳川家の命運を担っていた時期における誤りだっただけに、それはそのまま幕府の滅亡に直結することとなりました。

1. 小笠原長行の前半生

 小笠原長行は、まことに不遇な人生を送った人です。後半生のそれは、幕府の運命に殉じて自ら選んだものですが、前半生におけるそれは、彼本人の選択というより、彼の属する小笠原家そのものが不運であったためです。

 小笠原家というと、小笠原流という武家の作法を思い出される方が多いと思います。この流派の名称は、室町時代に、小笠原家の庶流に属する小笠原持長が将軍足利義教に仕えて礼儀作法を確立したことから来ています。したがって、徳川幕府にあっても、小笠原流の家元格で活動したのは一族の庶流赤沢氏で、小笠原本家そのものではありません。

 また、小笠原諸島の名を思い出される方もあると思います。これは、小笠原家の祖先の一人、小笠原貞頼が文禄2(1593)年に発見したとされるところから来た名称です。しかし、小笠原家の家譜にこの事実は記されていないことから伝説のたぐいとされています。

 小笠原本家は6万石格の譜代大名で、何人かの老中も出していますから、譜代中でも名門といえる家柄の一つです。譜代の大名らしく、江戸初期には頻繁に国替えをされています。その一環として、一時期、小笠原家は静岡県の掛川6万石の領主となっていたことがあります。

 運の悪いことに、その時期に、白波五人男で有名な日本左衛門こと浜島庄兵衛が出現しました。彼は、東海道を荒らし回って名をあげた後、最後に何を考えたか、いくつもの関所を越えてはるばる京都まで行って自首しました。

 これほどの大盗を捕縛できなかったばかりか、関所などもあってなきがごとくに通過されたことが明らかとなって、幕府の面目は丸つぶれになりました。しかし、幕府そのものに非を認めては封建体制が維持できません。そこで、小笠原家領内で庄兵衛が暴れたことがあるのに目を付けて、同藩を生け贄に罰することに決め、召し捕り不行き届きを理由に、福島県の棚倉という不毛な地に、藩そのものを左遷しました。延享3(1686)年のことです。棚倉は表高こそ掛川と同じ6万石ですが、実質4万石程度のやせた土地です。ここで小笠原家は財政難に苦しみ、数十万両の借財を抱えることになります。

 文化14(1817)年になって、佐賀県の唐津に転封になります。前の領主は水野忠邦でした。つまり忠邦が老中になりたくて放り出した領地です。ここは表高は棚倉と同じ6万石ですが、物なりの豊かな領地である上に、長崎貿易の特権を認められているため、そこからの収入も莫大なのです。実質石高は20万石以上に相当するといわれました。ですから、小笠原家では、上下ともに、これで長年の貧窮から抜け出せると非常に喜びました。

 ところがここに転封後まもなく、時の藩主である長昌が江戸藩邸で死亡しました。その長子が、悲運の公子である長行ということになります。彼は文政5(1822)年生まれで、父の死の時、わずか2歳でした。唐津藩には、長崎貿易の特権が認められている代わりに、長崎で何か事件が起きたときには、長崎奉行をバックアップして活動しなければならないという使命を負っています。その際には家老などを指揮官とすることは許されず、藩主が陣頭指揮を執ることとされています。したがって、幼児が藩主となることは許されません。もし、藩主の死と、幼君の相続を正直に幕閣に届け出れば、小笠原藩は、ただちに再びどこかへ転封ということになります。

 そこで藩の重臣達は非情な決断を下したのです。すなわちれっきとした健全な世継ぎがいるにも関わらず、これを聾唖の廃人と幕府に届け出て、他家から養子をとることで、唐津に居座ることにしたのです。

 ところが、迎えた養子がいずれも病弱であったり、早死にしたりという不運にあって、その後、わずか17年の間に何と4代も立て続けに養子をとる羽目になりました。

 その間に長行は健康に成長したので、最後に藩が養子に迎えた長国は、長行より2歳も年下でした。それでも廃人と幕府に届けてしまっている以上、長行が家督を継ぐことはできず、別に養子が迎えられたわけです。

 長行は、普通の世であれば、このまま埋もれて生涯を終えてしまうはずでした。しかし、井伊直弼が、不遇時代もせっせと文武の道に励んでいたのと同じように、彼も文武の道に励みました。水戸斉昭の懐刀であった藤田東湖などについて学問を学んだところから、そうした文人達を通じて彼が英才であることが、徐々に世に知られるようになってきました。唐津に鏡山という山があるそうです。鏡=明るいという言い換えをして、彼は明山と号していました。そこで、明山公子と呼ばれるようになったのです。この名そのものが、いかにも英才という響きがありますね。

 彼の幸運は、30歳を過ぎてから、ようやく訪れました。ペリーの来航です。第1章に述べたように、阿部正弘はこの時広く意見を公募しました。長行はこれに応えて幕府に建白書を提出したのです。長い不遇に耐えかねて、積極的に自分の売り込みを始めたわけです。もっとも直接提出するのははばかられて、水戸斉昭を経由したようです。

 この結果、幕府にも、この埋もれた英才の存在が知られるに至りました。とにかく国難の時期ですから、優れた能力を持つ大名は喉から手のでるほど欲しいところです。したがって、普通であれば直ちに幕閣へ召し出し、何かの役職に就けるというところです。しかし、廃人という届け出でがあって、世子にもなっていないのではどうにもなりません。

 そこで、心ある諸侯などあちこちから藩主長国に圧力が掛かった結果、一門の次男と履歴を偽って、藩主の養子とし、ようやく世子となることができたのです。父とされる方が2歳年下というまことに奇妙な養子縁組でした。安政4(1857)年、長行36歳の時です。

 しかし、それでも世子に過ぎませんですから、普通であれば、父親ということになっている藩主長国が死ぬか、隠居しない限り公職に就くことはできません。また、藩主になったところで、唐津に領地を有する限り、水野忠邦の前例に明らかなとおり、本来、老中になるということは、幕府の慣例上は不可能です。

 彼が世に出ることができたのは、彼の生きた時代が幕末という非常の時であったからに他なりません。文久2(1862)年6月に、前々章に述べたとおり、安藤=久世政権が崩壊します。この6月に偶然、彼は、領国に戻った長国に代わって江戸にでてきて将軍に拝謁したのです。

 人材に飢えていた幕府では、彼を世子としての身分のまま、7月21日に奏者番に抜擢します。奏者番というのは実権は何もない官職なのですが、なぜか老中になるための登竜門としての役割を担わされていました。さらに8月19日に若年寄に抜擢され、9月11日には老中格とされます。そして10月1日には外国御用掛に任じられます。

 幕府の長い歴史の中で、このように、世子のまま老中格となったのも初めてなら、唐津藩から老中格となったのも、そして奏者番発令後わずか3ヶ月で老中格となったのも初めて、そして老中格の外国御用掛も初めて、という初めて尽くしの人事でした。幕府における人材の不足と、彼に対する世間一般からの期待の高さを端的に示す人事ということができます。

 しかし、もちろんこれは彼にとって幸運とはいえません。前章に述べたとおり、8月21日に生麦事件が起きています。したがって、老中格とされたのも、外国御用掛とされたのも、彼に生麦事件の始末を付けさせるための人事であることは明らかです。ほとんど見習い期間もなく、いきなり彼は国の命運をその背に担わされたわけです。

 もっとも外国御用係がつとまる人材が当時の老中にいたか、というと、間違いなく、ほかにはいません。長行は唐津藩の公子で、この長崎貿易という利益の多い特権が、彼の青春を奪っただけに、海外貿易に、当然強い関心を持っていました。幼い頃からたびたび長崎に行き、外国との交渉という概念そのものが、いわば自然に血肉となっていた、といえるでしょう。

 彼は前に述べたとおり、水戸斉昭の引き立てで世に出たのですが、このような履歴から当然のことながら、彼は思想的に180度逆の開国派です。そこにも、幕府を支える官僚達との共通性が存在し、彼らに擁立されることになったわけです。

2. 生麦事件の後始末

 前章に述べたように、松平春嶽は朝廷による攘夷要求に耐えかねて、文久3年3月に政治総裁職を投げ出し、夜逃げ(とは慶喜の表現ですが)同様に、越前に逃げ帰ってしまいます。

 政治総裁のいない幕閣では、将軍後見職である一橋慶喜が最高責任者ということになります。慶喜という人は、本来思想的には開国派なのですが、前に述べたとおり、将軍家茂は攘夷の決行を迫る勅使に対して「勅諚(ちょくじょう)の趣、畏まり奉り候」と返事をしてしまっていますから、それ自体を翻すわけには行きません。責め立てられて返事に窮した慶喜は、3月19日、とうとう攘夷決行の期日は5月10日である、と返事をしてしまったのです。これが下関砲台砲撃事件などにつながる幕末における戦乱の原因となります。

 こんなことを言った後の3月23日、慶喜は長行に対して、慶喜より一足先に江戸に帰り、対英交渉を行うように命じたのです。しかし、攘夷の決行を公約した後なのですから、対英交渉といっても、その中味は賠償金の支払い拒絶と、横浜の鎖港を実現しろ、ということです。

 前章に述べたとおり、ニール英国代理公使は、要求を実現できるだけの史上空前の強大な海軍力を横浜に集めて、その上で初めて要求を出しているのです。したがって、それを全面的に拒絶しろ、というのは、不可能を要求しているのに他なりません。しかも、長行に与えられた時間はほとんどないのです。というより、もう時間がなくなった時点で命令が下った、という方が正確です。

 ここで簡単に時系列を追ってみましょう。ニール代理公使から、20日間の期限付きで賠償金支払い要求が出たのが、文久3年2月19日のことです。将軍家茂が江戸を出発したのが2月13日ですから、その1週間後ということになります。外国奉行の竹本正雅が急いで将軍の後を追い、掛川で追いついて報告していますが、もちろん将軍自身は処理能力を持っていません。時間を稼ぐようにいうだけでした。

 2月19日の20日後ですから、3月9日が期限です。しかし、幕閣の主要メンバーが上京してしまっているのですから、もちろんこの日までに回答をする、などということは不可能です。江戸の留守を守る外国奉行では、ニール代理公使と交渉して、期限をもう15日延ばしてもらいました。しかし、責任者がいないのですから、この程度の延期ではどうにもなりません。さらに何度かの交渉の結果、将軍が江戸に帰る当初予定の4月6日まで、期限を延ばしてもらうことを、ようやくニールに了解させることができました。

 しかし、春嶽はもちろん、慶喜も、こうした外国奉行達の勝ち取った時間的余裕を全く生かすことなく日を送り、上記のとおり、期限ぎりぎりの3月23日になってようやく長行に対応しろ、と命令したわけです。長行は、この理不尽な命令に抵抗します。が、再三強いられてやむを得ず引き受けます。

 よりによって長行に命令する、ということ自体、非常に不自然な感が強いことは否めません。なぜなら、前に述べたとおり、彼は開国派であり、そのことは、2度目の勅使により春嶽が右顧左眄し始めて以来、再三、口頭あるいは文書で意見として述べています。そのことを百も承知の慶喜が、彼に攘夷の実行者になれ、と命令するのには、当然隠れた意図がある、と思う方が自然でしょう。つまり、慶喜としては攘夷は実行してほしくないのですが、彼自身が攘夷を実行すると天皇に対して公約しているので、自分が賠償金支払いの責任者になりたくないのです。そこで、自分の代わりに責任をとってくれる人間がほしい訳です。長行にはこの考えは明白に読みとれたでしょうから、引き受ける段階で、当然、最終的な結果を引き受ける覚悟を固めていたものと思われます。

 長行が京を出発したのが3月25日、江戸に着いたのが4月6日、すなわち最終期限の日です。しかし、外国奉行の方で、将軍帰着の予定が立たないことをニールに伝えてありましたから、ある程度の時間的余裕が生じていました。すなわち、前章に紹介したとおり、将軍家茂は予定通り江戸に帰るどころか、この時期には事実上朝廷の捕虜になったようなもので、何時帰れるか、全く目処も立たない状況にあったわけです。

 長行としては、英国海軍と戦えるだけの軍事力を全く与えられていないのですから、江戸が焦土となるのを避けたかったら、賠償金を支払うほかはありません。しかし、独断でそれを強行しては、当時の日本では命がいくつあっても足りません。

 慶喜は、長行だけでは十分に決定力がないことを承知していて、兄である水戸慶篤(よしあつ)を将軍の目代として、長行の後を追って江戸に帰らせました。水戸慶篤が江戸に着いたのが4月11日です。

 そこで、水戸慶篤が中心になって、御三家の今ひとつの家である尾張慶勝(よしかつ)にも出席してもらって閣議を開くことにしました。しかし、建て前と本音の落差は誰もが承知していますから、議論は錯綜します。長行は、わざと攘夷の実行を唱えて議論を混乱させたりしています。慶喜の理不尽な命令に対する腹いせの現れでしょう。

 結局、結論として賠償金の支払いを決めたのは4月21日のことでした。しかし、幕閣の最高責任者はあくまでも慶喜ですから、彼の了解を取る必要があります。そこで、ニールのほうには5月3日以降に分割払いする、と返事をして時間的猶予をもらうとともに、慶喜に連絡を走らせました。

 その慶喜は、4月22日に京を出発したのですが、わざと時間をかけて江戸に向かっています。前にも触れましたが、彼の悪い癖で、責任をとるような行動はしたくないのです。彼としては、不在の間に賠償金の支払いがおわり、彼がその非を責めるが後の祭り、という形が好ましいわけです。

 4月21日の決定の連絡を、慶喜は4月26日に、愛知県の熱田で受けています。賠償金を支払いたい、という連絡に対し、慶喜は、自分は攘夷決行の命令を朝廷から受けているので、そのような決定を認めるわけには行かない、中止せよ、異存を申す場合には手打ちにする、というむちゃくちゃな返事をします。

 こんな返事を受けては、部下としては時間稼ぎをするほかはありません。長行は、自分が病気になったので、3日間、賠償金の支払いを延期してほしい、と称して、改めて部下に英国側と交渉させます。しかし、仮病と読んでいるニールは、激怒したふりをして、約束通り賠償金を支払わないなら、艦隊行動を開始する、と回答します。もちろん脅しですが、実力を背景にしているだけに無視できません。

 そこで、期限を過ぎた5月4日の閣議は揉めに揉めました。しかも、その閣議の最中に、慶喜が再び浜松から、賠償金は支払うな、拒絶交渉をしろ、という命令を送ったのが届きました。これではどうしようもありません。尾張慶勝はすでにこの前日、京に行って賠償金支払いの必要を上奏する、と称して江戸から逃げ出し、名古屋城にこもってしまいました。ほかの閣僚達も、この翌日からは登城してこようとはしません。

 5月5日には、横浜にフランス海兵隊が上陸します。なお、このフランス海兵隊は、その後、数年間横浜に駐留し、横浜外国人居留地の租界化を図ろうとします。翌5月6日には英国海軍司令官が各国公使に対して軍事行動に出ることを予告します。

 この時期の江戸市民の反応については、福沢諭吉の『福翁自伝』に活写されています。福沢諭吉も含めて、江戸市民が英艦隊の攻撃開始必至と覚悟して、様々なドタバタ喜劇を繰り広げていたようです。

 ここにいたって、長行は覚悟を決めます。5月8日の朝、起きると彼は船に乗ります。この後の彼の行動について、福沢諭吉は次のように描写しています。

「いよいよ今日という日に、前日まで大病だと言って寝ていた小笠原壱岐守がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗って品川沖を出ていく。スルト英吉利の砲艦が壱岐守の船の尾について走る。というのは、壱岐守は上方に行くといって品川湾を出発したから、もし本当にその方針をとって本牧の鼻を廻れば英人は後から砲撃するはずであったという。ところが壱岐守は本牧を廻らずに横浜の方に入って、自分の独断で即刻に償金を払ろうてしまった。10万ポンドを時の相場にすれば、メキシコドルで40万になるその正金を、英公使セント・ジョン・ニールに渡してまず一段落を終わりました。」

 江戸市民から見て、彼の行動がどんな風に映ったかが判っておもしろいと思います。

 もっともこの記述、記憶に頼っているため、あちこちが不正確です。すなわち、横浜に行った8日には、長行は、最後の交渉に自身で駆け回っただけで賠償金の支払いはしていません。しかし、これだけこじれた後ではいかんとも手がなく、翌9日に支払った、というのが正しい事実です。また、支払ったのは、44万ドルです。すなわち、この時、生麦事件の賠償金40万ドルに加えて東禅寺事件の賠償金1万ポンド、すなわち4万ドルも同時に支払っているからです。当時の邦貨に換算すると、26万9066両2分2朱ということになるそうです。ついでに言えば、この時点では長行は壱岐守ではなく、図書頭(ずしょのかみ)でした。彼が壱岐守になるのは、翌元治元(1864)年9月のことです。

 この支払いは、神奈川運上所(現在の神奈川県庁所在地)から英国公使館まで馬車で運ぶ、という方法で行いました。小判だと千両箱というのに入れますが、メキシコドルの場合には2000ドル入りの箱を使っていたそうです。割算すると、220箱と言うことになります。この大量のドル箱を馬車を22台連ねて運んでいったわけです。英国側では、中国人の貨幣鑑定人をあちこちから借り集めて貨幣の検査と鑑定にあたらせました。アーネスト・サトーの書き残している所によると、鑑定が終わるまでに丸三日かかったそうです。幕府に対する英国側の不信感がよく判る話です。

 ここで二つ疑問が生ずると思います。一つは、なぜこれだけ大量のメキシコドルが、この時の横浜にあったのかということです。原資は、言うまでもなく、横浜貿易の関税収入です。予め江戸から運んであったのだ、という説もありますが、これほど大量の資金を密かに江戸から運ぶことは不可能です。しかも、運上所に入った関税をいったん江戸に運んで、また戻すのは無駄なことです。私は、ニールから賠償金の支払い要求が出た段階から、長行がそれ以降の関税収入を意図的に運上所に蓄えておいたのだと考えています。

 今ひとつは、なぜ運上所役人は、長行の命令に従ったのか、ということです。この時点では、長行はまだ老中格であって正規の老中ではありません。格がとれて正式の老中になるのは、慶応元(1865)年になってからになります。しかも外国係であって勝手係ではありません。したがって幕府の命令系統的に言えば、公金の支払いを命ずる権限は持っていないのです。

 前に江戸幕府財政改革史で、幕府における財政制度整備の歴史を詳しく説明しました。簡単に言えば、この時点における幕府財政制度は、同じ時代の米国や英国よりも遙かに近代的なもので、ほとんど今日の財政制度と遜色がないのです。仮に現代において、どこかの省の出先事務所に、ある日突然他の省の大臣がやってきて、金庫の中の公金を支出するように命令したからと言って、おとなしくそれに応ずる官僚がいるでしょうか。

 この時の運上所の係官は、それと同じ立場にあります。したがって、いくら長行が責任をとる、と言っても、命令系統にない者の言うままに動いたのでは、幕府の官僚制度の下においては、当然の結果として、運上所の責任者も連帯責任になってしまいます。

 つまり、長行のこの日の行動は、巷間言われているほどの個人プレーではないのです。確かに慶喜の承認を得ないで行った違勅の行動ではありますが、幕府の官僚機構的には完全に承認され、事前に彼の命令に従うように、という通達が届いていた、と考えるのが正しいのです。

 また、実はこの時、水野忠徳が同行しているのです。このことも、決して長行が衝動的に屋敷から飛び出してきたわけではなく、ちゃんと関係者と連絡した上で行動したという事実を示しています。水野忠徳は、この前年の久光の武力を背景とした政変に際し、いち早く隠居してこの時期、痴雲(ちうん)と号していました。が、春嶽の失脚とともに再び勘定方ににらみを利かしていたわけです。その彼が同行している、という事実は、これが正規の勘定方に属する行動である、ということの証左になるわけで、たからこそ、運上所役人は、素直に公金の支出を認めたのだと思われます。

 受け取った英国側では、これほどの大金を公使館内においておくことに不安を覚えたのでしょう、英国艦隊の旗艦、ユーリアラス号に載せることにしました。ユーリアラス号でも、これだけの大金を置く場所はありません。そこで、艦底の火薬庫の前に積み上げました。つまり、このお金をどうにかしない限り、ユーラリアス号は大砲が撃てない状態になったわけです。このことが、同艦の薩英戦争における悲劇を引き起こします。

 一橋慶喜は、のんびりと東海道をやってきて、まさにこの5月8日の朝に、横浜とは目と鼻の先の神奈川宿につきました。宿場にはいると、神奈川奉行を呼んで江戸の状況を聞いています。おそらく、賠償金交渉の進捗状況次第では、ここで仮病を使って長逗留するつもりでいたのではないか、と私は疑っています。そうでなければ、さっさと通り過ぎて江戸に急ぐ方が自然な行動だからです。そうしていれば、生麦事件でも判るとおり、楽にその日のうちに江戸に入れます。

 こうして江戸の情報収集をやっている最中に、長行の乗った幕府の軍艦が横浜湾に入ってくるのを、ひょっとすると慶喜は自分の目で見たかもしれません。繰り返しますが、慶喜はこの時点における幕府政治の最高責任者です。そして、賠償金の支払いを禁ずるということは、長行が京都を出発するときに口頭で命じたばかりでなく、道中の熱田と浜松からも重ねて命じています。長行が最後の交渉をしているのは判ったはずですから、この命令を本当に遵守させるつもりなら、当然、船を出して慶喜自身が長行のいるところに向かうか、逆に長行を呼びつけるか、という行動にでたはずです。

 しかし、慶喜のしたことはその正反対の行動でした。それまでの鈍行ぶりからは想像もできない話ですが、夕方の4時くらいという、普通なら宿に入ろうという時刻に、馬を出させて、急いで江戸に向かったのです。江戸に着いたのは夜の10時くらいといいますから、暗い中をずいぶん長時間走らせての強行軍をしたことになります。

 もしそうせずに神奈川宿にそのまま泊まれば、当然神奈川奉行がそのことを長行に報告しますから、長行が指示を仰ぎに来るはずでしょう。すなわち、この不自然な時間の出発は、明らかに、慶喜が長行に会うことを避けて江戸に逃げた、という以外の解釈を許さないと思います。会えば、その翌日の賠償金支払いの責任をとらねばならないことになるからに違いありません。

 こうして、翌9日に長行が自分の責任で英国に賠償金を支払ってくれた結果、事態は、慶喜としては理想的な形に落ち着きました。すなわち、彼自身は勅命を忠実に守って、再三賠償金の支払いを禁じたにも関わらず、部下が勝手に支払ったのです、と胸を張って?天皇にお答えすることができる状況になってくれたわけです。

 5月14日に、慶喜は後見職辞職を願い出ます。攘夷の勅命を受けていたにも関わらず、部下が勝手に賠償金を支払ったのが申し訳ない、という趣旨の文書だったそうです。

 福地源一郎は、この時期以降、幕臣が慶喜に不信感を持つようになった、と『幕府衰亡論』の中で書いています。すなわち、もともと慶喜は心情的には開国派です。それなのに、やたらと攘夷を実行しろと言い立てるのは、これを利用して将軍家茂を失脚させ、自分が取って代わろうという野望を持っているためではないか、と幕臣は一般に疑うようになった、というのです。

 この疑いの当否はともかく、この時点以降、江戸にいる官僚達が、実行不可能な攘夷というものを安請け合いし、その尻拭いだけを要求してくる、上方に駐在している幕閣に対して大きな不信感を持つようになったことは間違いのない事実です。このため、官僚達は、長行を担いで大変なことを始めるのです。

3. 率兵上京

 小笠原長行が、横浜で英国に賠償金を支払ったその翌日、5月10日こそ、慶喜が朝廷で攘夷決行期限として公約した日です。そこで、5月9日、賠償金支払い業務を行う一方で、長行は勅令に忠実に、各国公使に対し、鎖港を通知する文書を発しています。もっとも、各国公使からの問い合わせに対し、外国奉行は口頭で、これは形式だけのことだ、と返事をしています。

 そこで、各国公使の方では、強硬な抗議を申し入れていますが、その抗議文の中で、幕府に対する資金援助等を匂わせるという微妙なものとなっています。これは、各国ともに、幕府の鎖港通知が朝廷に対するポーズであることを承知しており、したがって日本との通商関係を維持するためには、朝廷支配を打倒する必要がある、と考えるようになったこと、そのためには資金援助等を考えるようになったことを示しています。

 ただし、忠実に?勅命を守って攘夷活動を始めた藩もあります。長州藩ではこの日から、関門海峡を通過する外国船に向けて砲撃を開始しました。もっとも、後に詳しく説明しますが、狙いが不正確な上に、射程距離が短いものですから、何の被害も与えていません。

 そのニュースがわが国の朝野を震駭させた余韻も冷めやらぬ5月26日、小笠原長行は、彼の名を歴史の上に刻む第二の行動に出ました。率兵上京事件です。

 前章で、春嶽政権の下で、幕府が洋式軍隊を創設したことを説明しました。この時点における、そのほとんど全員を引き連れて、彼は幕府海軍の船を使って上京したのです。具体的に言うと、連れて行ったのは騎兵奉行及びその指揮下の騎兵隊150名、歩兵奉行及びその指揮下の歩兵方100人、歩兵1200人、外国御用出役150人、計1600人という大部隊です。

 1600人という人数そのものは、戦国時代の軍勢を考えると、そう多いものではありません。しかし、長きにわたって平和の支配した徳川時代には、これは大変な大部隊です。島津久光が700人の兵を率いて江戸まで来たおかげで、日本史の書き換えに成功したことを考えてください。

 しかも、単に頭数が多いだけではありません。1年間とはいえ、洋式訓練を受けてきています。慶応2(1866)年に起こった第二次長州征伐の際、幕府軍は四方面から長州に攻め込みましたが、三方面まで撃退されました。ただ一つ、撃退されるどころか、長州軍を押しまくったのが芸州口で、そこの主力部隊が、この洋式歩兵隊だったのです。したがって、この時代における日本最強の軍といっても過言ではない存在でした。これが完全武装して小笠原長行にしたがって上京したわけです。

 幕府海軍の蟠龍、朝陽、鯉魚門の3隻及び英国の民間汽船エルギン号及びラージャー号の2隻の計5隻にこれらの兵を分乗させて紀州の由良まで行き、ここで大阪から迎えに来た幕府軍艦順動と合流し、英国汽船に乗っていた兵をあらためて幕府軍艦に移譲させて、幕府軍艦だけで大阪まで行きました。

 この事件について、長行自身がどのような意識を持っていたかははっきりしません。しかし、例えば小笠原クーデターなどと呼んだりして、日本史学者は一般に長行自身の主導と考えるようです。

 私は、この事件が長行自身の主導で起きたと考えるのは無理だと思っています。これだけの軍隊を京まで移動させようとすれば、大変な準備作業が必要です。前節に、詳しく時系列を示しつつ、生麦事件の賠償金支払いにおける長行の活動を紹介しました。これを簡単に要約すれば、彼は慶喜にしたがって長く上方におり、江戸に戻ってからは賠償金支払い問題に全力投球をしていたのですから、とてもこの事件の下準備をする時間的余裕はなかった、と断定できます。

 また、幕府の官僚機構上の問題もあります。彼は老中格の外国係であり、それ以上の独裁権は持っていません。彼が命令したからと言って、騎兵隊や歩兵隊が動くわけはないのです。同様に、幕府海軍を動かす権力も持っていません。さらにこれだけの兵を動かすには莫大な資金が必要ですが、その資金は勘定方が握っていて、長行の自由になるものではないことは、前節でも強調したところです。

 長行自身、事後になせ兵を率いて上京したかと聞かれて、自分としては賠償金支払いにいたる経緯を説明するために上京しようとしたところ、兵が是非一緒に連れて行ってくれ、というので、つれてきただけだ、という趣旨の答弁をしています。私は、実際にもこれが真実だと思っています。つまり、兵が上京する事前準備はこの時までに整っていて、名目上の司令官として長行が担がれた、と見るのが自然と思われます。

 では、いったい誰が何のためにこの事件を企画したのでしょうか。

 背景にあるのは、在江戸幕府官僚の総意であろうと思います。すなわち、将軍上洛の留守を預かる幕府高級官僚は、朝廷を操る過激派の横暴と、テロルの恐怖におびえて唯々諾々と幕府や日本の利益を無視した命令を発してくる幕閣に対し、憤懣やるかたない状態であったわけです。

 具体的にこの計画に参加したメンバーを見ると、そのことがよく分かります。

 英国汽船を借り上げる交渉をしたのは、若年寄酒井忠ます(ますと言う字は田偏に比と書きます)です。彼は5月17日にフランス艦セミラミス号上で英仏の公使や提督と会談し、英国汽船の借り上げ交渉をまとめています。外国側は、これは前の抗議文で匂わせた物的援助の申し出に対する幕府の回答であり、したがって派兵は幕府による朝廷に対するクーデター計画を意味する、と理解していました。そして、クーデター成功の暁には、かねて幕府と諸外国との間で懸案となっていた大阪や兵庫の開市・開港、横浜居留地の租界化などが実現できる、という言質をもらったという意識であったことは確実です。

 同じく外国側の理解では、このクーデターは、慶喜を担いで行う、というものでした。慶喜が実際に関与していたかどうかは全く判っていません。慶喜は、『昔夢会筆記』の中で、この事件は「余の関知するところにあらざるなり」と明言していますが、平気で嘘をつくことでは定評のある人ですから、あまり信用できません。たぶん計画の進行については十分に承知していながら、土壇場でいつものとおり、朝敵の汚名を着るのが怖くなって逃げたと理解する方が妥当と思います。

 小笠原長行の供をして上京した主要官僚は、勘定奉行や外国奉行を歴任した水野忠徳であり、この時点では江戸町奉行であった井上清直であり、そして目付である向山一履、同じく土屋正直でした。水野忠徳と井上清直が勘定方を代表する実力者であることは皆さんもご存じのとおりです。つまり、幕政を動かす上での実力を有する二大派閥である勘定方と目付が手を組んで行った計画であることが、この顔ぶれに端的に示されていると思います。

 小笠原長行が横浜を出発したのが前に述べたとおり、5月26日です。4隻の幕府軍艦が大阪に入ったのは6月1日でした。途中、由良で外国船から幕府軍艦に乗り換えるのに2日もかけて、なおこの日数ですから、陸上行軍に比べて汽船利用の軍隊移動がいかに迅速かがよく判ります。

 軍が全員上陸し、出発準備が完了した時にはもう午後4時になっていました。しかし、徹夜で行軍して6月2日の朝には枚方に着いていました。この時、彼らの上京の報に驚いた幕閣が派遣した若年寄稲葉正巳が馬で駆けつけ、入京の差し止めを命じました。しかし、長行は構わず橋本までさらに進みました。ここで将軍の使い番である松平甲太郎が駆けつけ、「しばらくそこに止まるように」と説きました。しかし、そこでは宿がとれなかったため、長行はさらに進軍を続け、淀まできて、初めて兵を分宿させました。

 淀というのは、今では京都市伏見区になりますから、京都市内に入っていますが、当時は、京都の郊外であって、決して京の市内ではありませんでした。こうして完全に入京せず、ここで停止したことが、このクーデターの成否を分けました。

 朝廷はもちろんこの露骨な力の威嚇に震え上がりました。天皇は守備兵に戦闘準備を命じましたが、もちろん歯が立つものではないことは明らかです。そこで、ヒステリックに将軍家茂に対し、小笠原長行を何とかするように命じました。

 6月4日になって、老中首座である水野忠精自身が駆けつけ、勅命及び台命による入京の禁止を説得しました。翌5日には、将軍家茂の親筆で入京の禁止を命じてきました。ここで、幕府としてのクーデターは、その命運が決まったのです。

 幕閣は、6日には今一人の主席閣僚である板倉勝静が駆けつけてなおも説得に当たる一方、関係者に処罰を申し渡しました。長行に免職を申し渡すとともに、水野、井上ら、随行した主要官僚に差控(さしひかえ)、すなわち謹慎を申しつけました。軍は江戸に返すことを命じました。

 しかし、だからたちどころに軍が消えてなくなるわけではありません。

 震え上がった朝廷は、将軍家茂が江戸に帰ることを7日に承認しました。家茂は、9日に二条城を出発し、13日に、長行らが乗ってきた幕府軍艦に座乗し、江戸に帰りました。こうして、小笠原率兵上京事件は、具体的には京都に軟禁状態にあった将軍家茂の救出という効果だけを上げたことになります。

 当初は、切腹を命じられるのではないか、といわれたりしたのですが、結果として、長行に対する処罰は非常に軽いものに終わりました。翌元治元年9月まで謹慎を命じられただけで済んだのです。さらに慶応元年には老中格に再び返り咲き、そのわずか1ヶ月後には格がとれて正規の老中となりました。

 いくつもの違勅を重ねたにも関わらず、このように軽い処罰で済んだことに対する明確な説明は存在していません。おそらく彼の背景にある勢力、特に軍部クーデターに対する恐怖が、朝廷及び幕閣にもあったためではないかと私は思っています。

 なお、この事件が水野忠徳の最後の公的活動となりました。以後は本当に隠居生活に入り、世に出ることはありませんでした。慶応4(1868)年7月9日に死亡しています。享年58歳。まだ死ぬ年齢ではない、と思いますが、徳川家に尽くし続けた彼としては、その滅亡を見て生きる気力を失ったのでしょう。なお、その死の直後の7月18日に江戸が東京に、また、9月8日に、年号が慶応から明治に、それぞれ改まっています。彼は最後の江戸人として死んだのです。

 この事件は、評価の難しい事件です。もし成功していれば、幕府と英国やフランスの結びつきがより強くなり、悪くすると、わが国が植民地化したかもしれません。しかし、うまく行けば幕府が貿易の実利を独占する形で、より強大になり、幕府主導かで明治維新が実現していたかもしれないのです。

 とにかく、事件当時、京都は軍事的空白状態にあり、長行が連れて行った強大な武力を背景に、幕閣が腹をくくって朝廷の支配に乗り出せば、成功していた可能性は非常に大きいと言わねばなりません。その意味で、幕府が滅亡しないで済む最後の機会であったことは間違いのないところです。

 小笠原長行の生涯における2回の失敗ということを冒頭で述べましたが、その一つはこの時です。水野忠精及び板倉勝静を排除して、自分で政権を握るほどの覇気が長行にあれば、この時、日本史は確実に大きく変わっていたはずなのです。水野忠徳は、後々まで、この時、決行しなかったことを悔しがっていた、ということです。

 

4. 薩英戦争

 文久3(1863)年6月22日(西暦だと8月6日)に英国極東艦隊は横浜を出港し、鹿児島へと向かいました。

 この艦隊行動は、理屈から言うと奇妙なものです。そもそも民間人が殺傷された事件で、遺族等に対する賠償金請求はともかく、政府として要求するというのは奇妙なものですし、いろいろ紆余曲折があったにせよ、幕府が賠償金の支払いを行ったのに、それに重ねて薩摩藩から2万5千ポンド(10万ドル)も取り立てようというのはさらに奇妙な話です。

 この裏にはニール代理公使の政治的判断があります。すなわち前節で、横浜の鎖港通知に対する抗議文が、同時に幕府に対する援助申し出でになっていた、と述べましたが、おそらくニールはこの機会に日本の国内政治に英国として直接介入することを狙ったのだと思われます。

 その結果、この遠征隊は非常に大規模なものになりました。当初、極東艦隊のキューパー提督は2隻以上の艦の派遣に難色を示しましたが、ニールはこれを押し切って、この時点で横浜にいた全英国艦を派遣することにしました。具体的には旗艦ユーラリアス号(2371トン、砲35門)、パール号(1469トン、砲21門)、アーガス号(981トン、砲6門)、パーシューズ号(955トン、砲17門)、レースホース号(695トン、砲4門)、コケット号(677トン、砲4門)のほか、砲艦ハヴォック号(233トン、砲3門)の計7隻です。ハヴォック号は小型のため、横浜から鹿児島までの全行程をほかの艦に曳航されていきました。

 ニールは、日本人は艦の数さえ見せれば腰が砕ける、という固定観念を持っていたのだ、ということが、この足手まといのハヴォック号までもつれていった、ということによく示されています。

 すなわち、ニールは薩英戦争を予想していたのではありません。艦隊の脅威を示して、薩摩を屈服させ、薩摩との直接交渉の道を開くことを狙っていたのです。このため、艦隊には、ニール本人だけでなく、末席の通訳生であるアーネスト・サトーに至るまで、この時点における在日英国公使館の全職員(といっても8名ですが)も同行したのです。

 このニールの楽観的な期待は、キューパー提督以下の海軍側にも伝染して、航海には物見遊山的な雰囲気が支配していました。鹿児島湾に入ってもその雰囲気は続いていました。鹿児島湾というところは、桜島を作った火山の火口湖ですから、湾の中央では深すぎて碇を降ろすことができません。だからといって、沿岸砲台の射程距離内に全艦が碇を降ろした、というのは戦闘部隊としては信じられないような失態です。

 ニールは、いつもの幕府との交渉方法、すなわち居丈高に相手を恫喝する、というやり方で薩摩藩との交渉に入りました。生麦事件以来、ひたすら戦争を覚悟して準備を進めていた薩摩藩に通用する交渉技術とはいえません。交渉が全く進捗しないのに業を煮やしたニールは、キューパー提督に強硬手段を執るよう要請しました。そこで、キューパー提督は、薩摩藩が所有していた3隻の洋式汽船を拿捕することにしたのです。

 信じられない話ですが、このような強硬手段の採用は単に交渉の一手段のつもりでした。そんなことをしたら、薩摩側としては、これを開戦行為とみなさざるを得ない、ということが、ニールにもキューパー提督にも全く認識されていなかったのです。

 英国側が3隻の汽船を拿捕したのが7月2日(西暦8月15日)の朝9時のことでした。これに対して、薩摩側は同日の正午ちょうどに轟然と英国艦に対する砲撃を開始しました。英国の側の緊張感の欠如は、これが正午であったため、最初のうち、正午を知らせる時砲だと思っていたことに、よく現れています。しかし、沿岸砲台のまっただ中に停泊しているのですから、数分のうちに周り中から砲弾が飛んでくるようになりました。特にパーシューズ号は位置が悪く、逃げ出すため、碇綱を切り捨てるほかはありませんでした。

 もう一つ、緊張感の欠如を示す挿話がユーラリアス号にあります。前にちょっと触れましたが、幕府からむしり取った44万ドルの入ったドル箱が、この時点でも、ユーラリアス号の弾薬庫の入り口の前にうずたかく積み上げられていたのです。その結果、英国艦隊の最大、最強のこの艦は、開戦後2時間というもの、1発の弾も打たなかったのです。弾丸がどんどん飛び来る中で、まずドル箱の撤去作業をしなければならなかった水兵達が何を考えていたか、知りたいものです。

 当然のことながら、拿捕した3隻の汽船を持ち逃げするような余裕はありません。これについてはもったいない話ですが、火を放って沈没させることになりました。キューパー提督がこの命令を下すと、手近にいた兵員達は一斉にこれらの船の備品の略奪に走ったと言います。まさに火事場泥棒も良いところです。この当時の英国海軍の人的レベルの低劣さがよく判る挿話です。こうしたことから来る英国側の動きの鈍さも薩摩側に味方したわけです。

 英国艦隊はいったん砲台の射程距離から逃げ出して、艦隊を再編成すると、改めて薩摩側の砲台との交戦を開始しました。特にアーガス号は最新型の100ポンドアームストロング砲1門を備えていて、これは大きな威力を発揮しました。しかし、薩摩側の攻撃もすさまじく、その砲火は特に旗艦ユーラリアス号に集中しました。その結果、艦長ジョスリング、副長ウィルモットその他数名の士官や兵員、計9名が戦死しました。

 結局、キューパー提督はそれ以上の戦闘継続をあきらめ、横浜に退却しました。艦隊の誰もが戦闘の継続を臨んだのですが、それが不可能な事情があったのです。すなわち、この艦隊はすべて蒸気艦だったのですが、石炭が欠乏してきてしまったのです。蒸気艦で戦闘中に燃料がなくなって漂流を始めれば沿岸砲台のいいカモになるのは、判りきった話です。

 薩英戦争については、薩摩の負け、というような説が存在していますが、要求をすべて拒んで撃退に成功したという点だけからみれば、むしろ薩摩側の完全勝利といってもよい結果だったわけです。

 では、なぜ薩摩側の負け、という説が存在するのでしょうか。それはパーシューズ号が、鹿児島市街をロケット攻撃し、大きな被害を与えたからなのです。

 ロケットというと、我々が現代科学の粋のように思いますが、その歴史は意外に古いのです。英国でロケットを発明したのはサー・ウィリアム・コングリーブという人物です。その発明になるロケットを装備した部隊を、英国は第2次独立戦争ともいわれる1812年の米国との戦いに投入しています。その結果、米国国歌の一節には「ロケットの赤き炎the rocket's red glare」という言葉が今も残っています。

 第二次世界大戦中の日本やドイツの市街地に対する無差別爆撃を知っている我々には信じ難い話ですが、英米では、直接戦闘に関係のない一般市民に対する戦闘行為は、今も昔も非常に強く非難されます。例えていえば、ボクシングの試合の最中に突然相手の下腹部を殴りつけるような、ルール違反の行為と評価されるわけです。

 例えば湾岸戦争の際にも、米国がイラクに投下した爆弾が軍事施設以外を破壊した、という報道が盛んに行われたことをご記憶と思います。そこで、この薩英戦争の結果がが英国本国に伝えられると、この鹿児島市街を破壊した行為は世論の激しい非難を浴びることになります。

 これに対して、英国政府は、鹿児島市街の破壊は、強風の吹き荒れる中、沿岸砲台と交戦しなければならなかったという事情の下で起きた偶発的な出来事であった、と釈明しました。もちろんこれは嘘です。砲台を狙った砲弾がそれて市街に飛び込んだのではなく、はじめから市街を狙ってロケット攻撃をしているからです。ロケットは、砲台のような防備の堅いところには役に立たない武器なのです。薩摩側の砲台の攻撃の激しさに手を焼いて、牽制のためやった攻撃と思われます。

 結局、英国議会は、政府は「鹿児島の街を焼いたことに遺憾の意を表明し、英国の鹿児島での攻撃は、文明国の間で行われる通常の戦争に違反するものであり、キューパー提督の個人的な責任を問う」べきである、と議決したのです。

 しかし、結果としてこの鹿児島市街への攻撃が薩摩側の態度を変えることになります。日本では、戦国の昔から、戦闘にあたっては付近の民家に火を放つというのは普通の戦術ですから、火を放たれたこと自体はあまり怒りません。むしろ、その威力に感心したわけです。

 薩英戦争から3ヶ月後の9月28日から、横浜で薩摩と英国の話し合いが始まりました。この時の会議、および10月4日の会議では、薩摩側は自分たちの正義を主張し、英国側の非を唱え、英国側はその正反対の主張を繰り返したので、議論は全く進展しませんでした。ところが10月5日の第3回の会議で、薩摩側は突然態度を変えます。薩摩としては軍艦を購入したいので、英国側がその周旋を行ってくれるなら、生麦事件の賠償金の支払いに応じてもよい、といいだしたのです。つい最近、戦火を交えた相手に武器を売ってくれ、というのは、完全に英国側の意表をついた提案でした。

 ニールは最初断ったのですが、その後で、英国としては薩摩側が懇親の意を表せば軍艦購入の斡旋を引き受けてもよい、と付け加えました。これに対して、薩摩側は軍艦購入の周旋を依頼すること自体が懇親の現れである、と述べたため、会談はその後、にわかに順調に進みだし、希望する軍艦の型、その代価、建造に要する日数、さらには船を操縦する技術を教える教官の派遣というようなことにまで話が進んだのです。

 ここから、以後の幕末の歴史を支配する薩摩と英国の協調体制がスタートすることになります。そのために幕府はさんざん苦労し、最後には滅亡することになるわけです。

 そのことを思うと、こうして交渉が妥結した後で、薩摩のやった行為は実に人を食っています。薩摩藩は、手元不如意のため資金がないとして、賠償金を貸してくれ、と幕府に申し込んだのです。なんといっても鹿児島市街が全焼しているのですから、これは嘘ではありません。そこで、幕府が、薩摩の賠償金を全面的に肩代わりすることに決めたのは10月28日のことです。そして、11月1日に賠償金10万ドルが幕府から英国に支払われました。結局、生麦事件の後始末のために幕府が英国から搾り取られた額は54万ドルという巨額に達しました。

5. 8月18日のクーデターと参与会議

 幕府が、この時期薩摩藩に好意的な態度を示したのには訳があります。この年の後半、幕府と薩摩藩は非常に緊密な協力関係にあったのです。

 実は薩英戦争が始まる以前の文久3(1863)年5月20日、尊王攘夷派のリーダー格であった姉小路公知(きんとも)が暗殺されました。この事件の真犯人は今日に至るも謎ですが、殺人現場に薩摩藩の田中新兵衛の刀が落ちていたことから、彼が犯人ではないかと疑われました。

 田中新兵衛は、人斬り新兵衛の異名で知られる幕末有数の暗殺者ですから、疑われるのは無理のないところがあります。しかし、彼のような熟練した暗殺者が、現場に自分の愛刀を落として逃げる、ということは常識的に考えられません。そのため、彼はこの件に関する限り無実だ、と今日では考えられています。しかし、新兵衛は取り調べられた際、一言も抗弁せず、取り調べ側の一瞬の隙をついて自殺してしまいました。

 このため、この当時は、彼が真犯人と断定され、したがってそれは薩摩藩自体の意思であったと考えられたので、薩摩藩が御所への出入りを禁じられる、という事態に発展しました。この結果、京都は長州藩の天下となりました。ここから逆に、おそらく姉小路暗殺事件の黒幕は長州ではなかったか、というように思えます。

 そこで失地回復を目指した薩摩藩は、思い切った手段にでました。京都守護職を務める会津藩に接近したのです。薩摩藩は、こういう政治的寝技が得意なことでは知られた藩ですから、長州側でもある程度の警戒はしていたに違いありません。しかし、この時、薩摩藩が陰謀の主役として起用したのは、西郷隆盛でも大久保一蔵でもありません。明治維新後には明治天皇の和歌の師として有名になる高崎正風(この時点では高崎左太郎)です。この時以前に全く政治的活動歴がない人物です。ついでに言えば、この時以後も全く政治的活動を行っていません。そういう非政治的な人物が動いたために、長州藩の意表をついたことになるわけです。

 狙いは、この特定の時点において、会津藩が偶然にも握ることになる予定の巨大な兵力です。会津藩では、京都守護のため、1000名の藩兵を京都に常駐させていました。しかし、兵達にとって、故郷と気候・風土・方言の大きく異なる京都に長期にわたって滞在するのは苦痛です。そこで、会津藩では、時々国元から交替の兵を呼び寄せていたのです。そして、この時点で、現に京都に駐留する兵に代わるべく、1000名の兵が上京してきました。したがって、この交替のための事務引継期間だけは、会津藩は普段の倍の2000名の兵を保有していることになります。これに薩摩藩が京都においている兵を合わせれば、無敵の力を持つことになります。

 会津藩は、およそ政治的活動が苦手で、だからこそ、京都守護職のような損な役割を押しつけられたくらいです。したがって、薩摩に言われるまで、この兵の交替に伴う軍事力の増大には気がついていませんでした。しかし、長州の横暴を苦々しく思っていた点では、直接に京都市内の治安維持のため、大変な苦労をさせられているだけに、薩摩藩の比ではありません。長州を追い落とす、ということに全く異存はないわけです。こうして、幕末最大の奇現象である薩会秘密同盟が成立したのです。

 文久3年8月18日、クーデターの幕が切って落とされます。この日の深夜1時に中川宮朝彦親王が突如参内すると、それをきっかけに守護職松平容保、京都所司代(淀藩主)稲葉正邦らが武装した兵とともにぞくぞく入門し、あっという間に京都御所を内側から固めてしまったのです。薩摩藩士は、わざと長州藩が警備を担当している堺町門に集結し、門を固め終わると、その合図に大砲を一発撃ちました。午前4時のことです。

 急を聞いた長州藩では、堺町門の正面にある鷹司邸に集結しました。長州兵数百のほか、三条実美の命により、32藩から計約1000名の兵の動員に成功しました。しかし、両軍の兵力の落差は大きく、ここで開戦するのは不利という判断から、結局、長州藩兵は三条実美ら、7名の公家を守って国元に退くことになりました。有名な七卿都落ち事件です。

 なお、中川宮はこの事件の主役になったことで、長州の深い憎悪を一身に浴びることになりました。その結果、明治維新と同時に官職を剥奪され、広島に幽閉されることになります。明治8年になってようやく許されて、新たに久邇宮(くにのみや)家を起こし、伊勢神宮の祭主とされました。明治24年に死亡しました。

 こうして、会津と薩摩は、一気に京都から攘夷派の勢力を一掃するのに成功したのです。だから、薩英の和平交渉の時期には幕府と薩摩は蜜月関係にあったわけです。

 孝明天皇が基本的には佐幕派的思想の持ち主であることは、先に紹介したとおりです。天皇の招集により、まず10月3日に島津久光が上京してきました。彼は、今度はおおっぴらに大砲隊2隊、小銃隊12隊、計15,000人という大部隊を率いてきました。前回の上京時同様、この軍事力を背景に政治の流れを変えようと言うのが彼の狙いです。10月18日には政治総裁職を勝手に辞めて逃げ出していた松平春嶽が、そして11月3日には伊達宗城(むねなり)が、それぞれ上京しました。一橋慶喜その人が京都に来たのは11月26日のことでした。

 山内容堂は、8月18日のクーデターにより、天下の流れが公武合体派の方向に決まったと見極めると、9月21日、当時土佐藩を牛耳っていた武市瑞山をはじめとする土佐勤王党の幹部を一斉に逮捕投獄し、藩内過激派の大掃除を断行しました。このため、少し遅れて12月28日になってようやく上京してきました。これで、久しぶりに一橋派の有力諸侯が京都に集まったわけです。

 島津久光は、一橋派の諸侯を説得し、彼ら有力諸侯に、クーデターの主役として一気に人気の高まった松平容保(かたもり)を加えたメンバーを、天皇が参与に任命し、この参与会議で国政を動かそうという体勢を作り出したのです。正式発令は12月晦日、この年最後の日になされました。さらに、翌年1月13日に久光自身にも官位が与えられ、同時に参与に任命されました。

 孝明天皇は、この参与会議の発足をことのほか喜び、家茂を何度か呼んで、長州を排撃し、幕府中心に軍備の増強を命ずるなど、この時期、幕府と朝廷の政策は完全に一体となっている観がありました。

 この参与会議が、しかし、2月中旬には早くも空中分解してしまいます。たたき壊したのは、一橋慶喜その人です。一橋派の諸侯は、そろって基本的に開国派の思想の持ち主ですから、朝廷の実権を手に入れたのを機会に、鎖港攘夷の国是そのものを改正しようとしました。ところが、その中心となるべき慶喜が、一人だけ鎖港攘夷論に固執して、会議を邪魔したのです。

 さらに、その翌日、2月15日、今度は中川宮朝彦親王の屋敷で、島津久光が松平春嶽や伊達宗城と善後策を相談しているところに、わざと酒に酔って現れ、朝彦親王に向かって、久光達「この三人は天下の大愚物、天下の大奸物にござ候ところ、いかにして宮は御信用あそばされ候や」といったのです。その場に、その三人が同席しているのですから、これは面と向かってののしったのに等しい行動です。当然彼らは激怒し、ここに参議会議は完全に暗礁に乗り上げます。

 慶喜は、さらに念の入ったことに、別途、孝明天皇には2回も奉答書を提出し、鎖港に向けて努力中である、と報告したのですから、天皇はもちろん、それを信用します。

 なお、この点は嘘ではありません。幕府は鎖港交渉のための遣欧使節をこの前年の暮れも押し詰まった12月29日に再び送り出していたのです。天皇が慶喜のいうことを信用すれば、外国との交渉を認めようなどという話に耳を貸すわけがありません。こうして参与会議は、完全に機能を止めてしまったのです。

 せっかく国元の大掃除を断行して、全面的に協力できる体制を作ってきた山内容堂は、この有様に絶望し、2月28日、辞表をたたきつけて帰国してしまいます。残るメンバーも、3月9日には全員辞表を書いて、ここに参与会議は正式に消滅することになったのです。

 なぜ慶喜がこのような行動にでたのかについて、慶喜は『昔夢会筆記』の中で、攘夷といったり、開国といったりしたのでは国是不確定で、幕府の権威が失墜するからだと自己弁護しています。しかし、これは例によって彼の虚言と見るべきでしょう。

 真意は、容易に想像できます。参与会議が成功する、ということは、それを実現させるにあたり、最大の功績者であった島津久光の権威がいやが上にもあがり、慶喜の存在が薄れてしまうということを意味します。先に本稿第2章で養君擁立問題で幕府が揺れた際に、慶喜が幕府のリーダーシップを考え、雄藩連合の形で政局を運営することを嫌って、自らも辞退の姿勢を崩さなかったということを述べたことがあります。その意味では、この時点での慶喜の行動も首尾一貫しているということができます。

 慶喜の考えでは、クーデターによって長州勢力の京都からの追い落としに成功するまでが薩摩の協力の必要な部分でした。ひとたび政治の実権を握ってしまえば、もはや薩摩その他の諸侯の協力は不要、というのが彼の本音と見て間違いないでしょう。そのための手段として、病的な虚言癖のある慶喜としては、天皇に対して攘夷の断行などと本音とは全く違うことを奏上するくらいは何でもないことであったわけです。

 先に紹介したこの前年5月の小笠原長行率兵上京事件が、幕府にとって惜しまれる理由はここにあります。もし、あれに慶喜が乗る勇気さえ持っていれば、何も攘夷鎖港などといわなくとも、きちんと開国路線のままで、この時と同様に強力な政権のリーダーシップがとれたはずなのです。

 それをやる勇気がなかったばかりに、そのわずか3ヶ月後の8月18日にクーデターを会津が行う羽目になったわけです。ところが、このクーデターは薩摩との共同活動であったために、慶喜としては、政局の主導権を執る手段として、鎖港攘夷路線をとらざるを得なくなったわけです。そのため、以後、幕府は鎖港攘夷という基本線を守るために、高価な犠牲を払う羽目になり、また、本来彼の与党であるはずの一橋派全員を敵に回すという暴挙まで必要になった訳です。

 歴史のイフはともかく、この時点では、孝明天皇が気に入りそうなことをしゃべりまくった慶喜が、3月25日、禁裏守衛総督に就任しました。さらに4月20日には、改めて庶政を将軍に委任する旨の沙汰書が出されています。

 こうして、慶喜は政治の主導権を握るのに成功したのです。かっての一橋派は、彼を見限って国元に引き上げて、ここに完全に分解することになります。

 なお、参与会議が今まさに崩壊しようとしていた2月20日、朝廷は年号を文久から元治へと改めました。

 

6. 禁門の変

 この元治元年3月27日、筑波山に水戸天狗党約2000人が挙兵しました。すなわち、慶喜のお膝元である水戸藩の内紛が火を噴いたのです。天狗党は、初期においては、勤王のための義挙という自らの大義に自己陶酔して、周辺の町村で金穀強奪などを繰り返したので、農民の激しい反発にあい、崩壊します。

 しかし、約1000人の残党は、慶喜を頼って、西へ向かいました。その勢力はきわめて強く、ほとんど向かうところ敵なしの進軍を行いました。また、幕府側が迎撃のため、ある程度強力な部隊をその行く手に集中した場合には、島崎藤村の名作『夜明け前』に描かれているように、同じく勤王の思想を持つ地方の有力農民の助けを借りて間道を抜けるなどしたため、この年12月27日にははるばる福井県にまで到達したのですが、そこで力尽き、加賀藩に投降しました。その彼らを、慶喜は、寒中にニシン倉に裸で放り込むというような虐待をしたあげくに斬殺に処する、というきわめて過酷な扱いをしたのです。というのも、彼らの騒動が引き金となって、禁門の変という大変な事件が引き起こされたため、慶喜は怒り心頭に発していたからなのです。

 すなわち、文久3年8月18日のクーデターで京都から追い落とされた長州藩過激派は、参与会議の崩壊と天狗党の乱に、付け入る隙があると見て、京都を武力で回復しようと企てたのです。幕府もこれを知って軍を集めます。両軍併せて5万の大軍が対峙しました。

 おそらく、この時こそが、慶喜の生涯の中でもっとも輝いていた時です。すなわち、彼の不退転の決意こそが、この困難な闘いで幕府を救ったからです。これ以前も、これ以後も、常に彼の決意がぐらつくのが原因で、幕府が衰退を重ねていったことを思うと、この時の彼は、異常としか言いようがありません。

 7月18日から19日にかけての深夜に長州軍が京都市中に突入を開始しました。これを聞いて深夜の2時に朝廷に参内した慶喜は、おびえて逃げ回る公家や親王を叱咤激励して、長州軍討伐の勅許を要請し、それと同時に会津軍、桑名軍に出動を命じます。3時にようやく勅許がおりました。その時にはもう戦端は開かれていたわけですから、彼が勅許を待って命令を下していたら、長州軍はそれだけでかなり有利になっていたはずです。

 長州軍は激闘を繰り返しつつ、最終的には御所内にまで突入してきました。特に主戦場になったのが、蛤御門(はまぐりごもん)だったので、この事件のことを禁門の変とか、蛤御門の変と呼ぶわけです。長州軍をここで迎え撃ったのは会津軍ですが、最初、会津軍は長州軍の勢いに押されてばたばたと倒されたのです。何とこの時、慶喜は手兵400名を率いて自ら会津軍の救援に駆けつけたのです。一橋家の兵は弱兵でしたから、その兵力が戦場に現れたこと自体は、戦況に何の影響も与えませんでした。しかし、総指揮官自らの督励に発憤した会津軍が、ここをしっかりと支えます。

 慶喜はさらに、御所内に銃弾が飛び込み、公家が浮き足立って、長州を許せ、と言い出していると聞くと、御所内に駆け戻り、天皇に拝謁し、あるいは公家に対して、戦は勝っている、と怒鳴り散らして動揺を抑えたのです。とにかく、ここで長州を是とする勅語がでたら万事休すだったわけで、彼の機敏な措置がこの日の幕府を救ったことは間違いありません。

 最終的に蛤御門の戦いで、幕府を救ったのは西郷隆盛の指揮する薩摩軍です。本来、薩摩軍の部署は蛤御門ではなかったのですが、西郷は戦闘の趨勢を素早く見て取り、独断でここに向かったのです。会津軍との間に、ぎりぎりの死闘を展開していたところに、薩摩軍の強烈な横撃を受けた長州軍は、一瞬にして壊滅することになります。その後、全軍総崩れになって西に逃げますが、幕軍の追撃にあって多数が殺され、ほとんど生きて帰れませんでした。この時、京都市内にいた長州方の著名人では、わずかに桂小五郎一人が脱出に成功したに止まります。

 長州軍を迎え撃つために動員された会津、桑名、大垣など諸藩の財政負担はきわめて大きかったはずで、とうてい疲弊しきっている当時の各藩が、自分でそのすべてを負担することが可能だったとは思えません。賜与の形を取るか、貸し付けの形を取るかはともかく、幕府としてかなりの支出を必要としたはずです。

 また、破れた長州藩は、京都の長州藩邸をはじめとして各所に放火したため、火が市中に燃え広がり、鎮火したのは21日になってからでした。このため、公家の屋敷だけでも数十戸、一般民家の罹災は2万8000戸に達し、鴨川の河原や諸街道は避難民であふれたと言われます。

 こうした被災者を放置しておいたのでは、社会不安が拡大しますから、これらに対しても何らかの手当が必要だったはずです。

 したがって、この禁門の変前後に相当の経費を幕府は必要としたはずですが、それがどの程度の額で、どうやって捻出したのかは、はっきりしません。おそらく、京都や大阪の豪商からの借り入れ、という形で現地で処理したことは確かです。この年、大阪市中にあったという張り紙の文章が今に残っています。次の文です。

「公儀において何の恩か為る

 今衣食は日月の恩

 当今の公儀は万民の寇也

 公儀へ御用金を出す馬鹿はなし

 仮令権威を以て用金申付候共、怨る計也

 十分の一にねぎって出すなれど、

 捨るより惜し也」

 幕府から御用金と称して、強制的に借り上げられる分限者の悲鳴が聞こえてくるような文章ではありませんか。また、こういう張り紙を取り締まる力のなくなった幕府の実力もよく判ります。

7. 下関戦争

 一橋慶喜が、朝廷で責め立てられ、苦し紛れに攘夷の決行期日として公約したのは、前に述べたとおり、文久3(1863)年5月10日のことでした。もちろん、慶喜自身はこのような公約を守るつもりはなく、幕府では、これは単なるポーズであると外国公使に向かって明言したことも、先に紹介しました。その他のほとんどの藩も、攘夷決行などという幕府の命令を守るつもりはなかったという点については、幕府と同様でした。

 しかし、ただ一つの例外がありました。長州藩です。同藩では、まさにこの日を期して攘夷を開始すべく、下関海峡を通過する外国船に対する砲撃を開始したのです。

 攘夷を呼号する藩としてはまことに矛盾したことですが、当時のわが国の技術で、砲台を作ることは不可能でした。そこで、長州藩では高島秋帆の下でオランダ流兵学を学んだ技術者である中島名左衛門を高禄で招いてきて、この攘夷のための砲台を作ってもらったのです。かわいそうに、この中島は、攘夷活動の一環として後に暗殺されています。

 問題は、この砲台がオランダの本から学んだ技術で作られた、という点にありました。ご存じの通り、オランダは国土の過半が埋め立てで作られた、といわれる国ですから、当然、沿岸防備のための砲台も、海を埋め立てて作りました。この中島という人は、同時代の蘭学者、例えば村田蔵六(後の大村益次郎)や福沢諭吉と違って、あまり想像力のなかった人らしく、手本から一歩もはみ出そうとはしませんでした。つまり、長州藩の砲台は、わざわざ海を埋め立てて作ったのです。

 もちろんこれは馬鹿げたことです。沿岸砲台は、欧米の常識としては、切り立った断崖の上に作るものです。砲台の位置は高いほど好ましいのです。なぜなら、砲台の位置が高くなればなるほど、当時の黒色火薬を使用した大砲では、射程距離がぐっと伸びるので、船の方から打ち返される心配無しに弾の雨を降らせることが可能になるからです。その上、切り立った断崖は、軍艦から海兵隊が砲台を攻め落とそうと攻め上ってくるのも、非常に困難にします。ところが、長州の砲台は、海を埋め立てて作ってあるのですから、射程距離は短いし、海兵隊の上陸もきわめて容易です。

 今、ドイツのライン河を船で旅すると、どうやって登ったのだろうと心配になるような断崖の上に古城の廃墟が数多く見られます。あれらの古城が廃墟となったのはナポレオン戦争の時代ですから、本稿で取り上げている時代より半世紀ほど前です。しかし、欧州の戦争技術は、この時期までは大した進歩を示していませんでしたから、本来であれば、ああいう感じに沿岸砲台を作るべきだったのです。

 ところが、長州藩はわざわざ水上に砲台を作りました。しかも、普通であれば沿岸砲台は、艦載砲よりも大きいものを使うのですが、長州のはむしろ小振りなぐらいです。また、相手は木造帆船ですから、威力を増大させるために弾を熱して撃つ、というのが沿岸砲台の常套手段ですが、そういうこともやっていません。このため、撃てども撃てども、大した威力はありません。しかも、対岸の九州側の諸藩は、砲撃などやらない、と明言しているものですから、長州の短い射程距離からはずれた九州よりの航路を通れば、ほとんど危険はない、ということになります。

 それどころか、この脆弱な水上砲台は、怒った外国軍艦から逆に撃ち返されて、無造作に壊滅してしまう始末です。すなわち、6月1日には米艦ワイオミング号が各地の砲台をその砲火で破壊したばかりか、長州藩の虎の子の洋式軍艦庚辰(こうしん)丸、壬戌(じんじゅつ)丸を撃沈し、癸丑(きちゅう)丸を大破させています。5日には、フランス艦セミラミス号及びタンクレード号が猛攻を浴びせ、250人もの陸戦隊が上陸して、砲台を焼き払ったばかりでなく、武器や甲冑が強奪されています。

 それでも長州藩の戦意は旺盛で、攻撃隊が去ると早速砲台が再建され、再び下関海峡を通過する外国船に対する砲撃が始まるのです。したがって、単なる報復攻撃ではなく、抜本的な対策を講ずる必要があることは明らかです。

 文久4(1864)年=元治元年3月にロンドンから帰任したイギリス公使オールコックは、列国に呼びかけて連合艦隊を組織することにしました。ちょうどこの時期は、前節に述べたとおり、慶喜が参与会議をつぶすために強硬に攘夷鎖港を唱えていた時期でした。慶喜は、このポーズを少しでも朝廷に信用してもらうために、江戸に命じて、主力輸出品である生糸の貿易統制を強化していました。そのため、この時期、横浜の貿易はすっかり沈滞していたのです。そこで、オールコックとしては、長州藩の攘夷を徹底的に叩くことで、同時に幕府に対する列強軍事力のデモンストレーションを行うことも狙ったわけです。

 英仏米蘭4カ国の間で話がまとまり、まず4月末に議定書が取り交わされ、ついで6月に共同覚え書きを作成して、条約上の権利を確保し、将来の安全保障のために、断固たる措置をとる、という旨を幕府に通知しました。

 本来ならば、幕府は、国内問題は幕府の責任で処理するから、時間をくれ、と交渉すべきところです。しかし、前節に述べたとおり、時あたかも、禁門の変の前夜です。幕閣の首脳は皆京都にいるのですから、適切な対応をする能力が江戸の留守部隊にはなかったのです。

 日本史学者の中には、長州藩が、連合艦隊の来襲に備えて国元の防備を固めるならば、大いに結構とばかり、これを受け入れた、という説を唱える人がいるのですが、これはちょっと信じられません。これまでの幕末の歴史に明らかなとおり、列強が動けば、必ず最後は幕府に賠償請求が来ることはわかりきっており、それがわからないほど暗愚な幕府ではないからです。事実、後に詳述しますが、ぎりぎりの段階で、攻撃の中止を慶喜は申し入れています。

 このように下関攻撃の時期が切迫していることは、当然長州藩も情報をつかんでいたはずですが、驚いたことに、長州藩は国元の防備を固めようとはしませんでした。それを完全になげうって、動員可能なすべての軍を京都に向けて進発させたのです。というより、これは一種の熱病のようなもので、組織的に軍が送り出されたのではなく、かってに各隊が上京していってしまった、という方が正しいでしょう。国元の防備などという発想は、当時の長州藩兵士には、ほとんどありませんでした。こうして京に集中した長州藩兵力と、会津、薩摩連合軍の戦いという形で起きたのが、先に紹介した禁門の変というわけです。

 他方、4カ国連合艦隊は着々と準備を進め、7月18日に、連合艦隊の出撃を正式に幕府に通知しました。前に述べたとおり、この日の夜に、禁門の変が起こるのですから、この日はまさに運命的な日といえます。

 今一つの歴史の偶然ですが、この同じ日、前年暮れに幕府が鎖港条約交渉のために派遣した遣欧使節が帰ってきました。彼らは鎖港交渉をするどころか、下関海峡通過時に破損した船に対する賠償とか、将来に向けての下関海峡通行権の確認、輸入関税の低減などを盛り込んだパリ約定をフランスで押しつけられ、イギリスに行くこともできずにあわてふためいて戻ってきたのでした。

 正使池田長発(ながのぶ)以下の面々は、欧州軍事技術の優越を説き、攘夷決行の危険性を説きましたが、これはいわば釈迦に説法です。慶喜はそんなことは百も承知で、政治的な賭として攘夷論を唱えているのです。聞く耳を持つわけがありません。

 このように情勢が緊迫している中で、形だけでも攘夷の実績といえるような結果をもってくるどころか、逆に厳しい内容を盛り込んだパリ約定などというとんでもない土産をもって帰ってきたのですから、厳しい処罰を科さないことには示しがつきません。そのため、池田長発は家禄600石を召し上げの上、隠居・謹慎を命ぜられるなど、全員に重罰が申し渡されました。長発は、幽閉中に発狂したということです。

 連合艦隊の方では、最終通告に対して幕府が何か建設的な返事を寄越すか、と待っていたところ、24日になって、パリ約定の破棄通告が幕府からなされました。前に述べたとおり、慶喜は参与会議をつぶす、というただそれだけの目的で、攘夷鎖港を打ち出したのですが、打ち出した以上はそれで頑張らねばなりません。したがって、これはその建前から来る必然の回答です。

 連合艦隊は、そこで、もはや実力行使以外にはない、と横浜を出港しました。艦隊の内訳は、イギリスが9隻でそれに積載する大砲が合計164門(以下同じ)、フランスが3隻64門、オランダが4隻56門、米国が1隻4門、合計17隻288門です。単艦の報復攻撃ですら壊滅させられていた砲台を破壊するためだけであれば、これほどの軍事力を動員する必要はもちろんありません。これはあくまでも幕府も含めた全日本に対する軍事的デモンストレーションなのです。

 この時、長州軍は禁門の変に破れたため壊滅状態にありましたが、それでも下関砲台の周りに奇兵隊を中核に支藩の兵や農民兵をかき集めて、なんとか約2000の兵をそろえていました。これに対して、連合艦隊の用意した陸戦隊は、イギリスだけで2000人、そのほかにフランス350人、オランダ200人、米国50人、計2600人ですから、人数だけでも長州側を上回る大兵力です。

 8月2日、連合艦隊は豊後水道の姫島に集結しました。他方、禁門の変で怒り心頭に発していた孝明天皇は長州追討の勅命を幕府に下していたのですが、この同じ日、諸大名に総登城を命じ、正式に長州征伐の開始を宣言したのです。これにより、ようやく長州の問題は国内で処理するので、外国は手を出さないでもらいたい、といえる状態になったわけです。そこで、幕府では、5日に攻撃延期を連合艦隊側に申し入れました。が、実はこの5日が下関戦争の開戦の日で、申し入れは完全に手遅れでした。

 この時期になると、長州藩も海上に砲台を作るのは馬鹿げていることに経験から知り、各地の断崖の上に砲台を作り直していました。連合艦隊の猛火に、位置の知られている砲台は一瞬にして破壊されたのですが、新たに建設され、隠されていた各地の砲台が激しく抵抗しました。連合艦隊の軍艦の周りは海面に落下する砲弾のため、白くなった、といわれるほどの激しい攻撃ぶりを示したのです。もっとも余り威力はなかったようです。

 翌6日にも激しい戦闘が続けられましたが、火力、陸戦力ともに連合軍が圧倒しているのですから、長州側に勝ち目はありません。二日間の戦闘で、下関近辺の長州軍はほぼ一掃されました。それでも8日まで小競り合いが続きました。もし、長州藩が禁門の変を起こさず、主力部隊を下関防衛に投入していたら、陸上戦についてはおそらく戦況が逆転していたことでしょう。しかし、この時の守備軍は奇兵隊などが奮戦しただけで、後の寄せ集めの軍は、敵兵の姿を見るなり逃げ出す始末でした。敵味方4000を越える兵力がぶつかっていながら、双方、数十名の死傷者で済んでいることが、長州側のこの時点での戦意の低さをよく示しています。

 8日に、高杉晋作が使節に立って、長州藩と連合艦隊の間で和平交渉が始まりました。通訳は伊藤博文と井上馨が務めました。

 長州藩の一筋縄ではいかない点は、下関海峡砲撃の始まる直前に、藩命により5人の藩士をイギリスに留学させていたことに良く現れています。オランダ式砲台を築いて攘夷を行おうとしたのと同様に、戦う相手を研究するのは武士として当然の心がけですが、それにしても良く留学志願者がいたものです。

 伊藤と井上はロンドンの地で戦争必至と聞き、学業をわずか半年でなげうって駆け戻ってきていたのです。この時、残り3人の留学生は、学業優先とイギリスに残りました。3人ともそれぞれ、その選んだ学問分野ではわが国の先駆者と考えられているようですが、一般に知られる人名とはなっていません。ちなみにその3人の名は、山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助です。

 命がけの危険と大変な苦労をして英国に着いたばかりなのです。私なら、たぶん躊躇うことなくイギリスに残ったと思います。この時点で万里の波濤を越えて日本に馳せ帰る、という決断を迷うことなく下せたという点に、彼らの政治家としての力量がよく現れています。伊藤博文が維新の元勲となり、お札にまで顔を残しているのは、単に時勢に乗ったのではなく、自らの意思で時勢を動かすだけの器量があったからです。下関戦争講和という大舞台で、彼ははじめて青史に登場することになります。

 長州藩は、禁門の変と下関戦争というダブルパンチにより、壊滅的な打撃を受けていたにも関わらず、過激な攘夷派はなお戦争継続を主張してやみませんでした。そのため、危険を感じて高杉や伊藤達が一時姿を隠す、というようなことがあったりして、交渉は難航しました。が、14日に条約がまとまりました。長州は、今後、外国船の下関海峡通過を認めること、したがって、砲台の再建は行わないこと、石炭や薪水など必要なものは売ること、の三つだけが、この条約によって発生した長州藩の義務です。

 この事件の賠償金交渉は江戸で行うこと、という条項が入っていますが、幕府と戦闘状態にある長州が江戸で交渉できるわけがないので、これは例によって幕府に後の始末を押しつけた、というわけです。薩英戦争と同じ結果になったのです。つまり、この条約は、長州藩側としては、戦争に負けたという自明の事実を確認し、戦前において負担していた義務を間違いなく履行することを宣言しただけで、新たな責務が全く含まれていないのです。高杉晋作の交渉力の高さを如実に示しています。

 交渉の中で高杉は、長州藩による砲撃は、幕府の命令によるもので、長州藩の本意ではない、と主張し、その証拠として朝廷や幕府からの文書の写しを示しました。皆さんもご存じの通り、この文書は間違いのない本物ですから、高杉晋作の議論が強い説得力を持つのは当然といえます。これにより、列強は幕府に対して強い不信感を持つに至りました。その意味で、この下関戦争は、幕府の滅亡に至る道程での決定的な里程標ということができます。

 連合艦隊は、この不信感を慶喜に対してアッピールする手段として、帰途、わざと摂海に侵入して天保山沖で一泊し、京・大坂を恐怖にたたき込むという強烈なデモンストレーションを行いました。

 こうして、賠償金交渉は、長州などそっちのけで、幕府との間で行われました。オールコック等は、9月22日、艦隊が帰ってくるのを待ってから、幕府に対して、下関開港か、300万ドルという天文学的な賠償金のいずれかを選べ、と詰め寄ったのです。この二つを並べれば、誰が考えても、開港の方を選ぶはずだ、というわけです。

 しかし、この時点では、まだ長州は降伏していませんし、下関のような幕府がコントロールできない港を開港したのでは、妥当すべき相手である長州を富ませるおそれがある、ということも確かでしょう。が、それだけのことであれば、例えば博多など、別の港を代替案にして交渉する余地もあったはずです。

 交渉できなかった最大の原因は、ここでも慶喜が鎖港攘夷をその基本政策としていることです。それが、幕府から選択の余地を奪いました。幕府は300万ドルの方を選んだのです。さすがに、一度には払いきれず、後に詳述するとおり、慶応元年から3年に掛けて、半分の150万ドルを支払ったところで、幕府は滅びました。残り半分は明治政府が引き継いで支払ったのです。国内政治で一時的に支配権を握る代償として、日本にこれほど大きな負担を掛けた慶喜という人物をほめる人の気が知れません。

 この賠償金の明治政府の履行状況を簡単に説明しておきましょう。明治政府は明治7(1874)年に、英国に対して64万5000ドル、仏、米、蘭各国にそれぞれ78万5000ドルを支払いました(延滞利子を含む)。明治7年といえば、佐賀の乱があり、また、台湾出兵を強行した年です。財政の厳しい中で、さぞ辛かったろうと思うのですが、それ以上に、この厄介な負債のけりをつける方が、明治政府として急務だったわけです。

 なぜかというと、オールコック達は、この時、同時に、横浜防衛軍の常駐施設を幕府の負担で建設することも要求したからです。要するに、横浜の租界化です。これを以前からオールコックが狙っていたことは、ヒュースケン遭難事件の際に説明したとおりです。しかし、今度は、長州の攘夷行為そのものが幕府の命令によるものだ、という動かぬ証拠と、巨大な艦隊という背景がありますから、絶対に強い立場です。

 結局、幕府はおれて、英軍基地として2万坪、フランス軍基地として3000坪の施設をそれぞれ建設する羽目になりました。英軍基地の場所は、今現在、港の見える丘公園として知られる場所です。日本の海の玄関横浜港を一望する景勝の地ですが、これを軍事的面から見ると、この地を握るものが港の生殺与奪の権を握っている、ということを意味します。明治政府は、幕府から引き継いだ賠償金を支払うことで、ようやくこの要衝の地を返してもらったのです。英国基地の返還は、翌明治8年、フランス基地の返還はさらに遅れて明治9年のことでした。

 下関戦争は、もう一つ、予想外の置き土産を残しました。オールコックが、日本の内政に勝手に干渉したとして、その責任を問われて本国に召還されたのです。薩英戦争で、海軍当局をあれほど厳しく指弾したイギリス世論をおもんばかってのことに違いありません。

 オールコックには、上記のようなひどい目に遭わされているにも関わらず、幕府は彼の離日を惜しんで、彼の行動が正当であったという公文書を持たしてやりました。その甲斐あってか、オールコックは、翌年には駐清国公使という日本公使より一段上の地位に返り咲いてアジアに戻ってきました。しかし、二度と日本に来ることはありませんでした。

 日本公使としては、すでに彼の後任として清国育ちの、あくの強い行動で知られるハリー・パークスSir Harry S. Parkesが赴任してきていたからです。パークスは前任が上海駐在領事で、ある程度日本の事情を承知しています。長崎に着いたのは慶応元(1865)年閏5月2日でしたが、彼は、そこで精力的に諸藩の代表と会って日本の情勢をつかみ、さらに下関にも寄港して、桂小五郎や伊藤博文と会談しています。そのため、横浜公使館に着任したのは同26日のことでした。以後、幕末史は、パークスと、この前年に着任していたフランス公使レオン・ロッシュLeon Rochesとのつばぜり合いという新しい局面に入ります。

8. 第1次長州征伐 

 下関戦争と同時進行の形で展開されていた第1次長州征伐は、総督として尾張慶勝(よしかつ)、副総督として越前藩主松平茂昭(もちあき)を頂き、35藩15万人という大兵力で、長州を包囲し始めていました。もっとも積極的に戦意に燃えているのは薩摩軍ぐらいのものでした。どこの藩も、財政逼迫の折から、長州まで軍を送るだけでも大変で、とても戦闘の用意があるとはいえません。だから肝心の総督である慶勝自身からして戦意旺盛とは言えません。再三辞退し、全権委任を条件にようやく引き受けたという状態でした。正面から戦闘をして長州藩を滅ぼすつもりなら、全権委任などという条件を取り付ける必要はありませんから、彼の腹としては、できるだけ早くに謝罪降伏させて、戦闘には入らないようにしよう、ということだったと考えられます。そのことは、その後の経緯からも明白です。

 しかし、慶勝の参謀として控えていた西郷隆盛は、この機会に長州藩をどこか東国にでもお国替えして、長州という国が将来ともに禍根とならないようにしようという腹でした。少なくとも9月7日の段階で彼がそう考えていたことは、複数の証拠が残っていて、確かです。そして、慶勝は、その指揮下にある唯一の期待できる戦力を率いている西郷に全面的な信頼を置いていたのです。したがって、このまま事態が推移すれば、日本史のその後の流れが大きく変わっていたことは間違いありません。

 長州藩の方は、といえば、禁門の変、下関戦争と相次ぐ連敗で、疲弊しきっていました。こういうときに得てして起こりがちなことですが、激しい内紛を起こして、門閥派が、家老の周布政之助を自害に追い込み、それまでの過激派に代わって政権を握り、幕府に対してひたすら恭順という姿勢を示し始めていました。したがって、特に戦闘を行わなくとも、西郷の狙い通りの事態となっていたはずです。

 この時、歴史の上に突然現れて、幕末史を大きく変えたのが勝海舟と坂本龍馬の二人です。

 坂本龍馬は、幕臣である勝海舟の弟子でありながら、革命思想家であり、不倶戴天の敵として互いに憎悪し合っている薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎のいずれとも親友という不思議な人物です。その彼が、9月11日に、勝と西郷の最初の会談をお膳立てしたのです。

 勝海舟を斬ろうとして彼を訪ねた坂本龍馬が、その人物に魅せられて直ちに弟子になったという話に象徴されるとおり、勝海舟という人物はカリスマ的魅力を持っていました。西郷も勝の魅力に屈した一人でした。この9月11日の会談時に、勝が西郷に何を話したのかは記録にありません。しかし、容易に想像はつきます。8月18日のクーデターで政権を握った慶喜が、ひたすら幕府権力の肥大化と自らの独裁権力の確立を狙って、日本という国家の利益を犠牲にしている、ということであったに違いありません。したがって、その幕府の言うなりに長州を締め付けるのは長い目で見れば、決して薩摩の利益にはつながらない・・。

 もっともこの会談については、その後、西郷も勝も一言も触れておらず、江戸城無血明け渡しで有名な三田会談が、両者の最初の出会いであるかのように終生振る舞い続けました。勝海舟という人は、この三田会談の前後にも、間違いなく彼がやったのに違いない秘密の行動をいくつもやっていることは証拠があって確かですが、やはり生涯認めませんでした。

 が、この会談そのものが伝説に過ぎないとする学者も多くいます。司馬遼太郎もその説をとったのでしょう、彼の代表作「龍馬が行く」にも、この会談は触れられていません。

 私は、幕臣としての勝の立場上、この会談の存在を認めることもまた、適切でない、と考えて一生認めなかったに過ぎず、会談はあったと考えています。そうでないと、西郷の意見がこの日以降、突然180度変わった理由が説明できないからです。

 とにかく、確かな事実として、西郷は突然意見を大きく変えました。長州に形式的に降伏させたら、それ以上何もすることなく、長州征伐は終わりにしよう、というのです。慶勝には、もちろん否やはありません。

 もっとも、力任せに攻めるというのと違って、こういう政治性の強いやり方は、相手方を得心させるのに少々手間がかかります。ですから、一連の事件の責任者として、長州藩の三人の家老に切腹させ、首を出させて、長州征伐にけりを付けることができたのは、この年、12月27日のことでした。

 長州征伐のこのような竜頭蛇尾の結果に慶喜は驚き、慶勝が西郷にたぶらかされた、と嘆く手紙を書いています。

 前に述べたように、この同じ日に、水戸天狗党は福井で加賀藩兵に投降しています。最初1000人ほどいた軍勢がだんだんに減って、投降の時点では776人でした。加賀藩が預かっている間は、同藩は、彼らを赤穂浪士の先例に倣って士道を以て遇しました。しかし、慶喜がわざわざ福井まで出向いていって受け取った後は、待遇が激変します。幕府では彼らを敦賀に監禁しました。これほど大量の犯罪者を収容する施設は、日本のどこに行ってもあるわけがありません。そこで海岸に並んでいるニシン倉の明かり窓などを土で塗りつぶして逃げ口を塞ぎ、臨時の監獄としました。北国の寒中だというのに、衣類はおろか、下帯まではずした素っ裸で放り込んだ、というのだからすさまじい話です。しかも、一日の食事は一人握り飯2個ずつだったというのです。これでは生き延びるためには、よほど頑健でなければなりません。最終的には、全員に死刑判決が降りて、斬首になっていますが、その数は352人です。つまり半分以上は獄死したわけです。

 こうした必要以上に過酷な処遇には、明らかに、慶喜の意思が読みとれます。天狗党の面々は、禁門の変、下関戦争、第1次長州征伐と、この年立て続けに起きた事件で溜まりに溜まっていた慶喜の鬱憤の吐け所とされたのだと思います。彼らが水戸藩士で、しかも慶喜を頼って嘆願に行く、という名目で、本州のもっとも幅広いところを武装横断する事に成功して徹底的に幕威をさげたという事実が、いよいよ慶喜の憎悪を呼んだのに違いありません。が、もし、外に何の事件もない年なら、慶喜もあれほど過酷な処遇はしなかったのではないかと思います。

 私は、現在、茨城県南部に住んでいます。ちょっとした用があって、昔からの土地の人に、県庁に行くと言ったところ、「天狗党の昔から、最後には裏切るから、水戸っぽは信用するな」といわれてびっくりしたことがあります。よく聞いてみると、天狗党が何を意味するのかは知らないで、単に水戸の県庁は信用するな、という表現の強調型として、このフレーズが使われていることが判って、2度びっくりしました。県南と県北の対立心もさることながら、そういうちょっとした表現に、百年以上たった今日でさえ天狗党が生き残っているほどに、当時この惨殺事件は、茨城県民に強いショックを与えた、ということが判ります。

9. 横須賀工廠の建設

 元治元(1864)年からその翌年にかけて、わが国を取り巻く情勢はいよいよ加速します。これまでもある程度そうでしたが、これからの各節は、ほとんど同時進行の事件となります。なお、元治2年は4月7日に慶応と改元されますが、混乱を避けるため、改元以前についても、同年の出来事は慶応元年と、以後、表記します。

 下関戦争の責任を追求されて、英国公使オールコックが不在になると、俄然元気を出したのが、フランス公使レオン・ロッシュLeon Rochesです。この機にフランスの日本における権益を確立しようと考えたのです。

 下関戦争の少し前、元治元年3月に日本に着任したロッシュは、その直前の職が、フランスにとって最も重要な植民地であるアルジェリアの総督だった、という、幕末にわが国に駐在していた各国公使の中では、超弩級の大物外交官です。年齢もこの時54才で、在日外交官中では間違いなく最長老でした。

 前職が出稼ぎ商人に過ぎなかった米国公使ハリスは少々ひどすぎるとしても、オールコックにしても、もともとは中国で開業していた外科医で、リュウマチのため手が使えなくなって外交官に転じたという人物です。日本に着任する以前に、10年以上外交官としての経験を積んでから日本に赴任したので、決してハリスのような素人ではありませんが、間違っても生粋の外交官とはいえません。日本で最大の権益を持つ両国がこんな調子なのですから、後の国も似たり寄ったりという状況でした。

 その中に、突然フランスだけがこのような超大物を送り込んできたわけで、そこには本国政府の強い決意が認められます。すなわち、当時フランスは世界最大の絹織物工業国であり、フランスとしては、きわめて切実に原料の生糸や、さらにはその元となる蚕種を求めていたのです。ところが、当時世界最大の生糸生産国である清国市場では、フランスは完全に後塵を拝してしまって、食い込む余地がありません。

 そこに突然、彗星のように、清国よりも優秀な生糸を輸出する日本が出現したわけです。この有望な新市場で、何とか英国を出し抜くことができれば、フランス絹織物産業の未来は明るいといえます。さらに、アルザス地方などで勃興しつつある機械化された綿産業の製品の販売市場としても、日本は大いに当てにできます。

 とはいうものの、この時点におけるフランスの日本市場における比率はわずか1.7%に過ぎず、正気の人間であれば、これほどの数値からの挽回などは普通考えません。フランスがこのような大変なばくちに踏み切ったのは、この時、フランスを動かしていたのが、ナポレオン3世という稀代の山師であった、という側面を無視することはできません。彼は大ナポレオンの甥という血統だけを頼りに、皇帝の地位にまでのし上がった人物です。メキシコの銀に目を付けると、南北戦争で米国が手を出せないのを良いことに、ここを自国の勢力圏に入れようと画策し、また、ベトナムを植民地化しようと画策するなど、フランスの政策全体として、きわめて投機的な傾向が目立つ時代なのです。

 しかも、ロッシュには、ちゃんとその意志を直接に幕府に伝える手段がありました。開国直後の頃は、日本と外国との意思の疎通はオランダ語だけが頼りであり、そのため、ハリスが連れてきたヒュースケンにどこの国も頼らざるを得ない、という奇妙な状況が生まれていたことは、先に紹介したとおりです。が、この頃になると、ちゃんと日本語が使える外交官が生まれてきました。英国の場合、それが有名なアーネスト・サトーです。フランスでは、カトリック僧のメルメ・ド・カションという人物が公使館付き通訳官として、見事な日本語を使って活躍を始めたのです。

 カションは特に栗本鋤雲(じょううん)と親しく、互いに言葉を教えあったりした中です。鋤雲は、カションに和春という字をあてています。そして、その栗本鋤雲は、この時期軍艦奉行並の地位にありました。したがって、交渉相手としてはもってこいの地位です。なお、鋤雲は、慶応元年11月には外国奉行に栄進していきます。

 また、文久の改革で忌避されて、寄り合いに放り込まれていたタカ派の小栗忠順が、勘定奉行に返り咲いたのが元治元年8月13日、すなわち8月18日のクーデターの直前です。彼は、以後、この年の暮れまで、きわめて出費の多い幕府財政をしっかりと支えます。彼が対馬事件では、地元で顰蹙を買うような事なかれ主義的体質を示したにせよ、単なる門閥上がりのお坊ちゃんではなく、能吏であったことは明らかです。その才能を買われて、元治元年12月18日に軍艦奉行に転じていました。軍艦奉行及びその並として、この小栗忠順と栗本鋤雲は密接な協力関係にありました。

 小栗忠順から見ても、フランスからの急接近は大いに歓迎するところです。日本市場で圧倒的な存在である英国を掣肘する武器として、フランスとの関係を使えるからです。

 例えば、英国は、日本に積極的に武器を売りましたが、その場合、必ず時代遅れのものを売るように努めました。すなわち、日本を中古品の売却市場として活用はするが、日本が自国の脅威となるような武器は間違っても提供しようとしなかったのです。代表例がアームストロング砲です。薩英戦争の時に猛威を振るったこの最新鋭の施条砲を、英国は決して日本に売ろうとはしませんでした。そこにつけ込むチャンスを見つけたロッシュは、最新鋭の艦載用銅製施条カノン砲16門を日本に売却しています。長州征伐に向けて風雲急を告げつつある慶応元年5月に、これは日本に届いて、幕府を非常に喜ばせました。

 こうした一連の努力の中で、ロッシュが挙げた最大の成果が、本節のタイトルとして掲げた横須賀海軍工廠の建設です。幕府との間の契約では製鉄所となっており、日本史の本では普通そのままそう書かれることが多いのですが、その実体は単なる製鉄所ではなく、総合的な海軍工廠です。

 慶応元(1865)年1月29日に、フランスと幕府の間に締結された契約は次のような内容を持っています。すなわち、総計9万坪に達する敷地に、フランス海軍の中枢的軍港であるツーロンにある工廠と同規模の工廠を建設するというのです。具体的には4カ年で、横須賀の地に、製鉄所1、造船所1、修船所2を建設し、また、横浜に訓練用の小製鉄所1を建設する、とされており、事実その通りに建設されました。これこそ、後に明治政府に引き継がれて、横須賀鎮守府の命脈となった海軍工廠の起こりです。米海軍及び海上自衛隊の中枢的施設として、今日も機能しています。

 この巨大施設の建設代金は240万ドルで、これは総額がフランスからの借款になります。借款には当然担保が必要です。この場合、担保になったのが、生糸貿易です。すなわち、日仏それぞれに少数の豪商からなる公益組合を設立し、これが生糸と貿易を独占し、その貿易の利益から借款を返却する、というのです。まさに、フランスの日本市場での出遅れを一挙に回復する起死回生ともいうべき一手で、辣腕家ロッシュの面目躍如というところです。事前に英国に知られていれば、どんな横槍が入ったか判ったものではなく、その意味で、ちょうどその時期に起こったオールコックの召還という事件は、ロッシュにとり、まさに天の助けであった、ということができます。

 なぜこのような財政の厳しい時期に、幕府はこうした巨大施設の建設に踏み切ったのでしょうか。理由は、まさに財政問題、すなわち経費の節減にあります。幕府は、先に紹介したとおり、外国から次々と軍艦を買って海防力の強化に努めてきました。しかし、軍艦というものは、その最善の能力を発揮できるようにするには、点検修理を怠ることができません。

 例えば、現在のわが国海上自衛隊の自衛艦の場合、だいたい1年に3ヶ月程度は定期検査のため、ドック入りしています。つまり、軍艦というものに、フルにその持てる能力を発揮させようと思ったら、1年間の4分の1の時間は戦力にならない、というほどのしっかりしたメンテナンス作業を毎年続けねばならないのです。

 当時は、そんなに長期間はドックに入れなかったはずですが、それでも基本的には戦闘艦である以上、定期的なドック入りは必要でした。多分、その頃の幕府はそういうことは判っていなくて、故障するまで使い続ける、というやり方をとっていたはずです。幕府が買った船は、咸臨丸のような新造船もありますが、大半は中古船でした。船は、古くなれば、急速に故障をおこす頻度が高くなり、実際に故障するまで酷使すれば、その修理に要する費用が高くなり、期間が長くなります。ところが、当時、わが国にもっとも最寄りのドックは上海のものでした。したがって、そこへの往復だけでも結構時間がかかります。しかも支払いは外貨です。また、上海まで行けないほどの故障をおこしてしまったら、虎の子の船が使えなくなってしまうわけです。

 そうしたことから、幕府では、海軍が充実するにつれて、その維持・修理費用が急激に増大していたのです。海舟が残した『海軍歴史』という書に、慶応3年、つまりこの工廠建設に踏み切った翌々年の、1ヶ年の海軍維持経費の記録が残っています。年間合計で92万800両とあります。つまり国内にドックがない状態では、維持管理費、つまり軍艦を単に海に浮かべ続けておくだけで、毎年100万両程度の巨大な費用が必要になる、というわけです。この巨額の出費を抑える方法はただ一つ、早急に国内にドックを建設することです。幕府財政が火の車である状態下で、あえて巨大施設の建設に踏み切った理由が判ると思います。

 それにしても、下関戦争で、払わなくとも済む300万ドルの賠償金は、この巨大施設の建設費を上回るわけで、それを支払う方を選ぶというというのは本当に馬鹿げた話という外はありません。

10. 条約改定

 第1次長州征伐は、実際の戦闘には入りませんでしたが、15万人という大変な人数を長州との国境地域に集中させたのですから、幕府として、自ら動員した兵力に要した費用として直接に、あるいは動員した諸大名に対する交付金という形で間接に、かなり多大な費用が必要になったことは間違いありません。

 それがどの程度に達したのかは判りませんが、とにかくこのために、下関戦争の後で列強に支払うと自分から約束した300万ドルの賠償金を捻出することが、幕府はできなくなりました。そこで、幕府は、慶応元年3月、4カ国の公使に対し、償金の第1回分50万ドルは本年6月に支払うが、第2回分については1カ年の猶予を得て、明年6月に支払いたいこと、その後は約定通り3ヶ月ごとに支払うということを申し出ました。

 きわめて巨大な額の問題だけに、各国公使はいずれも自分で諾否を決められず、本国政府に請訓しました。オールコックが本国から召還された後、英国代理公使を務めていたウィンチェスターCharles A. Winchesterは、幕府としては、諸侯が直接貿易するのを妨げるため、諸侯の領土内に新港を開くよりも、償金の支払いを選ぶであろう、と正しく判断した後、ここで償金の支払いを強制すれば、幕府はその捻出手段として新税を導入するであろうし、そうなると、貿易発展の障害となるので、この機会に兵庫の開港と通商条約の改定を迫るべきである、という趣旨の報告を本国に送りました。

 パークスは、この請訓に対する訓令を持って日本に赴任してきたのです。内容は、賠償金の3分の2を放棄する代わりに、兵庫又は下関の開港と、条約に勅許を得ること、輸入税を低減することというものでした。

 フランス公使ロッシュはこれに反対しましたが、圧倒的な権益を握っている英国には勝てません。そこで、ロッシュは妥協策を講じました。結局、4カ国共同で、賠償金のうち6分の5にあたる250万ドルを放棄する代わりに、前記三条件を飲むように要求することになりました。つまり、この年に第1回分として支払った50万ドルは返さないが、後は棒引きにする、というきわめて幕府に有利な線までロッシュは英国から譲歩を取り付けてくれたのです。

 また、幕・長戦争における厳正中立の厳守という条件の取り付けにもロッシュは成功しました。詳しくは次節に述べますが、この時期、すでに長州は第二次長州征伐に立ち向かうため、大車輪で上海などから武器を輸入していました。対幕戦の総司令官である大村益次郎自身が上海まで密航して武器の買い付けにあたっていた、といわれます。このため、列強の厳正中立という事態は、長州を非常に苦しめることになります。

 この時、将軍家茂は三度目の上京をしていました。これもまた、第二次長州征伐のためです。

 下関戦争の帰り道に行った摂海侵入が、京・大坂に与えた衝撃の大きさに味を占めていた列強は、直接将軍と交渉するため、再び連合艦隊を組織すると、各国公使はこれに搭乗して大阪湾に向かいました。前回ほど大規模ではありませんが、英国艦4隻、フランス艦3隻、オランダ艦1隻、計8隻というのは、ペルリの浦賀来航時の倍の勢力で、はっきり示威を狙ったものということができます。公使一行が兵庫沖に到着したのは、慶応元年9月16日のことです。

 9月23日に幕府老中の一人である阿部正外(まさとう)が英国艦を訪れました。米国及びオランダ公使同席の下で、パークスは前記3条件を突きつけました。阿部は、国内の事情から条約勅許が未だ得られず、また、兵庫の即時開港も困難なことを述べました。これに対してパークスは、長州その他の大名が外国に友好的になっていることを引き合いに出し、将軍が日本の主権者であるというならば、条約の遵守を国内に強制できるはずだ、と主張しました。阿部は即答できないとして、9月26日に改めて回答すると答えました。

 ロッシュは、あえてそこに同席せず、英国艦からの帰途の阿部を招いて、幕府と英国公使との艦に、斡旋の労を執る用意がある、と伝えました。

 幕府では将軍臨席の下に25日に、大阪城内で閣議を開きました。実は、この時期、薩摩藩は外国の要求で幕府が苦況に陥っているのに目を付け、慶喜によってつぶされた参与会議、すなわち有力諸侯会議をもう一度復活させ、外交問題などに関する決定権を幕府から奪って、諸侯会議の手に取り戻そうと画策していました。

 この時期、パークスの腹心の通訳官、アーネスト・サトウはかなり薩摩に接近していましたから、その辺りの情報はかなり正確に把握していました。パークスの発言も、こうした国内情勢を把握した上での揺さぶりだったのです。

 そこで、閣議の場で、阿部は、幕府の権威を確立する上からも、兵庫の開港に踏み切るべきだ、と論じたのです。老中松前崇広(たかひろ)もこれに賛成し、幕閣はいったん兵庫開港に決定しました。

 一橋慶喜は、自分が出席していなかった閣議でそのような重大な決定がなされたのを不愉快に思い、公家を扇動して阿部正外及び松前崇広の2名を、兵庫の無断開港を図ったとして、官職剥奪の勅命を下させたのです。彼の人物の小ささあるいは独裁志向がよく判ります。

 老中に対するこのような一方的な処分は前例のないことで、家茂は激怒し、将軍位の辞表を朝廷にたたきつけ、10月3日に、江戸に帰ると決定しました。将軍が辞表を朝廷にたたきつけるということは、将軍として政治を執り行うことをやめるということですから、これはまさしく大政奉還です。大政奉還に関する慶喜の決断を褒め称える人がいますが、このように、大政奉還というカードは、この時期、既に幕府の念頭にあったということができます。慶喜は、むしろこの最強のカードを切るのが遅れて幕府を滅ぼしたことが非難されるべきなのです。

 このままでは、長州征伐どころか、幕府政権の行方そのものがどうなるか判りません。一橋慶喜と松平容保は驚いて、将軍を慰留していったん二条城に迎えるとともに、自ら参内して条約勅許及び兵庫開港の切迫していることを天皇に告げて説得しました。

 長時間の会議というのは慶喜の得意技です。その間、脅したり賺したりしながら、会議参加者がへばって、慶喜の言うなりになるのを待つのです。この時も、長時間にわたって弁舌を振るった結果、結局、5日の夜8時になって天皇が折れ、条約については勅許を与えるが、兵庫開港は認めない、という妥協案を飲んで話がつきました。

 老中本荘宗秀は、英国艦にいってパークスに、条約勅許が得られたことを告げ、しかし、兵庫開港については許可のなかったことは告げずに、これは予定通り将来のことと述べました。ところが、ここで本荘はパークスの恫喝にあって、本来の条件であったはずの賠償金の残金支払いを免除する、という条件を自ら放棄しました。結局、条約勅許だけをただ取りされた結果となりました。

 この事件は、諸外国に対し、幕府の権威の低下と朝廷の実力に対する認識を新たにさせました。親幕派のロッシュが、本国に次のように書き送っていることは、その典型です。

「余は、条約勅許の重大性については、既に感知していたが、今、兵庫沖の談判に当たって、その意義の重大なることに驚嘆せざるを得ない。それは数百年来、政治の実権を将軍に委任された結果、当然衰微したものと考えられた天皇の権威が少しも衰微していなかったことである。」

 幕府と馴れ合うことで利権を確保しようと狂奔しているロッシュでさえ、このような感想を持ったのであれば、より冷めた目で幕府を見ていた英国側が、これ以降、より幕府離れをした行動をとるようになるのも無理のないところです。

 この後、慶応2(1866)年4月に、幕府と列強の間で関税率の改定交渉が始まり、5月13日に老中水野忠精と4カ国の間に改税約書が締結されました。その要旨は、輸出入税ともに、5%の関税率を原則とし、生活必需品、例えば米については無税とする、というものでした。しかも従来は従価税であったものを従量税に変えました。

 すなわち原価の5%とされていたので、原価の認定を通じて幕府側のコントロールが可能であったのです。ところが、今回は平均価格の5%ということになったので、幕府側の裁量の余地は全くなくなりました。これは、従来清国との間で列強が有していた権利と同じものです。明治政府が鹿鳴館のような国辱的な外交を展開することによって撤廃を目指した不平等条約は、この時、その全体像を見せたのです。

 もっとも、経済学者の説によると、明治維新によるわが国経済の著しい発展は、この自由貿易のおかげだということですから、治外法権と異なり、これは決してわが国に害をなしたということではありません。

11. 第2次長州征伐

(1) 開戦まで

 第1次長州征伐が元治元(1865)年12月27日に、不徹底な形で終わったことは前述したとおりです。しかし、不徹底であれ、こうして長州が降伏した以上、あとは戦後処理が始まるはずでした。ところが、実はその時、長州では大変な事件が起きていたのです。

 高杉晋作は、下関戦争で連合艦隊との講和条約を首尾よくまとめた後、藩内過激派に命を狙われ、藩外に亡命していました。しかし、元治元年12月、単身下関に現れると、伊藤博文率いる力士隊を巧みに扇動して、16日に挙兵させるのに成功しました。それまでの長州藩の戦いには、一部農民層が加わっていたにせよ、武士層を中心としたものでした。それに対して、彼の呼びかけは、直接農民層に向けられた点に、大きな特徴がありました。

 彼の呼びかけに応えて各地で農民兵が決起し、見る間に巨大な勢力となりました。特に、奇兵隊が、絵堂の戦いで門閥派の軍を撃破したのが決め手となり、翌慶応元年2月5日には、過激派が再び藩の政権を握るに至るのです。つまり、第1次長州征伐軍と長州藩との降伏交渉中、実は同時並行で藩内では内戦が継続しており、慶勝などが、討伐の目的を達成したと喜んで引き上げた後、すぐに、再び過激派が政権を奪取していたのです。

 当然この情報は、幕府の諜報網のキャッチするところとなります。

 慶喜は、このような状況は、幕府の権威を低下させるもので、黙過しておくことはできない、と考えます。江戸の留守部隊も、その点では全く同意見です。こうして、第2次長州征伐が始まることになりました。

 4月19日、幕府は、長州征伐のため、将軍自らが進発する、と発表しました。そして、5月16日、家茂は馬上の人となりました。これは彼の将軍としての3度目の、そして最後の上洛となりました。彼は大阪で病に倒れ、2度と江戸に戻ってくることはありませんでした。

 これに対して、長州藩は、表面上は徹頭徹尾、恭順という姿勢を崩しません。その結果、表面に現れているところだけを見ると、まるで無抵抗の相手を幕府がかさに掛かっていじめているようにしか見えません。

 そこで、例えば、第1次長州征伐では主力となった薩摩藩は、これを無名の帥(むめいのすい=大義名分のない戦)と評して、もはや協力しようとはしません。アームストロング砲を自力で国産化に成功するなど、強大な軍事力を誇る佐賀藩も同様に動こうとはしません。黒田藩にいたっては理由を述べることすらせずに、不参加の意思を明らかにしています。

 実はこの裏で、再び坂本龍馬が動いています。幕末史を大きく転回させた大事件、薩長同盟が正式に成立するのは、このしばらく後、慶応2年1月21日のことです。しかし、慶応元年閏5月には、ほぼ薩長が互いに援助するという話を彼はまとめてしまっていたのです。すなわち、正式には同盟はできていませんが、この時期以後、薩摩は全面的に長州に協力するようになってきます。

 前に述べたとおり、列強が厳正中立の立場を決めたため、長州藩は、来るべき対幕戦争に欠くことのできない新式の洋式武器の購入ができずに困っていました。そこで、坂本龍馬は、彼が長崎にいるグラバーなどの英国商人から、長州藩のためにそれら兵器を購入するに当たり、薩摩藩の名義を公然と使うようになったのです。これにより長州は軍備を着々と充実させるのに成功しました。また、薩摩は、京都で、得意の朝廷工作により、名分なき長州征伐に勅許を与えるべきではない、と運動したのです。このために、なかなか勅許は降りず、派手に江戸を出発した家茂は、いたずらに長い日々を大阪城で送ることになりました。

 こうなると、幕府としては人材不足を痛感せざるを得ません。人材と言うことになると、すぐに思い出されるのが率兵上京事件の責任をとって老中格から降ろされていた小笠原長行です。慶喜が反対したのを、主として松平容保が説得し、7月26日に長行に上京命令が下りました。長行は8月16日に江戸を出発、31日に大阪に到着すると、9月4日には再び老中格として勤務に就きました。

 ここで、前節で述べたとおり、下関戦争の賠償金支払いのもつれから、連合艦隊の再度の摂海に9月16日に侵入してくるという事件が起こりました。小笠原長行は、早速その交渉に当たることになります。

 禁門の変の時にも述べましたが、公家というのは、むき出しの暴力に対して必要以上に怯える体質を持っています。そこで、幕府は、この列強勢力の摂海侵入を背景に、朝廷に激しい圧力をかけて、長州征伐の勅許をとることにも成功したのです。9月21日のことでした。

 朝廷がその意趣返しに老中2名を罷免すると騒ぐと、それを利用して、さらに長年の懸案であった条約勅許も取り付けたことは前節に紹介したとおりです。

 これにより、ようやく戦争を開始できることになったのですが、大名の間には厭戦気分があって、なかなか兵が動きません。さらに列強との改税約書の締結に手間取ったりしたため、実際に従軍を命ぜられた計32の諸藩に、その部署を発表することができたのは、ようやく11月になってからでした。

 その後も、長州側は恭順という姿勢を表面上は崩さず、幕府の側は、相手から開戦させることで戦争の大義名分を勝ち取ろうと、互いに模様眺めをしながら時間が過ぎました。

 その間、長州側の問責のため、という名目で、大目付永井尚志が広島に派遣され、偵察のため、新撰組組長の近藤勇等も随行しました。この偵察隊の調査結果は、とても幕軍に勝ち目がない、というものでした。幕軍の戦意は低いのに対して、長州軍は、全市民が戦争準備に向けて邁進しているからです。

 そこで、永井尚志は、寛大な措置という名目で幕府は名を取り、実を長州に与えるという形で幕府の威信を保ちつつ和平に持ち込む以外にない、という意見を具申しました。

 しかし、一橋慶喜は、第二、第三の長州がでないようにするには、ここで徹底的に叩く外はない、と主戦論を唱え続けて譲りません。繰り返しますが、慶喜は将軍後見職であり、幕閣の最高責任者なのですから、彼が意見を変えない以上は、どれほど勝ち目がなくとも、戦争になだれ込む外はないのです。

 このため、幕府軍はできるだけ開戦を遅らせようとしました。最終的に開戦したのは、翌慶応2年6月のことで、家茂が、江戸を出発してから丸1年以上たってからです。

 しかし、家茂自身が既に大阪城まで出張ってきている以上、この間、幕府軍はすべて臨戦態勢に入っているわけです。彼に随行した諸大名、幕臣の総数は10万人を超えました。これだけの軍を維持するには、大変な費用がいります。

 これだけの人口が突然増えて、しかも全く生産に従事しないままに長期に滞留している、ということになれば、大阪やその周辺の消費者物価を一気に押し上げたのは当然です。したがって、滞在期間が長くなればなるほど、必要経費の額も急激に上昇していくわけです。

 つまり、戦争するつもりでの長期滞陣は、財政的には実際に戦争をしているのと変わらないほどの莫大な費用を要する、ということです。それが実際にどの程度であったか、ということは、本節の最後にまとめて紹介したいと思います。

(2) 民衆の蜂起

 幕府軍の長期滞陣が原因で、京・大坂の物価が急上昇した、と述べました。それ以外にも、人夫その他の軍役が地元民には降りかかってきます。こうした諸々の地元に対する負担が、長逗留のため、耐えられる限度を超えるようになった時、民衆の蜂起が始まりました。

 慶応2年5月に摂津西宮で貧家の主婦が米の安売りを米穀商に強要したのが皮切りで、米穀商が安売りに応じない場合には、民衆が押し掛けて打ち壊しをする、という事態が巻き起こり、あっという間に畿内全域に広がりました。慶応版の米騒動です。

 打ち壊し勢は米1升で、時価700文のところを200文に負けろと交渉するのですから、米穀商などではとても飲めません。貧民と商家の衝突は必然となりました。

 おかしなことに、たたき壊される豪商は、いずれも、幕府が戦費のため求めた上納金を拒否したり、値切ったりしたところばかりです。そこで、打ち壊しの首謀者は将軍その人である、というようなデマまで流れる始末です。暴れている貧民を逮捕して、首謀者を聞くと、その人はお城にいるから、お城で吟味してくれ、という答弁が横行して幕府は取り締まりに手を焼きました。

 この打ち壊し騒動はさらに幕府のお膝元の関東にも飛び火し、武蔵の国などで大規模な一揆が勃発しています。

 こうした不穏な情勢を鎮めるために、かなりの出費を幕府としては余儀なくされました。これは戦費ではないので、後述する戦争経費の中には含まれておらず、どの程度の額であったのかは判っていません。

 とにかく、こうして、幕府としては、早く戦争を始めないと、足元から危ない、という事態が生じてきたのです。このため、結局、第2次長州征伐は幕府側から始めることになりました。

(3) 開戦

 慶喜以外は誰も望んでいなかった戦争が始まったのは、慶応2年6月7日のことです。

 幕府海軍が周防大島を砲撃した後、陸戦隊が上陸して、同島を占領しました。ここは本格的な侵入拠点とする、というより、艦隊行動の拠点という程度の意味しかないことは明らかでしたから、長州軍司令官の大村益次郎は、同島については放置しておく方針でした。

 が、高杉晋作は、この知らせを聞くと、なんとわずか200トンの丙寅丸で、1000トン級の軍艦をずらっとそろえている強大な幕府海軍に夜襲をかけました。この時期、海戦の夜襲は常識的に不可能とされていました。そこで、幕府側は何の警戒もしていませんでした。晋作は平然とこの軍事常識を破ったわけです。

 丙寅丸は小さな船ですし、戦闘は短かったので、幕府側に被害はほとんどでなかったのです。が、夜襲されたという事実に怯えて、驚いたことに幕府海軍は、そのまま逃げ去ってしまいました。その結果、島に残された部隊は孤軍となり、長州軍の攻撃に壊滅しました。

 広島方面からは、幕府の伝統にしたがい、井伊軍団が先陣を切って攻撃を開始しました。不幸なことに、井伊軍団は武装も伝統にしたがい、赤備えの鎧に槍、刀、それに火打ち銃で攻撃しましたから、最新型のミニエー小銃を装備した長州軍の前に一瞬にして壊滅しました。ライフル銃弾は面白いように古式豊かな鎧を貫通します。これに対して、井伊軍の主力兵器である火縄銃からの銃弾は、ミニエー銃の半分の距離も届かないのですから、戦闘というより殺戮という方が正しいような状況だったようです。

 壊滅した井伊軍に代わって、幕府自慢の洋式歩兵が前進しました。この部隊は予想通り強く、長州軍を押しまくりました。が、長州軍は地の利を生かしてじっと耐え抜き、結局この戦線は膠着状態になりました。

 島根県側からは山陰地方の諸藩の兵に、紀州藩兵が加わって攻め込みました。紀州藩は早くから洋式軍を作っており、決して弱い兵ではありません。が、こちらの方面は、長州軍の総司令官の大村益次郎自身が出陣して采配を振るったため、ほとんど鎧袖一触という感じで幕府軍は壊滅し、長州軍は遠く浜田城をも攻め落とす、という大きな戦果を挙げました。同城が落ちたのは7月18日のことです。

 残る方面は下関海峡を挟んだ小倉です。海峡は、強力な幕府艦隊が制海権を握っているのですから、長州側から攻め込むことは不可能で、その意味で間違っても幕府側が負けようのない戦線です。しかも、この方面の総司令官に幕府はエースを起用していました。老中、小笠原長行です。

 小笠原長行は、率兵上京事件で老中格から罷免されていましたが、この前年の9月4日に老中格に復帰し、10月9日に「格」がとれて正式の老中に昇格していました。小笠原藩は相変わらず年下の義父が藩主ですから、彼は藩主としての身分を持たない最初で最後の老中となりました。

 彼がこの方面の拠点とした小倉城は、そもそも小笠原本家の城です。小笠原本家は二つあります。そのうち、すなわち長行の小笠原家は、前に紹介したとおり、日本中あちこち転封になったあげく、この時期肥前唐津を領有していました。それに対して、今一軒の小笠原家は寛永9年という遠い昔から一貫して小倉城主なのです。英明をもってなる長行の指揮下に、この2軒の小笠原家や、強兵で知られる肥後熊本藩兵などを配しているのですから、陸上勢力から見ても、負けようのない陣営といえます。

 ところが、長州側は機略縦横で有名な高杉晋作の総指揮の下、海軍は坂本龍馬自身が指揮し、圧倒的強さを持つはずの幕府海軍を翻弄します。そして、制海権に生じたわずかの隙をついて、山県狂助(後の有朋)率いる奇兵隊が海峡を越えて繰り返し小倉側に侵入しては、痛撃を加えます。

 こうして圧倒的な大軍を誇る幕府軍が、一握りの長州陸海軍に翻弄されている最中に、大阪で事件が起こりました。将軍家茂が死亡したのです。7月20日のことでした。享年21歳。歴代の徳川将軍の死亡原因の例に漏れず、彼の場合も心臓脚気が原因でした。徳川の将軍家の食事はよほど栄養が偏っていたものと見えます。

 この家茂の死は、幕府は堅く秘密にしていたのですが、7月30日には小倉に届きました。

 家茂という人は、狷介な性格で知られる勝海舟のような人物が、この人のためなら命も惜しくない、と熱心に奉公していた、という独特のカリスマ性のある人物でした。百才あって一誠足らずといわれ、信服する幕臣がほとんどいなかった慶喜との大きな相違です。

 この家茂のカリスマ的魅力が、この時期の幕府を支えていました。そのために、その死の知らせは、一瞬にして幕府軍を自壊させることになりました。

 まず、小倉方面軍の主力部隊である肥後藩兵は、それを聞くと同時に、戦場を離脱して帰国してしまいました。

 いろいろ考え併せてみると、小笠原長行も、家茂のカリスマ性の虜になっていた人の一人なのだろうと思います。その証拠に、彼が最初の越権行為である率兵上京事件を引き起こしたのは、事実上朝廷の虜となっていた家茂を救うためでしたし、彼が進軍を止めたのは、家茂自身の命令が届いたときでした。

 今回、長行は、家茂の死の知らせを聞くと、誰にも告げずに一人福岡城に退いて、喪に服してしまいました。よほどのショックだったのでしょう。

 しかし、そういう自身の感情におぼれた行動を総指揮官がとるというのはもってのほかです。これが本章の冒頭で触れた、長行の生涯における2度目の過ちです。

 長行がいなくなると、肥前唐津藩も戦場を離脱してしまいました。この時、唐津藩の支配者は、長行より2歳年下の義理の父!です。その父を差し置いて、老中に上った子が総指揮官で、仮にも父である人を命令するのですから、両者ともに実にやりにくい立場にいたわけです。その長行がいなくなったのですから、これ幸いと唐津藩が戦場を離脱したのも無理のないところです。

 この結果、小倉小笠原家は、独力で長州藩と向き合わざるを得なくなりました。それは無理と考えた同藩は、自ら城に火をつけて退却しました。ゲリラ的な攻撃を仕掛けて、幕府軍の進撃を阻んでいたつもりの長州としては、狐につままれたような勝利となりました。

 しかし、これで膠着状態になっている広島方面をのぞいて、すべての方面で完全に長州が勝利することになったわけです。

(4)  戦い済んで

 7月20日に、将軍家茂の臨終に立ち会った一橋慶喜は、その後1ヶ月ほどの間、大変な興奮状態にありました。水戸家が徳川300年の間、願いながら実現しなかった将軍位が、これで彼のものとなったことは、当時の徳川家の状況を考えれば確実といえます。

 そこで、将軍位就任を華々しい戦果で飾ろうと考え、「長州大討込」ということを言い出します。みずからランドセル、つまり歩兵の背嚢を背負って、幕府自慢の洋式歩兵隊を率いて山陽道から長州に攻め込もうというのです。

 そこで、参内して孝明天皇にもそう申し上げ、朝敵を征伐するにあたっての最高の儀式である節刀を賜る、という儀式までやっていただいたのです。これは皇室相伝の御剣「真守(まもり)」を官軍総督の印として拝受する、という儀式です。

 そこに、8月1日には小倉城がすでに陥落していた、という知らせが8月11日に大阪に届きました。

 この時、幕府軍は依然として山陽道では戦っており、しかも前に述べたとおり押し気味に戦いを進めているのですから、その山陽道から、自ら攻め込もうという慶喜の戦略には、本来なら影響を与えないはずの知らせです。

 けれども、不思議なことに慶喜はこれにより突然考えを変えます。おそらく彼の弱点の一つである責任回避癖が頭をもたげたのでしょう。自分が引き受けている戦線だけしか残らない状態で、戦争をして負ければ、敗戦は間違いなく彼の責任ということになるからです。そこで、突如「大討込」はやめる、といい出しました。

 閣僚達は仰天しました。翌12日には広島まで幕府の大本営を進めることになっていて、そのための準備がすべて終わっている段階での、突然の変心だからです。

 しかし、一度責任回避癖が頭をもたげると、慶喜は頑固です。結局、朝廷に対しては慶喜自身が15日に上京して八方奔走し、つい先日、強引に自分が取り付けた勅旨を取り下げてもらい、代わりに和平を命ずる勅旨を下してもらいました。

 8月20日に、家茂の死と、慶喜の徳川宗家相続が発表されました。天皇の思し召しにより止戦、すなわち戦争をやめることになった、と発表され、幕府側が一方的に戦闘行動を中止する、という形で、この第2次長州征伐は終わったのです。

 敗戦処理は、例によって勝海舟が押しつけられました。彼は、家来も連れず、文字通りただ一人で厳島まで出向いて、21日、長州との間に止戦の約定を取り交わしました。

 さて、この第2次長州征伐に関する幕府の経費ですが、これについては勝海舟が、「外交余勢」と題する本の中に記録を残しています。

 それによると、家茂が江戸を出発した前年5月からこの年5月までの大阪での滞陣経費が毎月17万4235両3分です。内訳として目立つのが、お供に対する手当などが毎月5万3790両あまり。今の言葉で言えば出張手当というところでしょうか。また、武器の維持管理費が1万3807両とあります。これとは別に食糧として毎月4368石4斗の米を必要としています。これも現地で調達しなければなりません。閏の月がありましたから、14ヶ月分で、合計315万7446両が開戦前の総経費とされています。

 6月に開戦したわけですが、それから戦闘を経て、敗戦処理が終わる同年12月までの7ヶ月間の総経費が121万9650両1分となっています。したがって、戦費は、合計で433万7096両余りということになります。

 他の文書でも、戦費は500万両程度と書いてあるものがあり、海舟のこの記録は正しいものと考えられています。

 そこで問題は、これほどの巨費を幕府はどうやってやりくりしたのか、ということです。

 従来、幕府が財政危機に陥ったときに常に愛用されていたのは、通貨の改鋳です。しかし、今回はやっていません。改鋳というのは、大規模な国家事業ですから、戦争の片手間にやれることではないのです。おまけに、通商条約のおかげで、当時のわが国経済は国際経済の中に組み込まれていますから、改鋳がどのようにわが国経済に跳ね返るかを慎重に検討しない限り、実施は不可能な時代になっていました。

 もちろん、先に、内外における金貨・銀貨の交換レート調整の一環として実施された万延改鋳は、明治になるまで一貫して続けられており、したがって、この時にもある程度の差益は生み出し続けていました。しかし、この慶応2年という時点では、もうほとんど旧通貨の回収は終わっており、したがって出てくる差益も微々たるものになっていたはずです。

 次に幕府のお家芸が、年貢米の増徴です。これについても、この当時も積極的に展開されたことは間違いありません。

 しかし、戦争で特に国内で最も重要な回船ルートである瀬戸内海が自由に通行できなくなっている影響は大きく、大阪に米が集まってきません。先に、開戦前夜に米の安売り強要から打ち壊しに発展したと紹介しましたが、それほどに、京・大坂の米不足が深刻になっていたわけです。

 米を大阪の市場で販売しなければ、現金収入を得ることができない、という点では米将軍とあだ名された吉宗の昔から、この時に至るまで、事情は少しも変わっていません。したがって、年貢米収入に関する限り、この時点では、むしろ従来よりもかなり減っていた、と考えるべきです。

 曖昧な書き方をしていますが、実は幕府の年貢米収入記録がこの時期、残っていないため、そもそもどの程度の年貢米徴収量があったかさえも判らないのです。まして、その換金額は判りません。

 この時代の重要な財源として、関税収入があり、井伊政権以降の大事な柱になってきた、ということは既に紹介しました。幕府に関税自主権があれば、戦費獲得のため、増税したいところですが、実際には列強の摂海侵入による脅しから締結させられた改税約書により、関税収入は逆に減っています。とはいうものの貿易量は順調に伸びていますから、確実に期待できる財源です。

 しかし、戦争の間にも、既に注文してある軍艦その他の兵器は次々と届いています。海軍は海に浮かべ続けるだけで、年に100万両もの費用を要します。さらに、下関戦争の賠償金の分割支払いも続けねばなりません。そうしたあれこれを考え併せると、戦費の原資として機能する余裕があるほどの財源であったとはとても思えないわけです。

 もう一つ、幕府が苦しくなると使うのが、民間からの借り入れです。つまり御用金を申しつける、というやり方です。実際、この第2次長州征伐時に京・大坂の商人に申しつけた御用金は、総額250万両に上っています。これが実際に取り上げるのに成功していれば楽なのですが、第1次長州征伐時にさえ、激しい抵抗を商人が示したことは、紹介しました。したがって、たぶん、その半分も入ってくれば上等という程度であったと思われます。しかし、これが大きな戦争の財源の一つであったことは間違いありません。

 こうして、幕府としては、それまでになかった数百万両規模の全く新たな財源を、この時、必要としていたわけです。

 窮すれば通ず、ということわざ通り、幕府の優秀な官僚たちは、新しい財源を考え出すのに成功しました。その新財源の名を兵賦金といいます。

(5) 兵賦金

 勝海舟が書いた「解難録」という書の中に、次のような趣旨の文章があります。

 「長州征伐をはじめて以来、国家財政を空費したため、城内の金庫はすべて空になってしまっている。年貢は既に集めてなくなってしまい、残るは兵賦金のみである。それによる収入が350万〜60万両ある。これは本来、兵隊や軍艦のために使うもので、その他の用途に使用することは許されないものだが、京・大坂の情勢が不穏なので、その用途が実に多く、使ってしまった穴を補填して、兵を集めたり、弾薬を買ったりするために使うことができない・・。」

 前に述べたとおり、直接戦費が約434万両。仮に100万両程度を御用金で確保できたとすると、残り300数十万両の収入があれば、第2次長州征伐が財政的に可能になります。兵賦金でそれが得られたというわけです。

 この兵賦金というのはいったいなんなのでしょうか。

 前章で、春嶽が、文久の改革の一環として幕府に洋式歩兵隊を設けた、という話を書きました。

 そこでは、最終的に2万人の歩兵隊を作る予定で、文久2年12月1日に、江戸市中の浪士や町人、農民から兵士を公募したが、応募者が少なく、最終的に3,500人程度の規模に終わった、と書きました。

 本来ならば、公募するまでもなく、旗本や御家人を召しだして訓練し、歩兵隊とすれ済むはずです。彼らはそのために300年間、無為徒食をしてきたのですから・・。しかし、現実問題として、旗本や御家人は軟弱で使い物にはならない、ということは、自他共に認めるところだったので、公募ということが行われたわけです。

 しかし、旗本や御家人自身でないまでも、彼らにその石高に応じて、一定数の兵隊を出させるノルマを負わせてもよいのではないか、ということが考えられます。

 俗に旗本八万騎といわれますが、これは旗本や御家人の総数が8万人いるということではなく、彼らに給している石高に応じて引き連れてくるべき家来の数をも合計すると、約8万人になる、という意味です。

 この古い建前を復活させたのが、兵賦令という名の命令です。最初に出されたのは公募直後の文久2年12月3日でした。

 江戸財政改革史で、5代将軍綱吉が実施した元禄地方直しという政策を紹介しました。そこに述べたとおり、500石取り以上の旗本は、必ず知行地を持っています。そこで、500石取りは1人、千石取りは3人、三千石取りは10人という調子で、その知行地内から、15歳以上45歳以下の強壮な男子を選んで兵士として差し出せ、という命令が兵賦令です。兵役を賦課するので、こう呼ぶわけです。先に述べた建前は、提供した兵士の装備や、さらに月々の維持費等もすべて主人側が負担することを求めています。昔はいざ知らず、この時代の洋式歩兵の装備を維持していくには、だいたい月に10両程度を必要としたようです。したがって、旗本は、この人員の確保プラス月兵士一人当たり10両の負担をする義務が、先祖代々伝わっている、ということになります。それを明文化したのが兵賦令というわけです。

 確かに理屈としてはその通りです。しかし、実際問題として、旗本とその知行地の関係は差し出せ、といったから兵がでてくる、というような緊密な、あるいは甘いものではありませんでした。

 勝海舟の父、小吉は「夢酔独言」という書の中で、知り合いの旗本のために、その旗本の知行地から若干の金を引き出す際の苦労話を書いています。金を出させるために、小吉は切腹のまねごとまでしなければならなかったのです。

 金を出させるだけでさえそんな調子なのですから、まして死ぬ確率の極めて高い兵を出させるなど、論外というべきだったでしょう。したがってあまり実効性のある布告ではなかったようです。

 そこで元治元年に兵賦督促令というものがでて、速やかに兵を差し出すように、と督促しています。その中で、始めて金のことに触れています。すなわち、遅滞した部分については金で補填しろ、という命令が入っています。その後も繰り返し、督促が行われます。

 慶応元年になると、より多くの直属軍を幕府が必要としたために、兵賦の範囲が、旗本領だけではなく、天領にまで拡大されました。

 そしてとうとう、慶応2年正月には全面的に金納制度に切り替わったのです。これが兵賦金です。兵賦一人当たり20両を提出しろ、といっています。しかもこれを向こう10年間の軍役費として一度に前納しろと命じています。

 幕府の直轄領に、旗本の知行地を加えた、幕府の支配領地は、新井白石の計算に依れば約700万石でした。おそらくこの時代にもたいして変わっていない、ということを前提にして、先の兵賦令の数値に基づいて計算してみると約30万両という答えがでてきます。したがって、その10年分を前納させれば、勝海舟が述べていた300数十万両の収入が得られることになります。

 現実に戦争をしてみて、兵を確保するよりも軍資金を確保する方が、よほど重大である、と判っての苦肉の策ということができるでしょう。

 したがって、その法的性格は、天領に対する場合と旗本に対する場合とでは違います。

 天領の場合には、単純に戦争目的税ということができるでしょう。どこの国でも、戦争ということになると、その軍資金に充てる目的で、その期間だけの特別税を課しますが、幕府領内では、これがはじめてです。もっとも幕府としては、綱吉が富士宝永山被害救済のため、という名目で、大名領も含めて全国一律に固定資産税を徴収したという例外がただ一つあります。

 この、兵賦金という名の増税が、戦費調達のため絞られていた天領農民に対する今一層の重圧になったことは当然です。先に対長州戦開戦前夜に関東地方も含めて各地で大規模な一揆が起こったと説明しましたが、兵賦金がその引き金を引いたのです。実は、この慶応2年という年は、江戸時代を通じてもっとも百姓一揆の多かった年なのです。いきなり数百万両という巨額の税金がかかってきたのですから無理もありません。

 旗本に対する兵賦金の場合、給料の天引きというような性格があります。江戸時代、どこの藩でも財政が破綻し、手っ取り早い対策として、藩士の俸給をカットする、という方策にでていました。しかし、幕府だけは、これまでそういう策をとらずにやりくりしてきたのですが、我慢の限界を超えた、というわけです。

 旗本が十分に実力を持っていれば、この兵賦金は知行地の農民に転嫁されたことでしょう。事実、そう考えている日本史学者もいます。しかし、先に夢酔独言に紹介したとおり、当時の旗本はそれほどの力は持っていません。農民に有無をいわさず転嫁できるだけの力を持っていれば、そもそも兵賦令で話は終わり、兵賦金にまで発展しなかったはずです。ですから、おそらく、実際のこの資金は札差しを拝み倒しての追加借り入れだったことでしょう。これほど多額の追加貸し出しに応じたのであれば、江戸の札差し達が幕府の滅亡の道連れになったのは、いわば必然の成り行きといえます。

12. 幕府の滅亡まで

(1) 慶応の改革

 徳川慶喜が、老中や諸侯達の懇望の前にやむを得ず、というポーズを取りながら喜々として15代将軍の地位についたのは慶応2(1866)年12月5日のことでした。明治維新後に、「昔夢会筆記」という書で、慶喜は将軍位につくにあたり、すでに「日本国のために幕府を葬るの任に当たるべしとの覚悟をさだめ」ていたと述べていますが、もちろん彼の持病というべき虚言癖の現れと見るべきで、まったく信用できません。

 慶応2年7月20日に家茂の臨終に立ち会ったときから、実質的に独裁者としての活動を開始した慶喜は、その後の1年間を幕府の覇権を確立するための全力を挙げており、それを幕府安楽死政策と見ることはまちがってもできないからです。

 この時期、幕府軍の戦力で、もっとも強力であったのが、洋式歩兵隊であったことは何度か触れました。「長州大討込」と唱えたときには、自分自身、その一員となってランドセルを担いで走ろうとそのていたほどに、慶喜はこの部隊に入れ込んでいます。そこで、彼の急務はこの洋式歩兵隊の一層の強化と拡充です。強化手段として、ロッシュに対し、8月2日の段階ですでにフランス軍の顧問団の派遣を依頼し、止戦を発表した後の8月27日にも再び書面をおくって催促しています。その中では、明確に将来に向けて幕府の覇権確立のため、努力する旨が述べられています。

 そのためには、財源の確保がもっとも重要な問題であることは明らかです。

 長州との戦争は一応終わりましたが、慶喜の独裁権力を維持するためには、慶喜のいうがままに動く軍事力を手元に握りつつけている必要があります。そのため、洋式歩兵を中核に、約2万の兵力を慶喜はそのまま畿内においています。第2次長州征伐の際、10万の軍を1年間畿内に置いたことで、300万両が必要になったことから考えると、単純計算で2万の兵力を維持するには年に60万両の費用が必要だ、ということになります。畿内に長期これだけの軍が駐留することによる物価の値上がり及び民心安定のための費用を考えると、これよりもう少し多い財源を、将来に向かって確保しなければなりません。

 前節の説明で判るとおり、長州征伐時に役に立った唯一の財源は兵賦金でした。しかし、兵賦金は、一回限りの非常手段です。10年分前払いという名目でかき集めた以上、後10年は兵賦金をとることはできません。

 そこで、慶応2年8月、つまり第2次長州征伐が終わった直後に、幕府は軍役令というものを出しています。これは、兵賦とは別に、さらにそれよりも厳しい軍役というものを旗本に課したものです。

 すなわち、600石取りは3人、700石取りは4人という調子でどんどん累進的に厳しくなり、3000石取りだと24人というノルマを課した上で、もっとも人数を差し出すに及ばず、一人につき金5両を差し出せ、とあります。

 つまり、軍役と名を変えた新しい兵賦金が旗本達の上にのしかかってきたわけです。これはさらに同年9月に若干内容が変わり、兵賦令と一本化されますが、旗本から金を取ろうという点には、まったく違いはありません。毎年、78万8000両あまりの収入が見込める、と計画書に明記されています。まさに旗本受難の時代に突入したわけです。旗本層こそが幕府権力の基盤であり、彼らもまた食うや食わずやの厳しい財政状況にあることを考えると、彼らを搾取することで軍事力を維持しようというこの政策は、蛸が自らの足を食うに似た末期的症状といえます。旗本にとって幸い?なことに、幕府は後わずか1年余りで滅びますから、厳しく搾取される時代が長く続いたわけではありません。もし幕府が長続きしていれば、旗本の倒産が相次いだことでしょう。

 幕府はさらに10月には譜代大名領までも兵賦金の対象としようということを検討していますが、これは実施に至りませんでした。

 しかし、将来的に幕府の覇権を確立するためには、単に畿内に兵力をおいておく、というような消極的な作戦ではなく、日本全国を転戦しても耐えられるだけの財政力が必要です。わずか長州1藩と戦うために、破産寸前まで追い込まれたことを考えると、より確実な財源を確保する必要があります。

 そこで思いつくのがフランスからの借款です。幕閣の中でこの年10月になると真剣な検討が始まりました。これが、逆に幕府の命運を決めることになります。この点については、後に詳述します。

 先に横須賀工廠の建設のため、フランスから借款したこと、及びその担保が日仏両国に設置された生糸の輸出入組合を通じてのフランス独占権にあることを述べました。その具体化のための交渉の一環として慶応3年2月になると、追加借款交渉が本格化します。ロッシュは、蝦夷地の鉱山から産出する金銀を担保として、600万ドルの追加借款に応ずる、との態度を示します。

 しかし、追加借款を提供するには、幕府の体制がそれなりにしっかりしていなければなりません。そこで、ロッシュは慶喜に西欧行政制度に関する講義をこの2月に行っています。

 制度改革は慶応3年5月12日に断行されます。すなわち外国総裁(外務大臣)小笠原長行、会計総裁(財務大臣)松平康英(やすひで)、陸軍総裁(陸軍大臣)松平乗謨(のりたか)、海軍総裁(海軍大臣)稲葉正巳などで固めた内閣を設けたのです。これまでの老中制度は、勝手係と外国係だけが専従制で後は連帯責任制でしたが、全官職を専従制にしたわけです。その次官級ともいえる若年寄に、門閥にこだわることなく、永井尚志などの若手を起用しました。

 またロッシュは固定資産税や営業税、酒税などの導入も提案し、幕府はこの線に沿った調査を開始しました。

 さらにロッシュは、この慶応3年に開かれたパリ万博に幕府が出展することを提案し、慶喜は弟の徳川昭武(あきたけ)を正使とし、慶喜の股肱の臣である渋沢栄一を添えて、この年1月に送り出しています。

 この、いかにも妥当と思われる措置が、結果として慶喜とロッシュの運命を暗転させました。

 同じパリ万博に、薩摩藩は琉球国と称して、別途、幕府以上の莫大な出品を行い、幕府の展示活動に大変な妨害をしたのです。

 実は、フランスでは、この年すでにロッシュを送り出した外相ドルーアン・ド・ルイEdouard Drouyn de Lhuysが辞任し、外相がムーティエMarquis de Moustiersに変わっていました。ロッシュは自分の実力に自信を持つ余り、本国に余り詳しい報告を送っていませんでした。そのため、ムーティエは英国などからの批判だけに基づいてロッシュの対日政策を判断するようになってしまったのです。例えば、ハリスの後任の米国公使が自分個人の利殖を図ろうとして幕府から不信感をもたれたという話を前に紹介しました。ロッシュも同様の経済活動を行っている、という非難が浴びせられたのです。

 さらに、徳川昭武一行に随行してきていた通訳官のカションが、ロッシュに対して不満を持っていたのか、あるいは日本通としての良識ある判断だったのかはともかく、幕府の命運は既に尽き、薩摩が現在もっとも強力であるので、ロッシュの政策は誤っているという趣旨の論文を、ラ・フランスという新聞に発表しました。上述の通り、パリ万博では薩摩の出品の方が、幕府を上回っているのですから、これは説得力を持っています。

 その結果、1867年5月8日(慶応3年4月5日)、フランス外務省は、ロッシュの努力によって、対日貿易量が飛躍的に増加していることは高く評価しながら、これ以上幕府一辺倒の政策を採ることは、こうした既に獲得した権益を危うくするおそれがある、として、ロッシュの幕府支持策を否認し、諸藩に接近するパークスの政策を支持する対英協調路線を示した訓令を発したのでした。ロッシュは、この訓令に接すると激しく反発しますが、結局、慶応4年(すなわち明治元年)1月25日に帰国命令を受けて、日本を離れることになりました(実際に離日したのは同年6月です)。

 ここに、フランスに全面的に依存していた慶喜の慶応改革も、とん挫することになります。

 もっとも、そのわずか前に鳥羽伏見の合戦は起きており、慶喜の方がロッシュを大阪に置き去りにして江戸に脱出する、という形で、両者の連合は壊れていました。

(2) 列候会議

 この時期、英仏は世界的に植民地を拡大していましたが、その手段は、対象国内の内紛に介入して、一方当事者に援助を与え、内紛を拡大して双方ともに疲弊させ、最終的に武力介入するという手段でした。アヘン戦争という過酷な教訓が、すぐ隣国の清国で起こっていたため、この英仏の侵略手段は、わが国の知識人の一つの常識になりつつありました。そこで、こうした密議の存在はすぐに日本中に知られ、猜疑の目をもって幕府は見られることになります。

 幕府が一日長らえれば、その分だけ日本の利益が危うくなると、多くの人が考えました。では、どうしたらよいでしょうか。

 誰でも考えつくのが、先に、慶喜の強引な妨害活動にあってたたき壊された参与会議の復活です。あのときのメンバーは、いずれも雄藩の長で、自前の軍事力を持っています。したがって、彼らがもう一度自らの軍事力を持って上京し、その連合軍事力で慶喜を押さえつければ、ふたたび参与会議の慶応版、すなわち列候会議を開催し、これが日本の支配力を握る、ということが可能になるはずです。

 誰でも考えつく、といいましたが、日本国内でこれを文章化した最初の人物は、英国公使館の通訳官であるアーネスト・サトーです。彼は、このアイデアを独自に思いつき、これを横浜で発行されていた英字新聞ジャパン・タイムズに、慶応2年の1月から3月にかけて匿名で発表しました。これを、サトーの日本語の教師であった阿波蜂須賀家の家臣、沼田寅三郎が日本語に翻訳し、その写本が広く流布したのです。これは、発表にあたり上司パークスの許可も取っていない純然たる私的論文なのですが、流布するにあたっては、「英国策論」というなにやら英国の公式態度を書いたものと思わせるような表題になっていました。

 パークスは、当初は幕府を支援することで英国の立場を強化できると考えていました。慶応3年1月の時点では、間違いなくそういう路線でした。が、ロッシュに出し抜かれて、幕府は完全にフランスに取り込まれてしまった、ということが徐々に判って来るにしたがって、方針転換を図り、この部下の私的論文に接近した政策を採り始めます。

 1866年(すなわち慶応2年)初頭に、薩摩の松木弘安(後の寺島宗則)がロンドンで、こうした動きとは全く別に、同様の提案を英国外相に向けて行っています。これを受けて、英国外務省では、パークスに対し、天皇・将軍・大名の自由討議を勧めるよう、訓令しています。したがって、列候会議の承認は、この時点ではパークスの裁量の範囲に属していたわけです。そこで、英国は列候会議の開催推進に向かって動き出します。

 実際に列候会議開催のために奔走したのは、薩摩藩の西郷隆盛と、土佐藩脱藩浪士の中岡慎太郎です。

 慶応2年12月25日に、幕府にとって致命傷となる事件が起きます。朝廷内きっての佐幕派であった孝明天皇が突然死亡したのです。疱瘡による病死とも毒殺ともいわれます。代わって即位したのが明治天皇です。嘉永5(1852)年生まれですから、この年12歳です。まだ幼くて、自らの判断では行動できません。幕府では、なんとか慶喜自身が摂政になろうと画策を開始しますが、結局失敗しました。

 この幼帝の出現という機をとらえて、反幕派の公家である岩倉具視は、孝明天皇に追われて都落ちしていた三条実美とむすび、列候会議に向けて謀略を展開しはじめました。

 こうして、慶応3年4月に、島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽が再び京に集まりました。しかし、この会議は内部対立で再び解体します。島津久光などがこの機会に幕府権力を失墜させようと企んだのに対して、伊達宗城などは、単に国政に関与する機会を欲しただけに過ぎなかったからです。こうして5月21日に山内容堂が帰国声明を出したのを皮切りに全員が相次いで帰藩することになりました。

 慶喜はその機をとらえて、朝廷に圧力をかけ、得意のマラソン会議によって、懸案であった兵庫開港に対する勅許を6月25日に獲得するのに成功します。これにより、兵庫は翌年1月1日から開港されることになりました。この成功に、英国公使パークスもしばらくの間、慶喜支持に転向したほどです。これが結果的に見れば、慶喜の対外面での最後の成功ということになりました。

(3) 武力倒幕と大政奉還

 こうして列候会議方式では、倒幕は無理と判断した薩摩の西郷隆盛や大久保利通は、武力により幕府を倒すという決意を固めるに至ります。そこでまず薩摩本国に対して、5月29日、兵力を上京させる準備をするように、という指令が飛びました。

 それと同時に薩長同盟に基づいて、長州に対しても、兵力を上京させるように依頼しました。9月半ばに、大久保利通自身が長州の三田尻軍港(現在の防府市)に出向いて桂小五郎らと会談して計画を固め、藩主父子と会見することで、正式承認を得て、武力倒幕の計画は着々と動き始めていました。

 その同じ頃、坂本龍馬は、出身藩である土佐の、幕末政争の中での地位を一気に高める手段として大政奉還という手段を考え出していました。これは、要するに、徳川家の地位を明確に諸侯の一員に格下げした上で、つい先頃流産に終わった列候会議をもう一度開こうというものです。それだけでは決して画期的なアイデアではありませんが、その列候会議で決定すべき事項まで具体的に指定した点に龍馬の凄みがあります。いわゆる船中八策といわれるものです。これはその後、五箇条のご誓文という形にまとめられ、明治政府の基本方針となっていきます。土佐藩は、これを藩の基本方針と決定し、薩摩との間で交渉します。

 武力倒幕にあたっては、土佐の兵力も期待していた薩摩側としては、土佐の提案をむげに拒否することはできません。結局、まず大政奉還の線で打診し、それが失敗したら、直ちに武力倒幕に移行する、ということで、両者の話し合いがまとまります。

 薩長が武力倒幕で一致しているというところまでは把握していませんが、長州の動きがおかしいということは、幕府の情報機関はキャッチしています。フランスの協力で幕府再興に向けてちゃくちゃくと布石は打たれていますが、再度の長州征伐を実施する財政力は間違ってもないことは、幕府の要路にいるものは、皆承知しています。何とか時間稼ぎの手段が必要です。

 そこで、9月20日、幕府若年寄格永井尚志は、土佐藩の後藤象二郎を招き、早く大政奉還の建白書を出してほしい、と督促しました。これを受けて、土佐藩では、建白書を出すことに対する同意を10月2日に薩摩藩から取り付け、翌3日に老中板倉勝静(かつきよ)に提出したのです。

 慶喜は、松平容保らと図った上で、10月14日、奏上し、翌15日、聴許されました。ここに、幕府は形式的には滅びたわけです。実は、薩長の討幕派は、密かに倒幕の勅旨を受けるための運動を展開しており、この日に降りる予定になっていました。その意味で、この日もまさに運命の一日だったのです。きわどく、幕府は討幕派に肩すかしを食わせたわけです。

 もちろん大政を奉還された朝廷に実際の行勢力があるわけはありませんから、22日、慶喜に対し、当分の間は庶政を委任するという沙汰書を下しました。

 しかも、大政奉還派が期待していた諸侯会議が開けません。朝廷の召集令に何らかの反応を示した諸侯のうち、12月8日までに上京してきたのはわずか12藩に過ぎないのです。そして、上京してきた藩にしても、これまで通り万事幕府に委任しておくことに異論は唱えません。したがって、せっかく幕府を諸侯の地位に落としても、このままでは、従来同様、幕府が国内政治を行っていく、ということに全く違いはないのです。

 そうすれば、フランス資本に支えられた形で徳川氏が力を蓄えるのに時間を貸すことになります。徳川氏が力を回復すれば、薩摩や長州は、最終的には滅ぼされることは間違いありません。

 そこで、12月9日になって、薩長は京都でクーデターを敢行します。そして、幕府の与党を閉め出した、いわゆる小御所会議で、新政府の方針と組織が決定され、また、慶喜に対しては辞官納地、すなわち官位を辞退し、所領すべてを返納するよう、命令が下ります。

 討幕派としても、この路線で押し通せるほどの実力はありません。12日になると、松平春嶽に斡旋させ、慶喜が反省の色を示すなら、これを朝廷政府に迎える、という決定をし、24日になると、さらに慶喜に対する命令から領地返納の文字をのぞき、全国行政に必要な分を調べた上で、徳川家の領地から差し出せ、というような後退した表現となりました。

 このように、クーデターを敢行して樹立した新政府の姿勢が後退を続ける理由は、その財政基盤がないことにあります。

 仮に、薩長が、そのまま連合政権という形で、新政府に発展していたのであれば、新政府は、少なくとも薩摩藩や長州藩の財力を基礎にして出発することができたはずです。しかし、小御所会議で成立した政府の構成員は、決して薩長ではないのです。

 12月9日時点の構成員を具体的に紹介すると、次の通りです。総裁が有栖川宮、その下の会議構成員を議定といい、10人いますが、うち2人が宮様、3人が公家です。残る5人が大名で、薩摩藩島津忠義、尾張藩徳川慶勝、安芸藩浅野長勲、土佐藩山内容堂、越前藩松平慶永となっています。つまり薩摩藩は入っていますが、それもわずか一人であって、薩摩藩が専横できる体制ではありません。そして、長州藩はまったく入っていません。桂小五郎改め木戸孝允は、慶応4年4月に、議定よりさらに下の参与というところに入ってきますが、長州藩主は最後まで入りませんでした。

 したがって、新政府としては薩長からは独立した自分の財政基盤を持たねばならないのですが、それが全くありません。丸一年も前に死亡した孝明天皇の葬儀さえも未だに出すことができず、慶喜にその費用を融通しろ、と依頼している始末です。そこで、何とか交渉で慶喜に新政府の財政基盤そのものを提供させようとして、苦労しているわけです。

 このまま推移すれば、新政府も、これまでの列候会議などと同じく空中分解して、慶喜の粘り勝ちということになったはずです。

 しかし、慶喜はむしろここで一気に薩摩を排除しようと考えました。あるいは、幕府内の強硬派を慶喜が押さえきれなくなりました。そこで1月1日に「討薩表」を朝廷に提出するとともに、諸藩に宛てて、自分の挙兵に応ずるように呼びかけました。その呼びかけの文書を見ると、「君側の悪」を除くために決起するなど、昭和初期の軍部のクーデターにおける文書と似た表現が目立ちます。天皇制の下におけるクーデターの共通性ということなのでしょう。

 これは、結果として幕府最後の大博打になりました。しかし、我々は、その結果を知っているので、大博打と考えるのであって、おそらく慶喜自身は、これは十分以上に幕府に勝ち目のある行為でばくちといえるほど危険なものではない、と考えていたに違いありません。

 この時期、大阪にいた幕府軍は約1万5000人とも3万人ともいわれます。先に慶喜が握っている兵力は2万人と書きましたが、長期滞陣のため、適当に交替させているので、この特定の時点にどれだけいたかは判らないのです。これに対して、薩長連合軍は3000人とも4000人ともいわれます。確かに全体としてみれば、薩長軍は装備に優れたものがありますが、幕府軍の中核を占める洋式歩兵は、規模的にも装備的にも、薩長軍に匹敵しますから、その面での差はない、といえるからです。したがって、圧倒的な大軍を擁している幕府側の勝ちは動かない、といえます。しかも、京都というところは防衛拠点のないところで、古来、京都によって戦って、勝利したものはいません。その点も、幕府軍の有利といえます。

 こうして、慶応4年1月3日、幕府軍は大阪から京に攻め上ろうとします。鳥羽伏見の戦いが始まったのです。この戦い、幕府側の首脳部に全く戦術の判る人間がいなかったのが、薩長側に幸いしました。

 もし、幕府軍が大きく展開して、四方から京都を囲むように布陣した上で攻めれば、薩長軍もそれに対してとぼしい兵力を各方面に分散しなければなりませんから、幕府軍の楽勝だったはずです。ところが明確な司令官のいないままに、幕府軍は愚直にも、まっすぐ大阪から京都に押し出しただけだったのです。細い鳥羽街道で両軍がぶつかれば、戦線はきわめて局部的なものとなります。

 薩長軍で、戦線に投じられたのは1500人程度といわれます。これ以上いても、戦場が局地的なために邪魔になるだけだったのです。つまり、大軍であることは幕府軍にとって全く役に立たなかったのです。そして、局地戦ということになれば、優秀な装備を持ち、実戦経験の豊富な薩長軍の方に分があるのは当然です。戦闘は連日続きましたが、幕府軍が鳥羽街道に固執するものですから、薩長軍にとっては楽な戦でした。出てくるのを叩いていればよいのです。

 その間に、戦闘以外の要素が大きく動き始めました。その第一は、幕府から人心が完全に離れている、ということが誰の目にもはっきりと見え始めた、ということです。官軍は、前に述べたとおり、財政基盤が弱いものですから、戦闘員のための弁当を用意することさえできませんでした。すると、地元の人々が、炊き出しをして戦場まで弁当や汁、酒までも運ぶという光景が現れたのです。戦場になることで、自分の家などを焼かれていた人々がこういう身銭を切っての支持行動をする、というのはよほどのことです。

 おそらく、これも兵賦金のもたらした悪影響の一つと見るべきでしょう。幕府の天領は全国に均一に存在しているのではなく、西国に多かったのです。したがって、兵賦金や軍役金の強制徴収は、畿内に強い打撃を与えていたはずだからです。

 第二の要素は、諸侯の日和見にありました。戦闘が始まるまで、誰もがまだ幕府の方が強い、と考え、そのために朝廷の諸侯会議への召集にも、はかばかしい反応が返っていなかったわけです。ところが戦闘が始まると、京には味方勝利の連絡が、当然のことながら連日入ってきます。勝てば官軍の言葉通り、ここで諸侯が雪崩を打って、新政府に味方する、という姿勢を示し始めたのです。

 そのもっとも象徴的な事件が、淀藩の動向にあります。淀藩は、現役の老中である稲葉正邦の居城なので、幕軍は、戦闘が長引いてくると、当然にこの城を戦闘拠点にしようとしました。ところが何と、淀藩はこれを峻拒したのです。

 もっと劇的な転換をしたのが津の藤堂藩です。この時、山崎にあってまだ戦闘に参加していなかった同藩は、新政府から幕軍を攻撃するように命ぜられると、幕軍宛に「徳川氏累代の御洪恩はあえて忘却は仕らざるも、当地出張の者においてはただ涙をふるいて、勅を奉ずるのほか別に処置、これなし」という手切れの手紙を送りつけると、1月6日早朝から、幕軍の側面を攻撃し始めたのです。

 しかし、幕府軍は大軍ですから、こうした局地戦でいくら部隊を撃破しても、それが戦争全体の勝敗を決することにはなりません。幕軍全体としては、戦争はまだ決していない、という雰囲気だったのです。

 最終的に勝敗を決めたのは、結局、いつも通りの、慶喜の責任転嫁癖でした。楽勝のつもりが、このように戦闘が長引くにつれて、刻々情勢が悪くなってくると、慶喜には嫌気がさしてきました。水戸家に育ち、独特の尊皇思想を骨の髄まで染み込ませていた慶喜は、朝敵という汚名を着るのに耐えられなかった、といわれます。そこで、1月7日に部下を捨てて脱出してしまうわけです。

 これについてはよく衝動的に脱出したかのようにいわれていますが、それは渋沢栄一の書いた「徳川慶喜公伝」に依存して書かれるためです。それによると、慶喜は幕府艦開陽を目指したのですが、誰も開陽の艦型を知らず、暗夜をさまよううち、米国艦にたどり着き、そこで拾ってもらった、という記述になっています。が、これは慶喜得意の虚言癖が、腹心といえる渋沢栄一に向かっても発揮された、ということのようです。

 今日では、米国政府の記録を見ることができるので、この事件の経緯は、かなり正確に判っています。それによると、これは衝動的どころか、むしろ非常に計画的な事件でした。

 すなわち、彼は、かなり早い時点で部下を放り出して脱出すると決めたのですが、悪いことに、この時期、幕府の艦は兵庫沖にいて、大阪城のすぐ外の天保山沖にはいません。しかし、事前に幕府艦を呼び寄せると、慶喜が脱出しようとしていることがばれて、何かと文句を言うやつが出てくると慶喜は考えました。天保山沖には公使達の引き上げ支援のために各国の軍艦が来ていますから、いったんそのどれかに逃げ込んだ上で、幕府艦を呼び寄せればよい、と決めます。

 この時、慶喜が下したもう一つの非情の決断が、フランスとの関係を絶つ、ということでした。前に述べたとおり、フランス本国は、これ以前に幕府との関係を絶つという決断を下していましたが、ロッシュはそれに抵抗し、そのことを慶喜には告げていません。しかし、慶喜にも、フランスと幕府の緊密な関係は、わが国の国益を害するものである、という国内からの非難は聞こえていたはずです。それこそが先に列候会議、今、諸侯会議を開かせている原動力だからです。したがって、ここで朝敵の名をおそれて逃げる以上、同時にフランスと幕府の関係も、この際同時に絶つのが最善ということになります。そのためには、フランス艦に逃げ込むわけには行きません。

 その場合、英国艦に逃げ込むと、今度は逆の意味で、いろいろと政治的影響が出ます。そこで、この時点で天保山沖にいた外国艦の中では、もっとも日本との関係が薄い米国艦イロクォイ号に逃げ込むことに決めたのだと思われます。

 確かな事実だけを述べると、彼は、まず1月6日夜に腹心の部下を米国公使ファルケンバークの所におくって、慶喜がイロクォイ号に乗る許可を求めました。ファルケンバーグは快く許可を与え、艦長に手紙を書いたので、慶喜は安心して、翌7日の夜2時に大阪城から脱出したのです。

 7日の夜、逃げることが間違ってもばれないように、慶喜は、戦いが終わって引き上げてきた将兵に対して、感動的な激励演説を行います。将兵が奮い立って、明日こそ薩長軍に一泡食わせようと宿舎に戻ると、幕府軍の中枢部隊である会津および桑名の藩主に供を命じて城外に出て、イロクォイ号に搭乗したのです。イロクォイ号に2時間ほど滞在したところで、兵庫沖から幕府艦開陽が駆けつけたので、こちらに乗り移り、江戸に帰ったのでした。

 開陽があまりに突然呼び寄せられたので、開陽の艦長榎本武揚は出港に間に合わず、陸上に置き去りにされた、というのは有名な話です。榎本武揚は、函館までも戦い抜いたほどの主戦派ですから、彼が乗っていれば当然脱出行に文句をいい、おそらく江戸に船を走らせてはくれなかったでしょう。外国公使に予め話を通すほどの周到さを持っていた慶喜であれば、榎本武揚が偶然にも船に乗り遅れたと見るべきではありません。タカ派の艦長がその夜、上陸しているように手配するのは、最高司令官にとって何でもないことですし、そうした配慮を予めしておくのは、江戸への脱出を成功させるためには当然のことだったでしょう。

 供を命じられた会津等の藩主達は、最後まで慶喜が何をしようとしているのか判らず、判ったときには手遅れだったようです。彼らが大阪に残っていれば、彼らを中心に会津藩や桑名藩は戦闘を継続したでしょうから、彼らを強制的に同行させない限り、慶喜だけが脱出しても、朝敵の汚名はやはり降りかかってきてしまいます。その意味で、彼らの同行は必須の条件だったのです。

 慶喜は、脱出前に行った激励演説のことについて、うまく騙してやった、と後に自慢したそうです。彼のように病的な虚言癖を持ち、彼が尊崇してやまない朝廷に嘘をつくことすら平気だった人間にとって、彼を信じて一命を掛けている部下に対して嘘をつくのは、何ら問題のない行動だったようです。

 一番気の毒だったのは、慶喜に自分の威信のすべてを掛けていたロッシュです。脱出するまで完全につんぼ桟敷におかれていた彼の呆然とした行動が、アーネスト・サトーの日記には活写されています。ロッシュは、結局、後の任地もしめされないままにフランス本国に呼び返され、彼の外交官としてのキャリアはそれで終わりました。

 慶喜がこうして夜逃げしたとは知らない新政府の方では、同じ7日に、はじめて正式に徳川慶喜追討令を発するとともに、この時点においても日和見を続けていた諸侯に対し、去就を明らかにするように命令しました。その先頭を切って土佐藩が忠誠を誓ったのを皮切りに、あっという間に覇権を確立することができたのです。

 これに対して、一夜明けて総大将ばかりか、主要藩主や老中までがいなくなっっていることを発見した幕府軍は自ら総崩れとなり、鳥羽伏見の戦いは終わります。

 慶喜を追って江戸に帰ったロッシュは、その後も、幕府に徹底抗戦を勧告しました。が、慶喜から全権を与えられた勝海舟は、これを断って江戸城を無血開城し、ここに徳川家の苦闘は終わったわけです。

 以後、彰義隊と官軍の上野の戦争を皮切りに、いわゆる戊辰戦争へとわが国は突入することになりますが、それは決して徳川幕府との戦いではなく、そこからの脱走者との戦いに過ぎませんでした。そうした戦いも、榎本武揚ひきいる幕府艦隊が函館まで戦い抜きますが、彼らが明治2年5月に降伏したのを最後に、組織的な抵抗はすべて終わりました。

 小笠原長行は、彼の出処進退における2度の失敗を悔やんだのでしょう、不退転の決意で戊辰戦争を戦い抜きました。まず会津城に依って戦い、会津落城後は最後まで榎本軍と行動をともにしました。函館降伏後は、しばらく潜伏しましたが、もうどうにもならないと見極めがつくと自首しました。が、結局不問に付され、市井の人となりました。

 その後、彼の才幹を惜しんだ松平春嶽などが、繰り返し明治政府に出仕するように誘いましたが、がんとして拒み、最後まで市井の人として終わりました。死んだのは明治24年のことでした。西南戦争から明治憲法の公布までを見てから死んだわけで、おそらく世の無常を感じたことでしょう。

 

[おわりに]

 これで維新の風雲財政録=幕末編=を終わりにさせていただきます。

 例によって、細かな数字のたくさん出てくる堅い話に長いことおつきあいいただき、ありがとうございました。この話、書いている私は非常に楽しいのですが、皆様も楽しんで読んでいただければ、ありがたいと思っております。

 こうして幕府は苦しい財政のやりくりを続け、やりくりが限界に達したときに滅びました。あれ以上無理にやりくりを続けていれば、わが国がどこかの国の植民地になっていたことは間違いないと思われ、その意味では滅びる時を正しく得たということができます。

 豊臣氏が滅びたときには、莫大な財宝が残され、徳川幕府はその潤沢な資金の上に立って、楽に出発していくことができました。

 しかし、以上の通り、徳川氏が滅びたときには、莫大な対外並びに対内債務を残しただけで、新政府が利用できる財宝といえるようなものは、全く残されていませんでした。それどころか、財政関係の書類をすべて焼却してしまったので、国家運営の上で必要な情報さえも、新政府に伝わらなかったため、新政府が勝海舟の協力を得て、非常な苦労をして収集したことは、『江戸財政改革史』の冒頭に詳しく述べたとおりです。

 本稿に現れた数字にしても、勝海舟の残した数字に依るところが多いのには、驚かされたことでしょう。彼は決して、単なる「氷川町のほら吹き」ではなく、きわめて堅実な財政実務家だったのです。

 余談ながら、勝は、徳川家の資産を明治維新後、一貫して管理しました。生活に困窮した幕臣が相談に来ると、惜しげもなく、貸し与えましたりしましたから、私物化していると悪口を言われたりもしました。が、最後に、自分自身、大変な子沢山であるにも関わらず、徳川慶喜の子供の一人を養子にする、という形を通して、自分自身の個人財産も含めて、すべて徳川家に返還したのです。彼は日本国の利益の前には徳川家の利益を平気で犠牲にした男ですが、彼なりに徳川家の大忠臣として一生を送ったということができます。

 さて、明治政府が、この江戸幕府の廃墟の中から誕生することになりました。

 薩摩藩主や長州藩主の思惑は、間違いなく自分の藩が明治政府をつくるという点にありました。島津久光は、死ぬまで西郷と大久保に騙された、といって呪っていました。長州藩主の方は少々鈍くて、人々が忘れた頃になって、自分はいつ将軍になるのだ、と聞いて、人々の失笑を買いました。

 しかし、明治政府を建設した人々は、藩主達の思惑とは異なり、そうした個々の藩とは絶縁した形で、まったく新しく明治政府を建設する道を選びました。これは、ゼロからの出発、というより、江戸幕府の残した負債を抱えてのマイナスからの出発でしたから、それは財政面においてもまた、大変な苦難の道でした。

 我々が習った日本史は、その辺りを全く説明していません。それについても、近いうちに、是非皆さんにお話しする機会を得たいと願っています。



http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c199

[政治・選挙・NHK158] 松井知事「日本人ならごくごく自然なこと」  (産経ニュース)  : 靖国で不戦を誓うのは 政治家として当然のこと 真相の道
200. 豊岳正彦[-16975] lkyKeJCzlUY 2023年8月20日 09:30:32 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[8]
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甲斐素直研ー随筆歴史
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第1章 阿部正弘と幕末の始まり

1. 幕末とは・・

(1) 幕末の特徴

 幕末が何時から始まったのかは、難しい問題です。もっとも早い時点に求める学説だと、天保年間に既に幕末が始まるとしているものがあります。しかし、通説的には、ペリーが最初に浦賀に来航した時と考えるようです。

 私は基本的にはペリー来航でよいと思うのですが、厳密にはもう少し遡らせるのが妥当だと考えています。なぜなら、私は、幕末を二つの特徴で捉えるべきだと考えているからです。一つは、京都の朝廷が突然政治の中央に躍り出たことであり、今一つは諸士横行、すなわち外交政策についてあらゆる人々が発言しようとしたことです。

 前者についていえば、徳川幕府は家康の定めた禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)で規制しており、紫衣(しえ)事件等を引き起こして、後水尾天皇を退位に追い込んだほどの厳しさで抑圧してきたのです。後者については、直接の禁止規定こそありませんでしたが、例えば『海国兵談』を書いたことで林子平が処罰されたことに端的に示されるとおり、それ以前では普通には間違っても許されないことだったのです。

 この幕末の持つ二つの特徴は、弘化3(1846)年閏(うるう)5月(以下、本稿では年号は、原則としてすべて日本の太陰太陽暦表示とします)に、米国東インド艦隊司令官ビットルがコロンブス号に乗って浦賀に来航し、米国大統領からの国書をもたらした際に、時の老中阿部正弘が対応を誤った時から現れ始めました。その意味で、この年に幕末と呼ばれる風雲時代の幕が上がり始めた、と私は考えています。

 しかし、それが決定的に上がったのは、確かにペリーの来航時に、阿部正弘がビットル事件時での対応を更にスケールアップした時からでした。その意味で、通説の考えも妥当といえる訳です。

(2) 阿部正弘の家柄

 どちらの時点で捉えるにせよ、この、幕末という時代を作り出した張本人は、阿部正弘です。彼のこの異常な行動を理解するには、彼の人となりを知る必要があり、そのためには彼の家柄を知る必要があります。彼は、幕府譜代中の名門の出です。

 A 阿部正次の一生

 阿部正次という人物が江戸の初期にいました。子供の頃から家康に仕え、関ヶ原の合戦前夜の段階では5000石取りといいますから、旗本としては大身という程度の身分でした。しかし、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦後に、5000石を加封されて計1万石となり、大名に列されます。

 このとき、幸運にも家光付きのブレーンサークルに配属され、そのおかげで慶長15(1610)年に下野鹿沼に移封されて1万5000石、元和3(1617)年に上総大多喜に移封されて3万石、元和5(1619)年には小田原に移されて5万石という調子でトントン拍子に出世しました。この時の小田原は、大久保正安の騒動に連座して大久保忠隣が徐封され、いったん廃藩になっていた藩ですから、幕府の彼に対する信頼の高さがよく判ります。

 そして、元和9(1623)年に家光が将軍になるとともに老中に昇進し、武蔵岩槻に移封されて5万5000石になります。寛永3(1626)年に大阪城代に転出しますが、それまでの間にさらにたびたび加封されているので、最終的には8万6000石の藩主となりました。前のシリーズで何人か、シンデレラ的に出世した人物を紹介してきましたが、彼こそが江戸幕府確立後の最初のシンデレラボーイの一人といえるでしょう。

 「幕府財政改革史」の中で、初期の勘定所は東日本を支配する本所と、西日本を支配する大阪支所の二重構造になっていたと紹介しましたが、これは勘定所に限らず、初期の幕府の統治構造の共通性です。したがって、当時の大阪城代は西日本における総支配人ともいうべき地位で、その意味では老中より重職といえます。彼はその地位を22年の長きにわたって勤め、正保4(1647)年に現職のままで死亡します。

 B 阿部重次とその子孫

 その子重次は、家光の小姓を振り出しに小姓番頭から幕府最初の若年寄となり、寛永15(1638)年から家光が死亡する慶安4(1651)年までは父同様に老中職を務めた上で、家光に殉死しています。

 彼の代の阿部家の禄高は、重次自身が当初、父とは別に禄を受けていて、これに父の遺領を承継したことに加え、老中になってから数回の加増を受けていたこと、他方、まだ長子相続制が確立していなかったこともあり、弟たちに石高を割いて分家させたり、その一部が逆に返還されたりしていることのため、その増減を忠実に追うと非常にややこしいものがあります。

 とにかく、その子の正邦が、綱吉の一連の全国配転政策のため、丹後宮津に天和元(1681)年に移封された段階で、阿部家の石高は9万9000石となっています。元禄10(1697)年に宇都宮に移されますが、ここで10万石とされます。最後に宝永7(1710)年に備後福山に10万石として移封され、その地で、この石高のままで、何人もの老中を輩出する名家として、そのまま幕末まで栄えることになります。

 この家からでた最後の老中が阿部正弘です。幕末の一つの特徴は、このような譜代の名家だけによって老中職が占められ続ける点にもあります。

(3) 阿部正弘の政治姿勢

 A 将軍家慶の人となり

 11代将軍家斉は、田沼意次の改革を潰すことにより、幕府財政建て直しの最後のチャンスを崩壊させた人物であることは、先に「幕府財政改革史」で紹介したとおりですが、外に二つの大きな害悪を流しています。一つは、老中ばかりでなく、側用人までも昔からの名門の専管としたことです。これにより出身に関わりなく有能な行政官を幕府首脳に導き入れることが不可能になりました。今一つは、引退後も、その子家慶(いえよし)を飾りものの将軍として大御所政治を行い(正確にはその側近の佞臣達に幕府政治を専横する事を許し)、幕府財政を決定的に崩壊させたことです。

 それにしても、せっかく将軍の地位につきながら、おとなしく飾り物に甘んじていた家慶もまた不甲斐ない将軍といえます。それでも、天保12(1841)年に家斉が死亡すると、家慶はさっそく老中水野忠邦に父の佞臣達の首を切らせ、天保の改革を開始させる程度の意欲はあったのです。が、御三家等から改革に対する抵抗が強まると、庇うどころか、たちまち忠邦を罷免してしまうという、まことに暗愚な将軍でした。

 別に私だけが家慶に点が辛いわけではありません。家慶は、同時代にもあまり評判の良くない将軍でした。家慶の従兄弟に当たる越前藩主松平慶永(よしなが)は、「家慶は、凡庸の君にして、将軍の器量なし」と酷評しています。

 また、幕臣であり、明治時代にはジャーナリストとして活躍した福地源一郎の書き残しているところによれば、「人気に障らぬように注意せよ、物議を惹起してはあいならぬぞ」というのが口癖だったというのですから、絵に描いたような八方美人型の性格だったことがわかります。死ぬまで田沼意次を庇い抜いて、保守派に不評判の改革を実施させた10代将軍家治との器量の差は歴然たるものがあるといえます。

 B 名君? 阿部正弘

 阿部正弘は、水野忠邦の罷免と入れ替わりに老中に就任した人物です。すなわち、水野忠邦が最終的に罷免されるのが天保14(1843)年閏(うるう)9月13日で、阿部正弘が老中になったのが、その二日前の閏9月11日です。

 老中に就任したのは、阿部正弘が、わずか25歳の時のことです。彼の父親、阿部正精(まさきよ)も家斉時代に老中を勤めており、また、この就任の経緯からしても、将軍家慶や御三家など保守派が安心して政治を任せられる、温厚な譜代の名門の御曹司と考えられていたことが判ります。自分の家中の反対を無理矢理押し切って老中になった水野忠邦と違って、大奥対策も上手にやれる、そつのない政治家でした。おそらく幼少の頃から老中になることが当然と思われ、そのための帝王学を受けて育った人だと思われます。

 彼は一般に名君として理解されています。当時の良い君主というものは、自分では仕事をせず、有能な部下に仕事を任せて、その上に乗っているものとされていました。今日的にいえば、よい官僚を選抜すると、実務は官僚に任せ、問題が起きたときに最後の責任だけをとる政治家が、良い政治家という考え方に通じています。阿部正弘はその名君を完璧にやれる人でした。

 特に人材登用にあたって英断をふるいました。この時代、幕府の行政機構はしっかりしていましたから、その中で低い出自から一定以上の地位によじ登ってくる人物は皆有能といえました。だから有能な人物を見いだすこと自体は、そう難しいことではありません。難しいのは、有能な人物を、その低い出自に拘ることなく、適所に抜擢していく勇気を持つことです。

 阿部正弘は、名門の御曹司であるにもかかわらず、それができる人でした。川路聖謨(かわじとしあきら)、その弟の井上清直(きよなお)、水野忠徳(ただのり)、江川英竜(ひでたつ)、勝義邦(海舟)などの下級幕臣やさらには土佐の漁民にすぎないジョン万次郎の起用は、彼の出自に対する偏見のなさをよく示すものです。岩瀬忠震(ただなり)に至っては、部屋住みの身分のままで阿部正弘に抜擢され、終生その身分のままで幕府に仕えています。大久保忠寛(ただひろ)や永井尚志(なおゆき)は比較的高い出自ですが、やはり阿部正弘の抜擢により活躍しています。

 彼の後に幕府の政権を握る人物達は、いずれもこのような抜擢人事をやることができなかったことを思うと、彼が人材登用に見せた英断はまことに非凡といえます。その点からも、確かに絵に描いたような名君ということができます。この結果、こうした人材群の補佐よろしきを得て、ペリーが来航するまでは、国内的にはうまく納まっていました。

 この人材登用に当たって見せた英断に加えて、彼がわずか39歳で亡くなったこともあって、彼の早世を惜しむのが日本史では通説的考え方のようです。しかし、それは疑問といわざるを得ません。

 彼の不運は、伝統的な名君ではとうてい対応できない新しい時代に、沈みゆく幕府の舵取りを担わなければならない点にありました。官僚は、従来から決まっている方針をそのまま遵守すべき場合には、仕事を安心して任せておけます。しかし、新しい事態に即応して新しい方針を立てる場合には、政治家自らが決断を下さねばなりません。だが、そのような肝心の決断力が、この名門の貴公子にはなかったのです。

 C オランダからの開国勧告

 ペリーの来航は、わが国の一般国民にとっては全く突然に起きた驚天動地の事件でしたが、国際的に見れば、アヘン戦争などアジアで起きていた一連の流れの中で起きた必然の出来事でした。そしてそのことは、当時の日本人でも、知る意思のある人々の間には良く知られていました。

 特に彼の前の老中である水野忠邦は、外国情報収集の必要を痛感し、それまでオランダ政府から得ていた定例報告の和蘭風説書(おらんだふうせつがき)に加えて、別段風説書(べつだんふうせつがき)の提出を特に求めて、正確な海外情勢の把握に務めました。水野忠邦が天保13(1842)年に、家斉の発していた異国船打払令(無二念打払令)を廃止して、薪水給与令を発したのは、そうした情報に基づいて下した理性的な判断によるものでした。

 また、彼は江戸及び大阪の防衛にも心を砕きました。印旛沼を通過する運河を、田沼意次は、経済の振興のために計画したことは「江戸財政改革史」で紹介しました。水野忠邦も同じく印旛沼運河を計画しますが、彼の場合、これは江戸防衛計画の一環でした。すなわち、江戸は大量消費都市ですが、その消費物資はほとんどすべて海路を通じて運ばれていたのです。したがって、もし外国が浦賀水道を封鎖すれば江戸は戦わずして陥落しかねない状況にあったわけです。そこで内陸に運河を建設することで、第二の生命線を作ろうというのが彼の計画でした。もちろん第一の生命線である浦賀近辺を守るために、砲台も新たに相当数建設しています。同様に京阪神の防衛線である摂津の海についても、可能な限りの防備を固めています。ただ、それらはいずれも、この時代の西洋の艦船の持つ攻撃力の前には、お話にならないほどに脆弱なものに過ぎなかったのですが・・。しかし、そのことは、忠邦自身が一番よく知っており、だからこそ、彼は先に述べたとおり、外国船打ち払い令の緩和も行っているわけです。

 その忠邦の江戸・京阪神防衛政策の要として立案されたのが、上知令、すなわち江戸及び大阪周辺の土地をすべて幕府の直轄地としようとするものでした。しかし、これは上知の対象となる土地所有者その他に大きな経済的不利益を強いるものでした。このため御三家を始めとする、財政難に苦しむ諸藩の強い抵抗を招き、八方美人の家慶にあっさり見捨てられて、彼は失脚するに至るのです。

 したがって、前車の轍を踏むことを恐れる阿部正弘の外交政策が、無策の一語に尽きるものとなるのは当然です。先に述べたとおり、オランダ国王は日本に親書を、天保15年7月(1844年。12月に弘化に改元しているので、一般に弘化元年と書かれることが多いのですが、国書到来の時点は、天保という年号の間です)に送ってきます。オランダとしては、日本が鎖国を続けている方が莫大な貿易利権を独占できるので非常に好都合なのですが、あまりに国際情勢が緊迫してきたため、永年の厚誼を考え、自らの利益を捨てて日本に開国を勧めてきたのがこの手紙です。

 しかし、こうした難問に機敏に反応し、処理する能力は阿部正弘にはありません。それにもまして恐ろしいのが、独断で重要な決定を行い、それが御三家や有力諸侯の反撥を招くことです。そのような事態になった場合、家慶は老中を庇うような気骨のある将軍でないことは、その前年に罷免されたばかりの水野忠邦の悲運を見れば、よく判るからです。

 そこで正弘は、卑劣にも、この火中の栗を拾う損な役は、負け犬の水野忠邦に押しつけるのが一番と、家慶を説いて、忠邦を再び老中に起用します。しかし、開国の決断を下したところでそれを受ける家慶でないことが十分に判っている忠邦は、何もしようとしません。この時のことを、歴史の教科書はよく「もはや忠邦は政治の意欲を失っていた」と書いています。が、どんなに意欲的な人でも、こんなに馬鹿馬鹿しい役を押しつけられてファイトを燃やすことはあり得ません。忠邦のサボタージュは当然のことといえるでしょう。

 D 水戸斉昭への接近

 正弘は仕方なく水野忠邦を罷免し、改めて八方美人的な解決策を求めて走り出しました。おそらく御三家などにどう対応するべきか打診するという行動に出たはずです。

 御三家の問題児、水戸斉昭(なりあき)は、こういう時、ずばずばとはっきりものを言ってくれる点で、相談のしやすい相手でした。

 しかし、彼はこの年5月に家慶から謹慎処分を受けていました。水戸家は、党派抗争の盛んな藩で、斉昭が藩主につくに当たっても、保守派と改革派が激しく争いました。斉昭は改革派の支持によって藩主の地位につくと、水野忠邦の改革に先行する形で水戸家の改革を実施していたため、天保改革時には家慶より直々に賞揚されています。ところが、天保改革が失敗し、水野忠邦が失脚して幕閣内の支持者がいなくなった機をとらえて、藩内保守派より讒訴(ざんそ)されます。その結果、改革の一環として軍艦を建造したり大砲を鋳造したりしていたこと等を根拠に、謀反を企てていると認定され、天保15(1844)年5月に将軍家慶により直々に、藩主からの引退・謹慎を命じるという重い処分を受けたばかりだったのです。わずか1年ほどの間に、黒幕のいうままに、同じ行為を直々に褒めたり貶したりした家慶は、誠に定見のない人といわざるを得ません。

 そのため、この時期、水戸斉昭の行動はかなり制約されていました。それでは相談しにくいと考えたのでしょう、正弘は家慶を説いて、処分を受けたわずか半年後に、早くも謹慎宥免(ゆうめん)とします。部分復権というわけです。これ以後、水戸斉昭と阿部正弘の間には頻繁に書簡が交わされることになります。なお、この膨大な往復書簡は、『新伊勢物語』と題されて、茨城県資料幕末編の収録するところです。この表題は、阿部正弘が伊勢守であったことから来ています。

 ちなみに、斉昭の完全な復権、すなわち水戸藩の藩政への関与が正式に認められるようになるのは、少し遅れて嘉永2(1849)年3月のこととなります。この完全復権時に、彼の股肱の臣である藤田東湖ら改革派も蟄居を許され、それに伴い、藩内保守派は追放され、政権は再び改革派が握ることになります。これにより、幕末史を血で染める水戸家の動乱が始まることになります。

 水戸家は御三家でありながら、黄門様として有名な水戸光圀(みつくに)以来、勤王思想を有するという異端の藩です。斉昭もまたこの家の伝統を受け継いでいます。そこで、阿部正弘から相談を受けるようになり、政治的影響力を有するようになってきたことを幸いに、200年以上に渡ってつんぼ桟敷におかれていた朝廷を再び表舞台に引っぱり出すべく、斉昭は暗躍を始めます。つまり正弘はこの時、虎を野に放ってしまったのです。その結果は2年後にあらわれます。

 結局、適当な対策が立てられないままに、正弘は無難な対応と考えたのでしょう、翌弘化2(1845)年に「祖法」を根拠に、この勧告を拒絶する返書をオランダに送ります。

(4) ビットル事件とその余波

 A 海防係の設置

 この同じ弘化2年に、イギリスの測量船が長崎港に入り、傍若無人に湾内の測量を実施するという事件が起こります。そこで、決断力のない正弘も、外国からの侵入等の事態への対策を一つだけ講じます。この年に、外交問題・国防問題を専掌する機関として海岸防御掛(海防掛と通称されます)を新設したのです。ただし専任ではなく、勘定奉行や勘定吟味役と兼務するという形を取りました。

 B ビットルの来訪とその対応

 翌弘化3(1846)年閏5月に、米国東インド艦隊司令官ビットルがコロンブス号に乗って浦賀に来航し、米国大統領からの親書をもたらしました。ただ、この時のビットルの主たる使命は、後のペリーと違って、日本が諸国を貿易に開いたかどうかを確かめることで、もし開国していれば通商条約を締結する権限を与えられていたに過ぎませんでした。そこで、浦賀奉行を通じて「我が国は新たに外国の通信通商を許すこと堅き国禁」である旨のかなり無礼な回答を受け取っても事を荒立てることなく、目的を達したとして平穏に退去しています。翌6月にはフランスのインドシナ艦隊司令官が長崎に来ますが、やはり平穏裏に退去しています。

 しかし、このビットル事件により、オランダに警告されていた外国の来航が、現実の問題として浮上してきました。そこで、幕府としても今後の対応策を確立する必要に迫られたわけです。その検討に当たって、老中阿部正弘は、それまでの幕府専制政治の流れから見ると、信じられない行動に出ます。

 すなわち、外国人嫌いの彼は、改めて異国船打払令の復活ができないかということを考えます。考えるだけではなく、その可能性について幕閣内部のみならず、広く一般の幕吏及び近海防衛の任に当たる諸藩に対して諮問したのです。しかもこの諮問は、この年の1度だけではなく、嘉永元(1848)年、嘉永2(1849)年と3回に渡って行われています。

 しかし、外国船を打ち払いたければ軍事力が必要であり、軍事力を充実するには多大の費用が必要です。ところが、軍事予算を大幅に増額するという決心を、肝心の彼自身がしていないのですから、異国船の打ち払いなど物理的に可能であるわけがありません。お膝元の海防掛からも猛反対を受け、この案はつぶれます。

 確かに、後に詳しくは説明しますが、この時の財政状況は、そのような大幅歳出増が可能な状態ではありませんでした。しかし、そのようなことは幕府の責任者である阿部正弘自身が一番よく知っていたはずです。そして金をかけずに外国船打ち払いができるはずもないことは、普通の常識を持っている人なら誰にでも判ることです。

 つまり、この繰り返し行われた諮問は、いたずらに幕府に何ら対応策のないことを国内諸藩に印象づけ、また、国防問題に関しては諸藩にも発言権のあることを認めるという二重のマイナスの効果だけを後に残したのです。これが、幕末の第一の要素である、幕閣以外の諸侯の、幕政に対する発言の始まりです。

 C 海防勅書

 このように対外問題が緊迫の度を加えつつあった8月に、朝廷から突如、いわゆる海防勅書が下されます。すなわちこの勅書には、海防を厳重に行うようにという趣旨の政治的発言が含まれていたのです。おそらく水戸斉昭の、2年越しの対朝廷工作の成果と思われます。

 幕威が盛んな時代であれば、このような勅書が下されれば、それに関係した者は軒並み遠島にでもなりそうな代物です。が、阿部正弘は、斉昭による洗脳の効果でしょうか、何の抵抗も示さず、朝廷に対して、外国船来航状況の報告を行っています。ここに幕末という時代を、それ以前と決定的に分ける今一つの要素、朝廷の歴史の表舞台への登場が始まるのです。

(5) ペリーの第1次来航

 A 米国の極東貿易への取り組み

 米国では、ビットル訪日以後になって急に、日本を開国させる必要が高まっていました。パナマ運河のなかった時代ですから、それまで米国が極東貿易を行うには、大西洋経由かホーン岬経由の長大な航路を通る以外に適当な方法がありませんでした。そのため、欧州諸国の倍以上の距離を航海する必要があるので、事実上貿易はなきに等しいという状態でした。ところが、1848年にメキシコと戦争をし、今のカリフォルニア州にあたる地方を奪取することができたので、太平洋に窓口が開いたからです。

 東洋貿易で決定的に出遅れていた米国は、これを機会に積極的に乗り出すべく、太平洋横断航路を開設することを決定します。しかし、当時の蒸気機関は、まだジェームス・ワットの蒸気機関ではなく、低圧の単気筒式であったため、効率が悪く、大量の石炭を消費するので、中国まで直行するには燃料が不足します。したがって太平洋横断航路を開設するには日本を開国させて、ここで石炭を補給するほかはありません。つまりこの段階では、米国の意識にあるのは中国貿易の実施であって、日本との通商ではなかったのです。

 また、この頃日本近海に米国の捕鯨船が行くようになり、嵐による難船のため、アメリカ人が日本に漂着するという事件が頻発していました。しかし、幕府はそうした漂流民をすべて密入国者として牢に収容しており、その取り扱いは欧米の基準からすれば、お世辞にも人道的といえるものではありませんでした。このため、米国世論はかなり日本に対して硬化しており、米国としてはその善処方を日本に要請することも、政治上の重要事項となってきていました。

 米国では、ビットル事件における日本側の対応から、強硬姿勢を示せば日本を開国させることも可能と考え、1851(嘉永4)年に東インド艦隊司令長官のオーリックを日本に派遣して強硬に開国を求める方針を決定します。しかし、この時はオーリックが部下との間に問題を起こして罷免されたため、艦隊の派遣計画も流れます。

 2年遅れの1853年に、オーリックの後任としてペリーMatthew Calbraith Perryが派遣されることになります。この段階で、初めて第3の使命として日本との通商の開始も付け加えられました。しかし、あくまでも追加的任務であるに過ぎません。

 B ペリー艦隊の戦闘力

 ペリーは、嘉永6(1853)年6月に、旗艦サスケハナ号(外輪蒸気船2450t、大砲数9門)に座乗し、ミシシッピ号(外輪蒸気船1692t、大砲数10門)、プリマス号(帆船989t、大砲数22門)、サラトガ号(帆船882t、大砲数22門)の3隻を率いて浦賀沖に姿を現すことになります。

 サスケハナ号の2450トンという大きさは、今日の感覚では中型の護衛艦というところですが、この当時としては世界最大級の軍艦でした。これに対して当時の日本で大型船というと千石船ですが、千石というと、約150トン程度です。軍艦の排水トンと商船の積載トンとを直接に比較して大小を云々することはできませんが、とにかく和船が非常に小さなものであったことだけはご理解いただけると思います。当時の日本人から見て、サスケハナ号が小山のような巨大艦と思えたのも無理はありません。

 また、ペリー艦隊の搭載する艦砲は、特にその主力艦である蒸気軍艦が外輪部に邪魔されてあまり大砲を搭載できない関係から、合計63門に過ぎませんでした。この当時、サスケハナ号程度の排水量のある帆走戦艦なら、一隻で80門程度は搭載していましたから、これも決して多い数とはいえません。しかし、これに対してこの時江戸湾にあった多数の砲台に設置されていた計99門の砲のうち、これに比肩できる程度の大型砲はわずか19門にすぎず、しかもその大半は射程の短い臼砲(きゅうほう)で、ペリー艦隊まで届かないというのですから、それに比べると圧倒的に強大です。ペリー艦隊を前にして、幕府が震え上がったのも無理のないところです。

 C 幕府の無策

 ペリーの来訪を、しかし、幕府は寝耳に水と驚いたわけではありません。1851年に米国が日本に開国を強制すると決めたことは、翌嘉永5(1852)年には長崎のオランダ商館長により、幕閣に報告されていたからです。

 したがって、阿部正弘が、いくら決断力がなくとも、普通の常識を持った人物なら、今度こそどう対応するかということを、検討するくらいのことはしそうなものです。その検討が小田原評定になって対策がまとまらない内にペリーが来た、というのならまだ弁護の余地もあります。ところが驚いたことに、この段階になっても阿部正弘は、来ても琉球止まりだろうと甘い期待をして、どう対応するかという方針さえも全くたてていなかったのです。

 その結果、予定のとおりにやってきたペリーに対して、本当に寝耳に水といった感じに驚きあわてる、という醜態をさらすことになります。一国の宰相としては、信じられないほどの無能ぶりという外はありません。先憂後楽という儒教倫理的にみても、弁護の余地はないといえるでしょう。

 全く対策が用意されていなかったものですから、現実に出現したペリーを前にどう対応したらよいのか全く阿部正弘には判りません。このとき、ペリーは、米国とメキシコとの戦争を引き合いに出して「国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決すべし」と恫喝し、幕府を震え上がらせます。が、あえて阿部正弘をぎりぎりまで追いつめることをせず、国書を受け取らせることに成功すると、翌年の再渡航を予告して引き上げました。したがって、ここに約1年の時間的余裕が生じたのです。

(6) 阿部正弘の対応策

 1年の時間を利用してなにをしたらよいのか、しかし、正弘には思いつけません。しかも不運なことに、ペリーが去って10日後の6月22日に病弱だった将軍家慶が死亡します。代わって将軍位についた家定は文政7(1824)年生まれといいますから、この時すでに30歳。立派に独り立ちできる年齢なのですが、後に改めて詳しく紹介しますが、家慶に輪をかけたまったくの愚物で、まともな判断力がありません。それを補佐する責任は、全面的に正弘の肩に掛かってきます。正弘はまさに茫然自失したといってよいでしょう。

 そこで、万策つきた彼は再びビットル事件の際と同様の行動を、さらにスケールアップし、徹底した形で繰り返します。

 A 朝廷への奏聞

 阿部正弘は、まず、米国からの国書の訳文を添えて朝廷に奏聞(そうもん)したのです。これは幕府の側から積極的に朝廷の政治的発言を促したという意味で、弘化3(1846)年に海防勅書を唯々諾々と受け取り、事情説明を行ったのとは比べものにならない重要性を持つ行動です。長いこと政治から離れていた朝廷に、具体的打開策を案出する能力があるわけは、もちろんありません。海外の問題に対する関心を、朝廷内外でいたずらにかき立てただけに終わります。

 B 諸大名等への諮問

 ビットル事件の時は、阿部正弘は、確かに前例を破りはしましたが、それでも幕吏や沿岸防衛に関係する諸藩という当事者能力を持つ人々に対して諮問したのですから、弁護の余地が若干はあります。ところが、今回は、そればかりでなく、外様大名をも含むすべての諸侯、さらに陪臣(ばいしん)、つまり諸侯の家来までも対象として、和戦いずれにすべきかという諮問を行ったのです。

 これに答えた意見書は700通以上も提出されましたが、当然のことながら妙案はまったくありません。単に幕府の威信の低下を全国に宣伝し、あらゆる人々に、自分たちも国政に発言できるということを気づかせるだけの結果になりました。

 C 水戸斉昭の幕政関与

 海防会議に、攘夷派の総本山とも言うべき水戸斉昭を、海防参与という肩書きで参加させました。御三家といえども政治的発言は許さず、老中が政権を独占するという長い伝統がこの瞬間に崩れたわけです。

 これについては、当然の事ながら幕閣内の反対も強かったのですが、越前藩主松平慶永や薩摩藩主島津斉彬からの建白書などの援護射撃がありました。この二人は只の大名ではありません。

 松平慶永は一橋治済の孫で、田安家から越前家に養子に行った人ですから、先にも触れたとおり将軍家慶の従兄弟に当たります。養子に行っていなければ、次期将軍の可能性もあった人物です。

 また、島津斉彬はその娘篤子を安政3(1856)年に家定の御台所に送り込んでいますが、この時期にはもうそのことは内定しています。つまり将軍家定の未来の岳父というわけです。こうした強力な応援団の存在によって、斉昭の幕政関与はようやく実現に漕ぎつけたのです。

 しかし、強硬派の斉昭ですら、ペリーの艦隊の偉容の前には、単にぶらかし戦術、すなわち平和的話し合いをして時間を稼ぐという策を唱える以上の何の知恵も出せませんでした。したがって、この改革も幕府の意志決定に諸藩の介入を認めることを明らかにした以上の意味は持ちませんでした。そして、この斉昭起用が保守派の反発を招き、阿部政権の命取りとなっていきます。

 D 幕府の軍事独占の放棄

 正弘はわが国軍備を充実させる手段として、幕府の軍事力独占という長い伝統を放棄し、諸藩が独自に軍事力を増強することを認めました。これは幕府の財政に負担をかけることなく国防力を充実するという意味では、ある程度有意義なことですが、それが長州藩や薩摩藩に倒幕に必要な軍事力を育てることを可能にしたのです。

 また、幕府では、これまで、諸藩から海上勢力を奪う手段として、寛永の武家諸法度以来一貫して、船に竜骨を設けること及び帆柱を二本以上たてることを禁止してきました。このため、江戸時代のわが国には、平底の船に長大な一本マストを立て、それに巨大な一枚の帆を掛ける、いわゆる帆掛け船しかありませんでした。これは逆風に逆らって航海する能力が極端に低かったので、沿岸航海をする能力しかなく、ちょっとした嵐でも簡単に難船して、ジョン万次郎のような漂流民を多数出してきたわけです。

 阿部正弘は、この大船建造禁止令を廃止します(水戸斉昭の建議によるといわれます)。幕府に金がない以上、諸藩に大船を建造させることにより、国家防衛における幕府の負担を軽くしようという考えからでたものであることは明らかです。

 しかし、海軍建設には膨大な費用を要するため(どれほど必要になるかは後に詳述します)、幕府以上に財政の疲弊している諸藩の、よくなし得るところではないことを無視した空理空論でした。実際、明治になるまで、薩長も含めたどの藩も、海軍といえるほどの海上勢力を作り出すことはできませんでした。ただ、幕府海軍の活動をある程度妨害できる程度の艦船は保有するに至ります。特に、後の長州征伐時に、幕府海軍は、高杉晋作の指揮する長州艦のため、痛い目に遭うことになります。

(7) 歴史のifを思えば

 こうして、ペリーの来航をきっかけにした、阿部正弘の、幕府にとっては有害無益としかいいようのない一連の改革により、幕末は本格的に始まることになります。この意味で、阿部正弘というたった一人の人物が、幕末という空前絶後の歴史状況を作り出した、ということができます。

 勝海舟のように、幕臣でありながら、幕府を超越した視野で日本を考えた結果、このような一連の措置を執ったというのなら、阿部正弘は英雄といえるでしょう。しかし、彼の事績を丹念に調べても、そのような思想をもっていた形跡はありません。したがって、阿部正弘は、自らの措置が幕府にもたらす将来的影響を全く判断する能力のない、無能な宰相と評価するほかはありません。

 彼をほめる人は、阿部正弘は挙国一致体制をとって国難に当たろうとしたと言います。しかし、そもそも挙国一致体制とは、国内に様々な実力者がいるときに、彼らに小異を捨てさせて大同につかせる政治体制を言うのです。しかし、この時には国内に幕府以外の実力者は全くいなかったのです。阿部正弘は、その馬鹿げた行動により、幕府以外の国内実力者をわざわざ作り出し、それにより国内を混乱に陥れたのです。このような行動についてほめ言葉を作り出すことは不可能です。

 歴史にifは無意味ですが、もし家慶にもう少し気骨があれば、ペリー来航の時点で政権を握っていたのは水野忠邦だったでしょう。そして、忠邦ならば、ペリー来航に対しても別段風説書を新たに求めるなど、周到に事前準備を重ねていたでしょう。したがって、日米和親条約を締結するという選択肢を選んだ場合にも、それにあたって朝廷や諸侯に発言権を認めるような拙策は採らなかったと思えます。その結果、軍事や外国貿易を幕府が独占する状況下での開国が十分に起こり得たはずです。たぶん、徳川幕府主導で明治維新そのものが実現していたでしょう。ひょっとすると、いまでも日本に徳川幕府が続いていたかもしれません。もっとも、それが我々一般国民にとり、幸せを意味するかどうかは別問題ですが・・。

 あるいは井伊直弼がもう少し早めに大老の地位について、この時点で幕府の実権を握っていたとしても同じような対応をとったことでしょうから、平穏裏に開国を迎えていた可能性は、やはり存在しています。井伊直弼による悪名高い安政の大獄は、時計の針を阿部正弘の改悪前に戻そうという絶望的な努力ということができます。が、その激しい弾圧によっても、歴史を逆転させることは不可能だったのです。

 もっとも、井伊直弼という人は、後に紹介するとおり、宰相としてかなり無能なばかりでなく、信じられないほどに狭量な人物でしたから、彼の指導の下に明治維新にまでたどり着いたというifが成立する可能性は、水野忠邦の場合に比べると、かなり小さなものとなりますが・・。

 

 2. 幕末初期における財政状況

(1) 天保13年の財政状況

 ペリーが来航した嘉永当時の幕府の財政状況は残念ながら記録が残っておらず、判りません。しかし、勝海舟が編集した吹塵録のおかげで、その10年前の天保13(1842)年の財政状況は判っています。それによると、一般会計歳入額は92万5099両、歳出総額が145万3209両で、差し引き52万8110両の赤字となっています。

 ついでに歳入の内訳をみておくと、年貢収入55万0374両、川船運上3203両、寄合・小普請御役金3万4633両、献上金銀1万6633両、長崎上納金2万2792両、国役金2万5932両、諸拝借返納7万6686両、品々納め14万6846両といったところで、いまだに年貢米収入が歳入の6割を占めているものの、綱吉以来積極的に導入されてきた様々な商業に対する租税が、かなり有力な財源に育ってきていることが判ります。

 この天保13年は、水野忠邦主導による天保の改革の最終年でした。そして、水野忠邦という人は、前に紹介したとおり、国防・外交に関する見識は優れたものがありますが、こと財政に関する限り、全く無能な人物でした。したがって天保の改革における財政再建策は、基本的には徹底した倹約以外にありませんでした。それでいながら4割近い赤字財政というのはぞっとする話です。要するに、家斉時代に始まった歳出超過は、この時点では完全に構造的なものとなり、単なる改革のかけ声くらいではどうにもならない状態になっていたことが判ります。

 なお、こうした毎年度の固定的な収入とは別に、この年度の特別収入として金銀吹き替え御益として55万7322両の収入があります。したがって、これで何とかこの年度についてはやりくりがついたことが判ります。

 金銀改鋳という家斉政権下で乱用された伝家の宝刀を、より徹底したやり方で使う以外にどうしようもない状況に、幕府財政は、この時点で既に追い込まれていたわけです。なお、この水野忠邦が実施した天保改鋳と、井伊直弼によるそれに輪をかけた安政改鋳による通貨品質の改悪のために、各国と締結した修好通商条約下で、我が国経済は大混乱に陥るのですが、それについては後の章で詳しく説明したいと思います。

(2) 弘化元年の財政状況

 阿部正弘が老中首座であった時代の財政については、弘化元(1854)年のものがある程度判っています。それによれば、歳入額は171万9090両で、天保13年に比べて80万両近く増えています。内訳を見ると、年貢収入64万6810両で若干の増加を示しています。これは年貢米そのものが増収になったのではなく、改鋳に伴う物価の上昇を反映したものと思われます。

 金額的に大きく跳ね上がっているのは大阪商人からの御用金、すなわち借金で、実に51万8320両に達しています。ついで大きいのが、諸大名から取り立てた江戸城本丸御手伝い金で18万4150両、さらにこれまであちこちに貸し付けていた金を回収したものが、16万5700両となっています。

 つまり、借金をしまくると同時に貸し金を厳しく取り立て、また諸大名を搾り取るという、なりふり構わぬ歳入増加策をこの年採用していることが判ります。

 これに対して歳出総額は212万9130両と、これも60万両ほど膨れ上がっています。歳出の52.9%に当たる90万4100両が役所、寺社及び河川の改修費です。特に役所の改修費は85万4480両に達しています。水野政権以降で続いた不自然な緊縮政策で、施設のメンテナンス費用をケチっていたために、反動で大きな支出を余儀なくされたことがよくわかります。

 この結果、収支差額は41万両の赤字となります。しかし、この年は金銀改鋳益金が85万6400両もあったため、単年度収支に関する限り、逆に44万6340両の黒字となりました。水野政権に引き続き、阿部政権でも金銀改鋳という打ち出の小槌を濫用していることがよくわかると思います。

(3) 勘定奉行川路聖謨

 ペリー到着の時点における勘定奉行は川路聖謨(としあきら)でした。彼は享和元(1801)年に豊後の日田で生まれました。

 彼の父、内藤吉兵衛は、日田にある西国郡代の手代でした。手代は、江戸財政改革史で説明したとおり、江戸初期には代官の私的な使用人でしたが、享保改革の際、給料が代官所経費の一環として幕府から支給されるようになったため、幕臣に準ずる身分を獲得しました。しかし、厳密な意味では武士とは言えない、非常に低い地位であることに変わりはありません。

 今の大分県日田市は山中の小都市にすぎませんが、江戸時代の日田は、九州一円の大名の監督に当たる西国郡代のお膝元であったため、九州諸藩の物産の集散地として、また、同時に金融の中心地として栄えた町でした。日田金(ひたがね)という言葉があります。この地の豪商が郡代所御用達という形式を通じて、高利貸しとして繁栄していたからです。

 吉兵衛は手代をしていてちょっとした財産を築いたようです。まじめに手代をしていて金が貯まるわけはありませんから、多分この日田金と何か関わりがある不明朗な活動を行ったのではないかと想像するのですが、蓄財方法の詳細は判っていません。十分な財産ができたところで手代をやめて江戸にでると、長男川路聖謨に旗本の株を、また次男井上清直に与力の株を買ってやって、幕臣の身分を与えました。

 ちょっと勝海舟と似た出自ですね。勝海舟は、祖父男谷検校が豪富をもってなる高利貸しで、その子供たちにそれぞれ幕臣の株を買い与えた結果、孫の勝海舟も幕臣の身分を持つことになったからです。ただ、川路聖謨は、旗本の株を買って貰えましたから、貧乏御家人の株しか買ってもらえなかった勝海舟の父よりも、その分だけ、幕臣としての栄進が楽であったという違いがあります。二人の子供のどちらにも幕臣の株を買い与えたというところから、川路聖謨の父が貯め込んでいた財産は、かなりのものであったことが判ります。

 人間の精神の不思議なところは、このように金銭づくで幕臣になった人物であるにもかかわらず、川路聖謨も井上清直も、徳川家の大変な忠臣だった点です。もっとも、そういう性格だからこそ、わざわざ大枚をはたいても幕臣の身分を欲しがったと考えるべきなのかもしれません。とにかく、任官するとまじめにその職を果たしました。しかも彼らは非常に有能でした。

 川路聖謨は、辣腕の寺社奉行として有名な脇坂安董(やすただ)の下で寺社吟味役として活躍したことからその能力が認められ、栄進して勘定吟味役になりました。ここまででも異数の出世と言いうるのですが、彼はさらに佐渡奉行、奈良奉行、大阪町奉行と重要な遠国奉行を歴任しました。そこで、阿部正弘に抜擢されて、ペリー来航の前年の嘉永5(1852)年に勘定奉行兼海防係となっていたのです。

 なお、井上清直は、弘化4(1847)年に勘定組頭格となり、安政2(1855)年正月に、兄同様に勘定吟味役に昇進しています。そして、同年4月に阿部正弘に抜擢されて下田奉行となります。

(4) 阿部正弘の国防政策

 阿部正弘は、ペリーが嘉永6(1853)年6月に来るまでは、前述の通り、全くの無策でしたが、ペリーの到着によってショックを受けると、突然行動の人に変身します。その活動を大きく外交と国防に分類することができるでしょう。

 その外交に関する様々な行動が、それまでの幕府の不文律を犯すものであり、幕末という一つの時代を開幕させたものであることは、前節に述べたとおりです。しかし、そこにみられた外交に関する活動では、直接財政負担の増加につながるということはありませんでした。

 それに対して、国防策は、直ちに国防支出を要請します。したがって、それは厳しい状態にあった幕府財政をさらに厳しい状態に追い込むこととなります。阿部正弘も本当であればこれ以前に国防体制を充実したかったことはビットル事件の際の諸藩への諮問にも明らかです。

 しかし、先に紹介した厳しい財政状況に押されて、阿部正弘は、その時点まで無策で過ごしてきたのです。が、もはや猶予はならないと考えました。そこで阿部正弘は突然、行動の人に変身した訳です。彼の積極的行動による負担は、当然の事ながら、すべて勘定所にかかってくることになります。

 A 江戸湾の防衛

 江戸湾の防衛の必要性は、常識のある人ならとっくの昔に認識し、対策をたてていなければなりません。水野忠邦が上知令を始めとして様々な計画を立案し、実施しつつあったことは前述の通りです。阿部正弘は、ビットル事件の際に、外国船打ち払いの可能性について諸藩に諮問したくらいなのですから、その時点で、諮問に先行して、少なくとも江戸湾だけでも外国船打ち払いが可能な程度の防備状況にあるかどうかを確認し、不十分であれば防衛計画の策定作業くらいはするべきだったのです。

 しかし、実際には、彼は、ペリーが到着するまで、まったくその作業をしていませんでした。ペリーが来て、その威嚇の前に防衛力の不足を痛感して、初めて川路聖謨に防衛計画の立案を命じたのです。まさに泥縄と言うべきでしょう。

 川路聖謨は、ペリー来航を機会に勘定吟味役格に起用されていた伊豆韮山代官の江川英竜と共同して急遽調査を実施した上で、防衛計画を答申します。それによれば、台場(砲台場の意味)を新たに9ヶ所設ける必要があり、それをすべて新たに埋め立てによって設ける必要があるため、埋め立て経費の合計は1499万0312両に達するという計算になるというのです。先に紹介した天保13年度の幕府経常歳入額の実に16倍という天文学的な数字で、とても実現可能な計画とはいえません。しかも、これはあくまでも台場建設に必要な経費であって、この台場に設置する大砲の鋳造費や大砲の弾薬は含まれていません。もちろん、配備する砲兵隊等の維持管理費は、さらにそれとは別に必要になります。

 皆さんもご存じの通り、江川英竜は、伊豆韮山に既に嘉永2(1849)年に独力で反射炉を築き、大砲の鋳造を行おうとしていました。炎が炉の壁に反射して炉の奥の一点に火力が集中し、規模の割に高温を出せるという原理であるところから、反射炉の名があります。しかし、彼が私費を投じて建設した反射炉は、小型すぎて火力が弱く、鉄がよく溶けないために失敗に終わっていました。そこで、この機会に幕府から資金援助を受けたいと考えて申請し、この年12月に資金交付許可を得ています。

 つまり、台場に置く大砲については、これから大砲の試作を始めるどころか、更にその前々段階である試験用反射炉の試作を始めようという段階なのですから、台場に設置する大砲製造に、どのくらい費用がかかるものかは、この段階では計算することも不可能であったわけです。この点でも、まことに泥縄な計画ということができます。

 反射炉の建設は、ちょうどペリーの第2次来航時に行われましたが、場所が浦賀から近かったものですから、ペリー艦隊の水兵が大勢見物に来て閉口したという話です。防衛計画の根底である大砲鋳造のための試験炉がどの程度のレベルかということ等が、すべて相手側に筒抜けという訳ですから、何ともお粗末な情報管理です。なお、この大型反射炉の建設費用だけで、7311両を必要としました。

 普通の常識を持つ人ならば、こういうとんでもない巨費を必要とする防衛計画を提出されれば、江戸湾の要塞整備による防衛の不可能を悟って、他の方策を模索するでしょう。が、阿部正弘は防衛に関する常識のない人でしたから、防衛計画の規模を大幅に縮小した上で、これを実施することを命じます。

 これは馬鹿げた話としか、言いようがありません。川路聖謨らは防衛不要論者ではないのですから、不必要に過大な経費を積算する訳はありません。その立てた計画は防衛に必要最小限のものとみるべきです。防衛は、役に立つか立たないかの二つに一つで、少しは役に立つということはあり得ません。したがって、縮小した計画は、防衛には全く役に立たないものとなるはずですから、単なる金の無駄遣いと言わざるを得ません。

 実際、立案者の一人、江川英竜は、そんな縮小案は「竹へ縄をつけ品川沖へ立ち置きしも同様にて、つまり砲台建築の費は多少に関わらず国家無益の費と存じ奉り候」とまで極言して縮小計画の実施に反対しました。

 しかし、川路聖謨はよき官僚として、おとなしく阿部正弘の命にしたがって台場建設に着手しました。最終的に幕府瓦解までの間に五つの台場が一応完成し、一つが未完に終わっています。それに要した経費は計75万両に達しました。厳しい財政事情の中で、単年度年貢総額を上回る巨費を投じて建設された台場は、江川英竜の言ったとおり、何の役にも立つことなく、今日に至っています(東京湾の太公望たちに絶好の足場を提供するという役割だけは、立派に果たしてきているようですが・・)。

 B 海軍の創設

 阿部正弘は、この年10月に、オランダから、コルベット型蒸気軍艦2隻の購入を決定しています。これを皮切りに海軍を建設しようとしたのです。なお、この軍艦購入時には、長崎奉行水野忠徳が長崎伝習所を創立するなど、重要な役割を果たしますが、それについての詳細は、日蘭和親条約と一緒に後述します。

 このコルベット艦というのは、この当時の軍艦の艦種を示す言葉です。

 この頃、一番大きい軍艦は戦列艦(ship of the lines)と呼ばれていました。帆走軍艦の時代に艦隊決戦を行うときは、これが主力となりました。小さなものでも60門程度、大型のものは100門以上の大砲を積んでいたものです。

 ついで大きいのがフリゲート艦で、戦列艦よりも積んでいる大砲は少ないのですが、遙かに快速です。それを利して、商船隊の護衛や連絡艦など多目的に使用されました。外輪型蒸気軍艦は、その構造上の制約から、あまり大砲を積めないので、フリゲート艦が最大艦種でした。ペリー艦隊の最初の旗艦サスケハナ号や、後に旗艦となるポーハタン号は、トン数は戦列艦並ですが、その速力と積載砲数から、艦種としてはやはりフリゲート艦に分類されることになります。

 幕府が買ったコルベット艦は、フリゲート艦よりワンランク下の艦種で、通常単艦で行動することはなく、2隻以上が組んで商船隊の護衛などに活動しました。このため、幕府も同型艦を2隻注文したわけです。

 その注文により日本に到着した第1号艦が、勝義邦(海舟)が指揮して米国に行ったことで有名な咸臨丸です。当時としては世界最新鋭のスクリュー推進式の新造艦でしたが、排水量625トンですから、かなり小型であることが判ると思います。それでも値段は1隻10万ドルしました。この時点でのオランダとの交易レートでは4万両に相当しますが、しかし、後に説明する理由から安政通商条約下においては1分=34.5セントのレートが採用されたため、支払い時には約7万2500両ということになりました。

 ある研究者の計算によると、幕府がその滅亡までの間に外国から購入した軍艦の総代価は、代価不明のものを除外しても333万6000ドルに達するそうです。当時の幕府財政規模からすれば、これもまた空恐ろしいような巨額であることはおわかりいただけると思います。

 しかも、船というものは買えばそれで済むものではなく、その維持管理にも大変な費用を要するものなのです。幕府が慶応3(1867)年に40万ドルで引き渡しを受けた開陽丸について、勝海舟が編集した「海軍歴史」という本に、その維持管理費の書類が残っていますが、それによると単年度で、14万6592両2分225文となっています。咸臨丸が丸々2隻買えるほどの金額です。

 同じ慶応3年の記録によると、単年度の幕府海軍維持費が92万0800両とされています。艦隊を維持するだけで、天保13年頃の幕府の歳入総額に匹敵する巨額が必要になるわけです。これでは諸藩が海軍を創設できなかったのも、無理がないとおわかりいただけると思います。

 軍艦というものは、確かにふつうの商船に比べると非常に多額の維持管理費を要するものであることは、現代においても変わりません。しかし、幕末において、これほどの維持管理費がかかったのには特別の理由があります。諸外国が、日本の無知につけ込んで、ポンコツの船を売りつけたからです。例えば慶応2(1866)年に幕府が購入した回天という外輪式蒸気軍艦は18万ドルしましたが、実は廃艦になったプロイセンの軍艦を米国人が化粧直しをした上、再武装して日本に売り付けたものです。そのため、軍艦の運用を開始すると、たちまちあちこちが故障しました。この当時、最寄りのドックは中国の上海にあるものだけでした。だから、ちょっとの故障でもはるばる上海まで出かける必要があり、いよいよ維持費が嵩むことになったわけです。これに業を煮やした幕府は、長崎や横須賀に造船所を建設することにしたので、さらに経費を必要とすることになるのですが、これはしばらく後の問題です。

 C 陸軍設立への道

 海軍を作ろうとしたのですから、それに対応して陸軍を作ろうとするのも当然です。しかし、これは海軍に比べて動きが遅れて、実際の設立はペリー来航から見れば、かなり後にずれ込みます。ここでは、その前駆というべき幕府講武所設立までの動きだけを紹介しておくことにします。

 洋式陸軍設立という面で、我が国にとって幸いだったことは、高島秋帆(しゅうはん)という独学の先駆者がいたことでした。彼は長崎の地役人、すなわち町人身分でしたが、西洋の陸軍を研究するとともに、私費を投じて銃器を買いそろえ、門弟を訓練してちょっとした軍事行動ができるようにしていたのです。

 天保10(1839)年にアヘン戦争が起き、それが翌11年にオランダ風説書となって日本にも知られました。秋帆はこの機を捉えて、長崎奉行を通じて幕閣に「天保上書」の名で知られる意見書を提出し、西洋の火器及びそれを使う陸軍の優秀さを強調しました。これに強い印象を受けた水野忠邦は、天保12年に高島秋帆とその門弟を出府させ、今の板橋区にあった徳丸ヶ原というところで陸軍演習を行わせました。この演習そのものは大成功に終わりました。

 が、蕃社の獄を引き起こしたことで有名な、大の西洋嫌いの江戸町奉行鳥居耀蔵は、洋式陸軍という考え方自体に反感を持ち、私費で銃器を購入していたのは謀反の疑いがあるなどと罪をでっち上げて、彼を投獄しました。彼が釈放されるのは、鳥居の後ろ盾であった水野忠邦が失脚し、阿部正弘が政権を握ったあとの弘化2(1845)年のことになります。その時点では、秋帆の門弟の一人である川路聖謨が幕府の要職についていたことも役に立ったのかもしれません。しかし、幕府の権威を守るため、無罪が宣言されるどころか、中追放が言い渡され、屋敷の没収処分を受けています。

 彼は釈放後、門弟の一人である江川英竜の屋敷に身を寄せていたのですが、ペリーの来航に対して早速、「嘉永上書」と呼ばれる意見書を幕閣に提出しています。簡単にいえば開国し、貿易を行うことで、国防費用を賄うべきであるという内容です。攘夷一色のこの当時にあって、しかもその前に投獄され、財産を奪われるほどの弾圧を受けていながら、このような意見書を再び提出するとは、まことに勇敢な人物といわねばなりません。

 近代戦を行いうる陸軍軍人の訓練を行うことを目指して、講武所という組織の設立を阿部正弘に提案したのは、幕末の剣豪として有名な男谷精一郎といわれます。講武所は、ペリーの第二回次来航があった嘉永7年5月(1854年。安政元年と書かれることが多いのですが、安政への改元は11月です。)に、諸役人、旗本、御家人に対して武術、洋式調練、砲術などを講習させることを狙った施設として作られました。

 当初、現在の浜離宮の南側に大筒4挺ほどの操練場を作ったのが始まりです。その時は講武場という名称でした。しかしそこでは狭すぎることから築地に調練場の建設が行われ、同時に名称を講武所と変更したわけです。その後も猫の目のように機構改革が繰り返され、正式の開所は安政3年4月にずれ込みました。

 しかし、オランダとの和親条約と併せて後述する講武所海軍教授所が、安政4年に講武所から独立して軍艦操練所となったので、海に近い築地の施設はこれに譲り、かわって神田小川町に移転しました。ただし、これは今日の住居表示では小川町ではなく、神田三崎町になります。JR水道橋駅からほど近い、現在、日本大学法学部のある場所にありました。すなわち私が本稿を書いている場所こそが、その跡地です。

 講武所の名目上のトップは講武所奉行で、2人いました。その下で、実務上のトップは講武所頭取で、だいたい5人くらいが定員でした。講武所生みの親である男谷精一郎は当初からこの頭取の一人となっています。教育部門は4部門に分かれそれぞれに師範役などの教員が配属されました。砲術方師範役の一人として高島秋帆が招致されたのは、彼の能力を考えれば当然のことといえるでしょう。

 職員数を見ると、人数が多いのが何といっても教員で、剣術方214名、鎗術方119名、砲術方173名、大砲方61名の計567名です。この他に講武所の事務局として講武所奉行支配取締役が設けられ、70名の職員が配置されました。更に掃除係や図書係も含めると、教職員総数は720名に達します。新設されたばかりの役所としては、幕府のそれまでの機構の常識からは信じられないほどの巨大組織であることが判ると思います。ここに始まる陸軍の整備事業というのが、海軍ほどではないにしても、人件費を中心に、莫大な国費を要する事業であることは間違いありません。

* * *

 阿部正弘の国防政策は、全体としてみればもっともなことが多く、その結果、後の日本に大きな影響を与えました。しかし、こうした膨大な支出の増加につながる施策の実施を命じたのですから、当然、同時に何らかの大幅な収入増加策の導入を決定しなければならないはずです。そうでなければ幕府は破産して、自ら西洋の軍門に下らざるを得なくなるからです。

 阿部正弘はどのような対応策を導入したのでしょうか。答は簡単です。何もしなかったのです。先のことは何も考えない。どうもこれがこの人の思考の特徴のようです。先に弘化元年の財政状況を紹介しました。簡単にいえば、借金をしまくり、貸金を回収し、そして金銀改鋳を実施することで収支のつじつまを合わせるというものでした。今後もそれで何とかなると高をくくっていたのかもしれません。名門の御曹司だけの持つ暢気さというものなのでしょうか。

 

3. 和親条約の締結

(1) 日米和親条約の締結

 嘉永7(1854)年正月16日、ペリーは再び浦賀沖にその姿を見せます。

 ペリーは第1次訪日後のこの一年、米国には帰らず、香港に滞在していました。前回の訪問の際、幕府が黒船の存在そのものに強い衝撃を受けたことを見て取っていたペリーは、第2次訪日に向けて艦隊を増強しようと努力しました。ところが、米国ではペリーの出航後に、彼を派遣した共和党のフィルメア大統領に代わって、民主党のピアスが1853年3月に大統領に就任していました。民主党は、共和党に比べて外交政策が消極的であったため、ペリーの艦隊増強要請には応じてくれません。

 しかもロシアのプチャーチンが4隻の艦隊を率いて上海におり、対日交渉を共同で行おうと申し入れてきました。単独で日本を開国させて、歴史に名を残そうという野心に燃えていたペリーはこれを拒絶しました。

 ペリーとしては、本来ならもっと遅くなって、航海が楽な季候になってから日本に行くつもりでいました。が、このような内外情勢の変化から、ぐずぐずしてロシアなどに先を越されたり、最悪の場合には派遣中止となることをおそれて、急遽この新年早々という時期に日本にやってきたわけです。

 この時、しかし、八方手を尽くして船をかき集めた結果、7隻と隻数だけは第1次訪日時の倍近くに増やすことに成功していました。第1次来航時の旗艦サスケハナ号に代えてペリーが座乗する艦としてポーハタン号(2415t、大砲数9門)が派遣されてきたのですが、ペリーは浦賀までは、わざとサスケハナ号をそのまま旗艦として来て、浦賀沖で旗艦をポーハタン号に変更するという手を使うことにより、サスケハナ号とポーハタン号の両方を浦賀に連れてくることに成功しました。蒸気船としては、この2隻に加えて第1次の時にも随伴してきたミシシッピ号がいました。これに帆走軍艦のマケドニアン号(1341t、大砲数20門)及びヴァンダリア号(770t、大砲数20門)を随伴させ、さらに軍艦でなくとも威嚇効果はあるとの判断からでしょう、帆走輸送船レキシントン号(691t、大砲数6門)及びサザンプトン号(567t、大砲数2門)まで連れてきたのです。悪天候のため、4隻の帆船のうち、サザンプトン号だけは自力で江戸湾に入りましたが、後3隻の帆船は、いずれも蒸気船に曳航されて入るというあまり格好の良くない来航でした。が、ペリーの計算は当たって、日本人はその数に威圧されたのでした。

 幕府は何とか交渉を免れようとしました。が、ペリーは、ワシントンの誕生日を理由として、艦隊の全艦に礼砲を一斉射撃させるなど、徹底的に軍事力を誇示して威嚇した結果、幕府はそれに屈して、応接係として林大学頭(復斉)、井戸覚弘(さとひろ)など4名を送り、2月10日から日米交渉が神奈川で開始されました。林家は、朝鮮使節との応接などを担当する家柄ですから、幕府代表者のこの人選に、阿部正弘が、依然としてそういう近隣外交の延長線上でこの問題を捕らえていることがよくわかります。

 ペリーは、交渉の開始を祝って礼砲を打つと称して、またも大砲を一斉射撃させたり、儀仗兵という名目で500人もの陸戦隊を上陸させて会場を取り巻くという調子で、徹底的に幕府側を恫喝しようとしました。

 阿部政権としては、薪水・食料の補給・難破船員の送還等のための開国には応じ、長崎をそのための港とするが、通商は認めないという方針で交渉に臨みました。先に述べたとおり、通商はペリーとしては追加的な使命にすぎませんでしたから、その点で妥協するのには問題はありませんでした。しかし、ペリーとしては長崎では米国船の貿易ルートからはずれていて石炭補給基地として使用が困難なことから反対し、松前、浦賀、鹿児島、琉球(那覇)の開港を要求しました。幕府としては薩摩藩支配下にある鹿児島と琉球は論外なので、結局下田と函館を開港する線で妥協が成立した結果、3月3日に日米和親条約が締結されました。

 その前文では、この条約の発効には天皇の勅許が必要である旨が宣言されています。こうした文言が入るあたり、阿部正弘には水戸斉昭同様、尊皇思想があったのかとも思われます。しかし、実際にはこの条約に関しては勅許は得ていません。

 内容的には、第2条で下田と函館の両港で、米国船に対し、日本が調達できた限度で、薪水、食糧、石炭などを供給することとされました。しかし、第8条では、これはあくまでも日本国政府が行うものとされ、私的取引は禁じられました。したがって、この条約はあくまでも和親であって、通商条約ではないことがはっきりしています。

 重要なのは第11条で、両国政府において、やむを得ない事情が生じたときは、合衆国官吏を下田におくことができるが、ただし、条約調印から18ヶ月以上経ってからでなければならない、としています。日本文だと官吏を下田に置くには両国政府の合意が必要となっているのですが、英文だと両国政府のうち一方の判断でおけるものと明確に書かれており、これに基づきハリスが安政3(1856)年7月に赴任してくることになります。

 この違いが、翻訳上の誤りなのか、誰かの何らかの作為によるものなのかは判っていません。いずれにせよ、二つの正文の整合性を確保するのは、幕府オランダ語通事森山多吉郎の責任で、米国側ではありませんから、米国の悪意と見ることはできないでしょう。

 なお、この条約成立後に、吉田寅次郎(松蔭)が米国に密航しようとして旗艦ポーハタン号に漕ぎ着けています。しかし、ペリーはせっかく条約締結に成功した直後であり、幕府との関係悪化をおそれてこれを拒否し、陸に送り返しました。これにより松蔭は国事犯として投獄され、後に安政の大獄で死刑にされることになります。

(2) 日露和親条約の締結

 話が元に戻りますが、1851年に米国が日本を強引に開国させることに決めたことは、オランダが日本に知らせてくれたくらいですから、当然他の列強の知るところとなっていました。日本と直接国境を接する強国ロシアも、それに遅れをとるまいと、さっそく日本に開国を求める使節を送ることにします。これがプチャーチンでした。彼は、ペリーが最初に浦賀に来た翌月に、長崎港に入港して交渉を求めました。

 こうした遠隔地での交渉の責任者は、この時点では当然海防係である川路聖謨です。しかし、前節に述べたとおり、江戸湾防衛計画をはじめとする一連の激務のため、彼は江戸を離れることができません。ようやく彼が長崎に到着したのはプチャーチン入港から5ヶ月も経った12月のことでした。

 しかし、前述の通り、ほどなくクリミア戦争が勃発したため、交渉は中断。再開したのは翌年11月に下田でのことでした。この時には、すでに日米和親条約が締結されていますから、日本側として、同様の条約を締結すること自体は特に問題はありません。

 問題は、日露の国境をどこに定めるか、という点でした。焦点はエトロフ島の帰属でしたが、川路聖謨の強力な主張が通って、日本領と認められました。今日における日露係争北方領土が、わが国固有の領土とするわが国の主張の根拠がこのとき明確にロシア側に認められたという点で、この和親条約は重要なものとなっています。

(3) 日英和親条約の締結

 イギリスは、アヘン戦争により中国で巨大な利権を獲得するのに成功していたため、この時期においては、日本に対して特に関心を持っていませんでした。米国がペリーを派遣するという情報をキャッチしても「英国政府は日本と貿易が開かれるのを喜びとするが、それを合衆国政府に任せ、実験させるのがよいと思う。もしその実験が成功すれば、英国政府はその成功を利用することができるであろう」(外務大臣マームスベリの手紙)という程度の反応しか示しませんでした。

 それでも清国に駐在するイギリス外交の責任者である貿易監督官は、ペリーが和親条約を締結したという情報をキャッチすると、早速日本と交渉に入ろうとします。が、この年の3月に、先に述べたようにクリミア戦争が勃発したため、イギリスとしては、ペリー艦隊のようなまとまった艦隊を自由に動かすことが不可能となったので、断念しました。

 ところが偶然のことから、同年8月には日英和親条約が締結されることになります。

 英国東インド艦隊司令官スターリングは、プチャーチンの軍艦が長崎港にいるという情報をキャッチし、これを拿捕するとともに、日本に対してクリミア戦争に対して中立の立場を守るように警告する目的から、閏7月15日、長崎に入港してきました。しかし前述の通り、プチャーチンの艦隊はその4ヶ月以上も前に長崎を去っていましたから、スターリングの使命は後者だけになったわけです。

 この時、長崎奉行の重職にあったのは、これも阿部正弘によって抜擢されたエリート官僚の一人、水野忠徳(ただのり)でした。水野忠徳という名は天保の改革の担い手である水野忠邦とよく似ていますが、おなじ水野一族という以外は全く関係がありません。御家人の次男に生まれ、同じく御家人である水野家に養子に入った人物です。300俵取りといいますから、かなり軽輩の家柄です。しかし有能で、嘉永6(1853)年ペリー第1次来航時には、浦賀奉行にまで昇進しており、直接の責任者としてペリーに対応しました。ペリーが来年また来ると言って去っていった時、幕府としては次は長崎に来るようにと命じました。阿部正弘は、ペリーがその命令に従って次回は長崎に来るものと考え、それに対応させる目的で、浦賀での活躍を評価し、水野忠徳を抜擢して長崎に派遣したのです。

 ところがペリーは第2次来航でも浦賀に直行してしまいましたから、水野忠徳としては肩透かしを食った形となり、腕を撫していたわけです。

 そこに英国艦がやってきたものですから、忠徳は、英国も当然米国やオランダ同様に和親条約の締結を求めに来たものと思いこみ、老中にもその旨を報告して了解を取り、日英和親条約を締結したというわけです。8月22日のことでした。

 この誤解は、英語=オランダ語=日本語という複雑な通訳の間に起きた誤りによっておきたとされています。が、江戸からの回答を待つための長い滞在期間中に、スターリングが繰り返し水野忠徳に来航の真意を説明しているにもかかわらず、水野忠徳が条約締結に突っ走ったことをみると、これは誤訳に基づく誤解というより、この機会にイギリスとも条約を締結しておいた方が、将来日本にとって有利になるという確信犯的行動ではなかったのか、と私は疑っています。

 スターリングが条約交渉のために来たのではない、ということは日本ではその後も長く知られませんでした(1951年に出版された英国の研究者ビーズリーの研究書によってようやく知られるようになったのです)。したがって、忠徳は、この失敗にも関わらず、処罰されるどころか、かえって栄進して安政元(1854)年12月には勘定奉行に転じ、この後も幕府外交の第一線で活躍することになります。

 実は、この時点では、英国としては、和親条約を締結するなら、艦隊を派遣して日本を威嚇することで、米国よりもっと有利な条約を締結したいと考えていました。しかしクリミア戦争が勃発してまとまった艦隊を日本に派遣することが不可能になったので断念していたことは前述の通りです。そこで、このスターリングが越権行為により締結してきた条約を正式に批准するかどうかは少々もめました。すなわち、清国駐在貿易監督官は批准に反対しました。が、外務大臣は検討の末、結局批准することに決定しました。

 したがって、もしこの時日英和親条約を締結していなければ、日本は後になって英国の砲艦外交に直面していた可能性があります。そのことから考えて、水野忠徳がスターリングを相手に条約を締結したことは、結果として正しい選択だったといえそうです。

(4) 日蘭和親条約の締結と長崎伝習所

 1852年に米国が日本にペリーを派遣するという情報をキャッチするとオランダ政府は、再度日本に開国勧告を行い、あわせて日本との第1号の条約を締結しようと決定します。この決定を受けて、長いこと日本に滞在し、日本の事情に詳しかったドイツ人シーボルトが、日本とオランダとの間に行われてきたそれまでの長崎会所を通じた貿易を拡充した形の通商条約案を起草しました。この条約案は、最後の長崎商館長として知られるドンケル=クルチウスJan Hendrik Donker=Curtiusが携えて嘉永5(1852)年に日本に渡りました。当然、ドンケル=クルチウスには、日本国駐在オランダ国領事官(後に締結された日蘭和親条約において採用された日本側の翻訳語)の称号の下に外交官として活動する権限が、予め授与されていました。

 しかし、同年10月に阿部正弘は、今度の開国勧告及び条約案も受け入れないことを決定してしまいます。その結果、ペリーの来航を無策で迎えることになってしまうわけです。もし、オランダとの条約が事前に締結されていれば、ペリーはそれを叩き台に交渉しなければならなかったでしょうから、交渉の経緯もかなり違っていたはずです。ひいては、その後の日本の歴史そのものが大きく違ったはずで、まことに惜しまれる逸機でした。

 先に紹介したとおり、第2次ペリー来航に対応する目的で長崎奉行として赴任してきた水野忠徳は、このドンケル=クルチウスに、今後の日本の防衛をいかになすべきかについて諮問しています。これに対してドンケル=クルチウスは、翌嘉永7年、すなわちペリーが二度目に来航した年に、長崎に入港してきたオランダ軍艦スンビン号艦長ファビウスの意見書を忠徳に取り次ぎました。

 これは要するに、日本も海軍を創設すべきであり、そのためには軍艦を運航する士官や兵を育てるため海軍兵学校を作らねばならないが、オランダはその兵学校に力を貸す用意があるというものでした。

 水野忠徳は、彼らしい綿密さで詳細な点まで何度となく問いただし、ファビウスの案を日本の国情にあうように修正した上で、この海軍創設計画を阿部正弘に上申します。阿部正弘はこれを裁可し、先に述べたように軍艦2隻をオランダに発注した上、海軍兵学校の創設を決めます。これが長崎伝習所です。この時の意思決定は阿部正弘にしては珍しく電光石火の早さですが、これはファビウスが回答を待ってオランダに出発するべく、長崎で待機していたためです。

 ドンケル=クルチウスは、阿部正弘の迅速な決定を喜びながら、このチャンスを条約締結に活用しようと考え、長崎伝習所の教官を斡旋する前提条件としては、日蘭条約の締結が必要であることを力説します。阿部正弘もこれを受け入れ、交渉の結果、安政2(1855)年9月30日に、オランダとの間に和親条約が締結されました。

 これは和親条約という名称ではありますが、それまで長崎を通じたオランダ貿易が行われてきた事を確認し、承認する内容を含んでいますから、事実上通商条約です。相手が永年の貿易相手国オランダですから、幕府としても通商条約の締結にあまり抵抗感がなかったのです。すなわち、オランダとの和親条約締結は、米英露に遅れて、一番最後に行われたわけですが、実際にはオランダは、一番最初に日本との通商条約の締結に成功したわけです。

 同じ安政2年に、オランダ政府は、本国政府からの指令を持って長崎に戻った特務艦スンビン号を、そのまま日本に贈与しました。この船は観光丸と名付けられ、長崎伝習所の訓練艦となります。そして、スンビン号を日本に回航してきたペルス・ライケン艦長以下が、初代の伝習所教官となりました。

 伝習所総督(すなわち所長)には、永井尚志(なおゆき)が就任しました。彼は、大給(おぎゅう)松平家の庶子として生まれ、旗本永井氏の養子となった人物です。吉宗の改革の後半のリード役として活躍し、吉宗引退の際、処罰された松平乗邑を思い出していただけるでしょうか。彼がやはり大給松平家の出身です。永井尚志はその家の庶子なのですから、阿部正弘の下のエリート官僚群の中では、ずば抜けた毛並みの良さです。したがって彼の登用は、抜擢人事とはいえません。徒士頭(かちがしら)から目付へとすすみ、安政元年から長崎勤務が命じられていました。目付の地位のまま、伝習所総督となったわけです。

 長崎伝習所が正式に開校するのは、日蘭和親条約が正式に発効した安政2年10月22日のことです。オランダ政府はこの長崎伝習所の教官にはかなり人物を選りすぐったらしく、初代教官団長のライケンと2代目教官団長のカッテンディーケは、いずれも後にオランダの海軍大臣になっています。

 なお、海軍軍人をこのように陸上の学校に集めて集中的に教育を行うという方式は、世界的に見ると1845年に米国のアナポリスの海軍兵学校に始まります。教官団を提供したオランダでもこの前年の1854年に始まったばかりの最新式のやり方で、この当時、世界一の海軍国であった英国では、まだ、いきなり船の上でオン・ザ・ジョブ方式で訓練していました。したがって、この長崎伝習所から数えれば、日本の海軍兵学校は世界でももっとも古い伝統を持つ海軍兵学校の一つということになります。

 しかし、伝習所は革新的な教育を行いましたから、新規施策の多くはそれまでの幕府の伝統とぶつかることとなり、幕閣の許可を必要とします。ところが長崎は江戸から遠すぎて、幕府からの許可を得るのに大変な時間がかかり、なかなか思うように訓練をすることができないという問題が浮上しました。そこで幕府は江戸に同様の施設を作ることを決め、安政4(1857)年5月に築地に軍艦操練所を作りました。

 初代総裁には、長崎伝習所総督をしていた永井尚志が呼び戻されて当たり、教官には長崎伝習所の卒業生やジョン・万次郎を当てました。これがうまくいったので、長崎伝習所は安政6年2月には廃止になりました。

 

4. 下田条約の締結

(1) ハリスの来日

 阿部正弘に主導される幕府としては、和親条約は受け入れられても、通商条約まで受け入れるつもりは毛頭ありませんでした。しかし、米国は極東貿易における出遅れを取り戻す意味で、この時期になると是が非でも通商条約を締結したいと考えるようになりました。

 そこで、先に説明した和親条約の11条における米正文に基づいて、条約締結後1年半が経過するや否や、米国は直ちにハリスTownsend Harrisを送り込んできたわけです。安政2(1856)年7月のことでした。

 ハリスは、下田の玉泉寺という曹洞宗の寺院に総領事館を開設し、幕府と通商条約を結ぶべく交渉を始めます。彼が連れていたのは、日本側との交渉時の通訳とするため、米国で雇用してきたオランダ人のヒュースケンHenry Conrad Joannes Heuskenと中国人召使い5人で、護衛さえ連れずに単身赴任してきたのですから、剛胆という外はありません。

 ハリスは元々アジア一円で活動していた貿易商人でした。それがペリーによる日本開国を聞き知って、自ら志願して在日初代領事となったのですから、アジアで自分一人で暮らすのには慣れていたのでしょう。

 ハリスは、下田に着任すると早速下田奉行に面会して、閣老に宛てた手紙を差し出します。この下田奉行というのは、同一名称の職は以前にもありましたが、この時点のものは、日米和親条約に伴い下田が開港場になったことから、嘉永7(1854)年に新設されたもので、二人任命されました。その一人が前述の通り、川路聖謨の実弟である井上清直(きよなお)でした。井上清直は勘定吟味役だったのを、阿部正弘によりこの職に抜擢されたのです。また、ハリス到着時には、今一人の奉行は中村時万(ときかず)という人物でした。

 阿部正弘は、その後の攘夷主義者達に少しも劣らない外国人嫌いでしたから、ハリスと直接交渉する役を、単なる出先機関にすぎない下田奉行に押しつけ、ハリスに対しても「下田奉行に両国の諸件弁理を委任したれば、たとえ重大の事といえども奉行へ申し聞けられ候わば、すなわち自分どもへ直ちに申し立て候も同様なれば、隔意なく奉行へ談話あるべし」と書簡を出しました。今日の言葉でいう特命全権大使に任命したということになります。

(2) 下田条約の内容と問題点

 ハリスは、井上達が全権を与えられたのを幸いに、手始めに、先に締結されていた日米和親条約の執行命令的性格を持つ補完条約の締結交渉を始めました。遠国奉行という、幕府行政機構の中ではたかの知れた下僚でありながら、一国の命運を担う条約交渉を押しつけられたかわいそうな二人の奉行は、海千山千のハリスを相手に、その最善を尽くして努力しました。その結果、安政4(1857)年5月26日に、彼ら二人とハリスの間で、調印されたのが、いわゆる下田条約です。

 今日では、本条約の補完的性格を持つ条約は、行政協定と呼ばれ、行政庁限りで締結可能であり、我が国でも、国会の承認は不要とされています。しかし、この下田条約は、かなり重要な点を含んでおり、彼らのような下僚に任せておいて良いような、単なる行政協定ではありませんでした。

 少々くどいとは思いますが、その歴史的重要性と、それにも関わらず、従来の日本史ではほとんど無視されてきているということを考慮して、以下に逐条的に検討してみたいと思います。

 A 第一条

 この規定では、和親条約が開港を認めた下田と函館に加えて、長崎を米国船に対して開港することが定められていました。長崎は元々外国への窓であった町ですから、米国に対して開港してもさほど問題がないとはいえ、鎖国体制下での開港場の増加はやはりトップレベルの決断が必要な事項というべきでしょう。

 B 第二条

 ここでは、下田と函館での米国人の永住権を認めました。永住権が認められる以上、それを保護する領事の設置も必然です。そこで、函館に副領事を置くことも認めました。和親条約では下田にしか領事館設置を認めていなかったのですから、これもまた行政協定の枠を越えた規定といえます。

 米国側は、これが簡単に認められたことに喜び、ハリスの通訳であるヒュースケンは、その著書『旅行記』の中で、「大勝利」という言葉を使ってこの条文について叙述しているほどです。実を言えば、米国ではこの条約調印に先行して、既に4月5日の時点でライスElischa E. Riceを貿易事務官の肩書きで送り込み、函館奉行堀利煕(としひろ)に米国大統領の国書を提出して在留を申し出ていたのです。ですから、下田条約で領事設置が正式に認められないと、ライスの身分が宙に浮くところだったのです。

 C 第三条

 しかし、この第三条に比べると、第一条や第二条は大した問題ではありません。第三条こそ、幕末における日本経済を破壊したとんでもない条項でした。

 すなわち、同種同量の外国通貨は、同種の日本通貨と同一の価値を持つ、という規定です。つまり、外国金貨のわが国国内での価値は、その金貨に含まれている金の量の等しい日本の金貨と同じ価値があり、銀貨についても同様ということなのです。この、常識的には何の問題もなさそうな規定が、わが国幕末の経済を破壊し、財政を揺さぶることになるとは、この時点では、井上達にはもちろん予想できなかったことでした。

 なお、ペリーは、1ドル=1分というレートを承認していたのですが、この規定に基づき計算すると、34.5セント=1分という事になりました。ただし、日本側が、米ドルを溶かして国内通貨に鋳直すためのコストを認めるべきだと主張し、ハリスはそのコストとして6%を認めました。外国通貨の両替商のない状況下で、後述する第五条で幕府が両替義務を負担することとなりましたから、たぶんハリスは両替手数料として理解したのでしょう。だから正確には36.57セント=1分ということになります。わずか一年半で、日本通貨の対外価値が一挙に約3分の1に下落したのです。

 D 第四条

 これは、幕末どころか、明治時代にまで影を落とすという意味で、三条よりもさらに重大な規定でした。すなわち米国人に治外法権を認め、彼らが日本国内で犯した犯罪については、米国領事に裁判権を承認したのです。

 E 第五条

 ここでは、米国船が日本の通貨を所持していないときは、幕府から日本通貨の供給が受けられ、それを商品で決済できるということがさだめられました。これは事実上、通商の承認に等しい機能を持ちますから、来るべき通商条約の先取り的性格を持つわけです。また、幕府側の通貨供給義務は、第三条のレート問題及び後述する第七条と絡んで、後に大変な紛糾を引き起こします。

 F 第六条

 この規定は、米国領事に、下田及び函館の周辺七里を越えての通行権を認めたものでした。しかし、ハリスはよほどのことがない限りこの権利を行使することはないと口頭で約束しており、したがって現実的重要性はあまりない規定でした。

 しかし、この条約が、一般に公布された時に、世論がもっとも問題にしたのは本条でした。つまり、単純な攘夷思想に基づいて読む限り、これは神州である日本国内を外国人が自由に旅行する権利を認めたものと読めるからです。

 G 第七条

 この規定は、総領事及び領事館内居住者は、日本商人より直接品物を購入することができるとしていました。使用する通貨は、銀貨または銅貨としていました。確かに、領事館が日常の必要を満たすものを、一々日本側の手を煩わすのは馬鹿げていますから、これは理屈としてはどうということのない規定です。が、通貨両替制度のない状況下では、日本人商人は、米国ドルによる支払いを受け付けませんから、一分銀の供給を幕府側から受ける必要があります。それが第三条の問題と絡んで、大変な紛糾の種となりました。

* * *

 条約交渉に当たり、井上達はハリスにだまされるのではないか、という恐怖から、条文ごとに事細かに審議してハリスを悩ませたといいます。しかし、このように結果として日本に不利な多数の条文を承認させられたということからみれば、所詮、海千山千の貿易商人であったハリスの敵ではなかった、ということになります。

 安政4(1857)年6月4日にこの条約は公布されます。そして、世論は、先に述べたように、その内容の問題性よりも、攘夷思想的観点から一斉に非難を浴びせることになります。

 

5. 阿部正弘の死

 この段階で、突然阿部正弘は死亡します。下田条約公布のわずか二週間後の6月17日のことでした。享年39歳。

 死因は風邪をこじらせたものといわれています。まことにあっけない死でした。

 八方美人的事なかれ主義で長期安定政権を築いたものの、突然におそってきた大波に幕府の舵を取り損ねて漂流させることとなった彼としては、おそらく、こうした内外の情勢が生みだした激しい心労に、身体の抵抗力を失っていたのでしょう。

http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c200

[政治・選挙・NHK158] 松井知事「日本人ならごくごく自然なこと」  (産経ニュース)  : 靖国で不戦を誓うのは 政治家として当然のこと 真相の道
201. 豊岳正彦[-17055] lkyKeJCzlUY 2023年8月21日 01:13:32 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[9]
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ロックフェラーフリーメーソンCIAの戦争犯罪をネイビーシールズのスパイ活動実態動画でさらしてくれたふじふじのフィルターさん(2012・2・25)に感謝しつつ公開してやろう。
asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c201
2012・02・25今は削除されたふじふじのフィルターブログさんへ投稿した分
ふじふじのフィルターさまにご紹介いただいた米国の偽正義フロンティアスピリットの真実を暴露する「エコノミック・ヒットマンが語る恐るべき真実」。
>>http://www.youtube.com/watch?v=-sS71C6oa8A

(>>http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/ftaisd-c740.html
>米韓FTAのISD条項の狙い【投資家利益優先で国家を無力化】 『現代農業』で金哲洙氏が指摘  "きわめて危険な制度"!から)

エクアドルの国士ロルドス大統領とトリホス将軍の自国民のために身を捨てた生き様に心を強く打たれました。
ご紹介くださったこのエコノミック・ヒットマンyoutubeを拡散したいと思います。

インタビュー中にヒットマンが語った「ジャッカル」の正体は、原潜から直接標的国へ不法入国殴りこみ攻撃できる米海兵隊特殊部隊NavySealsのことでしょう。youtubeがあります。

これが「ジャッカル」です。

アメリカ軍最新式原子力潜水艦(1/6〜6/6)

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=919d9b80aa3184ac&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%881%EF%BC%8F6%EF%BC%89

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=a6ccf47791c6e17c&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%882%EF%BC%8F6%EF%BC%89

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=eff05dc110be8dad&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%883%EF%BC%8F6%EF%BC%89

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=aea7e6791725ce3a&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%884%EF%BC%8F6%EF%BC%89

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=779c651717c62459&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%885%EF%BC%8F6%EF%BC%89

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=458031b848f55fdc&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%886%EF%BC%8F6%EF%BC%89
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c201

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
417. 豊岳正彦[-17057] lkyKeJCzlUY 2023年8月21日 07:21:46 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[10]
<■958行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。
asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c417

2012/3/17
「マスゴミが報じない極東米軍戦争狂悪魔ユダ金の日本国内軍事化策謀工作活動」

私は首都圏HAARP攻撃は周辺有事勃発工作より後だと思います。今は横田基地厚木飛行場にかなりの極東米軍主力機能がありますからね。

周辺有事を起こして横田基地から米軍の主力が発進して出払ったときが危ないかも。それまでは横田厚木からの主力戦力移動分散に精を出すでしょう。

山口県は岩国下関、対岸の福岡県でも自衛隊基地や軍港転用可能港湾施設を強化しているし、大分日出生台や宮崎新田原も着々と米軍用に改変されている。宮崎県南部へのがれき搬入も串間原発建設に道を開く地元へのえさとして進められている。
米空母や原潜や軍用艦が豊予水道を通って岩国や下関にアクセスするときに宮崎県に原発があれば核兵器原料補充ができるし、新田原や日出生台は補給基地として活用できる。

野豚スパイ政府に消費税増税や小沢裁判やがれき処理ほかの国内向けショックドクトリン政策強行で国内に騒ぎを起こさせてマスゴミにそれを一斉報道させているのは、この米軍の日本国内の軍備増強を国民の目から隠蔽するための工作活動の一環であると考えられます。

というのはこの米軍の動きが報道されて、かつてのフィリピンのように国民の間に強い反米感情の火がつけば、米比基地協定が国会上院で破棄決議されたごとく日米地位協定が国会や国民投票で破棄されてしまう危険が大きいですからね。

主力再配備再編が完了すればただちに中国に送り込んでいる工作員に命じて周辺有事を勃発させ日中間に紛争を起こしてそれに乗じて対中国戦争に参戦するつもりでしょう。

あのロシアですら反プーチン勢力をあおるユダ金工作員スパイが入り込んでいましたから、世界最大の人口の国中国に工作員を送り込むことはロシアへ送り込むよりもたやすいことです。

こうして米軍主力が関東から立ち去った後はいつでも首都圏HAARP攻撃が可能になると考えています。日本を核廃棄物最終処理場にして世界に売り出すユダ金悪魔の計画が成就するわけです。

この戦争狂悪魔ユダ金の野望を砕くために、
「日本人は直ちに地位協定を破棄し思いやり予算や防衛予算をすべて凍結して付け替え、福一石棺桶化を早期に達成しよう」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
地震兵器HAARPによる首都圏直下型地震攻撃についてはニュースの真相さま
「首都消失? マスコミが首都圏直下型地震を煽る目的とは?」をご参照ください。
>>http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120310/1331342010

防衛局を手先に使ったユダ金戦争狂悪魔の岩国下関の軍事都市化改造については長周新聞HP記事をご参照ください。
>>http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/

宮崎県への瓦礫搬入については神秘の杜さまをご参照ください。
「震災瓦礫・・・宮崎に持ち込むな!」http://ameblo.jp/mo-014925/entry-11189670341.html#main
「九州に、宮崎に 放射能汚染瓦礫がやってくる」http://ameblo.jp/mo-014925/entry-11189566328.html#main

岩国へのオスプレイ先行配備については井原勝介ー草と風のノートーさま
「オスプレイの岩国配備?トップの姿勢が新たな負担を招く」http://ihara-k.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-3f3f.html
をご参照ください。
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2012/3/7
「リビアの内戦とは何だったのか。」ふじふじのフィルターさま2012年3月 6日 (火)
>>これは大きな偽善です。<<http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-2591.html

これは偽善ではなく悪魔教教祖による計画的虐殺と略奪である。

欧米のほぼすべての軍隊は、地中海の東岸に生まれ選民妄想を狂信する故に異教徒を人間ではなく収奪の対象物としか見ないためすべての国で嫌われ者だった(当然だが)ユダヤ人が、神ならぬ悪魔(新約聖書の荒れ野のイエスへの悪魔の誘惑参照)と取引して中世ヨーロッパを手中にし、現代のユダ金に成り上がって未来永劫世界を支配する悪魔の策謀のもとに、金で雇われたユダ金の私設傭兵部隊にすぎない殺戮強盗団なのであるから、いわれなく言いがかりを付けて攻め込めば世界中のいつでもどこでも悪魔そのものの正体をさらけ出してこのような無差別虐殺や略奪をほしいままにするのである。これが神と悪魔が人間に対して全く同じ業を行う黙示録の世界観である。

特に米軍は400年前の最初からユダ金が作ったゆえに現代世界でも完全にユダ金の私設軍隊傭兵部隊であることは今更いうまでもない。
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2012/3/8
「敵を知り己を知らば百戦危うからず」

ユダ金の選民妄想は被害妄想である。それは旧約聖書にはっきりと現れている。ヤーウェは冒頭で「私はアルファでありオメガである。私が万物の創造主であり、私は言葉である。私は私の創造物すべてを思い通りに聖別する。」と述べている。そしてノアの洪水の話でユダヤ人を選民として聖別したと語る。
まず矛盾の第一は万物の創造主が人間が使う言葉そのものであるということ。羊や草木や山に人間の言葉が通じるわけがない。それにアルファやオメガはギリシャ語であり天地創造の時には生まれていないし、もっと古いヒエログリフやロゼッタストーンの文字さえビッグバン150億年の歴史はないはずだ。このユダ金の神は一体何を創造したのか?枚挙にいとまがないが字数の関係で以下省略。

新約聖書は神の子仔羊イエスが十字架で血を流して我が身を「父なる神」へ生け贄の仔羊として捧げるまでを書いたものである。「父なる神」とは旧約聖書のヤーウェでありヤーウェは血を流して自ら生け贄の羊となって死んだイエスを聖別した。その後イエスが生きて何かをなしたという記録はどこにもない。
イエスは万物の創造主の子でありすべての供物はヤーウェに供えよと説かねば自家撞着である。しかしぬけぬけと「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに返せ」と説く。つねに生け贄を捧げることを要求する血に飢えたヤーウェがローマ帝国の武力を恐れて尻尾を巻いた負け犬のごとく縮こまっているのが滑稽である。
そして新約聖書は最後に父なる神と悪魔が完全に同じものであることを黙示録で暴露している。

つまりユダ金にとって旧約聖書以来の昔からずっと全世界の人間は生け贄で屠られる捧げ物の仔羊なのであり、仔羊を殺すことでユダ金がヤーウェによって聖別されるシステムである。
これはオウム真理教や創価学会工作部門と全く同じポア=聖別という悪魔教悪魔カルトの構造をしていることに気づかぬ日本人はないであろう。

ロシアの文豪ドストエフスキーは推理小説家だったのでこの「神の秘密」に注目し推理して「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」を書き上げた。ユダ金の選民妄想の源「旧約聖書の神=新約聖書の父なる神」、「血の生け贄を求める神=黙示録の悪魔の破壊と殺戮」というペテンを推理で見破ったのが母なるロシアの大地を愛するロシア人だった。

プーチンがユダ金のペテンを見破って撃退し得たのも、母なるロシアの大地を愛するロシア人ならではであろう。

そして日本人は地位協定破棄するだけで悪魔教ユダ金カルトの洗脳攻撃から完全脱出できる。

しかしその前に急いで南スーダンから無防備な陸自隊員を全員脱出させて帰国させなければ、戦争狂の悪魔ユダ金によって平和憲法の日本人が侵略戦争の中心に投げ込まれる策謀に日の目を見させてしまうことになりかねない。

そのユダ金の策謀が現実に実現したら、いま隠れ公明党員小泉公約詐欺ユダ金スパイテロリストのまねばかりしてる野田糞政府は、単なる棄民テロ犯罪者政府なばかりでなく、全世界が認めるほんものの戦争テロ犯罪者政府となってしまうかもしれないね。
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2012/3/23
>>大乗仏教の崇拝の対象である菩薩「もんじゅ」

文殊菩薩が知恵第一の仏弟子として登場するのが大乗仏教の経典【維摩経】です。ふじふじさんの知識いや智識におそれいりました。

維摩経が大乗仏教の聖典とされるのは、維摩居士(ヴィマラキールティ)が病気になったと聞いたお釈迦様(シャカムニ・ブッダ)がお弟子の中で知恵第一と衆人が目す文殊菩薩(マンジュシュリー)をご自分の代参として病気見舞いに行かせた時「衆生病む故に我病む。ヴィマラキールティの病も衆生病むがゆえである」と伝えさせました。そのお釈迦様のひとことでヴィマラキールティの病気は消え、文殊菩薩を相手に「不二の法門」を黙って示し言葉では伝えられないお釈迦様の大慈悲を世に明らかに表象したのです。この世で人が菩薩行を不退転の覚悟で修め続け五百生の輪廻のあいだじゅう菩薩行を修めることによって仏陀と成れて輪廻を脱することができる、この宇宙にはそれよりほかの道はない。輪廻を脱して仏陀と成られたお釈迦様がこの世にとどまって迷い苦しむ衆生に仏法の存在を表象してくださる大慈悲の大菩薩行こそが大乗の教えであり、大菩薩の一人であった維摩居士もお釈迦様のひとことで輪廻を解脱して仏陀と成り、それをそのまま「不二の法門」として文殊菩薩とすべての衆生にお示しに成られた。お釈迦様の大慈悲の教えがすべての衆生にとって菩薩行こそが輪廻の因縁から解脱するただ一つの方法であることから、この維摩経が大乗仏教の聖典となりました。

不二の法門をふじふじさまが取り上げられたのも仏縁ですね。知識ではなく智識です。

同じ維摩経の中で維摩居士が戦争がなぜ起こるかについて言葉で文殊菩薩に説き語ります。【戦争は相手が自分と同じ人間であることを忘れ、「敵」と呼ぶことでなにか人間以外の低級で害悪な存在と思い込むから殺生して「不殺生戒」をやぶり悪しき因縁に落ちてしまうのである】と。

現在世界三大あるいは四大宗教と呼ばれるキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教のうち創造主一神教でないのは仏教だけです。仏教は仏法の存在と仏道を成就して解脱して仏陀と成る唯一の道を教え説きます。

日本は聖徳太子以来仏教国です。聖徳太子は伊予の温泉を見て正覚を得、「和をもって貴しとなす」の十七条憲法とともに三経義疏を著し維摩経を説いています。日本の民衆社会は聖徳太子を信仰し、子や孫を「嘘をついてはいけない」「人のために働け」と厳しくしつけてきました。

現代日本にもその教えは脈々と流れています。
先にご紹介したつぶやきいわじろうブログさまの殺人者の父の思い。http://blog.iwajilow.com/?eid=1071293
転載します。
>(転載開始)

息子である被告人はグレーの上下のスーツに白のワイシャツ。ネクタイはしていませんでした。柔道をやっていたというだけあって立派な体格です。短髪にメガネをかけていました。ビデオ上映が始まると口を真一文字結んでうつむいていました。

お父さんは現在、福岡に住んでいます。

「(息子さんはどんな子どもでしたか?)
 生まれた時は3200グラムから3300グラムくらいのごく当たり前の男のこでした。一人っ子だったから弱い感じがありましたが体格は立派でいわゆる健康優良児でした。

根性がなさそうだと思ったから柔道をやらせました。泣きながらも続けてほどほどの成績を残しました。

初めての子どもだったし望んでいた男の子だったのでかわいいなぁと思っていました。だけど男の子だから可愛いだけで育てたらいけないと思い鉄拳制裁もありましたし他の子ども比べれば厳しく育てかもしれません。

勉強しろとは言いませんでしたがウソをつくなということだけは何回も言い続けてきました。成人してから、ウソをついているんじゃないかということがしばしばあって心配をしていました。

(被害者になってしまったお嫁さんと孫について)

とても気に入っていました。挨拶もできるし、とにかく大事にしていかなければ行けないと思っていましたし実際そうしていました。子どもは普通の子供だと思うけど目の中に入れても痛くないくらいかわいい子どもでした。

お嫁さんと孫はかけがえのない新しい家族でした。

お嫁さんからは月に2回〜3回電話があったりメールがあったりと連絡をとってくれていました。『大丈夫ですか』とか『風邪ひいていませんか』と心配してくれていました。周りにも『いいお嫁さん来てくれたわねー』と言われていましたし自分もそう思っていました。

孫はこっちで生まれたんです。お嫁さんがこっちに来て、そしてこっちの病院で産んでくれたものですから、私が一番目に見る事が出来たんです。

最初見た時は、どの子もそうだと思うんだけど、サルみたいな顔しているなぁと思ったんだけど、だんだんとかわいいなぁってなって、この子のためなら命を投げ出してもいいと思っていました。

孫と二人で一緒に遊びに行ったり、ゲームセンターに行ってアンパンマンのぬいぐるみがほしいと言われて、お店の人になんとかなりませんかって頼んでもらったりしたこともありました。

(亡くなったのは)病院のベッドの上で友人のメールで知らされました。その時はなんで死んだのかというのが分からなかったんですが殺されたということが分かった時、絶対この犯人は許さないと思いました。

自分の息子が犯人だったということが分かった今も許せない気持ちは変わりません。

この頃二人が夢に良く出てくるんですよね。辛そうな顔していたり泣いていたりしてパッと目が覚めて…。ああもういないんだなぁと思います。

ニコニコして話をしていたりそういうことを思い出します。心にぽっかりと穴があいてしまった状態です。

(息子に対して)
自分でおかした罪は重々分かっているだろうからどうすべきかは自分で考えるべきだと思います。極刑もあり得るだろうけど、それも受け入れて、お父さんが言っていたのは『ウソをつくな』ということと『他人にやさしくしろ』ということだけだということを考えてほしいと。

往生際の悪い男は嫌いですから…。

罪を犯しておいて逃れようとした自分がいたということですから
はっきりとあったことを重々、反省と言うか受け止めて
こういう刑なんだということであれば、どういう形であれ受け入れて刑に服さなければいけないと思います」

被告人の目からは涙が流れていました。

そして「極刑もあり得る」というところでは頷いていました。

この後、検察官がこの撮影後、補充で聞いた調書が読み上げられました。
その中でお父さんは「私が息子の刑を決めていいということであれば死刑です。あんないい嫁と目の中に入れても痛くない孫二人の命を奪ったことは自分の命で償うしかないと思う」と言っていました。

ウソをついている雰囲気があって心配していたということでしたが、具体的にはこんなウソをついていたそうです。

「私から400万円借りていった時に『嫁にはお父さんがくれたことにしてくれ』と私にウソをつくように言ったり、その時に『毎月8万円も返せるのか?』と聞いたら『オレも嫁も働いているから収入はあるんだ。返せる』と言っていたのに、その時息子はすでに働いておらず、ウソをついていたんですね」

今日は被告人質問もあり動機についての質問もありました。

それによると、夜中に口論になりカッとして首を絞めて殺してしまったそうです。そして興奮した状態のまま「父親に殺された母親の姿を見て子どもがどう思うかと思い」、寝ている息子に馬乗りになってタオルで首を絞めて殺したということでした。

奥さんが働いているのに自分が働いていない状態…そういうのもあって負い目を感じている中での口論だったのでしょうか。
伊達に柔道なんかやっていたから口で負けたプライドを腕力で取り戻そうとしたのかもしれないけど。。

被告人は奥さんと息子さんを殺した後、外へ出てコンビニから奥さんの携帯に電話をしたそうです。「二人が死んだことが夢であってほしい」。あまりにも浅はかとしか言いようがありません。二人とももう帰ってこないんだよ…。

<(転載終わり)
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2012/2/26
下関【最前線の軍港化が現実味】――人工島を中心に不気味な都市改造進行――
米軍は朝鮮有事重要港に名指し「岩国大増強と連動」

(長周新聞2012年2月15日付け(1)面記事からタイプ転載)

【山口県にある米軍岩国基地が極東最大の出撃基地になろうとしている問題とかかわって、米軍が朝鮮半島有事の際に利用する重要港湾(下関、博多、長崎、鹿児島、新潟、秋田の六港)として名指しされた下関でも、決して他人ごとではないと警戒心が高まっている。寂れる市街や地元経済を放置しながら、沖合人工島やアクセス道路の整備だけは急ピッチで進められ、みなが気づいたときには人工島を中心とした不気味な都市改造がやられていた。朝鮮半島を想定したときに瀬戸内海側の奥座敷である岩国よりも、さらに100kmほど近寄った最前線の軍港にされかねないことが現実問題となっている。】

 ▼6つの重要港湾のなかで地理的に最も朝鮮半島に近いのが下関で、舞鶴(京都府)、佐世保(長崎県)といった軍事拠点の中間点に位置し、彦島には三菱重工のドックも完備。戦斗で破損した艦船を修理する能力も備えている。さらに海上交通の要衝で、周防灘を抜けて広島湾に進めば軍港の呉(広島県)、四国沖から黒潮に乗れば米海軍第7艦隊司令部がある横須賀(神奈川県)にもアクセスする。
 ▼この間、米軍が日本政府に求めている重要港湾の役割として明らかになったのは、24時間以内に利用可能な体制で、いざ戦斗が勃発すれば有無をいわさず乗り込んで、たちまち軍事拠点にする意図を持っている。有事になれば”殴り込み部隊”といわれる米海兵隊が岩国基地から飛び出していく。その際、厚木基地から移転するFA18など戦斗機で空爆するだけなら岩国基地から18分で朝鮮半島にたどりつく。しかし大量の人員を伴う上陸作戦になれば、下関港に強襲揚陸艦や艦船が集結し、岩国から人や軍事物資を積み込んで出撃すると想定してもおかしくない。米軍は重要港湾の役割として、水・食料や燃料といった物資補給の拠点としても重視し、23港から6港へ絞り込む過程で選定ポイントにあげている。2003年から米軍艦船が頻繁に寄港してきたのは港の使い勝手を調査したり、実績作りの意味があったとされている。
 ▼こうしたなかで、下関を軍港にする政治がずいぶん以前から貫かれてきたこと、、黙って進めてきた街づくりについても、表面の装いをとり払ってみると、まぎれもなく軍港・軍事都市を意識していることが浮き彫りになっている。
 ▼750億円を注ぎ込んでいる垢田沖の沖合人工島も、「利用目的がないのに巨費を投じているバカげた事業」ではなくて、上層部には別目的に利用する意図がはじめからあって進めている。利用目的のないものに国が予算をつけるわけがなく、市港湾局長や都市計画部長に国交省キャリアを配置するなど、力の入れようが通常とは異なっている。そして今になって「朝鮮半島有事の重要港湾」といい、後出しジャンケンのようなだましをやっている。
 ▼同時進行で岩国には厚木基地の米空母艦載機59機と米軍関係者4000人の移駐に加えて、普天間基地の米海兵隊1500人(関係者含め約4000人)の移駐の意図が明らかになった。「夢の土地造成事業」といってきた愛宕山開発ははじめから米軍住宅のためだったことが明らかになっている。同じように下関で「夢の島」(下関港湾局)といってきた人工島も民間港としては利用価値が乏しく、軍港への道をまっしぐらに進んでいる。

「次々と巨大な連結道路」寂れる街は放置し

 ▼誰も利用しない人工島に次々と連結道路が現れ、「すべての道は人工島へ」といわんばかりの都市改造が進められることに、市民の誰もが不気味さを感じてきた。派手なPRが繰り広げられてきた下関北バイパス(総工費約720億円、計画延長6.8km)が上下二車線なのに対して、前宣伝は乏しかった人工島から鉄道輸送の幡生ヤードに一直線でつながる武久新垢田西線(総工費32億円)は四車線で、六車線にも拡張することが可能な巨大なつくりになっている。そこから幡生駅をまたぐ高架橋・武久椋野線(総工費163億円)は県が担当して建設し、下関インターチェンジや関門トンネルへと直結する。岬之町のコンテナ機能が移転する程度なら明らかに過剰であるが、軍事物資や大量の人員が移動することを想定していたのなら合点がいくつくりになっている。
 ▼さらに新幹線が停まる新下関駅からはイズミのゆめシティ前を通る四車線道路が旧川中中学校を通過して人工島方面へ接続。頑丈な高架橋が姿をあらわしはじめた。一直線で人工島と新幹線駅をつなぐ道路となる。そこからさらに長府方面に向かって四車線道路が計画されており、長府・小月方面では小月航空自衛隊の前を走る小月バイパスの四車線化も進行している。
 ▼人工島の商業利用が増大する見込みは乏しいのに、都市改造計画だけが勢いよく進められる。重量物資の輸送を想定した頑丈な四車線道路。大量のコンテナ輸送が可能な鉄道、高速道路とつながって、人間の緊急な集合・移動を可能にする新幹線につながる想定は軍港しかない。
 ▼人工島の建設計画を見てみると総面積は147ヘクタールで、現在ケーソンで枠取りして進めているのは第一期工事の62ヘクタール部分に過ぎない。さらに本土側に近づく形で埋め立てて、現在の約3倍になる計画だ。第二期、第三期工事の事業認可が下りて、さらに外島まで建設するとなると、費用が莫大になるだけでなく、しまいには滑走路までつくりだしかねない巨大な島となる。
 ▼北朝鮮ミサイル騒動のさい、安倍元首相のお膝元である下関は内閣府が臨検港(他国の船を臨検するために引っ張ってくる港で、軍事衝突を誘発する)に指定した。同じく地元選出で総理大臣を目指して売り込み中の林芳正元防衛大臣は、身内のサンデンバスが岩国基地内のバス運搬業務をしっかりつかんで、軍事利権にも手を染め始めた。最近では小月航空自衛隊周辺の関係者が岩国基地に視察に行って交流を深める動きも見せている。そこに江島元下関市長があらわれ、米軍基地を見てはしゃいでいた様子も話題になっている。
 ▼全国でも例がない「朝鮮が攻めてくる!」想定の実動訓練をやったり、全国最先端の軍事都市づくりが下関で着々と進められている。市民にものいわせぬ異常な政治構造を突き破ること、岩国はじめ全県、全国の平和と独立を求める力と連帯して、下から世論と運動を強めることが求められている。(了)


山口県知事二井知事と岩国・下関歴代市長及び山口県選出国会議員のすべてが結託して防衛省が違法な裁量で他省予算からウラで示し合わせて捻出してくる違法な防衛予算とそれが生む新たな不法利権に一斉に群がっていることがよく示されている。
防衛省よ、2月初め大分日出生台で武装米軍軍事車両が演習地外の一般県道を走行した時「日米地位協定に照らして合法」と言ったが、米軍だから合法なのであって同じ事を自衛隊がやれば憲法違反のクーデターとなる。防衛省解体自衛隊解体になるぞ。

岩国で守屋防衛庁事務次官が防衛施設建設談合汚職事件を起こし逮捕されたのも、本来違憲裁量汚職であるから国家反逆罪である。二井知事と岩国の基地利権業者と市長市議会議員関連企業が全く無関与であるならば、守屋は談合する相手がなく裁量汚職という国家反逆罪を犯せなかったであろう。今防衛局が岩国と下関で行なっている国土改変事業は議会でどのような予算策定が行われて防衛省に下りた予算であるか。これを国民の眼前に一円残らず明らかにすべし。できなければ即汚職談合であり、官僚が議会の認可も受けず予算を独断の裁量で付け替えすることは憲法違反であり、国の統治主体に対する反乱・クーデターである。
米軍がみずから日本国から基地建設予算を堂々とぶん盗ってみずから工事をおこなっても地位協定治外法権があるかぎりやりたい放題である。しかしいかに米軍の後ろ盾や命令指示があろうとも、日本人である防衛省官僚や政治家や業者には治外法権はかけらもなくただ日本国憲法とその下の国内法にすべての行為が縛られているから、軽々に米軍の真似をして同じ行為におよべば全員憲法違反のスパイ罪反逆者として断罪処罰されるであろう。

防衛省行政はすでに全国すべての地で日本国憲法に反する不法裁量行政執行している。地位協定を破棄するまでもない、日本国憲法違反のスパイ行為国家反逆罪で霞が関防衛省及び地方防衛局官僚全員逮捕せよ。
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2012/6/15
2011/06/03
草津の平松敬司さん、画期的な永久磁石4連式発電機を発明。その機能を京都大学も確認!
 発電機に、まだこんな技術革新があるなんて、、、という話題が今週ありました。

・磁力抵抗「ゼロ」の発電機 草津の男性が発明-----京都新聞、2011年05月31日

 滋賀県草津市の平松敬司さんが発明したのは、記事によると、連式発電機で、「永久磁石を用いた発電機は磁石を円盤に並べて相対させ、軸を回転させることで電気を発生.....4台以上の発電機を1本の軸でつなげ、各台の磁石の位置を軸から見て均等な角度でずらすことで、磁石が引き合う力を相殺させる」とのこと。具体的な数字はないが、京都大学大学院工学研究科電気工学専攻超伝導工学分野の中村武恒 准教授が、発電機を8台並べると磁力の抵抗がほぼゼロになることを検証し、茨城県つくば市で開かれた春季低温工学・超電導学会で発表したということですから、永久磁石発電機の抵抗をゼロという表現も確認された話なのでしょう。

 国際特許を出願し、現在審査中とのことなので・・・・以下省略
【転載おわり】
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2012/8/20
「物欲と権力欲1−橋下徹の正体」
>10. 2012年8月19日 00:00:40 : hGGel5jZDk
>>ttp://www.asyura2.com/12/senkyo134/msg/546.html#c10
壺売り安倍晋三と橋下コスプレ維新は元から一体
http://8245.teacup.com/iwakuni2012/bbs
今では忘れ去られているが、2008年01月31日 大阪府の次期知事の橋下コスプレ徹(38)が米軍空母艦載機の岩国基地への移転をめぐり、山口県岩国市が一昨年に住民投票で反対の意思を示したことについて、「国の防衛政策に地方自治体が異議を差し挟むべきでない」と法的無知と無礼な批判をした。2月3日告示の同市長選では、移転容認派が推す福田良彦・前自民党衆院議員を支援する考えを示したのである。
 橋下徹はこの日、府庁の自民党談話室で、福田良彦を応援するビデオ撮影に応じた。
自民党本部の菅義偉・選対副委員長から電話で依頼されたからだ。
橋下徹こそ腐敗財界と腐敗自民党が軍需経済拡大・憲法改悪のためにでっち上げた安っぽい操り人形だったのである。
市長選に再出馬する前市長井原勝介氏は1日、2度にわたって会見し『大阪府で国政と民意が相反した場合、橋下コスプレ維新は府民の声を尊重して国にものを言わないか』と述べ橋下の非常識な自民・財界の飼い犬発言を一蹴した。
ttp://esashib.com/kenpo04.htm
・・・<

「物欲と権力欲2」
野豚(菅、鳩山、野田国義、鈴木克昌−以上民主、井上義久−公明)の「朝鮮飲み」
>>ttp://blog.livedoor.jp/jijihoutake/archives/54000987.html
◆2012/08/04(土) 躾けは良かったが、性癖が悪かった野田
ネットゲリラは大した男で、鷲は尊敬のあまりチョットゲリラを自称していたこともあるくらいだ。
ただ最近、韓国人や朝鮮人が「朝鮮飲み」をしてるの見たことがないなどとヘンなこと書いているが、これは間違いだ。
「朝鮮飲み」は、韓国に行けば普通に見られる光景で、これは韓国人がキチンとした躾けをうけてきたからだ。
野田総理の「朝鮮飲み」だって、あれは厳しい躾けのタマモノなのだ。
あまり暴露したくない極秘情報をバラしてしまうが…、
野田総理は、熊本県天明町に祖父の実家があり、毎年一回は墓参りに帰る。
このことは野田総理の祖父が在日で有名だったことも含めて、天明町では誰でも知っている話だ。
有名な在日だったということは、野田家は厳しい躾けをしていたはずで、だから野田総理はついついあーゆー飲み方をしてしまった野田。
ただし、鷲は、野田総理が在日の子孫であることは問題ないと思う。
だって、問題にしよーたって、日本の歴代総理の大半が朝鮮・韓国系だったんだし、いまさら鷲が問題にしたってどーなるものでもない。
問題なのは…、
野田総理の 性癖の秘密 が、財務省の皇帝陛下やCIAやネオコンのジャパンハンドラーに握られてオドされまくり、これに屈服してしまって、“言いなりの売国奴”になってしまっていることだ!
ともかく、あのホモ野郎(米国人の言い方)は最低の売国奴だ。
ヤツには太いバットで天誅、いや臀誅(でんちゅう)を加えるべきだ。
>>ttp://grnba.com/iiyama/

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2012/2/27
【光母子殺害事件発生10余年後の最高裁死刑判決は奇形司法が犯した法治社会破壊テロ犯罪である】(長文御免)

1.「光市母子殺害事件とカナダ女子高生連続レイプ殺害事件との比較」(カナダde日本語さま)へ文化人類学的考察投稿(加筆あり)
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-3239.html

日本は宮本常一氏の民俗学的業績によると万葉集山上憶良の歌に「しろがねもくがねもたまもなにせむにまされる宝子に如かめやも」と歌われたり、平安時代の絵巻物にも庶民の子供が貴族の行列見物で遊ぶ母子像で描かれているほど、古くから子供を社会の宝として民衆社会全体が慈しみ育てる国です。必然的に子供という国の宝を生む女性も太古から大事にされその社会的地位も高く女性天皇も他の国々では考えられぬほど多く輩出してきました。日本人は伝統的に婦女子の生命身体をやさしく庇護することを他の何よりも尊ぶ親子の慈愛と仁徳の躾の国なのです。男は元服し妻をめとらば子を作して家を守り国の宝として子を育て元服させることで共同体社会に貢献している一人前の社会人と認められるのです。また三つ子の魂百までというのは人間という動物の動物性を深く観察した上での人間性社会性を育む躾の大事さを説いたものです。

その日本人男性からカナダのこの事件と法の裁きを見ると、アメリカやカナダの「レディファースト」は人間の真実の仁愛に欠けた不躾なお為ごかしの嘘っぱちにしか見えません。法はあってもマナーが無い。白人至上主義者の「正義=フロンティアスピリット」の欺瞞を痛感させられます。憐れむべしは社会の存続を破壊する常習レイピストではなく殺された若い女性たちとその親です。

死刑制度の是非論とは根源的に無関係でしょう。社会文化の問題であると考えています。(了)

2.「罪なき赤児の生命を大人の暴力から守れ」

日本人の判官贔屓のはじまりである義経であるが、同時代の人々が判官贔屓を始めたのは義経本人の政治的不遇よりも腰越で静御前が義経との間にもうけた赤児を頼朝の命令で殺されたという限りない悲劇の父親となったゆえでありましょう。赤児を殺すことを日本人が昔から忌み嫌っていたためでしょうか、太閤豊臣秀吉も関白秀次斬首に連座させていたいけな子どもたちまで殺して人心を失ったことがのちの豊臣家滅亡を早めたと考えられます。今も昔も信なくば立たず。ことに日本人は赤児や幼子を金銀宝玉にも勝る宝として大事にする社会の暗黙の伝統的掟があります。

この光母子殺害事件で日本人が最も痛ましく忌まわしいと感じたのはいたいけな幼児が殺されたことでしょう。事件発生時、無抵抗の無力な保護されるべき弱者である幼児が殺されたことに生理的なほどの嫌悪感をほとんどの日本人が覚えたのではないでしょうか。わたしもそうでしたが。

私が同情するのは愛するわが子を見知らぬ水道会社社員に殺された両親本村弥生氏と本村洋氏に対してです。私も子供を殺されたら彼らと同じ心境に至ったであろうとかんがえるからです。本村弥生氏は目前で愛児の首を絞めている制服の闖入者を打ち倒し子供を救いだそうとして、逆にか弱き女性の無力につけ込まれて殺されました。

罪なき無垢で無力な子供の、大人の暴力による無惨な死。私は沖縄で米軍に轢殺された幼女の写真を思い出します。(※目で見る地位協定>>http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51424388.html>1965年沖縄 「少女轢殺」 報道写真家嬉野京子の証言 )

また、オウム真理教が初めて犯した殺人テロである坂本弁護士一家殺害事件も、同じ年頃の乳児が無慈悲に殺されました。オウムの下手人たちは捕まれば死刑であることを知り尽くした上で凶行に及んだものですが。

私が18歳1ヶ月の「社会人」という点を強調するのは、何歳であろうと社会に出て働き納税を始めた社会人には一人一人に社会を守る義務があるからです。

男女の交わりという成熟個体の生殖行為の実践生命科学的知識のある者が、赤児の首を絞めたら死んでしまうことをそれ以前の常識的知識として知らないわけがない。子供が泣き出した時点で犯人は犯行を止める意志さえあればすべての犯行を止めることができたにもかかわらず、泣き声を止めるために首を絞めた。これは明確に殺人への強固な決意すなわち明らかな故意を証明するものです。こどもが泣けば直ちにその首を絞める。この果断な決断力と冷酷な実行力に高い知略性を認めこそすれ、知能薄弱や心神耗弱は一片も認められません。そしてこの赤児殺しという犯行こそが社会の存続の根源を破壊する犯罪なのです。

社会はどのようにして続いていくでしょうか。男女が結婚してあるいは結婚せずとも出会って子供を作り育て成人させるからこそ社会は代々続いていきます。

また、どこでいかように生まれようとも子供にはなんの罪もない。日本の社会は伝統的に罪なき子供を大切に守り育てる社会です。桃太郎でも一寸法師でもかぐや姫でも鉢かつぎ姫でもみななさぬ仲の養われ子として成人し社会に名をなしたのです。子供は社会の宝であり国の宝です。

逆に、社会に出る年齢に達した者は無抵抗の弱き者の命を絶対に守らなければならない。子供を殺せばその社会は絶えてしまうからです。これが近代の法律よりも優先する古来から心身に染み込んだ勤勉日本人の勤労社会の躾の伝統だと考えています。

快楽殺人や計画殺人は顕著な常習性を示しますから現行の法律は更生可能性が非常に乏しいとして死刑判決を下すと思いますが、少年法20歳未満の規定にもとづく減刑の可能性があるとすれば、被告人の親や被告人を雇った会社の雇用責任ある雇用主が嘆願書を出して無期懲役仮釈放後の厳正な後見責任を果たす旨誓約するか否か、それを裁判所が適と認めるか否かにかかってくるでしょう。

それにつけても福一を住民に警告なく爆発させ被曝させたうえにさらに緊急避難のための自発的移動を強制的に封じた菅内閣東電保安院霞が関の、何十万何百万人もの罪なき子どもやこれから妊娠出産しようという若い女性たちを放射能のまっただ中に置き去りに被曝させた(させ続けている)国家社会の存続の生物的根幹を破壊する棄民テロの罪深さは、もはや法律でも倫理でも人智では到底はかり知れないものです。

彼ら(菅内閣東電保安院霞が関NHK記者クラブマスゴミ)に対する国民の処罰感情の強さがどのくらい大きくなるか、私には想像すらできません。

3.「自ら裁かず記者クラブマスゴミ捏造世論に裁かせる最高裁の司法欠如という最低の無能は最高裁が税金泥棒汚職組織であることを証明する。直ちに最高裁解体せよ」

厚顔の美少年さまから「罪なき赤児の生命を大人の暴力から守れ」へご返信いただき再投稿しましたので追記転載いたします。
>「少年への死刑判決で大人の殺人罪に無期懲役が下せるか」老人党リアルグループ「護憲+」ブログさま
>>http://blog.goo.ne.jp/rojinto_goken/e/6f7fcedaeac05db0eb274f5781e40f15

厚顔の美少年さま、ご返答ありがとうございます。

>今回の場合、先ず殺人罪の少年も幼少の頃から大人(親)の暴力と情操を育む家庭環境に守られて居なかったようです。子は親と家庭環境を選べません。そのような家庭環境で性格形成も歪められ、このことが罪なき赤子の生命を奪うという暴力の連鎖を生む原因と見ます。

このご観察に同意いたします。これは米国社会で顕著に観察され指摘されるようになった犯罪心理学・境界型や犯罪型人格障害の知見と考えます。かつて凶悪犯罪が多発していたニューヨークで割れ窓理論を対症療法として導入したところ凶悪犯罪の数が統計上激減した。このことを日本の刑事司法が換骨奪胎して我が国に導入し、刑事司法行政の権力乱用が顕在化して厳罰化が起こったと考えています。

ただ、この事件に関しては「少年の犯罪に対する厳罰化」を犯罪被害者遺族本村氏が求めたものではないと最初から考えておりまして、私が最も本村氏に共感しましたのは被告人に本村氏が語った「君は嘘をついている」という言葉です。

被告人の生い立ちには同情すべき点が多々あります。彼が親から虐待を受けていたのは真実でありましょう。しかし親から虐待を受けながらも彼は周囲の他人である学友や教師にささえられて高校を卒業し就職することができた。社会が彼を納税者勤労社会人になるまで育て上げたといえるでしょう。この事実がある以上被告人はこの社会に対して恩義があると私は考えます。親からは虐待を受けながらも高校を卒業して社会人となり就職できたのは社会の見守りがあったればこそでしょう。友人や先生や雇用してくれた社長が人としての被告人を育ててくれた社会そのものです。
彼は就職して勤労社会人となった時点で虐待を加えた親を恨む以上に親の虐待から彼の命を守リ続けてくれた社会の恩義に報いるために、親に虐待されなかった他の社会人以上に人一倍強くこの勤労社会を守る責任を自覚しなければならない立場であったと私は考えます。

もし被告人が十分に内省すればこのことに気づいたはずです。気づけば、社会に守られて成人したもとは無力な赤ん坊の自分が、次代の社会を担う若い本村家の宝であり国の宝である無力な赤ん坊の命を大切に守らずに、自分の犯行(犯罪であること十分に自覚していました)を人に気づかれず完遂するためだけの理由で泣き声を鎮めるためにあやしもせず直ちに首を絞めたことが、いかに恩知らずの人の心のかけらもない鬼畜以下の所業であるか、被害者遺族(おかしな言葉です)本村洋氏にむかってではなく、自分の手にかけた無力な赤ん坊と命懸けで赤ん坊を守ろうとした母親本村弥生氏に向かって全ての心身をなげうって謝罪するはずです。

その言葉はなかった。ゆえに夫婦で大切な子宝の命を守り育ててきた赤ん坊の父親本村洋氏は、年齢の近い被告人少年に向かって同じ勤労社会人男性として「君は嘘をついている」と語ったのです。

刑法は勤労社会を犯罪の被害から守るために定められたものです。そして勤労社会の根源である家庭を破壊する性衝動犯罪を完遂するために赤子を殺すというさらに最悪の鬼畜にも劣る犯行に手を染めたことに内省で気づかず真の反省が見られない(更生可能性が非常に乏しい)勤労社会人犯罪者に対して、法は情状酌量できず死刑を言い渡すでしょう。

これが本村洋氏の「法が裁かないのなら(同じ社会人男性として)私が裁く」という言葉になったのだと考えて、共感した次第です。すなわち本村氏は怨念を晴らすためではなく社会を守る正しい司法が行われることを求めただけである、と考えています。

よって、先のコメントで
「少年法20歳未満の規定にもとづく減刑の可能性があるとすれば、被告人の親や被告人を雇った会社の雇用責任ある雇用主が嘆願書を出して無期懲役仮釈放後の厳正な後見監察責任を果たす旨誓約するか否か、それを裁判所が適と認めるか否かにかかってくるでしょう。」
と推敲して述べた次第です。

長文失礼いたしました。(転載終わり)

4.「日本奇形司法の首魁最高裁を直ちに弾劾解体せよ」

>今回の裁判結果を受けて被害者の遺族(本村氏)は記者会見で、「今回の判決で勝利者は居ない。このような犯罪が発生したことが社会の負けです。」と述べていました(厚顔の美少年さま)

私はこの言葉を、三審制司法の頂点最高裁が法に基づいてみずから裁こうとせず徒に高裁へ差し戻して刑事裁判の至上命題である迅速性を損ない、その間記者クラブマスゴミに世論を煽る偏向報道をさせて差し戻し審に死刑判決を心証誘導し、長期間にわたって関係当事者の精神的苦痛をいっそう倍加させた。
また裁判所自体が少年法に振り回されて各裁判で充分な審理を尽くさない判決をくだし、被告人少年の自分が犯した罪に対する内省の機会を結果として奪い、その被告人に法が適正に執行されないため真摯な反省や改悛の情が生まれた様子が見られぬことが、赤子の父親遺族本村洋氏と弥生さんの遺族ご両親をさらに長期にわたって精神的に苦しめる事態を惹き起こした。

このように犯罪そのものから受ける精神的苦痛被害よりも、犯罪を正しく裁けない司法制度の無能、奇形司法に長期間苦しめられる被害を被った当事者のひとりでありまっとうな勤労社会人である本村氏が、本当は「社会の負け」ではなく法を正しく司る能力に欠けた無能なる最高裁が18歳いち社会人の刑事凶悪犯罪に負けた「奇形司法の負け」を、遠まわしに婉曲に表明した言葉なのではないかと考えます。

私は本村氏と同じいち勤労社会人納税者一般人主権者国民としてつねづね最高裁は解体されるべきであり、現職過去職ともに最高裁裁判官は全員弾劾懲戒罷免に処断すべきと考えています。(了)
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2012/9/5
36. 2012年8月31日 11:45:58 : http://www.asyura2.com/12/warb9/msg/842.html#c36
>>32 
彼等のデスクの二つ目のモニターには、投稿者の身元が同時に調べがつき、日本国民の個人データーが即座に画面上に映し出される設定がしてある。
その元データーは、ソフトバンクテレコム落札の住基ネットの情報。
そのデーターはアメリカで膨大な専門研究員達の手によりさらに一人一人細かく分析されている。日本国全体の総資産や労働統計などと言うレベルではない精密な実対把握が成されている。これからは記録されない関係の付き合いが大切だ。

間抜けネット工作員が、ネットの掲示板で、おもしろがってコメント参加者を揶揄するのに、投稿者個人しか知らない正確な生活情報等、身元を示唆する情報を加えたコメントを掲示板で出していた時期があり、この遂行中のネット犯罪がばれた。まだ捕まっていない。そういう危険な事態が進行している。

この事実が示すのは、巨大資本、国家機関による国民監視社会の到来。
ただ、現行では、国家規模大犯罪。憲法違反。人権侵害。スパイ犯罪。だからしらばくれてかげでやっている。
すべてつつぬけ。

住基ネット情報の不正流用など幾らでも今後証拠が出てくるだろう。さまざまな不正流用がすでに進められているはずだ。韓国の立場がいっそう悪化していく。
日本国民の詳細データーは、完全管理監視社会に移行したときに、奴隷名簿として活用される。おそらく、ネットの投稿も個人特定欄に、採点係により、要注意とかマーキングされてするはず。戒厳令下では真っ先に、日本版femacamp収容所送り候補。
公安とかもやっているかも知れない。ユダ金がやれといえば、ただのイエスマン。やる。圧倒的な正確な個人情報を収集すれば、大変な武器。あとあと公安は、日本が亡国になったあかつきには、個人宅訪問で最大限にそれを活用する。
「あなたは、人権擁護法に違反しました」
「あなたはacta違反者にリストアップされています」
「ご同行を願います」
そこで待つのが、中世魔女裁判。でたらめ罪状のでたらめ判決。ユダ金マスコミもあなたを糾弾。
用意は万全。
だから、あとは日本国売国奴政治家達が、この大犯罪を正当化する法律の成立を待っている。それが決まれば…… こんな法律絶対阻止だ。

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2012/12/14
岩国市が合併拡大して2年が経ちました。
恒例にならい2010年岩国市小児科医会新年会を、いまや岩国市の名所となりました山賊(玖珂店いろり山賊)に於いて
2010年1月14日(木)午後7時より約2時間の予定で開催いたします。山賊名物の皇牛料理他をご堪能ください。
参加費は一人10,000円(但し本年末新型Fluの診療拠点として多忙を窮めておられる岩国医療センター所属の先生方は無料です)
会場へのアクセスは下図の如く送迎バスを2本ご用意いたします。
また別にタクシーでご来場の方は乗車代金の領収書を幹事までお持ちいただけば小児科医会からお支払いいたしますので、
時間を気にせず皆様奮ってご参加ください。 
幹事 豊岳小児科 豊岳正彦

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2012/2/21
憲法を無視して治外法権アメリカの命令通り略奪政策立案執行する日本国棄民テロ犯罪者政府には投獄豚箱行き以外今更なんの評価もありませんが、恥知らずの豚政府はせっせと棄民テロ攻撃に余念がありませんし、記者クラブマスゴミは事実を隠蔽するためのマルチスピン報道に大車輪ですw

今日は先日ふじふじさまからもご指摘のあった百里基地日米合同軍事演習(「極東米軍へちぎれるほど尻尾振って擦り寄る野田米政翼賛会政治」http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-10b0.html)について報じた2012年2月20日付け長周新聞(2)面記事をタイプ転載します。野田政権が予算を震災復興にではなくアメリカ軍の日本国内治外法権を振り回した対中国戦争策動に総て闇雲につぎこんでいるさまがよくわかります。

【弾圧体制の色彩露わ】
日米演習や対テロ訓練「国民保護というが」

 ▼アメリカが米軍再編計画を修正し海兵隊の岩国移転を急ぎ出すなかで、日米軍事演習や対テロ訓練が各地で動いている。人々が知らぬ間に全国で着々と進む戦時動員の動きは、基地がある岩国や沖縄だけにとどまらない。在日米軍再編問題は全国の動きと連動して起きており日本全土を火の海にするかどうかがかかる問題となっている。
 ▼空自百里基地(茨城県小美玉市)では2月13日から日米共同演習(24日まで)が開始された。基地北東の太平洋上空における戦斗訓練が主な内容で、岩国基地のFA18ホーネット6機と短距離離着陸できるAV8Bハリアー2攻撃機3機と米海兵隊員約60人が参加。空自は百里基地第7航空団と偵察航空隊、入間基地(埼玉県入間市)中部航空警戒管制団、F15戦斗機6機などが加わった。米軍事再編計画の一環で、沖縄の演習を本土移転させることで自衛隊基地を米軍基地化する布石。戦斗機は沖縄だけでなく、岩国からも飛来し、基数も期間も2007年10月以来の演習のなかで最大規模となっている。
 ▼今月初旬から実弾砲撃演習が行われていた日出生台演習場(大分県)では2月10日深夜、砲弾を積載した在沖米軍の軍事車両10数台が県道に出て走行する問題が起きている。県道と演習場境界の出入り口部分にはロープが張られ、英語標識もあるのに米軍は無視して侵入。300メートルほど走行し、演習場内に戻ったとされる。指揮官のミアガニー中佐は謝罪するどころか「安全に使用した。住民に危険はなかった」と開き直り、九州防衛局は「日米地位協定などにより法的な問題はない」と容認姿勢をとっている。同演習場は13年前に米軍が実弾砲撃演習をやり始めたが、当初、榴弾砲だけだった実弾射撃演習が、機関銃などの小火器使用に拡大し、砲弾も白リン弾や照明弾が加わり、在沖米軍専属演習場の色合いを強めている。
 ▼連動して「対テロ」と称する国民保護戦時訓練が各地で相次いでいる。先月末から今月にかけ、宮崎、長崎、北九州、山形などで図上演習や住民を動員した実動演習を実施。どこの演習も住民の安全・避難訓練はそこそこに、テロリストの弾圧・鎮圧訓練重視が特徴だ。「プロ野球キャンプ中のスタジアムで化学剤を使った爆発テロが起き、多数の死傷者が出た」(宮崎)、「長崎空港で武装グループによる爆発が起き、空港と本土を結ぶ箕島大橋も爆破された」(長崎)、「小倉北区西港地区の石油コンビナートのガソリンタンクをテロ組織が爆破した」(北九州)、「山形駅構内で化学剤を使った爆発テロが発生」(山形)という具合。地方行政機関とともに自衛隊や警察を総動員して、映画やテレビドラマの延長のような空気で治安弾圧・制圧訓練をエスカレートさせていく姿があらわになっている。
 ▼茨城県で2月12日に行われた警察と自衛隊の共同訓練は、陸上自衛隊勝田駐屯地で実施。「機関銃や化学兵器などを所持した武装工作員が国内へ侵入し、自衛隊に治安出動命令が下された」と想定。県警機動隊や陸上自衛隊が原子力関連施設を守るため検問所をつくったり武装工作員を発見して制圧する訓練だった。
 ▼最近はひとつの県だけでなく、海をへだてた二県による対テロ訓練も始まっている。2月9日には徳島県が対岸の兵庫県と合同で国民保護図上訓練を実施。想定は「兵庫県淡路島北部で武装工作員によるトンネルの爆発などテロ事件が発生した」というもので、住民2万2000人を徳島県に受け入れることや支援物資の確保などが内容となっている。(了)

さらに消費税もTPPも狂ったように導入を急ぐ棄民テロ豚政権モドキが、やはりTPPにかこつけてアメリカの戦争策動に全力で協力している明らかな醜悪な証拠が「病院船」です。
同じ日付の長周新聞(1)面下段記事をタイプ転載します。

【有事病院船】建造が本格化
野田政府が検討開始

 ▼野田政府が「日米同盟強化」を叫び「アジア重視」の米戦略の下請けを担う道を突っ走るもとで「有事病院船」建造g本格化している。内閣府が1月20日開催した「第一回災害時多目的船に関する検討会」で、建造に向けた具体的検討に着手した。同検討会は今回を含めて5回開催し、3月中旬をめどに今後の方向性などを取りまとめる。
 ▼「有事病院船」計画は内閣府が2011年度第3次補正予算で調査・検討費3000万円を確保し、動き始めた。この背景には昨年4月、「病院船建造推進超党派議員連盟」(会長・衛藤征士郎元防衛庁艦)を民主、自民、公明の議員有志で発足させ、衛藤会長が米海軍の病院船コンフォート号(6万9360総トン)を視察、「洋上に浮かぶ大学病院」「5年後をめどに日本ならではの病院船を運用できるようにしたい」とおおいに旗を振ったことがある。
 ▼同検討会は今後、病院船に持たせるべき機能、乗組員や医療関係者など活動する関係者の確保、自衛隊・海上保安庁・災害派遣医療チームなどとの役割分担など、病院船を実際に運用する際の課題などについて検討するとしている。病院船は各国とも海軍が保有しており、導入にあたって海上自衛隊による配備や運用を規定している。(了)

タイプ者註:つまり防衛予算ということになります。それにしても導入を検討するだけで3000万円とはいったいどういう頭の考える金の使い方ですか。いかにも国会議員による公金詐取ぽいですな。そんな穀潰し口先詐欺犯罪者には議員歳費を全額返還させるべきでしょう。

さて棄民テロ憲法違反豚政権モドキは治外法権を利用する米軍に日本の国土を盗人に追い銭して渡すばかりでなく、米国財界の利益のためにもTPPを利用して日本人の資産を略奪する完全売国政策をとっています。以下にそのことを報じる同じ日付の長周新聞(3)面「時評」をタイプ転載します。

【時評】GMになぜ補助金出すのか?

 ▼野田政権が国民には消費税増税や福祉切り捨てを押し付けながら、自動車大手を優遇するエコカー補助金や減税策を打ち出している。国民の生命に関わる農林漁業振興や町の小売店や市場再生への補助金はろくに出さないのに、自動車販売促進には3000億円もの予算をつけている。しかも補助金を出す対象メーカーは日本企業だけでなくビッグスリー(GM、フォード、クライスラー)までを含む。日本の税金を米国企業のために貢ぐ内容となっている。
 ▼エコカー補助金は、昨2011年12月20日〜来年2013年1月31日までに、一定の環境性能を満たす自動車を買った人に、乗用車は10万円、軽自動車は7万円を支給するもの。さらにエコカー減税で自動車取得税、自動車税や軽自動車税、自動車重量税も大幅減税。消費増税について「生活必需品は除外しない。財政が厳しいのだ』と野田首相は主張したが、自動車業界にはいろいろ理由をつけて減税ばかりしているのが実情だ。
 ▼さらに「エコカー補助金を受ける車種は?」と見てみると日産やトヨタ、ホンダなど日本企業が売出に熱を上げているだけではない。ビッグスリーまで「○○がエコカー補助金の対象になりました!」「買うなら今がチャンス」と大宣伝している。GMは「キャデラック』、クライスラーは「ジープ・グランドチェロキー」、フォードは「新型エクスプローラー」といった具合で一台が300万円〜600万円もする高級車が対象だ。
 ▼この米国車の売上を促進するために一台あたり10万円もの補助金を日本国民の税金から出してやる異常な姿を露呈している。「野田政府はいったいどこの国の政府か」との憤りは全国で充満している。(了)

タイプ者註:菅内閣発足時からずうっとアメポチスパイ政治家内閣と霞が関官僚違憲裁量行政による違憲棄民テロ政治犯罪が続いている。憲法破壊テロ国家反逆者菅内閣閣僚野田内閣閣僚霞が関全官僚を直ちに豚箱へ叩きこむべし。地位協定破棄決議に賛成しない国会議員は全員アメポチスパイ棄民テロリストであるから全員公職追放公民権無期停止相当である。地方自治体においても同様である。日本国憲法はただひとつであるから。

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2012/2/15
「面白きことも無き世を面白く」「では長州男児の心意気をお見せ申そう」高杉晋作の「回天」独立不羈とは。

>攘夷戦争と長州藩の足跡;歴史図録や写真で専門家が解説
「長州維新の道(上)」(図書出版のぶ工房発行、定価2300円+税)
(長周新聞2012年2月10日付(4)面新著紹介「本棚」欄記事タイプ転載)

 ▼幕末の攘夷戦争から明治維新にいたる長州の足跡を歴史図録や写真を豊富にとり入れ、専門家が解説する「長州維新の道」の上・下巻が、福岡市の「図書出版のぶ工房」から発行されている。「九州長州図録撰書」シリーズで、「長州と筑前、維新を歩く三部作」のうちの二冊である。
 ▼「長州維新の道」〔上〕は、関門海峡での幕末対外戦争である攘夷戦争、米英仏蘭四カ国連合艦隊との戦争になった馬関戦争以後の長州藩の動向、とくに高杉晋作と奇兵隊による「回天」へと急激に展開した事情に迫るとともに、功山寺で決起した奇兵隊が下関から萩城を目指して進撃した「赤間関街道 中道筋」をたどるものである。
 ▼「幕末、日本の情勢はめまぐるしく変わった。黒船来航から戊辰戦争までの十数年の間に、二百数十年ぶりの開国、七百年近く続いた武家社会の終焉という大転換を遂げ、中央集権近代国家へと歩き出したのである」(遠藤順子)。
 ▼文久三(1863)年の攘夷戦争から、文久政変、禁門(蛤門)の変、第一次長州征討と馬関戦争、高杉晋作の奇兵隊結成、さらに俗論党の台頭と第二次長州征討。まさに内憂外患、四面楚歌に見える極限の中から、これと正面から戦い抜き倒幕戦争の勝利へと導いた高杉晋作、奇兵隊と諸隊の動向。このあたりの内的事情については、「長州攘夷戦争」(古城春樹)、「高杉晋作による奇兵隊結成と文久年間の情勢」(田口由香)に詳しく展開されている。
 ▼高杉晋作が、封建制の身分制度に縛られた幕府や他藩では見られなかった「身分を超えた軍隊”奇兵隊”」を結成し、馬関戦争の講和会議でイギリスによる彦島租借を阻止し、四境戦争の大島口や小倉口の戦の先頭にたって幕府軍と戦ったのは、「すべては長州一国のためのみならず、清国の覆轍を踏まず上海の惨状を日本にもたらさないためのものだった」。
 ▼そこでは、高杉晋作が文久2年に上海に渡航し、欧米列強の植民地となった租界や、清国の惨状を直接目撃した体験が非常に大きかったこと、「彼の人生最後の五年間の行動を強烈に動機づけし、方向を決定したのは、まさにこの上海渡航だったといえる」と強調されている。
 ▼田口氏は「上海の惨状を目の当たりにした高杉は”攘夷の策”を主張しているが、欧米諸国との貿易も視野に入れている。・・・・・高杉が主張する”攘夷の策”とは、西洋技術の導入によって欧米諸国と対等な関係に立つための対策であり、いわゆる外国人を追い払うという攘夷の考えとは異なっている」と指摘している。
 ▼このほか、「薩長同盟の功労者、中岡慎太郎」など、薩長同盟がどのような緊迫した情勢のもとで成し遂げられたのかを、筑前の動向や中岡慎太郎の活躍との関連で記している。功山寺決起の直前まで高杉晋作が、筑前の野村望東尼の平尾山荘にかくまわれていた事情、「木戸孝允の人脈と江川太郎左衛門の農兵隊構想」などについての叙述もある。
 ▼伊能忠敬研究会会員・遠藤薫氏(のぶ工房編集長)が、実際に歩いて撮影した下関を起点とし萩にいたる「赤間関街道中道筋」を新地、竹崎、赤間関、長府から小月、清末、神田、さらには奇兵隊の陣屋が置かれた吉田、激戦地の絵堂、大田など主な地点を史跡や風景写真、「伊能図」や現在の地図に照らして紹介している。
 ▼三部作完結となる「長州維新の道(下)」は「萩往還---維新をなした政治と教育」をテーマに構成されている。(一)

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2012/2/8
マスゴミが報道しない極東米軍の最近の動向です。各国に覇権記者がいないのかねNHKとか?

「矛先を中国に向け
連続する米韓軍事演習」(長周新聞2012年2月3日付紙面記事全文タイプ)

米「韓」両軍は2月末からの合同演習「キー・リゾルブ」についで3月初めから2ヶ月間の「フォール・イーグル」、さらに3月末には海兵隊の合同上陸訓練「双竜」を朝鮮半島で実施する。先にオバマ米政府がうち出した新国防戦略にもとづいて、対中国戦争に日本や「韓国」、フィリピンなどをアメリカの下請け軍隊として訓練する一環である。
 「キー・リゾルブ」は2月27日から3月9日まで。「韓国」軍20万人、米軍2100人が参加して、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)との全面戦争や局部的挑発行為に対処するための演習だとしている。
 3月1日から4月30日までの合同軍事演習「フォール・イーグル」には米軍1万1000人と、「韓国」軍が師団級以下の部隊を参加させ、空中、海上、特殊作戦などの訓練を行う。
 米「韓」海兵隊による3月末の大規模な上陸訓練は、朝鮮半島南東部の浦項一帯で実施される。「韓国」海兵隊と在沖米海兵隊などあわせて1万人以上が参加。訓練内容は、上陸訓練のほか、敵地への浸透訓練、実弾射撃演習などとされる。
 このほか、米「韓」海兵隊は2月にタイで実施予定の合同訓練「コブラゴールド」に昨年より規模を拡大して、大隊級で参加するとしている。また、7月にハワイでおこなわれる米軍主導の環太平洋合同軍事演習「リムパック」に、はじめて「韓国」海兵隊を小隊級規模で参加させる。
 なお、2月1日から6日までマラッカ海峡に近い海域でインド、オーストラリア、ミャンマー、バングラデシュ、ブルネイ、フィリピンなど14カ国の海軍が参加して、海上テロ防止、海賊とりしまり、人道主義支援と銘打った合同演習が実施されている。自衛隊も先の離島奪回作戦演習などを行なっているが、アジア各国が参加する軍事演習は激増しており、矛先を中国に向けている。
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2012/3/9
野田政権の本当の役割(2012年3月8日ニュースの真相さまから改行改変して全文転載)
>>http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120308/1331167206
(転載開始)
前回の投稿で、プーチン氏の記事を書きました。
ロシア革命で、金融ユダヤ勢力の植民地になってしまったソ連・ロシアという国を、必死になってユダ金と戦い、ついに取り戻したのがプーチン氏だった!なんてお話でした。

▼プーチン氏大統領選挙で、金融ユダヤ勢力に完全勝利!
http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120306/1330994611

やはり、一国のリーダーともあろう者は、こうでなくっちゃいけませんよね?
ところが、日本のリーダー野田佳彦首相と来た日には・・・(´Д`)ハァ…
まあ、正確に言うと、野田氏は日本のリーダーでも何でもなく、権力者達の利益代表というか、パシリみたいなもんですから、仕方ないんですけどね。
だから、立ち位置としては、ユダ金から国を取り戻したプーチン氏ではなくて、ユダ金のパシリの、レーニンやスターリンにあたる訳です!(もちろん、もっと小粒だと思いますが。)
だから、野田首相が今、日本をドコに向けてハンドリングしているかと言うと、ソ連のような方向性に持って行こうとしてる!って考えると、物事がハッキリ見えて来ると思います。
ん? 共産主義に傾くの? ピンと来ないなーって人は、ファシズムに向かっている!って言ったら、ピンと来るでしょうか?
共産主義という思想も支配体制も全部金融ユダヤ人が作った物で、レーニンもスターリンもゴルバチョフもエリツィンも、みんなユダヤ人だった!というのは、上記の記事でも書きました。
これと同じように、ファシズムというのも、実は金融ユダヤ人が作った支配体制で、ヒトラーも、もちろんバリバリのユダヤ人です!
つまり、何が言いたいのかというと、共産主義とファシズムの共通点を見つめれば、ユダ金の犬、野田氏が向かっている方向性が見えるって事。
要は、国家権力の強大化&国民の権利の弱体化!
全ての政策が、この2点に集約されている!って考えると、色んな事がスッキリ見えます。
▼国民総背番号制を閣議決定して、国民の情報を何もかも国家にダダ漏れにしておいて、秘密保全法案で、国家の情報の方は、しっかり国民から隠す!
▼菅政権のインターネット規制法で、ネット上の緘口令に引き続き、共謀罪や新型インフル法(集会禁止法)で、リアルの世界でもこのブログに書いてるような事を語り合っていたら、サクッと逮捕出来るように!
▼そして、消費税増税で、経済にさらなるブレーキをかけて、生かさぬように殺さぬように!
▼さらに、ギュギュッと絞った金は、ユダ米と売国奴達でしっかり山分け!
▼最後に、国民から権利を奪い、充分に抵抗力を失わせヘロヘロ状態にしたとこで、仕上げにTPPで、日本をユダ米化!

国民の権利を弱体化させ、代わりに国家権力を強大化させる!
そして、国民から絞り取った果汁を、アメリカ、財閥・官僚・政治家で山分け。
つまり、日本人から絞り取った果汁を、改宗ユダヤ人と同和、朝鮮半島系、ホモなどのマイノリティーの方々だけで山分けする!
今もこんな状態ですが、その傾向をさらに強めさせるのが野田政権の本当の役割って事。(転載終わり)
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そのとおりですね。

んで、地位協定下の日本における政治家と官僚組織(奇形司法とマスゴミ一体です)の国民資産泥棒の棲み分けをもう少し細かく書くと、前に書いたとおりユダ金に売国政策で政治家が流した裏金のキックバック、これは政界に入ります。これを利用して中曽根とユダ金キッシンジャーが手先の記者クラブマスゴミと奇形司法を使って日米共謀して平民宰相田中角栄を陥れたのがロッキード事件。※

では官僚はどうやって分け前を手に入れて私腹を肥やすのか。
これは米軍地位協定治外法権の虎の皮を被って、憲法違反の官僚裁量行政をほしいままにして国外流出巨額裏金からではなく国内予算から、特殊法人を大量に作り随意契約で許認可権を悪用して企業と談合して、予算執行時に横滑りや渡り・天下りを繰り返して予算本体から何重にも中抜きして盗み出した巨額の横滑り渡り天下り利権を官僚の私腹に入れるという、完全な憲法違反公務員法違反の刑事犯罪汚職常習集団盗賊システムを作り上げて、日本国内現地調達でユダ金日本資産掠奪治外法権国際法違反犯罪のおこぼれを手に入れているのです。これを国会を破壊して政界をアメポチスパイだらけにしてユダ金スパイ霞ヶ関の犯行を厚顔無恥なファシズムそのものに変えたのが隠れ公明党員小泉竹中詐欺師劇場の骨太つうより図太い行政改革。

官僚の違憲な裁量で予算執行時に策定した行政執行関連法令がすべて憲法違反であることは明らかでそのくらいはこどもでもわかりますが、我が国の最高裁は憲法に定められた違憲立法審査権を憲法制定以来一度も行使したことがない。この憲法に定められた責務不履行怠慢は明らかに憲法に反逆するテロリストの犯行であり、奇形司法最高裁官僚判事が全員米軍地位協定治外法権の虎の皮をかぶった黄色い皮膚のユダ金奴隷スパイであることを証明しています。

※参照:「法螺と戯言氏のれんだいこ史観通底考その1〜」れんだいこのブログさま
     >>http://08120715.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-e9f8.html
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【日本国同朋国民陸自隊員を紛争危険地帯での戦争狂ユダ金悪魔が策謀する「戦死」の危機から直ちに脱出救出せよ】

いま日本人に戦争狂悪魔ユダ金の魔手が切迫しています。
南スーダンというロシア軍すら撤退する紛争の最大危険地域にユダ金戦争狂悪魔に騙されて送り込まれた平和憲法専守防衛の日本国民同朋陸自隊員120余名全員をただちに危険地帯から脱出退避させて日本に帰国させよ。日本国憲法主権者国民として野田戦争狂ユダ金飼い豚総理に断固命じる。

自衛隊が日本国憲法違反の戦争戦闘行為に巻き込まれたらその責任はすべて、まさに陸自に派遣命令を出した自衛隊の総帥日本国総理大臣一人にあるのだ。
総理大臣の座にあるニセ日本人憲法違反棄民テロリストブタの野田君、それが首相の覚悟というものだよ、ミジンコよりちっぽけなその肝に海より深く山よりも高く強く強く銘じておきなさい。

そして戦争狂悪魔ユダ金はかつて日本人を沖縄戦や原爆投下や日本全国の非武装住民生活都市焼夷弾爆撃大空襲で虐殺した冷血から見ても日本列島を原爆と同じ原発放射能で全滅させても何とも思わないことは明白。
日本人なら直ちに地位協定を破棄する民族独立を選ぶと思うがね。


http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c417

[医療崩壊9]
329. 豊岳正彦[-17089] lkyKeJCzlUY 2023年8月25日 00:25:35 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[11]
「悪を断ちきる断捨離NHK解体廃棄」
http://www.asyura2.com/16/senkyo206/msg/473.html#c41

>>39
http://www.asyura2.com/16/senkyo206/msg/473.html#c39

>武田邦彦氏が証拠提出したこのNHKの「誤報を装った詐欺報道」犯行は、確信犯ですね。

>過失ではなく故意です。

>罪名は、憲法最高法規99条違反の刑法内乱罪と憲法9条違反外患罪です。


なぜならば、NHKは総務省公務員だからね。


まず憲法最高法規99条が適用されるのだよ。


「@「GHQコード」3S+WarGuiltyInformation (通りがけ)」
2015-05-21 08:23:53
1.「日本国憲法(仏教)とGHQコード(一神教カルトフリーメーソン)」

saigaijyouhou.com/?no=6558

安倍はそもそも日本国憲法も漢字が多すぎて読めないだろ。中学生までの必修だけど。
志位もポツダム宣言より憲法41条について安倍に読めるかどうか質問しろよ。

>「閣議決定は違憲立法である」
先に閣議決定した集団的自衛権を早速行使しようという安倍憲法違反内乱罪外患罪犯罪者政府ですね。

実は憲法によりすべての法律は行政府内の官僚が立法して施行することを禁じています。立法は唯一の立法機関である国会のみがこれを行い、内容を審議のうえ国会で承認された法律のみが施行されます。

「日本国憲法第41条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」

すなわち戦後「GHQコード」3S+WarGuiltyInformationフリーメーソン一神教カルトスパイ政府が中曽根以来たびたび行ってきて、現在の安倍政府にいたってさかんに乱発している官僚立法と閣議決定にのみ基づく新法の施行はすべて違憲立法そのものです。最高裁判所の違憲立法審査権発動は全く必要ありません。

そもそも唯一の立法機関である国会で立法されていないのだから、これら閣議決定での法律施行はすべて最初から憲法手続き違反であり、最高裁が審査する必要のない明々白々な現行犯違憲立法です。これはまさに行政府公務員による憲法違反行政であり、国会審議抜きで施行して行政執行すれば直ちに憲法99条違反刑法内乱罪現行犯有罪となります。

これはまさに国権の最高機関国会の下部機関たる行政府公務員による憲法違反行政であり、かように国会審議抜きで施行して行政執行すれば直ちに最高裁審査不要で直接刑吏の手に下され、憲法99条違反刑法内乱罪現行犯有罪となります。


2.「国連敵国条項」

【社説】「自衛隊の活動域さらに詰めよ」2015/05/21(日本経済新聞)http://s.nikkei.com/1PxiRi9
<引用>  安倍晋三首相と野党代表による党首討論が約1年ぶりに開かれ、安保法制を巡る国会攻防が始まった。日本の針路にかかわる重大な局面である。専門用語を振りかざさず、与野党は有権者にわかりやすい論戦を心がけてもらいたい。・・・後半国会では党首たちが繰り返し真剣勝負を展開することを期待する。
<終了> ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-12029132182.html

NHKはじめ日本マスコミはすべて発足からしてイスラエルモサドアメリカCIAの戦争プロパガンダスパイ組織であるから、最も重要な国連敵国条項問題を決して報道せず、日本国憲法上日本国の君主に定められた日本国主権者国民を、電磁波悪用メディアを中心に用いて「GHQコード」3S+WarGuiltyInformationにて徹底的に欺き騙している。

日本は国連敵国である。

安保同盟国アメリカでさえ、日本が他国に対して戦争行為すなわち憲法9条に言う「国際紛争解決を目的とした手段としての武力(軍事力)行使」を行った瞬間に、在日米軍が日本に対して軍事攻撃できるのである。

何故なら国際法上日本は世界のいかなる他国とも軍事同盟を結べない国連敵国だから、日米安保条約という二国間軍事密約を国連安保理事会が認めない限り、民生転用不可能な純然攻撃兵器オスプレイを購入したり核兵器を保有したりすれば、世界中の国が宣戦布告無しでアメリカではなく日本を軍事攻撃できる状況は1945年以来変わらず、また日米安保条約においてアメリカは日本を軍事攻撃から守る義務を一切持たないのである。

>らっきーデタラメ放送局★第152回『安全保障って誰の安全?』
https://www.youtube.com/watch?v=TXlT9zGDN2A


3.「GHQコード」

この一神教カルトフリーメーソン悪魔スパイマスコミは1945年からひたすらGHQコードにのみ従って、仏心伝来大和民族日本国民仏教徒に対し情報隠蔽報道を今日まで徹頭徹尾続けている。

すなわち戦後日本政府はフリーメーソン吉田茂が米軍基地内で単独調印密約した日米安保条約により、日本国憲法を守らずただGHQコードにのみ従う、純然たるフリーメーソン悪魔カルトスパイ憲法9条違反外患罪憲法99条違反内乱罪棄民テロ政府となったのである。

GHQコードによって
(1)広島長崎の原爆被爆者医療情報はすべてABCCによって隠蔽弾圧された。
(2)フリーメーソン悪魔戦争犯罪者アメリカが極東軍事裁判を開いて、フリーメーソン戦争犯罪者ヒロヒトとフリーメーソンスパイ軍人官僚を無罪とし、忠君孝親大和魂日本人を冤罪で全員死刑にして口封じした。これがヒロヒトが行った226大和魂全員死刑冤罪裁定同様アメリカが行った冤罪死刑裁判である。
(3)焚書坑儒を行って歴史の捏造を謀った。
(4)NHKテレビ局・大新聞社出版社・宮内庁はじめ霞ヶ関全省庁・検察・自衛隊をつくり、3S政策とWarGuiltyInformation教育を開始した。
(5)・・・続きは後刻、

悪魔の正体とショックドクトリンをすべて曝いた世界一賢い日本人 (通りがけ)
2015-05-26 08:28:31
故佐宗邦皇 氏。

中世ヨーロッパ十字軍から世界史の表に登場したユダヤフリーメーソン悪魔カルトの戦争略奪陰謀史を、第二次大戦から911に至るまですべてイスラエル悪魔王国首謀ショックドクトリンであったという真実を詳細明白に明らかにした地球最高の知能日本人故佐宗邦皇 氏の講演記録youtubeでごらんください。彼が神津恭介に並ぶ世界一の頭脳で突き止めた唯一無二の真実です。(ただし911映像捏造はまだこの講演時には究明できていませんが、真犯人はすべて特定できています)

故佐宗邦皇 氏「ケネディ暗殺の真相」
https://www.youtube.com/watch?v=MpRorwLBm_E

佐宗邦皇氏暗殺後〜311についてはこちらが正確に纏めてあります。

311の犯人〜アメリカ政府は事前に東北大地震を知っていた
https://www.youtube.com/watch?v=wMxqowjooQw


いずれも90分程度の長い動画ですが、この2つを視聴することで明治から平成までの悪魔支配ショックドクトリンがすべて明瞭にわかる、正しい温故知新となります。

(これらの動画は、「未来への化学」リンク集  にあります)
yyy1496.web.fc2.com/sub14.html
無畏不動の仏心 (通りがけ)
2015-05-30 22:54:53
我々のご先祖様たち忘己利他慈悲喜捨布施武士道菩薩が全宇宙不退転の仏心を日本国憲法第9条に表現した。
無畏すなわちなにものをも恐れぬ清浄で穏和な仏心である。

どんな兵器とても恐れない。

>「米海軍の恐るべき新巨砲(レールガン)!!−超電磁砲−」飄(つむじ風)
blog.goo.ne.jp/tumuzikaze2/e/0ff9c6da1dd2524ca8b904e08fdc6eb9
コメント2015-05-30 00:07:18
■仏教徒ではないカルト一神教信者による鬼畜の所業

「アンブロークン」どころではない、言語に絶する連合軍による日本人戦犯への虐待
https://www.youtube.com/watch?v=WWYTvmrcCNI

「アンブロークン」が触れない連合軍による強姦、捕虜殺害、死体損壊
https://www.youtube.com/watch?v=xHfi3odCiTA

第二次世界大戦時、玉砕の島サイパンで起きた凄惨な出来事…【閲覧注意】
https://www.youtube.com/watch?v=EJ0UhODFP5I

・・・・・

さらに原爆投下である。↓


戦争秘話、死体焼き場で仁王立ちの少年が背中に背負っていたのは
https://www.youtube.com/watch?v=lo_pi6Q9Y94

・・・・・

我々仏教徒日本人はこれらの残虐を体験してなお、決して折れない仏心をもって、日本国憲法第9条を釈尊の教えに従い誇り高く気品をもって宣言したのである。
「怨みは怨みにて息まず怨み無きにて息む」

ムー大陸以来慈悲喜捨菩薩常民大和民族は先祖代々末代まで邪教外道のカルト一神教に与するものではない。

>なぜキリスト教が邪教?なのか? 皇室関係者が転入された国際基督教大学も例外ではない??
nihonnococoro.at.webry.info/201505/article_16.html


■山口県の子どもたちは世界一不幸である。

安倍首相、民主党議員の質疑中、席に着いたまま「早く質問しろよ」とやじ
www.asyura2.com/15/senkyo185/msg/689.html?c19#c19

この安倍晋三は場末のパチンコ屋にたむろしてる店の子飼いのチンピラとおんなじ下品で愚劣なしゃべり方しかできんのだな。

いったいどこの誰がこんな人間の屑っカスを神聖な国会に送り込んだんだ?
清廉高潔で世界じゅうに知られた普通の日本人なら絶対に選挙で投票せずに落選させるよ。

選挙区は山口県か。ということは、山口県民は日本人じゃあなくて、地球上で最低のほんものの恥知らずなんだね(爆笑)

親どもがこんな下品下賤なチンピラを崇めたてまつっているようじゃ山口県の子供らはまともに育つ訳がないよ、かわいそうにね。

「小泉純一郎安倍晋三は長州松下村塾靖国大和魂武士道失格の嘘つき破廉恥売国奴である」 (通りがけ)
2015-06-02 18:42:22
>幕末・維新風雲伝
士規七則とは?吉田松陰が贈った言葉
www.jpreki.com/tamaki/

士規七則は、吉田松陰が従弟の玉木彦助に贈った言葉だ。
逸材中の逸材として玉木彦助を松下村塾の後継者と考えていたとされる。

士規七則の現代語訳

人として生まれたならば、人が鳥や獣と違う所以をしらないといけない。
思うに人には五つの道理があり、その中でも君臣の関係・父子の関係が最も重要である。
であるから、人が人である所以は忠と孝を基本とする。

万世一系の天皇を頂く我が国に生まれたからには、我が国が天下において貴重な存在であることを知らねばならない。
思うに、我が国は万世一系の大君を頂き、諸国の武士がその身分を世襲している。
大名が人民を養い、元の生業を継承し、それぞれが忠義を行い、父の志を受け継いでいる。
こうして、君臣一体、忠孝一致となる、これは我が国だけの特色と言える。

武士の道において最も大切なのは義である。
勇気は義を知ることにより大きく成長する。

武士の行いは、質素、実直、人を欺かない事が肝要である。
人を欺き、自分を飾ることは恥とする。
正しき道義を行い、身が潔白であることは、これらの理由からである。

人間として古今の出来事に通ぜず、聖賢を師としない者は、心の貧しい人間である。
書を読み、それらを友にすることは君子のなすべきことである。

徳を磨き優れた人間に達するには、恩師、友が多いことが条件であるから、君子は人との交流は慎重に行う。

死して後已むの四文字は言葉は簡単であるが意味は大きい。意思が堅固で忍耐強く、決断力があり、断固としてその志を変えないときは、これが最適の言葉である。

要約すると三つとなる。
即ち、「志を立てることを全ての始まりとする。交流する相手を選ぶことにより仁義の行為を学ぶ。書を読み先達の遺訓を学ぶ。」
武士は、誠このような言葉から得るものがあり理解できたならば、完成された人とするべきである。

(参考 Wikipedia)
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大日本帝国憲法までは日本国の君主は天皇唯一人であったが、日本国憲法においては日本国の君主は主権者国民となった。
全ての公務員は主権者国民に忠義を尽くして国民の幸福のために滅私奉公することが日本人としての道である。
そして全ての日本人は親に対する孝行を尽くすことがもっとも肝要である。日本人の人道において最も大切なのは義であり、質素にして実直、決して人を欺かず自分を飾らず恥を知り身を潔白にして、勇気を持って正しき道義を行う。書を読み先達の遺訓を温故知新し、師友を選び仁義をもって人と交流する。
これが大和魂日本人である。靖国神社にはこの大和魂武士道武士が祀られている。

嘘をつき、卑賤な身を扮飾し、先達の遺訓を踏みにじり、ただ私利私欲に基づき権限を悪用して下僕の分際で不忠にも主権者国民を欺き、自己と一味の資産形成のみを唯一の目的とする恥知らずの安倍晋三と小泉純一郎らは大和魂のかけらも持たぬ亡国の売国奴である。


「天知る地知る我知る汝知る」 (通りがけ)
2015-06-03 22:17:36
田布施フリーメーソン悪魔カルト「廃仏毀釈」伊藤博文作成の大日本帝国憲法では日本国の君主は天皇唯一人であったが、日本国憲法においては日本国の君主は主権者国民となった。

全ての公務員は主権者国民に忠義を尽くして国民の幸福のために滅私奉公することが日本人としての道である。

そして全ての日本人は親に対する孝行を尽くすことがもっとも肝要である。

日本人の人道において最も大切なのは義であり、質素にして実直、決して人を欺かず自分を飾らず恥を知り身を潔白にして、勇気を持って正しき道義を行う。

書を読み先達の遺訓を温故知新し、師友を選び仁義を尊んで人と交流する。

すなわち「敬天愛人」これが大和魂仏心日本人である。

靖国神社にはこの忘己利他武士道菩薩大和魂武士が祀られている。

しかるに。

嘘をつき、卑賤な身を扮飾し、先達の遺訓を踏みにじり、ただ私利私欲に基づき主君国民が与えた権限を悪用して下僕の分際で不忠にも主権者国民を欺き盗み、自己と一味の資産形成のみを唯一の目的とする恥知らずの安倍晋三と小泉純一郎らと一味政府は、大和魂のかけらも持たぬ不義不忠亡国の売国奴どもである。

天地人の道義に則り全員投獄せよ。


【NHK滅却こそが地球恒久平和をもたらす】 (通りがけ)
2015-06-17 01:32:03

「日本は非戦宣言しているから信用すると海外で言われ医師驚く(週刊ポスト)」
>長野県の諏訪中央病院名誉院長でベストセラー『がんばらない』で知られる鎌田實医師
http://www.asyura2.com/15/senkyo186/msg/690.html
阿修羅へ投稿

2015年6月16日 20:42:03 : rWn9PLlcps

武器を作っている者は使って消費させないといくら作っても売れなくなり、破産する。つまり、地球上の全ての戦争は常に武器商人が武器を消費させるために画策して起こしているのだ。

第二次世界大戦も武器商人ユダヤ人フリーメーソンが起こした。


日本:日本に明治以来政府内に巣くうフリーメーソンスパイ田布施エタ非人血脈ヒロヒト
(南朝明治天皇の血筋でない毛利(西園寺)八郎の私生児ヒロヒトは皇太子時代にイギリスへ行って長州ファイブ伊藤博文廃仏毀釈初代総理とおなじくフリーメーソンになって帰国した。
 太平洋戦争はキリスト教に改宗しようとしたヒロヒトが、聖徳太子法皇大王以来の大和国国教である仏教からの改宗を天皇に許さない武士道菩薩大和魂大和民族を226事変同様皆殺しにするために、ユダヤ人フリーメーソンルーズベルトに製作中だった原爆を使った武士道大和民族無差別虐殺を依頼して、部下のフリーメーソン山本五十六に命じた真珠湾奇襲の猿芝居で対日厭戦気分だった米国民をリメンバーパールハーバーで憤激させ対日参戦させた、フリーメーソン悪魔鬼畜カルト偽天皇ヒロヒト発案の残虐非道武士道菩薩大和魂大和民族「浄化」大虐殺戦争犯罪である。)

日本が無条件降伏して終わった第二次大戦は、もともと上記のユダヤ人フリーメーソンが世界中の先住民族を自分が売った武器で無差別大量虐殺してその国土を奪い、地球全部をフリーメーソンの奴隷牧場にするNWO計画の元に策謀されたものである。先住民族皆殺し虐殺国土略奪はフリーメーソンコロンブスが新大陸【発見】して以来フリーメーソンの常套手段である。

第二次大戦がNWO達成できぬまま終結した後、ユダヤ人フリーメーソンは国連を作って各国領土内に大使館という治外法権スパイ施設を設置することに成功した。
まず国連で国連軍を編成しユダヤ教イスラム教キリスト教三大宗教の同一聖地であるエルサレムを含むアラブ人の国へ送り込んで、穏和なアラブ人先住民族を武器で追い払って奪い取った土地をユダヤ人(フリーメーソン)に与えた恰好で世界の目を欺き、ユダヤ人フリーメーソン死の商人悪魔の本拠地イスラエルを建国した。その後世界各国にイスラエルとアメリカの大使館を設置して、国連で定めた大使館員外交官治外法権を隠れみのにして、イスラエルモサドやアメリカCIAの戦争策謀部隊を戦後間断無く世界中に送り出して偽旗作戦でテロ工作し、常に世界中各地各所に流血の戦争戦乱を起こしている。

イスラエルとアメリカでは後にできたイスラエルが悪魔王であり、アメリカがその部下の鬼畜である。国連安保委員会常任理事国にアメリカを送り込んだのがイスラエルである。

つまり、いま日本でアメリカの言いなりになっているように見せかけている安倍自公連立政権日本政府とNHKは、ほんとうはすべてイスラエルユダヤフリーメーソン武器商人悪魔王国のNWO達成作戦命令に言いなりの鬼畜外道であるということだ。

NHKが日本人から詐取している年間数十兆円もの巨額受信料はすべてイスラエル大使館へ密かに渡されて、大使館治外法権でユダヤフリーメーソン悪魔王国イスラエル本国へ地下送金され、モサドが世界中で戦争策謀する外交官治外法権テロ活動の巨額の軍資金となっているのである。

GHQユダヤ人フリーメーソンマッカーサーが作ったNHKは、マッカーサーが帰国した後は日本国内イスラエル大使館のモサドがすべて治外法権で指揮している。ただしNHKは総務省公務員特殊法人組織だから、NHKの存在と活動は全て日本国憲法9条違反外患罪でありかつ日本国憲法99条違反内乱罪である。

ここで日本国憲法主権者国民が憲法9条違反外国スパイ組織NHKをただちに逮捕断罪解体滅却して、数十兆円のNHK受信料というイスラエル悪魔王国の戦争策謀資金を一気に断ち切れば、武器を一切使用せずして無血のまま世界中から流血の戦争がすべて無くなるのである。イスラエルユダヤフリーメーソン武器商人こそが人類社会に戦争を起こす唯一無二の真犯人であるからだ。

即ち、地球上に戦争の無い恒久平和を打ち建てる力があるのはムー大陸時代以来の伝統仏教国民である我々仏心日本人、日本国憲法で日本国の君主であると定められた主権者国民先祖伝来忘己利他武士道菩薩大和魂仏心大和民族だけなのである。


Imagine there
http://www.asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c329

[医療崩壊9] <流産率は70%を遥かに超えている>ファイザーのワクチンは中絶薬より効果的 「もう一つ大きなニュースがある」(ニコニコ動画… 赤かぶ
330. 豊岳正彦[-17088] lkyKeJCzlUY 2023年8月25日 00:33:21 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[12]
<■634行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
Imagine there's no heaven 【日本国憲法】 (通りがけ)
2015-07-14 00:37:39

【衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成】

「常識・金・法・戦争・宗教・選挙などはすべて「地球を未来永劫統治するシステム」の為の「支配者層」にとっての道具にすぎません」さゆふらっとまうんどのブログhttp://nueq.exblog.jp/24579535/
>一生滅びない世界統治システムです

支配者と奴隷の構図が一神教カルトの妄想です。すなわち万物を作った全能の神とはそのまま悪魔であり悪魔の妄想です。一神教すなわち邪宗外道です。
この邪宗外道においては人間以下生物はすべて神にはなれません。神の生け贄として血を流して死なばその魂を天国という楽園を装った牢獄に入れてやるというのがすべての一神教の秘儀です。すなわち魂を持って生まれた者は皆、万物の造物主唯一絶対神すなわち悪魔の餌なのです。死後の復活と不死の契約とはまずこの世で死ぬことが前提なのです。
宗教とは人間が如何に生きれば幸福を得られるか、この世の真理を教えるものです。神のために死せよと教え神を信じぬ異教徒を殺せと教えるならそれは真理ではありません。不幸へ導く邪宗外道の教えです。

仏法では人間はすべて仏陀になる可能性を持っており釈尊が説き示した方法によってのみ成道成仏して宇宙の無上の真理そのものに成る、すなわち涅槃に入ることができる。

仏陀釈尊に帰依することは父母から縁に依って授かった得がたく尊い命を自ら固く決意してこの世でより善(よ)く生きることです。善く生きることによってのみ成仏という仏果すなわち幸福を得ることができる。これに反して邪宗外道カルト一神教に帰依すれば、父母の恩によって生まれた尊い我が唯一無二の命を神父や牧師や巫覡(ふげき)者という霊詐欺師に騙されて悪魔の生け贄として捧げられ、不幸のうちに徒に死ぬことしかできません。そしてその死後に得られるものは不幸にして天国と称する己が父母に無縁なる無限牢獄入りです。

日本は釈尊生誕以前の悠久の大昔から先祖代々仏法に帰依する地球唯一の菩薩国です。日本人はこの世の親が赤子に施す慈愛の躾により親に孝行他者に親切な忘己利他菩薩行を三つ子の魂のうちから性得し人生を努め暮らすのであり、自分の身を露惜しまぬ親孝行と他への親切、これこそが日本人の日本人たる最根源的民族特質となるのです。すなわち、親孝行でかつ人に親切なのが大和民族であり、行いの儀に於いてこのふたつのうち一つでも欠く者は、大いに謙譲なる和の心を懐く日本人にとって廉恥に悖る人非人の如く思われ、日本人同朋として至極恥ずかしい者であると感ぜられるのです。親孝行でない者や他人に対して酷薄非道にふるまう者は一人前の伝統の日本人ではない、と断定できるまでに。

この地球上で過去現在未来において悪魔一神教カルトがつねに仏法という宇宙の真理に対して下克上叛逆を仕掛けているのですが、悪魔は常に敗れ去ります。何故ならこの宇宙の鬼神の世界も人間界も畜生界もすべて宇宙の真理不生不滅の仏法に包含されるから、滅ぶべき万物の創造主という地球の小なる一神教カルトがそれを包含する無辺大なる滅びぬ宇宙の真理すなわち仏法を越えることは未来永劫ありません。これが仏法を教え給うた釈尊が人天の師と呼ばれる所以です。

そして邪宗外道カルトによる仏陀仏法への叛逆、これは地球のことだけではなくこの宇宙のすべての場所で常に起こっていることなのです。と、釈尊が2600年前にこの世に露明らかにお教え給いました。nueq.exblog.jp/24579535/
「天に代わりて不義を伐つ」 (通りがけ)
2015-07-14 21:04:16
★高田延彦の安倍・安保法制批判ツイッターが話題! 元スポーツ選手には珍しい反権力姿勢(リテラ)阿修羅♪
http://www.asyura2.com/15/senkyo188/msg/497.html#c23

人の上に立つべき人は有徳者をもって第一とし、有徳者は仁義礼智忠信孝悌にもとづいて政治を行わねばならない。

血筋は関係ない。親がたまたま政治家だったと言うだけで躾も礼儀も学問も武勇もまったく具有(そな)えない出来損ないが私利私欲で不正選挙に出馬して他人を欺き金と暴力で総理大臣位を簒奪するなどもってのほかである。安倍晋三よ、おまえのことだ。

この人品卑しい嘘つきのチンピラ似非総理が、没義道にもよその国の人を武器で殺してその財産を強奪したいがために、一神教悪魔カルトイスラエルユダヤフリーメーソンの治外法権を利用して日本国憲法に違反する集団的自衛権行使をかってに決議しても、日本人は親に孝行他人に親切だから、たとえ心賤しき匹夫下郎似非総理によって徴兵され武器を持たされ強制的に海外へ送り込まれようとも、何の怨みも無い外国の人たちをその人の親兄弟の悲しみを無視して武器で殺傷するなど、義を尊び和を貴ぶ仁智勇伝統仏心日本人は断じて斯様な無道残虐略奪をやりません。

明日7月15日憲法違反安倍晋三匹夫下郎総理が憲法違反の国会決議を行うそうだが、どうぞおやりなさい。地位協定や外交官治外法権を使って日本国内で何の罪にも問われないのは外国籍外交官と米軍人軍属だけであるから、日本国籍を有する日本政府公務員の治外法権行使は全員が日本国憲法最高法規99条違反内乱を犯行することになる。内乱罪は無期懲役以上死刑まである。

犯罪者を現行犯逮捕執行することは社会正義を実行することだから誰にでも許された権利である。日本国籍憲法違反内乱罪お尋ね者不義不忠公務員は全員この極刑逮捕をよっく覚悟しておくように。

24. 2015年7月14日 19:29:22 : rWn9PLlcps

日本国憲法に於いて日本国を統治する国権を持つ君主は、天皇ではなく主権者国民である。そしてすべての公務員は主権者国民というご主君に忠義を尽くして奉公する下僕である。
よってご主君である我々主権者国民を騙してその財産を盗み命を奪う日本政府匹夫下郎公僕公務員は不義不忠の盗賊に他ならず、日本国憲法最高法規99条に背き内乱クーデターテロリスト犯罪者となる。

われわれ伝統の仁智勇慈悲仏心日本人が不義不忠の匹夫下郎を義をもって捕り押さえることはまさに天の命ずるところであり、これぞ【天に代わりて不義を討つ】。
而して後、天の命ずるところに従って世に政道を作り、この慈悲仏心忘己利他菩薩常民国を主権者国民みずから和をもって治めるべし。【五箇条ご誓文の主語を天皇ではなく我々国民と変改すればよい】
「日本国憲法最高法規第98条」 (通りがけ)
2015-07-16 10:17:47
戦争が出来る国にする日本国憲法違反の集団的自衛権が可決しましたか。

さすれば次は中国とロシアから相次いで正式に二国間安全保障条約を結びましょうという緊急外交オファーが大々的国際ニュースとともに安倍政権に届いて、安倍晋三が腰を抜かすでしょうな。

国際的大ニュースならイスラエルスパイNHKが報道規制できないからね。

加えてインドも日本に対して二国間安全保障条約の締結を申し入れてくるでしょう。

各国はみんな自国へ安倍総理を国賓として招待して各国の迎賓館で安保条約を結べば、今後戦争狂安倍晋三が集団的自衛権を行使できる相手はISISイスラム国やハマスやウクライナだけということになり、これらは全部イスラエルモサドとアメリカCIAだから、我が自衛隊の優秀な伝統武術を用いてこてんぱんにのすまでどんどんやっつけてやったらよいのです。

二国間安全保障条約は国連の許可を全く必要としないし、日本国憲法最高法規第98条には「我が国が国際法に従って外国と結んだ条約はこれを誠実に遵守せよ」とあるから、世界中の国を相手に二国間安全保障条約を結べば、世界恒久平和憲法第9条が地球の歴史に燦然と不滅に輝くでしょう。

○第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
__________

【安倍晋三へ助け船憲法98条】

いま世界に有徳者の大国指導者はプーチン大統領、習近平国家主席、イラン大統領、しかいない。

そしてロシアも中国も平和憲法を固く守る日本国民を相手に戦争を仕掛けることなど全く考えていないばかりか、各々が日本と相互安全保障条約を結ぶことによってユダヤフリーメーソンが戦争策謀するためにでっち上げた国連を棚上げ骨抜きにした方が、人が無道に殺し合う世界大戦を防げるとわかっているのだ。

安倍晋三も、先ず平和条約のある中国を訪れて対等安保条約を結び、次いでロシアを訪れて対等安保条約を結べば、両国との軍事衝突の危険が雲散霧消することによって尖閣諸島と北方領土がいっぺんに解決する。

中国もロシアも安倍晋三を二国間不戦和平の使者として礼をつくして大歓迎してくれる。中ロともに統治者が大有徳者だから。

どうせ安倍晋三は日本国内では憲法99条違反の犯罪者だから、内乱罪外患罪で逮捕投獄される前に、情状酌量のお手柄を立てさせてやろうというお情けでこれを書いたのです。まさしく憲法98条は安倍晋三にとって地獄に仏の助け船である。

地獄に落ちた亡者も悪魔鬼畜もみな均しく救う、これが仏教徒大和民族ならではの先祖伝来【慈悲仏心】である。

http://www.asyura2.com/15/senkyo188/msg/585.html#c29


「正々堂々大和魂武士道で全地球平和国家連合を創設せよ」 (通りがけ)
2015-07-17 12:43:01

○ 和を以て貴し大和魂「日本国憲法」最高法規第98条

戦争が出来る国にする日本国憲法違反の集団的自衛権が可決しましたか。

さすれば次は中国とロシアから相次いで正式に二国間安全保障条約を結びましょうという緊急外交オファーが大々的国際ニュースとともに安倍政権に届いて、安倍晋三が腰を抜かすでしょうな。

国際的大ニュースならイスラエルスパイNHKが報道規制できないからね。

加えてインドもイランも日本に対して二国間安全保障条約の締結を申し入れてくるでしょう。

各国はみんな自国へ安倍総理を国賓として招待して自国国会で安保条約を結べば、今後戦争狂安倍晋三が集団的自衛権を行使できる相手はISISイスラム国やハマスやウクライナだけということになり、これらは全部イスラエルモサドとアメリカCIAだから、我が武士道大和魂自衛隊の優秀な伝統武術を用いてどんどんこてんぱんに懲らしてやったらよいのです。

二国間安全保障条約は国連の許可を全く必要としないし、日本国憲法最高法規第98条には「我が国が国際法に従って外国と結んだ条約はこれを誠実に遵守せよ」とあるから、世界中の国を相手に二国間安全保障条約を結べば、世界恒久平和憲法第9条が地球の歴史に燦然と不滅に輝くでしょう。

○第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
_______

【安倍晋三へ助け船憲法98条】

いま世界に有徳者の大国指導者はプーチン大統領、習近平国家主席、イラン大統領、しかいない。

そしてロシアも中国も平和憲法を固く守る武士道日本国民を相手に戦争を仕掛けることなど全く考えていないばかりか、各々が日本と相互安全保障条約を結ぶことによってユダヤフリーメーソンが戦争策謀するためにでっち上げた国連を棚上げ骨抜きにした方が、人と人が無道に殺し合う世界大戦を防げるとわかっているのだ。

安倍晋三も、先ず平和条約のある中国を訪れて対等安保条約を結び、次いでロシアを訪れて対等安保条約を結べば、両国との軍事衝突の危険が雲散霧消することによって尖閣諸島と北方領土がいっぺんに解決する。

中国もロシアも安倍晋三を二国間不戦和平の使者として礼をつくして大歓迎してくれる。中ロともに統治者が大有徳者だから。

どうせ安倍晋三は日本国内では憲法99条違反の犯罪者だから、内乱罪外患罪で逮捕投獄される前に、情状酌量のお手柄を立てさせてやろうという武士の情けでこれを書いたのです。まさしく憲法98条は安倍晋三にとって地獄に仏の助け船である。

地獄に落ちた亡者も餓鬼も悪魔鬼畜もみな均しく隔てなく救う、これが菩薩国仏教徒大和民族ならではの先祖伝来【慈悲仏心】である。

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「不信任連発すれば安保法案は阻止できる」、小沢代表

>阿修羅♪ へ投稿
ttp://www.asyura2.com/15/senkyo188/msg/585.html#c32

輿水正さんロシア中国イランでRK講演会やったらよいですね。
渡航が大変ならロシア中国イランの駐日大使館でRK講演会やって各国メディアに中継してもらえば良いと思います。
全世界にユダヤSWCの敵リチャードコシミズの勇名を轟かせて、RK著作が全世界で読まれるよう販売促進することができるでしょう。

from
「新医学宣言の動画でタイミングよく、RK動画ふたたび!」RKウェブリブログ
"警察24時の裏 最凶のタブーに斬り込まずして革命はない ユダヤ金融資本こそが最高裁事務総局も政治も動かしている リチャード・コシミズさん "
ttps://www.youtube.com/watch?v=wUB43iVty9w
_______

「主権者国民の最強のしもべ国会議員会期中不逮捕特権」

内閣不信任案は国会の会期中であればいつでも何度でも出せるんだよ。早い話が国会議員ひとりでも動議が出せて、議長はただちに他の法案に先んじて内閣不信任案を採決しなければならない。日本国憲法に於いて国会は国権の最高機関であり国会議員の職務権限は内閣始めすべての行政府権限を上回るからである。

次に、国会議員の責務は、

1.法案を自ら作るすなわち立法を行う。(官僚作文立法は憲法違反である)

2.内閣不信任案を動議する。(内閣不信任案も法案である)

3.上記1.2.について国会を開いて衆議し最終案の賛否を国会で投票する。

だけであり、国会そのものの責務としてその他に

国家間条約の内容を国会で審議して国権の最高機関国会に於いて条約の批准の是非を決定する。

がある。

以上で国会議員の仕事はすべてである。
これが国会議員の国民主権憲法に対する神聖な責務ノブレスオブリージェであり、国会議員各人がこの責務を果たさなければその者は、

1。故意であれば憲法99条違反内乱罪となり刑事処分を受け、
2。不可抗力であれば国会議員身分を剥奪する国会法違反の行政処分を受けるのである。

これが日本国憲法を奉じる立憲法治国家であり、大和魂国会議員武士道である。
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「日本国憲法は菩薩国大和民族不退転金剛不動の平和誓願文」

国連は戦勝国のユダヤ人フリーメーソンが集まってイスラエルを建国するために作った組織であり、国連安保理とは世界平和を守るどころか大戦終結後も戦争をいつまでも止めずに紛争当事国両方に武器を売りつけ続けて巨額の漁夫の利を得る死の商人の商売道具に過ぎないのだ。

国連すなわちイスラエル悪魔王国戦争偏執狂カルト死の商人ユダヤ人フリーメーソンの商工会議所である。

日本国は国連敵国条項ある限り戦争偏執狂悪魔王イスラエルの奴隷である。

つまりイスラエルモサドとアメリカCIAの第3次世界大戦核兵器破滅戦争ハルマゲドン策謀テロ活動の巨額軍資金は、日本国フリーメーソンスパイ戦後政府が国連憲章のもとに米軍地位協定治外法権とイスラエル外交官治外法権で日本国民を騙して、日本国外へ盗み出しているのである。

よって日本が極東軍事裁判の卑怯卑劣極悪陰険な戦争犯罪責任の擦り付け冤罪被害から逃れて正義の独立を勝ち取るには、国連の枠外ですべての国と二国間相互対等安全保障条約を結べばよいのである。

これで国連敵国指定を実質無効化できて、イスラエル戦争偏執狂カルトユダヤフリーメーソン悪魔のくびきを断ち切り、返す刀で死の商人ユダヤフリーメーソン戦争の悪魔を地球上から根こそぎ一掃することができる。

そう、日本国憲法第9条が正しく新たな「全地球平和国家連合」の根本憲章となるのである。
(通りがけ)

2015-07-19 21:50:54
NHK日曜討論 山本太郎代表「安保法案、武器輸出解禁は武器産業が戦争で大儲けするためだ」「経団連への選挙応援の恩返しだ」♪阿修羅
http://www.asyura2.com/15/senkyo188/msg/870.html


これは違うぞ。
まず、恩返しじゃない。

政治家による国家予算を中抜きして特定企業へ利益供与するという贈収賄汚職談合だ。史上初の内閣総理大臣現行犯逮捕がふさわしい、超弩級巨大汚職刑事犯罪です。

また、経団連じゃない武器輸出企業は三菱重工だ。安倍晋三の実兄が三菱の重役をやってる。
兄弟の血縁関係を利用した身内間贈収賄汚職談合だから、さらに情状が悪どいね。
総理大臣の汚職は憲法99条違反だから安倍晋三に内乱罪の極刑が情状酌量無しで適用されるよ。

まあNHKで放送されたのだから、明日から安倍ヤメロデモのプラカードに山本太郎参議院議員の発言そのままに「安保法案、武器輸出解禁は武器産業が戦争で大儲けするためだ」「経団連への選挙応援の恩返しだ」と書き込んで,最後に小さく「by NHK」と書いて大々的にシュプレヒコールすればよいね。

皆様のNHKも自分の番組放送内容が国民の持つプラカードに描かれてとっても嬉しいだろう。

NHKも明日から早速プラカードデモを是非放送しなさい、NHKの好い宣伝にもなるから。


「憲法9条第二国連新設」 (通りがけ)
2015-07-21 07:20:15

安倍晋三は憲法9条を柱に第二国連「全地球平和国家連合」を新設せよ。

国連もそのまま安保もそのままで地球上から戦争が無くなるよ。

詳しくは★阿修羅♪
NHK日曜討論 山本太郎代表「安保法案、武器輸出解禁は武器産業が戦争で大儲けするためだ」「経団連への選挙応援の恩返しだ」
以下のコメント参照してね
http://www.asyura2.com/15/senkyo188/msg/870.html#c112
112. 2015年7月20日 19:50:09 : rWn9PLlcps
113.
117.相互安全保障条約は日本が立憲国だから憲法がある国ならどの国でも二国間相互対等安保条約を締結できる。平和通商条約を結んでいない国でもよい。パレスチナのようにスエーデンなど一部の国しか国交がない国でも、日本と安全保障条約を結ぶことが出来る。

ロシアもいいけどまだ日ロ平和条約がないからちょっと手数がかかるかな,平和条約がある中国と比べて。

いちばんいいのはまず安倍が訪中して日中対等相互安保条約を結び調印してそのままロシアへ行ってそれを手土産にロシアと日ロ対等相互安保条約を結び調印して帰国すること。

帰国後国会で批准すれば安倍晋三の超特大ノーベル平和賞百倍掛けの大手柄になるね。尖閣北方領土問題解決するし。

日米安保はそのままでよい。敵国条項も地位協定も実質何の役にも立たなくなるからね。
手の技世界一日本国民手作り国際外交「憲法9条第二国連新設」みんなでFAX (通りがけ)
2015-07-22 21:24:41
安倍晋三は憲法9条を柱に第二国連「全地球平和国家連合」を新設せよ。

国連もそのまま安保もそのままで地球上から戦争が無くなる。


117.相互安全保障条約は日本が立憲国だから憲法がある国ならどの国でも二国間相互対等安保条約を締結できる。平和通商条約を結んでいない国でもよい。パレスチナのようにスエーデンなど一部の国しか国交がない国でも、日本と安全保障条約を結ぶことが出来る。

ロシアもいいけどまだ日ロ平和条約がないからちょっと手数がかかる,平和条約がある中国と比べて。

いちばんいいのはまず安倍が訪中して日中対等相互安保条約を結び調印してそのままロシアへ行ってそれを手土産にロシアと日ロ対等相互安保条約を結び調印して帰国すること。

帰国後国会で批准すれば安倍晋三の超特大ノーベル平和賞百倍掛けの大手柄になる。尖閣北方領土問題解決するし。

日米安保はそのままでよい。敵国条項も地位協定も実質何の役にも立たなくなるから。
_______

これ、安倍じゃなくても中ロに旅行に行った日本人が中国やロシア政府官庁へ国家主席や大統領に宛てた「日本と安全保障条約を結んでちょうだいませ」お手紙を渡したらいいね。郵便代が要らんし。国内の人は大使館宛てに国家主席や大統領宛のお手紙郵送したりふぁxしたりメールしたりすれば、安倍政府以外の日本人はみんな他国との平和を求めているWe're not Abeが海外に向かって大々的に発信できるよ。

日本国君主は我々主権者国民です。
政府三権は公僕であり、すべて主権者国民に忠義奉公する臣下です。


『悠久なる神童国日本』 (通りがけ)
2015-07-31 21:55:17

『悠久の神童国、日本』と改題して全体推敲しました。
フリーメーソン統一電通FC2が必死でこの投稿を通りがけもろとも全ブロックしています(笑)
【安倍こそ泥下剋上内閣はTPP内閣である】

イスラエル国連悪魔カルトフリーメーソンNHKの対日本国内報道マルチスピン攻撃の本当の目的「本命は『TPP』こっそり調印締結」にある。

(緊急アップ!)安倍総理とメディアの会食は「業務妨害罪」「贈収賄罪」の可能性!? 学者の会で刑事法学者・高山佳奈子氏が指
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/390.html#c20

↑ しかしここまでイスラエルユダヤフリーメーソン悪魔死(し)の商人カルトの言いなりだっちゅうことがもろ出しでバレバレの安倍刑事犯罪クーデター政権が何故、いつまでもだらだらとして、本来なら理の赴くところ当然極まる「総理重度知能発達遅滞識字障害言語障害及び礼儀未獲得対人接触交流障害禁治産者且つ難病潰瘍性大腸炎重症合併症精神神経障害併発の三重苦職務遂行不能」で総理罷免されて憲法70条内閣総辞職両院解散総選挙」にならないのか,理由を考えてみた。いったいレームダック売国棄民犯罪内閣ゾンビ安倍はいつ総理を止めるのか?

ちょっと考えてすぐわかった。「本丸はTPP」を隠すためのマルチスピン報道。

キリスト教悪魔カルトイスラエル戦争犯罪偏執狂フリーメーソンの今回の目的は、悪魔の天敵武士道日本人が住む日本の国土そのものをTPPで乗っ取ることにあり、安倍戦争法案大炎上報道は日本の世論(テレビ内バーチャル世論)を戦争法案や他の猟奇事件報道であおり立て、その陰でこっそりTPPを気づかれないうちに成立させるための,イスラエル国営鬼畜放送局NHKをフルに駆使した悪魔必死のスピン報道である。

ここの安倍スキャンダル報道もマルチスピンのひとつ。

何より安倍戦争法案はもうすぐ原爆の日と終戦の日を迎える日本人にとって,安倍の憲法違反はこれ以上ないTPP目くらましの大炎上を起こせる恰好のスピン燃料である。

8月いっぱい国内報道を安倍戦争法案叩き一色に染め上げて日本国民に内緒でこそっとTPPを締結する。
田布施猶太フリーメーソン吉田茂が世界中の目を盗んで米軍基地内将校クラブの一室で日米安保の密約に、こそ泥の如く単独署名した国際法規違反をまたぞろここでもやらかして、日本武士道国民を猶太スパイNHKのマルチスピン報道で耳目を封じといて、こっそり田布施猶太フリーメーソン統一安倍晋三に売国棄民の最後っ屁としてTPPこそ泥署名させようというのである。

すなわち【原爆戦争偽旗・TPP本命ショックドクトリン】。

と、暗愚な猶太フリーメーソンが必死で絞り出した,肉(使い捨てフリーメーソンスパイ安倍ゾンビ自公バンパイヤ連立内閣)を斬らせて,骨(日本武士道脊梁列島国家)を断つ作戦だが,武士道は西洋悪魔のこの程度のなまくら刀では毛ほどの傷もつかないさ、肉を切られた悪魔だけが自滅するよ。(笑)

____

ツイートとやらを議員や皆がやるようになってから、マルチスピンの炎上ネタに困ることがなくなったな。これも戦争偏執狂イスラエル猶太フリーメーソン一神教悪魔カルト総務省ソフトバンク孫正義楽天三木谷電磁波電波プラチナ詐欺師フリーメーソンスパイどものおかげか。

NHK「受信料詐欺」と、携帯電話・LINE・Wifi・無線LANタブレット、ノートPC関連の「通信料詐欺」は全く同じ構造である。

地デジ電磁波とスマホ電磁波(電磁放射線)のすべての動物の健康を損なう格別の危険性も同じ。同じ電磁波である広島ファットボーイウラン残留物からの放射能は、内部被曝でこどもの白血病を多発させた。広島平和公園千羽鶴の祈りの像の女の子は『白血病』で亡くなった。

プラチナバンドになってから以後、携帯・スマホ・Wifi.・地デジテレビから受信中と充電中にでる強い電磁波は,放射能電磁波とほぼ同レベルの危険性を持つ電子レンジの電磁放射線と同じ電磁波を放射している。これを近距離で浴びれば家庭内でこどもが白血病になって早死(じ)にするのだ。

これも戦争偏執狂悪魔イスラエル猶太フリーメーソン一神教カルトが、悪魔の天敵日本人をこどものうちから早死にさせて大和民族そのものを根絶やしにしようという、マッカーサー考案の3S政策の発展型である。

若者よ,携帯スマホWifiを若い将来ある健康体から遠ざけよ。手紙と電報があればすべて事足りるのだ。

こどものいる家庭の親たちよ、我が子の将来のために家の中から人間にとって有害無益、百害あって一利無しの、猶太フリーメーソンスパイ政府総務省が発する『電磁放射線』をすべて除去せよ。

具体的には、

1.固定電話以外の電話契約(スマホ、携帯、タブレット、ネットゲーム機、無線LAN契約ノートPC等)をすべて解約する。

2.テレビの背面からBCASカードを抜き取って金庫に鍵かけて保管し、地デジ電波受信しないようにする。

この2つだけで家庭内が完全に電磁波フリーの、狭いながらも楽しい我が家一家団欒のある理想的江戸時代子育て環境へと保たれるのである。

この2つのうち、とりあえずとっかかりが非常に簡単な 2.BCASカード抜き取りで自宅金庫保管、 から始めればよい。それだけで江戸時代以来の伝統の楽しい我が家の一家団欒が即座に我が家に復活する。

そしてなによりもNHKの受信契約を破棄すれば直ちに江戸時代以前の神童だらけの神童国家が甦るのだ。仏国土日本の神童こそがフリーメーソン悪魔の魔力をすべて封じる破邪顕正の菩薩霊である。

抜き取ったBCASカードは、NHK集金人を呼びつけて内容証明付きで引き渡してやり,「これで物理的に絶対NHK電波受信不能だから放送法に基づきうちのテレビとNHKとのあいだの受信契約を破棄します。今後もしうちの口座から受信料を自動引き落としで抜き取ったら,直ちに窃盗罪で警察に大々的に告発します,よろしく」とビデオで記録しながら(これ大事)、正式に猶太フリーメーソンスパイ総務省戦争偏執狂武器商人一神教カルト悪魔王国イスラエル国国営受信料詐欺放送局NHKへ,放送法受信料契約解約を通告してやればよい。

これでテレビにかかっていた年間電気代5,6万円(地デジテレビ電気代はエアコン電気代の2.7倍以上)年間受信料7万円の、合計12万円以上が家計に真水で残るのだ。

さらに携帯スマホWifi無線LAN契約を解約すれば、通信料詐欺猶太フリーメーソンスパイ総務省所轄電電公社他電信電話会社に詐取されていた年間18万円以上の(多い人は年間50万円近く払っている)通信料が,これまた真水で家計簿に戻ってくるのだ。
テレビ契約捨てて金持ちになる道が開ければ我が家の神童も大喜びであるよ(笑)

こうして日本人が日本で放送しているテレビを視なくなれば猶太フリーメーソン悪魔イスラエルが如何に洗脳と捏造世論誘導を流布しようと思ってもまるきり無駄骨になるね。http://nueq.exblog.jp/20276833/

なおかつ経営不振に追い込んでNHKも電話会社も潰してやれば、今後二度と憲法破壊テロ内乱罪不正選挙が実行不能になる。2012年12月、仮病で総理を辞めた犯罪者安倍晋三が破廉恥厚顔無恥に野党自民党総裁で谷内正太郎とNHKに結果捏造をやらせた,アメリカ生まれのシステムだけあって雑で穴だらけの無様な不細工不正選挙がこれである。


つまり、フリーメーソンスパイ総務省は選管ムサシOCR読み取り無機能得票仕分け装置と総務省イスラエル放送局NHKの選挙報道でフリーメーソン麻生太郎人材派遣会社架空出口調査算出当選決定速報8時ちょうど選挙結果捏造の共謀共同正犯の輪の中心のNHKが欠けると、ただちに暗愚な悪魔が作った安物の機械はみなぶち壊れて悪魔の皆さん全員もれなくゴミ箱や豚箱行きとなるのだ。


そして2012年の田布施非人統一フリーメーソン安倍晋三の政権公約は、

1.TPP反対
2.原発再稼働反対
3.憲法9条改正反対
4.消費税増税反対

の4つだけ(笑)


内乱罪不正選挙で当選したらことごとく破ってるね。つまり、田布施非人統一フリーメーソン安倍晋三は正真正銘生まれながらの『嘘つき』だということで、日本人武士道社会ではムー大陸時代から先祖代々『嘘つき』は絶対に許さないのです。

4つのうちで公約破りの背任罪がまだ確定してないのが、1.TPP である。そしてこれこそが本命でありTPP交渉こそ最も隠さなければならないのだから他の3つは全部当て馬の公約破りなのだ。公約を3つほどぬけぬけと破ってNHKで報道して、国民すべての老若男女に内閣背任の大騒ぎをでっち上げる目的の、報道マルチスピンの偽旗作戦である。もちろん中心は総務省NHK。

日本国のご主君は我々武士道庶民である。日本政府公僕公務員は首相始め全員が我々が雇用した召使いである。小泉純一郎以来日本政府の下僕ども烏合の衆が全員こそ泥の下剋上憲法99条違反内乱罪犯罪集団と化している。日本国憲法無刀流活人剣で一刀両断全員無期懲役に処すべし。
_______________


『悠久なる神童国日本』 (通りがけ)
2015-07-31 21:55:52
国を治めんと欲すれば,先ず我が家を治めよ。

まさに前記の

1.固定電話以外の電話契約(スマホ、携帯、タブレット、ネットゲーム機、無線LAN契約ノートPC等)をすべて解約する。

2.テレビの背面からBCASカードを抜き取って金庫に鍵かけて保管し、地デジ電波受信しないようにする。

がこれ『家を治めよ』である。

その「家を治めよ」の最初の一歩が「BCASカード抜去金庫保管」である。簡単に日本からフリーメーソンの日本人皆殺し兵器を取り除いて悪魔を宇宙の果てへ放逐する地球平和達成方法であり、これはまさに地球上で我々日本人にしか出来ない地上の悪魔退治なのだ。
_____

TPP調印したら安倍自公政権は用無しで、解散総選挙でフリーメーソンスパイ総務省は選管無能ムサシとイスラエル国営NHKを使って,維新の党から国政に出馬させた橋下徹と維新を群雄割拠の第一位政党に捏造して,国会で連立組閣宣言した橋下徹を首相に選出し,この神州日本にほんもののナチスヒットラーが誕生するという寸法だ。

でもね、イスラエル一神教カルト悪魔フリーメーソン宇宙のこそ泥賤民へ、ここではっきり言っておくけど、

【ぜ〜んぶ無駄ですよ】

馬鹿の考え休むに似たりっつうからネ(笑)
しかも日本は先祖代々詐欺師を残らず見つけ出す眼力を具えた『神童の国』だし。
nueq.exblog.jp/18942965/
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38. 2015年7月27日 23:43:27 : rWn9PLlcps
>>36. 2015年7月27日 22:53:42 : LulmiKDx0Y
>ならば話は簡単です。「革命」を起こせばよい。
馬鹿ですか(笑)

ここは木の国日本ですよ。フリーメーソン野放しの石工の国じゃない。石工の国では定規とコンパスを使って無理矢理石をワンパターンな形に削らないと何にも作れないが,日本の大工は木と手さえあれば1500年地震にも倒れない地上で最も優美な建築物法隆寺(あと1000年は余裕で行けるよ)でもちゃっちゃっと作ってしまうのだ。無器用な(無器用だからコンパスと定規がなければ何も作れない)石工の不細工な地震に弱い石造建築なんぞ、大和民族の足下にもはるかに及ばぬよ。

石頭のカルトの国ならそりゃあ頭が悪いからすぐ異教徒を異端審問して魔女狩りして火焙り虐殺(さつ)する【暴力革命】に走るだろうが、日本人は聡明且つ賢明だから武力は正当防衛以外決して揮わないで、淡々と布に書いたプラカード(誰も怪我しない)を広げて粛々と行進するだけで頭の悪い石工の手先政府など簡単に自己融解に追い込むことが出来る。

布製プラカードに大書する文辞は次の通り。

(1)
>>http://www.asyura2.com/15/senkyo188/msg/870.html#c35

まあNHKで放送されたのだから、明日から安倍ヤメロデモのプラカードに山本太郎参議院議員の発言そのままに『安保法案、武器輸出解禁は武器産業が戦争で大儲けするためだ』『経団連への選挙応援の恩返しだ』と書き込んで,最後に下の方に小さく【by NHK】と書いて大々的にシュプレヒコールすればよいね。

皆様のNHKも自分の放送内容が国民の持つプラカードに描かれてとっても嬉しいだろう。是非この布製プラカード行進を日本全国と全世界に放送しなさい、NHKの好い宣伝にもなるから。

(2)
>>http://www.asyura2.com/15/senkyo188/msg/690.html#c140

『公明党は憲法違反』、のプラカードはなかったのかな。
デモ隊がこんなん持ってましたっつって国会の中へ誰か議員が持ち込んで、公明党の大臣に「コレはほんとですか、ウソですか?」って質問すれば面白いけどね。
こないだ委員会採決の時は民主党やら何やらがプラカード山盛り持ち込んでたから、それやってもぜんぜんオッケー牧場なんだが。

(3)
『イスラエル国営スパイ放送局NHKを解体せよ』

『憲法違反放送法で受信料詐取犯罪常習犯公務員組織NHKを憲法99条違反内乱罪かつ外患罪で断罪投獄せよ』長いか。書くのもめんどくさい(笑)

短く『NHKは内乱罪』と『NHKは外患罪』だけでいいね(笑)


これで武士道革命であった明治維新の「江戸城無血開城」と同じ,西郷隆盛山岡鉄舟の武士の約束による静かで断固たる非暴力革命を簡単に達成出来るのが,『和を以て貴しとなす』聡明且つ賢明なる武士道日本人だよ。

___

武士は文武両道だ。

安倍晋三も伊藤博文も武士じゃないから、日本の国で最も大事な国文学を研究する大学文学部などの人文系学部を廃止するという、馬鹿の石工フリーメーソンならではの焚書坑儒(始皇帝もGHQもやりました。馬鹿のやることはいつでもひとつ覚えです笑)を実行するんだね(笑)

馬鹿の真似をしたら馬鹿になりますよ。泥棒の真似をしたら泥棒になります。悪魔の真似をしたら悪魔になるのです。

小泉純一郎と外道の鬼畜仲間たち、おわかりか?


武士は義のためには命を惜しまないが、個人的な感情特に一時の怒りや怨みで行動することは武士として唾棄すべき軽挙愚行であり、その軽はずみで命を落としても当世から後世の人にまで軽蔑されて、自分の代々のご先祖様まで辱めることになるから、決して一時の怒りや怨みで行動することはない。


>>40
>馬鹿の石工フリーメーソンならではの焚書坑儒(始皇帝もGHQもやりました。馬鹿のやることはいつでもひとつ覚えです笑)

流血革命も馬鹿石工の異端審問魔女狩り火焙り虐殺やフランス流血ギロチン革命と同じ一神教馬鹿石工のひとつ覚えだが、戦後悪魔一神教カルト猶太フリーメーソン戦争偏執狂国家イスラエルスパイ鬼畜日本政府が支配するこの日本でも、フリーメーソン悪魔カルトのひとつ覚えのショックドクトリン乃ち『革命』が実行されたね。

池田大作『人間革命』。

これはやっぱり一神教悪魔カルト創価学会(公明党はフランス国家認定カルト政党です笑)教祖がぶち上げたから共産主義革命と同じ馬鹿石工のひとつ覚えの流血革命です。正確には流血革命は殺害して財産をはぎ取る真意の強盗殺人革命だから,「折伏」という十字軍イエズス会フリーメーソンザビエルと全く同じ布教行為を仕事とする創価学会では、直接殺害はしない代わりに入信者に洗礼と称して麻薬を与えて魂を奪い(麻薬中毒は禁治産者人間廃業となる乃ち人を騙して社会から排除し実質鬼籍に入れるから後ろから卑怯な騙し討ちと同じ)、入信者が持つすべての地位名誉財産を絞り上げて盗み尽くすから、廃人(=社会的殺害)強盗「革命」そのものである。偽善に満ちた池田大作「人間革命」ではなく,正しくは廃人革命である。

創価学会一神教悪魔カルト教では、池田大作教祖がそもそも終戦直後占領政府GHQ猶太フリーメーソンマッカーサーと田布施フリーメーソンヒロヒト及び田布施フリーメーソン吉田茂とから金と調略テロ工作員をもらって、一神教悪魔カルトである似非仏教日蓮宗の宗教団体を乗っ取って拵えた、国連戦争偏執狂猶太フリーメーソン直営の悪魔戦争カルトテロ組織が創価学会であるから、大日本帝国憲法政府の中枢総理大臣に田布施英フリーメーソン伊藤博文が潜り込んだと同じく,日本国憲法違反省庁猶太フリーメーソン直営悪魔カルト宮内庁に猶太フリーメーソン悪魔カルト一神教偽善者池田大作が深く潜り込んだのである。
http://www.asyura2.com/15/senkyo188/msg/690.html#c135

『革命』とはすべて偽善者の強殺犯行に過ぎない。

このように、一神教悪魔カルト教義の本質は『偽善』である。『偽善』のあるところを見れば、そこに必ずエデンの蛇ルシファーヤハウェ悪魔教カルトフリーメーソンがいるのである。これが宇宙始まって以来万古不易の宇宙の真理である。


「ポスト安倍総選挙」 (通りがけ)
2015-08-04 16:55:42

「エスカレーターで歩かないバカ者ども」nueq labさんへ投稿
http://nueq.exblog.jp/20276833/

さて、安倍とオバマが共同声明を出したことでわかるように、安倍はすでに吉田茂が世界の目を盗んで結んだ日米安保密約とまったく同じやり方で日米TPP密約にひそかに署名調印しています。なぜわかるかというと、日本のテレビは120%嘘八百しか放送しないから、交渉不調と報道すれば実は日米が合意したというのが真実なのです。簡単でしょ。
これで安倍晋三の役目はすべて終わったので、すぐに内閣総辞職衆参同時総選挙が行われます。
この選挙でイスラエル直轄スパイ総務省内乱罪憲法破壊テロ選挙でイスラエル悪魔王が総理に選出するのは橋下徹です。多くの小政党が乱立する大混戦を演出して、僅差で衆議院議員に出馬した橋下徹を党首とする維新の党が第一党になる猿芝居が予定されています。
ここで必ずイスラエルスパイ日本政府総務省はムサシとNHKを大車輪でフル回転させてきます。NHK解体はもう時間不足で間に合わないから、今度の選挙ではムサシを集中的に攻撃して使用不能にする作戦が良いでしょう。
そこでムサシを現場の選管が今後使えなくするために「幸せの和」を日本中に拡散しましょう。
http://image52.bannch.com/bbs/787532/img/0262596974.pdf
日本国憲法前文「正当な選挙」の具体的実施方法が詳しく書いてあります。これでフリーメーソンスパイ日本政府を完膚なきまでに叩いてこの地球から消滅させることができます。「神童の国」の日本人ならこどもでも幸せの和を見れば即座にこの世の悪魔イスラエル武器商人フリーメーソンを宇宙の外へ追い出すことができるのです。


「日本国憲法の正当な選挙」

日本国総務省選管が所轄するすべての公職選挙住民国民投票審査の投票場で、日本国憲法主権者国民のあなたの投じた「大切な一票」を、選管の役人と公務員が徒に損なわないように監視する方法が書いてあります。今後すべての投票権の行使を行う機会には、投票場へこの文書または最後に記載した参考文書「幸せの和」pdfを印刷してご持参になって、公明正大な日本国民であるあなた様の清き一票の投票という日本国最強の国民主権の行使を済ませておいでください。
____________________________________________

 日本国憲法前文「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」にある通り、日本国憲法国民主権の根幹は公正で不正のない国会議員選挙である。

 しかるに2012年12月16日衆議院選挙は総務省選管と総務省NHK共犯で不正な選挙管理が行われた日本国憲法違反の重大刑事犯罪内乱罪選挙であった。

 日本国憲法を誠実に遵守する我々国民は憲法が主権者国民に保障する基本的人権直接参政権を行使してすべての公職選挙を以下の如く監視し選管行政執行において日本国公務員による違憲な犯罪不正行為がないよう投開票場現場で日本国君主である国民が下僕公務員を直接監視監督監査する。

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◎2012年12.16投票場の鉛筆は選管の投票妨害という憲法違反犯行だった。 鉛筆文字は最高のセキュリティロックがかかった公文書投票用紙には不適切の極致である。選管に鉛筆記入強要犯罪を止めさせてすべての投票場に油性(ボール)ペンを用意させよ。

◎期日前投票箱は期間中午後8時から翌朝8時まで指紋認証電子ロックで封印して所轄警察署長室金庫に保管せよ。投票日には夜8時まで警察で保管すること。

◎開票仕分け計数機の導入は総務省の随意契約談合公金横領汚職犯罪であるから選挙での計数機使用を違法行為として厳禁し、もし各地選管で開票仕分けにムサシ等の票自動仕分け機械を使用すれば総務省の憲法違反と汚職を現行犯で警察へ告発する。

◎仮に開票仕分け機を使用したならば、必ず公務員の手作業で機械仕分け後の全票目視確認検査を立会人の監視ビデオ全録画のもとで公明正大に行え。 この全票手作業目視検査票最終確認を省略すればただちに当該開票場の憲法99条違反選挙妨害罪公務員全員を刑訴法現行犯逮捕し、主権者国民が直接参政権を行使してすべての開票目視検票確認作業をDVD全録画記録のもとに現場で警官へ命じて緊急代行させる。

◎投票および開票は同一会場で市民の立ち会い監視全経過ビデオ記録のもとに各会場毎すべて公務員の手作業で行え。

◎各開票所の集計結果を中央選管にファックス送信して中央で全体集計し開票率100%で初めて当選者確定発表せよ。 全開票終了当選確定前の途中経過情報には厳重な公務員守秘義務がかかっていることをすべての日本国公務員は忘れるべからず。

◎臆測流布(風評被害)当確速報報道を全テレビ局に対して絶対禁止とし、抜け駆け当確速報報道があればそれは中央選管公務員守秘義務違反リーク犯行の証明である。その場合直ちに全集計場で開票作業停止中断、それまでの集計結果を破棄し、全開票場で最初から全票公開手作業で徹夜で再計数とする。違法な当確速報したテレビ局は守秘義務違反の刑事犯罪で逮捕し、即座に放送免許取消処分に付す。

◎各投開票場で投票時間の恣意的な短縮又は場外に投票者の列があるのに定刻で投票場を閉鎖すれば、公僕公務員による主権者国民に対する日本国最強の主権行使である投票行為を妨害する憲法99条違反犯罪(内乱罪)であるから、妨害行為を行った公務員を全員現行犯逮捕したうえですべての来場主権者国民に憲法主権の行使である投票行為を時間延長を行っても完全に完了せしめよ。これが一票の重みの平等である。

◎国政選挙国民審査実施においては選管はすべての投票用紙に不正流用防止のため日本銀行券と同様に1番から2億番までの機械読み取り通し番号を印刷しなければ、偽札作りと同等の内乱罪である。必ず通し番号印刷せよ。通し番号シリアル番号印刷の無い投票用紙は無効であり、それを用いた選管は全員内乱罪で逮捕し、すべての選挙はやり直しとする。

≪憲法99条違反内乱罪選管NHK共犯不正選出憲法違反外患誘致罪国賊総理安倍を憲法70条懲戒罷免せよ!≫
≪99条違反内乱罪選管1216同日最高裁裁判官国民審査も不正審査である。直ちに再審査せよ!≫
≪最高裁裁判官国民審査の投票において主権者国民はすべての裁判官を油性ペンでオール×印記入し全員不信任懲戒審査全員罷免せよ!≫

以上、日本国君主主権者勤労納税国民が直接参政権を行使してすべての日本国公務員公僕に対し、選挙で上記の日本国憲法違反内乱罪を塵ひとつも起こさぬよう厳重に警告する。

---附記:日本国憲法第10章 最高法規---

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
 2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


以上、出典元は幸せの和FAXを参考にした。
http://image52.bannch.com/bbs/787532/img/0262596974.pdf
http://www.asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c330

[医療崩壊9] <流産率は70%を遥かに超えている>ファイザーのワクチンは中絶薬より効果的 「もう一つ大きなニュースがある」(ニコニコ動画… 赤かぶ
331. 豊岳正彦[-17093] lkyKeJCzlUY 2023年8月25日 09:01:35 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[13]
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2015/08/10

砂川事件最高裁判決は「憲法の神髄」から見て誤っている
砂川事件最高裁判決は「憲法の神髄」から見て誤っている
内藤 功

――前回の新井章先生のご論考に続き、私たちは砂川事件最高裁判決についてさらに考えてみたいと思います。以下は、8月8日に内藤功先生の事務所で行われたインタビューの内容をまとめたものです。(O)

 1959年3月30日に東京地裁が、米軍駐留を許す政府の行為は憲法違反であるという判断(いわゆる伊達判決)をして、1959年12月16日に最高裁大法廷が全員一致でこれを破棄しました。
その破棄の理由は2つあります。
日本に駐留するアメリカ合衆国軍隊は日本の指揮管理する軍隊でないから、憲法が禁止する戦力に当たらないと、こういう形式的な理由がひとつ。
もうひとつは、日米安保条約のように高度に政治性のある問題は、司法審査権になじまない、範囲外だと。
この2点で破棄したわけですね。
その傍論としての、憲法は自衛権を否定しない、自衛の措置を禁止しないという部分を、安倍政権は戦争法案が違憲でないという根拠にしています。

 問題は日本国憲法前文のとらえかたにあります。
第1審判決は、前文第1段の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」という戦後政治の原点のところを引用して、これを第二段の「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」、ここにつないでいる。
「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、人と人が殺し合わない、ということです。
武力を使わないことです。

 第1審判決はさらに憲法前文第2段の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を維持しようと決意した」、これは前を受けますから、武力によらずに各国民の公正と信義に信頼するというふうにつながる。
だから第1審判決は、「自衛権を否定するものではないが、侵略戦争は勿論のこと、自衛のための戦力を用いる戦争及び自衛のための戦力の保持も許さない」という憲法解釈をしているわけです。
武力を用いないという思想が一貫している、これが憲法の制定経過、帝国議会の論議を経てきた憲法の真髄だと思います。

 ところが最高裁判決の文脈はどうかといいますと、まず憲法前文第1段の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」というところを引用しながら、かんじんの第2段の冒頭の「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」、この部分は引用していません。
そして前文第2段の伊達判決が言わなかったところを引用している。
どういうところかというと、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占め」たいと、この部分を引用している。

次に最高裁判決は憲法前文から、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と、平和的生存権を引用している。
さらに続けて自衛権の存在を認めたうえで、憲法前文第2段の前のほうに逆戻りして、「わが国の防衛力の不足」は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することによって補うのだから、米国などに安全保障を求めることは禁じられていない、としている。

 つまり砂川事件第1審判決も最高裁判決も、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」して「われらの安全と生存を保持」というところを引用しています。
けれども、伊達判決は戦争の惨禍の反省から人間は殺し合ってはならない、だから世界の国民の公正と信義に信頼、とつながっている。
これに反して最高裁判決は「名誉ある地位を占める」と「平和のうちに生存する」の2つを、防衛力の不足を補うため「諸国民の公正と信義に信頼」と、こういうふうに結びつけている。


「憲法の真髄」というものは、ポツダム宣言以来の歴史的、政治的経過の下で捉えるべきだし、5か月にわたる帝国議会両院での審議と政府の説明によって判断すべきです。
やはり伊達判決の方が正しい、最高裁のほうが憲法前文をねじ曲げたものだと思います。
ですから最高裁判決は「憲法の真髄」から見て誤っていると断定していいと思います。


 さて、いま国会で審議されている戦争法案に関して政府は砂川事件最高裁判決から、2つの誤った態度をとっています。

ひとつはいま申し上げた、個別的自衛権の名の下に武力を行使する、平和的生存権をその論拠にするということです。

もうひとつの誤りは、日本自体が武力攻撃を受けていない場合でも密接な関係のある他国への武力攻撃の応答でも武力をもって参戦できるという、集団的自衛権の根拠にしているということです。


自衛権や自衛措置という最高裁の論理は個別的自衛権の中でも米軍の駐留を認めるという、せいいっぱいそこまでを認めたものであって、日本の自衛隊が海外に出て行って、密接な関係にある他国への攻撃を排除する、このような集団的自衛権行使はここからは出て来ない。

あの裁判は米軍駐留が違憲かどうかが争点だったのであって、立川基地に当時自衛隊は全然いなかったのですから、論議になるわけがないですね。

当時、我々弁護人、検察官、裁判官の共通認識として、自衛権と言えば個別的自衛権だけで、集団的自衛権を含めた自衛権を論議するなどという頭は全然なかったのです。


なお、自衛隊イラク派遣についての名古屋高裁の2008年4月17日の判決は、日本の判例として初めて、平和的生存権について具体的な定義をしております。

自国の行う戦争あるいは軍事活動によって国民の権利・生命・自由が脅かされないようにする、これを差し止める国民の権利として認めているわけですね。

砂川事件最高裁判決は、平和的生存権を、集団的自衛権の武力行使の根拠にしているので、考え方が全然間違っていると思います。

平和的生存権という考え方の発祥は1941年8月の大西洋憲章だと言われます。

チャーチルとルーズベルトの共同宣言。

文脈の第1は、ナチの圧政を頭に置いて、「すべての国民がその国境内で安全に居住することを可能とし、すべての国、すべての人類が恐怖と欠乏から解放され、生命を全うすることを保障するような平和」を求めるとしている。

第2はグローバルな観点ですが、「世界のすべての国民が実際的、精神的のいずれの見地から見ても武力使用の放棄に到達しなければならない」と述べています。

これは後の国連憲章の精神に通じるものです。

第3は、「軍備が国境の外における侵略の脅威を与える国」について、これは日本とドイツですが、これがある限り「将来の平和は維持されない」と述べています。

第4は、「広範で一般的な安全保障制度が確立されるまでは、このような国の武装解除が不可欠」だと。

最後に第5、「平和を愛好する国民のために、軍備負担を軽減する、すべての実行可能な措置を援助する」と続けています。

この文脈からみても、やはり、平和的生存権というものはすべての国民に与えられており、武力行使の放棄や軍備負担の軽減につながるものだと受け取れます。

これが平和的生存権の出発点です。

平和的生存権というものを歴史的な本来の意味からまったく逸脱して、こともあろうに武力による自衛の根拠にしていることの誤りをいま強調することは大事な点であると、砂川事件の弁護人のひとりとして思っています。

2015/08/10 平和的生存権
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へいけんこんブログheikenkon.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-b8cc.html

2015/08/07

憲政の邪道 暴走する安倍政権
憲政の邪道 暴走する安倍政権
――集団的自衛権と立憲主義

新井 章(砂川事件弁護団)


【編集部によるまえがき】「平和に生きる権利」は武力によらない安全保障
国会で審議中の安保法案=戦争法案に対して、多くの憲法研究者や法曹界から「違憲」の声が挙がっています。
これに反して、安倍政権が苦しまぎれに「合憲」の根拠としているのは3つです。
1959年の砂川事件最高裁判決、1972年の集団的自衛権に関する政府見解、そして「我が国をめぐる安全保障環境の変化」。
私たちはとくに砂川事件最高裁判決にこだわります。
なぜなら同判決が「自衛権は国家固有の権利」と主張するすぐ前に、日本国憲法前文の「平和のうちに生存する権利」を挙げているからです。
つまり「平和に生きる権利」が武力(この場合は駐留米軍)による安全保障を肯定する論理になっています。
私たち「平和に生きる権利の確立をめざす懇談会」は、日本国憲法の平和主義を守り広げる=武力によらない安全保障を求める運動を、1985年以来、30年にわたって続けてきました。
いま日本が再び海外で戦争をする国になるのか、という平和運動の正念場にあたって、あらためて「平和に生きる権利」を考える連載をお届けします。
その第1回は、砂川事件弁護団の新井章先生からご寄稿いただいた以下の論考です。(O)

1.集団的自衛権問題と砂川事件最高裁判決

1−1 安倍政権による集団的自衛権行使容認政策と安保法制改正(「戦争法案」)の企ては、多くの憲法学者から「違憲」の指摘を受けていよいよその法的正当性が疑われ、国民からの疑問や批判も強まっている。

 安倍首相や高村自民党副総裁らは、この苦境から脱するための窮余の一策として、こともあろうに半世紀前の砂川事件最高裁判決(1959年12月16日)を引き合いに出し、その判示に手前勝手な解釈を加えた上で、この判決はわが国が(集団的)自衛権を保有していることを認めているなどとして、あたかもこの判決が彼らのいう集団的自衛権行使容認の主張に「合憲」の“お墨付き”を与えているかのごとく強弁している。
 
 しかし、このような安倍首相らの主張の真偽を検証するには、@最高裁判決をこの裁判事件の第一審からの流れのなかに位置づけて、当時の最高裁がこの裁判事件に関して担わされていた任務や課題は何であったかを的確に把握することが必要であるし、それに加えて何よりも、A最高裁判決の内容そのものがどのような論旨を展開し、判示していたかが、予断をまじえずに客観的・正確に把握されなければならない。

2−1 そこで、まず@の点(裁判の経過)から検討すると、そもそもこの最高裁判決は、検察側の跳躍上告(控訴審を省略 刑事訴訟規則254条1項)により、日米安保条約とそれに基づく米軍駐留を違憲と断じた東京地裁の第一審判決(いわゆる伊達判決 1959年3月30日)を、直ちに速やかに再審査すべき任務の下で行われた裁判であった。

 それゆえに、上告審の審理判断の課題も、第一審判決が採り上げた上記の問題(争点)、すなわち日米安保条約と米軍駐留の憲法(9条)適否についての審判に絞られることになったのは、当然至極の成り行きであり、最高裁での審判の過程に、わが国の集団的自衛権やその行使容認の是非をめぐる問題(争点)のごときが“登場”する余地がなかったことは多言を要しないところである。

2−2 次にAの点(最高裁判決の内容)についてみると、この判決の判示は前段と後段との二部構成となっていて、
前段は、日本政府が安保条約を締結して米軍の全土駐留を許したことが、政府に「戦力の保持」を禁じた憲法9条2項に違反するかどうかという問題(争点)についての判示である。

この判決では、駐留米軍は日本(政府)が保持を禁止された「戦力」には該らぬと判断され、米軍駐留は「合憲」とされている。

 後段は、日米安保条約が「戦争放棄・戦力不保持」を定める憲法9条等の非武装平和主義の趣旨に適合するか否かという問題(争点)についての判示である。

この点に関する最高裁の判断は、日米安保条約の締結という事柄は高度の政治問題なので、司法判断を任務とする裁判所の審判にはなじまぬとする(「統治行為」論)、司法判断回避の結論となった。

 以上のような二段にわたる判決の内容(論旨)からしても、

この最高裁判決が日米安保条約と駐留米軍の憲法9条等への適合性という問題(争点)に集中して、

それ以外に、

わが国固有の(集団的)自衛権のあり方やその行使容認問題についてまで触れる筋合いのものでなかったことは明白であり、

ましていわんや、

安倍政権の主張する「集団的自衛権の行使容認論」に法的根拠=“お墨付き”を与えるような内容ではなかったことは、一点の疑いもない。


2−3 かくして最高裁判決がわが国の集団的自衛権問題に判断を加えたものでないことはもはや明らかである。

それでもなお安倍首相や高村氏は、判決の前半の部分で裁判所が、
「わが国が、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な措置をとりうることは、国家固有の機能の行使として当然のことといわなければならない」と説示している箇所をとり上げ、

ここで裁判所が「自衛のための措置」と述べるのは、

個別的自衛権も集団的自衛権も区別しない包括的な表現と読めるし、

少なくとも集団的自衛(権)を排除する趣旨とは解されないから、

この判決はわが国の集団的自衛権(行使)を否定していない(認めている)などと強弁している。


 しかし、この判決の前半が、わが国の有する個別的自衛権(の行使)に関して判示したものであることは、

その論脈からしても、文辞(「自国の平和と安全」「わが国の防衛力の不足」「わが憲法の平和主義は決して無防備・無抵抗を定めたものではない」等)に徹しても疑問の余地はなく、

彼らの立言は、断牽取義でなければ牽強付会の極みという以外にはないのである。


3 私は1956年に弁護士登録して砂川裁判の当時は開業3年目の若輩であったが縁あってこの裁判事件の上告審から弁護団に加わることとなり、

最高裁大法廷での口頭弁論から判決言渡まで、上告審の裁判の全過程に関与することができた。

従って、この裁判の経過や内容に関しては、“証人資格”をもつものの一人と自負してもいる。


2.集団的自衛権行使容認の閣議決定と立憲主義

 立憲主義(constitutionalism)とは、国家権力の行使が憲法の定めに則って行われるべきことを求める主張(思想、原理)であって、近代憲法上の大原則の一とされている。

 歴史的には、ヨーロッパ中世以降の王権等による絶対主義体制を克服・打倒する闘いの過程で登場したとされるが、

わが国現憲法においてもこの思想は貫徹され、

違憲立法審査制の導入(81条)や憲法の最高規範性の確認(98条)等の定めに具体化されている。


 ところで、安倍政権ははじめから承知の上で、

憲法9条や前文の定める平和主義(戦争放棄・戦力不保持)の原則を軽んじ、

9条等の下では集団的自衛権の行使は許されぬとしてきたこれまでの歴代政府による憲法解釈を、

「閣議決定」をもって敢えて「変更」し、

「集団的自衛権の行使容認」――米軍等との共同戦闘行動に踏み切ろうとしているのである。

 もし安倍政権がそのような軍事的な新方針を採択し断行しようとするのであれば、

その内容が憲法9条等の平和原則にも抵触しかねない重大性を帯びているという事柄の性質上、

堂々と「憲法の改正」の手続(憲法第9章)を踏んで行われるべきスジである。

憲法の改正手続が実現困難だからといって、

その手続を回避し、

一内閣の「閣議決定」という行政決定の手続をもって「憲法解釈の変更」(憲法条項の実質的改正)を成し遂げようとするのは、

立憲主義体制への挑戦という以外の何ものでもなく、

憲政の邪道を行くものとの非難を免れないであろう。


3.安倍政権は「戦争法案」の強行で何を狙っているか

 この点について安倍首相自身が語るところによれば、

彼にとっては1945年の第二次大戦での敗北は不本意で不名誉極まる出来事であり、

それに引き続く戦勝連合国の対日占領政策によってわが国の国家主権は制限され、

米占領軍の押しつけ憲法の下で、

日本の伝統的な政治・経済・文化は解体・改変され、

占領終結後も米国軍隊の駐留継続により、

独立国家としては不甲斐ない従属的な状態に甘んじ続けさせられてきた

――このような屈辱的な「戦後レジーム」からの「脱却」をこそ図るべきだというのが、彼の政治家としての信条、宿願であると思われる。


 そして、さような彼の願望を遂げる方策として、

@対外的には、日米軍事同盟における両国の立場の対等化を図り(集団的自衛権行使容認や「国防軍」の創設、海外派兵の恒常化等)、

日本を再び軍事大国に仕立て上げること、

また、

A国内的には、

戦後70年で築かれてきた平和・民主・人権のわが国政治体制を解体・再編し、

国家主義・権力主義的な旧体制(アンシアン・レジーム)を“復活”させること(その青写真が自民党の「改憲案」である)を企図し、

狙っているものと察せられる。


 戦前日本の帝国主義・軍国主義的な対外膨張政策(韓国併合や中国大陸侵攻等)がひき起こした、無謀な戦争とその惨禍に対する冷静で真摯な反省を欠いた、

このような安倍首相の「歴史認識」こそが、

国内的には昨今の「戦争法案」強行の基点をなしていると同時に、

国際的には中国・韓国等からの深甚な反撥を招き、

欧米諸国からも「右翼・ナショナリズム」との根深い不信を表明される現況を生み出しているわけである。


 このような安倍政権の危険で憲法違反が明白な“暴挙”を葬り去るために、

私たちは最後まであきらめることなく、全力で闘い抜かねばと決意している次第である。

2015/08/07


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仏心無我平等忘己利他武士道真日本人の世俗最高法規は政教分離戦争放棄日本国憲法である。


ウクライナが自国民を2014年から軍事テロ攻撃して虐殺していた.安倍総理の知ってた事実は日本NHKマスコミ売国戦争犯罪者が完全無視かw安倍総理は絶対にウクライナに一円も支援しなかった理由はウクライナがテロ国家でアゾフが支配してジェノサイドhougakumasahiko.muragon.com/entry/600.htmlしていることを知ってたからだ。お前らマスごみは安倍ちゃんを殺したラームエマニュエルの手下の外患誘致罪イスラエルモサドNHKのスパイだよwアメリカのユダヤ人が日本に原爆を落として人体実験したのにお前ら売国奴は金のためにわざと忘れたふりをしてるのか。まあ英霊はお前ら売国奴に来てほしいとは思ってないだろう。過ちを何度でも繰り返す愚か者にw昭和天皇は死ぬまで大英帝国陸軍元帥だったから、沖縄にも靖国にも死ぬまで足を踏み入れることができなかった。聖徳太子の詔勅に従わぬ仏法僧三宝に帰依しない愚か者天皇は殺した相手の祟りを恐れるのさw後醍醐天皇のようにw

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豊岳正彦
麻生太郎よお前が取り入ってるラーマエマニュエルが安倍ちゃんを殺したんだからお前が日本人ならお前がなすべき一生の一大事は麻生家の全財産をはたいて奈良西大寺に世界一の安倍晋三阿弥陀如来金銅大仏を鋳造し世界一の大仏殿を全国の宮大工を集めて金に糸目をつけずに建立完成させることだ。
水道利権を外国に売っぱらってる場合じゃないぜ、愚か者が。下らん事やってると安倍晋三殺害の共犯として逮捕するぜ。麻生家を根こそぎぶっ潰すことになるがお前の自業自得だよ。もちろん吉田茂も子孫が絶えることになるがお前の自業自得だ。これが因果応報だ。
安倍晋三阿弥陀如来大佛鋳造大仏殿建築費用の金が足りんならドル国債400兆円売っ払って真水の600兆円国庫に取り戻せば1ドル50円以上の超円高になるから麻生セメントを輸出して外貨をたんまり稼いで大仏建立費用に充てろ。

日本国憲法は十七条憲法と同じなのだ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html

十七条憲法は山岡鉄舟武士道と同じで、
dl.ndl.go.jp/pid/758906/1/1

自衛隊五省は山岡鉄舟武士道の教え「修身二十則」そのものである。
ja.wikipedia.org/wiki/五省

一、至誠しせいに悖もとる勿なかりしか
  真心に反する点はなかったか
一、言行げんこうに恥はづる勿なかりしか
  言動に恥ずかしい点はなかったか
一、氣力きりょくに缺かくる勿なかりしか
  精神力は十分であったか
一、努力どりょくに憾うらみ勿なかりしか
  十分に努力したか
一、不精ぶしょうに亘わたる勿なかりしか
  最後まで十分に取り組んだか

香川縣護國神社境内の五省の記された石碑
五省(ごせい)とは、旧大日本帝国海軍の士官学校である海軍兵学校(現在は呉市江田島海上自衛隊幹部候補生学校)において用いられた五つの訓戒。 

国立国会図書館デジタルコレクション「鉄舟言行録」
修身二十則
dl.ndl.go.jp/pid/782095/1/21

一、うそいふ可からず候
二、君の御恩は忘る可からず候
三、父母の御恩は忘る可からず候
四、師の御恩は忘る可からず候
五、人の御恩は忘る可からず候
六、神仏並に長者を粗末にす可からず候
七、幼者をあなどる可からず候
八、己れに心よからざることは、他人に求む可からず候
九、腹を立つるは、道にあらず候
十、何事も不幸を喜ぶ可からず候
十一、力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候
十二、他をかへりみずして、自分の善き事ばかりす可からず候
十三、食するたびに、かしょくのかんなんを思ふ可しすべて草木土石にても、粗末にす可からず候
十四、殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得ふ可く候
十五、禮儀を亂る可からず候
十六、何時何人に接するも、客人に接する様に心得ふ可く候
十七、己れの知らざる事は、何人にてもならふ可く候
十八、名利の爲めに、學問技藝す可からず候
十九、人にはすべて、能、不能あり、いちがゐに人をすて、或は、わらふ可からず候
二十、己れの善行を、ほこりがほに、人に知らしむ可からず、すべて我心に耻ぢざるに務む可く候
     嘉永三年庚戌正月行年十五才の春謹記
     小野鐵太郎


参考
sakazen.co.jp/posibig/lifestyle/10186

ameblo.jp/ikkou8/entry-12613368646.html

ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F

ロシアは武士道修身教育を国民老若男女の教えとして実行しているに過ぎない。
それは専守防衛戦争放棄日本国憲法と同じものであり、
釈尊の教え七不衰法と同じものである。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/25.html

hougakumasahiko.muragon.com/entry/135.html

ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。
 一つには、国民はしばしば会合をして政治を語り、国防を厳(げん)にして自ら守り、
 二つには、上下心を一つにして相和し、ともに国事を議し、
 三つには、国風を尊んでみだりにあらためず、礼を重んじ義を尊び、
 四つには、男女の別を正し、長幼の序を守って、よく社会と家庭の純潔を保ち、
 五つには、父母に孝し、師長に仕え、
 六つには、祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、
 七つには、道を尊び徳をあがめ、徳の高い師について教えを仰ぎ、厚く供養することである。
 どんな国でも、
この七つの教えをよく守って破ることがないならば、
その国の栄えることは疑いがなく、
外国の侮(あなど)りを受けることはないであろう。

武士道ご先祖菩薩幣原喜重郎公が三宝帰依し忘己利他無我平等仏心で書き上げた、
asyura2.com/18/senkyo243/msg/600.html#c19
主権在民政教分離未来永劫戦争放棄日本国憲法最高法規において、
天皇以外は全員ただの日本国民だから日本国民は全員憲法76条と14条に従い日本国憲法を熟知して尊重し擁護せねばならぬ。
三宝帰依日本人にとって世俗の最高法規は「良心に従い独立して戦争を永久放棄する」日本国憲法だけである。
父母の恩でこの世に生まれた人間たる者はみな己れの心をよくよく顧みよ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/3.html

 心の構造
  迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。
 ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
  人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。
 汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。
  絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。
 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。
 この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。
  ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。
 なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。
  迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。
  このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。
 迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現われる。
  すべてのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成っている。
 汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。
  しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。
 悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。
  善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。


 心のけがれ

  仏性を覆いつつむ煩悩に2種類ある。
  1つは道理に迷う理性の煩悩である。2つには実際に当たって迷う感情の煩悩である。
  この2つの煩悩は、無明(むみょう)と愛欲となる。
  無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。
 愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、死を願うような欲望ともなる。
  この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見、恨み、嫉み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。
  この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の3つの火といわれる。
 貪りの火は、欲にふけって真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害する人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。
  まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。
 貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、――さまざまな火によって炎々と燃え上がっている。
 これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身・口・意の3つの悪い行為に導くことになる。
  貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。
 貪りの罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。
 愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。
  人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。
  人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。
  人は欲のために争い、欲のために戦う。また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺をはたらき、姦淫する。
  また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。
  外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。
 貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、4つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。
  心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。
 意の3つ、口の4つ、身の3つ――これらを十悪という。
  人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくる。人の不幸も難儀もまた、愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。
  人は煩悩によって業を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの3つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。
  この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。しかも、人はこの輪廻から逃れるすべを知らない。
 永劫に回転する輪廻に従って、人はこの現在の生から次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

  迷いのすがた

  この世の人びとは、身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。
 なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。
  富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。
 あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。
  貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。
 このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。
  人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。
 しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。
  この世の争いは、互いに害し合ってもすぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生を変え、死を変えて、互いに傷つけ合うようになる。
  人は愛欲の世界にひとり生まれ、ひとり死ぬ。
 未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。
  善と悪とはそれぞれの報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらすことが、動かすことのできない道理によって定まっている。
 しかも、それぞれがおのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。
  まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つない。
 この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りと言わなければならない。
  このような有様がこの世の姿である。
 人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。
 だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。
  栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。
 この世の快楽も何一つ永続するものはない。
  だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。
 道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。
  ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。
 また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。
 善悪にかかわるすべてのことを信じない。
  ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。
  どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。
 ただ、これについて苦しみ悲しむことだけ知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。
  人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。
 しかも今日に至ってもなお、迷いは絶えることがない。
 いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。
  だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。
  仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。
 また仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。
 

心を清める

 一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。
  第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。
 すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。
  見方を誤るから、我という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。
  第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。
 明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。
  第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。
 着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。
 着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためであると考える。
 この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。
  第四には何ごとも耐え忍ぶことである。
 暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶ。
 この忍びを受けることによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。
  第五には、危険から遠ざかることである。
 賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。
 このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。

  二、世には五つの欲がある。
 眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。
  多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。
 これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。
 まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。
 だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。

  三、その方法は一つではない。
 例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。
  このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその往みかに帰ろうとする。
 蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。
 このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。
  ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。
  またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。
 はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。
  これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。
 もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。

  四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。
 それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。
 いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。
  名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。
 甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。
  愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。
 手を焼き、身を焼くのは当然である。
  貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。
 自分の心をほしいままにしてはならない。
 心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。

  五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。
 干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。                                      
  美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。
 心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。
  道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。
 この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。
  道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。
 欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。

  六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。
 どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。
  身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。
 心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。
  宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。
 広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。
  貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。

  七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。
 貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。
 瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。
 損なうことを思えば損なう心が多くなる。
  牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。
 これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。
  人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。
 貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。
  牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。
 しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。
  人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。

  八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。
 釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。
  そのときアーナンダは釈尊にこう言った。
  「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」
  「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」
  「世尊よ、また他の町へ移ります」
  「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。
 わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。
 アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。
 こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」


 善い行ない

  一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。
 身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。
 口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。
 意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。
  心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。
 だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。

  二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。
 親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。
 その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。
  あるとき、その女中がこう考えた。
  「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」
  そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。
 主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。
  「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。
  女中はさらに次の日も遅く起きた。
 主人は怒り、棒で打った。
 このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。

  三、だれでもこの女主人と同じである。
 環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。
 しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。
  自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。
  だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。
 仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。

  四、すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗いことば、有益なことばと有害なことば、慈しみのあることばと憎しみのあることば、この五対がある。
  この五対のいずれによって話しかけられても、
  「わたしの心は変わらない。
 粗いことばはわたしの口から漏れない。
 同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」
と努めなければならない。

  八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。
 人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。
 人はこの反作用に用心しなくてはならない。
 それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。
 それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。
 それは風に向かってちりを掃くようなものである。
 それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。
 仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。


仏教聖典 はげみ 第二章実践の道 第二節 さまざまな道 
hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html
十二、(パーリ、本事經三九、四〇)
 おのれに恥じず、他にも恥じないのは、世の中を破り、おのれを恥じ、他にも恥じるのは、世の中を守る。慚愧(ざんぎ)の心があればこそ、父母・師・目上の人を敬う心も起こり、兄弟姉妹の秩序も保たれる。まことに、自ら省みて、わが身を恥じ、人の有様を見ておのれに恥じるのは、尊いことといわなければならない。
 懺悔(さんげ)の心が起これば、もはや罪は罪でなくなるが、懺悔の心がないならば、罪は永久に罪として、その人をとがめる。
 正しい教えを聞いて、いくたびもその味わいを思い、これを修め習うことによって、教えが身につく。思うこと修めることがなければ、耳に聞いても身につけることはできない。
 信と慚(ざん)と愧(ぎ)と努力と智慧(ちえ)とは、この世の大きな力である。
このうち、智慧の力が主であって、他の四つは、これに結びつく従の力である。
 道を修めるのに、雑事にとらわれ、雑談にふけり、眠りを貪るのは、退歩する原因である。


特別司法公務員警察官検察官裁判官は憲法76条「良心に従い独立して刑事司法職権を憲法および刑法にのみ拘束されて行い」あらゆる人の「身体生命と生活財産の法益」を公正公平に守る刑事司法責務を果たせ。

河野デジタル担当大臣のマイナカード強制は明らかに憲法36条違反だ。国務大臣の憲法99条違反汚職はそのまま刑法極刑内乱罪かつ外患誘致罪が確定する。東京地検特捜部は刑訴法239条2項の公務員犯罪告発責務を果たして直ちに河野太郎を逮捕起訴迅速に公開刑事裁判で有罪判決せよ。


http://www.asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c331

[政治・選挙・NHK243] 竹下発言で「首相」を聞き漏らさなかった朝日記者にあっぱれ!  赤かぶ
29. 豊岳正彦[-17119] lkyKeJCzlUY 2023年8月26日 01:49:46 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[14]
<■315行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
官吏公吏は私欲を捨てて真心こめて礼を整え日本国家と万国国民に奉公せよ。
asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c187
/
スプートニク【視点】自動車の対露輸出規制 消費者のみならず日本企業も苦しむ
日本は8月9日から、ガソリン車、ディーゼル車、それにすべての電気自動車(EV)、ハイブリッド車とプラグインハイブリッド車と中古車の対ロシア輸出を禁止する。
https://twitter.com/lyuzhngyn1/status/1689103252431007744
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ビッグモーター問題で「新たな疑惑」…『閉店した』店舗の街路樹を市が調査 浜松市 - LOOK 静岡朝日テレビ https://look.satv.co.jp/_ct/17646882
全国で問題となっている中古車販売大手ビッグモーターの「街路樹の不正撤去」。静岡県内でかつて店舗があった場所で新たな疑惑が浮上しています。 保険金の不正請求
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「全ては日本人国家資格者の良心にかかっている」
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c325
医師免許弁護士免許歯科医師免許獣医医師免許放射線技師看護師薬剤師検査技師放射能取り扱い免許麻薬施用免許危険物取り扱い免許介護士救命救急士農業免許漁業免許畜産業免許消防士自衛官海上保安官道交法運転免許船舶操縦免
/
許航空機操縦免許各種整備士免許調理師免許旅館業免許劇物取り扱い免許不動産取引免許税理士会計士社会保険労務士行政書士建築士不動産鑑定士建設工事各種免許産廃業免許水道水質管理士電信電気事業者免許電力事業者免許教職免許その他諸々の国家資格保有者は憲法15条全体奉仕責務を負うみなし公務員で
/
ある。公務員とみなし公務員は憲法の言葉で官吏または公吏である。日本国憲法最高法規99条で、「天皇または摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に、「この憲法を尊重し擁護する義務」を負わせた。「その他の公務員」にみなし公務員を明らかに含めている。すなわちみなし公務員も裁判官と
/
ともにこの憲法を尊重し擁護する義務を負う。
あらゆる人間の活動は表面から見れば皆同じである。天皇も死刑囚も息を吸い食物を食べて言動し睡眠する。その活動すべてに人間として全く違いは無い。これはおのおの体が異なってもその体で生きようとする心が皆同じだからである。心が身体活動を決めてい
/
る。これはあらゆる生物において皆同じである。動物には言葉が無く法律が無いが社会を造って生活することに何の支障も無い。これは動物に良心だけしかないからである。日本国憲法76条「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」そして裁判官は憲法
/
99条公務員であるから、最高法規99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員とみなし公務員は、すべてその良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束されることによってこの憲法を尊重し擁護する義務を」果たすことができる。すなわち全て日本国民はおのお
/
の独立して、その良心にしたがってこの憲法及び法律にのみ拘束されてあらゆる活動を行い、この憲法を尊重し擁護する最高度の義務を果たさなければならない。これが最高法規99条の「神聖な責務」である。
みなし公務員と公務員は憲法の言葉で官吏または公吏である。
刑訴法239条2項「官吏または公吏は、
/
その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。」
すなわち最高法規99条に従う刑訴法239条は、「すべて摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員みなし公務員は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。」神聖な
/
責務を表す。
もし日本国民が「良心を捨てて一部に奉仕する」憲法76条違反憲法15条違反の「汚職犯罪」を行えば、直ちに刑法極刑で処罰されると罪刑法定日本国六法全書に書いてある。日本国民にとって最も重要なのは「良心」であることはすでに論を俟たない。
良心あるみなし公務員日本人各位は、自分の
/
職務と関連した汚職犯罪が政府や大企業で行われていると思量するときは、直ちに独立して汚職犯罪告発し、犯罪者を捕まえて罪刑法定で断罪してください。それがこの国を主権で治める国王主権者国民の「神聖な責務」です。
国家資格保有者は日本人としてその良心に従い独立して政府と大企業の汚職犯罪を
/
刑訴法239条2項責務を果たし告発せよ。
このように独立した日本人国家資格者の良心で刑訴法239条2項の憲法責務を果たすだけで日本国から汚職がなくなり戦争と原発事故がなくなれば、それが直ちに世界中から戦争と原発事故を消滅させて未来永劫平和な地球を出現させるのだ。
全ては心が作り出す。
日本
/
人一人一人の「良心」がこの世で宇宙に戦争の無い平和をもたらすのである。
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岸田総理に教えてやろうLGBTラームエマニュエルの本当の目的を。
マイナ保険証は、
ラームエマニュエル悪魔王が主導する、
日本人臓器売買精神科産婦人科美容外科拝金色欲殺人狂モサドスパイの、
秘密の白血球HLA血液型登録ウクライナウイグル臓器売買システムである。
豊岳正彦@lyuzhngyn1
twitter.com/lyuzhngyn1/status/1688008854364368896
こいつは今臓器売買しやすいような善良でだまされやすい企業や団体を物色して日本国内を治外法権で無料で無銭飲食無銭宿泊無銭旅行してるのさ。
ラーム・エマニュエル駐日米国大使@USAmbJapan
twitter.com/USAmbJapan/status/1687970742120615937
広島への原爆投下から78年を迎えました。今日は厳粛な追悼と平和への祈りを捧げる日です。日米同盟の強化、そして両国が共有するビジョンと、平和と繁栄を求めるわれわれの一致団結した思いの実現に向け、今まで以上に励んでいく気持ちを新たにしました。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使@USAmbJapan
·今日は、広島原爆78周年を記念するにあたり、厳粛な追悼と平和への祈りを捧げます。日本との同盟関係を強化し、共通のビジョンと平和と繁栄の一致した追求を実現することに、これまで以上に刺激を受けています。

ぴら太@pirata_mtb
twitter.com/pirata_mtb/status/1687636933328203776
信頼回復?
まだやんのか?
これ以上好き勝手やるのいい加減にしてもらえないかな?
・豊岳正彦
岸田は人食い悪魔のラーマエマニュエルに自分の息子娘の臓器を全部生け贄に差し出したいのか。岸田の腹黒い腐った臓器は誰もほしがらんが息子娘と孫の臓器は

岸田ほど腐ってないから外国の人食い悪魔どものよいごちそうになる。マイナ保険証はエマニュエルの日本人臓器売買のための白血球HLA血液型個人データ収集目録臓器売買市場提出の道具なのだ。岸田の子孫は全滅するぜ、それがいやなら今すぐ日米地位協定破棄して即政治家やめて引退しろ。そしたらおまえ

だけは極刑執行を猶予してやる。全財産は没収するし、岸田の親族と政治関係者の全資産も没収し断罪するけど子孫の血脈は保たれる。日本国憲法がラーマエマニュエルを許さんから、日本国憲法が岸田の血脈を護ってやるだろう。まあおまえの勝手だ、好きにするがよい。日本国の主権者国王国民は六法全書で

坦々と国王の憲法15条下僕公務員の汚職犯罪を良心に従い罪刑法定六法で裁くだけだ。
319. 豊岳正彦[-16707] lkyKeJCzlUY 2023年8月06日 14:09:48
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c319
刑訴法
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c222
刑法極刑犯罪
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c135
/
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c138
林芳正のメガソーラー殺人兵器外患誘致国土不法売却汚職国家反逆罪証拠報道記事
ビッグモーター兼重の岩国基地補助金インサイダー汚職組織共謀共同正犯不正融資国家反逆汚職罪証拠報道記事
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c173
岩国市の特別司法公務員警察官検察官裁判官共謀共同正犯刑訴法239条2項犯罪告発責務違反職権乱用職務怠慢刑事司法公務不実執行汚職国家反逆罪有罪確定
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c222
岩国市の不動産業者による土地取引上の不正な偽計で、美川町山林地主の法益を一方的に侵害する売買契約詐欺不動産業者柏原コーポレーションを、刑訴法239条2項違反汚職して告発しない特別司法公務員警察検察裁判官とみなし公務員弁護士を全員、共謀共同正犯国家反逆憲法29条違反詐欺みなし公務員汚職罪で刑訴法239条告発する。
厚労省不法通達による医政局と医者共謀共同正犯の総務省消防隊救急搬送公務執行妨害殺人罪を告発する。
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c228
(1945.8.14岩国大空襲爆弾密度世界一の非戦闘員市民徹底殺戮戦争犯罪)
_____________
ラームエマニュエルがマイナ保険証を死んでも造りたいのは日本人の臓器を海外の金持ちに高値で売り飛ばすためだ。
臓器移植で最も大事なのは適合性で、それは1歳以上の白血球HLA血液型でわかる。
だから健康診断や入院時などにHLA血液型を勝手に無断で調べて登録しておけば海外から注文があったときすかさず適合者日本人を見つけて売買契約を結べるのだ。
あとは牧園に返信したとおり。↓
牧園@general_fand
blog:ameblo.jp/ericap1121/
おまえまだ病院を経営しているふりしてるな。(笑)
豊岳正彦返信
神村法雨
https://facebook.com/permalink.php...

世界中の人食い人種が日本人が食べて最もおいしい極上の肉質を持っていると激賞してるからねw
それは大昔から魏志倭人伝にも書いてある史実だ。
福永晋三先生が推理と実地調査で突き止めた史実である。「真実の仁徳天皇」ユーチューブあり。
youtube.com/watch?v=sG7paYq_Jfg

今最も日本人の敵であるラーマエマニュエルが日本中を回り巡って偽善の各地交流をしてるけど、エマニュエルの内政外交干渉をどう思う?
エマニュエルの目的が日本のマトリックス化だと思ってるなら大間違いだ。
エマニュエルは人食い人種だから本当の目的は臓器売買なのだ、世界一美味な日本人の。

エマニュエルは臓器売買本場中国と親しいしウクライナとも親しい。
乱交パーティやるくらい親しいw
で、臓器移植で一番大事な情報は何か?
白血球HLA血液型である。
これが一致すれば臓器移植が非常に成功しやすい。
日本人の肉質が大昔から一番人食い人種に激賞されているから臓器移植でも一番需要が

大きいのは日本人の臓器だ。
最も高額で取引できる。
大昔から日本人女子が世界中の奴隷市場で最も高額だった。
だからエマニュエルがいろんな内政外交干渉して次々に騒ぎを起こさせて日本をマトリックス化しようとしてるとみんなに思わせているのが、
エマニュエルNHKイスラエルモサド悪魔王の罠なの

さw
人食い臓器売買密売人エマニュエルの本当の目的は運転免許とか税金納入の電子化とか給付金の電子マネーなどじゃない。
1歳以上の赤ちゃんから100歳の年寄りまで全日本人の白血球HLA血液型dataをすべてAIで収集することさ。
こうしておけば世界中の金持ち臓器移植希望者に高額で最も貴重

な日本人臓器を適合させて売りつけることができるのだ。
この時に手先となって臓器移植するのが世界中の西洋医学の精神科と産婦人科と美容整形の外科医者なのさ。w
こいつらは医者じゃない拝金色欲に狂った偏執狂の切り裂きジャックだよ。
ブラックジャックと同じさw手塚治虫だけDSだ。弘兼憲司も。

ラームエマニュエルが全国行脚してるのは品定めのためだ。
いかに餌を撒くか?
今のうちに中国と関係が深い取引先企業に入社させて、マイナカード保険証に白血球HLA血液型のdataを会社の健診で採取する。
そして中国臓器移植市場に売りに出すのさ。
合致適合者が買い上げたら、会社に社員旅行で一週間

遊び放題の中国旅行をプレゼントする。
今ユーチューブで中国の観光地がやたら宣伝してるのはそのためだ。
日本人は貧困化してるから無料の中国観光旅行を断る者はいない。
で、1週間の30~40人程度の団体旅行中に、ターゲットが一人だけ事故で帰国できなくなって、冤罪食らって死刑になるのさ中国でw

こうして最も高額で取引される日本人の臓器が中国の密室で密かに切り刻まれて売り飛ばされる。
血の一滴も無駄にせず高値で売り飛ばす。
だからエマニュエルの本当の目的はマイナカードを保険証と完全に結びつけることなのさ。
それ以外の項目は犠牲にしても、保険証と紐づけすることだけは絶対に達成

しなくてはならない一神教の神様の言いつけだからw
これが悪魔の真実だよ。
秘密にしてるがバカだからすぐに見破ることができる。
日本人の良心は何でも知って何でも見通す仏の知恵般若だから。
良心に従って物事を他に左右されず一人で考えれば皆同じ知恵を得るだろう。
ご先祖様と同じように。

ご先祖様が日本人じゃない外国人なら無理かもしれんがw
ラーマエマニュエルは治外法権だから日本の六法では逮捕できないが、ビルゲイツは治外法権がないし、
エマニュエルの手下は全員日本国籍だから六法全書で全員国家反逆罪で逮捕して極刑で処罰できるのだ我々主権者国民日本国王が。
是が六法全書。
/
神村法雨
https://facebook.com/permalink.php...
ビル・ゲイツが慈善家だと信じている人にはこの動画の意味がわからないと思います。
なぜ?世界中でヒットしているのか?
それはたくさんの被害者がいるからです
新型コロナウイルスは存在証明がありません!
こわいのはウイルスではない!
薬やワクチンがこわいの

です!
これは人口削減計画が予定どおりに
実行中ということです!
目覚めよ日本人!ビル•ゲイツを刑務所へという歌が世界中で大ヒット
 豊岳正彦
その程度の小者じゃ無い。
軽井沢の地下に勝手に要塞化した秘密工場で日本人子女を誘拐してきてアどれのクロムを造っている疑いがある。

あどれのクロムは大昔から一神教悪魔モサドの手で作られていたが、チェルノブイリ原発事故ののちに原発地下に秘密工場を作って世界中から子供を誘拐してきてあどれのクロムを作っていた。
神は子羊の血と肉を最も好むから。
数年前からトランプとプーチンによりそれまでのあどれのクロム製造工場は次々

に暴かれた。
そこでエプスタイン島であどれのクロム中毒になったビルゲイツに命じて、日本の軽井沢に厳重な警護を付けた地下製造工場を建設した。
日本のNHKがイスラエルモサドDS悪魔大王に支配されているから、ビルゲイツに治外法権はないけどラームエマニュエルには二重の治外法権があるゆえ、

日本が最も秘密を護れると考えたのさモサドが。
それまで富士の裾野で富士通があどれのクロムを精製して製品を搬出していたが、トランプ派によって攻撃され破壊されたのでビルゲイツの軽井沢地下がその代替施設でもある。
しかし日本に良心に従う公務員が居れば日本人があどれのクロム製造工場を治外法

権のないビルゲイツを独立検察官職権逮捕して強制捜査で工場を摘発解体できるのだ。
すべては日本人特別司法公務員の「良心」にかかっているのだよ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/598.html

ヒロクライムの中の人@tannokasa5
凄いですね
twitter.com/lyuzhngyn1/status/1687714224112644096
この世で最も生命にとって有害で危険な業種が電力会社だと言うことがこの動画で如実にわかる。送電線に引っかかって危機一髪だった。送電線は全て光ファイバーに切り替えて地中化しなければならない。また海底化しなければならない。もっと言えばそもそも電気など要らん。電気が無くて困るのは電化製品作って売ってるあほ会社だけだろNHKと。手術だって電気など無くても腕で全部手術して治してきた。電気で空を飛ぶ飛行機は皆無。そして電線が地上にあると生き物が皆送電線に引っかかって落ちて死ぬのだ。地上の送電線こそ百害あって一利なし。エアコンは原発と並ぶヒートアイランドの最大の原因だ。エアコンを捨てれば夏の気温は最高32度まで下がる。原発を廃炉すれば海水温が10度下がって魚が戻ってくる。たこでも猿でもわかる。自衛隊海上保安庁山岳救助隊の救難ヘリや飛行機が高圧線に引っかかって墜落して一度に10人以上の人命が失われる。人の命は地球より重い。地上送電電力会社は地球何個分もの賠償金を遺族に支払え。その費用を考えたら送電線を全部光ケーブルに変えて地中化海底化する費用など微々たる者だ。エアコンは家庭から排除せよ。ビルから全部撤去しろ。土の地面と街路樹を増やせば都会も今より15度気温が下がる。冷蔵庫も冷凍庫も要らん。テレビも要らん。戦前までそれで十分やってきた。だから誰も病気にならなくて元気だったのだ。電力会社が万病を造ってる最悪の病原体だ。電話は全部固定電話だけにせよ。携帯電話もスマホも要らん。急ぐなら電報を打て。電話で仕事はなにも出きんからな。これで可処分所得が倍になるのさw


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本病最深部病根奇形司法を憲法と刑法で根治する。
証券会社トレーダーの正義は金儲けだけである。トレーダーに市長をやらせれば市は不良債権として外資に売り飛ばされる。三権分立で最上位は国会市議会、最下位は内閣総理市長だ。憲法を知らなければ売国奴犯罪者にしかなれない。このような公務員汚職を告発せず隠蔽する司法の汚職が最も罪が重い。以下のようにして憲法76条違反汚職司法を刑法極刑断罪する。

特別司法公務員岡田総司裁判官の刑訴法239条2項責務違反憲法76条違反汚職判決重大刑事犯罪を刑訴法239条告発する。
hougakumasahiko.hatenablog.com/entry/2023/08/24/145450

岩国市山手町1丁目16−35は岩国市役所前の市内一等地。
角地であり地価評価額は高い。
1985年170坪角地で銀行の評価額は2億2000万円(隣接の中間土地クリーニング店が80坪を1億円で売却した)。

2000年に父の死後17年間独居を続ける70歳老母の面倒を自分で見るため水戸から岩国へ帰ってくる前に岩国信用金庫で170坪角地を抵当に入れて7500万円の融資を受けて開業資金(改装工事費医療機器購入費当座の運転資金薬剤購入費等節約したw)とした。

2019年9月に母の死後閉院を考え岩国市で最も堅実な不動産鑑定士の田中優氏に170坪角地を評価してもらい、7500万円であった。20年前より不動産評価額は岩国市内の市役所建て替えや道路建設の公共土木工事ラッシュのため路線価が上がっているはずだが、開業で金儲けするのは目的外だからまあよしとした。

2020年3月に柏原コーポレーション柏原伸二会長と面談して5000万円で土地建物を売却し、3年間家賃毎月60万円払って病院経営を続ける。1年経ったら柏原コーポレーションが自由に立ち退きさせることができる。賃貸契約は最長3年で終了し、建物を壊して更地にして引き渡す費用約1000万円は私が負担する。と

いうリースバック契約を結んだが、翌日銀行で契約した時貸主は会長の息子の柏原規孝柏原コーポレーション現社長であった。w

あらゆる契約で法益の平等が最も重要である。
「憲法12条この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
契約締結する(した)両者はそれぞ

れ憲法が保障する個人の法益を互いに尊重して、法治社会公共福祉社会の公序良俗を乱さぬよう、契約内容の法益の平等に留意する責任を共に負うのである。
この法益を一方的に侵害すれば、直ちに刑事犯罪である。

本契約は時価7500万円の不動産を柏原会長が5000万円で購入して3年間家賃60万円36か月分=2160万円回収し、さらに更地にする費用1000万円を私が負担するので、評価額7500万円の土地を3年で5000万−2160万−1000万=1840万円で手に入れることになり、このリースバック契約の法益は明らかに柏原会長が一方

的に6000万を超える一方的な利得を得ており、私の法益を極端に侵害しているから、法益の侵害不動産取引売買契約詐欺といういわゆる地上げの重大な反社会的刑事犯罪が確定するのだ。

刑訴法239条2項官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。により、特別司法公務員警察検察裁判官はその司法公務を行うことによりこの詐欺犯罪を告発しなければならない特別司法公務員責務がある。

しかるに岩国地裁裁判官岡田総司と書記官金子勝也は初審の呼び出しに応じた私が裁判所で、この裁判は民事ではなく刑事裁判相当だから原告の訴えは認められない。裁判所は刑訴法239条2項責務を果たせと裁判官に告知したにもかかわらず、公務員犯罪告発責務を怠って第一審で控訴も認めず確定判決した

ことで、特別司法公務員憲法76条違反刑訴法239条2項犯罪告発責務怠慢職権乱用汚職の重大刑事犯罪が岡田総司に確定した。

みなし公務員弁護士もみなし公務員不動産建築免許保有建築業者も、国家資格を有する者は官吏公吏と同じく刑訴法239条2項の職務上知り得た犯罪告発責務を負うのであるから、
裁判官岡田総司書記官金子勝也原告弁護士奥憲治及び柏原伸二の四名を、
不動産売買契約詐欺共謀共同正犯として刑訴法239条告発する。

特別司法公務員警察検察裁判官は憲法15条及び憲法76条に従い、刑訴法241条242条公務を汚職なく執行せよ。
汚職は刑法25章違反の重大刑事犯罪である。時効はない。

「岩国市の特別司法公務員はすべて憲法15条と憲法76条に従い、刑訴法239条2項責務を汚職なく果たせ。汚職は刑法違反の重大刑事犯罪である。」

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http://www.asyura2.com/18/senkyo243/msg/600.html#c29

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
418. 豊岳正彦[-17139] lkyKeJCzlUY 2023年8月26日 15:46:54 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[15]
<△26行くらい>
プーチン大統領 トベリ州墜落機の遺族に哀悼の意
sputniknews.jp/20230825/16901558.html
豊岳正彦
tobimono2@tobimono2
ニジェール軍事政権、
新米国大使、ドイツ大使、ナイジェリア特使に48時間以内の退去命令。フランス大使にも。
フランスはニジェールに大使を追放する権限はないと発言。
twitter.com/tobimono2/status/1695236065479774531
Quote Insider Paper@TheInsiderPaper
JUST IN - Niger junta ask new US ambassador to leave the country in 48 hours
·
豊岳正彦@lyuzhngyn1
ニジェールが世界中のPCに必要なレアメタル鉱山がある国で、基本はフランスが植民地奴隷国にしていた、若きニジェール人将軍が政権を取って、これからニジェールの資源で得た収入はすべてニジェールの国民が使う、そのためにドル貿易ユーロ貿易をやめてBRICSと連携すると宣言した。ワグネルは、ニジェ

ールで将軍の脱ドルユーロ決済独立援助勢力として活動する予定だった。ぬーらんどはニジェールでそれを察知してロシア国内のぬーランドスパイを使ってブリコジンを暗殺した。ブリコジン暗殺犯人はぬーランドである。

ぬーランドがブリコジンを殺害したことで直ちにロシアはドルを崩壊させる選択をした。麻生太郎よ、今すぐドル国債500兆円を一括売却せよ。ドルは2〜3週間で紙くずになる。

ドルを崩壊させればウクライナも戦争で借金した莫大なドルユーロ借款を返す必要が無くなるのだ。

日本があげた20兆円をウクライナの復興に役立ててもらうために、円がドルと一緒に紙くずに成らぬよう麻生太郎は直ちにドル国債500兆円を一括売却せよ。そうすれば20兆円が実質60兆円以上の価値を持つので、ウクライナは自力で国を建て直すことができる。ウクライナの国家予算は去年総額20兆円だ。
・・・
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c418
[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
419. 豊岳正彦[-17138] lkyKeJCzlUY 2023年8月26日 17:25:59 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[16]
<▽30行くらい>
麻生太郎は直ちに米ドル国債500兆円を一括売却せよ
https://sputniknews.jp/docs/comments.html

プーチン大統領 トベリ州墜落機の遺族に哀悼の意
sputniknews.jp/20230825/16901558.html
豊岳正彦
tobimono2@tobimono2
ニジェール軍事政権、
新米国大使、ドイツ大使、ナイジェリア特使に48時間以内の退去命令。フランス大使にも。
フランスはニジェールに大使を追放する権限はないと発言。
twitter.com/tobimono2/status/1695236065479774531
Quote Insider Paper@TheInsiderPaper
JUST IN - Niger junta ask new US ambassador to leave the country in 48 hours
·
豊岳正彦@lyuzhngyn1
ニジェールが世界中のPCに必要なレアメタル鉱山がある国で、基本はフランスが植民地奴隷国にしていた、若きニジェール人将軍が政権を取って、これからニジェールの資源で得た収入はすべてニジェールの国民が使う、そのためにドル貿易ユーロ貿易をやめてBRICSと連携すると宣言した。ワグネルは、ニジェ

ールで将軍の脱ドルユーロ決済独立援助勢力として活動する予定だった。ぬーらんどはニジェールでそれを察知してロシア国内のぬーランドスパイを使ってブリコジンを暗殺した。ブリコジン暗殺犯人はぬーランドである。

ぬーランドがブリコジンを殺害したことで直ちにロシアはドルを崩壊させる選択をした。麻生太郎よ、今すぐドル国債500兆円を一括売却せよ。ドルは2〜3週間で紙くずになる。

ドルを崩壊させればウクライナも戦争で借金した莫大なドルユーロ借款を返す必要が無くなるのだ。

日本があげた20兆円をウクライナの復興に役立ててもらうために、円がドルと一緒に紙くずに成らぬよう麻生太郎は直ちにドル国債500兆円を一括売却せよ。そうすれば20兆円が実質60兆円以上の価値を持つので、ウクライナは自力で国を建て直すことができる。ウクライナの国家予算は去年総額20兆円だ。
・・・
masa-ho@sky.icn-tv.ne.jp
豊岳正彦が2023.8.26スプートニクへ送信済
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c419

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
420. 豊岳正彦[-17146] lkyKeJCzlUY 2023年8月27日 09:57:40 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[17]
<▽46行くらい>
日米地位協定は国連憲章を守ってるんかね?日本国憲法守ってるんかね?人権の平等と法益の平等守ってるんかね?なんでクソF35とかクソアパッチとか国連憲章違反劣化ウランとか飛行機燃料代運搬費用燃料代岩国基地だけで1日1000万以上かかる石油代の負担とかわしら日本人が払うんじゃい?説明してみ。そもそも日米地位協定が無けりゃF35とかクソアパッチとかF16とかトマホークとかスパイOSウインドウズとかパラコートとか遺伝子組み換えとか西洋毒薬とかクソCTとかクソテレビとかクソ携帯とかクソ選挙とかクソ奇形司法とかクソ東大慶応大とかクソ弁護士とかクソ公務員とかクソ汚職泥棒原発補助金汚職泥棒金持ち不動産詐欺師とかLGBT医師法違反殺人医者と殺人弁護士ぼろもうけとか砒素撒き散らかしソーラーパネル殺人設備とかメガ風力と高圧送電線で飛行機撃墜とかジャンボとかボーイング自爆装置付き遠隔操作旅客機とかクソミサイル出来損ない東大ロケットとかみなし公務員税金保険金詐欺殺人犯罪組織NHK経団連国税庁人事院宮内庁憲法違反役所とか奇形司法とかゼロだったんだがねwお前らみたいな憲法違反国家叛逆外道犯罪者は一人として地位協定なしには存在できないんだろうwだから外道を釣ってるのさw外道には説明はいらん鉄格子の檻を用意してコオロギの粉で作った遺伝子組み換え食品をたらふく食わせて毎日原発の周りで敷地内と海のお掃除を終身刑で続けてもらおうかねw全国の原発をすべて廃炉にして刑務所作って全員そちらへ移動して今の刑務所全部廃止して完全に人工物を排除した天然の山林田畑に戻してやるさ。誰でも山菜を摂って帰れる入会地にすればよい。山林開発は禁止。山の木を切るな洪水が起こるから。山林の手入れはすべて公務員を地元のベテランの技術のある人々を採用して山や海に詳しい知識と知恵で総合的に国土を管理する。麻生セメントみたいに古代遺跡がある山を勝手に削って神社仏閣古墳遺跡などを壊すことは厳禁するからね。山林や海岸は林業漁業陸運業海運業関係者の公金支出整備以外、自然公園だからセメントの人工物は一切作らない。電線はすべて光ケーブルにして地中化する。電気代無料公衆電話は電話代無料。スマホ会社は電話料金毎月一律1万円使いホーダイとせよ。子供は全員スマホ禁止。15歳前後で働いて自分の金でスマホ契約しろ。公共事業は縮小して宮大工などの特殊技能者は公金で採用してベテランであるほど良い待遇で長老の知恵と技術を伝承することで公務員を増やす。国鉄と郵便はすべて国営に戻せ。簡保の宿はすべて国営復活せよ。財務省は金融禁止。大蔵省に戻して大蔵庁税務局に縮小しろ。会計簿記一級資格がないものは大蔵庁に入れない。国務大臣は総理が指名せよ。衆議院参議院それぞれ250人に減らして男は衆議院女は参議院で任期はともに4年。解散選挙は同時に行い、衆議院の優位は現行のまま。総理大臣は衆参どちらからでもよい。オリンピックは民間でやれ。オリンピックで役人が一千でも賄賂とったらすぐに極刑だ。テレビ放映権?要らん。そんなもん。ラジオと新聞だけでよい。スポーツなんか何の役にも立たん。スポーツ止めてから社会のために働けばよい。社会に金メダルとかノーベル賞とか勲章とか要らん。博士も学者も要らんよ世の中を破る国家反逆者だからなw全員逮捕極刑だぜ。
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c420
[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
421. 豊岳正彦[-17169] lkyKeJCzlUY 2023年8月27日 12:11:04 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[18]
<■64行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
豊岳正彦
twitter.com/lyuzhngyn1/status/1695610080941727993
俺は詐欺と殺人はやってないぜw日本国憲法と日本国医師法とヒポクラテスの誓いを守ってるからなw

もちろん憲法98条によって合憲だと認める日本国刑法も完全に守ってるぜw
日米安保条約はサンフランシスコ講和条約の会場を抜け出した吉田茂が米空軍基地に一人でこっそり行って、相手がわからん空軍将校と吉田茂が単独で署名調印した占領統治二国間密約の国際法規違反戦争犯罪植民地契約だぜ。吉田茂が

調印した時地位協定が条約に一体化していたから、岸信介が安保条約本体と地位協定を切り離す条約更改を行ったから、総理単独裁量で地位協定だけ一方的に破棄できるようになったのさwそこで慌てたCIAは東大医学部に巨額の資金と武器を援助して医学部の学生に安田講堂を占拠させて東大闘争を始めた。

日本学術会議法という違憲立法を利用して日本の内部にジャッカルを作ったわけだ。エコノミックヒットマンなど通用しない国だから日本は。そして30万人で岸信介を国会議事堂に閉じ込めて即時退陣せよと迫ったわけだ。岸は武士だから笑っていたけどなwで結局岸の案通り安保本体と地位協定は分離された。

こうなると総理に地位協定単独裁量破棄させないように、NHKイスラエルモサドは次々とジャッカルを送り込むしかなくなった。だが銃刀法がある日本では外国のように銃殺ができない。だから創価の手下の韓国やくざを使って岸信介の引退後に山口県の郷里で刃物で刺殺しようとしたが、岸は板垣退助と同じく

武士のたしなみで刃物には強いからケガだけで済んで、岸に一番かわいがられた武士の田中角栄が見舞いに行ったときにからかって「もう70過ぎたその年じゃ立たんでしょ。代わりに木の棒を上げますよw」というと、「馬鹿、こんなケガなどへでもないわしはまだまだカチカチじゃ」と言って突き返したという

笑い話だw岸はCIAじゃなくて面従腹背の武士の兵法を使っただけなのさ。岸佐藤安倍松岡は大内以前から先祖代々武士の家である。木戸(桂)伊藤山県三条岩倉はエタヒニン。エタヒニンは一神教政教一致カルトだからフリーメーソンと区別なく親和して汚職ばかりするのだ。武士は皆政教分離忘己利他捨身施

仏教徒だから、汚職は死んでもしないのさ。だからフリーメーソンは常に武士を後ろや物陰から暗殺するのだ。武士は相手を殺すとき必ず名乗って「天誅」といって殺害後は自ら役人に届け出る。武士の時代は自分で切腹して人を殺したら自裁し自決した。エタヒニンフリーメーソンは絶対に名乗らず正体がばれ

ないように殺すから、「暗殺」というのだ。こいつらは決して自裁しない。捕まって断罪されるまで犯行を隠ぺいし法の裁きから逃げ続けるのさ、法を悪用して犯行を隠しながら。「天誅」と「暗殺」は全く違うのだ。戦後の学校は日本語がわからんマッカーサーが作ったから教科書の国語は全部でたらめだ。

令和日本で現在正しい日本語は日本国憲法にしか書いてないのだ。だからお前ら六法全書を読んで、LBGTQ法が憲法違反だということを確認しておけ。日本国王主権者国民が憲法違反汚職国家叛逆三権公務員下僕を全員刑法国家反逆罪で極刑処罰「天誅」してやるからwまあ自首自白のみ1年間執行猶予してやるぜw

日本国憲法は「罪を憎んで人を憎まず」転輪王不殺生戒仏法だからなw
hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html

Replying to
@ERCaL94s7wArKLF
地位協定は国連憲章違反戦争犯罪だがお前は返事ができないかw
可哀そうな三重苦かw
それともただの低能かw

ロシアのテレビで放送された安倍元総理のインタビュー (ロシア語吹き替えなしのビデオが見つからなかったので、日本語→ロシア語→英語→日本語という過程を経た結果の字幕です。安倍さんの実際の言葉とは多少異なります。)
いつ放送されたのかは不明。
https://odysee.com/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%81%A7%E6%94%BE%E9%80%81%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%85%83%E7%B7%8F%E7%90%86%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC:6
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c421
[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
422. 豊岳正彦[-17177] lkyKeJCzlUY 2023年8月27日 18:24:38 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[19]
<■77行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>

木幡 浩
こはた ひろし
内閣府地方創生推進室より公表された肖像
生年月日 1960年10月23日(62歳)
出生地 日本の旗 日本 福島県相馬郡飯舘村
出身校 東京大学経済学部
前職 復興庁福島復興局長
所属政党 無所属
公式サイト こはた浩(木幡浩)|福島市を元気に!
福島市旗 福島県福島市長(公選第19・20代)
当選回数 2回
在任期間 2017年12月8日 - 現職
____________________________

ポッキー@toipu11
これ大事です。
支配者が何を洗脳したいのかを読み解くと、ある程度のシナリオが見えて来ます😌
QuoteBULLET@nbe222
改めて書きます。
日本に入って来るニュースは1箇所からしか入って来ません
yahooであろうが共同であろうが、何処であろうが、全て一緒なのです
ようは支配者側が洗脳したい事を流してるだけなのです
ニュースから、それを踏まえて何を洗脳したいのか?を読み取るのがニュースの正しい読み方です

豊岳正彦
もっと大事なことは洗脳して何がしたいのかを正しく知ることだ。支配者はラームエマニュエル。こいつは臓器移植と臓器売買に一番深くかかわっている。ウクライナのあどれのクロムを犠牲にしても、日本人の臓器を1歳から50歳まで全部売買したいのさ。一番高値で売れるから。そのためにマイナ保険証を全員に配って病院や献血で密かに白血球HLA血液型を調べて秘密のデータベースに登録するのだ。だからマイナ保険証になったら絶対に採血を拒否すること。病院以外でも、人間ドックでも会社の健診でもすべて採血させない。これで白血球HLA血液型を調べられる機会が90%減る。出産のときが一番危ない。絶対に輸血を拒否すること。代用血液も不要。生食もしくは乳酸リンゲルで十分間に合う。まあ病院でお産しないこと。助産院で血液を採られずに胎盤を売られずに妊娠出産するとよい。あどれのクロムは日本の富士フィルムの富山化学工場で作られて、あどれのクロムを抽出した残りが人プラセンタになってるのだ。これが産婦人科と精神科と外科を医師免許と医学から削除しなければならない理由である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


西村やすとし NISHIMURA Yasutoshi@nishy03
ALPS処理水の海洋放出は、今年度は計4回約3.12万m3、トリチウム総量約5兆ベクレルの放出を予定しております。現在稼働中の日本の原発の年間の排出量(数兆-約40兆ベクレル)に比べても少ない水準ですし、中国の泰山原発の排出量(約218兆ベクレル)、陽江原発の排出量(約112兆ベクレル)を大きく下回る水準… https://pic.twitter.com/iavfdwEoN9
豊岳正彦
国連総会でそれを全部そのまま発表して来い。岸田と2人で行ってこい。垂れ流したまま行くと逮捕されるからいったん止めてから行けよwそしたら新しい測定法を開発したイギリスやアメリカや中国が科学者を集めて実測団を100人近く取り揃えて(日本には原子炉57基くらいあるから、福島だけじゃなく全国の原発の汚染水も調べる必要がある。)来日して日本の原発全て調べてくれるさ。そこで引っかかったら岸田と西村は国連憲章違反反人道地球人類身体生命を核物質で傷害した罪で終身刑以上が確定するさw自信があるなら岸田と西村で行けや。


♡ Keiko 🪷 Cako ♡@kiyokakei
北里大学の教授が発見して、ノーベル賞までとって、北里大学が調べて有効性無し⁉︎
圧力に決まってるじゃない
アメリカでも使用しているし、アフリカなんか常用ですよ❗️
コロナ蔓延がアフリカではほぼ無い事実❣️これDS側では誤算だったのでしょうね。
イベルメクチンのバッタ者に注意⚠️ twitter.com/yutanpa151849/…

豊岳正彦
だから最近のイベルメクチンに工場で毒を混ぜても表示しなければわからない。工場で作るものには何を混ぜても表示しなければわからない。ヒ素は無味無臭である。だから工場で作るミルクに砒素を混ぜても出来上がった製品に表示しなければ全員騙されて赤ちゃんにヒ素ミルクを飲ませたのが岡山日赤でわが父豊岳正道が発見した森永ヒ素ミルク中毒刑法146条違反水道毒物砒素等混入殺人犯罪である。これは公害ではなく、組織的殺人犯罪だ。

わが父は対抗策として全員母乳で育てろと言った。
イベルメクチンに毒を混入しても対策は簡単だ。イベルメクチンは土の中の放線菌というカビの一種から抽出した抗生物質なので、おなじ放線菌から抽出した抗生物質ペニシリンと効果も同じであり、また梅毒スピロヘータやクラミジアにもペニシリンが有効だが、クラミジアに最も有効な抗生物質がジスロマックである。これは日本人川崎医科大学(倉敷市)の尾内教授の業績であり、心筋梗塞とか動脈硬化はすべてクラミジアが梗塞病巣から発見されることで、心血管障害の治療薬としてジスロマックが最も有効であることを発表した。野口英世に並ぶ偉大な業績である。アメリカでコロナ感染の初年度からジスロマックが有効だという症例報告がたくさん出た。このようにイベルメクチンに工作しても、ペニシリンでもセフェムでもマクロライドでも全部有効なのだから、もうイベルメクチンは飲まずに、上記のほかの抗生物質を飲めばよい。すでに製造工程が確立した汎用抗生物質に新たに製造過程で毒を入れることはできないからである。
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c422

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
423. 豊岳正彦[-17203] lkyKeJCzlUY 2023年8月28日 08:01:46 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[20]
<■65行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
憲法は国士とそれ以外を認めない。
憲法14条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
A 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
B 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。


今まですでに何度も告発の仕方を刑訴法で表示したからその通りやればよい。全員で検察に電話して検視報告書を公開せよと刑訴法239条命令せよ。分断ではない。君らが勝手に妄想して自滅してるだけだ。俺には分断なんぞ関係ないから無礼者に謝罪など絶対せんよw晴馬君が国士だなど全く思わん。国民として法益の重大な侵害を受けた被害者だと思っている。法益を侵害したのが警察の上の検察だから憲法15条で検察に直接公開命令しろ。俺は地球を破壊する戦争から地球を守るのに忙しいからほかのもっとも凶悪な戦争犯罪者を逮捕せにゃならん。日本国民の俺は俺の用事を憲法76条良心に従って独立して正しくやるだけだ。君等も日本国民なら正しく憲法76条良心に従って主権を揮えよ。


おれは三浦春馬の死因捏造犯人を捕まえるより、何十万人も殺す戦争犯罪者を逮捕して戦争を止めることの方をいまは最優先してるからな。君等は君らで興味があることをやっていいが、NHKが絶対にウクライナと岸田と林が戦争犯罪者だという真実を日本人に気づかせないために憲法15条に違反してツイッタートレンドを汚職操作してることくらい知っておかないと、検視報告書を捏造した汚職犯罪公務員検察さえ逮捕できないよ。


では、皆さんで一斉に検察へ電話をかけて検視報告書を公開するよう命令してください。検視報告書の司法解剖医の氏名を特定したら司法解剖所見報告書捏造汚職を刑訴法239条と医師法19条違反重大汚職犯罪で東京地検特捜部と警察庁刑事局と国会議員に告発します。憲法15条公務員はすべて刑訴法239条2項犯罪告発責務があるからこの告発を不受理することができない。不受理は憲法15条違反汚職刑法極刑内乱罪だから。


君らが国士だと言っている中川昭一は、東京の岸信介の家で安倍晋三と兄弟同然に育ったのだ。その理由は、中川一郎と岸信介が固い同志義兄弟の契りを結んでいたからだ。岸信介が兄である。中川一郎と文鮮明は岸信介の家で同志の契りを結んだ。共産主義の暴力革命が日本国と韓国の国内で起こるのを協力して防ぐためである。もちろんこれが自民党結党の理念である。文鮮明と池田大作は絶対に死ぬまで一度も会っていない。その背景に応じて反共と親共に分かれていた二人はお互い拒否反応しかなかったから。これが小泉純一郎劇場詐欺師内閣まで自公が絶対に連立しなかった理由だ。すなわち公明党は人民解放軍である。ところが、戦前までアメリカは中国共産党と国民党に莫大な軍資金を与えて日本軍を攻撃していた。実は資本主義と共産主義は2つともユダヤ人が考えた国民虐殺略奪テロ政治なのだ。これがCIAが池田大作と創価学会を手足として使う理由である。かくして、岸信介が年下の文鮮明統一教会の信者なら、中川一郎も文鮮明の信者であり、当然中川昭一も統一教会信者である。安倍晋三が統一教会の信者なら安倍晋三より早くから政治家になっていた安倍晋三の政治家の師匠であり兄貴である中川昭一が統一教会のおかげで当選してないはずがない。笹川良一や、児玉も中川の後ろ盾だったはずである。彼らガチガチの反共産主義連合が、LGBT法に賛成することなど死んでもあり得ない。中川昭一の反LBGT法弁論の背景がこれである。当然安倍晋三もガチガチの反LBGT法勢力筆頭だった。LBGT法反対の中川昭一がCIAに殺されたなら、同じくLBGT法反対の安倍晋三を殺したのもまたCIAであるはずだが、統一教会がKCIAならCIA子分創価学会と同じようにLBGT法に賛成するはずである。
よって、ひとまず結論。岸信介も文鮮明も中川一郎も笹川良平も児玉も、CIAとイスラエルモサドの敵であり、一味では決してない。創価学会は憲法15条に違反して投票の自由と秘密を私的制裁で破壊する政教一致カルトだが、反創価学会の統一教会は憲法15条投票の自由と秘密を守る、政教分離の憲法20条合憲宗教法人である。昭和天皇は、大正天皇の皇太子時代イギリスへ行って、大英帝国陸軍元帥ロスチャイルドフリーメーソンスパイになったのである。吉田茂は昭和天皇の天の声で東大に裏口入学して裏口卒業した史上唯一の男である。卒業後ただちに英語ができない駐英日本大使となった理由がこのフリーメーソン血の秘密契約悪魔儀式である。一旦終わり。
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c423

[戦争b24] 米国が計画している戦争の準備を進める日本で「芸能ネタ」が話題にされている(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
45. 豊岳正彦[-17226] lkyKeJCzlUY 2023年8月29日 20:34:44 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[21]
<▽39行くらい>
石井 史郎·
facebook.com/search/top/?q=JAL123
米軍に支配されているということ。

杉浦 健一
8月22日 5:17 ·
世界を圧巻していただろう日本製OS『 トロン 』の開発者たちが搭乗していたこの機体を戦闘機からのミサイルで撃墜、そして『 プラザ合意 』、事故とされた機体(米国ボーイング社製)を使用し続ける背景
【 毎年、繰り返される日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者への追悼の影に「隠されている事」】
毎年、繰り返される日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者への追悼の儀式。
1985年8月12日に起こった、日航ジャンボ機墜落事故に関しては、旅客機の機器の故障説やエンジントラブル等、諸説の原因が言われ、日航側は既に死者への賠償に応じている。
現在、日本、韓国、ハワイ、グアムに駐留する米軍基地内で、米軍の機関誌として読まれている「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」という雑誌の85年8月27日号には以下の内容の記事が掲載されている。日航ジャンボ機墜落事故から、わずかに2週間後の発行日付である。
「日航ジャンボ機墜落事故当時、横田基地に配属されていた米空軍の輸送機U130のパイロット、マイケル・アントヌッチ中尉は以下のように証言する。
『事故当日、空中戦の演習を行っていた米軍練習用戦闘機から事故が起こったとの緊急無線が入り、一番近くを飛行していた私のU130輸送機が事故現場へ救出のため急行した。
いつものようにアメリカ空軍の練習用戦闘機が、日本の民間旅客機をターゲットにミサイル発射のシミュレーション演習を行っていた所、安全装置が解除されている事に気付かず、実弾ミサイルを日航ジャンボ機に命中させてしまった、というのが無線の第一報の内容だった。』 
この空軍中尉マイケル・アントヌッチは、日本政府から奇妙な事に『緊急の救助のために現場に行かなかった事、第一報の無線も聞かなかったと発言するよう要請された』と語っている。」
この現役アメリカ空軍中尉の証言は、米軍機が「動く格好のターゲットである日本の民間旅客機」、つまり日本人をターゲットに日常的に「撃墜演習」を行っている事実を示している。
これが、日本に米軍基地がある、という事の意味である。
なお、日航ジャンボ機を撃墜した米軍戦闘機のパイロットが、事故ではなく、「何者かの命令によって」意図的に、ミサイルの発射安全装置を外していたのか、どうかは、「闇の中」であるが、このパイロットは事故の責任を取り処罰される事は無く、その後「不思議な事に、順調に昇進」している。
【 知ってはいけない 】JAL123便墜落の真相‼
https://vybzscope.com/2021/02/12/post-14942/
http://www.asyura2.com/22/warb24/msg/571.html#c45

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
424. 豊岳正彦[-17243] lkyKeJCzlUY 2023年8月31日 08:52:02 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[22]
<△20行くらい>
最も紛争を起こしてはならない分野が宗教である。キリスト教徒ユダヤ教が最も政教一致のカルト国家であり、政教一致カルトは必ず宗教戦争で虐殺略奪する。政教分離国家は必ず軍事力を高めてカルトの反人道テロ攻撃を武力で完封して国家を防衛しなければならない。だからカルトの攻撃に同じカルトに成り下がって同じ土俵で戦ってはならない。専守防衛軍事力を高めて撃退するのみであり、核攻撃は絶対に先制してはならない。


最も紛争を起こしてはならない分野が宗教である。キリスト教とユダヤ教が最も政教一致のカルト国家であり、政教一致カルトは必ず宗教戦争で虐殺略奪する。政教分離国家は必ず軍事力を高めてカルトの反人道テロ攻撃を武力で完封して国家を防衛しなければならない。だからカルトの攻撃に同じカルトに成り下がって同じ土俵で戦ってはならない。倫理を高く保って専守防衛軍事力を高めて撃退するのみであり、核攻撃は絶対に先制してはならない。


北朝鮮は建国の時から(イスラエル)モサドが内部にもぐりこんでいる。韓国はKCIA.日本はNHKがイスラエルモサドの悪魔大王だ。だから放射能海洋放出や防衛省吉田幕僚長が日本国内で問題発言して攻撃されそうになると、北朝鮮にミサイルを打たせてますゴミの情報操作を行うのさ。ミサイルアラートも地震アラートも鳴らないから、最初から空砲だとわかってるのだw
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c424

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
425. 豊岳正彦[-17248] lkyKeJCzlUY 2023年8月31日 10:22:41 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[23]
<■64行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
豊岳正彦
@lyuzhngyn1
【図説】米国供与のクラスター爆弾 なぜ禁止されているのか?
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sputniknews.jp
【図説】米国供与のクラスター爆弾 なぜ禁止されているのか?
米国のジョー・バイデン大統領は7月、ウクライナ政府へクラスター爆弾を供与すると発表した。すでに戦場での使用が確認されており、ウクライナ軍はドネツクをはじめロシア領の住宅地への砲撃を繰り返している。クラスター爆弾をめぐっては、その被害の大きさから2008年には有志国が使用や製造を禁止する条約を締結している。クラスター爆弾が禁止される理由について、スプートニクがインフォグラフィックでまとめた。
9:27 PM · Aug 30, 2023
·
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豊岳正彦
@lyuzhngyn1
·
11h
これはすでに禁止された地雷と同じく無差別殺傷兵器であるからだ。地雷禁止条約が制定されたとき世界最大の地雷生産国はイギリスだった。ダイアナ妃がインドパキスタンやカンボジアの地雷除去運動に身を捨てて参加したことでイギリス女王国は面目を失った。是こそがダイアナ妃殺害の最大の動機である。

豊岳正彦
@lyuzhngyn1
·
11h
ダイアナ妃を殺害した犯人はMI6である。


岳正彦
@lyuzhngyn1
ダイアナ妃はビートルズジョンレノンの大ファンだった。ジョンレノンが小野洋子から渡された日本国憲法前文を英訳して書いた曲がイマジンである。イマジンは英国とバチカンで放送禁止となった。しかしダイアナ妃はイマジンが最も好きな曲だったから、地雷除去活動に身を投じたのである。ジョンレノンを


豊岳正彦
@lyuzhngyn1
·
6m
殺害した犯人はJFKと弟のロバートケネディを暗殺した犯人と同じユダヤ人CIAである。
マイケルジャクソンもホイットニーヒューストンも同じ犯人に殺害された。キング牧師も同じ犯人に殺害された。リビアのカダフィ大佐もイラクのフセイン大統領もサウジのビンラディンも犯人はみな同じである。つづく


豊岳正彦
@lyuzhngyn1
·
1m
JFKと電話会談してキューバから撤退したフルシチョフ書記長はウクライナ出身ロシア人である。JFK死後にジョンソンがベトナム北爆を開始してフルシチョフは失脚しブレジネフが書記長になった。ブレジネフはスターリン直系で、ブレジネフの時にチェコでプラハの春が起きチャウシェスクが処刑されベルリン

豊岳正彦
@lyuzhngyn1
·
1m
の壁が崩壊してゴルバチョフが最後の書記長となった。ペレストロイカによりソ連は完全に崩壊し、極端な市場開放によって無法なオリガルヒが旧ソ連国を人類史上最悪のハイパーインフレ地獄に落とした。ロシアで金融猶太モサドが国のトップに就いたことはスターリン以外一度もない。ゴルバチョフも祖国の


豊岳正彦
@lyuzhngyn1
·
1m
ためと思ってペレストロイカに踏み切ったのである。ただ経済に無知であった。そこにDSモサドがつけ込んだのだ。この時ソ連は消滅し、連邦各国が独立した。ウクライナにネオナチが復活したのはこの時からであり、ロシア語をドイツ語読みしたウクライナ語が生まれたのもこの時からである。
ソ連が崩壊し


豊岳正彦
@lyuzhngyn1
たことによりマッカーサーとスターリンの密約による北方領土奪取は無効条約となった。ロシアはエリツィンの時から北方領土交渉を開始した。しかしこれがうまくいくと最も困るのがアメリカのユダヤ金融戦争屋DSである。極東軍事裁判の本当の戦争犯罪人がアメリカであることがばれるから。JAL123撃墜も


豊岳正彦
@lyuzhngyn1
·
3m
ロッキード贈収賄事件も消費税導入も大和証券破綻バブル崩壊も117阪神大震災も311東北大震災も原爆投下も沖縄占領も都市大空襲もすべて大英帝国陸軍元帥ロスチャイルドフリーメーソン昭和天皇とロックフェラーフリーメーソンマッカーサーおよびNHKイスラエルモサドの共謀共同正犯であることがばれるか


豊岳正彦
@lyuzhngyn1
·
3m
らである。そこでマッカーサー後NHKを支配するイスラエルモサドは鈴木宗男らを冤罪で逮捕させた。このように北方領土返還を思い切り妨害しているのはアメリカCIAとその親玉イスラエルモサドNHKなのだ。だから日本のマスコミとネットだけ世界と真反対の嘘八百万政教一致カルト報道に終始しているのだ。

豊岳正彦
@lyuzhngyn1
これが戦後日本政府の政教一致カルト政府による戦争犯罪常習依存麻薬中毒精神科疾患戦争犯罪偏執狂汚職役人国家叛逆犯罪「日本病」である。
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c425

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
426. 豊岳正彦[-17250] lkyKeJCzlUY 2023年8月31日 12:46:05 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[24]
<■740行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
「全ては日本人国家資格者の良心にかかっている」
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c323
医師免許弁護士免許歯科医師免許獣医医師免許放射線技師看護師薬剤師検査技師放射能取り扱い免許麻薬施用免許危険物取り扱い免許介護士救命救急士農業免許漁業免許畜産業免許消防士自衛官海上保安官道交法運転免許船舶操縦免
/
許航空機操縦免許各種整備士免許調理師免許旅館業免許劇物取り扱い免許不動産取引免許税理士会計士社会保険労務士行政書士建築士不動産鑑定士建設工事各種免許産廃業免許水道水質管理士電信電気事業者免許電力事業者免許教職免許その他諸々の国家資格保有者は憲法15条全体奉仕責務を負うみなし公務員で
/
ある。公務員とみなし公務員は憲法の言葉で官吏または公吏である。日本国憲法最高法規99条で、「天皇または摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に、「この憲法を尊重し擁護する義務」を負わせた。「その他の公務員」にみなし公務員を明らかに含めている。すなわちみなし公務員も裁判官と
/
ともにこの憲法を尊重し擁護する義務を負う。
あらゆる人間の活動は表面から見れば皆同じである。天皇も死刑囚も息を吸い食物を食べて言動し睡眠する。その活動すべてに人間として全く違いは無い。これはおのおの体が異なってもその体で生きようとする心が皆同じだからである。心が身体活動を決めてい
/
る。これはあらゆる生物において皆同じである。動物には言葉が無く法律が無いが社会を造って生活することに何の支障も無い。これは動物に良心だけしかないからである。日本国憲法76条「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」そして裁判官は憲法
/
99条公務員であるから、最高法規99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員とみなし公務員は、すべてその良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束されることによってこの憲法を尊重し擁護する義務を」果たすことができる。すなわち全て日本国民はおのお
/
の独立して、その良心にしたがってこの憲法及び法律にのみ拘束されてあらゆる活動を行い、この憲法を尊重し擁護する最高度の義務を果たさなければならない。これが最高法規99条の「神聖な責務」である。
みなし公務員と公務員は憲法の言葉で官吏または公吏である。
刑訴法239条2項「官吏または公吏は、
/
その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。」
すなわち最高法規99条に従う刑訴法239条は、「すべて摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員みなし公務員は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。」神聖な
/
責務を表す。
もし日本国民が「良心を捨てて一部に奉仕する」憲法76条違反憲法15条違反の「汚職犯罪」を行えば、直ちに刑法極刑で処罰されると罪刑法定日本国六法全書に書いてある。日本国民にとって最も重要なのは「良心」であることはすでに論を俟たない。
良心あるみなし公務員日本人各位は、自分の
/
職務と関連した汚職犯罪が政府や大企業で行われていると思量するときは、直ちに独立して汚職犯罪告発し、犯罪者を捕まえて罪刑法定で断罪してください。それがこの国を主権で治める国王主権者国民の「神聖な責務」です。
国家資格保有者は日本人としてその良心に従い独立して政府と大企業の汚職犯罪を
/
刑訴法239条2項責務を果たし告発せよ。
このように独立した日本人国家資格者の良心で刑訴法239条2項の憲法責務を果たすだけで日本国から汚職がなくなり戦争と原発事故がなくなれば、それが直ちに世界中から戦争と原発事故を消滅させて未来永劫平和な地球を出現させるのだ。
全ては心が作り出す。
日本
/
人一人一人の「良心」がこの世で宇宙に戦争の無い平和をもたらすのである。

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岸田総理に教えてやろうLGBTラームエマニュエルの本当の目的を。
マイナ保険証はラームエマニュエル悪魔王の日本人臓器売買精神科産婦人科美容外科拝金色欲殺人狂登録ウクライナウイグルシステムである。
豊岳正彦@lyuzhngyn1
https://twitter.com/lyuzhngyn1/status/1688008854364368896
こいつは今臓器売買しやすいような善良でだまされやすい企業や団体を物色して日本国内を治外法権で無料で無銭飲食無銭宿泊無銭旅行してるのさ。
ラーム・エマニュエル駐日米国大使@USAmbJapan
https://twitter.com/USAmbJapan/status/1687970742120615937
広島への原爆投下から78年を迎えました。今日は厳粛な追悼と平和への祈りを捧げる日です。日米同盟の強化、そして両国が共有するビジョンと、平和と繁栄を求めるわれわれの一致団結した思いの実現に向け、今まで以上に励んでいく気持ちを新たにしました。
引用ツイート
ラーム・エマニュエル駐日米国大使@USAmbJapan
·今日は、広島原爆78周年を記念するにあたり、厳粛な追悼と平和への祈りを捧げます。日本との同盟関係を強化し、共通のビジョンと平和と繁栄の一致した追求を実現することに、これまで以上に刺激を受けています。

ぴら太@pirata_mtb
https://twitter.com/pirata_mtb/status/1687636933328203776
信頼回復?
まだやんのか?
これ以上好き勝手やるのいい加減にしてもらえないかな?
・豊岳正彦
岸田は人食い悪魔のラーマエマニュエルに自分の息子娘の臓器を全部生け贄に差し出したいのか。岸田の腹黒い腐った臓器は誰もほしがらんが息子娘と孫の臓器は

岸田ほど腐ってないから外国の人食い悪魔どものよいごちそうになる。マイナ保険証はエマニュエルの日本人臓器売買のための白血球HLA血液型個人データ収集目録臓器売買市場提出の道具なのだ。岸田の子孫は全滅するぜ、それがいやなら今すぐ日米地位協定破棄して即政治家やめて引退しろ。そしたらおまえ

だけは極刑執行を猶予してやる。全財産は没収するし、岸田の親族と政治関係者の全資産も没収し断罪するけど子孫の血脈は保たれる。日本国憲法がラーマエマニュエルを許さんから、日本国憲法が岸田の血脈を護ってやるだろう。まあおまえの勝手だ、好きにするがよい。日本国の主権者国王国民は六法全書で

坦々と国王の憲法15条下僕公務員の汚職犯罪を良心に従い罪刑法定六法で裁くだけだ。
319. 豊岳正彦[-16707] lkyKeJCzlUY 2023年8月06日 14:09:48
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c319
刑訴法
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c222
刑法極刑犯罪
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c135
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c138
林芳正のメガソーラー殺人兵器外患誘致国土不法売却汚職国家反逆罪証拠報道記事
ビッグモーター兼重の岩国基地補助金インサイダー汚職組織共謀共同正犯不正融資国家反逆汚職罪証拠報道記事
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c173
岩国市の特別司法公務員警察官検察官裁判官共謀共同正犯刑訴法239条2項犯罪告発責務違反職権乱用職務怠慢刑事司法公務不実執行汚職国家反逆罪有罪確定
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c222
岩国市の不動産業者による土地取引上の不正な偽計で法益を一方的に侵害する売買契約詐欺不動産業者柏原コーポレーションを刑訴法239条2項違反汚職して告発しない特別司法公務員警察検察裁判官とみなし公務員弁護士を全員共謀共同正犯国家反逆汚職罪で刑訴法239条告発する。
厚労省不法通達による医政局と医者共謀共同正犯の総務省消防隊救急搬送公務執行妨害殺人罪を告発する。
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c228
(1945.8.14岩国大空襲爆弾密度世界一の非戦闘員市民徹底殺戮戦争犯罪)
_____________
ラームエマニュエルがマイナ保険証を死んでも造りたいのは日本人の臓器を海外の金持ちに高値で売り飛ばすためだ。
臓器移植で最も大事なのは適合性で、それは1歳以上の白血球HLA血液型でわかる。
だから健康診断や入院時などにHLA血液型を勝手に無断で調べて登録しておけば海外から注文があったときすかさず適合者日本人を見つけて売買契約を結べるのだ。
あとは牧園に返信したとおり。↓
牧園@general_fand
blog:ameblo.jp/ericap1121/
おまえまだ病院を経営しているふりしてるな。(笑)
豊岳正彦返信
神村法雨
https://facebook.com/permalink.php...

世界中の人食い人種が日本人が食べて最もおいしい極上の肉質を持っていると激賞してるからねw
それは大昔から魏志倭人伝にも書いてある史実だ。
福永晋三先生が推理と実地調査で突き止めた史実である。「真実の仁徳天皇」ユーチューブあり。
youtube.com/watch?v=sG7paYq_Jfg

今最も日本人の敵であるラーマエマニュエルが日本中を回り巡って偽善の各地交流をしてるけど、エマニュエルの内政外交干渉をどう思う?
エマニュエルの目的が日本のマトリックス化だと思ってるなら大間違いだ。
エマニュエルは人食い人種だから本当の目的は臓器売買なのだ、世界一美味な日本人の。

エマニュエルは臓器売買本場中国と親しいしウクライナとも親しい。
乱交パーティやるくらい親しいw
で、臓器移植で一番大事な情報は何か?
白血球HLA血液型である。
これが一致すれば臓器移植が非常に成功しやすい。
日本人の肉質が大昔から一番人食い人種に激賞されているから臓器移植でも一番需要が

大きいのは日本人の臓器だ。
最も高額で取引できる。
大昔から日本人女子が世界中の奴隷市場で最も高額だった。
だからエマニュエルがいろんな内政外交干渉して次々に騒ぎを起こさせて日本をマトリックス化しようとしてるとみんなに思わせているのが、
エマニュエルNHKイスラエルモサド悪魔王の罠なの

さw
人食い臓器売買密売人エマニュエルの本当の目的は運転免許とか税金納入の電子化とか給付金の電子マネーなどじゃない。
1歳以上の赤ちゃんから100歳の年寄りまで全日本人の白血球HLA血液型dataをすべてAIで収集することさ。
こうしておけば世界中の金持ち臓器移植希望者に高額で最も貴重

な日本人臓器を適合させて売りつけることができるのだ。
この時に手先となって臓器移植するのが世界中の西洋医学の精神科と産婦人科と美容整形の外科医者なのさ。w
こいつらは医者じゃない拝金色欲に狂った偏執狂の切り裂きジャックだよ。
ブラックジャックと同じさw手塚治虫だけDSだ。弘兼憲司も。

ラームエマニュエルが全国行脚してるのは品定めのためだ。
いかに餌を撒くか?
今のうちに中国と関係が深い取引先企業に入社させて、マイナカード保険証に白血球HLA血液型のdataを会社の健診で採取する。
そして中国臓器移植市場に売りに出すのさ。
合致適合者が買い上げたら、会社に社員旅行で一週間

遊び放題の中国旅行をプレゼントする。
今ユーチューブで中国の観光地がやたら宣伝してるのはそのためだ。
日本人は貧困化してるから無料の中国観光旅行を断る者はいない。
で、1週間の30~40人程度の団体旅行中に、ターゲットが一人だけ事故で帰国できなくなって、冤罪食らって死刑になるのさ中国でw

こうして最も高額で取引される日本人の臓器が中国の密室で密かに切り刻まれて売り飛ばされる。
血の一滴も無駄にせず高値で売り飛ばす。
だからエマニュエルの本当の目的はマイナカードを保険証と完全に結びつけることなのさ。
それ以外の項目は犠牲にしても、保険証と紐づけすることだけは絶対に達成

しなくてはならない一神教の神様の言いつけだからw
これが悪魔の真実だよ。
秘密にしてるがバカだからすぐに見破ることができる。
日本人の良心は何でも知って何でも見通す仏の知恵般若だから。
良心に従って物事を他に左右されず一人で考えれば皆同じ知恵を得るだろう。
ご先祖様と同じように。

ご先祖様が日本人じゃない外国人なら無理かもしれんがw
ラーマエマニュエルは治外法権だから日本の六法では逮捕できないが、ビルゲイツは治外法権がないし、
エマニュエルの手下は全員日本国籍だから六法全書で全員国家反逆罪で逮捕して極刑で処罰できるのだ我々主権者国民日本国王が。
是が六法全書。
/
神村法雨
https://facebook.com/permalink.php...
ビル・ゲイツが慈善家だと信じている人にはこの動画の意味がわからないと思います。
なぜ?世界中でヒットしているのか?
それはたくさんの被害者がいるからです
新型コロナウイルスは存在証明がありません!
こわいのはウイルスではない!
薬やワクチンがこわいの

です!
これは人口削減計画が予定どおりに
実行中ということです!
目覚めよ日本人!ビル•ゲイツを刑務所へという歌が世界中で大ヒット
 豊岳正彦
その程度の小者じゃ無い。
軽井沢の地下に勝手に要塞化した秘密工場で日本人子女を誘拐してきてアどれのクロムを造っている疑いがある。

あどれのクロムは大昔から一神教悪魔モサドの手で作られていたが、チェルノブイリ原発事故ののちに原発地下に秘密工場を作って世界中から子供を誘拐してきてあどれのクロムを作っていた。
神は子羊の血と肉を最も好むから。
数年前からトランプとプーチンによりそれまでのあどれのクロム製造工場は次々

に暴かれた。
そこでエプスタイン島であどれのクロム中毒になったビルゲイツに命じて、日本の軽井沢に厳重な警護を付けた地下製造工場を建設した。
日本のNHKがイスラエルモサドDS悪魔大王に支配されているから、ビルゲイツに治外法権はないけどラームエマニュエルには二重の治外法権があるゆえ、

日本が最も秘密を護れると考えたのさモサドが。
それまで富士の裾野で富士通があどれのクロムを精製して製品を搬出していたが、トランプ派によって攻撃され破壊されたのでビルゲイツの軽井沢地下がその代替施設でもある。
しかし日本に良心に従う公務員が居れば日本人があどれのクロム製造工場を治外法

権のないビルゲイツを独立検察官職権逮捕して強制捜査で工場を摘発解体できるのだ。
すべては日本人特別司法公務員の「良心」にかかっているのだよ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/598.html

ヒロクライムの中の人@tannokasa5
凄いですね
twitter.com/lyuzhngyn1/status/1687714224112644096
この世で最も生命にとって有害で危険な業種が電力会社だと言うことがこの動画で如実にわかる。送電線に引っかかって危機一髪だった。送電線は全て光ファイバーに切り替えて地中化しなければならない。また海底化しなければならない。もっと言えばそもそも電気など要らん。電気が無くて困るのは電化製品作って売ってるあほ会社だけだろNHKと。手術だって電気など無くても腕で全部手術して治してきた。電気で空を飛ぶ飛行機は皆無。そして電線が地上にあると生き物が皆送電線に引っかかって落ちて死ぬのだ。地上の送電線こそ百害あって一利なし。エアコンは原発と並ぶヒートアイランドの最大の原因だ。エアコンを捨てれば夏の気温は最高32度まで下がる。原発を廃炉すれば海水温が10度下がって魚が戻ってくる。たこでも猿でもわかる。自衛隊海上保安庁山岳救助隊の救難ヘリや飛行機が高圧線に引っかかって墜落して一度に10人以上の人命が失われる。人の命は地球より重い。地上送電電力会社は地球何個分もの賠償金を遺族に支払え。その費用を考えたら送電線を全部光ケーブルに変えて地中化海底化する費用など微々たる者だ。エアコンは家庭から排除せよ。ビルから全部撤去しろ。土の地面と街路樹を増やせば都会も今より15度気温が下がる。冷蔵庫も冷凍庫も要らん。テレビも要らん。戦前までそれで十分やってきた。だから誰も病気にならなくて元気だったのだ。電力会社が万病を造ってる最悪の病原体だ。電話は全部固定電話だけにせよ。携帯電話もスマホも要らん。急ぐなら電報を打て。電話で仕事はなにも出きんからな。これで可処分所得が倍になるのさw
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晴れてよし曇りてもよし富士の山
hougakumasahiko.muragon.com/entry/55.html
山岡鉄舟の考える武士道
山岡鉄舟
当HPは、武士道とは何ぞや?を考える事を目的としている。
しかし、現代人である我々がグダグダ考えても、所詮は武家文化の中にない人間の考える事。推測の域を出まい。
当HPの扱う時代は江戸中期頃としてあるが、実際武士をやってた人の意見を聞けるのであれば、これはもう幕末の人だろうが、我々が想像でモノを言うよりマシだろう。という事で、幕末の人であるが、山岡鉄舟さんの言行録の中から「四恩」を抜粋して紹介してみよう。
ikuji.g.ribbon.to/tesshuu.htm
___________
「四恩」
・・・・
山岡の武士道は、仏教の理より汲んだものである。
それも、その教理が真に人間の道を教え尽くされているからであるという。
まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・智・信とか、節義・勇武・廉恥とか、或いは、剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲など、言い様は様々であるが、これらを実践躬行する人を、一般に武士道を守る人というが、山岡もこれには同意であるとして、自分には尚、人に自信するところがあるという。
「人の、此の世の中に処するには、必ず大道を履行しなければならない。故に其の淵源を理解しなければならない。
其の道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。
此処に於いて初めて無我の無我である事を悟るであろう。
これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻徳を奉謝する事に躊躇しないであろう。
これより武士道の要素であり震源である四恩の大要を物語るであろう。」

一、父母の恩
老幼男女の区別なく、各自で発現本所に立ち返ってみるがよい。
各自の体はみなこれ父母の遺体であって、しいて「我」なるものはない。
我々の体は皆総て父母の骨肉の分子である。
今もしこれを父母に返還してしまったならば、更に一物も「我」というべきもののある道理がない。
このように道理をわきまえてくれば、我が体は全部「我」のものでないという事が明瞭ではないか。
このようにしてようやく発育したのは、父母の恩愛の結合物であって、その結合物の活動するもの、すなわちこれが各自の体である。
故にその父母の恩愛の慈悲精神を除き去れば、只一つに「我」というもののあることはない。これがすなわち無我の真理ではないか。
このように論じくれば、各自が体、皮肉、支節、髪膚は今此処に一個として発現しておるも、深く其の理を窮めれば、これは皆、あげて父母身体の遺物と自覚するであろう。
各自この理を悟るならば、深く無我の理を悟り、父母の鴻恩を思えよ。実に広大無辺ではないか。
これらを悟ったならば、我が心身は常に父母の心身と覚悟し、決して他念があってはならない。これがすなわち武士道の発現である。これがすなわち転地道徳の根源である。人の大道である。
それゆえに我と父母とは別体の如くであるが、同心である。
この様にして同心一体の情をなして、共に共に現世を送るべきである。
これを名づけて父母の恩愛を奉謝するといわれている。
これをすなわち武士道と申す。

二、衆生の恩
我々の社会の状態を見られよ。
家族相寄り、僕従相集まり、互いに相愛する情により一家となり、一村、一郡、一国に及び、遂に広く東西万国に至るまで、たれか相助け、相頼むの因縁を持たないものは無い。
よくよくその相関連するところの情理を考究すれば、一人の一挙手一投足の所作も、その及ぼすところの影響は、世界東西に広がる事明瞭なる事である。
これらは既に今日の社会学などの証明するところである。
まずこのような因縁ある事を思えば、今自信と父母、親類家財を保持して、現世に安住するいわれは無始より以来、無量の一切衆生相寄り助け、共に愛護して、或いは父母となり、或いは子となってもって済世をまっとうするものである。
もし一切衆生が無いならば、例え一家であっても成立しないであろう。
親子何によって安穏を得るであろうか。
国家何によって成立することを得るであろうか。
この様にこの理を窮めくれば、兄弟・姉妹・親類・友達・僕婢・禽獣に至るまで、一切の有情(生類)は皆残らず父母の思いをなして、これに慈悲報恩の思いを忘れてはならない。
だから六道(天人、人間、畜生、阿修羅、餓鬼、地獄)の衆生は、皆これは我が父母と思わねばならぬ。
もし父母にして前生(前世)に我を教える事がなかったならば、どうして我今人間界に生を受けた善因を得る事が出来たろうか。
必ず三途に迷うて今日あるを得ず、我今父母の子となって前果福祉を持つ事を得たのは、全く前生宿善の因縁であって、これは即ち父母所生の恩、一切衆生の恩顧によっているのである。
この理を了解して常々衆生縁の慈悲をもって、一切衆生の恩顧なる事を心得て、報恩利斉の義を務めなければならぬ。

三、国王の恩
国王の恩について説明しようというについては、我ら日本人の最も耳を傾けて謹聴しなければならないところである。
然るに拙者が四恩という事を武士道の前提に説いておく事は、武士道発現の要素であるから、いずれも先ず、そのごく大要だけを示し置くのである。
鉄太郎謹んで釈尊の御説法を拝聴するに、一切の衆生「国王を以って根本と為す」事、恰もこれは殿堂の柱の様だとある。
一切衆生の善因は国王によって成立すべきものである。
もし国王の保護、恩愛がなかったならば、一切の善果は成立する事が出来ない。
況して一切の善王は前世既に菩薩の三聚浄戒を受持し給い、一切衆生を憐愛せられ給いし三世因果の功徳によって、その原因の果実として今この国王の尊報を得させ給いしものであると述べてある。
ああ、尊く畏れ多き次第ではないか。
この様な至尊の理を弁えたならば、我々如き悪世界の凡人、誰か帝王の尊厳を忘れて私利を欲しい儘にする事が出来ようか。
是非とも帝王を尊敬して報恩の誠意を尽くさねばならぬ。
況して我が本朝の如きは、畏れ多くも皇祖皇宗は遠く神代に於いて、万姓の開始であらせられ、偕に日本民族の始宗、即ち祖宗であるので、我々日本民族は元より、忠孝二途の別なくして天壌無窮の神宣を信奉して、皇運を扶翼し古往今来幾千万年億兆心を一つにして死ぬるとも二心であってはならない。
これは我が国体の精華にして、日本武士道の淵源実にここにあり、日本民族の方針実にここにあるのである。

四、三宝(仏・法・僧)の恩
扨、以上説明したとおり、父母その他一切衆生及び国王の宏恩である事は、言語上の理屈だけは幾らか承知せられた事と思う。
然るにそれら諸理屈はどこから来るか、これが大切である。
この道理を教示し給いしお方は誰であろうか。即ちそれは三宝である。
三宝とは、一つには仏、二には法、三には僧、しかして最も武士道の発現地は法(真理)である。
法は諸仏能生の母で、諸仏の師とし給うところで、其の理の広大なる事は、凡俗輩が容易に領得する事の得難い道である。無色、無形にしてまた容易に知るところでない。
然れども、天地に満ちて塞がらず、言行の間にあって休まず、天道といい、真如と称え、真如実相と名付け、法性、心性、仏性と名付けるのである。
よってこれに随順奉行するのを至善ともいい、道徳とも称えるのである。
下には父母、親類、その他一切衆生の恩を受け、上には国王の宏恩によってこの世に存在すると雖も、もし内に生まれながらに持った仏性を開発して、外に十善の正道を教示し給うものがなかったならば、ただ禽獣と差別する事は出来ない。
このような有様では、何によって安心立命の大盤を求める事が出来ようか。
然るに我等は、幸いにも仏教流布の国に生まれ、三世因果、善悪応報の欺く事の出来ない教理を被る事を得て、家庭に、国家に、社会に、吉凶の典礼、交際の信義、千載伝わって国風をなし、上下敬愛、慈悲道徳のいたって重要なる事を知り、強慾・私情の恥ずべき事を悟り、貪・瞋・痴の三毒は身を焦がす熱火であり、小慾知足は家を富ますの福音なる事を信じ、父祖の遺伝、応化作用により、諸般の節義・感情・風俗をなして習慣を作った事、悉く仏教の教理薫陶の賜でないものはない。
三宝の如きは、凡俗輩の了解に苦しむものであるが、まず手近く論ずれば、己の心は心そのものの生まれつきで、他に求めるべきものではない。
一切の衆生は等しく用足りて、欠陥がないとはいっても、無始無明の妄想にとり憑かれてこれを理解しないので、諸仏、菩薩、諸天、善神即ち皇祖、皇宗大神その他八百万神は、正しくこの理を覚悟し給い、我等凡俗の為、百方力を尽くさせ給い、其の方便道をもって種々の形像を表し、諸種の言語をもって、三毒五慾を除き、無我の真理を開示し給い、忠孝仁義の事瞬時も忘れてはならない事を教示し給うた。
見られよ。世人が神と尊び、仏と敬う尊称はただその形の上の称号にて、その実体に至っては神仏一体一貫の道である。そうして今日の我等凡人は諸神諸仏の作り給うた慈悲深恩の内に恵みを受ける事、此処に幾千年であるか。そうして東方君子国の威名を保ち、現に我が国民が世界に闊歩しても恥じない理由は、即ちこれが為である。
我々は深くこの教理に向かって感謝の意を表すると共に、厚く三宝を尊信して、遍く法界の衆生にこの教益の恩沢を施す様心掛けねばならない。
これが即ち日本武士道の発覚所である。また発達地でもある。
なんと由来の深遠広大なものではないか。このような道理がなお理解せられないという連中を見れば、拙者は一層不憫でならない。実に憐れむべきものと思われてならない。
・・・・
___________
という訳である。
言行録の他の箇所を読んで見ても、この「四恩」程纏めあげられた武士道論はない様である。まあ、紙面(?)の関係もあって、引用はこの程度にしておくが。
仮に他の部分の引用をしたとしても、どうもこの鉄舟さんの思想は、かなりな尊王思想に偏っており、読んでいっても、「ちょっとそれは武士道とは関係無くて、只単に武士道の話に託けて天皇万歳と、世間に対する愚痴を喋ってるだけなんじゃねえんか。」という疑いが頭を擡げてきそうな話ばっかりである。
とか思っていると、上述の如く「この話の分からん奴は不憫な奴」「実に物知らずだから、拙者が漸次説き伏せよう。」とか怒られるのである。
因みに鉄舟さんがそういう人を説き伏せた逸話は載っていない。
総体、鉄舟の武士道観は、「皇室を中心としてわが国に発達した特殊道徳」であるといってよい。
それはある意味間違いではないのだろう。しかし、常朝「葉隠」の様に「奉公奉公」と二言目には言うタイプの武士道論とは全く趣を異にする。
この言行録を古本屋から買ってきて、再び世に出したこの本の著者も
「鉄舟の武士道も、もし学問的な、思想史的な研究書として見ようとするなら、寧ろ欠点だらけであり、ナンセンスでさえあろう。」
としながらも、
「『旧武士』を脱皮して『新しい武士』として生まれ変わろうとする、其の思索の過程の記録として見るならば、これほど貴重な文献はまたとない。」
と言っている。
ところでこの本は、鉄舟言行録の章毎の末尾に、「勝海舟評論」というのが付いている。
鉄舟の言動に対して、海舟がイチイチ評論するのだが、勿論海舟が鉄舟の言動に反論する事など皆無である。
寧ろベタ誉めと言って良い。
海舟は、鉄舟とほぼ同等の価値観を持っていたと判断して差し支えないものと思われる。
(同書には「鉄舟と海舟の武士道観の違い」と題して、頑固な鉄舟の武士道と、流動的な海舟の武士道の違いを挙げてはいるが。)
一方、鉄舟と西郷南州が互いを人物として評価し、またプライベートでも付き合いがないではなかった事は知られている。
無論海舟も、南州の事をベタ誉めしているのは言うを俟たない。
この三人は従って、当時「武士として斯くあるべき」という理想に於いてほぼ一致していたのだろう。
んで、その一角の海舟が、福沢諭吉の事をけなしている箇所があるのが面白い。
一方で幕末の英雄的扱いを受けた人間が、現在一万円札の顔にもなっている、超人気者の福沢さんをけなす・・・。
一種爽快感をも覚えるこうした言動を読めるのも、この言行録の面白いところである。                                       
(了)
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c322
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「全ては日本人国家資格者の良心にかかっている」
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c323
医師免許弁護士免許歯科医師免許獣医医師免許放射線技師看護師薬剤師検査技師放射能取り扱い免許麻薬施用免許危険物取り扱い免許介護士救命救急士農業免許漁業免許畜産業免許消防士自衛官海上保安官道交法運転免許船舶操縦免
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許航空機操縦免許各種整備士免許調理師免許旅館業免許劇物取り扱い免許不動産取引免許税理士会計士社会保険労務士行政書士建築士不動産鑑定士建設工事各種免許産廃業免許水道水質管理士電信電気事業者免許電力事業者免許教職免許その他諸々の国家資格保有者は憲法15条全体奉仕責務を負うみなし公務員で
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ある。公務員とみなし公務員は憲法の言葉で官吏または公吏である。日本国憲法最高法規99条で、「天皇または摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に、「この憲法を尊重し擁護する義務」を負わせた。「その他の公務員」にみなし公務員を明らかに含めている。すなわちみなし公務員も裁判官と
/
ともにこの憲法を尊重し擁護する義務を負う。
あらゆる人間の活動は表面から見れば皆同じである。天皇も死刑囚も息を吸い食物を食べて言動し睡眠する。その活動すべてに人間として全く違いは無い。これはおのおの体が異なってもその体で生きようとする心が皆同じだからである。心が身体活動を決めてい
/
る。これはあらゆる生物において皆同じである。動物には言葉が無く法律が無いが社会を造って生活することに何の支障も無い。これは動物に良心だけしかないからである。日本国憲法76条「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」そして裁判官は憲法
/
99条公務員であるから、最高法規99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員とみなし公務員は、すべてその良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束されることによってこの憲法を尊重し擁護する義務を」果たすことができる。すなわち全て日本国民はおのお
/
の独立して、その良心にしたがってこの憲法及び法律にのみ拘束されてあらゆる活動を行い、この憲法を尊重し擁護する最高度の義務を果たさなければならない。これが最高法規99条の「神聖な責務」である。
みなし公務員と公務員は憲法の言葉で官吏または公吏である。
刑訴法239条2項「官吏または公吏は、
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その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。」
すなわち最高法規99条に従う刑訴法239条は、「すべて摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員みなし公務員は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。」神聖な
/
責務を表す。
もし日本国民が「良心を捨てて一部に奉仕する」憲法76条違反憲法15条違反の「汚職犯罪」を行えば、直ちに刑法極刑で処罰されると罪刑法定日本国六法全書に書いてある。日本国民にとって最も重要なのは「良心」であることはすでに論を俟たない。
良心あるみなし公務員日本人各位は、自分の
/
職務と関連した汚職犯罪が政府や大企業で行われていると思量するときは、直ちに独立して汚職犯罪告発し、犯罪者を捕まえて罪刑法定で断罪してください。それがこの国を主権で治める国王主権者国民の「神聖な責務」です。
国家資格保有者は日本人としてその良心に従い独立して政府と大企業の汚職犯罪を
/
刑訴法239条2項責務を果たし告発せよ。
このように独立した日本人国家資格者の良心で刑訴法239条2項の憲法責務を果たすだけで日本国から汚職がなくなり戦争と原発事故がなくなれば、それが直ちに世界中から戦争と原発事故を消滅させて未来永劫平和な地球を出現させるのだ。
全ては心が作り出す。
日本
/
人一人一人の「良心」がこの世で宇宙に戦争の無い平和をもたらすのである。

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日本病最深部病根奇形司法を憲法と刑法で根治する。
youtube.com/watch?v=n0cDs1TWHaw
証券会社トレーダーの正義は金儲けだけである。トレーダーに市長をやらせれば市は不良債権として外資に売り飛ばされる。三権分立で最上位は国会市議会、最下位は内閣総理市長だ。憲法を知らなければ売国奴犯罪者にしかなれない。このような公務員汚職を告発せず隠蔽する司法の汚職が最も罪が重い。以下のようにして憲法76条違反汚職司法を刑法極刑断罪する。

特別司法公務員岡田総司裁判官の刑訴法239条2項責務違反憲法76条違反汚職判決重大刑事犯罪を刑訴法239条告発する。
hougakumasahiko.hatenablog.com/entry/2023/08/24/145450

岩国市山手町1丁目16−35は岩国市役所前の市内一等地。
角地であり地価評価額は高い。
1985年170坪角地で銀行の評価額は2億2000万円(隣接の中間土地クリーニング店が80坪を1億円で売却した)。

2000年に父の死後17年間独居を続ける70歳老母の面倒を自分で見るため水戸から岩国へ帰ってくる前に岩国信用金庫で170坪角地を抵当に入れて7500万円の融資を受けて開業資金(改装工事費医療機器購入費当座の運転資金薬剤購入費等節約したw)とした。

2019年9月に母の死後閉院を考え岩国市で最も堅実な不動産鑑定士の田中優氏に170坪角地を評価してもらい、7500万円であった。20年前より不動産評価額は岩国市内の市役所建て替えや道路建設の公共土木工事ラッシュのため路線価が上がっているはずだが、開業で金儲けするのは目的外だからまあよしとした。

2020年3月に柏原コーポレーション柏原伸二会長と面談して5000万円で土地建物を売却し、3年間家賃毎月60万円払って病院経営を続ける。1年経ったら柏原コーポレーションが自由に立ち退きさせることができる。賃貸契約は最長3年で終了し、建物を壊して更地にして引き渡す費用約1000万円は私が負担する。と

いうリースバック契約を結んだが、翌日銀行で契約した時貸主は会長の息子の柏原規孝柏原コーポレーション現社長であった。w

あらゆる契約で法益の平等が最も重要である。
「憲法12条この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
契約締結する(した)両者はそれぞ

れ憲法が保障する個人の法益を互いに尊重して、法治社会公共福祉社会の公序良俗を乱さぬよう、契約内容の法益の平等に留意する責任を共に負うのである。
この法益を一方的に侵害すれば、直ちに刑事犯罪である。

本契約は時価7500万円の不動産を柏原会長が5000万円で購入して3年間家賃60万円36か月分=2160万円回収し、さらに更地にする費用1000万円を私が負担するので、評価額7500万円の土地を3年で5000万−2160万−1000万=1840万円で手に入れることになり、このリースバック契約の法益は明らかに柏原会長が一方

的に6000万を超える一方的な利得を得ており、私の法益を極端に侵害しているから、法益の侵害不動産取引売買契約詐欺といういわゆる地上げの重大な反社会的刑事犯罪が確定するのだ。

刑訴法239条2項官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。により、特別司法公務員警察検察裁判官はその司法公務を行うことによりこの詐欺犯罪を告発しなければならない特別司法公務員責務がある。

しかるに岩国地裁裁判官岡田総司と書記官金子勝也は初審の呼び出しに応じた私が裁判所で、この裁判は民事ではなく刑事裁判相当だから原告の訴えは認められない。裁判所は刑訴法239条2項責務を果たせと裁判官に告知したにもかかわらず、公務員犯罪告発責務を怠って第一審で控訴も認めず確定判決した

ことで、特別司法公務員憲法76条違反刑訴法239条2項犯罪告発責務怠慢職権乱用汚職の重大刑事犯罪が岡田総司に確定した。

みなし公務員弁護士もみなし公務員不動産建築免許保有建築業者も、国家資格を有する者は官吏公吏と同じく刑訴法239条2項の職務上知り得た犯罪告発責務を負うのであるから、
裁判官岡田総司書記官金子勝也原告弁護士奥憲治及び柏原伸二の四名を、
不動産売買契約詐欺共謀共同正犯として刑訴法239条告発する。

特別司法公務員警察検察裁判官は憲法15条及び憲法76条に従い、刑訴法241条242条公務を汚職なく執行せよ。
汚職は刑法25章違反の重大刑事犯罪である。時効はない。

「岩国市の特別司法公務員はすべて憲法15条と憲法76条に従い、刑訴法239条2項責務を汚職なく果たせ。汚職は刑法違反の重大刑事犯罪である。」

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石井 史郎·
facebook.com/search/top/?q=JAL123
米軍に支配されているということ。
https://scontent-itm1-1.xx.fbcdn.net/.../369052920...
杉浦 健一
8月22日 5:17 ·
世界を圧巻していただろう日本製OS『 トロン 』の開発者たちが搭乗していたこの機体を戦闘機からのミサイルで撃墜、そして『 プラザ合意 』、事故とされた機体(米国ボーイング社製)を使用し続ける背景
【 毎年、繰り返される日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者への追悼の影に「隠されている事」】
毎年、繰り返される日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者への追悼の儀式。
1985年8月12日に起こった、日航ジャンボ機墜落事故に関しては、旅客機の機器の故障説やエンジントラブル等、諸説の原因が言われ、日航側は既に死者への賠償に応じている。
現在、日本、韓国、ハワイ、グアムに駐留する米軍基地内で、米軍の機関誌として読まれている「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」という雑誌の85年8月27日号には以下の内容の記事が掲載されている。日航ジャンボ機墜落事故から、わずかに2週間後の発行日付である。
「日航ジャンボ機墜落事故当時、横田基地に配属されていた米空軍の輸送機U130のパイロット、マイケル・アントヌッチ中尉は以下のように証言する。
『事故当日、空中戦の演習を行っていた米軍練習用戦闘機から事故が起こったとの緊急無線が入り、一番近くを飛行していた私のU130輸送機が事故現場へ救出のため急行した。
いつものようにアメリカ空軍の練習用戦闘機が、日本の民間旅客機をターゲットにミサイル発射のシミュレーション演習を行っていた所、安全装置が解除されている事に気付かず、実弾ミサイルを日航ジャンボ機に命中させてしまった、というのが無線の第一報の内容だった。』 
この空軍中尉マイケル・アントヌッチは、日本政府から奇妙な事に『緊急の救助のために現場に行かなかった事、第一報の無線も聞かなかったと発言するよう要請された』と語っている。」
この現役アメリカ空軍中尉の証言は、米軍機が「動く格好のターゲットである日本の民間旅客機」、つまり日本人をターゲットに日常的に「撃墜演習」を行っている事実を示している。
これが、日本に米軍基地がある、という事の意味である。
なお、日航ジャンボ機を撃墜した米軍戦闘機のパイロットが、事故ではなく、「何者かの命令によって」意図的に、ミサイルの発射安全装置を外していたのか、どうかは、「闇の中」であるが、このパイロットは事故の責任を取り処罰される事は無く、その後「不思議な事に、順調に昇進」している。
【 知ってはいけない 】JAL123便墜落の真相‼
https://vybzscope.com/2021/02/12/post-14942/
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Masahiro Minami
トロンはちゃんと開発されてきた。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/TRONプロジェクト
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豊岳正彦
それ杉浦健一氏に言え。俺には関係ない。俺はJAL123を撃墜した犯人がNHKだと言ってるだけだ。NHKはモサドだからCIAの親玉だよ。

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1)
処理水は通常運転原発の汚染水とは全く異なる由来の物です。ご存じの通り福一では原子炉隔壁がメルトダウンして、通常絶対に大気中へ放出されてはならない原子炉内核物質がベントや隔壁融解により原子炉の外に放出された多種類核種核物質が大気中に放出されて、冷却水そのものに混入した水をトリチウム除去してトリチウムレベルだけ下げて処理したものを「処理水」と呼んで、海洋放出を強行したということです。これに世界中が猛反発しました。海に国境がないからです。通常の隔壁が破壊されてない原子炉を隔壁ごと冷却する水のことを汚染水と呼びます。原子炉は内部の核分裂反応の結果非常な高温の発熱体となるので、その高熱を利用して原子炉の外郭の水を高圧水蒸気に変えてタービンを回して発電するのです。タービンを回した後の水蒸気は冷却されて再び水に戻って、再び原子炉の外郭で高圧の水蒸気となってタービンを回して発電する。この過程を繰り返すと、原子炉内で核分裂反応が起きたときに発生する中性子線が隔壁を透過して水分子の水素原子核内の陽子を通常の一つから2つの重水素、さらに3つのトリチウムに変化させて、水素原子そのものが放射能を獲得する。これが放射能汚染水で、この水の中の放射性核物質はトリチウムだけというわけです。原子炉は非常な高熱を発するから、水はすぐ水蒸気になってなかなか冷却できないので、原子炉と汚染水を冷却するために大量の淡水が必要となる。故に原発の立地は大きな川のそばまたは水が枯れない湖や氷河のふもとや氷河の中に建てなければならない。水は中性子線を遮断するため原子炉の放射能を防護できる。この冷却水が停止すると24時間以内に原子炉内部でメルトダウンが発生する。これが福一のレベル9事故です。さて処理水がトリチウムゼロレベルだというなら、世界各国が皆反対する海洋放出をやめて、上水道で使えば何も問題がありません。日本政府は直ちに国連総会へ行って、我が国のデータを示し、海洋放出を決めた根拠を世界中の万人にわかるよう説明する地球と人類社会に対する責務を果たさねばならない。そして世界中から科学者を集めて、100人以上のチームを2つに分けて、福一の前で放射能を測定しながら、全国の原発の海洋放射能と、全国の地面の放射能汚染度を、詳細なデータで測定してもらう必要がある。1か月もあれば全てデータがそろいます。その間処理水はすべて各都道府県の官公庁舎で上水として建物内の水道で完結して消費すること。岸田政府三権公務員もすべて処理水を上水で使うこと。安全なら自分が飲んで証明すること。各都道府県の水道局で上水として使えるか確認すること。もちろんベオリア社も上水道の水質検査施行して正確な測定結果を国会と国連総会に提出して、なおかつ処理水を上水としてベオリア社の職員だけで完結して使うこと。これら簡単な対策ができないなら、処理水海洋放出は、刑法146条に違反する、組織的な殺人罪が有罪です。1か月で結論が出ます。刑法責任を問うか問わぬかも同時に結論できます。政府公務員とみなし公務員の刑事責任を。
2)
世界中のすべての原発は、核兵器製造工場であるにすぎません。原子炉内で生成する核物質のうちでもっとも大量に得られるのは、プルトニウムです。原子炉燃料はウランですが、ウランを濃縮しなければ原子炉燃料はできない。濃縮する過程で大量に発生するのが劣化ウランです。これも大気中に存在してはならない放射能物質です。イラク戦争でアメリカが大量に使った劣化ウラン兵器で、イラクの人々がいかに苦しめられているか、またイラク戦争に参加したアメリカ軍人が劣化ウラン兵器の放射能でいかに苦しめられているか。広島原爆はウラニウム爆弾で、これは原発を稼働しながら一瞬で隔壁破壊したと同じ放射能を地上生物に浴びせたと同じことです。セシウムやコバルトやストロンチウムなど半減期が1万年単位の放射性核物質が広島の人たちを人体実験標本にしたのです。アメリカ政府の政策によって。長崎はプルトニウム原爆です。これは原子炉な中でもっとも大量に発生する放射性核物質をそのまま爆弾として用いた。そしてトルーマンは広島長崎共に75年は草木も生えないというハルマゲドン妄想をNHKを使って全世界にプロパガンダして、原爆製造特許を独占しようとしたのです。これがモサドです。実に卑怯で実にあさましい良心のかけらもない鬼畜外道ではありませんか。しかし日本の海と雨の水が放射能を塩分に満ちた海水に洗い流して、草木国土は直ちに回復しました。この浅い海のしょっぱい塩分と海藻や川の水に含まれる大量のビタミンCビタミンBをいっぺんに摂取できる「塩の利いた手作りの味噌」を、長崎の肥田舜太郎先生がヒバクシャみんなに被爆直後から大量に用いて、広島もすぐにそれに習って、日本の国土と海の放射能デトックス能力を人体に応用することで、広島セシウムも長崎プルトニウムもすぐに大人の人体から排除され、そのヒバクシャの大人たちの力で広島長崎ともすぐに復興することができたのです。日本の国土と国民の先祖代々伝統の知恵が原爆からたちまち回復する力の源泉だった。だからこそ却って原発が核兵器製造工場以外の何物でもないことが証明されるのです。
3)
日本の臨海原発は熱水を海に流すことで日本国土全体をヒートアイランド化して豪雨災害の原因となっています。直ちに日本の臨海原発をすべて石棺化して廃棄せねばならない。原発廃棄跡地に天然ガス火力発電所を建設し、送電線を全部光ケーブルにしてすべて地中化して送電すれば電力損失が20%減ります。高圧線による事故も無くなり、街中の電柱と電線による事故の災害停電も消滅し、送電線の保守という人命を危険にさらすだけの危険な仕事も、それによるけがも病気もなくなるのです。病院は必要ないですね。救急外科以外。
4)
一寸脱線。このように原発はすべて核兵器製造工場です。現在福島県にワクチン製造工場が政府によって建設されようとしているが、すでに世界中で明らかになったように、ワクチンも殺人兵器です。故に原発とワクチン工場は同じ軍事工場です。原発をそのままにしておいてワクチン製造工場だけいかに建設反対しても全く無駄です。もともと原発とワクチンの製造過程はセットだから。ワクチン工場にだけ反対しても原発に反対しなければただのパフォーマンスで、モサドにいいように手玉に取られるだけで、ワクチン工場を建設してしまえば用済みになる、しまいには冤罪で処刑されるだけです。ワクチン工場はほっといて臨海原発廃止石棺化させる国民運動を世界中の人の目の前で展開しなければならない。閑話。
脱線ついでにもう一つ。福一の放射能汚染土を国会で大ウソ演説して日本全国にばらまいて焼却させ、焼却灰の放射能を全国国土にバラまいた犯人が東大児玉龍彦。コロナウイルスが存在確認できてない時点でキャリーマリスが禁止したPCR検査を国民全員に強制してコロナ感染症の診断を確立せねばならないと大嘘八百真っ先に叫んだのも東大児玉龍彦。放射能もワクチンも戦争殺人兵器。よって児玉龍彦は世界最悪の極悪戦争犯罪ジェノサイド詐欺テロ兵器無差別大量殺人の罪が有罪です。閑話2.
閑話3.
ParsTodayJapanese【公式】@ParstodayJ·Aug 28
🇸🇾#シリア の一部を占領している🇺🇸米軍は、地元民兵組織の協力を得ながら、歴史遺産の略奪や破壊行為を行っています。米軍はシリア北東部を占領しており、28の基地を設置しています。地元民兵組織「シリア民主軍」はその手先として活動しています。👇
https://parstoday.ir/ja/news/middle_east-i118160
豊岳正彦
ソ連がヤルタ会談の密約通り1945年8月9日に対日宣戦布告して日本が支援する満州国を軍事侵略して、8月15日玉音放送で日本軍が全軍一方的に大陸の戦場で武装解除して、ソ連軍は玉音放送のせいで武装解除した日本軍に一方的な虐殺テロを仕掛けた。そしてシベリアに虐殺しきれなかった日本兵を強制労働用

奴隷として連れ去った。そののちいよいよヤルタ会談の約束通り北海道を自国領土として奪取するはずだったが、実は日露戦争でバルチック艦隊全滅させられて以来海軍力がソ連には皆無だったのだ。海が渡れなかったソ連軍を軍艦や上陸強襲艇に乗せて樺太から稚内へ、千島列島北端から知床まで海路南下させ

たのはアメリカ軍である。すなわち北方領土を違法に奪取したのはソ連軍だと皆思っているが、実はアメリカ軍がソ連軍を北方領土に運んで不法占領させた真犯人国際法規違反戦争犯罪者である。樋口稀一郎中将率いる本土防衛軍が、アメリカの不法な戦争犯罪テロ攻撃から北海道本土を死守したのである。

つまり、北方領土でも国際法規違反の戦争犯罪人はアメリカ軍司令長官マッカーサーである。また8月15日中国大陸で国際法規違反の戦争犯罪テロが行われたが、それは大英帝国陸軍元帥ヒロヒトとアメリカ太平洋艦隊司令長官マッカーサーとソ連スターリンの三者共謀共同正犯である。
つづく。


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ロシアのテレビで放送された安倍元総理のインタビュー (ロシア語吹き替えなしのビデオが見つからなかったので、日本語→ロシア語→英語→日本語という過程を経た結果の字幕です。安倍さんの実際の言葉とは多少異なります。)
いつ放送されたのかは不明。
https://odysee.com/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE...
・・・・・
プーチン大統領 トベリ州墜落機の遺族に哀悼の意
sputniknews.jp/20230825/16901558.html
豊岳正彦
tobimono2@tobimono2
ニジェール軍事政権、
新米国大使、ドイツ大使、ナイジェリア特使に48時間以内の退去命令。フランス大使にも。
フランスはニジェールに大使を追放する権限はないと発言。
twitter.com/tobimono2/status/1695236065479774531
Quote Insider Paper@TheInsiderPaper
JUST IN - Niger junta ask new US ambassador to leave the country in 48 hours
·
豊岳正彦@lyuzhngyn1
ニジェールが世界中のPCに必要なレアメタル鉱山がある国で、基本はフランスが植民地奴隷国にしていた、若きニジェール人将軍が政権を取って、これからニジェールの資源で得た収入はすべてニジェールの国民が使う、そのためにドル貿易ユーロ貿易をやめてBRICSと連携すると宣言した。ワグネルは、ニジェ

ールで将軍の脱ドルユーロ決済独立援助勢力として活動する予定だった。ぬーらんどはニジェールでそれを察知してロシア国内のぬーランドスパイを使ってブリコジンを暗殺した。ブリコジン暗殺犯人はぬーランドである。

ぬーランドがブリコジンを殺害したことで直ちにロシアはドルを崩壊させる選択をした。麻生太郎よ、今すぐドル国債500兆円を一括売却せよ。ドルは2〜3週間で紙くずになる。

ドルを崩壊させればウクライナも戦争で借金した莫大なドルユーロ借款を返す必要が無くなるのだ。

日本があげた20兆円をウクライナの復興に役立ててもらうために、円がドルと一緒に紙くずに成らぬよう麻生太郎は直ちにドル国債500兆円を一括売却せよ。そうすれば20兆円が実質60兆円以上の価値を持つので、ウクライナは自力で国を建て直すことができる。ウクライナの国家予算は去年総額20兆円だ。
・・・
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c426

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
427. 豊岳正彦[-17294] lkyKeJCzlUY 2023年8月31日 20:44:55 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[25]
日本が国連安保理に入らず吉田幕僚長如き政治にかかわることを憲法66条で厳禁する軍人の言う通り閣議決定すれば憲法9条違反憲法98条違反であり憲法99条違反であり、日本政府公務員全員憲法9条違反国家叛逆外患誘致罪汚職極刑犯罪が確定する。日本国憲法前文により日本を統治する主権者は国民。憲法15条公務員を国民固有の権利で選定して国民全体に奉仕させる。国民全体に奉仕している公務員は自衛隊員消防隊員海上保安官のみ。国民に奉仕すべき政府が国民に反逆するなら、憲法9条と憲法15条に従い憲法99条責務を果たす自衛隊員消防隊員海上保安官が主権者国民と国土を守るために反逆者を全員逮捕し刑法極刑処罰する。
また国連総会は国連憲章に従い吉田統合幕僚長を直ちに国連憲章違反戦争犯罪者として国連刑事司法裁判所に刑事告発し直ちに国際テロリスト戦争犯罪人として処罰することができる。国連総会の個人犯罪を裁く刑事司法裁判に安保理常任理事国の反対も賛成も必要ないね。
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c427
[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
428. 豊岳正彦[-17308] lkyKeJCzlUY 2023年9月02日 10:52:53 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[26]
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「ガザのこどもが安倍晋三の兵器で殺された」更新
2014.7.30
nueq labさんへ書きましたhttp://nueq.exblog.jp/22984246/

これを見て欲しい。
https://twitter.com/ge_jitsukaKUMA/status/488352533018980352/photo/1
篠原 勝之
‏@ge_jitsukaKUMA
ガザの少女の言葉。「米国やイスラエルに兵器を売らないで下さい。その兵器が私達を殺します。日本の人々がいい人達だと、私は信じています」【日本が「死の商人」にー安倍政権、武器輸出三原則撤廃を目指す(志葉玲) 】…

>敵を欺くには先ず味方から
私は敵を欺くためにこの子たちを安倍がイスラエルへ売った武器で殺したくない。

そしてこれが公人たかが主権者国民の下僕公僕の一匹に過ぎぬ下賎脱税パチンコ屋下郎安倍晋三外道が為したことです。
https://twitter.com/higa0818/status/488517513181798402
【脱原発と反戦の闘いはネットで進化する】
‏@higa0818
【今年5月、日本とイスラへル共同声明ー準同盟国になった】 集団的自衛権を急ぎ、安倍はイスラエルへ白リン弾・ロケット技術(三菱)などを輸出し、サイバー技術などを輸入・・・

(上記2つともふじふじのtwitterから)
https://twitter.com/fujifuji_filter

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「イスラエルよ悪を為すな」
http://hidenori1212.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-96c3.html#comment-97819437

釈尊の言葉
「世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。」
「母と父とは子らに対して多大のことをなし、育て、養い、この世を見せてくれた。」
「母、または父が老いて朽ち衰えていくのを養わないで、自らは豊かに暮らす人、これは破滅の道である。」
「親の義務とは、子を悪から遠ざけ、善に入らしめ、技能を習学させ、適当な妻を迎え、適当な時期に相続させることである。」
「子らは、すみかであり、妻は最上の友である。」
「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも、自己は愛しい。故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」
「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」
「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。」
「世界はどこも、とどまってはいない。すべての方角も揺れ動いている。私は、安住の地を求め探したが、どこにもなかった。すべて、死や苦しみにとりつかれている所ばかりだった。殺そうとしている人々を見よ。武器をとって打とうとしたことから恐怖が起こった。すべてのものは、燃えている。欲望と怒りと愚かさによって。」
「怨みは怨みをもって止まず。怨みを捨ててこそ止む」
「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」

われわれ聖徳太子以来仏教徒日本人がガザの子どもたちのために日本の国内でできることは?
出先のコンビニから(自宅周辺ではなく)FAX大作戦で駐日イスラエル大使館へFAX送信し、イスラエル大統領と首相宛に「こどもたちを殺す軍事攻撃という悪逆非道をただちにやめなさい」と直に叱責することです。

電話も自宅電話や携帯電話ではなくどこか出先の公衆電話を使って電話しましょう。これらはすべてあなたの個人情報を官憲ユダ金CIAの探索から守るためです。

文面や話す内容はこの投稿をそのまま用いてすべての文責を我が馬の骨に負わせればよい。

参考「不正選挙FAX大作戦」
http://blog.goo.ne.jp/kill_me_deadly/e/8e8686a084689a150cc62b8ef5980c60
http://blog.goo.ne.jp/kill_me_deadly/e/d7f50162ca9a92dfaaff135d9f7de18a

駐日イスラエル大使館http://embassies.gov.il/tokyo/Pages/default.aspx
電話:03-3264-0911(代表)
ファックス: 03-3264-0791

—————————————-
「大和魂出師の表」
http://d.hatena.ne.jp/warabidani/20140723/p1

安倍晋三のごとき日本語の読み書きも算数も出来ない出来損ないカルト走狗下郎が内乱罪違憲外道選挙で偽の日本国首相になりすまし、我々先祖伝来大和魂忘己利他菩薩常民が額に汗して勤労して納めた日本人みんなのための税金を勝手に持ち出して、鬼畜米猶の武器を作って人の世の宝である罪のないこどもを殺す戦争に使わせるとは、ムー大陸伝統常民菩薩大和魂が過去世現世未来世永劫決して許さない宇宙最悪の悪業である。悠久無限先祖代々の親の恩を身に受けた私がご先祖様の言いつけに忠実に従い天地神明に懸けて我が渾身の大和魂でもって守銭奴破廉恥売国棄民鬼畜外道どもが働く悪業の悪の根をこの宇宙から根こそぎ断ち切ってくれよう。
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c428

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
429. 豊岳正彦[-17307] lkyKeJCzlUY 2023年9月02日 10:57:21 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[27]
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◎上杉鷹山公2014/9/30
山形県にある日本古来古武術空手道場和道流「崇武館(そうぶかん)」館長飛鳥宗一郎老師がHP内ワンポイントレッスンで日本古来忘己利他菩薩武士道の鑑碩徳上杉鷹山公について修身の奥義に触れてその真髄を説き明かしてくださっています。
1.15歳襲封のとき
『受けつぎて 国のつかさ(司)の身となれば 忘るまじきは民の父母』
http://homepage2.nifty.com/sohbukan_karatedo/lesson/lesson2013/lesson201301.pdf

2.35歳隠退のとき「人君の心得三箇条」(伝国の辞)
一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には無之候。
一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候。
一、国家人民の為に立たる君にして、君の為に立たる国家人民には無之候。
右三箇条遺念有間敷候事
http://homepage2.nifty.com/sohbukan_karatedo/lesson/lesson2013/lesson201302.pdf

大和魂大和民族常民にとって飛鳥老師のワンポイントレッスンは上杉鷹山公のページばかりでなくすべてのページが必読と思います。
http://homepage2.nifty.com/sohbukan_karatedo/


◎上杉鷹山公「参姫への手紙」

別途述べた上杉鷹山公が隠居後に江戸屋敷の新しい藩主に嫁ぐことになった孫娘(参姫二十歳)に藩主の妻たるべきものの心得を懇切丁寧に説いて手紙にしたためました。「上杉鷹山に学ぶ」鈴村進著(三笠書房)から著者による現代語訳文を長文乍ら全文転載します。

「人は三つのことによって、成育するものである。父母によって生まれ、師によって教えられ、君によって養われるのである。これはすべて深い恩なのだが、その中で最も深く尊いのは父母の恩である。これは山よりも高く、海よりも深いものであって、これに報いることはとてもできないが、せめてその万分の一だけでもと、心の及ぶだけ、力の届くだけを尽くし、努めることを孝行という。
 その仕方にはいろいろあるが、結局は、この身が天地の間に生まれたのは父母の高恩であり、この身は父母の遺体であることを常に忘れず、真実より父母をいとおしみ、大切にする心に少しの偽りもないことが、その根本である。ここに誠実さがあれば実際に多少の手違いがあっても、心が届かぬということはないものである。このことは、自分は徳がないからとても行き届きません、と遠慮すべきではない。その気になって、できる限りのことを十分に努めるべきである。そうしておれば、やがては徳も進み、相手に心が達するものである。あらん限りの力をもって尽くされたい。
 男女の別は人の道において、大きな意義のあるところである。男は外に向かって外事をし、女は内にあって、内事を治めるものである。国を治め、天下の政(まつりごと)を行うといえば、大変なことのように思われるであろうが、天下の本は国であり、国の本は家である。家がよくととのえられるためには、一家の男女の行いが正しいことがその根本となる。根本が乱れて、末が治まることはありえない。
 普通に考えれば、婦人は政治には関係がないと思われるであろうが、政治の本は一家の中から起こることであり、身を治め徳を積み、夫は妻の天であってこの天にそむいてはならない。これを常に心に銘記して恭敬を忘れず、夫に従順であれば、やがては政事を輔(たす)けることとなるものである。
 あなたはまだ稚(おさな)いので、人々から程遠い奥向きで徳を積んでみても、その影響が一国に及ぶはずがないと思われるであろう。しかし、感通とは妙なもので、人に知られず身を修めていると、いつかはそれが知られて、効果が大いに表われることは疑いのないところである。『鶴九皐に泣いて声天に聞こゆ(かく、きゅうこうにないて、せい、てんにきこゆ ・・・鶴は奥深い谷底で鳴いても、その気品ある泣き声は天に届く。つまり優れた人物はどこに身を隠しても、その名声は自然に広く世間に知れ渡るというたとえ)』と詩経に書かれているのはこのことである。奥向きで正しく徳のある行いをしておれば、一国の賢夫人と仰がれるようになる。そうなれば、あなたの行いによって人々が感化されないはずがない。誠があれば、それは決して隠れたままにはならない。ひたすら努めに努められよ。
 年が若いので、時折美しい着物を着たいと思われることもあるだろう。それも人情ではあるが、少しでもそんなことに心を動かして、これまでの質素な習慣を失うことのないよう、『終わり有る鮮し(詩経の大雅・蕩 「初め有らざること靡(な)し 克(よ)く終わり有ること鮮(すくな)し」 何事でも、初めはともかくもやっていくが、それを終わりまで全うするものは少ない) 』の戒(いまし)めを守られるべきである。そうすれば、いつまでも従来の質素な習慣は続けられるであろう。そして、養蚕女工のことを思い、一方では和歌や歌書などを勉強されたい。しかし、ただ物知りになったり、歌人になったりしようなどとは考えるべきではない。学問は元来、自分の身を修める道を知るためのものである。昔のことを学んで、それを今日のことに当てはめ、善いことを自分のものとし、悪いことは自分の戒めとされよ。和歌を学べば、物の哀れを深く知るようになり、月花に対して感興を深くし、自然に情操を高めることとなるであろう。
 くれぐれも両親へ孝養を尽くし、その心を安んじるとともに、夫に対しては従順であり、貞静の徳を積み、夫婦睦まじく、家を繁栄させて、わが国の賢夫人と仰がれるようになってもらいたい。出発に際して、末永く祝うとともに、婦徳を望む祖父の心中を汲み取られよ。他へこそ行かないが、今日より後、いつ会えるかわからないので、名残り惜しく思う。

  武蔵野の江戸なる館へ赴きたまうはなむけに
   春を得て花すり衣(ごろも)重ぬとも わが故郷(ふるさと)の寒さ忘るな    はる憲」
                                                       

◎上杉鷹山に学ぶ A みやちゃんさんのアメブロ

【本の音色を聴こう♪ ちょいよし わ→るど!
「ちょいよし」とは「ちょっとした良いこと」
「自分が一日怠ければ、日本が一日遅れる」(坂の上の雲 秋山真之の名言)など、
「おっ、それいいね」と思う、あなたが受け入れやすいものを毎日1つ紹介(*^^*)/
出版するのが一番最初に実現させる夢≠ナす!】
http://ameblo.jp/cyoiyoshi-miyacyan/entry-11914626071.html
(転載)
鷹山の言葉にビジネスの教訓を見る

さて、今日は鷹山の言葉からビジネスの教訓を得たいと思います
本書からそのまま引用しますので素直に感じていただければと思いますA

PDCAの元祖?
「およそ天下のことを開始するに当たっては、30日前からその理由などを十分検討しておき、それが開始されてからは、実行上変わってしまうことのないように、30日ごとに調査と討議を反復し、1日たりとも中断しないことが必要である。このことを昔から『終リテ即チ始メ有リ』といっている。太陽の移り変わり、月の満ち欠け、寒暑の動きなどはすべて中断されることがない。したがって、このように毎日検討することは天の行である

鷹山は続けます

一つの問題を解決するためにはこのようにしなければならない、ものごとがある方向へ行くであろうと予想されれば、それに対してはこのように対策を立てるというふうに、配慮をしておくことが当然である。それをしないで、実際上問題が起こってから、あれこれと苦労しても、すでに効果はない。ことが進行しはじめてから努力してみても、その努力している間に、すでに失敗の要素が生じつつある」

これはまさにPDCAですね
PDCAはアメリカの統計学者ウィリアム・エドワーズ・デミングが提唱したものです
彼の生涯が1900年から1993年ですが、それよりも100年以上も前に日本の一藩の藩主が同じことを言っているのです(上杉鷹山は1751年〜1822年)

(以下略)
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このコメント欄へ投稿
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>自然に学ぶ、すならち実学ですね。
>吉田松陰がそうですね~(みやちゃん)

幕末攘夷維新回天の大業に殉じた吉田松陰や高杉晋作、勝海舟、西郷隆盛、山岡鉄舟ほか大和魂「武士」たち全員が忘己利他菩薩武士道の鑑として一様に心服尊崇していたのが、まさにこの細井平洲上杉鷹山師弟です。
ゆえに松蔭の一番弟子高杉晋作が祀った大和魂の招魂場桜山神社を東京に勧請した靖国神社は、攘夷すなわち欧米列強による植民地化目的日本武力侵略を打ち破って大和の国を防衛(まも)り抜く為の戦に、金も地位も名誉も命も要らぬと忘己利他菩薩武士道大和魂で散る桜のごとく潔く死んでいった清らかな志士たちを、聖徳太子以来【和を以って貴しとなし篤く三宝を敬う】菩薩常民が和合して暮らす国のまほろば「やまとの郷土(くに)」を護った英霊神霊として、士農工商などの隔てなく遍く菩薩供養する神仏習合仏教の先祖礼拝社堂であり寺所だったのです。
釈迦牟尼世尊は人天(人間世界と天神世界)の師でありすべての宗教の最上位の教えを説かれたので、寺には宗教の分け隔てなく誰でも葬られて菩薩供養してもらえます。よって靖国神社は非武士新平民伊藤博文が廃仏毀釈するまでは、聖徳太子神仏習合本地垂迹来国教が仏教である日本国において天皇は全員仏弟子ゆえ、天皇が供養僧を務める仏堂の招魂供養場が靖国招魂場の第一義となります。日本の国教は先祖代々仏教ですから、廃仏毀釈後も先祖代々菩薩常民の心にとっては靖国神社は元来の意義である仏教徒の仏式先祖供養場のまま現在に至っています。

http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c429

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
430. 豊岳正彦[-17309] lkyKeJCzlUY 2023年9月02日 11:14:41 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[28]
<■150行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2013年10月 1日 (火)
れんだいこの清河八郎論
http://08120715.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-babb.html
 今日、2013(平成25).10.1日、安倍首相が政権公約として来期4.1日より消費税増税することを国内外に発表した。記者会見の席上、郷里の偉人である吉田松陰に言及していた。こともあろうに攘夷論のイデオローグであった松蔭を、国際ユダ屋の手先と化している安倍が能天気に悪びれることなく松陰を持ち上げていた。よろしい、これを奇果として松蔭にも触れておこう。本筋は清河八郎である。

 2013.9.23日、良い話しを得た。直接的には藤田まこと主演の確か「必殺仕掛け人」による。題名は定かではない。劇中に清河八郎(以下、単に「八郎」と記す)が登場し興味を覚えた。どこに興味を覚えたのか。それは、八郎が愛妻の名を「お蓮」と名付けていたことによる。これがたまたま「れんだいこ」の「れん」と重なると云うのが気に入っただけのことであるが、それはそれで良かろう。そういう他愛のないことからでも良い、不思議な機縁で繋がることの方が肝心であろう。
 「清河八郎とお蓮の物語」は「坂本竜馬とおりょうの物語」と双璧を為す。史実から云えば、八郎物語の方が竜馬物語の先を行く。幕末史には天晴れとしか言いようのないこうしたラブロマンスに満ちている。「清河八郎とお蓮の物語」の詳しくは「清河八郎履歴」に記す。

 清河八郎とは何者か。本稿はこれを問う。先だっては三島由紀夫を考察したが、三島の場合にも数万語費やして三島を語り三島から遠い愚昧評論を見た。清河八郎論にもそのきらいがある。そこで、れんだいこが中心線を打ち出しておく。結論から言えば、八郎の履歴を通して幕末史の流れがより見えてくる。と云うことは、八郎が時代の渦のただ中にいたことを証しているのではあるまいか。そうであるとするなら、通説幕末史が八郎を踏まえていないのは、それだけピンボケしていることを証していると云うことになるのではなかろうか。もっともっと八郎を調べるべきであり、その履歴を正史の中に納めるべきであろう。
 これまでの幕末史が八郎を過小評価してきたのは学者の眼力不足によるもので、八郎のせいではない。同郷の鶴岡出身の作家・藤沢周平は、「回天の門」という小説で八郎を描き、家を飛び出し、遊女を妻に迎え、革命に奔走し、書や歌を詠み、全国を駆け巡って、短い人生を駆け抜けた、破天荒で時代を回転させた魅力的な人物として描いている。この観点が是であろう。

 浅知りする者は八郎を、新撰組の分岐騒動に関連したくだりで「策士」と捉えるばかりで、八郎の痛快無比の軌跡を思わない。事実は、1853(嘉永6)年のペリー率いる黒船艦隊の浦賀来航以降の政情に於いて、「尊王攘夷&倒幕」の政治テーゼを掲げ、これをその後の政治運動内に定式化させた人物であり、これこそ八郎の功績であろう。
 もとよりこれは八郎一人が案出したのではない。吉田松陰もその一人であり、時代の気運がここに向かっていたことを証している。両者はたまたま同年齢の1830(天保元)年生まれであり、時代の空気を誰よりも強く嗅ぎ分け、共に幕末の風雲の中を「尊皇攘夷の魁(さきがけ)」として散った。
 松蔭享年29歳、八郎享年34歳。共に名辞世句を遺している。これを確認すれば、松蔭の辞世句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも、留(とど)め置かまし大和魂」、「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」。八郎の辞世句は「魁(さきがけ)て またさきがけん 死出の山 迷いはせまじ皇(すめらぎ)の道」、「くだけても またくだけても寄る波は 岩かどをしも 打ちくだくらむ」。

 れんだいこの眼力によれば、「西の吉田松陰に対する東の清河八郎」の評が与えられるべきであろう。しかるに松蔭が語られることは多いが八郎はめっきり少ない。しかしこれはオカシい。八郎は、幕末を文武両道の第一人者的牽引力で駆け抜けた快男児にして風雲児足り得ていた。八郎が歴史に遺した功績は知られているより大きいとして再評価されるべきではなかろうか。
 松蔭は「安政の大獄」で処刑され、八郎は幕府の秘密指令により暗殺されたが、松蔭・八郎2世、3世が続いたのが幕末史ではなかろうか。八郎がかく時代の渦の中心にいたことがもっと評価されるべきだろう。これが、れんだいこの八郎観となる。ちなみに司馬遼太郎は「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」と評しているとのことである。

 八郎と幕末志士の関係を評すれば、2歳上の西ク髏キ、同年の吉田松陰は別格として、1歳上の武市半平太、3歳下の桂小五郎、5歳下の坂本龍馬、9歳下の高杉晋作、10歳下の久坂玄随らは、八郎を文武両道型剣豪列伝系譜の幕末志士の祖とする八郎2世、3世の気がする。八郎ありせばこその武市であり桂であり龍馬であり晋作であり玄随ではなかったのか。彼らにバトンタッチするまでの繫ぎの役目をし、実践のモデル的指針を与えたのが八郎の歴史の役割ではなかったか。そういう役割を歴史に刻んでいると認めるべきであろう。かく「西の松陰、東の八郎」と位置付けたい。

 補足しておけば、清河八郎の「尊王攘夷&倒幕論」をそのままの形で現代史に持ち込むことはできない。現代人の我々が焼き直せばよいだけのことである。かの時代のかの情況下に於いては「尊王攘夷&倒幕論」こそが歴史的実在力を持っていたのであり、その歴史的実在力を牽引した有能士として遇し評するべきであろう。これを歴史の眼とすべきである。云わずもがなの事ではあるが。

 もう一つ足しておく。この頃の志士活動は幕末維新と名付けられるべきで、その幕末維新の理想を捻じ曲げた明治維新とは識別されるべきであろう。幕末維新の観点を欠いたまま明治維新として一括理解するのは少々粗雑過ぎる歴史の眼ではなかろうか。この提言を良しとする者は以降、幕末維新の項を立てるべきである。その明治維新も、西郷隆盛が政治に関与していた時期までと西郷失脚後とを明確に区別すべきであろう。現行の明治維新論は、幕末維新、西郷関与の明治維新、西郷亡き後の明治維新の質の違いが踏まえられておらず到底使いもんにならん。
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2016/9/30通りがけ

れんだいこ先生のご慧眼に敬服申し上げます。

付け加えますれば山岡鉄舟もまた清河八郎の同志同心でありました。


山岡鉄舟と清河八郎の首級
http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/11/17/070442

文久3年4月13日、清河八郎が赤羽根橋で暗殺された。*1

f:id:hikaze:20151116022854p:plain

清河暗殺の急報を受けた鉄舟は、即座に義弟石坂周造を呼びよせ、清河が所持している同志の連判状と清河の首級を奪ってくるように命じている。

周造が現場に着いた頃には、すでに町役人が警固し、検視の役人を到着を待っている状況であり、清河の死体には近づくことは容易ではない。

そこで石坂はひとつ芝居を打つ。「これは何人であるか」と訊ね、町役人が「清河八郎なり」と答えると、周造は突如抜刀し、「年来探し求めた不倶戴天の敵清河八郎め」と怒声をあげ、瞬く間に清河の首を斬り落とした。

それを見た町役人が慌てて駆けよると、周造は紅く染まった刀を振りかざして睨みつけ、「わが仇討ちの邪魔をするならば、汝等もまた敵の一味、鏖(みなごろし)にしてくれん」と威嚇。

周造の形相の凄まじさに町役人が引き退がると、清河の懐裏から瞬時に連判状を取り出して逃奔した。

こうして無事に連判状と首級は鉄舟の手元に渡った。もしこの連判状が幕吏の手に渡っていたならば、鉄舟ら清河の同志は捕縛され、清河八郎の首も晒し首となっていたであろう。その後、清河の首級を奪おうとする狼藉者もいたのだが、鉄舟とその夫人(山岡英子)、高橋泥舟、石坂周造、鉄舟の末弟小野飛馬吉らの保護により掠奪を免れ、後日伝通院に埋葬、明治4年に清河の身内により郷里に改葬したとのことである。


清河の首級を保護した顛末について山岡英子の談話『女士道』と泥舟の『遺稿』に若干の相違が見られるので、伝通院に埋葬された詳細な経緯を知ることは難しい。そこで双方の述べるところ下に掲げる。

 又或時鉄太郎の知人で、出羽の生れで清川八郎と云う人が、嫌疑の為め、他の人から殺されて、首を取られましたが、其際に、只今私の妹婿なる石坂周造が其首を奪い取って来ましたから、私は其首を見て、こは清川の親戚知友の中から必ず首を尋ねて来る者があろうと思うて、其首を衣服に包んで、戸棚に収めて置きました、一旦はそうしましたが、何分にも夏の事とて、腐敗の恐れがありますから、鉄太郎の実弟、小野飛馬吉をして、首を砂糖漬にさせて蓄えて置きました。そうすると、狼藉ものが遣って来て、清川の首を出せ、という次第でありますから、飛馬吉をして、屋敷の裏を堀り、これを埋めさせて、狼藉者には、私が相手をして、刎(はね)つけて遣りましたが、それでも清川の首が、私の宅にあるという事を彼らが、何となく、承知したものと見えて、狼藉者の来ることが数々でありました、私は其都度応対して刎付けて遣りました。其の後私は伝通院に葬りて置きました、而して後年出羽より、清川の親戚が参りまして、其首を請求されますから、私が案内してそれを渡したことがありました。——『女士道:鉄舟夫人英子の談話』

 石坂周造速に正明が懐裏を探りて、重要の書類を収め、且つ首級を奪い、即夜窃に之を山岡に致す。鉄太郎石坂と共に之を携えて予が所に至る。予之を見て懐旧の情に耐えざるなり。直に鉄太郎及び其の末弟小野飛馬吉に命じて夜半密かに之を床下に埋めしむ。時夏期に属するを以て、臭気外に洩れて家人之を怪しむ。鉄太郎兄弟をして更に之を槍術道場の床下に移さしむ。亦復前の如し。後塵芥場の傍らに埋む。亦福前の如し。是に於いて予鉄太郎に謂て曰く、『予常に幕吏の為めに嫌疑を受く、若し此事露顕せば罪を得んこと必せり。好し罪を得るも、義のためには辞す所にあらず。予に悪意なし。天道夫れ之れを知らん。』と。又鉄太郎兄弟をして、山岡の邸内稍高き所を選び、地を掘るを五六尺にして之を埋めしむ。是より長く怪しむものなし。時至りて後、小石川伝通院境内、浄土宗処静院、淋瑞和尚(予が師なり)に請うて之を葬らしむ。明治四年、清川の実弟、斎藤誠明、処静院より骸髏を護し去りて、郷家清川に改葬せり。——高橋泥舟の遺稿(『高士山岡鉄舟』)


*1:下手人は佐々木只三郎、窪田泉太郎ら六名。
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c430

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
431. 豊岳正彦[-17359] lkyKeJCzlUY 2023年9月02日 23:38:21 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[29]
<▽46行くらい>
2023年9月2日
twitter.com/ParstodayJ/status/1697874531199692894
ParsTodayJapanese【公式】@ParstodayJ
#歴史の一葉;1945年9月2日の🇯🇵日本の降伏文書署名と第二次世界大戦終結
78年前の1945年9月2日、日本は無条件降伏となる #ポツダム宣言受諾 を文書化した降伏文書に署名し、これにより第二次世界大戦が正式に終結しました。

日本は、#第二次世界大戦 の終盤に連合国軍との戦闘に続けて敗北した末、最終的にアメリカによって広島と長崎への原爆を投下されたことで、降伏を余儀なくされました。

5月7日にナチス・ドイツが無条件降伏してから約4か月後のこの署名により、日本は連合国に占領され、米軍人である連合国軍のマッカーサー最高司令官が権力を掌握することになりました。

その後日本は、1951年に連合国側の48か国とサンフランシスコ平和条約を結び、1951年には主権を回復しました。👇
https://parstoday.ir/ja/news/japan-

無条件降伏という国際法規はないぜ。人類歴史において恥ずべき詐欺契約だよ。無条件降伏を迫ること自体が戦争犯罪だぜ。w

無条件降伏ということは、武力による脅しで国連憲章違反の領土変更と国を統治する主権を全部奪うことだから、完全に反人道戦争犯罪の人権侵害だね。アメリカは歴史がないから人権などまるで分ってないのさ。法律無知のバカそのものだw

無条件降伏文書自体、憲法98条違反の国際法規に反する無効条約だw馬鹿か天皇もマッカーサーもwまあヒロヒトは大英帝国陸軍元帥ロスチャイルドフリーメーソンだし、マッカーサーは無法の国アメリカのロックフェラーフリーメーソンだし、どちらも無学無恥低能のばかあほなことは間違いないw

だから幣原喜重郎は天皇から主権を奪ったのさ。昔から天皇家はバカばっかりだからw賢いのは大サザキに殺されたウジノワキノイラツコ真実の仁徳天皇と、聖徳法皇大王アメノタリシ彦と聖武天皇と明治天皇と大正天皇と平成天皇くらいしかいないからなw昭和天皇だけフリーメーソンで、他は皆仏教徒だよw

第二次大戦は9月2日に終わってない。第二次大戦が終わったのはサンフランシスコ講和条約締結の1951年9月8日だよ。マッカーサーが同年4月16日帰米して初めて日米戦争が終わったのだ。だから戦争が終わった1951年9月8日から米軍は日本に駐留できないのだ。その後の在日米軍基地は完全に国連憲章違反戦争

犯罪であるが、国連総会に日米安保条約を提出して日本の安保理常任理事国入りを申請すればわかるさwロシアも中国も日本とドイツの申し出を受け入れて直ちに緊急国連総会を開けばよい。国連総会で日米安保条約とNATO集団安保条約を正式に破棄すればよい。

国連はその時に防衛省吉田幕僚長を日本から召喚すること。また、同時に日本の処理水海洋放出問題も国連で緊急議題にして討議しなければならぬから、岸田と一緒に厚労省次官と農水省次官と総務省次官の3人を証人喚問せねばならないね。
国連緊急総会に日本は岸田と外務省次官(日米安保条約全文持参)、

防衛省吉田幕僚長、厚労省次官、農水省次官、総務省次官の6人だけで総会に直ちに出廷せよ。
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c431

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
432. 豊岳正彦[-17376] lkyKeJCzlUY 2023年9月03日 15:55:28 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[30]
<■110行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
国連は日独両国安保理入り要請を国連総会刑事司法裁判所で緊急審理せよ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/606.html
【ロシアニュース解説】ウクライナ軍、F16本体値段と驚愕の研修費〜返済無理「ニキータ伝〜ロシアの手ほどき」
youtube.com/watch?v=EBqtYD9uvUU
豊岳正彦
ゼレンスキーは9月の中旬に国内の反政府勢力によって監禁され自ら火をつけて自殺を装うと思われる。これによってNATOは再びロシアとの間にミンスク合意の実施を条件にロシアの軍事作戦の停止を要求することができるが、もちろん時間稼ぎである。ポーランドやフィンランドが韓国の安い兵器を大量に買い

入れて間接的にウクライナの軍事力を再建するだろう。韓国は軍需産業がぼろもうけをするから、日本との通貨スワップを必要としなくなり、日米韓3国合意は破れる。さてゼレンスキーはソロスの一卵性双生児の息子だから、必ず死なないが、ヒットラーと同じく身代わりの灼けた遺骨だけ残してアルゼンチン

へ逃亡し、正体を隠したまま南米の麻薬王となるだろう。

そしてラームエマニュエルは岸田に政府を解散させて林芳正を総理にするための総選挙を行うのだが、マイナ保険証を確定させた後は自民党に政権を担当させるために、昨年の安倍ちゃんと同じく投票前に岸田を殺害して、その罪を処理水放出反対派に

擦り付けるだろう。

ただしエマニュエルは全体として日本人皆殺しアジェンダ≡ザヴィエルコードに失敗したと言える。エマニュエルはこの失敗の責任を取ってアメリカ大使を解任されて、ウクライナかイスラエルへ向かうだろう。あどれのクロムの露見を防がねば命がないからである。また選挙前にやめれば

安倍ちゃんと岸田を殺害したアリバイ工作にもなる。

それに、マイナ保険証を臓器移植密売ネットワーク登録できれば、LBGT法でいくらでも不要な手術で採血することができる。

とにかくえまにゅえるは日本人を殺しつくす前にはでにやりすぎたので、

NHK モサド悪魔大王の地位を追われ、

後任悪魔大王はソロスの息子ぜれんすきーの双子の片割れが悪魔王になるだろう。

NHKはイスラエル大使がエマニュエルに代って今まで通り支配すればよいのだから。

イスラエルモサドはMI6とCIAの創世記の大昔からの親玉だからね。

ロシアは岸田とシュルツが申請した日独両国の国連安保理入りを受けて直ちにBRICSとその協力国の総意を集めて国連緊急総会を開催すればよい。

2023年9月2日
twitter.com/ParstodayJ/status/1697874531199692894
ParsTodayJapanese【公式】@ParstodayJ
#歴史の一葉;1945年9月2日の日本の降伏文書署名と第二次世界大戦終結
78年前の1945年9月2日、日本は無条件降伏となる ポツダム宣言受諾 を文書化した降伏文書に署名し、これにより第二次世界大戦が正式に終結しました。

日本は、第二次世界大戦 の終盤に連合国軍との戦闘に続けて敗北した末、最終的にアメリカによって広島と長崎への原爆を投下されたことで、降伏を余儀なくされました。

5月7日にナチス・ドイツが無条件降伏してから約4か月後のこの署名により、日本は連合国に占領され、米軍人である連合国軍のマッカー

サー最高司令官が権力を掌握することになりました。
その後日本は、1951年に連合国側の48か国とサンフランシスコ平和条約を結び、1951年には主権を回復しました。
parstoday.ir/ja/news/japan-i118212

無条件降伏という国際法規はないぜ。人類歴史において恥ずべき詐欺契約だよ。無条件降伏を迫ること自体が戦争犯罪だぜ。w

無条件降伏ということは、武力による脅しで国連憲章違反の領土変更と国を統治する主権を全部奪うことだから、完全に反人道戦争犯罪の人権侵害だね。アメリカは歴史がないから

人権法などまるで分ってないのさ。法律無知のバカそのものだw

無条件降伏文書自体、憲法98条違反の国際法規に反する無効条約だw

馬鹿か天皇もマッカーサーもw

まあヒロヒトは大英帝国陸軍元帥ロスチャイルドフリーメーソンだし、

マッカーサーは無法アメリカのロックフェラーフリーメーソンだし

どちらも無学無恥低能のばかあほなことは間違いないw

だから幣原喜重郎は天皇から主権を奪ったのさ。
昔から天皇家はバカばっかりだw
賢いのは大サザキに殺されたウジノワキノイラツコ真実の仁徳天皇と、
聖徳法皇大王アメノタリシ彦と聖武天皇と明治天皇と大正天皇と
平成天皇くらいしかいないからなw

しかも、昭和天皇だけ天皇の歴史始まって以来ただ一人日本人を皆殺しにする伊藤博文と同じロス茶スパイフリーメーソンで、

他の天皇は皆仏教徒か一神教神道だよw

天皇は常に大みたからと国土を必ず守ってきたのだ日本史上象徴国体として。

・・・
asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c432

第二次大戦は9月2日に終わってない。
第二次大戦が終わったのはサンフランシスコ講和条約締結の1951年9月8日だ。
マッカーサーが同年4月16日帰米して初めて日米戦争が終わった。
だから戦争が終わった1951年9月8日から米軍は日本に駐留できないのだ。
その後の在日米軍基地は完全に国連憲章違反戦争

犯罪であるが、国連総会に日米安保条約を提出して日本の安保理常任理事国入りを申請すればわかるさw

ロシアも中国も日本とドイツの申し出を受け入れて直ちに緊急国連総会を開けばよい。

国連総会で日米安保条約とNATOドイツ集団安保条約を正式にBRICS派諸国の多数決で完全破棄すればよい。

国連はその時に防衛省吉田幕僚長を日本から召喚すること。

また同時に日本の処理水海洋放出問題も国連緊急議題にして討議しなければならぬ。

岸田と一緒に厚労省次官と農水省次官と総務省次官の3人を証人喚問せねばならないね。

日本は国連緊急総会に
岸田と
外務省次官(日米安保条約全文持参)、

防衛省吉田幕僚長、
厚労省次官、
農水省次官、
総務省次官の、
総勢6人だけで国連総会刑事司法裁判所に直ちに出廷せよ。

処理水海洋放出は人類と地球に対する法益侵害の重大刑事犯罪であり、且つ、

国連憲章違反の戦争犯罪であるからだ。

トランプも9月中に暗殺される。それを防ぐには合衆国最強の宇宙軍を使って、直ちに本物の核のボタンを持ち、本物の大統領専用機エアフォース1に搭乗し、宇宙軍の護衛編隊と空中給油機群とともに横田へ着陸すればよい。機上から行う世界緊急放送は前記の通り。横田で給油と護衛編隊を増やして直ちにウク

ライナ入りする。トランプは横田に残り宇宙軍の将軍直下の部下をウクライナでぜれんすきーの身柄確保部隊指揮者に任命して任務遂行させるとよい。これに応ずればウクライナは滅びずソロスとキッシンジャーは滅びる。応じなければウクライナは滅びる。DS麻薬王ゼレンスキーは生き延びる。

もちろんゼレンスキーが自殺を偽装すれば、ぬーランドが大声でロシアがやったとわめき散らかすのはいつものお約束であるが、それを理由にトランプを処刑する理由とするのも丸見えである。トランプは直ちに宇宙軍に命令して国外脱出し横田で米軍を掌握すること。アメリカ国内は危険である。

特別司法公務員は、良心に従い直ちに憲法および刑訴法刑法にのみ拘束されて、独立してその職権を汚職無く行え。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/605.html
丹羽秀樹さん投稿
私は数年前から、いわき市豊間灯台下の海水を薪火で煮詰めて作った塩を、
玄米炊く時やパスタや野菜炒めなど普通に自家消費しております。

ミネラル豊富でマイルドな味わいに時折、砂粒が混じるのは愛嬌でしょうか。
木の子が好きで良く食べます。至って元気ですね!
facebook.com/profile.php?id=100028007061098
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c432

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
433. 豊岳正彦[-17414] lkyKeJCzlUY 2023年9月04日 09:27:34 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[31]
<▽32行くらい>
生まれは不法でない。成人元服(12歳)以後の良心に従う忘己利他捨身施菩薩道が武士道仏法帰依日本人だ。明治6年政変は非人人別ロスチャイルドフリーメーソンスパイ伊藤博文が武士道新政府内部で武士を全員陰謀で政府から追放して後総理になって非武士道汚職悪行をやりたい放題だったことが諸悪の根源である。まず日朝修好通商条約がフリーメーソンの悪行不平等条約だった。伊藤は不平等条約の治外法権を悪用して朝鮮国王妃を部下の軍人に暗殺させた。そして明治22年煩悩色欲自我絶対妄想の明治憲法を捏造して自分の悪行を隠ぺいしようとした。明治憲法は一神教悪魔の無法な拷問虐殺略奪の法益侵害の極致政教一致カルトハムラビ法典である。これは憲法ではない。選民妄想の無法テロジェノサイドそのものだ。これが歴史である。大木愛太郎も麻生康もどちらも歴史を知らないから、つまらぬことで争うのである。己の良心に照らして、それぞれが元服成人後に良心を捨てて武士道に反する行いに終始してきた己自身の悪行を在位記せよ。武士道日本人は常に17条憲法に従う。武士道は三宝帰依仏堂だから忘己利他捨身施武士道を歩むのだ。己の煩悩色欲に従うものは日本人ではない。大木愛太郎も麻生康も日本人でありたいなら17条憲法に従え。「二にいう。
あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。」hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html
己の心を見つめて、元服後のおのれの悪行を自ら慚愧せよ。慚愧することがなければ懺悔することがなく、悪行の罪は永遠に罪人をとがめる。仏に帰依して罪を自ら懺悔すれば罪は永遠に消えるのだ。歴史を知ることは仏法を知ることである。二人とも日本人でありたいなら自己中心の煩悩色欲を捨てて忘己利他慈悲布施仏心すなわち良心に従う17条憲法すなわち三宝帰依仏教に従え。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/146.html
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c433
[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
434. 豊岳正彦[-17413] lkyKeJCzlUY 2023年9月04日 10:12:24 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[32]
仏教は五戒を教える。すなわち不殺生戒不偸盗戒不邪淫戒不妄語戒不飲酒戒。この仏界を守ることによって煩悩色欲むさぼりと怒りと愚かさの三毒の汚れを心から取り除くのである。煩悩色欲の虜西洋医学の祖ヒポクラテスでさえ、3000年以上前の大昔から精神科産婦人科外科を完全否定している。高々300年ちょっとの歴史しかないアメリカの偽法律やニセ人文学やニセ科学や偽医学やニセ宗教「狂人妄想アルフレッドキンゼー性科学LGBTQ妄想」に従えば、この世で最も恥ずべき変態性欲詐欺殺人臓器略奪反人道戦争犯罪者になるのだ。

3000年以上の伝統がある和方本草学薬師如来医王薬王の教えに帰依せよ。それが真日本人である。
dl.ndl.go.jp/pid/758906/1/1
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c434

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
435. 豊岳正彦[-17451] lkyKeJCzlUY 2023年9月04日 12:11:30 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[33]
歴史も文化も法も技術も科学知識も法知識も礼儀も躾も道徳も公共もない無法国家アメリカの小学校教科書がこれである。
「危険な図書館 過激な性教育本で教育員会へ牧師が直談判 FOXニュース日本語字幕」我那覇真子チャンネル
youtube.com/watch?v=W-By11ueVu4
こんな低能破廉恥な詐欺殺人略奪犯罪者に何を馬鹿丸出しでしっぽを振って迎合してるんだ日本の東大慶応大NHKはwお前ら全員糞馬鹿の親不孝者詐欺殺人略奪戦争犯罪者だよ。どこの宇宙でも極刑で処罰されるぜ、
そんなもんないけどwあらゆるパラレルワールドでどこへ行こうと極刑犯罪者だよw
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c435
[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
436. 豊岳正彦[-17477] lkyKeJCzlUY 2023年9月04日 14:15:07 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[34]
<■312行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
S級戦犯の確定
「北方領土を占領した戦犯はスターリンソ連軍ではなくマッカーサー米軍である」
丹羽秀樹さんの投稿
facebook.com/profile.php?id=100028007061098
処理水放出に沢山のご意見ありますね。
私は数年前から、いわき市豊間灯台下の海水を
薪火で煮詰め塩として自家消費しております。
原発作業に携わっており、アイソレーションミスで汚染水を浴びたり、水素爆発後の原子炉建屋内作業では驚くほどの被曝を致しました。
内部被曝が少ないのは全面マスクやエアラインのおかげです。
豊間灯台下の海水から作った塩は、玄米炊く時やパスタや野菜炒めなど普通に使用しております。
ミネラル豊富でマイルドな味わいになります。
時折、砂粒が混じるのは愛嬌でしょうか。
木の子が好きで良く食べます。
そのせいかどうかは不明ですが、至って元気ですね!
・・・・・・・・

返信豊岳正彦
特別司法公務員は、良心に従い直ちに憲法および刑訴法刑法にのみ拘束されて、独立してその職権を汚職無く行え。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/605.html
1)
処理水は通常運転原発の汚染水とは全く異なる由来の物です。
ご存じの通り福一では原子炉隔壁がメルトダウンして、通常絶対に大気中へ放出されてはならない原子炉内核物質がベントや隔壁融解により原子炉の外に放出された多種類核種核物質が大気中に放出されて、冷却水そのものに混入した水をトリチウム除去してトリチウムレベルだけ下げて処理したものを「処理水」と呼んで、海洋放出を強行したということです。
これに世界中が猛反発しました。海に国境がないからです。
通常の隔壁が破壊されてない原子炉を隔壁ごと冷却する水のことを汚染水と呼びます。
原子炉は内部の核分裂反応の結果非常な高温の発熱体となるので、その高熱を利用して原子炉の外郭の水を高圧水蒸気に変えてタービンを回して発電するのです。
タービンを回した後の水蒸気は冷却されて再び水に戻って、再び原子炉の外郭で高圧の水蒸気となってタービンを回して発電する。
この過程を繰り返すと、原子炉内で核分裂反応が起きたときに発生する中性子線が隔壁を透過して水分子の水素原子核内の陽子を通常の一つから2つの重水素、さらに3つのトリチウムに変化させて、水素原子そのものが放射能を獲得する。
これが放射能汚染水で、この水の中の放射性核物質はトリチウムだけというわけです。
原子炉は非常な高熱を発するから、水はすぐ水蒸気になってなかなか冷却できないので、
原子炉と汚染水を24時間休みなく冷却するために大量の淡水が必要となる。
故に原発の立地は大きな川のそばまたは水が枯れない湖や氷河のふもとや氷河の中に建てなければならない。
さらに水は中性子線を遮断するため原子炉の放射能を防護できる。
この冷却水が停止すると24時間以内に原子炉内部で高熱のため隔壁融解メルトダウンが発生する。
これが福一のレベル9事故です。
さて今回政府が言うように処理水がトリチウムゼロレベルだというなら、
世界各国が皆反対する海洋放出をやめて、上水道で使えば何も問題がありません。
日本政府は直ちに国連総会へ行って、我が国のデータを示し、海洋放出を決めた根拠を世界中の万人にわかるよう説明する地球と人類社会に対する責務を果たさねばならない。
そして世界中から科学者を集めて、100人以上のチームを2つに分けて、最新の機器で福一の前で放射能を測定しながら、
同時に全国の原発の海洋放射能と、全国の地面の放射能汚染度を、詳細なデータで正確に測定してもらう必要がある。
1か月もあれば全てデータがそろいます。
その間処理水はすべて各都道府県の官公庁舎で上水として建物内の水道で完結して消費すること。
岸田政府三権公務員もすべて処理水を上水で使うこと。
安全なら自分が飲んで証明すること。
各都道府県の水道局で上水として使えるか確認すること。
もちろんベオリア社も上水道の水質検査施行して正確な測定結果を国会と国連総会に提出して、
なおかつ処理水を上水としてベオリア社の職員だけで完結して使うこと。
これら簡単な対策ができないなら、処理水海洋放出は、刑法146条に違反する、組織的な殺人罪が有罪です。
1か月で結論が出ます。刑法責任を問うか問わぬかも同時に結論できます。政府公務員とみなし公務員の刑事責任を。
2)
世界中のすべての原発は、核兵器製造工場であるにすぎません。
原子炉内で生成する核物質のうちでもっとも大量に得られるのは、プルトニウムです。
原子炉燃料はウランですが、ウランを濃縮しなければ原子炉燃料はできない。
濃縮する過程で大量に発生するのが劣化ウランです。
これも大気中に存在してはならない放射能物質です。
イラク戦争でアメリカが大量に使った劣化ウラン兵器で、イラクの人々がいかに苦しめられているか、
またイラク戦争に参加したアメリカ軍人が劣化ウラン兵器の放射能でいかに苦しめられているか。
広島原爆はウラニウム爆弾で、これは原発を稼働しながら一瞬で隔壁破壊したと同じ放射能を地上生物に浴びせたと同じことです。
セシウムやコバルトやストロンチウムなど半減期が1万年単位の放射性核物質が広島の人たちを人体実験標本にしたのです。
アメリカ政府の政策によって。
長崎はプルトニウム原爆です。
これは原子炉内でもっとも大量に発生する放射性核物質をそのまま爆弾として用いた。
そしてトルーマンは広島長崎共に75年は草木も生えないというハルマゲドン妄想をNHKを使って全世界にプロパガンダして、原爆製造特許を独占しようとしたのです。
これがモサドです。実に卑怯で実にあさましい良心のかけらもない鬼畜外道ではありませんか。
しかし日本の海と雨の水が放射能を塩分に満ちた海水中に洗い流して、草木国土は直ちに回復しました。
この浅い海のしょっぱい塩分と海藻や川の水に含まれる大量のビタミンCビタミンBをいっぺんに摂取できる「塩の利いた手作りの味噌」を、
長崎の肥田舜太郎先生がヒバクシャみんなに被爆直後から大量に用いて、広島もすぐにそれに習って、日本の国土と海の放射能デトックス能力を人体に応用することで、
広島セシウムも長崎プルトニウムもすぐに大人の人体から排除され、そのヒバクシャの大人たちの力で広島長崎ともすぐに復興することができたのです。
日本の国土と国民の先祖代々伝統の知恵が原爆からたちまち回復する力の源泉だった。
だからこそ却って原発が核兵器製造工場以外の何物でもないことがまぎれもなく証明されるのです。
3)
日本の臨海原発は100℃を越える熱水を24時間休みなく海に流すことで、
海に囲まれた日本国土全体をヒートアイランド化して豪雨災害の原因となっています。
直ちに日本の臨海原発をすべて石棺化して廃棄せねばならない。
原発廃棄跡地に天然ガス火力発電所を建設し、送電線を全部光ケーブルにしてすべて地中化して送電すれば、
送電時の電力損失が20%減ります。
高圧線による航空機事故も無くなり、街中の電柱と電線による事故の災害停電も消滅し、
送電線の保守という人命を危険にさらすだけの危険な仕事も、それによるけがも病気もなくなるのです。
病院は必要ないですね。救急外科以外。
4)
一寸脱線。
このように原発はすべて核兵器製造工場です。
現在福島県にワクチン製造工場が政府によって建設されようとしているが、すでに世界中で明らかになったように、
ワクチンも殺人兵器です。
故に原発とワクチン工場は同じ軍事工場です。
原発をそのままにしておいてワクチン製造工場だけいかに建設反対しても全く無駄です。
もともと原発とワクチンの製造過程はセットだから。
ワクチン工場にだけ反対しても原発に反対しなければただのパフォーマンスで、
モサド政府にいいように手玉に取られるだけで、ワクチン工場を建設してしまえば用済みになる、
しまいには冤罪で処刑されるだけです。
ワクチン工場はほっといて臨海原発廃止石棺化させる国民運動を世界中の人の目の前で展開しなければならない。閑話。
脱線ついでにもう一つ。
福一の放射能汚染土を国会で大ウソ演説して日本全国にばらまいて焼却させ、焼却灰の放射能を全国国土にバラまいた犯人が東大児玉龍彦。
コロナウイルスが存在確認できてない時点でキャリーマリスが禁止したPCR検査を国民全員に強制して、
コロナ感染症の診断を確立せねばならないと大嘘八百真っ先に叫んだのも東大児玉龍彦。
放射能もワクチンも戦争殺人兵器。
よって児玉龍彦は世界最悪の極悪戦争犯罪ジェノサイド詐欺テロ兵器無差別大量殺人の罪が有罪です。閑話2.
閑話3.
ParsTodayJapanese【公式】@ParstodayJ·Aug 28
#シリア の一部を占領している米軍は、地元民兵組織の協力を得ながら、歴史遺産の略奪や破壊行為を行っています。米軍はシリア北東部を占領しており、28の基地を設置しています。地元民兵組織「シリア民主軍」はその手先として活動しています。
https://parstoday.ir/ja/news/middle_east-i118160
豊岳正彦
ソ連がヤルタ会談の密約通り1945年8月9日に対日宣戦布告して日本が支援する満州国を軍事侵略して、8月15日玉音放送で日本軍が全軍一方的に大陸の戦場で武装解除して、ソ連軍は玉音放送のせいで武装解除した日本軍に一方的な虐殺テロを仕掛けた。そしてシベリアに虐殺しきれなかった日本兵を強制労働用

奴隷として連れ去った。そののちいよいよヤルタ会談の約束通り北海道を自国領土として奪取するはずだったが、実は日露戦争でバルチック艦隊全滅させられて以来海軍力がソ連には皆無だったのだ。海が渡れなかったソ連軍を軍艦や上陸強襲艇に乗せて樺太から稚内へ、千島列島北端から知床まで海路南下させ

たのはアメリカ軍である。すなわち北方領土を違法に奪取したのはソ連軍だと皆思っているが、実はアメリカ軍がソ連軍を北方領土に運んで不法占領させた真犯人国際法規違反戦争犯罪者である。樋口稀一郎中将率いる本土防衛軍が、アメリカの不法な戦争犯罪テロ攻撃から北海道本土を死守したのである。

つまり、北方領土でも国際法規違反の戦争犯罪人はアメリカ軍司令長官マッカーサーである。また8月15日中国大陸で国際法規違反の戦争犯罪テロが行われたが、それは大英帝国陸軍元帥ヒロヒトとアメリカ太平洋艦隊司令長官マッカーサーとソ連スターリンの三者共謀共同正犯である。

つづく。
___________________

国連は日独両国安保理入り要請を国連総会刑事司法裁判所で緊急審理せよ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/606.html

【ロシアニュース解説】ウクライナ軍、F16本体値段と驚愕の研修費〜返済無理「ニキータ伝〜ロシアの手ほどき」
youtube.com/watch?v=EBqtYD9uvUU
豊岳正彦
ゼレンスキーは9月の中旬に国内の反政府勢力によって監禁され自ら火をつけて自殺を装うと思われる。これによってNATOは再びロシアとの間にミンスク合意の実施を条件にロシアの軍事作戦の停止を要求することができるが、もちろん時間稼ぎである。ポーランドやフィンランドが韓国の安い兵器を大量に買い

入れて間接的にウクライナの軍事力を再建するだろう。韓国は軍需産業がぼろもうけをするから、日本との通貨スワップを必要としなくなり、日米韓3国合意は破れる。さてゼレンスキーはソロスの一卵性双生児の息子だから、必ず死なないが、ヒットラーと同じく身代わりの灼けた遺骨だけ残してアルゼンチン

へ逃亡し、正体を隠したまま南米の麻薬王となるだろう。
そしてラームエマニュエルは岸田に政府を解散させて林芳正を総理にするための総選挙を行うのだが、マイナ保険証を確定させた後は自民党に政権を担当させるために、昨年の安倍ちゃんと同じく投票前に岸田を殺害して、その罪を処理水放出反対派に

擦り付けるだろう。
ただしエマニュエルは全体として日本人皆殺しアジェンダ≡ザヴィエルコードに失敗したと言える。エマニュエルはこの失敗の責任を取ってアメリカ大使を解任されて、ウクライナかイスラエルへ向かうだろう。あどれのクロムの露見を防がねば命がないからである。また選挙前にやめれば

安倍ちゃんと岸田を殺害したアリバイ工作にもなる。

それに、マイナ保険証を臓器移植密売ネットワーク登録できれば、LBGT法でいくらでも不要な手術で採血することができる。

結局えまにゅえるは日本人を殺しつくす前にはでにやりすぎたので、

NHK モサド悪魔大王の地位を追われ、

後任悪魔大王はソロスの息子ぜれんすきーの双子の片割れが悪魔王になるだろう。

NHKはイスラエル大使がエマニュエルに代って今まで通り支配すればよいのだから。

イスラエルモサドはMI6とCIAの創世記の大昔からの親玉だからね。

ロシアは岸田とシュルツが申請した日独両国の国連安保理入りを受けて直ちにBRICSとその協力国の総意を集めて国連緊急総会を開催すればよい。

2023年9月2日
twitter.com/ParstodayJ/status/1697874531199692894
ParsTodayJapanese【公式】@ParstodayJ
#歴史の一葉;1945年9月2日の日本の降伏文書署名と第二次世界大戦終結
78年前の1945年9月2日、日本は無条件降伏となる ポツダム宣言受諾 を文書化した降伏文書に署名し、これにより第二次世界大戦が正式に終結しました。

日本は、第二次世界大戦 の終盤に連合国軍との戦闘に続けて敗北した末、最終的にアメリカによって広島と長崎への原爆を投下されたことで、降伏を余儀なくされました。
5月7日にナチス・ドイツが無条件降伏してから約4か月後のこの署名により、日本は連合国に占領され、米軍人である連合国軍のマッカー

サー最高司令官が権力を掌握することになりました。
その後日本は、1951年に連合国側の48か国とサンフランシスコ平和条約を結び、1951年には主権を回復しました。
parstoday.ir/ja/news/japan-i118212

無条件降伏という国際法規はないぜ。人類歴史において恥ずべき詐欺契約だよ。無条件降伏を迫ること自体が戦争犯罪だぜ。w
無条件降伏ということは、武力による脅しで国連憲章違反の領土変更と国を統治する主権を全部奪うことだから、完全に反人道戦争犯罪の人権侵害だね。アメリカは歴史がないから

人権法などまるで分ってないのさ。法律無知のバカそのものだw

無条件降伏文書自体、憲法98条違反の国際法規に反する無効条約だw

馬鹿か天皇もマッカーサーもw

まあヒロヒトは大英帝国陸軍元帥ロスチャイルドフリーメーソンだし、

マッカーサーは無法アメリカのロックフェラーフリーメーソンだし

どちらも無学無恥低能のばかあほなことは間違いないw

だから幣原喜重郎は天皇から主権を奪ったのさ。

昔から天皇家はバカばっかりだw

賢いのは大サザキに殺されたウジノワキノイラツコ真実の仁徳天皇と、

聖徳法皇大王アメノタリシ彦と聖武天皇と明治天皇と大正天皇と

平成天皇くらいしかいないからなw

しかも、昭和天皇だけ天皇の歴史始まって以来ただ一人日本人を皆殺しにする伊藤博文と同じロス茶スパイフリーメーソンで、

他の天皇は皆仏教徒か一神教神道だよw

天皇は常に大みたからと国土を必ず守ってきたのだ日本史上象徴国体として。
・・・
asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c432

第二次大戦は9月2日に終わってない。

第二次大戦が終わったのはサンフランシスコ講和条約締結の1951年9月8日だ。

マッカーサーが同年4月16日帰米して初めて日米戦争が終わった。

だから戦争が終わった1951年9月8日から米軍は日本に駐留できないのだ。

その後の在日米軍基地は完全に国連憲章違反戦争

犯罪であるが、国連総会に日米安保条約を提出して日本の安保理常任理事国入りを申請すればわかるさw

ロシアも中国も日本とドイツの申し出を受け入れて直ちに緊急国連総会を開けばよい。

国連総会で日米安保条約とNATOドイツ集団安保条約を正式にBRICS派諸国の多数決で完全破棄すればよい。

国連はその時に防衛省吉田幕僚長を日本から召喚すること。

また同時に日本の処理水海洋放出問題も国連緊急議題にして討議しなければならぬ。

岸田と一緒に厚労省次官と農水省次官と総務省次官の3人を証人喚問せねばならないね。

日本は国連緊急総会に

岸田と

外務省次官(日米安保条約全文持参)、

防衛省吉田幕僚長、

厚労省次官、

農水省次官、

総務省次官の、

総勢6人だけで国連総会刑事司法裁判所に直ちに出廷せよ。
処理水海洋放出は人類と地球に対する法益侵害の重大刑事犯罪であり、且つ、
国連憲章違反の戦争犯罪であるからだ。

トランプも9月中に暗殺される。それを防ぐには合衆国最強の宇宙軍を使って、直ちに本物の核のボタンを持ち、本物の大統領専用機エアフォース1に搭乗し、宇宙軍の護衛編隊と空中給油機群とともに横田へ着陸すればよい。機上から行う世界緊急放送は前記の通り。横田で給油と護衛編隊を増やして直ちにウク

ライナ入りする。トランプは横田に残り宇宙軍の将軍直下の部下をウクライナでぜれんすきーの身柄確保部隊指揮者に任命して任務遂行させるとよい。これに応ずればウクライナは滅びずソロスとキッシンジャーは滅びる。応じなければウクライナは滅びる。DS麻薬王ゼレンスキーは生き延びる。

もちろんゼレンスキーが自殺を偽装すれば、ぬーランドが大声でロシアがやったとわめき散らかすのはいつものお約束であるが、それを理由にトランプを処刑する理由とするのも丸見えである。トランプは直ちに宇宙軍に命令して国外脱出し横田で米軍を掌握すること。アメリカ国内は危険である。

特別司法公務員は、良心に従い直ちに憲法および刑訴法刑法にのみ拘束されて、独立してその職権を汚職無く行え。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/605.html
・・・・・・・・

丹羽秀樹さん投稿
私は数年前から、いわき市豊間灯台下の海水を薪火で煮詰めて作った塩を、
玄米炊く時やパスタや野菜炒めなど普通に自家消費しております。

ミネラル豊富でマイルドな味わいに時折、砂粒が混じるのは愛嬌でしょうか。
木の子が好きで良く食べます。至って元気ですね!
facebook.com/profile.php?id=100028007061098

石井 史郎·
facebook.com/search/top/?q=JAL123
米軍に支配されているということ。
https://scontent-itm1-1.xx.fbcdn.net/v/t39.30808-6/369052920_4386334624924918_8105826558721206773_n.jpg?_nc_cat=107&ccb=1-7&_nc_sid=8bfeb9&_nc_ohc=kABoUp4hkEMAX9msSX2&_nc_oc=AQnALPo5tADCA6E6KQE0xx5PGBLMazMCdirA1ecckCIcPp7L80e3yNoYReN-UGvorrw&_nc_ht=scontent-itm1-1.xx&oh=00_AfBP8emId0mXhdek6tRDjKhaTbwdHCoCgOyk_p0ayE_B9Q&oe=64F3C391
杉浦 健一8月22日 5:17 ·
世界を圧巻していただろう日本製OS『 トロン 』の開発者たちが搭乗していたこの機体を戦闘機からのミサイルで撃墜、そして『 プラザ合意 』、事故とされた機体(米国ボーイング社製)を使用し続ける背景

【 毎年、繰り返される日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者への追悼の影に「隠されている事」】
毎年、繰り返される日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者への追悼の儀式。
1985年8月12日に起こった、日航ジャンボ機墜落事故に関しては、旅客機の機器の故障説やエンジントラブル等、諸説の原因が言われ、日航側は既に死者への賠償に応じている。
現在、日本、韓国、ハワイ、グアムに駐留する米軍基地内で、米軍の機関誌として読まれている「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」という雑誌の85年8月27日号には以下の内容の記事が掲載されている。日航ジャンボ機墜落事故から、わずかに2週間後の発行日付である。

「日航ジャンボ機墜落事故当時、横田基地に配属されていた米空軍の輸送機U130のパイロット、マイケル・アントヌッチ中尉は以下のように証言する。
『事故当日、空中戦の演習を行っていた米軍練習用戦闘機から事故が起こったとの緊急無線が入り、一番近くを飛行していた私のU130輸送機が事故現場へ救出のため急行した。
いつものようにアメリカ空軍の練習用戦闘機が、日本の民間旅客機をターゲットにミサイル発射のシミュレーション演習を行っていた所、安全装置が解除されている事に気付かず、実弾ミサイルを日航ジャンボ機に命中させてしまった、というのが無線の第一報の内容だった。』 
この空軍中尉マイケル・アントヌッチは、日本政府から奇妙な事に『緊急の救助のために現場に行かなかった事、第一報の無線も聞かなかったと発言するよう要請された』と語っている。」
この現役アメリカ空軍中尉の証言は、米軍機が「動く格好のターゲットである日本の民間旅客機」、つまり日本人をターゲットに日常的に「撃墜演習」を行っている事実を示している。
これが、日本に米軍基地がある、という事の意味である。
なお、日航ジャンボ機を撃墜した米軍戦闘機のパイロットが、事故ではなく、「何者かの命令によって」意図的に、ミサイルの発射安全装置を外していたのか、どうかは、「闇の中」であるが、このパイロットは事故の責任を取り処罰される事は無く、その後「不思議な事に、順調に昇進」している。
【 知ってはいけない 】JAL123便墜落の真相‼
https://vybzscope.com/2021/02/12/post-14942/
/
Masahiro Minami
トロンはちゃんと開発されてきた。
ja.m.wikipedia.org/wiki/TRONプロジェクト
/
豊岳正彦
それ杉浦健一氏に言え。俺には関係ない。俺はJAL123を撃墜した犯人がNHKだと言ってるだけだ。NHKはモサドだからCIAの親玉だよ。
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c436

[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
437. 豊岳正彦[-17476] lkyKeJCzlUY 2023年9月04日 14:15:42 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[35]
この日米地位協定こそが、国連憲章違反戦争犯罪上皇に相当するのだ。日本が安保理常任理事国入りしたいなら、国連総会で日米安保条約を刑事司法裁判所設置して総会参加国全員で陪審審理して多数決で有罪無罪の評決を行わなければならないね。しかも処理水海洋放出犯罪を犯しているから緊急に国連刑事司法裁判所を国連総会に設置しなければならない。


これは交通費の損害を与えられた契約違反の法益侵害刑事犯罪だから刑訴法239条告発して旅館を逮捕することができる。筋肉弁護士は脳がついてるのか?六法全書も知らないで司法試験受かるとは、ド阿呆犯罪者製造試験なのか、司法試験。まあ問題作ってるのが憲法も知らない東大法学部卒奇形知能最高裁判事だからなw国家叛逆汚職現行犯のw

憲法37条刑事裁判の迅速公開の鉄則は弁護士の申し立て程度で変更できないぜ。これは裁判官の憲法76条違反汚職裁定だから裁判官を特別違法公務員職権乱用職務怠慢汚職罪で刑訴法239条告発し、直ちに特別司法公務員警察に逮捕させて汚職裁判官を罷免して別の裁判官に交代させよ。公判期日延期は国務大臣の裁量だが、刑事司法が官邸に強制捜査に入る事は拒否できないから、本当に国務のための延期なのかをきっちりと捜査せよ。捜査担当は東京地検特捜部である。緊急に官邸へ強制捜査に入れ。

http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c437

[医療崩壊9] <流産率は70%を遥かに超えている>ファイザーのワクチンは中絶薬より効果的 「もう一つ大きなニュースがある」(ニコニコ動画… 赤かぶ
332. 豊岳正彦[-17526] lkyKeJCzlUY 2023年9月18日 04:27:48 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[36]
<■140行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
山岡鉄舟高歩大居士修身二十則を守らぬ時すべて汚職也。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/607.html
ワグナーの反乱? に対するプーチン大統領の演説(日本語字幕)
https://odysee.com/@Channel_Calando:5/_Putin:f
豊岳正彦
わが日本は2000年以上の歴史を持つ世界最古の立憲独立国家だから、プーチン大統領の言葉を最も理解できるのは、高々400年の歴史も文化も法も芸術も技術もない殺人強盗無法国家アメリカのトランプよりも、真日本人安倍晋三武士道日本人だということは紛れもない真実だ。
ラームエマニュエルが安倍ちゃんを殺してから後の日本政府は、憲法と法律をすべて破って反日政策を強行する戦争犯罪汚職政府国家叛逆三権公務員組織的ジェノサイドテロイスラエルモサドNHKスパイに成り下がってるが、この国の国王は政府じゃない我ら主権者国民だ。

17条憲法も日本国憲法もわしら国民が国を支える国家の大黒柱であって、公務員は憲法15条でわしら国民が選んで内政外交をやらせてる全体奉仕下僕である。
国民が公務員を選んでやらせている日本の国政は三権分立である。
国権の最高機関は国会だから国会議員の職務権限が最も強い。
次が司法である。
司法は国会議員も弾劾裁判所で司法権を行使できる。
最下位が行政である。

国会が国の唯一の立法機関であるから、司法も行政も立法してはならず刑罰を立法しないまま与えてはならない(憲法36条)。
閣議決定行政は三権分立違反で憲法前文違反憲法99条違反憲法9条違反国家反逆罪だ。
閣議決定はすべて執行前に国会と司法の審理を受けねばならない。
岸田と林のウクライナ訪問は小泉純一郎の訪朝と同じく国家反逆罪憲法66条違反憲法9条違反憲法98条違反だよ。
岸田林のウクライナ訪問は国連憲章違反戦争犯罪でもある。
そして林のメガソーラー誘致はすべて刑法146条違反水道毒物等混入殺人組織犯罪だ。
LGBT法も同じく岸田の憲法41条違反憲法12条違反憲法24条違反憲法9条違反外患誘致罪かつ刑法199条違反殺人罪が有罪。

日本国刑法は、日本政府内政外交をすべて極刑犯罪組織的汚職ジェノサイドテロ確定して全員を極刑断罪できる。
汚職しかしない医者と弁護士もみなし公務員テロリストだから全員極刑断罪する。
六法全書に書いてある。
特別司法公務員は直ちに刑訴法239条2項に従い政府公務員みなし公務員の国家叛逆汚職犯罪を、
憲法76条良心に従い独立して職責を果たしすべて検挙せよ。
汚職は山岡鉄舟が15歳で書いた修身二十則を守らぬ時汚職である。
dl.ndl.go.jp/pid/782096/1/18

一、うそいふ可からず候
二、君の御恩は忘る可からず候
三、父母の御恩は忘る可からず候
四、師の御恩は忘る可からず候
五、人の御恩は忘る可からず候
六、神仏並に長者を粗末にす可からず候
七、幼者をあなどる可からず候
八、己れに心よからざることは、他人に求む可からず候
九、腹を立つるは、道にあらず候
十、何事も不幸を喜ぶ可からず候
十一、力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候
十二、他をかへりみずして、自分の善き事ばかりす可からず候
十三、食するたびに、かしょくのかんなんを思ふ可し。すべて草木土石にても、粗末にす可からず候
十四、殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得ふ可く候
十五、礼儀を乱る可からず候
十六、何時何人に接するも、客人に接する様に心得ふ可く候
十七、己れの知らざる事は、何人にてもならふ可く候
十八、名利の為めに、学問技芸す可からず候
十九、人にはすべて、能不能があり。いちがゐに人をすて、或は、わらふ可からず候
二十、己れの善行を、ほこりがほに、人に知らしむ可からず。すべて我心に恥ぢざるに務む可く候
嘉永三年庚戌正月 行年十五才の春 謹記
小野鐵太郎

数え年15歳は満13歳である。
満13歳は男女とも人間の成人元服年齢である。
100ken-1bun.blogspot.com/2015/09/blog-post_4.html
________

2023.9.6【米国】2001年ニューヨーク: あの日から22年目【及川幸久−BREAKING−】
youtube.com/watch?v=bTDmc6M4EaY
日本人はNHK東大慶応大を解体して、
日米地位協定を破棄して
米ドル国債500兆円売り払えば、
世界最大の平和構築専守防衛絶対不戦GDP世界一にたちまち返り咲くであろう。
明治維新の伊藤博文汚職廃仏毀釈を廃棄する。
これが17条憲法帰依文武両道仏心日本人の先祖代々の務めである。
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【ロシアニュース解説】プーチン•金正恩会談〜WST vs モスクワ•北京•平壌同盟創設
youtube.com/watch?v=Hkwb2kppTuI
@user-ur8zi9dk8f豊岳正彦
プーチンはスターリン以前ロマノフ王朝以前から続く汚職の撲滅に最も成功したからロシアの主権を確立できたと知っている、唯一の大統領であり、北朝鮮と結んだのは汚職無き対等安保条約である。これにより北朝鮮国内のイスラエルモサド汚職勢力を一掃できる。戦争は常に人間の心の中で自我妄執私利私欲をむさぼる汚職から始まる。人間だけが汚職し戦争し略奪し奴隷差別するのだ。トランプはアメリカという世界最大の汚職国家に生きているから、たとえトランプが大統領になってもそもそもアメリカ無法国家の汚職を撲滅する力はないことをプーチンは知っているので、現実的に対応すると述べたのである。プーチンは安倍ちゃんが心底汚職嫌いだと知ったので二人は知己となり刎頚之友となった。安倍ちゃんは国内で汚職公務員に囲まれて内政をぼろぼろにされたが、外交で汚職官僚や汚職議員の影響を全く排して世界中に真日本人無刀流武士道の無我真髄報恩至誠大和魂を示した。汚職を離れなければ忘己利他大和魂武士道を生きることはできない。プーチンさんは日本国内の汚職の巣窟がDS悪魔王の正体イスラエルモサドNHKだと知っている。安倍ちゃんを銃で暗殺した真犯人がモサドでありラームエマニュエルである。プーチンさんは日本人が自ら汚職を撲滅してモサドを国外追放し日米地位協定を破棄することを待っている。その時日ロ対等安保条約を結び、北方領土をすべてビザなし交流地域にして税収を二分割して両国で統治するという大東亜永劫平和共栄圏という安倍プーチンの同じ夢が実現するのだ。日本人は世界中の万人の法益を侵害する汚職を憲法と刑訴法と刑法で自ら撲滅しなければならない地球人類に対する神聖な責務を負うているのである。法益の侵害は刑法でこれを罰すると17条憲法日本国憲法仏法に書いてあるからだ。日本人は17条憲法と日本国憲法を心に深く記名して仏の五戒真日本人武士道を生きて死ぬべし。無我無心生者必滅こそ仏の教え生死不二である。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html
日本国憲法によって日本国を主権で統治しているのは公務員ではなく公務員の雇用主日本国民である。公務員は憲法15条により国民全体に奉仕しなければならない神聖な責務を負い、これに違反すれば直ちに刑法極刑国家反逆罪で断罪処勃する。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/603.html
みなし公務員医者弁護士も同罪である。組織的詐欺殺人罪で極刑処罰する。特別司法公務員が国家叛逆汚職犯罪を犯せば直ちに自衛隊消防隊海上保安官が反逆者を逮捕して国連刑事司法裁判所に全員身柄送致して戦争犯罪有罪で処罰するであろう。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/367.html
______________

【大東亜戦争の真実】日本が戦争に踏み切った理由|林千勝 https://odysee.com/@Ackeyra:3/%E3%80%90%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%80%91%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AB%E8%B8%8F%E3%81%BF%E5%88%87%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%90%86%E7%94%B1%EF%BD%9C%E6%9E%97%E5%8D%83%E5%8B%9D:c
豊岳正彦@lyuzhngyn1
秋月機関はこの大東亜戦争必勝戦略をよりにもよって大英帝国陸軍元帥に話して聞かせた。これが対米開戦と終戦の詔の致命的真実で、大日本帝国憲法というロスチャイルドスパイ伊藤博文汚職偽憲法でなければアメリカイギリス猶太モサドの戦争犯罪麻薬汚職は地上から全て排除できた。戦争は汚職の極致。

なんびとでも、汚職犯罪があると思料するときは、告発をすることができる。官吏又は公吏は、その職務を行うことにより汚職犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。日本国民はその良心に従い独立して憲法および法律にのみ拘束されてその職権を行う神聖な責務を負う。日本国民は、政府の

行為により再び戦争の惨禍が起こることの決してないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。我らは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

この日本国憲法によって汚職をすべて地上から刑法排除することができる。日本国憲法によって戦争と原発事故という汚職の極致を未来永劫人類から完全に除去することができる。日本国憲法は三宝帰依報恩忘己利他武士道父母大慈悲仏法そのものだ。諸君は全文暗記せよ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/25.html

日本人は日本国憲法を全文暗記した時に元服成人し日本国民と成って、死ぬまでずっと日本国憲法を守って修身二十則を愚のごとく魯のごとく実践躬行し修め続けることで、死ぬときも三宝に帰依して死ぬる偉大な真日本人となるのである。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/607.html
http://www.asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c332

[医療崩壊9] <流産率は70%を遥かに超えている>ファイザーのワクチンは中絶薬より効果的 「もう一つ大きなニュースがある」(ニコニコ動画… 赤かぶ
333. 豊岳正彦[-17552] lkyKeJCzlUY 2023年9月22日 15:06:37 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[37]
<■1149行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
玩月山西光寺
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西光寺について
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仏典童話
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名 称  西光寺(さいこうじ)
住 職  藤石 哲朗
住 所  〒110-0015 東京都台東区東上野6-15-6
電 話  03 – 3841 – 3229
F A X  03 – 5828 – 4495
e-mail  info@otaniha-saikouji.com

今月の言葉

極楽は
西にもあらで
東にも
北(来た)道さがせ
南(みな身)にあり
   一休禅師 詠

今の自分は 本当の自分ではなく
本当の自分は別にいる
と思っておられる方も
あると思いますが
今の自分こそが
本当の自分です
          竹中智秀
ジャータカ物語

仏典童話

  お釈迦様の前世物語。本生譚(ほんじょうたん)と漢訳されるお釈迦さま前世において菩薩であった時代に衆生を救った善行を集めた物語です。パーリ語聖典には五七四のジャータカ物語があり、散文と韻文とからなり紀元前三世紀ごろ成立といわれている。その後仏教の伝播に伴って世界各地に伝えられ、『イソップ』や『アラビアン・ナイト』などのペルシャ・アラビア寓話文学に深い影響を与え、日本でも『今昔物語』『宇治拾遺物語』などの中に散見される。
 この物語について大谷大学の一楽先生はその著作に「釈尊が生まれる前のことは、「ジャータカ」という物語に膨大なものが残されています。前生譚(ぜんしょうたん)とも言われますが、いろんな物語があります。釈尊はあるときには鹿の王様だったり、兎であったりなど、いろいろ出てきます。しかし、それが実際にはどうであったかという詮索よりも、何を伝えようとしているかが大事だと思います。釈尊は人間界だけではなく、ありとあらゆる世界の苦しみ、問題を見尽くしたお方であると表しているのですね。ありとあらゆる世界の苦しみを見通した上で、敢えて人間の世界においてその問題をどう超えていくのかということを課題として担われたのが釈尊であると表現しているのです。
(『大無量寿経講義−尊者阿難、座より起ち−』文栄堂から)
これは、30年ほど前、住職が本山で「ラジオ放送『東本願寺の時間』」を担当していたときに放送されたものです。
仏典童話
タイトル

ムニカ豚の報い
象と猿と雉のはなし
鳥さしとウズラ
山犬のたくらみ
ビサーラの恩返し
吊り橋になった母猿
象を倒した鶉
池の柳
金の羽を与えた白鳥
香り盗人
狼の断食
猿をほしがったワニ
亀と狐の友情
揉め事を探す山犬
くしゃみの因縁
悪逆の王子
鸚鵡の味方
黒い牡牛の菩薩
五武器太子
何果樹の木の実
空飛ぶ白象
砂漠の少年
金色の鹿

ムニカ豚の報い


 昔々、バーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていた頃のことである。ひとりの菩薩がある村の長者の家に一匹の牛として生まれ変わった。
その名をマハーローヒタといい、その牛にはまたチュルラローヒタという弟があった。この二匹の牛の仕事といえば朝から晩まで車を引く重労働だったのです。ところでこの長者には年頃の娘があり、結婚も決まり、その準備に明け暮れていた。 
長者は式の日のご馳走のためにムニカという豚を飼っていて、餌には上等の乳粥を与え、豚は丸々と肥っていた。これを見た弟牛のチュルラローヒタは 「兄さん、この家の辛い仕事はみんな僕たち二人の力でうまくいってる。それなのに僕たちがもらう食べ物といったら草と藁だけじゃないか。豚のムニカをご覧よ、仕事は何にもしないで食べ物だけはあんなご馳走をもらっている、不公平だと思わないかい。」
兄のマハーローヒタは静かに答えた。「あの食べ物をうらやんではいけない。アレは死の食事なのだ。もうすぐこの家の婚礼の日がくるだろう、そのときムニカは小屋から引き出され殺されてお客のご馳走になってしまうのだ。死ぬために肥っていくムニカをこれでもうらやましいと思うかね?」
そしてつぎのような詩を唱えた。
豪華な食事をうらやむな。死のご馳走なのだから。
欲を離れてモミを食べ、いのちの味をかみ締めようやがて婚礼の日が来て豚のムニカは殺されお客をもてなす料理になってしまった。
牛の姿をした菩薩は弟に向かって「どうだ、ムニカの最期を見たかね、」と振り返り、チュルラローヒタは「兄さん、ご馳走ばかり食べていた者の報いを見たよ」と応えた。

祇園精舎 釈迦香室跡
 
お釈迦様は祇園精舎で弟子たちに向かってこのように語り終えられ、そのときの兄牛マハーローヒタは前(さき)の世の私であった、と言葉を結ばれた。 

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象と猿と雉のはなし

昔々、ヒマラヤ山の中腹に大きなニグローダという木があった。そしてその木の周りにキジとサルとゾウの三匹が勝手気ままな生活を送っていた。ある日のこと、こんなバラバラな生活はよいことではない、三人の仲間内で誰が一番年上かを調べて、年上の者を敬い、きちんとした暮らしをしようということになった。
そこで三匹はニグローダの木の下に集まり、まずキジとサルがゾウに向かってたずねた。「ゾウ君。君はこのニグローダの大木をいつごろから知っているのだ?」ゾウはゆっくりと長い鼻を振り上げながら「うーん、ボクの子どものころはこのニグローダの木はひざにまで届かない若木だった。だからボクはその上をまたいで通ったものさ。それからおとなになってからもこの木の先はボクのへその辺りまでしかなかったなあ、いずれにしてもそんな小さいときから知っているよ。で、サルくん、君はどう」
「ボクかい。ボクが子ザルのころはそれよりもっと小さかったような気がするな。だって子どものボクがすわったまま手を伸ばしても、一番上の柔らかい新芽を取ることができたからね。」二匹はキジに向かって同じように聞いた。
「そうだな…。昔ここからずーっと離れた場所にやはり一本のニグローダの木があって、私はいつもその実を食べていた。その私がここへ来て糞をしたもので、その中に混じっていた種が芽を出してこんな大木に育ったというわけ。だからこの木の生える前から知ってるということになるね」
「そうか、だったらキジさん、あなたが一番年上ということになるね。これからボクたちはあなたを先輩として敬い、いろいろ教えてもらうことにしよう。よろしくね」
それからというもの、キジは規律正しい生活を二人に授け、自分もまたその規律を守って暮らした。そして三匹の自然で安らぎのある生活が続いていった。

舎衛城跡
お釈迦様は舎衛城において弟子たちにこんな話をされ、次のような歌をとなえられた
“真理を求めるものはまず先輩を敬うべし
それが未来を開く第一歩となる” 
さらに続けてさっきの話のゾウは目連、サルは舎利弗、キジこそは前(さき)の世の私であった、と言葉を結ばれた。 


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鳥さしとウズラ


昔、ブラフマダッタ王がバーラーナシーの都で国を治めていたころのことである。一人の菩薩(ぼさつ)が鶉に生まれ変わって多くの仲間とともに森の中に住み着いていた。その近くに一人の鳥射しがいて鶉を捕らえて暮らしをたてていた。囮(おとり)の口笛が抜群なので鶉はどんどんおびき寄せられていく。ある日菩薩は仲間たちに向かって訊ねた。
「このままいけば我々は全滅してしまう。みんなはそれでもいいのか?」重苦しい沈黙が流れる中で一羽が力なく「だけど、どうしようというのです。あの鳥射しの口笛の誘惑、それにあっという間に襲い掛かってくる網の目から逃れる方法があるとでもいうのですか?」
「ある。」菩薩はこたえた。
「あるとも、力を合わせることだ。いいか、網が投げられたらみんな網の目に頭を入れて、力いっぱい羽ばたくのだ。みんなが力を合わせればきっと飛び立つことができる。そして茨の藪に網を捨てよう。そうすれば鳥射しが網を探すのに丸一日はかかるだろう。」
わあっと群れの中に明るいざわめきが起こった。そしてあくる日、鳥射しが網を投げると鶉たちは力いっぱいそれを持ち上げ、茨の藪にむかって飛んだ。慌てふためいて鳥射しは網を追いかけた。そして茨の藪から網を離すのにたっぷり日暮れまでかかった。

次の日も、また次の日も鳥射しは鶉の群れに振り回された。ぷりぷりして家に帰ると、 「お前さん、今日もまた手ぶらじゃないか。他に持っていくところでもできたんじゃないの!」妻までが嫌味たっぷりに言う。
「馬鹿いうな!嘘だと思うなら森までついてくればいいだろう。フン、こんなことが長続きするもんか。」
幾日かが過ぎた。餌場に舞い降りた鶉の群れにとうとう喧嘩騒ぎが起こった。
「いばるな!自分ひとりで網を持ち上げているわけじゃないぞ」
「なにをー、もういっぺん言ってみろ!」
この様子を見て菩薩はこれでは一族のすべてが滅びると考え、周りの弟子たちを連れて新しい森へ飛び去っていった。
 一方森に現れた鳥射しはまだ喧嘩に夢中になっている群れをめがけて網を投げ、一羽残らず捕らえて籠につめた。妻の喜ぶ顔が浮かんで鳥射しは自分もニヤリとほくそ笑んだ。
お釈迦様はこう語り終えられ、“争いはすべて滅亡の元である。一族の間で争ってはいけない。そのときの智恵ある鶉こそ前の世の私であった”と、言葉を結ばれた。

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山犬のたくらみ


昔、ブラフマダッタ王がバーラーナシーの都で国を治めていたころのことである。一人の菩薩が大ねずみに生まれ変わって、数百匹の手下を連れ、林の中に住んでいた。
 ある日、一匹の悪賢い山犬がこのねずみの群れに出くわした。
「ウホッオー、こりゃすごいご馳走だ。あの丸々肥った奴を頭ごと喰ってみたい。二三日は寝て暮らせるに違いない。いや、待てよ。今あの大ねずみに飛び掛れば他の奴らは全部逃げてしまう。なんとか一匹ずつ喰う方法はないものか。あーん。」
そこでいつもネズミたちが通る丘の上にまっすぐ太陽に向かい、風をいっぱいに吸い込んで片足で立った。
「へっへー、誰が見ても立派な修行者に見えるだろう。」
山犬はひとり得意げである。一方ねずみになった菩薩はいつものように一族を連れてえさを探しに出かけ、この丘を通りかかった。
「ここで何をなさっているのですか?」ねずみの菩薩は進み出て尋ねた。
「ウン、ウーン。何に見えるか?」
「修行中のお方だと思います。名前をお聞かせください」
「あ、ウーン、宇宙の根源という名じゃ。」
「一本足で立つ修行なのですか?」「
いやーそうではない、四本足で立つと大地がわしの重さを支えきれないのじゃ」「口をあけておられるのは?」
「か、か風を喰っておる。遠い海の香りを運ぶ風。谷から吹き上げる冷たい風、みんな味がちがってなかなかうまいもんじゃよ」
「太陽に向かっておられるのは?」
「礼拝しておる。太陽もまたわしだけを照らしておる。」
「ほぉー、偉い方なのですね。これから毎日私どもはあなたのお姿を拝みにまいります。」 山犬は内心シメタと思った。
 それからネズミたちは朝晩この丘にやってきて、山犬に一礼してから帰る習慣がついた。ところがネズミたちが列を作って帰るときになると、列の一番後ろの一匹をパクリと一飲みにしてしまうのである。ねずみの数はだんだん減っていった。
 そこで次の日菩薩は自分が列の最後になり、用心しながら帰ろうとしたそのとき突然背中に殺気を感じた。ねずみの菩薩は振り向きざまにさっと飛び上がり、山犬ののど笛を噛み切った。そして息絶えたのを見届けて次の詩をとなえた。
“人の信頼を利用して悪事をなすもの。悪事のために人の信頼を得ようとするもの この卑劣さを許してはいけない”

お釈迦様はこう語り終えられ、そのときのねずみの菩薩こそ前の世の私であった、と言葉を結ばれた。

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ビサーラの恩返し

昔、ガンダーラーの国タッカシーラの都で、ケンダラ王が国を治めていた頃のことである。
一人の菩薩が仔牛になってこの世に生まれた。まもなく若く貧しい農夫がこの仔牛を手にいれ、ビサーラ「喜び」と名づけた。ビサーラは野山を自由に駆け回り、力強くたくましい牛に成長した。そして若者だった農夫は貧しいまま年老いていった。
ある日、ビサーラは主人に恩返しがしたくてこういった。
「私をこんな立派に育ててくださったので、なにかお礼がしたいのですが、今一番ほしいものはなんですか?」農夫はしばらく考えていたが、
「そうだなあ。一生懸命働いてやっと貯めたお金が1000キン、できたらあと1000キンはほしいのだが」

「よろしい、村の長者の家に行き力比べの賭けをなさい。荷物を満載した百台の車を一列につないで私が引きます、これが動けば1000キン。きっと勝たせて差し上げます。」
 農夫はさっそくビサーラを連れて長者の家に行き、うまく長者を煽って賭けを挑ませた。たちまち下男たちが呼ばれて材木や石を満載した百台の車が門前にずらり。
「さぁー、はじめよう。動かなんだら1000キン間違いなく申し受けるぞ!」農夫は荷台の先につないだビサーラにピシリと鞭を一当て
「そら引け、畜生め!」と叫んだ。ビサーラは動かなかった。
「コンチクショウ、どうした、鞭がいくつも飛んだ。ビサーラはそれでも動かず農夫はかけに負けて全財産1000キンを取られてしまった。
とぼとぼと家路に着きながら
「ビサーラ。どうして私を騙したりするのだ?」
「あなたは私を畜生と呼ばれた。そんな蔑んだ呼び方で私が動く気になれますか?」農夫はうなだれた。
一度長者のところへおいでなさい。そして今度は200台の車を引かせ、2000キンの賭けをなさい。
2000キンを賭けた200台の荷車の先にビサーラはいた。農夫はビサーラの首をやさしく撫でて
「ご苦労だな、力を出しておくれ。頼んだよ」ビサーラは息を止め、満身の力を込め、舵棒を引いた。ギシっという音と共に200台の車は動き始めた。農夫は賭けに勝って2000キンを手にした。
お釈迦様はこう語り終えてから、“言葉は愛を伝えるためにある”と一言付け加え、このビサーラこそ前の世の私であったと、言葉を結ばれた。

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吊り橋になった母猿


昔、バーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていた頃のことである。
ガンジス川を遡って都から何百キロも離れたところに大きな森があった。そこに一人の菩薩が森に住む500匹の小猿の母として生まれた。母猿は小猿たちを満遍なく可愛がって一家はとても幸せに暮らしていた。夏が過ぎるとガンジス川の岸に生い茂ったマンゴーの実が熟して甘い香りが森中に漂い、小猿の頭ほどもある実の中からおいしいジュースが滴り落ちてくる。
風がやんで空の澄み切った日の朝、母猿は子どもたちを集めて言った。 「さぁみんな、今日はお母さんといっしょにマンゴーの実を採りに行こうね。上のお兄ちゃんが一番後ろ、小さい子から一列に並んでお母さんの後についてらっしゃい。」
「はぁーい。うれしいな。今日はおなかいっぱい食べられるぞ。早く行こうよ、おかあさん」はしゃぎまわって木の枝はもう折れそうである。
「だけど今日は一つ大事なことを言っておきますよ、おまえたちはどんなことがあってももぎ取ったマンゴーの実を川の中に落としてはだめよ。もし一つでも落としたら実は丸一日かかって川を流れ、川下に住む人間に拾われます。人間はこんなおいしい果物を知らないから、きっと大勢でこの実を探しに来るに決まってる。そしたら私もおまえたちもここから追っ払われるのよ。いいね!」
マンゴーの木はガンジスの流れに覆いかぶさるように枝を伸ばし、先に行くほど良く熟れた実がなっていた。歓声をあげた小猿たちは枝から枝へ飛び移って甘いマンゴーの実をおなかいっぱい食べ、陽が西にかたむくまで楽しいときを過ごした。
「さぁ、そろそろ帰りますよ。」
母猿が皆にそう言った時一番小さい小猿の手が滑ってマンゴーの実がひとつ川の中へ落ちていった。
「おかあさんはあんなこと言ったけど一つくらいいいや、どこかへ沈んでしまうだろう」
小猿はそう考え黙っていた。川の流れは早くなったり遅くなったりしてその実を都へ運んでいった。
「なんだろ、これは」
都に近い岸で魚を獲っていた漁師が拾い上げ、
「いい香りがする。見たこともない果物だ、こんな珍しいものは王様に差し上げたらどうだろう。きっと何か褒美がもらえるぞ」
そういってお城に持っていった。
「ホォーッ」マンゴーの実を食べた王様はいたくご満悦である。そしてそのおいしさが忘れられず、とうとうこれを探しに出かけることになった。
「すぐ兵を用意せよ!五隻の船に兵隊を乗せガンジスを何処までもさかのぼるのじゃ。この実がなっている木が必ずある、急げ!」
すぐ軍隊が出動し、王様の船を先頭に上流にむかって漕ぎ出した。船は営々と丸一日漕ぎ続けられマンゴーの木に近づいた。
「あっ、あれだ!あの木だっ。鈴なりだあ。みごとな実をつけているではないか。あん、木の上で動いているのは何じゃ。ん、な、なに猿だと!けしからん!弓だ、弓をもてーっ。」
王様とその兵隊たちは船の上から猿の群れ目がけて次々と矢を射かけた。
「さあ、みんな逃げるんだよ、あわてないで。この枝を伝って向うのニグローダの太い枝に飛び移ってお行き、わかったね」
大きい子どもたちは次々と力いっぱい飛び移って、矢の届かないニグローダの茂みに隠れた。
「おかあさん、こわいよー。ボクたち飛べないよ」
マンゴーの木には100匹の赤ちゃん猿が残った。
「じゃ、お母さんがこの藤蔓を体に結び付けて先につかまるからね、みんなはそれを伝って向こう側へお逃げ、順番に落ち着いて渡るのよ。さあ、早く!」小さい猿たちは震えながら藤蔓と母猿の背中を伝って渡っていく。「お母さん、痛くない?」「お母さん、手がしびれてるでしょう」
「お母さん、離さないで」母猿は数えた「95、96、97」あと三匹。手が千切れそうに痛み、藤蔓を巻いた胴は締め付けられて息が止まりそうになる。98、99そして最後の小猿が頭を踏んで渡りおわったとき、母猿の手は枝から離れ、ガンジス川の深みに飲まれるように落ちていった。
「おかあさーん!」
小猿はいっせいに叫んだ。夕日を映したガンジスの川面は小猿たちの涙のように赤くきらめき、とうとうとした水音が辺りにこだまするばかりであった。これを見ていた王様は弓矢を捨て、次のような詩を称えた。

“我が身を吊り橋にして子どもを助けた母猿哀れ、あの猿を救え、マンゴーの実は二度と採るまい”

お釈迦様はこう語り終えて、そのときの母猿こそ前の世の私であった、と言葉を結ばれた。

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象を倒した鶉

昔、バーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていた頃のことである。
ひとりの菩薩が象の群れに生まれて、その王者となった。体はどの象よりも大きいが心は優しく、八万頭の仲間を引き連れヒマラヤの高原を駆け巡っていた。
そこに一羽の鶉がいて、象の群れが通る道端に卵を産んでしまった。卵は孵ってかわいい雛が生まれたがまだ飛べない。そこへ王者を先頭に象の群れがやってきた。親鳥は驚いて飛び立った。
「象の王様、王様。そのように急がないでくださいまし。この先に私どもの巣がございます、そこにはまだ飛ぶことのできない私の雛がおります。どうぞ気をつけてやってください。」
「オウそうか。それは良く知らせてくれた。ワシの一族が通り過ぎるまで巣の前に立って守ってあげよう」
八万頭の像は列を作って鶉の巣の前を通った。
「ところで鶉さん、この後からもう一頭『はぐれ野郎』と呼んでいる象がくる。そのものにも良く頼んで子どもを守ってやりなさい。」
鶉は両の羽で合掌した。
やがてはぐれ野郎が現れた。
「象さん、はぐれの象さん。この先に私の子どもがいます、どうか踏みつけないようにお願いします。」
「なーにぃ。子どもに気をつけろだと!へっ、弱いものはなにをされても黙っているもんだ。それが自然の習いってもんさ」
はぐれ野郎はそううそぶいて鶉の雛を踏み潰して去った。鶉は泣いた。体が融けていくほど泣いた。そこへ友達の烏とハエとヒキガエルがやってきた。仲間の慰めと励ましの言葉に鶉は涙を払って
「アイツを生かしておいてはこの先次々と私たち弱いものを踏み潰していくでしょう。今ここで力を合わせて戦いを挑まないこと?どうカラスさん。あなたはあいつの目をそのくちばしで潰してよ」
「いいとも、ちょっとおそろしいけどみんなの為だ。」
「ハエさんはあいつのつぶれた目に卵を産みつけてちょうだい、早くウジがわくようにね」
「それでボクは?」
「カエルさんはあの崖っぷちで鳴いてほしいの。目の見えなくなったあいつはきっと水をほしがって崖が湖かと思ってやってくるじゃない?」
「わかった、奴が崖っぷちに来たら今度は谷底で鳴くんだね」
すべては計画通り運んだ。目の痛みに耐えかねたはぐれ象は水を求めてカエルの声を頼りに崖っぷちに誘われ、谷底に転がり落ちて息絶えた。
お釈迦様はそう語り終えられ、そのときのはぐれ象はダイヴァダッタであり、象の王者こそ前の世の私であった、と言葉を結ばれた。

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池の柳



昔、ひとりの菩薩が森の中の蓮池の畔に一本の柳の木となって生まれた。
この蓮池は夏になると決まって水が枯れ、そこに住む魚たちが何百匹も死ぬのであった。それを知った一羽の青鷺が、どうせ夏になって水が干上がり、魚たちが死んでしまうのなら今のうちに俺が食ってやろうと考えた。
「かまうもんか、どうせ早いか遅いかだ」
そこで池の畔の柳の木の根元に、さも心配そうな様子で佇んだ。
「青鷺さん、憂鬱そうなお顔ですね、どうかしましたか?」
水の中から一匹の魚が聞いた。青鷺はますます心配そうな表情で大げさに嘆いて見せた。
「ハーッ、君たちはなんにも知らないんだね、私が心配しているのは実は君たちの事なんだ。」
「僕たちのこと?」
「そうとも!魚だけじゃない蟹やタニシ小エビや蛙君ら水の中に住んでいるみんなのことだよ。いいかい、この池は夏になると水が無くなって、底はひび割れ、君たちは一塊になってのた打ち回るようになる。それを思うと夜も眠れないほど苦しくてネ」
「なーんだそんなこと!水が無くなったら僕たちは生きていられない。それは僕たちみんなが背負った運命と言うものさ」魚は明るい声で答えた。
「水が枯れて死んでしまうんだよ、知ってるかい?」
「それは僕たちが背負った運命というものです」
魚は明るい声で答えた。
(生意気いいやがって、チビ魚めが、今に見てろ)「そこなんだよ、なんとか助けてあげたいなぁ。あー、実はこの森を二つ越えた山の向うに五色の蓮華の咲く湖があるんだ。そこはどんなに日照りが続いても水が枯れない。どうだ、君たちさえ承知するなら私が順番に咥えていってその湖に入れてあげよう。といっても今まで君たちを獲って食ったことのある私だ、そうすんなりと信用はできまい。だから私はまず君たちの代表を一匹湖に連れて行こう。代表が湖を十分に偵察したら、私はまたここに連れて帰ってくる。君たちはその代表の報告を聞いて身の振り方を決めるがいい、どうかね。」
魚たちは額を寄せて相談し、代表として一匹のヤモメの魚を選んだ。青鷺はそのヤモメの魚を咥え、森を二つ飛び越し山の向うへ飛んだ。湖は透明な水をたたえ、浅瀬は五色の蓮の華で覆われ、取り囲む緑の森がふかみに美しい影を映していた。
 湖から帰ってきたヤモメの魚はその素晴しさを仲間に語り、その上
「湖の景色もだがそれより俺たちの好きな藻や水草が食べつくせないくらい繁っているんだぜ」
と付け加えたからたまらない。魚たちはわれもわれもと移住を申し出た。
「そうこなっくっちゃ!」
青鷺は魚を一匹ずつ咥え、優しげに飛び立って行った。だが第一の森を跳び越したところで魚を木の枝に叩きつけ、骨と頭を残して全部食べてしまった。
「ウゥーン、ヒッ。たわいのない奴らだ。魚の肉ばかり食ったので何か一口硬いものがほしい。あそうだ、蟹の甲羅など歯ごたえがあっていいかもしれん」
青鷺は蓮池に舞い戻り、水の中の蟹を呼び出した。
「カニさん、君も湖に移りたくないかね。魚たちはみんな喜んで泳ぎまわっているよ」
カニは感慨深そうに言った。
「いままで魚を獲っては食べていたあなたが急に魚の身の上を心配するなんて、ボクには納得できないな。」
「それそれ、君の考え深いのはいいよぉ。でも過ぎたるはなんとかっていうじゃないか、私はもう二度とここへは来ない、最後のチャンスだと思ってわざわざ君に声をかけたんだ、あとで後悔しても私はもういないよ」
「うーん、そうだね。そんなにまで言ってくれるなら。じゃあ、僕も連れて行ってもらおうか。だけど行くときはボクのはさみで君の首に捕まらせてくれないか?」
「いいとも、そのほうが私もくちばしが疲れなくてけっこうだね」
青鷺とカニは宙に飛んだ。第一の森が近づいた。青鷺はカニを叩きつけるのにふさわしい枝を捜し探し飛んでいく。そのとき夥しい魚の骨と頭が蟹の目に映った。蟹は青鷺の首を挟んだはさみに力をいれた。
「だましたね!やっぱり。」
口調は静かだったが怒りがこもっていた。
「親切ごかしをしてみんなをだましたね」
はさみにいっそう力が入った。青鷺は息も絶え絶えになり、一言もしゃべれない。地面に降りたったときには息は止まっていた。
 一部始終を眺めていた柳の木はこんな詩をとなえた。
“手の込んだ悪知恵は身の破滅。だますものもだまされるものも自分のことだけを考えるから” 
お釈迦様はこう語り終えられ、この柳の木の精こそ前の世の私であった、と言葉を結ばれた。

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金の羽を与えた白鳥


昔、ブラフマダッタ王がバーラーナシーの都で国を治めていたころの事でる。
ひとりの菩薩があるバラモンの家に生まれた。やがて妻をむかえ三人の娘が産まれ一家は幸せであった。しかし、一番下のスンダリナンダがやっと歩けるようになる頃、彼は妻子を残してあの世へ行ってしまったのである。残された親子は親戚の家政婦として細々と暮らしていくよりなかった。
亡くなったバラモンはある日、一羽の金の白鳥となってこの世に生まれてた。
「いっしょに暮らしていた妻子はいまどうしているだろう」
そのことだけが心配だったのである。彼は金色に輝く羽を広げてこの世を飛び回り、やっと親子四人の居場所を探し当てた。
「なんというやつれようだ。」
金のことで言い争う以外はあまり口もきかない暮らしぶりを見て彼の心は刺すように痛んだ。
「そうだ、私の金の羽は叩き伸ばせばどんな細工にも使える。これで指輪や首飾りをつくればいい値に売れるだろう。」
彼は月明かりの窓にふわりと降り立ち、妻と娘たちを呼んだ。誰もが目を丸くするばかりである。
「信じられないだろうね、私はお前たちの父親なんだよ。お前たちを助けたくてきたのだ」
「あなたが死んだおとうさんなの?」
二番目のナンダバティが近寄ってたずねた。
「そうだよ。さあ、私の金の羽を一枚ずつあげよう、これで何かを作ってお金に換えなさい。できあがったころにまた来るからね」
白鳥は四枚の金の羽を与えて去った。娘たちはそれで指輪やスプーンなどを作り始めた。ただ、母親は羽をそのまま売ってしまった。父の白鳥は月に一度窓辺に降りて金の羽をおいていき、親子の暮らしはどんどん良くなっていった。そんなある日、母親は娘たちに言った。
「ねえ、どうだろう、一枚ずつもらっていたんじゃじれったくてしょうがない。第一男なんていつ気が変わるか知れやしない。この次にきたときにはみんで押さえつけて金の羽を全部むしってしまおう。私たちはいっぺんに大金持ちになれるよ」
「だめよお母さん、おとうさんがかわいそうじゃないの。」
長女のナンダが反対した。
「おだまり!あれはよそに行っても同じように羽をやっているかもしれないんだよ、そうなれば私たちの取り分が少なくなるじゃないか。」
母親は窓に仕掛けをした。白鳥はその罠にかかり、昔の妻によって丸裸にされていった。と、そのとき、むしりとった金の羽はすべて灰色のガチョウの羽に変わった。一文の金になる代物ではなかった。
「チクショー」という金切り声が何度も聞かれ、娘たちは目にいっぱい涙をためていた。
お釈迦様はそう語り終えられ、この金の白鳥こそ前の世の私であったと言葉を結ばれた。


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香り盗人



 昔、ブラフマダッタ王がバーラーナシーの都で国を治めていたころの事である。
ひとりの菩薩がバラモンの家に生まれた。彼は成長するとタッカシーラの街へ出て学問を修め、仙人の弟子となって修行者の生活に入った。
 ある日、近くの蓮池を巡り、満開の花を眺めて楽しんでいた。水面からはかぐわしい花の香りが漂い、風がさざ波を起こすとその香りは一枚の花びらといっしょに彼の体を包み込むように流れてくるのだった。
「ああ!いい香りだ。つらい修行が吹っ飛ぶようだ。私の体をこの香りで染めてしまいたい。」
そして修行者が蓮池に足を浸したとき、どこからともなく鈴のような声がした。
「泥棒はおやめ、香り盗人」
彼は驚いてあたりを見回した。誰もいない、人影は池の向う岸で華を蹴散らして蓮根を掘っている爺さんだけだった。
「おーい、おじいさん、何か言ったかい?」
爺さんは振り向いて首を振った。
「風かァ、花びらの落ちる音か、それとも波立つ水のささやきだったか」
修行者はいぶかりながら花の香りを深く吸い込んだ。
「泥棒はおやめ、香り盗人」
声はまた聞こえた。さっきよりもはっきりと、強い調子である。
「誰です、姿を見せてください。香り盗人とは私のことですか?」
修行者は四方に向かって問いかけてみた。声はまた違う方向から聞こえてくる。
「一本の華でも与えられないものをとるのは盗人です」
「そんなことはしない、私はただ、香りをかいだだけです。それを盗人というならあの向こう岸の爺さんはどうです?蓮根泥棒じゃないですか!」
「盗むことに慣れてしまった人に何を言っても聞く耳をもたないでしょう。あなただから言うのです。清らかに生きようとつとめているあなただから、塵ほどの罪も犯してほしくないのです。小さな罪を犯すことに慣れてしまうと、後は大きく生き方まで変わるものです。自分に厳しく、これは修行者の誓いではありませんか?」
修行者はこれを聞いて、これくらいなら罪にならないと勝手に決めていた自分を思い知った。
「そうでした。私はいつの間にか心が驕りたかぶっていたのです。どうか姿を見せてください、この情けない私をこれからもしかってほしいのです。彼は虚空にむかって祈るように訴えた。声はまた別の方向から響いてきた。
「それが甘えというものです。自分で努力して鍛えていってください。」
声のする方向に紫の大きな蝶が舞った。
あっ、この池の精だと修行者はとっさに思った。
お釈迦様はそう語り終えられ、この修行者こそ前の世の私であったと言葉を結ばれた。

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狼の断食


昔、ブラフマダッタ王がバーラーナシーの都で国を治めていたころ事である。
ひとりの菩薩が帝釈天という神様になって修行を続けていた。ガンジス川は豊かな水をたたえ、両岸に広がる森や野原は濃い緑に覆われて、そこには数え切れないほどの鳥や獣が住んでいた。
そのガンジスも年に一度荒れ狂う洪水のときがある。春から夏に向かって長い雨の季節が来ると、降り続く雨と遠いヒマラヤの雪解け水とがひとつになって川はたちまち大波を打って両岸の土地を浸すのだった。
そんな時期ガンジスの岸に近い岩場に、一匹の狼がいた。岩山の裾を水が取り巻き、ひたひたと頂上に向かって増え続けた。餌がない、これで三日狼は何も食べていなかった。
「こりやだめだ、当分腹のたしになるようなものにはありつけそうにないや。まあ、あと十日もして水が引くまで、ひとつ断食の行でもしてみるか」
狼は独り言を言って断食の行を思いついた自分に忌々しさと同時にホッとした気分を味わっていた。
狼の断食がいつまで続いたか、30分もすると彼の頭には丸々肥った野うさぎが思い浮かんだ。
「いけねえ、いけねえ、断食の行だ」
彼は頭を振ってこの妄想を追い払った。そして20分もすると鹿の肉の柔らかい歯ざわりが甦ってくる。
「断食というやつは余計腹の減るもんだ」
そういって彼は生唾を飲み込み飲み込み、まだ10分も経たないうちに、今度はどうだろう、目の前に一匹の若い羊がいるではないか。彼はすぐさま決心した。「やめたぁ。断食の行なんてものはまたいつでもやれる。」
彼は力いっぱい後足で岩を蹴り、羊に向かって飛び掛った。と、羊はこれまた優雅な跳躍を見せて、そのまま天空の彼方へ消えていくのである。
「チキショー、まっいい。なんにしても一度決心した断食の行を破らなかったのが幸いというもんだ。さっやるぞ、十日間の断食」
狼はまた心を取り直した。そのとき虚空に鈴のような声が響いた。
「われは帝釈天である、いま羊の身となって汝の心をためした。その場の成り行きで決心したものはまた成り行きによって破られる。決心とは思い付きではない。暮らしの積み重ねである。汝にどのような暮らしがあったか?」
それは音楽のように余韻を残し、羊の消え去った天空に帝釈天の姿があらわれた。
お釈迦様はそう説き終えられ、このときの帝釈天こそ前の世の私であったと言葉を結ばれた。

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猿をほしがったワニ


 昔、ブラフマダッタ王がバーラーナシーの都で国を治めていたころ事である。
ひとりの菩薩が美しい猿の若者としてこの世に生を受けた。
 若猿はヒマラヤの山麓を群れと共に駆け巡り、ますます美しくたくましく成長していった。彼の住処はガンジスの川が大きく湾曲した入り江のそばの木の上にある。川の中にはワニの夫婦が住み、彼が水を飲みに来るたびにワニの妻は若猿のたくましい体を水の中から眺めるのである。
ある日、夫のワニにこういった
「おまえさん、あの猿、見れば見るほどいい体じゃないか。食べてみたいねえ。殊に心臓の肉は一度食べれば100年長生きするというじゃないの。捕まえておくれよ」
「身の程を知れよ、俺たちは水の中だし、あいつは木の上だよ」
やる気なさそうなオスワニの返事に、ワニの妻はたちまち機嫌を損じて
「フン、できないっていうの!あーあ、こんな甲斐性なしといっしょになるんじゃなかった。」
「ままま、それはだな…。い、いーとも、なんとか打つ手を考えてみよう。」
晴れた日の朝、猿は川面にきらきらする太陽の光を眺めていた。そのとき水がゆっくりと二つに割れて、ワニの夫が姿を現した。
「森の王様、向こう岸は朝日が当たる、果物の熟れるのも早い。どうして向こう岸へ渡ろうとしないんです?」
「あんな遠い向こう岸へボクの力で渡れるわけがないよ。」
「どうです、私の背中に乗って新しい土地を見にいきませんか?さぁさぁさぁ、どうぞ」
猿はその親切を無にしてはと思ってワニの背中に乗った。尻尾をひとなぎ、ワニは水を切ってガンジス川の深みへ泳いでいく。
(ここらでよかろう)ワニは計画通りグイっと体を沈めた。
「おい、ワニさん、これは何の真似だ!まさかボクを」
「そうよ、川のど真ん中じゃどうしようもないだろー。うちの家内がなあ、おまえの心臓とやらをほしがってるのさ」
「ボクの心臓をだって、そ、そ、そいつは、ここに、も持ってきてないよ。」
「なにー? 心臓を忘れた? じゃどこにあるんだ」
「ほら、いまボクがいた木の枝につるしてあるんだ。戻ってくれ、岸に着いたら心臓を渡すから。」
しまったと思いながらもワニは全速力で元の岸に向かった。猿は岸に飛び移ると木の枝に駆け上り
「ワニさん、生き物の心臓が木の上にあると思ったのかい、騙そうとするときはいつもあわてているもんだよ」
そういって森の奥へ姿を消した。
 お釈迦様はそう説き終わってから弟子たちに向かい“必要なものを求めよ、欲望のものを求めてはならぬ”と謳うように言われ、そのときの猿は前の世の私であったと言葉を結ばれた。

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亀と狐の友情

昔、バーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたころのことである。
ひとりの菩薩がカモシカに生まれ変わって森の湖の畔に住んでいた。椎の大木には一羽の啄木鳥が巣をつくり、湖には亀がいてこの三匹は仲のいい友達であった。ある日猟師が森にやってきて湖の岸でカモシカの足跡を見つけた。
「そうか、ここへ水を飲みに来るカモシカかがいるんだ、こいつを生け捕りにしたらきっと大もうけができるぞ」

猟師は念入りに罠をしかけ、自分の足跡を消して帰った。朝日が木々の頂に届き、湖に風が渡るとゆっくりと朝もやが融けていく。ねぐらを出たカモシカがいつものように砂浜を駆けていると、後足の砂がじりじりとめり込み始めた。おやっと思った瞬間、バチンというバネの音とともに足首が千切れるほど痛んだ。カモシカは悲鳴を上げた。それを聞いて椎の木から啄木鳥が飛んできた。湖の中から亀が浮き上がってきた。

「おーい、どうしたんだカモシカ君!あー、罠だ。足をやられたんだ。亀君、君の歯で食い込んでいる皮ひもを千切れないかい」啄木鳥(キツツキ)が言った。
「よーし、やってみよう。」
「君たち気持ちはうれしいけど、もうすぐ猟師が来るに違いない。そしたら君たちまで捕まってしまうぞ!ボクのことは構わず逃げてくれ」
「なにを言うんだカモシカ君。こんなときこそ力をあわせなきゃ。ウン、ボクは猟師の家に行って奴が来るのを少しでも遅らせるからね」
言い終わるや啄木鳥は飛び立った。猟師の家の窓を破り、屋根の周りをうるさく飛び回る。猟師は
「いやな鳥だなあ。なにか不吉なことが起こりそうだ。出かけるのは昼からにしよう」
また、寝床にもぐりこんだ。
 一方亀は懸命に皮ひもを噛み、歯はもうぼろぼろに欠け、口は血だらけであった。陽はすでに昇り、正午を過ぎた。
「おーい、猟師が来るぞ」
啄木鳥の叫びが聞こえ、矢のような速さで頭上を飛び去っていく。
「亀君有難う、こんなに細くなったんだから力いっぱい引っ張ってみるよ」
皮ひもがプツンと音を立てて切れたとき、猟師が砂浜に姿を現した。カモシカは森へ逃げた。
「チェッ。せっかく罠にかけたのに。まっ、この亀一匹でも手ぶらよりはましだ。猟師は疲れきってうずくまっている亀の体を縄でつるした。啄木鳥はすぐにカモシカに知らせた。
「せっかくボクを助けてくれたのに、さあ、今度はボクの出番だ。」
カモシカは猟師に目の前にいかにも傷ついて倒れそうな姿で現れた。猟師はやにわに亀を放り出し、投げ縄をもってカモシカを追った。亀は湖に滑り込み、カモシカは森の奥深く姿を消した。
お釈迦様はそう語り終えられこのときのカモシカは前の世の私であったと言葉を結ばれた。

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揉め事を探す山犬


昔、バーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたころのことである。
 ひとりの菩薩が川岸に生えた一本の柳の木に生まれ変わっていた。
ある日、近くに住む山犬の夫婦が
「おまえさん、川の中ほどでびしゃっと言う音がしたでしょう、あれなんだと思う。赤い大きな魚、おいしそうよ。ねえ、捕まえてきてよ」
「そうだな、だけど相手は水の中だぜ」
「ばっかだねえ、誰か水に潜れるやつに捕まえさせればいいじゃないか」
「よーし、まってな」
山犬の亭主が腰を上げて川岸の柳のそばを通りかかったとき、また大きな水音がする。すると水辺の葦がカサカサと鳴って一匹のかわうそが一直線に泳ぎだした。かわうそは水音の近くで水面から消えた。と思うまもなく激しい水しぶき上げて赤い魚が躍りあがった。そしてその背中にかわうそが爪を立てている。
「兄さーん」かわうそは岸に向かって呼んだ。
「手伝ってくれー、ボクだけじゃムリだよー」
兄のかわうそは水を切って助けに行き、三匹の戦いが続いた。やがて腹を見せた魚をかわうその兄弟が岸に運んできた。
「あーあ、疲れた。恐ろしく力の強い奴だった。あ、兄さん、ボクが見つけたんだから先に食べるよ。」
「ちょっと待った。俺が助けに行ったから捕まえられたんだ、だから俺が先に食べて残った分がお前のものさ。」
「そんなのずるいよ」
そこへ山犬が現れた。
「おふたりさん、アン、もめてますね。そういうことはまず私に相談したまえよ。いいかい、赤い魚は頭と胴と尻尾でできている、まず、三つに切る。」
そういって山犬は自分の鋭い牙で魚を三等分した。
「さあ、兄さんは頭から、弟の君は尻尾の方から食べ始めるがいい。どっちが先なんてことはないよ。」かわうその兄弟がそれぞれ魚に食いついたのを見て、「こういう風に裁きをつけた私が真ん中の胴をいただくことにしよう。」
こういって一番おいしいところを持っていってしまった。
お釈迦様はそう説き終わってからこのような詩を読まれた。
“まさにかくのごとく、合い争う者は富を失い、争いを種として邪まなる者が富を得る。実に争いは二重の悪である”
 そして弟子たちに向かい、そのときの一部始終を見定めた柳の木の精は前の世の私であったと言葉を結ばれた。

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くしゃみの因縁


これはお釈迦さま祇園精舎においでになるときにあるバラモンについて説かれたものである。昔バーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたころのことである。
 王の近くに使えるひとりのバラモンがいた。
「大王様、剣にも剣相というものがございます、ただ切れさえすればよいというものではございません。持てば武勲、品位ともに備わって名刀と呼ばれる剣もあれば、持つだけでひとを切りたくなる妖刀ともうす剣もございます。私はそれを、鼻でかぎ分けます、鞘を払って刀身に鼻をあてがい、うふん。かように致しますと剣の吉凶が伝わってまいります。ウウーン、これは名刀じゃ。」
彼が名刀だといえば、それはすぐさま莫大な金額で王に買い取られるのであった。国中の刀鍛冶たちは競ってこのバラモンに賄賂を送った。彼は金額の多いものを名刀だといって王に推薦した。
 賄賂を贈らない刀鍛冶がいた。彼は自分の鍛えた業物の鞘に胡椒の粉を入れて鑑定の日に臨んだ。
 王をはじめ大臣の居並ぶ席でバラモンはこの刀を抜いた。一文の金を送ってよこさぬけちな奴と、彼はその刀鍛冶の顔を思い浮かべながらゆっくりと刀身に鼻をあてがった。「はっ、はっ、はっ、はっくしょ〜ん。あ、ああああいてて」くしゃみと同時に鼻先が切り落とされた。血のついた鼻は王の面前にまで転がった。
 さて、このブラフマダッタ王には王子がなく、ひとりの王女と甥があった。二人は隣り合った宮殿で育てられ、やがて成長して恋しあうようになった。王はそのことを知って迷い悩んだ末、二人を引き離すことに決めた。
「予の血を引くものはこの二人だけ、二人を夫婦にするのも悪くはないが、それぞれに婿と嫁を持たせれば予の血統がさらに多くなる。血族の増えるのはよいことじゃ」
王はそう考えて甥を宮中から離れた場所に住まわせた。愛し合う若い二人には会いたくても合えない日々が続いた。
「どうしたものか」
ため息混じりに王子はバラモンに問うた。
「なんとかして王子を御殿から連れ出す方法はないものか、そなたは剣相を占うなどというまやかしのほかは何もできぬのか?」
バラモンはしばらく考えた。考えるとき鼻先を動かす癖があった。切り落とされた鼻は蝋で補修され、こしらえ物がついていた。鼻先は昔のようには動かなかった。
「月のない番を選びまする。」バラモンはまず答えた。
「月のない番を選んで姫様を必ず城外にお連れします。明朝、大王様にお目にかかり、このごろ王女様の気分優れぬのは悪運の神に取り付かれておいでのためと申しまする。」
「どこで待てばいいのだ?」
「墓地の後ろ、死体置き場の中がよろしゅうございましょう。厄払いの儀式は死人の中でいたしまする。」
「それもまやかしであろうが…」
「いけませぬか?」
「よい、ただ王女には一群の兵がついてこよう。」
「さればでございます、姫と共にわれらの一隊が近づいたときに胡椒をかいで三度くしゃみをなさいませ、武装の一群といえども生身の兵士でございます、死体の中からくしゃみが起こっては勇気もなえてしまいましょう。私が大声を上げて一番先に逃げ出します。そのとき迷わず姫を抱いて婚礼の誓いを申されませ」
「うん。」
「姫には内々に伝えておきますゆえ」
 月のない夜が来た。王女の一隊は墓地に向かい、死体置き場で厄払いの式を行った。百八つの壺から香水がかけられ、王女の体に取り付いたという悪運の神を洗い流した。
 
そのとき死体の中からくしゃみが起こった。バラモンは大声を上げ、肝を潰して逃げ惑う兵士たちを尻目に鼻をおさえて逃げ帰った。
 翌朝、バラモンはブラフマダッタ王の御前に出仕して、ありのままを申し述べた。王はすべてを了解し、大臣を集めると「我が甥を予の跡継ぎとする。」と宣言された。若い二人は相携えて宮殿に帰り、次の王、次の王妃として暮らした。
晴れた朝、東宮へ出仕したバラモンを見て王子は言った。
「太陽に顔を向けるではない。蝋細工の鼻が溶けようぞ。」
バラモンは鼻を押さえてかしこまった。
「くしゃみひとつでそなたは鼻をそぎ落とし、私はくしゃみのために王位につく、くしゃみは善でもなく悪でもないが善としてはたらくときと、悪としてはたらくときがある。これ因縁である。物事は末通って善もなく、末通る悪もない。」
陽は中天に上がりバラモンの鼻が少し融け始めた。
 お釈迦様はそう語り終えられ、そのときの王子こそは前の世の私であったと言葉を結ばれた。

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悪逆の王子


 これは、お釈迦様が竹林精舎においでになるときダイバダッタについて説かれたものである。
 むかしバーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたころのことである。
 ひとりの菩薩が仙人としてこの世に生を受けた。彼は世俗の暮らしを捨てて森に入り、ちょうどガンジス川が大きく蛇行する岸辺に小さな掘っ立て小屋を建てて住んでいた。その頃バーラーナシーの都ではドッタクマーラという王子が、それはもう悪逆の限りを尽くして人々にきらわれ恐れられていた。ことに宮中でこの王子に使える者たちにとってはいつ怒りに触れて殺されるか生きた心地もしない毎日であった。
「水浴びに参る。ガンジスの水が恋しくなった。供をせい」
ある日大声で命令した。馬の用意が遅いといって側近の者を殴り飛ばしたのはいつものことである。王子ドッタクマーラの一香がガンジス川に着いたとき、空は向こう岸から曇り始めて生暖かい風に水面は波立ってきた。
「この川を泳ぎきるぞ、ついてまいれ」
が、供のものは互いに顔を見合わせるだけで誰一人跡に続くものはなかった。空はいっそう暗くなり風が強まって、雨交じりの暴雨風と変わった。
「おい、みんな。このままお城に帰って、王子様は先にお帰りになったと口裏を合わせようではないか。この嵐だ、ずっと下流に流されていのちも危ういもんだ。」
「そうとも、われらを虫けら扱いにしてきた王子だ魚の餌食になればいい」
供の者たちはこの意見に賛成すると、一目散に城へ駆け戻った。
 一方、王子は濁流に押し流されながら助けを求めてわめき叫んだ。だが、周りは風と雨と吼えるような川の流れであった。ふと手に触れた木枝を握った。その枝は中州に根を張る大木の梢であった。王子はその枝にしがみついて真っ暗な一夜を明かした。雨がやんで夜が明けた。
 菩薩は小屋を出て、ガンジスの岸に立った。川の真ん中にあった中州はすっかり水の中にかくれ、仰ぐように見た大木も横倒しになって流れに逆らっていた。その木の枝からすすり泣きが聞こえた。
「いかなるものであろうと、死を恐れるものを救わねばならない」
菩薩は神通を現じて中州に飛びいたった。三方にのびた大木の枝、その一つに王子ドッタクマーラが泣いていた。もう一つの枝に年老いた蛇がいた。最後の枝には鸚鵡の雛が震えていた。
「怖れるではない、怖れるではない」
菩薩はそう呼びかけながら片手でその大木を引き抜き、宙を飛んで岸に立った。小屋から温かい食べ物を運んで彼らに与えた。蛇が言った。
「私はバーラーナシーで一・二といわれた金持ちでございました。生前いのちより大事な金をこの中州に埋め、それが気がかりでこうして蛇に生まれ変わりこの金を守っていたのでございます。夕べ死ぬほどの恐ろしさを味わって、初めて金よりも大事なものがあることに気がつきました。この金4億すべて差し上げとうございます。」
 鸚鵡が言った。「私はお金はありません、けれども私の一族すべて集まって雪山(ヒマラヤ)の麓から一番良く実った籾を10台の車に積むほど運んでまいりましょう。」
 菩薩はそれぞれに頷きながら、静かに微笑した。王子は言った。
「私が王位についたときには尊師よ、かならずわが王城をお尋ねください。お望みのものはなんでも、いやまずもって4種の宴をはってお迎えいたしましょう。」
 ガンジスの川の水が引いて、それからさらに三年たった。菩薩はふと思い出して旅に出た。
まずひと飛びに中州に至り 「蛇よ!」と呼んだ。
蛇はすぐに現れ「お待ちしておりました。ここに4億の金がございます。どうぞお持ちください」
「いや、それはそのまま。必要なときに思い出そう」そういい残して鸚鵡の住処に行った。
「鸚鵡よ!」
「お待ちしておりました。私の一族のものがすでに車十台分の籾を集めていつでも運べる手はずでございます。」
「必要なときに思い出すことにしよう」
菩薩はそういってバーラーナシーの都へ向かった。都はドッタクマーラが王位について専横を極めていた。菩薩は城門に立って「王よ!」と呼びかけた。
「城門に立つ乞食を捕らえて殺せ!わしを妬んでのゆすりたかりに相違ない。死刑に処してさらし者にせよ」城内の高楼からドッタクマーラ王の声が響いた。菩薩はそのまま立ち尽くし、
「獣に劣る人あり、獣に劣る人あり」と何度も何度もとなえた。
お釈迦様はそう説き終わって、そのときの王はダイヴァダッタであり、菩薩こそは前の世のわたしであったと言葉を結ばれた。

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鸚鵡の味方


 これはお釈迦様が祇園精舎においでになるとき、妻の身持ちの悪さに悩んでる在家のお弟子に向かって説かれたものである。
むかしバーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたころのことである。
 ひとりの菩薩が鸚鵡としてこの世に生まれた。彼には同じ卵から生まれたもう一羽の弟がいた。二羽の鸚鵡は雛のときから心優しい商人に飼われていて、菩薩はポッタパータ、弟はラーダという名で呼ばれていた。
 「おはよう!ポッタパータ」
朝、商人が起きてきてそう声をかけると決まってラーダの方が
「オハヨウ!ポッタパータ」とこたえ、
「こんにちは、ラーダ」と話しかけると
「コンニチワ、ラーダ」とポッタパータがこたえた。
 商人には子どもがなかったのでこの二羽を本当の子どものように可愛がった。餌はいつも新鮮な果物と上等のひまわりの種であった。羽に虫が入ると気持ちの良い水浴びもさせてくれた。鸚鵡の方もこの商人に父親のように懐いていた。
 「困ったことがあるんだよ、お前たち」
ある日、鳥かごの前にしゃがんで商人は話しかけた。
「旅に出なければならない。商売のためだ。そうだなあ、一月はたっぷりかかるだろう。その間お前たちの世話をしてくれる者がいない。女房はあのとおり気ままな女だ、自分が着飾ることばかり夢中で、鳥の世話など真っ平ゴメン。世話をするどころか焼き鳥にして食ってしまいそうな剣幕でね、寂しいがお別れだな。さっ、出ておいで。そのかわり果物は自分で探すんだよ、空を飛んで風にあたり、雨に打たれて丈夫になっておくれ。この家の回りにひまわりの種は蓄えておいたよ、そして私が帰ってきたらまた姿を見せておくれ。ポッタパータ!ラーダ!」 
商人はそういって涙ぐみ、二羽の鸚鵡を空に放った。
 商人が旅に出たその日から妻のコシャーヤナの生活は乱れ始めた。まず着るものを買いに出た、気に入ったものを手当たり次第買った。次に履物を買いに行った。着物に合わせて十足の靴を買った。そして次の日は髪飾りを買いに出た。これなら自分に似合うと思ったもの五つと、この方が良くお似合いですと勧められたもの五つとを買った。着物を着替え、靴を履き替え、髪飾りを付け替えて一日を過ごした。三日間それを繰り返して彼女は十分楽しかった。
 四日目、新しい着物とそれに一番よく似合う髪飾で街を歩きたくなった。街を歩いて誰もが自分を見ている気がした。羨望の眼差しで自分の美しさに見惚れているように思った。
 五日目、また街を歩いた。1人では寂しかった。だれか自分にふさわしい男がいると思った。そして知り合った男と食事を共にした。
 六日目、今日も着飾って男と街を歩いた。彼女の視線ひとつでどの男も笑顔で答えた。自分の名を呼ばれたいと思った。「コシャーヤナ」そう耳元で囁かれてみたいと思った。そうして月のうちの十日が過ぎた。
ポッタパータとラーダの二羽の鸚鵡は遠くへ行こうとはしなかった。この家の庭のあちこちに果物の木はあったし、一年かかっても食べきれないほどのひまわりの種が彼らのために用意されていた。主人の心遣いであった。二羽は家の入り口のモッカカの木に止まって主人の帰りを待った。来る日も来る日も帰りを待った。そして二羽が見たものはコシャーヤナの浮気であった。
月の十五日が過ぎるとコシャーヤナはもう外出することをやめた。その代わり毎日男の客があった。来る顔ぶれは毎日変わっていた。
そのたびにコシャーヤナは「待ってたわ、会いたかった」といって男の名を呼び自分の部屋へ招じ入れた。そんな暮らしが月の半分を超えて、やがてこの家の主人が旅に出てから丸ひと月になった。
 昼間の暑さが沈んでいってどこかで夕暮れの優しい風が出る頃、街に五十台の馬車が着いてこの家の主人が商売の旅から帰ってきた。先頭の馬車から降り立った主人は、供の者たちにねぎらいの言葉をかけ、我が家の入り口に立った。ポッタパータとラーダはモッカカの木の上で喜びに羽を震わせた。コシャーヤナも着物を裾を翻して玄関を駆け降り、「お帰りなさいあなた、待ってたのよ。会いたかった」といって主人を迎えた。
 そのときポッタパータはその声色を真似て
「マッテタノヨ、アイタカッタ サーヴァカ」と男の名を付け加え、ラーダも続けて
「「マッテタノヨ、アイタカッタ シーヴァリ」と二人目の男の名を挙げた。
 こうして二羽の鸚鵡は十五人の男の名を次々とコシャーヤナの声色を使って真似ていった。
 お釈迦様はそう語り終えられ、そのときのポッタパータこそ前の世の私であったと言葉を結ばれた。

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黒い牡牛の菩薩


これはお釈迦様が祇園精舎にいらしたときのことである。
 ある月の明るい夜、比丘たちは車座になってそれぞれの修行生活について話し合っていた。一人の老比丘が言った。
「私が若い頃はじめて仕えた師匠は、いま思うと大ぼら吹きであった。当時は大雄弁家として人気のあるお方であったが、奇跡をおこなう行なうといいながら、ついにただの一度もそれは実行されなかった。」
「それでその師匠を捨てられたか」若い比丘が尋ねた。
「さよう、我からその師を捨てた」
「ならばいま、我らが師、釈迦牟尼世尊は奇跡をおこなわれるか?」
「奇跡をおこなわれようともしない」
「では、なおこの師に仕えられる訳は?」
「自らの業報を担い、運命を使命と転じて自在を得た聖者、釈迦如来はほか比らぶべき者がない」老比丘がそう答えたときお釈迦様は静かにその場所に近づき、次のように語りだされた。
 むかしバーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたころのことである。
 一人の菩薩が牛の胎内に宿って、その牛の持ち主と共に諸国を旅されたのであった。旅の途中で菩薩は母牛の胎内から生れ落ち、真っ黒な仔牛となってこの世へ出られた。
「こんなに痩せて真っ黒なやつは大きくなっても使い途はあるまい」持ち主はそう考えて、仔牛を一夜の宿賃代わりに貧しい老婦人にくれてやった。老婦人は優しかった。生き物をわが子のように可愛がった。
「おまえをこれからホクロという名前にしましょう。さあこっちへおいで。痩せて小さいのは食べ物が十分じゃなかったからです。これからは私の分を減らしておまえに食べさせましょう。そして毎朝藁のブラシでおまえの背中を磨くことにします。歳をとって力はなくなったけれど、毎日磨けばきっと黒曜石の輝きが出てきますよ。もともとそんなに弱い子じゃないんだから」
 二年経つとホクロは堂々たる体躯をもつ村一番の雄牛に成長した。両の角に大人を三人づつぶら下げて坂道を登ることができた。子どもなら二十人をその背中に乗せ、急流を泳ぎきることもできた。そして老婦人の藁のブラシはもう雄牛の首までも届かなくなっていた。
「これで私がおまえにしてやれることはなくなりました。おまえはやわらかい草を求めてあの山並みを越えていくこともできるでしょう。水浴びするとき川の深みを恐れることもないのです。さあ、これからは自分ひとりで生きておいでなさい。」老婦人はそう言い聞かせてその日から病の床についてしまった。
 雄牛の菩薩は村々をさまよいながら、なんとかして恩返しをしたいと、そのことばかり考えていた。
 ある村の船着場に来合わせたとき、500台をも車を連ねた隊商の列に出会った。川の流れは早く、車を引く牛たちは川岸で立ちすくんでいるようであった。鞭を当てる音が続いた。そして牛たちの悲鳴が起こった。
「皆の衆!」大男が車の荷の上に駆け上がって叫んだ。
「皆の衆、知恵を借りたい。この車をどうやって向こう岸へ着けたらいいか。牛たちはご覧のように一歩も動かん、この荷車を向こう岸に着けてくだすった方に一千銀のお礼だ!どなたか、」
と言いかけた時雄牛の菩薩はゆっくりと列の先頭に進んで、舵棒の中に身を入れた。
「おっ!本気かね」さまざまの声が乱れ飛ぶ中で菩薩は満身の力をこめて最初の百台を引き、急流に身を躍らせた。舵棒が背中に食い込んで血が吹き出た。
「はー、やったぞ!」そういう人間たちの歓声とともに隊商の牛たちも勇気を得ていっせいに川を渡り始めた。500台の車と牛と人間たちは水しぶきをあげて流れを横切った。
 その夜、ホクロの母であった老婦人は夢を見た。大きな岩のように育った雄牛がいつの間にかネズミの様に小さくなり、目に涙をいっぱい溜めている夢であった。そして彼女が目覚めたとき、ホクロと名づけた雄牛の菩薩は首に一千金の入った袋を提げて老婦人の門口に帰り着いていた。
「まあ、私のためにしてくれたのかい?背中の皮が破れて骨がみえてるじゃないの!いいんだよ、おまえの稼いだお金でどうして私ひとり楽できるもんですか。さあさあ、また昔のように柔らかい藁でおまえの背中を撫でてあげよう」そういい終わって老婦人はそのまま息絶えたのであった。
 お釈迦様はそう語り終えられ、さらに言葉をついで
“比丘らよ、誠実であること、我が身の分限を知って誠実であること、これが人の世の力である。人が奇跡を求め、夢に迷うとき、きっと誠実であることの喜びを失っているものだ”
この雄牛たる菩薩こそ前の世の私であったと言葉を結ばれた。

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五武器太子


 これはお釈迦様が祇園精舎におられたとき、努力を捨てた比丘について説かれたものである。
 むかしバーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたころのことである。
一人の菩薩が、この国の王妃の胎内に宿られた。ブラフマダッタ王は800人のバラモンを招き、この子の未来について予言を求めた。
祇園精舎「大王様、この子は間違いなく男のお子でございます。私どものみるところ武勇に優れ、五種類の武器を使う名人となられましょう。長じてこの国を治められるにふさわしい皇太子でございます。王はバラモンのことばを聞いてこの子の名前を『五武器太子』と命名した。弓・槍・太刀・棒・投げ縄の五の武器に優れるならその名は近隣諸国に聞こえて国の安泰に役立つに違いないと考えたのだ。

祇園精舎
 
はたせるかな、太子は幼い頃から刀と槍を片時も手放さず、家来を相手に立ち回りの毎日であった。太子が16歳になったとき、もうこの国の家臣の中には太子を打ち負かす者がなくなった。
 ブラフマダッタ王はある日太子に行った。
「ガンダーラの国、タッカシーラに武芸に秀でた阿闍梨がいると聞く。汝はその下に行って文武諸芸を学ぶが良い、供は付けぬ。」
太子はタッカシ−ラの師匠の下で五年の修行を積んだ。それは五種の武器をいかに巧みに操るかという技の修行ではなかった。五種類の武器でさんざん打ちのめされる修行であった。師は言われた、
「バーラーナシーの太子よ、今日限りここを去るがよい。私は武器のなんたるかを教えた。ここで学ぶことはそれに尽きる。ただ…」そういって師の阿闍梨は少し言葉を飲み
「ただ、五武器太子と呼ばれるよりは…」と言ったままそのまま瞑想に入られた様子であった。
 太子は永年の教えの礼を述べ、五の武器を携えて旅路についた。馬の背で十日、国境の森が見えた。
「若いお方!」村人が太子を呼び止めた。
「あの森を一人で越そうなどと考えてはいけません。」
「なにか訳があるのか?」
「粘毛夜叉が住んでおります。生きてこの森を出たものはありません。」
「食われるのか?」「
「夜叉は獅子の鬣に似た毛で覆われ、矢であれ槍であれその毛で相手の武器を付着させてしまいます。そして武器を奪った後で人間一人丸ごと飲み込んでしまいます。」太子は微笑した。
「よい。私は食われる修行をしてきた。」
そう言い残して森へ入った。森は暗く冷たく粘毛夜叉の妖気に満ちて生き物の気配がなかった。
一里先から大木の梢が揺れ始め、やがて森全体がうなりをはらんと粘毛夜叉が現れた。背の高さはたらの木の頂上に届き、目は茶碗ほどに大きく赤い。二本の牙をむき出した口は鷹のくちばしのように尖っていた。
「止まれ、わが餌食」
夜叉は低く吼えた。太子は弓に矢をつかえ、引き絞って夜叉の胸を狙った。矢は飛んだ。次々に五十本の矢は正確に夜叉の胸板に飛んだ。しかし矢はすべて粘毛夜叉の茶色の毛に吸われるようにくっつくだけで胸を射抜くことはできなかった。太子は槍をとった。太刀をとった。棒をとった。投げ縄を飛ばした。すべての武器をもって立ち向かった。そしてそれらは夜叉の全身を覆う毛に吸い取られるだけであった。太子は拳を振るった。右手が毛に絡みつき左手が吸い取られ、夜叉の胸にぶら下がるように体の自由を失った。
「おれに歯向かうなんざ余程の向こう見ずだな。何奴だおまえは」
「私は五武器太子である、聞いたであろうこの名前を!」
「そんな名は聞かぬが、俺に捕まって震えもしない、命乞いもしない。こういう奴はさぞ歯ざわりが良かろうと楽しみにしているところだ。恐くはないか?」「恐くはない!人間は生まれれば必ず死ぬ、その覚悟はできている。私は武器を頼りにおまえと戦ったのではない。私は、この私の身だけが本当の武器だと思っている。戦いはこれからだ!」
「これから食い殺されようというのにどうして戦うのだ」
「おまえは私を口に入れたが最後、生きてはおれぬ、私の背骨は金剛の剣でできている」粘毛夜叉は少したじろいだ。
「その剣がおまえの内臓を粉々に切り裂くだろう、さあ、私はおまえと刺し違えておまえを退治する」夜叉は太子の凛とした声に心大いに動揺した。
「うー、もし、今日限りこの悪事をやめるなら、おまえ様の弟子にしてもらえるだろうか?」夜叉は太子を抱き下ろしながら少し恥ずかしげに言った。
お釈迦様はこう語り終えて、そのときに五武器太子こそ先の世の私であったと言葉を結ばれた。

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何果樹の木の実

 これはお釈迦様が祇園精舎においでになるとき、果物のことなら何でも知っているという優婆塞についてお説きになったものである。
 むかしバーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたころのことである。
 ひとりの菩薩が、ある貿易商の息子としてこの世に生まれた。子どもの頃から彼が両親に尋ねることは決まっていた。
「これはなんという花?この木は?あの木の実は食べられるの?」
庭中の植物について知り尽くすと、彼は森へ入って小さな草花にいたるまで詳しく調べるのであった。
「あの子はこれで一人前の商人になってくれるのでしょうか」
「そうよなあー。朝から晩まで草木のことばかり考えているようだ。あれでは先が思いやられる。そろそろ商売のことを教えなければ」両親は将来のことを思うと不安でならなかった。彼が二十歳になったとき、父親は病に倒れた。彼はその日から父に代わって五百台の車、五百頭の馬、五十人の人々からなる隊商を指揮しなければならなかった。
 苦しい旅が続いた。国々を巡って商品を売り、新しい産物を仕入れて、また国境を越えるのであった。
 草原を抜けて森に入る道ではしばらく馬を休めて、彼は必ず部下に命令した。「いいか、これからは私に断り無しに木の芽、木の実、草や花を何一つ食べてはならぬ。馬が道端の草を食べようとしても私に許可を得てほしい。」隊商はこの命令を固く守った。やがて秋になろうとする頃、一行は大森林を通り抜けてある村に差し掛かっていた。そのとき先頭から馬を反して駆けてくる部下があった。
「だんな様!」彼は弾んだ声で告げた。

「だんな様、この先の村の入り口にマンゴーの大木があります。しかも熟れきった実がそれはもう鈴なりと申していいほどの見事さでございます。馬も疲れております、マンゴーの実で喉を潤して一休みということにしましては」
「うーむ、村の入り口にか」菩薩は馬を走らせて隊商の先頭に立ち、更に鞭を当ててその大木のところまで一息に駆けた。木の周りは一面に緑の草が生えて隊商を休めるにはかっこうの場所であった。
「まて!その実に触れてはならぬ」部下を制しておいて菩薩は仔細にその木を調べた。幹も枝も葉もマンゴーの木と変わりはない、けれども実の色に茶色に熟した実の色に鮮やかな紫が混じっている。
「これはマンゴーではない。何果樹という毒りんごの一種だ。聞いてはいたが見るのは初めてだ」そう独り言のようにつぶやいて隊商に向かって厳しく言い渡した。
「これをマンゴーの実だと誰もが思うだろう、しかしよく考えてみるが良い、村に近いこの丘でマンゴーの実がこれほど熟れるまで何ゆえ村人は採りに来ないのか。この実に触れてはならぬ!触れたものは酔いが全身に回り、これを食したものは死に至る。ナンガジュの実にはハラーハの毒が満ちている、さあ、私たちは青草の茎をかんで渇きを癒そう。癒えたらおのおの武器を抜いてそのまま死んだように大地にひれ伏せ、やがて盗賊の一団が襲ってこよう」
「だんな様、私どもは戦うのですか?」
「いやいや、ただ武器を手にして立つだけでよい、敵は戦う勇気など持たぬ」五十人の一行が車の陰、木の茂み、草原の石に身を横たえて待つとき村がざわめき、家々から飛び出した村人たちがナンガジュの木に集まり始めた。
「ひゃはっはっは、この前のときは牛一頭だった、今度はワシは荷車を手に入れたい」
「ふー、荷車一台でも荷の中身によって値打ちが変わる。絹など積んでいれば笑いが止まらんというもんだ」
「それにしてもこのナンガジュの実は村の宝だ、俺たちゃ働かずに楽ができる。みんなこの人殺しの木の実のおかげさーね。ひゃっははは!」
「いまだ!」菩薩は掛け声と共に剣を抜いて立った。五十人の部下が一斉に立ち上がった
「ひゃーああ」悲鳴をあげて後も振り返らず我がちに逃げ帰る村人たちを見下ろしながら菩薩はまず自らの剣をナンガジュの幹に打ち下ろした。五十人の部下が次々にその剣を振り下ろすうちに実もたわわな枝を震わせて大木は倒れた。木の倒れた後は真っ青な空が広がって世界が広く明るくなったように思われた。
お釈迦様はこう語り終えられて、
「比丘らよ、昔の賢者もまた果物に詳しかったのだ。その隊商の長こそ前の世のわたしであった」と言葉を結ばれた。

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空飛ぶ白象


 これはお釈迦様が竹林精舎においでになるとき、ダイバダッタについて説かれたものである。
 昔、王舎城においてマカダ王が国を治めていたころのことである。一人の菩薩が一頭の白い象となってこの世に出られた。真っ白な全身にエメラルドに似た緑の目を持ち、それが福徳円満の相を表すものとして国中の評判になっていた。それを伝え聞いたマカダ王はこの象を自分専用の乗り物として召抱え、調教師をつけて一年の間みっちり仕込んだのであった。
象と調教師はまるで兄弟のようであった。
「兄弟!」と呼びかけながらある日調教師は言った。
「いよいよ王様からお召しの声がかかった、あしたからおまえの背中は玉座となる。七宝を飾り、天蓋を設けて荘厳し、常に行列の中央を進んで、王の行かれるところ何処へでも趣かなければならぬ。賢く素直に勤めてくれよ。」白象は調教師に鼻を摺り寄せて一時の別れを惜しんだ。
 その次の日から、王の巡察が始まった。王舎城の南の部分を三日かけてくまなく巡察し、東の地方北の地方へと移っていった。500人の行列の真ん中を白象は歩いた。仲間のどの象よりも大きく威厳があった。沿道で待ち受ける人々の中から「ホォー」というため息がもれ、雪のような白さ、優雅な歩き振りという囁きはやがて熱気をはらみ、ついに人々は声をそろえて
「転輪聖王の船よ」と爆発にも似た歓声を挙げるのだった。マカダ王は得意であった。
「これほどの象はめったにいるものではない、これを手に入れたのも我が栄光の証しである」といって憚らなかった。
 巡察は王舎城の西の部分に入った。王の行列を待つ民衆はここでも口々に白象を讃え、その美しさに感嘆の声を上げた。その頃から王は少しずつ不機嫌になっていった。民衆の歓迎は日増しに高まっているというのに、そのことがどうにも面白くなかった。以前は沿道を埋めた民衆は両手をあげて
「王様!マカダ王万歳!」と歓呼したものだった。
いまはどうだ、王たる私よりも我が乗り物である白象に向かって転輪聖王の船といい、雪山の王者と呼ぶではないか。
「あの象が王たる我をないがしろにしておる」王の心中に嫉妬の焔が燃え上がった。
「あやつを殺す」焔は王にそう決意させた。
「八つ裂きにして殺す。しかしあの大きなものをどうやっ…そうかぁヴェーブッタの頂から突き落としてみては」王はこの陰惨な考えに満足し、すぐに調教師を召しだした。
「何事でございましょうか」
「ほかでもない、ワシのあの白象は十分に調教してあるだろうな?」
「はい、それはもう十二分に仕込んだつもりでございます。」
「ヴェーブッタの山に登れるか?」
「えっ!あの三角の岩山に、でございますか?」
「ただいまから我が目の前で登って見せよ!」否やは言わせぬと王は甲高く叫んだ。
 調教師は思い心で白象の背にまたがった。一本の木も生えないヴェーブッタの岩山を、もしうまく登りきったとしてもどうして降りることができるだろうか。おそらく断崖を転げ落ちて刃のような岩でこの身を血に染めることであろう。
「兄弟、どういうわけだ。王はおまえを殺そうとしている、一時はあんなに喜び、この国の宝であるとまで言っておまえを慈しんでいた王が、気でも狂ったのか」白象は調教師を乗せてヴェーブッタを目指した。
 王は高楼に昇ってその姿を追った。ヴェーブッタ山麓からその頂上まで道はなかった。誰も登ったことがないからである。白象は進んだ。落ち着いて用心深く進んだ。褐色の岩肌を白象が登るのが城中からも見えた。町中の家の屋根に町中の人が上がった。上がってヴェーブッタの頂上を見た。歩みはだんだん遅くなってはいたが白象の踏みしめる一歩は確実に頂上に向かっていた。
「兄弟、何があったかは知らないがとにかくおまえに無理難題を吹っかけて殺そうとしていることは間違いない。そんな王様なんてこっちからおさらばしようや。さあ、これが頂上だ。兄弟!空を飛ぼう。私もおまえと一緒にいく」調教師が象に向かってそう語りかけたとき、白象は神通力をあらわしてヴェーブッタの頂から虚空を飛んだ。
「象が空をゆく!」高楼で王が叫んだ。家々の屋根で民衆が騒いだ。
「哀王の嫉妬の心が私に虚空を歩ませる」白象の菩薩は一言そういい残した。
 お釈迦様はこう語り終えられてそのときの王はダイヴァダッタであり、白象こそ前の世の私であったと言葉を結ばれた。

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砂漠の少年


 バーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたころのことである。
 一人の菩薩が貿易商の家に生まれ、二十歳を過ぎるともう一人前の商人として貿易の仕事に精を出していた。彼は五百頭のラクダを使って大キャラヴァンを組み、ラクダの背には商品を満載して都から都へ国境を越えて商売の旅を続けた。
 その旅も終わりに近く明日はバーラーナシーの都に帰りつくというとき、一つの難所に出くわした。それは六十里四方の砂漠であった。砂は手のひらですくっても水のように零れ落ち、太陽が昇るとその熱で火のように燃えるのであった。キャラヴァンは太陽が沈むのを待ち、大地が冷えるのを待って夜出発する。航海する船のように星を観測して方向を決め、闇に横たわる砂の海を五百頭のラクダと五百人の人々は一本の黒い帯となって渡るのである。
「隊長、風が出てまいりました。雲が乱れ飛んでいきます。この分だとやがて星の光もかき消されましょう。」
「さればといってとどまるわけにもいかぬ。」キャラヴァンはもう砂漠の中ほどと思われるところを進んでいた。風は強さを増し、はたせるかな、星は光を落として都への道はそこで途絶えたといっても良かった。東の空が白み始め果てしない砂の起伏が見えてくる頃、キャラヴァンは人もラクダも疲れ果てて太陽と熱砂に焼かれて死ぬ運命にあった。
「断じて諦めてはならん。我らはこの砂漠を越えて必ず都へ帰る。まず足元をよく観察せよ。砂の上に虫の歩いた跡はないか。蛇の這った跡はないか。一粒の草の種が落ちていないか。」
隊長である菩薩は大声で全員に語りかけた。今ここで自分が勇気を失ったらキャラヴァン全体が立ち上がる勇気を失うだろう。
「隊長、これはなんでしょう?このうす緑色のものは」
「あの砂の窪みになにか芽が出ています。」ラクダから降りて二人の隊員の下に歩み寄った隊長は仔細にそれを観察して
「吉祥草の芽だ!水の恵みがなければここに芽を出すはずはない。ここだ、この砂を掘り下げて水を手に入れよう。さあ、最後の力をだせ!」
隊員は交代で鋤をつかい、シャベルを使った。砂の穴は6,7メートルも掘り進んだが水はなく、固い岩盤に出会ってしまった。
「とても無理だぁ、水などありゃしない。力を出すだけ馬鹿馬鹿しいというもんだ。」
「骨折り損のくたびれ儲けというやつさ。隊長、もう止しましょう。それよりもラクダを一頭ずつ殺して、その胃袋の水で喉を潤したほうがずっと楽じゃありませんか」隊員たちは口々にそういって鋤やシャベルを放り出してしまった。「若者はおらぬか!」列の最後尾から一人の少年が駆け寄ってきた。
「いくつになる?」
「17でございます」
「父は」
「おりませぬ」
「母は」
「おりませぬ」
「生来孤独か?」
「仲間がおります。友達がおります。この隊商全部が私の父であり、母であり、兄弟であります。」
 少年は広いターバンの下から黒い澄んだ瞳をあげた。水があるなら掘ってもみるがなければ努力するだけ損だという、そういうずるさに染まらない目であった。
「500人の仲間のためにおまえの力がいる。」
「はいっ」
「このハンマーをもって穴の底の岩盤を砕け。打ち貫いても水にい
たるまでその作業をやめてはならぬ」少年は穴の底に降り立った。岩盤に足場を決めるとハンマーを振り下ろした。一回二回。鉄と岩がぶつかり火花が散ったが岩はびくともしなかった。少年の背に汗が流れた。何十回打ち下ろされたであろう、両足にいっそうの力を入れて振り下ろしたハンマーの一撃に岩盤は亀裂を生じ、大音と共に砕けた。
「水だぁー!水だぁー!」水は地上に水柱となって噴き上げ人々は喜びに踊った。
「ここにオアシスが生まれる。そうとも一日でも二日でもゆっくりここに逗留しようじゃないか!」
昇り始めた太陽の下で人々は湧き出る水に潤されながら、天幕を張り、食事の用意を始めていた。しかし少年は砂漠に地下水に飲まれてそのまま帰ってこなかった。
 お釈迦さまはこう語り終えられ、一人の比丘にむかって、そのときの少年はそなたの前の世の姿である。精進努力するとは今現になしつつあることをいうのであって、努力したとか、精進してみようとか、過去や未来について言われることではない。今、この瞬間の努力が生死を超える道である。結果のみを思い煩うことは努力する力を弱めてしまうものだと言葉を結ばれた。

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金色の鹿


 バーラーナシーの都でブラフマダッタ王が国を治めていたころのことである。一人の菩薩が鹿の胎内に入り、生まれては金色に輝く牡鹿となって群れのリーダーに成長していった。500頭の鹿を引き連れた彼の群れをニグローダー一族と呼んだ。森にはもう一つの群れがあってサーカー一族といった。そしてその群れのリーダーは銀色に光る大鹿であった。
その頃ブラフマダッタ王は鹿狩りに夢中で鹿の肉をことのほか好んでいた。そのため町中の男たちは毎日鹿狩りの手伝いと鹿料理の準備に借り出されて自分の仕事をすることができなかった。「どういうもんだろうねぇ、いくら王様のためといっても俺たちの身がもちゃあしない。なにかいい考えはないものかねぇ」「ようするに、狩に出なくても鹿が捕まればいいのだが…。おいっ、これはどうだ!まず鹿の食い物を山と積んで、その周りに柵を巡らし鹿が集まってきたら入り口を閉める、つまり生け捕りにしてしまう訳さ」森のはずれに頑丈な柵が作られ、その中に鹿の好きな柔らかな草を植え、水を飲む池が作られた。「王様、よい知らせがございます。森の鹿は全部捕らえました。これからは鹿狩りなどなさらずともこの柵の中から一頭ずつ殺してお召し上がりください。」ブラフマダッタ王は馬の背に跨って柵外を一巡し、金銀二頭のリーダーを認めた。「珍しい鹿がおる、あの二頭だけは生かしておきたい。」その日から弓矢をもった料理人が柵の中に入り、手当たり次第矢を射掛けて鹿の肉を持ち去るのであった。鹿たちはこの恐ろしさをリーダーに告げた。金色のニグローダはサーカー族のリーダーに言った。「兄弟、見てのとおりだ。このままでは手傷を負うものばかり増えていく、どうしても殺されるのであればいっそ順番を決めて一頭ずつ断頭台に上がろうではないか。それなら弓矢で追われるよりも我らの覚悟も決まる。」「よかろう。依存はない」と銀色のサーカはこたえた。 その日から鹿は一頭ずつ断頭台に身を横たえ、群れの仲間は弓矢で追われることはなくなった。ある日、サーカー族の群れから一頭の雌鹿が選ばれた。彼女は身ごもっていた。「お願いがございます」銀色のサーカーの前で彼女は拝むように言った。「わたし、もうすぐ赤ちゃんが生まれます、せめてその子が乳離れするまで私の順番を延ばしていただけないでしょうか」リーダーは苦しそうに言い渡した。「これはおまえの運命というものだ。だれが代わってやれるものでもない」彼女は立っているだけが精いっぱいであった。けれども最後の望みにすべてを賭けて、ニグローダーの群れにたどり着き、金色のリーダーに哀願した。「私が殺されたらお腹の赤ちゃんも死にます、この子の番でもないのに…」そう言って泣いた。「よろしい、おまえはここにいて元気な赤ん坊を産みなさい、なにも心配することはない」雌鹿は三度礼拝した。 その日、ニグローダー族の長、金色の牡鹿は自ら進んで断頭台に横たわった。これをみた料理人は王様の許にとって返し事の次第を報告した。ブラフマダッタ王は断頭台の近くに寄り「ワシはおまえを殺してはならぬと言いつけてある。これはどうしたことか」ニグローダーは答えた。「身ごもった雌鹿の代わりです。大王よ、遠慮なく私の肉を食べなさい。私は自分のいのちをあの雌鹿に与え、彼女の死の苦しみを私が引き受けているのです。この役をどうして他のものにさせられましょうか」「おおう。金色のニグローダーよ、ワシはまだ人間の中にもこれほどの慈悲と徳のある者を見たことがない。おまえのおかげで我が心は清まった!立って群れに帰るがよい。おまえとその雌鹿のいのちを助けよう。」「わたくしども二人が助かってもあとの者たちはどうなりますか?」「いや、すべての鹿を解き放とう。そして今後ワシは鹿の肉を食べるのは止そう」「しかし森には他の生き物がいます、狐もいます、兎もいます、それに鳥たちはどうなるのでしょう」「うううん。わかった!これからは一切狩りはすまい。ワシは自分の好みでほかのいのちを奪ってきた罪深い王であった。私はどうしたらいいのか…」「五戒を保ち、正しい道を行じられますよう」金色の鹿言葉に威厳が備わっていた。数日して、あの雌鹿は可愛い子を産んだ。 お釈迦様はこう語り終えられ、そのときの金色の鹿こそ前の世の私であったと言葉を結ばれた。

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[政治・選挙・NHK150] 石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。 gataro
438. 豊岳正彦[-17566] lkyKeJCzlUY 2023年9月27日 22:28:48 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[38]
<■819行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
陰謀論は無い。戦争と原発事故は刑法違反汚職犯罪人災極致である。
facebook.com/profile.php?id=100087490040561
まとめ1)豊岳正彦
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輸血は危ない_ベンジャミンフルフォード_船瀬俊介
youtube.com/watch?v=qZuuvavfjiQ
中曽根は、厚生労働省に圧力をかけ、日本の人口を減らすため、食品・薬・洗剤・化粧品に避妊剤・添加物を入れさせた (00:53:01)
本間さんは、殺された (00:20:50)
竹中平蔵 (00:39:09)
秘密戦争に巻き込まれてしまった (00:43:28)
だれも知らない経済のからくり(00:44:30)
世界を支配するマフィアの仕事 (00:45:13)
1913年以降、お金を分配するのは、議会ではなく民間会社 (00:46:00)
日本は、明治時代からイギリスの植民地 (00:48:00)
JAL123便は、アメリカが撃墜した (00:51:38)
中曽根は、厚生労働省に圧力をかけ、日本の人口を減らすため、食品・薬・洗剤・化粧品に避妊剤・添加物(歯磨き、シャンプ-には合成洗剤・油脂にはトランス脂肪酸・食品には有害色素)を入れさせた (00:53:01)
日本を差し上げます(01:03:40)
エネルギーが、ただ同然になる (01:15:30)
すでに癌は治せる(01:11:30)
HIV・サーズ・鳥インフルエンザ・全部、人工的に作っている (01:12:25)
田中角栄・橋本龍太郎・竹下登・大平正芳・小渕恵三は、闇の勢力に殺されたか失脚させられた(01:22:45)
世界のお金を、得体のしれない、密室人間に譲ってはいけない(01:27:50)
アングロサクソンプロジェクト (01:45:50)
イルミナティについて (01:53:00)
参照
ベンジャミン・フルフォード 熊本講演
http://yyy1496.web.fc2.com/sub397.html
中丸薫・古歩道ベンジャミン】信じられない真実の数々
http://yyy1496.web.fc2.com/sub402.html
ジェームス・アレン『原因と結果の法則』
http://yyy1496.web.fc2.com/sub224.html
天皇陛下は、篭の中の鳥、自由がない、日本のものではなく外国の代表
http://yyy1496.web.fc2.com/sub253.html
彼等の価値観を擦り込まれてしまう
http://yyy1496.web.fc2.com/sub407.html
日本の天皇家は、日本のものではない。裏担当は、戦前はロスチャイルド、戦後はロックフェラー
http://yyy1496.web.fc2.com/sub243.html
ベンジャミン・フルフォード 11月24日 2012年
http://yyy1496.web.fc2.com/sub367.html
ベンジャミン・フルフォード 2013年6月27日 (木)
http://yyy1496.web.fc2.com/sub369.html
『 日経前2015/11/24 』 リチャード・アミタージ、マイケル・グリーン、カーク・キャンベルを、野放しにしてはならない
http://yyy1496.web.fc2.com/sub257.html
金による支配・ダーウィンの進化論
http://yyy1496.web.fc2.com/sub163.html
情報の見分け方
http://yyy1496.web.fc2.com/sub259.html
恐怖が混じっている情報は、ほとんど嘘です
http://yyy1496.web.fc2.com/sub181.html
ワンワールドによる宮中の支配は、完璧になっています
http://yyy1496.web.fc2.com/sub424.html
長く生きられないように仕向けられている
http://yyy1496.web.fc2.com/sub242.html
広島に、8月6日 午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub248.html
福島のお母さん達の声
http://yyy1496.web.fc2.com/sub292.html
現在 マスコミは完全に支配されている
http://yyy1496.web.fc2.com/sub118.html
全てが宇宙の内側にある
http://yyy1496.web.fc2.com/sub416.html
イルミナティ、サタニスト 世界権力によって育成された極めて有能な傀儡である
http://yyy1496.web.fc2.com/sub249.html
金融市場は、完全に八百長
http://yyy1496.web.fc2.com/sub294.html
本当はガンは治る
http://yyy1496.web.fc2.com/sub332.html
毒ガス療法の悪夢_80%のガン患者は殺害されていた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub330.html
学校給食のパンは、ポストハーベストされて輸入された2等小麦粉を使用しているため、クロルピリホスメチル・マラチオン・フェニトロチオン含めて濃度平均10.2ppb(=ng/g)の汚染があります。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub358.html
フランスの核実験も日本のプロトニウムで核実験をやっている
http://yyy1496.web.fc2.com/sub254.html
千葉の沖に捨てに行っていました
http://yyy1496.web.fc2.com/sub354.html
【故 太田 龍氏は言う】………何という慧眼だろう!
http://yyy1496.web.fc2.com/sub427.html
ペンタゴン・ロシア軍・中国軍は金融マフィアに騙された第3次世界大戦はやらない
http://yyy1496.web.fc2.com/sub272.html
病気が治る免疫相談室
http://yyy1496.web.fc2.com/sub288.html
がん患者さんのための『免疫とがん』講座
http://yyy1496.web.fc2.com/sub394.html
日本で使われてる、あるい世界で使われてる抗がん剤のルーツは、毒ガス兵器です。マスタードガスです。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub391.html
転移は癌が治る前兆なのです。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub389.html
癌でさえ、適応反応
http://yyy1496.web.fc2.com/sub375.html
早期発見・早期殺害
http://yyy1496.web.fc2.com/sub373.html
輸血で殺される GVHD
http://yyy1496.web.fc2.com/sub263.html
抗癌剤打つな
http://yyy1496.web.fc2.com/sub222.html
ワクチン
http://yyy1496.web.fc2.com/sub37.html
ガンマフィア・国家が主要メンバー
http://yyy1496.web.fc2.com/sub371.html
そもそも、ガンの定義というのはないというのだ。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub393.html
『すべての日本の原発を爆破するぞ』という脅しの電話
http://yyy1496.web.fc2.com/sub286.html
常識として疑いもしなかっうたことが、実は意図的に歪められ…
http://yyy1496.web.fc2.com/sub256.html
「FACT2017」 ベンジャミン・フルフォード×リチャード・コシミズ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub403.html
わざと戦争を起こしたと思っている人達は陰謀論者
http://yyy1496.web.fc2.com/sub173.html
戦争は、すべて八百長
http://yyy1496.web.fc2.com/sub210.html
日本は、戦争をするように仕組まれていた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub370.html
第二次大戦は、茶番劇
http://yyy1496.web.fc2.com/sub283.html
イルミナティ・フリーメーソンと創価学会
http://yyy1496.web.fc2.com/sub108.html
ベンジャミン・フルフォード_『〜陰謀論総まとめ〜』
http://yyy1496.web.fc2.com/sub399.html
戦争は継続しなければいけない
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戦争は商売・ナイラの涙 やらせとPR広告
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我々が体験して学ばなければならない
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第二次世界大戦も、この人達によって最初から脚本どうりに演出されたインチキな戦争だった
http://yyy1496.web.fc2.com/sub185.html
ベンジャミン・フルフォード氏「世界の裏事情の基礎知識」
http://yyy1496.web.fc2.com/sub396.html
「一番よくないのは、放射線治療です」(安保教授)
http://yyy1496.web.fc2.com/sub392.html
ガンマフィア
http://yyy1496.web.fc2.com/sub333.html
地獄行きの新幹線『ガン治療のウラ』
http://yyy1496.web.fc2.com/sub324.html
ガン治療のウラ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub327.html
早期発見・早期殺害
http://yyy1496.web.fc2.com/sub373.html
犠牲者は、年間29万6千人
http://yyy1496.web.fc2.com/sub334.html
犯罪ガン治療の正体_放射線_抗ガン剤_手術の嘘
http://yyy1496.web.fc2.com/sub339.html
狂った輸血医猟の真相
http://yyy1496.web.fc2.com/sub349.html
病院に行くな
http://yyy1496.web.fc2.com/sub285.html
抗癌剤打つな
http://yyy1496.web.fc2.com/sub222.html
全てが宇宙の内側にある
http://yyy1496.web.fc2.com/sub416.html
弱肉強食が生物の宿命であるという考え方が、金融を中心とした資本主義の世界を維持するのに、もってこいの感覚を生みだすからです
http://yyy1496.web.fc2.com/sub201.html
輸血で殺される GVHD
http://yyy1496.web.fc2.com/sub263.html
日本のいちばん醜い日
http://yyy1496.web.fc2.com/sub419.html
仕組まれた戦争
http://yyy1496.web.fc2.com/sub238.html
広島 原爆投下の真相
http://yyy1496.web.fc2.com/sub107.html
スターリンに発したい情報を伝える
http://yyy1496.web.fc2.com/sub306.html
二・二六事件の真相
http://yyy1496.web.fc2.com/sub50.html
鳩山由紀夫の父親は、笹川良一
http://yyy1496.web.fc2.com/sub308.html
日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく
http://yyy1496.web.fc2.com/sub400.html
中丸薫・古歩道ベンジャミン】信じられない真実の数々
http://yyy1496.web.fc2.com/sub402.html
横田めぐみさんの北朝鮮への拉致の真相
http://yyy1496.web.fc2.com/sub273.html
畑中理(おさむ)朝鮮名 金策(日本人)が、金正日の父親_中丸薫
http://yyy1496.web.fc2.com/sub398.html
横田めぐみさんは金正恩の実母
http://yyy1496.web.fc2.com/sub139.html
李 方子(り まさこ)さんの娘が横田早紀江さんです。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub191.html
国際連合を設立するために世界大戦が起こされた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub316.html
島津論文(福島原発事故の原因)
http://yyy1496.web.fc2.com/sub192.html
高学歴者ほど教育から洗脳を受けている
http://yyy1496.web.fc2.com/sub112.html
教育・情報・医療・食料など生活に必要な各分野をすべて掌握しています
http://yyy1496.web.fc2.com/sub151.html
イルミナリティのワンワールドの意志
http://yyy1496.web.fc2.com/sub305.html
北里大学の研究発表によると、交通事故で死亡した5歳未満の子供54人を解剖し た結果、何と42人に動脈硬化があったそうです。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub357.html
項目選択肢
http://yyy1496.web.fc2.com/sub420.html
『New World Order』死ぬのは奴らイルミナティーだ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub434.html
国際スパイ_『リヒャルト・ゾルゲ』
http://yyy1496.web.fc2.com/sub193.html
ペンタゴン・ロシア軍・中国軍は金融マフィアに騙された第3次世界大戦はやらない
http://yyy1496.web.fc2.com/sub272.html
日本銀行を国有化して下さい
http://yyy1496.web.fc2.com/sub415.html
ガン治療が間違っているときは、見つけた方が不利
http://yyy1496.web.fc2.com/sub267.html
中丸薫_裏天皇 堀川達吉郎
http://yyy1496.web.fc2.com/sub423.html
孝明天皇は、死ななかった。落合莞爾が明かす『堀川政略』の謎
http://yyy1496.web.fc2.com/sub422.html
広島に、8月6日 午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub248.html
広島市民40万人は、その犠牲にされたのである。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub418.html
ワンワールドによる宮中の支配は、完璧になっています
http://yyy1496.web.fc2.com/sub424.html
北朝鮮スパイが総理大臣になる
http://yyy1496.web.fc2.com/sub426.html
日本列島が縄文科学による霊的バリアーに覆われていた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub425.html
選挙システム自体が、不正選挙システムだからである
http://yyy1496.web.fc2.com/sub301.html
スライヴ_インターネットの力で、この研究の広がりと深さを伝えられるようになりました。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub132.html
際連合を設立するために世界大戦が起こされた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub316.html
医療は 完全に悪魔と死神に 牛耳られている。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub435.html
悪魔の利権
http://yyy1496.web.fc2.com/sub436.html
安保流「がんを治す4か条」 (PDF)
http://yyy1496.web.fc2.com/sub329.html
Sayu Flatmound JOURNAL
http://yyy1496.web.fc2.com/sub68.html
御巣鷹山、JAL123便墜落の真相
http://yyy1496.web.fc2.com/sub269.html
アポロ月面映像捏造
http://yyy1496.web.fc2.com/sub111.html
ハリー山科
http://yyy1496.web.fc2.com/sub60.html
『New World Order』死ぬのは奴らイルミナティーだ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub434.html
国際スパイ_『リヒャルト・ゾルゲ』
http://yyy1496.web.fc2.com/sub193.html
ペンタゴン・ロシア軍・中国軍は
金融マフィアに騙された第3次世界大戦はやらない
http://yyy1496.web.fc2.com/sub272.html
日本銀行を国有化して下さい
http://yyy1496.web.fc2.com/sub415.html
ガン治療が間違っているときは、見つけた方が不利
http://yyy1496.web.fc2.com/sub267.html
中丸薫_裏天皇 堀川達吉郎
http://yyy1496.web.fc2.com/sub423.html
孝明天皇は、死ななかった。落合莞爾が明かす『堀川政略』の謎
http://yyy1496.web.fc2.com/sub422.html
広島に、8月6日 午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub248.html
広島市民40万人は、その犠牲にされたのである。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub418.html
ワンワールドによる宮中の支配は、完璧になっています
http://yyy1496.web.fc2.com/sub424.html
北朝鮮スパイが総理大臣になる
http://yyy1496.web.fc2.com/sub426.html
日本列島が縄文科学による霊的バリアーに覆われていた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub425.html
選挙システム自体が、不正選挙システムだからである
http://yyy1496.web.fc2.com/sub301.html
スライヴ_インターネットの力で、
この研究の広がりと深さを伝えられるようになりました。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub132.html
国際連合を設立するために世界大戦が起こされた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub316.html
______________________________

まとめ2)憲法と刑法の使い方。
_______________

日本国憲法六法でモーリス・ストロングと共犯日本人汚職殺人犯を逮捕し断罪する。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/608.html
モーリス・ストロングの偽医学汚職ジェノサイド戦争犯罪をすべて日本国憲法と刑法で極刑断罪する。
https://odysee.com/@KJ17:4/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%9C%9F%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%A8%88%E7%94%BB:0
汚職すなわち戦争と原発事故である。
極刑罰を受ける犯罪。
http://www.asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c138
138. 豊岳正彦[-14625] lkyKeJCzlUY 2023年3月08日 16:32:33
刑法199条の殺人罪とは?構成要件・刑罰・関連する罪の種類
2021年4月19日 2023年1月17日
https://wakailaw.com/keiji/5204#:~:text=%20
殺人罪とは、故意に人を殺すことで成立する犯罪で、刑法199条に規定。

(殺人)
第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
1 殺人罪の構成要件(成立要件)
@人
A人を殺す行為
B故意
2 殺人罪に関連する罪
同意殺人罪(嘱託殺人罪・承諾殺人罪)
自殺関与罪
強盗殺人罪
堕胎罪

殺人罪の構成要件(成立要件)は、
@ 人
A 人を殺す行為
B 故意
です。

@人
人とは加害者以外の生命ある自然人のことです(したがって法人は含まれません)。
「人の始期」
生命ある人といっても、人によっては胎児も人だと解釈する。
いつの段階から法律上の人と解釈するか「人の始期」が問題。

一部露出説(胎児が母親の身体から一部でも露出した時点から人と考える説)
判例(大正8年12月13日)は一部露出説。
母体から一部も露出していない胎児を殺害した場合は「堕胎罪(刑法212条〜216条)」が成立。
医師が父母の同意を得て、妊娠22週未満の胎児を人工妊娠中絶するは合法(母体保護法)。

いつの時点で人が死亡したと解釈するか「人の終期」については、
三徴候説(心停止・呼吸停止・瞳孔拡大の3つの徴候によって死亡判定する説)
脳死説(脳死を人の死とみる説)
刑法では現在のところ三徴候説が一般的に採用されているため、
脳死状態の人を殺害した場合も殺人罪が成立します。

A人を殺す行為は、人を殺す意図(故意)をもって、人の生命を断絶する行為。
手段・方法は問わず、刺殺、斬殺、絞殺、溺殺、扼殺、射殺、焼殺、毒殺などが典型です。
また、何か行動すること(作為)による殺害のみならず、何もしないこと(不作為)による殺害も人を殺す行為に含まれます。

不作為による殺害は、
医師の医師法第1条違反や弁護士の刑訴法239条2項犯罪告発責務違反。
子どもの扶養義務を負う母親が、あえて授乳せずに餓死させた。
真冬に交通事故で重傷を負わせた被害者を救護せず別所まで運び放置し凍死させた等、
被害者に対する法的な身体生命保護義務があることが前提。

法は人に不可能なことを強いることはできませんから、不作為による殺人罪が成立するためには作為の可能性、すなわち、一定の行為を行うことの救命可能性が必要です。

B殺人罪の故意は、加害者が自分の行為によって人を死亡させることを認識認容しあえて殺害行為を行った、という場合を確定的故意、ほかに

未必的故意、択一的故意、概括的故意があります。

未必的故意とは、人を死亡させてしまう「かも」しれないが、そうなっても構わないという場合のように、
結果の発生を確実なものとして認識・認容していないものの、それが可能なものとして認識・認容している場合の故意です。

択一的故意とは、

A・Bいずれかを殺すつもりで拳銃を発砲したものの、そのいずれかに命中するかは不確実だったというように、
いずれか一方を死亡させることの認識・認容はあったものの、いずれが実現するかについては不確実だった場合の故意です。

概括的故意とは、家族(A・B・C)のいずれかを殺すつもりで毒物を入れ

た荷物を家族宛てに郵送し、Cに毒物を飲ませ死亡させたというように、
一定範囲の人のいずれかを死亡させることの認識・認容はあったという場合の故意です。

次に、殺人罪に関連する罪について。

同意殺人罪(嘱託殺人罪・承諾殺人罪)
同意殺人罪は、人から嘱託を受け又は承諾を得て人を死亡させた場合

に問われる罪です(刑法第202条後段)。

嘱託を受けてとは、人から積極的に殺害を依頼されることです。
承諾を得てとは、人から殺害されることについて同意を得ることです。
前者を嘱託殺人罪、後者を承諾殺人罪ともいいます。

嘱託・承諾があったといえるためには、

被害者自身の嘱託・承諾であったこと、
嘱託・承諾できる能力のある者の自由かつ真実の意思に出たものであること、
殺害以前に嘱託・承諾があったこと、が必要。
したがって、幼児や認知症者から嘱託を受けても同意殺人罪ではなく殺人罪が成立。

死亡する気はないにもかかわらず「殺してくれ」と頼ま

れたため殺害したという場合も同意殺人罪ではなく殺人罪が成立。
真実の嘱託・承諾がないのにあると誤信して殺害した場合は、その誤信が真実であれば殺人罪ではなく同意殺人罪。
同意殺人罪の罰則は「6月以上7年以下の懲役又は禁錮」。
公務員及びみなし公務員医師弁護士においては刑訴法239条2項

犯罪告発責務により、同意殺人罪は成立せず、すべて故意の殺人罪となる。
それは憲法15条「全体奉仕責務」及び憲法76条「良心に従い独立して憲法および法律にのみ拘束されて職権を行う責務」及び憲法99条の日本国民として負う神聖な責務によって同意が成立せずすべて確定した故意の殺人罪が成立する。

自殺関与罪は、人の自殺に関与した場合に問われる罪です(刑法第202条前段)。

自殺とはその意味を理解できる人がその自由な意思決定に基づいて命を絶つことをいいます。
したがって、自殺の意味を理解していない者(幼児など)を自殺を強制して死亡させたという場合は自殺関与罪ではなく殺人罪が成立します。

関与の方法は「教唆」と「幇助」です。

教唆による自殺とは、自殺の意思のない者に自殺を決意させて自殺させることです。
教唆行為が悪質で、自殺者の意思決定の自由度が失われていたと認められる場合は、自殺関与罪ではなく殺人罪が成立します。

幇助による自殺とは、すでに自殺の意思がある者の自殺を援助し手助けすること。
幇助行為は自殺者に器具を提供するなどの有形的方法のほか、言動による無形的方法も含まれ、
公務員みなし公務員ほか幇助によって利得がある者はすべて故意の殺人罪が確定する。
第二百二条 人を教唆し若しくは幇助して

自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。

強盗殺人罪とは、刑法第240条
強盗が人を死亡させた場合に成立する犯罪。
「強盗」とは強盗犯人を指し、強盗罪(刑法第236条)、事後強盗罪(刑法歳238条)、昏睡強盗(刑法第239条)の既遂犯及び未遂犯を含み、
強盗の機会に乗じた残虐な身体生命法益侵害を防ぐため罰則は、「死刑または無期懲役」。

堕胎罪は、
妊娠中の女子が薬物またはその他の方法により堕胎した場合に成立。
「堕胎」とは自然の分娩期に先立つ胎児の人工的排出で、胎児死亡は堕胎の要件でない。

「胎児」とは、受精卵が子宮内に着床して以降の状態を指すので、受精卵が子宮内着床する前過程を妨害しても「堕胎」には該当しない。

以上より、「母胎内」の胎児の生命・身体については堕胎罪の規定により保護され、「母体外」に出た後は「人」に対する罪(殺人罪等)が成立することになります。

堕胎罪の刑罰は「1年以下の懲役」が科されることになります(刑法第212条参照)。

なお第三者が女子の嘱託や承諾を得て堕胎させた場合には「同意堕胎罪」が、
嘱託・承諾を受けずに堕胎させた場合には「不同意堕胎罪」が成立することになります(刑法第213条、215条参照)。
さらに「よって女子を死傷させた」場合には堕胎致死罪が成立することになります。

139. 豊岳正彦[-14627] lkyKeJCzlUY 2023年3月08日 16:58:57 :
「安楽死を認めよ」と叫ぶ人に知ってほしい難題
toyokeizai.net/articles/-/367007
議論はあっていいが一方向に偏るのは危うい
Frontline Press
著者フォロー
2020/08/04 11:00
ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者に対する嘱託殺人事件をきっかけに、安楽死の是非をめぐる議論が出始めている。
「今回のケースは殺人であり、安楽死の議論をすべきではない」という意見がある中、安楽死の是非は以前からの社会的課題だとの声も根強い。
昨年春に『死ぬ権利はあるか』(春風社)を出版した有馬斉・横浜市立大学准教授(倫理学)はどう考えているのだろうか。
京都の事件は“安楽死”と地続き
「安楽死について定めた法律は日本にはないので、国内で違法とされている行為のうち、今回のケースがどれに該当するかといえば嘱託殺人なのでしょう。
しかし、『安楽死かどうか』はまた別の議論です。
一般的な用法に基づいて『致死薬の投与などの積極的関与によって死期を早める行為』が安楽死だと定義すると、今回のケースも”安楽死”だと言えるでしょう。
これまでに安楽死という表現で是非が議論されてきたさまざまなケースとも地続きです」

有馬氏はそう言って、論を進めた。

横浜市立大学の有馬斉・准教授(撮影:Frontline Press、取材はZoomで実施)
まず、有馬氏は今回と比較できるケースとして、1990年代にアメリカのミシガン州で起きた事件を例示した。
およそ130人を死なせた医師、ジャック・ケヴォーキアンの事件だ。
彼は「安楽に自殺するための方法を考案した」と雑誌に公表し、依頼してきた人々に致死薬を処方または投与するなどして、後に逮捕された。

「最も大きな問題は、ケヴォーキアン氏が誰の担当医でもなく、それぞれの依頼者の症状などを十分に理解できる立場になかった点です。
京都で起きた今回の嘱託殺人も同じです。
逮捕された2人の医師は、カルテなどの医療情報を知る立場になく、
亡くなった女性が実際にどんな病状だったのか、どんなサポートを受けてきたのか、そもそも死期が差し迫っていたのかを正確に知ることが難しい立場でした。
関係はSNSだけですから、かりに患者本人が事実を伝えていなかったとしても確認できません」

「安楽死に賛成する人々のいちばんの根拠は、本人の自己決定と利益です。
しかし、逮捕された医師2人が患者の自己決定にしっかりと寄り添えたのか、患者の最善の利益にかなうやり方だったのかを考えると、どちらも非常に怪しいと思います」

有馬氏は『死ぬ権利はあるか』の中で、容認派、反対派それぞれの意見を検討したうえで、安楽死・尊厳死を法制化することは難しいと結論づけている。
そのポイントはどこか。

「安楽死の合法化に賛成する人々は『本人が死にたがっているから』あるいは『こんなに苦しんでいるのだから』と主張します。
一見、納得できそうな主張かもしれませんが、検討を重ねていくと、危うい部分もある主張だと思います」

どこが危ういのか。

「安楽死の現実的なプロセスを考えてみましょう。
本人の自己決定を尊重すると言っても、致死薬の処方・投与の際には医療者の判断が欠かせません。
例えば、がん患者が安楽死を求めたとします。
この患者がまだ初期のがんで、標準的な治療をまだ終えていないという場合、『それでも本人の意思を尊重しよう』という判断を下す医師はいないと思います」

「認知症の場合はどうでしょうか。
認知症の告知を受けた人の中には、とくに最初の頃、落ち込みが激しく、『死にたい』と言う人もいます。
しかし、この場合でも医師は『希望通りに死なせてあげよう』とは判断せず、『気分の落ち込みにも付き合いながら治療を考えていこう』となるはずです」

「法制化のリスクは大きい」
いずれにしても、患者の状況は病気の種類や病状、治療法によって個々に違いがある。
どんな状態が「安楽死」を容認できる“末期”なのか。これは、純粋に医学的な判断ではありえない。
「この病状になったら患者はとてもつらいだろう」という医師の共感に基づく部分がある。
共感できた段階で、致死薬投与・処方の“判断”をしていく。
その“判断”にこそ、大きな問題が潜んでいるというのが、有馬氏の見立てだ。

「たとえガイドラインを作っても、医療者個人に判断を任せると、必ずばらつきが出ます。
現実の医療現場を見ても、こっちの病院はあくまで延命的な治療をする患者が多いけど、あっちの病院では同じ病態であっても延命的な治療を早くに切り上げる患者がもう少し多いなど、そんなばらつきは出てきます。
そうなると、安楽死を合法化した場合、本来なら生きていたほうがよかった人を、医療者の“共感”の結果、死なせてしまうケースが出てくるかもしれない。
合法化にはそうしたリスクがあるため、私は法制化に反対です」

この状態では生きていてもつらいだろうという医療者の“共感”には、種々の偏見が隠れている恐れもあると、有馬氏は指摘する。
例えば、『ALSで寝たきりだと大変だな』と思ってしまうかもしれない。
しかし、その“共感”には、ALSなどの機能障害に対してどう思っているのかという価値観が反映されているという。

「高齢者や低所得者、身寄りのない人も偏見を受けやすいと思います。
医療者が『この患者が家に帰っても誰かのサポートがあるわけじゃない。大変だろうな』『この人は経済的にも大変な状況だろう』と医療者が“共感”すれば、安楽死の実施に傾くかもしれません。
あるいは逆に、お金が十分にあり、家族の支えがある場合には『生きたほうがいい』と思うかもしれません。
つまり、合法化によって、『幸せそうに見えない』と社会的に思われている人々に死のリスクが偏ってしまう恐れがあるのです」

大事なのはメリットとデメリットの比較
安楽死の合法化を求める意見は多様だ。
中には、医療費を抑制するために、安楽死の合法化を主張する人もいる。

「基本的に、臨床の医療者は、個々の患者にどのような治療を施すかを考える際、国全体の医療費を考慮すべきではありません。
目の前の患者の自己決定と利益を守るために仕事すべきです。
この動機と、国全体の医療費を抑えようという動機は、正面から衝突する場合があります。
国の医療費を抑える仕事は、さまざまな医療について医療保険でどこまでカバーするか、どれだけ保険診療点数をつけるかを考える政策レベルの判断(役人)に任せるべきでしょう」

一方、安楽死によって自己決定や本人の利益も守られた、というケースが出てくる可能性も否定しないという。

「死ぬことを考えてはいけない、生きることを前提に議論にしたほうがいい――。
そういう意見もありますが、『患者本人にとって死ぬことがベスト』という事例を100パーセントない、と言い切ることはできないかもしれません」

有馬氏はつまり、「安楽死を合法化しなければ何の問題も起きない」という考え方も誤りだ、と指摘している。
大事なのは、メリットとデメリットを比較することだと言うのだ。

「合法化をするにしても、しないにしてもデメリットはあります。
比較の問題なので、全員が納得する答えは、もしかしたら見つからないかもしれません。
倫理の問題では、こういうことがよくあると思います。
倫理学の講義で学生の感想を集めると、『答えが出ない問題を考えて何の意味があるのか』という言葉が、毎年のように出てきます。
それでも倫理については考え続ける必要はあります」

「例えば今のパンデミックの状況で、各国がいろんな政策を出し、次々と『間違っていた』と批判されています。
喫緊の課題であるならば、ベストか否かがわからない状況でも答えを出さなければならない。
下した判断に間違いがあれば、批判されますし、批判すべきです。
しかし、『答えが出ない課題だから考える必要はない』という考えがいちばん間違っている。
安楽死の問題も、議論を続けていくべきだと思います」

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140. 豊岳正彦[-14649] lkyKeJCzlUY 2023年3月08日 21:22:21 :
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c140
水源地や水道にこっそり毒を入れて飲んだ人が死亡すれば極刑。
安全だからと騙して同意を得て注射した致死毒で人を死亡させたらやはり極刑。
医者がワクチンで人が死ぬことを知らないはずがない。

ワクチンも薬も致死量があるただの毒なので投与しても病気は何にも予防せず何も治らない。
人を騙して既知の致死毒を投薬または注射して人が異状死・変死したら医者が極刑。
弁護士も刑訴法239条2項違反で医者の共犯者極刑。
刑法の相当因果関係成立。
サルでもわかる刑法146条水道毒物等混入殺人罪。


////////////////////////////////////////////////
135. 豊岳正彦[-14593] lkyKeJCzlUY 2023年3月07日 07:07:22 :
死刑になる犯罪は18種類|主な罪名と死刑執行までの流れ
keiji-pro.com/columns/181/
弁護士法人プラム綜合法律事務所 梅澤康二 弁護士
______________
死刑とは、生命刑の1つで、法律を犯した人の命を絶つ刑罰です。
一般的には極刑などと呼ばれることもあります。
世界では死刑制度が廃止されている国もありますが、2018年5月現在、日本では死刑が刑法第9条によって、刑罰の1つとして認められています。

第九条(刑の種類)
死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。

裁判で死刑が下されるケースは非常に少なく、死刑判決が下された場合にはニュースで大々的に取り上げられることが多いですね。
では、どのような罪が死刑になるのでしょうか。
この記事では、どのような罪を犯した場合に死刑になるかをご紹介します。

死刑になる主な刑法犯罪名18種
死刑になるのは、刑罰の中に死刑が含まれている刑法犯罪を犯した場合に限ります。

以下は、日本で死刑が執行される犯罪18刑法

1)内乱罪とは、
国会・内閣・裁判所などの統治機構を転覆や破壊させる目的で暴動を起こす犯罪です。
革命やクーデターやインサイダー汚職犯罪ともいえる。
第七十七条 国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、
内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
一 首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。
内乱罪において死刑が適用される可能性があるのは、先導したリーダーのみで、法定刑は死刑もしくは無期禁錮です。


2)外患誘致罪とは、
外国と共謀し、日本に対して武力行使を誘発させる犯罪です。
外国とは、外国の政府や軍隊、外交使節などを指します。
テロ組織などは含まれません。
武力行使とは、
戦争を起こさせるだけでなく、日本の安全を侵害する目的で、軍隊を侵入させる、ミサイル攻撃をするなども意味します。
刑法
第八十一条 外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。
外患誘致罪の法定刑は死刑のみです。


3)外患援助罪とは、
外国から武力行使があったときにそれに加担、協力し、外国と共に日本を攻撃する犯罪です。
外患援助罪は、刑法第82条によって規定されています。
第八十二条 日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者は、
死刑又は無期若しくは二年以上の懲役に処する。


4)現住建造物等放火罪とは、
人が住居として使用しているか、人がいる建物、電車、船などに放火する犯罪です。
刑法
第百八条 放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船又は鉱坑を焼損した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
法定刑は、
死刑または無期懲役、もしくは5年以上の懲役です。


5)激発物破裂罪とは、
火薬など爆発するものを用いて、人が中にいることが明らかな建物、電車、船などを爆発させる犯罪です。
第百十七条 火薬、ボイラーその他の激発すべき物を破裂させて、第百八条に規定する物又は他人の所有に係る第百九条に規定する物を損壊した者は、放火の例による。
第百九条に規定する物であって自己の所有に係るもの又は第百十条に規定する物を損壊し、よって公共の危険を生じさせた者も、同様とする。
法定刑は、
死刑または無期懲役、もしくは5年以上の懲役です。


6)現住建造物等浸害罪とは、
水を溢れさせて、建物、電車、汽車などに損害を与えたり、中にいる人を溺れさせたりする犯罪です。
池やダムの堤防を決壊させるなどして、故意に洪水を引き起こすといった行為がこれに当てはまります。
第百十九条 
出水させて、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車又は鉱坑を浸害した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。
法定刑は、
死刑または無期懲役、もしくは3年以上の懲役です。


7)汽車転覆等致死罪とは、
電車や船などを転覆させたり破壊したりした結果、乗客などが死に至った場合に適用される可能性のある犯罪です。
第百二十六条 現に人がいる汽車又は電車を転覆させ、又は破壊した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
2 現に人がいる艦船を転覆させ、沈没させ、又は破壊した者も、前項と同様とする。
3 前二項の罪を犯し、よって人を死亡させた者は、
死刑又は無期懲役に処する。


8)水道毒物等混入致死罪とは、
水道に毒物を混ぜた結果、その水を使用した人が死に至った場合に適用される可能性のある犯罪です。
なお、毒を混ぜるのは水道管のほか、水源も該当します。

第百四十六条 水道により公衆に供給する飲料の浄水又はその水源に毒物その他人の健康を害すべき物を混入した者は、二年以上の有期懲役に処する。
よって人を死亡させた者は、
死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。


9)殺人罪とは、
人を故意に殺す犯罪です。
なお、殺人罪は、何らかの行為(包丁で身体を刺すなど)によって人を殺した場合のほか、
放置しておくことで人が死亡することが予想されるとき(溺れている人がいるなど)に、そのまま放置した場合にも適用されます。

第百九十九条 人を殺した者は、
死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。


10)決闘殺人罪とは、
決闘を行い、相手を死に至らしめる犯罪です。
なお、決闘とは、当事者の間で合意をして、身体を傷つけるもしくは生命を奪うことを目的に暴力を行うことをいいます。

決闘殺人罪は、決闘罪ニ関スル件(明治二十二年法律第三十四号)第3条に規定されています。

第三条 決闘ニ依テ人ヲ殺傷シタル者ハ刑法ノ各本条ニ照シテ処断ス

死刑または無期懲役もしくは5年以上の懲役です。


11)組織的な殺人罪とは、
組織的に殺人をする犯罪です。
これは1995年に起こったオウム真理教の地下鉄サリン事件をきっかけに、新しく定められました。
組織的な殺人罪は組織的犯罪処罰法第3条に規定されています。
第三条 次の各号に掲げる罪に当たる行為が、団体の活動(団体の意思決定に基づく行為であって、その効果又はこれによる利益が当該団体に帰属するものをいう。以下同じ。)として、
当該罪に当たる行為を実行するための組織により行われたときは、その罪を犯した者は、当該各号に定める刑に処する。

組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律第3条
組織な殺人罪の法定刑は、
死刑または無期懲役もしくは6年以上の懲役です。


12)強盗致死罪とは、
強盗を行った結果、人を殺したり、死んでしまったりした場合に適用される可能性のある犯罪です。
強盗の際に意図的に人を殺した場合だけでなく、恐怖による心臓発作などで意図せず人が死んだ場合も該当する。
第二百四十条 強盗が、人を負傷させたときは無期又は六年以上の懲役に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。

13)強盗強制性交等致死罪とは、
強盗の際に、強姦などを行い、その結果人が死に至った場合に適用される犯罪です。
刑法
第二百四十一条 強盗の罪若しくはその未遂罪を犯した者が強制性交等の罪(第百七十九条第二項の罪を除く。以下この項において同じ。)若しくはその未遂罪をも犯したとき、
又は強制性交等の罪若しくはその未遂罪を犯した者が強盗の罪若しくはその未遂罪をも犯したときは、無期又は七年以上の懲役に処する。
3 第一項の罪に当たる行為により人を死亡させた者は、
死刑又は無期懲役に処する。


14)爆発物使用罪とは、
治安を乱したり、他人の身体、財産を侵害するために爆発物を使用する犯罪です。

爆発物使用罪は爆発物取締罰則第1条に規定されています。
第一条 治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスルノ目的ヲ以テ爆発物ヲ使用シタル者及ヒ人ヲシテ之ヲ使用セシメタル者ハ
死刑又ハ無期若クハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス


15)航空機強取等致死罪とは、
暴力や脅迫などを用いて相手方の抵抗を抑えた状態で、飛行機を乗っ取り、その際に人が死に至った場合に適用される可能性のある犯罪です。
つまり、ハイジャック中に人を死に至らしめるなどの犯罪があたります。

航空機強取等致死罪は、航空機の強取等の処罰に関する法律第2条に規定されています。

第二条 前条の罪を犯し、よつて人を死亡させた者は、
死刑又は無期懲役に処する。


16)航空機墜落等致死罪とは、
空港の設備を破壊したり、飛行中の航空機を何らかの方法で墜落させ、人を死に至らしめる犯罪です。

航空機墜落等致死罪は、航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律第2条に規定されています。

前二項の罪を犯し、よつて人を死亡させた者は、
死刑又は無期若しくは七年以上の懲役に処する。


17)海賊行為致死罪とは、
海賊行為によって人が死に至った場合に適用される可能性のある犯罪です。
海賊行為とは、暴行や脅迫によって、船舶を強取する、運行を支配する、船舶内の財物を強取することなどをいいます。

海賊行為致死罪は、海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律第4条に規定されています。

第四条 前条第一項又は第二項の罪を犯した者が、人を負傷させたときは無期又は六年以上の懲役に処し、
死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。


18)人質殺害罪とは、
人質を取り、金銭を要求したり、逃走ルートを確保したりするなど、強要行為をしたときに、人質を殺害する犯罪です。
人質殺害罪は、人質による強要行為等の処罰に関する法律4条に規定されています。
第四条 第二条又は前条の罪を犯した者が、人質にされている者を殺したときは、死刑又は無期懲役に処する。

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死刑執行に関する知識


死刑判決が出た犯人は執行の日まで拘置所で過ごす
死刑執行の命令は、法務大臣によって行われます。なお、執行の命令は判決後6ヶ月以内に行わなければなりません。

第四百七十五条 死刑の執行は、法務大臣の命令による。

○2 前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。

引用:刑事訴訟法第475条

しかし、刑が確定してから実際に執行されるまで、6ヶ月以内に収まるケースはほとんどありません。

これは問題ないのでしょうか?

法的拘束力のない訓示規定
法務省は、死刑執行の期間を定めた刑事訴訟法第475条に関して、法的拘束力のない訓示規定であると発表しています。
そのため、6ヶ月以内の執行は必ず守られるものではないとされていて、結果的に6ヶ月以内に行われないのが現状のようです。

また、執行は、命令が出されてから5日以内に行われる必要があります。

第四百七十六条 法務大臣が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない。

引用:刑事訴訟法第476条

死刑執行の具体的な方法は絞首刑
死刑制度のある国によって、執行方法はいくつかの種類があります。日本では絞首刑によって死刑を執行しています。

(死刑)

第十一条 死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。

引用:刑法第11条

死刑執行までに時間がかかる理由
法務省では、死刑執行に関するデータを2007年から公表しています。
それによると、死刑が確定してから実際に執行されるまでは、平均で5年もの時間がかかっています。

なぜ、こんなに時間がかかるのでしょうか。
その理由としては、死刑執行を覆すための手段が用意されており、法務大臣が執行命令の判断を慎重にしているからです。

死刑執行を覆す手段としては、再審請求、上訴権回復請求、非常上告、恩赦があります。
それぞれの内容は以下の通りです。

再審請求

証拠が虚偽であったり、新たな証拠が見つかったりするなどを理由に、判決が妥当でない場合に、判決を取り消し、裁判をやり直すように請求すること

上訴権回復請求

上訴(控訴や上告)の提起期間内に、犯人や代理人に非がないにもかかわらず上訴ができなかったときに、上訴権の回復を請求すること

非常上告

最高裁判所で確定した審判が法令に違反しているときに、検事総長が違法の是正を求めること

恩赦

事件の概要を個別に鑑みて、死刑が妥当でないなどと、減刑をすること

また、犯人が精神障害や心神喪失状態であったり、妊娠したりしている場合には、死刑執行を停止しなければなりません。
いずれにせよ、死刑を執行すれば人の命が奪われます。
ですので命令を出す前に、法務大臣には非常に慎重な判断が求められているのです。

未成年でも死刑になる可能性はある
未成年でも、18歳、19歳であれば、死刑になる可能性があります。
それは、本人の年齢、反省度、性格などを鑑みて、教育よりも刑罰が妥当であると家庭裁判所が判断したケースです。

なお、大人が刑事訴訟という裁判を受けるのに対して、19歳までの未成年は、少年審判という裁判を受けます。
少年審判は、家庭裁判所の審判廷で行われ、下される判決は、『少年院に入る』『保護司(ほごし)のところに通う』など、死刑、懲役、罰金などとは違う種類のものが一般的です。

これには、未成年には大人と同じ罰を与えずに、教育して更生させるという意図があります。

まとめ
死刑になる犯罪は全部で18種類あります。
殺人罪などのイメージしやすいものから、海賊行為を規定したピンと来ないものまで、たくさんありますね。

また、死刑が確定してから執行されるまで時間がかかるのは、法務大臣がさまざまな内容について審議しているからです。

この記事で死刑制度に関する知識が深まれば幸いです。

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222. 豊岳正彦[-15723] lkyKeJCzlUY 2023年5月09日 12:56:05 :

刑訴法

第二編 第一審
第一章 捜査
第百八十九条 警察官は、それぞれ、他の法律又は国家公安委員会若しくは都道府県公安委員会の定めるところにより、司法警察職員として職務を行う。
A 司法警察職員は、犯罪があると思料するときは、犯人及び証拠を捜査するものとする。
-----------------------------------
第二百十三条 現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる。
----------------------------------
------------------------------------
第二百二十九条 変死者又は変死の疑のある死体があるときは、その所在地を管轄する地方検察庁又は区検察庁の検察官は、検視をしなければならない。
A 検察官は、検察事務官又は司法警察員に前項の処分をさせることができる。
-----------------------------------
-----------------------------------
第二百三十九条 何人でも、犯罪があると思料するときは、告発をすることができる。
A 官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。
-----------------------------------
第二百四十条 告訴は、代理人によりこれをすることができる。告訴の取消についても、同様である。

第二百四十一条 告訴又は告発は、書面又は口頭で検察官又は司法警察員にこれをしなければならない。
A 検察官又は司法警察員は、口頭による告訴又は告発を受けたときは調書を作らなければならない。
第二百四十二条 司法警察員は、告訴又は告発を受けたときは、速やかにこれに関する書類及び証拠物を検察官に送付しなければならない。
第二百四十三条 前二条の規定は、告訴又は告発の取消についてこれを準用する。
第二百四十四条 刑法第二百三十二条第二項の規定により外国の代表者が行う告訴又はその取消は、第二百四十一条及び前条の規定にかかわらず、外務大臣にこれをすることができる。
日本国に派遣された外国の使節に対する刑法第二百三十条又は第二百三十一条の罪につきその使節が行う告訴又はその取消も、同様である。
第二百四十五条 第二百四十一条及び第二百四十二条の規定は、自首についてこれを準用する。
第二百四十六条 司法警察員は、犯罪の捜査をしたときは、この法律に特別の定のある場合を除いては、速やかに書類及び証拠物とともに事件を検察官に送致しなければならない。
但し、検察官が指定した事件については、この限りでない。
////////////////////////////////////////////////
第二章 公訴
第二百四十七条 公訴は、検察官がこれを行う。
///////////////////////////////////////////////
以下略

http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c438

[医療崩壊9] <流産率は70%を遥かに超えている>ファイザーのワクチンは中絶薬より効果的 「もう一つ大きなニュースがある」(ニコニコ動画… 赤かぶ
334. 豊岳正彦[-17565] lkyKeJCzlUY 2023年9月27日 22:36:51 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[39]
<■821行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
阿修羅♪石破さんが戦争に行かないひとは死刑にするいうてます。自民党支持は大変危険です。
asyura2.com/13/senkyo150/msg/859.html#c438
陰謀論は無い。戦争と原発事故は刑法違反汚職犯罪人災極致である。
facebook.com/profile.php?id=100087490040561
まとめ1)豊岳正彦
________________

輸血は危ない_ベンジャミンフルフォード_船瀬俊介
youtube.com/watch?v=qZuuvavfjiQ
中曽根は、厚生労働省に圧力をかけ、日本の人口を減らすため、食品・薬・洗剤・化粧品に避妊剤・添加物を入れさせた (00:53:01)
本間さんは、殺された (00:20:50)
竹中平蔵 (00:39:09)
秘密戦争に巻き込まれてしまった (00:43:28)
だれも知らない経済のからくり(00:44:30)
世界を支配するマフィアの仕事 (00:45:13)
1913年以降、お金を分配するのは、議会ではなく民間会社 (00:46:00)
日本は、明治時代からイギリスの植民地 (00:48:00)
JAL123便は、アメリカが撃墜した (00:51:38)
中曽根は、厚生労働省に圧力をかけ、日本の人口を減らすため、食品・薬・洗剤・化粧品に避妊剤・添加物(歯磨き、シャンプ-には合成洗剤・油脂にはトランス脂肪酸・食品には有害色素)を入れさせた (00:53:01)
日本を差し上げます(01:03:40)
エネルギーが、ただ同然になる (01:15:30)
すでに癌は治せる(01:11:30)
HIV・サーズ・鳥インフルエンザ・全部、人工的に作っている (01:12:25)
田中角栄・橋本龍太郎・竹下登・大平正芳・小渕恵三は、闇の勢力に殺されたか失脚させられた(01:22:45)
世界のお金を、得体のしれない、密室人間に譲ってはいけない(01:27:50)
アングロサクソンプロジェクト (01:45:50)
イルミナティについて (01:53:00)
参照
ベンジャミン・フルフォード 熊本講演
http://yyy1496.web.fc2.com/sub397.html
中丸薫・古歩道ベンジャミン】信じられない真実の数々
http://yyy1496.web.fc2.com/sub402.html
ジェームス・アレン『原因と結果の法則』
http://yyy1496.web.fc2.com/sub224.html
天皇陛下は、篭の中の鳥、自由がない、日本のものではなく外国の代表
http://yyy1496.web.fc2.com/sub253.html
彼等の価値観を擦り込まれてしまう
http://yyy1496.web.fc2.com/sub407.html
日本の天皇家は、日本のものではない。裏担当は、戦前はロスチャイルド、戦後はロックフェラー
http://yyy1496.web.fc2.com/sub243.html
ベンジャミン・フルフォード 11月24日 2012年
http://yyy1496.web.fc2.com/sub367.html
ベンジャミン・フルフォード 2013年6月27日 (木)
http://yyy1496.web.fc2.com/sub369.html
『 日経前2015/11/24 』 リチャード・アミタージ、マイケル・グリーン、カーク・キャンベルを、野放しにしてはならない
http://yyy1496.web.fc2.com/sub257.html
金による支配・ダーウィンの進化論
http://yyy1496.web.fc2.com/sub163.html
情報の見分け方
http://yyy1496.web.fc2.com/sub259.html
恐怖が混じっている情報は、ほとんど嘘です
http://yyy1496.web.fc2.com/sub181.html
ワンワールドによる宮中の支配は、完璧になっています
http://yyy1496.web.fc2.com/sub424.html
長く生きられないように仕向けられている
http://yyy1496.web.fc2.com/sub242.html
広島に、8月6日 午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub248.html
福島のお母さん達の声
http://yyy1496.web.fc2.com/sub292.html
現在 マスコミは完全に支配されている
http://yyy1496.web.fc2.com/sub118.html
全てが宇宙の内側にある
http://yyy1496.web.fc2.com/sub416.html
イルミナティ、サタニスト 世界権力によって育成された極めて有能な傀儡である
http://yyy1496.web.fc2.com/sub249.html
金融市場は、完全に八百長
http://yyy1496.web.fc2.com/sub294.html
本当はガンは治る
http://yyy1496.web.fc2.com/sub332.html
毒ガス療法の悪夢_80%のガン患者は殺害されていた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub330.html
学校給食のパンは、ポストハーベストされて輸入された2等小麦粉を使用しているため、クロルピリホスメチル・マラチオン・フェニトロチオン含めて濃度平均10.2ppb(=ng/g)の汚染があります。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub358.html
フランスの核実験も日本のプロトニウムで核実験をやっている
http://yyy1496.web.fc2.com/sub254.html
千葉の沖に捨てに行っていました
http://yyy1496.web.fc2.com/sub354.html
【故 太田 龍氏は言う】………何という慧眼だろう!
http://yyy1496.web.fc2.com/sub427.html
ペンタゴン・ロシア軍・中国軍は金融マフィアに騙された第3次世界大戦はやらない
http://yyy1496.web.fc2.com/sub272.html
病気が治る免疫相談室
http://yyy1496.web.fc2.com/sub288.html
がん患者さんのための『免疫とがん』講座
http://yyy1496.web.fc2.com/sub394.html
日本で使われてる、あるい世界で使われてる抗がん剤のルーツは、毒ガス兵器です。マスタードガスです。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub391.html
転移は癌が治る前兆なのです。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub389.html
癌でさえ、適応反応
http://yyy1496.web.fc2.com/sub375.html
早期発見・早期殺害
http://yyy1496.web.fc2.com/sub373.html
輸血で殺される GVHD
http://yyy1496.web.fc2.com/sub263.html
抗癌剤打つな
http://yyy1496.web.fc2.com/sub222.html
ワクチン
http://yyy1496.web.fc2.com/sub37.html
ガンマフィア・国家が主要メンバー
http://yyy1496.web.fc2.com/sub371.html
そもそも、ガンの定義というのはないというのだ。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub393.html
『すべての日本の原発を爆破するぞ』という脅しの電話
http://yyy1496.web.fc2.com/sub286.html
常識として疑いもしなかっうたことが、実は意図的に歪められ…
http://yyy1496.web.fc2.com/sub256.html
「FACT2017」 ベンジャミン・フルフォード×リチャード・コシミズ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub403.html
わざと戦争を起こしたと思っている人達は陰謀論者
http://yyy1496.web.fc2.com/sub173.html
戦争は、すべて八百長
http://yyy1496.web.fc2.com/sub210.html
日本は、戦争をするように仕組まれていた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub370.html
第二次大戦は、茶番劇
http://yyy1496.web.fc2.com/sub283.html
イルミナティ・フリーメーソンと創価学会
http://yyy1496.web.fc2.com/sub108.html
ベンジャミン・フルフォード_『〜陰謀論総まとめ〜』
http://yyy1496.web.fc2.com/sub399.html
戦争は継続しなければいけない
http://yyy1496.web.fc2.com/sub172.html
戦争は商売・ナイラの涙 やらせとPR広告
http://yyy1496.web.fc2.com/sub384.html
我々が体験して学ばなければならない
http://yyy1496.web.fc2.com/sub309.html
第二次世界大戦も、この人達によって最初から脚本どうりに演出されたインチキな戦争だった
http://yyy1496.web.fc2.com/sub185.html
ベンジャミン・フルフォード氏「世界の裏事情の基礎知識」
http://yyy1496.web.fc2.com/sub396.html
「一番よくないのは、放射線治療です」(安保教授)
http://yyy1496.web.fc2.com/sub392.html
ガンマフィア
http://yyy1496.web.fc2.com/sub333.html
地獄行きの新幹線『ガン治療のウラ』
http://yyy1496.web.fc2.com/sub324.html
ガン治療のウラ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub327.html
早期発見・早期殺害
http://yyy1496.web.fc2.com/sub373.html
犠牲者は、年間29万6千人
http://yyy1496.web.fc2.com/sub334.html
犯罪ガン治療の正体_放射線_抗ガン剤_手術の嘘
http://yyy1496.web.fc2.com/sub339.html
狂った輸血医猟の真相
http://yyy1496.web.fc2.com/sub349.html
病院に行くな
http://yyy1496.web.fc2.com/sub285.html
抗癌剤打つな
http://yyy1496.web.fc2.com/sub222.html
全てが宇宙の内側にある
http://yyy1496.web.fc2.com/sub416.html
弱肉強食が生物の宿命であるという考え方が、金融を中心とした資本主義の世界を維持するのに、もってこいの感覚を生みだすからです
http://yyy1496.web.fc2.com/sub201.html
輸血で殺される GVHD
http://yyy1496.web.fc2.com/sub263.html
日本のいちばん醜い日
http://yyy1496.web.fc2.com/sub419.html
仕組まれた戦争
http://yyy1496.web.fc2.com/sub238.html
広島 原爆投下の真相
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スターリンに発したい情報を伝える
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李 方子(り まさこ)さんの娘が横田早紀江さんです。
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国際連合を設立するために世界大戦が起こされた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub316.html
島津論文(福島原発事故の原因)
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高学歴者ほど教育から洗脳を受けている
http://yyy1496.web.fc2.com/sub112.html
教育・情報・医療・食料など生活に必要な各分野をすべて掌握しています
http://yyy1496.web.fc2.com/sub151.html
イルミナリティのワンワールドの意志
http://yyy1496.web.fc2.com/sub305.html
北里大学の研究発表によると、交通事故で死亡した5歳未満の子供54人を解剖し た結果、何と42人に動脈硬化があったそうです。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub357.html
項目選択肢
http://yyy1496.web.fc2.com/sub420.html
『New World Order』死ぬのは奴らイルミナティーだ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub434.html
国際スパイ_『リヒャルト・ゾルゲ』
http://yyy1496.web.fc2.com/sub193.html
ペンタゴン・ロシア軍・中国軍は金融マフィアに騙された第3次世界大戦はやらない
http://yyy1496.web.fc2.com/sub272.html
日本銀行を国有化して下さい
http://yyy1496.web.fc2.com/sub415.html
ガン治療が間違っているときは、見つけた方が不利
http://yyy1496.web.fc2.com/sub267.html
中丸薫_裏天皇 堀川達吉郎
http://yyy1496.web.fc2.com/sub423.html
孝明天皇は、死ななかった。落合莞爾が明かす『堀川政略』の謎
http://yyy1496.web.fc2.com/sub422.html
広島に、8月6日 午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub248.html
広島市民40万人は、その犠牲にされたのである。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub418.html
ワンワールドによる宮中の支配は、完璧になっています
http://yyy1496.web.fc2.com/sub424.html
北朝鮮スパイが総理大臣になる
http://yyy1496.web.fc2.com/sub426.html
日本列島が縄文科学による霊的バリアーに覆われていた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub425.html
選挙システム自体が、不正選挙システムだからである
http://yyy1496.web.fc2.com/sub301.html
スライヴ_インターネットの力で、この研究の広がりと深さを伝えられるようになりました。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub132.html
際連合を設立するために世界大戦が起こされた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub316.html
医療は 完全に悪魔と死神に 牛耳られている。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub435.html
悪魔の利権
http://yyy1496.web.fc2.com/sub436.html
安保流「がんを治す4か条」 (PDF)
http://yyy1496.web.fc2.com/sub329.html
Sayu Flatmound JOURNAL
http://yyy1496.web.fc2.com/sub68.html
御巣鷹山、JAL123便墜落の真相
http://yyy1496.web.fc2.com/sub269.html
アポロ月面映像捏造
http://yyy1496.web.fc2.com/sub111.html
ハリー山科
http://yyy1496.web.fc2.com/sub60.html
『New World Order』死ぬのは奴らイルミナティーだ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub434.html
国際スパイ_『リヒャルト・ゾルゲ』
http://yyy1496.web.fc2.com/sub193.html
ペンタゴン・ロシア軍・中国軍は
金融マフィアに騙された第3次世界大戦はやらない
http://yyy1496.web.fc2.com/sub272.html
日本銀行を国有化して下さい
http://yyy1496.web.fc2.com/sub415.html
ガン治療が間違っているときは、見つけた方が不利
http://yyy1496.web.fc2.com/sub267.html
中丸薫_裏天皇 堀川達吉郎
http://yyy1496.web.fc2.com/sub423.html
孝明天皇は、死ななかった。落合莞爾が明かす『堀川政略』の謎
http://yyy1496.web.fc2.com/sub422.html
広島に、8月6日 午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ
http://yyy1496.web.fc2.com/sub248.html
広島市民40万人は、その犠牲にされたのである。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub418.html
ワンワールドによる宮中の支配は、完璧になっています
http://yyy1496.web.fc2.com/sub424.html
北朝鮮スパイが総理大臣になる
http://yyy1496.web.fc2.com/sub426.html
日本列島が縄文科学による霊的バリアーに覆われていた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub425.html
選挙システム自体が、不正選挙システムだからである
http://yyy1496.web.fc2.com/sub301.html
スライヴ_インターネットの力で、
この研究の広がりと深さを伝えられるようになりました。
http://yyy1496.web.fc2.com/sub132.html
国際連合を設立するために世界大戦が起こされた
http://yyy1496.web.fc2.com/sub316.html
______________________________

まとめ2)憲法と刑法の使い方。
_______________

日本国憲法六法でモーリス・ストロングと共犯日本人汚職殺人犯を逮捕し断罪する。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/608.html
モーリス・ストロングの偽医学汚職ジェノサイド戦争犯罪をすべて日本国憲法と刑法で極刑断罪する。
https://odysee.com/@KJ17:4/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%9C%9F%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%A8%88%E7%94%BB:0
汚職すなわち戦争と原発事故である。
極刑罰を受ける犯罪。
http://www.asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c138
138. 豊岳正彦[-14625] lkyKeJCzlUY 2023年3月08日 16:32:33
刑法199条の殺人罪とは?構成要件・刑罰・関連する罪の種類
2021年4月19日 2023年1月17日
https://wakailaw.com/keiji/5204#:~:text=%20
殺人罪とは、故意に人を殺すことで成立する犯罪で、刑法199条に規定。

(殺人)
第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
1 殺人罪の構成要件(成立要件)
@人
A人を殺す行為
B故意
2 殺人罪に関連する罪
同意殺人罪(嘱託殺人罪・承諾殺人罪)
自殺関与罪
強盗殺人罪
堕胎罪

殺人罪の構成要件(成立要件)は、
@ 人
A 人を殺す行為
B 故意
です。

@人
人とは加害者以外の生命ある自然人のことです(したがって法人は含まれません)。
「人の始期」
生命ある人といっても、人によっては胎児も人だと解釈する。
いつの段階から法律上の人と解釈するか「人の始期」が問題。

一部露出説(胎児が母親の身体から一部でも露出した時点から人と考える説)
判例(大正8年12月13日)は一部露出説。
母体から一部も露出していない胎児を殺害した場合は「堕胎罪(刑法212条〜216条)」が成立。
医師が父母の同意を得て、妊娠22週未満の胎児を人工妊娠中絶するは合法(母体保護法)。

いつの時点で人が死亡したと解釈するか「人の終期」については、
三徴候説(心停止・呼吸停止・瞳孔拡大の3つの徴候によって死亡判定する説)
脳死説(脳死を人の死とみる説)
刑法では現在のところ三徴候説が一般的に採用されているため、
脳死状態の人を殺害した場合も殺人罪が成立します。

A人を殺す行為は、人を殺す意図(故意)をもって、人の生命を断絶する行為。
手段・方法は問わず、刺殺、斬殺、絞殺、溺殺、扼殺、射殺、焼殺、毒殺などが典型です。
また、何か行動すること(作為)による殺害のみならず、何もしないこと(不作為)による殺害も人を殺す行為に含まれます。

不作為による殺害は、
医師の医師法第1条違反や弁護士の刑訴法239条2項犯罪告発責務違反。
子どもの扶養義務を負う母親が、あえて授乳せずに餓死させた。
真冬に交通事故で重傷を負わせた被害者を救護せず別所まで運び放置し凍死させた等、
被害者に対する法的な身体生命保護義務があることが前提。

法は人に不可能なことを強いることはできませんから、不作為による殺人罪が成立するためには作為の可能性、すなわち、一定の行為を行うことの救命可能性が必要です。

B殺人罪の故意は、加害者が自分の行為によって人を死亡させることを認識認容しあえて殺害行為を行った、という場合を確定的故意、ほかに

未必的故意、択一的故意、概括的故意があります。

未必的故意とは、人を死亡させてしまう「かも」しれないが、そうなっても構わないという場合のように、
結果の発生を確実なものとして認識・認容していないものの、それが可能なものとして認識・認容している場合の故意です。

択一的故意とは、

A・Bいずれかを殺すつもりで拳銃を発砲したものの、そのいずれかに命中するかは不確実だったというように、
いずれか一方を死亡させることの認識・認容はあったものの、いずれが実現するかについては不確実だった場合の故意です。

概括的故意とは、家族(A・B・C)のいずれかを殺すつもりで毒物を入れ

た荷物を家族宛てに郵送し、Cに毒物を飲ませ死亡させたというように、
一定範囲の人のいずれかを死亡させることの認識・認容はあったという場合の故意です。

次に、殺人罪に関連する罪について。

同意殺人罪(嘱託殺人罪・承諾殺人罪)
同意殺人罪は、人から嘱託を受け又は承諾を得て人を死亡させた場合

に問われる罪です(刑法第202条後段)。

嘱託を受けてとは、人から積極的に殺害を依頼されることです。
承諾を得てとは、人から殺害されることについて同意を得ることです。
前者を嘱託殺人罪、後者を承諾殺人罪ともいいます。

嘱託・承諾があったといえるためには、

被害者自身の嘱託・承諾であったこと、
嘱託・承諾できる能力のある者の自由かつ真実の意思に出たものであること、
殺害以前に嘱託・承諾があったこと、が必要。
したがって、幼児や認知症者から嘱託を受けても同意殺人罪ではなく殺人罪が成立。

死亡する気はないにもかかわらず「殺してくれ」と頼ま

れたため殺害したという場合も同意殺人罪ではなく殺人罪が成立。
真実の嘱託・承諾がないのにあると誤信して殺害した場合は、その誤信が真実であれば殺人罪ではなく同意殺人罪。
同意殺人罪の罰則は「6月以上7年以下の懲役又は禁錮」。
公務員及びみなし公務員医師弁護士においては刑訴法239条2項

犯罪告発責務により、同意殺人罪は成立せず、すべて故意の殺人罪となる。
それは憲法15条「全体奉仕責務」及び憲法76条「良心に従い独立して憲法および法律にのみ拘束されて職権を行う責務」及び憲法99条の日本国民として負う神聖な責務によって同意が成立せずすべて確定した故意の殺人罪が成立する。

自殺関与罪は、人の自殺に関与した場合に問われる罪です(刑法第202条前段)。

自殺とはその意味を理解できる人がその自由な意思決定に基づいて命を絶つことをいいます。
したがって、自殺の意味を理解していない者(幼児など)を自殺を強制して死亡させたという場合は自殺関与罪ではなく殺人罪が成立します。

関与の方法は「教唆」と「幇助」です。

教唆による自殺とは、自殺の意思のない者に自殺を決意させて自殺させることです。
教唆行為が悪質で、自殺者の意思決定の自由度が失われていたと認められる場合は、自殺関与罪ではなく殺人罪が成立します。

幇助による自殺とは、すでに自殺の意思がある者の自殺を援助し手助けすること。
幇助行為は自殺者に器具を提供するなどの有形的方法のほか、言動による無形的方法も含まれ、
公務員みなし公務員ほか幇助によって利得がある者はすべて故意の殺人罪が確定する。
第二百二条 人を教唆し若しくは幇助して

自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。

強盗殺人罪とは、刑法第240条
強盗が人を死亡させた場合に成立する犯罪。
「強盗」とは強盗犯人を指し、強盗罪(刑法第236条)、事後強盗罪(刑法歳238条)、昏睡強盗(刑法第239条)の既遂犯及び未遂犯を含み、
強盗の機会に乗じた残虐な身体生命法益侵害を防ぐため罰則は、「死刑または無期懲役」。

堕胎罪は、
妊娠中の女子が薬物またはその他の方法により堕胎した場合に成立。
「堕胎」とは自然の分娩期に先立つ胎児の人工的排出で、胎児死亡は堕胎の要件でない。

「胎児」とは、受精卵が子宮内に着床して以降の状態を指すので、受精卵が子宮内着床する前過程を妨害しても「堕胎」には該当しない。

以上より、「母胎内」の胎児の生命・身体については堕胎罪の規定により保護され、「母体外」に出た後は「人」に対する罪(殺人罪等)が成立することになります。

堕胎罪の刑罰は「1年以下の懲役」が科されることになります(刑法第212条参照)。

なお第三者が女子の嘱託や承諾を得て堕胎させた場合には「同意堕胎罪」が、
嘱託・承諾を受けずに堕胎させた場合には「不同意堕胎罪」が成立することになります(刑法第213条、215条参照)。
さらに「よって女子を死傷させた」場合には堕胎致死罪が成立することになります。

139. 豊岳正彦[-14627] lkyKeJCzlUY 2023年3月08日 16:58:57 :
「安楽死を認めよ」と叫ぶ人に知ってほしい難題
toyokeizai.net/articles/-/367007
議論はあっていいが一方向に偏るのは危うい
Frontline Press
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2020/08/04 11:00
ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者に対する嘱託殺人事件をきっかけに、安楽死の是非をめぐる議論が出始めている。
「今回のケースは殺人であり、安楽死の議論をすべきではない」という意見がある中、安楽死の是非は以前からの社会的課題だとの声も根強い。
昨年春に『死ぬ権利はあるか』(春風社)を出版した有馬斉・横浜市立大学准教授(倫理学)はどう考えているのだろうか。
京都の事件は“安楽死”と地続き
「安楽死について定めた法律は日本にはないので、国内で違法とされている行為のうち、今回のケースがどれに該当するかといえば嘱託殺人なのでしょう。
しかし、『安楽死かどうか』はまた別の議論です。
一般的な用法に基づいて『致死薬の投与などの積極的関与によって死期を早める行為』が安楽死だと定義すると、今回のケースも”安楽死”だと言えるでしょう。
これまでに安楽死という表現で是非が議論されてきたさまざまなケースとも地続きです」

有馬氏はそう言って、論を進めた。

横浜市立大学の有馬斉・准教授(撮影:Frontline Press、取材はZoomで実施)
まず、有馬氏は今回と比較できるケースとして、1990年代にアメリカのミシガン州で起きた事件を例示した。
およそ130人を死なせた医師、ジャック・ケヴォーキアンの事件だ。
彼は「安楽に自殺するための方法を考案した」と雑誌に公表し、依頼してきた人々に致死薬を処方または投与するなどして、後に逮捕された。

「最も大きな問題は、ケヴォーキアン氏が誰の担当医でもなく、それぞれの依頼者の症状などを十分に理解できる立場になかった点です。
京都で起きた今回の嘱託殺人も同じです。
逮捕された2人の医師は、カルテなどの医療情報を知る立場になく、
亡くなった女性が実際にどんな病状だったのか、どんなサポートを受けてきたのか、そもそも死期が差し迫っていたのかを正確に知ることが難しい立場でした。
関係はSNSだけですから、かりに患者本人が事実を伝えていなかったとしても確認できません」

「安楽死に賛成する人々のいちばんの根拠は、本人の自己決定と利益です。
しかし、逮捕された医師2人が患者の自己決定にしっかりと寄り添えたのか、患者の最善の利益にかなうやり方だったのかを考えると、どちらも非常に怪しいと思います」

有馬氏は『死ぬ権利はあるか』の中で、容認派、反対派それぞれの意見を検討したうえで、安楽死・尊厳死を法制化することは難しいと結論づけている。
そのポイントはどこか。

「安楽死の合法化に賛成する人々は『本人が死にたがっているから』あるいは『こんなに苦しんでいるのだから』と主張します。
一見、納得できそうな主張かもしれませんが、検討を重ねていくと、危うい部分もある主張だと思います」

どこが危ういのか。

「安楽死の現実的なプロセスを考えてみましょう。
本人の自己決定を尊重すると言っても、致死薬の処方・投与の際には医療者の判断が欠かせません。
例えば、がん患者が安楽死を求めたとします。
この患者がまだ初期のがんで、標準的な治療をまだ終えていないという場合、『それでも本人の意思を尊重しよう』という判断を下す医師はいないと思います」

「認知症の場合はどうでしょうか。
認知症の告知を受けた人の中には、とくに最初の頃、落ち込みが激しく、『死にたい』と言う人もいます。
しかし、この場合でも医師は『希望通りに死なせてあげよう』とは判断せず、『気分の落ち込みにも付き合いながら治療を考えていこう』となるはずです」

「法制化のリスクは大きい」
いずれにしても、患者の状況は病気の種類や病状、治療法によって個々に違いがある。
どんな状態が「安楽死」を容認できる“末期”なのか。これは、純粋に医学的な判断ではありえない。
「この病状になったら患者はとてもつらいだろう」という医師の共感に基づく部分がある。
共感できた段階で、致死薬投与・処方の“判断”をしていく。
その“判断”にこそ、大きな問題が潜んでいるというのが、有馬氏の見立てだ。

「たとえガイドラインを作っても、医療者個人に判断を任せると、必ずばらつきが出ます。
現実の医療現場を見ても、こっちの病院はあくまで延命的な治療をする患者が多いけど、あっちの病院では同じ病態であっても延命的な治療を早くに切り上げる患者がもう少し多いなど、そんなばらつきは出てきます。
そうなると、安楽死を合法化した場合、本来なら生きていたほうがよかった人を、医療者の“共感”の結果、死なせてしまうケースが出てくるかもしれない。
合法化にはそうしたリスクがあるため、私は法制化に反対です」

この状態では生きていてもつらいだろうという医療者の“共感”には、種々の偏見が隠れている恐れもあると、有馬氏は指摘する。
例えば、『ALSで寝たきりだと大変だな』と思ってしまうかもしれない。
しかし、その“共感”には、ALSなどの機能障害に対してどう思っているのかという価値観が反映されているという。

「高齢者や低所得者、身寄りのない人も偏見を受けやすいと思います。
医療者が『この患者が家に帰っても誰かのサポートがあるわけじゃない。大変だろうな』『この人は経済的にも大変な状況だろう』と医療者が“共感”すれば、安楽死の実施に傾くかもしれません。
あるいは逆に、お金が十分にあり、家族の支えがある場合には『生きたほうがいい』と思うかもしれません。
つまり、合法化によって、『幸せそうに見えない』と社会的に思われている人々に死のリスクが偏ってしまう恐れがあるのです」

大事なのはメリットとデメリットの比較
安楽死の合法化を求める意見は多様だ。
中には、医療費を抑制するために、安楽死の合法化を主張する人もいる。

「基本的に、臨床の医療者は、個々の患者にどのような治療を施すかを考える際、国全体の医療費を考慮すべきではありません。
目の前の患者の自己決定と利益を守るために仕事すべきです。
この動機と、国全体の医療費を抑えようという動機は、正面から衝突する場合があります。
国の医療費を抑える仕事は、さまざまな医療について医療保険でどこまでカバーするか、どれだけ保険診療点数をつけるかを考える政策レベルの判断(役人)に任せるべきでしょう」

一方、安楽死によって自己決定や本人の利益も守られた、というケースが出てくる可能性も否定しないという。

「死ぬことを考えてはいけない、生きることを前提に議論にしたほうがいい――。
そういう意見もありますが、『患者本人にとって死ぬことがベスト』という事例を100パーセントない、と言い切ることはできないかもしれません」

有馬氏はつまり、「安楽死を合法化しなければ何の問題も起きない」という考え方も誤りだ、と指摘している。
大事なのは、メリットとデメリットを比較することだと言うのだ。

「合法化をするにしても、しないにしてもデメリットはあります。
比較の問題なので、全員が納得する答えは、もしかしたら見つからないかもしれません。
倫理の問題では、こういうことがよくあると思います。
倫理学の講義で学生の感想を集めると、『答えが出ない問題を考えて何の意味があるのか』という言葉が、毎年のように出てきます。
それでも倫理については考え続ける必要はあります」

「例えば今のパンデミックの状況で、各国がいろんな政策を出し、次々と『間違っていた』と批判されています。
喫緊の課題であるならば、ベストか否かがわからない状況でも答えを出さなければならない。
下した判断に間違いがあれば、批判されますし、批判すべきです。
しかし、『答えが出ない課題だから考える必要はない』という考えがいちばん間違っている。
安楽死の問題も、議論を続けていくべきだと思います」

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140. 豊岳正彦[-14649] lkyKeJCzlUY 2023年3月08日 21:22:21 :
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c140
水源地や水道にこっそり毒を入れて飲んだ人が死亡すれば極刑。
安全だからと騙して同意を得て注射した致死毒で人を死亡させたらやはり極刑。
医者がワクチンで人が死ぬことを知らないはずがない。

ワクチンも薬も致死量があるただの毒なので投与しても病気は何にも予防せず何も治らない。
人を騙して既知の致死毒を投薬または注射して人が異状死・変死したら医者が極刑。
弁護士も刑訴法239条2項違反で医者の共犯者極刑。
刑法の相当因果関係成立。
サルでもわかる刑法146条水道毒物等混入殺人罪。


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135. 豊岳正彦[-14593] lkyKeJCzlUY 2023年3月07日 07:07:22 :
死刑になる犯罪は18種類|主な罪名と死刑執行までの流れ
keiji-pro.com/columns/181/
弁護士法人プラム綜合法律事務所 梅澤康二 弁護士
______________
死刑とは、生命刑の1つで、法律を犯した人の命を絶つ刑罰です。
一般的には極刑などと呼ばれることもあります。
世界では死刑制度が廃止されている国もありますが、2018年5月現在、日本では死刑が刑法第9条によって、刑罰の1つとして認められています。

第九条(刑の種類)
死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。

裁判で死刑が下されるケースは非常に少なく、死刑判決が下された場合にはニュースで大々的に取り上げられることが多いですね。
では、どのような罪が死刑になるのでしょうか。
この記事では、どのような罪を犯した場合に死刑になるかをご紹介します。

死刑になる主な刑法犯罪名18種
死刑になるのは、刑罰の中に死刑が含まれている刑法犯罪を犯した場合に限ります。

以下は、日本で死刑が執行される犯罪18刑法

1)内乱罪とは、
国会・内閣・裁判所などの統治機構を転覆や破壊させる目的で暴動を起こす犯罪です。
革命やクーデターやインサイダー汚職犯罪ともいえる。
第七十七条 国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、
内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
一 首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。
内乱罪において死刑が適用される可能性があるのは、先導したリーダーのみで、法定刑は死刑もしくは無期禁錮です。


2)外患誘致罪とは、
外国と共謀し、日本に対して武力行使を誘発させる犯罪です。
外国とは、外国の政府や軍隊、外交使節などを指します。
テロ組織などは含まれません。
武力行使とは、
戦争を起こさせるだけでなく、日本の安全を侵害する目的で、軍隊を侵入させる、ミサイル攻撃をするなども意味します。
刑法
第八十一条 外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。
外患誘致罪の法定刑は死刑のみです。


3)外患援助罪とは、
外国から武力行使があったときにそれに加担、協力し、外国と共に日本を攻撃する犯罪です。
外患援助罪は、刑法第82条によって規定されています。
第八十二条 日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者は、
死刑又は無期若しくは二年以上の懲役に処する。


4)現住建造物等放火罪とは、
人が住居として使用しているか、人がいる建物、電車、船などに放火する犯罪です。
刑法
第百八条 放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船又は鉱坑を焼損した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
法定刑は、
死刑または無期懲役、もしくは5年以上の懲役です。


5)激発物破裂罪とは、
火薬など爆発するものを用いて、人が中にいることが明らかな建物、電車、船などを爆発させる犯罪です。
第百十七条 火薬、ボイラーその他の激発すべき物を破裂させて、第百八条に規定する物又は他人の所有に係る第百九条に規定する物を損壊した者は、放火の例による。
第百九条に規定する物であって自己の所有に係るもの又は第百十条に規定する物を損壊し、よって公共の危険を生じさせた者も、同様とする。
法定刑は、
死刑または無期懲役、もしくは5年以上の懲役です。


6)現住建造物等浸害罪とは、
水を溢れさせて、建物、電車、汽車などに損害を与えたり、中にいる人を溺れさせたりする犯罪です。
池やダムの堤防を決壊させるなどして、故意に洪水を引き起こすといった行為がこれに当てはまります。
第百十九条 
出水させて、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車又は鉱坑を浸害した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。
法定刑は、
死刑または無期懲役、もしくは3年以上の懲役です。


7)汽車転覆等致死罪とは、
電車や船などを転覆させたり破壊したりした結果、乗客などが死に至った場合に適用される可能性のある犯罪です。
第百二十六条 現に人がいる汽車又は電車を転覆させ、又は破壊した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
2 現に人がいる艦船を転覆させ、沈没させ、又は破壊した者も、前項と同様とする。
3 前二項の罪を犯し、よって人を死亡させた者は、
死刑又は無期懲役に処する。


8)水道毒物等混入致死罪とは、
水道に毒物を混ぜた結果、その水を使用した人が死に至った場合に適用される可能性のある犯罪です。
なお、毒を混ぜるのは水道管のほか、水源も該当します。

第百四十六条 水道により公衆に供給する飲料の浄水又はその水源に毒物その他人の健康を害すべき物を混入した者は、二年以上の有期懲役に処する。
よって人を死亡させた者は、
死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。


9)殺人罪とは、
人を故意に殺す犯罪です。
なお、殺人罪は、何らかの行為(包丁で身体を刺すなど)によって人を殺した場合のほか、
放置しておくことで人が死亡することが予想されるとき(溺れている人がいるなど)に、そのまま放置した場合にも適用されます。

第百九十九条 人を殺した者は、
死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。


10)決闘殺人罪とは、
決闘を行い、相手を死に至らしめる犯罪です。
なお、決闘とは、当事者の間で合意をして、身体を傷つけるもしくは生命を奪うことを目的に暴力を行うことをいいます。

決闘殺人罪は、決闘罪ニ関スル件(明治二十二年法律第三十四号)第3条に規定されています。

第三条 決闘ニ依テ人ヲ殺傷シタル者ハ刑法ノ各本条ニ照シテ処断ス

死刑または無期懲役もしくは5年以上の懲役です。


11)組織的な殺人罪とは、
組織的に殺人をする犯罪です。
これは1995年に起こったオウム真理教の地下鉄サリン事件をきっかけに、新しく定められました。
組織的な殺人罪は組織的犯罪処罰法第3条に規定されています。
第三条 次の各号に掲げる罪に当たる行為が、団体の活動(団体の意思決定に基づく行為であって、その効果又はこれによる利益が当該団体に帰属するものをいう。以下同じ。)として、
当該罪に当たる行為を実行するための組織により行われたときは、その罪を犯した者は、当該各号に定める刑に処する。

組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律第3条
組織な殺人罪の法定刑は、
死刑または無期懲役もしくは6年以上の懲役です。


12)強盗致死罪とは、
強盗を行った結果、人を殺したり、死んでしまったりした場合に適用される可能性のある犯罪です。
強盗の際に意図的に人を殺した場合だけでなく、恐怖による心臓発作などで意図せず人が死んだ場合も該当する。
第二百四十条 強盗が、人を負傷させたときは無期又は六年以上の懲役に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。

13)強盗強制性交等致死罪とは、
強盗の際に、強姦などを行い、その結果人が死に至った場合に適用される犯罪です。
刑法
第二百四十一条 強盗の罪若しくはその未遂罪を犯した者が強制性交等の罪(第百七十九条第二項の罪を除く。以下この項において同じ。)若しくはその未遂罪をも犯したとき、
又は強制性交等の罪若しくはその未遂罪を犯した者が強盗の罪若しくはその未遂罪をも犯したときは、無期又は七年以上の懲役に処する。
3 第一項の罪に当たる行為により人を死亡させた者は、
死刑又は無期懲役に処する。


14)爆発物使用罪とは、
治安を乱したり、他人の身体、財産を侵害するために爆発物を使用する犯罪です。

爆発物使用罪は爆発物取締罰則第1条に規定されています。
第一条 治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスルノ目的ヲ以テ爆発物ヲ使用シタル者及ヒ人ヲシテ之ヲ使用セシメタル者ハ
死刑又ハ無期若クハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス


15)航空機強取等致死罪とは、
暴力や脅迫などを用いて相手方の抵抗を抑えた状態で、飛行機を乗っ取り、その際に人が死に至った場合に適用される可能性のある犯罪です。
つまり、ハイジャック中に人を死に至らしめるなどの犯罪があたります。

航空機強取等致死罪は、航空機の強取等の処罰に関する法律第2条に規定されています。

第二条 前条の罪を犯し、よつて人を死亡させた者は、
死刑又は無期懲役に処する。


16)航空機墜落等致死罪とは、
空港の設備を破壊したり、飛行中の航空機を何らかの方法で墜落させ、人を死に至らしめる犯罪です。

航空機墜落等致死罪は、航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律第2条に規定されています。

前二項の罪を犯し、よつて人を死亡させた者は、
死刑又は無期若しくは七年以上の懲役に処する。


17)海賊行為致死罪とは、
海賊行為によって人が死に至った場合に適用される可能性のある犯罪です。
海賊行為とは、暴行や脅迫によって、船舶を強取する、運行を支配する、船舶内の財物を強取することなどをいいます。

海賊行為致死罪は、海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律第4条に規定されています。

第四条 前条第一項又は第二項の罪を犯した者が、人を負傷させたときは無期又は六年以上の懲役に処し、
死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。


18)人質殺害罪とは、
人質を取り、金銭を要求したり、逃走ルートを確保したりするなど、強要行為をしたときに、人質を殺害する犯罪です。
人質殺害罪は、人質による強要行為等の処罰に関する法律4条に規定されています。
第四条 第二条又は前条の罪を犯した者が、人質にされている者を殺したときは、死刑又は無期懲役に処する。

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死刑執行に関する知識


死刑判決が出た犯人は執行の日まで拘置所で過ごす
死刑執行の命令は、法務大臣によって行われます。なお、執行の命令は判決後6ヶ月以内に行わなければなりません。

第四百七十五条 死刑の執行は、法務大臣の命令による。

○2 前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。

引用:刑事訴訟法第475条

しかし、刑が確定してから実際に執行されるまで、6ヶ月以内に収まるケースはほとんどありません。

これは問題ないのでしょうか?

法的拘束力のない訓示規定
法務省は、死刑執行の期間を定めた刑事訴訟法第475条に関して、法的拘束力のない訓示規定であると発表しています。
そのため、6ヶ月以内の執行は必ず守られるものではないとされていて、結果的に6ヶ月以内に行われないのが現状のようです。

また、執行は、命令が出されてから5日以内に行われる必要があります。

第四百七十六条 法務大臣が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない。

引用:刑事訴訟法第476条

死刑執行の具体的な方法は絞首刑
死刑制度のある国によって、執行方法はいくつかの種類があります。日本では絞首刑によって死刑を執行しています。

(死刑)

第十一条 死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。

引用:刑法第11条

死刑執行までに時間がかかる理由
法務省では、死刑執行に関するデータを2007年から公表しています。
それによると、死刑が確定してから実際に執行されるまでは、平均で5年もの時間がかかっています。

なぜ、こんなに時間がかかるのでしょうか。
その理由としては、死刑執行を覆すための手段が用意されており、法務大臣が執行命令の判断を慎重にしているからです。

死刑執行を覆す手段としては、再審請求、上訴権回復請求、非常上告、恩赦があります。
それぞれの内容は以下の通りです。

再審請求

証拠が虚偽であったり、新たな証拠が見つかったりするなどを理由に、判決が妥当でない場合に、判決を取り消し、裁判をやり直すように請求すること

上訴権回復請求

上訴(控訴や上告)の提起期間内に、犯人や代理人に非がないにもかかわらず上訴ができなかったときに、上訴権の回復を請求すること

非常上告

最高裁判所で確定した審判が法令に違反しているときに、検事総長が違法の是正を求めること

恩赦

事件の概要を個別に鑑みて、死刑が妥当でないなどと、減刑をすること

また、犯人が精神障害や心神喪失状態であったり、妊娠したりしている場合には、死刑執行を停止しなければなりません。
いずれにせよ、死刑を執行すれば人の命が奪われます。
ですので命令を出す前に、法務大臣には非常に慎重な判断が求められているのです。

未成年でも死刑になる可能性はある
未成年でも、18歳、19歳であれば、死刑になる可能性があります。
それは、本人の年齢、反省度、性格などを鑑みて、教育よりも刑罰が妥当であると家庭裁判所が判断したケースです。

なお、大人が刑事訴訟という裁判を受けるのに対して、19歳までの未成年は、少年審判という裁判を受けます。
少年審判は、家庭裁判所の審判廷で行われ、下される判決は、『少年院に入る』『保護司(ほごし)のところに通う』など、死刑、懲役、罰金などとは違う種類のものが一般的です。

これには、未成年には大人と同じ罰を与えずに、教育して更生させるという意図があります。

まとめ
死刑になる犯罪は全部で18種類あります。
殺人罪などのイメージしやすいものから、海賊行為を規定したピンと来ないものまで、たくさんありますね。

また、死刑が確定してから執行されるまで時間がかかるのは、法務大臣がさまざまな内容について審議しているからです。

この記事で死刑制度に関する知識が深まれば幸いです。

____________________________

222. 豊岳正彦[-15723] lkyKeJCzlUY 2023年5月09日 12:56:05 :

刑訴法

第二編 第一審
第一章 捜査
第百八十九条 警察官は、それぞれ、他の法律又は国家公安委員会若しくは都道府県公安委員会の定めるところにより、司法警察職員として職務を行う。
A 司法警察職員は、犯罪があると思料するときは、犯人及び証拠を捜査するものとする。
-----------------------------------
第二百十三条 現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる。
----------------------------------
------------------------------------
第二百二十九条 変死者又は変死の疑のある死体があるときは、その所在地を管轄する地方検察庁又は区検察庁の検察官は、検視をしなければならない。
A 検察官は、検察事務官又は司法警察員に前項の処分をさせることができる。
-----------------------------------
-----------------------------------
第二百三十九条 何人でも、犯罪があると思料するときは、告発をすることができる。
A 官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。
-----------------------------------
第二百四十条 告訴は、代理人によりこれをすることができる。告訴の取消についても、同様である。

第二百四十一条 告訴又は告発は、書面又は口頭で検察官又は司法警察員にこれをしなければならない。
A 検察官又は司法警察員は、口頭による告訴又は告発を受けたときは調書を作らなければならない。
第二百四十二条 司法警察員は、告訴又は告発を受けたときは、速やかにこれに関する書類及び証拠物を検察官に送付しなければならない。
第二百四十三条 前二条の規定は、告訴又は告発の取消についてこれを準用する。
第二百四十四条 刑法第二百三十二条第二項の規定により外国の代表者が行う告訴又はその取消は、第二百四十一条及び前条の規定にかかわらず、外務大臣にこれをすることができる。
日本国に派遣された外国の使節に対する刑法第二百三十条又は第二百三十一条の罪につきその使節が行う告訴又はその取消も、同様である。
第二百四十五条 第二百四十一条及び第二百四十二条の規定は、自首についてこれを準用する。
第二百四十六条 司法警察員は、犯罪の捜査をしたときは、この法律に特別の定のある場合を除いては、速やかに書類及び証拠物とともに事件を検察官に送致しなければならない。
但し、検察官が指定した事件については、この限りでない。
///////////////////////////////////////////////
第二章 公訴
第二百四十七条 公訴は、検察官がこれを行う。
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以下略
http://www.asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c334

   

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