http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/482.html
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ドン・ジョヴァンニが改悛を迫る騎士長(石像)を拒み、「NO!NO!」と叫び続ける。
急に涙があふれ、目の前が見えなくなった。
いつの世も時代を切り拓くのは、若者達のエネルギーだ。
今私達は、「NO!NO!」と信念を貫くことができるだろうか。
ふと問うてみたくなった。
http://www.opera-sai.jp/message/index.html
WILHELM FURTWÄNGLER "DON GIOVANNI-OUVERTURE" 1953
http://www.youtube.com/watch?v=n0H2Klnl2Sc&feature=fvst
Sextet from Don Giovanni (Furtwängler)
http://www.youtube.com/watch?v=9YCHCV_7N3w
"Finch'han dal vino" - Don Giovanni - Furtwängler
http://www.youtube.com/watch?v=49wbYpG2PYM
Cesare Siepi in Don Giovanni
http://www.youtube.com/watch?v=GY-_3oCnqtY
Cesare Siepi as Don Giovanni
http://www.youtube.com/watch?v=W7JoIB-lT9Q
Don Giovanni - Furtwängler - O Statua Gentilissima Wernecker
http://www.youtube.com/watch?v=CzfRho5UeuM
WILHELM FURTWÄNGLER Don Giovanni - Commendatore scene
http://www.youtube.com/watch?v=jATcM8X29zc
Mozart: Don Giovanni ACT2 Finale by Furtwangler 1954
http://www.youtube.com/watch?v=FnZ-198_wqo
__________
1. 前代未聞・空前絶後の大指揮者フルトヴェングラーとは何であったのか?
芸術というものは、「切れ目」があるもの。音はつながっていても、その流れの中に明確な「切れ目」がある。だって、そもそも芸術作品というものは、創作する人間に神の言葉が降り降りたから、永遠に残る作品になったわけでしょ?
その瞬間は、人間の発想の「流れ」は、切れますよ。
逆に言うと、だら〜とつながっている「流れ」を持つ作品は、たとえ音に切れ目があっても、人間の思考の範疇にあるわけ。
以前にマルグリット・デュラスの「インディア・ソング」を考えた際に触れましたが、「最適化とまり」の作品と言えるわけ。そんな作品は、「夜明け」に到達できないnormalな量産品ですよ。
最適化の作業を超えた神の声。そんな瞬間には、時間の流れが止まってしまうもの。
だから、「切れ目」が発生することになる。音がつながっていても、「流れ」が切れるわけ。
もちろん、音楽作品において、そんな「切れ目」があれば、音が一端切れることもありますし、音楽の音色の変化となるケースもありますし、テンポが変わるパターンもある。音楽の表情の変化には色々なパターンがあるもの。
しかし、音楽を聞いていて「ああ!この箇所で、単に音が変化したのではなく、世界が変わったなぁ・・・」と思うこともあるでしょ?
表現された「世界の切れ目」は、現実的には、音楽の流れにおいても切れ目となる。だから、音楽の切れ目に注目すれば、表現された「世界の変化」あるいは、その作品に現れた創造者の声も、見えてくる。日頃から創造的な日々を送っていれば、そんな「切れ目」に対する反応が鋭くなるわけですし、ルーティーンな日々を送っていれば、明確な切れ目があっても、見過ごしてしまう。
今回取り上げるのは、音楽映画「フルトヴェングラー その生涯の秘密」と言うもの。
芸術的な映画と言うより、記録映画に近い映画です。この映画を元に、フルトヴェングラーという人を考えて見たいと思っているわけ。
フルトヴェングラーと言う人は、第2次大戦を挟んでベルリン・フィルの指揮者だった人でした。1954年にお亡くなりになっています。没後50年以上経っているのに、今でも崇拝者はいたりしますよね?
フルトヴェングラーは当代随一の大指揮者であったとともに、作曲も、しました。
第2次大戦という困難な時代に、よりにもよって、ベルリン・フィルの指揮者だったため、ナチとの関係が色々と指摘されることになる。その映画でも、そんなシーンが出てきます。ナチとの関係は、後で考えてみます。とりあえず、ここで考えてみるのは、切れ目の問題です。
実は、このDVDの解説が、結構面白い。日本の音楽関係者さんが解説をなさっておられるようですが・・・
「切れ目」への反応が・・・何と言うか・・・うーん・・・と言わざるを得ないもの。
実は、このDVDの終わりの方に、第2次大戦の終結前にフルトヴェングラーがワーグナーの「マイスタージンガー」の前奏曲を指揮するシーンがあります。フルトヴェングラーとオーケストラはコンサート会場(と言っても体育館かな?)で演奏している。そこにはナチのカギ十字の旗が掛かっている。軍需工場の慰問の意味もあるのかな?
そして映画では聴衆が映っているわけです。フルトヴェングラーとオーケストラの演奏シーンがあって、聴衆が真剣に聞いている映像が流れて、そしてまた演奏シーンがあって、そして、聴衆のシーン・・・と繰り返される。映っている聴衆は、実に、真剣な、表情。
DVDの解説では、「スゴイ演奏だ!だから、聴衆がこんなにも真剣に聞いている!」なんて書かれていますが、読んだ私はその言葉にビックリ。
映像を見れば疑問に思うはずですが、フルトヴェングラーとオーケストラによる演奏シーンと、真剣に聞く聴衆のシーンって、同時に収録したものなの?
聴衆のシーンは別撮りじゃないの?
そして、後で編集したのでは?
同時収録の聴衆もいるでしょうが、全部が全部同時収録なの?
映っている聴衆に当たっている光の具合って、実際のコンサート会場ではありえない場合がある。それに聴衆と演奏家が一緒に映っているシーンがほとんどない。聴衆の映像に、音楽が流れるだけ。それに、フルトヴェングラーのコンサートなのに、それに特に正装している服装ではないのに、まあ、映っている聴衆の周囲がスカスカで、一人しか映っていない場合もある。安い席なら、もっと聴衆を詰め込むでしょ?ただでさえ希望者が多いんだから・・・
真剣な表情で音楽に聞き入っている聴衆の姿って・・・まあ、演技のプロなら当然ですよ。そもそも当時のドイツは純然たる独裁国家。そのイベントを収録した映像に映っている人物が、まるっきりのカタギと言うわけには行かないでしょ?
それこそ今だったら、北朝鮮政府が映した映像で映っている「一般国民」が、どんな素性の「一般国民」なのか?ちょっと考えればわかるはず。それに当然のこととして、当時のカメラは巨大なもの。ゴダールの「勝手にしやがれ」のように手持ちカメラでの撮影と言うわけにはいかない。自分の目の前にそんな巨大なカメラがあったら、落ち着いて演奏を聞くどころではないでしょ?
そして、当然のこととして、相当の光を当てないと、当時の感度の低いフィルムには収められませんよ。映っている「聴衆」にも、相当の光が当たっていたはず。それに、当時の政治体制を考えれば、聴衆だって「ミスは許されない」状態。こりゃ、「真剣」にもなりますよ。命が掛かっているもん。
「一般の聴衆が、こんなに真剣な表情で!」
・・・なんて・・・素直ないい子だねぇ・・・
何も私はその「解説」を失笑しているわけではありませんヨ。シーンの切れ目に対する反応の鈍さについて考えているだけです。
演奏シーンがあって、聴衆のシーンへと続く・・・
その「切れ目」に何があり、どんな意図があったのか?
日頃から創造的なことをやっている人だったら、そんな切れ目を見逃すはずはないんですね。逆に言うとルーティーンな日々を送っている人は、そのような「切れ目」に反応することは難しいんでしょう。これはしょうがない。日本の音楽現場と言うものは創造現場とは距離があるんでしょうね。
創造的な瞬間、人間の思考が途切れる絶対的な瞬間・・・
そんな瞬間とは無縁なんでしょう。申し分のない立派な市民と言えるんでしょうが、芸術家とは言えませんね。まあ、その「解説」は切れ目への反応の鈍さの実例。逆に、切れ目への反応の鋭さの実例というと、実は、このDVDで典型的な箇所があります。
映画に登場しているドイツの音楽研究者さんがフルトヴェングラーが演奏したバッハのブランデンブルク協奏曲の第5番について考えている箇所。その演奏が持つ切れ目がすばらしい。
フルトヴェングラー指揮による、バッハのブランデンブルク協奏曲・・・そんな組み合わせの方に、21世紀に生きる我々は失笑してしまう・・・そんなものでは?
フルトヴェングラーが活動していた時代から、バッハの演奏スタイルは大きく変わってしまいましたからね。実際に、この演奏でもチェンバロではなくピアノが鳴り響く。現代的と言うか、古いというか・・・
しかし、これがまたビックリするくらいに面白い。単に、古楽器による演奏に馴れた我々の耳に、逆に新鮮に響く、と言うものではなく、音楽の「切れ目」が生きている。
音楽の切れ目から、神からの霊感そのものが、鮮やかに浮かび上がる。
「ああ!ここでバッハに、神から霊感があったんだなぁ・・・」って、誰だってわかるのでは?
私はその「切れ目」の部分で、魂が身体からスーと抜けて行く感じがしたくらい。演奏スタイルが古いとか正統的とかの議論よりも、創作者に降り降りた神の言葉を再現することの方が重要でしょ?
フルトヴェングラーの演奏を聞いていると、その切れ目から、まさに「神の言葉」が聞こえてくる。創造的な音楽は、音楽の流れの中に、たまたま切れ目があるのではなく、切れ目をつなぐために、メロディーがある、むしろそっちのスタイルに近いもの。
それこそフルトヴェングラー指揮の有名なバイロイトでのベートーヴェンの第9交響曲の演奏ですが、あの「歓喜に寄す」のメロディーが、「入ってくる」その切れ目のすばらしさ・・・
それは誰だって認めるでしょ?全体が問題ではなく、切れ目が問題と言えるのでは?
神は切れ目に宿るわけ。切れ目への鋭い反応。そしてそれを再現する技量。フルトヴェングラーが、確かに、当代随一の指揮者であったのも、よくわかりますよ。
さて、前にも書きましたが、このフルトヴェングラーは、ナチとの関係が色々と指摘されたりします。多くの芸術家がドイツを後にしたのに、ドイツ国内に留まった。もちろん、彼もナチに対して抗議の声を上げたのだけど、どうも「あいまい」な態度。あるいは、このDVDに登場する画家のココシュカの言い方をすると、「とまどう」態度。
駆け出しの演奏家ならいざ知らず、指揮者としては当代随一の人だったんだから、生活の問題はないはず。心情的にはナチにシンパシーを持っていたのでは?
そんな指摘が、ナチの蛮行が本格化する前から、フルトヴェングラーに寄せられていたわけ。それに対し、
「音楽は政治とは関係ない!」
「私はドイツ音楽に忠誠を誓っているのであって、ナチに忠誠を誓っているのではないんだ!」
「ドイツ音楽を守るためにも、ドイツに残る。」
彼はそのような発言をしたわけ。「芸術と政治は関係ない!」という主張は、別の言い方をすると、「政治と芸術の間には切れ目がある。」と言う主張とも言えるでしょう。
その主張はともかく、もっと明確な態度でもよかっただろうし、取ることもできたのでは?
政治と関係ないと積極的に思うのなら、政治的な場所から切れて、積極的に距離を置けばいいだけ。ただ、その動乱の時代の当事者でない部外者が、もっともらしくコメントしても意味がない。
ただ、ナチとの関係が「あいまい」であったとは言えるでしょう。だって、他の多くの音楽家は、もっと明確な態度で臨んだわけですし、そのような断固とした態度をフルトヴェングラーに勧めた人も大勢いた。つまりフルトヴェングラーには他の選択肢を知っていて、その選択の可能性もあったわけ。
いっそのこと、ナチに忠誠を誓っても、それは個人の政治信条の問題。ナチに反対して、さっさと亡命して、他の国から「ナチからの解放」を呼びかけるのも、立派な態度。フルトヴェングラーは、「あいまい」なんですね。
しかし、フルトヴェングラーの「あいまいさ」って、ナチとの関係だけではない。音楽家にとって、もっと重要な問題においても、実にあいまい。
音楽家であることはいいとして、演奏家なのか?作曲家なのか?
その問題と真摯に向き合ったりはしない。
「ボクは本当は作曲家なんだ!」
なんて言うのはいいとして、実際に作曲をするわけではない。作曲する時間があっても、何とかして逃げ出そうとする。第1次大戦において、それこそ若いフルトヴェングラーは率先して兵役に付こうとしたらしい・・・
せっかく、徴兵検査で不合格になったのに・・・志願するなんて・・・
愛するドイツのため・・・は、いいとして、そのドイツの芸術を発展させることの方が、創作活動をする者の重要な仕事でしょ?
「ベートーヴェンやブラームスを産んだ祖国を守る!」
なんてお題目はいいとして、だったら、なおのこと自分が作曲することでベートーヴェンやブラームス以上の作品を残した方が祖国ドイツにとっても価値があるのでは?
フルトヴェングラーは、作曲の時間ができると、何かに首を突っ込んで、その作曲できる時間をつぶしてしまう。そんなことの繰り返し。その点は、ナチとの「あいまい」な関係で非難された作曲家のR.シュトラウスとは全然違っている。
シュトラウスは、要は自分が作曲できて、自分の作品が上演されれば、それでいい・・・と、割り切っている。ナチに対しても、いつの時代にも存在する、単なる「よくある障害物」くらいの認識。気に入らないヤツらだけど、明確には敵にする必要はない・・・それよりも、アイツらを、うまく使ってやれ!
シュトラウスはナチとはあいまいであっても、音楽活動に対しては、実に明確なんですね。シュトラウスが取ったこのような態度は、分野は違っていますが、ロケット開発のフォン・ブラウンとも共通しています。
自分が本当にやりたいことがわかっているものの発想。これこそが天才というものですよ。それに対しフルトヴェングラーは、「あいまい」な態度ということでは首尾一貫している。ナチともあいまい。作曲活動もあいまい。
あるいは、フルトヴェングラーのライヴァル関係であったトスカニーニとの関係もあいまい。トスカニーニを嫌いなら嫌いでいいわけですが、「敵にしたくない!」「嫌われたくない!」あるいは、「嫌ってはいけない!」なんて心情が見えてくる。
いつだって誰に対してだって判断保留の状態。
トスカニーニにして見れば、フルトヴェングラーは、指揮者としては偉大。政治的には無能。友人とはいえない。と明確。トスカニーニだって他の指揮者についての評価や関係についてウジウジ考えているヒマなんてありませんよ。どうせ共演するわけでもないし・・・割り切って前に進むしかないでしょ?
フルトヴェングラーの行動なり発言を読んでいると、「で、アンタ・・・いったいどうしたいの?」なんて思ってしまう。
フルトヴェングラーに対するトスカニーニなり、F.ブッシュの怒りも、そのあたりなのでは?
もちろん、「芸術と政治は関係ない!」という正論は正論。現実は、そんなものじゃないけど・・・
しかし、「芸術は政治とは関係ない」と言う理屈はいいとして、そうなると、芸術作品に対する理解ってどうなるの?
そう思いませんか?
だって、ナチの活動なんて、共感できないのはいいとして、考える価値のあるものですよ。たとえば、ナチの活動を見ながら、「愛を断念することによって、世界の支配をもくろむ」アルベリヒを連想しなかったのかな?
復讐だけがそのアイデンティティとなったハーゲンを連想しないのかな?
好人物であるがゆえに利用されたグンターと、ヒンデンブルク大統領の相似性を考えなかったのかな?
というか、悪企みの「弾除け」にされた好人物グンターの役回りを、フルトヴェングラーはどう思ったのだろう?
ヒンデンブルク大統領とは別に、この役回りを見事に演じた人が、まさに、いたわけでしょ?
フルトヴェングラーはグンターのことを「自分の背景で悪企みが進行しているのに気がつかないなんて・・・バッカだなぁ・・・コイツ!」なんて思ったのかな?
ナチは自分たちのことをジークフリートに例えていたのでしょうが、むしろアルベリヒやハーゲンにそっくりですよ。そして、最後のカタストロフも、オペラのまま。
ヒトラーと初めて会って話をしたフルトヴェングラーは、ヒトラーのことを「取るに足らない人物」と評したそう。そんな単純な見解って、人に対する洞察力が、いちじるしく劣ると言うことでしょ?
だって、その直前に、フルトヴェングラーは、ジークフリート・ワーグナーの未亡人でありバイロイトでの覇権を目指すヴィニフレート・ワーグナーと衝突しました。
ヴィニフレートは音楽について、明確な知識もない人間なのに、指揮者に色々と指図して、フルトヴェングラーは「もう、やっとれんわいっ!」とブチ切れたわけ。
バイロイトの主人として、バイロイトを盛り立てる・・・その意欲は意欲としていいのですが、音楽面でフルトヴェングラーに指図してもしょうがないでしょ?
しかし、コンプレックスの強い人間ほど、そんな無用な指図をやりたがるもの。それだけ自分を実態以上に「大きく」みせようとするわけ。そして自分自身から逃避したいわけ。そんなヴィニフレードとの衝突の後で、ヒトラーと会談して、ヒトラーとヴィニフレートとのメンタル的な共通性を感じなかったのかな?
芸術の分野も、政治の分野も、その主体は人間でしょ?
その間には明確な「切れ目」なんて無いんですね。芸術作品に登場する人物の心理を理解できても、実際の人間のキャラクターはまったく理解できないって、やっぱりヘン。
実際の人間も、オペラなどでの描かれている人間も、似たキャラクターの場合って多いものでしょ?
この点について、実に笑える話があります。第2次大戦の終結の後、ナチとの関係を理由に裁判にかけられるフルトヴェングラー。その証人として、とあるオペラ歌手が出てきたそう。そのオペラ歌手は、フルトヴェングラーとナチとの関係について、ウソ八百ならべて、フルトヴェングラーを陥れようとしたらしい・・・
しかし、そのオペラ歌手には、フルトヴェングラーとの間に過去に個人的な「いさかい」があり、その個人的な感情で、フルトヴェングラーに嫌がらせをしたんだそう。それは「マイスタージンガー」のベックメッサーの役をやりたくて応募したけど、フルトヴェングラーがその歌手を採用しなかったので、その「恨み」を持っていて、それを裁判という場違いな場でぶつけたわけ。
いやぁ!ベックメッサーになれなかった歌手の、見事なベックメッサー振り。芸術作品を理解するのに、最良の資料は、自分たちの目の前にあるものなんですね。
あるいは、教養人とされるフルトヴェングラーですが、ヒトラー,ゲッペルス,ゲーリングのナチの3巨頭のキャラを、フランス革命のロベルピエール,マラー,ダントンの3巨頭とのキャラとの関連で、見るようなことはなかったのかな?
禁欲主義者,マスコミ対応,享楽家と、組み合わせもちょうど合っている。教養人フルトヴェングラーの教養って何だろう?
書かれた楽譜なり、本での記述は理解していても、実際の人間を洞察するのには、何もできない。フルトヴェングラーって「ブンカジン」だなぁ・・・と思ってしまう。
まあ、そんな実際の人間に対する洞察力が著しく劣っていても、演奏家としては何とかなるんでしょう。それこそブルッックナーのような作品を演奏するのだったら、それでもいいのかも?
しかし、そんな人が、作曲などの新しい作品を作ることができるの?
ゼロから創作することができるの?
現実を見る目がそんなにない状態から、ゼロから創作するインスピレーションなんて、沸き起こって来るの?
フルトヴェングラーは、楽譜から「神の言葉」を読む取る能力はすばらしいけど、神の言葉を直接聞ける人間なのかな?
R.シュトラウスが要領よく立ち回ったのは、それだけ「人を見る目」があったからでしょ?
逆に言うと、そんな目がないとオペラなんて書けませんよ。フルトヴェングラーが言う
「時間がなくて、作曲できない・・・」
は、理由としてポピュラーですが、作曲なんて基本的にはアタマの中でやるものでしょ?
電車で移動している最中にもできるじゃないの?
あるいは、アルキメデスのようにお風呂に入った時にすばらしいアイデアなんて浮かばなかったの?
そのようなアイデアをしっかりコンポーズするには、まとまった時間も必要でしょうが、アタマの中でラフスケッチくらいはできますよ。それなのに、どうして20年以上も作曲に手をつけないの?
それって、「どうしても曲にまとめ上げたい!」という霊感やアイデアがなかったからでしょ?
だって、目の前にいる実際の人間に対する洞察力が、これだけ劣る人なんだから、霊感なんて来ませんよ。もし霊感があったら、とりあえずは、小さな作品からでも、作曲するでしょ?
まずは小さい規模の作品を制作しながら、自分自身の本当の霊感なり、作品にする問題点を自覚できるわけでしょ?
その後、大規模な作品に進んでいけばいいじゃないの?
作曲活動それ自体が、そして自分が作った「小さな作品」それ自体が、自分自身がやりたい作曲活動の方向性を教えてくれることがあるわけ。いきなり大規模な作品を制作って、ヘンですよ。
彼の作曲した作品ですが・・・
DVDの映像では、カイルベルトとバレンボイムが、肯定的な評価をしています。しかし、どうしてコメントがカイルベルトとバレンボイムによるものなの?
実は、この映画には、もっと適役が登場しています。それは、テオドール・アドルノ。
シェーンベルクに作曲を習い、マーラー以降のドイツ音楽について一家言以上のものを持つフランクフルト学派の哲学者アドルノが、フルトヴェングラーが作曲した音楽を、「理詰め」で絶賛すれば、この私などは「ははぁ!わかりました!わかりました!もうわかったから勘弁してよ!」って泣きを入れますよ。
ところがアドルノは、フルトヴェングラーの指揮を絶賛しても、作曲した作品には何も語らない。当然のこととして、この映画を制作した人は、アドルノに対して、作曲家としてのフルトヴェングラーについて聞いたはずです。カイルベルトやバレンボイムにも聞いたくらいなんですから、当然でしょ?
アドルノは、まあ、その話題を避けたんでしょうね。ウソは言えないし、故人を冒涜するようなことはしたくないし・・・
まあ、アドルノが言いたくないレヴェルの作品というわけなんでしょう。技術的な問題はともかく、「どうしてもこれを表現したい!」という気持ちが入っていないと、それ以前の問題ですよ。彼の作曲した音楽からは「どうしてもこれを表現したい!」「これだけでもわかってほしい!」という強い意志が感じ取れない。
しかし、彼の「指揮した」演奏を聞いて、「どうしてもこれを表現したい!」という強い意志が聞きとれない人はいないでしょう?
そして、演奏には、明確な「切れ目」もある。その切れ目が、人間の発想から、神の発想への「切れ目」となっている。そして、その「切れ目」を通ることによって、音楽の高みが、「より」高みへと通じ、深みが「より」深みへとなっていく。彼が指揮した音楽が作り出す「切れ目」を、彼と一緒にくぐることによって、我々聞き手も「より」深淵へと、到達できる。
『ここで作曲者に神の言葉が降り降りたんだ!』
って、フルトヴェングラーの指揮した音楽からは明確にわかる。彼は演奏家としては、あいまいさからは無縁。彼としては、演奏している時だけが、自分になれた・・・というより、完全なオコチャマになれた・・・のでは?
それ以外の時は、周囲に配慮しすぎですよ。
完全なオコチャマになり、幼児のように心を虚しくしているので、まさに天国の門は開かれる。
「オレは本当は指揮者ではなく作曲家なんだ!」
「本当は指揮などをしている場合じゃないんだ!」
「作曲をしないと行けない!」
と思っているので、指揮そのものは一期一会になる。フルトヴェングラーにしてみれば指揮は禁忌のものなんですね。禁忌のものだからこそ、なおのこと惹かれるって、人間誰しもそんなもの。おまけにそっちの才能は人並み外れているんだし・・・やってはいけないものだからこそ、火事場のバカ力も出たりする。
だからますますやっていて楽しい。火事場のバカ力なので、精神的に落ち着くと、周囲に配慮した「いい子」になってしまう。自分に自信がない人は人から誉められることを渇望するもの。それだけ自分自身が本当にしたいことがわからないので、人からの評価に依存してしまうわけ。
しかし、「いい子」では、逆に神の言葉は聞けないでしょ?
だって、「心を虚しくしている」幼児は、決して「いい子」ではないでしょ?
「いい子」って、それだけ外面的なことにこだわっているということ。人の評価に依存しているということ。それだけ神からは遠いわけ。
フルトヴェングラーの父親は、なんとアドルフという名前らしい・・・考古学の教授をなさっておられました。そのアドルフさんは、息子の才能を認め、サポートした・・・のはいいとして、息子の意見を聞いたの?フランクな会話があったの?
どうも、そのアドルフさんは厳格な人だったらしい。厳格と言っても様々なヴァリエーションがあります。自分に厳しいというパターンから、問答無用で強圧的というパターンまで。息子のウィルヘルム・フルトヴェングラーが極端なまでに「いい子」でいようとしたことからみて、まあ、問答無用の父親のパターンでしょうね。
そうなると、一般的に子供は抑圧的になってしまう。自分で自分を抑圧するようになるわけ。まさに「いい子」でいなきゃ!って強迫的に思ってしまう。
彼も、自分の父親アドルフの問題を真剣に考えればいいのでしょうが、どうもそこから逃げている。父親アドルフの問題から逃げていれば、総統アドルフの問題を考えることからも逃げるようになりますよ。だから眼前にどんな事件があっても、鈍い反応しか示せない。
自分が一番よく知っている人物の問題から逃避する人は、眼前にある具体的な人物や事例から考えることを逃避してしまうものなんですね。それこそ、フェミニズム運動をなさっておられる女性たちは、自分の父親の問題については絶対に言及しないものでしょ?
一番よく知っている男性の問題を考えなくて、男女の問題云々もないじゃないの?
同じように、フルトヴェングラーは、一番よく知っている人間の問題から逃避して、具体的な現実の人間の問題から次々と逃避しだす。そして、最後には指揮台に追い込まれ、もう逃げようがないとなると、爆発してトランス状態になり火事場のバカ力が出る・・・
普段は逃げ回っている作曲家フルトヴェングラーなり、人間フルトヴェングラーも、指揮台に上るという「切れ目」を経ると、「あいまいさ」から解き放たれ、神懸かりとなって、神の言葉が聞けてしまう。指揮台に上るという「切れ目」を経ることによって、「切れ目」を作り出すことができる芸術家になる。
指揮台に上る前は、アドルフから逃げ、アドルフの言葉を聞く状態。
指揮台に上ったら、神の言葉が聞こえる。
そういう意味で、作曲から逃げ出すこと自体が、神懸かり的な演奏をするエネルギーになる。しかし、そんな彼は、本当に、「作曲をしなくてはならない。」という状況になったら、どこに逃げるんだろう?
フルトヴェングラーにとっては、演奏は、仕事でもなく使命でもなく、いわば治療とか療法に近いもの。しかし、だからこそ、彼にとっては必然でもある。作曲では彼は救済されないわけ。
個人的なことですが、私が彼の演奏のレコードを聞いたのはシューベルトの長いハ長調の交響曲の録音。オケはベルリン・フィル。その演奏を聞いて、まずは最初のホルンにビックリしたものです。
「これが20年後に、パリのオーケストラよりもラヴェルらしいラヴェルがやれると自慢されてしまうオケの姿なのか?」
最初もビックリですが、第1楽章の最後の部分にもビックリ。オケのメンバーが、気が狂ったように演奏しているのがよくわかる。
オーケストラのメンバーや聴衆に「感動」を与えられる指揮者は結構いるでしょうが、オーケストラのメンバーや聴衆を「発狂」させるのは、ハンパじゃありませんよ。とてもじゃないけど、人間業ではできないこと。
そして、そのシューベルトの演奏を聞いていると、この演奏家が、死に場所を探して暴走していることがスグにわかる。彼は逃げて、逃げて、死に場所を探して暴走し、その暴走がオーケストラや聴衆に伝わる・・・
死に場所を探すエネルギーが、演奏のエネルギーになり、生きるエネルギーになる・・・って、矛盾しているようですが、まあ、芸術・・・特にドイツ芸術って、そんな傾向があったりするでしょ?
ドイツ精神主義なんて言葉もありますが、フルトヴェングラーの音楽を聞いていると、そんな主義主張よりも、彼岸にあこがれる心情の方が強いのでは?
しかし、彼岸に憧れ続ける心情が何をもたらすか?
そんな一期一会の絶妙な均衡が、彼の音楽をかけがえのないものにしている・・・
演奏専従だったら、演奏だってルーティーンなものになってしまって、一期一会にはならないわけですからね。この点は、他の演奏家にはないこと。彼は演奏家になりきれなかったから、偉大な演奏家になった・・・
あるいは、職業としての演奏家としては不十分であったために、一期一会の演奏は達成できた。相変わらずの、反語的な言い回しですが、偉大な表現者って、反語的な存在なんですね。
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-01.htm
「作曲家としてのフルトヴェングラー」
彼は、ある意味において、実に面白い人物。私ごときが指揮者としての彼の能力を語ることはできるわけがない。天才の発想なんて読めませんよ。
しかし、指揮台に上がっていない彼の、普段の行動なり作曲家としての彼のスタイルは、意外なほどに「読みやすい」もの。よく、彼の行動を評して
「どうしてナチに対してあいまいであったのか?」とか
「どうして大した才能もないのに、作曲家であることにこだわったのか?
そもそも大作曲家の作品に親しんでいる彼なんだから、自分の作品のデキについてわからないわけがなかろう?」
どうしてなんだろう?そんな疑問が提示されたりするものでしょ?
ナチや自分の作品の価値についても、ちょっとでも自分で判断すれば、結論を出すことは難しくはない。しかし、世の中には判断することから逃避するような人間もいたりするもの。フルトヴェングラーがその典型だとすると、彼の行動も、簡単に理解できてしまう。
判断を間違ったのではなく、判断することから逃避する人間のタイプなんですね。
以前にエルフリーデ・イェリネクさん原作の「ピアニスト」と言う作品を考えた際に、抑圧と言う言葉を多く用いました。表現者としては、「自分がやりたいこと」、あるいは「表現者として人々に伝えたいことは何だろうか?」その問題意識が重要でしょ?
自分自身を抑圧すると、そのようなことを考えることから逃避するようになってしまう。そんな人は、「何を伝えるのか?」と言う問題から逃避して、「どうやって伝えるのか?」と言う問題にすり替えてしまうんですね。
自分がどうしてもやりたいこと、あるいは自分がどうしても伝えたいこと・・・それはいわばWHATの問題。
どうやって伝えるのかの問題は、いわばHOWの問題。
自分自身に抑圧を課す、それなりに知性のある人間は、自分自身のWHATの問題から逃避して、あらゆることをHOWの問題にしてしまう。なまじっか、それなりに知識があり、HOWの問題について語ることができるので、WHATの問題から逃避していることが、自分でも気が付かない。自分からの逃避と言う状態においても、それなりに洗練されてしまうわけ。
さて、フルトヴェングラーの逃避の問題ですが、この映画で実に典型的なシーンが出てきます。青年時代のフルトヴェングラーが、家庭教師と一緒にイタリアのフィレンツェに旅行をした。ミケランジェロの作品に圧倒的な印象を受けた青年フルトヴェングラーは、その場から離れ、一人でその印象を楽譜にしたためていたらしい・・・
映画においても、その「圧倒的な印象から逃げて・・・」なんて言われちゃっています。もうこの頃から、逃避傾向があるわけです。と言っても、皆さんは思うかもしれません。
「せっかく、ミケランジェロの彫刻からすばらしい印象を受けたのだから、それを音楽作品にまとめようとするのは、作曲家志望の青年としては当然のことではないのか?」
その感想は、ある意味において、正しいでしょう。しかし、圧倒的な印象を受けたのなら、それをその場で楽譜に残す必要はないんですね。だって、圧倒的な印象だったら、いつまで経っても忘れませんよ。何もその場で音楽作品にする必要なんてない。むしろ、アタマの中で寝かせておいて、その印象が充実してくるようにした方が、適切な方法。アタマの中でその時の印象と別の機会での体験を組み合わせたり、他の経験と共通性を考えたり、当然のこととして、その表現方法だって色々と考えられる。
素材をどう広げるのか?
あるいはまとめるのか?
どのようにコンポーズするのか?
それを考えるのが作曲家でしょ?
その時点で音楽にして楽譜に書いてしまうと、もう考えなくてもよくなってしまう。ただ、アタマの中での試行錯誤は、結構シンドイもの。常に考えなくてはならないわけですから、精神的に負担になるんですね。
それこそ、コンピュターのメモリーで常にアクセスできる状態のようなもの。引き出しやすいけど、電力は常に使う状態なのでスウィッチは切れない。
それに比べて、ハードディスクに保存すると、保存性はよくなるけど、アクセスは出来にくい。だから加工は難しい。これが紙にプリントアウトしてしまうと、もういじれない。しかし、だからこそ精神的にはラクと言える。
フルトヴェングラーだって、本当に作品を作れる人間だったら、そんな強い印象を受けたのなら、スグに楽譜にまとめることなんてしないはず。スグに楽譜にメモしなくてはならないのは、むしろ小ネタの方。だってちょっとしたネタだったら、それこそスグにメモならないと忘れちゃうでしょ?
「あの部分の切り返しのところは、このような方法にしよう!」とか、「ちょっとしたエピソードとして、こんなネタを挟もう!」なんて、ちょっとしたアイデアも、作品を作る上では必要ですよ。そんな小ネタだったら忘れないようにメモらないとね。
よく「引き出し」なんて言い方がありますが、そんな小ネタもやっぱり必要なもの。
それこそ引き出しにしまっておかないと。しかし、自分にとって最重要な問題、いわば大ネタは、忘れるわけがないから、メモる必要もない。
スグにまとめちゃうということは、アタマの中で寝かして試行錯誤し続ける精神的な負担に耐え切れない心の弱さを表しているものなんですね。ミケランジェロからの印象を、さっさと楽譜にまとめてしまう態度では、「強い」作品にはならないわけ。
こんなことを書くと、いまだに現存するフルトヴェングラーの崇拝者の方はご立腹なさるでしょうが、今ここで私が考えているのは、作曲家としてのフルトヴェングラーであって、指揮者としてのフルトヴェングラーではありません。
指揮者としては、あれほど圧倒的な音楽を作れるのに、どうして作曲家としては「いい子」、あるいは規格品とまりなの?と言うか、それこそ、作曲なんて止めてしまって指揮者専業でも何も問題ないはず。作曲をすること自体を楽しむことができる人間だったら、それこそミケランジェロから受けた強い印象をアタマの中で色々といじって、長く検討して行くものでしょ?
スグに作品にまとめるって、「イヤなことは、早く忘れたい!」「つらいことから、早く逃げ出したい!」そんな心情が、無意識的にあるということ。
自己への抑圧と言うものは、そのような自己からの逃避というスタイルになることが多いんですね。自分自身のWHATから逃避するわけ。
自分が何をしたいのか?
何を人に伝えたいのか?
それについて考えないようになってしまう。
そのような傾向は、強圧的な父親の元で育ったアダルトチルドレンに典型的なもの。問答無用の環境だったので、自分がしたいことを抑圧するようになるわけ。
実は、フルトヴェングラーの行動も、抑圧的なアダルトチルドレンの習性がわかっていると、簡単に予想できてしまう。発想が常に減点法。人から嫌われてはいけない。よい子でいないといけない。もちろん、親に迷惑が掛かってはいけない。そんなことを常に考えている。減点を意識しているので、自分で判断できない。
彼の場合は、それが特に深刻で、共依存状態にある。「共依存」とは、相手に依存「させる関係」に依存すると言うもの。「共依存」と言う考え方は、夫婦間でドメスティック・ヴァイオレンスに陥ったり、あるいは若い人たちがボランティアに入れ込むようになる心理を説明する際におなじみのものです。
あるいは、「ウチの子はいつまでも経っても甘えんぼうで・・・ずっと、ワタシがついていないとダメだわ!」なんて言うバカ親の心理もこれですよね。
あるいは、もっと深刻だとストーカーの心理もこれです。ストーカーは「オレにはアイツが必要だ!」と自分で『認識』しているのではなく、「アイツにはオレが必要だ!」と勝手に『認定』しているわけ。
自分自身の精神状況の自覚ではなく、相手の幸福のスタイルを勝手に認定しているわけ。だからタチが悪い。当人としては善意で相手に付きまとっている。だから周囲が何を言ってもダメ。バカ親の心理もそうですが、基本的にはアダルトチルドレンに典型的な症状です。それだけ、自分自身が何をしたいのか?自分でもわかっていない。そしてわかろうとしないし、自分から逃避しようとする。精神的に自立していない。だから他者との関係性に依存せざるを得ない。
こんな心理を持っていたら、たとえナチスに共感がなくても、ドイツから離れられませんよ。だって、共依存症状にある人にしてみれば、ナチス支配下のドイツなんて天国ですよ。だって、自分を頼ってくる人がいっぱいいるわけですからね。
つまり自分の役割について自分で考えなくてもいいわけ。簡単に自己逃避できるわけでしょ?
何もフルトヴェングラーの人格に対し攻撃しようなんて思っているわけではありませんよ。芸術家なんて、その作品がすべてですよ。それこそ画家のカラヴァッジョや作曲家のジェズアルドや劇作家カルデロンのように人殺しまで居るのがアーティストの業界。
たかがアダルトチルドレンくらい・・・まだまだ甘いよ。いや!「あいまい」ですよ。
前回でフルトヴェングラーは首尾一貫して「あいまい」という点を書きました。「あいまい」であると言うことについては、実に「あいまい」ではないわけ。
この点は、彼の作曲した音楽にも明確に見えてくるでしょ?
彼の交響曲第2番はCDになっていて、まさしく彼の演奏で聞くことができます。
これが、また、「あいまい」な音楽。
何も、時代に合わせてモダンな12音技法でないとダメとか、ショスタコーヴィッチばりのポストモダンな引用技法が展開されていないといけないとか・・・そう言うことを申し上げているわけではありません。
「これだけはどうしてもわかってほしい!」とか、
「消しようがないほどに明確な音響イメージがあって、それを表現したい!」
なんて強い意志なり、覚悟がある音楽なの?
と言うことなんですね。
自己表現が目的と言うより、自己弁護の音楽。
えーとぉ・・・ボクはこんな事情があって・・・
色々と面倒なことがあったから、作曲できなくて・・・
まあ、ちゃんと作曲もやっているでしょ?
サボっているわけじゃあないよ。そんな弁解がましい表情が延々と続く音楽。
音響的にはフランクやショーソンの交響曲のような感じで、ブルックナーの交響曲から「聞いたことがある」音響が出てくる。なんともまぁ・・・
フルトヴェングラーが作曲した作品は聞き手に真摯な緊張を要求する・・・
そんな音楽なんだから、だからオマエはその価値や内容がわからないんだよ!
そうとも言えるでしょうが・・・
どんな小難しい音楽でも、後世まで残る作品には「これっ!」という瞬間があって、その決定的な瞬間から、全体の理解もだんだんと深まっていくモノ。
ところが、フルトヴェングラーの交響曲には、「これっ!」と言う「切れ目」がない。これは楽章の切れ目云々ではなく、音楽の流れに切れ目がないため、神の言葉が降り降りた瞬間が出てこないんですね。
演奏においてなら、「切れ目」の大家と言えるフルトヴェングラーなのに、作曲した作品には「切れ目」がない。つまり神の言葉ではなく、人間の言葉が支配している「音楽」といえるわけ。自分の存在証明ではなく、自分の正当性の証明に近い。
しかし、正当性を証明しようとするほど、芸術家としての存在証明から遠くなる。なぜなら人間の言葉で正当性を証明するほど、神の言葉から遠くなるもの。
幼児のように、心を虚しくして、神の言葉を受け入れたときに、芸術家としての存在証明になる・・・芸術作品とはそんなものでしょ?
神の言葉を伝えるのが、芸術家の使命でしょ?
天才は自分の正当性などと言った弁解のための仕事などはしないもの。
弁解が通用しない世界・・・それが修羅場でしょ?
フルトヴェングラーにとって指揮台こそが、その修羅場。だから指揮においては、弁解のための仕事はせずに、神の言葉を直接聞くことができて、それを伝えることができる。しかし、作曲をしている時には、精神的に余裕があって、修羅場ではない・・・だから弁解ばかり。
フルトヴェングラーが作曲した作品は、実に人間的な音楽とも言えますが、逆に言うと人間とまり。あるいは、まさしく最適化止まり。これでは作曲していても、面白くないでしょう。たしかに、25年以上も作曲から遠ざかることを、事実上選択するわけですよ。
しかし、作曲の才能がなくても、創作の霊感が訪れなくても、何も問題はないはずでしょ?
当代随一の指揮者と言う称号があるんだから、それでいいんじゃないの?
そもそも、フルトヴェングラーさんよ!アンタは作曲が好きなの?
そんな根本的な疑問をもってしまう。
作曲を好きなのに才能がないのか?
そもそも好きでないのに、自分を押し殺して作曲したのか?
「ボクは本当は作曲家なんだ!」と言うのはいいとして、25年以上も作曲から遠ざかり、やっと作曲したら、自己弁護に終始。使命感を持って作曲している人がやることではありませんし、そんな音楽ではありませんよ。
逆に言うと、特に才能があるわけでもないし、使命感があるわけでもないし、好きでもないし、実際の作曲活動はしないのに、どうして「ボクは本当は作曲家なんだ!」なんて言うの?
フルトヴェングラーは、子供の頃から音楽の才能を発揮して、周囲から、「将来は偉大な作曲家に!」なんて言われたそう。これはDVDに出てきます。家族も、その才能に惜しみない援助を与え、教育の機会を与えた・・・
そう言う点では、「作曲家」フルトヴェングラーは実に恵まれている。作曲家になるに当たって、こんなに周囲から物心両面からのサポートを受けることなんて滅多にありませんよ。一般的には、「ボクは作曲家になりたいんだ!」なんて言おうとしたら、「何を、夢みたいなことを言っているんだ!カタギの仕事をしろ!」と言われるのがオチ。
しかし、少年フルトヴェングラーは家族から励まされる環境。それこそ、父親との間にこんなシーンがあったのでは?
少年フルトヴェングラーと、父親アドルフが、冬の夜に空を見上げる。
父
「おい!ウィルヘルム!
北の空にひときわ大きく輝く星があるだろう!
あの星はドイツ作曲家の星だ!
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー・・・
オマエも将来、あの星になるんだ!」
子
「父さん!わかったよ!
ボクはドイツ音楽の星になるんだ!ボクはやるよ!」
・ ・・拳を握りしめ、瞳から炎がメラメラと・・・このシーンのBGMは当然・・・
輝くドイツ音楽の星。それもバッハやベートーヴェンやワーグナーなどに並ぶ地位に。
「さあ!これが、ドイツ音楽作曲家養成ギブスだ!」
「これをつけて親子一緒にガンバロウ!」
そんな感じで言われちゃったら、子供の頃はともかく、実際に作曲するにあたってはプレッシャーになるんじゃないの?
しかし、フルトヴェングラーが音楽活動を始めた頃は、その星々につながる意志を持っていたのは明白。彼が1906年の指揮者としてのデビューで取り上げた曲は、後に交響曲第1番の第1楽章となった自作の「ラルゴ ロ短調」と、ブルックナーの第9交響曲の組み合わせでした。ブルックナー最後の未完の交響曲なんて・・・デビューの曲目にしては荷が重いだろう・・・と思うのは誰でもでしょうが、この「組み合わせ」・・・あるいは、以前書いた言い方でモンタージュは、簡単にその意図が読めますよね?
それはこれ。
「ブルックナーが完成させられなかったドイツ音楽の系譜を、このボクが完成させるんだ!」
まあ、その心意気や良し!・・・なんですが・・・
系譜につながることは結果であって、目的ではないでしょ?
それこそブルックナーだって、先輩作曲家ベートーヴェンを尊敬していたでしょうが、その列につながるために作曲をしたわけではないでしょ?
自分自身の霊感を永遠に残すために作曲したわけでしょ?
曲のまとめ方などに当たって、当然のこととして先輩の方法を参考にする・・・
だから、結果としてドイツ音楽の作曲家の系譜になる。
そんなものでしょ?
まずは、自分がどうしても表現したいものは何なのか?
その自問自答の方が先でしょ?
しかし、フルトヴェングラーは、ドイツ音楽の作曲家の系譜が強く意識されてしまっているので、
「ボクもそのレヴェルでないと行けない!」
「巨匠たちの名誉を汚さぬように!」
「あんな音楽を書かなきゃ!」
なんて強迫的に思ってしまう。いわば、形から入る状態。形から入っているので、フルトヴェングラーが作曲した作品って、交響曲とかの立派なジャンルばかりですよね?
そして長さも結構ある。まさに立派な外観をもっている。しかし、外観はいいとして、中身はどうなの?
そもそも芸術作品にとってジャンルとか外観は、二の次でしょ?
マーラーの交響曲が、交響曲なのか?歌曲でしかないのか?そんなことを議論する人もいますが、それ以前に中身の問題が重要でしょ?
マーラーの音楽は中身で勝負できる。しかし、フルトヴェングラーの作品の中身っていったい何?
逆に言うと、中身で勝負できないから、ますます外観にこだわらざるをえない。それでは自分なりの作曲なんてできないでしょ?
作曲家フルトヴェングラーは伝統的な芸術の系譜を意識するあまり、芸術の伝統の系譜からは外れてしまった。「伝統的な芸術の系譜」と「芸術の伝統の系譜」なんて、言葉としては似ていますが、中身は全然違うモノ。
それこそベートーヴェンだって、彼自身は「伝統的な芸術の系譜」ではなく、「芸術の伝統の系譜」の一員と言えるでしょ?
まあ、作曲の才能が「全く」ないのなら、まだ、「しょうがない」で済みますが、フルトヴェングラーの場合は、最初は神童扱いだったわけですし、周囲からのサポートを受け期待もされた。作曲から逃げる理由がないわけ。しかし、逃げる理由がないからこそ、懸命になって逃げざるをえない。
そもそも、やっぱり作曲家という存在は、音楽家の中では最高位でしょ?
だからこそ、作曲家であることをあきらめることは、序列的に下に安住することを意味しますよね?
「父さん!ボクは作曲なんてしたくはないんだ!指揮の方が好きなんだ!」
なんて言っても、心の中にいる父親がこう言うでしょう。
「どうしてオマエは、そんなに自分に甘いんだ!
自分は才能が無いなんて言葉は、努力放棄の言い訳に過ぎない!バカモノ!」
そして「北の空を見よ!ひときわ輝く星がオマエの目指すべきドイツ音楽の星だ!」
とお説教の声。そんな父親の言葉が心の中で響いてしまう。だから周囲には「ボクは本当は作曲家なんだ!」と、言い訳をしなくてはいけない。
フルトヴェングラーはなまじ指揮者なんだから、タチが悪い。彼がピアニストとかヴァイオリニストだったら、作曲活動にも、距離を取りやすい。作曲をしなくても、誰も不思議に思わない。しかし、指揮なんて、そもそもが作曲家の仕事の一部だったわけでしょ?
しかし、才能はないし・・・それだけでなく、ドイツ音楽の星としての要求される「基準」もある。あのレヴェルの曲を書かないといけない!
これでは、自分なりに作曲するなんてことはできないわけ。
さあ!どうする?
と言うことで、作曲しなくてもいいように、余計なことに首を突っ込むわけ。
「あそこに困っている人がいるから・・・」
「ボクが助けないとダメだ!」
「あの人たちを助けられるのはボクだけ・・・」
と言うことで、ますます共依存症状が進行することになる。そもそも指揮者フルトヴェングラーが作品に向き合う際には、「作曲された音楽が作曲される前の状態まで考え、それを再構成する」のがフルトヴェングラー。
そんな発想は、まあ、私には実に親近感がある。だからそんな態度を、フルトヴェングラーの「作品」に適用しているだけです。創作者の発想を読みながら演奏したフルトヴェングラー自身の発想を、この私が読んでいるだけです。
重要なことは作品を評価することではなく、その前の霊感を考えることでしょ?
逆に、ナチスは「芸術家にとって作品などは、どうでもいい!人格が問題なんだ!」と言ったそう。
その人格と言ってもナチスに対する忠誠となるんでしょう。人格で作品を否定するなんて、それこそがナチスですよ。しかし、その人格重視のナチスがワーグナーを賞賛ってのも、また矛盾なんですが。そもそもアーティストなんてオコチャマなのがデフォルト。その瞬間に充足し、次には、その充足を破壊していく・・・
「わあ!これって、おもしろいなぁ!」それがすべて。そんなオコチャマこそが芸術家のメンタリティ。
逆に言うと、フルトヴェングラーは、アダルトチルドレンだけあって、ある意味オトナ。この面でもあいまい。あまりに周囲に配慮しすぎ。発想が減点法。
別の言い方をすると、「いい子」。彼の行動も、作曲した作品も、まさに「いい子」がやりそうなものですよ。
自己の確立していないアダルトチルドレンは、往々にして権威主義。その価値を自分自身で説明することができないので、人々が「権威ある」と認めるものに乗っかろうとするわけ。
実は、このような点で、フルトヴェングラーとゲッペルスは、腹の底では共感しあっていたようです。フルトヴェングラーは何か相談事があると、まずゲッペルスを訪ねたようです。ゲッペルスもフルトヴェングラーのことは、気にかけていたそう。いわばカウンターパートナーの間柄。フルトヴェングラーもゲッペルスも、「何を言うのか?」と言うWHATの問題よりも、「どう伝えるのか?」つまりHOWの問題の大家ですよね?
それに、権威ある思想に乗りかかって自己を表現するスタイルも共通。序列思考が強く、族長的な存在に盲目的に従おうとする。彼らは、いわば隷従することが好きなタイプ。以前に取り上げたエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」を考えた際に用いた言い方をすると、「犬」のタイプ。
ゲッペルスに対して、
「アナタはヒトラーの犬じゃないか?」なんて言っても、
「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」
なんて言われるだけでしょ?
ゲッペルスは、ヒトラーに最後まで付き従いましたよね?
その点ではゲーリングやヒムラーよりも忠犬。たぶん、ゲッペルスの父親も強圧的な人だったのでは?
同じように、フルトヴェングラーに対して「アンタはベートーヴェンの犬じゃないか?」なんて言ったらフルトヴェングラーはどう答えるのでしょうか?
やっぱりゲッペルスと同じじゃないの?「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」
ゲッペルスは、信念を持って、アドルフに隷従していたわけ。フルトヴェングラーも深層心理的にアドルフに隷従していたわけですが、彼の場合はアドルフと言っても、ヒトラーではありませんが。ベート−ヴェンの犬なんて言葉はともかく、フルトヴェングラーはそれでいいと思っていたでしょう。立派なベートーヴェンの音楽を人々に伝えるのが、自分の使命だ!
そう考えることは、立派なこと。しかし、作曲家志望だったら、そんな崇め奉るだけではダメでしょ?
立派な権威としてベートーヴェンを見るのではなく、すばらしい業績を残した先輩として見る必要もあるのでは?
第2次大戦が終結した後で、フルトヴェングラーはR.シュトラウスを訪ねた。R.シュトラウスは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の楽譜を見ながら、「ファゴットの使い方がすばらしいねぇ!」と言ったそう。
こんな言葉から、R.シュトラウスは、ワーグナーをすばらしい業績を上げた先輩と見ていることがわかりますよね?
作品を受けてのリアクションにおいて、意味ある細部を指摘できるのは、全体がわかっている証拠。そして自分自身についてもわかっているからできること。シュトラウスとしては同じ作曲家仲間として、ワーグナーの作品を参考にする・・・そんな態度が見えてくるわけ。他の人の作品を見るにあたっても、普段からの自分の問題意識が反映されることになる。だから具体的な細部の各論を中心に見ることになる。
「自分だったら、どうするのか?」
「今、自分は、ちょっと壁にぶち当たっているけど、この人はどんな解決をしたんだろう?」
そんな発想が常に存在しているわけ。フルトヴェングラーの場合は、尊敬すべき先輩というより、ひれ伏さざるを得ない権威としてベートーヴェンやワーグナーを見ているのでは?
あるいは、規範として見ている。そうとも言えるでしょう。つまり作曲家としての問題意識がない状態で、他の作曲家の作品を見ている。そのような見方は、指揮者としては問題なくても、作曲家としては問題でしょ?
規範として見るような発想は、「それ以外を認めない」と言うことになり、ある意味、自分で考えることから逃避できる。これはエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」でのエリカもそうでした。音楽を聞く際においても、ベートーヴェンを規範としてみたり、あるいは演奏家としてのフルトヴェングラーを規範として見ることは、聞き手の自己逃避の一種なんですね。規範を重視と言うか、形から入る・・・いわば、「形と中身の乖離」となると、ブラームスがいます。
フルトヴェングラーも、そのような観点において、ブラームスを同類と認識していた面もあるようです。しかし、ブラームスは、中身と形式の乖離の問題はありますが、逆に言うと中身がある。しかし、フルトヴェングラーの作品には中身があるの?
乖離云々以前に中身がないのでは?
伝えたいと思う中身と、伝えるに際し用いた形式の間に乖離があると言うより、彼が伝えたいという中身って何?
抑圧状況に陥ると、まさにその問題を自問自答することから逃避するようになってしまう。以前取り上げたギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」の冒頭に掲げられたプラトンの言葉は
「魂でさえ、自らを知るために、魂を覗き込む。」と言うもの。
「魂を覗き込む」ことから逃避している人間が、創造なんてできるわけがない。
そのようなアンゲロプロスの問題意識が、あの作品にあったわけですし、そのもっとも典型的な実例が作曲家フルトヴェングラーなのでは?
自分自身を見つめることができる人だからこそ、自分の魂を覗き込むことができる人だからこそ、そんな人には「世界の声」「神の声」が集まってくる。つまり自分自身の魂の声を聞くことによって、結果的に世界の声が聞ける。ユングの言う「元型」に近いものが見えるわけ。
自分から逃避している人には、世界の声も降り降りてこない・・・
だから、結局は「世界の声」も表現できない
フルトヴェングラーは「他人の魂は覗きこめるけど、自分の魂は覗きこめない。」
これでは創作なんてできませんよ。
「ベートーヴェンの気持ちが理解できるのはオレだけ!
ブルックナーの創造性が理解できるのは自分だけ!」
そう思うのはいいとして、じゃあ、自分自身の気持ちや創造性をどのように理解していたの?
自らの魂の中にあるWHATから逃避していくので、どんどんと「どのように伝えるのか?」というHOWの問題に逃げ込んでしまうわけ。しかし、「何を伝えるのか?」という問題意識から逃避してしまっているので、作曲することで作品を制作しても「じゃあ、結果として伝わったのか?」と聞かれると返答ができない。だって受け手は何をわかればいいの?
そもそも伝えたいものが、自分でもわかっていないから、結局は伝わらない。本来なら、「この点は誤解されたけど、最重要なこの点は伝わったようだから、まあ、とりあえずよしとしようか・・・」なんて考えることができるはずですよね?
あるいは伝わらなくても「まっ、そもそもアイツにはどうせわからないよ!」なんて言えるでしょ?
それは、自分が伝えたいWHATがわかっているからできること。しかし、そのWHATが自分でもわかっていなくて、発想が加点法ではなく減点法なんだから、そのようには考えられない。結果的に思うような結果が得られないので、そんな抑圧傾向の人は、「上手く行かない理由」「減点の原因となったもの」としての犯人を捜すようになるわけ。それに抑圧傾向の人は、日頃から発想が加点法ではなく減点法なので、減点への反応はそれなりに鋭いものがある。だからスグに逆上する傾向が強い。
「アイツのせいで、ダメだったんだ!」
あるいは
「あの施設がないせいで、上手く行かなかったんだ!」
「これが足りないせいで、失敗した!」
「政治が悪い!時代が悪い!」
そんな言葉を聞かされると、「じゃあ、何をわかればいいの?」「そもそもアンタは何をしたいの?」と思ってしまうものでしょ?
アンゲロプロス監督の描くギリシャの人たちもそんな感じでしたよね?
というか、そもそも当時のドイツがそんな感じでしょ?
あるいは実に顕著に見られるのが、韓国人の発言ですよね?
韓国人の発言は、自分で自分を抑圧しているものの典型なんですね。日本人の我々としては、韓国人の言動を聞いても「で、アンタたちは結局は何をしたいの?何を言いたいの?」そう思うことって多いでしょ?
あるいは、上記の言い訳と犯人探しのスタイルは、音楽関係者の発言にも典型的に見られるでしょ?
「どう伝えるのか?」の問題に拘ることは、「何を伝えるのか?」という問題からの逃避のケースが多いわけ。「何を伝えるのか?」が自分でも明確ではないので、そんな人はコミュニケーション能力がヘタ。だからコミュニケーションが対等の会話ではなく、命令と服従の上下関係しかなくなってしまう。だから常に「どっちが上か?下か?」という序列を基に考えるようになる。韓国人がまさにそうですし、いわゆる音楽批評の世界でもおなじみの文言でしょ?
本来なら表現と言うものは、対象となるもの、と言うか、表現したいWHATに、「どこから光を当てるのか?」そして「どのような視点から表現するのか?」そのような問題が重要でしょ?
しかし、抑圧が進んでしまうと、個々の多彩な思考を理解する意欲もなくなるので、「どっちが上か?下か?」の序列問題ですべて解決しようとするわけ。ベストワンとか、最高傑作などの文言が登場してしまう。表現におけるWHATが消失してしまうわけ。そして減点部分だけに目が行って、反論されると逆上。
他人による様々な表現を通じて自分自身の問題を考えていく・・・表現を受けても、そんな発想にならないわけ。他者の作品から自分自身を逆照射することはできない。むしろ様々な作品を順番にならべて、「どっちが上か?下か?」と決定してオシマイとなる。他者の順番だけの問題にしてしまうことは、要は自己逃避なんですね。
以前に、イェリネクさんの「ピアニスト」という作品を考えるに当たって、演奏家という存在と精神的抑圧の強い相関関係について考えて見ました。特に中間領域の演奏家からは抑圧された精神が明確に見えて取れることが多い。人々に伝えたいものが明確に自覚できているのなら、何も演奏というスタイルではなくても、作曲という手段で伝えてもいいわけですし、素人的でも文章を書いたり、美術作品を制作すると言う方法だってあるでしょ?
伝えたいこと、やりたいことが自覚できないがゆえに、権威あるものに隷従し、HOWの問題だけに逃避する。そして上手く行かなくなると犯人さがし。抑圧的な人間はそんな行動をするものです。ナチスがそうですし、韓国人もそんなパターンですし、音楽批評もそんなパターンでしょ?
いわば抑圧状況の典型なんですね。ナチスが台頭する背景として、ドイツ全体のそんな精神状況もあったわけ。ナチスはいいところを突いているんですね。その抑圧的な状況の中での知的エリートがゲッペルスであり、フルトヴェングラーなのでは?
フルトヴェングラーだって、自分自身の抑圧を客体化することができれば、それを作品にすることもできたでしょう。それこそイェリネクさんが小説としてまとめあげたように。あるいは、共依存症状によるストーカー行為だって、それを客体化できれば、ベルリオーズのように交響曲にできる。しかし彼は抑圧された人間そのものとして生きた。
「自分は何をしたいのか?」と言う問題から逃避しているので、自分の目の前の状況が判断できない。常に『いい子』願望があって、人から否定されることを極端に怖がる。
「いい子」って、要は減点法でしょ?
いい子が成し得た成果って、歴史上ないでしょ?
フルトヴェングラーに関する本などを読んでいると、私などは忸怩たる思いに陥ってしまいます。
「どうしてゲシュタボの連中はフルトヴェングラーを追い込まなかったのだろう?」
「私に任してくれたら1年以内に必ず自殺させることができるのに・・・」
まあ、ゲシュタボも真正面からは追い込んだようですが、フルトヴェングラーのような共依存症状の人間に、真正面からプレッシャーを掛けて、困難な状況を作っても、むしろ「生きる張合い」になるだけ。それこそ人助けがいっぱいできるわけだから、喜んでそっちに逃避してしまう。ストーカーに対して、正面から力による解決を図ってもますます善意を持ってストーキングするだけでしょ?
「こんな困難な状況の中でアイツを救ってやれるのはオレだけ!」そのように、より強く思い込むだけ。そして当人の『善意』が、より熱くなるだけ。
まあ、ゲシュタボも所詮はドイツ人なんでしょうね。素朴で人がいいよ。人を精神的に追い込むことに関しては、むしろフランス人の方が上でしょう。あるいはロシア人とか・・・
まあ、ゲシュタボがフランス人の著作から拷問のノウハウを学ぶ必要があったのもよくわかりますよ。フルトヴェングラーを追い込むのは実に簡単なんですね。
彼のような頭がよくて、プライドがある人は言葉で追い込めるから、追い込むのもラク。オバカさんのように逆上することもできないのだから、あっという間に追い込めますよ。たとえば作品を委嘱すれば、それでOK。
「ドイツ音楽の栄光を表現する立派な交響曲を作曲してくれ!」
「時間は十分に上げるから・・・」
「キミは本当は、それをしたかったんだろう?」
なんて言えば、自分で勝手に追い込まれていきますよ。何と言っても作曲は自分自身と真摯に向き合わないとできないことでしょ?
フルトヴェングラーはそれが出来ない人なんですからね。もし、それこそ交響曲第2番のような作品が出てきたとしたら、
「ふんっ、なにこれ?」
「アンタは、本当にこれをドイツ音楽の栄光だと思ってるの?」
「へぇ・・・これがドイツ音楽の栄光の成れの果てなんだねぇ・・・」
なんて薄目を開けて鼻の先で笑えば済む話。あるいは、
「アナタのおかげで、アウシュビッツで多くのユダヤ人を殺すことができました!ありがとう!」
なんて感謝してみなさいな。アウシュビッツの写真などを一枚一枚見せながらね。そして、最後に決めセリフ。
「君の父上もさぞよろこんでいるだろうよ!」。
もうこうなると、ドイツ芸術の守護者としての彼のアイデンティティが崩壊して、あっという間にドッカーンですよ。まあ、1週間以内でことが終了するでしょうね。
あるいは、前回言及した「ニーベルングの指環」のグンターのバカぶりを、描写してもいいわけでしょ?
「グンターってバカだよな!
だって、こんなこともわからないだからさっ。
君もそう思うだろ?グンター君!」
といって、指で額でもつついて上げればどうなるかな?
いずれにせよ、1週間あれば十分ですよ。相手の一番弱いところはどこなのか?
そこを瞬時に見つけ出し、そこをチクチクとニヤニヤと突いていく楽しみをドイツ人はわかっていないねぇ・・・
「いい子」と言う存在は、一番追い込みやすいもの。結局は、「人から自分はどう見られるのか?」という面にこだわってしまって、自分自身が本当にしたいことが自分でもわかっていないわけ。と言うか、そこから逃避している。
前も書きましたが、そんな精神状況では、作曲はできませんよ。それこそR.シュトラウスはナチとの関係で、戦争終結後になってモメましたが、シュトラウス自身は実に明確。自分がやりたいことが自分でもわかっている。
ナチから頼まれると、ナチの役職には就いたり、あるいは手紙にも「ハイル!ヒトラー!」なんて平気で書いたりしていますが、彼自身はナチに対して協力的ではない。
というか、戦争が終結する直前に、負傷した人たちがシュトラウスの山荘に逃げてきたそう。そんな命からがら逃げてきた人たちに対しシュトラウスは、
「おい!アンタたち、作曲のジャマだから出て行ってくれよ!」
なんて言ったそう。そんな対応をナチから怒られたシュトラウスは、
「いやぁ・・・オレが戦争を始めたわけじゃないんだから・・・そんなこと知るかよ!」
なんて言ったらしい。いやぁ・・・外道だねぇ・・・
シュトラウスの発想は、ナチを支持するしない以前に、人間的に外れていますよね?
まあ、「猫」的と言えるのかも?「アンタはアンタ、ワタシはワタシ」の精神。しかし、そんなシュトラウスだからこそ、あの混じり気なしのオーボエ協奏曲が書けるわけでしょ?
傲岸不遜で周囲の人間の犠牲を踏み越えて、自分の創作を推し進めるR.シュトラウスと、人助けに逃げ込んで、自分では創作しないフルトヴェングラーの関係は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルードヴィッヒ」におけるリヒャルト・ワーグナーとルードヴィッヒの関係と同じ。
ルードヴィッヒだって、芸術家をサポートして喜んでいるよりも、ヘタはヘタなりにオペラの台本でも書けばいいじゃないの?
彼も、「立派な作品でないといけない!」なんて思っていたのでしょうね。だからとりあえず手をつけてみると言うことができない。しかし、だからこそ、自分を表現することができず、ますます自分から逃避してしまう。ルードヴィッヒもフルトヴェングラーもプライドが高い人ですが、逆に言うと、腰を曲げても実現したいものがないと言うことでしょ?
その点、リヒャルトは、手段を選ばず、周囲のことなどお構いなしに、どんどんと創作活動。フルトヴェングラーだったら逆立ちしても出来ませんよ。共依存症状のフルトヴェングラーだったら、シュトラウスのような事態になったら、喜んで人助けしますよ。
他者から依存される関係に依存する、この共依存状態では、自分単独で作曲することなんて出来ませんよ。しかし、この症状は、作曲には不適でも、演奏にはフィットしていますよね?
「アイツにはオレが必要なんだ!」「アイツのことを理解できるのはオレだけ!」なんて勝手に思ってストーキングするのは大迷惑ですが、
「ブルックナーにはオレが必要なんだ!」
「ベートーヴェンのことを理解できるのは、このオレだけ!」
そう思うくらいの思い込みはいいのでは?
それが演奏することの使命感につながるわけでしょ?
そんな使命感があるのなら、本来なら、指揮者専業で行けばよかったのでしょうが、そんな判断から逃げるのが抑圧的なアダルトチルドレン。だから自分が何をしたいのかわからずに、他者との関係性に依存するようになる。こんな態度ではプロの演奏家というか、職業としての演奏家としては失格ですよ。
しかし、逆に言うと、それくらいの「思い込み」がないと、芸術的な演奏にはならないでしょ?
そんな依存があるがゆえに、他人である作曲家との緊密な関係が築けたともいえるんでしょうね。抑圧が創造性につながった稀有な例と言えるのかも?
抑圧も極限まで進行し、ブレークスルーを経ることによって、ある種、突き抜けた境地になってしまう。この点は、フルトヴェングラーだけでなく、ゲッペルスもそのパターンなのでは?
自己を徹底的に抑圧することによって、自己解放を実現する。それが、フルトヴェングラーにとっての演奏。それは幸運な成果なの?
確かにその「成果」を、聴衆である我々は楽しむことができた。しかし、それって、まさにホフマンスタールの言う「私のこの苦しみから甘い汁を、吸おうとしたっただめだよ!」そのものでしょ?
もしかしたら、フルトヴェングラーは、そのセリフの意味を、R.シュトラウス以上にわかっていたのかも?
しかし、「だったら、それを作品にしなよ!」ってやっぱり思ってしまうのは無理なことなのかな?
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-08.htm
アーノルド・シェーンベルク モーゼとアロン (1954年 初演)
新・ウィーン楽派の元締めと言えるアーノルド・シェーンベルクが台本を書き、作曲もしたオペラ「モーゼとアロン」です。第2幕までは1932年に完成させ、第3幕は結局は未完に終わった作品。このオペラをご存知のない方でも、旧約聖書にあるモーゼとアロンの兄弟の軋轢の話は、ご存知でしょう。
この「モーゼとアロン」というオペラを、「理解者と協力者の乖離」という観点からみることは、「アラベラ」よりも、はるかに容易ですよね?
何と言っても、アロンはモーゼの言葉を理解していない。しかし、モーゼが受けた神からの言葉を広めるのに当たって最大の協力者である・・それくらいは、簡単に読めること。自分のことや言っている中身を理解していないアロンに頼らないといけないモーゼは、それゆえに苦悩する。
シュトラウスとホフマンスタールの「アラベラ」が、洗練された外観を持ちながら、内容的には悲痛な心情を含んでいる。いや、悲痛な面を持っているのはホフマンスタールの台本だけかな?
それに対し、シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、シリアスな外観を持っていますが、ギャグ満載の爆笑オペラなんですね。20世紀のオペラで、これほど笑える作品って、他にあるのかしら?
オペラ「モーゼとアロン」ですが、基本的なストーリーは旧約聖書のモーゼとアロンのエピソードによっています。簡単にまとめると、下記のとおり。
1. モーゼが神から言葉を受ける。
2. その言葉を自分で直接民衆に伝えようと思っても、うまく伝えることができない。
3. だから、言葉を上手に伝える能力を持っている、モーゼの兄のアロンと一緒に活動することになる。
4. アロンは見事にモーゼの言葉を語る。
5. 民衆は、モーゼよりアロンの方を絶賛し、「これぞ!奇跡だ!」
6. 民衆より絶賛を受けたアロンは、「その気」になって、どんどんと民衆を喜ばせる方向に、言葉を変えて行ってしまう。
7. モーゼは「まっ、とりあえずアロンに任せておくか・・・」と、引っ込んでしまう。
8. 民衆の期待に応えたアロンは、乱痴気騒ぎの大集会。
9. こうなると、本来のモーゼの言葉は、どこかに行ってしまう。
10. ここでモーゼが乗り込んできて、
「こらぁ!ええ加減にせんかい!」
「ワシの言葉を忠実に伝えろよ!」
11. アロンは、
「だってぇ・・・だってぇ・・・そもそもアンタが、民衆から離れすぎているのがいけないんじゃないか!」
と反論。
12. モーゼは
「じゃかぁしいんじゃ!最後にはワシの方が勝つんじゃ!」
基本的なあらすじは、こんなところ。いやぁ・・・笑える。
モーゼにとっては、アロンは重要な協力者。しかし、理解者とは言えない。だから、どうしても、このような齟齬が起こってしまう。
さて、このオペラ「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をしたシェーンベルクは、基本的には作曲家。作曲家にとって、親類とも言える身近な存在で、重要な協力者と言えるけど・・・残念なことに、理解者とは、とても言えない存在って、何?
それは演奏家でしょ?
作曲家が作曲した作品を、実際に音にし、多くの人に聞いてもらうに当たって、演奏を本職とする演奏家の協力は、現実的には、不可欠。
しかし、演奏家は、その作品の本当の意味がわからないので、どうしても民衆の好みに合わせてしまう。おまけに音楽家の中でマジョリティーなのは演奏家の側であって作曲家ではない。演奏家は自分たちの常識が、音楽界の常識と思ってしまうわけ。
それに演奏家は直接聴衆と接するので、「結果」が出やすい。それに、演奏家と作曲家ではどちらが、「実際的な力」を持っているのか?
それについては言うまでもないことでしょ?
音楽界の常識は、往々にして演奏家の常識であって、作曲家の常識ではないわけ。演奏家と作曲家が分業して以来、音楽史においては、そんな作曲家と演奏家のぶつかり合いって、よく出てきますよね?
まあ、批評家のような存在は、作曲家にとっては、そもそも理解者でも協力者でもなく単なるオジャマ虫なんだから、扱いがラク。しかし、演奏家は、作曲家にとって必要な協力者であっても、理解者ではない・・・だからこそ扱いが難しいわけ。
作曲家も演奏家も、本来は、同じ音楽の神を父とする兄弟同士なんだから、最初は一緒に行動するけど、方向性の違いから、やがては諍いとなってしまう。
あらまあ!なんとコミカルな悲劇だこと!!
この「モーゼとアロン」というオペラにおいて、モーゼを作曲家、アロンを演奏家としてみると、ツボを押さえたギャグ満載のオペラになるわけ。基本的には、こんな調子。
1. 作曲家が神から霊感を受ける。
2. 作曲家は自分では自分の曲をうまく演奏できない。
3. と言うことで、演奏が本職の演奏家が登場。とりあえず一緒に活動することになる。
4. 演奏家は見事に演奏する。
5. 見事な「演奏」に民衆は感激!
「感動した!これぞ奇跡だ!」
6. 民衆から絶賛されて「その気」になった演奏家は、もともとの作品にどんどんと手を入れ、ますます民衆を喜ばせる方向に向かってしまう。
7. 作曲家は、
「まっ、とりあえず演奏家に任せておくか・・・」
と、引っ込んで、新たな作曲活動。
8. 民衆の絶賛を浴びた演奏家は、大規模な演奏会を主催して、ますます民衆を喜ばせる。
9. そうなると、もともとの作曲家の意図が完全にどこかに行ってしまう。
10. とんでもない状態になっていることに気が付いた作曲家は、演奏家の元に乗り込んできて、
「こらっ!ええ加減にせんかい!
ものには限度というものがあるんじゃ!
楽譜に忠実に演奏しろよ!」
11. 作曲家の立腹に対し、演奏家は
「そもそもアンタの作品が民衆の理解からかけ離れすぎているのが悪いんじゃないか!」
と反論。
12. 演奏家からの反論を受けながら、
「最後に業績が残るのは作曲家の方なんじゃ!」
と締める。
私個人は作曲家でも演奏家でもありませんが、まあ、上記のようなやり取りって、音楽創造の現場では、ありがちなことではないの?
逆に、そんなぶつかり合いもない状態だったら、創造現場とは言えないでしょ?
オペラに限らず作品の解釈に当たっては、一義的ではないでしょう。受け手の様々な解釈も許容される・・・原理的にはそのとおり。
しかし、ここまでツボを押さえているのだから、作曲をした・・・と言うか台本を書いたシェーンベルクが、モーゼ=作曲家、アロン=演奏家 という役割を考えなかったわけがないでしょ?
そもそも、シェーンベルクはウィーンに生まれたユダヤ人ですが、もともとはユダヤ教徒ではありませんでした。もともとはキリスト教徒だったわけ。だからユダヤ教徒歴よりも作曲家歴の方が長いわけ。シェーンベルクは、まずは、作曲家なんですね。
もちろん、このオペラには、旧約聖書におけるユダヤ人の信仰の問題もあるでしょう。ユダヤ人のアイデンティティの問題だってないわけがない。音楽創造現場の問題とユダヤ人の信仰の問題のどっちがメインのテーマなのかは別として、モーゼとアロンというユダヤの有名人が出てくるんだから、信仰の問題がないわけがない。しかし、ユダヤの問題をメインに扱った作品と考えるには、かなり無理がある。
この「モーゼとアロン」というオペラは、どうして、その歌詞がドイツ語なの?
ウィーン生まれのシェーンベルクにしてみれば、ドイツ語はいわば母国語。自分の考えをまとめたり、歌詞を一番書きやすい言語。だからドイツ語でオペラの歌詞を書いた。それはそうでしょう。しかし、ユダヤ人の信仰の問題を主に扱うのなら、どうせならヘブライ語にした方がいいでしょ?
ドイツ語で台本を書いて、後でヘブライ語に翻訳して、それに音楽をつける・・・
この流れでオペラを作っていけば、たとえヘブライ語が母国語でなくても、台本を書き作曲もできるでしょ?
どうせドイツ語のままだって、演奏頻度が高くなるわけではないでしょ?
そもそもユダヤ人の問題を扱うに当たって、ドイツ語なんて、一番微妙な言語でしょ?
むしろドイツ語だけはやめておく・・・そう考えるのが自然じゃないの?
何と言っても、台本を書き始めた1930年代は、ナチスの台頭などがあったわけですからね。ドイツにおけるユダヤ人差別って、身に染みていた頃でしょ?
あるいは、どうせなら、ドイツ語ではなく、英語にする方法だってあるわけですしね。シェーンベルクは後にアメリカに亡命したわけですから、後になってオペラの歌詞を英語に変更するくらいわけがないでしょう。最初の構想はともかく、ドイツ語のままで台本を書き、作曲を進め、後で修正もせずに、そのまま初演を行うということは、明らかにヘンなんですね。初演は1954年で、シェーンベルクはもうお亡くなりになっていましたが、初演までは結構時間もあったわけですし、翻訳作業は人に任せることもできるでしょ?
翻訳作業を協力してくれる人はいっぱいいますよ。よりにもよって、第2次大戦直後に、苦難に満ちたユダヤ人のドラマをドイツ語で歌い上げられても、それこそがお笑いですよ。せめて、英語ヴァージョンを別に用意して、ドイツ語以外でも歌えるようにしておくのがマトモでしょ?
だから、ユダヤの信仰の問題や苦難に満ちたユダヤ人の問題は、決して、このオペラ「モーゼとアロン」のメインのテーマではないわけ。しかし、この「モーゼとアロン」というオペラが、「理解者と協力者の乖離」という一般論、孤高の人と大衆迎合の人との対立、超越的な存在と、現世的な存在の対比。あるいは、音楽創造の現場における「作曲家と演奏家の対立」というテーマから見れば、ドイツ語の歌詞で何の問題もない。
まさにドイツオペラのおなじみの伝統的なテーマであり、「モーゼとアロン」はその変奏に過ぎないわけ。シェーンベルクは台本を書きながら、
「あのヤロー!よくもあの時はオレの作品をムチャクチャに演奏しやがったな!」
と特定の演奏家なり、演奏のシーンを思い出して台本を書いていたのでは?
まあ、台本を書きながら、アタマから湯気が出ているのが簡単に想像できますよ。アロンの歌詞に付けられた多彩な音楽表情には、自分が作曲した作品を演奏される際に、心ならずも「付けられてしまった」トンチンカンな音楽表情が具体的に反映しているのでは?
それこそ作曲しながら、
「あの時は、よくも・・・よくも・・・オレの曲に余計な表情をつけて・・・」
と、髪を掻き毟りながら作曲していたのでは?これはちょっと想像できないけど・・・
まあ、演奏において、多少はトンチンカンな表情もしょうがないところもあるけど、やっぱり限度があるでしょ?
しかし、民衆から絶賛を浴びて「巨匠」の気分になっている演奏家は、どんどんと暴走して行くばかり。しかし、民衆の趣味に合っているがゆえに、ますます民衆から絶賛を浴びる。そうして大規模な演奏会へ!
第2幕の有名な黄金の子牛のシーンおいて、70人の長老たち語る言葉があります。
「人々は至福の境地だが、奇跡が示したのは、酩酊や恍惚がなんたるかということだ。
変わらぬものはいない。皆が高められている、感動せぬものはいない、皆が感動している。
人間の徳が再び力強く目覚めた・・・」
このセリフって、コンサートと言うか演奏家を絶賛する批評の言葉そのものでしょ?
皆さんだって、上記のような批評の文章を読んだことがあるでしょ?
まったく、ツボを押さえまくり。ギャグ満載ですよ。まあ、延々と饗宴が続く黄金の子牛のシーンって、ザルツブルグ・フェスティヴァルのようなものをイメージしているのでは?
だからこそ、モーゼつまり作曲家が、アロンつまり演奏家に「オマエなんて、所詮は、民衆の側じゃないか!」なんて言い渡す。
気持ちが入ったギャグだねぇ・・・
まあ、オペラにおけるモーゼの持っている石版を楽譜にして、アロンが持っている杖を、指揮棒にする・・・そのように演出しても、何の違和感もないでしょ?
シェーンベルクも恨み骨髄だねぇ・・・こりゃ、確かに、晩年でないと発表できませんよ。これほどわかりやすいメタファーなんだから、本来なら誰でもわかるはずなのに・・・
私個人はそんなことを書いてある解説を見たことがありません。まあ、作曲家の方々なら、簡単にわかるんでしょうが、おおっぴらには言えないのかな?
まさに諸般の事情というか大人の事情があるんでしょうね。ちなみに上記の歌詞は、作曲家でもあるピエール・ブーレーズが指揮したCDから取っています。そのCDに添付されている解説書で
「アナタはご自身を、モーゼだと思う?アロンだと思う?」
なんて質問しているインタビューがあります。いやぁ・・・エゲツナイ。
ブーレーズは、当然のこととして、お茶を濁したような回答。
「つーか・・・よりにもよって、このオレに、そんなこと聞くなよ!」
と思ったのでしょうね。シェーンベルクだけでなくブーレーズだって怒っちゃうよ。
もちろん、この作品において、シェーンベルクが単純に、「演奏家への恨み」をオペラにしたわけではないでしょう。自分が神からの霊感を受けて作曲した作品をメチャクチャに演奏する演奏家に向かって、
「勝手にオレの曲に手を入れるなよ!ええ加減にせんかい!このタコ!」
と、心の中で怒鳴っているシェーンベルクに対して、
「タコはオマエだろう!」
そんな言葉も言う人もいるんじゃないの?
たとえばシュテファン・ゲオルゲやライオネル・マリア・リルケ。
ゲオルゲやリルケが、神からの霊感を受けて文学作品にしたのに、それに勝手に音楽をつけたのは、いったい誰?
後から付けられた音楽が、詩人の意に沿ったものなの?
と言うか、リルケなんて挿絵すらいやがりましたよね?
自分の詩に音楽を付けるなんて絶対に容認しないと思うけどなぁ・・・
まあ、デーメルのような三流詩人に音楽を付けるのはともかく、ゲオルゲのような一流の詩に勝手に音楽をつけてはダメでしょ?
音楽を付けた分だけ、「広まりやすい」とは言えますが、それが本当に詩の本質を伝えることに役に立っているの?
そうなんですね!
シェーンベルクは作曲家として、演奏家が勝手につけてしまう不適切な音楽表情に抗議する側、つまりモーゼのような立場であるとともに、作曲に当たって題材とした文学作品の作者から、抗議される側、つまりアロンでもあるわけ。
「ああ!オレもタコだったんだぁ〜!」
これは色々な意味でそのとおり。しかし、まさにアロンのように、
「だってぇ、だってぇ・・・こうすると、みんなにわかってもらいやすいしぃ・・・みんなも喜んでくれているしぃ・・・」
と言わざるを得ない。しかし、本当に民衆にわかってもらえるの?
民衆との間に、共通の認識・・・いわゆる「理解」と言う次元に到達できたの?
表現において、発し手が想定しているとおりに、受け手が理解する・・・そんなことは実にレアケース。
神から霊感を受けて文章を書いて、それに音楽をつけると、最初の霊感からズレてしまう。それを演奏したら、演奏家の理解によって、ますますズレてしまう。
それを一般聴衆がどう聞くの?
もう、とんでもない伝言ゲーム状態。
最初に創作者が受けた神の言葉はどこに行ってしまったの?
最初の意図が伝わらないのなら、表現っていったい何?
「おお!言葉よ、言葉、私に欠けているのはおまえなのだ!」
第2幕最後にあるモーゼの有名なセリフです。
この場合の「欠けている言葉」は、狭義で言うと、まさに演奏能力となる。もう少し一般化すると表現能力というか伝達能力になるわけ。しかし、そのセリフの前の部分
「想像を超える神よ!
語ることはできない意味あまたなる想念よ!」
と言う言葉と組み合わせてみると、別の面も見えてくる。言葉が欠けているのではなく、言葉によって生み出される関係性が欠けている・・・そう言えるわけ。
言葉、あるいは表現によって、発し手と受け手で認識を共有できる。その共有化された認識がモーゼには欠けていて、アロンには備わっている。
いや!
備わっているというより、アロンはそもそも民衆の側なんだから、「見ているもの」も、民衆と共通している。しかし、モーゼは民衆と見ているものが元から違っているわけ。言葉そのものは同じでも、その意味するところが違っている。だから、言語によって関係性が生み出されることはない。
そのような意味で、この「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をした1874年にウィーンに生まれたユダヤ人のシェーンベルクは、言語表現に懐疑のまなざしを向けた「チャンドス卿の手紙」の作者・・・1874年にウィーンに生まれたユダヤ系のホフマンスタールと全く共通しているわけ。そして、その共通性は、
「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」
と言う命題を持つ「論理哲学論考」の作者である哲学者ウィットゲンシュタインと全く共通しています。
「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」
と言うウィトゲンシュタインの言葉と、
「想像を超える神よ!語ることはできない意味あまたなる想念よ!」
というシェーンベルクの言葉って・・・笑っちゃうほどよく似ている。
ウィットゲンシュタインは、1889年にウィーンで産まれたユダヤ人。ちなみに、彼の父親はプロテスタント。母親はカトリックです。
シェーンベルクは前に書いたようにユダヤ人なのに、当初はカトリックで後にプロテスタントに改宗、その後になって、今度はユダヤ教に改宗。
それにホフマンスタールが、ユダヤ系なのにカトリックだったことも・・・ご存知でしょ?
そのようなマイノリティは、コミュニケーションに対する無条件の信頼が、もともとないわけ。表現によって、自分の意図が人々に理解され、関係性が広がっていく・・・とは単純に考えない。もちろん、このようなことは言語の向こうにある心理を読もうとした1856年のウィーンに生まれたユダヤ人フロイトにも見られることでしょ?
言語によって関係性、あるいは相互理解が生み出されないという点においては、
「もし、ライオンが言葉を話せても、言っていることは我々にはわからないだろう。」
というウィットゲンシュタインの「言葉」が見事に語っています。真に創造的な領域では、人の言葉ではなく、神の言葉が支配する。だから表現によって、民衆との間に新たなる関係性が生み出されることはない。
じゃあ、どうして表現するの?
アンタが言うように語らないのが本来の姿じゃないの?
どうせ語ってもわかってくれないんだし・・・
まったくもって、おっしゃるとおりなんですが・・・
それがわかっていながら作品を作る、いや!わかっているからこそ、作品を作るわけ。目の前の人よりも、自分が知らない人に宛てて、作品という形で自分の認識を伝えようとする。語りえぬものだからこそ、語る必要があるわけでしょ?
これは別の言い方をすると、受け手が理解できないものだからこそ、作品にする必要があるとも言えますよね?
このことは作品を作る際には、難しく、わかりにくく書くという問題ではないわけ。
何を語るのか?(=WHAT)と言う点において語りえぬものであって、どう語るのか?(=HOW)の問題ではないわけ。
わかりやすく語っていても、語りたい中身そのものが受け手に受け入れられない、というか、多くの人には見えないもの。しかし、だからこそ、語る必要がある。受け手が見えないとわかっているものを、何とかして語ろうとするわけ。
しかし、だからこそ、ますます閉塞する。そして、自分が直面しているそんな閉塞を打破する協力者がほしい。
しかし、協力者であっても理解者ではないので、そんな協力者との共同作業によって、結局は、傷つき、ますます閉塞してしまう。
そのような点でモーゼも、シェーンベルクも、ホフマンスタールも、そして映画「ソフィーの選択」におけるソフィーやネイサンも、そして映画「ウィットゲンシュタイン」におけるウィットゲンシュタインもまったく同じ。
いやぁ!苦笑いせずにはいられない。
「モーゼとアロン」というオペラは、古代のユダヤが舞台と言うより、まさに当時のウィーンの芸術創造現場を、そしてその閉塞感を反映しているわけ。
ああ!ウィーンって街は、何て閉塞が似合う街なんだろう!
そのように見てみると「モーゼとアロン」は実に笑えるオペラでしょ?
このような気持ちが入ったギャグって、笑うだけでは済まないけど。まあ、このような悲痛で自虐的なギャグは、ユダヤ的なギャグの典型ですよね?
そう言う意味では、この「モーゼとアロン」というオペラは、まさにユダヤ的なオペラと言っていいのかも?
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-09/07-09-27.htm
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リヒャルト・ワーグナー「ワルキューレ」
芸術家とは、神から出でた存在であり、神からの霊感を一般の人間に伝え、後生に残すのがその使命。
逆に言うと、ドラマにおいて、神からの言葉を伝えている存在は、芸術家としての自分自身を描いているケースが多いわけ。しかし、神からの言葉を語るがゆえに、一般の人間には理解されない。それゆえに、神からの言葉を受けたものは、一般社会の中で孤立し、苦悩することになる。
孤立の中で、自分の理解者を必死で探したり、神からの言葉を伝えようと、自分の協力者を得ようとして無理をして、その無理によってますます孤立してしまう。結局は、その苦悩がますます深くなる。しかし、一般社会からの孤立ゆえに、神からの霊感は、特定の人や集団を相手とする直接的な語りではなく、客観的な作品として結実することになる。
さて、そんな流れを持つオペラ(正式には舞台祭典劇)の「ワルキューレ」を考えて見ましょう。
題材としては、ゲルマン神話を元にしているわけですが、そのテーマとしては、芸術家としての意識という点から見ると、実に理解しやすいわけ。このオペラの主要人物であるジークムントのキャラクターなり、ドラマにおける役割・・・それがまさに芸術家の姿そのままなんですね。さて、そのジークムントは、神々の長であるヴォータンの血を引いている。つまり、神から出でし存在。
そして、そのヴォータンからの使命を果たすべく、行動することになる。つまり、神からの言葉を実現させる存在。しかし、ヴォータンからの使命を実現させようとするがゆえに、周囲と諍いが起こる。つまり、神からの言葉を実現させようとすると、周囲の一般人とモメることになる。
ジークムントは、自分と同じように神から出でし存在であるジークリンデに入れ込む。
つまり、芸術家は同類同士だと実に理解が早い。
一番困った時に、ヴォータンからの剣ノートゥングが現れる。つまり、芸術家が真に苦悩した時こそ、神からの霊感が訪れる。ジークムントとジークリンデとの結びつきに対し、一般人のフンディングがジャマをする。
つまり、芸術家同士の結びつきには、一般人からの妨害がつきもの。結局は、ジークムントは、一般人であるフンディングにやられてしまう。つまり、芸術家は、一般人には、この世では勝つことができない。
しかし、ジークムントとジークリンデは、ジークフリートを残すことになる。つまり、芸術家が死んでも、その後まで作品は残ることになる。そのジークフリートには、ヴォータンの娘であるブリュンヒルデが助ける。
つまり、芸術家による作品は、芸術的なルーツを持つ同類のサポートによって、世界に出て行くことになる。ジークフリートによって、この世界が浄化される。つまり、芸術家の作品によって、世界が堕落することを防ぐことになり、まさに神の意思が実現される。
と、まあ、芸術家の苦悩と成果と言う視点で見ると、実にツボを押さえた設定になっている。作者であるワーグナーが、自分自身の苦悩なり、芸術家としての意識や役割を踏まえた上で、台本を書いたのがよくわかる。
神からの言葉を語るがゆえに、この一般社会からは理解されないとなると、以前にシェーンベルクのオペラ「モーゼとアロン」を考えております。シェーンベルクは、神からの言葉を直接的に聞くモーゼに自分自身を重ねている。
しかし、一般社会に神の言葉を伝えるためには、神の言葉を直接的に聞くことができない一般人であるアロンを協力者にしなければならない。この「モーゼとアロン」というオペラの場合は、台本を制作した作曲家のシェーンベルクにしてみれば、モーゼ=作曲者,アロン=演奏家 の役割を負っていることはすぐにわかること。
神からの言葉を直接聞くものは、その言葉を多くの人たちに伝えなければならないという使命感と、対象とする一般人の理解力の低さの間の齟齬で苦悩する。そんな苦悩は、歴史を紐解けば、いくらでも出てきますよ。
それこそ、キリストだって、まさにそのパターン。
あるいは、画家のゴッホとかミケランジェロとか、レンブラントとか・・・ほとんどがそのパターンでしょ?逆に言うと、一般人と上手に付き合うことができたルーベンスが、芸術家の立ち位置の理想形として、ウィーダの「フランダースの犬」に出てくることになる。それだけレアケースというわけ。
芸術家は、神からの言葉を聞くがゆえに、一般人から迫害され、殺される。しかし、その言葉は後世まで残ることになる。
神からの言葉に執りつかれた人間は、本当の意味での自由意思はない。神からの言葉は、当人にとって圧倒的な存在であるがゆえに、それ以外の存在が霞んでしまう。
だから、遮二無二行動して、どうしても一般人とのやり取りがうまく行かない。
それこそ、この「ワルキューレ」の中のジークムントのセリフを取り上げてみましょう。
「♪・・・私は人に会う限り、何度でも飽きずに、友を求めたり、女を得ようとしたのですが、私はただ追放されるばかりでした。
何か不吉なものが私の上にありました。私が正しいと考えるものが、他人には悪いことのように思われたのです。私には悪いと思えることを、ほかの人は好んでしたのでした。どこへ行っても反目の中に落とされ、私の行く先々で怒りに襲われたのです・・・♪」
この言葉を、そのままゴッホの伝記に入れても、何も違和感がないでしょ?
あるいは、ベートーヴェンでもOK。
ミケランジェロでも、基本的には、OKでしょうが、まあ、ミケランジェロは「女を得よう」とはしなかったでしょうね。しかし、彼もトラブルを巻き起こしてばかりでしょ?
しかし、それでも作品は残る。自分の死後も残るものを作る・・・それが芸術家の使命。
神よりも、一般人を向いていたら、神の言葉はもう降りてこない。神は嫉み深いもの。
一般社会から疎外された極限の状態にこそ、ノートゥングが現れ、作品のキーとなる霊感が訪れる。しかし、その神の言葉ゆえに、この社会では生きることができない。
結局は、神からの言葉をまとめた作品を制作する創作者だけでなく、その作品を守ろうとした人間までが迫害されてしまう。まるで、ブリュンヒルデが炎に幽閉されたように。しかし、そんな幽閉された芸術家を解き放つのも、神からの言葉をまとめあげた作品。芸術の歴史とは、見方を変えると、まさにこんな感じになっているものでしょ?
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-12/10-04-26.html
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2. 人類の至宝 EMI版バイロイトの第九とは何だったのか?
Furtwangler: Beethoven Symphony no. 9 "Choral" (Bayreuth 1951, EMI version)
http://www.youtube.com/watch?v=sWuBeV1Lai8
http://www.youtube.com/watch?v=L9iV-yKXI7k
http://www.youtube.com/watch?v=kK3Gy8LRcGc
http://www.youtube.com/watch?v=BuLW7Z5MjjE
Furtwangler: Beethoven Symphony no. 9 "Choral" (Bayreuth 1951, the Bavarian Radio version)
http://www.youtube.com/watch?v=95Wl6SxPKtQ&playnext=1&list=PL592099B56D52926D
http://www.youtube.com/watch?v=-6x_HzAxkoM&playnext=1&list=PL592099B56D52926D
http://www.youtube.com/watch?v=bgAI-en631c&playnext=1&list=PL592099B56D52926D
http://www.youtube.com/watch?v=kMsPaxTXxvk
http://www.youtube.com/watch?v=670cxAkXp3Q
http://www.youtube.com/watch?v=kCfTrWiDgCY
Furtwaengler conducts Beethoven 9th Sym finale 1942
http://www.youtube.com/watch?v=l7bBCGUTboY
http://www.youtube.com/watch?v=Uj3Bi_s_pYc
http://www.youtube.com/watch?v=fjsPJRVfixs
http://www.youtube.com/watch?v=MJBG9oSrbDg
http://www.youtube.com/watch?v=5c63FVMWELg
http://www.youtube.com/watch?v=R7y08vr4ulI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=87hD_3nmCA0
http://www.youtube.com/watch?v=pX0axuWB5Qo
http://www.youtube.com/watch?v=gYvjb2QIANA
http://www.youtube.com/watch?v=Ytv77Bx9wQc
http://www.youtube.com/watch?v=Bo-qfMj7xGM
Furtwangler conducts Beethoven Sym.9 on Aug.31.1951,in Salzburg
http://www.youtube.com/watch?v=vItuQgmLyxw
Ludwig van Beethoven: Symphony no. 9 "Choral"
Philharmonia Orchestra, Wilhelm Furtwangler
Recorded live in Lucerne, August 21, 1954
http://www.youtube.com/watch?v=F8cu-Czx874
http://www.youtube.com/watch?v=MKsAGdyn7TA
http://www.youtube.com/watch?v=ozZqLTikxZM
http://www.youtube.com/watch?v=toT33shaVhc
これこそフルトヴェングラーが夢見た第九の究極の演奏だった:
29 July 1951 Bayreuth Fes. Orc. The last rehearsal & Live(EMI=Legge)
Beethoven:Sym.No.9
●7月29日 ベートーヴェン/合唱 バイロイト祝祭o バイロイト音楽祭最終リハーサル&実況 EMI収録 EMI所蔵
LP/PR: EMI(GB)ALP1286-7(55/11)Pathe(F)FALP381-2(55/12)WALP(G)1286-7('55)
そしてこちらがフルトヴェングラーの実際の演奏 _ まあ、こんなもんだろうな:
29 July 1951 Bayreuth Fes. Orc. Concert Live(Bavarian Radio)
Beethoven:Sym.No.9
●7月29日 ベートーヴェン/合唱 バイロイト祝祭o バイロイト音楽祭実況 バイエルン放送収録 バイエルン放送所蔵
▼shin-pが最初に聞いたバイロイト合唱のブライトクランク盤LPは音質が芳しくなかったが、CDになってからは若干こもりぎみながらも比較的明瞭なサウンドで聴くことができるようになった−と思っていた。
ところが2000年になってコレクターの方に各国初出盤LPを聞かせていただいてから考え方は大きく変わった。英独仏初出盤のなかでは仏パテFALP381-2(55/12)がもっとも明瞭なサウンドを聞かせ、終演後の拍手もドイツの聴衆らしく整然とした印象。ついで英盤。
独盤は音がこもり気味で、日本初出盤に近いクオリティ。終演後の拍手もなぜか日独盤は共通して唐突なテープ編集がなされている。英仏盤も含めてEMI系のLP/CDは全て拍手の編集があるという説もある。
原盤マトリクスは同じながら各国で別テープを使用しているようだ。00/07レコ芸相談室によると演奏前の足音入りテープは現在日本にしか存在しないという。また2000年東芝全集盤でも61年当時英EMIから送られてきたテープを使用してリマスターしているという。
MythosNR5009(03/05)は初出盤ALP1286-7(55/11)を板おこしした話題のCD-R。
足音入りの部分は演奏部分に比べて音が明瞭、マイクの位置もステージ際と思われ、聴衆ノイズの少ない演奏部分とは別のマイク位置による収録と思われる。さらに、もしこの足音部分のみバイエルン放送テープを使ったとすれば、同局が収録した他の音源と比べて51年録音としては明瞭すぎ、出所については疑問が残る。
足音や終演後の拍手のみならず詳細に聞けば、残響が不自然にとぎれ、いたるところでテープ編集されているのがわかる。この演奏は同年のカラヤン「ワルキューレ3幕」と共にEMIのレッグが収録。
これだけの記念碑的大演奏会だけにリハーサルからテープは回っていると考えるのが順当だろう。英ART盤の解説によれば
「終演後、レッグがWFの控室を訪れ
『良い演奏だったが、今まで以上にすばらしい演奏とは言えなかった』
と実演の感想を述べた」ことが書かれている。オルセンによれば、実況録音はバイエルン放送が生中継し、テープも所蔵しているという。
EMIが現在「バイロイト盤」として発売している最終リハーサルを中心としたテープおよびバイエルン放送が本番の実況を録音したテープの2種の録音の存在が推定された。
2007年7月ついに日本WFセンターが、バイエルン放送のテープを使った真正実況を頒布。これの録音状態は、51年放送録音としては標準的なもの。
EMI盤は3楽章をはじめとして若干の実況を含んだ「最終リハーサル」を中心とした編集版である可能性がさらに強まった。
さらに、EMI盤とセンター盤の同じ演奏部分の収録状況の違いから、真正実況もEMIとバイエルン放送の2つの音源があり、51年バイロイトに関しては計3種テープの存在が07年時点で推定される。日本協会が8月頒布で1954年バイロイトのオリジナル音源盤を発表しており、さらに、謎は解かれつつある。
クナの神々をデッカが収録しているが、音質ではEMIはデッカに及ばなかった−という世評。ただ、初出盤などを聞くにつけ、もっといい音で残されている期待もある。
演奏については、唯一「コーダの決めが録音のせいかあやふやな感じで終わっている」といった趣旨の演奏評も多いが、この切れたような終わりかたこそshin-pはこの曲にふさわしいと思える。
至る所で編集がされていたとしてもこの演奏の偉大さは変わらない。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/
▼日本WFセンターから51年バイロイト真正実況が頒布された。
まず、音質だが、翌年2月の独協会ウィーン盤には劣るが、1ヵ月後のザルツブルクorfeo盤よりは良好。高域は明快だが、低域が弱く、終始管楽器が強いなどのバランスと持続的に聞こえるノイズに若干の問題がある。
バイエルン放送はワンポイントマイクを使ったのだろうか、EMIが収録した「最終リハーサル」と思われる録音に比べて、強奏部で楽器の分離が悪く、個々の楽器の音色に劣る。それでも、これは他のCDと比較した場合の問題点で、鑑賞自体に大きな支障はない。
さらに、EMIの「足音」部分とセンター盤の一楽章冒頭はどうしても同じセッションのものとは思えず、レッグがこのバイロイト盤発売に際して試聴したとされる、54年バイロイトの良好音源もどこかに存在するという思いを強くした。
演奏は、冒頭からEMI盤とは全く別物だとわかる。部分的にEMIが使った演奏が顔を出す個所もあるのだろうが、1,2回の試聴ではよくわからない。
全体的に多少荒れた印象もあるが、これは録音のせいだと思われ、整然としたEMIとは違ってライブらしい熱気が感じられる。
1楽章の前半部に大きな咳払いがあるが、その他は聴衆ノイズが少なく、良好にこの記念碑的真正実況が聞けるのはありがたい。
バイロイト盤の白眉は、歓喜の主題が低弦で静かに演奏されはじめる部分にあるとshin-pは信じているが、残念なことにセンター盤はその直前の「間」にテープの継ぎ目があり、低弦の出だしが切れている。演奏前後の拍手などはカットされているが、楽章間の聴衆ノイズが収録されており臨場感は満点だ。
やっと、「真正実況」が聴ける歓びが大きいのは間違いない。しかし、全曲を通して聴いた感動は、EMI盤の方が大きい。生演奏は、録音された瞬間に「アーカイブ」という別物に変わってしまうのだ。
何度も繰り返し再生され、なおも愛好家を増やしつつあるEMIバイロイト盤の「レコード芸術」としての歴史に、残念ながらセンター盤「真正実況盤」は敵わないように思う。
あれほどまでに聴きたいと思いつづけてきた「真正実況」だが、「今まで以上に優れたものではなかった」というレッグの実演に対する評価が、大きな実感としてshin-pの胸にのしかかった−(07/07/19)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/
フルトベングラーの「第9」、別の音源見つかる
1951年のドイツ・バイロイト音楽祭でフルトベングラーが指揮したベートーベンの「交響曲第9番」(EMI)はクラシックの伝説的名盤といわれる。
ところで最近、この同じ演奏を、バイエルン放送が録音した音源が見つかった。状態は良く、演奏の細部が明確に聞きとれる。すると、こんな推論が浮上した。
「伝説的名盤」は、本番の録音にリハーサルなどを取り込んで大胆に編集したものなのではないか――。
ライブ録音は、うわさを聞いたチェロ奏者カルテンボルンが06年にバイエルン放送に照会し、後日、資料室で見つかった。放送記録も残り、箱に録音技師の名前もあった。同年10月に同放送関係者や音楽家らが試聴審査し、「51年のバイロイト」と判断したという。
しかし、この「バイエルン版」は、EMI盤と様々に違っていた。例えば第3楽章冒頭はバイオリンの出が早い。
終楽章でコーラスが「vor Gott」と歌う部分に激しい音量変化がない。聴衆のせきも、第1楽章から明確に聞こえた。
カルテンボルンと親交がある、日本の「フルトヴェングラー・センター」の中村政行会長も、現地の審査会に参加した。中村会長は
「EMI盤は聴衆ノイズを消すため、一部をリハーサルと差し替えたのではないか。様々に『化粧』を施したことになるが、スタジオ録音が中心だった当時ならありうることだ」
と語る。 「センター」の顧問で、半世紀にわたりフルトベングラーの音源を聴いてきた檜山浩介さんは比較の上で、こう語る。
「EMI盤は、全体の4分の3が編集したものではないか。
当時の流儀からして、ライブ録音以外に音源を使うならリハーサルだろう。
バイエルン版は、EMI盤では破綻がある合唱の出来がよく、終楽章の最後の凝縮感もすごい。戦後の新時代に向けたフルトベングラーの思いが伝わる」
EMI盤には、実は以前から「一部が編集されているのでは」と想像を巡らすファンがいた。ただ、古い録音に詳しい音楽評論家の山崎浩太郎さんは言う。
「編集が加わったものだとしても、EMI盤の芸術的価値は下がらない。
優劣を論じず、虚心に聴き比べ、フルトベングラーの神格化を避けて、多面的に音楽を楽しむことが重要だ」
http://takenoko-ent.blog.so-net.ne.jp/2007-09-27-2
ベートーベンの第9のCDといえばフルトヴェングラーのバイロイト盤にとどめをさす。
戦後、再開されたバイロイト音楽祭1951年の初日、7月29日の公演のライブ録音。もちろんモノラル録音だ。のちに録音のいいステレオ盤がたくさん発売されたが、レコード芸術などの評論家や読者を対象とした雑誌のアンケート調査でもいつもこれが1位になっていた。僕自身、録音のいいステレオ盤をいろいろ聞いていたが、このフルトヴェングラー盤に出会って第9の神髄に触れることができた。
有名な録音だけにいろいろ憶測が言われてきた。詳しくはあとで述べるが、この録音は 英EMIによって録音された。レコード化を目的としていたかは、実際のところわからない。
EMIはウイーンフィルやフィルハーモニアオーケストラを使ってスタジオ録音を始めていた。SP時代をのぞくと、レコード化を目的としたライブの録音は他には知らない。この年(1951年)カラヤン指揮のワーグナーの楽劇を録音するため、EMIは録音チームを送った。ついでにフルトヴェングラーの第9を録音してみようという話になったのだろうか。
公演は29日1回だけだったらしいが、現地のラジオ局(バイエルン放送協会)も録音してラジオで放送されたらしい。それで放送局にEMIとは別の録音テープがあるのではないかといううわさが以前からあった。
そのうわさされていたバイエルン放送局所蔵の録音テープが出てきて、2007年に日本フルトヴェングラーセンターがCD化し会員向けに頒布された。大げさかもしれないがファンにとっては衝撃的なニュースだった。
案内されてきたCDは会費込で6000円した。あまり高すぎるため、聴きたかったが、買わなかった。そうしたらその年(2007年)の12月にORFEOから通常販売され入手できた。
(ORFEO C754081B、写真)
この録音の発掘は当然、かなりの話題になった。2007年9月号のレコード芸術に感想記事が寄せられている。フルトヴェングラーセンター会長中村政行、フルトヴェングラー研究家桧山浩介、そして音楽学者(評論家)金子建志の3人。まだORFEO盤は発売されていないので、センター盤を聴いてでの感想ということになる。
いままでEMI盤で言われてきたのはゲネプロ(総練習)をメインに使用し、本番のテープも一部使用した、という説(テープを編集した跡がある)。
ほぼこれは当たっていると思う。バイエルン放送局のテープは咳ばらいなどの聴衆のオーディエンスノイズがはっきり聞き取れる。部分的にEMI盤と同一と思われる個所もあるらしいが、あきらかに別録音という印象を受けた。
中村、桧山両氏はバイエルン放送局盤を29日の本番だと指摘。演奏の完成度もEMIより高いという意見を述べられているが、金子氏はまったく逆の意見だ。
その根拠は、演奏の仕上がりの完成度はEMI盤の方が高くバイエルン放送局盤は楽器のバランスやアンサンブルの点で最終し上がりの前の状態で完成度が低いと指摘している。金子氏の指摘はスコアを使用して詳細を極めている。
ぼくはスコアは持っておらず、金子氏の指摘についての確認は出来ないが、バイエルン放送局盤の演奏にEMIより完成度が低いという印象は持てなかった。金子氏の指摘で判るのは、終楽章のソロトロンボーンの箇所と、ピッコロ、トランペットが突出しているところ。ピッコロとトランペットの箇所は、マイクアレンジの差かもしれないが、仮に、EMI盤が本番として、フルトヴェングラーが修正した、という説は、十分考えられる。しかし、咳などの聴衆のノイズについては、オーケストラの楽員もしくはコーラスの団員が発したものではないか、という説は無理があると思う。第一楽章初めのあたりの咳はマイクに近く、オーケストラ団員というのはわかるが、マイクから遠い会場ノイズがあちこちに散見できるからだ。
金子氏がバイエルン放送局盤をゲネプロと指摘する根拠がほかにもある。第3楽章のまえにソリストが入場する足音が聞かれる個所のことだ。(ORFEO盤はここのところはカットされていてる。)本番ならソリストが入場すれば拍手がおこるはずと指摘している。
これはたしかにそのとおりだと思うが、一方でゲネプロならソリストの入場は第4楽章のまえでいいのではないかとも思うが。バイエルン放送局盤は第3楽章が終ってすぐ第4楽章が始まっているので、たとえゲネプロであっても本番と同様に演奏したい、というフルトヴェングラーの要望があったのではと、憶測もできる。
EMI盤の憶測がいくつか明らかになった。
第4楽章中間あたり、”vor Gott"と合唱がフォルテで歌い、声を長く伸ばす、有名な箇所があるが、最後、瞬間的に合唱、トランペットのレベル(音量)が上がる。
これは、レコード制作時にわざとレベルを上げて、演出したのではないかという疑問だ。
バイエルン放送局盤はそのような音量の変化はない。
したがって作られたものだと判った。
さらに、その"vor Gott"のあと、長大なゲネラルパウゼ(総休止)がある。これが異常に長い。それも疑問がもたれた。しかしバイエルン放送局盤も同様に長く、この点については特に元テープを触ってないということがわかった。
僕自身、どうにもわからない点がある。それは最後のつめの箇所。フルトヴェングラーの第9の最後のところは、猛烈なクレッシェンドをかけて終わる。
フルトヴェングラーの第9の録音はかなりあって、ほとんどCDで聴くことができ、この終結のところはどれもうまくいっているが、このEMI盤はオケが混乱して終わっている。
まったく縦の線がそろっていない。誰が聴いてもこれはわかる。
バイエルン放送局盤はこの箇所がうまくいっていて問題ない。レコード化にあたってなぜバイエルン放送局盤を採用しなかったのか。結局、新たな疑問が生じた。
バイエルン放送局盤はバイエルン放送局が録音したと言われている。関係者の証言もあるみたいだ。しかし、僕はこれはEMIが収録したものだと思う。理由はいろいろあるが、それまでバイロイトでのコンサートの録音の経験はなかったはずで、マイクのセッティングに手間がかかり、本番、ゲネプロの収録までにいろいろ試行錯誤(マイクテスト)しているはずで、別々にしているとは考えにくい。それと、マイクアレンジや音質は別、という意見があるが、ぼくが聴いた限りでは、「同じマイクアレンジ」だと思う。たしかに、先に書いたピッコロやトランペットのバランスの問題はあるが全体の音の印象はEMI盤と同じ、という印象だ。根拠はもう一つ。当時のラジオ放送局にこれだけバランスのいい録音が出来る技術は持ってなかったという点だ。
フルトヴェングラーは1954年にもバイロイトで同じ第9を公演していて、この方は間違いなくバイエルン放送協会が録音したテープが残されている。それはCDで聴くことができる。かなりバランスの悪い録音で、はっきりいって鑑賞に耐えられるような代物でなく、3年後という技術の進歩も考えても、バイエルン放送局盤がバイエルン放送局の技術で録音されたとは考えられない。ほかのケースを例に出してもいい、51年、52年、53年のウイーン、51年のザルツブルグ、54年のルツエルン、バイロイトなど、いずれも放送局の録音での第9が残されて聴くことができるが、いずれも録音のクオリティは51年のバイロイト盤には遠く及ばない。
僕の解釈、ゲネプロと本番をEMIが収録した。おそらく、録音権でEMIとバイエルン放送協会とのあいだに争いがあったのではないかと思う。
録音はEMIが収録し、本番かゲネプロのどちらかのテープをEMIがバイエルン側に提供する。放送は1回限りで、コピーテープを他の放送局に提供しない、という契約をしたのではないかと思う。
コピーテープはスエーデンにあるらしいが、放送時に局が録音したのではないかと思う。今回のバイエルン放送協会で発見されたテープには、「たとえ部分的にでも、放送することは禁止」と書かれているという。一度放送した後で記述されたとおもわれ、EMIとの契約を意味しているのではないだろうか。
1970年代後半から80年ころにかけて、放送局が所蔵していた音源からの流出と思われる、コンサートライブのレコードがチェトラ、BWS(ブルーノワルターソサエティ)、メロドラムといったレーベルから大量に発売された。フルトヴェングラーのライブもたくさん出てきた。それ以降も、放送局所蔵の録音テープの発掘が続けられて、散発的に発売されていた。それらのなかに、今回のバイロイトの録音テープは発売されなかった。つまり、バイエルン放送局で厳重に管理され、再放送はもちろんコピーテープも作られなかったということだ。
このEMIの録音についていくつかヒントを与えたい。1999年に歴史的録音を発掘してCDを発売しているテスタメントからオットー・クレンペラーの第9のライブ録音が発売された。1957年11月15日の公演の録音。放送局が録音したのならよくあるケースだが、録音はEMIがした。当然、録音のクオリティは高い。クレンペラーの第9はこの演奏会に前後して、まったく同じメンバーでセッション録音された。レコードとして発売されたのはもちろんセッション録音の方。ライブの方は99年にテスタメントが発売するまで録音の存在さえ知られていなかった。似たケースがほかにもある。53年8月ザルツブルグでシュワルツコップフのヴォルフリサイタルがおこなわれた。ピアノはフルトヴェングラー。シュワルツコップの夫でEMIで力を持っていたウオルター・レッグが私的に聴くために、このコンサートの録音を指示した。結果的には選曲してEMIからレコード化されたが、珍しいケースだと思う。いままであえて名前を出さなかったが、バイロイトのフルトヴェングラーの録音やクレンペラーの第9の録音はレッグの指示だと思う。
EMIはフルトヴェングラーのベートーベンの交響曲をウイーンフィルで順次録音していた。1954年フルトヴェングラーが亡くなって、2番、8番、9番は録音されなかった。9番がセッション録音がされていたら、51年のバイロイトの録音はクレンペラーのケースのようにお蔵入りになっていたと思う。
えらい長いブログになってしまったが、EMI盤とバイエルン放送局盤の比較だが、バイエルン放送局盤の方が演奏がいいと思う。全体が有機的に連続しており、EMI盤のような編集の痕もなく自然。それに録音は明らかにバイエルン放送局盤に軍配が上がる。EMI盤のLPの海外、国内の初期盤、後の盤(70年代)とも比較したがバイエルン放送局盤の方が音質がいい。同じ収録なのになんで差があるのか謎である。バイエルン放送局の別録音の根拠になるが、どうしてもそれは信じられない。
1点だけ問題がある。第4楽章はじめ有名な歓喜の主題がチェロで静かに始まるところ、有名な箇所だがEMI盤はほとんど聞き取れないほどのピアニッシモで開始されるが、バイエルン放送局盤はラジオ放送のためそのままでは聞こえないので、音量を上げている。金子氏が指摘している通りでここでノイズレベルが上がる。再発売の際にはここはもとのダイナミックスに修正してほしい。感興をそぐ。
http://blogs.yahoo.co.jp/zen32510/60907627.html
第二次世界大戦後、6年を経てようやく再開されることとなったバイロイト音楽祭のオープニングを飾ったこの歴史的な演奏は、そのライヴ録音と記されたEMI盤によって、これまで半世紀以上に渡り、音楽好きの人々の間で広く鑑賞されてきたのですが、今回登場するバイエルン放送音源は、同じ日のライヴという記載条件ながら、なぜかそれとは異なる演奏となっているのです。
おそらくどちらかがゲネプロ録音で、どちらかが本番録音ということにでもなるのでしょうが、当時の演奏に関わった人の明確な証言が得られない以上は、どのような意見も推測の域を出ないというのが実際のところでしょうか。
ただはっきりしているのは、終楽章コーダのアンサンブルはEMI音源が崩壊しているのに対し、バイエルン放送音源では何とか持ちこたえていたり、第3楽章のヴァイオリンの出が違ったり、トランペットやトロンボーンのバランスが大きく異なるなど、演奏そのものの差異が認められる部分が多いにも関わらず、部分的には両者が完全に一致するところも存在するということです。
この事実は、どちらかが2種のテープの継ぎはぎをしたということを示すことにほかならないため、1955年に商品として発売されたEMI盤が、「より良い状態にするための編集」というレコード会社がよく採用する方法論を反映したものであるという仮説が有力とも思われます(ブルックナー8番の例も)。
しかし、明確な証拠が無い以上はやはり断定は難しいところですし、しかもバイエルン放送のテープの箱には、「放送に使用することは禁止」という文言も記載されているということなので、さらに事情はややこしくなります。
ベートーヴェン
交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(アルト)
ハンス・ホップ(テノール)
オットー・エーデルマン(バス)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団、同合唱団
録音:1951年7月29日、バイロイト
EMI(輸入盤 7243 5 66953 2 0)
この録音を聴いたのは大学に入ってからだったと思います。最も印象的だったのは第4楽章の終結部でした。威風堂々と奏でられてきたこの曲は、最後の最後で歓喜の絶頂に達します。フルトヴェングラーはそこで猛烈なアップテンポでオーケストラを煽り、信じがたいほどの狂騒の中で曲を終わらせます。そのわずか数分のできごとに私は呆気にとられたものでした。これが私の「第九」体験のひとつです。その後、「第九」を聴くときには、最後の最後でフルトヴェングラー的な極度の高揚感を求める癖がしばらくついてしまいました。
もちろん、そのような癖があっても、現実がそれを矯正しました。もはや世の中にフルトヴェングラーのような指揮をできる指揮者も、それを受け入れるオーケストラもなかったためです。
考えてみれば、EMIはよくもまあこのような録音を発売したものです。フルトヴェングラーという巨人の名前がクレジットされていなければ、おそらくはとてつもない珍盤とされていた可能性があります。フルトヴェングラーが狂ったように指揮棒を振り回し、テンポを上げていくものですから、オーケストラはついていくのがやっとです。そのすさまじさに圧倒されるものの、演奏はハチャメチャに聞こえます。それどころか、きちんと最後の音まで辿り着いていないように思えました。
それだけではありません。第4楽章で合唱が「vor Gott」と叫ぶと、それが延々と続きます。フェルマータがついているとはいえ、一体どこまで伸ばすのか、と思うくらい伸ばします。しかも、その最後でクレッシェンドしているではないですか。絶叫の上に絶叫であります。そして、それからの長い長い沈黙。大まじめにやっているのですごい迫力があります。
これを何度も聴いていくと「第九」とはこう演奏すべき曲なのだと思ってしまうのです。「ライブ録音」と明記してあることも手伝って、一頃まで私がライブにこうした極端とも言える激しさを求めるようになってしまったのは、この録音の影響だったのかもしれません。その後にクレンペラー盤やジュリーニ盤などを聴くに至って私の偏向的な聴き方は緩和され、現在に至っています。
しかし、フルトヴェングラーの音楽が持つ生命力は半端ではありません。
今年2007年になって大きな動きがありました。フルトヴェングラー・センターから会員向けにバイロイトの「第九」が発売されたのです。それも、編集がない、正真正銘のライブ盤だとか。
フルトヴェングラー・センター(会員向けCD WFHC-013)
何と、1951年7月29日のテープがバイエルン放送局の倉庫に眠っていたのですね。それが21世紀になって発掘されたわけですが、この「センター盤」が出現したことで、EMI盤が当時のプロデューサー、ウォルター・レッグによる編集を経て作られたことがほぼ明らかになりました。
例えば、EMI盤にあった「vor Gott」のクレッシェンドは「センター盤」にはありません。というより、「センター盤」は全体的に音楽の流れがとても自然です。つぎはぎをされたらとてもこのように自然な流れにならないでしょう。
気になったのは第4楽章の終結部です。もしかすると普通のテンポになっていないかと興味津々で聴いたのですが、猛烈なスピードで畳みかけるのは一緒ですが、音はよく揃っていて「ハチャメチャ」な感じは全くしません。見事に最後の音に着地しています。
こうなるとますます奇妙です。レッグはわざわざハチャメチャな方を編集材料に選んだことになります。また、「vor Gott」にクレッシェンドをつけて強力に厚化粧をしています。ライブ盤と銘打って発売するからにはこれくらいのことをしておいた方がインパクトがあると考えたのでしょうか。実際に多くのファンに強烈な印象を与え続けたわけですから、レッグの目論見は完全に成功したと言えます。
「ここがこのように違う」という指摘はいくつもできるでしょうし、おそらく専門家や好事家の間でその一覧表でも作られているに違いありません。しかし、こうしたことは枝葉末節なのかもしれません。全体としてみればこの「センター盤」もレッグ編集のEMI盤もフルトヴェングラーの演奏を充分に伝えています。
いずれにせよ、死後50年も経過している指揮者の録音が今も話題になり続けていることは興味深いです。ベスト盤を選定することに意味がないと考える私ですが、フルトヴェングラーはベートーヴェンに真剣に取り組むその姿勢が最も顕著に音に現れている指揮者の一人であるとは思っています。復刻盤が出たらまた買ってしまうことでしょう。古いモノラル録音であるのに。
http://www.kapelle.jp/classic/9th_symphony/beethoven.html
もう一つのフルトヴェングラー/バイロイト「第9」を聴いて
昨年暮れにオルフェオから出たフルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管の別テイク(バイエルン放送)のベートーヴェン「第9」をようやく聴きました。
朝日新聞にセンセーショナルな記事が出たこともあり、おそらく昨年のクラシック音楽界でも最大の話題となったCDの一つでしょう。私もずっと気にはなっていました。
要するに、あの不滅の名盤と言われている1951年のバイロイトの「第9」ライヴ(EMI)が、実はゲネプロの録音ないしはゲネプロと本番の継ぎはぎの編集によるものであって、今回の別テイクこそが、世に出なかった本物のバイロイトの本番の演奏ではないかという疑惑が出されていたわけです。
その後、金子建志さんが「レコード芸術」誌で詳細な分析を行い、むしろ今回出た録音の方がゲネプロなのではないかという意見を出されていたのも印象的でした。
そして、ようやく聴いてみた私の直観的感想を言えば、やはり金子さんと同じく、今回のオルフェオ盤はゲネプロの演奏ではないかという気がします。第1楽章の最初の方で咳が聴こえたりする臨場感はあるものの、やはり全体的に、演奏そのもののテンションがEMI盤に比べると若干低いというか、どことなく模索的な印象を受けます(特に第1楽章の前半)。とはいうものの、それはほんのわずかの差であって、オルフェオ盤においてもフルトヴェングラーならではの呪縛的な世界が展開していることは間違いなく、気がつけばのめりこむように聴き、久しぶりに出会うフルトヴェングラーの「第9」に興奮している自分がいました。録音状態も、フルトヴェングラーのものとしては最良の部類。第3楽章の弦の表情など生々しい感激があります。
今回のバイロイトのもう一つの「第9」を聴いて、私はフルトヴェングラーの演奏に宿されている、一種の「憑依」という特性について改めて考えさせられました。
つまり、オルフェオ盤・EMI盤のどちらにせよ、なぜこんなにゲネプロでも燃えまくってしまうのか。それはおそらく、ゲネプロであろうが本番であろうが、ついつい
「降りてきてしまう」「とりつかれてしまう」要素をフルトヴェングラーの棒が持っていたからなのではないでしょうか。
以前、ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者だった頃のライナー・ツェペリッツにインタヴューしたときに、フルトヴェングラーのことについて聞いてみたことがあります。「一体フルトヴェングラーとは何だったのか? 今のベルリン・フィルにフルトヴェングラー時代の響きは残っているのか?」という質問をしたのです。彼はフルトヴェングラー時代を知る最古参のベルリン・フィル楽団員の一人でしたから。
それに対するツェペリッツの答えはこうでした。
「う〜ん…フルトヴェングラーの響きは、少しだけ、残っていると思うね」
「それはどんなときに感じるのですか?」
ツェペリッツは目を閉じて、右手をスローモーションのように動かしながら答えました。
「今でもときどき、ベルリン・フィル全体が、微妙に動いて…揺れる瞬間がある。あれは――フルトヴェングラーなんだ」
指揮者が意図的に誘導して動かすのでもない、オーケストラ全体が、集合的無意識のように、不思議な揺れ方をする、その瞬間がフルトヴェングラーだ、とツェペリッツは言いたかったんだと思います。
我々はそれを作曲家の霊が憑依したように(まるで今音楽が生まれたばかりであるかのように)感じるのかもしれません。
もちろん、今回のオルフェオ盤にも、それは充分に感じられました。聴く者すべてを狂わせてしまうような、あの暗い魔力はフルトヴェングラーならでは。ファンならぜひとも聴いておくべき1枚でしょう。
http://linden.weblogs.jp/blog/2008/01/9-d41c.html
フルトヴェングラー年代順資料室
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのCD
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/FurtwanglerCD/index.htm
フルトヴェングラー鑑賞記
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/5362/
フルトヴェングラー鑑賞室
http://wadadaiki.com/furtwanglerweb/index.html
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3.フルトヴェングラーは過大評価だよね?
1 :名無しの笛の踊り:2010/02/28(日) 17:59:08 ID:NBZERu3V
悪い指揮者ではないが、崇められすぎだ
カラヤンやショルティ、アバドラのほうがいい指揮者だろう
9 :名無しの笛の踊り:2010/03/03(水) 00:12:20 ID:vkIoeWU4
知らん奴はホントにほっとけばいいと思う。
そして或る日突然目覚めてそれまでの無知の日々を激しく後悔すると...
ざまあwである(笑)
11 :名無しの笛の踊り:2010/03/03(水) 00:23:27 ID:vtxcfQiE
昔は過大評価だったが今は正当評価だと思うぞ
「過大評価だよね?」などということすら憚られた時代があったから。
そして過大評価だと言えるようになって久しい今こんな旬過ぎたネタ持ってくるあたりがしょーもない。
ざっと言えばフルトヴェングラーは20世紀の形而上学の崩壊期における最後の徒花。
奇もてらうがあらゆる音に意味付けしたがる。そういうのが好きな人もいる。
意味付けから脱却して美しければいいとしたのがカラヤンで、美しさって甘ったるいことじゃないだろ、もっとはきはきしろよ、ってな感じのアバド。
美しさの基準は時代によって異なるからなんとも言えない。
31 :名無しの笛の踊り:2010/04/24(土) 22:39:49 ID:pWYw84Tg
フルトヴェングラーが解らない=音楽が解らない
だったよな、昔…
58 :名無しの笛の踊り:2010/05/20(木) 21:40:31 ID:jy5Ed3Vo
フルトヴェングラーのベートーヴェンこそ人類の至宝と崇めて未発表の録音を血眼で捜索していた時代が懐かしいです
78 :名無しの笛の踊り:2010/06/10(木) 00:40:06 ID:r7iCCYP7
フルヴェンは我儘な指揮者だった。
初めてVPOに客演したとき、「もっとはっきりと振ってもらわなければ分かりません」と言われて
怒って帰ってしまったというエピソードが残っている。
売り出し中のカラヤンという若手指揮者を潰しにかかったという点でフルヴェンは肝っ玉の小さな奴だった。 ナチに協力して指揮活動を停止された時期、BPOを救ったチェルビダッケにも嫉妬したものな。 そんなだからロクな死に方をしなかったんだ。
93 :寝言:2010/08/18(水) 04:56:45 ID:U9paKfnL
フルベンは、モーツァルトとかバッハの演奏がとてつもなく下手くそ
比較的ブラームスが上手い
あと合唱曲も苦手だったらしい。
ミサソレの依頼があったが「振れない」と正直に断ったそうだ。
謙虚だね。
95 :sage:2010/08/18(水) 22:26:43 ID:NFdD7+Wt
だからマタイの依頼も返事保留したのか。
96 :名無しの笛の踊り:2010/08/18(水) 22:32:20 ID:clgjjKYV
>>93
新潮文庫版「音と言葉」の訳者芳賀檀の訳者解説によると、
芳賀はフルトヴェングラー指揮の「ミサ・ソレムニス」を現地で実際に聴いて、
生涯忘れがたい感銘を受けた、と書いているが・・・
97 :名無しの笛の踊り:2010/08/18(水) 22:39:33 ID:2j9ZjaJ/
まあ偽物には間違いないがカラヤンよりは分を弁えてたようだな。
110 :名無しの笛の踊り:2010/09/23(木) 03:07:16 ID:DhL9JogD
29 July 1951 Bayreuth Fes. Orc. The last rehearsal & Live(EMI=Legge)
Beethoven:Sym.No.9
そろそろこの演奏の神格化は考えた方が良い。
第一楽章のテンポは断じてベートーベンが想定したものではないし、
第三楽章も遅すぎ。音については時代を考えれば十分であり、
些細な向上が毎回製作者の金づるになっているだけ。
上級者向けにはぜひ備えたい演奏だが、初心者に勧められる演奏ではない。
ベートーベンの第九を元にしたフルトヴェングラーによる自由なファンタジーであり、興行としてのお祭り、祭典として歴史の証言である。
こういう表現もありだし、これはこれで素晴らしい名演である。
第九をここまで想像力により、原曲を改編し、聴き栄えのある形に仕上げたフルトヴェングラーの力量は大したものである。
しかしベートーベンの設定はもっとテンポが速いのである。
勿論作曲者の意図だけが唯一ではないことも事実である。
フルトヴェングラーがベートーベンを上回る天才と信じる方には、このバイロイトが唯一最高の演奏となろう。その気持ちも解らぬではない。
ベートーベンの残された楽譜を忠実に再現するだけという制約を課していては、フルトヴェングラーの時代の指揮者では不可能だった早いテンポによるベートーベンの感動的な再現が その後記録された。
その指揮者は フルトヴェングラーがいずれは自分を抜いていく才能と看破し、抜かれる前に潰してやろうと嫉妬心を燃やし、徹底的に活動を妨害したヘルベルト・フォン・カラヤンである。
カラヤンの記録では1968年のDVDにより 最高の結実を見ることができる。
そしてカラヤンは見事にフルトヴェングラーを抜き去ったのはご存知の通りである
111 :名無しの笛の踊り:2010/09/23(木) 22:28:12 ID:14fKkTfj
カラヤンの才能に嫉妬し、カラヤン潰しに奔走したフルヴェンはじつに見苦しい音楽家だった
実力も人気もかなわないとこういう醜い行動に出るフルヴェンは最低な指揮者
こんなのを神格化した日本の評論家はクソ、その批評を鵜呑みにしてディスクを買いあさった側もアホ
280 名前:名無しの笛の踊り 投稿日:2010/09/23(木) 12:33:39 ID:ufzijpbj
なんでフルヴェンは第九のゴーダをいつもあのやたら早いテンポにしたのか?
初期はいいとしても晩年に至るまでずっとやってたね。
282 名前:名無しの笛の踊り 投稿日:2010/09/23(木) 14:27:03 ID:jBaClGoi
>>280
コーダで加速すると、一回聴くだけなら非常に興奮した演奏ができる。 しかし、レコードでその演奏を何回か聴いていくと興ざめするんだよな。
レコードが一定程度普及したときの演奏のあり方に、フルベンは最後まで答えをだせなかったな。当時としては偉大な指揮者だったとは思うが。
聴衆が「来るぞ、来るぞ」と期待してたから?
112 :名無しの笛の踊り:2010/09/24(金) 02:07:18 ID:JDM8LXv0
フルトヴェングラーも若い内から称賛されてた天才型指揮者だからカラヤンの台頭には穏やかではいられなかっんじゃないか。2人共初期のナチスの思想に共感してたし(まあ当時のドイツ人の大半はそうだけど) 演奏スタイルは違うけどどちらも典型的なドイツ系のナルシストだよね
才能も自信もあるけど意外とめめしい。
113 :中川隆:2010/09/24(金) 22:53:54 ID:HkFA5snx
カラヤンは誰が見ても三流なのに人気だけあるのが気に入らなかったんだろ。
カラヤンはアルメニア系ギリシャ人でゲルマン人の血は入っていない。
だからカラヤンがゲルマン音楽をやるとムード音楽になるのさ。
115 :名無しの笛の踊り:2010/09/24(金) 23:04:08 ID:0F0ijqR8
フルヴェンが当時だから通用した(ただし欧州だけで)指揮者、アメリカでは受け入れられなかった
今ではあのような演奏スタイルは支持されない、ようするに時代遅れ
常に先を見ていたカラヤンに嫉妬したのもそのためだ
116 :中川隆:2010/09/24(金) 23:49:33 ID:HkFA5snx
アメリカ人には音楽は理解できないだけさ。
アメリカに亡命したバルトーク、ブルーノワルター、アドルフ・ブッシュすべて駄目になった。
そもそもマーラーやメンゲルベルクよりトスカニーニを選んだアメリカ人って。
118 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 02:29:16 ID:Swf5Rqyj
http://www.muzieklijstjes.nl/100conductors.htm
カラヤンが1位だな。
フルベンも3位か、意外と高評価だな。
119 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 09:18:07 ID:w7HuGZqG
カラヤン、トスカニーニ、フルヴェンか
まあ順当だな、と思ったら2位(バルビローリ)が予想外でした
120 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 09:48:21 ID:7CoEbseq
>>117
アメリカ人は、過去の栄光にすがり、惰性で仕事する奴より、日夜努力する改革者が好きなのさ。
>>119
普通ならその3人だろう、順番は異論があってもかまわない
と思うがな。
121 :中川隆:2010/09/25(土) 10:30:52 ID:qoJ7IzLk
アメリカ人に音楽がわからない理由
この「聖」と「毒」が一緒に存在する世界・・・
このようなワーグナーの世界は、ある意味において、ヨーロッパの精神世界そのものと言えるでしょう。
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同じラース・フォン・トリアー監督の「キングダム」という作品の冒頭のモノローグは
「この魑魅魍魎の渦巻く沼地の上に建てられた、近代科学の粋を集めた病院」
という言葉でしたが、この言葉はヨーロッパの精神の比喩そのものでしょ?
「神」による「聖」なるもの、それに対する「毒」、あるいは「近代科学」・・・
すべてあってこそヨーロッパと言えるのだとフォン・トリアー監督は考えているようですね。
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の冒頭の、全く光のない劇場に弦楽器とホルンによって立ち上ってくる音響は、ワーグナーの引用であり、この映画が「聖なるもの」と「毒々しいもの」を含んだ「ヨーロッパの精神」をテーマにした作品であることを聴き手?に印象つけるわけです。
しかし、この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に舞台はアメリカですよね?
つまり、この作品の設定は、「アメリカの中のヨーロッパ人」そして「アメリカ文化?の中のヨーロッパ精神」になっているわけです。
ヨーロッパには「聖」と「毒」がある。 では、アメリカ精神には何があるの?
それは「正義」と「悪」ですね。
アメリカにはこの世を越えた「聖」はなくても、この世の規範である「正義」はあるでしょ?
自らを蝕む「毒」はない代わりに、他者を裁く「悪」がある。
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、そのようなヨーロッパの「聖」と「毒」が明確に描かれています。
「聖」なるものの代表例は言うまでもなく、教会です。 この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では不思議なくらいに教会が出てこない。 死刑のシーンにつきものの、聖職者(牧師とか神父)がいないでしょ?
映画における普通の死刑のシーンでは、刑の執行される前に聖職者と会話するシーンがつきものです。 一番感動するシーンですからね。では、どうしてないの?
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、このような「聖」を思い起こすような人物は注意深く避けられているわけです。 キリスト教関係でいうと、セルマが刑務所のダクトから聞こえる賛美歌と、囚人の部屋にある1枚のキリストの肖像くらいです。
ダクトから聞こえる賛美歌・・・この賛美歌は一体どこから聞こえるのでしょうか?
他の人には聞こえない賛美歌・・・セルマの心にしか聞こえない音楽・・・
これはヨーロッパから聞こえる・・・と言えるでしょう。 勿論、物理的には無理ですが、心では聴こえているわけ。
つまり賛美歌を喜んで聴くセルマにもかかわらず、死刑において神父の立会いもない・・・
これくらいアメリカには「聖」から距離がある・・・とフォン・トリアー監督は言っているわけです。
では、ヨーロッパの「毒」とは?
それはまさにこの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、遺伝性の病気として示されているわけです。
「遺伝することがわかっているのに、何故に子供を作ったのか?」という疑問は、
「毒に満ちて閉塞感の漂うヨーロッパ文化を伝承することに、価値や意味があるのか?」
という、監督のフォン・トリアーの自問でもあるわけです。
毒に満ちた文化を伝承することによって、その「毒」も伝承される。 その価値と覚悟・・・
ヨーロッパの持っている出口のない状況と、未来一杯のアメリカ。
シリアスなヨーロッパの表現と、能天気なミュージカル仕立てのアメリカ風表現。
精神主義のヨーロッパと、商業主義から抜け出せないアメリカ家族。
約束を守るヨーロッパ人と、約束を無視するアメリカ家族。
例の事件のあった家族の庭に星条旗がはためいているのは偶然ではないわけ。 あの家族がアメリカ人の典型だ!とフォン・トリアー監督は言っているわけです。
あるいは、あの家における知性の欠落は、本棚を見ればスグわかるようになっています。 何かの全集ものがキレイに並んでいるんですね。 本棚の本がズラーと並んでいて、外見上もキレイなのは、本を読んでいない証拠。
フォン・トリアー監督がアメリカの単純さに距離を置く人であることは明白ですね。 まあ、「あんなに単純で生きられたらラクだろうなぁ・・・」と思っているのかな?
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-12/03-12-16.htm
まあ、アメリカ人にフルトヴェングラーが理解できる訳ないわな(嘲笑い)。
126 :名無しの笛の踊り:2010/09/25(土) 23:31:08 ID:u3q9lZsw
いまどき、フルヴェンを崇拝してる輩なんていないだろ?
昔はイカサマ評論家に騙されて、LPを買いあさった単細胞がいたけどCD時代になってからは耳が肥えてきたリスナーが増えたんだから あんな時代遅れの駄演盤を買う奴なんているわけねえよな
285 名前:名無しの笛の踊り 投稿日:2010/09/25(土) 13:58:27 ID:QKA/pZAT
フルヴェン聞いてる自分が好きなんだ、おれ。
127 :中川隆:2010/09/25(土) 23:43:53 ID:qoJ7IzLk
演奏がどうこう言う前に、音そのものがカラヤンなんかとは比較にならないよ。
128 :名無しの笛の踊り:2010/09/26(日) 06:14:42 ID:XLcQnO3j
確かに比較にならんな
フルヴェンは異常に芝居がかった演奏をするし、表現するのがちっぽけな人間的感情だけ
はっきり言って、曲を矮小化させてると思う。気持ち悪いし
129 :中川隆:2010/09/26(日) 09:50:01 ID:EBOV+P7W
芝居がからない演奏 = ムード音楽
132 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 02:31:10 ID:HM57NYyB
何度も聞くと鬱陶しい。
本人もそれわかってたみたいだし。
133 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 03:24:30 ID:OrFxSTLH
俺はシューマンの4番がフルヴェンの最高傑作と信じて疑わん!
134 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 06:37:26 ID:MX7WlJNi
俺のCDの棚にはそう言えばフルトヴェングラーのCDは少ないな。 ベートーベンの第9バイロイト、その他2〜3枚程度
人生は短いから、音の良い演奏で色々な曲や演奏を聞きたいとなると避けがちになる
135 :愛撫 先:2010/10/02(土) 07:38:01 ID:jUW+8RAO
不思議なのは、古楽器演奏や演奏法によるベートーヴェンが主流になってもフルトヴェングラーのベートーヴェンを第一とする人があまりに多い。 評論家もリスナーも。
トスカニーニだって楽譜に手を入れてるし、フルトヴェングラーはいわずもがな。 古楽器演奏や演奏法の是非はともかくとして、これを基準にするとフルトヴェングラーは演歌になってしまう。
粘るところはとことん粘り、盛り上げる部分はオケが崩壊しても突っ走る。 自分も中2のころは、「第5」の復帰演奏を毎日聴いてたが今聴くと…
「今、フルトヴェングラーの解釈をするとオケの団員からバカにされる。 今や誰も出来ないコトを(時代が違うとはいえ)やっていたフルトヴェングラーに価値を見出しているにだろう」 と思う。
136 :中川隆:2010/10/02(土) 08:44:27 ID:hSQXWzjT
ブルーノワルターもヨーロッパ時代は
粘るところはとことん粘り、盛り上げる部分はオケが崩壊しても突っ走る
だった。 メンゲルベルクも同じ様なもんだし。 これが19世紀の標準スタイル。
137 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 09:09:05 ID:b/j4ReU6
フルベンは、一回目聴くといい演奏と思うこともあるのだが、何回も聴くと本当に鼻についてしまう。
聴衆が聴きに来る曲をほとんどレコード等で聴いたことがない時代ならこの演奏方法は価値があったのだが、今となっては明らかに時代遅れとなっている。
実演では偉大な指揮者として考えるけど、正しいレコードの残し方は死ぬまで分からなかったのではないか。1954年に無くなったが、ステレオ時代まで生きていたら、おそらく評価が急落したと思う。
138 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 10:12:11 ID:z4+7UHYM
>>136
>これが19世紀の標準スタイル
19世紀って・・・せいぜい世紀末に彼らが幼少期、青年期を過ごしたってだけじゃん。
100年間もあれば演奏様式も技術も楽器の性能も変わるだろうし、ベートーヴェンからマーラーまで録音なんか残ってないのに、よくそういう見てきたような嘘をつけるね。
139 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 10:42:36 ID:bnuyrT5v
後期ロマン派スタイルだわな
それに最後のロマン派リヒャルトの演奏はまったく違うわけだし、フルヴェン流が演奏の主流だったのってほんの一瞬だったと思う
140 :中川隆:2010/10/02(土) 10:47:05 ID:hSQXWzjT
少年時代の音楽教育でその後のスタイルがすべて決まるもんだろ。
インテンポは20世紀のスタイルだよ。
楽器で進歩したのはピアノだけだろ。 19世紀のオーケストラはノンヴィブラートのポルタメント奏法
それに合った指揮をしてただけだろ。
フルヴェン流 = テンポが遅い
ヨーロッパ時代のワルターもリヒャルトシュトラウスもシューリヒトもテンポが極端に速く、演奏が軽い。
これがヨーロッパ標準
142 :中川隆:2010/10/02(土) 11:23:42 ID:hSQXWzjT
20世紀最高の指揮者はワインガルトナーだというのが昔の常識だったみたいですね。
本物の貴族
テンポが極端に速く、演奏が軽い
ノンヴィブラート・ポルタメント奏法の奥義を極めた天才
143 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 11:27:12 ID:bnuyrT5v
>フルヴェン流 = テンポが遅い
すげえ、こんなの初めて知った
144 :中川隆:2010/10/02(土) 11:50:26 ID:hSQXWzjT
こういうことさ
演奏法の点から言えば、ワーグナー以前とワーグナー以後、さらに、第二次世界大戦以降から現代の3つの大きな流れがある。
現代のオーケストラの演奏は、ニュース原稿を読むアナウンサーのようなもので、標準的ではあるが、非常に特徴に乏しいものである。
この他、今世紀前半の録音には、十九世紀後半以降に出現した、「ロマンティックなスタイル」を聴くことができる。
アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団の指揮者であったヴィレム・メンゲルベルクや、マーラーの作品を数多く指揮したオスカー・フリートなどはその典型的な例といえるだろう。 ここでいう「ロマンティック」は、後期ロマン派の音楽家たちが好んで用いたという意味で、現代の通常の意味とはニュアンスが違うのでご注意いただきたい。 フレーズに応じたテンポの変化や強弱記号の強調、弦楽器のポルタメントや激しいヴィヴラートなどがその代表的な特徴である。
また、ベートーベンなどの音楽に文学的な解釈をあてはめて、表現を加えていくという手法が好んで用いられたのもこうしたロマンティック・スタイルとの関連性が高い。 これらの表現法の確立は、ワーグナーの存在なしでは考えられなかっただろう。 ワーグナーは、その作品で文学と音楽の融合を試みたのみならず、指揮者としても、ベートーベン解釈などにおいて当時の音楽界に大きな影響を及ぼした。 ワーグナーは近代演奏史の大きな分岐点である。
第3のスタイルは、ワーグナー出現以前のスタイルで、最近のオリジナル楽器オーケストラやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などに代表されるような古いスタイルである。
ノン・ヴィヴラート奏法、音符の音価の強調、すなわち、長い音符は本来よりわずかに長く、短い音符は本来よりやや短く演奏する処理や、長い音符の後ろの方で音量が強くなる後置型アクセントなどはその代表的な特徴である。
おそらく十九世紀中頃までは、世界中のすべての指揮者とオーケストラが多かれ少なかれこのスタイルに従っていたのではないかと思われる。 シャルク、ワインガルトナーに認められる意味不明なアクセントなどは、その名残りではないかと考えられるが、現代の我々が聴くと、音楽の文脈とまったく関係のない、形式的で余計な表現として受け止められるのだ。
本来、こうした古い演奏体系には、音楽の構造と結びついた明確な規則があった。
しかし、ロマンティック・スタイルの出現、その反動のノイエ・ザッハリヒカイト、さらに、現代のより洗練された演奏スタイルが普及していく過程で、古い演奏スタイルの必然性は失われ、現代の我々にはまったく理解不可能な単に形式的なものへと変化していったのではないかと思われる。
つまり、ブラームスやブルックナーが初演された状況などにおける古い演奏体系と現代の演奏体系の間には、missing link(失われた関連性)があり、シャルクやワインガルトナーの録音は、途切れてしまった鎖をつなぎあわせる重要な手がかりといえるのではないだろうか?
今世紀前半の指揮者たちの演奏を聴くためには、この3つのスタイルをきちんと聴き分ける知識と能力が必要とされるのではないだろうか。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7792/weingartner.html
146 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 12:03:30 ID:Dz7Mu4tB
他人のサイトの意見を鵜呑みにして「こういうことさ」って恥ずかしくないの?
147 :中川隆:2010/10/02(土) 12:22:48 ID:hSQXWzjT
これは常識だからね。
ワーグナー出現以前のスタイルというのはカペー四重奏団の演奏そのものだろ。
フルヴェンはロマンティックスタイルの代表
ノンヴィブラート・ポルタメント奏法に戻るのはもう不可能だから、フルヴェンを否定したら未来は無いのさ。
148 :中川隆:2010/10/02(土) 12:33:50 ID:hSQXWzjT
もうこんな演奏は無理だもんね
カペーSQの演奏を特徴付けるのはノン・ヴィブラートとポルタメントである。
カペーSQの演奏は、同世代或は先輩格の四重奏団―ロゼーSQ、クリングラーSQ、ボヘミアSQらと、これらの点で共通する。
そして、第1次世界大戦を境に勃興し、カペーSQの後塵を拝してゐた四重奏団― レナーSQ、ブッシュSQ、ブダペストSQの各団体がヴィブラート・トーンを基調とするのと、大きな相違点を持つ。
しかも、カペーのポルタメントは旧式で、時代を感じる。 ポルタメントを甘くかける印象の強いレナーも、カペーとは世代が違ふことが聴きとれる。 ここで、最も藝術的なポルタメントを使用したクライスラーの特徴を例に挙げることで、ポルタメントの様式における相違点を検証したい。
クライスラーの奥義は3点ある。第1に、必ずしも音の跳躍―即ち運指法の都合―でポルタメントを使はない。 云ひ換へれば、指使ひを変へないでも弾けるパッセージであらうとも、感興の為にポルタメントを使用する。
第2に、音から音への移行過程は最初が緩やかで、最後になるほど速く行なはれる。
第3に、フレーズの変わり目が同じ音のままの場合、敢てポジションを変へて音色を変へる。 この際に同一音の連続にも関わらず、ポルタメントが入ることになる。
このクライスラーの特徴は、ティボー、エルマンそしてレナーにも概ね当て嵌まる。
これに反してカペーはポルタメントの使用箇所に運指の都合が見られ、何よりも移行過程の速度が均一である。カペーの左手による表現はロゼーやマルトーと云つた旧派と同じ音楽様式に根付いてゐるのだ。
http://www.h6.dion.ne.jp/~socrates/capet.html
19世紀後半から20世紀前半の名ヴァイオリニストと言われた人達の語録を辿ると、「ヴィブラートは必要不可欠なものだ」的な発言が急に増えているように思われます。その人々の多くは現在復刻盤で聴くことができます。
例:クライスラー、ティボー、イザイ、フーベルマン、ジンバリスト、サラサーテ、ヨアヒム、フレッシュ(順不同)
上記の人は、全て僕の聴いたことのある人ですが、皆、大きなヴィブラートとポルタメントを多用しています。
※なお、ポルタメントは専ら上昇音形に用いられるのが普通でした。下降音形に用いるのは“下品”とされていたようです。ここがパールマンとは違うところ。
そして、彼らの多くは音程も揺れ動くようなヴィブラートです
「ああいうヴィブラートはクライスラーが始めたことで、ロゼーのような人は用いていなかった。クライスラーが若い頃にウィーン国立歌劇場管のオーディションに落ちたのは、そのためである。云々」という文章を読んだことがあります。
http://pseudo-poseidonios.net/okuzashiki/15_review_7.htm
ビブラートは、1830年代の特徴からは遙かに隔たったもので、それは欧米のオーケストラでは1930年代までは一般的ではなかったのです。
しかし驚くべきことに、演奏者も聴衆も、それ以前の偉大な作曲家たちが誰一人として期待も想像もしなかったオーケストラの音に、全面的に慣れ親しんでしまったようです。
ベルリオーズやシューマン、ブラームスやワーグナー、ブルックナーやマーラー、シェーンベルクやベルクがその傑作を書いた時、オーケストラの音は ただ一種類だけが存在していました:暖かく、表現力豊かで、ピュアな音色。 私たちが慣れてしまったグラマーなビブラートのない音。
20世紀になって新しく加わったのは、全ての音符に、どんな短いものであっても絶えずビブラートをかけるというアイデアです。 フリッツ・クライスラーが、カフェの音楽家やハンガリーやジプシーのバイオリン弾きのスタイルを取り入れて、グラマーなビブラートを始めたように思われます。
1900年以降、偉大なソリストとオーケストラが、最初は前の世紀からのピュアな音色で演奏しており、そして今日私たちが知っているものに徐々に変化していくのを聴くことができます。 しかし、ごく徐々になのです。高潔なドイツや大きなアメリカの団体の大部分は、30年代になるまで手を染めませんでした。
ベルリン・フィルは1935年まではっきりしたビブラートの録音は出てきませんし、
ウィーン・フィルは1940年までありません。
ですから、20世紀前半のバイオリン協奏曲の録音を聴くと、ソリストはビブラートを使っていますが、ドイツの最高のオーケストラはピュアな音色で演奏しています。当時はそれが普通だったのだと思われます。
http://www.kanzaki.com/norrington/roger-nyt200302.html
151 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 14:09:02 ID:lXJZscod
>>136,>>140
で、結局「標準」って何だ?
152 :中川隆:2010/10/02(土) 15:01:23 ID:hSQXWzjT
1.本来のヨーロッパ標準
ノンヴィブラート・ポルタメント奏法の甘味で純粋・透明な音色
インテンポ、テンポは極端に速く、演奏が軽い
ワインガルトナーとカペーSQがそのとう尾を飾った。
2.ロマンティック・スタイル
テンポの極端な変化やダイナミックレンジの広さ、弦楽器のポルタメントや激しいヴィヴラート
テンパニの強打、金管楽器の強調
音楽の文学的な解釈、ドラマチックな盛り上げ
フルヴェンとメンゲルベルクが代表
3.現代的演奏
ムード音楽と変わらない
カラヤンが代表
153 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:07:20 ID:ydGg4Bll
そういえば何かの文献にワインガルトナーの演奏はアンチ・ビューロー
ということが書いてあった。
(ビューローの面前で「カルメン」指揮した際に逆鱗に触れたエエピソードあり)
154 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:14:03 ID:bnuyrT5v
>>136ではヨーロッパ時代のワルターをメンゲルベルクと同じスタイルだとし
>>141ではシューリヒトやRシュトラウスと並べてる。矛盾してるぞ
他にも突っ込みどころがありすぎる。かわいそうな人だ
156 :中川隆:2010/10/02(土) 15:23:46 ID:hSQXWzjT
20世紀初めは本来のヨーロッパ標準とロマンティック・スタイが共存していただけさ。
1930年代のウイーンフィルは本来のヨーロッパ標準に近かったから、ワルターのウイーン録音はヨーロッパ標準
ウイーンフィル以外のオーケストラは自由に振れたからロマンティック・スタイル
になった。
シューリヒトやRシュトラウスはヨーロッパ標準の指揮者に近いが、ポルタメント奏法が無くなった時代だからインテンポの所だけ標準に近い。
157 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:28:43 ID:HM57NYyB
>>152
ムード音楽の指揮者ってあとどの辺の人?
158 :中川隆:2010/10/02(土) 15:30:31 ID:hSQXWzjT
バーンスタイン
159 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 15:44:24 ID:HM57NYyB
たったそんだけ?
じゃ別にそんな大きな勢力じゃないじゃん。
160 :中川隆:2010/10/02(土) 15:57:48 ID:hSQXWzjT
オーケストラが全部ムード音楽専用オケになったという事。 今、フルヴェンが生まれてきても、もうああいう演奏はできないもんね。
161 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 16:08:06 ID:HM57NYyB
わかった、君が最近の音楽を聞いてないことはわかった。 だって聞くに値しないだろうからね。
162 :名無しの笛の踊り:2010/10/02(土) 20:39:49 ID:lXJZscod
実証も反証もしようがないから言ったもんがちだな
163 :中川隆:2010/10/02(土) 21:58:14 ID:hSQXWzjT
20世紀初頭と19世紀中頃はそんなに変わっていない。
20世紀初頭の状況はSP録音の歴史から推測できる。
従って、19世紀中頃の演奏スタイルはノンヴィブラート・ポルタメント奏法しか考えられない。
当時は早いテンポで小さい音で上品で甘い音で演奏していたんだ。
だから、フルヴェンの前にフルヴェンは無く、フルヴェンの後にフルヴェンは居ないというのは厳然たる事実だね。
165 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 09:04:04 ID:DGWEGJvm
>>160
なぜムード音楽専用オケばかりになったの?
なぜフルヴェンが今指揮してもああいう演奏できないの?
大指揮者なんだから出来るに決まってるだろ?
メンゲルベルクの第9のエンディングは「ドラマチックな盛り上げ」なの?
音楽になんで文学的解釈が必要なの?
167 :中川隆:2010/10/03(日) 09:23:17 ID:trtEv+0L
(なぜフルヴェンが今指揮してもああいう演奏できないの?)
昔はレコード会社自体がフルヴェンに輪を掛けたアレだったからできたのさ:
ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」
フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団、同合唱団
フルトヴェングラー・センターから会員向けにバイロイトの「第九」が発売された。
それも、編集がない、正真正銘のライブ盤だとか。
この「センター盤」が出現したことで、EMI盤が当時のプロデューサー、ウォルター・レッグによる編集を経て作られたことがほぼ明らかになりました。
例えば、EMI盤にあった「vor Gott」のクレッシェンドは「センター盤」にはありません。
というより、「センター盤」は全体的に音楽の流れがとても自然です。
つぎはぎをされたらとてもこのように自然な流れにならないでしょう。
気になったのは第4楽章の終結部です。もしかすると普通のテンポになっていないかと興味津々で聴いたのですが、猛烈なスピードで畳みかけるのは一緒ですが、音はよく揃っていて「ハチャメチャ」な感じは全くしません。 見事に最後の音に着地しています。
こうなるとますます奇妙です。レッグはわざわざハチャメチャな方を編集材料に選んだことになります。
また、「vor Gott」にクレッシェンドをつけて強力に厚化粧をしています。
ライブ盤と銘打って発売するからにはこれくらいのことをしておいた方がインパクトがあると考えたのでしょうか。
実際に多くのファンに強烈な印象を与え続けたわけですから、レッグの目論見は完全に成功したと言えます。
http://www.kapelle.jp/classic/9th_symphony/beethoven.html
「EMI盤は、全体の4分の3が編集したものではないか。 EMI盤の憶測がいくつか明らかになった。
第4楽章中間あたり、”vor Gott"と合唱がフォルテで歌い、声を長く伸ばす、有名な箇所があるが、最後、瞬間的に合唱、トランペットのレベル(音量)が上がる。
これは、レコード制作時にわざとレベルを上げて、演出したのではないかという疑問だ。
バイエルン放送局盤はそのような音量の変化はない。 したがって作られたものだと判った。
______
要するに、楽員もレコード会社も聴衆も全員狂ってないとああいう演奏はできない:
何度も繰り返し再生され、なおも愛好家を増やしつつあるEMIバイロイト盤の「レコード芸術」としての歴史に、残念ながらセンター盤「真正実況盤」は敵わないように思う。
あれほどまでに聴きたいと思いつづけてきた「真正実況」だが、「今まで以上に優れたものではなかった」というレッグの実演に対する評価が、大きな実感としてshin-pの胸にのしかかった−(07/07/19)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/comp03.htm
169 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 11:16:41 ID:mm5Di51H
いまだにムード音楽なんて引き合いに出す爺がいるのか
170 :中川隆:2010/10/03(日) 12:31:39 ID:trtEv+0L
カラヤンやバーンスタイン、ショルティ、クライバーの時代はムード音楽の全盛期だったから、彼らもその真似をしたのさ:
その場に快適な雰囲気をかもし出してくれる音楽、あるいは快適な雰囲気そのもののような音楽を、かつてムード音楽と呼んでいた。
太平洋戦争がおこなわれていた時代からアメリカで開発され、戦後の40年代後半から50年代なかばにかけて、完成の頂点を迎えた、おそらくもっとも贅沢な音楽が、ムード音楽だった。
日本では軽く扱われたが、もっとも豊かでしかも若かった時代のアメリカで、多くの天才的な才能と経費そして時間を惜しみなく注ぎ込んで、ムード音楽のLPが大量に作り出された。
1965年ごろから“ムード音楽”という言葉がもてはやされ、色々なオーケストラが出てきた。
マント・ヴァーニ、ポール・モーリア、レイモン・ルフェーブル、
パーシ・フェイス、ボストン・ポップス、アンドレ・プレヴィン、
カーメン・キャバレロ、カラベリ、ニニ・ロッソ、サム・テーラー、シル・オースティン等など。
http://kouji-trumpet.hp.infoseek.co.jp/moodmusic.htm
上にベルリンフィルやNYフィルも加えて欲しかった。
172 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 13:28:32 ID:trtEv+0L
(音楽になんで文学的解釈が必要なの?)
フルヴェンが表現したかったのはこういうのだから:
 ̄~^ヽ、;ヽ;;;;ヽ;:ヽ
'~" ̄ヽヽ;i;;;i;;;;i;;;;i
ノ:ノ::ノ;/;;;;;i;;i あ…ん? ああ…あああ…いや? いや? ダメぇ!
__,,,,,,,,,,,___/:/;/:/;;i::ノ/
/^~"´ ̄-‐‐‐'''"´/:/;ノ;;;;ノ://
/::::::/:::::::_,,,、---‐‐'''`~,、-''/::/
/:::/:-‐''''"~~::::::::;;;;-、,,,,、-,,、-‐ヽ,,_ _、-、_
;/;;'`"~、-''''''~^'''''ー-、_,,i:i、 ヽ`ヽ、;ヽ、,,,ノ. /"´ ̄~''ヽ. ,.. ‐"`'ー-''`''-、
;;;/~":、---、___/´ ,,i:''' :: ヽ. ヽ.`'''"´ /´ :::..,/ .:::ヽ
;;;;;'''''^~~~~^'''''/ー- ';、 ::: ` ヽ`''ー-,,,i_ -‐''" ::::::::;i、,
;;;、;;;`''ー-,,,,,,,,,,,,,,_,,,,,、_ '' ',:::: `'ー .:::::::::;/:: ヽ、
;;;ヽ、ー、;;ー-、,,,,,,,、-‐''" .;´ ̄`, ',::::,,,,、- _、 ''~ ''ー
:::::ー、ヽ、,,''ー-ヽ.''''",.,;' "^' 'ー-‐'' . _、-'''''"´ " ヽ ::
:::ヽ、`''ー-、ー-、'ヽ"、i;. ヽ /" .::.. '::,,:ヽ. i :::::
、::ヽ;;ヽ、:ー-、,,,,,、.ヽ ';'' ノノノ/;/ ..:: :::: ヽ,,,ノ '::: :::
ヽ,,_::''‐、,,,,''ー-''ー-"''/~'"''"/:/:: ::、::: ::::.. ..:.::::::::" :::::::::
ヽ
173 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 13:37:55 ID:7sTH8MA/
>>170
ムード音楽っていうけどさバッハの管弦楽組曲やモーツァルトのディベルティメントなんかも目的は似たようなもんだよ
それに19世紀にはコンサートオケというのはむしろ少数派でオケといえばウィーンやドレスデンのように本来はオペラが本職、そしてほとんどのオペラは芸術鑑賞と言うより社交の一環だよ
その点はどう考えるんだ?
174 :中川隆:2010/10/03(日) 14:03:07 ID:trtEv+0L
1.本来のヨーロッパ標準
貴族や大金持ち向けのサロン音楽から生まれたもの
2. ロマンティック・スタイル
インテリの中産階級を対象として生まれたもの。
3.ムード音楽
レコードを買える一般大衆向け
要するに、レコード文化と共に生まれたのがムード音楽やカラヤンの演奏
177 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 17:26:48 ID:VcxWNf3D
ID:trtEv+0Lって他所のリンク貼り付けてるばかりだな
受け売りばっかで自分の意見がないなら邪魔だから止めてくれ
178 :中川隆:2010/10/03(日) 17:36:54 ID:trtEv+0L
真実は既に知られているけど、君達がそれを知らないというだけの事さ。
179 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 17:49:36 ID:iIY0Bhgl
>>173
なかなか鋭い突っ込みだね。
>>174
その3つのカテゴリーだと、トスカニーニはどこに分類されるんだ。
毎週一千万人が聴取するラジオ放送をやっていたから、1や2でないことは明白だが。
180 :中川隆:2010/10/03(日) 18:06:20 ID:trtEv+0L
トスカニーニもインテリの中産階級が対象だからロマンティック・スタイル
ロマンティック・スタイル というのは別に演奏がロマン的という意味ではなく、伝統を否定する演奏様式なら該当する。
181 :179:2010/10/03(日) 18:29:55 ID:iIY0Bhgl
>>180
回答サンクス
なるほどね。
まあそれなら3つの分類も有りかなと思った。
182 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 18:56:29 ID:7Aw9y7+s
せっかくだからオペラ指揮についてもどうぞ
ここまでクラシック最重要ジャンルの話がまったくでないので
183 :中川隆:2010/10/03(日) 19:22:12 ID:trtEv+0L
ポッペアの戴冠が理解できたる天才と理解できないアホ
天才は
ヤーコプス&コンチェルト・ヴォカーレ、ボルス、ロランス、他(1990 ステレオ)(3CD)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3891140
アホは
ガーディナー&EBS、マクネアー、オッター、他 輸入盤 〔C
http://store.shopping.yahoo.co.jp/hmv/790492.html
天才のヤーコプスはロマンティック・スタイル
アホのガーディナーはヨーロッパ標準
ネロを悪役としているのがヨーロッパ標準のアホ演奏
モンテヴェルディが表現したかったのはこれだからね:
醴雛翩|||III;(i.'.:' . 、.:.、'.''゙(}I}}}||IIIi゙(.( :.'.、' ' 、'.:、'.'.(.(i゚(}}}}|tq,
醴醴雛即lI゙(.'.、 .、...:.x.(iicsij:,;、'.::‘(i゚(}}|||ロIl,( :.'.、 . `` '' .(i゙(Il}}][q,
醴醴靈瓰II,(:.:、 . . . `' `_).''''ミ!}|||Ijj,'。:.(.(}I}||||IIi>.'.、 .'.?ミ(}照|g,、
醴醴醴翩|IIi>: . ' . ' ` 'テi; :゙(}蹤|I,(.'.?.(}I}||||I;(、'.. . ' :‘(浴}}}}諭gg_、
醴醴醴雛||II,( :. . 、゙(li:ョ涸阨[|Ili.'.:.'.ミII}}|||Ii;、. .、:::: (i゙(I浴||||謳薑
醴醴醴雛|||I)).:: . . .(ii.i}浴屈[}}'、'.':: (.(II}||||I,(. . . `.'.、.(0IIII||||醴‡゚゙
醴醴醴靈詬I;(i:.:、 . .('゙(}}}}}笏'゙'... . .'.:ii゙(I}|||回>. .'.、.(,(II||朋醴「...
醴醴醴醴齟|IIi'。::. . . `' `'゙'.'` . 、'.:.(.(泪屈Iiン. . .、::.'_(.(II泪讃置
醴醴醴醴鑿||II,(>:、.. 丶.'_(i゙(I泪窗||Ii:、.. .、.:.'_(.(.(,(II屈醴歡
ネロが大人になる為の自立の闘いを描いているだけなのに、アホは勧善懲悪の話にしてしまうんだ。
救いようがない馬鹿。
それからこれがムード音楽
・モンテヴェルディ:『ポッペアの戴冠』 セーナ・ユリナッチ(S ポッペア)
ゲルハルト・シュトルツェ(T ネローネ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)ウィーン国立歌劇場管弦楽団
録音:1963年4月1日,ウィーン国立歌劇場(ライヴ)
http://artist.cdjournal.com/d/lincoronazione-di-poppea/1398040114
幾らなんでも趣味が悪すぎる(という話を聞いた)。
アホのヨーロッパ標準スタイルの方がまだまし。
186 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 19:58:05 ID:DGWEGJvm
ムード歌謡最高!
187 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 21:15:37 ID:YiwaLXSO
>>185
カラヤンはな、アンタみたいなコピペジジイなんかが太刀打ちできる相手じゃないんだよ。てか、いいCD持ってるじゃないか?
それ売ってくれよ。 もう廃盤なんだよな。
188 :中川隆:2010/10/03(日) 21:27:45 ID:trtEv+0L
確かにカラヤンを誉めてた大指揮者もいたね:
クレンペラー「悪くないぞぉ、カラヤン。みんなが言ってる程悪くないぞ。」
189 :名無しの笛の踊り:2010/10/03(日) 23:40:36 ID:7sTH8MA/
>>180
>ロマンティック・スタイル というのは別に演奏がロマン的という意味ではなく、伝統を否定する演奏様式なら該当する。
>>152 >>2.ロマンティック・スタイル
>
>テンポの極端な変化やダイナミックレンジの広さ、弦楽器のポルタメントや激しいヴィヴラート
>テンパニの強打、金管楽器の強調
>
>音楽の文学的な解釈、ドラマチックな盛り上げ
これ、どう折り合いつけるの?
190 :中川隆:2010/10/03(日) 23:47:35 ID:trtEv+0L
トスカニーニはティンパニを強打してるし、ドイツの伝統を無視してドイツ音楽を演奏してるからね。
ムラヴィンスキーも金管を強奏してるし、低弦のバランスが異常だし、
チャイコフスキーみたいにドイツ音楽を演奏してるからロマンティック・スタイル
カルロスクライバーはカラヤンのファンだし、カッコ付けてるだけだからムード音楽
191 :中川隆:2010/10/04(月) 00:13:04 ID:aJwK12JL
ここにアホ・カラヤンファンが居るから教えといてやるけど、
カラヤンの凄さは stax の静電型ヘッドフォン(最上級機)で聴かないと絶対にわからない。
カラヤンは聴覚能力が異常に発達していたから、凡人とは音の聞こえ方が全然違うのさ。
超高音が練り絹の様にレガートで繋がっていくのを再現できる装置でないと、カラヤンの意図は再現できない。
ここのアホファンにはカラヤンの本当の凄さはわからないのさ。
まあ、これ買ってからカラヤンの評価しようね:
SR-007A 定価 210,000円(税込)
STAXイヤースピーカーのフラグシップ機。
コンデンサタイプらしからぬ量感たっぷりの低域、滑らかな中域、
繊細無比の高域をお楽しみください。
http://www.airy.co.jp/sub_stax.htm
194 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 10:28:16 ID:isR28n0L
売れないメーカーの必死の宣伝か。。。
こんなの使ったら難聴になるのにな。
あ、そうか、難聴の爺さん向けの宣伝だったか。
でもなんだか哀れで同情を誘うぜ。 ま、がんばれや。
195 :中川隆:2010/10/04(月) 11:18:55 ID:aJwK12JL
良く知ってんね(感心)
俺は stax を使ってて耳痛くなったからカラヤンを聴くの止めたのさ。
カラヤンは確かに凄いんだけど、それは音楽としての凄さではなく、
音そのものの生理的な快感なんだよね。
197 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 12:42:06 ID:omalygRl
>>196
生理的な快感を起こせる指揮者ってすごいよな。
aJwK12JLとは親友になれそうだ。
198 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 13:02:02 ID:UGA8ddCn
カラヤンの凄さはスピーカーでは再現できないのか、ヘッドホンて嫌いなんだよね。
199 :中川隆:2010/10/04(月) 13:29:07 ID:aJwK12JL
Quad ESL57 か ESL63プロにチェロかゴールドムントの超高級アンプを使えば Stax に近くはなるみたいだけど。
ESLは振動板が3年で劣化するし、交換に何十万円もかかる。
100万円以下のアンプではいい音にならない
安いのもあるけど振動板が劣化してるとあの音にならない:
QUAD ESL57(3ペアー在庫あり、金、黒、ベージュ)ペアー¥18万
QUAD ESL63(3ペアー在庫あり、茶、黒)ペアー¥25万
QUAD ESL63PRO ペアー¥28万
ESLは全て整備済み。
http://homepage2.nifty.com/soundpoint55/newpage3.html
サウンドボックス
ESL57 22+II ESL63の復刻・再生品 新発売
http://www.soundbox.co.jp/quad.htm
5 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/06/24(日) 13:01
チェロはオーディオスィート、パレット、パフォーマンスが圧倒的に良くて、他はそれ程でもないと思う。アンコールシリーズは日本では売れたけど、音は今三。
61 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/08/08(水) 22:47
>>60
チェロはアンコールはそんなに良く無いよ。
スィートとは較べものにならないと思う。
どうせ買うなら、スィートだ。今ならヴィオラオーディオでアップグレードも出来る。
中古で見掛けたら即ゲットだね。
3 :名無しさん@お腹いっぱい。:03/04/07 12:20 ID:8J/ZIr7M
リモコンは使えないが、スィートの音は今でも最高だろ。
アンコールは駄目だが。
39 :AI ◆4wBVGeQHPA :03/04/26 00:41 ID:???
>>38
何度も言っているけど、チェロの場合スィート以外のプリはダメだよ。
チェロの神髄はスィートを聴いて語ってね。
http://mimizun.com/log/2ch/pav/1049683747/
201 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 14:30:58 ID:K1SYU52Q
>>190
どっかのパートかセクションを強調し、ドイツ人でなければロマンティック・スタイルということになるね。
(インテンポかどうかは実は関係なく)
ちなみにモントゥーとかビーチャムはどれに属するのかな?
202 :中川隆:2010/10/04(月) 14:58:41 ID:aJwK12JL
モントゥーはブラームスが好きでドイツの伝統を尊重したからヨーロッパ標準 だろ。
ビーチャムやバルビローリも中庸だからたぶんヨーロッパ標準。
要するに、まともな人間はヨーロッパ標準
パラノイアや異常性格者はロマンティック・スタイル
になるのさ。
愛の音楽家 ブルーノ・ワルターがロマンティック・スタイルだった理由も説明しとくね:
レブレヒトの「巨匠神話」(文藝春秋)によれば、ブルーノ・ワルターは大変な偽善者で、性格の悪さは天下一品だったらしいです。本から抜き書きいたしますと、驚くべきことに次のような言葉がでてきます。
「ワルターは、卑劣で意地悪な利己主義だった」(アンナ・マーラー)
「昔から貪欲な豚で、考えるだけで気分が悪くなる」(シェーンベルク)
「感傷的なばか」(トスカニーニ)
「ワルターは偽善者だった」(レブレヒト)
「ブルーノ・ワルターは、すばらしい指揮者がすばらしい人間でなくてもいいという、生きた証拠であった。」
http://www.kapelle.jp/classic/archive/archive9904_b.html
205 :名無しの笛の踊り:2010/10/04(月) 17:44:22 ID:PCv3/VKg
ワルターがいくら性格悪くてもかまわない。 あの美しい音楽がすべて。
おれだってかなり性格悪いし頭も悪い。
206 :名無しの笛の踊り:2010/10/05(火) 00:35:26 ID:/NFwZQZF
じゃあどうして一銭にもならない当時病気だった宇野との文通を何年も続けたんだ?
207 :名無しの笛の踊り:2010/10/05(火) 06:59:24 ID:w+UWmkQM
ワルターはナチスに迫害されたり娘を事件で失ったりしてるんだから多少は性格悪くても仕方ない。
まあそれならアンチェルルはどうなんだとかいろいろ言えるけど、何も経験してない
俺らが言うことじゃないな。
208 :中川隆:2010/10/05(火) 09:26:50 ID:zX2qjY6K
みんなから非難されている若き日のブルーノ・ワルターの行動はすべて、女狂いから来てるんだよ。
歳取って落ち着いてからまともになったんだ。
210 :名無しの笛の踊り:2010/10/05(火) 12:00:07 ID:DmqQ66xE
だけどフルちゃんのおねだり病は異常なくらいだったらしいね。
それにニキシュの後釜がほぼワルターだったのに裏であちこちに手を廻してフルちゃんがベルリン・フィルを手に入れたんだよね。 ま、もしワルターだったとしても戦争始まったらその立場を追われるけどね。
それはともかくフルちゃんて、とても人間的。 音楽はあまり好きじゃないけどね。
211 :名無しの笛の踊り:2010/10/06(水) 22:27:53 ID:c2UQR4cG
ワルターが非難されてたのは戦後ヨーロッパで困窮してたなじみのユダヤ人のオケ団員を援助しるのを渋ったり。巨匠にふさわしい社会的振る舞いをしなかったから、ようするにせこくて小市民だったからではないか。
215 :名無しの笛の踊り:2010/10/13(水) 12:23:18 ID:ja608Fsz
試しにワーグナーの「神々の黄昏」から聴いてみた。
うーむ、どうも音楽が物々しいやらおどろおどろしいやらで、魔物か何かが出てきそうな雰囲気である。
じゃあ「ジークフリート牧歌」ならマイホーム的なホンワカ・ムードでいいんじゃないかと思ったが、これも何か深刻な家族会議ふうで、ときどきオヤジが激昂したりしていたたまれない。
「タンホイザー」も妙に壮大だったり興奮のルツボ状態だったりして、どうも暑苦しい。気を取り直してR.シュトラウスに向かったが、こちらも事情は五十歩百歩どころか、何か新興宗教みたいに神がかって鬱陶しい。
いやはや困った演奏である。なにせ鳴っている音のすべてが、いつもいわくありげなので、音楽を聴こうと思っても門前払い、あるいは置いてけぼりのような気分にさせられたり、「おうおう盛り上がってるな」とか「悩んでるな」とかいうように、ほとんど他人の不幸(?)を喜ぶようなギャラリー気分になってしまう。
でもしばらく付き合っていると、フルトヴェングラーの狙いが読めてくる。
おそらくそれは、聴き手を感動の方程式にはめ込むことである。
だからこんなに情でがんじがらめの音楽をやるのである。
しかしそれにしたって、そうしたフルトヴェングラーの術にハマるには、現在の聴き手にとって、かなり意識的、または自己催眠的にマインド・コントロールする努力が必要だろう。ましてやこちとら筋金入りのスレっからし。残念ながらそんなウブな純朴さはとうになくしてしまった。
セピア色に変色した昔の写真を見つめて、遠き日の感動をなぞるのもときにはいいかもしれない。でもそれはあくまで過去の出来事であり、いつまでも後生大事にするものではない。なんらかの「追憶」はあっても、そこに「今」を聴くことの面白さは見出せないのだから。
だからこの演奏は、ある時期には一定の影響を及ぼしたかもしれないが、「終わっている」としか言いようがない。
218 :名無しの笛の踊り:2010/10/13(水) 15:54:23 ID:jUv7npsN
ベートーベンやバッハもある時期には一定の影響を及ぼしたかもしれないが、「終わっている」としか言いようがないんじゃないの。
219 :名無しの笛の踊り:2010/10/13(水) 18:52:26 ID:TSsYnk+W
それレコ芸再発欄の石原立教の評だろ
まるまる載せるなら引用元書いておけよ
220 :名無しの笛の踊り:2010/10/14(木) 21:04:15 ID:dlVQLDJJ
主観的すぎて何書いててもはあ、あなたにとってはそうなんですかって感想しか出てこない文章だよね
>>215
221 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 08:46:57 ID:JwiL3ntH
信者にとっては絶賛以外は全部「バカの私見」だからなw
222 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 09:56:00 ID:a4fptUoV
>>221
確かにそうだね。
でも、フルベンを否定する奴を批判する奴こそ、きちんと論理性が通った文章を書けないのが現実なんだが。だから頭ごなしの否定文しか書けない。
223 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 16:18:19 ID:JwiL3ntH
否定はしてないだろ。あんな音質じゃ良し悪しの断定はできないというだけ。
224 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 17:16:27 ID:Tu3y5P5p
>>215
レコ芸にもこういうまともな評論が載るんだね。 なんか見なおした。
だけど、好きな人にはたまらないんだからお互い、いがみ合わないで棲み分けするしかない。
225 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 17:36:40 ID:CedQe6JL
フルトヴェングラーは歌謡界で言えば美空ひばりみたいな存在なんだよ
俺もフルトヴェングラー崇拝者の1人だけど、カラヤンだって初期のDGやコロンビア録音にはいいものも多い。彼の実演もいい思い出。 何でもかんでも対立軸で議論したがるのも短絡的で困り者。
でもショルティやアバドはどうだろう。フルトヴェングラーより優れていると言えるかね?
単なる好き嫌いと混同するなよ
226 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 17:50:27 ID:rD2Fcyv3
一つのスタイルを極めたってことではフルヴェンは確かに偉大だったと思うなぁ
ただ、別のスタイルを極めたカラヤン、トスカニーニやロッシーニ復活に功あったアバドも同じように偉大な音楽家
問題は彼のスタイル以外認めず、別な方法論を採った演奏家を「内容空虚」「ムード音楽」とかいうことだと思う
227 :中川隆:2010/10/16(土) 18:11:56 ID:04+WnRvX
トスカニーニは狂人の音楽
228 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 18:28:52 ID:a4fptUoV
>>227
トスカニーニは、偉大な開拓者だと思うがな。確かにある意味狂人だが、その手の批判は、茨の道をいく人間の宿命。
229 :中川隆:2010/10/16(土) 19:00:52 ID:04+WnRvX
フルトヴェンは意志薄弱のダメ男、というより男じゃない。
ほんとに情けない男だったみたいだね。 天才だけど。
230 :中川隆:2010/10/16(土) 19:20:00 ID:04+WnRvX
オケメンバーにとっては、リハーサルで失敗したとき、激怒してかんしゃくを爆発させる激情型のトスカニーニの激しい叱責より、ワルターに
「私の指揮が足らず君に失敗があった。 指揮者として申し訳ない」
と言われて涙を滲ませられると、失敗した楽団員にとってはそちらの方(トスカニーニの叱責よりワルターの涙の方)が辛かったという逸話も伝わっています
フルトヴェングラーはあまりそういった逸話がなく、良くも悪くも、フルトヴェングラーは音楽の神に自らの全身全霊を捧げており、「音楽以外はどうでもいい」という感じのする、ひたすら音楽を追求し、あまり人間的な部分を感じさせない求道者的指揮者です。
フルトヴェングラーの家がドイツの富裕な名門であることも音楽以外に気を払わない彼の求道的スタンスに関係しているのかもしれません。
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/840652.html
本当はフルトヴェンは他人とは意志の疎通が全然できなかっただけなんだけどね。
236 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 23:23:12 ID:Mi20l35J
>>230
× 「音楽以外はどうでもいい」
○ 「音楽と女以外はどうでもいい」
231 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 19:29:26 ID:033ETuRF
フルヴェンとかトスカニーニまたはカラヤン・クラスになるといくら嫌いでも否定は難しい。 時代をリードしてきてきた大巨匠達だからね。
232 :名無しの笛の踊り:2010/10/16(土) 19:50:52 ID:JIp9hOWC
どの指揮者が好きでも嫌いでもいいが、人格と演奏を結びつけて罵倒するのは愚かなことだ。
指揮者でも作曲家でも、人格の良し悪しと作品や演奏の良し悪しは別だからな。
ワーグナーなんか嘘つき・尊大・自己中心で、身近にいたらとんでもなく厭な奴だろうけど、幸いなことに離れた立場でいられるので、作品を楽しめるわけだ。
フルトヴェングラーが偶像化されるのは下らないことだが、人格をあげつらって演奏が良くないというのもこれまた愚かなことだ。
233 :中川隆:2010/10/16(土) 20:07:47 ID:04+WnRvX
まともな人間は大指揮者にはなれないという話なんだけどね。
245 :名無しの笛の踊り:2011/01/08(土) 08:59:20 ID:jJu19gDs
やはり少し過大評価を受けているね。
確かに、偉大な指揮者の1人であるという点では違いないけど、まあネットが普及したおかげで、評価が少しずつ適正な位置に移動しようとしているけど、まだまだ実力と比べて高すぎる。
246 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 02:10:42 ID:eiNs6h1H
>>1
評価の仕方が悪い。
馬場さんのプロレスを想い起こすがいい。
技術的には大したことが無いし、技の切れも無い。
何も良いところがないようだが、感動する人には感動させた。
ゆったりと動いて、不器用に大きく振り被って、ガァっー!!と決めた。
フルトヴェングラーの音楽そのものではないか?
感じることのできる者だけが感じられるのだ。
感じられないものがとやかく言うことではない。
247 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 10:52:12 ID:w0+S9HjN
>>246
まあ、ある意味その通りと思うよ。
でも古便オタや批評家って、カラヤンやトスカニーニを散々叩きまくったじゃない。
その辺が話をややこしくしていると思うが。
248 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 11:00:58 ID:ot841RyZ
バカだなぁおまいら
ベートーベンをどう演奏しなけりゃならんかを知っていた唯一の指揮者だぞ
馬場もプロレスをどう見せなきゃならんかは弁えてたがな
249 :名無しの笛の踊り:2011/01/09(日) 13:29:51 ID:9gQRyXPu
>>247
その通りと思うなら、もう16文突っ込んで考えるんだ!
カラとかトスカとかは、デストロイヤーとかブッチャーとかドリー & テリーなんだよ!!
別の国ではヒーローでも、馬場さんの国では悪役なんだっ!!!
250 :名無しの笛の踊り:2011/01/10(月) 18:24:27 ID:E3cCL/fG
>>247
>でも古便オタや批評家って、カラヤンやトスカニーニを散々叩きまくったじゃない。
???
当時の批評家の推薦版にやたらカラヤンが多かったよ。
ほとんどカラヤン盤だったね。レコード芸術とか何とか読んだことないの?
トスカニーニやフルトヴェングラーは過去の人扱いだったよ。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/classical/1267347548
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4.これが成熟した演奏家
神霊はVirtuosoに宿る 1 _ カペー弦楽四重奏団
http://www.hmv.co.jp/search/index.asp?adv=1&keyword=Capet+Q&genre=700
Quatuor Capet - Lucien Capet
http://www.youtube.com/watch?v=Tk8c7RWig3I
Capet Quartet performing 'Rasumovsky No. 1'
http://www.youtube.com/watch?v=XTM0S3Yd0VA
Beethoven op 131, mvts 5, 6 & 7 - Capet String Quartet
http://www.youtube.com/watch?v=UUjyejJur9k
Quator Capet Mozart Dissonance C Major 1st mvt
http://www.youtube.com/watch?v=dQqKVaCT_Tk
Franck - Piano Quintet in F minor (M.7) - Movt I (Part 2) - Marcel Ciampi and Capet Quartet
http://www.youtube.com/watch?v=CjfOjkTU338
Franck - Piano Quintet in F minor (M.7) - Movt II - Marcel Ciampi and Capet Quartet
http://www.youtube.com/watch?v=174hsQaj2_o
Franck - Piano Quintet in F minor (M.7) - Movt III - Marcel Ciampi and Capet Quartet
http://www.youtube.com/watch?v=e4mx-13HX4s&feature=fvst
Capet String Quartet - Ravel SQ in F - 1. Allegro moderato
http://www.youtube.com/watch?v=M1d4N60d6Oc
Maurice Ravel: Quartet in F 1/1 - Quatuor Capet (1928)
http://www.youtube.com/watch?v=WaVJcavMIE0
Capet String Quartet - Ravel SQ in F - 2. Assez vif - Tres rhythme
http://www.youtube.com/watch?v=C9mp6LxUTKA
Maurice Ravel - String Quartet in F 2/2 Quatuor Capet
http://www.youtube.com/watch?v=4kXoIfA9Q5U&feature=related
Maurice Ravel - String Quartet in F (3/3 - 4/1) Quatuor Capet
http://www.youtube.com/watch?v=abvsmO-edOc
カペー弦楽四重奏団の素晴らしさについては、既に語り尽くされてをり、ここで改めて申し上げることは、実は何もない。ましてディスコグラフィーなど全12曲の録音しかないのだから、作ること自体意味がない。だから、これは私なりのカペーSQへのオマージュであつて、それ以上の何物でもないのだ。
弦楽四重奏団の在り方は大きく分けて2つに分類出来る。
一つはカペー、レナー、ブッシュ、ウィーン・コンツェルトハウスなどの第1ヴァイオリン主導型。
これに対してブダペスト、バリリ、スメタナ、ボロディン、アルバン・ベルクなどはアンサンブル重視型と云へる。
後者の第1ヴァイオリン奏者が弱いと云ふのではない。突出してゐないのである。
前者の場合、魅力の殆どが第1ヴァイオリン奏者の藝術性にあり、四重奏団の性格を決定してゐる。
しかし、近年はアンサンブル重視の団体が殆どであり、特に合奏能力の向上は目覚ましく、4つの楽器が見事に融合し、調和を保つた演奏でなければ、弦楽四重奏団として一流と見なされない。実のところ、第1ヴァイオリン主導型の団体は絶滅したと云つても過言ではないのだ。従つて、カペーSQなどの演奏を現在の耳で聴くと、アンサンブルに埋没しない自在な節回しがあり、却つて新鮮である。しかし、反面、団体としての均衡を欠く嫌ひはある。
カペーSQにおいて、ヴィオラ奏者には余り魅力を感じない。チェロ奏者も無難と云ふ程度だ。一方、第2ヴァイオリンのエウィットが傑出してゐる。カペーとの対話も互角に行なはれ、実に達者である。大概、第2ヴァイオリンの聴き映えがしない団体の多い中、カペーSQを聴く喜びはヴァイオリン2挺の銀糸のやうな気品ある絡み合ひにある。とは云へ、各奏者はカペーの音楽に見事に収斂され、ひとつの藝術として完成してゐるので、荒を探すのは止そう。
品格があり聡明な演奏をすると一般的に思はれ勝ちなカペー弦楽四重奏団だが、同時期に活躍した四重奏団の録音を聴くと、意外な点に気が付く。
カペーSQの演奏を特徴付けるのはノン・ヴィブラートとポルタメントである。
カペーSQの演奏は、同世代或は先輩格の四重奏団―ロゼーSQ、クリングラーSQ、ボヘミアSQらと、これらの点で共通する。そして、第1次世界大戦を境に勃興し、カペーSQの後塵を拝してゐた四重奏団―レナーSQ、ブッシュSQ、ブダペストSQの各団体がヴィブラート・トーンを基調とするのと、大きな相違点を持つ。
しかも、カペーのポルタメントは旧式で、時代を感じる。ポルタメントを甘くかける印象の強いレナーも、カペーとは世代が違ふことが聴きとれる。ここで、最も藝術的なポルタメントを使用したクライスラーの特徴を例に挙げることで、ポルタメントの様式における相違点を検証したい。
クライスラーの奥義は3点ある。第1に、必ずしも音の跳躍―即ち運指法の都合―でポルタメントを使はない。云ひ換へれば、指使ひを変へないでも弾けるパッセージであらうとも、感興の為にポルタメントを使用する。第2に、音から音への移行過程は最初が緩やかで、最後になるほど速く行なはれる。第3に、フレーズの変わり目が同じ音のままの場合、敢てポジションを変へて音色を変へる。この際に同一音の連続にも関わらず、ポルタメントが入ることになる。
このクライスラーの特徴は、ティボー、エルマンそしてレナーにも概ね当て嵌まる。これに反してカペーはポルタメントの使用箇所に運指の都合が見られ、何よりも移行過程の速度が均一である。カペーの左手による表現はロゼーやマルトーと云つた旧派と同じ音楽様式に根付いてゐるのだ。
しかし、電気録音初期に登場したカペーSQの録音が、旧派の名団体のみならず当時最大の人気を誇つたレナーSQの株を奪ひ尽くした理由は、偏にボウイングの妙技による。
1910年以前に記録されたヴァイオリニストの録音を聴くと、弓を押し当てた寸詰まりの音、頻繁な弓の返しが聴かれ、時代を感じさせる。ところが、カペーのボウイングからは、響きが澄み渡るやうに程よく力が抜けてをり、だからといつて空気を含んだ浮ついた音にはなつてゐない。凛と張つたアーティキュレーションは大言壮語を避け、ボウイング・スラーを用ゐることでしなやかなリズムを生み出した。
『運弓のテクニック』なる著作を残したカペーは、エネスクやティボーと並ぶボウイングの大家である。彼らの共通点はパルラント奏法と云ふ朗読調のボウイングを会得してゐることにある。多かれ少なかれ、あらゆるヴァイオリニストは歌ふことに心を砕くが、歌はフレーズを描くために強い呼吸を必要とし、リズムの躍動を糧とする。だから、ためらひや沈思や侘び寂びを表現するには必ずしも適当ではない。これらの表現は、繊細な呼吸、慎ましい抑揚、語るやうに送られる運弓法によつて初めて可能になるのだ。カペーが本格的に独奏者としての活動に乗り出さず、室内楽に没頭したことは同時期のヴァイオリニストにとつては幸運なことであつたらう。出来ることならカペーにはベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの録音を残して欲しかつた。
カペーSQはノン・ヴィブラートとポルタメントを演奏様式とする旧派の一面も持つが、ボウイングに革新的な表現力を持たせたカペーの元に一致団結した名四重奏団である。演奏は、清明で飄々としてゐるが、高潔で峻厳な孤高の世界を呈してゐる。それは丁度雪舟の山水画にも比せられよう。
Biography & History of Quartet
ルイ=リュシアン・カペーは、1873年1月8日パリの貧しい家に生まれた。15歳の時、パリ音楽院に入学、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番を初演したといふピエール・モーラン教授に師事した。1893年に満場一致の1等賞にて卒業すると、直ちに四重奏団を結成して活動を開始した。ラムルーに見出され、コンセール・ラムルー管弦楽団のコンサート・マスターを勤める。
1903年、ベートーヴェンの協奏曲で大成功を収め、独奏者としても名を馳せた。1904年には、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲連続演奏会を行ひ大反響となつた。欧州各国への演奏旅行は絶賛を博したが、1911年にボンで開催されたベートーヴェン音楽祭にはフランス代表で参加した。1907年よりパリ音楽院の室内楽科教授、1924年からはヴァイオリン科の教授も勤めた。1923年以降毎年ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏を行なつた。1928年12月18日パリで急逝した。医師の誤診による為といふ。作曲も手掛け、作品に弦楽四重奏曲やヴァイオリン・ソナタなどがある。
カペーを除く四重奏団員の変遷は次の通りで、括弧内は順に第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロである。
第1次(1893〜99、ジロン、アンリ・カサドシュ、カルカネード)、
第2次(1903〜10、アンドレ・トゥーレ、アンリ・カサドシュ、ルイ・アッセルマン)、
第3次(1910〜14、モーリス・エウィット、アンリ・カサドシュ、マルセル・カサドシュ)、
第4次(1919〜28、モーリス・エウィット、アンリ・ブノア、カミーユ・ドゥロベール)。
Discography
1 1928/6/12? Columbia Debussy String Quartet g-moll,Op.10
2 1928/6/14-15 Columbia Beethoven String Quartet No.7 F-dur,Op.59-1"Rasumowsky"
3 1928/6/15-19 Columbia Ravel String Quartet F-dur
4 1928/6/19-21 Columbia Schubert String Quartet No.14 d-moll,D.810"Der Tod und das Mädchen"
5 1928/6/21-22 Columbia Beethoven String Quartet No.10 Es-dur,Op.74"Harfe"
6 1928/10/3 Columbia Schumann String Quartet No.1 a-moll,Op.41-1
7 1928/10/? Columbia Haydn String Quartet D-dur,Op.64-5"Lerchen"
8 1928/10/? Columbia Beethoven String Quartet No.5 A-dur,Op.18-5
9 1928/10/5-8 Columbia Beethoven String Quartet No.14 cis-moll,Op.131
10 1928/10/8-10 Columbia Beethoven String Quartet No.15 a-moll,Op.132
11 1928/10/11 Columbia Mozart String Quartet No.19 C-dur,K.465"Dissonanzen"
12 1928/10/20? Columbia Franck Piano Quintet f-moll with Marcel Ciampi(p)
カペー弦楽四重奏団の録音は上記12曲しかない。録音は1928年の6月と10月のみで、同年12月にはカペーが急逝して仕舞つた。まさに一期一会の記録なのである。録音情報に不備が多く、テイク数が確認出来なかつたが、恐らく取り直しなしの一発録音であらう。音程の狂ひや弓の乱れなどが聴き取れるし、何よりもライヴ録音のやうな感興とむらがあるからだ。
カペーSQを語るのにベートーヴェンから始めなくては申し訳が立たない。それも後期2作品から始めるのが礼儀といふものだらう。
古来より、第15番はカペーSQの最高傑作とされてをり、現在に至るまでこの演奏を超えたものは一切ないと断言出来る。分けても第3楽章、ベートーヴェンが「病から癒えた者の神性への聖なる感謝の歌」と書き添へた曲を、カペーSQのやうに神妙に演奏したものを知らない。ノン・ヴィブラートによる響きの神々しさは如何ばかりであらう。
感謝の歌では飛翔する精神が弧を描く 。第2ヴァイオリンのエウィットが奏でる憧れに、カペーの清らかなトリルが応へ、スタッカートの軽妙洒脱な戯れが福音を語る。音楽が静かに下つて行くパッセージで、音色が侘び寂びを加へて行く様は至藝と云ひたい。
好敵手ブッシュSQも相当の演奏をしてゐるが、カペーSQに比べれば青二才だ。第1楽章では、哀切極まりない音楽を感傷に貶めず、一篇の叙事詩のやうな風格を持たせてゐる。真一文字に悲劇に対峙するカペーのソロが印象的な第4楽章。緊張の糸が持続する天晴な合奏を聴かせる終楽章。何れも極上の名演。
初演者であるモーラン直伝による第14番の演奏をカペーSQの頂点とする方は多いだらう。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の頂であるこの曲の神髄に迫ることは、19世紀においては不可能とされ、名曲かどうかも議論にされたやうな曲である。諦観、静謐、彼岸と云つた世界を音楽に持ち込み、未だに独特の位置を保持し続ける。
カペーの弾く冒頭を聴いて、精神が沈思しない者は立ち去るがよい。これから始まる儀式には参列出来まいから。この神韻縹渺としたパルラント・アーティキュレーションは空前絶後の至藝であり、変奏曲形式による第4楽章に至つては天衣無縫の奥義を示す。終楽章は一筆書きのやうな閃きに充ちた名演である。
第14番はブッシュSQが霊感あらたかな名演を成し遂げてゐる。ドイツ人の手堅さと熱情が渾然となった大伽藍のやうな楷書体の演奏で、フランス人カペーの力の抜け切つた草書体による絹糸のやうな演奏とは対照的である。全体に隙がなく立派なのはブッシュSQの方だ。しかし、断言しよう。藝格としてはカペーが一枚上手で、何人も及びの付かない美しい瞬間がある。
第5番は清楚で若やいだ演奏であり、後期作品2曲に次いで仕上がりが良い。甘さと低徊さを排したストイックな歌が、青春の芳しい詩情をもたらす。繊細でさり気ない明暗の移ろひが取り分け美しい。この曲の表現として、これ以上適つたものはないだらう。
「ラズモフスキー」はヴィブラートを抑制したトーンと厳しいスフォルツァンドによつて大味になるのを避けてゐる。緊密なアンサンブルと内燃する力強さが素晴らしい。特に第3楽章のパルラント奏法による沈痛な趣が甚く心に残る。しかし、全体的に線が細く、音が軽く聴こえる嫌ひがある。「ハープ」は引き締まつた造形と柔らかなフレージングが魅力で、特に第1楽章の
清廉な味はひは絶品である。第2楽章は珍しく甘美で、時代を感じさせる。第3楽章と第4楽章はやや平凡な仕上がりだ。この曲にもっと豊かさを求める人は多いだらう。カペーSQの演奏は脂が少ない。
ハイドンは天下一品の名演である。冒頭におけるカペーのボウイングには畏敬の念を禁じ得ない。ヴィブラートの誘惑を潔癖に遠ざけ、凛とした運弓で清明な音を創る。非常に個性的な奏法だが、繰り返し聴き、他の団体の演奏と比べて聴くと、カペーの凄さが諒解出来るだらう。第2楽章は細部の彫りが深く、神経が行き届いた名演である。終楽章の目にも止まらぬ軽快なアンサンブルに、上手ひなどといふのも烏滸がましい。この演奏に心躍らぬ者がゐれば、凡そ音楽には無縁の者であらう。
モーツァルトも立派な演奏であるが、カペーの特徴である毅然と張つたボウイングが後退してをり、柔和に歌ふことに主眼を置いた甘美な演奏である。カペーならではの高潔で気丈な演奏を期待したのだが、終楽章と第3楽章のトリオを除いては感銘が希薄であつた。しかし、カペーSQ以上の演奏を挙げることが困難なのも事実だ。
シューベルトとシューマンは、ドイツ系の団体とは異なる厳しいアーティキュレーションと制御されたヴィブラートによる辛口の演奏である。シューベルトは尋常ならざぬ演奏で、仄暗く甘いロマンティシズムを期待してはならない。勿体振つた表情は皆無で、快速のテンポで畳み掛けるやうに捌いて行く。フレーズの最後で掛けられる常套的なルバートも一切ない。硬派だが、雑な演奏だと感じる方もゐるだらう。しかし、これは焦燥感に溢れた、絶望的な熱病を想起させる見事な解釈であると感じる。
録音される機会が少ないシューマンに関しては、カペーSQを越える演奏があるとは到底思へない。冒頭から喪失感が漂ひ、悲劇の回顧と夢想への逃避が綾なされてゐるが、軟弱な甘さはない。第2楽章は疾走するギャロップで、カペーの弓捌きが閃光のやうに輝く。他の演奏が聴けなくなつて仕舞ふ逸品である。第3楽章ではヴィブラートを抑制した渋い音と、音型の最高音になる前に始まるディミュヌエンドによつて、侘しい詩情が惻々と胸に迫る。終楽章は情熱的なアジタート、自在なアゴーギクと多彩なアーティキュレーションが素晴らしい。コーダ前のノン・ヴィブラートによるオルガン・トーンの神々しさは追随を許さない。
フランクでは、シャンピのピアノが独創性と詩情においてコルトーやフランソワに及ばないとは云へ、カペーSQの合奏はフランクの神髄に迫つた究極の演奏と云へる。冒頭の張り詰めたカペーのボウイングから厳しく屹立した音楽が刻み込まれる。ふと力が抜ける際の絶妙さは比類がない。終楽章コーダで循環主題が地の底から湧き上がる瞬間に見せるカペーの霊感には凄みがある。
ドビュッシーは今もつて最高の演奏ではないか。カペーSQの演奏はドビュッシーが生きてゐた時代の空気を吸つた強みがある。よくあるやうに印象派の絵画を意識して、輪郭をぼかした演奏ではない。第1楽章は剛毅な芯が通い、アルカイックな趣に充ちた名演。陰影と抑揚が自在で瀟洒この上ない。第3楽章におけるノン・ヴィブラートの神聖な光沢は類例を見ない。月に捧げる音楽があるとすれば、凡そこのやうなものだらう。半ばでカペーが瞬間的に見せるエスプレッシーヴォは狂ほしい詩人の涙である。
ラヴェルも高次元の演奏である。第1楽章は時代がかつたポルタメントが冒頭から妖艶な息吹を掛けるが、次第に鬱屈した情念の絡み合ひとなり頂点を築く。躊躇ひ勝ちに始まる再現部は官能的な倦怠に充ちてゐる。アンサンブルの試金石のやうな第2楽章では緊張が漲つてゐる。第3楽章で織り成す不安気な綾も絶妙だ。神々しい原初的な響きで魅了するドビュッシー、近代人の憂鬱を感じさせるラヴェル、と両曲に対するカペーの読みは実に深い。全音階を主体とした楽曲であるドビュッシーでは音楽を解放させ、半音階を主体とした楽曲であるラヴェルでは音楽を緊縛する。実はこれとは逆の演奏が意外と多い。演奏効果の上がるラヴェルでは輝かしく豪奢に演奏され、ドビュッシーでは繊細なニュアンスを作らうとして軟弱に演奏される場合が殆どではないか。
カペー弦楽四重奏団の残した録音は全て神品であり、各々の曲の最も優れた演奏であると云つても過言ではない。
録音が貧しいことに頓着しない方なら皆そうおっしゃるだらう。しかし、それでは贔屓の引き倒しだ。カペーSQの最高の遺産は、何と云つてもベートーヴェンの後期四重奏曲であり、第1に第15番を、第2に第14番を推す。
そして、御家藝である近代フランスの作品に止めを刺す。第1にドビュッシーを、第2にラヴェルを推す。次いで、カペーの妙技を讃へる為にハイドンを加へておこう。更に比類なきシューマンも忘れてはならない。これ以上挙げることは全てを挙げることに繋がるから止すが、個人的にはシューベルトに愛顧を感じる。
カペー弦楽四重奏団のCDは、国内では東芝EMI、新星堂から発売されてゐたが、Opus蔵から優れた復刻が出たので当分はこれを第一に推そう。海外では、Biddulphからマーストンによる良質な復刻が出てゐたが、現在では入手困難である。この他、Chaconneから出てゐた箱物が、実在感のある音質で、霞がかつた印象ばかりあるカペーSQの復刻から芯の強い音を聴かせてくれた。しかし、これも入手困難だ。
http://www.h6.dion.ne.jp/~socrates/capet.html
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神霊はVirtuosoに宿る 2 _ バックハウス最後の演奏会
バックハウス(pf) デッカ 1969年ライヴ
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1890660
Wilhelm Backhaus play Schumann Des Abends - Warum?
http://www.youtube.com/watch?v=G6TticNoDOA&feature=fvwrel
Wilhelm Backhaus plays Schubert Impromptu in A flat Op. 142 No. 2
http://www.youtube.com/watch?v=rejfDi8RzlM
ヴィルヘルム・バックハウスの残した一連の録音は、かつて私も夢中になって聴いた時期があったのですが、ここ数年ほどは御無沙汰でした。
それが、先週リリースされたザルツブルグでの協奏曲ライヴを耳にして、何だか彼のCDを無性に聴いてみたくなりました。それでまずブラームスの第2協奏曲のスタジオ盤を聴き、昨日それについて書いたところですが、今日も引き続きベートーヴェンのソナタや協奏曲を中心に色々と聴いてみました。
そして、これら一連の録音のなかでも、ひときわ趣きの深い演奏として、聴いていて気持ちが強く揺さぶられたのが、この「バックハウス最後の演奏会」と題されたライヴ盤です。
このCDは1997年にリリースされたもので、1969年6月26日と28日の2日間に渡り、オーストリアのオシアッハにある修道院で開催されたバックハウスのピアノコンサートの演奏がライヴ収録されています。収録曲は以下の通りです。
@ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」
Aシューベルト 楽興の時
Bモーツァルト ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」
Cシューベルト 即興曲作品142の2
以上、6月26日のコンサートより
Dベートーヴェン ピアノ・ソナタ第18番(第3楽章まで)
Eシューマン 幻想小曲集「夕べに」と「なぜに?」
Fシューベルト 即興曲作品142の2
以上、6月28日のコンサートより
その28日のコンサートにおいてベートーヴェンのピアノ・ソナタ第18番を弾いている途中、バックハウスは心臓発作を起こしてしまい、演奏も第3楽章で中断を余儀なくされるのですが、控え室で休憩の後にステージに立ち帰り、終楽章の代わりにシューマンの幻想小曲集「夕べに」と「なぜに?」、そしてシューベルトの即興曲作品142の2を演奏してコンサートを終えたのでした。そして、その時の心臓発作がもとで、28日のコンサートから7日後の7月5日にバックハウスは永眠してしまいます。
おそらく誰が聴いても思うように、バックハウスのピアニズムには他のピアニストの誰とも似ていない、まさに独特のタッチの感触が有りますね。その理由として、彼はピアノを美しく鳴らそうという発想を優先しないから、ということがよく言われていて、私も多分そうだろうと思うのですが、いずれにしても彼のピアニズムというのは、特にベートーヴェンの「熱情」ソナタを頂点として、時に法外なまでの表出力をもって、恐ろしいまでの凄味を発する演奏を披歴します。しかし、敢えて彼のピアニズムに欠けている点を指摘するならば、それはおそらく、ある種の感覚的な美しさであって、これは美しく鳴らそうという発想を優先しない以上、必然的にそうなります。
だから聴き手も、そういう陶酔的な音色の美しさなどは、彼のピアニズムには過分に求めないで、その代わりもっと掛け替えのないものを求めるのですが、ともかく以上のようなスタンスでバックハウスのピアノに耳を傾ける聴き手は、おそらく本CDの上記EとFの演奏を聴いて、言い知れない感銘を覚えずにはいられないのではないでしょうか。というのも、上記EとFの演奏は恐ろしいまでに美しいからです。
それも、人工的に設計したところで表出するのが不可能ではないかというくらい、限りなくピュアで、透徹して、澄み切った美しさを湛えたピアノの響き、、、抜けるようなピアノの音色の透明感、、
これは作品にストイックに没入するというよりも、むしろピアニストとしての何か超然とした境地に一人佇むような、突き抜けた趣きがあり、およそ人間がこのようなピアノを奏でられるということに、聴いていて畏敬の念すら湧いてくる、そんな演奏です。
このCDに聴かれるバックハウスの「白鳥の歌」は、おそらく彼の命の最後の光芒が生み出した、聴き手に途轍もない感銘を呼び起す感動的名演であって、バックハウスのディスコグラフィにおいても特筆されるべき録音だと思うのですが、もう久しく廃盤の状態なのですね。本当にもったいないと思います。
http://clamemo.blog44.fc2.com/blog-entry-405.html
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5. 成熟した音ってこういう音
成熟した響きを出せた大人の指揮者はブルーノ・ワルター と ムラヴィンスキーの二人だけでしたね:
1)ブルーノ・ワルター
シューベルト未完成 ブルーノ・ワルター
http://www.youtube.com/watch?v=kyY32OVwqYs&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=-snx_QsjIOE&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=pBJzWHnsNqo
http://www.youtube.com/watch?v=vneay2YZ1Pw
http://www.youtube.com/watch?v=UoSTdlDgoOY
http://www.youtube.com/watch?v=j-BjD6B9trA
BRUNO WALTER - 1936 - BRAHMS SYMPHONY 3 OP. 90
http://www.youtube.com/watch?v=ySEtmEh8XGQ
http://www.youtube.com/watch?v=ucGvtmrtckE&playnext=1&list=PLE0A1F82B01518D67
http://www.youtube.com/watch?v=VItIkpaxO38
http://www.youtube.com/watch?v=RiFale8Ol3w
horowitz plays brahms piano concerto #1
http://www.youtube.com/watch?v=WsoiJ-nlhP8&playnext=1&list=PL6A7FE9A11C1BE294
http://www.youtube.com/watch?v=dvBdiMfj83w&playnext=1&list=PL6A7FE9A11C1BE294
http://www.youtube.com/watch?v=FDvvCr4KQss
http://www.youtube.com/watch?v=Tnuf_nx51xI
http://www.youtube.com/watch?v=egWfN-aFv8k
BRUNO WALTER - 1936 - SYMPHONY 6 OP.68 "PASTORAL" – BEETHOVEN
http://www.youtube.com/watch?v=Pej39Z1oJCg&playnext=1&list=PLAB031CD957313B63
http://www.youtube.com/watch?v=qlTZ73O6J_Q
http://www.youtube.com/watch?v=oCQ9xV5URnk
http://www.youtube.com/watch?v=x7hsEASX04Y
http://www.youtube.com/watch?v=yYkMnjq0toE
Bruno Walter Requiem KV 626 by Mozart . "Requiem"
http://www.youtube.com/watch?v=LWvFPUiA4fk
http://www.youtube.com/watch?v=h9nfXpTSqss&playnext=1&list=PLC2E902312EF632FF
http://www.youtube.com/watch?v=BDXEvd5ml48&playnext=1&list=PLC2E902312EF632FF
http://www.youtube.com/watch?v=xB7KsB2y-ME
http://www.youtube.com/watch?v=-PDwMEqvXaQ&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=gdysoeI9sqg
http://www.youtube.com/watch?v=qraktCiyF18
http://www.youtube.com/watch?v=7-sLh6POKt4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=h_fcgUnxJkc
http://www.youtube.com/watch?v=8XGJNWHZ0Xc&playnext=1&list=PLC2E902312EF632FF
http://www.youtube.com/watch?v=4jek5M_ynlo
http://www.youtube.com/watch?v=dpxcEYC3D_M&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=j7Syi_6d3ZU
http://www.youtube.com/watch?v=xuZ7ey3D-Sk
Walter conducts Mozart Symphony 41 'Jupiter'
http://www.youtube.com/watch?v=smpB4Qam4hs
http://www.youtube.com/watch?v=g0tQB9hTWGg
Bruno Walter Symphony G minor,KV 183 by Mozart 1.Movement
http://www.youtube.com/watch?v=DWcOvGhT6_0&feature=related
78rpm Walter conducts Mozart ''La Finta Giardiniera''
http://www.youtube.com/watch?v=mJNnfrIzN84
BRUNO WALTER - 1939 - MOZART PIANO CONCERTO NO 20 K 466 (PIANO & CONDUCTOR)
http://www.youtube.com/watch?v=1y_IsQ7fboU
http://www.youtube.com/watch?v=BXVkZHgd4Iw
Bruno Walter conducts Vorspiel: Die Walküre 1 Akt
http://www.youtube.com/watch?v=3_cITTOf5MI
Bruno Walter "Siegfried Idyll" Richard Wagner
http://www.youtube.com/watch?v=lDq_8civGw4&playnext=1&list=PLFA95FBB5F6411CC6
http://www.youtube.com/watch?v=rJXy8bfZ7JM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=NcCM78oHHnA&playnext=1&list=PLFA95FBB5F6411CC6
Bruno Walter "Liebestod" Tristan & Isolde
http://www.youtube.com/watch?v=1NEVOoPL0H0&feature=fvst
BRUNO WALTER - 1937 - KAISER WALZER (Emperor waltz) JOHANN STRAUSS
http://www.youtube.com/watch?v=u5KuT4awWI0
Rosenkavalier Waltzes - R. Strauss - Bruno Walter
http://www.youtube.com/watch?v=xKurWW5lFtE
Walter: Das Lied von Der Erde
http://www.youtube.com/watch?v=FcO8JqkDLF8
http://www.youtube.com/watch?v=nDXDNjn24nY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=PPRydlQTeLQ
http://www.youtube.com/watch?v=4GoIudAYFTw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=g-XPsgQF7pA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Nedk_go0WOg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=nLb1RJbeLpI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=GhZ5O-YZfm4&feature=related
Walter: Mahler Symphony no. 9
http://www.youtube.com/watch?v=B4QVJVzcstY&feature=fvst
http://www.youtube.com/watch?v=oGz_mNvzoXs
http://www.youtube.com/watch?v=3dHwZJ4nKKw&feature=fvst
http://www.youtube.com/watch?v=69PRjg_HtVQ&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=pJDdrc-rvQA
http://www.youtube.com/watch?v=VNonm0O0cvA&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=pJDdrc-rvQA&feature=fvwrel
_______
2)ムラヴィンスキー
1978年ウィーンのムラヴィンスキーは録音も含めて奇跡でしたね:
エフゲニー・ムラヴィンスキー(指揮)レニングラード・フィル
「ウィーンのムラヴィンスキー」(英EMI、LP)
1978年の6月、初めてのヨーロッパへの旅行の途中に訪れたウィーンの事は決して忘れないでしょう。
モスクワ経由での長旅で、フランクフルトの展示会を訪れた私は、会場で思いもかけずウィーンにある取引先になる工場を見学することとなりました。工場見学の後、ウィーン市内の本社に立ち寄った私は、経営陣から、昼食に招かれ、いつしか好きなクラシック音楽の話に話題が移りました。そして自分がどれ程クラシック音楽が好きで、あこがれのウィーンに思いもかけずくる事となって、どうしたら音楽会に行けるかを聞ききました。
音楽の話をずーと聴いていたオーナーが、それほど好きならば、ファミリーが年間予約している席を譲ってあげよう!と云ってくれたのです。自分はウィーンに生まれ育ったけど、現代では望むべきも無い、素晴らしい演奏会を昨晩経験したと、その余韻を大事にしたいと云って、楽友協会大ホールの今日の演奏会と明日の国立歌劇場のオペラの席を譲っていただいたのでした。
そんなに、素晴らしい昨晩のコンサートは何だったのですかと聞くと、レニングラードフィルがムラヴィンスキーに率いられて、列車でやってきたのだよ。巨匠がいなくなった今日、残って入り最後の一人かも知れぬと云われました。私は思わず、私も日本では73年の初来日からずーと欠かさず聴いていますと云いましたら、あの演奏を何回も聴いているとは素晴らしい、でも飛行機嫌いの巨匠が日本に行くとはと、いぶかしげに聞かれました。いいえ、シベリア鉄道と船を乗り継いで来てくれるのです、なんと素晴らしい事でしょうか。このような偶然は!
そして、その後、発売されたウィーンのムラヴィンスキーの実況録音盤が、ウィーンのホールの音を唯一忠実に伝えているのでした。
http://tannoy.exblog.jp/1737435/
1978年6月12・13日、ウィーン芸術週間でのウィーン・ムジークフェライン・ザール実況録音。
ウェーバー;「オベロン」序曲
シューベルト;交響曲第8番「未完成」
ブラームス;交響曲第2番
チャイコフスキー;交響曲第5番
ショスタコーヴィッチ;交響曲第5番
Carl Maria von Weber (1786-1826) Overture to "Oberon"
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinsky, 29.IV.1978
http://www.youtube.com/watch?v=EZFcVhM8Jv0
Symphony No. 8 in B minor, D 759 "Unfinished" by Franz Schubert (1797-1828)
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinsky, 30.IV.1978
http://www.youtube.com/watch?v=tB4Y4XCDqEU
http://www.youtube.com/watch?v=4m_5m-WO4JA
Symphony No. 2 in D Major, op. 73 by Johannes Brahms
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinsky, 29.IV.1978
http://www.youtube.com/watch?v=H9wa1u_wn0o
http://www.youtube.com/watch?v=z86445C232k
http://www.youtube.com/watch?v=RlcRVdSCDoQ
http://www.youtube.com/watch?v=rMgBqckYMFg
_____________
Beethoven: Symphony No.4 Mov.IV (Mravinsky)
http://www.youtube.com/watch?v=DG39ixkkx60
http://www.youtube.com/watch?v=EnCN-Et4t5M
http://www.youtube.com/watch?v=uqvdK6rUgt0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Qkv_F_--nrI&feature=related
Ludwig van Beethoven-Sinfonia nº 3, op. 55,
Orquestra Filarmónica de Leningrado / Maestro-Evgeni Mravinsky
http://www.youtube.com/watch?v=X1v46hSfdU4
http://www.youtube.com/watch?v=DzKKI8Tg9zk
http://www.youtube.com/watch?v=kmo7hakcklk
http://www.youtube.com/watch?v=7VRbZZLh-GA
http://www.youtube.com/watch?v=2hgxgmXqTSw&feature=related
Brahms: Symphony No.2 Mov.I (Mravinsky)
http://www.youtube.com/watch?v=JcwTljrOOf8
http://www.youtube.com/watch?v=RHuG8HtNJTE
http://www.youtube.com/watch?v=fFazWLCQCqM
http://www.youtube.com/watch?v=7MDAs_NHlRQ
MRAVINSKY--BRAHMS Symphonie 3
Leningrad Philharmonic Orchestra, dir Evgeny Mravinsky, 29-04-1978 LIVE
http://www.youtube.com/watch?v=RhufL4clBgs
http://www.youtube.com/watch?v=lkNcuQmFCXE
http://www.youtube.com/watch?v=xokztz210EY
http://www.youtube.com/watch?v=TPzc5ucKvfc
Brahms: Symphony No.4
Leningrad Philarmonic Orchestra Yevgeny Mravinsky 1973
http://www.youtube.com/watch?v=KF6XT6J87jo
http://www.youtube.com/watch?v=Jh-YITzzpZ8
http://www.youtube.com/watch?v=H0WFGui51Wo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=SPfhx85pF7U&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=DyCBsPS7qOs&feature=related
Tchaikovsky: Symphony No.5
Live at the Great hall of Leningrad Philharmonia - 1973, Apr.
http://www.youtube.com/watch?v=yI3ifmdPPJE&playnext=1&list=PL03855A07538BC0A3
http://www.youtube.com/watch?v=_Fgvv_FYFsY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=bxD6K3Jo4h8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=jr1Y3KS5KNk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=RLV5hKU114A&feature=related
evgeny mravinsky
tchaikovsky 5th symphony 1983
http://www.youtube.com/watch?v=VQhzfTwwMlU
http://www.youtube.com/watch?v=Hcy4IM65KUc&feature=related
Mravinsky: Tchaikovsky Symphony no. 6 "Pathétique"
Leningrad Philharmonic, Evgeny Mravinsky
Stereo recording, 1960.
http://www.youtube.com/watch?v=UcJzjB8bwqE&playnext=1&list=PLA125EC7B26EF3553
http://www.youtube.com/watch?v=6-LSwQyMrHw&playnext=1&list=PLA125EC7B26EF3553
http://www.youtube.com/watch?v=q1SayVIFmyg&playnext=1&list=PLA125EC7B26EF3553
http://www.youtube.com/watch?v=lioGWy9sETw
http://www.youtube.com/watch?v=x2tTfTVzD0M
Tchaikovsky: Nutcracker-Suite (Mravinsky)
http://www.youtube.com/watch?v=9K0N16w0yjA
http://www.youtube.com/watch?v=HIzwLsX_RtI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=vnJCGT8QsLY&feature=related
EVGENY MRAVINSKY - FRANCESCA DA RIMINI - TCHAIKOV
LIVE RECORDING: Great Hall of the Leningrad Philharmonic, 19 march 1983.
http://www.youtube.com/watch?v=x2FLZsAL8fA
http://www.youtube.com/watch?v=lIDpdr_dRH4&feature=fvwrel
Tchaikovsky, Capriccio Italien, Op. 45.
Leningrad Philharmonic Orchestra, Evgeny Mravinsky, Conductor.
Rec, 23-02-1950. Leningrad.
http://www.youtube.com/watch?v=flA32aBSmeo
P. Tchaikovsky Serenade for string orchestra/E.Mravinsky
Leningrad Philharmonic Orchestra. Conducter: Yevgeny Mravinsky. 1949.
http://www.youtube.com/watch?v=frv3gch4kg4
http://www.youtube.com/watch?v=YVrVxPsP9vk
http://www.youtube.com/watch?v=QOUgxhhqFWw&feature=related
Sviatoslav Richter plays Tchaikovsky Piano Concerto No. 1
Leningrad Philharmonic Symphony Orchestra, Yevgeny Mravinsky, 1959.
http://www.youtube.com/watch?v=DRBjzVkpiQ4
http://www.youtube.com/watch?v=NzcWYVkflcU
http://www.youtube.com/watch?v=E91B7soYX_A
http://www.youtube.com/watch?v=8ntF8ZUnclM
Piano Concerto No. 1 in B flat Major, op.23 by Piotr Ilyich Tchaikovsky
Emil Gilels, piano
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinskij, 30.III.1971
http://www.youtube.com/watch?v=ttUE8CHN5U8
http://www.youtube.com/watch?v=sRBqVyZcJT0
http://www.youtube.com/watch?v=IaEpqaPCyhc
EVGENY MRAVINSKY--TANNHÄUSER-OVERTURE
Leningrad Philharmonic Orchestra, enr 1978,
http://www.youtube.com/watch?v=AYZzdsg6hSE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=nn8kWu7H59E
Wagner, Lohengrin, Prelude act 3.
Leningrad Philharmonic Orchestra, dir Evgeny Mravinsky, enr 1965 LIVE
http://www.youtube.com/watch?v=1jkNDaO8fRM&feature=related
EVGENY MRAVINSKY--WAGNER-LOHENGRIN Prelude act 1
Evgeny Mravinsky, enr 1978 LIVE
http://www.youtube.com/watch?v=1uliSlmMQcI
Wagner: Die Walküre - Ride of the Valkyries - Mravinsky/LPO (1965Live)
http://www.youtube.com/watch?v=82HCLqVhB6E
EVGENY MRAVINSKY--WAGNER-DIE MEISTERSINGER VON NÜRNBERG
Leningrad Philharmonic Orchestra, enr 1982 LIVE
http://www.youtube.com/watch?v=1qLfxnEC0xI
EVGENY MRAVINSKY - PRELUDE UND LIEBESTOD - TRISTAN UND ISOLDE
Leningrad Philharmonic Orchestra, Evgeny Mravinsky Conductor, Rec 1978.
http://www.youtube.com/watch?v=3g3otuOZhuQ
http://www.youtube.com/watch?v=LDd1u-w13hE
Anton Bruckner, symphony No 7 in E major,
25 February 1967,Leningrad Philharmonic Orchestra, Evgeny Mravinsky,
http://www.youtube.com/watch?v=pZrvBok8ARE
http://www.youtube.com/watch?v=NSfW9fEATRM
http://www.youtube.com/watch?v=W8vi3tK_w54
http://www.youtube.com/watch?v=TBVbx959PX4
http://www.youtube.com/watch?v=oDGwSKb0J3Q
http://www.youtube.com/watch?v=MsjjrfG2h50
http://www.youtube.com/watch?v=pDgVYIyL-B8&feature=related
Symphony No. 8 in C minor by Anton Bruckner (1824-1896)
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinskij, 30.VI. 1959
http://www.youtube.com/watch?v=cI60KTZrbfs
http://www.youtube.com/watch?v=KhUAWXUHwA8
http://www.youtube.com/watch?v=QME9yhje4tc
http://www.youtube.com/watch?v=FkUgDpkUxrU
Symphony No. 9 in D minor by Anton Bruckner (1824-1896)
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinskij,30.I.1980
http://www.youtube.com/watch?v=qPhWKo__ruk
http://www.youtube.com/watch?v=0AdprHOGxbY
http://www.youtube.com/watch?v=AX-JKolWuH4
Sibelius: Symphony #7 in C Major, Op. 105
http://www.youtube.com/watch?v=yqMJA9kvyHI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=0j8UsxvAZ_s&feature=fvwrel
Sibelius: Lemminkäissarjaan - Tuonelan joutsen - Mravinsky/LPO (1965Live)
http://www.youtube.com/watch?v=Uk9HNGH0XG4
Mravinsky, Glinka / Overture ''Ruslan and Lyudmila''
http://www.youtube.com/watch?v=GRPucWxV6Bo&feature=fvwrel
Evgeny Mravinsky conducts Anatoly Liadov: Baba Yaga op.56
date:11.03.1983
http://www.youtube.com/watch?v=fmpIiquC99g
Evgeny Mravinsky conducts Mussorgsky: Dawn on Moskwa River (Prelude to Khovantchina)
date:11.03.1983
http://www.youtube.com/watch?v=FMJCgL9GNFw
Yevgeni Mravinsky conducts Richard Strauss Ein Alpensinfonie
orch:Leningrad Philharmonic date:21.4.1960
http://www.youtube.com/watch?v=wfLeeNTPjeo&playnext=1&list=PLC5A564A7BCBFCF5D
http://www.youtube.com/watch?v=xqtkYD62Qxk&playnext=1&list=PL52BC37C81E0BFC11
http://www.youtube.com/watch?v=jyz5Y3eb4LY&playnext=1&list=PLC5A564A7BCBFCF5D
http://www.youtube.com/watch?v=8pvfyVS_V0k&playnext=1&list=PLC5A564A7BCBFCF5D
http://www.youtube.com/watch?v=8xazO_BUsoo&playnext=1&list=PL52BC37C81E0BFC11
http://www.youtube.com/watch?v=_HK9CVKw-lU&playnext=1&list=PL52BC37C81E0BFC11
Mravinsky conducts Bartok Music for String, Percussion & Celesta
Leningrad Philharmonic Orchestra
Recorded Live at Great Hall Moscow Philharmonic on 28 February 1965
http://www.youtube.com/watch?v=5TeIPkomTnw
http://www.youtube.com/watch?v=Gwu63ZLv80g&playnext=1&list=PL0149E1DE3402806D
http://www.youtube.com/watch?v=_qwfIqw8kdk&playnext=1&list=PL0149E1DE3402806D
http://www.youtube.com/watch?v=Xrlxy7Bs3us
Sabre dance - Yevgueni Mravinsky.wmv
http://www.youtube.com/watch?v=3HbunC5nqxo&feature=related
Prokofiev Mravinsky Romeo & Juliet
http://www.youtube.com/watch?v=pQAwic28DzI&playnext=1&list=PLE4E1E5913B7472AE
Evgeny Mravinsky conducts Scriabin Le Poéme de l'extase
http://www.youtube.com/watch?v=SPdUI2eylBA
http://www.youtube.com/watch?v=3e4SiM3rsHc
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l ノ ノヽ、, !..□ / ヽ
ヽ .ィ'. ,! ハ/ 、 `!、
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l `! `! ! l
l . l , l ヽ、 、_ ,ィ ノ
l、_,! し' l l `l l
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