★阿修羅♪ > 近代史02 > 482.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
作曲家フルトヴェングラーとは何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/482.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 4 月 23 日 19:24:17: 3bF/xW6Ehzs4I
 

ドン・ジョヴァンニが改悛を迫る騎士長(石像)を拒み、「NO!NO!」と叫び続ける。

急に涙があふれ、目の前が見えなくなった。

いつの世も時代を切り拓くのは、若者達のエネルギーだ。

今私達は、「NO!NO!」と信念を貫くことができるだろうか。

ふと問うてみたくなった。

http://www.opera-sai.jp/message/index.html


WILHELM FURTWÄNGLER "DON GIOVANNI-OUVERTURE" 1953
http://www.youtube.com/watch?v=n0H2Klnl2Sc&feature=fvst

Sextet from Don Giovanni (Furtwängler)
http://www.youtube.com/watch?v=9YCHCV_7N3w

"Finch'han dal vino" - Don Giovanni - Furtwängler
http://www.youtube.com/watch?v=49wbYpG2PYM

Cesare Siepi in Don Giovanni
http://www.youtube.com/watch?v=GY-_3oCnqtY

Cesare Siepi as Don Giovanni
http://www.youtube.com/watch?v=W7JoIB-lT9Q

Don Giovanni - Furtwängler - O Statua Gentilissima Wernecker
http://www.youtube.com/watch?v=CzfRho5UeuM

WILHELM FURTWÄNGLER Don Giovanni - Commendatore scene
http://www.youtube.com/watch?v=jATcM8X29zc

Mozart: Don Giovanni ACT2 Finale by Furtwangler 1954
http://www.youtube.com/watch?v=FnZ-198_wqo


__________


1. 前代未聞・空前絶後の大指揮者フルトヴェングラーとは何であったのか?

芸術というものは、「切れ目」があるもの。音はつながっていても、その流れの中に明確な「切れ目」がある。だって、そもそも芸術作品というものは、創作する人間に神の言葉が降り降りたから、永遠に残る作品になったわけでしょ?

その瞬間は、人間の発想の「流れ」は、切れますよ。

逆に言うと、だら〜とつながっている「流れ」を持つ作品は、たとえ音に切れ目があっても、人間の思考の範疇にあるわけ。

以前にマルグリット・デュラスの「インディア・ソング」を考えた際に触れましたが、「最適化とまり」の作品と言えるわけ。そんな作品は、「夜明け」に到達できないnormalな量産品ですよ。


最適化の作業を超えた神の声。そんな瞬間には、時間の流れが止まってしまうもの。

だから、「切れ目」が発生することになる。音がつながっていても、「流れ」が切れるわけ。


もちろん、音楽作品において、そんな「切れ目」があれば、音が一端切れることもありますし、音楽の音色の変化となるケースもありますし、テンポが変わるパターンもある。音楽の表情の変化には色々なパターンがあるもの。

しかし、音楽を聞いていて「ああ!この箇所で、単に音が変化したのではなく、世界が変わったなぁ・・・」と思うこともあるでしょ?

表現された「世界の切れ目」は、現実的には、音楽の流れにおいても切れ目となる。だから、音楽の切れ目に注目すれば、表現された「世界の変化」あるいは、その作品に現れた創造者の声も、見えてくる。日頃から創造的な日々を送っていれば、そんな「切れ目」に対する反応が鋭くなるわけですし、ルーティーンな日々を送っていれば、明確な切れ目があっても、見過ごしてしまう。


今回取り上げるのは、音楽映画「フルトヴェングラー その生涯の秘密」と言うもの。
芸術的な映画と言うより、記録映画に近い映画です。この映画を元に、フルトヴェングラーという人を考えて見たいと思っているわけ。

フルトヴェングラーと言う人は、第2次大戦を挟んでベルリン・フィルの指揮者だった人でした。1954年にお亡くなりになっています。没後50年以上経っているのに、今でも崇拝者はいたりしますよね?

フルトヴェングラーは当代随一の大指揮者であったとともに、作曲も、しました。

第2次大戦という困難な時代に、よりにもよって、ベルリン・フィルの指揮者だったため、ナチとの関係が色々と指摘されることになる。その映画でも、そんなシーンが出てきます。ナチとの関係は、後で考えてみます。とりあえず、ここで考えてみるのは、切れ目の問題です。


実は、このDVDの解説が、結構面白い。日本の音楽関係者さんが解説をなさっておられるようですが・・・

「切れ目」への反応が・・・何と言うか・・・うーん・・・と言わざるを得ないもの。

実は、このDVDの終わりの方に、第2次大戦の終結前にフルトヴェングラーがワーグナーの「マイスタージンガー」の前奏曲を指揮するシーンがあります。フルトヴェングラーとオーケストラはコンサート会場(と言っても体育館かな?)で演奏している。そこにはナチのカギ十字の旗が掛かっている。軍需工場の慰問の意味もあるのかな?

そして映画では聴衆が映っているわけです。フルトヴェングラーとオーケストラの演奏シーンがあって、聴衆が真剣に聞いている映像が流れて、そしてまた演奏シーンがあって、そして、聴衆のシーン・・・と繰り返される。映っている聴衆は、実に、真剣な、表情。

DVDの解説では、「スゴイ演奏だ!だから、聴衆がこんなにも真剣に聞いている!」なんて書かれていますが、読んだ私はその言葉にビックリ。

映像を見れば疑問に思うはずですが、フルトヴェングラーとオーケストラによる演奏シーンと、真剣に聞く聴衆のシーンって、同時に収録したものなの?

聴衆のシーンは別撮りじゃないの?
そして、後で編集したのでは?

同時収録の聴衆もいるでしょうが、全部が全部同時収録なの?

映っている聴衆に当たっている光の具合って、実際のコンサート会場ではありえない場合がある。それに聴衆と演奏家が一緒に映っているシーンがほとんどない。聴衆の映像に、音楽が流れるだけ。それに、フルトヴェングラーのコンサートなのに、それに特に正装している服装ではないのに、まあ、映っている聴衆の周囲がスカスカで、一人しか映っていない場合もある。安い席なら、もっと聴衆を詰め込むでしょ?ただでさえ希望者が多いんだから・・・


真剣な表情で音楽に聞き入っている聴衆の姿って・・・まあ、演技のプロなら当然ですよ。そもそも当時のドイツは純然たる独裁国家。そのイベントを収録した映像に映っている人物が、まるっきりのカタギと言うわけには行かないでしょ?

それこそ今だったら、北朝鮮政府が映した映像で映っている「一般国民」が、どんな素性の「一般国民」なのか?ちょっと考えればわかるはず。それに当然のこととして、当時のカメラは巨大なもの。ゴダールの「勝手にしやがれ」のように手持ちカメラでの撮影と言うわけにはいかない。自分の目の前にそんな巨大なカメラがあったら、落ち着いて演奏を聞くどころではないでしょ?

そして、当然のこととして、相当の光を当てないと、当時の感度の低いフィルムには収められませんよ。映っている「聴衆」にも、相当の光が当たっていたはず。それに、当時の政治体制を考えれば、聴衆だって「ミスは許されない」状態。こりゃ、「真剣」にもなりますよ。命が掛かっているもん。


「一般の聴衆が、こんなに真剣な表情で!」
・・・なんて・・・素直ないい子だねぇ・・・


何も私はその「解説」を失笑しているわけではありませんヨ。シーンの切れ目に対する反応の鈍さについて考えているだけです。

演奏シーンがあって、聴衆のシーンへと続く・・・

その「切れ目」に何があり、どんな意図があったのか?

日頃から創造的なことをやっている人だったら、そんな切れ目を見逃すはずはないんですね。逆に言うとルーティーンな日々を送っている人は、そのような「切れ目」に反応することは難しいんでしょう。これはしょうがない。日本の音楽現場と言うものは創造現場とは距離があるんでしょうね。

創造的な瞬間、人間の思考が途切れる絶対的な瞬間・・・

そんな瞬間とは無縁なんでしょう。申し分のない立派な市民と言えるんでしょうが、芸術家とは言えませんね。まあ、その「解説」は切れ目への反応の鈍さの実例。逆に、切れ目への反応の鋭さの実例というと、実は、このDVDで典型的な箇所があります。

映画に登場しているドイツの音楽研究者さんがフルトヴェングラーが演奏したバッハのブランデンブルク協奏曲の第5番について考えている箇所。その演奏が持つ切れ目がすばらしい。

フルトヴェングラー指揮による、バッハのブランデンブルク協奏曲・・・そんな組み合わせの方に、21世紀に生きる我々は失笑してしまう・・・そんなものでは?

フルトヴェングラーが活動していた時代から、バッハの演奏スタイルは大きく変わってしまいましたからね。実際に、この演奏でもチェンバロではなくピアノが鳴り響く。現代的と言うか、古いというか・・・

しかし、これがまたビックリするくらいに面白い。単に、古楽器による演奏に馴れた我々の耳に、逆に新鮮に響く、と言うものではなく、音楽の「切れ目」が生きている。

音楽の切れ目から、神からの霊感そのものが、鮮やかに浮かび上がる。

「ああ!ここでバッハに、神から霊感があったんだなぁ・・・」って、誰だってわかるのでは?

私はその「切れ目」の部分で、魂が身体からスーと抜けて行く感じがしたくらい。演奏スタイルが古いとか正統的とかの議論よりも、創作者に降り降りた神の言葉を再現することの方が重要でしょ?

フルトヴェングラーの演奏を聞いていると、その切れ目から、まさに「神の言葉」が聞こえてくる。創造的な音楽は、音楽の流れの中に、たまたま切れ目があるのではなく、切れ目をつなぐために、メロディーがある、むしろそっちのスタイルに近いもの。

それこそフルトヴェングラー指揮の有名なバイロイトでのベートーヴェンの第9交響曲の演奏ですが、あの「歓喜に寄す」のメロディーが、「入ってくる」その切れ目のすばらしさ・・・

それは誰だって認めるでしょ?全体が問題ではなく、切れ目が問題と言えるのでは?

神は切れ目に宿るわけ。切れ目への鋭い反応。そしてそれを再現する技量。フルトヴェングラーが、確かに、当代随一の指揮者であったのも、よくわかりますよ。

さて、前にも書きましたが、このフルトヴェングラーは、ナチとの関係が色々と指摘されたりします。多くの芸術家がドイツを後にしたのに、ドイツ国内に留まった。もちろん、彼もナチに対して抗議の声を上げたのだけど、どうも「あいまい」な態度。あるいは、このDVDに登場する画家のココシュカの言い方をすると、「とまどう」態度。

駆け出しの演奏家ならいざ知らず、指揮者としては当代随一の人だったんだから、生活の問題はないはず。心情的にはナチにシンパシーを持っていたのでは?

そんな指摘が、ナチの蛮行が本格化する前から、フルトヴェングラーに寄せられていたわけ。それに対し、

「音楽は政治とは関係ない!」

「私はドイツ音楽に忠誠を誓っているのであって、ナチに忠誠を誓っているのではないんだ!」

「ドイツ音楽を守るためにも、ドイツに残る。」


彼はそのような発言をしたわけ。「芸術と政治は関係ない!」という主張は、別の言い方をすると、「政治と芸術の間には切れ目がある。」と言う主張とも言えるでしょう。

その主張はともかく、もっと明確な態度でもよかっただろうし、取ることもできたのでは?

政治と関係ないと積極的に思うのなら、政治的な場所から切れて、積極的に距離を置けばいいだけ。ただ、その動乱の時代の当事者でない部外者が、もっともらしくコメントしても意味がない。

ただ、ナチとの関係が「あいまい」であったとは言えるでしょう。だって、他の多くの音楽家は、もっと明確な態度で臨んだわけですし、そのような断固とした態度をフルトヴェングラーに勧めた人も大勢いた。つまりフルトヴェングラーには他の選択肢を知っていて、その選択の可能性もあったわけ。

いっそのこと、ナチに忠誠を誓っても、それは個人の政治信条の問題。ナチに反対して、さっさと亡命して、他の国から「ナチからの解放」を呼びかけるのも、立派な態度。フルトヴェングラーは、「あいまい」なんですね。

しかし、フルトヴェングラーの「あいまいさ」って、ナチとの関係だけではない。音楽家にとって、もっと重要な問題においても、実にあいまい。

音楽家であることはいいとして、演奏家なのか?作曲家なのか?

その問題と真摯に向き合ったりはしない。

「ボクは本当は作曲家なんだ!」

なんて言うのはいいとして、実際に作曲をするわけではない。作曲する時間があっても、何とかして逃げ出そうとする。第1次大戦において、それこそ若いフルトヴェングラーは率先して兵役に付こうとしたらしい・・・

せっかく、徴兵検査で不合格になったのに・・・志願するなんて・・・

愛するドイツのため・・・は、いいとして、そのドイツの芸術を発展させることの方が、創作活動をする者の重要な仕事でしょ?

「ベートーヴェンやブラームスを産んだ祖国を守る!」

なんてお題目はいいとして、だったら、なおのこと自分が作曲することでベートーヴェンやブラームス以上の作品を残した方が祖国ドイツにとっても価値があるのでは?


フルトヴェングラーは、作曲の時間ができると、何かに首を突っ込んで、その作曲できる時間をつぶしてしまう。そんなことの繰り返し。その点は、ナチとの「あいまい」な関係で非難された作曲家のR.シュトラウスとは全然違っている。

シュトラウスは、要は自分が作曲できて、自分の作品が上演されれば、それでいい・・・と、割り切っている。ナチに対しても、いつの時代にも存在する、単なる「よくある障害物」くらいの認識。気に入らないヤツらだけど、明確には敵にする必要はない・・・それよりも、アイツらを、うまく使ってやれ!

シュトラウスはナチとはあいまいであっても、音楽活動に対しては、実に明確なんですね。シュトラウスが取ったこのような態度は、分野は違っていますが、ロケット開発のフォン・ブラウンとも共通しています。

自分が本当にやりたいことがわかっているものの発想。これこそが天才というものですよ。それに対しフルトヴェングラーは、「あいまい」な態度ということでは首尾一貫している。ナチともあいまい。作曲活動もあいまい。

あるいは、フルトヴェングラーのライヴァル関係であったトスカニーニとの関係もあいまい。トスカニーニを嫌いなら嫌いでいいわけですが、「敵にしたくない!」「嫌われたくない!」あるいは、「嫌ってはいけない!」なんて心情が見えてくる。

いつだって誰に対してだって判断保留の状態。

トスカニーニにして見れば、フルトヴェングラーは、指揮者としては偉大。政治的には無能。友人とはいえない。と明確。トスカニーニだって他の指揮者についての評価や関係についてウジウジ考えているヒマなんてありませんよ。どうせ共演するわけでもないし・・・割り切って前に進むしかないでしょ?

フルトヴェングラーの行動なり発言を読んでいると、「で、アンタ・・・いったいどうしたいの?」なんて思ってしまう。

フルトヴェングラーに対するトスカニーニなり、F.ブッシュの怒りも、そのあたりなのでは?

もちろん、「芸術と政治は関係ない!」という正論は正論。現実は、そんなものじゃないけど・・・

しかし、「芸術は政治とは関係ない」と言う理屈はいいとして、そうなると、芸術作品に対する理解ってどうなるの?

そう思いませんか?

だって、ナチの活動なんて、共感できないのはいいとして、考える価値のあるものですよ。たとえば、ナチの活動を見ながら、「愛を断念することによって、世界の支配をもくろむ」アルベリヒを連想しなかったのかな?

復讐だけがそのアイデンティティとなったハーゲンを連想しないのかな?

好人物であるがゆえに利用されたグンターと、ヒンデンブルク大統領の相似性を考えなかったのかな?

というか、悪企みの「弾除け」にされた好人物グンターの役回りを、フルトヴェングラーはどう思ったのだろう?

ヒンデンブルク大統領とは別に、この役回りを見事に演じた人が、まさに、いたわけでしょ?

フルトヴェングラーはグンターのことを「自分の背景で悪企みが進行しているのに気がつかないなんて・・・バッカだなぁ・・・コイツ!」なんて思ったのかな?

ナチは自分たちのことをジークフリートに例えていたのでしょうが、むしろアルベリヒやハーゲンにそっくりですよ。そして、最後のカタストロフも、オペラのまま。


ヒトラーと初めて会って話をしたフルトヴェングラーは、ヒトラーのことを「取るに足らない人物」と評したそう。そんな単純な見解って、人に対する洞察力が、いちじるしく劣ると言うことでしょ?

だって、その直前に、フルトヴェングラーは、ジークフリート・ワーグナーの未亡人でありバイロイトでの覇権を目指すヴィニフレート・ワーグナーと衝突しました。

ヴィニフレートは音楽について、明確な知識もない人間なのに、指揮者に色々と指図して、フルトヴェングラーは「もう、やっとれんわいっ!」とブチ切れたわけ。

バイロイトの主人として、バイロイトを盛り立てる・・・その意欲は意欲としていいのですが、音楽面でフルトヴェングラーに指図してもしょうがないでしょ?


しかし、コンプレックスの強い人間ほど、そんな無用な指図をやりたがるもの。それだけ自分を実態以上に「大きく」みせようとするわけ。そして自分自身から逃避したいわけ。そんなヴィニフレードとの衝突の後で、ヒトラーと会談して、ヒトラーとヴィニフレートとのメンタル的な共通性を感じなかったのかな?


芸術の分野も、政治の分野も、その主体は人間でしょ?

その間には明確な「切れ目」なんて無いんですね。芸術作品に登場する人物の心理を理解できても、実際の人間のキャラクターはまったく理解できないって、やっぱりヘン。
実際の人間も、オペラなどでの描かれている人間も、似たキャラクターの場合って多いものでしょ?


この点について、実に笑える話があります。第2次大戦の終結の後、ナチとの関係を理由に裁判にかけられるフルトヴェングラー。その証人として、とあるオペラ歌手が出てきたそう。そのオペラ歌手は、フルトヴェングラーとナチとの関係について、ウソ八百ならべて、フルトヴェングラーを陥れようとしたらしい・・・

しかし、そのオペラ歌手には、フルトヴェングラーとの間に過去に個人的な「いさかい」があり、その個人的な感情で、フルトヴェングラーに嫌がらせをしたんだそう。それは「マイスタージンガー」のベックメッサーの役をやりたくて応募したけど、フルトヴェングラーがその歌手を採用しなかったので、その「恨み」を持っていて、それを裁判という場違いな場でぶつけたわけ。

いやぁ!ベックメッサーになれなかった歌手の、見事なベックメッサー振り。芸術作品を理解するのに、最良の資料は、自分たちの目の前にあるものなんですね。

あるいは、教養人とされるフルトヴェングラーですが、ヒトラー,ゲッペルス,ゲーリングのナチの3巨頭のキャラを、フランス革命のロベルピエール,マラー,ダントンの3巨頭とのキャラとの関連で、見るようなことはなかったのかな?

禁欲主義者,マスコミ対応,享楽家と、組み合わせもちょうど合っている。教養人フルトヴェングラーの教養って何だろう?


書かれた楽譜なり、本での記述は理解していても、実際の人間を洞察するのには、何もできない。フルトヴェングラーって「ブンカジン」だなぁ・・・と思ってしまう。

まあ、そんな実際の人間に対する洞察力が著しく劣っていても、演奏家としては何とかなるんでしょう。それこそブルッックナーのような作品を演奏するのだったら、それでもいいのかも?

しかし、そんな人が、作曲などの新しい作品を作ることができるの?

ゼロから創作することができるの?

現実を見る目がそんなにない状態から、ゼロから創作するインスピレーションなんて、沸き起こって来るの?

フルトヴェングラーは、楽譜から「神の言葉」を読む取る能力はすばらしいけど、神の言葉を直接聞ける人間なのかな?

R.シュトラウスが要領よく立ち回ったのは、それだけ「人を見る目」があったからでしょ?

逆に言うと、そんな目がないとオペラなんて書けませんよ。フルトヴェングラーが言う


「時間がなくて、作曲できない・・・」

は、理由としてポピュラーですが、作曲なんて基本的にはアタマの中でやるものでしょ?

電車で移動している最中にもできるじゃないの?

あるいは、アルキメデスのようにお風呂に入った時にすばらしいアイデアなんて浮かばなかったの?

そのようなアイデアをしっかりコンポーズするには、まとまった時間も必要でしょうが、アタマの中でラフスケッチくらいはできますよ。それなのに、どうして20年以上も作曲に手をつけないの?

それって、「どうしても曲にまとめ上げたい!」という霊感やアイデアがなかったからでしょ?

だって、目の前にいる実際の人間に対する洞察力が、これだけ劣る人なんだから、霊感なんて来ませんよ。もし霊感があったら、とりあえずは、小さな作品からでも、作曲するでしょ?

まずは小さい規模の作品を制作しながら、自分自身の本当の霊感なり、作品にする問題点を自覚できるわけでしょ?

その後、大規模な作品に進んでいけばいいじゃないの?

作曲活動それ自体が、そして自分が作った「小さな作品」それ自体が、自分自身がやりたい作曲活動の方向性を教えてくれることがあるわけ。いきなり大規模な作品を制作って、ヘンですよ。


彼の作曲した作品ですが・・・

DVDの映像では、カイルベルトとバレンボイムが、肯定的な評価をしています。しかし、どうしてコメントがカイルベルトとバレンボイムによるものなの?
実は、この映画には、もっと適役が登場しています。それは、テオドール・アドルノ。

シェーンベルクに作曲を習い、マーラー以降のドイツ音楽について一家言以上のものを持つフランクフルト学派の哲学者アドルノが、フルトヴェングラーが作曲した音楽を、「理詰め」で絶賛すれば、この私などは「ははぁ!わかりました!わかりました!もうわかったから勘弁してよ!」って泣きを入れますよ。


ところがアドルノは、フルトヴェングラーの指揮を絶賛しても、作曲した作品には何も語らない。当然のこととして、この映画を制作した人は、アドルノに対して、作曲家としてのフルトヴェングラーについて聞いたはずです。カイルベルトやバレンボイムにも聞いたくらいなんですから、当然でしょ?

アドルノは、まあ、その話題を避けたんでしょうね。ウソは言えないし、故人を冒涜するようなことはしたくないし・・・

まあ、アドルノが言いたくないレヴェルの作品というわけなんでしょう。技術的な問題はともかく、「どうしてもこれを表現したい!」という気持ちが入っていないと、それ以前の問題ですよ。彼の作曲した音楽からは「どうしてもこれを表現したい!」「これだけでもわかってほしい!」という強い意志が感じ取れない。

しかし、彼の「指揮した」演奏を聞いて、「どうしてもこれを表現したい!」という強い意志が聞きとれない人はいないでしょう?

そして、演奏には、明確な「切れ目」もある。その切れ目が、人間の発想から、神の発想への「切れ目」となっている。そして、その「切れ目」を通ることによって、音楽の高みが、「より」高みへと通じ、深みが「より」深みへとなっていく。彼が指揮した音楽が作り出す「切れ目」を、彼と一緒にくぐることによって、我々聞き手も「より」深淵へと、到達できる。


『ここで作曲者に神の言葉が降り降りたんだ!』

って、フルトヴェングラーの指揮した音楽からは明確にわかる。彼は演奏家としては、あいまいさからは無縁。彼としては、演奏している時だけが、自分になれた・・・というより、完全なオコチャマになれた・・・のでは?

それ以外の時は、周囲に配慮しすぎですよ。


完全なオコチャマになり、幼児のように心を虚しくしているので、まさに天国の門は開かれる。


「オレは本当は指揮者ではなく作曲家なんだ!」

「本当は指揮などをしている場合じゃないんだ!」

「作曲をしないと行けない!」


と思っているので、指揮そのものは一期一会になる。フルトヴェングラーにしてみれば指揮は禁忌のものなんですね。禁忌のものだからこそ、なおのこと惹かれるって、人間誰しもそんなもの。おまけにそっちの才能は人並み外れているんだし・・・やってはいけないものだからこそ、火事場のバカ力も出たりする。

だからますますやっていて楽しい。火事場のバカ力なので、精神的に落ち着くと、周囲に配慮した「いい子」になってしまう。自分に自信がない人は人から誉められることを渇望するもの。それだけ自分自身が本当にしたいことがわからないので、人からの評価に依存してしまうわけ。

しかし、「いい子」では、逆に神の言葉は聞けないでしょ?

だって、「心を虚しくしている」幼児は、決して「いい子」ではないでしょ?

「いい子」って、それだけ外面的なことにこだわっているということ。人の評価に依存しているということ。それだけ神からは遠いわけ。


フルトヴェングラーの父親は、なんとアドルフという名前らしい・・・考古学の教授をなさっておられました。そのアドルフさんは、息子の才能を認め、サポートした・・・のはいいとして、息子の意見を聞いたの?フランクな会話があったの?

どうも、そのアドルフさんは厳格な人だったらしい。厳格と言っても様々なヴァリエーションがあります。自分に厳しいというパターンから、問答無用で強圧的というパターンまで。息子のウィルヘルム・フルトヴェングラーが極端なまでに「いい子」でいようとしたことからみて、まあ、問答無用の父親のパターンでしょうね。

そうなると、一般的に子供は抑圧的になってしまう。自分で自分を抑圧するようになるわけ。まさに「いい子」でいなきゃ!って強迫的に思ってしまう。

彼も、自分の父親アドルフの問題を真剣に考えればいいのでしょうが、どうもそこから逃げている。父親アドルフの問題から逃げていれば、総統アドルフの問題を考えることからも逃げるようになりますよ。だから眼前にどんな事件があっても、鈍い反応しか示せない。

自分が一番よく知っている人物の問題から逃避する人は、眼前にある具体的な人物や事例から考えることを逃避してしまうものなんですね。それこそ、フェミニズム運動をなさっておられる女性たちは、自分の父親の問題については絶対に言及しないものでしょ?

一番よく知っている男性の問題を考えなくて、男女の問題云々もないじゃないの?


同じように、フルトヴェングラーは、一番よく知っている人間の問題から逃避して、具体的な現実の人間の問題から次々と逃避しだす。そして、最後には指揮台に追い込まれ、もう逃げようがないとなると、爆発してトランス状態になり火事場のバカ力が出る・・・


普段は逃げ回っている作曲家フルトヴェングラーなり、人間フルトヴェングラーも、指揮台に上るという「切れ目」を経ると、「あいまいさ」から解き放たれ、神懸かりとなって、神の言葉が聞けてしまう。指揮台に上るという「切れ目」を経ることによって、「切れ目」を作り出すことができる芸術家になる。

指揮台に上る前は、アドルフから逃げ、アドルフの言葉を聞く状態。

指揮台に上ったら、神の言葉が聞こえる。


そういう意味で、作曲から逃げ出すこと自体が、神懸かり的な演奏をするエネルギーになる。しかし、そんな彼は、本当に、「作曲をしなくてはならない。」という状況になったら、どこに逃げるんだろう?

フルトヴェングラーにとっては、演奏は、仕事でもなく使命でもなく、いわば治療とか療法に近いもの。しかし、だからこそ、彼にとっては必然でもある。作曲では彼は救済されないわけ。

個人的なことですが、私が彼の演奏のレコードを聞いたのはシューベルトの長いハ長調の交響曲の録音。オケはベルリン・フィル。その演奏を聞いて、まずは最初のホルンにビックリしたものです。

「これが20年後に、パリのオーケストラよりもラヴェルらしいラヴェルがやれると自慢されてしまうオケの姿なのか?」

最初もビックリですが、第1楽章の最後の部分にもビックリ。オケのメンバーが、気が狂ったように演奏しているのがよくわかる。


オーケストラのメンバーや聴衆に「感動」を与えられる指揮者は結構いるでしょうが、オーケストラのメンバーや聴衆を「発狂」させるのは、ハンパじゃありませんよ。とてもじゃないけど、人間業ではできないこと。


そして、そのシューベルトの演奏を聞いていると、この演奏家が、死に場所を探して暴走していることがスグにわかる。彼は逃げて、逃げて、死に場所を探して暴走し、その暴走がオーケストラや聴衆に伝わる・・・


死に場所を探すエネルギーが、演奏のエネルギーになり、生きるエネルギーになる・・・って、矛盾しているようですが、まあ、芸術・・・特にドイツ芸術って、そんな傾向があったりするでしょ?


ドイツ精神主義なんて言葉もありますが、フルトヴェングラーの音楽を聞いていると、そんな主義主張よりも、彼岸にあこがれる心情の方が強いのでは?

しかし、彼岸に憧れ続ける心情が何をもたらすか?

そんな一期一会の絶妙な均衡が、彼の音楽をかけがえのないものにしている・・・

演奏専従だったら、演奏だってルーティーンなものになってしまって、一期一会にはならないわけですからね。この点は、他の演奏家にはないこと。彼は演奏家になりきれなかったから、偉大な演奏家になった・・・

あるいは、職業としての演奏家としては不十分であったために、一期一会の演奏は達成できた。相変わらずの、反語的な言い回しですが、偉大な表現者って、反語的な存在なんですね。

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-01.htm

「作曲家としてのフルトヴェングラー」

彼は、ある意味において、実に面白い人物。私ごときが指揮者としての彼の能力を語ることはできるわけがない。天才の発想なんて読めませんよ。

しかし、指揮台に上がっていない彼の、普段の行動なり作曲家としての彼のスタイルは、意外なほどに「読みやすい」もの。よく、彼の行動を評して

「どうしてナチに対してあいまいであったのか?」とか

「どうして大した才能もないのに、作曲家であることにこだわったのか?

そもそも大作曲家の作品に親しんでいる彼なんだから、自分の作品のデキについてわからないわけがなかろう?」


どうしてなんだろう?そんな疑問が提示されたりするものでしょ?


ナチや自分の作品の価値についても、ちょっとでも自分で判断すれば、結論を出すことは難しくはない。しかし、世の中には判断することから逃避するような人間もいたりするもの。フルトヴェングラーがその典型だとすると、彼の行動も、簡単に理解できてしまう。

判断を間違ったのではなく、判断することから逃避する人間のタイプなんですね。


以前にエルフリーデ・イェリネクさん原作の「ピアニスト」と言う作品を考えた際に、抑圧と言う言葉を多く用いました。表現者としては、「自分がやりたいこと」、あるいは「表現者として人々に伝えたいことは何だろうか?」その問題意識が重要でしょ?


自分自身を抑圧すると、そのようなことを考えることから逃避するようになってしまう。そんな人は、「何を伝えるのか?」と言う問題から逃避して、「どうやって伝えるのか?」と言う問題にすり替えてしまうんですね。

自分がどうしてもやりたいこと、あるいは自分がどうしても伝えたいこと・・・それはいわばWHATの問題。

どうやって伝えるのかの問題は、いわばHOWの問題。

自分自身に抑圧を課す、それなりに知性のある人間は、自分自身のWHATの問題から逃避して、あらゆることをHOWの問題にしてしまう。なまじっか、それなりに知識があり、HOWの問題について語ることができるので、WHATの問題から逃避していることが、自分でも気が付かない。自分からの逃避と言う状態においても、それなりに洗練されてしまうわけ。

さて、フルトヴェングラーの逃避の問題ですが、この映画で実に典型的なシーンが出てきます。青年時代のフルトヴェングラーが、家庭教師と一緒にイタリアのフィレンツェに旅行をした。ミケランジェロの作品に圧倒的な印象を受けた青年フルトヴェングラーは、その場から離れ、一人でその印象を楽譜にしたためていたらしい・・・

映画においても、その「圧倒的な印象から逃げて・・・」なんて言われちゃっています。もうこの頃から、逃避傾向があるわけです。と言っても、皆さんは思うかもしれません。

「せっかく、ミケランジェロの彫刻からすばらしい印象を受けたのだから、それを音楽作品にまとめようとするのは、作曲家志望の青年としては当然のことではないのか?」

その感想は、ある意味において、正しいでしょう。しかし、圧倒的な印象を受けたのなら、それをその場で楽譜に残す必要はないんですね。だって、圧倒的な印象だったら、いつまで経っても忘れませんよ。何もその場で音楽作品にする必要なんてない。むしろ、アタマの中で寝かせておいて、その印象が充実してくるようにした方が、適切な方法。アタマの中でその時の印象と別の機会での体験を組み合わせたり、他の経験と共通性を考えたり、当然のこととして、その表現方法だって色々と考えられる。

素材をどう広げるのか?
あるいはまとめるのか?
どのようにコンポーズするのか?

それを考えるのが作曲家でしょ?

その時点で音楽にして楽譜に書いてしまうと、もう考えなくてもよくなってしまう。ただ、アタマの中での試行錯誤は、結構シンドイもの。常に考えなくてはならないわけですから、精神的に負担になるんですね。

それこそ、コンピュターのメモリーで常にアクセスできる状態のようなもの。引き出しやすいけど、電力は常に使う状態なのでスウィッチは切れない。

それに比べて、ハードディスクに保存すると、保存性はよくなるけど、アクセスは出来にくい。だから加工は難しい。これが紙にプリントアウトしてしまうと、もういじれない。しかし、だからこそ精神的にはラクと言える。


フルトヴェングラーだって、本当に作品を作れる人間だったら、そんな強い印象を受けたのなら、スグに楽譜にまとめることなんてしないはず。スグに楽譜にメモしなくてはならないのは、むしろ小ネタの方。だってちょっとしたネタだったら、それこそスグにメモならないと忘れちゃうでしょ?


「あの部分の切り返しのところは、このような方法にしよう!」とか、「ちょっとしたエピソードとして、こんなネタを挟もう!」なんて、ちょっとしたアイデアも、作品を作る上では必要ですよ。そんな小ネタだったら忘れないようにメモらないとね。

よく「引き出し」なんて言い方がありますが、そんな小ネタもやっぱり必要なもの。
それこそ引き出しにしまっておかないと。しかし、自分にとって最重要な問題、いわば大ネタは、忘れるわけがないから、メモる必要もない。

スグにまとめちゃうということは、アタマの中で寝かして試行錯誤し続ける精神的な負担に耐え切れない心の弱さを表しているものなんですね。ミケランジェロからの印象を、さっさと楽譜にまとめてしまう態度では、「強い」作品にはならないわけ。

こんなことを書くと、いまだに現存するフルトヴェングラーの崇拝者の方はご立腹なさるでしょうが、今ここで私が考えているのは、作曲家としてのフルトヴェングラーであって、指揮者としてのフルトヴェングラーではありません。


指揮者としては、あれほど圧倒的な音楽を作れるのに、どうして作曲家としては「いい子」、あるいは規格品とまりなの?と言うか、それこそ、作曲なんて止めてしまって指揮者専業でも何も問題ないはず。作曲をすること自体を楽しむことができる人間だったら、それこそミケランジェロから受けた強い印象をアタマの中で色々といじって、長く検討して行くものでしょ?

スグに作品にまとめるって、「イヤなことは、早く忘れたい!」「つらいことから、早く逃げ出したい!」そんな心情が、無意識的にあるということ。

自己への抑圧と言うものは、そのような自己からの逃避というスタイルになることが多いんですね。自分自身のWHATから逃避するわけ。

自分が何をしたいのか?

何を人に伝えたいのか?

それについて考えないようになってしまう。

そのような傾向は、強圧的な父親の元で育ったアダルトチルドレンに典型的なもの。問答無用の環境だったので、自分がしたいことを抑圧するようになるわけ。

実は、フルトヴェングラーの行動も、抑圧的なアダルトチルドレンの習性がわかっていると、簡単に予想できてしまう。発想が常に減点法。人から嫌われてはいけない。よい子でいないといけない。もちろん、親に迷惑が掛かってはいけない。そんなことを常に考えている。減点を意識しているので、自分で判断できない。

彼の場合は、それが特に深刻で、共依存状態にある。「共依存」とは、相手に依存「させる関係」に依存すると言うもの。「共依存」と言う考え方は、夫婦間でドメスティック・ヴァイオレンスに陥ったり、あるいは若い人たちがボランティアに入れ込むようになる心理を説明する際におなじみのものです。

あるいは、「ウチの子はいつまでも経っても甘えんぼうで・・・ずっと、ワタシがついていないとダメだわ!」なんて言うバカ親の心理もこれですよね。

あるいは、もっと深刻だとストーカーの心理もこれです。ストーカーは「オレにはアイツが必要だ!」と自分で『認識』しているのではなく、「アイツにはオレが必要だ!」と勝手に『認定』しているわけ。

自分自身の精神状況の自覚ではなく、相手の幸福のスタイルを勝手に認定しているわけ。だからタチが悪い。当人としては善意で相手に付きまとっている。だから周囲が何を言ってもダメ。バカ親の心理もそうですが、基本的にはアダルトチルドレンに典型的な症状です。それだけ、自分自身が何をしたいのか?自分でもわかっていない。そしてわかろうとしないし、自分から逃避しようとする。精神的に自立していない。だから他者との関係性に依存せざるを得ない。

こんな心理を持っていたら、たとえナチスに共感がなくても、ドイツから離れられませんよ。だって、共依存症状にある人にしてみれば、ナチス支配下のドイツなんて天国ですよ。だって、自分を頼ってくる人がいっぱいいるわけですからね。

つまり自分の役割について自分で考えなくてもいいわけ。簡単に自己逃避できるわけでしょ?

何もフルトヴェングラーの人格に対し攻撃しようなんて思っているわけではありませんよ。芸術家なんて、その作品がすべてですよ。それこそ画家のカラヴァッジョや作曲家のジェズアルドや劇作家カルデロンのように人殺しまで居るのがアーティストの業界。

たかがアダルトチルドレンくらい・・・まだまだ甘いよ。いや!「あいまい」ですよ。


前回でフルトヴェングラーは首尾一貫して「あいまい」という点を書きました。「あいまい」であると言うことについては、実に「あいまい」ではないわけ。

この点は、彼の作曲した音楽にも明確に見えてくるでしょ?

彼の交響曲第2番はCDになっていて、まさしく彼の演奏で聞くことができます。
これが、また、「あいまい」な音楽。

何も、時代に合わせてモダンな12音技法でないとダメとか、ショスタコーヴィッチばりのポストモダンな引用技法が展開されていないといけないとか・・・そう言うことを申し上げているわけではありません。

「これだけはどうしてもわかってほしい!」とか、

「消しようがないほどに明確な音響イメージがあって、それを表現したい!」

なんて強い意志なり、覚悟がある音楽なの?

と言うことなんですね。

自己表現が目的と言うより、自己弁護の音楽。

えーとぉ・・・ボクはこんな事情があって・・・

色々と面倒なことがあったから、作曲できなくて・・・

まあ、ちゃんと作曲もやっているでしょ?

サボっているわけじゃあないよ。そんな弁解がましい表情が延々と続く音楽。


音響的にはフランクやショーソンの交響曲のような感じで、ブルックナーの交響曲から「聞いたことがある」音響が出てくる。なんともまぁ・・・

フルトヴェングラーが作曲した作品は聞き手に真摯な緊張を要求する・・・
そんな音楽なんだから、だからオマエはその価値や内容がわからないんだよ!
そうとも言えるでしょうが・・・

どんな小難しい音楽でも、後世まで残る作品には「これっ!」という瞬間があって、その決定的な瞬間から、全体の理解もだんだんと深まっていくモノ。

ところが、フルトヴェングラーの交響曲には、「これっ!」と言う「切れ目」がない。これは楽章の切れ目云々ではなく、音楽の流れに切れ目がないため、神の言葉が降り降りた瞬間が出てこないんですね。

演奏においてなら、「切れ目」の大家と言えるフルトヴェングラーなのに、作曲した作品には「切れ目」がない。つまり神の言葉ではなく、人間の言葉が支配している「音楽」といえるわけ。自分の存在証明ではなく、自分の正当性の証明に近い。

しかし、正当性を証明しようとするほど、芸術家としての存在証明から遠くなる。なぜなら人間の言葉で正当性を証明するほど、神の言葉から遠くなるもの。

幼児のように、心を虚しくして、神の言葉を受け入れたときに、芸術家としての存在証明になる・・・芸術作品とはそんなものでしょ?

神の言葉を伝えるのが、芸術家の使命でしょ?

天才は自分の正当性などと言った弁解のための仕事などはしないもの。

弁解が通用しない世界・・・それが修羅場でしょ?

フルトヴェングラーにとって指揮台こそが、その修羅場。だから指揮においては、弁解のための仕事はせずに、神の言葉を直接聞くことができて、それを伝えることができる。しかし、作曲をしている時には、精神的に余裕があって、修羅場ではない・・・だから弁解ばかり。


フルトヴェングラーが作曲した作品は、実に人間的な音楽とも言えますが、逆に言うと人間とまり。あるいは、まさしく最適化止まり。これでは作曲していても、面白くないでしょう。たしかに、25年以上も作曲から遠ざかることを、事実上選択するわけですよ。


しかし、作曲の才能がなくても、創作の霊感が訪れなくても、何も問題はないはずでしょ?

当代随一の指揮者と言う称号があるんだから、それでいいんじゃないの?

そもそも、フルトヴェングラーさんよ!アンタは作曲が好きなの?

そんな根本的な疑問をもってしまう。

作曲を好きなのに才能がないのか?

そもそも好きでないのに、自分を押し殺して作曲したのか?

「ボクは本当は作曲家なんだ!」と言うのはいいとして、25年以上も作曲から遠ざかり、やっと作曲したら、自己弁護に終始。使命感を持って作曲している人がやることではありませんし、そんな音楽ではありませんよ。

逆に言うと、特に才能があるわけでもないし、使命感があるわけでもないし、好きでもないし、実際の作曲活動はしないのに、どうして「ボクは本当は作曲家なんだ!」なんて言うの?

フルトヴェングラーは、子供の頃から音楽の才能を発揮して、周囲から、「将来は偉大な作曲家に!」なんて言われたそう。これはDVDに出てきます。家族も、その才能に惜しみない援助を与え、教育の機会を与えた・・・


そう言う点では、「作曲家」フルトヴェングラーは実に恵まれている。作曲家になるに当たって、こんなに周囲から物心両面からのサポートを受けることなんて滅多にありませんよ。一般的には、「ボクは作曲家になりたいんだ!」なんて言おうとしたら、「何を、夢みたいなことを言っているんだ!カタギの仕事をしろ!」と言われるのがオチ。

しかし、少年フルトヴェングラーは家族から励まされる環境。それこそ、父親との間にこんなシーンがあったのでは?


少年フルトヴェングラーと、父親アドルフが、冬の夜に空を見上げる。


「おい!ウィルヘルム!
北の空にひときわ大きく輝く星があるだろう!
あの星はドイツ作曲家の星だ!
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー・・・

オマエも将来、あの星になるんだ!」

「父さん!わかったよ!
ボクはドイツ音楽の星になるんだ!ボクはやるよ!」

・ ・・拳を握りしめ、瞳から炎がメラメラと・・・このシーンのBGMは当然・・・

輝くドイツ音楽の星。それもバッハやベートーヴェンやワーグナーなどに並ぶ地位に。


「さあ!これが、ドイツ音楽作曲家養成ギブスだ!」

「これをつけて親子一緒にガンバロウ!」


そんな感じで言われちゃったら、子供の頃はともかく、実際に作曲するにあたってはプレッシャーになるんじゃないの?

しかし、フルトヴェングラーが音楽活動を始めた頃は、その星々につながる意志を持っていたのは明白。彼が1906年の指揮者としてのデビューで取り上げた曲は、後に交響曲第1番の第1楽章となった自作の「ラルゴ ロ短調」と、ブルックナーの第9交響曲の組み合わせでした。ブルックナー最後の未完の交響曲なんて・・・デビューの曲目にしては荷が重いだろう・・・と思うのは誰でもでしょうが、この「組み合わせ」・・・あるいは、以前書いた言い方でモンタージュは、簡単にその意図が読めますよね?


それはこれ。

「ブルックナーが完成させられなかったドイツ音楽の系譜を、このボクが完成させるんだ!」

まあ、その心意気や良し!・・・なんですが・・・

系譜につながることは結果であって、目的ではないでしょ?

それこそブルックナーだって、先輩作曲家ベートーヴェンを尊敬していたでしょうが、その列につながるために作曲をしたわけではないでしょ?

自分自身の霊感を永遠に残すために作曲したわけでしょ?

曲のまとめ方などに当たって、当然のこととして先輩の方法を参考にする・・・
だから、結果としてドイツ音楽の作曲家の系譜になる。

そんなものでしょ?

まずは、自分がどうしても表現したいものは何なのか?
その自問自答の方が先でしょ?

しかし、フルトヴェングラーは、ドイツ音楽の作曲家の系譜が強く意識されてしまっているので、

「ボクもそのレヴェルでないと行けない!」
「巨匠たちの名誉を汚さぬように!」
「あんな音楽を書かなきゃ!」

なんて強迫的に思ってしまう。いわば、形から入る状態。形から入っているので、フルトヴェングラーが作曲した作品って、交響曲とかの立派なジャンルばかりですよね?

そして長さも結構ある。まさに立派な外観をもっている。しかし、外観はいいとして、中身はどうなの?

そもそも芸術作品にとってジャンルとか外観は、二の次でしょ?

マーラーの交響曲が、交響曲なのか?歌曲でしかないのか?そんなことを議論する人もいますが、それ以前に中身の問題が重要でしょ?

マーラーの音楽は中身で勝負できる。しかし、フルトヴェングラーの作品の中身っていったい何?

逆に言うと、中身で勝負できないから、ますます外観にこだわらざるをえない。それでは自分なりの作曲なんてできないでしょ?

作曲家フルトヴェングラーは伝統的な芸術の系譜を意識するあまり、芸術の伝統の系譜からは外れてしまった。「伝統的な芸術の系譜」と「芸術の伝統の系譜」なんて、言葉としては似ていますが、中身は全然違うモノ。

それこそベートーヴェンだって、彼自身は「伝統的な芸術の系譜」ではなく、「芸術の伝統の系譜」の一員と言えるでしょ?

まあ、作曲の才能が「全く」ないのなら、まだ、「しょうがない」で済みますが、フルトヴェングラーの場合は、最初は神童扱いだったわけですし、周囲からのサポートを受け期待もされた。作曲から逃げる理由がないわけ。しかし、逃げる理由がないからこそ、懸命になって逃げざるをえない。


そもそも、やっぱり作曲家という存在は、音楽家の中では最高位でしょ?

だからこそ、作曲家であることをあきらめることは、序列的に下に安住することを意味しますよね?

「父さん!ボクは作曲なんてしたくはないんだ!指揮の方が好きなんだ!」

なんて言っても、心の中にいる父親がこう言うでしょう。


「どうしてオマエは、そんなに自分に甘いんだ!

自分は才能が無いなんて言葉は、努力放棄の言い訳に過ぎない!バカモノ!」

そして「北の空を見よ!ひときわ輝く星がオマエの目指すべきドイツ音楽の星だ!」

とお説教の声。そんな父親の言葉が心の中で響いてしまう。だから周囲には「ボクは本当は作曲家なんだ!」と、言い訳をしなくてはいけない。

フルトヴェングラーはなまじ指揮者なんだから、タチが悪い。彼がピアニストとかヴァイオリニストだったら、作曲活動にも、距離を取りやすい。作曲をしなくても、誰も不思議に思わない。しかし、指揮なんて、そもそもが作曲家の仕事の一部だったわけでしょ?

しかし、才能はないし・・・それだけでなく、ドイツ音楽の星としての要求される「基準」もある。あのレヴェルの曲を書かないといけない!

これでは、自分なりに作曲するなんてことはできないわけ。

さあ!どうする?

と言うことで、作曲しなくてもいいように、余計なことに首を突っ込むわけ。

「あそこに困っている人がいるから・・・」
「ボクが助けないとダメだ!」
「あの人たちを助けられるのはボクだけ・・・」

と言うことで、ますます共依存症状が進行することになる。そもそも指揮者フルトヴェングラーが作品に向き合う際には、「作曲された音楽が作曲される前の状態まで考え、それを再構成する」のがフルトヴェングラー。

そんな発想は、まあ、私には実に親近感がある。だからそんな態度を、フルトヴェングラーの「作品」に適用しているだけです。創作者の発想を読みながら演奏したフルトヴェングラー自身の発想を、この私が読んでいるだけです。

重要なことは作品を評価することではなく、その前の霊感を考えることでしょ?


逆に、ナチスは「芸術家にとって作品などは、どうでもいい!人格が問題なんだ!」と言ったそう。

その人格と言ってもナチスに対する忠誠となるんでしょう。人格で作品を否定するなんて、それこそがナチスですよ。しかし、その人格重視のナチスがワーグナーを賞賛ってのも、また矛盾なんですが。そもそもアーティストなんてオコチャマなのがデフォルト。その瞬間に充足し、次には、その充足を破壊していく・・・

「わあ!これって、おもしろいなぁ!」それがすべて。そんなオコチャマこそが芸術家のメンタリティ。

逆に言うと、フルトヴェングラーは、アダルトチルドレンだけあって、ある意味オトナ。この面でもあいまい。あまりに周囲に配慮しすぎ。発想が減点法。


別の言い方をすると、「いい子」。彼の行動も、作曲した作品も、まさに「いい子」がやりそうなものですよ。

自己の確立していないアダルトチルドレンは、往々にして権威主義。その価値を自分自身で説明することができないので、人々が「権威ある」と認めるものに乗っかろうとするわけ。

実は、このような点で、フルトヴェングラーとゲッペルスは、腹の底では共感しあっていたようです。フルトヴェングラーは何か相談事があると、まずゲッペルスを訪ねたようです。ゲッペルスもフルトヴェングラーのことは、気にかけていたそう。いわばカウンターパートナーの間柄。フルトヴェングラーもゲッペルスも、「何を言うのか?」と言うWHATの問題よりも、「どう伝えるのか?」つまりHOWの問題の大家ですよね?

それに、権威ある思想に乗りかかって自己を表現するスタイルも共通。序列思考が強く、族長的な存在に盲目的に従おうとする。彼らは、いわば隷従することが好きなタイプ。以前に取り上げたエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」を考えた際に用いた言い方をすると、「犬」のタイプ。

ゲッペルスに対して、

「アナタはヒトラーの犬じゃないか?」なんて言っても、

「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」

なんて言われるだけでしょ?

ゲッペルスは、ヒトラーに最後まで付き従いましたよね?

その点ではゲーリングやヒムラーよりも忠犬。たぶん、ゲッペルスの父親も強圧的な人だったのでは?

同じように、フルトヴェングラーに対して「アンタはベートーヴェンの犬じゃないか?」なんて言ったらフルトヴェングラーはどう答えるのでしょうか?

やっぱりゲッペルスと同じじゃないの?「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」

ゲッペルスは、信念を持って、アドルフに隷従していたわけ。フルトヴェングラーも深層心理的にアドルフに隷従していたわけですが、彼の場合はアドルフと言っても、ヒトラーではありませんが。ベート−ヴェンの犬なんて言葉はともかく、フルトヴェングラーはそれでいいと思っていたでしょう。立派なベートーヴェンの音楽を人々に伝えるのが、自分の使命だ!

そう考えることは、立派なこと。しかし、作曲家志望だったら、そんな崇め奉るだけではダメでしょ?

立派な権威としてベートーヴェンを見るのではなく、すばらしい業績を残した先輩として見る必要もあるのでは?

第2次大戦が終結した後で、フルトヴェングラーはR.シュトラウスを訪ねた。R.シュトラウスは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の楽譜を見ながら、「ファゴットの使い方がすばらしいねぇ!」と言ったそう。

こんな言葉から、R.シュトラウスは、ワーグナーをすばらしい業績を上げた先輩と見ていることがわかりますよね?

作品を受けてのリアクションにおいて、意味ある細部を指摘できるのは、全体がわかっている証拠。そして自分自身についてもわかっているからできること。シュトラウスとしては同じ作曲家仲間として、ワーグナーの作品を参考にする・・・そんな態度が見えてくるわけ。他の人の作品を見るにあたっても、普段からの自分の問題意識が反映されることになる。だから具体的な細部の各論を中心に見ることになる。

「自分だったら、どうするのか?」

「今、自分は、ちょっと壁にぶち当たっているけど、この人はどんな解決をしたんだろう?」

そんな発想が常に存在しているわけ。フルトヴェングラーの場合は、尊敬すべき先輩というより、ひれ伏さざるを得ない権威としてベートーヴェンやワーグナーを見ているのでは?

あるいは、規範として見ている。そうとも言えるでしょう。つまり作曲家としての問題意識がない状態で、他の作曲家の作品を見ている。そのような見方は、指揮者としては問題なくても、作曲家としては問題でしょ?

規範として見るような発想は、「それ以外を認めない」と言うことになり、ある意味、自分で考えることから逃避できる。これはエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」でのエリカもそうでした。音楽を聞く際においても、ベートーヴェンを規範としてみたり、あるいは演奏家としてのフルトヴェングラーを規範として見ることは、聞き手の自己逃避の一種なんですね。規範を重視と言うか、形から入る・・・いわば、「形と中身の乖離」となると、ブラームスがいます。

フルトヴェングラーも、そのような観点において、ブラームスを同類と認識していた面もあるようです。しかし、ブラームスは、中身と形式の乖離の問題はありますが、逆に言うと中身がある。しかし、フルトヴェングラーの作品には中身があるの?

乖離云々以前に中身がないのでは?

伝えたいと思う中身と、伝えるに際し用いた形式の間に乖離があると言うより、彼が伝えたいという中身って何?

抑圧状況に陥ると、まさにその問題を自問自答することから逃避するようになってしまう。以前取り上げたギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」の冒頭に掲げられたプラトンの言葉は

「魂でさえ、自らを知るために、魂を覗き込む。」と言うもの。

「魂を覗き込む」ことから逃避している人間が、創造なんてできるわけがない。

そのようなアンゲロプロスの問題意識が、あの作品にあったわけですし、そのもっとも典型的な実例が作曲家フルトヴェングラーなのでは?

自分自身を見つめることができる人だからこそ、自分の魂を覗き込むことができる人だからこそ、そんな人には「世界の声」「神の声」が集まってくる。つまり自分自身の魂の声を聞くことによって、結果的に世界の声が聞ける。ユングの言う「元型」に近いものが見えるわけ。

自分から逃避している人には、世界の声も降り降りてこない・・・
だから、結局は「世界の声」も表現できない

フルトヴェングラーは「他人の魂は覗きこめるけど、自分の魂は覗きこめない。」

これでは創作なんてできませんよ。

「ベートーヴェンの気持ちが理解できるのはオレだけ!
ブルックナーの創造性が理解できるのは自分だけ!」

そう思うのはいいとして、じゃあ、自分自身の気持ちや創造性をどのように理解していたの?

自らの魂の中にあるWHATから逃避していくので、どんどんと「どのように伝えるのか?」というHOWの問題に逃げ込んでしまうわけ。しかし、「何を伝えるのか?」という問題意識から逃避してしまっているので、作曲することで作品を制作しても「じゃあ、結果として伝わったのか?」と聞かれると返答ができない。だって受け手は何をわかればいいの?

そもそも伝えたいものが、自分でもわかっていないから、結局は伝わらない。本来なら、「この点は誤解されたけど、最重要なこの点は伝わったようだから、まあ、とりあえずよしとしようか・・・」なんて考えることができるはずですよね?

あるいは伝わらなくても「まっ、そもそもアイツにはどうせわからないよ!」なんて言えるでしょ?

それは、自分が伝えたいWHATがわかっているからできること。しかし、そのWHATが自分でもわかっていなくて、発想が加点法ではなく減点法なんだから、そのようには考えられない。結果的に思うような結果が得られないので、そんな抑圧傾向の人は、「上手く行かない理由」「減点の原因となったもの」としての犯人を捜すようになるわけ。それに抑圧傾向の人は、日頃から発想が加点法ではなく減点法なので、減点への反応はそれなりに鋭いものがある。だからスグに逆上する傾向が強い。

「アイツのせいで、ダメだったんだ!」

あるいは

「あの施設がないせいで、上手く行かなかったんだ!」
「これが足りないせいで、失敗した!」
「政治が悪い!時代が悪い!」

そんな言葉を聞かされると、「じゃあ、何をわかればいいの?」「そもそもアンタは何をしたいの?」と思ってしまうものでしょ?

アンゲロプロス監督の描くギリシャの人たちもそんな感じでしたよね?

というか、そもそも当時のドイツがそんな感じでしょ?

あるいは実に顕著に見られるのが、韓国人の発言ですよね?
韓国人の発言は、自分で自分を抑圧しているものの典型なんですね。日本人の我々としては、韓国人の言動を聞いても「で、アンタたちは結局は何をしたいの?何を言いたいの?」そう思うことって多いでしょ?

あるいは、上記の言い訳と犯人探しのスタイルは、音楽関係者の発言にも典型的に見られるでしょ?

「どう伝えるのか?」の問題に拘ることは、「何を伝えるのか?」という問題からの逃避のケースが多いわけ。「何を伝えるのか?」が自分でも明確ではないので、そんな人はコミュニケーション能力がヘタ。だからコミュニケーションが対等の会話ではなく、命令と服従の上下関係しかなくなってしまう。だから常に「どっちが上か?下か?」という序列を基に考えるようになる。韓国人がまさにそうですし、いわゆる音楽批評の世界でもおなじみの文言でしょ?

本来なら表現と言うものは、対象となるもの、と言うか、表現したいWHATに、「どこから光を当てるのか?」そして「どのような視点から表現するのか?」そのような問題が重要でしょ?

しかし、抑圧が進んでしまうと、個々の多彩な思考を理解する意欲もなくなるので、「どっちが上か?下か?」の序列問題ですべて解決しようとするわけ。ベストワンとか、最高傑作などの文言が登場してしまう。表現におけるWHATが消失してしまうわけ。そして減点部分だけに目が行って、反論されると逆上。

他人による様々な表現を通じて自分自身の問題を考えていく・・・表現を受けても、そんな発想にならないわけ。他者の作品から自分自身を逆照射することはできない。むしろ様々な作品を順番にならべて、「どっちが上か?下か?」と決定してオシマイとなる。他者の順番だけの問題にしてしまうことは、要は自己逃避なんですね。


以前に、イェリネクさんの「ピアニスト」という作品を考えるに当たって、演奏家という存在と精神的抑圧の強い相関関係について考えて見ました。特に中間領域の演奏家からは抑圧された精神が明確に見えて取れることが多い。人々に伝えたいものが明確に自覚できているのなら、何も演奏というスタイルではなくても、作曲という手段で伝えてもいいわけですし、素人的でも文章を書いたり、美術作品を制作すると言う方法だってあるでしょ?

伝えたいこと、やりたいことが自覚できないがゆえに、権威あるものに隷従し、HOWの問題だけに逃避する。そして上手く行かなくなると犯人さがし。抑圧的な人間はそんな行動をするものです。ナチスがそうですし、韓国人もそんなパターンですし、音楽批評もそんなパターンでしょ?

いわば抑圧状況の典型なんですね。ナチスが台頭する背景として、ドイツ全体のそんな精神状況もあったわけ。ナチスはいいところを突いているんですね。その抑圧的な状況の中での知的エリートがゲッペルスであり、フルトヴェングラーなのでは?

フルトヴェングラーだって、自分自身の抑圧を客体化することができれば、それを作品にすることもできたでしょう。それこそイェリネクさんが小説としてまとめあげたように。あるいは、共依存症状によるストーカー行為だって、それを客体化できれば、ベルリオーズのように交響曲にできる。しかし彼は抑圧された人間そのものとして生きた。

「自分は何をしたいのか?」と言う問題から逃避しているので、自分の目の前の状況が判断できない。常に『いい子』願望があって、人から否定されることを極端に怖がる。

「いい子」って、要は減点法でしょ?

いい子が成し得た成果って、歴史上ないでしょ?


フルトヴェングラーに関する本などを読んでいると、私などは忸怩たる思いに陥ってしまいます。

「どうしてゲシュタボの連中はフルトヴェングラーを追い込まなかったのだろう?」

「私に任してくれたら1年以内に必ず自殺させることができるのに・・・」

まあ、ゲシュタボも真正面からは追い込んだようですが、フルトヴェングラーのような共依存症状の人間に、真正面からプレッシャーを掛けて、困難な状況を作っても、むしろ「生きる張合い」になるだけ。それこそ人助けがいっぱいできるわけだから、喜んでそっちに逃避してしまう。ストーカーに対して、正面から力による解決を図ってもますます善意を持ってストーキングするだけでしょ?

「こんな困難な状況の中でアイツを救ってやれるのはオレだけ!」そのように、より強く思い込むだけ。そして当人の『善意』が、より熱くなるだけ。

まあ、ゲシュタボも所詮はドイツ人なんでしょうね。素朴で人がいいよ。人を精神的に追い込むことに関しては、むしろフランス人の方が上でしょう。あるいはロシア人とか・・・

まあ、ゲシュタボがフランス人の著作から拷問のノウハウを学ぶ必要があったのもよくわかりますよ。フルトヴェングラーを追い込むのは実に簡単なんですね。

彼のような頭がよくて、プライドがある人は言葉で追い込めるから、追い込むのもラク。オバカさんのように逆上することもできないのだから、あっという間に追い込めますよ。たとえば作品を委嘱すれば、それでOK。

「ドイツ音楽の栄光を表現する立派な交響曲を作曲してくれ!」

「時間は十分に上げるから・・・」

「キミは本当は、それをしたかったんだろう?」

なんて言えば、自分で勝手に追い込まれていきますよ。何と言っても作曲は自分自身と真摯に向き合わないとできないことでしょ?

フルトヴェングラーはそれが出来ない人なんですからね。もし、それこそ交響曲第2番のような作品が出てきたとしたら、

「ふんっ、なにこれ?」

「アンタは、本当にこれをドイツ音楽の栄光だと思ってるの?」

「へぇ・・・これがドイツ音楽の栄光の成れの果てなんだねぇ・・・」

なんて薄目を開けて鼻の先で笑えば済む話。あるいは、

「アナタのおかげで、アウシュビッツで多くのユダヤ人を殺すことができました!ありがとう!」

なんて感謝してみなさいな。アウシュビッツの写真などを一枚一枚見せながらね。そして、最後に決めセリフ。

「君の父上もさぞよろこんでいるだろうよ!」。

もうこうなると、ドイツ芸術の守護者としての彼のアイデンティティが崩壊して、あっという間にドッカーンですよ。まあ、1週間以内でことが終了するでしょうね。

あるいは、前回言及した「ニーベルングの指環」のグンターのバカぶりを、描写してもいいわけでしょ?

「グンターってバカだよな!
だって、こんなこともわからないだからさっ。
君もそう思うだろ?グンター君!」

といって、指で額でもつついて上げればどうなるかな?

いずれにせよ、1週間あれば十分ですよ。相手の一番弱いところはどこなのか?

そこを瞬時に見つけ出し、そこをチクチクとニヤニヤと突いていく楽しみをドイツ人はわかっていないねぇ・・・

「いい子」と言う存在は、一番追い込みやすいもの。結局は、「人から自分はどう見られるのか?」という面にこだわってしまって、自分自身が本当にしたいことが自分でもわかっていないわけ。と言うか、そこから逃避している。

前も書きましたが、そんな精神状況では、作曲はできませんよ。それこそR.シュトラウスはナチとの関係で、戦争終結後になってモメましたが、シュトラウス自身は実に明確。自分がやりたいことが自分でもわかっている。

ナチから頼まれると、ナチの役職には就いたり、あるいは手紙にも「ハイル!ヒトラー!」なんて平気で書いたりしていますが、彼自身はナチに対して協力的ではない。

というか、戦争が終結する直前に、負傷した人たちがシュトラウスの山荘に逃げてきたそう。そんな命からがら逃げてきた人たちに対しシュトラウスは、

「おい!アンタたち、作曲のジャマだから出て行ってくれよ!」

なんて言ったそう。そんな対応をナチから怒られたシュトラウスは、

「いやぁ・・・オレが戦争を始めたわけじゃないんだから・・・そんなこと知るかよ!」

なんて言ったらしい。いやぁ・・・外道だねぇ・・・

シュトラウスの発想は、ナチを支持するしない以前に、人間的に外れていますよね?

まあ、「猫」的と言えるのかも?「アンタはアンタ、ワタシはワタシ」の精神。しかし、そんなシュトラウスだからこそ、あの混じり気なしのオーボエ協奏曲が書けるわけでしょ?

傲岸不遜で周囲の人間の犠牲を踏み越えて、自分の創作を推し進めるR.シュトラウスと、人助けに逃げ込んで、自分では創作しないフルトヴェングラーの関係は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルードヴィッヒ」におけるリヒャルト・ワーグナーとルードヴィッヒの関係と同じ。


ルードヴィッヒだって、芸術家をサポートして喜んでいるよりも、ヘタはヘタなりにオペラの台本でも書けばいいじゃないの?

彼も、「立派な作品でないといけない!」なんて思っていたのでしょうね。だからとりあえず手をつけてみると言うことができない。しかし、だからこそ、自分を表現することができず、ますます自分から逃避してしまう。ルードヴィッヒもフルトヴェングラーもプライドが高い人ですが、逆に言うと、腰を曲げても実現したいものがないと言うことでしょ?

その点、リヒャルトは、手段を選ばず、周囲のことなどお構いなしに、どんどんと創作活動。フルトヴェングラーだったら逆立ちしても出来ませんよ。共依存症状のフルトヴェングラーだったら、シュトラウスのような事態になったら、喜んで人助けしますよ。

他者から依存される関係に依存する、この共依存状態では、自分単独で作曲することなんて出来ませんよ。しかし、この症状は、作曲には不適でも、演奏にはフィットしていますよね?

「アイツにはオレが必要なんだ!」「アイツのことを理解できるのはオレだけ!」なんて勝手に思ってストーキングするのは大迷惑ですが、

「ブルックナーにはオレが必要なんだ!」
「ベートーヴェンのことを理解できるのは、このオレだけ!」

そう思うくらいの思い込みはいいのでは?

それが演奏することの使命感につながるわけでしょ?

そんな使命感があるのなら、本来なら、指揮者専業で行けばよかったのでしょうが、そんな判断から逃げるのが抑圧的なアダルトチルドレン。だから自分が何をしたいのかわからずに、他者との関係性に依存するようになる。こんな態度ではプロの演奏家というか、職業としての演奏家としては失格ですよ。

しかし、逆に言うと、それくらいの「思い込み」がないと、芸術的な演奏にはならないでしょ?

そんな依存があるがゆえに、他人である作曲家との緊密な関係が築けたともいえるんでしょうね。抑圧が創造性につながった稀有な例と言えるのかも?

抑圧も極限まで進行し、ブレークスルーを経ることによって、ある種、突き抜けた境地になってしまう。この点は、フルトヴェングラーだけでなく、ゲッペルスもそのパターンなのでは?

自己を徹底的に抑圧することによって、自己解放を実現する。それが、フルトヴェングラーにとっての演奏。それは幸運な成果なの?

確かにその「成果」を、聴衆である我々は楽しむことができた。しかし、それって、まさにホフマンスタールの言う「私のこの苦しみから甘い汁を、吸おうとしたっただめだよ!」そのものでしょ?

もしかしたら、フルトヴェングラーは、そのセリフの意味を、R.シュトラウス以上にわかっていたのかも?

しかし、「だったら、それを作品にしなよ!」ってやっぱり思ってしまうのは無理なことなのかな?

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-08.htm

アーノルド・シェーンベルク モーゼとアロン (1954年 初演)

新・ウィーン楽派の元締めと言えるアーノルド・シェーンベルクが台本を書き、作曲もしたオペラ「モーゼとアロン」です。第2幕までは1932年に完成させ、第3幕は結局は未完に終わった作品。このオペラをご存知のない方でも、旧約聖書にあるモーゼとアロンの兄弟の軋轢の話は、ご存知でしょう。

この「モーゼとアロン」というオペラを、「理解者と協力者の乖離」という観点からみることは、「アラベラ」よりも、はるかに容易ですよね?

何と言っても、アロンはモーゼの言葉を理解していない。しかし、モーゼが受けた神からの言葉を広めるのに当たって最大の協力者である・・それくらいは、簡単に読めること。自分のことや言っている中身を理解していないアロンに頼らないといけないモーゼは、それゆえに苦悩する。

シュトラウスとホフマンスタールの「アラベラ」が、洗練された外観を持ちながら、内容的には悲痛な心情を含んでいる。いや、悲痛な面を持っているのはホフマンスタールの台本だけかな?

それに対し、シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、シリアスな外観を持っていますが、ギャグ満載の爆笑オペラなんですね。20世紀のオペラで、これほど笑える作品って、他にあるのかしら?


オペラ「モーゼとアロン」ですが、基本的なストーリーは旧約聖書のモーゼとアロンのエピソードによっています。簡単にまとめると、下記のとおり。

1. モーゼが神から言葉を受ける。

2. その言葉を自分で直接民衆に伝えようと思っても、うまく伝えることができない。

3. だから、言葉を上手に伝える能力を持っている、モーゼの兄のアロンと一緒に活動することになる。

4. アロンは見事にモーゼの言葉を語る。

5. 民衆は、モーゼよりアロンの方を絶賛し、「これぞ!奇跡だ!」

6. 民衆より絶賛を受けたアロンは、「その気」になって、どんどんと民衆を喜ばせる方向に、言葉を変えて行ってしまう。

7. モーゼは「まっ、とりあえずアロンに任せておくか・・・」と、引っ込んでしまう。

8. 民衆の期待に応えたアロンは、乱痴気騒ぎの大集会。

9. こうなると、本来のモーゼの言葉は、どこかに行ってしまう。

10. ここでモーゼが乗り込んできて、

「こらぁ!ええ加減にせんかい!」
「ワシの言葉を忠実に伝えろよ!」


11. アロンは、

「だってぇ・・・だってぇ・・・そもそもアンタが、民衆から離れすぎているのがいけないんじゃないか!」

と反論。


12. モーゼは

「じゃかぁしいんじゃ!最後にはワシの方が勝つんじゃ!」

基本的なあらすじは、こんなところ。いやぁ・・・笑える。

モーゼにとっては、アロンは重要な協力者。しかし、理解者とは言えない。だから、どうしても、このような齟齬が起こってしまう。


さて、このオペラ「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をしたシェーンベルクは、基本的には作曲家。作曲家にとって、親類とも言える身近な存在で、重要な協力者と言えるけど・・・残念なことに、理解者とは、とても言えない存在って、何?

それは演奏家でしょ?

作曲家が作曲した作品を、実際に音にし、多くの人に聞いてもらうに当たって、演奏を本職とする演奏家の協力は、現実的には、不可欠。

しかし、演奏家は、その作品の本当の意味がわからないので、どうしても民衆の好みに合わせてしまう。おまけに音楽家の中でマジョリティーなのは演奏家の側であって作曲家ではない。演奏家は自分たちの常識が、音楽界の常識と思ってしまうわけ。

それに演奏家は直接聴衆と接するので、「結果」が出やすい。それに、演奏家と作曲家ではどちらが、「実際的な力」を持っているのか?

それについては言うまでもないことでしょ?

音楽界の常識は、往々にして演奏家の常識であって、作曲家の常識ではないわけ。演奏家と作曲家が分業して以来、音楽史においては、そんな作曲家と演奏家のぶつかり合いって、よく出てきますよね?

まあ、批評家のような存在は、作曲家にとっては、そもそも理解者でも協力者でもなく単なるオジャマ虫なんだから、扱いがラク。しかし、演奏家は、作曲家にとって必要な協力者であっても、理解者ではない・・・だからこそ扱いが難しいわけ。

作曲家も演奏家も、本来は、同じ音楽の神を父とする兄弟同士なんだから、最初は一緒に行動するけど、方向性の違いから、やがては諍いとなってしまう。

あらまあ!なんとコミカルな悲劇だこと!!

この「モーゼとアロン」というオペラにおいて、モーゼを作曲家、アロンを演奏家としてみると、ツボを押さえたギャグ満載のオペラになるわけ。基本的には、こんな調子。


1. 作曲家が神から霊感を受ける。

2. 作曲家は自分では自分の曲をうまく演奏できない。

3. と言うことで、演奏が本職の演奏家が登場。とりあえず一緒に活動することになる。

4. 演奏家は見事に演奏する。

5. 見事な「演奏」に民衆は感激!

「感動した!これぞ奇跡だ!」


6. 民衆から絶賛されて「その気」になった演奏家は、もともとの作品にどんどんと手を入れ、ますます民衆を喜ばせる方向に向かってしまう。

7. 作曲家は、

「まっ、とりあえず演奏家に任せておくか・・・」

と、引っ込んで、新たな作曲活動。


8. 民衆の絶賛を浴びた演奏家は、大規模な演奏会を主催して、ますます民衆を喜ばせる。

9. そうなると、もともとの作曲家の意図が完全にどこかに行ってしまう。

10. とんでもない状態になっていることに気が付いた作曲家は、演奏家の元に乗り込んできて、

「こらっ!ええ加減にせんかい!

ものには限度というものがあるんじゃ!

楽譜に忠実に演奏しろよ!」


11. 作曲家の立腹に対し、演奏家は

「そもそもアンタの作品が民衆の理解からかけ離れすぎているのが悪いんじゃないか!」

と反論。


12. 演奏家からの反論を受けながら、

「最後に業績が残るのは作曲家の方なんじゃ!」

と締める。


私個人は作曲家でも演奏家でもありませんが、まあ、上記のようなやり取りって、音楽創造の現場では、ありがちなことではないの?

逆に、そんなぶつかり合いもない状態だったら、創造現場とは言えないでしょ?

オペラに限らず作品の解釈に当たっては、一義的ではないでしょう。受け手の様々な解釈も許容される・・・原理的にはそのとおり。

しかし、ここまでツボを押さえているのだから、作曲をした・・・と言うか台本を書いたシェーンベルクが、モーゼ=作曲家、アロン=演奏家 という役割を考えなかったわけがないでしょ?


そもそも、シェーンベルクはウィーンに生まれたユダヤ人ですが、もともとはユダヤ教徒ではありませんでした。もともとはキリスト教徒だったわけ。だからユダヤ教徒歴よりも作曲家歴の方が長いわけ。シェーンベルクは、まずは、作曲家なんですね。

もちろん、このオペラには、旧約聖書におけるユダヤ人の信仰の問題もあるでしょう。ユダヤ人のアイデンティティの問題だってないわけがない。音楽創造現場の問題とユダヤ人の信仰の問題のどっちがメインのテーマなのかは別として、モーゼとアロンというユダヤの有名人が出てくるんだから、信仰の問題がないわけがない。しかし、ユダヤの問題をメインに扱った作品と考えるには、かなり無理がある。

この「モーゼとアロン」というオペラは、どうして、その歌詞がドイツ語なの?

ウィーン生まれのシェーンベルクにしてみれば、ドイツ語はいわば母国語。自分の考えをまとめたり、歌詞を一番書きやすい言語。だからドイツ語でオペラの歌詞を書いた。それはそうでしょう。しかし、ユダヤ人の信仰の問題を主に扱うのなら、どうせならヘブライ語にした方がいいでしょ?

ドイツ語で台本を書いて、後でヘブライ語に翻訳して、それに音楽をつける・・・

この流れでオペラを作っていけば、たとえヘブライ語が母国語でなくても、台本を書き作曲もできるでしょ?

どうせドイツ語のままだって、演奏頻度が高くなるわけではないでしょ?

そもそもユダヤ人の問題を扱うに当たって、ドイツ語なんて、一番微妙な言語でしょ?

むしろドイツ語だけはやめておく・・・そう考えるのが自然じゃないの?

何と言っても、台本を書き始めた1930年代は、ナチスの台頭などがあったわけですからね。ドイツにおけるユダヤ人差別って、身に染みていた頃でしょ?

あるいは、どうせなら、ドイツ語ではなく、英語にする方法だってあるわけですしね。シェーンベルクは後にアメリカに亡命したわけですから、後になってオペラの歌詞を英語に変更するくらいわけがないでしょう。最初の構想はともかく、ドイツ語のままで台本を書き、作曲を進め、後で修正もせずに、そのまま初演を行うということは、明らかにヘンなんですね。初演は1954年で、シェーンベルクはもうお亡くなりになっていましたが、初演までは結構時間もあったわけですし、翻訳作業は人に任せることもできるでしょ?

翻訳作業を協力してくれる人はいっぱいいますよ。よりにもよって、第2次大戦直後に、苦難に満ちたユダヤ人のドラマをドイツ語で歌い上げられても、それこそがお笑いですよ。せめて、英語ヴァージョンを別に用意して、ドイツ語以外でも歌えるようにしておくのがマトモでしょ?

だから、ユダヤの信仰の問題や苦難に満ちたユダヤ人の問題は、決して、このオペラ「モーゼとアロン」のメインのテーマではないわけ。しかし、この「モーゼとアロン」というオペラが、「理解者と協力者の乖離」という一般論、孤高の人と大衆迎合の人との対立、超越的な存在と、現世的な存在の対比。あるいは、音楽創造の現場における「作曲家と演奏家の対立」というテーマから見れば、ドイツ語の歌詞で何の問題もない。

まさにドイツオペラのおなじみの伝統的なテーマであり、「モーゼとアロン」はその変奏に過ぎないわけ。シェーンベルクは台本を書きながら、

「あのヤロー!よくもあの時はオレの作品をムチャクチャに演奏しやがったな!」

と特定の演奏家なり、演奏のシーンを思い出して台本を書いていたのでは?

まあ、台本を書きながら、アタマから湯気が出ているのが簡単に想像できますよ。アロンの歌詞に付けられた多彩な音楽表情には、自分が作曲した作品を演奏される際に、心ならずも「付けられてしまった」トンチンカンな音楽表情が具体的に反映しているのでは?

それこそ作曲しながら、

「あの時は、よくも・・・よくも・・・オレの曲に余計な表情をつけて・・・」

と、髪を掻き毟りながら作曲していたのでは?これはちょっと想像できないけど・・・

まあ、演奏において、多少はトンチンカンな表情もしょうがないところもあるけど、やっぱり限度があるでしょ?

しかし、民衆から絶賛を浴びて「巨匠」の気分になっている演奏家は、どんどんと暴走して行くばかり。しかし、民衆の趣味に合っているがゆえに、ますます民衆から絶賛を浴びる。そうして大規模な演奏会へ!

第2幕の有名な黄金の子牛のシーンおいて、70人の長老たち語る言葉があります。

「人々は至福の境地だが、奇跡が示したのは、酩酊や恍惚がなんたるかということだ。

変わらぬものはいない。皆が高められている、感動せぬものはいない、皆が感動している。

人間の徳が再び力強く目覚めた・・・」


このセリフって、コンサートと言うか演奏家を絶賛する批評の言葉そのものでしょ?

皆さんだって、上記のような批評の文章を読んだことがあるでしょ?

まったく、ツボを押さえまくり。ギャグ満載ですよ。まあ、延々と饗宴が続く黄金の子牛のシーンって、ザルツブルグ・フェスティヴァルのようなものをイメージしているのでは?

だからこそ、モーゼつまり作曲家が、アロンつまり演奏家に「オマエなんて、所詮は、民衆の側じゃないか!」なんて言い渡す。

気持ちが入ったギャグだねぇ・・・

まあ、オペラにおけるモーゼの持っている石版を楽譜にして、アロンが持っている杖を、指揮棒にする・・・そのように演出しても、何の違和感もないでしょ?

シェーンベルクも恨み骨髄だねぇ・・・こりゃ、確かに、晩年でないと発表できませんよ。これほどわかりやすいメタファーなんだから、本来なら誰でもわかるはずなのに・・・


私個人はそんなことを書いてある解説を見たことがありません。まあ、作曲家の方々なら、簡単にわかるんでしょうが、おおっぴらには言えないのかな?

まさに諸般の事情というか大人の事情があるんでしょうね。ちなみに上記の歌詞は、作曲家でもあるピエール・ブーレーズが指揮したCDから取っています。そのCDに添付されている解説書で

「アナタはご自身を、モーゼだと思う?アロンだと思う?」

なんて質問しているインタビューがあります。いやぁ・・・エゲツナイ。

ブーレーズは、当然のこととして、お茶を濁したような回答。

「つーか・・・よりにもよって、このオレに、そんなこと聞くなよ!」

と思ったのでしょうね。シェーンベルクだけでなくブーレーズだって怒っちゃうよ。

もちろん、この作品において、シェーンベルクが単純に、「演奏家への恨み」をオペラにしたわけではないでしょう。自分が神からの霊感を受けて作曲した作品をメチャクチャに演奏する演奏家に向かって、

「勝手にオレの曲に手を入れるなよ!ええ加減にせんかい!このタコ!」

と、心の中で怒鳴っているシェーンベルクに対して、

「タコはオマエだろう!」

そんな言葉も言う人もいるんじゃないの?

たとえばシュテファン・ゲオルゲやライオネル・マリア・リルケ。

ゲオルゲやリルケが、神からの霊感を受けて文学作品にしたのに、それに勝手に音楽をつけたのは、いったい誰?

後から付けられた音楽が、詩人の意に沿ったものなの?

と言うか、リルケなんて挿絵すらいやがりましたよね?

自分の詩に音楽を付けるなんて絶対に容認しないと思うけどなぁ・・・

まあ、デーメルのような三流詩人に音楽を付けるのはともかく、ゲオルゲのような一流の詩に勝手に音楽をつけてはダメでしょ?

音楽を付けた分だけ、「広まりやすい」とは言えますが、それが本当に詩の本質を伝えることに役に立っているの?

そうなんですね!

シェーンベルクは作曲家として、演奏家が勝手につけてしまう不適切な音楽表情に抗議する側、つまりモーゼのような立場であるとともに、作曲に当たって題材とした文学作品の作者から、抗議される側、つまりアロンでもあるわけ。

「ああ!オレもタコだったんだぁ〜!」

これは色々な意味でそのとおり。しかし、まさにアロンのように、

「だってぇ、だってぇ・・・こうすると、みんなにわかってもらいやすいしぃ・・・みんなも喜んでくれているしぃ・・・」

と言わざるを得ない。しかし、本当に民衆にわかってもらえるの?

民衆との間に、共通の認識・・・いわゆる「理解」と言う次元に到達できたの?

表現において、発し手が想定しているとおりに、受け手が理解する・・・そんなことは実にレアケース。

神から霊感を受けて文章を書いて、それに音楽をつけると、最初の霊感からズレてしまう。それを演奏したら、演奏家の理解によって、ますますズレてしまう。

それを一般聴衆がどう聞くの?

もう、とんでもない伝言ゲーム状態。

最初に創作者が受けた神の言葉はどこに行ってしまったの?

最初の意図が伝わらないのなら、表現っていったい何?

「おお!言葉よ、言葉、私に欠けているのはおまえなのだ!」

第2幕最後にあるモーゼの有名なセリフです。


この場合の「欠けている言葉」は、狭義で言うと、まさに演奏能力となる。もう少し一般化すると表現能力というか伝達能力になるわけ。しかし、そのセリフの前の部分

「想像を超える神よ!

語ることはできない意味あまたなる想念よ!」

と言う言葉と組み合わせてみると、別の面も見えてくる。言葉が欠けているのではなく、言葉によって生み出される関係性が欠けている・・・そう言えるわけ。

言葉、あるいは表現によって、発し手と受け手で認識を共有できる。その共有化された認識がモーゼには欠けていて、アロンには備わっている。
いや!

備わっているというより、アロンはそもそも民衆の側なんだから、「見ているもの」も、民衆と共通している。しかし、モーゼは民衆と見ているものが元から違っているわけ。言葉そのものは同じでも、その意味するところが違っている。だから、言語によって関係性が生み出されることはない。

そのような意味で、この「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をした1874年にウィーンに生まれたユダヤ人のシェーンベルクは、言語表現に懐疑のまなざしを向けた「チャンドス卿の手紙」の作者・・・1874年にウィーンに生まれたユダヤ系のホフマンスタールと全く共通しているわけ。そして、その共通性は、

「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」

と言う命題を持つ「論理哲学論考」の作者である哲学者ウィットゲンシュタインと全く共通しています。

「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」

と言うウィトゲンシュタインの言葉と、

「想像を超える神よ!語ることはできない意味あまたなる想念よ!」

というシェーンベルクの言葉って・・・笑っちゃうほどよく似ている。


ウィットゲンシュタインは、1889年にウィーンで産まれたユダヤ人。ちなみに、彼の父親はプロテスタント。母親はカトリックです。

シェーンベルクは前に書いたようにユダヤ人なのに、当初はカトリックで後にプロテスタントに改宗、その後になって、今度はユダヤ教に改宗。

それにホフマンスタールが、ユダヤ系なのにカトリックだったことも・・・ご存知でしょ?

そのようなマイノリティは、コミュニケーションに対する無条件の信頼が、もともとないわけ。表現によって、自分の意図が人々に理解され、関係性が広がっていく・・・とは単純に考えない。もちろん、このようなことは言語の向こうにある心理を読もうとした1856年のウィーンに生まれたユダヤ人フロイトにも見られることでしょ?

言語によって関係性、あるいは相互理解が生み出されないという点においては、

「もし、ライオンが言葉を話せても、言っていることは我々にはわからないだろう。」

というウィットゲンシュタインの「言葉」が見事に語っています。真に創造的な領域では、人の言葉ではなく、神の言葉が支配する。だから表現によって、民衆との間に新たなる関係性が生み出されることはない。

じゃあ、どうして表現するの?

アンタが言うように語らないのが本来の姿じゃないの?

どうせ語ってもわかってくれないんだし・・・

まったくもって、おっしゃるとおりなんですが・・・

それがわかっていながら作品を作る、いや!わかっているからこそ、作品を作るわけ。目の前の人よりも、自分が知らない人に宛てて、作品という形で自分の認識を伝えようとする。語りえぬものだからこそ、語る必要があるわけでしょ?

これは別の言い方をすると、受け手が理解できないものだからこそ、作品にする必要があるとも言えますよね?

このことは作品を作る際には、難しく、わかりにくく書くという問題ではないわけ。

何を語るのか?(=WHAT)と言う点において語りえぬものであって、どう語るのか?(=HOW)の問題ではないわけ。

わかりやすく語っていても、語りたい中身そのものが受け手に受け入れられない、というか、多くの人には見えないもの。しかし、だからこそ、語る必要がある。受け手が見えないとわかっているものを、何とかして語ろうとするわけ。

しかし、だからこそ、ますます閉塞する。そして、自分が直面しているそんな閉塞を打破する協力者がほしい。

しかし、協力者であっても理解者ではないので、そんな協力者との共同作業によって、結局は、傷つき、ますます閉塞してしまう。

そのような点でモーゼも、シェーンベルクも、ホフマンスタールも、そして映画「ソフィーの選択」におけるソフィーやネイサンも、そして映画「ウィットゲンシュタイン」におけるウィットゲンシュタインもまったく同じ。

いやぁ!苦笑いせずにはいられない。

「モーゼとアロン」というオペラは、古代のユダヤが舞台と言うより、まさに当時のウィーンの芸術創造現場を、そしてその閉塞感を反映しているわけ。
ああ!ウィーンって街は、何て閉塞が似合う街なんだろう!


そのように見てみると「モーゼとアロン」は実に笑えるオペラでしょ?

このような気持ちが入ったギャグって、笑うだけでは済まないけど。まあ、このような悲痛で自虐的なギャグは、ユダヤ的なギャグの典型ですよね?

そう言う意味では、この「モーゼとアロン」というオペラは、まさにユダヤ的なオペラと言っていいのかも?

http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-09/07-09-27.htm


__________

リヒャルト・ワーグナー「ワルキューレ」


芸術家とは、神から出でた存在であり、神からの霊感を一般の人間に伝え、後生に残すのがその使命。

逆に言うと、ドラマにおいて、神からの言葉を伝えている存在は、芸術家としての自分自身を描いているケースが多いわけ。しかし、神からの言葉を語るがゆえに、一般の人間には理解されない。それゆえに、神からの言葉を受けたものは、一般社会の中で孤立し、苦悩することになる。

孤立の中で、自分の理解者を必死で探したり、神からの言葉を伝えようと、自分の協力者を得ようとして無理をして、その無理によってますます孤立してしまう。結局は、その苦悩がますます深くなる。しかし、一般社会からの孤立ゆえに、神からの霊感は、特定の人や集団を相手とする直接的な語りではなく、客観的な作品として結実することになる。

さて、そんな流れを持つオペラ(正式には舞台祭典劇)の「ワルキューレ」を考えて見ましょう。


題材としては、ゲルマン神話を元にしているわけですが、そのテーマとしては、芸術家としての意識という点から見ると、実に理解しやすいわけ。このオペラの主要人物であるジークムントのキャラクターなり、ドラマにおける役割・・・それがまさに芸術家の姿そのままなんですね。さて、そのジークムントは、神々の長であるヴォータンの血を引いている。つまり、神から出でし存在。

そして、そのヴォータンからの使命を果たすべく、行動することになる。つまり、神からの言葉を実現させる存在。しかし、ヴォータンからの使命を実現させようとするがゆえに、周囲と諍いが起こる。つまり、神からの言葉を実現させようとすると、周囲の一般人とモメることになる。

ジークムントは、自分と同じように神から出でし存在であるジークリンデに入れ込む。
つまり、芸術家は同類同士だと実に理解が早い。


一番困った時に、ヴォータンからの剣ノートゥングが現れる。つまり、芸術家が真に苦悩した時こそ、神からの霊感が訪れる。ジークムントとジークリンデとの結びつきに対し、一般人のフンディングがジャマをする。

つまり、芸術家同士の結びつきには、一般人からの妨害がつきもの。結局は、ジークムントは、一般人であるフンディングにやられてしまう。つまり、芸術家は、一般人には、この世では勝つことができない。


しかし、ジークムントとジークリンデは、ジークフリートを残すことになる。つまり、芸術家が死んでも、その後まで作品は残ることになる。そのジークフリートには、ヴォータンの娘であるブリュンヒルデが助ける。

つまり、芸術家による作品は、芸術的なルーツを持つ同類のサポートによって、世界に出て行くことになる。ジークフリートによって、この世界が浄化される。つまり、芸術家の作品によって、世界が堕落することを防ぐことになり、まさに神の意思が実現される。


と、まあ、芸術家の苦悩と成果と言う視点で見ると、実にツボを押さえた設定になっている。作者であるワーグナーが、自分自身の苦悩なり、芸術家としての意識や役割を踏まえた上で、台本を書いたのがよくわかる。


神からの言葉を語るがゆえに、この一般社会からは理解されないとなると、以前にシェーンベルクのオペラ「モーゼとアロン」を考えております。シェーンベルクは、神からの言葉を直接的に聞くモーゼに自分自身を重ねている。

しかし、一般社会に神の言葉を伝えるためには、神の言葉を直接的に聞くことができない一般人であるアロンを協力者にしなければならない。この「モーゼとアロン」というオペラの場合は、台本を制作した作曲家のシェーンベルクにしてみれば、モーゼ=作曲者,アロン=演奏家 の役割を負っていることはすぐにわかること。

神からの言葉を直接聞くものは、その言葉を多くの人たちに伝えなければならないという使命感と、対象とする一般人の理解力の低さの間の齟齬で苦悩する。そんな苦悩は、歴史を紐解けば、いくらでも出てきますよ。

それこそ、キリストだって、まさにそのパターン。

あるいは、画家のゴッホとかミケランジェロとか、レンブラントとか・・・ほとんどがそのパターンでしょ?逆に言うと、一般人と上手に付き合うことができたルーベンスが、芸術家の立ち位置の理想形として、ウィーダの「フランダースの犬」に出てくることになる。それだけレアケースというわけ。


芸術家は、神からの言葉を聞くがゆえに、一般人から迫害され、殺される。しかし、その言葉は後世まで残ることになる。


神からの言葉に執りつかれた人間は、本当の意味での自由意思はない。神からの言葉は、当人にとって圧倒的な存在であるがゆえに、それ以外の存在が霞んでしまう。

だから、遮二無二行動して、どうしても一般人とのやり取りがうまく行かない。


それこそ、この「ワルキューレ」の中のジークムントのセリフを取り上げてみましょう。

「♪・・・私は人に会う限り、何度でも飽きずに、友を求めたり、女を得ようとしたのですが、私はただ追放されるばかりでした。

何か不吉なものが私の上にありました。私が正しいと考えるものが、他人には悪いことのように思われたのです。私には悪いと思えることを、ほかの人は好んでしたのでした。どこへ行っても反目の中に落とされ、私の行く先々で怒りに襲われたのです・・・♪」 
 

この言葉を、そのままゴッホの伝記に入れても、何も違和感がないでしょ?

あるいは、ベートーヴェンでもOK。

ミケランジェロでも、基本的には、OKでしょうが、まあ、ミケランジェロは「女を得よう」とはしなかったでしょうね。しかし、彼もトラブルを巻き起こしてばかりでしょ?

しかし、それでも作品は残る。自分の死後も残るものを作る・・・それが芸術家の使命。

神よりも、一般人を向いていたら、神の言葉はもう降りてこない。神は嫉み深いもの。

一般社会から疎外された極限の状態にこそ、ノートゥングが現れ、作品のキーとなる霊感が訪れる。しかし、その神の言葉ゆえに、この社会では生きることができない。

結局は、神からの言葉をまとめた作品を制作する創作者だけでなく、その作品を守ろうとした人間までが迫害されてしまう。まるで、ブリュンヒルデが炎に幽閉されたように。しかし、そんな幽閉された芸術家を解き放つのも、神からの言葉をまとめあげた作品。芸術の歴史とは、見方を変えると、まさにこんな感じになっているものでしょ?

http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-12/10-04-26.html


_____________
_____________

2. 人類の至宝 EMI版バイロイトの第九とは何だったのか?


Furtwangler: Beethoven Symphony no. 9 "Choral" (Bayreuth 1951, EMI version)

http://www.youtube.com/watch?v=sWuBeV1Lai8
http://www.youtube.com/watch?v=L9iV-yKXI7k
http://www.youtube.com/watch?v=kK3Gy8LRcGc
http://www.youtube.com/watch?v=BuLW7Z5MjjE

Furtwangler: Beethoven Symphony no. 9 "Choral" (Bayreuth 1951, the Bavarian Radio version)

http://www.youtube.com/watch?v=95Wl6SxPKtQ&playnext=1&list=PL592099B56D52926D
http://www.youtube.com/watch?v=-6x_HzAxkoM&playnext=1&list=PL592099B56D52926D
http://www.youtube.com/watch?v=bgAI-en631c&playnext=1&list=PL592099B56D52926D
http://www.youtube.com/watch?v=kMsPaxTXxvk
http://www.youtube.com/watch?v=670cxAkXp3Q
http://www.youtube.com/watch?v=kCfTrWiDgCY

Furtwaengler conducts Beethoven 9th Sym finale 1942

http://www.youtube.com/watch?v=l7bBCGUTboY
http://www.youtube.com/watch?v=Uj3Bi_s_pYc
http://www.youtube.com/watch?v=fjsPJRVfixs
http://www.youtube.com/watch?v=MJBG9oSrbDg
http://www.youtube.com/watch?v=5c63FVMWELg
http://www.youtube.com/watch?v=R7y08vr4ulI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=87hD_3nmCA0
http://www.youtube.com/watch?v=pX0axuWB5Qo
http://www.youtube.com/watch?v=gYvjb2QIANA
http://www.youtube.com/watch?v=Ytv77Bx9wQc
http://www.youtube.com/watch?v=Bo-qfMj7xGM


Furtwangler conducts Beethoven Sym.9 on Aug.31.1951,in Salzburg
http://www.youtube.com/watch?v=vItuQgmLyxw

Ludwig van Beethoven: Symphony no. 9 "Choral"
Philharmonia Orchestra, Wilhelm Furtwangler
Recorded live in Lucerne, August 21, 1954

http://www.youtube.com/watch?v=F8cu-Czx874
http://www.youtube.com/watch?v=MKsAGdyn7TA
http://www.youtube.com/watch?v=ozZqLTikxZM
http://www.youtube.com/watch?v=toT33shaVhc

これこそフルトヴェングラーが夢見た第九の究極の演奏だった:

29 July 1951 Bayreuth Fes. Orc. The last rehearsal & Live(EMI=Legge)
Beethoven:Sym.No.9

●7月29日 ベートーヴェン/合唱 バイロイト祝祭o バイロイト音楽祭最終リハーサル&実況 EMI収録 EMI所蔵
LP/PR: EMI(GB)ALP1286-7(55/11)Pathe(F)FALP381-2(55/12)WALP(G)1286-7('55)

そしてこちらがフルトヴェングラーの実際の演奏 _ まあ、こんなもんだろうな:

29 July 1951 Bayreuth Fes. Orc. Concert Live(Bavarian Radio)
Beethoven:Sym.No.9

●7月29日 ベートーヴェン/合唱 バイロイト祝祭o バイロイト音楽祭実況 バイエルン放送収録 バイエルン放送所蔵

▼shin-pが最初に聞いたバイロイト合唱のブライトクランク盤LPは音質が芳しくなかったが、CDになってからは若干こもりぎみながらも比較的明瞭なサウンドで聴くことができるようになった−と思っていた。

ところが2000年になってコレクターの方に各国初出盤LPを聞かせていただいてから考え方は大きく変わった。英独仏初出盤のなかでは仏パテFALP381-2(55/12)がもっとも明瞭なサウンドを聞かせ、終演後の拍手もドイツの聴衆らしく整然とした印象。ついで英盤。

独盤は音がこもり気味で、日本初出盤に近いクオリティ。終演後の拍手もなぜか日独盤は共通して唐突なテープ編集がなされている。英仏盤も含めてEMI系のLP/CDは全て拍手の編集があるという説もある。

原盤マトリクスは同じながら各国で別テープを使用しているようだ。00/07レコ芸相談室によると演奏前の足音入りテープは現在日本にしか存在しないという。また2000年東芝全集盤でも61年当時英EMIから送られてきたテープを使用してリマスターしているという。

MythosNR5009(03/05)は初出盤ALP1286-7(55/11)を板おこしした話題のCD-R。

足音入りの部分は演奏部分に比べて音が明瞭、マイクの位置もステージ際と思われ、聴衆ノイズの少ない演奏部分とは別のマイク位置による収録と思われる。さらに、もしこの足音部分のみバイエルン放送テープを使ったとすれば、同局が収録した他の音源と比べて51年録音としては明瞭すぎ、出所については疑問が残る。

足音や終演後の拍手のみならず詳細に聞けば、残響が不自然にとぎれ、いたるところでテープ編集されているのがわかる。この演奏は同年のカラヤン「ワルキューレ3幕」と共にEMIのレッグが収録。

これだけの記念碑的大演奏会だけにリハーサルからテープは回っていると考えるのが順当だろう。英ART盤の解説によれば

「終演後、レッグがWFの控室を訪れ

『良い演奏だったが、今まで以上にすばらしい演奏とは言えなかった』

と実演の感想を述べた」ことが書かれている。オルセンによれば、実況録音はバイエルン放送が生中継し、テープも所蔵しているという。

EMIが現在「バイロイト盤」として発売している最終リハーサルを中心としたテープおよびバイエルン放送が本番の実況を録音したテープの2種の録音の存在が推定された。

2007年7月ついに日本WFセンターが、バイエルン放送のテープを使った真正実況を頒布。これの録音状態は、51年放送録音としては標準的なもの。

EMI盤は3楽章をはじめとして若干の実況を含んだ「最終リハーサル」を中心とした編集版である可能性がさらに強まった。

さらに、EMI盤とセンター盤の同じ演奏部分の収録状況の違いから、真正実況もEMIとバイエルン放送の2つの音源があり、51年バイロイトに関しては計3種テープの存在が07年時点で推定される。日本協会が8月頒布で1954年バイロイトのオリジナル音源盤を発表しており、さらに、謎は解かれつつある。

クナの神々をデッカが収録しているが、音質ではEMIはデッカに及ばなかった−という世評。ただ、初出盤などを聞くにつけ、もっといい音で残されている期待もある。

演奏については、唯一「コーダの決めが録音のせいかあやふやな感じで終わっている」といった趣旨の演奏評も多いが、この切れたような終わりかたこそshin-pはこの曲にふさわしいと思える。

至る所で編集がされていたとしてもこの演奏の偉大さは変わらない。

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/


▼日本WFセンターから51年バイロイト真正実況が頒布された。

まず、音質だが、翌年2月の独協会ウィーン盤には劣るが、1ヵ月後のザルツブルクorfeo盤よりは良好。高域は明快だが、低域が弱く、終始管楽器が強いなどのバランスと持続的に聞こえるノイズに若干の問題がある。

バイエルン放送はワンポイントマイクを使ったのだろうか、EMIが収録した「最終リハーサル」と思われる録音に比べて、強奏部で楽器の分離が悪く、個々の楽器の音色に劣る。それでも、これは他のCDと比較した場合の問題点で、鑑賞自体に大きな支障はない。

さらに、EMIの「足音」部分とセンター盤の一楽章冒頭はどうしても同じセッションのものとは思えず、レッグがこのバイロイト盤発売に際して試聴したとされる、54年バイロイトの良好音源もどこかに存在するという思いを強くした。

演奏は、冒頭からEMI盤とは全く別物だとわかる。部分的にEMIが使った演奏が顔を出す個所もあるのだろうが、1,2回の試聴ではよくわからない。

全体的に多少荒れた印象もあるが、これは録音のせいだと思われ、整然としたEMIとは違ってライブらしい熱気が感じられる。

1楽章の前半部に大きな咳払いがあるが、その他は聴衆ノイズが少なく、良好にこの記念碑的真正実況が聞けるのはありがたい。

バイロイト盤の白眉は、歓喜の主題が低弦で静かに演奏されはじめる部分にあるとshin-pは信じているが、残念なことにセンター盤はその直前の「間」にテープの継ぎ目があり、低弦の出だしが切れている。演奏前後の拍手などはカットされているが、楽章間の聴衆ノイズが収録されており臨場感は満点だ。

やっと、「真正実況」が聴ける歓びが大きいのは間違いない。しかし、全曲を通して聴いた感動は、EMI盤の方が大きい。生演奏は、録音された瞬間に「アーカイブ」という別物に変わってしまうのだ。

何度も繰り返し再生され、なおも愛好家を増やしつつあるEMIバイロイト盤の「レコード芸術」としての歴史に、残念ながらセンター盤「真正実況盤」は敵わないように思う。

あれほどまでに聴きたいと思いつづけてきた「真正実況」だが、「今まで以上に優れたものではなかった」というレッグの実演に対する評価が、大きな実感としてshin-pの胸にのしかかった−(07/07/19)

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/

フルトベングラーの「第9」、別の音源見つかる


 1951年のドイツ・バイロイト音楽祭でフルトベングラーが指揮したベートーベンの「交響曲第9番」(EMI)はクラシックの伝説的名盤といわれる。

ところで最近、この同じ演奏を、バイエルン放送が録音した音源が見つかった。状態は良く、演奏の細部が明確に聞きとれる。すると、こんな推論が浮上した。

「伝説的名盤」は、本番の録音にリハーサルなどを取り込んで大胆に編集したものなのではないか――。

 ライブ録音は、うわさを聞いたチェロ奏者カルテンボルンが06年にバイエルン放送に照会し、後日、資料室で見つかった。放送記録も残り、箱に録音技師の名前もあった。同年10月に同放送関係者や音楽家らが試聴審査し、「51年のバイロイト」と判断したという。

 しかし、この「バイエルン版」は、EMI盤と様々に違っていた。例えば第3楽章冒頭はバイオリンの出が早い。

終楽章でコーラスが「vor Gott」と歌う部分に激しい音量変化がない。聴衆のせきも、第1楽章から明確に聞こえた。


 カルテンボルンと親交がある、日本の「フルトヴェングラー・センター」の中村政行会長も、現地の審査会に参加した。中村会長は

「EMI盤は聴衆ノイズを消すため、一部をリハーサルと差し替えたのではないか。様々に『化粧』を施したことになるが、スタジオ録音が中心だった当時ならありうることだ」

と語る。 「センター」の顧問で、半世紀にわたりフルトベングラーの音源を聴いてきた檜山浩介さんは比較の上で、こう語る。


 「EMI盤は、全体の4分の3が編集したものではないか。

当時の流儀からして、ライブ録音以外に音源を使うならリハーサルだろう。

バイエルン版は、EMI盤では破綻がある合唱の出来がよく、終楽章の最後の凝縮感もすごい。戦後の新時代に向けたフルトベングラーの思いが伝わる」


 EMI盤には、実は以前から「一部が編集されているのでは」と想像を巡らすファンがいた。ただ、古い録音に詳しい音楽評論家の山崎浩太郎さんは言う。

「編集が加わったものだとしても、EMI盤の芸術的価値は下がらない。
優劣を論じず、虚心に聴き比べ、フルトベングラーの神格化を避けて、多面的に音楽を楽しむことが重要だ」

http://takenoko-ent.blog.so-net.ne.jp/2007-09-27-2

ベートーベンの第9のCDといえばフルトヴェングラーのバイロイト盤にとどめをさす。

戦後、再開されたバイロイト音楽祭1951年の初日、7月29日の公演のライブ録音。もちろんモノラル録音だ。のちに録音のいいステレオ盤がたくさん発売されたが、レコード芸術などの評論家や読者を対象とした雑誌のアンケート調査でもいつもこれが1位になっていた。僕自身、録音のいいステレオ盤をいろいろ聞いていたが、このフルトヴェングラー盤に出会って第9の神髄に触れることができた。

 有名な録音だけにいろいろ憶測が言われてきた。詳しくはあとで述べるが、この録音は 英EMIによって録音された。レコード化を目的としていたかは、実際のところわからない。

EMIはウイーンフィルやフィルハーモニアオーケストラを使ってスタジオ録音を始めていた。SP時代をのぞくと、レコード化を目的としたライブの録音は他には知らない。この年(1951年)カラヤン指揮のワーグナーの楽劇を録音するため、EMIは録音チームを送った。ついでにフルトヴェングラーの第9を録音してみようという話になったのだろうか。

公演は29日1回だけだったらしいが、現地のラジオ局(バイエルン放送協会)も録音してラジオで放送されたらしい。それで放送局にEMIとは別の録音テープがあるのではないかといううわさが以前からあった。

 そのうわさされていたバイエルン放送局所蔵の録音テープが出てきて、2007年に日本フルトヴェングラーセンターがCD化し会員向けに頒布された。大げさかもしれないがファンにとっては衝撃的なニュースだった。

 案内されてきたCDは会費込で6000円した。あまり高すぎるため、聴きたかったが、買わなかった。そうしたらその年(2007年)の12月にORFEOから通常販売され入手できた。
(ORFEO C754081B、写真)

 この録音の発掘は当然、かなりの話題になった。2007年9月号のレコード芸術に感想記事が寄せられている。フルトヴェングラーセンター会長中村政行、フルトヴェングラー研究家桧山浩介、そして音楽学者(評論家)金子建志の3人。まだORFEO盤は発売されていないので、センター盤を聴いてでの感想ということになる。

 いままでEMI盤で言われてきたのはゲネプロ(総練習)をメインに使用し、本番のテープも一部使用した、という説(テープを編集した跡がある)。

ほぼこれは当たっていると思う。バイエルン放送局のテープは咳ばらいなどの聴衆のオーディエンスノイズがはっきり聞き取れる。部分的にEMI盤と同一と思われる個所もあるらしいが、あきらかに別録音という印象を受けた。

 中村、桧山両氏はバイエルン放送局盤を29日の本番だと指摘。演奏の完成度もEMIより高いという意見を述べられているが、金子氏はまったく逆の意見だ。

その根拠は、演奏の仕上がりの完成度はEMI盤の方が高くバイエルン放送局盤は楽器のバランスやアンサンブルの点で最終し上がりの前の状態で完成度が低いと指摘している。金子氏の指摘はスコアを使用して詳細を極めている。

ぼくはスコアは持っておらず、金子氏の指摘についての確認は出来ないが、バイエルン放送局盤の演奏にEMIより完成度が低いという印象は持てなかった。金子氏の指摘で判るのは、終楽章のソロトロンボーンの箇所と、ピッコロ、トランペットが突出しているところ。ピッコロとトランペットの箇所は、マイクアレンジの差かもしれないが、仮に、EMI盤が本番として、フルトヴェングラーが修正した、という説は、十分考えられる。しかし、咳などの聴衆のノイズについては、オーケストラの楽員もしくはコーラスの団員が発したものではないか、という説は無理があると思う。第一楽章初めのあたりの咳はマイクに近く、オーケストラ団員というのはわかるが、マイクから遠い会場ノイズがあちこちに散見できるからだ。

 金子氏がバイエルン放送局盤をゲネプロと指摘する根拠がほかにもある。第3楽章のまえにソリストが入場する足音が聞かれる個所のことだ。(ORFEO盤はここのところはカットされていてる。)本番ならソリストが入場すれば拍手がおこるはずと指摘している。

これはたしかにそのとおりだと思うが、一方でゲネプロならソリストの入場は第4楽章のまえでいいのではないかとも思うが。バイエルン放送局盤は第3楽章が終ってすぐ第4楽章が始まっているので、たとえゲネプロであっても本番と同様に演奏したい、というフルトヴェングラーの要望があったのではと、憶測もできる。


 EMI盤の憶測がいくつか明らかになった。

第4楽章中間あたり、”vor Gott"と合唱がフォルテで歌い、声を長く伸ばす、有名な箇所があるが、最後、瞬間的に合唱、トランペットのレベル(音量)が上がる。

これは、レコード制作時にわざとレベルを上げて、演出したのではないかという疑問だ。

バイエルン放送局盤はそのような音量の変化はない。

したがって作られたものだと判った。

さらに、その"vor Gott"のあと、長大なゲネラルパウゼ(総休止)がある。これが異常に長い。それも疑問がもたれた。しかしバイエルン放送局盤も同様に長く、この点については特に元テープを触ってないということがわかった。


 僕自身、どうにもわからない点がある。それは最後のつめの箇所。フルトヴェングラーの第9の最後のところは、猛烈なクレッシェンドをかけて終わる。

フルトヴェングラーの第9の録音はかなりあって、ほとんどCDで聴くことができ、この終結のところはどれもうまくいっているが、このEMI盤はオケが混乱して終わっている。

まったく縦の線がそろっていない。誰が聴いてもこれはわかる。

バイエルン放送局盤はこの箇所がうまくいっていて問題ない。レコード化にあたってなぜバイエルン放送局盤を採用しなかったのか。結局、新たな疑問が生じた。

 バイエルン放送局盤はバイエルン放送局が録音したと言われている。関係者の証言もあるみたいだ。しかし、僕はこれはEMIが収録したものだと思う。理由はいろいろあるが、それまでバイロイトでのコンサートの録音の経験はなかったはずで、マイクのセッティングに手間がかかり、本番、ゲネプロの収録までにいろいろ試行錯誤(マイクテスト)しているはずで、別々にしているとは考えにくい。それと、マイクアレンジや音質は別、という意見があるが、ぼくが聴いた限りでは、「同じマイクアレンジ」だと思う。たしかに、先に書いたピッコロやトランペットのバランスの問題はあるが全体の音の印象はEMI盤と同じ、という印象だ。根拠はもう一つ。当時のラジオ放送局にこれだけバランスのいい録音が出来る技術は持ってなかったという点だ。

フルトヴェングラーは1954年にもバイロイトで同じ第9を公演していて、この方は間違いなくバイエルン放送協会が録音したテープが残されている。それはCDで聴くことができる。かなりバランスの悪い録音で、はっきりいって鑑賞に耐えられるような代物でなく、3年後という技術の進歩も考えても、バイエルン放送局盤がバイエルン放送局の技術で録音されたとは考えられない。ほかのケースを例に出してもいい、51年、52年、53年のウイーン、51年のザルツブルグ、54年のルツエルン、バイロイトなど、いずれも放送局の録音での第9が残されて聴くことができるが、いずれも録音のクオリティは51年のバイロイト盤には遠く及ばない。

 僕の解釈、ゲネプロと本番をEMIが収録した。おそらく、録音権でEMIとバイエルン放送協会とのあいだに争いがあったのではないかと思う。

録音はEMIが収録し、本番かゲネプロのどちらかのテープをEMIがバイエルン側に提供する。放送は1回限りで、コピーテープを他の放送局に提供しない、という契約をしたのではないかと思う。

コピーテープはスエーデンにあるらしいが、放送時に局が録音したのではないかと思う。今回のバイエルン放送協会で発見されたテープには、「たとえ部分的にでも、放送することは禁止」と書かれているという。一度放送した後で記述されたとおもわれ、EMIとの契約を意味しているのではないだろうか。

 1970年代後半から80年ころにかけて、放送局が所蔵していた音源からの流出と思われる、コンサートライブのレコードがチェトラ、BWS(ブルーノワルターソサエティ)、メロドラムといったレーベルから大量に発売された。フルトヴェングラーのライブもたくさん出てきた。それ以降も、放送局所蔵の録音テープの発掘が続けられて、散発的に発売されていた。それらのなかに、今回のバイロイトの録音テープは発売されなかった。つまり、バイエルン放送局で厳重に管理され、再放送はもちろんコピーテープも作られなかったということだ。

 このEMIの録音についていくつかヒントを与えたい。1999年に歴史的録音を発掘してCDを発売しているテスタメントからオットー・クレンペラーの第9のライブ録音が発売された。1957年11月15日の公演の録音。放送局が録音したのならよくあるケースだが、録音はEMIがした。当然、録音のクオリティは高い。クレンペラーの第9はこの演奏会に前後して、まったく同じメンバーでセッション録音された。レコードとして発売されたのはもちろんセッション録音の方。ライブの方は99年にテスタメントが発売するまで録音の存在さえ知られていなかった。似たケースがほかにもある。53年8月ザルツブルグでシュワルツコップフのヴォルフリサイタルがおこなわれた。ピアノはフルトヴェングラー。シュワルツコップの夫でEMIで力を持っていたウオルター・レッグが私的に聴くために、このコンサートの録音を指示した。結果的には選曲してEMIからレコード化されたが、珍しいケースだと思う。いままであえて名前を出さなかったが、バイロイトのフルトヴェングラーの録音やクレンペラーの第9の録音はレッグの指示だと思う。

 EMIはフルトヴェングラーのベートーベンの交響曲をウイーンフィルで順次録音していた。1954年フルトヴェングラーが亡くなって、2番、8番、9番は録音されなかった。9番がセッション録音がされていたら、51年のバイロイトの録音はクレンペラーのケースのようにお蔵入りになっていたと思う。

 えらい長いブログになってしまったが、EMI盤とバイエルン放送局盤の比較だが、バイエルン放送局盤の方が演奏がいいと思う。全体が有機的に連続しており、EMI盤のような編集の痕もなく自然。それに録音は明らかにバイエルン放送局盤に軍配が上がる。EMI盤のLPの海外、国内の初期盤、後の盤(70年代)とも比較したがバイエルン放送局盤の方が音質がいい。同じ収録なのになんで差があるのか謎である。バイエルン放送局の別録音の根拠になるが、どうしてもそれは信じられない。

 1点だけ問題がある。第4楽章はじめ有名な歓喜の主題がチェロで静かに始まるところ、有名な箇所だがEMI盤はほとんど聞き取れないほどのピアニッシモで開始されるが、バイエルン放送局盤はラジオ放送のためそのままでは聞こえないので、音量を上げている。金子氏が指摘している通りでここでノイズレベルが上がる。再発売の際にはここはもとのダイナミックスに修正してほしい。感興をそぐ。

http://blogs.yahoo.co.jp/zen32510/60907627.html

第二次世界大戦後、6年を経てようやく再開されることとなったバイロイト音楽祭のオープニングを飾ったこの歴史的な演奏は、そのライヴ録音と記されたEMI盤によって、これまで半世紀以上に渡り、音楽好きの人々の間で広く鑑賞されてきたのですが、今回登場するバイエルン放送音源は、同じ日のライヴという記載条件ながら、なぜかそれとは異なる演奏となっているのです。

 おそらくどちらかがゲネプロ録音で、どちらかが本番録音ということにでもなるのでしょうが、当時の演奏に関わった人の明確な証言が得られない以上は、どのような意見も推測の域を出ないというのが実際のところでしょうか。

 ただはっきりしているのは、終楽章コーダのアンサンブルはEMI音源が崩壊しているのに対し、バイエルン放送音源では何とか持ちこたえていたり、第3楽章のヴァイオリンの出が違ったり、トランペットやトロンボーンのバランスが大きく異なるなど、演奏そのものの差異が認められる部分が多いにも関わらず、部分的には両者が完全に一致するところも存在するということです。

 この事実は、どちらかが2種のテープの継ぎはぎをしたということを示すことにほかならないため、1955年に商品として発売されたEMI盤が、「より良い状態にするための編集」というレコード会社がよく採用する方法論を反映したものであるという仮説が有力とも思われます(ブルックナー8番の例も)。

しかし、明確な証拠が無い以上はやはり断定は難しいところですし、しかもバイエルン放送のテープの箱には、「放送に使用することは禁止」という文言も記載されているということなので、さらに事情はややこしくなります。

http://luke.jugem.cc/?eid=675


ベートーヴェン
交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(アルト)
ハンス・ホップ(テノール)
オットー・エーデルマン(バス)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団、同合唱団
録音:1951年7月29日、バイロイト
EMI(輸入盤 7243 5 66953 2 0)

 この録音を聴いたのは大学に入ってからだったと思います。最も印象的だったのは第4楽章の終結部でした。威風堂々と奏でられてきたこの曲は、最後の最後で歓喜の絶頂に達します。フルトヴェングラーはそこで猛烈なアップテンポでオーケストラを煽り、信じがたいほどの狂騒の中で曲を終わらせます。そのわずか数分のできごとに私は呆気にとられたものでした。これが私の「第九」体験のひとつです。その後、「第九」を聴くときには、最後の最後でフルトヴェングラー的な極度の高揚感を求める癖がしばらくついてしまいました。

 もちろん、そのような癖があっても、現実がそれを矯正しました。もはや世の中にフルトヴェングラーのような指揮をできる指揮者も、それを受け入れるオーケストラもなかったためです。

 考えてみれば、EMIはよくもまあこのような録音を発売したものです。フルトヴェングラーという巨人の名前がクレジットされていなければ、おそらくはとてつもない珍盤とされていた可能性があります。フルトヴェングラーが狂ったように指揮棒を振り回し、テンポを上げていくものですから、オーケストラはついていくのがやっとです。そのすさまじさに圧倒されるものの、演奏はハチャメチャに聞こえます。それどころか、きちんと最後の音まで辿り着いていないように思えました。

 それだけではありません。第4楽章で合唱が「vor Gott」と叫ぶと、それが延々と続きます。フェルマータがついているとはいえ、一体どこまで伸ばすのか、と思うくらい伸ばします。しかも、その最後でクレッシェンドしているではないですか。絶叫の上に絶叫であります。そして、それからの長い長い沈黙。大まじめにやっているのですごい迫力があります。

 これを何度も聴いていくと「第九」とはこう演奏すべき曲なのだと思ってしまうのです。「ライブ録音」と明記してあることも手伝って、一頃まで私がライブにこうした極端とも言える激しさを求めるようになってしまったのは、この録音の影響だったのかもしれません。その後にクレンペラー盤やジュリーニ盤などを聴くに至って私の偏向的な聴き方は緩和され、現在に至っています。

 しかし、フルトヴェングラーの音楽が持つ生命力は半端ではありません。


今年2007年になって大きな動きがありました。フルトヴェングラー・センターから会員向けにバイロイトの「第九」が発売されたのです。それも、編集がない、正真正銘のライブ盤だとか。

フルトヴェングラー・センター(会員向けCD WFHC-013)

 何と、1951年7月29日のテープがバイエルン放送局の倉庫に眠っていたのですね。それが21世紀になって発掘されたわけですが、この「センター盤」が出現したことで、EMI盤が当時のプロデューサー、ウォルター・レッグによる編集を経て作られたことがほぼ明らかになりました。

 例えば、EMI盤にあった「vor Gott」のクレッシェンドは「センター盤」にはありません。というより、「センター盤」は全体的に音楽の流れがとても自然です。つぎはぎをされたらとてもこのように自然な流れにならないでしょう。

 気になったのは第4楽章の終結部です。もしかすると普通のテンポになっていないかと興味津々で聴いたのですが、猛烈なスピードで畳みかけるのは一緒ですが、音はよく揃っていて「ハチャメチャ」な感じは全くしません。見事に最後の音に着地しています。

 こうなるとますます奇妙です。レッグはわざわざハチャメチャな方を編集材料に選んだことになります。また、「vor Gott」にクレッシェンドをつけて強力に厚化粧をしています。ライブ盤と銘打って発売するからにはこれくらいのことをしておいた方がインパクトがあると考えたのでしょうか。実際に多くのファンに強烈な印象を与え続けたわけですから、レッグの目論見は完全に成功したと言えます。

 「ここがこのように違う」という指摘はいくつもできるでしょうし、おそらく専門家や好事家の間でその一覧表でも作られているに違いありません。しかし、こうしたことは枝葉末節なのかもしれません。全体としてみればこの「センター盤」もレッグ編集のEMI盤もフルトヴェングラーの演奏を充分に伝えています。

 いずれにせよ、死後50年も経過している指揮者の録音が今も話題になり続けていることは興味深いです。ベスト盤を選定することに意味がないと考える私ですが、フルトヴェングラーはベートーヴェンに真剣に取り組むその姿勢が最も顕著に音に現れている指揮者の一人であるとは思っています。復刻盤が出たらまた買ってしまうことでしょう。古いモノラル録音であるのに。

http://www.kapelle.jp/classic/9th_symphony/beethoven.html


もう一つのフルトヴェングラー/バイロイト「第9」を聴いて


昨年暮れにオルフェオから出たフルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管の別テイク(バイエルン放送)のベートーヴェン「第9」をようやく聴きました。

朝日新聞にセンセーショナルな記事が出たこともあり、おそらく昨年のクラシック音楽界でも最大の話題となったCDの一つでしょう。私もずっと気にはなっていました。

要するに、あの不滅の名盤と言われている1951年のバイロイトの「第9」ライヴ(EMI)が、実はゲネプロの録音ないしはゲネプロと本番の継ぎはぎの編集によるものであって、今回の別テイクこそが、世に出なかった本物のバイロイトの本番の演奏ではないかという疑惑が出されていたわけです。

その後、金子建志さんが「レコード芸術」誌で詳細な分析を行い、むしろ今回出た録音の方がゲネプロなのではないかという意見を出されていたのも印象的でした。


そして、ようやく聴いてみた私の直観的感想を言えば、やはり金子さんと同じく、今回のオルフェオ盤はゲネプロの演奏ではないかという気がします。第1楽章の最初の方で咳が聴こえたりする臨場感はあるものの、やはり全体的に、演奏そのもののテンションがEMI盤に比べると若干低いというか、どことなく模索的な印象を受けます(特に第1楽章の前半)。とはいうものの、それはほんのわずかの差であって、オルフェオ盤においてもフルトヴェングラーならではの呪縛的な世界が展開していることは間違いなく、気がつけばのめりこむように聴き、久しぶりに出会うフルトヴェングラーの「第9」に興奮している自分がいました。録音状態も、フルトヴェングラーのものとしては最良の部類。第3楽章の弦の表情など生々しい感激があります。


今回のバイロイトのもう一つの「第9」を聴いて、私はフルトヴェングラーの演奏に宿されている、一種の「憑依」という特性について改めて考えさせられました。

つまり、オルフェオ盤・EMI盤のどちらにせよ、なぜこんなにゲネプロでも燃えまくってしまうのか。それはおそらく、ゲネプロであろうが本番であろうが、ついつい

「降りてきてしまう」「とりつかれてしまう」要素をフルトヴェングラーの棒が持っていたからなのではないでしょうか。


以前、ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者だった頃のライナー・ツェペリッツにインタヴューしたときに、フルトヴェングラーのことについて聞いてみたことがあります。「一体フルトヴェングラーとは何だったのか? 今のベルリン・フィルにフルトヴェングラー時代の響きは残っているのか?」という質問をしたのです。彼はフルトヴェングラー時代を知る最古参のベルリン・フィル楽団員の一人でしたから。

それに対するツェペリッツの答えはこうでした。

「う〜ん…フルトヴェングラーの響きは、少しだけ、残っていると思うね」

「それはどんなときに感じるのですか?」

ツェペリッツは目を閉じて、右手をスローモーションのように動かしながら答えました。


「今でもときどき、ベルリン・フィル全体が、微妙に動いて…揺れる瞬間がある。あれは――フルトヴェングラーなんだ」

指揮者が意図的に誘導して動かすのでもない、オーケストラ全体が、集合的無意識のように、不思議な揺れ方をする、その瞬間がフルトヴェングラーだ、とツェペリッツは言いたかったんだと思います。

我々はそれを作曲家の霊が憑依したように(まるで今音楽が生まれたばかりであるかのように)感じるのかもしれません。

もちろん、今回のオルフェオ盤にも、それは充分に感じられました。聴く者すべてを狂わせてしまうような、あの暗い魔力はフルトヴェングラーならでは。ファンならぜひとも聴いておくべき1枚でしょう。

http://linden.weblogs.jp/blog/2008/01/9-d41c.html

フルトヴェングラー年代順資料室
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのCD
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/FurtwanglerCD/index.htm

フルトヴェングラー鑑賞記
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/5362/

フルトヴェングラー鑑賞室
http://wadadaiki.com/furtwanglerweb/index.html

___________
___________

3.フルトヴェングラーは過大評価だよね?


1 :名無しの笛の踊り:2010/02/28(日) 17:59:08 ID:NBZERu3V

悪い指揮者ではないが、崇められすぎだ
カラヤンやショルティ、アバドラのほうがいい指揮者だろう

9 :名無しの笛の踊り:2010/03/03(水) 00:12:20 ID:vkIoeWU4

知らん奴はホントにほっとけばいいと思う。
そして或る日突然目覚めてそれまでの無知の日々を激しく後悔すると...

ざまあwである(笑)


11 :名無しの笛の踊り:2010/03/03(水) 00:23:27 ID:vtxcfQiE

昔は過大評価だったが今は正当評価だと思うぞ
「過大評価だよね?」などということすら憚られた時代があったから。
そして過大評価だと言えるようになって久しい今こんな旬過ぎたネタ持ってくるあたりがしょーもない。

ざっと言えばフルトヴェングラーは20世紀の形而上学の崩壊期における最後の徒花。

奇もてらうがあらゆる音に意味付けしたがる。そういうのが好きな人もいる。
意味付けから脱却して美しければいいとしたのがカラヤンで、美しさって甘ったるいことじゃないだろ、もっとはきはきしろよ、ってな感じのアバド。

美しさの基準は時代によって異なるからなんとも言えない。

31 :名無しの笛の踊り:2010/04/24(土) 22:39:49 ID:pWYw84Tg

フルトヴェングラーが解らない=音楽が解らない
だったよな、昔…

58 :名無しの笛の踊り:2010/05/20(木) 21:40:31 ID:jy5Ed3Vo

フルトヴェングラーのベートーヴェンこそ人類の至宝と崇めて未発表の録音を血眼で捜索していた時代が懐かしいです

78 :名無しの笛の踊り:2010/06/10(木) 00:40:06 ID:r7iCCYP7

フルヴェンは我儘な指揮者だった。
初めてVPOに客演したとき、「もっとはっきりと振ってもらわなければ分かりません」と言われて
怒って帰ってしまったというエピソードが残っている。

売り出し中のカラヤンという若手指揮者を潰しにかかったという点でフルヴェンは肝っ玉の小さな奴だった。 ナチに協力して指揮活動を停止された時期、BPOを救ったチェルビダッケにも嫉妬したものな。 そんなだからロクな死に方をしなかったんだ。

93 :寝言:2010/08/18(水) 04:56:45 ID:U9paKfnL

フルベンは、モーツァルトとかバッハの演奏がとてつもなく下手くそ
比較的ブラームスが上手い
あと合唱曲も苦手だったらしい。
ミサソレの依頼があったが「振れない」と正直に断ったそうだ。
謙虚だね。

95 :sage:2010/08/18(水) 22:26:43 ID:NFdD7+Wt
だからマタイの依頼も返事保留したのか。

96 :名無しの笛の踊り:2010/08/18(水) 22:32:20 ID:clgjjKYV
>>93
新潮文庫版「音と言葉」の訳者芳賀檀の訳者解説によると、
芳賀はフルトヴェングラー指揮の「ミサ・ソレムニス」を現地で実際に聴いて、
生涯忘れがたい感銘を受けた、と書いているが・・・

97 :名無しの笛の踊り:2010/08/18(水) 22:39:33 ID:2j9ZjaJ/

まあ偽物には間違いないがカラヤンよりは分を弁えてたようだな。

110 :名無しの笛の踊り:2010/09/23(木) 03:07:16 ID:DhL9JogD

29 July 1951 Bayreuth Fes. Orc. The last rehearsal & Live(EMI=Legge)
Beethoven:Sym.No.9

そろそろこの演奏の神格化は考えた方が良い。
第一楽章のテンポは断じてベートーベンが想定したものではないし、
第三楽章も遅すぎ。音については時代を考えれば十分であり、
些細な向上が毎回製作者の金づるになっているだけ。
上級者向けにはぜひ備えたい演奏だが、初心者に勧められる演奏ではない。

ベートーベンの第九を元にしたフルトヴェングラーによる自由なファンタジーであり、興行としてのお祭り、祭典として歴史の証言である。

こういう表現もありだし、これはこれで素晴らしい名演である。
第九をここまで想像力により、原曲を改編し、聴き栄えのある形に仕上げたフルトヴェングラーの力量は大したものである。

しかしベートーベンの設定はもっとテンポが速いのである。
勿論作曲者の意図だけが唯一ではないことも事実である。
フルトヴェングラーがベートーベンを上回る天才と信じる方には、このバイロイトが唯一最高の演奏となろう。その気持ちも解らぬではない。

ベートーベンの残された楽譜を忠実に再現するだけという制約を課していては、フルトヴェングラーの時代の指揮者では不可能だった早いテンポによるベートーベンの感動的な再現が その後記録された。

その指揮者は フルトヴェングラーがいずれは自分を抜いていく才能と看破し、抜かれる前に潰してやろうと嫉妬心を燃やし、徹底的に活動を妨害したヘルベルト・フォン・カラヤンである。

カラヤンの記録では1968年のDVDにより 最高の結実を見ることができる。
そしてカラヤンは見事にフルトヴェングラーを抜き去ったのはご存知の通りである

111 :名無しの笛の踊り:2010/09/23(木) 22:28:12 ID:14fKkTfj

カラヤンの才能に嫉妬し、カラヤン潰しに奔走したフルヴェンはじつに見苦しい音楽家だった

実力も人気もかなわないとこういう醜い行動に出るフルヴェンは最低な指揮者
こんなのを神格化した日本の評論家はクソ、その批評を鵜呑みにしてディスクを買いあさった側もアホ

280 名前:名無しの笛の踊り 投稿日:2010/09/23(木) 12:33:39 ID:ufzijpbj

なんでフルヴェンは第九のゴーダをいつもあのやたら早いテンポにしたのか?
初期はいいとしても晩年に至るまでずっとやってたね。


282 名前:名無しの笛の踊り 投稿日:2010/09/23(木) 14:27:03 ID:jBaClGoi
>>280
コーダで加速すると、一回聴くだけなら非常に興奮した演奏ができる。 しかし、レコードでその演奏を何回か聴いていくと興ざめするんだよな。

レコードが一定程度普及したときの演奏のあり方に、フルベンは最後まで答えをだせなかったな。当時としては偉大な指揮者だったとは思うが。

聴衆が「来るぞ、来るぞ」と期待してたから?

112 :名無しの笛の踊り:2010/09/24(金) 02:07:18 ID:JDM8LXv0

フルトヴェングラーも若い内から称賛されてた天才型指揮者だからカラヤンの台頭には穏やかではいられなかっんじゃないか。2人共初期のナチスの思想に共感してたし(まあ当時のドイツ人の大半はそうだけど) 演奏スタイルは違うけどどちらも典型的なドイツ系のナルシストだよね

才能も自信もあるけど意外とめめしい。

113 :中川隆:2010/09/24(金) 22:53:54 ID:HkFA5snx

カラヤンは誰が見ても三流なのに人気だけあるのが気に入らなかったんだろ。

カラヤンはアルメニア系ギリシャ人でゲルマン人の血は入っていない。
だからカラヤンがゲルマン音楽をやるとムード音楽になるのさ。


115 :名無しの笛の踊り:2010/09/24(金) 23:04:08 ID:0F0ijqR8

フルヴェンが当時だから通用した(ただし欧州だけで)指揮者、アメリカでは受け入れられなかった
今ではあのような演奏スタイルは支持されない、ようするに時代遅れ
常に先を見ていたカラヤンに嫉妬したのもそのためだ


116 :中川隆:2010/09/24(金) 23:49:33 ID:HkFA5snx

アメリカ人には音楽は理解できないだけさ。

アメリカに亡命したバルトーク、ブルーノワルター、アドルフ・ブッシュすべて駄目になった。

そもそもマーラーやメンゲルベルクよりトスカニーニを選んだアメリカ人って。

118 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 02:29:16 ID:Swf5Rqyj

http://www.muzieklijstjes.nl/100conductors.htm

カラヤンが1位だな。
フルベンも3位か、意外と高評価だな。


119 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 09:18:07 ID:w7HuGZqG

カラヤン、トスカニーニ、フルヴェンか
まあ順当だな、と思ったら2位(バルビローリ)が予想外でした


120 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 09:48:21 ID:7CoEbseq
>>117
アメリカ人は、過去の栄光にすがり、惰性で仕事する奴より、日夜努力する改革者が好きなのさ。
>>119
普通ならその3人だろう、順番は異論があってもかまわない
と思うがな。


121 :中川隆:2010/09/25(土) 10:30:52 ID:qoJ7IzLk

アメリカ人に音楽がわからない理由


この「聖」と「毒」が一緒に存在する世界・・・


このようなワーグナーの世界は、ある意味において、ヨーロッパの精神世界そのものと言えるでしょう。
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同じラース・フォン・トリアー監督の「キングダム」という作品の冒頭のモノローグは
「この魑魅魍魎の渦巻く沼地の上に建てられた、近代科学の粋を集めた病院」
という言葉でしたが、この言葉はヨーロッパの精神の比喩そのものでしょ?

「神」による「聖」なるもの、それに対する「毒」、あるいは「近代科学」・・・

すべてあってこそヨーロッパと言えるのだとフォン・トリアー監督は考えているようですね。

この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の冒頭の、全く光のない劇場に弦楽器とホルンによって立ち上ってくる音響は、ワーグナーの引用であり、この映画が「聖なるもの」と「毒々しいもの」を含んだ「ヨーロッパの精神」をテーマにした作品であることを聴き手?に印象つけるわけです。

しかし、この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に舞台はアメリカですよね?
つまり、この作品の設定は、「アメリカの中のヨーロッパ人」そして「アメリカ文化?の中のヨーロッパ精神」になっているわけです。

ヨーロッパには「聖」と「毒」がある。 では、アメリカ精神には何があるの?
それは「正義」と「悪」ですね。

アメリカにはこの世を越えた「聖」はなくても、この世の規範である「正義」はあるでしょ?

自らを蝕む「毒」はない代わりに、他者を裁く「悪」がある。

この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、そのようなヨーロッパの「聖」と「毒」が明確に描かれています。

「聖」なるものの代表例は言うまでもなく、教会です。 この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では不思議なくらいに教会が出てこない。 死刑のシーンにつきものの、聖職者(牧師とか神父)がいないでしょ?


映画における普通の死刑のシーンでは、刑の執行される前に聖職者と会話するシーンがつきものです。 一番感動するシーンですからね。では、どうしてないの?
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、このような「聖」を思い起こすような人物は注意深く避けられているわけです。 キリスト教関係でいうと、セルマが刑務所のダクトから聞こえる賛美歌と、囚人の部屋にある1枚のキリストの肖像くらいです。

ダクトから聞こえる賛美歌・・・この賛美歌は一体どこから聞こえるのでしょうか?

他の人には聞こえない賛美歌・・・セルマの心にしか聞こえない音楽・・・

これはヨーロッパから聞こえる・・・と言えるでしょう。 勿論、物理的には無理ですが、心では聴こえているわけ。
つまり賛美歌を喜んで聴くセルマにもかかわらず、死刑において神父の立会いもない・・・

これくらいアメリカには「聖」から距離がある・・・とフォン・トリアー監督は言っているわけです。


では、ヨーロッパの「毒」とは?

それはまさにこの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、遺伝性の病気として示されているわけです。

「遺伝することがわかっているのに、何故に子供を作ったのか?」という疑問は、

「毒に満ちて閉塞感の漂うヨーロッパ文化を伝承することに、価値や意味があるのか?」

という、監督のフォン・トリアーの自問でもあるわけです。

毒に満ちた文化を伝承することによって、その「毒」も伝承される。 その価値と覚悟・・・

ヨーロッパの持っている出口のない状況と、未来一杯のアメリカ。
シリアスなヨーロッパの表現と、能天気なミュージカル仕立てのアメリカ風表現。

精神主義のヨーロッパと、商業主義から抜け出せないアメリカ家族。
約束を守るヨーロッパ人と、約束を無視するアメリカ家族。

例の事件のあった家族の庭に星条旗がはためいているのは偶然ではないわけ。 あの家族がアメリカ人の典型だ!とフォン・トリアー監督は言っているわけです。

あるいは、あの家における知性の欠落は、本棚を見ればスグわかるようになっています。 何かの全集ものがキレイに並んでいるんですね。 本棚の本がズラーと並んでいて、外見上もキレイなのは、本を読んでいない証拠。

フォン・トリアー監督がアメリカの単純さに距離を置く人であることは明白ですね。 まあ、「あんなに単純で生きられたらラクだろうなぁ・・・」と思っているのかな?

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-12/03-12-16.htm

まあ、アメリカ人にフルトヴェングラーが理解できる訳ないわな(嘲笑い)。


126 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 23:31:08 ID:u3q9lZsw

いまどき、フルヴェンを崇拝してる輩なんていないだろ?
昔はイカサマ評論家に騙されて、LPを買いあさった単細胞がいたけどCD時代になってからは耳が肥えてきたリスナーが増えたんだから あんな時代遅れの駄演盤を買う奴なんているわけねえよな


285 名前:名無しの笛の踊り 投稿日:2010/09/25(土) 13:58:27 ID:QKA/pZAT

フルヴェン聞いてる自分が好きなんだ、おれ。


127 :中川隆:2010/09/25(土) 23:43:53 ID:qoJ7IzLk

演奏がどうこう言う前に、音そのものがカラヤンなんかとは比較にならないよ。


128 :名無しの笛の踊り:2010/09/26(日) 06:14:42 ID:XLcQnO3j

確かに比較にならんな
フルヴェンは異常に芝居がかった演奏をするし、表現するのがちっぽけな人間的感情だけ
はっきり言って、曲を矮小化させてると思う。気持ち悪いし

129 :中川隆:2010/09/26(日) 09:50:01 ID:EBOV+P7W

芝居がからない演奏 = ムード音楽


132 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 02:31:10 ID:HM57NYyB

何度も聞くと鬱陶しい。
本人もそれわかってたみたいだし。


133 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 03:24:30 ID:OrFxSTLH

俺はシューマンの4番がフルヴェンの最高傑作と信じて疑わん!

134 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 06:37:26 ID:MX7WlJNi

俺のCDの棚にはそう言えばフルトヴェングラーのCDは少ないな。 ベートーベンの第9バイロイト、その他2〜3枚程度

人生は短いから、音の良い演奏で色々な曲や演奏を聞きたいとなると避けがちになる


135 :愛撫 先:2010/10/02(土) 07:38:01 ID:jUW+8RAO

不思議なのは、古楽器演奏や演奏法によるベートーヴェンが主流になってもフルトヴェングラーのベートーヴェンを第一とする人があまりに多い。 評論家もリスナーも。

トスカニーニだって楽譜に手を入れてるし、フルトヴェングラーはいわずもがな。 古楽器演奏や演奏法の是非はともかくとして、これを基準にするとフルトヴェングラーは演歌になってしまう。

粘るところはとことん粘り、盛り上げる部分はオケが崩壊しても突っ走る。 自分も中2のころは、「第5」の復帰演奏を毎日聴いてたが今聴くと…
「今、フルトヴェングラーの解釈をするとオケの団員からバカにされる。 今や誰も出来ないコトを(時代が違うとはいえ)やっていたフルトヴェングラーに価値を見出しているにだろう」 と思う。

136 :中川隆:2010/10/02(土) 08:44:27 ID:hSQXWzjT

ブルーノワルターもヨーロッパ時代は
粘るところはとことん粘り、盛り上げる部分はオケが崩壊しても突っ走る
だった。 メンゲルベルクも同じ様なもんだし。 これが19世紀の標準スタイル。

137 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 09:09:05 ID:b/j4ReU6

フルベンは、一回目聴くといい演奏と思うこともあるのだが、何回も聴くと本当に鼻についてしまう。

聴衆が聴きに来る曲をほとんどレコード等で聴いたことがない時代ならこの演奏方法は価値があったのだが、今となっては明らかに時代遅れとなっている。
実演では偉大な指揮者として考えるけど、正しいレコードの残し方は死ぬまで分からなかったのではないか。1954年に無くなったが、ステレオ時代まで生きていたら、おそらく評価が急落したと思う。

138 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 10:12:11 ID:z4+7UHYM
>>136
>これが19世紀の標準スタイル

19世紀って・・・せいぜい世紀末に彼らが幼少期、青年期を過ごしたってだけじゃん。
100年間もあれば演奏様式も技術も楽器の性能も変わるだろうし、ベートーヴェンからマーラーまで録音なんか残ってないのに、よくそういう見てきたような嘘をつけるね。

139 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 10:42:36 ID:bnuyrT5v

後期ロマン派スタイルだわな
それに最後のロマン派リヒャルトの演奏はまったく違うわけだし、フルヴェン流が演奏の主流だったのってほんの一瞬だったと思う

140 :中川隆:2010/10/02(土) 10:47:05 ID:hSQXWzjT

少年時代の音楽教育でその後のスタイルがすべて決まるもんだろ。
インテンポは20世紀のスタイルだよ。

楽器で進歩したのはピアノだけだろ。 19世紀のオーケストラはノンヴィブラートのポルタメント奏法

それに合った指揮をしてただけだろ。

フルヴェン流 = テンポが遅い

ヨーロッパ時代のワルターもリヒャルトシュトラウスもシューリヒトもテンポが極端に速く、演奏が軽い。

これがヨーロッパ標準

142 :中川隆:2010/10/02(土) 11:23:42 ID:hSQXWzjT

20世紀最高の指揮者はワインガルトナーだというのが昔の常識だったみたいですね。


本物の貴族
テンポが極端に速く、演奏が軽い
ノンヴィブラート・ポルタメント奏法の奥義を極めた天才

143 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 11:27:12 ID:bnuyrT5v

>フルヴェン流 = テンポが遅い
すげえ、こんなの初めて知った

144 :中川隆:2010/10/02(土) 11:50:26 ID:hSQXWzjT

こういうことさ

演奏法の点から言えば、ワーグナー以前とワーグナー以後、さらに、第二次世界大戦以降から現代の3つの大きな流れがある。

現代のオーケストラの演奏は、ニュース原稿を読むアナウンサーのようなもので、標準的ではあるが、非常に特徴に乏しいものである。

この他、今世紀前半の録音には、十九世紀後半以降に出現した、「ロマンティックなスタイル」を聴くことができる。

アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団の指揮者であったヴィレム・メンゲルベルクや、マーラーの作品を数多く指揮したオスカー・フリートなどはその典型的な例といえるだろう。 ここでいう「ロマンティック」は、後期ロマン派の音楽家たちが好んで用いたという意味で、現代の通常の意味とはニュアンスが違うのでご注意いただきたい。 フレーズに応じたテンポの変化や強弱記号の強調、弦楽器のポルタメントや激しいヴィヴラートなどがその代表的な特徴である。

また、ベートーベンなどの音楽に文学的な解釈をあてはめて、表現を加えていくという手法が好んで用いられたのもこうしたロマンティック・スタイルとの関連性が高い。 これらの表現法の確立は、ワーグナーの存在なしでは考えられなかっただろう。 ワーグナーは、その作品で文学と音楽の融合を試みたのみならず、指揮者としても、ベートーベン解釈などにおいて当時の音楽界に大きな影響を及ぼした。 ワーグナーは近代演奏史の大きな分岐点である。

第3のスタイルは、ワーグナー出現以前のスタイルで、最近のオリジナル楽器オーケストラやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などに代表されるような古いスタイルである。

ノン・ヴィヴラート奏法、音符の音価の強調、すなわち、長い音符は本来よりわずかに長く、短い音符は本来よりやや短く演奏する処理や、長い音符の後ろの方で音量が強くなる後置型アクセントなどはその代表的な特徴である。
おそらく十九世紀中頃までは、世界中のすべての指揮者とオーケストラが多かれ少なかれこのスタイルに従っていたのではないかと思われる。 シャルク、ワインガルトナーに認められる意味不明なアクセントなどは、その名残りではないかと考えられるが、現代の我々が聴くと、音楽の文脈とまったく関係のない、形式的で余計な表現として受け止められるのだ。

本来、こうした古い演奏体系には、音楽の構造と結びついた明確な規則があった。

しかし、ロマンティック・スタイルの出現、その反動のノイエ・ザッハリヒカイト、さらに、現代のより洗練された演奏スタイルが普及していく過程で、古い演奏スタイルの必然性は失われ、現代の我々にはまったく理解不可能な単に形式的なものへと変化していったのではないかと思われる。

つまり、ブラームスやブルックナーが初演された状況などにおける古い演奏体系と現代の演奏体系の間には、missing link(失われた関連性)があり、シャルクやワインガルトナーの録音は、途切れてしまった鎖をつなぎあわせる重要な手がかりといえるのではないだろうか?
 
今世紀前半の指揮者たちの演奏を聴くためには、この3つのスタイルをきちんと聴き分ける知識と能力が必要とされるのではないだろうか。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7792/weingartner.html


146 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 12:03:30 ID:Dz7Mu4tB

他人のサイトの意見を鵜呑みにして「こういうことさ」って恥ずかしくないの?

147 :中川隆:2010/10/02(土) 12:22:48 ID:hSQXWzjT

これは常識だからね。

ワーグナー出現以前のスタイルというのはカペー四重奏団の演奏そのものだろ。
フルヴェンはロマンティックスタイルの代表

ノンヴィブラート・ポルタメント奏法に戻るのはもう不可能だから、フルヴェンを否定したら未来は無いのさ。

148 :中川隆:2010/10/02(土) 12:33:50 ID:hSQXWzjT

もうこんな演奏は無理だもんね

カペーSQの演奏を特徴付けるのはノン・ヴィブラートとポルタメントである。
カペーSQの演奏は、同世代或は先輩格の四重奏団―ロゼーSQ、クリングラーSQ、ボヘミアSQらと、これらの点で共通する。

そして、第1次世界大戦を境に勃興し、カペーSQの後塵を拝してゐた四重奏団― レナーSQ、ブッシュSQ、ブダペストSQの各団体がヴィブラート・トーンを基調とするのと、大きな相違点を持つ。

しかも、カペーのポルタメントは旧式で、時代を感じる。 ポルタメントを甘くかける印象の強いレナーも、カペーとは世代が違ふことが聴きとれる。 ここで、最も藝術的なポルタメントを使用したクライスラーの特徴を例に挙げることで、ポルタメントの様式における相違点を検証したい。

クライスラーの奥義は3点ある。第1に、必ずしも音の跳躍―即ち運指法の都合―でポルタメントを使はない。 云ひ換へれば、指使ひを変へないでも弾けるパッセージであらうとも、感興の為にポルタメントを使用する。


第2に、音から音への移行過程は最初が緩やかで、最後になるほど速く行なはれる。

第3に、フレーズの変わり目が同じ音のままの場合、敢てポジションを変へて音色を変へる。 この際に同一音の連続にも関わらず、ポルタメントが入ることになる。

このクライスラーの特徴は、ティボー、エルマンそしてレナーにも概ね当て嵌まる。

これに反してカペーはポルタメントの使用箇所に運指の都合が見られ、何よりも移行過程の速度が均一である。カペーの左手による表現はロゼーやマルトーと云つた旧派と同じ音楽様式に根付いてゐるのだ。

http://www.h6.dion.ne.jp/~socrates/capet.html

19世紀後半から20世紀前半の名ヴァイオリニストと言われた人達の語録を辿ると、「ヴィブラートは必要不可欠なものだ」的な発言が急に増えているように思われます。その人々の多くは現在復刻盤で聴くことができます。

例:クライスラー、ティボー、イザイ、フーベルマン、ジンバリスト、サラサーテ、ヨアヒム、フレッシュ(順不同)

上記の人は、全て僕の聴いたことのある人ですが、皆、大きなヴィブラートとポルタメントを多用しています。

※なお、ポルタメントは専ら上昇音形に用いられるのが普通でした。下降音形に用いるのは“下品”とされていたようです。ここがパールマンとは違うところ。
そして、彼らの多くは音程も揺れ動くようなヴィブラートです

「ああいうヴィブラートはクライスラーが始めたことで、ロゼーのような人は用いていなかった。クライスラーが若い頃にウィーン国立歌劇場管のオーディションに落ちたのは、そのためである。云々」という文章を読んだことがあります。

http://pseudo-poseidonios.net/okuzashiki/15_review_7.htm

ビブラートは、1830年代の特徴からは遙かに隔たったもので、それは欧米のオーケストラでは1930年代までは一般的ではなかったのです。

しかし驚くべきことに、演奏者も聴衆も、それ以前の偉大な作曲家たちが誰一人として期待も想像もしなかったオーケストラの音に、全面的に慣れ親しんでしまったようです。

ベルリオーズやシューマン、ブラームスやワーグナー、ブルックナーやマーラー、シェーンベルクやベルクがその傑作を書いた時、オーケストラの音は ただ一種類だけが存在していました:暖かく、表現力豊かで、ピュアな音色。 私たちが慣れてしまったグラマーなビブラートのない音。

20世紀になって新しく加わったのは、全ての音符に、どんな短いものであっても絶えずビブラートをかけるというアイデアです。 フリッツ・クライスラーが、カフェの音楽家やハンガリーやジプシーのバイオリン弾きのスタイルを取り入れて、グラマーなビブラートを始めたように思われます。

1900年以降、偉大なソリストとオーケストラが、最初は前の世紀からのピュアな音色で演奏しており、そして今日私たちが知っているものに徐々に変化していくのを聴くことができます。 しかし、ごく徐々になのです。高潔なドイツや大きなアメリカの団体の大部分は、30年代になるまで手を染めませんでした。

ベルリン・フィルは1935年まではっきりしたビブラートの録音は出てきませんし、
ウィーン・フィルは1940年までありません。

ですから、20世紀前半のバイオリン協奏曲の録音を聴くと、ソリストはビブラートを使っていますが、ドイツの最高のオーケストラはピュアな音色で演奏しています。当時はそれが普通だったのだと思われます。

http://www.kanzaki.com/norrington/roger-nyt200302.html

151 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 14:09:02 ID:lXJZscod
>>136,>>140
で、結局「標準」って何だ?


152 :中川隆:2010/10/02(土) 15:01:23 ID:hSQXWzjT


1.本来のヨーロッパ標準

ノンヴィブラート・ポルタメント奏法の甘味で純粋・透明な音色
インテンポ、テンポは極端に速く、演奏が軽い
ワインガルトナーとカペーSQがそのとう尾を飾った。


2.ロマンティック・スタイル

テンポの極端な変化やダイナミックレンジの広さ、弦楽器のポルタメントや激しいヴィヴラート
テンパニの強打、金管楽器の強調
音楽の文学的な解釈、ドラマチックな盛り上げ
フルヴェンとメンゲルベルクが代表


3.現代的演奏
ムード音楽と変わらない
カラヤンが代表

153 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:07:20 ID:ydGg4Bll

そういえば何かの文献にワインガルトナーの演奏はアンチ・ビューロー
ということが書いてあった。

(ビューローの面前で「カルメン」指揮した際に逆鱗に触れたエエピソードあり)


154 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:14:03 ID:bnuyrT5v

>>136ではヨーロッパ時代のワルターをメンゲルベルクと同じスタイルだとし
>>141ではシューリヒトやRシュトラウスと並べてる。矛盾してるぞ
他にも突っ込みどころがありすぎる。かわいそうな人だ

156 :中川隆:2010/10/02(土) 15:23:46 ID:hSQXWzjT

20世紀初めは本来のヨーロッパ標準とロマンティック・スタイが共存していただけさ。

1930年代のウイーンフィルは本来のヨーロッパ標準に近かったから、ワルターのウイーン録音はヨーロッパ標準

ウイーンフィル以外のオーケストラは自由に振れたからロマンティック・スタイル

になった。

シューリヒトやRシュトラウスはヨーロッパ標準の指揮者に近いが、ポルタメント奏法が無くなった時代だからインテンポの所だけ標準に近い。

157 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:28:43 ID:HM57NYyB
>>152
ムード音楽の指揮者ってあとどの辺の人?

158 :中川隆:2010/10/02(土) 15:30:31 ID:hSQXWzjT

バーンスタイン


159 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:44:24 ID:HM57NYyB

たったそんだけ?
じゃ別にそんな大きな勢力じゃないじゃん。


160 :中川隆:2010/10/02(土) 15:57:48 ID:hSQXWzjT

オーケストラが全部ムード音楽専用オケになったという事。 今、フルヴェンが生まれてきても、もうああいう演奏はできないもんね。

161 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 16:08:06 ID:HM57NYyB

わかった、君が最近の音楽を聞いてないことはわかった。 だって聞くに値しないだろうからね。



162 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 20:39:49 ID:lXJZscod

実証も反証もしようがないから言ったもんがちだな

163 :中川隆:2010/10/02(土) 21:58:14 ID:hSQXWzjT

20世紀初頭と19世紀中頃はそんなに変わっていない。

20世紀初頭の状況はSP録音の歴史から推測できる。

従って、19世紀中頃の演奏スタイルはノンヴィブラート・ポルタメント奏法しか考えられない。

当時は早いテンポで小さい音で上品で甘い音で演奏していたんだ。

だから、フルヴェンの前にフルヴェンは無く、フルヴェンの後にフルヴェンは居ないというのは厳然たる事実だね。


165 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 09:04:04 ID:DGWEGJvm
>>160
なぜムード音楽専用オケばかりになったの?
なぜフルヴェンが今指揮してもああいう演奏できないの?
大指揮者なんだから出来るに決まってるだろ?
メンゲルベルクの第9のエンディングは「ドラマチックな盛り上げ」なの?
音楽になんで文学的解釈が必要なの?

167 :中川隆:2010/10/03(日) 09:23:17 ID:trtEv+0L

(なぜフルヴェンが今指揮してもああいう演奏できないの?)


昔はレコード会社自体がフルヴェンに輪を掛けたアレだったからできたのさ:


ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」
フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団、同合唱団

フルトヴェングラー・センターから会員向けにバイロイトの「第九」が発売された。

それも、編集がない、正真正銘のライブ盤だとか。

この「センター盤」が出現したことで、EMI盤が当時のプロデューサー、ウォルター・レッグによる編集を経て作られたことがほぼ明らかになりました。


 例えば、EMI盤にあった「vor Gott」のクレッシェンドは「センター盤」にはありません。

というより、「センター盤」は全体的に音楽の流れがとても自然です。
つぎはぎをされたらとてもこのように自然な流れにならないでしょう。

 気になったのは第4楽章の終結部です。もしかすると普通のテンポになっていないかと興味津々で聴いたのですが、猛烈なスピードで畳みかけるのは一緒ですが、音はよく揃っていて「ハチャメチャ」な感じは全くしません。 見事に最後の音に着地しています。

 こうなるとますます奇妙です。レッグはわざわざハチャメチャな方を編集材料に選んだことになります。

また、「vor Gott」にクレッシェンドをつけて強力に厚化粧をしています。
ライブ盤と銘打って発売するからにはこれくらいのことをしておいた方がインパクトがあると考えたのでしょうか。

実際に多くのファンに強烈な印象を与え続けたわけですから、レッグの目論見は完全に成功したと言えます。

http://www.kapelle.jp/classic/9th_symphony/beethoven.html


「EMI盤は、全体の4分の3が編集したものではないか。 EMI盤の憶測がいくつか明らかになった。

第4楽章中間あたり、”vor Gott"と合唱がフォルテで歌い、声を長く伸ばす、有名な箇所があるが、最後、瞬間的に合唱、トランペットのレベル(音量)が上がる。

これは、レコード制作時にわざとレベルを上げて、演出したのではないかという疑問だ。

バイエルン放送局盤はそのような音量の変化はない。 したがって作られたものだと判った。


______

要するに、楽員もレコード会社も聴衆も全員狂ってないとああいう演奏はできない:

何度も繰り返し再生され、なおも愛好家を増やしつつあるEMIバイロイト盤の「レコード芸術」としての歴史に、残念ながらセンター盤「真正実況盤」は敵わないように思う。

あれほどまでに聴きたいと思いつづけてきた「真正実況」だが、「今まで以上に優れたものではなかった」というレッグの実演に対する評価が、大きな実感としてshin-pの胸にのしかかった−(07/07/19)

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/comp03.htm

169 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 11:16:41 ID:mm5Di51H

いまだにムード音楽なんて引き合いに出す爺がいるのか

170 :中川隆:2010/10/03(日) 12:31:39 ID:trtEv+0L

カラヤンやバーンスタイン、ショルティ、クライバーの時代はムード音楽の全盛期だったから、彼らもその真似をしたのさ:


その場に快適な雰囲気をかもし出してくれる音楽、あるいは快適な雰囲気そのもののような音楽を、かつてムード音楽と呼んでいた。
太平洋戦争がおこなわれていた時代からアメリカで開発され、戦後の40年代後半から50年代なかばにかけて、完成の頂点を迎えた、おそらくもっとも贅沢な音楽が、ムード音楽だった。

日本では軽く扱われたが、もっとも豊かでしかも若かった時代のアメリカで、多くの天才的な才能と経費そして時間を惜しみなく注ぎ込んで、ムード音楽のLPが大量に作り出された。


1965年ごろから“ムード音楽”という言葉がもてはやされ、色々なオーケストラが出てきた。

マント・ヴァーニ、ポール・モーリア、レイモン・ルフェーブル、
パーシ・フェイス、ボストン・ポップス、アンドレ・プレヴィン、
カーメン・キャバレロ、カラベリ、ニニ・ロッソ、サム・テーラー、シル・オースティン等など。

http://kouji-trumpet.hp.infoseek.co.jp/moodmusic.htm

上にベルリンフィルやNYフィルも加えて欲しかった。


172 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 13:28:32 ID:trtEv+0L

(音楽になんで文学的解釈が必要なの?)
フルヴェンが表現したかったのはこういうのだから:

            ̄~^ヽ、;ヽ;;;;ヽ;:ヽ
           '~" ̄ヽヽ;i;;;i;;;;i;;;;i   
              ノ:ノ::ノ;/;;;;;i;;i   あ…ん? ああ…あああ…いや? いや? ダメぇ!
        __,,,,,,,,,,,___/:/;/:/;;i::ノ/
  /^~"´ ̄-‐‐‐'''"´/:/;ノ;;;;ノ://
 /::::::/:::::::_,,,、---‐‐'''`~,、-''/::/
/:::/:-‐''''"~~::::::::;;;;-、,,,,、-,,、-‐ヽ,,_                 _、-、_
;/;;'`"~、-''''''~^'''''ー-、_,,i:i、  ヽ`ヽ、;ヽ、,,,ノ.   /"´ ̄~''ヽ. ,.. ‐"`'ー-''`''-、
;;;/~":、---、___/´ ,,i:'''  ::   ヽ. ヽ.`'''"´  /´    :::..,/        .:::ヽ
;;;;;'''''^~~~~^'''''/ー-  ';、 :::    `  ヽ`''ー-,,,i_    -‐''"          ::::::::;i、,
;;;、;;;`''ー-,,,,,,,,,,,,,,_,,,,,、_   ''       ',::::    `'ー            .:::::::::;/:: ヽ、
;;;ヽ、ー、;;ー-、,,,,,,,、-‐''"    .;´ ̄`,   ',::::,,,,、-    _、           ''~     ''ー
:::::ー、ヽ、,,''ー-ヽ.''''",.,;' "^' 'ー-‐'' . _、-'''''"´    "       ヽ     ::
:::ヽ、`''ー-、ー-、'ヽ"、i;.     ヽ /"     .::..   '::,,:ヽ.     i     :::::
、::ヽ;;ヽ、:ー-、,,,,,、.ヽ ';''   ノノノ/;/      ..:: ::::  ヽ,,,ノ     ':::    :::
ヽ,,_::''‐、,,,,''ー-''ー-"''/~'"''"/:/::      ::、::: ::::..     ..:.::::::::"     :::::::::
  ヽ

173 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 13:37:55 ID:7sTH8MA/
>>170
ムード音楽っていうけどさバッハの管弦楽組曲やモーツァルトのディベルティメントなんかも目的は似たようなもんだよ

それに19世紀にはコンサートオケというのはむしろ少数派でオケといえばウィーンやドレスデンのように本来はオペラが本職、そしてほとんどのオペラは芸術鑑賞と言うより社交の一環だよ

その点はどう考えるんだ?

174 :中川隆:2010/10/03(日) 14:03:07 ID:trtEv+0L


1.本来のヨーロッパ標準
貴族や大金持ち向けのサロン音楽から生まれたもの


2. ロマンティック・スタイル
インテリの中産階級を対象として生まれたもの。


3.ムード音楽
レコードを買える一般大衆向け


要するに、レコード文化と共に生まれたのがムード音楽やカラヤンの演奏

177 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 17:26:48 ID:VcxWNf3D

ID:trtEv+0Lって他所のリンク貼り付けてるばかりだな
受け売りばっかで自分の意見がないなら邪魔だから止めてくれ

178 :中川隆:2010/10/03(日) 17:36:54 ID:trtEv+0L

真実は既に知られているけど、君達がそれを知らないというだけの事さ。


179 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 17:49:36 ID:iIY0Bhgl
>>173
なかなか鋭い突っ込みだね。

>>174
その3つのカテゴリーだと、トスカニーニはどこに分類されるんだ。
毎週一千万人が聴取するラジオ放送をやっていたから、1や2でないことは明白だが。


180 :中川隆:2010/10/03(日) 18:06:20 ID:trtEv+0L

トスカニーニもインテリの中産階級が対象だからロマンティック・スタイル
ロマンティック・スタイル というのは別に演奏がロマン的という意味ではなく、伝統を否定する演奏様式なら該当する。

181 :179:2010/10/03(日) 18:29:55 ID:iIY0Bhgl
>>180
回答サンクス
なるほどね。
まあそれなら3つの分類も有りかなと思った。


182 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 18:56:29 ID:7Aw9y7+s

せっかくだからオペラ指揮についてもどうぞ
ここまでクラシック最重要ジャンルの話がまったくでないので

183 :中川隆:2010/10/03(日) 19:22:12 ID:trtEv+0L

ポッペアの戴冠が理解できたる天才と理解できないアホ


天才は
ヤーコプス&コンチェルト・ヴォカーレ、ボルス、ロランス、他(1990 ステレオ)(3CD)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3891140


アホは
ガーディナー&EBS、マクネアー、オッター、他 輸入盤 〔C
http://store.shopping.yahoo.co.jp/hmv/790492.html


天才のヤーコプスはロマンティック・スタイル

アホのガーディナーはヨーロッパ標準


ネロを悪役としているのがヨーロッパ標準のアホ演奏

モンテヴェルディが表現したかったのはこれだからね:


醴雛翩|||III;(i.'.:' .                           、.:.、'.''゙(}I}}}||IIIi゙(.( :.'.、' ' 、'.:、'.'.(.(i゚(}}}}|tq,
醴醴雛即lI゙(.'.、                    .、...:.x.(iicsij:,;、'.::‘(i゚(}}|||ロIl,( :.'.、    . `` '' .(i゙(Il}}][q,
醴醴靈瓰II,(:.:、                  . . . `' `_).''''ミ!}|||Ijj,'。:.(.(}I}||||IIi>.'.、          .'.?ミ(}照|g,、
醴醴醴翩|IIi>:                   . ' . ' ` 'テi;  :゙(}蹤|I,(.'.?.(}I}||||I;(、'..          . ' :‘(浴}}}}諭gg_、
醴醴醴雛||II,( :. .                       、゙(li:ョ涸阨[|Ili.'.:.'.ミII}}|||Ii;、.          .、:::: (i゙(I浴||||謳薑
醴醴醴雛|||I)).:: .                       . .(ii.i}浴屈[}}'、'.':: (.(II}||||I,(. .         . `.'.、.(0IIII||||醴‡゚゙
醴醴醴靈詬I;(i:.:、                      . .('゙(}}}}}笏'゙'... . .'.:ii゙(I}|||回>.           .'.、.(,(II||朋醴「...
醴醴醴醴齟|IIi'。::. .                       . `' `'゙'.'` .  、'.:.(.(泪屈Iiン. .       .、::.'_(.(II泪讃置
醴醴醴醴鑿||II,(>:、..                              丶.'_(i゙(I泪窗||Ii:、..    .、.:.'_(.(.(,(II屈醴歡


ネロが大人になる為の自立の闘いを描いているだけなのに、アホは勧善懲悪の話にしてしまうんだ。

救いようがない馬鹿。


それからこれがムード音楽


・モンテヴェルディ:『ポッペアの戴冠』 セーナ・ユリナッチ(S ポッペア)
 ゲルハルト・シュトルツェ(T ネローネ)
 ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)ウィーン国立歌劇場管弦楽団

 録音:1963年4月1日,ウィーン国立歌劇場(ライヴ)

http://artist.cdjournal.com/d/lincoronazione-di-poppea/1398040114


幾らなんでも趣味が悪すぎる(という話を聞いた)。
アホのヨーロッパ標準スタイルの方がまだまし。

186 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 19:58:05 ID:DGWEGJvm

ムード歌謡最高!


187 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 21:15:37 ID:YiwaLXSO
>>185
カラヤンはな、アンタみたいなコピペジジイなんかが太刀打ちできる相手じゃないんだよ。てか、いいCD持ってるじゃないか?
それ売ってくれよ。 もう廃盤なんだよな。

188 :中川隆:2010/10/03(日) 21:27:45 ID:trtEv+0L

確かにカラヤンを誉めてた大指揮者もいたね:

クレンペラー「悪くないぞぉ、カラヤン。みんなが言ってる程悪くないぞ。」

189 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 23:40:36 ID:7sTH8MA/
>>180
>ロマンティック・スタイル というのは別に演奏がロマン的という意味ではなく、伝統を否定する演奏様式なら該当する。

>>152 >>2.ロマンティック・スタイル
>
>テンポの極端な変化やダイナミックレンジの広さ、弦楽器のポルタメントや激しいヴィヴラート
>テンパニの強打、金管楽器の強調
>
>音楽の文学的な解釈、ドラマチックな盛り上げ
これ、どう折り合いつけるの?

190 :中川隆:2010/10/03(日) 23:47:35 ID:trtEv+0L

トスカニーニはティンパニを強打してるし、ドイツの伝統を無視してドイツ音楽を演奏してるからね。

ムラヴィンスキーも金管を強奏してるし、低弦のバランスが異常だし、
チャイコフスキーみたいにドイツ音楽を演奏してるからロマンティック・スタイル

カルロスクライバーはカラヤンのファンだし、カッコ付けてるだけだからムード音楽

191 :中川隆:2010/10/04(月) 00:13:04 ID:aJwK12JL

ここにアホ・カラヤンファンが居るから教えといてやるけど、

カラヤンの凄さは stax の静電型ヘッドフォン(最上級機)で聴かないと絶対にわからない。

カラヤンは聴覚能力が異常に発達していたから、凡人とは音の聞こえ方が全然違うのさ。

超高音が練り絹の様にレガートで繋がっていくのを再現できる装置でないと、カラヤンの意図は再現できない。

ここのアホファンにはカラヤンの本当の凄さはわからないのさ。


まあ、これ買ってからカラヤンの評価しようね:

SR-007A 定価 210,000円(税込)
STAXイヤースピーカーのフラグシップ機。

コンデンサタイプらしからぬ量感たっぷりの低域、滑らかな中域、
繊細無比の高域をお楽しみください。
http://www.airy.co.jp/sub_stax.htm

194 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 10:28:16 ID:isR28n0L

売れないメーカーの必死の宣伝か。。。
こんなの使ったら難聴になるのにな。
あ、そうか、難聴の爺さん向けの宣伝だったか。
でもなんだか哀れで同情を誘うぜ。 ま、がんばれや。

195 :中川隆:2010/10/04(月) 11:18:55 ID:aJwK12JL

良く知ってんね(感心)
俺は stax を使ってて耳痛くなったからカラヤンを聴くの止めたのさ。

カラヤンは確かに凄いんだけど、それは音楽としての凄さではなく、
音そのものの生理的な快感なんだよね。

197 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 12:42:06 ID:omalygRl
>>196
生理的な快感を起こせる指揮者ってすごいよな。
aJwK12JLとは親友になれそうだ。

198 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 13:02:02 ID:UGA8ddCn

カラヤンの凄さはスピーカーでは再現できないのか、ヘッドホンて嫌いなんだよね。


199 :中川隆:2010/10/04(月) 13:29:07 ID:aJwK12JL

Quad ESL57 か ESL63プロにチェロかゴールドムントの超高級アンプを使えば Stax に近くはなるみたいだけど。

ESLは振動板が3年で劣化するし、交換に何十万円もかかる。
100万円以下のアンプではいい音にならない


安いのもあるけど振動板が劣化してるとあの音にならない:

QUAD ESL57(3ペアー在庫あり、金、黒、ベージュ)ペアー¥18万
QUAD ESL63(3ペアー在庫あり、茶、黒)ペアー¥25万

QUAD ESL63PRO ペアー¥28万


ESLは全て整備済み。
http://homepage2.nifty.com/soundpoint55/newpage3.html

サウンドボックス
ESL57  22+II  ESL63の復刻・再生品 新発売
http://www.soundbox.co.jp/quad.htm

5 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/06/24(日) 13:01

チェロはオーディオスィート、パレット、パフォーマンスが圧倒的に良くて、他はそれ程でもないと思う。アンコールシリーズは日本では売れたけど、音は今三。

61 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/08/08(水) 22:47
>>60
チェロはアンコールはそんなに良く無いよ。
スィートとは較べものにならないと思う。
どうせ買うなら、スィートだ。今ならヴィオラオーディオでアップグレードも出来る。
中古で見掛けたら即ゲットだね。


3 :名無しさん@お腹いっぱい。:03/04/07 12:20 ID:8J/ZIr7M

リモコンは使えないが、スィートの音は今でも最高だろ。
アンコールは駄目だが。


39 :AI ◆4wBVGeQHPA :03/04/26 00:41 ID:???
>>38
何度も言っているけど、チェロの場合スィート以外のプリはダメだよ。
チェロの神髄はスィートを聴いて語ってね。

http://mimizun.com/log/2ch/pav/1049683747/


201 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 14:30:58 ID:K1SYU52Q
>>190
どっかのパートかセクションを強調し、ドイツ人でなければロマンティック・スタイルということになるね。
(インテンポかどうかは実は関係なく)
ちなみにモントゥーとかビーチャムはどれに属するのかな?

202 :中川隆:2010/10/04(月) 14:58:41 ID:aJwK12JL

モントゥーはブラームスが好きでドイツの伝統を尊重したからヨーロッパ標準 だろ。

ビーチャムやバルビローリも中庸だからたぶんヨーロッパ標準。

要するに、まともな人間はヨーロッパ標準
パラノイアや異常性格者はロマンティック・スタイル

になるのさ。


愛の音楽家 ブルーノ・ワルターがロマンティック・スタイルだった理由も説明しとくね:

レブレヒトの「巨匠神話」(文藝春秋)によれば、ブルーノ・ワルターは大変な偽善者で、性格の悪さは天下一品だったらしいです。本から抜き書きいたしますと、驚くべきことに次のような言葉がでてきます。


「ワルターは、卑劣で意地悪な利己主義だった」(アンナ・マーラー)

「昔から貪欲な豚で、考えるだけで気分が悪くなる」(シェーンベルク)

「感傷的なばか」(トスカニーニ)

「ワルターは偽善者だった」(レブレヒト)

「ブルーノ・ワルターは、すばらしい指揮者がすばらしい人間でなくてもいいという、生きた証拠であった。」

http://www.kapelle.jp/classic/archive/archive9904_b.html


205 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 17:44:22 ID:PCv3/VKg

ワルターがいくら性格悪くてもかまわない。 あの美しい音楽がすべて。
おれだってかなり性格悪いし頭も悪い。

206 :名無しの笛の踊り:2010/10/05(火) 00:35:26 ID:/NFwZQZF

じゃあどうして一銭にもならない当時病気だった宇野との文通を何年も続けたんだ?

207 :名無しの笛の踊り:2010/10/05(火) 06:59:24 ID:w+UWmkQM

ワルターはナチスに迫害されたり娘を事件で失ったりしてるんだから多少は性格悪くても仕方ない。
まあそれならアンチェルルはどうなんだとかいろいろ言えるけど、何も経験してない

俺らが言うことじゃないな。

208 :中川隆:2010/10/05(火) 09:26:50 ID:zX2qjY6K

みんなから非難されている若き日のブルーノ・ワルターの行動はすべて、女狂いから来てるんだよ。

歳取って落ち着いてからまともになったんだ。

210 :名無しの笛の踊り:2010/10/05(火) 12:00:07 ID:DmqQ66xE

だけどフルちゃんのおねだり病は異常なくらいだったらしいね。
それにニキシュの後釜がほぼワルターだったのに裏であちこちに手を廻してフルちゃんがベルリン・フィルを手に入れたんだよね。 ま、もしワルターだったとしても戦争始まったらその立場を追われるけどね。

それはともかくフルちゃんて、とても人間的。 音楽はあまり好きじゃないけどね。

211 :名無しの笛の踊り:2010/10/06(水) 22:27:53 ID:c2UQR4cG

ワルターが非難されてたのは戦後ヨーロッパで困窮してたなじみのユダヤ人のオケ団員を援助しるのを渋ったり。巨匠にふさわしい社会的振る舞いをしなかったから、ようするにせこくて小市民だったからではないか。

215 :名無しの笛の踊り:2010/10/13(水) 12:23:18 ID:ja608Fsz

試しにワーグナーの「神々の黄昏」から聴いてみた。
うーむ、どうも音楽が物々しいやらおどろおどろしいやらで、魔物か何かが出てきそうな雰囲気である。

じゃあ「ジークフリート牧歌」ならマイホーム的なホンワカ・ムードでいいんじゃないかと思ったが、これも何か深刻な家族会議ふうで、ときどきオヤジが激昂したりしていたたまれない。

「タンホイザー」も妙に壮大だったり興奮のルツボ状態だったりして、どうも暑苦しい。気を取り直してR.シュトラウスに向かったが、こちらも事情は五十歩百歩どころか、何か新興宗教みたいに神がかって鬱陶しい。

いやはや困った演奏である。なにせ鳴っている音のすべてが、いつもいわくありげなので、音楽を聴こうと思っても門前払い、あるいは置いてけぼりのような気分にさせられたり、「おうおう盛り上がってるな」とか「悩んでるな」とかいうように、ほとんど他人の不幸(?)を喜ぶようなギャラリー気分になってしまう。
でもしばらく付き合っていると、フルトヴェングラーの狙いが読めてくる。
おそらくそれは、聴き手を感動の方程式にはめ込むことである。

だからこんなに情でがんじがらめの音楽をやるのである。

しかしそれにしたって、そうしたフルトヴェングラーの術にハマるには、現在の聴き手にとって、かなり意識的、または自己催眠的にマインド・コントロールする努力が必要だろう。ましてやこちとら筋金入りのスレっからし。残念ながらそんなウブな純朴さはとうになくしてしまった。

セピア色に変色した昔の写真を見つめて、遠き日の感動をなぞるのもときにはいいかもしれない。でもそれはあくまで過去の出来事であり、いつまでも後生大事にするものではない。なんらかの「追憶」はあっても、そこに「今」を聴くことの面白さは見出せないのだから。

だからこの演奏は、ある時期には一定の影響を及ぼしたかもしれないが、「終わっている」としか言いようがない。

218 :名無しの笛の踊り:2010/10/13(水) 15:54:23 ID:jUv7npsN

ベートーベンやバッハもある時期には一定の影響を及ぼしたかもしれないが、「終わっている」としか言いようがないんじゃないの。

219 :名無しの笛の踊り:2010/10/13(水) 18:52:26 ID:TSsYnk+W

それレコ芸再発欄の石原立教の評だろ
まるまる載せるなら引用元書いておけよ


220 :名無しの笛の踊り:2010/10/14(木) 21:04:15 ID:dlVQLDJJ

主観的すぎて何書いててもはあ、あなたにとってはそうなんですかって感想しか出てこない文章だよね


>>215

221 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 08:46:57 ID:JwiL3ntH

信者にとっては絶賛以外は全部「バカの私見」だからなw


222 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 09:56:00 ID:a4fptUoV
>>221
確かにそうだね。
でも、フルベンを否定する奴を批判する奴こそ、きちんと論理性が通った文章を書けないのが現実なんだが。だから頭ごなしの否定文しか書けない。


223 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 16:18:19 ID:JwiL3ntH

否定はしてないだろ。あんな音質じゃ良し悪しの断定はできないというだけ。

224 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 17:16:27 ID:Tu3y5P5p
>>215
レコ芸にもこういうまともな評論が載るんだね。 なんか見なおした。
だけど、好きな人にはたまらないんだからお互い、いがみ合わないで棲み分けするしかない。

225 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 17:36:40 ID:CedQe6JL

フルトヴェングラーは歌謡界で言えば美空ひばりみたいな存在なんだよ
俺もフルトヴェングラー崇拝者の1人だけど、カラヤンだって初期のDGやコロンビア録音にはいいものも多い。彼の実演もいい思い出。 何でもかんでも対立軸で議論したがるのも短絡的で困り者。

でもショルティやアバドはどうだろう。フルトヴェングラーより優れていると言えるかね?

単なる好き嫌いと混同するなよ

226 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 17:50:27 ID:rD2Fcyv3

一つのスタイルを極めたってことではフルヴェンは確かに偉大だったと思うなぁ
ただ、別のスタイルを極めたカラヤン、トスカニーニやロッシーニ復活に功あったアバドも同じように偉大な音楽家

問題は彼のスタイル以外認めず、別な方法論を採った演奏家を「内容空虚」「ムード音楽」とかいうことだと思う

227 :中川隆:2010/10/16(土) 18:11:56 ID:04+WnRvX

トスカニーニは狂人の音楽

228 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 18:28:52 ID:a4fptUoV
>>227
トスカニーニは、偉大な開拓者だと思うがな。確かにある意味狂人だが、その手の批判は、茨の道をいく人間の宿命。


229 :中川隆:2010/10/16(土) 19:00:52 ID:04+WnRvX

フルトヴェンは意志薄弱のダメ男、というより男じゃない。
ほんとに情けない男だったみたいだね。 天才だけど。


230 :中川隆:2010/10/16(土) 19:20:00 ID:04+WnRvX

オケメンバーにとっては、リハーサルで失敗したとき、激怒してかんしゃくを爆発させる激情型のトスカニーニの激しい叱責より、ワルターに

「私の指揮が足らず君に失敗があった。 指揮者として申し訳ない」

と言われて涙を滲ませられると、失敗した楽団員にとってはそちらの方(トスカニーニの叱責よりワルターの涙の方)が辛かったという逸話も伝わっています


フルトヴェングラーはあまりそういった逸話がなく、良くも悪くも、フルトヴェングラーは音楽の神に自らの全身全霊を捧げており、「音楽以外はどうでもいい」という感じのする、ひたすら音楽を追求し、あまり人間的な部分を感じさせない求道者的指揮者です。

フルトヴェングラーの家がドイツの富裕な名門であることも音楽以外に気を払わない彼の求道的スタンスに関係しているのかもしれません。

http://nekodayo.livedoor.biz/archives/840652.html


本当はフルトヴェンは他人とは意志の疎通が全然できなかっただけなんだけどね。

236 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 23:23:12 ID:Mi20l35J
>>230
× 「音楽以外はどうでもいい」
○ 「音楽と女以外はどうでもいい」


231 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 19:29:26 ID:033ETuRF

フルヴェンとかトスカニーニまたはカラヤン・クラスになるといくら嫌いでも否定は難しい。 時代をリードしてきてきた大巨匠達だからね。


232 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 19:50:52 ID:JIp9hOWC

どの指揮者が好きでも嫌いでもいいが、人格と演奏を結びつけて罵倒するのは愚かなことだ。

指揮者でも作曲家でも、人格の良し悪しと作品や演奏の良し悪しは別だからな。
ワーグナーなんか嘘つき・尊大・自己中心で、身近にいたらとんでもなく厭な奴だろうけど、幸いなことに離れた立場でいられるので、作品を楽しめるわけだ。
フルトヴェングラーが偶像化されるのは下らないことだが、人格をあげつらって演奏が良くないというのもこれまた愚かなことだ。

233 :中川隆:2010/10/16(土) 20:07:47 ID:04+WnRvX

まともな人間は大指揮者にはなれないという話なんだけどね。


245 :名無しの笛の踊り:2011/01/08(土) 08:59:20 ID:jJu19gDs

やはり少し過大評価を受けているね。
確かに、偉大な指揮者の1人であるという点では違いないけど、まあネットが普及したおかげで、評価が少しずつ適正な位置に移動しようとしているけど、まだまだ実力と比べて高すぎる。


246 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 02:10:42 ID:eiNs6h1H
>>1
評価の仕方が悪い。
馬場さんのプロレスを想い起こすがいい。
技術的には大したことが無いし、技の切れも無い。

何も良いところがないようだが、感動する人には感動させた。
ゆったりと動いて、不器用に大きく振り被って、ガァっー!!と決めた。

フルトヴェングラーの音楽そのものではないか?
感じることのできる者だけが感じられるのだ。
感じられないものがとやかく言うことではない。

247 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 10:52:12 ID:w0+S9HjN
>>246
まあ、ある意味その通りと思うよ。
でも古便オタや批評家って、カラヤンやトスカニーニを散々叩きまくったじゃない。
その辺が話をややこしくしていると思うが。


248 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 11:00:58 ID:ot841RyZ

バカだなぁおまいら
ベートーベンをどう演奏しなけりゃならんかを知っていた唯一の指揮者だぞ
馬場もプロレスをどう見せなきゃならんかは弁えてたがな


249 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 13:29:51 ID:9gQRyXPu
>>247
その通りと思うなら、もう16文突っ込んで考えるんだ!
カラとかトスカとかは、デストロイヤーとかブッチャーとかドリー & テリーなんだよ!!
別の国ではヒーローでも、馬場さんの国では悪役なんだっ!!!


250 :名無しの笛の踊り:2011/01/10(月) 18:24:27 ID:E3cCL/fG
>>247
>でも古便オタや批評家って、カラヤンやトスカニーニを散々叩きまくったじゃない。
???
当時の批評家の推薦版にやたらカラヤンが多かったよ。

ほとんどカラヤン盤だったね。レコード芸術とか何とか読んだことないの?
トスカニーニやフルトヴェングラーは過去の人扱いだったよ。

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/classical/1267347548


              /               \
          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
         / / //─'''´ ̄ ̄`ヽ      ゙i
        / /  //        ゙iヽ  ヽ  |
        ,' /  //          | ヽ  ', |
        | |  / l,、、,,_   -‐''" ̄`゙i. |   | |
        | | / ノ,.t-、    'Tッ'Tゝ ヽ|レ‐、| |
        ゙i |/ ,ィ`' _L.,!    ` ┴'  リ‐、 } |
        .!///゙!     ,         ノ__/ .!
         |/ | ',    ゙        /  |  |
          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | もてないから
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | クラオタになるのね
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
        /   ヽ ヽ ノ                   ヽ
        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
        |    / / /|       ヽ       \
        .!   / { ヽ|    ...     ゙、        ヽ
        |  {  ゙i   ヽ  ::r.;:.     l         ::_)
        .!  \ ト、 |   `゙"     /          /
         |    ト| | ∧       /           /
            |  / / /|| ゙ヽ、 __ ,. -'"    ` ーr┬ '′
          | / / | ヽ、               | /


_____________
_____________

4.これが成熟した演奏家

神霊はVirtuosoに宿る 1 _ カペー弦楽四重奏団  

http://www.hmv.co.jp/search/index.asp?adv=1&keyword=Capet+Q&genre=700


Quatuor Capet - Lucien Capet
http://www.youtube.com/watch?v=Tk8c7RWig3I

Capet Quartet performing 'Rasumovsky No. 1'
http://www.youtube.com/watch?v=XTM0S3Yd0VA

Beethoven op 131, mvts 5, 6 & 7 - Capet String Quartet
http://www.youtube.com/watch?v=UUjyejJur9k

Quator Capet Mozart Dissonance C Major 1st mvt
http://www.youtube.com/watch?v=dQqKVaCT_Tk

Franck - Piano Quintet in F minor (M.7) - Movt I (Part 2) - Marcel Ciampi and Capet Quartet
http://www.youtube.com/watch?v=CjfOjkTU338

Franck - Piano Quintet in F minor (M.7) - Movt II - Marcel Ciampi and Capet Quartet
http://www.youtube.com/watch?v=174hsQaj2_o

Franck - Piano Quintet in F minor (M.7) - Movt III - Marcel Ciampi and Capet Quartet
http://www.youtube.com/watch?v=e4mx-13HX4s&feature=fvst

Capet String Quartet - Ravel SQ in F - 1. Allegro moderato
http://www.youtube.com/watch?v=M1d4N60d6Oc

Maurice Ravel: Quartet in F 1/1 - Quatuor Capet (1928)
http://www.youtube.com/watch?v=WaVJcavMIE0

Capet String Quartet - Ravel SQ in F - 2. Assez vif - Tres rhythme
http://www.youtube.com/watch?v=C9mp6LxUTKA

Maurice Ravel - String Quartet in F 2/2 Quatuor Capet
http://www.youtube.com/watch?v=4kXoIfA9Q5U&feature=related

Maurice Ravel - String Quartet in F (3/3 - 4/1) Quatuor Capet
http://www.youtube.com/watch?v=abvsmO-edOc


カペー弦楽四重奏団の素晴らしさについては、既に語り尽くされてをり、ここで改めて申し上げることは、実は何もない。ましてディスコグラフィーなど全12曲の録音しかないのだから、作ること自体意味がない。だから、これは私なりのカペーSQへのオマージュであつて、それ以上の何物でもないのだ。

 弦楽四重奏団の在り方は大きく分けて2つに分類出来る。
一つはカペー、レナー、ブッシュ、ウィーン・コンツェルトハウスなどの第1ヴァイオリン主導型。

これに対してブダペスト、バリリ、スメタナ、ボロディン、アルバン・ベルクなどはアンサンブル重視型と云へる。

後者の第1ヴァイオリン奏者が弱いと云ふのではない。突出してゐないのである。
前者の場合、魅力の殆どが第1ヴァイオリン奏者の藝術性にあり、四重奏団の性格を決定してゐる。

しかし、近年はアンサンブル重視の団体が殆どであり、特に合奏能力の向上は目覚ましく、4つの楽器が見事に融合し、調和を保つた演奏でなければ、弦楽四重奏団として一流と見なされない。実のところ、第1ヴァイオリン主導型の団体は絶滅したと云つても過言ではないのだ。従つて、カペーSQなどの演奏を現在の耳で聴くと、アンサンブルに埋没しない自在な節回しがあり、却つて新鮮である。しかし、反面、団体としての均衡を欠く嫌ひはある。

カペーSQにおいて、ヴィオラ奏者には余り魅力を感じない。チェロ奏者も無難と云ふ程度だ。一方、第2ヴァイオリンのエウィットが傑出してゐる。カペーとの対話も互角に行なはれ、実に達者である。大概、第2ヴァイオリンの聴き映えがしない団体の多い中、カペーSQを聴く喜びはヴァイオリン2挺の銀糸のやうな気品ある絡み合ひにある。とは云へ、各奏者はカペーの音楽に見事に収斂され、ひとつの藝術として完成してゐるので、荒を探すのは止そう。


 品格があり聡明な演奏をすると一般的に思はれ勝ちなカペー弦楽四重奏団だが、同時期に活躍した四重奏団の録音を聴くと、意外な点に気が付く。

カペーSQの演奏を特徴付けるのはノン・ヴィブラートとポルタメントである。

カペーSQの演奏は、同世代或は先輩格の四重奏団―ロゼーSQ、クリングラーSQ、ボヘミアSQらと、これらの点で共通する。そして、第1次世界大戦を境に勃興し、カペーSQの後塵を拝してゐた四重奏団―レナーSQ、ブッシュSQ、ブダペストSQの各団体がヴィブラート・トーンを基調とするのと、大きな相違点を持つ。

しかも、カペーのポルタメントは旧式で、時代を感じる。ポルタメントを甘くかける印象の強いレナーも、カペーとは世代が違ふことが聴きとれる。ここで、最も藝術的なポルタメントを使用したクライスラーの特徴を例に挙げることで、ポルタメントの様式における相違点を検証したい。

クライスラーの奥義は3点ある。第1に、必ずしも音の跳躍―即ち運指法の都合―でポルタメントを使はない。云ひ換へれば、指使ひを変へないでも弾けるパッセージであらうとも、感興の為にポルタメントを使用する。第2に、音から音への移行過程は最初が緩やかで、最後になるほど速く行なはれる。第3に、フレーズの変わり目が同じ音のままの場合、敢てポジションを変へて音色を変へる。この際に同一音の連続にも関わらず、ポルタメントが入ることになる。

このクライスラーの特徴は、ティボー、エルマンそしてレナーにも概ね当て嵌まる。これに反してカペーはポルタメントの使用箇所に運指の都合が見られ、何よりも移行過程の速度が均一である。カペーの左手による表現はロゼーやマルトーと云つた旧派と同じ音楽様式に根付いてゐるのだ。


 しかし、電気録音初期に登場したカペーSQの録音が、旧派の名団体のみならず当時最大の人気を誇つたレナーSQの株を奪ひ尽くした理由は、偏にボウイングの妙技による。

1910年以前に記録されたヴァイオリニストの録音を聴くと、弓を押し当てた寸詰まりの音、頻繁な弓の返しが聴かれ、時代を感じさせる。ところが、カペーのボウイングからは、響きが澄み渡るやうに程よく力が抜けてをり、だからといつて空気を含んだ浮ついた音にはなつてゐない。凛と張つたアーティキュレーションは大言壮語を避け、ボウイング・スラーを用ゐることでしなやかなリズムを生み出した。

『運弓のテクニック』なる著作を残したカペーは、エネスクやティボーと並ぶボウイングの大家である。彼らの共通点はパルラント奏法と云ふ朗読調のボウイングを会得してゐることにある。多かれ少なかれ、あらゆるヴァイオリニストは歌ふことに心を砕くが、歌はフレーズを描くために強い呼吸を必要とし、リズムの躍動を糧とする。だから、ためらひや沈思や侘び寂びを表現するには必ずしも適当ではない。これらの表現は、繊細な呼吸、慎ましい抑揚、語るやうに送られる運弓法によつて初めて可能になるのだ。カペーが本格的に独奏者としての活動に乗り出さず、室内楽に没頭したことは同時期のヴァイオリニストにとつては幸運なことであつたらう。出来ることならカペーにはベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの録音を残して欲しかつた。

 カペーSQはノン・ヴィブラートとポルタメントを演奏様式とする旧派の一面も持つが、ボウイングに革新的な表現力を持たせたカペーの元に一致団結した名四重奏団である。演奏は、清明で飄々としてゐるが、高潔で峻厳な孤高の世界を呈してゐる。それは丁度雪舟の山水画にも比せられよう。

Biography & History of Quartet

 ルイ=リュシアン・カペーは、1873年1月8日パリの貧しい家に生まれた。15歳の時、パリ音楽院に入学、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番を初演したといふピエール・モーラン教授に師事した。1893年に満場一致の1等賞にて卒業すると、直ちに四重奏団を結成して活動を開始した。ラムルーに見出され、コンセール・ラムルー管弦楽団のコンサート・マスターを勤める。

1903年、ベートーヴェンの協奏曲で大成功を収め、独奏者としても名を馳せた。1904年には、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲連続演奏会を行ひ大反響となつた。欧州各国への演奏旅行は絶賛を博したが、1911年にボンで開催されたベートーヴェン音楽祭にはフランス代表で参加した。1907年よりパリ音楽院の室内楽科教授、1924年からはヴァイオリン科の教授も勤めた。1923年以降毎年ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏を行なつた。1928年12月18日パリで急逝した。医師の誤診による為といふ。作曲も手掛け、作品に弦楽四重奏曲やヴァイオリン・ソナタなどがある。

 カペーを除く四重奏団員の変遷は次の通りで、括弧内は順に第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロである。

第1次(1893〜99、ジロン、アンリ・カサドシュ、カルカネード)、

第2次(1903〜10、アンドレ・トゥーレ、アンリ・カサドシュ、ルイ・アッセルマン)、

第3次(1910〜14、モーリス・エウィット、アンリ・カサドシュ、マルセル・カサドシュ)、

第4次(1919〜28、モーリス・エウィット、アンリ・ブノア、カミーユ・ドゥロベール)。

Discography

1 1928/6/12? Columbia Debussy String Quartet g-moll,Op.10
2 1928/6/14-15 Columbia Beethoven String Quartet No.7 F-dur,Op.59-1"Rasumowsky"
3 1928/6/15-19 Columbia Ravel String Quartet F-dur
4 1928/6/19-21 Columbia Schubert String Quartet No.14 d-moll,D.810"Der Tod und das Mädchen"
5 1928/6/21-22 Columbia Beethoven String Quartet No.10 Es-dur,Op.74"Harfe"
6 1928/10/3 Columbia Schumann String Quartet No.1 a-moll,Op.41-1
7 1928/10/? Columbia Haydn String Quartet D-dur,Op.64-5"Lerchen"
8 1928/10/? Columbia Beethoven String Quartet No.5 A-dur,Op.18-5
9 1928/10/5-8 Columbia Beethoven String Quartet No.14 cis-moll,Op.131
10 1928/10/8-10 Columbia Beethoven String Quartet No.15 a-moll,Op.132
11 1928/10/11 Columbia Mozart String Quartet No.19 C-dur,K.465"Dissonanzen"
12 1928/10/20? Columbia Franck Piano Quintet f-moll with Marcel Ciampi(p)


カペー弦楽四重奏団の録音は上記12曲しかない。録音は1928年の6月と10月のみで、同年12月にはカペーが急逝して仕舞つた。まさに一期一会の記録なのである。録音情報に不備が多く、テイク数が確認出来なかつたが、恐らく取り直しなしの一発録音であらう。音程の狂ひや弓の乱れなどが聴き取れるし、何よりもライヴ録音のやうな感興とむらがあるからだ。

 カペーSQを語るのにベートーヴェンから始めなくては申し訳が立たない。それも後期2作品から始めるのが礼儀といふものだらう。

古来より、第15番はカペーSQの最高傑作とされてをり、現在に至るまでこの演奏を超えたものは一切ないと断言出来る。分けても第3楽章、ベートーヴェンが「病から癒えた者の神性への聖なる感謝の歌」と書き添へた曲を、カペーSQのやうに神妙に演奏したものを知らない。ノン・ヴィブラートによる響きの神々しさは如何ばかりであらう。

感謝の歌では飛翔する精神が弧を描く 。第2ヴァイオリンのエウィットが奏でる憧れに、カペーの清らかなトリルが応へ、スタッカートの軽妙洒脱な戯れが福音を語る。音楽が静かに下つて行くパッセージで、音色が侘び寂びを加へて行く様は至藝と云ひたい。

好敵手ブッシュSQも相当の演奏をしてゐるが、カペーSQに比べれば青二才だ。第1楽章では、哀切極まりない音楽を感傷に貶めず、一篇の叙事詩のやうな風格を持たせてゐる。真一文字に悲劇に対峙するカペーのソロが印象的な第4楽章。緊張の糸が持続する天晴な合奏を聴かせる終楽章。何れも極上の名演。


 初演者であるモーラン直伝による第14番の演奏をカペーSQの頂点とする方は多いだらう。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の頂であるこの曲の神髄に迫ることは、19世紀においては不可能とされ、名曲かどうかも議論にされたやうな曲である。諦観、静謐、彼岸と云つた世界を音楽に持ち込み、未だに独特の位置を保持し続ける。

カペーの弾く冒頭を聴いて、精神が沈思しない者は立ち去るがよい。これから始まる儀式には参列出来まいから。この神韻縹渺としたパルラント・アーティキュレーションは空前絶後の至藝であり、変奏曲形式による第4楽章に至つては天衣無縫の奥義を示す。終楽章は一筆書きのやうな閃きに充ちた名演である。


第14番はブッシュSQが霊感あらたかな名演を成し遂げてゐる。ドイツ人の手堅さと熱情が渾然となった大伽藍のやうな楷書体の演奏で、フランス人カペーの力の抜け切つた草書体による絹糸のやうな演奏とは対照的である。全体に隙がなく立派なのはブッシュSQの方だ。しかし、断言しよう。藝格としてはカペーが一枚上手で、何人も及びの付かない美しい瞬間がある。


 第5番は清楚で若やいだ演奏であり、後期作品2曲に次いで仕上がりが良い。甘さと低徊さを排したストイックな歌が、青春の芳しい詩情をもたらす。繊細でさり気ない明暗の移ろひが取り分け美しい。この曲の表現として、これ以上適つたものはないだらう。

「ラズモフスキー」はヴィブラートを抑制したトーンと厳しいスフォルツァンドによつて大味になるのを避けてゐる。緊密なアンサンブルと内燃する力強さが素晴らしい。特に第3楽章のパルラント奏法による沈痛な趣が甚く心に残る。しかし、全体的に線が細く、音が軽く聴こえる嫌ひがある。「ハープ」は引き締まつた造形と柔らかなフレージングが魅力で、特に第1楽章の


清廉な味はひは絶品である。第2楽章は珍しく甘美で、時代を感じさせる。第3楽章と第4楽章はやや平凡な仕上がりだ。この曲にもっと豊かさを求める人は多いだらう。カペーSQの演奏は脂が少ない。


 ハイドンは天下一品の名演である。冒頭におけるカペーのボウイングには畏敬の念を禁じ得ない。ヴィブラートの誘惑を潔癖に遠ざけ、凛とした運弓で清明な音を創る。非常に個性的な奏法だが、繰り返し聴き、他の団体の演奏と比べて聴くと、カペーの凄さが諒解出来るだらう。第2楽章は細部の彫りが深く、神経が行き届いた名演である。終楽章の目にも止まらぬ軽快なアンサンブルに、上手ひなどといふのも烏滸がましい。この演奏に心躍らぬ者がゐれば、凡そ音楽には無縁の者であらう。

モーツァルトも立派な演奏であるが、カペーの特徴である毅然と張つたボウイングが後退してをり、柔和に歌ふことに主眼を置いた甘美な演奏である。カペーならではの高潔で気丈な演奏を期待したのだが、終楽章と第3楽章のトリオを除いては感銘が希薄であつた。しかし、カペーSQ以上の演奏を挙げることが困難なのも事実だ。


 シューベルトとシューマンは、ドイツ系の団体とは異なる厳しいアーティキュレーションと制御されたヴィブラートによる辛口の演奏である。シューベルトは尋常ならざぬ演奏で、仄暗く甘いロマンティシズムを期待してはならない。勿体振つた表情は皆無で、快速のテンポで畳み掛けるやうに捌いて行く。フレーズの最後で掛けられる常套的なルバートも一切ない。硬派だが、雑な演奏だと感じる方もゐるだらう。しかし、これは焦燥感に溢れた、絶望的な熱病を想起させる見事な解釈であると感じる。

録音される機会が少ないシューマンに関しては、カペーSQを越える演奏があるとは到底思へない。冒頭から喪失感が漂ひ、悲劇の回顧と夢想への逃避が綾なされてゐるが、軟弱な甘さはない。第2楽章は疾走するギャロップで、カペーの弓捌きが閃光のやうに輝く。他の演奏が聴けなくなつて仕舞ふ逸品である。第3楽章ではヴィブラートを抑制した渋い音と、音型の最高音になる前に始まるディミュヌエンドによつて、侘しい詩情が惻々と胸に迫る。終楽章は情熱的なアジタート、自在なアゴーギクと多彩なアーティキュレーションが素晴らしい。コーダ前のノン・ヴィブラートによるオルガン・トーンの神々しさは追随を許さない。


フランクでは、シャンピのピアノが独創性と詩情においてコルトーやフランソワに及ばないとは云へ、カペーSQの合奏はフランクの神髄に迫つた究極の演奏と云へる。冒頭の張り詰めたカペーのボウイングから厳しく屹立した音楽が刻み込まれる。ふと力が抜ける際の絶妙さは比類がない。終楽章コーダで循環主題が地の底から湧き上がる瞬間に見せるカペーの霊感には凄みがある。

 ドビュッシーは今もつて最高の演奏ではないか。カペーSQの演奏はドビュッシーが生きてゐた時代の空気を吸つた強みがある。よくあるやうに印象派の絵画を意識して、輪郭をぼかした演奏ではない。第1楽章は剛毅な芯が通い、アルカイックな趣に充ちた名演。陰影と抑揚が自在で瀟洒この上ない。第3楽章におけるノン・ヴィブラートの神聖な光沢は類例を見ない。月に捧げる音楽があるとすれば、凡そこのやうなものだらう。半ばでカペーが瞬間的に見せるエスプレッシーヴォは狂ほしい詩人の涙である。

ラヴェルも高次元の演奏である。第1楽章は時代がかつたポルタメントが冒頭から妖艶な息吹を掛けるが、次第に鬱屈した情念の絡み合ひとなり頂点を築く。躊躇ひ勝ちに始まる再現部は官能的な倦怠に充ちてゐる。アンサンブルの試金石のやうな第2楽章では緊張が漲つてゐる。第3楽章で織り成す不安気な綾も絶妙だ。神々しい原初的な響きで魅了するドビュッシー、近代人の憂鬱を感じさせるラヴェル、と両曲に対するカペーの読みは実に深い。全音階を主体とした楽曲であるドビュッシーでは音楽を解放させ、半音階を主体とした楽曲であるラヴェルでは音楽を緊縛する。実はこれとは逆の演奏が意外と多い。演奏効果の上がるラヴェルでは輝かしく豪奢に演奏され、ドビュッシーでは繊細なニュアンスを作らうとして軟弱に演奏される場合が殆どではないか。


カペー弦楽四重奏団の残した録音は全て神品であり、各々の曲の最も優れた演奏であると云つても過言ではない。

録音が貧しいことに頓着しない方なら皆そうおっしゃるだらう。しかし、それでは贔屓の引き倒しだ。カペーSQの最高の遺産は、何と云つてもベートーヴェンの後期四重奏曲であり、第1に第15番を、第2に第14番を推す。

そして、御家藝である近代フランスの作品に止めを刺す。第1にドビュッシーを、第2にラヴェルを推す。次いで、カペーの妙技を讃へる為にハイドンを加へておこう。更に比類なきシューマンも忘れてはならない。これ以上挙げることは全てを挙げることに繋がるから止すが、個人的にはシューベルトに愛顧を感じる。


 カペー弦楽四重奏団のCDは、国内では東芝EMI、新星堂から発売されてゐたが、Opus蔵から優れた復刻が出たので当分はこれを第一に推そう。海外では、Biddulphからマーストンによる良質な復刻が出てゐたが、現在では入手困難である。この他、Chaconneから出てゐた箱物が、実在感のある音質で、霞がかつた印象ばかりあるカペーSQの復刻から芯の強い音を聴かせてくれた。しかし、これも入手困難だ。

http://www.h6.dion.ne.jp/~socrates/capet.html

_______

神霊はVirtuosoに宿る 2 _ バックハウス最後の演奏会


 バックハウス(pf) デッカ 1969年ライヴ 
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1890660


Wilhelm Backhaus play Schumann Des Abends - Warum?
http://www.youtube.com/watch?v=G6TticNoDOA&feature=fvwrel

Wilhelm Backhaus plays Schubert Impromptu in A flat Op. 142 No. 2
http://www.youtube.com/watch?v=rejfDi8RzlM

ヴィルヘルム・バックハウスの残した一連の録音は、かつて私も夢中になって聴いた時期があったのですが、ここ数年ほどは御無沙汰でした。

それが、先週リリースされたザルツブルグでの協奏曲ライヴを耳にして、何だか彼のCDを無性に聴いてみたくなりました。それでまずブラームスの第2協奏曲のスタジオ盤を聴き、昨日それについて書いたところですが、今日も引き続きベートーヴェンのソナタや協奏曲を中心に色々と聴いてみました。

そして、これら一連の録音のなかでも、ひときわ趣きの深い演奏として、聴いていて気持ちが強く揺さぶられたのが、この「バックハウス最後の演奏会」と題されたライヴ盤です。

このCDは1997年にリリースされたもので、1969年6月26日と28日の2日間に渡り、オーストリアのオシアッハにある修道院で開催されたバックハウスのピアノコンサートの演奏がライヴ収録されています。収録曲は以下の通りです。


@ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」
Aシューベルト 楽興の時
Bモーツァルト ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」
Cシューベルト 即興曲作品142の2

以上、6月26日のコンサートより


Dベートーヴェン ピアノ・ソナタ第18番(第3楽章まで)
Eシューマン 幻想小曲集「夕べに」と「なぜに?」
Fシューベルト 即興曲作品142の2

以上、6月28日のコンサートより


その28日のコンサートにおいてベートーヴェンのピアノ・ソナタ第18番を弾いている途中、バックハウスは心臓発作を起こしてしまい、演奏も第3楽章で中断を余儀なくされるのですが、控え室で休憩の後にステージに立ち帰り、終楽章の代わりにシューマンの幻想小曲集「夕べに」と「なぜに?」、そしてシューベルトの即興曲作品142の2を演奏してコンサートを終えたのでした。そして、その時の心臓発作がもとで、28日のコンサートから7日後の7月5日にバックハウスは永眠してしまいます。

おそらく誰が聴いても思うように、バックハウスのピアニズムには他のピアニストの誰とも似ていない、まさに独特のタッチの感触が有りますね。その理由として、彼はピアノを美しく鳴らそうという発想を優先しないから、ということがよく言われていて、私も多分そうだろうと思うのですが、いずれにしても彼のピアニズムというのは、特にベートーヴェンの「熱情」ソナタを頂点として、時に法外なまでの表出力をもって、恐ろしいまでの凄味を発する演奏を披歴します。しかし、敢えて彼のピアニズムに欠けている点を指摘するならば、それはおそらく、ある種の感覚的な美しさであって、これは美しく鳴らそうという発想を優先しない以上、必然的にそうなります。

だから聴き手も、そういう陶酔的な音色の美しさなどは、彼のピアニズムには過分に求めないで、その代わりもっと掛け替えのないものを求めるのですが、ともかく以上のようなスタンスでバックハウスのピアノに耳を傾ける聴き手は、おそらく本CDの上記EとFの演奏を聴いて、言い知れない感銘を覚えずにはいられないのではないでしょうか。というのも、上記EとFの演奏は恐ろしいまでに美しいからです。

それも、人工的に設計したところで表出するのが不可能ではないかというくらい、限りなくピュアで、透徹して、澄み切った美しさを湛えたピアノの響き、、、抜けるようなピアノの音色の透明感、、

これは作品にストイックに没入するというよりも、むしろピアニストとしての何か超然とした境地に一人佇むような、突き抜けた趣きがあり、およそ人間がこのようなピアノを奏でられるということに、聴いていて畏敬の念すら湧いてくる、そんな演奏です。

このCDに聴かれるバックハウスの「白鳥の歌」は、おそらく彼の命の最後の光芒が生み出した、聴き手に途轍もない感銘を呼び起す感動的名演であって、バックハウスのディスコグラフィにおいても特筆されるべき録音だと思うのですが、もう久しく廃盤の状態なのですね。本当にもったいないと思います。

http://clamemo.blog44.fc2.com/blog-entry-405.html

_____________

_____________

5. 成熟した音ってこういう音

成熟した響きを出せた大人の指揮者はブルーノ・ワルター と ムラヴィンスキーの二人だけでしたね:

1)ブルーノ・ワルター

シューベルト未完成 ブルーノ・ワルター

http://www.youtube.com/watch?v=kyY32OVwqYs&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=-snx_QsjIOE&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=pBJzWHnsNqo
http://www.youtube.com/watch?v=vneay2YZ1Pw
http://www.youtube.com/watch?v=UoSTdlDgoOY
http://www.youtube.com/watch?v=j-BjD6B9trA

BRUNO WALTER - 1936 - BRAHMS SYMPHONY 3 OP. 90

http://www.youtube.com/watch?v=ySEtmEh8XGQ
http://www.youtube.com/watch?v=ucGvtmrtckE&playnext=1&list=PLE0A1F82B01518D67
http://www.youtube.com/watch?v=VItIkpaxO38
http://www.youtube.com/watch?v=RiFale8Ol3w

horowitz plays brahms piano concerto #1

http://www.youtube.com/watch?v=WsoiJ-nlhP8&playnext=1&list=PL6A7FE9A11C1BE294
http://www.youtube.com/watch?v=dvBdiMfj83w&playnext=1&list=PL6A7FE9A11C1BE294
http://www.youtube.com/watch?v=FDvvCr4KQss
http://www.youtube.com/watch?v=Tnuf_nx51xI
http://www.youtube.com/watch?v=egWfN-aFv8k

BRUNO WALTER - 1936 - SYMPHONY 6 OP.68 "PASTORAL" – BEETHOVEN

http://www.youtube.com/watch?v=Pej39Z1oJCg&playnext=1&list=PLAB031CD957313B63
http://www.youtube.com/watch?v=qlTZ73O6J_Q
http://www.youtube.com/watch?v=oCQ9xV5URnk
http://www.youtube.com/watch?v=x7hsEASX04Y
http://www.youtube.com/watch?v=yYkMnjq0toE

Bruno Walter Requiem KV 626 by Mozart . "Requiem"

http://www.youtube.com/watch?v=LWvFPUiA4fk
http://www.youtube.com/watch?v=h9nfXpTSqss&playnext=1&list=PLC2E902312EF632FF
http://www.youtube.com/watch?v=BDXEvd5ml48&playnext=1&list=PLC2E902312EF632FF
http://www.youtube.com/watch?v=xB7KsB2y-ME
http://www.youtube.com/watch?v=-PDwMEqvXaQ&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=gdysoeI9sqg
http://www.youtube.com/watch?v=qraktCiyF18
http://www.youtube.com/watch?v=7-sLh6POKt4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=h_fcgUnxJkc
http://www.youtube.com/watch?v=8XGJNWHZ0Xc&playnext=1&list=PLC2E902312EF632FF
http://www.youtube.com/watch?v=4jek5M_ynlo
http://www.youtube.com/watch?v=dpxcEYC3D_M&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=j7Syi_6d3ZU
http://www.youtube.com/watch?v=xuZ7ey3D-Sk

Walter conducts Mozart Symphony 41 'Jupiter'

http://www.youtube.com/watch?v=smpB4Qam4hs
http://www.youtube.com/watch?v=g0tQB9hTWGg


Bruno Walter Symphony G minor,KV 183 by Mozart 1.Movement

http://www.youtube.com/watch?v=DWcOvGhT6_0&feature=related

78rpm Walter conducts Mozart ''La Finta Giardiniera''

http://www.youtube.com/watch?v=mJNnfrIzN84

BRUNO WALTER - 1939 - MOZART PIANO CONCERTO NO 20 K 466 (PIANO & CONDUCTOR)

http://www.youtube.com/watch?v=1y_IsQ7fboU
http://www.youtube.com/watch?v=BXVkZHgd4Iw

Bruno Walter conducts Vorspiel: Die Walküre 1 Akt

http://www.youtube.com/watch?v=3_cITTOf5MI

Bruno Walter "Siegfried Idyll" Richard Wagner

http://www.youtube.com/watch?v=lDq_8civGw4&playnext=1&list=PLFA95FBB5F6411CC6
http://www.youtube.com/watch?v=rJXy8bfZ7JM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=NcCM78oHHnA&playnext=1&list=PLFA95FBB5F6411CC6

Bruno Walter "Liebestod" Tristan & Isolde

http://www.youtube.com/watch?v=1NEVOoPL0H0&feature=fvst

BRUNO WALTER - 1937 - KAISER WALZER (Emperor waltz) JOHANN STRAUSS

http://www.youtube.com/watch?v=u5KuT4awWI0

Rosenkavalier Waltzes - R. Strauss - Bruno Walter

http://www.youtube.com/watch?v=xKurWW5lFtE


Walter: Das Lied von Der Erde

http://www.youtube.com/watch?v=FcO8JqkDLF8
http://www.youtube.com/watch?v=nDXDNjn24nY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=PPRydlQTeLQ
http://www.youtube.com/watch?v=4GoIudAYFTw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=g-XPsgQF7pA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Nedk_go0WOg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=nLb1RJbeLpI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=GhZ5O-YZfm4&feature=related

Walter: Mahler Symphony no. 9

http://www.youtube.com/watch?v=B4QVJVzcstY&feature=fvst
http://www.youtube.com/watch?v=oGz_mNvzoXs
http://www.youtube.com/watch?v=3dHwZJ4nKKw&feature=fvst
http://www.youtube.com/watch?v=69PRjg_HtVQ&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=pJDdrc-rvQA
http://www.youtube.com/watch?v=VNonm0O0cvA&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=pJDdrc-rvQA&feature=fvwrel

_______

2)ムラヴィンスキー



1978年ウィーンのムラヴィンスキーは録音も含めて奇跡でしたね:


エフゲニー・ムラヴィンスキー(指揮)レニングラード・フィル

「ウィーンのムラヴィンスキー」(英EMI、LP)

1978年の6月、初めてのヨーロッパへの旅行の途中に訪れたウィーンの事は決して忘れないでしょう。

モスクワ経由での長旅で、フランクフルトの展示会を訪れた私は、会場で思いもかけずウィーンにある取引先になる工場を見学することとなりました。工場見学の後、ウィーン市内の本社に立ち寄った私は、経営陣から、昼食に招かれ、いつしか好きなクラシック音楽の話に話題が移りました。そして自分がどれ程クラシック音楽が好きで、あこがれのウィーンに思いもかけずくる事となって、どうしたら音楽会に行けるかを聞ききました。

音楽の話をずーと聴いていたオーナーが、それほど好きならば、ファミリーが年間予約している席を譲ってあげよう!と云ってくれたのです。自分はウィーンに生まれ育ったけど、現代では望むべきも無い、素晴らしい演奏会を昨晩経験したと、その余韻を大事にしたいと云って、楽友協会大ホールの今日の演奏会と明日の国立歌劇場のオペラの席を譲っていただいたのでした。

そんなに、素晴らしい昨晩のコンサートは何だったのですかと聞くと、レニングラードフィルがムラヴィンスキーに率いられて、列車でやってきたのだよ。巨匠がいなくなった今日、残って入り最後の一人かも知れぬと云われました。私は思わず、私も日本では73年の初来日からずーと欠かさず聴いていますと云いましたら、あの演奏を何回も聴いているとは素晴らしい、でも飛行機嫌いの巨匠が日本に行くとはと、いぶかしげに聞かれました。いいえ、シベリア鉄道と船を乗り継いで来てくれるのです、なんと素晴らしい事でしょうか。このような偶然は!

そして、その後、発売されたウィーンのムラヴィンスキーの実況録音盤が、ウィーンのホールの音を唯一忠実に伝えているのでした。

http://tannoy.exblog.jp/1737435/

1978年6月12・13日、ウィーン芸術週間でのウィーン・ムジークフェライン・ザール実況録音。

 ウェーバー;「オベロン」序曲
 シューベルト;交響曲第8番「未完成」
 ブラームス;交響曲第2番
 チャイコフスキー;交響曲第5番
 ショスタコーヴィッチ;交響曲第5番


Carl Maria von Weber (1786-1826) Overture to "Oberon"
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinsky, 29.IV.1978

http://www.youtube.com/watch?v=EZFcVhM8Jv0

Symphony No. 8 in B minor, D 759 "Unfinished" by Franz Schubert (1797-1828)
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinsky, 30.IV.1978

http://www.youtube.com/watch?v=tB4Y4XCDqEU
http://www.youtube.com/watch?v=4m_5m-WO4JA

Symphony No. 2 in D Major, op. 73 by Johannes Brahms
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinsky, 29.IV.1978

http://www.youtube.com/watch?v=H9wa1u_wn0o
http://www.youtube.com/watch?v=z86445C232k
http://www.youtube.com/watch?v=RlcRVdSCDoQ
http://www.youtube.com/watch?v=rMgBqckYMFg

_____________


Beethoven: Symphony No.4 Mov.IV (Mravinsky)

http://www.youtube.com/watch?v=DG39ixkkx60
http://www.youtube.com/watch?v=EnCN-Et4t5M
http://www.youtube.com/watch?v=uqvdK6rUgt0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Qkv_F_--nrI&feature=related

Ludwig van Beethoven-Sinfonia nº 3, op. 55,
Orquestra Filarmónica de Leningrado / Maestro-Evgeni Mravinsky

http://www.youtube.com/watch?v=X1v46hSfdU4
http://www.youtube.com/watch?v=DzKKI8Tg9zk
http://www.youtube.com/watch?v=kmo7hakcklk
http://www.youtube.com/watch?v=7VRbZZLh-GA
http://www.youtube.com/watch?v=2hgxgmXqTSw&feature=related

Brahms: Symphony No.2 Mov.I (Mravinsky)

http://www.youtube.com/watch?v=JcwTljrOOf8
http://www.youtube.com/watch?v=RHuG8HtNJTE
http://www.youtube.com/watch?v=fFazWLCQCqM
http://www.youtube.com/watch?v=7MDAs_NHlRQ


MRAVINSKY--BRAHMS Symphonie 3
Leningrad Philharmonic Orchestra, dir Evgeny Mravinsky, 29-04-1978 LIVE

http://www.youtube.com/watch?v=RhufL4clBgs
http://www.youtube.com/watch?v=lkNcuQmFCXE
http://www.youtube.com/watch?v=xokztz210EY
http://www.youtube.com/watch?v=TPzc5ucKvfc


Brahms: Symphony No.4
Leningrad Philarmonic Orchestra Yevgeny Mravinsky 1973

http://www.youtube.com/watch?v=KF6XT6J87jo
http://www.youtube.com/watch?v=Jh-YITzzpZ8
http://www.youtube.com/watch?v=H0WFGui51Wo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=SPfhx85pF7U&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=DyCBsPS7qOs&feature=related


Tchaikovsky: Symphony No.5
Live at the Great hall of Leningrad Philharmonia - 1973, Apr.

http://www.youtube.com/watch?v=yI3ifmdPPJE&playnext=1&list=PL03855A07538BC0A3
http://www.youtube.com/watch?v=_Fgvv_FYFsY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=bxD6K3Jo4h8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=jr1Y3KS5KNk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=RLV5hKU114A&feature=related

evgeny mravinsky
tchaikovsky 5th symphony 1983

http://www.youtube.com/watch?v=VQhzfTwwMlU
http://www.youtube.com/watch?v=Hcy4IM65KUc&feature=related


Mravinsky: Tchaikovsky Symphony no. 6 "Pathétique"

Leningrad Philharmonic, Evgeny Mravinsky
Stereo recording, 1960.

http://www.youtube.com/watch?v=UcJzjB8bwqE&playnext=1&list=PLA125EC7B26EF3553
http://www.youtube.com/watch?v=6-LSwQyMrHw&playnext=1&list=PLA125EC7B26EF3553
http://www.youtube.com/watch?v=q1SayVIFmyg&playnext=1&list=PLA125EC7B26EF3553
http://www.youtube.com/watch?v=lioGWy9sETw
http://www.youtube.com/watch?v=x2tTfTVzD0M

Tchaikovsky: Nutcracker-Suite (Mravinsky)

http://www.youtube.com/watch?v=9K0N16w0yjA
http://www.youtube.com/watch?v=HIzwLsX_RtI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=vnJCGT8QsLY&feature=related


EVGENY MRAVINSKY - FRANCESCA DA RIMINI - TCHAIKOV
LIVE RECORDING: Great Hall of the Leningrad Philharmonic, 19 march 1983.

http://www.youtube.com/watch?v=x2FLZsAL8fA
http://www.youtube.com/watch?v=lIDpdr_dRH4&feature=fvwrel


Tchaikovsky, Capriccio Italien, Op. 45.
Leningrad Philharmonic Orchestra, Evgeny Mravinsky, Conductor.
Rec, 23-02-1950. Leningrad.

http://www.youtube.com/watch?v=flA32aBSmeo


P. Tchaikovsky Serenade for string orchestra/E.Mravinsky
Leningrad Philharmonic Orchestra. Conducter: Yevgeny Mravinsky. 1949.

http://www.youtube.com/watch?v=frv3gch4kg4
http://www.youtube.com/watch?v=YVrVxPsP9vk
http://www.youtube.com/watch?v=QOUgxhhqFWw&feature=related

Sviatoslav Richter plays Tchaikovsky Piano Concerto No. 1
Leningrad Philharmonic Symphony Orchestra, Yevgeny Mravinsky, 1959.

http://www.youtube.com/watch?v=DRBjzVkpiQ4
http://www.youtube.com/watch?v=NzcWYVkflcU
http://www.youtube.com/watch?v=E91B7soYX_A
http://www.youtube.com/watch?v=8ntF8ZUnclM

Piano Concerto No. 1 in B flat Major, op.23 by Piotr Ilyich Tchaikovsky
Emil Gilels, piano
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinskij, 30.III.1971

http://www.youtube.com/watch?v=ttUE8CHN5U8
http://www.youtube.com/watch?v=sRBqVyZcJT0
http://www.youtube.com/watch?v=IaEpqaPCyhc

EVGENY MRAVINSKY--TANNHÄUSER-OVERTURE
Leningrad Philharmonic Orchestra, enr 1978,

http://www.youtube.com/watch?v=AYZzdsg6hSE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=nn8kWu7H59E


Wagner, Lohengrin, Prelude act 3.
Leningrad Philharmonic Orchestra, dir Evgeny Mravinsky, enr 1965 LIVE

http://www.youtube.com/watch?v=1jkNDaO8fRM&feature=related

EVGENY MRAVINSKY--WAGNER-LOHENGRIN Prelude act 1
Evgeny Mravinsky, enr 1978 LIVE

http://www.youtube.com/watch?v=1uliSlmMQcI

Wagner: Die Walküre - Ride of the Valkyries - Mravinsky/LPO (1965Live)

http://www.youtube.com/watch?v=82HCLqVhB6E


EVGENY MRAVINSKY--WAGNER-DIE MEISTERSINGER VON NÜRNBERG
Leningrad Philharmonic Orchestra, enr 1982 LIVE

http://www.youtube.com/watch?v=1qLfxnEC0xI

EVGENY MRAVINSKY - PRELUDE UND LIEBESTOD - TRISTAN UND ISOLDE
Leningrad Philharmonic Orchestra, Evgeny Mravinsky Conductor, Rec 1978.

http://www.youtube.com/watch?v=3g3otuOZhuQ
http://www.youtube.com/watch?v=LDd1u-w13hE

Anton Bruckner, symphony No 7 in E major,
25 February 1967,Leningrad Philharmonic Orchestra, Evgeny Mravinsky,

http://www.youtube.com/watch?v=pZrvBok8ARE
http://www.youtube.com/watch?v=NSfW9fEATRM
http://www.youtube.com/watch?v=W8vi3tK_w54
http://www.youtube.com/watch?v=TBVbx959PX4
http://www.youtube.com/watch?v=oDGwSKb0J3Q
http://www.youtube.com/watch?v=MsjjrfG2h50
http://www.youtube.com/watch?v=pDgVYIyL-B8&feature=related


Symphony No. 8 in C minor by Anton Bruckner (1824-1896)
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinskij, 30.VI. 1959

http://www.youtube.com/watch?v=cI60KTZrbfs
http://www.youtube.com/watch?v=KhUAWXUHwA8
http://www.youtube.com/watch?v=QME9yhje4tc
http://www.youtube.com/watch?v=FkUgDpkUxrU

Symphony No. 9 in D minor by Anton Bruckner (1824-1896)
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinskij,30.I.1980

http://www.youtube.com/watch?v=qPhWKo__ruk
http://www.youtube.com/watch?v=0AdprHOGxbY
http://www.youtube.com/watch?v=AX-JKolWuH4


Sibelius: Symphony #7 in C Major, Op. 105

http://www.youtube.com/watch?v=yqMJA9kvyHI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=0j8UsxvAZ_s&feature=fvwrel

Sibelius: Lemminkäissarjaan - Tuonelan joutsen - Mravinsky/LPO (1965Live)

http://www.youtube.com/watch?v=Uk9HNGH0XG4

Mravinsky, Glinka / Overture ''Ruslan and Lyudmila''

http://www.youtube.com/watch?v=GRPucWxV6Bo&feature=fvwrel

Evgeny Mravinsky conducts Anatoly Liadov: Baba Yaga op.56
date:11.03.1983

http://www.youtube.com/watch?v=fmpIiquC99g

Evgeny Mravinsky conducts Mussorgsky: Dawn on Moskwa River (Prelude to Khovantchina)
date:11.03.1983

http://www.youtube.com/watch?v=FMJCgL9GNFw


Yevgeni Mravinsky conducts Richard Strauss Ein Alpensinfonie
orch:Leningrad Philharmonic date:21.4.1960

http://www.youtube.com/watch?v=wfLeeNTPjeo&playnext=1&list=PLC5A564A7BCBFCF5D
http://www.youtube.com/watch?v=xqtkYD62Qxk&playnext=1&list=PL52BC37C81E0BFC11
http://www.youtube.com/watch?v=jyz5Y3eb4LY&playnext=1&list=PLC5A564A7BCBFCF5D
http://www.youtube.com/watch?v=8pvfyVS_V0k&playnext=1&list=PLC5A564A7BCBFCF5D
http://www.youtube.com/watch?v=8xazO_BUsoo&playnext=1&list=PL52BC37C81E0BFC11
http://www.youtube.com/watch?v=_HK9CVKw-lU&playnext=1&list=PL52BC37C81E0BFC11

Mravinsky conducts Bartok Music for String, Percussion & Celesta
Leningrad Philharmonic Orchestra
Recorded Live at Great Hall Moscow Philharmonic on 28 February 1965

http://www.youtube.com/watch?v=5TeIPkomTnw
http://www.youtube.com/watch?v=Gwu63ZLv80g&playnext=1&list=PL0149E1DE3402806D
http://www.youtube.com/watch?v=_qwfIqw8kdk&playnext=1&list=PL0149E1DE3402806D
http://www.youtube.com/watch?v=Xrlxy7Bs3us


Sabre dance - Yevgueni Mravinsky.wmv

http://www.youtube.com/watch?v=3HbunC5nqxo&feature=related


Prokofiev Mravinsky Romeo & Juliet

http://www.youtube.com/watch?v=pQAwic28DzI&playnext=1&list=PLE4E1E5913B7472AE


Evgeny Mravinsky conducts Scriabin Le Poéme de l'extase

http://www.youtube.com/watch?v=SPdUI2eylBA
http://www.youtube.com/watch?v=3e4SiM3rsHc

:::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::.:*゜☆   ::::::::::::::::  :::::::::::::::::::::::::. :*・゜☆.::::::::::: :::::::::::::::::::::☆
。.: *・゜☆.。. :* ☆.。:::::::::::::::.:*゜☆   :::::::::::::::::::::。.:・゜☆.。
::::::::::::::::: * :::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ☆.。::::::::::::::::::::::::::::::.:*・゜☆   ::::::   ::::::::
:::::::::::::::::: :::::::::::::::.:*・゜☆   :::::::::::::::::::::::::. :*・゜☆.::::
    ::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::  !ヽ   :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
    :::::::::::::::::::::::::::::::     !ヽ、    ,!  ヽ
                 ,!   -‐‐‐''   ヽ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
    :::::::::::::::::::::::::::::   / ´`)'´    _      !、
            lヽ /   ノ    , `     `! :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
       lヽ、  /  Y    ,! ヽ-‐‐/          l
.      l >‐'´`   l   ノ   ヽ_/          ノ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
      ,ノ     o   ヽ  l            _,イ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
     i'.o  r┐   *   ヽ、 ヽ、_     ,..-=ニ_
     l    ノ       ノヽ、,  !..□ /     ヽ
     ヽ        .ィ'.  ,!    ハ/    、   `!、
      `ー-、_    く´  l     /     ヽ    l
         ,!     `!  l              ヽ、__ノ
         l     `! `! !              l
          l  .  l  , l ヽ、 、_ ,ィ      ノ
         l、_,!   し'   l  l   `l      l

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 中川隆 2011年4月23日 23:10:32: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

youtube で大戦中にクナッパーツブッシュの第九を見つけましたが、フルトヴェングラーよりこちらの方が響きが遥かに深く重いですね。 人間の器が違うのかも知れないですね:

クナッパーツブッシュ、ベートヴェンSy.9 戦中
http://www.youtube.com/watch?v=rj2Bo-cIS_A


02. 中川隆 2011年4月24日 21:26:44: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

音楽はやはり音そのものが命ですね。

上で取り上げた ブルーノ・ワルター と ムラヴィンスキーは、演奏がどうこう言う前に、音自体の洗練度と魅力がフルトヴェングラーとは次元が違うんですね。

同じ同時期のウィーン・フィルを指揮して、何故 SP録音のブルーノ・ワルターとこれだけ差が出るの?

同じ大戦中のベルリン・フィルを指揮して何故クナッパーツブッシュの方が遥かに深い響きが出せるの?

不思議ですねえ。

フルトヴェングラーは音楽プラスα で勝負しているのですが、古い録音では そのプラスαの部分や霊感が感じ取れなくなってしまうのでしょうね。 指揮者の評価をオーケストラからどんな音色や響きを引き出せたかという基準だけで行うとしたら

1. ブルーノ・ワルター
2. ムラヴィンスキー
3. クナッパーツブッシュ
4. フルトヴェングラー
5. メンゲルベルク
6. ワインガルトナー


という序列になるのではないでしょうか。 戦前のヨーロッパでブルーノ・ワルターが何故あれほど人気が有ったのか良くわかります。 アメリカ人には(音楽ではなく)音そのものが全く分からなかったのが、戦後のブルーノ・ワルター凋落の原因になりましたね。 アホのアメリカ人に合わせたら自分もアホになるに決まってますよね。(合掌)

まあ何れにしろ、フルトヴェングラーやトスカニーニやクレンペラーは幾ら才能が有っても、死ぬまでガキンチョのままで、精神的には全然成長できなかったという事みたいですね。 幸せな人生でしたね。 はい。


フルトヴェングラーやトスカニーニはどうしても精神年齢が近い(?)高校生や大学生向けになってしまうんですよね。ガキンチョはティンパニさえ滅茶苦茶 打っ叩いておけば喜んでくれますしね。

大人はこういう曲は滅多に聴かないけど一応リンク貼っときます。 高校生や大学生にとってはフルトヴェングラーは確かに前代未聞・空前絶後の大指揮者でしょうね。 僕も良くわかります:

BEETHOVEN SYM NR.5 FURTWANGLER/BPO 1947

http://www.youtube.com/watch?v=IVdvg1hOxtM


BEETHOVEN SYM NR.7 FURTWANGLER /BPO 1943

http://www.youtube.com/watch?v=lMSMHJqk9cs&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=TyTAl-kn2XE&feature=fvsr
http://www.youtube.com/watch?v=W4Eii91WtsQ&feature=related

BEETHOVEN SYM NR.7 FURTWANGLER/VPO 1950

http://www.youtube.com/watch?v=5vSYlKG7XOo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=eP-5nb0XdMo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Yz4rXnwxKG4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=aRoc5uUjc44&playnext=1&list=PLFC57FEB9061FA5F7
http://www.youtube.com/watch?v=7pPN6v4Y-tg&playnext=1&list=PLFC57FEB9061FA5F7
http://www.youtube.com/watch?v=INe1G1Tbb78


Furtwangler: Beethoven Symphony no. 4
Berlin Philharmonic, Wilhelm Furtwangler
Taped in Telefunken studio, June 27 and 30, 1943

http://www.youtube.com/watch?v=Ll3WDMwuErs
http://www.youtube.com/watch?v=AufoW0zslbU
http://www.youtube.com/watch?v=YcM_4mnqytE
http://www.youtube.com/watch?v=MIjcs8jo8FM
http://www.youtube.com/watch?v=dW9sLko-lFY
http://www.youtube.com/watch?v=VhM6y8DKbjs


Beethoven Symphony no. 3 "Eroica"
Wilhelm Furtwangler, Berlin Philharmonic Live recording, December 8, 1952

http://www.youtube.com/watch?v=m55BQQYJhHc
http://www.youtube.com/watch?v=Tez7-wb7L4Q

Wilhelm Furtwängler Coriolan, overture

http://www.youtube.com/watch?v=QoultibNlus


Furtwangler: Leonore Overture no. 3
Vienna Philharmonic, Wilhelm Furtwangler Live Recording, May 2, 1944

http://www.youtube.com/watch?v=UVG9A8dH95s
http://www.youtube.com/watch?v=oPWsWdoumiI&feature=related


Furtwangler: Schubert, Symphony no. 9

http://www.youtube.com/watch?v=OKcPgx8c1Fg
http://www.youtube.com/watch?v=g44kzRB9jLM&playnext=1&list=PL8D8DAFD54D4BA063

Furtwangler: Hebrides Overture 1930

http://www.youtube.com/watch?v=NVt2Tmtv3gI

Schumann: Manfred Overture (Furtwangler)

http://www.youtube.com/watch?v=0Q0y1X84Qqc&feature=fvst


Johannes Brahms - 3rd Symphony conducted by Furtwängler

http://www.youtube.com/watch?v=y-m2fP3nOms


Anton Bruckner, symphony no.9 in D minor
Berliner Philarmoniker - Wilhelm Furtwangler. Live recording 1944.

http://www.youtube.com/watch?v=WpRYVbYevxE
http://www.youtube.com/watch?v=a8M-feUaTuk
http://www.youtube.com/watch?v=Qpx5iZAOlL8&playnext=1&list=PLC3617B3410086046
http://www.youtube.com/watch?v=54H6L6nQZ4g
http://www.youtube.com/watch?v=FdOGT64aJWw
http://www.youtube.com/watch?v=MAkKdkOklyg
http://www.youtube.com/watch?v=6rjSIloW694&feature=related


Furtwangler: Funeral March from Gotterdammerung

http://www.youtube.com/watch?v=RJENAauGJV4
http://www.youtube.com/watch?v=zCE_aYJNfQo&feature=related

Flagstad and Furtwangler – Gotterdammerung

http://www.youtube.com/watch?v=pvgEHqW1tXk
http://www.youtube.com/watch?v=neaoTCTGtwk

____________

クナッパーツブッシュの音の響きの奥深さと音楽の巨大さに感銘を受けたのでこれも追加しておきます:

Hans Knappertsbusch & Wolfgang Schneiderhan plays J.S.Bach Vn Con 3mov

http://www.youtube.com/watch?v=HpyFzOlriRQ

Knappertsbusch conducts Beethoven's "Eroica" finale (1944)

http://www.youtube.com/watch?v=y718_f3ezpc


Ludwig van Beethoven (1770-1827) Symphonie Nr. 3 "Eroica"
Münchner Philharmoniker Hans Knappertsbusch 17. Dezember 1953

http://www.youtube.com/watch?v=vnZp-Qw1LKo
http://www.youtube.com/watch?v=amOhyTWePlQ&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=HHlvu_qqAto
http://www.youtube.com/watch?v=Ws6aKbNaKGs


KNAPPERTSBUSCH 1943 5TH BEETHOVEN

http://www.youtube.com/watch?v=Is68_hVOKGs


Ludwig van Beethoven (1770-1827) Symphonie Nr. 7 A-Dur op. 92
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch 17. Januar 1954

http://www.youtube.com/watch?v=RC-6s8bWVRM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=K4ktTk3sxwE
http://www.youtube.com/watch?v=pVn8WVESDVQ
http://www.youtube.com/watch?v=hY5WOiPZmfo&feature=related

Ludwig van Beethoven Symphonie No.8 F-Dur op.93
Bayerisches Staatsorchester Dirgent:Hans Knappertsbusch

http://www.youtube.com/watch?v=2lWOWspa5HQ
http://www.youtube.com/watch?v=LcIoxkgEYgo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=7e-s2N4SkZU&feature=related

Knappertsbusch conducts Beethoven 9th Sym finale 1942

http://www.youtube.com/watch?v=_79pjsMo-jI


Ludwig van Beethoven (1770-1827) Ouvertüre "Coriolan" c-Moll op. 62
NDR Sinfonieorchester Hans Knappertsbusch 14. März 1960

http://www.youtube.com/watch?v=hi1D5fBf--A

Beethoven - Ouvertüre "Leonore" Nr. 3 - Knappertsbusch (1959)

http://www.youtube.com/watch?v=V55dW-O4aRI

Ludwig van Beethoven: Leonore Overture No. 3, Op. 72a
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch Recorded 31 May 1962

http://www.youtube.com/watch?v=EshZR3QNsqs

Aufforderung zum Tanz (Invitation to the dance) by Carl Maria von Weber
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch, conductor 1960

http://www.youtube.com/watch?v=YPjVou5eG6w


Symphony No. 8 in B minor D 759 "Unfinished" by Franz Schubert
Bayerisches Staatsochester Hans Knappertsbusch, conductor 10.II.1958

http://www.youtube.com/watch?v=Wbi7YDPudpM
http://www.youtube.com/watch?v=WmFtA8c0GcA&feature=fvst

Symphony No. 4 in D minor , op. 120 by Robert Schumann
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch, conductor Wien 1962

http://www.youtube.com/watch?v=DCSf1CjsKK8
http://www.youtube.com/watch?v=_7oSWlwrTD4
http://www.youtube.com/watch?v=0jh7WaS03y0
http://www.youtube.com/watch?v=Ne1TG66JgTg

"Mazeppa" Tone-poem by Franz Liszt
Orchestra of the State Opera Berlin Hans Knappertsbusch, conductor Berlin IV.1933

http://www.youtube.com/watch?v=selyeMXWYp4


Overture to Rienzi by Richard Wagner
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch ca. 1942

http://www.youtube.com/watch?v=Wb5MNTT1yZ0


Richard Wagner - Rienzi, Ouvertüre

http://www.youtube.com/watch?v=qBjsLDGGvg4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=2Pkh9Y64f9g


Wagner - Lohengrin Prelude
H.Knappertsbusch The Munich Philharmonic Orchestra

http://www.youtube.com/watch?v=9vhPEU5VVRg&playnext=1&list=PL545C45E70A4F773D


Richard Wagner, Lohengrin Prelude, Act I.
Orchestre Tonhalle, Zürich, Hans Knappertsbusch, Dirigent. Rec 17 June 1947.

http://www.youtube.com/watch?v=oILTLBoEn6s

erda's warning, entry of the gods 1956

http://www.youtube.com/watch?v=Ix9R10n4R6E

Hans Knappertsbusch condutcs ""Vorspiel" Die Walkure
Wiener Philharmoniker. Vienna, 1963

http://www.youtube.com/watch?v=lYH2-TqAIdc&NR=1&feature=fvwp

Wagner - Die Valkure (Wes Herd dies auch... )
Set Svanholm and Kirsten Flagstad - Vienna Philarmonic Orchestra –
Hans Knappertsbusch

http://www.youtube.com/watch?v=3judFgkLyAg

The Ride of the Valkyries (Der Walkürenritt) from Wagner's opera "Die Walküre" (The Valkyrie). Hans Knappertsbusch & Wiener Philharmoniker

http://www.youtube.com/watch?v=p_MDQzyVFew


"Die Walküre" 1956,Bayreuther Festspiele
Act2.Prelude and Ride of the Valkyries(Walkürenritt).
Hans Knappertsbusch, Orchester der Bayreuther Festspiele

http://www.youtube.com/watch?v=RWmsyaKim1s

Wotan's Farewell. Magic Fire (London, Knappertsbusch)

http://www.youtube.com/watch?v=fMienvG908Q

GÖTTERDÄMMERUNG O heilige Götter!
Brünnhilde. Astrid Varnay Siegfried: Wolfgang Windgassen
Orchester der Bayreuther Festspiele Hans Knappertsbusch Bayreuth, 17. August 1956

http://www.youtube.com/watch?v=AS2gwAtf51M

Dawn and Siegfried`s Rhine Journey from Götterdämmerung by Richard Wagner
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch, conductor Wien VI.1956

http://www.youtube.com/watch?v=RUGKrW0FENE

Siegfrieds Rheinfahrt from Götterdämmerung by Richard Wagner (1813-1883)
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch ca. 1940

http://www.youtube.com/watch?v=uLtn3leawXk

Siegfried`s funeral march from Götterdämmerung by Richard Wagner
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch, conductor Wien VI.1956

http://www.youtube.com/watch?v=O-LJp6kbDq8

HANS KNAPPERTSBUSCH "SIEGFRIED`S DEATH & FUNERAL MARCH"

http://www.youtube.com/watch?v=f4YH5YjAXJc

Overture to Die Meistersinger von Nürnberg by Richard Wagner
Orchestra and Chorus of the Bayreuth Festival
Hans Knappertsbusch, conductor Bayreuth 1952

http://www.youtube.com/watch?v=gVFBHrDnBQE


Richard Wagner:Die Meistersinger Overture
H.Knappertsbusch The Munich Philharmonic Orchestra

http://www.youtube.com/watch?v=97eRAFwkYgQ

Knappertsbusch Meistersinger Vorspiel Live 1960

http://www.youtube.com/watch?v=UfmBMu7r6Xc

Meistersinger Quintet Knappertsbusch Grümmer 1960 Live

http://www.youtube.com/watch?v=l6fJv6TAvi0


Fanget an! Windgassen Knappertsbusch Meistersinger 1960 Live

http://www.youtube.com/watch?v=xPjxZi5pBic


DIE MEISTERSINGER VON NÜRNBERG "Verachtet mir die Meister nicht" (Finale)
Chor und Orchester der Bayreuther Festspiele Hans Knappertsbusch Bayreuth, 23. Juli 1960

http://www.youtube.com/watch?v=tjYU8x1uRxo


W. Windgassen - Preislied, Meistersinger von Nürnberg
Walther – Windgassen Conductor: Knappertsbusch Bayreuth, 1960

http://www.youtube.com/watch?v=zPMObdMsnm0


Verachtet mir die Meister nicht - Kna 1960

http://www.youtube.com/watch?v=4erYvgtd-uY


George London "Was duftet doch der Flieder" Die Meistersinger von Nürnberg

http://www.youtube.com/watch?v=7sZmJATruQM


Knappertsbusch's Die Meistersinger Bayreuth 1960 The Prize Song:

http://www.youtube.com/watch?v=Skg3anEaLNg


Prelude to Act I from Tristan und Isolde by Richard Wagner
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch, conductor Wien IX.1959

http://www.youtube.com/watch?v=Nv5xwvAMN28

Wagner, Tristan und Isolde, Prelude. North German Radio (NDR) Orchestra
Hans Knappertsbusch Conductor. Live March 24, 1963

http://www.youtube.com/watch?v=DYsuCo8md8w


Birgit Nilsson & Hans Knappertsbusch "Liebestod" 1962

http://www.youtube.com/watch?v=uSGbM2jvahY

CHRISTA LUDWIG - 1963 - LIEBESTOD - LIVE - TRISTAN UND ISOLDE

http://www.youtube.com/watch?v=9kCPwdQbEXI


Parsifal at Bayreuth 1959

http://www.youtube.com/watch?v=NxLdDNNEc1k


Hans Knappertsbusch conducts the prelude from Parsifal by Richard Wagner
Orchestra of the Bayreuth Festival recorded live in 1951

http://www.youtube.com/watch?v=nJ3yTbvwjkI

HANS KNAPPERTSBUSCH - 1962 - PARSIFAL - PRELUDE ACT I

http://www.youtube.com/watch?v=jrTx9BZBWKE

The grail scene from Act 1 of Wagner's Parsifal. Titurel - Arnold van Mill
Bayreuth Festival Chorus & Orchestra conducted by Hans Knappertsbusch, 1951.

http://www.youtube.com/watch?v=bKUV2BBbJOQ&playnext=1&list=PLD62CDD0DDD087F1A
http://www.youtube.com/watch?v=uep9hHPxvTA&playnext=1&list=PLD62CDD0DDD087F1A

Thomas Stewart - Amfortas´s Monologue - Parsifal act 1 1964

http://www.youtube.com/watch?v=jW_XX-doPQk

The grail scene from Act 1 of Wagner's Parsifal. Titurel - Arnold van Mill, Bayreuth Festival Chorus & Orchestra conducted by Hans Knappertsbusch, 1951.

http://www.youtube.com/watch?v=bKUV2BBbJOQ

Parsifal Act2 Flower Maidens' Chorus (Knappertsbusch 1951 Stereo)

http://www.youtube.com/watch?v=6JmTnentjfU

Knappertsbusch Parsifal 1951 (Wagner)

http://www.youtube.com/watch?v=PED357rMoFE&playnext=1&list=PLAB6E9E2EBF965593


Wagner - PARSIFAL "Ich sah das Kind" H.Knappertsbusch
Vienna Philharmonic Orchestra K.Flagstad

http://www.youtube.com/watch?v=T2ZMTkmjmLA&playnext=1&list=PL545C45E70A4F773D

R. Crespin Kundry Parsifal "Ich Sach das Kind"

http://www.youtube.com/watch?v=ZdOrFeszeXI


Parsifal Act3 Transformation Music (Knappertsbusch 1951 Stereo)

http://www.youtube.com/watch?v=79Mu9DLIyxE

Hans Knappertsbusch conducts Parsifal Act III Verwandlungsmusik - Transformation Music 1939

http://www.youtube.com/watch?v=2t2zlD-ZDMQ


"Good Friday Music". H.KNAPPERTSBUSCH 1951

http://www.youtube.com/watch?v=nBaJIwi-Mvc
http://www.youtube.com/watch?v=6yL2gaf4Dv8

Richard Wagner (1813-1883) Parsifal Finale
Chor und Orchester der Bayreuther Festspiele
Hans Knappertsbusch 13. August 1964 (allerletztes Dirigat)

http://www.youtube.com/watch?v=ji3UgVHkGXk

Wagner: Wesendonck-Lieder
Kirsten Flagstad
Hans Knappertsbusch, Wiener Philharmoniker, 1956

http://www.youtube.com/watch?v=7BJjhJJNtlg
http://www.youtube.com/watch?v=EgTN5l2sjOc
http://www.youtube.com/watch?v=fCqcCt6kaOs
http://www.youtube.com/watch?v=B-eYsKncN9Q
http://www.youtube.com/watch?v=wVFhsnSVxUI


Bruckner's Third Symphony

http://www.youtube.com/watch?v=fDYHqW_RyCA
http://www.youtube.com/watch?v=d8yqIh8XGig&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=smeKo9hD6JI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=hbRSq2xXYCw&feature=related

Symphony No. 5in B Major by Anton Bruckner
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch, conductor Wien VI. 1956

http://www.youtube.com/watch?v=8hJqTttsJmk
http://www.youtube.com/watch?v=RG9sLiqdpkE
http://www.youtube.com/watch?v=C-9om8ilmBY
http://www.youtube.com/watch?v=Nw7Y_PUvnQ8


Bruckner: Symphonie Nr. 5 (ed. Schalk) - Finale - Coda - Knappertsbusch (1959)
Münchner Philharmoniker Hans Knappertsbusch München, 19.03.1959

http://www.youtube.com/watch?v=I25MO8Xx0as

Sinfonia no. 7, Scherzo: vivace, sehr schnell, Mi Maggiore
Wiener Philharmoniker, Salisburgo 1949, Hans Knappertsbusch.

http://www.youtube.com/watch?v=AhFXJMAsXV4


Symphony No. 8 in C minor (Original Version) by Anton Bruckner
Munich Philharmonic Orchestra Hans Knappertsbusch, conductor 1963

http://www.youtube.com/watch?v=Te2lOnQ1BkE
http://www.youtube.com/watch?v=4GKc_agF_88
http://www.youtube.com/watch?v=dvDUrn0NeDw
http://www.youtube.com/watch?v=roNiRRlL7g4

Brahms Symphony No.4 4th mov
Hans Knappertsbusch & Kölner Rundfunk Sinfonie Orchester

http://www.youtube.com/watch?v=Q3-awvd7KRE

BRAHMS - ALTO RHAPSODY ( I ) WEST / KNAPPERTSBUSCH

http://www.youtube.com/watch?v=J1H9L5e2XhQ
http://www.youtube.com/watch?v=mzArvqjSCf0


Knappertsbusch Tales From The Vienna Woods

http://www.youtube.com/watch?v=ATOnp-lAzTQ
http://www.youtube.com/watch?v=Nak3JInkyTI&feature=related


Annen-Polka, op 117 by Johann Strauss II
Orchestra of the Bavarian State Opera Hans Knappertsbusch, München 1955

http://www.youtube.com/watch?v=GQL2svfpjw0


Strauss: Till Eulenspiegel / Knappertsbusch • Staatskapelle Berlin 1928

http://www.youtube.com/watch?v=SWDnG9zWO1U

"Freut euch des Lebens", waltz by Johann Strauss II
Orchestra of the State Opera Berlin Hans Knappertsbusch, conductor Berlin II.1928

http://www.youtube.com/watch?v=r5IoF87kOPU

Hans Knappertsbusch conducts "Accelerationen", op 234
by Johann Strauss jr (1825-1899) Orchestra of the Staatsoper Berlin recorded 16.II.1928

http://www.youtube.com/watch?v=mapSU2QnJdg

Knappertsbusch Tales From The Vienna Woods part2
Berlin State Opera Orchistra HMV130 

http://www.youtube.com/user/sieg8888?blend=23&ob=5#p/u/0/Nak3JInkyTI

Ägyptischer Marsch, op 335 by Johann Strauss II
Orchestra of the Bavarian State Opera Hans Knappertsbusch, conductor München 1955

http://www.youtube.com/watch?v=9r_1SANXOKA

Carl Michael Ziehrer Weaner Mad'ln Walzer Hans Knappertsbusch

http://www.youtube.com/watch?v=Gbgs7-Ikh5U

Bad`ner Mad`ln, waltz by Karel Komzák
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch, conductor 1957

http://www.youtube.com/watch?v=2b6C42B6wfU

Peter Cornelius(1824-1874) Barbier von Bagdad-Overture

http://www.youtube.com/watch?v=Qj1v8LGMyXM


Hugo Wolf(1860-1903) Italian Srenade

http://www.youtube.com/watch?v=jZYHJ0Gryik


Marcia Trionfale from Aida by Giuseppe Verdi (1813-1901)
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch ca. 1942

http://www.youtube.com/watch?v=8GcQ9eBP_0s


Tod und Verklärung, "Death and Transfiguration",op.24 by Richard Strauss
Wiener Philharmoniker Hans Knappertsbusch 1962

http://www.youtube.com/watch?v=Xqlw-Yzv3cY


Hans Knappertsbusch - Strauss Salome - Dance Of The Seven Veils

http://www.youtube.com/watch?v=eJ4dK9qruN8

'Mir ist die Ehre...'/Der Rosenkavalier 1955 * VSO * Jurinac/Güden/Knappertsbusch

http://www.youtube.com/watch?v=QwDdNS02HBs

'Ich kenn' Ihn schon...'/Der Rosenkavalier 1955 * VSO * Jurinac/Güden/Knappertsbusch

http://www.youtube.com/watch?v=XY5WSmL2mZ0

Theodor Berger(1905-1992) Rondino Giocoso op 4

http://www.youtube.com/watch?v=ddxn5R1FR0Q


JAN PEERCE "GOTT! WELCH DUNKEL HIER!"

http://www.youtube.com/watch?v=6KDp_73qumU

            ,、-'''`'´ ̄ `フー- 、
          ,. ‐             ヽ
         ,.‐´               \
        /      ,l       \     ヽ
       /       l|, 、  、 |iヽ, ヽ \.   ヽ
       /     l  i ! | i  | |l'、ト ヽ iヽ ヽ  ',
       !     |  / | |. i  |.|| i.|ヽ |、 | ',   i  i
      !      ! / |,ャ、メ |i ト十i‐トi、! l  .i|  i
      ! i   ,.|!,.+‐'"| | | |i}  ' ュノェ|i,`i  l.| i
      l i l   l |/;:=ニ|i  l |   /rj:ヽ\ i  l i l
      | | |   ノ '/ iニ)ヽ,ヽ |!.   ' {::::::;、! 〉iー | | |
      | |i. |  !; 〈 !:::::::c!     'ー''(つ }i | i.| |
      | ! | |  ;: (つ`''"    、  //// /;:i | | !. |
       | i,  i. 、////      '     /,ノi,   i. |
       ! .|  | i 、,ゝ、     、─,    /   i |  |. i
       .! |  i |. | lヽ、      ̄   /  l  | i  | !
       ! |  i |i |l l| |`''‐ 、   , イ  |i | |i | i  |. !
       | |  i |i |i .| ノ    ` ''"  ヽ/l| l__,.、-|l l  ! i、
     ,. -'"゙ ゙̄'' ヽi |!l '           ,.--‐' |.i |i | |i ヽ
      /       ! l l ̄ `     、_        | /ノi i.!  |
     ,'          ! |              ,|/ |/i'   |
    i         ` l             .ノ  ノ ' ヽ、 |
    |        ノ     ,...      ヽ、;          ヽ-,
    .!         |::     :..゚..::       i:        ゙゙''i
     |       l::        ゙゙"       |:          |
   @゙!         |::              !::        ノ

私は FURTWÄNGLER が好き


03. 2011年8月11日 11:09:15: MiKEdq2F3Q

1951年フルトヴェングラー「バイロイトの第九」バイエルン放送版
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5712853
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5712948
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5712957
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5713008


1951年7月29日フルトヴェングラー「バイロイトの第九」EMI版
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5712706
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5712767
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5712811
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5712842

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1534352

【ステレオワイド化】フルトヴェングラー:バイロイト第9
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8146464
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8147627

1942年3月フルトヴェングラー「ベルリン(メロディア)の第九」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4556825
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4556916
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4556945
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4556971


1942年4月22日付のドイツ週間ニュース 
フルトヴェングラー指揮の第九演奏会〜ヒトラーとナチスの重鎮
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12702913


1942.4.19フルトヴェングラー「ヒトラーの第九」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4573890
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4574184
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4574431
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4574666

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1948569

フルトヴェングラー1954.8.22「ルツェルンの第九」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1688715


擬似ステレオ版フルトヴェングラー「ルツェルンの第九(第1楽章)」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7818175

【ステレオワイド化】フルトヴェングラー:ルツェルン《第9》〜4楽章
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11663756

フルトヴェングラーの第九 歓喜の歌聴き比べ (全11+1種)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1654492


04. 2011年8月11日 19:14:23: MiKEdq2F3Q


バッハ「G線上のアリア」フルトヴェングラー=BPO
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14553775


グルック 歌劇『アウリスのイフィゲニア』序曲 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1849120


【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&BPO:ハイドン《V字》
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10341273

モーツアルト交響曲第40番フルトヴェングラー=VPO
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8242869

カラー映像で見るフルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1950240


ベートーヴェン:交響曲第1番 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13811433
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13811571
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13811632
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13811669

ベートーヴェン 交響曲第2番 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13838318
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13838381
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13838438
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13838476


1944年12月フルトヴェングラー 「ウラニアのエロイカ」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4569798
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4569844
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4569874
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4569894


フルトヴェングラー・ウラニアのエロイカ  オーパス蔵復刻盤
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14208028

ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9621296
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9621422
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9621506
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9621543


【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&VPO:英雄(1952)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8487397
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8487810
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8487718
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8487965

ベートーヴェン「エロイカ」(1953年)フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13816835
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13825896
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13835406
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13819818


ベートーヴェン 交響曲第4番 フルトヴェングラー(1952)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4114922
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4114997
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4115191
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13811127


1943年フルトヴェングラー ベートーヴェン交響曲第5番「運命」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4566800
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4566887
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4566919


ベートーヴェン 運命(1947.5.27) 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1289113
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1289344

【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&BPO:ベートーヴェン《運命》
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9573074

擬似ステレオ版フルトヴェングラー/BPO「運命」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6141456
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6443104

フルトヴェングラー ベートーヴェン「運命」(1954) 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3938383
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3938588
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3938853


【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&VPO:《運命》1楽章1954年
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14056907

フルトヴェングラー 「運命」 パリ公演(1954)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3939293
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3939462
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3939617


ベートーヴェン「田園」 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13767148
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13767765
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13776242


フルトヴェングラー ベートーヴェン「第7」(1943)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5504621
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13854117
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13854226
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5524772


Beethoven 『Symphony No.7』(Furtwängler VPO in 1950)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10157225
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10157479


【擬似ステレオ】ベートーベン第7交響曲 フルトヴェングラー1950
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10204265
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10204549

ベートーヴェン:交響曲第8番 フルトヴェングラー(1954)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13838175
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13838230
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13838252
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13838274

ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲第2番 フルトヴェングラー(1954)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13854336

蓄音機 フルトヴェングラー コリオラン序曲 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12306886
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12306923


ベートーヴェン 大フーガ フルトヴェングラー(1954)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13786880

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番〜皇帝〜
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3221535


ベートーヴェン ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8469423


【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&VPO:《魔弾の射手》序曲
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9279658


【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&BPO:シューベルト《未完成》
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11192701


シューベルト「未完成」フルトヴェングラー(1950)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13925762
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13925852


シューベルト「ザ・グレート」フルトヴェングラー(1942年)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13852711
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13853151
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13853051
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13852848

【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&BPO:《グレイト》
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10178096
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10198543


シューベルト「ザ・グレート」 フルトヴェングラー(1943)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13857776
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13858461
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13859976
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13860092


フルトヴェングラー指揮:交響曲第8番「ザ・グレイト」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9754444
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9754505
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9754568
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9754638

シューベルト ロザムンデ序曲 フルトヴェングラー指揮 1930年録音
http://www.nicovideo.jp/watch/nm6316895

フルトヴェングラー/BPO: 交響曲第4番(シューマン)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7728155


【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&BPO:シューマン4番
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8147905


【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&VPO:《タンホイザー》序曲
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11846636


【ステレオワイド化】フルヴェン&VPO:《ローエングリン》第1幕前奏曲
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12829784


フルトヴェングラー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(1942年)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3412050
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9262926

ワーグナー『マイスタ-ジンガ-』第1幕前奏曲 フルトヴェングラー(1949)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1721725

【ステレオワイド化】フルヴェン&PO:《トリスタンとイゾルデ》より
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8616689


ワーグナー 「イゾルデの愛の死」 フルトヴェングラー, フラグスタート
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11053883


ワーグナー「神々の黄昏」より葬送行進曲 フルトヴェングラー=VPO
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6275189


ブルックナー 交響曲第5番 フルトヴェングラー(1942)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7571379
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13854547
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13854813
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10689494

ブルックナー 交響曲第7番 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1716584
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1997039
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1997248
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1997755

ブルックナー 交響曲第8番 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2092721
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2115977
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2113385
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2111149


フルトヴェングラー&VPO/フランク:交響曲ニ短調(1945)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11435862

ブラームス 交響曲全集@ 交響曲第1番〜第2番
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10451606

ブラームス 交響曲全集A 交響曲第3番〜第4番
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10451779


【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&VPO:大戦中最後の録音
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10023655


1945年1月フルトヴェングラー ブラームス交響曲第2番
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4571980
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4572127
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4572178
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4572239

ブラームス:交響曲第3番 フルトヴェングラー(1949)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13922098
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13922364
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13922491
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13922605


ブラームス交響曲第4番1943年ベルリン・フィル
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2403924


ブラームス「第4」 ヴィースバーデン盤 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13881017
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13890545
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13890702
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13890776


フルトヴェングラーのブラームス交響曲第4番1948年10月24日ライブ演奏
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1926026

【ステレオワイド化】フルトヴェングラー&BPO:ブラームス・第4交響曲
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10581276

ハイドンの主題による変奏曲 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3924704


ブラームス ピアノ協奏曲第2番 フィッシャー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13861292
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13890977
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13891133
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13891270

皇帝円舞曲 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1752445


スメタナ 交響詩「モルダウ」 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1277403


『ウィンザー朝の陽気な夫人たち』序曲 フルトヴェングラー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1848622

R.シュトラウス ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1921888

R.シュトラウス 『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6983905


《著作権切れレコード集》 WILHELM FURTWANGLER
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7503275


05. 中川隆 2012年12月18日 00:59:24 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

宇野功芳 樂に寄す _ メンゲルベルクのマタイ受難曲
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/2852.html

06. 中川隆 2012年12月24日 09:37:10 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


宇野功芳 樂に寄す

1. 宇野功芳先生は世紀の巨匠

宇野功芳 樂に寄す
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3-%E6%A8%82%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%99-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%8A%9F%E8%8A%B3/dp/4276211298
宇野功芳の本
http://www.amazon.co.jp/宇野-功芳/e/B004L0JV1E/ref=ntt_athr_dp_pel_1

宇野功芳の演奏
http://www.nicovideo.jp/search/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3


実は、戦後の音楽評論家ということで、吉田秀和VS宇野功芳というのも書きたかったのだけれど、梶原一騎を書いていたら長くなって力尽きてしまったのである。ま、このテーマはいずれそのうち。

 今年は風邪も多いに流行っているらしく、私も珍しく寝込んでしまった。積んである本でも読もうかと思ったら、宇野功芳の『楽に寄す』(音楽之友社)というのが目についたので、開いてみた。ひとつひとつはそれほど長くないエッセイを集めたものである。

 これが、心地よい本だった。幸福な老人の書いたものという感じがするのである。ゆったりと温泉に浸かり、好きなすしを食べ、いいと思う演奏家を堪能する。昔の宇野氏には、不幸と言うと大げさだが、不幸ぶっているポーズがあった。それが、愛読者を魅了していた。なんたる変貌か。

 この変貌を私はすばらしいと思う。若者が不幸ぶるのは、よい。むしろあまり幸せそうにしていると馬鹿に見える。が、老人は幸せそうにするべきである。

 それにしても、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュに入れあげていた氏が、現在では彼らに対して冷静になっているとあまりにも素直に書いているのには驚いた。それどころか、モーツァルトに対してすら。まさに人は変わるのである。時代も世界も変わる。
http://www.hmv.co.jp/news/article/1212060065/

【毒舌】宇野功芳【クラシック評論家】


『クラシックの名曲・名盤』などのベストセラーを書いた毒舌クラシック評論家宇野功芳(うの こうほう)について。

宇野功芳は日本人で唯一あの大指揮者ワルターと文通していた。

父は漫談家の牧野周一。
評論だけではなく自ら指揮も振る。
その指揮ぶりも一部マニアの間で大絶賛されている。

104 : 名無しの笛の踊り [] 2011/11/30(水) 20:43:52.26 ID
:raJRdtp+
なんていったって,吉田先生の本は読まなくても宇野先生の本は売れに売れまくっていますからね。
実質上,宇野先生は日本クラシックが生んだ最高のアイドルは中村紘子や小澤征爾以上に宇野先生ですね(笑)

14 :名無しの笛の踊り:2012/07/23(月) 01:14:15.25 ID:/TIjsA/3
宇野先生の執筆された本はよく立ち読みさせてもらってます。


15 :名無しの笛の踊り:2012/07/23(月) 05:38:40.92 ID:5vnm8QSO
演奏に順位つけたり幼稚極まりない。
それを有り難がるガキどもがいるんだから仕方がないか。

16 :名無しの笛の踊り:2012/07/23(月) 05:48:00.31 ID:PUVkavKK

年月が経てば、食べ物の好みも多少は変わっていきます。
演奏の良し悪しや、好み、感じ方が変わっても不思議じゃない。
逆に、一度悪い(良い)演奏と決め付けたからといって、
『生涯その考え方(感じ方)を貫き通すべきだ』と考える方が異常です。
物理法則と一緒くたにしてはダメです。


61 :名無しの笛の踊り:2012/08/22(水) 08:58:18.76 ID:pBjvgHoU
素人なのにオケを指揮真似するようになっちゃった時点でオワコン。


76 :名無しの笛の踊り:2012/09/27(木) 23:28:35.69 ID:Uje/Yp0R
なんだかんだ言っても結局みんな宇野が好きなのさ。


77 :名無しの笛の踊り:2012/09/28(金) 00:32:53.46 ID:VhEGmzGi
宇野タソは日本一の人気評論家だといえよう


554 : 名無しの笛の踊り [] 2012/03/26(月) 23:00:38.55 ID:rwpOtulp

宇野さんは、学生時代にワルターとの文通が話題になって、学長から

「一流の評論家として育てたいから楽理に変わらないか?」

と誘われて、

「自分は演奏家を本業としたいから」と言って断った人だからな。

やっぱり、その評論は主観的にならざるを得ないし、もっと学生時代に評論家と
して勉強してたら、また違ったかもしれん。

まぁあれこれ言ってもしょうがないよ、そういう人なんだもの。
でも、こういう人がいないとまた評論の世界も面白くないのも事実だとおもう。
よく言えば客観的な評論も、いいんだか悪いんだかよく分からん評価されても、
読者は参考にもならんし、面白くもないし。

555 : 名無しの笛の踊り [] 2012/03/26(月) 23:15:31.33 ID:2NFrnpsa
>>554

>いいんだか悪いんだかよく分からん評価されても、
>読者は参考にもならんし、面白くもないし。

まあそりゃ確かだ。
毒にも薬にもならんのじゃこの世に必要ない

557 : 名無しの笛の踊り [sage] 2012/03/27(火) 08:59:17.36 ID:wYo9/hQ+ >
「自分は演奏家を本業としたいから」

その結果があの音楽漫談かwwww
まあ所詮は演奏家崩れだからな。


563 : 名無しの笛の踊り [] 2012/04/02(月) 21:33:38.44 ID:P98dN1VE
宇野功芳は合唱指揮者としては一流なんだけどオーケストラの指揮者になると途端に四流になってしまう


564 : 名無しの笛の踊り [] 2012/04/02(月) 21:39:46.67 ID:yRPhsRno
ぼくもオケ指揮者としての宇野たんはダメだと思うなぁ・・・・

いや、ちょっとまて、よく考えて見ると
宇野たんの演奏聴くと、フルトヴェングラーの演奏がいかに洗練されていたか良く分かる。

ということが分かるという意味で、存在価値は一応あるかもよ?w爆笑

581 : 名無しの笛の踊り [] 2012/04/08(日) 21:24:17.87ID:a70ogqml
丸山真男が宇野功芳の著書を愛読してたって本当ですか?


583 : 名無しの笛の踊り [sage] 2012/04/09(月) 01:20:55.37ID:gpQ2BLeB
>>581
愛読してたっていうか、丸山さんも宇野さんも拙者もだけどLP期の日本フルトヴェングラー協会の会員諸氏はみんな顔見知りだと思うけどな。拙者は当時学生だったけど一流
企業の重役とかレコード会社の人とか色んな人がいました。

今みたいにネットとか無かった時代は、そういうサークルを通じて知り合った人達と一緒にコンサートに出かけて、終演後喫茶店でワイワイガヤガヤ話してたよ。


637 : 名無しの笛の踊り [sage] 2012/04/20(金) 22:56:10.73ID:gi23AIgR
ここにいる人達って本で読んでるだけだから妄想が噴出するんだと思う。
一緒にコンサートに行って喫茶店で即席座談会やると実直な人柄が見えて功芳氏が好きになるよ♪

おいらも昔は、東京文化会館の最前列でよく並んで聴いたもんだ。あの頃は渡辺学而氏や大木正興氏もよく見かけた>最前列


641
: 名無しの笛の踊り [sage] 2012/04/22(日) 13:55:58.48ID:6VuIaPoj

有名な外来オケやソリストでもない限り、ホールを聴衆で一杯にするなんて不可能です。 それこそ音大の学生は、先輩のジョイントコンサートのチケットを1人30枚とか強制的に買わされて、それを、絶対ホールに足を運んでくれる人に配らないといけない、という過酷な日常があるんです。

だから、(言い方は悪いですが)、評論家でも何でも、利用できる人はできるだけ利用してホールを満席にする→あわよくばCDの売り上げにも貢献して貰えたら、どんなお世辞でも言っちゃいますよ、くらい厚顔な人で無いと、クラシックなんてマイナー音楽の世界で生き残るのは難しいんです。まあ、音大出た女子だとお金持ちの伴侶を得て、そのスポンサー兼配偶者の懐に頼って年に1回のコンサートを開ければ良いかなってレベルの人が大半。

642 : 名無しの笛の踊り [] 2012/04/22(日) 14:19:46.90ID:wl6A03VC
ホテルのラウンジとかでピアノを弾いたりしているのを見ると憐れに思う。

643 : 名無しの笛の踊り [sage] 2012/04/22(日) 15:01:23.51ID:6VuIaPoj
>>642
音大出るまでに何千万円も掛けた結果がそれじゃ辛いっすよね
地方に住んでる音大志望の高校生だと、東京の大先生のところへ毎週末飛行機で習いに行ってホテルに1泊。女子だと母親同伴でしょ。その経費が月謝も含めて月40万円、年間480万円也。
並のサラリーマンの子供ではとても無理。日本のクラシック音楽教育界の悪しき伝統だね。

644 : 名無しの笛の踊り [sage] 2012/04/22(日) 15:04:01.84 ID:6VuIaPoj
功芳氏ほか評論家諸氏と一緒にコンサートに行ったり飯食ったりすると、そういう面白い裏話が聞けるのだよ。

228 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/29(木) 19:05:03.16 ID:MXGAawU9
宇野功芳っていつ頃からおかしくなったんですか?
「生まれた時から」とかはなしで、真面目に答えてください。


230 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/29(木) 20:28:12.12 ID:24v/RpgH
>>228
合唱でなくオケを指揮したり、「輸入盤とか聞いてない」とか平気で言うようになってから。 昔の著書を見ると、フルヴェンやワルターの教会盤とか今ほどの情報化時代じゃない時期に国内盤が出てない輸入盤も取り上げていたりしてた。

時期的には福永陽一郎が死んだ辺りか?

231 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/29(木) 21:20:59.99ID:MXGAawU9
>>230
そうですか、その頃からおかしくなったんですね。
宇野功芳はどうして今は輸入盤を聴かなくなったのですか?


232 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/29(木) 22:07:41.53ID:24v/RpgH
>>231
目新しい事しなくても食っていけるだけの連載とか持てるようになったからかなぁ?
宇野スレで書かれている事が本当なら、今や見本盤CDと招待券コンサートしか行ってないようだし。

日本ビクターがオスタンキノから引っ張ってきた音源の、90年ごろに発売された
ムラヴィンスキーのライヴCDシリーズも解説した盤しか聴いてない。
このCD発売後、自分の解説したベートーヴェンとかは著書でも触れているが、
この時発売だったショスタコの10番のステレオ盤にはかなり長い間触れておらず、
ずっと「モノラルだが」と言ってメロディアのバージョンばっかり挙げていた。

数年前にようやくステレオバージョンが出てたのに気づいたらしいが。

233 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/29(木) 22:13:39.82 ID:24v/RpgH
あと気になっている事だが、ワルター&ウィーンのモーツァルトの40番が
ALTUSの56年盤とソニーの52年盤が同じ演奏ということにも気付いてないのもなんとかしろ。
(ヘッドフォンで咳などのノイズを確認すると同一録音であることが分かる。
ALTUSに問い合わせたら「確かに同一録音。データはウチが正しい。」
ソニーにも問い合わせたが、これは無視された。)

ターラの52年盤は全く違うので、これは本当に52年盤だろう。
従って、演奏年が全くターラ盤とソニー盤を1日違いとして捉えて書いている文章が
もうアホの念仏なみに恥ずかしくて、読んでるこちらが赤面する。

ここ読んでる音友社員かH林さん、是非教えてやってくれ。

234 : 名無しの笛の踊り [sage] 2011/12/29(木) 22:48:06.63 ID:wxmf1QLX


宇野功芳の音盤棚『これがUNO!』 Vol.4【ワルター謎の40番】
UNAUの無能日記掲載! 【嵐の中のブルーノ・ワルター】

考えれば考えるほど分らなくなる! 
この1952年5月17日のウィーン・ライヴ。『これがUNO!』vol.1でリリースされた『大地の歌』と同じ日の録音なのだ。『40番』と『大地の歌』を組合せた夢のプログラム。ワルターはこの組合せを愛し、しばしば演奏しているが、52年のウィーン音楽祭でもムジークフェラインザールの聴衆を魅了したのである。コンサートは17日と18日の2回行なわれ、初日の方の2曲がCD化されたことになる。でも、おかしい。すでにソニーから18日の『40番』ライヴが出ているが、本盤の17日ライヴとはずいぶん指揮自体が違うからだ。(宇野功芳〜ライナーノーツより)


※ワルター・ファンのあいだでは、SONY盤(1952年5月18日表記)と、ALTUS盤(1956年6月24日表記)の40番の演奏はまったく同一で、しかも音源所有者であるオーストリア放送協会の提供したデータが1956年6月24日ということから、正しい録音年月日は1956年6月24日であると広く認識されていることを付記しておきます。つまりTAHRA盤(1952年5月17日表記)とは収録された時期が4年違うことになります。(HMVジャパン)

・モーツァルト:交響曲第40番
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ブルーノ・ワルター(指揮)
 録音:1952年5月17日(ライヴ、モノラル)TAH508
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%EF%BC%881756-1791%EF%BC%89_000000000018888/item_%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC%EF%BC%94%EF%BC%90%E7%95%AA%E3%80%81%E4%BB%96%E3%80%80%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%EF%BC%86%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%95%EF%BC%92%E5%B9%B4%EF%BC%95%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%97%E6%97%A5%EF%BC%89%E3%80%81%E4%BB%96_2597251


235 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/29(木) 23:07:17.10 ID:24v/RpgH
>>234

それそれ!
※以下のHMVのコメントが、宇野珍の文章に絶妙のオチを付けてて笑えるな
さすが、音楽評論をエンターテイメントにした男だぜ

236 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/30(金) 02:08:32.13ID:xBZeKV2u
宇野功芳はどうして1990年頃からおかしくなったんですか?

237 : 名無しの笛の踊り [sage] 2011/12/30(金) 02:12:15.81ID:+dAmC+vq
本が売れたから


243 : 名無しの笛の踊り [sage] 2011/12/30(金) 14:19:28.39 ID:OCSgpRMn
>>236
宮沢明子や根本昌明を切ってA岡と仲違いしたあたりから
ディープな宇野ファンならその手の演奏家に宇野がいかに入れ込んでいたかよく知ってるだろ

785 : 名無しの笛の踊り [] 2012/06/04(月) 05:25:27.59 ID:oQqraUUj
>>776
宮沢明子なんて、ラモーからショパンまであれだけ褒めちぎったんだから今でもベスト3くらいに入る演奏もあるはずなのに、全く触れないなw。
痴話喧嘩の果てか・・・

249 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/31(土) 00:25:43.02
宇野功芳って1990年以前はまともだったんですか?

250 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/31(土) 00:32:08.49 ID:LZBy/XwO
「たてしな日記」の頃は確かにマトモでした。


251 : 名無しの笛の踊り [sage] 2011/12/31(土) 00:36:50.91 ID:8t1+JjJN
>>249
典型的教養主義的クラヲタといえよう

252 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/31(土) 01:36:37.65ID:/0HTVHZ5
>>251
どういう意味だよ?


253 : 名無しの笛の踊り [sage] 2011/12/31(土) 01:54:49.24 ID:8t1+JjJN
どういう意味もこういう意味もない
たてしな日記を読んでみな。
戦前のクラヲタは宇野みたいな奴ばっかだったらしい。
白樺派とか

254 : 名無しの笛の踊り [sage] 2011/12/31(土) 01:56:28.20 ID:8t1+JjJN
尾崎喜八の章があるし付き合いもあったらしい

255 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/31(土) 07:10:21.40 ID:/NUwozuy
弟(通芳・故人)が詩人だしな

99 :名無しの笛の踊り:2012/10/15(月) 07:20:49.96 ID:85wnRAhP
宇野氏は生活観の無い文章を書く人だからなんとなく独身だと思い込んでいたら(何十年も前のこと)ものすごく若い奥さんが 居るそうだ。
ということを当時、氏のピアニストだった若い女性から聞いたんだが(この人も美人)
なんだ結局、女好きなのかい

102 :名無しの笛の踊り:2012/10/15(月) 22:54:05.97 ID:A/VQk/WG
>>99
>ものすごく若い奥さんが 居るそうだ。

元教え子の筈だからだいぶ年が離れてるだろうが
今は60歳くらいのオバさんだろ


103 :名無しの笛の踊り:2012/10/16(火) 05:07:39.38 ID:xHy8eiFY
KTC合唱団か?


104 :名無しの笛の踊り:2012/10/16(火) 10:51:33.60 ID:8h1KR/yQ
>>102
ってことは宇野珍が42歳の時嫁は二十歳か。
気持ちわりい。


241 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/30(金) 09:27:58.64 ID:rer4raRp

末期のフォンテックの宇野評が、時に録音を理由に無印だったりとかなり微妙だった。
確か反発したフォンテックが、レコ芸の広告ページに「一部の評論家が当社のCDの録音について云々」というのが載ったんじゃなかったっけ?

おそらく、接待か謝金かをフォンテックがケチったのでは?

ちなみに最もクソミソだった都響のブル5は、小石は推薦。
自分自身の感想は、ほぼ小石のと同じだったので、宇野の装置がクソか、耳が腐ったのかどっちかだと思った。

245 : 名無しの笛の踊り [sage] 2011/12/30(金) 22:13:12.94 ID:VPrPjrhz
宇野氏のオーディオ環境は?


247 : 名無しの笛の踊り [] 2011/12/30(金) 22:43:47.90 ID:QakaLny0
マランツ7かマランツ8の真空管アンプ
SACDプレイヤーはなし


248 : 名無しの笛の踊り [sage] 2011/12/30(金) 23:22:16.88 ID:dH+0O0Xu
スピーカーもワーフェデールの骨董品ユニットでしょ。
メンテナンスしていなければ、最新録音はまともに鳴らないだろう。

298 : 名無しの笛の踊り [] 2012/01/08(日) 07:21:41.21 ID:0Q8kitcq

使用機器のうち、新製品はプレーヤーだけで、アンプとスピーカーはいずれもモノーラル時代あるいはステレオ初期の名品である。 今のものに比べると、周波数レンジは狭いし分解能も悪いが、中音域の美しさ、豊かさ、気品は最高で、使用年数は実に五十年を超える。 もちろん、一生使い続けるつもりだ。

CDプレーヤー・ラックスマン=D500X、S

ターンテーブル・トーレンス=TD126MK111

トーンアーム・SME3012

カートリッジ・シュアー=ウルトラ500, M44-7(モノラル用)

プリアンプ・米マランツ♯7

パワーアンプ・英クォードU型モノーラル用2台

スピーカー・英ワーフェデールのスーパー3(トゥイーター)と15(ウーファー)英グッドマンのAXIOM80(スコーカー)をテレビ音響製9立方フィートマルチホール型エンクロージュアルに収納


304 : 名無しの笛の踊り [sage] 2012/01/08(日) 22:42:05.75 ID:6jEWXA0+
>>301
こりゃひどい
機器の一つ一つの性能以前に、古くて重篤なメンテが必要なものが多い
それをしてるとは到底思えない
これじゃ音質評価はおろか、音楽だってどう聞こえてるか怪しいもんだ

305 : 名無しの笛の踊り [] 2012/01/09(月) 04:26:24.64ID:PcHZ75jG
>>301
最新録音をこのような骨董的な再生装置で聞いて批評を書いているのだからヒドイ。


909 : 名無しの笛の踊り [] 2012/07/07(土) 20:46:19.71 ID:9PDwo8jB
そんなレコード用のオーディオでCDの音が引き出せているのかね?


306 : 名無しの笛の踊り [sage] 2012/01/09(月) 04:32:04.62 ID:tbuQ4Y7F
それ以前に81歳じゃ相当耳が遠いと思われ

308 : 名無しの笛の踊り [] 2012/01/09(月) 10:07:26.07 ID:CN4i4nwB
>>305
読者が同じレベルだから問題ないと思われ


329 : 名無しの笛の踊り [] 2012/01/13(金) 13:00:18.29ID:l0cnGtx/
ショルティ指揮シカゴ交響楽団ってどうして宇野功芳に嫌われてるんですか?


: 名無しの笛の踊り [sage] 2012/01/16(月) 12:25:08.00 ID:LJiMzt8l
>>329
多分、再生装置のせいではないかな?
あんな古いおそらくメンテナンスも碌にしてないような機器ではショルティやカラヤン等の最適な再生は無理だろう。
http://archive.2ch-ranking.net/classical/1320727400.html
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/classical/1342928242/

昔、オーディオ評論家の第一人者だった青木周三さんが当時これ以上はあり得ない最高の装置として音楽評論家 宇野功芳さんに推薦し、宇野さんがそれ以来50年間ずっと使い続けている装置


プリアンプ : 米マランツ♯7

パワーアンプ : 英クォードU型モノーラル用2台


スピーカー

トゥイーター : 英ワーフェデールスーパー3
ウーファー : 英ワーフェデールスーパー15
スコーカー : 英グッドマンのAXIOM80

エンクロージャー : テレビ音響製9立方フィートマルチホール型


ターンテーブル:トーレンス=TD126MK111
トーンアーム:SME3012
カートリッジ:シュアー=ウルトラ500

青木周三

分割の良すぎる音より、演奏会場の一番いい席で聴こえる音、実演に近い音の方が良い

マランツとマッキントッシュの真空管式パワーアンプは音が硬くて音楽を聴くのには向かない。メインアンプは QUADII以外には考えられない

AXIOM80 はJBL の30cmウーハーと組み合わせて、大型のエンクロージャーに入れると真価を発揮する。

宇野功芳

最新の機器は情報量が多すぎる

上記のアンプとスピーカーは いずれもモノーラル時代あるいはステレオ初期の名品である。 今のものに比べると、周波数レンジは狭いし分解能も悪いが、中音域の美しさ、豊かさ、気品は最高で、使用年数は実に五十年を超える。 もちろん、一生使い続けるつもりだ。


他のプリアンプと聴き比べたが、マランツ♯7の音は冷たい位の気品が他のプリアンプとはまるで違う。 清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったが、それが正解だった

QUAD II の音質の暖かさと柔らかさは無類である

QUAD II をQUAD のトランジスター・アンプに変えると、最初は楽器の細部のニュアンスが良く聞き取れて愉しめたが、すぐにうるさくなってしまう。 QUAD IIの暗く沈んだ音は何時間聴いても飽きない、疲れない。


上の装置の音質を10 とするとタンノイでは最高級アンプを使ったがせいぜい 3 か 4 程度の音しか出なかった。山中敬三さんもこれには驚いておられた。


ESL63は音質自体は良いのだがエネルギー不足で失格


___________


要するに、オーディオ評論家の宇野功芳さんは仕事上、自宅のマンションの6畳のリスニングルームで毎日6時間、7時間 大音量で音楽を聴かなければならないので、以下の条件を満たす機器しか使えないという事でしょう:


クラシックしか聴かない
リスニングルームは6畳
疲れる音は ×
音楽の陰影が巧く表現できないと ×
低音が出て、スケールが大きな音で、音場感も良くないと ×
楽器の音色が正確に再現できないと ×
故障が多いものは ×


即ち、

音が硬いトランジスター・アンプ や マランツ・マッキントッシュの真空管式パワーアンプは ×

故障が多いマランツの真空管式パワーアンプは ×

低音が出ない小型スピーカーや QUAD の静電型スピーカーは ×

クラシック音楽の陰影が表現できないJBLやアルテックやマッキントッシュのスピーカーは ×


従って、QUAD II型アンプ と ワーフェデールかグッドマンの 3 way スピーカー以外は最初から対象外になってしまうのですね。


_______________


宇野功芳&アンサンブルSAKURA
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%ABSAKURA

今なぜ宇野功芳か? 2005年1月22日

あえて宇野氏を特集すると聞いただけで、私がいわゆる「宇野崇拝者」だと思う方もいらっしゃると思いますが、まず最初に決してそうではないことをお断りしておきます(笑)。ただ、宇野氏ほど一途に音楽に感動を追い求め続け、理論ではなく自身の感性一つで音楽のあり方を説き続けて来た人を私は他に知りません。その心意気を尊敬し、そういった感性を自分も持ち続けたいと常々思っています。

言うまでもなく、音楽で感動するということは理屈ではありません。「なんだか凄いぞ!」とういう衝撃が最初にあるはずです。しかし、まず目に見える形で学究的に実証されたものしか信じない人がいるのも事実で、そういう人たちにとっては、そんな音楽のあり方に異議を唱え続けてきた宇野氏の存在ほど煩わしいものはないでしょう。またそれとは全く逆に、全面的に宇野氏を崇拝している人もいます。

この両極のそれぞれの際立ち方は、ちょっと異常です。なぜそのような現象が続いているのか、ここで検証などはしませんが、どのような立ち位置にいる人であろうと、宇野功芳という人の存在意義、SAKURAというアマチュア・オケと共に築き上げようとしているものに対し、一切の先入観を捨てて、じっくりと向き合ってみる価値は大いにあると思うのです。

宇野氏の評論や演奏スタイルを大袈裟だと言って笑うことは簡単です。「普通」でないことは確かですから…。ただ、なんと言われようと(当然宇野氏の耳には入っています)、感動的な演奏を届けたい、作りたいと願い、それに確固とした使命感を持っている人をどうして笑えるでしょうか?
「感動」や「個性」といった言葉を有名無実化させたくないという熱い思いは、アンサンブルSAKURAの指揮活動で具現化されています。是非、演奏会へ足を運んで、他では味わえない感動を体感していただきたいと思います。


__________


さすが牧野周一の息子、笑いを取るのが天才的に上手いね:


参考CD1  「宇野功芳・オーケストラ・リサイタル」完結編!
キングKICC-237 ベートーヴェン:交響曲第7番、「コリオラン」序曲、ハイドン:セレナーデ
/宇野功芳(指)新星日本交響楽団(1997年7月7日ライヴ)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3

--------------------------------------------------------------------------------


10年目を迎えた「リサイタル」もこれで完結。今までは、形として残る録音ということを考慮して、過剰表現を多少抑えてきたそうですが、ここへ来て遂に全ての雑念を捨てて大暴れしてくれました。オケもそんな宇野氏の意気込みに打たれたのか、いつも以上の熱い演奏を繰り広げています。

「第7」は、冒頭のトゥッティから確信に満ちた重厚な響きで空気を一変させ、ティンパニの深い打ち込みを伴って、低音重視の熱いハーモニーをじりじりと過熱させて、この先の壮絶なドラマをしっかりと予告します。

主部に入ると、ホルンとティンパニの雄叫びによる異様なスケール感で音楽が噴出。リズムは決して軽く弾まず、苦境に耐えるように必死になって鼓動し続けるのです。

展開部に入ると、その喘ぎが爆発!何とかつて日大オケとの公演で用いていた「近衛版」を突如引用(10:06〜)し、金管大増強のとてつもないパワーで音楽を限りなく聳えた立たせているのです。

第2楽章は、スコアのアレグレット表示を重視した演奏が多い昨今ですが、ここでは、前楽章の苦難を受け継ぐように敬虔な葬送曲として解釈。全ての音を涙で覆い尽くします。

第3楽章に入ると、遂にリズムが全身で躍動開始。「巡礼歌」とされるBの冒頭の穏やかな歌との絶妙な対比を見せますが、それが次第に高揚した末の頂点では、ティンパニとトランペットを前面に突出させ、興奮を極限まで煽るのです。
そして狂乱の終楽章へ突入!

冒頭はフルヴェンばりに物々しく開始するので、そのまま重厚モードで進行すると思いきや、段階的にテンポを速め、最後はこれ以上不可能なほどの豪速で圧倒!
もはや言葉を失うのみです。演奏時間6分53秒!

スコアを音に置き換えるだけでなく、「感じたもの」を感動的な音楽に変換できる指揮者が今どれだけいるでしょうか?そう考えると、宇野氏の果たした功績は計り知れません。普通の演奏と違うというだけで馬鹿にすることなど到底できません。【1997年 CD初発売時のレヴュー】

参考CD2  宇野ファンの期待を遥かに上回るエキサイティングな『運命』!
FPCD-2724 ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」、「コリオラン」序曲
/宇野功芳(指)アンサンブルSAKURA(1998年1月18日ライヴ)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%ABSAKURA
--------------------------------------------------------------------------------


この「第5」は、過激という一言では収まりません!おそらく熱狂的な宇野ファンであっても、ここまでやると思っていた人はいなかったでしょう。

「自分の心から感じるテンポ、ダイナミズムを信じなければ人を感動させることなどできない」

という信念のもと、単に良識の枠に嵌った演奏に対決姿勢を示してきた宇野氏ですが、ここではその熱いウォ極限までエスカレートさせ、徹底して聴き手の全身を揺さぶる空前絶後の演奏と展開しているのです。

最大の驚きは、終楽章のコーダ!

火だるまのようなアッチェレランドを敢行し、それだけでは足りず、膳声部を掻き消すほどのティンパニの最強打を何と全拍にわたって行なうという異常な興奮の煽り!

最らに終結では、突然ギアチェンジして、まさに宇野流の大失速となり、繰り返される結尾和音の間隔を長くとって、極限の緊張を醸し出すのです。それらを完全に受け止めるべく、最後の最後では、ほとんどの指揮者が無視してしまうティンパニの一撃アクセントをスコアどおりに実行していますが、唐突と思われがちなこのベートーヴェンの指示に、その意味を実感できる初めての演奏といってもよいのではないでしょうか?

その圧倒的な興奮が冷めやらぬうちに「ブラボー!」の絶叫が巻き起こりますが、当日会場に居合わせた聴衆のほとんど(私も含め)は、拍手をしつつも、半分放心状態…。

宇野氏が語っていたように、この熱狂的な雰囲気が100%マイクに入りきるはずはないのですが、CD化は大成功で、実際に会場で聴いた方も、ギャップを感じるどころか、逆に衝撃を新たにするに違いありません。
【1998年 CD初発売時のレヴュー】

参考CD3  演奏の過激さも音質もこれが頂点!

SAKURA
URFC-0006
(2CD) ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」、第8番、「コリオラン」序曲、シューベルト:「ロザムンデ」間奏曲第3番
ベートーヴェン:交響曲第3番のリハーサル
/宇野功芳(指)アンサンブルSAKURA(2000年7月9日、いずみホール)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3

--------------------------------------------------------------------------------

宇野氏にとってこの「英雄」は3度目の録音。

最初の新星日響盤('89)は、最初に発売された当初には十分刺激的ではありましたが、この後の再録音と聴き比べれば明らかなように、サントリーホールにムーディに流れてしまう音の捉え方が芯のある宇野節をほとんど捉えておらず、ティンパニも全く冴えず、それ以前に、オケの側が「普通でない」解釈を許容しきれず、必死に音を出さないことがプロの美徳と言わんばかりに事務的な演奏に終止しているのが残念で、趣向を凝らしたデフォルメが、単に奇異なデフォルメにしか聴こえない部分もありました。

例えば第1楽章コーダで急激に音量もテンポも落として度肝を抜きますが、驚き以上の音楽的な訴えが湧き上がって来ません。2度目のアンサンブルSAKURAとの録音('96)はそのときの反省も踏まえてか、その部分で極端なピアニッシモにすることは避け、テンポのみ落とし、ティンパニも部分的に突出させて独特の威厳を表出しています。

その他の部分も、前回の解釈を更に進化させた表現が登場し、強調すべきテンポ、強弱の差、ティンパニの突出などは、完全に純粋な感興が充満した音楽として迫り、ここで宇野氏の「英雄」像の一つの結論を出すに至ります。

しかし、この時点で更に物凄い「英雄」が登場するなど誰が想像したでしょうか?
3度目の2000年の大阪公演は、地元のファンの熱い要望に応えて実現したもので、並々ならぬ意気込みで演奏に臨んだ事は想像に難くないですが、「これはいくら何でもやり過ぎ」と、脱退してしまった団員が出たと噂されるほど、狂気の沙汰の爆裂を貫徹しているのです!

第1楽章最初の2つの和音からして毛穴全開で血の大噴射!

今までのどの録音よりもティンパニが熱い芯を湛えて打ち込まれますが、この和音にこそ、解釈の全てが凝縮されているのです。アンサンブルの精度も前回から格段に向上。楽想の変わり目でのテンポの変化もぎこちなさを脱却。展開部で第2Vnを抉り出すこだわりも他のどの録音よりも真に迫り、木管旋律を補強するホルンに象徴されるように、各声部の隈取りも骨太で強靭。展開部の中盤でどんどんテンポを落とし、造型を極限まで肥大させる手法も、神の怒りの警告以外の何物でもありません。

提示部で6回打ち込まれる和音はテンポを落として一つ一つを徹底的に強調していましたが、再現部ではあえてインテンポのまま。これは前回の録音でも同様でしたが、今回凄いのはティンパニ。硬いマレットを用いて全楽器を掻き消すほどの異常な強打で全体を完全征服しているのです!

この凄まじい風圧に聴衆はどのように耐えたのでしょうか。確信を持って堂々と鳴り渡るトランペット主題直前のティンパニも、皮が破ける寸前。コーダの手ごたえも、前回までの録音を大きく引き離しています。

第2楽章も前回に比べ一層音楽が濃くなり、切り込みも深なっており、トリオに入るとティンパニが全体を掻き消して咆哮。フーガ主題に入ると更に激烈を極めて延々と全楽器が絶叫を続けます。もちろんこの間のティンパニは全ての箇所で丸裸の強打を敢行し、木管の抉り出しもかつてない強烈な張り出しで、憎悪の炎を燃え滾らせます。延々と悶絶元気列を極めて音の線も太くなっています。

第3楽章も極めて低速ですが、音楽だ一切だれず、リズムがキリッと立ち上がっているのが宇野節ならでは。トリオで精一杯深遠な響きを出すホルンも敢闘賞もの。
コーダ最後の3つのティンパニは、またしても異常な強打。そのいきり立ちのまま突入する終楽章冒頭の勢いがまた壮絶!

テンポの設定もティンパニのバランスも前回の録音と変わりないのですが、鮮明な録音の効果もあって音が露骨に脳天目掛けて突き刺さり、そのたびに聴き手の心臓飛び出しかねない衝撃に襲われます。

オーボエ・ソロが登場する直前の激高も常軌を逸しており、前回もティンパニは盛大に鳴り渡っていましたが、今回は更に異常さを増し、巨大な鉄板を強打しているとしか思えず、今回初登場するアッチェレランドの効果も加味して、会場全体が金縛りにあっているような空気がありありと伝わります。

コーダは基本的に前回までと同様ですが、最後のティンパニのトレモロを他の楽器の音符と共に全てを激打する手法に変更し、宇野ファンでさえ閉口しかねない暴れぶり!

全編異常なテンションで貫かれた演奏の最後を締めくくるには、もはや殺人鬼と化すしかないでしょう。


「コリオラン」も過去に録音していますが、この演奏で遂に過去において未徹底だった部分が全て解消ています。

冒頭、思い切り弦の音価を引っ張った後のティンパニは、弦と縦の線を微妙にずらして後で強打する「軋み効果」は、宇野氏ならではですが、その強打がこれまた異常。テンポと強弱の入れ替えのコントラストが以前よりも強くなり、同時にホルンの強奏も、今までここまで徹底し切れていませんでした。

宇野解釈の真骨頂とも言える8:10からのホルンの強靭な突出とティンパニの強打が織りなす宇宙的大スケールも、これ以上のものは望みようがありません!


____________


アンサンブルSAKURA演奏会直前・宇野功芳氏へのインタビュー!(2004.12.26)


2004年12月26日、アンサンブルSAKURAのリハーサルの前にお時間を頂き、宇野氏、団長の増田氏にお話を伺いました。

私が日頃感じていることを端的な言葉でズバズバ語っていただいたので、私はほとんど相槌を打っているだけでしたが、決して今のクラシックの現状を憂いているだけでなく、

「だったら自分がやるしかない!」

という宇野氏の力強い意思を目の当たりにして、逆にたくさん元気を与えていただいた…そんな1時間でした。

--------------------------------------------------------------------------------


--アンサンブルSAKURAの演奏会も今度で18回目だそうですが、その全てを宇野先生が指揮されているわけじゃないんですね?

宇野(以下、U)-そうです。高石治さんとかの指揮も含めてですから、そんなになりますかね。

--あらためて、先生がSAKURAを指揮するようになったきっかけを教えていただけますか?

U-それは団長の増田さん(以下、M)から話してもらいましょう。

M-SAKURAは、そもそも日大のOB・OGの有志のアンサンブルとしてスタートしたんです。宇野先生とは日大管弦楽団でもお世話になっていたこともあり、お互いに力を合わせてでいい音楽を作っていきましょうということになって、先生にSAKURAでも指揮していただくことになったんです。

  よくSAKURAを宇野先生のオーケストラと思っている方がいらっしゃいますが、そうじゃないんですね。 だから、いわゆる熱狂的な「宇野ファン」というのは団員にはほとんどいないんです。

--あ、そうでしたか。私も宇野先生の考え方に心酔している人たちの集まりかと思っていました。

M-ええ、だから先生にベタベタする人はいませんよ(笑)。でも、人間的な信頼というか、絆は強力です。

U-それだからここまでやってこれたんじゃないですかね。僕も団員もその方が純粋に音楽に打ち込めるし。

--なるほど。そういうスタンスでやってこれた方が、現在も団員としてが頑張ってるんですね。
M-団員募集も常時行なっていて、今までに相当数の方が入団してきましたが、音楽作りの上での最低限のコミュニケーションも嫌う人が多いようで、なかなか一緒に何かを作り上げようという人が少なくて…。

--じゃあ、ほとんど当初の創立メンバーで活躍されているということですね。これだけ長い間活動されていると、いろいろ変化もあったと思いますが。

U-とにかく巧くなりましたね。今は巧いだけという人はいくらでもいます。遠山一行さんがよくおっしゃってますが、音楽をやるには音楽性と能力が不可欠だと思うんですが、とにかく今は能力優先なんですよ。そりゃ、最低限の技術はなきゃだめだけど、その技術を超えるものが出てこなきゃ、感動できるわけがないですよ。SAKURAの演奏を聴いて、音楽の感動とはこういうものかと気付いてくれる人が、1%でもいいから増えたとしたらこんな嬉しいことはないですね。

--感動的な音楽をやる人がいなくなったと言われて久しいですが、もう個性的であるとか、感動的であるとかに意味を見出さなくなってしまった気がしてならないんです。音楽の世界に限らず、感性が欠如していると言うか…。

U-そう、街中そんな人ばっかりが歩いてますよ。

--あと、最近は若手の指揮者でも、新鮮な音楽をやる人がいるにはいますが、また聴きたくなる演奏をやってくれる人が少ない気がしませんか?

U-それは、そのスタイルを今まで誰もやってなかったから新鮮に聴こえるんでしょうね。逆に他の指揮者がだらしなさ過ぎる。そういう意味じゃ、例えばノリントンなんかは僕は買ってますよ。

  とにかくオーケストラと穏便に事を済まそうとする人が多いんじゃないですかね。この前もあるオケの事務局の人が、今度指揮してもらうことになっている若手指揮者と話したとき、その指揮者から最初に聞かれたのが
「ここの団員さんは、練習が早く終わると喜びますか?」
と言うんですって。

--本当ですか?!

U-事務局の人もがっかりしてましたけど、当然ですよね。

--なんだか悲しくなってきますね。

U-音楽を真剣に作る以上、民主的には絶対できませんよ。それを履き違えてるんだなぁ。

--そういえば、これも日本の若手指揮者ですが、その人のリハーサル風景がTVで放送されたのを見て唖然としました。オーボエ奏者にこう言うんです。

「そこの所をもう少しこうなりませんかね?
  いや切実なお願いというわけでもないんですが…」(一同のけぞる)。

どちらでもいいとはどいうことでしょう?
だからこそ、先生にはまだまだ頑張っていただかないと…。

U-そうですね。僕ももう74歳の爺さんですけど、体の続く限りやりますよ。感動的な音楽は作り続けたいですからね。とにかく感動が最優先です。あと、SAKURAでも練習時間はいくらあっても足りない。全てを完璧には仕上げられません。だから、諦めも肝心だと思っています。

  5つやりたいことがあって、全てができないとしたら、感動に結びつくことをまずやる、残りは思い切って切り捨てる。また別の機会にやろうと思えばできますしね。

--ところで、今回の演目は、遂にドイツものを離れて「新世界」ですね。これはびっくりです。 失礼ながら、先生はSAKURAを振り始めた頃、

「僕が“新世界”や“悲愴”を振ることは絶対にない」

とおっしゃってました。それがまたどうして…。

U-そう言いましたか(笑)。ブラームスの1番をやった後、さて次はどうするかという話になって、いろいろ案は出たんです。僕は、ベルリオーズの「幻想」がまず浮かんだんです。今のSAKURAにも合っていると思うし。でも、楽器の調達やらいろいろ大変なので、そうなるとドイツ物以外だと、今は「新世界」かなって思って決めました。でも、“悲愴”はそれこそ絶対にありえないな。

  と言うかチャイコフスキー自体ちょっと…。「5番」の終楽章のコーダとかなんだかもう…。

--(一瞬、固まってから気を取り直して)同じドヴォルザークでも「8番」とか「7番」もないですか?

U-(きっぱりと)ないね。ブラームスの「2番」、「4番」もない。

M-ベートーヴェンも「4番」と「6番」は、まだやってませんよ。「英雄」とか「第9」も、もう一度やってもいいんじゃないですか?

U-そうね。今感じるベートーヴェンをやるのはいいですね。「2番」もまだやり足りないし…。

  「英雄」は、どうもやりすぎちゃうんですよ。もう一回挑戦してもいいかな。

--では、その「新世界」ですが、この曲に対する印象は?

U-薄い!とにかく音楽がベートーヴェンや、ましてやモーツァルトに比べると、もうなんて言うか…。

  でも1楽章なんかきっちりとしたソナタ形式で立派ですし、2楽章も美しい。だけど終楽章は、出だしは素敵だけど、後は今までの回想ばっかりで、それらを有機的につなげるのが大変ですよ。

  後半以降は緊張感が希薄だし、最後のホワ〜ンとした終わり方は、どう考えてもおかしい。

  ドヴォルザークもよほど悩んだんでしょうね。悩んだ挙句にこうなっちゃったみたいな感じで(笑)。
  スケルツォもトリオが良くないねぇ。

-確かに1楽章は私も素晴らしいと思います。コーダも素晴らしいですね。

U-そうそう。

-その第1楽章の提示部の繰り返しはやりますか?

U-やりません。繰り返していいのは、ベートーヴェンの「運命」と、モーツァルトの「40番」くらいですね。
 逆に繰り返さないとバランスが取れない。

--曲順が、最初にモーツァルトで、中プロで「レオノーレ」なんですね。

U-最初に序曲をやる場合が多いでしょうけど、感心しませんね。2曲目で団員が急に歯抜けになるのが淋しいし、音楽の量感的にもそうすべきだと思います。

--「レオノーレ」も、よくやる3番じゃなくて2番なんですね。

U-3番はよくまとまってるけど、スマートすぎちゃう感じかな。2番の方がゴツゴツした感じで面白い、ほとんど演奏されないしね。

--同感です。

U-モーツァルトは大変ですよ。気を抜く暇がない。20分位の曲ですが、次から次へとやることがある。

M-モーツァルトは、我々が先生の気迫についていくのが、もうあれが限界ですよ。圧倒されっぱなしで…。

U-そうかね(笑)。

--そろそろ時間ですか?では、これからリハーサルを拝見させていただきます。有意義なお話、本当にありがとうございました。

この後、練習場へ…

リハーサル風景

12月26日、台東区の根岸小学校の練習室のリハーサルにお邪魔しました。この日の内容は、『新世界』の2楽章とモーツァルト、レオノーレ、という予定でしたが、なんと『新世界』は全楽章に変更し、モーツァルトは次回に回すことになりました。なお。これからそのときの様子を簡単にレポートします。
...................................................................................................


まず、「レオノーノ」第2番から開始。

「では、再現部から始めます。再現部と言ったらすぐスコアを開かなきゃダメですよ!」

といきなり檄が飛び、一瞬にして緊張の空気に変わりました。オケに対する指示は、いたってシンプル。場面の移り変わりでは、

「ここから新しい曲を弾くつもりで…」

と、ニュアンスの違いを明確に意識するように指示。重要な核となる声部を明確に浮き立たせること、他のパートをよく聞いてバランスをとることなど、響きのイメージを作り上げることも重視していました。

特に印象的だったのは、スコアの強弱の標記をしっかり守るよう指示していたこと。奔放に思い通りに強弱指示を変更していると思われがちな宇野氏の演奏の意外とも言えるこだわりが感じられました。もちろん、宇野氏自身が感じたテンポ、ダイナミズムを決して犠牲にはせず、常にベートーヴェンの真実に肉薄しようとする気迫が一貫して感じられました。

最後のプレストの入りは「第3番」同様に弦が合わせずらいの箇所ですが、ここは意地でも縦の線を揃えようとするよりは、テンポのニュアンス表出と、緊張感の高揚が達成できるようにという意図が強かったようです。この場面はティンパニが大活躍しますが、「皮が破けるほど強打して!」などと言うのではなく、実にサラッと、「フォルテ3つくらいでとお願いします」とか、「もう少し抑えて」という、シンプルな指示に終始していたのも意外でした。

最後に、全体を通し演奏。狭い教室だったので、全体の響きのニュアンスまではつかみ取れませんでしたが、この時点で既に細かいテンポ設定、ニュアンスの指示はほとんどされていたようで、あとは本番に向けて、更にアンサンブルを整えるだけ、という段階のようでした。

休憩後は、いよいよ『新世界』。

第1楽章は冒頭から予想通り、表情が超濃厚!ティンパニのトレモロの叩き方に若干の指示。第2主題は、宇野氏自身が特に歌心をくすぐられる箇所なのでしょう。その歌わせ方にかなり拘わって、何度も弾き直しをさせていました。コーダはビシッとキマり、思わず鳥肌が立ちました。そこで宇野氏が一言、「ん〜、レオノーレよりもいいなぁ」。

第2楽章は、イングリッシュ・ホルンが歌のセンスにしばし聴き惚れました。第2ヴァイオリンを埋没させまいとする宇野氏のいつものこだわりも垣間見られました。音楽が熱く語る部分は弦にポルタメントを要求。その指示を何度か繰り返していましたが、このとき聴いた限りでは、ポルタメントの意味を感じ切るところまでには至っていなかったようです。本番までにいかに素敵なニュアンスに変わるか、楽しみです。

第3楽章は、ベートーヴェンのスケルツォ同様、テンポの激変ぶりが完全に宇野流!団員の中には、思わずこの箇所で苦笑いしている人も見うけられましたが、インタヴューでも触れられていたように、それを不快と感じているのではなく、常識外のことをまさに今やろうとしているワクワク感がつい顔の表情に出てしまったように私には映りました。

終楽章は、宇野氏が曲の弱さを指摘していた楽章だけに、どう料理していくのか興味津々でしたが、残念ながらここまででかなり時間を押してしまい、駆け足の指示になってしまいました。しかし、出だしから宇野節炸裂!

インテンポの箇所と徹底的にルバートする箇所の差が激しいのも特徴的。最後の弦のユニゾンでのテーマの再現の歌わせ方、最後の和音の締めくくり方など、駆け足ながら、勘所は確実に指示し尽くしていました。
http://www.wakuwakudo.net/tokusyu_all/ensouka/002_ensouka_uno&sakura.html

2007年06月08日
嗚呼!宇野功芳大先生のインタヴューといえよう!( ´皿`)ノ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm418970
http://www.nicovideo.jp/watch/sm418995

     (´・ω・`)
   /     `ヽ.   お薬増やしておきますねー
  __/  ┃)) __i |
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\


     (´・ω・) チラッ
   /     `ヽ.   
  __/  ┃  __i |
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\


     (´・ω・`)
   /     `ヽ.   今度カウンセリングも受けましょうねー
  __/  ┃)) __i |
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\


______________
______________

2. 宇野功芳先生が大好きな演奏

1) ハイドシェック テンペスト

Eric Heidsieck - Beethoven Piano Sonata no.17 Tempest 1st mov
1989 Live
http://www.youtube.com/watch?v=cwPw0zxVwyc
http://www.youtube.com/watch?v=bmpRfFRAY_c


待望の復活!ハイドシェック / 伝説の宇和島ライヴ(4タイトル)

1990年代前半にテイチクから発売され、一世を風靡したハイドシェックの「宇和島ライヴ」。伝説の名演の誉れ高いものの、幻のアルバムとして長く入手困難だった同シリーズが復活します。宇野功芳氏が「レコード史上に燦然と輝く不滅の記録」と絶賛し、いずれもCDチャートの1位となった名盤。さながら鬼神が乗り移ったような凄絶さは、今日でも全く色褪せることない衝撃を与えてくれます。


KDC5(宇和島ライヴ1)
「この録音を初めて耳にしたときは体中汗びっしょりになってしまった。
レコード史上に燦然と輝く不滅の記録と絶讃したい。(宇野功芳)」


・モーツァルト:ピアノソナタ第12番ヘ長調 K.332
・ベートーヴェン:ピアノソナタ第17番ニ短調『テンペスト』
・シューベルト:即興曲 変ロ長調 D.935-3
・ドビュッシー:版画
・ヘンデル:アダージョ(組曲第2番より)
・ヘンデル:クーラント(組曲第9番より)
・ストラヴィンスキー:ピアノ・ソナタ
 エリック・ハイドシェック(ピアノ)
 録音:1989年9月22日
http://ameblo.jp/fairchild670/entry-10534868817.html

コルトーとケンプに師事したフランスのピアニスト、エリック・ハイドシェック(Éric Heidsieck, 1936年8月21日 - )。

ハイドシェック ‐ 動画
http://www.nicovideo.jp/search/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF?track=nicouni_search_keyword
http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF&oq=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF&gs_l=youtube-reduced.12..0j0i5l3.2282.2282.0.3563.1.1.0.0.0.0.199.199.0j1.1.0...0.0...1ac.h97hyWL7quc
http://www.youtube.com/results?search_query=Heidsieck+&oq=Heidsieck+&gs_l=youtube-reduced.3..0.12337.17155.0.17429.2.2.0.0.0.0.80.159.2.2.0...0.0...1ac.1.6Sm6OIshL9k

フランス楽壇とベルリン楽派を受け継ぎました。有名なシャンパン醸造元シャルル・エドシーク家の御曹司(現在はレミー・マルタンに吸収)。父親はチェロを弾き、母親はピアニストという音楽一家。特にコルトーとは深い関わりあいがあり、6歳で本格的に勉強をはじめ、死の年であった1962年まで指導を受けました。いうまでもなくコルトーはハスキル、リパッティなど多彩な後続を育成。その限りない個性が目を引きます。ハイドシェックもモーツァルト弾きとして知られていましたが、

「コルトーからはモーツァルトを教わっていません。レッスンから受けたものを独自に反映させたものです。左手を活用させて音楽を浮き彫りにする奏法、あれは師の影響なのです」。

将来を嘱望されながら、70年代は精彩を欠きました。悪くいえば、そのままだったら忘れ去られていたかもしれません。愛媛県宇和島在住のファンが招聘。コンサートを開き、この「テンペスト」を評論家の宇野功芳氏が大絶賛。忘れられていたこの洒脱で、ロマンチックな芸風の演奏を紹介しました。

「鬼神が乗り移ったかのような凄絶」という帯。

 今日、日本での一部の熱烈な支持者がいる一方、あまりにも定型を逸脱したその演奏に面喰らう人も多いはず。この一枚にはモーツァルトのソナタK.332、ドビュッシー「版画」、シューベルト「即興曲」作品143の3、ヘンデルの小品2曲、ストラヴィンスキーのソナタの第1楽章を演奏。特に、この宇和島のライヴではベートーヴェンと、「版画」が話題になりました。

 ここでは日本の音楽評と、宇野氏のあり方。音楽ディスクの売れ方に示唆があります。ハイドシェックは感じたままをそのまま音楽にしてしまうタイプ。その演奏に同調できれば、はまります。ただし、いくら高級シャンパンでも口当たりよく、聴けたとしてもアルコールはアルコール。悪酔いするものも多い。こうした洒脱と遊びは特に即興にも真価を発揮し、自身ユニークな《ラ・マルセイエーズの主題による変奏曲》という曲で各作曲家ショパン、ブラームス、シューベルト、ドビュッシー、フォーレ、ヘンデル、シューマン、ラヴェルの様式での変奏を行っています。ベルギーのグロリュー(この人はナットの弟子でした)のビートルズの曲での即興同様、悪くすれば色ものとギリギリのところの芸。優等生が多いクラシック界の異端児。

 それは宇野氏の批評にも当てはまります。自分の信じたものは徹底的に褒める。そして独特の「言い切り表現」で切り捨てるように断罪。
たとえばシューリヒト、クナッパーツブッシュは宇野氏の尽力で広く認知されました。逆に巨匠クラスでもトスカニーニはこき下ろされています。

カラヤンも同様、「音楽のセールスマン」扱い。

ただし、そんな嫌いなタイプであっても「蝶々夫人」とヤノヴィッツの歌ったR.シュトラウスの「4つの死の歌」は褒めるなど意外な面も。

傍若無人ぶりは原稿料をもらってのCD解説などでディスク酷評などもあるぐらい。しかし酷評であっても読者が興味をもちディスクが売れるという現象がおきました。ハイドシェックの「テンペスト」も再版され、市場に出ているのは宇野氏の評なしにはありえませんでした。

 宇野氏には作曲家中心だった音楽評で、演奏という面に注意を向けた功績があります。たびたび語っている「作品がいま作りだされたかのような演奏」。フルトヴェングラーの項でたびたび述べられ、リリー・ハスキルのモーツァルト、バックハウスのベートーヴェンにも使われていました。

即興と遊び。たとえば定型の逸脱の例では本ディスクのモーツァルトでは演奏を止めたくなります。宇野氏はこれについても「あとからファンタジーが湧いてきてとめどもない」としていますが、ついていけない人もいるのです。

話題になった「テンペスト」は?
この演奏が問題になった講談社新書の『名演奏家のクラッシック』から一部引用

「第1楽章の人間業を超えた緊張力、凄まじい衝撃音、そして速いテンポで一気に進んでゆく経過音のリズム、ただただ呆然とするのみだ」

「これこそベートーヴェンの音のドラマであり、そのドラマをハイドシェックほど雄弁に語りかけた演奏を僕はしらない。この表現だけをとっても彼は天才の名に価しよう」。

よく使われる宇野氏の「命をかけた遊び」という表現(クナッパーツブッシュ評によくみられる)。独断であってもどんな演奏か、気にならないでしょうか?

事実、演奏はベストセラーになり、来日も頻繁になり、これだけのユニークな演奏が世にでるきっかけになったわけです。芸が型の崩し方にあるとしたら、他はどうなのだろう?演奏の多様性に興味がいき、もっとたくさんの演奏を聴いてみたくなるはず。


コメント

1 ■ハイドシェックの宇和島ライヴ…懐かしいですね!
宇和島ライヴのテンペストは賛否両論でした。私も最初に聴いた時は「こういう解釈もあるのか」と驚いたものです。昭和30年代に来日し、渡邉暁雄氏と共演した頃はまだ正統派の解釈の録音(DVD復刻有り)を残していますが、一時期名前が聞かれなくなり、再びハイドシェックを聴いたのが海賊盤と思しきドビュッシーでした。その時の印象より2〜3年後の宇和島ライヴのほうが強烈でした。

解説の宇野氏はこのテンペストを「食い下がり」と表現していたように記憶しておりますが、私には寧ろ「開放的」に聴こえました。正直、テンペストはこう表現してもよいものだろうか…と考えさせられました。

私の師匠(園田高弘氏)は宇和島ライヴに関して

「演奏家は表現者でもあり解釈家でもあるから難しいところだ」

と仰せで、全面否定はされませんでした。作曲家の本質的意図に迫ろうとしたヴェデルニコフのベートーヴェンとは異なったアプローチではないかと思います。シュナーベル、エドウィン・フィッシャー、ダルベール、バックハウス、ケンプ、リヒター・ハーザー、ヴェデルニコフ、園田氏のベートーヴェン観と比較すると、ハイドシェックには異端の薫りを感じます。
一世(Issei) 2010-05-15 10:21:11


2 ■小生も聴きました。
ハイドシェックの同録音には洗練された豪放磊落を感じたものです。ただ、ベートーヴェンのテンペストの概念はかなり崩されるのではないかとも思います。本流的なベートーヴェンに飽きた人々には新鮮に聞こえるのかも知れません。新鮮と取るか異質と取るかは意見が分かれると思います。

小生、エール・フランス機内でエドシークのスパークリングワイン(白)を飲んだ事がありましたが、…ハイドシェックと系縁があったのですね。
06年創立“老舗元祖”本家・東京洋楽研究会/青野 2010-05-15 10:39:43


3 ■>一世(Issei)様
60年代のレコードで聴いていた印象があったので、このテンペストには驚きました。ブランクを調べたらおよそ15年あるそうです。

園田氏の深いベートーヴェン(とりわけ3回目のものは何度聴いたかわかりません。ライナーも含蓄あるものでした)。ハイドシェックのどちらかという異端の演奏を全面否定されなかったということに感銘を受けました。豊かなキャリアの中の試行錯誤。一顧だにしない人も多かったでしょうから、かえって大きさを感じました。
fairchild670 2010-05-15 14:26:33

4 ■>06年創立“老舗元祖”本家・東京洋楽研究会/青野様
本流に飽きた人には新鮮に聴こえるかもしれない、まさにご指摘の通りだと思います。一世様のご指摘の通りこれは異端の香りがするのです。宇野評で、その本流を知らずにこの盤を買い求める人がいると聞きます。これをきっかけに色々聴いてみる楽しみを見出したり、ピアノの面白さに踏み入ってくれる人が増えてくれるのを願っています。
fairchild670 2010-05-15 14:37:23

6 ■宇野氏の影響で
テンペストのベスト演奏がハイドシェックとは思いませんが、ワタシも宇野氏の評論でいろいろなクラシックに親しむきっかけになりました。

ブルックナーを聴くきっかけも、クナのCDに出会ったのも、何より宇野氏の影響でカルミナブラーナが、ワタシの一番熱中するクラシック音楽になりました。

あの断定口調に疑問を持つこともありますが、確かにクラシックファンの裾野を増やした貢献者といえよう。
のたぶた 2010-05-15 19:00:06

7 ■>きぃふ様
毀誉褒貶するのもそのあたりかもしれませんね。モーツァルトなど悪酔いしたかのような気持ちになります。熱心に聴く気にならない方がおられるのもわかります。
fairchild670 2010-05-15 20:28:42

8 ■>のたぶた様
普通の聴き手にとってたくさんの作曲家がいて、ディスクがたくさんある状況。宇野評の「〜といえよう」「〜なのである」の言い切りは小気味良いですね。

モーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」のワルターのメト・ライヴなどは大いにこの微温といわれる指揮者の認識を変えるものでした。「聴いてみよう」という気持ちになること、これが第一歩。そういう意味では大いに参考にしています。
fairchild670 2010-05-15 20:33:58

11 ■ベートーヴェンを弾く時
ハイドシェック初めて聞きました…ルプーのベートーヴェンを聴いた時以来です…概念を覆す演奏で驚きました。

バックハウスを教則的に学び、リヒテル・ケンプに憧れていた時代ベートーヴェンはこう弾くべき型があった様に思います…
でもベートーヴェンの作品を弾く時、いつも自分と向き合わせられ力量を試されます。彼の鋼鉄のような精神力凄いですね
alice 2010-05-16 01:35:50


12 ■>alice様
ベートーヴェンはこう、というイメージがあるのでハイドシェックをはじめて聴くと驚きますね。コルトーが最晩年まで可愛がった弟子。コルトーの弟子が多士済々。色々なタイプがいたということがまず驚きです。
fairchild670 2010-05-16 08:56:15

13 ■素晴らしい先生
>fairchild670さん本当にその通りですね〜

☆コンクールに行くと、私を含め、誰の生徒か分かるくらい、長短所似てしまいます…
コルトーは生徒の個性を壊さない最高の先生ですね☆
alice 2010-05-16 09:44:04
http://ameblo.jp/fairchild670/entry-10534868817.html


. : .:::::::|:.:./: : : : : : :.:. : : :ヽ: : : : : : : `ヽエレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレちゃん
. : .:::::::|:.//: : : : : :.:.:. :i、: : :ヘ: : : : : : : : :.\エレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレち
. : .:::::::|//:/! :./:.:.:.:. :! ヽ: : ∨: . .       ヾエレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレ
. : .:::::::|/: : : /:.:.:.:イ:. :.,'  i: :.ト、: : : . .     ヘエレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレ
. : .:::::::|: : :_/__//:. :/   l: :.!、!: : : ヽ : . . .  ハエレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレち
. : .:::::::| '´// /:.:, '     l: ,' !`ヽ: : ',: : : : : : :',エレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレち
. : .:::::::|: /   //     l/  l,イ: : : :.i : : : : : : ∨エレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレち
. : .:::::::|,ィ≠ミ、              ∨: : |: : ',: :.|、: :.lエレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレち
. : .:::::::|> ● Y        ,ィ≠ミ、 ∨: !: : :i: :.! ヽ: !エレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレち
. : .:::::::|'"ー-        ´ ● ヒ .∧/:. ∨: ,'  .}:!エレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレち
. : .:::::::|            ‐-、  ./l:.:.:.:. : |:./   ノ!エレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレち
. : .:::::::|        `       /ノ:.:.:.:. : kエレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレちゃん
. : .:::::::|     `ー=-      /:.:.:.:.:,ィ:. : !エレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエ
. : .:::::::|`、 、      '   _.. イ:.:.:.:.:./ |: :.,'エレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエ
. : .:::::::|: .:ヽ ` ' ,ー: ..i:´::|:. :. |/:.:.:./ .l:./エレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレちゃん
. : .:::::::|: . : .\/: . : .,':::::::i:. :./:.:,.:イ エレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエレちゃん
. : .:::::::|: . ;ィ‐ ‐、: . /:::::::,':. ://:. lエレちゃんのくせにエレちゃんのくせにエ

________________
________________

2) レリ・グリストの「フィガロの結婚」


モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」 K.492
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1970年1月 EMI(国内盤 TOCE-9746-48)
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%EF%BC%881756-1791%EF%BC%89_000000000018888/item_%E3%80%8E%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AC%E3%83%AD%E3%81%AE%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%80%8F%E5%85%A8%E6%9B%B2%E3%80%80%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC%EF%BC%86%EF%BC%AE%EF%BC%B0%EF%BC%AF%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%97%EF%BC%90%E3%80%80%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AA%EF%BC%89%EF%BC%88%EF%BC%93%EF%BC%A3%EF%BC%A4%EF%BC%89_208151


モーツァルト「フィガロの結婚」(抜粋、音のみ) クレンペラー指揮
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1713725


Reri Grist - YouTube
http://www.youtube.com/results?search_query=Reri+Grist&oq=Reri+Grist&gs_l=youtube-reduced.3..0.2167.2167.0.2414.1.1.0.0.0.0.185.185.0j1.1.0...0.0...1ac.1lYbAnnN2s4


ドイツの指揮者、オットー・クレンペラー(1885-1973)の人気がここ10数年ほどの間にじわじわと上がってきているそうだ。現在では、その『全情報を克明に音化しようとする』特殊な芸風も完全に市民権を得たといったところだそうだ。
このクレンペラーが指揮するモーツアルトのオペラ「フィガロの結婚」をベスト盤として一貫して推薦し続けてきた音楽評論家がいる。宇野功芳さんだ。

宇野さんはクレンペラーの指揮する「フィガロ」でスザンナ役のレリ・グリストの歌唱を絶賛して止むことがない。
http://d.hatena.ne.jp/mii0625/20050523/p1


クレンペラーは最晩年の1968年からロンドンのフェスティヴァル・ホールでワーグナーの「オランダ人」、モーツァルトの「フィガロ」「コシ」を演奏会形式で上演し、録音を行っている。どれもクレンペラーらしく、ユニークな録音なのである。

 それにしてもこの「フィガロ」の一般的な評価はどうなっているのだろう。例の宇野功芳氏が熱弁を振るってこの演奏を褒めちぎっているのは良く知っているのだが、これを聴いて「やはりそのとおりだ。すごく良かった!」と本気で思っている人はどれだけいるのだろうか。ちょっと疑問だ。

 私は、この「フィガロ」に罵詈雑言を投げつけられたとしても「そりゃ仕方ないな」と思う。全員がいいと思う演奏なんてないし、いいか悪いか意見が分かれる演奏の方が面白い。この演奏はおそらく「悪い」と決めつける人がさぞかし多かろう。

私がこの演奏を聴いた時もびっくりした。超スローテンポなのだ。序曲からして無茶苦茶遅い。モーツァルトの序曲集に入っている「フィガロの結婚」序曲もやや遅めのテンポなのだが、その比ではない。気が遠くなるようなテンポなのだ。どうしてこう極端なことをしてくれるのだろうか。

 おそらく歌手達もこのテンポでは歌いにくくてたまらなかっただろう。有名なバルトロのアリア「復讐だ! ああ、復讐とは楽しみだ(La vendetta,oh la vendetta)」などでもせっかくの早口の歌が生きてこない。

失速寸前のテンポの中で歌手達はほとほと困惑しただろうが、さりとて死に神の如き顔をした大指揮者に文句も言えず、唯々諾々と歌い続けたのだろう。全く気の毒な話だ。そんな演奏だから、オペラのCDにはよく抜粋盤が作られるが、このCDにはまず今後も抜粋盤が作られることはないだろう。

 しかし、誤解がないように申しあげておきたいのだが、それでもこの「フィガロ」には大変な価値があるのである。


なぜか。非常に美しいからだ。

超スローテンポによってこのオペラの持つ軽妙さがすっかり失われているとはいえ、大変美しい演奏だ。クレンペラーの遅いテンポによってモーツァルトが書いた音符のひとつひとつが手に取るように分かる。それは序曲から明らかで、考えようによってはこのオペラの隅から隅まで嫌になるほど堪能できるのである。

こんな演奏をした例は少なくとも私はクレンペラー以外には知らない。クレンペラー85歳の時の演奏だけにこの超スローテンポは高齢からくる老化現象の現れと見ることもできるのだが、クレンペラーのことだから、確信犯的にこのテンポを採ったものと私は考えている。本当にふざけた指揮者だ。

 なお、キャストは以下のとおりである。なかなか豪華なキャストである。録音も最優秀(クリストファー・パーカーが担当)。


アルマヴィーア伯爵:ガブリエル・バキエ
伯爵夫人:エリーザベト・ゼーターシュトレーム
フィガロ:ジェレイント・エヴァンス
スザンナ:レリ・グリスト
ケルビーノ:テレサ・ベルガンサ
マルチェリーナ:アンネリーズ・ブルマイスター
ドン・バジリオ:ヴェルナー・ホルヴェーク
ドン・クルツィオ:ヴィリー・ブロックマイア
バルトロ:マイケル・ランドン
バルバリーナ:マーガレット・プライス
アントニオ:クリフォード・グラント
二人の少女:テレサ・カヒル&キリ・テ・カナワ
http://www.kapelle.jp/classic/klemperer/mozart_opera.html


 私が一番最初に買ったモーツァルトのオペラのCDは、クレンペラーの『フィガロの結婚』だった。

 遅いテンポで、まるでベートーヴェンのように立派で壮大な序曲からして仰天するが、幕が開くと粒揃いの歌手達の、まるでオラトリオや宗教作品を聴くかのような真摯なアンサンブルに魅了される。

 オーケストラは細部まで心をこめて演奏している。木管の明滅、弦の繊細な表情付け、対旋律の隅々まで浸透した情感の深さ、高らかに鳴り響く金管。一つ一つの音が石庭の禅の世界のように、東洋的な調和の世界に貢献している。

 テンポの遅さは幻想と匂うように濃厚なモーツァルトの旋律美を際立たせる。これはまるで麻薬だ。

 こんな演奏はどんな指揮者にもできはしまい。今後どのような指揮者が現れようと、二度と生まれはしない。 世評の高いエーリッヒ・クライバー盤、カール・べームのウィーン響盤、ワルターのザルツブルグ音楽祭盤、いずれも名品であろうが、次元がまるで違う。 クレンペラーのフィガロの世界は、「馬鹿げた一日」を人生に匹敵するほどの叡智で満たしているのだ。

 たとえば、一幕の重唱の真実の美しさの数々、「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のベートーヴェンの交響曲のようなシンフォニックな厚み、二楽章のスザンナのアリア「お膝をついて」に光る寂寥の涙。レリ・グリストのまるでポップス歌手のような可憐で明晰な美しい歌唱!二楽章のフィナーレのめくるめくような音の絵巻物!

 第三幕も素晴らしい。父と母が発覚する瞬間のマンガチックな泣き笑いの音楽が、ここでは真の人間的なドラマと化す。第四幕のフィナーレの楽しさ、はかなさ、寂しさ、美しさ。

 どれだけ書いても表現しきれない。この盤について教えてくれた宇野功芳氏には心から感謝申し上げなければならない。

 ちなみに、図書館で『フィガロの結婚』の対訳を読んでいるとき、その中で、ディートマル・ホラントという学者はこのように論じていた。

 「さて、《フィガロ》の全録音の中でもっとも奇妙なのはオットー・クレンペラーのスタジオ録音である。傑出した人格者であるこの指揮者に対する尊敬の念からしてひじょうに辛いことなのだが、クレンペラーはここで、一般にモーツァルトの音楽と結びつけて考えられているもの全てを徹底的に排除してしまっている。
拍子が鉛の靴をはいたように鈍重に迫ってくる。しかし、驚くほど集中力が強く、しかもアーティキュレーションが正確なので (管楽器!)、《フィガロ》の音楽を今までに一度も本当にきいたことがなかったような気になってしまうのである。

だがそれにしても、モーツァルトもまた《フィガロ》で作曲したあの燃えたぎるような革命精神は、完全に姿を消してしまった。クレンペラーが〈恐ろしいばかりの優美さ〉 (Th.マン) を得ようとした結果、革命精神は額縁のガラスケースの中に収められてしまったのである。」

さて、音楽学者と私の見解は全く異なるわけで、真偽のほどは実際に聴いてみていただかない限り、けしてわからない。音楽はスタイルではなく、形でもなく、どれだけ真実かということに尽きると私は信じる。

 「一度も本当にきいたことがなかったような気に」させる演奏。では私たちはフィガロの何を聴いていたのだ?
http://theworldofkitaken.blog.so-net.ne.jp/2008-10-20


クレンペラーのフィガロ

モーツァルトの「フィガロの結婚」。クレンペラー盤はその異例な遅いテンポで物議を醸します。

先だって、63年のベームの「フィデリオ」を挙げましたが、マティスのスザンナによる「フィガロの結婚」の公演も伝説的なものであり、また68年のスタジオ盤の手堅さもあらゆる面でバランスのとれた定評のあるもの。

E.クライバーのウィーン風、ジュリーニや、カラヤンのセッコなしの50年代、新しいところではアバドや、古楽器のものが幾つか。これらは順番を付けることなしに、どれもが「フィガロの結婚」というイメージを踏襲しています。

登場人物が多く、めまぐるしく展開するオペラは、配役がたとえ端役にいたるまで行き届いていても、難しい。たとえばアバド盤のバルトリのケルビーノがいいといっても、あの盤のモダンでありながら劇場風の機知があってこそ生きているのです。

クレンペラーのテンポの遅さというところでは、この晩生の巨匠特有のものでしたが、若い頃は前衛の旗手であり、テンポも早くせかせかとしたものでした。普通の器楽奏者にとって70歳を超えることは、引退、あるいは教育者としての後進の指導という時期ですが、レッグがフィルハーモニア管の首席指揮者に任命したのは55年。65歳のころはじめての録音は68歳で、真価を発揮しはじめた60年代には75歳を超えていました。幾つもの大病、また音楽以外の異例な逸話がその評伝を彩ります。また極端な発言は物議も醸しました。

音楽は重く、即物的にあるいはリアルに運ばれる。それでいて、エピソードといえば、若き日のハンブルク時代。エリザベート・シューマンとの駆け落ち(彼女の夫も指揮者であった)、公然と起こるヤジに

「俺の演奏を聴きたくないヤツは外へ出ろ」。

これは代表的なものですが、この種の逸話が実に多く、音楽の表面上の怜悧の奥、息衝く情熱的なものという相反するものがあったのかもしれません。その遅いテンポ、たとえばマーラーの交響曲第7番、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」、そして「フィガロ」はもはや語りぐさです。

ただし、前二つの盤が高い評価を得ているのに対し、「フィガロ」の評は落ち着かない。これを何度も採り上げているのが宇野功芳氏

「指揮者の深い呼吸によって、今まで気づかなかった美しい景色が窓の外を通りすぎてゆく。乗っている客車はステンレス製ではなく高級な木製で芸術的な香りが高い。細部のニュアンスの緻密さはすばらしく、リズムや音色の柔軟なデリカシーは他のすべてのCDを凌駕する。
この盤を推薦するのがぼくだけというのは、レコード界の七不思議の一つではないだろうか」。

 ル・コルビュジェのモジュールではありませんが、基準となるデザインは人間の身体の特徴を反映します。有名な巨匠たちが一同に写った一枚。クレンペラーの体躯は巨大。反対にトスカニーニは明らかに小男です。

テンポの設定が心拍や、歩幅などが反映しているとしたら、キビキビとしたトスカニーニの律動などはうなずけるところがあります。岩城宏之氏がウィーンでクナッパーツブッシュばりに遅いテンポで演奏した際、クナを知る楽員に

「彼は病を抱え、あのテンポが精一杯だったのだ。お前はまだ若いし、そのテンポで演奏するのは間違っている」

といった旨の話をされたという逸話。遅いということではクナッパーツブッシュ、晩年のチェリビダッケ、ジュリーニなど皆遅かった。そして、その遅さは共通でも、音楽はまるで違う。それと向き合う聴き手にとってテンポや節回しの好みは肌合いといってもいいかもしれません。

クレンペラーの「フィガロの結婚」での遅いテンポはこれまでの駆け抜けるようなテンポにモーツァルトの「疾走する悲しみ」を引いた小林秀雄や、最後が伯爵の許しを求める言葉に収束される一日のどたばた劇といったものを期待するのは間違い。すでに、晩年の、死や、重い怨念のたちこめた「ドン・ジョヴァンニ」に続くロマンの流れとして、捉えれば新たな光景が見えてくるかもしれません。

この盤が宇野氏以外に話題にのぼらないのはある意味、当然ですが、こうした異例なものが録音され、記録して残したEMIの英断も素晴らしい。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

ヴォルテールの警句ではありませんが、演奏の主義主張というものがたとえ少数の支持者であっても守られていい。それは評者も同じで、思ったことをそのまま書いている正直さが一番現れているのも宇野評です。この評によって盤にふれ、この盤の異例な遅さに感じるものがある人もいるはず。

ここはレリ・グリストのスザンナが聴けます。たとえば66年のベームの映像、そのスタンダードでチャーミングな姿に比し、クレンペラー盤がいかに異例なものであったか。しかし、肌合いがあう人にとってはその相対時間は短く、あの美しさがいつまでも続くという感覚で捉えられるのです。宇野氏はマーラーの4番のグリストの歌唱も絶賛していました。


コメント

1 ■無題
岩城宏之氏がVPOの古参楽員から批判されたのは、クナの「遅いテンポ」ではなく「身振りの少ない指揮ぶり」を真似たからではなかったですか?

「おまえ、若い時のクナがどんなに凄い指揮ぶりだったか知らないだろう。胃を半分切り取った今のクナには指揮棒10センチ動かすのも大変なことなんだ」・・・

といったエピソードではなかったでしたっけ?
通りすがり 2011-11-20 19:44:24

2 ■>通りすがり様
ご指摘ありがとうございました。テンポではなく、身振りだったのですね。たくさんあるエッセイ。記憶違いだったようです。
fairchild670 2011-11-20 20:21:15
http://ameblo.jp/fairchild670/entry-11083879318.html?frm_src=thumb_module

レリ・グリスト(1932〜)

ニューヨーク出身のコロラトゥーラ・ソプラノ歌手。モーツァルトやリヒャルト・シュトラウスなどのオペラで、スーブレット役として活躍した。その声、その歌、その演技。史上最高のソプラノと言ってよいだろう。

グリストは一度聞いたら忘れられなくなるような、非常に特徴的な声を持っている。それは、明るく高く美しくクリアではずむようなチャーミングな歌声。そしてその根底にはえもいわれぬやさしさが流れている。

グリストが歌うモーツァルトはあまりに美しく、聞いていると、時にめまいを、時に身震いを覚えるほどだ。空間にグリストの声が満ちる。どんな歌も素晴らしく聞こえる。

グリストが歌うと、ただのレチタティヴォも急に輝きだす。不思議な程に歌うような感覚があり、アリアと同じくらい生き生きと美しく響く。

コロラトゥーラは曖昧さを排除しあくまで明瞭。繊細にかつ力強く、ハイ F まで昇りつめて行く。

グリストはどちらかというと小柄できゃしゃなタイプだが、舞台の上では実に生き生きと、よく動きよく笑いよく歌う。目の演技も素晴らしい。大きないたずらっぽい目がクリクリとよく動き回る。

グリストの歌をじっと聞いていると、ふとその根底に流れる魂が全身で知覚できる時がある。瞬間、背筋がぞくぞくし、鳥肌の立つような身震いに襲われるのだ。モーツァルトという最高の音楽を、グリストという最高のソプラノで聞けるとは、なんという至福であろう。
http://reri-grist.net/

レリ・グリスト ― 最も可憐なソプラノ

黒人オペラ歌手の先駆者であるレリ・グリストは、日本国内でこそ知る人ぞ知るような存在だが、世界的に見ると、やはり、名歌手の一人として確実に認知されているように思う。特にアメリカではミュージカル版『ウェストサイドストーリー』のオリジナルメンバーの一人としてよく知られているようだし、現在においてもキャスリーン・バトルはレリ・グリストのエピゴーネンに過ぎないという意見さえあるみたいだ。
--------------------------------------------------------------------------------

まぁ、他者の評価はおいておいて、私の知る限りレリ・グリストは最も可憐なソプラノであることは間違いないと思う。ソプラノ歌手にありがちが自らの声量とハイトーンを誇るあまりに耳障りになるところがないのがまず第一に良くて、その上、声質が本当に可愛らしい。

オペラで、なぜにこれほどまでに可憐な歌い方ができるのか不思議でさえある。おまけに姿形もほっそりとして娘役にピッタリ。こういった美質が却って役柄の幅を限定してしまった感がないでもないが、その声と容姿の可憐さは今もっても他の追随を許さない感さえある。

私が初めてグリストの歌を聴いたのはレナード・バーンスタイン+NYPのマーラー交響曲第4番の第4楽章。おそらく、日本国内で最も耳にされているグリストの歌声だと思う。バーンスタインが指揮したマーラーの4番第4楽章は他にもボーイソプラノを起用した録音も残っているが、グリストの歌声の方が明らかに天使的である。ボーイソプラノを上回る無垢さ・清純さを誇る歌声であるってのは驚異的なことだと思う。

次に忘れられないのが、オットー・クレンペラー指揮の『フィガロの結婚』におけるスザンナ役。このクレンペラーの『フィガロ』は、後期クレンペラーの通例として、もの凄いスローテンポで、この演奏自体を嫌う人は少なくない。しかし、グリストのスザンナについて悪く言う人は寡聞にして聞いたことがない。

このスザンナにはノックアウトされた。私個人はクレンペラー指揮の『フィガロ』は好きなのだが、それにもましてグリストのスザンナは抜きんでている。これ以上のスザンナはちょっと想像できない。

冒頭の動画は1965年のカール・ベーム指揮『アリアドネ』(R. シュトラウス)の大アリア。レリ・グリスト(Reri Grist) -- 史上最高のソプラノによると、大アリア後にグリストが3度もお辞儀をするのは、前年の公演での大アリアの印象が強烈だったために、自然発生的に起こったものらしい。

確かに、イタリアオペラはともかく、アリアで一々盛大な拍手起こってオペラの流れを止めてしまうことって、よっぽどのことだと思う。確かに、オペラは歌舞伎と同様に主要人物が登場すると拍手が起こり、アリアを歌えば拍手が鳴りやまないこともあるらしいが、それでも3回にわたって舞台に再登場してお辞儀をするのはちょっと凄いことだと思う。

この記事へのコメント

ここにもグリスとのファンが・・・
やっぱり一度きいたらファンになりますよね。
投稿者: 佐東 陽達at 2010-04-11 16:47:36


確かにマーラーの四番はレリ・グリストが最高ですね。
彼女の歌声で聞き込んでしまうと、他のいかなる歌手でも違和感を感じてしまうし、この作品には相応しくないように思ってしまいます。
投稿者: ワンダーat 2011-01-20 00:03:14


何というか、何度聞いても幸せになる歌声ですよね。
投稿者: querent at 2011-02-11 23:03:29
http://shinshu.fm/MHz/14.14/archives/0000227807.html


    |〃、 ii  川 ヾ  レ'/::::::::::〃爪::::::川::::::::||:::ヽ::::i::::::::::::i!\ \::::::::::
 ノ  ,/  |! i||  iiハ  | //::i:::::::::||:::| |i:|:::||!i::::::::::|i::::ヽ:::::|!:::::::::||:::\ \::::::
 / /ノi  | i!  |i川  | i::|:::|:::i::::::i!::| |ili:|:::||ヾヽ::::|i!:::::ヽ:::|!:::::::::||:::::\:::\:::
 //ノ i!│!| |!i |川ii  |i::!:::|:::|::::::|:::| i !ト!::| !ヾ゙i:::::|i!::::::ヽ:|!:::::::::|!::::::::\::::\
 //i! | | |_,,i,,L|ト!ilハ ||:|::::|:::|l::::||:i:| i ゙!゙ト、,i_ 'i,::!::|ii:::::::::i,:|i::::::::|!::::::::::::ヽ:::::
  /il i!| ‐''|´! | ハ!| | |i!::i:::|:::||::::|::::| !ヾ!:i`''‐i,,::::||!::::::::::||::::::::|::::::::::::::::ヽ::::
 i i!i | | | i/ / | /  ii | |ト、i:|!:::!゙!::|::::| ゙i ゙、ヾ'、 ゙、‐|、i:::::::::||:::::::|::::::::::::::::::ヽ:::
/i/|ii!//|!/!i/´i/   .|i |/ノi\i!゙、:iヽ|:::|  ヽ 'i  ! ヾi |'!ヽ::::||::::::/:::::::::::::::::::::ヽ
i i 川i!ハ/" _!   | │川 ヾ:ii ゙'∨     |    ゙ヾiヽヽ;||:::::i':::::::::::::::::::::::::
ノ ノ/リ,,,,,,二三テ=''" ヽノル |ノノヽヾ ノ  、,,,ノ,、     iヽ:::||:::::i'::::::::::::::::::::::::::::
 /   ̄ ´~~゙''''    ゙''‐- ..,,_,, ‐'    `゙ヾミッ、,,   ヽ::|::::/::::::::::::::::::::::::::::
,,イ|                i'"         `'‐='   `'|/i!:::::i::::::::::::::::::::::::
 i | :::::::ヽ::::ヽ::::::ヾ::    ゙、      〃:::::       i//::::ハ::::::::::::::::::i:::
  i i \\\\\ヽ    入       ′′′   / /:::::/:::::::::::::::::::|::::
!  | i            ,,ィノ(         :::: :    /:::::/:::::::::::::::::::/::::
i!  i i!            /i/  \             /:::::/:::::/::::::::::::/:::::
゙i!  | i          /⌒' y'⌒゙i           /::::::/::::::/::::::::::::/::::/i
 i  i ゙!         ん、,,ノ,__,,,r''          /:::::::/::::::/::::::::::::/:::://
゙、ii! ゙| i           ノ  。 `i          //:::::/:::::/::::::::::::/::::::/:::
ヾ!トl ゙iU          i     |         //::::::/::::::/::::::/:::/:::::i!::::::
 iiミ! ハ             i °  ゙、       //::::://::::/::::::/:::::/::::i::::ii::
 i!ヾ!i ゙、!         , '     |゙ヽ......,.,.,.,,,///://::://::::/::::://::::i::::リ::
 !ヽヾi  i゙、  ___,,,/      レWノ'レi/、//::/:://:/:::/::/:::ハ:i |::
、、iヾミヽ ヾ''~川リ i i゙、           "  ∨ノ / i/::///:/ .|:i i:::
! | i ヾ、゙、 ヽ、!i i|ヾ ゙、゙、゙、              /i  ,ニニ--..,,/ |! !ノ::
ヾ ! ヾ、ヽ ゙ヽi |!iヾ、ヽヽヽ              ,,!r''~      `~゙'''''ヽ、


_________________
_________________


3) メンゲルベルクのマタイ受難曲


バッハ マタイ受難曲  メンゲルベルク
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%EF%BC%881685-1750%EF%BC%89_000000000002339/item_%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%EF%BC%9A%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%8F%97%E9%9B%A3%E6%9B%B2%E3%80%81%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%80%8E%E6%82%B2%E6%84%B4%E3%80%8F%E3%80%80%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF_1371954


Willem Mengelberg [Matthäus-Passion]
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9021434
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9138508
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9139225

http://www.youtube.com/watch?v=x7z8sKpr8T4

http://www.youtube.com/watch?v=ipwV_F27v2M
http://www.youtube.com/watch?v=BjWxmD2uKy0


ウィレム・メンゲルベルク ディスコグラフィ
http://www.nmt.ne.jp/~toksbw/wai/symphny/mengelberg.htm
http://www.mengelberg.net/mengel.html


メンゲルベルク 動画
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF

http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF&oq=%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF&gs_l=youtube-reduced.3..0l3j0i5.8061.8061.0.8324.1.1.0.0.0.0.190.190.0j1.1.0...0.0...1ac.Bt6jrO73rY4

http://www.youtube.com/results?search_query=Mengelberg&oq=Mengelberg&gs_l=youtube-reduced.12..0l4.13074.13074.0.14286.1.1.0.0.0.0.82.82.1.1.0...0.0...1ac.ZH0EiDCQsDs

マタイ受難曲はメンゲルベルクが毎年復活祭に演奏してきたもので、1939年の演奏がフィルムを使った録音で残されました。LPから復刻した音はとても67年前のものとは思えないものです。2枚に納めるためのカットはせずに3枚組としました。メンゲルベルク最高の遺産が味わえます。合わせてこれも貴重な41年録音の‘悲愴’(37年録音とは別)を組み合わせました。(オーパス蔵)

バッハ:マタイ受難曲(1939年4月2日ライブ PhilipsLPA00150-53)

カール・エルプ(福音史家)
ウィレム・ラヴェリ(イエス)
ジョー・ヴィンセント(ソプラノ)
イローナ・ドゥリゴ(アルト)
ルイス・ヴァン・トゥルダー(テノール)
ヘルマン・シャイ(バス)
ツァングルスト少年合唱団
アムステルダム・トーンクンスト合唱団
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ウィレム・メンゲルベルク(指)


_________


宇野功芳
「こんばんは!とうとう最終回になりましたけど。今日はどんなお話しましょうかね?」

横原さん
「そうですね…。前回言いました、合唱での体験でバッハのマタイ受難曲がすごく印象深いという風に話しましたけれど。」

宇野功芳
「マタイは感動的だなぁ。」

横原さん
「長い音楽の歴史の中でも究極の作品という…。」

宇野功芳
「まったくその通りだなぁ。僕はバッハ嫌いなんだけどね。
バッハとかねブラームスとかね、Bのつくのは嫌いなの。
Bのつくので良いのはバッファローズとかね、ブルックナーとかね(笑)。
ハハハ!重くって暗いのは苦手なんですが、でもマタイはそんなもの飛び越えちゃってるよね!」


宇野功芳
「一緒に一度は聴いて欲しいマタイ受難曲です。
しかし長い!!3時間はたっぷりかかる。実演だとカットすべきだと思います。

 マタイ受難曲の中で、素晴らしいのはメンゲルベルクの1939年のライブ録音です。
メンゲルベルクはとてもロマンティストなので、バッハのスタイルを逸脱してロマン派の曲のようになっている。だから誉める人はスゴく誉めるし、貶す人はメチャクチャ貶します。僕はスゴく誉めます!
 対抗はヘレヴェッヘ。とてもあっさりしている。
メンゲルベルクはまさに受難です。物語性がスゴい!」


バッハ マタイ受難曲第2部第62曲コラール「いつか私が世を去るとき」

ヘレヴェッヘ(指揮) コレギウム・ヴォカーレ
メンゲルベルク(指揮) コンセルトヘボウ管弦楽団

宇野功芳
「マタイ受難曲の中にはコラールが沢山あって、その中で有名なのが最後のコラールです。キリストが十字架に架けられて死んで、その時民衆が
「自分が死ぬときに、そばに居てください。」と歌う。
 その時のメンゲルベルクの演奏が本当に弱いんです。遅いテンポで祈るように・・・。バッハのスタイルを超えていますね。
 片やヘレヴェッヘは普通の演奏です。今、21世紀のクラシックファンは様々な音楽を知っている。バッハ時代が『こうだった』からと当時の演奏をされても感動しない。」
http://blog.fmosaka.net/kurakore/blog/night/


先日渋谷のHMVをうろうろしていたら、通常は5,000円〜6,000円のメンゲルベルクの「マタイ」3枚組(1939年4月ライヴ)が1,050円(税込み)で出ていたので思わず目を疑ってしまった。しかも、余白にはチャイコフスキーの「悲愴」まで入っている。ついに購入!

これは昔からフィリップスから出ているものとは異なり、オーパス蔵のLP復刻盤である。本CDには宇野功芳の解説が付いていた。

−−我々の宝、メンゲルベルクの「マタイ」がいよいよオーパス蔵のCDで聴けることになった。オーパス蔵の復刻盤は、とくに声楽パートの音の抜けが良くなった。久しぶりに「マタイ」全曲にじっくりと耳を傾けることが出来た至福のひとときに感謝したい。(宇野功芳)

このメンゲルベルクの「マタイ」第1曲の合唱「来なさい、娘たち、ともに嘆きましょう」には筆舌に尽くしがたい感動を覚える。今では聴くことができない、大変なアゴーギク、テンポ・ルバートが時代を超えて迫ってくる。ここにはアナクロニズムでは済まない、 真の感動がある。
http://blog.goo.ne.jp/katsura1125/e/be02ece9ea269402e8884b7fe0edb65a


宇野功芳 V S礒山雅?

 たまたまバッハ学者、礒山雅氏の『マタイ受難曲』(東京書籍)を読んでいたのである。あの傑作に含まれる1曲1曲についてあれこれ解説を加えた本だ。とはいえ、一般読者を想定して、語り口は平易。『マタイ』好きなら、持っていてよい1冊だ。特にバッハがキリスト教をどう自分のものにしていたかということが詳しく触れられているのが私には興味深い。

 この本の最後のほうでは、約40種類の録音について著者の意見が記されている。これがなかなかおもしろい。

高く評価されているのは、たとえばレオンハルトやショルティ。この組み合わせには、えっと思う人もいるかもしれない。その反面、かねてより名演奏と誉れ高かったクレンペラー、カラヤン、そしてメンゲルベルクには冷たい。そして、古楽系でもコープマンには否定的。

氏の判断基準ははっきりしている。彼らが個性的な指揮者だとは認めたうえで、作品そのものの表現や力や性格を無視しているのがダメだと言うのだ。

クレンペラーについては、かつて若き日に愛聴したものと記したうえで、問題点が指摘されている。

メンゲルベルクに対してはことのほか厳しい。


「この演奏に感動して涙する若い聴き手がいると聞くのだが、そういう人はどうやって耳の抵抗を克服しているのか、知りたいものである」

「聴いていて途方に暮れる」

「うんざりする」


のだそう。もっとも、その理由はきちんと記されているし、もし自分が聴衆のひとりだったら、圧倒されるだろうとも記されているが、何だか大人の配慮というか、言い訳っぽい。

 ちょうどこの本を読んでいたら、そのメンゲルベルクの新たな復刻(オーパス蔵)が送られてきた。開いてみると、解説書の中で宇野功芳氏が大絶賛している。

「われらの宝」

「バッハ時代のスタイルを金科玉条のものとし、この演奏に感動できない人の、なんと哀れなことか」。


礒山氏の意見とはあまりにも見事に正反対なので、笑ってしまった。

はいはい、礒山氏は哀れなわけね。


 この場合、どちらの意見もそれなりに正しいというしかないだろう。メンゲルベルクならではの演奏様式が平気な人にとっては、一回限りの燃えるライヴの魅力が味わえようし(特に合唱の没入ぶりはすさまじい)、生理的に我慢できないという人には、論外な演奏だろう。ただし聴いているうちに慣れてきて、抵抗感が薄まる可能性は高い。音質のほうも聴いているうちに徐々に慣れてくる。手元にあるフィリップスのCDと比べたら、ノイズをカットしていない分、音質は明瞭。この演奏が好きなら、買い換えてもいいだろう。

 とはいえ、初めてこの曲を聴くなら、まずはもっと新しい音で聴いたほうがいい。古楽ならレオンハルトの演奏がよいけれど、オランダ系古楽の常でドラマ性が薄く、残忍、残酷、血の匂い、要するに生々しさが足りない。古楽系は、最後まで聴いてもカタルシスがなく、。あの終曲があまりにもあっさりしてしまうのだ。
私が一番好きなのは、リヒターの最後の録音である。昔から褒められている最初の演奏より、いっそうドラマティックで濃厚である。

 バッハと言えば、今年のラ・フォル・ジュルネはバッハ関係である。例によって小さなホールの公演はあっという間に完売になるのが困ったものだ。それに、せっかくコルボが「マタイ」をやるのに、とてもクラシック向けとは言えない巨大ホールが会場というのも困る。コルボ自身はPAを気にしないというが、聴くほうはそうではない。せっかくの催しだけれど、毎年あのホールだけは何とかならないかと思う。幸いコルボは、「ロ短調ミサ」のほうはまだしもまともなほうのホールで演奏してくれる。

ちなみに、礒山氏はコルボの「マタイ受難曲」は「厚化粧の美女」みたいと言っている。いいじゃん、厚化粧の美女。嫌いですか。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 
http://www.hmv.co.jp/news/article/902250082/


音楽を語るのに、音楽以外のあれこれを持ち出して論議するのを嫌う人がいます。それでも、時にはそういう「あれこれ」にふれずにはおれない演奏というものがあります。 このメンゲルベルグ指揮のあまりにも有名な「マタイ受難曲」も、その、「ふれずにはおれない演奏」の一つです。

 今の趨勢から見れば「論外」と切って捨てる人もいます。

 まずもって、大編成のオーケストラと合唱団を使った演奏スタイルが許せないと言う人もいるでしょう。至るところに見られるカットも我慢できないと言う人もいるでしょう。解釈に関わる問題でも勘違いと間違いだらけだと憤慨する人もいるかもしれません。(例えば、フェルマータの処理をそのままフェルマータとして処理している、等々。今ではバッハのフェルマータは息継ぎの指示程度にしか受け止められていません。)

 しかし、どのような批判をあびたとしても、やはりこの演奏は素晴らしく、20世紀の演奏史における一つの金字塔であることは確かです。

 この演奏の数ヶ月後、ナチスドイツはポーランド国境になだれ込んで第2時世界大戦が始まりました。一年後には、中立国だから戦争とは無縁だとの幻想にしがみついていたオランダ自身もまた、ナチスに蹂躙される運命をむかえます。

 メンゲルベルグによるこの演奏会は、その様な戦争前夜の緊張感と焦燥感のもとで行われたものでした。

 特にオランダのおかれた立場は微妙なものでした。

 侵略の意図を隠そうともしないナチスドイツの振る舞いを前にして、自らの悲劇的な行き末に大きな不安を感じつつも、日々の生活では中立的な立場ゆえに戦争とは無縁だという幻想にしがみついて暮らしていたのです。

 悲劇というものは、それがおこってしまえば、道は二つしかありません。

 踏みつぶされるか、抵抗するかであり、選択肢が明確になるがゆえにとらえどころのない焦燥感にさいなまれると言うことは少なくなります。しんどいのは、悲劇の手前です。

 人間というものは、その悲劇的な未来が避け得ないものだと腹をくくりながらも、あれこれの要因をあげつらってはあるはずのない奇跡に望みを託します。この、「もしかしたら、悲劇を回避できるかもしれない」という思いが抑えようのない焦燥感を生み出し、人の心を病み疲れさせます。

 この演奏会に足を運んだ人たちは、その様な「病みつかれた」人たちでした。そして、疑いもなく、自らを受難に向かうキリストに、もしくはそのキリストを裏切ったペテロになぞらえていたことでしょう。

 冒頭の暗さと重さは尋常ではありません。そして、最後のフーガの合唱へとなだれ込んでいく部分の激烈な表現は一度聴けば絶対に忘れることのできないものです。

 そして、マタイ受難曲、第47曲「憐れみたまえ、わが神よ」

 独奏ヴァイオリンのメロディにのってアルトが

「憐れみたまえわが神よ、したたりおつるわが涙のゆえに!」

と歌い出すと、会場のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきます。

 ポルタメントを多用してこの悲劇を濃厚に歌いあげるヴァイオリンの素晴らしさは、今の時代には決して聴くことので着ないものです。

 まさに、この演奏は第2時世界大戦前という時代の証言者です。

 ちなみに、この4年後、1943年にローゼンストックによる指揮でマタイ受難曲が東京で演奏されています。記録によると、その時も会場のあちこちからすすり泣きの声が聞こえたと言われています。

 逆から見れば、バッハのマタイは時代を証言するだけの力を持っていると言うことです。

ノンフィクション作家として有名な柳田邦夫氏は、この演奏に関わって傾聴に値するいくつかのエッセイを書かれています。

 ピリオド演奏を標榜する一部の人たちは、このメンゲルベルグの演奏を酷評し、それだけでは飽きたらず、この演奏を聞いて感動する多くの人々を冷笑しています。(例えば、国立音楽大学のバッハ研究者〜と自分で思っている人;ちなみに柳田氏はこの人物を磯山雅と実名をあげていますが・・・))
 柳田氏の一文は、このようなイデオロギーによって押し進められているピリオド演奏という潮流が、いかに音楽の本質から外れたものかを鋭くついています。
http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=19


「1,600万円のオーディオ装置」 2008.3.28

先日のブログにも書いたことだが、とある友人の紹介でオーディオ輸入業を仕事とされている方のご自宅を訪問させていただき、ご自慢の装置でいくつか音盤を聴かせていただいた。

何とスピーカーや高性能アンプ、CDプレーヤーなどで正味1,600万円ほどだという。地下1階の防音の効いた30畳ほどのリスニング・ルームにどっしりと鎮座している様は誠に神々しい。

あらゆるジャンルの音楽(J-Popから民族音楽風のもの、Jazz Vocal、クラシック音楽など)を耳にしたが、どうやらこのマシーンはオーケストラを聴くために調整してあるらしく、やはりクラシックのしかも管弦楽曲が抜群の音色で鳴っていた。レヴァイン指揮するサン=サーンスの「オルガン」交響曲第 2楽章冒頭やアバド&ルツェルン祝祭のマーラー「復活」冒頭、ドビュッシーの「海」第3楽章終結などなど、まるで目の前で実際に演奏されているかのごとくめくるめく錯覚をおこすほどの見事さであった。その彼曰く、

「世間の人は生演奏で聴くのが一番いいというじゃないですか。
確かに「実演」がベストです。でも、実演が必ずしも良い演奏とは限りません。先日などは3万円も払ってベルリン・フィルを聴きに行ったところ金管の何某がとちったものだからアンサンブルがガタガタになり、最低だったんですよ。
だから、名演を聴くならしっかり調整された最高のオーディオ装置で聴く方が良い場合が多いんです」と。

なるほど、確かにそう言われればそうかもしれない。ついでに彼が言っていたのは


「それまで名演だと思っていた演奏がこの装置で聴くと、特にオーケストラの良し悪しが手にとるようにわかるようになり、がっかりさせられることも多々ある」


ということ。ゲルギエフの「ハルサイ」などはその典型らしい。

へぇ、そうなんだと感心しながらもちょっと腑に落ちないなと感じる。


僕はSP復刻盤といわれる戦前録音された録音レンジの狭いCDを時折聴く。音質が悪いとはいえ感動させられてしまうのだから音の良し悪しを超越するエネルギーがあるのだろう。メンゲルベルクのチャイコフスキー「悲愴」やフルトヴェングラーのベートーヴェンなどはその際たるもので、今の時代に聴いてもその音楽の素晴らしさは最新録音盤を超える何かが確かにある。

「音」を聴きたいのではなく「音楽」を楽しみたいのである。音がいかに完璧に再生されるかに興味があるのではなく、心が震える感動体験がしたいのである。

確かにCD ラジカセじゃ限界があろう。でも、僕は今もっているオーディオ装置で充分だなと正直思ってしまった。そこそこ優秀な装置があれば音楽は「愉悦」を運んでくれる。そして何といっても、多少の瑕があろうと実演・生演奏のもつ波動が一番だ。

こう書くうちに以前柳田邦男氏が、「人生の1枚のレコード」と題するエッセーでメンゲルベルクの指揮するバッハの「マタイ受難曲」に言及し、その感動的な演奏に対する深い想いを書いておられることを思い出した。その中で「追記」された文章があり、それがとても印象的で、僕の今回の体験と何となく同じようなニュアンスを感じたので、その部分を抜粋させていただく。

-------------------------------------

メンゲルベルク指揮のマタイ受難曲は、心を病んでいた私の次男・洋二郎も何度となく聴いていたレコードだった。1993年夏、自ら命を絶った洋二郎の遺体を病院から引き取って家に帰った時、偶然にもマタイ受難曲のアリア「主よ憐れみたまえ」がテレビから流れた。

「憐れみたまえ、わが神よ」をテーマ曲にしたアンドレイ・タルコフスキーの映画『サクリファイス』が、まさに終わろうとしていたのだった。私は、立ちすくんだ。それ以後、マタイ受難曲は、私にとって人生全体をゆさぶられるような重い曲となっている。

なお、音楽美学やドイツ音楽史の専門家で国立音楽大学教授の礒山雅氏は、詳細な作品研究の著書『マタイ受難曲』(東京書籍)のなかで、メンゲルベルク指揮のこの演奏を、バッハの基本からはずれていて、とくにテンポの伸び縮みがあまりにも恣意的だと、きびしく批判し、

「聴いていて途方に暮れ」
「うんざりする」

とまで書いている。批判は演奏に対してだけでなく、聴き手に対しても向けられ、

「この演奏に感動して涙する若い聴き手がいると聞くのだが、そういう人はどうやって耳の抵抗を克服しているのか、知りたいものである」

と冷笑している。どうやら楽譜を読みこなす力のない私や息子は、マタイ受難曲を聴くには失格らしいのだが、音楽とは人生の状況のなかでの魂の響き合いではないかと考えている私は、「それでもメンゲルベルク指揮のあの演奏は私の魂をゆさぶる」という感覚をいまも抱いている。
「かけがえのない日々」(柳田邦男著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/410124913X/250-8550177-4320268?ie=UTF8&tag=opus3net-22&linkCode=xm2&camp=247&creativeASIN=410124913X
より
http://classic.opus-3.net/column/16002008328/


『私達が一日一日を平穏に暮らしていられるのは、この広い空の下のどこかで名も知れぬ人間が密かに自己犠牲を捧げているからだ。』     
タルコフスキー


タルコフスキー サクリファイス(1986年)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2026762
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2025583
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2025880
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2026086
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2026399
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2027422
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2029092
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2031292

柳田邦男 『犠牲サクリファイス わが息子・脳死の十一日』
http://www.amazon.co.jp/%E7%8A%A0%E7%89%B2-%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B9-%E2%80%95%E3%82%8F%E3%81%8C%E6%81%AF%E5%AD%90%E3%83%BB%E8%84%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE11%E6%97%A5-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9F%B3%E7%94%B0/dp/4167240157

 を読んだのは、もうずいぶん昔の話になりますが、自ら死を選んだ洋二郎さんの、その自死の試みから死に至るまでを看取った記録の中で、私が忘れられない文章があります。

生前、洋二郎さんは、「僕の村は戦場だった」で知られる、旧ソ連の映画監督タルコフスキーの作品「サクリファイス」に深く傾倒していらしたそうです。
深い精神性を探求し、後期から晩年にかけて、人類の救済をテーマとした作品を作り続けたタルコフスキーの遺作であるこの作品の冒頭と最後に流れるのが、バッハのマタイ受難曲の『憐れんでください、私の神よ』という美しいアルトのアリアです。
キリストに最も近かった弟子のひとりであり、キリストから愛された弟子であったペテロは、自らの死の恐怖ゆえに、捕らえられ、これから死に渡されるという主イエスを拒みました。

有名な「ペテロの否認」の場面です。

ペテロが裏切りを悔いて号泣したあとに響く美しいアリア『憐れんでください、私の神よ』はこのように歌われます。

     憐れんでください、私の神よ、
    私の涙ゆえに。
    ご覧下さい、心も目も
    御前に激しく泣いているのを。
    憐れんでください、
    憐れんでください!     

洋二郎さんの遺体が自宅に迎えられた、まさにその時、一体なんという偶然だったのか、たまたまNHKで放送されていたのがタルコフスキーの「サクリファイス」でした。

そしてテレビから流れていた曲がこのアリアだったというのです。

私は立ちすくんだ。洋二郎は神に祈ったことはなかった。かたくななまでに祈らなかった。

私も目に見えない大きなもの、全てを超越したものとしての神の存在への畏怖の念を抱きつつも、全身全霊を投げ出して祈るという行為をしたことがなかった。

だが、このとき私は神が洋二郎に憐れみかけ給うてほしいと心底から祈る気持ちになった。

どういう神なのかと考えることもせずに。
アリアの旋律はいつまでもいつまでも私の胸に響き続けた。
                    
柳田邦男 『犠牲サクリファイス わが息子・脳死の十一日』

ここに見る柳田氏の祈りには、だれの神でもない、全てを超越した、ただ大いなる存在への究極の祈りがあります。
バッハの音楽という深遠な祈りから流れ出した、存在としての神への想いだと思います。。
http://follia.at.webry.info/200704/article_4.html

【至宝】マタイ受難曲【孤高】


30 :名無しの笛の踊り:2009/12/26(土) 01:12:55 ID:HTT21VMr
メンゲルベルグに勝るのはないけどあれは別格だから比較してやるのは酷だよな


31 :名無しの笛の踊り:2009/12/26(土) 09:32:44 ID:NsakSB43
コーホーキター


32 :名無しの笛の踊り:2009/12/26(土) 11:38:51 ID:SpwrheL0
>>31
それは言わない約束...


33 :名無しの笛の踊り:2009/12/26(土) 12:07:57 ID:R0pHYM6a
いまだにメンゲルベルク聞いてる化石みたいな人がいるのか…


104 :名無しの笛の踊り:2010/02/26(金) 23:10:10 ID:ZQbqNsb1
メンゲルブルクのマタイがいいと思うんだけど、もう古すぎで人気はあまりないのかな?


105 :名無しの笛の踊り:2010/02/26(金) 23:25:27 ID:NMcArXh1
歴史上メンゲルブルクのマタイが人気あった時代なんてあるのか


106 :名無しの笛の踊り:2010/02/26(金) 23:27:21 ID:2ODLQTtp
>>104
人気というと微妙だけど、何度も再販されてる(Naxosなんかからも出てる)し、需要は意外とあるんじゃないの?
ランドフスカやヴァルヒャのモダンチェンバロ演奏みたいなもんだろう。


157 :名無しの笛の踊り:2010/03/27(土) 12:10:03 ID:PBoDjzzB
メンゲルベルクの演奏は、カッコいい第51曲が無いんだね。残念。
意外と音質が良いのは光学録音の所為かな?


255 :名無しの笛の踊り:2010/07/04(日) 07:16:46 ID:WxgCQUsO
メンゲルベルク指揮のライブ盤には、すすり泣く聴衆が聞こえる。
でも泣く、泣かないはさして問題にする事ではないと思う。
むしろクリスチャンなら、マタイを聴いて深く内省し己れの罪深さを悔い改め、新たな歩みをはじめるということでは。
その表れとして泣く人もいるだろうし、そうでない人もいて構わないと思うが。


256 :モーフィアス:2010/07/04(日) 13:48:50 ID:QGmDeOF9
メンゲルベルクのマタイ受難曲、ドイツの侵略前の異常な雰囲気の中で行われた歴史的名演でしょうね〜
翌年オランダは侵略されメンゲルベルクはナチに協力させられる!
ユダヤ人は収容所に送られ、人々は正に受難の時代を迎える訳です〜
咽び泣くようなバイオリンを聴いたら二度と忘れられない筈だ〜
メンゲルベルクでの一番のお勧めは〜チャイコフスキーの「悲愴」なんだが〜
マーラーの交響曲4番もメンゲルベルク的 天上の世界を堪能できる演奏で〜大い〜好き〜!

257 :名無しの笛の踊り:2010/07/04(日) 17:40:42 ID:WxgCQUsO
現在では、メンゲルベルクのようなロマンチックな情感あふれる演奏スタイルは受け入れられないと思う。しかし、当然のことながら演奏スタイルは時代と共に変化するものだ。

だから今のピリオド・スタイルもやがては古くさいと言われるようになるだろう。
それよりも現在は、小手先の技術にはたけているが、真に心打たれ、心の心底に響く演奏者がいない方が嘆かわしい。

258 :名無しの笛の踊り:2010/07/04(日) 17:44:31 ID:TREkPtmj
>>257
>>それよりも現在は、小手先の技術にはたけているが、真に心打たれ、心の心底に響く演奏者がいない方が嘆かわしい。

現在の演奏家をいったいどれだけ聴いてその台詞言ってるんだ?

261 :名無しの笛の踊り:2010/07/04(日) 19:39:24 ID:WxgCQUsO
>>258
ナマ、CD、DVDを含め数え切れないほど聞いてだ。

529 :名無しの笛の踊り:2011/04/10(日) 08:52:11.20 ID:H+IudkUT
イエス入滅の後、神殿の幕が裂け、地が唸る・・・
このあたりの凄みは

フルトヴェングラー/VPO
カラヤン/BPO
メンゲルベルク/ACO ですね。
古楽器では太刀打ち出来ません。

577 :名無しの笛の踊り:2011/05/20(金) 22:25:15.36 ID:+wRTeaKf

「どんな演奏を好きなろうと自由だが、こんな演奏(メンゲルベルクのマタイ)に『感動した』などど言う人の感性を疑う」
と磯山センセ―は酷評してるけど
すげー好きなんだよなメンゲルベルクのマタイ。

581 :名無しの笛の踊り:2011/05/21(土) 21:13:01.54 ID:MyqNfgHp
メンゲルベルク盤しか持ってないけど、音質良いな。
これだけでも聴き応えあるな

820 :名無しの笛の踊り:2012/03/30(金) 06:50:55.55 ID:cKfTewFX
メンゲルベルクのマタイは一度は聴いておくほうがいいですか。
聴衆のすすり泣く声が聞こえるという有名な売り文句の録音です。
磯山雅氏は「すすり泣くどころか、笑える」とこき下ろしていますが。


831 :名無しの笛の踊り:2012/04/01(日) 21:41:17.01 ID:0naC49N4


| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| ここですすり泣いてて |
|_________|
    ∧∧ ||
    ( ゚д゚)||
    / づΦ


821 :名無しの笛の踊り:2012/03/30(金) 07:16:49.19 ID:NUZdPbgd
話の種に聴いておいても損はないよ。
磯山雅は音楽学者であって評論家じゃないから、一個人の意見として聞いておけばいいよ。

そしてどちらを笑うのかは、あなたが判断して下さい。

822 :名無しの笛の踊り:2012/03/30(金) 10:21:38.66 ID:bOAx3/Ux
一言多すぎるんだよなI教授は

823 :名無しの笛の踊り:2012/03/30(金) 15:28:41.48 ID:gu7NGkmZ
メンゲルベルクのは1曲目を数分聞けばこの後延々何が続くかは容易に想像できる

824 :名無しの笛の踊り:2012/03/30(金) 19:17:02.91 ID:ateoKotK
音楽学者だからって時代考証の専門家だからバカにできない
歴史ドラマとクラシック音楽って遠いようで近い


825 :名無しの笛の踊り:2012/03/30(金) 20:15:20.97 ID:aLr5i5L3
文学芸術系の学者・インテリってのは、
自分なりの人類史を持っていることが前提だからな


828 :名無しの笛の踊り:2012/04/01(日) 21:13:56.07 ID:4Xcb05hA
まあでも、マタイの演奏史を語る上で、ポルタメントを多用したメンゲルベルクの濃厚なロマンチック演奏は避けて通れないと思う

829 :名無しの笛の踊り:2012/04/01(日) 21:19:50.43 ID:Cqzr8xqE
あくまでも演奏史上の価値な
もっともリヒターの様式で受難曲を演奏する奇特な人も日本にいるようだよ
メンゲルベルクもそこまで復権するかな?
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/classical/1261008362/


メンゲルベルクの…
投稿者:Frau 投稿日:2007年 4月26日(木)23時58分47秒
 
メンゲルベルクの「マタイ」のエヴァンゲリストはカール・エルプでしたっけ!?
実は私が初めて聴いた「マタイ」はメンゲルベルクのものでした。とにかくメンゲルベルクなら何でも買う(聴く)といった頃でして、宇野功芳氏が絶賛してるのを未だ知らない状態で聴きました。フィリップスの国内盤で宇野氏が絶賛してるのを読み、また実際に自分でも素晴らしい演奏と感動致しました。
「マタイ」はメンゲルベルクで充分との思いもあり、一般に名演とされるリヒターの旧盤なぞ購入したのはその後随分と年月が経ってからでした。

今でもメンゲルベルクの「マタイ」は好きなのですが、随分と後になって遅ればせながら聴いたリヒターの「マタイ」のヘフリガーの素晴らしさはカール・エルプに匹敵するとの思い、そしてこれが決定的なのですが、第二部のイエスが息を引き取った後にでてくる

Warlich,dieser ist Gottes Sohn gewessen
「まさにこの方は神の子であった…」

という部分の合唱の表現がメンゲルベルクよりもリヒターのものの方が好みで、それ以来メンゲルベルクには申し訳無いのですが、リヒターの旧盤が私にとってのベスト「マタイ」になってしまいました。

ついでに言えば、「マタイ」には幾つも聴き所があると思いますが、私がもっとも好きな場面(箇所)は前述の合唱の部分なのです。

正直に申せば初めてメンゲルベルクの「マタイ」を聴いたときに最初から感動した訳ではなく(やはり、カットしてるとはいえ長いですし)、有名なアルトやソプラノのアリアや度々挿入されるコラールの旋律以外は少々退屈な思いで聴いていた様な記憶があります。

ところが、前述の合唱のところで「この世にこんなにも綺麗な音楽(旋律)があるのか!!」との強い衝撃を受けました。本当に短い部分ですが、この合唱の演奏表現が今のところリヒター旧盤(と日本ライブ盤)が私の一番のお気に入りとなっております。

メンゲルベルクは今でも好きですが、「マタイ」の牙城が崩れた今では、メンゲルベルクの演奏で最も好きなのは第九(勿論、ベートーヴェンの)でしょうか…。此方は「第九はフルトヴェングラーとメンゲルベルク以外は不要」というくらい好きです。
http://6502.teacup.com/mengelberg/bbs/290


 蘇る伝説の巨匠 ウィレム・メンゲルベルク 

「彼のヴァイタリティ、オーケストラ養成についての知識、霊感あふれる情熱、それらは独自の高みに達していた。音楽の分野において、これほどの巨人は稀である」( レオポルド・ストコフスキー )

 マグマの底から全人類の祈りが、絶望的な悲しみを超えて沸き上がって来るかのような、壮絶を極める曲冒頭の合唱の渦・・・・そして第四十七曲。エヴァンゲリストの悲痛な訴えに続き、静やかに奏されるヴァイオリン・ソロの、何と優しく、また哀しいことだろう。よく耳を澄ますと、聴衆の嗚咽すら聞こえて来る。音楽というのはこれ程までに、人の心に訴えかける力を持っていたのか!

伝説の指揮者・メンゲルベルクによる、一九三九年四月の棕櫚 (しゅろ ) の日曜日におこなわれた演奏会の実況録音のバッハ「マタイ受難曲」。私はこのレコードを学生時代に初めて耳にした時、ひざがガクガクと震え、わけもなく涙が溢れてきて仕方がなかった。そして、このバッハの音楽、それにこの指揮者の演奏が、これからの自分自身の人生に、決して欠かせないものになるだろうという、確信のようなものを抱いたのである。

 早いものだ。あれからもう三十年になる。案の定、バッハの音楽は私の心の糧として今も大活躍してくれているし、一方、指揮者メンゲルベルクに対する愛着の念も、日増しに強まるばかりだ。

 ヴィレム・メンゲルベルクは、一八七一年に生まれ、一九五一年に没したオランダの名指揮者である。彼は一八九五年、わずか二十四歳の若さで名門アムステルダム・コンツェルトゲボウ管弦楽団 (現・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 )の第二代常任指揮者となり、一九四五年第二次世界大戦の終結と共に、ナチス・ドイツに協力したかどで、その地位を追われるまで、実に五十年の長きにわたって、このオーケストラを世界一流のアンサンブルに鍛え上げた。

 彼と同世代の指揮者フルトヴェングラー、トスカニーニらが戦後も活躍し、急速に発達した録音技術によって、現在でもかなり明晰な音質でその芸術が堪能出来、現在でも多くのファンを持っているのに対し、メンゲルベルクは先に述べたたように、その活動時期が第二次世界大戦集結までのSPの全盛期に限られているため、残された録音の音質面でのハンディは覆うべくもない。

 メンゲルベルクの名は戦後の一時期、我が国はおろか本国オランダでさえも、急速に忘れ去られていった。フルトヴェングラー、トスカニーニ亡きあとも、ワルター、クレンペラーら後期ロマン派スタイルの指揮者がステレオ期まで生き延びて活躍し、その後はカラヤン、バーンスタインといった時代の寵児ともいうべきスターたちの活躍が、クラッシック界の話題の中心となった。一方メンゲルベルクの録音はまったくの過去のものとして、まるで「なつかしのメロディ」のごとくに、時折思い出したように断片的に発売されるのみだったのである。

 ところが一九八〇年代以降、レコードがCDに取って変わってから、状況は一変する。スターの時代は終わり、指揮者の名前だけではCDが売れない時代になったのだ。世界的にオーケストラの演奏技術や指揮者の棒振りのテクニックは高まった反面、強烈な個性を発散する指揮者は影をひそめ、またオーケストラのカラーもは世界的に均一化の傾向を見せるに至り、それに飽き足らない現代の多くのファンたちは、いきおい過去の巨匠たちの録音を求めるようになって来た。

 また、レコード時代とは比べ物にならない位の低コストで制作できるCDというメディアが普及したことにより、従来はメジャーのレコード会社主流で、スタンダードなレパートリーしか流通し得なかったレコード市場に、個性的な企画を売り物とするマイナー・レーベルが数多く参入するようになった。そして最新のデジタル・リマスタリング技術により、古い録音でもノイズを軽減するなどして、比較的良好な音質で過去の巨匠たちの演奏を楽しめるようになって来たのである。

 このような状況の変化により、メンゲルベルクの録音も見違えるような良い音質で続々と復刻され、これまでの単なる「なつメロ」としてではなく、現代人にとってまったく新鮮なスタイルの演奏として、抵抗なく受け入れられつつある。

 一時期、時代に迎合することが得意な一部評論家たちから、メンゲルベルクの演奏が「十九世紀の遺物」「時代遅れのロマンティシズム」と決め付けられていたのが、いかに誤りであったかということが、多くのファンに認識される日も近いのではないだろうか。なぜならばたとえ時代は変遷しても、人間の「感動する心」は、いつまでも不変なのだから。

 では次に、メンゲルベルクの芸術に具体的に触れてみることとしよう。


        2


 メンゲルベルクの使用したフル・スコアの写真を見ると、実に様々な書き込みがなされているのに、まず驚かされる。彼は演奏に先だって事前に徹底的にスコアを研究し、テンポ、強弱・バランス、アーティキレーション等すべてにわたって、念入りにスコアに書き込んだ。また必要と思われる場合は、オーケストレーションの改変も積極的に行なっている。そしてそれをオーケストラの各パートに伝達し、厳しいパート練習をへて、初めてオーケストラ全体の練習を行なった。オーケストラ練習の際でも、メンゲルベルクはその曲の解釈について、楽員たちに長々と講釈をするのが常だったという。

また、練習前のチューニング ( 音合わせ )も非常に厳しく、チューニングだけでリハーサルが終了してしまったというのも、有名なエピソードである。

 メンゲルベルクのこうした演奏に対する姿勢から伺われるのは、その徹底した職人気質である。例えばフルトヴェングラーは、聴衆を前にした演奏会における「即興性」を重視した指揮者だった。そのため、指揮者・オーケストラ・聴衆の三者が一体化した時には、素晴しい名演となるが、反面出来不出来も多い。それに比してメンゲルベルクの場合はたとえ何百回演奏しても、その演奏レベルは常に全く同じであった。かといって「作り物」くささは微塵もなく、実際に聴いた人々の証言によると「たった今生まれて来たばかりのような、霊感に満ちた演奏だった」という。徹底的に事前の作業をやり尽くし、しかも本番の時に、そのことをすこしも聴衆に感じ取らせない。職人冥利につきるというのは、こうした演奏のことを言うのだろう。

 こうした彼の演奏の特質は、名盤の誉れ高いチャイコフスキーの「悲愴交響曲」( 一九三七年十二月二十一日録音/テレフンケン原盤 )を聴くと一目瞭然だ。自由自在なテンポの変化、まるで一人で奏いているかのようなヴァイオリンの甘美な音色、録音年月を思わず忘れてしまいそうになる絶妙なバランスなど、一流レストランのシェフの味にも通ずる、まさに職人芸の極致である。

 ところでメンゲルベルクの演奏を語る上で、よく取り上げられるのが弦楽器のポルタメント奏法 ( 音をずり上げ・下げする奏法 ) である。メンゲルベルクの演奏を「時代遅れ」呼ばわりする人々の多くが真っ先に問題にするのが、このポルタメント奏法であるが、実は今世紀半ば頃までは、この奏法は弦楽器奏者にとっては全く自然で、当り前のものだった。それが今世紀の中頃から、次第に新古典主義的・即物主義的音楽感が演奏スタイルの主流を占めるようになり、ポルタメント奏法は「時代おくれ」の烙印を押され、次第に姿を消して行くこととなる。

しかしながら、後期ロマン派の音楽を語る上で、このポルタメント奏法は決して無視することは出来ないのである。たとえば後期ロマン派の偉大なシンフォニスト、グスタフ・マーラー ( 1860〜1911 ) の交響曲のフル・スコアには、このポルタメント奏法をわざわざ指定してあるところが何箇所もある。

メンゲルベルクによるマーラーの交響曲の録音は、第四番のライブ録音 (1939年11月9日 ) と、第五番の有名なアダージェット (1926年5月 ) のみであるが、特に後者など、むせび泣くようなポルタメントが、この音楽の本質を語るうえに、いかに欠かせないものであるか、ということを実感させる貴重な証拠である。

マーラー自身も、彼の交響曲の演奏では今日一般に最も評価の高い直弟子のワルターよりも、メンゲルベルクの演奏の方をより高く評価していたと伝えられている。そのことは、マーラーがのちに「第五」「第八」の二曲をメンゲルベルクに献呈したことからも充分に伺い知ることが出来るし、メンゲルベルクもそれに対して、マーラーの交響曲・全曲演奏シリーズという史上初の取り組みで答えた。

 また、ノルウェーの生んだ大作曲家エドゥアルト・グリーク (1843〜1907 ) は、メンゲルベルクが指揮するコンツェルトゲボウ管弦楽団の演奏を聴き、感動のあまり椅子の上に立ち上がり、その指揮ぶりを絶賛して、「諸君、我々はこのような芸術家の存在を誇りに思うべきである」と演説したと伝えられている。

メンゲルベルクはグリークの作品では「ペール・ギュント」の第一組曲 ( 1943年4月15日 ) と、「二つの悲しき旋律」( 1931年6月3日 ) の二つの録音を残しているが、特に後者では、甘くやるせないポルタメントにより、過ぎ去った春の日々と自らの青春の日々とを重ね合わせて涙するグリークの心が、切々と聴き手に伝わってくる、まことに素晴しい演奏である。近年この曲は、特に第一曲目の「胸の傷み」など、やたら深刻ぶった「北風」のような演奏が蔓延しているが、グリークが真に望んでいたのは、メンゲルベルクのように心の底から優しく暖めてくれる「太陽」のような演奏だったのだ。

 今日、特にバロック音楽の世界ではオリジナル楽器で演奏される事が当り前のようになり、楽曲が作曲された当時の演奏スタイルについて、実に様々な研究がなされている。しかし反面、今まで取り上げてきたマーラーやグリークなど後期ロマン派時代の音楽については、それが今日でも広い人気を持ち数多く演奏されているにも拘わらず、ポルタメント奏法をはじめとする作曲当時の演奏スタイルが、現在まったくと言ってよいほど顧みられていないのは、私にはとても不思議な気がするし、また残念である。なぜならば、マーラーもグリークも彼等が生きていた頃のオーケストラの音〜 例えばメンゲルベルク指揮するコンツェルトゲボウ管弦楽団のような響き 〜を念頭において作曲していたはずなのだから。

 いまメンゲルベルクの録音が貴重なのは、これまで述べてきたように、「今日ナマの演奏会では絶対に聴くことのできない音と演奏スタイル」を持っているからに他ならない。現代のような音楽状況が、もしこれからも続くとすれば、メンゲルベルクの録音はますます存在価値を持って、その輝きを増すことだろう。

「人類の至宝」とも言うべきメンゲルベルクの貴重な録音の数々が、今後一枚でも多く復刻され、一人でも多くの方々に聴いていただけることを、私は心から願ってやまない。


ヴィレム・メンゲルベルク/略歴

〔1871・3・28〕
オランダ・ユトレヒト市に生まれる。
両親共ドイツ人で、先祖はドイツの名家の出。
〔1888〕
ユトレヒト昔楽学校に学び、のちにケル
ン音楽院に入学。同音楽院のピアノ料、指揮科、作曲科をそれぞれ首席で卒業・ケルンのギュルツェニッヒ管弦楽団を指揮して、指揮者としてデビュー。
〔1893〕
八十名の候補者の中から選出されて、ルツェルン市音楽監督に就任。
〔1895・10・24〕
アムステルダム・コンツェルトゲボウ管弦楽団の第二代常任指揮者に就任。グリーク、マーラー、R・シユトラウス、ハンス・リヒターに認められる。
〔1898〕
アムステルダム・トーンキュンスト合唱団指揮者に就任。コンツェルトゲボウを率いて、ロシア、ノルウェー、イタリアに演嚢旅行
〔1899〕
パルム日曜演奏会で、バッハの「マタイ受難曲」を演奏。その後毎年の恒例となる。
〔1903〕
初のオランダ音楽祭開催。
〔1904〕
マーラーをコンツェルトゲボウに招く。
その後マーラーは、メンゲルペルクに「第五」「第八」を献呈した。
〔1905〕
アメリカに渡り、ニューヨーク・フィルを指揮。
〔1922〜1930〕
新編成ニューヨーク・フィルの常任指揮者に就任。
〔1928〕
二ューヨーク・コロンビア大学名誉博士号を受ける。
〔1933)
ユトレヒト大学音楽教授に任命される。
〔1938・1・27〕
ロイヤル・フィル協会の招きにより、ロンドン・フィルを指揮。
〔1945〕
第二次大戦終了後、戦特中に政治的に無知だったメンゲルベルクが、両親や先祖と同国人のドイツ人に協力して、国内及びドイツで指揮を取ったかどで迫放され、スイスに亡命。
〔1951・3・21〕
追放解除の噂がチラホラ聞こえ出した頃、スイスの別荘で淋しくこの世を去る。
  

     ( 管 一著・「ウィレム・メンゲルベルク」ディスコグラフィー
      〔音楽の友社刊行「レコード芸術」誌〕による )
http://www.medias.ne.jp/~pas/mengelberg.html


           / 乃了   `ヽ  ヽ∨∧ヽ \`、
              //_/7 ′     ハ `、〈〈_ノ ノ   ヽヽ
       r,ニY/」 ′〃   , ' l| ト、 l l ̄l「`、   | ハ
       __〉イ〃 ,  /, l   / ,イ!} |リ 八 ヽ |ハ
       〈 rク// ,′ ,'/l‖ ,' /厶‐十ナ/}小、ヽ ∨/  、
    , -ァ7イ {  l   |l ハ ト、 { l /ィ乏f千ァ l |ヽ}_ノ   、、 `、
  // 〃l ハ  、 レイ下丶、j′'ヾ゙ジ  // rヘ川 U ヽ ヽ
//   {l { い、、\V,ィf赤       //  ,ィ|l |  ト、 \
{_/    ヾ \/ ヽ\ヾ`ー'′       { !  仆//  ,′ | ヽ  ヽ
         ノ{ {  八_〉、   ` , - ァ  ゝ, ' V ハl /   ハ }   \
      , -‐'´/ハ 、 { |lヽ、      ∠ニ-V リ / /  ∨
  ,.|ヽ .ヽヽ、ヽ| ,'  ,..-,, `ヽ''-''-'、 __ヾ  ,,. -‐ V"´ __ `ヽ、_ ,
r''".| ヽヽ _,.´,, ',´´        `ヽ、'   ,.. - ''"´   ``ヽ 、`ヽ、ィ
|  ,|  川ヽ、/ /ト-;:::、        u丶 '´         .....ヽ、 i  /l
| ハ  |! j/ ./::`:::::、                        .:::r::、::.ヽ レ'  |
   ヽヽヽ .、 i   : : : : : : : : : : : : u: :/   、: 。: : . . .  . : : : : : ': : : :|    k   
    ヽヽヽヽ、ヽυ : : : : : : : : : : :, :'´: : : : : :ヽ : : : : : j : : : : : : : : : : :,'r;;=;;、  \
     \\ヽ ヽ、: : : :υ: : , : : : : : : : : : : : : : : : : : ι: : : : : : : : ιl L;;;ノ    \
      | l! ヽ、ヽ、--‐ '´: : :     : : : : : : : : :`: ヽ、、_:_:_:_:.: :j'´}:::::::::::::::::...   ┌――--,
、        ヽv-、.ヽ ヽ   ,,,_   ゜        : : : : : : : : : : : :υ,' .i   ,\::::::::      /
  `ヽ 、   丿 ヽゝ,, ::' "´        . . . . . . . . . .: : : : : : : : : :/ ,'.   ' ̄ \::::r';;ヾ /
     ``ヽl. |   y \          ``''''     . :-、、: : : ,' ,'.、     ̄ ̄ :::ヾソ ,'
        ヽヽ  ト、 `` フ                 : :ヽ-く ,'  ヽ、  __    _,(,,,,,,,,,..--
: : : : : .     ヽ、|!: :`‐‐': : :                。 : : : :\ u  ,,,ι- ''"´´
: : : : : : : .      ,,,.. -- ーー-、 __             : : :,, -‐''´

______________
______________


4) 宇野功芳が語るSPの世界:ワルター盤を中心に


SP盤特別鑑賞会 2003/10/12 金沢蓄音器館

金沢蓄音器館ホームページ
http://www.kanazawa-museum.jp/chikuonki/index.htm


1)シュトラウス,J./皇帝円舞曲(1937年録音)
2)ブルーノ・ワルターから宇野功芳氏にあてた声のメッセージ(1952年録音)
3)ベート−ヴェン/交響曲第6番ヘ長調,op.68「田園」〜第2楽章(1936年録音)
4)ハイドン/交響曲第100番ト長調「軍隊」〜第1楽章(1938年録音)
5)ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調,op.67〜第2楽章のリハーサル風景の一部(1958年頃)
6)モーツァルト/セレナード第13番ト長調,K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」〜第1楽章(1936年録音)
7)シューベルト/交響曲第8番ロ短調「未完成」〜第1楽章抜粋(1936年録音)
8)ブラームス/交響曲第3番ヘ長調〜第1楽章抜粋(1936年録音)
9)モーツァルト/ドイツ舞曲,K.605-3「そりすべり」(1937年録音)


●演奏
ブルーノ・ワルター1,3-9)指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1,3-4,6-9);コロンビア交響楽団(5),ブルーノ・ワルター(語り*2)
宇野功芳(解説),水口哲哉(聞き手)
--------------------------------------------------------------------------------

↑今回の鑑賞会に使われた蓄音器。これは始まる前に撮影したので,扉が閉じていましたが,これをあけるとかなり豊かな音が出ていました。


日本のクラシック音楽評論の世界では,恐らく吉田秀和さんと並んでもっとも著名な方である宇野功芳さんが金沢に来られ,ブルーノ・ワルター指揮のSPレコードを蓄音器で一緒に聞きながら,解説をしてくれる,という企画が行われました。私自身,宇野さんの推薦するブルーノ・ワルターのLPレコードを聞きながら,クラシック音楽への関心を高めていきましたので,「生の宇野さんを見てみたい」というミーハーな気持ちでこの企画に参加してきました。

宇野さんといえば,「○○は△△だけ聞けば十分である」といった率直な語り口で,いろいろと毀誉褒貶の激しい方ですが,宇野さんの語る曲やCDを聞いてみたいという意欲をかき立ててくれるという点で,大変大きな功績を残してこられました。特に朝比奈隆さんのブルックナーがあれだけ注目されたのはこの方の力によるところが大きいと思います。

今回は,14:00からと18:30からの2回に分けてSPレコード鑑賞会が行われました。とても立派な蓄音器(宇野さんの話によると,今回使われたクレデンザ42078という蓄音器は,家一軒分ぐらいの価値のある,大金持ちにしか持てないようなすごい蓄音器とのことです)を沢山所蔵している金沢蓄音器館にとっては,資源の有効利用という点からも大変相応しい企画だったと思います。

会場には50人ほどしか入れないのですが,年輩の方を中心に満席になりました。蓄音器というのは,かつては,その存在自体が偏愛の対象になっていたようですが(宇野さんのトークの中でも「盤よりも蓄音器が大事」という話が出てきていました),その魅力の片鱗に触れることができました。

第1回目では「宇野功芳が語るクラシック小品」と題して,クライスラーの自作自演など,小編成の曲目が掛けられたようですが,私が出掛けた第2回目の方では宇野さんが敬愛するブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルの歴史的名盤が集められました。いずれもこの館で所蔵しているSPレコードだったようです。この館で所蔵していたということは,それだけ当時から名盤だった,ということが言えそうです。

会場は,金沢蓄音器館の1階にある多目的ホールでした。この建物に来るのは2回目なのですが,蓄音器自身の音を聞くのは初めての経験でした。どういう音が出てくるのか期待しながら待つことにしました。今回使われた蓄音器は,先にも書いたとおりの名機だけあって,音量も十分でした。蓄音器といえば,貧しい音というイメージがあったのですが,大変豊かな音だと思いました。もちろん,迫力のある重低音はなく,ダイナミックレンジも狭いのですが,刺激的な響きが全くしない,自然なサウンドはデジタルな音声に覆われている現代人にとっては,癒しの音色だと思いました。蓄音器というのは,CDプレーヤーなどとは違い,楽器に近い雰囲気があると,宇野さんは語られていましたが,そのことも納得できました。

今回の鑑賞会は,宇野さんと聞き手の水口哲哉さんによる対談形式で進められました。この水口さんの質問がとても率直で,しかも的を得たものだったので,宇野さんから面白いお話が次々と出てきました。宇野さんは,既に70歳を越えられていますが,とても若々しく見えました。話ぶりにも文章そのままの明快さと率直さがあり,聞いていて飽きるところがありませんでした。

以下,プログラム順に話された内容などを箇条書きで要約してみました。

●皇帝円舞曲

ワルター/ヨハン・シュトラウス2世:皇帝円舞曲 Op.437 1937
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13833997

宇野さんがアルバイトをして初めて買ったレコード。宝物だったが,戦後,父親に「(家計を助けるために)売ってくれ」と頼まれて,仕方なく売った。
この曲はシュトラウスの曲の中ではドイツっぽい曲で,ウィーン出身の指揮者クレメンス・クラウスなどは取り上げていない。オーストリア人は意外に好まない曲である。
この演奏からは,昭和初期の音がする。全然力んでいない。

●ワルターから宇野さんへのメッセージ
宇野さんは1952年頃からワルターと文通していた。その辺の経緯は「クラシック・プレス12号」(その付録CDにそのメッセージが収録されている)に詳しく書いてある。ワルターがマーラーの大地の歌をデッカにレコーディングした頃のことである。
ワルターの弟子(住み込みの書生のようなもの)にして欲しい,という今から思うと無茶なお願いをしたこともある。

●ベートーヴェン:田園〜第2楽章

Bruno Walter, 1936, Beethoven, Symphony No. 6 in F major, Op. 68 "Pastoral"
http://www.youtube.com/watch?v=ak6ljTvaw4Y
http://www.youtube.com/watch?v=ZZvD0mBp5kY


情緒たっぷりのウィーン風の演奏。
楽器(特に木管楽器)の音の溶け合い方がすばらしい。クラリネットはウラッハだろう。

SPレコードは数分単位で盤を裏返したり交換したりする必要がある(この日は蓄音器館の方が担当されていましたが,大変ご苦労さまでした)。この曲は何回も聞いたので,CD復刻版で聞いていても,裏返す箇所が来ると立ち上がりたくなる。
楽章の最後はとてもあっさり終わり,悲しいはかなさが残る。

宇野さんはベートーヴェンの交響曲の中では3番,6番,9番が好みである。「7番はできそこないですよ」などとおっしゃられていました。

「朝比奈さんは「7番の2楽章を自分の葬儀の時に演奏して欲しい」と語っていましたけど...」と水口さん話を向けると,宇野さんは「照れ隠しですよ。本当は「英雄」の葬送行進曲を演奏して欲しかったのではないですか」と反論。


●ハイドン:軍隊〜第1楽章

ハイドン 交響曲第100番「軍隊」 第1楽章 ワルター指揮 1938年録音
http://www.nicovideo.jp/watch/nm6566510
http://www.youtube.com/watch?v=P88fk21hl0g
http://www.youtube.com/watch?v=Z-kIR1d0NGc
http://www.youtube.com/watch?v=YoH5AVfL-Bc
http://www.youtube.com/watch?v=MkcaVnE7IW4


ハイドンは男性的で粗野なところがある。ワルターはこれをモーツァルトのように演奏した。テンポがとても遅い。

近頃,この曲でワルター盤を推薦している評論家は私だけである。

学者たちは「当時は一弓で弾いていたからテンポは速かったはず」というが,「だから速く」と考えるのは間違いである。

#私の感想:テンポの落とし具合が絶品。おっとりとした雰囲気から微笑みが感じられる。


●ベートーヴェン:運命〜第2楽章のリハーサル

ベートーヴェン 交響曲第5番 《運命》 第1楽章
http://www.youtube.com/watch?v=jTCe6A6p5GU

ワルターが80歳を越えた頃のリハーサルを収録したもの。
とてもゆったりとしたテンポである。呼吸が深い。若い指揮者はこの深い呼吸がなかなかできない。

#この演奏のみLP盤だった。恐らくコロンビア交響楽団が演奏しているものだと思われる。

●モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク〜第1楽章

Bruno Walter, 1936 - Mozart, Eine kleine Nachtmusik, K. 525
http://www.youtube.com/watch?v=HsuSoZQ6QJ0
http://www.youtube.com/watch?v=guutbaWC8HU


コロンビア交響楽団との演奏は,ワルターが教え込んだような音楽だが,ウィーン・フィルとの演奏は,ウィーン・フィルに任せているところがある。冒頭などは,即興的で様子を見ながら始まっているので,アタックがとても弱い。
角のない演奏で,とても女性的である。

ワルターはウィーンには4年ほどしかいなかったが,とても相性が良く,第2のふるさとのように思っていた。

ただし,ウィーン・フィル時代のワルターは,「ウィーン・フィル+ワルター」というところがあり,ワルター本来の持つドイツ的な面はあまり出ていない。
#この演奏はSP盤の片面に収録されていたので,曲中に中断することはなかった。

●シューベルト:未完成〜第1楽章抜粋

Bruno Walter-Unvollendete-1936-VPO
http://www.youtube.com/watch?v=zrH8CbNdFcw
http://www.youtube.com/watch?v=80AVBrIflDk

http://www.youtube.com/watch?v=kyY32OVwqYs
http://www.youtube.com/watch?v=-snx_QsjIOE
http://www.youtube.com/watch?v=pBJzWHnsNqo
http://www.youtube.com/watch?v=vneay2YZ1Pw
http://www.youtube.com/watch?v=UoSTdlDgoOY
http://www.youtube.com/watch?v=j-BjD6B9trA


この曲は最近,7番と呼ばれるが,やはり8番。偶数ですよ。この曲は「8番「未完成」」しか有り得ない(宇野さんは,偶数番と奇数番と曲の印象とのつながりを重視していらっしゃるようです)。学者は頭が堅いだけです(宇野さんの方が堅いという説も...)。

だけど,ドヴォルザークの8番は何番でも構わない(この辺は結構勝手ですね。だけど,何となく気持ちは分かるような気はします)。

1楽章最後がディミヌエンドで終わるのはとてもはかなげである。これを最近はアクセントで演奏することが多い。曲のイメージが全然違ってしまった。学者の説もマユツバだと思う。

聞き手の方が

「それにしてもこの楽章は暗い曲です。宇野さんは指揮されたことはありますか?」

と尋ねると,

「ない。私は,自分が過去の名演より良い部分を出せる曲だけ振っています」

との回答。


●ブラームス:交響曲第3番〜第1楽章抜粋

ブラームス:交響曲第3番ヘ長調 Op.90
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17639121

ブラームスの好きな人は多いですが...宇野さんはあまりお好みではないようです。水口さんの方は「私は好きです」

3番はちょっと変な曲です。この点は聞き手の方も「同感」。特に最後,ゆっくり終わるのが辛い。ブラームスは,そういう人である。「優柔不断なんですよ」
クララ・シューマンに対する思いから話がそれて,マーラーの奥さんのアルマ・マーラーの話題に。当時の芸術家はみんなアルマのことが好きで,アルマも次々恋人を作っていた。マーラーは馬鹿にされていたのでは?

だけど,この演奏は良いです。ブラームスではなく,ワルターの演奏が良い。ホルンがとても良い。


●モーツァルト:そり滑り
#中間部の鈴の音の響きが夢を見るように美しい。鑑賞会はこの小品で締められました。


●SPレコードについて

SPレコードは,ソロ楽器の方が合っている。いくらクレデンザでもオーケストラだと音が固まってしまう。

というわけで,「○○は好き,△△は嫌い」という宇野さん独特の言いまわしもポンポンと出てきて楽しめるトークとなりました。今回,ワルターの演奏と宇野さんのトークを聞いて私が感じたのは次のような点です。

SPレコードに収録されている演奏は,SP盤を裏返す時間を意識してテンポ設定がされているのでは?戦前の演奏は,主題呈示部の繰り返しをしているものは,ほとんどないが,SPレコードで聞いていたことを考えると納得できる。

今回のトークの中で,「悲しさ」「はかなさ」という言葉が何回か出てきた。SPの魅力はこの辺にありそう。

宇野さんは,「学者がこういうから」という演奏が嫌いである。世の中全部が,一つの方向に向かったら面白くない。宇野さんのような考えの演奏家が居た方が面白いと思った。
http://www.oekfan.com/review/2003/1012.htm


古雅、優美のきわみ〜ヴァルター&ヴィーン・フィルの「田園」 2011年07月29日

戦前のヴィーン・フィルの響きがどれほど美しいものだったかはいろんなところで語られている。一番よく知られ、影響力も大きかったのは宇野功芳氏が書いたヴァルターとヴィーン・フィルの戦前録音についての評論だろう。

私も氏一流の名調子に乗せられた?くちで、この世のものとも思われぬ究極の美、とか何とかそんな感じの口上を目にして、それほど美しい音ならぜひきいてみたいと思い、EMIからヴァルター、ヴィーン・フィルのモーツァルト録音を集めたセットが出た時に、貧乏学生が清水の舞台から飛び降りる思いで購入した。そして、期待に胸を躍らせながらきいてみて、拍子抜けというか、はっきり言えば非常にがっかりし、失望したのを覚えている。これのどこが美しい響きなのか?こんなものに大枚(当時の私には)をはたいた自分の愚かさを悔やんだが、後の祭りである。その頃からヴァルターをあまりきかなくなったのは、その心の傷?がいくぶんか、あるいは大いに影響したのだと思う。

まあ、当時の私はうぶな素人で何も知らなかったのだが、失望させられたのはある意味で当然である。今の私も依然として素人だが、悪達者な知恵だけはついたので、それがどういうことだったのか今ではわかる。私が購入したEMIのCD復刻は、上と下からプレス機にかけて押しつぶしたような音で、中高域だけが妙に強調されてキンキンと下品に響き、もやついてふやけた低域のせいで腰の据わらないヘナヘナの演奏にきこえるという、きわめてろくでもない代物であった。まあ、今はもっとひどいものが世に出回っているが・・・いずれにせよ、あんな音ではヴィーン・フィルもBBC響も大して変わりはない。

その後も何度かヴァルター、ヴィーン・フィルのSP録音が復刻され、そのたびに「今度こそ・・・」の望みをかけて購入しては、やはり失望させられる・・・というのを繰り返し、ついに私はあきらめた。戦前のヴィーン・フィルがいかに素晴らしいか、という話そのものがガセで、香具師の口上にうまうま乗せられた自分が馬鹿だったのだ、と思うことにしたのである。さらにORFEOレーベルから続々と出た「正規音源」による戦後のヴィーン・フィルのライブも、そのもっさりとした鈍く暗い音で追い討ちをかけてくれた。その後しばらく、ヴィーン・フィルほど名声ばかり高くてろくでもないオーケストラはない、というのが私の中では「定説」となった。(音盤に詳しい方であれば上記のくだりを大笑いしながら読まれたことだろう。だが、実際には笑いごとではない。復刻の粗雑さ、無神経さが実際に貴重な文化財の真価を損ない、見誤らせているのである。)

その見方が変わったのは比較的最近になってのことである。フルトヴェングラーやシューリヒトとヴィーン・フィルの音源を良心的な復刻でいくつかきき、自分が「メジャーレーベル」「正規音源」というブランドや「リアルなSP復刻」などという売り文句に惑わされていたのだ、ということに気が付いた。たしかにヴィーン・フィルの音は、紛れもなくヴィーン・フィルの音だったのである。それに気付いてから、あらためてヴァルターとヴィーン・フィルによる戦前録音の良好な音源を探し始めた。そうして、ようやく納得の行く音源をいくつか入手することができた。そのうちのひとつが、今回ご紹介する「田園」である。

この「田園」にきく最盛期のヴィーン・フィルの響きは、たしかに後にも先にもきかれないような絶世の美である。舌の上で淡雪のように解けていく上等の砂糖菓子みたいなすっきりとした甘さ、軽さ、柔らかさ。そう、こくのある充実した響きなのに、何とも音の身ごなしが軽く、柔らかなのである。陰翳、色彩感の妙、独特のアクセント、すべてが魅力的で、古雅、優美のきわみ、といいたい。ヴィーン・フィルの響きの見事さだけでなく、ヴァルターの指揮ぶりも実に端正で行き届いたもので、この時期のかれのセッション録音では出色の出来だと思う。

ただ、この演奏ではひとつだけ、ひどく気に入らないところがある。終楽章のクライマックスで、唐突な(としか私には思えない)ディミニュエンドとクレッシェンドが繰り返されることだ。これは当時の演奏習慣なのか、楽譜に何らかの根拠があるのか、ヴァルター独自の解釈なのか、それは別にいい。たんに効果的でなく、演奏から受ける感銘をスポイルしているだけだ。ヴァルターは後年のコロンビア響との録音でも、ずっと目立たない形ではあるが同じことをやっている。目立たないというだけで効果的でないことに変わりはない。実演などではこの解釈がうまく「決まった」例もあるのかもしれないが、この演奏では感動を深めるよりは削いでいると思う。

今回公開する音源についてひと言。いくつかある手持ちの音源の中から、プライベートLPから起こしたものを選んだ。金属的な針音がやや耳に付くが、それを差し引いても音のたたずまいと品の良さが一番優れているのをとった。
http://blog.livedoor.jp/thetatoshi/archives/cat_157467.html


オーパス蔵 ホームページ
http://www.opuskura.com/index_j.htm


OPUS蔵の位置 2007年05月08日

OPUS蔵というレーベルをご存じだろうか。第二次大戦前後のSPからCDに復刻して販売するレーベルである。CDの帯に宇野功芳氏の熱いコメントが書かれているものもあり、私もつい乗せられたりしてこのレーベルのCDを10枚以上所有している。

本来は、マスターテープを所有しているEMIなりPHILIPSなりがCDを制作したほうが、いい音でできるはず。だが、OPUS蔵が出す復刻CDは、不思議や不思議、本家本元が出すCDに肉薄するか凌駕することがほとんどである。もっとも、SP復刻だけあって、チリチリというノイズがどうしても発生するから、それを嫌う人には向かない。

私はこれまでOPUS蔵から発売されるCDを高く評価してきた。既に同じ録音を所有している場合でも、OPUS蔵から発売されると買い直したこともよくあった。iPodやその他mp3ウォークマンが全盛の時代、少しでも良い音質を求めてCDを買い直すなんてまったく時代に逆行するようでもあるが、本人が楽しいのだからいいじゃないか。それに私の周りの知人に聴かせれば、大抵は音の違いはわかってくれる。音楽をさほど聴かない人でも大抵は違いを認識する。「そんなに違わないでしょ」と私の趣味を嘲笑する人も、いざスピーカーを前にすると「なるほど」とうなずく。

とまあそんな訳で、いい状態の録音を探す旅を正当化しつつ続けるわけである。ちなみに今まで最も多く入手した録音は、カザルスが演奏したバッハの無伴奏チェロ組曲とドヴォルザークのチェロ協奏曲、それからフルトヴェングラーの第九(1951年,有名な「バイロイトの第九」)じゃないかな。CD,LP合わせるとどちらも6種類ずつ購入した。メンゲルベルクのマタイ受難曲は4種類。もちろん演奏日まで含めて完全に同一の演奏。ここまで来ると、さすがに無駄じゃないかなと自分でも思うが、慣れてくると段々と知識が増えてきて、「この復刻のほうがいいはず」という判断が可能になってくるから、後に買った物ほど大体いい音質をしている。だから後悔はあまりなく、「いい買い物をした」という思いが強い。

さてOPUS蔵の話に戻るが、ターンテーブルを購入しLPを聴くようになるまでは、OPUS蔵はどうしようもないEMIのヒストリカルレコーディングの復刻を補ってくれるよい選択肢だったが、今はもう一つの選択肢がある。つまり、古い時代のLPを直接手に入れる、という方法である。「古い時代の」という限定をしたのは、80年代に再販されたLPで音質の悪い物が何枚かあって、買い直しを余儀なくされたという苦い経験ゆえである。この選択肢だと、HS2088方式なりARTリマスタリングなりの人工的なサウンドから解放されてまともな音質で聴ける。そこで、昨日、友人たちが拙宅に集まったのをいい機会と、私を入れて5人で聴き比べをしてみた。もっとも、本格的な聴き比べをするなら、使用するLPの選定から徹底的にやらなければいけない。ゆえに、以下のレポートは、


「OPUS蔵ってホントにいいの?」

「マスターテープから作ってないCDってどうなの?」

ということを少々考えてみたいための記事、気軽にお読みください。


第1試合:ワルター指揮ウィーンフィルのモーツァルト「プラハ」(1936)

使用LPは、Angel Records の GR-19。昨日届いたばかりのLPをかけてみて、思いの外、音質がよくなかった。なんかフィルターを通して聴くようなもやもやした音。1936年の録音とはいえ、悪すぎる。1920年代の録音ぐらいにしか聞こえない。古き良き時代のウィーンフィルの雰囲気こそ伝わってくるが、音が貧弱で分離も悪く、オケの各声部がどうかけあっているのか楽しめない。
(このLPの名誉のために言えば、カップリングされているモーツァルト「ジュピター」は、まっとうな音で聴ける。)

一方で、OPUS蔵は、うってかわって、音が硬くてウィーンフィル特有の土臭い雰囲気をやや失っているところと、低音の響きが甘いのが残念であるが、LPに比べれば遙かにクリアな音質で素晴らしい。ライナーノートに、「『プラーハ』はこもり気味の音なのでなるべくクリアーなものを用いたつもり」と書いてあるから、エンジニアの努力が見事に実を結んだ格好であろうか。いい仕事をしてくれたと賞賛したい。

この録音については、LPの音を好んだ人もいたが、OPUS蔵のほうが、優勢であった。LPで聴くなら、もっと状態のよいものを探さねばなるまい。

第2試合:ティボーのヴァイオリン小品集よりヴィターリのシャコンヌ(1936)

使用LPは、Angel Records の GR-79。一聴して、ヴィターリのシャコンヌが哀切極まる響きで奏でられていることに驚いた。それほどにティボーの演奏を私は素晴らしいと思った。そして、EMIの録音の捉え方の深さを、賞賛したいと思った。

対して、OPUS蔵は、以前にジャック・ティボーを聴くの稿でも書いたとおり、この演奏家のヴァイオリンの響きを伝えるにはあまりに音が硬質すぎて、魅力が減衰してしまう。音は明瞭に捉えられており、その意味ではLPで聴いたよりも聴きやすいかもしれないが、ヴァイオリンの表情が半分以上失われているように聞こえるのは残念である。

ティボーについては、フランクのソナタも聴き比べたがやはりLPの勝利だった。


第3試合:カザルスのバッハ「無伴奏チェロ組曲」より第6番(1938)

使用LPは、Angel Records の GR-2018。これはLPもOPUS蔵もともにしっかりと音が入っており、評価が難しかった。だが、低音域の締まりのよさにおいて、OPUS蔵はLPに一歩劣る。

カザルスが低い音を弾いた時、OPUS蔵だと「ぼわーん」と間抜けな音が聞こえてくる。その他の点では、充分に善戦していたし、購入を推薦できるCDと思われるだけにあと一歩及ばず残念であった。

ということで昨日の3試合は2勝1敗でLPの勝ち。たまたまEMIに偏ってしまったので付言すれば、先日メンゲルベルクの演奏したバッハ「マタイ受難曲」をLPとOPUS蔵で聞き比べたときはLPの圧勝だった。マスターテープから制作されたものに勝てないのは仕方ないかもしれないが……。

おそらくは機会を改めてまた書くことになると思うが、平林直哉氏がリマスタリングしているGrandMasterシリーズは、よっぽど状態のよいLPを探してこないと勝ち目がないぐらいによくできたCDだと思っている。それに比べれば、OPUS蔵は復刻の仕方が少し甘いと思う。

もしLPをもっと買い揃えて比較すれば、さらに分は悪くなろう。加えて、エンジニアの音の好みが(ある程度は仕方ないにせよ)露骨に現れているのもちょっと首を傾げてしまう。ターンテーブル買うのはお金と場所が……という向きもわからないではない(私が長らくそうであった)。だが、OPUS蔵の音よりも簡単に安価で手に入るLP(ヤフオクで数百円〜千円程度)の音質が良かったりすることはザラにありそう。

OPUS蔵が店頭のヒストリカルレコーディングの棚に並ぶCDの中ではいい音質を誇ることは間違いないが、所詮は「復刻」であると言わざるをえないのだろうか。きちんとマスターテープから制作されたLPを聴かないのはもったいないよと警告しつつ、一方で、もっとよい復刻レーベルが登場することを期待するのである。
http://muse.senrenja.net/2007/05/opus.html

オーパス蔵:究極のコレクション 2007.07.23 Monday

 この一覧を改めてみていると、本当に良いもの目白押しですね。私の大好きなブルーノ・ワルターなんかが特に。「田園」と「アイネクライネ」なんて凄いカップリングですよね。こけは確か私の手元になくてBBピアノに置いてあるような。

 まだ買っていなてけど、ブラームスの第3とハイドンの86番というのもいいですね。ブラームスは「KOCH」の輸入盤で持っています。ハイドンも「Pearl」か「IronNeedle」かどちらか忘れましたが持っています。第86番のワルターはやりたい放題もいいところで、ここまで表情たっぷりな演奏も、そう聴けないと思います。

 マーラー第9は「Dutton」の高音質リマスタリングをずっと愛聴しつづけました。オーパス蔵だとどうでしょうか。因みにこれはナクソスのリマスタリングも出ていますね。

 他の指揮者を見てみると、メンゲルベルクのチャイコフスキー「弦セレ」。これはいいです。ポルタメントかけまくりのロマン溢れる演奏です。私は確か「DANTE」で持っていたかな。因みに1987年時点での宇野功芳氏のこの曲のベスト3は、メンゲルベルク、ストコフスキー、バルビローリだったと思います。

コメント こんにちは、torefoglinefan様。

 「オーパス蔵」とは簡単に言うと、主に戦前に録音されたクラシック音楽のSPやLPといった音源からCDへと復刻化し販売している日本のメーカーの事です。「Dutton」は同じくオーストリアのCD復刻会社。「Dante」・「Peal」等はちょっとどこの国か分かりません。
 
 CD・レコードの場合、演奏を録音し、その録音音源を保有しているレコード会社は著作隣接権という権利を50年間保有します。その期間には他のメーカーからその録音のコピーが販売すると著作権法に触れることになりますが(著作権は一部の国を除き世界的に保護が受けられる)、50年を過ぎると著作隣接権が消滅するため、録音音源を保有しているレコード会社だけでなく、どのレコード会社からも販売するということが事実上可能となります。「オーパス蔵」は、その著作隣接権が切れた録音を、かつて市販された保存状態の良い状態のSPやLPを探しだし、それぞれのプレイヤーで再生・CD化を専門で行っています。
 
 何故、そのような古い演奏を聴くのか?現在のデジタル録音の演奏で聴けば良いのでは無いか?と思われる方もいらっしゃると思いますが、torefoglinefan様が名前を挙げた、フルトヴェングラー、ワルター、メンゲルベルクなどは、21世紀の現代には絶滅したと言ってもよい19世紀後期ロマン派の流れを汲んだ貴重な名指揮者達ばかりなのですし、オーケストラの団員の中には晩年のブラームス・マーラー直々に指導を受けたプレイヤーもいるはずなのです。実際私のCDラックの中にも1930年代のSP録音がいくつかありますし、40・50年代のテープ録音の愛聴盤が数多くあります。しかし、残念ながら、年代のため音質が良くないものが当然ながら多いのですが、それでも元の録音保有メーカーの復刻CDよりも、別のメーカーから発売された復刻CDの方が音質が良く、尚かつ演奏そのものが別物のように生まれ変わるというケースが時折あります。そのため、クラシック・ファンの間には名演奏と評される演奏のメーカー通しの音質聴き比べという現実が特に90年代から生まれてきたのです。

私は「オーパス蔵」のCDはあまり好きではありません(ゴメンナサイ)。SP(LPも)音源特有の針音が気になりますし、頭痛がして聴き疲れしてしまいます。
基本的にワルターの戦前の録音は本家の東芝EMIなどの復刻で聴いていますし、戦前のフルトヴェングラーの演奏は、93年ロシア・メロディア社保有(ドイツでテープ録音された音源は、戦後処理の際、戦勝国ソ連により戦利品として摂取された)のマスターテープからの復刻CDを聴いています(基本的に80年代末にソ連から独・グラモフォン社へ返還されたテープより音が生々しい。マスターテープのコピーをソ連が”返還”したとよく言われますが、非常にミステリアス!)。

但しオーストリアの「Dutton」社は聴きやすく音質も素晴らしいですよね。torefoglinefanさん絶賛のワルター指揮マーラーの第九交響曲はもちろん、往年の名チェリスト・カザルスのチェロ協奏曲や、バルビローリ指揮のシベリウス交響曲選集(2番は宇野氏も絶賛!)も本家のEMIを超えたものとしてお勧め!


____

オーパス蔵の復刻は、音に厚みがあり中低域が豊かで弦楽器が美しく私は大好きです。

ワルターの復刻版では「田園」「アイネクライネ」「ジュピター」が特にすばらしい音だと思いますし私の愛聴盤となっております。
  
他には「カペー弦楽四重奏団」、「クライスラーの小曲集」、「カザルスのバッハ無伴奏組曲集」を愛聴しております。

それにしても、20世紀前半の名演奏家達の名人芸を手軽に聴くことが出来るのは、本当に素晴らしく幸せなことだと思います。magnet


_______


「Pearl」はイギリス、「DANTE」はフランス、「IronNeedl」はイタリア、「KOCH」はオーストリア。確かそうだったと思います。

 オーストリアには「Preiser」というところもあり、ワルターの「田園」や「軍隊」のSP復刻がとても良かったです。ところでこのレーベル、スレザークの歌ったドイツ歌曲集もあり、これをカタログで見つけたときは嬉しかったです。確かキングインタがこのレーベルを取り扱っていたので、上記交響曲2枚とともに、地元のCDショップの方に言って取り寄せてもらいました。ただし、「オーパス蔵」が出てこちらの方が音が良いと思います。

 magnetさん、カペエSQを忘れていました。私も「Bidulph」(英)で出ているのを買い集めました。言われてみるとこれが「オーパス蔵」で出ているのですね。これは買いでしょう。

 因みにこのカペエSQ、なぜ知っているかと言いますと、「ワルターの田園」の項で触れた例の1960年代の音楽誌。交響曲をはじめとした名盤の紹介は、宇野功芳氏よりも前からレコ芸の交響曲部門を担当しておられる小石忠男氏が書かれたのですが、これとは別の紙面に、いろいろな評論家が選んだ「この一枚」がありました。そのなかで宇野が選んだのは、「今さらこんな古いものをと言われるかも知れないが、」と前置きしたうえで、カペエの四重奏曲だったのです。

これが1960年代の文章ですよ。因みにカペエの録音も1929年。当時から宇野さんは骨董趣味だったのでしょうか。
http://trefoglinefan.jugem.jp/?eid=82

ワインガルトナーのベートーヴェン

このCDは宇野功芳氏が絶賛していたので、買った次第。


ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」 交響曲第8番
ワインガルトナー(指)ウィーン・フィル 録音1936年

フルトヴェングラーやシューリヒトにも匹敵する「エロイカ」の登場
オーパス蔵の大ヒット
迫力を求める人には物足りないと思っていたワインガルトナーの表現が全く違う感動をあたえてくれたのである。

今回オーパス蔵によって復刻された「エロイカ」を試聴し、そのすばらしさに驚喜した。こんなに凄いベートーヴェンだったのだ!

ワインガルトナーの表現が全く違う感動を与えてくれたのである。

8番は従来、涙をのんでS=イッセルシュテットの方を推薦して来たが、オーパス蔵盤の登場により「第8」のベストワンはワインガルトナーと躊躇なく言えるようになった。今までのCDに比べ音に力のあること華やかささえ感じられることにびっくりさせられるだろう。/宇野功芳(ライナーノートより)

この人の薦めるCDは小生にはあまりヒットしない。我が家はモノラルの古い録音でも鑑賞に堪えるが、あえてこのCDを聴く必要はなかろうと感じる。名演なんだか知らないが音が悪過ぎる。結論として、SPで室内楽はOKだが、オケはダメだ。宇野氏と自分とではひと世代違うのである。
http://compact.exblog.jp/12398855/


フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第3番「英雄」 2012年 01月 12日
"ウラニアのエロイカ" オーパス蔵

今日は1944年、フルトヴェングラーがウィーンフィルと残したベートーヴェン交響曲第3番「英雄」、通称"ウラニアのエロイカ"を聴きます。

使用した音源は、「オーパス蔵」で復刻したCDで、 これは以前ニコニコ動画に投稿して、記事にもしていたんですが、楽章単位でより高音質で再投稿して欲しいと言う要望ありましたので、今回再登場と相成りました。

フルトヴェングラー "ウラニアのエロイカ" オーパス蔵 音質改善版 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16659502?via=thumb_watch
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16660123?via=thumb_watch


この「ウラニアのエロイカ」いわれるレコードの復刻は過去たくさんありまして、其々の音質評価等詳しくはこちらをどうぞ。

ウラニアのエロイカ
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/FurtwanglerCD/Beethoven/sym3/19441219.htm

この「Classical CD Information & Reviews」さんを見るとたくさんあるんですよね・・ オーパス蔵盤は例の宇野功芳氏が絶賛したものです。もうこれが決定版だと。笑

今回は音源アップ時の音声ビットレートは640kbps、ちなみにYouTubeは映像込みで一律360kbps、CDは1411kbpsですね。

果たして・・

【ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55『英雄』】
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1944年12月16〜20日(19日)、ウィーン、ムジークフェラインザール


多少は、エネルギーが凝縮された感じで、以前の音源より緊張感が感じられます。ただ、オーパス蔵の音にいつも付きまとうある種の抜けの悪さは変わらないですので、恐らくその抜けの悪さのようなものはオーパス蔵の音なんでしょう。

復刻レーベルの音としては、情報量的には
「グッディーズ・ダイレクト・トランスファーCDR」
http://goodies.yu-yake.com/

の方が正しいでしょう。SPに刻まれた情報をくまなく拾った、そんな音です。ただちょっと腰高で音が客観的なので、そこをどう聴くかでしょうね・・

オーパス蔵の方はやはりその音の抜けの悪さを何とかして欲しい気はします。この辺は、使用している機材の影響を受けますから、オーパス蔵さんには機材の再考が必要なのかもしれないな、と最近思います。
http://sucala.exblog.jp/17597987/

うーん、要するにオーパス蔵のCD は宇野功芳さんの様に


1. 高年齢になってもう3000ヘルツ以上の高音が聞こえない

2. 高音も低音も出ない真空管アンプ(マランツ♯7 + クォードU)とスピーカ( ワーフェデール + Axiom80)を使っている

の条件を満たさないと良い音にならないという事でしょうか?


次の音楽界の七不思議の答えもどうもこの辺にありそうですね :


@ 何故 二流指揮者のカラヤンにあれだけ人気が有るのか?

A 何故 死んだ音しか出せない B&W のプロ用モニター・スピーカーがあれだけ一般向けに売れるのか?

B 何故 音楽も音もわからない菅野沖彦さんがオーディオ評論の第一人者と思われているのか?

C 何故 演奏の良し悪しが全くわからなかった吉田秀和さんが音楽評論の第一人者と思われているのか?

D 何故 知性も教養もゼロの宇野功芳さんが音楽評論で前代未聞・空前絶後の成功を収めたのか?


                                           ,. -―._====>ミ'ヽ、
                                        ,.ィ,. -‐''二 ̄  ___   `゙'(
                                         //x‐''"´ ァ‐''"´_二ニ-――=-ミ、
                                     /':/,.ィ´ / >'"/       _
                                    / / イ////,.イ ,.-‐ァ'"´ ̄,.ィ"´ ̄
                                 _z=/ :////=,/ // ̄/フTメ==、_,.イ´   _,. -‐
                               // Y /// /-ノ とテ斧ミメx、  `Х ,.ィ''"´
                                  レ'/ Y :/ /イ:/´。``':ミテメミト/ /   u  ,.ィ
                                   /´/ノ:/, ' .l{   :::::::::::ヾ(゙///      ,.l /
                      _              /// 、_リ     :::::::::::::::....     /,.ィ!
                    ,. -‐''"´  ``ヽ         /(ノ7            ,; :::::::::::..  / xく l!ノ
               ,. '"           \ ,.-‐=ァ==ァ':l/'.    __  、   ::::::::::o'´xェ;-‐''" l!/
            ,,. '"      _,.          Y  ./ ,.ィ/.とノ     ヾヽ.ヽ    ::::::::::ヾヾミメ,_,.ノl!_
           ,. '"    u  /         ヽ、(   {:l/ ./l      、 ヾ,、}    ::::::::::::.Yi芽.l-‐|
        ,. '"  _,.っ,,.__o゚ノ            ヽ`゙'ー--‐'".:::::l         ノ'       ::::::::ノ'"}lメ! ,レ
    ,. ,. -‐''"´ -::r=:、:.、  ``丶、      u     ヽ.   / .:::::::l、   ι´´   _     ::::U '゙’-ィ-/
 ,. ' イ    /::::::::::゙'':´::::::::..                ヽ./  ..:::::::::>:..、      ´u (( ̄``ヽ=ァニ二イ/,ィ
'"/     : : :: : : : : : : : : :                              `゙' ァ,.、 _  ゞ_,.-‐'ア´__ノ__ノ ノ
/                                            /´// / ̄/ / / ̄(/ //
                                    ´``ヽ、   l、:l l /  / / // //_/// ,
                     _,.:==    _____   __ `丶 \l l :/ / // ///  / /,.イ /
   ι                u'´       (ノ ̄ ̄フ‐'"´ ̄    ̄``丶 、゙ ‐- l.,l_l //l { / / l !(
            u                     ,. ィ''´               `丶、 `ヽ、Y :l l iヾ
                            /             ι       ヽ、 ヾ、 l ! !〃
                              , '         u              ....-\: ヽl / / l
、ij               ι           /                       ..:::::::::::::ヽ_j./ / l
::::ヽ、                  ,..:::::                               :::::::ヽ:(;;;':)/ /
::::::::::\               ...:::::::::::                           ...:::::::::::゙'´:! /

___________________
___________________

3. 宇野功芳先生が大嫌いな演奏 _ カラヤン・レガート


カラヤン 動画

http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3

http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3&oq=%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3&gs_l=youtube-reduced.3..0l4.1554.3677.0.4348.9.9.0.0.0.0.309.2022.0j2j6j1.9.0...0.0...1ac.1j4.zol2awpx5Sw
http://www.youtube.com/results?search_query=karajan&oq=karajan&gs_l=youtube.3..0j0i4j0l2j0i4j0l4j0i4.20616.23599.0.24458.7.7.0.0.0.0.125.864.0j7.7.0...0.0...1ac.1j4.6WUHbDHxc4U

カラヤン Herbert von Karajan ―音楽が脳を育てる 茂木健一郎

クラシック界の帝王と呼ばれた男、指揮者・ヘルベルト・フォン・カラヤン。
生誕100周年、没後20周年を迎え、今も世界を魅了してやまないその音の秘密を、脳科学者・茂木健一郎氏が読み解きます。

ザルツブルク・ベルリン・ウイーン。カラヤンゆかりの三都を旅し、茂木氏が辿り着いたキイワードは「レガート」。

音楽用語で「なめらかにつなげる」を意味するこの言葉こそ、カラヤンを成功に導き、現代日本に生きる我々に最も必要なことと喝破する。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3-Herbert-Karajan-%E2%80%95%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%8C%E8%84%B3%E3%82%92%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%8B-CD%E4%BB%98%E3%81%8D/dp/4418092234


小節の縦線が聴こえない、レガートの響き。
美とは一点の曇りもない美しい表面を持っていなければいけない。

カラヤンのレガートへの拘りは異常なほどだったという。
http://renoncule.exblog.jp/11491231/


  その頃のフルトヴェングラーはベルリンでの非ナチ化法廷での審理の最中であり、1946年12月に無罪となった後も米国を中心とする西側メディアからの追求と批判をあびていた。 その時期にカラヤンは、戦中時代からの行き違い(勿論、芸術性における解釈には違いがあるが)について、フルトヴェングラーとの和解を試みている。

1946年初冬、フルトヴェングラーが列車でチューリッヒに行く途中、カラヤンの滞在先であるザンクトアントンで途中下車し会いたいというカラヤンの願いに同意し、二人はアールベルクで対面をした。

対談自体は、フルトヴェングラーのカラヤン嫌いがあまりにも強く、修復の余地はなく失敗に終わった。しかし、後年、フルトヴェングラーはカラヤンのレガート表現の資質について、こだわりも悪意も捨ててカラヤンをほめ妻に語っている。

「カラヤンはほんもののレガートが使いこなせる。自分で学んだに違いない。
教えられて出来ることではないからな」と。

  歌うようなオーケストラ的レガートを正しく理解し、使いこなさなければ、第九交響曲や19世紀から20世紀初頭の多くのドイツ作品を指揮することが不可能であることをフルトヴェングラーはよく心得ていたからである。
http://www16.plala.or.jp/annys-house/karajan.htm


チェリダッケが、カラヤンのことを

「音は美しいが中身がない」

と言って、インタビューアーが

「でもカラヤンは世界中で知られていますよ」

と言ったら

「コカ・コーラだって世界中で知られているさ」

と言った話は有名です。


チェリビダッケは他にも

「トスカニーニは一流の演奏家だが音楽家として二流だ」

「オーマンディのような凡庸な指揮者がよくストコフスキーの後を継いでフィラデルフィア管の常任指揮者になれたものだ」

「人は水だけでもしばらくは生きていけるが、アバドの退屈な演奏を2時間聴いたら心筋梗塞を起こすだろう」

「ムーティは素晴らしい才能の持ち主だが、トスカニーニと同じで無学だ」

「ベームは音楽の解らないジャガイモ袋」


等、マスコミが喜びそうなことを言ってました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1377955283

クナッパーツブッシュ
「(私がカラヤンみたいに暗譜で指揮をしないのはカラヤンと違って)楽譜が読めるからだ」


__________


カラヤンがモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」を演奏していたときのこと。その上演になぜか立ち会っていたクレンペラーが突然大音声を発した。

「いいぞ カラヤン、いいぞ、決して皆が言うほど悪くない!」

カラヤンは、それ以後決してクレンペラーを許さなかった、という。
http://nyhanako.exblog.jp/10641334


川口マーン惠美 『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』

カラヤンについては、共にその黄金期を過ごしたベルリンフィルのコントラバス奏者だったハルトマン氏は、次のように語っている。

カラヤンは素晴らしい業績を残した。しかし、亡くなって、まだ二十年も経たないのに、もうすでに忘れられつつあるような気がする。

ところが、フルトヴェングラーは、没後五十年以上経つのに、いまだに偉大で傑出している。あなただって、フルトヴェングラーのために、ここまで来たのでしょう。
あなたの求めている『フルトヴェングラーかカラヤンか』という問への答えは、おのずと決まっていくかもしれませんよ。
http://blog.livedoor.jp/weidows95/tag/%E3%83%AC%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88


405 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 16:05:35.14 ID:7ySo7EVD
カラヤンが子供騙しな指揮者だったって事は本当ですか?


406 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 16:35:44.59 ID:ij4qrj9g
三分の一くらい本当です。


407 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 16:55:44.92 ID:n6gAFbdL
子ども騙しの最右翼はフルヴェン。
初心者のおれが「ここでこうやったらカッコイイ〜」
という解釈でやってくれるからわかりやすかった。

でもいずれネタがわかってしまい飽きてしまった。

それになにをやっても芝居がかってて鬱陶しくなった。
時代物として聞くならいいだろう。
シゲティとかカザルスとかコルトーもそう。


409 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 17:10:23.49 ID:jU7IpzTY

大衆化路線をそんなにバカにしちゃいかんよw。
カラヤンが早くからメディアの可能性に着目して、大量にレコードを出したから、批評家にも仕事のチャンスがたくさん回って、手厚く稼がせてやったわけだ。

その上アンチ批評家がフルヴェンやクナを聴け!と読者を説教したものだから、そちらのレコードもよく売れて、レコード会社は更にウマーw。

結果として俺たちは、氾濫したメディアのおかげで何時でも何処でも好きなように音楽を聴けるようになったんだし、評論家ごっこまでして遊べるようにもなったわけw。
感謝しなくちゃ。

410 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 19:04:43.55 ID:iZCOeSva
クラシック鑑賞は高尚な趣味で敷居が高い、という時代が短からず確かにあったんだよ。 それを居酒屋でオッサンが談義できるレベルまで降ろしてくれたのがカラヤン。


411 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 20:23:11.71 ID:bGTHVZUa
>>410
>>それを居酒屋でオッサンが談義できるレベルまで降ろしてくれたのがカラヤン。

いや、カラヤンではなく、宇野功芳などの俗悪音楽物書きのお陰で、クラシックが、居酒屋で呑んでるオヤジや、電車内でスポーツ新聞を広げてるようなオッサンでも語れるような庶民の文化となったのだよ。
少なくとも日本では確実にそうだと思う。

413 :名無しの笛の踊り:2012/11/06(火) 20:36:05.66 ID:cmXB50aQ
フルベンやクナなんか聴いてるの世界中で日本人だけらしい
同じ日本人として恥ずかしい
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/classical/1347016336/


岡本太郎

「きれいであってはならない。うまくあってはならない。心地よくあってはならない。
ほんとうの美とは、きれいとか、うまいとか、心地よいなどとは反対のものなのです。」

宇野功芳
「その本物の美しさと正反対なのが、カラヤンの演奏だと思う。」
http://www.geocities.jp/descanso_sabatical/music/classical/bruckner/conductor/karajan/karajan9bpo75.html

宇野功芳
現在、“帝王”と呼ばれる指揮者にカラヤンがいます。その人気はすばらしく、まさにスターですが、それはカラヤンの美男ぶりや洗練された指揮姿によるもので、音楽的な実力は明らかにベームのほうが上なのです。

芸術というものは芸術家の心が正直に反映します。カラヤンの演奏は音が美しくて、角がなくて、実にスマートですが、いささか表面的で聴く人の心を打ちのめすような内容の深さに欠けています。

彼がオペラを好み、ベートーヴェンをあまり得意にしていないのはそのためでしょう。ところがベームは違います。華やかなオペラよりは、内容できかせるモーツァルトとベートーヴェンを最も得意にしているのです
http://www.tokai-med.ac.jp/staffs/obara/sb/log/eid250.html

宇野功芳

エロイカ 朝比奈盤
カラヤン/ベルリン・フィルなど、オーケストラは数段上だが、いくら技術的に優れていても、本当に魂のこもった迫力において大阪フィルより落ちる。それはカラヤンの指揮が外面的だからであろう。
http://classicalmusic.livedoor.biz/archives/50856054.html


指揮者の中には、実演第一主義とでも言いましょうか、コンサートでの演奏が全てであって、録音用の設備を整えたスタジオで、何回も取り直しを繰り返し、果てはテープの継ぎはぎ迄して、出来上がりの完成度を高める様な、そんな録音は絶対に取らないと言う、言わば硬派のご意見の方も多く居そうです。

その言葉が批難している対象は実はカラヤンなのです。

彼の完成させた録音はですから、プロが楽譜と突き合わせれば、恐ろしく楽譜に忠実な事に驚くのでは無いかと思われます。また、彼程耳の良い人も珍しかった様で、楽隊の鳴らす和音の中の、単一の楽器の音のずれを聞き逃さなかったと言われます。

加えて、記憶力抜群の指揮者でして、殆どの曲を暗譜で演奏したらしいのです。これは長大な時間の掛る膨大な楽譜のオペラでもそうだったと言われます。彼の残した映像を見て居ますと、協奏曲の伴奏オーケストラの指揮も原則的には暗譜で指揮して居ます。この事からも彼の暗譜力の素晴らしさが伺えます。
http://koten.kaiteki-jinsei.jp/080619.html


「売れる」演奏とは? 
カラヤンとリヒテル相容れない巨匠と名録音の知られざる裏側

ベートーヴェン作曲の三重協奏曲。
この曲、ピアノがリヒテル、ヴァイオリンがオイストラフ、チェロがロストロポーヴィチ、そしてカラヤン指揮でベルリン・フィルという、これ以上考えられない夢のような豪華な顔ぶれの録音があります。


BEETHOVEN - The Triple Concerto in C Major, Op. 56 - Oistrakh/Rostropovich/Richter/Von Karajan
http://www.youtube.com/watch?v=gbXiCaf0H9Y
http://www.youtube.com/watch?v=TpO0xqCIzwE
 
そのレコーディングについて、リヒテルがドキュメンタリーフィルム「リヒテル(謎>」の中で知られざる裏について語っています。

     ・・・・・(以下引用)・・・・・
 
三重協奏曲のレコーディングが悪夢だった。カラヤンとロストロポーヴィチ、オイストラフと私。2対2の戦争だった。カラヤンは私の不満顔に首を傾げた。

私はうわべだけの演奏が嫌だった。
オイストラフも失望してしょげかえっている。

一方、ロストロポーヴィチはただ目立とうとする。
私とオイストラフが不満だったのは第2楽章のテンポの遅さだ。だが、ロストロポーヴィチはすぐカラヤンに追随した。カラヤンが"これでよし"と終わろうとするから、私がやり直しを頼むと

"一番大事な仕事がある!"

・・・・写真撮影さ。
我々はバカみたいにヘラヘラ笑ってる。おぞましい写真だ。見るに耐えない。
 
     ・・・・・(以上引用)・・・・・


それにしても、一触即発の緊張感の中でのぶつかり合いだったということが想像できます。 
ロストロポーヴィチのチェロは、録音を聴く限り、気迫十分、間違いなく全盛期の演奏そのもの。実際は、ロストロポーヴィチもカラヤンと対立し、席を立って出て行ったという穏やかではない一場面もあったようです。
 
問題の2楽章、レガート奏法を多用し、艶やかで美しい音楽を追求するカラヤンからすると、やはりテンポは上げられなかったのかな、と思います。
カラヤンは、どうすれば「売れるか」ということをよく分かっていた人だと思います。
超有名演奏家を一同に集め、カラヤン美学で音楽を作り上げれば必ずヒットする。

そこが、生涯をただ純粋に音楽だけに捧げた孤高の芸術家リヒテルとは相容れなかったところだったのでしょう。
 
しかし、カラヤンのおかげで、本物のクラッシック音楽がある特定のファンのものだけではなく、一般の人々にまで受け入れられるようになったのです。そういう意味ではカラヤンの功績は大きいと思います。裏で何があろうとも、一筋縄ではいかない巨匠たちに、ここまですごい演奏をさせたカラヤンの手腕も見事。この名演奏から感じられる異常なまでの緊張感を生み出したのは、またしてもカラヤンの仕掛け?とふと思ってしまうのです。
http://blogs.itmedia.co.jp/nagaichika/2010/09/post-7296.html

“カラヤンの第1回目の「チャイ5」セッション録音”

チャイコフスキー 交響曲第5番 カラヤン&フィルハーモニア管
録音年:1952年5月ー6月、1953年6月 ロンドン、キングスウェイ・ホール
第2楽章ホルン・ソロ: デニス・ブレイン
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%881840-1893%EF%BC%89_000000000018904/item_%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA%E3%80%81%E3%81%8F%E3%82%8B%E3%81%BF%E5%89%B2%E3%82%8A%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E3%80%80%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3%EF%BC%86%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%AE%A1%E3%80%81%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3_1231305

参考
Tchaikovsky - Symphony No. 5 in E minor, Op. 64
Wiener Philharmoniker Orchestra, Herbert von Karajan
http://www.youtube.com/watch?v=lRr9QaTi9lg


アナログ本来の持ち味を生かした復刻で定評のあるOPUS蔵のリリースだけに大いに期待したのですが、かつて発売されたEMI盤(7364602)よりも、音の伸び、ハリ、スケール感、各楽器の輪郭が明らかに劣ります。フーベルマンのチャイコフスキーなど、生々しい訴えかけを再現した復刻を知っている者にとっては、この結果は全く意外です。EMI盤をお持ちの方は、買い替える必要は全くありません。

演奏そのものに生命感が漲っていないものはアナログで聴いても同じ…とは決して思いませんが、少なくとも音の粒子が宿している微妙なニュアンスや深みを追及するタイプでないカラヤンの演奏は、ライヴ録音は別として、録音の美しさを前提にしなければ厳しいものがあるのでは…、と改めて考えさせる結果となりました。

演奏自体は、後年のカラヤンの基本形がここですでに完成していたことが確認できます。全体的に大人しいイメージですが、細かく聴くと例のカラヤン・レガートが後年の録音ほど練れていない分だけ露骨な形で表出されるので、その意図があからさまになりすぎて、音楽の流れを寸断する結果にも繋がっています。

時代掛かったルバートが控えめに盛り込まれているのも特徴的ですが、それがいかにも中途半端。よく揶揄される「表面的」というイメージを決定付けてしまいかねない演奏と言えましょう。

第2楽章のブレインのソロも、他の録音と聴き比べるまでもなく、彼だけが持ち得る閃きがまるで感じられない(EMI盤でも同様)のが信じられないほどで、それこそライナーに書かれている「スケール豊かなふくらみ」が抑え込まれているのですから痛恨の極みです。真に本領を発揮したときのブレインがいかに素晴らしいかを痛感していれば、「このブレインが素晴らしい」などと軽々しく言えないはずです!

第3楽章はカラヤンに相応しい楽曲のはずですが、綺麗に整えようとする意図ばかりが先走り、「ほら、こんなに素敵ですよ」と語りかけてくる箇所が見当たりません。勢いに任せた演奏=生命感のある良い演奏、とは言えませんが、人間的な自然な律動を抑えて音楽を組み立てようとすることの無理が表面化してしまい、いたたまれません。

終楽章も、展開部冒頭の8分休符がゲネラル・パウゼになっている珍妙さ以外は、後年の録音とスタイルは同じ。しかし、音自体に輝きと自信がなく、スケールも小さく、個々の奏者のセンスも封じ込まれているようなもどかしさが終始付きまとうので、当時のフィルハーモニア管の魅力を味わうとしても、肩透かしを食らいます。

しかしこの録音の後、オケの個人芸が自分より注目されることがないように徹底的に意識すること以外は熟考を重ね、1975年に(DG)に比類なき金字塔を築くのですから、この録音こそがその理想に向けての第一歩だったと言えるかもしれません。


第1楽章のツボ

後年の録音で顕著となる独特のぬめりを持つレガートがここでも出現。
メンゲルベルクほどではないが、73小節でわずかにテンポを落として19世紀的なニュアンスを漂わせるが、香りが立ち上ってこない。
活気付くことなく、媚を売るようななよなよとした進行。
まったく非の打ち所のない美しいフレージングで、響き極めて均整が取れているが、心に直に訴えかけるものに乏しい。


第2楽章のツボ
スコアを忠実に再現しているが、イメージを喚起させるニュアンスには乏しい。
注目のD・ブレインのソロも、ここでの演奏は何度聴いても彼本来の音楽性を発揮しているとは思えない。カラヤンが自分よりも彼が注目されてしまうことを恐れて何らかの操作をしたのだろうか?と勘ぐってしまう。
血の気が失せた顔で何やらワーッと叫んでいるだけのような感じ。
まるで心ここにあらず。
各小節の第1音は、縦の線をあえてずらして響きに広がりを持たせようとしているが、その全てが機械的。オケもその必然性を感じ取りながら弾いているとは感じられない。
スコアに書かれたとおりのスケール感は表出しているが、最後のぎりぎりのところで足を引っ張るような力が作用し、フォルテ4つの箇所に至っても、音楽が突き抜けないのは実にもどかしい。その原因は録音の古さだけではない。オケの弾きにくそうな顔が目に浮かぶ。


第3楽章のツボ
リズムがいかにも鈍く、楽想の持ち味が生かされていない。靴底にガムをつけたまま踊らされている感じ。
214小節からの終結部は音量を落とし、カラヤン特有のレガート節を徹底尾的に盛り込んでいるのは、後年の録音では影を潜める表現。場面転換にメリハリを与えるという点では大いに功を奏している。
http://www.wakuwakudo.net/review_chai5/karajan_opk7029.html

カラヤンの「大地の歌」をデジタルマスターリングLPで聴く

カラヤンには個性がないのではないだろうか。

それとも時代に応じて演奏スタイルを変えてきたから、統一された特徴や演奏スタイルというものが無いように見えるのか。

演奏を聴いて、それがカラヤンの指揮によるものだと特定できるものは、音響的にはあっても、音楽的には余りないことが経験的なことだ。

カラヤンはゲルマン的なところとラテン的な所を併せ持つが、逆に言えば無国籍のグローバルさ・・・インターナショナルテイックなものをもっている、というよりそうなってしまったのは・・・カラヤンの美学によって楽曲の持つローカルエリア的風土を排除したことにその要因があるような気がする。

言い換えれば、母国語があるのに、エスペラント語に置き換えてしゃべって表現するようなところがあるので、万人に理解されるようで、主観的すぎる翻訳が必ずしも上手く行ってないから、誤解を産むとが多いような気がする。

初期〜中期のカラヤンは、ザッハリヒな演奏スタイルだったが、カラヤンレガートが象徴するように、超メジャーになってからのカラヤンの演奏の特徴は、楽曲の解釈はあくまでもカラヤン自身の美学の帰結であり、誰がどこでどのような経緯で作ったのかなどは眼中にないようで、あくまでも楽譜とカラヤン自身の美学で音楽が成立する。

中期以降のカラヤンは、カラヤンレガートがあらわす如く、自分の美学に基づいて、音楽をソフティフィケートすることに専念するようになった。

注目すべきは、基本的にはザッハリヒな演奏スタイルなのだが、レガート、フェルマータなどを多用することでロマン主義的な演奏スタイルに思わせるような所があることだ。

万人に好まれるがコアなクラシックファンから嫌われるのは、カラヤンの美しさを追求する没個性の美学にあるのではないか。

マーラーの曲に内包されるものは、ドイツ辺境や周辺の地の民謡や踊りのメロディとリズムの引用、近代的和声とのシナジーを高めること、それらによって、音楽に新たな生命を宿らせた事なのではないか。

しかも楽曲には合唱やソロが登場するものが多く、つまり人間の声とオーケストラの調和と非調和、融合と拡散、協調と離反が合いまみえる曲であるといえる。

「大地の歌」では、意識しない宗教性と民族性、東洋思想、ペンタトニックスケール、現世否定と死への恐怖と憧憬、刹那的快楽主義、不条理、自己矛盾といったものが塗り込められているように思われる。

どうしても揚げておかなくてはならないのは、カラヤンは大体において、合唱を人間の声としてではなく、楽器のように扱っているということであるが、果たして合唱無しソロオンリーの大地の歌の場合はいかにしたのか。

例えばモツレクのキリエの終わりのキリエエレイソーンのフェルマ−タは、息が続くギリギリまで合唱を引っ張るが、このようなやり方は随所に見られ、声は楽器であるというカラヤンの考え方の表れであると思う。

ソロの声をも、楽器として扱うような気配があるや否やも、大事なチェックポイントである。

以上の観点を踏まえた、カラヤンの「大地の歌」、果たして如何なるものだったか。

音楽が美しい、いや美しすぎるぐらいだから、全曲をいとも簡単に聴けてしまった。
美しさの要因は、ここでもやはりレガートそしてフェルマータの乱用に近い使用である。

ソロの歌唱においてもそれは同様で、このためにソロ歌手の息が苦しそうな気配が、とくにはテナーのルネコロに著しい。

しかしマーラーを表現するテクニックとして、ひたすら美しい音楽づくりが果たして相応しいだろうか。

カラヤンはいつもたいていそうなのだが、「再生音響」に強いこだわりを持っているようで、この演奏録音では普段聴こえない音がハッキリクッキリ聴こえてくる。

ライブ映像で見る光景として、普段は中央よりやや下向きに吹く管楽器群が、一斉に楽器を上方前にして吹く事があるが、これは作曲家の指示かそれとも指揮者の指示なのか、マーラー演奏にそれが多いように思うが果たしてどうなのだろうか。

カラヤンの良いところ、それは再生装置で聞く人のことをも慮っていて、ホールの位置によってライブでは掻き消されてしまう楽器の音を、きちんと聞こえるようにしていることだ。

終楽章琵琶の音を模倣するためなのか、マンドリンの音色が今まで聴いたどれよりもよく出ており、マンドリンなどは使用してないと思うような録音がある中、音響を重視したカラヤンはマイク技術あるいはマスターリングで、それを再生装置で聞く聴衆のため、克復したとみてよいだろう。

1楽章に出てくるフルートのタンギングは、クレンペラー盤が最もよく表出していたが、カラヤン盤もよく聴こえてくる。

先日録画したアバド/BPOライブでは、フルートのタンギングが埋もれてしまいがちになったが、実際はそんなものなのであろう。

マーラーの曲は、押しなべて管楽器がハイライトされるものが多く、ホルンは勿論、特にイングリッシュホルン(コールアングレ)に活躍の場が多いが、それも含めた管楽器の音の表情付けだが、カラヤンは管楽器のソロにまで、たっぷりのレガートを要求する場面が多いから、弦が加わった暁には、滑らかに美しく聞こえるが音楽が甘ったるい蜜のようになるから、ひと舐めするには良いが、たくさん舐めると、その諄さが勝ってしまい、たちまち嫌気が襲ってくる。

確かにマーラーには、神秘主義的陶酔の感覚があるとは思うが、音楽は決して甘ったるくは無いはずだ。
ポルタメントを多用したメンゲルベルクよりさらに甘ったるくロマンティックに聴こえる。

アダージョ楽章では、ストイックで病的なものを感じることさえあるマーラーであるが、カラヤンはひたすら美しさを追求し、陶酔に導こうとするかのような演奏をする。

ソロ歌手のコロとルートビッヒだが、いずれもバックのオケとのマッチングがよくないのか、コロは神経質な歌唱が随所に見られるし、ルートビッヒも、クレンペラー盤であれだけの歌唱をしながら、カラヤン盤では楽曲の・・・詩の内容の深堀が出来てないのか、心なしか自信なさげに聴こえる。

クレンペラー盤よりも新しいカラヤン盤だから、どうもカラヤンの声も楽器という仕業のような気がしてならないが、ソロの歌唱にも無機質さを要求したのだろうか。

デジタルリマスターによるLPレコードは、確かに耳触りはよいのだが、リマスターで倍音成分まで除去してしまった結果なのか、本来持っているオケの音のエネルギーまでそぎ落としてしまったように聴こえる。従ってオケがBPOであるか否かの判断がつきにくいが、それを無視すれば、実に上手な演奏であることは間違いないことだと思われる。

カラヤンはなおさらに、録音によっても大きく評価は変わるから、今回聴いたLPのデジタルリマスターは、技術水準の問題、エンジニアの耳、商業的勇み足のいずれか、あるいはそれらの複合の産物のように小生は想っている。
http://sawyer.exblog.jp/14085204/


________


カラヤンがゲルマン的でない理由

ヘルベルト・フォン・カラヤン
(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)

アルメニアの姓で、「黒い肌の息子」という意味。アルメニア人は、国民の九割近くが -ian、もしくは -yan で終わる姓をもっている。
カラヤンの四代前の先祖は、ギリシア領マケドニアの生まれで、カラヤンニスというギリシア人的な語尾の姓をもっていたという。さらに、もともとは、アルメニア人であり、カラヤンのカラはトルコ語で「黒い」を意味するとある。

時間順に見ると以下のようになる。

カラ トルコ語(テュルク語) 「黒」

カラ アルメニア人の個人名になる。

カラヤン アルメニア人の姓になる。

カラヤンニス(Karaiannis, Caragianni) ビザンティン帝国に仕えたギリシャ人で、ギリシャ風の姓になる。

フォン・カラヤン(von Karajan) 高祖父のゲオルク・ヨハネス・カラヤニスは、現在のギリシャ共和国のコザニで誕生。1767年にウィーンへ向けて出発して最終的にはザクセン地方のケムニッツに定住。兄弟と共にザクセンの服飾産業の世界で成功してフリードリヒ・アウグスト3世に仕えて1792年6月1日に爵位を受け貴族の称号である von を添えた。
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1336057.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2


1908年にザルツブルクで貴族の子として生まれた。兄のヴォルフガング(1906年-1987年)も後に音楽家になっている。

ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。

ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。

1938年のベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座でオペラを指揮することとなった。

1954年、フルトヴェングラーが急逝したことで、翌1955年にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督の地位に登りつめ、1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3

■カラヤンはアルメニア系か?

祖先はアルメニア系とも言われているが、ギリシャ・マケドニア系のカラヨアンネス家の子孫の説が有力と私は考えている。


1)カラヤン本人が否定していること、アイデンティティが存在しない(アルメニア系なら肯定する)、

2)カラヤンはローマンカトリック、アルメニア系ならばアルメニア使徒教会となる、

3)カラヤニスから-nesを取ってカラヤンへ改名した事実があり、最初から-ian、-yanではなかった。


それから、大アルメニア王国(それ以前のウラルトゥ王国(BC247-228)は現在のアルメニアと地理的に重なるがアルメニアなのか疑問)が存在したのは紀元前190-66年の間、その後ペルシャ、ローマの支配を受け、離散している。

2000年以上も前に日本へ渡来した朝鮮半島の人は朝鮮系とは言わない。万が一、カラヤンの先祖が古代アルメニアから移住していたとしても、そのアイデンティティがないのではアルメニア系とは言えない。

以上、私の結論ではカラヤンはギリシャ・マケドニア系のオーストリア人である。

ちなみにHerbert von Karajanの「von」は貴族を表す。「von Karajan」、高祖父のゲオルク・ヨハネス・カラヤニスは、現在のギリシャ・コザニで生まれ、1767年にウィーンへ移住、最終的にはザクセン地方のケムニッツに定住し兄弟と共にザクセンの服飾産業で成功した。この功績により神聖ローマ帝国フリードリヒ・アウグスト3世より1792年6月1日に爵位を受け貴族の称号である「von」の使用を許されている。

しかし、第一次世界大戦によりオーストリア帝国は消滅し、1919年4月に制定されたオーストリア共和国憲法によって貴族制が廃止されたことから、正式な氏名は「ヘルベルト・カラヤン」、パスポートにはこのように記されている。

「ヘルベルト・フォン・カラヤン」は芸名とも言える。
http://worldcity-mm.blogspot.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3


_____________


A. mahler_no_2さん
♪レガート奏法はお嫌いですか?
私はカラヤンのレガート奏法が好きなんですが、お嫌いな方にお尋ねしますね!
《どんなところがお嫌いですか?》


Q1. makitabadaisukiさん
例えばモーツァルトの音楽でもフレーズが「トリスタン」の無限旋律のようにベタベタになってしまうところです。 私は、衣に油が残ってベタベタした天ぷらより、カラッと揚がっている天ぷらの方が好きです。

つまり、モーツァルトは「カラヤンときらめくストリングス」的な演奏より、虚飾がなく颯爽とした演奏の方が好き、てことです。これは好き嫌いの問題であって優劣の問題ではないことをご理解下さい。

ちなみに私は、ベタベタした「トリスタン」(をはじめ、他のワーグナー作品やマーラーなどの後期ロマン派の音楽)も好きです。


Q2.kurbane_2001さん
『春の祭典』については、作曲者に「あれは冗談だろう」と評価されたのにカラヤンはショックを受けましたが。
旧式レガード奏方自体が死んでしまった代物ですからどうしましょう?

俺的にはジュリーニが具体的に指示する細やかな指定、そこから生まれる自然なレガートが凄いと思うんですが(また贔屓の音楽に対する太鼓持ち)

カラヤンは単に流すだけ。一見するとあまりに無策なベートーヴェン。
しかしその深層?

無策通り。

ジュリーニの場合、自然なカンタービレから必然的に生まれるレガート奏法
カラヤンの場合はフォルムを整えるためのレガート。
単発録音ではそういう態度があからさまに分かってしまいます。
それはそれで楽しい時間を満喫できますが、後には何も残りません。

Q3.roland_gr1さん
簡単にシンセや打ち込みで再現できるので(嘘)有り難みが無いので嫌いです(嘘)。サンプリングの機械やソフトでもそれが売りになっています(笑)。

本当のレガートは生と録音では違う、パート分けなんかの技術的に神経を尖らせている部分が、録音の再生では消え失せるのが気持ち悪いです。

生は凄かったらしいですが、どうも、プラスチックみたいな不自然さを感じて落ち着きません。音を聴く前から生理的に受け付けませんから、たちが悪いです。聞く前から、、、

カラヤン以外にレガート奏法が得意な人の名演が聞きたいです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1228628522

_________


カラヤン 音楽を語る


『カラヤン、音楽を語る』ききて:アーヴィング・コロディン、訳:萩原秋彦)

にこんなことが書かれていました。

 「ハ短調の第1楽章では、どうなさいますか。例のバスーンの使用について」。

 「使いますとも」とカラヤンはあっさり答えた。

「もちろん、いま私たちは、バスーンを重ねて、ホルンを吹かせています。」

 「あなたは、スコアに書かれたとおり忠実に従われるのですか」

 「だいたいはそうです」と彼(=カラヤン、ゆきのじょう注)は言った。

「テンポやメトロノーム記号・・・などについては必ずしもそうではありません。メトロノーム記号について言えば、私たちは、それに忠実に従おうとしてきました。しかし、時々、うまく行かないことがあるのです。

『エロイカ』の第1楽章には、多くの人たちがショックを受けるでしょうね。じっさい速いのです。ハ短調については、メトロノームの指示どおりに出来ると思いますよ。スケルツォでさえ96で、そんなに速くない・・・(中略)

 もうひとつ、それまでずっとやられていた旧式な解釈ではなく演奏しているところは、第九のスケルツォのリタルダンドです。しかし、今度の録音で、私は楽章全体をひとつのテンポで通しました。」


 これらのカラヤンの話が私にはとても意外に思えました。カラヤンはどちらかというと自己主張の強い指揮者だと思っていたからです。

例えば第7番の第二楽章などは連綿たるレガート奏法で始まるので、正直ぎょっとしました。また提示部の繰り返しをやっていないことも多く、田園の第三楽章でもリピートせずに演奏することもあったはずですから、ベートーヴェンの楽譜を忠実に演奏するなどということとは無縁だと思っていましたのです。それがベートーヴェンの楽譜や指定を尊重しながら録音を行っていたというのです。

 そういう視点で聴き直してみると、「第九」で畳み掛けるようだと思ったのは、実はカラヤンが楽譜通りの演奏をしようとしたからだと気が付きました。

第一楽章の冒頭、混沌とした序奏から第一主題が奏でられるところは、曲想が変わるので一旦一呼吸おいてから演奏されるのが多いように思います。しかし、楽譜には休符がないので間を置くことは「楽譜通り」ではありません。そこでカラヤンは序奏の最後をややテンポを緩めてクレッシェンドすることで違和感を与えずに、間を置かないで第一主題につながるようにしていると感じました。

また第四楽章の冒頭も同様で、残響を利用して少しリタルダントしたかのように見せかけてつながるように工夫していると思ったのです。バリトンの歌い出しも効果を狙っただけではなく、実際に楽譜には休符がないから行った、しかもそれを逆手にとって劇的にして見せたということなのだな、と想いました。

これらは、あの即物的と言われたトスカニーニも慣習的に「間」を空けて処理していた部分でした。

 カラヤンのベートーヴェンの全集での目指した姿勢は、カラヤンの死後1990年に発表されたベーレンライター版のような、学術的な視点からではないことは明白です。

使用楽譜はおそらくはブライコプフ慣行版であろうことは想像に難くはありませんし、私は何の曲の何処の部分をどうやっているかという細部を逐一検証するだけの耳も学も持ち合わせてはおりませんから、慣行版に従っているところが沢山あるだろうという想像をするだけです。

さらに前述の反復の実行の問題にしても、第九の第二楽章の反復をすべてしていないというのは慣行版の指定にすら従っていないではないか、その意味では使用楽譜通りではないだろう、という反論も当然あると思います。

 ただ、私が注目しているのは、カラヤンはただ何も考えずに、伝統的(旧来の)解釈のまま録音に供しているのではなかったということです。再録音が多かったカラヤンですが、再録音するだけの意味を常に考えていたのだと思うのです。
http://www.kapelle.jp/classic/yukinojou/karajan_bach_beethoven.html

基本に忠実

カラヤンの音楽は一般に現代的、スピーディーといわれていましたが、実は大変オーソドックスな音楽の作り方をしています。多くの指揮者があまり根拠もなくテンポを変化させたり、ルバートをするところ、カラヤンは基本的に楽譜に忠実に音楽を作っていました。楽譜に書いてあることをする・・・このごく当たり前のことを再び耳にしたのは、帰国後ラジオのインタビューで朝比奈隆さんのお話を聞いたときでした。


馬の手綱さばき

カラヤンは指揮のこつを、馬の手綱さばきによく例えていました。馬が行きたい方に行く・・オーケストラでいうと、楽員の音楽性を尊重して、その流れをつかむことにすばらしい才能がありました。


最後のばらの騎士

リヒャルト・シュトラウスのオペラばらの騎士のオーケストラ練習中、有名なワルツのところで、ウィーンフィルを前に・・・

「私にとって人生最後のばらの騎士ですが、あなた方は確かにこの曲にかけては世界一です・・みなさんが生まれたままの音楽をして下さい。ただ、本番前はワインは飲み過ぎないように!!」

ここでカラヤンはみごとにウィーンフィルの心をつかまえ、両者の間にはすがすがしい空気が流れました。演奏があっというまに生き生きとなり、ウィーンフィルの弦がポルタメントをたっぷり使い、歌い上げていきました。


ツィメルマンとリハーサル

ベルリンフィルとピアニストのツィメルマンとの初練習で。ショパンコンクールを優勝して、いよいよ初めてカラヤン&ベルリンフィルとの共演、曲はお得意のショパンの第2番、ツィメルマンの気負いに対してカラヤンはちょっと不勉強、さらっと通し、今日はおしまいといったところで・・・

ツィメルマンはスコアー片手にすくっと立ち上がり、カラヤンに対しオーケストラが合わないところがあるから、もう一回やってくれといいました・・・
楽器を仕舞いはじめていた楽員の手が一瞬止まり、それならやろうというカラヤンの一言で、ベルリンフィルがツィメルマンから指摘された場所を再び演奏しました。

今度の演奏は完璧でした・・


カラヤン  「どうですか?」

ツィメルマン「結構です」
  
カラヤン  「音楽は言葉を使うと、どんどん悪くなる!」


カラヤンのこの言葉はとても印象的でした。
たしかにすばらしい音楽は、説明がいらない。私も指揮をしていて、気に入らなくて何度もくりかえし、いろいろ注文をつけると、かえって悪くなってしまうという経験をよくします。
http://www.music-tel.com/maestro/Maestro/Karajan.html

カラヤンが好きになった

友人の家で、結構前にBSでやったらしいカラヤン生誕100年だか90年だかの記念番組の録画を見せてもらった。そこで、噂に聞いていた恐竜のような声という(ひどいしゃがれ声なのだ)のを初めて聞いたのだが、そんなことよりも内容がえらく気に入った。最初に、内藤町にあったNHKのスタジオでベルリンフィルと録画したマイスタージンガー前奏曲を見せてもらった。

「つまらんだろう?」と訊かれたが、いやすさまじくおもしろい、と答えた。すべての楽器の音色がきわめて明瞭に聞こえてくる。ヴァグナーはこんな響きの音楽を作っていたのか。これは不思議だ。(1958年ころの録画だ)

その次に、ヴィーン交響楽団とのシューマンの交響曲4番のリハーサルを見た。これが抜群だった。

たとえばこんな感じのことを言う。

「そこは、本来ピアノでの演奏を意識していたはずのフレーズです。ターンタターですからね。でもそれを弦でやろうとしているせいですごく難しいのです。弦楽器固有の撥音を抑えて演奏する必要がありますね。

余談ですがリヒャルトシュトラウスが指揮をしていたらフレーズを変えてしまうはずです。でもそうはいかないからもっとレガートにもう一度やってみましょう」

おーなるほど。カラヤンレガートというのはこういうのに由来するのかというくらい、レガートを連発する。


「ちょっと待ってください。ここでは第一ヴァイオリンとフルートが同じフレーズを演奏するわけですが、君たち、今フルートが聞こえましたか?

(楽団員首を振る)

ヴァイオリンはもっと指板に近いところを押さえて演奏してください。それによって倍音が抑えられてフルートの音が入ってくるはずです。ではもう一度やってみましょう」

おー、確かにフルートの音色が混ざって聞こえる。これは素晴らしい。

「そうです。今度はフルートの音が聞こえましたね(楽団員うなずく)」

このリハーサル風景を見て一発でカラヤンが好きになった。そしていろいろな情報が整理されて腑に落ちた。

カラヤンは位置としては新古典主義(楽譜に忠実)の完成者なのだ。しかも、それまでの指揮者ががーっとやってぱーっとやってそこでがんがん、ここでさわさわみたいなやり方をしていたのに対して、どう演奏すればどう聞こえるからここではどうすべきかということを理詰めで説明し、かつフィードバックをきちんと与えることができる。

楽団員はプロフェッショナルだから、技術に落とし込まれて説明されればそれを再現できるし、その効果が明らかならその正しさを理解できる。論理と実証が常にペアで廻って音楽を構成する。

逆に、このリハーサル風景を見て、なんか理屈をこねくりまわす技術屋(=芸術をないがしろにしている)と捉えた連中がカラヤンを悪く言っていたわけだ。

カラヤンとフルトヴェングラー (幻冬舎新書) 中川 右介
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%B8%AD%E5%B7%9D-%E5%8F%B3%E4%BB%8B/dp/4344980212)

(この本にも、とにかくリハーサルを繰り返すだけのチェリビダッケに対して、カラヤンのリハーサルはボウイングについての的確な指示を出すものだったことが書かれていた)

するとその後のどたばたもある程度は見えてくる。

おそらくカラヤンは1950〜60年代までは(特にヴィーン交響楽団は2流なので細かく指示をしているのだろうし、録画されていることを意識しているはずだが、それでも普段とそれほどは違わないと仮定して)、ベルリンを含めて、楽団員にとっては理論的な説明によってきわめて斬新的でモダンでありながら、伝統的な(ということが実は新古典主義の目標であるわけだし)音楽を引き出す指揮者としてありがたかったのだろうし、お互いにドイツ零年以降の音楽を作り出す同志であったのだろう。

だが、いつまでもそういうスタイルのリハーサルはできないはずだ。というのは、オーケストラは組織である以上、メンバーの入れ替わりはゆっくりだ。だが、すでに同志として結ばれた楽団員が多勢を占めている間はうまくやれる。すでに知っていることをさらに教えても意味がないし、かっては斬新であったものは普通の伝統芸になっているわけだ。

それが1970年代以降になると、音楽学校で最新の技術を習得して入団してくる演奏家が増えてきて、当然、同志たちは退団していく。そうなったとき、技術的指導者として君臨してきたカラヤンの王座が揺らぎ始めてきて……ということなのだな。

カラヤンの傑作に新ヴィーン学派の作品集がある。

新ウィーン楽派管弦楽曲集

 シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」作品5
 シェーンベルク:管弦楽のための変奏曲作品31
 シェーンベルク:「浄められた夜」作品4
 ベルク:管弦楽のための3つの小品 作品6
 ベルク:叙情組曲からの3つの楽章
 ウェーベルン:管弦楽のためのパッサカリア作品1
 ウェーベルン:弦楽四重奏のための5つの楽章 作品5(弦楽合奏版)
 ウェーベルン:6つの管弦楽曲作品6
 ウェーベルン:交響曲作品21

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー
http://www.hmv.co.jp/artist_-%E6%96%B0%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%A5%BD%E6%B4%BE%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%83%90%E3%82%B9_000000000035192/item_%E6%96%B0%E3%82%A6%E3%82%A3%E2%88%92%E3%83%B3%E6%A5%BD%E6%B4%BE%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E9%9B%86%E3%80%80%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3%EF%BC%8F%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%A3_296642


Arnold Schoenberg, Transfigured Night Op. 4 (1899)
http://www.youtube.com/watch?v=U7a36rTZdX8
http://www.youtube.com/watch?v=F9XeQQikNGs

Schoenberg : Variationen für Orchester
http://www.youtube.com/watch?v=0mrhmaHv4ZQ

Alban Berg : Lyric Suite - Karajan*
http://www.youtube.com/watch?v=RF9urI6Z6Bk

Berg 3 Pieces for Orchestra, Op.6 Praeludium (Prelude)
http://www.youtube.com/watch?v=D7ET51t8kVQ
http://www.youtube.com/watch?v=cAy9VmXTi-o
http://www.youtube.com/watch?v=u4weF0FSoiE

Webern : Passacaglia Opus 1 - Karajan*
http://www.youtube.com/watch?v=9VMIhkU_XpQ

Webern: 3 movements op 5 - Karajan
http://www.youtube.com/watch?v=QNkinnKcURU

Webern : 6 pieces for orchestra: no 4 - Karajan*
http://www.youtube.com/watch?v=zWT6XdJ-tnc

これは本当に玄妙にして明解、あー、ヴィーン学派はおもしろいなぁと感じる作品だが、これを作ったときは、久々にかってやったような指導ができたのだろう。それまではばらばらでつながりも脈絡もない音が意味を持ち、つながりを持ち、音楽として構成される、そういうおもしろさを楽団員は堪能したと思う。

同じように、カラヤンの耳と演奏技術や音響についての知識が、録音技術にどれだけ貢献したかについても想像できる。また、それが音楽の技術的側面を無視する愚かな連中の憎悪を駆り立てることになったかも想像できる。

というわけで、まったく間違いなく20世紀中期においてカラヤンは偉大だったのだ。少なくともおれは技術屋だからカラヤンの偉大さを認める必要はある。

でも、田園を聴くとしたらフルトヴェングラーとウィーンなんだけどね。
http://www.artonx.org/diary/20111106.html

うーん、要するにカラヤンは自分では楽譜を忠実に音化していると思い込んでいたんですね。 惜しむらくはアルメニア人だったカラヤンはゲルマンの伝統を何一つ知らなかったし、ドイツ精神もドイツ音楽も全く理解できなかった。

ただカラヤンはピアノ調律師的な聴感と音のセンスだけは掛け値なしの天才だったので音楽がわからない楽員を驚嘆させて高い地位と人気を得た。さらに容貌もドイツ人とは全く違ってエキゾチックでスマートだったので、ミーハー女性に人気を博した。

しかしドイツ音楽の伝統を完全に無視したカラヤンのスタイルで楽譜に書かれた音符だけを忠実に音化すると、どんな深い曲でもみんなムード音楽になってしまうんですね。そして当然の事ながら本物がわかる音楽ファンからはそっぽを向かれてしまった。 そういう事でしょう。

何れにしろ、カラヤンが真剣に努力すればする程 音楽の本質から離れていくというのは間違い無いですね。

___________________
___________________


吉田秀和、菅野沖彦、カラヤンや B&W のスピーカーを高く評価する人は宇野功芳に拒絶反応を示す様な気がしますがどうでしょうか?


バッハ:マタイ受難曲、チャイコフスキー『悲愴』 メンゲルベルク
suuukami | 福岡県 | 50代 | 2011年01月06日

この演奏は、今までLP、フィリップスの輸入盤で聴いてきました。現在は両方とも手元にないので、記憶に頼るしかありませんが、このオーパス蔵盤が一番音が鮮明と感じました。評価点は見事な仕事をしたスタッフの方に対するものです。

本当に久しぶりに聴いたのですが、私の歳の所為か、以前程感動できませんでした。その異様に古めかしい表現(特にアリアの歌唱法)には、途中でついてゆけなくなりました。貴重な記録には違いないのですが。41年版の「悲愴」はノイズは多いですが、違和感は無く、名演と思います。

あと問題点はライナーを書いているのが、私の嫌いな宇野功芳氏で、一応読みましたが、相変わらずの文章には嫌悪感すら覚えました。

この方の文章は、海外の著名な評論家の評論と比較すると、学校の読書感想文並のレベルとしか思えません。相変わらず意味不明の紋切り型の表現で、個人の好き嫌いのレベルです。

困るのは、特定のアーティストや作曲家のライナーには必ずこの方が登場する事です。まあクナやアーベントロートを日本に紹介した功績を認めるにやぶさかではないのですけど。
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%EF%BC%881685-1750%EF%BC%89_000000000002339/item_%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%EF%BC%9A%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%8F%97%E9%9B%A3%E6%9B%B2%E3%80%81%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%80%8E%E6%82%B2%E6%84%B4%E3%80%8F%E3%80%80%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF_1371954


パーヴォ・ヤルヴィ指揮シンシナティ交響樂團 小川榮太郎
(於NHKホール・2009年10月26日)

ヤルヴィは3つのオケを振つた生を何度も聽いてきたが、二流の指揮者と云ふ他はないと思つてゐる。殘念ながら、今日もまことに退屈な演奏會だつた。以下はヤルヴィと、この度公演チラシでヤルヴィを絶讚してゐる批評家宇野功芳氏への酷評とならざるを得ない。書きたくはないが、批評家には俗を正すといふ役割がある。感じた率直なところを書く。兩氏のファンはお讀みにならぬやうに。

どうも、最近の日本では音樂批評を書くのが劒呑だ。私には當り前と思はれる事を、他のどの批評家もはつきり書かないので、力んで云はなければならない、それがひどく居心地が惡いのである。60年前、フルトヴェングラーやトスカニーニが如何に偉大かなど、力んで書いたら、分りきつた事を云ふなと笑はれただらう。サージェントやカバスタが二流だと、わざわざ力説するなぞ餘計な話で、本人も一流と思つてゐないのだから、氣の毒なだけの話だつたらう。

ところがどうだ。價値規範がまるで無茶な最近の日本では、バレンボイムやティーレマンが偉大だといふ事は、餘程力んで云はねば、誰の耳にもとゞかない。凡庸な批評家共は、誰一人、彼らの歴史的な偉大さを指摘しようとせず、相變らず、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュやらバーンスタイン、カラヤンの名前を出しては、昔は良かつたを繰り返すばかりである。無論、これが日本だけの例外なのは云ふまでもない。

私自身の體驗した生演奏の印象でもレコードでも、バレンボイム、ティーレマンは、カラヤン、バーンスタインの指揮者としての音樂的力量を、既に上囘つてゐる。バレンボイムのトリスタンは、フルトヴェングラー以上の瞬間さへ多く含んでゐた。ティーレマンのブルックナーはチェリビダッケを超えたかとさへ思はれる場合が多々ある。彼らに駄演があるかどうかは問題ではない。偉大さに達する瞬間があるといふ事を指摘するのは、批評の最も名譽ある任務である筈なのだ。

逆も同樣だ。ポリーニの力量はがた落ちだ、小澤のオペラはまるで基本がなつてゐないと云ふ、どんな驢馬の耳にも屆きさうな單純な事實さへ、云へば言葉に力みが這入つてしまふ。日本の音樂批評界では、ポリーニは、相變らず歴史上最高のピアニストに決まつてをり、出すレコードは全て同曲のベストレコードなのだし、ウィーン國立の音樂監督である世界の小澤が、オペラ振りの基本的な力量にさへ達してゐない事は、見て見ぬ振りをする慣行らしい。

餘りに無考へ無節操に横行する通念に、ブログの隅で異を唱へるのは、日本晴の日にお天道樣の下で、誰もゐない觀客相手に、「今日は素晴しい天氣であります!」と力み返つて演説してゐるやうな、滑稽と空虚を覺える。價値の中身を巡つて意味のある言葉を生み出したい、それが批評家としての、私のさゝやかな希望なのだが。


本題に這入る。

ヤルヴィの事だ。例によつて、宇野功芳氏の再三の絶讚のお蔭で、凄い指揮者だと勘違ひしてゐる向があるやうだが、飛んでもない話だ。宇野氏が長年にわたつて日本の聽衆をミスリードしてきた水準の低さには、率直のところ、大變な義憤を覺える。

無論、氏には立派な功績もある。玉蟲色に何でも適度に襃める日本の批評家の中で、判斷を鮮明にする姿勢は、卑しくなく、私は好感を持つてゐる。大昔、日本ではまだ五大指揮者――ヴァインガルトナー、トスカニーニ、メンゲルベルク、ヴァルター、フルトヴェングラー――といふ基準が健在だつた頃、クナッパーツブッシュ、シューリヒト、クレンペラーらの價値を逸早く評價したのは、氏の慧眼だつた。朝比奈隆の價値を早くから認めたのも宇野さんである。

だが、この20年と云ふもの、氏が發見し、激賞する音樂家は、殆どが水準以下の駄馬ばかりである。批評家が判斷を誤るのは致し方ない。私も多數のミスを犯してきたであらう。だが、程度といふものはある。程度を超えたミスを犯すまいとするのは、批評家の最低限の、讀者へのマナーに屬する。

例を出さう。以前、宇野氏はハインツ・レーグナーといふ指揮者を絶讚してゐた。ある年、確か高校生だつた私は、その年の來日公演の中から、カラヤンとケンプとレーグナーとを選び、聽きに行きたいと父にねだつたものである。全部は無理だと云はれた。普通のサラリーマンの家庭だつたから當然だらう。交渉の結果、カラヤンなら1公演だが、レーグナーならば2公演でも構はないと云はれた私は、驚くなかれ、何と後者を選んだのである。宇野氏のアジテートを愚かにも信じ込んだ爲だつたのは云ふまでもない。

氏は、當時、レーグナーの音を「羽二重の音」と評してゐた、恥かしい事に、そんな事さへ覺えてゐる程、氏の絶讚は、子供の私を醉はせたのである。だが私は、耳まで宇野氏に騙される程馬鹿ではなかつた。聽きに行つたレーグナーの音は、羽二重どころか、煎餠蒲團のやうにしか聞えず、それは疑ひやうもなかつたのである。レーグナーがどの程度の指揮者だつたかは、今更私が力みかへらずとも、歴史が證明してゐる。當の宇野氏の口からさへ、その名を聽く事は最早殆どない。

無論、私は恨みから、こんな事を書いてゐるのではない。幸ひにも私は別の機會にカラヤンを生で聽いたし、批評家の判斷など當てにならないといふ實地教育を早くに受けられたのもいゝ藥だつたのだらう。

だが、これは私事ではない、笑つて濟ませる譯にはゆかない理由がある、それはかういふ事だ。

……宇野氏のカラヤン批判は分る。私は、フルトヴェングラー、チェリビダッケ、バレンボイムといふ血脈の側の一員であり、カラヤンを必ずしも高く評價はしてゐない。しかし、讀み手に、選りに選つて、カラヤンのコンサートを逃してでも、レーグナー如き水準の音樂家を聽きに行くやうに促す批評は、笑ひ話の域を超えて、犯罪的だと私は思ふ。音樂會の體驗は一期一會で、後からは取返しがつかないからだ。宇野氏のレーグナー絶讚に、實際に聽いて共感する人が出る事は構はない。人の判斷は樣々だ。だが、獨善的で判斷の基本を誤つてゐるとしか思へぬ批評によつて、多くの讀者から、カラヤンのやうな水準の藝術家を生で聽くと云ふ經驗を奪ふ事は、許されていゝ事だと思はない。

60年前に、有力な批評家が、フルトヴェングラーを糞味噌に云ひ、今聽くべきはサージェントの羽二重の音だ、と熱辯してゐたと想像したまへ。或るフランスかオランダ邊りの田舍の高校生が、親の貧しい嚢中から、或いは乏しい自分の小遣ひから、フルトヴェングラーの《第九》の代りに、サージェント指揮のモーツァルトやら《惑星》か何かの公演チケットを買つたと想像してみたまへ。その直後にフルトヴェングラーは死んでしまつたと想像してみたまへ。これは、批評家の音樂的判斷のミスと云へる水準を越えてゐる。彼の輕薄な思ひ込みとアジテートが、或る一人の音樂好きな若者から、人生で決定的に重要な體驗となり得る何かを永遠に奪つた事になるからだ。

さて、今囘に限り、特に宇野氏にしつこく絡むのは、チラシに次のやうなヤルヴィ評を見て、本當に腹が立つて仕方ないたからだ。ヤルヴィ指揮シンシナティ交響樂團の《幻想交響曲》をサントリーホールで聽いた感想として書かれた宇野氏のチラシ文面である。

「〜まるで魔法だ。ぼくはあんな響きを今まで耳にしたことがなく 〜略〜耳のよい指揮者、統率力のある指揮者は他にもたくさん居る。セル、ブーレーズ、マゼールなど。〜略〜ヤルヴィの魔法はそれをはるかに超えてゐる。」

今まで、ヤルヴィを聽いて、魔法どころか、耳の良い指揮者だと云へる痕跡は皆無だつたので、この批評は始めから、論外だと思つてはゐたが、おそらく、これに釣られて「魔法」を聽きにやつてきた聽衆は多かつたらう。さう、宇野氏から「死ねば直ぐに忘れられるだらう」とさへ書かれたバレンボイムのチケットなど見向きもせずに。そして、宇野氏に「ドイツの田舍者」と罵られたティーレマンの來春のブルックナーのチケットも買はずに。

私は、先入觀で耳を汚す事はしたくないので、當然ながら豫斷は持たずに、今日のヤルヴィを聽いた。その程度の心の修養が出來なければ、批評など出來るものではない。その結果はどうであつたか。退屈極まる凡庸な演奏だ。セル、マゼールのオーケストラマジックを罵倒して、これを持上げるとは、幾ら何でも恐れ入る。さすがは、かつてレーグナーに羽二重の美音を聽き取つた宇野さんの耳だけはある。

ヤルヴィ=シンシテナティに魔法を聽けるとは、途轍もない聽力だ。どんな醜女も美人に見える眼を持つた人のやうなものだ。羨ましい。お多福を引つ掛けても最高の氣分になれるのだから、氏の耳の中は、地上の極樂かと思はれる。多分、宇野さんに魔法をかけたのはヤルヴィではなく、プロスペローだつたのだ。最近の宇野さんの耳は、キャリバンやトリンキュロー達宜しく、プロスペローの魔法によつて、恒常的に醉つ拂つてゐるのであらう。本當の醉生夢死だ。最近飮んでもなかなか醉へぬ私には、これ又羨ましい限りである。

私の聽いたのは NHKホールだが、もしヤルヴィがサントリーホールで魔法を掛けられる程の人ならば、NHKホールは充分に鳴らせる。かつてのベーム=ウィーンフィルの大名演もNHKホールだつた。先日バレンボイムの、やゝ手拔のヴェルディ《レクイエム》でさへ、易々と、實に豐饒でメロウな音が、和聲的な緊密の度合を正確に傳へながら、あのホールを滿たしてゐた。物理的な音量の問題ではない。響きと心理の關係への經驗と洞察が生む、これは技術上の奇跡なのである。宇野氏が名前を出してゐたセルやマゼールは、無論、さうした技倆の點で、最高度の指揮者達に屬する。ヤルヴィの音樂を氏が好むのは構はない。

だが、セルらの名前を持ち出して、響きの點でヤルヴィを上位を置くのが、よりによつて第一線の音樂批評家だといふのは、正直云つて信じ難い話である。カローラをフェラーリより好むのは構はない。だが、カローラの方が加速能力が高く、スピードも出ると云つたら、それは嘘だ。セル、マゼール以上にヤルヴィ=シンシナティが響きの魔法を驅使してゐるとするのは、それと同じやうな、批評の判斷の許容外の「嘘」としか、私には思へない。


冒頭のコープランド《庶民のファンファーレ》で、私は魔法から眞つ先に見放される思ひがした。固い音だ。融け合はない。胸をときめかす指揮者固有の文體がない。NHKのアナウンサーの朗讀のやうだ。マゼールならニューヨークフィルから、こんな貧しくニュアンスのない音は出さないに違ひない、たとひ、空疎極まる『エロイカ』やブラームスを指揮する事はあつたとしても。

2曲目、バーバーの弦樂の爲のレクイエムは、ファンファーレとの對照の妙。心の籠つた演奏だが、それ以上に胸を撃つ特別な時間にはならなかつた。

3曲目、バーンスタインの《シンフォニックダンス》は、圖らずも先日、バレンボイムのCD評を書くので聽き込んでゐたが、今日のヤルヴィの演奏は、豫想をはるかに下囘る駄演である。プロローグの、ジャズ風のリズムから冱えない。投げやりで、リズムが上滑りしてゐる。物語が始まる豫感もまるでない。デリカシーのかけらすらない。だが、この音樂は、デリカシーの塊ではないのか。

バーンスタインはブリリアントな自作自演を殘してゐるし、バレンボイム盤は、交響詩のやうな雄大な流れを作るが、いづれも音樂の生彩の次元が、今日のヤルヴィとはまるで違ふ。このやうな曲では、ヤルヴィは切れ味のいゝ指揮だけはするだらうと思つてゐたので、冱えないダルな雰圍氣のまゝ、見通しも惡く、クライマックスの疉み込みさへ決まらぬ演奏に、私は心底驚いた。サムフォアはそれなりに美しいが、スケルツォからマンボに雪崩込む邊りは、何とも響きはごちやつき、音樂の方向感覺も漠然としてゐる。終曲も丁寧な演奏だが、印象に殘る程ではない。

後半の『新世界』は、ヤルヴィが文體も音も持たない指揮者だといふ事の再確認のやうなものだつた。例へば、管のバランスに目新しさがあるとか、第2主題で物凄く大きくテンポを落して、地面に落ちてしまひさうなリズムを掬ひ上げるやうな優しさを見せる、さうした事はそこここにある。だが、《新世界》では、その手の新機軸はあらかたやり盡くされてゐるし、そもそも、優れた指揮者は、何も特別な事をやつてゐない場所で、音樂の豐かさにより聽き手を滿たすものだ。さうした魅力がこの指揮者にはまるでない。

例へば、出出しからティンパニの突然の爆發までを、ストコフスキーやチェリビダッケが、のめり込ませるやうな魅力で始める樣を聽いてみるがいゝ。それにしてもヤルヴィの主題のリズムはどうだ。何とパンチがないんだ。音はどうだ。今書きながらまるで思ひ出せない程、印象に殘つてゐないではないか。第一主題のホルン一つで、優れた指揮者ならどれだけの夢を聽き手に見せる事が出來るか。ヤルヴィの演奏が、さうしたディテールで何と貧相である事か。

だが、2樂章は美しかつた。夢見がちな木管群から夢見がちな音とバランスを引出してゐて、今日一番良質であつた。プログラム全般を通じて、當面、抒情的な靜かな部分は、惡口を云はずに聽ける水準だと云ふ譯だらうか。

3樂章になると、やはりリズムも音も冱えない。4樂章でも、私は、もうあり餘る退屈を持て餘してしまふ。音樂的仕掛の面白さが幾らでも試みられる所なのに。その上、最後まで音樂的なクライマックスがまるで見えてこない。音量ではなく、音壓と云はうか、時間の累積によつて、音樂が高潮してゆく滿足がまるでない。

焦つても仕方なからうが、早く、バレンボイム、ティーレマン、パッパーノ、ナガノ、ドゥダメルらが基準となり、指揮者の質が、カラヤン=チェリビダッケ時代以前に戻らん事を、願ふのみである。
http://blog.livedoor.jp/theclassic/archives/1498161.html


チャイコフスキー作曲交響曲第6番ロ短調《悲愴》 小川榮太郎  

『悲愴』カラヤン&ベルリン・フィル(1988年東京ライヴ)
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%881840-1893%EF%BC%89_000000000018904/item_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%9A%E3%80%8E%E6%82%B2%E6%84%B4%E3%80%8F%E3%80%81%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%EF%BC%9A%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC%EF%BC%92%EF%BC%99%E7%95%AA%E3%80%80%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3%EF%BC%86%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%98%EF%BC%98%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B4%EF%BC%89_2719028

カラヤン最後の来日-Tchaikovsky Symphony No.6 [HQ SOUND]
http://www.youtube.com/watch?v=HsFmvbqaRic


1938年、まだ30才だつたカラヤンが、ベルリンフィルとの最初のレコーディングに選んだのが《悲愴》だつた。半年前に、當時の樂壇の帝王、フルトヴェングラーがベルリンフィルと《悲愴》を入れたばかりだつたから、手袋を顏にぢかに叩きつけるやうなカラヤンの遣り口に、フルトヴェングラーがどれ程腹を立てたかは、想像が付く。

今日でもラトルがEMIにブラームスの第4交響曲を輯録した半年後、同じベルリンフィルを起用してティーレマンがグラムフォンからブラームスの第4番を出したりすれば、スキャンダルのにほひは否定しようもなからう。まして、レコードそのものが稀な時代である。カラヤンの鼻つ柱の強さには、さういふ言ひ方では被ひ切れない不遜さが付纏ふ。フルトヴェングラーのカラヤン症候群、又はカラヤンへの異常な嫉妬と言はれる生涯の心の傷の原點は、私は、ベルリンでの《トリスタン》の成功と竝び、この《悲愴》レコーディングにあつたのではないかと推測してゐる。

それはともかく、以後、カラヤンが節目節目でこの曲を演奏し續け、レコーディング囘數も最も多く、レコード毎の演奏スタイルにも變化が著しいのは、よく知られてゐる。今囘選んだのは、そのカラヤン生涯最後の《悲愴》、偶然にもサントリーホールでの公演となつたものを、生誕100年を記念して、グラムフォンが正規盤として出したレコードである。

一方のチェリビダッケにとつても《悲愴》は最も重要なレパートリーの一つである。戰後、無名のルーマニア人が突如ベルリンフィルの指揮臺に立ち、たちどころにベルリンの聽衆を魅了した奇蹟はよく知られてゐるだらうが、彼が決定的に名聲を確立したのは、1945年の12月の《悲愴》の公演だつたといふ證言がある。演奏終了後、熱狂した聽衆は我を忘れて指揮臺に殺到し、未曾有の混亂が生じたと言ふのである。

20世紀後半のドイツ樂壇最大の巨匠二人が、ベートーヴェンやブラームス、ヴァグナーではなく、チャイコフスキーで搖ぎない名聲を確立した事は、ドイツ文化論の主題となるだらう。第1次大戰敗戰後の、新古典主義以後、ヒトラーのアーリア至上主義の時代が插まつてゐるにも拘らず、時代全體の美意識は、ドイツ囘歸よりも、機能主義的なインターナショナリズムへと傾斜し續けた、20世紀のドイツ文化史は、總じてさう評していゝ筈である。それはナチス時代の映畫を見れば一目瞭然で、1930年代から40年代のハリウッド映畫がアメリカンヒューマニズムの野暮な迄の信念に貫かれてゐるのに較べれば、ナチスの美意識は、遙かに洗煉された機能主義によつて、ゲーテ、ベートーヴェン、ヘーゲル、ニーチェ、ヴァグナーらの鬱蒼たるドイツ的風采からは、寧ろ無限に遠い。

思へば、ヒトラーが愛したのはクナッパーツブッシュではなく、フルトヴェングラーだつたのである。フルトヴェングラーは、ドイツ至上主義者であつたが、彼自身の教養と美意識は明らかに、大戰間の美學の洗禮を受けてゐる。洗禮を受けたゲルマニズムである。だが、それならば、今、再び、バレンボイム、そしてとりわけティーレマンによつて、恢復し始めてゐるドイツ的傳統とは何だらう。底力か。新しさか。復古か。復古に見える民族的活力の創造なのか。

ところで、カラヤン、チェリビダッケ共に、最晩年の上演記録であるこの2枚は、いづれも、《悲愴》の最高の名盤と斷言するに足る至高の演奏だ。深刻激越で、樂曲の内面に限りなく降立つ事に成功した點、メンゲルベルク、フルトヴェングラー以後、ムラヴィンスキー、フリッチャイ、マルケヴィッチ、バーンスタイン、カラヤン自身のセッション録音、ゲルギエフらの歴代名盤全てを、遙かに拔くと言つても、さして極論ではあるまい。そのどちらかを採り、一方を捨てる、極めて難しい作業である。

 さて、まづ、カラヤンのラスト《悲愴》である。

1樂章冒頭のファゴットから波打つやうな強弱を付けて歌ひ始める。そして呼應する低弦の凄じい絶望に滿ちた暗い音色、だが、その暗い音色は單色ではなく、輝ける黒、無限に深みがある多彩な光澤を放つ黒である。早くも身體に震へが走る程に人を魅了して止まない絶望、それがカラヤンがこゝで成し遂げてゐる事の、最も簡潔な要約である。

序奏全體が、歌ひ、動搖して止まぬ流動だが、節度はある。こゝでのカラヤンは、告白と悔恨を湛へた殆ど個人的な發言として、この音樂をとらへてゐるやうに聽こえるが、にもかかはらず、アゴーギグの上での自由は避けられてゐる。間違ひなく、インテンポの感覺は、カラヤンの音樂的な感性の中核にあつたといふ事であらう。だからこそ、同じ目盛を刻む音樂の進行の中に籠められた思ひの強さは、音の飛沫となつて迸散する。その意味で、この演奏は、インテンポの音樂が、どこまで激越な感情を歌へるかの、極限的な實例である。

アレグロにはひつても滑らず、格調高い。實に彫の深い演奏である。何をやつてゐるといふ譯ではないのだが、全てが際立つて魅惑的だ。ミューズが直かに降り立ち、魔法のつゑを振つてゐるのでないとしたら、これは一體誰の仕業なのだらう。
ふとした表情の翳に、ロシア的な、と私にはどうしても感じられるやうな、一種痛切に重い憂愁がさつと射す。プーシキンがオネーギンに造形して以來、ゴーゴリにも、トルストイにも、ドストエフスキーにも、チェーホフにもある、人生への冷え冷えとした突然の無感動といふやうな、あの鈍く重たい苦痛を、こゝでのカラヤンは、折節、強く私に感じさせる。最もさうした世界から遠いと思はれてゐた、あのカラヤンが。

65小節からのトゥッティは、全く何といふ音だ。クライバーが黒魔術と評したカラヤン・トーンの奇蹟は、この演奏では至る處で炸裂してゐて、それを聽くだけでも耳の喜びである。

それにしても、その奇蹟が、カラヤン自らがプロデュースした正規録音からは殆ど掻き消えてしまつてゐるのは、何故なのだらう。人工的に誇張され、單に音樂的な空疎さを一層印象付けるだけの、あの無數のカラヤン制作のレコードのプラスチックな美麗さ! レコードプロデューサーとしてのカラヤン、オペラの演出家としてのカラヤン、映像監督としてのカラヤン…………何にでもでしやばる才人カラヤン。だが、何とまあ、この人は指揮者でしかなかつた事か。そして、その生涯は、何と才能を別の方角に浪費し續ける人生だつた事か。

指揮者としてのカラヤンは、帝王などではなく、本當は、フルトヴェングラーと同格と言へるだけの、壓倒的な天才だつたのかもしれない。天才を別のジャンルやビジネスへの野心に切り賣りしながら、晩年の彼が、たゞ自分の爲だけに音樂するといふ原點にやうやく戻つてきた時の、この《悲愴》は、その最良の證言とすべきだらう。この演奏は、フルトヴェングラーのヴァグナーやブラームスがしばしばさうであるやうに、最も赤裸々な絶唱であり、絶唱である事で、チャイコフスキーが晩年に至つて、危機の最中で、自分の音樂的な發言に、やはり個人の本當の告白を恢復した《悲愴》の創意と、絶妙の共振をしてゐるのである。

それにしても、ラスト《悲愴》でのカラヤンの、第2主題のむせぶやうな歌、憧憬と啜り泣きはどうだらう。それでゐて、音樂には崩れの影さへなく、品格はどこまでも高い。展開部は、冒頭からのバスの刻みの強烈な表現力に驚かされる。激越で雄辯なバス、透明でどこまでも伸びやかに廣がる壯大な高弦と、深みある輝かしさが天日の使者のやうに響く金管が、ぶつかり合ひ、融け合ふ。容赦ないティンパニさへ、弦の餘裕のある最強奏を妨げる事は出來ない。生き物のやうな色彩の亂舞であり、亂舞の中に信じ難い美の秩序が確立されてゐる。その點では、このオーケストラの色彩の奇蹟は、トスカニーニ、フルトヴェングラー、チェリビダッケ、現役のバレンボイム、ティーレマンらさへも敵はないのではあるまいか。

後半、第1主題再現で、ティンパニに猛烈な追込みを效かせて、ホールの鳴動するやうなクライマックスの後、第2主題は優しい華やかさの中で、夢見るやうに微笑する。邪氣を知らぬ子供の、恐怖の去つた後の喜びのやうに混じり氣のない歌である。勿論、音樂的にはこの上なく堂々たる終結である。

2樂章も冒頭からむせぶやうな歌に驚かされる。こゝまで強い感情を歌ひ込んだ2樂章は始めて聽く。1樂章と3樂章の谷間の優美な舞踏會の幻想では決してない。今、確かに生々しく實感されてゐる歎きの歌である。それでゐて、氣品は高い。繰返し記號のある樂節の區切、あゝした處での、リタルランドが何と優美で輕やかなことだらう。中間部のティンパニと低弦の刻みは、喘ぎであり呻きである。支へ切れぬ重荷を背負つた者の、辛い吐息のやうに、思はず嘆息がもらされる。戻つてきたワルツは、一層切實に響く。あの中間部での鼓動が、そのまゝ背後に流れてゐて、最早私たちは、運命の支配のやうに、あの鼓動の強制力から逃れる術はないのである。ふと、どうした聯想からか、私は思はず呟いた、小林秀雄譯のランボウの詩句を。「そして俺は、架空のオペラになつた。」…………

3樂章のマーチの生きたリズム、あらゆる瞬間が雄辯に沸立ち、絶えず波立ちきらめく。あらゆる音の細胞の沸騰! 弦の刻みは彫り深く、吹拔けるやうな金管の最強奏のさはやかさはどうだらう。決めどころでは、ティンパニが猛烈なクレッシェンドとアタックでここぞと打込み、音樂は波打つやうに、大きな山に向つて怒濤のやうに昂揚する。61小節からの、主題リズムを刻むティンパニのクレッシェンドの、それだけで激越な感情表現はどうだ。81小節からの弦の刻みの豫感に滿ちた緊張、あらゆるパートの雄辯さはどうだ。 これがあの無表情なスコアのコピーでしかない無數のレコードを世に送り出し續けた男の、最後の生演奏だとは、何といふ驚きだらう

しかし、カラヤンは單に感情を剥出しに、オーケストラをあふつてゐるのではない。この音樂は、3連符の呟くやうな刻みが、地底から沸上がり、徐々にマーチのリズムへと形成され、絶えず沸立つやうなリズムの、兇暴な、さう歡喜以前の原初的な感情によつて、止めどない昂揚に至る。それが、何度となく繰返され、呼吸も出來ない程の狂亂で、幕を閉ぢるのは、誰でも知つてゐるが、これは、「音樂」の側からの、作者チャイコフスキーの理不盡なエネルギーの蕩盡への、抗議の息切れではあるまいか。ストラヴィンスキーが言つてゐる、「チャイコフスキー程ロシア的な作曲家を私は知らない。」と。この音樂には、西歐に妥協したウィスキーボンボンのやうな中途半端な甘さは、影だにない。

この耐へざる衝動が、本當には、どこに向ふのか、誰も知らない、作者自身が一番解つてゐなかつた。それこそが、恐らく、ストラヴィンスキーの言ふロシア的なるもの、ドストエフスキー、トルストイの蟒蛇のやうな底知れぬ衝動と根を一にしたチャイコフスキーの創作力の源泉である。恐ろしく暴力的だが、恐ろしく上機嫌な音樂、音樂といふより、生命力が殆ど破壞的な歡喜にまで狂ひ咲きをした衝動の記録。この音樂に決定的な表現を與へるには、まづ、再弱音で始まる刻みに、激甚なエネルギーを吹込まねばならない。しかも、そのエネルギーは絶えず内側から自らを喰ひ破る衝動である。その衝動を極限まで呼びさましながら、それに任せて滑走してしまはないやう、最後の一歩で踏みとゞまり續けねばならない。

80才の病躯の老人カラヤンが、このやうな限界的な運動神經と、強烈な暴發とのぎりぎりの折衝を、指揮し切つてゐるのは、驚きと言ふ外はない。トスカニーニ晩年の指揮も、やはり巨大なエネルギーによるダイナミックな音樂を聽かせるが、それはいつも塑像のやうに安定してゐた。流動的で不安定な要因は排除された世界である。こゝでのカラヤンは、一歩誤れば、音樂が空中分解し兼ねない限界まで、運動そのものを生きてゐる。ベルリンフィルといふ猛獸の群を、ロシアの宏大な原野に解き放つたやうである。どのやうな指揮者も後半の興奮を掻きたてる事に、情熱をそゝぐが、こゝでのカラヤンは、身體を張つて、寧ろ昂揚を制止してゐる。そしてそれゆゑにこそ、音樂は、かつて聽いた事もないやうな、身體を突拔ける異常な興奮へと高まり續けるのだ。

それが、4樂章での慟哭の深さでの、深い搖さぶりに繋がる。3樂章の興奮によつて解放された聽き手の感情は、この慟哭に突き落とされて、もみくちやにされてしまふ。カラヤンの3樂章での昂揚は、狂亂の果て、殆ど晴朗なまでに、聽き手の心を開け放ち、無防備にする。だから、4樂章が始つた途端、この無防備な心は、今度は、深刻な情感に啜り泣く手放しの歌の前に、たゞ涙する外はなくなるのである。

4樂章冒頭の歎きは、その中に甘い慰謝を含むが、5小節から、音樂はまるで救ひのない暗い淵に沈み込む。オーケストラのトーンは、瞬時に漆黒の闇に聽き手を閉ざす。そして、又、歌を取り戻して……といふ繰返し。その間、絶えず啜り泣きながらも、清潔な透明感を失はない弦は、とりわけ見事だ。

そして、37小節からのアンダンテの、甘い夢見がちな歌は、カラヤンによる生涯の囘想であらうか。これ程甘く、しかし眞實な慟哭を、人は、自分の魂の内からしか汲み出す事は出來まい。しかも、これ程までに感情の大波のただ中に沒頭しながら、演奏は、息長いフレージングによるあの長い長大なクレッシェンドを、寸分の狂ひもなく歌ひきつてゐる!

後半でのクライマックスは、沈默の底から沸上がるやうに、限りない悲歌が、殘照の後の闇のやうに、流れてゆく。絶望は餘りにも深い。感傷は洗ひ流されて微塵の名殘もない。だが、漆黒の闇の中で、生のやはらかい温さは信じられてゐるやうだ。末尾では、音達の一つ一つが、うち顫へてゐる。が、絶望の爲ではないやうだ。ならば、この顫へは、慰謝の力の確かさを知る事が出來た、喜びのそれであらうか。

當日の聽衆によると、あのカラヤンが、泣きながら指揮をしてゐたといふ。涙は祈りの中に融けてゆくやうだ。救濟は信じられてをり、この結末は餘りに美しい。批評は沈默せざるを得ないのである
http://blog.livedoor.jp/theclassic/archives/cat_24972.html

一方、こっちがカラヤンの「悲愴」に対する聴覚が鈍い人の評価:

カラヤン/VPO チャイコフスキー「悲愴」

カラヤン&ウィーンフィルのチャイコ「悲愴」

レコ芸だと天まで持ち上げられた演奏なので、一度聞いてみたらどこがいいのかわからない・

チャイコの6番「悲愴」をカラヤン&ウィーンフィルの80年代の演奏でお届け。各誌で絶賛されながらも、うp主はどこがいいのか分かりませんでした^^; 

個人的にはマルティノン&VPOが好きですね。ムラヴィンスキーは厳粛に過ぎますし、カラヤンほど飾り立ててもいないので。あと録音も生々しいし。他はフルトヴェングラーもなかなかいい演奏なんですよね。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9635017
http://www.nicovideo.jp/watch/nm9633961
http://www.nicovideo.jp/watch/nm9634097
http://www.nicovideo.jp/watch/nm9634311

________

191 :中川隆:2010/10/04(月) 00:13:04 ID:aJwK12JL

ここにアホ・カラヤンファンが沢山居るから教えといてやるけど、

カラヤンの凄さは stax の静電型ヘッドフォン(最上級機)で聴かないと絶対にわからない。

カラヤンは聴覚能力が異常に発達していたから、凡人とは音の聞こえ方が全然違うのさ。

超高音が練り絹の様にレガートで繋がっていくのを再現できる装置でないと、カラヤンの意図は再現できない。

ここのアホファンにはカラヤンの本当の凄さはわからないのさ。


まあ、これ買ってからカラヤンの評価しようね:


STAX Earspeakers SR-009 \349,600
STAXイヤースピーカーのフラグシップ機。
http://www.stax.co.jp/Japan/SR009_JP.html
http://kakaku.com/item/K0000236482/
http://vaiopocket.seesaa.net/article/192511901.html
http://www.ippinkan.co.jp/DM_2002_06/h_stax/page_1.htm

音は凶器 _ 僕が STAX を薦めない理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/205.html


194 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 10:28:16 ID:isR28n0L

売れないメーカーの必死の宣伝か。。。
こんなの使ったら難聴になるのにな。
あ、そうか、難聴の爺さん向けの宣伝だったか。
でもなんだか哀れで同情を誘うぜ。 ま、がんばれや。

195 :中川隆:2010/10/04(月) 11:18:55 ID:aJwK12JL

良く知ってんね(感心)
俺は stax を使ってて耳痛くなったからカラヤンを聴くの止めたのさ。

カラヤンは確かに凄いんだけど、それは音楽としての凄さではなく、
音そのものの生理的な快感なんだよね。


197 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 12:42:06 ID:omalygRl
>>196
生理的な快感を起こせる指揮者ってすごいよな。
aJwK12JLとは親友になれそうだ。


198 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 13:02:02 ID:UGA8ddCn

カラヤンの凄さはスピーカーでは再現できないのか、ヘッドホンて嫌いなんだよね。


199 :中川隆:2010/10/04(月) 13:29:07 ID:aJwK12JL

Quad ESL57 か ESL63プロにチェロかゴールドムントの超高級アンプを使えば Stax に近くはなるみたいだけど。

ESLは振動板が3年で劣化するし、交換に何十万円もかかる。
100万円以下のアンプではいい音にならない


安いのもあるけど振動板が劣化してるとあの音にならない:

QUAD ESL57(3ペアー在庫あり、金、黒、ベージュ) ペアー¥18万
QUAD ESL63(3ペアー在庫あり、茶、黒)     ペアー¥25万
QUAD ESL63PRO  ペアー¥28万

ESLは全て整備済み。
http://homepage2.nifty.com/soundpoint55/newpage3.html

サウンドボックス
ESL57  22+II  ESL63の復刻・再生品 新発売
http://www.soundbox.co.jp/quad.htm

5 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/06/24(日) 13:01

チェロはオーディオスィート、パレット、パフォーマンスが圧倒的に良くて、他はそれ程でもないと思う。アンコールシリーズは日本では売れたけど、音は今三。


61 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/08/08(水) 22:47
>>60
チェロはアンコールはそんなに良く無いよ。
スィートとは較べものにならないと思う。
どうせ買うなら、スィートだ。今ならヴィオラオーディオでアップグレードも出来る。
中古で見掛けたら即ゲットだね。


3 :名無しさん@お腹いっぱい。:03/04/07 12:20 ID:8J/ZIr7M

リモコンは使えないが、スィートの音は今でも最高だろ。
アンコールは駄目だが。


39 :AI ◆4wBVGeQHPA :03/04/26 00:41 ID:???
>>38
何度も言っているけど、チェロの場合スィート以外のプリはダメだよ。
チェロの神髄はスィートを聴いて語ってね。
http://mimizun.com/log/2ch/pav/1049683747/
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/classical/1267347548


_____________

参考に宇野功芳が大好きな1937年版のメンゲルベルクの「悲愴」の評価も


メンゲルベルクのチャイコフスキー/交響曲第6番ロ短調 作品74「悲愴」

ウィレム・メンゲルベルク指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
1937年12月21日 アムステルダム(SP録音)
OPUS KURA OPK2011 (オーパス蔵制作、2001年6月発売)
マトリックス番号/テレフンケン1022666〜75(広川陽一氏コレクション)
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%881840-1893%EF%BC%89_000000000018904/item_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%9A%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC%EF%BC%96%E7%95%AA%E3%80%8E%E6%82%B2%E6%84%B4%E3%80%8F%E3%80%81%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%EF%BC%9A%EF%BC%A7%E7%B7%9A%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%80%81%E4%BB%96%E3%80%80%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%EF%BC%86%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%98%E3%83%9C%E3%82%A6%E7%AE%A1_404321

(参考)メンゲルベルク指揮 1941年4月22日版
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17772427

今回は、「すすり泣きの名演」と称される甘く切ない悲しさをたたえたメンゲルベルク指揮の1937年録音のSPからの復刻盤で、チャイコフスキーの「悲愴」を聴く。

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は名曲であるが故にディスクの数が多く、すでに100種類を超えている。この中で最も古い録音であるメンゲルベルクのテレフンケン盤は、1938年録音のフルトヴェングラーによるHMV盤と並んで評価の高い名盤とされている。とくにメンゲルベルク盤は、宇野功芳氏(音楽評論家)がライナーノートの中で次のように紹介している。

「この『悲愴』はメンゲルベルクのもっとも得意としたレパートリーであり、ステレオ、モノーラルを通じての最高と絶賛したい世紀の名演である。そのロマンティックな甘美さにおいてこれ以上を望むことは不可能といえよう」
(MX9047、キングレコード、1978年)


今回のオーパス蔵による復刻CDは、岡山県牛窓町にあるもと造り酒屋のレコード蔵で保存されている20万枚を超えるレコードを出所とする「板おこし」盤である。これまでのSPの復刻は、ノイズを著しくカットして、溝に刻まれた音楽まで犠牲にしていることから、このレーベルでは、音楽と音質を最優先に考えてスクラッチノイズを敢えて残し、暖かみがあり、生々しい迫力のある音を取り出すことを基本方針としている。

筆者も金沢の蓄音器館で昔の蓄音機によってSP盤を実際に聴かせてもらったが、本来SPの持つ、暖かく、やわらかく、そしてほのかな甘い香りの音色は今でも忘れることが出来ない。

このCDはザラザラと雑音が耳に付くが、針の音以外に、オリジナルの独テレフンケン原盤に存在するハム音が含まれているとのことである。これはSPを電気的に再生する時に発生するノイズではなく、録音時にコンデンサマイクの不安定さに起因する雑音である。これまでの復刻盤はこのハム音と同時に低音が大幅にカットされているために、痩せた物足りない音になっていたが、今回のオーパス盤は宣伝の通り、低音が実に豊かに力強く鳴り、コンセルトヘボウ管の本来の響きが見事に再現されている。

ジャケットの解説には

「ここに聴かれる響きは構成もがっちりとしたシンフォニックな演奏になっている。特に低音のクリアーな響きと力強い音、確固たるリズムは、甘ったるい音楽には無縁の音のバランスを与えている。第1楽章の第2主題あの甘美なメロディも透明感のある響きである。決してお涙頂戴の甘い旋律あるいは涙を誘う演奏ではない」

とテレフンケンの持つ透明感のある響きを強調している。


じつはこのメンゲルベルクの「悲愴」には大きな問題がある。このオーパス盤は純粋に1937年録音とされるものだが、メンゲルベルクの「悲愴」はもう1種、1941年4月22日の録音が存在し、NAXOSヒストリカルで入手可能である。

これまでメンゲルベルクの「悲愴」として発売されたものは、独テレフンケン社がマスターテープを作る過程で誤って2種の録音を混ぜて1937年盤として制作し、1988年頃まで発売していたらしい。第1楽章後半と第3楽章が1941年録音で、それ以外は1937年録音を使用しているというのだ。

以上のことは、郡修彦氏が世界で最初に発見、指摘し、『レコード芸術』誌上に発表して騒然となった。とすれば、筆者が昔、キング盤のLPで聴いていたものは、この合成盤だったということになるのだろうか。参考までにLPの演奏時間を( )で併記して比較したが、第4楽章を除いて10秒以上の差異があり、演奏時間だけからは判断は不可能である。

画像 TELEFUNKEN MX9047(1978年発売)

このディスクについては、宇野功芳氏が端的に説明している著作から引かせて頂く。

「『悲愴』のファンならば、この極上の美酒のような演奏に一度は接して欲しい。僕の若い頃、チャイコフスキーをこよなく愛する友人に本盤を聴かせたところ、あまりの美しさに泣き出してしまったのを思い出す。それは第1楽章と第4楽章の第2主題、および第2楽章の中間主題である。

メンゲルベルクの独特の甘美なポルタメント!
それに追い打ちをかけるヴァイオリンのヴィブラート!

本当に体がとけてしまいそうだ。これこそ、19世紀末のチャイコフスキーといえよう。」

( 『宇野功芳のクラシック名曲名盤総集版』、講談社、2007年)


レトロな演奏には一家言を持つ宇野氏ならではの文章であるが、さっそく聴いてみることにしよう。大きなノイズが耳に付くが、これは始めだけのことで、曲を聴き入るにつれてこのノイズはあまり気にならなくなるのが不思議である。


第1楽章 アダージオ、アレグロ・ノン・トロッポ

バスにのってファゴットのソロで始まるが、続くヴィオラの2小節目のスフォルツァンドがことのほか強く、分厚い音にまず驚く。フォルティシモに入った70小節目のあたりで音が割れている。さて、アダージォでヴィオラが音階を上った次に、いよいよアンダンテの第2主題が来る。

コン・ソルディーノ( con sord.)の指定があるのでヴァイオリンとチェロはミュートを装着するが、2、4、5、6小節目に大きくポルタメントをかけて旋律が歌われている。歌うというよりは揺れるという感じだ。細かいヴィブラートがかかっているために、哀切の主題に独特の甘い香りを漂わせている。

130小節からのアンダンテも同様のポルタメントが聴かれ、ここは大きくテンポ・ルバートがかけられて振幅が大きい。201小節目のトロンボーンのコラールではテンポを極端に遅く取り、211小節目の弦楽器のシンコペーションで加速するのに驚かされる。

極めつけは279小節目のセンプレ・フォルテ。弦楽器はえぐるように深く弾き、ここは思わず体が震えて鳥肌が立つ思いだ。トロンボーンのパッセージもとても遅く、劇的な効果によって大きく盛り上げている。305小節目からも徹底したポルタメントが再現されていることを付け加えておきたい。


第2楽章 アレグロ・コン・グラツィア

この楽章はテンポの伸び縮みがとくに激しい。チェロのグリッサンドは強く、マルティノンのような洒落っ気は無いが、ここでも弦楽器のつややかな甘い香りがたまらない魅力である。強く弾いたピツィカートが降りる40小節目からテンポが大きく落ちるのには一瞬「ぎょっ」とする。

中間部の主題から音楽は俄然個性的になる。テンポの伸縮が自在で、感傷を込めた重苦しい哀歌が濃厚に演出されている。特徴的なのは各フレーズの終わり目でリタルダンドをこまめにかけて力を抜くやり方で、この微妙な味わいはメンゲルベルクの至芸の極みである。

宇野氏は第1楽章と第2楽章について、LPのライナーノートの中で次のように絶賛している。 「第2楽章の中間主題や、ことに第1楽章第2主題の美しさはいかばかりであろう。この世のものとは思えないポルタメント、濃厚な情熱、てんめんたる小きざみなルバート、まことに甘美なあこがれとすすり泣きだ。美しすぎるくらい美しい。」


第3楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ

勇壮な行進曲のテーマにも弦楽器の潤いある響きがはっきりと聴き取れるのが驚きだ。まず221小節の1発目のヤマ場はインテンポを守ってガッチリと演奏する。コンセルトヘボウ管の強靱なアンサンブルには驚くほかはない。キラリとした美しさも兼ね備えた鋼のような音である。続く282小節の2発目のヤマ場で大きくリタルダンドをかけて期待通りの大ワザを見せてくる!

アーベントロートをはじめとするレトロな巨匠たちは、みなここでテンポを落とす。現代のスマートな演奏を聴き慣れている人には、思わず「ぎょっ」とすることだろう。筆者も指揮者ならば是非ここで一発リタルダンドをきめてみたい。300小節あたりからテンポが戻り、最後の3連符を突如どっしりと落として決めるところも吃驚仰天である。


第4楽章 フィナーレ、アダージオ・ラメントーソ

終楽章は何かに取り憑かれたような恐ろしいものを感じるほど、気迫のこもった演奏である。最初の和音が異常に力強い。弦楽器はすべての音に圧力をかけて弓をえぐるように強奏する。そしてファゴットの音は地の底から響くような慟哭の調べである。アンダンテの旋律はものすごいポルタメントをかけ(特に45小節目)、徹底的に揺れて歌いぬかれている。これを夜中に一人で聴くと、おそらく妙な気持ちに陥るほどの非常に危険な音楽にみちている。

テンポプリモからテンポが非常に早くなるが、弦楽器が72、74、76小節目の下降において音を大きく切るのが特徴的である。あたかも心臓がえぐられるような錯覚にとらわれる。89小節目の最後の2つの16分音符に大きなアクセントを入れる大ワザも見逃せない。

126小節目のアンダンテも壮絶である。8分音符のスラーを無視して音を切っている。極めつけはヴァイオリンがスルGで奏する147小節以降だ。異常とも思える早いテンポで終わる。収録時間の関係で最後は急がざるを得なかったという話であるが、このテンポもまたメンゲルベルクの至芸の1つと考えられまいか。


この1937年の録音は、最後のテンポが早過ぎた問題以外に、例のハム音の問題があって1941年に再度録音したとされている。このCDには悲愴の他にバッハのアリアとヴィヴァルディの合奏協奏曲が収録されているが、これも悲愴に負けず劣らず、極めて濃厚なこってりした演奏で、これを聴くとバロック音楽ではなく、後期ロマン派の曲ではないかと錯覚をおぼえるほどだ。しかし歌うべきところは、相変わらず纏綿とかなで、世紀末的な儚くも美しい色香が漂っている。

宇野功芳氏のライナーノートで締め括りたい。

「メンゲルベルクの『悲愴』は夢だ。精神よりは情ちょだ。消えてなくなりそうなはかなさとあふれるような香り、それは悲しみへの思い出であり、あこがれでもあろうか。」
http://musikfreund.blog64.fc2.com/?mode=m&no=14

結論として、カラヤンや菅野沖彦は音楽は全然わからないけれども耳や音感が超人的に優れているという事みたいですね。 ピアノ調律師と同じ才能ですね。

カラヤン、菅野沖彦や B&W のスピーカーを高く評価する人もやはりカラヤンと同じ様にピアノ調律師的な意味で耳が良いのでしょうね。少なくとも音が揺れて歪みが多く周波数特性も滅茶苦茶なSP復刻版や真空管アンプなんかとても聞けないという所でしょうか。

普通の人でもSTAXの静電型ヘッドフォンでカラヤンの CDを聴けば、フルトヴェングラーに衝撃を与えたカラヤンの超能力が体感できます。(B&W の様なダイナミック型スピーカーではカラヤンの真価は絶対にわかりません)

しかし、耳や音感が良過ぎるとかえって音楽の本質がわからなくなってしまうんでしょうね。

終わってみればカラヤンはムード音楽的演奏の大御所にしかなれませんでした。 カラヤンよりは本物のムード音楽を定着させたポール・モーリアの方が音楽史での存在価値は上でしょう。


音は凶器 _ 僕が STAX を薦めない理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/205.html


07. 中川隆 2013年3月23日 13:33:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか? _ アメリカ人には音楽は理解できない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/430.html


08. 中川隆 2013年4月04日 12:53:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


        ´   . : : : : : : : : : : ,...  -―    ̄ ̄ ̄「
        . ´   . : : : : : : : : :   j´ iヽ   \  ヽ   :i
       /    . : : : : : : : : : /  .:   ノ  \   丶    : :l
       ′  . : : : : : : : : :./   :/     ''" ̄ >,、 \}: : :j  i
      /     . : : : : : : : : :.//   _/_,       〃 f、ノ\ ヽ :′ j
    ;     : : : : : : : : : ://  . .:/ __ヽ        ゞ:;り 〕 ー\ ′
     {    : : : : : : : : : : /   V〃f ):,           "´ |.:/  .:
        : : : : : : : : :./ .: ハ  ゞ:リ          ' '''' |   .:.′
      \    : : : : : : / .: / :∧ "´ r'          ;  .::′.:
           : : : :/ .:. :/ .:.:.:.:', ''''            .′:/ ,.:.
         `   _/ .:.:j:ハ .:.:.:.:八      ⌒     /. .://.:;  /
            ノ/ .:.:.:i{ { .:.:}.:.:.:.:\          ..:'.:.:;〃 .:/ /
             //:.:.:/' i.:.:.j:.:.:.:.:.:.:.丶..      /:.://: .://:/
             .'/i:.:./   li ;.:.:.:.:.:/:.:.:.:.:.:.> /:. イ /   .::/:/
             li|:!   リ .′.:.:/.:.:.:.:.:.:.:.:/"´:.:.::∨′.:.:;イ:/
             { !:.iゝ   j/.:.:.:.〃:/:.:.:ィ.:.:.:.:.:.:.:.:.:/.:// /′
             :.{   /.:.://:./;//.:.:.:.:.:.:./.://   /
                 ヾ  // /.:// /.:.:.:.:.:.:イ.:/ ´     ′
                  /´   /:.イ:{ /:.:.:.:/ ´       /  /

アイリーン・ジョイス _ エロい美女は天才でも評価されない?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/431.html

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ _ 才能はともかくオーラだけは凄い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/432.html


09. 2013年4月05日 23:20:35 : W18zBTaIM6

ヨウラ・ギュラーを発見 _ 運命の出会い? それとも…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/433.html

10. 2013年4月07日 13:46:02 : W18zBTaIM6

ブラームス最晩年のクラリネット曲に秘められたメッセージとは
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/434.html

11. 中川隆 2013年6月22日 22:14:56 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

ラジカセでクラシックを聴いている清貧の音楽ファンには音楽はわからない _ フランス人だけがヤマハから美しい音色が出せる理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/435.html

12. 2014年2月20日 01:30:50 : ssFaY5bdfw
あなたのような愛国心のかけらも持たない偽日本人に、フルトヴェングラーの気持ちなど分かるはずがないでしょう笑。「徴兵検査を逃れたのに徴兵志願する」っておかしいって馬鹿ですか?祖国が滅びようとしているのに指をくわえて眺めていられるなんてあなたは余程頭の中がお花畑なのでしょうね。羨ましい限りです。

13. 中川隆 2015年4月12日 10:07:51 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

2011年10月 4日
宇野功芳氏が選んだ「フルトヴェングラー・窮極のCDベスト10」〜ウラニアのエロイカ


フルトヴェングラー---至高の指揮者 生誕125周年 (文藝別冊) ムック – 2011/9/12
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC-%E8%87%B3%E9%AB%98%E3%81%AE%E6%8C%87%E6%8F%AE%E8%80%85-%E7%94%9F%E8%AA%95125%E5%91%A8%E5%B9%B4-%E6%96%87%E8%97%9D%E5%88%A5%E5%86%8A/dp/430997760X

ぎっしり詰まった文字。過去の雑誌から転載した記事も多いが、「宇野功芳 フルトヴェングラー 窮極のCDベスト10」という記事が面白かった。

宇野功芳のフルトヴェングラー窮極の CDベスト10


@ベートーヴェン「交響曲第三番」英雄 ウィーン・フィル ’44〔オーパス蔵 OPX7026〕

Aベートーヴェン「交響曲第三番」英雄 ウィーン・フィル ’52〔EMIクラシックス TOGE11001〕

Bベートーヴェン「交響曲第五番」運命 ベルリン・フィル ’47.5.25[audite 21.403]

Cベートーヴェン「交響曲第六番」田園 ウィーン・フィル ’52〔EMIクラシックス TOGE11004〕

Dベートーヴェン「交響曲第七番」ベルリン・フィル ’43[オーパス蔵 OPX7002]

Eベートーヴェン「交響曲第七番」ウィーン・フィル ’50[MYTHOS MPCD9020]

Fベートーヴェン「交響曲第九番」バイロイト祝祭管弦楽団 ’51[MYTHOS MPCD901]

Gベートーヴェン「交響曲第九番」ウィーン・フィル ’53[ドリームライフRIPD0007]

Hシューベルト「交響曲第九番」ベルリン・フィル ’43〔オーパス蔵 OPX7010〕

Iブラームス「交響曲第四番」ベルリン・フィル ’48〔EMIクラシックス TOGE11008〕


まず1位が、エロイカだ。曰く・・


「@ベートーヴェン「交響曲第三番」英雄 ウィーン・フィル ’44〔オーパス蔵 OPX7026〕

オーパス蔵というのは人騒がせなレーベルだ。古いレコードを良い音にして蘇らせるので、長年の順位が狂うのである。この「エロイカ」も今までは Aの五二年盤が第一位であったが、蔵盤の出現で入れ替った。

 四四年盤はいわゆる〈ウラニアのエロイカ〉だが、この復刻盤は鳴りっぷりの良さ、歪みの少なさ、音の鮮明さが段違いにすばらしい。冒頭の二つの和音間の残響にまずしびれてしまう。こうでないと「エロイカ」は始まらないからだ。

そしてチェロのテーマが朗々たる音量で歌い始め、テンポは悠々として急がず、この開始部、すべての点で最高である。第二主題に向けて前進性を増してゆくフルトヴェングラーは、その後曲想に従って緩急自在の棒さばきを示し、しかも音楽の呼吸と一体化して流れを失わず、名人芸の極みを見せてくれる。

 第二楽章は入魂の逸品で、ベートーヴェンでないところは一ヶ所として見られない。スケルツォ以下も詳述する紙幅はないが、そのすべてが一期一会の音のドラマになっているのだ。・・・」


この評価を読むと、「オーパス蔵」なるレーベルの音を聞いたみたくなる。・・と、何と「ニコニコ動画」にこの音源がアップされているのを発見。

フルトヴェングラー・ウラニアのエロイカ  オーパス蔵復刻盤

ベートーヴェン:交響曲第三番「英雄」フルトヴェングラー/ウィーン・フィル’44
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14208028


それで聞き始めたのだが、何と素晴らしい音・・・。ちょっと聞いてみよう。


Netで「オーパス蔵」なるものを調べてみた。

オーパス蔵 ホームページ
http://www.opuskura.com/index_j.htm


雑誌に紹介された記事も読める・・・
http://www.opuskura.com/kakurega_0611.pdf


なるほど・・・。しかし、昔のアナログレコードから、こんな音が再現されるとは・・・。

これはまさに個人的名人芸の世界・・・。

人間国宝的なワザの世界なのだろう・・・
それに、この方は世界的に相当有名な方らしい。

確かに、一つの古い録音に、何十年も囚われていることの是非はあろう。
でも、音楽が、その奏でる人によって、色々と姿を変えることは誰でも知っている。

こんな記事も参考に、自分もしばらくの間、“人類の宝”とも言える、フルトヴェングラーの世界で遊んでみよう。
http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/cd10-5440.html


14. 中川隆 2015年4月18日 01:09:55 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

チェリビダッケ語録


「(マゼールは)カントについて語る二歳児」

「(クナッパーツブッシュは)スキャンダルそのもの」

「(ムーティは)才能はある、おそろしく無知だが」

「(アドルノは)世界史のなかでいちばんの大言壮語野郎」

「(ムターは)彼女は自分の弾き方に自信を持っている。だが彼女のやること全てには真に偉大な音楽性はない。彼女には視野がない」

「シェーンベルクはまったくどうしようもない愚鈍な作曲家である」

「イーゴリ・ストラヴィンスキーはディレッタントの天才に過ぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。そしてこの欠陥をいつも、
新しい様式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」

「私の見るところ、サヴァリッシュは高校の校長といったところ。彼は音楽家ではない。メゾフォルテの男だ」

「リズムが機械的なものと理解すれば、それがブーレーズだ」

「(ムターに対して)さてと、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏のところで学んだことをすべて忘れなさい」

(とあるマスタークラスにて、若き日のインバルに向って)
「ちゃんと勉強しないと、バーンスタインみたいな指揮者になってしまうぞ!」

「ハイフェッツは哀れな楽譜運搬業者だ」

「人間は何も食わずとも3週間くらいは生きられる。だがアバドのコンサートを3時間聴いたら心筋梗塞を起こす」

「ベートーヴェンの交響曲第5番は失敗作、特に終楽章は」

「(カルロス・クライバーは)あんな常軌を逸したテンポでは何も分からない。
彼は音楽がなんであるか、 経験したことがない」

私が独裁者だって?モーツァルトこそ独裁者だ!」

評論家など寄生虫だ」

「フランス人くらいドビュッシーやラヴェルを下手糞に演奏する連中はいない」

「(ショルティは)ピアニストとしては傑出している。指揮者としては凡庸な耳しかない。テクニックはお粗末」

「チャイコフスキーは、真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である」

「ベートーヴェンの《第九》の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。ぞっとするサラダだ」

「(カラヤン時代の)ベルリンフィルには、世界最高のコントラバス奏者がいます。だから、ベルリンフィルのコンサートは、今、すべてがオーケストラ伴奏付きのコントラバス協奏曲なのです」

「(ハスキルは)すばらしいコンサート・ピアニスト。機知に富み、魅力的で、徹頭徹尾、音楽的。 ユーモアと生きる歓びに充ちている」


15. 中川隆 2015年11月11日 14:15:01 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

 今から47年前のことです。当時、厚生省の社会保険局庶務課長だった私は、国連の招きで社会保障の勉強のため半年間、ロンドンに滞在する機会を得たんです。あちらに着いて草々、新聞でフルトヴェングラーとベルリン・フィルの来英を知り、一緒に来ていた同僚とふたり、さっそく切符を購入しました。決して音楽通じゃない私でもその名前は知っていましたからね。お金がなかったから買ったのは桟敷席。当時10シリングほどだったでしょうか。

 1953年4月22日、ロイヤル・アルバートホールは満席でした。日本人は我々だけだったでしょう。舞台に姿を現したフルトヴェングラーの顔は異常に青白く、どこか悪いのだろうか、と思ったのを今も覚えています。それから2年もせずに亡くなったのですから、この頃からすでに体を悪くしていたんでしょうね。

 欧米では外来演奏家の場合、まずホストカントリーの国歌、続けて自国の国歌を演奏し、聴衆はそれを起立して聴くのが慣例ですが、いまだ反独感情の根強く残っていたこの時代、ドイツ国家の演奏は禁じられていました。ですから、英国国歌の演奏が終わると聴衆はみな着席し、この日のプログラムの第1曲目を心待ちにしたのです。

ところが、フルトヴェングラーの指揮一閃、続いてベルリン・フィルが奏でたのは、「ドイッチュランド・ユーバー・アレス(世界に冠たるドイツ)」でした。

いまだ戦禍のあとも生々しい旧敵国に乗り込んでのこの所業、イギリスの聴衆がどんな反応を示すか--。かたずをのんで見守る私の目の前で繰り広げられたのは信じられない光景でした。ホールを埋めた千人以上の聴衆が次々と起立し、ドイツ国歌に敬意を表したのです。私たちも、いつのまにか彼等にならっていました。フルトヴェングラーの毅然たる姿勢、気迫に圧倒されてしまったんです。

 その後、フルトヴェングラーは何ごともなかったかのように、バッハ「組曲第2番」、ラヴェル「高雅で感傷的なワルツ」、シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ブラームス「交響曲第2番」のプログラムを予定通り演奏しました。ですが、どんな曲よりも強烈な印象を残したのは、あのドイツ国歌です。

 これはフルトヴェングラーであればこそなしえたことで、他の演奏家だったら、暴動になっていたかもしれません。実際、イギリスの新聞にはフルトヴェングラーの行為、さらにそれを是とした聴衆を批判する論文も掲載されました。

 後にわかったことですが、これが戦後初のドイツ国歌公式演奏だったそうです。クラシック好きの友人は「音楽のわからんお前にだけは聞かせたくなかった」と随分くやしがっていましたね。

(伊部英男(いべ・ひでお/1921年生まれ。財団法人年金総合研究センター理事長))グラモフォン・ジャパン(新潮社・2009年9月号))
http://www.asyura2.com/15/genpatu44/msg/303.html


16. 中川隆[1807] koaQ7Jey 2016年3月04日 21:16:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1744]

ブリュンヒルデの自己犠牲

以下は、ハンブルグのテレビ番組で行われた、アストリッド・ヴァルナイ、ビルギット・ニルソン、マルタ・メードルという、偉大なドラマティックソプラノ達 の井戸端会議の記録である。

この3人は、キルステン・フラグスタートとともに戦後バイロイトの黄金時代を支えただけでなく、世界中の主要歌劇場のブリュン ヒルデであった。


ヴァルナイはクナッパーツブッシュとクラウス、

ニルソンはショルティとベーム、

メードルはフルトヴェングラー


との「ニーベルンゲンの指 輪」の全曲録音が残っている。
女傑達にかかれば、帝王も形無しである。訳は筆者。
http://www.geocities.com/Vienna/Strasse/7321/mnvdisc.html

______




(クナッパーツブッシュのパルシファルの映像。メードルのクンドリー)

メードル;クナッパーツブッシュ・テンポね。

ヴァルナイ;彼は言ったわ。遅く、でも引きずらず。遅く、引きずらず、引きずらなくても、充分遅かったわよ!

メードル;私はあのシーンで25メートル離れていたの。彼は座っていたから、見えなかったわ。そして、突然、彼が立ち上がって、見えるようになった。彼は 神みたいだったわね。彼は一本の腕を突き出し、そして、別の腕を突き出し、そして、オーケストラピットから強い波がわき起こって....。

ヴァルナイ;でも決して、声を邪魔しなかったわ。

(パルシファルの舞台転換の音楽を指揮するクナッパーツブッシュの映像)

メードル;彼が立ち上がるとき、いつも信じられないことが起こるのが見えたわ。

ヴァルナイ;そうね。彼とオーケストラは一体になっていた。

メードル;そして、あのクレッシェンド...。

ヴァルナイ


ヴァルナイ;そう。あのクレッシェンド。彼は最初座っていて、それから腕を広げるの。で、私たちは思うの。「これだ!」って。でも、彼が立ち上がった時、ブレスを十分にとっていないと不幸なことになったものだわ!

メードル;私は時々、「パ〜ルシファ〜ル」のワンフレーズで三回ブレスしたの。

ヴァルナイ;それは彼にとっては問題ではなかったわね。

ニルソン;でもリハーサルでは、彼はあのテンポをとらなかったわね。公演だけ。もちろん、時々だけど、とても驚いたわ。特に彼と初めて共演するものにとってはね。

メードル


メードル;ナポリで指輪のドレスリハーサルをやった。私はあなた(ヴァ ルナイ)の録音をもっていて、そこから勉強したのよ。彼はリハーサルを全然してくれなかったの。私は、あなたの録音をずっと勉強していて、彼はドレスリ ハーサルに現れた。で、劇場はネコだらけで、そこら中足跡だらけ。彼は、私の手をとって、足跡を一つ指差し、「これがブリュンヒルデだぞ」って言ったの。

ヴァルナイ;ウソ!

メードル;それが指輪全曲のリハーサルの全部、ってわけ。

ヴァルナイ;(笑って)信じられない!


ニルソン


ニルソン;私はミュンヘンで彼とサロメをやってたの。彼はサロメがあま り好きじゃなかったわね。それで、私たちの間は険悪になったわ。で、ヨカナーンが...誰がやったのか覚えていない。Metternichじゃなかったわ ね。ゲストだったわ。彼がとても不安定で、ミスを連発したの。そして、クナッパーツブッシュがオーケストラ・ピットから怒鳴り始めたわ。私は、「なんて 事!もし、これが私に起きたら、どうすれば....」。で、もちろん、ミスをしたわ。「Ach, du wolltest...」で、1/4拍子速く入ってしまったの。彼は立ち上がって、Aで始まって、holeで終わる罵詈雑言(Asshole=クソアマ) を吐いたわ。涙が溢れて泣けてきた。18分の最終シーンの間、泣きながら歌ったわ。クナッパーツブッシュはこちらを一度も見なかったわね。助けようと思え ばできたのに。絶対忘れない。今、こんなことをする指揮者はいないわね。歌手が出て行ってしまうから。でも、昔はこんな感じだったの。指揮者と生死を共に するの。ジミー・レヴァインみたいな、歌手のための指揮者、とは大違い。彼は素晴らしいわ。

ヴァルナイ;彼は指揮者と一緒に呼吸するわね。

ニルソン;指揮者と一緒に呼吸し、楽しみ、霊感を与え、頭の中に音楽が満ちていて、でも音楽の中に没頭していない指揮者。ミトロプーロスみたいね。彼は全部のリハーサル番号を把握していたわ。

ヴァルナイ; ミトロプーロスは私に大きな影響を与えた。彼は、私にエレクトラをやらせたがっていた。私は、「30や33でエレクトラなんて早すぎます!」って言ったの よ。でも、彼は私にやらせたくて、「コンサート形式だよ」って言った。私は、彼の横に立っていたけど、空中に浮かび上がるような気がしたわ。とても素晴ら しかった。私は、あの役には若い声だったけど、彼は必要とあればオーケストラを抑え、そしてそうでない時には開放させたわ。素晴らしい出会いだった。それ 以来、たくさんの偉大な男性と仕事したけど、一度も女性指揮者とはないわね。誰かいるか知らないけれど...。

ニルソン;いないわね。

メードル;ごめんなさい。舞台にたっていて、もし女性がピットにいたら、私は守られてなくて、孤独な感じがすると思うわ。ごめんなさい。そう思うの。


ニルソン;私は指揮者が暗譜で振るとナーヴァスになるわね。コンサートは違う。皆、楽譜を目の前に置くから。でも、誰しも記憶喪失に陥ることはある。カラ ヤンとやった時に私にそれが起こったの。そして、カラヤンも自分がどこを振っているのか、全然わかってなかったのよ。プロンプターは私が自分の役、イゾル デ、を把握していると確信していて、こっちに注意を払ってなかったの。彼はプロンプターボックスの穴から、カラヤンが何をしているのか見ようとしたわ。で も、カラヤンはそんなことは関係ない、といったふりをしていたわね。私が自分自身でどこのページにいるか把握するまで、彼はコンサートマスターにばかり注 意をはらっていたわ。ひどかった!

それから、1957年か58年のバイロイトのトリスタン、サヴァリッシュとのプレミアで、ヴィントガッセンと第二幕のデュエットを歌っていた時のこと。 ヴィントガッセンは普段はとても頼れて、彼を聴いて彼に続けばそれで良かったの。「Ewig!Ewig! Isolde Mein! Trisntan Mein!」ってやって、彼が記憶喪失。で、私も自分がどこにいるかわからなくなってしまった。私は完全にヴォルフィ(=ヴィントガッセン)に頼り切って いたから。で、サヴァリッシュを見たの。Ewig!で高いBか、Bフラットが来るのはわかっていたから。サヴァリッシュは合図をくれて、救ってくれたわ。 でも、彼はスコアを持っていた!もし、暗譜で指揮する人がいたら、そんなことはできないわよ。

ヴァルナイ;クナッパーツブッシュは、どうしてスコアなしで指揮しないかと聴かれて、「俺は楽譜が読めるからね!」と答えたわ。

ニルソン;彼にはユーモアのセンスがあったわ。

ヴァルナイ;誰よりも鋭いセンス、がね。彼はピットにいた時には偉大だった。まるで、助けをくれる父親みたい。私たちはスコアを持てないし、全部暗譜でや らなきゃいけない。そして、感情と声をコントロールしなきゃいけない。悪い事が起こりうるの。でも、だれか信用してくれる人がいれば、そんなことは起こら ないもの。彼ら指揮者が放射してくれるのはそれね。そして、突然、フレーズをのばしたくなる時になった時には、彼はそれを理解してやらせてくれるの。

ニルソン;そして、彼はいい声に対して理解があって、それを自由にさせてくれた。すばらしくて、霊感に満ちていたわ。




メードル;私がフルトヴェングラーに感じたことなんだけど、とても奇妙 なの。今でも時々思いかえすんだけど、当時は特別なことと思ってなかったわ。私はバイロイトの前に、スカラ座で一緒にパルジファルをやったわ。で、私が 思ったのは、「そうね。なんだか彼とうまくやっていけて、歌えるってことは素晴らしいことね。」ってこと。後になって初めて、どんなにそれを至極当然のよ うに考えていたかわかったわ。なぜだかわからないけど、本当にそんな感じだったの。彼と一緒に仕事が出来たのは、私のキャリアの中で、もっとも偉大な体験 ね。誰も侮辱することなく、良心を持ってそう言えるわ。彼こそ、私の心の深淵に達した師だった。どうして今そう言えるのかわからないけど。フルトヴェング ラーはフルトヴェングラー。彼は唯一無比。別に他の指揮者が彼より劣るということじゃなくて、他にフルトヴェングラーはいない、ということ。ピットからの サポートを感じたの。彼のやりたいことがわかったのよ。

ニルソン;理想のペアね。あなた方はどちらも真情があったわ。バイロイトで、ベームとトリスタンをやった時もそんな感じだったわね。溢れるような真情と暖 かさ。あのオペラは彼にとってとても大切なものだったのよ。時々、指揮をしながら涙を浮かべていたわ。素晴らしかった。

メードル;彼は指揮しながら歌っていたわね。

ヴァルナイ;そう、歌っていた。幸運なことに、トスカニーニほど、大きくは歌っていなかったけど!



(トリスタンをリハーサルするベームの映像)

メードル;私、彼だけは怖かったの。

ヴァルナイ;彼から目を離すことができなかった。

メードル;私が彼を怖れたのは、彼はひどいオーストリア式のやり方で断罪することがあったからなの。彼はそのつもりがなかったし、悪意はなかったのだけど、彼には人を傷つけるやり方があったわ。

ヴァルナイ;彼は攻撃的にもなれたしね。

ニルソン;舞台ではいい雰囲気ではなかったわね。とてもイライラしていた。

ヴァルナイ;マルタ、でもあなたは彼を怖がることは無かったのよ。というのも、彼はいつも、端役からスケープゴートを見つけ出していたから。彼がそんなこ とをするのは、彼自身がとてもナーヴァスになっていて、なんとかそれを克服しようとしていたからなの。彼を扱うには、いく通りかの方法があったわ。「マイ スタージンガー」でダーヴィッドを歌った、ある無名の歌手のことを覚えているわ。彼の名前はヴォールファールトだったわね((訳注)エルヴィン・ヴォール ファールト。ミーメなどの軽い声の役を得意としたが、36で急逝。))。ベームは彼に向かって、「そこで何やってる!こっちを見るんだ!クズのような演出 ばかり見てるんじゃない!こっちを見ろ!こっちを見ろ!」って怒鳴り続けていたわね。私がホテルにいたら、ヴォールファールトが来て、「アストリッド、僕 は床屋に戻ろうと思うんだ」って言うの。私は、「だめよ。あなたは床屋になんかならないわよ。一つだけできることがあるわ。前、やったことがあるの。彼の ところに行って、こう言った歌手を知っているのよ。「博士。いったい私にどうして頂きたいのですか?」。すると、彼は他の人間を標的にするの」。
私は彼と一緒に「トリスタン」をやったことを覚えているわ。彼はブランゲーネを攻撃していたわね。彼にとっては、そうすることが、自分の緊張を沈める唯一の方法だったのよ。でも、それを知らない人たちは傷ついていたわね。

メードル;どういうわけか、彼は皆に愛されていたわね。彼を怖がっていたとしても。

ヴァルナイ;彼は素晴らしい指揮者だった。それに疑問の余地は無いわ。とてもコントロールされていて、とても小さい動きで。ほんの少しでも問題のある歌手 にとってはとても危険だった。舞台で動いているときでも、いつも彼を見ていなければいけなかった。もし、見ていないと彼は、あなたが見るようにテンポを変 えてしまうのよ。とても難しかった。

ニルソン;もし歌手がリードした場合、歌手につけることについては彼は気にしていなかった。彼は声を愛していたわ。

ヴァルナイ;本当ね。

ニルソン;彼はバイロイトで見事につけた。あそこでは、指揮者にとってとても難しいのよ。歌手の声がほとんど聴こえないから。たくさんの指揮者があそこでは問題を抱えるの。

ヴァルナイ;私はカラヤンと問題を抱えたけど、それはバイロイトで始まったわね。トリスタンの時で、テナーと私が第二幕で彼からとても遠くに離れたの。特 にあの頃は、彼が不明瞭だった時期で、空に雲を描いていたわね。どれが第一拍でどれが第三拍かわかんなくなっちゃうのよ。

メードル;彼自身、わからなくなると、円をえがいてたわね。

ヴァルナイ;そう。それが彼の表現方法だった、ってことかしらね。でも困ったのは私!本当に頭に来たわ。名前は言わないけど、二人の同僚がヴィーラント・ ワーグナーのところにいって、「フォン・カラヤン氏とはこんな風では一緒にやれない」、と文句を言ったわ。私はアメリカにいて、そのことを夫に話したの。 そして、フォン・カラヤン氏を尊敬していたけれど、こんな状況では尊敬できない、とは言わなかったけれど、一緒に働きたくない、とか手紙に書いたのね。誰 かがそれを彼に見せてしまったの。それで、10年もの間、彼は私を排除したわ。

ニルソン;そう。そういうわけで、私がブリュンヒルデとしてウィーンに来たわけね。

ヴァルナイ;そう。知っていたわ。

ニルソン;私もわかっていた。それは57年か58年ね。私は驚いたわ。なぜって、皆はあなたがやると思っていたから。でも、そういう理由があった。彼はそういうことは絶対に忘れないものね。

ヴァルナイ;だいたい10年たって、フォン・カラヤン氏から、ザルツブルグでエレクトラをやりたいという電話をもらったの。でも、過去に触れない、という 条件付きだったわね。私は言ったわ、「過去をほじくり返したい人なんかいるの?」、って。そういうわけで、ザルツブルグでのエレクトラのためにきた、って わけ。

メードル;あなた....

ヴァルナイ;一番いいところはまだよ。

メードル;そうなの?

ヴァルナイ;私は公演の日は手紙や電報を読まないの。ドレスリハーサルの間さえね。私は平和が欲しいのよ。もし悪いニュースだったら聞きたくないし、いい ニュースだったら待てないじゃない。ドレスリハーサルで、衣装部屋に綺麗な赤いバラの花束があって、封筒が中にあったの。運ばなきゃいけないものがたくさ んあったから、封筒を置いて花束だけ受け取るって、言ったの。そしたら、私の衣装係が、「ヴァルナイさん。読めばいいじゃないですか」って言うの。私は、 「読まない。絶対に」って言ったの。彼女が言うには、「それは読んでもOKですよ」。その手紙は、エレクトラ再演のための契約書だったの。私は思ったわ。 「こりゃ特別ね」。それ以来、私たちはまた一緒に働けるようになったの。



ニルソンさん、ご自分のハートが何かわかってるでしょう?

ニルソン;カラヤンと音楽を一緒にやるのは素晴らしかったわ。でも、舞 台を一緒にやることはそうではなかったわね。彼は照明の技術者よ。私たちは、光を求めて盲目の巡礼みたいに歩き回っていたわ。彼の照明が好きな人には素晴 らしかったでしょうね!皆、彼を賞賛していたわ。私には、他の誰よりもカラヤンを特に賞賛しなきゃいけない理由、というのがわからなかったけど。私はいつ も思った通りのことを言ったわ。彼が一度、「ニルソンさん。もう一度やって。でも今度は心を込めて。あなたも自分のハートがわかってるでしょう?あなたの 財布の中にあるものですよ」。で、私は答えたわ。「じゃあ、フォン・カラヤンさん。私たちの間には、少なくとも一つは共有しているものがあるってこと ね」って。でも、彼はその会話をユーモラスとでも思ったのでしょうね。そんな事がたくさんあったわ。彼は、指輪のリハーサルのために、10時か10時半に 来るよう呼びつけたりして、それなのに30分か45分かそれ以上待たせるの。それで彼の秘書が来て、「フォン・カラヤン氏はお時間がとれません。夜の7時 にいらしてください。」って言うんだけど、それでも彼は45分遅れてきたりしていたわ。私は彼が単に、自分の力を見せつけたかっただけなんだと思ったわ。 「神々の黄昏」で、彼は82回の照明用リハーサルをやって、オーケストラリハーサルは1回だけ!バランスがとれてなかった。彼がそこにいる時に、一緒に音 楽をやることは素晴らしかった。でも、彼は電話だの照明だので忙しくて、100%そこにいない感じがしたわ。せいぜい、50%かそれ以下ね。それだけでは 十分じゃないわ。彼はただの人間で、全部を考えることはできなかったのよ。でも、それを受け入れることができなかったのね。彼は全部コントロールしたがっ ていたわ。最悪よ。彼は偉大なアーティストだったけど、1人の小さい人間。何が出来るっていうの?

メードル;私は彼に...そうね、51年か52年にスカラ座の「フィデリオ」で会ったわ。もし、彼はあなた方の言う人間と違っていたと言ったとしたら......だいぶ時期が違ってたってことね。

ニルソン;おめでとう!

メードル;信じてくれる?

ニルソン;信じてあげるわよ。 

メードル;彼はナイスで、親密で、常に誰かを助けようとしていた。おぼえているのは、ヴィントガッセンが不調だった時に、「もし高い声が出なかったら、こっちを向きなさい。オーケストラでカバーしてあげるから」、と言ったこと。

ニルソン;そりゃもちろん、ヴィントガッセンが歌わなかったら、彼のその夜のギャラもパーになるんですからね。

メードル;彼は本当の仲間だったわよ。あなたが信じないのはわかってるけど、本当なのよ。彼は、ミラノでは私たちと一緒にランチに行ったりしたのよ(ニルソン から驚きの声)。リハーサルもしたし、自分の指揮者用のスコアでピアノも弾いてくれたし........。

彼は、トリスタンをスコアから弾いたわ!4年も の間、彼は完全に普通の人間だったわ。ドイツ語で言う、「仲間」だった。わかっている。あなたはまったく正しいの。でも、最初の頃は、彼は違ったのよ。彼 が舞台演出をする時、照明は誰かにさせたわ。そして、彼の舞台はとても音楽的で、全ての動きは音楽から来ていたわね。それは素晴らしかった。でも、もちろ ん、ヴィーラントにとってはやりすぎだったわね。
http://www.fugue.us/Brunhildes.html


17. 中川隆[-7158] koaQ7Jey 2017年7月16日 14:27:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

いじめの風景 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2017年07月16日


「このハゲ〜ェ〜」 「違うだろーーーっ」。

1か月ほど前にテレビ音声から流れ出たこの罵声が日本列島を震撼させた。


女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 豊田真由子議員 ブチギレ音声公開
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/544.html#c55

「豊田真由子」衆院議員が車中で私設秘書を怒鳴りつけ、殴打する音までもが録音されていたのだから誰もが驚いた。

しかも彼女の学歴が「桜蔭高校」(女子の名門高)〜東京大学法学部〜ハーバード大学院という華麗なものだったからいっそう拍車をかけた。

それ以降、東京都議選のときに候補者を推薦するために立派な学歴を紹介しても「その方は学歴はいいんでしょうけど、人格的に大丈夫なんですか」と、都民から念を押されるようになったとテレビで解説者が言ってた。

昨日(15日)、3連休を利用して会社員の娘が帰省したので、この件を訊いてみると「ああいう人が管理職になって自分の上司になったらたいへんね〜。」と実感のこもった言葉が返ってきた。

個人的には、これは「東京大学法学部神話の崩壊」だと思っている。「学歴だけで人を判断する」ことへの社会的警鐘として、これからきっと語り継がれていくことだろう。

ただし、政治の世界に限らず「いじめ」は大なり小なりどんな世界にもあるようだ。

日本人として初めてウィーン・フィルハーモニーを指揮した岩城宏之さん(1932〜2006)の著作に「いじめの風景」(朝日新聞社刊)というのがある。

一言でいうと「指揮者には音楽以外にも管理能力というものが要る」という話だがまずは、「叱り方の難しさ」。

一般的に中高年になって管理職になると部下の叱り方は誰もが当面する課題で、ことさらに意識しないで自然体に任せるのが一番いいのだがこれがまた結構難しい。

しょっちゅう叱ってもただの口やかましいオッサンになるし、それかといって逆に遠慮して叱らないでおくと”なめられて”しまう。

それに叱り方もいろいろあって、ある種の人間性が問われるところがあり、「叱り方=管理能力」という一面がたしかにあるのは間違いない。

ところが、音楽の世界でも「指揮者=管理職」、「オーケストラ楽員=部下」という構図の中で会社や役所とそっくり同じことが繰り返されているというのだから驚く。

☆ 指揮者の叱り方の実例

楽員のちょっとしたミスを指摘し、それを直し、あるいは自分の解釈に従って演奏者の演奏法を変えさせるのは指揮者の大切な役割で、練習ではいつもやっていることだが、これがときには「いじめ」と紙一重になる。

誰もが大人数の中で一人だけミスを指摘されて注意されるのは快くないが、あえてそれをするのが指揮者の仕事。問題はそのやり方で往年の名指揮者トスカニーニとカラヤンが実例として挙げられている。

トスカニーニの叱り方

全員の前でよく注意し、怒り、ときによっては出て行けと怒鳴ったそうで、クビにされた楽員がのちに演奏会の楽屋に爆弾を仕掛けたという話も伝わっている。

何回も注意をしたあとに、しまいには癇癪を爆発させて「アウト!」と叫ぶと、その途端にその楽員がクビになったという。

現在は世界中でオーケストラのユニオンが発達してそういうことはありえないが、指揮者にとって古きよき時代といえども、トスカニーニのワンマン、独裁力は抜きん出ていた。それでも、彼が指揮する音楽が素晴らしかったから許されていた。

カラヤンの叱り方

非常に民主的にその人を傷つけないやり方がカラヤンだった。たとえば、練習で第二ホルンの音程が悪いとすると、パッとオーケストラを止(と)めてヴァイオリンのほうに向かって自分の解釈を伝えてこうしてくれと注文する。そうしながら、ホルンの第一奏者に向かって目配せをするのだそうだ。

こうしてオーケストラの誰にでも個人的に皆の前で恥をかかせることはしなかったので、非常に働きやすく楽員から凄く人気があった。帝王として君臨したカラヤンの背景にはこうした楽員への心配りがあった。

☆ 若い指揮者へのいじめ

同じ人間同士に生まれていながら、片方は指揮者、片方は楽員で、楽員にとってどんなときでも指揮者の一挙一動に注目し従わなければならないというのは本来面白くないはず。

だから指揮者がちょっとした統率上の油断をしたり、音楽的に納得できないことが続くと当然反発する。

その反発は指揮者とオーケストラの力関係によって種類が変わってくるが指揮者が大変若くて新人の場合は集団での”いじめ”になることが多い。

職業上のいびりは学校のいじめと違って可愛げがなく、指揮者という職業をあきらめる新人が後を絶たないという。

いじめの実例 1

ある若い指揮者が日本のあるオーケストラを指揮したところ、練習中いろいろと難癖をつけられた。約百人対一人だし、若い指揮者の欠点というのは無数にある。

どんなことでもケチがつけられる。しまいには練習中にその指揮者はボロボロ涙を流して泣きながら最後を終えたそうである。

後日、岩城さんはその指揮者を呼び出してこう注意した。

「オーケストラの前で涙を流すヤツがあるか。どんなに悔しくても、悔しい顔を見せるな。泣き顔を見せたら、オーケストラは面白がって、ますます君の言うことを聞かなくなる。尊敬しなくなる、軽蔑する。それだけだ。泣きたいなら練習が終わって、一人で部屋で泣けばいい」

いじめの実例 2

今度は別のオーケストラの話で、例によってある若い指揮者をさんざんいびったところ、その指揮者は気が強くて、しまいには腹を立て、棒を叩き折って投げつけて出てきてしまい、音楽会をキャンセルした。

逆にいびったほうのオーケストラは非常に感心した。見所のあるやつだ、おもしろい。この指揮者はそのオーケストラにその後もよく指揮を依頼されたということだった。

以上のとおりだが、オーケストラといえば「芸術の創造」という高邁な志のもとに俗世間を超越した存在かと思っていたが所詮は人間の集まりで、「いじめ」や「管理能力」なんて陳腐なものが横行しているとはちょっとガッカリ。


しかし、政治家よりはまだマシかな〜(笑)。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/6dd653aa42f4f3865de6b6b46947926f


18. 中川隆[-7144] koaQ7Jey 2017年7月17日 07:49:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

youtube で聴く世界の名曲


糾弾掲示板[1816] 楽しく糾弾しましょう(音楽)

youtube で聴く世界の名曲 : コメント No.426 以降
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=1816
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=1816&l=1-

糾弾掲示板[2725] 音楽を楽しもう

伝説のオーディオ名機で聴く名曲 : コメント No.1 以降
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2725
____


YouTube をパソコンにダウンロードする方法
http://www.dvdvideosoft.com/jp/products/dvd/Free-YouTube-Download.htm#.UraNBJ2Cimx
 


19. 中川隆[-6072] koaQ7Jey 2017年10月24日 18:24:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「2018年度版!」「YouTube」の動画を安全にダウンロードする方法について
https://www.japan-secure.com/entry/blog-entry-459.html

YouTube動画変換 - MP3、MP4、AVIダウンロード
https://www.onlinevideoconverter.com/ja/video-converter


20. 中川隆[-5986] koaQ7Jey 2018年3月28日 10:20:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-9202]
>>14に追記


指揮者チェリビダッケの音楽語録〜 2008年04月15日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c2454e666c6de0a509d1ca7dcd889015


先日(4月5日)、我が家での試聴にjmc音楽研究所長のO君が持ってきたCD盤の「シェラザード」がすっかり気に入って、いまのところ愛聴盤として活躍中。(4月8日付けのブログで紹介)

オーケストラの音の響かせ方やテンポ、調和のとれたハーモニー、独奏ヴァイオリンの歌わせ方などによく練りこまれた独特の味わいが感じられる。

こうなると自然にその指揮者に関心が向く。

セルジュ・チェリビダッケ(1912〜1996:ルーマニア)

「私が独裁者?モーツァルトこそ!〜チェリビダッケ音楽語録〜」(シュテファン・ピーンドルほか著、音楽の友社刊)に略歴や人となり、音楽の考え方などが詳しく記載されている。

哲学と数学を専攻する中、音楽に目覚め24歳のときにベルリンに移住して作曲、指揮、音楽学を修めた。1945年にはベルリン放送交響楽団の指揮者コンクールに入賞。

当時、ベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者だったフルトヴェングラーが非ナチ化裁判のため指揮を許されなかった1945年から1947年にかけてベルリン・フィルを任されたほどの逸材。

フルトヴェングラー死去後、誰もが世界の名門オーケストラのベルリン・フィル常任指揮者に就任するものと思ったが、楽団員達が択んだのはなんとヘルベルト・フォン・カラヤンだった。

以後、チェリビダッケは国際的な指揮活動に集中せざるを得なくなり、イタリア、デンマーク、スウェーデン、フランスなどで指揮棒を振るが、晩年はミュンヘン・フィルハーモニーの音楽総監督として12年間に亘り蜜月時代が続く。

彼がとくに関心を抱いていたのが、若い指揮者を育てることで、自由になる時間のほとんどすべてを後輩の育成に捧げた。

彼がカラヤンに代わって当時のベルリン・フィルの常任指揮者に納まっていたら、その後、世界のクラシック音楽の動向も変わっていただろうといわれるほどの超大物指揮者だ。

チェリビダッケは言う。

「わたしがベルリン・フィルをさらに指揮し続けたら、このオーケストラは別の道を歩んだことだろう。カラヤンはアメリカ流に艶っぽく磨きぬかれたオーケストラに変えてしまった。わたしならそれをドイツ的なひびきを持つオーケストラに育て、その結果フルトヴェングラーの伝統を受け継いだことだろう。」

彼には指揮者から演奏者までさまざまな「歯に衣をきせない」発言がなかなか面白い。ここでは指揮者に限定して抜粋してみよう。

☆フルトヴェングラー

師として仰いだので次のように賞賛の言葉が続く。

「私はフルトヴェングラーの後継者になることを望まなかった。彼の後継者になれるものなどいない」

『私は彼にこう訊ねたことがある。「先生、ここのテンポはどうすればよいのでしょう。」答えは「そうだね、それがどんなひびきを出すかによるね」。まさに啓示だった。テンポとはメトロノームで測れるような物理的なものではない。結局、テンポが豊かなひびきを出し、多様性を十分に得るのに私はかなりの期間を必要とした。』

※通常、作曲家は楽譜にいかなるテンポで演奏するかを指定していないという。つまり、これは完全に指揮者任せということで、テンポ次第で音楽から受ける印象がすっかり変わる。しかし、速いテンポでも遅いテンポでも違和感がなく自然に聴ける唯一の音楽がベートーヴェンの作品!

☆クラウディオ・アバド

「まったく才能のない男。災厄だね。私は3週間何も食べなくても生きていける。だが演奏会に3時間もいれば〜心臓発作を起こしかねない。その相手が彼なら怒り心頭」

☆カール・ベーム

「彼の演奏を聴けば聴くほど、彼が心の中で音楽と思い込んでいるものと、彼という人間のあいだの距離が目に見えてどんどん開いてゆくばかりだ。」

「ベーム・・・・・、これまでのキャリアのなかで、まだ一小節たりとも音楽というものを指揮したことのない男」

☆ヘルベルト・フォン・カラヤン

「彼は天才ではない。すべての若い音楽家にとってひどい毒となる実例である」

「彼は大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカ・コーラもしかり。」

☆ユージン・オーマンディ

「あんな凡庸な楽長がどうしてストコフスキーの後継者になることができたのか」


☆ヴォルフガング・サバリッシュ

「私の見るところ、彼は高校の校長といったところ。彼は音楽家ではない。メゾフォルテの男だ。イタリアでは長距離専門アスリートをメゾフォルテと呼ぶ」

☆ゲオルグ・ショルティ

「ピアニストとしては傑出している。指揮者としては凡庸な耳しかない。テクニックはお粗末。」

☆アルトゥーロ・トスカニーニ

「トスカニーニは楽譜どおりに演奏した唯一の指揮者だといわれてきた。といっても彼はそもそも音楽などまったくひびかせず、音符だけを鳴らした唯一の指揮者だった。彼は純粋な音符工場だった。」

以上、かっての名指揮者たちもチェリビダッケにかかってはかたなしというところ。

最後に、最近HMVから取り寄せた3枚のチェリブダッケが指揮するCD盤を試聴してみた。

☆ベートーヴェン交響曲第6番「田園」

以前、このブログで田園の11枚の試聴を行って、およその演奏レベルを把握しているつもりだが、これは、ベストだったマリナー、ワルター指揮と十分比肩しうる名盤。
嵐のあとの感謝の歌の神々しいまでの荘厳さといい、全体的に細かいところに手を抜かず、重厚かつ深々としたひびきに”チェリビダッケは凄い”と感心した。

☆ベートーヴェン交響曲「第九番」

何だかフルトヴェングラーの最新ステレオ録音を聴いている思いがした。第一楽章から第四楽章まで時を忘れて聴き耽った。

☆シューマン交響曲「第2番」

仲間のMさんによるとチェリビダッケはシューマンとかブルックナーといったあまり陽のあたらない作品に光を当てて、見直させるのが得意な指揮者だという。たしかにこのひびきは人を飽きさせず作品に没入させる何かを持っている。

以上3曲(ライブ録音)についてとにかく重厚なひびきに圧倒された。これがドイツ的なひびきというものだろうか。ミュンヘン・フィルでこのくらいだから、彼がベルリン・フィルを引き継いでいたらもの凄かっただろう。本人が言うようにフルトヴェングラーの伝統を引き継ぐ資格に太鼓判を押したい。

ただし、自分が思うところフルトヴェングラー、チェリビダッケともにひびきを重視していることに変わりはないが、前者はいったん演奏に入るとひびきを忘れて演奏に深く没入するが、後者は常にひびきを念頭において(そのひびきを)冷静に第三者の目で観察しているところに違いがある。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c2454e666c6de0a509d1ca7dcd889015


21. 中川隆[-13368] koaQ7Jey 2018年10月29日 20:39:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19663] 報告
信じがたい数の「偉大な作曲家」が飲んだくれだった
https://gigazine.net/news/20161225-great-composer-was-drunk/

「Mozart and Liszt(モーツァルトとリスト)」あるいは「Brahms and Liszt(ブラームスとリスト)」という言葉は、英語圏では「酔っぱらい」の意味で使われます。この言葉通り、表だっては語られないものの、現代において「偉大だ」と言われている作曲家の多くが飲んだくれであり、誰がどう飲んだくれていたのかや醜態の様子がThe Spectatorに記されています。

A surprising number of great composers were fond of the bottle – but can you hear it?
http://www.spectator.co.uk/2016/12/a-surprising-number-of-great-composers-were-fond-of-the-bottle-but-can-you-hear-it/

「偉大な作曲家たちは飲んだくれだった」という話はあまり聞きませんが、ある時、ジャーナリストのダミアン・トンプソン氏は作家のオリバー・ヒルムズ氏の書いたリストに関する文書を読んでいたところ、「晩年のフランツ・リストのぞっとするような酔っぱらいエピソード」を目にしたとのこと。このことから作曲家たちの飲酒癖に興味を持ったヒルムズ氏は調査を開始。調べてみたところリストのバイオグラフィーは音楽学者のアラン・ウォーカー氏なども書いているのですが、ウォーカー氏の著作にはリストの飲酒癖について書かれていません。ウォーカー氏はリストが1日1瓶のコニャック、あるいは1日2本のワインを飲んでいたことを認めていますが、リストがアルコール中毒だっとは考えていない様子。一方で、リストの弟子であるフェリックス・ワインガルトナーはリストについて「確実にアル中」と述べていたそうです。

ブラームスは、売春宿やパブでピアノをよく演奏していました。多くの記事ではブラームスが売春宿などで演奏していた理由について「お金のため」と書かれていますが、実際には、売春婦にとって魅力的なブラームスは、サービスを利用することも多々あったようです。そして、あるパーティーにおけるブラームスの素行について、「酔った彼は、全ての女性たちに衝撃的な言葉を浴びせて、場をめちゃくちゃにした」という言葉も残されています。


by Joseph Morris

上記の2つから見るに、「ブラームスとリスト」という言葉は、意味のない比喩ではななく、史実を踏まえて作られたと言えそうです。

酔っぱらいエピソードが残されているのは、リストやブラームスだけに留まりません。シューベルトは若い頃からお酒を好み、「品行方正な家族のプライベートな宴会に招かれた時の嘆かわしく恥ずべき振る舞い」が複数の文書に記録されています。またベートーベンもシューベルトと同じような感じで、街路をふらふらとした足取りで歩いていたことが記録されています。また、シューマンは1830年に行われたドイツ南西部にあるハイデルベルクのカーニバルで「ラムの飲み過ぎで意識が混乱し道ばたで転倒、宿の女主人のスカートの下をまさぐる」という素行が確認されているとのこと。

このほか、モーツァルト、ヘンデル、ムソルグスキー、チャイコフスキー、シベリウスというそうそうたる面々が「酔っぱらいリスト」に入っていますが、バッハについては「飲んだくれていた」という報告がありません。ただ、2週間の旅路で支払ったビール代金がビール8ガロン(30リットル)分に相当するのでは?という指摘がされています。ベルリオーズとワーグナーはアルコールよりもアヘンを好んでいたようです。

作曲家たちの音楽にアルコールの影響を見いだすことができるかどうかは難しいところですが、ムソルグスキーの「死の歌と踊り」はアルコール中毒に苦しむ中で書かれた曲であり、作曲家の置かれた状況が不穏なハーモニーに反映されていると言えるとのこと。また、酔っ払った状態で正確な作曲活動を行うのは難しいため、シベリウスは人生の最後の30年において曲を完成させることがありませんでした。


by Brandon Giesbrecht

しかし一方で、聴覚を失い最悪の二日酔いに悩まされながらも、ベートーベンは言葉では言い表せないほどに荘厳な楽曲を創り上げました。ベートーベンはベッドで死の淵にいながらも、ドイツのラインランド州から送られてくるワインを楽しみにしていたのですが、ワインが到着して来た時にはほとんど意識がなく、ベートーベンは「なんて残念だ。遅すぎた」とささやき意識を失ったそうです。

一方のブラームスは、死の直前までお酒を楽しむことができました。ブラームスは何とかワインの入ったグラスを口元に持っていき、「おいしい」という言葉を残して亡くなったとのことです。
https://gigazine.net/news/20161225-great-composer-was-drunk/

22. 中川隆[-13374] koaQ7Jey 2018年10月30日 06:27:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19681] 報告

因みに、クラシックの作曲家の殆どはアル中でしたが
ジャズやロックのミュージシャンはアル中ではなく麻薬中毒でした。


ジャズやロックは元々、マリファナや覚醒剤とセットになっているんです。
ジョン・レノンやポール・マッカートニーも重度の麻薬中毒者でした:

射殺、転落死…薬物に溺れた「ジャズの巨人」たちの悲劇 2016.03.08

 日本でも芸能界、スポーツ界のスーパースターたちの薬物汚染のニュースが世間を賑わせているが、そんなのはまだまだ「超絶甘い!!」といいたくなるような人々がいた。“ジャズの巨人”たちである!

 ジャズ界のスーパープレイヤーたちの歴史を紐解けば、ドラッグに溺れに溺れたとんでもない巨人たちがワンサと登場してくるのだ! いやもうその状況は『ジャズの巨人』というよりも『シャブの巨人』といってもいいくらいの壮絶なラインナップ!!

 しかも、彼らは決してドラッグの力で音楽を創造していたわけでもなんでもない。ほとんどのミュージシャンが、栄光の後にドラッグの泥沼に引きずり込まれ、往年のプレイは影をひそめ、あまりにも悲惨な結末を迎えている。

 以下、小学館の隔週刊CD付きマガジン『ジャズの巨人』に記されている、そんな彼らの生きざまである。

 あまりにもクスリをやり過ぎるので、あのジョン・コルトレーンがマイルス・デイヴィス・グループをクビになったのはつとに有名な話。そもそも当のマイルスもクスリで複数回逮捕されており、そのマイルスにクスリでクビにされるって、どんだけ大量にやってんだよ、って話。

“モダンジャズ創造主”といわれたサックス奏者のチャーリー・パーカーは、ドラッグで精神錯乱を起こし、療養施設に入所しカムバックを目指すが、35才の若さで死去。

 夭折の天才トランペッター、リー・モーガンはドラック治療に1年を費やすも、34才で亡くなる。死因はなんと内縁の妻からの射殺だ! しかも楽屋で!! 更にその場には本妻もいた!!!

 アート・ペッバー。このアルトサックス奏者は、ドラッグ所持による逮捕と収監を何度となく繰り返し、しまいには体がボロボロになって脾臓破裂! どうにか一命は取り止めた後、3年にも及ぶ矯正施設でのリハビリを行い、奇跡的なカムバックを果たすが、56才の時に脳溢血死。

 一番とんでもないのは、トランペッターのチェット・ベッカー。母国アメリカでドラッグ所持で逮捕された後、レコーディングで訪れたイタリアでも逮捕。出所直後に今度はイギリスでも逮捕され国外退去。かと思いきや、ギャングに襲われトラッペッターの命ともいえる前歯を折られるトラブルにまで巻き込まれる。

 そして最終的には、58才でアムステルダムのホテルから転落死。それもホテルの2階からの転落である。もう一度書く。ただの2階からの転落で死亡!! どれだけ骨が、内臓が、そして全身が、それどころか精神までもがボロッボロだったかわかるようなエンディングである。

 薬物というものが、どれだけ恐ろしく人間を蝕んでいくかわかるような巨人たちの悲劇である。巨人に憧れた番長への警鐘でもある。
https://www.news-postseven.com/archives/20160308_392240.html?PAGE=1

そもそも、ジャズ・ロックは原始民族が集団でトランス状態に入る為に行う儀式で奏する音楽そのものです。

毒キノコ、マリファナや LSD の様な 幻覚剤を飲んで、音楽と踊りで異世界に入っていくのです。

23. 中川隆[-8863] koaQ7Jey 2019年8月11日 20:59:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3871] 報告

ベートーベン交響曲 第9番 二短調 合唱 1951年バイロイト公演 バイエルン放送局録音とされるCDについて
http://solarisu.sakura.ne.jp/WF/WF-Koment/Bayreut-9-Beturokuon.html


 ベートーベンの第9のCDといえばフルトヴェングラーのバイロイト盤にとどめをさす。戦後、再開されたバイロイト音楽祭1951年の初日、7月29日の公演のライブ録音。もちろんモノラル録音だ。のちに録音のいいステレオ盤がたくさん発売されたが、レコード芸術などの評論家や読者を対象とした雑誌のアンケート調査でもいつもこれが1位になっていた。僕自身、録音のいいステレオ盤をいろいろ聞いていたが、このフルトヴェングラー盤に出会って第9の神髄に触れることができた。

 有名な録音だけにいろいろ憶測が言われてきた。詳しくはあとで述べるが、この録音は 英EMIによって録音された。レコード化を目的としていたかは、実際のところわからない。EMIはウイーンフィルやフィルハーモニアオーケストラを使ってスタジオ録音を始めていた。SP時代をのぞくと、レコード化を目的としたライブの録音は他には知らない。この年(1951年)カラヤン指揮のワーグナーの楽劇を録音するため、EMIは録音チームを送った。ついでにフルトヴェングラーの第9を録音してみようという話になったのだろうか。公演は29日1回だけだったらしいが、現地のラジオ局(バイエルン放送協会)も録音してラジオで放送されたらしい。それで放送局にEMIとは別の録音テープがあるのではないかといううわさが以前からあった。

 そのうわさされていたバイエルン放送局所蔵の録音テープが出てきて、2007年に日本フルトヴェングラーセンターがCD化し会員向けに頒布された。大げさかもしれないがファンにとっては衝撃的なニュースだった。

 案内されてきたCDは会費込で6000円した。あまり高すぎるため、聴きたかったが、買わなかった。そうしたらその年(2007年)の12月にORFEOから通常販売され入手できた。
(ORFEO C754081B)

 この録音の発掘は当然、かなりの話題になった。2007年9月号のレコード芸術に感想記事が寄せられている。フルトヴェングラーセンター会長中村政行、フルトヴェングラー研究家桧山浩介、そして音楽学者(評論家)金子建志の3人。まだORFEO盤は発売されていないので、センター盤を聴いてでの感想ということになる。

 いままでEMI盤で言われてきたのはゲネプロ(総練習)をメインに使用し、本番のテープも一部使用した、という説(テープを編集した跡がある)。ほぼこれは当たっていると思う。バイエルン放送局のテープ(以下B盤)は咳ばらいなどの聴衆のオーディエンスノイズがはっきり聞き取れる。部分的にEMI盤と同一と思われる個所もあるらしいが、あきらかに別録音という印象を受けた。

 中村、桧山両氏はB盤を29日の本番だと指摘。演奏の完成度もEMIより高いという意見を述べられているが、金子氏はまったく逆の意見だ。その根拠は、演奏の仕上がりの完成度はEMI盤の方が高くB盤は楽器のバランスやアンサンブルの点で最終し上がりの前の状態で完成度が低いと指摘している。金子氏の指摘はスコアを使用して詳細を極めている。ぼくはスコアは持っておらず、金子氏の指摘についての確認は出来ないが、B盤の演奏にEMIより完成度が低いという印象は持てなかった。金子氏の指摘で判るのは、終楽章のソロトロンボーンの箇所と、ピッコロ、トランペットが突出しているところ。ピッコロとトランペットの箇所は、マイクアレンジの差かもしれないが、仮に、EMI盤が本番として、フルトヴェングラーが修正した、という説は、十分考えられる。しかし、咳などの聴衆のノイズについては、オーケストラの楽員もしくはコーラスの団員が発したものではないか、という説は無理があると思う。第一楽章初めのあたりの咳はマイクに近く、オーケストラ団員というのはわかるが、マイクから遠い会場ノイズがあちこちに散見できるからだ。

 金子氏がB盤をゲネプロと指摘する根拠がほかにもある。第3楽章のまえにソリストが入場する足音が聞かれる個所のことだ。(ORFEO盤はここのところはカットされていてる。)本番ならソリストが入場すれば拍手がおこるはずと指摘している。これはたしかにそのとおりだと思うが、一方でゲネプロならソリストの入場は第4楽章のまえでいいのではないかとも思うが。B盤は第3楽章が終ってすぐ第4楽章が始まっているので、たとえゲネプロであっても本番と同様に演奏したい、というフルトヴェングラーの要望があったのではと、憶測もできる。

 EMI盤の憶測がいくつか明らかになった。第4楽章中間あたり、”vor Gott"と合唱がフォルテで歌い、声を長く伸ばす、有名な箇所があるが、最後、瞬間的に合唱、トランペットのレベル(音量)が上がる。これは、レコード制作時にわざとレベルを上げて、演出したのではないかという疑問だ。B盤はそのような音量の変化はない。したがって作られたものだと判った。さらに、その"vor Gott"のあと、長大なゲネラルパウゼ(総休止)がある。これが異常に長い。それも疑問がもたれた。しかしB盤も同様に長く、この点については特に元テープを触ってないということがわかった。

 僕自身、どうにもわからない点がある。それは最後のつめの箇所。フルトヴェングラーの第9の最後のところは、猛烈なクレッシェンドをかけて終わる。フルトヴェングラーの第9の録音はかなりあって、ほとんどCDで聴くことができ、この終結のところはどれもうまくいっているが、このEMI盤はオケが混乱して終わっている。まったく縦の線がそろっていない。誰が聴いてもこれはわかる。B盤はこの箇所がうまくいっていて問題ない。レコード化にあたってなぜB盤を採用しなかったのか。結局、新たな疑問が生じた。

 B盤はバイエルン放送局が録音した、言われている。関係者の証言もあるみたいだ。しかし、僕はこれはEMIが収録したものだと思う。理由はいろいろあるが、それまでバイロイトでのコンサートの録音の経験はなかったはずで、マイクのセッティングに手間がかかり、本番、ゲネプロの収録までにいろいろ試行錯誤(マイクテスト)しているはずで、別々にしているとは考えにくい。それと、マイクアレンジや音質は別、という意見があるが、ぼくが聴いた限りでは、「同じマイクアレンジ」だと思う。たしかに、先に書いたピッコロやトランペットのバランスの問題はあるが全体の音の印象はEMI盤と同じ、という印象だ。根拠はもう一つ。当時のラジオ放送局にこれだけバランスのいい録音が出来る技術は持ってなかったという点だ。フルトヴェングラーは1954年にもバイロイトで同じ第9を公演していて、この方は間違いなくバイエルン放送協会が録音したテープが残されている。それはCDで聴くことができる。かなりバランスの悪い録音で、はっきりいって鑑賞に耐えられるような代物でなく、3年後という技術の進歩も考えても、B盤がバイエルン放送局の技術で録音されたとは考えられない。ほかのケースを例に出してもいい、51年、52年、53年のウイーン、51年のザルツブルグ、54年のルツエルン、バイロイトなど、いずれも放送局の録音での第9が残されて聴くことができるが、いずれも録音のクオリティは51年のバイロイト盤には遠く及ばない。

 僕の解釈、ゲネプロと本番をEMIが収録した。おそらく、録音権でEMIとバイエルン放送協会とのあいだに争いがあったのではないかと思う。録音はEMIが収録し、本番かゲネプロのどちらかのテープをEMIがバイエルン側に提供する。放送は1回限りで、コピーテープを他の放送局に提供しない、という契約をしたのではないかと思う。コピーテープはスエーデンにあるらしいが、放送時に局が録音したのではないかと思う。今回のバイエルン放送協会で発見されたテープには、「たとえ部分的にでも、放送することは禁止」と書かれているという。一度放送した後で記述されたとおもわれ、EMIとの契約を意味しているのではないだろうか。

 1970年代後半から80年ころにかけて、放送局が所蔵していた音源からの流出と思われる、コンサートライブのレコードがチェトラ、BWS(ブルーノワルターソサエティ)、メロドラムといったレーベルから大量に発売された。フルトヴェングラーのライブもたくさん出てきた。それ以降も、放送局所蔵の録音テープの発掘が続けられて、散発的に発売されていた。それらのなかに、今回のバイロイトの録音テープは発売されなかった。つまり、バイエルン放送局で厳重に管理され、再放送はもちろんコピーテープも作られなかったということだ。

 このEMIの録音についていくつかヒントを与えたい。1999年に歴史的録音を発掘してCDを発売しているテスタメントからオットー・クレンペラーの第9のライブ録音が発売された。1957年11月15日の公演の録音。放送局が録音したのならよくあるケースだが、録音はEMIがした。当然、録音のクオリティは高い。クレンペラーの第9はこの演奏会に前後して、まったく同じメンバーでセッション録音された。レコードとして発売されたのはもちろんセッション録音の方。ライブの方は99年にテスタメントが発売するまで録音の存在さえ知られていなかった。似たケースがほかにもある。53年8月ザルツブルグでシュワルツコップフのヴォルフリサイタルがおこなわれた。ピアノはフルトヴェングラー。シュワルツコップの細君でEMIで力を持っていたウオルター・レッグが私的に聴くために、このコンサートの録音を指示した。結果的には選曲してEMIからレコード化されたが、珍しいケースだと思う。いままであえて名前を出さなかったが、バイロイトのフルトヴェングラーの録音やクレンペラーの第9の録音はレッグの指示だと思う。

 EMIはフルトヴェングラーのベートーベンの交響曲をウイーンフィルで順次録音していた。1954年フルトヴェングラーが亡くなって、2番、8番、9番は録音されなかった。9番がセッション録音がされていたら、51年のバイロイトの録音はクレンペラーのケースのようにお蔵入りになっていたと思う。

 えらい長くなってしまったが、EMI盤とB盤の比較だが、B盤の方が演奏がいいと思う。全体が有機的に連続しており、EMI盤のような編集の痕もなく自然。それに録音は明らかにB盤に軍配が上がる。EMI盤のLPの海外、国内の初期盤、後の盤(70年代)とも比較したがB盤の方が音質がいい。同じ収録なのになんで差があるのか謎である。バイエルン放送局の別録音の根拠になるが、どうしてもそれは信じられない。

 1点だけ問題がある。第4楽章はじめ有名な歓喜の主題がチェロで静かに始まるところ、有名な箇所だがEMI盤はほとんど聞き取れないほどのピアニッシモで開始されるが、B盤はラジオ放送のためそのままでは聞こえないので、音量を上げている。金子氏が指摘している通りでここでノイズレベルが上がる。再発売の際にはここはもとのダイナミックスに修正してほしい。感興をそぐ。   日本フルトヴェングラーセンター製作のLP盤について(2010年12月2日、ブログの記事を転載)


 レコード番号:WFHC−014A/D 日本フルトヴェングラーセンター製作。プレスはドイツらしい。一般市販品ではなく会員頒布。

全曲4面にカットされている。丁寧に作られた盤だ。重量盤。
 
 冒頭、出だしのバイオリンの音に違和感を覚えた。高音が少し持ち上がったきつい音だ。第2楽章の冒頭のバイオリンのトッティも同様。第3楽章はバイオリンがよく歌うところが多いがこれも同じ印象。結局、最後までこの違和感は消えず、楽しめなかった。

 トランペットは耳に突き刺さるような音で、終楽章の四重唱はソプラノがキンキンした。

 同じマスターを使用してCD化されたオルフェオ盤と聞き比べてみた。オルフェオ盤のほうがはるかに聞きやすく、違和感なくEMI盤との音の雰囲気の差は少ない。一帯どうゆうことなのだろうか考えた見た。

 アナログ音源の録音をLP化する場合、最近はデジタル化したマスターを使っている場合が多い。編集がしやすいこととノイズなどの処理をしやすいからだと思う。このLPはその点どうなのかと思いながら、添付されていた解説を読んでいたら38cm/sのフルトラックテープでコピーしたものを使用したと書かれていた。日本センターが最初に頒布したCDのマスターはDATにコピーしたと書かれていたので、LPはデジタル処理は避けたようだ。

 フルトヴェングラーおたくはオリジナルにこだわって、もとのマスターテープの音をイコライジングなどでマスターの音をいじられることを嫌う。

 このLPの音はマスターテープの音をそのままLP化したのではないかと思う。オルフェオのCDは、聴きやすいように音質を改善したのではないだろうか。それでセンター製のCDの音はどうなのだろうかとおもった。

 それと終楽章に古いテープ特有のレベル変動がかなりあった。60年近く経っているので劣化していて当然だが、聴いていて気になる。CDもレベル変動はあるがそんなに気にならない。デジタル処理で修復したのかもしれない。

 CDでは気が付かなかった点がもう一つある。第4楽章の歓喜のテーマの出だしのところが頭の音が切れている。テープを繋いだあとだとはっきり判る。オルフェオのCDでは気が付かなかった。それでこの部分CDを聴いてみた。LPははっきり判るが、CDははっきりしない。まえに書いたがここでノイズレベルが上るのでボリウムを操作した、と書いたところだ。なんとも微妙。もう少し聞き比べをしてみたい。

 CDとの音質差はLPのほうが一皮むけたような明解な音がしている。LPのほうが高音が持ち上がっていることが理由かもしれない。

 ついでにEMI盤のLPとも比較してみた。使ったLPは東芝AB9116E(手持ちのLPではこれがベストだと思っている)。やはり耳になじんでいるせいか総合的な点でEMI盤のほうが音質が安定していていい。まったく違和感なく聞ける。
 
 このフルトヴェングラーセンター製のLPは、値段が高いことについては、特殊なもので本来商業的に販売された物でなく、希少で骨董的な価値も高いため仕方が無い。結局内容としては期待はずれだった。

 この録音、改めて聴いて判ったが、EMI盤には残念ながら及ばないと思う。終楽章の音質劣化は致命的だ。

http://solarisu.sakura.ne.jp/WF/WF-Koment/Bayreut-9-Beturokuon.html

24. 中川隆[-8860] koaQ7Jey 2019年8月11日 21:28:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3874] 報告

巨匠フルトヴェングラーの「名盤」の真相 第一回 「バイロイトの第九」の「真相」
本間俊哉 2016年8月29日

巨匠フルトヴェングラー(一八八六年生、一九五四年没)の数ある録音の中でも、最も声望の高いものといえば《バイロイトの第九》であろう。一九五一年七月二九日、バイロイト祝祭が第二次大戦後に再開された折の、記念演奏会の演奏記録である。

フルトヴェングラーは、一九五四年八月九日にも同じくバイロイト祝祭のオープニング・コンサートでベートーヴェンの《第九》を演奏し、録音も残っている(セブンシーズ国内盤【KICC-1053】)が、もともとがプライベート録音で音質が劣悪すぎ、演奏の真価を問うことはできない。

通常、フルトヴェングラーの指揮した《バイロイトの第九》といえば一九五一年録音の演奏を指す。とはいえ、これは実のところ、問題だらけなのだ。

2種の《バイロイトの第九》

《バイロイトの第九》は、演奏年月日が同じで、収録された演奏の異なるものが二種、存在する。一つはイギリスHMV(EMIと同一の会社)が一九五五年に2枚組LP【ALP-12986~7】として初めて発売したもの(これは後述するがCD時代になってからいろいろ手が加えられている)。もう一つは日本フルトヴェングラー・センターが二〇〇七年に会員用にCD頒布【WFHC-013】し、同年暮れに独オルフェオ【C754081】からも一般向けにリリースされたものである。EMI発売盤をE盤、オルフェオ盤(つまり日フルトヴェングラー・センター盤)をO盤とする。

O盤は、バイエルン放送局内で「放送禁止」と書かれた箱に保管されていたテープから復刻されたもので、発見者である日フルトヴェングラー・センターは、「従来のE盤ではなく、このO盤こそが本物の本番ライヴ録音である」と主張している。E盤はいろいろに原テープを編集したもので、O盤は一貫した録音であるから、E盤は本番の一発録音としては信憑性に欠ける、ともセンターは主張するのである。

だが、一聴して分かるようにE盤を貫く只ならぬ緊迫感や高揚は、O盤には見られない。特に、終楽章の結尾のプレスティッシモ(最高に速く≠ニいう演奏指示)が、E盤では勢いあまって演奏が怒涛のように完全に崩壊しているが、O盤は最後まで冷静に整った演奏ができており、本番舞台らしい熱気がまるで感じられない。

さらに、E盤の全曲をなんど聴いてもセンターが主張するような、テープ編集の痕跡はどこにも見られない。一九五一年における一発勝負の舞台録音である。まだEMIは磁気テープ録音を導入したばかりだった。テープの編集は、ハサミとセロハンテープで行なっていた。だから、録音時はもちろん、その後のマスター・テープの編集等の加工があれば、録音年代から見ても、どうしても聴き手に分かる跡が残ってしまう筈である。

センターは、具体的にE盤の終楽章における”vor Gott”のフェルマータ(長く伸ばす≠ニいう演奏指示)末尾のクレッシェンドは不自然で、誰かがマスター・テープに手を入れた証拠と強調しているが、注意して聴き直しても特に不自然さは感じられない。これは、音楽雑誌等で複数のプロの批評家や録音エンジニアも述べていることである。

O盤も一聴してあからさまなテープ編集跡はないが、E盤に問題がない限りマスター・テープの編集云々は意味がない議論である。

音楽批評家・平林直哉氏によるとこのコンサート当日、公演本番の少し前に全曲の通し稽古があったとソプラノ歌手のシュワルツコップが証言しているとのことで、この通し稽古こそがO盤の正体ではないかと平林氏は述べているが、私もこの意見に賛同する。平林氏は前述の”vor Gott”のフェルマータ末尾のクレッシェンドについても、「EMIが操作したようには感じない」と著書にも書いている(《フルトヴェングラーを追って》青弓社)。

私も、日フルトヴェングラー・センターの、このO盤を発掘して世に問うた功績は大いに認めるものだ。しかし、完全に裏を取り、E盤がどういった録音であったかを資料等によってはっきりさせない(確実な証拠もないのに、センターは「E盤はリハーサル録音と本番録音の混合」と決めつけている)まま公にしたために、このような混乱が起きていることを、センターには直視して欲しいと思う。

私の考えでは、《バイロイトの第九》はE盤で聴くべきだ。あるいは、E盤があればそれで良い。E盤とO盤とでは、聴いていて受ける感銘の度合いにかなりの差があるからだ。

足音入り

一九九〇年に東芝EMIからリリースされた《バイロイトの第九》のCD【TOCE-6510】は、指揮者の「足音入り」ということで話題になった。帯にもその旨が書かれている。舞台にフルトヴェングラーが登場して指揮台に乗り、聴衆に挨拶をするまでの足音が録音に含まれていたからである。それだけでなく、演奏開始直前にオーケストラに向かってフルトヴェングラーが何ごとか話しかける音声が八秒ほど入り、開演前、終演後の熱烈な拍手も、ややたどたどしいが録音技師が始まりを揃えようとしている感があった。

従来のディスクでは、フルトヴェングラーの足音も話し声もいっさい含まれてはいなかった。また、開演前の拍手はなく、終演後の拍手はあまり綺麗に録られておらず、フェイド・アウトもいま一つ手際が良くなかった。しかし一九九〇年以降、この《バイロイトの第九》のEMI系録音盤には、必ず足音、声、整った拍手が収録されている。ただし、テープの継ぎ目が明らかで、後付けの効果音であることははっきりしていた。

この効果音は、東芝EMI盤よりEMIミュージック・ジャパン盤SACD【TOGE-11005】のほうがさらに手際が良い。テープ編集の痕跡は殆んど分からない。私は、最近のデジタル技術を駆使したものだと思う。演奏直後の熱狂的な拍手が、ひとしきり鳴り渡った後でフェイド・アウトするのも綺麗に整えられている。

先ごろ亡くなった音楽批評家・宇野功芳氏はこの音声についてオーケストラに「虚無の中から聞こえて来るように」と注意した、と《フルトヴェングラーの全名演名盤》(一九九八年、講談社)で書いているが、本当かどうかはかなり疑わしい。この本の前身である著書《フルトヴェングラーの名盤》(一九七七年、芸術現代社)でも、すでに宇野氏は同じように書いていた。この時点で、指揮者の声入りのレコードはまだ出ていない。

宇野氏は個性的な辛口批評で知られ、カリスマ的批評家として大いに活躍した。特に、日本で無名だった数多くの名演奏家たち(指揮者ハンス・クナッパーツブッシュ、ピアノ奏者リリー・クラウス、ヴァイオリン奏者チョン・キョンファ等々)を意欲的に紹介し、人気を博すまでに導いた功績は極めて大きい。

だが、彼は日本ではまだあまり知られていないことなどについて、手前勝手な作り話をよく書く人物でもあり、私はこの「虚無」云々の「注意」も、恐らく氏の想像だろうと思っている。

初版HMVのLPレコード【ALP1286-7】を聞いても開演前の拍手はいっさい収録されておらず、演奏直前の声もなく、終演後の拍手はたちまちブツリと消されてしまう。だから、揃った拍手や指揮者の声は、私はEMIがCD時代に入ってから臨場感を演出させるために施したものであろうと思う。

日フルトヴェングラー・センターが生前のフルトヴェングラー夫人(一九一一年生、二〇一三年没)にこのCDを聴かせたところ、夫人も足音や話し声に関して「おかしい」と訝しげであったという。夫人は一九四三年にフルトヴェングラーと結婚して以来、ほぼ常にフルトヴェングラーの舞台や録音には立ち合っていた。もちろん、この時も賓客として客席にいたのである。

そもそも、これから《第九》のような大作を演奏しようという、ホール内の誰もが緊張している本番直前に、指揮者がこと改めて演奏者たちに口頭で注意をしたりすることは、まず考えられない。私の聴いた数多くの《第九》の実演でも、このようなことは決してあり得ないことだった。

録音と発売の経緯

この《バイロイトの第九》のプロデューサーはウォルター・レッグという人物(一九〇六年生、一九七九年没)である。

レッグはEMIの重役で、二〇世紀を代表する多くのアーティストをEMIの専属とし、自らプロデューサーを務めて彼らのスタジオ録音を厳しく監修し、主にオペラとオーケストラ曲において、いくつもの歴史的名盤〈R.シュトラウスの楽劇《ばらの騎士》(指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン、録音:一九五六年)や名ソプラノ歌手マリア・カラス(一九二三年生、一九七七年没)の数多くの傑作オペラ録音、大指揮者オットー・クレンペラー(一八八五年生、一九七三年没)によるオーケストラ曲の名演盤等々〉を制作したことで知られる。だが、《バイロイトの第九》のプロデューサーとなったのはまったく偶然のことだった。

一九五〇年、若きカラヤン(一九〇八年生、一九八九年没)に肩入れするレッグはフルトヴェングラーと決定的なトラブルを起こした。もともとフルトヴェングラーとカラヤンの仲は険悪だった。この事件は長い説明を避けるが、要はレッグがプロデューサーを務める歌劇《魔笛》のカラヤンによるスタジオ録音を、オーケストラも歌手たちもほぼ同じフルトヴェングラーの同曲上演の直後に設定し、実質的にフルトヴェングラーをカラヤンの練習指揮者に仕立ててしまったのである。

このことを知って怒り心頭に達したフルトヴェングラーは、同年で切れるEMIとの録音契約更新に当たり、「一九五一年以降の録音では二度とレッグをプロデューサーとしないこと」を条件に挙げたほどである。

バイエルン州のバイロイトは大作曲家リヒャルト・ワーグナーのオペラの聖地であり、ワーグナー家の当主だったヴィニフレート・ワーグナー〈ワーグナーの一人息子ジークフリート・ワーグナー(一八六九年生、一九三〇年没)の妻、一八九七年生、一九八〇年没〉が熱烈なナチ信者だったために、一九五一年まで本来のオペラ・ハウスとしての機能を果たすことが禁止されていたのである。因みにヴィニフレートは死ぬまでナチズムとヒトラーの崇拝者だった。

一九五一年から、ヴィニフレートが引退してバイロイト祝祭の開催にはいっさい関わらず、全権を彼女の長男ヴィーラント(一九一七年生、一九六六年没)、次男ヴォルフガング(一九一九年生、二〇一〇年没)に譲渡すること、ナチズムを完全撤廃することを条件として、連合国軍はこの祝祭再開を許可した。ここに、バイロイト祝祭は6年ぶりに復活したのである。

この祝祭(音楽祭)は一風かわっており、ワーグナーの創造したオペラしか上演しない。そもそも、ワーグナーのオペラを理想的に上演できるように、ワーグナー自身が開催を決め、劇場までを建設したのである。だから演目は限られるが、演出等において新しい試みを積極的に導入することによって、新鮮な舞台を創り上げているのである。運営はワーグナーの血族によって行なわれている。

一八七六年にこのバイロイト祝祭劇場が完成した時、その記念としてワーグナーは自ら指揮棒を執り、劇場でベートーヴェンの《第九》を演奏した。ワーグナーは大作曲家であったばかりでなく名指揮者でもあった。

そこで、第二次大戦後の祝祭復活記念にも、その故事に倣って《第九》のコンサートを催すことを祝祭関係者たちは企画した。そのタクトを任される名誉ある役割は、祝祭関係者たちはワーグナー・オペラの指揮者としても世界的に知られている当代第一の指揮者、フルトヴェングラーに果たしてもらいたかったのである。

祝祭主催者中の最高責任者はヴィーラント・ワーグナーだった。彼はフルトヴェングラーを直接たずねて演奏を打診したが、同時期に催されるザルツブルク音楽祭との兼ね合いを考えて、フルトヴェングラーは即答を避けた。フルトヴェングラーは、ザルツブルク音楽祭における指導者の一人というべき立場にあったからである。この年も、すでにモーツァルトの《魔笛》と、ヴェルディの《オテロ》を数回にわたり上演することがすでに決まっていた。二作とも、なかなか大掛かりなオペラである。

一方ヴィーラント・ワーグナーは、復活なったバイロイト祝祭で、できればワーグナーのオペラを一作なりとフルトヴェングラーに上演して欲しい意思もあった。すでに上演する作品の指揮者の用意はできていた〈ハンス・クナッパーツブッシュ(一八八八年生、一九六五年没)とカラヤン〉が、フルトヴェングラーが来てくれるとなれば、指揮者の急遽交替も辞さない構えだったのだ。当時の欧州楽壇で、いかにフルトヴェングラーが尊敬されていたかがよく分かる。

だがヴィーラントは、予想以上に多忙だったフルトヴェングラーの都合を考え、開幕記念演奏会の《第九》演奏のみに交渉を絞り、遂に説得に成功した。「あなたに、大戦後の再開なったバイロイト祝祭の最初の音を出して欲しいのです」というヴィーラントの言葉が、迷っていたフルトヴェングラーの心を動かしたという。

この話を耳にしたレッグは、早速「バイロイトで演奏する《第九》をライヴ録音してはどうか」とフルトヴェングラーに申し出たが、フルトヴェングラーは「音響効果が良くない」という理由で断わっている。レッグは同年バイロイト祝祭に招かれてオペラの指揮をする、カラヤンの上演をライヴ録音してレコード化するつもりだった。

一九五一年七月二九日、バイロイト祝祭は第二次大戦後ようやく再開され、オペラ上演に先立つ記念コンサートでフルトヴェングラーは《第九》を指揮した。EMIのレッグは、「記録用」といった軽い気持ちでこれをライヴ録音した。本命のカラヤンのオペラ録音の方がレッグにすれば重要だったが、ことのついでだった。

先に書いたように、演奏前と終演後の拍手がきちんと収録されていないのも、この録音がレッグにとっては大して重要な仕事ではなかったからだろう。それでも録音責任者である彼は「プロデューサー」には違いなかった。

終演後、楽屋に自分を訪れたレッグに対して、フルトヴェングラーは「《第九》の演奏はだめだったかなあ?」と問いかけ、「むかし聴いた《第九》のほうがずっと良かったですよ」と返答された。終演後、夢うつつのような状態だったフルトヴェングラーは完全に無防備だったので、レッグのこの言葉に心底ショックを受けてひどく落ち込んだ、と居合わせたフルトヴェングラー夫人はインタビューに応えて話している。この言葉がレッグの本音だったか、それとも自分を拒否したフルトヴェングラーに対するちょっとした嫌がらせだったかは分からない。

EMIは一九五〇年からフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン交響曲全集の企画を立てていたが、一九五四年末にフルトヴェングラーは六八歳で急逝してしまう。EMIは交響曲の「第二」、「第八」、「第九」の録音を済ませていなかった。

関係者の誰も、フルトヴェングラーがそんなに早死にするとは思っていなかったのである。しかし、「交響曲全集」を完成させるためにEMIは躍起になった。

そして、まず一九七二年、「交響曲第八番」の録音をEMIはリリースした。一九四八年にフルトヴェングラーがストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団を客演指揮したテープがスウェーデン放送局で見つかって、レコード化されたのである。

次に一九七九年になって、一九四八年にロンドンに、フルトヴェングラーがウィーン・フィルを率いて楽旅した際の「交響曲第二番」の録音がようやくロンドンの放送局のテープからレコード化された。これは、フルトヴェングラーの指揮によるこの交響曲の唯一の録音である。EMIは、録音テープの存在確認から発売まで、放送局との交渉に数年かかった。

ただし、両曲とも録音状態は極めて劣悪であり、鑑賞用というより熱烈なフルトヴェングラーのマニア向けである。「第二交響曲」にしても、オーケストラはウィーン・フィルだが、その美質はまったく聴き取ることができない。指揮者の表現も聴き取れず、異常に情報量が少ないディスクである。

結局フルトヴェングラーの指揮による『ベートーヴェン交響曲全集』のレコード・セットがEMIから発売されたのは、フルトヴェングラーの没後二五年となる一九七九年のことだった。

肝心の《第九》は、フルトヴェングラーが亡くなった時点で、EMIが使用できるマスターとしては、差し当たり二点の録音テープが存在した。レッグが録音したバイロイトでの演奏と、死の年にルツェルン音楽祭でフィルハーモニア管弦楽団他を指揮した、スイス放送局が保存していた演奏録音である。フィルハーモニア管弦楽団のオーナーはレッグだったので、EMIでのレコード化が検討された。

ともにライヴ録音であり、音質の点ではルツェルン音楽祭の録音の方が新しい分やや良かったが、ソプラノのシュワルツコップ(一九一五年生、二〇〇六年没)がレコード化に賛同しなかったため、EMIはルツェルン音楽祭の記録ではなく、バイロイト祝祭の録音を使用することに決めた。シュワルツコップは前者における自分の歌唱がベストではないと考えたらしい。因みに、シュワルツコップはレッグの妻だが、フルトヴェングラーのことを終生尊敬してやまなかった。フルトヴェングラーも、シュワルツコップの優れた才能を認め、最後まで彼女を繁々と起用した。

バイロイト祝祭の演奏でもソプラノはシュワルツコップで、こちらのレコード化には彼女は異議を唱えなかった。

この《バイロイトの第九》の録音は、非公式のもので「ハイファイ」ではない、という理由からこれまで発売されなかった、とアメリカEMI初出盤LP(一九五六年発売)の解説には記述があり、要するに《バイロイトの第九》はあくまでテスト用の録音で、音質の問題で発売用のマスター・テープとは区別して保管されていたものであろう。そのままであれば、遠からず廃棄されていたかも知れない。

ついでながらこの時お蔵入りしたルツェルン音楽祭の《第九》は、一九八〇年になって国内盤二枚組LPで、レコード会社二社からほぼ同時にリリースされた。日本コロムビア盤(アメリカ・ワルター協会原盤、OB7370~71)と、キングレコード盤(イタリア・チェトラ原盤、K19C21~2)で、前者は《第九》のみ二枚四面に《第九》のみをカッティングし、価格は二八〇〇円でリリース。後者は第四面に同じ指揮者によるベートーヴェンの「交響曲第八番」の一九五四年のライヴ録音(演奏はウィーン・フィル)が組み合わされて、三八〇〇円でリリースされていた。音質はだいたい互角とされ、フルトヴェングラーのファンはどちらを選択するか悩んだ。

この演奏は、特にフルトヴェングラーのファンに《ルツェルンの第九》と称され、巨匠最晩年の演奏記録として愛聴された。いまでは放送局のオリジナル・テープから制作した正規版SACD【KICC-17】までが出ている(セブンシーズ)。

この《ルツェルンの第九》は、指揮者の没年ということもあってか、バイロイト盤に比べて劇的効果はそれほどでないが、枯淡の境地というか枯れたなりの味わいがあって、バイロイト盤よりこちらを好む音楽ファンも少数派ながらいる。

だが、フルトヴェングラーの指揮する《第九》を聴くならやはりバイロイト盤が最上だろう。楽器のバランスも、ルツェルン盤はトランペットがオン・マイク過ぎて、ときどき耳障りになる。バイロイト盤はティンパニがやや遠いが、他はなんら問題ないし、SACD化によって音質の鮮度もずいぶん上がった。

一九五四年当時、レッグはカラヤンにとって初めての「ベートーヴェン交響曲全集」を鋭意制作中(レーベルはもちろんEMI、オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団)で、自分が特別に力を入れて録音したわけではないフルトヴェングラーのバイロイトにおける《第九》をリリースしたところで、それがセンセーショナルな成功を収め、歴史的名盤として持て囃されるとは思ってもいなかったであろう。《バイロイトの第九》の録音とは、まさに偶然の産物だったのだ。

SACD

東芝EMIは、二〇〇七年にEMIミュージック・ジャパンと名を変え、つかのま日本のEMI盤を統括した(二〇一二年、ユニバーサル・ミュージック合同会社に吸収され、遂にEMIは消滅する)。フルトヴェングラーに関しては驚いたことに、主要なディスクをすべてハイブリッドSACDで発売するということで、フルトヴェングラー・ファンを驚喜させた。値段もSACDにしては比較的安めに設定されていた。普及版としてのSACDハイブリッド盤だけでなく、割高ながらSACDシングルレイヤー盤も発売した。

SACDとは、フィリップス社(現在は音楽ソフト制作を廃止)とソニーが共同開発した最先端技術によるCDのことである。”Super Audio CD”の略で、従来のCDよりも多くの情報を記録できる。ハイブリッドSACDは音溝が二層に別れており、普通のCDプレイヤーでも再生できるが、シングルレイヤーSACDは音溝が一層なので、SACD再生可能機でなければ再生できない。現時点ではハイブリッドよりシングルレイヤーの方が割高である。

EMIミュージック・ジャパンのSACDは、従来の音源をそのまま引き継ぐのではなく、英EMI本社のオリジナル・マスター・テープやSPの金属原盤を使用して、復刻を一からやり直すということだった。その結果、一九五一年録音のケルビーニ作《アナクレオン》序曲、チャイコフスキー作「交響曲第四番」、《弦楽セレナーデ》抜粋などは、以前と比べて非常に優れた音質になった。

《バイロイトの第九》は、東芝EMIの頃から音質の劣化が取り沙汰されていた。CD時代になってそれが特に問題となっていたが、その中では先に触れたように一九九〇年に東芝EMIからリリースされた【TOCE-6510】が最良の音質と言われた。やがて、二〇〇五年に平林直哉氏の制作による、グランドスラム・レーベルの【GS-2009】が出て、優れた音質という点では非常に高い評価を得た。このグランドスラム盤は最初期の状態優秀なLP盤からのCD復刻である。

だが、二〇一一年にEMIミュージック・ジャパンのハイブリッドSACDが出て音質を一新し、一気に決定盤の座を我がものにした。現在は、一部がワーナー・クラシックスから継続してリリースされている。EMI本社のオリジナル・マスター・テープからマスタリングしたSACDで、「これ以上はあり得ない」音質を誇った。

この盤は、聴衆ノイズを極力ていねいに除いているのも特徴である。もともとの音楽の感興を損なわない程度でのノイズ取りはした、とCDのライナーノーツにも書かれている。

私はシングルレイヤーの三枚組SACD【TOGE-15201~03】を持っているが、これに含まれる《バイロイトの第九》は、音質の向上もさることながら、よくもここまで、と思うほど咳払い等の聴衆ノイズが綺麗に除去されている。以前から歴史的録音の過度なノイズ除去には好感が持てなかった私だが、このフルトヴェングラーSACDシリーズを聴いていらい認識が変わった。

現在の大手メーカーの技術は極めて高度で、少し前までの、ノイズとともに演奏の良さまで削り取ってしまうような不手際はあまりない、と言っていい。響きの豊かさ、自然な残響なども元とまったく変わらない。同じく聴くならば、音楽に集中できるディスクの方が受ける感銘は圧倒的に深い。空気感がどうこう、という聴き手もいるが、それは個人的嗜好であって万人の求めるものかどうかは判らない。臨場感とか空気感とかをあれこれ言う人もいるが、それなら一切の雑音やミスを排したスタジオ録音をどう思っているのか、聞いてみたいところである。

ライヴ録音の演奏ミスを正す、ということにも賛否両論あるが、私はどちらか一極には左袒し得ない。この《バイロイトの第九》でも、一つ大きなミスの修正がある。オリジナル録音の第三楽章、東芝EMI盤【TOCE-6510】の[9:55]にはホルン・ソロに重大なミスがあり、これは本当にだらしない。天上の憩いを思わせるくだりで、ホルンは特に重要なのに、失敗しているのだ。ところが、EMIミュージック・ジャパン盤の同じ箇所[9:59]では綺麗に修正されている。ミスがなくなっているのである。

これは、非常に大胆な試みと言っていい。大指揮者フルトヴェングラーの録音の中でも、歴史的遺産の最右翼に属する演奏を一部とはいえ改変してしまったのである。

初めて聴いたときは、ハッとするほど驚いたが、あるていど聴き慣れてみると、絶対に修正されていた方が聴いていて心地良い。あのミスのために、ずっと味わわされていた興醒めから解放されるのである。

これは好き好きだろうが、頑なにライヴ録音はまったくそのままで聴くべきだ、ノイズ除去や修正は間違っている、といった主張は今の私は必ずしも賛同しかねる。とりわけ、重要な箇所での演奏ミスや客席での大きな咳払いなどは、興を殺ぐこと夥しいものがある。下手に手を加えた跡が残るような修正は耳障りだが、そうでないならある程度までは容認しても良いと私は思っている。
http://www.britannia.co.jp/column/2016/08/149/

25. 中川隆[-11020] koaQ7Jey 2019年10月06日 13:15:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1805] 報告

オープンリールのフルトヴェングラー mixiユーザー(id5343821)の日記 2017年09月04日
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1962448157?org_id=1962692270

グランドスラムレーベルの平林直哉氏は、評論家でかつ編集者。「100バカ」という駄本も書いているようだが、主にフルトヴェングラーの復刻で精力的に仕事をしている。

確かワルターのリマスター盤があまりに無残な音で、CDをたたき割ってしまったことがあるという。
これはわかる。
再リリースの音質劣化・変質というのは、レコード会社の手抜き・無責任・芸術的見識のなさ・商業主義といったものか、もしくはオレの音を聴け的なエンジニアのエゴが感じられ、アーティストを愛する者には耐えがたい。
選択肢が増えるのはよいことだが、それしか選べないことも多いのだ。
せっかくマスターテープを持っているくせに、何をしてくれるんだということだ。

だから、フルトヴェングラーのLP板起こしが流行ったころ、グランドスラムも何枚か買っていた。
ただ、これは平林氏がいうほどはよくなかった。
バイロイト第九は、素直だが終楽章がこじんまりしていたり、1943年運命も、やはり素直だが興奮するほどではない。

MYTHOSレーベルはアメリカの富豪が道楽でコレクトしたヴィンテージ盤をビンテージ機器で起こす。デフォルメはあるが、こっちのほうがインパクトはあった。
平林氏は真正のオーディオマニアではない感じなので、LPは限界があるか。

LP起こしは流行が去った感じだが、正しくないリマスターで止まっている音源は、商品化の意味はありそうだ。

平林氏は、ふと気づけばある時期からオープンリール復刻というのに変わっている。
いったいどういうルートのものなのだろうか。

マスターテープには負けるはずだが、これは確かにいいのだ。

バイロイト第九は15種類ぐらい手元で聴いたことがあるが、たぶん一番よいのではないかと思う。まだ落ち着いて聞いていないが。
宇野氏絶賛のMYTHOS復刻もいいが、絶叫調で最後まで聴けない。
やはりテープ系のほうがデフォルメの少なさは安心ではある。

1942年、ベルリンフィルとの第九はものすごい。
さすがヒトラー絶頂期で、集団的に狂気に入っているような感じがする。
それがたまたま、第九のテンションと合致して、恐ろしい精神性の演奏になっている。
これでは、だれも勝てないのはしょうがない。違う方面の演奏をするか、録音の美音に凝るしかない。
正直ベートーヴェンはもう聴き飽きたので、ここまで刺激性が強くないと引き込まれない。

1954年、最晩年のルツェルンの第九は、3楽章の静けさが逆に引き込まれる。

最近入手したのが、EMIのウィーンフィルでのベートーヴェン全集、スタジオ録音の「運命」。
これは、最終結論的なふれこみのEMIのSACDで買い、やはりイマイチわからなかった。クライバーのほうがぜんぜんいいじゃんで終わりなのだ。
贔屓目抜きでも、なぜ、老人がクライバーより凄いというのか謎である。
ただ、昨日、DAC64を通したものものしいヘッドフォンシステムで、このオープンリール起こしで、ようやくまともに聴ける感じがした。
たぶん、いいLPで真空管でヴィンテージスピーカーで聴くと、昔の人は真価がわかったのだろう。

SACDは、なにかこじんまりした感じが気になる。アビーロードのEMIリマスター全般に感じることでもあるが。
音に漂白感もあるようだ。
大会社の高価な機材で、何かいじったのだと思う。
auditeも、よいマスターをもっているようだが、もっと加工があるかもしれない。

おお友よ、そんな響きではダメなのだ

グランドスラムのオープンリール復刻は、加工感とデフォルメの少なさで、ようやくフルトヴェングラーの実像をわからせてくれた気がする。
これをすべて収集しようと思えないのは、EMIなどが、加工の少ない音源をデータで販売するとか、ふつうにありうるからだ。

どれだけの歳月待てば
大レーベルは加工の少ない音源で再発するのだろう
友よ、その答えは風に吹かれている



コメント


mixiユーザー2017年09月04日 20:35

マスターテープも磁気録音の宿命で徐々に信号レベル低下が起こってきます。特に高域では影響が強くなります。これはどんなに厳重に保存していても避けられるものではありません。時間が経てば経つほど劣化は強くなるので、早いうちにセンスの良いエンジニア(変な自己主張をする人はダメ)の手によってディジタルデータなど何らかの形で信号を保存してもらいたいと思うばかりです。
100年経っても音の劣化の少ないものとしてはアナログレコードが結構強いと思っています。磁気テープは前述の劣化が起こりますし、ディジタルデータは何らかのトラブルで読み取りができなくなれば終わりですから。


mixiユーザー2017年09月04日 20:49

禿同です。
著作権切れが50年というのでフルトヴェングラーの起こしがブームになりましたが、70年に変更になりかけてるようです。クライバーの録音群があとちょっとなのですが・・・
トランプ誕生のあおりで合意が延びてるようです。
皮肉にも、著作権切れのおかげでフルトヴェングラーの芸術は、だいぶマシな状態まで救われてます。あと一歩ですね。


mixiユーザー2017年09月07日 20:45

EMIのベートーヴェン全集、スタジオ録音の「運命」の
復刻CDで良かったのは、イタリア盤全集だけでした。
日本盤はトランペットが飛び出ている感じがあるのですが
イタリア盤はそれがないのも面白かったです。

http://www.geocities.jp/furtwanglercdreview/italy.html

mixiユーザー2017年09月09日 09:25

> mixiユーザー 

このページは更新が止まってますが、比較の情熱が素晴らしく、私もついつい引き込まれてコレクションを始めてしまいました。イタリア盤は聴いたことないですが、初期CDがベストというのはよくある展開です。そこに手を出すと大変です。いちど聴いてみたいですが。ちなみに、このページはだいたいがデルタ盤絶賛が結論で、私はそう考えていないので、見方が違うので参考にできない感じですが、また更新していただきたいものです。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1962448157?org_id=1962692270

26. 中川隆[-11019] koaQ7Jey 2019年10月06日 13:26:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1806] 報告


2016年10月24日
カラヤンとフルトヴェングラー
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1956342480?org_id=1957499978


中川右介という人の本である(幻冬舎)。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%B8%AD%E5%B7%9D-%E5%8F%B3%E4%BB%8B/dp/4344980212


昨日、寝る前に暇ができて、寝られないのでちょっと読んでみたらおもしろくて読み続けた。

昔読んだはずなのだが、まったく印象が違う。
フルトヴェングラーやチェリビダッケをそこそこ聴いたからだと思う。

1940年代から50年代の、カラヤン・フルトヴェングラー・チェリビダッケのベルリンフィルトップをめぐっての攻防が描かれている。
当然、ナチ時代を挟むので、苦難そのものの時代である。

意外だったのは、


・カラヤンをフルトヴェングラーが異常に意識して、ザルツブルク音楽祭から追い出すなど、かなり妨害している

・そのころに、イギリスのフィルハーモニア管とかウィーン響という2番手とカラヤンが共演し、EMIのプロデューサー・レッグと組んで大量に録音

・フルヴェンのバイロイト第九は、カラヤンがザルツブルクを追い出された代わりに、バイロイト音楽祭の主役を手に入れ、レッグと「指環」を収録するという企画のオマケで録音しただけ。死後まで発売されていない。

・チェリビダッケはベルリンフィルを400回以上も指揮している。この間、カラヤンは6回だけ。

・しかし、アメリカ・ツアーという国家的事業に乗っかるかたちで、終身首席指揮者をかちとる

・チェリビダッケはカラヤンに追い出されたというよりは、オケと仲悪すぎで自業自得

チェリビダッケとベルリンフィル50年代の演奏というものは聴いてみたい。
調べると、あるがほとんど廃盤になっている。

atsushiさんは、この時代のカラヤン録音をボックスで聴き進めているはずなので、おもしろく読めそうだ。

最近、1980年代のあこがれの初出CDを、オークションでだいぶ買っていて、カラヤン最後の第九も、1楽章のフレッシュさに驚いた。カラヤンのベートーヴェンというと日本では評判が悪いが、あらためて聴くと、方向性はどうあれ、さすがに役者が違うという感じがする。

バイロイト第九のグランドスラム盤と較べてみたい。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1956342480?org_id=1957499978

27. 中川隆[-11018] koaQ7Jey 2019年10月06日 13:31:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1807] 報告


2016年08月16日
プチ贅沢2 リマスターCD バイロイトの第九
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1954830651?org_id=1954948283


買わなくてもなんとかなるが、買うと落ち着くのがほんとの贅沢品だろう。

リマスターへのこだわりなどは、まさにそういうもの。

昔は、好きなアルバムのリマスター盤を買って、改悪していると怒り心頭であった。
文化財破壊だと、ホームページを立ち上げようかと思ったほどだが、選択肢がかなり広がってきたのでまあよいかという心境になった。

フルトヴェングラーの「バイロイト第九」。
宇野氏はじめ、レコ芸の第九投票では大差で1位になる。
そんなに普遍的な盤だろうか。
若いころに手に入ったのは、疑似ステレオのリマスターCD。霞を聴くような不可思議な音の世界であった。
疑似ステレオがいかんのかと、アビーロードでやったという「artリマスター」購入。これはこじんまりして音が死んでいる。
これらのディスクで、深遠な顔をして何かを語ってみせることは、私にはできなかった。

ベートーヴェンは、特にピアノ協奏曲や後期ピアノソナタなどが凄いと思うが、第九は特殊な曲で、ジャンルが違うとすら思う。
紅白というとSMAPがかつぎだされるみたいなもので、人類の平和とかいうと第九になる。
ほんとは、SMAPも日常のしょうもなさのなかに真価があるし、ベートーヴェンも内面的な苦闘と意志に感嘆させられる。
晴れがましい場で見かけると居心地が悪い。

とはいえ、やはり天才や独創性にあふれた恐ろしいスケールの曲だと思う。
指揮者は、自分の器を試されるかもしれない。
これはスター指揮者とビッグオケがよさそうだ。
録音も色彩的であるにこしたことはない。

バーンスタインとウィーンフィル4楽章をハイレゾで久々に聴いたが、かなりロマンティックで陶酔的。冬に音量を気にせずに聴きたい。
ラトルとベルリンフィルの野外コンサート。申し分ない輝かしいサウンドと、古楽器指向の時代も通過した見通しの良さ。しかし、頭良すぎてテレがある。テレる曲ではないはず。
カラヤンとベルリンフィルは向いていそうだが、カラヤンのベートーヴェンは、何かサウンドが気取った感じで違和感あり。とはいえ、収録前提でないライブとか、どこかによいものがありそう。
アバドも向いていそうだが、録音が少し変わっていて決定版という印象ではない。晩年の小編成古楽スタイルも、普遍的とは思えない。
真っ向勝負で構築したのがショルティとシカゴの86年デッカ盤。ショルティのボスとしての器の大きさが出て、録音も最高。ただ、アメリカなのが気に入らない人もいるだろう。
番外編としては、昨年末のヤルヴィとN響はホームランでビックリ。指揮が斬新で格下のオケが必死でついていく。懸命にやるべき曲なのだ。

曲が普遍的過ぎて、演奏家の個性イコール、スケールの限界に感じてしまう。
どうせなら、個性とスケール極大、フルトヴェングラーの伝説の場面に頼ってしまう。しかし音が悪くてよくわからん・・・

フルトヴェングラーはこんなもんじゃないと、CDの音の悪さを書いてたのが宇野氏だ。
その後、著作権が切れる2000年あたりから、LP起こしの一大ブームが巻き起こる。私も参加して、フルトヴェングラーはあまりよくわからないままに、バイロイト第九は10種類以上聴いた。

そのときは、EMIのSACD公式盤が結局はよいかなというオチ。
宇野氏推奨のMYTHOSのLP起こしも、鮮明だが4楽章はうるさい。加工っぽい。
評判のよいデルタ盤は、スクラッチノイズを取って、私には違和感がある。
とはいえ、この3つぐらいを聴く中で、演奏がわかったかなと思えるときが何度かあった。

ネット上でもブームは終わったのだが、その後、ぜんぜん意見が変わった。
知り合いが教えてくれたオタケンのTKC-309、初期にコピーされた別マスターからのCD化といううさんくさいもので、実際は初期CDデジタルマスターのコピーDAT流出かも。
しかし、これが音が良い。較べると、EMIのSACDは漂白感がある。

結局、昔のマスターに近いものを、できるだけ加工少なく出せばよいのでは。
LP起こしもだいぶ癖がつく。

この理屈にあうものが、昨年出て気になっていた。
グランドスラムの、オープンリールからの復刻。できるだけ無編集をうたっている。
贅沢だが、このたび買ってみた。

さいわいにも、これはアタリのようだ。
ヘッドフォンできくかぎり、TKC309の記憶にある、心なしか初期デジタルの味気無さみたいなものがなくアナログ的で、情報が多く濃い感じがする。
加工を少なくということだが、特にノイズが多くなった印象もない。
EMIが普通にマスターテープを忠実にディスク化してくれたら、こんなに大騒ぎしなくて済んだようにも思うのだが・・・

落ちついて演奏を聴いてみよう。
平林氏のオープンリール復刻シリーズというのは、どういうルートか知らないが、貴重な感じがする。かつてのLP起こしとは違っている。


コメント


mixiユーザー2016年08月17日 07:55

SPやLPから音を取り出してディジタルに変換する場合は、カッティングヘッドとカートリッジのさまざまな特性が絡んでくるため、元の音がそのまま出てくることを望んでも無理だろうと思います。
マスターテープからの復刻なら、経年変化による若干の高域特性の劣化はありますが、ヘッドの調整、イコライザーの調整をきちんとやればかなり期待できそうです。


mixiユーザー2016年08月18日 02:38

> mixiユーザー 

LP起こしは素晴らしいものもありますが、ものによって音がコロコロ変わるので、なにが正解かわからなくなりました。クライバーのものは聴いてみたいですが、あとはほぼ撤退予定です。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1954830651?org_id=1954948283

28. 中川隆[-11011] koaQ7Jey 2019年10月06日 16:03:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1814] 報告
バイロイトの第九 録音再考 mixiユーザー(id5343821)の 2015年05月05日
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1941761611?org_id=1941831619

なんどか話題にしているが、歴史的録音としてクラシック界の頂点に位置する、はずのフルトヴェングラー・ベートーヴェン第九だが、LP起こし盤やらリマスター盤、さらにはリハーサル録音かもとかいう別録音まであらわれ、何を聴けばいいかわからない。

私もファンの情熱に影響され、全部で20種類近く聴いているような気がする。

何年か前に、結局EMIの最新SACDがベスト、というのでmixiに書いたことがある。
ただ、満足しているわけでもなかった。

その後、オタケンのTKC309というものと、フルヴェングラーセンターからの同日別音源というものを入手し、素直なよい音だったので、いつか本格的にききくらべをと思っていた。
が、ちょうどシステムがスピーカーもヘッドフォンも大変革期、SACDとCDが同条件でかからないとか、CDが読み込まないものがあるとか、ややこしい時期が続いた。

ヘッドフォンは落ち着いたので、GWを利用して、簡易的にききくらべてみた。

オタケンのものは、「予備マスターのデジタルコピー」を使っているという。
出所は不明。EMIからの流出だと思う。どこかの段階でCD製作に携わった人が、個人的にDATに移しておいたものとかかもしれない。
それより重要なのは、オタケンは「無修整」を基本のウリにしているということ。こっちのほうがずっと差がつく。

で、EMIのSACDと入れ替えて何度か聴いてみたが、オタケンの方があきらかにクリアだ。EMIのは漂白感とかこもった感じとかボケた感じとか、なにかの色とともに聴くことになる。フヤけている。
ミソスのLP起こしをかけてみると、すごい迫力で、ベートーヴェンの全人類的な格闘を表現するのはこちらがよいかとも思えてくる。
が、コンサートホールでこんなふうにヴァイオリンの音が切り込んでくることはありえない。疲れる音だが、たまにこっちで聴いてもいいかなと。

というわけで、いままで聴いた中ではオタケンがいちばんふつうに聴ける音のように感じた。
音や芸術は主観だが、客観的に語るべきレベルもある。
そこは難しい問題ではあるのだが、もとの演奏があって、マイクがあって、記録されたものがあり、あとは劣化と加工の量になる。
それが客観的に一番少ないのがオタケンのテープ起こしに思えた。

しかしこれでも、予備マスターからのデジタルコピーのCD化である。
EMIが普通にリリースするか、最高のLPをニュートラルにデジタル化すれば、超えられる気もする。
私個人としては、そこまでの思い入れはないため、いずれ、オタケンリッピングでHDDからスピーカーで聴くのを楽しみにしておこう。
音質が気になって、通して真剣に聴けたことがほとんどないのだ。

別音源のセンター盤というのも、オルフェオと違って加工のほとんどない音で、また真剣に聴けそうだ。ただ、これはAM放送レベルという指摘が如月さんより出ていて、確かにEMI盤の「レコードだぞ」というような音の厚みがない感じがする。


コメント

mixiユーザー2015年05月05日 14:16

SACDではありませんが、オタケンのルツェルンの第九はびっくりでした。4楽章第2部の出だしのグランカッサ、張り倒されるような音が出ます。ルツェルンの第九こそ、フルトヴェングラーの最高の録音だと思います。


mixiユーザー2015年05月05日 17:29

> mixiユーザー 

実は、オタケンのルツェルンの第九はピンとこなかったので、オタケンノーマークだったんですよ。
ルツェルンは、最近、決定版というふれこみのが出ましたね。ルツェルンのも、オタケンの再考含め、聴いていかないといけないです。

mixiユーザー2015年05月05日 18:04

> mixiユーザー 

オタケンはトスカニーニの第九も、(4楽章第2部の出だしのグランカッサに関して)ルツェルンの第九に匹敵します。RCAのスタジオ録音なので、もともと優秀なのですが、RCA盤に差をつけていると思います。良ければこちらも聴いてみてください。演奏は互角ですわーい(嬉しい顔)


mixiユーザー2015年05月05日 18:21 

1951のバイロイトは、元々の録音自体が決して良いものだとは思えません。演奏を損ねるほどではないですが、1954のルツェルンとか1952のトスカニーニ(RCA録音)に較べると、あれが当時のEMIの限界かなあと思います。なので別のマスターであっても、驚くほどの高音質という謳い文句には、かなりの疑問ありです。

 演奏はともかく、音質としてはデジタル的な編集でそこそこに持っていくのが、精一杯の感じがします。実際それで加工すると、上は8kHzぐらいまでしか入っていないバイエルン放送の音源も、それなりに聞こえちゃいます。1951のバイロイトの場合、演奏だけを聞いて、録音には触れないのが賢明かなと思います。商売してる人は、高音質になったと言って買わせようとしますけど。

mixiユーザー2015年05月05日 19:53

> mixiユーザー 

トスカニーニも聴くことが果たせていない演奏家です。このあたりは、LPプレーヤーがあればと思いますが、復刻では当たり外れが激しすぎて、チャレンジする気がなくなってきました。
ルツェルンのは、フルトヴェングラーセンター盤が聴けそうなので、オタケンと較べてみます。オタケンのは、楽器のバランスが変だった、つまりマイクセッティングがなにかあったようなので、そのあたりは変わらないと思いますが。


mixiユーザー2015年05月05日 19:59

> mixiユーザー 

前に日記にされてましたが、バイロイトのは、演奏史上の意味が大きいものであって、録音含めたベスト盤は他をあたったほうが確率が高いのかもしれませんね。
デジタル的な編集でそこそこにもっていこうとしてコケられるのが、私としては嫌なんですけどね。無加工が高音質な訳でもないでしょうが。
とりあえず、オタケンの309は、演奏を途中でストップする気にはならなかったので、それだけで十分価値がありました。フルトヴェングラーのCDの録音は、正直私にとってそういう程度のレベルです。まだ大ファンとかでもないので、脳内補正をかけまくって聴き通そうと思えないことも多いのです。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1941761611?org_id=1941831619

29. 中川隆[-13812] koaQ7Jey 2020年3月18日 15:35:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1070] 報告
実は、戦後の音楽評論家ということで、吉田秀和VS宇野功芳というのも書きたかったのだけれど、梶原一騎を書いていたら長くなって力尽きてしまったのである。ま、このテーマはいずれそのうち。
 今年は風邪も多いに流行っているらしく、私も珍しく寝込んでしまった。積んである本でも読もうかと思ったら、

宇野功芳の『楽に寄す』(音楽之友社)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3-%E6%A8%82%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%99-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%8A%9F%E8%8A%B3/dp/4276211298


というのが目についたので、開いてみた。ひとつひとつはそれほど長くないエッセイを集めたものである。

 これが、心地よい本だった。幸福な老人の書いたものという感じがするのである。ゆったりと温泉に浸かり、好きなすしを食べ、いいと思う演奏家を堪能する。昔の宇野氏には、不幸と言うと大げさだが、不幸ぶっているポーズがあった。それが、愛読者を魅了していた。なんたる変貌か。

 この変貌を私はすばらしいと思う。若者が不幸ぶるのは、よい。むしろあまり幸せそうにしていると馬鹿に見える。が、老人は幸せそうにするべきである。

 それにしても、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュに入れあげていた氏が、現在では彼らに対して冷静になっているとあまりにも素直に書いているのには驚いた。それどころか、モーツァルトに対してすら。まさに人は変わるのである。時代も世界も変わる。
http://www.hmv.co.jp/news/article/1212060065/

30. 中川隆[-11792] koaQ7Jey 2020年8月19日 08:53:43 : weQPwHWYfs : M1k3bE5sNXExL00=[5] 報告
平林直哉氏の、フルトヴェングラー音源復刻、グランドスラムレーベルというのがある。

最近も何枚か入手して、たとえば、1952年や54年の、EMIの英雄や運命。かつてのLP起こしをやめて、出所不明のオープンリールの復刻になっているが、手元のEMIのSACDリマスターなどと聴き較べて、あきらかに解放感や躍動感が平林復刻にはある。
正直、EMIのは、「ああ古い録音じゃ演奏なんかわからないな」とゴミ箱に捨てるような感じが、許容範囲にまでなるという、そういう決定的な違いとさえ感じた。

変にエゴを入れて最新機器でいじくった編集をせず、オリジナルを極力尊重した復刻なのだと思う。

歴史ある大規模な会社の公式盤を受け入れないで、とても個人的で地味な作業だが、世界にはこういう仕事が必要なんだと私など思うのだ。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1976495300?org_id=1976488453

31. 中川隆[-16252] koaQ7Jey 2021年9月20日 17:58:11 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[24] 報告
audio identity (designing)宮ア勝己
Date: 8月 6th, 2015
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その1)
http://audiosharing.com/blog/?p=17740


死ぬ日がはっきりと決っていて、しかもそれがいつなのか本人が知っている。
それがどういう状況での死になるのかはここでは書かない。

とにかくいつ死ぬのかがわかっている。
そして最後の晩餐として、何を求めるか、ときかれたとしよう。

私はオーディオマニアだから、ここでの最後の晩餐とは食事ではなく、
最後に聴きたい音(組合せ)をかなえてくれるとしたら、どういうシステムを選ぶだろうか。

部屋も用意してくれる。
オーディオ機器も、どんなに古いモノであっても、最高のコンディションのモノを探して出して用意してくれる。
わがままな要望をすべてかなえてくれる、いわば音の最後の晩餐に何を望むのか。

現実にはこんなことは、ほぼありえない。
だからこそ考えていると楽しい。

最後に何を聴きたいのかは、どのレコードを聴きたいのかによって、ほぼすべてが決る。

私はシーメンスのオイロダインを聴きたい、と思う。
そう思うのは、最後に聴きたいのはフルトヴェングラーなのか。

グレン・グールドのどれかを最後に聴きたいのであれば、オイロダインとは思わない。
別のスピーカーを思い浮べ、それを鳴らすにふさわしいと思えるアンプを選択する。
カスリーン・フェリアーの歌であれば、また別のスピーカー(というよりもデッカ・デコラ)にする。

オイロダインということは、グールドでもフェリアーでもないということだ。
オイロダインを選ぶということは、少なくとも今の私は最後に聴きたいと思っているのは、
フルトヴェングラーのなにかということになる……。

そんな急拵えのシステムで聴くよりも、
それまでつきあってきた自分のシステムで好きなレコードを聴ければ、それで充分だし、
だいたいこんなことを考えることに何の意味があるのか、と思う人も少なくないだろう。
私だって、そんな気持を持っている。
それでもこんなことを考えてみるのも、まるっきり無意味とは決して思えない。

少なくともいまの私はフルトヴェングラーのなにかを聴きたいのだ、ということを意識できたからだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=17740

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その2)
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、ということにつながっていくスピーカーとして、
私にとってはタンノイのオートグラフもそうである。

何度も書いているように五味先生の文章にみちびかれてオーディオの世界に入ってしまった私には、
五味康祐といえばベートーヴェンが思い浮ぶし、
そのベートーヴェンとはフルトヴェングラーの演奏によるものであり、
フルトヴェングラーのベートーヴェンを五味先生はオートグラフで聴かれていたからである。

私にとって、シーメンスのオイロダインとタンノイのオートグラフが、
フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、というスピーカーということになる。

けれどオイロダインで聴きたいフルトヴェングラーのなにかと、
オートグラフで聴きたいフルトヴェングラーのなにかは同じではないことを感じている。

私がオイロダインで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、第二次大戦中のライヴ録音であり、
オートグラフで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、戦後の録音である。
そのことに気づいた。
http://audiosharing.com/blog/?p=17744


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その3)
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


黒田先生の著書「音楽への礼状」からの引用だ。
     *
 かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
 なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
     *
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。
黒田先生は書かれている、
フルトヴェングラーが残した音楽を、
《きくひとはすべて、単に過ぎだ時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》と。

フルトヴェングラー以降、多くの指揮者が誕生し、多くの録音がなされてきたし、
これからももっと多くの録音がなされていく。

フルトヴェングラーが亡くなって50年以上が過ぎている。
その間に出たレコードの枚数(オーケストラものにかぎっても)、いったいどれだけなのだろうか。
フルトヴェングラーが残したものは、その中に埋没することがなく、
いまも輝きを保っている、というよりも、輝きをましているところもある。

それは黒田先生が書かれているように、
フルトヴェングラーの演奏をきくことで、時代の忘れ物に気づき、
尊厳とか志といったことを考えるからであるからだ。

そして黒田先生は、すぐれた音楽は《時代を批評する鏡として機能するようです》とも書かれている。
フルトヴェングラーの演奏は、すぐれた演奏である。
つまり《時代を批評する鏡として機能》している。

そういう音楽だから、フルトヴェングラーの演奏をきく、といっても、
それが第二次大戦中の演奏なのか、第二次大戦後の演奏なのかは、
同じフルトヴェングラーの音楽であることに違いはないけれども、
同じには聴けないところがあるのをどこかで感じている。

だから第二次大戦中のフルトヴェングラーはシーメンスのオイロダインで、
第二次大戦後のフルトヴェングラーはタンノイのオートグラフで、ということに、
私の場合になっていく。
http://audiosharing.com/blog/?p=17762


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その4)
http://audiosharing.com/blog/?p=18061

続きを書くにあたって、迷っていた。
確認しておきたいことがあったけれど、
それが何に、いつごろ載っていたのかうろおぼえで、どうやってその本をさがしたらいいのか。
しかも、それは購入していた本ではない。
どこかで目にしたことのある本だった。

国会図書館に行き、じっくり腰を据えてさがしていけばいつかはみつかるだろうが、
それでは時間がどのくらいかかるのかわからない。

うろおぼえの記憶に頼って書くしかない……、と思っていたところに、
その本そのものではないが、
私が確認しておきたかった(読みたかった)記事が再掲されたムックが出ていた。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に載っていた。
7月に出たこの本の最後のほうに、「対談 フルトヴェングラーを再評価する」がある。
音楽評論家の宇野功芳氏と指揮者の福永陽一郎氏による、1975年の対談である。

この対談の福永氏の発言を、どうしても引用しておきたかったのだ。
     *
福永 ぼくがこのごろ思っていることは、フルトヴェングラーはいわゆる過去の大家ではないということです。つまりほかの大家、大指揮者というのは、みんな自分たちの大きな仕事を終わって、レコードにも録音して死んじゃったんですけれども、フルトヴェングラーというのは、そうではなくて、いまレコードで演奏している。つまり生物的には存在しない人間なんだけれども、いまなお、そのレコードを通して演奏している演奏家で、だから新しいレコードが発見されれば、ちょうどいま生きている演奏家の新しい演奏会を聴きに行くように聴きたくなる。そういう意味で、つまり死んでいないという考え方なんです。
 過去の演奏会ではない、いまだに生き続けている。あのレコードによって毎日、毎日鳴り続けている指揮者であると、そういう指揮者はほかにいないというふうに、ぼくは考えるわけです。だから、ほかの指揮者は過去の業績であり、あの人は立派だった、こういうのを残したという形で評価されているけれども、フルトヴェングラーの場合は、レコードが鳴るたびに、もう一ぺんそこで生きて鳴っているという、そういうものがあの人の演奏の中にあると思うんです。それがいまの若い人でも初めて聴いたときにびっくりさせる。
 つまり、過去の大家の名演奏だと教えられて、はあそんなものかなと聴くんじゃなくて、直接自分のこころに何か訴えてくるものがあって、自分の心がそれで動いちゃうということが起こって、それでびっくりしちゃって、これは並みのレコードとは違うというふうに感じるんじゃないか。そうするともう一枚聴きたくなるという現象が起きるんじゃないかという気がするわけですね。
     *
福永氏が語られていることをいま読み返していると、
フルトヴェングラーは、演奏家側のレコード演奏家だということをつよく感じる。
http://audiosharing.com/blog/?p=18061


最後の晩餐に選ぶモノの意味(その5)
http://audiosharing.com/blog/?p=20415


フルトヴェングラーのモーツァルトのレクィエムは、
死ぬまでに聴きたい、と思う。
けれど、いまのところLPでもCDでも出ていない(はずだ)。

五味先生が書かれていた。
     *
 フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。(「死と音楽」より)
     *
これを読んでいるから、どうしても聴きたい、と思う。
録音が残っていないのか。

調べるとフルトヴェングラーがレクィエムを指揮したのは、1941年が最後である。
第二次大戦後は一度もレクィエムを指揮していない。

その理由はわからない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20415

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その6)
http://audiosharing.com/blog/?p=20419


モーツァルトのレクィエムとは逆に、
フルトヴェングラーによるマーラーは、第二次大戦後になる。

ナチス時代のドイツでユダヤ人作曲家のマーラーの作品の演奏は不可能だったし、
いかなフルトヴェングラーでも、それを覆すことも不可能だったのだろう。

フルトヴェングラーのマーラーは「さすらう若人の歌」が残されている。
フィッシャー=ディスカウとの演奏・録音である。

ここでのフィッシャー=ディスカウの歌唱は、
人生で一度きりのものといえる──、というのは、これまでに何人もの方が書いている。
その通りの歌唱である。

フィッシャー=ディスカウは何度も、その後「さすらう若人の歌」を録音している。
すべてを聴いてはいないが、フルトヴェングラーとの演奏を超えている、とは言い難い。
歌い手として成熟・円熟していくことが、すべての曲においてよい方向へと作用するわけではないことを、
フィッシャー=ディスカウが27歳のときの歌唱は証明しているように感じられる。

マーラーがユダヤ人でなかったとしたら、
ナチス時代にマーラーの演奏が可能だったとして、
さらにそのときに27歳のフィッシャー=ディスカウがいたとして、
いまわれわれが聴くことができる「さすらう若人の歌」が聴けただろうか……、
となるとそうとはいえないような気がする。

ナチス時代の終焉という戦後になされた「さすらう若人の歌」、
第二次大戦後、一度も演奏されることのなかったモーツァルトのレクィエム。
おそらくレクィエムを聴くことはできないであろう。
ならば想像するしかない。
http://audiosharing.com/blog/?p=20419

Date: 10月 20th, 2020
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その7)
http://audiosharing.com/blog/?p=33381


来年、五味先生の享年と同じになるのだが、
特に病気を患っているわけでもないし、健康状態はいい。
あとどれだけ生きられるのかはわからないけれど、まだまだ生きていられそうである。

二十年くらいは生きてそうだな、と思っている。
あと二十年として、その時77になっている。

身体は、そのころには、けっこうぼろぼろになっていよう。
ぼろぼろになっているから、くたばってしまうのだろう。

ここで書いているシーメンスのオイロダインも、そのころにはぼろぼろになっていることだろう。
劇場用スピーカーとして製造されたモノであっても、もとがかなり古いモノだけに、
二十年後に、よい状態のオイロダインは、世の中に一本も存在していないように思う。

そんなことがわかっているのに、音の最後の晩餐に、何を求めるのだろうか──、
そんなことを書いているのは、無意味でしかない、といえば、反論はしない。

非生産的なことに時間を費やす。
愚かなことであろう。

悔いがない人生を送ってきた──、とそのときになっていえる人生とはまったく思っていない。
最後の晩餐を前にして、悔いが押し寄せてくるのかもしれない、というより、
きっとそうなる。

最後の晩餐に食べたいものは、私にはないのかもしれない。
あったとしても、それを食べることよりも、一曲でいいから、
聴きたい(鳴らしたい)音で、それを聴ければいい。

でも、そこでも悔いることになる。
私がくたばるころには、まともなオイロダインはなくなっているのだから。
おそらく、これが最後の悔いになるだろう。

それまでのすべての悔いが吹き飛ぶくらいの悔いになるかもしれない。

フルトヴェングラーの音楽は、そのころも健在のはずだ。
オイロダインなんて、古くさいスピーカー(音)ではなくて、
そのころには、その時代を反映した音のスピーカーが登場してきているはずだ。

それで聴けばいいじゃないか、と思えるのであれば、こんなことを書いてはいない。
ただただオイロダインで、フルトヴェングラーを最後の晩餐として聴きたいだけなのだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=33381

Date: 5月 13th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その8)
http://audiosharing.com/blog/?p=34737


この項のタイトルは「最後の晩餐に選ぶモノの意味」であって、
「最後の晩餐に選ぶ曲の意味」ではない。

最後の晩餐に聴きたいスピーカー(というよりも、その音)がある。
その音で聴きたい音楽がある。
そのことを書いているだけである。

本末転倒なことを書いているのはわかっている。
聴きたい曲が先にあって、
最後の晩餐として、その音楽を聴くのであれば、
どういう音(システム)で聴きたいかが、本筋のところである。

それでも私の場合、最後の晩餐から連想したのは、
まずシーメンスのオイロダインというスピーカーだった、というわけだ。

だから「最後の晩餐に選ぶモノの意味」というタイトルした。
(その1)を書いたのは六年前。52歳のときだ。

いまもまだシーメンスのオイロダインを、最後の晩餐として聴きたい、というおもいがある。
それはまだ私が50代だから、なのかもしれない、とつい最近おもうようになってきた。

十年後、70が近くなってくると、オイロダインではなく、
ほかのスピーカーで聴きたい、と変ってきているかもしれない。
その時になってみないと、なんともいえない。

書いている本人も、変っていくのか、変らないのか、よくわかっていないのだ。
最近では、ヴァイタヴォックスもいいなぁ、とおもっているぐらいだ。

それでも、今風のハイエンドのスピーカーで聴きたい、とは思わないはずだ。
http://audiosharing.com/blog/?p=34737

Date: 9月 19th, 2021
最後の晩餐に選ぶモノの意味(その9)
http://audiosharing.com/blog/?p=35627


シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。

ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。

ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。

ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。

何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。

フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである。
http://audiosharing.com/blog/?p=35627

32. 中川隆[-15864] koaQ7Jey 2021年10月24日 15:51:10 : YN6zSJjFqQ : Q2hoWkN0T0VFNlk=[17] 報告
■■■フルトヴェングラー33■■■
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1620879500/


115名無しの笛の踊り2021/07/05(月) 21:33:41.30ID:9nMzUedY
フルトヴェングラー生誕135年記念、商用リリース用に録音された音源をまとめたCD55枚組発売
https://www.cdjournal.com/main/news/wilhelm-furtwangler/92104
https://www.cdjournal.com/image/jacket/large/Z3/Z335003868.jpg


 20世紀でもっとも偉大な指揮者の一人、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの生誕135年を記念して、彼のスタジオ録音すべてと、商用リリース用に録音されたライヴ音源を、2021年の新リマスターで収録するCD55枚組のボックス・セット『The Complete Wilhelm Furtwangler on Record』が9月24日(金)に発売されます。

 ここには、1926年に録音されたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との「ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』Op.77〜序曲」から、1954年に録音されたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との「ベートーヴェン:歌劇『フィデリオ』Op.62(全曲)」まで、Warner Classicsカタログ(旧HMV-EMIとTelefunken)とUniversalカタログ(Polydor、Decca、Deutsche Grammophon)の音源が収録されているほか、1950年にウィーン・フィルを指揮した初出音源(「J.シュトラウス:皇帝円舞曲」ほか)や、1950年10月1日にコペンハーゲンでデンマーク放送が収録した放送音源の「シューベルト:未完成交響曲」といった貴重な音源も収録。デンマーク放送が収録した「シューベルト:未完成交響曲」はもともと商用リリース用ではない唯一のライヴ録音ですが、特別に収められています。

 各ディスクはオリジナル・ジャケットのデザインによる紙ジャケットに封入。同梱される160ページのブックレット(英語、仏語、独語)には、フルトヴェングラーに関するエッセイと多くの写真や、収録音源の録音日 / 会場 / 録音スタッフ / マトリックス番号 / 元のカタログ番号といった詳細なリストなどが掲載されています。


詳細
Warner Music Japan
https://wmg.jp/wilhelmfurtwangler/discography/24779/

280名無しの笛の踊り2021/08/03(火) 22:48:53.10ID:S+pkqNar

今度出る55枚組のArt & Son Studio 192kHz/24bitリマスター箱だが
ちょっと前に出たフィルハーモニア管弦楽団の創立75周年記念箱も
フルトヴェングラーはArt & Son Studio 192kHz/24bitリマスターとなっている
これを聴く限りではそこそこ期待できそうな気がする

345名無しの笛の踊り2021/08/20(金) 21:37:18.70ID:rC4fC/a3

今度出る55枚組の詳細が発表されてるけど、このデータがホントなら結構な驚きなんだけどなあ。
・29年と30年の録音があり、29年は未発売と言われていたロザムンデ間奏曲3番が実は30年の方が未発売(今回も収録されてない)?
・ルツェルン祝祭オケとのローエングリン前奏曲、47年と49年の録音があって、今までは47年録音(49年が未発売)と言われてたけど今回のデータによると実は49年録音(47年は収録無し)。
・未発表とされてきた49年録音のジークフリート葬送行進曲は今回も収録なし。原盤が存在しない?
Shin-p氏のサイトには「▼この日の録音として仏協会が出した葬送行進曲のレコード(SWF8001='80)は、54年のEMIスタジオ盤と同じ物だとされ現在まで未発売という意見が一般的だ。
但し、最近(2003年)のshin-pの調査ではTESTAMENT盤が東芝TOCE3753と演奏が異なり、東芝の方がこの49年盤の可能性が出てきた。」とあるけど、今度のBOXには50年録音の別テイク(通しのリハーサル録音)が入っていて、東芝盤はこれだったとか?
・2,4楽章しかないと思われてたチャイコの弦セレは第3楽章も収録されてた。

596e2021/09/24(金) 15:38:31.67ID:mc6vqBLL
55枚組届いた。何枚か聴いてみたけど音質は結構いいぞ。今までのCDはまとめて処分できるなこりゃ。
で、解説書に、これまで議論されてた問題の回答が色々書いてある。
・ロザムンデ間奏曲に29年と30年の2つの録音があるというのは誤解で、30年録音と称するのは実は29年録音のダビング。
・48年録音でお蔵入りと言われていた「フィンガルの洞窟」も、結局は49年の別テイク。
・同様に、49年録音でお蔵入りと言われていたジークフリートの葬送行進曲も、50年
・ルツェルン祝祭管との「ローエングリン」前奏曲、今までTestamentから47年録音として出ていたのは実は49年の録音で、47年録音は廃棄された。

5975962021/09/24(金) 15:40:00.48ID:mc6vqBLL
スマン。途中で送信しちまった。

・ロザムンデ間奏曲に29年と30年の2つの録音があるというのは誤解で、30年録音と称するのは実は29年録音のダビング。
・48年録音でお蔵入りと言われていた「フィンガルの洞窟」も、結局は49年の別テイク。
・同様に、49年録音でお蔵入りと言われていたジークフリートの葬送行進曲も、50年録音の別テイク。
・で、50年の葬送行進曲だが、EMIとTestamentが別録音ではないかと言われていたが、Testamentは通しのテスト録音
・ルツェルン祝祭管との「ローエングリン」前奏曲、今までTestamentから47年録音として出ていたのは実は49年の録音で、47年録音は廃棄された。


5985962021/09/24(金) 15:42:52.66ID:mc6vqBLL
申し訳ない。なんだか誤作動が多いな。
50年の葬送行進曲でテイク違いの話は、Shin-pは「Testamentが50年、東芝EMIが49年録音」説で、フルトヴェングラー劇場は「Testamentは本番前のテスト録音」説だったが、後者が正しかったわけだ。

ちょっと驚きなのは、54年のマタイ受難曲、やはりEMIには4日分の完全なテープがあるらしい。今回はそのテープを使って新編集したんだと。
あと、バイロイトの第9は足音入りだった。

600名無しの笛の踊り2021/09/24(金) 16:03:56.60ID:mc6vqBLL>>601
そうそう、それから、37年のコヴェントガーデンでの「神々の黄昏」抜粋だけど、既出盤よりも収録時間が明らかに長い。
M&A盤は合計で92分だけど、今回は108分入っている。どこが追加されているのかまだ聴いてないので不明だけど。
で、コヴェントガーデンの「指環」は、捜索したけど結局「ワルキューレ」3幕と「黄昏」抜粋以外は発見できなかったらしい。


601名無しの笛の踊り2021/09/24(金) 16:40:27.14ID:DS3py2af>>604
>>600
コヴェントガーデンのは俺の盤でも108分ほど入っている。M&Aが短すぎるのじゃないか。
それに俺の盤では1938年のコヴェントガーデン、フリーダ・ライダーのも少しだが入っている(Dante(Lys)盤)
1937年のリング、やっぱり見つからないのか?かなりごたごたあって、整理がつかないのじゃあるまいか?

644名無しの笛の踊り2021/09/29(水) 18:57:29.76ID:UNYH//jR
55枚組、1枚目から順に聞いていく気力は起こらないので、気になる(主に音質上)のから聞いていきました。

・ベートーヴェン7番
 コボゴボというテープノイズはあるが、人声ノイズは見事に全く無かった。
 要するに、SP起こしからスクラッチノイズを取り除いたような感じ。

・ワルキューレ第3幕
 トラック7(従来盤のトラック10)のガクガクブルブルという音の震えは、改善されてはいるが残っている。
 その改善の具合が、日本発売の各旧盤とほぼおなじ出来具合いだった。
 つまり、あのワルキューレには震えが多いテープと少ないテープの2系統があって、今回は少ない方を使った模様。

以降、この調子で何か気づいた点があったら報告します。

649名無しの笛の踊り2021/10/01(金) 20:34:19.53ID:NbuCg3UU>>652
55枚組、1枚目から順に2枚目まで聞きました。

CD1の初録音「魔弾の射手序曲」と'26〜'27年録音の「運命」はそこそこ音質面でも健闘していました。

しかし、所詮は金属原盤を持っているDGとシェラック媒体から起こすしかないワーナーでは、他の曲は勝負になりません。
おっ、これは良いかな?と思っても、強音部になると音が潰れたりして、全体としてやはりDGに軍配が上がる印象です。


665名無しの笛の踊り2021/10/05(火) 19:36:48.64ID:YYSU2IQc
55枚組のCD3と4を聞きました。

SP録音とはいってもこの時代になるとさすがに20年代の録音とは音質が違ってきます。
2枚とも録音はおおむね良好でした。
中でも推薦できる音質なのがCD3の「スラブ舞曲」とCD4の「セビリアの理髪師序曲」、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」です。
これはちょっと音が壊れている箇所もあってまずいかな、というのが「どろぼうかささぎ序曲」「舞踏への勧誘」「エグモント序曲」でしょう。

さて、次(CD5)はコヴェントガーデンの第9か…


675名無しの笛の踊り2021/10/07(木) 22:06:53.99ID:8m0WmAFS
55枚組のCD5、37年ロンドン公演のベートーヴェン第9を聞きました。

これ、はっきり言って失敗作でしょう。
第一楽章の提示部開始から早々に、楽音が小さく、低音が無駄に大きく、正直ティンパニだけしか聞こえません。
一旦止め、音量を上げてまた再生ボタンを押すと、ティンパニはうるさいけれどもようやく音楽が聞こえるようになります。
流れる音楽を聞くと、ノイズは大して良くなっていない、面つなぎの荒さは改善されていない、欠点ばかり目立ちます。
第4楽章に入って緊張して聞くと、歓喜の主題を低弦が提示した後、第1変奏で歓喜主題後半が1回多く繰り返される編集ミスが、
何と直っていません! リマスタ技術者は何をやっていたのでしょうか?
スコアを読みながら仕事をしろとまでは言いませんが、せめてスコアを眺めながら仕事をしてほしいものです。
世界的に問題化している初歩的な編集ミスに気付かないのも、技術者として不勉強です。

あーあ、この調子で作られたディスクをあと50枚聞くのか…

676名無しの笛の踊り2021/10/08(金) 00:07:54.45ID:WOPbuCIv
1937年の第九は不遇な取り扱いを受けてる演奏だよな
Shin-pさんのHPを見るとBBCの収録で、ジョージ6世戴冠祝賀公演で
ロンドンを訪れた際の実況盤とのことだが、LP初出はけっこう遅い
1984年、没後30年記念盤として出たようだが正直、印象は薄い
ちょうどLPからCDへの移行時期で、初出のタイミングが悪い
CDではGreat Conductors of the 20th century(CZS5628752)
という企画モノのシリーズで復刻されたが、EMIは音源提供に留まり、
この音源を本家の英EMIが独自にCDリリースした形跡がない
「実は、こんな演奏もありまんねんで」と今回、ソッと
ボックスに収録されたような印象がある

677名無しの笛の踊り2021/10/08(金) 19:11:15.16ID:HqvNo/mC
55枚組のうちCD6、'37年ロンドン・コヴェントガーデン公演のワルキューレ第3幕を聞きました。

音質そのものは、幸いにも上々と言える仕上がりになっていました。
時代の制約上、SP録音から起こさざるを得ないのですが、ノイズは楽音を損なわない範囲内でしっかり抑えられています。
ただ、録音技術の制約で録音バランスが悪く、冒頭のワルキューレの騎行がまるで別の曲のように聞こえて始まったりします。
こういうのは時代柄、止むを得ないのでしょう。

流れる音楽そのものについてはもう語り尽くされていると思うので、言及するにしても最小限に留めましょう。
ブリュンヒルデ役のフラグスタートはこの頃早くも安定の実力を示していますが、問題なのはヴォータンです。
ルドルフ・ボッケルマンという歌手が歌っているそうですが、誰なんだこの人?歌声に張りが無いし、歌い方に威厳がありません。
最後の「我が槍の穂先を恐れる者は炎を踏み越えてはならぬ」など、どこのボランティアさんが歌っているのかと思いました。

さて、次はCD7、8の「神々の黄昏」断片ですが、ちょっと困りました。
私はワルキューレは好きですが、神々の黄昏はあまり好きではないからです。
好きでもない曲のCD2枚を聞き通す気力を奮い起こすのに、少々時間をいただきます。

685名無しの笛の踊り2021/10/12(火) 19:10:29.36ID:z8RK/xbx
55枚組のうちCD7・8・9、'37年ロンドン公演の神々の黄昏抜粋と、同年のSP録音の運命等を聞きました。

・神々の黄昏抜粋
ノイズの状態はワルキューレ第3幕より悪いです。
所々で周回ノイズが聞こえ、スクラッチノイズの音もワルキューレより大きいです。
この曲が苦手な私にとって、収録されている中では最大の聴きどころだった最終幕の「ブリュンヒルデの自己犠牲」で、
歌が終わった後のオーケストラの演奏に被って盛大な周回ノイズがプシュッ、プシュッと聞こえたのは興ざめでした。
最後のハーゲンの一言「指環から離れろ!」はカットされていたようです。

・'37年SPの運命、「トリスタンとイゾルデ」第一幕への前奏曲と愛の死、「パルジファル」第一幕前奏曲と聖金曜日の音楽
「運命」は、スクラッチノイズも少なく、非常に良い復刻でした。
ただ録音について難を言えば、ティンパニがほとんど聞こえないことと、第4楽章提示部冒頭で弦が奏でる主題に被って鳴る
トロンボーンも全く聞き取れなかったことです。
名演であることは間違いないですが、このあたりがSP時代の収録の限界でしょうか。
ティンパニをバンバン叩いたり、トロンボーンが絶叫したりすると、再生時に蓄音機の針が吹っ飛んでしまったのでしょう。
残りのワーグナーの曲は、復刻・演奏とも大変に上々でした。

さて、次はチャイコフスキーの「悲愴」です。この55枚組のリマスタは出来がまちまちですが、今度は吉と出ているのかどうか…

690名無しの笛の踊り2021/10/13(水) 19:52:20.67ID:eEzjQByd
55枚組のうちCD10、チャイコフスキーの「悲愴」を聞きました。

結論から言うと、これは聞く人を選びます。
ノイズが残っていても、音が割れ気味でも、元の音源をそのまま聞きたいという人にはお薦めです。
音が加工されていても聞きやすい音で聞きたい、と言う人はこの一枚に首をかしげるでしょう。
私はどちらかというと後者です。
シェラック起こしCDの盛大なプチパチノイズなどは余り気にならない方ですが、
本盤で所々に聞こえるようなシュッ、シュッ、という周回ノイズは勘弁してほしいです。
強音部で音が割れ気味になるのは、SP起こし盤でほぼ明らかになっていたことですが、改めて原盤で確認できました。
私の本演奏の愛聴盤はベルリンフィル100年記念の外盤EMIボックス収録のか、徹底的に音をいじった国内版のTOCE-3410です。

次のCDは、大曲の断片録音や小曲の寄せ集めです。少しだけ気が楽かな。


715名無しの笛の踊り2021/10/15(金) 21:08:48.47ID:YabDqbjc>>716
55枚組のうちCD11、12を聞きました。

CD11
・フルトヴェングラー「ピアノとオーケストラのための交響的協奏曲」第2楽章
 ノイズはこの1枚の中で一番少ないが、残念ながらピアノの強音部が音割れしている。
 若き日のフィッシャーの激しい強弱法を、この時代の録音技術で捉えるのは無理だったか。
・ベートーヴェン「カヴァティーナ」管弦楽版
 スクラッチノイズはあるが、気になるほどではなく、音楽を楽しめる。
・ブルックナー「交響曲第7番」より第2楽章
 やはりスクラッチノイズを気にせずに音楽を楽しめる。
 ヒトラー自殺のニュースがラジオで放送されたときに背景音楽として流された、といういわくつきの録音。
 しかし当時のラジオ放送ではシェラックのSP盤を流したはずだから、もっとプチパチノイズの大きい音が流れたことだろう。
・グルック「アルチェステ」序曲
 これは後年の円熟したフルトヴェングラーの演奏を聞いた方が良い。
 スクラッチノイズがある上に、SP録音のために整理整頓されすぎた演奏になっている。これでは採る所がない。

CD12
・ブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」
 SP録音のための演奏ゆえか、非常に端正な仕上がりになっている。
 私はこの曲はこういう演奏が好みなので楽しめたが、もっとデモーニッシュな効果を求める人は、後年のライブを好むはず。
・ベートーヴェン「交響曲第6番『田園』」
 音質が良く、十分に楽しめる田園交響曲になっている。
 のみならず、国際問題化(?)していた第1楽章提示部がEMI系の音源で繰り返されていた件は、本盤でようやく解消された。
 フルトヴェングラー本来の田園交響曲解釈に則して提示部を繰り返さない一枚になったことは大いに喜ばしい。

実を言うと、アダージョの音楽が続くCD11では、1回、聞きながら寝落ちしてしまいました。


721名無しの笛の踊り2021/10/16(土) 20:08:54.25ID:I3z5ykVx
55枚組のうちCD13、14を聞きました。

CD13、ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」、独奏メニューイン、ルツェルン音楽祭管弦楽団
 音質はSP音源とは思えないほど非常に良好。
 演奏もSPとは思えない、ライブに近い迫力がある。
 メニューインは技術で聞かせるヴァイオリニストではないが、この曲ではその欠点が出にくい。

CD14
・ベートーヴェン「交響曲第3番『英雄』」
 東芝の旧盤「フルトヴェングラーの芸術」シリーズのようなもやけた音ではなく、くっきりした音で、しかもそれが最後まで持続した。
 普通、この演奏をCDにするときは、第2楽章冒頭に47年のテイクをつかい、49年再録音をボーナストラックにするが、
 このディスクでは再テイクを第2楽章に組み込み、初回録音をボーナストラック扱いしている。しかし違和感は無かった。
・ベートーヴェン「コリオラン」序曲
 音質はやはり大変に良好。
 演奏は、ライブ録音のような曲の終わりの部分のピアニシモの美学はSPだけに期待できないが、それなりに生き生きとした演奏。

さあ、次はモーツァルトのグラン・パルティータですが、うーん、また寝落ちしそうだ。


732名無しの笛の踊り2021/10/17(日) 19:29:19.70ID:3+WTUfQg>>733
55枚組のうちCD15、16を聞きました。

CD15、モーツァルト「グラン・パルティータ」
 残念なことに、ノイズの質が良くないです。
 たまに「ザザッ、ジャリーーーッ、プシューーーッ」というスクラッチノイズが被って、音楽を損なっています。
 演奏自体はウィーン・フィルの腕利きの楽員たちを選りすぐった名演なのに惜しまれます。

CD16、ブラームス「交響曲第1番」
 これも上記CD15と同様の聞き苦しい盤面ノイズがあります。
 両盤とも旧EMI所蔵の金属原盤を使えるはずなのに、どうしたことでしょうか?
 また、本盤では強音部に音割れというか、ビリつきがある(特に前半)のも遺憾です。
 改めてノイズリダクションしていない音でこの演奏を聞くと、ライブ盤には及ばないものの、一応のレベルには達しています。

両演奏とも従来盤があれば十分です。
この55枚組のSP時代の演奏は音質的に玉石混交ですが、田園、英雄を聞いて期待していただけに、2連発のハズレにはがっかり。
さて、次はロンドン・フィルのブラームス2番ですが、デッカ録音なので、何をどうやってCDに復刻したのでしょうか?


740名無しの笛の踊り2021/10/18(月) 20:18:12.28ID:DbnOSUOH>>741
55枚組のうちCD17、ロンドン・フィルのブラームス交響曲第2番を聞きました

盤面ノイズの大きさから言って、音源には商用シェラックSP盤を使用した模様です。
しかし非常に良質の音源を使っており、バチバチという耳にうるさいノイズはありません。
しかも楽音がはっきり聞こえる好復刻になっていました。曲の良さがしっかり伝わります。
演奏は、いかにもSP録音らしい整ったもので、フルトヴェングラーらしさという点では戦中・戦後のライブに及びません。
ただし何度も繰り返し聞いたり、私のように55枚を一気に聞こう、という場合はこの方が良いのかも知れません。
ボーナストラックの別テイクは、音質も悪く、無くもがなという感じでした。

さて次の一枚は、何やら神々の黄昏から始まるオムニバスです。どんな復刻になっているのかな。

748名無しの笛の踊り2021/10/20(水) 00:13:15.58ID:HrFgil0j>>749>>750>>754
55枚組のうちCD18を聞きました。

・ワーグナー「神々の黄昏」より、ブリュンヒルデの自己犠牲
 今回の55枚組はSPの盤面ノイズをリダクションしない方針を採っているようで、ノイズはそれなりにあります。
 フラグスタートが、全盛期は過ぎたものの、まだまだ頑張っているのが本録音の聞きどころでしょう。
 ノイズが嫌な人は、従来盤を聞くべきです。

・メンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」
 これは音質的に復刻大成功、本盤の白眉です。誰がリマスタしても音質が悪かったこの演奏が、見事に甦りました。
 ただ、演奏そのものはCD3の戦前ベルリン盤がフルトヴェングラーらしさで勝っているのではないでしょうか。
 本演奏も決して悪い演奏ではないのですが。

・モーツァルト「交響曲第40番」
 第2楽章の冒頭が少し切れていた問題は、本番では直っており、解決しました。
 ノイズはSP時代のものとしては時代相応であり、音の良さが欲しい人は従来盤によるべきです。
 演奏は、テンポがせかせかしすぎている、と言われて久しかったのですが、古楽器派が軒並みこのテンポで演奏している今では、
 これはこれであり、ということになるでしょう。

さて、次のディスクはワーグナー管弦楽曲集です。

754名無しの笛の踊り2021/10/20(水) 08:44:44.38ID:kSnUebDJ>>758
>>748
> フラグスタートが、全盛期は過ぎたものの
全盛期過ぎた?彼女のマホガニーを思わせる声、表現力の深み、
戦後のこの時期、四八年頃が彼女の全盛期。アメリカ時代はまだ小娘に毛が生えた状態で、
もちろんそれだけで終わっても、名ワグナーソプラノ1人だったろうが、
戦後のこの時期があったおかげで、かの上は文字通りの最高のブリュンヒルデであり最高のイゾルデに
到達した。

758名無しの笛の踊り2021/10/20(水) 20:18:31.14ID:HrFgil0j>>759
>>754
歌手の声の出の良さ(どこまで高い声が出るか、息が続くか)と、表現力とでは盛りの年齢に違いがありますね。
そのどちらを採るか、の見る角度の違いだと思います。
私は「体力、声の出ではもう若い頃には敵わない」という意味で「全盛期を過ぎた」と書きました。
まあ、歌右衛門や雀右衛門(先代)も、昔の美しい頃が全盛期が、晩年の演技力抜群だが足元がヨタついた頃が全盛期か、
意見は分かれることでしょう。

さて55枚組のうち、CD19を聞きました。

・ジークフリート牧歌
 本盤ではこの曲だけ盤面ノイズが強く、これはちょっと観賞の妨げになります。また、強音部で音がビリつきます。
 従来盤が十分に観賞用として通用したのに対し、こちらはぎりぎりアウトという感じです。
 ただし演奏そのものは素晴らしいです。フルトヴェングラー色が濃厚なワーグナーに仕上がっています。

・「タンホイザー」序曲
 音質は良好です。
 演奏もいいのですが、録音にちょっと問題があります。
 オケがヴェーヌス讃歌の旋律を弾くところで、弦が細かい音符を弾きまくる掛け合いの音がほとんど聞こえません。
 こういうのは「指揮者に聞こえてもレコードに音が入らないからもっと大きく!」とミキシングルームが指揮者に注意すべきでしょう。

・ジークフリートのラインへの旅
 これも音質良好です。
 演奏は… この曲はあまり好きではなく、他の演奏との聞き比べもできないので、判断を保留したいと思います。
 この曲、わざわざ単体で録音してSPで売り出すような価値があるんですかねぇ?まあ私の耳が悪いんでしょうが。

・「さまよえるオランダ人」序曲
 これも音質的に問題なし。
 演奏もワーグナーの劇的な効果を指揮者が十分に伝えています。

さあ、次は小曲の寄せ集めですか。気を取り直して聞きます。


772名無しの笛の踊り2021/10/21(木) 19:30:52.23ID:SfekGVsa
55枚組のCD20を聞きました。

・ブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」
 ノイズは大き目ですが、ぎりぎり鑑賞の範囲内でしょう。ただ、ジャリッとなる箇所は何度も聞くと気になるでしょうが。
 演奏は、第1回目の録音よりずっと緩急、強弱の変動が大きいフルトヴェングラー風になっています。
 それだけに、オケの最強音やフルートの最高音は録音が捉えきっていないです。

・ワーグナー「ワルキューレの騎行」
 これは、初期盤ではノイズを削りすぎ、ぬるい演奏に聞こえていた、板起こしCDだと名演だと分かる、という演奏でした。
 今回のSP原盤起こしでは、ノイズがさほど聞こえないにも関わらず、演奏の良さが伝わってくる復刻です。

・ベルリオーズ「ファウストの劫罰」より、ハンガリー行進曲
 音質は良好です。
 演奏は、とくにフルトヴェングラーがやらなくても…、という感じです。
 「ファウストの劫罰」にはフルトヴェングラー指揮の全曲盤があります(音は悪い)が、どうもこの曲と指揮者は相性が悪いようです。

・モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
 これも音質は良好です。
 演奏は戦前のベルリンフィル盤との比較になりますが、あちらは一気呵成に仕上げた感じ、こちらはじっくり仕上げた感じです。
 しかしフルトヴェングラーがモーツァルトにじっくり取り組んでもどうなるものでもありません。私はベルリン盤の方が好きです。

(次レスに続く)

773名無しの笛の踊り2021/10/21(木) 19:31:53.09ID:SfekGVsa>>775
>>773の続き)
・ブラームス「ハンガリー舞曲」より第1番、3番、10番
 これも音質良好です。
 1番と10番はベルリンフィル盤との比較が可能ですが、どう聞いてもベルリン盤がフルトヴェングラー的な緩急自在の演奏です。
 よく「フルトヴェングラーは晩年になるにつれて客観的で枯れた演奏になっていった」と言われますが、 実際には変化は戦後早々に始まっていたことが分かります。

・ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より、第1幕への前奏曲、第3幕 徒弟の踊り
 音質自体は良好です。
 しかし前奏曲はあまりにもSP用録音風におとなしすぎ、我々の記憶にあるこの指揮者の演奏とはまるで別物に聞こえます。
 徒弟の踊りは、SPの盤面の余りの埋めものとしては非常に上出来で魅力的な仕上がりです。

さてと、次はブラームスのヴァイオリン協奏曲が目玉ですが、従来盤の印象から、音質が悪い予感しかしない・・・

777名無しの笛の踊り2021/10/22(金) 21:15:42.21ID:Lb7yh3tJ
55枚組のうち、CD21を聞きました。

・ワーグナー「ローエングリン」第1幕への前奏曲
 音質はすばらしい出来です。
 この録音は諸盤が出ており、これは'47年録音だ、これは'49年録音だ、実は両者は同一で'47年録音だ、いや同一だが'49年だ、と諸説紛々でした。
 ブックレット92ページを見ると、55枚組は「'47年録音はおそらく破毀された」としており、'49年録音単一説を採っています。
 演奏もすばらしい。フルトヴェングラーにこの曲は合っているのでしょう。

・ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」(独奏メニューイン)
 従来盤が軒並み盤面ノイズがうるさい有様だったので、音質は全然期待していませんでした。
 ところが、聞き始めてノイズの少なさに驚かされました。これは復刻大成功でしょう。観賞用として十分通用します。
 メニューインは技術で聞かせるヴァイオリニストではないので、独奏は朴訥な印象です。
 フルトヴェングラーの棒とルツェルン祝祭管の伴奏も、そんな独奏者を支えておとなしい演奏です。
 演奏者の名人芸よりもブラームスの音楽のしっかりした構成そのものを楽しむべき演奏となっています。

次の一枚は一度聞いてすでに報告を書きこんだベートーヴェン7番ですが、もう一度聞いてみます。

791名無しの笛の踊り2021/10/23(土) 22:25:28.16ID:ssJxYPzl
55枚組のうち、CD22をもう一度聞きました。

・ベートーヴェン「交響曲第7番」
 今度はヘッドホンで聞き直しました。
 ようやく発見された第一次的録音媒体のぶつ切りテープは、数十年の風雪を反映してか、テープノイズが相応に賑やかでした。
 録音について疑問に思ったのは、ベートーヴェンの交響曲にしてはコントラバスが効いていないことです。
 どうせSPで売るから蓄音機では聞こえないだろうと、演奏の時点でバスを抑えてしまったのか?
 それともそういう理由で、ミキサーの判断で低音を下げてしまったのでしょうか?
 あるいは今回の55枚組のリマスター技術者に「フルトヴェングラーのベートーヴェンはコントラバスが命」という認識が無かった?
 私の超安物の再生機器に付いている簡易イコライザーで低音のつまみを上げると、それなりにより良く聞けるのですが…
 演奏は、私の個人的な好みでは、これ以上のベートーヴェン7番は永久に出ない、と思えるほどの名演です。
 これに比べるとクライバー盤でさえ平板な演奏に聞こえてしまいます。それだけにコントラバスが遠いのが惜しいです。

・シューベルト「未完成交響曲」
 音質は非常に良好です。
 金属原盤由来の盤面ノイズはありますが、ヘッドホンで聞いても上記ベートーヴェン7番より総合点でましです。
 演奏も、緩急の付け方やダイナミックレンジではライブに譲るべきでしょうが、SP用録音としてはすばらしいです。

次の一枚の目玉はベートーヴェンの4番ですが、さて果たしてどういう復刻になっているのでしょうか。

33. 中川隆[-15109] koaQ7Jey 2021年11月26日 11:11:52 : rIa0k1hVh2 : NHpRSDVuNTFnL1k=[24] 報告
801名無しの笛の踊り2021/10/24(日) 18:04:58.00ID:rZGr5i/r

ウラニアのエロイカのオリジナルテープのときと同じく
EMIのベト7も味気なくなったという評価でファイナルアンサー?

802名無しの笛の踊り2021/10/24(日) 19:31:11.55ID:Q65UBaMc
55枚組のうち、CD23を聞きました。

・リヒャルト・シュトラウス「死と変容」
 シーッと鳴る盤面ノイズはそれなりにありますが、そのうち気にならなくなります。
 演奏はSPのための吹き込みとは思えないほどすばらしい出来です。

・ヨハン・シュトラウス2世「皇帝円舞曲」
 音質は非常に良好です。
 演奏については、>>612さんからSPの表裏1枚に納めるためにテンポを速めた旨のご報告もあり、云々する必要もないでしょう。
 今から考えれば、SP2枚の3面に分けて収録し、4面目に何かの小曲を収録してくれていた方が有難かったのですが…

・ベートーヴェン「交響曲第4番」
 音質は良好で、ダイナミックレンジをよく捉えています。
 演奏もこの指揮者らしい好演ですが、私は聞く耳が無くて、フルトヴェングラーのベートーヴェン4番はどれを聞いても同じに聞こえてしまうので、
 それ以上の言及は避けます。

>>801
私は「味気なくなった」とまでは思いませんが、従来のCD諸盤(初期LPから起こしたCDは除く)に比べ、明らかにバスが効いていません。
そこまでは間違いないと思います。

さて、次に聞く1枚は小曲の寄せ集めです。SP時代も次第に末期に近づいてきた頃の録音ですが、どんな仕上がりでしょうか。

816名無しの笛の踊り2021/10/25(月) 19:33:30.15ID:s2m7GM+P

55枚組のうち、CD24を聞きました。
・ワーグナー「神々の黄昏」より、ジークフリートの葬送行進曲
 盤面ノイズはありますが、それに埋もれるようなピアニシモが使われていないため、楽音を損なってはいません。
 演奏は、ドイツ・グラモフォンから出たライブと聞き比べてしまうと、いかにもSP用の演奏、という整った感じです。
 愚演、駄演ではありませんが、ライブで聞けるような迫力ではどうしても見劣りがします。

・ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より 第3幕への前奏曲
 音質は上記葬送行進曲と同じことが言えます。
 単独で録音されることは珍しいこの曲ですが、指揮者は劇的な曲作りに成功しています。

・ウェーバー「オベロン」序曲
 音質はノイズも少なく、良好です。
 前半はフルトヴェングラーらしい緩急の変化に欠けるきらいがありますが、後半に入っての盛り上げはさすがです。

・シューベルト「ロザムンデ」より 間奏曲第3番、バレエ音楽第2番
 両曲ともCD1のDGの初期録音と重複しますが、こちらは音質が非常に良好です。
 悪い演奏ではないのですが、CD1と比較してしまうとこちらはフルトヴェングラーらしい個性が弱く、どちらを聞くか迷うところです。

(次レスに続く)

817名無しの笛の踊り2021/10/25(月) 19:35:01.71ID:s2m7GM+P
>>816より続く)
・チャイコフスキー「弦楽セレナード」より ワルツ、終曲
 音質は非常に良好で、弦楽器の息遣いが聞こえてきます。
 演奏も良いのですが、欲を言えば終曲ではもっとアッチェレランドが欲しかった所です。が、SP用録音とあっては仕方ないでしょう。

・ヨハン・シュトラウス2世「ピチカート・ポルカ」グロッケンシュピールあり、なし
 音質はグロッケンシュピールありが大変に良好、なしの方は盤面ノイズがあります。
 両演奏が別々のテイクだということはもう確定して長くなりますが、演奏はまるで双子のようにそっくりで、紛糾するのも尤もです。

・モーツァルト「魔笛」より 夜の女王のアリア「怖がらなくて良いのです、我が子よ」、「地獄の復讐はわが胸に燃え」
 音質は、ノイズは無いのですが、歌手リップの歌のフォルティッシモをマイクが捉えられず、少し声の音割れがあります。
 演奏は、役の性根を歌い出したというよりも、リップの最高音の展覧会、という感じです。
 魔笛のアリア、パパゲーノの「私は鳥刺し」が、舞台上では悪役の性根で、単独録音では善玉の性根で歌われるのはよくあることです。
 しかし、リップは「地獄の復讐」で、明らかに夜の女王の悪役の性根を歌い出していません。
 「私は鳥刺し」ならともかく、このアリアで悪役の性根を出すのを避ける、というのはいかがなものでしょうか?

さて、次のCDの目玉はチャイコフスキーの交響曲第4番です。ワーナーは前回リマスターから音源に細切れテープを使い始めましたが…


825名無しの笛の踊り2021/10/26(火) 19:50:05.71ID:elMBHZoA
55枚組のうち、CD25を聞きました。

・シューベルト「ロザムンデ」序曲
 音質は大変に良好です。ダイナミックレンジをしっかり捉えていてSP用録音とは思えません。
 演奏も同じく大変に良好です。

・チャイコフスキー「交響曲第4番」
 この曲は前回の2011年リマスターにあたってSP用のぶつ切り一次録音テープが発見され、使われ出しました。
 LP用二次テープ時代は、嫌なゴーストがあり、大いに興を削いでいました。
 今回のリマスターでは、テープヒスノイズが残っているものの、音質は良好の部類に属します。
 演奏も、いかにもフルトヴェングラーらしい名演です。

・ケルビーニ「アナクレオン」序曲
 音は良いのですが、遺憾ながら残響の聞こえが悪いです。ブックレットによるとウィーン楽友協会大ホールで録音されたはずですが…
 まあこの辺が当時の録音技術の限界なのかもしれません。
 演奏は、この凡庸な(?)作曲家の曲を見事なフルトヴェングラー節に仕上げています。

次の1枚はハイドンの「驚愕」その他です。SP時代はまだ終わらない…
フルトヴェングラーという人はプロデューサーに勧められれば熱心にSP録音に入れあげる人だったんだな、と痛感しました。

828名無しの笛の踊り2021/10/27(水) 06:32:58.02ID:GVREJPTg>>830

どうも55枚組の意図が、最新のリマスターという触れ込みよりは
フルヴェンの散逸していたSP盤を網羅した本来のディスコグラフィーを
改めて提示するという真面目な意図があるように感じる。
普通ならこれが公式と言いたいことだろうが、沼はすぐそこに。。。


830名無しの笛の踊り2021/10/27(水) 09:14:08.68ID:UHz5etAV
>>828 
実際、今回の55枚組で初めて明らかになった事実も多いしね。ディスコグラフィの混乱が整理されたのは大きいと思う。

842名無しの笛の踊り2021/10/27(水) 20:45:02.82ID:8H/InimP
55枚組のうち、CD26を聞きました。

・ハイドン「交響曲第94番『驚愕』」
 シーッ、という盤面ノイズはありますが、気にはなりません。
 気になったのは、第2楽章の例の驚愕の一撃の箇所で、弦は最強奏しているのにティンパニの「ドカン!」が聞こえないことです。
 まあ蓄音機の針を吹っ飛ばすわけにもいきませんから、この辺がSPの限界と諦めるしかないでしょう。
 演奏は、指揮者の個性を反映して非常に濃厚なハイドンに仕上がっています。

・ニコライ「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
 音質は良好、ダイナミックレンジもよく捉えられています。
 上記「驚愕」同様、良く言えば濃厚な、悪く言えばしつこい曲作りになっています。

・シューマン「マンフレッド」序曲
 前半は音質・演奏とも良好で、これは、と思わせられますが、後半になると変な「ジャリッ」というノイズが一瞬入って興ざめです。
 演奏も後半は緊張が続かない様子で、教科書通りの演奏になってしまいます。
 この曲はDGからライブが出ていますが、比べてしまうと、いかにもSP用の吹き込み(特に後半)という印象です。

・スメタナ「交響詩『モルダウ』」
 音質は非常に良好です。弦楽器の弱音の美しさなど、SP用録音とは信じられないくらいです。
 演奏は、ロースピードで開始し、再現部では同じ旋律を高速で飛ばすフルトヴェングラー流の「仕掛け」が効いています。

SP録音は、ついに次の1枚の前半、ピアノ協奏曲「皇帝」で終わりです。
後半のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲からやっとLP録音に突入です。

857名無しの笛の踊り2021/10/28(木) 19:18:28.10ID:Uhkjlg9X>>858
55枚組のうち、CD27を聞きました。

・ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番『皇帝』」 独奏フィッシャー
 SP録音とはいえ、フルトヴェングラーの最後のSP録音だけあって、音質は良好です。
 演奏も、フィッシャーのピアノ共々、「皇帝」はこうあってほしい、という模範的な演奏です。

・メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」 独奏メニューイン
 ようやくLP時代に入りました。音のバランスは曲が曲だけに、高音中心のリマスターです。
 (もしかしてこの55枚組のLP音源全部が高音中心で低音が効いていなかったら嫌だなぁ。嫌な予感がする…)
 演奏は上記「皇帝」と同じことが言えます。
 メニューインはテクニシャンではありませんが、これは技術的難曲ではないので、そこは無難にこなしています。

次はいよいよ「バイロイトの第9」です。従来盤になかった楽章間のインターバルも収録されていますが、さてどうなっているのやら。

858名無しの笛の踊り2021/10/28(木) 19:45:03.08ID:NHT1wDRT
>>857
>従来盤になかった楽章間のインターバルも収録されています

え、そうなんですか 知らなかったです
手持ちのCDで確認すると、初期のCDC規格(CDC-7470812)は、
楽章のインターバルは、すべてカットされていますが、
2010年リマスターだと、1楽章と2楽章のインターバルのみ、
ざわざわと会場ノイズが収録されていますね
最新リマスタにおける、楽章間のノイズが気になります
BIS盤との比較が待ち遠しいです

878名無しの笛の踊り2021/10/29(金) 21:13:07.23ID:scgQspub
55枚組のうち、CD28を聞きました。「バイロイトの第9」です。

音質は、この盤に限って言えば、良好です。もっと低音を効かせる手もあるでしょうがこれで十分通用します。
盤によっては第一楽章再現部のティンパニ乱打の音量が絞られていたり「歓喜の歌」のリフレインの合唱が弱かったりしますが、
当盤ではそんなことはありませんでした。
演奏は、音楽そのものに限って言えば、もう私が云々することなど残っていません。

ただこの録音には、音質、演奏の他に「編集」という問題が存在します。
編集について当盤にかなりの疑問を感じたので、ヘッドホンでもう一度聞き直し、頭の中身もちょっと整理してみます。

それは次回(明日?)投稿にて、ということで。


885名無しの笛の踊り2021/10/30(土) 06:44:07.29ID:YqMLRrCt>>891
>>802
ベートーヴェン4番第1楽章の編集ミスは?


8918022021/10/30(土) 20:19:38.26ID:pjTxF/u8
>>885
そう言われてあれこれ調べて編集ミスの箇所を突き止め、読めもしない楽譜を睨みながら、改めてCD23を聞きました。
結論は「直っていない」でした。音符・休符が欠落して、つんのめるように音楽が進行します。
リマスター技師が、その箇所(第1楽章141小節、143小節)に欠落がある、という事実自体を知らなかったのでしょうか?
金属原盤から起こすのをさぼって従来のLP用テープを使ったのでしょうか?それとも金属原盤は廃棄済みでやむを得ないのでしょうか?
なお、ターラから出たウィーンフィルセットの中のFURT1085に収録のこの演奏は、問題の箇所が直っています。

それはさておき、CD28(バイロイトの第9)をヘッドホンで聞き直しました。編集に疑問を感じたためです。

疑問点は、まずこの演奏が本番でなくゲネプロだと仮定した場合、
・少数の関係者以外立ち会わなかったはずのゲネプロで、冒頭にあれほど盛大な拍手が入っているのはなぜか?
 →私の仮説:冒頭の盛大な拍手は後から貼りつけた。途中で拍手の質が変わっている所がある。

・終演後の盛大な拍手は小人数では出せないのではないか?
 →私の仮説:終演後の拍手も貼り付けである。ヘッドホンだと明らかに切り継ぎの痕跡が聞こえるし、あんな終演をやられたら聴衆は一瞬あっけにとられ、おもむろに拍手が起こるはずである。

・そういう切り貼りをやったというなら、何を置いても直すべき最後の一音のズレが直っていないのはなぜか?
 私の仮説:当時の切り貼り技術では、曲の途中で切り貼りをするのは至難の業だったので、音楽演奏自体は切り貼りしていない。
(次レスに続く)

892名無しの笛の踊り2021/10/30(土) 20:20:52.09ID:pjTxF/u8
(前レスより続く)
この演奏が本番だと仮定した場合の疑問点。
・冒頭、指揮者が楽員と何か話しているが、これは本番としては不自然ではないか?
 →私の仮説:この演奏はゲネプロであり、冒頭の拍手の終わりごろ、本番からゲネプロに切り変わる。あの会話はゲネプロ時のものである。

・このたび収録された楽章間の聴衆ノイズ(咳払い)は、満員のバイロイト会場のものとしては小さすぎるのではないか?
 →私の仮説:あの楽章間のインターバルはゲネプロのものであり、咳払いが少ないのは現場に少数の関係者しかいないためである。

・この演奏が本番ならば、センター盤等で出た別テイクがゲネプロということになるが、最後の一音をゲネプロで成功し、本番でミスするだろうか?
 →私の仮説:この演奏はゲネプロであり、別テイクの方が本番である。

要するに、私は本盤の演奏はゲネプロだと考えています。真相のかなりの部分は12月中旬に出るスウェーデン盤で明らかになるでしょう。

さあ、ようやく折り返し点を通過しました。
次はDGに吹き込んだシューベルトのグレートと… 私があまり好きではない「あの曲」です。少し時間がかかるかもしれません。


903名無しの笛の踊り2021/10/31(日) 19:13:55.60ID:5gPbbBIO>>904

55枚組のうち、CD29と30を聞きました。
・シューベルト「交響曲第9(?)番『グレート』」
 DGから提供された音源ということになりますが、どういう形で音源が提供されたのか分かりません。
 シーッ、というテープヒスノイズのようにもLPレコードの針音のようにも聞こえる音が持続しますが、鑑賞の邪魔にはなりません。
 演奏は、戦中のライブと違ってフルトヴェングラーにしてはじっくりと造形に取り組んだ演奏です。

・フルトヴェングラー「交響曲第2番」
 ヒスノイズ(?)はグレートよりずっとましで、音質良好の部類に属します。
 まあヘッドホンで聞けば本家DG盤には敵わないのかもしれませんが。
 演奏は、レコード録音だけに、さほど劇的な表現をしていません。そして、それが必ずしも吉と出ていない所が問題です。
 そもそも彼は作曲家としては、主題の性格を書き分けるのが上手いとは思えません。第1主題提示部も第2主題提示部も展開部も似たり寄ったりです。
 そういう曲からライブで聞ける派手なフルトヴェングラー節を取り除いてしまったら、欠点が目立つだけでしょう。

・ハイドン「交響曲第88番」
 音質はやはり良好です。
 演奏も、ハイドンが極めて古典的に作っている曲だけに、フルトヴェングラーも変な緩急を付けることは無く、それが今度は吉と出た印象です。

次はブリュンヒルデの自己犠牲のLP用再録音とマーラーの歌曲です。今回のような難行苦行にはならずに聞けそうです。

906 2021/11/01(月) 19:37:04.39ID:/Ak7yX8y

55枚組のうち、CD31を聞きました。

・ワーグナー「神々の黄昏」より ブリュンヒルデの自己犠牲
 音質はLP時代のワーナー自社音源、それも指揮者がロンドンに出向いての録音テープ由来とあって、良好です。
 演奏も、フラグスタートは声の力で聞かせるよりも絶妙な技の力で聞かせる感じで、SP盤よりも深みのある劇的表現です。

・マーラー「さすらう若人の歌」
 この曲、さすらう若人の歌というのは誤訳で、「遍歴職人の歌」です。既に指摘されていますし、私のつたないドイツ語力でも分かります。
 まあ遍歴職人なら若いし、さすらってもいるから、100%の誤訳ではないかもしれませんが、若い金持ちの暇な旅人と思われると困ります。
 音質は上記同様、良好です。
 演奏もフィーッシャー=ディースカウが既に絶妙の技を聞かせ、マーラーが苦手だった指揮者もフィルハーモニア管を率いて好演しています。

次の一枚はベートヴェンの1番、6番です。低音が効いていればいいのですが、上の方の書き込みでは、駄目だってさ…

917名無しの笛の踊り2021/11/02(火) 20:09:51.45ID:vsQGvSTS

55枚組のうち、CD32を聞きました。

・ベートーヴェン「交響曲第1番」
 音質は、この曲をリマスターするなら十分通用します。
 演奏はいつものフルトヴェングラー流で、軽く演奏されがちなこの曲が非常に重厚な造りに仕上がっています。

・ベートーヴェン「交響曲第6番『田園』」
 これは音質がややまずい。上の方でご指摘がありましたが、低音が効いていません。(SP時代の7番よりは少しマシ。)
 フルトヴェングラーがベートーヴェンの大交響曲を演奏したなら、音はコントラバスがググーッと盛大に鳴らないと本来の味が出ません。
 演奏は、全体としては指揮者の言いたいことは分かるのですが、肝心のバスが効いていないため、ただの間延びした「田園」に聞こえる箇所があります。
 やはり、低音に支えられての本演奏だった、と分かる一枚です。(情けないなぁ…)

次はLPのエロイカです。これも葬送行進曲はバスに支えられていないと困るんですがねぇ。

920名無しの笛の踊り2021/11/03(水) 18:58:25.81ID:Sz96BrC3>>921

55枚組のうち、CD33、ベートーヴェンの「交響曲第3番『英雄』」を聞きました。

音質は、相変わらず低音が効いていません。
頭にきたので、私の安物アンプの安物簡易イコライザーでバスのつまみをプラスにぐいっと上げてもう一度聞き直しました。
驚きました。別の演奏ではないかと疑うような効果が出ました。
コントラバスが全演奏を支えているし、柔らかい撥で重く打ったティンパニも効果抜群です。
この「英雄」は名演ですが、それも音のバランスに支えられてのことだ、と認識させられました。

次の一枚はベートヴェン4番のLP再録音とワーグナーのタンホイザー序曲です。
まあ曲の性格から言って、低音を持ち上げなくてもそれなりの効果は期待できるでしょう。


935名無しの笛の踊り2021/11/04(木) 18:55:37.53ID:ujcMbkhJ

55枚組のうち、CD34を聞きました。

・ベートーヴェン「交響曲第4番」
 音質は予想した通り、低音の弱さが気になる曲ではありませんでした。
 演奏は、第2〜4楽章はSP録音と大差ありません。
 しかし第1楽章がSP盤に比べて驚くほど生気あふれる演奏になっています。あえて優劣を付けるなら、こちらのLP録音が良いでしょう。

・ワーグナー「タンホイザー」より 序曲
 音質は上に同じく、問題ありません。
 演奏は、SP盤でヴェーヌス賛歌の旋律に絡む弦楽器のシャカシャカシャカシャカがほとんど聞こえませんでしたが、大分改善されました。
 本音を言えばもっともっと盛大に鳴ってほしかったのですが、私の安物スピーカーではこれが我慢のしどころでしょう。

次はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、メニューインとのコンビでの再録音がメインです。これも低音の効きはさして必要ないでしょう。

938名無しの笛の踊り2021/11/05(金) 19:53:39.14ID:+0xtcB2a>>939>>942
55枚組のうち、CD35を聞きました。

・ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」 独奏 メニューイン
 音質は思っていた通り、低音の効きの悪さが問題になる曲目ではありませんでした。
 演奏は、SP録音と比べると独奏者、指揮者とも演奏の自由度が上がり、どちらを取るかということになれば、やはりこちらでしょう。

・ベートーヴェン「ロマンス」第1番、第2番 独奏 メニューイン
 音質は大変に良好です。
 演奏は… メニューインがいかに技術で聞かせる人ではないといっても、物事には限度というものがあります。
 何か、メニューインが風邪で倒れ、隣家のおっさんがバイオリンを趣味で弾く人だから連れてきて弾かせた、とでも言うような…

次はDGのシューマン4番、デッカのフランク交響曲と、借り物づくしです。どんな音になっているのやら。

954名無しの笛の踊り2021/11/06(土) 21:18:53.79ID:MytvCiJ6

55枚組のうち、CD36を聞きました。

・シューマン「交響曲第4番」
 DGから提供された音源、ということになりますが、どういう形で提供されたのかは分かりません。
 盤面ノイズにもテープヒスにも聞こえる「サーッ」というノイズが持続しますが、気にはなりません。
 演奏は、指揮者の個性と曲の相性がぴたりと合った名演だと思います。

・フランク「交響曲ニ短調」
 こちらはデッカから提供された音源ですが、音質はノイズもほとんどなく、上記シューマン4番より良好です。
 演奏は、フルトヴェングラーが音楽を丁寧に作り込んでいるのは分かります。
 しかしそれが必ずしも良い結果をもたらさず、ことに長大な第1楽章はちょっと“持たない”感じです。
 この曲には戦争中のライブ録音も残っていますが、勢いで聞かせるそちらのライブと比べてしまうと、どうしても見劣りがします。

次はバルトークのヴァイオリン協奏曲です。この演奏も聞いたことはあるのですが、久しぶりに新リマスターでまた聞いてみます。

974名無しの笛の踊り2021/11/07(日) 18:52:40.68ID:qLoXvACT

55枚組のうち、CD37、バルトーク「ヴァイオリン協奏曲第2番」を聞きました。

音質は非常に良好です。
演奏は、独奏のメニューインが出だしでやや音が不安定になる所もありますが、この難曲を良く弾きこなしています。
フルトヴェングラーの棒も、昔取った杵柄で(?)、好調に独奏者を支えています。

さて、次はLP再録音、指揮者の没後発売となったベートーヴェンの5番です。これはバスが聞こえてこないとまずいなぁ。


983名無しの笛の踊り2021/11/08(月) 19:11:31.51ID:nX8sEV/f

55枚組のうち、CD38、ベートーヴェン「交響曲第5番」を聞きました。

音質は全然ダメです。コントラバスが全く聞こえてこない。まるでSP録音の運命のような音がします。
私の安アンプの低音のツマミをプラスに回してもう一度聞きました。従来盤で聞けた、あの重厚な音楽が聞こえてきました。
演奏についての新しい発見は、全体の尺は長くなっているものの、解釈自体は'37年録音の運命と以外に共通性が高いことです。
低音を持ち上げずにバス、ティンパニ無しで演奏しているような本盤の音で聞くと、やはり同じ指揮者の演奏だと強く感じます。
これはバスとティンパニの効いた従来盤では分からなかった、新しい発見でした。

次はワーグナーの小品集、R.シュトラウス、リストの交響詩です。今回のように運命を2度聞くよりも楽に聞けるでしょう。

991名無しの笛の踊り2021/11/09(火) 20:00:19.05ID:ezN4gyUV

55枚組のうち、CD39を聞きました。

・ワーグナー「ジークフリートの葬送行進曲」
 SPで既に録音していた曲のLP用再録音ですが、音質はLP用とあって非常に良好です。
 演奏も、SP録音より自由で劇的な表現が豊かになりました。商業用録音としてはフルトヴェングラーの決定版でしょう。
 ただ、DGから出ているライブと比較すると、冒頭のティンパニのピアニシモの表現など、DG盤を好む人もいるかもしれません。

・ワーグナー「ジークフリートのラインへの旅」
 これもLPへの再録音で、音質は良好です。
 演奏は、SP盤に比べて大きな違いはありませんが、やはり表現の幅が増し、恰幅がいい演奏になりました。

・リヒャルト・シュトラウス「ドン・フアン」
 やはりLP向け再録音で音は見違えるように良くなりました。
 演奏も、モノラルであることを我慢すれば十分現代に通用する名演です。

・リヒャルト・シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
 これまたLP向け再録音、音は大変良好です。
 フルトヴェングラーの「ティル」はライブも含めて何種類かありますが、この正規録音が一番の好演です。
 いくらステレオが発達したとはいえ、この演奏を超える「ティル」はそうそう出てこないでしょう。

・リスト「交響詩『前奏曲』」
 音質はこの曲でも大変に良好です。55枚組には珍しく(?)「当たり」の1枚となりました。
 演奏もこの曲の劇的性格を見事に表現し切っている名演です。
 リストの本曲はナチス時代に宣伝に利用されたため、戦後西ドイツでは鑑賞が暗黙のタブーとなっていました。
 フルトヴェングラーのこの1枚の発売でリストのこの曲の鑑賞も復権を果たした、といういわくつきの1枚です。

さて、次は諸作曲家の序曲集です。これも肩が凝らずに聞けそうです。

999名無しの笛の踊り2021/11/10(水) 20:10:07.03ID:2B9vbV7Z

55枚組のうち、CD40を聞きました。フルトヴェングラー最晩年の録音になります。

・ワーグナー「ローエングリン」第1幕への前奏曲
 LPへの再録音で、音質から言えば本盤の方が格段に優れています。
 演奏は、基本的にSP録音から大きな変化はありません。
 しとやかな音の名演なので、どちらかを取るなら当然、本盤でしょう。

・ウェーバー「魔弾の射手」序曲
 この55枚セットではSP2種に次いで3回目のお目見えですが、唯一のLP録音なので当然音質は本盤が最高レベルです。
 演奏なのですが、こんなにテンポが遅い「魔弾の射手」序曲にする必要があったでしょうか?
 一応、音の良さにも支えられて名演の部類に属するとは言えます。
 しかし、55枚組をここまで聞いてきて私が好む演奏は第2回SP録音のCD4の演奏です。音質も含めた総合点では判断に迷います。

・ウェーバー「オイリアンテ」序曲
 音質はやはり非常に良好です。
 ゆっくり目の演奏ではありますが、上記「魔弾の射手」序曲のように遅すぎはせず、文句なしに名演です。

(次レスへ続く)

1000名無しの笛の踊り2021/11/10(水) 20:10:42.84ID:2B9vbV7Z
(>>999より続く)
・グルック「アルチェステ」序曲
 これもCD11にあるのテレフンケンへのSP録音のLP用再録音です。CD11が借り物音源ということもあり、音質では勝負になりません。
 演奏は、本盤は曲の悲劇性をたっぷりと聞かせる名演であり、音質とも相まって本番が決定盤でしょう。
 ただ、テレフンケン録音も若きフルトヴェングラーならではの疾走感があり、独自の良さを持っています。

・グルック「アウリスのイフィゲニエ」序曲
 音質はフルトヴェングラー再後期の録音とあって、これも良好です。
 演奏も、悪くはないどころか悲劇的な名演に属すると思いますが、やはりもう少しテンポを速くできなかったか、という思いが残ります。

・ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第2番
 55枚組のリマスターだから、また低音が効かずに白けたベートーヴェンになるのかな、と思いの外、低音の効いた上々のリマスターです。
 この企画の技術陣もやればできる、ということなのか、フルトヴェングラー最晩年ではマイクの特性が変わったのか、原因不明です。
 演奏は、これだけを取り上げれば名演に属しますが、ライブと比べてしまうと迫力不足なのは仕方ないでしょう。

さあ、次は「マタイ受難曲」3枚組を聞かなければならないのか… ちょっと時間を頂くかもしれません。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1620879500/


▲△▽▼


■■■フルトヴェングラー34■■■
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1636491451/

6名無しの笛の踊り2021/11/10(水) 20:24:42.02ID:RBXXznWn>>10
前スレ
>>1000
>次は「マタイ受難曲」3枚組を聞かなければならないのか

これは、なにげにビックリの情報
95年に発売されたEMIの正規盤はCD2枚だった
そのため、収録時間の関係で2曲(第65曲、第66曲)がカットされた、
しかしながら、一方でCETRA系の音源にはこの2曲は収録され、
かわりに、第64曲がカットされていたのはご存じの通り

今回、EMIは3枚セットにすることで、
このカット(第64〜66曲)を完全収録、やっと
正規盤で全曲が聴けることになったわけだ

こんなことで、いちいち喜ぶマニアは少ないと思うが、
私には小さな驚きだった 情報ありがとう

10名無しの笛の踊り2021/11/11(木) 08:52:51.28ID:xCzof26U>>18
>>6 
解説書によると、4日分のライブ録音のテープがEMIに保管されていて、今回新たに編集したらしい。4回分のテープがあったのに初出の際に何故その2曲をカットしたのかは謎だな。


18名無しの笛の踊り2021/11/12(金) 07:32:55.46ID:lNvTka0b
>>10
CD2枚に収めるため

24名無しの笛の踊り2021/11/12(金) 19:47:28.22ID:a4x564AA>>25>>26

55枚組のうち、CD41〜43、バッハ「マタイ受難曲」を聞きました。

音質はあまり良くありません。
開始早々、テープの状態があまり良くないことに気づきます。
バランスも、合唱とオケとオルガンがマイクに入ってこない一方、ソロとチェンバロはうるさすぎ、ことにソロは時々音が割れます。
演奏も、通り一遍、通しでやってみました、という程度で、これなら何もフルトヴェングラーが振る必要はありません。
編成についても問題があります。
リヒター盤ではあれだけ盛大に聞こえたオルガンが、本盤ではほとんど申し訳程度しか聞こえません。
なぜなのか、色々調べてみたら、この曲は本来オルガンが2台必要なようです。
ブックレットを見ると、本盤はウィーン・コンツェルトハウスの大ホールで収録されたライブです。
おそらくホールにオルガンが1台しか無かったのでしょう、2台目のオルガンをチェンバロに替えて演奏した結果が本演奏と思われます。

次は「トリスタンとイゾルデ」の4枚組です。これを聞かなきゃならないのか。かなりの難行苦行なので、また少し時間を頂くかもしれません。

26名無しの笛の踊り2021/11/12(金) 20:00:40.95ID:lNvTka0b>>39>>40
>>24
ほんと、対訳みながら聴いた?

流しただけダロ

この人のやり口には、常に中身のなさがある。
自分の主張をするために、聴いたふりをする。

違っていたら、ゴメン。そういう風にとられるかも知れないから、気をつけて。


39242021/11/14(日) 19:16:30.44ID:mCSHZoqj
>>26
私は、対訳を見ながら聞く聞き方と、対訳を見ずに聞く聞き方を、併用しています。

対訳を見ながら聞くと、歌詞の内容は頭に入ってきますが、音楽の緩急や強弱の表現法が耳に入って来ないのが欠点です。
対訳を見ずに聞くと、音楽性は聞こえてきますが、何を言っているか分からないのが欠点です。

ベートーヴェンの9番のように歌詞を暗記するほど聞き、何を言っているのか分からない所が無い曲は、対訳を見ません。
同様に、何度か対訳を見ながら聞いて、「どこで何を言っているのかほぼ分かっている」曲も対訳を見ません。
また、一度対訳を見ながら聞いて、次に聞くときはもっぱら音楽の表現法を耳に入れたいときも、対訳は邪魔になるので見ません。

これに対し、初めてその曲を聞くときは、必ず対訳を見ます。さもないと何やら声がうねっているだけだからです。
2回目、3回目のように、どこで何を言っているのかまだ呑み込めていないときも、対訳を見ながら聞きます。
久しぶりで聞く曲で、そろそろ何を言っているか忘れかけているときも、対訳を見るようにしています。
(次レスに続く)

40242021/11/14(日) 19:17:49.78ID:mCSHZoqj>>46
>>39より続く)
>>26
前回の「マタイ受難曲」は、ご指摘の通り対訳を見ずに聞きました。
しかしそれは「流しただけ」ではなく、リヒター盤やガーディナー盤を何度も聞いて、どこで何を言っているのか、大体頭に入っているからです。
(話が横にそれますが、私はマタイ受難曲の歌詞があまり好きではありません。内容が反ユダヤ的だからです。)

今、邪道ではありますが、「トリスタンとイゾルデ」を短時間ブツ切りで、対訳(従来盤の付属リブレット)を見ながら聞き進めています。
対訳を見ながら聞いた後、対訳を見ずにもう一度聞くつもりなので、もうしばらく時間を頂きます。
こう何枚も聞くといい加減、耳も頭も疲れてはいますが、決して「聞いたふりを」している訳ではありません。

また、「中身が無い」とのご指摘ですが、そのようなご指摘をこうむる主因は、私の筆力の無さにある、と思っています。
もっと筆力のある方の感想レスを、私自身が首を長くして待っているところです。
「自分の主張をするために」とのご指摘ですが、私は過去、フルトヴェングラースレの書き込みには大変お世話になりました。
その恩返しのつもりで、「まかり出た未熟者が聞く所では、・・・・、という感想です。」と、あくまで感想の一つを恥を忍んで提示しているに過ぎません。
コテハンを付けないのも、単に一つの感想を述べているに過ぎない、という自覚があるからです。
誤解を受けないよう、お言葉に従って気を付けますが、何分にも口下手者の筆下手者ですので、言い過ぎたり言い足りない点は何分のご容赦を願います。

41名無しの笛の踊り2021/11/14(日) 21:06:09.87ID:39hyZ2M4

今回の55枚組は脚色なしでSP盤&テープを起こした
日本のマニア向けの企画だと思う。
あとで脚色したい人は、これを元にどうぞというスタンス。

47名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 19:12:55.05ID:0i1GND6U

音質評価をするのにシステム構成を晒さないのは不平等。
モノラル録音は相性の問題が付き纏うので客観性が担保できず
ほとんどと言っていいほど参考にならない。

48名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 19:23:57.42ID:+T6u8HVw

半分正解
でもこの手のレスする人はシステムを晒すと
その程度のでは〜最低限これくらいは〜ってマウント取りたいだけ
相手にしなくていいと思う

50名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 20:57:50.27ID:0i1GND6U

一番良いのはクラングフィルム、ジーメンスの系列だが
30cm以上のワイドレンジユニットは希少で
普通の人が買える値段ではない。

よくタンノイを推す人が多いけど
相性が良いのは1950年以降のスタジオ録音で
55枚組のようなSP盤復刻は雑味が目立つ。
B&Wは高域がスレンダーでいい印象はない。

ドイツ系の現役ではmusikelectronic geithainだろうが
はたしてフルヴェンを聞くため買うかというと疑問が残る。
やや似た音調でDynaudioのプロ用もあるが中域がマットなので
古い録音はくすんで奥に引っ込む傾向がある。

意外にJBL 4312Gは中域の吹き上がりが良くて
値段も手頃でオールマイティかもしれない。

51名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 21:30:36.51ID:0i1GND6U

あとフルヴェン時代のHMV電蓄は楕円フルレンジ+コーンツイーターで
デッカのデコラ電蓄やEMIのブックシェルフ型スピーカーにも使われている。
1960年前後はイギリスは超インフレでSP盤もまだ聞かれていたため
QUADのトランジスタアンプでもSP盤用のフィルターが装備されてた。

似たようなテイストでは独イゾフォンがあって
Orchesterはドイツ放送協会の標準モニターだった。
ただ中域が大人しい感じの何の変哲もない音なので
EL34あたりでキリっと鳴らさないと良さが判りにくいと思う。

ヴィンテージ物でも適度にグレードを合わせると
録音年代を気にせず楽しめると思う。

52名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 21:58:43.51ID:muJxDmqA>>56

BBCのLS3/5a を想像したのですけどね。
ブラッシュアップされた物がいいな、と思いつつNHKもスピーカー作ったなら外販してくれたらいいのに、と。
https://www.nhk.or.jp/strl/publica/giken_dayori/184/2.html

53名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 23:49:02.50ID:O5jUk/Hb

連投オッサンは単なるオーディオヲタのようだな

54名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 02:31:12.93ID:VKpf5V5C

単なるオーディオヲタで片付けられない深いこころざしを感じるよ。
文章技巧はお世辞にもほめられない劣悪ぶりだが、
生演奏、それを多くの人に届けようとした技術者の心、
放送や録音の技術に込められた理想と現実のせめぎあい、
それを再生するにあたって、
生演奏を聴けた幸せな聴衆に負けない感動をどうやって届けようとしているか、
また時間的に離れた現在、
提示されたデジタルデータの質を見定めて
当時と今をつなぐ手だてに想いを馳せる、
などなど、かなり熱気のこもった取り組みで良く調べていると感心しているよ。

56名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 06:03:28.29ID:CxWJb1BM
>>52
1970年代のBBCモニター系は
パルス波をスレンダーに出すよう開発された最初のスピーカーで
ステレオでのサウンドステージが出現するようになった。

ただフルヴェンの録音は中高域のノイズが多くて雑味が増すのと
ネットワーク回路が重くて躍動感が抑え気味で進行する傾向がある。
この後に続くB&W、セレッション、AEなどの英国勢は
デジタル時代のサウンドステージを良く再現するが
似たような傾向がある。

57名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 06:31:30.17ID:CxWJb1BM

あとFostex とNHKの共研がまだ続いていたことに驚いたけど
指向性がニュートラルで音圧が高いのが、まじめに造った証拠かと。
同じことはmusikelectronic geithainでも言えると思う。

この手のものはマイクの特性に近い音響特性になる一方
ITU-R BS.1116-3規格は部屋の音響を含めたもので
普通の部屋だと反射音や縮退など新たな課題が出る。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasj/72/7/72_398/_pdf


58名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 07:04:38.02ID:CxWJb1BM

あと貧乏性でモノラル始めたい人は
ギターアンプ用12インチ+指向性の広いツイーターを
後面解放箱に入れて鳴らすのをお勧めする。

自分はJensen C12R+Fostex FT28Dを
チャンデバ+マルチ駆動(ステレオプリメインをそのまま使用)
ギターアンプ用は曲がりなりにもプロ用ユニットなので
フルヴェンも腰を振ろ振り生き生き鳴るよ〜ん。


62名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 10:58:26.24ID:gKmPLGLh
ジャケット考えなければ、ワーナー55枚組より、グラモフォンの35枚組箱が良いかも

63名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 13:40:12.66ID:oaQKovf3
そこで107CDですよ!

64名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 15:07:29.25ID:d0ivJy5c

107CD は高音質なイメージが全くない。
持ってない録音を集める手間が省けたのはいいんだけど。

65名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 21:01:53.25ID:CxWJb1BM

古い録音だからとCDプレーヤーをケチると
色々と苦労してたことが空回りしてたことにガッカリすることになる。

私も今年になってラックスマン D-03Xを購入したが
(自慢するほど高価なものでもないが)
音の安定性というか、中域の見通しの良さが抜群で
放送録音のトゥッティでも低弦などが団子にならず
躍動感が維持できてる点に大変重宝している。

例えば晩年のBPOとの運命&田園などは
低弦のリズムが少しルーズに流れるのだけれど
大河の本流のような大きなうねりに対し
水面の照り返しや風のざわめきが加わるような
絶妙な響きのブレンドが重層的に広がっていく。

あと憑りつかれたようなドライヴ感がないかわりに
団員の表現意欲が浮き彫りになって
リズムの遅さが気にならない。
ミケランジェロのダビデ像がどこまで拡大しても
何かしら絵になるような感覚と似ている。
これが晩年の衰えのように言われてきたのが
少し残念な感じだ。

67名無しの笛の踊り2021/11/17(水) 05:28:25.23ID:XvwKolfa

モノラル・システムは周波数特性の最適化というのも重要で
良質なヴィンテージ・アンプを聞いたときの
フォルティッシモでの吹き上がりも確保しつつ
「ほっこりした感じ」を出すのが案外難しい。

だったらヴィンテージ物をせしめれば良いと思いがちだが
意外に安定度が悪く、安物を掴むと毎日コロコロ印象が変わる。
スピーカーとの相性も選り好みするので
昔から「黄金の組みあわせ」なんてものもある。

もうひとつの問題はCDプレーヤーとの相性の悪さで
CDPのバッファーアンプがチープなものが多いので
要らない高周波を拾って、ささくれたような音になりやすい。

私自身はサンスイトランス ST-17Aという現在も製造中の
ラジオ用段間トランスを使って音質を整えている。
ラジオ音声域の外は数dBラウンドするポンコツ仕様だが
20〜20,000kHzはちゃんと通しているし
磁気飽和で高次倍音を出すのでキャラメル色の艶がでる。


82名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 19:03:36.20ID:URqfu33I

55枚組のうち、CD44〜47、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」を、ようやく聞き終えました。

音質は、従来盤がまろやかでよく練れていたりマスターだったのに対し、本盤はざらざらして荒っぽい音のリマスターです。
演奏は、これは戦後のフルトヴェングラーのレコード録音にありがちなことなのですが、丁寧な音楽作りを目指すあまり劇的な迫力が死んでいる感じです。
本曲では第一幕全部と第二幕冒頭が欠落したこの指揮者のライブ録音が残っていますが、聞き比べると一目瞭然です。
第三幕前奏曲のイングリッシュホルンは本盤が絶品ですが、これはウィーンフィルの手柄でしょう。

さて、今度は「フィデリオ」2枚組です。これはトリスタンほど時間を取られないで済みそうです。

83名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 19:51:14.97ID:zg7N7Y2R
> ウィーンフィルの手柄でしょう

84名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 19:57:29.62ID:8twrX6ku
もはや投了マジか
折角の55枚も形無し
似非オーヲタは去って良し

86名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 20:45:46.53ID:8twrX6ku
デニスか…ウラッハか…ゴールドベルクか…みんな名手だった。

87名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 20:51:53.02ID:bEQ00mZH>>91

ウィーンフィルとの勘違いはともかく
>イングリッシュホルンは本盤が絶品ですが
と聴き惚れたくらいだから、デニス・ブレインなのかな
そちらの方が気になる
久々に新箱を掘り出して聴いてみようかな

88名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 22:13:50.61ID:6xvaevPM

ウイーンフィルとフィルハーモニーは全くの別物。

ベートーベンの第九でも、全く違った演奏になる。フルトヴェングラーでもオケ体質は変えられない。定期?の九番と、ルツェルンの九番。

スタジオトリスタンは、フィルハーモニーのくせが如実に出た演奏。
ライブのトリスタンの演奏は、旧ベルリンドイツ語オペラのオケのノリの演奏。

カラヤンの薔薇でも、ウイーンとフィルハーモニーは全く違う。ウイーンのは、濃厚アイス、フィルハーモニーのは、シヤーベットがかっている。

89名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 23:18:41.33ID:KeRbQTZT
フルトヴェングラーとウィーンフィルでいい演奏ってウラニアのエロイカとモルダウくらいで、次がチャイコの4番な気がしている。

90名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 23:49:16.36ID:BlYDwphk
フィルハーモニア管弦楽団の演奏をウィーンフィルとかフィルハーモニーとか低能バカ過ぎだろw

91名無しの笛の踊り2021/11/19(金) 00:02:10.93ID:WWrPkwOB
>>87
イングリッシュホルンはオーボエの仲間の木管楽器なのだが、、、、。
デニス・ブレインは金管楽器のホルン奏者だからイングリッシュホルンを演奏するわけねぇ〜だろ。

93名無しの笛の踊り2021/11/19(金) 06:02:55.29ID:fljhbMS6

フィルハーモニア管は結構リーマン的にちゃんと仕事をしてくれる。
ライヴ録音を聞けば判るが、自主管理団体になったあと
クレンペラーやストコフスキーなど変態扱いされるマエストロ相手に
全くレコーディングと同じような精緻な演奏をしている。
ウィーンフィルはその点、すごく気まぐれなんだよね。

94名無しの笛の踊り2021/11/19(金) 08:00:20.45ID:t/96PsE6

フィルハーモニア管ってそんなにいいか?
カラヤンカンテッリトスカニーニみたいなキビキビしたのとは相性がよかったけど
クレンペラーもストコフスキーもコンセルトヘボウやチェコフィルなんかの本場の伝統あるオケを振った時の深刻さがなく軽薄に聴こえる
ルツェルンの第九もそう
トリスタンだけは変に暗くないおかげで作品世界と調和した名盤なったと思うが

107822021/11/19(金) 18:53:30.20ID:bvVtbXf9>>109>>113
>>83,他

ご指摘の通り「ウィーンフィル」ではなく「フィルハーモニア管」が正しいです。
40枚以上も毎日ぶっ続けで聞いているので、耳も頭もクタクタ、うっかりしました。

まあ、オケが違うとか、歌手が違うとか、指揮者が違うとか、細かいことは勘弁して下さい(゚∀。)

目下、「フィデリオ」を鋭意聞いております。こちらは正真正銘、ウィーンフィルです。もう少し時間を頂きます。

115名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 06:19:24.87ID:dJoBuEne
リマスターによる音質の優越に関する話題は
没後50年以降20年近く経ってほぼ出きってるんだよ。
正直、LP板起こしの話が終わっただけでも感謝してる。


116名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 06:46:48.53ID:dJoBuEne

少し気になるのがキングレコードの存在で
米M&Aは斬り捨てたとして
チェトラとターラの音源が並走してたり
アルタスと平林がスタジオで巣食っていたり
アーカイヴを一貫して管理する気配が微塵もない。

最もORFやベルリンフィルがアーカイヴの保存に走ったのも
やはり没後50年以降のことなので
キングレコードのものはそれ以前の音源蒐集となる。

切り口として考えられるのは
フルヴェンの複製テープのコネクションのようなもので
放送局間のルートから個人蔵のものまで
レコード出版史とは異なる形でちゃんと解明してほしい。

117名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 07:10:21.16ID:dJoBuEne

複製テープというのはすごく厄介なもので
例えば今回のBISのバイロイトのように
表向きは何も判らないで死蔵しているケースもある。
さらに保存のコンディションとまでいくと
磁気劣化に加え伸びや縮れなどきりがない。

だから初盤LPが最高なのだという言い分もあったのだが
フルヴェンの場合、オリジナルテープに自由に触れられたのは
1970年以前のことのような感じがする。
その時点でのフルヴェンのレコードは今の1割程か。

おそらく1968年のEMI系ユニコーン・レーベルの発足が
有象無象の録音を公開したと同時に訴訟問題をチラつかせたため
放送局側の沈黙とアングラ化を引き起こしたように推測するが
レコード出版以前にオルセン目録のようなものも存在していた。
実はその演奏がフルヴェンか偽物かさえ不透明だったのだ。


118名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 07:35:37.96ID:dJoBuEne

もうひとつの課題が、ステレオ全盛期だった1970年代に
なぜここまでフルヴェンの演奏が人々を熱狂させたかだ。
個人的には古ぼけた電蓄やラジオからでも判りやすい
音の起伏が激しい演奏という感想にいたっている。
それがどのようなオーディオ装置でも確認できる真実だと。

逆に言えば、宇野氏の嫌った音楽家、ポリーニやカラヤンなどが
いかにオーディオ装置の品質を選ぶかという問題に突き当たる。
高級なステレオ装置を買わないと演奏の凄さが判らないとなれば
これほど面倒なレコードはないからだ。

120名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 09:37:00.48ID:dJoBuEne

ではフルヴェンがオーディオ機器を全く選ばないかというと
モノラル録音特有の問題、音場感や潤いの不足が生じる。
もうひとつ踏み込もうとしても届かない領域がある。
1枚1000円もしないCDにも、試聴環境による格差が生じるのだ。

それは金銭の格差ではなく、むしろセンスの問題である。
多くの理由は、重たい小口径ウーハーのレスポンスが悪い
パルス波に過度に敏感なツイーターにより雑味が増すなど
モノラル録音の時代と現在のオーディオ理論との齟齬からきている。
逆に言えば、大口径で反応の良いウーハー
パルス波と楽音にニュートラルに反応するツイーターは相性がいい。

122名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 10:07:58.32ID:WETZZrYl

スピーカー頑張ったところで、湿度や再生に使う部屋を作っているのに使う材料違うから、似てるけど同じ音は聴けない。
諦めるか、ベルリンに引っ越せ。

123名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 10:15:58.14ID:dJoBuEne

あとは良くフルレンジのほうが良いという意見も多く
例えばドイツ製の20cmクラスのものが昔から知られるが
もうワンクラス上のジーメンスのコアキシャルに行きつくように
良質なコーンツイーターが欠かせないが入手困難。
ほとんどの場合はその手前で留まって先に進まない。

和製ロクハンは低域が甘く高域が少し艶やかなバランスで
米コロンビアのワルターとかとても相性が良いのだが
フルヴェンではEMI止まりで、ライヴのガッツき感まで出ない。

フォステクスは中域から中高域の抜けが爽やかだが
むしろポピュラー音楽向けの軽さが持ち味で
個人的には昔のセラフィムやスプラフォンのような
中域こってりのバジェット系で魅力を発するように思う。

他にも色々あるが、レコードレーベルのサウンドポリシーと
フルレンジに詰め込んだサウンドデザインとが
意外に相性の問題を拭いきれずにいる。

124名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 10:22:54.75ID:dJoBuEne

>湿度や再生に使う部屋を作っているのに使う材料違う

これはヴィンテージの軽いコーンのものですごく顕著だった。
ともかく乾燥してないと、どんより腐った魚のようになる。
自分はJensenレプリカの新品を最初から飼い慣らして
ようやく色んな録音とニュートラルに接することができた。


125名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 10:31:19.77ID:dJoBuEne

あとヨーロッパは夏は乾燥、冬は湿気が多くて
オルガン関係では木材のひび割れ、ニガワの剥がれがトラブルの元になる。
同じことはスピーカーの紙類にも言えるかも。

127名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 14:19:31.89ID:dJoBuEne>>128

普通に古い録音をとっかえひっかえ聴く人は
オーディオに関しても一定の知識は持つべき。
録音方式の前提を無視してリマスターの音質評価するのは無駄。
むしろ私の提案はむしろ音楽愛好家のためのチョイスだ。

130名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 14:32:30.80ID:dJoBuEne

もっと不思議なのが、フルヴェンの録音がステレオだったら良かったとか
無意味な原音再生に憑りつかれていたり
リバーブを掛けたおかげで聴きやすくなったのを知らなかったり
ともかくオリジナルテープと向き合うことを避けた話が多い。
それは逆説的にフルヴェンのための試聴環境をもたないことと等しい。

131名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 14:59:49.33ID:dJoBuEne>>139

少なくとも1951年までが巨匠のピークだと思ってる人は
1950年前後のテクノロジーに興味をもつべきだし
その後に描いた未来像、特に今の時代において失われた理想を
聴き取れる環境の整備を怠らないことだ。

自分のステレオ装置と合わない録音だからとこき下ろすなんてあり得ない。
低音が少ない、高音が少ない、それも調整できない機材はゴミに等しい。
そういう安直な思いで巨匠の芸術に触れようなど無意味な人生だ。

138名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 15:51:06.38ID:dJoBuEne

イギリスで励磁型スピーカーが早い時期に無くなったのは
霧のロンドンの名のとおり、湿気で断線がしやすいからかも。
あとポリプロピレンなど樹脂製ウーハーの採用も比較的早かったが
独特のツヤを嫌う人など色々。コーホー先生は肯定派だった。

147名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 17:33:41.86ID:dJoBuEne

それと苦言を言いたいのは
フルヴェンの録音は生の音と同じようには絶対にならない。
一方では、それこそ再生方法のアプローチが悪いのを棚にあげて
録音評と並行した演奏評をしている異常な状況だ。
口コミの本音というより悪質ないたずらじゃないかと思う。


148名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 17:38:16.31ID:X3MfdZpZ
所詮レコード芸術なんだよね
そこがわからないとどうしようもないよ


150名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 17:59:22.48ID:dJoBuEne

フルヴェンのライヴ録音が生の音と同じようには絶対にならない理由は
録音年代の古さにあるのではなく
天吊り1本マイクで補助マイクなどの編集なしで収録していることだ。
コンデンサーマイクやテープレコーダーの性能は現在と遜色ない。

これを現在のテクノロジーのほうが進んでいるという前提で
録音の良し悪しを判断するのは危険だ。
でも結果は判るとおり、天吊り1本マイクのダイレクト録音は
フルヴェンの躍動感を刻銘に捉えている。

EMIとの相性がいい人は3本マイクなのでご安心を。
少し位相差を含んでいわゆる音場感をもたせる方法だ。

152名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 18:49:39.86ID:dJoBuEne

ちなみにEMIの3本マイクはWEから電気録音をオーソライズされた頃からで
1931年のアビーロード除幕式でエルガーと共に写真に残されている。
実はこの収録方式は、WEが1933年にフィラデルフィア〜ワシントンの有線伝送実験で
フィラデルフィア管の演奏をワシントンのホールでステレオ実況したものだった。
そもそもEMIはブルムライン博士とも共同してステレオ録音を意識していたと言え
ウィーンではワルター、フルトヴェングラー共にムジークフェラインはこのWE方式だ。

ORF管轄下のザルツブルク音楽祭は1本マイクで収録されている写真があるが
同じ頃のベームの写真ではEMIと同じ方式に変わった可能性がある。
1本マイクは独RRG放送の取った方法で、フルヴェンはこの録音方法を好んだ。

154名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 19:18:41.99ID:dJoBuEne

1940年代において独RRG放送が先行していたのは
AEG社のマグネトフォンの開発で、高周波バイアスで一気にSP盤を越えた。

1940年12月にフルヴェンはパイロット録音をしているが
これまでにない高音質で演奏後にすぐプレイバックできるテープレコーダーに
かなり興奮して何度も聞き返していたという。
そのときはベイヤーダイナミック製のヘッドホンでの試聴だったと思われる。

その後の1941年のほとんどはスキー事故で療養中だったが
ひとつはラジオでウィーンでのライヴ録音を試聴する機会があったことは
クルト・リースの本で感動的に書かれている。
残念ながらそのときのラジオの機種までは判らないが
すでにテレフンケンからスーパーヘテロダインの2wayスピーカーをもつ
Hi-Fiラジオは製造販売されていたので、それなりの機器で聴けたと思う。

もうひとつは政府関係者向けのUFA映画館でのテープコンサートで
クラングフィルムの音響機器で生演奏と比較しつつデモが行われた。
おそらくEuropa Klartonの初期型だと思うが、これは現在でも第一級のものだ。

この3つの音響機器での試聴を通じて巨匠は録音の将来性に気付いたと思うが
現実にはベルリン空襲は頻繁になっており、演奏会が標的になるのを避けるため
無観客でのテープ収録を後日にラジオで流すという方法がとられた。
巨匠はこの頃の収録方法にコダワリをもって、戦後の放送録音にも挑んだのが
様々な写真からうかがうことができる。

155名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 19:32:24.85ID:dJoBuEne
>>153
繰り返し言うが、湿気で響きが変わる部屋は
昭和末期に住んだ学生用のオンボロ木造アパート以来知らない。
材質がどうのという以上に築50年近く経ってないと
現在ではなかなかお目にかかれないものだ。

156名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 19:56:09.56ID:dJoBuEne

オンボロ木造アパートの厄介なのは土壁などではなく
合板で断熱用の綿材を挟んだやつで、日の当たりが悪い面は
年数が経つと中でドロドロに水を吸って壁にもたれかかっている。
これとスキマ風の出るガラス窓、紙製のふすまを加えると
湿気とかいう以前に音響はそもそも悪い。
それと畳を支える根太も細いものだと湿気で剛性が柔くなって
低音から高音まで土台から変わってしまう。
ベルリンとかそういう問題ではなく、エコな昭和の置き土産だ。


157名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 20:08:07.82ID:dJoBuEne

一方では、そうした部屋で真剣にレコードに耳を傾け
フルヴェンの至芸に心揺さぶられていた時代もあったわけで
それは「録音が悪い」という共通の敵があって平等が成り立っていた。

しかし今はどうだろう。放送局の目の覚めるような蔵出し音源で
当時のテクノロジーの歴史認識まで変わりつつあり
巨匠のコンサート・パフォーマンスの真価が再度問われている。

一方の迎え撃つ側のオーディオ環境といえば
別な理由で当時より悪くなってはいないだろうか?
それも昭和の頃のような下手な言い訳はできないのだ。

158名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 21:45:52.09ID:dJoBuEne

ドイツも日本も敗戦国なので戦後の貧しさは一緒だろうと思いがちだが
1950年代のドイツの放送音質は、日本の昭和40年代と同じレベルで
理由はFM放送のいち早い全国ネットの構築と
それに勝るオーケストラの数の多さ、残されたコンテンツの豊かさである。
実はフルヴェンのライヴ録音の背後には、同時代の宝の山が隠れており
まじめに取り組めば本当に色々でてくる。

かつてレコード市場で聴けたのは当時の音楽文化のほんの一部。
特にオペラなどはバロックから現代物まで幅広く
ウィーンでさえフルヴェンがモーツァルトを振ってた横で
アイネムやリーバーマンなどの新作が演じられた。
オルフのギリシア悲劇3作などは今でも十分に斬新なものだし
ヒンデミットが校訂したモンテヴェルディのオルフェオは
アーノンクールのその後の人生を決めた一大イベントになった。


は陰湿なオーヲタ気取り

161名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 06:01:37.88ID:iMs5yQNA

大きな誤解は、広帯域でフラットな特性のオーディオ機器だと
音質をニュートラルに判断できると思っている点。
(実際にはそれすらにもなっていないのがほとんどだが)
これは比較的大きな音量で聴くモニタースピーカーの品質だ。

一方で1950年代の家庭用の音響設計は
中高域を持ち上げたワイドレンジユニットをウーハーに据え
8kHz以上の1オクターヴだけツイーターで補助的に使う。
これがAMからFMに橋渡しするセオリーだった。
これはドイツ以外にもHMVの高級電蓄も同じ設計で
アメリカではJBL D130などにその名残がある。
http://www.hifi-archiv.info/Isophon/1961/08.jpg


http://cent20audio.html.xdomain.jp/1950/BBC/EMI-1944.jpg


http://www.lansingheritage.org/images/jbl/specs/pro-comp/2135/page2.jpg

なぜ中高域にアクセントを持っていたかというと
AM波の古い慣習で子音を際立たせることが第一の理由だが
実際は少しドンシャリにしたほうが、小音量でも聴き映えがするから。
いわゆるラウドネスを聴感で決めて設計していた。
ただし1970年代の100Hz以下、10kHz以上ではなく
100〜200Hzと3〜6kHzという感じで狭いレンジでの対処だった。

162名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 06:17:22.37ID:iMs5yQNA

日本ではNHK技研がフラットネスであるべきだと指導したので
ずっとフラットな特性が最良のものとされてきたが
実際には1960年代中頃からロクハンはラウドネスを効かせており
1970年代末の菅野・瀬川・岡の鼎談では
中低域が膨らんで子音が強調された個性的なサウンド
というような評価が出ていた。
http://www.audio-romanesque.com/p610.htm

これはラジオ放送での聴きやすさの基準が人間の声質にあるためだが
裏を返せば、人間の耳の特性に合わせたデフォルメであると言える。
最終的にはシュアーSM58のようなボーカルマイクで決着がついた。
https://pubs.shure.com/guide/BETA58A/ja-JP

フルヴェンの時代の放送録音はフラットで収録するセオリーだったが
実際の家電レベルに下ろすとラウドネスが必要という賢い判断だ。


163名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 06:38:22.32ID:iMs5yQNA

では私自身のフルヴェンのライヴ録音に対する考えはどうかというと
話は全く逆で、むしろトーキーの音響規格に沿って
100〜2,000Hzの両脇はロールオフさせるべきだと感じている。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image418.jpg


これは広い映画館の音響特性を示すものでアカデミー曲線と呼ばれ
現在ではXカーブとして国際規格化されているものだ。
http://www.associationdesmixeurs.fr/wp-content/uploads/2015/10/Dolby_The-X-Curve__SMPTE-Journal.pdf

これの理由はというと
フルヴェンが好んだ天吊り1本マイクでフラットに収録した音は
指揮者頭上で聞こえるバランスで収録されており
理論的にはその箇所から音を放射してホールに響いた音が
会場で聴く正しい響きという筋立てになる。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image1138.jpg


http://cent20audio.html.xdomain.jp/image534.jpg


https://img.aucfree.com/g385148314.1.jpg


ということは、広いホールの音響特性に沿って
高域を滑らかにロールオフさせたほうが自然に聞こえるのだ。

165名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 07:05:46.99ID:iMs5yQNA

これには逆の理屈もあって
昔の墺プライザーのLPはひどくこもった音で
その理由がモニターにAltec 604Eを使っていて
それに合うようにバランスを補正していたと考えられる。
https://gearspace.com/board/members/ostrong-audio-albums-casino-baumgarten-picture9521-control-room.jpg


https://www.youtube.com/watch?v=VPz8XMNBTiI
https://www.soundonsound.com/music-business/casino-baumgarten-vienna

これに反旗を翻したのがオルフェオのORF蔵出しシリーズで
高域がやたら強いものに豹変した。
個人的には両者の中間が良いのだけど
しばらく待てば元の鞘に収まるのだろうか?


166名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 07:22:32.54ID:iMs5yQNA

プライザーとオルフェオで全く違うサウンドを提供する裏には
そもそもの音響理論がどちらも食い違っていることからくる。
プライザーは古いようで1970年代のサウンドデザインだし
オルフェオはデジタル時代の広帯域再生を目指している。
ただし両者に共通するのは
周波数の補正をアナログのイコライザーでやっているような感じで
高域の位相が不自然に遅れたり浮き上がったりしている。
これはなかなか後で補正するのが難しい部類のものだ。

キングレコードはこうした補正を避けてリリースしているが
旧ターラやアウディーテを聞いて判るように
リマスターのサウンドには一種の見解をもったほうが聴き映えがする。
同じ意味でアビーロードとフランス勢のサウンドの違いは明瞭で
アビーロードはLP時代のサウンドポリシーを再現するのに対し
フランス勢は記録としての正確性を意識している。
この勝負に采配を決めるのはユーザーまかせなのが実に困った課題なのだ。


167名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 07:35:02.79ID:iMs5yQNA

同じ音源のリマスターでも例えばデッカのffrr音源は
キングレコードの飴色かデッカの青白い感じかで意見が割れていたし
現在でもテスタメントとオーストラリア勢で異なるサウンドでリリースされる。
こうした状況で外野のフランス勢が統一見解を出せたのか?
この視点がないと、単なるオレ様のオーディオ基準の評価でしかない。
少なくともワーナーはアビーロードを放棄して次のステップに進んだのだ。

168名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 07:58:13.01ID:iMs5yQNA

特に問題視しなければならないのは
こうしたレコード出版する側のサウンドポリシーを考えもせず
ユーザー側で好き勝手に音質評価することだ。
一見して音質だけの書き込みのように見えるが
実はサウンドの印象で演奏評価までしていて
それが音楽鑑賞のじゃまをしているように見受けられる。

今回の55CDの価値は戦前〜戦後に渡って
レーベルの垣根を踏み越えて揃ったところにある。
その歴史的なリリースにどういう態度で接するべきかの
ひとつの見解が出ているのだが、どうも読み取れていない。

宇野ちんもそういう感じの人で、最初の数小節を聞いて
その後の演奏の良し悪しが判るようなことを言っている。
導入が悪いと途中から批判ばかり喰らうことになるのだが
おそらくフルヴェンの演奏評価の方法にも影響を与えている。
最初の拍手を聞いて作文したバイロイトが今でも尾を引いている。
答え合わせは11/25にいたしましょう。

179名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 12:54:10.62ID:iMs5yQNA>>180>>181

55CDをアビーロードでもベルリナー・スタジオでもなく
歴史的アーカイヴを専門にするフランスの新進スタジオに委ねたのは
驚くほどの英断だったように思う。以下の記事は結構面白い。

https://www.crescendo-magazine.be/christophe-henault-servir-le-patrimoine-de-lenregistrement/

復刻はEMTのレコードプレーヤー、Studerのオープンリール
使っているヘッドホンはbeyerdynamic DT770。
奇をてらったものはなく、現在あるリソースを全部聴いたうえで
品質管理のルールを徹底する仕事人とみた。


181名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 13:18:04.47ID:ojH0Sb2h
>>179
機械翻訳の力で、フランス語も読めてしまう事に感動した。
あと、フランスのスタジオの人は音源選びから頑張っている事はわかった。
ノイズ多めのリマスターだけど、元気ある音が残っている気はする。

182名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 13:20:02.49ID:iMs5yQNA>>183

いつも思うのは
こういうプロの仕事に学ぶことのない人たちの感想が
文化継承の橋渡しにならないことだな。

例えばマタイのテープは4日分あって歌手も違ったが
それを同じ演奏のように繋げるのに苦労したとか。
78rpmの表裏の間の取り方はライヴ演奏を参考にしたとか。
1937年のロンドン第九は金属マスターのビニール複製だとか。
舞台裏について全部書いてほしいくらいだよ。

183名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 13:27:25.02ID:knSXjmu+
>>182
>例えばマタイのテープは4日分あって歌手も違ったが
>それを同じ演奏のように繋げるのに苦労したとか

これは、なにげに凄いことだよな
従来版で欠落していた部分を単に補ったわけではない
いわば、4種類のマスターテープ(新発見?)から
今回、改めて再編集しているわけで、極論すれば、
別物と言ってよい

186名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 19:26:02.88ID:Bd6qTIdz

55枚組のうち、CD48〜49、ベートーヴェン「フィデリオ」を聞きました。

音質は、この2枚も従来盤に比較して低音の効きが少し悪い音です。低音が聞き手を包み込むような抱擁感で劣ります。
「トリスタン」と違って、従来盤に比べてザラザラしたり荒っぽかったり、ということはありませんでした。
演奏は、本盤録音直前のライブがチェトラ盤で残っていますが、セリフのカットを除き、声楽部分は大同小異です。
ただ、2つの序曲(フィデリオ序曲、レオノーレ序曲第3番)では、やはり勢いと即興性でライブが勝ります。
好みの問題になりますが、レオノーレ3番などをこの指揮者がじっくり構えて音楽を丁寧に作っても、仕方がないと思うのですが…

さて次は最後の山場、「ワルキューレ」4枚組です。ようやく出口が見えてきましたが、やはりこの曲も時間を頂きます。

188名無しの笛の踊り2021/11/22(月) 10:01:55.83ID:pEQkrj/P

ついでにベト7のテープ発見の逸話。
https://furtwangler.fr/la-7e-symphonie-de-1950-lhistoire-dune-resurrection/

予備も含め4テイク録られ、それらのテープが全てみつかった。
フルヴェンの立ち合いのもと、プレイバックして良いほうを選んだ。
選んだテイクを番号1に振り直し、残りは録った順番の番号で残された。
今回のマスターは巨匠も了承したテイクを最終版とした。
EMI製のテープレコーダーに若干の癖があり修復には工夫を要した。

189名無しの笛の踊り2021/11/22(月) 10:50:27.45ID:XpdhoVnR

何個かのテイクも残したけど、後の人はテープを埋もらせたままにした話だよね。
EMI はマスター管理できて無さそうな会社ではあるけど、録音した人は頑張ってたんだな。


193名無しの笛の踊り2021/11/23(火) 06:32:54.54ID:E4nUKVLX

最近はハイレゾ規格でA/D変換して保管するせいか
SACDコンパチでのリリースも多くなったが
SACDだからとフルスペックの音質というのではない。

例えばクレンペラー/ACOのライヴ録音集(24SACD)は
元のオランダ放送協会のテープは既に破棄されて現存せず
ファンだった青年が家庭用テープレコーダーに9.5cm/sでコピーしたものだ。
それでもかつての海賊盤より遥かにマシという感じだったので
万全なSACDコンパチというリリース形態を取ったのだろう。

204名無しの笛の踊り2021/11/24(水) 22:33:15.39ID:RgSFQ1aC

55枚組のうち、CD50〜53、ワーグナー「ワルキューレ」を聞きました。

音質は、カサカサした潤いのない音です。聞き比べた旧盤からは何と芳醇で包容力ある暖かい音が聞こえてくることか。
演奏は、教科書的な演奏であってそれ以上でもそれ以下でもない、という印象です。
それだけに、音響を楽しむことができない音質なのは残念です。
聞き始めはヴォータン役のフェルディナント・フランツが俗っぽくて、父の威厳やゲルマン神話の主神の威厳を欠くように聞こえます。
しかし聞き慣れてくると気にならなくなるのは不思議です。本当は実力のあるヴォータン歌手なのかもしれません。
スカラ座のリング全曲やローマのリング全曲のヴォータン役歌手と聞き比べようとしたのですが、どちらもフランツがヴォータンでした。
プロデューサーか指揮者によほど気に入られていたのでしょう。

これであとはボーナス盤を残すのみです。多分、次回の投稿で終わると思います。

223名無しの笛の踊り2021/11/25(木) 19:43:08.33ID:z/LBZ/yq

55枚組のうち、CD54〜55を聞きました。

・CD54「未発録音集」
シューベルト「交響曲第8(?)番『未完成』」1950年コペンハーゲン・コンサート
 テープヒスはありますが、鑑賞に支障を生じるほどのものではありません。
 演奏は、SP録音に比べてやや堂々としすぎている感はありますが、名演に属します。

ヨハン・シュトラウス2世「皇帝円舞曲」全曲通しのテスト録音
 リハーサルとあって、スタジオ内で鳴る物音のノイズに無頓着なきらいはありますが、まずまず音質良好です。
 演奏も、速くないと言ったら嘘になりますが、本番のように必死でSP1枚の両面に収める急速演奏はしていません。
 本盤よりは優れた演奏だと思います。

ワーグナー「神々の黄昏」より、ジークフリートの葬送行進曲(全曲通しのテスト録音)
 音質は非常に良好です。SP録音とは思えません。
 演奏は発売された本番のSP録音にそっくりです。本演奏はテスタメントCDで別録音として発売されたものですが、
 センターのディスコグラフィーでは同一録音と認定されてしまっています。真相は、あちらが本番、こちらが通しのテストでした。

シューベルト「ロザムンデ」間奏曲第3番、全曲通しのテスト録音および本番
 音質はどちらもわずかに盤面ノイズが聴き取れる程度で、良好の部類に入ります。
 なぜか未発売になったSP録音のテストと本番ですが、SPの録音時間を気にせずに演奏したテストの方が詩情において勝ります。
(次レスに続く)

224名無しの笛の踊り2021/11/25(木) 19:43:52.18ID:z/LBZ/yq
(前レスより続く)
チャイコフスキー「弦楽セレナード」より、第3楽章「悲歌」
 これも音質は良好で、ノイズはほとんど聞き取れません。
 演奏は、曲が悪いのか指揮が悪いのか分かりませんが、ちょっと退屈で持たない感じです。
 最終的にプロデューサーがオミットしたのも尤もです。

チューニング、ブザー音、及び失敗した出だし
 これは爆笑ものです。このたび発見されたベートーヴェン7番の細切れテープ由来のものが主体ですが、一聴をお薦めします。
 あの7番が確かに細切れ録音だった、とはっきり分かる資料です。

・CD55「フルトヴェングラーの想い出」
私には英語のリスニングが出来ないので、何を言っているのかさっぱり分かりません。あらゆる批評を差し控えます。

というわけで、ようやくゴールにたどり着きました。耳と頭がクタクタになりました。
55枚全部を聞いた概括的感想としては、これは玉石混交というよりも、石がゴロゴロある中に時々玉も見つかる、といった代物です。
人声ノイズ無しのベートーヴェンの7番のように、イコライズしてでも聴く価値のあるものもありますが、従来盤の方が優れている演奏が多めです。

225名無しの笛の踊り2021/11/25(木) 20:02:42.15ID:BLvn8Xpp>>230

55CDさん、ひとつ疑問なのですが、どういう環境で試聴されてました。

安い、高いといろいろの環境でも、聴いた印象を変わらなくするには、ヘッドホーンとか、イヤホンの方が良いと思うのですが。

2302242021/11/26(金) 01:02:58.38ID:68Cc33ET
>>225
プレーヤーはONKYOのC-705FX、アンプは同じくA-905FX、スピーカーは型番がどこに書いてあるのかよく分かりませんが、
とにかくそれらと揃いのハイコンポ(一頃流行った?)のセットのONKYOのスピーカーです。
はっきり言って超安物、それも前世紀の遺物です。

ヘッドホン又はイヤホンで聞いた方がよい、とのお薦めですが、私もヒストリカルのCDに手を出すまではヘッドホン派でした。
しかし、フルトヴェングラーほか、ヒストリカルを聞き始めると、ヘッドホンではどうしてもノイズが過剰に気になります。
テープヒスまで終始はっきり聞こえたりするし、SP媒体起こしCDではスクラッチノイズが耳に刺激的になりすぎます。
ヒストリカルCDのマスタリング技術者も、おそらくスピーカーから聞くことを前提として仕事をしているのだろう、と察し、スピーカー派に転向しました。
今回の55枚組一気聞きでも、通常はスピーカーで聞き、特殊な場合のみヘッドホンで聞く、という姿勢を崩しませんでした。
もし全部ヘッドホンで聞いていたら、大半のCDに「ノイズでダメ」とペケを打たなければならなかったと思います。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1636491451/l50

34. 中川隆[-15108] koaQ7Jey 2021年11月26日 11:13:23 : rIa0k1hVh2 : NHpRSDVuNTFnL1k=[25] 報告
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 正規レコード用録音集大成 
ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、フィルハーモニア管弦楽団、他(55CD)


ユーザーレビュー

★★★★☆ 数枚を前回の21枚セットのCDと聞き比べま... 投稿日:2021/11/10 (水)
数枚を前回の21枚セットのCDと聞き比べました。一番気になったのが、バイロイトの第九。他の方も書かれてますが、我が家の装置では、演奏前の拍手が「シャリシャリ」というか、雨の音のような、拍手の音に聞こえません。高音を上げすぎでは?現時点ではMQA盤が気に入っています。DGGの「グレイト」は本家よりいい音に聞こえました。 正規録音集ということで、ベートーヴェンの交響曲第2,8番やブラームスの第3,4番は入っていない。(2番もDECCAのみで、フルヴェン・センター提供分は一部のみ)
出町の玉ちゃん さん | 京都府 | 不明

★★★★★ 「ああ、メーカーの策略に嵌ってまた買って... 投稿日:2021/09/26 (日)
「ああ、メーカーの策略に嵌ってまた買ってしまった」と自戒しつつ、週末の一日に年代別にピックアップしながら聞いている。丁寧な復刻で良好な音質とは思うが、演奏の印象・感銘を変えるほどのものではない。その中で気になったのはバイロイトの第九。バイエルン放送録音盤の発売で本番かリハーサルかの論争も起こったが、今回の復刻では、東芝EMI盤(TOCE7530)同様に開始前の足音とフルトヴェングラーの言葉(楽員に対してというより客席に一言言っているようにも聞こえる)が入っている他に、Hall ambienceとして楽章間の客席ノイズが30数秒入っている。これらを通しで聞く限りは、本番演奏をあまり編集せずに源テープを作成したように思える。識者はじめ皆さまの受け止めは如何?
熟聴熟年 さん | 京都府 | 不明

★★★★☆ 今日届いたので、早速幾つか聴いてみた。 ... 投稿日:2021/09/25 (土)
今日届いたので、早速幾つか聴いてみた。 最初に思ったのは、正規録音盤というのはたったこれだけしか無いのか、という事で、結構曲目に偏りも感じる。 ベートーヴェンとワグナーが相当多い割には、ブルックナーは7番のそれも第2楽章しか無い。ブラームスも少なめか。 今までレコードからCDまで色々買ってきたが、今回はやはり最新リマスターってどうなのか? が買った主目的。 結論から言うと、戦後のEMI録音は大きな違いや改善は正直あまり感じられなかったが、若い頃初めて買った東芝盤のウィーンフィルとのエロイカの音と同じだ!と思ったので、それなりに上手く出来ているのかな? DG録音は思ったより安定して良い音に感じた。 デッカ録音はブラームスの2番、これはケネス ウィルキンソンの録音なので期待したが、出だしから痛んだLPの様なノイズが入っていて驚いた。 これがマスターテープからのリマスターなら、相当痛んでしまっているのでは? それなら当時の程度の良いLPが欲しくなってしまうが、フランクのシンフォニーは良かった。 今回最も驚いたのは、実は戦前の録音が予想以上に良い音がした事で、もちろん高域の伸びはそれ程無いが、全体に音がしっかりして古い感じはあまりしない。 SP原盤だとおもうが、針音が殆どしないのでカット処理をしているのだろうが、響きが損なわれている感じは少ない。 私は結構大型のスピーカーで聴いているが、上質のラジオで聴いている様な、なかなか快適な聴き心地であった。 戦後のテープは使い回されたのか、それとも戦後数年しか経っていない時期だから、今より保存環境が悪かったのか、戦前のSP盤より劣化した可能性は有るかも。 ところで今回色々聴きながら気が付いた事が有った。 色んな曲を聴いていると、曲の後ろで何だか蠢いている様な音が有り、それが曲の推進をグイグイと後押ししている様な感覚が有る。 それは録音の濁りのような気もするし、フルトヴェングラーの演奏がそういう響きを作り出している様にも聴こえる。 もし最新の全てが聞こえる、どこまでもクリアーな録音で聴けるなら、どういう演奏が聴こえてくるのか、不可能な故に、でもいつかテクノロジーの進歩で、演奏の秘密が解き明かされる日が来るのかも知れない。 そんな妄想を感じさせたくれたのはこれが初めての経験であり、私にとってはその事がこのCD集の面白さなのかも知れない。
MacMatz さん | 愛知県 | 不明

★★★★★
John Cleese | 静岡県 | 不明 | 2021年07月21日
映画ファンでもありまして、メディアが新しくなるたびに「アラビアのロレンス」だとか「ゴッドファーザー3部作」、欧州の旧作、アンジェイ・ワイダ先生やロッセリーニ先生の作品などがずいぶんライブラリーを賑わせております。あと黒澤・小津ですかね、「七人の侍」なんてBDでも米クライテリオン盤と国内盤の画質が違うと聞いて二種類そろえたり・・・VHS→LD→DVD→BDとコレクションを買い替えて総入れ替え。こんなことに人生のエネルギーとお金を費やすのはほんとにバカバカしいのですが、止まらない。そしてフルヴェン先生のヒストリカル音源もしかり。ウラニアのエロイカ、バイロイトの第九、戦後復帰の運命、5月25日も27日も、ブル8も44年49年54年しかもそれぞれ別の日のテイク・・・それぞれ板起こしだのSACDだの何種類もあって、いったい何種類買わせる気か? ・・・って、それなら買わなきゃいいだろう、と健常者の方々は簡単におっしゃるでしょう。それはその通り。病気の自分が悪いんです。 こんどは2021年最新のリマスターですって。バイロイトの第9は最新のグランドスラム盤でもう最終かな、これ以上の改善は想像もつかない、というところまで行っているのでさすがにもう収集はやめよう、と思っていたけど、やっぱり2021年リマスターも聴きたい。やっかいなのはトリスタンとワルキューレ全曲。SACDまでそろえたんですよ。もういいいでしょう。でも聴いてみたい。最新録音はCDがSACDを凌駕するってことはまずないけれど、しばしば旧録音ではSACD化されたものよりCDのほうがいいじゃないか、ということも起こります。スペック上優れていても聞く側の人間の感性に即しているかどうかは別ですね。 というわけでやはりポチります。なんと罪作りなセットでしょう。

https://www.hmv.co.jp/artist_Box-Set-Classical_000000000088040/item_%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC-%E6%AD%A3%E8%A6%8F%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E7%94%A8%E9%8C%B2%E9%9F%B3%E9%9B%86%E5%A4%A7%E6%88%90-%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%80%81%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%80%81%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%A3%E3%80%81%E4%BB%96%EF%BC%8855CD%EF%BC%89_12009917

35. 中川隆[-15107] koaQ7Jey 2021年11月26日 11:15:40 : rIa0k1hVh2 : NHpRSDVuNTFnL1k=[26] 報告
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 正規レコード用録音集大成 ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、フィルハーモニア管弦楽団、他(55CD)


フルトヴェングラー生誕135年記念! フランス・フルトヴェングラー協会協力
商用リリース用として録音された音源すべてを収録した完全セット限定盤

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー[1886-1954]は、20世紀で最も偉大な指揮者の1人で、音楽界の巨人ともいわれています。彼は音楽家の中で最も偉大だと言う人もいます。オーストリアとドイツの交響曲のレパートリー、およびワーグナーの音楽に最高のドラマ性を持たせた比類のない解釈者であり、彼は演奏者と聴衆のための最も高い基点であり続けています。

この55CDボックスの数多くの演奏は、音楽愛好家にとって不可欠なものです。フルトヴェングラーのスタジオ録音の音源すべてを統合した初めてのコレクションであるだけでなく、商用リリースを目的としたライヴ録音も含まれています。このコレクションには多くの研究により、ウィーンとコペンハーゲンで録音された、これまで未発表の大きな資料的をもつ音源も発掘されました。各録音は最新デジタル機器とさらなる高ビットによる入念なる新しいリマスターにより、これまで以上にマスターテープに残された記録が再現されています。付属ブックレットとドキュメンタリーCDは、信頼できるものと網羅的なものの両方で、フルトヴェングラーの哲学と、スコアに命を吹き込む自発性を明らかにする天才性をさらに明らかにしています。

20世紀で最も偉大な指揮者のひとり、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、オーストリアとドイツのレパートリー(特にベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー)において最高の指揮者と見なされており、演奏家や音楽愛好家にとって重要な基準となっています。フルトヴェングラーは、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、バイロイト音楽祭と密接な関係がありました。
フルトヴェングラーは、国の歴史の激動の時代を通じて、彼自身を偉大なドイツの音楽の伝統の忠実な守護者と見なしていました。スコアへの彼のアプローチは独裁的ではありませんでした。彼はそれを自発的に見える有機的な方法で生き返らせることでした。彼の信念は、音楽の細部は「聞こえるとおりに」(「…wie es klingt」)伝えられ、理解され、評価される必要があるというものでした。

このコレクションには、フルトヴェングラーのスタジオ録音すべてと、商用リリースを視野に入れて作成したライヴ録音を初めて統合したものです。完全を期すために、コレクションは「Warner Classics」カタログ(旧HMV-EMIとTelefunken)と「Universal」カタログ(Polydor、Decca、Deutsche Grammophon)の両社の音源が収録されています。「Universal」との特別なライセンス契約により、オリジナルマスターの使用が許可されました。フランス・フルトヴェングラー協会副会長、Stephane Topakian氏協力のもと多くの音源の照会・調達がおこなわれ、一部、日本の「フルトヴェングラー・センターによる音源も収録されています。

● 1950年にウィーン・フィルを指揮した初出音源が含まれています。
J.シュトラウス:皇帝円舞曲
ワーグナー:『神々の黄昏』から『ジークフリートの葬送行進曲』
シューベルト:『ロザムンデ』から間奏曲第3番
チャイコフスキー:弦楽セレナードから『エレジー』

● 1950年10月1日にコペンハーゲンでデンマーク放送が収録した放送音源の『シューベルト:未完成交響曲』が、最適な音質で提供される初出音源が含まれています。これは、もともと商用リリース用ではない唯一のライヴ録音ですが、特別に収録されています。

● ここに収録されたほとんどの音源は、オリジナルマスターよりフランスのアヌシーにある「Art & Son Studio」にて、2021年に192kHz/24bitリマスターされています(以下の音源を除き)。リマスタリングは、可能な場合はオリジナル・マスターテープから、オリジナルの78回転SPおよびLPマトリックスなども使用され、入手可能な最良のソースから作成されています。

ディスク31(ワーグナーとマーラー)、ディスク37(バルトーク)、およびディスク27の前半(ベートーヴェンの『皇帝』)は、フィルハーモニア管弦楽団75周年記念ボックスのための2020年、192kHz/24bitリマスター音源を使用。
ディスク35(ベートーヴェン)は、メニューイン全集のための2016年に96kHz/24bitリマスター音源を使用。
ディスク55のドキュメンタリーは44kHz/16bitでリマスター。

リマスターを行った「Art&Son Studio」では、これまでバルビローリ全集、クリュイタンス全集、ロストロポーヴィチ全集、ジネット・ヌヴー全集、メニューイン全集など、ワーナー・クラシックスだけでなく他のレーベルも含め、多くの作品のリマスターを行っています。

● 各ディスクはオリジナル・ジャケットのデザインによる紙ジャケットに封入。

● 160ページのブックレット(英語、仏語、独語)には、以下のものを掲載
・フルトヴェングラーに関するエッセイと多くの写真。
・フランス・フルトヴェングラー協会副会長、Stephane Topakian氏と「Art&Son Studio」エンジニア、Christophe Henault氏による、音源の調達やその問題等についての説明。
・フルトヴェングラーの経歴タイムライン
・このボックスの完全なトラック・リスト(録音日/会場/録音スタッフ/マトリックス番号/元のカタログ番号)

78回転SP用音源によるアルバムは、SP用オリジナルマスターテープを使用しているため、テープのつなぎ目部分に、元々の音欠けや不自然な場合がございます。ご了承ください。(輸入元情報)

【収録情報】
Disc1
● ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』 Op.77〜序曲
録音:16.X.1926

● ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67『運命』
録音:16,30.X.1926, I.1927

● メンデルスゾーン:劇付随音楽『夏の夜の夢』序曲 Op.21
● J.Sバッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV.1068〜第2曲:エア
● シューベルト:劇付随音楽『ロザムンデ』 D.797〜間奏曲第3番、バレエ音楽第2番
録音:13.VI.1929, Hochschule fur Musik, Berlin

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Deutsche Grammophon GmbH
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc2
● ワーグナー:『ローエングリン』〜第1幕への前奏曲
● ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』〜第1幕への前奏曲、愛の死
● シューベルト:劇付随音楽『ロザムンデ』 D.797〜序曲
● R.シュトラウス:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』 Op.28 +リハーサル付き
録音:1930, Hochschule fur Musik, Berlin

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Deutsche Grammophon GmbH
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc3
● メンデルスゾーン:序曲『フィンガルの洞窟』 Op.26 +リハーサル付き
● ベルリオーズ:劇的物語『ファウストの劫罰』 Op.24〜ハンガリー行進曲
● ドヴォルザーク:スラヴ舞曲変イ長調 Op.46-3
● J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番ニ長調 BWV.1047〜第1,2楽章
● ロッシーニ:歌劇『どろぼうかささぎ』序曲
● ブラームス:ハンガリー舞曲第1番、第10番
録音:1930, Hochschule fur Musik, Berlin

● ウェーバー/ベルリオーズ編:舞踏への勧誘
録音:1932, Hochschule fur Musik, Berlin

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Deutsche Grammophon GmbH
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc4
● ワーグナー:『神々の黄昏』〜ジークフリートの葬送行進曲
● ベートーヴェン:劇音楽『エグモント』 Op.84〜序曲
● モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』 K.492〜序曲
● モーツァルト:歌劇『後宮からの逃走』 K.384〜序曲
録音:1933, Hochschule fur Musik, Berlin

● ロッシーニ:歌劇『セヴィリャの理髪師』序曲
● ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』 Op.77〜序曲、第3幕への前奏曲
録音:1935, Hochschule fur Musik, Berlin

● モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク K.525
録音:28.XII.1936 & VI.1937, Hochschule fur Musik, Berlin

● J.シュトラウス2世:歌劇『こうもり』序曲
録音:28.XII.1936, Hochschule fur Musik, Berlin

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Deutsche Grammophon GmbH
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc5
● ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125『合唱』
録音:live: 1.V.1937, Queen’s Hall, London

エルナ・ベルガー(ソプラノ)
ゲルトレーデ・ピッツィンガー(アルト)
ヴァルター・ルートヴィヒ(テノール)
ルドルフ・ヴァツケ(バス)
ロンドン・フィルハーモニー合唱団
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
*19面の78回転音源(第4楽章 128〜135小節部分の重複を含む)から編集された
旧EMIアーカイヴ原盤(Archive matrix Nos.2EA3559-77)に準拠した新リマスタリング
Disc6
● ワーグナー:『ワルキューレ』〜第3幕
録音:live: 26.V.1937, Covent Garden, London

キルステン・フラグスタート(ソプラノ)
ルドルフ・ベッケルマン(バス・バリトン)
マリア・ミュラー (ソプラノ)、他
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc7-8
● ワーグナー:『神々の黄昏』抜粋
録音:live: 1.VI.1937, Covent Garden, London

キルステン・フラグスタート(ソプラノ)
ラウリッツ・メルヒオール(テノール)
マルガレーテ・クローゼ(メゾ・ソプラノ)
コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc9
● ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67『運命』
録音:8.X & 3.XI.1937, Beethovensaal, Berlin

● ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』〜第1幕への前奏曲、愛の死
録音:11.II.1938, Beethovensaal, Berlin

● ワーグナー:『パルジファル』〜第1幕への前奏曲、聖金曜日の音楽
録音:5.III.1938, Beethovensaal, Berlin

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc10
● チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 Op.74『悲愴』
録音:25 & 27.X.1938, Beethovensaal, Berlin

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc11
● フルトヴェングラー:ピアノと管弦楽のための交響的協奏曲〜第2楽章
録音:25.IV.1939, Beethovensaal, Berlin

エトヴィン・フィッシャー(ピアノ)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

● ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番変ロ長調 Op.130〜第5楽章:カヴァティーナ
録音:15.X.1940, Philharmonie, Berlin

● ブルックナー:交響曲第7番ホ長調〜第2楽章:アダージョ
録音:7.IV.1942, Philharmonie, Berlin

● グルック:歌劇『アルチェステ』序曲
録音:9.X.1942, Philharmonie, Berlin

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records、Teldec Classics、Telefunken (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc12
● ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a
録音:8,23.XII.1943, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 Op.68『田園』
録音:22-23.XII.1943, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc13
● ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.61
録音:28-29.VIII.1947, Kunsthaus, Lucerne

イェフディ・メニューイン(ヴァイオリン)
ルツェルン祝祭管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc14
● ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55『英雄』
録音:10-12, 17.XI.1947 & 15.II.1949 , Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ベートーヴェン:序曲『コリオラン』 Op.62
録音:25.XI.1947, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc15
● モーツァルト:セレナード第10番変ロ長調 K.361『グラン・パルティータ』
録音:11,19,26.XI & 3.XII.1947, Brahmssaal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ソロイスツ
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc16
● ブラームス:交響曲第1番ハ短調 Op.68
録音:17-19 & 25.XI.1947, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc17
● ブラームス:交響曲第2番ニ長調 Op.73
録音:20,22,24,25 III.1948, Kingsway Hall, London

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Decca Music Group
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy

● ブラームス:交響曲第2番ニ長調 Op.73(Decca初出盤による)
録音:20,22,24,25 III.1948, Kingsway Hall, London

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源、リマスター:フルトヴェングラー・センター提供
Disc18
● ワーグナー:『神々の黄昏』〜ブリュンヒルデの自己犠牲
録音:26.III.1948, No.1 Studio, Abbey Road, London

キルステン・フラグスタート(ソプラノ)
フィルハーモニア管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

● メンデルスゾーン:序曲『フィンガルの洞窟』 Op.26
録音:15.II.1949, Grosser Saal or Brahmssaal, Musikverein, Wien

● モーツァルト:交響曲第40番ト短調 K.550
録音:7-8.XII.1948 & 17.II.1949, Grosser Saal or Brahmssaal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc19
● ワーグナー:ジークフリート牧歌
録音:16-17.II.1949, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ワーグナー:『タンホイザー』序曲
録音:17,22.II.1949, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ワーグナー:『神々の黄昏』〜ジークフリートのラインへの旅
録音:23.II.1949, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ワーグナー:『さまよえるオランダ人』序曲
録音:30-31.III.1949, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc20
● ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a
録音:30.III & 2.IV.1949, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ワーグナー:『ワルキューレ』〜ワルキューレの騎行
録音:31.III.1949, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ベルリオーズ:劇的物語『ファウストの劫罰』 Op.24〜ハンガリー行進曲
録音:31.III.1949, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● モーツァルト:『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』 K.525
録音:1.IV.1949, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ブラームス:ハンガリー舞曲〜第1,3,10番
録音:4.IV.1949, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ワーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』〜第1幕への前奏曲、徒弟たちの踊り
録音:1,4.IV.(前奏曲), 4.IV.1949(徒弟たちの踊り), Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy
Disc21
● ワーグナー:『ローエングリン』〜第1幕への前奏曲
録音:29.VIII.1949, Kunsthaus, Lucerne

● ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.77
録音:29-31.VIII.1949, Kunsthaus, Lucerne

イェフディ・メニューイン(ヴァイオリン/ブラームス)
ルツェルン祝祭管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc22
● ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 Op.92
録音:18-19.I.1950, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● シューベルト:交響曲第8番ロ短調 D.759『未完成』
録音:19-21.I.1950, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc23
● R.シュトラウス:交響詩『死と浄化』 Op.24
録音:21-24.I.1950, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● J.シュトラウス2世:皇帝円舞曲 Op.437
録音:24.I.1950, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ベートーヴェン:交響曲第4番ト長調 Op.60
録音:25 & 30.I.1950, Grosser Saal, Musikverein, Wien
*78回転音源(第1楽章 4:45部分付近の音欠け有り)から編集された
旧EMIアーカイヴ原盤(Archive matrix Matrix: 2VH 7207/08/09/04/05/06/10/11/12/13)に準拠した新リマスタリング

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc24
● ワーグナー:『神々の黄昏』〜ジークフリートの葬送行進曲
録音:31.I.1950, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ワーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』〜第3幕への前奏曲
録音:1.II.1950, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ウェーバー:歌劇『オベロン』序曲
録音:1.II.1950, Grosser Saal or Brahmssaal, Musikverein, Wien

● シューベルト:劇付随音楽『ロザムンデ』〜間奏曲第3番、バレエ音楽第2番
録音:2.II.1950, Brahmssaal, Musikverein, Wien

● チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調 Op.48〜第2,4楽章
録音:2.II.1950, Brahmssaal, Musikverein, Wien

● J.シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス:ピツィカート・ポルカ(グロッケンシュピール入り版と無し版)
録音:3.II.1950, Brahmssaal, Musikverein, Wien

● モーツァルト:歌劇『魔笛』〜「恐れおののかなくてよい」「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」
録音:3.II.1950, Brahmssaal, Musikverein, Wien

ヴィルマ・リップ(ソプラノ/モーツァルト)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc25
● シューベルト:劇付随音楽『ロザムンデ』序曲
録音:3-17.I.1951, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● チャイコフスキー:交響曲第4番ヘ短調 Op.36
録音:4-10.I.1951, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ケルビーニ:歌劇『アナクレオン』序曲
録音:11.I.1951, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit by Art & Son Studio, Annecy(シューベルト)
from original tapes by Art & Son Studio, Annecy(チャイコフスキー、ケルビーニ)
Disc26
● ハイドン:交響曲第94番ト長調 Hob.I:94『驚愕』
録音:11-17.I.1951, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ニコライ:歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲
録音:18.I.1951, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● シューマン:マンフレッド序曲 Op.115
録音:24-25.I.1951, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● スメタナ:『モルダウ』
録音:24.I.1951, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc27
● ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 Op.73『皇帝』
録音:19-20.II.1951, No.1 Studio, Abbey Road, London

エトヴィン・フィッシャー(ピアノ)
フィルハーモニア管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
Remastering 2020 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy

● メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調 Op.64
録音:25-26.V.1952, Jesus Christus Kirche, Berlin-Dahlem

イェフディ・メニューイン(ヴァイオリン)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc28
● ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125『合唱』
録音:live: 29.VII.1951, Festspielhaus, Bayreuth

エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(コントラルト)
ハンス・ホップ(テノール)
オットー・エーデルマン(バス)
バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc29-30
● シューベルト:交響曲第9番ハ長調 D.944『グレート』
録音:27-28.XI & 2-4.XII.1951, Jesus Christus Kirche, Berlin-Dahlem

● フルトヴェングラー:交響曲第2番ホ短調
録音:22.XI-4.XII.1951, Jesus Christus Kirche, Berlin-Dahlem

● ハイドン:交響曲第88番ト長調 Hob.I:88
録音:4-5.XII.1951, Jesus Christus Kirche, Berlin-Dahlem

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Deutsche Grammophon GmbH
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc31
● ワーグナー:『神々の黄昏』〜ブリュンヒルデの自己犠牲
録音:22.VI.1952, Kingsway Hall, London

● マーラー:さすらう若者の歌
録音:24-25.VI.1952, Kingsway Hall, London

キルステン・フラグスタート(ソプラノ/ワーグナー)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン/マーラー)
フィルハーモニア管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
Remastering 2020 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc32
● ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 Op.21
録音:24,26-28.XI.1952, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 Op.68『田園』
録音:24,25.XI.1952, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc33
● ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55『英雄』
録音:24-25.XI.1952, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc34
● ベートーヴェン:交響曲第4番ト長調 Op.60
録音:1-2.XII.1952, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ワーグナー:『タンホイザー』序曲
録音:2-3.XII.1952, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc35
● ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.61
録音:7-8.IV.1953, Kingsway Hall, London

● ベートーヴェン:ロマンス第1番ト長調 Op.40
● ベートーヴェン:ロマンス第2番ヘ長調 Op.50
録音:9.IV.1953, Kingsway Hall, London

イェフディ・メニューイン(ヴァイオリン)
フィルハーモニア管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
Remastering 2016 in 96kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc36
● シューマン:交響曲第4番ニ短調 Op.120
録音:14.V.1953, Jesus Christus Kirche, Berlin-Dahlem

● フランク:交響曲ニ短調 FWV.48
録音:14-15.XII.1953, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(シューマン)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(フランク)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Deutsche Grammophon GmbH、Decca Music Group
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc37
● バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調 Sz.112
録音:12-13.IX.1953, No. 1 Studio, Abbey Road, London

イェフディ・メニューイン(ヴァイオリン)
フィルハーモニア管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
Remastering 2020 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc38
● ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67『運命』
録音:28.II. & 1.III.1954, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc39
● ワーグナー:『神々の黄昏』〜ジークフリートの葬送行進曲/ジークフリートのラインへの旅
● R.シュトラウス:交響詩『ドン・ファン』 Op.20
● R.シュトラウス:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』 Op.28
● リスト:交響詩『前奏曲』 S.97
録音:2-3 III.1954, Grosser Saal, Musikverein, Wien

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc40
● ワーグナー:『ローエングリン』〜第1幕への前奏曲
録音:4.III.1954, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』 Op.77〜序曲
● ウェーバー:歌劇『オイリアンテ』 Op.81〜序曲
録音:5-6.III.1954, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● グルック:歌劇『アルチェステ』序曲
● グルック:歌劇『オーリードのイフィジェニー』序曲
録音:8.III.1954, Grosser Saal, Musikverein, Wien

● ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第2番 Op.72a
録音:4-5.IV.1954, Hochschule fur Musik, Berlin

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(ワーグナー、ウェーバー、グルック)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(ベートーヴェン)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc41-43
● J.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV.244
録音:live: 14 & 17.IV.1954, Grosser Saal, Konzerthaus, Wien

アントン・デルモータ(テノール:福音史家)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン:イエス)
エリーザベト・グリュンマー(ソプラノ:女中I、ピラトの妻)
マルガ・ヘフゲン(アルト:女中II)
オットー・エーデルマン(バス:ユダ、ペトロ、ピラト)
ウィーン・ジングアカデミー
ウィーン少年合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New editing by Stephane Topakian and new remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
※第64〜66曲収録
Disc44-47
● ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』全曲
録音:10-22.VI.1952, Kingsway Hall, London

キルステン・フラグスタート(イゾルデ)
ルートヴィヒ・ズートハウス(トリスタン)
ブランシュ・シーボム(ブランゲーネ)
ヨゼフ・グラインドル(マルケ王)
ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(クルヴェナール)
エドガー・エヴァンス(メロート)
ルドルフ・ショック(牧童、水夫)
ロデリック・デイヴィス(舵手)
コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団
フィルハーモニア管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc48-49
● ベートーヴェン:歌劇『フィデリオ』 Op.62 全曲
録音:3-19.X.1953, Grosser Saal, Musikverein, Wien

マルタ・メードル(レオノーレ)
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(フロレスタン)
ゴットロープ・フリック(ロッコ)
オットー・エーデルマン(ドン・ピツァロ)
アルフレート・ペル(ドン・フェルナンド)
セーナ・ユリナッチ(マルツェリーネ)
ルドルフ・ショック(ヤキーノ)、他
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc50-53
● ワーグナー:『ワルキューレ』全曲
録音:28.IX-6.X.1954, Grosser Saal, Musikverein, Wien

マルタ・メードル(ブリュンヒルデ)
レオニー・リザネク(ジークリンデ)
フェルディナント・フランツ(ヴォータン)
ルートヴィヒ・ズートハウス(ジークムント)
マルガレーテ・クローゼ(フリッカ)
ゴットロープ・フリック(フンディング)、他
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc54:初リリース音源
● シューベルト:交響曲第8番ロ短調 D.759『未完成』
録音:live: 1.X.1950, Odd Fellow Palaet, Copenhagen

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Originally broadcasted by Danish Radio in 1950, Source: Henning Smidth
New remastering in 192kHz/24-bit from original tapes by Henning Smidth

● J.シュトラウス:皇帝円舞曲 Op.437(通し演奏によるテスト録音)
録音:I.1950, Grosser Saal, Musikverein, Wien
音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy

● ワーグナー:『神々の黄昏』〜ジークフリートの葬送行進曲(通し演奏によるテスト録音)
録音:I.1950, Grosser Saal, Musikverein, Wien
音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy

● シューベルト:劇付随音楽『ロザムンデ』〜間奏曲第3番(通し演奏によるテスト録音&未発表テイク)
録音:I.1950, Grosser Saal, Musikverein, Wien
音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy

● チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調 Op.48〜第3楽章:エレジー(通し演奏によるテスト録音)
録音:II.1950, Brahmssaal, Musikverein, Wien
音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

● チューニング、ブザー、演奏始まりミスの音源
録音:Editing from original tapes 1949/1950. Recordings in Vienna and Lucerne.

ルツェルン祝祭管弦楽団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

音源:Parlophone Records (Warner Classics)
New remastering 2021 in 192kHz/24-bit from original tapes by Art & Son Studio, Annecy
Disc55:ボーナス・オーディオ・ディスク
● ジョン・トランスキーによるドキュメンタリー・インタビュー『フルトヴェングラーの思い出』

このオーディオ・ドキュメンタリー・インタビューは、クラシック演奏家のドキュメンタリーを専門としているプロデューサー、執筆家でもあるジョン・トランスキーによって記録され、1993年にロンドンで(エドワード・ダウンズ、レモ・ラウリチェラ)、1994年にロンドンで(ヒュー・ビーン、ヒュー・マグワイア、ジェルヴァース・ド・ペイエ、ハロルド・ナッシュ)、1995年にロンドンで (イェフディ・メニューイン、ベルトルト・ゴルトシュミット)、1995年にウェーブリッジで(ベルナルド・デニス=ブラウン、ジョン・ミーク)、1995年にルツェルンで(エリーザベト・フルトヴェングラー)、2000年にベルリン で(ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ)、2002年にロンドンで(ペーター・ゲルホルン)、2003年にロンドンで(クリストファー・レイバーン)らのインタビュー音声を収録。これらのインタビューのいくつかは、ここで初めての公開となります。(輸入元情報)

音源:Jon Tolansky
Remastering in 44.1kHz/16-bit by Art & Son Studio, Annecy

https://www.hmv.co.jp/artist_Box-Set-Classical_000000000088040/item_%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC-%E6%AD%A3%E8%A6%8F%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E7%94%A8%E9%8C%B2%E9%9F%B3%E9%9B%86%E5%A4%A7%E6%88%90-%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%80%81%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%80%81%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%A3%E3%80%81%E4%BB%96%EF%BC%8855CD%EF%BC%89_12009917

36. 中川隆[-14144] koaQ7Jey 2022年1月19日 09:10:40 : y3o483bN1Y : NHJjeVV5TzZuS00=[3] 報告
813名無しの笛の踊り2022/01/16(日) 12:32:03.07ID:Nfn+Z5S9>>816
みなさんの、ブラ4のおすすめ教えて下さい
エントリー候補

1.ベルリン・メロディア(1943)
2.ティタニアパラスト・EMI(1948)
3.ウィースバーデン(1949)
4.ザルツブルク(1950)

814名無しの笛の踊り2022/01/16(日) 12:54:01.73ID:DR/FWnL5
ヴィースバーデンの即興性に一票

815名無しの笛の踊り2022/01/16(日) 12:58:19.97ID:9/RkGmfF
取り出すことが多いのはやはり1948年盤

816名無しの笛の踊り2022/01/16(日) 13:04:54.69ID:j17DD4gH
>>813
2のEMIじゃない10/22もなかなか。

817名無しの笛の踊り2022/01/16(日) 14:14:45.34ID:tQj/52nq
フルトヴェングラーのブラームスではブラームスに聞こえない

818名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 06:42:19.21ID:5ErnzQvJ
神のささやきに聞こえてしまいます

819名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 08:32:47.64ID:6XfZPWZo>>824
神がテンポをコロコロ変える訳ないだろ

820名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 08:35:09.10ID:6XfZPWZo
緩徐楽章をワルターと比べるとフルトヴェングラーのブラームスの酷さが良くわかる

821名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 09:06:36.22ID:5ErnzQvJ
巨匠BW
香料が冴えるインタントコーヒー

822名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 09:09:22.21ID:5ErnzQvJ
香料抜きのトスカニーニが数段好ましい。
香料が鼻について、全く聴かなくなった。

823名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 09:14:45.49ID:5ErnzQvJ
生の演奏を多く聴く人間なら、コロンビアのステレオのオーケストラの録音がなんか変だとすぐ気づくだ思うが




826名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 12:32:46.58ID:VD4oPKqN
ムラヴィンスキーのブラームス交響曲四番が最高の名演だね
フルトヴェングラーはNG



828名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 14:21:51.62ID:m+25dYd+
フルトヴェングラーのブラームス交響曲四番は最高の名演だね。
あの素晴らしさが解らない人はブラームスも音楽も理解できない人と言っても過言ではない。

829名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 14:30:27.79ID:iltHsV/N
ムラヴィンスキーなら、2番が好きだな

830名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 15:18:15.74ID:VD4oPKqN>>837
あの宇野功芳ですらブラームス交響曲四番はフルトヴェングラーよりザンデルリンクの方が遥かに名演だと言っている位だからね:



Brahms "Symphony No 4" Kurt Sanderling 1992
Berliner Sinfonieorchester
Kurt Sanderling, conductor
rec 1992

831名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 15:22:54.11ID:iltHsV/N
宇野さんを持ち出すのは感心しない
一番、忌み嫌われる行為だよ
自重されたし

832名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 15:50:20.03ID:i1E7/xBv
> あの宇野功芳ですら
権威があるかどうか知らんが、
権威主義はいただけない
他人のふんどしで死ぬつもりでごわすか?




837名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 19:58:36.50ID:PqWjIa8R
>>830
宇野はワルターファンだからぼってりした演奏が好み
フルトヴェングラーとかカルロスクライバーをほめてるときは信用ならん
ちなみに宇野はフルトヴェングラーのブラ4は高く評価しているのは行間を読めればわかる

838名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 20:04:10.59ID:PkEmCpdY
宇野ちんにしろ黒恭とか鳥八つぁんとか
しょせんはレコード会社の太鼓持ちだったからね

839名無しの笛の踊り2022/01/17(月) 20:51:38.10ID:NMTHR6Va
子供の頃に吉田秀和や諸井誠に騙されてフルヴェンのレコードやCDを
よく買いました
私には理解不能でしたけど
モノカートリッジで聴いても良さがわからんかったよ
まあ吉田秀和なら生でフルヴェン聴いてるかもね



841名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 07:23:45.79ID:gzAfmmws
フルトヴェングラーは、ブラームスと面識あるから



843名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 10:03:36.48ID:9v7JNoY+
ブラームスはワインガルトナーが正統派なんだよ。フルトヴェングラーみたいな遅いテンポで緩急が激しくて大袈裟なのはブラームスではない

ベートーヴェン全集と並ぶワインガルトナーの偉業"ブラームス全集"が最新復刻でUHQCD化!!
掲載: 2021年03月03日
https://tower.jp/article/feature_item/2021/03/03/1111

ワインガルトナー
ベートーヴェン全集と並ぶ金字塔。澱み濁りの一切を排した高貴な名演。
作曲家本人が激賞したワインガルトナーのブラームス。
過去最高音質で復活 高音質UHQCDにて登場!
ブラームス:
交響曲第1番 (ロンドン響、1939年2月16日、18日) *U.S.盤より復刻
交響曲第2番 (ロンドンフィル、1940年2月26日) *U.S.盤より復刻
交響曲第3番 (ロンドンフィル、1938年10月6日) *U.S.盤より復刻
交響曲第4番 (ロンドン響、1938年2月14日) *U.S.盤より復刻
ハイドン変奏曲 (ロンドンフィル、1938年10月6日) *U.K.盤より復刻
大学祝典序曲 (ロンドンフィル、1940年2月29日 *U.K.盤より復刻

【演奏】
フェリックス・ワインガルトナー指揮

844名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 10:07:07.18ID:9v7JNoY+

「ブラームスの3番を聴く」10・・・初期の録音2 ワインガルトナー 




「フェリクス・ワインガルトナー(1863 - 1942)」
来日しN響(当時は新響)を指揮したこともあるワインガルトナーは、オデッサ生まれ、リストと、シューマンの弟子であるライネッケの教えを受けています。ウィーン宮廷歌劇場の総監督、ウィーンフィルの常任指揮者を歴任。
ワインガルトナーは、ビューローのようなその場のインスピレーションで自由に演奏するタイプではなく、きっちりと譜面に忠実なリヒターの影響を受けた指揮者です。

ワインガルトナーが名声を確立した時ブラームスはまだ存命でした。
1895年4月にベルリンフィルがウィーンにやって来て3日間でブラームスの交響曲全曲を演奏したことがあります。指揮はR.シュトラウス、モットル、ワインガルトナーの3人で、ワインガルトナーは第2番を指揮しました。ブラームス自身は、リヒターよりもビューローの指揮を高く評価していましたが、この3日間の全部の演奏会を聴いた後、ジムロックへの手紙の中でワインガルトナーの演奏を絶賛しています。

ワインガルトナーにはブラームスの交響曲全集があり、第1番は機械録音時代から実に3回も残しています。他の3曲は各々1回のみ。

・ ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
(1938年 10月6日   ロンドン、アビーロードスタジオ)
ワインガルトナーは晩年に至るまで解釈に大きな変化はなかったそうです。この録音は80歳近いワインガルトナー晩年の録音ですが、老いの影はなく、明快で健康的、端正で気品に満ちた名演です。

早いテンポで進めた第1楽章は音楽が自然に流れ、展開部後半のホルンソロによって演奏される基本モットーを下で支えるコントラファゴットが実に雄弁。
そのままウンポコ・ソステヌートを経て再現部に至る絶妙のテンポ運びには思わずうまいなぁと感心してしまいました。
終結部187小節以降の複雑な絡みも木管の動きを殺すことなく完璧。

第2楽章は、のどかな中に忍び寄る不安の暗き影を見事に表現。感傷に溺れない第3楽章も実に見事。推進力溢れる第4楽章の第2主題に呼応する低音弦楽器の深い響き、ダイナミックレンジも広く確信に満ちた演奏にただただ圧倒されました。

なお、ワインガルトナーはベートーヴェン以降の作品について、解釈と演奏法について有名な著書を残しています。特にベートーヴェンの解釈については、オーケストレーションにさまざまな手を加え、後の指揮者たちに大きな影響を与えました。
同時代のブラームスについても、そのオーケストレーションについて批判は残していますが、実際の演奏は譜面に忠実です。第1楽章のリピートはありませんでしたが、同時代の指揮者の多くがおこなっている第4楽章終結部に旋律線を弾かせる変更はせず、譜面に忠実でした。まさにプロ中のプロのお仕事。

ワインガルトナーはマーラー(1860年生)とほぼ同世代で、フルトヴェングラーやトスカニーニ、ワルターたち、現在でも人気のある大指揮者たちよりも一世代古く、録音も1930年代までの古いものが中心のため、人気はいまひとつですが、この録音を聞くと実に偉大な指揮者であったことが実感されます。

今回は英EMI−IMGが出している2枚組CD「20世紀の偉大な指揮者たち」シリーズのワインガルトナー編と、新星堂が2000年に出した国内盤CDの2枚を聴きました。
新星堂盤は状態の良いSPを再生して収録したもので針音入り。高音部分のカットもなく比較的細部まで明瞭ですが、響きが幾分やせ気味でした。
一方のIMG盤は、金属原盤からの直接復刻かもしれません。針音は聴かれず、生々しく奥行きも充分で、パンチの効いた驚異的な再生音です。
新星堂盤は、ワインガルトナーがEMIに残した200枚余りのSPを全てCD化した空前絶後の画期的なシリーズでしたが、このブラームスの録音に関してはIMG盤が数段上の復刻音でした。
http://www.numakyo.org/cgi-bin/bra3.cgi?vew=53



845名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 10:07:17.65ID:9v7JNoY+
なお、ワインガルトナーはベートーヴェン以降の作品について、解釈と演奏法について有名な著書を残しています。特にベートーヴェンの解釈については、オーケストレーションにさまざまな手を加え、後の指揮者たちに大きな影響を与えました。
同時代のブラームスについても、そのオーケストレーションについて批判は残していますが、実際の演奏は譜面に忠実です。第1楽章のリピートはありませんでしたが、同時代の指揮者の多くがおこなっている第4楽章終結部に旋律線を弾かせる変更はせず、譜面に忠実でした。まさにプロ中のプロのお仕事。

ワインガルトナーはマーラー(1860年生)とほぼ同世代で、フルトヴェングラーやトスカニーニ、ワルターたち、現在でも人気のある大指揮者たちよりも一世代古く、録音も1930年代までの古いものが中心のため、人気はいまひとつですが、この録音を聞くと実に偉大な指揮者であったことが実感されます。

今回は英EMI−IMGが出している2枚組CD「20世紀の偉大な指揮者たち」シリーズのワインガルトナー編と、新星堂が2000年に出した国内盤CDの2枚を聴きました。
新星堂盤は状態の良いSPを再生して収録したもので針音入り。高音部分のカットもなく比較的細部まで明瞭ですが、響きが幾分やせ気味でした。
一方のIMG盤は、金属原盤からの直接復刻かもしれません。針音は聴かれず、生々しく奥行きも充分で、パンチの効いた驚異的な再生音です。
新星堂盤は、ワインガルトナーがEMIに残した200枚余りのSPを全てCD化した空前絶後の画期的なシリーズでしたが、このブラームスの録音に関してはIMG盤が数段上の復刻音でした。

846名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 10:15:42.97ID:9v7JNoY+>>848
当時の指揮者の評価では
1.ニキッシュ
2.マーラー
3.ワインガルトナー
4.メンゲルベルク
5.ワルター
6.フルトヴェングラー

847名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 10:38:17.83ID:9v7JNoY+
フルトヴェングラーやトスカニーニは中高生向けの解り易い演奏だったから一般大衆に人気が出たんだよ
貴族や音楽関係者に人気が有ったのはワインガルトナーの方

848名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 10:52:21.82ID:/svCVnZd
>>846
トスカニーニもどこかに入れて欲しい。

849名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 11:48:28.36ID:xQ8s9ZMJ
結局戦前のSP期はあらえびす評価が今なお支配的なんだよな
「万人が認めて一流中の一流指揮者とするものは、トスカニーニ、
フルトヴェングラー、ワルター、メンゲルベルクらであろう。
それにワインガルトナーを加えるのが、まず今日の常識で、
レコードの方面ではアメリカの人気を背負って立つストコフスキーを加えて、
世界の六大指揮者とするのが穏当だと私は考えている。」『名曲決定盤』から

850名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 11:55:38.52ID:azgGAETV
銭形平次のひと

851名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 13:38:09.14ID:gzAfmmws
ワルター、ワインガルトナー信者はすごい

わろたwww

852名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 15:17:52.79ID:MRctSdYo
アーベントロート、フリッツ・ブッシュのブラームスはどうなんだ?
シュタインバッハの直系だか…

853名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 16:08:20.77ID:9v7JNoY+

ブラームス: 交響曲第1番<完全限定盤>
ヘルマン・アーベントロート 、 バイエルン国立管弦楽団




爆演の金字塔、ブラ1演奏史に輝く凄演。
極上音質で復活の超絶ライヴ高音質UHQCDにて登場!デジパック仕様(完全限定盤)

これが没年の演奏と言うことが信じられないアーベントロート会心の名演。爆演中の爆演であるブラ1がUHQCD化。すっかり東ドイツの人になっていたアーベントロートが珍しくバイエルン国立歌劇場管弦楽団(バイエルン国立管)の定期演奏会である「アカデミーコンサート」に登場。冒頭からして力こぶが盛り上がる様な雄々しく逞しいサウンドに圧倒されます。剛直でセンチメンタリズムに堕さない第2楽章。疾走する第3楽章。そして白眉は勿論のことフィナーレで、物をぶっ壊すかのようなティンパニの強打、旋律美が壊れるのを無視してまでブロック的に楽想を分断し、思う存分の変化をつけまくる超個性的解釈!アーベントロート屈指の名演として名高いものです。この前日には同会場でクナッパーツブッシュがミュンヘンフィルと演奏会を開いていたと言う正に神々の時代の記録。至高音質として知られたDISQUES REFRAIN盤のマスターを使用。テープの傷は可能な限り修正しUHQCD化しました。英日のライナーノート付です。

【録音】
1956年1月16日
バイエル国立管弦楽団アカデミーコンサート
ミュンヘン・ドイツ博物館ライヴ

854名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 16:10:55.78ID:9v7JNoY+

今こそ聴くべし、アーベントロート!【宇野功芳】
「アーベントロートは旧東ドイツで活躍していたため、もう一つ知名度が弱いが、フルトヴェングラーより3歳年上のこの巨匠の個性は極めて強烈で、ブラームスの一番と「悲愴」はフルトヴェングラーよりもはるかに雄弁であり、「第九」も部分的に上まわる。一方、ハイドンやモーツァルトの交響曲における、きりりとした造型の中に宿る豊かな内容は、この指揮者の芸風の広さを示して余すところがない。今こそ聴くべし、アーベントロート!」

ヘルマン・アーベントロート(1883-1956)はフルトヴェングラー(1886-1954)やクナッパーツブッシュ(1888-1965)と同世代のドイツの巨匠指揮者。旧東ドイツのライプツィヒを拠点に活躍していたため、西側にとっては”幻”の指揮者であったが、ドイツシャルプラッテンと契約した徳間音工が”幻”の音源を発掘、1974年はじめてLPシリーズで発売、宇野功芳氏の推薦紹介とあいまって、業界に大反響をまきおこしたであった。その後CD化されたが、国内LP盤の音質には達していないのがファンの不満でもあった。そのCDも長らく廃盤になっている中、宇野功芳氏がLPで20枚分ある音源の中から自ら推薦演奏のみ厳選し全曲を解説、キング独自のハイパー・リマスタリング技術を施して発売!

ブラームス:
@交響曲第1番ハ短調Op.68
A交響曲第3番ヘ短調Op.90
 ヘルマン・アーベントロート指揮
 ライプツィヒ放送交響楽団
 録音:@1949年10月20日ライプツィヒ放送局スタジオ(SRKホール)A1952年3月17日ライプツィヒ・コングレスハーレ、全てモノラル


855名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 16:14:09.33ID:9v7JNoY+

指揮者と「ブラームス・シュタインバッハの伝統」について(このページは転載禁止。)
http://www.sakaiyama.jp/conduct_brahms.html#:~:text=%E3%80%8C%E3%80%8E%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BB,%E3%83%A0%E3%82%B9%E6%BC%94%E5%A5%8F%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%82

「『ブラームス・シュタインバッハの伝統』とは、テンポを自在に変え、シュタインバッハの楽譜への書き込みに基づいたブラームス演奏のこと。
この伝統に忠実なのはアーベントロート。
ヴァント、サヴァリッシュ、ベームのブラームスは楽譜の範囲内で『ブラームス・シュタインバッハの伝統』を解釈している。
(よくアーベントロートの指揮を19世紀的と言う人がいるが、実際にはそうではない、とのこと。)
ブラームスの演奏における『ブラームス・シュタインバッハの伝統』をシュタインバッハから継いだのは、ライナー、ストラヴィンスキー、アーベントロート。 アーベントロートから教わったのが、ヴァント。
なお、サヴァリッシュ・ベームは誰から教わったのかははっきりとは分からないが、サヴァリッシュ・ベームの振るブラームスも『ブラームス・シュタインバッハの伝統』の系統の演奏と考えられる。」

「ムラヴィンスキーのブラームスも『ブラームス・シュタインバッハの伝統』に基づいていて(誰から教わったのかは不明)、振り方そのものは大変近代的、モダンである。」
「ノリントン、マッケラスはシュタインバッハの楽譜への書き込みを意識してはいる。しかしその演奏そのものは『ブラームス・シュタインバッハの伝統』の再現というのとは少し違うようだ。」
「一方、クナッパーツブッシュの振るブラームスは『ブラームス・シュタインバッハの伝統』とは、異なる。クナッパーツブッシュはブラームスが楽譜に書いた通りにやろうとしていて、テンポを途中で変えないやり方。R.シュトラウスやセル、チェリビダッケの指揮するブラームスも同じ系統。」
「なお、トスカニーニはシュタインバッハのブラームス演奏を大変意識してはいたが、トスカニーニの演奏は「歌う」部分が強いので、この2つの系統とはまた異なるブラームス演奏と考えられる。」

856名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 16:15:17.56ID:9v7JNoY+

ブラームスの演奏をする時に楽譜通りにやるか、あるいはプラスアルファの要素としてシュタインバッハのやり方を取り入れるかどうか、その辺が指揮者自身の考え方により違うのだろうか、と思います。
ブラームスの演奏解釈を研究されている方などが、現在では

「ブラームス・シュタインバッハの伝統」
「マイニンゲンの伝統 ( Meiningen Tradition )」

というキーワードを度々使われることがあります。
しかし、アーベントロートやヴァント、サヴァリッシュなど、実際にシュタインバッハの楽譜への書き込みに基づいたブラームス演奏をしている指揮者達は、こうしたキーワードを使って説明したりすることはなかったのだそうです。
アーベントロートは
「ブラームス先生から教わったシュタインバッハ先生から、自分は教わったんだけど」
という感じで説明をしていたらしいです。また、アーベントロートから教わった方も
「シュタインバッハ先生が言ってたこと」
「シュタインバッハ先生から教わったことを、アーベントロート先生はこう言っていた」
という感じで説明していたそうです。

「マイニンゲンの伝統」とは、シュタインバッハに師事したことのあるヴァルター・ブルーメという人物が最初に呼んだものだそうですが、その後、ブラームス研究をする方のうち「シュタインバッハの楽譜への書き込み」に着目した人々(ウォルター・フリッシュなど)がこの「マイニンゲンの伝統」というキーワードを使うようになっています。
一方、アーベントロートが教えた指揮者、音楽家など、演奏する側の人々は
「シュタインバッハ先生が言ってたこと」
そういう言い方をされている。

この「シュタインバッハの書き込み」に関し研究者が本に書いたり論文で検証している内容というのは、演奏をしている現場でのやり取り、 指揮者や音楽家達の直接の伝承とはイロイロ異なる点などあるかもしれませんので、重く考え過ぎてはいけないのかもしれません。 (私、境山の個人的な感想ですが。)

また、「**の伝統」というキーワードが独り歩きすることも、余り好ましくないことなのかもしれません。

857名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 16:15:27.60ID:9v7JNoY+
(シュタインバッハとトスカニーニは、どういうつながりがあったかは分からないのですが)
シュタインバッハの指揮するブラームスを聴いた経験のあるトスカニーニは
ニューヨークのある社交の場で、その演奏を聴いた時のことを
「それは素晴らしかった。音楽が難なくそう進んでいったのだ」
と語った、という話が伝わっているのだそうです。
ヴァントは、正しいテンポとは何か、という問いに対して
「・・ブラームスの交響曲や、ムソルグスキー/ラヴェルの『展覧会の絵』のような 管弦楽作品で大事なのは、むしろ、演奏のテンポが全体として納得できるものであること、 つまり『正しい』と感じられることなのである。」
ということを語っており、その際にこの、シュタインバッハの指揮するブラームスを聴いた トスカニーニの話に触れています。

「ギュンター・ヴァント」
ヴォルフガンフ・ザイフェルト( Wolfgang Seifert )著、根岸一美訳
(音楽之友社)
P.291-P.297 参照

858名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 16:16:48.41ID:9v7JNoY+
Meiningen Tradition 「マイニンゲンの伝統」というキーワードは、 1914〜1915年にかけフリッツ・シュタインバッハ( Fritz Steinbach 1855〜1916)に師事したヴァルター・ブルーメ( Walter Blume )という人が呼んだもの。 ( Brahms in der Meininger Tradition )

ブルーメは、シュタインバッハがブラームスの4つの交響曲とブラームス・ハイドンの主題による変奏曲の楽譜に書き込んだものを転記して、1933年に出版している人なのですが、ブルーメによると 「マイニンゲンの伝統的演奏では、正確なリズムと常に変化する柔軟性のあるテンポとは、相互協力の関係にあった」
とのこと。

1886年、ビューローからマイニンゲン宮廷楽団( the Meiningen Court Orchestra )を引継いだのがシュタインバッハ。マイニンゲン宮廷楽団というのは、ビューローによって鍛えられ、その緻密なアンサンブルにより当時高く評価を受けていたオーケストラ。シュタインバッハ自身はブラームスの指揮を手本にして演奏、マイニンゲン宮廷楽団の演奏を信頼していたブラームス自身が、シュタインバッハのブラームス演奏を評価していた。
シュタインバッハの書き込みというのは、ブラームス自身は楽譜にはテンポを変えるような指示はしていない部分で、詳細にテンポに関し指示しているなど、楽譜通りではない箇所があるとのことです。ブラームスと直接の接点を持っていたシュタインバッハが、指揮者としての考えで書き込みをしているのか、それとも、作曲家自身に確認を取って書き込んだものなのか、この点は不明です。

859名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 16:17:29.60ID:9v7JNoY+
音楽家や音楽学者の間で現在でも 「 Meiningen Tradition 」 はまだ研究中であるらしいが、マイニンゲン宮廷楽団を鍛えたビューロー、そのマイニンゲン宮廷楽団を 継いでブラームス本人にもその演奏を評価されたシュタインバッハ、そしてケルンのギュルツェニヒ管弦楽団という接点でアーベントロートと直接つながりのあった シュタインバッハからアーベントロートへ、そしてアーベントロートからヴァントへ引き継がれていった、ブラームスの演奏解釈、それが Meiningen Tradition 「マイニンゲンの伝統」
と呼ばれるものだとのこと。
なお、アーベントロートが自分の教え子にブラームスの演奏解釈を教えた際には、 Meiningen Tradition 「マイニンゲンの伝統」というキーワードは言っていない。
「ブラームス先生から教わったシュタインバッハ先生から、自分は教わったんだけど」
と、教え子には演奏のテンポ等の説明をしていたらしい。

なお、アーベントロートのブラームス演奏というのは、この Meiningen Tradition (マイニンゲンの伝統)とイコールということでは「無い」。

アーベントロートの演奏は、 Passion を抑えきれていない時があって、そのため楽譜や演奏解釈を超えてテンポが変わることがある、ということなんですが、 しかしそれでも結果として「演奏のテンポが全体として納得できるものである」演奏になっているので、素晴らしい演奏であり、 Meiningen Tradition (マイニンゲンの伝統)の流れの中から生れた演奏として考えられる、とのこと。



861名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 18:41:44.46ID:9v7JNoY+
ブラームス交響曲第2番の聴き比べ
フリッツ・ブッシュ / デンマーク国立放送交響楽団




31EEA5VE93L1690年創立のマイニンゲン宮廷楽団の指揮者には1880年にハンス・フォン・ビューロー,85年にリヒャルト・シュトラウス、86年にフリッツ・シュタインバッハが就く。
そして85年10月にこのオケが初演した曲がある。それがブラームスの交響曲第4番であり、そこでオケに入ってトライアングルをたたいたのがリヒャルト・シュトラウスだった。
シュタインバッハはブラームスと親交が深く彼をマイニンゲンに招き、彼の作品によるザクセン=マイニンゲン地方音楽祭を立ち上げた名高いブラームス指揮者であった。

後年そのシュタインバッハがケルン音楽院で指揮法の教授になった時の生徒がハンス・クナッパーツブッシュとフリッツ・ブッシュである。
この二人のブラームス2番が聴けるというのは幸運なことだが、両者は違う。

862名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 18:41:54.50ID:9v7JNoY+
クナは自分のブラームスは先生のまねだと言ったらしいがバイロイトに行ってワーグナー指揮者として名を成した芸風の人であり一概には信じ難い。
両者はテンポからして異なり、ブッシュの終楽章は7分55秒と最速クラスだ。モーツァルトを得意とした彼のフィガロやドン・ジョバンニの芸風を持ってきた2番と言えそうだが、はて、こっちもこれが直伝かというと迷う。
かたや4番を聴くと両者には通じ合うものがあるのだが・・・。そこに関してはやはりブラームスと親しく、演奏会で自分の代わりに第2協奏曲を弾かないかと誘われ(断った)、この交響曲2番の作曲者指揮によるライプチヒ初演を聴き、どれかはわからないがブラームス臨席の演奏会で彼の交響曲を指揮し少なくとも解釈にクレームはつかなかったという逸話を持つマックス・フィードラーの終楽章を信頼すべきだろう。

これは驚いたことに四つ振りのやや遅めのテンポで始まり、全奏で速くなる。以後もテンポはよく動きとても流動的だ。ピアノ協奏曲2番をブラームスはとても情熱的に激しく弾きテンポはよく動いたという証言をどこかで読んだ記憶もあり、ほぼ同時期の44歳の作品である第2交響曲も同様の解釈が正解なのかもしれない。フィードラーの演奏を聴いていて僕はふとこれは蒸気機関車から見た光景か?と思ってしまった。彼はエジソンの蓄音機に録音を試みたように機械やニューテクノロジーに並々ならぬ関心を示しており、イタリアやペルチャッハへもSLで行った筈なのである。このブッシュ盤はSLどころか快速電車だが。このCD、モーツァルトの「リンツ」はやはり快速、メンデルスゾーンの「イタリア」冒頭主題は歌いまくる。ドイツ語圏音楽の解釈を考古学的に探ってみたい僕には非常に貴重な音源である。(総合点 : 4)

863名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 18:44:12.52ID:9v7JNoY+
「ブラームスの4番を聴く」27・・戦前派巨匠の時代9 フリッツ・ブッシュ
フリッツ・ブッシュ(1890 - 1951)

ヴァイオリンのアドルフ、チェロのヘルマンとともにブッシュ3兄弟の長男として主にドイツやイギリスで活躍した名指揮者。主な活動時期が第二次世界大戦と重なり残された録音も少ないため地味な存在ですが、ドレスデン国立歌劇場やイギリスのグライドボーンで音楽監督を務め、数々のオペラの歴史的な名公演をなしとげた名匠。
ブッシュはケルン音楽院でブラームスの盟友フリッツ・シュタインバッハに指揮を学びました。

ブッシュの残されたコンサートレパートリーの数少ない録音中、ブラームスは交響曲第2番と第4番、そして悲劇的序曲の録音があります。




・ウィーン交響楽団
(1950年10月15日  ウィーン 放送用録音)
ウィーン占領下のアメリカ放送局Rot-weiss-rot(赤白赤)放送局収録の聴衆なしの放送用録音。

ブラームスの交響曲第4番を初演したマイニンゲン宮廷楽団をハンス・フォン・ビューローから引き継いだフリッツ・シュタインバッハを、ブラームスは自分の作品の演奏者として最も高く評価していました。
この録音は、そのシュタインバッハ門下のスター的存在だったブッシュが指揮した、まさに「マイニンゲンの伝統」の影響を受けた演奏です。

「マイニンゲンの伝統」については境山さんのHPを参考にしました。
http://www18.ocn.ne.jp/~dirigent/abendroth_brahms.html

864名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 18:44:42.89ID:9v7JNoY+
この中で「マイニンゲンの伝統的演奏では、正確なリズムと常に変化する柔軟性のあるテンポとは、相互協力の関係にあった」とあります。

速いテンポの中で正確なリズムを確実に刻みながら聴かせる柔軟なフレージング。ブッシュの演奏はまさにこの「マイニンゲンの伝統」にぴったりの演奏でした。緊張感漂う引き締まったオケの響きも素晴らしい時代を超えた普遍的な名演です。

第一楽章冒頭の第一音は比較的短く開始。45小節のヴァイオリンも短めで、続く第2主題もホルンを喨々と響かせながら雄大に展開していきます。終盤のクライマックスの中で、414小節めに一瞬スーッと力を抜き柔軟な変化をさりげなく聴かせるなんという心憎さ。終結部最後の2小節はテンポを落とさず、最後の音は通常よりも長めに響かせていました。

第二楽章では20小節のクラリネットの微かなポルタメントに僅かに19世紀末の名残が感じられます。再現部65小節から弦楽器の動きを彩る木管楽器の美しさも印象に残ります。
端正でスピード感あふれる第三楽章では117小節1拍めにアクセント付加、中間部のふくよかなPoco meno prestoと前後との対比も見事。

第四楽章も自由な呼吸で音楽を流しながらも常に一定のリズム感が曲を支配し、いつまでも聴いていたいと思わせる演奏でした。トスカニーニのような人を寄せ付けない厳しさとは異なり、懐かしさと温かみも感じさせるのが素晴らしいと思います。

ただ、当時のウィーン響は大戦の痛手から未だ十分に立ち直っていないようで、第四楽章冒頭のトランペットや第三楽章の一部にオケの弱さを露呈させる部分があり、これは大変惜しい。

今回聴いたのはスイスのReliefから出ていたLPです。残響少なめの幾分硬い響きで一部音が割れる箇所もありましたが、各楽器は明瞭、50年の録音としては優秀です。

865名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 20:20:15.92ID:MRctSdYo
長々とありがとう
で、フルトヴェングラーは当然ライバルであるワインガルトナーやアーベントロートやフリッツ・ブッシュの演奏会をたくさん聴いて熟知していたわけだけど何が決定的に違っていて、どこがどうダメなんだ?



867名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 07:04:06.31ID:GD5cncAJ
同じ指揮者の42年の名歌手聴いたらよく分かる。
いくらでも置き換えが出来るような凡庸指揮者。

868名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 08:50:49.12ID:Asp20sPc
>フルトヴェングラーは当然ライバルであるワインガルトナーやアーベントロートやフリッツ・ブッシュの演奏会をたくさん聴いて熟知していたわけだけど
何が決定的に違っていて、どこがどうダメなんだ?

フルトヴェングラーはドイツの伝統を完全に無視してるんだよ
もともと楽章が終わるごとに拍手していたのをフルトヴェングラーが止めさせたんだ。
ドイツのオーケストラはノンヴィブラートのポルタメント 奏法で快速インテンポだったのに
フルトヴェングラーがヴィブラート ノンポルタメント奏法の緩急を極端に付けた大袈裟な遅いテンポに変えたんだ

ドイツの指揮者は左手をポケットに突っ込んで大振りなんか絶対にしなかったのに、
フルトヴェングラーが体を振り回す大袈裟な恰好付けの指揮を流行らせたんだ。

フルトヴェングラーは音楽には関心が無くて、観客からどう思われるかしか興味が無かったんだな。
カラヤンを嫌ったのもフルトヴェングラーが恰好付けの元祖・本家本元で、カラヤンに自分の真似をされたと思ったからさ
37. 中川隆[-14143] koaQ7Jey 2022年1月19日 09:55:21 : y3o483bN1Y : NHJjeVV5TzZuS00=[4] 報告
865名無しの笛の踊り2022/01/18(火) 20:20:15.92ID:MRctSdYo
長々とありがとう
で、フルトヴェングラーは当然ライバルであるワインガルトナーやアーベントロートやフリッツ・ブッシュの演奏会をたくさん聴いて熟知していたわけだけど何が決定的に違っていて、どこがどうダメなんだ?

867名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 07:04:06.31ID:GD5cncAJ
同じ指揮者の42年の名歌手聴いたらよく分かる。
いくらでも置き換えが出来るような凡庸指揮者。

868名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 08:50:49.12ID:Asp20sPc
>フルトヴェングラーは当然ライバルであるワインガルトナーやアーベントロートやフリッツ・ブッシュの演奏会をたくさん聴いて熟知していたわけだけど
何が決定的に違っていて、どこがどうダメなんだ?

フルトヴェングラーはドイツの伝統を完全に無視してるんだよ
もともと楽章が終わるごとに拍手していたのをフルトヴェングラーが止めさせたんだ。
ドイツのオーケストラはノンヴィブラートのポルタメント 奏法で快速インテンポだったのに
フルトヴェングラーがヴィブラート ノンポルタメント奏法の緩急を極端に付けた大袈裟な遅いテンポに変えたんだ

ドイツの指揮者は左手をポケットに突っ込んで大振りなんか絶対にしなかったのに、
フルトヴェングラーが体を振り回す大袈裟な恰好付けの指揮を流行らせたんだ。

フルトヴェングラーは音楽には関心が無くて、観客からどう思われるかしか興味が無かったんだな。
カラヤンを嫌ったのもフルトヴェングラーが恰好付けの元祖・本家本元で、カラヤンに自分の真似をされたと思ったからさ

869名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 09:24:22.27ID:Asp20sPc
フルトヴェングラーは絶対音感も無かったし、暗譜では指揮できなかった。
それでトスカニーニやカラヤンに完璧な絶対音感があって、暗譜で格好良く指揮しているのを見て腹立ってしかたなかったんだ。

フルトヴェングラーはカラヤンの指揮については、1940年に「彼らは芸術を裏切り、傷つけ、大衆を惑わせた。彼らが暗譜で指揮する技術といった表面的な資質を過大評価するのなら、彼らは芸術性ではなく勤勉性を讃えることとなる。」(中川P.76) と言っていたように、カラヤンの指揮は大衆受けを狙ったもので、芸術性には欠けていると述べている。後にフルトヴェングラーがヒットラーにワーグナーを暗譜で指揮することは可能かと聞かれたときに、それは不可能だと答えていることからもわかるように、フルトヴェングラーはカラヤンの指揮をまったく信用していなかったと思われる。
しかし、本当にカラヤンの指揮が芸術性もなく、紛い物の指揮であったと思っていたら、なぜあれまでにカラヤンを排斥しようとしたのだろうか。フルトヴェングラーはカラヤンの芸術性を理解していたからこそ、カラヤンの芸術面のみならず、その個性的な指揮のスタイルを脅威と感じていたのではないだろうか。
一方のカラヤンは当時の偉大な指揮者トスカニーニとフルトヴェングラーを研究する機会は決して見逃さなかった。フルトヴェングラーを聴ける機会があれば必ず出かけて行き、最後列の席で聴いていた。カラヤンは特にトスカニーニを敬愛し、多くの影響を受けた。カラヤン自身も「トスカニーニは、私に生涯二度とない圧倒的に印象を与えた人物でした。」(BachmanP.107) と述べている。トスカニーニが1931年にバイロイトで「タンホイザー」を指揮したときには、その演奏を聴くために、自転車に乗ってウルムからバイロイトに向かったという有名な話がある。
しかし、カラヤンがトスカニーニやフルトヴェングラーの音楽について批評めいたことを述べていたり、書いたりしているものを私はまだ知らない。

870名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 09:51:39.67ID:Asp20sPc
フルトヴェングラーの名演もベートーヴェンだけだしね

バッハではメンゲルベルクには到底敵わなかった
ハイドン・モーツァルト・シューベルトではワルターには到底敵わなかった
ワーグナーではトスカニーニややクナッパーツブッシュには到底敵わなかった
ブルックナーではクナッパーツブッシュには到底敵わなかった
ブラームスではワルターやクナッパーツブッシュには到底敵わなかった
チャイコフスキーではメンゲルベルクやムラヴィンスキーには到底敵わなかった

ベートーヴェンでもクナッパーツブッシュやワインガルトナーの方が良いのが多い

38. 中川隆[-14142] koaQ7Jey 2022年1月19日 10:09:42 : y3o483bN1Y : NHJjeVV5TzZuS00=[5] 報告
871名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 10:08:05.78ID:Asp20sPc
フルトヴェングラーが中高生に絶大な人気が有るのは、ティンパニを滅茶苦茶ぶっ叩くからだよ。
ベートーヴェンの第九も第七も第四もコリオラン序曲も人気の9割はティンパニぶっ叩きの凄まじさが理由だね。
39. 中川隆[-14141] koaQ7Jey 2022年1月19日 10:14:39 : y3o483bN1Y : NHJjeVV5TzZuS00=[6] 報告
872名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 10:13:52.70ID:Asp20sPc
フルトヴェングラーが難聴になったのもティンパニぶっ叩きが原因さ。
それ以外には人気を維持する方法は無いと悟っていたんだな。
40. 中川隆[-14095] koaQ7Jey 2022年1月23日 02:04:19 : gvzhHLCIJk : UHpUNU1VdlBsRjY=[26] 報告
874名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 11:18:42.90ID:dJLaw6nv
>>871
DGが発売したティタニアパラストでのブラ1が入ってねえじゃんよ

875名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 11:20:07.93ID:Vdq7+c8G
>>871
すると宇野なんかも人気絶大なんだろうな

876名無しの笛の踊り2022/01/19(水) 11:36:31.99ID:3Jb4STkP
ID:Asp20sPc 名言集

 1.フルトヴェングラーはドイツの伝統を完全に無視
 2.フルトヴェングラーは音楽には関心が無く、
 3.観客からどう思われるかしか興味が無かった
 4.カラヤンを嫌ったのは、それを真似されたから
 5.フルトヴェングラーは暗譜では指揮できなかった
 6.フルトヴェングラーの名演はベートーヴェンだけ
 7.中高生に人気があるのは、ティンパニをぶっ叩くから
 8.難聴になったのもティンパニが原因

ここまでくると、かえって面白い
もっとやれ


887名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 11:26:35.96ID:vQm0rNYS
>>870
久しぶりに覗いたら酷い言われようでオレ涙目
センターの代表に言いつけてやる!

888名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 11:46:35.95ID:z0UhEehC>>890
フルトヴェングラーの名演もベートーヴェン交響曲第7番と第九と序曲くらいかな

ベートーヴェンでもクナッパーツブッシュ、ムラヴィンスキーやワインガルトナーやワルターの方が良いのが多い
フルトヴェングラーはティンパニーの音響の凄まじさで名演だと錯覚されているだけ

ベートーヴェン 交響曲第1番、第2番 はワルター コロンビアの方が遥かに名演
ベートーヴェン エロイカ はクナッパーツブッシュやワインガルトナー、ムラヴィンスキーの方が名演
ベートーヴェン 交響曲第4番 はムラヴィンスキーの方が遥かに名演
ベートーヴェン 交響曲第5番 はクナッパーツブッシュ、ムラヴィンスキーやクレンペラー・ウィーンフィルの方が名演
ベートーヴェン 田園 はワルターの方が遥かに名演
ベートーヴェン 交響曲第8番 はワインガルトナーやクナッパーツブッシュの方が遥かに名演

協奏曲の伴奏ではベームやワルターには敵わない

889名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 12:10:47.95ID:ISDcxavY
何年のどのオケとの録音か書けよ

890名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 12:27:56.44ID:Yxi5DLmh
>>888
ベートーヴェンにおける「名演」と「ベスト」盤を混同している
フルトヴェングラーが全てにおいてベストではない、
というのは、ほぼ全員が同意する部分なのだろうが、
それを以て、7番と9番以外は名演ではない、
などと脊髄反射な結論を出すから、乱暴だし
わざとやってるなら悪質だし、気づかないなら
国語からやり直せだろうし

891名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 13:45:11.78ID:z0UhEehC
宇野功芳なんか昔はベートーヴェンのすべての曲でフルトヴェングラーが断然最高だと言っていた。
フルトヴェングラーのファンもみんなそう思っていた

今はSP復刻盤のレベルが飛躍的に上がって、ワインガルトナーやメンゲルベルクやトスカニーニがどれ位凄かったかわかってきたから
評価も変わったんだ
何故かフルトヴェングラーのCDは昔のLPより酷い音になってるから猶更だ。

892名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 13:51:16.08ID:z0UhEehC
現在の客観的評価では

ワインガルトナー、メンゲルベルク、アーベントロート、トスカニーニ、ワルター、ストコフスキー、フルトヴェングラー
は横並びで、得手不得手が有るだけで優劣は全く付けられない

クナッパーツブッシュ一人だけがワンランク上かな

893名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 13:58:03.28ID:z0UhEehC
カラヤンはベルリンフィルやウィーンフィルを使ってあの程度だから二ランク位は下だね

フルトヴェングラーもオーケストラが良いから名演になっているだけかな。

894名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 14:01:35.07ID:z0UhEehC
SP時代のワルターなんかウィーンフィルとは凄い名盤を沢山残しているけど、それ以外のオケでは平凡だろ。
オーケストラで名演になるかどうか 9割方決まってしまうんだよ。
フルトヴェングラーはオケで得してただけだよ。

895名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 14:18:36.90ID:z0UhEehC
>ベートーヴェンにおける「名演」と「ベスト」盤を混同している
フルトヴェングラーが全てにおいてベストではない、
というのは、ほぼ全員が同意する部分なのだろうが、


SP時代のウィーンフィルのレコードは指揮者によらずすべて名演だよ

896名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 14:58:15.66ID:Azx7mdwX
シャルクはワインガルトナーよりすごい

897名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:40:26.32ID:z0UhEehC
シャルクの『運命』そして『田園』は、音盤史上初めて電気的録音された一連のウィーン・フィルの演奏という点、そしてウィーンのオペラ界にその足跡を確実に残しながらも、同時期の指揮者と比較して録音が少なかったり、師ブルックナーの交響曲を兄でピアニストのヨーゼフと共に「改竄」したという悪評だけが残ってしまった感のあるフランツ・シャルクの音楽性の高さを聴くことができる音盤である。

シャルクの師 ブルックナー
ブルックナーの件について話し始めると、長くなりそうだが掻い摘まんで・・・。
シャルク兄弟がブルックナーの楽譜に勝手に手を入れ、ブルックナーの音楽様式を歪めた、というが、それは現代の視点から見た知見であって、その視点だけで2人を悪者扱いすることは、バランスが大きく傾いた考え方であり、賢明、適正な判断ではない。
ブラームスと彼を表看板として音楽美学、評論を披瀝した学者兼評論のハンスリックが席巻していた当時の音楽首都ウィーン。
そんな町で彼らとは全く異なった音楽美学を信条として、活動していたのがブルックナーである。
彼の音楽家としての活動、それは単に作曲するだけでダメで、作品をコンサートに上げる、つまり演奏されることが絶対的に必要である、ということをシャルク兄弟が重んじたが故に、気弱で臆病なブルックナーに代わって「演奏されやすく」するために楽譜を書き換えた、という言い方でなければ真実として伝わらない。
ブルックー自身にとっても「自分の交響曲がとにかく演奏されること」という欲望を払拭することなどできなかったのだ。
誤解を恐れず言うならば、「音楽は再生芸術」という観点から、演奏されなければその音楽の意味、価値はない。ましてや、作曲者自らが自作を指揮できるほど、彼らの作品(オーケストレーション)は単純なものではなくりつつあった時代が到来、いわゆる「職業指揮者」の存在なくしては、「良く演奏されない」時代となったのだ。
ハンス・フォン・ビューロー、ハンス・リヒター、そしてアルトゥール・ニキシュ。彼らの手により取り上げられた作品は輝きは放つようになった。それはブラームスであっても同じことだ。
敢えて言うなら例外は2人だけ。グスタフ・マーラーとリヒャルト・シュトラウスのみだ。
そんなことは以前こんな文章で皆様とシェアしている。

898名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:40:48.96ID:z0UhEehC
さて、そういう意味ではフランツ・シャルク(Franz Schalk, 1863年5月27日 - 1931年9月3日)は、先に挙げた3人の指揮者の系統に連なるウィーンの歴史的指揮者だ。

G.マーラー〜F.ワインガルトナー〜F.シャルク〜C.クラウス
1918年から29年まで、途中(19年〜24年)、R.シュトラウスとの双頭体制時代も含めウィーン国立歌劇場(途中まではウィーン宮廷歌劇場)総監督の地位にあったシャルク。
彼の先代はフェリックス・ワインガルトナーであり、さらにその前はマーラーがその任にあったのだ。
マーラーがこのオペラハウスで徹底的に行ったオペラ上演改革(改善)は、劇場関係者、オーケストラ、歌手たちにあまりに厳しかったこともあり、彼が総監督を辞任したのを受けその地位に就いたワインガルトナーは、マーラーの改革から逆行し、復古主義的体制、「事勿れ主義」に徹した。
ワインガルトナーの指揮を「エレガント」とか「古典的」などと言い、「ベートーヴェン交響曲全集を完成させた史上初の指揮者」などと持ち上げる人がいるが、個人的には無個性な音楽を作る人で、音楽的充実の観点からは、決して歴史に名を連ねる存在ではない、と思っている。
更にブルックナー・オタの立場で物申せば、ブルックナーの『交響曲第8番』を初演することを作曲者に約束したにもかかわらず、のらりくらりとした態度で、結果的にはそこから降りたワインガルトナーには、時代の変わり目、潮目で大きく変わろうとしている音楽の姿を認識する力がなかった、と断じていいように思うが、いかがだろうか?
まぁ、彼が断わったことで、ブルックナーの最大最高傑作はH.リヒターの手によりウィーン・フィルにより初演されたので、結果オーライと言えばそうなのだが・・・。

899名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:40:59.42ID:z0UhEehC
閑話休題。
その点ではシャルクはマーラーの時代へとまた舞い戻るかのように、歌手や若手のオーケストラ団員の育成に力を注ぎ、熱血指導したと言われているし、証言も多い。
その音楽性は同僚でもあった(反りが合わなかったという専らの話)シュトラウスの新古典主義的なものとは異なり、19世紀のロマン的解釈を色濃く残したものであるが、今聴いてもそれが古めかしいというイメージはあまりない。
むしろその面よりも品格の高さ、香りの豊かさに耳がくぎ付けになる。
その文脈で語るならば、シャルクが総監督を辞任して、代わりにそこに座った若き天才、この「note」でもおなじみのクレメンス・クラウスや、そのクラウスの影響をもろに受けたヘルベルト・フォン・カラヤンには、シャルクの遺産が確実にに受け継がれている。
https://note.com/bach_kantaten/n/na9d331bb2054

900名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:41:27.59ID:gLa2jVNj
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j1031561856
愉快愉快


901名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:57:44.98ID:z0UhEehC
フランツ・シャルク/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調Op67「運命」
   7:37/8:40/5:00/8:35
   (第1楽章リピート:ワインガルトナー版)
CD(EMI新星堂 SGR-8005)
 ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調Op67「運命」
   7:38/8:41/5:02/8:35
   (第1楽章リピート:ワインガルトナー版)

 フランツ・シャルク指揮
  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  録音 1929年10月26〜28日 

 

902名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:58:11.18ID:z0UhEehC
このレコードは冒頭で4つの音をたたく演奏というレッテルが貼られてしまい、そのことばかりが印象付けられてしまいました。しかしどのような指揮をしていたのかわかりませんが、この曲の冒頭はどの指揮者にとっても頭のいたいところだそうですから、オケが乱れることは充分ありえます。クナッパーツブッシュのライブでもそんなことがありました。また練習指揮者と本番の指揮者の違いでオケが戸惑うこともあります。実際に自分が高校の時に同じ経験をしていますので、冒頭で4つの音をたたくというのは珍しいことではないように思います。緊張が緊張を生んでいることは確かです。
 さてこの演奏はウィーン・フィルの初めてのレコード録音です。ムジークフェラインでの録音でした。田園と第8は1928年にやはりシャルクが録音しています。  交響曲第5番の第1楽章はだんだん良くなってきます。ウィーン・フィルの音になってきます。ウィンナホルンの響きも好調です。オーボエカデンツァも愛らしい響きです。コーダ最後の運命の動機は思い切り強調、そしてフェルマータをたっぷり伸ばしていました。
 第2楽章はやや速めのテンポです。ここのウィーン・フィルは完璧です。思わず音の古さを忘れて聞き入ってしまいます。第2変奏の木管の合いの手はまさにムジークフェラインの響きです。ワルターの田園を思い出します。木管四重奏もきれいでした。また第3変奏の木管ですが八分音符をすでにここでは短く演奏しています。スタッカートに近いです。きれいな2楽章でした。
 

903名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 15:58:24.06ID:z0UhEehC
第3楽章は普通の速さです。リタルダンドも軽めでした。提示部の演奏は完璧です。トリオのフーガの素晴らしさは言うまでもなくこのオーケストラの得意中の得意のようです。フィナーレまでの経過部の絶妙さはたまりません。素晴らしいです。
 フィナーレの音の厚みとオーケストラのアンサンブルの見事なことはとてもこの1929年の演奏とは信じられません。ヴァイオリンのうまさは最高です。展開部も申し分なしです。第3楽章の回想は大変美しいものになっていました。再現部も見事です。コーダになってもその勢いは止まらず見事なフィナーレとなっています。
 全曲を聴きますと、いかに当時のウィーン・フィルが優秀だったかがわかります。冒頭のずれは目をつぶってこの名演に耳を傾けたらどうでしょうか。
 ところでCDは新星堂の復刻を聴きました。LPは70年代にカッコウというレコード屋さんがプライヴェートで復刻したものを聴きました。広域はかなりカットしていますが低音はよく響いていました。LP復刻はキャニオンから発売されていましたがそれは購入していませんでした。

904名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 16:08:18.00ID:z0UhEehC
要するに、ワインガルトナーはブラームス派、シャルクはブルックナー派で対立していたのですね。
世間の評価は勿論ワインガルトナーの方が遥かに上でした:

ワインガルトナーが一人の指揮者によるベートーヴェン交響曲全集を最初に完成させたということは、当時における彼のベートーヴェン演奏が今からは想像し難いくらい高く評価されていた証であるだけでなく、往時のベートーヴェン像や美意識がその後のものとは異なるものだった可能性をも示唆しているような気もします。ストコフスキーはいうに及ばず、メンゲルベルクやフルトヴェングラーさえセッション録音だけではその生涯にベートーヴェンの9曲全部を遺せなかったことを思えば、当時ワインガルトナーの扱いは破格だったとしかいいようがありません。
 ワインガルトナーはベートーヴェンに対してもメンデルスゾーンと同じ姿勢で接していますが、結果としての演奏ではテンポの動きがより控えられ古典的な輪郭が前面に打ち出されている点に受け身の姿勢だからこそキャッチしているものもあるのだと感じさせるのがこの人ならではで、ベートーヴェン特有の粗野な迫力が均されているきらいはあるものの、それが当時の美意識だったとの確かな手応えも感じさせます。そして大戦中の1943年にスイスで亡くなったワインガルトナーの時代の美意識がしだいに消えゆくしかなかったことも。
 ステレオ初期のベートーヴェン全集には、ワインガルトナーの面影を感じさせるものがそれでもまだありました。弟子であったクリップス/ロンドン響をはじめクリュイタンス/ベルリンフィルやS=イッセルシュテット/ウィーンフィルなどどれも無理にスケールを広げすぎず、端正な造形と当たりの柔らかさを多かれ少なかれ感じさせるもので、それがワインガルトナー的美意識がいかに当時の音楽土壌に深く根を下ろしていたかの証だったとも思えます。けれどそれらはやがてよりスケールの大きさや堅固な骨格、ひいてはベートーヴェンならではの先鋭さを重視する演奏に置き換えられていったのです。70年代末に当時シドニー響の指揮者だったオッテルローの交通事故死で未完成に終わったベートーヴェン集がメモリアルとして後に出たとき、僕にはこういう美しいベートーヴェン演奏の時代が終わったことを示す墓碑銘にさえ見えたものでした。

 

905名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 16:08:35.78ID:z0UhEehC
現在一般のクラシックファンはいうに及ばず、ヒストリカル録音の愛好家たちの間でさえワインガルトナーへの関心は高いとはいえません。SP録音時代の発売点数ではトップクラスの存在であったにもかかわらず、ウィーンフィルとの組み合わせの音源を除けばほとんどはめったにCD化されず、新星堂がまとめて復刻した大全集も再評価の動きには繋がりませんでした。往年の大演奏家たちの多くが出所の怪しいライブ録音や放送録音まで探索の対象となっている中、ワインガルトナーだけは全くそんな音源が出てこないというのはもはやただごととは思えませんが、それはやはり誇張を体質的に忌避する彼の音楽性が、整った美演よりも八方破れの爆演をむしろ尊ぶ愛好家たちの嗜好とそれだけずれているからだとも感じるのです。
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1961613276

906名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 16:14:37.44ID:z0UhEehC

マーラーとR.シュトラウスは芸術家、ワインガルトナーは貴族、フルトヴェングラーとストコフスキーは興行師、シャルクとワルターは職人

という事ですね。

907名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 16:26:32.88ID:z0UhEehC

クラシック音楽は
第一次大戦前のワインガルトナーの様な貴族が高貴で品位有る音楽をやる時代は終わり、
第一次大戦後のフルトヴェングラーやストコフスキーみたいな下品な大見得を切る山師が活躍する時代に変わったのです

908名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 16:47:11.86ID:ksQambvv
フルトヴェングラーは、どっちかというと政治家

921名無しの笛の踊り2022/01/22(土) 17:41:27.20ID:z0UhEehC

要するにフルトヴェングラーは中身が無いから、大見得切ったり、恰好付けるしかなかったんだ。
手足を振り回して、大袈裟にテンポの緩急を変えて、要所でティンパニ−を滅茶苦茶ぶっ叩いとけば一応恰好つくもんね。

41. 中川隆[-14071] koaQ7Jey 2022年1月25日 11:02:30 : Gwr9PY9hOY : LjV5N2VBeEFtLms=[3] 報告
931名無しの笛の踊り2022/01/23(日) 17:38:48.94ID:suvK3FC9
で結論はなんだって?

932名無しの笛の踊り2022/01/23(日) 18:15:12.43ID:Cqa6N3zW>>938
フルヴェンは作曲家として三流で、演奏もウケねらい
ブルックナーを改竄しR.シュトラウスと喧嘩したシャルクこそ王道
ワーグナーを振らないワインガルトナーは貴族


938名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 01:18:29.26ID:xln3EPbN
>>932
ばーかw
ワインガルトナーはワーグナーをたくさん指揮している。
レコード録音もしている。
それを知らないお前は低能無知馬鹿w

939名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 07:58:36.37ID:tVNvLUxE
ワインガルトナーは、1863年に現在のクロアチア(南ヨーロッパ)にあたる地方都市で生まれた、19世紀後半〜20世紀前半を代表する名指揮者。あのフランツ・リストに師事しブラームスとも親交があったというから、もはや音楽史上の人物であるが、そのワインガルトナーが実際に指揮した録音が今日まで伝えられていることは人類にとっての幸いである。
ワインガルトナーが現れるまでの第九は、リヒャルト・ワーグナーやハンス・フォン・ビューローの手によって大きく変えられて演奏されていた。彼らは、ベートーヴェンの作品は楽器の工業製品としての発達、進化がまだ不十分な時代に書かれたということを念頭に「もしベートーヴェンの時代に今の楽器が存在したなら、ベートーヴェンはきっとこう書いただろう。」と考え、楽譜に積極的に手を加えていた。また、テンポや表現法も時代の好みにしたがって感傷的、情緒的に改変して、彼ら自身が欧州各地で指揮者として演奏活動を行なった。その結果、18世紀後半にはこのロマンチック(ロマン派的)な演奏が当時の第九のスタンダードになっていった。
そのような動きに「待った」をかけ、ベートーヴェンの楽譜を子細に研究して大げさな表現を排したのがワインガルトナーだった。しかし、ワインガルトナーも今日言われるような意味での「原典主義者」であったわけではない。彼もまた、楽譜に実に多くの「改変」を行なっている。「ワインガルトナーの改変」として有名なこれら一連の細工については、今日の演奏現場ではあまり顧みられることはなくなったが、この録音によっていくつも確認することができる。
テンポに関して言えばきわめて「中庸」である。ワーグナーが演奏した第九がどのようなものであったかを直接音として知ることはもはやできないが、その後の数々の名指揮者の演奏(たとえばフルトヴェングラーの「バイロイトの第九」)と比べても、ワインガルトナーの演奏は決して熱くなることなく、全体的に淡々と進めることを意図していることがよくわかる。

940名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:03:47.36ID:tVNvLUxE
後にザクセンの宮廷指揮者になったワーグナーは1846年、33才の時にそこで9番を指揮した。シラーの歌詞を重視して自身の楽劇なみに文学性を盛り込んだワーグナーの解釈は、しかし大変にロマン的なものだったと思われる。なぜそう思うことが許されるかというと、そのザクセンの9番演奏会を聴いて指揮者になろうと決心した16歳の少年こそハンス・フォン・ビューローであり、彼はワーグナーの熱烈な崇拝者となるからだ。彼が書き込みをした9番のスコアはワーグナーの解釈をもとにしたものであったという。そしてそのビューローの解釈に真っ向から反旗を翻して敵視されてしまったワインガルトナーの演奏を我々は幸いにもCDで聴くことができるからである。

それは市販されているので興味ある方はご一聴をお薦めする。今の耳にも古臭いものではなく、恣意的なテンポルバートや強弱を排したいわば現代的なものだ。それが「反旗」だったのだから、ビューローの、そしてワーグナーの9番がどんな傾向のものだったか想像がつくのだ。ビューローの名声は指揮者としてだけではない。シューマン夫人クララの父ヴィークにピアノを習い、ベートーベンの愛弟子チェルニー(あの教則本の)の弟子フランツ・リストにも習った。こちらも演奏不能とされたチャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を独奏者として初演もしている。音楽界の大御所である。そういう人の奥さん(リストの娘コジマ)を寝取っておいてなお崇拝させたワーグナーも凄いが、そういう大御所の9番解釈にアンチテーゼを思い切りぶつけたワインガルトナーの蛮勇も快哉である。

941名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:07:04.93ID:tVNvLUxE
ワーグナーの影響と慣例的な改変
今回は、従来の演奏で数多く行われてきた慣例的な楽譜の改変について紹介します。

ドイツ近代指揮者の系譜を辿っていくと、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督だったメンデルスゾーンと、地方の重要なオペラハウスを渡り歩いていたワーグナーという二人の全く異なった個性の音楽家に辿りつきます。
メンデルスゾーンの指揮は、拍子をきっちりと示して早めの一定したテンポを保ち、
ニュアンスの変化も必要最小限にとどめた、作品に忠実な客観的な指揮振りだったといわれています。
一方のワーグナーの指揮は、音楽の流れに応じてテンポの緩急を大胆につけ、過剰なまでに抑揚をつけたロマンティックなものだったそうです。作品を再創造する芸術家であることがワーグナーの理想とする指揮者像でした。この流れは後にマーラーやビューロー、ニキシュ、フルトヴェングラーといった指揮者たちに受け継がれました。

第9の作曲された時代は、管楽器が急速な発展を遂げつつある時期でした。
そのためワーグナーは、ベートーヴェンがもし改良された現代の楽器を使用することができるならば、必ずやこのように演奏させたであろうという前提に立って、オーケストレーションの変更を行いました。その影響は絶大なものがあり、それを受けて20世紀前半の名指揮者ワインガルトナーがテンポやデユナーミクも含めた具体的な提言を行い、著書「ベートーヴェンの交響曲の演奏への助言」の中で理論化しています。
以後ベートーヴェンのスコアを近代の大編成オーケストラ向けに手を加えて演奏するのが、つい最近までごく普通のごとく行われてきました。

942名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:07:15.08ID:tVNvLUxE
代表的なものとして、
  ・ 第4楽章冒頭のファンファーレ部分のトランペットをクラリネットと
    同じ旋律を吹かせる。
  ・ 第4楽章の二重フーガで、自然倍音の記譜のみのトランペットパートに
    旋律の欠落部分を加えたり、アルトトロンボーンに最初の2音(D音)を加える。
  ・ 第2楽章の第二主題に木管だけでなくホルンを重ねる。
  ・ 当時の楽器の制約のため、不自然な跳躍を強いられていた、木管楽器の
    セカンドパートの  低音部分を加える。(第1楽章の第2ファゴットの扱いなど)
などですが、
スコア片手に真剣に聞き直すと、トスカニーニのようにやたらとティンパニを加えたり、セルのようにホルンに数多くの旋律を吹かせたりなどと、現実には指揮者によって千差万別、定評のある名盤の多くが独自の改竄の手が入り、同じものは全くないという状況です。
次回から、さまざまな演奏を紹介していきますが、ベーレンライター版が出版されてからまだ日が浅く、ベーレンライター版を参照したとされる録音は十指に満たない状況です。
したがって、これから紹介する演奏の大部分は、ブライトコプフの旧全集版に基づいた演奏となります。

943名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:09:49.42ID:tVNvLUxE
第九を聴く」3 初期の録音…1920年代から30年代初め
管弦楽の録音が始まったのは1909年と言われ、第九は20年代はじめから既に
全曲録音が登場しています。

   ・ワイスマン&ブリュトナー管           1922年
   ・ ザイドラー=ウィンクラー&ベルリン国立歌劇場管 1923年
   ・ コーツ&アルバートホール管           1924年 英語版
   ・ ワインガルトナー&ロンドン響          1926年 英語版
   ・ フリード&ベルリン国立歌劇場管         1928年
   ・ コーツ&ロンドン響               1929年 英語版
   ・ ストコフスキー&フィラデルフィア管       1934年 英語版
   ・ ワインガルトナー&ウィーンフィル        1935年

944名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:10:50.94ID:tVNvLUxE
・ フェリックス・ワインガルトナー(1863〜1942)
  ウィーンフィル、ウィーン国立歌劇場合唱団
  S:ヘルツグルーバー、A:アンダイ、T:マイクル、Br:マイール

リストの弟子で、ブラームスにも高く評価されたワインガルトナーの演奏は、美しくも
ノーブルな第九。ベートーヴェンの権威と言われた確信に満ちた説得力のある名演です。
第2楽章のホルンの追加や第4楽章でのトランペットの補筆など、いたる所で自分の確立させた理論をそのまま実践に移しています。
意外だったのは、第4楽章の歓喜のテーマがチェロとベースで歌われる部分で第1ファゴットが対旋律を受け持ちますが、ここでワインガルトナーは第2ファゴットにベースと同じ動きを吹かせています。これはブライトコプフ旧版には欠落していますが、ベートーヴェンの自筆譜には指示されていて、最近の古楽器による演奏やベーレンライター版による演奏ではごく普通のこととして演奏されています。その後のブライトコップフ旧版を用いている指揮者で、この第2ファゴット部分を採用している指揮者はほとんどいませんでした。

テンポの変動は、第1楽章で多少時代を感じさせる部分もありますが、違和感は感じさせません。録音も当時としては極めて優秀、ウィーンフィルの美しい弦楽器の響きや、第2楽章の木管群の完璧とも言えるアンサンブルも忠実に再生します。
当時のウィーン国立歌劇場のベストメンバーを集めたソリストと合唱も見事なもので、
フィナーレの猛烈な加速もバッチリ決まっていました。
これは20世紀初期を代表する第九の歴史的な名盤だと思います。

945名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:13:31.35ID:tVNvLUxE
「第九を聴く」4 戦前派巨匠の時代 I ・・メンゲルベルクとトスカニーニ
1920年代から40年代前半までのベルリンを中心とするヨーロッパの音楽界は、フルトヴェングラー、エーリッヒ・クライバー、クレンペラー、クナッパーツブッシュ、たちがベルリンフィルや主要なオペラハウスの音楽監督として君臨し、さらにウィーンフィルにはワインガルトナーがいまだ健在、そしてライプチヒ・ゲヴァントハウス管のブルーノ・ワルターとアムステルダムコンセルトヘボウ管のメンゲルベルクが定期的にベルリンに来演し、スカラ座のトスカニーニもバイロイトやザルツブルクの音楽祭で指揮をするといった、まさに空前絶後の大指揮者の時代となりました。

これからの数回は、第2次世界大戦の勃発直前に最盛期を迎えた、これら大指揮者たちの個性的な第九をいくつか紹介していきます。


・ レオポルド・ストコフスキー(1882〜1977)
    フィラデルフィア管、合唱団
    S:ディヴィス、A:カーハート、T:ベッツ、Br:ローウェンタール

ストコフスキーは録音歴の非常に長かった人で、後にロンドン響とのステレオ再録音も残しています。フィラデルフィア管との録音は、明るく楽天的な演奏でした。オケのアンサンブルは実に優秀で、特にオーボエとフルートは傑出しています。
問題は英語版による歌唱で、オー・フロイデ!がオー・ブラーザァー!。これにはかなり違和感を感じます。合唱も独唱もとにかくお祭り気分的な雰囲気で、ストコフスキーの歌い回しもレガートを多用したり、突然テンポを緩めたりと古さを感じさせる大時代的な演奏でした。
ストコフスキーは楽譜にいろいろと手を加える事が多いのですが、当時一般的だった第2楽章の第2主題にホルンを加えてはいるものの、フィナーレ冒頭のトランペットは譜面通りのようです。
今回聴いたのは独ヒストリー社の復刻CDで、これはあまり良質な復刻とは言えず、第2楽章に編集ミスがあり、最初のリピートがおかしな場所で折り返しています。音質も妙なイコライジングと残響付加で不自然な響きでした。

946名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:14:23.67ID:tVNvLUxE
ウィレム・メンゲルベルク(1871 - 1951)
アムステルダム・コンセルトヘボウ管、 アムステルダム・トーンクンスト合唱団、
S:デル・スルイス、A:ルーヘル、T:トウルダー、Br:ラヴェッリ
 (1938年5月1日 アムステルダム・コンセルトヘボウでの実況録音)

オランダ生まれの名指揮者。24才でアムステルダム・コンセルトヘボウ管の常任になり、 ナチに協力したことでスイスに追放されるまでの50年間、このオーケストラを世界的な水準にまで成長させました。専制君主型の典型で、自分の意思を厳しい訓練で徹底してオケに植え込み、一定の様式化した解釈でオーケストラを自分の手足同様に操りました。
メンゲルベルクの残された録音を聴くと、同一曲の異なった日のライヴ録音を聴いても、テンポの微妙なユレなどが全く一致しているのに驚かされます。
第九も例外でなく、38年と40年の二つのライヴ録音は、全体の印象だけでなく一部分を取り出して聴き比べてみても、微妙な歌い回しやテンポの緩急がほとんど同じでした。
メンゲルベルクの第九は、テンポを自由に動かす濃厚なロマンティシズムに溢れた、超個性的な演奏です。
ポルタメントを多用した第3楽章などまるでチャイコフスキーのよう、管楽器を各所でダブらせていますが、第2楽章の第2主題にはホルンだけでなく、トランペットも加えるという徹底ぶり。第1ヴァイオリンにも各所で1オクターヴ上げさせています。

947名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:14:35.53ID:tVNvLUxE
特に第4楽章はメンゲルベルクの個性が最も顕著に出ていて、バリトンソロが入る2度目のファンファーレ前の木管部分にヴァイオリンを重ねたり、テノールソロが歌う行進曲風の部分におけるトランペットの合いの手を、極端に強調したりしています。またバリトンソロが冒頭部分でテーネーと歌う部分(221小節)は、楽譜ではF−FとなっているのをG−Fと歌わせていました。(これはワインガルトナーも同じ)
そして終結部プレスティッシモ部分、最後の4音の猛烈なリテヌートの急ブレーキは、とどめの一発といった感じで強烈な印象を残します。
ここで変幻自在に変化するメンゲルベルクの解釈にぴったりとついていくコンセルトヘボウ管のうまさは驚異的、まるで同一の周波数でコントロールされている機械のようです。
これはピッチが完璧に合った時の澄んだオケの響きとともに一聴の価値のある演奏だと思います。なお1944年6月、ナチ占領下でのパリのシャンゼリゼ劇場において、空襲警報の鳴り響く緊迫した状況の中でおこなわれた、パリ放送響とのベートーヴェンチクルス最終日の第九がメンゲルベルク生涯最後のステージとなりました。

948名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:15:33.97ID:tVNvLUxE
アルトゥーロ・トスカニーニ(1867 - 1957)
 NBC響、ロバート・ショウ合唱団、
 S:ファーレルA:メリマン、T:ピアース、Br:スコット
 (1952年3月31日、4月1日 カーネギーホール)

イタリアのパルマ生まれ、ヴェルディの「オテロ」の初演にチェロ奏者として参加。
指揮者としては「ボエーム」や「道化師」「トウーランドット」などの名作オペラやレスピーギの「ローマの祭り」などの初演も振っています。
トスカニーニの演奏は虚飾を排し、インテンポで楽譜に忠実なもの。メンゲルベルクが19世紀ロマンティシズムの典型ならば、トスカニーニは即物的な20世紀の演奏スタイルの元祖とも言えるもので、後の多くの指揮者に多大な影響を与えました。
第九はスカラ座管を振ったイタリア語版の演奏やテレビ用の映像も含めて、ライヴ録音が7種残されています。今回はトスカニーニのためにアメリカの国内外の名手を集めて組織されたNBC響との1952年ライヴを聴いてみました。

949名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:15:46.34ID:tVNvLUxE
この第九は、早いテンポ緊張感に溢れ、鍛えぬかれた鋼鉄のような力強さが迸るドラマティックな名演奏です。
楽譜に忠実と言われているトスカニーニですが、ここではテンポは楽譜にほぼ忠実なのに、オーケストレーションにトスカニーニ自身の手が数多く入っています。
ワインガルトナーが提案した改変は、ほぼそのまま採用。特に第1楽章再現部の301小節にティンパニには執拗なクレッシェンドとアクセントを加え、トランペットに1オクターヴ高く吹かせています。ここは同じ改変を行っているメンゲルベルク以上にドラマティックな効果をあげていました。その他に第1楽章の53、54、103、107小節にもテインパニを追加。
また第3楽章までは、テンポや歌い回しは楽譜にほぼ忠実なのですが、第4楽章になると、最初のベースのレチタティーヴォを含めて、急に緩急自在のテンポ運びとなります。
歌唱が入る楽章ということで、長年培われてきたオペラ指揮者としての習性がこのあたりで表面化してきたのでしょうか。バリトンソロの「Tö-ne」もメンゲルベルクと同じG-Fに変え、同じソロの231小節目の「freuden」が長く引き伸ばされている個所では、一度区切って、「freuden」という単語を2度歌わせています。
トスカニーニの改変のいくつかは、グスタフ・マーラーがニューヨークフィルの首席指揮者時代に実践していたことなので、後にニューヨークフィルの首席指揮者となったトスカニーニが、マーラーの譜面への書き込みを見てその影響を受けたのかもしれません(トスカニーニのシューマン「ライン」の録音はマーラー版です。)。
ロバート・ショウの率いる合唱団は力感溢れる見事なもの、独唱者と一体となって硬質なトスカニーニの解釈に見事に同化しています。

950名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:18:50.66ID:tVNvLUxE
ウイルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)
ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九

  ・ ベルリンフィル、ブルーノ・キッテル合唱団、
    S:ブリーム、A:ヘンゲン、T:アンデルス、Br:ワッケ
    (1942年3月22日または 3月24日か4月19日)

第2時大戦中の録音、ベルリンフィルの重心の低いドイツ的な重厚な響きと刃金のような強固なアンサンブルが魅力の演奏です。フルトヴェングラーの数ある第九の中でもっともテンポが速く、劇的でダイナミックな演奏。
曲全体に漂う悲愴なまでの緊張感はこの時代ならでは、ティンパニの壮絶な響きが
一層の緊張感を煽ります。演奏者も幾分緊張気味で、第3楽章ファンファーレの直前の4番ホルンと第4楽章の後半のソプラノソロに大きなミスがあります。
戦争により多くの団員が欠けていたベルリンフィルですが、フィナーレの終結部の猛烈なアッチェレランドも乱れることなく決まっていて、フリード盤で見事な歌唱を聴かせたブルーノ・キッテル合唱団も充実した出来です。
オーケストレーションの改変は、第2楽章第2主題のホルン追加と、第4楽章の冒頭と二重フーガのトランペットぐらいで、第1楽章の後半部分で一般的におこなわれていたヴァイオリンの1オクターヴ上げもありません、テンポと強弱設定はフルトヴェングラー独自のロマンティックなもので、いわばワーグナーの流れをくむデユオニソス的な演奏の典型。
演奏の完成度としては、私が聴いたフルトヴェングラーの第9の中で最も高い演奏ですが、あまりにも壮絶なために繰り返し何度も聴く気にはならない演奏でした。

951名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:19:27.11ID:tVNvLUxE
ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九

戦時中ベルリン放送局に保管されていたフルトヴェングラーの放送録音のオリジナルテープは、終戦直後に旧ソ連が本国に持ち帰ってしまったことにより、収録データに混乱を生じています。
この第9の収録日にも大きな謎があり、HUNTをはじめとした多くのディスコグラフィーや大部分のディスクの録音表示は3月22日または24日におこなわれたブルーノ・キッテル合唱団の創立四〇周年記念コンサートにおける演奏ということになっているのですが、実は4月19日のヒットラー生誕祝賀前夜祭での演奏だという説があります。また、前半は3月22日収録で第4楽章の後半のみ4月19日の演奏であるという説もあります。
実は4月19日の演奏は、第4楽章後半5分ほどの当時のニュース映像が残されていて、ここで4人の独唱者のみが歌う部分でソプラノソロが音を間違え、フルトヴェングラーや楽員たちが「あっ」と驚いている様子がしっかりと映っているのですが、この部分は私の手持ちのLPやCDとぴったり一致しました。したがって、出まわっている録音の多くは第4楽章の後半部分に関する限り4月19日収録と思われます。
どうやらソ連国内で3月22日、4月19日の演奏が同一番号でLP化された混乱が現在にいたるまで尾を引いているようです。
今回私が聴いたのは、国内盤として日本フォノグラムから発売されたLP、と正体不明のドイツ盤LP,そしてAUDIOPHILレーベルのCDです。
音質はCDが最も鮮明、おそらくソ連で製作されたLPをコピーしたと思われる2つのLPは、両盤ともピッチが不安定で音質も劣悪なものでした。

952名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:20:23.88ID:tVNvLUxE
ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九

・バイロイト祝祭管と合唱団、
  S:シュワルツコップA:ヘンゲン、T:ホップ、Br:エーデルマン
    (1951年7月29日)

戦後初のバイロイト音楽祭のオープニングを飾った記念碑的な録音。第九といえば必ず名前が挙がる名盤です。
テンポを自由に動かしたロマンティックで劇的な演奏で、神秘的な第1楽章の冒頭から、無の状態から作品が創造される瞬間に立ち会うような感動があります。
第1楽章は始めの重々しさは多少抵抗を感じるものの、通常大きな盛り上がりを見せる310小節以後はむしろあっさりと片付け、終結部に向かって次第に加速し、大きなきな盛り上がりを見せるテンポの設計のうまさが光ります。
第2楽章もデモーニッシュで独特の凄味のある演奏です。特に中間部の木管部分の優しい歌わせ方には聴いていてホロリとさせられるものがあり、第3楽章の静かで奥深い表現も比類のないものです。
曲全体のクライマックスの第4楽章は、遥か彼方からほとんど聞こえないほどのピアニシモで始まる歓喜の主題が次第に実体を現わし、大きなうねりをみせながら加速し巨大な姿が出現する部分に鳥肌が立つほどの感動を覚えました。
曲想が変化する前での長い沈黙も実に雄弁。名匠ウイルヘルム・ピッツに率いられたバイロイト祝祭合唱団も気迫十分で、(特にvor Gottの渾身の力を込めたの長いフェルマータ)シュワルツコップをはじめとした当時ドイツの最高の独唱者たちも実に素晴らしい歌唱を聴かせます。終結部の猛烈なアッチェレランドは演奏者の能力の限界を超えてしまうほどで、アンサンブルも崩壊状態ですが、これがスリリングな効果を築いています。
オーケストレーションの変更は基本的に1942年盤と同じですが、二重フーガの後半部分でテインパニに旋律線を叩かせ、壮麗な効果を上げていました。これはバイロイト盤のみに聴くことができる変更です。

953名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:21:15.62ID:tVNvLUxE
ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九

・ ベルリンフィル、フィルハーモニー合唱団、
    S:ベルガー、A:ピッツィンガー、T:ルートウィッヒ、Br:ワッケ
    (1937年5月1日 ロンドン クィーンズホール)

イギリス国王ジョージ6世戴冠祝賀コンサートのライヴ。長い間録音の存在すら知られていませんでしたが、1984年フルトヴェングラー没後30年の年に日本EMIがLPを発売、世界中のフルトヴェングラーファンを驚かせました。
当時のアセテートディスクに録音されていたもので、針音はありますが録音状態はさほど悪くありません。世界初発売となった国内LPはディスクの切れ目がうまく繋がっていなかったようですが、その後出たCDを聴く限りにおいては問題はありません。
演奏は50才代壮年期のフルトヴェングラーの演奏ということで、さぞ若々しい演奏だと思いきや、意外と老成した演奏です。
第1楽章などゆっくりと進めていくのですが、後年の重々しさはなく、むしろ静的で慎重な趣。第2楽章以降は一転して生命力溢れる表現、第4楽章はせっかちさも感じられるほどの早さで始まり、歓喜の主題も大きなユレはなく、淡々とした歌わせ方には後の録音にない良さがあります。特にヴィオラの絶妙なヴィヴラートが印象に残りました。名歌手ベルガー以下当時のドイツ一流メンバーを揃えたソリストも見事なもの。合唱の実体はよくわかりませんが、発音の軽さから想像するとイギリスで組織された合唱団かもしれません。幾分ドイツ的な重量感には欠けますが、熱狂的な歌唱を聴かせます。vor Gotのフェルマータは私が聴いたフルトヴェングラーの第九の中では最長でした。
オーケストレーションの改変は後の演奏と変らず、当時としてはかなり楽譜に忠実な演奏です。第4楽章合唱部分257小節以下のテノールパートの低い部分をフルトヴェングラーは通常1オクターヴ上げさせていますが、この37年と54年盤は楽譜のとおりに歌わせていました。
フルトヴェングラー独特の第九フィナーレの猛烈なアッチェレランドはここでも健在ですが、幾分唐突で取って付けたような印象です。

954名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:21:49.94ID:tVNvLUxE>>961
ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九

・フィルハーモニア管、ルツェルン音楽祭合唱団、
    S:シュワルツコップA:カヴァルティ、T:ホップ、Br:エーデルマン
    (1954年8月22日)

フルトヴェングラー生涯最後の第九。この演奏の3ヶ月後に他界しています。
今までのフルトヴェングラーの第九は即興性を見せながらも、テンポ設定に一定のパターンがありました。しかしこの演奏は今までにない間の取り方、テンポのユレを見せています。フルトヴェングラーが晩年に到達した崇高にして偉大な第九で、歓喜の爆発というよりも内省的な演奏に仕上がっています。
フィルハーモニア管の淡白な響きが純粋な透明感を助長しているようにも思えますが、
演奏の随所に緊張の弛緩する部分もあり、老いの翳が多少感じられます。
第4楽章オケ部分歓喜の主題の歌い始めはかなり重く、暗さすら感じられます。やがてフルトヴェングラー自身が唸り声を上げながら急速にテンポを早め、頂点では崇高なクライマックスを築きます。独唱は相変わらず文句のない出来ですが、エーデルマンのレチタテーィーヴ部分に、フルトヴェングラーが今までにない長めのテンポ設定をとるため、多少のとまどいがあるように感じられます。vor Goは短くあっさり片付けた肩の力の抜けたもの。合唱はかなり検討していますが、中間部610小節あたりで突然力を失いバラけそうになっています。これは合唱側というよりもフルトヴェングラーの指揮に何かが起こったのだと思います。
以上部分的には多少の問題は残りますが、透明で深い第3楽章には、いつまでもその美しさに浸っていたいような深い感動を覚えました。創立間もないフィルハーモニア管は既に世界最高水準に達していて、ホルンのデニス・ブレイン以下特に管楽器群は驚異的な名技を聴かせます。録音はターラから出ているCDが生々しい収録で、フルトヴェングラーの残された第九の中では一番良い録音だと思います。

955名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:26:23.61ID:tVNvLUxE
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908〜1989)
20世紀を代表する巨匠、ザルツブルク生まれ、ウルムの歌劇場の指揮者を皮切りに27才でアーヘンの歌劇場の音楽総監督(北原先生もここの総監督でした)。
1956年からフルトヴェングラーの後任としてベルリンフィルの終身指揮者に就任、その間ウィーン国立歌劇場、イギリスのフィルハーモニア管、パリ管の音楽監督をも兼任し、文字通り音楽界の帝王として君臨しました。
カラヤンの録音数は実に膨大で、第九は正規録音だけで、実に5種類のスタジオ録音と3種類の映像があります。

  ウィーンフィル、ウィーン楽友協会合唱団、
 S:シュワルツコップ、A:ヘンゲン、T:パツァーク、Br:ホッター
  (1947年11月 12月)
第2時世界大戦後、カラヤンがナチ関係者としての戦犯容疑のため、公開演奏を禁止されていた時期に名プロデユーサーのワルター・レッゲがカラヤンに提供した仕事で、ウィーンフィルとしては、ワインガルトナー以来の録音。
速いテンポの爽快でスピード感があり、アクセントを強調したダイナミックな演奏です。
主題が再現する部分でテンポをわずかながら落とすところなどは、未だドイツ的伝統的スタイルを見せている個所もあります。
当時の最高の歌手をそろえた独唱者も聞き物です。ホッターもクレンペラー盤ほどの不調はありませんが、冒頭部分で何ヶ所か楽譜を崩して歌っているのが、多少気になりました。合唱はテノールが突出気味でソプラノも音程不安定気味、これは問題があると思います。
譜面はブライトコップ版に極めて忠実で、これは録音年を考えると注目すべきことだと思います。ただバリトンソロのテーネーはG−Fに変えています。後のカラヤンの録音はこの部分に関しては全てF−Fなので、名歌手ホッターの主張にカラヤンが譲ったのでしょうか。

956名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:26:55.89ID:tVNvLUxE
フィルハーモニア管弦楽団、ウィーン楽友協会合唱団、
 S:シュワルツコップ、A:ヘンゲン、T:ヘフリガー、Br:ホッター
  (1955年 7月)
カラヤンが残した4回のベートーヴェン交響曲全集のうち、第一回目全集中の一枚。
しなやかで生き生きとしたリズム、ウィーンフィルの演奏をより洗練させた、若き日のカラヤンの良さが出た名演です。所々に後のカラヤンに見られるテヌートの多用が第4楽章あたりで見られるのが面白いと思います。特に変幻自在のテンポの変化を見せる第2楽章は見事な出来。推進力溢れる第4楽章は独唱者が素晴らしく、テノールのヘフリガーがマーチ部分で快適なテンポに乗って、素晴らしい歌唱を聴かせます。
合唱は49年盤ほどの破綻は見せていません。しかし後のカラヤンからは想像できないことですが、全体としてのアンサンブルに多少ラフな部分もあり、オケと独唱者、合唱のタイミングがずれて進行する箇所があり、勢いで押し切った感もあります。

957名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:27:34.38ID:tVNvLUxE
ベルリンフィル、ウィーン楽友協会合唱団、
 S:ヤノヴィッツ、A:レッスル=マイダン、T:クメント、Br:ベリー
  (1962年 10月)リハーサル付き

カラヤン&ベルリンフィルの第1回全集録音。この第九にはかなり長時間にわたるリハーサル録音が残されていて、国内盤と外盤の非買品として世に出たことがあります。国内盤は第1、第3楽章と第4楽章のそれぞれ一部、外盤は、第4楽章のみですが国内盤と収録個所が違います。今回はこのリハーサル盤を中心に聴いてみました。
この全集を録音する際にカラヤンはトスカニーニの録音を団員に聴かせたというエピソードが伝わっていますが真偽のほどはわかりません。ただ過去の伝統様式から離れて、インテンポで楽譜に忠実な演奏を目指しているの点で、トスカニーニと共通していると思います。事実第4楽章のテンポ運びなどは、トスカニーニとほとんど同じと言って良いほど似ていました。ただし出てくる音楽は、レガートを多用したカラヤン独自の世界です。リハーサルでも、常に美しく美しくといったことを協調しています。全曲を聴き通した時点では見事な演奏だと思ったものの、正直なところこの演奏の良さはよく判りませんでした。
しかし丁寧なリハーサルを聴いているうちに、この演奏の磨きぬかれた美しさに次第に惹かれてしまいました。時折弦楽器と管楽器を別々に分奏させるのですが、歓喜の主題をチェロのみで延々と弾かせるところなど、その洗練された美しさに思わず聞きほれてしまいました。このピアニシモの美しさは、カラヤン独自の麻薬にも似た魅力があります。独唱はソプラノのヤノヴィッツが圧倒的。合唱も悪くありません。カラヤンの残された第九の録音の中では、この曲のスタンダードといって良い名演です。

958名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:28:03.15ID:tVNvLUxE
ベルリンフィル、ウィーン楽友協会合唱団、
 S:トモワ=シントワ、A:バルツァ、T:シュライヤー、Bs:ファン・ダム
  (1976年11月 1977年 1月 2月)
カラヤン&ベルリンフィル第2回目の、このコンビ絶頂期の全集録音。
この録音が初めて発売された当時に非常に評判になり、各音楽雑誌が揃って特集を組んだのをよく覚えています。旧全集に比べてより緻密になったアンサンブルが聞き物、譜面には極めて忠実であるものの、録音や管楽器奏者の人数でバランスをとっているようです。事実楽器によっては不自然に協調されていて、おそらく実演ではありえないようなバランスで聞こえる個所がありました。独唱者は相変わらず最高のメンバーですが、オケの完成度がより上がった分、合唱のアンサンブルの脆さが浮き上がってしまいました。

  ベルリンフィル、ウィーン楽友協会合唱団、
  S:ペリー、A:バルツァ、T:コウル、Br:ファン・ダム、
    (1983年 9月 )
カラヤン5度目のベートーヴェン交響曲全集中の1枚。カラヤンにとって最後の第九となりました。オケを極限まで磨きぬいた現代演奏技術の極地ともいえる演奏。
ダイナミックレンジが広くスケールの大きな演奏で、現代的なスタイルの演奏としてはある種の到達点だと思います。第1楽章のクライマックスなど、凄まじい盛り上がりです。
ただ既に優れた第九の録音を残しているカラヤンにとって、この再録音はいかなる存在価値があるのでしょうか。私には疑問です。

959名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 08:32:22.04ID:tVNvLUxE
ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九も悪くはないけど、
結局一番まともな第九の名演はワーグナーの脚色を排したワインガルトナーでした。

高貴で品位に満ちたワインガルトナー
チンドン屋のフルトヴェングラー

世間ではチンドン屋の方が遥かに人気が有ります。
世の中には音楽がわかる人がいないのですね。

960名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 09:09:32.12ID:5KqOshyj
  
死ね

961名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 09:27:34.10ID:ys1ISh7p
>>954
>フィルハーモニア管、ルツェルン音楽祭合唱団
>フルトヴェングラーの残された第九の中では
>一番良い録音だと思います。

この人とは、まるで話があわないが、
唯一、ここだけは同意かな

962名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 10:29:21.99ID:tVNvLUxE
フルトヴェングラーの演奏はすべてワーグナーの物真似だった
バロック音楽から古典派やロマン派初期の音楽が後期ロマン派の時代に従来よりぐんと遅いテンポで演奏されるようになったということは、どうやらヨーロッパにおいては定説と化しつつあるようです。少なくともベートーヴェンにおいて、それを始めたのはおそらくワーグナーだったのではと僕は思うのです。
なぜなら彼は古き音楽に忠誠を捧げていたメンデルスゾーンの演奏をテンポが速すぎると罵る一方、自らの楽劇をベートーヴェンの「合唱」の発展型であると主張していたのですから、実生活でも他人を利用することを全くためらわなかった彼なら十分ありえたことだと思われます。
なにしろ人格面はともかく、こと音楽においてワーグナーは本物の天才であり、彼は他人が書いた音楽をとことん自分の色に染め上げたばかりか、それに新たな説得力を持たせるだけの力を持っていました。
もしワーグナーにそこまでの力量がなかったら百年後の20世紀後半に我々が耳にしていたベートーヴェン演奏はあれほど重厚壮大なものではなかったのではとさえ思います。
ともあれワーグナーの才能のありかたが既存のものを全て呑み込み自分の意図に合わせて変容させるものだったからこそ、彼は音楽で物語を語るあらゆる技法を体系化させることができ、それが今の我々が知る映画音楽の分野における洗練された語法の直接の母胎になったのだと思うのです。

963名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 10:30:29.72ID:tVNvLUxE
そしてワーグナーがその反ユダヤ主義的な考えゆえメンデルスゾーンを悪し様に罵った際、メンデルスゾーンのベートーヴェンについてテンポが速すぎると書き残していることは重要です。
それは録音の形で残されなかったワーグナー以前のベートーヴェン演奏がそれ以後よりもテンポが速かったことを示す状況証拠にはなりえるものですし、それがワーグナーにとっては不都合だったからこそメンデルスゾーンを貶めることで自分のベートーヴェンこそが正しいのだと強弁する必要を感じていたことを滲ませてもいる資料でもあるのですから。
だからこそワーグナーはそれまでラテン系の作曲家の後塵を拝していた歌劇の分野で成功するためにも、自らをドイツ音楽の分野における最初の歌劇の巨匠に祭り上げる必要があり、そのためには歌劇の分野においてはそれほど成功をおさめていなかったベートーヴェンを無理やりにでも接ぎ木しなければならなかった。
だからベートーヴェンの音楽をより忠実な形で受け継ごうとしていたメンデルスゾーンが正当性を獲得しきらないうちに彼がユダヤ人であったことを理由に引きずり落とし、ベートーヴェンの音楽を自分の音楽により近い形になるようにして演奏した。
それがワーグナーの時代に蔓延しつつあった空気に合致するものであったからこそより重厚さを増したそのベートーヴェン演奏は多くの支持者や模倣者を生み、古い音楽は新たな時代に合わせてスタイルを変えてこそその命が保たれるという考え方ともども後に巨匠時代と呼ばれる一大ムーブメントの礎になったのでしょう。

964名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 10:31:28.81ID:tVNvLUxE
そしてそのドイツ至上主義や反ユダヤ主義、音楽を宗教的なまでに荘重なものとして民族的な結束の要に置くことなどを受け継いだ第三帝国が絶対悪とみなされたとき、ワーグナーを源とする流れも欧米ではいったん全否定されねばならなくなった。
それが巨匠時代が終焉を迎え、入れ替わるように前衛音楽がそれまでの音楽のありかたを一斉に壊しにかかった現象が意味したはずの事態で、ベルリンフィルの演奏スタイルが一貫してワーグナー的な考え方から遠ざかる形で変遷してきたのも当然のことだったとも思えます。
なによりロマン派以外のレパートリーへの関心に端を発し21世紀への変わり目において一つの徹底ないし完成へとたどり着いた楽曲への学究的なアプローチもまた、そんな状況とは無縁たりえなかった現象ではないかとも。
そして日本の我々がナチスを生み出したドイツ人ほどそれまでの自分たちを強く否定してこなかったとの以前からなされてきた指摘を思えば、この国で巨匠時代の音楽のありかたが未だに根強く信奉されていることの少なくとも説明の一つとみなせることかもしれません。
なにしろヨーロッパはたとえそれが世界における政治経済上の力というか発言力を求めてのことであれ多様な民族や文化を持つ国々をEUという共同体に再編する歴史的実験に至った地域であり、ここが最も先端的な前衛音楽の牙城であったことやアメリカなどに比してさらに過激なオペラ演出のメッカでもあることも同じ根を持つことだと思えば、戦後ひたすらコスモポリタンな性格の団体へと変貌してきたベルリンフィルの軌跡も、同じ動きの一例だったと思えてしまうものですから。

965名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 10:32:25.63ID:tVNvLUxE
それだけに世界が再びナショナリズムにも似た空気へと急速に接近し始めた近年、たとえばメンデルスゾーンの、それも日本における演奏が率先するかのように巨匠様式と似たものへと変貌し始めているのはなにやら不気味でさえある光景です。
これが移民問題を前にやおら右傾化し始めたヨーロッパや、限りなく帝国主義へと回帰しつつあるような諸大国における演奏スタイルにまで波及してゆくのか否か、単に興味深いとの言葉では追いつかない心持ちで見守っているところです。
 なぜそんなに気にするのかとおっしゃる方もおられるかもしれませんが、2つある理由の1つは絵画や造形、著作などと異なり音楽は作者が創ったままの形を留めることが難しく、説得力ある演奏であればあるほどそれがいかに元の姿からかけ離れていても受け入れられてしまうのではという危惧を覚えてしまう点。
もう1つは巨匠時代のような音楽のありかたは不幸な時代でなければ出てこないのではないかと感じるからです。
かつて神経を病んでおられた時にフルトヴェングラーのベートーヴェン演奏に救われた体験から、ベートーヴェンの音楽やフルトヴェングラーの演奏には神を感じると力説するようになられた方を知っていますが、確かにそんなことができる境地は凄いと思います。
けれどそれは古い音楽は新たな時代に合わせて仕立て直してこそ価値があるというワーグナーの主張の果てに成り立つものであり、その感動の質が宗教的な法悦の近みにあることを思えば、そういうものに救われねばならぬ人が多数を占めるほど強い危機感に満ちた時代は幸せとは言い難いのではともやはり感じてしまうのです。

966名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 10:33:50.25ID:tVNvLUxE
ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーのベートーヴェンも悪くはないけど、
結局一番まともなベートーヴェンの名演はワーグナーの脚色を排したワインガルトナーでした。

高貴で品位に満ちたワインガルトナー
チンドン屋のフルトヴェングラー

世間ではチンドン屋の方が遥かに人気が有ります。
世の中には音楽がわかる人がいないのですね。

967名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 10:46:36.11ID:tVNvLUxE
まともな指揮者
ワインガルトナー、シャルク、ブルーノ・ワルター、シューリヒト、ムラヴィンスキー

チンドン屋
フルトヴェングラー、ストコフスキー、トスカニーニ、メンゲルベルク

本物の天才
ニキッシュ、マーラー、クナッパーツブッシュ

42. 2022年1月29日 08:56:09 : B9JL8APU2Y : cEFEaDNPdW5NRC4=[4] 報告
968名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 12:09:33.36ID:6ZFK3lfh
>>959
>ワーグナーの脚色を配したワインガルトナーでした。


ということはワインガルトナーはワーグナーの脚色に染まってるということになるんだな!

969名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 12:10:34.83ID:tVNvLUxE
正:ワーグナーの脚色を排したワインガルトナーでした。

970名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 12:13:34.61ID:tVNvLUxE
ワインガルトナー・シャルク・シューリヒトはメンデルスゾーン、シューマン、ブラームス派
フルトヴェングラー・クナッパーツブッシュはワーグナー・ブルックナー派

971名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 12:16:17.76ID:+5jzOJpO
あえて、チンドン屋指揮者の名をあげるなら、クナッパーツブッシュ

972名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 21:37:39.20ID:rEvJ1ob9
セールスマン
ヘルベルト·フォン·カラヤン


977名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 22:23:24.99ID:zawKXdV+
>ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーのベートーヴェンも悪くはないけど、

ワーグナーが死んでからフルトヴェングラーが生まれてるんで、ワーグナーの演奏を聴きようがないんだけどな。

978名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:00:08.22ID:3JhSl5T+
バイロイト関係の指揮者が全員ワーグナー派なんだよ

979名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:21:50.63ID:3JhSl5T+
1901年 フルトヴェングラーはマックス・フォン・シリングスから作曲を学び始める。
マックス・フォン・シリングス(Max von Schillings, 1868年4月19日デューレン(ドイツ語版、英語版)生 - 1933年7月24日ベルリン没)は、ドイツの作曲家・指揮者。
1919年から1925年までベルリン国立歌劇場の首席指揮者を務めた。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの師としても知られている。
シリングスは反ユダヤ主義者として知られており、1933年のナチス政権誕生を歓迎した。そして、第三帝国の帝国音楽院総裁に就任直後の6月24日に急死した。
ナチスとの関係のため、第二次世界大戦後に彼の作品の演奏はタブーと化した。

プフィッツナーがアドルフ・ヒトラーに解決させようと試みたのは、なかんずく「猛烈な図々しさ」だった。反対者はプフィッツナーのうちに国粋主義や反モダニズムを認め、ナチスの権力掌握へのプフィッツナーの加担を批判する。
早くも1933年4月にプフィッツナーは、トーマス・マンが講演会や論文『リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大さ(Leiden und Größe Richard Wagners)』の中で、ワーグナーのさまざまないかがわしいイメージには、国家主義者の大ブルジョワジーが刻印されていると論ずると、それに反対する「リヒャルト・ワーグナーの都ミュンヘンの抗議(„Protest der Richard-Wagner-Stadt München“)」の提唱者に名を連ねている。翌1934年には、ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクの死後に、大統領職と首相職の一元化をめぐる「国民投票」に対して、「文化人の声明」に署名した[1]。
1944年5月には、第二次世界大戦中にもかかわらず、ヒトラーより5万ライヒスマルク以上の贈与金を受けていた[1]。同年8月には、「天才名簿(„Gottbegnadeten-Liste“)」に掲載されただけでなく、ヒトラーによって作成された特別リストにも最も重要な他の音楽家3人とともに「天賦の才あり」として掲載され、戦時債務を完全に免除されている。

1909年 フルトヴェングラーはシュトラスブルク歌劇場の第三指揮者となり、ハンス・プフィッツナーと交わる。
プフィッツナーの理論的な著作においては、自身の芸術活動に裏付けられた根本となる動機が、ほとんど例外なく、非合理的、排外主義的で反ユダヤ主義的な論争に塗り込められる

980名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:26:34.90ID:3JhSl5T+
フルトヴェングラーはシリングス、プフィッツナーみたいな反ユダヤ、親ヒトラーのワグナー派に囲まれて育ったから、ワグナー派の演奏様式になったんだ。
ヒトラーもワグネリアンでフルトヴェングラーと趣味・趣向が全く同じなんだ。

981名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:39:27.83ID:3JhSl5T+
ニーチェ、ヒトラー、フルトヴェングラーが熱狂したワーグナー思想
ワーグナーが19世紀に作曲した壮大で国粋主義的な作品は、反ユダヤ主義やミソジニー(女性への嫌悪や蔑視)、民族純化思想に満ちている。
民族純化は後にナチス・ドイツ(Nazi)が大々的に掲げ、その指導者アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)はワーグナーの愛好家だった。
 出品される1869年4月25日付の手紙は、ワーグナーがフランス人の哲学者エドゥアール・シュレー(Edouard Schure)に宛てたもの。その中では、ユダヤ人がフランス社会に同化すれば「ユダヤ精神による近代社会への腐食的影響」を観察できなくなるとし、フランス人はユダヤ人について「ほとんど何も」知らないなどとも記している。
 ワーグナーは1850年、偽名で「音楽におけるユダヤ性」と題した論文を発表し、激烈な反ユダヤ批判を展開。1869年にはこの論文を実名で出している。

そのワーグナーの熱烈な信奉者がニーチェだったのである。ニーチェは、学生時代にワーグナーの楽曲に感銘をうけ、個人的な交流が始まった。その後、ワーグナーを讃える書を書いて、インテリからひんしゅくを買った。

そして ・・・

ヒトラーも熱心なワーグナー信奉者だった。ヒトラーは、17歳のとき、シュタイアー実科中学校を放校処分になり、ウィーンに旅行したが、そのとき、友人のアウグスト・クビツェクに絵葉書を送っている。そこにはこう書かれていた。

「僕は今、ワーグナーに夢中だ。明日は『トリスタン』を、明後日には『さまよえるオランダ人』を観るつもりだ」

ヒトラーは、その後、ドイツの総統にまで上りつめるが、ワーグナー熱が冷めることはなかった。定期的に劇場に出かけ、ワーグナーの荘厳な歌劇に酔いしれたのである。

ということで、ニーチェはワーグナーをハブに、ヒトラー(ナチス)のお仲間とみられたわけだ。とはいえ、音楽の趣味が同じだからといって、ナチスシンパ呼ばわりされてはたまらない。

ところが ・・・

彼の代表作「ニーベルングの指環」は、天界と人間界をまたぐ、壮大な戦争叙事詩だが、モチーフは北欧神話。つまり、神々と北欧ゲルマン人を讃える物語なのだ。
北欧ゲルマン?

982名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:40:03.05ID:3JhSl5T+
じつは、ワーグナーは、北欧ゲルマン人至上を信じる偏屈な反ユダヤ主義者だった。しかも、彼の2度目の妻コージマも反ユダヤ主義者で、夫婦そろって人種差別主義者だったのである。
ゲルマン人最高&ユダヤ人最低?
ナチスの教義そのままではないか。

17歳のヒトラーがワーグナーに魅せられたのは音楽であって、偏屈な人種差別ではない。この頃、ヒトラーのユダヤ人に対する差別意識は、ヨーロッパ人としては平均的なものだった。驚くべきことに、21歳の時、ヒトラーには、ヨーゼフ ノイマンというハンガリー系ユダヤ人の親友がいた。彼に自分の描いた絵を売ってもらっていたのである。
ニーチェもしかり。はじめに、ワーグナーの楽曲に感動し、個人的なつき合いが始まり、彼の知性に魅了されたのである。

ヒトラーが好きだったワーグナーのオペラに、この伝説から取った『ニーベルングの指環』という四部作があるが、彼はこれを当時のドイツ楽壇のスターたちに命じて何度も上演させ、全てが滅びる幕切れが来ると必ず叫んだ。

「そうだ、ブラボー、みんな死ね! そして復讐に甦れ! ナチは不死鳥、私も不死鳥だ! 民族の血の怨みに選ばれた者だけが不死鳥になれるのだ……」

ヒトラーが愛したワーグナー『ニーベルングの指環』
「ニーベルンゲン復讐騎士団」が生まれたのもこれがきっかけである。
彼はその日、とりわけ興奮して、このオペラの「ジークフリート」の幕を見ていたが、美しいクリームヒルトが血をすすって復讐を誓うシーンになったとたん、そばのSS(ナチス親衛隊)の幹部たちに狂おしく言った。

「わかるか、あれがきみらだ。きみらの使命と未来があの中にある。だから、あの名をきみらの中の選ばれた者たちに授けよう。そうだ……。『ニーベルンゲン復讐騎士団』だ!

983名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:40:14.99ID:3JhSl5T+
これからのナチスと新しい人類を築く聖なる土台の将校団だ。それにふさわしい者だけを選んですぐ報告せよ。最終人選は私がじきじきに決める」
こうして、その特殊グループが生まれたのだった。ほかにも「ニルベの騎士団」や「ラインの騎士団」……いろんな名前の将校グループがナチスにはあったが、そういう同期会と「ニーベルンゲン復讐騎士団」は、はっきり違う性質のものだった。

人数はたったの120人。家柄も財産も年功序列もいっさい無関係。たとえ20歳の少尉でも、予知力や霊感や指導力──ヒトラーが認める何か特別な能力──があれば選ばれた。

並外れた体力、天才的な戦闘力、そして何よりも人に抜きんでた高知能、米ソやユダヤや既成の世界への激しい怨念を持っていること、これらも選抜の基準になった。それを表すプラチナの小さなドクロのバッジ。それを胸につけた純黒の制服と黒い鹿皮のブーツ。ベルトには特製の45口径13連の凶銃ユーベル・ルガー。

腕にはもちろん、血の色の中に染め抜かれた黒のカギ十字マーク。

 


SS隊員は褐色シャツに黒ネクタイ、黒上衣、黒ズボン、
黒長靴……というように、全身を黒で染め上げていた

 

「ニーベルンゲン復讐騎士団」は、ダンディだが不気味な集団だった。

だがその1人1人をヒトラーは、「マイン・ゾーン(私の息子)」と呼んで異常にかわいがった。公式の政策会議には参加させない。しかし内輪の集まりには、よく招いて意見を聞いた。狙った国にクーデターやパニックを起こさせるといった重大な影の任務もよく命じた。

「きみらならわかる」と言って、側近のゲッベルスにさえ話さない秘密の見通しや未来の世界を、熱っぽく話すこともあった。2039年の人類についての「ヒトラーの究極予言」も、そうした奇怪な積み重ねの上で、この騎士団だけに話されたものだった。

いつ話されたかは、ヨアヒム・フェスト(ドイツのヒトラー研究の第一人者)によって記録されている。それは1939年1月25日の夜だった。話された場所は、ミュンヘンのナチス本部という説もあるが、ヒトラーは「オーバーザルツベルクの山荘」を霊感の場としていたので、雪に閉ざされた山荘で話された、という説を私(五島)は採りたい。

984名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:43:22.59ID:zawKXdV+
五島さんなのか。
お疲れっす。

985名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:51:42.38ID:3JhSl5T+
哲学者ニーチェの妹
哲学者ニーチェの人生は波瀾万丈である ・・・ 皮肉に満ちて。
正気の時代は無名で、気が触れると「狂気の哲学者」で有名になり、死して後、「ナチスの予言者」となった。
じつは、ニーチェの名声は彼が正気を失った後、偽造されたものなのである。しかも、偽造したのがニーチェの妹だというから、皮肉な話だ。

とはいえ、偽造されなければ、ニーチェは無名で終わっていた。
ニーチェは、発狂した時点で、哲学者としての寿命は尽きていた。しかも、原稿の多くは未発表だった。このままでは、ニーチェが世に出る術はない。
ところが、その術を提供した人物がいた。ニーチェの実の妹、エリザーベト・ニーチェである。彼女は、兄ニーチェの価値を見抜き、一山当てようともくろんだのである。

エリザーベトは、兄ニーチェの2歳年下で、目がクリっとした愛くるしい女性だった。だが、問題はそこではない。彼女は羊の皮をかぶった怪物だったのである。
エリザーベトは、商売の天才、まれにみる辣腕プロデューサーだった。しかも、その小さな身体の中には、「鉄の心臓」と「小型原子炉」が秘められていた。それが、揺るぎない信念と無尽蔵のエネルギーを発生し、とてつもない大業を成し遂げたのである。
彼女がプロデュースしたプロジェクトは3つ。
1.哲学の至宝「ニーチェ・ブランド」を確立したこと。
2.南米パラグアイにドイツ人植民地「新ゲルマニア」を建設したこと。
3.ニーチェをナチスのプロパガンダに利用し、ナチスを正当化し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたこと。

エリーザベト恐るべし ・・・

そもそも、エリーザベトには、尋常ではない信念があった。人の道にはずれ、利にさとく、日和見的ではあったが、その時々で迷いがみじんもないのだ。
発狂した無名の学者から、哲学史に残る「ニーチェ・ブランド」を創造し、ナチスのプロパガンダに利用し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたのだから。

986名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:51:53.02ID:3JhSl5T+
ニーチェ・ブランドとナチスの予言者はつながった。では、南米パラグアイのドイツ人植民地は?
じつは、この3つには共通項がある。

エリーザベトには3つの信念があった。人の道にはずれた「人種差別(反ユダヤ主義)」と「国粋主義」と「全体主義」である。この3つは、言わずと知れたナチスのテーゼ、だから、エリーザベトがナチスに加担したのも無理はない。

でも、それと、ドイツ人植民地とどんな関係が?

じつは、最初にこの植民地計画を立案したのは、エリーザベトの夫ベルンハルト・フェルスターだった。彼は、狂信的な反ユダヤ主義者で、ユダヤ人に汚染されたドイツを捨てて、南米パラグアイに新天地を求めたのである。それに、心から賛同し、率先して計画を推進したのが妻エリーザベトだった。

というわけで、ニーチェ・ブランド、ドイツ人植民地、ナチスの予言者は、すべて、エリーザベトの信念にもとづいている。

話をナチスとニーチェにもどそう。

エリーザベトが、ニーチェ・ブランドをナチスのプロパガンダに利用したのは、ナチスに心酔したからだが、理由はそれだけではない。彼女は利にさとく、商売上手だった。つまり、ソロバンをはじいたのである。

具体的には ・・・

ナチス政権に加担し、その見返りとして、国から資金を引き出し、ニーチェ・ブランドの諸経費にあてる。あっと驚く厚かましいソロバンだが、それが現実に成功したのだから、仰天ものである。

ということで、エリーザベトは、ナチスのイデオロギーをニーチェ哲学で理論武装しようとした。

987名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:55:08.57ID:3JhSl5T+
神が死んで、道徳が崩壊すれば、よりどころを失ったルサンチマンは滅ぶ。しかし、超人は生きのびる。何事にも束縛されない「自由」と、自己実現の「意志」で、新しい価値観を生み出せるから。

これが、ニーチェの「超人思想」である。

こんな粗野で、暴力的で、背神的な思想をぶち上げ、大胆にも「アルコールとユダヤ教・キリスト教を二大麻薬」と言い切ったのである。

一方、ヒトラーは、第9回ナチス全国党大会で、「ボリシェヴィキ(ロシア共産主義)とキリスト教は二大麻薬」と宣言した。

なんか似ている?

似ているどころではない。

ニーチェの教義は、「力への意志」、「超人」、「背神」 ・・・

「力への意志」は、女流映画監督レニ リーフェンシュタールが撮ったナチスのプロパガンダ映画「意志の勝利」を彷彿させる。さらに、「超人」も「背神」も、ナチスの理念そのもの。力強く、斬新で、カッコイイ、でも、暴力的で危険だ。根っこにあるのは「力への賛美」、「反宗教」 ・・・ ナチスまんまではないか!

エリーザベトはココを突いた。

ニーチェの原稿から、文脈を無視して、大衆を惹きつける威勢のいい語句をピックアップし、断片的に散りばめて、ナチスのイデオロギーを正当化したのである。

つまり、エリーザベトにとって、ニーチェの創作物は便利な宣伝の道具にすぎなかった。もちろん、ナチスにとっても。

とはいえ、エリーザベトに悪意はない。彼女の名誉のために一言付け加えなければならない。

エリーザベトは、自己実現のために兄とナチスを利用したが、それに負い目も引け目も感じていなかった。神経が太いのではない。考えがおよばなかったのだ。エリーザベトは、兄ニーチェの哲理を心から崇拝し、それが、ナチスのイデオロギーと一致していると信じ、それを融合させようと真剣にプロデュースしたのである。ニーチェと違い信心深かったエリーザベトは、それが神の摂理だと、信じて疑わなかった。

この世で、もっとも恐ろしいのはこの手の錯覚である。

私利私欲ではなく、立派な大義があり、神の助けがあると信じているから、一切の迷いがなく、無敵なのだ。歴史に残る大業は、この手の錯覚から生まれたものが多い。そもそも、ふつうの信念、ふつうの努力、ふつうのやり方で、大業がなせるわけがないではないか。

988名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:58:36.61ID:3JhSl5T+>>997
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、優生学と反ユダヤ主義はいっしょくたにされた。それを真に受けたのが、哲学者ニーチェの妹エリーザベトと夫のフェルスターである。この二人は極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたと考えて、南米パラグアイで植民地「新ゲルマニア」の建設をもくろんだのである。

■ヴァーグナーの世界
 そもそも、エリーザベトとフェルスターを結びつけたのは、他ならぬ「反ユダヤ主義」だった。しかも、その仲介者というのが、大哲学者ニーチェと大音楽ヴァーグナーというから驚きだ。しかし、断じて言うが、ニーチェは人種差別主義者ではない。

では、ヴァーグナーは?

夫婦そろって反ユダヤ主義者(フェルスターほどではないが)。

リヒャルト・ヴァーグナーは、19世紀ドイツの大音楽家で、ロマン派歌劇の王様である。「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指輪」などの作品で知られるが、輝かしい名声の裏側に、アーリア人至上主義、国粋主義者という闇の部分がある。とはいえ、自ら、台本を書き、作曲、歌劇の構成、指揮まで手がけるのだから、万能型の天才だったのだろう。

さらに、ヴァーグナーには尋常ならざるカリスマがあった。この頃、ヴァーグナーはスイスのルツェルン湖畔にあるトリプシェンを拠点にしていたが、そこに、ヴァーグナー信奉者がおしかけたのである。トリプシェンの邸宅は、さながら「ヴァーグナー・ワールド」のメッカだった。

そのヴァーグナーの取り巻きの一人が、若き日のフリードリヒ・ニーチェだった。彼は、自著「この人を見よ」のなかで、こう書いている。

「ほかの人間関係ならば全部安く売り払ってもいい。しかし、あのトリプシェンの日々だけはたとえどんなに積まれても、私の人生から引き離して手放すつもりはない。信頼と解決と崇高な偶然の日々、深遠な瞬間に満たされた日々だった」(※1)

989名無しの笛の踊り2022/01/25(火) 23:59:45.22ID:3JhSl5T+
という事で、ワグネリアンだったフルトヴェングラーはナチスの協力者になったんだ。


991名無しの笛の踊り2022/01/26(水) 01:49:12.24ID:cTXWNCJI
フルトヴェングラーの周りはどちらかというとユダヤ人が多くてそれをワーグナー家の反ユダヤ女
に咎められて無視していたらその女のつての評論家がカラヤンを持ち上げる記事を出して
フルトヴェングラーを怒らせたんだけど カラヤンの奇跡の演目はrトリスタンとイゾルデで
フルトヴェングラーの指揮したオペラで一番多い演目 
次がフィガロの結婚 これもザルツブルグでレッグのせいでカラやんともめた

992名無しの笛の踊り2022/01/26(水) 01:51:05.75ID:zZ6P9k79
>フルトヴェングラーの周りはどちらかというとユダヤ人が多くて

ヒトラーの周りもどちらかというとユダヤ人が多くて、ヒトラーがユダヤ人から好かれていたのは有名な話

993名無しの笛の踊り2022/01/26(水) 01:52:20.64ID:zZ6P9k79
欧米のインテリや資産家の大半はユダヤ人だから、ユダヤ人と仲が悪いと生きていけないだけさ。

994名無しの笛の踊り2022/01/26(水) 01:57:25.88ID:cTXWNCJI
ヒトラーがどうかはしらんけどフルトヴェングラーがそれが原因で嫌がらせを受けたのは
間違いないでしょ 


998名無しの笛の踊り2022/01/26(水) 10:19:45.97ID:GYeKQyqB
長文コピペを読むと、フルトヴェングラーって軽い神輿だったんだなって思うわ。
晩年はKさんに仕事依頼すれば、フルトヴェングラーが何故か仕事してくれるというコントロール法が確立されているし。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1636491451/

43. 中川隆[-14020] koaQ7Jey 2022年1月29日 09:00:38 : B9JL8APU2Y : cEFEaDNPdW5NRC4=[5] 報告
2名無しの笛の踊り2022/01/27(木) 12:12:13.96ID:hoFQmjoI
ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーのベートーヴェンも悪くはないけど、
結局一番まともなベートーヴェンの名演はワーグナーの脚色を排したワインガルトナーでした。

高貴で品位に満ちたワインガルトナー
チンドン屋のフルトヴェングラー

世間ではチンドン屋の方が遥かに人気が有ります。
世の中には音楽がわかる人がいないのですね。

まともな指揮者
ワインガルトナー、シャルク、ブルーノ・ワルター、シューリヒト、ムラヴィンスキー

チンドン屋
フルトヴェングラー、ストコフスキー、トスカニーニ、メンゲルベルク

本物の天才
ニキッシュ、マーラー、クナッパーツブッシュ

ワインガルトナー・シャルク・シューリヒトはメンデルスゾーン、シューマン、ブラームス派
フルトヴェングラー・クナッパーツブッシュはワーグナー・ブルックナー派

3名無しの笛の踊り2022/01/27(木) 12:18:48.89ID:hoFQmjoI>>5>>18
20世紀の指揮者ランキング
1.ニキッシュ
2.マーラー
3.クナッパーツブッシュ
4.ワインガルトナー
5.ムラヴィンスキー
6.フルトヴェングラー
7.ブルーノ・ワルター
8.メンゲルベルク
9.トスカニーニ
10.ストコフスキー
11.シャルク
12.シューリヒト
13.アーベントロート
14.カール・べーム
15.カラヤン

4名無しの笛の踊り2022/01/27(木) 12:36:40.10ID:VCnpfawC
異論も出るだろうけど人選はまあ妥当だと俺は思う
でも7と13だけファーストネーム付けたのか不可解


6名無しの笛の踊り2022/01/27(木) 13:24:24.86ID:NkVnGvJt
ベームの下にカラヤンはなるほど。


クレンペラーはその下?

7名無しの笛の踊り2022/01/27(木) 17:18:25.74ID:NCSDXFgC
C.クライバーもお忘れなく

8名無しの笛の踊り2022/01/27(木) 19:50:16.09ID:uAGG2qUF
クレメンス・クラウス フリッツ・ライナーも入ってない

9名無しの笛の踊り2022/01/27(木) 20:03:27.51ID:NCSDXFgC
ジョージ・セルも

10名無しの笛の踊り2022/01/27(木) 20:08:54.23ID:XonYFrKg
歴史的な重要性なら、
20世紀には、古楽器ムーヴメントは始まっている
それを反映させなきゃ、偏っているよ

オペラは極めて重要なジャンルな筈だ
この視点も反映させるべきでしょ
カール・ムックとか知らんの?

フランス系の指揮者が皆無なのもどうなのか
ストラヴィンスキーの初演をしたり、現代音楽を
手掛けたり、多士済々な指揮者がいる筈だが
なんなら、ブーランジェ入れてもいい
でも、知らんでしょ?

11名無しの笛の踊り2022/01/27(木) 20:24:15.74ID:hoFQmjoI
カール・ムックは1859年生まれの独逸の大指揮者で、バイロイトの主でもあった。クナパーツブッシュが登場する以前、1901年から30年連続で「パルジファル」を振ったのはムックである。

トスカニーニの台頭によりバイロイトから追放され、米國に活躍の場を得たと思へばスパイ容疑で逮捕され、波乱に富む人生を歩んだ指揮者のやうである。

米國ではボストン響で長年活躍したが、1917年にボストン響とやった録音が8曲残されてゐる。中でも、チャイコフスキーの第4交響曲は圧巻だ。機械吹き込みなので音が貧相であるのは仕方がない。僕はこういった録音は多少補正を行って聴くことにしてゐる。つまり、PCをいじって少々残響を施して聴くと、聴きなれた現代の響きに近づき、その本来の素晴らしさが明らかになってくるのだ。ニキッシュの運命などでも試してみればお分かりいただけるはずだ。

マーラーより1歳年上のムックだが、その演奏ぶりは非常に真面目で、ローエングリーン前奏曲ではオーソリティーとしての堂々たる演奏が聴ける。ボストン響のアンサンブルもこの時代としては考えられないほどハイレベルで、当時の紐育フィルより断然いい。

12名無しの笛の踊り2022/01/27(木) 20:28:00.21ID:hoFQmjoI
カール・ムックはハンス・フォン・ビューローとかハンス・リヒターの時代の指揮者だよね

カール・ムック>21
プフィッツナー(Hans Erich Pfitzner 1869年5月5日 – 1949年5月22日)は作曲家としてはマーラーやR.シュトラウスより上だし、大指揮者だね

プフィッツナーが指揮したベートーヴェン エロイカ交響曲の伝説の名盤
https://www.youtube.com/watch?v=PgMDzUQa6P8

プフィッツナーが指揮したベートーヴェン 田園交響曲の伝説の名盤
https://www.youtube.com/watch?v=ZUxuv3i-5IY

Hans Pfitzner conducts...
https://www.youtube.com/watch?v=HEoFLPBdFAY

18名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 01:38:47.68ID:kxhMV9hc
>>3
19世紀の指揮者ランキング
1.ビューロー
2.マーラー
3.メンデルスゾーン
4.ワーグナー
5.シューマン

19名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 01:48:17.53ID:69cy7NZg
ヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュの指揮するバッハやヘンデルは史上最高の名盤と言われていたね、
カール・リヒターなんかより遥かに名演だった:

Busch Chamber Players - Bach : Brandenburg Concerto No.6 B-Dur (1935)
https://www.youtube.com/watch?v=tKmAKYDvuJE

Busch Chamber Players "Concerto grosso op. 6 No 3" Händel
https://www.youtube.com/watch?v=KBqoLJVm5C4

20名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 02:19:01.40ID:whi+V3d0
リヒターのマタイはすごい
ブッシュなら フリッツ・ブッシュだろ 兄さんだっけ
しかしフルトヴェングラー以前の19世紀的な指揮者ばかり挙げるなあ

21名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 05:06:50.99ID:rIWCAaIC
>>17
プフィッツナーが指揮したエロイカ初めて聴いたが、とりあえずこの第1楽章、
テンポの動かし方がフルトヴェングラーに似ているね。特に提示部。
展開部以降は違う所も結構あるが、やはり類似点も多く、興味深い。

22名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:02:29.46ID:aioiL07Q
チェリダッケが、カラヤンのことを
「音は美しいが中身がない」
と言って、インタビューアーが
「でもカラヤンは世界中で知られていますよ」
と言ったら
「コカ・コーラだって世界中で知られているさ」
と言った話は有名です。
チェリビダッケは他にも
「トスカニーニは一流の演奏家だが音楽家として二流だ」
「オーマンディのような凡庸な指揮者がよくストコフスキーの後を継いでフィラデルフィア管の常任指揮者になれたものだ」
「人は水だけでもしばらくは生きていけるが、アバドの退屈な演奏を2時間聴いたら心筋梗塞を起こすだろう」
「ムーティは素晴らしい才能の持ち主だが、トスカニーニと同じで無学だ」
「ベームは音楽の解らないジャガイモ袋」
等、マスコミが喜びそうなことを言ってました

クナッパーツブッシュ
「(私がカラヤンみたいに暗譜で指揮をしないのはカラヤンと違って)楽譜が読めるからだ」

カラヤンがモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」を演奏していたときのこと。その上演になぜか立ち会っていたクレンペラーが突然大音声を発した。
「いいぞ カラヤン、いいぞ、決して皆が言うほど悪くない!」
カラヤンは、それ以後決してクレンペラーを許さなかった、という。

23名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:06:11.55ID:aioiL07Q
チェリビダッケ語録

「(マゼールは)カントについて語る二歳児」

「(クナッパーツブッシュは)スキャンダルそのもの」

「(ムーティは)才能はある、おそろしく無知だが」

「(アドルノは)世界史のなかでいちばんの大言壮語野郎」

「(ムターは)彼女は自分の弾き方に自信を持っている。だが彼女のやること全てには真に偉大な音楽性はない。彼女には視野がない」

「シェーンベルクはまったくどうしようもない愚鈍な作曲家である」

「イーゴリ・ストラヴィンスキーはディレッタントの天才に過ぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。そしてこの欠陥をいつも、
新しい様式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」

「私の見るところ、サヴァリッシュは高校の校長といったところ。彼は音楽家ではない。メゾフォルテの男だ」

「リズムが機械的なものと理解すれば、それがブーレーズだ」

「(ムターに対して)さてと、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏のところで学んだことをすべて忘れなさい」

(とあるマスタークラスにて、若き日のインバルに向って)
「ちゃんと勉強しないと、バーンスタインみたいな指揮者になってしまうぞ!」

24名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:06:21.09ID:aioiL07Q
「ハイフェッツは哀れな楽譜運搬業者だ」

「人間は何も食わずとも3週間くらいは生きられる。だがアバドのコンサートを3時間聴いたら心筋梗塞を起こす」

「ベートーヴェンの交響曲第5番は失敗作、特に終楽章は」

「(カルロス・クライバーは)あんな常軌を逸したテンポでは何も分からない。
彼は音楽がなんであるか、 経験したことがない」

私が独裁者だって?モーツァルトこそ独裁者だ!」

評論家など寄生虫だ」

「フランス人くらいドビュッシーやラヴェルを下手糞に演奏する連中はいない」

「(ショルティは)ピアニストとしては傑出している。指揮者としては凡庸な耳しかない。テクニックはお粗末」

「チャイコフスキーは、真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である」

「ベートーヴェンの《第九》の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。ぞっとするサラダだ」

「(カラヤン時代の)ベルリンフィルには、世界最高のコントラバス奏者がいます。だから、ベルリンフィルのコンサートは、今、すべてがオーケストラ伴奏付きのコントラバス協奏曲なのです」

「(ハスキルは)すばらしいコンサート・ピアニスト。機知に富み、魅力的で、徹頭徹尾、音楽的。 ユーモアと生きる歓びに充ちている」

25名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:13:04.12ID:aioiL07Q
指揮者チェリビダッケの音楽語録〜 2008年04月15日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c2454e666c6de0a509d1ca7dcd889015

先日(4月5日)、我が家での試聴にjmc音楽研究所長のO君が持ってきたCD盤の「シェラザード」がすっかり気に入って、いまのところ愛聴盤として活躍中。(4月8日付けのブログで紹介)

オーケストラの音の響かせ方やテンポ、調和のとれたハーモニー、独奏ヴァイオリンの歌わせ方などによく練りこまれた独特の味わいが感じられる。

こうなると自然にその指揮者に関心が向く。

セルジュ・チェリビダッケ(1912〜1996:ルーマニア)

「私が独裁者?モーツァルトこそ!〜チェリビダッケ音楽語録〜」(シュテファン・ピーンドルほか著、音楽の友社刊)に略歴や人となり、音楽の考え方などが詳しく記載されている。

哲学と数学を専攻する中、音楽に目覚め24歳のときにベルリンに移住して作曲、指揮、音楽学を修めた。1945年にはベルリン放送交響楽団の指揮者コンクールに入賞。

当時、ベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者だったフルトヴェングラーが非ナチ化裁判のため指揮を許されなかった1945年から1947年にかけてベルリン・フィルを任されたほどの逸材。

フルトヴェングラー死去後、誰もが世界の名門オーケストラのベルリン・フィル常任指揮者に就任するものと思ったが、楽団員達が択んだのはなんとヘルベルト・フォン・カラヤンだった。

以後、チェリビダッケは国際的な指揮活動に集中せざるを得なくなり、イタリア、デンマーク、スウェーデン、フランスなどで指揮棒を振るが、晩年はミュンヘン・フィルハーモニーの音楽総監督として12年間に亘り蜜月時代が続く。

彼がとくに関心を抱いていたのが、若い指揮者を育てることで、自由になる時間のほとんどすべてを後輩の育成に捧げた。

彼がカラヤンに代わって当時のベルリン・フィルの常任指揮者に納まっていたら、その後、世界のクラシック音楽の動向も変わっていただろうといわれるほどの超大物指揮者だ。

26名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:13:39.94ID:aioiL07Q
チェリビダッケは言う。

「わたしがベルリン・フィルをさらに指揮し続けたら、このオーケストラは別の道を歩んだことだろう。カラヤンはアメリカ流に艶っぽく磨きぬかれたオーケストラに変えてしまった。わたしならそれをドイツ的なひびきを持つオーケストラに育て、その結果フルトヴェングラーの伝統を受け継いだことだろう。」

彼には指揮者から演奏者までさまざまな「歯に衣をきせない」発言がなかなか面白い。ここでは指揮者に限定して抜粋してみよう。

☆フルトヴェングラー

師として仰いだので次のように賞賛の言葉が続く。

「私はフルトヴェングラーの後継者になることを望まなかった。彼の後継者になれるものなどいない」

『私は彼にこう訊ねたことがある。「先生、ここのテンポはどうすればよいのでしょう。」答えは「そうだね、それがどんなひびきを出すかによるね」。まさに啓示だった。テンポとはメトロノームで測れるような物理的なものではない。結局、テンポが豊かなひびきを出し、多様性を十分に得るのに私はかなりの期間を必要とした。』

※通常、作曲家は楽譜にいかなるテンポで演奏するかを指定していないという。つまり、これは完全に指揮者任せということで、テンポ次第で音楽から受ける印象がすっかり変わる。しかし、速いテンポでも遅いテンポでも違和感がなく自然に聴ける唯一の音楽がベートーヴェンの作品!

☆クラウディオ・アバド

「まったく才能のない男。災厄だね。私は3週間何も食べなくても生きていける。だが演奏会に3時間もいれば〜心臓発作を起こしかねない。その相手が彼なら怒り心頭」

☆カール・ベーム

「彼の演奏を聴けば聴くほど、彼が心の中で音楽と思い込んでいるものと、彼という人間のあいだの距離が目に見えてどんどん開いてゆくばかりだ。」

「ベーム・・・・・、これまでのキャリアのなかで、まだ一小節たりとも音楽というものを指揮したことのない男」

27名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:13:59.76ID:aioiL07Q
☆ヘルベルト・フォン・カラヤン

「彼は天才ではない。すべての若い音楽家にとってひどい毒となる実例である」

「彼は大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカ・コーラもしかり。」

☆ユージン・オーマンディ

「あんな凡庸な楽長がどうしてストコフスキーの後継者になることができたのか」


☆ヴォルフガング・サバリッシュ

「私の見るところ、彼は高校の校長といったところ。彼は音楽家ではない。メゾフォルテの男だ。イタリアでは長距離専門アスリートをメゾフォルテと呼ぶ」

☆ゲオルグ・ショルティ

「ピアニストとしては傑出している。指揮者としては凡庸な耳しかない。テクニックはお粗末。」

☆アルトゥーロ・トスカニーニ

「トスカニーニは楽譜どおりに演奏した唯一の指揮者だといわれてきた。といっても彼はそもそも音楽などまったくひびかせず、音符だけを鳴らした唯一の指揮者だった。彼は純粋な音符工場だった。」

以上、かっての名指揮者たちもチェリビダッケにかかってはかたなしというところ。

最後に、最近HMVから取り寄せた3枚のチェリブダッケが指揮するCD盤を試聴してみた。

28名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:14:26.37ID:aioiL07Q
☆ベートーヴェン交響曲第6番「田園」

以前、このブログで田園の11枚の試聴を行って、およその演奏レベルを把握しているつもりだが、これは、ベストだったマリナー、ワルター指揮と十分比肩しうる名盤。
嵐のあとの感謝の歌の神々しいまでの荘厳さといい、全体的に細かいところに手を抜かず、重厚かつ深々としたひびきに”チェリビダッケは凄い”と感心した。

☆ベートーヴェン交響曲「第九番」

何だかフルトヴェングラーの最新ステレオ録音を聴いている思いがした。第一楽章から第四楽章まで時を忘れて聴き耽った。

☆シューマン交響曲「第2番」

仲間のMさんによるとチェリビダッケはシューマンとかブルックナーといったあまり陽のあたらない作品に光を当てて、見直させるのが得意な指揮者だという。たしかにこのひびきは人を飽きさせず作品に没入させる何かを持っている。

以上3曲(ライブ録音)についてとにかく重厚なひびきに圧倒された。これがドイツ的なひびきというものだろうか。ミュンヘン・フィルでこのくらいだから、彼がベルリン・フィルを引き継いでいたらもの凄かっただろう。本人が言うようにフルトヴェングラーの伝統を引き継ぐ資格に太鼓判を押したい。

ただし、自分が思うところフルトヴェングラー、チェリビダッケともにひびきを重視していることに変わりはないが、前者はいったん演奏に入るとひびきを忘れて演奏に深く没入するが、後者は常にひびきを念頭において(そのひびきを)冷静に第三者の目で観察しているところに違いがある。

29名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:24:23.73ID:aioiL07Q
チェリビダッケがどんな言葉を放ったか?価値観をよく表しているものとして、例えば、

あなたが音楽で美しいものを体験しようとしても無理なのである。音楽では真実が問題なのだ。美は疑似餌にすぎない

テンポについては、

音楽に接して長すぎるとか、短すぎるといった感じを抱けば、その人は音楽のなかに入っていない。音楽はその意味で長い短いの問題ではない

フルトヴェングラーはどんなテンポでも、間違ったテンポでさえ、納得させることのできた唯一の指揮者である

他にも、テンポについては幾つも言葉が出て来ます。

同僚に対しては、褒め言葉もあるのですが、概して口が悪いのです!!

(ピエール・ブーレーズについて)リズムが機械的なものの作動と理解すれば、それがブーレーズだ

(カラヤンについて)わたしは彼のなしたことの全部は評価しない。彼にはエゴがありすぎる。そんなエゴが働くときには彼の自由な精神はひどく濁ったものになりやすい。

(カルロス・クライバーについて)彼はわたしにとって我慢のならない指揮者だ。彼の気違いじみたテンポでは音楽的な体験などできはしない。

もっとひどいものもあって、これが笑ってしまうのですが、ぜひ本書でお確かめを。。。

この最後にやり玉に挙げられているカルロス・クライバーが実はチェリビダッケのファンだったそうで、あまりに暴言が多いのをこらしめ半分、ふざけ半分になした投書が嬉しいことに全文載っております。

30名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:26:58.57ID:aioiL07Q
チェリビダッケ語録
7月25日(月)

„Hugendubel“(書店)で、チェリビダッケの『語録集』を買った。(Hg. von S. Piendl u. Th. Otto; „Stenographische Umarmung − Sergiu Celibidache beim Wort genommen“, ConBrio, 2002 )。
ちょっとした一言に、音楽に対する考えかたが現れていて、とても興味深い。

私は、この指揮者の日本公演にいくことができた。最初に聴いたのは、たしか、東京文化会館。このとき、ミュンヘン・フィルというオーケストラも知った。合計で、3回か4回の実演に接することができたが、いずれも、私の音楽観を根本から揺るがすものだった。

「藝術とはなにか?」と聴かれると、多くの人は、おそらく、「美をもとめる行為」と答えるだろう。古来、藝術と美は密接に結びついている。だが、チェリビダッケにとって、藝術は単に美しさに奉仕するものではない。もし、藝術が美だけを追究するなら、「美しければなんでもよい」ということにもなりかねない。極端なことをいえば、「嘘で固めた世界であっても、美しければかまわない」という人だって出てくる。美しいけれど倫理的には最悪、ということだってありうるのだ。

「Musik ist nicht schön, Musik ist wahr. (S. 20) 音楽は美しいのではない。音楽は真理なのだ」(以下、原文に適当訳をそえる。カッコ内 S. = Seite はページ数)

チェリビダッケの音楽は真理をめざす。単に美しいだけでは不充分。美に甘んじていてはいけない。感覚的に心地よいだけなら、藝術とはいえないのだ。

「Der Klang bringt die Schönheit zur Wahrheit(S. 79) 響きは美を真理へともたらす」

真理という言葉で、チェリビダッケがなにを考えていたのか、いまひとつはっきりしないが、真理は、ふつう、「なにかほんとうのこと」を意味する。真理と嘘は相容れない。さらに、嘘が「実際にはないこと」であるのに対し、真理のほうは、「現実にあること」だろう。つまり、チェリビダッケのめざしていた藝術というのは、「『これこそ現実』といえるなにか」ということになる。

31名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:27:48.24ID:aioiL07Q
「Ich bin sehr gegen diese Idee, daß Kunst Genuß sei. Kunst ist auch Genuß, sonst würden die Menschen das gar nicht machen. Aber das Wesen der Kunst ist nicht der Genuß. Es ist das Erleben(S. 21) 私は、藝術が享楽であるという考えに断固反対する。たしかに藝術は享楽でもある。そうでなければ、人間は藝術活動などしないだろう。しかし、藝術の本質は享楽ではない。藝術の本質は体験することである」

これ以外にはありえないなにかを「体験すること」。いいかえると、真理にふれること、人生や世界、あるいは宇宙の真相を垣間見ること、これこそが、藝術なのだ。私は、チェリビダッケの演奏に接したとき、ある種、宗教的な催しに参加したような錯覚を覚えたが、あの経験は、こうした考えと無縁ではあるまい。

そんなチェリビダッケが他の音楽家を観る目はきびしい。

たとえば、カラヤンについてはこう。

「Ich weiß, er begeistert die Massen. Coca Cola auch(S. 40) かれが大衆を興奮させることは知っている。コカ・コーラのように」

そういわれてみると、カラヤンの音楽はたしかにコカ・コーラに似ている。レガートを多用し、オーケストラの心地よい響きで、多くの人に歓迎された。まるで喉ごしのよいコーラのよう。クラシック音楽をひとつの産業としたのもかれ。世界企業となったコカ・コーラと、カラヤン・ブランドは似ている。カラヤンがクラシック音楽の大衆化にはたした功績はみとめられなければならない。だが、その音楽に、はたして真理を開示する力があったかどうか・・・。「響きの流麗さ、かっこよさ以上のなにかがあるのか? 」と、チェリビダッケはいっている。

マゼールについてはこう。

「Ein zweijähriges Kind, das von Kant redet.(S.42) カントについて語る二歳児」

難しいことを器用にこなすが、まだまだ子どもだといいたいのだろうか。わかるようでわからない。でも、マゼールの本質をいいあてているような気がする。

32名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:28:08.87ID:aioiL07Q
おなじ時期にミュンヘンで人気を二分したクライバーに対しても手厳しい。

「Er ist für mich ein unmöglicher Dirigent. Kein Mensch kann bei seinem wahnsinnigen Tempo etwas erfahren. Kleiber geht vorbei am heiligen Klang. Das finde ich tragisch. Er hat niemals erfahren, was Musik sei(S. 41) クライバーは私にとってはとんでもない指揮者だ。あんな常軌を逸したテンポでなにかを経験できる人なんていない。クライバーは聖なる響きのかたわらを通りすぎている。これは悲劇だ。かれは、音楽がなんであるか、経験したことがない」

毒舌だが、これもまたクライバーの性格にせまっている。というか、私には、クライバー評よりも、チェリビダッケにとって、「響き」がいかに重要なものだったかがわかって、興味深かった。音楽をどのように響かせるかということこそが、この指揮者にとっては、いちばん大事だったのだ。

33名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:32:24.66ID:aioiL07Q
「後年チェリビダッケはフルトヴェングラーから音楽の深遠な洞察のすべてを学んだと語っている。
あるとき指揮者がフルトヴェングラーにある曲のテンポ設定について質問したところ、フルトヴェングラーは「それは音がどう響くかによる」と答え、ホールなどの音響を無視してメトロノームの数字だけを元に決められたようなテンポ設定は無意味だということを悟ったという」。
はたして、フルトヴェングラーの回答が、彼の思った通りの回答だったかは、少々疑問が残るものだ。
フルトヴェングラーの音楽に対する根本的な関心は、即興の法則なるものの獲得に集中(だからいつも即興の源泉であろう作曲家の精神の話ばかりしているのである)していて、音について詳しい話は稀であるから、この回答はむしろ、チェリビダッケの頭の中で勝手に噴出した思想だったのかもしれないのである。
曖昧な回答をしたところ、チェリビダッケの合点の言った顔があらわれて、フルトヴェングラーは心ひそかに驚いていたのかも知れない。
天才は、天才らしく間違えるものである。テンポに対する疑問は、音がどう響くかという問題にすり替わり、彼の生涯の問題となった。
天才は問題を解決するのではない、むしろ問題を創造するのである。

34名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:36:55.64ID:aioiL07Q
セルジュ・チェリビダッケ(1912〜1996)
晩年の彼はもはや伝説の指揮者などではなかったことが白日の下に晒された。
自分のために大金を積んでくれる日本へ毎年のように演奏旅行へ出かけ、自らの恍惚とした表情をせっせと映像に残す様は、彼がカラヤンを軽蔑する際に使う「金の亡者」そのものの姿であった。当時の日本の聴衆は愚かだった。
それでもこの老巨匠が他の指揮者を罵れば歓喜し、その極端に遅いテンポからは忘れられたドイツ・ロマン派の香りがする本物だと広言した。
かなり毒のある書き方をしたが、チェリビダッケが雄弁に物事を語るときは常にこのような感じである。
そもそもフルトヴェングラーは自らの後継者にはルーマニア出身のセルジュ・チェリビダッケをと考え、非ナチ化の影響により多くの指揮者がその演奏機会を失ってる中、四百を超えるベルリン・フィルの公演を任されていた。
彼はカラヤンと違いフルトヴェングラーのために汗を流し、そしてまたその恩恵を受けていた。一方のカラヤンは録音や演奏旅行等を通じてウィ−ン、ロンドン、ミラノ、ルツェルン、バイロイト等で高い評価を得ていた。
この間ベルリン・フィルはフルトヴェングラーの妨害によりわずか10回の公演程度であったが、聴衆や批評家には高い評価を得ていた。この頃のベルリンにとってはむしろカラヤンの方が伝説の人物だったのである。
そしてカラヤンは、−彼は後に事ある度に巧みにそれを利用するのであるが、ベルリンの人間にとってスカラ座や楽友協会に取られるのは耐え難い存在であった。
両者の違いはそのプローベからも明らかである。

35名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:37:05.90ID:aioiL07Q
カラヤンは効率を求め、特に難しいと思われる箇所を各パートに別け練習するのに対し、チェリビダッケは指揮台で激高し楽団員を無能と罵り、解雇を匂わせ脅した。
(しかし何もこれはチェリビダッケだけに言えたことではなく、一昔前の指揮者は殆ど皆がそうであった。)
こうしてチェリビダッケは楽団員と聴衆の支持を失った。
彼はここで大きく見誤っていた。確かにチェリビダッケの後ろには絶対なるフルトヴェングラーが存在したが、彼がオーケストラと決定的に対立した数日後にフルトヴェングラーは深い眠りについたのである。
その後、ハイデルベルクにあるフルトヴェングラーの墓のそばに寄り添ったチェリビダッケは次のように述べた。
「フルトヴェングラーはよい時に死んだ、耳が聞こえなくなっていたのだから」

36名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:37:52.56ID:aioiL07Q
彼はそれでも連邦功労大十字勲章を授与したこともあり、呼び出しが掛かるのを待っていた。しかし呼び出しが掛かったのはカラヤンの方でありチェリビダッケを多いに失望させた。その後チェリビダッケは再三に渡りカラヤンとベルリン・フィルを口撃することになる。

チェリビダッケ「カラヤン?身の毛がよだつ。彼は才能ある商売人、でなければ耳が聞こえないんだ。」「ハンス・クナッパーツブッシュ?スキャンダルだ。非音楽か、それ以下だ。」「アルトゥーロ・トスカニーニ?あれはただの楽譜工場。」「カール・ベーム?あれはただのジャガイモ袋。生きている間に、ただの一小節も音楽を指揮なんかしていない。」「レナード・バーンスタイン?ズビン・メータ?私の世界ではそんな名は聞いたことない。」「リッカルド・ムーティ?才能はあるが、途方もなく無知なやつ。」「クラウディオ・アバド?全く才能のないやつだ。三週間くらい何も食べなくても私は生きのびられるが、彼のコンサートに三時間でも付き合わされた日にゃ、心筋梗塞だ。」

37名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:39:19.26ID:aioiL07Q
天国のトスカニーニ(クライバー)「ジャガイモ袋のカーリはぶつぶつ文句をいってました。
でもクナと私が、あの批難は間違っている。おまえさんが音楽的だったのは事実だ、といったのでやっと文句をいうのをやめました。
ヴィルヘルムが突然言い出すには、あなたの名前はこれまで聞いたこともないそうです。
またヨーゼフ、ヴィルフガング、ルートヴィッヒ、ヨハネス、それにアントンがいうには、第二ヴァイオリンは右側のほうがよいそうです。
また、あなたのテンポは全て間違っているそうです…。
私の住まいの隣には禅の老師が住んでいますが、彼がいうには、あなたは禅を全く間違って理解しているそうです。
ブルーノはあなたの私たちのこきおろし記事を読んで、死ぬほど笑い転げていました。
私は、私とカーリにたいするあなたの批判の出所はブルーノではないかと疑っています。
…こんなことをお伝えするのは、お言葉を返すようですが、実はここ天国に住むもの皆がヘルベルトに首ったけなのです。
指揮者だったものには、嫉妬心もおぼえる程の存在です。
でも彼があと15年か20年後にここに来て、私達が歓迎の挨拶ができるなど、殆ど誰も信じていません。
あなたがその場に居合わせられないのは残念です。
でも聞くところによりますと、あなたの行くところでは煮炊きもずっとうまくできると言いますし、オーケストラは永遠にリハーサルに付き合ってくれるといいます。
それどころかオーケストラは小さなミスを故意にしてくれて、あなたに永遠にやり直しをさせてくれるそうです。
ここ天国ではエンジェルが直接作曲者の眼から読み取って演奏してくれ、私達指揮者は、ただそれを聴いていればよいのです。
どうやって私がここへ来られたのか、それは神様だけが知っていることです…」


38名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 09:53:35.18ID:aioiL07Q
という事で、日本のクラシックファンが大指揮者だと信じていた二流指揮者のリスト

1.カール・ベーム
2.カラヤン
3.バーンスタイン
4.ヴァント
5.マタチッチ
6.朝比奈隆

特にヴァントと朝比奈隆とバーンスタインは酷かった
指揮者というより宇野功芳に騙されたんだね

41名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 20:56:22.90ID:s4QGfL8c
フルトヴェングラーの振った現代曲なんて
メニューヒンとのバルトークVn協を聞く限りダメだと思ってたら
RIAS録音集のフォルトナー、ブラッハー、ヒンデミットなど聴くと
しっかりザッハリッヒに決めている。
同じ日の演目が、ブラ3、ベト3といずれも名演ぞろいなので
フルヴェンらしくないなんて断じるのは間違ってる。

42名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 21:27:19.22ID:P8LAMRde
R.シュトラウスも当時の現代曲だよ
ブルックナーやブラームスやシベリウスも若い時は現代曲だよ

43名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 21:52:10.40ID:P8LAMRde
無調音楽や十二音階に馴染めなかっただけだろ、頭が古いから

44名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 22:04:06.31ID:P8LAMRde
ベルクやウェーベルンは今でも現代音楽だからね
フルトヴェングラーには現代音楽は理解できなかったんだ

45名無しの笛の踊り2022/01/28(金) 22:24:50.94ID:kxhMV9hc
21世紀の聴衆からしたら20世紀の一部楽派の曲がレパートリーにあったかどうかなんてどうでもいい

47名無しの笛の踊り2022/01/29(土) 06:18:40.90ID:ypZ0L9o3
チャップリンと撮ったフルトヴェングラーの写真(1929)
すごいね。

48名無しの笛の踊り2022/01/29(土) 06:28:35.08ID:ypZ0L9o3
55CDのリマスター箱に入ってる本に出ている写真。イギリスからオランダまで旅行したとあります。(フェースブックの同じ写真の記事より)

49名無しの笛の踊り2022/01/29(土) 07:28:18.44ID:GMBeMPiP
どう凄い

50名無しの笛の踊り2022/01/29(土) 08:05:31.88ID:GnowKPQA
チャップリンとルーズベルトは共産主義者で反ウォール街、反ファシズム、反ヒトラーでスターリンや毛沢東の支援者
フルトヴェングラーはゲルマン主義、反共、親ナチス、反ユダヤだからロマ(ジプシー)出身の共産主義者のチャップリンと合う訳ないんだよ

51名無しの笛の踊り2022/01/29(土) 08:18:42.58ID:GMBeMPiP
お前はマッカーシーか

52名無しの笛の踊り2022/01/29(土) 08:35:46.25ID:GnowKPQA
ドイツ人は全員 反ユダヤ、反共、親ナチス
ウォール街は反共、親ファシズム、でヒトラーを支援していたんだ
ロックフェラーやフォードはヒトラーに多額の援助をしていた。
ナチスの優生思想はロックフェラーの優生思想をそのまま実行しただけだ。
ナチス残党を南米に亡命させて支援したのもウォール街だよ

ウォール街はなんとかチャップリンとルーズベルトを潰そうと画策していたんだ
ルーズベルトのニューディール政策はスターリンの五か年計画を真似した共産主義計画経済だよ。

フルトヴェングラーはチャップリンと敵対する人間なんだ

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1643251651/

  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 近代史02掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 近代史02掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧