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[近代史5] 世界同時株安では何から暴落が始まるか 中川隆
1. 2022年1月22日 23:01:25 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[1]
2022年のスタグフレーションに投資する方法
2022年1月20日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/18949

年始から著名投資家の相場観の紹介に忙しかったため、なかなか書けていなかったが、2022年の投資戦略について包括的に書いてみよう。

インフレと景気後退の合わせ技

2022年のテーマはスタグフレーションである。

スタグフレーションとはインフレと景気後退が同時に来ることである。物価は需要と供給に左右されるが、景気が後退すると通常需要も後退するため、物価押し下げの要因となることが多い。つまりはデフレである。

ここ数十年の間、経済のテーマはデフレと景気後退だった。インフレが起こることはなかった。だがデフレにあぐらをかいて、どんなに紙幣を印刷してもインフレにはならないと高をくくって紙幣をばら撒き続けた結果、アメリカでは前年比7.1%の物価高騰が起こっており、しかも収拾の目処は立っていない。

コロナ蔓延でもインフレ止まらず、12月米物価上昇率は7.1%
リフレ派の似非経済学者たちにインフレは良いものだと教えられてきた多くの人々は、スーパーの食料品の値段が上がり始めてようやく、インフレとはものが同じ値段で買えないことだという事実に気づいたようである。面白い話ではないか。政府やマスコミの言うことを信じるからそういうことになるのである。

ハイエク: インフレ主義は非科学的迷信
結果として中央銀行は金融緩和の撤回、そして金融引き締めを強いられている。しかし利上げを行うとインフレが抑制されるより先に株価が暴落するということは、以下の記事を読んだ人には確実に思える話だろう。

金融市場、今年5回以上の利上げを織り込み始める 株式市場は風前の灯火
インフレ対策とは違うスタグフレーション対策

このままでは物価高騰は止まらず、先に景気後退が来そうである。景気後退にもかかわらず物価上昇が収まっていない状態、つまりスタグフレーションは、著名投資家やここの読者には2022年のメインシナリオである。債券投資家のジェフリー・ガンドラック氏などは半年以上前からこの状況を的確に予想していた。

ガンドラック氏: インフレが後退するなら景気も後退 金価格高騰へ (2021/6/14)
今後の経済動向を予想するのは簡単である。それはスタグフレーションである。

しかし投資家にとってはややこしい問題が待ち構えている。スタグフレーションに賭ける投資は、インフレに賭ける投資よりも複雑だということである。

単にインフレに賭けるだけならば、ゴールドやシルバー、原油や大豆やコーンなどを買えば良い。暗号通貨も上がり続けるかもしれない。物価が上がるのだから、ものを買えば良いのである。金融市場で売買できるこうした商品はコモディティと呼ばれている。

事実、コモディティ銘柄はインフレを織り込んで1年半前から上昇してきた。ここではそうした動きを最初から報じ続けている。

金融市場にインフレの兆し: 金、原油、穀物価格が高騰 (2020/10/14)
例えば原油価格は次のように推移している。


だが2022年、金融引き締めは経済成長を殺してしまうだろう。そうなれば株価は暴落し、それはこうしたコモディティ価格にもマイナスに働く。リーマン・ショック時に金価格が暴落していることを思い出したい。

リーマンショックで急落した金価格、上昇した米国債
スタグフレーション相場では、単にコモディティ銘柄を買うだけでは駄目なのである。

スタグフレーションへの賭け方

では投資家はどうすれば良いだろうか?

まずはスタグフレーションとはそもそも何であるかを思い出したい。まず名目経済成長率とはインフレ率と実質経済成長率の和である。

名目経済成長率 = インフレ率 + 実質経済成長率
スタグフレーションとは、この内インフレ率はそれほど下がらないが、実質経済成長率が下がってしまう状態のことである。結果として名目経済成長率は必ずしも下がるわけではない。

この名目と実質ということが重要である。例えば株価はインフレを差し引きしていないので名目の数字であり、(銘柄にもよるが)インフレはプラスに働くものの実質経済成長率の減少はマイナスに働く。

この状況で株式という資産クラスが微妙なのは、インフレというプラス要因と実質経済成長率減少というマイナス要因の両方の影響を受けるからである。グロース株など銘柄によってはインフレもマイナス影響となり、そうしたものはむしろ空売り対象だろう。著名投資家も手を引き始めている。

ドラッケンミラー氏、やはりインフレ懸念でハイテク株を利益確定
ジョージ・ソロス氏、インフレトレードを継続 ハイテク株は一部利益確定


そこで、投資家は「名目の成長率からインフレを差し引いたものが下落する」ことに賭ける必要があることが分かる。

名目のものとは、例えば株式である。

一方でインフレに連動するものには金属やエネルギー資源、農作物などのコモディティ銘柄がある。

ここまで言えば多くの読者には分かるのではないか。株式を空売りして、同額のコモディティを買うのである。そうすれば「名目からインフレを差し引いた、実質的な価格減少に賭けるポジション」が出来上がる。それこそがスタグフレーショントレードである。

スタグフレーションで空売りすべきもの

しかし株式と言っても様々な種類がある。2018年の世界同時株安からの読者は実体験として覚えているだろうが、株価暴落と言ってもすべての銘柄が同時に下落を始めるわけではない。

2018年の例ではまず中国株などの新興国株が下落し、次に日本やヨーロッパなどの株式が下落し、米国株が下落した。

同じ国の株式市場でも株価指数に採用されている大型株が下落するのは最後で、日本のマザーズやアメリカならRussell 2000など小型株指数から先に下落する。詳細は当時の記事を読んでもらいたい。

遂に米国株にも減速の兆し (2018/10/8)
世界同時株安を予想できた理由と株価下落の原因 (2018/10/28)


また、ガンドラック氏は大型株より先に下落するものとしてジャンク債を挙げており、金利上昇に耐えられない銘柄としては随一のものであるので、筆者もお勧めしている。

ガンドラック氏: 株価急落のタイミングはジャンク債が教えてくれる
ジャンク債の空売りは安全なヘッジになるか
こうした階層構造をランク分けすると次のようになるだろうか。

ランク1: S&P 500など
ランク2: Russell 2000、日本株、欧州株、ジャンク債など
ランク3: 日本や欧州の小型株、新興国株など

現状、ランク1はまだ上昇基調であり、ランク2は横ばい、ランク3は下落済みという感じである。

2018年の例ではランク2はランク1が下落する相場の最後まで上がらずに横ばいを続けたケースが多かった。日本株については最後に一瞬だけ上がったのでそういう可能性もあると考えるべきだが、ランク2の中で分散して空売りしておけばリスクは大きくないだろう。

バブルの頂点で日経平均は上昇、空売りを淡々と継続 (2018/9/20)
スタグフレーションで買うべきもの

一方で同額買うべきものはコモディティである。あるいは株式の中でもコモディティを産出する銘柄についてはコモディティ扱いしても良い。小型株指数とのロングショート(買いと空売りの組み合わせ)はまさにスタグフレーショントレードである。

具体的にはどうだろうか。筆者はそろそろゴールドに手を出して良いと考えている。(しかし上記の空売りと組み合わせたスタグフレーショントレードとしてである。)


ゴールドはこれまでコモディティの中では売られてきた方である。これは利上げがゴールドにマイナスだったからだが、現状の利上げペースではインフレを止められないということがはっきりしてきた今はゴールドに風が向き始めているだろう。

また、現在のインフレのもう1つの原因は脱炭素政策である。化石燃料の供給を強制的に減らしたために化石燃料が高騰している。

サマーズ氏: エネルギー価格を高騰させる脱炭素政策は健全ではない


脱炭素に取り憑かれたフランスなどは天然ガスの高騰に現金給付で対応してまさに火に油を注いでいる。

フランス、インフレ対策で現金給付へ


彼らはどうしても化石燃料を使いたくないため、ヨーロッパでは原子力発電に予算が組まれるなど原発が再注目されている。

原油や天然ガスに直接賭けるのも悪くはないが、天然ガスや原子力などの関連株式銘柄に割安なものがまだ残っている。

そして最後に紹介するのが農作物である。今回のインフレの問題は1970年代以来の大問題だが、農作物にはまだ10年来の高値さえ越えていないものが山ほどある。

例えばとうもろこしである。


他には大豆もある。


とうもろこしと大豆はバイオエタノールの原料となるためエネルギー価格高騰と連動する。

連動しないものとしては、小麦などはまだまだ安いだろう。


また、コモディティでも中国バブル崩壊の影響が大きいものは避けるべきだろう。中国の影響の少ないコモディティと大きいコモディティでロングショートを行うことも出来る。中国については詳細は別の記事に譲りたい。

サマーズ氏: 中国恒大集団のデフォルト危機は日本のバブル崩壊と同じで極めて深刻
恒大集団倒産と中国不動産バブル崩壊で空売りすべき銘柄リスト

結論

以上、買いと空売りを組み合わせたスタグフレーショントレードを紹介した。まとめると、買うべき銘柄は以下のものである。

ゴールド
エネルギー資源や関連銘柄の安いもの
とうもろこしや大豆、小麦など農作物


空売りすべき銘柄は以下のものである。

米国小型株指数
日本株やヨーロッパ株
ジャンク債
中国関連コモディティ

このように、スタグフレーショントレードはインフレトレードよりもよほど難しく、しかもここ何十年もスタグフレーションは起こったことがないため、経験ある投資家は世界にもほとんどいないだろう。

また、物価水準に基づいたトレードの第一のものは米国債のトレードであり、筆者の第一のポジションもそれであることは、もう一度述べておきたい。以下の記事で詳しく説明している。

長期金利とテーパリングの関係、今後の推移予想
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/15210


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/18949
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1449.html#c1

[近代史6] 最美の音楽は何か? _ メンデルスゾーン 『 ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64 』 中川隆
2. 2022年1月22日 23:19:06 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[2]

2017年08月30日
古典の磁場の中で:その7 ヴァイオリン協奏曲手稿版
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1962361732?org_id=1962327733


 先日入手したメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の手稿版に基づくCDを聴いたことに関して、いささか脇道になりますが記しておきます。
 1844年版とも表記されるこの版は1988年に発見され、翌年に復活蘇演されたものですが、僕は当初さほど興味を持ちませんでした。というのはこの曲の初演と出版は翌1845年のことであり、現行版とたいして違わないのではという先入観があったからです。そもそも当時の名ヴァイオリニストだったダヴィッドの意見を取り入れて完成されたというこの超有名曲は、どうも僕にはあんまりメンデルスゾーンらしからぬというか、一般的なロマン派ヴァイオリン協奏曲といった定型に収まりすぎているように感じられ、特に2番のピアノ協奏曲のような独自性が年代の割には薄く思えて仕方がない印象で、あまり追いかけてみようという気にはなれなかったというのが正直なところでした。
 それをとりあえず確かめておこうと思ったのは「スコットランド」のシャイー新盤や有田盤で用いられた1842年版が、変更箇所自体はさほど多くはないものの意外に大きな印象の差を感じさせるものだったからでしたが、購入した2種の国内盤の解説を併せ読むと手稿版はダヴィッドの意見を取り入れる前の状態だということでしたので、どういう点に違いが出ているのか俄然興味をもって聴いたのでした。
 結論からいえば構成そのものはほとんど違いがありません。部分的に旋律線が異なっていたり第1楽章のカデンツァが別物だったりする程度です。むしろ大きな印象の違いと感じたのはソロの音程が現行版に比べオクターブ下がっているところが方々にあって、そういう箇所ではヴァイオリンがバックのオーケストラに溶け込んでいることのほうでした。換言すればダヴィッドの助言はソロの埋もれている箇所をより目立たせることを目指すものだったということになります。
 たしかに華やかさは現行版のほうが断然上でより当時の流行というか趣味に近いのはこちらだと思いますが、その分ヴァイオリンが出ずっぱりの感も否めずピアノ協奏曲などに比べると単調に感じてしまう原因にもなっているように思えます。もし手稿版のままだったらその分地味になっていたでしょうし時代の流行には合っていなかったかもしれません。けれど前景と背景の間を行き来する様にはピアノ協奏曲に共通する美意識が明瞭に出ていて、水草の間を縫いながら泳ぐ魚にも似た不思議な自在さが感じられます。それはこれまで現行版ではなかなか感じられなかったものであるのと同時に、ワインガルトナーによる「スコットランド」の古い録音だけが感じさせる風のような流麗さの感覚と共通するものでもあるのを感じ、そうだったのかと腑に落ちたというのが偽りのない気持ちでした。

 メンデルスゾーンの目指したロマンは当時のスタイルとは別物だったのではないかというのは主にピアノ協奏曲を聴いて感じていたことでしたが、ようやく聴いた手稿版によるヴァイオリン協奏曲もその傍証になるような気がしています。今後はこのことも念頭におきつつ進めていければと考えています。

 なお2枚のCDの録音についてですが、優秀なのは断然桐山の独奏と諸岡/オーケストラ・シンポシオンによるALM盤です。ホープの独奏とヘンゲルブロック/ヨーロッパ室内OによるDG盤は例によってこのレーベル固有の石灰質の音色でALM盤とは大差がついています。いずれも手稿版の特色を理解しているとおぼしきバックに比べ独奏が強すぎないように配慮されているのがわかる収録だけに、DGのおそらく製盤過程に基づく音色の癖がいっそう残念でなりません。

https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1962361732?org_id=1962327733
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/179.html#c2

[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
15. 2022年1月22日 23:20:39 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[3]
古典の磁場の中で:その8 SP〜モノラルLP期の録音
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1962453221


 それでは個々の「スコットランド」録音について触れていこうと思いますが、先日ほぼ15年ぶりに棚の奥から出てきたミトロプーロス/ミネアポリスSO盤のことを書くにあたりSP時代の録音と演奏家の関係という観点からもう少しワインガルトナーについても補足する必要を感じますので、今回はSPからモノラルLP時代の3つの演奏について書かせていただくことにいたします。

ワインガルトナー/旧ロイヤルPO(1929年)SP
12:20/04:13/08:16/08:51
計33:40 序奏2:40(21.6%)
(36.6%・12.5%・24.6%・26.3%)

 今回ミトロプーロス盤と聴き比べて痛感したのは、録音の古いワインガルトナー盤のほうがはるかに演奏を巧みにすくい取っているということでした。録音年代が10年以上も後のミトロプーロス盤はなにしろSP時代だけに録音技術の急激な進歩の恩恵を受けられる立場だったにもかかわらず、そのことに足元を掬われたとしかいいようのない結果に終わっているのです。ワインガルトナーの時代よりかなり改善された音の強弱のより忠実な収録。けれど演奏陣がその限度をわきまえなかった結果、新しいはずのミトロプーロス盤は強音は入力オーバーで音割れと混濁の混沌と化し、弱音は感度の低いマイクに入りきれず掠れてしまっているのです。一方で条件がずっと悪いはずのワインガルトナー盤にはそういう響きの破綻がみられない。この差はどこから生じたのかと考えると、まず演奏サイドの原因としては芸風の差と録音の経験、そして技術サイドでは感度の低いマイクをどう使ったかではないかと思うのです。
 ミトロプーロス盤を注意深く聴いてみると、弱音部分で音量が下がってゆくとき最初に掠れ始めるのは弦楽器です。つまりこの収録では管楽器や打楽器のほうがマイク寄りに配されているか、それらの楽器に補助マイクが使われているのです。対するワインガルトナー盤は明らかに弦楽器群が手前、管楽器や打楽器がその中もしくは後ろです。だから弦の中に点在する管楽器は音量こそ小さくてもそれがリアルに感じられますし、明らかに音量が低いティンパニはだからこそ音割れや歪みを招いたりせずそれでいて掠れることもないのです。エンジニアが機械の性能と限界を熟知していればこその成功であるのは明らかです。
 そしてワインガルトナーの演奏スタイルもまた、ダイナミックレンジが狭い収録条件下でも美質が損なわれにくいものでした。テンポの頻繁かつ細やかな変化や旋律美を活かす歌い回しなどは限られた強弱の幅にもかかわらずというよりむしろ、それゆえに聴き手の脳裏にその曲線美を鮮やかに焼き付けさえしているのですから。もちろん実際の演奏を聴けたなら録音では減衰しているティンパニなどもより立体的な響きを作っていたのでしょうし、歌い回しの抑揚と一体化した強弱がさらに豊かな表現を形作っていたのでしょうが、それでもこの演奏の美質とも核心ともいえるもののエッセンスは限られた器に極力不足のないよう収められている。おそらく演奏側も普段より強弱を控えめに演奏していた可能性も決して低くないと思うのです。なにしろラッパ吹き込みの時代から多くの録音をものしたワインガルトナーですから、その経験が録音の限界を念頭に置いた配慮という形で表れても不思議ではなく、むしろそういう配慮あればこそ彼は多くの実績と名声をSP時代に築き得たという方がよほど事実に近かったはずだと思うのです。


ミトロプーロス/ミネアポリスSO(1941年)SP
11:15/03:45/09:33/07:19
計31:52 序奏3:07(27.7%)
(35.3%・11.8%・30.0%・22.9%)

 15年ほど前に購入したミトロプーロスのミネアポリス時代の音源を集めたBOXセットに入っていたものですが、音の悪さに一回聴いただけで存在すら忘れていたもの。12年前のワインガルトナー盤のほうがはるかに聞きやすいというのではミトロプーロスにとっても気の毒なことです。とはいえ指揮者の側にも責任はあって、強弱の幅がSP盤の収録可能な限界を越えてしまっているせいで弱音になるとマイクが音を拾いきれずに掠れていますし、逆に強音では入力オーバーで盛大に歪んでしまいます。特にティンパニが入るたびに全体が混沌としてしまうのはいかんともし難いものがあり、演奏陣が録音技術の限界などおかまいなしにダイナミズム重視の演奏をした結果としかいいようのない盤でもあります。管楽器や打楽器を明瞭に録りたかった録音側の意図が各楽器のマイクとの距離からうかがえますが、全てが裏目に出たと評する以外ありません。
 第1楽章の序奏と第3楽章を遅く粘り気味に演奏する他は速いテンポで直線的に押してくる演奏なのでトータルタイムはリスト中の最短記録。コントラスト重視の演奏で狙いはわかるものの、メンデルスゾーンがこういうつもりで書いたのかと考えると曲と演奏がすれ違っているような気がしてならないのも正直なところで、マーラーやモダンミュージックでは雄弁さに直結する方法論との乖離がこの曲の立脚点を傍証している演奏と評することは、強いていえば可能なのかもしれません。


スタインバーグ/ピッツバーグSO(1952年)モノラル
12:07/04:12/08:43/08:46
計33:48 序奏2:58(24.5%)
(35.9%・12.4%・25.8%・25.9%)

 数年前に出たスタインバーグの米キャピトル音源を纏めたBOXセットに入っていたもので、LP時代に入っているため収録に無理がなく、音楽を安心して味わえます。
 この演奏はこのリストにおいて、後の時代に一般的になる演奏スタイルの最も早い例といえるものです。ワインガルトナーや、ましてミトロプーロスのような部分的あるいは楽章ごとのテンポ変化を極力控えて全曲の統一感を重視しつつ、そこに淡いロマンを香らせようとする流儀なのですが、ここではステレオ時代以降この人から耳にするのが難しくなったしなやかさや潤いが大いに魅力を添えています。毛筆をすっと真下に走らせた一筆の僅かな膨らみが見せるにも似たしなやかさ。後の時代の誰もがこの域に届き得たわけではないこの達成は、当時このコンビが一つの絶頂期にいた証を今の世に伝えているのではないでしょうか。むろん終楽章コーダの繰り返しをオクターブ上げて華やかに結ぶなど、今では考えられない処理も散見されるのは事実ですが。


コメント

mixiユーザー2017年09月07日 17:10
録音環境まで、再生された音楽から看取されるとは、MFさんの分析力の
素晴らしさにはいつものことながら舌をまきますあせあせ

mixiユーザー2017年09月07日 17:54
リンデ様こんばんは。まあローエンドに特化してはいるものの、一応オーディオ好きの端くれですから(苦笑)

https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1962453221
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/894.html#c15

[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
16. 2022年1月22日 23:21:39 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[4]
古典の磁場の中で:その9 ステレオ初期の録音
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1962501256?org_id=1962453221


 今回はサヴァリッシュによる史上初の全集盤が登場するまでのステレオ諸盤についてです。バーンスタイン以外はどれもLPで聴いていた懐かしい盤でもあります。また今回の顔ぶれは全員がこの曲を複数回レコーディングしている点が共通しています。なおここからは音質についても参考程度にコメントしていますが、必ずしも現在店頭に出ているプレスで聴いたわけではないので、その旨ご了承いただけましたら幸いです。


マーク/ロンドン響(1958年)
13:12/04:10/11:03/09:35
計38:00 序奏3:41(27.9%)
(34.7%・11.0%・29.1%・25.2%)

 生涯に「スコットランド」を3回レコーディングした唯一の指揮者ペーター・マークによる最初にして最も有名な録音で、僕がこの曲を初めて聴いたのもこの盤でのことでした。僕が生まれる前年の収録なので、このリストではここまでが僕にとって過去の時代に属する録音ということにもなります。
 最大の特徴はとにかく細かいこと。微に入り細を穿つ目が曲のいかなる変化も見逃さず、遅いテンポのもとじっくり音化されてゆきます。曲想に対する追随の細かさではワインガルトナーさえ凌ぐでしょう。ただしその細かさが聴き手の注意をも細部に向けすぎるようなところもあって、曲全体の見通しの良さに必ずしも結びついてこないのが難点です。基本テンポが遅めで緩急を感じにくいのも確かですが、ワインガルトナーのように細部の表現が全体の動きに波及する場面が意外に少なく、細部の羅列めいて感じられてしまうのが最大の要因だと思うのです。付き合いの長い盤ですがこの曲を僕に難しく感じさせたのもそういう特色ゆえのことだったのだと今となっては思うばかりで、その点ではやはり後の2つの演奏のほうが改善されていると感じます。比較のため2回目と3回目の演奏時間を記しておきますが、第3楽章が回を追うごとに速められている一方で、残る3つは一貫してより遅くなっているのが印象的です。なおベルン盤のみ第1楽章に反復がありますので、ここには反復分を除いた数値を記しています。
(13:56/04:18/10:39/10:40)
(14:07/04:32/10:17/10:45)
 なお音質はさすが英デッカ原盤だけに彩り豊か。モニター調のシビアなスピーカーでも楽しめる優秀録音です。


クレンペラー/フィルハーモニアO(1960年)
15:22/05:14/09:35/11:47
計41:58 序奏4:00(26.0%)
(36.6%・12.5%・22.8%・28.1%)

 SPからモノラル期の諸盤に比べ明らかに遅くなったマーク盤が、それでもテンポの遅さを喧伝されなかった直接の原因となった演奏に違いなく、提示部の反復なしでほぼ42分という演奏は僕が生きているうちは二度と出てこないだろうと思います。ただ各楽章の比率を見るとマークやバーンスタインのように緩徐楽章で遅くするよりもそれ以外の楽章をいっそう遅くして楽章ごとのテンポの差をむしろ均すコンセプトなのが窺え、かつて「田園」においてもベートーヴェンのコントラスト設計にあえて背を向け殷々とした大きな流れの音楽として表現していたことを思いだします。
 そしてスタインバーグと同様、彼もまた60年代初頭のこの時期には後年に影を潜める柔らかさを保ち得ていて音楽が不思議な静けさと懐の深さを湛えていますし、あまりにも自己流の解釈を押し通すことから生じる揺るぎなさが大きく刻印されているのも事実です。この曲を考える基準にしていい解釈とは思えないので決定盤扱いには同意できませんが、異なる個性の出会いが生んだ異色の名演と認めるにはやぶさかではありません(なお旧録音にあたるウィーンSOとのVOX盤は未聴ですがタワーレコードの商品ページに演奏時間が出ていたので参考に記しておきます。現物に接していないので第1楽章の提示部を反復しているかどうか不明ですが、してないのならステレオ盤よりさらに遅いタイムは驚くべきものだと思いますし、もし反復があるのならこの時点で彼の楽章ごとのペース配分は確立していて、それが保たれたまま全体が遅くなっていったのかもしれません。旧録音盤をお持ちの方がおられましたら、ご教示いただけましたら幸いです)
(15:55/04:22/08:07/09:54)
 音質はきめの細かさと自然な距離感が好ましいものの音色はやや明るめなので、ウッディなスピーカーで聴くほうがいいと思います。


バーンスタイン/ニューヨークPO(1964年)
13:08/04:19/11:36/09:13
計38:16 序奏3:52(29.4%)
(34.3%・11.3%・30.3%・24.1%)

 バーンスタインがニューヨーク時代に行った録音活動は多分に教育的かつ啓蒙的で、十年余りの在任期間中に収録された膨大な音源は古典派から現代音楽までを展望できる百科全書的なレパートリーを押さえているのみならず、演奏自体も再録音に比べ端正かつ構成的な性格が前面に出ています。おそらく彼はニューヨークでは活動の軸足を啓蒙に置き、それが完成した離任後は表現の追求を目標としたのではないかと今振り返ると思えるのです。
 この「スコットランド」もペース配分の点ではマークに似てはいるものの、細部よりは全体に聴き手の注意を向けさせる内容になっているのがいかにもこの時期のバーンスタインならではで、実際のテンポ以上に停滞感を感じるマークと逆に意識が曲全体の緩急に向くため流れの良さがより印象に残ります。マークよりも第3楽章を遅め、第4楽章を速めに演奏しているところにそんなコンセプトが端的に窺えます。彼はこの時期「宗教改革」と「イタリア」も収録していますがやはり曲の性格を大掴みに捉えた演奏で、指揮者自身の資質ゆえ濃密なロマンへの傾斜を感じさせる瞬間もあるものの啓蒙的たらんとする意識がそこに一定の歯止めをかけているような、そんな演奏と感じます。彼が70年代末にイスラエルPOと再録音したこの3曲は未聴ながら演奏時間にはまだ極端な差はないようで、それが時期的なものに由来するのかバーンスタインなりのメンデルスゾーン解釈に原因を求めるべきかは不明ですが、機会があれば聴いてみたいところです。同じくタワーの商品ページからその演奏時間を記しておきます。
(13:55/04:09/11:15/10:06)
 米コロムビア特有の中高域が張り出す音質なので、その張り出しをキャンセルできる装置で聴きたい盤です。


アバド/ロンドンSO(1967年)
12:42/04:15/10:12/09:24
計36:33 序奏3:29(27.4%)
(34.8%・11.6%・27.9%・25.7%)

 スタイルとしてはスタインバーグの延長上にあるものであり、その美質を最も多く受け継いだ自然体の名演です。マークはもちろんバーンスタインのように自らに何かを課した気配もここには皆無で、ただ自らの純良な音楽性を信じるまま歌い上げたらこうなったとでもいいたげな、まっすぐでしなやかな歌がどこまでもなめらかに流れてゆきます。スタインバーグよりは緩急も大きめですが、それもワインガルトナーと同じく受け身ゆえの自然さの範囲内のことで、風のワインガルトナーに対し水のアバドという趣があります。
 後の全集録音が曲を自らの中でいかに位置づけるべきかという意識を強く感じさせるものになっているのに対し、ここでの彼のふるまいはまさにイノセントと呼ぶのがぴったりで、その後の彼の歩みの一端に接し得た身からすれば、音楽家としてのアバドが最も無垢でありえたひとときの姿の形見とさえ映ります。ワインガルトナー同様アバドもまた資質の近さゆえメンデルスゾーンの遺した曲と幸せな形で触れあうことのできた音楽家だった。そう思わずにいられないほど無心に感じられる演奏です。
 このような無心さは全集録音ではすでに影を潜めていますが、その時でさえアバドの演奏にはメンデルスゾーンと共通する美意識が特別なものを語りかけている。彼の問いかけに応えている。アバドの全集録音にそう感じたことこそが僕が手持ちの「スコットランド」を全部きちんと聴き直してみたくなった端緒でした。その後ベルリン時代にライブ収録された「イタリア」と「真夏の夜の夢」の結晶化された名演を思えば、そんな問いかけの後の境地を示したであろう3つめの「スコットランド」の録音がなされなかったのは無念というほかありません。下記は全集盤のタイムですが、例によって提示部の反復がなされている分を差し引いています。
(13:46/04:02/11:27/09:55)
 音質もマーク盤と同じ英デッカ原盤だけに彩りが豊かで、その点ではDGによる全集盤よりずっと上です。

https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1962501256?org_id=1962453221
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/894.html#c16

[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
17. 2022年1月22日 23:22:46 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[5]
古典の磁場の中で:その10 クレツキの見た先には
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 今回は1954年収録のクレツキ盤をLPから復刻したCD−Rが入手できたので、前後するスタインバーグ盤やマーク盤とも比較しつつコメントさせていただきます。


スタインバーグ/ピッツバーグSO(1952年)モノラル
12:07/04:12/08:43/08:46
計33:48 序奏2:58(24.5%)
(35.9%・12.4%・25.8%・25.9%)

クレツキ/イスラエルPO(1954年)モノラル
13:17/04:18/10:13/10:15
計38:03 序奏3:17(24.7%)
(34.9%・11.3%・26.9%・26.9%)

マーク/ロンドン響(1958年)
13:12/04:10/11:03/09:35
計38:00 序奏3:41(27.9%)
(34.7%・11.0%・29.1%・25.2%)

 こうして並べるとクレツキはスタインバーグとマークの双方と共通点を持つことがわかります。まず第一印象として感じるのがテンポの遅さ。マークとほぼ同じ38分というタイムはスタインバーグに比べ4分余り遅くなっています。たかが4分という方もおられるでしょうが、実際に聴くとこの34分弱と38分という差は思いのほか大きく、クレツキとマークからはスタインバーグのような一筆書きめいた印象を受けることはありません。むろん聴く側の個人差もあるでしょうが、少なくとも僕には第1楽章の提示部の反復なしでのトータルタイム35分というのが分水嶺になるようで、ワインガルトナーやスタインバーグの風をイメージさせる演奏はここでいったん失われるのです。アバドの旧録音が水のイメージになるのも基本テンポが遅くなるからですが、そのアバド盤と同じ時期に収録されたサヴァリッシュが僅かながらも基本テンポが速いため、先人たちの美質を受け継ぐ形になっているのは見逃せません。ワインガルトナー、スタインバーグ、そしてサヴァリッシュたちの演奏で細部のほんの僅かなテンポ変動が大きな印象の変化として感じられるのもひとえに基本テンポが遅すぎないからで、クレツキやマークだとより大幅にテンポを変えないと基本テンポの遅さの印象を覆せないのです。マークが細部の表情にこだわるわりに効果的に感じられない最も大きな要因はまちがいなく基本テンポの設定にあると思います。もう少しでも速ければそれら細部のテンポの揺れが遅すぎる基本テンポに吸収されず、全体の印象を左右しえたはずだと思うのです。
 ではクレツキとマークの違いはといえば第3楽章と第4楽章のバランスです。マークは先行するミトロプーロスや後のバーンスタインやアバドやカラヤンのように第3楽章に多く時間を割いていますが、クレツキはスタインバーグや後のドホナーニ、マズアの新録音のようにほぼ同じ時間で演奏しているのです(ちなみにワインガルトナーのようにフィナーレの方がタイムが長くなっているのがクレンペラーやマズアの旧録音で、サヴァリッシュも僅かながらもフィナーレにより時間が割かれています。またマークは2回目の録音では両楽章のタイムが同じ、3回目ではフィナーレの方が長くなっています)また第1楽章の序奏を主部に比べ速めのテンポにしているのもワインガルトナーやスタインバーグと同様で、マークの初録音はその点でもバーンスタインやアバド、カラヤンと同じです。ただ基本テンポが比較的速めのアバドはともかく、マークのテンポになるとバーンスタインやカラヤンより振れ幅を抑えているのが仇になって、それらのテンポ設計が生むはずのコントラストが控えめになってしまい、全体としてなにを目指しているのかが見えづらい演奏に感じられてしまうのが残念です。後の録音で第3楽章のテンポが一貫して速められていくのも、あるいはそんなテンポ設計が機能しなかったと本人も感じていた表れかもしれません。

 奇しくも当時、クレツキとマークはメンデルスゾーンの交響曲をこの「スコットランド」しか録音していなかった一方で「真夏の夜の夢」の歌唱入り8曲の抜粋版を収録していますが、演奏のコンセプトは対照的です。マークは「スコットランド」と同様にやや遅めのテンポで丁寧に表情をつけていて、彼のテンポ設定がどちらの曲も同じ感覚というか生理的なものに基づいてなされているのではと感じさせる面があるのですが、クレツキはがらりと異なる速いテンポで演奏していて最小限に抑えられたテンポ変動が最大の効果に繋がっています。明らかに彼はこの2つの作品で対応を変えているのですが、この「真夏の夜の夢」は僕にとってワインガルトナーの「スコットランド」と同様これ以上を容易に求めがたい突出した存在で今もあり続けているのです。
 クレツキのこの2つの盤を、僕はCD登場の直前に中古の初期LPでほぼ同時に買ったのでしたが、その違いはクレツキという指揮者が単に作曲家ごとのスタイルの違いに留まらず作曲された時期や曲ごとの性格に応じてコンセプトを大きく変える人であることを強く印象づけたのでした。彼は明らかに2つの曲を異なるものとみなし、それを演奏に反映させようとしている。では彼はこの2曲にどのような違いを見たのだろうか。そしてその違いが片方では類まれな成功に結びついたにもかかわらず、もう一方がそこまで成功しなかったのはなぜなのか。そう感じた遠い日に、僕は当時、若くして完成された天才型の作曲家と評されることがほとんどだったメンデルスゾーンにも、早世ゆえに完成には至れなかった発展段階があったのではないのかと肌で感じさせられたのでした。クレツキが見ていたのはそういうもので、でもそれが成功に繋がらなかったのはそれがいかなるものになるはずだったのかを彼が読み違えたからではないだろうか。そう思ったことでメンデルスゾーンの死はロマン派の発展史における一つの可能性の喪失だったのではとの考えが生じ、それがその後この作曲家に対する尽きぬ興味の源泉となったのです。

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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
18. 2022年1月22日 23:23:39 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[6]
古典の磁場の中で:その11 全集録音の開始
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 いよいよサヴァリッシュによる史上初の全集録音とそれに続くカラヤン、マズア、ドホナーニによる最初の10年に出た録音についてです。

サヴァリッシュ/ニュー・フィルハーモニアO(1967年)
15:22/04:18/09:28/09:43
計38:51(反復あり)
(39.5%・11.1%・24.4%・25.0%)
12:21/04:18/09:28/09:43
計35:50(反復除外)序奏3:02(24.6%)
(34.5%・12.0%・26.4%・27.1%)

 史上初のメンデルスゾーン交響曲全集となったサヴァリッシュ盤ですが、この全集の前にはウィーン響と「イタリア」を、全集の後にはベルリンフィルと「2番」をそれぞれ録音しています。このことに象徴されるように、古典的な初期作品とそこから踏み出した後期作品のどちらにもそれぞれふさわしいスタイルで演奏できる指揮者であり、その美質が全集録音の5曲にも見事に発揮されています。その魅力の源泉は最初期の「1番」ですでに開花をみているもので、端正な造形とそれを外から締め付けすぎずにしなやかな歌を息づかせるゆとりと潤いの両立です。70年代にチェコフィルと収録したモーツァルトの後期交響曲ではより凝縮された音楽作りをしていたことを思えば、これが彼の感じる初期ロマン派の味なのでしょう。彼の掬い上げたロマンの特質が的を射たものだからこそ、5曲の交響曲がこれほど瑞々しく息づいているのだと感じ入ります。「2番」など下手をするとマーラー風にさえ演奏できてしまう曲ですが、サヴァリッシュで聴くと初期交響曲の美質をベースにそれを拡張した結果、こんな姿になったのだと深く得心させられます。
 それは「スコットランド」においても同様で、この曲が痕跡のように残した古典的な構成と、そこからより自由になろうとでもしているかのような細部の自立的な表情とのバランスがまさしく模範的! 結果としてスタインバーグやアバドの旧録音に比べて細部の表情がより前面に出ていますが、マークの旧盤のようにそれが過ぎて全体の展望が薄れることがありません。それあればこそ提示部の反復も彩りを添えることに寄与こそすれ、退屈に誘うことがないのです。この全集以降に主流となってゆく古典的な形式を重視した解釈ながら、それに縛られすぎない表現性を併せ持つ点では今もこれに並ぶものはなく、それが自然体でなされているのがなにより素晴らしい。テンポも特に第3楽章で遅すぎず、風通しのよさを保っています。音質も階調豊かな優れたもので、このレーベルで耳にすることの多いコンセルトヘボウの盤に比べ明るく感じる音色は録音のせいというより、オケの響きの違いが再現された結果と思わせるだけのリアリティを備えています。


カラヤン/ベルリンPO(1971年)
13:57/04:25/11:48/09:24
計39:34 序奏3:49(27.4%)
(35.2%・11.2%・29.8%・23.8%)

 70年代のカラヤンらしい演奏の芸風が濃厚に発揮されたもので、それがメンデルスゾーンの淡彩な音楽を塗りつぶしていると感じさせてしまう全集です。演奏全体を覆う緊張感は確かに非凡なものですが、それが作品の生理に則ったものというより演奏の論理が優先しているように見えてしまうのが難点です。なにより気になるのが弱音部で、弱音それ自体がなにかを語りかけるというより常にきたる強音部を予感させるものになっています。次のクライマックスのための伏線という位置づけがあまりにも露骨に出過ぎていると感じさせてしまうのです。これほどさりげなさと無縁の演奏は他にないとさえ思えるほど仰々しく感じます。
 結果的にテンポのコントラストが大きくとられているにもかかわらず、意外にのっぺりした音楽に聞こえてしまうのは誤算だったのではないでしょうか。カラヤンはクレツキ同様、後期ロマン派へと向かう途上のどこかにメンデルスゾーンを位置づけようとしているのでしょうが、結果としての演奏は構成を撓めることが雄弁さをもたらすそれらの音楽とは別の特質をメンデルスゾーンの音楽が備えていることを暴き出しているとさえ感じさせます。バーンスタインもほぼ同じテンポ設計を採っていますが、ニューヨーク時代の啓蒙性ゆえか全体としても細部についてもより平明というかあるがままに演奏していて、カラヤンほど演出の論理を貫徹させていない分だけ乖離が目立たないようです。録音もDG独特の音色面での違和感が出やすいものなので、同じレーベルのアバドやネゼ=セガンの全集録音と同じくスピーカー側で音色を補正したいところです。


マズア/ゲヴァントハウスO(1972年)
13:23/04:25/08:08/10:16
計36:12 序奏2:46(20.7%)
(37.0%・12.2%・22.5%・28.3%)

 マークは「スコットランド」を三度レコーディングした指揮者ですが、全集を二度録音したのは今のところこのマズアだけで、旧盤と新盤でコンセプトが変化しているところも興味深いものです。しかも変化を見せつつも、70年代のこの時期に顕著な傾向となっていたマーラー風ロマンへの接近とは新旧両盤とも一線を画しているのがマズアの特徴です。第3楽章の8分という短さはこの時期としては異例。フィナーレを遅めにしていることとあいまって両楽章のコントラストを重視する60年代以降の傾向とは真逆のものになっています。楽章のペース配分を見ればクレンペラーそっくりになっていますが基本テンポが違うのでよく流れる音楽になっており、印象はほとんど重なりません。今回の4組の全集中ではオケの精度がやや低く洗練された美観は薄いものの、テンポの速さが風通しのよさをもたらしていることに助けられ、木彫りの民芸品にも似た素朴な感触として受け入れられる演奏になっています。外付けの味付けがほどこされていないのは新盤と同じで、カラヤン盤やドホナーニ盤と並べて聴くとそれも好感につながっています。録音はざらついた感触もあり中高域に強調感が乗りやすいので、これもウッディな音色のスピーカーで聴いたほうが演奏の実態を掴みやすくなると思います。


ドホナーニ/ウィーンPO(1976年)
13:24/04:30/09:23/09:24)
計36:41 序奏3:34(26.6%)
(36.5%・12.3%・25.6%・25.6%)

 古典的な骨格をベースにロマンチックなテイストが淡く添えられた演奏で、狙いは実に妥当です。ペース配分もサヴァリッシュに似ていて、第3楽章をうんと粘らせて……という路線ではないので造形面でのあざとさは感じさせません。名門オケだけに水準も高くこのオケならではの自発性の発露も感じられ、生き生きとした演奏が繰り広げられています。録音も彩り豊かな優れたもので、今回の4組の全集ではサヴァリッシュと並び優秀です。
 にもかかわらず、僕にはどうにももどかしさを覚えてしまう盤なのです。
 サヴァリッシュ盤と聴き比べるとオケの豊かな自発性の反面、細部の表情がプレイヤーの演奏の愉悦に少々傾きすぎているように思え、全体の展開との関連性が緩むように感じる瞬間がどうも耳につくのです。これはこのオケを聴くと多かれ少なかれ感じてしまうことなのですが、素材の味よりソースの味で食べる料理のような感じで、なにを聴いているのかに意識が向きにくい演奏に聞こえてしかたがありません。そういうことにこだわらない人にとっては申し分ない演奏でしょうし、そんな演奏ができるということ自体すごいというのもわかるのですが。けれど誰が聞いても常識的にロマンチックと感じられそうなウィーンフィルの音楽、それが一種の渇望をかきたててやまないのです。この曲は本当にこういう音楽なのだろうか、もう少し荒涼とした翳りも併せ持つもののはずではと……。
 ドホナーニはこの録音から12年後に当時の手兵クリーブランド管と「スコットランド」「最初のワルプルギスの夜」の2曲を米テラークへ再録音していますが、指揮者とオケの目指すものが一致した透徹した演奏は一枚岩の強さを感じさせずにはおかず、それが2曲に通底するある種の厳しさを浮き彫りにしています。このコンビによる全集録音がなされなかったのは返す返すも残念です。

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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
19. 2022年1月22日 23:24:36 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[7]
古典の磁場の中で:その12 2人のイタリア人
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 今回はアバドとシャイーの演奏について述べてゆきたいと思います。この2人のイタリア人指揮者は最初にメンデルスゾーンの5曲の中から2曲を組み合わせたアルバムを世に問うた後、再びメンデルスゾーンの交響曲に取り組んだ点が共通しています。
 けれどアバドが演奏様式の変革期に再録音したのに対し、シャイーはそれを通過した時期に再録音することができました。その違いは彼ら自身の資質とも相まって、それらの意味合いを大きく異なるものにしたのです。

アバド/ロンドンSO(1967年)
12:42/04:15/10:12/09:24
計36:33 序奏3:29(27.4%)
(34.8%・11.6%・27.9%・25.7%)

アバド/ロンドンSO(1984年)
16:54/04:02/11:27/09:55
計42:18(反復あり)
(40.0%・9.5%・27.1%・23.4%)
13:46/04:02/11:27/09:55
計39:10(反復除外)序奏3:46(27.4%)
(35.2%・10.3%・29.2%・25.3%)

 自らの音楽性が命じるままといわんばかりだった旧録音に比べテンポが遅くなり緩急の差もより大きく調整されているのが数値的には見て取れますが、耳にして感じる落差は数値から受ける印象をはるかに上回ります。どこまでも自然体だった旧盤に対し、新盤には非常に意識的に、神経質なほど細部の変化の意味合いを掘り起こそうとしている姿が耳に付くのです。遅いテンポも彼の場合、ロマン的な粘りを増すというよりもこの細部の探求がそのテンポを必要としたもののように感じられます。しかもアバドがこんな演奏を聴かせたことは決して多くありませんでした。
 このメンデルスゾーンに最も近いのは、70年代にシカゴ響やウィーンフィルなど複数のオケと収録した一連のマーラーです。それらは普段のバランス重視のスタイルに比べやや末端肥大的というか、明らかに細部の表現を優位に置いた演奏でした。それに対し、80年代に収録されたシカゴ響とのチャイコフスキー全集やウィーンフィルとの最初のベートーヴェン全集にはそんな細部の優位は感じられません。あるいはここで、アバドはメンデルスゾーンをマーラーとの繋がりの中で捉え直そうとしていたのかもしれないとも感じます。
 結果的に「スコットランド」の新録音は音楽の流れが停滞気味でワインガルトナーのような自在さからは遠い演奏になっていますが、それがカラヤンのような仰々しさに繋がらないのはやはりアバドがそれだけメンデルスゾーンに近い美意識の持ち主だったからではないかと感じるのです。いささか自意識過剰のきらいがあるとはいえ掘り起こされた表情は多くの演奏が見落としがちな脈絡を絵解きするもののごとき趣さえあり、メンデルスゾーンの交響曲に対する示唆に富む演奏のひとつたりえているとなお感じさせる力を持っているのですから。
 このような細部の優位は80年代末に収録されたブラームスにおいてより抑制された形で用いられましたが、そのことがブラームス特有の推進力の減衰を見事に描き出し、アバドの交響曲分野の録音の中で最も優れたものの一つとなりました。あるいはこのメンデルスゾーンも、もう少し抑制された形で演奏されていればより成功したのではと思うと同時に、あるいは全体からの細部の独立のプロセスをメンデルスゾーンからブラームス、そしてマーラーというラインにみることもできるのかもと考えたりもするのです。


シャイー/ロンドンSO(1979年)
14:31/04:25/11:55/10:07
計40:58 序奏4:03(27.9%)
(35.4%・10.8%・29.1%・24.7%)

シャイー/ゲヴァントハウスO(2009年)
14:35/04:11/08:34/09:02
計36:22(反復あり)
(40.1%・11.5%・23.6%・24.8%)
11:53/04:11/08:34/09:02
計33:40(反復除外)序奏2:54(24.4%)
(35.3%・12.4%・25.5%・26.8%)

 シャイーの「スコットランド」旧盤はロンドンPOとの2番と2枚組LPで発売されたもので、オペラ以外の曲目では最初期の録音にあたるものです。そしてシャイーの場合に特徴的なのは、より古典的な中期までの3曲を録音しない一方で、後期の2曲をあえて再録音していること、しかも新録音が旧録音とは正反対といえるほど解釈を確信犯的に変えていることです。
 この2曲のメンデルスゾーンはフィリップスレーベルへの収録ですが、直後にシャイーはデッカと契約しウィーンPOと組んでチャイコフスキーの5番を発売しました。その後オーケストラを変えながらもブルックナー、マーラー、ブラームスなどロマン派後期の交響曲の録音に力を入れる一方で、初期ロマン派以前の曲目は全く録音しなかったのです。交響曲以外の曲目でも新ウィーン楽派やツェムリンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ヴァレーズなど近現代のレパートリーが優勢でした。ACOとのブラームス全集では余白にシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンの作品が配され、それらの作曲家とブラームスの関係性に焦点を当てるコンセプトが採られていましたが、そういう姿勢が後期のメンデルスゾーンへの関心として表れていたということは確かにありそうなことと思えます。
 演奏はバーンスタインに似たペース配分ながらもう一回り遅くしたようなもので、カラヤンほど妙な緊張感を伴わず素直に演奏しているところも共通しています。クレンペラーに迫る遅さにもかかわらずあれほど異形な感じがしないのは、当時の流儀からのはみ出しがないからでもあるのでしょう。とはいえテンポの遅さゆえに曲想の変化への追随はやはり弱く、トリスタンでも聴いているかのような息の長い旋律線に絡め取られる心地になる演奏です。70年代から80年代にかけてのクラシック界の表通りにはこういう演奏が実に多く、それはシャイーのような若手にも無縁たりえない時代の潮流というべきものだったことを今にして思うと同時に、この時期に古楽の運動が顕在化したのはやはり一種の揺り戻しというか、行き過ぎへの反動としての意味合いも強かったのだと痛感するばかりです。

 シャイー自身による30年後の再録音はあらゆる点で対照的な存在です。ゲヴァントハウスに着任してからのシャイーのレパートリーの中で再録音されたのはまたもメンデルスゾーンの2曲とブラームスの4曲なのですが、それ以外の曲目は母国イタリアのヴェルディやプッチーニ等を除くと近現代曲が影を潜め、以前は取り上げられなかったバッハとベートーヴェンの大きなプロジェクトが推進されました。2曲のメンデルスゾーンは2大プロジェクトの開始以前に、4曲のブラームスはその完了後に収録されているのです。かつて後期ロマン派が終焉を迎えた地平から音楽に向き合うことを始めたこの指揮者は、赴任コンサートでメンデルスゾーンの2番を取り上げることでこれまでと対照的な地平から音楽に向き合うことを宣言していたのかもしれません。テンポが大幅に速められたことで表情の流転が冴えるようになり、力感や重厚さ頼りではない俊敏な表現を獲得している点が大きな違いであって、そのことは6年後に収録された「スコットランド」にも共通しているのです。
 全ての楽章で演奏時間が短くなっているだけでなく、緩急の落差が縮められていることで巨視的な緩急より細部の表情の流転が表に出ているのが大きな違いで、その点ではワインガルトナーに通じるところがあります。けれどシャイーがワインガルトナーやアバドと異なるのは自らの資質まかせというよりは常に意識的というか自覚的というか、求めるイメージが脳裏にはっきり浮かんでいて、それを実現せんとの明確な意志を感じさせずにいないところです。アバドの場合だと意識的であることに本人がなにやらしっくりしないというかやりにくそうというのか、手探りめいた模索の気配が絶えずつきまとうのを感じるのですが、シャイーの場合は固まった結論を自信たっぷりに表明する趣があります。
 このことは奇しくも同じ80年代末に彼らが収録したブラームス全集に端的に表れています。アバドの場合は4曲のいずれもが上に述べたような細部の表情を入念に描く過程で自然とテンポが落ちてゆく感じで、作意的な演出めいた意図を聴き手に感じさせません。それに対しシャイーの演奏は明らかに巨視的な要請から割り出された細部という趣で、狙いが明確な反面で作意も感じさせずにおかぬ面があります。
 けれどアバドの演奏では4つの交響曲のいずれもが同じ流儀で演奏されてしまうのに対し、シャイーでは2番だけが飛び抜けて速いテンポが課せられています。ブラームスの交響曲全集録音においてこのような例は極めて稀なもので、少なくとも僕は類例を知りません。でも、だからこそ気づけるのです。4つの交響曲のうち2番以外の3曲では必ず第1楽章にテンポが減速して音楽が止まりそうになる場面が書かれているのに対し、2番だけはそういう場面を持っていないということに。
 アバドという指揮者を形容するなら音楽家との呼び方しか思い当たりませんが、シャイーの場合は解釈家と呼ぶことも可能だと僕は思います。アバドにはより世代の古い巨匠たちのように自らの演奏の型を追い求めていたようなところがあり、それがベルリン時代のベートーヴェンやマーラーの再録音における以前よりも古典的な演奏スタイルへの到達と見て取れるのに対し、シャイーは自分の気質や体質に鑑みての演奏の自然さにそこまでこだわっておらず、対象をあくまで客体として見据えているように感じるからです。アバドが最後まで感性の次元で演奏していたとするなら、シャイーはより知的というか分析的な音楽への向き合い方をしていたのでは。彼らを音楽家と、解釈家と呼ぶゆえんですし、アバドのメンデルスゾーン全集がシャイーのブラームスのような明確な主張にまでは最終的に至らなかったのもそんな両者の違いに由来することのようにも思うのです。

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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
20. 2022年1月22日 23:25:36 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[8]
古典の磁場の中で:その13 変貌の狭間にて
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 先日バーンスタイン/イスラエルフィルによる「スコットランド」「イタリア」「宗教改革」の再録音が買えましたので、「スコットランド」をニューヨークフィルとの旧録音と比べてみようと思います。なお彼は1番と2番「讃歌」の録音は残していません。


バーンスタイン/ニューヨークPO(1964年)
13:08/04:19/11:36/09:13
計38:16 序奏3:52(29.4%)
(34.3%・11.3%・30.3%・24.1%)

バーンスタイン/イスラエルPO(1979年)
13:55/04:05/11:15/09:55
計39:10 序奏4:07(29.6%)
(35.5%・10.4%・28.7%・25.3%)


 全体では1分弱タイムが伸びているのですが、第1、4楽章が前より長くなり、逆に第2、3楽章が短くなっています。それによって前半2楽章は緩急の落差が前より大きくなっている反面、後半2楽章は対比を弱めた形になっています。大きな変更ではないので演奏自体の印象ががらりと変わるわけではありませんが、通常のフィナーレのイメージで速いテンポを設定すると曲全体の流れから浮きがちになるこの曲の特質を考慮して微修正したとも受け取れる変化のように感じます。
 それより大きな変化として感じ取れるのは細部の表情がより入念なものになっていること。旧盤では1つのテンポで通していた箇所に新盤ではテンポの動きが導入されている例が随所に見られます。特に両端楽章で増えていますが、終楽章のコーダが全曲の結びとなる部分だけにとりわけ印象的。その手つきがアバドのように曲の文脈における役割の解をひたすら考え抜くというより感情の流れの脈絡重視になっているのがこの時期のバーンスタインならではで、以後の彼はより遅いテンポの中でいかなる細部にも濃密な感情を込めた演奏スタイルへの傾斜を強めていくのです。そして80年代、彼にとって最後の10年に入ると、その演奏は込めた感情の真摯さによって訴えかけるものにますますなってゆき、とりわけマーラーの演奏で多くの支持を得たのでした。

 そこに込められた感情が彼自身のものであるがゆえに感じさせずにおかぬ迫真性でいえば、彼の演奏はフルトヴェングラーに並ぶでしょう。けれどそれはどんな曲を聴いても同じ音楽に聞こえてしまうという点においてもフルトヴェングラーに匹敵する結果となったのであり、だから僕は母国アメリカの聴衆に多様な音楽を紹介する啓蒙家たらんとしたニューヨーク時代の彼を懐かしまずにいられないのです。演奏している瞬間に曲を私物化するのは確かに演奏家に与えられた一個の特権であろうと思うのですが、それは時空を異にする他人の書いた音楽が自己表現の道具になることと無縁ではありえない境地であり、聴き手としての僕はそんな陥穽になるべく陥らずにすんでいる演奏で聴きたいとついつい思ってしまうものですから。
 しかも80年代のバーンスタインの場合、演奏において表出される感情に苦渋の翳りがつきまとうのが気になってしかたがありません。それが似合う曲ならともかく、ニューヨーク時代より絞られた再録音の全てがそれにふさわしい曲目だったとも思えないのが正直なところで、かつて担保されていた普遍性めいたものが損なわれたと感じてしまう演奏が多いのはつらいところです。

 そんな再録音にも時期の早いものには旧盤よりいいと思えるものもあって、最初期のベートーヴェン全集は旧盤よりスケールと熱気が一回り増した演奏が彼の新たな境地を印象づけましたし、80年代に入ったブラームスでは苦渋の色が似合う曲であった上に旧盤がいささか才気に溺れた失敗作だったことにも助けられ、バーンスタインのブラームスとしてはより成功しています。そしてそれらに挟まれたこれらのメンデルスゾーンでは「宗教改革」「イタリア」そして「スコットランド」におけるそれぞれの独自性も損なわれていませんし、「宗教改革」と「スコットランド」で旧盤より深くなった翳りの色もこれらの曲との接点を保ち得ていると感じさせてくれるものになっていて、過渡期ゆえの微妙なバランスがプラスに働いた稀有な例に数えたいと思うのです。

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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
21. 2022年1月22日 23:26:28 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[9]
古典の磁場の中で:その14 初録音と再録音
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 今回取り上げる2枚の「スコットランド」はいずれもLPではなくCDで買った最も初期のものですが、フィッシャー盤は若手指揮者の新鮮さを、そしてマークの再録音は30年近いキャリアを積んだ円熟ぶりを、それぞれ強く印象づけたものでした。なおマークは比較のため旧録音のデータも併記しています。


I・フィッシャー/ハンガリー国立O(1985年)
13:45/04:28/09:42/09:45
計37:40 序奏3:19(24.1%)
(36.5%・11.8%・25.8%・25.9%)

 ステレオ時代以降「スコットランド」の解釈はクレンペラーやマズアなどの例外を除くと第1楽章の序奏を遅く主部を速くし、第3楽章を粘らせるという後期ロマン派的な濃厚さ重視の解釈が幅を利かせていたのですが、僕にとってこの曲最初のCDだったフィッシャー盤はそういう定型から大きく離れた解釈で、序奏のほうがむしろ速いというのは購入当時やっとこういう演奏が出てきたかと感じ入ったものでしたし、さらりと歌われる第3楽章も実に素晴らしく、重く厚ぼったい冬服を脱ぎ捨てたような爽快さがこの楽章のあるべき姿を描き出したとの手ごたえさえ感じさせてやみません。細部の表情は個性的ですが、それが全体と連動しているので読みの深さとして感じられます。第1楽章の複雑さと後続楽章の平明さを対比しているのが解釈のコンセプトですが、それはあたかも後のブラームスの2番やマーラーの3番を遥かに予告するものと位置づけているようでさえあります。併録された「フィンガルの洞窟」や同時期に出た「イタリア」「宗教改革」も実に素晴らしく、80年代における最も説得力あるメンデルスゾーン演奏の一つだと当時も今も思います。なおこの頃はCDの工場がまだ数少なかったので、コロムビアから出た国内盤だけでなく本国ハンガリーのフンガロトン盤もコロムビアでのプレスと記されていますが、やはり高域がメタリックな音色になりやすいのでシステム側でつや消しして聴きたいところです。


マーク/ベルン響(1986年)
17:15/04:18/10:39/10:40
計42:52(反復あり)
(40.2%・10.0%・24.9%・24.9%)
13:56/04:18/10:39/10:40
計39:33(反復除外)序奏3:52(27.8%)
(35.2%・10.9%・26.9%・27.0%)

マーク/ロンドン響(1958年)
13:12/04:10/11:03/09:35
計38:00 序奏3:41(27.9%)
(34.7%・11.0%・29.1%・25.2%)

 解釈そのものは旧盤同様、当時主流だった後期ロマン派ふうの定型に従ったものですが、30年近い歳月の経過が旧盤の欠点を一掃させているのが素晴らしく、マークの3つの録音中ベストの完成度を誇るものです。細部の表情がうまく全体に波及していなかった旧盤に対し、このベルン盤では細部それ自体が目立たずに全曲の流れに溶け込んでいて、それでいて定型的な解釈が単調に陥らないよう隠し味的に機能しています。遅いテンポも粘りではなく静かな落ち着きを感じさせ、第3楽章がより速くなった点もあいまって停滞感を免れています。フィッシャーほど第1楽章の表情を細かく描き分けてはいないのですが、提示部の反復がこの楽章の曲折を代償していて、この反復の意義を明らかにしているとともにフィッシャーの読みと結果的に近くなっているのは興味深いです。アバド同様解釈家というより音楽家と呼びたいマークですが、アバドとは逆にキャリアが進むにつれて自分の音楽性をより自然に発揮できるようになったと見えるところが感慨を誘います。IMPレーベルが活動を停止しているため長く入手困難な状態が続いているのが惜しまれますし、手持ちの国内盤はファンハウスレーベルとしてまとめて出たときにプレスを担当したのが東芝EMIのためコロムビア以上のメタリックサウンドでアコースティックな響きでの再生は大変ですが、うまく鳴らせば名匠の至芸を堪能できる1枚です。

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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
22. 2022年1月22日 23:27:52 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[10]

古典の磁場の中で:その15 2つの再録音を比べて
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 今回はマズアとドホナーニによる「スコットランド」の再録音についてです。


マズア/ゲヴァントハウスO(1987年)
14:38/04:18/09:25/09:30
計37:51(反復あり)
(38.7%・11.3%・24.9%・25.1%)
12:08/04:18/09:25/09:30
計35:21(反復除外)序奏2:37(21.6%)
(34.3%・12.2%・26.6%・26.9%)

マズア/ゲヴァントハウスO(1972年)
13:23/04:25/08:08/10:16
計36:12 序奏2:46(20.7%)
(37.0%・12.2%・22.5%・28.3%)


C・ドホナーニ/クリーブランドO(1988年)
12:30/04:22/08:18/08:54
計34:04 序奏3:16(26.1%)
(36.7%・12.8%・24.4%・26.1%)

C・ドホナーニ/ウィーンPO(1976年)
13:24/04:30/09:23/09:24)
計36:41 序奏3:34(26.6%)
(36.5%・12.3%・25.6%・25.6%)


 70年代に最初の録音を行い80年代に再録音という点で共通するこの2人ですが、テンポ設定に注目するとマズアが旧盤から大きく変更しているのに対し、ドホナーニは明らかに同じ解釈に立脚しているのが見て取れます。ドホナーニの場合、特に第1、第2楽章は実時間で数秒の違いしかなく、誤差の範囲に留まっています。違いは後半楽章で、第3楽章を以前より速く、第4楽章をより遅くすることでむしろフィナーレのほうが演奏時間が長くなっています。旧録音とオケが異なるドホナーニの再録音では、自身の意図を徹底できる手兵の起用に伴う完成度の引き上げが狙いとみなすことができそうです。
 それに対し、同じオケと全5曲を再録音したマズアにおいてはペース配分が完全に別物になっています。「スコットランド」を再録音した指揮者は3回録音したマークを筆頭に何人かいるわけですが、ここまで大幅に解釈を変えた例はシャイーくらいです。そしてシャイーと比較すればロマンティックな旧録音から粘りを抑えた再録音という方向性が共通していることも印象的で、結果的にマズアの新盤は解釈面でドホナーニに近づいているのも興味深いところです。
 ただシャイーが旧録音において、ほとんどワーグナー的な息の長い音楽として演奏していたのに対し、マズアの旧録音は第3楽章を70年代という時期からすれば異例の速さで演奏していて、荘重ではあっても粘ることは退けていたのが痛感されることでもあって、外面的な解釈が大きく変わったにもかかわらず、粘りを忌避する傾向が一貫していたことに改めて気づかされるのです。シャイーがメンデルスゾーンを以後の音楽との繋がりに注目して演奏するため必要とあらばロマンチックな装いを与えることをも辞さなかったのに対し、マズアは彼にとってのメンデルスゾーンのテイストのようなものは守ろうとしていたようにも思えます。旧録音においてテンポの比率がクレンペラーそっくりであるにもかかわらず、基本テンポの速さゆえに全体的な印象は全く異なるものになっていたように、再録音では後の時代に一般的なものになってゆく解釈にかなり早い段階でチェンジしつつもドホナーニのような造形や洗練の徹底にまでは追い込んでゆかないところも目につくのです。こだわらない、徹底させないという彼の流儀と呼ぶべきなのかどうか判然としませんが、コアな部分で作曲家の持ち味を押さえつつもそれを自分の中で一つの型にまでは育ててゆかない。そこがドホナーニと最も異なる点ですし、そのことがシャイーほど考えてやっているわけではなさそうに見えることもある意味この人の特長とみなせるのかもしれません。
 マズアという指揮者はクラシック愛好家から個性的との評判を得たことがありませんでしたし、解釈面でも完成度の点でも強い印象を残さない彼の演奏は今後ますます話題に登らなくなりそうです。けれど演奏様式の変革点を迎えていたこの時期にマズアが遺した2つの全集はいささか掴み所のないこの指揮者についての手がかりの一つとも感じますし、良くも悪くも作品に下駄を履かせないというか、実質以上に優れたものに見せようとしない彼の演奏ぶりはとりわけブルックナー全集において、なぜその音楽が理解されるのに時を要したかを実感させるという点でかけがえのないものとさえ今の僕には思えるのです。手がける曲にナイーブな接し方ができた指揮者だったと今にして嘆じるばかりです。

コメント

mixiユーザー2018年06月27日 17:30
徹底させないという彼の流儀、考えてやっているわけではなさそう、、、このへんのお言葉には共感したくなります。正直、わたしも自信が持てませんが、男性的な音楽をしているように思われがちな方ですが、ある種の繊細さがあるのかも。

mixiユーザー2018年06月28日 04:06
ちょう50様おはようございます。。

僕も風貌や音楽にどこか垢抜けないもっさりした感触がつきまとうものですから、男性的というよりおっさんの音楽だなあという印象を正直なところ持ち続けてきた指揮者でした。
けれど今回メンデルスゾーンの2つの全集を比べた上でリストやベートーヴェン、シューマン、ブルックナー、ブラームスなども改めて聴いてみると、繊細というよりナイーブというか、どうも極端に走ることを忌避するというか、そういうことに耐え難い人だったのではという気がしてなりません。

個性的とか徹底というのはつまるところなんらかの意味で極端に走ること抜きには成立しないように思うのですが、結局のところそれはエキセントリックであることとも同義であるわけで、同じシリーズでボックス化されているヴァントのブルックナー全集をマズアのそれと比べてみると、曲の弱点が見事に一掃されているのと同時に、ブルックナーの欠点も含めての持ち味めいたものもいくぶん失われてしまっているような気がしてなりません。僕がヴァントのブルックナーを聴くと、こんなにブルックナーばかり繰り返す暇があったらなぜオネゲルの5曲を入れなかったのかとついつい思ってしまうのも、モダニズム的な感覚と精度の高さが前面に出てくるヴァントの音楽性と曲のずれた部分にオネゲルの音楽が像を結ぶからにほかなりません。

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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
23. 2022年1月22日 23:28:47 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[11]
古典の磁場の中で:その16 広上盤の示唆
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 いよいよこのリストも1990年代に入りますが、その最初を飾る2つはいずれもロマンティックなスタイルに根ざしながら、にもかかわらず全く対照的な性格の演奏でした。


広上淳一/日本PO(1990年)
14:34/04:30/10:50/11:46
計41:40 序奏3:18(22.7%)
(35.0%・10.8%・26.0%・28.2%)


 広上盤は日フィルのコンサートライブ盤を発売する楽団自身の独自レーベルによるもので、放送局直属のため膨大な放送音源の蓄積を誇るN響を別格とすれば最も早くオフィシャルレーベルを立ち上げた楽団の一つです。広上との録音もいくつもあり、この「スコットランド」は後の「イタリア」「宗教改革」と共にメンデルスゾーンの標題付純器楽交響曲シリーズの劈頭を飾るものになっています。そしてライブゆえにある日ある時の実演における姿の記録となっていることが、良くも悪くもこの盤を特徴づけているのです。
 序奏から極めて多情多感な演奏で、非常にイメージ豊かです。こういう音楽を創る人は日本人演奏家には珍しいと思うほどで、淀みない速めのテンポの中に流転する表情の変化には目を見張るものがあり、この調子ならと先行きを大いに期待させます。
 それだけに主部に入った瞬間、通常の3倍は遅いのではというほどテンポを落とすのは誤算というか聴き手の心理を見誤ったのではないでしょうか。あまりにも振れ幅が大きすぎてそれまでの細やかな表情づけの印象が消し飛んでしまい、また何かしでかすのではという妙な構え方を聴き手がしてしまうのは曲はもちろん演奏家にとっても得になるとは思えないのです。しかもこの遅いテンポは主部の入りのこの主題だけであり、再現部を終えて再び主部に入る時に回帰する以外はここまでの遅さにならないため、他の部分は身構えていた分だけ普通っぽい展開に聞こえてしまいます。才に溺れたとの印象を正直なところ拭えません。
 ただ改めて全体を見ると、この演奏はこの頃は定型化して久しかった古典的な解釈、すなわち第1楽章では序奏のテンポよりも主部が速く、フィナーレでは主部のテンポよりコーダを遅く演奏させる流儀のことごとく逆をいっていることも窺えます。広上が後期ロマン派を最も得意とする指揮者であることも考え合わせると、ここでの広上の解釈は全体としてロマン派ふうの内容を有しながらも古典的な形式感の残滓めいたものも残しているこの曲のありかたに対する疑問なり異議申し立てという意味合いがあったのは間違いなさそうですし、その意味ではやりたいことがやれた演奏だったのかもしれません。演奏そのものは必ずしも完成度が高いといい難い四半世紀以上も前の録音がいまだに売られていることを思うと、この曲に対する彼の考え方はこの時点からさほど変わっていないのではという気もするのです。
 そういうふうに考えてくると、あの度はずれたテンポの変化はあるいは広上の感じていたもどかしさの発露だったのではという奇妙な想像さえ浮かぶのです。より新しい要素を内部に抱え込みつつも、最後まで古典的な形式の残滓を捨てられなかったように見える「スコットランド」という交響曲。この曲には本来それがゆこうとしていた道、取ろうとしていた姿への想いをかき立てずにおかぬところが確かにあり、メンデルスゾーンがもう少し大胆だったらと広上のような指揮者であれば考えてもおかしくない。僕でさえ決してそう感じないわけではないのですから。
 けれどメンデルスゾーンが踏み込まなかったからこの曲がいま残されている形になったのだとしたら、その思いへの共感なしに現状の形を活かす演奏は難しいのではとも広上の演奏に接すると感じるのです。それは彼が20年近く後の2009年に相次いで同じ日フィルと収録した「イタリア」と「宗教改革」のライブ盤にも感じることでもあり、より古典的なスタイルの両曲なだけに広上の指揮もそれを正面切って壊すような解釈ではないものの、ともすれば濃密な情感が曲を膨張させるような趣が拭えないのも確かであって、変わりきれなかったそれらの曲にどこまでも寄り添った演奏とは感じにくいものが残るのです。そのような姿勢があったなら彼の演奏は解釈というよりそのあり方の点において、あるいはワインガルトナーの演奏に最も近い位置を占めるものでさえありえたのでは、とも。
 いま入手できる日本人指揮者による録音中では最も早い時期のものである広上盤はその類まれな表現力と、大胆な解釈を支える曲に対する真摯かつ批評的なまなざしにより、極めて示唆に富む内容になっていると思います。けれど個性的な演奏であるということは、最後の最後で曲に滲む作曲家の個性との距離が問われることを免れない事態も暴き出しているようにも感じます。それを念頭に置くことで、次はこの演奏と対照的な性格のフロール盤について考えることにいたします。

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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
24. 2022年1月22日 23:30:13 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[12]
古典の磁場の中で:その17 フロール盤に映るもの
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1968053963

 今回はフロールによる交響曲に加えて主な管弦楽曲と協奏曲も収めた全集盤についてですが、この演奏の特徴を掴むにはピアノ協奏曲、それも2番について触れる必要がありそうです。


フロール/バンベルクSO(1991年)
13:03/04:31/09:38/09:18
計36:30 序奏3:32(27.1%)
(35.7%・12.4%・26.4%・25.5%)


 クラウス=ペーター・フロールはキャリアの早い時期に東独の崩壊があったせいか録音と縁の薄い指揮者の一人で、旧RCAに残されたこのメンデルスゾーンシリーズはその録音歴を代表する随一の大きなプロジェクトで今もあり続けています。5つの交響曲に主要な管弦楽曲および協奏曲に加え「最初のワルプルギスの夜」をも収録したこのシリーズは、ボックスに纏められたことで管弦楽分野におけるメンデルスゾーンの業績を一望できる優れたセットとしてお勧めできるものになっています。
 そしてメンデルスゾーンの様々な録音をここまで年代順に聴き続けてきて思うのは、この演奏は20世紀型の演奏様式の一つの帰結と位置づけることもできるのではということです。スタインバーグ以降主流を占めるに至った古典的な様式感の重視を基本としつつ、70年代から80年代前半にかけてクラシック界を席巻した重厚さや荘重さへの過度の傾斜を免れたこの演奏は、広上のような意味においては決して個性的で読みが深いとはいえませんが、だからこそメンデルスゾーンの淡彩な音楽の意味合いを曇りなく伝えてくれていると感じるのです。
 広上盤ともども1990年代の幕開けに立ち会ったフロール盤ですが、ナチス禍により本格的な研究が遅れたメンデルスゾーンの場合、録音という形でそれらの成果が一般層に届き始めるのがちょうどこの時期以降からになります。フロール盤の解釈に新奇な要素が感じられないことの、確かにそれも一因には違いないのでしょう。この「スコットランド」も聴いてみれば、その特徴をどう言葉にしたらいいのか考えあぐねるほど変哲のない演奏にも聞こえます。学究的な演奏の特徴でもある提示部の反復がないことも含め、この演奏がメンデルスゾーンの演奏史における新たな潮流に根ざしたものでないのも確かです。その点ではこの録音に先立つマズアの新盤のほうが、むしろ来る解釈を予告する特徴を歴然と打ち出してさえいたほどです(マズアという人は、本当に不思議な指揮者でした)

 結局この演奏は、曲のどこかを特に印象づけようというような演出的な誘惑を拒み通し、いかなる細部にも平等に向き合い心をこめて丁寧に演奏するというある意味では当前のことを貫徹しただけの演奏としかいいようのないものですが、それがメンデルスゾーンの音楽になにをもたらしているかを知る上でこのセットにピアノ協奏曲が含まれていたことは僥倖といわねばなりません。なぜなら番号付きの2曲、特に2番のピアノ協奏曲こそは交響曲以上にメンデルスゾーンの音楽の特質とそれが行こうとしていた方向性を、それらが同時代の協奏曲のあり方とかけ離れていた分だけ明瞭かつ純粋な形で示唆していると考えるからです。
 ダヴィッドの助言によりソロに終始光が当たるよう修正されて完成をみたヴァイオリン協奏曲に比べて、ピアノ協奏曲の人気は低いです。SP時代から多くの録音がなされた前者に対し、後者はLP時代に入ってようやく1番が録音され始め、2番の録音はステレオ最初期のケイティン/コリンズ盤の登場を待たなければなりませんでした。そしてそこで耳にしたのはむしろオケの方が名技性を発揮しているとさえ聞こえかねないほどシンプルなソロパートを、そのまま忠実になぞっているだけのようなケイティンの姿だったのです。それはオペラのプリマに例えられる絢爛たる独奏楽器がオケをむしろ従えるような当時の協奏曲の通念からはおよそかけ離れたものでした。しかもその傾向は1番より2番のほうがより強くさえなっていて、だからこそ2番が1番より録音される機会が少なかったのも直感的に理解できたほどでした。
 けれどそんなケイティンの奏でる力みも気負いもなにもない、ひたすら静かな佇まいのピアノの美しさ! むしろより大きくさえあるオケの起伏にも流されず、一筋の清流がその水面に絶えず天空の流転を映しているのにも似たいわば受け身の叙情性。独奏楽器があくまでオケの一員だったバロック時代の合奏協奏曲から通常のロマン派協奏曲とは逆向きに進化したようなこれら2つのピアノ協奏曲の道行きはメンデルスゾーンがピアニストであると同時に指揮者だったことも一因ではあったのでしょうが、やはり彼の美意識そのものがその後の潮流となる後期ロマン派と一線を画するものだったのが根本的な理由との感が深いです。

 そんなピアノ協奏曲の決して多いわけではない録音のうち大半が、これらの曲をわざわざ普通のロマン派協奏曲の地平へと引き戻そうとするかのごとき演奏で占められている現状はあまりにも悲しいものです。派手なタイプのピアニストは最初から録音さえしないのですが、ペライアやシフのような人々でさえピアノパートの簡素さに耐え難いかのようにテンポや起伏の操作により少しでも技巧的に聞かせようと奮闘することで、無理矢理さばかりが露呈する結果に堕していたのです。そんな中フロールのタクトでこれらの曲を担当したセルゲイ・エーデルマンというロシア系とおぼしきピアニストが、どこまでも曲の意を汲んだ演奏に徹してくれているのを初めて耳にしたときは、本当に救われた心地さえしたほどでした。そのとき改めてこのセットでは決してどの1曲たりとも無理をさせていない。外付けの表現で歪めたりしない。それこそがこのプロジェクト全体を貫くコンセプトだったことを思い知らされたのでした。
 メンデルスゾーンの音楽は鏡です。演奏者の技量や音楽性のみならず、曲に向き合う姿勢までも映さずにおかぬ鏡です。そんなセンシティブな音楽にどこまでも虚心に向き合った姿勢こそが、この全集のかけがえのない価値の源泉だと嘆じるばかりです。


コメント

mixiユーザー2018年08月26日 18:23
フロールの実演をモーツァルトのレクイエムで接したことがあります。力みなく素直で奥行きがしっかり見通せる演奏でしたね。

mixiユーザー2018年08月26日 19:57
ちょう50様こんばんは。さもありなんと思わせる演奏だったようですね。ちなみに先ごろマレーシアPOとの来日公演の新世界交響曲を聴かれたというマイミクさんの日記では、どっしりした重量級の演奏だったそうですから、曲のスタイルにかなり合わせてもいるのかもしれません。円熟期に入る年齢ですし僕としても実演に接したい指揮者の1人です。

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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/894.html#c24

[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
25. 2022年1月22日 23:31:09 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[13]
古典の磁場の中で:その18 世紀の変わり目の交代劇
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 今回は90年代後半に収録された3つの演奏についてですが、ちょうどこの時期はベートーヴェンの交響曲においてはいわゆるベーレンライター新版と呼ばれる音楽学者デル=マーの校訂譜が刊行されはじめ、その成果を取り入れた録音が続々と現れ始めたのに対し、メンデルスゾーンの場合はナチス時代を経た悪影響で研究が遅れ、20世紀のうちはまだ演奏スタイルに影響を及ぼす段階には至っていませんでした。だからこれらの演奏も広上盤やフロール盤ともども、20世紀における演奏スタイルの範囲内におけるバリエーションという位置づけが妥当とは思われますが、今となってはそんな3人の演奏の中にそれぞれ異なる形ながらも新たなスタイルの予告めいたものが兆し初めていたことに今さらながらも気づかされるのです。

アシュケナージ/ベルリン・ドイツSO(1996年)
16:14/04:12/08:51/09:17
計38:34(反復あり)
(42.1%・10.9%・22.9%・24.1%)
13:17/04:12/08:51/09:17
計35:37(反復除外)序奏3:34(26.9%)
(37.3%・11.8%・24.8%・26.1%)

 器楽奏者出身の指揮者の場合、弦楽器奏者出身の人は歌い回し重視、ピアニスト出身の場合は構成感重視の傾向を感じることが多いのですが、アシュケナージのこの全集はその典型ともいえる端正かつ律儀な演奏です。解釈の面でも第3楽章を速いテンポで粘らせずに歌うため、カラヤンやバーンスタインのようにここを粘らせてロマン風な味わいを強調する流儀とは一線を画しています。そして彼らに比べるまでもなくテンポの動きも非常に控えめで、それが楷書の演奏という印象を感じさせずにはおきません。フロールに比べてさえ抑制的で、人によっては生硬とさえ感じる向きもあるのではと思うほどです。
 けれどそれから20年余りがたち、今世紀に入ってからの演奏スタイルがかつての後期ロマン派的な要素を一掃したより硬質なものになったことを思えば、アシュケナージのこの解釈は新たな時代の予兆というか、その到来の予告だったのかもしれないとも感じるのです。


マーク/マドリード響(1997年)
14:07/04:32/10:17/10:45
計39:41 序奏3:41(26.1%)
(35.6%・11.4%・25.9%・27.1%)

 第3楽章だけが以前よりテンポが速くなった一方で他の3つの楽章がより遅くなったマークのこの演奏は、楽章の比率で見ればアシュケナージと堤のちょうど中間型になっていますが、基本のテンポが断然遅いので70〜80年代の後期ロマン派的な要素が表に出ていた解釈の最後のものというべき演奏になっています。緩除楽章が粘らなくなったところに新たな時代の影響を感じさせつつも、この曲全体を悲愁を主調とするものと捉えた解釈を彼は最後まで貫き、一つの時代の幕を引いて去った。それがある種の静けさに満ちたものになったところに美しく老いることのできた人の佇まいを想わせずにおかぬものがあり、ついに老いの入口に立つに至った僕としては羨望とも憧れともつかぬ思いを抱かずにいられないのです。あるいはこれは若くして死なねばならなかったメンデルスゾーンが遂にたどり着けなかった境地だったのではとは思いつつも……。


堤俊作/ロイヤルチェンバーO(1999年)
14:33/04:21/09:46/09:59
計38:39(反復あり)
(37.6%・11.3%・25.3%・25.8%)
11:37/04:21/09:46/09:59
計35:43(反復除外)序奏2:47(24.0%)
(32.5%・12.2%・27.3%・28.0%)

 楽章の比率では第3楽章にかかるウェイトが今回の3種で最も大きく形の上では最もロマン派的スタイルに近く見えるものの、実際に耳にした印象はそこから最も遠いという一見不思議な演奏です。その秘密は20世紀にすっかりメンデルスゾーンの音楽に染みついた優美なイメージを覆すような率直かつダイナミックな音楽作りによるもので、かつての楽章ごとのテンポの違いを強調するペース配分はそれを遅い楽章を粘らせる方向ではなく、速い楽章の正面から切り込むような攻めの姿勢を強調する方向に作用しているのです。マークの演奏が彼自身の、ひいては20世紀に一般的だったこの曲の詠嘆の詩としての解釈の一つの帰結だったとすれば、アシュケナージはやや慎重に、堤はより大胆に、この交響曲を遠い過去からの木霊としてではなく目前の出来事として響かせようとしているのです。そしてその傾向は今世紀に入るとより明瞭なものになってくる。まさに世紀の変わり目の交代劇をこの3つの演奏の交錯にみる思いです。

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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/894.html#c25

[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
26. 2022年1月22日 23:32:09 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[14]
古典の磁場の中で:その19 新たな世紀の交代劇
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1968840072

 それではいよいよ今世紀に入ってからの3つの演奏について、見比べていこうと思います。

デプリースト/Oアンサンブル金沢(2003年)
12:39/04:25/09:09/10:04
計36:17 序奏3:08(24.8%)
(34.9%・12.2%・25.2%・27.7%)

内藤彰/東京ニューシティO(2007年)
15:05/04:17/08:39/08:58
計36:59(反復あり)
(40.8%・11.6%・23.4%・24.2%)
12:06/04:17/08:39/08:58
計34:00(反復除外)序奏3:02(25.1%)
(35.6%・12.6%・25.4%・26.4%)

シャイー/ゲヴァントハウスO(2009年)
14:35/04:11/08:34/09:02
計36:22(反復あり)
(40.1%・11.5%・23.6%・24.8%)
11:53/04:11/08:34/09:02
計33:40(反復除外)序奏2:54(24.4%)
(35.3%・12.4%・25.5%・26.8%)

 なおシャイーの新盤は旧盤の項目で述べたように決定稿の前の版を使っているため厳密な比較には向きませんが、実際に聴くと楽章やブロック同士の比率に大きな影響を及ぼすものでなさそうなので、演奏の傾向をみる分にはいけるのではと思います。
 これらを見比べてまず思うのは、21世紀初頭のこれら3つが数値上ではまるでSP時代のような値を示しているということ。1929年のワインガルトナー以降70年代までは一貫してより重厚長大な方向へと変わっていた演奏スタイルが、80年代以降古楽派の運動の影響がメンデルスゾーンの演奏様式にまで及んだことで変わり始めいちどは重さや粘りに大きく傾いたスタイルを一新したことを、20世紀最後の3つの録音中アシュケナージや堤の演奏スタイルの傾向をさらに押し進めた形で示しているのが巨視的な特徴といえるでしょう。
 ではこれらはワインガルトナーやミトロプーロスの演奏の再来かといえばそれは全く違いますし、むしろどんな背景に基づいて登場したのかを見てゆくことで2000年代特有の状況も見えてくるとも思うので、以下にこれらがSP時代の2つと異なる点を列挙してみます。

*解釈の幅がかつてより大幅に狭い。
*演奏精度に対する要求水準が高い。

 解釈の幅が狭まった最大の要因は、手書きの草稿や楽譜などの一次資料に対する科学技術による分析さえも取り入れた音楽学の発達にあると考えるべきでしょう。条件を満たせば紙やインクの年代特定さえ可能というのはSP時代には想像さえできなかったことであり、それらの事実を緻密に積み上げることで主張される演奏様式のあり方は恣意的な反論を許さないとみなされた結果、それを無視した解釈は成立不能とされました。ベートーヴェンの解釈で20世紀最後の10年に起きたことがメンデルスゾーンに波及したのがこの時期だったのです。今回の3つの演奏にもそのことは様々な形で現れていて、デプリースト盤における小編成の採用はこの時期以降それが標準化されてゆきますし、内藤盤でのビブラートの排除も弦の材質と奏法への影響の考察をその根拠としています。シャイーが新盤で古い稿を採用しているのも以前は後の時代の音楽との繋がりを遡る形でメンデルスゾーンに接していたこの指揮者が、より古い音楽との関連から捉え直そうとする姿勢に転じたことと連動しているのは前に述べたとおりです。
 それは古い曲を今の時代に合わせて仕立て直すことや演奏家のパフォーマーとしての個性の発露こそ最も重要とされた80年前の考え方とは正反対でさえありました。ワインガルトナーとミトロプーロスの解釈の違いはここまで見てきたどんな時代にも例がないほどかけ離れたものであり、前提となる考え方が違うだけでここまで結果が変わるのかとただただ嘆じるばかりです。
 演奏精度の問題は楽器の変遷と密接な関連があります。金属弦が登場しガット弦に置き換わる前の20世紀初頭、力が加わると伸びて音程が狂いやすいガット弦は各セクションの音程を揃えるのにも苦労を強いるものであり、なるべく軽い弓圧で粘らせずに歌わないと独奏はともかく合奏では各人の音程がばらけて響きの濁りを避けられませんでした。この時代に多くみられたポルタメントと呼ばれる音程を連続的にずり上げたりずり下げたりさせる奏法が金属弦の普及と期を一にして姿を消していく一方、安定性の高い金属弦の登場はそれまでソリストしか許されなかった強いビブラートをかけつつ旋律線を粘らせる歌い回しの奏法を合奏で可能にしたのでした。1929年収録のワインガルトナーとその12年後のミトロプーロスで聴き比べる「スコットランド」の第3楽章にはそれらの違いが端的に出ていますし、ストコフスキーの一連の電気録音がそんな変化の最も早い実例だろうとも。

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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
27. 2022年1月22日 23:33:37 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[15]
古典の磁場の中で:番外 ワーグナーがもたらしたもの
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 ここまで「スコットランド」の演奏の変遷について書き連ねてきたわけですが、前回に触れた2000年代の最初の10年間に出た録音が一つの解釈に収斂していく傾向が強かったのに対し、今日に至る次の10年間についてはそれがばらけ始めているように感じています。現時点で手元にあるのは我が国初のメンデルスゾーンの交響曲全集となった沼尻盤をはじめとするガーディナーおよびネゼ=セガンによる3つの全集に、単発のものでは村中と古楽のレパートリーでの活躍が長かった有田、つい先ごろ来日が伝えられた現代作曲家ヴィトマンなどですが、この範囲で見れば海外勢が最初の10年に打ち立てられた解釈をベースにしているのに対し、日本勢にはむしろそれらに背を向けるかのような後期ロマン派的な解釈への回帰が多かれ少なかれ見て取れるようにも映るのです。とはいえ全集録音だけでもまだファイ/ハイデルベルク響やマナコルダ/ポツダムチェンバーアカデミー、マンゼ/ハノーファー北ドイツ放送フィルなどが未聴ですので、できればそれらも聴いて確かめたいと考えています。

 ともあれバロック音楽から古典派やロマン派初期の音楽が後期ロマン派の時代に従来よりぐんと遅いテンポで演奏されるようになったということは、どうやらヨーロッパにおいては定説と化しつつあるようです。少なくともベートーヴェンにおいて、それを始めたのはおそらくワーグナーだったのではと僕は思うのです。なぜなら彼は古き音楽に忠誠を捧げていたメンデルスゾーンの演奏をテンポが速すぎると罵る一方、自らの楽劇をベートーヴェンの「合唱」の発展型であると主張していたのですから、実生活でも他人を利用することを全くためらわなかった彼なら十分ありえたことだと思われます。なにしろ人格面はともかく、こと音楽においてワーグナーは本物の天才であり、彼は他人が書いた音楽をとことん自分の色に染め上げたばかりか、それに新たな説得力を持たせるだけの力を持っていました。もしワーグナーにそこまでの力量がなかったら百年後の20世紀後半に我々が耳にしていたベートーヴェン演奏はあれほど重厚壮大なものではなかったのではとさえ思います。ともあれワーグナーの才能のありかたが既存のものを全て呑み込み自分の意図に合わせて変容させるものだったからこそ、彼は音楽で物語を語るあらゆる技法を体系化させることができ、それが今の我々が知る映画音楽の分野における洗練された語法の直接の母胎になったのだと思うのです。
 そしてワーグナーがその反ユダヤ主義的な考えゆえメンデルスゾーンを悪し様に罵った際、メンデルスゾーンのベートーヴェンについてテンポが速すぎると書き残していることは重要です。それは録音の形で残されなかったワーグナー以前のベートーヴェン演奏がそれ以後よりもテンポが速かったことを示す状況証拠にはなりえるものですし、それがワーグナーにとっては不都合だったからこそメンデルスゾーンを貶めることで自分のベートーヴェンこそが正しいのだと強弁する必要を感じていたことを滲ませてもいる資料でもあるのですから。だからこそワーグナーはそれまでラテン系の作曲家の後塵を拝していた歌劇の分野で成功するためにも、自らをドイツ音楽の分野における最初の歌劇の巨匠に祭り上げる必要があり、そのためには歌劇の分野においてはそれほど成功をおさめていなかったベートーヴェンを無理やりにでも接ぎ木しなければならなかった。だからベートーヴェンの音楽をより忠実な形で受け継ごうとしていたメンデルスゾーンが正当性を獲得しきらないうちに彼がユダヤ人であったことを理由に引きずり落とし、ベートーヴェンの音楽を自分の音楽により近い形になるようにして演奏した。それがワーグナーの時代に蔓延しつつあった空気に合致するものであったからこそより重厚さを増したそのベートーヴェン演奏は多くの支持者や模倣者を生み、古い音楽は新たな時代に合わせてスタイルを変えてこそその命が保たれるという考え方ともども後に巨匠時代と呼ばれる一大ムーブメントの礎になったのでしょう。
 そしてそのドイツ至上主義や反ユダヤ主義、音楽を宗教的なまでに荘重なものとして民族的な結束の要に置くことなどを受け継いだ第三帝国が絶対悪とみなされたとき、ワーグナーを源とする流れも欧米ではいったん全否定されねばならなくなった。それが巨匠時代が終焉を迎え、入れ替わるように前衛音楽がそれまでの音楽のありかたを一斉に壊しにかかった現象が意味したはずの事態で、ベルリンフィルの演奏スタイルが一貫してワーグナー的な考え方から遠ざかる形で変遷してきたのも当然のことだったとも思えます。なによりロマン派以外のレパートリーへの関心に端を発し21世紀への変わり目において一つの徹底ないし完成へとたどり着いた楽曲への学究的なアプローチもまた、そんな状況とは無縁たりえなかった現象ではないかとも。そして日本の我々がナチスを生み出したドイツ人ほどそれまでの自分たちを強く否定してこなかったとの以前からなされてきた指摘を思えば、この国で巨匠時代の音楽のありかたが未だに根強く信奉されていることの少なくとも説明の一つとみなせることかもしれません。なにしろヨーロッパはたとえそれが世界における政治経済上の力というか発言力を求めてのことであれ多様な民族や文化を持つ国々をEUという共同体に再編する歴史的実験に至った地域であり、ここが最も先端的な前衛音楽の牙城であったことやアメリカなどに比してさらに過激なオペラ演出のメッカでもあることも同じ根を持つことだと思えば、戦後ひたすらコスモポリタンな性格の団体へと変貌してきたベルリンフィルの軌跡も、同じ動きの一例だったと思えてしまうものですから。

 それだけに世界が再びナショナリズムにも似た空気へと急速に接近し始めた近年、たとえばメンデルスゾーンの、それも日本における演奏が率先するかのように巨匠様式と似たものへと変貌し始めているのはなにやら不気味でさえある光景です。これが移民問題を前にやおら右傾化し始めたヨーロッパや、限りなく帝国主義へと回帰しつつあるような諸大国における演奏スタイルにまで波及してゆくのか否か、単に興味深いとの言葉では追いつかない心持ちで見守っているところです。
 なぜそんなに気にするのかとおっしゃる方もおられるかもしれませんが、2つある理由の1つは絵画や造形、著作などと異なり音楽は作者が創ったままの形を留めることが難しく、説得力ある演奏であればあるほどそれがいかに元の姿からかけ離れていても受け入れられてしまうのではという危惧を覚えてしまう点。もう1つは巨匠時代のような音楽のありかたは不幸な時代でなければ出てこないのではないかと感じるからです。かつて神経を病んでおられた時にフルトヴェングラーのベートーヴェン演奏に救われた体験から、ベートーヴェンの音楽やフルトヴェングラーの演奏には神を感じると力説するようになられた方を知っていますが、確かにそんなことができる境地は凄いと思います。けれどそれは古い音楽は新たな時代に合わせて仕立て直してこそ価値があるというワーグナーの主張の果てに成り立つものであり、その感動の質が宗教的な法悦の近みにあることを思えば、そういうものに救われねばならぬ人が多数を占めるほど強い危機感に満ちた時代は幸せとは言い難いのではともやはり感じてしまうのです。

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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
28. 2022年1月22日 23:34:28 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[16]
「クレンペラーとメンデルスゾーンによる」『スコットランド交響曲』旧録音
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 令和2年は2020年という2づくしの年となりますが本年もよろしくお願いいたします。今回はクレンペラーによる『スコットランド』の旧録音の話題から始めさせていただきます。まずはいつものように新旧両盤のタイミング比較から。

クレンペラー/ウィーンSO(1951年)
15:55/04:12/08:08/09:48
計38:03(反復あり)
(41.8%・11.0%・21.4%・25.8%)
12:39/04:12/08:08/09:48
計34:47(反復除外)序奏2:47(22.0%)
(36.3%・12.1%・23.4%・28.2%)

クレンペラー/フィルハーモニアO(1960年)
15:22/05:14/09:35/11:47
計41:58 序奏4:00(26.0%)
(36.6%・12.5%・22.8%・28.1%)

 ごらんのとおり、旧録音は10年後の新録音が省略した提示部の反復を励行しています。これは少なくとも僕の手持ちの録音中最も早い実例になります。そして反復を省いた状態で各楽章の比率を比較すると、この曲を演奏したどの盤よりも第3楽章が速く第4楽章が遅い彼独特の造形がすでに窺えることがわかります。今回は新盤とも比べている関係上、ステレオ初期から70年代にかけての諸盤の比率と比べてみます。

マーク/ロンドン響(1958年)
13:12/04:10/11:03/09:35
計38:00 序奏3:41(27.9%)
(34.7%・11.0%・29.1%・25.2%)

バーンスタイン/ニューヨークPO(1964年)
13:08/04:19/11:36/09:13
計38:16 序奏3:52(29.4%)
(34.3%・11.3%・30.3%・24.1%)

アバド/ロンドンSO(1967年)
12:42/04:15/10:12/09:24
計36:33 序奏3:29(27.4%)
(34.8%・11.6%・27.9%・25.7%)

カラヤン/ベルリンPO(1971年)
13:57/04:25/11:48/09:24
計39:34 序奏3:49(27.4%)
(35.2%・11.2%・29.8%・23.8%)

マズア/ゲヴァントハウスO(1972年)
13:23/04:25/08:08/10:16
計36:12 序奏2:46(20.7%)
(37.0%・12.2%・22.5%・28.3%)

C・ドホナーニ/ウィーンPO(1976年)
13:24/04:30/09:23/09:24)
計36:41 序奏3:34(26.6%)
(36.5%・12.3%・25.6%・25.6%)

シャイー/ロンドンSO(1979年)
14:31/04:25/11:55/10:07
計40:58 序奏4:03(27.9%)
(35.4%・10.8%・29.1%・24.7%)

 ご覧のとおり、なぜかマズア盤だけクレンペラーとそっくりのテンポ設計になっている以外ほとんどが各楽章のコントラストを意識した演奏になっています。特に第3楽章と第4楽章の対比を通常の演奏は強調しようとする姿勢が顕著なのですが、クレンペラー(とマズア)だけはテンポの落差をなるべく均し、連続性を前面に押し出しているのです。
 ところがコロムビアが復刻したこの旧録音の解説書によると、この第3、4楽章の指揮はクレンペラーではなくて別人だというから驚きです。録音当時クレンペラーは演奏旅行と日程が重なり前半2楽章は自分で指揮したものの後半はヘフナーという指揮者による収録に立ち会っただけでツアーに出かけました。ところがプロデューサーが発売を急いだせいかヘフナーによる後半楽章を使ってLPが発売されてしまい、クレンペラーの抗議にもかかわらずそのまま後世に残ってしまったというのです。本人が録音に立ち会っていたのならそれは本人が練習した内容でオケが演奏するという形だったはずで、だからその解釈の特徴が留められていたのでしょうし会社側の強気の姿勢もそこに根ざしていたのかもしれませんが、これを機にクレンペラーはVOXとの契約を解除したのでした。驚くべきことにこのプロデューサーの名はジョージ・メンデルスゾーン。単に同じ姓なだけでなく作曲者の直系の子孫という嘘のような本当の話だったというのです(汗)

 この顛末はクレンペラーの伝記を書いたピーター・ヘイワースがメンデルスゾーンに問い合わせて得た回答に拠るもので、ヘルベルト・ヘフナーという人は生没年はわかりませんがNMLにもこの『スコットランド』のところにクレンペラーと並んで名前が出ています。ただ「ギリシャでのライブ録音」と書かれているのはツアー先がギリシャだったことと混同されているようで少なくとも会場ノイズなどはありません。またNMLにはアンタイルの交響曲5番「歓喜」やワーヘナールの交響曲4番、ジョスティンの『エンデミオン』が50年代の録音として登録されているほかタワーやHMVにベルクの歌劇『ルル』の2幕版のライブ音源がCD化されたものも出ています。またVOXにウィーンSOと入れた中古LPとしてヒンデミット『白鳥を焼く男』と『ヘロディアーデ』や『金管と弦楽による演奏会用音楽』と『ホルンとオーケストラのためのコンチェルティーノ』をそれぞれ表裏にした中古LPも出てくるので20世紀前半の音楽を得意とした指揮者のようです。ベルクは1949年、それ以外は50年代のいずれもモノラル録音とされているので、ステレオ時代には録音を残せなかった人々の一人だったのかもしれませんし、戦前からアメリカ時代にかけて同時代音楽を数多く手がけたとされるクレンペラーと活動領域が近かったことを窺わせる録音歴でもあります。

 実は今回、マズアの旧録音があまりにもクレンペラーの新旧両盤とテンポ設計が似ているので、両者の接点がどこかの時点でなかったかネット上をあれこれ探してみましたが、同じ時期に同じ場所にいたとか助手をしていたといった情報は見当たらず、同じベルリンのコーミッシュオーパーで異なる時期に主席指揮者を勤めたことがあったのがキャリア上での接点だった程度です。ただ調べている中でマズアが同じゲヴァントハウスOの指揮者だったこともあって、ベルリンの壁崩壊以降に荒れ果てていたメンデルスゾーンの住居を再建したり基金を作ったりすると同時に「チャイコフスキーなら満員になる会場がメンデルスゾーンだと半分しか埋まらない」といって全てのコンサートに必ず1曲はメンデルスゾーンの曲を入れるようにするなど普及活動と研究に尽力したという紹介記事を見つけ、ベートーヴェンやブラームスでは再録音でも解釈の違いを見せなかったこの指揮者がメンデルスゾーンだけは大きく解釈を変えている理由の一端に触れたように思えたのは収穫でした。

マズア/ゲヴァントハウスO(1972年)
13:23/04:25/08:08/10:16
計36:12 序奏2:46(20.7%)
(37.0%・12.2%・22.5%・28.3%)

マズア/ゲヴァントハウスO(1987年)
14:38/04:18/09:25/09:30
計37:51(反復あり)
(38.7%・11.3%・24.9%・25.1%)
12:08/04:18/09:25/09:30
計35:21(反復除外)序奏2:37(21.6%)
(34.3%・12.2%・26.6%・26.9%)

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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/894.html#c28

[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
29. 2022年1月22日 23:35:28 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[17]
古典の磁場の中で:その20 モノラル音源追加分
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1975173752

 では今回はクレンペラーの旧録音をSP〜モノラル時代の盤の中に置いてみましょう。前回この時期の盤について比較した後にロジンスキー/シカゴSO盤とボールト/ロンドンPO盤を入手していますので、それらも含め年代順に列挙します。

ワインガルトナー/旧ロイヤルPO(1929年)SP
12:20/04:13/08:16/08:51
計33:40 序奏2:40(21.6%)
(36.6%・12.5%・24.6%・26.3%)

ミトロプーロス/ミネアポリスSO(1941年)SP
11:15/03:45/09:33/07:19
計31:52 序奏3:07(27.7%)
(35.3%・11.8%・30.0%・22.9%)

ロジンスキー/シカゴSO(1947年)SP
12:47/04:00/08:34/08:13
計33:34 序奏3:39(28:6%)
(38.1%・11.9%・25.5%・24.5%)

クレンペラー/ウィーンSO(1950年)モノラル
15:55/04:12/08:08/09:48
計38:03(反復あり)
(41.8%・11.0%・21.4%・25.8%)
12:39/04:12/08:08/09:48
計34:47(反復除外)序奏2:47(22.0%)
(36.3%・12.1%・23.4%・28.2%)

スタインバーグ/ピッツバーグSO(1952年)モノラル
12:07/04:12/08:43/08:46
計33:48 序奏2:58(24.5%)
(35.9%・12.4%・25.8%・25.9%)

クレツキ/イスラエルPO(1954年)モノラル
13:17/04:18/10:13/10:15
計38:03 序奏3:17(24.7%)
(34.9%・11.3%・26.9%・26.9%)

ボールト/ロンドンPO(1954年)モノラル
11:10/04:02/06:59/08:32
計30:43 序奏2:22(21.2%)
(36.4%・13.1%・22.7%・27.8%)

 こうしてみると意外なことに、クレンペラーの旧盤はこの時期の演奏としては突出した要素が最も少ない、中庸といってもいい存在だったことがわかります。後年ますます顕著になっていった度外れたテンポの遅さもまだ生じていなかったこの時期の彼は、生涯を通じて示していたアンチ・ロマンの傾向ともあいまって、陶酔型とは真逆の冷徹なリアリストとしての視線をも感じさせるバランス感覚に秀でた演奏をここで聴かせているのです。それがさらに顕著に感じられるのが併録された「イタリア」で、そこで彼が聴かせているのはこの曲のイメージとして誰もが感じる爽快さを颯爽としたテンポで描き出しつつも、むしろ楽章ごとの差を抑えつつ、全曲を通じたひとつの流れを打ち出すことに腐心している姿勢です。それは極端にテンポが落ちていったステレオ時代には頑強なまでの個性の発露として感じられるようになってゆくものですが、ここではそれがアンサンブル面の危うさを免れない演奏であるにもかかわらず、ある種の安定感をもたらしてもいるのです。それはおそらく曲ごとの特質に応じた解釈というより、テクニシャンではなかったクレンペラーが自らの手法として身につけていった彼なりの指揮の秘訣というべきもので、それゆえに体が自由に動かせなくなっていった後年も彼はその秘訣を手放せなかったのだと今にして思うのです。その意味でテンポの遅さとあいまった後年の唯一無二としかいいようのないスタイルは彼が心から望んだものではなかったのかもしれないと、この旧録音を聴いたことでしみじみと感じたのでした。

 それにしてもここに見るこれらの演奏の解釈やスタイルの幅の大きさは大変なもので、この曲における共通認識などなかったのだろうと感じざるをえません。全曲の統一感などかなぐり捨てて第3楽章とそれ以外の楽章のコントラストを極限まで強調したミトロプーロス。そんな彼とは正反対に誰よりも速い7分を切った最速テンポで第3楽章を、ひいては全曲を歌いきったボールト。そのきりっとした歌い口は曲線的なワインガルトナーとも正反対ですし、そんな両者の中間的なスタインバーグにもそのどちらとも異なるみずみずしさが刻印されています。そしてロジンスキーとクレツキには後のステレオ時代に主流となってゆく後期ロマン派的な解釈をこの曲に持ち込もうとする試みがそれぞれ始まっていたことも、SP末期からLP初期にかけてかなりの水準にまで高められた再生音が如実に示してくれてもいるのです。
 音楽学どころでない時代に大戦に翻弄される中で音楽と身一つで向き合っていた先人たちの息吹の響き、そんな生々しささえも留めうる録音というものの素晴らしさ!
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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
30. 2022年1月22日 23:36:16 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[18]
古典の磁場の中で:その21 2人の有名指揮者:前半
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 ここまでステレオ時代に入るとモノラル時代に比べてテンポが遅くなり始め、特に緩徐楽章については70〜80年代に実時間でも全曲の比率で見ても一つのピークに達するものの、90年代に入るとそれが緩和され始める傾向が大まかに見て取れたわけでしたが、ともに2回この曲を収録したショルティとマリナーにもドホナーニと同様そんな傾向が見て取れます。今回はこの2人について書いてみたいと思います。

ショルティ/ロンドンSO(1954年)モノラル
11:50/04:28/09:04/08:52
計34:14 序奏2:55(24.6%)
(34.6%・13.0%・26.5%・25.9%)

マリナー/アカデミー室内O(1979年)
12:47/04:28/11:36/10:06
計38:57 序奏3:45(29.3%)
(32.8%・11.5%・29.8%・25.9%)

ショルティ/シカゴSO(1985年)
15:54/04:19/10:57/08:56
計40:06(反復あり)
(39.7%・10.7%・27.3%・22.3%)
12:58/04:19/10:57/08:56
計37:10(反復除外)序奏3:31(27.1%)
(34.9%・11.6%・29.5%・24.0%)

マリナー/アカデミー室内O(1993年)
15:21/04:09/10:31/09:35
(38.8%・10.5%・26.5%・24.2%)
計39:36(反復あり)
12:31/04:09/10:31/09:35
計36:46(反復除外)序奏3:34(28.5%)
(34.0%・11.3%・28.6%・26.1%)

 上の表はいつもと同じく録音年代順に並べているわけですが、ご覧のとおりショルティはモノラル期の50年代からデジタル初期の80年代、マリナーはアナログ末期の70年代から20世紀末の90年代にかけての歳月の変化を見て取れるわけで、彼らの再録音がどちらも初回録音には見られなかった冒頭楽章における提示部の反復を取り入れているところに楽譜の指示を遵守することが一般化したあの時代を思い出さずにはいられません。そしてショルティが彼本来のやや即物的な感触を保ちつつも31年後の再録音ではバーンスタインやカラヤンのような後期ロマン派的なバランス面での特徴を強めていたのとは対照的に、ショルティの再録音に僅かに先んじた彼より叙情的な音楽性の持ち主だったマリナーは、14年後の再録音ではショルティとは逆に緩徐楽章をやや速める反面でフィナーレを相対的により遅く設定することを通じ、コントラストよりも全体の流れの統一感を重視する方向に調整を加えているのです。そういう意味で彼らは共にその時期に好まれた流儀を察知しつつ、それを自分たちの音楽性と矛盾することがないよう馴染ませながら演奏していた。それがこれらの遺産からまず窺える時代の子としての彼らの姿勢です。

 それにしてもこうしてショルティとマリナーを聴き比べると、今さらながら彼らの演奏家としての非凡さも痛感させられます。ショルティの新録音は旧録音に比べて遅い部分はより遅くなっているにもかかわらず、リズムの刻みがはっきりしていてフレーズを引っ張らないので停滞感をまったく感じさせないのがいかにもこの人らしく、カラヤンみたいにチャイコフスキーっぽく聞こえることがありません。メンデルスゾーンにしては明らかに構えの大きい演奏でありながら、それが場違いには聞こえないのです。遅めのテンポをキープしながらも旋律を粘らせないので推進力が落ちず、各部の表情は主に歌い回しの硬度の違いとでもいうべきもので描き分けていくので後期ロマン派的な耽溺に決して陥らないその音楽作り。シカゴ時代の膨大な録音には交響曲だけを例にとってもハイドンからマーラーに至る広いレパートリーがあるわけですが、それらが決して場違いに感じられないのも彼の音楽作りのこういう特色が特定の様式のみに最適化されたものではないからだとつくづく思うのです。
 音楽家としてのショルティは、その意味では芸術家というより名職人と呼んだほうがふさわしかったのかもしれません。どんな曲もその対応力の広い音楽作り一本で処理してしまう彼は解釈を頭で考えるというより音楽というものに対する勘で仕上げる趣が確かに感じられ、それが手がける曲の作りをはっきり解き明かす成果を常に確保しているため、情緒的な強調が皆無でも不足感につながってこないのです。彼がワーグナーのシリーズで忘れえぬ成果を挙げたのは彼のスタイルがワーグナーに最適化されていたからでは全くなく、いかに巨大で破格なものであろうとも、音楽として演奏し聴けば必ずわかるという確信に裏づけられた職人としての手つきゆえのことであり、だから彼の演奏ではカラヤンのようにワーグナーまがいのメンデルスゾーンにならずにすんだ。それが解釈というものにもっと自覚的だったマリナーとの最大の違いだったことも今回の聴き比べで痛感させられたのでした。

 職人としてのショルティが新旧録音で見せた違いは時代が好むスタイルが旧盤の時点における新古典主義的なものから新盤では後期ロマン派的なものに移行したことが主たる原因であり、彼の職人としての姿勢には31年の歳月にもかかわらずなんら違いがなかったというのが実感です。それに対して旧録音の14年後に新たな録音を世に問うたマリナーの場合は曲を扱う手つきとでもいうべきものがはっきり変わっています。次回はその点に触れてみたいと思います。
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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
31. 2022年1月22日 23:37:02 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[19]
古典の磁場の中で:その22 2人の有名指揮者:後半
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1975673381


 職人としてのショルティが新旧録音で見せた違いは時代が好むスタイルが旧盤の時点における新古典主義的なものから新盤では後期ロマン派的なものに移行したことが原因ですが、彼の職人としての姿勢には31年の歳月にもかかわらずなんら違いがなく、作品に深入りしない姿勢の貫徹こそがむしろ目立ちます。それに対し旧録音の14年後に新録音を世に問うたマリナーの場合は、旧録音当時に流行した解釈への違和感めいたものが演奏に表れているように思うのです。まず新旧両盤のデータを再掲します。

マリナー/アカデミー室内O(1979年)
12:47/04:28/11:36/10:06
計38:57 序奏3:45(29.3%)
(32.8%・11.5%・29.8%・25.9%)

マリナー/アカデミー室内O(1993年)
15:21/04:09/10:31/09:35
(38.8%・10.5%・26.5%・24.2%)
計39:36(反復あり)
12:31/04:09/10:31/09:35
計36:46(反復除外)序奏3:34(28.5%)
(34.0%・11.3%・28.6%・26.1%)

 ここからわかることは、新録音が旧録音に比べて全ての楽章でテンポが速められていることと、新録音では第1楽章の提示部の反復がなされるようになったことです。その意味ではこれは80年代に出現した楽譜の見直しの最初の成果を新録音で取り入れたことから生じた変化だと一応みなしてよさそうです。
 けれどマリナーの新旧両盤が興味深いのは、彼がこの曲に示す解釈が特に旧録音においてとても解りやすいというか、この曲を彼がどう考えているかが掴みやすいものであるため、新しい研究成果を取り入れなければならなくなったことによって曲に対する接し方を彼がどう変えなければならなくなったかが見えやすい点にこそあります。それは後期ロマン派的な趣味性があらゆる曲に施されることが遂に限界に達してしまった70年代にも、そしてそのことへの批判や反動により学究的な姿勢が表舞台でも脚光を浴びるようになったそれ以後の時代にも、マリナーが己の解釈に自覚的であり続けたからこそ可視化されたものだと思うのです。だからここではまず旧録音がどんなものだったかを見ていかなくてはなりません。
 旧録音の最大の特徴は第3楽章がカラヤンに迫る11分台半ば過ぎという遅さがまず目に留まるにもかかわらず、実は第1楽章の速さこそが最大の特徴です。提示部を反復せず12分台という時間は70年代の演奏としては破格の速さで、それはこの時代に遅い奇数楽章と速い偶数楽章という隣接する楽章ごとに強いコントラストをつける解釈が多かれ少なかれ一般化していたからこそ意表を突くものでもあるのです。しかもこの楽章内では遅めの序奏と群を抜いて速い主部のコントラストはきっちりついていますから、これなら第2楽章はさぞ速いテンポになるだろうと思わせられるわけですが、意外にも第2楽章はゆとりを持たせたテンポなのでここでまず意表を突かれ、問題の遅い第3楽章では確かに遅くはあるものの、それがことさら強調されるよりはその印象をむしろ弱めることになっています。では終楽章はというとこれもむしろ遅めのテンポが採られていて、しかも冒頭楽章とは異なりこのフィナーレでは主部とコーダでもコントラストよりも基本のテンポの保持にこそ注意が払われていて、移行句のところで少し遅くなることが僅かなアクセントになっているだけなのです。
 結果的にこの演奏の全体像は速いテンポとコントラストの強さを特徴とする第1楽章を起点としていながらも以後は第3楽章に向けて段階的にテンポが落とされてゆき、フィナーレでも対比を強調するよりは第3楽章の余韻の中に留まるような曲として演奏されているわけで、当時の流儀からは相当かけ離れた解釈であることは間違いありません。これはもうマリナー自身が、この曲はそんなにコントラストを重視して書かれたものなのかという疑問なり問題意識なりを持っていないと出てこない解釈だとしか考えようがないのです。
 通常コントラストを重視した曲の場合、演奏家による解釈の幅が狭くなる傾向があることを考え合わせると「スコットランド」のように作曲家が連続性をも意識した曲では、演奏家側に両者のいずれにどうウェイトを置くかという判断を求めることになり、それだけ解釈の幅が広がるようにも思えます。マリナーの旧盤は基本テンポの設定が遅すぎる70年代の末期的ロマン派演奏様式の問題点、すなわち速さを感じさせるには速い部分をうんと速くしなければならず、連続性と両立しづらくなることを解決しようとした結果こういうものになったと感じさせるのです。
 新盤は第1楽章の演奏時間の短縮が序奏で稼がれていることに端的に表れているように部分ごとのコントラストは弱められているのですが、基本テンポがより速めに設定されたため変化の幅が小さくても緩急の変化はむしろ大きく感じられるようになっていて、連続性とコントラストがより無理のない形で両立していると納得させる演奏になっています。マリナーの2つの録音は当時の遅すぎる演奏スタイルがこの曲に強いていた無理の正体とそれを解決する方法を可視化していたのだと痛感する次第です。

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[近代史3] メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』 中川隆
32. 2022年1月22日 23:37:56 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[20]
古典の磁場の中で:その23 70年代の市場状況
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1976385183


 その後全集を録音していない指揮者たちによる70年代に収録された「スコットランド」交響曲が3つほど奥から出てきましたので、改めて70年代のリストの中に置いてみます。追加したのは72年のベルティーニ盤、75年のギブソン盤、79年のムーティ盤です。

カラヤン/ベルリンPO(1971年)
13:57/04:25/11:48/09:24
計39:34 序奏3:49(27.4%)
(35.2%・11.2%・29.8%・23.8%)

マズア/ゲヴァントハウスO(1972年)
13:23/04:25/08:08/10:16
計36:12 序奏2:46(20.7%)
(37.0%・12.2%・22.5%・28.3%)

ベルティーニ/ハンブルク国立PO(1972年)
12:30/04:25/09:45/09:39
計36:19 序奏3:30(28.0%)
(34.4%・12.2%・26.8%・26.6%)

ギブソン/スコットランド・ナショナルO(1975年)
13:12/04:35/09:48/09:42
計37:17 序奏3:17(24.9%)
(35:4%・12:3%・26.3%・26.0%)

ドホナーニ/ウィーンPO(1976年)
13:24/04:30/09:23/09:24
計36:41 序奏3:34(26.6%)
(36.5%・12.3%・25.6%・25.6%)

バーンスタイン/イスラエルPO(1979年)
13:55/04:05/11:15/09:55
計39:10 序奏4:07(29.6%)
(35.5%・10.4%・28.7%・25.3%)

マリナー/アカデミー室内O(1979年)
12:47/04:28/11:36/10:06
計38:57 序奏3:45(29.3%)
(32.8%・11.5%・29.8%・25.9%)

シャイー/ロンドンSO(1979年)
14:31/04:25/11:55/10:07
計40:58 序奏4:03(27.9%)
(35.4%・10.8%・29.1%・24.7%)

ムーティ/ニュー・フィルハーモニアO(1979年)
18:30/04:19/11:31/09:55
計44:15(反復あり)
(41.8%・09.8%・26.0%・22.4%)
15:03/04:19/11:31/09:55
計40:48 序奏3:45(24.9%)
(36.9%・10.6%・28.2%・24.3%)

 このリストで目につくのは、第3楽章のタイムが11分台の演奏と8〜9分台の演奏の2グループにはっきり分かれ、その間に断層があること。ちなみに前者は比率の上でも第3楽章が第4楽章よりはっきりウェイトがかけられていますが、後者はほぼ同じかむしろ第4楽章にウェイトがかかっているのが見て取れ、そのことが10分台という中途半端なタイムの演奏が見られないことの原因であろうことが窺えます。当然ながら耳にした印象としては前者がはっきり後期ロマン派趣味、後者がそことの距離があるものという形で完全に二分されています。その2群をグループに固めて並べてみると、また異なる特徴が見えてきます。

カラヤン   (71年)DG      国内初出:LP
バーンスタイン(79年)DG      国内初出:LP
マリナー   (79年)デッカ     国内初出:LP
シャイー   (79年)フィリップス  国内初出:LP
ムーティ   (79年)EMI     国内初出:LP

マズア    (72年)オイロディスク 国内初出:LP
ベルティーニ (72年)アカンタ    国内初出:CD
ギブソン   (75年)CFP     国内初出:なし
ドホナーニ  (76年)デッカ     国内初出:LP

 ご覧の通りメジャーレーベルと契約して盛んに録音していたスター指揮者たちはみな後期ロマン派趣味の演奏で、しかもカラヤン以外は79年に集中しているのが特徴的です。そして下の4人のうちベルティーニとギブソンは国内盤がありませんでしたし、マズアとドホナーニも指揮者よりオケに注目されて売られていたものでした。当時の市場の好みや状況が歴然と窺えます。
 70年代がレコーディングにおけるカラヤンの絶頂期だったことを考えると、当時第2グループのマズアやドホナーニ盤では売り上げの点でカラヤンに及ばなかったのは間違いなく、新録音が企画されたとき各社ともユーザーに支持されたカラヤンと演奏スタイルがなるべく近くなるよう人選した結果がここに現れているのではとさえ思えます。かりにそれが穿ちすぎだとしても、少なくとも当時の日本におけるクラシック市場の表通りがどんな状況だったのかだけは、ここに反映しているといえそうです。

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[近代史7] mixiユーザー(id:7656020)の日記 中川隆
1. 2022年1月22日 23:49:03 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[21]

メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』
mixiユーザー(id:7656020)の日記 古典の磁場の中で
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http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/856.html#c1
[近代史7] mixiユーザー(id:7656020)の日記 中川隆
2. 中川隆[-14098] koaQ7Jey 2022年1月22日 23:51:31 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[22]
2017年08月30日
古典の磁場の中で:その7 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲手稿版
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1962361732?org_id=1962327733

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/856.html#c2
[近代史5] 音楽関係ブログ 中川隆
6. 2022年1月23日 00:01:54 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[23]
mixiユーザー(id:7656020)の日記
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/856.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/399.html#c6
[近代史4] 音楽関係ブログへのリンク 中川隆
2. 中川隆[-14097] koaQ7Jey 2022年1月23日 00:02:43 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[24]
mixiユーザー(id:7656020)の日記
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/856.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1207.html#c2
[番外地10] 旭川中学校関係の隠語  中川隆
1. 中川隆[-14096] koaQ7Jey 2022年1月23日 00:15:32 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[25]
旭川中学校関係の隠語
野菜=マリファナ
アイス=覚醒剤
ナマコ=生娘=12,13歳の女の子
イジメ=アイスを飲ませて児童売春させる
自殺=自殺に見せ掛けてコロす

年が若すぎる子はアイス使わないと痛くてたまらないし感じるなんて無理なので、ヤクザが子どもを売るときはアイスよく使います
あと、年はいってても山程客取らせてると疲れで動けなくなるので、この場合も
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/258.html#c1

[近代史02] 作曲家フルトヴェングラーとは何であったのか? 中川隆
40. 中川隆[-14095] koaQ7Jey 2022年1月23日 02:04:19 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[26]
874名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 11:18:42.90ID:dJLaw6nv
>>871
DGが発売したティタニアパラストでのブラ1が入ってねえじゃんよ

875名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 11:20:07.93ID:Vdq7+c8G
>>871
すると宇野なんかも人気絶大なんだろうな

876名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 11:36:31.99ID:3Jb4STkP
ID:Asp20sPc 名言集

 1.フルトヴェングラーはドイツの伝統を完全に無視
 2.フルトヴェングラーは音楽には関心が無く、
 3.観客からどう思われるかしか興味が無かった
 4.カラヤンを嫌ったのは、それを真似されたから
 5.フルトヴェングラーは暗譜では指揮できなかった
 6.フルトヴェングラーの名演はベートーヴェンだけ
 7.中高生に人気があるのは、ティンパニをぶっ叩くから
 8.難聴になったのもティンパニが原因

ここまでくると、かえって面白い
もっとやれ


887名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 11:26:35.96ID:vQm0rNYS
>>870
久しぶりに覗いたら酷い言われようでオレ涙目
センターの代表に言いつけてやる!

888名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 11:46:35.95ID:z0UhEehC>>890
フルトヴェングラーの名演もベートーヴェン交響曲第7番と第九と序曲くらいかな

ベートーヴェンでもクナッパーツブッシュ、ムラヴィンスキーやワインガルトナーやワルターの方が良いのが多い
フルトヴェングラーはティンパニーの音響の凄まじさで名演だと錯覚されているだけ

ベートーヴェン 交響曲第1番、第2番 はワルター コロンビアの方が遥かに名演
ベートーヴェン エロイカ はクナッパーツブッシュやワインガルトナー、ムラヴィンスキーの方が名演
ベートーヴェン 交響曲第4番 はムラヴィンスキーの方が遥かに名演
ベートーヴェン 交響曲第5番 はクナッパーツブッシュ、ムラヴィンスキーやクレンペラー・ウィーンフィルの方が名演
ベートーヴェン 田園 はワルターの方が遥かに名演
ベートーヴェン 交響曲第8番 はワインガルトナーやクナッパーツブッシュの方が遥かに名演

協奏曲の伴奏ではベームやワルターには敵わない

889名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 12:10:47.95ID:ISDcxavY
何年のどのオケとの録音か書けよ

890名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 12:27:56.44ID:Yxi5DLmh
>>888
ベートーヴェンにおける「名演」と「ベスト」盤を混同している
フルトヴェングラーが全てにおいてベストではない、
というのは、ほぼ全員が同意する部分なのだろうが、
それを以て、7番と9番以外は名演ではない、
などと脊髄反射な結論を出すから、乱暴だし
わざとやってるなら悪質だし、気づかないなら
国語からやり直せだろうし

891名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 13:45:11.78ID:z0UhEehC
宇野功芳なんか昔はベートーヴェンのすべての曲でフルトヴェングラーが断然最高だと言っていた。
フルトヴェングラーのファンもみんなそう思っていた

今はSP復刻盤のレベルが飛躍的に上がって、ワインガルトナーやメンゲルベルクやトスカニーニがどれ位凄かったかわかってきたから
評価も変わったんだ
何故かフルトヴェングラーのCDは昔のLPより酷い音になってるから猶更だ。

892名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 13:51:16.08ID:z0UhEehC
現在の客観的評価では

ワインガルトナー、メンゲルベルク、アーベントロート、トスカニーニ、ワルター、ストコフスキー、フルトヴェングラー
は横並びで、得手不得手が有るだけで優劣は全く付けられない

クナッパーツブッシュ一人だけがワンランク上かな

893名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 13:58:03.28ID:z0UhEehC
カラヤンはベルリンフィルやウィーンフィルを使ってあの程度だから二ランク位は下だね

フルトヴェングラーもオーケストラが良いから名演になっているだけかな。

894名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 14:01:35.07ID:z0UhEehC
SP時代のワルターなんかウィーンフィルとは凄い名盤を沢山残しているけど、それ以外のオケでは平凡だろ。
オーケストラで名演になるかどうか 9割方決まってしまうんだよ。
フルトヴェングラーはオケで得してただけだよ。

895名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 14:18:36.90ID:z0UhEehC
>ベートーヴェンにおける「名演」と「ベスト」盤を混同している
フルトヴェングラーが全てにおいてベストではない、
というのは、ほぼ全員が同意する部分なのだろうが、


SP時代のウィーンフィルのレコードは指揮者によらずすべて名演だよ

896名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 14:58:15.66ID:Azx7mdwX
シャルクはワインガルトナーよりすごい

897名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:40:26.32ID:z0UhEehC
シャルクの『運命』そして『田園』は、音盤史上初めて電気的録音された一連のウィーン・フィルの演奏という点、そしてウィーンのオペラ界にその足跡を確実に残しながらも、同時期の指揮者と比較して録音が少なかったり、師ブルックナーの交響曲を兄でピアニストのヨーゼフと共に「改竄」したという悪評だけが残ってしまった感のあるフランツ・シャルクの音楽性の高さを聴くことができる音盤である。

シャルクの師 ブルックナー
ブルックナーの件について話し始めると、長くなりそうだが掻い摘まんで・・・。
シャルク兄弟がブルックナーの楽譜に勝手に手を入れ、ブルックナーの音楽様式を歪めた、というが、それは現代の視点から見た知見であって、その視点だけで2人を悪者扱いすることは、バランスが大きく傾いた考え方であり、賢明、適正な判断ではない。
ブラームスと彼を表看板として音楽美学、評論を披瀝した学者兼評論のハンスリックが席巻していた当時の音楽首都ウィーン。
そんな町で彼らとは全く異なった音楽美学を信条として、活動していたのがブルックナーである。
彼の音楽家としての活動、それは単に作曲するだけでダメで、作品をコンサートに上げる、つまり演奏されることが絶対的に必要である、ということをシャルク兄弟が重んじたが故に、気弱で臆病なブルックナーに代わって「演奏されやすく」するために楽譜を書き換えた、という言い方でなければ真実として伝わらない。
ブルックー自身にとっても「自分の交響曲がとにかく演奏されること」という欲望を払拭することなどできなかったのだ。
誤解を恐れず言うならば、「音楽は再生芸術」という観点から、演奏されなければその音楽の意味、価値はない。ましてや、作曲者自らが自作を指揮できるほど、彼らの作品(オーケストレーション)は単純なものではなくりつつあった時代が到来、いわゆる「職業指揮者」の存在なくしては、「良く演奏されない」時代となったのだ。
ハンス・フォン・ビューロー、ハンス・リヒター、そしてアルトゥール・ニキシュ。彼らの手により取り上げられた作品は輝きは放つようになった。それはブラームスであっても同じことだ。
敢えて言うなら例外は2人だけ。グスタフ・マーラーとリヒャルト・シュトラウスのみだ。
そんなことは以前こんな文章で皆様とシェアしている。

898名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:40:48.96ID:z0UhEehC
さて、そういう意味ではフランツ・シャルク(Franz Schalk, 1863年5月27日 - 1931年9月3日)は、先に挙げた3人の指揮者の系統に連なるウィーンの歴史的指揮者だ。

G.マーラー〜F.ワインガルトナー〜F.シャルク〜C.クラウス
1918年から29年まで、途中(19年〜24年)、R.シュトラウスとの双頭体制時代も含めウィーン国立歌劇場(途中まではウィーン宮廷歌劇場)総監督の地位にあったシャルク。
彼の先代はフェリックス・ワインガルトナーであり、さらにその前はマーラーがその任にあったのだ。
マーラーがこのオペラハウスで徹底的に行ったオペラ上演改革(改善)は、劇場関係者、オーケストラ、歌手たちにあまりに厳しかったこともあり、彼が総監督を辞任したのを受けその地位に就いたワインガルトナーは、マーラーの改革から逆行し、復古主義的体制、「事勿れ主義」に徹した。
ワインガルトナーの指揮を「エレガント」とか「古典的」などと言い、「ベートーヴェン交響曲全集を完成させた史上初の指揮者」などと持ち上げる人がいるが、個人的には無個性な音楽を作る人で、音楽的充実の観点からは、決して歴史に名を連ねる存在ではない、と思っている。
更にブルックナー・オタの立場で物申せば、ブルックナーの『交響曲第8番』を初演することを作曲者に約束したにもかかわらず、のらりくらりとした態度で、結果的にはそこから降りたワインガルトナーには、時代の変わり目、潮目で大きく変わろうとしている音楽の姿を認識する力がなかった、と断じていいように思うが、いかがだろうか?
まぁ、彼が断わったことで、ブルックナーの最大最高傑作はH.リヒターの手によりウィーン・フィルにより初演されたので、結果オーライと言えばそうなのだが・・・。

899名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:40:59.42ID:z0UhEehC
閑話休題。
その点ではシャルクはマーラーの時代へとまた舞い戻るかのように、歌手や若手のオーケストラ団員の育成に力を注ぎ、熱血指導したと言われているし、証言も多い。
その音楽性は同僚でもあった(反りが合わなかったという専らの話)シュトラウスの新古典主義的なものとは異なり、19世紀のロマン的解釈を色濃く残したものであるが、今聴いてもそれが古めかしいというイメージはあまりない。
むしろその面よりも品格の高さ、香りの豊かさに耳がくぎ付けになる。
その文脈で語るならば、シャルクが総監督を辞任して、代わりにそこに座った若き天才、この「note」でもおなじみのクレメンス・クラウスや、そのクラウスの影響をもろに受けたヘルベルト・フォン・カラヤンには、シャルクの遺産が確実にに受け継がれている。
https://note.com/bach_kantaten/n/na9d331bb2054

900名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:41:27.59ID:gLa2jVNj
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j1031561856
愉快愉快


901名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:57:44.98ID:z0UhEehC
フランツ・シャルク/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調Op67「運命」
   7:37/8:40/5:00/8:35
   (第1楽章リピート:ワインガルトナー版)
CD(EMI新星堂 SGR-8005)
 ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調Op67「運命」
   7:38/8:41/5:02/8:35
   (第1楽章リピート:ワインガルトナー版)

 フランツ・シャルク指揮
  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  録音 1929年10月26〜28日 

 

902名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:58:11.18ID:z0UhEehC
このレコードは冒頭で4つの音をたたく演奏というレッテルが貼られてしまい、そのことばかりが印象付けられてしまいました。しかしどのような指揮をしていたのかわかりませんが、この曲の冒頭はどの指揮者にとっても頭のいたいところだそうですから、オケが乱れることは充分ありえます。クナッパーツブッシュのライブでもそんなことがありました。また練習指揮者と本番の指揮者の違いでオケが戸惑うこともあります。実際に自分が高校の時に同じ経験をしていますので、冒頭で4つの音をたたくというのは珍しいことではないように思います。緊張が緊張を生んでいることは確かです。
 さてこの演奏はウィーン・フィルの初めてのレコード録音です。ムジークフェラインでの録音でした。田園と第8は1928年にやはりシャルクが録音しています。  交響曲第5番の第1楽章はだんだん良くなってきます。ウィーン・フィルの音になってきます。ウィンナホルンの響きも好調です。オーボエカデンツァも愛らしい響きです。コーダ最後の運命の動機は思い切り強調、そしてフェルマータをたっぷり伸ばしていました。
 第2楽章はやや速めのテンポです。ここのウィーン・フィルは完璧です。思わず音の古さを忘れて聞き入ってしまいます。第2変奏の木管の合いの手はまさにムジークフェラインの響きです。ワルターの田園を思い出します。木管四重奏もきれいでした。また第3変奏の木管ですが八分音符をすでにここでは短く演奏しています。スタッカートに近いです。きれいな2楽章でした。
 

903名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:58:24.06ID:z0UhEehC
第3楽章は普通の速さです。リタルダンドも軽めでした。提示部の演奏は完璧です。トリオのフーガの素晴らしさは言うまでもなくこのオーケストラの得意中の得意のようです。フィナーレまでの経過部の絶妙さはたまりません。素晴らしいです。
 フィナーレの音の厚みとオーケストラのアンサンブルの見事なことはとてもこの1929年の演奏とは信じられません。ヴァイオリンのうまさは最高です。展開部も申し分なしです。第3楽章の回想は大変美しいものになっていました。再現部も見事です。コーダになってもその勢いは止まらず見事なフィナーレとなっています。
 全曲を聴きますと、いかに当時のウィーン・フィルが優秀だったかがわかります。冒頭のずれは目をつぶってこの名演に耳を傾けたらどうでしょうか。
 ところでCDは新星堂の復刻を聴きました。LPは70年代にカッコウというレコード屋さんがプライヴェートで復刻したものを聴きました。広域はかなりカットしていますが低音はよく響いていました。LP復刻はキャニオンから発売されていましたがそれは購入していませんでした。

904名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 16:08:18.00ID:z0UhEehC
要するに、ワインガルトナーはブラームス派、シャルクはブルックナー派で対立していたのですね。
世間の評価は勿論ワインガルトナーの方が遥かに上でした:

ワインガルトナーが一人の指揮者によるベートーヴェン交響曲全集を最初に完成させたということは、当時における彼のベートーヴェン演奏が今からは想像し難いくらい高く評価されていた証であるだけでなく、往時のベートーヴェン像や美意識がその後のものとは異なるものだった可能性をも示唆しているような気もします。ストコフスキーはいうに及ばず、メンゲルベルクやフルトヴェングラーさえセッション録音だけではその生涯にベートーヴェンの9曲全部を遺せなかったことを思えば、当時ワインガルトナーの扱いは破格だったとしかいいようがありません。
 ワインガルトナーはベートーヴェンに対してもメンデルスゾーンと同じ姿勢で接していますが、結果としての演奏ではテンポの動きがより控えられ古典的な輪郭が前面に打ち出されている点に受け身の姿勢だからこそキャッチしているものもあるのだと感じさせるのがこの人ならではで、ベートーヴェン特有の粗野な迫力が均されているきらいはあるものの、それが当時の美意識だったとの確かな手応えも感じさせます。そして大戦中の1943年にスイスで亡くなったワインガルトナーの時代の美意識がしだいに消えゆくしかなかったことも。
 ステレオ初期のベートーヴェン全集には、ワインガルトナーの面影を感じさせるものがそれでもまだありました。弟子であったクリップス/ロンドン響をはじめクリュイタンス/ベルリンフィルやS=イッセルシュテット/ウィーンフィルなどどれも無理にスケールを広げすぎず、端正な造形と当たりの柔らかさを多かれ少なかれ感じさせるもので、それがワインガルトナー的美意識がいかに当時の音楽土壌に深く根を下ろしていたかの証だったとも思えます。けれどそれらはやがてよりスケールの大きさや堅固な骨格、ひいてはベートーヴェンならではの先鋭さを重視する演奏に置き換えられていったのです。70年代末に当時シドニー響の指揮者だったオッテルローの交通事故死で未完成に終わったベートーヴェン集がメモリアルとして後に出たとき、僕にはこういう美しいベートーヴェン演奏の時代が終わったことを示す墓碑銘にさえ見えたものでした。

 

905名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 16:08:35.78ID:z0UhEehC
現在一般のクラシックファンはいうに及ばず、ヒストリカル録音の愛好家たちの間でさえワインガルトナーへの関心は高いとはいえません。SP録音時代の発売点数ではトップクラスの存在であったにもかかわらず、ウィーンフィルとの組み合わせの音源を除けばほとんどはめったにCD化されず、新星堂がまとめて復刻した大全集も再評価の動きには繋がりませんでした。往年の大演奏家たちの多くが出所の怪しいライブ録音や放送録音まで探索の対象となっている中、ワインガルトナーだけは全くそんな音源が出てこないというのはもはやただごととは思えませんが、それはやはり誇張を体質的に忌避する彼の音楽性が、整った美演よりも八方破れの爆演をむしろ尊ぶ愛好家たちの嗜好とそれだけずれているからだとも感じるのです。
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1961613276

906名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 16:14:37.44ID:z0UhEehC

マーラーとR.シュトラウスは芸術家、ワインガルトナーは貴族、フルトヴェングラーとストコフスキーは興行師、シャルクとワルターは職人

という事ですね。

907名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 16:26:32.88ID:z0UhEehC

クラシック音楽は
第一次大戦前のワインガルトナーの様な貴族が高貴で品位有る音楽をやる時代は終わり、
第一次大戦後のフルトヴェングラーやストコフスキーみたいな下品な大見得を切る山師が活躍する時代に変わったのです

908名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 16:47:11.86ID:ksQambvv
フルトヴェングラーは、どっちかというと政治家

921名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 17:41:27.20ID:z0UhEehC

要するにフルトヴェングラーは中身が無いから、大見得切ったり、恰好付けるしかなかったんだ。
手足を振り回して、大袈裟にテンポの緩急を変えて、要所でティンパニ−を滅茶苦茶ぶっ叩いとけば一応恰好つくもんね。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/482.html#c40

   

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