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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100272
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[近代史3] 日本の官僚やアメリカへの留学生はこういう手口でアメリカのエージェントにされる 中川隆
1. 中川隆[-10925] koaQ7Jey 2019年4月05日 11:31:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1103]

日本の官僚やアメリカへの留学生はこういう手口でアメリカのエージェントにされる


2. 外務官僚 小和田雅子の場合


知恵遅れの皇太子をハニートラップにかけた(?)小和田雅子の正体

雅子様C@学歴 日本語も英語も話せない釣書詐欺
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764

雅子様の学歴ロンダリング
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

雅子様の子弟枠を使ったインチキ外交官試験
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93


▲△▽▼


雅子様の優秀伝説 まとめ 

雅子さまは元々何もできないアホ女だったんだよ、学歴も全部インチキだったしね:


田園双葉の入試に2回落ちて、3回目にお情けで編入。
田園双葉時代の成績は頑張っても専修大がやっと。

アメリカの公立高校では語学最低レベルのESLクラスから出られず。
当時ハーバードで客員教授していた父のコネで女子部のラドクリフに入学。

中国系学生デビッド・カオと半同棲。トップレス写真を撮られる。
卒業論文も父のコネで普通の学生には不可能な経済界の大物達への
インタビュー。

それでも優良可の良にあたる評価がやっと。
普通の会話が続けられずパーティーでは壁の花。

東大への学士入学は簡単なものでしかもここでも父が当時教授をしていた。
授業にはほとんど出席せず、1単位も取れずボロが出る前に中退して
父のいる外務省にコネ入省。

華々しくエリート外交官なんて報道されたが実際はただの外務省職員。
外務省時代は内規違反をしてマイカー通勤しVIP専用駐車場に駐車。
通勤手当をもらっていたので返却することに。しかも連日遅刻。
仕事が出来ないため大切な仕事は任されなかったが、頼まれると失敗して泣く。
それなのに傲慢な態度だった。

職場でのあだ名はコピー番長。
しょっちゅう化粧直しに席を立ち、なかなか戻らなかった。

職場でも父を「お父様」と呼んでいた。
オックスフォードに国費留学するが、同期の中で唯一修士が取れず帰国。
米国、英国、外務省時代に不倫の噂多数有り。
中国系学生と半同棲、トップレスの写真も存在する。
結婚一歩手前の日本人もいた。
浩宮の妃内定なるとダイアナ妃も受けたブライダルチェックを頑なに拒否。
つまり処女ではなかったと言うこと。一方の浩宮は。。

雅子は、デンフタに何度も落ちたくらい頭がよくない。面接で「妹がうかったのにこの子だけ」と、優美子が泣いて見せ、お情けでいれてもらったのは有名な話。しかしながら、面接で母親が泣いてみせて同情で受かるほど御受験は甘くはないはず。裏では人と結構なお金が動いたんじゃないのかと疑惑がのこる。

・雅子の成績はどこに行っても常にボーダ―ラインだった可能性が高い。学力も知恵遅れの徳仁と変わらないレベルで、とてもとても「日本一の御優秀な女性」にはなれなかった。

英語も話せない雅子様

・渡米し、レベルの低い公立高校に転入した雅子。しかし成績は悪かった。

・雅子のあだ名は「ブレイン」。頭でっかちといういみではなく、ノータリンという意味にちかいそうな。

・雅子を大学に入学させるため、父の恒をアメリカ大学の教授にしてもらう。このとき、某財閥の金が動いたといわれているが、真偽は不明。

・大学は父のコネで「無試験で」女子大に入学。後年、その大学がハーバート大に吸収されたため、「ハーバート大卒業の雅子様」とのデマに利用した。

・卒業論文は、父のコネで要人にインタビューしたものをまとめたもの。しかし、優は取れず。

・雅子は中国系アメリカ人デビット・カオと同棲。また、白人男性と付き合っていたというリークもある。カオ氏に、トップレス写真を撮られる。後日、カオ氏は写真を宮内庁に買い取らせようとしたらしいが、そのせいなのか、偶然なのか、ギャングに殺されてしまう。

・大学を卒業した雅子は、東大に「無試験で」編入したものの、ひとつも単位をとれず。

・雅子を外務省にいれるため、小和田恒を外務省の次官にする。

・雅子は父のコネで子弟枠で「無試験で」外務省に入省。外交官試験には合格できなかったとのリークあり。最初から雅子は、雑用用の事務員としての入省だったのではないのか。

マスコミ、週刊誌をつかって雅子を売りだし開始

・マスコミには、しつこく皇太子妃候補に雅子の名前が挙がる。

・「運命の出会い・スペインのエレナ王女のパーティー」の招待客名簿には、鉛筆で小和田雅子の名前が書き加えられていた。本来なら呼ばれなかった客だった可能性が高い。なんらかの圧力が直前までかかったと思われる。

・さらに、「運命の出会い・スペイン王女エレナ王女のパーティー」の数年前に、皇太子と雅子はコルマールで同宿している。

・父のコネで外務省から英国に国費留学。雅子一人だけ修士をとれず帰国。留学中、越智孝雄なる福田の甥と交際しており、結局、婚約まで進むが、雅子が皇太子妃になれそうな卦がでてきたので、破棄された。

・外務省では仕事が出来なくて有名だった雅子。菓子パンを買い占め、出来る仕事はコピー取り。通訳すらできない雅子のついたあだ名は「コピー番長」。

・有名人のおっかけもしていたらしい。

雅子妃殿下、外務省時代は通訳にも使えなかった。

本当の通訳を後ろに用意して、雅子さんを全面に出して、いかにも
雅子さんが通訳している様なフォトオプを父親が用意させた。

・社内では上司と不倫をし、参事官になった上司は中東で不審死をした。あの時期あの場所で、実弾にあたるのは考えられないという。

雅子様が体調・及び精神のバランスを崩されて、ご静養されていますが、それは2003年に起きた、イラクでの奥克彦参事官がゲリラに殺害されたのが、引き金と聞きました。
奥参事官の殺害は、ゲリラではなく、米軍の誤射ではなかろうかとされています。
乗っていた車はすぐに米軍が押さえ、日本に返されたのは、かなり時間が経過した後でした。
そのため、誤射どころではなく、狙い撃ちだったのではなかろうかとの憶測まで流れたものです。

宮内庁は、徳仁皇太子と久邇晃子さんとの婚約を内々に内定。あとは発表だけという段階に。

・しかし、旧宮家の本物の姫が嫁になることを嫌った美智子が、自分と似たような出自の小和田雅子を徳仁の嫁にするよう協力する。

・美智子と組んだ小和田側は、アメリカのマスコミに「皇太子妃に小和田雅子」の一報を流して出し抜くことに成功。これも美智子の時のマネ。まんまと皇太子の妻にするのに成功。

お后教育の時、雅子さんは 「天照大神」 「日本武尊」を「テンテルダイジン」 「ニッポンブソン」と読んだそうな。
講師が早々に教育をやめたのは馬鹿すぎてお手上げだったから?

誰だよ、こんなのを皇室に入れたのは?

要するに、知恵遅れの皇太子をハニートラップにかけて、生きていると都合が悪い恋人には事故死してもらって皇太子と結婚した可能性が高い

しかし、知恵遅れの二人が野合して餓鬼作ったらやっぱり知恵遅れの餓鬼しか生まれないんだよな

▲△▽▼

asd********さん 2013/10/21 5:18:02

雅子様って実際、学力あるんでしょうか?
記事で雅子様の学歴は、お父様の小和田恆さんによるものが
大きいと見たのですが。
でも、お父さんの力で裏口入学はできても

外務公務員採用I種試験には学力がなければ合格しないのでは?


ベストアンサーに選ばれた回答

sai********さん 2013/10/22 2:00:15

田園双葉の入試に2回落ちて、3回目にお情けで編入。
田園双葉時代の成績は頑張っても専修大がやっと。

アメリカの公立高校では語学最低レベルのESLクラスから出られず。
当時ハーバードで客員教授していた父のコネで女子部のラドクリフに入学。
中国系学生デビッド・カオと半同棲。トップレス写真を撮られる。

卒業論文も父のコネで普通の学生には不可能な経済界の大物達へのインタビュー。
それでも優良可の良にあたる評価がやっと。

普通の会話が続けられずパーティーでは壁の花。

東大への学士入学は簡単なものでしかもここでも父が当時教授をしていた。
授業にはほとんど出席せず、1単位も取れずボロが出る前に中退して
父のいる外務省にコネ入省。

外務省時代は内規違反をしてマイカー通勤しVIP専用駐車場に駐車。
通勤手当をもらっていたので返却することに。しかも連日遅刻。

仕事が出来ないため大切な仕事は任されなかったが、頼まれると失敗して泣く。
それなのに傲慢な態度だった。

しょっちゅう化粧直しに席を立ち、なかなか戻らなかった。
職場でも父を「お父様」と呼んでいた。

オックスフォードに国費留学するが、同期の中で唯一修士が取れず帰国。
米国、英国、外務省時代に同棲・不倫の噂多数有り。
皇室に入内後は父親の影響が及ばず、すぐに引籠もる。

だそうです。

私の従兄弟でも帰国子女枠で東大に入りその後父親のコネで某政府機関に入った者がいますが、特別に優秀ではありません。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10114349020

▲△▽▼

2010年10月 8日
雅子さんという人121
雅子妃殿下、外務省時代は通訳にも使えなかった。

本当の通訳を後ろに用意して、雅子さんを全面に出して、いかにも
雅子さんが通訳している様なフォトオプを父親が用意させた。

小和田恒氏と大鳳会は、この写真を皇室入内宣伝に使い、メディアに流した。

同じ時期、外務省の天下り外郭団体「国際交流基金」に勤めていた高円宮が、外務省・大鳳会の意向を受けて、国際交流イベントに外務省から雅子さんを抜擢して出席させ、皇太子の位置の近くに配置して、皇太子の目に止まる様に仕向けた。

雅子さんの皇室入りは、大鳳会と国際交流基金、雅子さんのエセ通訳写真、創価学会を通じての女性週刊誌利用、高円宮のフル利用などによって計画的に進行された。
http://verde419.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-9f6b.html


2010年10月 1日
雅子さんという人118

お后教育の時、雅子さんは 「天照大神」 「日本武尊」を
「テンテルダイジン」 「ニッポンブソン」と読んだそうな。
講師が早々に教育をやめたのは馬鹿すぎてお手上げだったから?

誰だよ、こんなのを皇室に入れたのは?
http://verde419.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-34e7.html


2013年4月16日
雅子さんの父親の小和田恒という人。

外務官僚や国際司法裁判所の判事を務める等、経歴や学歴は誠に立派だが、実際には社民党の党首、土井たか子(帰化朝鮮人)と共に土下座外交を日本の外交に定着させた創価学会員の売国奴。

外交機密費の使い込み疑惑もあったが、雅子の皇太子妃決定で疑惑追及は立ち消えになった。

現在も外務省内に大きな影響力を持っているといわれている。
外務省には大鳳会と呼ばれる創価学会の売国グループが存在している。
http://verde419.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-eb76.html

▲△▽▼


2018年12月09日
アメリカの有名大学では金で合格を買える


太子党子弟は無試験でアメリカ名門校に入学し、4年間遊びまわって卒業している


金で入学枠を売る名門校

日本の医学部入試で男子を優遇し女子を厳しくしていたニュースで、不思議なことに欧米から批判されませんでした。

いつもの”日本たたき”のパターンでは埋めてあった骨を見つけたシェパードのように吠えまくるのに、沈黙したままだった。

それもその筈でアメリカを始め「一流大学」とされる大学ほどコネ入学や裏口入学が横行しています。

アメリカの最高峰はハーバード、イギリスはケンブリッジ大だがどちらも試験より人物本位で入学者を選考している。

人物本位というと聞こえは良いが教授や学長の推薦や、有力者のコネが効くのです。

特に悪質なのがアメリカのハーバード大学で、一般の受験生とは別に「金を払えば入学できる」枠が存在している。


数年前中国で太子党事件というのがあり、共産党幹部の子弟たちが無試験でアメリカの超名門校に入学しました。

彼らは入学してからも勉強せず、毎日パーティや豪遊に明け暮れて高級車を乗り回し、その様子をSNSで自慢しました。

中国からは欧米のSNSを見れないが、さすがに本国でも話題になり批判が強まった。


太子党は江沢民や毛沢東や習近平など有力者の子弟や縁者で、帰国すれば共産党幹部になるのが決まっている。

噂では大学に莫大な寄付をしていて、アメリカの名門校は金で入学枠を販売している。

金のない一般の受験者は彼らの枠の分だけ合格者が減るので、なおさら狭き門となっている。


富裕層の子供は受験せず入学できる

同じハーバード大学卒と言っても、掛け算すらできない人間も居れば本当の天才もいる。

大富豪が大学に寄付する金額は数億円から数百億円にも達し、高額寄付者の縁者は推薦入学できる。

ナイキの創業者はオレゴン大学に5億ドル(約560億円)を寄付したが、もし彼の息子や孫が受験したら大学は不合格にできるだろうか?


驚くのはアメリカではこれが合法なことで、みんな知っているし堂々とやっている。

英誌「エコノミスト」米経済紙「フォーブス」などでもコネで入学できると指摘されているが、悪びれもせず続けている。

アメリカには共通一次試験がなく、入学試験そのものも必ずやる義務はない。


ハーバード大学は約4兆円もの資産を持っているが、こうした入学枠の販売は美味しいビジネスになっている。

さらに美味しいのは大学への寄付金が非課税になる点で、寄付した金額の最大50%が富裕層の所得から控除される。

例えばハーバードに10億円を寄付すると、バカ息子をエリート大学に入学できるうえに、所得から5億円を控除され節税になる。


アメリカにはこうした裏口(合法なので表口だが)仲介業者もあり、巨大ビジネスになっている。

有名な例では映画監督のスティーブン・スピルバーグの娘を入学させたデューク大で、願書の締め切りを過ぎていたのに入学させた。

もちろん無試験のうえに大学理事がスピルバーグの自宅まで出向いて「面接」をしている。


こうした例は枚挙にいとまがないほどあるので、日本の大学で男子を優遇したくらいでは「なんで問題になるのか?」という認識でしかない。
http://www.thutmosev.com/archives/78373072.html  

▲△▽▼


中国共産党の幹部の子弟がみんなアメリカ、カナダに留学する理由

2018.12.13
ソフトバンク通信障害B アリババ=江沢民=ゴールドマン・サックス
https://golden-tamatama.com/blog-entry-softbank-alibaba3.html


さて、昨日スパイ会社ファーウェイの幹部が釈放されたそうです。
保釈金は8億だったとか。
保釈と言っても足首にGPS信号をつけさせられての保釈のようです。
そりゃスパイされまくったら困りますからね。


中国の報復の以下、カナダ元外交官を拘束が効いたのでしょうか。


中国というのはやることがエゲツない。

ちなみにこのファーウェイの幹部、孟晩舟さんがカナダで捕まった場所はバンクーバーです。

バンクーバーと言えば中国共産党の子弟が大挙して留学してる場所です。
他に、中国人留学生が多いのはアメリカのカリフォルニア州です。

知らないかもしれませんが、中国共産党の幹部の子弟達は大挙してアメリカ、カナダに留学してるのですね。
その数約100万人。

だいたい習近平の娘ですらハーバードに留学してるのですから。

それで10月に、トランプさんは中国の留学生はほとんどスパイだ!
と言ったのですたね。

中国、米国留学禁止を通達…米中貿易摩擦で米国による人質化を懸念、機密情報が中国に流出か

「Gettyimages」より
中国共産党指導部はこのほど、トランプ米大統領が「米国に来るほとんどすべての学生はスパイだ」との内容の発言を行ったことを受けて、北京や地方の党・政府組織に対して、「幹部子弟の米国留学の禁止および留学中の幹部子弟の年内帰国に関する通達」と題する内部文書を伝えたことが明らかになった。

米中貿易摩擦が激化し、両国関係が日増しに悪化するなか、党政府幹部子弟が「人質」化することや、 スパイの嫌疑をかけられて拘留されることなどを危惧するとともに、留学費用などで米国を経済的に利することを嫌ったためとみられる。

●留学生による機密情報の国外流出を懸念

米国国務省教育文化局などの調査によると、昨年6月末現在、米国の中国人留学生は前年比6.8%増の約35万人で、11年連続で増加中だ。

2016-2017年度における米国の大学の留学生数は前年比3.4%増の107万8800人だが、そのうち中国大陸部からの留学生の比率は32.5%を占めており、大半は中国における特権階級である党幹部の子弟とみられる。

同筋は「習近平国家主席の一人娘の習明沢さんがハーバード大学に留学していたのは有名だ。

で、昨日のジャック・マーさんの続きですが。

ジャック・マーさんは英語教師ですから、通訳としてアメリカに渡ってたのですね。

1995年。ジャック・マーさんはアメリカでヒントを得て、中国初の中国版イエローページを開設した。
それがアリババの始まりです。

で、ジャック・マーさんは留学中のあの江沢民のお孫さん江志成(こうしせい)さんと仲良しだったのですた。

以下が江志成(こうしせい)さんです。

確かに江沢民に似てる。

江志成さんは、2010年にハーバード大を卒業後、ゴールドマン・サックスで勤務していました。
ちなみに、父親の江綿恒さんもゴールドマン・サックスの幹部です。

で、その後、江志成さんは、香港で博裕キャピタルを設立しました。
ここには香港最大の金持ちの李嘉誠(リー・カシン)も出資した。

アリババにはこの江志成さんの博裕キャピタルが出資したのですた。

ちなみに共産党の常任委員劉雲山の子の国開キャピタルも出資しました。

つまり、ソフトバンクの孫さんがどこの馬の骨とも分からない英語教師の熱意にほだされて20億をポンと出資した。
という訳は全然なく。

ゴールドマン・サックス一派=江沢民が裏にいる。
同じ仲間だから20億をポンと出したのですた。

それにしても、なぜ中国共産党幹部の子弟がこんなにもアメリカに留学してるのでしょうか。
その理由が以下です。


中国高官たちはアメリカ移住がお好き 経済界

さて、中国高官(党・政府・国有企業で高位の人たち)や中国人大富豪は住みにくい中国大陸を捨て、移住先として、北米、特に、アメリカを目指す。 前者は、他の国・地域へ逃亡した人数を含め、計約1万8000人も及ぶという。

後者は、しばしば中国高官と関係が深い。
アリババ(阿里巴巴)のジャック・マー(馬雲)はその好例で、江沢民の孫、江志成、温家宝前首相の子、温雲松らに近いと言われる。

中国では政権が交代したら、その途端、今までの政策が一挙に変わることがある。
だから、中国高官らの地位・財産はもろくて危うい。また、大気・水・土壌・食品等の環境問題も深刻である。

そこで、中国高官や中国人大富豪は巨額のカネを入手した暁には、真っ先にアメリカへの移住を考える。

そのやり方は、

@弟を当地へ留学させる。

A愛人を当地の「愛人村」に住まわせる。

B妻が妊娠したら、当地の「出産センター」(「妊婦村」ともいう)へ送り、当地で子供を産ませる、などが考えられる。将来、自分と家族・親戚一同が移住するためである。

第1に、もし子供が米国籍を取得すれば、その両親は米国へ移住しやすい。

例えば、習近平は、彭麗媛との間の娘、習明沢を米ハーバード大学へ留学させている(2012年秋、習近平が総書記になる直前、明沢は帰国したと伝えられたが、実際は、大学卒業まで米国に滞在したようである)。また、李克強首相も娘を米国へ留学させていた。このように、党最高幹部子弟の大半が米留学している。

第2に、「愛人村」で有名なのは、米カリフォルニア州ロサンジェルス郊外のローランドハイツだろう(カナダではバンクーバー郊外にも同じような「愛人村」が存在する)。

中国高官らは、米国の永住権取得目的で豪邸を購入する。そして、愛人に財産管理をさせ、いざという時には、そこへ逃亡する算段である。 近年、中国では、愛人生活を送る若い中国人女性の暮らしぶりを描いた、薛曉?監督、湯唯主演の「北京遇上西雅図(Finding Mr.Right)」(邦題「北京ロマンinシアトル」)が人気を博した。

第3に、中国高官や中国人大富豪は、妻が妊娠して臨月間近になったら、旅行と見せかけて米国へ送り込む。そして、ロサンジェルスやニューヨークなどの大都市にある、中国人医師・看護師の待つ「出産センター」で子供を産ませる。出生地主義の米国では、その子供は必ず米国籍が取得できる。当然、その親も将来、米国籍を取得する権利が生じる。

中国共産党は、少なくても表向きは、アメリカを“敵視”している。同時に、共産党は、西側の価値観(自由や民主主義等)を明確に否定している。だが一方では、自分や家族・親戚が米国移住するための準備を着々と整えている。日本人には、この中国人の“現実主義的な考え方”がよく理解できないかもしれない。

ただ、習近平政権が誕生してから、「キツネ狩り」と称し、捜査官を米国へ派遣し、汚職高官を摘発、逮捕するよう努めている。しかし、現時点では、米中間に犯人引き渡し条約がない。中国共産党はオバマ政権に汚職高官の「ブラックリスト」を渡しているというが、その引き渡しに関しては、米国の高度な政治的判断がまたれる。

これも酷い。
日本で例えるなら自民党の幹部の子息、子女がみーんな米国留学してるってことです。

共産党の中央政治局の常務委員9人のうち、少なくとも5人の子や孫が米国留学とあります。



同紙は中国の特権階級が米国へ押し寄せる現象を「中国人の米国教育への憧れ」と指摘した。米国留学する中国人学生は過去15年で4倍に急増。中でも共産党高級幹部の子供たちは州立大など公立校へは行かず、ハーバード大など学費の高い有名私立大を目指すのが一般的。党の最高意思決定期間である中央政治局の常務委員9人のうち、少なくとも5人の子や孫が米国留学しているという。

過去の党最高指導者のうち、趙紫陽元総書記、江沢民前国家主席の孫がハーバード大に留学。留学費用の出所について唯一公開しているのは、先日失脚した薄煕来(ボー・シーライ)前重慶市党委員会書記の息子。薄前書記の正式年収は2万ドル(約160万円)足らずなのに対し、ハーバード大の学費は年約7万ドル(約560万円)だが、「奨学金と母親の貯蓄でまかなっている」と説明している。

さらに、次期最高指導者に決まっている習近平(シー・ジンピン)国家副主席の娘もハーバード大に留学中。中には仏パリで社交界デビューした高級幹部の娘もおり、世間からは「口では米国をののしりながら、子供は米国の奴隷になっている」と痛烈な批判も出ている。(翻訳・編集/AA)

まぁ、とにかくファーウェイ幹部がタイーホされ、ソフトバンクが通信障害になる。
同時期にフランスでデモが激化する。

それは中国子弟の留学組が作ったIT企業=アジアのロスチャイルド別動隊がやられてる。
経緯を知ればぜーんぶつながってると分かるというものでしょう。
https://golden-tamatama.com/blog-entry-softbank-alibaba3.html


▲△▽▼


2017.12.02
雅子様C@学歴 日本語も英語も話せない釣書詐欺
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764

「日本で一番優秀な女性」という触れ込みで皇太子の妻になった小和田雅子さんですが、実際はどうだったんでしょうか。

学歴がすべてを決めるわけではありませんが、実は高学歴とは程遠い方。学歴ロンタリングのの見本のような方です。

学歴が高低がもんだいなのではなく、嘘をつくとろに問題があると思います。ざっと見てみましょう

語学力 日本語が不自由

帰国子女やバイリンガルの場合、日本語がおかしいことは、よくあることですが、高校2年まで日本で育った雅子さまは、帰国子女とは言いません。にもかわらず、「天照大神」を、てんてるだいじん、とよむ知能のレベルでした

音読すると、変さが、いっそう解ります。支離滅裂です。

クワガタ、けれども、クワガタ、けれども、クワガタ、クワガタ、、、

言語は思考の土台だと思うのですが、言語能力が低いということは、知能が高くないということではないのかしら。


テレビ朝日 スーパーモーニング

工藤雪枝氏(雅子様の友人)の発言、小和田優美子さんの代弁として
「英語でのカウンセリングを希望」
「日本語では敬語や皇室用語が負担」

しかしながら、雅子さん、その英語が話せないようです。


語学力 英語が不自由

雅子様の英語のスピーチって、おおまっぴらに公表されてないけど、人前で話せるレベルではないんでしょうね。

本当に堪能なら、「英語が堪能な優秀な雅子様」として、スピーチの動画をマスコミを通じて拡散に励むはず。実際は、日常会話の、英検1級がやっとのレベルらしいですね。一般人なら問題ないけど、外務省勤務で将来の女性大使候補。名門ハーバート大卒、英国名門大学留学、という経歴には無理がある実力です。

ご成婚後、海外の音楽家に「サインして」とねだったらしいですね。それだけでも、ちょっと問題があるとおもうのですが、雅子はsignしてくれと頼んだそうです。

日本では署名も、色紙のサインも同じくサインといいますが、

英語では、Autographs。

signとは、書類に署名するサインのこと。それぞれ違うものです。

音楽家は「sign??はあ??」ってなったらしい。雅子さんの英語力は、その程度のレベル。

2015年のトンガ王の即位式に参列した折、雅子に通訳が付いていたところをみると、本当に話せないらしいらしいですね。

※以下、ドス子wiki様よりお借りしてます。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5


マサグリッシュとは、

雅子夫人が口にするトンデモ英語のこと。2008年10月9日、とある奥様により『English Journal』2008年11月号掲載のHayley Westenraさんインタビューで、2005年6月4日サントリーホールにてコンサート鑑賞した東宮夫妻が

“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”

と超上流階級にあるまじき品のない表現でサインを求めたことが発見され、ヘイリーサインおねだり祭り・ウォンチュー祭りとなった。

『English Journal』2008年11月号

Hayley Westenraさんがインタビュー中で証言した雅子の台詞“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”

Part1342-802 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:20:51 ID:mG+LOOXnO
そんなにたいした記事ではありませんが
English Journal 2008,11号でちょっとだけ盆丼について書いてあったのでレポします。
Haylay Westenra へのロングインタビューの中に、
「A Royal Stir」という記事があり
2005年6月4日にのコンサートに盆丼が来て、その後歓談したと書いてあります。
・来ると言う予告はあったが、始まるまで来るか来ないかわからなかった。
・二人とも「lovely」だった。(かわいい?)
・警備がすごかった
・ヘンリーが「protocol」に従って歓談を終わらせようとしたら

「Oh,no,oh,wait,we want you to sign something for us」

と言われて、ちょっと時間が長引いてしまったら、ドアの向こうの警備がパニックになってしまった。
という話でした。

804 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:23:18 ID:mG+LOOXnO
続き、、、
上の英語を話したのは丼かな〜と思います。
英語は勉強中なので詳しくはわかりませんが、上品な英語ではありませんよね。
ヘンリーはフジテレビドラマの白い巨塔の主題歌を歌っていたので
ミーハーな気持ちで見に行ったのかと思いましたが、
なんとユニセフ史上の最年少の大使でした。
あと、ニュージーランド出身だそうです。

804 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:37:21 ID:mG+LOOXnO
EJは48ページです。

『English Journal』2008年11月号(ヘイリーさんの大きな顔写真が表紙)
http://www.yuko2ch.net/mako/mako/src/1225897331546.jpg

Hayley Westenraロングインタビューpp.48-49より

A Royal Stir(やんごとなき珍事)

2005年6月4日のコンサートを皇太子夫妻が鑑賞して、その後歓談したことについて:
・来ると言う予告はあったが、始まるまで来るか来ないかわからなかった(いつものことながら迷惑)
・二人とも「lovely」だった(とりあえず褒めておく時の無難で典型的な言葉)
・警備がすごかった
・ヘイリーが「protocol」に従って歓談を終わらせようとしたら

But on the second knock, I was like“Oh”, you know, “Thank you very much. Um, I’d better, better be going. I’d better let you go.”
And they’re like,“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”
And so, I thought, “OK, well, I’ll, I’ll hang around then, and, um, better sign,”you know,
“Better do as they say.”And, um, not knowing that I was, you know, creating quite a stir outside.

アルク編集部がサインねだりにつけた対訳「いえいえ、ちょっと待って、何かにサインをしてちょうだい!」

マスコミ記事にて外務省で美しく正確な英語を話す、と散々宣伝されていた小和田雅子だが、
人にものを頼むときに「May I…」や「Would you…」を使うという初歩の初歩ができない
「sign」は書類に署名する場合に使い、有名人の所謂サインなら「autograph」を使うという、超初級英単語を知らなかった

…という、帰国子女(小中学校義務教育時期のほとんどを日本で過ごしている小和田雅子は厳密にはこの定義に当てはまらないが)ではありえない英語のレベルの低さが判明することになった。

転載以上

雅子「Oh,no,oh,wait,we want you to sign something for us」

・signサイン 書類にする署名

・autograph 署名、(有名人の)サイン

ハーバート大卒業したはずの雅子さんは、この違いが判らなかったということ。

語学力 ロシア語・フランス語は問題外

釣書にあったはずの、ロシア語、フランス語は、全くダメ。

ドイツ語が堪能野のは、紀子様のほう。ドイツ語圏の人が、紀子妃はドイツ語を流ちょうに話すと書かれていたのだから、間違いなさそう。

雅子の場合、子供の障害や同和の出自や婚前の堕胎経験など自分の恥は紀子様にスライドして流布させ、紀子様のお手柄は自分のものにしているみたいですね。何語なら、まっとうに話せるのかしら。朝鮮語??

雅子様の「華麗な」学歴も経歴も全部無試験、親のコネ

・学習院初等部をうけるも落ちた。双葉には、なんども落ちた。

・双子の妹がうかったとき、お情けで入学を許された。

・高校2年生のとき、親とともに渡米。

この渡米も退学も意味が不明だとか。

大学受験もあるのに、中途半端な時期に日本の高校を退学して、わざわざレベルの低い米国の公立高校へ編入というのも不思議な話です。

アメリカの公立高校はレベルが低く、ちょっと勉強したらAが取れるそうですが、それでも雅子の成績は悪かったそうです。勉強ができない子のクラスに移動させようとすると、父親が乗り込んできて文句をいったそうで、、、どっかで聞いた話ですね。

紀子様はご成婚前になんども堕胎した。怒った川嶋教授が御所に乗り込み、「なんども堕胎さえやがって」「うちの娘を殺すきか」と天皇に詰めよった、という創価学会が流している流説に似てます。

アメリカの学校への転校の理由としては、雅子が学業がついていけない、あるいは、堕胎する必要ができるなどの不祥事をおこした、、、、など、理由があったとみなしたほうがよさそうです。

双子の妹は日本に残してますので、雅子だけ連れてというのもおかしな話です。雅子は、英語ができない子のクラスから上がれないままのレベルのままでした。

ハーバート大卒

実際に入学したのはラドグリフ女子大。14年後にハーバートに吸収されたので、小和田家は「ハーバート大卒」といいはっているだけ。

しかも、ハーバート大付属の女子大に父のコネで入学。試験なし。

卒論は、父のコネの大物のインタビューをまとめたもの。雅子さんが書いたかどうか不明。おそらくは代筆では??それでも優を取れなかった雅子さん。

東大

面接のみでの編入。ひとつも単位をとれず、ろくに授業も受けず、父のコネで職員の子弟枠をつかって外務省に入省。

外務省入省

父のコネで、子弟枠(今は廃止)をつかっての面接のみので入省。

省内では、仕事ができない人で有名だった。遅刻の常習犯。けじめがなく、小和田外務次官を「お父様」とよび、通勤手当をもらいながら車で通勤。通訳に呼ぶと、通訳が出来なくて泣く。できる仕事はコピーだけ。ついたあだ名がコピー番長。

当時、不倫をしていたのは省内でも有名な話らしい。すくなくとも、2人の不倫相手がいたらしい。

ひとりは、奥参事官。赴任先のイラクで「流れ弾にあったって」亡くなった方。しかし状況的に流れ弾がとんでくるなど、状況的に見てありえないという。

レベルの低いアメリカの公立高校の成績も、学力が低いクラスから抜け出せなかった雅子さん。

2015年のトンガ王国の戴冠式に参列した時は、通訳が付いてましたので、ハーバート大學どころか、付属の女子大も実力ではは無理でしょう。

オックスフォード大

外務省から国費留学させてもらうも、一人だけ学士がとれず帰国。

毎週洗濯物を抱えて、親がいるフランスへ渡ってたそうな。

この間、福田元首相の甥と恋愛関係にあり婚約まで発展。ほかにも付き合っていた彼氏がいたうえに、浩宮徳仁親王とはコルマールのホテルに同宿したことが確認されてます。「運命の出会い」とされているスペイン王女のパーティーでの出会いよりも数年前の話です。

もともと、「留学」の意味が解ってなかったのかもしれません。
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764


知られざる高円宮家の真実 狙われた皇室
 
高円宮憲仁親王とワールドメイト
ワールドメイトという団体。神道をベースにした新興宗教らしい。
規模は小さく、表立って大きな問題を起こした事はないがこの団体はかなりあやしい。この団体に所属すると霊体のおでこ?に菊のご紋が現れるらしい。神霊界の皇族?となるとのこと。(知人からの受け売り)とにかく、あやしい。

新興宗教を信じるのも所属するのも個々の自由。
その是非をここでとやかく言うつもりはない。
許せないのは、紀子様の悪口を言いふらしていること。

知人が洗脳されている。
得意げに「紀子が…」と呼び捨てにし、ののしっている目は逝っている。そしてしめくくりは雅子さまおかわいそう。最終しめくくりはF先生は明治天皇の生まれ変わり(だからF氏のいうことに間違いはないということらしい)??………

F氏は、雅子さんが流産された時に、紀子様の親族が稲荷信仰をしていて呪いをかけたと言ったという。紀子様が御懐妊された今、組織ぐるみで紀子様の悪口を言っている。

同じようなことはもっと巨大な某宗教団体でもやっている。しかももっと巧妙な手口で紀子様や秋篠宮家の悪口を広めているとの事。どう考えても、皇室という組織に順応し、祭祀を真摯にこなしているのは紀子様の方。その方がなぜ誹られなければならないのか。今の東宮夫妻はおかしな勢力に利用されやすそうな危うさがあり、その結果、皇室が破壊されるのではないかと心配。

F氏は故高円宮殿下の知り合い。
高円宮殿下は生前紀子さまの悪口を言っていた。

高円宮殿下は外務省の外郭団体勤務。
外務省と言えばあの父娘。そっちにつながるのか。
2006-07-07


紀子様の悪口や根拠のないうわさ話を撒き散らしている集団は他にも○○学会があるが あちらは、皇室を破壊したいという目的が見えているがワールドメイトの目的は…一体何なのだろう。


高円宮殿下と教祖深見氏の仕事関係のつながり。

高円宮殿下は、秋篠宮家創設によって公務に呼ばれる回数が激減したので紀子様を快く思っていなかったこと。高円宮殿下は、外務省とも接点があり、雅子擁護だということ。だから紀子様の悪口を言い続けていたし、いじめてもいたとのこと。その悪口に乗ったのが、権力にすりよりたい深見氏だったのでは…という話もある。

高円宮様が若くしてお亡くなりになったのは日本を守っている神様からの罰?今現在、親王様誕生について深見氏が会員にどのように言っているのかはわからないがおそらくよい受け止め方はしていないだろうと思う。

呪詛なんかしていなければいいけど。
でも呪詛したところで効果はないという気もする。
平成13年からおかわいそうなマサコサマのために豆木とやらでお祈りしているようだが マサコさんってこの頃からおかしくなりはじめたのではないだろうか(もともとおかしいという話もあるが)

このあと愛子さんは生まれたけれど、こんなことを言ってはなんだがワールドメイトの目論見通りの子ではないだろう。
2006-09-16

高円宮憲仁親王と久子妃


1984年4月23日 カナダ大使館のレセプションパーティーでカナダに留学経験のある憲仁親王と鳥取久子嬢が出逢う。同年5月6日 三笠宮殿下が鳥取久子嬢に「うちの憲仁をどう思うか?」とご質問、既に鳥取久子嬢の経歴と家系を調査済みでお妃候補に入っていたようだ。5月20日 憲仁親王が英語でプロポーズ「Will you marry me?」「Yes」。久子嬢の父は鳥取滋治郎(当時は東邦物産専務)、母二三子さんの祖母君・曾我晃子さんは元貴族議員・曾我祐邦子爵夫人、晃子さんの父君は鷹司熙通公爵。結婚後に高円宮家が創設された。

三笠宮崇仁親王が総裁を務めた第31回国際アジア・北アフリカ人文科学会議で、三笠宮の通訳・助手を務めたことがあり、そこから白羽の矢が立った模様。結婚前、旧姓の「鳥取」と「久子」のバランスが悪いため、仕事の際は「恒久子」という名前の名刺を使っていた。恒という文字が雅子妃の実父の小和田恒の名前と関係があるのかどうかは不明だが、久子妃は雅子妃の実母、小和田優美子とは旧知の間柄。当然、皇太子の結婚前から小和田家とも面識や交流があったと推測される。

憲仁親王は、1978年に学習院大学法学部卒業後、同年から1981年までカナダのクイーンズ大学に留学。帰国後は外務省の外郭団体である国際交流基金(現在は独立行政法人)で嘱託として働いていた。国際交流基金は完全に外務省のテリトリーであり、高円宮は国際交流基金を通じて外務省とつながっていた。当時、外務省の高官だった小和田恒にとっては、まさしく娘を皇太子妃として送り込むための千載一遇の好機が揃っていたわけである。


雅子妃入内の手引きをした高円宮憲仁親王

『美智子さまから雅子さまへ プリンセスへの道』河原敏明、ネスコ(1993年) p65-66より引用

入省して三週間目の四月二十五日に、雅子さまは高円宮邸に一人招かれる。高円宮ご夫妻と浩宮、雅子さまの四人だけだった。英国人カップルも招かれていたが、「都合で欠席」とされた。お二人は、高円宮夫妻とともに会食した。浩宮は、同年三月に訪問したネパール、ブータン、インドのアルバムを用意していた。写真は浩宮がご自分で撮ったものである。

・・中略・・

話ははずみ、たった四人のホームパーティは、数時間にもおよんだ。雅子さまがその日帰宅したのは、夜遅くなってからだった。

『サンデー毎日』1993/1/24号<愛を“予言”し、初めての出会いをセット・高円宮憲仁親王殿下 p25-26より引用


キューピッド説の根拠は、皇太子さまがネパールなど三ヶ国旅行から帰国後の一九八七年四月二十五日、高円宮ご夫妻がお二人を自邸に招き、ホームパーティーを開いたことにある。高円宮さまは、「殿下にご旅行の話を聞こうとお招きし、小和田さんは有望な女性外交官でもあり(注:まさにこの年、全く同じ月の1日付で小和田雅子が外務省に入省したばかりである)、話題も合うと思って、一度ご一緒の機会を作りました」と明かされる。

が、宮家関係者によると、ご夫妻が雅子さんを宮邸に招き、そこへ皇太子さまが訪問されるという形をとったが、実際は皇太子さまが一足早く着き、雅子さんを出迎えられ、雅子さんは驚いた様子だったという。


四人は夕食をともにし、食後、皇太子さまは数日前から用意、宮邸に持参された三ヶ国旅行や留学時のアルバムを見せて、思い出などを語られた。その際、皇太子さまは主に高円宮さまと話されたため、宮妃の久子さまが雅子さんの相手を務める形になったが、雅子さんが自分の将来や外交官としての抱負をハキハキと答えるのを見て、英国留学で現地の学生が自分の意見をはっきり主張している点に感銘を受けていた皇太子さまが、雅子さんに強い印象を持たれたという。

「実は久子さまが雅子さんの母親と旧知の間柄で、娘が女性外交官を目指しているのを知り、一度ぜひ、皇太子さまに紹介したいと思われていたようです」(宮家関係者)この日は話がはずみ、雅子さんが帰宅したのは午前一時を過ぎていたともいう。

だが、高円宮さまとお二人の関係は、実はもっと古くからだったのである。「お二人の出会いは八六年十月、東宮御所で開かれたスペインのエレナ王女歓迎パーティーですが、当時、東大の学生だった雅子さんを招いたのは、実は高円宮さまだったのです」 こう明かすのはある皇室関係者。

 ・・中略・・

高円宮さま自身、「小和田さんほど皇太子妃にピッタリの素敵な女性はいないんじゃないか」と度々、漏らされている。

雅子妃入内には、高円宮だけでなく、小和田、外務省(創価学会)、マスコミによる執拗な工作も行われた。


参考サイト

ドス子の事件簿 マコオタ画像集(雅子関係)
http://wiki.livedoor.jp/dosukono/d/%a5%de%a5%b3%a5%aa%a5%bf%b2%e8%c1%fc%bd%b8%a1%ca%b2%ed%bb%d2%b4%d8%b7%b8%a1%cb%a3%b1
http://wiki.livedoor.jp/dosukono/d/%a5%de%a5%b3%a5%aa%a5%bf%b2%e8%c1%fc%bd%b8%a1%ca%b2%ed%bb%d2%b4%d8%b7%b8%a1%cb%a3%b2


1992年8月16日には、皇太子と小和田雅子の5年ぶりの再会デートが、柳谷謙介・元外務次官宅で突然セッティングされるという奇妙な事態も起きる。雅子妃との結婚を反対していた昭和帝の崩御を待っていたかのようなタイミングだった。何かが動いていた。


小和田、高円宮、外務省、創価学会

参考サイト
http://kabanehosi.up.seesaa.net/image/takamado.txt


ある皇室記者

昭和帝の御意志や雅子妃の背後の事情を無視し、皇太子殿下と雅子妃の仲を、自宅を提供してまで取り持った高円宮殿下(故人)と、佳子さまをご出産された後の秋篠宮紀子妃殿下に、出産を控えるように圧力を掛けたとされる久子妃に対して、自分は全く敬意を払っていないし、好意的な考えも持っていない。

秋篠様を貶める記事に苦情を言っても「しかるべき筋からの話だから」と出版社が取り合わなかったそうだ。しかるべき筋=高円宮だと考えられる、とのこと

高円宮様は、秋篠宮様ご成婚時、自分たちがいるから彼らに公務の依頼は殆どないのじゃないか?と発言

秋篠宮様に仕事を獲られるのが怖くてあらぬ噂を流していたとも言われている。

新しく皇族に入った人に対する言葉ではない、一緒に皇室を支えて行こうというのではなくて「オレ様より目立つな、青年皇族はオレ様」的発言という解釈をした人も中にはいた。


(新聞記者証言)
秋篠宮ご一家の創作悪口を内外に言いふらし、媒体で嫌味な発言連発したのは高円様。高円宮様が皇太子を取り込んでから皇太子と秋篠宮家は疎遠になった。

なにより、雅子さま入内を推していたのは高円宮様。高円宮様が亡くなって皇太子夫妻がおかしいのが表面化したのを考えると、彼が皇太子サイドで相当動いていたんだろうと想像出来る。


皇室関係者

紀子様の都市伝説関係が浮上したのは雅子さんが結婚する1,2年前 流していたのは創価、外務省、高円宮さま

雅子さんの不出来を薄めるため、あるいは紀子様になすりつけるという目的があったといわれている。その後渋谷氏(のちに雅子妃の妹節子さんと結婚)を通じて医療関係者に噂を広げた。各地で医学部教授等が偽の噂を得意気に吹聴する姿が目撃されている。


故人と交流のあった人間

高円宮様は一見気さくそうに見えて 実は最も階級意識の強い人だったらしい。紀子様のご実家をバカにしきっていた。高円宮様は皇太子には媚びて 秋篠宮様のことは悪口言いまくっていた。


M氏
高円宮様はもともと外務省と関係の深い人。宮家といえど台所事情は楽じゃなかったから仕事もしていた。だから恒が取り込みやすかった。しょせん世間知らずの宮様なんて、海千山千にかかったらちょろいもの。

K氏
小和田恒氏と鳥取久子さん(高円宮久子)の噂は?高円宮様は国民と皇室の架け橋などと言っていたけど、基金集めでは色々黒い噂もあった。高円宮様がお亡くなりになってからは秋篠夫妻の誹謗中傷が止んだ。

H氏
あのお方が皇太子を応援していたのは「皇太子」だからでしょう。雅子さんとあのお方で秋篠夫妻の文句でも言っていたことも。

ある記者
承子さんの成人コメントでも紀子妃懐妊については無視だった。高円宮様が紀子様を貶める発言を広めていた。あることないことまで噂を言いふらしていた。高円宮様がお亡くなりになってから、あきらかに流れが変わった。(小和田家親族や学会がらみの擁護派からの古い捏造話の蒸し返し以外はなくなった)秋篠宮様ご成婚時の、特別報道番組内で「秋篠宮ご夫妻が担われるお仕事は、殆どないだろうと発言。…テープカットとか、シャンパン片手に乾杯とか、その手の公務そういう、華やかな場面の公務は自分達が請け負っているから、秋篠宮ご夫妻には、殆ど回らないと。蓋を開けたら、秋篠宮ご夫妻は大忙し→気に食わないという流れがあったことは確かです。


小和田雅子さんが皇太子妃候補として名前が出てくるきっかけを作ったのは、高円宮様。未来の天皇の皇太子夫妻にはおべっかつかって持ち上げていた。必要以上に庶民派ぶっていたが実はプライドは高く腹黒い面もあった。皇太子と雅子を結びつけたのは高円宮。それに優美子さんと久子様は知り合い。高円宮様亡きあと、久子様があの2人の相談相手に引き続きなっていても良いだろうに、全然でてこない。

森下洋子と高円宮様の対談番組を見たことがあるけど、なんというか、相手に対する物言いが、高飛車で傲慢。どことなく意地悪さを含んだ感じだった。高円宮様は、「皇居、赤坂御所には農薬や除草剤のせいで虫一匹いない」などと平然と嘘をつく人。高円宮様は、頭の構造がちょっとおかしい人みたいだが雅子さんのことは自分サイドの人間だと思っていた。外国通で、賢いデキル女だと。これを皇太子殿下にくっつけておけば、皇太子は安泰。雅子さんと同じサイドにいる自分も安泰。という発想。

率直に言うと秋篠宮殿下はたいした事ない男だと見くびっていた
成人していざ蓋を開けてみたら良い妻を娶り、祭祀も公務も研究にも熱心で両陛下の信頼もあつく、男性皇族として申し分ないお方になった。これらは両陛下をはじめ良識派の皇室の方々にとっては大変喜ばしく、一方で勝ち馬に乗った筈の人間にとっては大誤算で痛恨の出来事だった。


皇太子夫妻の結婚式当日、微妙な表情の各皇族方と一人得意げな高円宮。その視線の先は・・・


謎に満ちた高円宮憲仁親王の突然死

2002年5月末に夫妻で韓国を公式訪問し、日韓W杯の開会式に出席した。日本の皇族の韓国への公式訪問は戦後初だったが、同年11月21日、カナダ大使館にてスカッシュの練習を行っていた最中に心室細動による心不全で倒れた。

直ちに慶應義塾大学病院に搬送されるも、すでに心肺停止の状態だった。蘇生措置がとられ一時は心拍が確認されるも、夜半になって容態が悪化。久子妃の同意を得て人工心肺装置を取り外したところ、生命反応がなく死亡が確認された。 享年47歳。

あの国のあの法則なのか、事故なのか、天罰なのか、今となっては分からないが、皇族としてはあまりにも早すぎる死であった。


(コメント)

今回の記事を書いて、自分の中では雅子妃入内の陰謀の解明については一段落付いたように感じている。外務省の中には、大鳳会という400人以上の創価閥があり、外務省=大鳳会という場合も少なくない。

故・高円宮憲仁親王はその外務省と外郭団体を通じてつながっており、皇室の内部から様々な工作を行っていたようである。久子妃は小和田家とつながっており、高円宮家は雅子妃入内のために働いてもらうには打って付けの皇族だったのだろうと思う。

高円宮憲仁親王(以下高円宮)の逆恨みと利害の一致による協力も加わり、マスコミ、外務省(創価学会)、小和田家の工作と併せて、昭和帝の崩御後、雅子妃の入内がまんまと成功したのだろうと推測している。

生前の高円宮の暗躍ぶりには興味があるが、やったことが裏目に出てしまい、本人も早逝し、事ここに到っては悪名を残すばかりである。スポーツ振興に貢献した宮様として、ウィキペディアなどでは持ち上げられているが、少なくともこのブログで褒め称えることはまずないだろう。皇室に対する功罪を相殺すれば、あきらかに罪の方が多いように感じられるからである。


高円宮家の長女である承子女王は、成人を迎えた際の記者会見で、紀子さま御懐妊と紀宮様のご結婚について感想を求められて華麗に無視したが、家で秋篠宮家の根も葉もない悪口を吹き込まれていたので答える気にならなかったのだろう。要領の良い人間なら、もう少し思慮深い行動をすると思うが、ブログ騒動の件を見ても分かるように、母君の薫陶が良く行き届いていると言うべきだろうか。
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-746.html
http://blog-imgs-19-origin.fc2.com/o/o/y/ooyasimaneko/20090927085845fae.txt


2017.12.02
雅子様➄@皇太子妃雅子様と後藤組と創価学会の素敵な関係
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4805


続きです。

親王妃の学歴が低くても、ご本人の気質が真面目で素晴らしければいいのではないのか、と思われる方も多いかもしれませんが、祭祀王の家系たる皇室に嫁ぐ方は、皇室とその信仰に適応していただかなくてはならないと思います。それができないなら、最初から皇室に嫁がなければよく、嫁いだ後も適応できないのなら、離婚されて同じ信仰のかたと再婚されればいいだけの話。

今更ですが、小和田雅子は創価学会員です。

創価の三色旗が振られるパレード。君が代が排除された異様な皇太子の成婚式でした。


今更ですが、小和田雅子は池田大作の落胤と言われています。

ほかにも池田大作の落胤と言われている人もいます。あくまで噂ですが。

Will 2016年10月号
内外に蠢く皇室を潰したい勢力(河添恵子氏)

p232〜
国連大学本部ビル前で聞いた話

皇室典範に触れた質問が、初めて飛び出してから13年を経た今年3月、国連の女子差別撤廃委員会が日本に関してまとめた最終見解案に、「皇室典範の改正を求める勧告が盛り込まれた」と報じられたのは記憶に新しい。
日本側が抗議して削除を要請したことで、皇室典範に関する記述は消えたが、日本側に提示された最終見解案は、「委員会は既存の差別的な規定に関するこれまでの勧告に、対応がされていないことを遺憾に思う」と前置きし、「特に懸念を有している」として、「皇室典範に男系男子の皇族のみに皇位継承権が継承されるとの規定を有している」と挙げた。その上で、母方の系統に天皇を持つ女系の女子にも「皇位継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」と勧告した。

国連と関連づけたくなる、もう一つ別の理由もある。私の脳裏にこびりついて離れない話があるためだ。(中略)
創価学会の幹部A氏が、青山通りに面した国連大学本部ビルの前で上を指さしながら、私にこう語った。
「この最上階に雅子さまの執務室がある。裏側に専用エレベーターがあって、誰にも会うことなく部屋まで行かれる。雅子さまは毎日のように、こちらに通われている」
唐突なこの話に、私はおそらくこんな反応をした。
「え? 適応障害でご公務はお休みなのに・・・。毎日こちらで何をされているのでしょう? 確かに雅子さまは、国連大使までされたお父様をとても信頼されているようだけど」
(中略)
ただ、次の言葉にある種のショックを受けた。
「雅子さまの執務室を誰が用意したのか知っている? 池田大作先生だよ」
何か聞いてはいけないことを聞いてしまった、そんな気持ちが私の心を強く支配した。
以来、国連大学本部ビル周辺を通るたびに、この話を思い出すのだが、A氏が嘘を言う理由も考えられない上で、事実をこの目で確かめる術もなく、何より不用意に他言すべきではないと胸に収めていた。ただ、小和田家、東宮が国連や創価学会に近いことは、客観的な報道等からも徐々に知るようになっていく。
2008年6月、ブラジル連邦共和国のバラナ州で行われた日本人移住百周年を慶祝する記念式典に、皇太子さま、副大統領、州知事などの他、「式典委員会からの招聘を受けた池田SGI(創価学会インターナショナル)会長の名代として池田博正SGI副会長が出席したことが「聖教新聞」(同年7月1日号)に報じられている。
また、昨年3月には天皇、皇后両陛下が、国連防災世界会議で来日中の潘 基文(パンギムン)事務総長夫妻と仙台市内で会われたが、皇太子ご夫妻も総長夫妻と東宮御所で面談された。2007年から国連水と衛生に関する諮問委員会(UNSGAB)の名誉総裁となった皇太子さまは、昨年11月にニューヨーク国連大学本部に招かれ、基調講演を行っている。

※創価学会の新聞・聖教新聞。ブラジル訪問時、創価学会の大会に参加した皇太子徳仁。池田大作の息子が同列にならんでいるのがわかります。


異教徒どうしの結婚は認めないはず。皇太子徳仁は、創価学会に改宗している疑惑がありますね。

今更ですが、雅子は鳥居がくぐれない人。当然、祭祀は不可能。

天皇家は神道の祭祀王の家系ですが、天皇家に嫁いでおきながら、鳥居がくぐれません。

神武天皇陵参拝時の雅子。嫌悪感まるだし。

白人王族を前にした雅子

幸せいっぱい、歓喜にみちた雅子様のお顔

「、、、、、、、、、、、、、」


今更ですが、小和田雅子は北朝鮮系です。

三代前から家系が遡れません。北朝鮮の不法移民が新潟の朝鮮部落に住み着き、日本人に背乗りしたと思われます。

当時、朝鮮は日本領でしたから普通に行き来が出来ましたし、半島民にも戸籍が与えられていました。学校にも通えましたし、選挙権もありました。にもかかわらず、わざわざ、新潟までながれてきて日本人に背乗りするには、小和田家の先祖には、それなりの事情があったのではないのでしょうか。

※詳細はこちら

もちろん、雅子が朝鮮系であることは、南朝鮮人も知っています。愛子が生まれたときは大喜びで,ハワイの記念館に銅像を作りました。

今更ですが、小和田雅子とその夫は北朝鮮の将軍様の配下の工作員ではないのか

忠節と奉公の報酬に、朝鮮の犬珍島犬を下賜されました。

2に匹の犬は、大切に御所で飼われていました。

創価学会・池田大作会長は、朝鮮系であるといううわさが絶えない。

某掲示板のレス

1.朝鮮(東京都大田区大森北)出身
2.子供時代に父から朝鮮語を習った
3.父と母の氏名が不明確と言われている
4.成長とともに在日朝鮮人と多くであった
5.ところどころで朝鮮語風の発音をする。例えば、大臣をデージンと言う。
6.朝鮮人を擁護する発言が多い

以上

学会の上層部は、東大卒の在日もしくは朝鮮系が占めており、学会員を支配しているという。

こうした支配層の学会員は、出世にはばかるので、学会の名簿に名前が載らないそうです。小和田恒もその一人でしょう。


今更ですが、今は解散した後藤組は、創価学会の暴力装置でした。

世界的な映画監督を自殺に見せかけて殺害を実行したのは、この後藤組ではないかといわれています。

さらには、後藤組組長は、池田大作から、亀井静香元議員の殺害も依頼されたとか。

#114 2017/02/11 15:24

おまけ(笑)

877 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/11(土) 13:59:28.34 id:jSCd/Ep1
創価学会本部 発砲事件

暴力団「後藤組」と決裂した創価学会は、
後藤組を解散させるため公明党を利用して警視庁・県警に圧力を掛けたという。
その後、管轄内に「暴力団対策本部」が設置された。
組の事務所は捜索され、組員はマナー違反など微罪ともいえない理由で逮捕され不当な扱いを受けたとしている。
教団に裏切られたと判断した組員は、創価学会本部で発砲事件を起こし、
池田会長が入院している病院の先々でも組員が発砲事件を起こしたという。

組長は「池田は相当ビビっただろうな」と自身の著書で振り返った。
創価学会との抗争については、後藤組組長の著書「憚りながら」をお読みください。

今更ですが、雅子は後藤組と何らかのつながりがあった可能性があります

※皇室掲示板より

無題 Name 名無し 17/04/13(木)20:53 id:tjAzK1fQ No.1966533
ここから髪の毛をどんどん伸ばし始めたんだよね。

何があったのだろう。

オウムみたいで気味が悪かった。

… 無題 Name 名無し 17/04/14(金)10:22 id:B2HIUCzg No.1966955
そりゃああのアヘ顔写真が出たからでしょ。

無題 Name 名無し 15/05/17(日)20:01 id:xpeiLuZU No.1335226

>誰が流失させたの?

隠し撮りされたのだから、流出元は分からないかも?
雅子のお相手が自ら流出させるとも思えないし…。
国連大学に隠しカメラを仕掛けたヤツが犯人では?

無題 Name 名無し 15/05/17(日)21:28 ID:r.Oh9U8E No.1335346
こんな写真を入手できるのは普通の人間じゃないでしょうね。
解散させられた後藤組関係者じゃないの?
マイバッハ、国連大学、六本木夜遊び、一連の流れは悠仁親王誕生後から。
親王誕生で雅子ブチギレはある程度容認されたが、おかしな交際が度を越したんで後藤組解散まで行ったんじゃないの?

後藤忠政は雅子さんが出入りしていた六本木ヒルズに住んでたんだよね。
雅子さんが六本木ヒルズの会員制クラブに出没していたのは当時の御一行に書かれていた。

>529 :名無しさん@13周年:2013/04/07(日) 20:45:32.86 id:f1vvl+lj0
>雅子マイバッハに乗車  ←マイバッハ後藤組所有
>雅子六本木ヒルズ入り浸り←六本木ヒルズ地上げ+後藤組最上階居住
>東宮夫妻+小和田家煎餅疑惑 ←後藤組煎餅と癒着

… 無題 Name 名無し 15/05/17(日)21:42 ID:r.Oh9U8E No.1335410
>後藤組は山口組内の「武闘派」という半面、「経済ヤクザ」としても知られ、大きな資金力を背景に山口組内での発言力も大きかった。

これが突如解散。
よほどのことがあったとしか思えない。
皇室絡みなら納得。

… 無題 Name 名無し 15/05/17(日)21:47 ID:r.Oh9U8E No.1335437
2007年の週刊現代

>・六本木ヒルズ最上階の会員制クラブでも知人と一緒のところを目撃されている
「外出が「治療目的」と言われればそうかもしれないが、伝統的な皇室の姿とは乖離している。治療方針を国民にわかりやすく説明すべき」(皇室ジャーナリスト)

後藤組解散 2008年秋

… 無題 Name 名無し 15/05/17(日)21:47 ID:0UHg8zgc No.1335441
やっぱ相手は組長なんすか?
そんな疑念を持たれる皇太子妃とかないわ

(以上)


後藤組と雅子さまの疑惑

・後藤組という暴力団があったそうな。

・創価学会の暴力装置だったそうな。

・ある時期、創価学会・池田会長の落胤「皇太子妃」雅子はしきりに後藤組に関連する場所に出没していたそうな。

・さらには、後藤組の所有と思われるマイバッハに乗っていたそうな。

・後藤組の組長が創価の「なんらかの」弱みを握り、学会を恐喝したそうな。

・失敗したそうな。

・組長はカンボジアに逃亡し、組は解散したそうな。

・組長は、カンボジアで伯爵になったそうな。

2005年 愛知万博

2006年08月 皇太子一家オランダ静養

2006年10月

東宮夫妻、第58回正倉院展鑑賞(奈良国立博物館)、京都御所視察 (宮内庁HP)

髪の長さから見て、これが雅子だとしたら、2005年あたりでしょうか。

2008年10月、後藤組解散

後藤組組長。6代目山口組の除籍処分を受け入れて引退

雅子の男たち

雅子の元カレたちは、顔長い、眼鏡、大鼻、長身、戸籍上の父・小和田恒に似ている男ばかり。

後藤組長は、雅子の好みかな??

カンボジアで伯爵になった後藤元組長。低身長ではなさそう。眼鏡かけてますね。

雅子は、主治医の大野医師とも関係があったといわれてますね。

組長も一緒に並べてみましょ。

眼鏡かけているし、顔が長いし鼻も大きいし、違和感なし。どうしよう。

掲示板のコメントにもありましたが、これが国連大学の池田大作が用意した部屋で、相手が現役の暴力団組長だったら笑いますね。

そういえば、雅子の母方の祖父は、写真家のユージン・スミスや水俣の被害者さまたちをヤクザを使って暴行させた鬼畜でした。つまりは江頭は経営者に化けたヤクザだったということです。雅子と後藤はヤクザ同士なので、同種なので引き合ったのかも。

雅子様はご病気ではなく、ただ畜生化しているだけのはなし

人間を人間たらしめているもの、知性、理性、思いやり、向上心、努力、道徳、、、これらを放棄しながら、ただ欲望のままに生きてた雅子。

病んでいるという言葉は使いたくないわ。本当に病を得ている方に失礼だもの。

雅子は、人間を人間たらしめているものを放棄しながら生きた末に、動物化しただけ。それだけの話だと思う。

週刊文春2015年12月31・2016年1月7日号

近年、雅子さまの母・優美子さんはある皇室ジャーナリストにこう語ったという。
「親馬鹿だと思われるかもしれませんが、私は妃殿下が心配なのです。妃殿下はありのままの人なのだから、演技はできない。何かあると『小和田家か悪い』と言われるけれど……。
日本も皇室も変らなければ」

以上

大切なのは雅子ではなく皇室なのですが、、、

公私のケジメのなさ、泥棒癖、水俣病問題にみられる残忍性、、江頭家も、日本人ばなれしたところがめだちますね。母親の小和田優美子(旧姓江頭)の実家の江頭家に関しては、雅子の本家筋の芸人が「部落なんだ」とカミングアウトしているそうです。

が、日本の部落にルーツがあっても、やはり日本人は日本人としてのケジメやモラルを吸収しながら成長すると思います。

半島にも昔からの階級があり、個人もそれぞれ個性があり、善悪賢愚、いろんな方がいますので一概にいえませんが、もしかしたら、小和田家だけではなく、江頭家も「半島の最下層・犯罪層」からきた背乗り家系かもしれないと疑う余地があります。

皇太子のツマ、親王妃という究極の公人には、公私のケジメがなく、というかそれ以前に、「公」という観念がかけている人は相応しくないでしょう。
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4805



▲△▽▼

小和田雅子 取り巻く男たち(外務省時代の彼氏・・・・) 2013年05月16日
https://ameblo.jp/9023410651/entry-11523618963.html
 雅子は、白人・アラブ系の大使や来賓とは会っているのに、他人種の大使や
来賓とは会わない。(あきらかな人種差別的行為と言える)
昭和天皇妃の葬儀は欠席し、自分の母方の祖父の江頭豊の葬儀には、皇太子
に愛子ともども3日も参列した。
事実だけを連ねるだけで、その醜悪さが知れる。

 母方の祖父、江頭豊(えがしらゆたか)は、江頭安太郎の3男で、江頭家は
佐賀藩主鍋島家の下級藩士と伝えられているが、史料や系図が一切なく、
賤しい出自であると考えられる。(部落出身との噂がある)

 佐賀鍋島藩と言えば、藩校での成績で、家禄を減らすという歪な教育偏重を
行った藩として知られる。「佐賀んもんの通った後はペンペン草も生えん。」と
謂われ、平野しかないため、資源がなく、雑草1本でも拾って肥料にした。
出身者は独りよがりで意地汚く、潔くない、「鬼畜」と呼ばれる人材が多い。

 母方の祖父、江頭豊は、日本興業銀行から、水俣病を引き起こしたチッソに
専務として入った。社長時代、水俣病の原因が工場にあると知りながら稼働し
続け、患者や家族に謝罪はしても補償に応じず、悪質なデマを流し、患者や
家族を冒瀆し続けた。

会長時代の1972年1月7日、千葉県市原市のチッソ石油化学五井工場で、警備
員(暴力団員)ら約200人に、自主交渉派の被害者ら15人を集団で襲わせた。
「ライフ」誌などに水俣病の現実を発表し続け、「MINAMATA」を世界に知らせた
写真家、ユージン・スミス(53)と妻のアイリーン・美緒子・スミス(21)が同行して
いたが、この江頭豊の指示で暴力団にカメラを壊され脊椎を折られ、片目失明
の重症を負い、アイリーン・美緒子・スミスは強姦された。ユージン・スミスは
時間とエネルギーを写真に向けるため告訴せず、アイリーン・美緒子・スミスと
離婚後の1978年10月、アメリカで後遺症が元で発作を起こし死亡。

1999年、ユージン・スミスの娘も14歳で強姦されている。江頭豊は、その後も
相談役としてチッソに君臨した鬼畜である。

 こんな鬼畜・江頭豊の孫娘達の幸せそうな写真「小和田姉妹」と、ユージン
スミスが撮影した、15歳の胎児性水俣病の悲惨な「入浴する智子と母」(21歳で
死亡)を見比べて見るが良い。これだけでも、鬼畜の孫娘、雅子は幸せには
なってはならないと思う。

 江頭豊の地所(東京都目黒区南一丁目)に、雅子の実家はある。

父小和田恆(ひさし)は、実質入り婿である。

小和田家の血筋もかなり怪しい。

なりすまし朝鮮人疑惑の根拠に、父方の祖父、毅夫と父、恆は、村上
から新潟に墓を移した際、曽々祖父、曽々々祖父の墓も移さず、村上来訪
の際も墓参もしなかったと言われる出来事がある。小和田恆は、優美子とも
ども創価学会(大鳳会)との繋がりがある売国奴で、雅子も同様であるそうだ。
小和田恆は、収賄疑惑が多く、雅子を差し出さなければ、監獄に収監されて
いたのは間違いないそうだ。

売国奴とすれば当然かも知れないが、下劣醜悪極まりない。

さらば外務省!―私は小泉首相と売国官僚を許さないでは、

出張先で夜中「缶切りをもってこい。」と要求があり、持っていくと「その缶切り
を試したかい。」と質問があり「試してない。」と答えると、そのままドアを
閉めてしまった。

     さらば外務省!―私は小泉首相と売国官僚を
     許さないでは、 

 外務省を見限って課長を最後に退職したOBに、浅井基文と岡本行夫がいる。
しかしこの二人の生きざまはあまりのも好対照である。
 私の六年先輩にあたる浅井基文は、日米安保条約を聖域視する対米従属
外交に失望し、中国課長を最後に退職した。その後まもなく『日本外交』を
出版し、安保条約に全面的に依存する日本外交の危うさを訴えた。その浅井
を、外務省は組織をあげて潰しにかかった。直接、浅井から聞いた話だが
退職した当時の次官であった小和田恒は、「今後もし外務省に弓を引くよう
な真似をすれば、省をあげて潰しにかかる。」と、面と向かって引導を渡した
という。若い外務官僚たちもこれに迎合するように、「霞ヶ関に近づけば押し
返してやる。」と悪態をついたという。ろくに勉強もせず経験もない駆け出しの
若い官僚が、先輩に対しここまで品のない言動をとってしまうところに、外務省
の質の低下を感じる。

渡辺亮次郎のエッセイでは、
国際司法裁判所の判事とやらに選出されたからである。皇太子妃の実父
だから昔なら批判ご法度なのだが、最近の世相はだからと言って口さがない。
数年前、現職の小田判事を「任期途中で辞めさせてでも、」と、就任工作
(小田にとっては辞任工作である)をやらせたのはひどかった。」とか「あんな
顔していて、実にカネに汚い。」とか「公私混同がひどい。」とか「嫁入りに持た
すタンスをえらく値切られた。」という友人もいた。「そりゃお前、めでたいん
だから、お前んちのほうで値切って差し上げたんだろうからいいことをしたな。
とはなったが、ケチで鳴る小和田さんも他人の国際紛争ではけちはしない
だろう、で落ち着きかけた。皇室の親戚がケチで何が悪い。ところが「まだわ
からんぜ。」と付け加える仲間が言った。」何しろ誰も鈴を付けに来ないことを
いいことに国連大使に5年も居座って、まだ降りようとはしなかった。後任の
佐藤行雄が3年10ヶ月できちっと辞めて、もう東京にいるよ。そんなだから
小和田さん、判事の任期(7年)に果たして何期しがみつくか、興味
津々だね。」と、これは後輩外交官だった。結構、口が悪い。

 その娘、雅子、父恆、母優美子の第1子として、昭和38年12月9日誕生。
11歳下に礼子(父恆のコネで国連難民高等弁務官事務所職員)、節子という
2人の双子の妹がいる。父恆の赴任先モスクワとニューヨークで過ごし、7歳
で帰国。小学校4年からは東京・世田谷区の私立田園調布雙葉学園小学校に
編入。高校1年の1学期まで在籍。父恆がアメリカ公使の肩書で、ハーバード
大学客員教授を兼任。ボストン郊外のベルモント高校、ハーバード大学(私立)
に入った。アメリカの大学は、教員や有力者の子弟は無試験に近い状態で
入学できる。パパブッシュの出たエール大学に押し込んだ馬鹿ブッシュを思い
出せば良い。まして外国人。卒論も、糠沢和夫経団連理財部長と東京銀行の
真野調査部長、国際金融情報センターの榊原総務部長(いずれも当時)への
謝辞が綴られている。

よほど学歴にコンプレックスがあるのだろう、易しい帰国子女枠で東京大学
法学部(経済学部は不合格)に再入学している。在学中に外交官試験で
外務省に入省。小和田恆のコネの縁故採用だろう。国費(税金)で
オックスフォード大学大学院に留学し、修士号も取れずに帰国(税金の無駄
使い)しているので、脳味噌の程度がわかる。
世界遺産ともいえる皇室の伝統を破壊しているのも理解できてしまうのである。

小和田雅子をめぐる噂

 さらに皇室記者たちが「小和田雅子の可能性なし」と断定したのには、もっと
決定的な理由があった。
 それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。
妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、小和田雅子という
女性に は常に男性の噂がつきまとってきた。
 実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子サンの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”
といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。

「日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。
それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、あれはデマだ
ったという結論にいつしか落ち着いてしまった」
 しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、
告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、最低でも2回はハー
バード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが確認されていると
いうのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ−』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。デマだと
したら、どうしてあんな記事を載せたのか。その後の記事取消しもあまりに対
応が早すぎるし、不自然な点は多い」
 真偽はさておき、この「シカゴ−」紙の記事と同じようなハーバード大学留
学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。曰く「
白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。
 妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコ
ミに、やはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメ
リカから送りつけられている。

                
雅子の相手をした男

 長崎選手
 デビットカオ
 カルロス
 奥参事官
 外務省上司
 外務省同僚
 大野医師
 国連大学総長
 皇太子・・・・・・・2回 ?(愛子は人工授精)

 雅子は床上手?

宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、公にされ
ている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、とい
うような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方
もある。

「妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。
チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。時期的に見ても
小和田サンを
はずしたのは例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっている
のは確実です。一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長
時代のパイプを使って雅子サンのハーバード時代を徹底的に洗い直したと
いう話もある」

 いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学
に留学中の際には、イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフ
リーカメラマンがツーショットを撮影して、女性週刊誌に持ち込んだもののボ
ツになった、とのまことしやかな話も漏れ伝わっている。

 91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしてい
る、との噂がかけめぐった。この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する
北米二課のM課長補佐。

「たしかに小和田サンとMサンは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で
二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い
役所で すから、噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」
上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るな
ど、とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

その相手とは東大法学部から彼女と同期で外務省に入省している男性。もちろ
ん独身である。ここでは仮にT氏としておこう。
「T君のことは我々の間でも有名でしたよ。この何年かというもの、小和田サンの
側には常に彼の姿がありましたからね。かなり真面目なつきあいという印象でし
たし、我々が小和田サンの可能性が薄いと判断したのも、T君の存在が大きかっ
たため」(女性週刊誌記者)

 たしかに二人は東大時代からかなり親しくつきあっていたようだ。
小和田雅子は 外交官試験に合格したばかりの86年10月、裏磐梯へ
男5人女5人で一泊二日の グループ旅行に出かけているが、T氏もこれに
参加しているまた、妃候補としてマスコミに追いかけ回されていた入省直後の
頃、通勤電車の 中でT氏が彼女をかばうように隣りにいる姿も何度か
目撃されている。

 二人の親密さを裏づけるようにこの間、週刊誌等に掲載された彼女の
プライべー ト写真の中にも、隣にT氏がピッタリと寄り添っている写真が
何点か存在する。

 そして88年7月、彼女は外務省の在外研修でオックスフォード大学に留学
するの だが、実はT氏も彼女と同じオックスフォードを希望、一緒に渡英して
いるのである。

 ある外務省関係者は絶対オフレコを条件にこう話す。
「二人の仲が本格化したのはこのオックスフォード時代と聞いています。
ちょうど彼 女が『否定会見』を開いて、お妃候補からはずれたのもこの時期。
おそらくこの頃、 彼女はTクンとの結婚を真剣に考えていたと思いますよ」

・・・・・皇室に対する復讐か

https://ameblo.jp/9023410651/entry-11523618963.html


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それにしても雅子という女は凄い女です。

気に入った相手とは手当たり次第という感じです男性経験は20人は超えている
https://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/68610e019843f20695a65523fb7823aa


それにしても雅子という女は凄い女です。気に入った相手とは手当たり次第という感じです
白人か黒人かも噂に出ない人数を合わせれば男性経験は20人は超えていると思います。


2018年4月26日 木曜日

◆【雅子妃】男性遍歴B婚約直前まで行った福田元総理の孫;越智隆雄現自民党衆議院議員 2015年4月3日 伏見顕正の政経塾と四柱推命


皆さんお元気ですか?

また出来てきました雅子の昔の男(笑)たたけば埃の出る女ならず、【たたけば昔の男が出る女】です。

越智隆雄という男は、福田赳夫元総理の娘が大蔵官僚の越智道雄に嫁ぎできた子で、孫に当たります。

同じく福田赳夫の孫で、チノパンの夫となった横手真一と同じく、慶應の幼稚舎から慶應義塾大学の経済学部までというコースは全く同じです。

就職も横手真一は三菱銀行(のちゴールドマンサックス)越智隆雄は住友銀行(後父越智道雄の秘書)というのも似ています。

祖父の赳夫が小和田恒を可愛がっていたこともあり、幼少の頃から小和田家と越智家は家族ぐるみの付き合いをしていました。

小和田家と越智家は一緒にスキーに行ったり、雅子の母の小和田優美子が、着物に「福」の字を入れて、福田家に忠誠を誓うようなこともしていました。

その中で年の近い雅子と隆雄は次第に親しくなり、雅子が外務省に入ったころに結婚を視野に入れた真剣な交際を始めました。

特に雅子がイギリスのオクスフォード大学に留学中に、隆雄も「フランスのエセック大学に留学したいと言い出し、父親の道雄から「なんでフランスなんだ?」と聞かれて「好きな女がイギリスにいるから」と答えたそうです。

そして二人は、ドーバー海峡をお互い行ったり来たりして逢瀬を楽しみます。

わざわざ、イギリスから海峡を渡って隆雄に会いに来て、「お茶と食事がすんだらさようなら〜」なんてことは常識的に考えて無いでしょう。お互い愛を確認しあったことは想像に難くありません。

しかし、気になるのはこの英国留学中の雅子の男関係です。

オクスフォードに一緒に留学したT氏と深い関係に落ちていました。

また白人男性との交際もありました。

少なくても三股はかけていたことになりますね(驚)

凄い女です。性欲が強いのはよくわかりますが、三人の男とのスケジュール管理もしっかりダブルブッキングしないようにやっていたのでしょう。

一人とSEXしているときに他の二人にばれないように完璧にやっていたんですね。

確かにこの時期男同士がかち合ってトラブルという話は聞きませんでした。

こういう能力はあるんですね(笑)

こんな雅子でも越智隆雄は真剣に愛していました。

二人とも帰国後に、越智家の方から、プロポーズしたのですが、小和田家は断っています。この辺の事情は、雅子入内後に、落ちとの関係を週刊文春や写真誌が掲載してたたいていました。

なぜなら、ハーバート→東大→外務省という箔付けが完了した今、一度断られた皇太子妃に名乗りを上げる環境が出来上がっていたからです。

皇室に食い込み権力と権勢欲を握りたい小和田恒がそのチャンスを逃すわけはありません。

また1988年当時に大勢いたお妃候補も、皇太子のちびで不細工な容貌で、早々と他の男と婚約したり、結婚したりして逃げ、残っていた候補も、ここが重要なところですが、創価学会が一人ずつスキャンダルを捏造し、辞退に追い込んでいました。

最終時点で残っていたのは、雅子と久邇(くに)晃子さんとタレントで皇太子のアイドルだった柏原好恵の三人でした。

柏原は早々に逃げるために「ヌード写真集」などを出して、自分が候補から抜けるように工作しました。

最後は雅子と久邇(くに)さんでした。

宮内庁は久邇(くに)さんを押していましたが、そこに皇族の小和田のトロイの木馬の高円宮夫妻が出てきて、自宅で皇太子と雅子を合わせたり、外務省の小和田の後輩の柳谷謙介が自宅を提供して二人を合わせたりして、水面下の工作をやり、女性経験のない皇太子は雅子にころっとつかまってしまいました。

久邇(くに)さんの方も着物まで準備して、待っていたところに、皇太子側が勝手に雅子内定記者会見を開いて、宮内庁と両殿下を出し抜きました。

小和田―高円宮―創価学会―外務省の連携工作にしてやられた【朝鮮女雅子入内事件】です。

それにしても雅子という女は凄い女です。気に入った相手とは手当たり次第という感じです

今も白人国家の元首があいさつに来たら出迎えに出ますが、黒人国家の元首が来たら絶対に出てきません。アメリカ時代に、黒人の子供を堕胎した経験がトラウマになっていて、出てこれないそうです。

名前が出た男だけでかなりの人数がいますから名前やイニシャル、白人か黒人かも噂に出ない人数を合わせれば男性経験は20人は超えていると思います。

雅子は、祖父から水俣病患者の怨念父から創価学会関係の邪気を受け継いで皇室に入りました。逆に言うと婚約を破棄された越智隆雄は変な悪霊を持ち込まれずラッキーだったかもしれません。

それでは越智隆雄の命式を見てみましょう。


(私のコメント)

たまたま「雅子妃 男性遍歴」でググると多くの記事が出てきます。皇室を侮辱するようなすざましい記事なのですが、名誉毀損で消されることもなくネットで読むことができます。本当の話かどうかは私にはわかりませんが、このようなことはマスコミで報道されることはないようだ。

最近では、眞子さまの相手の小室圭氏との話題がありましたが、小室氏にもいろいろと良からぬ噂話があるようで、成り行きが注目されます。皇太子と雅子妃が結婚されたのは1993年であり、インターネットは普及しておらず、情報はマスコミがほとんどコントロールしていた。だから雅子妃の男性遍歴が広まる事はなかったようだ。

「株式日記」でも雅子妃のことは何度か書きましたが、外務省と創価学会関係に関してであり、男関係のことはまだ知らなかった。ネットでこのような事が書かれても名誉毀損で消されないのは、明らかな事実もあるからであり、越智隆雄現自民党衆議院議員との仲は公然の事実だったようだ。

記事にもあるように、「その中で年の近い雅子と隆雄は次第に親しくなり、雅子が外務省に入ったころに結婚を視野に入れた真剣な交際を始めました。」という事ですが、しかし、「二人とも帰国後に、越智家の方から、プロポーズしたのですが、小和田家は断っています。」という事です。

相手としては、今は国会議員をしている福田元総理の孫なのだから相手に不足はないはずだ。つまり小和田家としては最初から皇太子の嫁の座を狙っていたわけだ。そして、「ハーバート→東大→外務省という箔付けが完了した今、一度断られた皇太子妃に名乗りを上げる環境が出来上がっていたからです。」ということで小和田恒の野望はかなった。

私は当時はテレビで報じる程度のことしか知らなかったが、ネット化社会になって雅子妃や小和田恒の良からぬ噂を「株式日記」で何度か書くようになった。気の毒なのは皇太子であり、20人もの男性遍歴のある雅子にしてみれば皇太子を手玉に取ることは簡単だっただろう。

記事では、「残っていた候補も、ここが重要なところですが、創価学会が一人ずつスキャンダルを捏造し、辞退に追い込んでいました。」とありますが、スキャンダルの巣窟とも言える雅子が残り、多くの他の候補が創価学会にスキャンダルを捏造されたとありますが、本当なのだろうか。

皇太子妃ともなれば、マスコミの注目の的となりますが、テレビでは一切このような事が報道されなかったのは、やはり創価学会の影響があるのだろうか。雅子妃は結婚後はひきこもり状態となり公務ができない状況ですが、やはり後ろめたい過去があるからだろうか。皇太子はこの事をどこまで知っているのだろうか。

皇室に雅子妃が入ったことで、天皇家は亀裂が入って影が差しているような感じですが、皇太子が女を見る目がなかったことが原因なのだろう。「宮内庁は久邇(くに)さんを押していましたが、」とありますが、そのほうがよかったように思える。顔つきからして皇太子と合いそうの思える。

一番悪いのは小和田恒であり、強引に雅子を皇室に送り込むことに成功した。それができたのも創価学会などのバックがあったからでしょうが、皇太子が天皇に即位した後の日本はどうなるのだろうか。雅子皇后が本性を表してくるかもしれない。
https://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/68610e019843f20695a65523fb7823aa

▲△▽▼

2018-04-23
皇太子殿下と雅子さま ご成婚の裏にあったもの
https://inbouron-toshidensetsu.hatenablog.com/entry/2018/04/23/080000

平成の世もあと一年余りになった。

来年4月30日をもって天皇皇后両陛下は、皇太子ご夫妻に天皇の地位を譲位され、上皇陛下、上皇后陛下となられる。

新しい時代が始まるわけだが、今の若い方々は、次期天皇皇后陛下となられる皇太子ご夫妻のことを、どれくらいご存知だろうか。

昭和の時代は、皇室の話題はごく普通にそして頻繁にテレビなどで取り上げられ、今の天皇陛下が皇太子殿下時代は、家族全員でのお写真も動画も頻繁に撮られ、お茶の間に流れていた。皇太子殿下、秋篠宮殿下、今は降嫁された黒田清子さんの学校行事や卒業式での様子、夏休みをお過ごしになるご一家の自然なご様子なども、しっかり写真や映像として納められ、実にオープンに披露されていた。そのため国民皆、当時の皇太子ご一家を「ふつうの家庭と変わらないご家族」という親しみを感じていた。当時は皇室に妃殿下も多くおられたので、ロイヤルファッションチェックの番組や週刊誌報道もとても多かった。

そんな華やかでオープンな皇室報道は、今はすっかりなくなってしまった。原因はおそらく、長い療養生活を送られる雅子さまを慮ってのことだと思われる。

皇室との縁組を熱望していた小和田家

平成の時代がもうすぐ終わるいま現在でも、ごく一般に言われていること。

『雅子さまは、皇太子殿下の熱烈なプロポーズに折れる形で、外務省でのキャリアを泣く泣くお捨てになった。しかし皇室は、雅子さまの高い能力や国際感覚を十分に発揮するにはあまりに旧態依然としたところで、外国育ちのキャリアウーマンであった雅子さまは適応障害を起こされた』

この流布は、ほぼ、真っ赤な嘘である。

雅子さまは、泣く泣く外務省でのスーパーキャリアを捨てて、皇室に嫁がれたのではない。外務省と当時外務省次官だった父、小和田恒氏を中心とした人々の猛烈な後押しによって、皇室に嫁いだのである。

1993年当時、皇太子婚約についての報道は、国内では報道協定が結ばれていた。しかし、その協定外にあったアメリカ合衆国の新聞『ワシントンポスト』が、同年1月6日に、日本の皇太子御婚約をスクープした。

このスクープを流したのは、ワシントンポストの日本人記者・東郷茂彦氏である。東郷茂彦の祖父・東郷茂徳は、太平洋戦争開戦時及び終戦時外務大臣、父・東郷文彦は戦後、外務省事務次官と駐米大使を務めている。茂彦の双子の弟・東郷和彦も、元駐オランダ大使・外務省欧亜局長などを務める外交官だった。

雅子さまと皇太子殿下と婚約の報道は、当時の外務省を中心とした関係者が熱烈にその縁組を望み、全力でサポートし、見切り発車的にスクープを飛ばしたものなのである。

ワシントンポストのスクープを受けて、同日夕、日本の報道機関もなし崩し的に、皇太子妃内定の速報を一斉に流した。

1月6日に皇太子妃内定の速報が出ても、当事者であるはずの宮内庁は数日間、完全に沈黙していた。宮内庁はおそらく、婚約スクープに関して完全に蚊帳の外に置かれていて、この騒動をどう収拾させるか苦悶していたと思われる…。


外務省とマスコミが作り上げたお妃候補 小和田雅子さん

時代がまだ昭和だった頃、1960年生まれの浩宮徳仁親王殿下の結婚は、いつも注目の話題だった。そんな中、1980年後半頃から、外交官の娘、ハーバード大学卒の才媛、小和田雅子さんの名前がまるで何かのキャンペーンのように、たびたびマスコミで喧伝されていた。東京大学在学中に外交官試験に合格したというニュースは、NHKや新聞でもとても大きく取り上げられた。

当時は海外留学、帰国子女、バイリンガル、キャリアウーマンなどとという言葉が大ブームで、雅子さんはそのすべてを持ち合わせている女性として、マスコミに盛んに取り立てられていたのである。

皇太子殿下と雅子さまは、1986年10月のスペイン・エレナ王女のレセプションで、初めて運命的な出会いをしたと言われている。しかし本当はそのずっと以前より、お二人はかなり親密な知り合いだったのではないかと、まことしやかに言われている。

1984年、浩宮徳仁殿下と小和田雅子さんは、欧州・ドイツ国境に近いフランス・アルザス領コルマールという都市を、お忍びで旅行に行ったという話がある。お二人がその時、意気投合したのか、それともそのまま交際は自然消滅したのかは分からない。

しかし、運命の出会いとされる1986年10月のスペイン・エレナ王女のレセプション開催直前には、徳仁親王殿下本人の記事が掲載された写真週刊誌「FOCUS」10/17号に、まるで狙い定めたように、『父娘2代の外交官誕生!』と、雅子さんのグラビアがデカデカとねじ込んであったことを見ると、小和田家とその周辺の人々が引き続き必死になって、雅子さんを殿下に売り込んでいたことが分かる。

エレナ王女のレセプション当日には、出席者名簿に手書きで、小和田雅子さんの名前が急遽書き加えられた。      

小和田家、外務省、マスコミ、+αの人たちにとって、宮内庁が選ぶ良家出身のお妃候補には決して加えられない小和田雅子さんという女性が、とても重要な人物だったのは間違いないのだ。

昭和天皇は反対対されていた

当時まだご存命だった昭和天皇は、徳仁親王殿下と小和田雅子さんとの縁組は反対されていたと伝えられている。また当時の宮内庁が、小和田家の家系や雅子さんの異性関係を調査し、雅子さんとの縁組は断念するよう浩宮徳仁親王を説得したと言われている。

しかし、昭和天皇は1989年1月にご崩御。時代は昭和から平成に変わり、皇太子となった徳仁親王殿下の周辺がようやく落ち着いて来た頃に、小和田家とその周りの人々は、まだ独身だった皇太子殿下に、また猛烈なアタックを仕掛けてくるのである。

時にはご両親である天皇皇后両陛下や、宮内庁職員の目を欺いてまで、雅子さんとの密会の機会を作ったりしていたようである。

一度は破談になった雅子さん本人は、一時他の男性との結婚を考えていたとも言われているが、父親の小和田恒氏が、娘を皇太子妃にするという野望を、決してあきらめることはなかった。そして雅子さんも、結局は父親がひいたレール以外は歩いたことのないひとである。結婚も、親の言う通りの道を進んだのであった。


雅子さまの背景にあるもの

1月6日のスクープから約2週間後の1月19日、皇室会議が開かれ、雅子さまは皇太子殿下の婚約者として内定した。この時、全会一致ではなく、昭和天皇の弟、三笠宮崇仁親王殿下は婚約反対の意思を出されたとされている。

そして6月9日、お二人は晴れて夫婦となられた。皇族の結婚式が行われる賢所での、十二単に身を包んだ雅子さまは、非常に険しい表情をされていたが、白のローブデコルテに着替えられると、明らかに幸せいっぱい、喜色満面の笑みを浮かべられていた。皇太子殿下の方が、これからの苦難の日々を何となく予感されてのことなのか、どこか神妙なお顔をされる場面が多かった。

1993年の世紀のロイヤルウエディングがあった当時は宮沢内閣、河野洋平氏が内閣官房長官、そして、外務省次官が皇太子妃の父となった小和田恒氏だった。

ロイヤルウエディングより2か月後の同年8月、その後、長期にわたって日本を苦悩させ、日韓関係を狂わせるあの「河野談話」が発表されるのである。

当時、新聞社は既に斜陽産業だったが、朝日新聞などの左派メディアの勢いはまだまだすさまじかった。マスコミの号令で時の政権を操作することは十分可能な時代であった。

いまから25年前、様々な人々の思惑を背負って皇室に嫁がれた雅子さま。来年の新天皇御即位を控え、今年の6月9日には皇太子殿下と銀婚式を迎えられる。
https://inbouron-toshidensetsu.hatenablog.com/entry/2018/04/23/080000


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反日「部落の輪」か 雅子さま入内 2015/12/9
https://blogs.yahoo.co.jp/wood72046/36951533.html

BBの覚醒記録さんより転載します。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/d6f72bd3542021db465fc1ee0e2edb80

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2017.12.05
雅子様A@家系(1)部落解放同盟との関係
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4260
結論からいうと、

父方・小和田家=隠れ朝鮮人の背乗り家系

母方・江頭家=旧被差別民の家系

のようです。

徳仁皇太子と小和田雅子さんに決定の一報から、マスコミから発せられる「小和田雅子」さん像は、

@父は東大卒の外交官、二人の妹も名門校を卒業した。

A高学歴の一族で、本人はハーバート大、東大、オックスフォード大学を出た才媛。

B本人は才色兼備のバリバリのキャリアウーマンで、将来の女性大使候補だった。

C英語、フランス語、ロシア語に堪能。

➄父方は、新潟の村上藩士の家系で、母方は海軍で成功した人が多い。

E皇太子とのなれそめは、スペインの王女が来日時のパーティーで。皇太子の一目ぼれ。

F日本で一番優秀な女性。

これ、@以外は皆、ウソだったんですね。

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まず、家系ですが、皇太子妃に内定した「小和田雅子」に関する家計調査について、部落解放同盟が「差別を増長させる」という理由で、抗議していました。何故でしょうか。それは、雅子さんの家系を正確にさかのぼると、旧被差別民につながるからでしょう。

転載させていただいてます。


部落解放同盟が、小和田雅子さんへの家計調査に対して抗議

東京読売新聞朝刊

1993年1月9日

1ページ
「確かに五年前、小和田さんの調査をしました」
皇室関係一筋の老調査員が都内の事務所で重い口を開いた。
宮内庁から直接、調査依頼を受けたのは東京・丸の内に事務所を構える大手興信所。
(略)小和田雅子さん(29)に関する分厚い調査報告書は、作成にまる一か月かかった。
直系は四代前までさかのぼり、大祖父、祖父の兄弟姉妹まで徹底的に調べた
両親については交友関係、勤務先、近所の評判も。肝心の本人は、さらに詳細をきわめた。
経歴、性格、趣味、素行、健康状態……。

結論は「優秀な家系に驚いたのを覚えています。もちろんご本人も申し分ありません
でした」。このベテラン調査員が手掛けたお妃候補は、実は雅子さんだけではない。
この五年間で十人以上にのぼる。雅子さんの調査書はその中でひときわ鮮明に記憶に残っているという。


部落解放同盟中央本部よりマスコミへ

皇室報道に対する抗議と申し入れ

1993年2月18日

「皇太子妃内定」いらいの皇室報道について、
部落解放同盟中央本部は、マスコミ・報道各社に、2月18日、抗議し申し入れた。

————————————————–

日頃よりの、マスコミ・報道関係者各位の人権尊重、差別撤廃のための取り組みに敬意を表します。
さて、私たち部落解放同盟は、部落差別はもとより、あらゆる差別を撤廃するために、
「部落解放基本法」制定をはじめ、「国際人権規約」「人種差別撤廃条約」の早期批准、世界人権宣言の具体化や、「国際先住民年」など、国内外において、さまざまな取り組みをすすめてきました。

しかしながらこうした平和と人権を守る取り組みの拡がりにもかかわらず、今日においてもなお、結婚差別によって、自らの命を絶つという悲惨な差別事件を起きています。
また行政書士や社会保険労務士などによる戸籍謄本等不正入手横流し事件のほか、パソコン通信を利用して、「部落地名総鑑」の一部や、差別文書を大量に送りつけるなど、いまだに差別事件が続発し、悪質な差別調査ともいえる身元調査がおこなわれていることが明らかになっています。

この間、私たち部落解放同盟は、大きな社会問題ともなった「部落地名総鑑」差別事件をはじめ、こうした悪質な身元調査による人権侵害の問題を取り上げ、戸籍閲覧制限や身元調査おことわり運動などに取り組み、大阪においては、興信所や探偵社の差別調査を法的に規制する、部落差別調査等規制等条例が制定されるなどの成果をあげています。

しかしながら、本年1月6日の「皇太子妃内定」の報道いらい、こうした差別撤廃、人権確立の立場から看過できない内容の報道が繰り返されています。

とくに、小和田家の家族の掲載や「家柄」賛美などの過熱ともいえる報道内容、さらには、「皇太子妃を選ぶにあたっては、皇室専門の興信所員が
4代前まで徹底調査などと、公然と身元調査が行われていることが報じられています。
こうした報道内容は、人権尊重というマスコミ、報道本来の使命に反するものであるばかりでなく、差別を助長するものであり、強く抗議するものであります。

私たち部落解放同盟は、昨年、全国水平社創立70周年を迎え、これまで取り組んできた国内外の反差別共同闘争を大きく発展させるとともに、「貴族あれば、賤族あり」として、生涯、部落差別撤廃と人間解放に取り組んできた、故・松本治一郎元委員長の取り組みに学び、差別なき社会の実現にむけて戦いをすすめていくことを誓い合いました。

いうまでもなく、私たちは、こうした人権確立の取り組みをすすめるにあたって

マスコミ・報道関係者各位の果たされる役割に、大きな期待を寄せるものでありますが、今回の一連の皇室報道の内容は、差別撤廃、人権尊重の姿勢に逆行するものであることを指摘せざるを得ません。

私たち部落解放同盟は、マスコミ・報道関係者各位が、今後の皇室報道において、
差別を助長する、これまでの過剰な報道を改め、差別撤廃と人権尊重の立場を明確にして報道に取り組んでいただくように、強く要望します。
(解放新聞 93.3.8)

以上


部落解放運動と「同和」行政の動き
解放同盟、抗議文書「皇太子妃報道差別助長する

1993.2.18

部落解放同盟中央本部(上杉佐一郎委員長は)は「一連の皇太子報道は人権尊重という報道の使命に反し、差別を助長する」との18日付の抗議・申し入れ文書を全国の新聞、通信、テレビ各社に送った。
近く雑誌出版社にも申し入れるという。

文書は「解放同盟は部落差別撤廃に向け、戸籍閲覧制度や身元調査おことわり運動に取り組んできた。
その中で、家系図が掲載され家柄を賛美する報道が繰り返され、
公然と身元調査が行われている事が報じられている」と指摘。
過剰報道を改め、人権尊重の立場を明確にするよう、要望している。
(朝日 93.2.25)


皇太子妃決定にかかわる身元調査等の差別助長行為に対する抗議と申し入れ
1993.3.16

(抜粋)
本年一月六日の「皇太子妃内定」の報道いらい、こうした差別撤廃、人権確立をすすめる立場から看過できない内容の報道がなされています。小和田雅子さんの「家系図」の掲載や「家柄」賛美などの過剰ともいえる報道内容、そして「皇太子妃を選ぶにあたっては、皇室専門の興信所員が四代前まで徹底調査」などと、宮内庁自らが公然と身元調査を指示していたことが報道されています。

いうまでもなく、すべての国民は法の下に平等であり(憲法第一四条)、婚姻は両性の
合意のみに基いて成立する(憲法第二四条)ものです。

したがって、私たちは、こうした宮内庁の身元調査の指示というものが、差別を助長・拡大させるものであるばかりでなく、憲法違反という重大な問題であると考え(略)強く抗議するものです。

転載以上


東京読売新聞朝刊

1993年3月20日

部落解放同盟(上杉佐一郎委員長)は十九日までに、「皇太子妃決定に際し、身元調査が行われたことは結婚差別を助長する」として、皇室会議のメンバーである宮沢首相や衆参両院の議長、最高裁長官の三権の長と宮内庁長官あてに抗議文書を送った。


1993年04月21日
第126回国会 大蔵委員会 第10号

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/126/0140/12604210140010a.html
上田(卓)委員 ぜひとも前向きに検討していただきたい、このように思います。
次に、皇太子の結婚にかかわって身元調査のことが新聞などで今までにいろいろ報道されておるわけです。

(略)

結婚や就職の際の身元調査や家系調査は差別につながるということで、我々は法務省や労働省あるいは地方自治体、民間企業、宗教界の皆さんとともに身元調査お断り運動というのですか、全国的に展開しておるわけでありまして、大阪などでは部落差別を目的とした興信所や探偵社による身元調査を規制する条例もできておるわけであります。

ところが、先ほど申し上げましたように、一月六日の皇太子妃内定以来、新聞、雑誌、テレビなどでは江戸時代にまでさかのぼる小和田家の家系図を掲載して、家柄や家族などについて過剰な報道をしておるわけでありまして、皇太子妃を選ぶに当たっては皇室専門の興信所員が四代前まで徹底調査、こういうような報道もあるわけでございまして、宮内庁みずからがそういう民間調査機関に指示して調査しておったのかどうか、その点についてお聞かせをいただきたい、このように思うわけであります。

その前に、法務省と労働省の方がお見えでございますが、一般的な身元調査についてどういう見解を持っているのかお答えいただきたい、このように思います。

『部落解放』1993年6月号
「皇太子妃決定に関わる身元調査等の差別助長行為にたいする抗議と申し入れ」記事
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4260


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2017.12.05
雅子様A@家系(2)母方・江頭家は高祖父、父方・小和田家は曾祖父までしか遡れない
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4296


続きです。

父方・小和田家

河原敏明著(平成5年4月)
小和田家の系譜

ここで小和田家の戸籍系統図をみよう。本家は小和田岩夫氏といい、現在東京都下の小平市に住んでいる。
岩夫氏の5代前の群蔵から分かれた兵五郎が、雅子さんの直接先祖になる。
つまり 兵五郎―道蔵(匡利)―金吉―毅夫―恒―雅子の流れである。

その祖先が眠るという西真寺(さいしんじ)を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺で、元和4年以来、ここで370年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田家の墓について、毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した、という話をしてくれた。

ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけで(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。

高さが70cm、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。

ふつう移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」と住職夫妻も不審気だった。


昭和61年11月、恒氏が外務省官房長のとき、恒、毅夫の両氏夫妻が村上市にきたが、そのときも祖父、曽祖父が眠っているにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた。
そこで小和田毅夫氏が村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと住職の広沢誠師が、
「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。匡利(道蔵)の墓だけがあります。外務省の小和田家にとって初代に当たる兵五郎の墓は寺にはありません。
私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かりませんが。三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」

と西真寺の住職の話とはだいぶ食い違いがある。
しかも泉性寺が明治十三年の大火で類焼しているので資料が乏しいという。
昭和五十五年に毅夫氏が、この泉性寺にある墓の台座だけを、よりよいものに直している。
先の61年11月に新潟を訪ねた恒氏は夫人、両親とここの寺には墓参のため立ち寄っている。

以上

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母方 江頭家

江藤淳『一族再会』
祖父
木原村

肥前国佐賀郡北川副村木原は、現在の佐賀市大字木原で、国鉄佐賀線の南佐賀駅にほど近い農村地帯である。
明治四十三年ごろ、祖父に連れられてはじめて佐賀に行った父は、市中に田圃があるのにおどろいたのを今でも印象にとどめている。
そのとき祖父は、小学生だった父にむかって、
「おれの生まれた家はこの田圃のはるか向うのほうだった」といったという。

つまりそれが木原である。
それから三年後に祖父は死んだ。

父の記憶にないところをみると、祖父はこの佐賀滞在を利用して生家のあった木原を訪ねようとはしなかったらしい。
それが何故であったかは私にもよくわからない。当時木原にはすでに近親の残存者は皆無で、裁判官になっていた祖父の兄も遠く東北の任地にあった。

しかし海軍少将で佐世保鎮守府参謀長の職に在った祖父が、久しぶりの帰郷にあえて生家の跡をおとずれようとしなかったのは、やはり彼に故郷に対する根強い嫌悪感があったからではないかと思われる。
彼はおそらく「錦を飾る」などというにはほど遠い心境だったのである。

以上


母方・江頭家は高祖父、父方・小和田家は曾祖父までしか遡れない


高原氏
小和田雅子さんの母方・江頭家は高祖父の江頭嘉蔵までは遡れます。
父方の小和田家は、曽祖父の小和田金吉までしか系譜は分かっていません。
3代前までしか遡れない小和田家の4代前を、その調査員の方はどうやって調査したのでしょうか?
また、4代前まで遡って調査したはずなのに、マスコミに公表された家系図の小和田金吉には職業や経歴は一切記されていないし、金吉以前の系図が記されていないのは何故ですか?


消えたお妃候補たち 指摘されたいくつかの問題点

小田桐誠

宮内庁は小和田について弁護士や興信所を通じ、直系三代に汚点がないか、両親の評判、本人の健康状態などを徹底的に調べ、独自にチェックしたといわれる。その結果は首相官邸にも報告されていたという。報告にはいくつかの問題点が指摘されていた。

一つは八七(昭和六十二)年暮れから八八(昭和六十三)年初めに発売された一部週刊誌が指摘していたように、小和田雅子の母方の祖父・江頭豊が、日本興業銀行の銀行マンから転じたとはいえ、代表的な公害企業・チッソの社長や会長を務めていたこと。

「お妃とともに全国を回らなければならぬ立場にある浩宮さまの訪問先で、水俣病の患者のムシロ旗が立つようなことがあっては」と宮内庁幹部は懸念したのである。

(中略)

母方の親戚に江口朴郎東大名誉教授(故人)のような左翼系の学者がいることをマイナス要因にあげる者もいたという。

(中略)

ただハーバード時代にボーイフレンドがいたことも一つのネックになっているのでは、とみるマスコミ関係者もいた。

小和田雅子の母方の祖父に難点ありとして、富田宮内庁長官は浩宮に
「(小和田さんには)こういう問題が付随しますからね」と伝えた。
「難しいですか」
「はい」
「ああ、そう。それなら仕方ないですね」
二人の間でこのようなやりとりがあったといわれる。

当時のことを富田は『週刊朝日』(九三年一月二十二日号)でこう答えている。

「私が(小和田さんに)反対したことはありません。ただ、当時は、いわゆる『チッソ問題』の被害者の方がまだ大勢おられました。加えて、批判勢力というか、社会運動派の人たちが(チッソの)東京本社に、押し掛けたりもしていた。そういう状況でしたから、もう少し様子をながめたほうがいいのではないかと、そう殿下に申し上げた。殿下はそれを『わかった』といわれたのです。
『おやめなさい』といったのではなく『みつめましょう』といったのです」

以上


毎日グラフ 1993年1月31日号
新潟県・村上市 慶祝ムード 小和田家のルーツ・系譜に論議わく

恒さん夫妻は87年11月22日、毅夫さん夫妻とともに、郷土資料館を訪ねている。
当時の館長、前田健さんは「士族の血を引く人物らしいエピソード」として、その模様を日記にこう書き残している。
「お父様(毅夫さんのこと)は足がお悪いとのことで車に残られ、お母様と奥様と恒さんをご案内した。
おしゃぎり(村上市の祭りで使われる山車)の説明を終えて、二階へ階段をのぼられる時、恒さんはお母様をおんぶされてのぼられたのには敬服した。なかなかの人だと思った」
小和田家と同じ村上藩士の子孫で、郷土史研究家の村上城跡保存育英会の竹沢盛夫理事長(77)も、小和田家のルーツ探しに追われる日々だ。

竹沢さん自身、雅子さんの父方の曽祖父、金吉さん以前の祖先がつかめていない。
「ご婚約は同じ士族の子孫として大変喜ばしいこと。
下級武士であったために小和田家のルーツは記録が少ないが、これで系譜を解きあかす興味が増えた」といきいきとした表情で語った。

以上

皇太子妃・雅子を生んだ小和田家の犯罪ルーツを徹底追跡!

噂の真相1993年4月号

現地水俣でも異変が……
それにしても、かつて自分たちを苦しめた加害者の孫娘が皇太子妃に選ばれたことを、
被害者である水俣の人々はどう感じているのだろうか。

マスコミは内定直後、宮内庁の言い分をあれだけたれ流しながら、
肝心の患者たちの生の声をほとんど取り上げようとしなかった。
「自主規制ですよ。わずかに共同通信熊本支局がきわめて当たり障りのない患者の声を配信しましたが、それとて掲載した新聞はほとんどなかった」(大手紙・社会部記者)
そして、驚いたことにそうした自主規制のムードは水俣病の患者自身にまで広がっている。

実際、取材をしてもほとんどの患者たちはこの件については、何もしゃべりたがらないのだ。
「何をいっても慶事に水を差すととられかねない、という恐れをいだいてるんですよ」
と語るのは地元支局の記者。
ある患者がマスコミにコメントを求められ、ごく素直なお祝いの気持ちを話したらしいんです。
ところが、それが掲載されたとたん、右翼と称する人物から『結婚を台なしにするつもりか』との脅迫電話がはいったらしい」

今なお残っている水俣病患者に対する差別構造。そして、その構造は天皇制という差別のシステムによって、さらに増幅されていく。しかし、ひとりの患者がようやく重い口を開き、本音を語ってくれた。

「正直いって、江頭については今も怒りの感情は消えていない。が、だからといってあの男の孫がお妃になることをどうこういうつもりもない。これはほとんどの患者がそう考えていると思う。
「ただ−」呼吸をおいて患者はこう続けた。
「許せないのは宮内庁だ。五年前、あの男の孫がお妃になれなかったのが水俣のせいだといわれて、我々が周囲からどれだけ白い目でみられたか、ところが、宮内庁は今度はまるで水俣病の問題が解決したようなことをいう。宮内庁にいったい水俣の何がわかるというんだ」

以上


美智子皇后と雅子さんのルーツ 三代前にニアミス

週刊朝日1993年1月29日号

佐賀 早逝した明治のエリート将軍
雅子さんが皇太子妃になって、天皇家には“佐賀の血”がさらに濃くなる。
美智子皇后の母の故正田富美子さんも、雅子さんの母の優美子さんもルーツは
佐賀だからだ。

正田富美子さんの実家は、佐賀県多久市の副島家。

優美子さんの祖父は、肥前国佐賀郡北川副村木原(現在は佐賀市内)出身の江頭安太郎海軍中将である。

安太郎は、慶応年間の生まれ。

中学、海軍兵学校、海軍大学と常に首席で、日露戦争の際は大本営参謀。海軍中枢の軍務局長に昇進し、海軍大臣を嘱望されたが、肺病のため、一九一三(大正二)年、四十七歳で亡くなった。
安太郎一家は東京に出て、佐賀には、安太郎の長女の嫁ぎ先の親類がいるくらいだ。
その一人、古賀治男さん(八一)は、こういう。
「新聞に出た系図に叔父の名前があって、驚いたとです」
佐賀市内の遠縁の女性も、「親戚づきあいもないのに、ある新聞に遠縁と書かれて迷惑でした」と、話すのである。

以上


「皇后美智子さま秘録」「正田家」と「小和田家」

ノンフィクション作家・工藤美代子

週刊新潮2014年10月9日号

(略)
雅子さんの父・小和田恆の血脈を遡行すれば、越後村上藩(現・新潟県村上市)藩士の流れを汲むとされる。
江戸中期、元文5(1740)年以降、村上藩の町同心や下横目(しもよこめ)といった職に小和田家が就いていたことが判明している。ただし、俸禄は石高ではなく、わずかな金銭・穀物を藩から支給されて暮らしていたようだ。

(略)
幕末期の当主・小和田道助は、郡方懸(こおりがたかかり)というやや上級の職に抜擢されるが、それは捕縛術に秀でていたためだった。
制剛流(せいごうりゅう)という独自の捕手(捕り方、および捕縛術を指す)の極意を体得した小和田道助は、村上藩公認の免許皆伝の腕前として知られたが、それでも俸禄は乏しかった。

村上市郷土資料博物館館員の説明を聞いてみよう。
「明治元(1868)年の村上藩士籍分限で、小和田家は二人扶持二両という年収になっていますね。
一人扶持が一日米五合ですから、二人扶持は一日一升。つまり年間で三百六十五升と二両という給料でした。
これは、おそらく日本でもっとも貧乏だった幕末の村上藩主内藤家に仕えている藩士の中でも、最低賃金労働者だったと思われます」

道助は町同心として優れた能力がありながらも、生活はかなり苦しかったようだ。

恆の父祖は、道助の弟・兵五郎が立てた分家で、その嫡男・道蔵匡利が跡を継いだとされている。
古史料「村上城下絵図」(村上市郷土資料館発行)を見れば、兵五郎の名は同心組が住む城下の足軽屋敷の一角に確かに見出すことができる。
ところが兵五郎と道蔵匡利が維新後に相次いで亡くなったため、道蔵匡利の次の世代があいまいなのだ。
現在分かっているのは、どういう出自かは判然としないものもの金吉という人物が現れ、税務署勤務をしながら小和田姓を継いだということである。
多くの系図資料を検討しても道蔵匡利と金吉を実線で繋ぐものはなく、点線でしか繋がっていない
(『週刊朝日』増刊号、1993年3月25日号ほか)。


いずれにせよ、小和田恆の祖父がこの金吉ということになる。金吉は、高田税務署に勤務していた
明治30(1897)年、熊倉竹野と結婚し、長男・毅夫、長女・ミヨシの二児をもうけるが、明治33に早世してしまった。
金吉に先立たれた竹野は苦労して助産婦の資格を取り、女手ひとつで子供を養育した。
長男・毅夫は当時としては最高学府といわれる広島高等師範学校を卒業、教員の道を歩む。
新潟県立旧制高等女学校の教員、校長を経て、戦後には新潟県立高田高校校長を長らく務め、地元では篤実な教育者として名が残っている。
毅夫は村上藩士の血を引く田村静を妻に迎え、五男三女に恵まれた(長女・節子は夭折)が、子供たちは全員が秀才・才媛ぞろいだった。

恆の兄弟五人の男子はすべて東京大学を卒業、二人の姉妹も旧制奈良女子高等師範(現・奈良女子大)、お茶の水女子大といった名門を卒業している。

この秀才一家の次男(第四子)として生まれたのが、雅子さんの父・恒である。

雅子さんからみれば、毅夫が父方の祖父で、金吉が曽祖父ということになる。

(略)
その雅子さんが東宮妃と内定したのは、平成5年1月19日に行われた皇室会議だった。

同年6月9日に予定されている結婚の儀とご成婚パレードを前にした4月17日、恆と妻・優美子は雅子さんとともに新潟市の菩提寺・泉性寺にある墓を詣で、テレビや新聞で大きく報じられた。

ただし、小和田家の墓はかつて村上市と新潟市で三ヵ所に分散されており、各寺の住職でさえ家系を辿るのは難しいと語っている。

墓碑の取り壊しやご遺骨移動の事情も絡み、小和田家代々が泉性寺に祀られているかどうかは不明なのだ。それだけ江戸時代から明治にかけて、小和田家先祖の苦節が偲ばれるわけだが、
墓の件にこれ以上分け入るのは今回は避けたい。

父祖の苦渋に満ちた歴史があればこそ、雅子さんが皇太子妃として入内し、恆が国連大使に就任したことで、家郷へ錦を飾った一家の誇らしい気持ちが溢れ出たのはうなずける。
そんな小和田家の高揚感の表れのひとつだろうか、新発田市の歴史を偲ばせる。

旧新発田藩下屋敷の庭園「清水園」の一角に、一つの木札(高さ百二十センチ、幅五十センチほど)がある。
恆の生誕地から至近距離にあるその木札は、雅子さんのご成婚記念として平成5年11月に市の職員の手によって
建てられたものである。

雅子さんの「お印」であるハマナスが側に植えられた木札には、次のような文言が記されている。

雅子妃殿下御父上誕生の地
樹種 ハマナス
寄贈 北蒲原郡聖籠町
平成五年十一月十三日
新発田市皇太子殿下御成婚記念実行委員会

「清水園」を管理する職員に話を聞いてみた。
「何度か、小和田さんご夫妻がお見えになっていますよ。最初は細長い木簡のような札に書いて建てたのですが、奥様から『なんだかお墓みたいね』と言われたので、市のほうであわてて現在の形に作り変えました」
これまで、東宮妃の父親り生誕の地が、わざわざ顕彰される事例はあまりなかっただろう。

平成10(1998)年10月23日のこと、新潟駅では駅長以下総出で皇太子妃殿下の父・小和田恆のお出迎えに奔走していた

新発田市の市民会館で、地元の敬和学園大が主催する小和田国連大使による特別講演会が開かれるためである。

新潟駅では駅長の先導で特別通路を通り、JR東日本新潟支社の正面玄関から用意された車で新発田市へ向った。
駅や道中での警備陣の対応も、地元民によれば「まるで天皇陛下並み」の緊張ぶりであったという。

また、平成21年2月に小和田恆が国際司法裁判所所長に就任した夏である。
恆はオランダから夏休みを兼ねて帰国すると、山形県にある山辺町を妻とともに訪れた。天童市に隣接する
この寒村に足を運んだのは、この地出身で日本人初の常設国際司法裁判所(国際司法裁判所の前身)所長となった安達峰一郎(1869〜1934)の生家を訪ね、同時に山形市で記念講演を行うためだった。
なにしろ皇太子妃の父の来訪とあって、地元での歓迎ぶりはいやが上にも盛り上がった。

この日、恆は国際司法の先達の生地に自らの手形と署名を残した。
翌年、生家前には黒御影石の立派な記念碑が建立された。石碑に刻まれた文字は、
「山辺町来町記念 国際司法裁判所所長 小和田恆」
とあり、中央に実物大の右手形が刻印されている。名前も自らの直筆文字を彫ったものだ。

もちろん、恆が申し出たわけではなく山辺町の役場やロータリークラブの発案で製作されたのであろう。
しかし、生誕の地の木札も、来町記念の石碑も本人の許可を得て建てられたものである。
個人の感覚はそれぞれ違うが、人前で自分の印象を強めるような振る舞いを極力避けてきた

正田英三郎との差異は歴然だといえる。
一方、ご成婚前に、小和田家の系図を遡って用意しようとしていた宮内庁は、部落解放同盟から思わぬ抗議を受けた。雅子さんの父方、三代前の金吉以前が繋がらず、調査に行き詰っていたときである。
今の時代、出自で人を云々することは、もとより許されない。だが、一般とは違う立場の歴代の皇太子妃はこれまで厳密な系図が準備されてきた。
「身元調査は差別である」との抗議が、部落解放同盟中央本部の機関誌『部落解放』(平成5年6月号)に掲載された。

抗議文から、一部引用しておこう(部分引用)。
「本年一月六日の『皇太子妃内定』の報道いらい、こうした差別撤廃、人権確立をすすめる立場から看過できない内容の報道がなされています。とくに、小和田雅子さんの『家系図』の掲載や『家柄』賛美などの過剰ともいえる報道内容、そして、『皇太子妃を選ぶにあたっては、皇室専門の興信所員が四代前まで徹底調査』などと、宮内庁自らが公然と身元調査を指示していたことが報道されています」

抗議文は3月16日付で、宮沢喜一皇室会議議長(内閣総理大臣)、衆議院議長、参議院議長、宮内庁長官にも送付された。

個人情報の管理が以前よりはるかに厳しくなっている時代に、「身元調査」は確かに差別といわれるのも当然である。

しかし、家柄や血筋と、家風や伝統は異質のものだ。子供にどのような教育をほどこすかは、
それぞれの家の価値観によって異なる。
(略)

続きます。

http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4296


▲△▽▼


2017.12.05
雅子様A@家系(3)小和田雅子の家系のトリック
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4300


続きです。

小和田匡利(道蔵)が12歳で長男をつくり、14歳の時次男金吉を作ったと考えたらつじつまが合う

あるホームページから syutuji.htm

江戸時代、山屋家は代々俸禄二人扶持の下級藩士であったてことでこれはこれで間違いではないけれど俸禄二人扶持は厳密に言うと武士ではない

扶持取りは原則非戦闘員なので戦の時は雑用係。平時は中間か小者だったはず
壬申戸籍(明治5年制定・昭和43年に封印)には「士族」ではなく「卒族」となっているはず

小和田金吉(宮内庁が隠蔽する小和田家の歴史)
まず、小和田新九郎と小和田新六匡安と小和田匡春(道助)(1858年64歳で死亡)が、
兄弟であることには間違いない。
新六の息子が小和田郡蔵。匡春(道助)の息子が勝治であることも間違いない。
勝治の弟が兵五郎であることも間違いなし。
小和田兵五郎の息子が小和田匡利(道蔵)であることも間違いないのである。
さて、問題はその先、小和田匡利(道蔵)の3男となっている小和田金吉。

こいつがクセものである。

雅子様の父が小和田恒。祖父が毅夫。
曽祖父が小和田金吉であるが、この金吉、1867年生まれのあたりの人になるが
この人の代に村上を離れ新潟に移住した。
だが、この人が村上を離れた年もわからない。村上にいるとき何してた人かもわからない。(足軽ということになっている)

どうも金吉の父は小和田匡利(道蔵)となっているがそうではないらしい。
宮内庁が隠蔽してるのはこの金吉の父の名前がわからないということと、半島出身という点らしい。
小和田匡利(道蔵)が12歳で長男をつくり、14歳の時次男金吉を作ったと考えたらつじつまが合う

※1868年時点で(もし生きていたら)
・小和田匡春(道助)(1858年64歳で死亡) 74歳
・匡春(道助)の次男 勝治        48歳?
・勝治の弟兵五郎(5男として)      42歳?
・小和田兵五郎の息子(3男)が匡利(道蔵)15歳?
・匡利(道蔵)の次男金吉         1才

金吉の戸籍がないのは明治30年代に金吉が死亡し(若死)
死亡から80年たって雅子様が嫁いだ頃戸籍は処分されたからではなくて初めから存在しなかった。
(明治19年式戸籍ならどんな役所でも取り寄せ可能だし、19年式戸籍を廃棄している自治体はほとんどない。)

以上

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小和田雅子の系図のトリック

部落解放同盟系の研究者である上杉聡
マスコミが発表した小和田家の「優秀な家系図」の欺瞞性を指摘
『戸籍解体講座』
上杉聰

次の応用問題にいきたいと思います。お手元の資料の中に小和田雅子さんの系図が載っています。
この小和田雅子さんの系図が掲載された時、これは『朝日新聞』からとってきたんですけども、海軍大将なんかのりっぱな家系の娘さんだということが盛んに言われました。

これに対して部落解放同盟が抗議をしました。

宮内庁が四代前まで徹底的な調査をすると言っていたことに対して抗議をしたということは、やはり解放運動のおかげだというふうに思うんですけども。この系図を見て、うっかりすると唸ってしまうといのもまた我々の性なんですね。

そこで、これまでの予備知識を踏まえて、私もちょっと動揺を押さえながら、これをじっくり見てみました。

そうすると問題点がだんだん見えてきたんですね。一番上を見ていただきますと、
小和田金吉、田村又四郎、江頭安太郎、山屋他人、この人たちは聖母マリア様でもあるまいし、一人で子どもを生んでるという恰好になるんですね。

その下の段階になると男、女が確実に書かれてあるんですが、一番上の四人は配偶者なしなんですね。

一人で子どもを生んじゃってるんですね。

これ、「処女懐胎」じゃなくて「童貞懐胎」っていうやつですかね(笑)。

これは何だ、というふうに考えれば、やはり先ほどの、女は家系図から除かれる傾向を代表しているんだろうというふうに思うわけです。

それともう一つ。

二段目になってきますと、右の方に静さんという人と、
それと一番左に寿々子さんという人がいますね。これ、肩書きがないんですよ。
さらに寿々子さんの下に優美子さんという人がいますが、この人は外務省のキャリア・ウーマンということで、鳴り物入りで宣伝されたのもかかわらず、肩書きがないですね。
女性は一人として肩書きがないんですよ。

これも問題ですね。みんな専業主婦だったのか。

まさかそうじゃないですね。

これはやはり、女性は肩書きを除く傾向にある。
肩書きを除くまでして何で載せているのかと言えば、どうもそれは、海軍大将の山屋他人から雅子さんまで引っ張ってこようとすると、寿々子、優美子という二人の女性を経由してしかもってこれないわけですね。そのために肩書抜きで載っけているわけです。

それからもう一つ思いますことは、たとえば山屋他人さんには配偶者がいるはずなんですが、その子は一人っ子なのかということですね。

さらにその下のチッソの社長と寿々子さんの間にできた優美子さん、
これも一人っ子になっているんですね。

それから右の方の田村又四郎さんも一人っ子で静さんを生んでいる。

小和田金吉さんも一人っ子の家庭だったのか、と。

どうもおかしいんですね、これね。
これ、除かれているんだと思うんですよ。

まず女性は徹底的に除いたんだろうと思います。
そして肩書きがとるに足りないと考えられた男性も。

たとえば江頭安太郎さんの息子さんは三人おります。
隆さんと古賀博さんと豊さん。

豊さんが元チッソ社長というのが誇らしげな肩書きなのかどうかは問題がありますが、それはおいておきまして、この中で隆さんは肩書きがないんですよ。

何でかなと思ってよく見ると、その下にですね、評論家の江藤淳がおるんですね。

この江藤淳をもってきたいために隆さんを載っけてるんですが、
隆さんには肩書きがないんです。

書くに足らないような肩書きだと判断したんだろうと思うんですね。
この系図から除かれた男、女性も惨めですが、名前だけ書かれて肩書きを除かれた男も惨めだと思うんですね。

女性差別は必ず男性差別にもつながるという典型的な例だろうと思います。
そうすると、果たしてこれでも系図と言えるのか、ということがだんだん見えてくるわけですね。

要するに、何とかして雅子さんと海軍大将とか江藤淳とかを関係づけたいために、つないでみせたにすぎないわけですね。これはものすごい宣伝文書です。

彼女の血筋、家系がいかに立派かということを宣伝するための図です。家系図でも何でもないんですね。
それなのについ「なるほどね」と、私も含めて思いたくなるということです。
本来なら笑ってしまってもいいようなものが、大新聞に堂々と載せられて、我々も抗議すらしない。
我々の感性がいかに鈍ってしまっているのか、ということを思うわけです。

続きます。

http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4300


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2018.04.25
雅子様A@家系(4)小和田家は朝鮮人密入国者の家系の可能性あり
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4349


ざっとまとめますと、、、、

・小和田家は村上藩士の小和田家とは無関係。

・小和田匡利(道蔵)が12歳で長男をつくり、14歳の時次男金吉を作ったと考えたらつじつまが合う、つまり嘘っぱち。

・宮内庁が公表している小和田家の家系図は、小和田雅子の血筋、家系がいかに立派かということを宣伝するための捏造家系図であり、家系図とはいえない。

・家計調査が入ったら、部落解放同盟から「差別を増長させる」として抗議がきた。

以上の事柄からみて、父母どちらかがかつての被差別階級につながる血筋であること、宮内庁から公表されている家系図がうそっぱちであることがわかります。

今は旧社会の階級制度からは解放されている時代です。仮に推測や指摘通り、最下層の階級の出身でもいいんじゃないのか、と思われる方もおおいとおもいますが、問題は、一族ぐるみで、日本国にたいする破壊活動に与していること、日本の国や国民を裏切っている可能性が高いところにあります。

話を家系にもどしますが、小和田家の先祖が、どこから来たのか、それは、小和田家の過去の行動や経歴からみていくと大方推測は可能です。

結論をいうと、北朝鮮からきた工作員の家系と思われます。

テーブルに置かれた、北朝鮮にゆかりのある花。


ハワイの韓国軍の記念施設に「コリアン プリンセス ベビー像」を設置

雅子さんが、愛子さんを生んだら、韓国人が大喜び。

なぜコリアンなのか、プリンセスなのか、という問い合わせが殺到したあと、「これは李方子さん」とごまかして、像を撤去。


東宮御所で飼われていた珍島犬の存在

時期的にみて、韓国大統領が北朝鮮の金正日におくった2頭のつがいの犬の子孫と思われ。

犬を飼い始めたときの宮内庁からのコメントは、

・東宮御所にメスの野犬が紛れ込んだ。

・犬は10匹の子供を産んだ。

・2匹を残してあとの子犬は職員で分けた

とか言ってましたが、

・東京に野犬はいない。

・中型犬が生む子犬の数としては10匹は多すぎ。ありえない。

・厳重な警備と張り巡らせれた柵を突破して犬が侵入することは不可能。

北朝鮮から下賜された犬かどうかは推測ですが、見た目からみて珍島犬なのは間違いないでしょう。


そして、よど号ハイジャック犯との関係

第67代総理大臣福田 赳夫

・雅子の父、小和田恒は福田首相(父)の秘書だった。

・秘書仲間に小泉純一郎がいた。

・小泉の父は鹿児島の朝鮮部落の出身であり、小泉の母は横須賀の朝鮮系ヤクザの娘だった。当然、小泉自身も、一滴も日本人の血を引いていない朝鮮系である。嫁も在日なので、3人の息子も当然、純朝鮮人である。

・よど号ハイジャック事件が起こった。

・莫大な身代金を与え、世界から非難された。犯人は北朝鮮へ亡命した。

・よど号ハイジャック犯が、新潟の朝鮮部落に居住していたころの小和田家と近所であった。

・よど号ハイジャック事件後、北朝鮮による拉致がはじまった。

・政府(自民党)は長い間、拉致事件に取り組まなかった。

横田めぐみさんの父「政府は、北朝鮮に弱みを握られているのではないのでしょうか」

・小泉が首相になった時、突然、北朝鮮を訪問。5人の拉致被害者を連れて帰った。

・仲立ちしたのが、総連の実力者だった。日朝に交流がない状態では、パイプがないと成立しない会談だった。

・噂によると、金日正は、小泉を別部屋につれていき「あなたの父祖の国へようこそ」といったとか。

マスコミは、小泉の手柄のように書いていたが、小泉が朝鮮人であることを自ら暴露したことでもある。


ここから、単純な推測が成り立ちますね。

・福田、小泉、小和田は、朝鮮系あるいは部落のつながりの仲間であり、代々、北朝鮮の工作員。

・よど号事件は福田と北朝鮮の共謀したヤラセだった。

・身代金のキックバックを、福田がうけとり口封じに自民党内に撒いた。

・その弱みを握られていたので、今にいたるまで自民党政治家は、北朝鮮のような犯罪国家に屈している。

あくまで推測ですが。


さらに、この連携は、皇位継承問題にも及んでいます。

・福田家は、群馬の部落の家。

・福田は、「雅子ちゃんを皇太子妃にするよ」と宣言していた。

・雅子が生んだ愛子さんを天皇にするための法案を通そうとしたのが、小泉純一郎。

なんとしても、朝鮮人、部落民の血を引く愛子さまを即位させるのが、部落解放同盟、および朝鮮人たちの宿願なのでしょう。

しかし、神の采配により、秋篠宮紀子妃殿下の第三子ご懐妊、そして悠仁親王ご出産により、その企ては頓挫しました。

まだ油断がなりませんが。愛子さま天皇実現運動は、部落民&朝鮮人のクーデターなのです。


大日本帝国時代の朝鮮

小和田家の祖とおもわれる人物が新潟に住み着き、背乗りしたころといえば、大日本帝国時代でしょう。

併合後のピクニック?の様子。いい雰囲気ですね。

このころは、朝鮮半島は普通に日本領であり、朝鮮人は朝鮮系日本人でした。すべての国民に対して戸籍もできましたし、選挙権もあり、出世して大臣になったり将軍になった人物もいます。スター的存在になり財をなした妓生もいます。戦後までは、半島と日本列島との間の行き来は普通にできていました。にもかかわらず、わざわざ、密入国して背乗りする必要があったとなると、

・半島で犯罪をおかして逃げてきた人物。あるいは一家離散などの憂き目にあった。

・半島でも身分の低い階級(例えば、白丁)に属しており、日本列島の北の果ての新潟に住み着きロンタリングする必要があるくらい、絶望的な階級だった。

・もともと目的があって日本に住み着いた「草」、すなわち工作員である。

・新潟の朝鮮部落にすんでいた朝鮮系の人間が、小和田家に背乗りした。

などが考えられます。

故中川昭一議員が、小和田恒の書斎にレーニン像があったと証言してますね。小和田恒が、ロシア大使だったころ、ロシアのハニトラにかかってダブルスパイをしていたことが、ソ連崩壊後の情報の公開によりわかっています。

小和田家は、不法入国する必要があったくらい社会階級の低い位置にあった朝鮮系であるだけではなく、思想的にも旧東側の人間の立ち位置を置く人物であり、代々、工作員の家系である可能性があります。


母方の江頭家もまた、部落の出身の可能性が高いですね。

雅子の母方の親族であり本家になるタレントが、「自分は部落だ」とカミングアウトしていたそうです。

さらには、祖父の江頭豊は、水俣病を引き起こし放置したばかりではなく、「腐った魚を喰った貧乏人がわるい」等の暴言、被害者の方々へのヤクザを使っての暴行と弾圧、ジャーナリストでカメラマンであったユージンスミスへの暴行などをヤクザとつるんで行った大量殺人犯でした。

つまり、雅子さんは父方、母方、ともに、日本、朝鮮それぞれの社会の、最下層の階級の出身でかつ犯罪性が高い家系ということになります。

続きます。

http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4349

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2017.11.18
雅子様A@家系(5)小和田家の家業は犯罪?
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4435


今は江戸時代の階級制度から解放された時代であり、仮に皇太子の妻が、朝鮮系でもあるいは被差別階級につながる家系でも問題ないのではないか、と思われる方も多いと思います。親王妃になる方のご性質やご家族が立派な方であるなら、管理人も何代か前の先祖の境遇は問題にならないとは思います。

しかし、ご本人やその家系が皇族になるにふさわしくない場合、犯罪性があった場合、あるいは、国家破壊を目的としてて活動している家系である場合は、最下層からきた方であっても、あるいは名門であっても問題にしなくてはならないと思います。

こちらからの続きです

この写真一枚でも、不思議が一杯ですね。

・コスプレ感満載の、サングラスをしたお寺さん。

・数珠を持たないのは何故。

・つぎはぎだらけの墓石。


そして、この感覚感性、恥も遠慮もありません。自らをなんだと思っているのでしょう。まともな日本人なら恥ずかしくてできないことです。

小和田恒の石碑

なんじゃこりゃ?

小和田家の人々は自らを「宮家のようなもの」「準皇族」と称し、けじめのなさが非難を集めています。

・雅子が出席するはずの場に、出席できない雅子のかわりに妹がやってきた。

・東宮御所に住み着き、公使のケジメなく私物化している。

・東宮家の御静養に、妹の家族が一家ぐるみで同行する。東宮家の御静養は、ディズニーランドを貸し切り、スキー静養のおりにはホテルも貸切っての「御静養」です。新幹線も車両は貸し切り、莫大な費用が生じます。警備に動員される警備の費用も同じく税金から出されます。それに便乗して恥るところをしらないのが小和田家です。

・集まる大衆に向かって雅子の妹が、皇族になりきって手を振る、あるいはカメラを向けるなど、けじめのない行為が目立ちます。

・小和田雅子の母親が御所に来ては、調度品や美術品を持ち帰るという噂もあります。こうした噂が本当臭いのは、小和田優美子がつけているブローチを堂々とつけていることなどで、その性質を察することができます。

皇族女性の宝飾品は皇室財産であり、国家財産であり、所有権は国にあります。結婚などで、皇族女性がなんらかの事情で皇室を去る場合はおいていく決まりです。小和田母子がしていることは、国家財産の横領に値します。


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小和田恒@ 二重スパイ疑惑

2015年11月30日  MI6コードネーム「ムツヒト」皇太子の義理の父、小和田恒はソ連との二重スパイだった、今も怪しい

※転載させていただいてます。


皇太子妃父の小和田恒は、旧ソ連では有名なスパイでミトロヒン文書にも明記されています。

KGBスパイとして活動した駐ソ連日本大使館勤務経験のある外交官たちがいる。ミトロヒン文書では「OVOD」(2回もハニートラップに引っ掛かった)、「MARCEL」などの存在が明記されています。

モスクワ時代、誘惑したのはロシア語教師で2回も行為を撮影され工作員にされた。(コードネームアナグラム)

レフチェンコが実名を明らかにしたのは、自民党の石田博英氏(フーバー)、社会党の勝間田清一氏(ギャバー)、伊藤茂氏(グレース)、佐藤保氏(アトス)である。

その他、レフチェンコ・メモに実名が記載されている人物に上田卓三氏がいる)サンケイ新聞編集局次長の山根卓二氏(コードネームは「カント」)、読売新聞の外山四郎記者(トマス)、テレビ朝日の三浦甲子二専務(ムーヒン)、『インサイダー』の山川暁夫氏(バッシン)の実名が明らかにされている。

実名は不明ながら、サンケイ新聞東京版記者で山根編集局次長を補強しうる「デービー」(コードネーム・以下同)、韓国問題専門家の東京新聞記者「カミュ」、共同通信記者の「アレス」、大手新聞元モスクワ特派員の「アギス」、フリージャーナリストの「ドクター」外山四郎氏、三浦甲子二氏。

東京新聞記者の「コーチ」、朝日新聞の「BLYUM」、読売新聞の「SEMIYON」、産経新聞の「KARL」(あるいは「KARLOV」)、東京新聞の「FUDZIE」、社名不詳大手新聞の「ODEKI」、社名不詳ジャーナリストの「ROY」

自民党関係者にさらに2人のエージェントがいたと指摘されている。

自民党議員の「KANI」と、田中角栄の側近の「FEN」は「フェン・フォーキング」と同一人物?

一部週刊誌(新潮)にも記載されていましたし、ジャーナリストからの情報ですか ら情報は確かだと思います。

民主党政権時に公安情報がかなり紛失・消失したとのことです。

(民主党政権時の国家公安院長の名前を思い出してみてください)

再構築しなければならないので、情報を提供してほしいと古屋議員から言われま した。

以上

続きます。

http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4435


▲△▽▼


2017.12.05
雅子様A@家系(6)小和田家の家風 ソ連文書からみるスパイ小和田夫妻
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4439


続きです。

1967年モスクワ

※こちらより転載させていただいたうえに、編集しています。


【武器輸出三原則違反】犯罪人的発想

雑誌正論2008年1月号 佐々淳行

カンボジア総選挙国際監視団に日本の文民警察を派遣するとき、装備として拳銃と若干の小銃、それに防弾チョッキを持たせようと提案したら、外務省の小和田恒が、
「丸腰で行け! 装備をもたせると、帰るときに売っぱらい、武器輸出三原則に違反するから」と言い放った。
日本の警察をバカにしたような発言に驚いた。

以上

※帰るときに売っぱらい、、、その発想は堅気の日本人にはない(管理人)

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【論文紛失】国費留学しつつも、博士号はとっていない。

ニューヨーク大学での対談形式でのレクチャーのマニュスクリプトP8

ケンブリッジ大学が賞をくれて、その上で博士号コースを続けていた3年目。

ケンブリツジを離れる頃には論文をほとんど書き上げていたけど、もう少しいいものにして、それから提出したいと思った。
そこで、日本に戻ってから仕上げようと決めた。
いずれにしろ私は(日本)政府から派遣された身で、その時はもう日本に戻らなければならなかったから。
当時は全て船便で送らなければならない時代だったから、私も自分の物を船便で送ったら港でトランクが1つ紛失。
それには服や本などと一緒に大事な学位論文の原稿が入っていた。
トランクは二度と見つからず、ゆえに私は博士号を取る機会を失ってしまったのです。

以上

※博士号をとっていないいいわけが、陳腐すぎる気がする。(管理人)


機密費横領

防衛省OB太田述正メルマガ「小和田恆さんいい加減にしなさい。」

皇太子殿下の嫁の実父という立場にある君は恐れ多くも、皇太子殿下を利用し、次から次と悪事を働いて来ましたね。
ある時は、後藤田正晴氏と組んで想像も付かないような恐ろしい悪事を企てましたね、
元日銀総裁の三重野康氏を使って実行した事は日本国の信用を著しく損ねたのみならず、皇室の尊厳を著しく傷つけました。
それに懲りずに今度は武藤敏郎日銀副総裁(当時)、飯島勲(元小泉総理秘書)、等と組んで小泉純一郎氏を巻き込み某国の大統領にまで手を延ばして、恐ろしい事をしましたね、その時も恐れ多くも、皇太子殿下を欺いて利用しましたね。

【日銀総裁の座を狙っていた小和田恆氏】

何故小和田氏は日銀総裁の座を狙ったのか、それは国連大使、オランダハーグの国際司法裁判所判事と歩んできた最後の仕上げであった。
今、小和田氏は武藤総裁を実現して最後の賭けに出ようとしている、
これは皇室に災難をもたらす、あまりにも無謀な恐ろしい暴挙であると言わざるを得ない。小和田氏自身のみならず皇太子殿下にも災難が及ばないとも限らない。

このうえは天皇陛下の御英断を煩わせる他にないのか?
小和田氏はかねてソヴィエットロシアの大使館に勤務していた時、北朝鮮の工作員と接触しましたが、その時利益供与を受けたという疑いが某国の諜報機関に持たれています。
いづれにしても、小和田氏の信用と評価はアメリカでは最悪であり、EU諸国に於いても最低だと言われています。
自らの立場を猛省されて身を処されたらよいのではないか。

以上


ソ連共産党日本人工作員のなかに、小和田夫妻の名前が??

ソ連共産党・日本人工作員

70年2月26日に、ソ連共産党政治局は、日本社会党とその機関紙に助成金を支給 するために、合計10万ルーブル(当時、3571万円)の支出をKGBに承認し た。類似した助成金は、毎年払われたようだ。

たとえば、72年に支払われた10万ルーブルのうち、6万ルーブルは政治資金とし て各議員個人に渡された。

1万ルーブルは日本社会党とソ連共産党の交流資金、2万ルーブルが日本とアメ リカおよび中国との関係に打撃を与えるアクティブ・メジャーズ工作資金、1万 ルーブルが日本社会党に公明党や民社党など他の野党と提携させないためのアク ティブ・メジャーズ資金として使われた。

社会党最高幹部と自民党大物議員

▽勝間田清一コードネームはGAVR。

彼は66年の日本社会党書記長選挙の次点者で、74年 にその党内地位を強化するために400万円をKGBから受け取っている。 KGBでは社会党中道派のリーダーと評価されていた。

(※ミトロヒン文書に勝間田氏の名前はないが、後にレフチェンコ氏が GAVR=勝間田氏と断定した)

▽佐藤保 コードネームはATOS。

社会党左派(マルクス主義派)のリーダーで、4つ の党刊行物の責任者だった。KGBファイルには、佐藤氏が日本社会党機関誌に 記事を掲載するための資金として73年10月に40万円をKGBから渡した記録がある。

(※ミトロヒン文書に佐藤氏の名前はないが、これも後にレフチェンコ氏が ATOS=佐藤氏と断定)

▽ALFONS(実名不明)

社会新報に記事を書いていた。72年に250万円受け取っている。KGBファ イルには、社会新報に記事を書くために15万円が支払われた記録もある。

▽DUG(実名不明)

日本社会党委員長に非常に近かった社会党員。選挙資金として72年に39万円を 渡された。

▽DIK(実名不明)

選挙ビラとポスター制作費として72年に20万円を支給された。

――それ以外にも、社会党でKGBエージェントとファイルされていたのは以下の 通り。

▽JACK(キリル文字でDZHEK/実名不明)

73年からエージェント。社会党議員。

▽伊藤茂コードネームはGRACE。

社会党議員で党中央委員会のメンバー。おそらく 75年よりエージェント。

(※ミトロヒン文書に伊藤氏の名前はないが、これも後にレフチェンコ氏が断 定。レフチェンコ氏はその他に、ミトロヒン文書に出てこない2人の社会党員 「RAMSES」と「TIBR」の存在も断定している)

▽DENIS(実名不明)

江田三郎・社会党書記長の親しい側近。

▽KING(実名不明)

後に日本社会党の幹部となった。

▽KERK(実名不明)

勝間田派議員。KGB東京支部と日本社会党執行部のコネに重要な役割を果たした。

▽上田卓三・社会党議員

親ソ派の学者で「山本」という人物が、KGBの協力者として議会で影響力を行使したという。「山本」がリクルートされたのは77年。以後、彼はKGBの意に 沿うような国会質問が出るように議員に働きかけた。

▽石田博英・元労相(自民党幹部)

▽「HOOVER」自民党幹部の石田博英・元労相

石田氏は73年2月に「日ソ友好議員連盟」(コードネームはLOBBY)の代表 になり、同年の8月〜9月の訪ソ団の団長となった。この訪ソ団は17年ぶりの日 本国首相の訪ソとなる田中角栄首相訪ソの直前に行なわれた。石田氏がソ連中央 で重く扱われるようにKGBが裏で支援した。

石田博英氏は70年代を通じて日ソ友好議員連盟を足がかりに、「影響力のエー ジェント」として使われ続けた。

77年には、KGBの要請に基づき、彼は個人的に福田赳夫首相に意見した。

※福田赳夫は小和田恒の親分

モスクワの日本大使夫妻がソ連反体制派と接触し、「歓迎されざる人物」になっ たから、日本に呼び戻すようにということだった。

※モスクワの日本大使夫妻=小和田恒で間違いないと思います(笑)


09 Jun 1993 — PRESS CONFERENCE WITH THE PARENTS OF MASAKO OWADA — Image by © HARUYOSHI YAMAGUCHI/CORBIS SYGMA

▽田中角栄の側近だった「FEN」

角栄秘書『フェン・フォーキング』はこの中に?

曳田照治 榎本敏夫 山田泰司 田中利男 遠藤昭治 田中勇 高鳥修 佐藤昭 子 早坂茂三 麓(ふもと)邦明 古藤昇司 朝賀昭 工藤節子 中村喜四郎

本間幸一  小長啓一 桜井新 小谷兄弟  樺沢 城谷 片岡憲男 井上孝

高橋国一郎 下河辺淳 小野吉郎 西村尚治 長田裕二 山下元利 林義郎

大村襄治 両角良彦 小長啓一 後藤田正晴 秦野章


政治家『フェン・フォーキング』はこの中に?

木村武雄 西村英一、橋本登美三郎。二階堂進、小沢辰男、久野忠治

愛知揆一、木村俊夫 江崎真澄、小坂徳三郎 後藤田正晴 山下元利

小沢一郎 小沢辰男  渡辺紘三 高島修  西村英一  橋本登美三郎

木村武雄  植木庚子郎 足立篤郎 原田憲 亀岡高夫 前田正雄

金丸信 竹下登 橋本龍太郎  小渕恵三 田村元 小坂徳三郎

林義郎 大村襄治  羽田孜 梶山静六  渡部恒三

奥田敬和 高島修  佐藤恵  石井一  綿貫民輔

斎藤滋与史  中山利生 佐藤守義 稲村利幸  野中英二

有馬元治  浜田幸一

▽自民党議員の「KANI」→金丸信?


マスコミの記者

日本社会党機関紙以外に5人の一般マスコミの記者が特定。
・朝日新聞の「BLYUM」

・読売新聞の「SEMIYON」

・産経新聞の「KARL」(またはKARLOV)

・東京新聞の「FUDZIE」

・社名不明な主要新聞社の上級政治部記者の「ODEKI」

▲ジャーナリストの「ROY」=「ARES」(同一人物)

日本の防諜機関上級幹部の「KHUN」をリクルートするのに役立った。 KHUNはとくに中国に関する機密情報を提供した。

▲「FET」(あるいは「FOT」)

この人物については具体的な情報はない。

▲山川暁夫・インサイダー編集者

▲サンケイ新聞の編集局次長だった山根卓二氏

(コードネームはKANT)

▲三浦甲子二・テレビ朝日専務

▲杉森康二・日本対外文化協会事務局長

MADE IN RUSSIA―ロシアは何をつくったか 単行本 – 1997/11
森本 忠夫 (著), 江南 和幸 (著), 杉森 康二 (著)


2人の日本外交官

■「RENGO」

RENGOはまた、自ら新たなエージェントのスカウト

■「EMMA」

EMMAには、彼女がエージェントになったまもなく、運営者によってハンド バッグが与えられ外交文書の写真を複写するためのミノックスカメラが仕込まれていた。

■「OVOD」→小和田恒

合計6年間のモスクワ勤務の間に2回、ハニートラップに引っかかり、それをネ タにエージェントに仕立て上げられた。

彼へのハニートラップのうち2回目のほうは、MARIANAというコードネー ムのKGBエージェントによって実行された。彼女は、OVODのロシア語教師 として雇用されたが、まもなく男女関係となり、その性交渉時の写真が撮影さ

れ た。OVODはいやいやながらも、KGBに協力することを承認した。

■70年代前半にモスクワに駐在していた電信官「MISHA」

LANDYSHというコードネームのKGB工作員が誘惑したケースだった。

MISHAは、70年代後期に「NAZAR」というコードネームでKGBに運営 されていた東京の外務省本省に勤務する電信官と同一人物である。

■「MARCEL」

MARCELの協力で、「KONUS」というコードネームの自衛隊の駐ソ連の 防衛駐在官もリクルートされた。


KGBの科学技術情報スパイ

70年代に日本のハイテク産業と研究所の幹部職にある日本人エージェントは合計16人

◎東京地域のハイテク会社の社長で、「TONDA」

米国の空軍とミサイル部隊のための新しいマイクロ・エレクトロニクスのコン ピュータ・システムに関する重要な機密資料をKGB東京支部に提供した。

◎半導体製造会社オーナーの「TANI」

日米の半導体の機密情報やサンプルを提供した。

◎「LEDAL」日本の大学の半導体研究の責任者。

◎日本のハイテク産業と研究所の幹信技術研究者の「ARAM」

◎通信技術者の「ARGUS」

◎東京大学の科学者である「BRAT」

◎宇宙研究者の「EYR」

◎微生物学者の「KANDI」

◎物理学者の「KARI」

◎宇宙学者の「KISI」

◎日立社員の「RIONI」

◎三菱社員の「SAK」

◎技術専門家の「SOT」、

◎赤外線分光学者の「TAIR」、

◎電子技術者の「TONI」

◎核科学者の「UTI」

などである。

グレーゾーン工作員

※ソ連通でスパイではない?

自民党:鳩山一郎、河野一郎、赤城宗徳、田中角栄、中川一郎。

社会党:成田和巳、石橋正嗣、勝間田清一、飛鳥田一雄、土井たか子、五十嵐広 三、高沢寅男、山本政弘、岡田春夫、岩垂寿喜男、伊藤茂。

その他:三浦甲子二、杉森康二、堤清二、松前重義(東海大総長)、池田大作 (創価学会名誉会長)、千田恒(元サンケイ新聞記者)、秦正流(元朝日新聞編 集局長)、白井久也(朝日新聞記者)、中村曜子(画廊「月光荘」経営者)、長

谷川千恵子(画廊「日動画廊」経営者)、柴野安三郎(札幌日ソ友好会館オー ナー)、岡田茂(東映社長)(以上、肩書きは同書のまま)

ソ連崩壊後、中国共産党、北朝鮮のスパイに転向したものも多いのではないか。
コードネームをつけられているものは、KGB側が認めているスパイ。

続きます。

http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4439


▲△▽▼


お笑い「小和田家」家系図 2018-10-15
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/f0ffe3a0cf6cc2088255576c74fa4848

ここ、結構笑えるので息抜きにたまに拝読させていただくのですが、今回はまた吉本的お笑い家系図の掲載。

遂に小和田家家系図完成!!  だって。


http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-2312.html

突っ込もうかどうしようかと迷っていたら、トド子さんがいち早く目に止めて記事にしていらっしゃいました。

雅子卑のカレ〜なルーツニダ♪

なので、わざわざこちらで追求する必要もなくなり手間が省けて助かったのですが、それにしても「遂に小和田家家系図完成!!」って、雅子さまが入内されていったい何年経過しているのやら、即位直前になった今頃「家系図完成」とか。本家分家の区別も解らないまま、ずさんなこと。


それに無関係なはずの素人さんがわざわざ新潟まで出かけて調査、自費で「小和田家の家系」を調べます?


次男三男に養子がいたことにするとか・・・・嘘ももっとリアリティを持たせなくては。

武士の系譜という触れ込みですが、武家に「金吉」などという名前はありません。


後記 コメ欄にご指摘を頂きました。

>有馬藤吉、有馬彦吉、有馬静吉(有馬姓が並んでいたので一族でしょう)伊集院兼吉や、伊集院末吉もいます。


以上ですが、単に語感の問題なのかもしれませんが「金吉」に未だ違和感。
なぜなのだか?


最近はブログ仕様が異なって「いいね」ボタンがなくなりましたが、以前はコメントがどっさりある割に「いいね」がゼロという、不思議なブログでした。
と指摘されてから、仕様を変えたかな? コメントを書き込んでみたら、数分後にブロック。仕事、早いです。

秋篠宮殿下、妃殿下、悠仁親王殿下を悪し様に罵っているブログです。返す刀で皇后陛下を斬りまくり(まるで雅子妃が姑を見る目線で)、その一方高円宮家は褒めそやし・・・・という解りやすさで、どういう立ち位置の「身内」か見えて来るような? 文章にはそこはかとなく加齢臭。


即位を目前に、疑惑が再燃、吹き出すのを怖れて相当焦っていらっしゃるような。
こんな、すぐ見破られるような家系図を持って来たら、小和田家の家系のいかがわしさが、逆に見えて来るでしょうに。


いとこ(男)さんが大阪の精神病院に長く入っていらっしゃることなど、通名屁カテさんはどのように、今後は言いくるめるか楽しみなことです。外務省入省は、当時あったVIP子弟採用枠5人のうちの一人で縁故採用だとか、奥参事官との不倫とか。
ついでに言っておけば、雅子妃が精神に変調を来たしたのは皇室のせいなどではありません。元々ご家系にその因子をお持ちでした。

出自云々や精神を病んだ方への誹謗でも差別でもありません。あくまでも、宮中には入るべきご家系の方ではなかったという論旨です。江頭家も含めて。

I write my will across the sky in starsは、I write my lie across the earth in shit.

と書き換えたほうがよさげ。

トド子さんが紹介していらっしゃるけれど、こちらのブログさんが通名屁カテ様の基本的嘘の論破となりそうです。

http://kabanehosi.up.seesaa.net/image/syutuji.htm

台所婆は有名ですが、もう一つ身内臭がするサイトがこちらです。

h ttps://blog.goo.ne.jp/index2013/e/668bb73fc657778f7d78fe29e96604d3

これに対しても、上記のブロガーさん記事でその嘘がばれるでしょう。

しかし、あちら必死です。身内勢とあのワールド***という新興宗教勢でしょう。

情報をいくら操作しても無意味だと思います。即位されてからの雅子妃はより目立つようになり、それと共にいかがわしさも表に出ます。東宮の在位期間は短い、最長10年と思っていますが、それは単なる直感に過ぎません。

ついに小和田家【出自】の秘密 

2018-03-22 17:44:30

被災地訪問にも出る、品格の差。


https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/f0ffe3a0cf6cc2088255576c74fa4848

まず小和田恒氏「ごときが」という言い方も、

当日小和田氏の出版記念パーティに出席したメンツを見れば、

妥当ではないでしょうか。

イメージ 1


*1994年9月 小和田国連大使の出版記念パーティー。

7日、帝国ホテルで行われた小和田国連大使の出版記念パーティー。

政・官・財界などから、

福田赳夫、宮沢喜一、瀬島龍三氏をはじめとする

約二百五十名が出席する華麗な会となった。

弱小出版社からたかだか2千部を出したに過ぎない自著(部数から推して自費出版の可能性?)のパーティを帝国ホテルで開く・・・・・・田舎趣味。

本人は華やかな場が嫌い、とのたまってますが、

それなら何も出版記念パーティなど開かなければよいわけだし、

招待状を元総理2名に出す如きことは、控えれば良いだけでしょうに。

田舎者の屈折した、目立ち好みだと思います。

いやいや、いやと舞台から去りながら、

でも首はスポットライトのほうに突き出してる、みたいな?

「目立ちたくない人」がこの恥ずかしい立て札放置?


イメージ 2

放置どころか、令夫人が「これじゃあ、お墓みたい」とクレームをつけて、
大きく作り変えさせたのですってよ。

たった2千部で帝国ホテル!!

今、出版に詳しい知人に問い合わせたらやはり、自費出版っぽいとのこと。
コミケの壁サークル(コミケの大手)なら、5千部出るって笑ってました。
それも1日間で。3日間で万を刷りますって。


イメージ 3


http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%82%E7%94%BB%E3%81%8B%E3%82%89%E5%89%B5%E9%80%A0%E3%81%B8%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%96%E4%BA%A4%E3%81%AE%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%99%E3%82%82%E3%81%AE-%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0-%E6%81%92/dp/4924831107


¥566 より 14 中古品の出品

¥ 5,033 より 1 新品

カスタマーレビュー皆無。

コミケに敗けた皇太子妃父。

礼子さんが、お得意の自作自演で褒めてあげればよいのにねえ。
(自著を、Amazonのビックレビューで、自分で褒めまくり、

その時自らの洗礼名を使って、ばれちゃった事件があるのです)


宮沢喜一、福田赳夫、そして本人。このメンツで何が解りますか?


共通キーワードは「売国奴」

そして「部落」ではないでしょうか。

                    宮沢喜一


イメージ 4


内閣官房長官時代には、歴史教科書の検定基準に「 近隣諸国条項 」を設けさせ「中韓の感情を害してはいけない」という基準を作り、中韓2国の意向に沿った

『日本を貶めるために創作した自虐史』でないと

教科書検定で合格させないようにした。


内閣総理大臣になってからは、 《 朝日新聞のねつ造記事 》 にのっかり

『 従軍慰安婦 』の存在と『 日本軍による強制 』を認め、韓国で謝罪。


河野洋平官房長官と共謀、「 河野談話 」を発表させ、

世界に向かって「日本は悪い国」と宣言した。


ちなみに、皇太子の考える新たな天皇の姿とは

「国連大使のような仕事をする」です。

売国官吏、小和田恒氏の影響を受けての愚かしいご発言です。

影響というより考える能力がないので、口走っただけ。

国連大使のような仕事をする皇太子や天皇って、どんなのですか?
天皇家の視座はあくまでも、日本でございます。


ローマ法王と肩を並べることの出来るのは世界でもエリザベス女王と

天皇陛下のみであり、その天皇陛下に訪れて頂くことで、

支那は天安門における非人道的行為に対する

世界からのバッシングを緩和させることに成功したのです。

福田赳夫は、やはり媚中で「雅子ちゃんを皇太子妃にする」と

雅子妃の少女期から口にしていた男です。部落出身者の権勢広げか?

小和田夫妻は、福田赳夫の子分であり、

妻の優美子さんは高円宮と通じていました。

お膳立ては整っていたわけです。


イメージ 5

父子で、影に日向に東宮にひっつき虫でコントロール。

イメージ 6


ごく最近の福田康夫の言葉。

「中央日報
http://japanese.joins.com/article/386/209386.html?servcode=A00§code=A10
日本の福田康夫元首相は「韓日関係は離婚できない夫婦のような特殊関係」としながら「相手に対する配慮と信頼、 忍耐力が必要だ」と話した。

・・・・・・・

気色悪いこと言う売国奴でしょう? 国交断絶とまで国民は願い始めているのに。あの韓国に「配慮と信頼」ってw 忍耐は70年間たっぷりさせて頂きました。
こういう手合が総理をやっていたとはね。

こんな韓国ヨイショの父子が

小和田と密着していた事実を忘れないようにしましょう。

美智子さまと雅子さまの入内共通項は、

いずれもマスコミ先行で情報が漏れ、というより意図的に漏らされ

既成事実化されたこと。

美智子さまの時は、海外にまずリークするという手段が取られました。

「ニューズウィーク」当時の日本はアメリカさまの雑誌で言うことですから、

一もニもなく信じこみ、いつの間にか既成事実化。

初の民間からの入内という驚天動地も、

アメリカでまず報道されることで緩和されました。

それ以降の、ミッチー・ブームとやら、

今思えば韓流と同じで仕込みの構造が見え見えです。

反日に転じたマスコミがこぞって皇族を芸能人化。

人気という名のもとに、格を果てしなく落としていきます。

某ワイドショーの方に聞いた言葉。「昔、雅子さんのお母さんって、すごかった。

週刊誌のグラビアで女優の裏に雅子さんが載っているとねじ込む。

雅子を女優ごときの裏にして、貶めないでくださいませ、と。

そして、皇太子妃を、女優、ホステスなどと同等に扱わないでくださいませ、と。

女優とホステスが、優美子さんの中では同格の賤業らしいけど、

雅子さんがあれ上品なの?」

「女優もホステスも努力と才能で自力で懸命に生きてるじゃないの。

たった20メートルしか歩かない皇太子妃と比べたら、

女優とホステスが怒るんじゃないの?」


イメージ 7

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皇室会議の議長である岸信介が、

内閣総理である岸信介に通知する形式ですね。

思えば日本の半世紀に及ぶ、これが悪夢の始まりだったのです。

安倍晋三皇室会議議長の名で、廃太子廃妃の通知を

安倍晋三内閣総理宛てに出して頂きたいものですね。

内部で強固な反対論者が多数いたのに、

皇室会議ではあっさり全員一致という不可解も、美智子さま雅子さま共通でした。いえ不可解ではなく、双方ある勢力により初めから仕組まれていた成婚であり、

テニスコートでの出会いも、どこぞのレセプションでの出会いも

フィクションだった、ということです。

雅子さまは、フランスの地方都市コルマールで皇太子と同宿しています。

レセプションで出会ったとされる、遙か以前にです。

はっきり言えば密罠仕掛けなんじゃないですか?


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皇太子妃決定の報道が出る前から、

あちこち出回った小和田雅子嬢絶賛記事の不可解。

抱き合わせでさりげなく、小和田恒氏の持ち上げも。

なんだかねー。

何もかもが嘘。でっち上げ。誰かが書いたシナリオ通りに、

美智子さまと雅子さま、希代の皇室伝統壊し妃たちは宮中に仕込まれました。

お二人共に結局は、GHQの流れに現れた異人(エイリアン)なのだと思います。

正田家、小和田家と皇室からの打診を辞退したり、渋ったりしていますが、

娘を好条件で売りつけるための駆け引きです。「ストラグル」w
いずれも買い手のほうの息子たちが目の色変えて夢中ということを

心得ていての、駆け引き策謀です。

でも双方背後に組織がついていての入内なので、

どのみち決定事項に等しいことでした。

正田は娘が15歳の時からエリート富裕狙いの男が集まるパーテイに出して

婚活させていた家、小和田家では福田赳夫元総理の頃から入内に虎視眈々、

高円宮家ともそのためにつるんでいます。

もっとも雅子さんのほうには、結婚を意識した相手(自民党代議士)がいたので、個人的には渋る気持ちがあったかもしれず、その為に「来てやった」意識は

強いかもしれません。国民には全く関係のない、

迷惑千万な来てやった意識ですが。

実態は異常なまでに上昇志向、権力欲の強い父親に「売り飛ばされた」のです。父親には、娘を使ってのし上がった藤原道長が

理想像としてあったかと思われます。

江頭某という芸人が、雅子妃の母方江頭と縁戚関係だというのが事実なら、

雅子妃の母方実家・江頭家は被差別部落の出です。同じ佐賀の出身。

江頭某が、かつて東郷健という市民運動家の家で

「オレは部落出身者だ」とカミングアウトしたのを、その場にいた人が聞き、

拙ブログ主はその方から個人的に証言を得ています。

その方に失礼ながら幾つも質問を重ね、

その証言の信憑性を確信するに至りました。

筆名江藤淳(評論家 本名江頭)は江頭家について調査しますが、

“手明鑓(てあきやり)”という平時は無役、戦時に槍や具足を携えての身分と

推定しますが、確定的家系図と資料は皆無です。

鮮人と多分ハーフの布袋寅泰を登場時のBGMとして使ったり、

パチンコ業界とも密なので、ある想像をしますが、決定的資料はありません。

某暴露系雑誌の記者に、江頭某が身の上を語ったら

「そんなもの、とても書けません」と言われたいう逸話。

暴露系雑誌に「書けない」といわしめる内容とは、皇室以外に何かあるでしょうか。雑誌名は失念しましたが、拾おうと思えばソースは見つけられます。

時間がないので、さぼります、ごめんなさい。

Wikiにあるはずなので、興味のある方はどうぞ。

ちなみに、江頭某というタレントは佐賀県の出身ですが、

むろん雅子妃の母方江頭も佐賀。

面白いことに、皇后陛下の母上も佐賀の副島家なんです。
いったい、どういう因縁なのか。

副島家も、江頭家も確たる家系図は存在していません。

初代宮内庁長官が「副島は、興信所ではなくもっと調査の必要があった」と、

書き記しているのは、どういう意味なのでしょうね。

おそらく、そういう意味なのではないかと、想像していますが。

在日は在日を地下水脈で実にあっさり嗅ぎ分け、裏でコミュニティを形成します。思うに、部落もそうなのではないですか? 

被差別部落への差別がいいとは思わないし、

部落だからどう・・・・と短絡はしません。

けれど、暴力団の6割が部落、3割が朝鮮人、

日本人は1割というごとき現実はあるわけです。

在日利権と同様に部落利権も巨大です。

副島家が佐賀で家系図不詳ということと、

同次元に考査しなければならないのは、群馬正田家の家系図でしょう。

拙ブログの読者間では意見が二分されていて、

部落説、名家説と両方ありブログ主はいまだ結論を出し得ないでいます。

仮に白山神社と、部落エリアに実家があったことを論拠に

「そうだ」と仮定するなら、部落円環がきれいに閉じますけどね・・・・・。

念のため再度申しますが、部落だからどう、ということではないのです。
そのお血筋にあるからいけない、と短絡もしていません。

皇族に部落の血が混じるのも厭いません。

朝鮮人は困りますが。

ただ、言動に不審がある場合出自を探ると半島であったり、

部落であったりすることは多いと言わざるを得ません。


天皇皇后、東宮擁護の頭脳硬直・思考停止連中が判で押したように言う、

皇室はいかなる理由があろうと批評してはならぬという言い方も

理解は出来るのです。それは正しい。

皇室の権威を保つには、守られなければならぬ鉄則です。

但し、皇居の中の人々が最小限の則を保ってくださることを

前提での了解事項です。

外れる人がいるからこそあった、廃太子の制度です。

日本弱体化を目的になされたGHQの政策は、

祭祀を「天皇の私的行為」としてランク下げを行い、

その弊害が日々現れて、終戦後この方現在に至ります。

祭祀や神事を軽んじる皇太子の誕生、忌避する姿勢すら見せる妃殿下の出現。いずれも、GHQの皇室弱体化施策の結実というべきでしょう。

竹田某なる者は皇太子の祈りが真剣である、とのたまいますが、

真剣な皇太子が両陛下の剣璽動座による伊勢参内の時

スキーに一家で遊びに出掛けますか?
お慎みの日に遊びほうけていますか?
大震災の命日に御所でお楽しみ会を開きますか?


さて皇室典範です。


*第三條  皇嗣に、拐~若しくは身体の不治の重患があり、

又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、

前條に定める順序に從つて、皇位継承の順序を変えることができる。

重大な事故に該当する要素はあると思いますけどね・・・。

しかし、皇室会議の委員長である時の総理は、

誰も皇室問題には手を触れたくありません。

触れれば命取りになりかねない、デリケートな問題だからです。

まして時の総理が売国政権の者である時は、放置です。


現在の両陛下、皇太子と皇太子妃殿下のありようは、皇室解体、

日本国の国体の弱体化には、いたって都合のいいお方たちです。

例の朝鮮カルト教団が東宮夫妻に肩入れし、秋篠宮ご夫妻に関わるデマを

流していることからしても皇太子夫妻は反日勢力にとって都合よいのです。

また利用しやすい存在であることは、反日韓国の要人潘基文(パン・ギムン)、

韓 昇洙(ハン・スンス)らの皇太子への接触と交流で解ります。

皇太子も進んで彼らや小和田恒氏の喜ぶことをやります。

人民解放軍少将であり、習近平の妻である彭 麗媛(ほう れいえん、

ポン・リーユアン)への接触。

創価イベントへの出席。池田大作の息子との食事会など。

それでも、擁護連中は現実を見ようとはせず、

皇室批判をするは不敬という原則論に縛られて自らに盲目を強いています。

皇太子と反日潘基文を結びつけたのは小和田恒氏です。

イメージ 10


今や雅子妃入内以来20年間の居座りで、小和田王朝完成。
以外に頭が悪く使えない皇室弱体化乗っ取り要員ではありましたが、

居座ることで小和田反日王朝が宮中に完成しました。

天皇陛下にタイで「謝罪させた」のが小和田恒氏。

河野談話の影の人物、また「韓日」ワールド・カップの影の推進者でもあります。


イメージ 11


イメージ 12


なんで、嫁ぐ数日前の小和田家に北朝鮮の金正日の花が飾られているのかと、拙ブログでは執拗に問い続けています。

仮説の域は出ませんが、江頭が部落なら小和田は北朝鮮ですか?
あくまでも「もし、そうだったら」雅子妃は朝鮮と部落との掛け合わせで、

鳩山幸さんと同じような境遇です。


擁護派は(ひょっとしたら)朝鮮人の即位を認めるのでしょうか。

その論調の拙さからして、「皇室は批判すること能わず」であるなら、

皇室の定義を述べよ、その定義に逆らう者でも皇族と呼べるのか。

皇族の資格を有せぬ者すら、

批判してはならぬというロジックによって成り立つ典拠を述べよ、

と突き詰めても答える能力は有してはいないように見受けます。

論というのは美称なのであって、擁護派の語彙はいかにも貧しく、

ツイッターで呟くか、語彙乏しい連中が寄り集まった掲示板で

主語述語すら定かならぬ、未熟な日本語で数行書きつけるのがせいぜい。

こちらでも、理路整い語彙も備えた反論なら来なさい、

お相手しますと言っているのに、ちょろちょろと嫌がらせが来る程度。

擁護論にロゴス化出来るほどの根拠が無いからです。

東宮夫妻という擁護に実は値しない方たちの擁護は、

しょせん数行が限度だということなのでしょう。

小和田雅子という、記者を指さし恫喝し、

差し出された名刺を記者の前で破り捨て、

また自らを撮ったカメラマンを追いかけ胸ぐらをつかんで

フィルムを廃棄させるごとき荒いヤンキーもどきの気性の女性、

婚約寸前の男性がいた女性、つまり非処女、堕胎の噂さえ根強くあります、

というより・・・・元皇室担当記者から具体的なことを聞いています。

学歴職歴共に著しい疑惑を指摘されている女性が、

一歩皇居の敷居をまたいだだけで皇族となれるのか、なれるなら

そのロジックはいかなる言語で構成され得るのか、答える能力もない者たち、

それが擁護派の頭脳と教養のレベルです。

この酷いアトピー肌も、露出の多い夜会服を考えれば妃失格だと思いますね。


*ここに雅子さんのアトピーの画像があるのですが、

こちらでは、反映されませんので、

転載元様の記事をご覧下さい。


イメージ 13

婚姻により単に皇族という「地位」を得ただけで、そ

の内実が反日性を著しく帯びて、皇室と日本の国体を蔑ろに、

毀損する存在になっていたら、それらをお守りする事こそが反皇室、

反日本となるという論理も理解できぬ痴呆の群れが擁護派です。

雅子妃とその背後の小和田家、それにひきずられる皇太子殿下というのは、

前代未聞の異常な存在たちです。

「自虐史観左翼」小和田恒氏が仕切る東宮。


*ここでも、画像があるのですが、反映出来ないので、

転載元様の画像をご覧下さい。m(_ _)m


何やら老舗の批判論者につきまとい、またこちらのコメ欄にも

犬の立ちションよろしく、短文訪問で数行の批判文をひっかけて行く、

稚拙な擁護論者もいますが、現在までおびただしい時間と費やして、

皇太子と皇太子妃がいかに、皇族という名に値しないか、そ

れ以前に人間としてどうなのか、膨大に記事を積み上げ、提示してきました。

ツイッターの数行で批判した気になるとは笑止です。

語彙とロジックに対しては、語彙とロジックで向き合いなさい、

と申し上げておきます。

焦眉の急は、反日であると言わざるを得ない

皇太子と皇太子妃との廃太子廃妃です。

東宮夫妻は、皇室と国家に害を与える存在になりつつあられます。

皇太子に天皇に即位されたら、韓国に趣き「皇室と朝鮮との濃い関わり」など

述べられ謝罪などされかねず、そうしたら一巻の終わりです。

あり得ない? いいえ、反日左翼勢力が天皇を政治利用可能なのは、

天安門事件以降の天皇皇后両陛下の中国訪問が現実にありました。

訪れても何の効果もなかった、どころか天安門事件への目眩ましの役割を

天皇皇后両陛下が押し付けられた格好です。

こうした状況に加え、皇太子殿下は皇太子妃の実父小和田恒氏の自虐史観にどっぷりと影響を受け、またその手引きで反日韓国人代表、

潘基文や韓昇洙と接触していますから「売る気まんまん」です。

両陛下の支那行きは、教科書の「近隣条項」を作った反日宮沢喜一元首相の

政権下で企まれ、小和田雅子嬢入内は、あたかもそのどさくさにまぎれての

ゴリ押しが見て取れることに留意してください。

そして以後の日本を傷つけ苦しめ続ける河野談話の発表も、

この宮沢政権下であったことに注目。


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「雅子さま」にヘコヘコする、宮沢喜一元総理。

そして河野談話発表に寄与した、時の外務事務次官は誰あろう小和田恒氏であることを、腹に叩き込んでください。天皇陛下訪中に寄与したことも。

池田大作の外遊に便宜をはかったことも。

その「反日左翼男」の娘がなぜ入内出来たのですか?


雅子妃の父親 小和田恒氏の反日思想

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/813fa021b780fc44dc3b10f0ea7a4eec

皇陛下に国辱謝罪させた「皇室使い」の国賊/小和田恒 【保存・拡散希望】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/ec86f08a22b5d6d8c431e44bd6a4c7b5

小和田恒氏を喚問せよ 【拡散希望】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/0d31e664a65cd09bcd2a054bd2635040


雅子さま入内を素直に喜んだこともありました・・・・(遠い眼差し)

雅子さん入内は、天皇皇后両陛下の訪中に尽力のあった

小和田恒氏への論功行賞であったという見方があります。

(全ての要因ではありません。

他に福田赳夫元総理、そして無論高円宮の暗躍あっての入内です。

小和田優美子氏は福田家、高円宮家と双方へ通じていることに留意)

小和田氏の自虐反日的思想と言い、昭和天皇の反対と言い、

あり得べからざる入内の影には謀略あり。

福田赳夫元首相(媚中)が、雅子さんの少女期に「雅子ちゃんは、

将来皇太子妃にする」と言い放った逸話は有名。

小和田氏は福田元総理の秘書。伏線は昔からあったわけです。

小和田優美子氏は帯に「福」の字を染め抜くほど、福田氏には忠誠を誓った人。

そして高円宮久子妃とも旧知。


マンデラ元南アフリカ大統領の逝去に際して,

追悼式御参列のため南アフリカ共和国へ出向いた皇太子に付き添ったのが、

誰あろう福田赳夫の息子福田康夫(親中)元総理大臣です。

更につながりましたね。

点と点を結べば現れる「売国の輪」。部落の輪。


「韓日ワールドカップ」は、世界のサッカー界にとっても

日本単独開催にすべきでしたが、

ここでも暗躍したのが高円宮と小和田恒氏です。


ちなみに、その天安門広場に弾圧粛清側の人民軍少将としていたのが、

皇太子が自らの意志で会ったと指摘されている彭 麗媛で、

皇太子のこの行動は内閣には無断、反日韓国要人たちとの接触と併せて、

民間なら公安の追尾がつくほどの、反日色の強い行動です。

池田大作関連のイベントに出席なさったことと併せて、ご本人にその反日性を

自覚するだけの知力がおありなのかどうか、そこが心許ない点です。


擁護の連中は、反日行動が皇太子であるゆえに許される、

という論理の根拠を示しなさい。

潘基文と韓昇洙に操られ水の総裁として国費を使い、

国連を訪れ続けている皇太子。

これは昨年の画像ですが、一国の皇太子への扱いではありません。

粗末な部屋で、お座なりなレセプション。

スペインを訪問したときも、どうでもよさげな扱いが露骨でしたね。

海外のほうが正直に、「次期が誰か」を知っています。


*ここの画像もこちらでは、反映されませんので、

転載元様をご覧下さい。


皇太子を取り込むことに腐心している潘基文は名うての反日です。

【韓国】潘基文 国連内で「反日ビラ」ばら撒き

反日国連


https://www.youtube.com/watch?v=pYtsgvEtmSg


あの気色悪い売国怪物、小沢一郎がなぜ国連を愛していたのか。
大反日組織だからですよ。そことパイプのある小和田恒とは何者なのか。
国連には雅子妃の妹も噛んでいたはず。

*池田 礼子は、 国際機関職員であり、

皇太子徳仁親王妃雅子の実妹として知られる。

国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

反日組織国連と国連大学に入り浸る皇太子とその妃。

次期大統領候補、超反日・潘基文がなぜ、皇太子と親密なのか。

皇太子妃の母親、小和田優美子氏と

日本ユニセフとの関わりも看過できません。

なにゆえ、池田大作と密着のアグネス・チャンを看板とする
組織に皇太子妃の実母と妹がからむのか。

こちらにはまた半島利権の宮家高円宮家の承子さんが、就職して
ここでもまた、いかがわしいひとかたまりをなしています。
日本ユニセフは鳩山由紀夫の母方祖母が創設者です。
小和田家の関わるところ、朝鮮中国の気配が色濃いのはなぜ。


大体韓国と支那に褒められるって、鳩山や村山富市と同列売国奴。

・・・・・あ、天皇陛下皇后陛下も韓国から絶賛なんでしたっけ。 http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0162.gif

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長年、妃をやっているというのに、

浅く腰をずらしてから立つという知恵すら身につかぬままの粗末な脳。

痩せこけた脳に引き比べ体は膨満。


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年間1700万円、「式服費」の名目で受け取っているのに、
一体、そのお金、何にお使い?

雅子さまの「学歴」の底上げはだいぶ知られてきましたが、

小和田恒氏も疑惑のお方ではあります。


小和田恒氏修士論文盗難事件


本人が語った(要旨)


ケンブリッジ大学が賞をくれて、その上で博士号コースを続けていた3年目。

ケンブリツジを離れる頃には論文をほとんど書き上げていたけど、

もう少しいいものにして、それから提出したいと思った。

そこで、日本に戻ってから仕上げようと決めた。

いずれにしろ私は(日本)政府から派遣された身で、そ

の時はもう日本に戻らなければならなかったから。

当時は全て船便で送らなければならない時代だったから、

私も自分の物を船便で送ったら港でトランクが1つ紛失。

それには服や本などと一緒に大事な学位論文の原稿が入っていた。

トランクは二度と見つからず、

ゆえに私は博士号を取る機会を失ってしまったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで

あのー、船便って現代でも紛失ありますよ。飛行機でさえトランク紛失はあります。大切な学術論文を「衣類と一緒に」トランクに入れます?

 普通、肌身離さず自分で持って帰りませんか?

 だって、船便到着が遅いのですもの。

論文を仕上げる時間がなくなっちゃいますから。

普通、自分の手で持ち帰ると思います。・・・・・それを船便で盗られた、ねえ。

雅子さまも、国民のお金でオックスフォードに派遣されて、

単位取れずにお帰りになったのでしたね。

はいはい、はい。あ、天皇も落第。皇太子は政治学科に入る学力なし。
あーあ、多いですね。賢くないお方たち。


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祓い給い 清め給え

機能不全に陥って久しい東宮。皇太子と皇太子妃の廃太子・廃妃を望みます。
秋篠宮殿下妃殿下への移譲を。

◆宮内庁へ意見

information@kunaicho.go.jphttp://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%A5%CF%A1%BC...
http://en.wikipedia.org/wiki/Harvard_Universityの“Views of Harvard”2パラグラフ目にも、ハーバード大学のgrade inflationにつき記述がある)


ハーバード大成績評価について

上述のように、ハーバード大学が学部生に甘い成績をつけることは有名で、以前からかなり問題になっている。平均的な成績がAなので、普通に履修していればGPAは限りなく4に近づける。このBoston Gloveの記事だと91%がHonor(Cum Laude, Magna Cum Laude, Summa Cum Laude)で卒業らしい。

Harvard asks faculty to justify grading methods
By Patrick Healy, Globe Staff, 10/23/2001
SPECIAL REPORT | Oct. 7

 At Harvard, it's honors all around Harvard University has a dirty little secret: a grade inflation culture that allows 91 percent of students to graduate with honors, rendering the distinction virtually meaningless.

 For the first time, professors at Harvard University have been asked to justify the grades they give students as the university launches its toughest examination yet of grade inflation.

 Susan Pedersen, dean of undergraduate education, gave faculty members a January deadline to explain their grading practices in writing. A committee will review the data and recommend whether changes to grading should be considered.

 The plan was announced at a private faculty meeting last week, following a Globe study revealing that decades of grade inflation have made it much easier to graduate with honors.

 More than half of Harvard's grades last year were A's and A-minuses, and a record 91 percent of students graduated with honors in June. Yale, Princeton, and other Ivy League and nationally ranked universities had far lower rates of honors, the Globe found.


マグナ・クム・ラウデについて

英語版Wikipediaの「Latin honors」のページによると、

Harvard College first awarded final honors to its graduates in 1869. From 1872 to 1879, cum laude and summa cum laude were the two Latin honors awarded to graduates. Beginning in 1880, magna cum laude was also awarded:

The Faculty then prepared regulations for recommending candidates for the Bachelor's degree, either for an ordinary degree or for a degree with distinction; the grades of distinction being summa cum laude, magna cum laude, and cum laude. The degree summa cum laude is for those who have attained ninety per cent on the general scale, or have received Highest Honors in any department, and carries with it the assignment of an oration on the list of Commencement parts; the degree magna cum laude is for those who have attained eighty per cent on the general scale, or have received Honors in any department, and carries with it the assignment of a dissertation; and the degree cum laude is to be given to those who attain seventy-five per cent on the general scale, and to those who receive Honorable Mention in any study together with sixty-five per cent on the general scale, or seventy per cent on the last three years, or seventy-five per cent on the last two.... [Annual Reports of the President and Treasurer of Harvard College, 1877-78]

だそうなので、GPA3.2ならMagna Cum Laudeとなれる。すなわち、成績の8割がBで2割がAなら取れるということ。前述の通り平均の成績がAである以上、かなり出来の悪い人間でも取れるということになる。

もうひとつ、雅子妃がMagna Cum Laudeということは、当然Summa Cum Laudeではなかったということだ。この英語版Wikipedia によるとハーバード大学では9割以上Aの成績を獲ればSumma Cum Laudeとのことなので、GPAは3.6以下だったと推察される。ハーバード大学のような成績インフレ学校で GPA3.6以下とは、特に優秀でもなんでもない。中の中ぐらいの成績だと結論付けられる。


小和田恒とハーバード大学

実父小和田恒氏がハーバード客員教授(1979-1981)として勤めていた。


小和田雅子卒業論文執筆に協力した人々

たかだか一学部生の卒業論文なんぞに普通関わらないような財界人3人が、小和田雅子の卒論作成の手助けをしている事実が存在する。言うまでもなく父小和田恒のコネクションがなければ得られない人脈である。

『素顔の雅子さま』主婦と生活社(1993年)p.76より引用

小和田雅子ハーバード大学経済学部卒業論文

EXTERNAL ADJUSTMENT TO IMPORT PRICE SHOCKS : OIL IN JAPANESE TRADE「輸入価格ショックへの外的調整・日本の石油貿易」

Acknowledgments(謝辞)
This thesis is the product of work carried out in both Tokyo and in Cambridge.

I should like to acknowledge the financial assistance of the Japan Institute and the Center for International Affairs of Harvard University which provided me with summer grants to collect data and interview people in Japan during the summer of 1984. I am grateful for the help given to me in Tokyo by Mr. Kazuo Nukazawa, Directer of the Financial Affairs Department,The Federation of Economic Organizations, Mr. Teruhiko Mano, Genearal Manager of Economic Research Division, Bank of Tokyo, and Mr. Eisuke Sakakibara, Advisor to the President and Director, Genaral Plannning and Administraion Department, Japan Center for International Finance.

In the process of analyzing this material after my return to Harvard I should like to give special thanks to my thesis advisor, Professor Jeffrey D. Sachs for his careful guidance, and to his research assistant Mr. Warwick Mckibbin for help with the computer work.

『THIS IS 読売』1993年4月号pp.51-53、小和田雅子のハーバード卒論を手伝った一人、糠沢和夫氏本人の寄稿記事より引用

 小和田雅子さんのハーバード大学卒業論文(英文九十九ページ)は、一九八五年三月に提出されたものだが、前書きに小生(当時経団連理財部長)と東京銀行の真野調査部長、国際金融情報センターの榊原総務部長(いずれも当時)の協力への謝辞が述べられている。

 前年の夏休みに小生がご父君(小和田恒・現外務事務次官)からの紹介でお目にかかり。経団連の食堂で昼食を共にさせて頂きながら、石油ショックに対するマクロ・ミクロの対応などについてお話をした。

Mr. Kazuo Nukazawa, Director of the Financial Affairs Department,The Federation of Economic Organizations,

糠澤和夫 経済団体連合会参与 (元)ハンガリー大使、外務省大臣官房文化交流部長。
Mr. Teruhiko Mano, Genearal Manager of Economic Research Division, Bank of Tokyo,
真野輝彦 東京銀行参与(当時)、三菱UFJリサーチ&コンサルティング客員研究理事。
Mr. Eisuke Sakakibara, Advisor to the President and Director, Genaral Plannning and Administraion Department, Japan Center for International Finance.
榊原英資 (元)大蔵省財務官、慶應義塾大学グローバルセキュリティーセンター教授。


 繰り返すが、ハーバード大学の成績の付け方は甘く、大手メディアも問題視しているほどである。それにも関わらず、彼女が獲得したのはMagna Cum Laudeであり、最高ランクのSumma Cum Laudeではない。また、ハーバード大学では、一般教養科目の成績も含めたLatin Honorとは別に、専攻科目毎に与えられるEnglish Honorがあるが(ハーバード大学公式ページ)、そちらの方は獲得できていない。ここまで有利な条件が揃っているにも関わらず、成績はこの程度なのである。

東京大学法学部について

日本の一般学生より条件が有利な学士入学

学士入学試験とは当時の共通一次試験や現在のセンター試験を経る形式とは大きく異なり、外国語(英語)と小論文・面接のみでクリアできる代物である。在米生活が長い雅子にとって英語の比重が高い試験は一般日本人受験者よりかなり優位に働くのは疑いなく、併せてハーバード卒業(父コネ・卒論執筆も父コネ)肩書きが面接で大いに効力を発揮したのは想像に難くない。


僅か1年の在籍後、即中退

「昭和62年 東京大学ご中退」と宮内庁HP 皇太子同妃両殿下のご略歴ページにも明確に記載されている。

昭和61年10月に外交官試験(当時はコネが物言う試験だった)合格後、NHK出演やFOCUS取材やまた皇太子を顔を合わせるパーティーに何度も出席しており、更に後期には運転免許取得のために自動車学校へ通ってもいた。

東大法学部に在籍していた1年間で学業に励んでいた様子はまるで窺えない。
→【母校】も参照のこと。


外交官試験について

 →「外交官試験」参照
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93


オックスフォード大学留学について

国費留学

オックスフォード大学ベリオール・カレッジに国費留学(一説には1,300万円かかったとも言われる)するものの、同期7人の中で雅子ただ一人だけが修士号を取得できずに帰国。

 『週刊文春』2006年3月16日号によれば、当時のオックスフォード大学で担当教授だったルーカス・チュカリス教授が、彼女は「日本政府によるアメリカ製航空機の購入」というテーマで論文を書いていたが、外務省に呼び戻されたため断念せざるを得なかったのは残念だと証言している。

 しかし、ならば提出できなかったことについて正当な理由があるのだから、オックスフォード大学当局及び外務省と話をつけて、後からの論文提出を認めてもらえば良かっただけの話である。どうもその辺の行動力が彼女には欠けている気がしてならない。


修士論文を提出できなかった件

小和田雅子が修士論文を提出できなかったのは付き纏うマスコミの所為とも言われたが、移動には宿舎からタクシーを呼べば済む話だし、校内にマスコミが入らないように大学当局と交渉することもできはたずである。

また、小和田雅子が病気をしたせいで満足に勉強ができなかった、とも言われるが、そうだとすれば、彼女は外務官僚として国費留学していながら、自身の健康管理を怠っていたため(他の6人の同期官僚について病気をしたとの証拠・証言は2008年現在に至るも挙がっておらず、現地環境が病気の主要な原因だとは考えられない)に、修士号を取得できず帰国したことになる。

いずれにしろ、社会人としては少々心構えが甘く、論文を執筆できなかった理由付けとしては苦しいものだと言わざるを得ない。


外務省員留学コース

彼女が留学したコースは、学者志望者向けのコースとは違い、企業や官庁の研修生向けのそれであり、現地の学生や少しやる気のある学生ならば1年で修了できるとも言われている。言葉の壁などで手こずってもせいぜい1年半。高校〜大学が米国で、しかも大学の卒業論文を英語で書いてパスした人間が、1年半もいて修士論文を書けなかったというのはまず考えられない。


実父・小和田恒氏の不明瞭な学歴について

名桜大学・客員教授紹介欄では「【最終学歴】英国ケンブリッジ大学大学院修了」、名誉博士号をあげちゃった早稲田大学でも「小和田恒氏は1932年9月18日に新潟県新発田市に生まれた。1955年に東京大学を卒業すると同時に外務省に入省し、その後、ケンブリッジ大学大学院を修了した。」と記載。

しかし、国際司法裁判所の小和田恒Biographyでは「LL.B., Cambridge University」、LL.B.=Bachelor of Laws(法学学士)である。ケンブリッジのLL.M.(法学修士)コースに在籍はしていたが修士論文を提出できなかったことについて、恒本人が「船便で博士論文を盗まれてしまった」と主張しているインタビューが発掘されたことについて保管庫02に書き込みまとめがあるので是非参照されたい。

実父についても修士号を取得しているかどうか定かでなく、いつの間にやら早稲田の名誉博士号をゲトしているところは、まさに父娘揃っての学歴ロンダリングと表現できるだろう。

https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0


外交官試験
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

 平成12年まで行われていた外務公務員I種試験の通称。かつて外務省は、国家公務員採用I種試験ではなく、外務省独自に行うこの試験によりキャリアを採用していた。これに合格して入省した外交官を俗に「キャリア外交官」と呼称し、外務省本省の多くの幹部職や、主としていわゆる大国に駐在する大使等はほとんどこちらから任命されていた。小和田恒・雅子父娘は、いずれもこの試験の合格者である。

 「外交官に比べれば東大法学部卒など霞んで見える」とまで言われ、非常に人気が高く、外務公務員採用I種試験に合格した者は、大学を中退して入省した程である(事実、東大3年〜4年次中退者が非常に多い)。雅子妃が東大を中退しているのも、3年次に合格を果たしたからである。

 またかつては、そのブランドより、在外公館へ他省庁から出向した者(アタッシェ制度)に対して差別的な扱いをしているとの指摘もあった。「外務キャリアの不当な特権意識を助長している」等の批判を受け、外務公務員採用I種試験は廃止され、平成13年(2001年)より、外務キャリアは他省庁と同様に国家公務員採用I種試験合格者から採用されることとなった。

(以上、ウィキペディア『キャリア(国家公務員)』『公務員試験』の項より。一部加筆)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3...


 当時の外交官試験がいかに不透明なものであったかは、外務官僚・外交官の傲慢さ、いいかげんさ、横柄さ、ずさんさを痛快に暴いたテリー伊藤著『お笑い!外務省機密情報』(飛鳥新社)にも詳しい。

「外交官に対する、理由なきこの特別扱いは、まず採用試験にルーツがある。外交官以外はみな、大蔵省をはじめ全省庁のキャリア官僚がすべて、同じ上級職(現在の正式名はT種)の国家公務員試験で選抜されている。

 外交官は語学ができないといけないから?われわれ一般国民はこう騙されがちだが、実態はまるで違う。ノンキャリア組から本省のキャリア組幹部まで、『外交官試験の語学試験の内容とレベルは、専門的でもなければ高くもない』と口を揃える。英語を含めて1ヶ国語だけしか必要ないし、和訳と外国語訳があるだけ。

 最近は大学受験ですら、『日本人は何年間も外国語教育を受けながら、喋れないし聞けない』という批判を気にして、ヒアリング試験ぐらいは取り入れている。しかし、外交官試験は相変わらずペーパーテストだけ。

 したがって、『外交になど、とても使えはしないレベルの語学力の持ち主が、ぞろぞろ合格する』(外務省幹部)

(中略)

 あるノンキャリア外交官は、『語学の専門能力を持っている外交官は、ノンキャリア組の試験で選ばれるんです』と言った。これは、『外務省専門職員採用試験』というやつだ。文字通り、語学の専門能力を持っている人間を選ぶ。

このシステムは、『外交は実は半端な語学力などでやるものではなく、全人的な能力でやるもの。語学は、専門の通訳に任せておけばいい』ということを外務省が、当然ながら知っていることを物語る。『全人的な能力』が求められているのだから、キャリア外交官を特別な試験で選ぶ理由はない。理由の無いものが存在しているのは、日本人の外国コンプレックス、『海外だの国際だのという話は特別な人間にしか分からない』という思い込みがあるためだ。」
(pp.121-123)

「テストといえば、外交官の血族社会が時代の変化に負けずに、延々と続いている大きな理由のひとつは、『外交官試験』にある。外交官試験の問題は、『ヨーロッパ篇 その1』でも問題提起して、廃止を訴えた。ここで、もうひとつの側面を指摘し、重ねて廃止をアピールしたい。

 中央官庁のキャリア組のなかでも外交官だけ別扱いにして、特別に『外交官試験』を行う。つまりは、外交官以外の目で、次世代の外交官を選ぶ機会がないということである。

 しかも、試験官と受験生が実は血のつながりがあったり、そうでなくとも『世話になった、かつての上司の息子さん』が受験生――ということは頻発している。

 コネ優先なんて半端なものじゃない。事実上、身内が身内を選ぶ、身内しか選ばないシステム、それが外交官試験である。外交官試験ある限り、血族社会は揺るがないのだ。

 これを壊す。すなわち外交官試験を廃止して、外務官僚以外の人間が外交官の採用、不採用を決める改革を今すぐ、断行するしかない。」
(pp.221-222)


 未だに雅子妃優秀伝説を信じている人々が多いのは、同氏が指摘する「日本人の外国コンプレックス、『海外だの国際だのという話は特別な人間にしか分からない』という思い込み」が残っているからではないかとも思われる。

 ちなみに、週刊新潮(2004年12月23日発行)に高山正之・帝京大学教授が執筆された「変見自在」によると、「外交官試験には大使の子が5人に1人合格していたが、橋本龍太郎元首相(編者注;故人)が外交官試験を国家公務員採用T種試験に一本化してからは、大使の子の合格者はゼロである」とのことである。
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

小和田恒氏、その重大な罪 2018-07-01
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/a672698e97b9e288783b63bf979afce1

まず「軟禁」と「監禁」の差を知らねばなりません。
小和田恒氏のバーゼルにおける軟禁を、監禁と取り違えて国際裁判所に
出ていたから軟禁などされていない、という擁護をする人たちがいますが、
軟禁とはそもそも、監視付きではあるがある範囲内の自由は認められています。


小和田氏の不祥事に拠る軟禁は事実です。

国際裁判所に出ていたのは事実ですが、おそらく軟禁開始の時期とかぶるかと思うのですが、裁判所を「我々にも把握できない突発事で欠席」と、裁判所がステイトメントを出した一件があり、これは過去記事で述べました。記事を探すのが億劫なので、裁判所の文言は、概略であり当時出された文言そのままではありません。

東京にいったん戻ったとされる情報もありましたが、その時すでに軟禁が解かれたのか、あるいは特例としての一時帰国が叶ったのかそこは解りません。(某所と某所からの数回に及ぶ救出作戦が功を奏したのか、あるいは小和田氏が当局の要求に応えてあるケジメをつけたか・・・・現在では軟禁は解かれて帰国、ある一件で動き始めるまではコンクリート御殿に蟄居していらっしゃいました)


情報を収集していた時の時系列がもはやうろ覚えで、過去記事に遡って検証する時間がなく申し訳ありません・・・・が過去記事には正確に記録があるので、今回は駆け足の概略で失礼します。


小和田氏(及び協力者)はひょっとしてフェイク画像使用ないしは、これは明らかに日時を捏造なさるお方です。

この画像、(6月)6日とされていますが、ありえません。なぜなら、この日付の時小和田氏は東京にいました。情報を得ています。詳細は割愛しますが、やや書けば小和田氏はその時、供も連れず一人で電車移動でした。

この画像自体が合成ではないか、という指摘も複数得ましたが、そこはブログ主には判断できません。ただ、日時に関してははっきり、「あり得ない」と断言できます。6月中、小和田氏は一歩も日本を出てはいません。
これは調査すれば足跡は知れることなので、ブログ主が当てずっぽうを書いているわけではありません。

また付随的におかしな点は、6月6日に裁判所の一室にいた設定なのに、小和田氏はハーグにおける新旧判事交代式にすら出ていらっしゃいません。考えられない非常識と非礼。(6月7日に正式退任)

以下はネットの片隅ではすでに早くから出ている情報なので、BBも書きやすいのですが・・・・隔靴掻痒ではあります・・・・。

たとえばこちら。

https://blogs.yahoo.co.jp/s_kengokeiko/28434890.html

古い記事のせいでもあるのか、上記の情報は・・・・当たらずと言えども、遠からず・・・・というレベルです。↑
事実はもうちょっと、入り組んでいる・・・・かもしれません。(”知恵”の回る小和田氏が、何のバックもなく単独で違法をやらかすような幼い真似はしません・・・・)

しかし、聞こえてくる小和田氏の最近のちょこまかした動きについては小和田氏のなした以下の、重大な日本国毀損行為に比べれば、まだましなほうかもしれません。


以下は、平成26年8月12日の拙ブログ過去記事をベースに、日本という国にとって小和田恒氏がどれほど悪辣なことをやらかしたかのまとめです。

・・・

結局慰安婦問題にもつながる、小和田恒氏は国会喚問に値するのではないか。

河野談話を批判し、河野洋平を喚問せよと主張する保守ブロガーたちが以前は
いて、拙ブログ主もそれには賛同をするものの、しかし小和田恒氏を等閑視するのは、整合性が取れぬ上、怯懦だとも思いますね。同じく東宮問題を避けて、直視する勇気のない保守論客たちも。現実を直視なさい、日本を何とかしたいのなら。

ニューヨークタイムス東京支局(所在地 朝日新聞社内)で、反日記事を発信している 田淵広子氏さえ喚問が言われていたというのに、小和田氏の果たした日本毀損の役割に比べれば、田淵某など蚊ですよ。

◆舛添要一前都知事に見られた日本の中韓へのご機嫌取り土下座外交の始まりは小和田恆外務省条約局長(当時)の答弁に端を発する。

◆日本を根本的に損ねた村山談話・河野談話の原点が小和田恒氏である。

◆翻訳上の問題点なのだが、小和田氏が国会において、サンフランシスコ講和条約における「東京裁判の判決を受諾」を「裁判を受諾」と言い換えたことが、その後の日本の行方を歪めてしまった。

つまり・・・・

日本は東京裁判の「判決は受け入れたが」「裁判そのもの」を肯定したわけではない。

にもかかわらず、それを「日本は東京裁判を受け入れた」とまやかしをやらかしたのが、小和田恒氏という男です。皇太子妃の実父です。

◆小和田恒氏のこの発言以降、日本の政治家は外務省からこの間違ったレクチャーを繰り返し受けることになり、いないはずの戦犯を蘇らせてしまいました。


◆靖国参拝問題の根っこも実に小和田恒氏が作った張本人であるということでしょう。

日本はサンフランシスコ講和条約において、東京裁判を受諾はしていない。⇒裁判自体を正当なものとして、受け止めたわけではない。

東京裁判の裁判自体ではなく、(敗戦国としてやむを得ず)刑罰の執行を続けること、それに限定して合意したに過ぎない。


ここまでで、小和田恒という男が犯した重大な過ちの内容は理解していただけたでしょうか。小和田氏が故意に誤訳したのか、単に間違えたのかそれは解りませんが、いずれにしてもその後の日本の舵取りを難破の方向へと導いてしまったのです。
誤訳なら後に深甚な謝罪と訂正が、国民にあるべきで、それがないところを見ると確信犯でしょう。

なぜ小和田氏がかくも、粗雑に祖国を扱うのか、いえもし祖国ならこうも貶めは出来ないでしょうに?

日本国にとって、小和田氏は癌細胞の一つでありそのことはすでに識者から指摘、糾弾されていることですが、皇太子妃の父という立場ゆえにでしょうか、明るみに出ません。それどころか、雅子妃の入内以来トントン拍子の出世です。福田康夫氏,山崎拓氏,加藤紘一氏らと同類の売国奴であるにもかかわらず、彼らを撃つ保守が、一人小和田恒氏のみはスルーしてしまいます。

小和田恒氏が日本を損ねたその「罪」の歴史を箇条書きします。

1 A級戦犯を戦争犯罪人として、土井たか子氏と共に断罪する。

2 女系天皇に向けて動いた形跡もあり。(万世一系皇室の破壊行為)

3 「日本ハンディキャップ論」を唱え、中国韓国へは物申さず、ひたすらお金を貢ぐことを主張。「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」と答弁した。⇒東京裁判を全面肯定

4 福田赳夫氏は、小和田雅子さんが子供の頃から「雅子ちゃんは皇太子妃にする」と豪語していた人物。それに乗ったのが小和田恒氏であり、単なるロマンスによる入内ではなく仕組まれたものである。

5 「日韓フォーラム」への参加者である。同席者に売国新聞朝日新聞の当時主筆であった若宮啓文(わかみや よしぶみ)の名がある。加藤紘一の名も。彼らと同類である。「韓日」合同W杯の母体となったフォーラムである。小和田恒氏が半島利権の高円宮とタッグを組んで動く。(高円宮家は韓国の三大企業+と昵懇の関係を結んだが、小和田氏にいかなるメリットがあったのだろうか)

6 創価学会が小和田恒氏に送った「池田大作特別待遇要請書」に応じた。創価学会への便宜供与である。この件は第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号でも追求されている。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html

7 竹島に関連しての韓国寄り発言。

「自国の領土なら、わざわざ国際司法裁判所に持ち込む必要はない」と日本の提訴の動きを牽制。

(その後ハーグの国際司法裁判所所長に上り詰めたことと考えあわせると、胸が悪くなるほどの売国発言です)

8 村山談話に先駆けて、実は小和田恒氏が売国発言をしていた事実。

戦前の日本がアジア諸国への侵略や植民地支配を行ったという見解を公式に認めたのは小和田恒氏が発端。

昭和60年11月8日、衆議院外務委員会での小和田恆外務省条約局長(当時)の答弁より。

▼社会党土井たか子議員から東京裁判(極東国際軍事裁判)の訴因とされた「平和に対する罪」とサンフランシスコ条約(日本国との平和条約)第十一条の解釈を問われ、当時の小和田局長の答弁。

「極東軍事裁判の評価については学問的にはいろいろな意見がございますけれども、国と国との関係におきましては日本国政府といたしましては極東軍事裁判を受諾しているわけでございます。 ← 注;ここが事実と相違している。判決は受け入れたが、裁判そのものを認めたわけではない。

その裁判の過程におきまして「平和に対する罪」ということが起訴理由になっておりまして、その訴因の第二十七で、被告が中華民国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び保証に違反する戦争を行ったということが挙げられておりまして、御承知のような判決が出ているわけでございますので、そういうものとして政府は受けとめておるということでございます」

それまでの日本政府とは異なる見解が、小和田恒氏によって提示されそれが
定着することとなりました。中韓ソ各々国交回復で解決済みの賠償問題をことごとく、ゾンビのごとく蘇らせたのが小和田恒氏である。


9 小和田恆氏はそれまでの政府見解をうち捨てて、日本はアジア諸国を侵略した。先の大戦が国際法、条約、協定などに違反する戦争であったという裁判の訴因をも受諾したものと解釈を変更。この国会答弁に食らいついた、政治家、マスコミ、知識人たちがその後の自虐史観へと走り、それに乗った中曽根康弘氏などが「靖国問題」などを作り上げてしまう。

10 日本の自虐史観と、その後の中韓へのヘタレ外交の素を作ったのが小和田恒氏である。

・・・・・・・・・・・・・

実に駆け足の概略でしかないのですが、詳細を述べると記事が煩瑣になるので、個々の箇条については各自お調べください。
容易に資料は拾えます。

何度も言っていますが、東宮問題が単独でそこにあるわけではありません。
日韓日中在日カルトなどと絡まり合いながら、GHQの日本弱体化政策、
皇室弱体化施策とも連動しながら、今現在の姿です。

小和田恒氏と雅子妃が親密な外務省創価学会グループ「大鳳会」の
メンバーは約50名もいます。

池田大作を大臣級扱いで海外に送り出す手配を担当し、対韓・対朝・対中の日本外交を歪めてきた張本人的組織で、そこを仕切っていたのが、小和田恒氏です。

擁護派は問題点を俯瞰で見る視野を欠いているので、あらゆる日本毀損の
勢力が小和田・東宮問題とリンクしていることが見えないでいます。

小和田恒氏は、日本国を損ねた何人かの最大「悪人」のうち、官僚としては
最大級の「極悪人」です。ネジ曲がった政治家をその後生み出す土壌となった
という意味では、それらの政治家よりワルでしょう。

安倍総理のいう「戦後レジウムからの脱却」の意味するところの一つは、
日韓、日中、日ソ間の国交回復条約を通じて、賠償金を含むすべての
請求権の相互排除を決め、全て解決済みであるとの確認事項の
再確認もそこに含まれるでしょう。

それを阻んでいるのが自民党のある政権と、民主党政府の不用意な発言、
談話、不要の謝罪などを繰り返した暗愚の歴史にありますが、
それらの「犯人」を列記すれば、鈴木善幸時代の宮沢喜一官房長官と
並んで、外務省の小和田恒条約局長がいます。

小和田氏の名は、日本新党の細川護煕首相、社会党の村山富市首相、菅直人・鳩山由紀夫の民主党両首相などの最悪な元首相たちや、河野談話
河野洋平官房長官らの名に隠れて目立ちませんが、官僚の中では最大級に
日本を損ねた人物です。本当に・・・・・こんな国家毀損者の娘が、よくまぁ
入内できたことと、当時の入内の経緯に改めて強い疑念を抱かざるを得ません。

日本の国益と名誉を著しく損ねて来たこれらの者たちの、証人喚問をして
ことの経緯を明確にすることが、戦後レジウムからの脱却には必要でしょう。
無理を承知で故意に言っているのですが。

しかし、かの村山談話の基礎を敷いたのが小和田恒氏です。

【備考】 小和田恒氏が「日本は悪者。中韓には跪き、尽くせ」という論を
唱える以前の日本の立ち位置は・・・

衆議院・平和条約特別委員会では小和田氏の大先輩である西村熊雄条約局長(当時)が次のように答弁している。(面倒な人は青字だけ読んでください)

「(平和条約)第十一條は、戦犯に関する規定であります。戦犯に関しましては、平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない場合は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。

BB注 A級戦犯呼ばわりは、間もなく上皇后におなりの方です。小和田史観との連動、あるいは共同プロパガンダ。

従つて、十一條はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第一段におきまして、日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を承諾いたすということになつております」

十一月十四日の衆院法務委員会で、佐瀬昌三議員の、「戦争犯罪というものは、今回の講和條約の調印によつて、全部終了したものであるかどうか、なお逮捕とか或いは裁判とかいうような問題が残されておるかどうか、打切りになつたのであるかどうかという点を、あらかじめ承知いたしておきたい」との質問に対して、

大橋武夫法務総裁(当時)は

「戦争犯罪という問題は、わが国といたしましては、ポツダム宣言の受諾によつて引起つて来た問題である、こう考えておるわけでございます。今回の講和條約の締結によりまして、当然ポツダム宣言というものは、関係国の間で効力を失うものと存じまするので、今後調印国の間におきましては、戦争犯罪という問題は発生の余地がないものと心得ております」と答えている。更に大橋大臣は

「第十一條におきましては、これらの裁判につきまして、日本国政府といたしましては、その裁判の効果というものを受諾する。この裁判がある事実に対してある効果を定め、その法律効果というものについては、これは確定のものとして受入れるという意味であると考えるわけであります」

と答弁している。

以上で明らかなように講和条約に調印、批准したときの日本政府は、本来の国際法では平和條約の効力発生と同時に戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失うのが原則であり、今回の講和條約の締結によって、今後は戦争犯罪という問題は発生の余地がない。

また日本は講和条約の第十一条によって極東裁判を受諾したのではなくて、その裁判の効果(注:判決)というものを受諾するとの解釈でいたのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで

  下皇后のお父上は、悪党福田父子のご家来

それまでの全てを覆し、世界に向けて日本を全面的な悪者に仕立てあげたのが、小和田恒氏です。動機は解りません。想像は出来ますが、想像範囲内の事なので控えます。ただ、その動機のいかんを問わず、小和田恒氏は日本破壊・弱体化勢力の首領の一人であると言えるでしょう。日本人ですか? と思わず問い詰めたいこれまでの言動です。

画像で表す小和田恒氏を基軸とした日本壊国の円環

第91代内閣総理大臣・福田康夫氏の反日。親中派。台湾から熱愛と言うほどの親日家である李登輝氏が病気治療目的で来日を希望した際、河野洋平氏とともにビザ発給に反対。

福田康夫元首相が「南京大虐殺記念館」を訪問 中国外務省「歴史を正視」と称賛 (産経)


 【北京=西見由章】上海で開かれた学術会議に出席するため訪中した福田康夫元首相は24日、「南京事件」の資料を展示する江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」を訪問した。中国メディアによると、福田氏は「南京大虐殺の犠牲者を深く哀悼する」と書かれた花輪を供え、同行者らとともに黙祷。「過去の事実を正確に理解しなければならない。もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」と記者団に語った。

 日本の首相経験者が同館を訪れるのは海部俊樹、村山富市、鳩山由紀夫各氏に続いて4人目。


・・・・・ここまで

南京大虐殺など、中国政府の日本貶めプロパガンダに過ぎません。
そのプロパガンダに加担する連中って、本来の意味での日本人ですか?
悪辣な福田父子の家来であるのが、小和田恒氏と優美子氏です。
ジョウ皇后の下に、シモ皇后として即位なさる雅子妃のご両親です。


福田家と小和田家との密着の関係。小和田雅子入内の発端。

http://seesaawiki.jp/w/dosukono/d/%A5%BD%A5%E9%A5%DE%A5%E1


福田赳夫氏の孫娘と親密だった雅子妃。(スキー写真)


1988年3月20-21日 福田赳夫元首相の孫娘横手香代子さんと北海道スキー旅行、滝川市のホテル三浦華園に小川東洲夫妻が合流
左画像:左から小川東洲夫人、小和田雅子、ホテル女将の三浦夫人、福田元首相孫の横手香代子さん/右画像:ホテルの三浦社長、小和田雅子、横手佳代子さん


福田家に忠誠を表す帯。「福」の字が染め抜かれこれは
福田夫人とお揃い。


」」

婚約の記者会見に皇居に入るときも、大将福田氏への忠誠の福の帯。
娘入内の「感謝」のつもりか。世間が信じこまされているように
無理やり入内させられたということではなく、
以前から周到に仕組まれていた婚姻です。
雅子妃も周囲の仕組みに積極的に応えていらっしゃる。

2006年4月2日、元フジテレビ女子アナのチノパンこと千野志麻氏が福田赳夫の孫・横手真一氏結婚、その挙式披露宴に小和田優美子氏が出席。国賊級元大臣に、忠誠の小和田夫妻。

小和田氏売国の発端

福田赳夫首相の政務秘書官に迎えられて、最初に立ち会ったのが日中平和条約締結。それ以来の外務省人脈が連綿。


小和田恒ssiと福田康夫氏は官邸の秘書官室で机を並べていた。以降家族ぐるみのつきあい。


小和田ssiは東京・代沢の福田邸に雅子さんをたびたび連れて行き、福田赳夫元首相に可愛がられていた。

福田・小和田という水面下の、「もう一つの」結びつきの可能性にも留意!!
小和田・江頭の結びつきと同様に。
鳩山・・・ブリジストン創業者の娘と、その嫁との共通項・・・は。


一官僚の出版記念に、駆けつけた福田赳夫氏と宮沢喜一氏。売国2人組。

マンデラ氏の追悼式で皇太子殿下に付き添ったのは福田赳夫氏の息子の康夫氏。

↑左が韓国首相として始めて竹島に不法上陸した韓昇洙。
右が潘基文。


潘基文夫妻と。


竹島(独島)に碑文を打ち立てた韓 昇洙。
皇太子と親しく食事。


ご成婚に現れた、創価三色。

日付の嘘に準じる「虚言癖」に属することなのか? 小和田恒ssiの論文紛失事件。
外務省からオックスフォードに国費を使って研修に行ったものの、一人だけ修士号を取れずすごすご帰国した娘、雅子妃の過去と何となくかぶる、うろんさ。

何度も検証してみたことですが、雅子妃の英語力でハーバードをまともに受講は出来ません。出たことは出ています。卒論のバックにこちらも仕掛けあり。東大は出てませんので。いまだに盛り学歴の印象操作に惑わされている人たちがいますが。小泉進次郎氏の、ありえない偏差値高校からプリンストンでしたっけ、あれも
笑っちゃいますけどね・・・。要するに庶民の常識の外では「そういうこともあるげな」よ、でしょうか。饒舌な進次郎氏ですが、そう言えば英語を聞いたことがないですねえ・・・・? 雅子妃の、sigunature とautographの区別すらつかない尻尾の出し方はまだしてませんが。

後記 ⇒進次郎氏、関東学院大(1年留年)卒業後に、コロンビア大学大学院に留学。

TOEFLiBTでスコア100以上のレベルが求められるコロンビア大、大学院に?
偏差値44留年の人が?

◆小泉進次郎氏は本当に英語がしゃべれるのか検証してみた!
https://ameblo.jp/don1110/entry-11918266596.html

さて肝心の小和田ssiですが“ 船便で送った学位論文の原稿が入ったトランクが紛失したため ” 、博士号を取る機会を失った・・・・そうな。

小和田恒 | Dosuko Wiki |
http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92

ぎっくり腰妃の母方ご実家である江頭家の、企業犯罪ともいうべき水俣病への関わりは読者さんご紹介のこのサイトが、まとまっているかも。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/4444/surf18.html

“ 船便で送った学位論文の原稿が入ったトランクが紛失したため ” 、博士号を取る機会を失ったそうで、こちらに載っています。
http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92

替えのきかない大事な論文を手元から離して船便? あり得ないでしょう。カーボン紙しかコピーが出来なかった時代に、しかも提出期限のある論文を時間のかかる船便で、トランクの中に詰めて送る?

・・・・・長過ぎましたね、記事。2つに分けるべきでした。
このところ、いよいよ時間が取れなくなっていて、書ける時間に書いておこうと合間を縫ってバンバン打って構成も考えず、すみません。

余計なこと書きついでに、最近ネットの片隅で流れている皇后陛下の御陵問題・・・・は要するに多摩御陵(武蔵野陵墓地)はお嫌だと。だから、よそにお墓が欲しいと。従来の御陵(みささぎ)忌避は理由不明。神道色をなくべく排したいお考えからか、天皇家への反感なのか・・・? 天皇陛下の御陵のそばの小さな祠でいい、などと・・・・おっしゃっていたのに(口はおきれい、なさることエグい)・・・・開発用の山を某地にお狙い、その取得のお使いにちょこまか動きまわっているのが小和田ssiだ・・・・そうで・・・・・。
バーゼルでの不祥事で顔向けできなくなったことへの挽回なのかもね・・・・ってことで。
この方「法の正義」がどうかって、退任にあたってぶち上げていなかった?
嫁の父も二枚舌、姑も・・・・。あー・・・・・孫はまた遅刻早退、欠席のスパイラルだそうで・・・・ご優秀報道のマスコミも二枚舌(sigh)これだけ学業から遠ざかっていて、ご優秀なら本当にご優秀なんでしょうね。(wry smile):-}

祓え給い、清め給え、神(かむ)ながら守り給い、幸(さきわ)え給え

無記名Unknown は読まぬままハネます。

内容要約のタイトルを入れ他とかぶる可能性のないHNを記名の上、ご参加ください。

文章の一部をHNに代用すること禁止。「匿名」「通りすがり」など
極力受け付けません。

異論反論歓迎、しかし一定の知的レベルに満たないコメントは、最初は極力公開しますが、それ以降は読まぬままハネます。

コメント (15)

小泉進次郎氏 (美しい日本)2018-07-01 13:10:33

ケアレスミスの指摘になりますが、
小泉進次郎氏は
プリンストン→コロンビア大学大学院
だと思います。
関東学院大(1年留年)卒業後に、コロンビア大学大学院に留学。


小泉進次郎氏は本当に英語がしゃべれるのか検証してみた!
https://ameblo.jp/don1110/entry-11918266596.html

美しい日本さま (BB)2018-07-01 13:31:16

時間の不自由を口実に、チェックをあちこち怠っていて、すみません。時間が出来た時の記事アップに気が急いて、細部検証を怠っています。
情報は追加しておきました。
ありがとうございます。
刑罰法規不遡及の原則 (茶どら)2018-07-01 14:06:33「平和に対する罪」は事後法では。
事後法で遡及的に処罰することは禁止されています。
それを安易に受諾するとは国益に反します。
また、元首相が南京大虐殺記念館に訪問するとは。
どいつもこいつもアチラの操り人形みたい。
望月記者? (ななしでごめんなさい)2018-07-01 16:49:51学生相手に何を話すのでしょうね。

http://www.samasemi.net/2018/special_03.html


BBさま、ありがとうございます (5)2018-07-01 22:38:05

オワッダー氏はとにもかくにも朝鮮人そのもの、と感じます。
顔 (会社員)2018-07-02 12:57:38 小和田恒の顔貌を見るにつけ、この世に悪魔がいるのだと実感する。

 宮沢、小沢、鳩山、習、、正田美智子、盆暗、小和田雅子に連なるものだ。その生涯をかけて悪巧みをしている者どもの動きを、普通の暮らしをしている者が知る由もない。
 
 それら悪魔を 寄せ付けないようにするのが、大神主の天皇であったはずが、今の体たらく。
 しかし、案外、悪魔退治は簡単かもしれない。
 本物の大神主が、真の祈りをささげることが鍵、と 思う。
 秋篠宮殿下よ、天皇陛下になってほしい!

 又、そして、3000年も遡れば、日本人は全員天皇家筋なのだ。 これは強いだろう。

悪魔ども、死霊の顔小和田恒、日本人を舐めるなよ!


恐ろしい (はれ)2018-07-02 15:55:48

こんな輩が跋扈する日本。 恐ろしい。
ただ知らなかっただけでずっとそうだったとは。

少しずつ小和田氏の悪行が見えてきました。
このブログのおかげでしょう。ブログランキングで
小和田氏の事に言及したものがあったでしょうか。
(トップ入りで)
コンパクトにまとめてしかもキチンと壺を押さえている。

ひとりでも二人でも覚醒者が増えますね。

ブログ主はこんなに日々奮闘しているのに
他の保守の方は知らないのでしょうかね。
皇室とサヨク、共産、在日、創価のつながりを探って欲しい。

「パチンコの・・・」さんのブログで韓国肥料男、シンジロウのことを顔のいいだけの石破、と
言っていたのに吹きました。
他のブログでは被っていることも多いのに、
皇室のことはあまり言わないんですよね。???

個々に特色があるから読まれるのかもしれないなぁ。
???


はれさま (BB)2018-07-02 19:46:17

>他の保守の方は知らないのでしょうかね。

知っているな・・・・と感じるブロガーさんはいらっしゃいます。知っていて、口をつぐんでいる。
どうしようもないなあ、と思うのはただ「皇室を批判している」というそのことだけで、拙ブログを「保守分断」とか謗る人。
こちらは是々非々で営んでいるので、支持している安倍総理も違うと思う点は批判してきました。
するとこれも「保守分断」と来る。
脳細胞の配列がシンプルなのでしょう。

決まり文句で斬った気になるのではなく、こちらが提示する事実がもし間違っているなら、理由を添えて明示してください、と何度も呼びかけているのですが、要するに「答えられない」のです。


欺瞞の系譜 (伊藤知昭)2018-07-03 10:30:01

BB様、皆様

救国のブログ、有り難う御座います。

ハル・ノートの張本人はノーベル平和賞。
戦前から国連が何だったのかこれで明白。

伏魔殿と言われた外務省の主軸小和田恆。
コーデル・ハルの末裔であり国政操縦者。

関連記事をウィキペディアから貼らさせていただきます。
ネットでは様々な資料が得られますが、考察の起点として使わせていただきました。

[ コーデル・ハル ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AB

[ Cordell Hull ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Cordell_Hull

[ ハル・ノート ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88

[ Hull note ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hull_note

[ 小和田恆 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%86

[ Hisashi Owada ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hisashi_Owada


ハル・ノートから極東国際軍事裁判を経由して美智子妃と雅子妃の入内までは一続きの流れ。
そしてコーデル・ハルの役回りは小和田恆と相似形であり、GHQ の末裔にとって、代わりは幾らでも居た様に見えます。

[ 戦時国際法 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B3%95

[ Law of war ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_war

[ ハーグ陸戦条約 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84

[ Hague Conventions of 1899 and 1907 ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hague_Conventions_of_1899_and_1907

[ 極東国際軍事裁判 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4

[ International Military Tribunal for the Far East ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/International_Military_Tribunal_for_the_Far_East

GHQ にしてみれば、福田赳夫と福田康夫親子は諸々の執行人であり、後々の小和田恆は忠実な執事だったのではないでしょうか。
元正田美智子嬢と元小和田雅子嬢は、コーデル・ハルと戦後も優遇された戦前の反日サボり駐米日本国大使館外交官の系譜に繋がる、その延長に見えます。

例えば、米国が画策した国際紛争で、福田家に関係した越智通雄と越智隆雄親子が元小和田雅子嬢を介してイラク戦争と全く無関係ではないでしょう。
イランやアフガニスタンですら、米国の GHQ に連なる勢力は、成功体験の日本で味をしめた結果で同じパターンを繰り返した様に見えます。

小和田恆の学歴や外務省での闇の部分。
GHQ の末裔にしてみればエージェント。

度々恐れ入りますが、入力ミス等は後日対応させてください。


日本大事、天皇大事、万世一系の秋篠宮御一家による宮中祭祀が大事。

ただし、このままでは眞子内親王を除く。

文仁親王と悠仁親王の御代を目指して。

御多忙中、大変失礼致しました。
軟禁 (まほろば)2018-07-03 12:06:41誰が軟禁してるのかな?政府かな?それだと内閣ぶっ飛ぶなぁ


まほろばさん (芝山)2018-07-03 18:01:05

>誰が軟禁してるのかな?政府かな?それだと内閣ぶっ飛ぶなぁ

読解力ゼロ。どころかマイナスかな。

他コメントも、以下同文。


皇室の闇 (はれ)2018-07-04 17:11:11

BBさま
>知っているな・・・・と感じるブロガーさんはいらっしゃいます。知っていて、口をつぐんでいる。

皆が周知の事実に、確証を持てばきっと言及してくれるのでは。 噂ではなく現実に起こったこと、実証されていると考えたら気が楽になるかな。まさかどこからかの圧力、負荷はかかっていないと思いますが。

BBさまが積み上げているのは事実や報道されている事、でそれ以上でもそれ以下でもないです。それが
分かるとき、持続して現在も実を結んで行っているのはないかと思います。きっと。

はれさん・・・・ (BB)2018-07-04 18:40:01

>確証を持てばきっと言及してくれるのでは。

でもないでしょう。

確証もなにも、たとえば天皇陛下の皇室の祖先は朝鮮人ご発言は客観的事実ですが、そこは知っていて踏み込みません。

天皇陛下のご発言に狂喜した韓国人の勘違いをたしなめる形で、先祖は朝鮮人説を検証的に否定はしても、その否定形を天皇陛下ご自身に向けることに、激しい抵抗感があるように見受けます。

日本人のDNAに「畏れ多いこと」という感受性が刻印されていることに加え、天皇陛下及び内廷皇族なかんずく次期天皇でいらっしゃる皇太子殿下の、これも客観的に拾える反日発言と報道があっても、見ぬふり聞かぬふりするのは、自らの価値体系が根こそぎひっくり返されるという一種の恐怖心と共に、保守は例外なく憲法改正主義ですが、他ならぬ天皇と次期天皇が憲法改正に反対なさっている現実に直面せざるを得ないというジレンマに陥るのです。

だから、触らず。

あと改正後の憲法では、天皇を元首として仰ぐ保守が大半なのです。
が、現状天皇陛下と皇太子殿下はGHQ価値観に基づく自虐史観、いわば左翼でいらっしゃいます。
左翼の元首では、憲法改正が現在よりワースの結果を呼びます。だから触らずにいます。
が、拙ブログのスタンスは、肝心のところを覆い隠して憲法改正になった暁、日本の国体は現状よりも危うくなる。だからその危険を避けるため、皇室の暗部と腐敗部分は、今のうちに・・・・傷が深くならぬ内に、一人でも多く知らしめ、日のもとにさらしたいのです。


 >噂ではなく現実に起こったこと、実証されていると考えたら気が楽になるかな。

上記の理由で、気は楽にはなりません。
噂レベル以上の情報も、見ぬふり聞かぬふりですが。

「解っている」「知っている」ブロガーさんは、BBブログは放置・・・・です。知らんぷり。
「保守分断」の「反皇室」のといじっている人たちが、無知であるし、また自ら真実を知ろうともしないレベルであり、これは北の将軍や新興宗教の教祖への盲拝と同種の心理です。

>BBさまが積み上げているのは事実や報道されている事、でそれ以上でもそれ以下でもないです。それが
分かるとき、持続して現在も実を結んで行っているのはないかと思います。きっと。


ありがとうございます。

ただBBの発信程度で、世の中も皇室も変わることなどありません。ただ、100年後に真実を知る人が今より多く、200年後にはもっと広まるように、と願いつつ営んで来ました。
人は、いつまでも美しい勘違いのもとに、真実の埒外に放置されているべきではありません。
闇で嘲笑っている人達がいます。それを許したくないのです。たとえ、数百年の時が必要だとしても、真実は知らねばなりません。

皇太子と皇太子妃が天皇皇后に即位されたら、さすがに隠しきれない状況は出てくるので、皇室に疑問を持つ人は今に比べれば、相当数増えるかと思います。


小和田氏? (男塊世代)2018-08-14 12:54:21

動画「ポルポト・知ってるつもり」
https://www.youtube.com/watch?v=VGRNEnc4YvY

上記、動画後半(26分過ぎ)の中山太郎外務大臣の左手にいるのは小和田氏?


https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/a672698e97b9e288783b63bf979afce1

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/322.html#c1

[近代史3] 日本の官僚やアメリカへの留学生はこういう手口でアメリカのエージェントにされる 中川隆
2. 中川隆[-10924] koaQ7Jey 2019年4月05日 11:39:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1104]

日本の官僚はアメリカのハニートラップ戦略によって動かされていた:


パソナ美女接待迎賓館”仁風林”
パソナ南部靖之会長の愛人達 竹中平蔵と橋下徹 都市伝説とその裏側
http://maezaki.net/pasona-takenaka


仁風林関係の動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BB%81%E9%A2%A8%E6%9E%97


仁風林 - Google 画像検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BB%81%E9%A2%A8%E6%9E%97&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwi08f2c0cfLAhXiG6YKHSDDAPYQsAQIGw&biw=1140&bih=648


「仁風林」はCIAが作ったハニートラップ製造店か? 
かつてのノーパンしゃぶしゃぶ事件と酷似。
http://rapt.sub.jp/?p=11226


今や日本の政治家は完全なアメリカの飼い犬となり、アメリカの意のままに動かされています。

どうしてこんなことになってしまったのか。
脅されているのか、それとも金か何かで操られているのか。

色々な想像が頭の中をよぎりますが、今回のASKA事件によって、政財界の多くの人たちがハニートラップにかけられてしまったのではないかという疑いが出てきました。少なくとも私はそう見ています。


要するに、政財界の大物たちを麻薬やら女やらで誘惑して弱みを握ってしまうわけです。

そうすると、彼らはもう二度と自分の好き勝手はできない。

麻薬と女に手を出したことが世間に知れたら、その人は現在の地位を失い、最悪の場合、食べることすら事欠くようになってしまうからです。

ハニートラップを仕掛けたのはもちろんアメリカの金融ユダヤ人でしょう。

彼らは過去にも巨大なハニートラップ店を作り、大勢の霞ヶ関の高級官僚たちを罠にはめてきたという経緯があります。

皆さんもまだ記憶に残っていると思いますが、その有名なハニートラップ店が例のノーパンしゃぶしゃぶ「楼蘭」です。

97、98年頃、この怪しげな店に有名な大蔵官僚が出入りしていることがマスコミによって大々的に報じられました。

これによって彼らの多くが失脚することになりましたが、実はこのときにマスコミに名前を挙げられたのは愛国派と良識派の官僚だけでした。アメリカに留学経験のある官僚、いわゆる売国奴たちは誰もその名前を報じられることなく、そのまま権力の座に居座りつづけたのです。

この事件がきっかけとなって、大蔵省は財務省と金融庁に解体されてしまいました。

それは、日本の官僚の本丸、大蔵省がアメリカに攻め落とされ、完全に占拠された瞬間でした。

こうして官僚の上層部は全てがアメリカ留学組の人間のみとなり、アメリカのエージェントである売国奴がこの国を支配するようになったわけです。

しかも、そのアメリカ留学組が後輩の留学組たちを引っ張り上げるシステムができあがり、ついにはアメリカにこの国を売る者だけが出世するという仕組みが完成してしまいました。

今では官僚の留学先の7割以上がアメリカだそうです。
国費を使った留学で、日々売国奴が量産されつづけているというわけです。

我々のあらゆる資産をアメリカに献上してしまう人間を、給料から留学費用、住居や手当まで、我々がしっかりと税金で養ってあげているのです。

この「楼蘭」と同様、「仁風林」もまたアメリカの作ったハニートラップ製造所だった可能性がなきにしもあらずです。

多くの政財界の大物たちがこのハニートラップにまんまと引っかかり、金融ユダヤ人の意のままに動かされ、国民のために働きたくても働けなくなってしまった可能性があります。


○ASKAで話題の“接待パーティー” 高級官僚も常連だった

今のところ「仁風林」に出入りしていたことが分かっている政治家は以下の通りです。

・安倍晋三首相
・菅義偉官房長官
・田村憲久厚労相
・下村博文文科相
・林芳正農水相
・甘利経済再生担当相
・石原伸晃環境相
・新藤義孝総務相

もちろん、パソナ会長の竹中平蔵もその一人に違いありませんが、彼はハニートラップに引っかかった側ではなく、引っかける側だったと考えた方がいいのかも知れません。

「竹中さんみたいなお偉いさんに誘われて、おれも出世したな」

と思って、いい気になってサロンと呼ばれる社交の場に行ってみたら、そこは麻薬と女に満ちた怪しげな世界だった……

「これはちょっとマズイな」と思ったときにはもう遅い。

もちろん、中には麻薬と女の魅力にズブズブとはまりこんでしまう人もいるのでしょうが、逆に気まずい思いをして帰るだけの人もいるかも知れません。

しかし、いずれにしても、その場所に足を踏み込んでしまったが最後。麻薬と女に手を出したという証拠写真が撮られ、それをネタに脅しをかけられる。

これを世間に公表したら、お前の政治家生命はないぞ。

現在のところ、マスコミは「仁風林」がらみの政治家ネタを全く報じようとしませんので、どの政治家たちも脅しに屈して、金融ユダヤ人の意のままに動いておられると考えた方がいいのかも知れません。

実際、現在の安倍政権が国会に上げてくる政策のすべてが金融ユダヤ人の利益となる政策ばかりですからね。林芳正農水相も罠にはめられて、JA解体のために動かなくなってしまったのではないでしょうか……。

もっとも、いくら政治家や官僚たちを罠にはめたところで、最後の最後には国民が黙ってはいません。だから、JA解体の問題にしろ、自衛権の問題にしろ、最後の一押しがなかなかうまくいかないわけです。それでも力づくで金融ユダヤ人の意のままに政治を動かすなら、そのときはB層までもがカンカンに怒り狂って、誰も彼もがA層に変わってしまうことでしょう。

そうなったら、この日本はそれこそ完全な超一流大国になれるかも知れません。

そもそも、ASKAが逮捕され、パソナの名前が表沙汰になること自体、彼らには想定外だったのではないでしょうか。
http://rapt.sub.jp/?p=11226


ASKAで話題の“接待パーティー” 高級官僚も常連だった 2014年5月31日

仕切り役は元財務省の天下り

 ASKA事件で注目を集める人材派遣会社「パソナ」グループの迎賓館「仁風林」(東京・港区)を舞台にした接待パーティー。

常連客には、国会で追及された田村憲久厚労相や小野寺五典防衛相など現職閣僚を含む与野党の政治家の名前が次々と浮上。

政界に激震が走っているが、“接待漬け”されていたのは政界以外にもいる。

霞が関のエリート官僚たちだ。


 美女が体を密着させながら酒をつぎ、豪華料理に舌鼓を打つ――。

「仁風林」の接待パーティーは、さながら高級クラブのサロンのような雰囲気だったという。

 接待客の人選や席の配置などを仕切っていたのは、南部靖之代表の“右腕”といわれ、「公共戦略事業・特命担当」の肩書を持つ上斗米明・常務執行役員。

財務省出身の天下り官僚だ。

「83年入省で、主税局主税企画官、関税局業務課長などを経て国税庁総務課長に就いたものの、なぜか、たった5カ月で大臣官房付に異動し、そのまま辞職した。2010年に執行役員としてパソナに天下りしました」(事情通)

霞が関で突然の大臣官房付の異動はスキャンダル絡みが多い。

南部代表はセクハラなどでミソを付けた有能な人材を利用するのがうまい。

ま、いろいろとあったのだろうが、上斗米氏が霞が関とのパイプになったのは間違いない。


「パソナの官僚接待はすごいですよ。
局長以上の幹部の多くは、“仁風林パーティー”を知っているはずです。

パソナを含む派遣業界は90年代、業界全体で数十億〜数百億円規模といわれた派遣社員の社会保険料の未納の扱いについて頭を痛めていました。

98年には会計検査院が全国の派遣会社の約400の事業所で、約35億円の社会保険料の徴収漏れがあったことを指摘しています。保険料徴収が厳格化されれば、業界はたちまち火の車。そこで保険料の支払いを緩くするための日雇いや請負といった規制緩和に政界工作を仕掛けた。

課長クラスもパーティーに来ていて、南部代表の腰巾着といわれているエリート官僚は大勢います」(元人材派遣会社幹部)


仁風林」の常連官僚の中には、経産省の局長や中小企業庁の幹部職員がいて、実名が飛び交っている。

 文科省の事務方トップ、山中伸一・事務次官の名前も出てきたから文科省に事実確認すると

「こんなことを次官に聞けるワケがないし、プライベートなことなので答える必要はない」(事務次官室)

ときた。

 経済ジャーナリストの荻原博子氏がこう言う。

「労働者あっての国や経済なのに、官僚や派遣業界は、労働者を『出来る限りコキ使って搾取するコマ』としか見ていない。

自分たちさえ儲かればいいと思っているから、政官財で“癒着”しようが“談合”しようが、悪いという感覚がないのでしょう」


「仁風林」での政官接待は、98年の銀行と旧大蔵官僚の「ノーパンしゃぶしゃぶ接待」を思い出させる。

お車代などの現ナマをもらって、行政をネジ曲げたのだとすれば許されない話だ。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/150621

2014年6月4日ASKA(飛鳥涼)とパソナ南部、政界の相関図

ASKA(飛鳥涼)とパソナ南部、政界の人間関係を個人的にまとめてみた。

2chに「芸能界薬物事件相関図 」スレがあるが、芸能界だけでは全体像がわかりにくい。


http://takanojyou.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html
ASKA(飛鳥涼)とパソナ南部、政界の相関図
(版を重ねる毎に「パソナの女相関図」のようになってしまった)


パソナグループのベネフィットワンが、防衛庁の福利厚生を一手に引き受けている。隊員を含む約26万人の個人情報をパソナが保有。

民間企業が従業員の転職先探しをパソナなどの再就職支援会社に頼むだけで、労働移動支援助成金が10万円支払われる。転職成功時には最大60万円まで支払われる。次にパソナが狙う利権は、国家公務員の採用試験と再就職斡旋。なお、リクルートホールディングスは10月に上場を控えている。

パソナについて報道がなされないのは、南部と昵懇のケイダッシュ会長川村龍夫がメディアを抑えているからと言われている。

ASKAは警察の取調べに覚醒剤の使用を認めたが、栩内は否認している。南部の代理人が栩内に余計な事を話すなと伝えているという情報もある。

弘道会の上部団体の山口組は、清原とAVEX松浦社長の逮捕を阻止。次の生贄としてGACKTを献上し、他はお咎めなしの交渉中。

ASKAは札幌の弘道会関係者と揉めてドジを踏んだ。それがなければ表沙汰にならずに済んだかもしれない。揉めたから殺されそうになり、嫁が心配して事務所に相談し通報という流れになったのではないか。

ASKAの覚醒剤入手ルートは複数あるのだろう。その一つとして栩内ルートがあるのかどうか。もしあるのだとすると、北朝鮮に太いパイプを持ち、覚醒剤使用の疑惑がある中川が気になってくる。メディカルアソシア元社長田中秀代も同じく気になる。栩内は未だに否認し続けて口を割っていないことからも、パソナルートがあるのではないかと勘ぐってしまう。

メディカルアソシア元社長田中秀代は、ほとんど会社にも出勤してこなかったそうだ。自社株を9割近く持っていたが、3月末に退職して売却してした後、雲隠れしてしまった。また栩内と南部とも親しいときている。田中秀代の写真を検索しても出てこない。一体どういう人物なのであろうか。

札幌の弘道会関係者も薬物入手ルートと週刊誌は報じていた。元運転手X氏は破門されたそうだから、薬物入手ルートの1つだろう。山口組は建前上薬物は御法度だ。X氏は山口組系弘道会の組員だったのではないか。X氏の出身大手芸能プロはバーニング系だったのかどうかも知りたいところだ。

ASKAが所持していた検査キットはどこから入手されたものなのだろう。医療関係の平岩医師や田中元社長は関わっていなかったのか。

逮捕されたASKAと栩内の周囲の人物は、蜘蛛の子を散らすように逃げている。平石医師、運転手X氏、メディカルアソシア田中元社長がそうだ。

谷口は芸能界のドン周防の鉄砲玉みたいな人物。最近ではK−1の石井も周防の手先となったようだ。

エコLOVEは事実上バーニング系の事務所ではないだろうか。石井がエコLOVE顧問で、南部とバーニング系事務所ケイダッシュ会長の川村は昵懇だ。その上、仁風林のママ役佳つ乃は、パールダッシュ(バーニング系)所属だ。南部自体がバーニングと関わりが深いのかもしれない。

創価学会の視点で見れば、南部⇒K−1石井⇒ケイダッシュ谷口、南部⇒前原議員の嫁、浮島智子(公明)となる。創価学会は芸能界、財界、政界を股にして人脈がある。

仁風林式高級クラブシステムはよくできている。政治家の弱みをすべて自社内に保持できる。自社内で飲み食いさせて女性を充てがうだけだから、直接的な金銭授受が発生しない。これでは贈収賄事件として立件しづらいのではないだろうか。リクルート事件とは決定的に違う点だと思う。

仁風林式高級クラブシステムを真似る会社、既にやっている会社、多数ありそうだ。

南部のまわりにいる女性達を追っていくことで、事件の概要をわかりやすく紐解けた。最初はASKA相関図として作っていたのだが、パソナの女相関図とも言えそうな図になってしまった。「パソナの女」という小説のネタにできそうだ。パソナはペルソナをもじったらしいから「ペルソナの女」の方がいいかもしれない。

ASKA事件絡みで明らかとなった防衛庁利権だが、これは公安事案だと思う。自衛隊員の個人情報をパソナ経由で北朝鮮や韓国へ流している可能性があるからだ。前原の嫁が防衛庁利権を持っていること自体が怪しい。夫である前原は防衛族だ。

ASKA事件の影に隠れて、吉松育美のストーカー事件は忘れられているが、マット・テイラーを通じて川田亜子の不審死(一般には練炭自殺とされる)と繋がりがあることは注目に値する。吉松育美の事件はパソナ関連事件だということを強調しておきたい。

吉松育美の事件はメディアで一切報道されなかったが、バーニングに関わる事件だからという理由とは別に、吉松がパソナ社員だという理由もあったのではないか。

マット・テイラーはよくわからない人物だ。古くはジュリアナ東京で出入り禁止になったとの噂もある。只の不良外国人にしては、バーニングに対抗できているところが腑に落ちない。FBIもしくはCIAの手先なのだろうか。本名かどうかすら疑っている。

竹中平蔵の利益相反行為(パソナへの利益誘導) は、明らかな「犯罪」だ。これは忘れてはならない重大事項だと思う。

相関図の情報は週刊誌や2ch、メルマガなどからかき集めた。あまりにも情報ソースが多いため、一つずつ挙げていない点、ご了解頂きたい。

相関図はあくまで一つの見方であり、何を重要視するかによって見解はそれぞれで違うと思う。

【相関図登場人物】
南部 靖之
佳つ乃
栩内 香澄美
大日向 由香里
吉松 育美
金ヶ江 悦子
浮島 智子
前原 愛里
前原 誠司
小野寺 五典
田村 憲久
竹中 平蔵
中川 秀直
ASKA
飯島 愛
清原 和博
運転手X氏
石井 和義
周防 郁雄
谷口 元一
川田 亜子
マット・テイラー
http://takanojyou.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html


2ちゃんねる 芸能界薬物事件相関図
http://nozomi.2ch.net/test/read.cgi/4649/1400586135/

仁風林とは?
南部 靖之と飛鳥,栩内 香澄美/とちない かすみを繋ぐSEX迎賓館の真実。
安倍晋三まで…
http://matome.naver.jp/odai/2140073489719743801


パソナグループ代表南部 靖之が政財界の要人を接待する為に作り上げたセックス迎賓館「仁風林」

この仁風林には、安倍晋三首相をはじめ、森喜朗元首相や民主党の前原誠司元国土交通大臣も訪れたことがあるという。

財界、政界、芸能界の要人たちを覚醒剤漬けの快楽の虜にしたセックス迎賓館「仁風林」の真実とは!

更新日: 2014年09月22日


ASKA、飯島愛、栩内香澄美だけじゃない。接待でシャブセックス漬けになった要人たち。SEX動画が流出。


一般人の感覚では信じられない姿が…。
薬を使ってのSEXは抜け出せないとは聞いたことがありますが…
流出した動画は以下の記事より。


「検察劣勢みたいに報じられていますが、そんなことはない。ASKAが自身の初公判で、栩内について大事な人と証言したのも、検察側にすればしてやったり。」(捜査事情通)

ASKA、飯島愛、栩内香澄美だけじゃない。接待でシャブセックス漬けになった要人たち。SEX動画が流出。


首相が叱責…ASKAの女に異常接近していた小野寺防衛相

パソナグループの迎賓館「仁風林」(東京都港区)。同社の南部靖之代表主催のパーティーに、田村憲久厚労相ら現職閣僚5人が出席したことをこれまでに伝えたが、小野寺五典防衛相(54)も“メンバー”だったことが日刊ゲンダイ本紙の調べで新たに分かった。覚醒剤使用でASKAが逮捕される直前まで通っていたようだ。


栃内香澄美 パソナ 「仁風林」に出入りしていた民主党の前原誠司
http://totinaikasumiaskasex.blog.fc2.com/blog-category-33.html


http://rr.img.naver.jp:80/mig?src=http%3A%2F%2Fblog-imgs-70.fc2.com%2Ft%2Fo%2Ft%2Ftotinaikasumiaskasex%2Ftoti30.jpg&twidth=300&theight=300&qlt=80&res_format=jpg&op=r


SEX接待迎賓館と呼ばれる「仁風林」。
政界、財界、芸能界を繋ぐこの肉欲にまみれた施設にはどんな闇が隠されているのか…


「小野寺大臣の目的はASKAの“愛人”栩内香澄美だったそうです。
栩内は青森出身で、小野寺大臣は宮城県出身。“同じ東北出身”をアピールして接近しようとしたけど、うまくいかなかったようです」(事情通)


パソナとは?「仁風林」とは?

竹中平蔵 猪瀬直樹  堺屋太一  永島敏行…栩内容疑者の関係者がやばすぎる…

栩内 香澄美がセックス要員として働いていたパソナ主催のイベントのゲストとして「飛鳥 涼」の名前が!

関係者によるとセックス接待中のビデオの存在が判明…

ASKAと栩内容疑者はセックス中の姿をビデオ撮影しており、精液の付着したティッシュなどとともに押収が確認されたとのこと


出典
http://matome.naver.jp/odai/2140064151454469401


なんとここの記事によると栩内容疑者のマンションからは精液の付着したティッシュなどが押収されたほか、覚せい剤を使用しながらセックスをするいわゆる「キメセク」を楽しむ栩内容疑者とASKAのビデオが発見されたという。


覚せい剤を使用しながらセックスをするいわゆる「キメセク」を楽しむ栩内容疑者とASKAのビデオが発見されたという。詳しくは記事を参照。


とちない香澄美は一体何者?栩内 ( とちない ) かすみとASKA,野村義男とシャブSEXの深い闇。 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140064151454469401


パソナグループ社長 南部靖之とASKAそして栩内 香澄美を繋いだのは財政界のVIPを接待する「セックス迎賓館」だった!


出典
http://matome.naver.jp/odai/2140072863513847301


こちらではASKAと栩内 香澄美の覚せい剤セックスビデオが流出との噂も…


南部 靖之 ASKA 栩内 香澄美( とちない かすみ )を繋ぐパソナのSEX迎賓館の存在が明らかに - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140072863513847301


http://rr.img.naver.jp:80/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140522%2F49%2F4152159%2F13%2F300x400x450210b5e69fc10c3f499601.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=600&qlt=80&res_format=jpg&op=r


また財政界の要人の接待を行う為にパソナ代表南部 靖之が建てたというセックス迎賓館「仁風林」

栩内容疑者はASKAとここで出会ったという。

過去には安倍晋三首相をはじめ、森喜朗元首相が訪れたことも…

おまけにパソナ主催のイベントには飛鳥 涼のほかに竹中平蔵 猪瀬直樹  堺屋太一  永島敏行など著名人の名前が数多く確認された…


パソナに出入りを続ける竹中平蔵のたくらみとは…

労働移動支援助成金は、従業員の再就職を支援する企業に国がカネを出す制度。
それまでは転職成功時に限って上限40万円の補助金が出たが、これを改め、
転職者1人につき60万円まで支払われることになった。

しかも、仮に転職が成功しなくても、従業員の転職先探しを再就職支援会社に
頼むだけで10万円が支払われる。この制度拡充を主張したのが、
パソナ会長であり、産業競争力会議のメンバーを務める竹中平蔵慶応大教授だった。

「労働力の移動と言いますが、要はリストラ促進助成金です。

従業員をクビにすると助成金を受け取れる。昨年3月に開かれた第4回産業競争力会議で、 竹中氏は

『今は、雇用調整助成金と労働移動への助成金の予算額が1000対5くらいだが、これを一気に逆転するようなイメージでやっていただけると信じている』

と発言しています。


5月17日、CHAGE and ASKAのASKA(本名・宮崎重明)容疑者が、覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで逮捕され、芸能界に衝撃が走った。ASKA容疑者は、17日午前7時半頃、同容疑で逮捕された知人の栩内香澄美容疑者宅から出てきたところ、任意同行を求められ、尿検査の結果、陽性反応が出たという。


栩内容疑者は南部靖之代表に気に入られパソナグループの迎賓館「仁風林」で要人たちを接待していた

栩内容疑者は、人材派遣大手パソナグループのグループ会社に勤務後、同グループの南部靖之代表に気に入られた。パソナグループが政財界の要人や芸能人を接待するために東京・元麻布に設けた「仁風林」で行われていたパーティーでは、同社の女性社員が要人たちを接待していたといい、その中のひとりが栩内容疑者だったという。


要人接待迎賓館「仁風林」では安倍晋三首相をはじめ、森喜朗元首相まで…


この仁風林には、安倍晋三首相をはじめ、森喜朗元首相や民主党の前原誠司元国土交通大臣も訪れたことがあるという。


栩内容疑者が住んでいた南青山の高級マンションも会社が借り上げたものだというから、南部代表の溺愛ぶりがうかがえる。
http://matome.naver.jp/odai/2140073489719743801


仁風林とは?南部 靖之と飛鳥,栩内 香澄美-とちない かすみを繋ぐSEX迎賓館の真実。安倍晋三まで… - NAVER まとめ 2
http://matome.naver.jp/odai/2140073489719743801?page=2


今回の件について、南部代表やパソナグループにコメントを求めているが「回答できない」との答えだった


なんとあの元・プロ野球選手や有名ミュージシャンまで…

また、ASKA容疑者の運転手だった人物が、その後、同じく今年3月に薬物使用疑惑を同誌に報じられた元プロ野球選手・清原和博の運転手として雇われていたため、ASKA容疑者の逮捕を受け、清原も不安がっていると報じている。


ASKA容疑者と栩内容疑者が出会ったというパーティーは、政財界の要人も出入りしていたというから、今後、捜査のメスがどこまで広がるか注目していきたい。また、栩内容疑者は、南部代表のお気に入りとして社内では特権的な立場にあったというから、南部代表がどのようなコメントを発表するか注目だ。


覚せい剤を使用してのセックスビデオまでが!

覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕された知人の会社員栩内(とちない)香澄美容疑者(37)が、出向先の人材派遣会社でVIP用の接待要員を務めていたことが21日、分かった。一方、両容疑者の逮捕の決め手は、ゴミ袋から押収したティッシュだったことも判明。覚せい剤の反応が出たほか、精液も付いていたという。


出典
http://matome.naver.jp/odai/2140056068001735601


栩内容疑者が出向していた医療系人材派遣会社のグループ代表が、政財界のトップを接待するための迎賓館として設けた。この代表は自社の美人社員や知り合いのモデルを接待要員に使っており、栩内容疑者もその一人だった。

ここではASKAが抜け出せなかったシ○ブセッ○ス。流出ビデオの存在までが噂されている。


とちない 栩内香澄美と宮崎重明の正体判明!ASKA/飛鳥とのやばすぎる関係とは!顔写真&画像まとめ! - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140056068001735601


http://rr.img.naver.jp:80/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140520%2F34%2F3297504%2F6%2F320x224xf498a504157db453577d6740.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=600&qlt=80&res_format=jpg&op=r


竹中の天下り先か
この会社は自民党とズブズブの関係じゃん
圧力くるかな

今から一緒に これから一緒にパソナに行こうか
http://matome.naver.jp/odai/2140073489719743801?page=2

「仁風林」、超富裕層だけが持つ夢のサロンの中身 2014年05月24日


 大物アーティスト、ASKA容疑者(56)と知人の栩内香澄美容疑者(37)が覚せい剤使用・所持の疑いで逮捕されるというショッキングなニュースが連日、世の中を騒がせている。

この事件で明らかになったのが、2人が出会ったとされる富裕層の迎賓館「仁風林」(じんぷうりん)の存在だ。中の様子はかなり派手だったと伝えられるが、富裕層は、なぜこんなものを持つのか。

 有栖川公園、麻布中・高、西町インターナショナルスクール、各国大使館…。都内でも屈指の高級住宅街でもありながら、どこか異国情緒も漂わせる元麻布2丁目。道幅の狭い入り組んだ道をたどっていくと、「仁風林」がある。歴史的には、江戸時代には旗本屋敷が並んでいた土地らしい。


仁風林

仁風林(港区元麻布2丁目)
 約1000平方メートルという広い敷地内に、昭和39年に建築された鉄筋コンクリート造りの家屋がある。地上2階地下1階建てで、延べ床面積は250平方メートル。所有者は、相続を受けた新宿区の個人と、茨城県つくば市の個人との共有となっている。

 古い料亭のような造りの門構えに、深々と生い茂る植栽から中の様子をまったくうかがい知ることはできない。近隣住民たちも何の施設かは詳しくは知らなかったようだが、近隣の男性は

「入り組んでいて狭いので、とても、見ず知らずの車が入ってくるような場所ではないのですが、それでも、週末には大きな車が数台並んでいたりします。

料亭かと思っていたので、ニュースを聞いて驚いています。
さすがに名前は口にはできませんが、有名な人を見たというような話も聞きますが…」

と話す。

 この仁風林こそが、パソナグループ創業者の南部靖之代表の接待施設であるという。週刊新潮に中の詳しい描写があるので一部紹介する。

 まず40人ほどのパーティースペース、専門の料理人が料理をふるまい、セレブ夫人たちに人気の酵素風呂もある。

そして、芸者やモデルたちで形成される接待女性の軍団がいる。

そこにASKA容疑者が夫人同伴で来るようになったという。
そして、カスミちゃんと呼ばれていた栩内容疑者もいたという。

 少し破廉恥な描写もあるが、ここでは割愛する。


会社経費で自分の寝床に使うことも

 そもそも、富裕層やセレブたちがこうした私的な集いを行うサロンは17世紀のフランスに遡る。17世紀初めのランブイエ侯夫人が、フランスのアンリ14世の宮廷で、文学者や知識人を招き入れて会合を行うようになった。宮廷が野暮ったくて居心地の悪さと退屈さを感じたからというのが理由とされる。

その後も貴族たちは夜な夜なサロンを開いては、会話を弾ませた。プルーストの「失われた時を求めて」など多くの文学作品に、そうした描写がなされている。


仁風林

 さて、現代においては、富裕層がさらに成功し、超富裕層、もしくは大富豪となった人が作ることが多い。

 パソナの南部氏をはじめ多くの大物財界人を取材した、経済ジャーナリストは

「南部さんは元々、財界、政界、芸能界、文化の世界と様々、顔が広い人です。(サロンを開く目的は)見栄のためですよ」という。

 実際に、富裕層になり立ての他人に対して、人に紹介を頼む人が多いが、逆に超富裕層や大富豪は自身がパイプ役となって、顔つなぎをしたり、様々な顔ぶれがそろう一種の磁場を形成しているといっても過言ではない。その場所をサロンに求めるのだ。

 そして、他の経営者仲間がサロンを開設したと聞くと、競うようにして、より豪華な建物を建て、よりよい設備をそろえていく。

例えば同じ東京・港区では、白金台にある三島由紀夫の小説「宴のあと」の舞台になった料亭「般若苑」の約7000平方メートルの跡地に施設を建設中だが、こちらはサロンなどの施設だと見られている。

また、南麻布にはアパ・グループ代表である元谷外志雄氏の豪邸が建設中であるが、規模の大きさからサロンではないかとの見方もある。

 いずれにせよ、港区には探せばこうしたサロンは数多くあるものだ。

 「上場企業の社長の場合は、会社の施設ということにして、経費は会社が支払います。こうした接待やパーティーがない時は、自分がホテルがわりにしたり個人的に使っているということはよく聞きます。中でクスリが使われているというようなことは絶対にないと思いますけど」(前出ジャーナリスト)

 ホテルのレジデンスや、マンションを確保している上場企業も多いが、パソナの仁風林はその規模が大きくなった感じだ。

 しかし、サロンの欠点は顔が広くなりすぎることだ。こうした時に一気に信用が棄損することにあるだろう。

パソナ株は22日の東京株式市場で年初来安値まで売り込まれた。まさか、ダブルミリオン2回、ソロでもミリオンを達成した大アーティストのASKA容疑者がこうなろうとは、思いもしなかっただろう。

そこにいた接待要員の女性とともに。
http://media.yucasee.jp/posts/index/14122?la=ar4


ASKA保釈も、全面否認の“共犯”栩内香澄美被告が抱える爆弾「パソナと政界・官僚との黒い癒着が……」


覚せい剤と合成麻薬所持などで起訴されたASKAが3日、保釈された。
これで事件はひと段落したように見えるが、今月22日には、一緒に逮捕されたASKAの愛人、栩内香澄美被告の初公判が東京地裁で予定されている。

この内容に、人材派遣大手「パソナグループ」の南部靖之代表が主催していたホームパーティーに出席した政治家や役人たちが戦々恐々としているという情報を入手した。

 栩内容疑者は容疑否認のまま起訴されたため、公判では頑なに沈黙を守り通すことが予想されるが、検察はASKAと栩内被告が出会った、南部代表主催のパーティーの実態をつかんでいるという情報がある。

その実態が法廷で暴露されるのではと、南部代表をはじめ、パーティー出席者が怯えているというのだ。


 栩内被告がASKAと一緒に逮捕された当初、彼女はいったい何者なのかとマスコミ関係者の間では騒然となったが、その後、栩内被告は南部代表の私設秘書を務め、週に1回開催される南部代表主催のパーティーのホステス役を務めていたことが明らかになった。

ホステス役は、パソナグループから選ばれた美女ばかりが30人ほど。

ミス・インターナショナルで、現在は大手芸能プロ「ケイダッシュ」の谷口元一氏による“ストーカー事件”の被害者として孤立無援の戦いを続けている吉松育美さんも一昨年までパソナグループの社員であり、ホステス役を務めさせられていたという。

 ホステス役を仕切るのは、京都の元舞妓の女性。

彼女は栩内被告と同様、南部代表とは個人的にも親密な関係だったことから、グループの社員からは南部代表の“喜び組”と揶揄されていた。

こうした事実を暴露されるだけでも、南部代表にとっては致命的だ。


 さらに、パーティーには、複数の元首相や安倍晋三総理ほか、自民党を中心に民主党の議員も数多く招待されたという。

人材派遣業の監督官庁である厚生労働省の田村憲久大臣まで顔を出していたというから、開いた口が塞がらない。

招待された議員の中には、パーティーの帰りに御車代として、10〜50万円を渡された者もいたとも。事実であれば、贈収賄や政治資金規正法違反などの可能性もある。

さらにパーティーには、防衛庁、警察庁、厚労省の課長から局長クラスまでの官僚も招待されていたという。

パソナは、霞が関OBの天下り先としても有名だが、このパーティーを通しても、癒着の実態が見え隠れする。

つまり、ASKAとその愛人の覚せい剤スキャンダルだけでは終わらない、社会的問題を含んでいる事件なのだ。

しかし、事件当初は積極的に、これらの問題を報道したメディアも、権力から圧力がかかったのか、いつの間にか腰砕けになって、その後沈黙している。


 南部代表は、裁判で栩内被告を守るために最強の弁護団を付けたといわれている。しかし、検察の尋問に口封じはできない。単なる芸能人の覚せい剤事件で終わらせないためにも、検察の鋭いメスに期待したい。
http://www.cyzo.com/2014/07/post_17763_entry.html






53. 中川隆[1987] koaQ7Jey 2016年3月19日 07:09:21: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1952]

▲△▽▼

再びネットに書き込まれたASKA逮捕の裏にある暴力団内部事情と政界との「手打ち」の噂
〜文春の飯島愛記事にも言及 BuzzNews.JP
http://www.buzznews.jp/?p=45587


アスカの覚醒剤事件よりも仁風林という【 阿片窟 】に興味がある


★アスカの覚醒剤事件の初めての裁判が昨日(2014年8月28日)にあったが、昨日は同時に、アスカがトモナイ被告と出会った「仁風林」を創ったパソナの株主総会であった。「仁風林」とは一体なんだったのか?ネット記事を参考に考えたい。


仁風林とは?

南部 靖之と飛鳥,栩内 香澄美/とちない かすみを繋ぐSEX迎賓館の真実。
http://matome.naver.jp/odai/2140073489719743801

パソナ迎賓館「仁風林」でSEX接待ビデオが流出!
ASKAと栩内香澄美をシャブで繋ぐ南部靖之と創価の闇
http://matome.naver.jp/odai/2140107218629692501

田村厚労相は就任後も…「パソナ接待館」常連だった5閣僚
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/150540

ASKAで話題の“接待パーティー” 高級官僚も常連だった
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/150621


1、仁風林とは大物政治家や大物官僚や大物芸能人をパーティに招待し、薬とセックスで奴隷にするところか?


★仁風林とは大物政治家を代表にする政財官の要人をパーティに招待し、薬物とセックスに溺れさせ、大物政治家などのセックスの様子をビデオで録画して、それで脅し、奴隷にするところだろう膿〜。

映画でよくあるワンパターンじゃ膿〜 (*゚▽゚*)


★だいたいそれで当たりじゃないのかな。たいていの人はそう思うだろう膿〜。


★創価の名が出てくるからロスチャイルド系である。
ロスチャイルドの敵である現政権、その他の敵を転落させるスキャンダル創りのために仁風林が出来たことは簡単に推理できる。

タロットカードの【 15である悪魔 】の世界じゃ膿〜。
阿片戦争の時にロスチャイルドが中国を乗っ取るために使った手が阿片という麻薬だった。その戦術を出してきたということだろう。


★超美人と薬物とセックスの欲望に勝てる男はいない。
だから、どんな大物でも簡単に悪魔の罠にハマる。
その代表がアスカだが、政治家の名が出てこないのは、必死で隠しているからだろう。
しかしそれで良い。鷲は安倍総理を応援しているから。


2、ロスチャイルドが日本中枢に仕掛けた「阿片戦争」か?


★英国と中国(清)は1940年から1942年にかけて「阿片戦争」をしている。

英国が清から「お茶」を輸入したのに対して、英国は売るものがないから、インドで栽培した阿片という麻薬を清に輸出。それで清の社会が荒廃したことから、清は阿片を禁止した。

英国は清が阿片を禁止したことがドタマに来て、英国が戦争を始めたのである。
悪いのは英国・ロスチャイルドであったのだ。


★さて今回のアスカ覚醒事件の背後には「仁風林」という阿片窟がある。

そこで「性欲労働者」として、トモナイ被告が働いていて、他にもミス日本に選ばれた美人も「性欲労働者」として働いていたらしい膿〜。


★阿片にとり憑かれた人間は「生きる目的が阿片をやること!」になる。
そして人を殺してでも阿片が欲しく欲しくてたまらなくなり、様々な犯罪に手を染め、「全てを失う結果」となる。
どの本にもそう書いている。酒しかやらない鷲には本でしか解らないが膿〜


★阿片戦争の時の清国内には【 阿片窟 】と呼ばれる地帯があった。
阿片を吸って、セックスの快楽に耽る場所である。
そしてセックスのやりすぎで死に、死体はそこらに転がっている(*゚▽゚*) 

しかし鷲は、今の日本には「阿片を吸って、セックスの快楽に耽る場所はない、と勝手に思い込んでいた。しかしあったのだ。それは「 仁風林 」である。


★戦前の上海が魔都と呼ばれるのは【 恐ろしい阿片窟 】が存在していたからだ。
しかし鷲はナントナク【 魔都・上海 】という響きに憧れていたのだが、上海まで行かなくても、日本には【 仁風林 】があると解った。
毎日、豚の貯金箱に100円を入れて、憧れの【 仁風林 】を目指そうか?という話ではなかった膿〜


★【 仁風林 】、そこは現代の【 阿片窟 】。

お客様は現代日本の大物政治家や大物芸能人、政財官の要人。

彼らが【 性欲労働者 】の超美人と薬物をやりながら、絡み合い、そのアラレモナイ姿(ポコチ◎丸出し)をビデオに取られ、ロスチャイルドの奴隷となり、ロスチャイルドという悪魔のユダヤ人に魂を売る。

つまり仁風林はロスチャイルドが仕掛けた現代の阿片戦争である!


3、アスカ事件はタロットの15の【 悪魔 】の出現。

★タロットカードの【 15 】は悪魔である。このカードの絵柄は、悪魔が裸の男女を奴隷にしている表現である。

現代の成功した大物歌手であるアスカは、薬物に耽り、美人とのセックスという【 悪魔の罠 】にパーフェクトにのめり込み、栄光を失った。

麻薬は人間の全てを失わせるが、アスカは大物であるゆえに、マスコミに生贄にされたことの良い面の、多くの人々の監視下にあり、その監視ゆえに、再生のチャンスがあり、【 全てを失った 】わけではない。


★驚くことは、戦前の中国や満州にあったという【 阿片窟 】が現代の日本の、それもトップの世界に出現したことだ。


★理趣経では【 男女のセックスでの恍惚は菩薩の境地である 】と説かれる。
太陽神に帰依し、薬物を使わないセックスなら菩薩の境地となるが、薬物を使ってのセックスは「全てを失う」ことになることをアスカ事件は教えてくれた。


★仁風林の接待パーティに参加した政財官の大物たちも【 アスカ事件 】に恐れオノノキ、保身のためのロスチャイルドの奴隷となったことだろう。
これもタロットカードの【 15 】の世界である。


★戦前の中国や満州での【 阿片窟 】での、阿片その他の薬物を使ったセックスとは、【 死ぬまでやるセックス 】である。
死んだ客はそのまま、道路に放り出せれて、死体が常に5体から10体、堂々と道に転がっていたから【 魔都、魔界 】と呼ばれていたのだ。


★アスカ事件は【 魔界 】をホンの少し、垣間見せてくれたのが、良い子たちへの【 アリガタイお勉強になった 】と思うから、良い面もあるだろうね。


★夏休み、にいる良い子たち、薬物をやりながらセックスをしないように。

それをすれば【 死ぬまでやるセックス 】になるから。それがお兄さん( ← だれなんだこいつは???(゚O゚))からメッセージです。

 (((o(*゚▽゚*)o)))
http://xuzu0911.exblog.jp/21059437/


2014年06月05日
ASKA「黒いシャブ人脈」全部バラす!!

週刊大衆6/16号にまたまたASKA容疑者がらみの記事が載っていました。


上記の写真、パソナ代表の南部靖之氏です。ASKA容疑者逮捕直後には「某人材派遣会社の創業者」などの書き方が多かったのですが、近頃はどの雑誌でも実名ですのでそうさせていただきました。写真付きで・・・

パソナという会社は人材派遣会社で、小泉総理時代の総務大臣だった竹中平蔵氏が取締役会長だったことがあるそうです。

また、ソフトバンクの孫正義氏、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄氏とともにベンチャー三銃士と呼ばれていた、いわゆる企業家の星でした。

フリーターを肯定する発言が多く、

「今は正規雇用が一般的だが、20年後はフリーターがあたりまえの時代が来るかもしれない」

「フリーターは終身雇用だ!正規社員こそクビになったり雇用が安定していない」

など面白語録も多々発言しております。


ASKA容疑者の話に戻りますが栩内容疑者は南部氏の秘書だったことがあり、また、ASKA容疑者との接点を作った人物です。

栩内容疑者が南部氏のお気に入りだったのは大きく報じられている通りです。

「南部代表は、東京・元麻布に迎賓館“仁風林”を構えていました。

夜になると、都心とは思えぬほど暗く人通りの少ない場所にあるその建物は、大きな門構えの向こうがうっそうとした森のようになっていますが、そこで月に数度、著名人や有力者を集めた大規模なパーティーを開催していたんです」
(某夕刊紙記者)


有力者・・・ってのが凄いですね。政治家とか力のある経営者なんでしょうけど。

栩内容疑者が秘書時代に、こうしたパーティーの案内役をしていたそうです。

そしてギタリストN、大物歌手H、プロダクション幹部Mなど、この件で関係を取りざたされている人たちも集っていたとのこと。

そして安倍首相や現役閣僚など与野党政治家も参加者でした。

小生が個人的にビックリしたのは、民主党の前原誠司元代表の奥様がパソナの元秘書だったのです。まあ竹中氏が取締役ならば人脈もうなずけますが。


ただ当局はASKA容疑者が薬物を用意したと見ています。

ASKA容疑者は複数のシャブルートを持っていて栩内容疑者の自宅をその保管庫にしていた形跡があるそうです。

そしてASKA容疑者の薬物ルートで強いのが音楽仲間関係です。

ある音楽仲間Gとバックダンサーが時期を同じに逮捕されているそうです。
この二人が薬物供給源と考えられているのです。


一方、音楽関係別ルートでミュージシャンMと薬を共有していたんではないかと噂があります。

二人は六本木でよく飲んでいたそうですが、地下社会の人間が同席していたようです。
音楽関係者なら理解できるのですが(理解はできませんけど)いわゆる興業関係者とのあぶない人脈もあるようです。


そのなかでも格闘技イベントの実力者K。格闘技界はもちろん、他のスポーツ界や芸能界にもコネがあって幅広い人脈があるので、さまざまな闇社会とのつながりの証拠が漏れているのです。

このK氏は小生も話題にしましたが、飯島愛さんとも親しかったともされています。


ASKA容疑者のように入手ルートが複数あるのも芸能人の薬物事件としては珍しいそうです。
http://blog.livedoor.jp/fukuroulove/archives/38475366.html


133 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/31(土) 18:03:07.99 ID:mWTBapTA0 [1/2回(PC)]

ASKAで話題の接待パーティー 高級官僚も常連だった
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/150621/

509 : 名無しさん@恐縮です@転載は禁止[] 投稿日:2014/06/04(水) 22:58:21.39 ID:KTd7OdNt0 [1/1回(PC)]

パソナ企画のキメキメ乱交パーティーは有名


408 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 23:27:49.01 ID:TV2mHElo0 [1/1回(PC)]

関東連合+パソナ絡みじゃね


409 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/06/01(日) 23:31:10.10 ID:1wIheYG80 [1/1回(PC)]

【事件】「パソナ」グループの迎賓館「仁風林」接待パーティー、高級官僚も常連だった!
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1401556031/

【政治】ASKA事件が暴く、安倍首相と派遣規制緩和の「闇」…パソナ「接待パーティー」国会でも追及へ、公務員改革で300億円の“利権”★2
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1401448010/

【政治】「二度と行かないように!」安倍首相が叱責…ASKAの女に異常接近していた小野寺防衛相★5
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1401518922/

【芸能】ASKAの愛人・栩内香澄美容疑者だけじゃない・・・パソナ代表の元美人秘書“喜び組” ミスインターナショナル吉松育美さんも元秘書
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1401079903/

田村厚労相は就任後も…「パソナ接待館」常連だった5閣僚
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1401448574/

【政治】「二度と行かないように!」安倍首相が叱責…ASKAの女に異常接近していた小野寺防衛相★5
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1401518922/

【経済】パソナグループとサンリオが株価下落、年初来安値を更新、値下がり率の1位と3位に…ASKA容疑者逮捕の週刊誌記事が影響か[05/22]
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1400763895/

●竹中平蔵(元自民党)・パソナ会長就任おめ●
http://maguro.2ch.net/test/read.cgi/haken/1252306424/

パソナ会長の年収12億 派遣労働者の年収60〜240万
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1401548826/2chMate 0.8.6/SHARP/SH-06E/4.2.2/LT


502 : 名無しさん@恐縮です@転載は禁止[] 投稿日:2014/06/04(水) 20:58:31.12 ID:e5tShhFdO [1/1回(携帯)]

政界財界暴力団の三角関係における肉体接待や贈賄や弊害処理など昔からの暗黙の了解で、政界財界は警察ともう一つの三角関係をも構成して今まで散々、警察TV新聞を黙らせてきたのだから、今回も大して動揺はない。

それに、企業舎弟ですらない企業による肉体接待ではパーティーの面子の中に企業の花添えである薬中のASKAが混じっていただけというのが実情だ。
だから、政界財界は動揺していないどころか世間に笑いが止まらないくらいだろう。
まあ、政界財界はヤクザや企業舎弟にもクラブの女や売春婦を沢山提供されているから、薬に手を出すとすればそちらの肉体接待だろうが、ヤクザや企業舎弟に薬を薦められたところで、未成年を用意してもらう者は結構いても薬をやりたがる者は芸能人と違って滅多に居ないのが実際のところ。

今回、ASKAから薬を貰った者が僅かに居るかもしれないという可能性を考慮して、 ASKAの逮捕を目一杯延ばさせ、注意喚起および薬抜き期間としたが、あくまでも安全に安全を重ねたようなもの。

今回、動揺したのは政界財界と違って警察とまでは三角関係を組めていない暴力団、山口組だ。

警察は当初、アスカの逮捕、アスカに薬物を渡していた山口組系弘道会内福島連合組員の逮捕および福島連合に対する捜査、清原の逮捕、清原に薬物を渡していた山口組系弘道会内某組織組員の逮捕および某組織に対する捜査を予定していた。

清原と弘道会の付き合いぶりから某組織は弘道会において中核に位置する組織である可能性が高い。

また、それらに関連して弘道会傘下経由の可能性が高い薬物の疑いのある有名人を何人かマークし始めていた事から、今回は珍しく警察も多少やる気を出していたようだ。

しかし、ここで政界財界がASKAの逮捕を暫く後に延ばすよう指示してきた。

更に間髪を入れずに動いたのが、一時は愛知県警を完全に喰う程であった弘道会だ。

山口組は建前上薬物を御法度としており、都合の善し悪しで薬物に触れた組や個人を処分してきた。

弘道会が主流派になって以降、その傾向は以前よりも強まっている。

しかし、薬物を扱う弘道会傘下の組も決して少なくないという理不尽な実態がある。

ちなみに山口組六代目が弘道会の前身である弘田組時代に立ち上げた司興業も薬物を扱っている。

よりによって、今回のように有名人が絡んだ形で弘道会傘下から逮捕者が、それも複数ともなれば山口組六代目を始め、近いうちに幹部昇格が既定路線となっている弘道会三代目は面子が無い。

いよいよ、反主流派に対して示しが付かなくなってしまうというわけだ。
そこで弘道会傘下と揉めた事で世間に目を向けられ、中毒状態にあるASKAまでは構わないが清原や弘道会傘下の組員および所属組織に対しては一切お構い無しとする事を政界財界を通して取付けさせたのである。

勿論、マークし始めていた他の有名人やそれらに薬を渡していた弘道会傘下の者の安泰も取付けの中に含まれている事は言うまでもない。

今回の件でココだけが唯一、警察TV新聞が本来ならばある程度動いていたはずの三角関係が二重になっていない部分の話であり、核心でもある。

文春が飯島愛について、付き人云々より先に弘道会系に脅されていたという記事を今更書いたのは文春がこのような背景を知るも直接書くわけにはいかず、鬼籍の飯島愛を引き出す事で警察を暗に揶揄するためであったが、これは事実であろうとなかろうと下衆なやり口である。

また、近いうちに薬物で有名人が捕まるとすれば、それは弘道会とは無関係のルートで入手していた薬物使用者であり、世間の目を誤魔化すために狙われる羽目になった者である。

山口組の存在は、安倍首相を始め政界財界にとって極めて大きい。
それだけに今回の取付けは非常に堅い。

万一、この取付けが何らかの形で破られる事になればその時こそ、政財界を巻き込んだ本当の大事となる。


135 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 18:03:22.55 ID:UwpqReT60 [1/1回(PC)]

お塩ヤリ部屋事件、プチエンジェル事件を消し去るわけですね。
自民党怖い


109 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/31(土) 17:39:49.89 ID:zV6UUeIY0 [1/1回(PC)]

まあ、芸事師=色事師だもんな
芸能人なんて、ヤクザそうかロリクラブ秘密会員代議士のための慰み物なんだよw
AKBなんかハゲ爺のオヤツさえも生ぬるいわ!!


281 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/06/01(日) 02:41:52.60 ID:3pz4pida0 [1/17回(PC)]

なるほど だいたい事情が分った。 これ全部捕まえちゃば? 
Askaは使用しているただの人間だろ。 

だったらぴーちじょんの野口が5代目と知り合いとなっている相関図ネットにあったよ。

押尾にやり部屋を貸していたのは野口。押尾の背中は紋紋だらけ。
なんだお前らずぶずぶじゃん。
 
運転手も大三元だが、根元から断たないと芸能界全部巻き込むぞ これ。 
ピーターの付き添いも捕まっただろ。

宅見が関係しているしていないとか。 松浦の名前挙がっている。
駄目だ 相関図みたら 芸能界って 真っ黒なんだなってがっかりしたよ。 
まあ 本当だったらだけど。


282 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/06/01(日) 02:46:42.68 ID:3pz4pida0 [2/17回(PC)]

そうか プチエンジェル 相関図 で画像選択してぐぐってみろ。  
森元首相の長男ってこんなことになってたって初めて知ってこっちもがっかりしたよ。  
駄目だ こりゃ。


289 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/06/01(日) 03:00:08.59 ID:3pz4pida0 [3/17回(PC)]

いまのところあがっている名前が 
プチエンジェル事件時に小沢が土地かしていた森元首相の長男 薬物中毒で死亡している。

関係者が2000人 名簿は全部暗号。 →捜査 打ち切り。
誰だこれ 打ち切ったの? 


353 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 06:02:16.95 ID:c+FfsJJi0 [2/2回(PC)]

以前は万景峰号で堂々とシャブが日本に入ってきていた
新潟税関とズブズブだからね

それが北の拉致問題があって、堂々とできなくなってしまった
最近は北からボートでやって来て、日本の海岸に流す
待っていた在日ヤクザが海岸でそれを回収するという方法なのだが
それも厳しくなってきたので、中国経由で運び屋を使う手法も増えてきた

芸能界には、在日の芸能人を通じて薬物が流れる


234 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 21:10:37.71 ID:ZT6b4dC4O [1/1回(携帯)]

パソナ薬物接待ルートのほうが、どう考えても怪しいだろ
社長が高級マンション与えて囲ってた女がシャブセックスで捕まってんだぞwwww


459 : 名無しさん@恐縮です@転載は禁止[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 18:59:28.30 ID:yr9MV7l30 [1/1回(PC)]

関東連合はシャブ仲介、それを政界財界芸能界に広める場の主催がパソナ?

>海上浮き袋
漁師とか船乗ってる人らが、小遣い稼ぎで拾ってヤクザに渡している、
と2chでみた
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/mnewsplus/1401521939/


飯島愛もハニートラップ要員だった


【芸能】ASKA、飯島愛と薬物&不倫・肉体関係、映像流出怯え薬物依存との報道 復帰絶望的か
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/mnewsplus/1401320699/


1 : エタ沈φ ★@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 08:44:59.39 ID:???i

5月17日、覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで人気男性デュオ・CHAGE and ASKAのASKA(本名・宮崎重明)が逮捕されたが、連日その続報が報じられ、衝撃が続いている。

ASKAは17日未明、知人女性宅から出てきたところを任意同行され、すでにASKAは取り調べで覚せい剤の使用を供述しており、警視庁は27日、覚せい剤取締法違反(使用)容疑で再逮捕した。
 
 そのASKAが覚せい剤依存へ陥った原因について、本日(5月29日)発売の「週刊文春」(文藝春秋/6月5日号)は、2008年当時、ASKAと不倫関係にあったタレント・飯島愛の死去にあると報じている。

同誌によれば、飯島が亡くなる数カ月前に、ふたりがMDMA(合成麻薬)を使用して性的行為に及んでいる一部始終を飯島がビデオで撮影していたという。

その後、変死状態の飯島が自宅で発見されたため、ASKAはビデオの映像が流出することを過度に怯えたことがきっかけで、覚せい剤依存になっていったのではないかと、同誌は報じている。

 ASKA逮捕以降、親交のあるミュージシャン・玉置浩二をはじめとする芸能人やファンの一部からは、罪を償った後の復帰を望む声も数多く聞かれたが、今回の「文春」報道により、復帰は絶望的になったとの見方をテレビ局関係者は示す。

「美川憲一や長渕剛、槇原敬之、いしだ壱成など、過去に違法薬物所持で逮捕された芸能人の中には、カムバックして現在も活躍している人も少なからずおり、ASKAには根強いファンも多いため、復帰の可能性もゼロではなかった。

ただ、どちらかというと真面目さが売りでもあったASKAが、セクシー系タレントの飯島と薬物を使用し、かつ不倫関係にあったとなれば、イメージ崩壊とファン離れは必至であり、もはや復帰は絶望的でしょう」(同)

 こうした見方を裏付けるかのように、大ヒット曲『SAY YES』から20年来のファンだという30代女性は、次のようにASKAへの冷めた感情を語る。

「逮捕後も、ASKAの“繊細さ”や“真面目さ”がASKA自身を追いつめていったという面もあるのではと思い、しっかりと罪を償って復帰してほしいという気持ちもありました。

しかし、女性タレントと不倫し、さらにその相手の死で自分のスキャンダルがばれてしまうことを恐れて覚せい剤に走っていたとは、呆れて言葉もありません」

 もし「文春」の報道が事実であれば、ASKAにとって復帰へのハードルは、よりいっそう高まったといえよう。

 ASKAはCHAGE and ASKAとして1979年にシングル曲『ひとり咲き』でデビューし、今年で活動34年を迎えるベテラン・ミュージシャンで、 『SAY YES』『YAH YAH YAH』などのミリオンセラー曲も多いことから、デュオとしても、またソロでもコンサートは常に満員で、デビュー当時からの根強いファンが多いことで知られている。


199 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:18:26.51 ID:ojH/TWnJ0 [2/4回(PC)]

そもそもASAKAとの SEXビデオが存在するのなら
飯島が死んだときに家宅捜査で発見されてるんじゃないの?


266 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:28:48.29 ID:7fw6rkQgO [5/7回(携帯)]
>>199
飯島愛がヤクザに脅されてASUKAとのビデオを隠し撮りしたんだよ
ビデオはヤクザが持ってるよ
だからASUKAもヤクザに脅されたんだよ


948 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 12:35:09.78 ID:ZCLykCO8O [6/6回(携帯)]

これが事実だったとしてちょっとした推理

ASKAと飯島愛は不倫していた

ASKAは覚醒剤を使用し飯島愛とキメセク

それを趣味の録画で飯島愛が撮っていた

なんらかの形でそのテープが組織に奪われ脅迫される飯島

組織が使い道が無くなった飯島を死に追いやる

死からほとぼりが覚めたころ、こんなテープがありますよとASKAを脅迫
薬の量が増える

薬物テープで下っ端がASKAをゆする

応じないASKA

組織の息がかかった文春がすっぱ抜いたように記事にする

ASKA逮捕利用価値が無くなったのでキメセクテープについても文春が書く←今ココ

飯島が死んだのは芸能界をやめた飯島より音楽やってるASKAの方が金を搾り取れるから


こんなんでいかがっすか?


758 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 11:27:42.25 ID:mRv5hM7y0 [1/1回(PC)]

ふーん やくざがこのSEXビデオ持ってたら
シャブルート吐いたらビデオ週刊誌に流すからな、と脅してそうだな


770 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 11:30:55.46 ID:BaEcwpeh0 [3/3回(PC)]

ビデオで隠し撮りしてそれをネタに強請るって鉄板ネタだな
ノリPの時もビデオで本人って分かる為にわざと彫り物入れさせるってあったもんね

足首に彫り物入れてるからテーピングで隠してたあの人は大丈夫なんだろうか?
のりPとは家族ぐるみの付き合いだったらしいけど


349 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:44:51.90 ID:/f4svwIs0 [1/1回(PC)]

飯島愛は何人分のビデオをヤクザに売ったんだろうな


595 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:43:36.13 ID:xB9E9z750 [1/1回(PC)]

オレが知ってる限りではASKAと飯島愛のセックスビデオは乱交だよ
他にも数人の芸能人や○○○が参加してる


297 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:34:07.33 ID:e3JfKKnQ0 [1/1回(PC)]

飯島愛がビデオ撮ってたつうのは、恐喝もしくは口封じが目的だろ。
いや、いまさらながら怖い女だな。


575 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:37:11.36 ID:6mYlyoBO0 [2/3回(PC)]

ビデオ撮影って愛さん 裏のお仕事してたのかな
怖い世界だ


577 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:37:32.41 ID:j3y/KRXJ0 [2/3回(PC)]

飯島愛の黒い噂全力で隠されてたのって
なんかヤバイ人たちとも寝てたんだろうな


368 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:49:17.66 ID:clkqv3kw0 [5/5回(PC)]

飯島が芸能界でのし上がれた理由も説明がつくね


724 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 11:19:17.39 ID:ALJEhe5f0 [2/2回(PC)]

飯島愛がAV女優のクセに政界進出寸前まで上り詰めたのは、そういうビデオの存在が多数あるんだろ。


567 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:34:52.97 ID:AebT2wl70 [1/1回(PC)]

飯島愛って不幸暴露と馬鹿なコメント言ってるだけだったのに、
死後必要以上に過大評価する声が多くて何だか不自然だと思ってた


571 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:36:15.27 ID:ZCLykCO8O [3/6回(携帯)]

飯島愛に目をつけたのも島田紳助だったな
こいつは売れるって目をつけて自分の番組で使いまくってた


310 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:36:54.40 ID:+wcQrAdK0 [7/8回(PC)]

飯島愛は無職なのにあのタワーマンション上階に住んでいられるのか考えたら普通でない


326 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:39:51.36 ID:+wcQrAdK0 [8/8回(PC)]

インフォスタワー1LDK 94.31u 家賃は380,000円


542 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:28:13.65 ID:j3y/KRXJ0 [1/3回(PC)]

飯島の引退騒動が今となって納得
TVで人気出て裏ではお偉いさんの高給娼婦になって薬で死ぬって
マリリンモンローだなたしかに


738 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 11:22:01.62 ID:fFO8CaRN0 [2/3回(PC)]

AV女優からタレントになれたのはコイツと美保純だけだな


958 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 12:38:56.12 ID:hE1Ik6aD0 [1/1回(PC)]

美保純はAVじゃないよw 
ただし、有名なヤクザ(全国チェーン)の全盛期、武闘派と言われた幹部の愛人だった。

だからドラマにも番組にも出たし、周囲が腫れ物を触るような扱いで対応してた。北野武だって頭上がらなかったの。


739 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 11:22:14.41 ID:4XmIzNWt0 [2/2回(PC)]

死んだ時貯金ゼロだったってのがまたなぁ
AV業界とヤクザの結びつきって強いしな
そうとうなタニマチに引き取ってもらえないと


315 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:37:37.33 ID:P0De87ya0 [2/3回(PC)]

AV女優なんて結局引退後も
高給売春婦みたいになって生きてくしかないんだよね


354 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:46:28.73 ID:clkqv3kw0 [4/5回(PC)]

飯島がヤクザに飼われたハニトラ嬢だったつーことか
全ての点と線が結びつき始めた


188 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:17:22.71 ID:9o+JqUvi0 [1/1回(PC)]

もしそんなビデオがあったとしても
飯島が撮影したんじゃなくて他の人に撮られて二人とも強請られてたんじゃないの
それに飯島は検死で薬物は出てないから死因も犯罪からんでるのかもだな


204 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:19:50.14 ID:+wcQrAdK0 [5/8回(PC)]

覚せい剤欲しさに暴力団にゆすられて たかられて隠し撮りされ
最後は消されたぽいな


207 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:20:02.17 ID:mp2nNx2T0 [2/20回(PC)]

これって口封じの為に消されたって事か?


281 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:31:50.30 ID:6E6YdHmn0 [4/4回(PC)]

飛鳥の版権に目を付けた組織が飯島使って証拠映像を得て脅してたんだろうな
飯島がどっちに消されたのかは謎だが自分絡みで人が消されたことにショックを受けた飛鳥はますますクスリに逃げるようになった


209 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:20:08.58 ID:jaUYPmlHO [1/1回(携帯)]

某番組で飯島が霊能者に忠告されたのってもしかしてこのことか!?


471 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:10:27.66 ID:sSQHpIgQ0 [1/1回(PC)]

飯島愛が引退宣言したときだか、デビ夫人がブログで
「あなたはとんでもない写真を撮られてしまいました」
とか書いてたけど、撮ってたのか


171 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:14:48.87 ID:+wcQrAdK0 [4/8回(PC)]

デヴィ夫人が飯島の死後に夫人のブログで飯島の薬物のことに遠回りにふれていたよね?

彼女は、何と申しましょうか、“遊び”が過ぎて、 知らずでか、わからずでか、 とんでもない事をしていた様です。

どの様な人達とお付き合いがあったのか皆目わかりませんが、 ゆすられ、恐喝され、つきまとわれ、公表の恐怖にさらされながら生きた心地もなく、暮らしていた様です。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-10183052427.html


107 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:05:17.99 ID:e/6A7DAlO [2/7回(携帯)]

飯島愛がいた頃のサンジャポがキモかった
ゲストの政治家達が愛ちゃん愛ちゃん言って飯島愛とベタベタしてたんだよな
こうやって政治家とのパイプ太くして政界進出でもするのかなと


131 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:08:48.65 ID:+wcQrAdK0 [3/8回(PC)]
>>107 
安部だけは飯島に対して笑顔なしの敬語対応だったのを覚えてる


559 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:33:24.01 ID:nQHTHS+10 [3/6回(PC)]
>>107
柿沢って今は亡き政治家の選挙の応援で飯島が来てたの渋谷の交差点のへんで見た思い出があるわ90年代。
今、思うと飯島のバックに黒い勢力がついてたから
政界につながるとか
そして怪死に合成麻薬にASKAに893に・・
いくらでも妄想できるな。

579 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:37:45.95 ID:nQHTHS+10 [4/6回(PC)]
>>559
自己レス、柿沢の後援会の会長が飯島愛の実父
なんだな。


674 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 11:06:50.35 ID:4XmIzNWt0 [1/2回(PC)]

飯島は政治家とかヤバイのと付き合いあったんじゃない
なんか一時期周富徳に気に入られてたな
こいつと寝てんのかな?とは思ってたw


44 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 08:54:56.88 ID:DEYUwDT30 [3/5回(PC)]

結局 お塩のあの事件の問題の部屋の話と繋がってくるんじゃないの


35 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 08:53:35.28 ID:i+3DvxOI0 [1/2回(PC)]

いよいよたかが芸能人の薬物事件が政界に飛び火したなw
ヤリ部屋で何人の大物政治家が、ヤク中乱交にハマっていたのか楽しみだわw


967 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[Sage] 投稿日:2014/05/29(木) 12:44:42.07 ID:aTt1yvMy0 [2/2回(PC)]

売れっ子アーティストだろうが、女優だろうが、政治家だろうが、ヤクザだろうが
行き着くところは皆性欲なんだな


982 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 12:54:12.81 ID:mF8L6RKp0 [8/8回(PC)]
>>967
一番高く売れるのは「少女の性」
だからプチエンジェル事件が闇の中


949 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 12:35:12.95 ID:a5mPL7SB0 [4/4回(PC)]

飯島とそのコンクリ殺人とかと関係あるのか。ないのか。


968 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 12:45:54.61 ID:bh7yITqT0 [14/14回(PC)]
>>949
コンクリ殺人については飯島の関与や犯人の親が共産党員だったことより、

被害少女を風俗に売り飛ばし+監禁に893が関与した疑い

は現在まで厳罰マスコミ皆スルーする点がな、あいつら犯人を選んで叩くよな


502 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:17:42.46 ID:wSYfYlkO0 [1/1回(PC)]

急に飯島の話が出てきたのはパソナネタを隠したいから?


522 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:21:42.74 ID:DPeYC17t0 [1/1回(PC)]
>>502
政商は守られるんじゃね


541 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:28:09.51 ID:e/6A7DAlO [7/7回(携帯)]
>>502
最初にパソナネタ書いたの文春だから


41 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 08:54:38.44 ID:tZ8eendp0 [1/1回(PC)]

政界に話題が及ぶ前に、衝撃的な最期を遂げた死人に話を持って行こうという魂胆ミエミエ?


176 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:16:01.67 ID:bh7yITqT0 [1/14回(PC)]
>>41
だろうね、竹中パソナの名前でたら案の定CIAと経団連の紐付き議員に飛び火したからね。

458 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:08:17.30 ID:bh7yITqT0 [9/14回(PC)]

誰かと会食してパナソからそらせ、と指示されたかと


465 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:09:09.42 ID:pjbkxzr10 [4/4回(PC)]

そう、パソナからの目くらましだろうな。


526 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:22:51.44 ID:RIsPajMv0 [1/2回(PC)]

このASKAの一件ってもしかして芸能ニュースってレベル飛び越えたすごい事件?


537 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:26:10.67 ID:aY3KBr5h0 [1/3回(PC)]
>>526
パソナまでいければ
戦後最大のスキャンダルになる可能性がある


597 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:43:44.51 ID:86og/4SV0 [1/1回(PC)]
>>537
いかないだろ
プチエンジェルのときのように何かの理由つけて捜査終了だろうさ


736 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 11:21:42.50 ID:FuFkoUvdO [2/7回(携帯)]

あちこちでパーティがあったようやね
某パンツ屋 森元息子
音楽会社社長
など 飛鳥とトチナイが参加してたパーティでまた あの某パンツ屋ババアかと お塩 ノリピー 飛鳥
六本木の闇 やなw

747 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 11:24:32.04 ID:FuFkoUvdO [3/7回(携帯)]

六本木 パーティ
関東連合 接待パーティ
女衒 まだまだ闇深そう
サンジャポ出てた頃飯島愛て死ぬ数ヵ月前から躁鬱病ぽかったよな?
コンクリ犯にゆすられてたのか?一千万消えた?


760 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 11:28:15.63 ID:FuFkoUvdO [4/7回(携帯)]

トチナイは幽霊社員やったようやし、接待パーティに出され要員
そこのパーティにはいろんな社長や議員がいたとかなんとか
お塩 ノリピー 飛鳥
トチナイ 銀座ホステス
シャブ パーティ
六本木 関東連合
パンツ屋ババア
まだまだ闇深そうな…


775 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 11:32:31.18 ID:wbSwPowA0 [1/1回(PC)]

文春は警察より操作能力が高いな

859 : 名前無し@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 12:03:52.33 ID:G+II3qHxO [1/1回(携帯)]
>>775
米国某機関直属だから


177 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:16:06.79 ID:yCkzM8v0i [1/2回(iPhone-SB)]

文春はどこからお金もらってんの


200 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:18:27.18 ID:bh7yITqT0 [3/14回(PC)]
>>177
官邸とCIA、ちなみに新潮は公安


397 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:57:34.79 ID:OMMMgFzU0 [1/6回(PC)]
>>200
官邸がこんなん出す訳ない
安倍ちゃんはASKAとマブダチだよ
こっちに火の粉が飛んでこないよう祈ってるはず


238 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:23:43.27 ID:1bfhP7/MO [1/1回(携帯)]

これもパソナ隠しなのかな?
死人に口なし


348 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:44:50.08 ID:z8GeGtsx0 [1/5回(PC)]

確かに死人に口なしとは言うが、飯島愛は怪しい死にかただったからな


243 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:24:18.23 ID:H7AIebWJ0 [2/4回(PC)]

飯島愛がASKAとの関係をゲロっちゃう前に口封じされた?
というストーリーに持って行きたいのか


250 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:25:39.44 ID:bh7yITqT0 [4/14回(PC)]
>>243
文春のシナリオはそうなんだろう、で政界ルートを有耶無耶にする


265 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:28:44.94 ID:e/6A7DAlO [5/7回(携帯)]
>>250
女がパソナの秘書だったって最初に報道したのも文春なのにか?

275 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:31:10.17 ID:bh7yITqT0 [5/14回(PC)]
>>265
子飼いメディアに報道させた方が後あとコントロールしやすい、
文春はアカヒと読売に並ぶ日米政府広報だよ


290 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:33:04.18 ID:7zMrYbJH0 [1/1回(PC)]

週刊文春が報じているASKA関係の記事は事実が多いからな
バーニング周防や暴力団との密接な繋がりを考えても信憑性は高い


343 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:43:57.16 ID:SxAyPEJG0 [1/1回(PC)]

飯島愛の件もヤクザが情報をリークしてるってことかな


558 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:33:09.81 ID:8/jzUgrwi [2/14回(iPhone-SB)]

ここまで公表されるということは、ヤクザ側ももうASKAで稼ごうとは考えていないだろうな。

覚醒剤や恥ずかしい画像でASKAからしゃぶり尽くし強請りまくった挙句
嫁やcHAGEらが警察に助けを求めることを決めたもんだから、見せしめとしてASKAを徹底的に辱めにかかっているのだろう。

文春はちょっとヤクザの片棒を担ぎ過ぎなんじゃね?
飯島愛がASKAとのキメセク映像を撮影したのも、誰かに指示されてのものだと思うわ。


590 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:41:20.26 ID:OMMMgFzU0 [5/6回(PC)]
>>558
というより、そもそも文春にASKAネタリークしたのは売人の893じゃないか?
例の炙り動画なんて絶対そうだし
ASKAも入手するとその場でやっちゃうもんだから
ラリって判断力失い ついつい売人に色々言っちゃったのかね


612 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:49:05.03 ID:8/jzUgrwi [4/14回(iPhone-SB)]
>>590
それはそうかもしれんけど、ASKAは相当組織的に嵌められていってるような気がするね。
末端の売人ヤクザ一人でできるこっちゃないよ、これは。


323 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:39:14.20 ID:37s8V6b20 [1/1回(PC)]

警察と文春が繋がっているとかかな
なわけないか


333 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:40:44.14 ID:bh7yITqT0 [7/14回(PC)]
>>323
その上と繋がっていると思うよ、文春は清和会の大物スキャンダルはスルーする。


351 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:45:36.45 ID:zAKUpCyB0 [1/1回(PC)]

何だかそっち方面に話題を逸らしたい何かしらの事情がありそうでつね


356 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:46:59.13 ID:awBTzCHG0 [1/1回(PC)]

飯島愛よりパソナを攻めていって欲しいなぁ


157 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 17:23:29.21 ID:KiOo2JyZ0 [1/2回(PC)]

結局、パソナが一番の黒幕なのかな
パソナって一見表向きは健全な人材派遣会社だけど、裏ではヤバい系の人材派遣業もしまくってるんだろうな
飯島愛とパソナもなんか関係ありそう
あ〜なんかパトレイバー思い出したわ

飯島愛は日韓ワールドカップの時、ハッキリと韓国を批判してて好感持ってたんだけどなぁ


158 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 17:23:39.77 ID:TYGnI6qr0 [3/5回(PC)]
>>154
飯島愛のバックに何か物凄い大人がいた事が容易に想像出来るね
中山秀は長い物に巻かれるタイプの人だから


159 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 17:27:08.92 ID:6xdpK5Pu0 [1/1回(PC)]

炙りやりながらシャブリもやってたんだ


271 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:29:18.78 ID:1jT+iYKpO [1/1回(携帯)]

あまりに実態を知らない節穴ばかりで見てられない。
まず、政界と財界と暴力団の間における肉体接待や贈賄や弊害処理などは当たり前の話で昔からの暗黙の了解。

また、財界が政界に対して行う肉体接待は直属の企業舎弟でない限りは、単なる肉体接待である事が基本で、薬物を絡めた肉体接待は開かない。

この接待の中で薬物を使用していた政治家など居ても極々僅かで、皆無の可能性もある。
また、居たとしてもASKAが週刊文春に大々的に載った時期を境に絶っているため暗黙の了解の治外法権という領域である上に、理屈上でも薬物関連で逮捕出来る者が此処にはもう居なくなっている。

あれ程の中毒だったASKAの逮捕をここまで長引かせていたのはその可能性を考慮しての一応の注意喚起である。

つまり、パソナルートが重要だと感じるのは、よくよくの節穴と野暮天である。まあ、週刊誌だけが叩いてくれれば満足というのであれば、こんな話でも重要なんだろうがね。

そして、このパソナルートというものに目を向けてもらっていた方が都合が良い事情がある。
古くからの友人関係にあるASKAと清原が薬物疑惑の渦中の人となったわけだが
この2人に薬物を渡していたのが山口組組長の出身母体である弘道会傘下であったからだ。

ASKAは弘道会系福島連合か弘道会系正道会で、
清原は弘道会系の何処なのかまでは分かっていないものの弘道会企業舎弟の筆頭である佐藤義徳と昵懇である事や弘道会の複数の幹部とも親しい事から弘道会の中核組織からの可能性も高い。

山口組は建前上薬物は御法度としており、都合の善し悪しでそれを口実に薬物を扱った組や個人を処分してきた。

だが、薬物を扱っている弘道会傘下の組も決して少なくないという実態がある。
よりによって、今回のような著名人が絡んだ形で弘道会傘下から逮捕者が出るとあっては、いよいよ山口組における反主流派に示しがつかなくなってしまうというわけだ。

こういった背景から、ASKA逮捕の情報を事前に入手していた弘道会が政財界を通して、弘道会傘下の薬物提供者と悶着を起こした事で浮上してしまった薬物中毒のASKAまでは構わないが清原や弘道会傘下の薬物提供者および所属している組には一切お構い無しとさせる事を取り付けたというのが事の核心である。

政財界の腐敗の分まで厳しくされてきた上、腐敗の尻拭いが必要な場合も暴力団がさせられてきたが、今回の取り付けは堅い。
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/mnewsplus/1401320699/





54. 中川隆[1992] koaQ7Jey 2016年3月19日 09:16:36: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1958]

▲△▽▼

週刊文春はうんこ雑誌。御用雑誌。

ベッキーさんだとかショーンKさんだとか。しょーんもない。
しょもない小者芸能人、解説員の不倫だとか経歴詐称を暴く週刊誌。

ちなみに最近クリスペプラーさんやディーンフジオカさんまで経歴詐称では?とばっちりを受けてるようですが。


こんな小者を叩いて。

本当の巨悪。上位1%の権力者。
人類の富の大半を強奪している国際金融資本については何も書かないのですからね。

何がまたも文春がスクープ連発なのか。
銀行強盗団の靴についてるウンコを報道してスクープと言ってるようなもんでしょう。

この週刊文醜。
あ、いや文春。

知ってるかもしれませんが、もろ権力側のメディアですよ。

前にも取り上げましたが、
ずーっと昔にこのような告発本が出ていました。


『週刊文春』と内閣調査室―御用ジャーナリズムの体質と背景 (1977年)


この本の著者 吉原公一郎氏は、週刊文春と文藝春秋の2つの雑誌の記事が、
内閣調査室の内部文章と句読点の打たれているとこまでまんまのコピー。
一言一句まで一緒。

週刊文集の記事は、もとは内閣調査室が作ってた。。とほほほ
詳細な調査の元、そう証明してます。

昔から、週刊文春と文藝春秋(芥川賞の選考雑誌)は政権の都合の悪い連中を叩く御用雑誌、世論誘導メディア。
そう噂されてることです。

ったく。

ホリエモンさんが言うように昨今の足の引っ張り合い。
日本に漂ういやーーな雰囲気。
ターゲットを見つけては誰かをリンチする集団バッシング。魔女狩りの雰囲気。

その元凶の週刊誌。
実は日本人同士、庶民同士を仲悪しさせる分割統治推進の御用ジャーナリズム。

1%の巨悪が枕を高くして眠るための庶民撹乱装置をスクープ連発などと称賛するバカらしさ。
http://golden-tamatama.com/blog-entry-2308.html




55. 中川隆[2049] koaQ7Jey 2016年3月21日 16:50:02: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2017]

▲△▽▼

社会】竹中平蔵氏、自民・中川秀直氏、安藤忠雄氏…ASKAと女が出会った場所は財界人や著名人ズラリ、隣人も知らないパソナ迎賓館


18 : 名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/05/22(木) 22:25:44.85 ID:dcZ9+8AR0 [1/8回(PC)]

パソナには、栩内みたいなお得意様性接待用社員が何人かいたらしいじゃん
小泉・ケケ中と癒着するだけでなく、こんな手も使っていたんだな

もぅ、代表の南部は詰んでるんじゃね?
K札にガサ入れされたらあぼ〜んだな…


269 : 名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/05/22(木) 23:37:17.86 ID:PxClPFLkI [1/1回(iPhone-wifi)]

前原の奥さんもってのは本当なの?
すごい人脈だね


840 : 名無しさん@13周年@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 07:11:13.02 ID:iGwecf0x0 [1/1回(PC)]

食事しながらテーブルの上では日本の将来や経済の事を語って下半身はスッポンポン

各著名人の股にはシャブ中の"秘書"が必死でチンポしゃぶってる

そりゃ入り浸りになるわなww

なぁお塩先生
あれが忘れられなくて、ドラッグに嵌ったと言っても過言ではない


276 : 名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/05/22(木) 23:39:36.51 ID:BYM8TpTQ0 [1/2回(PC)]

要するに、社長秘書という名の下半身専用接待要員。

創価だろ、この女
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/newsplus/1400764332/
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/newsplus/1400810171/l50


ASKA保釈も、全面否認の“共犯”栩内香澄美被告が抱える爆弾「パソナと政界・官僚との黒い癒着が……」


覚せい剤と合成麻薬所持などで起訴されたASKAが3日、保釈された。
これで事件はひと段落したように見えるが、今月22日には、一緒に逮捕されたASKAの愛人、栩内香澄美被告の初公判が東京地裁で予定されている。

この内容に、人材派遣大手「パソナグループ」の南部靖之代表が主催していたホームパーティーに出席した政治家や役人たちが戦々恐々としているという情報を入手した。

 栩内容疑者は容疑否認のまま起訴されたため、公判では頑なに沈黙を守り通すことが予想されるが、検察はASKAと栩内被告が出会った、南部代表主催のパーティーの実態をつかんでいるという情報がある。

その実態が法廷で暴露されるのではと、南部代表をはじめ、パーティー出席者が怯えているというのだ。


 栩内被告がASKAと一緒に逮捕された当初、彼女はいったい何者なのかとマスコミ関係者の間では騒然となったが、その後、栩内被告は南部代表の私設秘書を務め、週に1回開催される南部代表主催のパーティーのホステス役を務めていたことが明らかになった。

ホステス役は、パソナグループから選ばれた美女ばかりが30人ほど。

ミス・インターナショナルで、現在は大手芸能プロ「ケイダッシュ」の谷口元一氏による“ストーカー事件”の被害者として孤立無援の戦いを続けている吉松育美さんも一昨年までパソナグループの社員であり、ホステス役を務めさせられていたという。

 ホステス役を仕切るのは、京都の元舞妓の女性。

彼女は栩内被告と同様、南部代表とは個人的にも親密な関係だったことから、グループの社員からは南部代表の“喜び組”と揶揄されていた。

こうした事実を暴露されるだけでも、南部代表にとっては致命的だ。


 さらに、パーティーには、複数の元首相や安倍晋三総理ほか、自民党を中心に民主党の議員も数多く招待されたという。

人材派遣業の監督官庁である厚生労働省の田村憲久大臣まで顔を出していたというから、開いた口が塞がらない。

招待された議員の中には、パーティーの帰りに御車代として、10〜50万円を渡された者もいたとも。事実であれば、贈収賄や政治資金規正法違反などの可能性もある。

さらにパーティーには、防衛庁、警察庁、厚労省の課長から局長クラスまでの官僚も招待されていたという。

パソナは、霞が関OBの天下り先としても有名だが、このパーティーを通しても、癒着の実態が見え隠れする。

つまり、ASKAとその愛人の覚せい剤スキャンダルだけでは終わらない、社会的問題を含んでいる事件なのだ。

しかし、事件当初は積極的に、これらの問題を報道したメディアも、権力から圧力がかかったのか、いつの間にか腰砕けになって、その後沈黙している。


 南部代表は、裁判で栩内被告を守るために最強の弁護団を付けたといわれている。しかし、検察の尋問に口封じはできない。単なる芸能人の覚せい剤事件で終わらせないためにも、検察の鋭いメスに期待したい。
http://www.cyzo.com/2014/07/post_17763_entry.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/322.html#c2

[リバイバル3] 車中泊向けの軽バン、ホンダ「N-VAN」の実用度 中川隆
100. 中川隆[-10923] koaQ7Jey 2019年4月05日 12:05:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1105]

2019年04月05日
車上生活できる現実的なキャンピングカーの装備


重心位置を上げるような改造は日本の小型車ではしない方がいい


何もかも詰め込まない

車中泊ができる車やキャンピングカーの売り上げが伸びていますが、現実的ではない夢のクルマも多い。

屋根の上に屋根を重ねて天井に人が寝れるスペースを作ったりし、室内空間を拡大しています。

室内が広くなるのは良いが走行性能は最悪で、重量が重くなるうえに重心位置が高くなってしまう。




背の高い荷物を常に満載した小型トラックのようなもので、あまり乗りたくなる代物ではありません。

風やカーブで横転しやすくブレーキは効かず、後方は見えにくいし運転感覚はフラフラしている筈です。

多くの人がやりがちなのはアレもコレもと夢の装備を全部詰め込むことで、走行性能が犠牲になってしまいます。


4トントラックや小型バスを改造するならそれで構いませんが、乗用車やワンボックス、軽自動車がベースなら問題がある。

下り坂でブレーキが利かなくなったり、風で横転しないためには、なるべく軽量化して重心を高くしない必要があります。

どうしても必要な装備だけに限定し、なくても済むものは大胆にカットする必要があります。


要らない装備の第一位はトイレ、2位はシャワーで3位はキッチン、これら水もの装備は重量があり手入れも大変です。

トイレはそこら辺の店で借りれば良いし、何もない山道なら森の中でもできるでしょう。

最初からなければ後で片づける必要もありませんし、故障することもありません。

風呂は銭湯や日帰り湯の類を数百円で利用でき、そうした施設に行くのも旅の楽しみと割り切ればいい。

ハイエースのような箱型バンがベスト


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画像引用:トヨタ ハイエース バン | トヨタ自動車WEBサイトhttps://toyota.jp/hiacevan/


本当に必要な装備は限られている

水もの装備の次は天井の居住スペースで、これがあると異常に背が高くなり、車としてのバランスが損なわれます。

なるべく小型の車で居住スペースを最大限増やそうとするのだが、大家族で泊るならマイクロバスでも買った方が良いです。

必ず必要な装備としては電気装備で、スマホやタブレットその他充電したり、電気製品を使用するにも必要になる。


車の発電能力やバッテリーを強化して専用の電気管理パネルを取り付け、ソーラーパネルでも発電できるようにします。

電気製品を使いすぎて朝起きたらバッテリーが上がっていたような事は防がなくてはなりません。

車の装備とは別にエアコンを取り付ける人も居ますが、すぐにバッテリーが空になるのでこれも不要な装備にしても良いでしょう。


エンジンには良くないが停止したままアイドリングでエアコンを使う方が良いでしょう。

キャンピングカーには必ず寝床が必要ですが、快適に眠るためにはこだわりたい部分です。

イスを組み立ててベッドにするタイプや、ベッドの下が収納になっている2段式などが人気です。


適した車種はずばりいえばトヨタハイエースか日産キャラバンのようなワンボックスタイプになります。

ベースが商用車なので荷台スペースがとても広く、自由なレイアウトがしやすくて、乗用車としても運転しやすい。

もっと小型の車種ではタウンエースのような小型商用車、もっと小さいのは軽バンもあります。


小さい車ほど重心が高くなりやすいですが、屋根の上に追加してふらふら走る車にはしない方が良いです。
http://www.thutmosev.com/archives/79443157.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/865.html#c100

[近代史02] 白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程 中川隆
188. 中川隆[-10922] koaQ7Jey 2019年4月05日 13:32:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1106]
Arthur Calwell 1 (左 / アーサー・コーウェル)

  アジア人労働者を歓迎する企業経営者というのは、ちょっと品の良い奴隷主といったところで、本質的には、昔の残酷な奴隷商人と同じだ。今、オーストラリアは支那人の人口侵略や多民族主義で深刻な問題を抱えているが、この国の惨状と歴史は日本にとって教訓となる。

第二次大戦後、オーストラリアは白濠主義(White Australia Policy)を捨てて、アジア移民を大量に受け容れたが、当初は、反対意見の方が主流派だった。移住大臣となったアーサー・コーウェル(Arthur Calwell)は、アングロ・ケルト的オーストラリアを守るべく、アジアからの低賃金労働者に反対していたが、時代と左翼の攻撃には勝てなかった。当時、コーウェルに対しては、「人種差別に基づく移民規制だ」という非難もあったが、彼は外人労務者を搾取する邪悪な経済人こそ非道であると反駁していた。

  リベラル派から批判されたコーウェルは、ヘンリー・ロス・ルウィン(Henry Ross Lewin)という奴隷商人について述べていた。(Arthur Calwell, Danger for Australia, The Industrial Printing and Publicity, Co., Carlton, 1949, p.10.)

このルウィンはトマス・プリチャード(Thomas Pritchard)なるオーストラリア人に雇われ、彼が所有する「ダフネ」号に乗っていた。「ダフネ」という船はオーストラリアのブリスベンを出航すると、南太平洋に向かい、タンナ島やエロマンゴ島で労働者を見繕っていたそうだ。ところが、規則上、ダフネ号には58名の"労働者"しか乗せてはいけないのに、実際には120名もの島民(商品)が乗っており、船内ですし詰め状態になっていたそうである。(でも、通勤ラッシュ時の山手線よりはマシだ。あの状態は奴隷船よりも過密であるらしい。)

  特筆すべきはルウィンの残虐性である。

彼はタンナ島に上陸した時、酋長の娘に言い寄ったが、あっけなく拒絶されてしまったので、彼女を攫うことにしたそうだ。すると、娘を拉致された首長はルウィンに襲いかかり、娘を取り戻そうとするが、返り討ちに遭って殺されてしまった。

傲慢なルウィンは彼女を妾にするが、彼女に飽きるのも早かった。この外道は彼女の両手をリング・ボルトに結びつけ、鞭で打ち付けると、白人や黒人90名がいる目の前で彼女を強姦したそうだ。そして、事が終わると丸裸の娘を船に投げ入れたという。この船には、あちこちの島から掻き集めた囚人が乗っており、陵辱された娘はその群衆の慰み者になってしまった。(女に飢えた男の中に、裸の女が投げ込まれたら、どんな輪姦が起こるのか、誰でも想像がつくだろう。)

  「ダフネ」号は南洋土人を漁っている最中、洋上警備をしていた「ロザリオ」号のジョージ・パーマー(George Palmer)船長に拿捕されてしまう。そして、拘束された船長と所有者はオーストラリアのクィーンズランドで裁かれることになった。パーマー船長はダフネを奴隷船に違いない、と踏んでいたそうで、船主のプリチャードを有罪にできると考えていた。しかし、海事裁判所は民間の商売、すなわち労働者の輸送と判断し、プリチャードを無罪としたらしい。確かに、ルウィンはお金を払って島民を"リクルート"し、オーストラリアで受け手側に引き渡たしただけだから、これは人足業の部類に入ってしまう。

ただし、ルウィンはあくどく儲けていた。例えば、彼はフィジー島に上陸した時、土人を108名ほど獲得したそうで、仕入れ値は一人当たり6ポンドであったそうだ。その後、クィーズランドに着くと、一人当たり9ポンドで販売したから、結構な儲けになっていたはずである。もっとも、彼は法令で決められた58名しか売らなかったというからズル賢い。全員売り渡すと違法行為がバレてしまうから、表の商売では法律を守っていた。おそらく、残りの「奴隷」は、闇市で売却したのかも知れない。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68760699.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html#c188

[近代史3] 凡人が天才になる方法はあるか? 中川隆
8. 中川隆[-10921] koaQ7Jey 2019年4月05日 14:25:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1107]

まともな人間は芸術家にはなれない _ 4


雪国 - アンサイクロペディア

雪国とは、1935年に執筆が開始され、1937年に刊行されたノーベル文学賞作家川端康成による小説である。その後、続編も発表され、最終的に現在の形にまとまったのは1948年になる。

そして、あれほど美にこだわった作者がホースをくわえて死んじまうという醜態をさらすのは1972年になる。

新潟県南魚沼郡湯沢町を舞台に、主人公である文筆家島村と芸者駒子をめぐる人間関係を描いた作品である。

なお、雪国のつらさはこれっぽっちも描かれてはいない。


1934年から1937年にかけて、川端康成は新潟県湯沢町にある旅館「高半旅館」に逗留し、そこで雪国を舞台にした小説の構想を考え出す。その際、当時文壇の主流である「自分が経験したことを脚色して発表」という観点により、誰も知らない場所で、誰もが経験したい恋愛を、何よりも実情を正確に伝えない形で執筆する。

その結果、日本なんだけど日本じゃないような場所での恋愛という、川端が伊豆の踊り子で培った手法がまったくそのままに再現された作品ができあがり、見事いたいけな読者をだますことに成功する。もっとも、だまされない地元民にとって、ものすごく微妙な作品であることは言うまでもない。


また、当時の文壇にはもう一つの流行があり、旅行業界というものがなかった時代、観光案内的な作品を書くことにより多くの人間を作品の舞台へと旅立たせるという、今で言うタイアップ的な作品が好まれた時期であることも大きい。そのため、読者がもっとも好む清廉なイメージで語られた湯沢町は、多くの文学愛好家たちをとりこにした。 実情を鑑みずに。

作品発表当時の湯沢町

1934年当時の湯沢町は新潟と群馬の県境にある宿場町にすぎず、1931年、ようやく三国連峰にトンネルを通して、国鉄の路線である上越線が整備されたばかりだった。そんな鄙びた温泉に、後のノーベル賞作家がやってきて、その後の湯沢町の運命を大きく左右するとは、このとき誰も想像していない。

ただし、湯治場としての歴史は古く、「高半旅館」の創始者「高橋半六」によって平安時代に温泉が発見されている。ただし、日本三大薬湯と謳われた松之山温泉がすぐ近くにあったため、さほど有名というわけではなかった。

なお、1918年に湯沢町では日本史上最悪と言われる雪崩が発生し、158人が亡くなっている。地元民にとっては、こちらのほうがよっぽど雪国である。

あらすじ


書き出し

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

日本有数の書き出しとされるこの文章にも実に惜しい部分があり、川端康成がもし、1936年にこの小説を書き始めていたら、実装が始まった雪を吹き飛ばすラッセル車のイメージにより、男女の恋愛の機微すら吹き飛ばされた可能性が高い。

なお、「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」という形で人口に膾炙しているが、これに関しては後の映像作品が悪い。


内容(途中まで)

12月始め、主人公の島村は新しく整備された上越線に乗り込み、三国連峰をつらぬく清水トンネル(1931年開通、9702m)を抜けて新潟県を目指していた。長大な清水トンネルを抜けるには蒸気機関車では煙害が激しいため、客車は群馬県側の水上からは当時世界最先端であった電気機関車によって牽引されていた。しかし、それだとイメージが悪いので、作品ではあくまでも汽車で通す。

上越線は、それまで11時間かかっていた東京―新潟間の運行を4時間短縮させる、まさに画期的な路線であった。

無論、そんな男女の関係にまったく関係ないことは記述されていない。

客車の中で島村は、病人らしい男と一緒にいる娘・葉子に興味を惹かれる。自分が降りた駅で、その二人も降りるのを確認した島村は、行き着けの旅館に赴き、なじみの芸者、駒子を呼び、朝まで過ごす。

なお、ここでは芸者と呼んでいるが当時の温泉宿の芸者は実質アレに近い。


(回想)島村が駒子に会ったのは新緑の5月、山歩きをした後、島村が初めての湯沢を訪れた時のことである。

なお、実際の湯沢において5月の山歩きは命がけになる可能性もある。
年にもよるが、山から雪が消えるのはだいたい6月、作者の川端康成が通った、群馬県からのルートだとそれこそ7月まで雪が残っていることもザラである。

また、湯沢町と群馬県みなかみ町の境にある名峰谷川岳は特に険峻とされ、1931年から2005年までに、781人もの尊い命を奪っている。これは、エベレスト(178人)をぶっちぎりで超える、世界で一番人の命を奪った山である。

この作品における「山歩き」という言葉に誘われた人間が犠牲になっていないことを祈るばかりである。

山歩きの後、訪れた旅館で島村は駒子に出会う。駒子は当時19歳。
徒弟制度の中で19歳はまだまだ半人前である。

島村は東京から来た文筆家で一人きりの客という、旅館にとってはあまりうれしくない類の客だったため、こんな場合は団体客を優先とばかりに、半人前の駒子が島村の部屋にお酌に来ることになる。

なお、風営法ができたのは1948年のことだった。

翌日、島村は堂々と駒子に女を世話するよう頼むが、東京から来たわけの分からない客にアネさんがたを紹介すると、後で大変な目にあうかもしれないと、駒子は断る。そのくせ、夜になると酔った駒子が部屋にやってきて、二人は一夜を共にしたのだった。未成年者飲酒禁止法の制定は1922年、この段階ですでにアウト。


昼の散歩中、島村は街道で出会った駒子に誘われる。なお、駒子にはモデルは、実際に川端康成の世話をしていた松栄という芸者だといわれている。彼女は1999年まで生きている。

駒子に誘われ、島村は駒子の住む部屋に寄ってみると、そこは踊りの師匠の家の屋根裏部屋であった。

そして、来る途中の車内で見かけた二人の男女は駒子の踊りの師匠の息子(行男)と娘(葉子)だったことを知る。

行男は腸結核で長くない命だという・・・などとうまくぼかして書いてあるが、

踊りの師匠の家とは、芸者置屋、今風で言うならホステスの斡旋所である。←この文章ですらぼかして書いているんだから、実情は推して知るべし。

作品発表後の反響

作品発表後、単なる田舎の温泉だった場所にわんさか文学バカどもがやってきたもんだから、地元民は驚いたもんさ。んでもって、ノーベル賞を受賞して世界的にも有名になっちまったもんだから、芸者置場や雪国の暮らしの実情をしっている地元民は本当に困ったもんさ。

貴様ら全員、鈴木牧之の北越雪譜を読んでから来いやあ!

その後の湯沢町

なお、この作品に描かれている雪国の情景は、田中角栄がすべてにおいてぶち壊している。

上越新幹線が通り、関越自動車道が建設されただけでも作品の情景がグダグダになるってのに、その上、バブル期において、その東京との連絡網のよさ、およびスキー場の立地条件のよさなどから、町全体が投機の対象となり、なんのことはない田んぼや畑に1億円、商品価値なんてまるでなかった山腹に2億円など、湯沢町全体が異常な空気に包まれる。

周辺市町村にはそんな話は全くなかったが。その結果、東京都湯沢町とまで揶揄されるほどの地価の高騰と各種施設の建設ラッシュ、何よりも情緒もクソも関係ない都会の若者たちの乱入が始まり、川端康成の言う「雪国」の情緒は完全に失われることになった。

もっとも、その後のバブル崩壊でかなりの打撃を受けることになったが、現在でも各種施設からのアガリを得ることで、新潟県有数の裕福な町として君臨している。

平成の大合併においても貧乏な隣町から合併をお願いされるも、自分たちは一人でやれると宣言し、合併した南魚沼市を尻目に、現時点において唯一の新潟県南魚沼郡の町として存在し続けている。
・・・雪国の情景って、なに?

作者による評

「とにかく、金がないときに原稿をたくさん上げなければいけないので大変だった」
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E9%9B%AA%E5%9B%BD


▲△▽▼


英訳すると情痴小説(ポルノ小説)『雪国』が 出来の悪い純愛小説になってしまう理由
雪国と Snow Country (上巻)

『雪国』を読めば、日本語と英語の発想がわかる!
ものとものとの関係 − 発想の違いを検証する

松野町夫 (翻訳家)

日本語は抽象的な表現を好み、動詞が主役。これに対して、英語は具体的・説明的で能動的な表現を好み、名詞が主役、特に「ものとものとの関係」は実に明瞭である。

川端康成の小説『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” を教材として、日本語と英語の発想の違いを検証したい。ちなみに、エドワード・ジョージ・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker)は、コロラド州生まれアメリカ人。川端康成自身、「私のノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と言わしめたほどの名文家・知日家であり、私たち英語学習者から見れば、彼はいわば「神さま」みたいな存在だ。教材としてこれ以上のものはないと思う。

(原文)
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

(訳文)
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura. The snowy cold poured in. Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face.


上記の英文を再度、日本語に訳してみる。これは訳をもう一度訳した文なので、訳訳文と呼ぶことにする。


(訳訳文)
汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。大地は夜空の下、白く横たわっていた。信号所に汽車が止まった。

同じ車両の反対側に座っていた娘が来て、島村の前の窓を開けた。雪の冷気が流れこんだ。窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長を、ずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。

駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。


原文の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、翻訳者泣かせの文である。この種の和文は英訳が極端に難しい。この文は、複文なのか、それとも重文なのか?トンネルを抜けたのは何だろうか?人か、車か、汽車か?雪国であったのは何か?英文では主語が必須だが、この和文には、主語に相当する主格や主題が出てこない。主語を特定できないので英訳作業に着手できないのだ。「抜ける」とか「〜であった」という動詞は大事にするが、その主体となるもの(名詞)はあっさりと省略されてしまっている。

しかし、この文は日本語として特におかしな感じはしない。それどころか、日本の第一級の文学者の、しかも文学作品の書き出しだから、推敲に推敲を重ねた名文のはず。名文なのに、どうしてこうもわかりづらいのだろうか。それはたぶん、この文が単独では自己完結しておらず、文脈に依存しているからだろうと思う。主語を特定するには、物語をもっと先の方まで読み続ける必要がある。和文は文脈に依存したものが多い。

もし、この文が報告書のような実務文書であれば、私はためらうことなく悪文とみなし、もっと具体的にわかりやすく書き直してくださいと、書き手に注文をつけたいような気にもなる。

文脈依存文で、もっと先の方まで読んでもどこにも主語を特定できる手がかりがないことも、たまにある。それでも翻訳作業は何が何でも開始しなければならない。こういう場合、私は、逐語訳の手法を採用して日本語の発想をそのまま英文に持ち込むことにしている。たぶん、苦し紛れに以下のように訳すような気がする。

Getting through the long border tunnel led to the snow country.
国境の長いトンネルを抜けると雪国へ出た。

典型的な逐語訳であり、これぐらいなら、いっそのこと動詞 get through を省略して、The long border tunnel led to the snow country. (国境の長いトンネルは雪国に出た)の方が英文としては、もう少しマシかもしれない。

サイデンステッカーは、主語を汽車にして簡潔に表現する。まさに「コロンブスの卵」である。

The train came out of the long tunnel into the snow country.
汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。

彼は、国境ということばを無視(省略)し、The train という単語を主語として補充した。わかりやすい自然な英文だ。目をつぶると、その光景がいきいきと目に浮かぶ。”out of the long tunnel” (長いトンネルを抜け)の前置詞 out of があたかも動詞「〜を抜け」であるかのように機能している。「雪国であった」と原文ではいわば静の状態で表現されていたものが、英文では "The train came into the snow country." と能動的に表現されている。

ここで、原文と訳文の表現をもう一度比較してみよう。日英の発想の違いが一目瞭然である。


原文: 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(日本語的発想の文脈依存文)

訳訳文: 汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。(英語的発想の自己完結文)


訳訳文は、汽車・トンネル・雪国の「ものとものとの関係」が明白である。原文をやまとことば本来の名文だとすると、訳訳文は、英語的発想から生み出された新しいタイプの明文(わかりやすい文)である。この種の表現(自己完結文)を積極的に日本語に取り入れることで、日本語は、「あいまいさ」を排除して、さらに豊かな表現を手に入れることができるのではないか。日本語的発想の文脈依存文は文学や詩歌などの芸術分野に、英語的発想の自己完結文(明文)は報告書や説明書などの実務的分野に、という具合に使い分けるのもおもしろい。

英語的発想の自己完結文(明文)、たとえば、「汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た」は、文構造が単純なので、誰でも簡単に翻訳ができる。The train came out of the long tunnel into the snow country. 逆に言うと、日本語的発想の文脈依存文にでくわしたら、一度それを、英語的発想の自己完結文に置換してから翻訳に着手すると、作業が瞬時に完了するばかりか、作品もわかりやすい自然な英文に仕上がるといえる。英語的発想とは、主語を特定し、「ものとものとの関係」を明白にすること、たったこれだけの簡単な話である。たとえば、汽車・トンネル・雪国の3つのもの中から主語となるものを特定し、主語と別のものとを、動詞または前置詞を使用して関連付けるのである。

ちなみに、雪国の舞台は、新潟県南魚沼郡湯沢町。国境(くにざかい)は、上野国(こうずけのくに、群馬県)と越後国(えちごのくに、新潟県)の県境のこと。長いトンネルは、羽越線鉄道の清水トンネルで全長、9.7キロ。

夜の底が白くなった。
The earth lay white under the night sky.

「夜の底が白くなった」とはどういう意味なのだろうか?「夜」は通常、日が沈んで暗いとき(=時間)を意味する。しかし、時間は流れるが形がないので当然「底」などない。つまりここの「夜」は、通常の意味の「夜」ではない。では、どういう状況を表現しているのだろうか?おそらく、この「夜」は島村の車窓から見た「暗闇」を文学的に表現したのではないかと私は思う。具体的に言うと、トンネルに入る前の群馬県側では雪はなく、車窓からの夜景はただ一面の「暗闇」にすぎなかった; しかし長いトンネルを抜け雪国(=新潟の湯沢町)に入った途端、「暗闇」は一変する; 実際には、雪はずっと以前からそこの地面に積もっていたのであり、変化したわけではないのだが、島村(=川端康成)の目には、あたかも「暗闇」の下部(=地面)が突然、白く変化したかのように映ったのにちがいない。

「夜の底」という日本語の抽象的な表現に比べて、英語の The earth under the night sky (夜空の下の大地)は「具体的」「説明的」でわかりやすい。「大地」と「夜空」を前置詞 "under" で明確に関係付けている。まさに、日本語は抽象的な表現を好むが、英語は具体的な表現を好み、「ものとものとの関係」が実に明瞭だ。
"The earth lay white under the night sky." を意訳すると、「大地は夜空の下、白く横たわっていた」。要は、「地面に雪が積もっていた」ということ。直訳の "The bottom of the night became white." (夜の底が白くなった)では、何のことかさっぱりわからず、これではノーベル文学賞はとても無理だったでしょうね、きっと。

信号所に汽車が止まった。
The train pulled up at a signal stop.

ウーン、やはりネイティブ・スピーカーの英文は簡潔で美しい。民族英語はいきいきとした英米文化を背景に持つ。さりげなく訳してあるが、表現が生きていますね。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。

この文はわかりやすい。私ならおそらく原文にひきづられて、次のように訳しそうだ。

From the opposite seat a girl stood up, came over and opened the window in front of Shimamura.

しかし、サイデンステッカーは、この場面をはっとするほど正確に描写する。

訳文: A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura.

同じ車両の反対側に座っていた娘がやって来て、島村の前の窓を開けた。


the car は、ここでは車ではなく、車両の意味。向側の座席 the opposite seat は、向かい側とみれば、対面または背面する座席に、向こう側とみれば同じ車両の反対側の座席に解釈される。要するにこの表現では「あいまい」なのだ。実際には、娘(葉子)と島村はちょうど斜めに向かい合っていたので、同じ車両の反対側の座席が正しい。このため、訳文では、原文にはない「車両」という名詞を新たに補充している。これにより、「ものとものとの関係」、つまり、娘の座席と島村の座席の関係が明白となる。

「立って来て、窓を開けた」 stood up, came over and opened the window であれば、娘は時系列の順番に動作しているので、動詞はすべて過去形でよいが、「座っていた娘が来て、窓を開けた」となると、時制が異なるので 「座っていた娘」は、A girl who had been sitting と過去形よりさらに過去を表す過去完了進行形が必要となる。

原文: 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

訳文: Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

訳訳文: 窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長をずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。

原文は直接話法「駅長さあん、駅長さあん。」なのに、サイデンステッカーは間接話法で訳している。これは日本語と英語の特性に関係する。日本語は、敬称、敬語、謙譲語など待遇表現が英語よりはるかに豊富なので直接話法が威力を発揮するが、英語は間接話法が得意だ。「駅長さあん」の「さあん」は、敬称「さん」の変化したもので、日本人ならこれだけで、大声で呼んだとすぐにわかるが、英語には翻訳しづらい。マレーシア英語なら、日本人の多用する敬称「さん」に慣れているので、直接話法の ”Station Master san, Station Master sa-aaa-n!” でも理解してもらえるかもしれないが。


原文: 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

訳訳文: 駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。

訳文: The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face.

原文は「男」を主題にして文全体をひとつにまとめているのに対して、訳文は、「駅長」、「顔」、「耳おおい」と3つのものをそれぞれ主語に設定して3つの文に分けてある。「駅長」、「顔」、「耳おおい」は、いずれも原文には存在しない。「駅長」と「男」、「帽子の耳おおい」と「帽子の毛皮」は実質的に同じものなので、これは別としても、「手」や「顔」は新たに補充されたもので、「顔」などは2度も登場する。実際、訳訳文は原文よりも1.5倍ほど長い。この結果、訳文はものとものとの関係が明白だ。

「明かりをさげて」 = “a lantern in his hand”

「襟巻で鼻の上まで包み」 = “His face was buried to the nose in a muffler”

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」 = “the flaps of his cap were turned down over his face”


「明かりをさげて」の「さげて」は動詞だが、訳文では前置詞 “in” で表現している。明かりは手に、(たとえば、腰にではなく)さげていたのだ。ここにも、名詞を多用して具体的に説明する英語の特徴が如実に現れている。

「襟巻で鼻の上まで包」んだのは何か?「顔」である。当たり前じゃないか!などと憤慨しないでください。”His face” という主語を立てないかぎり、普通の英語にはならないのです。

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」は、「帽子の耳おおいは、顔まで垂れさがっていた」と表現している。たいした違いはないじゃないか、ですって!?いいえ、垂れていたのは、「耳」にではなく「顔」にでしょうと、訂正している。なるほど、確かに「耳おおい」は、耳を越えて顔にまでかかるものですね。いやはや、恐れ入りました。


長文は短文に分割すると翻訳が簡単!
直訳か意訳か

直訳か意訳かは翻訳者にとって永遠のテーマ。直訳は原文を字句・文法にしたがって一語一語忠実に訳すこと(literal translation)、逐語訳ともいう。意訳は字句にこだわらないで意のあるところを訳すこと(free translation)、自由訳ともいう。

若い頃、私は極端な直訳信奉者だった。といっても、主義とか思想とか、そんな高遠なものに裏うちされたものではない。単に経験不足で自分勝手にそう思い込んでいたにすぎない。当時の私は原文を絶対視していたようだ。原文の語句はすべて翻訳しなければならない、原文にない語句を勝手に補充してはならない、原文が長い文章であっても勝手に分割してはいけない、原文の形容詞や副詞は、訳文でも形容詞や副詞にしなければならない、つまり、品詞は変更してはならない、などなど。思い込みは恐い。

言語学的に似通った言語間の翻訳ならいざしらず、お互いにかけ離れた構造を持つ日本語や英語間の翻訳にそのような偏狭な手法だけで対処できるはずはないのだが、当時はしかし、そのように思い込んでいた。

川端康成の『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” は、こうした永遠のテーマに対してひとつのガイドライン(指針)を示してくれている。サイデンステッカーは必要に応じて、原文の語句を省略したり、原文にない語句を新たに補充したり、長文を短文に分割したり、品詞を変更したりする。つまり、わかりやすい英文に翻訳するために必要に応じて意訳する。

(原文)
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

(訳文)
It’s that cold, is it, thought Shimamura. Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain. The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them.

(訳訳文)
もうそんな寒さかと島村は思った。鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。雪の白さはそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

原文は、島村の眺めた景色として文全体をひとつにまとめているが、訳文では、島村・建物・雪の白さという3つの名詞をそれぞれ主語にして3つの文に分割して仕上げてある。原文の流れも自然なら、訳文も同様に自然な流れで分断の後遺症など、まったく感じさせない。

原文は日本語的な発想に基づいた名文である。このような名文から直接、訳文のような自然な英文を創造することは極端に難しい。日本人にはまず無理。こういう場合には、名文を一度、英語的な発想の明文(わかりやすい文)に読み砕くことである。まず、長文ならいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。明文を書くには、「1つの文に1つの概念」が原則。現に、訳文ではこの原則が採用されている。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。

もうそんな寒さか/ と島村は外を眺める/ と、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている/ だけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた/。

次に、分割した各文の主語(S)や動詞(V)、目的語(O)、補語(C)などを特定する。これらが省略されているときは補充する。

もうそんな寒さか/ → もうそんな寒さかと島村は思った。

島村は外を眺める/ → 島村は外を眺めた。

鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。

雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。


ここまでの作業で難解だった長文の名文が4つの短い明文に変換された。これなら、私たち日本人でも何とか翻訳できそう、でしょう?。俄然、やる気もわいてくる。以下に私の訳とサイデンステッカーの訳を示す。対比することで日本英語(JE)と米語(AE)の違いが実感できる。

もうそんな寒さかと島村は思った。

JE: It’s already such cold, thought Shimamura.

AE: It’s that cold, is it, thought Shimamura.


島村は外を眺めた。

JE: He looked out.

AE: (訳文では省略されている)

鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。
JE: Railway dormitorylike barracks were coldly scattered at the foot of the mountain.

AE: Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.


雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

JE: The color of snow disappeared in the darkness on the way before it arrived there.

AE: The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them.

ちょっと気になるのは、原文の「島村は外を眺め」は、訳文では省略されている点である。私などはつい、He looked out. という英文を挿入したくなるが、山裾のバラックなどの光景は島村の眺めた景色だということは誰の目にも明快なので、実際にはこの文がなくても少しも不都合はない。

どちらかというと逐語訳調の私のジャパニーズ・イングリッシュに比べて、サイデンステッカーの訳はすべて、当然のことながら、さすがに格調高く洗練されていて、特にバラックの描写など臨場感すら漂っており、実にいきいきとまるで映画のシーンを見ているようである。この違いはどこから来るのか? もう一度、バラックの文に焦点をあて、仔細に検討しよう。

(原文) 鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。

(訳文) Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.

(訳訳文)鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。

バラックは米語ではbarracks(単複同形)で通常、「兵舎」を意味するようだ。もちろん、「粗末な家」の意味もあるが。訳文では、「低い」や「凍結した山の斜面」、「あちこちに」が補充されていて、これらが臨場感の演出に一役かっている。これらの語句は原文にはない。「低い」は平屋を連想させる。確かに当時の鉄道の官舎はそんな感じだったようである。「凍結した山の斜面」は原文の「寒々と」を具体的に表現したもの。「あちこちに」はバラックの散在するさまを強調しているので、挿入した方が英文ではわかりやすい。ちなみに「あちこちに」は、日本語の語順と異なりhere and there 「こちあちに」となる。

(原文)寒々と → 凍結した山の斜面に
up the frozen slope of the mountain

原文では「寒々と」と副詞を使用して抽象的に表現しているが、訳文では「凍結した山の斜面」と具体的に表現している。川端康成の「寒々と」に込めた想いが訳文の ”the frozen slope” に完全に一致するとは思えないが、「日本語は抽象的な表現を好み、英語は具体的な表現を好む」という日英2つの言語の特徴が出ていておもしろい。「寒々と」を具体的に表現せよと問われたら、私は "in the freezing air" と答えるような気がする。この場面ではこの副詞句が私の語感に近い。

でも、サイデンステッカーはなぜリスクをおかしてまで「寒々と」を「凍結した山の斜面」と訳したのか?私が思うに、日本語では「家が寒々と散らばっていた」はごく普通の表現であるが、英語では、Houses were coldly scattered. とはあまり表現しないのではないか。 scatter は widely (広く)などとは連語 (collocation) になるが、coldly 「寒々と」とはあまり連結しない。だから「寒々と」を断念したのではないかと思う。インターネットを検索しても "scatter" と "coldly" の連結は見当たらない。実際、Cambridge Advanced Learner's Dictionaryは "coldly" を以下のように定義している。ロングマン米語辞典(LAAD)やオックスフォード辞典(OALD)でも似たり寄ったり。もちろん、"coldly" は cold + ly なので「寒い」という概念をいずれにせよ持っているのはまちがいないが、Houses were coldly scattered. は英米人の普通の表現にはないのかもしれない。

coldly: adverb
in an unfriendly way and without emotion:
"That's your problem, " she said coldly. (それはあなたの問題よ、と彼女は冷たく言った)

サイデンステッカーが翻訳で目指したのは「ごく普通の自然な英文」であるのはまちがいない。どの訳文を見てもお手本になる自然な英文ばかり。だからこそ、『雪国』と "Snow Country" は日本人にとって和文英訳の手引書となり得るのである。さらにまた、これは和文英訳についての手引きではあるが、その基本的な手法や考えかたは英文和訳にも、あるいはもっと一般化して、他の言語の翻訳にも相当に適用できるのではないかと私は思っている。私にとっては手引書というよりは名人による翻訳の指導書、いや極意の書である。


日本語には間接話法はない!
地の文と会話文

会話文はわかりやすい。説明や描写の文(地の文)が長々と続いた後に会話文を目にするとほっとする。会話文は砂漠の中のオアシス。子供のころから不思議なことに、会話の部分だけは文字を読むまでもなく、音声と映像で瞬時にして理解できた。まるで、話し手の声が聞こえ表情までもいきいきと見えてくるかのように。同じような体験をお持ちの方は大勢いらっしゃるはずだと思う。

(原文)
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」

「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」

「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」

「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」


(訳文)
"How are you?" the girl called out. "It's Yoko."

"Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again."

"I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done."

"It will be lonely, though. This is no place for a young boy."


(訳訳文)
「ご機嫌いかがですか?葉子です。」と娘は叫んだ。

「葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったね。」

「弟が今度こちらにお勤めさせていただいているそうですね。お世話になります。」

「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」

上述の会話文は本人の話を直接、引用しているので英文法の直接話法に相当する。英語には直接話法と間接話法がある。直接話法 (direct speech) は人のことばをそのまま伝える方法で、間接話法 (reported speech) は人のことばを話し手のことばに直してから伝える方法である。英語の直接話法と間接話法はお互いに変換することができる。


例: 「私は今、元気です」と彼は言った。

He said, "I am fine now." (直接話法 direct speech)

He said (that) he was fine then. (間接話法 reported speech)


日本語は直接話法は得意だが間接話法は苦手、というより間接話法は英語の概念であり日本語にはもともと存在しない。日本語では「会話文」と「地の文」という概念がある。「地の文」とは説明や描写の文のこと。大雑把に言うと、会話文は日本語では直接話法で表現し、英語では直接話法かまたは間接話法で表現する。


「日本語の会話文」 = 日本人は「直接話法」で表現する

「英米語の会話文」 = 英米人は「直接話法」または「間接話法」で表現する

日本語では複雑な内容であっても直接話法でなら完璧に表現できるが、間接話法ではそうはいかない。私自身、間接話法の英文をそのまま間接話法で日本語に翻訳しようとして、四苦八苦した苦い経験が何度もある。単純な内容なら間接話法で表現できなくもないが、ちょっと込み入った内容になるとすぐにお手上げとなる。いくら工夫してもなかなか素直な日本語にならない。

英語の直接話法と間接話法は、表現こそ異なるが内容(意味)はまったく同じもの。複雑な内容の間接話法の英文を和訳するときは、直接話法で処理した方が自然な日本語を得やすい。この場合、意味が不明瞭にならないかぎり、かぎかっこ(「」)を省略するなど、ちょっと工夫することであたかも間接話法であるかのように見せることもできる。

例: He said he was fine then. (間接話法の英文を和訳する場合)

「私は今、元気だ」と彼は言った。 (直接話法で和訳してもよい)

今、元気だと彼は言った。 (かぎかっこを省略して間接話法のように見せることもできる)

話法の話はこれくらいにして、『雪国』の本文に戻る。


原文: 「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」

訳文: "How are you?" the girl called out. "It's Yoko."

「駅長さん」は今回も訳文にはない。"How are you, Station Master? It's me." と逐語訳したくなるところだが、訳文の方がもちろん、自然な英文である。

原文: 「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」

訳文: "Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again."

「ああ、葉子さんじゃないか」を "Yoko, is it." と疑問形にして疑問符はつけない。これを仮に、"Ah, it's you, Yoko, aren’t you?" などと普通の付加疑問文にすると、アメリカ風の社交的な駅長というイメージを読者に与える恐れがある。 "Yoko, is it." か、なるほどね。これなら、日本人の駅長の感じが出ている。

原文: 「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」

訳文: "I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done."

日本人は「今度」という語を愛用するが一筋縄では行かないことばだ。場合に応じて、this time, next, recently などに訳し分ける必要がある。この場合は "my brother has (recently) come" の意だが、訳文にはない。

原文: 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」

訳文: "It will be lonely, though. This is no place for a young boy."

訳訳文:「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」

"It will be lonely" の "it" は、おなじみの形式主語。 It rains (雨が降る), It's dark here (ここは暗い) などのように、形式主語の "it" は天気や時間、距離、情況などを漠然と指す。英語は形式上、主語が必要なので挿入されたもの。通常、"it" は日本語に訳さない。

会話文はわかりやすいが、皮肉なことに会話文の翻訳は非常に難解になる場合が多い。上記の、「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」もその典型的な例である。民族の文化や生活に深く根ざした表現は逐語訳ではうまく処理できないのだ。「参るだろうよ」= He'll be frustrated. や「可哀想だな」= I feel (sorry) for him. などと直訳せずに、lonely や “no place for a young man” などを使用して言外ににおわせる、まさに高等技法である。


川端康成の官能的表現
直訳か意訳か

川端康成の『雪国』(新潮文庫)の8ページには「左手の人差指」について述べた長文がある。この文は物語全体とやや趣(おもむき)を異にする。私は少し違和感を覚えた。彼の作品にしては珍しく表現が露骨で肉感的な感じが強い。サイデンステッカーの英訳版 ”Snow Country” でこの文を確認したら、どうやらサイデンステッカーも戸惑いを感じていたようである。

(原文)
もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。

(訳文)
It had been three hours earlier. In his boredom, Shimamura stared at his left hand as the forefinger bent and unbent. Only this hand seemed to have a vital and immediate memory of the woman he was going to see. The more he tried to call up a clear picture of her, the more his memory failed him, the farther she faded away, leaving him nothing to catch and hold. In the midst of this uncertainty only the one hand, and in particular the forefinger, even now seemed damp from her touch, seemed to be pulling him back to her from afar. Taken with the strangeness of it, he brought the hand to his face, then quickly drew a line across the misted-over window. A woman's eye floated up before him. He almost called out in his astonishment.

(訳訳文)
三時間前のことだった。退屈まぎれに、島村は左手を眺め人差指が屈伸するのを見つめていた。この手だけがこれから会いに行く女の、生き生きしたじかの思い出を持っているようだ。鮮明な女の画像を思い出そうとすればするほど、記憶は萎え、女がますます薄れてゆき、つかまえておきたいのに何も残らない。この不確実さの中で、この片手だけが、特にこの人差指が今も女の触感で濡れていて、遠くから自分をその女へ引き戻しているかのようだ。不思議に思いながら、彼は左手を顔に近づけて、それからすっかり曇った窓にさっと線を引いた。女の片眼が彼の面前に浮かび出た。彼は驚いて声をあげそうになった。

他の部分は原文に忠実なのに、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の部分だけは、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)とぼかして訳してある。「鼻につけて左手の匂いを嗅ぐ」を直訳すると、”he smelled his left hand” または “he put his left hand on his nose to smell it” となる。しかし訳文には「鼻」も「嗅ぐ」もどこにも出てこない。具体的な表現を好む英語がこの部分に限っては、日本語のお家芸を奪うかのごとく曖昧に表現している。なぜか?おそらくサイデンステッカーもこの部分については違和感を覚えたにちがいない。だから彼は意図的に曖昧に表現したのではないだろうか?

欧米文化では鼻はタブーらしい。英米の小説では「顔は克明に描かれている場合でも、どうしたことか鼻への言及が少ない」、「どうも欧米人は、鼻を何となくわいせつな感じ(obscene)を起こさせるものと見ているようだ」(『ことばと文化』 鈴木孝夫著、岩波新書、ものとことば、50〜51ページから抜粋)

だとしたら、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」は欧米人にとっては、いよいよ卑猥な表現となる。結局サイデンステッカーは、翻訳者としての原文への忠誠の義務に逆らってまでも、具体的な表現を好む英語の用法に逆らってまでも、あえて曖昧に表現せざるを得なかったのであろう。原文は確かに少々卑猥な感じはするが、日本語の文学的表現の許容範囲内にぎりぎり収まっている。少なくとも川端康成はそう考えた。しかし、欧米文化ではこの部分の逐語訳、たとえば、“he put his left hand on his nose to smell it” は到底一般読者の容認できるものではないのかもしれない。「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の意訳、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)は、文化レベルにまで引き上げて考えてみると、一転して原文に忠実な訳となる。日英両文とも、お互いに文化的(= 文学的)許容範囲内にあるからだ。翻訳者としての原文への忠誠義務違反は「ことば」のレベルではまさにその通りだが、上位概念の「文化」のレベルでは免罪され忠誠義務違反に当たらない。この意訳で OK だと私は思う。

原文の2つの文のうち、最初の文は相当に長い。文字数を数えてみたら何と226文字ある。ちなみに、マイクロソフトのワードで文字数を確認するには、ワードを起動し、目的の文を新規文書に入れ、ワードのメニューバーから「ツール」、「文字カウント」の順にクリックすると、「文字カウント」ウィンドウが表示され、文字数や単語数を確認できる。それにしても 226文字とは相当に長い文だが、そこは名人、誰でも難なくすらすらと読みこなせるように仕上げてはある。

この長文は、訳文では7つの文に分割されている。長文は短文に分割する、サイデンステッカーは徹底してこの手法を採用する。分割するときは、文頭から順番に、動詞に注目しながら概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。このようにして分割したものを次に示す。

もう三時間も前のことだった/
島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めた/
この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている/
はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく/
記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだ/
不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引く/
そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった/

ここで時制について一言。英語の時制 (tense) は時間軸に沿った単純明快なもの。このような時間軸に沿った単純明快な時制という概念は日本語にはない。たとえば、上述の7つの文は過去の話なので、英語の動詞はすべて過去形を使用しなければならない。現在形は使用できない。しかし、日本語の文末の動詞に注目すると、「ことだった」、「眺めた」、「覚えている」、「ぼやけてゆく」、という具合に「〜する」、「〜した」、「〜だ」、「〜だった」が混在している。このように日本語では過去の話に「〜する」とか「〜だ」とかも使用できるのである。中学校の英語の時間に私たちが教わった「〜する」=現在形、「〜した」=過去形、「〜でしょう」=未来形などの公式は、現実の日本語には通用しないことがわかる。時制について詳しくは http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-280.html を参照してください。

英語的な発想の明文(わかりやすい文)を書くには「1つの文に1つの概念」が原則。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。さらに嬉しいことに、コンピュータまでもが明文は理解できるのだ。英日・日英間の機械翻訳は実用にはまだまだ程遠いのが現状だが、実は先日、この手法を用いて自分で書いた英文メールを遊び心で、市販の英日・日英機械翻訳ソフト(訳せ!!ゴマ)にかけたところ、4ページほどの英文が2、3分後に日本語に翻訳され、ほとんどすべての訳文(和文)が理解可能な、したがって実用的なレベルに仕上がっていた。驚き桃の木、山椒の木!そばでこの作業を見守っていた同僚も「完璧ですね」と叫んだ。私も興奮した。そうか、明文は機械翻訳できるのか!明文は書くのが簡単、わかりやすい、機械翻訳も可能。だから「実務文書は明文で」。ね、そうでしょう。


会話文には接続詞はいらない!?
会話文 (2)

(原文)
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」

「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するんで、村も炊出しがいそがしかったよ。」

「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれど。」

「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね。」

駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか。」

「いや。」

「駅長さんもうお帰りですの?」

「私は怪我をして、医者に通ってるんだ。」

「まあ。いけませんわ。」


(訳文)
"He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."

"Oh, but he's doing very well. We'll be busier from now on, with the snow and all. Last year we had so much that the trains were always being stopped by avalanches, and the whole town was kept busy cooking for them."

"But look at the warm clothes, would you. My brother said in his letter that he wasn't even wearing a sweater yet."

"I'm not warm unless I have on four layers, myself. The young ones start drinking when it gets cold, and the first thing you know they're over there in bed with colds."

He waved his lantern toward the dormitories.

"Does my brother drink?"

"Not that I know of."

" You're on your way home now, are you?"

"I had a little accident. I've been going to the doctor."

"You must be more careful."

..................................................................................................

「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」

"He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."

原文は単文だが、訳文は2つに分割されている。

「子供ですから」の中の「から」に相当する語は訳文にはない。「から」は原因・理由を示す接続詞で、英語の because, sinceに近い意味を持つ。因果関係が重要な意味を持つ論文はともかく、日常会話のような文章では、「なぜならば because」はまだいいとしても、「したがって thus, consequently, therefore」のような形式ばった接続詞は英文では無視される場合が多い。(接続詞を使うとしてもせいぜい and を挿入する程度)。

たとえば、「今朝、朝食をとらなかったので、今、おなかがすいている」は I had no breakfast this morning, (and) I'm hungry now. ぐらいで十分でしょう。もちろん、I'm hungry now because I had no breakfast this morning. もOKでしょうが、少しくどい感じがしませんか。

長文を短文に分割すると、この接続詞の問題は必ず浮上する。サイデンステッカーは、長文は複数の短文に分割しているが、その際、分割箇所の接続詞は省略している。たとえば、「バラックが散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた」の「だけで」もやはり無視されていた。

私たち日本人は「〜だから」や「なので」、「したがって」、「このため」などの接続詞が大好きで日常的な文章でも頻繁に使用する。こうした接続詞がないと文と文のつながりが希薄になりそうで不安なのだ。実際、日本語では接続詞を挿入した方が文の座りがいい。しかし英米人は一般に、こういう種類の接続詞はあまり使用しない。これを翻訳の観点からいいかえると、英文和訳の際には「文の座り」をよくするため、たとえ英文になくとも接続詞を補充し、逆に、和文英訳の際には自然な英文にするために、和文の接続詞を省略するぐらいの気持ちが必要ということ、かもしれない。


「あんなことがあったのに」は英語でどう言うの?
婉曲表現:

男と女の出会い・別れ・再会はいつも感動的だ。物語の中で最も人を魅了する部分である。私も子供の頃からラブストーリーが大好きで、石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、アンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda)、田山花袋の『蒲団』など夢中になって読みふけった時期がある。以下の文も男と女、島村と駒子の再会のシーンである。(『雪国』 新潮文庫16ページから抜粋)

(原文)
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。

原文の最初の一文は299文字と非常に長い。サイデンステッカーはいつものように長文は分割する。この長文は7つに分割されている。

あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさなかった。 In spite of what had passed between them, he had not written to her, or come to see her, or sent her the dance instructions he had promised.

あんなことがあったのに → 二人の間に起こったものにもかかわらず

「あんなこと」とは、ここでは男女間の肉体関係を指す。婉曲(えんきょく)な表現は難しい。私のような実務翻訳者には特にそうだ。以前、原田克子さんの詩を英訳したときの話。『壊心 3』の第2パラグラフの3行目、「肌を触れ合うことがなくなったわたしたち」で困ってしまった。ウーン、難しいなあ… We can no longer sleep together とか We don't touch each other any longer now とか訳してはみたが、いまひとつ自信が持てない。「あんなことがあったのに」は In spite of what had passed between them というのか。なるほど。よーし、忘れないようにこのまま暗記しようっと。

「あんなことがあった」 (直訳すると there was a thing like that) が、訳文では「二人の間に起こったもの」 what had passed between them = the thing that had happened between them と、より具体的に名詞で表現されている。このように、日本語では文(節)で表現してあるのに、英語では名詞(もの)で表現する場合が多い。「動詞が主役」の日本語と「名詞が主役」の英語との違いがここにも顔を出している。

女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろう。
She was no doubt left to think that he had laughed at her and forgotten her.

“no doubt” は「疑いなく」 (undoubtedly) という副詞。She was left ... は受身。能動態に直すと、He left her ... (彼は彼女をほったらかした)。原文、訳文ともに、受動態と能動態が混在している。She was no doubt left to think that she had been laughed at and forgotten (by him). (彼女は彼にほったらかしにされ、笑われて忘れ去られたと彼女はきっと思ったことだろう) と従属節を受身にすることもできる。

先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れた。

It should therefore have been his part to begin with an apology or an excuse, but as they walked along, not looking at each other, he could tell that, far from blaming him, she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.

「体いっぱいになつかしさを感じている」 → 「彼女は、失っていたものを取り戻したという喜びだけの余裕を心に抱いていた」

“she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.”

ワオ、これは驚いた!原文の日本語には名詞は2つ、「体」と「なつかしさ」しかないのに訳文の英語にはどちらの名詞も出て来ない。 その代わりに、5つの名詞、「she (彼女)」、「room (余裕)」、「heart (心)」、「pleasure (喜び)」、「what had been lost (失っていたもの)」が新たに補充されている。英語的な発想とはいえ、これはしかし私たちには複雑すぎる。もっと単純に、たとえば、she was filled with longing for him. (彼女は、彼に対するなつかしさでいっぱいだった) でいいのではないのかな。これだと原文の「いっぱい」も「なつかしさ」も出て来る。

彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思った。

He knew that if he spoke he would only make himself seem the more wanting in seriousness.

なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれて彼は歩いた。

Overpowered by the woman, he walked along wrapped in a soft happiness.

階段の下まで来ると、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

Abruptly, at the foot of the stairs, he shoved his left fist before her eyes, with only the forefinger extended.

階段の下まで来ると → 階段の下で (at the foot of the stairs)

私などつい、原文にひきずられて文(節)として when they came to the foot of the stairs と直訳しそうなところだが、なるほど、動詞 come 「来る」の代わりに、前置詞 at 「(下)で」で充分ですね。日本語の動詞は、英語では前置詞で表現される場合が多い。たとえば、冒頭の「長いトンネルを抜けると」 = out of the long tunnel. 逆に言うと、英文和訳の際には、英語の前置詞は日本語では動詞で訳した方が自然な和文になる場合が多い、ということですね。

「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」
“This remembered you best of all.”

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
“Oh?” The woman took the finger in her hand and clung to it as though to lead him upstairs.


「居住まいを直す」は英語でどう言うの?
駒子との出会い

新緑の登山季節、山歩きから七日振りりで温泉場へ下りて来た島村は、宿屋に芸者を呼ぶように頼んだ。ところが、あいにくその日は道路普請の落成祝いで芸者は皆出払っていた。三味線と踊の師匠の家にいる娘(駒子)は芸者というわけではないが、もしかしたら来てくれるかも知れないと女中は言う。以下は島村と駒子の出会いのシーンである。(『雪国』 新潮文庫18ページから抜粋)

(原文)
怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住まいを直した。直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。
女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。

怪しい話だとたかをくくっていた。

An odd story, Shimamura said to himself, and dismissed the matter.

「怪しい話だとたかをくくる」は英語的な表現では、「怪しい話だと島村は独り言を言ってこの件を気にもとめなかった」となるのですか、ウム、なるほど、そうですか。

ちなみに、dismiss = to refuse to consider someone or something seriously because you think they are silly or not important. という意味。

一時間ほどして女が女中に連れられて来た。

An hour or so later, however, the woman from the music teacher’s came in with the maid.

原文では「女」となっているが、英語では “the woman from the music teacher’s (house)” 「音楽教師の家から来た女性」と具体的に説明されている。また、原文では「女中に連れられて来た」と受身の表現も “came in with the maid” 「女中と一緒に入って来た」と主体的に表現されている。いずれも英語的な発想だ。

島村はおやと居住まいを直した。
Shimamura brought himself up straight.

「居住まいを直す」はきちんと座りなおすこと。“sit up straight” の意。品のある女性に会うと、どんな男も思わずいずまいを正す。訳文の “Shimamura brought himself up straight.” は、畳文化に馴染みのない読者は “stood up straight” (直立した)の意味に解釈するかも知れない。そこで、“Shimamura sat up straight.” を私は提案したい。

直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。
The maid started to leave but was called back by the woman.

原文は「女」が主語で女中をそこに座らせたとあるが、訳文は「女中」を主語にしている。文頭の「直ぐ立ち上がって行こうと」したのは女中なので、女中を主語にするのは自然な流れ。翻訳は「頭から順番に訳して行く」のが原則だ。現に、サイデンステッカーはほとんどの場合、頭から順番に訳して行く技法を採用している。頭から順番に訳して行かないかぎり、同時通訳は成立しない。この原則は和文英訳にかぎらず、英文和訳にも当てはまる。

中村保男 『英和翻訳の原理・技法』 より要点のみ抜粋する。
I'm afraid he is not here today because he caught a cold.
きょうは風邪を召して、お見えになっていないのが残念です。(英文解釈流)
あいにくですが、きょうは出社しておりません、お風邪を召したそうで。(頭から訳す)

上の受付嬢の応対では、「頭から訳す」方法のほうが遥かに実感もこもっているし、流れも快調だ。

「女中」は古くは婦人に対する敬称だったらしいが、現代では卑語となってしまった。今は「お手伝いさん」。英語ではメード “maid”。ところで「日女中本」の意味をご存知かな?これは四字熟語などではなく、単なることばのお遊び。解答は “made in Japan”。だって、日本の中に「女中」の文字が入っているでしょ、だから、メード・イン・ジャパン。私の若い頃に、こんな「ことば遊び」が一時流行したことがありました。

女の印象は不思議なくらい清潔であった。
The impression the woman gave was a wonderfully clean and fresh one.

女の印象 → The impression the woman gave (女が与えた印象)

「女の印象」を “the woman’s impression” というと、「女が抱いた印象」とも解釈されることもある。”The impression the woman gave” は、いかにも英語らしい的確な表現だ。最後の “one” は不定代名詞で「印象」の意味。「印象」を2回、繰り返すのを避けている。“one” が使用されたことで、この場合の「印象」は可算名詞だとわかる。

足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。
It seemed to Shimamura that she must be clean to the hollows under her toes.

足指の裏の窪み “the hollows under her toes” には、あか(垢)がたまりやすい。
訳文では ”must be” (〜にちがいない)と現在形が使用されている。ははーん、この場合は現在形の方がいいんですか!?。過去についての推定の表現は通常、”must have been” (〜だったにちがいない)と ”must have + pp” とばかり丸暗記していましたが…。

山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。
So clean indeed did she seem that he wondered whether his eyes, back from looking at early summer in the mountains, might not be deceiving him.

この文は、She seemed so clean indeed that 〜 という例の (so ... that) 「非常に〜なので...」の倒置法ですね。


芸者を呼ぶ
「お湯道具」は「タオルと石鹸」だけ?

山歩きから一週間ぶりに温泉場で一泊した翌日の午後、島村は唐突に駒子に芸者の世話を頼んだ。しかし、駒子はこのときまだ19歳。男の生理にとまどってしまう。(『雪国』 新潮文庫19ページから抜粋)

(原文)
女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。

「世話するって?」

「分かってるじゃないか。」

「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、

「ここにはそんな人ありませんわよ。」

「嘘をつけ。」

「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、

「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」

「君から頼んでみてくれよ。」

「私がどうしてそんなことしなければならないの?」

「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、

「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」

「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」

原文: 女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。

訳文: On her way to the bath the next afternoon, she left her towel and soap in the hall and came in to talk to him. (サイデンステッカー訳、ちなみにこの英文の訳は、翌日の午後お風呂へ行く途中、彼女はタオルと石鹸を廊下に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。)

英語は具体的な表現を好む。なるほど、「お風呂へ行く途中」と状況が具体的に補足してある。しかし原文では「お湯道具を廊下の外に置いて」というだけで、お風呂へ行く途中だとも、お風呂から上がって帰る途中だとも書いていない。可能性は五分五分、どちらもありうる。原文の「お湯道具」も英文では「タオルと石鹸」と具体的に明示してある。確かにタオルと石鹸はお風呂の必須アイテム。しかしタオルと石鹸を洗面器(washbowl)に入れて廊下に置いた可能性もある。私など、南こうせつの「神田川」の世代なので、お風呂というと洗面器までも連想してしまう。日本人なら The next afternoon, she left her bath items out in the hall and came into his room to talk to him. と、あたりさわりのないように訳すような気がするが、具体性を欠くこのような英文は、アメリカ人には生理的に居心地が悪いのかもしれない。

原文: 彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。

訳文: She had barely taken a seat when he asked her to call him a geisha.

うーん、さすがにネイティブの英文はすばらしい!頭から順番に自然に英訳してある。芸者は "geisha"、可算名詞なので 単数のときは a geisha、複数形は geisha or geishas となる。「世話する」というと通常、take care of, look after, help などを連想するが、この場合は call (呼ぶ)がふさわしい。

原文: 「世話するって?」

訳文: "Call you a geisha?"

原文: 「分かってるじゃないか。」

訳文: "You know what I mean."

原文: 「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、「ここにはそんな人ありませんわよ。」

訳文: "I didn't come to be asked that." She stood up abruptly and went over to the window, her face reddening as she looked out at the mountains. "There are no women like that here."

原文は会話文を前後に挿入して、全体を単一の長文に仕上げてあるが、訳文は3つの文に分割してある。この手法は随所に見られる。長文を翻訳するときは、このように分割した方が自然な英文を得やすい。「いやねえ」は訳してない。和文ではこれがあるとないとでは全体の印象が微妙に変わる。男は女の「いやねえ」を聞くと少し安堵する。まだ修復の余地が残されていると。

原文: 「嘘をつけ。」

訳文: "Don't be silly." (へーえ、”Don’t tell a lie.” じゃないんだ)

原文: 「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、
「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」

訳文: “It’s the truth.” She turned sharply to face him, and sat down on the window sill. “No one forces a geisha to do what she doesn’t want to. It’s entirely up to the geisha herself. That’s one service the inn won’t provide you. Go ahead, try calling someone and talking to her yourself, if you want to.”

「窓に腰をおろした」は、sat down on the window sill. と英訳されている。 “sill” は「下枠」の意味。英語は具体的な表現を好む。ここでも腰をおろしたのは「窓」ではなく、「窓の下枠」だと表現する。「お湯道具」を「タオルと石鹸」と言い換えたように。これとは反対に、日本語は抽象的な表現を好む。たとえば、米国人が “We must construct roads and bridges soon.” (道路や橋をすぐに建設しなければならない)と具体的・能動的に表現するようなところを、私たちは「社会基盤(インフラ、infrastructure)の整備が急務である」と抽象的に表現する。「道路や橋をすぐに建設しなければならない」よりも「社会基盤の整備が急務」の方が、私たちには何となく高尚な感じがするのである。

原文: 「君から頼んでみてくれよ。」

訳文: “You call someone for me.”


原文: 「私がどうしてそんなことしなければならないの?」
訳文: “Why do you expect me to do that?”

原文: 「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

訳文: “I’m thinking of you as a friend. That’s why I’ve behaved so well.”

「友だちにしときたいから(=だから)、君は口説かないんだよ」は直訳すると、That’s why I’m not coming on to you. とでもなるところ。「口説く」は “come on to” だが、この表現は少しいやらしい感じがして、露骨すぎるのかもしれない。”That’s why I’ve behaved so well.” は、「だから、行儀よくふるまっているのじゃないか」みたいな感じ。なるほど、確かにこの方が品があり、主人公の島村の気持ちにも近い。

原文: 「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」

訳文: “And this is what you call being a friend?” Led on by his manner, she had become engagingly childlike. But a moment later she burst out: “Isn’t it fine that you think you can ask me a thing like that!”

原文: 「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」

訳文: “What is there to be so excited about? I’m too healthy after a week in the mountains, that’s all. I keep having the wrong ideas. I can’t even sit here talking to you the way I would like to.”

「なんでもないことじゃないか」は、私など原文につられて、”That’s nothing special, you see?” などと、つい単調に訳してしまいそうな気がする。やはり名訳はちがう。 “What is there to be so excited about?” は実に英語らしい表現だ。直訳すると、「そんなに興奮するような何があるのかい?」 → 「何をそんなに興奮しているの?」

「山で丈夫になって来たんだよ」は、英語では、原文にない「一週間」という語を補充し、“I’m too healthy after a week in the mountains, that’s all.”

「一週間、山にいたので元気になりすぎた、それだけのことだ」と具体的に表現にする。確かに島村はこのとき一週間山にいた。たとえ原文にはなくとも、「一週間」という語を補充した方が情況がわかりやすい。

「頭がさっぱりしないんだ」は、たとえば、"I don't really feel refreshed." だが、訳文では "I keep having the wrong ideas."(よくない考えがまとわりついて離れない)と、さらに踏み込んだ表現を採用し欲情を暗示する。

「君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない」も直訳すると、"I can't even talk to you frankly or cheerfully." とでもなるところだが、訳文では "I can’t even sit here talking to you the way I would like to.” (ここに座って君と話すことさえ、本当の気持ちで話ができやしない)と、原文にない "I can’t even sit here" とい節を補充し、これにより、臨場感あふれるなまなましいシーンをたくみに創出している。


なにしたらおしまいさ
婉曲語法、ユーフェミズム (euphemism)

川端康成の『雪国』を私が初めて読んだのは中学生の頃。思春期の多感な年ごろで男女間の秘め事には強烈な関心を抱いてはいたものの経験はもちろんない。しかし当時、この「なにしたらおしまいさ」のくだりは何となくわかったような気がした。よほど感銘を受けたのか、その後十数年たって実際に恋に悩んだり失恋したりしたときに思い出していた。それからさらにずっと後になってからでも、ときどきこの部分がふっと頭をよぎる。男と女の関係は微妙でややこしい。

島村と駒子の会話。川端康成 『雪国』 新潮文庫22ページから引用する。

「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生まれは港なの。ここは温泉場でしょう。」と、女は思いがけなく素直な調子で、

「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」

女は窓から立ち上がると、今度は窓の下の畳に柔かく座った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身辺に座ったという顔になった。

婉曲(えんきょく)な表現は英訳がむずかしい。この「なにしたらおしまいさ」も、遠まわしで婉曲な表現である。英語は具体的な表現を好むとはいえ、何でもかんでも直接的にずばずば表現するというわけではない。やはり、そこは同じ人間、婉曲表現、ユーフェミズム (euphemism) は当然ある。

OALD辞典によると、euphemism (for something) = an indirect word or phrase that people often use to refer to something embarrassing or unpleasant, sometimes to make it seem more acceptable than it really is:

*Pass away is a euphemism for 'die.' 'User fees' is just a politician's euphemism for taxes.

英訳する際、まず、日本語の意味を正確に理解する必要がある。「なにしたらおしまいさ」は単純な表現に見えるが、その意味は意外と複雑だ。文頭の「なにしたら」は婉曲表現だが、意味は誰にでもわかる。「なに」する = セックスする、という意味。問題はつぎの語句「おしまいさ」の方である。これはあいまいな表現だ。いったい何がおしまいなのか、何が終わるのか、主語は何だろうか。和文ではこのように、しばしば主語が省略されるが、英文では主語は不可欠。主語を特定しないかぎり英文は書けない。主語や目的語が省略された和文を私は便宜上「文脈依存文」と呼ぶ。文脈依存文の主語や目的語は通常、前後の文脈から判断できる。

駒子(19歳)は不思議なくらい清潔な女性。足指の裏の窪みまできれいであろうと島村が思ったほどだ。島村は駒子に芸者の世話を頼んでいる。駒子は友だちにしときたいから口説かないという。なるほど、そうか、ならば主語は「男女間の友情」にちがいない。

つまり、「なにしたらおしまいさ」の意味はわかりやすく表現しなおすと、露骨になるので少し気がひけるが、「セックスすると友情がおしまいになる」ということを一般論として述べている。

「なにしたらおしまいさ」を直訳すると、

Friendship will be over if you have an affair. (仮定法現在)

Friendship would be over if you had an affair. (仮定法過去)

ここの "you" は「あなた」という意味ではなく、総称的に一般の人をさす「人は(誰でも)」という意味。また affair は、ここでは「情事、浮気」 (love affair) を意味する。

仮定法 if について:

日本語では、仮定法はすべて「A ならば B」という形式で表現し、内容にまで踏み込むことはしない。しかし、英語では面倒なことに、内容にまで踏み込んで実現の可能性が高いか低いかを区別し、それぞれに異なる表現法を採用する。実現の可能性の高いものの場合(=あり得る話)には、英語では条件節 (if-clause) に現在形を使用する。現在形を使用するのでこれを仮定法現在と呼ぶ。実現の可能性の低い場合や事実と異なるものの場合(=あり得ない話)には、英語では条件節に必ず過去形を使用する。過去形を使用するのでこれを仮定法過去と呼ぶ。しかし、過去形は使用するがその意味は現在。また、可能性が高いか低いかの判定は、話し手本人の主観的判断に依存する。

if については「if の創出する不思議な世界」http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-364.html を参照してください。

「なにしたらおしまいさ」は島村のせりふなので、島村の気持ちに即して考えれば、仮定法過去の Friendship would be over if you had an affair. がふさわしい。ただし、この英文は私が英訳したものなので、いわば典型的なジャパニーズイングリッシュ。そこで、ネイティブ・スピーカーの模範解答と比較・検討する。わが師匠(私が勝手にそう思っているだけ)、サイデンステッカー教授の英訳は次の通り。

原文:「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

訳文: "An affair of the moment, no more. Nothing beautiful about it. You know that--it couldn't last."

訳訳文: 「つかのまの情事、それだけのこと。味気ないよ。長続きしないだろう」

あれえ、「なにしたらおしまいさ」の部分は「つかのまの情事、それだけのこと」 "An affair of the moment, no more." と訳されている。変だなあ。ひょっとしたら師匠は、「なにしたらおしまいさ」を「なにするだけでおしまいにする。それ以上のことはしない」と解釈されたのではないか?まさかね、日本語の堪能な大先生がそんなはずはない。はてさて、それじゃあ、どう考えたらいいんだろう。どうも「おしまい」という語に問題がありそうだ。ここの「おしまい」の用法は、フーテンの寅さんの 「それをいっちゃーおしめぇーよ」 (Things will be over if you say that.) と類似している。日本語大辞典は「おしまい」を次のように定義する。

お-しまい【*御仕舞(い)】
《「仕舞い」の丁寧語》

(1) 終わり。the end (用例>物語はこれで〜。
(2) 物事がだめになること。be all up (用例>こう不景気では、商売も〜だ。
(3) お化粧。身じまい。make up

問題の「おしまい」の意味は、定義の (2) 物事がだめになること、に該当する。それなら私の解釈でもよさそう。そこで、"An affair of the moment, no more." の文を私の訳文と差し替えて、全体をもう一度、原文と比較してみよう。

原文: 「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

提案: "Friendship would be over if you had an affair. Nothing beautiful about it. You know that--it couldn't last."

うん、これでもよさそう。(なーんてね、独り合点だったりして)
罪滅ぼしに、以下の英文はすべてサイデンステッカー教授の "Snow Country" から引用する。

「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生まれは港なの。ここは温泉場でしょう。」

"That's true. It's that way with everyone who comes here. This is a hot spring and people are here for a day or two and gone."

「私の生まれは港なの」は訳されていない。この文がない方がすっきりしてわかりやすいと師匠は判断されたのであろうか。代わりに、原文にない "and people are here for a day or two and gone." (温泉客は1泊か2泊してから出て行く)という文が新たに補充されている。翻訳ではこのように、省略や補充が必要な場合がある。

女は思いがけなく素直な調子で(言った)。

Her manner was remarkably open--the transition had been almost too abrupt.

「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」

"The guests are mostly travelers. I'm still just a child myself, but I've listened to all the talk. The guest who doesn't say he's fond of you, and yet you somehow know is--he's the one you have pleasant memories of. You don't forget him, even long after he's left you, they say. And he's the one you get letters from."

女は窓から立ち上がると、今度は窓の下の畳に柔かく座った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身辺に座ったという顔になった。

She stood up from the window sill and took a seat on the mat below it. She seemed to be living in the past, and yet she seemed to be very near Shimamura.

「今度は」が単に "and" と訳されている。なるほど、そうですね。「遠い日々を振り返るように見えた」が "She seemed to be living in the past," ですか。なるほどね。名人の手にかかると、実に簡潔に表現できるものですね。でもね、師匠、「柔かく座った」の「柔かく」は省略しないでほしかった。この表現は女性が心を開いてうちとけたさまを表す男どもにとってとても大事なこと。私など着物を着た女性の優美なしぐさばかりか、まろやかな白肌のうなじまでも連想してしまいそう。思わず、"and took a seat" の部分を "and sat down softly" に変更したい衝動に駆られる。


黙って立ち去ったのは誰?

『雪国』では、「女」という語は駒子のみをさす

翻訳をしていてよかったと思えることのひとつに、原文を精読できることである。もちろん翻訳などしなくても本は精読できる。しかし精読の濃さがちがう。たとえば、川端康成の『雪国』の文庫本は、単に読むだけなら一日、腰をすえてじっくり熟読したとしても、せいぜい数日もあれば十分だ。ところがこれを英訳するとなるとそうはいかない。最短でも1ヶ月はかかる。文章にとことんこだわる人であれば、半年とか一年かかったとしても不思議ではない。翻訳は、原作者が作品を完成させるのに要する時間とほぼ同じくらい、あるいはさらに長い時間かかることもある。一字一句、句読点までも吟味しながら作品と長く接することで、翻訳者は普通の読者が見落としたり勘違いしたりする箇所に気づくこともある。これからその一例を紹介したいが、まずは原文をご覧あれ。

川端康成の『雪国』 新潮文庫 27ページから引用する。

「それでどれくらいいるの。」

「芸者さん?十二三人かしら。」

「なんていう人がいいの?」と、島村が立ち上ってベルを押すと、

「私は帰りますわね?」

「君が帰っちゃ駄目だよ。」

「厭なの。」と、女は屈辱を振り払うように、

「帰りますわ。いいのよ、なんとも思やしませんわ。また来ますわ。」

しかし女中を見ると、なにげなく座り直した。女中が誰を呼ぼうかと幾度聞いても、女は名指しをしなかった。

ところが間もなく来た十七八の芸者を一目見るなり、島村の山から里へ出た時の女ほしさは味気なく消えてしまった。肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人がよさそうだから、つとめて興醒めた顔をすまいと芸者の方を向いていたが、実は彼女のうしろの窓の新緑の山々が目についてならなかった。ものを言うのも気だるくなった。いかにも山里の芸者だった。島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるうちに、電報為替の来ていることを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。


訳文:
"Snow Country" translated by Edward G. Seidensticker (Page 28, Vintage Books)

"How many are there in all?"

"How many geisha? Twelve or thirteen, I suppose."

"Which one do you recommend?" Shimamura stood up to ring for the maid.

"You won't mind if I leave now."

"I mind very much indeed."

"I can't stay." She spoke as if trying to shake off the humiliation. "I'm going. It's all right. I don't mind. I'll come again."

When the maid came in, however, she sat down as though nothing were amiss. The maid asked several times which geisha she should call, but the woman refused to mention a name.

One look at the seventeen- or eighteen-year-old geisha who was presently led in, and Shimamura felt his need for a woman fall dully away. Her arms, with their underlying darkness, had not yet filled out, and something about her suggested an unformed, good-natured young girl. Shimamura, at pains not to show that his interest had left him, faced her dutifully, but he could not keep himself from looking less at her than at the new green on the mountains behind her. It seemed almost too much of an effort to talk. She was the mountain geisha through and through. He lapsed into a glum silence. No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier. Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha. Looking for a pretext to be rid of her, he remembered that he had had money telegraphed from Tokyo. He had to go to the post office before it closed, he said, and the two of them left the room.

引用が少し長くなってしまいましたが、それでは質問。

「島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま(った)」とありますが、黙って部屋を立ち去ったのは誰ですか?

正解はもちろん芸者でしょうと、たいていの人は答える。私も最初そう思った。実際、この文庫本の注解でも、動作主は芸者だとみているようだ。「黙って立ち上って」は、「客つまり島村に気に入られないで、断られたと、この女は判断したため」と記載されている。

しかし、たぶんそうではない。動作主は駒子だと私は思う。というのは、このとき部屋にいたのは島村と芸者、駒子の三人。気をきかせて駒子が部屋を出て行った。残されたのは島村と芸者。座はいっそう白けた。それから一時間ほどしてから、島村は芸者といっしょに部屋を出たのだ、と思う。実は『雪国』では、「女」という語は駒子をさすのである。

サイデンステッカー教授はこの部分を次のよう翻訳している。

原文:島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろう

He lapsed into a glum silence. No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier. Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha.

訳訳文: 彼は不機嫌に黙り込んだ。女は気をきかせようと思ったようで、立ち上って部屋を出て行ったので、会話はさらに重たくなった。それでも彼は何とか一時間ほど芸者と時間をつぶした。

英文でも the woman が使用されているので、英文読者も一瞬、the woman = the geisha (女=芸者)と勘違いした人もいると思う。この文を明文(わかりやすい文)に変更するには、「女」を「駒子」に置き換えるだけでよい。「島村がむっつりしているので、駒子は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま(った)」と、固有名詞の「駒子」を使用しさえすれば誤解は生じない。実務畑出身の私などは、ついそう思ってしまう。しかし、そこはそれ、文学の世界。「女」という語に並々ならぬこだわりがある。島村にとって「女 (woman)」は駒子のみ、である。『雪国』のその他の登場人物、たとえば、娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように「駅長さあん、駅長さあん」、と叫んだのは葉子であるが、葉子は「娘 (girl)」であり「女」ではない。それ以外の女性たちも、それぞれ「女中」、「芸者」、「細君」であり、「女」という語では表現されていない。ただし、一箇所だけ例外に見える文章はある。

宿屋の客引きの番頭は火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。(『雪国』 新潮文庫 13ページから抜粋)

これは、長いトンネルを抜け汽車から降り立った島村が最初に目にした湯沢町の駅前の光景である。このときは島村は青いマントの女が誰か知らないが、その後、宿屋の番頭との会話からこの「女」が駒子だったことを知る。女=駒子(一対一)。ワーオ、徹底しているなあ!でも、「女」には並々ならぬこだわりがあるのに、「男」にはあっけらかんとしている。無頓着というか、無関心というか、まったくこだわりが見えない。駅長も、葉子の連れの病人も、屋根の雪を落とす人も、すべて「男」という語で表現されている。男=男一般(一対多)。このふたつの用法は、言語学的には不均衡といえないこともないが、生物学的には男の本性に忠実でとてもわかりやすい。


対の黄蝶
求愛活動の美しさと愛の破局を暗示する

色恋はしばしば、つがいの蝶にたとえられる。梅沢富美男のヒット曲『夢芝居』(作詞・作曲:小椋 佳)でも、♪男と女 あやつりつられ、対のアゲハの誘い誘われ…。蝶のもつれ合いは絵になる。アゲハ(揚羽蝶)はどことなく妖艶で、黄蝶は可憐な感じだ。『雪国』の黄蝶のくだりは、私にとって印象深いシーンのひとつである。川端康成の『雪国』 新潮文庫 28ページから引用する。

原文:
しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。

訳文:
But at the door of the inn he was seduced by the mountain, strong with the smell of new leaves. He started climbing roughly up it. He laughed on and on, not knowing himself what was funny. When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope. Two yellow butterflies flew up at his feet. The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance.


原文:しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。

訳文: But at the door of the inn he was seduced by the mountain, strong with the smell of new leaves. He started climbing roughly up it.

訳訳文:しかし宿の玄関で、彼は若葉の匂いの強いその山に魅了された。彼は荒っぽく登り始めた。

サイデンステッカーは原文を2つの文に分割している。長文は分割すると英訳が簡単になり、訳文も自然な英文となる。「裏山を見上げると、それに誘われるように」が単に、「その山に魅了された」と要約して英訳されている。「裏山」も単に 「その山」 the mountain と訳してある。しかし、英文を読み返してみても不自然さはなく、いずれもこの表現で十分だという感じがする。

原文:なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。

訳文: He laughed on and on, not knowing himself what was funny.

訳訳文:なにがおかしいのか自分でもわからないまま、彼は笑い続けた。

なるほど、「笑いが止まらない」というのと「笑い続ける」は同じことですね。
on and on (引き続き) は、動作の継続を意味する副詞句。

動作がとぎれたり続いたりするときは、on and off = off and on (時々、不規則に)。

It rained on and off for the whole afternoon. (午後はずっと雨が降ったり止んだりした)

原文:ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。

訳文: When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope. Two yellow butterflies flew up at his feet.

訳訳文:気持ちよく疲れたところで、彼は急に振り向いて、着物のすそを帯に押し込み、いっさんに坂道を駆け下りた。足もとから黄蝶が二羽飛び立った。

ここでもひとつの和文が2つの英文に分割して英訳されている。擬態語の「くるっと」は sharply (急に) に訳されている。「浴衣(ゆかた)の尻からげ」は、「着物のすそを帯に押し込み」 (tuck the skirts of his kimono into his obi)。 ウーン、なるほど。「足もとから」は、前置詞が from (〜から) ではなく at (〜で) が使用されていることに注意する。日本語の「〜から」は通常、 from を使用して、たとえば、

わが社の営業時間は9時から6時までです。Our business hours are from nine to six.

と表現するが、たまに from の代わりに in, at となる場合もある。

太陽は東から昇る。The sun rises in the east.

学校は9時から始まる。School begins at 9.

ドロップダウンリストから項目を選びます。Select an item in the drop-down list.

原文:蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。

訳訳文:蝶はもつれ合いながら、国境の山並みより高く上り、遠くで体の黄色は白に変わった。

The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance.

原文は「蝶」を題(topic)にして、「蝶はもつれ合い、山並みより高く、黄色が白くなり、遥かだった」と、一文にまとめてある。これに対して、英文では前半は butterflies を主語としているが、後半では yellow を主語にしている。ピリオドの代わりにコンマを使用することで、あたかも一文のように見せかけてはあるが、実質的には2つの文(重文)である。だから、The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range. Their yellow turned to white in the distance. としてもそれほど違和感はない。もっともここでは、原文の表現により近いサイデンステッカーの訳文の方が良いのは言うまでもない。原文では「遥かだった」と述語(形容動詞)だが、英文では " in the distance" (遠くで) と副詞句として処理している。

「蝶はもつれ合いながら〜」というこの表現は、注解にあるように、島村と駒子の愛の破局を暗示しているのだろうか?そうかもしれないが私の印象を少し付け加えたい。

島村、つまり川端康成は、黄蝶がもつれ合いながら上空高く舞い上がるのをずっと見続けていた。しかも「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」というぐらいだから相当に長い時間、見続けていたことになる。しかし私の子供の頃の観察では、蝶は一般に、せいぜい10 m ほどの低空を飛翔するものである。開張 4 cm ほどの黄蝶が山並みより高く舞い上がることなど、実際にはまずありえない。これはきっと文学者特有の心象風景にちがいない。そうだとすれば、この個所は、生殖本能の烈しさや求愛活動の美しさ・永遠性など、彼自身が心の中に抱くイメージが投影されているのではないだろうか。そして、永遠に続くように思えていた燃えるような恋情もいつかは色あせ、やがて遥かかなたの思い出に変わる。「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」のくだりは、こうした愛の破局を暗示しているのだろうか。


どうなすったの?
日本語は敬語などの待遇表現が豊富

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 28ページ】

「どうなすったの。」女が杉林の陰に立っていた。

「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」

「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、「止めたよ。」

「そう?」女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。

「どうなすったの」は女性が使用する丁寧語である。尊敬表現の「どうなさったのですか」から派生したもの。「なさる」は「する」の尊敬語。「なさった」は「なすった」の形になることがある。「どうしたのですか」も丁寧語でこちらは男女とも使用可能。「どうしたの」は丁寧語ではあるが、(ですか)が省略されている分、丁寧さが不足しているので目上には使用できない。「どうなさったのですか」や「どうなすったの」、「どうしたのですか」、「どうしたの」は、表現は異なるが、意味はまったく同じである。

このように、日本語は敬語などの待遇表現が豊富だ。敬語は人に敬意を表すために用いるもので、尊敬語・謙譲語・丁寧語の3種類がある。尊敬語は相手のことを話すときに、謙譲語は自分(身内を含む)のことを話すときに、また、丁寧語は相手に関係なく丁寧に話すときに、それぞれ使用する。「ご飯を食べる」を例にとると、ご飯を召し上がる(尊敬語)、ご飯をいただく(謙譲語)、ご飯を食べます(丁寧語)となる。丁寧語は、いわゆる「です・ます」体がメインになるので一番使いやすい。

英語には丁寧な表現はあるが敬語はない。そこで日本語の敬語を英訳するとき、私は敬語を一度、基本語に直してから英訳するようにしている。たとえば、

いらっしゃる(尊敬)、うかがう or 参る(謙譲) → 行く
おみえになる(尊敬)、参る(謙譲) → 来る
なさる(尊敬)、いたす(謙譲) → する

「どうなすったの」についても同様に、基本語に直すと、「どうしたの」となる。ちなみに、「どう」は副詞で、「どのように」の意味。英語の疑問詞 how, how about, what などに相当する。「どうしたの」は何かが発生し、その何かを質問するときに使用する。「何があったの」とか「どんな事が起こったのか」という意味なので、what がふさわしい。「どうしたの」 = What's the matter? または What happened?

ただし、LAAD辞典によると、What's the matter? は、心配事とか病気など、相手が何かよくない状態のとき、その理由を質問するときに使用する (used when someone seems upset, unhappy, or sick and you are asking them why) ものなので、ここの文脈にはふさわしくない。(島村は山を駆け下りてきて、今はすっきりした気分だから)。

用例として、たとえば、Honey, what's the matter with you? Don't you feel well? (あなた、どうなすったの。気分でも悪いの?)。つまり、 What's the matter with you? = What's wrong with you? という感じですね。

「どうなさったのですか」は敬語だが、「どうした?」は敬語ではない。ため語(=ためぐち)に近いので、目上の人に使用すると失礼になる。しかし英語には敬語がないので「どうした?」も「どうなさったのですか」もいずれも "What happened?" で表現してよい場合が多い。強いて訳せば、たとえば、

「どうした?」
Hey, what happened?

「どうなさったのですか」
May I ask what happened?

"Hey" や "May I ask" などを付加することで、日本語の雰囲気に多少、近づけることは可能かもしれないが、根底に常に日英ふたつの文化の違いが存在する以上、決して完璧に一致することはない。あまり敬語にこだわりすぎると、不自然な英文になる恐れがある。

「どうしたの」 = What's the matter? または What happened? であるが、興味深いことに、「どうするの」となると、その英訳は大きく変身する。英文の主語が「こと」から「あなた」に変化するのだ。

「どうするの」
What are you going to do? (発音は「ワユゴナヅ」)

映画などの会話を聞いていると、この表現 (What are you going to do?) は頻発するが、日本人の耳にはまちがいなく、「ワユゴナヅ」と聞こえるはず。決して「ワッツ・アー・ユー・ゴーイング・ツー・ヅー」と聞こえることはない。

私たちが日常何気なく使用している表現、「どうしたの」や「どうするの」は、日本語としては同じ文法構造なのでその違いを意識できないが、英訳するとその相違点がはっきりと浮かび上がってくる。

事柄(matter)を質問する「どうしたの」 = What's the matter? or What happened?

未来の事柄(matter)を質問する「どうなるの」 = What will happen?

相手の行為を質問する「どうしたの」 = What did you do then? or What have you done?

相手の今後の行為を質問する「どうするの」 = What are you going to do?

それではここで本文に戻って、わが師匠、サイデンステッカー教授の訳文を確認しよう。


原文: 「どうなすったの」

訳文: "What happened?"

原文: 女が杉林の陰に立っていた。

訳文: The woman was standing in the shade of the cedar trees.

原文: 「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」

訳文: "You must have been very happy, the way you were laughing."


原文: 「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、「止めたよ。」

訳文: "I gave it up." Shimamura felt the same senseless laugh rising again. "I gave it up."


原文: 「そう?」女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。

訳文: "Oh?" She turned and walked slowly into the grove.

原文: 彼は黙ってついて行った。

訳文: Shimamura followed in silence.

ウーン、当然といえば当然のことながら、ネイティブ・スピーカーの英語はさすがに簡潔ですね。「杉林」は、the cedar forest などといわず、the cedar trees と tree (木) を複数形にしてある。そういえば、日本語でも「林」は「木」がふたつ並んでいますね。後半の「杉林のなかへゆっくり入った」は、"walked slowly into the grove" と、今度はその「杉林」を単に、the grove(木立)ですか。定冠詞 (the) がここでもぐっと効いていますね。いやはや、恐れいりました。


神社であった
神社と寺院は異なる

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 29ページ】

神社であった。苔のついた狛犬(こまいぬ)の傍の平な岩に女は腰をおろした。

「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」

「ここの芸者って、みなあんなのかね。」

「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗い青が映るようだった。
島村は杉の梢(こずえ)を見上げた。

「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」

神社(お宮)や寺院(お寺)は両方とも、私たちにはなじみ深い。しかし神社と寺院は異なる。小学生の頃、私はそのことを一番上の姉に教わった。「あのね、お宮は神様、お寺は仏様がまつってあるのよ」。そのとき、どういうわけか、姉の説明にすぐに納得ができ、なんだか自分が少し賢くなったような気がした。田舎の幼稚園は当時、お寺の境内の一角にあり、姉は幼稚園の先生だった。盆踊りなどお祭りは、お宮の境内に臨時の舞台が設置されて、そこで盛大に行なわれた。

神社は shrine, 寺院は temple と私たちは暗記する。日本では神社や寺院は、「神社仏閣」と総称されるように両方とも同等だ。その違いは説明しないとわからないほどに。しかし、キリスト教徒が圧倒的多数を占める英米では、英語の shrine と temple は事情が異なる。一言で言うと、shrine は誰でも訪れる身近なところだが、temple はキリスト教以外の、異教徒たちが礼拝に行くところである。shrine の定義に come が、temple の定義に go が使用されているのも、英米人の心の奥底にひそむ親近度を反映しているようで興味深い。

shrine: a place where people come to worship because it is connected with a holy person or event. (from OALD)
(シュライン: 聖人や聖祭に関連している場所で、人々が礼拝に来るところ)

temple: a building where people go to worship, in the Jewish, Hindu, Buddhist, Sikh, and Mormon religions. (from LAAD)
(テンプル: ユダヤ教・ヒンズドゥー教・仏教・シーク教・モルモン教の人々が礼拝に行く建物)

a shrine to the Virgin Mary (from OALD)
聖母マリアをまつっている殿堂

Wimbledon is a shrine for all lovers of tennis. (from OALD)
ウィンブルドンはテニス愛好家たちの聖地である。

それではここで本文に戻って、原文と訳文を鑑賞する。


原文: 神社であった。

訳文: It was a shrine grove.

原文: 苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。

訳文: The woman sat down on a flat rock beside the moss-covered shrine dog.


原文: 「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」

訳文: "It's always cool here. Even in the middle of the summer there's a cool wind."

原文: 「ここの芸者って、みなあんなのかね。」

訳文: "Are all the geisha like that?"

原文: 「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、

訳文: "They're all a little like her, I suppose. Some of the older ones are very attractive, if you had wanted one of them."

原文: うつ向いて素気なく言った。

訳文: Her eyes were on the ground, and she spoke coldly.

原文: その首に杉林の小暗い青が映るようだった。

訳文: The dusky green of the cedars seemed to reflect from her neck.

原文: 島村は杉の梢(こずえ)を見上げた。

訳文: Shimamura looked up at the cedar branches.

原文: 「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」

訳文: It's all over. My strength left me--really, it seems very funny.

最初の文はいきなり、「神社であった。」で始まる。駒子が杉林の中に入って行き、島村はその後をついて行ったのだが、その行った先が「神社であった」のである。このように、題が何かがわかっている場合、日本語では無理して題を文に含める必要はない。「(そこは)神社であった。」の意味。ちなみに、場所を表す「ここは」、「そこは」、「あそこは」などは、英語では this (not here), it, that で表現できる。

ここは文京区本郷1丁目です。(住所標示板)
This is Hongo 1-chome, Bunkyo-ku. (not Here is Hongo 1-chome ... )

「そこは神社であった」は、日本人なら10人中9人は "It was a shrine." と訳し、それ以上何もこだわる個所はなさそうに思えるところだが、サイデンステッカー教授は、It was a shrine grove. と 原文にない単語 "grove" をわざわざ補充している。ちなみに、"grove" (グローブ)とは a small group of trees という意味で、木が群がって立っている所、すなわち、日本語の「木立」にあたる。ここでは杉の木立 (a grove of cedar trees) を指す。彼は、「神社」をそのまま "shrine" と逐語訳するのではなく、この「神社」は正確には、「神社の(境内の杉の)木立」を指していると解釈したにちがいない。

狛犬(こまいぬ)は shrine dog ですか。なるほど。では、お寺の狛犬は temple dog ですね。

苔(こけ)のついた = moss-covered, moss-grown, or mossy

苔 (moss) は、日本文化では価値あるものである。盆栽でも苔を巧みに活用する。こけ色(モスグリーンmoss green)を見ると、日本人は心が落ち着く。苔は、園芸(ガーデニング)の先進国イギリスでも価値あるものだが、アメリカでは無価値なものとなるらしい。だから、苔(こけ)の諺(ことわざ)が英米では解釈が反対になるという。

A rolling stone gathers no moss. 転石、苔を生ぜず。ころがる石にはこけが生えない。

職業を転々と変える人は益がなく、ろくなことはない。(イギリスの解釈)
職業を転々と変える人はカビが付かず、いつも清新だ。(アメリカの解釈)

「年増にはきれいな人がありますわ」は、今の女の子ならたぶん、「30代にはきれいな人がいますわ」と表現すると思う。現代日本語では、無生物・植物・物事が存在するときには「あります」を、人や動物の場合は「います」を使用するのが普通である。

「うつ向いて素気なく言った」は、” Her eyes were on the ground, and she spoke coldly.” となっている。主語をひとつにして She spoke coldly with her head down. も可能だが、しかし、この表現はすっきりしている分、文学的な余韻があまり感じられない。

「もういいよ」は “It's all over.”(もうすべて終わったよ)。これも上品な表現ですね。
こういう日常的な常套句の英訳が一番むずかしい。専門用語であれば、専門辞書の見出し語に掲載されているので検索も容易で問題はないが、日常、頻繁に使用することば、たとえば、「もういいよ」、「じゃあ、いいよ」、「いい加減にしろよ」、「だといいけど」などになると、途方にくれる。

「もういいよ」: “It's all over.” or “That’s enough.” or “Forget it.”, etc.

「じゃあ、いいよ」: “OK, I’ll give it up.” or “In that case, forget it.”, etc.

「いい加減にしろよ」: “Cut it out.” or “You talked too much.”, etc.

「だといいけど」: “That would be nice, but ...” or “I wish I could, but ...” , etc.

コンピュータ用語は直訳できるが、日常語はそうはいかない。ひとつの語句には多くの意味がある。同じ「もういいよ」でも、その場の状況に応じて七変化したり百変化したりもするのだ。だから内容はともかく翻訳作業という観点からみれば、科学論文・契約書・仕様書などよりも、日常語の翻訳の方がはるかにむずかしい。


思いちがい
英語の ”mistake” は行為だけでなく「意見」も含む

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 29ページ】

「僕は思いちがいしてたんだな。山から下りて来て君を初めて見たもんだから、ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と、笑いながら、七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。


原文はひとつの長文である。長文は分割してから英訳すると、翻訳が簡単で自然な英文にまとめることができる。「長文は分割してから翻訳する」は私の信条。でも、そんなことをしたら、原文のよさが損なわれるのではないのかと反論する人もいる。確かにそれも一理ある。分断することで、文体が犠牲になるし、また、接続助詞(〜だから、〜ながら、〜ので)がおうおうにして割愛されてしまう。できることなら分断などしないで、原文のことばひとつひとつを忠実に逐語訳(直訳)したい、と私も思う。しかし、和文英訳や英文和訳は、直訳では意味不明となりどうしても意訳(自由訳)しないわけにはゆかない場合が多い。英語と日本語は構造的に、大きくかけ離れているので、「長文は分割してから翻訳する」より仕方がない。

まず、長文をいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。

「僕は思いちがいしてたんだな。/ 山から下りて来て君を初めて見たもんだから、/ ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と/ 、彼は笑った。/ (〜ながら、) 七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。/

試訳: “I must have misunderstood. I saw you for the first time when I came down from the mountains, and I mistakenly thought that all the geisha here were beautiful like you,” he laughed. Shimamura now realized that the idea, too, of washing away soon his energy of seven days in the mountains had perhaps come to him because he first saw this nice clean woman.

試訳は私が英訳したので典型的なジャパニーズ・イングリッシュ(国際英語)。洗練された格調高いアメリカ英語(民族英語)をお望みの方は、試訳はざっと目を通すだけにして、文末のサイデンステッカーの訳を心ゆくまで堪能してください。

「見たもんだから」→「見たものだから」→「見たので」

接続助詞(〜だから、〜ので)は、理由・原因を示す。本来、"because" の意味だが、"and" で代用できる場合が多い。たとえば、


ゆうべはほとんど寝ていないので、今とても眠たい。

I hardly slept at all last night, and I'm very sleepy now.
(= I'm very sleepy now because I hardly slept at all last night.)


朝ごはんを食べなかったので、今おなかがすいている。

I didn't have breakfast and I'm hungry now.

このように、"because" を "and" で代用すると、日本語にそって頭から順番に訳していけるし、英文もごく自然な英文となる。理由・原因を明示する必要のある場合を除き、私は、接続助詞(〜だから、〜ので)はたいてい "and" で代用する。職場に "because" の大好きな同僚がいる。あるとき、彼の書いた一通の英文メールに 3 回も "because" が出てきた。いくらなんでも、これはちょっと多すぎる。よく見ると、ほとんど "and" に置き換えることができるものばかりだった。

原文: 「僕は思いちがいしてたんだな。

訳文: “I made a mistake.

原文: 山から下りて来て君を初めて見たもんだから、

訳文: I saw you as soon as I came down from the mountains, and

原文: ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と、

訳文: I let myself think that all the geisha here were like you,”

原文: 彼は笑った。

訳文: he laughed.

原文: 七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。

訳文: It occurred to him now that the thought of washing away in such short order the vigor of seven days in the mountains had perhaps first come to him when he saw the cleanness of this woman.

「私はミスをした」は ”I made a mistake” という。しかし、日本語のミスは間違いとか誤りなど、主として「行為」を指すが、英語の ”mistake” は行為だけでなく「意見」をも含む。mistake: an action or an opinion that is not correct, or that produces a result that you did not want. (from OALD)。つまり、”I made a mistake” は、(私はミスをした)の場合も当然あるが、(私は思いちがいをした)という意味のときもある。"Don’t worry, we all make mistakes." (くよくよするな、人は誰でも誤りを犯すものだ)。

山から下りて来て = I came down from the mountains,

「山」が the mountains と複数形になっていることに注意する。これが the mountain と単数形であれば、島村が宿泊している宿の「裏山」と勘違いされてしまう。七日間も山を歩けば、当然、近辺の複数の山に足を踏み入れているはずだ。

うっかり考えた = I let myself think

日本語の「うっかり」は副詞なので、日本人ならたいてい、英語の副詞、たとえば、mistakenly, carelessly, unconsciously, accidentally などをそのときどきの状況に合わせて使用したくなる。訳文では動詞 ”let” の過去形が使用されている。(let-let-let)

動詞 ”let” は奥が深い。 Let me help you.(お手伝いさせてください)やLet me go!(行かせてください=はなしてください)は、まだ理解しやすい。いずれも「〜させてください」という感じ。しかし、ビートルズのヒット曲 ”Let It Be” になると少しやっかいだ。「そのままにしておきなさい」という意味だが、わかったようでわからないような感じがつきまとう。おまけに発音までも日本人の耳には「レリビー」としか聞こえない。 ”let” にはこれ以外にも、「不注意や怠慢でそうなるにまかせる」という意味もある。「うっかり考えた」 ”I let myself think” は、これに該当する。「うっかり考えた」から ”I let myself think” という表現は、日本人にはまず思い浮かばない。ここが民族英語と国際英語のちがい。これは動詞 ”let” を熟知しているネイティブ・スピーカー(英米人)ならではの発想だ。


お煙草でしょう
日本語の語順

都市化や過度の文明化はヒトの中性化を促すのだろうか。最近、恋愛やセックスに消極的な草食系男子が増加する傾向にあるという。こう不景気ではそれも仕方がない。これに呼応するかのように20代から30代の女性の間では、意外なことに戦国武将ブームが広がりを見せる。伊達政宗の重臣・片倉小十郎の居城、白石城がある宮城県白石市には今、若い女性が多数訪れる。東京・神田小川町の歴史専門書店 『時代屋』にも、多数の女性客が来店し、戦国武将関連の本やグッズを購入しているという。この書店では現在、「戦国婆裟羅 伊達政宗公の兜(かぶと)」を展示中。女性たちは、時代劇のヒーローに理想の男性像を見出しているのだろうか。ブームの火付け役のひとつは、戦国武将アクションゲーム「戦国BASARA」シリーズだという。しかし、ブームの根底にはおそらく、生物の本能「種の保存」の働きが関与しているにちがいない。「行き過ぎた文明」に対する本能の反撃である。

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。手持無沙汰になった。

「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、

「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないでしょう。どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。窓から見えたの。おかしかったわ。お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ。」

それでは早速、原文と訳文をじっくり鑑賞する。(訳: サイデンステッカー)

原文: 西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。

訳文: She gazed down at the river, distant in the afternoon sun.

原文: 手持無沙汰になった。

訳文: Shimamura was a little unsure of himself. (島村は少し不安になった)

原文: 「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、

訳文: "I forgot," she suddenly remarked, with forced lightness. "I brought your tobacco.

原文: 「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないでしょう。

訳文: I went back up to your room a little while ago and found that you had gone out.

原文: どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。

訳文: I wondered where you could be, and then I saw you running up the mountain for all you were worth.

原文: 窓から見えたの。

訳文: I watched from the window.

原文: おかしかったわ。

訳文: You were very funny.

原文: お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ。」

訳文: But you forgot your tobacco. Here."

原文: そして彼の煙草を袂(たもと)から出すとマッチをつけた。

訳文: She took the tobacco from her kimono sleeve and lighted a match for him.

英語に語順 (word order) があるように、日本語にも当然、語順がある。本多勝一によると、日本語の語順の四原則は、T 述部(動詞・形容詞・形容動詞)が最後にくる。 U 修飾辞が被修飾辞の前にくる。 V 長い修飾語ほど先に。 W 句を先に。 ということである。

「西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた」 を例にとると、

西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。(正順)
女は、西日に光る遠い川をじっと眺めていた。(逆順)
女はじっと眺めていた、西日に光る遠い川を。(逆順)

「西日に光る」も「遠い」も両方とも「川」に係る修飾語。このように複数の修飾語がある場合、日本語では長い順に、または句を先に並べる。「遠い」は2文字、「西日に光る」は5文字。5文字の方が当然長いので、「西日に光る遠い川」が日本語の正しい語順(正順)である。正順の場合は原則としてテンは不要。しかし、これを逆順にして「遠い西日に光る川」とするときには、テン(読点)をつけて「遠い、西日に光る川」とする。つまり、逆順の場合はテンが必要となる(逆順のテン)。

「遠い」を、たとえば「遥か遠くに見える」(8文字)に置換すると、「遥か遠くに見える」も「西日に光る」も両方とも長い修飾語だが、「遥か遠くに見える」の方がさらに長いので先頭に来る。「遥か遠くに見える西日に光る川」が正順。長い修飾語が2つ以上のときは境界にテンをつけ、「遥か遠くに見える、西日に光る川」とする(長い修飾語は境界にテン)。日本語の語順やテン(読点)のつけ方について詳しくは、本多勝一著 『実戦・日本語の作文技術』 朝日新聞社発行 を参照してください。

西日に光る遠い川 = the river, distant in the afternoon sun (サイデンステッカー訳)

西日に光る遠い川 = the distant river shining in the afternoon sun (試訳)

サイデンステッカー訳には詩的な余韻があるが、試訳にはあまりそれが感じられない。この違いはどこから来るのか?これはおそらく、日本語では修飾語(遠い)は被修飾語(川)の前に配置するしかないが、英語の修飾語(形容詞)は、被修飾語の前でも後でも置くことができる場合が多いので、たとえば訳文のように、the river の後にコンマを付けて " the river, distant in the afternoon sun" と続けることができる。このコンマが余韻を醸成しているのではないか。舞曲にしろ話芸にしろ「間(ま)」が重要だ。間がずれたり抜けたりすると芸事は台無しとなり、それこそ「間抜け」な印象を与える。コンマにより間(小休止)が創造され、あとにまで残る味わい(=余韻)が醸し出されるのではないだろうか。

「手持無沙汰(てもちぶさた)だった」は字義どおりには、「することがなく退屈だった」という意味なので、"Shimamura was bored." と訳してしまいそうになるところだが、ここではどうもそういう意味ではない。島村は退屈などしていない。好きな女と一緒にいて退屈するはずがない。この点、さすがに師匠の訳は、"unsure of himself" 「不安になる」と、島村の気持ちがそれなりに、ちゃんと酌んではある。

以前、「どうなすったの」は、"What happened?" と訳されていた。それに従うと「どうなすったかしらと思う」は、"I wondered what happened to you." これでもよさそうだが、今回は、「どうなすったかしらと思う」 → 「どこにいらっしゃるのかしらと思う」 → "I wondered where you could be." である。

「えらい勢いで」は「一生懸命に」の意。英語の "for all one is worth" (= with as much effort as possible) に相当する。例: He ran for all he was worth.  彼は一生懸命に走った。

「タバコ」といえば現代の日本人ならたいてい、「紙巻きたばこ」、つまり、シガレット(cigarette)を連想する。しかし、訳文の "tobacco" は「刻みたばこ」を指す。そういえば、私が子供の頃、祖父は刻みたばこを煙管(きせる)に詰めて吸っていたようだ。祖父の年代では、シガレットよりも刻みたばこが普通だったのかもしれない。


あの子に気の毒したよ
英語の使役動詞(causative verb)

「あの子に気の毒したよ」は、「あの子に気の毒なことをしたよ」ともいう。気の毒とは「心の毒」、気持ちを害するものという意味。あの子とはここでは、肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人のよさそうな17歳か、18歳の芸者のこと。何もしないまま途中で帰らせたので相手の気持ちを傷つけてしまったと、島村は悔やんでいる。

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

「あの子に気の毒したよ。」

「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」

石の多い川の音が円い甘さで聞こえて来るばかりだった。
杉の間から向うの山襞(やまひだ)の陰るのが見えた。

「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会ったとき心外じゃないか。」

「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた。

それでは早速、原文と訳文をじっくり鑑賞する。(訳: サイデンステッカー)

原文: 「あの子に気の毒したよ。」

訳文: "I wasn't very nice to that poor girl."

原文: 「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」

訳文: "But it's up to the guest, after all, when he wants to let the geisha go."

原文: 石の多い川の音が円い甘さで聞こえて来るばかりだった。

訳文: Through the quiet, the sound of the rocky river came up to them with a rounded softness.

原文: 杉の間から向うの山襞(やまひだ)の陰るのが見えた。

訳文: Shadows were darkening in the mountain chasms on the other side of the valley, framed in the cedar branches.

試訳: Through the cedar branches he saw the mountain chasms darkening on the other side.

原文: 「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会ったとき心外じゃないか。」

訳文: "Unless she were as good as you, I'd feel cheated when I saw you afterwards."

原文: 「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、

訳文: "Don't talk to me about it. You're just unwilling to admit you lost, that's all."

原文: 女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた。

訳文: There was scorn in her voice, and yet an affection of quite a new sort flowed between them.

人に何かをさせたいときは使役動詞(しえきどうし)を使う。日本語の使役動詞は、動詞の未然形に助動詞の「せる・させる」を添えて作る。行く→行かせる、食べる→食べさせる、働く→働かせるなど。日本語の使役動詞は、内容と関係なくほとんど形式的に、このように簡単に作ることができる。

英語の使役動詞(causative verb)といえば、make, let, have, get が有名だ。英語の場合は、日本語とちがって、内容に応じて動詞を使い分ける必要がある。だから、英語の使役動詞を苦手とする日本人は多い。しかし、説明さえ聞けば、この4つの動詞の使い分けは意外と簡単である。たとえば、

「彼女に行かせましょう」は4通りの英訳が可能だ。

1. I'll make her go. (make は無理やりに行かせる場合。彼女は行きたくない)
2. I'll let her go. (let は望み通りに行かせてあげる場合。彼女が行きたい)
3. I'll have her go. (have は頼んで行ってもらう場合。頼まれれば彼女はそうする責務がある)
4. I'll get her to go. (get は説得して行ってもらう場合とか、そうしむける場合とか)

Mom makes us eat lots of vegetables.

ママは僕たちに野菜をいっぱい食べさせるんだよ。(僕たちはあまり食べたくないのに)

My wife won't let me watch football on TV.

妻は私にテレビでサッカーの試合を観戦させてくれない。(サッカーの試合を見たいのに)

I want to have my men report. 部下に報告させようと思う。(部下はそうする職務がある)

Get your friends to help you. 友人に助けてもらいなさい。(説得すればそうしてくれるはず)

たとえば、アメリカの友人を自宅に招待し、スキヤキをご馳走したいとき、

「今晩、妻にスキヤキを作らせましょう」 → I'll have her cook sukiyaki tonight. となる。

I'll make her cook sukiyaki tonight. だと、妻に無理強いするので離婚話に発展する恐れがある。

I'll let her cook sukiyaki tonight. だと、妻がスキヤキを作りたいので、今夜は妻の望みどおりにさせてあげるという意味になる。この状況では、make, let 両方ともふさわしくない。

I'll get her to cook sukiyaki tonight. だと、妻はあまりスキヤキを作らないが、今夜は何とか説得して作ってもらおうという気持ち。have の用法に近いので、この状況では、get でもいいかもしれない。

原文の「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」に対して、訳文は "But it's up to the guest, after all, when he wants to let the geisha go." となっている。ここで "let the geisha go" に注目する。使役動詞の "let" から類推すると、芸者本人が行きたいことになってしまうが、そうではない。客が行かせるのであるから、本来は "make the geisha go" となるべきところではある。

この "let somebody go" は、実は「仕事をやめてもらう」という慣用句(to dismiss someone from their job)である。つまり、「解雇する」の婉曲(えんきょく)表現なのだ。

例: We've had to let three people go this month.

(今月、弊社ではやむなく3人辞めてもらった)。

会社が従業員を解雇する場合、従業員自らが解雇を望むわけではないので、
The company makes employees go. となるべきところだが、これだと会社があまりにも無慈悲で残酷なイメージがある。また従業員にしてもこれでは惨め過ぎる。そこで、英語では婉曲表現を使用して The company lets employees go.(会社は従業員にやめてもらう) と表現する。

この点、日本語も同じだ。経営側は従業員に対して「仕事をやめていただく」と婉曲的に表現する。「〜していただく」は「〜してもらう」の謙譲語。自分のために相手に何かをしてもらうことなので、文字通りに解釈すれば、従業員が会社のために自ら身を引いてくれることになるのだが、実際そうでないことは労使双方とも百も承知している。A さんが解雇され、後日、A さんにかかってきた電話に会社の同僚は、「A さんはお辞めになりました」と婉曲表現で応ずる。こうした婉曲表現に異を唱える人はあまりいない、日本にも英米にも、そして、たぶん別の国であっても。


遠回り
「回り道」の反意語は「近道」

「遠回り」という語で私がまず思い出すのは、菅原 都々子(すがわら つづこ)の『月がとっても青いから』である。1955年(昭和30年)に発表され100万枚を超える大ヒットとなった曲だが、当初タイトルは『遠回りして帰ろう』だったという。ちなみに、作曲を手がけたのは菅原の実父で作曲家の陸奥明、作詞はその父の友人で菅原をよく知る作詞家の清水みのる。そう聞けば、若い男女のロマンチックな歌なのに、歌全体にどことなく父性愛のような暖かみが感じられる。

『月がとっても青いから』

月がとっても 青いから/遠廻りして 帰ろ
あのすずかけの 並木路は/想い出の 小径よ
腕を優しく 組み合って/二人っきりで さあ帰ろう

「遠回り」と「回り道」は同意語である。英語で「遠回り」や「回り道」は、おなじみの「ディーツア」 “a detour” または “a roundabout route”。「遠回りする」は “make/take a detour” なので、「遠回りして帰ろう」は、たとえば ”Let’s take a detour home.” という感じだろうか。

detour: noun
a longer route that you take in order to avoid a problem or to visit a place:

It’s well worth making a detour to see the village. (from OALD)

(試訳:回り道してその村を見ることは十分価値がある。→ その村は回り道してでも行くべきだよ。)

しかし訳文では「遠回り」に ”roundabout way” が使用されている。これは、言葉などで遠回しに表現する場合、“detour” とか “route” ではなく、 ”in a roundabout way” 「遠回しに」というように “way” を使用するのがよいからである。「回り道」と、道そのものを表現する場合は、”way” でもいいが、”route” も使用できる。以下のふたつの英文を比較するとこの違いがわかりやすい。

・The taxi driver took a roundabout route to the hotel. (from LAAD)
(タクシードライバーは遠回りしてホテルに到着した。)

・In a roundabout way, she admitted she was wrong. (from LAAD)
(遠回しに、彼女は自分のあやまちを認めた。)

「回り道」の反意語は「近道」である。英語で「近道」は「ショートカット」”shortcut” とか、あるいは “shorter way” という。「近道をする」は “take a shortcut”。

We took a shortcut through the downtown. 私たちは近道をして中心街を抜けた。
There are no shortcuts to economic recovery. 経済回復に近道はない。

それでは本文に戻って、原文と訳文を鑑賞する。
【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

原文:
はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだと、島村ははっきり知ると、自分が厭になる一方女がよけい美しく見えて来た。

訳文:(サイデンステッカー)
As it became clear to Shimamura that he had from the start wanted only this woman, and that he had taken his usual roundabout way of saying so, he began to see himself as rather repulsive and the woman as all the more beautiful.

ワーオ、原文、訳文ともに切れ味鋭い洗練された表現ではないか!とても、わたくしめごときが介入できる余地などない。ここはただ子供のように素直になって、このふたつの名文を暗誦できるほどに、くりかえしくりかえし読み返すのみだ。そうすることで、願わくば、表現が大脳のどこか記憶域に蓄えられ、いつの日かふと必要な場面でタイムリーに読み出されますように…。

ことばの習得には本当のところ、近道などない(There aren't really any shortcuts to learning languages)。実際には、3つの「き」、暗記・根気・年季が必要だと思う。暗記して根気強く継続して何年も続ければ、やがてはそれなりに習得できる。近道はないが、しかし効果的な学習方法はある。反論があるかもしれないが、それが文法だと私は考えている。暗記・根気・年季プラス文法、これが日本にいて独学で、英語などの外国語を習得する最も実践的で効果的な学習方法ではないだろうか。


うちへ寄っていただこうと思って
if 節(条件節)に単純未来を表す "will" が使用できる場合

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 50ページ】

「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」

「君の家がここか。」

「ええ。」

「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」

「あれは焼いてから死ぬの。」

「だって君の家、病人があるんだろう。」

「あら。よく御存じね。」

「昨夜(ゆうべ)、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」

「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。

「細君かね。」

しかしそれには答えないで、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」

ここの会話は短いが、日本人にとって興味深い英訳が随所に出てくる。「うちへ寄る」、「走って来た」、「君の家がここか」、「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね」など、さすがに名人の手にかかると、すべての訳文があたかも原文だったかのように、いきいきとよみがえる。

原文: 「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」

訳文: " I ran after you because I thought I might ask you to come by my house."

「立ち寄る」は米語では "come by"。come by = to go to someone's house for a short time before going somewhere else. 原文の「走って来た」は、直訳の "came running" よりも意訳の "I ran after you" (あなたを追いかけた) の方がここではぴったりする。

原文: 「君の家がここか。」

訳文: "Is your house near here?"

訳訳文: 「君の家はこの近くなのかい?」

「君の家がここか」は "Is your house here?" と、私など、つい直訳しそうな気がするなあー。もちろん、こういう訳もあるとは思うが、"Is your house near here?" の方がここではより的確な表現だ。

原文: 「ええ。」

訳文: "Very near."

原文: 「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」

訳文: "I'll come if you'll let me read your diary."

ここでは "I'll come" と "come" が使用されている。"come" と "go" は、基本的には同じ動作を示す。ただし視点は異なる。日本語の用法だと、ここでは「行く」となるところだが、英語では、話し手(島村)の視点が聞き手(駒子)の家にあるので "come" が正しい。「夕食、準備できたわよ」(Dinner's ready!) と妻に呼ばれて、「わかった。今、行くよ」は、"OK, I'm going." ではなく、"OK, I'm coming." と言う。それと同じこと。

原文: 「あれは焼いてから死ぬの。」

訳文: "I'm going to burn my diary before I die."

原文: 「だって君の家、病人があるんだろう。」

訳文: "But isn't there a sick man in your house?"

原文: 「あら。よく御存じね。」

訳文: "How did you know?"

原文: 「昨夜(ゆうべ)、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」

訳文: "You were at the station to meet him yesterday. You had on a dark-blue cape. I was sitting near him on the train. And there was a woman with him, looking after him, as gentle as she could be. His wife? Or someone from Tokyo? She was exactly like a mother. I was very much impressed."

あれえ、変だな?「娘」が "a woman" と訳されているぞ! "a girl" の方が断然いいのに。この娘は、冒頭の「駅長さあん、駅長さあん」と叫んだ葉子を指すので、冒頭部分の英訳と同じように、"a girl" の方がいいと思う。『雪国』の中では「女」という語は「駒子」のみを指すいわば「予約語」なので、翻訳でも "woman" は「駒子」の専用語として確保しておきたい。

原文: 「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。

訳文: "Why didn't you say so last night? Why were you so quiet?" Something had upset her.

原文: 「細君かね。」

訳文: "His wife?"

原文: しかしそれには答えないで、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」

訳文: Komako did not answer. "Why didn't you say anything last night? What a strange person you are."

学校では、「if 節(条件節)には単純未来を表す "will" を使用しない」と教わる。それが頭にこびりついているので、たいていの人は、訳文の "I'll come if you'll let me read your diary." のような英文を見ると不安になる。でも、ご安心あれ、これは真正の英文である。ただし、if 節に "will" を除いた英文ももちろん可能。両者は少し意味が異なる。

1. I'll come if you let me read your diary.
日記を見せてくれるなら寄ってもいいよ。

2. I'll come if you'll let me read your diary.
(見せたくないだろうけど)日記を見せていただけるなら寄ってもいいね。

多くの単語がそうであるように、"will" も複数の意味を持つ。つまり、上記2のif 節 の "will" は「単純未来」を表す "will" ではなく、「(相手の好意を期待して)〜してくださるなら」、という期待を表す "will" である。

未来のことを話すのに「単純未来」を表す "will" を使用しないのは、if 節だけではない。 when節, while節, before節, after節, as soon as節, until節or till節 などでも同じ。

明日、雨なら試合は延期されます。
The game will be postponed if it rains tomorrow. (not if it will rain tomorrow)

雨が降っている。出かけたら濡れるよ。
It's raining. We'll get wet if we go out. (not if we will go)

「雨が止んでから出かける」というような場合:

We'll go out when it stops raining. (not when it will stop)
We'll go out after it stops raining. (not after it will stop)
We'll go out as soon as it stops raining. (not as soon as it will stop)

彼が私を抱いてくれるまで、じれったいけど待つわ。
Till he holds me, I'll wait impatiently.

コニーフランシスの「ボーイハント」 "Where the Boys Are" より
http://home.att.ne.jp/yellow/townsman/SnowCountry_1.htm

▲△▽▼

欧米人には絶対にわからない『雪国』の背後の世界

802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0

川端康成の「雪国」は死後の世界
みんな幽霊という設定


803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0

ちなみに千と千尋も死後の世界だね
トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ
http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001


講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。

川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。


  「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。

  とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。

 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。

 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。
http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html


川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93
http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html


ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。

「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。

「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、

「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。


「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」

「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」


渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。

読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。

今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。


「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。

相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』)


そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」


この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。

今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。
実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。

友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。

時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。

渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。
『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。

島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。

三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。

渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。

だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。
http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html

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『雪国』の『国境の長いトンネル』は能舞台の橋掛かりと全く同じ意味を持っている:

能は能舞台という専有の演技空間を持っています。横浜能楽堂に一歩足を踏み入れるとすぐにお気づきのように、


客席に突き出た三間(約6メートル)四方の本舞台(ほんぶたい)と、向かって左に延びる橋ガカリからなること、

室内でありながら舞台上にも屋根があること、

橋ガカリ奥に5色の揚幕(あげまく)という幕があるのみで、観客と舞台を隔てるものがないこと、

枝振りのよい松が描かれた鏡板(かがみいた)が背景となること


など、横に広く長い日本の大多数の劇場とは随分違っているのです。能舞台は非常に特異な空間ですが、これは能と狂言の演技の本質に深くかかわっています。


 まず本舞台。この正方形の空間は、左右より前後の動きが演技の中心となっていることを意味します。足を一歩出す、一歩引くというほんのわずかな動作が、説得力に満ちた表現になるのです。客席に張り出す舞台では、役者の身体の前から背中まで、すべてが見えてしまいます。「動く彫刻」といわれるように、一分の隙も許されず、全身全霊の力を外に放つ気迫が役者に要求されます。


また能には神、仙人などの超人間的な存在や、あの世の者が多く登場します。人間の生身の肉体である素顔を使わず能面を用いるのはそのためですが、異次元の世界からこちら側へ渡って来るには、果てしなく遠い道のりを辿らねばならないのでしょう。その距離とエネルギーとを象徴するのが橋ガカリなのです。
http://www.yaf.or.jp/nohgaku/98spr/001-2.html


橋掛かりとは、揚幕から本舞台へとつながる長い廊下部分のこと。

ここには、微妙な傾斜がつけられており、観客から見て遠近感が強く感じられるように設計されているそうです。

この橋掛かりを通って、シテは、揚幕から本舞台へと現れ、消えていきます。
それは、亡霊が現れては消えていく、能の物語そのものです。
まるで、橋掛かりが、あの世とこの世を結ぶ道のようです。
http://www.sense-nohgaku.com/noh/articles/whats_no/youhashigakari.php


橋掛りは、異次元とこの世を繋ぐ架け橋です。
http://www.ryosuikai.com/distript.htm


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「雪国」駒子のモデルの周辺事情など


ところで、怒涛の三角関係がもにょもにょ…な展開の 「雪国」 だが、そのメインヒロインである駒子には、実在のモデルがいたことが知られている。松栄(まつえ)という芸名の若い芸者で、川端康成と最初に出会った昭和9年当時、彼女は19歳であった。

川端康成はこのとき35歳。…なんというロリコン! …とか言っちゃいけないんだろうけれど(^^;)、この16歳も年下の芸者を川端はいたく気に入った様子で、たびたび指名買いしては部屋で飲んだり、散策に連れ出したり、その他いろいろなことをしたらしい。…といっても川端本人はあまり酒は飲むほうではなく口数も少ないむっつり男だったというから、どのような時間の過ごし方をしたのか少々不思議というか、非常に興味津々なところではある(^^;)


そんな逗留の日々の中、小説の筆は進んでいった。最初から一本の作品として書いた訳ではなく、登場人物を共通にして細切れの短編として雑誌に発表し、のちにそれをまとめて一冊の本にした。タイトルは最終的に 「雪国」 となった。

…が、後にこれを読んだ松栄はシェーっ(古^^;)…とばかりにぶっ飛んだらしい。小説に書かれた内容が、ほとんどそのまま川端康成と自分の過ごした日々をトレースしていたからであった。関係者が読めば登場人物が実在の誰であるかが分かってしまうし、しかも中身は色恋沙汰のもにょもにょ話で、もちろん小説として面白くなるようにあれこれと演出が入っていた。

まあ一般読者からすればどこまでが事実でどこからが創作かなど分かろう筈もないのだが、書かれた側にとってはかなり困惑…というより傍迷惑MAXなものであったのは間違いないだろう( ̄▽ ̄;)


こういう自分の体験をそのまま文章に書きだす作風は "私小説" とか "掌小説" などと呼ばれ、大正時代から昭和の中頃あたりにかけて流行した小説の1ジャンルであった。典型的な作家としては、太宰治を挙げればおおよその雰囲気は掴めるだろう。

川端康成はまさにこの系列の作家で、「雪国」 においても意図的に他人の私生活を暴露しようとした訳ではなく、当時なりの流行のフォーマットに従って自分の体験をネタに物語を書いたつもりのようだ。ただし配慮を欠いて突っ走りすぎたという点で、ツッコミを受けても仕方の無い部分があった。

これについては川端康成本人も 「やっちまった」 感は持っていたようで、後に生原稿を松栄の元に差し出して無断で小説に書いたことを詫びている。作家にとって生原稿を差し出すというのは命を差し出すようなものであるから、このときの侘びの入れ方はかなり本気だったようである。そしてこれ以降、川端は湯沢に通うのをやめ、「雪国」 は清算すべき過去の負い目の作品となった。

一方の松栄の方はというと、芸者の契約期間満了(=年季が明ける、と花柳界では言う) とともにこの世界から足を洗い、三条市に移った。新たな勤め先は市内の和裁店で、のちに彼女はそこの主人氏と結婚してささやかな家庭を築くことになる。「雪国」 の原稿は湯沢を出るときに焼き捨ててきた。昭和15年(1940)のことであった。

しかしそんな作者側 (…と、書かれた側) の事情とは関係なく、「雪国」 は小説としては異例のロングセラーとなり、戦後になって映画化、演劇化、そしてTVドラマ化…と何度も映像化されることとなった。駒子のモデルがいるということはほどなく公知の事実となり、レポーターの突撃取材(?)なども行われたようである。

…つまり 「雪国」 の一件は、原稿を焼き捨てても終わることなく松栄(この頃は一般人:小高キクとなっていた)の人生に後々までずっと影響を及ぼし続けたのであった。


資料館には映画のロケ地で女優の岸恵子と対談する松栄の写真(昭和32年)があった。地元の観光宣伝になるため取材には協力していたようだが、すでに人妻となっているにも関わらず独身時代の他の男との関係を面白おかしく取り上げられたり、ましてや映画化(!!)されたり…というのはどんな気分だったことだろう。

一方その間、川端康成は文壇で着実に知名度、実績を上げ続け地歩を築いていった。各種文芸賞のほか、日本ペンクラブ会長、国際ペンクラブ副会長に就任し、文化勲章まで受章した。役員として名前を貸した文芸系の団体などは数え切れない。

そしてついに昭和43年(1968)、川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞し、その名声の頂点を極めたのであった。「雪国」 は代表作のひとつと言われるようになり、小説の中身を知らない人でも冒頭の一文だけは知っている…というほどに知名度が上がった。

※写真は 「雪国」 湯沢事典(湯沢町役場/湯沢町教育委員会/新潟県南魚沼郡湯沢町) より引用。ちなみに湯沢町はノーベル賞以前から 「雪国」 で町興しをしており、資料館内には受賞以前の川端康成の書などが展示されている。


…ところが、ノーベル賞受賞の後、実は川端はほとんど作品を発表していないのである。

一説には賞の重圧が筆をとることを躊躇(ためら)わせたのでは…とも言われているが、筆者的には "燃料の枯渇" も相当程度あったのではないかという気がしてならない。

…というのも、高名な賞や肩書きは、分かり易く作家をランク付けしてくれる一方で希少動物か珍獣のような扱いにもするからだ。静かな地方を尋ねて小さな体験を積み重ねつつ、物語をひねり出す…という川端康成の創作の方法論は、ノーベル賞受賞後は "珍獣" に集まる人だかりによって明らかに破綻してしまったように思える。

晩年の川端が行く先々で行ったのは、小さな出会いでも散策でもなく、「日本の美」 とか 「芸術について」 といった大仰な講演会であった。


■そして駒子が残った

ノーベル文学賞受賞から4年後、川端康成は神奈川県逗子市の書斎で遺体となって発見された。昭和47年4月16日のことである。死因はガス自殺とされているが、遺書はなく、その真相は今でも不明である。

昭和初期の頃の小説家というのは自らの苦悩を作品にしつつ、たびたび自殺で世を去った。川端康成は比類なき成功と栄光を手にした果てに、結局周回遅れで彼らの仲間入りを果たしたともいえる。


私小説とは自己を切り売りしているような作風だという人がいるけれども、おそらくそれは正しい認識だろう。切り売りできるものが無くなってしまった時点でその小説家は詰んでしまう。だから常に燃料を補給しなければならない。

昭和9年の川端は実はその "詰んだ" 境遇にあり、湯沢にやってきた時点で彼は何を書くべきかというテーマを持っていなかった。たまたま現地で出会った若い芸者と過ごした日々が、創作の糧となって文章のネタとなり、彼を救ったような印象を筆者はもっている。

しかし20年後の彼には、もうそういう人は現れなかった。川端はよく言えば 「恋多き男」 で、若い頃には取材旅行で地方に滞在するたびに色々な女性にちょっかいを出したらしいのだが、偉くなりすぎた後にはそういう勝手もしにくくなった。さすがに講演会で 「芸術とは〜」 などとやっている一方で、あまり下世話な行動もとりにくかっただろう。

しかし面白い小説というのはそんな下世話で赤裸々な感情の集積という側面をもっている。…偉くなりすぎた果てにこのギャップを埋められなくなったあたりに、もしかすると晩年の彼の不幸があったのかもしれない。


川端康成が最後にちょっかい…いや、癒し(^^;)を求めたのは、随分と手近なところで家政婦の女性であったという。しかし彼女はどういう訳か川端の元を去ってしまう。後には誰も残らなかった。


一方、松栄は平成11年まで矍鑠(かくしゃく)として存命した。享年83歳。読書が趣味で、亡くなったとき自室の書棚には800冊あまりの蔵書があったというが、川端康成の作品は、やはり1冊もなかったそうだ。


資料館には、川端と出会った頃の松栄の住んだ部屋が移築、保存してある。高半旅館からほどちかい諏訪社の付近にあった豊田屋という置屋(芸者を派遣する業者)の2階部分で、小説にも登場する部屋である。


…昭和9年、ここに居た一人の芸者が、とあるネタ切れ作家の座敷に呼ばれた。それがささやかな物語の始まりであった。作家は口数も少なく、酒もほとんど飲まない扱いにくい客で、それでも芸者は三味線を弾き謡い、この堅物の興味を引きそうな話を振って精一杯のもてなしを試みた。それまで幾人もの芸者を呼んでは返していた作家は、不思議なことにこの芸者に限っては何度も指名するようになった。おそらくこのとき、作家にインスピレーションの神が降りたのだろう。

…と、とりあえず筆者はそんな推測をしている。


座敷に座っている駒子(=松栄)の人形は、静かに窓の外を眺めるばかりでこちらには顔を向けない。

もう関係者もあらかた鬼籍に入ってしまった今、真実が奈辺にあるかなどということを気にする者はいなくなった。いまは小説が一冊、残っているだけである。


一通り見学した後に外に出ると、また雪が激しくなってきていた。

すっかり発展して巨大繁華街となった新温泉の領域を歩くと、駒子の名のついた土産物が実に多いことに驚く。これらのアイテムはもう定番の観光記号と化していて、小説の中身を知らなくても 「雪国」、 「駒子」、 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」 さえ押さえておけば何となく文学体験をした気分になれるほどに認知されている。

これはこれで、不思議な風景なのであった(^^;)

…変わらないのは、雪ばかりである。


■あとがき

久しぶりに豪雪地帯をゆるゆると歩いてみて、やはり越後の冬山はスゴイな〜という感慨を持ちつつ、有名なネタである川端康成の周辺を眺めてみました。今回は文学の素養もないのに 「雪国」 をテーマにしてしまったので正確性には不安がありまして、もしトンチンカンなことを書いていたら何卒ご容赦頂きたいです(汗 ^^;)

さて川端康成というと、もう近づきがたいほどの超有名な大文豪…というイメージを筆者は持っていたのですが、少なくとも戦前の20〜30代の頃はかなり行き当たりばったり的に作品を書いていたような印象があります。彼が湯沢にやってきたときがまさにそのパターンで、何を書くかを事前に決めないままに宿に入り、いきなり芸者遊びと散策という 「お前、何しに来たんだよ」 的な日々が始まります。しかしそれは 「何かが起きる」 ことを期待しての行動で、彼としては小説のネタ探しのつもりだったのでしょう。

「雪国」 としてまとめられる前の小説の冒頭部分は 「夕景色の鏡」 の題で雑誌に掲載されたそうですが、締め切りにはかなりギリギリの入稿だったようで、しかもなんと川端康成はこの時点でストーリーの結末をどうつけるかまだ決めていませんでした。芸者の松栄嬢と過ごした日々のエピソードがそのまま小説に取り入れられてしまったあたりから見ても、ネタ切れで苦し紛れ…という雰囲気がそこはかとなく感じられ、よくもまあ話がつながったな(※)…というのが正直な感想です。

なおエピソードに苦しんだらしい連載2回目は、締切りに間に合わず原稿を落としてしまい、締切りの遅い別の雑誌に載せるという漢気な計らいが行われました。今ではちょっと考えられませんが、当時は雑誌の編集部もナカナカおおらかな時代だったようです。

※現在入手できるのは加筆修正が進んだ昭和22年発行の 「決定版」 と呼ばれるバージョンで、オリジナルの初版は古書店で相当探さないと入手は難しい。


さて川端康成は何度も湯沢を訪れては連泊していますが、本当の厳冬期に来たことはなかったといいます。小説内で駒子は芸者の衣装のまま雪の中を一人でパタパタ往来しているように描かれますが、実際には雪が深くなると芸者は裾が汚れないように専用の送迎用のソリに乗りました。この描写が 「雪国」 には見られません。観察眼の鋭い川端も実際に見ていないものは描きようがなかったのでしょう。

調べてみると、川端康成は3年少々の湯沢通いの間、最長でも年間で一ヶ月ほどの滞在だったようです。時期的には他の作品も同時に書いていた筈で、このあたりの足跡を追うと作家の執筆活動がどのようなものだったのかが何となく見えてくる気がします。本編中では戦前の作家は四六時中どこかの温泉旅館を渡り歩いていたような書き方になってしまいましたが(笑)、やはり限度というものはあったようですね…(^^;)

■おまけ:カンヅメ旅館について

ところでカンヅメ旅館について調べていて、明治大学図書館の講演会資料に面白いものを見つけました。


「ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場」
http://www.lib.meiji.ac.jp/about/publication/toshonofu/kurokawaM07.pdf


というもので、内容は下手に解説するより実物を読んで頂いたほうが良いと思いますが(^^;)、主に戦後のカンヅメ旅館の面白エピソードを集めたものです。

興味深いのは映像関係者と小説家の対比で、映画の脚本などは大人数でワーワー騒ぎながら書く (さらには旅館側に対して注文が多い) のに対して、作家は一人黙々と書いているので手間が掛からない(笑)などと書いてあります。そうするとむっつり男の川端康成などは、旅館にとっては扱いやすい客だったのでしょうかね…(^^;)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/2012_0209_04.html


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駒子を探せ!(越後湯沢への旅1) 


雪国がもっとも雪国らしい季節になっています。
と言うわけで、川端康成の「雪国」の舞台、越後湯沢を訪れてみました。

小説に登場する駒子にはモデルがいたそうです。
当時19歳、置屋「藤田屋」に身を置く芸妓「松栄」です。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6482_640.jpg?c=a0

駒子の面影を求めて湯沢を散策してみます。

駒子の容貌について、小説の中では次のように描写されています。

「細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みが滑らかで・・・濡れ光っていた。目尻が上がりも下がりもせず、わざと真直ぐに書いたような眼はどこかおかしいようながら、短い毛の生えつまった下り気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。
少し中高の円顔はまあ平凡な輪郭だが、白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいていないから、美人というよりもなによりも、清潔だった。」

さて駒子には会えるのでしょうか。

昭和9年から昭和12年にかけて、川端は越後湯沢に滞在して雪国を執筆しました。
旅館「高半」は今は鉄筋コンクリート造りのホテルに変わっていますが、川端が逗留した「かすみの間」は当時のままに保存されています。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6414_640.jpg?c=a0

この部屋で雪国が執筆されたのです。
当初幾つかの短編として発表され、戦後「雪国」としてまとめられました。

小説の中では、「椿の間」として出てきます。
島村を訪ねた駒子は、椿の間に泊まり、当初は旅館の人が出入りするときは、次の間に隠れていました。

部屋の間取りを紹介したパネルにはご主人高橋半左ヱ門氏の話が紹介されています。

「はじめのころは芸者の松栄さんが慌てて次の間に隠れたからだ、公認のようになってからはもう彼女は隠れなくなりましたが」

小説が執筆された部屋でもあるが、川端と松栄の密会の場でもあったのです。
当時、川端にはすでに奥さんがいたはずです。


昔の高半を遠望する写真です。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6443_640.jpg?c=a0

岡の上の建物が高半です。
右手の杉木立の中に諏訪神社があります。

小説の中に出てきます。
「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくりと入った。
彼は黙ってついて行った。
神社であった。
苔のついた狛犬の傍らの平らな岩に女は腰をおろした。」

高半の女将さんに諏訪神社までの道を訪ね、岡を下りました。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6457_640.jpg?c=a0

残念ながら、雪に閉ざされて神社の境内までたどり着く事ができませんでした。
雪に埋もれた鳥居を遠望するのみで、苔のついた狛犬も、その側の平な岩も確認することは出来ません。

芸者を辞めて湯沢を去る松栄は、この境内で川端から届けられた雪国初稿の生原稿や自分がつけていた日記を焼いたそうです。

その松栄が身を置いた「豊田屋」はこの神社近くにあったそうです。
湯沢町歴史民俗資料館には、松栄の住んだ部屋を移築して「駒子の部屋」と名付け展示してあります。
記事冒頭の写真がそれです。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6448_640.jpg?c=a1

ホテル高半に展示されていた松枝の写真です。
向かって右側が松栄19歳のころの写真です。

冒頭に紹介した、駒子の容貌の描写と比較してみてください。
似ているというか、そのまま・・・と思いませんか。

駒子のモデルとなった、松栄は昭和15年芸妓をやめ、その後結婚し、1999年に新潟県三条市で亡くなっています。
良いご主人に恵まれ、その人生は幸せだったようです。
駒子であった松栄にスポットをあてた『「雪国」あそび』(村松友視・恒文社)という本があります。
その中に、「キク(松栄の本名)さんは生前、久雄(ご主人)さんに『雪国』の中のできごとはほとんどが実際のできごとだと話した」との記述がありました。

「国境のトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6506_640.jpg?c=a1

この冒頭部分があまりにも有名なためか、「雪国」をなんとなく読んだようになっていました。
冷静に考えてみると読んだことはありませんでした。
なぜ、読んだことがあると思い込んでいたのでしょうか。
ひょっとすると教科書に載っていたからだろうか。

今回、雪国を読んでみて、「教科書に載っていたかも」というのも思い違いだったようです。
内容は教科書に載せられるような代物ではありませんでした。

これは不倫小説です。
しかも冒頭部分で

「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている。
・・・この指だけは女の感触で今も濡れていて、」

とかなり不穏当な表現がでてくるのです。
(この指の感触の表現部分は昭和10年に「夕景色の鏡」として文藝春秋に発表されたときは伏字が使われているそうです。さもありなんと思います。)

妻子ある男と芸妓の逢瀬の描写が繰り返し描写され、そして山場らしい山場もなく終わってしまいます。

新潮文庫版「雪国」の解説文で伊藤整が「抒情小説」といい、「さて、完成されても、ドラマティックなカタストローフは決して設定されず、本当に終わったのかどうか、読者にも疑問に思われる。」(永遠の旅人)と三島由紀夫が評したのも良くわかりました。
http://odori.blog.so-net.ne.jp/2011-02-06


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愛のゆくえ 「雪国」 - 魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

愛のゆくえ「雪国」その1

越後湯沢へ

 1932、3年(昭和7,8年)ころ、川端康成はしばしば上州(群馬県)の温泉へ原稿を書きに行っていた。

 その前、昭和6年には、直木三十五に連れられて、池谷信三郎と3人で、上州の法師温泉へも出かけている。

 法師温泉は三国(みくに)峠の麓で、直木が特に好きな温泉だった。
 その昭和6年には清水トンネルが開通し、越後がぐっと近くなった。

   「雪国」を書く前私は水上(みなかみ)温泉へ幾度か原稿を書きに行つた。

   水上の一つ手前の駅の上牧(かみもく)温泉にも行つた。(中略)水上か上牧にゐた時私は宿の人にすすめられて、
   清水トンネルの向うの越後湯沢へ行つてみた。水上よりはよほど鄙(ひな)びてゐた。それからは湯沢へ多く行つた。

   上越線で湯沢は越後の入口になつたが、清水トンネルの通る前は、三国越えはあつても、越後の奥とも言へたのである。
                                             (「独影自命」6ノ2)

昭和9年6月初旬、康成は上牧温泉の大室旅館に滞在して原稿を書いていた。

 6月8日附で群馬県利根郡桃野村(上越線上牧駅前)大室温泉旅館の康成から、東京下谷上野桜木町36の川端秀子に宛てた書簡が遺されている。

 11日、12日には、同じく上牧駅前利根川向岸大室温泉旅館から秀子に手紙を出している。

 11日の手紙には、「明日改造すめば、どこかへ遊びに行つて来る。ここは配達1回しかないので、まだ杉山の手紙を貰つただけ、さつぱり様子分らず閉口だ。/文学界はどうかしらん。」と書いてある。

 原稿に追われつづけ、ここらで「どこかへ遊びに行つて」心身の回復をはかりたかったのだろう。また上牧の郵便事情の不便なことをも嘆いている。

 12日のには、「新潮と文藝7月号送れ、/なぜ報告の手紙をよこさんのだ、馬鹿野郎、手がくさつたつて代筆されることも出来るだらう」と癇癪を起こしている。

   改造の仕事で疲れ、気をまぎらす術なく、婆さんのやうな顔になつた。

   これだつて、原稿受けとり、改造に渡し、間に合つたと、電報でもくれたら、どれだけ安心して、仕事疲れの翌日が眠れるかしれん、僅か30銭ですむぢやないか。
   それくらゐの心は配れ。


 と、八つ当たり気味の手紙である。疲れてもいたのだろう。

そのころは、車掌にチップを出して鉄道便の上野駅止めで原稿を送り、秀子に電報を打って上野駅で受け取らせ、出版社に直接持参させていたようだ。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/38bdc6f0c695da88fc77ee638f489cb0

愛のゆくえ 「雪国」その2

越後湯沢の初印象

 6月14日附(づけ)で新潟県南魚沼(みなみうおぬま)郡越後湯沢高半(たかはん)旅館より上野桜木町36の秀子に宛てた書簡(15)は、冒頭に、越後湯沢の印象が書いてある。

   文学界の原稿を出しかたがた、水上駅に来たついで、一休みに、清水トンネルを越え、越後湯沢に来た。戸数四百ばかりの村、湯の宿も13,4あり、水上のやうになにか肌あらいところなく、古びてゐてよい。この宿は部屋も40ある。

 この旅館が越後湯沢随一の、主人が代々高橋半左衛門を名のる高(たか)半(はん)旅館である。

 康成はこの宿が気に入ったのだろう、こののちずっと、この宿を定宿とすることになる。

 ちなみに、康成に与えられた部屋は、清水トンネル開通のあと、新築された「長生閣」の二階「かすみの間」である。「雪国」作中では、「椿の間」として描かれる。

 なお14日附の秀子宛て書簡15は長いもので、途中「13日 康成」と記したあとに、翌朝書き加えた文言がある。

 つまり、康成が初めて湯沢に来たのは6月13日、翌14日に書簡を投函したことが明かとなる。

 このことは、当時、中央公論の編集者であった藤田圭雄(たまを)宛ての書簡にも明記してある。煩雑になるが資料として貴重なので、引用しておこう。

 第4次37巻本『川端康成全集』補巻2(新潮社、1984・5・20)の藤田宛て書簡1(昭和9年6月14日附 新潟県魚沼郡湯沢温泉高半旅館より東京麹町(こうじまち)丸の内ビルヂング中央公論編輯部宛て)

   拝啓、
   水上の1つ手前の駅の大室温泉に1週間ほど滞在の後、今日清水トンネルを越えて越後湯沢に参りました。古ぼけた村です。でもこの宿は客室が40ばかりもあります。(中略)21日頃までここに滞在いたします。(以下略)

   14日                   川端康成
  藤田圭造(ママ)様(正しくは、藤田圭雄)


 この書簡の日付が14日となっているのは、到着の翌14日に大室温泉に荷物をとりに戻り、14日にあらためて高半旅館に腰を落ち着けたからであろう。すなわち、康成が初めて越後湯沢に来たのは、1934(昭和9)年6月13日、腰を落ち着けたのが翌14日と確定してよいだろう。

 ちなみに、この点はつとに平山三男が「雪国」論(『川端康成 作家・作品シリーズ6』東京書籍、1979・4・日付記載なし)において指摘している。

 この気晴らしの旅で、康成はひとりの女とゆくりなくもめぐり逢い、もう1度その女に逢いにゆくために、その年の12月初旬、今度は上野から汽車に乗って越後湯沢の駅に降りた。

 やはり夫人宛て書簡によって、それが12月6日のことであるとわかる。

 康成はこの宿に籠もって、『文藝春秋』と『改造』の新年号2つの原稿を書く予定であった。もっとも、このとき、何を書くか、内容は、まったく頭の中になかった。ただ、6月の旅でめぐり逢った女と再会すれば、何か書く材料ができるだろうという、ぼんやりした期待があるばかりだったろう。


「雪国」初出(はじめて雑誌に発表されたもの)

 「雪国」が昭和9年末から書き始められ、いろいろな雑誌に分載されて、最初に創元社から昭和12)年6月12日に刊行され(旧版『雪国』)、それからさらに書きつがれて、戦後の1948(昭和23)年12月25日に、あらためて同じく創元社から刊行され、これが〈決定版『雪国』〉と呼ばれていることは、よく知られている。

 その後、20年あまりたって、すこし手を加えられて、1971(昭和46)年8月15日、牧羊社から『定本雪国』が刊行された。

 康成が、これを『定本』にすると宣言し、以降、新潮社の第3次全集、第4次全集も、また新潮文庫103版以降も、この牧羊社版を底本にしていることは、平山三男の指摘によって、よく知られているとおりである。

 しかしやはり重要なのは、初出としてあちこちに分載された文章が、大幅に手を入れられて昭和12年の創元社版、あるいは昭和23年の決定版になった、その経過である。

 そこに、『雪国』にこめた康成の渾身の努力が刻印されているからである。

さて、その最初の分載が「夕景色の鏡」と「白い朝の鏡」であることも、読者はよく御存知のことであろう。康成は、この2作のできた由来を、〈決定版『雪国』〉の「あとがき」で語っている。

   「雪国」は昭和9年から12年までの4年間に書いた。(中略)

   はじめは「文藝春秋」昭和10年1月号に40枚ほどの短篇として書くつもり、その短篇1つでこの材料は片づくはずが、「文藝春秋」の締切に終わりまで書ききれなかつたために、同月号だが締切の数日おそい「改造」にその続きを書き継ぐことになり、この材料を扱う日数の加はるにつれて、余情が後日にのこり、初めのつもりとはちがつたものになつたのである。

 このことばを裏づけるように、1934(昭和9)年12月7日附で上越線越後湯沢高半旅館より秀子に出した書簡には、

   斎藤君(注、『文藝春秋』の記者)は9日中にくれといふ。やはり正月で校了が2日早い由、9日は日曜。9日の汽車で全部送れるといいが、10日にまたがるだらう。(中略)

   もつとも何枚かけるかまだ分らぬが。

   しつかりした材料を持つて来ず、例によつて、夢のやうなつくりごとなるが厭(いや)である。                     (補巻2の21)


    
とあり、さらに10日の書簡には、次のような一節がある。

   文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。
  (10日夕方の)今から改造にかかる。

 綱渡りのような、あやうい売文生活をつづけていたのである。もっとも、補巻に収められた書簡を見ると、このころの康成には『モダン日本』『婦人倶楽部』『若草』『行動』『中外新報』『中央公論』などから注文が殺到していて、それを1つ1つこなしてゆくのは、並大抵のことではなかっただろう。

――このような状況で初出「夕景色の鏡」は書かれた。

 よく知られているように、第1作「夕景色の鏡」の冒頭は、現在の「雪国」の有名な文章とは異なっていた。

   濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その一つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/1ff09e0b54d8d44a456a67455ef79ba6


愛のゆくえ 「雪国」その3

連載第一回「夕景色の鏡」の冒頭

  濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その1つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。

 この部分は〈決定版『雪国』〉では完全に消滅しているが、視点人物島村を雪国に導くものが何であったかを明確に語っている。それは女――駒子の思い出であり、それも単なる情緒的なものではなく、指の触覚というきわめて官能的なものであった。

 冒頭では、指の触れたのは単に「髪」となっているが、少しあとに駒子の心理の説明として「まだ16,7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと……」とあることからも、それが駒子の肉体的な魅力を暗示していることは明らかである。

 もっと具体的にいうと、島村が左指で覚えていたのは、のちに出て来る表現ではあるが、駒子の「みうちのあついひとところ」の生ま生ましい触感だったのである。

 島村は駒子、というより駒子の肉体に再会しようとして、雪国に向かう汽車に乗った。そしてその車中で葉子に出会うのである。

   もう三時間も前、島村は退屈まぎれに、彼を女のところへ引き寄せてゆくやうな、左手の〈人指指〉をいろいろに動かして眺めてみたり、鼻につけて匂ひを嗅いでみたりしてゐたが、ふとその〈指〉で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目から片頬がはつきり浮き出たのだつた。

                 (初出では、〈 〉の中は伏せ字になっている。)

この車窓の鏡に浮かび出た女が葉子であり、島村はやがて窓外の夕景色と二重写しになった葉子の顔の非現実な美しさに胸がふるえるのであるが、ここに短篇「夕景色の鏡」の意図はあらわになる。

 すなわち、前の旅でなじんだ女との再会を胸に描いて官能の思い出の世界にただよっていた島村が、眼前に現出した「この世ならぬ象徴の世界」の美に陶然となるのである。〈官能的な世界〉と〈象徴的な美の世界〉が、ここでは鮮やかに対比されている。

 康成の「はじめは……40枚の短篇として書くつもり」が、この対比を描くことであったことは、明かである。

はたして、『改造』新年号に発表されたのは、「白い朝の鏡」であった。「夕景色の鏡」と対比する意図はよく現れている。

 ところがこの「白い朝の鏡」のなかに、その題名に相応する内容は登場してこないのである。

 それが発表されるのは、それから10ヶ月もたった『日本評論』11月号に「物語」と題して発表された作品の末尾においてである。

第三回「徒労」

 つづけて『日本評論』の12月号に「徒労」が発表されているのは、翌年の1935(昭和10)年の秋、蛾が卵を産みつける時期に10ヶ月ぶりに湯沢をおとずれた康成の身に、駒子のモデルとなる女性との再会があって、「余情」が深まるような出来事が生じたためであろう。

 実際、作品の中で女が「駒子」と名づけられて登場するのは「徒労」からで、それまでは、単に「女」と呼ばれているに過ぎないのである。

 1、2回の短篇で終わるはずだった素材が内容の濃いものとなり、続編を書き継ぐ意志の生じたことが、そのような変化をもたらしたといってもいいだろう。

 これを裏づけるように、ずっとのちの1959年(昭和34年)になって、康成は「『雪国』の旅」と題するエッセイを発表していて、その中に、1935(昭和10)年秋の日記を公開している。

 1935年(昭和10年)秋とは、「雪国」作中では、島村が3度めに湯沢をおとずれて、長い逗留をすることになっている。しかし現実の康成はこの昭和10年の秋、この湯沢で「物語」「徒労」を書いたのである。

 そのときに、駒子のモデルとの濃い接触のあったことが、この日記に記されている。きわだったところだけを写す。なお、( )の中の説明は、康成が付したものである。


  昭和10年9月30日
 「少女倶楽部」、書き終る。1時55分の汽車で湯沢に行く。駒。(註、駒子が宿へ来たことである。)

  10月1日
 午前より宿の子供を部屋に呼ぶ。(註、「雪国」に書いてある。)3時過ぎ帰る。(註、駒子が。)

  10月2日
 朝、7時ごろに起される。(註、駒子が来て。)夜、駅まで行く、宴会の後で。

  10月4日
 西川博士よりレントゲン写真の結果の手紙。夜中11時に。(註、駒子が来る。)

  10月5日
 「讀賣(読売)」の原稿終り。10時より。(註、駒子が来る。)

  十月十一日
 「日本評論」のための「物語」(註、「雪国」の一部)、18枚で打切り、その原稿を送る。


 このように、ほとんど毎日、駒子が時ならぬ時刻にやって来ている。そしてこれらの素材を康成は「雪国」作中に書きこんでいる。そういう、ただならぬ状況のなかで、「物語」は短いながら完成し、これを康成は『日本評論』に送っているのである。


「夕景色の鏡」

 では、「雪国」最初の2つの短篇のなかでは、何が語られたのであろうか。

 まず「夕景色の鏡」から見てゆくことにしよう。

 「夕景色の鏡」では、冒頭の2行で、先ほど紹介したように、島村のこの旅が、その触感だけがなまなましく思い出されると女に告げたくて汽車に乗った旅であったことが書かれる。

 ついで、

   「あんた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」
   「笑つてやしない。」
   「心の底で笑つてるでせう。今笑はなくつても、後できつと笑ふわ。」

と、最後までは拒み通せなかつたことを、その時女は枕を顔に抱きつけて泣いたのだつたけれども、彼はやはり水商売の女だつたと笑つて忘れるどころか、それがあつたために反つて、いつも女をまざまざと思ひ浮かべたくなるのだつた。

と、回想の核心部分が書かれる。それから、現在の「雪国」冒頭の原型にあたる1行が登場する。

   国境のトンネルを抜けると窓の外の夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止つた。

 ちなみに、現行の「雪国」冒頭は、以下のようになっている。


   国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止まつた。

 そこから一転して現在の車中の光景となり、向こう側の座席から娘が立ってきて、島村の前のガラス窓を落して、身を乗り出し、駅長を呼ぶのである。

 駅長の応える言葉で、この娘の名が葉子であることは、すぐ読者に伝えられる。

  そのやうな、やがて雪に埋れる鉄道信号所に、葉子といふ娘の弟がこの冬から勤めてゐるのだと分ると、島村は一層彼女に物語めいた興味を増した。

 こうして、娘が病人連れで、甲斐々々しく世話をしていること、もう3時間も前、窓ガラスに葉子が映って驚いたこと、それ以来彼がずっと鏡の中の彼女を注視していて、娘の顔に野山の火が重なったとき、胸がふるえたこと……と、この作品の頂点が記されるのである。

   さうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだつた。しかし彼女の顔を光り輝かせるやうなことはなかつた。冷く遠い光であつた。小さい瞬きのまはりをぽうつと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重つた瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であつた。

 半時間後、葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにが起るかと自分にかかわりがあるかのようにやうにあわてたりするが、宿屋の客引きの番頭と出会って、「お師匠さんとこの娘はまだいるかい」と尋ねる。
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愛のゆくえ 「雪国」その4

再会

 前に泊まった温泉宿に落ちついた島村は、内湯に行く。そして長い古びた廊下を部屋へ戻ってゆくとき、女と再会するのである。

   その長いはづれの帳場の曲り角に、裾を黒光りの板の上へ冷え冷えと拡げて、女が立つて待つてゐた。

   と(ママ)うとう芸者に出たのであらうかと、その裾を見てはつとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、體のどこかを崩して迎へるしなを作るでもない、その立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取つて、急いで来たが、女の傍(かたわら)に立つても黙つてゐた。(中略)

   手紙も出さず、会ひにも来ず、踊の型の本など送るといふ約束も果さず、女からすれば笑つて忘れられたとしか思へないだらうから、先づ島村の方から詫びかいひわけを云はなければならない順序だつたが、顔を見ないで歩いてゐるうちにも、女は彼を責めるどころか、體いつぱいになつかしさを感じてゐることが知れるので、彼は尚更、どんなことを云つたにしても、その言葉は自分の方が不真面目だといふ響きしか持たぬだらうと思つて、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれてゐたが、階段の下まで来ると、

  「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

女との再会は、このように印象的にはたされる。

 しかし同時に、男の不誠実もまた、しっかり刻印される。

 その不誠実を徹底するように、男は「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ」と人差指を女の面前に突きだすのである。

 だが女は怒らない。

   「さう?」と、女は彼の指を握ると、そのまま手を離さないで手をひくやうに階段を上つて行つた。

 そうして彼の部屋に来ると、女はさっと首まで赤くなって、それを誤魔化すためにあわてて彼の手を拾いながら、「これが覚えてゐてくれたの?」「右ぢやない、こつちだよ」と、女の掌の間から右手を抜いて、炬燵に入れると、改めて左の握拳を出した。彼女はすました顔で「ええ、分かつてるわ」と、ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてるのである。

   「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」
  「東京はまだ雪が降らないの?」
  「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」

ここで文章は冒頭につながり、また、最初の出会いへと回想に移るきっかけとなるのだが、じつは、この前に、重要な記述が20行ばかり、初出にはあった。


女の體(からだ)の秘密

 それは、たった1度の出会いで、女がどうしてこの男を忘れられないようになったか、という女の微妙な心理の説明である。

 この心理の説明が消去されてしまった現在の「雪国」では、読者は、どうしてああも簡単に女が島村に恋心を抱いてしまったのか、理解できないのである。

 初出で康成は、女の心の秘密を、こんなに克明に説明していた。

   それではこの男も、私をほんたうに知つてくれたのだつたか、それにひかれて遙々来たのだつたか、どこを捜しても私のやうな女はさうゐないので忘れなかつたのかと、彼女はなんだか底寂しい喜びに誘ひこまれた。ほつと安心したやうな親しさで、心が男に寄り添つて行つた。許されたやうな思ひだつた。かういふ男は彼女にとつて逆らひ難い誘惑だつた。

   と云つたところで、彼女はまだ水商売が身にしみてゐるわけでなし、多くの男を知つてゐるわけでもないが、まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。

   けれども、それが彼女自身ではつきりと分るやうになつた後まで、天刑をあばかれたやうな初めの悲しみは消え残つてゐるのだつた。余りに早く愛なくして知つたためであったらう。

   島村といふ男は1週間も山登りをして来たほどで、よく整つた體はさう弱さうに見えなかつたけれど、肉附の色白い円みがいくらか女じみてゐるし、まして道楽した風はなく、女のあつかひが淡白なところから考へても、あの時彼女のほんたうが分つてくれたとは、たうてい思へなくて、それが後々まで未練のもとのやうでもあり、また反つてそのきれいさが愛着の種ともなつてゐるのだつた。彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。

   けれども、あの時自分は酔つてゐたから、男を見抜くことが出来なかつたのだらうか。さうではない、気は確かだつた。そんなら、この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうかといふ結論に辿りついて、女はふふと含み笑ひしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。

 この長い引用は、駒子の心理を知るには欠かせない部分なのだが、現在の「雪国」では、削除されてしまった。

 女は16、7のころ、男に教えられて、自分が女として類稀(たぐい、まれ)な肉体を持っていることを知ってしまった。

 だから最初に思ったことは、島村が自分のほんとうの肉体の秘密を知って、それにひかれて遙々(はるばる)来たのだったか、ということだった。底寂しい喜びに誘われ、ほっと安心したような親しさを感じた。

 しかし次に考えたことは、島村は女のあつかいも淡白であったから、彼女のほんとうの秘密を知ったとは到底思えず、それが後々までの未練のもとであり、またそのきれいさが愛着の種ともなっている、ということだった。「彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。」

 彼に肉体の秘密を悟らせないままに終わったのは、「この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうか」、最後に女はそう考えて、ふふと含み笑いするのである。

さて、男は掌に顔を押しあてられて、女の髪の冷たさに驚く。

「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」そう言って、女に「東京はまだ雪が降らないの?」と訊かれても、それには応えず、言おうと思っていた言葉を口にするのである。

   「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」

 この言葉をきっかけに、「あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入つた頃だつた。」と、最初の邂逅を振り返る回想場面――第1の旅へと、叙述は戻るのである。

無為徒食(むいとしょく)の島村

 「無為徒食の島村は」と、その冒頭で島村の人物像が提示される。

無為徒食とは、定まった職業も持たず、親から遺された財産でもあって、それをいたずらに喰いつぶしている、生活に責任を持たぬ男、というほどの意味であろう。
 少し後に、「白い朝の鏡」のところで、島村が西洋舞踊を趣味にしていて、時々西洋舞踊の研究や紹介を書くので、文筆業者の片端に数えられているが、島村みずから、それを「机上の空論」と冷笑し、そこに虚無の匂いを嗅いでいる、との説明がある。

 このほか、東京に妻子があることがのちに説明されるが、「雪国」の中で島村について読者が具体的に与えられる知識はこれだけである。

 そんな島村はしぜんと自分に対する真面目さも失いがちになるので、それを呼び戻すために、よく一人で山歩きをするが、その夜も、国境の山々から7日ぶりで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと云った。

ところがその日は道路普請の落成祝いで、12、3人の芸者は手が足りなくて、とうてい貰えないだろうが、三味線と踊りの師匠のところにいる娘なら、来てくれるかも知れぬ、ということだった。

 その娘は、芸者ではないが、まったくの素人ともいえない、という女中の説明だった。

   怪しい話だとたかをくくつてゐたが、1時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村ははつと唇を結んだ。(中略)

女の印象は不思議なくらゐ清潔であつた。足指の裏の窪みまでぬかりなくきれいであらうと思はれた。山々の初夏の風景を見て来た自分の眼のせゐであらうかと、島村は疑つたほどだつた。

 女はこの村から眺められる山々の名もろくろく知らなかったけれど、自分の身の上話は案外率直に話した。19であるともいった。また歌舞伎の話をしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通していた。そういう話相手に飢えていたのか、夢中でしゃべった。

 その夜は何事もなく過ぎ、女は帰っていった。

 そして翌日の午後、宿へお湯をもらいに来るついでに彼の部屋に遊びに寄った。
 ところが女に、島村はいきなり、芸者を世話してくれ、と云った。女が怒ると、

   「友だちだと思つてるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

「夕景色の鏡」は、ここで突如、終わる。康成が妻への手紙に、
「文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。」と書いたとおりである。
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愛のゆくえ 「雪国」その5
「白い朝の鏡」

つづけて『改造』に書かれた続編では、はじめに、読者を面食らわせないないためだろうか、芸者代わりに呼んだ女とのいきさつが少し書いてある。

 それから、つづきがあって、間もなく来た芸者を一目見ると、「島村の山から里へ出た時の女ほしさは、味気なく消えてしまった」ので、郵便局の時間がなくなるという口実をもうけて芸者を返す。そして、若葉の匂いの強い裏山へ登ってゆく。ほどよく疲れて、駈け下りてくると、

   「どうなすつたの?」と、女が杉林の陰に立つてゐた。
  「うれしさうに笑つてらつしやるわよ。」
  「止めたよ。」と、彼はまたわけのない笑ひがこみ上げて来て、  「もう止めだ。」
  「さう?」と、女は表情のなくなつた顔であちらを向くと、杉  林のなかへゆつくり入つた。彼は黙つてついて行つた。

   神社であつた。苔のついた駒(ママ)犬の傍の平な岩に、女は腰を下  して、
  「ここが一等涼しいの。真夏でも冷い風がありますわ。」

 ここでふたりは会話をかわしながら、夕暮れまでの時間を過ごす。島村のとらえた女の特徴も書きこまれている。

 「少し中高の円顔は平凡な輪郭ながら、白陶器に薄紅を刷いたやうな皮膚で、首のつけ根も肉づいてゐないから、美人といふよりもなによりも、清潔だつた。」


自分の男を呼ぶ声

 それから問題の場面が登場する。
 その夜の10時ごろ、女が廊下から島村の名を大声で呼んで、ばたりと倒れるように彼の部屋へ入ってくる。宴会の途中だった。

 「悪いから行つて来るわね。後でまた来るわね」と、よろけながら出て行く。

   一時間ほどしてまた廊下にみだれた足音で、

  「島村さあん、島村さあん。」と、助けを求めるやうに叫んだ。それはもうまぎれもなく、酔つたあげくの本心で、女が自分の男を呼ぶ声であった。それは島村の胸のなかへ飛びこんで、むしろ思ひがけないほどだつたが、宿屋中に聞えてゐるにちがひなかつたから、当惑して立ち上がると、女は障子紙に指をつつこんで桟(さん)をつかみ、そのまま……〈伏せ字8字〉倒れかかつた。 

 「女が自分の男を呼ぶ声」とは、女が自分の好きな男を呼ぶ声、の意味だろう。
 ちなみに、現行の定本では、この箇所はみごとに彫琢されて、こんなに簡潔な文章に変わっている。

  一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突きあたつたり倒れたりして来るらしく、

  「島村さあん、島村さあん。」と、甲高く叫んだ。
  「ああ、見えない。島村さあん。」

   それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であつた。島村は思ひがけなかつた。
 
 女は酔って、本心から、「自分の男」を呼んだのである。
 だが、女はいつのまに、島村を「自分の男」と思うようになったのか。

 さきほどの夕暮れの杉林の中での会話からだろうか。前夜、芸者の代わりに呼ばれて、島村と話が合ったからであろうか。それとも、今日の午後、芸者を呼んでくれと、失礼なことを云われたことが、かえって女の心を刺激したのか。

 いずれにしても、前夜、ふたりの話の合ったことが基本であろう。だからこそ好意を抱いて、女は翌日の午後、島村の部屋を遊びに訪れたのである。それなのに芸者を世話してくれといわれて、女の心は傷ついた。しかしこの危機は、女の素直な心によって回避された。

 しかし、それでもなお、女がここまで深く島村を思ってしまった心の因はわからない。

 女の心はわからないままに、物語は進行する。

 島村の部屋で、女は酔ったままにさまざまな姿をみせるが、結局、島村に抱かれることになる。しかしその時になっても、「お友達でゐようつて、あなたがおつしやつたぢやないの」と、幾度繰り返したかしれなかった。

 島村はその言葉の真剣な響きに打たれ、また、固く渋面をつくつて自分を抑へてゐる意志の強さには味気なくなるほどで、女との約束を守ろうかとさえ思うのである。

 この場面の初出は伏せ字だらけで、意味が通らないので、定本によって補正すると、

  「私はなんにも惜しいものはないのよ、決して惜しいんぢやないのよ。だけど、さういふ女ぢやない。私はさういふ女ぢやないの。きつと長続きしないつて、あんた自分で言つたぢやないの。」(中略)

などと口走りながら、よろこびにさからふために袖をかんでゐた。


女はこんなに簡単に男に身を任せることで、男が誤解することを恐れているのだ。好きな男にあげる。だから惜しいんじゃない。だけど、あなたは誤解する。あたしが、こんなふうに誰にだって簡単に身を任せてしまう女だと誤解する。それは違う!

 女は、よろこびがこみ上げてくるなかで、それに逆らいながら、必死で言いつのっているのだ。

 ……しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、女はふと突き刺すように、
「あなた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」と言って、泣くのである。旅の男に簡単に身を任せた、男からすれば、据え膳喰わぬは……と、そんな女を安っぽい、尻の軽い女として馬鹿にするだろう。女は、そう思われることを避けようと、必死で男を刺すのである。

 この場面は、女が行きずりの島村に本気で惚れて身を任せ、その自分の気持ちを軽いものと誤解されることを恐れていると、読者に繰り返し訴える。女の真剣な好意がつよく印象づけられるシーンである。

 それとともに、そのように言わねばならぬほど、男に容易に身を任せてしまった女の哀れが読者に迫ってくる。

 「白い朝の鏡」は、それから女が夜が明けるのを恐れて、宿の人が起きる前に帰ってゆくところで閉じられる。

 「夕景色の鏡」との対照は、この作品では書かれずじまいだったのである。


「物語」

 「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」と1935年(昭和10年)の新年号に発表されたまま、作品は1年ちかく放置される。

 次に第3作「物語」、第4作「徒労」が発表されるのは、同年11月号、12月号のことである。

 先にも指摘したように、その秋の康成の3度目の越後湯沢への旅が、「余情」を後に残す契機となったのである。

「物語」も、読者にこれまでの経緯を説明するところから始まっている。女が夜明けに宿を抜け出して帰っていったあと、「その日島村は東京へ帰つてしまつた。女の名も聞き忘れたほどの別れやうであつた。」

 それから、新しい「物語」が始まる。

 女はしきりに指を折って勘定している。島村が問うと、「5月の23日ね」といい、今夜がちょうど「199日目だわ」と応えるのである。

 ここは、これまでいくつもの論考で指摘されてきたように、平安の昔に、深草(ふかくさ)の少将が小野小町を99夜たずねた、その故事「深草少将の百夜(ももよ)通い」に関連づけているのであろう。女は、自分たちの関係に何か意味を見出そうとしているのである。

 それから、この「物語」の中心となる、女の生きる姿が示される

   「だけど、五月の二十三日つて、よく覚えてるね。」
  「日記を見れば、直ぐ分るわ。」
  「日記、日記をつけるのか。」
  「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでゐても恥しいわ。」
「いつから?」
   「東京でお酌に出る少し前から。(以下略)」

 これだけでも島村を驚かすには十分だったが、島村をもっと驚かせたのは、女が、読んだ小説を1つ1つ雑記帳に書きつけている、ということだった。

   日記の話よりも、尚島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十六の頃から、読んだ小説を一一書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなつたといふことであつた。

  「感想を書いとくんだね?」
  「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらゐのものですわ。」

  「そんなものを書き止めといたつて、しやうがないぢやないか。」
  「しやうがありませんわ。」
  「徒労だね。」
  「さうですわ。」と、女はこともなげに明るく答へて、しかしぢつと島村を見つめてゐた。

   全くの徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、しいんと雪の鳴るやうな静けさが身にしみて/それは女に惹きつけられたのであつた。

 島村は、女の意外な一面を知って驚く。山深い田舎のひとりの無名の女が、読んだ小説の題名をノートにつけたとて、いったいそれが何の役にたつというのだろう。

   彼女にとつては、それが徒労であらうはずがないとは彼も知  りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにか反つて彼女の  存在が純粋に感じられるのであつた。

 このとき初めて、島村は女に惚れたのである。あるいは、女の一生懸命に生きている姿を知って、そこにひとりの女の生きる息づかいを感じて、女に対する心からの愛情が湧いてきたのである。

 ……その夜、つまり再会の最初の夜も、女は島村の部屋に泊まって朝を迎える。
 部屋が明るんでくると、女の赤い頬があざやかに見えてくる。寒いせいだろうと島村が訊くと、白粉(おしろい)を落としたからだ、と女は答える。

  「寒いんぢやないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入ると直ぐ、足の先までぽつほ(ママ)して来るの。」と、島村の枕もとの鏡台に向つて、
  「たうとう明るくなつてしまつたわ。帰りますわ。」

  島村はその方を見て、ひよつと首を縮めた。鏡の奥が真白に光つてゐるのは雪である。その雪のなかに、女の真赤な頬が浮んでゐる。なんともいへぬ清潔な美しさであつた。

 この場面でようやく、康成の初めの構想――「夕景色の鏡」と、人差指が覚えていた女の「白い朝の鏡」との照応が完成するのである。

 1つの短篇で終わるはずだった作品が、3作めの「物語」の最後になって、やっと当初の目的を完成したのである。康成は、ここでこの連作を終わってもよかった。

 それがさらに次の「徒労」へとつづいてゆくのは、この「物語」の中で、日記をつけているばかりか、読んだ小説を雑記帳に書きとめているという、ひとりの女の、徒労の生を懸命に生きている姿を知って、男の内部に、遊びごとではない、女への真剣な思いが芽生えたからである。

 これが「余情が後に残って」の意味であろう。ここから、作品は真剣な愛を抱いた男と女の物語へと変貌してゆくのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2e44c3f542df85f121f5b87a87d3c7f3


愛のゆくえ「雪国」 その6

「徒労」

 「雪国」のプレオリジナル(初出)第4作目にあたる「徒労」は、かなり長い。作者の興がのっているからだろう。

 ここでも、作品をたどりながら、ふたりの移りゆきを、細かく見ていこう。
 ……昼すぎ、島村が温泉宿からの坂道を歩いてゆくと、軒かげに芸者が5、6人、立ち話をしている。そのなかに駒子もいた。

 島村が通りすぎると、駒子が追ってくる。「うちへ寄つていただかうと思つて」という。その家は、前日、汽車で乗り合わせた病人のいる家だった。駒子の師匠の家である。

 その2階、というよりも屋根裏部屋に、駒子は住んでいた。もとはお蚕(かいこ)さまの部屋だったという。

 その古びた部屋の、障子は貼り替えられ、壁にも丹念に半紙が貼られて、古い紙箱に入ったようだった。壁や畳は古びているものの、いかにも清潔であった。蚕(かいこ)のように、駒子も透明な體で、ここに住んでいるかと思われた。

 駒子は、階下の病人を、腸結核で、もう故郷に死にに帰って来たのだと話した。三味線と踊りの師匠であるひとの、ひとり息子であると、これまでのいきさつも話した。けれども、この息子――行男を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にいるのかということは、一言も話さなかった。

 やがて、澄み上がった、悲しいほど美しい声が聞こえる。葉子である。だが葉子は島村をちらっと刺すように一目見ただけで、ものも言わずに通り過ぎた。

   島村は表に出てからも、彼女の眼つきが彼の額の前に燃えてゐさうでならなかつた。

 島村が、駒子とこういう仲になりながらも、頭の片隅で、この葉子を意識していることが、ここで期せずして語られている。

 島村は、通りかかった按摩(あんま)を宿の部屋に呼んで、その按摩の口から、師匠の息子である行男と駒子がいいなづけであり、行男の療養費をかせぐために駒子が芸者に出たのだ、という消息を聞く。

 その夜、宿の宴会が果てて島村の部屋に来た駒子は、島村の来なかった八月いっぱい、神経衰弱でぶらぶらしていたと話す。また浜松の男に言い寄られたことも告白する。

 そして「私妊娠してゐると思つてたのよ。ふふ、今考へるとをかしくつて、ふふふ」と含み笑いする。

 もちろん、島村の子を宿したと思ったのである。

 それから島村の追求に答えて、行男とのいきさつを語る。

   「はつきり云ひますわ。お師匠さんがね、息子さんと私といつしよになればいいと、思つた時があつたかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しやしませんけれどね。さういふお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知つてたの。だけど、二人は別になんでもなかつた。ただそれだけ。」

 けれどもまた、「東京へ売られて行く時、あの人がたつた一人見送つてくれた。一番古い日記の一番初めに、そのことが書いてあるわ」ともいう。


駒子の三味線

宿へ葉子に持たせてきた三味線を、駒子が弾き、唄う。

   忽ち島村は頬から鳥肌立ちさうに涼しくなつて、それが腹まで澄み通つて来た。たわいなく空にされた頭のなかいつぱいに、三味線の音が鳴り渡つた。全く彼は驚いてしまつたと云ふよりも、叩きのめされてしまつたのである。敬虔の念に打たれた。悔恨の思ひに洗はれた。自分はただもう無力であつて、駒子の力に思ひのまま押し流されるのを、快いと身を捨てて浮ぶよりしかたがなかつた。(中略)

   勧進帳が終ると、島村はほつとして、ああ、この女はおれに惚れてゐるのだと思つたが、それがまた情なかつた。

  「こんな日が音がちがふ」と、雪の晴天を見上げて、駒子が云つただけのことはあつた。

それからは、泊ることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。

 2、3日後、月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから、午後11時近くだのに、駒子は散歩をしようといってきかなかった。

 駅へ行く、という。

 「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見にゆくの」という。

 駅から帰ると急にしょんぼりして、島村の要求に、「ううん、難儀なの」という。月経中という意味である。「なあんだ、そんなこと。ちっともかまやしない」と島村は笑って、「どうもしやしないよ」という。

 「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ」といって炬燵(こたつ)の上に顔を伏せる。

   「もう帰んなさい。」
  「実は明日帰らうかと思つてゐる」
  「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたやうに顔を起した。
  「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか。」

   ぽうつと島村を見つめてゐたかと思ふと、突然激しい口調で、

  「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」と、じれつたさうに立ち上つて来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、
  「あんな、そんなこと云ふのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいつて云へば。」と口走りつつ自分が倒れて、物狂はしさに體(からだ)のことも忘れてしまつた。

 月経中であることも忘れてしまった、というのである。駒子の方から身を投げだしたのだ。

   それから、温かく潤んだ眼を開くと、
「ほんたうに明日帰りなさいね。」と、静かに云つて、髪の毛を拾つた。

 見過ごすことのできぬ言葉があった。それは島村の、「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか」という言葉である。

 島村は東京の人であり、東京には妻子がある。それを捨ててまで駒子との愛をつらぬこうとは、初めから考えていない。

 では、駒子との愛は、どうなるのか。

 島村は、駒子を愛しても、それ以上、どうしてやることもできないのである。この点に、駒子の哀切さが浮かび上がる。どんなに島村を愛しても、島村はその時点では愛し返してくれても、それだけである。つまり、ふたりの愛の行く末はない。

 ――島村は次の日の午後三時の汽車で立つことになる。


駅の前で

 その日、ふたりが駅まで来たところへ、あわただしく葉子が駈けてきて、「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん。」と駒子の肩をつかんで、「早く帰って、様子が変よ、早く」とすがる。

   駒子は肩の痛さをこらへるかのやうに、目をつぶると、さつと顔色がなくなつたが、思ひがけなく、はつきりかぶりを振つた。

「お客さまを送つてるんだから、私帰れないわ。」
   島村は驚いて、
  「見送りなんて、そんなものいいから。」
  「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りやしない。」

 駒子は極度の葛藤(かっとう)のため、げえっと吐き気を催すが、口からはなにも出ず、目の縁(ふち)が湿って、頬が鳥肌立つ。

 葉子が島村にも必死で頼んで後向いて走り出したのを見送った島村は、「なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだらうと、この場にあるまじき不審」が心を掠めて、「遠ざかる後姿は尚更寂しいものに見えた。」

 さらに、
 「葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂(こだま)して来さうに、島村の耳に残つてゐた。」とある。

 こんな場合なのに、島村の頭には、葉子にたいする関心がつよく尾を曳いているのである。

 それに対して、駒子は島村のために、他のすべてを捨てる。
 島村は駒子に、帰ってやるように説得するが、駒子は聞き入れない。

  いや、人の死ぬの、見るなんか。

 ここは、どう解釈すればいいのだろう。


駒子の決断

 駒子にとって、島村は、今度汽車に乗ったら、いつまた来てくれるかわからない男である。だからここで見送っておかないと、一生後悔する。

 これに対して、行男は過去のひとである。今の駒子にとっては、もう一度逢えるかどうかわからぬ島村を見送る方が大切なのである。駒子は決然と、島村を選んだ。

 島村は、それを受け入れるしかない。

 ……やがて改札が始まる。駒子は、フォームには入らないといって、待合室で島村を見送る。汽車が走り出すと、駒子の姿はたちまち見えなくなってしまう。待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと浮ぶかと見る間に消えてしまう。それはあの雪の朝、雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。
 
   またしても島村にとつては、現実といふものとの別れ際の色であつた。 

汽車に乗って東京に帰ってゆく島村には、夕闇に浮かんだ葉子の目も、駒子の赤い頬の色も、現実との別れの色だった、と康成は書いているのだ。つまり、雪国の現実と別れて、彼はふたたびトンネルの向こうの世界へと帰ってゆくのである。
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愛のゆくえ「雪国」 その7
川端書簡

――ところで、「徒労」をめぐって、川端康成書簡に、面白いものがあった。封筒が欠けていて、1935(昭和10)年10月末と推定されるものだが、越後湯沢から、妻・秀子に宛てたものと思われる。

 それは、そのころ『日本評論』社とは、原稿と引き替えに必ず稿料を渡すという約束があったのに、秀子夫人が持参しても、どうしても金を渡さなかったのである。それで、原稿を渡さず、持ち帰った秀子から、康成に、どうしたらよいかと指示を乞うたらしい。

 康成は、次のように書いている。

   日本評論デクレヌノカ。

   日本評論デクレヌノナラ、原稿取リ戻シ、火急他ヘ売ツテ貰フヨリ仕方ナイト思フガ。

   コノ手紙ツクノハモウ三日ダカラ、評論社ノ方ハドウカトキメテ貰(もら)ツテ下サイ。

他ヘ売ルナラ中央公論デモ改造デモヨイガ、中央公論ノ方ヨカロウ。他ヘ売ル時ハ、題ハ「徒労」、続キナレド、独立シテ少シモ差支(さしつかえ)ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダト云ツテ下サイ。枚数は七八十枚。後直グ届ケルト。

 「徒労」について、「続キナレド、独立シテ少シモ差支ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダ」と康成が珍しく自信を持って語っているところに注目したいのだ。この挿話は、秀子夫人の『川端康成とともに』にも書かれている。秀子も「自分の作品についてこうはっきりと言うことは滅多にないことですから、この作品にはよほど自信があったのだと思います」と書いている.。


同時代評

 結局、「徒労」は、「物語」に引きつづいて日本評論社が引き取ったが、同時代評は、この作に高い評価を与えた。

 林武志『川端康成作品研究史』(教育出版センター、1984・10・10)の「雪国」評価を見ると、作品が、あとになるほど評価がますます高くなり、「徒労」「火の枕」などは、ほぼ絶讃されていることが印象深いのである。

 ここで少し前戻りするが、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」から、同時代評を、前引の『川端康成作品研究史』から引用させていただこう。いずれも、抄出である。

☆深田久弥「〈新年雑誌文芸時評(3)受難期の一群―川端氏の作品を推す」(『読売新聞』、1934・12・27)

   川端氏の「白い朝の鏡」及びその続編「夕景色の鏡」は傑作である。小説の理屈はともかく、お終ひになるのを惜しみながらたのしみ読めたのは、新年号幾十の小説のうちこれだけであつた。


☆正宗白鳥「〈新年号の創作評(終)稚気と匠気―川端氏の短篇二つ」(『東京朝日新聞』1935・1・6)

   川端康成氏の「夕景色の鏡」は、何の事やら腑(ふ)に落ちなかつたが、「改造」所載の「白い朝の鏡」を読んで、やうやく得心が行つた。この二篇は必ず併(あわ)せ読まなければならぬのである。(中略)二つの小篇に含まれてゐる事実をそのまゝに見ないで、鏡に映して見たところに、芸術としての異つた色彩が豊かに現れてゐる。

☆上林暁(かんばやし・あかつき)「〈文芸時評〉『文藝春秋』―旅情について」(『作品』1935・2・1)

   東京は遠い、と田舎に居てこの頃思ひつづけてゐる僕は、「比叡」(横光利一)、「夕景色の鏡」(川端康成)の二作を読んで、焼きつくやうな旅情を感じた。(中略)ただ作者横光氏は、旅の風光の中にあつて、風光を睥睨(へいげい)(へいげい)し、考察し、時に子供のやうに風光の中に身を構へてゐるに反し、作者川端氏は、旅から湧く感情に身も心も焦がしてゐる相違が感じられた。(中略)

「夕景色の鏡」は未完であるらしい。雪に埋れた信号所に汽車が停つて、汽車の中の娘が、窓の外を通る駅長と言葉を交はすので、僕の感は極まつた。僕たちが文学の修業をしてゐるのは、こんな美しい情景を探り当てるためだ。


「「徒労」の同時代評

何の用意もなく、時間もないまま書き出したというのに、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」は、いずれも好評である。康成が続編を書きつぐ気になった原因の1つは、この好評にあったかもしれない。

 しかし「徒労」以下になると、同時代評は、さらに絶讃の傾向をおびる。


☆青野季吉「文学と方法―川端氏の『徒労』に就て」
   川端康成の「徒労」(日本評論)はこれまでの言葉で云へば、清純なること珠玉の如き作品である。またじつさい私には、この田舎芸者の姿態を描いた作品をよみ耽りつつ、そういふ古い讃美の言葉が、思はず頭にうかんで来たのであつた。またそれと同時に、至芸といふやうな、旧い言葉も思ひ出された。(中略)

   またこの作品には、謂ゆる心理をとり出した描写といふものが、ぜんぜん無い。女のその場その場で男にしめす姿態と言葉のうちに心理の内容と変化とを見てとるより外はない。そして作者は執拗頑強にこの方法を守り通してゐるのである。しかも作者によつて捉へられた女の姿態と言葉のうちに、いかに精妙に心理の内容と変化が「表現」されてゐることであらうか。驚歎するばかりである。

   「徒労」の文学としての独自の性格は、まさにかくの如きものである。複雑なものが、その複雑さを失はずして、単純化され、圧縮され、すべての含蓄によつて答へられてゐる。而(しこう)して、雪の山地の自然と、人間の在り様とが、渾然(こんぜん)とした一致のなかにおかれ、空間、時間の正確な感じまでが、そこに精細に盛り込まれてゐる。これを絵画にたとえ(ママ)れば巧緻な写生と見へ(ママ)て、さうでなく、既に凡(すべ)てをふくむ写意の妙境に達してゐるものと云つてよいかも知れない。


☆河上徹太郎「文芸時評」(『新潮』1936(昭和11)・1・1)

   (上略)然し今月の傑作はと問はれたなら、私は躊躇(ためらい)なく川端康成氏の「徒労」(日本評論)を挙げる。実際此の一篇があつただけで、お勤めで数十篇の小説を読まされた労を悔いないのであつた。


「萱の花」

 「雪国」の第5編「萱(かや)(かや)の花」は、1936(昭和11)年8月の『中央公論』に掲載された。

 2度めの旅から東京へ帰ってゆく車中から書き出される。

   国境の山を北から登つて、長いトンネルを通り抜けてみると、(中略)こちら側にはまだ雪がなかつた。

 上野(こうずけ)と越後の国境を隔てる山塊の底を、1931年(昭和6年)に開通したループ式の長い清水トンネルが通りぬけてゆくのだ。その間に、雪国という現実から離れて行く。

 車中で、島村は放心状態になる。

 島村はなにか非現実的なものに乗つて、時間や距離の思ひも消え、虚しく體を運ばれて行くやうな放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。

   それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いつぱいに生きてゐるしるしで、彼は聞くのがつらかつたほどだから忘れずにゐるものだつたが、かうして遠ざかつて行く今の島村には、旅愁を添へるに過ぎないやうな、もう遠い声であつた。彼はすつかり安心して、別離の情に溺れるばかりだつた。

それから、ふたりがはじめて会ったときから、これまでのいきさつが語られる。そして、三度めの旅について、次のように説明される。
   
   来年の2月の13、4日頃スキイに来ると、島村は約束して置きながら、3度目に来たのは、まる1年以上を過ぎた10月の初めだつた。

 2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。

 その10月の初め、3度目の旅は、蛾の精細な描写から始まる。
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愛のゆくえ「雪国」 その8
 2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。

 その10月の初め、3度目の旅は、蛾(が)の精細な描写から始まる。


蛾(が)の精細な描写

   蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁(いこう)や壁にかけて、出しつぱなしにしておかぬやうにと、出がけに細君が云つた。

   いかにも、、宿の部屋の軒端に吊した装飾燈には、玉蜀黍(たうもろこし)色(とうもろこしいろ)の大きい蛾が六七匹もぢつと吸ひついてゐた。次の間の3畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまつてゐた。

 以下につづく蛾の描写は、康成の技量を示して、すさまじいばかりの迫力である。さらにこの章の中ほどに、秋が深まって昆虫どもの死んでゆく場面が描かれる。見過ごすことのできない描写だから、ここに引用しておこう。

   彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察してゐた。

   秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も、日毎にあつたのだ。翼の堅い虫はひつくりかへると、もう起き直れなかつた。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るやうに自然と亡びてゆく、静かな死であつたけれども、近づいて見ると、脚や触覚を顫(ふる)はせて悶(もだ)えてゐるのだつた。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののやうに眺められた。

 わたくしたちはここに、「禽獣」に描かれた数々の鳥や犬や人の死の姿を思い出す。「禽獣」の「彼」の冷酷非情な眼が、ここには存分に発揮されているのだ。そしてこの眼はそのままに、駒子や葉子を映しだす冷え冷えとした眼である。島村は、「禽獣」の「彼」のまぎれもない後身である。
   
鳥追い祭

   駒子は少し後れて来た。
   廊下に立つたまま、真向に島村を見つめて、

  「あんた、なんしに来た。こんなとこへなんしに来た。」
  「君に会ひに来た。」
  「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌ひ。」
   そして坐りながら、声を柔かに沈めると、
  「もう送つて行くのはいやよ。なんともいへない気持だわ。」(中略)

  「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずゐぶん待つたわよ。もうあんたの云ふことなんか、あてにしないからいい。」

2月の14日には、鳥追い祭がある。雪国らしい、子供の年中行事である。その頃は、雪もいちばん深い時であろうから、島村は鳥追い祭を見に来ると約束しておいて、すっぽかしたのだった。

 駒子は、二月は商売を休んで実家に帰っていた。そこへお師匠さんが肺炎になったという知らせが来た。駒子は看病に行っていたのだが、14日には、島村が来ると思って、わざわざ看病を途中にして、この温泉に帰ってきたのだった。

 この作品のところどころに出て来る「港」とは、駒子のモデル松栄の生まれ故郷、三条市を想定しているのであろう。

 湯沢から近くに、港に該当するような町はない。新潟も直江津も遠すぎる。湯沢からほどよい距離で、少し整った町、というと、三条市がいちばん適切である。
 駒子は師匠の看病を途中で放棄して湯沢に帰ってきたのだった。それなのに、島村は来なかった。お師匠さんは死んだ。

 島村の不誠実が、かえって駒子を惹(ひ)きつける一例である。


二十一歳の意味

 駒子は、「胃が痛い」といって島村の膝へ突っ伏す。襟をすかして、白粉の濃い首が見える。

   首のつけ根が去年より太つて、脂肪が乗つてゐた。二十一になつたのだと、島村は思つた。

 この作品の構造を考える上に、無視できぬ1行である。

 島村とはじめて会ったとき、駒子は19であった。もちろん戦前の数え方であるから、数えである。

 島村が二度目に来たのは、その年の12月、そして3度目の今回は、それから10ヶ月後の10月である。

 だから当然ここは、「二十」とあるのが正しい。この年立ての乱れを論じた平山三男は、作者の錯誤であるとする。

 しかし作品をここまで読んできた読者は、その濃密な連続する空気から、島村と駒子とは、はじめて会ってから、かなり長いように錯覚している。それほどに濃密なのである。

 2月の鳥追い祭に来ないで10月に来た、と書いた川端康成は、もちろんここが正しくは「二十」と書くべきであることをよく知っていただろう。しかも康成は、あえてここを「二十一になつたのだ」と書いたのである。

 「雪国」全体を通して、この3度目の逗留が長くなり、次の年の2月ごろになるのではあるけれども、実際は、島村は都合3度しか雪国に来ていない。

 駒子とはじめて会ってから、雪中火事の場面まで、実際には2年足らず、1年と7、8ヶ月程度である。しかしその事実を読者に自覚させると、せっかくの作品の厚みが薄っぺらなものになってしまう。

 康成は、濃密な内容に合わせて、島村と駒子の仲が3年も4年もつづいているかのように読者を錯覚させなければならないのである。

 そこであえて、ここを正しく「二十」とは書かずに、「二十一」と書いて読者を欺いたのである。作品として、その方がいい、とわたくしは考える。


雪国の現実

 しかし、3度目の訪問で、雪国の現実が大きく変貌していることも事実である。

 駒子が姉のように慕う芸者菊勇は、好きな男に騙(だま)されたために、せっかく旦那に建ててもらった店を手放し、別の町に新しく稼ぎに出ることになる。

 行男はもちろん、駒子のお師匠さんも死んだ。

 駒子も、置屋(おきや)が変わって、新しく4年の年季奉公に出るようになっている。
 容赦(ようしゃ)ない現実の波が、この雪国の世界にも押し寄せているのである。変わらないのは、駒子の島村に寄せる一途の愛だけである。

   「あんた私の気持分る?」
   「分るよ。」
   「分るなら云つてごらんなさい。ね、云つてごらんなさい。」と、駒子は突然思ひ迫つた声で突つかかるやうに云つた。

「それごらんなさい。云へやしないぢやないの。嘘ばつかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りやしない。」

    さうして声を落すと、

   「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい。」
   (中略)

   「一年に一度でいいからいらつしやいね。私のここにゐる間は、一年に一度、きつといらつしやいね。」

 何と哀切な、美しい言葉であろう。男が不誠実であることを百も承知しながら、1年に1度でいいから来てほしい、と女はいうのである。

 ところで、次の1節も、この作品の構造に関係がある。

   「私がここへ来てから4年だもの初めは心細くて、こんなところに人が住むのかと思つたわ。汽車の開通前は寂しかつたなあ。あんたが来はじめてからだつて、もう3年だわ。」

    その3年の間に3度来たが、その度毎に駒子の境遇の変つてゐることを、島村は思ひ出した。

汽車の開通とは、もちろん1931(昭和6)年に開通した清水トンネルを指している。上越線は、この開通によって東京から新潟県まで楽に来られるようになり、越後湯沢の湯治客も桁(けた)違いに殖えたのだ。

 「その3年の間に3度来たが」は、正しくは「2年の間に3度来たが」である。あるいは、「2年ちよつとの間に」とすべきところを、康成は強引に「3年の間に3度」と、あえて錯誤を犯したのである。さきに述べたのと同じ理由からである。

 また「萱(かや)の花」では、駒子に旦那のいることがはじめて明かされる。その人は「港にゐる」という。芸者松栄(まつえ)の旦那は東京にいた。が、この作中では「港」とされている。「親切な人だのに、一度も生き身を許す気になれないのは、悲しい」と駒子はいう。

 じつは、ずっとのちに駒子のモデル芸者松栄に会って取材した和田芳恵によれば、松栄には、まだこのほかに意中の人がいた。しかしこれは、のちに述べることにしよう。


「火の枕」

 「雪国」の第6篇「火の枕」は、1936(昭和11)年10月号の『文藝春秋』に発表された。

 その冒頭近くに、駒子の言葉に触発されて、島村が人間の官能について考える場面が登場する。康成の、男女のあり方についての考えの示された、重要な一節である。

   「人間なんて脆(もろ)いもんね。すつかりぐしやぐしやにつぶれてたんですつて。熊なんか、もつと高い岩棚から落ちたつて、體(からだ)はちつとも傷がつかないさうよ。」

 と駒子が云った。岩場でまた遭難があったのだ。このことばを聞きながら、島村は次のように思う。

   熊のやうに硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがつたものであつたにちがひない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合つてゐるのだ。

 島村のこの感想には、自分が官能というものに深くとらわれていることを痛感した上での、そのようなものにつき動かされて生きてゆかねばならぬ、自分や駒子を含めた人間のあり方に対する限りない愛惜がある。

 人間がたとえば熊のように逞しく荒々しいだけの官能を与えられているのなら、人間の生存様式はおのずから別のものとなっていただろう。けれども人間に付与されたのは、「薄く滑らかな皮膚」であった。そのような脆い繊弱な肌を与えられた結果、人間は舐めるようにささやかに、互いの肌を愛しあいながら生きてゆかねばならぬ。そこに人の世のさまざまの哀歓も生じてくる。……

 「雪国」の本質を示唆したような一節である。

葉子の登場

これまでも、葉子は時々、いろいろなところで登場していた。そしてそのたびに島村は、その一挙一動が心に残るのであった。

 しかし「火の枕」の後半では、葉子が大きく迫るように前面に出て来る。

 そのピークは、島村の留まっている宿で土地の人の宴会があり、さすがの駒子も「今日は来られないわよ、多分」と云った夜である。

駒子の結び文をことずかって葉子が来たあと、酔って島村のところへ来た駒子のことばは異様である。

   「あの子なんて云つた? 恐しいやきもち焼きなの、知つてる?」
  「誰が?」
  「殺されちやい(ママ)ますよ。」
  「あの娘さんも手伝つてるんだね。」
  「お銚子を運んで来て、廊下の陰に立つて、ぢいつと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいふ目が好きなんでせう。」

 ここで「恐しいやきもち焼き」と言われているのはもちろん葉子のことであり、やきもちを焼いている相手は駒子である。しかし何故に葉子は駒子に嫉妬し、「きらきら目を光らして」駒子の座敷を見ているのだろうか。

 「殺されちやい(ママ)ますよ。」――これも素直に読めば、島村が葉子に殺されかねないと駒子は言っているのである。前後から考えると、駒子と島村の仲を葉子が嫉妬している、それも島村を殺しかねないほど激しく、ということになる。

 この時点まで、島村は葉子を遠くから凝視していたばかりであり、葉子とことばを交わしたことも、二度めの旅の終りのあわただしいやりとりだけであった。だから、葉子が島村を恋しているとも受けとれるこの場面は唐突である。

 あるいは葉子は、島村自身を恋しているのではなく、激しい恋愛をしているということ自体で駒子を嫉妬しているとも考えられるが、しかしそれにしても葉子のこの感情は異常であり、読者は意表をつかれた思いがする。

 けれども不思議なのは、この場面が意外であるにもかかわらず、いやむしろ、意外である故にかえって、読者は、この妖しい心理の交錯に惹きこまれるのである。

 この緊張は、次の場面でさらに高まる。ふたたび駒子の結び文を持ってきた葉子に、島村が話しかけた部分である。

   「あの人は(中略)君の話をするのをいやがるくらゐだよ。」
  「さうですか。」と、葉子はそつと横を向いて、
  「駒ちやんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい。」
   早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫(ふる)へた。

   「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ。」
    葉子は今に體まで顫へて来さうに見えた。危険な輝きが迫つて来るやうな顔から、島村は目をそらせて……。

葉子が「そつと横を向いて」「駒ちやんはいいんですけれども」と言ったのは、駒子の自分に対する態度を受けとめて、微妙な心の波立ちをおさえ、それは赦してもいいと答えたのであるが、しかし次の「可哀想なんですから、よくしてあげて下さい」と頼んだのはわかるとして、「早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫へた」というのは、何を意味するのだろう。

 心の表層では駒子が島村に愛されることを願いながら、本心はそれに烈しい悋気(りんき)の焔をもやし、自分の方が島村に愛されることをひそかに希っている――そう考えなければ、次に「體まで顫へて来さうに」なる葉子の内面は理解できない。さらに「危険な輝きが迫つて来るやうな顔」とは、葉子が今にも自分を愛してくれと言い出すかもしれぬ、きわどい瞬間がおとずれていたことを示唆しているとしか考えられない。

 つまりここでは、それまで島村から見られるばかりの存在で、あたかも影のようであった葉子が、いつのまにか島村に愛を訴えかねない危険な存在になっているのである。
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愛のゆくえ「雪国」 その9
激しい謝罪の方法

 この場面はさらに発展して、

  「早く東京へ帰つた方がいいかもしれないんだけれどもね。」
  「私も東京へ行きますわ。」
  「いつ?」
  「いつでもいいんですの。」
  「それぢや、帰る時連れて行つてあげようか。」
  「ええ、連れて帰つて下さい。」と、こともなげに、しかし真剣な声で云ふので、島村は驚いた。(中略)

  「あの人に相談した?」
  「駒ちやんですか。駒ちやんは、憎いから云はないんです。」

   さう云つて、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反つて、駒子に対する愛情が荒々しく、燃えて来るやうであつた。得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。

 「雪国」後半の山場の1つである。それまで背景にちらちらと影を見せた葉子が前面に出て来て、島村の言葉に誘発されるように「ええ、(東京に)連れて帰つて下さい」と、こともなげに言う。

 もしこの得体の知れぬ娘を連れて、駈落ちのように東京に帰ったら、それはもちろん、駒子への最大の裏切りである。駒子が気にしている葉子を連れて帰ることは、駒子にいちばん傷を与えることである。

 それを島村は、「駒子への激しい謝罪の方法であるか」とも思うのである。駒子の一途に慕い寄ってくる愛を、島村は十分に自覚している。しかも、そんな駒子に対して、自分は何もしてやれないという呵責(かしゃく)が島村には深くある。そんな駒子への最大の謝罪が、思い切った裏切りであると、島村は考える。それほどまでに、駒子の愛の深さを知り、追いつめられているのだ。

 こんな島村に呼応するように、少し後のところではあるが、駒子がこう言う一節がある。

   「あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりさうな気がするの。(中略)私の荷を持つて行つちやつてくれない?」(中略)

   「あの子があんたの傍で可愛がられてると思つて、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。しいんといい気持。」


駒子には、島村がそれほど遠くない先、自分を捨てて雪国を去るという予感がある。それを、自分の最もつらい方法で実行してほしい、その方が自分は捨てられたことが身にしみて、気が楽になる、というのである。

 あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。――それは、駒子の何と哀切な愛情であろう。
 そのように駒子の愛を牽制する存在として、葉子は描かれているのだ。

 なお、初出にはないが、1937(昭和12)年に刊行された〈旧版『雪国』〉では、
「得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。」のあとに、「またなにかしら刑罰のやうでもあつた。」の1行が加えられている。定本も、加えられたままである。

 「謝罪」「刑罰」――島村の、駒子に対する自責の感情を重く引きずった気持ちがよく表れている表現である。


小林秀雄の「文芸時評」

 小林秀雄は、「火の枕」を、「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」と題して、「報知新聞」の「文芸時評」(1)で評した。単にこの作品だけを論じたというよりも、「雪国」論、川端康成論としても、その本質を射抜いた言葉と思われる。これについては、のちにもう1度考える予定であるが、とにかくその核心部分をここに引用しておこう。

   しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。

   氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。

 「火の枕」につづく第7篇「手毬(てまり)歌」は、1937(昭和12)年5月号の『改造』に発表された。

   「駒子が憎いつて、どういふわけだ?」

  「駒ちやん?」と、そこにゐる人を呼ぶかのやうに云つて、葉子は島村を刺すやうに睨んだ。

「駒ちやんをよくしてあげて下さい。」
  「僕はなんにもしてやれないんだよ。」

   葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちてゐた小さい蛾を掴んで泣きじやくなりながら、

  「駒ちやんは、私が気ちがひになると云ふんです。」と、ふつと部屋を出て行つてしまつた。

最後の1行は、「雪中火事」の終幕の伏線ともいうべき部分である。

 ――連載はここで終わって、翌6月に、創元社から、いわゆる〈旧版『雪国』〉が刊行される。
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愛のゆくえ「雪国」 その10

「いい女」の意味

種々の雑誌に気随気ままに分載された「雪国」は、1937(昭和12)年6月12日、創元社から刊行された。いわゆる 旧版『雪国』である。

 第7篇「手毬歌」までを加筆削除し、さらに八頁ばかり書き加えられている。
 物語の冒頭は、現在も人口に膾炙(かいしゃ)する、次の名文に変わっている。

   国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。

この加筆のなかで、最も重要な箇所は、「いい女」をめぐる言葉のやりとりだろう。

  その一人の女の生きる感じが温く島村に伝はつて来た。

  「君はいい女だね。」
  「どういいの。」
  「いい女だよ。」
  「をかしな人。」と、肩がくすぐつたさうに顔を隠したが、なんと思つたか、突然むくつと肩肘立てて首を上げると、

「それどういふ意味? ねえ、なんのこと?」

   島村は驚いて駒子を見た。

  「云つて頂戴。それで通つてらしたの? あんた私を笑つてたのね。やつぱり笑つてらしたのね?」

   真赤になつて島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫へて来て、すうつと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。

  「くやしい、ああつ、くやしい。」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐つた。
   島村は駒子の聞きちがひに思ひあたると、はつと胸を突かれたけれども、目を閉ぢて黙つてゐた。

  「悲しいわ。」

   駒子はひとりごとのやうに呟いて、胴を円く縮める形に突つ伏した。

 島村は、単純に、駒子をいろいろの面から「いい女」と言ったのである。ところが駒子は、その意味をとり違えた。男に快楽を与える生まれつきの體をもっている女、という意味に受けとめた。

 だから、「それで通つてらしたの?」「やつぱり笑つてたのね」と言い、「くやしい」と、ごろごろ畳を転がるのである。

 駒子が部屋を出ていったあと、「島村は後を追ふことが出来なかつた。駒子に云はれてみれば、十分に心疚(やま)(やま)しいものがあった。」と考えるのである。

 この箇所は、駒子について読者に新しい知識を与えるものであるが、以前、「夕景色の鏡」のところで大きく削除した部分を補った、とも考えられる。

 まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。

 この削除した一節を、「いい女」という表現で補ったのではなかろうか。

 「雪国」は、このあと、その次の朝、駒子が早くから島村の部屋に来て謡をうたうところで終幕を迎える。

 今年初めての雪が降りはじめたのだ。紅葉の季節はもう終わりである。

   島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思ひ出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらが尚大きく浮び、襟(えり)を開いて首を拭いてゐる駒子のまはりに、白い線を漂はした。

   駒子の肌は洗ひ立てのやうに清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがへねばならぬ女とは、到底思へないところに、反つて逆らひ難い悲しみがあるかと見えた。

   紅葉の銹(さび)色(にびいろ)が日毎に暗くなつてゐた遠い山は、初雪であざやかに生きかへつた。

   薄く雪をつけた杉林はその杉の一つ一つがくつきりと目立つて、鋭く天を指しながら地の雪に立つた。

〈旧版『雪国』〉は、ここで閉じられる。紅葉の季節が終わり、初雪が降ったという季節の変わり目である。

 作品集として少し頁が足りないので、「父母」「これを見し時」「夕映少女」「イタリアの歌」の四編が加えられている。いずれも、1936(昭和11)六年に各誌に発表されたものである。

 「あとがき」はない。ただ各篇の初出が一覧として挙げられている。発行は1937(昭和12)年6月12日、定価1円70銭である。版元は、創元社。

 このほか、この初版には、各誌に挙げられた讃辞・批評を集めたパンフレットがついていた。


「雪中火事」「天の河」

 それから3年たった1940(昭和15)年、『公論』という雑誌の12月号に、突然「雪中火事」という川端康成の作品が掲載された。

 はじめは、これまでの「雪国」とは少し趣きが変わって、「昔の人の本」が長々と紹介されているが、読んでゆくと、明らかに「雪国」の続編である。

 旧版『雪国』は、3度めの旅の、季節が紅葉から初雪の降る場面で終わっていた。いわば終わりともいえない終わり方だった。

 それに対して、この作品は、3度目の旅のつづきと思われる。
 ふたりの愛の行く末がもう見えている、という書き方だった。

   また駒子とかうしげしげ会ふにつれて、島村は動くのがいやになつた。うちへ帰るのも忘れた長逗留だつた。別れともないからではない。つかれてものういからでもない。いはば自分のさびしい姿を見ながら、ただぢつとたたづ(ママ)んでゐるのだつた。

  駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きてゐないかのやうに思はれ出した。駒子の熱い火に身のまはりをつつまれて、島村は自分のなかにも一点の小さいともし火が見えて来たが、それはなぜか死の象徴を感じさせた。駒子を愛する術さへ知らぬことが情なくてならなかつた。

   駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものでなかつた。駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた。

   島村はこの温泉場から出発するはずみをつけるつもりもいくらかあつて、縮(ちぢみ)の産地へ行つてみることにした。

ここには、ふたりの愛の行き違いが、はっきりと書かれている。

「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。」それを康成は、「駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた」と表現する。

 島村はもう、別れなければならない、と思っているのだ。この温泉場を自分が去るしかない、と思っている。そのはずみをつけるために、縮の産地へ行ってみようかと考えるのである。


雪中火事の構想

 いったいなぜ、康成は続編を書くというような無謀を企てたのだろうか。
 この点について康成は決定版『雪国』(創元社、1948〈昭和23)年12月25日刊行)の「あとがき」に、こう書いている。

   昭和12年に創元社から出版し、その後改造社版の私の選集や1、2の文庫本にも入れた「雪国」は実は未完であつた。どこで切つてもいいやうな作品であるが、始めと終りとの照応が悪いし、また火事の場面は中頃前を書く時から頭にあつたので、未完のままなのは絶えず心がかりであつた。しかし、本にまでなつて1度この作品を片づけて立ち去つた気持も強く、残りはわづかながら書きづらかつた。

これによると、続きを書く気持になった原因は2つ――ひとつは、始めと終りとの照応が悪いこと、もうひとつは、雪中火事を書く構想が、かなり早くからあったことである。

 この2つのために、康成はあえて、1度本に出したものの続編を書くというみっともないことに、踏み切ったのであろう。

 このうち、後者については、すでに重要な指摘がなされている。

 「雪国」について精力的な探求をつづける平山三男は、「『雪国』の虚と実――『雪中火事』の新資料報告――」(『解釈』1977・1・1)において、重要な資料を提示して解説を加えている。また『遺稿「雪国抄」――影印本文と注釈論考――』(至文堂、1993・9・20)でも詳しく述べられている。

 平山によると、1935(昭和10)年10月22日、越後湯沢で火事があった。火が出たのは、「有限責任 湯沢乾繭(かんけん)場劇場 旭座」である。これは当時、湯沢村、神立村など5つの村の組合による共同経営がなされていたもので、集められた繭(まゆ)を乾燥するのが本来の目的だが、蚕(かいこ)の合間や冬期には劇場にも使われ、映画や素人歌舞伎・芝居などが演じられた建物という。

 火事の当日は、神立村の青年会が、会の活動資金を得るため、長岡から映画の上映権を買ってきて映画を上映していた。

 2巻目の「あゝ玉杯に花うけて」を上映中、夜9時ごろ、出火した。

 その様子は、「雪国」の中で宿の番頭がいう「活動のフイルムから、ぼうんといつぺんに燃えついて、火の廻りが早いさ」という言葉どおりであったという。

 1935(昭和10)年10月のこの時期、康成は、この湯沢に長期滞在していた。「物語」と「徒労」を書いたときである。まだ雪は降っていなかった。

 この火事を目撃したことが、康成の「雪国」執筆に大きな波紋をもたらした。

 平山は、その事実を証するため、第4次37巻『川端康成全集』補巻2に収録された水島治男宛て「昭和10年10月23日附」川端康成書簡(2の2)を紹介している。

   (前略)この小説は「雪国」と題し、来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます。雪に埋もれた活動小屋の火事で幕を閉じやうかと、昨夜火事(繭の乾燥場に活動写真あつて焼けました。)を見て思ひつきました。

 水島治男は『改造』の編集者であるが、注目すべきは、この時期、康成が「白い朝の鏡の続きを今書いてゐます」という点である。非常に早い時点で、雪中火事の構想が康成のうちに生じているのである。また作品も、「来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます」とあるように、決して長篇の構想があったのではなく、中編ぐらいの長さを康成が頭に描いていたことが推定されるのである。

 このときの康成の湯沢滞在は1935年の9月30日から10月29日までの、1ヶ月に及ぶ長いものであった。

 この時の日記が、以前に引用したように「『雪国』の旅」に掲載されているが、その掲載された期間は、同年9月25日から10月16日までである。

 つまり康成は、「雪国」の手の内を読者に見せたふりをして、火事のあった22日以前の16日で、この日記を切っている。すなわち、絶好の素材となるであろう雪中火事の事実を、読者に知らせることなく、日記を打ち切っているのである。


鈴木牧之『北越雪譜』

 書きおくれたが、「雪中火事」の冒頭は、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜』を引用したものである。

 康成はこの書を、〈旧版『雪国』〉刊行後に知って読んだという。

 ちなみに鈴木牧之は越後の商人で文人でもあった人(1770―1842)。『北越雪譜』は7巻から成り、越後の雪の観察記録を中心に、雪国の風俗、習慣、言語を記したもので、天保年間に刊行された。

 康成はそのなかから、特に縮(ちぢみ)について書かれた部分を引用した。縮を織ることは、雪国の女たちの勤勉で我慢づよい性格をよく現し、それは駒子の美質に通じると考えたからであろう。また越後縮(えちご ちぢみ)の清涼な肌合いが駒子の清潔な気質にも通じると考えたからであろう。

 縮の肌に涼しいのを書いたあと、「島村にまつはりついて来る駒子にもどこか根の涼しさがあつた。そのためによけいに駒子のみうちのあついひとところが島村にあはれであつた。」と記した1節が、そのことを語っているだろう。

 もう1つ、以下の1節も、この作品に深いところで通じていると思ったに違いない。

   しかしその無名の工人は無論とつくに死んで、その縮だけが残つてゐる。その暮しの苦しみはこの世に跡形(あとかた)(あとかた)もなく消えて、ただその美しいものだけが生きてゐる。なんの不思議もないことが島村はふと不思議であつた。

 恋愛も、その過程のさまざまな葛藤(かっとう)は時間が過ぎるときれいに消えて、ただ恋愛の名残りだけがはかない美しさとして残されてゆく。あるいは、恋愛の実質は跡形なく消えて、あとにはなにも残らない。

 その不思議が、縮(ちぢみ)の不思議と重なると考えられたからではあるまいか。
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愛のゆくえ「雪国」 その11
「天の河」の構想

 「雪中火事」の続編「天の河」は、それから8ヶ月たった1941(昭和16)年8月に、『文藝春秋』に発表された。

 「雪中火事」の終わりでふと2行、天の河が描かれる。

   「天の川、きれいねえ。」と駒子はつぶやきながら、また走り出した。
   島村は空を見上げたまま立つてゐた。

 「天の河」は、これを受けて書き出されている。

 康成がおそらく渾身(こんしん)の力をこめて観察したに違いない天の河の描写が、描かれる。

   ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ體(からだ)がすつと浮き上つてゆくやうだつた。天の河の明るさが島村を掬(すく)ひ上げさうに近かつた。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このやうにあざやかな天の河の大きさであつたか。裸の天の河が夜の大地を素肌で巻かうとして、直ぐそこに降りてきてゐる。恐ろしい艶(つや)めかしさだ。

 康成はここで、芭蕉が佐渡を詠んだ一句の大きさを思い出している。

   荒海や佐渡に横たふ天の河

 荒海を前景として、眼前に黒々と横たわる佐渡の島。その海と島のすべてを巻くように、全天に拡がる冴えわたった天の河――。

 康成が島村に託して描いた、巨大な、荒々しい、それでいて艶めかしい天の河こそ、卑小な人間世界と対比される自然の広大さであった。

   「ねえ、あんた私をいい女だつて言つたわね。行つちやふ人がなぜそんなこと言つて、教へとくの? 馬鹿。」

   女のあたたかい哀しみが島村を絞めつけた。

   「泣いたわ。離れるのこはいわ。だけどもう早く行きなさい。言はれて泣いたこと、私忘れないから。」

人間の世界の、小さな、だが何と一生懸命な、美しい言葉だろう。
 この篇は、次の行によって終わりを告げる。

   島村も新しい火の手に眼を誘はれて、その上に横たはる天の河を見た。天の河は静かに冴え渡つてゐた。豊かなやさしさもこめて、天に広々と流れてゐた。

 ここで「天の河」、すなわち追加された「雪国」は結ばれる。素人にも、平凡すぎる終幕と思われる。


「雪国抄」「続雪国」

 以上2編が発表されたのは、まだ太平洋戦争開戦以前の1940、41(昭和15、16)年のことであった。

 それから5年後の1946(昭和21)年、戦争も終わった敗残の国土のなかで、康成は三たび筆をとって、「雪国」の続編を新しく書き直して発表した。

 「雪国抄」は、『暁鐘』1946年5月号に発表された。

 「雪国抄」の、冒頭は、『北越雪譜』を踏まえて、「雪中火事」と、ほとんど同文である。ただ途中から、引用部分を大幅に削って、引き締まった文章となっている。

 また「雪中火事」で引用した、作品の核となる部分は、彫琢(ちょうたく)されて、珠玉のような名文へと変貌している。

   妻子のうちへ帰るのも忘れたやうな長逗留だつた。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会ひに来るのを待つ癖になつてしまつてゐた。さうして駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのやうな呵責がつのつた。いはば自分のさびしさを見ながら、ただぢつとたたづんでゐるのだつた。

駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だつた。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じてゐさうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を島村は自分の胸の底に雪が降りつむやうに聞いた。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかつた。

   こんど帰つたらもうかりそめにこの温泉場へは来られないだらうといふ気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかつてゐると、宿の主人が特に出してきてくれた京出来の古い鐵瓶(てつびん)で、やはらかい松風の音がしてゐた。(中略)

   島村は鐵瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴りしきるあたりの遠くに鈴の音にほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、最早ここを去らねばならぬと心立つた。

   そこで島村は縮の産地へ行つてみることを思ひついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあつた。

 島村は汽車に乗って、さびしそうな駅に降りる。そうして雁木(がんぎ)の連なる、昔の宿場町らしい町通りを歩いて、また汽車に乗る。もう1つの町に降りる。寒さしのぎにうどんを1杯すすって、また汽車に乗り、駒子の町に帰ってくる。

 車に乗って宿に帰ってゆこうとすると、小料理屋菊村の門口で立ち話をしている一人が駒子だった。

 駒子は徐行した車に飛び乗って、窓ガラスに額を押しつけながら、「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と甲高く叫ぶ。

   「どうして私を連れて行かないの? 冷たくなつて来て、いやよ。」

  突然擦り半鐘(すりはんしょう)が鳴り出した。
   二人が振り向くと、

   「火事、火事よ!」
   「火事だ。」

    火の手が下の村の真中にあがつてゐた。

 「雪国抄」は作品が長くなって、「雪中火事」では、火事の発端だけだったのが、もう少しつづけて書いてある。

 作品の終わりに、作者の言葉がある。

   ――10年前の旧作「雪国」は終章を未完のまま刊行し、折節気にかかつてゐたが、ここにとにかく稿を続けてみることにした。既稿の分も改稿して発表し得たのは本誌編輯者の雅量による。作者――


 
「続雪国」の新展開

 つづけて、1年あまりを経た1947(昭和22)年10月、『小説新潮』に最終篇「続雪国」が発表された。

 火事のつづきである。繭倉(まゆぐら)で映画のあったことがわかって、駒子のあとを追って島村も繭倉の方へ駆け出す。

 「天の河。きれいねえ。」という駒子の声に誘われて、島村は空を見上げる。
 1941(昭和16)年の「天の河」と同じく、芭蕉の見た天の河を連想する。
 しかし次がこれまでと異なる。

   あつと人垣が息を呑んで、女の體が落ちるのを見た。

 やがて、それが失心(ママ)した葉子だとわかる。

 ――10年を経て、康成は葉子の失心と墜落という、物語の新しい展開、物語のフィナーレを思いついたのだ。

   葉子はあの刺すやうに美しい目をつぶつてゐた。あごを突き出して、首の線が伸びてゐた。火明りが青白い面の上を揺れて通つた。

   幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会ひに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともつた時のさまをはつと思ひ出して、島村はまた胸が顫へた。一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあつた。

「幾年か前」という表現に注意したい。島村が葉子を初めて見たのは、2度めの旅、12月だった。3度めの旅は、それから10ヶ月後の10月から、この冬まで。長逗留で、今が1月とも2月とも判別しがたいが、いずれにしても、葉子を初めて見てから今まで、1年とちょっとである。

 「雪国」の正確な年立(としだて)という問題からみれば、ここは明らかに作家の錯誤である。

 だが、そうだろうか。

 この濃密で緊張感にみちた島村と駒子の愛を読んできた読者には、ふたりの仲は3年にも4年にも、あるいは5年にも感じられる。

 その読者の錯誤を考えると、ここは正確に「一年ちょっと前」と書いてはならないのである。「幾年か前」と朧化(ろうか)されることによってはじめて、島村と駒子の、のっぴきならぬ愛情の積み重ねが読者に納得させられるのだ。

 もう1つ大切な部分は、「一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。」とある一行である。

 「雪国」という作品にとって、葉子は重要な存在である。3度めの旅の紅葉の季節には、葉子は「東京に連れて行つてください」と島村に頼み、島村もこの「得体の知れない娘と駆け落ちのやうに東京へ帰る」ことは、駒子への最大の謝罪だと考えた瞬間もあった。

 そのように葉子は、島村と駒子のあいだにあって、駒子と島村の愛の成り行きを、刺すような美しい目で、じっと観察する存在としても考えられた。

 島村はいま、失心した葉子を見ながら、初めて葉子と会ったとき、汽車の夕景色の流れの中に映った、葉子の顔のなかにともったともし火を思い浮かべている。あれからの歳月、それは駒子と過ごした歳月でもあったのだ。

 島村の内部に「なにかせつない苦痛と悲哀」が湧き上がるのに、何の不思議もない。

 葉子の失心と墜落というアイデアが、駒子との歳月を写し出す鏡のような葉子の役割を、ふたたび思い出させたのである。

   「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」

   さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子  を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。

   さあつと音を立てて天の河が島村のなかへ流れて来た。

 康成は、最後に推敲して単行本にするとき、この最後の部分を、次のように改変した。

   「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」

   さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたへて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるやうであつた。

 この最後の場面は、長い物語の終焉として、まことに劇的なものであろう。

 駒子の愛の高まりと、それを受けとめる島村の追いつめられた意識が、物語の最後近くで、どうにも身動きできない状況になる。

 島村が、この雪国を去るしか、とるべき道は残されていないのである。

 物語のフィナーレに火事が起こり、その火事という非日常的な出来事の喧噪をはるかに見下ろすように、すべての人々を包み込むような壮麗な天の河が天空いっぱいに広がる。それに気づいた島村に流れ落ちるかと思われて、物語は結ばれる。

 伊藤整は、新潮文庫『雪国』の解説(1947〈昭和22〉・7・16)において、次のように作品の終幕の必然性を説いている。

   生きることに切羽つまつてゐる女と、その切羽詰りかたの美しさに触れて戦(をのの)いてゐる島村の感覚との対立が、次第に悲劇的な結末をこの作品の進行過程に生んで行く。そしてその過程が美の抽出に耐へられない暗さになる前でこの作品は終らねばならぬ運命を持つてゐるのである。

 ――11年間にわたる、康成の格闘がここに終わった。

 この「雪国抄」「続雪国」の2編にさらに彫琢を加えて、1948(昭和23)年12月25日、創元社から〈決定版『雪国』〉が刊行される。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/3c9d030fb609dbf9dfc7cdaab6f4e27c


愛のゆくえ「雪国」 その12(最終回)

「雪国」は、どのような作品か

 ……これまで、プレオリジナル(初出)を中心に、「雪国」の要(かなめ)となる部分を見てきた。そのつど、意味するところは書いてきたはずである。

 しかし、それでは、「雪国」は、結局どのような作品なのか。

 以下を書くために、わたくしはこれまで、作品の細部を見てきたといってもいいくらいである。

 さて、「雪国」の本質を考えるとき、当然ながら、この作品の視点人物たる島村とは何者であるか、について考えさせられる。

この場合、かつて「火の枕」が発表されたとき、小林秀雄が「報知新聞」に書いた「文芸時評」の一節が、川端康成理解の有力な手がかりとなる。(「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」)

 小林は、康成の抒情性の本質を、次のように喝破した。

   しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。

   氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。

 この川端評は、そのまま「雪国」の島村に通じるのではないだろうか。特に後半の評言「がらんどう」は、「雪国」の本質をみごとに言い当てている。

 この小林の言葉をわたくしなりに翻訳すると、まず、島村の胸底は、虚無という「がらんどう」である。「禽獣」の「彼」と同じ構造をもっている。その虚無の胸底を、彼の見た生命体の美しさが、「一種の光をあげて」通過する。それが「雪国」という作品である。

 つまり島村は生きていながら、生きていない。彼はただそこに在るだけである。彼の眼に映じたもののうち、彼のうつろな胸底を、美しいと戦慄するように通り過ぎたものだけを、彼はすくい取り、それを彼は胸にしっかりしまい込むのだ。

 読者は、その島村の厳しい眼を通過した美しいものだけを受け取り、それを美しいと感じることができるのである。

 すなわち島村は胸底に虚無をたたえた冷ややかな感受性の持ち主であって、彼は蜘蛛が身のまわりに繊(ほそ)い糸をはりめぐらすように、
鋭い感受性をはりめぐらしていて、美しいものが通り過ぎるのを待っている。

 駒子のさまざまな姿態や言葉も、葉子の刺すような目も澄んだ声も、すべて彼の蜘蛛の網にかかる。

 それを彼は、こわれぬように繊細な手つきによって言葉に変え、そっと読者の前に提示するのである。

 読者が享受するのは、そのようにして川端康成の胸底を通過した美しいものだけである。この場合、島村は、そのまま川端康成自身である。


伊藤整の島村観

戦前戦後にかけて、川端康成について最も多く発言し、またその理解が深いと思われるのは、前掲の『川端康成作品研究史』を執筆した林武志が指摘するように、伊藤整である。

 その数々の文章のなかで、ここでは「川端康成の文学」(『作家論U』角川文庫、1964〈昭和39〉年・12・10に収録。初出は『東京新聞』1953年2月とあるが、該当する文章は掲載されていない)の、「雪国」について述べた部分から、その核心となるところを引用してみよう。

   主人公の島村は作者の説明では「自然と自身に対する真面目さも失ひがちな」無為徒食の人間で、山を好み、舞踊が好きだ、と簡単に書かれてゐる。しかし、それはどうでもよいことで、美と生命の燃焼を求める感受性の細い絃が島村といふ人物の中に縦横に張りめぐらされてゐるのである。

その絃に触れる美は悉(ことごと)く音を立てるが、生活そのものはその絃に触れることがない。だから、その生き方において悲しいまでに真剣な駒子のやうな存在、またその駒子よりももつと張りつめた生き方をしてゐる葉子の存在は、生活者としては島村に触れることなく、ただその張りつめた生き方の発する美の閃光(せんこう)としてのみ島村に把へられる。そこから島村と駒子の間、島村と葉子の間に、接近すればするほど行きちがふといふ悲劇が生れる。

   島村が美の感受者として自分の周囲に独特の世界を見出して作つて行くさまは、光を持つた人間が闇の中を歩くのに似る。

この理解は、先述の小林秀雄の理解と相通ずるところがあると思われる。

 伊藤整は別のところでも、島村を「美しく鋭いものの感覚的な秤(はか)り」と述べている。


山本健吉の「雪国」観

 少し後れて、川端康成の文学に深い共感を示し、駒子と葉子を、能のシテとツレと見立てた山本健吉の「雪国」観も、見ておく必要があるだろう。

 山本は『近代文学鑑賞講座13 川端康成』(角川書店、1959〈昭和34〉・1・10)の編著者であるが、この創見に満ちた1冊の書で、山本は次のように述べている。

   ……自分を全然人生の葛藤の渦中から外側に置いて、駒子や葉子のなかに瞬間的に現れる純粋な美の追究者として、人生的には非情の傍観者としてふるまうところに、この作品の世界が成立していると言えるのである。(中略)

   このような純粋に審美的なものの追求、生活の塵埃(じんあい)から、雪国の別世界への感受性の逃避行そしてそのことによって、女心の哀愁と美とを捕えようとしたのが、この作品なのである。

 ……伊藤整や山本健吉から、以後、たくさんの研究者たちが出て、「雪国」や島村について、さまざまな考察を提示した。

 しかしわたくしは、ここまで引用してきた小林秀雄、伊藤整、山本健吉らの考えを、「雪国」の本質を衝いたものとして、自分の「雪国」観を少しも改める気にはならないのである。

駒子のモデルと和田芳恵

 ……1957(昭和32)年の正月5日、評論家の和田芳恵は、写真家大竹新助とともに、新潟県南蒲原(かんばら)地方の三条市に、駒子のモデルとされる小高キクを訪ねた。雑誌『婦人朝日』に「名作のモデルをたずねて」を連載する、その第1回のためである。

 途上の湯沢では、豊田四郎監督、池辺良、岸恵子主演で「雪国」がはじめて映画化されることになり、その撮影で大騒ぎの最中であった。

 そのころ、かつて越後湯沢で芸者松栄として出ていたキクは、三条市の仕立物師・小高久雄の妻となって、小高キクとなっていたが、条理のわかった夫の協力もあって、この日の取材となったのである。

 以下は、この和田芳恵の記述「名作のモデルをたずねて(一)」(『婦人朝日』1957〈昭和32〉・3・1)によったものである。

 キクの本名は丸山きく。三条市島田に、1915(大正4)年11月23日、鍛冶屋(かじや)の長女として生まれた。兄がひとりあったが、十人兄弟の大所帯であった。
 川端康成と出会った1934(昭和9)年には、ちょうど数え20歳であったことになる。

 数えで10歳の7月15日に小学校をやめて、長岡市の立花家という芸者屋の下地っ子に出された。当時、南蒲原地方では、生活のために娘を芸者にすることを、さほど不思議と思わない風習があったという。

 長岡には、下地っ子のための特殊な学校があって、きくはそこに通ったそうだ。
 1928(昭和3)年、17歳になったきくは、湯沢の若松屋という芸者屋から松栄という芸名で出ることになった。年期は3年であった。

 しかし和田芳恵のここの記述はおかしい。1928年なら、キクは14歳だったはずである。これは年号の方が不確かで、「17歳」の方が正しいと考えたい。
 清水トンネルが開通した年(といえば1931〈昭和6〉年のはずだが、和田は1930年と書いている)、湯沢駅前の土産物店兼自動車屋に、峠(とうげ)豊作という運転手が雇われた。

 豊作は、1912(大正元)年の生まれ。きくと3つ違いだ。新潟県東南部の織物で名高い塩沢の、うどん屋の息子であったが、蕎麦(そば)づくりの技術を覚えるため、1928(昭和3)年に上京、日本橋室町の更科(さらしな)に弟子入りしたのだが、その仕事がいやになり、自動車の運転手になった。当時、運転手は、はなやかな職業であった。

 22歳の美貌の豊作と19歳のきくは、やがて深い恋仲となった。小説「雪国」は、この年から書き始められている。

 この土地では、芸者の住んでいる部屋を「きりやど」という。たいてい置屋の母屋から廊下でつづいているが、母屋からは離れている。そこに客が泊まることもあった。

 豊作は仕事がすむと、夜が更けたころ「きりやど」から、きくを呼び出し、ひっそりした湯舟につかって、あまい恋をささやいたという。「ふたりはしあわせに夢のような日をおくっていました」と和田は書いている。

 きくは豊作と一緒になりたいと考えていたが、3年の年期を終えて家に帰ると、すぐ富山県の高岡に、また芸者として出なければならなかった。このときの身代金で、親は住む家を建てた。芸名は、いろは、だった。

 しかし高岡では我慢のならないことがあった。それは、抱え主が芸者に客をとることを強要したことである。


1932(昭和7)年、18歳の松栄

 きくは、「21歳になった昭和7年の8月に、湯沢へ住みかえました」と和田は書いている。(年齢か年代か、どちらかが間違っている。平山三男の調査によれば、数え18歳の1932(昭和7)年が正しい。

 そのときの置屋が豊田屋で、抱えは三人いた。松栄(まつえ)という名が通っていたので、今回も松栄で出た。

 豊作との仲は、この土地では誰知らぬ者はないほどであった。きくは、豊作の兄貴分であった人を通して、年期があけたら一緒になってほしいと申し入れた。豊作は喜んで、かたい約束をした。ふたりは夫婦きどりでつき合っていたが、1937(昭和12)年の秋、豊作に召集令状が来て、高田に入隊することになった。そこで双方の親を説得して仮祝言をあげた。

 ところがじつは、きくには、東京に旦那がいた。60に近く、めったに来ることはなかった。その旦那が話を耳にして、どうしても手放さないと言い、きくは豊田屋をやめて上京し、旦那に囲われることになった。26歳のときだった。

 豊作の部隊は中支の漢口に行き、豊作はここで3年の軍隊生活を送り、現地で2年、軍属をしてから陸軍病院の酒保に店を出した。生活が安定したので、きくを呼び寄せる手続きをして、このとき初めて、きくに長いあいだ裏切られていたことを知った。

 和田芳恵は、峠豊作にも会って、取材している。この『週刊朝日』には、峠の近影も掲載されている。

 峠は、和田芳恵に、きくと、結婚の仮祝言をすませた仲であることを認めた。また康成を定宿の「高半」へ幾度も送り迎えをしたことなども話したという。

 1958(昭和33)年の取材の当時、峠は東京の八重洲口に近いところで料亭を営んでいた。


松栄のその後

 一方、きくは、旦那も死に、戦争も激しくなったので、郷里三条市に帰り、帯や袴(はかま)の仕立てをしている小高(こだか)久雄の弟子になった。

 やがてきくは、これまでの閲歴をすべて小高に打ち明け、二人は結婚して、現在に至ったという。

 和裁ばかりでは生活が苦しいので、きくはミシンを置いて、婦人子供の既製服の製造をはじめ、のちには内弟子や通いの弟子が七、八人もできるほど、手広く経営するようになっているそうだ。

 ――以上が和田芳恵の伝える丸山キクの半生である。年代にところどころ錯誤があるので、正確な事実として確認できないところが残念だが、中見出しに「哀れ、7年の恋は終りぬ」とあるところからも、このとき、きくは和田芳恵に率直に、峠豊作のことを含め、これまでの人生を詳細に語ったと思われる。

 問題は、康成が湯沢に滞在して「雪国」を執筆した時期と、峠豊作ときくが恋仲であった時期が重なるのではないかと思われることである。

 高半旅館の次男・高橋有恒も、「『雪国』のモデル考――越後湯沢における川端康成」(『人間復興』第2号、1972(昭和47)・11・期日不明)のなかで、「峠豊作と芸者松栄との間に当時、すこし噂があった」と書いている。

 また、あるとき、峠の運転する車に有恒が乗せてもらっていると、峠は芸者置屋豊田屋の前で車をとめ、二階の芸者松栄に声をかけた。すると松栄が降りてきて、車に同乗した。このとき松栄は、「オツさま、この本、川端さんがくれたの」と1冊の本――「水晶幻想」を差し出した、とも述べている。

 これらの事実を、どう解釈したらいいのだろうか。

 1932(昭和7)年、18歳のきくが、若松屋から松栄という名で芸者にでた事実は確かであろう。康成がはじめて湯沢に来たのは、2年後の1934(昭和9)年である。

 このときすでに松栄は、峠豊作と恋仲になっていたと思われる。

 というのも、松栄と峠豊作が恋仲になったのは、松栄が高岡に行く前のことと、和田芳恵は書いているからである。湯沢に帰ってきて、ふたたび松栄という名で芸者に出たきくと峠豊作は、感無量のうちに再会したはずである。

 もっとも、作品で見てきたように、潔癖で正直な松栄が、ふたりの男に二股(ふたまた)をかけるような女でないことは確かである。

 わたくしが注目したいのは、3度目の旅で、縮の産地から帰った島村の乗った車に、駒子が飛び乗る場面である。

   車が駒子の前に来た。駒子はふつと目をつぶつたかと思ふと、ぱつと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登つた。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手(とって)につかまつてゐた。(中略)

   駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、
  「どこへ行つた? ねえ、どこへ行つた?」と甲高く呼んだ。

  (中略)

駒子が扉をあけて横倒れにはいつて来た。しかしその時車はもう止まつてゐるのだつた。
 
これは、実際の体験を描いた場面ではなかろうか。そうだとすれば、駒子が大胆にも走っている車に飛び乗ることができたのは、峠豊作の運転する車で、豊作が危険な操作をするはずがないと安心して、駒子は無茶をしたのではないだろうか。

 つまり、豊作もまた、駒子が島村とつき合っていることを知っていて、島村の前で車の速度を落し、また危険のないよう配慮したのである。

 わたくしは、すでに駒子こと、きくと豊作は恋仲であったと確信する。

 そこへ、いきなり東京から得体の知れぬ、これまで会ったこともないような男が現れ、きくは電撃に打たれたように、その男に惚れてしまったのだ。駒子は夢中になって、その新しい男に心血をそそいで恋をする。

 豊作は黙ってそれを傍観しているしかなかった。

 およそ2年間、駒子は命がけの恋をした。それは次元の異なる恋だった。豊作は黙って見ているより術(すべ)がなかった。

 島村が雪国を去ってしばらくたって、駒子こと、きくは豊作のもとに戻ってきた。駒子は豊作との結婚を本気で考えた。……

 康成は、駒子にそのような想い人があったことを知っていただろうか。

 小高久雄は和田芳恵の取材のとき、「この人には、そのころ、7年も思いつめた男の人がいたのですよ」と語ったそうだ。また、「雪国」の作者のことは、きくから聞いてはいたが、「雪国」を読んだのは結婚してからだったという。

 最後にきくは、康成のことを、「あの方は、これまで知った多くの人たちから感じられない独特な雰囲気を持っていました」と和田に語ったという。

 峠豊作というひとがありながら、駒子のきくは、魅入られたように康成との恋に命を傾けたのではなかろうか。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/7d45b23134e8d90da385ae91582324aa





▲△▽▼

フランス文学に造詣が深い伊藤整の『氾濫』における心理描写がある。
それに対して、川端康成の心理描写がある。

わたしにはこの二人の心理描写は本質的な違いがあると思えてならないのだ。


 伊藤整は『氾濫』において、人の心をそれこそ「合理的思考」で、らっきょうの皮を剥いていくように解剖していくのだ。主人公自身が自分の心理を解剖していくことさえも容赦なく、暴露的であり客観的だ。

私小説的世界を描いているが、私小説的な意味での客観描写ではなく、西欧的な意味での客観描写であり、それでいて心理学的な描写である。

評論家の奥野健男が『氾濫』(新潮文庫)の解説で「心理描写の極北」と絶賛していたが、そうであったとしても、わたしには無味乾燥な世界にしか思えなかった。

そうして心理を余すことなく剔抉できたとして、その人間はそれだけですべてないのか、人と命との不可解さとはそんなものなのか、と思えるのだ。そうした解剖学的、そして心理学的な心理描写で生きて蠢く人間が描けると思っていることが、不思議でならないのである。

伊藤整の心理描写は、すぐれて西欧的である。無意識の闇まで、光を当てて暴き立て、またそれで無意識の闇の本質を描き出せると信じているかにみえる。その発想が理解できないのである。


 一方、川端康成の心理描写は暴露的ではなく、また分析的でもない。川端は初めから人の心理を解剖学的に、そして分析的に解明できるとは考えてはいないし、そうした発想が元々ないのではないかと思える。それでいて、川端の心理描写は鮮やかである。

川端の心理描写は、伊藤整のように、人の心に下りていって、「合理的思考」という眼によって分析的に暴かれていくのではなく、むしろ自分ではなく、自然という対象や他者によって気づかされるというような形をとっている。したがって、風景の中に自分の心理を見つけ出したり、他者のしぐさによって自分の心理に気づかされたりするのである。

風景を描写しながら、それは自分の心理を写した鏡であり、他者を描写しながら、その他者の中に自分の心理が生きて動いているという描写方法なのである。風景描写であって心理描写であり、他者を描きながら、自分の心理を他者の姿の中に浮かび上がらせているのだ。

これは西欧的な意味での「合理的思考」による認識ではなく、日本的な感覚的認識によって、自然の風景や他者の中に隠れている、自分という不可思議な生き物の心理に気づかされるという描写手法である。


 伊藤整は『氾濫』において、神のような存在である。登場人物の心の隅々まで余すところなく把握し、あらゆる動作と、行動の意味を心理学的に理由付けられるのである。

私小説の意味で、登場人物が伊藤整の傀儡になっているといっているのではない。私小説よりははるかに高度な人間把握であり、心理的描写であり、また人物造形である。フランス文学に精通した伊藤整であり、『小説の方法』を書いている伊藤整が、単なる私小説を書くはずはないし、また私小説の形骸化でしかない風俗小説を書くはずはないのである。

「心理小説の極北」というからには、伊藤整の心理描写の方法論からすれば、『氾濫』が限界だということになるのだろうか。わたしは翻訳小説を読んでいるような錯覚を覚えたのだが、それだけ伊藤整の心理描写の手法が西欧的だったのかもしれない。

 一方の川端康成であるが、小説の登場人物の心をすべて把握してはいない。また、把握することを最初から放棄しているように、わたしは思っている。

人間とはそれほどまでに、不可解な生き物だからだろう。おぼろげに、ぼんやりと人の心理を浮かび上がらせるだけである。それでいて、一瞬だけ鮮やかにみせてくれたりするが、ぼんやりとした中の一瞬だから、鮮やかであり印象的なのである。

その一瞬とは、直観に通じているものなのだろう。感覚的認識とは、西欧的な「合理的思考」によって、らっきょうの皮を一枚一枚剥いていって本質を暴くことではなく、一瞬の中で感覚的に本質を掴み取ることである。

 伊藤整の『氾濫』は、らっきょうと一緒で、剥く皮がなくなってもついに本質が見えてはこないのと似ている。すべてを「論理的思考」で心を分析的に暴き立てたから、かえって心がみえなくなり、空虚なものでしかなくなってしまったのではなかろうか。

何故ならば心は自らで動いて呼吸をしているもので、生きた生命をもっているからだ。断片としての事実を繋ぎ合わせても生命ではない。生命とはそうした得体のしれないものであり、だからこそ尊厳があるのだろう。

 川端康成の描いた人間の心は、ぼんやりとしたものだから、不可思議な生命そのままに生きて呼吸をしているのである。しかし、ぼんやりとではあるが、だからこそその人間の本質的なものが浮かび上がってくるのだろう。

 わたしは当然に、川端康成の心理描写における手法の方向性でいくつもりだが、そのままではなく、わたしなりの手法を取り入れていくつもりだ。

 国学を論じた中で、わたしは川端康成に言及した。その箇所を抜粋してみたい。


「川端の感覚と文学的感性とはすぐれて日本的なものと思っている。日本という風土が色濃く反映しているのだ。が、川端は契沖的なあり方ではない。かといって宣長的ではない。

しかし、川端の対象へと注がれる感情と、対象から跳ね返ってくるものを受け取る感覚と、またその感覚によって醸し出される感情とが、宣長のいう『物のあはれ』のように一所に留まることをしないで、拘りを離れて流れていくように、わたしは感じている。

宣長の自我の喪失の絶対化という意味での『物のあはれ』とは違う。濃密な自我を宿したものだ。川端もやはり『情としてのロマンチック・イロニー』を生きていたのだろうか。

日本の四季の移ろいのように、瞬時に情としての姿を変えていく。この情は一方通行の自己完結型の情だけではなく、対象と交感し合う情でもあるのだが、だからといって交感し、合一し、そこに留まろうとする意志がないのだ。早くから親をなくし、肉親の愛情に溺れて育った経験のない川端の特異性なのだろうか」

と書いたのであるが、「感覚によって醸し出される感情」が、「一所に留まることをしないで、拘りを離れて流れていく」という川端の特質が、作品の中に随所に現れている。そしてその流れ方が、余韻を引き摺るようにして、関連性をもっているのだ。感情を表現した比喩が、新たな比喩を呼び起こし、更にその比喩が新たな比喩を呼び起こすというような流れ方なのである

 竹西寛子が新潮社の文庫本『雪国』の解説『川端康成 人と作品』で、


「私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダイアローグによってドラマを進展させたり飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べると、少なくとも一つのことははっきりとするように思う。

それは、谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグによるものという点で、和歌により強く繋がっているということである。

しばしば小説の約束事は無視されて一見随筆風でもあるのに、あえて日記随筆の系譜に与させないのはほかでもない。さきにふれたように、この文学は、ゆめ論述述志の文学でなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示しているからである」


と論じている。 鋭い指摘であるが、わたしは和歌には様々な要素があると思っている。相聞歌もあれば、短いなかに物語を秘めた和歌もある。和歌がモノローグによるものだとは言いがたいように思う。

 川端文学は和歌に通じている面はあるが、俳諧連歌のような「心の動き」に特徴性があるように思う。句と句を繋ぎ逢わせているのが、感覚的な言葉であり、それが比喩の役割もしているのではないだろうか。

 竹西寛子は、「感覚と直観によってこの世との関係を宙に示している」と書いているが、これこそが本居宣長の「もののあわれ」的な感情の発露であり、そして感情が一所に留まって執着することを拒んで流れて行くことに当たるのだろう。

「この世との関係」は「感覚と直観」で一瞬に花となって結ぶが、忽ちにして花びらを散らして、川面に浮かべた花びらとともに流れていくのだ。「この世との関係」はあるようでありながら、ないようでもあり、おぼろげなものでしかないのだろう。執着することで、その執着するものを失ったときの痛手と悲哀とが身に染みついているからだろうか。

 竹西寛子は谷崎潤一郎と川端とを比較して、谷崎を「日本の物語の直系」としているのに対して、川端を「小説の約束事は無視されて一見随筆風でもある」と指摘しているが、わたしは川端の小説に秘められた企みと構造性には舌を巻いている。


わたしが小説でやろうとしていることと密接に関連しているので、川端の不朽の名作『雪国』を例に説明してみたい

 有名な冒頭の文、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった」であるが、わたしはこれを「比喩」と捉えている。

いわゆる比喩ではない。

どうして「比喩」と見るかというと、「雪国」とは「非日常の世界」を表しているからだ。

トンネルとは「日常の世界」から「非日常の世界」へと通じている扉なのである。

「日常の世界」にあって、「非日常の世界」とはどんなものなのか、川端は書いている。

「これから会いにいく女をなまなましく覚えている、はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目がはっきり浮き出たのだった。」

 凄いとしかいいようのない仕掛けであり、これほど的確に、そして感覚的に「雪国」という「非日常」の世界を暗示はできないであろう。

「雪国の世界」とは、「はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りな」い世界なのだ。


 トンネルがこの文章では、「指の感触」に置き換わっている。それもエロチックであり、すこぶる感覚的だ。

「日常の世界」にあって、「雪国の世界」を生々しく、そして瑞々しく覚えているのは、つまり二つの世界を結んでいるのは「指の感触」なのである。記憶を超えた、感覚の息づく世界こそが「雪国の世界」なのだろう。


「雪国の世界」とは二重の世界でもある。

島村にとっては「非日常の世界」であるが、駒子と葉子にとっては「日常の世界」である。

 駒子と葉子は、島村を「欲」で「日常の世界」へと引き摺り込もうとするが、島村は「もののあわれ」で、するりと駒子と葉子の欲という手から、すり抜けてしまうのである。

「日常の世界」に生きている駒子と葉子の「情」と、「非日常の世界」にいる島村の「情」とが、一つの「欲」となって絡み合うことはないのだ。たとえ身体が絡み合ったとしても、それは島村にとっては感覚の動きでしかなく「もののあわれ」的な世界(竹西寛子のいう「宙」)を生きているにすぎないのである。

「日常の世界」にいる駒子と葉子には、島村とはつかみ所がない綿毛のような存在にみえてしまうのだろう。何故ならば「非日常の世界」にあって、「もののあわれ」を生きており、「欲」としての存在ではないからだ。「日常の世界」にいる駒子と葉子から見たら薄情と映ることだろう。

 島村は「雪国の世界」から、「日常の世界」へと戻る汽車のなかで、「雪国の世界」を回想して、

「いつでも忽ち放心状態に入り易い彼にとっては、あの夕景色の鏡や朝雪の鏡が、人工のものとは信じられなかった。自然のものであった。そして遠い世界であった」

と描いている。

 小説「雪国」とは、「非日常の世界」のなかで「もののあわれ」を生きている島村の眼が捉えた世界を描き、「もののあわれ」を生きている島村と、「日常の世界」にあって「欲」を生きている駒子と葉子との、永遠に絡み合うことがない情の動きを描いているように思う。絡み合わないからこそ、島村の眼に映った駒子と葉子の切ないほどの美しさと艶やかさが浮き上がってくるのだろう。


 川端の比喩は、まず大きな「雪国」という世界を作り、その世界のなかで、俳諧連歌的に感覚を飛翔させているのだと思える。単なる比喩ではない。そして、和歌の修辞法である「掛詞」的な色合いを出しているのだ。感覚的に関連させることで、次の描写に色を添える「枕詞」と「序詞」的な効果を生み出しているのかもしれない。だから奥が深く、高度なのだろう。


 おそらく川端は技法として意識的に表現に反映させているのではないだろう。無意識にやっているのだ。『雪国』における二つの異なった世界という設定をして、その世界の対比と、永遠に結び合うことがない「情」と「情」との絡み合いと、「非日常の世界」だからこそ見えてくる一瞬の表情(人と自然と暮らしの風景)とを描こうとした、とわたしは推測しているのだが、もしかしたらこれさえも非作為的にやっているのかもしれない。

 川端は「日常の世界」と「非日常の世界」との絡み合いを描いた。

わたしは世界観の違いによって見えてくる世界が違ったものになると思っているが、それを小説の中で表現したいと考えている。単なる視点の移動ではなく、違った世界観が絡み合ったらどうなるか、見えている世界が違うのだから、ちぐはぐな絡み合いになるだろうが、どんなものになるのか、それを描きたいと思っている。


 川端は横光利一とともに新感覚派を旗揚げしたが、新感覚派とは私小説的な伝統に、「表現形式」で反旗を翻した文学運動である。私小説はあるがままの事実を小説に写し出そうと、主観的な装飾を排除した客観描写を基本としたが、新感覚派はそれを感覚的描写に置き換えたものにすぎない。

 横光は志賀直哉に私淑していたのだが、だからこそ客観描写の極北である志賀の文体を超えることはできないと悟り、客観描写を捨てて、感覚的な主観描写を企てたのではないだろうか。しかし、それはあくまでも描写技法でしかなく、文学における「感覚」の意味を突き詰めたものではなかった。そればかりか、横光にいたっては客観描写を裏返したという意味での主観描写であったと、わたしはみている。

私淑していただけに、文体の核が志賀のものなのである。意識的にその呪縛から逃れようとしているから、よりそれが鮮やかになるのかもしれない。要は、志賀の文章に感覚的な形容詞やら比喩やらをねじ込んだのだと思う。そしてその肝心の感覚であるが、横光と川端とでは根本的に違っているといえるだろう。


 川端の感覚は優れて日本的であり、感覚的認識が基本にあるのに対して、横光の感覚は人工的であり、優れて西欧的であるように思う。

 晩年の横光は日本主義的な言動をしたが、横光が立っていたのは西欧近代主義の上であり、この日本主義とは国家主義的な色彩を帯びたものだったように感じている。そして、西欧的合理主義を裏返した日本的な精神主義へと傾斜するのだが、今まで縄文時代まで遡って見てきた日本的な心とは、似ても似つかぬものでしかないのではないだろうか。

 三島由紀夫もまた横光的であり、いわゆる武士道とは日本人の心とは違うものだと思っている。これは武士という支配階級の道徳観であって、すぐれて儒教的な色彩の濃いものである。「切り捨て御免」をとってみても、とても民衆レベルで共有していた精神ではありえない。

武士道を美化するのは、西欧的ロマン主義に毒されているとしか思えないし、だからこそ、西欧人が武士道と侍に好奇の目を向け、それが高貴であり崇高なものをみる眼差しへと変わるのだろう。これほど西欧人に理解されやすいものはない。西欧にも騎士道がある。

 この儒教的な匂いがする武士道に対して、「神さびる」といった日本的な感覚認識にいたっては、西欧人には想像するのは難しいのではないだろうか。

しかし、これこそが日本的な心の核的なものであり、精神性に通じたものなのだ。

だからこそ小泉八雲は只者ではないといえるが、西欧人でも「交感の場」は生きられるという証でもある。里山へと引き寄せられる西欧人の心に通じているのだろう。

 川端は思想音痴であり、三島の思想を理解していなかっただろうし、横光の日本的精神主義も無理解だったと推察するが、川端と三島とは感覚も精神構造も違っており、また横光とも違っていたと考えている。但し、政治とはそうしたものとは無関係なので、政治的な姿勢は同じだとしても何ら不思議ではないのである。
https://blogs.yahoo.co.jp/azuminonoyume/32135156.html

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異界の女性に魅せられた男の運命は…


802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0

川端康成の「雪国」は死後の世界
みんな幽霊という設定


803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0

ちなみに千と千尋も死後の世界だね
トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ
http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001

講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。

川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。


  「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。

  とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。

 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。

 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。
http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html


川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。

なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93
http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html

川端康成 『片腕』


「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」

と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。

「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。

「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですというしるしにね。」

と娘は笑顔で左手を私の胸の前にあげた。「おねがい……。」


 左片腕になった娘は指輪を抜き取ることがむずかしい。

「婚約指輪じゃないの?」と私は言った。

「そうじゃないの。母の形見なの。」

 小粒のダイヤをいくつかならべた白金の指輪であった。

「あたしの婚約指輪と見られるでしょうけれど、それでもいいと思って、はめているんです。」と娘は言った。

「いったんこうして指につけると、はずすのは、母と離れてしまうようでさびしいんです。」

 私は娘の指から指輪を抜き取った。そして私の膝の上にある娘の腕を立てると、紅差し指にその指輪をはめながら、「この指でいいね?」

「ええ。」と娘はうなずいた。

「そうだわ。肘や指の関節がまがらないと、突っ張ったままでは、せっかくお持ちいただいても、義手みたいで味気ないでしょう。動くようにしておきますわ。」

そう言うと、私の手から自分の右腕を取って、肘に軽く唇をつけた。指のふしぶしにも軽く唇をあてた。

「これで動きますわ。」

「ありがとう。」私は娘の片腕を受け取った。


「この腕、ものも言うかしら? 話をしてくれるかしら?」


「腕は腕だけのことしか出来ないでしょう。

もし腕がものを言うようになったら、返していただいた後で、あたしがこわいじゃありませんの。でも、おためしになってみて……。

やさしくしてやっていただけば、お話を聞くぐらいのことはできるかもしれませんわ。」

「やさしくするよ。」

「行っておいで。」と娘は心を移すように、私が持った娘の右腕に左手の指を触れた。

「一晩だけれど、このお方のものになるのよ。」

 そして私を見る娘の目は涙が浮ぶのをこらえているようであった。

「お持ち帰りになったら、あたしの右腕を、あなたの右腕と、つけ替えてごらんになるようなことを……。」

と娘は言った。「なさってみてもいいわ。」

「ああ、ありがとう。」

 私は娘の右腕を雨外套のなかにかくして、もやの垂れこめた夜の町を歩いた。電車やタクシイに乗れば、あやしまれそうに思えた。娘のからだを離された腕がもし泣いたり、声を出したりしたら、騒ぎである。

 私は娘の腕のつけ根の円みを、右手で握って、左の胸にあてがっていた。その上を雨外套でかくしているわけだが、ときどき、左手で雨外套をさわって娘の腕をたしかめてみないではいられなかった。それは娘の腕をたしかめるのではなくて、私のよろこびをたしかめるしぐさであっただろう。

 娘は私の好きなところから自分の腕をはずしてくれていた。腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある。西洋の美しい細身の娘にある円みで、日本の娘には稀れである。それがこの娘にはあった。ほのぼのとういういしい光りの球形のように、清純で優雅な円みである。娘が純潔を失うと間もなくその円みの愛らしさも鈍ってしまう。たるんでしまう。美しい娘の人生にとっても、短いあいだの美しい円みである。それがこの娘にはあった。

肩のこの可憐な円みから娘のからだの可憐なすべてが感じられる。胸の円みもそう大きくなく、手のひらにはいって、はにかみながら吸いつくような固さ、やわらかさだろう。娘の肩の円みを見ていると、私には娘の歩く脚も見えた。細身の小鳥の軽やかな足のように、蝶が花から花へ移るように、娘は足を運ぶだろう。そのようにこまかな旋律は接吻する舌のさきにもあるだろう。


 袖なしの女服になる季節で、娘の肩は出たばかりであった。あらわに空気と触れることにまだなれていない肌の色であった。春のあいだにかくれながらうるおって、夏に荒れる前のつぼみのつやであった。私はその日の朝、花屋で泰山木のつぼみを買ってガラスびんに入れておいたが、娘の肩の円みはその泰山木の白く大きいつぼみのようであった。娘の服は袖がないというよりなお首の方にくり取ってあった。腕のつけ根の肩はほどよく出ていた。服は黒っぽいほど濃い青の絹で、やわらかい照りがあった。このような円みの肩にある娘は背にふくらみがある。撫で肩のその円みが背のふくらみとゆるやかな波を描いている。やや斜めのうしろから見ると、肩の円みから細く長めな首をたどる肌が掻きあげた襟髪でくっきり切れて、黒い髪が肩の円みに光る影を映しているようであった。

 こんな風に私がきれいと思うのを娘は感じていたらしく、肩の円みをつけたところから右腕をはずして、私に貸してくれたのだった。

 雨外套のなかでだいじに握っている娘の腕は、私の手よりも冷たかった。心おどりに上気している私は手も熱いのだろうが、その火照りが娘の腕に移らぬことを私はねがった。娘の腕は娘の静かな体温のままであってほしかった。また手のなかのものの少しの冷たさは、そのもののいとしさを私に伝えた。人にさわられたことのない娘の乳房のようであった。

 雨もよいの夜のもやは濃くなって、帽子のない私の頭の髪がしめって来た。表戸をとざした薬屋の奥からラジオが聞えて、ただ今、旅客機が三機もやのために着陸出来なくて、飛行場の上を三十分も旋回しているとの放送だった。こういう夜は湿気で時計が狂うからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながしていた。またこんな夜に時計のぜんまいをぎりぎりいっぱいに巻くと湿気で切れやすいと、ラジオは言っていた。私は旋回している飛行機の灯が見えるかと空を見あげたが見えなかった。空はありはしない。たれこめた湿気が耳にまではいって、たくさんのみみずが遠くに這うようなしめった音がしそうだ。ラジオはなおなにかの警告を聴取者に与えるかしらと、私は薬屋の前に立っていると、動物園のライオンや虎や豹などの猛獣が湿気を憤って吠える、それを聞かせるとのことで、動物のうなり声が地鳴りのようにひびいて来た。

ラジオはそのあとで、こういう夜は、妊婦や厭世家などは、早く寝床へはいって静かに休んでいて下さいと言った。またこういう夜は、婦人は香水をじかに肌につけると匂いがしみこんで取れなくなりますと言った。


 猛獣のうなり声が聞えた時に、私は薬屋の前から歩き出していたが、香水についての注意まで、ラジオは私を追って来た。猛獣たちが憤るうなりは私をおびやかしたので、娘の腕にもおそれが伝わりはしないかと、私は薬屋のラジオの声を離れたのであった。娘は妊婦でも厭世家でもないけれども、私に片腕を貸してくれて片腕になった今夜は、やはりラジオの注意のように、寝床で静かに横たわっているのがいいだろうと、私には思われた。片腕の母体である娘が安らかに眠っていてくれることをのぞんだ。

 通りを横切るのに、私は左手で雨外套の上から娘の腕をおさえた。車の警笛が鳴った。脇腹に動くものがあって私は身をよじった。娘の腕が警笛におびえてか指を握りしめたのだった。

「心配ないよ。」と私は言った。

「車は遠いよ。見通しがきかないので鳴らしているだけだよ。」

 私はだいじなものをかかえているので、道のあとさきをよく見渡してから横切っていたのである。その警笛も私のために鳴らされたとは思わなかったほどだが、車の来る方をながめると人影はなかった。その車は見えなくて、ヘッド・ライトだけが見えた。その光りはぼやけてひろがって薄むらさきであった。めずらしいヘッド・ライトの色だから、私は道を渡ったところに立って、車の通るのをながめた。

朱色の服の若い女が運転していた。女は私の方を向いて頭をさげたようである。とっさに私は娘が右腕を取り返しに来たのかと、背を向けて逃げ出しそうになったが、左の片腕だけで運転出来るはずはない。しかし車の女は私が娘の片腕をかかえていると見やぶったのではなかろうか。娘の腕と同性の女の勘である。私の部屋へ帰るまで女には出会わぬように気をつけなければなるまい。女の車はうしろのライトも薄むらさきであった。やはり車体は見えなくて、灰色のもやのなかを、薄むらさきの光りがぼうっと浮いて遠ざかった。


「あの女はなんのあてもなく車を走らせて、ただ車を走らせるために走らせずにはいられなくて、走らせているうちに、姿が消えてなくなってしまうのじゃないかしら……。」と私はつぶやいた。

「あの車、女のうしろの席にはなにが坐っていたのだろう。」

 なにも坐っていなかったようだ。なにも坐っていないのを不気味に感じるのは、私が娘の片腕をかかえていたりするからだろうか。あの女の車にもしめっぽい夜のもやは乗せていた。そして女のなにかが車の光りのさすもやを薄むらさきにしていた。女のからだが紫色の光りを放つことなどあるまいとすると、なにだったのだろうか。こういう夜にひとりで車を走らせている若い女が虚しいものに思えたりするのも、私のかくし持った娘の腕のせいだろうか。

女は車のなかから娘の片腕に会釈したのだったろうか。こういう夜には、女性の安全を見まわって歩く天使か妖精があるのかもしれない。あの若い女は車に乗っていたのではなくて、紫の光りに乗っていたのかもしれない。虚しいどころではない。私の秘密を見すかして行った。


 しかしそれからは一人の人間にも行き会わないで、私はアパアトメントの入口に帰りついた。扉のなかのけはいをうかがって立ちどまった。頭の上に蛍火が飛んで消えた。蛍の火にしては大き過ぎ強過ぎると気がつくと、私はとっさに四五歩後ずさりしていた。また蛍のような火が二つ三つ飛び流れた。その火は濃いもやに吸いこまれるよりも早く消えてしまう。人魂か鬼火のようになにものかが私の先きまわりをして、帰りを待ちかまえているのか。しかしそれが小さい蛾の群れであるとすぐにわかった。蛾のつばさが入口の電灯の光りを受けて蛍火のように光るのだった。蛍火よりは大きいけれども、蛍火と見まがうほどに蛾としては小さかった。

 私は自動のエレベエタアも避けて、狭い階段をひっそり三階へあがった。左利きでない私は、右手を雨外套のなかに入れたまま左手で扉の鍵をあけるのは慣れていない。気がせくとなお手先きがふるえて、それが犯罪のおののきに似て来ないか。部屋のなかになにかがいそうに思える。私のいつも孤独の部屋であるが、孤独ということは、なにかがいることではないのか。娘の片腕と帰った今夜は、ついぞなく私は孤独ではないが、そうすると、部屋にこもっている私の孤独が私をおびやかすのだった。


「先きにはいっておくれよ。」

私はやっと扉が開くと言って、娘の片腕を雨外套のなかから出した。

「よく来てくれたね。これが僕の部屋だ。明りをつける。」

「なにかこわがっていらっしゃるの?」

と娘の腕は言ったようだった。

「だれかいるの?」

「ええっ? なにかいそうに思えるの?」

「匂いがするわ。」

「匂いね? 僕の匂いだろう。暗がりに僕の大きい影が薄ぼんやり立っていやしないか。よく見てくれよ。僕の影が僕の帰りを待っていたのかもしれない。」

「あまい匂いですのよ。」

「ああ、泰山木の花の匂いだよ。」

と私は明るく言った。私の不潔で陰湿な孤独の匂いでなくてよかった。泰山木のつぼみを生けておいたのは、可憐な客を迎えるのに幸いだった。私は闇に少し目がなれた。真暗だったところで、どこになにがあるかは、毎晩のなじみでわかっている。

「あたしに明りをつけさせて下さい。」

娘の腕が思いがけないことを言った。

「はじめてうかがったお部屋ですもの。」

「どうぞ。それはありがたい。僕以外のものがこの部屋の明りをつけてくれるのは、まったくはじめてだ。」


 私は娘の片腕を持って、手先きが扉の横のスイッチにとどくようにした。天井の下と、テエブルの上と、ベッドの枕もとと、台所と、洗面所のなかと、五つの電灯がいち時についた。私の部屋の電灯はこれほど明るかったのかと、私の目は新しく感じた。

 ガラスびんの泰山木が大きい花をいっぱいに開いていた。今朝はつぼみであった。開いて間もないはずなのに、テエブルの上にしべを落ち散らばらせていた。それが私はふしぎで、白い花よりもこぼれたしべをながめた。しべを一つ二つつまんでながめていると、テエブルの上においた娘の腕が指を尺取虫のように伸び縮みさせて動いて来て、しべを拾い集めた。私は娘の手のなかのしべを受け取ると、屑籠へ捨てに立って行った。

「きついお花の匂いが肌にしみるわ。助けて……。」

と娘の腕が私を呼んだ。


「ああ。ここへ来る道で窮屈な目にあわせて、くたびれただろう。しばらく静かにやすみなさい。」

とベッドの上に娘の腕を横たえて、私もそばに腰をかけた。そして娘の腕をやわらかくなでた。


「きれいで、うれしいわ。」

娘の腕がきれいと言ったのは、ベッド・カバアのことだろう。水色の地に三色の花模様があった。孤独の男には派手過ぎるだろう。

「このなかで今晩おとまりするのね。おとなしくしていますわ。」

「そう?」

「おそばに寄りそって、おそばになんにもいないようにしてますわ。」

 そして娘の手がそっと私の手を握った。娘の指の爪はきれいにみがいて薄い石竹色に染めてあるのを私は見た。指さきより長く爪はのばしてあった。

 私の短くて幅広くて、そして厚ごわい爪に寄り添うと、娘の爪は人間の爪でないかのように、ふしぎな形の美しさである。女はこんな指の先きでも、人間であることを超克しようとしているのか。あるいは、女であることを追究しようとしているのか。

うち側のあやに光る貝殻、つやのただよう花びらなどと、月並みな形容が浮んだものの、たしかに娘の爪に色と形の似た貝殻や花びらは、今私には浮んで来なくて、娘の手の指の爪は娘の手の指の爪でしかなかった。脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない。

 私は娘の手に握られていない方の手の、人差し指に娘の小指をのせて、その細長い爪を親指の腹でさすりながら見入っていた。いつとなく私の人差し指は娘の爪の廂(ひさし)にかくれた、小指のさきにふれた。ぴくっと娘の指が縮まった。肘もまがった。

「あっ、くすぐったいの?」

と私は娘の片腕に言った。

「くすぐったいんだね。」

 うかつなことをつい口に出したものである。爪を長くのばした女の指さきはくすぐったいものと、私は知っている、つまり私はこの娘のほかの女をかなりよく知っていると、娘の片腕に知らせてしまったわけである。

 私にこの片腕を一晩貸してくれた娘にくらべて、ただ年上と言うより、もはや男に慣れたと言う方がよさそうな女から、このような爪にかくれた指さきはくすぐったいのを、私は前に聞かされたことがあったのだ。長い爪のさきでものにさわるのが習わしになっていて、指さきではさわらないので、なにかが触れるとくすぐったいと、その女は言った。

「ふうん。」私は思わぬ発見におどろくと、女はつづけて、

「食べものごしらえでも、食べるものでも、なにかちょっと指さきにさわると、あっ、不潔っと、肩までふるえが来ちゃうの。そうなのよ、ほんとうに……。」

 不潔とは、食べものが不潔になるというのか、爪さきが不潔になるというのか。おそらく、指さきになにがさわっても、女は不潔感にわななくのであろう。女の純潔の悲劇の露が、長い爪の陰にまもられて、指さきにひとしずく残っている。
 女の手の指さきをさわりたくなった、誘惑は自然であったけれども、私はそれだけはしなかった。私自身の孤独がそれを拒んだ。からだの、どこかにさわられてもくすぐったいところは、もうほとんどなくなっているような女であった。

 片腕を貸してくれた娘には、さわられてくすぐったいところが、からだじゅうにあまたあるだろう。そういう娘の手の指さきをくすぐっても、私は罪悪とは思わなくて、愛玩と思えるかもしれない。しかし娘は私にいたずらをさせるために、片腕を貸してくれたのではあるまい。私が喜劇にしてはいけない。

「窓があいている。」と私は気がついた。ガラス戸はしまっているが、カアテンがあいている。

「なにかがのぞくの?」

と娘の片腕が言った。

「のぞくとしたら、人間だね。」

「人間がのぞいても、あたしのことは見えないわ。のぞき見するものがあるとしたら、あなたの御自分でしょう。」

「自分……? 自分てなんだ。自分はどこにあるの?」

「自分は遠くにあるの。」

と娘の片腕はなぐさめの歌のように、

「遠くの自分をもとめて、人間は歩いてゆくのよ。」

「行き着けるの?」

「自分は遠くにあるのよ。」

娘の腕はくりかえした。


 ふと私には、この片腕とその母体の娘とは無限の遠さにあるかのように感じられた。この片腕は遠い母体のところまで、はたして帰り着けるのだろうか。私はこの片腕を遠い娘のところまで、はたして返しに行き着けるのだろうか。娘の片腕が私を信じて安らかなように、母体の娘も私を信じてもう安らかに眠っているだろうか。右腕のなくなったための違和、また凶夢はないか。娘は右腕に別れる時、目に涙が浮ぶのをこらえていたようではなかったか。片腕は今私の部屋に来ているが、娘はまだ来たことがない。

 窓ガラスは湿気に濡れ曇っていて、蟾蜍の腹皮を張ったようだ。霧雨を空中に静止させたようなもやで、窓のそとの夜は距離を失い、無限の距離につつまれていた。家の屋根も見えないし、車の警笛も聞えない。

「窓をしめる。」と私はカアテンを引こうとすると、カアテンもしめっていた。窓ガラスに私の顔がうつっていた。私のいつもの顔より若いかに見えた。しかし私はカアテンを引く手をとどめなかった。私の顔は消えた。

 ある時、あるホテルで見た、九階の客室の窓がふと私の心に浮んだ。裾のひらいた赤い服の幼い女の子が二人、窓にあがって遊んでいた。同じ服の同じような子だから、ふた子かもしれなかった。西洋人の子どもだった。二人の幼い子は窓ガラスを握りこぶしでたたいたり、窓ガラスに肩を打ちつけたり、相手を押し合ったりしていた。母親は窓に背を向けて、編みものをしていた。窓の大きい一枚ガラスがもしわれるかはずれかしたら、幼い子は九階から落ちて死ぬ。あぶないと見たのは私で、二人の子もその母親もまったく無心であった。しっかりした窓ガラスに危険はないのだった。

 カアテンを引き終って振り向くと、ベッドの上から娘の片腕が、

「きれいなの。」

と言った。カアテンがベッド・カバアと同じ花模様の布だからだろう。

「そう? 日にあたって色がさめた。もうくたびれているんだよ。」

私はベッドに腰かけて、娘の片腕を膝にのせた。

「きれいなのは、これだな。こんなきれいなものはないね。」

 そして、私は右手で娘のたなごころと握り合わせ、左手で娘の腕のつけ根を持って、ゆっくりとその腕の肘をまげてみたり、のばしてみたりした。くりかえした。


「いたずらっ子ねえ。」

と娘の片腕はやさしくほほえむように言った。

「こんなことなさって、おもしろいの?」

「いたずらなもんか。おもしろいどころじゃない。」

ほんとうに娘の腕には、ほほえみが浮んで、そのほほえみは光りのように腕の肌をゆらめき流れた。娘の頬のみずみずしいほほえみとそっくりであった。


 私は見て知っている。娘はテエブルに両肘を突いて、両手の指を浅く重ねた上に、あごをのせ、また片頬をおいたことがあった。若い娘としては品のよくない姿のはずだが、突くとか重ねるとか置くとかいう言葉はふさわしくない、軽やかな愛らしさである。腕のつけ根の円みから、手の指、あご、頬、耳、細長い首、そして髪までが一つになって、楽曲のきれいなハアモニイである。

娘はナイフやフォウクを上手に使いながら、それを握った指のうちの人差し指と小指とを、折り曲げたまま、ときどき無心にほんの少し上にあげる。食べものを小さい唇に入れ、噛んで、呑みこむ、この動きも人間がものを食っている感じではなくて、手と顔と咽とが愛らしい音楽をかなでていた。娘のほほえみは腕の肌にも照り流れるのだった。


 娘の片腕がほほえむと見えたのは、その肘を私がまげたりのばしたりするにつれて、娘の細く張りしまった腕の筋肉が微妙な波に息づくので、微妙な光りとかげとが腕の白くなめらかな肌を移り流れるからだ。さっき、私の指が娘の長い爪のかげの指さきにふれて、ぴくっと娘の腕が肘を折り縮めた時、その腕に光りがきらめき走って、私の目を射たものだった。それで私は娘の肘をまげてみているので、決していたずらではなかった。肘をまげ動かすのを、私はやめて、のばしたままじっと膝においてながめても、娘の腕にはういういしい光りとかげとがあった。


「おもしろいいたずらと言うなら、僕の右腕とつけかえてみてもいいって、ゆるしを受けて来たの、知ってる?」

と私は言った。


「知ってますわ。」と娘の右腕は答えた。

「それだっていたずらじゃないんだ。僕は、なんかこわいね。」

「そう?」

「そんなことしてもいいの」

「いいわ」

「…………。」

私は娘の腕の声を、はてなと耳に入れて、

「いいわ、って、もう一度……。」

「いいわ。いいわ。」


 私は思い出した。私に身をまかせようと覚悟をきめた、ある娘の声に似ているのだ。片腕を貸してくれた娘ほどには、その娘は美しくなかった。そして異常であったかもしれない。

「いいわ。」

とその娘は目をあけたまま私を見つめた。私は娘の上目ぶたをさすって、閉じさせようとした。娘はふるえ声で言った。


「(イエスは涙をお流しになりました。《ああ、なんと、彼女を愛しておいでになったことか。》とユダヤ人たちは言いました。)」

「…………。」


「彼女」は「彼」の誤りである。死んだラザロのことである。女である娘は「彼」を「彼女」とまちがえておぼえていたのか、あるいは知っていて、わざと「彼女」と言い変えたのか。

 私は娘のこの場にあるまじい、唐突で奇怪な言葉に、あっけにとられた。娘のつぶった目ぶたから涙が流れ出るかと、私は息をつめて見た。

 娘は目をあいて胸を起こした。その胸を私の腕が突き落とした。

「いたいっ。」

と娘は頭のうしろに手をやった。

「いたいわ。」

 白いまくらに血が小さくついていた。私は娘の髪をかきわけてさぐった。血のしずくがふくらみ出ているのに、私は口をつけた。

「いいのよ。血はすぐ出るのよ、ちょっとしたことで。」

娘は毛ピンをみな抜いた。毛ピンが頭に刺さったのであった。

 娘は肩が痙攣しそうにしてこらえた。

 私は女の身をまかせる気もちがわかっているようながら、納得しかねるものがある。身をまかせるのをどんなことと、女は思っているのだろうか。自分からそれを望み、あるいは自分から進んで身をまかせるのは、なぜなのだろうか。女のからだはすべてそういう風にできていると、私は知ってからも信じかねた。この年になっても、私はふしぎでならない。そしてまた、女のからだと身をまかせようとは、ひとりひとりちがうと思えばちがうし、似ていると思えば似ているし、みなおなじと思えばおなじである。これも大きいふしぎではないか。私のこんなふしぎがりようは、年よりもよほど幼い憧憬かもしれないし、年よりも老けた失望かもしれない。心のびっこではないだろうか。

 その娘のような苦痛が、身をまかせるすべての女にいつもあるものではなかった。その娘にしてもあの時きりであった。銀のひもは切れ、金の皿はくだけた。

「いいわ。」と娘の片腕の言ったのが、私にその娘を思い出させたのだけれども、片腕のその声とその娘の声とは、はたして似ているのだろうか。おなじ言葉を言ったので、似ているように聞えたのではなかったか。おなじ言葉を言ったにしても、それだけが母体を離れて来た片腕は、その娘とちがって自由なのではないか。またこれこそ身をまかせたというもので、片腕は自制も責任も悔恨もなくて、なんでも出来るのではないか。しかし、「いいわ。」と言う通りに、娘の右腕を私の右腕とつけかえたりしたら、母体の娘は異様な苦痛におそわれそうにも、私には思えた。
 私は膝においた娘の片腕をながめつづけていた。肘の内側にほのかな光りのかげがあった。それは吸えそうであった。私は娘の腕をほんの少しまげて、その光りのかげをためると、それを持ちあげて、唇をあてて吸った。


「くすぐったいわ。いたずらねえ。」

と娘の腕は言って、唇をのがれるように、私の首に抱きついた。

「いいものを飲んでいたのに……。」と私は言った。

「なにをお飲みになったの?」

「…………。」

「なにをお飲みになったの?」

「光りの匂いかな、肌の。」


 そとのもやはなお濃くなっているらしく、花びんの泰山木の葉までしめらせて来るようであった。ラジオはどんな警告を出しているだろう。私はベッドから立って、テエブルの上の小型ラジオの方に歩きかけたがやめた。娘の片腕に首を抱かれてラジオを聞くのはよけいだ。しかし、ラジオはこんなことを言っているように思われた。たちの悪い湿気で木の枝が濡れ、小鳥のつばさや足も濡れ、小鳥たちはすべり落ちていて飛べないから、公園などを通る車は小鳥をひかぬように気をつけてほしい。もしなまあたたかい風が出ると、もやの色が変るかもしれない。色の変ったもやは有害で、それが桃色になったり紫色になったりすれば、外出はひかえて、戸じまりをしっかりしなければならない。


「もやの色が変る? 桃色か紫色に?」

と私はつぶやいて、窓のカアテンをつまむと、そとをのぞいた。もやがむなしい重みで押しかかって来るようであった。夜の暗さとはちがう薄暗さが動いているようなのは、風が出たのであろうか。もやの厚みは無限の距離がありそうだが、その向うにはなにかすさまじいものが渦巻いていそうだった。

 さっき、娘の右腕を借りて帰る道で、朱色の服の女の車が、前にもうしろにも、薄むらさきの光りをもやのなかに浮べて通ったのを、私は思い出した。紫色であった。もやのなかからぼうっと大きく薄むらさきの目玉が追って来そうで、私はあわててカアテンをはなした。


「寝ようか。僕らも寝ようか。」

 この世に起きている人はひとりもないようなけはいだった。こんな夜に起きているのはおそろしいことのようだ。

 私は首から娘の腕をはずしてテエブルにおくと、新しい寝間着に着かえた。寝間着はゆかたであった。娘の片腕は私が着かえるのを見ていた。私は見られているはにかみを感じた。この自分の部屋で寝間着に着かえるところを女に見られたことはなかった。

 娘の片腕をかかえて、私はベッドにはいった。娘の腕の方を向いて、胸寄りにその指を軽く握った。娘の腕はじっとしていた。

 小雨のような音がまばらに聞えた。もやが雨に変ったのではなく、もやがしずくになって落ちるのか、かすかな音であった。

 娘の片腕は毛布のなかで、また指が私の手のひらのなかで、あたたまって来るのが私にわかったが、私の体温にはまだとどかなくて、それが私にはいかにも静かな感じであった。

「眠ったの?」

「いいえ。」と娘の腕は答えた。

「動かないから、眠っているのかと思った。」


 私はゆかたをひらいて、娘の腕を胸につけた。あたたかさのちがいが胸にしみた。むし暑いようで底冷たいような夜に、娘の腕の肌ざわりはこころよかった。
 部屋の電灯はみなついたままだった。ベッドにはいる時消すのを忘れた。

「そうだ。明りが……。」と起きあがると、私の胸から娘の片腕が落ちた。

「あ。」私は腕を拾い持って、

「明りを消してくれる?」


 そして扉へ歩きながら、

「暗くして眠るの? 明りをつけたまま眠るの?」

「…………。」


 娘の片腕は答えなかった。腕は知らぬはずはないのに、なぜ答えないのか。私は娘の夜の癖を知らない。明りをつけたままで眠っているその娘、また暗がりのなかで眠っているその娘を、私は思い浮べた。右腕のなくなった今夜は、明るいままにして眠っていそうである。私も明りをなくするのがふと惜しまれた。もっと娘の片腕をながめていたい。先きに眠った娘の腕を、私が起きていてみたい。しかし娘の腕は扉の横のスイッチを切る形に指をのばしていた。

 闇のなかを私はベッドにもどって横たわった。娘の片腕を胸の横に添い寝させた。腕の眠るのを待つように、じっとだまっていた。娘の腕はそれがもの足りないのか、闇がこわいのか、手のひらを私の胸の脇にあてていたが、やがて五本の指を歩かせて私の胸の上にのぼって来た。おのずと肘がまがって私の胸に抱きすがる恰好になった。

 娘のその片腕は可愛い脈を打っていた。娘の手首は私の心臓の上にあって、脈は私の鼓動とひびき合った。娘の腕の脈の方が少しゆっくりだったが、やがて私の心臓の鼓動とまったく一致して来た。私は自分の鼓動しか感じなくなった。どちらが早くなったのか、どちらがおそくなったのかわからない。

 手首の脈搏と心臓の鼓動とのこの一致は、今が娘の右腕と私の右腕とをつけかえてみる、そのために与えられた短い時なのかもしれぬ。いや、ただ娘の腕が寝入ったというしるしであろうか。失心する狂喜に酔わされるよりも、そのひとのそばで安心して眠れるのが女はしあわせだと、女が言うのを私は聞いたことがあるけれども、この娘の片腕のように安らかに私に添い寝した女はなかった。

 娘の脈打つ手首がのっているので、私は自分の心臓の鼓動を意識する。それが一つ打って次のを打つ、そのあいだに、なにかが遠い距離を素早く行ってはもどって来るかと私には感じられた。そんな風に鼓動を聞きつづけるにつれて、その距離はいよいよ遠くなりまさるようだ。そしてどこまで遠く行っても、無限の遠くに行っても、その行くさきにはなんにもなかった。なにかにとどいてもどって来るのではない。次ぎに打つ鼓動がはっと呼びかえすのだ。こわいはずだがこわさはなかった。しかし私は枕もとのスイッチをさぐった。

 けれども、明りをつける前に、毛布をそっとまくってみた。娘の片腕は知らないで眠っていた。はだけた私の胸をほの白くやさしい微光が巻いていた。私の胸からぽうっと浮び出た光りのようであった。私の胸からそれは小さい日があたたかくのぼる前の光りのようであった。

 私は明りをつけた。娘の腕を胸からはなすと、私は両方の手をその腕のつけ根と指にかけて、真直ぐにのばした。五燭の弱い光りが、娘の片腕のその円みと光りのかげとの波をやわらかくした。つけ根の円み、そこから細まって二の腕のふくらみ、また細まって肘のきれいな円み、肘の内がわのほのかなくぼみ、そして手首へ細まってゆく円いふくらみ、手の裏と表から指、私は娘の片腕を静かに廻しながら、それにゆらめく光とかげの移りをながめつづけていた。

「これはもうもらっておこう。」とつぶやいたのも気がつかなかった。

 そして、うっとりとしているあいだのことで、自分の右腕を肩からはずして娘の右腕を肩につけかえたのも、私はわからなかった。

「ああっ。」という小さい叫びは、娘の腕の声だったか私の声だったか、とつぜん私の肩に痙攣が伝わって、私は右腕のつけかわっているのを知った。

 娘の片腕はミミ今は私の腕なのだが、ふるえて空をつかんだ。私はその腕を曲げて口に近づけながら、


「痛いの? 苦しいの?」

「いいえ。そうじやない。そうじやないの。」

とその腕が切れ切れに早く言ったとたんに、戦慄の稲妻が私をつらぬいた。私はその腕の指を口にくわえていた。

「…………。」

よろこびを私はなんと言ったか、娘の指が舌にさわるだけで、言葉にはならなかった。

「いいわ。」

と娘の腕は答えた。ふるえは勿論とまっていた。

「そう言われて来たんですもの。でも……。」

 私は不意に気がついた。私の口は娘の指を感じられるが、娘の右腕の指、つまり私の右腕の指は私の唇や歯を感じられない。私はあわてて右腕を振ってみたが、腕を振った感じはない。肩のはし、腕のつけ根に、遮断があり、拒絶がある。

「血が通わない。」と私は口走った。

「血が通うのか、通わないのか。」


 恐怖が私をおそった。私はベッドに坐っていた。かたわらに私の片腕が落ちている。それが目にはいった。自分をはなれた自分の腕はみにくい腕だ。それよりもその腕の脈はとまっていないか。娘の片腕はあたたかく脈を打っていたが、私の右腕は冷えこわばってゆきそうに見えた。私は肩についた娘の右腕で自分の右腕を握った。握ることは出来たが、握った感覚はなかった。

「脈はある?」と私は娘の右腕に聞いた。

「冷たくなってない?」

「少うし……。あたしよりほんの少うしね。」

と娘の片腕は答えた。

「あたしが熱くなったからよ。」


 娘の片腕が「あたし」という一人称を使った。私の肩につけられて、私の右腕となった今、はじめて自分のことを「あたし」と言ったようなひびきを、私の耳は受けた。

「脈も消えてないね?」と私はまた聞いた。

「いやあね。お信じになれないのかしら……?」

「なにを信じるの?」

「御自分の腕をあたしと、つけかえなさったじゃありませんの?」

「だけど血が通うの?」

「(女よ、誰をさがしているのか。)というの、ごぞんじ?」

「知ってるよ。(女よ、なぜ泣いているのか。誰をさがしているのか。)」

「あたしは夜なかに夢を見て目がさめると、この言葉をよくささやいているの。」


 今「あたし」と言ったのは、もちろん、私の右肩についた愛らしい腕の母体のことにちがいない。聖書のこの言葉は、永遠の場で言われた、永遠の声のように、私は思えて来た。

「夢にうなされてないかしら、寝苦しくて……。」

と私は片腕の母体のことを言った。

「そとは悪魔の群れがさまようためのような、もやだ。しかし悪魔だって、からだがしっけて、咳をしそうだ。」

「悪魔の咳なんか聞えませんように……。」

と娘の右腕は私の右腕を握ったまま、私の右の耳をふさいだ。

 娘の右腕は、じつは今私の右腕なのだが、それを動かしたのは、私ではなくて、娘の腕のこころのようであった。いや、そう言えるほどの分離はない。


「脈、脈の音……。」

 私の耳は私自身の右腕の脈を聞いた。娘の腕は私の右腕を握ったまま耳へ来たので、私の手首が耳に押しつけられたわけだった。私の右腕には体温もあった。娘の腕が言った通りに、私の耳や娘の指よりは少うし冷たい。


「魔よけしてあげる……。」

といたずらっぽく、娘の小指の小さく長い爪が私の耳のなかをかすかに掻いた。私は首を振って避けた。左手、これはほんとうの私の手で、私の右の手首、じつは娘の右の手首をつかまえた。そして顔をのけぞらせた私に、娘の小指が目についた。

 娘の手は四本の指で、私の肩からはずした右腕を握っていた。小指だけは遊ばせているとでもいうか、手の甲の方にそらせて、その爪の先きを軽く私の右腕に触れていた。しなやかな若い娘の指だけができる、固い手の男の私には信じられぬ形の、そらせようだった。小指のつけ根から、直角に手のひらの方へ曲げている。そして次ぎの指関節も直角に曲げ、その次ぎの指関節もまた直角に折り曲げている。そうして小指はおのずと四角を描いている。四角の一辺は紅差し指である。

 この四角い窓を、私の目はのぞく位置にあった。窓というにはあまりに小さくて、透き見穴か眼鏡というのだろうが、なぜか私には窓と感じられた。すみれの花が外をながめるような窓だ。ほのかな光りがあるほどに白い小指の窓わく、あるいは眼鏡の小指のふち、それを私はなお目に近づけた。片方の目をつぶった。


「のぞきからくり……?」

と娘の腕は言った。

「なにかお見えになります?」

「薄暗い自分の古部屋だね、五燭の電灯の……。」

と私は言い終らぬうち、ほとんど叫ぶように、

「いや、ちがう。見える。」

「なにが見えるの。」

「もう見えない。」

「なにがお見えになったの?」

「色だね。薄むらさきの光りだね、ぼうっとした……。その薄むらさきのなかに、赤や金の粟粒のように小さい輪が、くるくるたくさん飛んでいた。」

「おつかれなのよ。」


 娘の片腕は私の右腕をベッドに置くと、私の目ぶたを指の腹でやわらかくさすってくれた。


「赤や金のこまかい輪は、大きな歯車になって、廻るのもあったかしら……。その歯車のなかに、なにかが動くか、なにかが現われたり消えたりして、見えたかしら……。」

 歯車も歯車のなかのものも、見えたのか見えたようだったのかわからぬ、記憶にはとどまらぬ、たまゆらの幻だった。その幻がなんであったか、私は思い出せないので、


「なにの幻を見せてくれたかったの?」

「いいえ。あたしは幻を消しに来ているのよ。」

「過ぎた日の幻をね、あこがれやかなしみの……。」

 娘の指と手のひらの動きは、私の目ぶたの上で止まった。


「髪は、ほどくと、肩や腕に垂れるくらい、長くしているの?」

私は思いもかけぬ問いが口に出た。

「はい。とどきます。」

と娘の片腕は答えた。

「お風呂で髪を洗うとき、お湯をつかいますけれど、あたしの癖でしょうか、おしまいに、水でね、髪の毛が冷たくなるまで、ようくすすぐんです。その冷たい髪が肩や腕に、それからお乳の上にもさわるの、いい気持なの。」


 もちろん、片腕の母体の乳房である。それを人に触れさせたことのないだろう娘は、冷たく濡れた洗い髪が乳房にさわる感じなど、よう言わないだろう。娘のからだを離れて来た片腕は、母体の娘のつつしみ、あるいははにかみからも離れているのか。

 私は娘の右腕、今は私の右腕になっている、その腕のつけ根の可憐な円みを、自分の左の手のひらにそっとつつんだ。娘の胸のやはりまだ大きくない円みが、私の手のひらのなかにあるかのように思えて来た。肩の円みが胸の円みのやわらかさになって来る。

 そして娘の手は私の目の上に軽くあった。その手のひらと指とは私の目ぶたにやさしく吸いついて、目ぶたの裏にしみとおった。目ぶたの裏があたたかくしめるようである。そのあたたかいしめりは目の球のなかにもしみひろがる。


「血が通っている。」と私は静かに言った。

「血が通っている。」


 自分の右腕と娘の右腕とをつけかえたのに気がついた時のような、おどろきの叫びはなかった。私の肩にも娘の腕にも、痙攣や戦慄などはさらになかった。いつのまに、私の血は娘の腕に通い、娘の腕の血が私のからだに通ったのか。腕のつけ根にあった、遮断と拒絶とはいつなくなったのだろうか。清純な女の血が私のなかに流れこむのは、現に今、この通りだけれど、私のような男の汚濁の血が娘の腕にはいっては、この片腕が娘の肩にもどる時、なにかがおこらないか。もとのように娘の肩にはつかなかったら、どうずればいいだろう。


「そんな裏切りはない。」と私はつぶやいた。

「いいのよ。」と娘の腕はささやいた。

 しかし、私の肩と娘の腕とには、血がかよって行ってかよって来るとか、血が流れ合っているとかいう、ことごとしい感じはなかった。右肩をつつんだ私の左の手のひらが、また私の右肩である娘の肩の円みが、自然にそれを知ったのであった。いつともなく、私も娘の腕もそれを知っていた。そうしてそれは、うっとりととろけるような眠りにひきこむものであった。


 私は眠った。

 たちこめたもやが淡い紫に色づいて、ゆるやかに流れる大きい波に、私はただよっていた。その広い波のなかで、私のからだが浮んだところだけには、薄みどりのさざ波がひらめいていた。私の陰湿な孤独の部屋は消えていた。私は娘の右腕の上に、自分の左手を軽くおいているようであった。娘の指は泰山木の花のしべをつまんでいるようであった。見えないけれども匂った。しべは屑籠へ捨てたはずなのに、いつ、どうして拾ったのか。一日の花の白い花びらはまだ散らないのに、なぜしべが先きに落ちたのか。朱色の服の若い女の車が、私を中心に遠い円をえがいて、なめらかにすべっていた。私と娘の片腕との眠りの安全を見まもっているようであった。

 こんな風では、眠りは浅いのだろうけれども、こんなにあたたかくあまい眠りはついぞ私にはなかった。いつもは寝つきの悪さにべッドで悶々とする私が、こんなに幼い子の寝つきをめぐまれたことはなかった。

 娘のきゃしゃな細長い爪が私の左の手のひらを可愛く掻いているような、そのかすかな触感のうちに、私の眠りは深くなった。私はいなくなった。

「ああっ。」私は自分の叫びで飛び起きた。ベッドからころがり落ちるようにおりて、三足四足よろめいた。

 ふと目がさめると、不気味なものが横腹にさわっていたのだ。私の右腕だ。

 私はよろめく足を踏みこたえて、ベッドに落ちている私の右腕を見た。呼吸がとまり、血が逆流し、全身が戦慄した。私の右腕が目についたのは瞬間だった。次ぎの瞬間には、娘の腕を肩からもぎ取り、私の右腕とつけかえていた。魔の発作の殺人のようだった。

 私はベッドの前に膝をつき、ベッドに胸を落して、今つけたばかりの自分の右腕で、狂わしい心臓の上をなでさすっていた。動悸がしずまってゆくにつれて、自分のなかよりも深いところからかなしみが噴きあがって来た。


「娘の腕は……?」私は顔をあげた。

 娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを上向けて投げ捨てられていた。のばした指先きも動いていない。薄暗い明りにほの白い。

「ああ。」

 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先きとのあいだから、女の露が出るなら……。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/novel/kawabatayasunari.html

ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。

「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。

「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、

「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。


「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」

「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」


渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。

読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。

今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。


「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。

相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』)


そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」


この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。

今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。
実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。

友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。

時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。

渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。
『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。

島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。

三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。

渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。

だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。

http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html

そのA病院なんですけど、〇〇の斡旋をしているそうで。 素敵な世界に案内してくれるのは病院の院長さん。

最初は一枚写真を撮られますが、それからは一蓮托生、きっといい仲間となってくれるはずです。まあ、もともと院長の知り合いの方しか呼ばれないようですが、そこは努力と根性でなんとかしてくだい。みなさん名士がそろってらっしゃるそうなので、サロン気分でのご利用などもいかがでしょうか。

気になるお値段の方は、「相手」によっても変わってくるようですが、5万〜10万円が相場なのだとか。そのお相手もある程度限定されていて、事故で死んだ若い女子中高生なんかが人気なようですよ。ちなみに今までの「お相手」の最高金額は一回20万。 7歳の少女の死体だったそうです。
http://unkar.org/r/occult/1201014326

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川端康成 - アンサイクロペディア


川端康成(かわばた やすなり、1899年6月14日 - 1972年4月16日)は日本を代表する大文豪(ど変態)である。どの辺が変態かは作品の行間を読めばよくわかる。

「人間☆失格」の太宰治と不仲であったことが知られているが、実際には川端のほうがよっぽど変質者で異常者である。

むしろ完全なサイコパスであるがゆえに社会的勝利者となりえたのだと思われる

(太宰は「心ならずも道を踏み外した真人間」の苦悩を描いた良心的な作家ですらあり、本質としては気弱で心優しい善良な人間である。
やさしさと繊細さゆえに社会的に破滅してしまうことはよくある話である。
それゆえに女たちに好かれたのだろう。碇シンジが上辺は馬鹿にされつつも、暗にもてたのと同じ理屈)

同性愛で知られる三島由紀夫とは「心の友」ともいえる「師弟の契り」の仲だったらしい(「類は友を呼ぶ」のだろうか。共に「渚カヲル」ではないが耽美的変質者である)が、その関係がどこまで進んでいたのかは定かではない。


自死への道程

眼光鋭い作家の肖像。絶滅危惧種。

産道を抜けるとそこは雪国であった……とはいかなかった。そうならどれほどよかったろう。

世間はざわつき、大阪人の両親は首のまだすわらぬ赤子を揺さぶり、つきっきりで、狂ったようにぺちゃくちゃ話しかけた。

ああ、うるさい、死ねばいいのに。
ある日ついに怒り心頭に発した川端少年がその目をカッと見開くと身内がまとめて転げて死んだ。


利発な子であった。習ったことは頭の中の石板に刻みつけられた。

そんな彼の灰色の青春に転機が訪れる。旅先の伊豆の景色に、人に、彼は魅了される。
朗らかさ、あたたかさの中に宿命的に存在する陰影。静謐の美。
ああ俺はこれを求めていたのかそうかいや違うそうじゃない。

明晰な頭脳の奥の病んだ心は火だるまになって転げ落ちる踊り子に魅了される。

デカダンの道を突き進む男はいたいけな少女をちぎって捨て、ちぎって捨て、しかしそのちぎり絵が耽美に見えた。

彼の眼はやがて「古都」京都をも捉える。そして言い放つ、黙ってさびれてろ、と。時よ止まれ、日本きみは美しい。


突然の入院。なるほど止まるのは君でなくて俺ということか。
よろしい、しかしそれならばせめて美しく。静かに終わるならこれがよかろう。

しかしガス管をくわえるのは見た目に美しくない。
作家はガスストーブの栓を抜いた。無駄な配慮であった。部屋の中がくさいくさい。


作品

彼の作品、読書中のBGMには「残酷な天使のテーゼ」が最適である。


『十六歳の日記』

死にいたる病床の祖父の冷徹な観察日記。まさしくサイコパスである。


『伊豆の踊り子』

混浴温泉で出会った、全裸で手を振る純真な少女をじっくりと視姦する。最後の号泣シーンは議論と憶測と諸々の疑惑を呼んでいる。

『雪国』

田舎の温泉街で、家族を放置してきた男がふらふらする。

芸者女の「あなた、私を笑ってるのね」という言葉は、川端という人間の本質を表している。

残酷な人生観を持ちながらも冷笑的。
愛する男(不治の病)の療養費のために芸者に実を落とした悲壮の女を「徒労であった」とあっさり断じる。

高みから見下ろしている「憐憫」はあっても、太宰のような真摯な「同情」がない。
ひたすら悟りの境地で観察する、まさにニーチェ的超人の視点である。

畳の上で死んでいく虫の死に様を冷静に記述する様は猟奇的ですらある
(まるで「人間など虫けらと同じだ」と暗に言っているようである)。

『舞姫』

終戦直後の日本で崩壊していく家庭を描く。
無気力な夫の圧殺された怨恨感情が一家を蝕んでいく。
その有様はまるで黒い太陽が暗黒の光を放射するがごときである。

浮気相手の子供を助けるためにストリップに身売りする純情すぎる(馬鹿)女のサブエピソードつき。

あまり注目されていないが、ドストエフスキーにおける『悪霊』や『地下室』と同等の位置を占める「余計者」文学の極点である(川端はロシア文学の愛好者であった)。

ヒロインの「お父様は魔界から私たちを観察している」発言の「お父様=川端」は明白。

まさしく「仏道入りやすく、魔界入りがたし」である。
川端康成は魔界の住人であった。


『千羽鶴』

骨董趣味とエロさの混合。

茶器についてうんちくを並べる一方で、胸にあざがある女(喪女)の怨恨がよくえがかれている。

作者が描きたかったのはむろん後者だろう。

「名器」という発言に含みがあることは一目瞭然である(川端の作品には、この手の無意識に働きかけるサブミナル効果の手法がしばしば活用されている)。


『みずうみ』

物語はソープランドから始まる。

主人公の桃井は教え子と恋愛事件で学校を追われて、なお性懲りもなく密会を図る。
彼には父親を殺害された暗い過去があり、デカダンを体現する日陰者である。

タクシー運転手の背後から「不穏」な目で観察し「しかしリアルで襲い掛かれば狂人である」と思考する。まさに川端のイデアルな自伝、内面告白である。


『眠れる美女』

睡眠薬で眠らされた美女と同衾する新しい風俗の提案。

最後に薬で死亡した娘について、店の案内人が「死んだって、かわりはいくらでもいる」旨を言い放つ非情なラストが印象的。

ちなみにこの猟奇性は『散りぬるを』で「自分はいつか女を殺す」との発言にもつながっている(蓄妾に養成する予定で囲っていた女が殺害される短編)。


自殺

川端康成の死因はガス自殺とされてきた。
しかし近年の研究では戦略自衛隊による暗殺説が持ち上がってきている。

暗殺の理由としては精神的に無慈悲な神の境地に達した川端がサードインパクトを引き起こすこと「人類補姦計画」を目論んでいたためとされる(川端はエヴァの碇ゲンドウ・冬月コウゾウのモデルとも囁かれる)。

そのために川端はノーベル賞作家の美名の影で繰り返しリリスとの接触(売春を含む女犯行為)を繰り返していた。

そもそもノーベル賞受賞そのものがゼーレの陰謀という説がある。

異説としては、「死体のコレクション」の腐敗ガスが充満したことが原因という「青髭」説もある(青髭は昔話に出てくる死体収集者)。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90

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「仏界易入 魔界難入」とは一休が云った言葉だそうだ。川端康成は好んでこの言葉を揮毫したといわれる。「仏界易入 魔界難入」とは川端にとってどんな意味があったのか。

 梅原猛と五木寛之の対談によると、川端康成は魔界に住んでいた人だという。
「みづうみ」「眠れる美女」何かはまさに魔界の文学である。

さらに「雪国」はすごい官能小説だ。あの澄み切った官能の世界はうしろに魔界を秘めている。

「伊豆の踊子」でも少女が裸で出てきたりする。やっぱり本来どこか異常な精神を持っている人の作品だ。川端さんは世間の模範的な国民文学者としてのイメージと魔界にいる自分というものとの乖離の中で自ら死を選んだんじゃないかと思う。

特に、女性に関心があり、事務員は女性のみ、NHKの女性アナンサーは川端先生に太ももの上に手をのせて触られたとか、ある有名女優は無言でただ黙って手を伸ばして座っている膝にスッと触れられた。

梅原氏は川端が晩年「仏界易入 魔界難入」という言葉は一休宗純の言葉とされているが、それは本当に一休の言葉かどうか調べてくれと言われたそうだ。なぜこんなことを頼むのかわからなかったが、川端が亡くなってから「みづうみ」何かを読むと魔界を感じるという。

この対談からわかるように川端康成は自分が魔界の住民であることを知っていたのだろう。 川端は一般の人には「仏界易入 魔界難入」であるべきものが、川端本人は魔界に住んでいる住民であることがわかり、異常な人間であることを知ったことで、川端にとってはむしろ「仏界易入 魔界難入」ではなく「魔界易入 仏界難入」に思えたのではないだろうか。
http://homepage3.nifty.com/myorin/colum2014.html

----あたし、川端康成にナンパされたことあるわよ…。

----!?(びっくりして息を飲んで)

----むかし、十代のころ…。鎌倉のね、邪宗門って有名な喫茶店で…。

----マジ! えーっ、それ、マジっすかあ…!?

 その女性は若いころ結構美人さんであって---ウホン、いまでも華やかなオーラを撒き撒きする綺麗な方です!


---当時、住んでいるヨコハマからよく近郊の鎌倉まで遊びにいっていたというのです。

 で、鎌倉でウロウロしてたら、背広姿でよくそのあたりに出没していた川端さんに声をかけられた。

----ねえ、お嬢さん、これから僕と遊びにいきませんか?

 と川端さん、あの独自に甲高い、関西なまりのイントネーション声でもって、若い女性とみると、誰彼かまわずニコニコと声をかけまくってたそうです。

----あの先生、エッチなのよ…。若いキレイなコがいると、すぐに声かけてくるの。ニコニコしてたけど、おっきな眼がちょっと怖かったわ…。

 当時といえば、川端さんがノーベル文学賞をとったあと、いわば名声の絶頂にいたころ、だのに、なにやってんだか、この先生は?

 しかし、富やコネや権威を利用すればいくらでも女性なんか調達できたろう大物である川端さんが、こんなフェアなナンパに明け暮れていたなんて、ちょっと好感がもてなくもないですね。

 邪宗門っていう喫茶店はいったことないんだけど、どうも調べてみると、寺山修司と天井桟敷が関係してた店のようです。

 2013年に残念ながら鎌倉店は閉店しちゃったようだけど、そのつながりでいくと、たしかに晩年の川端さんが訪れてもふしぎじゃない。

 なーるほど、川端センセイ、あなた、栄華の絶頂にいたにもかかわらず、淋しくて淋しくて、素人の女性とふれあいたくて仕方なかったんですねえ?

 でも、金と地位をひけらかさない、その素朴なナンパの姿勢は立派っス。

 I さんは、邪宗門で川端さんと2度会って、2度目に彼氏といたときには、ふたりして川端さんからお昼をおごってもらったそうです---。

 川端さんが自室で岡本かの子の原稿を執筆中に急に外出し、逗子アリーナで例の自死を遂げたのは、その1週後だったとか…。
http://blog.goo.ne.jp/iidatyann/e/adf7c5f5d9bc28a95f8b60f23bc6655b

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『魔界の住人 川端康成――その生涯と文学――』装幀(上下)森本穫の部屋
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c

この、少女がこちらを向きながら仰向けに横たわっている絵は、石本正(しょう)画伯の「裸婦」という作品です。晩年の康成が愛蔵した絵です。

 康成は石本正の絵が大好きで、二人のあいだに深い交流のあったことも、本書では、詳しく描いています。

 さて、晩年の川端康成がこの絵を愛蔵したのには、深いわけがあります。

 この絵は、康成晩年の渇望、といおうか、憧れ、といおうか、康成の深い願望をこめた、まことに象徴的な絵画なのです。

 昭和29年(1954年)に、生涯の最高作ともいうべき「みづうみ」を発表した康成は、その6年後の昭和35年(1960年)に、多くの評家と読者をあっと驚かせた奇想天外な小説「眠れる美女」を発表します。

 主人公は、江口老人。友人から教えられた秘密の家に行きます。そこでは、別室に通されると、睡眠薬で深く眠らされた少女あるいは若い女性が裸身で横たわっているのです。

 この家のただ一つの禁制は、眠った女性に手荒なことをしないこと、だけです。

 実際、この秘密のクラブである家に通うのは、お金はあるが、すでに性的能力を失った、哀れな老人たちだけなのです。

 江口老人だけは、見かけとは異なり、まだ性的能力は残っているのですが、とにかく、秘密の密室で、眠った裸身の女性と、ひと晩、一緒に眠れるということは、至高の歓びなのです。友人は、この家の一夜を「秘仏と寝るようだ」と表現しました。

 まことに、老人たちは、この家に通い、一夜、裸身の少女と寝床を共にするだけで、生きている歓びを得ることができます。

 もちろん、歓びだけではありません。この家は、海に面した高い崖の上に建っているようです。冬が近く、海面にみぞれが降るイメージも出てきます。

 つまりそれは、遠からず老人を襲う死の恐怖です。暗黒の死の恐怖とうらはらに、一夜の、観音様のような全裸の美女と過ごすという稀(まれ)な幸運を得るのです。

 江口は5夜、この家を訪れ、眠って意識のない裸身の女性の傍らで、過ぎ去っていった女性たちを思い出します。特に第1夜に思い出す、結婚前に北陸から京都まで旅を共にして処女を奪った女性の記憶は鮮烈です。

 その2〜3年後の昭和38年(1963年)に、康成は「片腕」という短い作品を発表します。これも、深い濃霧の夜に、一人の少女から、片腕だけを借りてアパートに帰り、片腕と一夜を過ごす、という物語です。

 晩年の康成が、若い女性、あるいは少女の裸身に、どれほど憧れを抱いたか、よくわかるでしょう。

 私のお薦(すす)めは、「掌(たなごころ)の小説」と呼ばれるショート・ショートの一編、「不死」という作品です。新潮文庫に、「掌の小説」を1冊にまとめたものがあります。この、終わりの方に出てきます。

 ひとりの老人と、若い娘が、手をつないで歩いています。若い娘は、昔、老人の若かったころ、恋人だったのですが、おそらくは身分の違いのため一緒になれず、娘は海に飛び込んで死にました。

 その娘が今、生き返って、昔の恋人で、今は人生に敗残した老人と一緒に歩いているのです。

 くわしい話は、私の本(下巻)で読んでください。

 やがて二人は、ゴルフ場の端にある、大きな樹の、洞穴(ほらあな)に、すうっと入ってゆきます。そうしてもう、出てこないのです。

 永遠の生命を得て、二人は永遠に、その樹の洞(ほら)の中で過ごすのです。
 ここに、康成の晩年の渇望(かつぼう)がよく表れています。

 私は、そのような康成の晩年の渇望を具現した作品として、この絵を下巻の口絵写真の一つに選びました。

 装幀家の盛川さんは、私の意図をよく汲んで、この絵で表紙を飾ってくれました。

 女性の読者は、この表紙を見て、ちょっと、どきっとされるかも知れませんが、男性読者は、この絵の美しさに惹(ひ)かれることでしょう。

 康成が死の半年前(昭和46年、1971年)に発表した「隅田川」という作品があります。これは、敗戦後まもなく書き始められた「住吉」連作の、22年ぶりの続編なのですが、その中に、象徴的な言葉がでてきます。

 主人公の行平(ゆきひら)老人が、海岸の町の宿に行こうとして、東京駅に行きます。すると、ラジオの街頭録音の、マイクロフォンを突きつけられます。

 「秋の感想を一言きかせてください」という質問です。行平は、

 「若い子と心中したいです」と答えます。

 「えっ?」と驚くアナウンサー。その意味を問います。すると行平の答えは、こうです。 「咳をしても一人」

 この一節は、最晩年の川端康成の心境を、如実にあらわした部分です。

 咳(せき)をしても一人……これは、放浪の俳人・尾崎放哉(ほうさい)が、晩年、小豆島に渡って独居し、死に近いころ読んだ自由律の俳諧です。

 咳をしても、その、しわぶきの声が、壁に反響して、空しく自分にはね返ってくるだけだ、という、孤独と寂寥(せきりょう)の極みを詠んだものです。

 つまり康成は、自分の根底の願望を「若い女性と心中したいです」と語り、その背景として、恐ろしい孤独の意識を、ここで告白したのです。

 ノーベル賞を受賞して、晴れがましい騒ぎの余波から、わずか3年後のことでした。
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事故のてんまつ
『事故のてんまつ』は、臼井吉見による中編小説。


1972年(昭和47年)4月16日に自殺したノーベル文学賞受賞作家・川端康成の自殺の真相を明らかにする、と新聞広告ではあおられたが、実名はなく、家政婦として大作家に雇われた「鹿沢縫子」(仮名)という女性の語りの形式をとり、「縫子」がその作家にいたく可愛がられた様子と、1年ほどの勤めの後に致仕して郷里の信州へ帰ると言った翌日、作家が自殺するというのが前半で、後半は「縫子」の語りによる「川端康成論」になっている。


裁判沙汰

『展望』は増刷するほどに売れたが、川端家(未亡人・秀子、養女・政子、婿・香男里)は筑摩書房に苦情を申し入れた。死者の名誉権は成立しないというのが通説だったが、川端家は秀子の名誉も毀損されたと主張、数次の準備書面のやりとりがあった。

週刊誌、女性週刊誌、月刊誌などで多くの関連記事が出たが、川端家側は実在する家政婦の存在は否定せず、細かな事実の間違いを指摘した。


『事故のてんまつ』に書かれていることと、実際の事実関係や経緯には違いがあり、臼井が川端を批判したいがために、脚色や誇張がされている部分が多々あることが、「鹿沢縫子」(仮名)や、その家族、地元の周辺人物からの取材で検証されている。その中の主なものを以下に挙げる。

川端が1970年(昭和45年)5月に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)に招聘された際に、植木屋「庭繁」(実際の店名は「アルプス園」)の娘として働いていた「縫子」と出会い、盆栽などを川端家に配達して来た「縫子」が川端家の家政婦として働くことになったのは事実であるが、本作に書かれているように、川端が嫌がる「縫子」を何度も何度も勧誘したということはなく、実際には、人手の足りない川端家に、もう1人家政婦を求めていた妻の秀子が、「縫子」の養父(血縁関係は無い)に依頼し、名誉なことだと思った養父が「縫子」を説き伏せたことが、養父本人により証言されている。

本作の中では、「縫子」や川端の他、川端の過去の恋人・伊藤初代が被差別部落出身者とされ「人にきらわれる、不幸な生い立ちの娘」とされ、川端夫人についても「肉屋さんとかの娘さん」という虚偽があった。

川端の出目については、語り手「縫子」がそうではないかと思ったように記述され、北条氏の子孫であるという系図を掲げているとして臼井は否定したが、読み手に川端も被差別部落出身者だと暗示させるように書かれている。

実際には、伊藤初代の戸籍や系譜は多くの川端研究者によって特に部落出身でないことが確定されており、「縫子」の実母や実父の出身地は別の地域や県であることが、森本が弁護士を用いて調査している。

なお森本は、「縫子」本人に2012年(平成24年)時点で接触を試みているが、「縫子」は面談取材を一切断わり、本作について、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」とし、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない、ということです」と夫(当時付き合っていた恋人)を通じて伝えている。


しかし、「縫子」が川端の死の直後、通夜の時に養父に、「先生の自殺の原因はわたしにあるように思う」と打ち明けたことに関しては、関係者の証言などの総合的な観点からほぼ事実であろうと森本は検証し、家政婦の契約を更新せずに信州に帰ることを断言したことで、川端を傷つけたという意識が「縫子」の中にあったことがうかがえるとしている。

そして「縫子」本人が、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない」と伝え、川端が「縫子」に強い好意を持っていたことを完全否定はしていない点を森本は鑑みながら、川端という作家がその生涯において抱き続けた「美神」の少女像(伊豆の踊子、伊藤初代、養女・黒田政子)が、晩年において「鹿沢縫子」に受け継がれていたという可能性は十分あると考察しており、「縫子」が去っていくことを知った川端が、かつて伊藤初代との別れで味わった「身を切られるような〈かなしみ〉」に襲われ、逗子マリーナへ向かったことも想像に難くないとしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%BE%E3%81%A4


川端康成 探索『事故のてんまつ』 - 魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋
                       

 今年2012年(平成24年)は、川端康成の没後40年になる。その死の5年後、すなわち今から35年前の春に、臼井吉見が『展望』5月号に「事故のてんまつ」を発表し、さらに単行本『事故のてんまつ』出版を強行したのだった。

 わたしは初め、この作品とその反響について書くかどうか、すこし迷っていた。しかし、川端康成の生涯と文学を考える上に、この事件は、きわめて重要な意味を持っている。やはり書くべきだろうと思いながら、事件の翌年に出版された武田勝彦・永澤吉晃編『証言「事故のてんまつ」』(講談社 昭53・4)巻末の「関係文献一覧」を参考に、連載をつづける傍ら、ぽつぽつ、重要そうな文献のコピーを蒐集してはいた。

 このようなわたしに火をつけたのは、小谷野敦の「『事故のてんまつ』事件 1977」という論考だった。

 これは『現代文学論争』(筑摩書房 平22・10)に掲載されたもので、兄事する関口安義氏が、メールで「面白いですよ」と推薦してくださったのである。

 すぐジュンク堂WEBで取り寄せてみると、なるほど、刺激に満ちたものだった。このひとの名はよく承知していたが、読むのは初めてである。『事故のてんまつ』前後の騒ぎを「事件」として捉え、その推移について述べている。

 が、どうもこのひとは攻撃的な人格の持ち主であるらしく、あちこちに喧嘩を売っている。

 川端康成の伝記的研究も、『事故のてんまつ』問題の追究も、この騒ぎの影響で萎縮し、停頓している、と決めつけているのだ。そして、自分は近いうちに、『事故のてんまつ』を含めた川端康成の伝記を書いて、このタブーを打ち破る、と宣言している。

 この喧嘩を、わたしが買った。「別にタブーがあるわけではない。ただ誰もが康成の自裁の謎と『事故のてんまつ』について、何となく、書かなかっただけだ。それなら、わたしが書こう」と決意したのである。

 小谷野敦はこの論考で、大胆にも、当時の関係者を、「すでに当時の週刊誌や新聞も報じているから」といって、実名で書いている。これは、じつは部落問題やプライヴァシーの問題で、関係者たちに迷惑をかける可能性のある、危険なことなのだ。

 しかも、週刊誌も遠慮して書かなかった、事件のヒロインであるお手伝いさんの実名を、小谷野敦は書いたのである。そしてそれは後述するように、全くの人違いだったのだ。

 ともあれ、小谷野敦の挑発的な文章によって、わたしは康成最後の恋であるかもしれないこの事件について、本格的な取材をはじめた。

 35年前の、週刊誌などに追い回された当事者たちは、いま健在なのだろうか。もし物故しているならば、その家の跡を継いでいる親族の名を知りたい。もちろん住所も、できれば電話番号も……。

 最初に考えたのは、やはり、信州穂高のひとに訊ねることだった。穂高に知人のいるひとはいないだろうか。

 ……大学時代の旧友を思い描いてゆくうち、いい友人を思い出した。全国に知人を持っている可能性が高い。

 詳しくは連載に書いたが、S氏は、穂高に知人を持っていた! そのひとは、穂高の老舗の後継者であるという。早速、探索事項を書いた文書を作成して、S氏に送った。

 そして老舗の後継者は、みごとに、わたしの期待に応えてくださったのである。穂高の町では、35年前の騒動を覚えている方が沢山いた。当事者たちの住まいや名前を、わけなく教えてくださったのである。

 この過程で、小谷野敦氏の挙げた名前が全くの別人であることもわかった。小谷野氏は、新聞に実名の出た、別のお手伝いさんを「縫子」と勘違いしていたのである。

 わたしは上記の参考文献のほとんどを手元に揃え、読破していった。一方で、生みの母親の名も顔も知らない「縫子」の、まぼろしの実母と実父を尋ねる探索も進めた。

 穂高へ、実地踏査に行き、幾人もの関係者に会ってお話を聞き、また「縫子」の住んだ家々の跡もたずねた。

 37年前の昭和45年5月中旬、川端康成が訪ねた盆栽店――「縫子」の養父の営んでいた『庭繁』――実際の店名は『アルプス園』だった――の跡地にも立ってみた。康成が訪ねたのと同じ5月である。残雪が白く残る北アルプス連峰が美しかった。

 つい先日は、「キューポラのある街」として知られる埼玉県の或る町を訪ねた。「縫子」の実母の名がわかり、その晩年の世話をしたM氏に会いに伺ったのである。M氏は、「縫子」と康成が二人で写った写真を見せてくださった。背景や服装などから、養父一家がミネゾを鎌倉長谷の川端邸に運び込み、植えたとき、記念に撮影したものと推測された。

昭和23年生まれ、このとき22、23歳であった「縫子」は、色白のか細い少女で、まだ高校生のように見える。

 M氏は、「縫子」の実母の、甥にあたる方であった。惜しくも、実母は、3年前に亡くなっていたが、その生涯や、「縫子」の実父と出会った日々を記録した手帳も見せてくださった。

 実父と実母は、34歳の年齢差がある。生後一年前後で、「縫子」は実父の家に引き取られた。その養母と七五三のときに撮った写真もあった。「縫子」7歳の写真である。

 実父は、「縫子」の満8歳のときに亡くなったが、奇しくも、わたしの故郷と同じ福井県の、丸岡町の出身であった。その実父の出自を調べるために、わたしは近く丸岡町を訪ねる予定である。

 「縫子」自身は、わたしの取材の求めに応じてくれなかったが、ご主人を通じて、自身の感想をFAXで送ってくれた。

 その言葉と、これまでの取材によって、わたしは康成と「縫子」の関係を了解した。康成は、かつて様々な少女に慕情を抱いたように、自分に境遇の近似した「縫子」に、慕情を寄せたのだ。

 それを口にすることもなく、ただ黙って康成は死を選んだ。
           (『文芸日女道』532号〈2012・9〉)
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/18418ed16c41ec3ecadd55f370a98352


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フェティシズムとは何か・・・フェティッシュとしてのエロスとタナトス
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%83%88%E3%82%B9&spf=68

まず、フェティシズムとはいったい何なのか。この「フェティシズム」という用語、元はといえば、最初に宗教学の中で使われ始めたものである。

フェティッシュとはもともと、ラテン語の facio,facere(つくる)という動詞の完了受動分詞factus(英語のfactの語源)、そして、それから 派生した語facticius(人工の)がフランス語化されて、factice(人工の)となり、さらに、フェティッシュという語が造られた。

これが17世紀以後、「呪物」 、「物神」といった意味で用いられ るようになり、特にヨーロッパの白人たちから見た、アフリカなどの原始的な宗教において崇拝 の対象となるものを意味する用語として使われるようになった。

例えば、護符(amulette, grigri, porte-bonheur, talisman)、また、マスコット(mascotte)としての人や動物、さらには、 日本の神社においていわゆる御神体として信仰の対象とされているもの、山、岩、古木、木で彫られた男根、鏡等などはみなフェティッシュである。それらのものはみな、さまざまな由来と歴 史を経てそれぞれの文化の中で記号化されることによって、すなわち、山は単なる山ではなく、 何か超自然的な力を秘めたシンボル的存在とみなされることによって、特別な意味と価値を持つ ようになったものである。

そして、その様なものに対する呪物崇拝、物神崇拝のことを「フェテ ィシズム」と呼ぶようになったのである。さらに、経済学の領域においても「商品価値」や「貨 幣価値」等を考える上で、「フェティシズム」という語が使われるようになった。


そして更に、心理学や精神分析の領域においても「フェティシズム」という用語が使われるようになった。

それは「節片淫乱症」などと訳されることもある、性的倒錯の一種である。

性的倒 錯としての「フェティシズム」とは、性的欲望が他者としての異性あるいは同性そのものに向かうのではなく、その他者の身体の一部のみ、あるいはその他者から発せられるもの、その他者に 付随するもの、例えば、その他者の毛髪、目、足、しぐさ、性質、能力、さらには糞尿、体液、 体臭、肌着、靴下、靴、ハンカチなどに向かうことを意味するのである。これらのものもみな呪物、物神、商品、貨幣などと同様に、記号化、シンボル化されることによって始めて特別の価値 あるいは意味を持つようになり、欲望の対象とされるのである。

しかし、この「フェティシズム」という語を、記号化されることによって始めて価値あるいは 意味を持つようになったものに欲望が向けられることを意味するものとして理解するならば、既 に述べられたことからも明らかなように、「フェティシズム」とは世界と自己に対する人間の 《本源的態度》ということになるであろう。

ということは、人間が有する性の在り方の根源にも 「フェティシズム」が存在するということである。性的対象のみならず性的目標としての性行為 (フロイトの『性欲論』参照)もまたすべて、記号化されることによって始めて価値あるいは意 味を持つようになるのであり、人間にとっての性的対象および性行為のすべては「フェティッシ ュ」としてのみ存在しうるのである。即ち、あらゆる対象が人間にとって性的対象となり、あらゆる行為が性行為となりうるのである。

また、先に述べられたような、記号として人間にとりついて、人間を常に不安と恐怖の中に落 としいれるところの「死」もまた欲望の対象となることが可能なのであり、人間のみが「死」を希求 し、讃美し、また本当に自殺することもできるのである。ボードレールの詩を引き合いにだすま でもなく、人間は死をよろこぶことができるのである。

人間のみが自らの死に方を選択したり、 死を望んだりすることができるのは、そこに「フェティシズム」があるからに他ならない。他の 動物は「死ぬ」のではなく、ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗してゆくのみである。

このようにして性への衝動としてのエロスと死への衝動としてのタナトスは、人間が本源的に 有するところの、その「フェティシズム」において成立するのである。

そのような人間のエロスの在り方が有する無限の多様性がいわゆる「変態性」の起源となり、また、人間のみが死ぬこと をよろこぶことができるということが、その退廃性(デカダンス)の起源となっているのであろう。


フェティッシュに満ちた世界
文化的記号としてのフェティッシュ


私たちはこの世界の中にあるすべてのものを、「理性」によって記号に置き換え、フェティッ シュとしての意味付けを与え、それらを崇拝したり、欲望の対象にしたり、あるいはまた禁忌の 対象にしたりしている。

ところで、ひとつの社会の中で、ほぼ同じようなものが崇拝されたり、 欲望の対象とされたりするのは、そもそもフェティッシュなるものが言語的記号との分離不可能 性において成立しているからであり、同じ言語体系を共有しているひとつの社会、共同体の中で は、その成員のほとんどは同じようなものを崇拝し、同じようなものを欲望の対象としている。 そして、このことによって、その社会における共通の価値観、常識、モラルといったものが成立するのである。

それらにおいて、禁忌の対象とされるものが、いわゆる社会的タブーといわれるものである。また、社会的タブーのほとんどは「性(エロス)」と「死(タナトス)」に関連する もの、例えば、死者の扱い方、弔い方に関するタブー、近親姦タブー、同性愛タブーなどである。


ネクロフィリア、少女コレクション、人形愛

しかしながら、すべての人々がこのような社会的タブーを守り通しているわけではないし、ま た、それはありえないことであろう。そして、タブー逸脱の最たるもののひとつとして、ネクロ フィリア(死体愛好症)が上げられるであろう。

これは、まさしく死者をその性的欲望の対象とすることであり、エロスとタナトスの融合のひとつの形といえよう。

なぜ性的欲望の対象が死者 (死体)という物体(オブジェ)、あるいはフェティッシュであらなければならないのか。

なぜなら、死体には意志も欲望もなく、こちらに立ち向かってくることも、語りかけてくることもなく、 このことによって、「わたし」と死体とのあいだには、情念と情念による、お互いの交流が成立 し得ないからである。

すなわち「愛」というものの介入をここでは徹底的に排除することができるからである。

性欲は「愛」による拘束を逃れることによって、はじめて純粋性欲として自己完結することが可能となる。死の中にある他者を欲望の対象とすることによって、「わたし」は自らの性の喜びを最大限に味わうことができるのである。 さらに、これに近いものとして、ペドフィリア(小児性愛)やピュグマリオニズム(人形愛) が挙げられるであろう。

ただし、ペドフィリアというと、すぐ「犯罪」というイメージに結び付けられやすいので、ここでは、澁澤龍彦氏に倣って、「少女コレクション」と呼ぶことにしよう。

氏によれば、美しい少女ほど、コレクションの対象とするのにふさわしい存在はない。
蝶のよう に、貝殻のように、捺花のように、人形のように、可憐な少女をガラス箱の中にコレクションす るのは万人の夢である。

コレクションに対する情熱とは、いわば物体(オブジェ)に対する嗜好である。

生きている動物や鳥を集めても、それは一般にコレクションとは呼ばれない。すでに体 温のない冷たい物体、完全な剥製となっていなければ、それらはコレクションの対象とはされない。

しかし、少女までも剥製にされなければならないというわけではない。
生きたままでも、少女という存在自体が、つねに幾分かは物体(オブジェ)、すなわちフェティッシュなのである。

人形も、少女も、自らは語りだすことのない受身の存在であればこそ、男たちにとって限りな くエロティックなのである。

女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、澁澤氏によれば、男たちの欲望を白けさせるものでしかない。

女の主体性を女の存在そのものの中に封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体近づか しめれば近づかしめるほど、ますます男の欲望(リビドー)が蒼白く活発に燃えあがるというメ カニズムは、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向を証明するものであり、 そして、そのような男の性欲の本質的傾向に最も都合よく応えるのが、そもそも、社会的にも、性的にも、無知で、無垢な少女という、ある意味で玩具的な、存在だったのである。

まさしく、 「お人形さんのように可愛い」少女を自らの掌に納めることこそ男の憧れなのである。

しかし、当然のことながら、そのような完全なオブジェ(フェティッシュ)としての女は、厳密に言えば、男の観念の中にしか存在することができない。そもそも、男の性欲それ自体が極め て観念的なものであるのだから、その欲望の対象となるものも、極めて観念的なフェティッシュ であらざるを得ない。

問題は、そのような極めて観念的な欲望の対象を、想像力の世界で、どこ まで実在に近づけうるかである。中世の錬金術師たちが、フラスコの中にホムンクルス(人造小 人間)を創りあげようとしたこともそのような試みのひとつであったのであろう。

川端康成におけるフェティッシュとしての少女の身体


ところで、上述のような、フェティッシュとしての少女や、その身体をものの見事に描いた文 学者の一人に川端康成がいる。


彼が少女、あるいは少女の身体を愛でる、その仕方は、まさに、 茶の道を究めた茶人の茶器を愛でるが如くである。(茶道における茶器もまたフェティッシュに 他ならない。)事実、川端は少女と焼き物を愛した。

たとえば、「生命が張りつめていて、官能的 でさえある」志野の茶碗(『千羽鶴』 )。

水指の表面は川端の主人公にとっては、女の肌と区別しがたいものである。

「白い釉のなかにほのかな赤が浮き出て、冷たくて温かいように艶な肌」(同 上)。同様に女の肌は、ほとんど陶器の表面そのものであって、「白い陶器に薄紅を刷いたような 皮膚」 (『雪国』)でなければならない。

焼き物も、女も、見て美しいばかりでなく、指で触れ、 その指の先の感覚に、主人公とその「もの」との関係のすべてが要約されるような対象である。

たとえば、『雪国』の主人公は、「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚え ている」という。

一方には、女の物化(レイフィカシオン)があり、他方には、物の官能化がる。 女は焼き物の如く、焼き物は女の如くである。いや、焼き物に限らず、冬の夜の天の河でさえも、 「なにか艶めかしい」のである(『雪国』)。

このような少女の描き方は、『伊豆の踊り子』から、晩年の『眠れる美女』や『片腕』にいたるまで一貫している。

『伊豆の踊り子』の少女の「若桐のように足のよく伸びた白い裸身」から、 『みずうみ』の「夜の明りの薄い青葉の窓に、色白の裸の娘が立っている」ときまで、女はつね に視覚に、触覚に、あるいは聴覚に訴える美しい対象であり、彫刻のような物(フェティッシュ) であって、決して主体的な人間ではなかった。

その極端な場合が、『眠れる美女』である。

海浜 の不思議な家で、老人は麻酔で眠らされた若い女を見ることができるし、愛撫することもできるが、女の側には意識がない。

『たんぽぽ』の妖精のような少女は、肉体的な愛の極致において相手の身体が見えなくなるという病(人体欠視症)をもつ。

女は純粋に見られるもので、見るものではない。

超現実主義的な『片腕』に到ると、もはや女の側には肉体的な全体性さえもなくなり、 「エロティック」な対象は、女の身体の一部分に集中するのである。(加藤周一『日本文学史序説』参照)

川端にとって、少女、あるいは少女の身体とはまさしく物神としてのフェティッシュその ものだったのである。

特に、『眠れる美女』や『片腕』は、究極的なフェティシズムに基づくところの、エロティシ ズムと、それにまとわりついて最後まで離れることのない、そして、最後にはついに現実化して しまうところの「死(タナトス)」のイメージとによって、完成度の極めて高い、デカダンス文学の逸品となっている。

また、川端の作品には、実にたびたび、命に対する讃仰があらわれる。巨母的小説家であった 岡本かの子に対する彼の傾倒は有名である。

しかし、彼にとっての生命とは、まさしく官能その ものなのである。

この一見人工的な作家の放つエロティシズムは、彼の長い人気の一因でもあっ た。このエロティシズムについて、中村真一郎が三島由紀夫に語ったことがあるという。

「この 間、川端さんの少女小説を沢山、まとめて一どきに読んだが、すごいね。
すごくエロティックな んだ。

川端さんの純文学の小説より、もっと生なエロティシズムなんだ。

ああいうものを子供に 読ませていいのかね。
世間でみんなが、安全だと思って、川端さんの少女小説をわが子に読ませているのは、何か大まちがいをしているんじゃないだろうか。」


このエロティシズムは勿論、大人が読まなければわからないものだが、それは、川端自身の官能の発露というよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるいは接触の試みと云ったほうが近い。

それが真の意味でエロティックなのは、対象すなわち生命が、永遠に触れられないというメカニズムにあり、彼が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときにはすでに処女ではないという、処女独特の メカニズムに対する興味だと思われる。

また、川端が生命を官能的なものとして讃仰する仕方に は、それと反対の極の知的なものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるように思われる。

生命は讃仰されるが、接触したが最後、破壊的に働くのである。すなわち、生命という官能を知 的に把握、分節しようとしたその瞬間にわれわれは、まさに生命そのものによって死の中へと叩 き落されるのである。

そして、川端の芸術作品は、知性と官能との、いずれにも破壊されることなしに、両者の間に張り詰められた一本の絹糸のように、両者のあいだで舞い踊る一羽の蝶のように、太陽の幸福な光を浴びつつ、美しく光る月のように、存在しているのである。(三島由紀 夫『永遠の旅人』参照)

処女である少女とはあらゆる人間の中で最も(あからさまに)性的でない存在であり、一切の官能と性的なものを一番安全な場所に封じ込めてしまっている存在であるが、なぜそうしなければならないのかというと、処女の有するエロティシズムこそがもっとも危険で、破壊的な魔力を有するものであるからにほかならない。

そのことを川端自身が一番よくわ かっていたからこそ、彼は見事に少女の美を描くこともできたのであろう。

『眠れる美女』と『片腕』

上に述べられたような「生命」を逆説的に、また官能的な仕方で見事に描いた作家に川端康成 がいる。その晩年の作品、『眠れる美女』の主人公、江口老人は、海辺の不思議な宿で、麻酔で 眠らされている、何も身に着けていない処女である娘たちと夜をともに過ごす。江口はその娘を 見て、「まるで生きているようだ。」とつぶやく。

生きていることはもとより疑いもなく、それはいかにも愛らしいという意味のつぶやきだったのだが、口に出してしまってから、その言葉が気味悪いひびきを残した。

なにもわから なく眠らせられた娘はいのちの時間を停止してはいないまでも喪失して、底のない底に沈めら れているのではないか。生きた人形などというものはないから、生きた人形になっているので はないが、もう男ではなくなった老人に恥ずかしい思いをさせないための、生きたおもちゃにつくられている。いや、おもちゃではなく、そういう老人たちにとっては、いのちそのものなのかもしれない。こんなのが安心して触れられるいのちなのかもしれない。・・・

死にできうる限り近づくことによってのみ、人は生命そのものに近づくことができる。いのちの時間を喪失した娘たちと一夜を過ごすということ、そこには、江口老人自身に近づきつつある「死」の影を見ることができるし、また、老人は安心していのちに触れることができる。

しかし、この宿での五度目の夜、老人は二人の娘とともに眠るのだが、その片方の娘、老人をして、 「いのちそのものかな。」とつぶやかせた、野蛮のすがたをした、黒光りした肌を持つ、ふとんを はねのけ、大の字に寝ていた、そして「生の魔力をさずけろよ。」というような戦慄のつたわっ て来そうな娘が、翌朝老人が眼を覚ますと、死んでいたのである。

その前に、江口老人の知り合いである、福良老人の死や、江口の母の死の思い出も描かれているのだが、ここにきて、「死」 は老人の目前にそのすがたをあらわす。まさしく「生の魔力」そのものが「死」として現前する のである。

しかし、その現前は一瞬のみである。恐れおののく老人に、宿の女は、「娘ももう一 人おりますでしょう。」と告げ、その言い方ほど老人を刺したものはなかった。宿の女たちは急いで死んだ娘を運び出し、車に乗せてどこかへ消えてしまう。

老人は、もう一人の、白い娘のは だかのかがやく美しさを見る。 三島由紀夫によれば、この作品に見られる、執拗綿密な、ネクロフィリー的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩の極致である。

しかし、性的幻想にはつねに嫌悪が織り込まれ、また、 生命の参仰にはつねに生命の否定が入りまじっているため、息苦しいほどの官能そのものの閉塞感がある。

川端において、性が自由や開放の象徴として用いられることなど皆無である。
性はつねに生命と官能の閉塞状態において成立し、その世界の絶対無救済性を示すものである。しかも この絶対無救済の世界は、一人の「眠れる美女」の突然の死によって、閉じられるのではなく、 江口老人自身の死をも暗示する、逃れようのない「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」へと開かれている。

この作品は、これ以上はない閉塞状態をしつこく描くことによって、ついに没道徳的な虚無へ読者を連れ出す。

三島は、かつてこれほど反人間主義の作品を読んだことはない、と言う。

また、「この家には、悪はありません。」という宿の女の言葉は、この世界には、悪に対立するものとしての善も存在しないということを示しており、さらには、川端の文学作品の中には、 真の救済も破滅も存在しないことをも示している。

また、『片腕』という作品になると、対象としての娘の肉体はその全体性を失って、片腕だけとなり、主人公と一夜をともに過ごす。しかし、その片腕は生きた片腕であり、主人公と会話、 交流、感応しあうことができる。しかしそれは、対象がその全体性を失った片腕であったからこそ可能なのである。

娘の片腕はまさしく「玩具」として、川端の絶対的孤独の世界への訪問を許されるのである。

「対話をすることのできる娘の片腕」とは川端にとって、理想的な女の在り方 のひとつなのである。それは女自体の望ましい象徴的具現なのである。

『片腕』の主人公はさらに、自分の片腕と娘の片腕とを付け替えてみる。そして、その娘の片腕に自分の血が通っていることを確認し、「腕のつけ根にあった、遮断と拒絶はいつなくなった のだろうか。」とその感想を漏らす。

しかし、「遮断と拒絶」とは、実は腕の付け替え(人体改 造?)などという児戯を演じる以前からの常態であったのである。『片腕』の主人公は自らの身体そのものとの交流さえも十分に感じることのできない、即ち、自らの身体からさえも拒絶され、 阻害されるという絶対孤独の中に生きていたのである。

そのような絶対孤独の中に生きる人間であるからこそ、娘の片腕との会話と交流という、このフェティシズムの極致における欲望の充足を得ることができるのである。そのような孤独な人間は通常の人間的接触や性的接触によっては決して満足することができないのである。

しかし、この作品の最後の場面は切なくなるほどに悲しい・・・

「娘の腕は・・・?」私は顔をあげた。

娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを 上向けて投げ捨てられていた。のばした指先も動いていない。薄暗い明かりにほの白い。

「 ああ。」 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先とのあいだから、女の露が出るなら・・・・・。


西山老人のフェティシズム、そして魔界

川端康成の遺作となった『たんぽぽ』には、西山老人という印象的な人物が登場する。

たんぽぽの花が咲いた春のような町、生田町の生田川沿いにある「気ちがい病院」に入院している老人である。

その病院とは、官能の極致において、その恋人の身体が見えなくなるという、人体欠視症にかかった主人公、木崎稲子が入院する病院である。また、その病院は常光寺という寺の中にある。

たとえば、病院の主のような西山老人は、本堂の畳に紙をひろげて大きい字を、よく 書いている。白い日本紙や唐紙が、この老狂人の手にそうはいらないので、古新聞紙に書いていることが多い。 (仏界易入、魔界難入)

書く字はたいていこの八字である。・・・その書は力がある。俗気、 匠気がない。しかし、・・・よく見ていると、狂気あるいは魔気がひそんでいそうには思える。

西山老人は人生のある時に、魔界にはいろうとつとめて、魔界にははいりがたかった、その痛恨が、狂った老後の字にもあらわれるのかもしれない。

西山老人の「魔界」とはどのようなものであったか、とにかく、人生のある時にその「魔界」にはいろうとしたねがいは、彼を狂わ せたほどの痛ましさではあったのだろう。

西山老人は気ちがい病院を魔界だなどとは考えていない。魔界にようはいれなかった人たちの避難所、休息所というほどにも考えていないだろう。

現在の西山老人は生田病院でもっともおとなしい患者の一人である。歯は抜けたままで入れていなくて、頬は落ちくぼみ、頭のうしろに弱い白毛がぽやぽや残っているばかりである。

どのような魔界にもはいっていける力はなさそうな姿だから、書く字にだけ、いまだに魔気が残っていると言えるだろうか。

老人は字を書いている時に、癲癇のような発作をおこすことがあるが、養老院においてもさしさわりはなさそうである。

西山老人の毎日の楽しみは、夕方七時のラジオのニュウスの前の、天気予報を聞くことであ る。

「海上は今晩も明日も多少風波があるでしょう。霧のために見通しが悪いでしょう。」とい うような天気予報そのものはどうでもよくて、それを受け持つ若い女のアナウンサアの声が好きなのである。

その声はほどよいあまさをふくんで、いかにもやさしい。気ちがい病院のそとの世間から、愛らしい一人の娘が自分一人に話しかけてくれているように老人は感じる。愛情 のこもった声である。老人をいたわりなぐさめてくれる。美しい青春の木霊である。

その娘の名も知らないで、おもかげも見ないで、もしかすると、自分が死んだ後までも、その娘は美しい声で天気予報の放送をつづけているかもわからないが、廃残の自分に愛の声で毎日話しかけてくれるのは、この娘だと、西山老人は思っている。

西山老人にとって、おそらく、この女性アナウンサーの声を聴くと言うことは、まさしく、そ のことにおいて、彼がそれまでの人生の中で出会ってきた、すべての女性との官能の体験を再体験することのようである。

外界から語りかけてくる、一人の娘の声は、すべての女の愛情と官能的美を象徴するものとしてのフェティッシュである。今、老人はこの一人の娘の声によって、彼 が持つところの女性に対する欲望のすべてを満足させることが可能なのである。

しかし、西山老人が狂うほどまでに、その中に入ろうと欲した、「魔界」とはどのようなところであろう。

女性との愛欲に満ちた官能的交流の世界であろうか。
否、そのような世界とは、むしろ仏界である。様々の美しいフェティッシュによって彩られ、飾られた、神話的、抒情的世界である。そして、その向こうにあるのが、むきだしの「生」と「死」そのものが支配するところの魔界なのであろう。

老人が入ろうと必死になってもがいていたのは、女たちとの官能的交流の向こうにある、官能そのものとしての、生命そのものの世界なのである。

しかし、彼はそこに入ることもできず、また、死ぬこともできず、狂気の中で、この世に留まっているのである。

このような西山老人の姿は、まさに晩年の川端康成の姿そのものなのであろう。
しかし、そのような生命そのものによって支配された、魔界のあり様は、『禽獣』という作品 において、恐るべき仕方で、その姿を垣間見せる。

ここでは、小鳥や犬が、寓喩的〈アレゴリカル〉な仕方で、まさしく官能そのものとして描かれる。

特に印象的なのが、犬の出産の場面である。

中庭の土は、初冬の朝日に染まったところだけが、淡い新しさであった。その日のなかに、 犬は横たわり、腹から茄子のような袋が、頭を出しかかっていた。ほんの申訳に尻尾を振り、 訴えるように見上げられると、突然彼は道徳的な苛責に似たものを感じた。

この犬は今度が初潮で、体がまだ十分女にはなっていなかった。従ってその眼差は、分娩と いうものの実感が分からぬげに見えた。

『自分の体には今いったい、なにごとが起こっているのだろう。なんだか知らないが、困っ たことのようだ。どうしたらいいのだろう。』

と、少しきまり悪そうにはにかみながら、しか し大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに、なんの責任も感じていないらしい。

ここには、生命そのものの持つエロティシズムが、不思議な仕方で、若い、というよりまだ幼さない雌犬の出産の場面をとおして描かれているように思われる。

三島由紀夫も言うように、この犬の眼差はまさしく創造主の眼差なのかもしれない。
創造主たる神は、こんなあどけない無邪 気で無責任な眼差で、自らが産み出してしまった人間を見つめていたのではあるまいか。

それは 人間存在の意味を、そして生命そのものの意味をわれわれが問いかけるとき、陥らざるを得ない 恐ろしい懐疑である。

われわれ人間は確かに存在する。生命もまた存在する。しかし、そのことの意味も、またその価値もわれわれにとって、あくまで不可知にとどまる。否、単に不可知にとどまるというのではなく、なんの意味も価値もない絶対虚無の中においてのみ生命の意味は充実 しえるのではないか。このような生命の意味のもつ逆説的構造を、われわれはまず承認しなければならないのではないか。このことの承認の故に、この『禽獣』という作品の中には、嘔吐を伴うような厭人癖、危機的とまでいえるほどの人間嫌悪が漂っているのではないか。

そして、そのような生と死とによって支配された魔界の狭間に、微かな仕方で存在しうるのが、 仏界なのかもしれない。

その世界を見事に描いたのが、『抒情歌』という作品である。

この明治 の女のきりりとした着付を思わせるような文体によって描かれた真昼の神秘の世界、それは川端 の切実な「童話」であり、また彼のもっとも純粋な告白である。

この童話的、神話的、そしてさ まざまな妖精達、神々、仏達の棲む世界はあまりにも美しい。そのような美こそが、自我によって保持されえるところのこの世界における生命の責任かもしれない。それを川端は「ありがたい抒情歌のけがれ」という言葉で表現している。

そして、それは、愛する人の傍で眠っているとき、 その人の夢を見ることのない世界である。

「あなたの傍に眠っていましたとき、あなたの夢を見たことはありませんでした。

しかしながら、そのような魔界に、われわれは本当に入ることができるのであろうか。もしで きるとすれば、それは、性のタブーといわれるようなものを破ることによってではないだろうか。

たとえば、三島由紀夫の『音楽』という作品においては、少女期の兄との近親相姦によって、美しい「愛」のオルガスムスを体験した女性の冷感症が描かれている。

近親相姦がなぜタブーとさ れてきたのか。それは、単に生物学的理由によるものではないと思われる。

おそらく、近親相姦によって人はあまりにも大きすぎる快感を体験してしまうからではないか。そのような仕方で、 魔界を見てしまった者は、もはや、この現実の世界の中では生きてゆくのが困難になってしまうのではないか。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/321.html#c8

[近代史3] 凡人が天才になる方法はあるか? 中川隆
9. 中川隆[-10920] koaQ7Jey 2019年4月05日 15:16:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1108]
 
まともな人間は芸術家にはなれない _ 5

E・H・カー著「ドストエフスキー」筑摩書房 筑摩叢書106

ドストエフスキー伝記作家ストラーホフがトルストイに送った手紙の中の一文

「彼はけがらわしさに対する愛好癖があって、それを誇りにしていたのです。

ヴィスコヴァトフがこんな事を語りだした事があるのですが、ドストエフスキーはその家庭教師につれられて自分のもとへやってきた少女と浴場で姦淫したと自慢していたそうです。  

 ( 中略 ) 

    
彼に最もよく似通っているのは「地下生活者の手記」の主人公、「罪と罰」のスヴィドリガイロフ、そして「悪霊」のスタヴローギンです。


ソフィヤ・コワレフスカ(ドスト氏が求婚して拒絶されたアンナ・コルビン・クルコフスカヤという女性、の妹)の回想記 〔 ドリーニン編『ドストエフスキー同時代人の回想』(水野忠夫訳。河出書房1966年刊。)に所収。p214。〕 には、ドスト氏自らが、彼ら姉妹の家(その時はその姉妹の母親も同席)で、彼らの前で、思い出して大胆にも告白した言葉  


「かつて、夜遅くまでさんざん飲み歩いたあと、酔った仲間たちにそそのかされて、十歳になる○○を○○した」という告白が記されていますが、

 ( 注:自分の過去の体験のことを告白したのではなく、ドスト氏が構想していた小説の中の一部として、彼女らに紹介した話のようです。) この記述は、かなり信憑性が高いように思います。


アンドレ‐ジイド著『ドストエフスキー』を初め、他の書でも、ドスト氏は、自分が少女を○○したことを、友人や知人の何人かに(なんと、ツルゲーネフにも。) 告白した事実が、ドスト氏の知人が証言したものとして、紹介されている。
http://www.coara.or.jp/~dost/30-5-o.htm

▲△▽▼


ドストエフスキー『悪霊』


彼女の心中には、彼に対する不断の憎悪、嫉妬、軽蔑の気持にまじって、やむにやまれない愛情が秘められていた。夫人は二十二年このかた、塵っぱひとつ彼の身にかからぬようにと、それこそ乳母のように彼の世話をやいてきた。もし問題が、詩人としての、学者としての、市民的活動家としての彼の名声にかかわることででもあれば、夫人は心労のあまり、夜もおちおち眠れないほどであった。彼女は、自分の頭の中で彼を創り出し、その想像の所産をまず自身が真っ先に信じたのである。彼は夫人にとって、いわば夢にもひとしい存在であった……ただしその代償として、夫人は実に多くののことを、時には奴隷的服従をまで彼に要求した。彼女が想像を絶するほど執念深い性格だったこともある。


いかにもシニカルな考えにはちがいない。けれど人間、あまりに高尚になりすぎると、その教養が多面的になるという理由ひとつだけからしても、えてしてシニカルな考え方に陥りがちなものである。


「出発のときのぼくらは腑抜けも同然でしたよ」とステパン氏はよく話してくれた。


彼は、ある力強い思想に打たれると、たちまちその思想に圧倒されて、ある場合には永遠にその影響を抜け出せなくなる、そういった類いの純粋なロシア人の一人であった。こういう連中は、思想を自分なりに消化するということがけっしてできず、ただやみくもにそれを信じこんでしまうので、その後の全人生は、彼らの上にのしかかって、もう半分は彼らを押しひしいでしまった大石の下で、気息奄々と最後のあがきをつづけるといった態のものになるのである。


「ぼくはこの明るい希望に背を向けるようなことは、けっして、けっしてしませんよ」――彼はよく目を輝かして私に言ったものだった。この《明るい希望》の話になると、彼はいつも秘密を明かすようなひそひそ声になり、静かな、陶然とした物言いになった。


「要するに、すべては無為怠惰の産物なんだな。わが国では、どんな立派なよいことも、無為怠惰から生ずる。わが旦那方の、愛すべき、教養ある、気まぐれな無為怠惰からね!ぼくは三万年でもこのことをくり返すな。ぼくらは自分の労働で生活することができないんですよ。それを、連中はなんでまた、わが国に世論が《生れた》なんぞとふれまわるんだろう、――それこそ藪から棒に、天から降ってでも来たんですかね?自分の意見をもちうるためには、何よりもまず労働が、自分自身の労働が、自分自身の手による開拓と実践が必要であることぐらい、連中にもわかりそうなものだが!坐していては何も手にはいりませんよ。労働することによって、はじめて自分の意見がもてる。ところがわれわれはけっして労働しようとしないから、そこで意見のほうも、これまでわれわれに代って働いてくれた連中、つまり、二百年来われわれの教師であった、あいかわらずのヨーロッパ、あいかわらずのドイツ人が、われわれに代ってもってくれるわけです。そこへもってきて、ロシアというやつは、ドイツ人の助けなしで、労働せずして、われわれだけで解きあかすには、あまりにも大きな謎ですからね。だからこそぼくも二十年来、警鐘を鳴らしつづけ、労働を呼びかけているわけです!ぼくはこの呼びかけに生涯をかけて、愚かにも、その効果を信じてきた!いまはもう信じちゃいないが、それでも警鐘は鳴らしつづける、いや、最後まで、死ぬときまで鳴らしつづけまうよ。ぼくの追善供養の鐘が鳴りだすときまでは、綱を引きつづけますよ!」


「ずばり図星ですね。賢い人がいるということは、つまり、ぼくらより正しい人がいるということだから、してみると、ぼくらも誤りを犯すことがありうると、こうなりますね?デモ・トモヨ、かりにぼくが誤っているとしてもですよ、ぼくにはそれでも、自由な良心という全人類的な、永遠の、最高の権利がありますからね。ぼくには、自分の欲するところにしたがって、偽善者や狂信者にならないでいる権利がある、当然、そのためにこの世の終りまで、さまざまな人から憎まれつづけることにはなるでしょうけれどね。ソレニ・コノヨニハ・ドウリヨリ・ボウズガオオイのたとえで、ぼくもこれにはまったく同感ですからね……」


「首を吊りたいなんぞと言っておどかすだろうけれど、本気にするんじゃないよ、みんなたわごとなんだから!本気にしないでもいいけど、やっぱり油断をしてはだめよ、ひょっとして首を吊ってしまわないでもないからね。ああいう人にはよくあることなんだから。力があまって首を吊るのじゃなくて、力が足りなくてそうすることが。だから、いつも最後のぎりぎりのところまでは持っていかないようにしなくちゃ、それが夫婦生活の第一の要諦なんですよ。それから、あの人が詩人だということも忘れるんじゃないよ。いいかい、ダーシャ、自分を犠牲にする以上のしあわせはないんですよ。おまけにおまえはたいへんわたしを喜ばせてくれることになる、そこが大事なところでね。いまわたしの言ったことを口からでまかせだなんて思うんじゃないよ。わたしはちゃんと心得て話しているんだから。わたしはエゴイストだけど、おまえもエゴイストになることさ」


いま、こうして過去を回想する段になると、私としては、彼女が当時の私にそう思えたほどの美人であるとは断言しかねる。もしかすると、彼女は全然美人ではなかったのかもしれない。背が高く、ほっそりとしているくせに、しなやかで強靭な体つきをしていたけれど、彼女の顔立ちは見る人に奇異の感をいだかせるほど均整を欠いていた。目はどこかカルムイク人風に、斜めに吊りあがっていたし、顔は血の気がなく、頬骨が突き出て、浅黒く、痩せていた。だが、それでいてこの顔には、人を征服し、魅了せずにおかない何かがあった!何か力づよいあるものが、彼女の黒ずんだ目の燃えるような輝きのなかにあって、彼女はまさしく《征服者として、また征服せんがために》この世に現われてきたかのようだった。彼女は傲慢に、ときには不遜にさえ見えた。彼女がやさしい女性になりえたときがあったかどうかは知らないが、しかし彼女が無理にも自分を多少ともやさしい女性にしようと熱望し、そのことで苦しんでいたのはたしかである。もちろん、この女性の本性には、多くの美しい願望や正しい意図が秘められているが、しかし彼女の内部のいっさいは、たえず自身の均衡を求めながら、永遠にそれを見いだせないでいる趣があって、いっさいが混沌と、動揺と、不安のただなかに置かれてでもいるようだった。ことによると、彼女は自分に対してあまりに厳格な要求をもちすぎ、その要求を充たすだけの力を自身のうちに見いだしかねていたのかもしれない。


「リプーチンは弱虫か、せっかちか、腹黒いか、でなければ……うらやんでいるんですよ」

最後の言葉は私をぎくりとさせた。

「もっとも、それだけいろいろな定義を並べられたら、どれかに当てはまる道理でしょう」

「あるいはその全部に」

「いや、それもそうかもしれない。リプーチン――あれは混沌ですからね!」


「ぼくのほうは、なぜ人間があえて自殺しようとしないのか、その原因を探求しているんで、それだけのことなんです。でも、こんなことはどうでもいい」

「あえてしないというのは?自殺が少ないというわけでも?」

「非常に少ないですね」

「ほんとうにそうお考えですか?」

彼はすぐには答えず、立ちあがって、何か考えこみながら部屋の中を行ったり来たりしはじめた。

「あなたの考えだと、人間に自殺を思いとどまらせているのは何なのです?」私はたずねた。

私たちが何を話していたのかを思い出そうとでもするように、彼はぼんやりとこちらを見た。

「ぼくは……ぼくはまだよくわかりません……二つの偏見が思いとどまらせていますね、二つのこと。二つきりです。一つはたいへん小さなことで、もう一つはたいへん大きなことです。でも、その小さなことも、やはり大きなことにはちがいない」

「小さなことというと?」

「痛いことです」

「痛いこと?そんなことが重要ですかね……この場合に?」

「いちばんの問題ですよ。二種類の人があって、非常な悲しみや憎しみから自殺する人たち、でなければ気がちがうとか、いや、なんでも同じだけれど……要するに、突然自殺する人たちがいます。この人たちは苦痛のことはあまり考えないで、突然です。ところが思慮をもってやる人たち――この人たちはたくさん考えますね」

「思慮をもってやる人なんかがいるものですかね?」

「非常に多いですね。もし偏見がなければもっと多いでしょう。非常に多い。みんなです」

「まさかみんなとはね」

彼は口をつぐんでいた。

「でも、苦痛なしに死ぬ方法はないものですかね?」

「ひとつ想像しててみてください」彼は私の前に立ちどまった。「大きなアパートの建物ほどもある石を想像してみてください。それが宙に吊るしてあって、あなたはその下にいる。もしそれがあなたの頭の上に落ちてきたら、痛いですかね?」

「建物ほどの石?もちろん、こわいでしょうね」

「ぼくはこわいかどうかを言ってるんじゃない、痛いでしょうかね?」

「山ほどの石、何十億キロのでしょう?痛いも何もあるものですか」

「ところが実際にそこに立ってごらんなさい。石がぶらさがっている間、あなたはさぞ痛いだろうと思って、ひどくこわがりますよ。どんな第一流の学者だって、第一流の医者だって、みんなこわがるにちがいない。だれもが、痛くはないと承知しながら、だれもが、さぞ痛いだろうとこわがる」

「なるほど、では第二の原因は、大きいほうは?」

「あの世です」

「というと、神罰ですか?」

「そんなことはどうでもいい。あの世、あの世だけです」

「でも、あの世なぞまるで信じていない無神論者だっているでしょうに?」

彼はふたたび押し黙った。

「あなたは、たぶん、自分に照らして判断されているんじゃありませんか?」

「だれだって自分に照らしてしか判断できませんよ」彼は赤くなって言った。「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです。これがすべての目的です」

「目的?でも、そうなったら、だれひとり生きることを望まなくなりはしませんか?」

「ええ、だれひとり」彼はきっぱりと言いきった。

「人間が死を恐れるのは、生を愛するからだ、ぼくはそう理解しているし」と私が口をはさんだ。「それが自然の命ずるところでもあるわけですよ」

「しれが卑劣なんです、そこにいっさいの欺瞞のもとがあるんだ!」彼の目がぎらぎらと輝きだした。「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。いまは苦痛と恐怖ばかりですよ。いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。いまの人間はまだ人間じゃない。幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる」

「してみると、いまは神がいるわけですね、あなたの考えだと?」

「神はいないが、神はいるんです。石に痛みはないが、石からの恐怖には痛みがある。神は死の恐怖の痛みですよ。痛みと恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そのとき新しい生が、新しい人間が、新しいいっさいが生まれる……そのとき歴史が二つの部分に分けられる――ゴリラから神の領域までと、神の領域から……」

「ゴリラまでですか?」

「地球と、人間の肉体的な変化までです。人間は神になって、肉体的に変化する。世界も変るし、事物も、思想も、感情のずべても変る。どうです、そのときは人間も肉体的に変化するでしょう?」

「生きていても、生きていなくても同じだということになったら、みんな自殺してしまうだろうし、それが変化ということになりますかね」

「それはどうでもいい。欺瞞が殺されるんです。最高の自由を望む者は、だれも自分を殺す勇気をもたなくちゃならない。そして自分を殺す勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破った者です。その先には自由がない。ここにいっさいがあって、その先には何もないんです。あえて自分を殺せる者が神でう。いまや、神をなくし、何もなくなるようにすることはだれにもできるはずです。ところが、だれもまだ一度としてそれをしたものがない」


「いや、きみ、きみはまた一つ別の傷口にさわってくれましたね、きみの友情にあふれた指で。この友情にあふれた指というのはえてして残忍なものでね、時には理不尽でもある、いや、失礼、でも、信じてはもらえないだろうけれど、ぼくはあのこと、あの汚らわしい話のことはほとんど忘れていたんですよ、つまりね、けっして忘れていたわけじゃないが、リーズのところにいた間じゅう、ぼくは幸福になろうとつとめえちた、おれは幸福なんだと自分に言いきかせていたんですよ。しかし、いまは……ああ、いまぼくの頭にあるのは、あの心の大きな、人道的な、ぼくの醜い欠点をじっと忍んでくれる夫人のことなんですね、いや、じっと忍んでくれるばかりでもないけれど、だいたいぼく自身がこんな男だもの、空疎な、醜い性格の持主だもの!そう、ぼくはわがままな子供ですよ、子供のエゴイズムはそっくりもちあわせているくせに、無邪気なところだけはない子供なんだな。あの人は二十年間、乳母のようにぼくの面倒を見てきてくれた、リーズの上品な呼び方を借りれば、あのおかわいそうな伯母さまはね……ところが二十年たったら、突然この子供が結婚したいと言いだした、結婚させてよ、結婚させてよ、とつぎからつぎへと手紙を書く、あの人のほうは頭を酢で冷やす騒ぎだ……で、とうとうその願いがかなって、今度の日曜には妻帯者の誕生ということになる、冗談じゃないですよ……」


「かわいそうに、きみは女性を知らないんですよ、ところがぼくはひたすら女性の研究をしてきたんですからね。『全世界を征服せんと欲すれば、まずおのれ自身に勝利せよ』――これは、きみの同類のロマンチストであるシャートフ君、ぼくの義兄が吐いた唯一の名言ですよ。この言葉をぼくは喜んで彼から借用したいですね。そこでぼくもいよいよ自分に勝利する決心がついて、結婚するわけだが、全世界はさておき、ぼくが征服できるのは何ですかね?ねえ、きみ、結婚というのは、誇りをもった人、独立心に燃える人にとっては、つねに精神的な意味での死ですよ。結婚生活はぼくを堕落させて、事業に奉仕するための精力も勇気も吸いとってしまうでしょうよ。それで、子供でもできれば……いや、もしかしたら、自分のではなくて、なに、知れたこと、ぼくの子供じゃない。賢い人は事実を直視することを恐れないからね……リプーチンはさっきバリケードを築いてニコラスを寄せつけるなと勧めていたが、あれはばかですよ、リプーチンは。女というものは、千里眼のような眼光の持主でもあざむきおおせるからね。ゼンリョウナル・カミハ、女を創られるにあたって、もちろん、どんな結果になるかご存知だったろうけれど、ぼくの信じているところでは、そのとききっと女のほうが邪魔を入れて、あんなふうに……つまり、ああいう属性をもったものに創らせたのだと思いますね。でなくて、だれがあんな七面倒くさい仕事をただで引受けたりするものですか?ナスターシャはきっと、こんな自由思想を聞いたら腹を立てるだろうが……要するに、スベテ・オワレリですよ」


私はこれまで人間の顔にこれほどまでの暗さ、陰気さ、鬱陶しさを見たことがない。彼の顔つきは、まるで世界の崩壊を待ってでもいるふうだった。それも不確かな、かならずしも実現するとはかぎらない予言を信じて待っているのではなく、あくまでも正確に、たとえば、明後日の午前十時二十五分きっかりにそうなるといった待ち方なのである。


「ロシアの無神論は駄洒落の域を出たことがないんです」消えかかった蝋燭を新しいのに代えながら、シャートフがつぶやいた。

「いや、彼は駄洒落なんて柄じゃないと思いますね。洒落どころか、満足に話もできない感じですよ」

「紙でできた人間なんです。何もかも思想の下男根性のせいですよ」隅のほうの椅子に腰をおろし、両手を膝についた格好で、シャートフは冷静に言った。

「憎悪もあるんだな」しばらく黙っていてから、彼はまた口を切った。「もしロシアが何かこうふいに改革されて、まあ、あの連中の方式でもいいけれど、何かこうふいに途方もなく豊かで幸福な国になったとしたら、真っ先におそろしく不幸になるのはあの連中でしょうね。そうなったら、あの連中、憎悪の対象も、唾を吐きかける相手も、嘲弄する相手もなくなるんだから!あの連中にあるのは、ロシアに対する動物的な、際限のない憎悪、体質にまでなってしまった憎悪ですよ……目に見える笑いのかげにひそむ、世人には見えない涙なんてものはありやしない!あの目に見えぬ涙うんぬんくらいそらぞらしい言葉は、かつてロシアで言われたためしがないな!」彼は狂暴とも思える声で絶叫した。


「人間は自分の心の高潔さだけから死ぬことができるものでしょうか?」

「存じませんね、わたし、そんな質問を自分にしてみたことがありませんから」

「ご存じない!こういう質問をご自分になさったことがない!!」大尉は皮肉たっぷりに叫んだ。「もしそういうことなら、そういうことなら――

望みなき心よ、黙すがよい!

ですな!」こう言うと彼は自分の胸を荒々しく叩いた。

彼はすでにふたたび部屋の中を歩きまわりはじめていた。自分の欲望をどうにもこらえられないのが、こういう連中の特徴である。それどころか、この連中は、いったん何かの欲望が生じると、それがどんなに醜悪なものであっても、ただいにそれをぶちまけてしまいたい衝動を抑えられない。よそゆきの席に出ると、この手合いはたいてい最初はおずおずとしているが、ほんのわずかでもこちらが下手に出ようものなら、たちまちがらりと態度を変えて、厚顔不遜そのものになる。


「ですから、もしいつもニコラスの身近に(ワルワーラ夫人はもう半ば歌うような調子になっていた)、もの静かな、謙虚さこのうえもないホレーショのような友がついていたら――ステパンさん、これもあなたの使われたすばらしい言葉ですわ、――おそらくあの子は、生涯あの子をさいなみつづけた憂鬱な、そして『発作的な皮肉の悪魔』からもうとっくに救われていたにちがいありません(この皮肉の悪魔というのも、ステパンさん、あなたの発明ですのよ)。でもニコラスには、ホレーショもオフェリアもいたためしがありませんでした。あの子についていたのは母親ひとりでしたけれど、母親ひとりで、しかもあんなことになってしまったら、いったい何ができたでしょう?ねえ、ピョートルさん、わたしはニコラスのような人間が、あなたの話してくだすったような不潔な貧民窟に出入りするようになったわけが何か、わかりすぎるくらいわかってきましたの。わたしの目には、その《冷笑的》な生活というのが、(ほんとにぴったりした言い方ですわ!)飽くことを知らない反対極(コントラスト)への渇望が、ピョートルさん、またあなたの言い方を借用させていただくと、あの子がダイヤモンドのように見えるというその陰鬱な背景が、まざまざとうかんでくるようですの。そして、ほかでもないそういう場所で、あの子はみなから辱められているかたわの狂女、けれど、崇高そのもののような心をもった女性にめぐり合ったのです!」


「というと、悪ければ悪いほどいいという意味なんですね、わかりますよ、奥さん、ぼくにもわかりますよ。つまりそれは宗教なんかで言うのと同じことでしょう。人間の生活が苦しければ苦しいほど、また一国の民衆が虐げられ、貧しくあればあるほど、天国での酬いを夢見る気持ちはますます強くなってくる、しかもそこへもってきて、十万人もの坊主どもが、懸命になってその夢を焚きつけ、それをたねにひと儲けをたくらもうとするんですからね……ぼくにはあなたのおっしゃることがよくわかりますよ、ワルワーラさん、安心してください」

「いえ、どうもすこしちがうようですけど、でも、聞かせていただけません、どうしてニコラスはあの不幸なオルガニズム(ワルワーラ夫人がなぜここで《オルガニズム》という言葉を使ったのか、わたしにはわからなかった)がいだいた空想の火を消すために、どうして自分もあの女を笑いものにしたり、ほかの役人たちと同じような態度をあの女に取ったりしなければならなかったんでしょう?あなたはニコラスのもっていた気高い同情の気持ち、全オルガニズムの崇高な戦慄を否定なさいますの?それあればこそニコラスがふいにきっとなって、『ぼくはあの女を笑いものにしているのじゃない』とキリーロフさんに答えたのじゃありませんか。なんと崇高な、神聖な答えでしょう!」


けれど真実の、疑いようもない悲しみというものは、稀に見るほど浅薄な人間をも、たとえわずかの間にもせよ、意志堅固なしっかりした人物に帰ることがあるものである。いや、そればかりか、むろん、一時だけのことだが、これは明らかに悲しみの特質なのだ。


もう一度読者に断っておきたいが、ニコライ・スタヴローギンはけっして恐怖心を表にあらわさない性質の人間であった。決闘で冷静に相手の発射を待ち受けることもできれば、ゆっくりと狙いを定めて、野獣のように冷静に相手を殺すこともできた。もしだれかに頬をなぐられたりすれば、相手に決闘を申し込むまでもなく、その場で無礼者を叩き殺してしまいそうにも思えた。彼はまさしくそういう人間で、人を殺すにも完全に意識を保ったままやってのけ、けっして我を忘れてするというふうではない。私の感じでは、彼は一度として、分別も何も失うほどの盲目的な怒りの発作にかられたことはないようにさえ思われる。時として際限のない憎悪におそわれることはあったが、その場合でも彼はつねに自制を失わず、したがって、決闘以外で人を殺せば確実に徒刑送りになることを心得ていた。それでいて彼は、なんの躊躇もなく無礼者を殺すことができるのである。


「すべてです。人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです!知るものはただちに幸福になる。その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される――すべてすばらしい。ぼくは突然発見したんです」

「でも、餓死する者も、女の子を辱めたり、穢したりする者もあるだろうけれど、それもすばらしいのですか?」

「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。たたきつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけれど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。ぼくの考えはこれですべてです、これだけ、ほかには何もありません」


「ぼくは自分を尊敬してほしいのです、要求します」シャートフは大声を張りあげた。「ぼくの人格に対してじゃない、そんなものは糞くらえだ、そうじゃなくて、ほかのことです、いまこうしている間だけでもいい、ほんの数言いう間だけでもいい……ぼくらは二つの存在だけれど、それが無限の中で一体になったのです……世界のいまわに。あなたの話しぶりを変えて、人間的なものにしてください!せめて生涯に一度なりと人間の声で話してください。ぼく自身のためじゃない、あなたのためです。いいですか、ぼくはあなたの顔をなぐったけれど、そのことによってあなたに自分の無限の力を認識させる機会を提供したんですからね、この理由ひとつからでもぼくを許してくれなければいけませんよ……あなたはまた例のいやらしい社交的な微笑を浮かべるんですね。ああ、いつになったらあなたはぼくのことをわかってくれるんだろう!その坊っちゃん面をやめてください!ぼくがこれを要求している、要求しているんだということをわかってください、でなけりゃ、ぼくは話したくない、どんなことがあったって話しやしない!」


「いかなる国民も」と、彼はまるで書いたものを読むように、それでいてあいかわらずすさまじい目つきでスタヴローギンを見つめながら話しはじめた。「いかなる国民もいまだかつて科学と理性に基づいて存在したためしはない。ほんの一般的に、ばかげた気の迷いでそうなったのを別にすれば、そんな実例は一度としてなかった。社会主義はその本質からいってすでに無神論たるべきものである。なぜなら社会主義は、まず開口一番、それが無神論的な制度であって、科学と理性は諸国民の生活においてはつねに、現在も、また天地開闢以来、たんに第二義的な、副次的な役割を果たしてきたにすぎない。世界の終末のまでこのことは変らないだろう。諸国民を組織し、動かしているのは、命令的で支配的な別の力であるが、この力の起原は不明であり、説明不可能である。この力はあくことなく究極に到達しようとする願望の力であると同時に、この究極を否定する力でもある。これはおのれの存在をたえまなく、倦むことなく確認し、死を否定する力である。それは生の精神、聖書が『生ける水の流れ』と説き、その枯渇を『黙示録』が警告してやまないものである。哲学者に言わせれば、それは美の原理であり、哲学者自身が同一視しているように、同時にそれは道徳の原理でもある。私はそれを最も簡潔に《神の探究》と呼ぶ。一国民の全運動の目的は、いかなる国民においても、またその国民の存在のいかなる時期においても、ただ一つの神の探究、自身の神、ぜひともおのれ自身の神の探究でしかありえないし、またその神を唯一真実のものとして信仰することでしかありえない。神は一国民の起原から終末にいたるまでの全体を代表する総合的人格である。すべての国民、と言わぬまでも多くの国民が一つの共通の神をもっていた例はいまだかつてなく、つねにそれぞれの国民が独自の神をもっていた。神が共通のものになりはじめるのは、国民性の滅亡の前兆である。神が共通のものとなれば、神も神への信仰も、その国民自身とともに死滅する。一国民が強力であればあるほど、その神は独自である。宗教をもたぬ国民、つまり善悪の観念をもたぬ国民はいまだかつてなかった。あらゆる国民が善悪についてのおのれの観念をもち、おのれの善悪をもっていた。多くの国民の間で善悪の概念が共通なものになりはじめると、国民は死滅し、善悪のけじめそのものも摩滅し、消え去っていく。理性はかつて善悪を規定しえたことがないし、たとえ近似的にでも善悪を区別しえたことさえない。それどころか、いつもぶざまな、みじめな混同をやってきた。科学にいたっては、力づくの解決しかもたらさなかった。この点でとくにきわだっているのは半科学であって、今世紀まではまだ知られていなかったけれど、これは疫病や飢餓や戦争よりもひどい、人類に対する最も恐るべき鞭である。半科学――それは今日までまだ現われたこともないような専制者である。この専制者は、おのれの神官と奴隷をもち、すべての者が、これまで考えられもしなかったような愛と迷信をいだいてその前にひざまずき、科学そのものさえもその前ではふるえおののいて、恥ずかしげもなくそのご機嫌をとり結ぶ。これはみんなあなた自身の言葉なんですよ、スタヴローギン、半科学についての言葉だけは別だけれど。これはぼくの言葉です、なぜならぼく自身が半科学でしかないから、当然、とりわけ強くそれを憎悪しているんです。あなたの思想については、いや言葉そのものについてさえ、ぼくは何ひとつ変えちゃいません、一言も」

「変えなかったのは思いませんね」スタvyローギンが用心深く口をはさんだ。「きみは熱烈に受け入れて、それとは気づかず、熱烈にそれを別物にしてしまったのですよ。きみが神を民族のたんなる属性に引きおろしてしまった一事からだけでもそう言える……」

彼は何か特別に注意をこらして、ふいにシャートフを注視しはじめた。彼の言葉というより、むしろ彼自身をである。

「神を民族の属性に引きおろした?」シャートフは絶叫した。「反対です、国民を神にまで引きあげたんです。だいたい、いあっまでにそうでなかったことがありますか?国民は神の肉体です。あらゆる国民は、自身の独自の神をもち、この世のあらゆる神を妥協なく排除するかぎりにおいてのみ国民なのです。自身の神によって他のすべての神を征服し、世界から追放できると信じているかぎりにおいてのみ、国民なのです。開闢以来、どの国民もそう信じてきました。すくなくとも大国民、多少なりとも名を知られ、人類の先頭に立った国民はすべてそうでした。事実を無視して進むことはできません。ユダヤ人は真実の神を待ちおおせ、真実の神を世界に残すためにのみ生存したのです。ギリシャ人は自然を神と化して、世界に自身の宗教、つまり哲学と芸術を残しました。ローマ人は国家の中の国民を神化して、諸国民に国家を残した。フランスは、その長い歴史を通じて、ローマの神の理念を具現し、発展させたにすぎなかった。そして、ようやくそのローマの神を深淵に投げ捨てたと思ったら、今度は無神論に突っ走った、それをいま彼らは社会主義と呼んでいるのです。それも、無神論のほうがローマ・カトリックよりまだしも健全であるからという、それだけの理由からにすぎない。もし大国民が、自分たちだけに(まさしく自分たちだけにです)真理があると信じられないようなら、もし自国民だけが自身の真理によって他国民を蘇生させ、救済する使命をもつと信じられないようなら、その国民はたちまち人類学上の資料になりさがって、大国民ではなくなってしまう。真の大国民はけっして人類における二流の役割に甘んずることはできないし、一流の役割にさえ甘んじられない。どうあってもかならず第一の役割でなければならないのです。この信念を失ったものは、もはや国民ではない。しかし真理は一つですから、したがって、諸国民の間でただ一つの国民だけが真実の神をもつことができる。なるほど他の諸国民も自分たち独自の偉大な神をもってはいますがね。《神の体得者》である唯一の国民――それはロシア国民です、そして……そして……スタヴローギン、いったいあなたはぼくをそれほどのばかだと思っているのですか」彼はふいに逆上した声で叫んだ。


「ちょっと話のついでに、奇妙に思っていることを言っておきますがね」突然スタヴローギンが口を入れた。「なぜみなが、その旗とやらをぼくに押しつけようとするのですかね?ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーも、やはりぼくが『彼らの旗をかかげる』ことのできる男と思いこんでいるのですよ、すくなくとも、あの男の言葉として聞かされました。あの男は、ぼくが『異常な犯罪能力』をもっていて、――これもあの男の言葉ですがね、――彼らのためにステンカ・ラージンの役どころを引受けられると信じきっているんですよ」

「なんですって?」とシャートフがきいた。「『異常な犯罪能力』ですって?」

「そのとおりです」

「ふむ。で、あれはほんとうなんですか、あなたが」彼は毒々しい微笑を浮かべた。「ほんとうなんですか、あなたがペテルブルグで、獣的な好色秘密クラブの会員だったというのは?サド侯爵でさえ、あなたには兜を脱いだだろうというのは?幼い子供を誘惑して、堕落させていたというのは、ほんとうなんですか?言ってください、嘘を言ったら承知しませんよ」彼は、ほとんど我を忘れたように叫んだ。「ニコライ・スタヴローギンが、自分の顔をなぐったシャートフの前で嘘をつくわけにはいかんのです!何もかも言ってください、そして、もしそれがほんとうなら、ぼくはいますぐ、この場で、あなたを殺してやる!」

「そういうことは言ったけれど、子供たちを辱めたのはぼくじゃない」スタヴローギンはこう言ったが、それはすこし長すぎる沈黙の後だった。彼は青ざめ、その目がきらきらと輝きだした。

「でも、言いはしたんですね!」ぎらぎらする目を相手の顔から離さず、シャートフは高飛車につづけた。「あなたがこう言ったとかいうのはほんとうですか、何か好色な、獣的な行為と、たとえば人類のために生命を犠牲にするような偉業との間に、美の差異を認められないと断言したというのは?あなたがこの両極のなかに美の一致、快楽の同一性を見いだしたというのはほんとうですか?」

「そう言われると返事ができませんね……返事をしたくない」スタヴローギンは、いかにも立ちあがって出ていきたそうな様子を見せながらこうつぶやいたが、立ちあがりもせず、出ていきもしなかった。

「なぜ美が醜く、善が美しいのかは、ぼくにもわからないんです。でもぼくは、この差異の感覚が、なぜスタヴローギンのような人では摩滅され、失われていくのかはわかるんです」シャートフは全身をふるわせながらもあとへは退かなかった。「いったい、どうしてあなたはあのとき、あれほど醜悪で下劣な結婚をしたんです?ほかでもない、あの場合、醜悪と無意味さが天才の域に達したからなんです!おお、あなたは端のほうから手さぐりでそろそろ行くほうじゃなくて、いきなり頭からどまんなかへとびこむほうなんです。あなたは苦悩を求める情熱から、良心を責めさいなみたい情熱から、精神的な情欲から結婚したんです。あの場合は神経的な発作だったんです……常識に挑戦するのがたまらなく誘惑的だったんです!スタヴローギンと、醜い、半気違いの、貧しいびっこの女!あなたが知事の耳をかじったとき、あなたは情欲を感じましたか?感じたでしょう?のらくらの極道坊ちゃん、感じたでしょうが?」


レビャートキン大尉は飲んだくれることだけはやめていたが、やはり均衡のとれた状態とはほど遠いように見えた。こういう年季のはいった酔っぱらいは、必要とあrば人並みに嘘もつくし、悪知恵も働かせ、人をペテンにかけもするが、長年のうちにはどことなくピントのはずれた、ぼけたようなところ、何ひとつ心棒の抜けたような、気違いじみたところが固定化して、容易に抜けなくなるものなのである。

「ぼくの見るところ、大尉、きみはこの四年間、まるで変っていないねえ」ニコライはいくらかやさしい調子でこう言った。「どうやら、ほんとうのことらしいな、人間の後半生はふつう前半生に蓄積された習慣だけから成り立つというのは」

「高遠なお言葉ですなあ!あなたは人生の謎を解いてしまわれる!」なかば悪ふざけ気味に、またなかばは、警句の大好きな男であるだけに、事実、いつわらぬ喜悦にもひたりながら、大尉は叫んだ。「ニコライさま、あなたの口にされたお言葉の中で、とりわけ私の記憶に焼きついているものがございますよ。まだペテルブルグにいらしたころ、『常識に反してまで自分の立場をつらぬくためには、真に偉大な人間である必要がある』とおっしゃいました。これでございます!」

「と同時に、ばかである必要もね」


「ぼくはスタヴローギンのためにならないことは、いっさいきみにさせませんからね」客を送りだしながら、キリーロフはつぶやいた。こちらは驚いて彼を見返したが、何も答えなかった。


「進行?いとも簡単ですよ。ひとつ笑わせてあげましょうか。まずおそろしくきくのが――肩書きなんです。肩書きぐらい強力なものもないな。ぼくはわざと官等や職務を考案していますよ。秘書あり、秘密監視官あり、会計官あり、議長あり、書記あり、その代理ありといったわけでね――こいつはえらくお気に召して、大歓迎でしたよ。つぎに強力なのは、もちろん、センタリズムです。なにしろロシアに社会主義が広まったのは、主としてセンチメンタリズムのせいですからね。ところがそこで困ったのが、例の噛みつき少尉みたいな連中ですよ。ちょっと油断していると、たちまちとびだしてくるのでね。で、そのつぎはほんもののペテン師連中です。いや、これはいい連中でね、時には大いに役に立ちますよ、そのかわりこの連中には時間をくいましてね、なにしろいっときも目が離せないんだから。そこで、最後に、最大の力――すべてを結合するセメントはですね、――これは自分自身の意見に対する羞恥心です。こいつはまさしく強力だな!まったくだれの頭にも自分自身の思想というものがなんいも残らなくなたっとは、いったいだれの働きですかね、どこの《かわいい人》の骨折りですかね!まるで恥だと思っているんですからね」


「きみはいま、サークルがどういう力から成り立っているか、指折りかぞえてみせましたね。その官僚制とかセンチメンタリズムとかは、たしかに立派な糊にはちがいないけれど、もっといいものが一つある。つまり、サークルの四人のメンバーをそそのかして、あとの一人のメンバーを、密告の恐れがあるとかなんとか言って、殺させるんです。そうすればきみはたちまち、その流された血によって、一つ絆で結んだようにあとの四人を硬く結束させられる。きみの奴隷になりきって、謀反を起こすどころか、説明を求めることもしなくなりますよ。は、は、は!」


「古くさいとはなんです?偏見を忘れることは、その偏見がどんなに罪のないものであろうと、古くさいことじゃありませんよ、それどころか、恥ずかしいことに、いまだに新しいことじゃないですか」椅子から猛然と身を乗り出すようにして、女子学生が即座にやり返した。「それに、罪のない偏見なんて存在しないんです」彼女はむきになってつけ加えた。


「彼はですね、問題の最終的解決策として、人類を二つの不均等な部分に分割することを提案しているのです。その十分の一が個人の自由と他の十分の九に対する無制限の権利を獲得する。で、他の十分の九は人格を失って、いわば家畜の群れのようなものになり、絶対の服従のもとで何代かの退化を経たのち、原始的な天真爛漫さに到達すべきだというのですよ、これはいわば原始の楽園ですな、もっとも、働くことは働かなくちゃならんが。人類の十分の九から意志を奪って、何代もの改造の果てにそれを家畜の群れに作り変えるために著者が提案あいておられる方法はきわめて注目すべきものであり、自然科学にのっとったきわめて論理的なものです」


「どうです、スタヴローギン、山をならして平地にする――いい考えでしょう、滑稽どころじゃなき。ぼくはシガリョフ支持ですね!教育なんていらないし、科学もたくさんだ!科学なんぞなくたって、千年くらいは物質に不足しませんからね、それほり服従を組織しなくちゃ。この世界に不足しているのはただ一つ――服従のみですよ。教育熱なんぞはもう貴族的な欲望です。家族だの愛だのはちょっぴりでも残っていれば、もうたちまち所有欲が生じますしね。ぼくらはそういう欲望を絶滅するんです。つまり、飲酒、中傷、密告を盛んにして、前代未聞の淫蕩をひろめる。あらゆる天才は幼児のうちに抹殺してしまう。いっさいを分母で通分する――つまり、完全な平等です」


「スタヴローギン、きみは美男子ですよ!」ピョートルはもう陶然となりながら叫んだ。「きみは自分が美男子だということを知っていますか!きみのいちばんいいところは、きみがどうかするとそのことを忘れている点なんです。ああ、ぼくはきみを研究しましたよ!ぼくはよく横のほうから、物陰からきみを眺めるんです!きみには純真なところ、ナイーヴなところまでありますね、わかってますか?まだある、まだ残っているんです!きみはきっと苦しんでいますね、それも心から苦しんでいるにちがいない、それはきみの純真さのためです。ぼくは美を愛するんですよ。ぼくはニヒリストだが、美を愛するんです。だいたいニヒリストは美を愛さないでしょうか?いや、彼らが愛さないのは偶像だけですよ、ところがぼくは、偶像も愛するんだな!で、ぼくの偶像はきみなんです!きみはだれを侮辱するわけでもないのに、きみはみなから憎悪されている。きみは万人を平等に見ているのに、きみはみなから恐れられている、そこがいいところなんですよ。きみのそばへやってきて、なれなれしく肩を叩こうなんて者はだれもいない。きみはおそろしいアリストクラートなんです。デモクラートをめざすアシストクラートなんて、こいつは魅力的じゃないですか!きみは自分の生命だろうと、他人の生命だろうと、そんなものを犠牲にするくらい屁でもない。きみはまさしく打ってつけの人物なんだな。ぼくに、ぼくに必要なのは、ほかでもない、きみのような人間なんですよ。きみのほかには、ぼくはそういう人をだれも知りません。きみは頭領です、きみは太陽です、ぼくなんかきみの蛆虫ですよ……」

彼はだしぬけにスタヴローギンの手に接吻した。悪寒がスタヴローギンの背を走り、彼はぎくりとしてその手を引っこめた。二人は足を止めた。

「気違い!」スタヴローギンはつぶやいた。


「イワン皇子。つまり、きみですよ、きみなんですよ!」

スタヴローギンはしばらく考えていた。

「僭称者の?」彼はふいにこうたずね、逆上せんばかりになっている相手を深い驚きに打たれてみつめた。「ほう!それがきみの計画だったんですね」

「ぼくらはね、皇子は《身をかくしておられる》と触れまわるんです」愛のささやきにも似た小声でヴェルホーヴェンスキーは言った。事実、何かに酔ってでもいるようだった。「きみにはわかりますか、《身をかくしておられる》というこの言葉の意味が?けれど皇子はかならず現われる、かならずなんです。ぼくらは去勢宗徒の連中よりはもうちっと気のきいた伝説を流しますよ。皇子は実在する、だがだれも彼を見たものがない。ああ、すばらしい伝説が流せるだろうな!ともかく、肝心なのは――新しい力が来るという確信なんです。その新しい力こそが必要なんで、みなはそれを待ちこがれて泣きださんばかりなんです。社会主義には何があります、旧い力は破壊したが、新しい力はもたらさなかった。ところがぼくらのは力です、それも、いままで聞いたこともないようなすばらしい力です!地球を持ちあげるためには、ほんの一度だけ梃子をぐいとやればいいんですよ。そうすりゃ、何もかも持ちあがるんです!」


「気が乗らない、そんなことだろうと思ってたよ!」相手は、狂暴な憎悪の発作にかられて叫んだ。「いや、そいつは嘘だな、やくざで、色狂いで、変態貴族のお坊ちゃん、狼みたいに食欲のあるきみがまさかと思いますね!わかってくださいよ、いまやきみのほうがはるかに分がいいのに、それでもぼくはきみをあきらめられないんだから!きみ以外にはこの世界にだれもいないんですよ!外国にいたころにもう、ぼくはきみを思いついたんですよ、きみを見ているうちに、きみを思いついたんです。もし物陰からきみを見ていなかったら、こんな考えは頭にうかびっこなかったんです……」


「ねえ、きみ、これは偉大な思想のためにすることなんだ」明らかに言いわけのためらしく、彼は私に言った。「貴君、ぼくはね、二十五年間居ついた地点から腰をあげて、ふいに動きだすんだよ、どこへかは知らない、しかしぼくは動きだすんだ……」


「わたし、あなたに白状しないといけないけど、まだスイスにいたころから、こんな考えがこびりついているんです。あなたの心には何か恐ろしい、よごれた、血にまみれたものがあって……そのくせ、何かあなたをおそろしく滑稽に見せるものがあるって。だから、もしほんとうなら、わたしに告白なさるのはあおよしになったほうがいいわ。わたし、あなたを笑いものにしますから。あなたを一生涯笑いものにするでしょうから……あら、またお顔が青くなったのね。やめるわ、やめるわ、すぐ出ていくわ」彼女は嫌悪と軽蔑の入りまじった動作で椅子からとびあがった。

「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくに憎悪をぶつけてくれ」彼は絶望にかきくれて叫んだ。「きみには十分にその権利がある!きみを愛していないくせに、きみを破滅させたことを、ぼくは知っているんだ。そうだよ、『僕は瞬間を自分の手に残しておいた』んだ。ぼくは希望をもっていた……ずっと以前から……最後の希望をもっていた……きみがきのう自分から、ひとりで、進んでぼくの部屋にはいってきたとき、ぼくは、自分の心を照らし出した光明にさからうことができなかった。ぼくはふいに信じてしまった……ことによると、いまでも信じているのかもしれない」


「でも、どうしてひざまずいたりなさいますの?」

「世界に別れを告げるにあたって、きみの内なるぼくの過去のいっさいに訣別したいんですよ!」彼はふいに泣きだして、彼女の両手を涙に濡れた自分の目に押し当てた。「ぼくは、生涯の美しかったすべての前にひざまずいて、接吻して、感謝するんです!ぼくはいま自分を真二つに引き裂いてしまった。向こうにいるのは――二十二年間、空へ翔けのぼることばかりを空想していた狂人!ここにいるのは――打ちひしがれ、凍えきった老家庭教師です……」


彼の話は全体に曖昧で、辻褄が合わなかった。それは、狡猾さとはゆかりのない人間が、誠実な人柄であるだけに、山ほどの誤解を一時に解かねばならない苦しい羽目に立たされて、不器用な正直者の悲しさ、どこからどうはじめてどう締めくくればいいのか、自分でも思案にあまっているような趣があった。


彼は深い物思いに沈んでいた。彼は一時に二つのことができた――うまそうに食いながら、瞑想に沈むのである。


シャートフは部屋の反対側、五歩ばかり離れたところに、彼女と向かい合って立ち、おずおずとながら、何か生まれ変わりでもしたように、これまでについぞない輝きを顔に浮かべて、彼女の言葉に耳を傾けていた。髪の毛をいつもさかだてている、この気性のはげしい、人づきの悪い男が、ふいに柔和そのもののようになって、顔つきまで晴ればれとしてきた。彼の心の中で、何か思いもかけぬ異常な感覚がうごめいた。三年の別離、破れた結婚生活の三年も、彼の胸から何ひとつ葬り去ることはできなかったのだ。ことによったら、彼はこの三年の間、毎日のように彼女にあこがれ、かつて自分に「愛してるわ」と言ってくれたこのかけがえのない人のことを夢に見ていたのかもしれない。シャートフを知っているものとして、私は断言できるが、彼はだれかほかの女性が自分に「愛してるわ」と言ってくれようなどとは、夢にも考えることができなかった。彼は奇怪なくらい純真で、恥ずかしがりやで、自分のことをひどい醜男と考え、自分の顔や自分の性格を憎悪して、市場の立つときにあちこちで見世物にされる怪物同然に自分を考えていた。こういうことの結果として、彼は潔癖さを何よりも重んじ、狂信的なくらい自分の信念に忠実で、陰気くさく、傲慢で、怒りっぽく、無口な男になっていた。ところがいま、彼を二週間のあいだ愛してくれたこのただ一人の女性(このことを彼はいつどんなときでも信じていた!)――彼女のあやまちをそれなりに冷静に受けとめながらも、それでも自分よりははかり知れぬほど高い人間だといつも思いこんできた女性(このことはもう疑問の余地もなかった、いや、それどころか、むしろその反対で、彼の考えによると、彼女に対しては何につけ、悪いのはすべて自分ということになってしまうのだった)、――そういう女性、すなわち、ほかならぬマリア・シャートワが、ふいにまた彼の家に現われ、彼の前にすわっているのである……これはもうほとんど理解を絶したことであった!彼にとってはかり知れぬほどの恐ろしさと、同時にはかり知れぬほどの幸福感とが含まれているこの出来事に、彼はあまりにもはげしい衝撃を受け、むろんのこと、彼はもう正気に返ることもできなかった。いや、ひょっとすると、彼は正気に返ることを望まず、恐れていたのかもしれない。


「人間はまず徐々に、本を読むことを習い覚える、もちろん、何世紀もかかってさ。ところが、本そのものはたいしたものじゃないと考えて、乱暴に扱ったままそこらにほうりだしておく。製本というのはもう本に対する尊敬を意味していてね、たんに本を読むのが好きになっただけじゃなく、それを一つの仕事と認めたことのしるしなのさ。ロシアはまだその段階まで達していないね。ヨーロッパはもうだいぶ前から製本しているけど」

「ペダンチックだけど、なかなか気のきいた意見だし、三年前を思い出すわ。三年前にも、どうかするとずいぶん機知があったわ」


「おお、マリイ!この三年の間にどれほどいろいろのことがあったか、知ってもらえたらなあ!あとから聞いたことだけど、きみはぼくが転向したと言って、ぼくを軽蔑したそうだね。しかし、ぼくが見捨てたのはだれだろう?生きた現実生活の敵、自立を恐れる時代おくれのリベラリスト、思想の下男、個性と自由の敵、死屍と腐肉の老いぼれた宣伝者どもだよ!やつらのところに何がある?老衰と、中庸精神と、俗物臭ふんぷんたる、あさましいばかりの無能無才ぶり、ねたみがましい平等主義、自身の尊厳を忘れた平等主義、下男の考えるような、九三年のフランス人が考えたような平等主義だ……それよりひどいのは、どこへ行っても人非人、人非人、人非人ばかりということだ!」

「そうよ、人非人がうようよしてる」切れぎれな、病的な口調で彼女が言った。

「なんて……かわいい……」彼女は微笑を浮かべ、弱々しい声で言った。

「ふっ、なんて顔をしてるの!」得意満面のアリーナが、シャートフの顔をのぞきこみながら、陽気に笑った。「ほんとに、この人の顔ったら!」

「浮かれてくださいよ、アリーナさん……偉大な喜びなんだから……」マリイは赤ん坊について言ったたった二言で、もう輝きわたらんばかりになったシャートフは、しあわせそのもののめでたい表情でつぶやいた。

「何がいったい偉大な喜びなの?」せわしなく後片付けをし、それこそ懲役囚のように立ち働きながら、アリーナは陽気に言った。

「新しい生の出現の神秘ですよ、大きな、説明のつかない神秘ですよ、アリーナさん、これがあなたにわからないとは残念だな!」

シャートフは熱に浮かされたように有頂天で、とりとめもないことをつぶやいた。何かが彼の頭の中でぐらつき、意志とはかかわりなく、おのずと胸からあふれ出てくるようだった。

「二人しかいなかったところへ、ふいに第三の人間が、新しい魂が生まれる。人間の手ではけっしてできないような、完璧に完成された魂がです。新しい思想と新しい愛、恐ろしいみたいだ……世界にこれ以上すばらしいものはない!」

「まあ、くだらない。有機体の生成発展というだけで、神秘なんて何もありゃしないじゃないの」アリーナは心から愉快そうに笑った。「そんなことを言っていたら、蝿一匹も神秘になってしまう。でもね、余計な人間は生まれる必要がないんでしょうね。まず、そういう人たちがよけいでなくなるように、何もかも作り直して、それから子供を生むことですね。でなけりゃ、この子だってあさってには養育院へ連れていかれる……もっとも、そうするのが当然でしょうけれどね」


「あなたにはすっかり笑わされたわ。あなたからお金なんてもらいませんよ。夢にまで笑わされちゃうわ。今夜のあなたくらい滑稽な人は見たこともない」

彼女は大満足の態で引きあげた。シャートフの顔つきと、その話しぶりからして、この男がであることは、白日のようにあきらかだった。


「もし神があるとすれば、すべての意志は神のもので、ぼくはその意志から抜け出せない。もしないとすれば、すべての意志はぼくのもので、ぼくは我意を主張する義務がある」

「我意?でもどうして義務なんです?」

「なぜなら、すべての意志がぼくの意志になったから。この地上に、神を滅ぼして我意を信じ、最も完全なる点まで我意を主張する人間は一人もいないではないか。ちょうど貧乏人に遺産がころげこんだが、それを自分のものにする力はないと思いこんで、金袋に近寄る勇気が出ないのと同じで。ぼくは我意を主張したい。たとえ一人きりだろうと、ぼくはやってみせる」

「まあ、やってください」

「ぼくには自殺の義務がある、なぜなら、ぼくの我意の頂点は、自分で自分を殺すことだから」

「しかし、きみだけが自殺するわけじゃない。自殺者はたくさんいますよ」

「理由がある。ところが、なんの理由もなく、ただ我意のためのみに自殺するのは、ぼく一人なのだ」

ピョートルはまたちらと考えた。

「いいですか」彼はいらだたしげに口を入れた。「ぼくがきみの立場だったら、我意を示すためには、自分じゃない、だれかほかの人間を殺しますね。それなら役に立てますよ。もし怖気づかないようなら、だれを殺せばいいか教えましょうか。それなら、きょう自殺しなくてもいい。相談に乗ってもいいですよ」

「他人を殺すのは、ぼくの我意の最低点だし、そこにきみのすべてがある。ぼくはきみじゃない。だから最頂点を欲して、自分を殺す」

ピョートルは心中、憎々しげにつぶやいた。

「ぼくは自分の不信を宣言する義務がある」キリーロフは部屋を歩きまわった。「ぼくにとって神がないという思想以上に高いものはない。人類の歴史がぼくに味方している。人間がしてきたことといえば、自分を殺さず生きていけるように、神を考え出すことにつきた。これまでの世界史はそれだけのことだった。ぼくひとりが、世界史上はじめて神を考え出そうとしない。永遠に記憶にとどめるがいい」

ピョートルは不安になった。


「ほんとうらしく思わせるには、できるだけ曖昧に書く必要があるんです、つまり、これですよ、こんなふうにちらとほのめかすんです。真実というやつは、端のほうをちらと垣間見せて、人の気持をそそるのが手なんですよ。人間というやつは、他人に欺かれるよりは、いつも自分で自分を欺くものでね、むろん、他人よりは自分の嘘のほうをよけいに信ずるものなんですよ、これがいちばん、これがいちばんなんですね!」


彼はひどく沈んだ気持で家に戻った。ピョートルがこんなふうに突然、彼らをおいて発ってしまったことが気がかりなのではなかった……ではなくて、あの若い伊達男から声をかけられたとき、彼があんなふうにくるりと自分に背を向けてしまったこと、それより……「じゃ、いずれまた」などではなく、もっと別の言い方がありそうなものではないか、でなければ……でなければ、せめて手なりともうすこし強く握りしめてくれたら。

この最後のことが何より重大であった。彼の哀れな胸を、何か別種のものがかきむしりはじめた。それが何であるかは、まだ自分でもよくつかめなかったが、それは昨夜のことに関係した何かであった。


「みなさん」と彼は言った。「ぼくにとって神が欠かせない存在であるのは、それが永遠に愛することのできる唯一の存在であるからなのです……」

ほんとうに彼が神を信ずるようになったのか、それともいま取行われた秘蹟の荘厳な儀式が彼の心を揺り動かして、生来の彼の芸術家的な感受性を目ざめさせたのか、それはともかく、彼ははっきりとした口調で、また伝えられるところによると、大きな感動をこめて、これまでの彼の信条とは真っ向から背馳するような言葉をいくつか口にしたようである。

「ぼくにとって不死が欠かせないのは、神が不正を行うのを望ます、またぼくの胸の中にひとたび燃え上がった神への愛の火をまったく消し去ることを望まれないという理由によるものです。愛より尊いものがあるでしょうか?愛は存在よりも高く、愛は存在の輝ける頂点です。だとしたら、存在が愛に従わないなどということがありうるでしょうか?もしぼくが神を愛し、自分の愛に喜びをおぼえているとするなら――神がぼくの存在をも、ぼくの愛をも消し去って、ぼくらを無に変えてしまうなどということがありうるでしょうか?もし神が存在するとすれば、このぼくも不死なのです。コレガ・ボクノ・シンコウコクハクデス」


「自分自身より限りなく正しく、かつ幸福なものが存在しているのだとたえず考えるだけで、ぼくの心はもう言い知れない感動と、それから――栄光に充たされるのです。おお、このぼくがたとえ何者だろうと、ぼくが何をしようと、それはもうどうでもいい!人間にとっては自分一個の幸福よりも、この世界のどこかに万人万物のための完成された、静かな幸福が存在することを知り、各一瞬ごとにそれを信じることのほうが、はるかに必要なことなのです……人間存在の全法則は、人間が常に限りもなく偉大なものの前にひれ伏すことができたという一事につきます。もし人間から限りもなく偉大なものを奪い去るなら、人間は生きることをやめ、絶望のあまり死んでしまうでしょう。無限にして永遠なるものは、人間にとって、彼らがいまその上に住んでいるこの惑星と同様、欠かすべからざるものなのです……友よ、すべての、すべての人たちよ、偉大なる思想万歳!永遠にして無限なる思想万歳!人間は、だれであれ、偉大なる思想の現れであるものの前にひれ伏す必要があるのです。どんな愚かな人間にも、なんらかの偉大なものが必要です。ペトルーシャ……ああ、ぼくはあの連中みんなともう一度会いたい!彼らは知らない、知らないんです、彼らの中にも同じく永遠にして偉大なる思想が蔵されていることを!」


私はいたるところで自分の力をためした。これはあなたが、《自分を知るため》にと私に勧めてくれたことだ。自分のため、また他に見せるためにそれをためしてみたとき、この力は、これまでの全生涯を通じてそうであったように、限りもないものに思えた。あなたの目の前で、私はあなたの兄の頬打ちを忍んだ。私は皆の前で結婚を告白した。しかし、この力を何に用いるべきなのか――それが私にはついにわからなかったし、またスイスであなたの承認を受け、私がそれを真に受けたにもかかわらず、いまもってわからない。私はいまもって、いや、以前も常にそうだったのだが、善をなしたいという欲望をいだくことができ、そのことに満足感をおぼえる。と並んで悪をなしたいという欲望をもいだき、そのことにも満足感をおぼえる。しかし、そのどちらの感情も依然として常に底が浅く、かつて非常にのあったためしがない。私の欲望はあまりに力弱く、みちびく力がない。丸太に乗ってなら河を横切ることができるが、木っぱに乗ってではだめだ。これは、私がなんらかの希望をいだいてウリイへ行くのでないかなどと、あなたが考えないために書いておくことだ。

私は従来どおりだれを咎めることもしない。私は大きな淫蕩を試み、それに力を消耗しもした。けれど私は淫蕩を好まないし、欲しもしなかった。あなたはこのところ私を注意深く見守っていた。私が、あのいっさいを否定する同志たちをさえ、彼らのもつ希望に対する羨望から、煮えくりかえるような思いで眺めていたことをご存知だろうか?しかし、あなたの心配は杞憂だった。あの連中となんの共通点ももたぬ私が、同志になれるはずもなかったのだ。冷やかしのためにも、また憎悪の気持からも、やはりできなかった。それも自分の滑稽さを恐れたからではなく、――私は滑稽さを恐れたりはしない、――私がなおまともな人間の習性をもっていて、嫌悪感を感じたからである。しかし、彼らに対してより大きな憎悪と羨望をもっていたならば、おそらく、私は彼らと行をともにしたことだろう。そのほうがどれほど私にとって楽なことだったか、私がどれほど思い悩んだか、察してほしい!


私はけっして理性を失うことができないし、彼ほどに思想を信ずることもできない。私はそこまで思想に関心をいだくことさえできない。けっして、けっして私はピストル自殺などできはしない!

私は、自分がいっそ自殺すべきである、いやしい虫けらのようにこの地上から自分を掃き捨てるべきであることを知っている。しかし私は自殺がこわい、なぜなら心の広さを示すことを恐れるからだ。あたしはそれがまたしても欺瞞であるだろうこと、無限につづく欺瞞の列の最後の欺瞞であるだろうことを知っている。心の広さを演じて見せるためだけに自己をあざむいて何になろう?私の内部には憤怒と羞恥はけっして存在しえないだろう。したがって、絶望も。


ニコライ・スタヴローギンが首を吊った丈夫な絹紐は、明らかにあらかじめ吟味して用意されていたものらしく、一面にべっとりと石鹸が塗られていた。すべてが覚悟の自殺であること、最後の瞬間まで意識が明晰に保たれていたことを物語っていた。

町の医師たちは、遺体を解剖したうえで、精神錯乱説を完全に、そして強く否定した。

スタヴローギンの告白――チホンのもとにて


「でも、神を信じないで、悪霊だけを信じることができますかね?」スタヴローギンが笑った。

「おお、できますとも、どこでもそんなものです」チホンは目をあげて、にこりとした。

「あなたはそういう信仰でも、完全な無信仰よりはまだしもと認めてくださるでしょうね……」スタヴローギンはからからと笑った。

「それどころか、完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましです」一見、屈託もなげなさっぱりした調子でチホンは答えた〔が、それでも用心深く、不安そうな様子で客のほうをうかがっていた〕。

「ほほう、そうですか、〔いや、あなたにはまったく驚かされますね〕」

「完全な無神論者は、〔なんと申しても、やはりなお〕完全な信仰に至る最後の階段に立っておりますからな(その最後の一段を踏みこえるか否かは別として)。ところが無関心な人は、愚かな恐怖心以外には何ももっておらない、いや、それとても、感じやすい人が、時たま感じる程度で」


私の考えでは、この文書は病気のなせるわざ、この人物に取りついた悪霊のなせるわざである。はげしい痛みに苦しんでいる人間が、ほんの一瞬でも苦痛を軽減できる姿勢を見いだそうとして、ベッドの中でもがきまわる姿に、これは似ている。軽減できないまでも、せめて一瞬なりと、以前の苦痛を他の苦痛で置き換えようとするのである。こうなるともう、当然のことであるが、その姿勢の美しさとか合理性とかは問題にもならない。この文書の基本思想は――罰を受けたいという恐ろしいばかりの、いつわらぬ心の欲求であり、十字架を負い、万人の眼前で罰を受けたいという欲求なのである。しかも、この十字架の欲求が生まれたのが、ほかでもない十字架を信じない人間のうちにであったこと。――「これだけでもすでにれっきとした思想ですよ」とは、かつてステパン氏が、もちろん、別の機会にであるが、いみじくも喝破した言葉である。


これまでの生涯にすでに何度かあったことであるが、私は、極度に不名誉な、並はずれて屈辱的で、卑劣で、とくに、滑稽な立場に立たされるたび、きまっていつも、度はずれな怒りと同時に信じられないほどの快感をかきたてられてきた。これは犯罪の瞬間にも、また生命に危険の迫ったときにもそうなのである。かりに私が何か盗みを働くとしたら、私はその盗みの瞬間、自分の卑劣さの底深さを意識することによって、陶酔を感じることだろう。私は卑劣さを愛するのではない(この点、私の理性は完全に全きものとしてあった)、ではなくて、その下劣さを苦しいほど意識する陶酔感が私にはたまらなかったのである。


こんなことを書くのは、この感情がいまだかつて私を全的に征服しつくしたことがなく、常に意識が全きままに残っていたことを、みなに知ってもらいたいためである(しかり、すべてが意識のうえにこそ成り立っていたのだ)。そして、ときに分別を失うほどまで、いや、というより、滅茶苦茶なほどにその感情に支配されることはあったが、われを忘れるということは一度もなかった。それが私の内部で火そのもののようになっていっても、私は同時にそれを完全に支配することができたし、その絶頂で押しとどめることさえできた。もっとも、自分から抑えようと思ったことは一度もない。私は生まれつき獣的な情欲をさずけられ、またっつねにそれをかきたててきはしたが、一生涯、修道僧のように暮すこともできただろうと確信している。私は、その気になれば、常に自分の主人であった。だから、知ってほしいのだが、私は環境とか病気のせいにして、私の犯罪の責任をのがれようとは思わないのである。


すべてが終ったとき、彼女は困惑していた。私は彼女の気をしずめることもしなかったし、もう愛撫することもしなかった。彼女はおずおずとしたほほえみを浮べながら、私を見つめていた。彼女の顔が私には急に愚かしいものに思われた。彼女はすみやかに、一刻ごとに、ますますはげしい当惑にとらえられていった。とうとう彼女は両手で顔を覆い、壁のほうへ顔を向けて片隅に立ち、動かなくなった。私は、彼女がまたさっきのようにおびえだすのを恐れて、無言で家を出た。

考えるのに、彼女にとってはこの出来事のいっさいが、決定的に、死の恐怖さえともなって、かぎりもなく醜悪なことと自覚されたに相違ないようである。彼女にしても、ロシア語独特の卑猥な罵言は、もう襁褓のころから耳にしていたにちがいないし、そのほかの怪しげな話も聞いていたはずなのだが、にもかかわらず私は、彼女がまだなんの理解ももっていなかったと確信している。おそらく、彼女は最後には、自分が想像もつかないような罪を犯し、その罪には死に値するほどの責任がある、つまり、と感じたのであろう。


「犯罪には真に醜いものがある。犯罪は、どのようなものであれ、血が多く流れ、醜悪さが度を加えるにつれて、ますます印象的な、いわば絵画的なものとなる。だが、この世には、秀作さなど通りこして、まことに恥ずべき、不名誉な犯罪がある、あまりにも優雅ならざるとでも言いましょうか……」

チホンは最後までは言わなかった。

「つまり」とスタヴローギンは興奮にかられて引き取った。「あなたは、きたならしい少女の手に接吻したときのぼくの姿が滑稽だと言われるのですね……それならよくわかりますし、だからこそあなたはぼくに絶望されたのですね、醜く、醜悪だと、いや、醜悪というのではなく、恥ずかしく、滑稽なことだと、そしてあなたは考えられるわけです。ぼくがこのすべてを持ちこたえられるはずがないと」

チホンは黙っていた。〔スタヴローギンの顔が青ざめ、ゆがんだようだった。〕


何より大きかったのは、私が恐れていたこと、そして、そのことを私が意識していたことであった。おお、これ以上に不合理な、いやらしいことがあるだろうか!私はそれまで恐怖心をいだいたことがなかったし、この場合を別にすれば、一生涯、それ以前も、それ以後もそうだった。しかし、このときだけは、私は恐怖を感じたし、文字どおりの意味でふるえてさえいた。私はそのことを、屈辱感をおぼえながら、力のかぎり意識していた。もしできるなら、私は自分を殺しただろう。しかし私は、自分が死にも値しないと感じた。もっとも、私が自殺しなかったのはそんなことのためではなく、恐ろしかったからである。恐怖心から自殺する者もあるが、恐怖心から生きながらえる者もある。人間、自殺する決心がにぶりはじめると、そのこと自体が考えられなくなってくるものだ。そればかりでなく、その晩、自分のアパートで、私は彼女に対してたまらない憎悪を感じ、殺してしまおうと決意したほどだった。翌朝、私はそのつもりでゴロホワヤ街へ出かけていった。私はその道々、自分が罵言を浴びせながら、彼女を殺すさまを想像していた。何より私の憎悪がかきたてられるのは、彼女の微笑を思い出すときであった。彼女が何かを想像しながら私の首につびついてきたことに対して、私の胸には軽蔑感をどうにもならない嫌悪感が生れた。しかし、フォンタンカ河まで来て、私は気分が悪くなった。そのうえ私はある新しい恐ろしい考えが、それを意識していたからこそ恐ろしいのだが、胸にうごめくのを感じた。戻ってくると、私は悪寒にがたがたふるえながら横になった。けれど、恐怖はもう最高の程度にまで達して、もう少女を憎悪することもなくなってしまった。私はもう殺そうとは思わなかった。そしてこれこそが、フォンタンカで意識した新しい考えであったのだ。そのとき、生れてはじめて、私は、最高度にまで達した恐怖が、完全に憎悪を、いや、侮辱者に対する復讐心をさえ追いのけてしまうということを感じた。


「自分のことを見るがよい、とあなたは言われるが、あなた自身は、その人たちをどのような目でごらんになるのかな?あなたはその人たちの憎悪を期待し、それにまさる憎悪で答えようとしておられる。あなたの告白のある部分は文章の力で強められている。あなたはご自分の心理にいわばうっとりされて、実際にはあなたのうちに存在しない非情さや無恥で読む者を驚かせようとしておられる。その反面、邪悪な情欲や怠惰の習慣があなたを実際に非情な、愚鈍な人間にしていることもある」

「愚鈍は悪徳にあらず」スタヴローギンは苦笑して、顔色を青くした。

「ときには悪徳です」チホンはひたむきに、熱っぽくつづけた。「戸口の幽霊によって致命的な傷を受け、そのために苦しんでおられながら、あなたのこの文書では、あなたの最大の犯罪が何であり、あなたがその裁きを求めておられる人々に対して何を最も恥じなければならないのか、ご自分でもよくわかっておられないらしい。あなたによって犯された暴行の非情さをか、それとも、その際に現われた臆病さをか?ある個所では、あなたは読む者に向かって、少女の脅すしぐさがもはやあなたにとって《滑稽》ではなく、たまらなく恐ろしいものであったとさえ、確言しようと急いでおられる。だが、してみると、それはほんの一瞬にせよ、あなたにとって《滑稽》だったのですかな?そのとおり、滑稽だったのですな、私は証言してもよろしい」

チホンは口をつぐんだ。彼の話しぶりには、もう自制の色がまったく見えなかった。
http://d.hatena.ne.jp/asaibomb/touch/20110918/p2



▲△▽▼


ドストエフスキー『白痴』


「あたし今酔ってますの、将軍、」

ナスターシャ・フィリッポヴナはいきなり笑い出した、

「あたし浮かれ騒ぎたいわ! 今日はあたしの日、あたしのたった一度のお祭りの日、あたしの閏の日、あたしこれを長いこと待ってたのよ。

ダーリヤ・アレクセーエヴナ、ごらんなさいよ、この花束紳士、ほらこの monsieur aux camelias [椿の紳士]、ほら座ってあたしたちを笑ってる・・・」


 「私は笑っていません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、私はただ非常に注意して聞いています」とトーツキーは重々しく応酬した。


 「あーあ、何のためにあたし、まる五年その人を苦しめて解放してあげなかったのかしら! それに値する人かしら!

単にああいう人なのがあたりまえだったってこと・・・

むしろあたしがあの人に対して罪がある、ってあの人思ってるのよ。教育だって受けさせたし、伯爵夫人みたいに養ったし、お金だって、お金だって、どれだけかかったか、立派な夫をあっちにいた時も見つけてくれたし、こっちでもガーネチカをね。

あんたどう思うかしら、あたしこの五年あの人と暮らさないで、お金だけは取って、それが正しいって思ってたのよ! まったくあたしどうかしてたのね!

あんた言ったわね、いやなら十万取った上で追い出せって。 確かにいやだけど・・・

あたしだってとっくに結婚できたし、それもガーネチカじゃないけど、それだってもうすごくいやだった。 それになんのためにあたし、あたしの五年間を意地悪なんかで失ってしまったんでしょう!

ねえ信じられる、あたし四年前に時々考えたの。 もうほんとにアファナシー・イワノヴィチと結婚しちゃだめかなって。 あたしその時は悪意でそう考えたの。 その頃はどんなことだって頭に浮かんだものよ。

あら、ほんとよ、こっちが無理強いすればね! 自分からにおわしていたことだし。

あんた信じない?

確かにあの人、嘘をついてたんだけど、そりゃもうすごい欲張りで我慢できないからよ。それから、まあありがたいことに考えついたわ。

あの人、そんな意地悪をする価値があるかしら!

するとその時急にあの人がいやになってね、あっちから求婚してきたって、するもんじゃないわ。 それでまるまる五年、あたしはお高くとまってた。

いいえ、もう街角に立った方がいい、それがあたしには当然なのよ!

でなきゃラゴージンと浮かれ騒ぐか、でなきゃ明日には洗濯女になるわ!

だってねえ、あたしには自分の物は何もないのよ。

行くわ、何もかもあの人に投げつけて、最後のぼろきれまで捨てて、それで何もないあたしを誰がもらってくれる、 ほら、ガーニャに訊いてごらんなさいな、もらってくれるかどうか?

あたしなんかフェルディシチェンコももらってくれないわ!・・・」


 「フェルデシチェンコはもしかするともらいません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、僕は率直な人間です、」

フェルディシチェンコがさえぎった、

「かわりに公爵がもらいます! あなたはそこで座って泣いていますが、ちょっと公爵を見てごらんなさいよ! 僕はもうずっと観察してますが・・・」


 ナスターシャ・フィリッポヴナは公爵に好奇の目を向けた。

 「本当?」と彼女は尋ねた。

 「本当です」と公爵はささやいた。


 「もらってくれるの、このまま、手ぶらで!」

 「もらいます、ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・」

 公爵は、悲しげな、厳しい、鋭い目つきで、相変わらず彼を眺め回しているナスターシャ・フィリッポヴナを見つめた。


 「ほらまた現れたわよ!」

彼女は不意に、再びダーリヤ・アレクセーエヴナの方を向いて言った。

「ともかくほんとに優しい心からなのよ、あたし知ってるんだから。

篤志家を見つけたわ! ああでも、ほんとうかもしれないわね、この人のことをほら・・・あれだって。

どうやって暮らしていくの、もしほんとにそんなに夢中になって、ラゴージンの女を、自分のその、公爵夫人にするって言うなら?・・・」


 「僕がもらうのは立派ななあなたです、ナスターシャ・フィリッポヴナ、ラゴージンのものじゃありません」


と公爵は言った。

 「立派ってあたしのこと?」

 「あなたです。」


 「ああ、それはどこか・・・小説の中のこと!


それはねえ、公爵さん、昔の空想。

現代では世の中利口になって、そんなのはみんなナンセンスなのよ!

それに何で結婚するの、あんたには自分にまだ乳母が必要よ!」


 公爵は立ち上がり、おずおずとした震える声ではあるが、同時に深い信念を持った様子で話した。


 「僕は何も知りません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、僕は何も見たことがありません、おっしゃる通りです、

が、僕は・・・僕は思うんです、あなたは僕の、僕があなたのではなく、名誉です。 僕はつまらないものですが、あなたは苦しんで、そんな地獄から汚れなく現れた、これは大変なことです。

なぜあなたは自分を恥じてラゴージンと出かけようとするんです?

それは熱病です・・・ あなたはトーツキーさんの七万を返したし、

すべて、ここにあるものすべてをなげうつと言いますが、そんなことはここでは誰一人しません。

僕はあなたを・・・ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・愛します。

僕はあなたのために死にます、ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・

僕は誰にもあなたのことで何か言わせません、

ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・僕たちが貧乏したら、僕が働きましょう、ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・」


 ____________


 「聞いてる、公爵、」

ナスターシャ・フィリッポヴナは彼に話しかけた、

「あんなふうにあんたのフィアンセを下種が売り買いしてるわよ。」

 「酔ってるんです」と公爵は言った。

「あの人はあなたをすごく愛しています。」


 「それであんた後で恥ずかしくならないかしら?

あんたのフィアンセは危うくラゴージンと行ってしまうところだったのよ。」


 「それは熱のせいです。あなたは今も熱があって、熱に浮かされているようです。」

 「それと後であんた、あんたの女はトーツキーの愛人だったって言われて恥ずかしくない?」

 「いいえ、恥ずかしくありません・・・あなたは自分の意志でトーツキーさんの所にいたのではありません。」


 「では決して責めない?」

 「責めません。」


  「ナスターシャ・フィリッポヴナ、」公爵は静かに、同情するように言った、


「あなたが今、取り返しのつかないほど自分を破滅させようとしたのは、あれから決して自分を許そうとしないからです。あなたには何の罪もないことなのに。

あなたの人生がすっかりもう滅びたなんてはずはありません。

誇り高いあなたですが、ナスターシャ・フィリッポヴナ、でも、あるいはあなたはもう、不幸せのあまり、本当に自分が悪いと思っているかもしれません。

あなたには充分ないたわりが必要です、ナスターシャ・フィリッポヴナ。

僕があなたをいたわりましょう。

僕はさっきあなたの写真を見て、よく知っている顔を認めたような気がしました。

僕にはすぐに、その時まるであなたが僕を呼んでいるかのように思われました・・・
僕・・・僕はあなたを一生大切にします、ナスターシャ・フィリッポヴナ。」


 「ありがとう、公爵、今まで誰も私にそう言ってくれなかった、」

ナスターシャ・フィリッポヴナは言った、

「私は売り買いされるばかりで、結婚はまだ誰一人ちゃんとした人は申し込んでくれなかったわ。

お聞きになった、アファナシー・イワノヴィチ?

公爵の言ったこと、あなたにはどう思われたでしょう?

あまり慎みがないかしらねえ・・・

ラゴージン!あんた行くのはちょっとお待ちよ。

でもあんた、どうやら行きゃしないわね。

もしかしたらあたし、まだあんたと一緒に出かけるかもしれないわよ。

あんたどこへ連れて行くつもりだったの?」


 「エカテリンゴフですよ」と、隅からレーベジェフが告げたが、ラゴージンは身震いひとつすると、自分を信じかねるように一心に見つめていた。

彼は頭を強打したかのように、すっかり麻痺していた。


 「まああんたどうしたの、あんたどうしたのよ、ねえ!

ほんとに発作を起こしてるんじゃないの。 それとも気が違ったの?」

ダーリヤ・アレクセーエヴナはびっくりして飛び上がった。


 「あらあんた本気にしてたの?」

ナスターシャ・フィリッポヴナは笑いながらソファから飛び上がった。

「こんな赤ちゃんをめちゃめちゃにしちゃうわけ? それならちょうどアファナシー・イワノヴィチがいるじゃない。 あの人はね、小さな子が大好きなのよ。

行くわよ、ラゴージン! 自分の包みを持って!

結婚したいってのもかまわないけど、そのお金はやっぱりちょうだいね。

あたしはまだあんたと一緒にならないかもしれないわ。

あんたはさ、結婚もするつもりだけど、包みも手元に残ると思ってたんでしょ?

ばかね! あたしだって恥知らずよ!

あたしはトーツキーの愛人だったのよ・・・

公爵!

あんたに今必要なのはアグラーヤ・エパンチナであって、ナスターシャ・フィリッポヴナじゃないの、でないとフェルディシチェンコに後ろ指さされることになるわ!

あんたは怖くなくたって、あたしはあんたをだめにしてそれを後であんたに責められるのが怖いの! それにあんたは堂々とあたしがあんたに名誉を与えるって言ってくれたけど、それについちゃトーツキーさんがよく知ってるわ。

それとアグラーヤ・エパンチナといえば、ガーネチカ、あんた取り逃がしたわね、あんたそれわかってる? あんたが駆け引きしたりしなければ、あの人きっとあんたと一緒になったわ!

あんたがたはみんなそんなふう。

相手にするなら恥ずべき女か、立派な女か、どちらかひとつよ!

でないときっとごたごたするから・・・見て、将軍たら、口をぽかんと開けて見てる・・・」


 「こりゃソドムだ、ソドムだ!」と将軍は肩をすくめながらつぶやいた。

彼もソファから立ち上がった。

再び皆が立ち上がっていた。

ナスターシャ・フィリッポヴナは狂乱状態のようだった。


 「まさか!」公爵は両手をよじりながらうめいた。


 「あんたは違うと思った?

あたしはね、高慢かもしれないけど、かまわないわ、恥知らずで!

あんたさっきあたしを完璧と言ったわね。

見事な完璧だわ、虚栄心ひとつで、百万も公爵の身分も踏みつけにして、スラムに行くのよ!

さあ、こうなるとあたし、あんたにとってどんな奥さん?

アファナシー・イワノヴィチ、なにしろ百万だってあたしはほんとに窓から放り投げちゃったのよ!

あなたどうして思ったの、あたしがガーネチカと、あなたたの七万五千と結婚するのを幸せと考えるなんて?

七万五千はあんた取っときなさい、アファナシー・イワノヴィチ、

十万とまでいかなかったのは、ラゴージンの勝ちね!

ああ、ガーネチカはあたしが慰めてあげなくちゃ、ひとつ思いついたわ。

ああ、あたし歩きたくなったわ、だって街の女だもの!

あたしは十年牢獄に座って過ごして、今が幸せなの!

どうしたの、ラゴージン?用意して、行くわよ!」


 「ねえあんた何わめいてるの!」ナスターシャ・フィリッポヴナは彼を笑った。

「あたしはまだここでは主人よ。その気になればまだ一突きであんたを追い出すわよ。

あたしはまだあんたからお金をもらってないわ、ほらそこにある。 それをこっちにちょうだい、包みごと!

この包みの中が十万ね? へ、なんていまわしいこと!

どうしたの、ダーリヤ・アレクセーエヴナ? いったいあたしにこの人をだめにしたりできる?

(彼女は公爵を指さした。)どうしてこの人に結婚できるの、まだ自分に乳母が必要なのに。

そこにいる将軍がこの人の乳母になるわ。 ほら、彼につきまとってる!


見て、公爵、あんたの花嫁は金を取ったわよ、堕落した女だからね、

あんたはそんなのをもらおうとしたのよ!


でもあんた何よ泣いたりして?

ねえ、悲しいの?笑ってちょうだいよ、あたしみたいに」


と、話し続けるナスターシャ・フィリッポヴナの両の頬にも大粒の涙が二つきらめいていた。


「時を信じること−−何もかも過ぎてしまうわ。

後で考え直すより今の方がいい・・・


ああ、でもなんであんたたちみんな泣くの。 カーチャまで泣いて!

どうしたの、カーチャ、ねえ? あたし、あんたとパーシャにいろいろ残しとくからね、もう言いつけておいたのよ、でも今はさようなら!

あたしはあんたみたいな立派な娘にあたしの、堕落した女の世話をさせたりして・・・

これでいいのよ、公爵、ほんとにいいのよ、後であたしを軽蔑するようになって、あたしたち幸せにはなれないわ!

誓ってもだめ、信じないわ! それにどんなばかげたことになるやら!・・・

いいえ、気持ちよくさよならにしましょう

、だってそうしないとね、あたしは夢想家で、何の役にも立ちゃしないんだから!


あたしがあんたを夢見なかったと思って?

あれはあんたの言う通り、長いこと夢想したわ、


まだ村のあの人のうちにいて、五年間ひとりぼっちで過ごした頃。

考えて考えて、夢ばかり見続けたものよ。 するといつも、思い浮かんだわ、

あんたのような、優しくて、誠実で、いい人で、それでやっぱりばかそうな人が突然現れて言うの、


『あなたに罪はありません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、

私はあなたを崇拝します!』

よくそんな空想をすると気が狂いそうになるものよ・・・

そこへほら、この人が到着するの。


年に二ヶ月滞在して、辱め、傷つけ、怒らせ、堕落させ、帰っていく。

それで何度も池に身を投げようとしたけど、卑劣だったし、心が弱かったから、

ええ、それでこうして・・・

ラゴージン、用意は?」


 「いつでもこいだ!近寄るんじゃねえ!」

 「いつでもこいだ!」といくつかの声が聞こえた。

 「鈴のついたトロイカが待ってるぜ!」

 ナスターシャ・フィリッポヴナは包みをつかんだ。


 「ガーニカ、あたしひとつ思いついたの。 あたしあんたにご褒美をあげたいの。 だってあんた何もかもなくしちゃっちゃねえ。

ラゴージン、この人は三ルーブリでワシリエフスキー島まで這っていくのね?」


 「這っていくさ!」

 「さあ、それじゃ、お聞きなさい、ガーニャ、あたしはこれが最後、あんたの心を見てみたいの。 あんたはまる三月あたしを苦しめた。 今度はあたしの番よ。

この包みを見て、十万入ってるのよ!

それをあたしは今、暖炉に投げ込むわ、火の中へ、みんなの前で、みんな証人よ! 火が全体を包んだ瞬間に、暖炉に手を突っ込むのよ、ただし手袋なし、素手で、袖をまくってね、それで包みを火から引っ張りだすのよ!

引き出したら、あんたのものよ、十万全部、あんたのものよ!
少しばかり指を焦がしても、なにしろ十万よ、考えてごらんなさい!

つかみ出すのは簡単よ!

あたしはね、あんたがどんなふうにあたしのお金のために火の中に突っ込むかであんたの魂を見るんだから。 みんなが証人、包みはあんたのものになるわ!

突っ込まなければ、そのまま燃えてしまうのよ。 誰にも許さないからね。

どいて!みんなどいて!あたしのお金よ!

あたしが一晩でラゴージンから取ったのよ。あたしのお金よね、ラゴージン?」


 「おまえのだとも!おまえのだ、女王様!」

 「さあ、それじゃみんなどいて、あたしがしたいようにするの!

邪魔しないで!フェルディシチェンコ、火を直して!」


 「ナスターシャ・フィリッポヴナ、手が言うことを聞きません!」ぼう然としてフェルディシチェンコが答えた。

 「ああもう!」とナスターシャ・フィリッポヴナは叫んで火ばしをつかみ、くすぶっているまきを二つ掻き起こし、火が燃え上がるやいなや、その上に包みを投げた。

 まわりに叫び声が起こった。それどころか多くのものは十字を切った。

 「気が狂った、気が狂った!」まわりの人たちは叫んだ。

 「い・・・いいのかな・・・彼女を縛らなくて?」将軍がプチーツィンにささやいた

、「それとも入れてしまうか・・・だって気が狂ったんだろ、気が?狂ったんだろう?」

 「い、いいえ、これは完全な発狂ではないかもしれません」と、ハンカチのように青ざめ、震えながらプチーツィンは、くすぶりだした包みから目を離すこともできずにささやいた。

 「狂ってるね?狂ってるんだね?」と将軍はトーツキーを煩わせた。

 「毛色の変わった女だと言ったでしょう」と、やはり少し青ざめたアファナシー・イワノヴィチがつぶやいた。
 

 「ラゴージン、出発よ!

さよなら、公爵、初めて人間に会ったわ!

さようなら、アファナシー・イワノヴィチ、メルシー!」


 ラゴージンの一団は騒々しく大声を立て、叫びながら、ラゴージンとナスターシャ・フィリッポヴナの後に続き、部屋部屋を通り抜け、出口へ殺到した。

ホールでは娘たちが彼らにコートを渡した。

料理女のマルファは台所から駆け出してきた。ナスターシャ・フィリッポヴナは彼ら皆にキスをした。

 「では本当に奥様、私たちをすっかり見捨ててしまわれるんですか?

ではいったいどこへおいでですの? それにお誕生日に、こんな日に!」


と尋ねながら娘たちは泣き出し、彼女の手にキスしていた。


 「街へ出るのよ、カーチャ、

あんた聞いてたでしょ、そこがあたしの場所なの、でなけりゃ洗濯女よ!

アファナシー・イワノヴィチとはもうたくさん!

あの人にあたしからよろしくね、悪く思わないでね・・・」 
http://homepage3.nifty.com/coderachi/doct/idiot-1.html#ch11


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1. 『白痴』における虐げられた女性たちの考察 
 
―ナスターシャ・フィリポヴナの形象をめぐって 高橋誠一郎


はじめに ―― 『白痴』の主人公について


『白痴』においてドストエフスキーは、ムイシュキンにフランスの処刑制度を批判させながら

「聖書にも『殺すなかれ!』といわれています。それなのに人が人を殺したからといって、その人を殺していいものでしょうか? いいえ、絶対にいけません」

と明確に語らせていた。

 つまり、決定稿におけるムイシュキンは、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老や、若きアリョーシャにつながる風貌を持っている。

 そしてこのような「哲学者」的な風貌を持つムイシュキン像は、5000万人以上の死者を出した第二次世界大戦の反省を踏まえて製作された黒澤明監督の名作「白痴」でも、登場人物を日本人に移し替えながらも、

「滑稽」に見えるが、「一番大切な知恵にかけては、世間の人たちの誰よりも、ずっと優れて」いる人物

として、きわめて説得的に描き出されていた。

そして、そのようなムイシュキン像は本場ロシアや海外の研究者たちによってきわめて高く評価された。


 さらに、新谷敬三郎氏が「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いているように、「ドストエーフスキイの会」に集った日本の研究者たちも、同じような感想を抱いていた。

たとえば、「ドストエフスキーと黒澤明とはいわば私の精神の故郷である。他の多くの人にとってそうであるように」と記した国松氏も、ラストのシーンでアグラーヤ役の綾子が、


「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……

私……私、なんて馬鹿だったんだろう……

白痴だったの、わたしだわ!」


と語っていることに注意を促している。


 私はキリスト者ではないが、初めて『白痴』を読んだときからムイシュキンという主人公に、ドストエフスキーが与えようとした「キリスト公爵」としての風貌の一端を感じ、彼が語る「哲学」からは強い知的刺激や励ましをも受けてきた。

私も、重要な登場人物たちとの関係をとおしてドストエフスキーが描こうとしたムイシュキン像を再考察することにより、私が考える『白痴』の意義をドストエフスキーの愛読者に率直に提示して批判を求めたい。ただ、時間や紙数などの関係から、本発表ではナスターシャ・フィリポヴナの形象を中心に考察する。


(1) 『白痴』の時代とナスターシャの形象

 
 多くの研究者が指摘しているように『白痴』には、死にまつわるエピソードが多い。
たとえば江川卓氏は、

「とくに目立つのはムイシュキン公爵が死について語り、あるいは死に遭遇する機会が異常に多いことである」

とし、

「とにかくこの『白痴』では、いたるところに殺人、自殺、死がちりばめてある」
と記している。


亀山氏もドストエフスキーが

「ロシアから送られてくる新聞を貪るように読み、徐々に剣呑な状況へはまりこんでいく祖国の姿を遠方から固唾をのんで見守っていた」

とし、

「紙面にあふれかえる凶悪事件に、彼は文字通り圧倒された。

ウメツキー一家事件、マズーリン事件、ジェマーリン一家惨殺事件、商人スースロフ殺人事件。

『罪と罰』執筆時とは比べものにならぬほどの強い危機感が彼をとらえようとしていた」と書いている。


 たしかにこの指摘はドストエフスキーの当時の気持ちの一端をうがっているだろう。

しかし、ドストエフスキーは『罪と罰』(1866年)で「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」の殺害を行ったラスコーリニコフに、自分が犯した殺人と比較しながら、

「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」

と反駁させていたが、同じ年に起きたプロシア・オーストリア戦争は、近代的な兵器による殺戮の大規模化と普仏戦争など新たな戦争の勃発をも予想させた。

このような戦争の拡大や軍国主義に危機感を抱いた平和主義団体は「民族の平和と自由の思想」を広めるためとして、翌年の9月にジュネーブで国際会議を開いた。


そこでロシアの代表として演壇に立ったのが、プラハやドレスデンの蜂起に参加し、「サクソニヤとオーストリヤとロシヤでは囚人」となり、二度も死刑宣告を受けながらも、脱出に成功したことで英雄視されるようになっていたミハイル・バクーニンであった。


そのバクーニンは、ロシヤ帝国を「人間の権利と自由の否定の上に成立している」と糾弾し、「未来のヨーロッパ連邦」を築くために滅亡させることを要求した。

グロスマンは「国際会議」でバクーニンが行った演説の内容を知ったドストエフスキーが「バクーニンを主人公にしてロシヤ革命を扱った小説を書こうという自分の意図」を固めたと書いている。

「平和のため」としながらも「火と剣」を要求し、「あらゆるものが絶滅したあとに初めて平和が訪れる」としたバクーニンの主張が、ドストエフスキーにきわめて深刻な印象を残したことは確かだろう。


 1862年の夏に「長いことあこがれ」ていた西欧への初めての旅行を行い、『冬に記す夏の印象』において

「数百万の富を有し、全世界の富を支配する」ロンドンの繁栄だけでなく、

労働者たちの住む貧民窟や「毒に汚されたテムズ河、煤煙にみちみちた空気」

など近代科学が生み出した環境の悪化をも記したドストエフスキーは、そこでゲルツェンやバクーニンとも会っていたのである。


 それゆえ、1869年11月にロシアでバクーニンとも深いつきあいのあったネチャーエフによる陰湿な殺人事件が起き、その翌月にはペトラシェフスキー・サークルの旧友でもあったドゥーロフの死を知ると、ドストエフスキーは『悪霊』のノートをとりはじめ、「スタヴローギン像の創造」に着手することになる。


 なぜならば、非凡人は

「自分の内部で、良心に照らして、血を踏み越える許可を自分に与える」

のだとラスコーリニコフに説明させて、「良心」理解が誤った思いこみに陥った際の危険性を具体的に示していたドストエフスキーは、予審判事のポルフィーリイに

「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」

と批判させていた。


そして、そのエピローグでは旋毛虫に犯されて自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに殺しあって、ついに人類が滅亡するというラスコーリニコフの悪夢が描かれていたのである。


 ドストエフスキーがロシアのキリスト公爵として描こうとしたムイシュキンに、フランスの「死刑」を批判させることによって、「文明」の名のもとに自らの「正義」によって人を裁き、「他者」を殺すことへの鋭い疑問を投げかけていたことを思い起こすならば、『白痴』において死が多く描かれているのは、ある意味で当然だと思える。

ドストエフスキーはムイシュキンに

「骨の髄まで悪のしみこんだ者でも、…中略…自分の良心に照らして悪いことをしたと考えている」

が、自分の思想に基づいて殺人を行った者は、

「自分のしたことは善いことだ」と考えていると指摘させている。

『罪と罰』でラスコーリニコフの「自己中心的な理論」の問題点を指摘しただけでなく、暴利を貪る「高利貸し」の非道性も鋭く批判していたドストエフスキーは、『白痴』においても

「こんな男なら、お金のために人殺しでもするでしょうよ。

ねえ、いまじゃ人は誰でもお金に眼がくらんで、まるでばかみたいになっているんですからね」

とナスターシャ・フィリポヴナに語らせ、

「まだまったくの子供みたいな人までが、高利貸しのまねをしているんですからね」

と続けさせているのである。


 ナスターシャのこの言葉は、近代西欧社会の現実を踏まえた上でのドストエフスキーの鋭い問題意識を反映しているといえよう。

つまり、ドストエフスキーは『白痴』において金銭ばかりが重視され、金儲けのためには殺人をも厭わないような傾向をも示し始めたロシア社会を厳しく分析しているのである。


(2) ナスターシャ・フィリーポヴナとトーツキイの関係をめぐって


 『白痴』における主人公がムイシュキンであることには誰も異議はないだろうが、この作品を書いていたときにドストエフスキーはマイコフに宛てた手紙で、この長編小説には「二人の主人公」がいると書いて、ナスターシャの重要性を強調していた。


 このことに注目したロシアの研究者フリードレンデルは、ドストエフスキーがその作品において女性が虐げられていることの「社会的原因」や「女性のたどる運命の問題」を描き続けて来たとして、『椿姫』との関連も指摘している。


 実際、両親が所有していた村が火事で焼け、そのために苦労した母親が病死したあとでは妹たちが親戚に引き取られたという苦い体験をしていたドストエフスキーは、
第一作『貧しき人々』において、村の管理人を務めていた父親がリストラされたあとでの少女の苦難に満ちた人生を描き、

『白痴』においても両親が亡くなった後のナスターシャの苦難に満ちた人生に読者の注意を向けているのである。


 すなわち、ナスターシャの父は軍隊を退役した後で「所有地の少ないきわめて貧しい地主」となり、

借金を重ねるような貧乏暮しをしながらも、「幾年か百姓同様の怖ろしく辛い労働をつづけ」、

「財政をどうにか建てなおすことができた」矢先に、

債権者たちと話しあうために出かけた先で、自分の屋敷が火事で焼け、妻も焼け死んだという報せを受けて、

絶望のあまり「気が狂って、一カ月後には熱病で死んでしまった」。

 その後、「焼けた領地は、路頭に迷った百姓たちもろとも、借財の返済にあてられ」たが、

生き残った二人の女の子は、隣りに豊かな領地を所有していたトーツキイが「持ち前の義侠心から」手もとに引き取り、「支配人である大家族持ちの退職官吏のドイツ人の子供たちといっしょに」育てたのである。

 ナスターシャの妹は病気で亡くなったが、5年後に自分の領地を訪れた際に12歳になったナスターシャが美しく成長していたのをみたトーツキイは、「この道にかけては」、「決して眼に狂いのない玄人であった」ので、

ナスターシャに貴婦人としてふさわしいような特別な教育を施し始める。


 こうして、

「年頃の娘の高等教育に経験のある、フランス語のほかに一般学科を教えるりっぱな教養あるスイス婦人が家庭教師として招かれ」、

「ちょうど四年後にこの教育は終り、家庭教師の婦人は立ち去った」。

 その後で訪れた女地主は、

16歳になったナスターシャを「慰めの村」と呼ばれていたトーツキイの領地の一つである小さな村に「トーツキイの指図と委任とによって」、連れていき、
「しゃれた飾りつけ」の「建ったばかりの木造の家」に住まわせた。


 「慰めの村」と呼ばれていた小さな村でのトーツキイとの生活について、ナスターシャは
 
「そこへあの人がやってきて、一年に二月ぐらいずつ泊まっていって、
けがらわしい、恥ずかしい、腹の立つようなみだらなことをして、帰っていくんです。(……)

あたしは何べんも池に身投げしようと思ったけれど、卑怯にもその勇気がなかった」
と告白している。


 この言葉に注目した亀山氏は、

「わしらのなにより楽しみっていえば、娘っこに鞭打ちの仕置きを食わせることでしてね。

鞭打ちの役はぜんぶ若い衆にまかせるんですがな。

そのあとで、今日ひっぱたいたその娘っこを、明日はその若い衆が嫁にとる。
だから、娘っこたちにしてもそいつが楽しみなんですな」

という『カラマーゾフの兄弟』のフョードルが聞き及んだ田舎の老人の話を紹介しながら、

「トーツキイの快楽とは、田舎地主のサディズムないしはマゾヒズムの儀式だったと私は思います」

と結論している。


しかし、「慰みの村」におけるトーツキイとナスターシャの関係から、「鞭の快楽」を連想することは妥当なのだろうか。


 なぜならば、亀山氏はトーツキイとナスターシャの関係を「領主と農奴の娘」の関係に擬しているが、

「慰みの村」でナスターシャが与えられた家には、「年寄りの女中頭とよく気のつく若い小間使い」がいたばかりでなく、「さまざまな楽器、少女むきのすばらしい図書室、絵画、銅版画、鉛筆、絵具が揃っており、素敵な猟犬までがいた」。


 つまり、ナスターシャはそこで「農奴の娘」どころか、「領主夫人」なみの扱いを受けていたのであり、

それゆえ、

「四年あまりの歳月が、何事もなく幸福に、優雅な趣のうちに、流れていった」と記されているのである。


 これらの文章はナスターシャと正式には結婚していなかったものの、おそらくトーツキイが将来的な結婚の約束を「慰みの村」で与えていた可能性が強いことを物語っていると思われる。

 そして下線の文章に注目するならば、

「トーツキイがペテルブルグでも富も家柄もある美貌の女(ひと)と結婚しようとしている」という「噂(うわさ)」を伝え聞いたときになぜナスターシャが、それまでとは「全く別の女性」として現れ、トーツキイには「結婚を許さない」と宣告したかが分かるだろう)。


 しかも、「小ねずみ」を語源とする「ムイシュカ」という単語から派生した「ムイシュキン」という滑稽な感じの名字をもつ主人公が、かつての名門貴族の出身であったと記したドストエフスキーは、

「子羊」を語源とするバラシコーワという名字を持つナスターシャの家柄についても
「かつては由緒ある貴族の出身」であり、「かえってトーツキイなどよりも家柄」がよかったとも記している。

 つまり、自分の所有する領地の一つの隣に住んでいた名門だが没落した貧しい貴族の夫婦が焼け死んだことで、トーツキイは慈善家のような形で名家の娘を育て、さらに愛人として所有していたのである。

それゆえ、トーツキイの結婚の噂を聞いたときに、初めて自分がパリの「高級娼婦」のような存在に過ぎなかったことを思い知らされたナスターシャは、「からからと大声で笑いながら、毒々しい皮肉を浴びせ」たのだと思える。

 このように見てくるとき、彼女が語る「腹の立つようなみだらなこと」とは、鞭打ちに快楽を感じるような性愛を指すのではなく、
それまで自分が愛の営みとして受け取っていた行為が、トーツキイの快楽の手段であったことへの怒りの言葉と見なすべきであろう。

 ただ、「鞭の快楽」が「田舎地主のサディズムないしはマゾヒズムの儀式」とされているが、それは『地下室の手記』や『死の家の記録』など重要な作品の解釈とも密接に結びついているので、もう少しその点に触れておきたい。

 すなわち、亀山氏は、『地下室の手記』にはクレオパトラが

「自分の女奴隷の胸に金の針を突き刺し、彼女たちが叫び、身もだえるのを見てよろこんだという」

というエピソードが書かれていることを紹介して、ここでは「ドストエフスキーの変貌は決定的なものになった」と断言しているのである。

そして、「おあいにくさま、歯痛にだって快楽はある」と語る「地下室の男」の言葉を引用して亀山氏は、ここでは「受け身の快楽をことさら強調してみせることで、暗に虐待する人間の快楽を正当化するという戦法」がとられていると続けている。


 しかし、『イギリス文明史』で「楽観的な進歩史観」を主張した歴史家バックルにたいして、ドストエフスキーは「地下室の男」を敢然と立ち向かわせているとイギリスの研究者ピース氏が指摘しているように、

「歯痛にだって快楽はある」と語る主人公の論理は、屈折しながらも、きわめて鋭い西欧文明批判を秘めている。


 つまり、「地下室の男」はここで、

「自分の女奴隷の胸に金の針を突き刺し」て喜んだクレオパトラの「野蛮さ」と、
「血はシャンパンのように」多量に流されている近代の戦争とを比較することで、「自己の正義」を主張して「他国」への戦争を正当化している近代西欧文明の方が、古代エジプトよりもいっそう「野蛮」であることを指摘して、バックルの主張に厳しい反駁を加えていたのである。


 さらに、貧しい人々を治療する医師だった父が、農奴の所有者になると一変して、農奴を鞭打つことも当然としたことを厳しく批判していたドストエフスキーは、亀山氏も指摘しているように、『死の家の記録』で笞刑を行うことに慣れた刑吏の心理を分析して、

「もっとも残酷な方法で」、「他者」を「侮辱する権力と完全な可能性を一度経験した者は、もはや自分の意志とはかかわりなく感情を自制する力を失ってしまうのである」
と指摘していた。

 つまり、「他者」にたいする鞭打ちという体刑を認めないドストエフスキーの姿勢は、『カラマーゾフの兄弟』まで変わることなく一貫していたのであり、そのように理解しないと子どもの虐待をめぐるイワンとアリョーシャの白熱したやり取りもその意義を失うことになると思われるのである。


(3) ナスターシャとロゴージンの形象をめぐって


 ナスターシャ・フィリポヴナのバラシコーワという名字が、「子羊」を語源とする「バラーシェク」という単語から採られていると記した亀山氏は、ムイシュキンの名前がライオンという意味のレフであることにも注意を促している。

そして、バラシコーワという名字は「アベルによって神に捧げられた犠牲の子羊のイメージ」と重なり合っているとし、「旧訳聖書の文脈に従うなら、ナスターシャはアベル=ムイシュキンによって屠られるべき存在です」と主張している。


 ただ、このような亀山氏のナスターシャ像は突然生まれたのではなく、ナスターシャの名前や父親の名前から造られるロシア独特の父称などに注目して、

ドストエフスキーには明らかに

「ナスターシャ・フィリッポヴナを鞭身派の一信徒に擬そうとする意図」

があったと解釈した江川卓氏の 『謎とき「白痴」』 から強い影響を受けていると思われる。


 すぐれた語学力と読解力を活かして、登場人物の名前や動詞の意味だけでなく、フォークロアや法律書にまで踏み込んだ鋭い分析がなされている江川卓氏の『謎とき「罪と罰」』(1986年)から私は、多くの知的示唆を受けた。


 しかし、『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』(1991年)の後に書かれた『謎とき「白痴」』(1994年)を読んだ時には強い違和感が残った。

おそらくそれは、ロゴージンやナスターシャの名前について言語的なレベルからの考察をとおして、旧教徒のセクトとのかかわりが指摘される一方で、『罪と罰』のテーマとの深いつながりや、ナスターシャとムイシュキンの関係を分析する上ではきわめて重要な役割を担っている『椿姫』などへの言及などがほとんどなかったためだろう。


 たとえば江川氏は、

「情熱の権化のように言われていた」ロゴージンの名前が、ギリシャ語で「童貞」を意味する「パルテノス」を語源とするパルフョンであることや、「死人のような蒼白さ」という表現から去勢派の教義に従った人物と読み取っている(185)。


 たしかに、

ロゴージンの父親が去勢派や鞭身派などの旧教のセクトに強い関心を持っており、
伯母も「職業的な修道女で、旧教派の中心地であるプスコフに住んでいる」

と描かれており、ムイシュキンもロゴージンが将来

「二本の指で十字を切ったり」、

「ニコンの改革前の聖書を読んだりするようになる」

可能性を示唆している。


 しかし、「熱病にかかってまる一月も」寝込んでいたロゴージンが、病みあがりにもかかわらずナスターシャと会うために夜汽車で駆けつけようとしていたと書かれていることに留意するならば、ここでは彼の情熱が強調されていると考える方が自然だろう。
しかもグロスマンが書いているように、

ドストエフスキーはここで「プーシキンの名前すら知らない」、文盲に近いロゴージンが

「民族の伝統や、昔の民間信仰と固く結びついて」いる一方で、

「西欧化した新しい風俗のハイカラさ、つまりひげを短く剃りこんだり、色つきのチョッキを着て、めかしこんだりする『大商人』のタイプとはおよそ掛け離れて」いた
ことを強調しているのである。


 そして、ムイシュキンはロゴージンのことを「情欲だけの人間ではない」、「人生の闘士」だと感じ、

「彼は苦悩することも同情をよせることもできる大きな心を持っている」とも考えている。

ことに、「二人でプーシキン」を「すっかり読んだ」と語っていることに注目するならば、

吝嗇な父親と息子の対立と父親の殺害にいたる経過を描いたプーシキンの『吝嗇の騎士』

をも彼らが読んでいたことは確実だろう。


 すなわち、『白痴』を書いていたころのドストエフスキーは、旧教徒にも一定の意味を認めていたのである。

ムイシュキンは情熱に駆られて極端にまで走りかねないロゴージンの民衆的なエネルギーとその可能性を信じて、彼とともにプーシキンの作品を読むことで、彼に正しい方向性を示そうとしていたのだと考えられるのである。


 さらに、「権力を重視し」、他者の「処刑」を認めていた当時のカトリックを、「ゆがめられたキリストを説いている」と厳しく批判したムイシュキンは、

「自分の生れた国を見捨てた者は、自分の神をも見捨てたことになる」

といった旧教徒の商人の言った言葉を紹介しながら、

ロシアの「鞭身派」でさえ、「ジェスイット派や無神論」などよりも、「ずっと深遠でさえあるかもしれません」

と語っている)。


 この言葉に注目するならば、ここに見られるのは「クレオパトラ」と比較しつつ、「近代西欧文明」の「野蛮さ」を指摘した「地下室の男」と同じような論法であるといえよう。

すなわち、自らを傷つけたロシアの「鞭身派」と比較することで、「異教徒」や「皇帝」の「殺害」をも正当化する「ジェスイット派や無神論」の「野蛮性」をムイシュキンは強調しているのである。


 しかし、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を『ロシア報知』に掲載した1880年には、以前から交際していた保守的な政治家で、ロシア正教以外の宗教的な価値を認めなかったポベドノースツェフが、ロシアの教育と宗教を総括する総務院の総裁となっていた。

それゆえ、このころには再び厳しさを増していた検閲のために、ロシア正教の異端とされた旧教徒をも否定的に描かざるをえなくなっていたと思える。

去勢派などとの関わりが暗示されている『カラマーゾフの兄弟』におけるスメルジャコフの否定的な形象はこのような時代状況のなかで生み出されたのである。


 こうして、スメルジャコフに「去勢派(スコペッツ)」の影を色濃く見て、『白痴』論でもその連想から「新しい」ロゴージン像を描き出した江川氏は、そのような視点からナスターシャ・フィリポヴナにも「鞭身派」の影を強く見出している。


 たとえば、第三編では

「もうこうなりゃ、ぴしゃりとやらなくちゃだめだ。

それよりほかにあんな売女(ばいた)をやっつける法はないさ!」

と一人の青年将校から大声で批判されたのを聞いたナスターシャが、

「相手のステッキを引ったくって、その無礼者の顔をはすかいに力いっぱい打ちすえた」

という場面が描かれている。


 ここで「ぴしゃりとやらなくちゃだめだ」という表現に用いられている
「鞭(フルイスト)」という単語が、「鞭身派(フルイストフシチナ)の名称の起りとなったことばである」

ことを指摘した江川氏は、

734年に処刑された「鞭身派の聖母」がナスターシャ・カルポヴナという名前を持っているばかりでなく、

ナスターシャの父称が「鞭身派の教祖ダニイラ・フィリッポヴィチ」の父称とも同じであることに注意を促して、

「ナスターシャ・フィリッポヴナという名が、鞭身派の神話を背負った名であることは自明である」

と断言していた。

 しかし、当時のロシアでは妻や子供に対する「躾」のために鞭をふるったりすることは伝統的に認められていたのであり、軍隊では兵士に対する殴るなどの体罰が日露戦争の最中にも行われていた。

このことを考えるならば、とりわけ青年将校が「鞭でこらしめねばならない」と語るのは特別なことではないと思える。

 しかも、『白痴』ではしばしば高級娼婦と貴族の若者の悲恋を描いた『椿姫』が話題となっていることを思い起こすならば、

「ぴしゃりとやらなくちゃだめだ。それよりほかにあんな売女をやっつける法はないさ!」

という言葉に激しく反発したナスターシャの反応には、娼婦と呼ばれたことへの彼女自身のプライドの問題や、女・子供や農民出身の兵士の教育には「鞭」が必要だと考える伝統的な道徳の問題が提起されていると考えるほうがむしろ自然であろう。


 つまり、『謎とき「白痴」』が『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』の後で書かれたという事情もあり、

江川氏がロゴージンやナスターシャの形象を1860年代の大地主義的な世界観によってではなく、厳しい検閲によって制約を受けていた晩年の記述によって、ロゴージンやナスターシャを旧教徒のセクトと結びつけて解釈している可能性が強いと思えるのである。

そして、亀山氏の『白痴』論では重要な登場人物とムイシュキンとの関係の考察が省かれことにより、ナスターシャにおけるマゾヒズムへの傾向がいっそう強調されることになったのだと思える。


4.『白痴』の現代性


 ところで、長編小説『椿姫』は、『三銃士』などの作品で知られるアレクサンドル・デュマの私生児として生まれたデュマ・フィスによって、2月革命が起きた1848年に書かれた。

そして、主人公がアルマンの腕に抱かれて亡くなるというメロドラマ的な筋書きのオペラ『椿姫』とは異なり、到着が遅れたために主人公がマルグリットの死に目に会えないという発端を持つこの『椿姫』は、フリードレンデル氏などが指摘しているように、ドストエフスキーの『白痴』にもきわめて強い影響を与えている。


 つまり、訳者の新庄嘉章氏が書いているように、この作品でデュマ・フィスは高級娼婦であったマルグリットの純愛と犠牲的な死をとおして、「男性の利己主義的な行為」や、「それを助長させる金銭の力」や「それを黙認している世間の慣習」を厳しく批判していたのである(新潮文庫、1950年)。

 そしてドストエフスキーも『冬に記す夏の印象』(1863年)において、
ナポレオン三世治下のフランス社会には「すべての者が法の範囲内で何でも行える同一の自由」があることを認めたあとで、次のように「フランス的自由」を厳しく批判していた。

 「いつ欲することをすべて成すことができるのだろうか? 

百万をもっている時である。自由は各人に百万を与えるだろうか? 

与えはしない。

百万を持っていない者は何者だろうか? 

百万がない者は、何でも好きなことができる者ではなく、何でも好きなことをされる者である」。


 実は、敗戦後まもない1951年に上映された黒澤明監督の映画『白痴』では、キリスト教的な背景ばかりでなく、このような社会的背景をもきちんと描かれていた。

さらに私見によれば、この作品で黒澤明はムイシュキンの存在を

ロゴージン・ナスターシャ・ムイシュキンという「欲望の三角形」的な関係に縛られる者としてではなく、むしろ精神科医的な視点から、

「何でも好きなことをされる者」としてのナスターシャの苦悩を、治癒しようとして果たし得なかった者として描いているのである。


 この意味で注目したいのは、ロンドンで開かれていた万国博の会場である水晶宮を訪れて、

「全世界から集ったこれら無数の人間の全てをここで一つの群に集めた恐るべき力」を感じたドストエフスキーが、

イギリスの社会はキリスト教を名乗りながらも、実際には儲けの神である異教の神、「バール神」に屈服した

と厳しく批判するとともに、

「バールの神を偶像視したりしないようにするには」、「幾世紀にもわたるおびただしい精神的抵抗」が必要とされるだろうと記していたことである。


 つまり『白痴』における考察は、市場原理主義に基づいた極端な「規制緩和」により格差社会が生まれる一方で、それまでアメリカ企業の模範とされてきたリーマン・ブラザーズが、カジノ資本主義的な手法のサブプライム・ローンによって破綻し、世界が金融危機に陥った現代の状況をも予測するような深いものだったといえよう。
http://dokushokai.shimohara.net/t111.htm

果たしてムイシュキンは殺人の「使嗾者」か?

――黒澤明監督の映画『白痴』を手がかりに   高橋誠一郎


 黒澤自身が最も高く評価した自作の一つが、ドストエフスキーの『白痴』を終戦直後の混乱した時代の日本に置き換えて描いた映画『白痴』(1951)であった。

 上映時間四時間二五分という大作となったこの作品は、観客の入りを重視した経営陣から大幅なカットを命じられたために、時折、字幕で筋の説明をしなければならないなど異例の形での上映となり、日本では多くの評論家から「失敗作」と見なされた。

それにもかかわらず、新谷敬三郎氏が「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いたように、映画『白痴』は原作を熟知している本場ロシアや海外、そして日本の研究者たちからはきわめて高く評価された。

 一方、近年の日本は「グローバリゼーション」の名の下に、「新自由主義」が幅をきかすようになって「格差社会」が一気に進んだ。

ちょうどその頃に出版された研究書で亀山郁夫氏は、

ナスターシャの殺害をロゴージンに「使嗾」したのはムイシュキンであり、

「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」

と結論した(『ドストエフスキー 父殺しの文学』上巻、NHK出版、2004年、285頁)。


 そして、亀山氏のこのようなドストエフスキー論はマスコミで賞賛され、学校などでも読書コンクールの対象図書とされたことで若者たちの間でも広まっている。

亀田(ムイシュキン)を「真に美しい善意の人」として描いた黒澤明の『白痴』理解は、全くの誤読だったのだろうか。

 この意味で注目したいのは、大著"Dostoyevsky―― An Examination of the Major Novels"(Cambridge University Press, 1971)において、

『白痴』のロゴージンやナスターシャが古儀式派から派生した過激なセクトである去勢派や鞭身派への強い関心を示していたことや、

『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフが去勢派に属していた可能性が強い

ことを語義的なレベルから明らかにして、世界中のドストエフスキー研究者に強い影響を与えたイギリスのすぐれた研究者ピース氏のムイシュキン解釈である。


 後に、"Dostoyevsky's Notes from Underground"で、ドストエフスキーの作品が緻密な論理構造を持っているだけでなく、登場人物もきわめて有機的に配置されていることを明らかにすることになるピース氏はすでにこの大著で、

「死刑を宣告された者」と自ら名乗っていたイポリートの考察をとおして、

当時の「弱肉強食の論理」とそれに対抗する「弱者の権利の理論」との対立を浮き彫りにしていた。


 そして1864年の裁判改革の流れにのって、弁護士の資格も取っていたレーベジェフの問題点だけではなく、彼の娘ヴェーラの肯定的な意義も示すことで、ムイシュキンという主人公がプーシキンに依拠しつつ、「美は世界を救う」という理念によって世界を和解させる道を必死に模索していたことを明らかにしていた。


これらの指摘をふまえて黒澤映画を見直す時、『白痴』(1951)とその前後に撮られた『醜聞(スキャンダル)』(1950)と『生きる』(1952)が、『白痴』三部作と呼べるような深いつながりを有していたことに気づくのである。


 今回の報告ではピース氏の『白痴』論や黒澤明監督の映画を手がかりにしながら、モスクワから半年ぶりに帰還したムイシュキンの行動を描いた第2編を次のような順序で分析する。


 まず、最初にレーベジェフと甥との会話に注目することで、

弁護士も営むようになったレーベジェフが、「真心は持っている」ものの、酔っぱらいの「ペテン師」である可能性が示唆されていることを確認する。

 そして、ロゴージンの古い家を訪れた際にはムイシュキンが、ホルバインの絵画『キリストの屍』や「分離派」について会話を交わしただけでなく、別れ際にはC氏との出会いや殺人事件の話、そして百姓の女性から受けた印象についても語っていることに注目する。

 さらに、ロゴージンとの間では歴史書についての会話もなされていたが、『死の家の記録』で重要な役割を与えられているペトロフも歴史的な事実についての強い関心を持っていたと記されていることに注意を払うことで、

ロゴージンという人物が1861年の農民一揆を指導した「古儀式派」教徒のペトロフをモデルとしている可能性があることを示唆する。

 最後に、エパンチン夫人がコーリャに無神論を教えて「誘惑」したとイポリートを批判していることに注目しながら彼の『キリストの屍』観などを分析することにより、

ロゴージンを殺人へと「使嗾」したのはムイシュキンではなく、多くの研究者が『白痴』を解く鍵と見なしているイポリートである可能性が高いことを明らかにする。
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost09.htm


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2. ナスターシャ・フィリッポヴナは鞭身派の聖母 復活のナスターシャ


「時代」廃刊騒ぎのさなか、ドストエフスキーは愛人と連れ立って2度目の外国旅行に旅立とうとしていました。

1861年、「時代」にアポリナーリヤ(ポリーナ)・スースロワという女子大生の短編が掲載されました。

2度目の外国旅行に同行する予定だったのは、このスースロワでした。

スースロワの父親はもともと農奴でした。

しかし、強靱な意志、人並みはずれた能力で農奴の身分を脱し、手広く企業を営むようになったやり手でした。

そして、その資産で娘たちに高等教育を受けさせ、そのかいあって、ポリーナの妹ナデージダはロシア史上最初の女性医師となっています。

姉のポリーナのほうは妹のような栄光とは無縁でしたが、アレキサンドル二世時代の開放感に充ちた空気に鋭敏に反応し、自由奔放に生きる「新しいタイプ」の女性でした。
しかも、父親からは鋼鉄のような性格を譲り受けていたようで、のちにポリーナと結婚したローザノフは彼女のことを「異常なまでの集中力、決断力を持つ女性」と評しています
(ドリーニン編 中村健之助訳 「スースロワの日記」みすず書房)。


「気性は完全にロシア女でしたが、ロシア女はロシア女でも、分離派の”無僧派”の女でした。

いや ”鞭身派の聖母”といった方がいいでしょう」

とも書いています。

ローザノフはのちにドストエフスキーの伝記も書いた文学者でしたが、結婚後数年して、男を作ったスースロワに逃げられてしまいます。

復縁を哀願するローザノフにスースロワは

「何千という夫があなたのような立場に立たされますが、吠えたりはしませんよ、
人間は犬ではないのですからね」

とすげなく答えています。

当初、ドストエフスキーはこのスースロワと一緒にペテルブルグを出発して1863年の夏の間フランス、イタリアを旅行する予定でした。

しかし、妻マリアの転地療養の手配、借金の手続き、旅券更新に手間取って、その間に愛人は先にパリへ旅立ってしまいます。

ドストエフスキーはポリーナに一ヶ月以上遅れて出発します。

にもかかわらず、途中、ヴィースバーデンに立ち寄り、ルーレット賭博に4日間を費やします。

ようやくパリに着いたドストエフスキーを待っていたのは

「あなたは来るのが少し遅すぎた」

というポリーナの言葉でした。


ポリーナはパリで新たにスペイン人の恋人を作っていたのです。

しかし、ドストエフスキーがパリに着いた頃、そのスペイン人の恋人はポリーナに飽きがきていたようで、病気を理由にポリーナと会おうとしなくなっていました。

愛人に捨てられかかったドストエフスキーと新たな恋人に捨てられたポリーナは「兄と妹」という関係を保つことを条件にイタリアに出発します。

しかし、途中、二人はまたもヴィースバーデンに立ち寄り、ルーレットで有り金すべてをまきあげられてしまいます。

ミハイルをはじめとする親戚、出版社からかきあつめた借金でようやくヴィースバーデンを出立、ジュネーブ、トリノ、ジェノア、ローマ、ナポリと南欧各地を転々とします。

そして、10月になってようやく二人は別れることになり、この奇怪な情事旅行は終幕をむかえます。

この2ヶ月間で、ドストエフスキーのポリーナに対する情熱はかなり冷めたようです。
しかし、しばらくポリーナとの関係は続き、2番目の妻アンナと結婚してからも二人は手紙をやりとりしています。

そして、この「鞭身派の聖母」は「賭博者」「白痴」などかれのさまざまな小説に出没することになります。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Dostoyevski.htm


スースロワと「白痴」ナスターシャ


   名前:ぼんやり読者  投稿日時:2009/11/17(火) 13:27 [ 返信 ]

スースロワはドストエフスキーだけでなく、性関係を持った相手や結婚相手に深い憎悪をいだく性質の女性だったようです。

彼女がサルヴァドールをいう男性に対して行った仕打ちを見てみましょう。

この二人は合意のもとに関係を持ち、その後彼女は捨てられました。
そこで彼女は彼に何をしたかというと、「お金」を送りつけたのです。

「拝啓、以前わたしはあなたからある親切を受けました。

世間ではそういう親切に対してはお金を払うのが通例です。

無料で親切を受けていいのは、自分の友だちである人と自分が尊敬している人からだけである、とわたしは考えています。

わたしはあはたを誤解していましたので、自分の間違いを訂正するためにこのお金をお送りします。

このわたしの考えをさまたげる権利はあなたにはありません。」
(スースロワの日記、みすず書房)


まるで「白痴」のナスターシャみたいです。

ガーニャに暖炉に投げ込んだ金を取らせるシーンを思い出します。

スースロワは、性を売る相手に金を払うように、もともとは恋愛関係だったものを金銭関係にすりかえて相手を侮辱し、自分の自尊心を守るため「借りは作らない」という態度をとったようにも見えます。

ちなみに相手からは無視され、返事はありませんでした。

23歳のスースロワのはじめての相手が41歳のドストエフスキーだったとのこと。

ドストエフスキーは

「粗野なものではない。 そこから本質へ突き進むことのできるもの」

と考えていたかもしれませんが、性急な性の要求は深く彼女を傷つけたともいいます。

「白痴」ではナスターシャは年端のいかないうちにトーツキーの囲い者にされた憐れな女と設定され、ムイシュキン公爵は彼女を深く憐れみ、彼女の救いの存在となります。
これはもしかしたらスースロワという女性を怪物のようにしてしまったという、ドストエフスキーの悔恨と懺悔と憐憫の気持ちの産物なのかもしれません。あくまで想像ですが。
http://dostef.webspace.ne.jp/bbs/dostef_tree_r_706.html


946 :吾輩は名無しである :2009/04/23(木) 00:05:49


アタシャ女だが、よくトルストイは女が描けるけど、ドストはダメというのがいるが、

それこそ、男の見方だよね。

ドストのあのヒステリックで自虐的かつサディステックな女性群こそ、本物の女だぞ。
もちろん誇張があるけど。

もてない男が描く理想像がトルストイの女たち。

『戦争と平和』のナターシャにも、アンナ・カレーニナにもさっぱり感情移入できん。

私がトルストイですきなのは、いかに自分がブオトコで持てなかったかを綿綿と綴った『幼年時代』等の自伝的作品と、女は登場しない『イワン・イリッチの死』だけ。

小谷野敦はほんと、もてない男だな。
今度出した新書も、女がわからない男の見方という意味で面白いといえば面白い。
http://logsoku.com/thread/love6.2ch.net/book/1232204701/

謎とき『白痴』江川 卓 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%AC%8E%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%80%8E%E7%99%BD%E7%97%B4%E3%80%8F-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%B1%9F%E5%B7%9D-%E5%8D%93/dp/4106004658/ref=pd_sim_b_5

「謎とき『罪と罰』」江川 卓 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%AC%8E%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%80%8E%E7%BD%AA%E3%81%A8%E7%BD%B0%E3%80%8F-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%B1%9F%E5%B7%9D-%E5%8D%93/dp/4106003031/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1288947374&sr=1-1

謎とき『カラマーゾフの兄弟』 江川 卓 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%AC%8E%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%80%8E%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%95%E3%81%AE%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%80%8F-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%B1%9F%E5%B7%9D-%E5%8D%93/dp/4106004011/ref=sr_1_10?s=books&ie=UTF8&qid=1288951731&sr=1-10


江川卓著「謎とき『白痴』」と 「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」 を読む。


このたび『白痴』と『カラマーゾフの兄弟』読了記念企画として読んでみました。
いやはや、なんとも濃かった。

軽いタイトルとは裏腹に、著者の卓見がいたるところにちりばめられている。

登場人物の名前から語源探索してその秘められた意味を見出すなんて作業は、これは素人にはとても無理なわけで。

カラマーゾフのミーチャの弁護人の名「フェチュコヴィッチ」が、日本語にすると「阿保田」になるなんてのは、

あの裁判の場面でミーチャに肩入れして、弁護人がんばれみたいな気持ちで読んでいた私にとっては、

「え、それじゃ最初から勝ち目ない法廷闘争だったんじゃん」てなわけで。

鞭身派と去勢派という異端についての説明も詳しくてよかった。


この二つのキリスト教異端は、ドストエフスキーについての評論を読むと結構目にすることが多いのだが、それが一体どういう人たちなのかはあまり深く紹介されることがなかったので。

命名の語源探索や、『カラマーゾフ』の「3と13」なんかは、素人の私としては、若干トゥー・マッチに思えるところもないではないが、全体としては、『カラマーゾフ』の裏表紙に埴谷雄高が絶賛を寄せているように、名作だと思う。


で、印象に残ったことを、一つ二つ。


『白痴』で、

ムイシュキンは言うまでもなく、ロゴージンもナスターシャと性交渉を持たなかったことは、

ナスターシャを殺害した後にロゴージンがムイシュキンに

「(ナスターシャの裸体を)初めて見たが、綺麗な体だぜ」

という内容の言葉を言うことからも明らか。


では、なぜロゴージンはナスターシャと性交渉をしなかったのか。


江川氏は、ロゴージン(およびムイシュキンも)インポテンツ説である。

私としては、目からうろこと言うか、とにかく、そっちの角度(どっちの角度?)から考えたこともなかったので、「その手があったか!」と思った次第。

ただ、欲望の塊のようなロゴージンがインポだったなんてことが、いやいや、インポテンツな男性がロゴージンのような行動をすることがありえるのかというのが若干疑問。
ヤリたくてたまらないのに、いざとなったら萎えてしまったというのが「インポテンツ」の範疇ならば納得。


ムイシュキンが、ナスターシャを「気狂い」呼ばわりするのは、ナスターシャからセクハラ行為を受けたから。

納得。ただただ納得。


イワン・カラマーゾフの譫妄状態。

アル中説。

うーん。そうでないとは言い切れないが、そうであるとも言い切れないような気が。
悪魔がイワンの前に姿を現す場面は、スメルジャコフとの三度の対面でイワンの心がずたずたになっていたからと言うだけでも十分なような気がするんだが。
http://ameblo.jp/nisekagami/entry-10346336923.html

この本を読むと、まずドストエフスキーって一般には悪文家と言われているけれど、俗語や学生隠語、古風な言い回しにはちゃんと意味があって、そこにはドストエフスキーの意図が働いている、ということが指摘されている。

たとえば小説のはじめに、ラスコーリニコフが「ナスーシチヌイな仕事もすっかりやめてしまい」、とある。

「ナスーシチヌイ」ということばは「日々の」という意味なんだけど、日常めったに使われない文語的なことばだそうだ。

ところがこれがじつは聖書のなかに「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という一句の、「日用の」と同じなんだな。

そもそもこれは、当時のロシアの子供たちが暗唱させられるお祈りで、「ナスーシチヌイな仕事も・・・」とくればこの聖書から採られたお祈りが連想される、というわけだ。

だから、ここでは主人公が日用の糧を稼ぐ仕事もやめようとしている、と読みとることができる


そうだとすると、併せて日々のお祈りもしなくなった、とも連想できますね

それにラスコーリニコフという主人公の名前・・・

この名前は17世紀ロシア正教から分裂した「ラスコーリニキ(分離派)」に由来している。

その証拠に、創作ノートには主人公の母親のことばとして「ラスコーリニコフ家は二百年来、有名な家系」と記されている。

この小説が書かれたのは1865〜1866年、そこから200年さかのぼると、まさに17世紀の'60年代で、分離派運動の発生期に一致するんだよ


分離派って、どんな信仰形態なんですか?

「分離派」にもいくつかあって、
身体をたたき合いながら法悦状態に達する「鞭身派」、
肉欲から逃れるために生殖器官を切除する「去勢派」などがあったそうだ

また、ラスコーリニコフという姓はロシア語の動詞「ラスコローチ(割り裂く)」とも無関係ではない。

まさにこの青年は金貸しの老婆の脳天を斧で割り裂くわけだ


でも・・・斧が凶器ですけれど、たしか峰打ちでしたよね?

優美、よく気がついたね(^^ )そう、峰打ちであることが妙に強調されている。

つまり、斧の刃はラスコーリニコフ自身の方を向いていたんだね

それはドストエフスキーの意図するところだったと・・・?

うん。これまた証拠があって、後にラスコーリニコフがソーニャに老婆殺しを告白するとき、

「あのときぼくは、ひと思いに自分をウフローパチしたんだ、永遠にね・・・」と言っている。

ここはふつう「ひと思いに自分を殺した」と訳されているけれど、「ウフローパチ」というのは俗語で、もとはものが激しく打ち当たる擬音語「パチン、パシリ」にあたることばなんだそうだ。

つまり「ひと思いに自分をパシリとやった」・・・


割り裂いたのは自分自身だったというわけだな

はあ〜見事な分析ですね


名前の話に戻るけど、主人公のフルネームは「ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ」で、頭文字はロシア語のR音だから「PPP」になる。

著者の江川卓によれば、ロシアでもこんな名前はほとんどあり得ない、可能性としては600万人にひとり、当時のロシアなら5人もいたかどうかという計算になるそうだ

頭文字が「PPP」となることに意味があるのですか?


これは裏返しにして「666」、つまりヨハネ黙示録に記述されたアンチクリストをあらわすのではないか、というのが著者の推理だ。

神の掟に背いて殺人を犯しながらなお人間の掟を「踰えた」とうそぶく主人公に、すこぶるふさわしい設定―「刻印」だろう。

じっさい、非凡人論をぶちあげたラスコーリニコフに、予審判事ポルフィーリイが「何か生まれながらのしるしでもないのですか?」と質問している


名前だけでそれだけの意図が込められているなんて驚きですね・・・(・o・)

主人公に次いで重要な登場人物である聖娼婦ソーニャについてちょっとだけふれておこうか。

この小説にリザヴェータという登場人物が出てくるだろう?

金貸しの老婆に使われていて、運悪く殺人の現場に来合わせてしまったために主人公に殺されてしまう女性ですね

うん。ラスコーリニコフが安料理屋で、たまたま隣に立った将校と学生がリザヴェータについて噂しているのを聞くよね。

それによると、リザヴェータは「ひどい醜女」で「善良」「柔和」「静か」、そして未婚でありながら「ほとんどいつも妊娠している」ということだった。

ここで「柔和」と「静か」はソーニャとの共通点なわけだけど、同時に「醜女」でありながら「いつも妊娠している」のはなぜだろう?

・・・(・_・;
ヒントがいくつかあって、はじめてソーニャの部屋を訪れた主人公は、ふとたんすの上に置かれたロシア語訳の「新約聖書」に目をとめる。

ソーニャによればリザヴェータが持ってきたものだということだ。

ところがこの「新約聖書」は、ドストエフスキーが持っていた、発行後40年を経た稀覯書を模している。

どうしてこんなものをリザヴェータが持っていたんだろうか?

たしか、ソーニャがリザヴェータのことを「あの人は神を観ずる方です」と言っていましたね。

そのことと関係があるんでしょうか?

まさにそれだ( ・_・)♭

さっき話に出た、ロシア正教から分裂した「分離派」に、「観照派」という宗派がある。

「鞭身派」と「去勢派」がそれで、「観照派」とは文字どおり神や聖霊を観照する、つまり目に見ることだな。


「鞭身派」というのは信徒たちが密室でお互いの身体をたたき合い、集団的な法悦状態にまで高まったとき、キリストや聖霊が儀式の場にあらわれるのを観照する。

そしてその法悦状態から信徒たちは乱交に至ることもあり

(このことが、この鞭身派の勢力を急成長させた要因ではないかという説もあるらしい)、

この儀式の際に授かった子供は未来のキリスト候補として宗派の共同体によって育てられるという習慣もあったそうだ


するとリザヴェータは・・・

「鞭身派」のあるセクトの巫女―「聖母マリア」だったのではないか、というわけだ。

それならいつも妊娠していて、しかも生まれてくる子供の養育については心配する必要もなかっただろう

・・・それでは、ラスコーリニコフは「聖母マリア」を殺したということにもなりますね・・・

でも、ソーニャはリザヴェータがそのような立場にあったことを知っていたのでしょうか?

「神を観ずる方」と言っているくらいだから、当然知っていたんだろうね・・・

いや、それ以上かもしれない。

ソーニャがリザヴェータについて語るとき、妙な言い淀みが頻発しているのに気がついた?

 「ええ・・・あの人は心正しい方でした・・・

ここへも来ました・・・たまにですけれど・・・

そうそうは来られなかったんです。

わたしたち、いっしょに読んだり・・・お話ししたりして」


たしかに「・・・」が多いですね

公然化されていない儀式のことを思っていたのだろうか・・・

「わたしたち」って、ソーニャとリザヴェータのふたりのことだけだろうか・・・
するとソーニャも・・・

ちょっと考えにくいけど、彼女の部屋は窓が三つもあって家具がほとんどない「大きな」部屋とされている。

娼婦の部屋としては似合わないよね。

じつは鞭身派の儀式は、窓がたくさんあって明るく広い部屋が使われるのが通例だったそうだ

というわけで、ドストエフスキーの「罪と罰」は、この本によって意味論を超えた次元で徹底的に読み解かれている。
http://amadeushoffmann.web.infoseek.co.jp/dialogue29.html

「君は確実に病気で死ぬ」

私の好きな小説「罪と罰」 ソーニャについて


当時のロシアペテルブルグは梅毒蔓延が社会問題で客の8人に一人は梅毒持ちのロシアンルーレット状態だったそうな。

黄色い鑑札を受けるってのは、何週間かおきに、警察に出頭して発症してないか性器を調べられるという意味。

ラスコがねちねちねち「君は確実に病気で死ぬ」といじめるのも、意地悪いが事実の指摘だね。(2chより)


 現代において、売春少女は不幸か?

 と言えば、援助交際とか気楽に言っているので、そんなにこの女主人公ソーニャは悲劇なのか?

 やはり、時代背景と言うものを少しは知らなくては、ソーニヤの悲劇性はわからないと思う。

 時代は19世紀である。

 避妊具とかが発達していなので、性病・妊娠の危険は売春の仕事をする中では大きいと思う。

 それゆえに社会的な排他・阻害感も、現代よりも強いと思う。

 亡くなった飯島愛さんのようにTVタレントにはなれないだろう。


 小説にも出てくるが、一般の家族と娼婦は同じ部屋に一緒にいることはない。

 ソーニャが父の葬儀の出席依頼をしにラスコの下宿を訪ねて来る場面がある。

 そこに偶然、ラスコの母と妹がいるのだが、それを見たソーニヤは決してラスコの部屋に入ろうとせずにドアの外で用件を伝えようとする。 

 たぶん、性病への感染リスクがある為だと思う。


 ソーニャの最初の相手は16歳の時に、売春をはじめた時の相手である。

 当然、恋愛もなにも知らずに、いきなり売春である。

 (これは現代においても、かなり悲劇ではないか・・・)

 それから、家族の為にほぼ毎日、お客の相手をするのだが、残念ながら、彼女は性的な快感はない。

 18歳にして、重度の不感症・冷感症なのである。

 それ故に、彼女は「純粋な売春婦」と称されるのである。


 当然ながら、彼女には友人はいない。

 唯一の友人であった知的障害を持つリザベーダーは、ラスコに斧で殺されたのである。

 彼女に知的障害を持つ「神がかり」と言われる人しか友人がいないことが、彼女の社会的境遇を物語る。

 彼女は虐げられた人である。


 ラスコ曰く、

 「あなたは自分で自分を殺してしまったのだ」

 ラスコーニコフは自分の老婆殺しについて

「あれは斧で老婆を殺したのではなく、自分自身を殺したのだ」

 人間として一線を超えてしまった2人の若者は、お互いに強く惹かれ合うのである。
http://psjfk.blog23.fc2.com/blog-entry-797.html

江川卓  謎とき『カラマーゾフの兄弟』


外国文学を日本語で読むと、その面白さは半減する。

たとえば、日本文学で、谷崎の流麗な上方言葉の魅力を、では、どう英語に、フランス語に、ロシア語に翻訳することができるか。

京都や大阪という土地の土着性など、その細かいニュアンスを他言語圏に伝えるのは相当無理があると思う。

訳者でもある著者は、そのロシア語と日本語の間に立って、ロシア語で読まれるはずの『カラマーゾフの兄弟』の魅力を、詳しく、丹念に解説してくれる。ロシア語のできん者にはとてもありがたい。

たとえば、なぜ一連の騒動を巻き起こす一族の姓名が「カラマーゾフ」でなければいけないのか。

「カラ」は日本語で「黒い」、「マーゾフ」は「塗りたくる」の意味らしい。

さらに、「カラ」が「カーラ」だとすると、それはロシア語で「罪」となり、さらに「カラ」は泥棒の隠語で「男性性器」の意味でも用いられるという。

作者も指摘するように、語の多義性を最大限に利用するのが「ドストエフスキーの小説作法の真髄である。

ところが、この「カラ」起源説はこれに留まらない。

「カラ・ゲオルギイ」というセルビアに実在した民族英雄がいたらしい。

この人、王朝の始祖、ゲオルギイ・ペードロヴィチが父親殺しをしたことから、「カラ・ゲオルギイ」、つまり「黒いゲオルギイ」とあだ名されたらしい。

さて、父親殺しとはこの小説の主要テーマであり、この事件を中心に小説は進行するのだが、このカラ・ゲオルギイは父を殺し、王朝を築き上げた。

つまりそれは、旧制度の討伐、であります。

何よりもスリリングなのは、あんなにも信仰深く敬虔だったアリョーシャが、のちに革命家となり、皇帝暗殺を企てるだろうという説! 

これは著者のみならず、多くの学者が指摘しているという。

もちろん、小説にはそんな事実はどこにも書かれてない。

父・フョードルを殺したのは私生児(その事実の真偽もこの本の中では取り上げられている)とされているスメルジャコフであり、殺害の嫌疑にかけられたのは長男のドミートリイだ。

アリョーシャの父親殺しはどこにも書かれてない。

しかし、小説冒頭、ドストエフスキーは、これは第1の小説で、この小説には13年後の、現在の小説が予定されていると断っている。

つまり、この『カラマーゾフの兄弟』には続きがあり、それこそは33歳になったアリョーシャの現在進行形の小説になるはずだったのだが、すでにドストエフスキーは死んでしまった。

33歳とはキリスト処刑の年齢に重なる。


「現代のキリスト」であるアリョーシャは、既存宗教から抜け出し、革命を起こす。

皇帝暗殺とは、ロシアの「父」を暗殺する事に他ならない。

予定されていた続編ではアリョーシャによる父親殺しが書かれるはずだったと言うのだ。

であるとすれば、「カラマーゾフ」とい姓が「カラ・ゲオルギイ」から引用されている事は、容易に結びつける事ができる。

ちなみに、ドストエフスキー死後1ヶ月、皇帝アレクサンドル2世は暗殺されている。
こんな謎ときです。

他にも、スメルジャコフは去勢していたという説。

ロシア正教の分派の中で「鞭身派」というのがある。

読んで字のごとく、身を鞭で打つのだが、

この宗派は、教会や聖書を介さずに直接にキリスト、精霊と交わることを求め、そのために、

男女の信徒が一部屋に集まって、祈祷、歌、踊りのあげくに、

最後には手や鞭で各々の身体を打ち合って、集団的恍惚を得る

儀式が行われていたのだという。


しかし、これ、キリストや精霊との直接の交感を求めていたこの儀式も、次第に乱交パーティー化していったという。

そうして、その反動として現れたのが「去勢派」である

性的堕落を激しく糾弾し、男は睾丸を、女は乳首を切除したり乳房を抉り取ったりするのだそうだ。

ゆえに、去勢派の人間はそろって顔色が悪く、傍から見ても「あいつは去勢派だ」ということが分かるくらいなのだという。

これはスメルジャコフの描写に見事に呼応している。

ちなみに、筆者はグリゴーリイは鞭身派だと指摘している。


さて、今では考えられないようなオカルト宗派(現在でも案外あるかも)、について、小説中ではどこにも直叙はされていないが、この分派は当時のロシアに、マイノリティではあるものの結構広く信仰されていて、認識はされていたようだ。

つまり、当時のロシアの読者であるならば、

スメルジャコフの描写や、マリヤとの同棲ではない同居を読むと、彼らが去勢派であるということは容易に推察できることなのである。


『カラマーゾフの兄弟』はロシアの民族的、土俗的信仰生活に深く根を下ろしている。

アリョーシャを「黒いキリスト」、スメルジャコフを「白いキリスト」と設定したり、
イワンは実はアル中ではなかったかとか、3と13という数字の意味、蛇と龍と男性性器。作者の行間にするする入り込んでいく、その快感は、中々である。

さらに、ドストエフスキーの名はフョードルというが、夭折した彼の息子の名はアリョーシャらしい!

古典が古典であるゆえんは、それが幾時代を超えてもなお読まれる、その力である。

それはつまり、幾通りもの読み方ができる言う事だ。

『カラマーゾフの兄弟』はもはや古典だが、この古典小説も数多くの神話や民話や古典を引用している

(ちなみに三島由紀夫は『仮面の告白』の冒頭で、美とソドムに関するミーチャの名高い演説を引用していた)。

それらについての素養ができていないと、真正面からこの小説に立ち向かう事はできない。

とりわけ聖書、ギリシア神話を暗誦できるくらいに読み込んでいないと、積み上げられたドストエフスキーの謎は紐解けないのです。

まあ、しかしアリョーシャがやがて革命家となり、国家的犯罪を犯し、皇帝暗殺に乗り出すとは、本当にビックリだ。

心優しいアリョーシャが! しかしその犯罪(ソドム)は美しい。

これこそがカラマーゾフ的だ。

最後の12人の少年たちに向けて行われるアリョーシャの演説は、そのまま12使徒に向けられたキリストの演説である。

と、すると、この中には絶対にユダがいる。

ゆえに、アリョーシャは密告されて殺されてしまうのだろうか。

ドストエフスキーが書くはずであった、そのアリョーシャの物語が読みたかったし、ドスト本人も書きたかったろうに。

しかし、これだけ膨大な伏線めぐりの末にたどり着いた最後の演説の場面が、それこそも続編への伏線だったとは。この巨大で精緻な構成力は、本当に圧巻である。
http://www.geocities.jp/maxi_japan/dokusyo_egawataku_nazo-k.html

「去勢派」については、江川さんが「謎ときカラマーゾフの兄弟」で次の様に書いています。

「ロシア分離派史上でも最大の人物と目されるコンドラーチイ・セイワーノフが登場した。〜〜〜

やがてセイワーノフは、鞭身派の性的堕落にいきどおり、自分は人類を肉欲から救い、「魂を滅ぼす蛇を退治する」ためにこの世にやってきた「神の子」であると宣言した。

むろん「蛇」とは男性の性器官の象徴であり、「蛇退治」は「去勢」の意味である。

このような形でセイワーノフによって開かれた新しい宗派が「去勢派」であり、信徒は「ぺチャ−チ」(刻印)と呼ばれる術を受けることになった。


女性の場合は、乳首だけを切除するのが「小ぺチャーチ」、

乳房まで切り取るのが「大ぺチャ−チ」と呼ばれた。

男性の場合の「小ぺチャ−チ」は睾丸を切断するわけだが、

「大ぺチャ−チ」については、手術を終えたあと、術者が切除部分を被術者の目の前に突きつけ、

「見よ、蛇の頭は砕かれたり、キリストはよみがえりたまえり」

と唱える、のだという。


〜〜〜鞭身派の聖母アクリーナから正式に「キリスト」と認められたセリワーノフは、

「魂を滅ぼす蛇を退治する」自身の事業をしだいに広め、十八世紀中葉には、信徒の数ももはや無視できなくほどの数に達していた。〜〜〜

ついに一七九七年には、ピョ−トル三世とエカチェリーナ女帝の遺児であるパーべェル一世と対面し、二人の間には次のような問答がかわされたという。


パーべェル帝「汝はわが父なるや?」


セリワーノフ「われは罪の父ならず。わが業(去勢)を受けよ。さすれば汝をわが子と認めん」


ファンタスチックとしか形容のしようのない対話で、パーべェル帝がセリワーノフを狂人と認定し、オブホフの精神病院に収容してしまったのも無理からぬことであった。

ところが奇妙なことに、パーべェル帝の後を襲ったアレクサンドラ一世は、すでに白髪の老爺となっていたセリワーノフの人柄に魅惑され、一八〇二年に彼を解放したばかりか、数次にわたつて彼と親しく面談し、セリワーノフのほうでも、大去勢によるロシア救済計画を帝に建議したといわれる。〜〜〜


つまり、「カラマーゾフの兄弟」の舞台となっている十九世紀の六十年代、七十年代にも、この奇怪な信者たちの問題は、けっしてたんなる昔語り、あるいは僻地のエキゾチックな風習ではなく、むしろすぐれて現代的な関心事であったということができるように思う。


「まぎれもなく「好色な人たち」である「カラマーゾフの兄弟」の作中人物たちのなかで、スメルジャコフ一人はいくぶん例外的に見える。

まず彼の少年時代の大好き遊びが猫の葬式ごっこだったことが想起される。

彼は幼い頃から、猫を首吊り台にかけ、そうしておいてその葬式ごっこをするのが大好きだった、と言われている。

葬式のときには、祭服に見立ててシーツをひっかぶり、香炉代わりに何やら猫の死体の上で振りまわしながら、歌をうたうのだという。

モスクワへ、コック人の修業に出されて戻ってきた彼は、

「すっかり面変わりがしていた。なんだかふいにめっきり老けこんだ感じで、年齢にまったくそぐわないくらい皺だらけになり、顔色は黄ばんで、去勢者に似た感じになっていた」

「大審問官」伝説をアーリョーシャに語った直後、家に戻ったイワンは、門のわきのベンチで夕涼みをしていたスメルジャコフを目にする。

「イワンは怒りと嫌悪の目で、びんの毛を櫛できれいに撫でつけ、ふっくらと前髪を立てたスメルジャコフの去勢者のように痩せこけた顔をにらめつけた」

 見るとおり、スメルジャコフはドストエフスキーによって、ことさら「去勢者」に、あるいはさらに進んで「去勢派信徒」になぞえられている。

さらに注目されるのは、マリアの家に移ったスメルジャコフが、母娘によっていたく尊敬され、二人はスメルジャコフを「一段上の」人間のように見ていた、という指摘である。

「一段上の」という言葉にこだわるのは、

鞭身派以来、代替わりのいわゆる「新キリスト」は、旧キリストあるいはマリアによって「一段上の人、最上の人」として彼らの共同体である「船」に迎えられる慣行があったからである。〜〜〜

スメルジャコフが「花婿」の資格でマリアの家に移ってきた、とされていることも見逃せない。

ロシア正教会においてばかりでなく、西欧のキリスト教会においても、「花婿」という言葉は、ヨハネ黙示録の「子羊」、つまり 花嫁たる教会を聖化する「花婿」、別の言葉でいえば、再来するイエスキリストその人を指す言葉であった。〜〜〜


ところで、スメルジャコフが去勢派の「白いキリスト」だということになれば「蛇退治」(フョードル殺し)は、当然、彼の宗教的、社会的使命だということになる。

こうして、もともとは多分に個人的であったかもしれないスメルジャコフの犯行の動機が、いわば去勢派流に「聖化」され、普遍的な意義を獲得することになるのである。〜〜〜

前にも触れたが、幼児期の彼が大好きだったという猫の葬式ごっ子のエピソードがそれに当ることは、あらためて言うまでもあるまい。

このようなスメルジャコフが、鞭身派、去勢派の「船」が数多くあったモスクワへ「修業」に出て行ったとき、「猫」ないし「蛇」に対する彼の憎悪は一つの基礎ずけを与えられ、同時に深く内攻していくことになった。

こうして彼は外なる「蛇」を挫く以前に、まず自身の内なる「蛇」を挫くことを決意するのである。

つまり、「去勢者に似た感じ」になってモスクワから戻ってきた彼は、すでに「白いキリスト」の自覚をもち、フョードル殺害にあたっては、もはや完全な確信犯として行動することができたのである。

ところで、スメルジャコフの犯行がそのような「使命感」に裏ずけられたものだったすれば、当然、彼の憎悪はたんに個々の「蛇」だけにではなく、「蛇」一般に、さらにはそのような「蛇」のはびこる現世そのものにも向けられていたと考えなければなるまい。

事実、彼の憎悪は、カラマーゾフ一族を生み出した土台であるロシアそのものにも向けられていた。


「私はロシア全体が憎くてならならないんですよ」とは、彼のマリヤへの告白である。

〜〜〜

スメルジャコフの憎悪は、むろん、ロシアだけに局限されはしなかった

「女にだらしがない点しゃ、外国人もロシア人も似たり寄ったり」だからである。

〜〜〜

一方、スメルジャコフが目撃するカラマーゾフ一家の「淫蕩」が、全ロシア的な、あるいは世界的な「淫蕩」の象徴的な縮図とするならば、それは、「大審問官」伝説に登場する「野獣にまたがる淫婦」を媒介にして黙示録的終末のイメージとも重なってくることになる。

折りしもいまは「蛇の季節」でもあった。

スメルジャコフはこの終末の世に、「蛇」を退治し「淫婦」を辱めるべき「白いキリスト」として再来したのだった」


(謎解き「カラマーゾフの兄弟」 江川卓 新潮選書 Z 白いキリストより)


去勢を血統転換に置き換えれば、統一教会の教えそのものになります。


(「謎ときカラマーゾフの兄弟」V好色な人々・Z白いキリスト ページ158〜159より
江川卓 新潮社)


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誰もが関心を持つのは、去勢派、鞭身派共に各派の聖女ですね。


去勢派の聖女マリア(スメルジャコフの花嫁?)はスメルジャコフの元にスープをもらいにやって来ます。

寄生派の花嫁は「○○○の毛まで抜かれる」と言われている通りに、はるばる海を越えて○○○の毛を抜きにやって来ます。

「合同結婚でも日本人同士のカップルならば安心だろう」と思うのは、早とちりです。

友人の場合は、結婚当初、現金で預金をしていたら奥さんがすべて教会に献金してしまうので、すかさず預金をマンションのローン頭金にあてて、間一発のところで無一文にならずに済みました。

お気に入りの食器やレコード類も、生活必要品としてすばやく居間に配置したので無事に残りました

それでも、僕の友人はまだ恵まれているほうで、献身者(統一教会系列会社で働いている夫婦)の場合は数家族の共同生活の家賃や食費はかかりませんが、朝から夜遅くまで働きずめで一家族1万二千円の月収です。

「カラ」兄弟でも、スメルジャコフは、フョードル宅からいつのまにか去勢派の共同生活場?らしきマリアの丸太小屋に移されていますね。
http://dostef.webspace.ne.jp/bbs/dostef_topic_pr_287.html


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3. 鞭身派のキリストと聖母マリアとは


 17世紀に分離派の一派として生れた宗派に鞭身派というのがある。

1700年1月1日に生きながら天に召されたダニイロ・フィリッポフが開祖とされており、この点では作中(カラマーゾフの兄弟)に登場する聖痴愚フェラポント神父にその面影が映されている。

鞭身派の教義の特質は、教会や僧を否定し、直接にキリスト、聖霊との交わりを求める点にあり、そのための手段として、

男女の信徒が一部屋に集まり、祈祷、歌、踊りのあげく、

最後には手や鞭でおたがいの全身を打って、集団的な恍惚状態に達する独特の儀礼が行なわれた。

この瞬間にキリストないし聖霊が信徒たちの胎内に入ると信じられたのである。


この教義の当然の帰結として、鞭身派には、初代キリストのイワン・スースロフをはじめ、何人ものキリストがつぎつぎと現われることになった。…

むろん「十二使徒」も信徒たちの中から選ばれ、「船」と呼ばれた信徒たちの共同体には、かなり厳格なヒエラルキーが確立していた。…
http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/page-he.htm

●ロシアの異端


鞭身派−肉、魚、にんにく、ジャガイモを食べず、酒も飲まない。

女はプラトークをまぶかにかぶる。

一部屋に車座になってすわり、入れ替わり立ち代わり踊り、罪のもとである肉を鞭で打ち続ける。

最後は乱交パーティーになる。

ラスプーチンもこの一派といわれる。


モンタヌス派−別名跳躍派。

集会で男女が手を取り合って飛び跳ね、そのあとで性交する。

聖書のロトと娘の性交、ソロモンの300人の妻にちなむ。


去勢派−淫行に走りがちな鞭身派を批判。

罪のもとである陰茎、乳首を切除する。

男性ホルモンの欠如からひげが生えず女性的な声なので外見からすぐに分かる。

「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフは去勢派といわれる。

http://www.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/kyozai/08.txt

鞭身派

17世紀末に起こった〈霊的キリスト者〉のセクトで、聖書と聖職者を認めず、

精霊(Святой дух)との直接的な交わりを求めて、熱狂的に踊り、歌い、互いに体を鞭打ったところから、その名が生じた。

神の化身である複数の〈キリスト〉、〈聖母たち〉あるいは〈母君(マートゥシカ)たち〉のもとに集まり、

祈り、祈りの最後に執り行なわれる独特の儀式(ラヂェーニエ)。

それが始まると、宗教的エクスタシーに達するまでみなが踊り狂ったという。

自らを〈神の人びと〉と称した。

旧タムボーフ、旧サマーラ、旧オレンブールグの各県、北カフカースやウクライナに彼らの小さな共同体が存在した。
http://www.seibunsha.net/prishivin/p15.html

帝政ロシアは政教一致を国是とし,ロシア正教が国教でしたが,国民のうちにはこの国教を奉じようとしない者もあり,政府と正教会はこれに手を焼いていました。

この反正教会的宗教潮流は,通常「ラスコールと諸セクト」と総称されます。

ラスコールは通常「分離派」と訳されるとおり,十七世紀の教会改革の際正教会を離れた人々のことで,改革を受け容れず古い儀式に固執したことから,「古儀式派」とも称されます。

分離派には穏健派から過激:派にいたる様々な流派がありますが,大略,司祭の存在を認める「司祭派」と,これを認めない「無司祭派」に分かれます。


無司祭派は教導者を擁するのみで,司祭も正典も宗規も有さぬところがら,次第に正教会はもちろんキリスト教そのものから離れ,キリスト教的要素を多く保持しつつも,新たな道をもとめて独自のセクトを生み出す傾向があります。

フルイスト派(鞭身派)の場合も,その発生時期(十七世紀半ば)からして,もとは無司祭派に端を発していると考えられます。
 
フルイストが鞭を意味するところがら,日本ではこれまで鞭身教徒と訳されていますが,この訳語は不適切であり,見当違いな憶測のもとになりかねません。

鞭身教徒という言葉から,人は漠然と,鞭打ちがこのセクトの特徴であると思うでしょう。

確かに鞭打ちは,中世の修道僧などが自らに課した苦行です。

しかしフルイストゥイの儀式において鞭打ちはなんの役割も演じておらず,この場合フルイストゥイの語はまったく別の由来を有しています。


このセクトの信者たちがなぜ「キリストたち」と呼ばれたかというと,それは彼らが多くのキリストを輩出したからです。


彼らの地域集団をカラーブリ(船の意。フリーメイソンのロージにあたるもの)と呼びますが,各カラーブリは必ず教導者たるキリストと生神女,さらに大抵は複数の預言者と女預言者を擁していました。

その儀式の主たる内容は輪舞(これをラジェーニエと言います)で,彼らはこの激しい身体運動によって法悦に達し,キリスト,生神女,預言者たちは忘我の気惚状態の内にあって,天候の如何,収穫の良し悪し,個人の身上等々を預言しました。

預言者には原則として誰でもがなれた。

もちろん預言者たる能力には個人差があって,預言者や女預言者になるのは,人一倍霊感を受け易い者たち,恍惚状態に陥り易い者たちでした。

 フルイストたち自身の言い伝えによれば,その教祖たちの行実とは次のようなものです。

 皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチ(在位三64546)の時代,ウラジーミル県コヴロフ郡なるゴロジン山の頂に二軍のエホバが降り,コストロマ県の農民ダニーラ・フィリッポヴィチの内に入って彼を生ける神とした。

当時はニコンの改革に端を発する教会分裂の真最中で,人々はいかなる書物によって救われるかをめぐって争っていた。

人が救われるのは古い書物によってか,それとも新しい書物によってか。ダニーラ・フィリッポヴィチは,新たな啓示によってこの書物の新旧論争にけりをつけた。


すなわち,救われるためにはいかなる書物も要らない。

聖神そのものさえあればよい。

内心の祈りによってのみ神は人間に宿り,人は救われる。

彼は新旧の書物をすべてかますに詰め,ヴォルガに捨てさせました。


ダニーラ・フィリッポヴィチははじめコストロマ近郊のスターラや村に住み,のちコストロマに移った。

以来コストロマは「天上のエルサレム」,彼の住む家は「神の家」と呼ばれ,多くの信者を集めます。

書物の(つまり教会の)教えに頼らず,わたしの言葉のみを信ぜよ。

あるいは,預言者たちが忘我状態で口にする言葉(預言)のみを信ぜよというのが,彼の教えでした。

別の伝説によると,ダニーラのことを知った総主教ニコンは彼を幽閉したが,彼が釈放されてコストロマへ帰るまでの間,地上を一面の霧が覆った。

コストロマに帰った彼は,弟子たちに「十二誠」を与えた。

この十二誠とは次のようなものです。

1.我は預言者たちにより預言された神であり,人間の魂を救うため地に降り来たった。
  我以外に神はない。
2.他に教えはない。他の教えを求めてはならない。
3.汝の置かれたところに留まれ。
4.神の受命を守り,世の漁人となれ。
5. 酒を飲むな。肉の罪を犯すな。
6. 結婚するな。既婚者は妻と兄妹のごとく生きよ。未婚者は結婚するな。既婚者は離婚
せよ。
7. 悪罵を口にするな。悪魔,悪鬼等の言葉を口にするな。
8. 婚礼,洗礼式に行くな。宴会に出るな。
9.盗むな。一コペイカでも盗んだ者は,あの世でこの一コペイカを頭頂に貼りつけられ,
  これが地獄の火で融けるまで,赦されることはないであろう。
10.これら二二を秘表せよ。父にも母にも明かすな。たとえそのため鞭打たれ,火で焼か
  れようと,耐えよ。耐えきった者こそ信者であり,天国を,また地上では霊の喜びを,
  受けるであろう。
11.互いに訪れ合い,もてなし合い,愛し合い,我が誠命を守り,神に祈れ。
12.四神を信ぜよ。


 もっとも,コンラート・グラスというリトワニアの研究者によると,フルイスト派の伝説が伝える教祖たちのうち,ダニーラ・フィリッポヴィチについてはその実在を確証することができない。

歴史資料により実在が確証されるのは,次のスースロフからだというのです。

 万軍のエホバがゴロジン山に降りダニーラを生ける神とする十五年前,ウラジーミル県ムーロム郡マクサコフ村に,母親のアリーナ・ネーステロヴナが百歳の時,神の息子たるキリスト,イワン・チモフェーヴィチ・スースロフが生まれた

(これは,アリーナ・ネーステロヴナが生神女を務めていたカラーブリで,スースロフが霊的啓示を受けキリストとなった,という意味でしょう)。


 イワン・スースロフが三十歳になった時,ダニーラ・フィリッポヴィチは彼をコストロマへ呼び,神性を授け,彼を生ける神とした。

すなわち,スースロフはダニーラ・フィリッポヴィチにより三日間天へ上げられたのちオカ河の岸へ帰り,以後ここの一村を根拠地として教えを弘めた。

彼は若く美しい娘を連れており,彼女は生ける神の娘として,また生神女として崇められていた。

彼はまた,弟子たちのうちから十二人の使徒を選び,彼らと共に村から村へ布教を続けた。

 アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝(在位1645−76)はスースロフの布教活動のことを知って,彼を四十人の信者と共に捕らえ,訊問のためモスクワへ連行させた。

しかし司直は彼らから一言の供述も引き出すことができなかった。

拷問の火もスースロフの身体を傷つけえず,結局彼はクレムリン前の赤の広場で心墨に処された。

彼は木曜日に息を引取り,金曜日に埋葬されたが,土曜日から日曜日にかけての夜に甦り,モスクワ近郊の村に姿を現した。そこで再度逮捕され,拷問と礫刑に処され,再度甦った。


三度目に捕らえられた時,皇后ナタリヤ・キリーロヴナはピョートル・アレクセーヴィチ(のちのピョートル大帝)を懐妊中で(つまり1672年のこと),スースロフの釈放なくして出産は無事にはすまないという預言があったため,皇帝はスースロフを釈放した。

 以後三十年間(つまり1702年まで),スースロフはモスクワを中心に布教を続けたが,うち十五年間は政府の監視を避けてモスクワを去り,諸所の弟子たちのもとを転々とし,迫害が下火となったのちモスクワへ帰り,ここで男女の修道院に果多しく信者を増やした。


彼の住むクレムリン近くの家は,「神の家」とも噺しきエルサレム」とも呼ばれた。

 1699年には,百歳のダニーラ・フィリッポヴィチがコストロマからモスクワの「新しきエルサレム」へ移り来たり,ここから1700年1月1日,永い輪舞ののち,多くの会集者たちの見守るなか天に昇った。


以後それまでの9月1日に代えて,この日を新年の始まりと定めた。

三年後,スースロフ自身も多くの信者たちに見守られつつ昇天した。

ダニーラ・フィリッポヴィチは地上に遺骸を残さなかったが,スースロスは残した。

信者たちは遺骸を乞い受けてイワノフスカや女子修道院に埋葬し,石碑を建てた。


 スースロフのあとを継いでキリストとなったのは,ニージニー・ノヴゴロト(現ゴーリキー市)の元込士プロコフィー・ダニーロヴィチ・リープキンなる人物で,一部フルイストたちは,彼をダニーラ・フィリッポヴィチの実の息子であるとしています。
彼は1713年から1732年の死まで,キリストの地位にありました。

彼の妻アクリーナ・イワーノヴナは生神女で,二人の息子は剃髪して修道院へ入り,ここで教えを弘めます。


 十八世紀半ばから十九世紀初頭までの問に,フルイスト派はほぼロシア全域に行き渡り,国外ではガリシア地方に住むロシア人たちにまで及びました。

モスクワには四つのカラーブリがあった。

とりわけ信者が多かったのは,オリョール県とタンボブ県であったそうです。

信者はさまざまな階層にわたりましたが,主として農民都市の職人,小商人たちで,また多くの修道院がこのセクトの拠点でした。


 フルイスト派は結婚と生殖を認めませんが,ダニーラ・フィリッポヴィチやキリストの家系には血統が絶えぬよう配慮がなされていたようです。

コストロマから三十キロのスターラや村には,十九世紀半ばまでダニーラの門下と言われるウリアナ・ワシーリエワという女性が生存しており,彼女が修道院へ幽閉されてのちも,スターラや村はフルイスト派の聖地ベツレヘムといったものでしたし,ループキン直系の子孫もやはり十九世紀半ばまで存続していました。

 十九世紀の六十年代に至り,フルイスト派は個々のキリストを戴く多くのカラーブリに分裂し,それらカラーブリ同士が互いに対立し合うという事態を生じた。

 フルイスト派は,のちの去勢派ほどにはよく組織された教団ではありません。
それは半ば自然発生的にさまざまな地方に興つた,とすら見える。

諸カラーブリ間の横のつながりも,さして緊密なものではなかったらしい。


しかし各カラーブリにひとりのキリスト,ひとりの生神女がいて,ひとり,あるいは数人の預言者・女預言者がいるという構造は,共通していたようです。

また,儀式のうえではすべてのカラーブリが輪舞(ラジェーニエ)を採用していたことは事実ですが,儀式の細目については地方により時代により種々食い違いもあり,このことは,セクトが時とともに様々な派に分かれていったことを証するものです。

体系的な教義が成文化されず,教導者の意思が神の意思と見倣され,カラーブリの全成員がこれに絶対服従するような集団にあって,これは至って自然なことでしょう。

 ロシア正教というのは,概して形式にすこぶる拘泥する宗教です。

十七世紀の教会分裂自体,儀式や礼拝の細目における形式の変更をめぐって生じた。

そして分離派は,正教会以上に形式主義者でした。

彼らは,ニコンの改革が伝統的形式を歪めるものであるとして,旧来の伝統と形式の名において改革に反対したのです。

フルイスト派は,ロシア正教のこの形式主義への反動として興つたと言えます。

その意味で,ダニーラ・フィリッポヴィチがあらゆる書物をヴォルガへ捨てたという挿話が,フルイスト伝説の冒頭に位置していることは象徴的です。


書物や普通の祈りでは生ぬるい。

彼らは神性との一層直接的な接触・融合を求めた。

つまり激しいラジェーニエに訴えて肉体を疲労特牛させ,神を自らの内へ直接呼び降ろそう,神と合体しようとするのであって,これが彼らの祈りなのです。

彼らは,使徒行伝に引かれた預言者ヨエルの言葉が実現したものと信じていました。

「神いひ給はく,末の世に至りて,我が霊を凡ての人に注がん。

汝らの子女は預言し,汝らの若者は幻影を見,なんじらの老人は夢を見るべし。

その世に至りて,わが僕・師団に,わが霊を注がん,彼らは預言すべし」

(使徒2.17)。


 法悦に達するための舞踏としては,古代の宗教やシベリアのシャーマン等が思い浮びますが,フルイスト派の輪舞(ラジェーニエ)は他から借用されたものではなく,フルイストたち自身の内で見出され徐々に完成されたものらしい。

ミリューコフは,このセクトの民衆起源に鑑み,先ず初めにその外的・儀式的側面が成立したのであり,教義が整えられたのは遙かのち(おそらくは十九世紀)のことであったろうと言っています。

ローザノブも,ダニーラ・フィリッポヴィチは神との直接交流の手段たるラジェーニエを案出したことで,このセクトの教祖となり,生ける神として崇められたものであろうとしています。

 神性と直接合体せんという望みは,彼らが人格化された生ける神を求めたことと結びついています。

人間が神と直接合体しうるというのは,人間が神になりうるという人神思想なのです。

神の霊感を受けるものにとって,この霊感を神から受けたと考えることから,この霊感が自分の内から流れ出たと考えることへはほんの一歩です。

彼らが自らを神的な霊感の源泉,つまり自らの内に神を孕む者と考えるに至ったのは,至極当然の成行きでした。

あらゆる魂の奥所には聖神の萌芽がある。

自らの内へ降りゆく者は,ここに聖神のことば言を聞き,自らの魂の内に神の国を見出す。

自らの内にこの内的福音の声を聞いた者は,その瞬間から「神の宮」となり,もはや肉の内にはなく霊の内にある。

これこそ聖神を自らの内に宿すということです。

彼らにとってはイエス・キリストも,自分たちと同等な「神の言の籍身」にすぎない。

彼らはラジェーニエで,

「主よ,われらにイエス・キリストを与え給え」

と唱えながら踊りますが,その意味するところは,

主よ,かつてイエスに霊感を与えたように,われらにも霊感を与え給え

ということなのです。


こうしてフルイスト派の世界には無数のキリストと生神女が出現したのであり,多くのカラーブリでは,信者同士が互いを神として拝し合うことも行われました。


 輪舞(ラジェーニエ)のやり方については,個々のカラーブリにより多少の違いはあるものの,大筋のところはほぼ一致しており,大略次のようなものであったようです
(十九世紀前半におけるニジェゴロト県アルザマスのカラーブリ,コストロマ県ガーリチのカラーブリ等。メーリニコフによる)。


 晩の六時頃,カラーブリの成員が一軒の家に集まる。

人数は十人から四十人。

百人に及ぶことは稀である

(もっとも,ペテルブルクでのセリヴァーノブのラジェーニエは,六百人を集めたと言われます)。


部屋には窓がないか,あっても塞がれていて,音が外部に洩れないよう,しばしば地下に造られている。

ラジェーニエの行われる家は,「神の家」とも「エルサレム」とも呼ばれる。


 部屋の一隅に生神女が座を占め,信者たちは男女に分かれてベンチに腰掛ける。

全員裸足で,長い白衣を着ている。

はじめに福音書,使徒の書簡,教父の文章,聖者伝等が読まれることもある。

それから自家製の祈りの文句を唱える。

やはり自家製の歌を歌うこともある。

その際両手で両膝を打ち拍子をとる。

歌の合間に十字を切り,主の祝福を乞う。


 次いでキリストなり預言者なりがラジェーニエを命じ,一同立って輪になる。

時として預言者自らラジェーニエを始め,他の観たちがそれに従う。

出たちの輪の外に女たちの輪が形成されることもあるが,大抵は男女入り混じっての輪である。

彼らは

「主よ,われらにイエス・キリストを与え給え」


と歌いながら,飛び跳ねつつ,右回りに回る。

輪舞も各人の旋回も,必ず右回りである。

つまり,南面したとき太陽が東から西へ動くように,右回りでなくてはならない。

この踊りに酒神が降るのであり,「聖なる輪」に入る者は霊により国勢するとされる。

踊りは次第に速くなり,人々は息を喘がせて跳ね上がり,手を振り,両足で床を踏み鳴らす。

舞踏者たちの回転の速いことは旋風のようで,顔も見分けられないほどである。

彼らが旋回と跳躍の間中,畷り泣き,声を震わせて奇声を発するさまは,傍目にも恐ろしいほどで,壁越しにこれを聞くと,まるで何かを鞭打っているように聞こえる。


フルイスト派が樽の周りで自分たちを鞭打っているという噂が弘まったのは,このせいかもしれない。

 踊る者たちが自らのうちに霊を感ずるや,踊りはますます速くなる。
輪の外で拍子をとり声をかけている者たちは,舞踏者のとりわけ激しく速い動作を認めるや,

「彼に恵みが降った」

と言う。こうして預言者や女預言者が出現する。


ラジェーニエ中はなにも考えてはいけない。

さもないと霊は降らない。

預言者や女預言者になる人々は,概してラジェーニエへの強い嗜好を有しており,彼らにとってラジェーニエは,集中した断食ののち,言い知れぬ喜びを伴って自ずと起こるのだという。

人々はラジェーニエを,それがもたらす陶酔ゆえに「霊的ビール」と呼んでいる。

フルイスト派の教義が肉食,飲酒,夫婦の交わり等の厳しい禁欲的節制を課するものであったことに鑑みれば,ラジェーニエによる心理的陶酔が彼らにとって不可欠であったことは,想像に難くありません。

 踊りは大抵夜半まで続く。

白衣が汗でぐっしょりになると,白衣を脱ぎ捨て,裸のまま倒れるまで踊る。

 踊りが終わると全員が腰をおろし,手で膝を叩いて拍子をとりながら歌を歌う。
それから教導者に向かって脆き,十字を切り,聖神が預言者の口を通って彼らを訪れるよう祈る。

選ばれた預言者が人々に向かい合って立ち,身体を動かしながら,大きな声で預言を始める。

はじめに全員への預言があり,そのあと個々人への預言がある。

預言者は個々人の罪を暴き,罪人は十字を切って罪を悔い,時に涙を流して預言者を拝する。

 預言はしばしば明け方近くまで続く。預言が終わると全員で

「キリストは甦り給いぬ」

を歌い,教導者は十字架を聖像の下に置き,一同は脆拝して十字架に接吻する。


 フルイスト派にとって霊は善であり,肉は悪であり,ラジェーニエは霊によって肉を克服する手段であるわけですが,日常生活においても霊は肉に打ち勝たねばならない。

最初の罪はアダムとエヴァの肉の交わりによって生じた。

普通の正教徒たちは変わることなく罪のうちに孕まれ,罪のうちに生まれ,罪のうちに生きている。

罪を免れるには,この世と訣別せねばならない。

これは祈りと断食と,肉欲を断つことによって達せられる。

概して,女と交わることは,フルイストにとって最も重い罪です。

肉,魚,玉葱,大蒜を食べてはならない。

酒を飲んではならない。

遊びの集まりに行ってはならない。

悪罵を口にしてはならない。

女は華美な服や飾りを身につけてはならない。

被ったショールはなるべく深く眼まで下ろして結び,常に慎ましくあらねばならない。

これらの誠命をすべて厳しく守る者は,来世で永遠の生命を得るばかりか,ここ現世でも聖神の恵みに与り,神の息子ないし娘に等しいものとなる。

つまりキリストないし生神女となる。

「我が誡命を守りわが道を保つ者は我に在り,我もまた彼に在るなり」
(ヨハネ第一書3.24)。

イエス・キリスト自身そうした神の籍身に他ならなかった。

罪と訣別し新たな生へと生まれ変わり新たな霊となったわれわれは, 言たる神が宿るに相応しい者たちである。

男たちは皆キリストであり,女たちは皆生神女である。

 仲間に引き入れようとする者には,先ず自分たちが正真正銘の正教徒であることを確信させる。

「司祭たちはわれわれに何も教えてくれない。だから自分で本を読まねばならない」
と言い,絶えずキリストに祈り,なるべくしばしば教会へ行き,正教の司祭を敬うよう教える。

やがてこう教えるようになる,

「この世:には聖神の恵みを有する試しい人々がいる。

こうした人々の内にこそ神は生きている。

彼らこそ縛り審くカをもち,罪深い魂を地獄から天国へ導くことができる」。

しかしこうした人々が誰で,何処にいるかは言わない。

 新人がセクトへの加入に同意するや,彼は数日間の断食と斎戒を命じられる。
定められた日に,セクトの教導者ないし長老が彼を迎えに来て,信者たちの集会へ導く。

そこには信者たちが全員裸足に白衣姿で,男と女に分かれてベンチに坐っており,前方にひとりの女性(生神女ないし女預言者)が聖像の下に腰掛けている。


広い部屋には沢山の蝋燭が明々と灯されている。

生神女は新人に尋ねる,

 「ここへは何のために来たか」

 「魂を救うために」

と新入は,予め教えられていたとおりに答える。

 「魂を救うのはよいことである。で,汝は誰を保証人とするか」

 「天の王たるキリスト自身を」

 「キリストを辱めることのないよう努めよ」

 次いで新人は聖像に向い誓いを立てる。

誓いは次の三点から成る。


1. 聖なる信仰を受け容れ,決してこれに背かない。

2. しばしば教会へ行き,痛悔をし,聖体礼儀を受けるが,司祭に新たな信仰のことは一言も洩らさない。

3. 聖なる信仰のためにはいかなる苦難にも耐え,牢獄も,シベリアへの流刑も,死すらも恐れず,自らの信仰を誰にも決して明かさない。


 そのあと新参者は教導者の命ずるところに従い,一同が彼のために祈るよう頼む。

一同は円くなって坐り,彼らが「主への祈り」と称するものを民謡の節で歌う。

一同歌いながら,右手で膝を叩いて拍子をとる。


次いで三,四人の男女が円のなかへ出て,跳ねながら右回りに回り始める。

こうして新信者加入の儀式は,ラジェーニエへと移行する。


 ロシアにあっても国外にあっても,フルイスト派は永いこと忌まわしい淫祠邪教のたぐいと考えられてきました。

下着姿の男女により深夜人目を避けて行われるラジェーニエが,人々に性的放縦と乱交を連想させたのです。

フルイスト派の儀試について,バクストハウゼンはロシア人の秘書から聞いた話としてこう記している,

 「……祈祷の富士を満たした樽のなかに十五,六歳の少女を坐らせる。

数人の老女が彼女に近づき,その胸を深く切開し,左の乳房を切り取り,驚くべき巧みさで出血を止める。


〈……〉それから切り取った乳房を皿に載せ,小片に切りわけて一同に配り,一同はこれを食べる。

この人肉食が終わると,特にしつらえた高い台に少女を坐らせ,歌いながらその周りを回る」。


 バクストハウゼンのこの記述を信頼に値すると見,わたしも同様の話を聞いたとして,同じ乳房嗜食の話を紹介したのは,メーリニコフです。

そして彼はここに,嬰児供犠の話をつけ加えた。


生神女である少女が男の子を産んだ場合,この男子は生まれて八日目に,キリストに倣い脇腹を刺されて殺され,一同はその生血で聖体礼儀をとり行い,屍体は乾燥させて粉にし,パンに焼いてやはり聖体礼儀に使われる。 

やはりメーリニコフの挙げている例ですが,


ワシーり一・ラダーエフというアルザマスのキリストは,

「神秘的な死を死に,神秘的に甦って」キリストとなった者にはすベてが許される
という,一種の超人思想の持主で,これに基づき自らのカラーブリの十三人の女たちと関係をもっていました。彼は女たちに向って,自分がこれを要求するのではない,自分の内なる神が要求するのだ

と言って女たちに関係を迫り,彼女たちはこれを拒否できなかったといいます。

カラ〜ブリの成員は,自分たちのキリストに対しては絶対服従の義務を有し,キリストの命令とあらばいかなる法も眼中にないという有様でしたから,このキリストが不心得者であった場合はとんだ事態が生じかねない,ということはあるでしょう。


深夜の密儀と乱交,人肉食,嬰児供犠等は,大衆の猟奇趣味にはなはだ適っていました。

また,ロシアをヨーロッパの秘境と見倣したがる西欧人の好みにも適っていた。

ハクストハウゼンとメーリニコフのこの記述は,大衆のフルイスト像を決定してしまった。

 ロシアの作家たち自身例外ではなかった。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/5362/1/slc013p121.pdf


"真説ラスプーチン(上/下)" Edvard Radzinsky 著
http://www.amazon.co.jp/%E7%9C%9F%E8%AA%AC-%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3-%E4%B8%8A-%E6%B2%BC%E9%87%8E-%E5%85%85%E7%BE%A9/dp/4140808578

時代は、ロマノフ王朝の末期。

最後の皇帝ニコライ2世は闇の力に操られたと言われる。

その闇で君臨したのが怪僧と言われたラスプーチンである。

彼は読み書きもままならない農民、つまり「ムジーク」であるにも関わらず皇族への影響力は絶大であった。

聖書に関しては優れた知識をもち、素朴で、教養がある人間よりも物事がわかっている。

彼の言葉には、謎めいた格言のような形で、神がかりなうわ言のような予言力がある。

また、彼のまなざしと、人に軽く触れる手には、催眠効果があったという。

その一方で、売春婦や無数の婦人などを宗教と色欲を混同した半狂乱の中に陥れた。

まさしくオカルトの世界である。

ラスプーチンは、自分自身の暗殺を予言している。

その予言は、暗殺が親類の陰謀によるものならば、皇族一族も暗殺されるだろうというもの。

そして、予言通り皇族一家も暗殺される。

暗殺者によると、毒を盛られたのに生きていた、また、何発かの弾丸を打ち込まれたにも関わらず生きていたという証言がある。


彼の逸話には魔人伝説が散乱する。


@ ロシアで流行るカルト宗教

暗殺や謎の死、様々な矛盾と恐怖にむしばまれた時代、こうした時代がオカルト的な雰囲気を蔓延させ、人々の日常生活は霊的なものを求めていたという。

確かに、降霊術がこれほど発展した国はないのかもしれない。

ロシアでは、ドストエフスキーやトルストイのような文学者を生み出した一方で、超能力者を生み出している。

こうした背景は非公認の異端宗派を乱立させる。

本書は、中でも「鞭身派」と「去勢派」について言及している。


鞭身派における乱交は、肉欲を抑制するためであり、自らを清める儀式である。

これをキリストの兄弟愛と称する。

敬虔な人間は、罪を犯すと、苦悩を味わい懺悔する。

その結果、魂の浄化が起こり罪人は神に近づく。

罪と懺悔の間を行き来することに意味があり、神への道を示すものとされる。

清らかな体にこそ聖霊が宿り、罪によって罪を追い払うという奇妙な理屈があるようだ。

子供は肉から生まれたのではなく聖霊から生まれると信じるので、女性自身が聖母と自覚できる瞬間がある。


18世紀半ばに、鞭身派から分かれた去勢派という新たな狂信者を生む。

鞭身派の性的堕落を非難し絶対的な禁欲を唱える。

男根の去勢処置は、灼熱した鉄を使い、斧も用いられる。

女性の手術は、外陰部、乳首、乳房が切り取られる。

本書は、この罪を犯すことの重要さを理解しなくては、ラスプーチンを理解することができないと語る。


A ラスプーチンの教え


ラスプーチンは、鞭身派からスタートしたという。

磔にされたキリストは復活せず、復活したのはキリストが説いた永遠の真理のみ。

そして、「すべての人間がキリストになれる」と主張する。

そのためには、自らの内にある肉欲、つまり、旧約のアダムや罪の人を殺さなければならないというのだ。

ラスプーチンの使命とは、神の弱い創造物である女性たちを、罪から解放してやることだという。

彼にとって愛こそ神聖なもの。

自然の万物に対する愛。キリスト教的な家族愛。

女性が夫を愛していれば、それは触れるべきではないが、夫を愛さずに結婚生活を送っているならば罪深い。

結婚という制度には、従属する愛と反対の立場をとる。

真実の愛が存在しないものはすべて罪と考える。

同性愛者で偽りの結婚生活をしていた皇帝の妹には、彼女を抱き、愛を伝染してやろうと試みる。

ラスプーチンから愛を授かったものには、性的な放埒から解放され、見えない糸で永久に結ばれると考えていたのだ。

なんとも神秘的というか幼稚というか、巧みな触れ合いで催眠状態に陥れる。

悪魔のいちばんずる賢いところは、人々に悪魔などいないと信じ込ませることである。

だが、ラスムーチンは書き残す。「悪魔はすぐそばにいる」と。


B皇族との結びつき

ロマノフ王朝は、血族同士の殺し合いの伝統をもつ。そこには閣僚の暗殺も横行する。

そうした陰謀の渦巻く王家にあって、皇帝ニコライ2世は数々の試練を迎える。

皇太子アレクセイの血友病。日露戦争の敗北。1905年の血なまぐさい革命。

こうした背景は、皇族一家が「神の人」を待ち望むという状況にあった。

そんな時期に、予知能力と千里眼を備えるという評判のあったラスプーチンが近づく。

予言、奇蹟、死者と話す能力を備え、ロシア艦隊が日本艦隊に敗れることを予言していたという。

彼には、催眠的な力を持った目、予言者、治癒者、民衆から出てきたなど、条件は整っていた。

ロシアでは、読み書きのできな農民、素朴な人間にこそ貴重な才能が宿るという思想があるらしい。

彼は、病気の皇太子に謁見して心を静め、医者が治らないと宣言した病も将来治ると予言した。

また、革命で自らの殻に篭った皇帝にも、恐怖心を払い勇気を与えた。

特に、皇后は、自身の神経発作を取り除いてくれたラスプーチンの神秘的な力を崇拝するようになる。

これぞ催眠療法である。

彼は霊的な高みに到達した存在であり、詩的な瞑想をしきりに働かせたという。

ラスプーチンが書き記したとされる文章には、催眠的な力と見事な文学的センスがうかがえる。
http://drunkard-diogenes.blogspot.com/2008/06/edvard-radzinsky.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/321.html#c9

[リバイバル3] 黒澤明 ドストエフスキー『白痴』 中川隆
1. 中川隆[-10919] koaQ7Jey 2019年4月05日 15:37:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1109]

黒澤明 ドストエフスキー『白痴』 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=f8wrohnqcxE
https://www.youtube.com/watch?v=HpH0x1oLsKQ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/617.html#c1
[近代史3] 凡人が天才になる方法はあるか? 中川隆
10. 中川隆[-10918] koaQ7Jey 2019年4月05日 15:43:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1110]

ドストエフスキーが全く理解できなかった黒澤明の作ったアホ映画

原作をそっくりそのまま舞台化すればいいのに、アホは自分が理解できる様な見当外れの話に書き換えてしまうのですね。


黒澤明 ドストエフスキー『白痴』 (1951年)

動画
https://www.youtube.com/watch?v=f8wrohnqcxE
https://www.youtube.com/watch?v=HpH0x1oLsKQ

監督 黒澤明


キャスト

那須妙子:原節子

亀田欽司 : 森雅之

赤間伝吉:三船敏郎

大野綾子 : 久我美子

大野:志村喬

大野里子:東山千栄子

大野範子:文谷千代子

香山睦郎:千秋実


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/321.html#c10

[近代史3] 文学も人間も全然わからなかった黒澤明の 白痴 (松竹 1951年) 中川隆
3. 中川隆[-10917] koaQ7Jey 2019年4月05日 15:48:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1111]
『白痴』(はくち)は、ドストエフスキーの小説 『白痴』を原作とした日本映画である。監督は黒澤明で、1951年(昭和26年)に公開された。

原作はロシア文学で、1868年に発表され同時代のロシアを舞台としている。本作では舞台が昭和20年代の札幌に置き換えられている。当初4時間25分であった作品であるが、松竹の意向で大幅にカットされ166分となった。


ストーリー

亀田と赤間は北海道へ帰る青函連絡船の中で出会った。

亀田は沖縄で戦犯として処刑される直前に人違いと判明して釈放されたが、そのときの後遺症でてんかん性の白痴にかかってしまったのだった。

札幌へ帰ってきた亀田は狸小路の写真館のショーウィンドーに飾られていた那須妙子の写真に心奪われる。しかし彼女は愛人として政治家に囲われていた。

裕福な大野の娘の綾子と知り合いになった亀田は白痴の症状はあるものの性格の純真さ善人さから、二人に愛され綾子と妙子の間で激しく揺れ動く。3人の異質な恋愛は周りの人物たちを次々と巻き込んでゆくこととなる。


____


『キネマ旬報』で、珍しくベストテンに入らなかった黒澤作品である。
ドストエフスキーを敬愛する黒澤にとっては、念願の仕事であったと同時にプレッシャーも非常に大きかった。原作を7度以上も読み込んだという。撮影がなかなか思うように進まず、精神的重圧のあまり近くにあったナイフで手首を切ろうとしたところ、三船敏郎にナイフを取り上げられたという。

中島公園の氷上カーニバルをはじめ、現在は失われた昭和20年代の札幌市の文化・風俗が記録されている貴重な映像資料でもある。黒澤は北欧のような異国情緒にあふれた当時の札幌の風景に魅せられてロケ地を選んだが、開発が進んで均質化された都市になってからの札幌には興味を示さなくなった。

ノークレジットながら、松竹側より、野村芳太郎、中平康などが監督助手として付いている。特に野村は、最後には黒澤より、シーンのOK、NGの判断すら求められるようになったという。黒澤は、「大船に過ぎたるものふたつ。(編集の)杉原よ志に野村芳太郎」と語った[1]。

松竹は当初黒澤に、前後編で公開したいと伝えており、黒澤はその意向に添って脚本撮影を進めたにもかかわらず、松竹首脳部は短縮を要請した。製作の小出孝は、この要請を黒澤に伝えることが出来ず、自分の責任でカットすることも検討したというが、結局野村芳太郎が黒澤に松竹側の意向を伝えた。[1]当然黒澤は激怒し、山本嘉次郎への手紙で「どうしてもカットしたいのならフィルムを縦に切ればいい」とまで言い切った。[2]結果として黒澤明は、当初4時間32分あった映画を3時間2分にまでカットしたが、それでも長すぎるとされ、結果として2時間46分までカットされた。現在見ることのできるバージョンはこれのみである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%97%B4_(1951%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)


▲△▽▼

黒澤明の「白痴」は、上述の原作に極めて忠実で、プロローグにドストエフスキーその人の言葉を載せることでも想像されるように、どうやら原作者と同じ意図を持って、ムイシュキン公爵を映画の中に登場させようとしたらしい。ふつう原作を映画化するときは、原作を映画のために利用するもので、原作者の意図をそのまま映画化する、ということはあまりないと思うのだが、黒澤のこの映画は原作者に忠実だという意味で珍しい映画のように思える。

黒澤はそれほどこの白痴という小説に心酔していたのだろうか。分からないが、結果はどうだったかというと、僕は、残念ながら、成功していないと思う。と、いうか、ドストエフスキーその人が、この主題は困難だ、と言った程度より、もっと困難なことをやろうとして失敗した、という感じで、無理もないように思う。

映画の中のムイシュキン公爵は「亀田さん」という名前で登場するが、この人は全編に渡って、「世間知らずで、他人の心の中しか見ようとしないせいで、他人の気持ちをあっさりと踏みにじる言動をし、周囲の状況がきちんと見えず、ゆえに滑稽で、極めて子供じみた人」という脚本の性格設定の元に見えている。すなわち「滑稽さ」と「非常識さ」のみで出来ているように見えてしまっている。

原作のムイシュキン公爵は、前述のように「滑稽」に加えて「論理」と「神秘」を持っているのだけれど、それらをそぎ落としてしまっている。「論理」は変だと思うかもしれないが、実際、物語りの中で公爵は、かなり論理的に自分の哲学を披露する長い弁舌をふるったりするのである。それゆえ「世間知らずの哲学者」などという軽い侮蔑の混じった扱いをここそこで受けたりもする。

とにかく、映画の方では滑稽ばかり目だってしまい、なぜこの人が特別な人なのか伝わってこない。

あと、けっこう決定的に問題なのが配役で、亀田さん役の森雅之はどう考えてもミスキャストとしか言いようがない。森雅之その人もこの役は自分じゃないと言っていたようだ。ただ、この亀田さん役を誰にするかについてはかなり紆余曲折があったそうだ。と、いうか、このムイシュキン公爵役をきちんとできる人はいるのかしらん、という気がする。

森雅之は僕の大好きは俳優なのだが、彼は、心に一物があり、ずるくて、それで色気たっぷりで、そこはかなく堕落したような男の役を演じると完璧なのであるが、そういう意味で、ムイシュキン公爵役と正確に正反対な感じである。目に色気がありすぎてどうしても善良に見えないのである。そのせいで、その類まれな善良さゆえに人々を惹きつけている、ということが伝わらず、特に、なんでこんなヘンな男をナスターシャとアグラーヤという二人の美女が取り合っているんだか、まるで分からない感じ。

原作者の言うことを忘れて、脚本を変えて、もう少し亀田さんをふつうの人にして構成すればよかったのに、と思えて仕方ない。

もっとも、この映画には仕方ない事情もあって、それは、黒澤が最初に完成させた時点では4時間の大作だったそうなのだが、配給会社の意向で大幅にカットになり、結局2時間半ぐらいにしてしまっているのである。ひょっとして、さっき言った亀田さんが哲学的考察を披露するシーンなんかも存在していたのかもしれない。

さて、ずいぶん黒澤の「白痴」をミソクソに言ってしまったが、これはひとえに亀田さんが変だ、というだけで、映画としては面白いと思う。特に、森雅之以外の配役が極めて秀逸である。

激しい情熱と行動の人である粗野なラゴージンは赤間伝吉という名前で三船敏郎が、ラゴージンとムイシュキン公爵の間で揺れる謎に包まれた絶世の美女ナスターシャ・フィリポヴナは那須妙子という名前で(ネーミングが面白い!)原節子が、そして、公爵に恋をする、気が強く純真な、やはりたぐいまれな美女のアグラーヤは大野綾子という名前で久我美子が演じている。

これら、三船敏郎と原節子と久我美子の3人の演技だけでもこの映画を見る価値はある。

特に僕は久我美子の綾子がとても気に入った。潔癖で気が強くて羞恥心が強く純真で、それゆえに怒ってばかりいるアグラーヤの性格がとてもうまく出ている。あと、ナスターシャ役の原節子の美しさと貫禄と隠されたナイーブな感じもいいし、三船敏郎のラゴージンの粗野な美男子ぶりもよい(原作のラゴージンはむしろ醜男だったはずだが)。原節子と三船敏郎のツーショットは本当に絵になる。

森雅之は、もう、これは仕方ない感じ。率直に行動するムイシュキンが下心ありありの男に見えちゃったり、人々を知らずして惹きつける純真であけすけな笑いが色目を使っているように見えちゃったり、さんざんである(笑) だって、そういうタイプの役者だもんね。

ちなみに森雅之は、僕は、何といっても成瀬巳喜男の「浮雲」が素晴らしいと思う。女好きでだらしないダメ男の役を、抜群に美しく魅力的な高峰秀子と演じている。ここでの森雅之は何ものにも変えがたい感じ。あと、雨月物語や、羅生門、女が階段を上る時、武士道残酷物語などなど森雅之が秀逸な映画はいくらでもある。
http://hayashimasaki.net/zatubun/hakuchi.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/173.html#c3

[近代史3] 凡人が天才になる方法はあるか? 中川隆
11. 中川隆[-10916] koaQ7Jey 2019年4月05日 15:52:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1112]

文学も人間も全然わからなかったアホ 黒澤明の 白痴 (松竹 1951年)

ドストエフスキーの原作通りに、何も手を加えないでそのまま映像化しておけば物凄い傑作になったんですけどね:


『白痴』(はくち)は、ドストエフスキーの小説 『白痴』を原作とした日本映画である。監督は黒澤明で、1951年(昭和26年)に公開された。

原作はロシア文学で、1868年に発表され同時代のロシアを舞台としている。本作では舞台が昭和20年代の札幌に置き換えられている。当初4時間25分であった作品であるが、松竹の意向で大幅にカットされ166分となった。


ストーリー

亀田と赤間は北海道へ帰る青函連絡船の中で出会った。

亀田は沖縄で戦犯として処刑される直前に人違いと判明して釈放されたが、そのときの後遺症でてんかん性の白痴にかかってしまったのだった。

札幌へ帰ってきた亀田は狸小路の写真館のショーウィンドーに飾られていた那須妙子の写真に心奪われる。しかし彼女は愛人として政治家に囲われていた。

裕福な大野の娘の綾子と知り合いになった亀田は白痴の症状はあるものの性格の純真さ善人さから、二人に愛され綾子と妙子の間で激しく揺れ動く。3人の異質な恋愛は周りの人物たちを次々と巻き込んでゆくこととなる。


____


『キネマ旬報』で、珍しくベストテンに入らなかった黒澤作品である。
ドストエフスキーを敬愛する黒澤にとっては、念願の仕事であったと同時にプレッシャーも非常に大きかった。原作を7度以上も読み込んだという。撮影がなかなか思うように進まず、精神的重圧のあまり近くにあったナイフで手首を切ろうとしたところ、三船敏郎にナイフを取り上げられたという。


中島公園の氷上カーニバルをはじめ、現在は失われた昭和20年代の札幌市の文化・風俗が記録されている貴重な映像資料でもある。黒澤は北欧のような異国情緒にあふれた当時の札幌の風景に魅せられてロケ地を選んだが、開発が進んで均質化された都市になってからの札幌には興味を示さなくなった。

ノークレジットながら、松竹側より、野村芳太郎、中平康などが監督助手として付いている。特に野村は、最後には黒澤より、シーンのOK、NGの判断すら求められるようになったという。黒澤は、「大船に過ぎたるものふたつ。(編集の)杉原よ志に野村芳太郎」と語った[1]。

松竹は当初黒澤に、前後編で公開したいと伝えており、黒澤はその意向に添って脚本撮影を進めたにもかかわらず、松竹首脳部は短縮を要請した。製作の小出孝は、この要請を黒澤に伝えることが出来ず、自分の責任でカットすることも検討したというが、結局野村芳太郎が黒澤に松竹側の意向を伝えた。[1]当然黒澤は激怒し、山本嘉次郎への手紙で「どうしてもカットしたいのならフィルムを縦に切ればいい」とまで言い切った。[2]結果として黒澤明は、当初4時間32分あった映画を3時間2分にまでカットしたが、それでも長すぎるとされ、結果として2時間46分までカットされた。現在見ることのできるバージョンはこれのみである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%97%B4_(1951%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)


▲△▽▼


黒澤明の「白痴」は、上述の原作に極めて忠実で、プロローグにドストエフスキーその人の言葉を載せることでも想像されるように、どうやら原作者と同じ意図を持って、ムイシュキン公爵を映画の中に登場させようとしたらしい。ふつう原作を映画化するときは、原作を映画のために利用するもので、原作者の意図をそのまま映画化する、ということはあまりないと思うのだが、黒澤のこの映画は原作者に忠実だという意味で珍しい映画のように思える。

黒澤はそれほどこの白痴という小説に心酔していたのだろうか。分からないが、結果はどうだったかというと、僕は、残念ながら、成功していないと思う。と、いうか、ドストエフスキーその人が、この主題は困難だ、と言った程度より、もっと困難なことをやろうとして失敗した、という感じで、無理もないように思う。

映画の中のムイシュキン公爵は「亀田さん」という名前で登場するが、この人は全編に渡って、「世間知らずで、他人の心の中しか見ようとしないせいで、他人の気持ちをあっさりと踏みにじる言動をし、周囲の状況がきちんと見えず、ゆえに滑稽で、極めて子供じみた人」という脚本の性格設定の元に見えている。すなわち「滑稽さ」と「非常識さ」のみで出来ているように見えてしまっている。

原作のムイシュキン公爵は、前述のように「滑稽」に加えて「論理」と「神秘」を持っているのだけれど、それらをそぎ落としてしまっている。「論理」は変だと思うかもしれないが、実際、物語りの中で公爵は、かなり論理的に自分の哲学を披露する長い弁舌をふるったりするのである。それゆえ「世間知らずの哲学者」などという軽い侮蔑の混じった扱いをここそこで受けたりもする。

とにかく、映画の方では滑稽ばかり目だってしまい、なぜこの人が特別な人なのか伝わってこない。

あと、けっこう決定的に問題なのが配役で、亀田さん役の森雅之はどう考えてもミスキャストとしか言いようがない。森雅之その人もこの役は自分じゃないと言っていたようだ。ただ、この亀田さん役を誰にするかについてはかなり紆余曲折があったそうだ。と、いうか、このムイシュキン公爵役をきちんとできる人はいるのかしらん、という気がする。

森雅之は僕の大好きは俳優なのだが、彼は、心に一物があり、ずるくて、それで色気たっぷりで、そこはかなく堕落したような男の役を演じると完璧なのであるが、そういう意味で、ムイシュキン公爵役と正確に正反対な感じである。目に色気がありすぎてどうしても善良に見えないのである。そのせいで、その類まれな善良さゆえに人々を惹きつけている、ということが伝わらず、特に、なんでこんなヘンな男をナスターシャとアグラーヤという二人の美女が取り合っているんだか、まるで分からない感じ。

原作者の言うことを忘れて、脚本を変えて、もう少し亀田さんをふつうの人にして構成すればよかったのに、と思えて仕方ない。

もっとも、この映画には仕方ない事情もあって、それは、黒澤が最初に完成させた時点では4時間の大作だったそうなのだが、配給会社の意向で大幅にカットになり、結局2時間半ぐらいにしてしまっているのである。ひょっとして、さっき言った亀田さんが哲学的考察を披露するシーンなんかも存在していたのかもしれない。

さて、ずいぶん黒澤の「白痴」をミソクソに言ってしまったが、これはひとえに亀田さんが変だ、というだけで、映画としては面白いと思う。特に、森雅之以外の配役が極めて秀逸である。

激しい情熱と行動の人である粗野なラゴージンは赤間伝吉という名前で三船敏郎が、ラゴージンとムイシュキン公爵の間で揺れる謎に包まれた絶世の美女ナスターシャ・フィリポヴナは那須妙子という名前で(ネーミングが面白い!)原節子が、そして、公爵に恋をする、気が強く純真な、やはりたぐいまれな美女のアグラーヤは大野綾子という名前で久我美子が演じている。

これら、三船敏郎と原節子と久我美子の3人の演技だけでもこの映画を見る価値はある。

特に僕は久我美子の綾子がとても気に入った。潔癖で気が強くて羞恥心が強く純真で、それゆえに怒ってばかりいるアグラーヤの性格がとてもうまく出ている。あと、ナスターシャ役の原節子の美しさと貫禄と隠されたナイーブな感じもいいし、三船敏郎のラゴージンの粗野な美男子ぶりもよい(原作のラゴージンはむしろ醜男だったはずだが)。原節子と三船敏郎のツーショットは本当に絵になる。

森雅之は、もう、これは仕方ない感じ。率直に行動するムイシュキンが下心ありありの男に見えちゃったり、人々を知らずして惹きつける純真であけすけな笑いが色目を使っているように見えちゃったり、さんざんである(笑) だって、そういうタイプの役者だもんね。

ちなみに森雅之は、僕は、何といっても成瀬巳喜男の「浮雲」が素晴らしいと思う。女好きでだらしないダメ男の役を、抜群に美しく魅力的な高峰秀子と演じている。ここでの森雅之は何ものにも変えがたい感じ。あと、雨月物語や、羅生門、女が階段を上る時、武士道残酷物語などなど森雅之が秀逸な映画はいくらでもある。
http://hayashimasaki.net/zatubun/hakuchi.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/321.html#c11

[近代史3] 凡人が天才になる方法はあるか? 中川隆
12. 中川隆[-10915] koaQ7Jey 2019年4月05日 15:54:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1113]

まともな人間は芸術家にはなれない _ 6


黒澤明にはわからなかった女性の恐ろしさ


羅生門

監督 黒澤明

脚本 黒澤明 橋本忍

音楽 早坂文雄

撮影 宮川一夫

配給 大映

公開 1950年8月26日


動画
https://www.youtube.com/watch?v=uwR2kVOcwNI


キャスト

多襄丸:三船敏郎
都の内外に悪名が轟く盗賊。女好きとしても有名。真砂の美貌や気性の激しさに惹かれ、金沢夫婦を襲う。捕縛されても豪放磊落に振る舞い、自らの金沢殺しを誇るように語る。


金沢武弘:森雅之
死体で発見された旅をしている武士。言葉巧みに多襄丸に山奥まで連れて行かれ、木に縛られ、妻を手籠めにされる。巫女による降霊という形で証言を行なう。


真砂:京マチ子
金沢の妻。大人しく貞淑。
夫と山中を行動していたところを多襄丸に襲われ犯される。多襄丸によれば凛としていたというが出廷した姿とその証言はか弱さを見せる。


杣(そま)売り:志村喬
金沢の遺体発見者。参考人として検非違使に出廷し、矛盾する3人の証言を聞く。
実は事件自体を目撃しており、真相を知っているがために人間不信となっている。


旅法師:千秋実
生前の金沢を目撃していたため、検非違使に呼ばれる。最終的に杣売りから真相を聞かされ、人間不信となるが、最後の杣売りの行動に希望を持つ。


下人:上田吉二郎
雨宿りの際に暇つぶしに杣売りと旅法師の話を聞く。終盤、杣売りの偽善性を指摘し、人間のエゴイズムのままに行動して場を去る。


巫女:本間文子
巫女というより霊媒師。金沢の霊を呼び込み、証言をおこなう。


放免:加東大介
河原で倒れていた多襄丸を発見し、検非違使に連行する。

____


芥川龍之介の短編小説 『藪の中』と『羅生門』を原作に、橋本忍と黒澤が脚色し、黒澤がメガホンを取った。舞台は平安時代の乱世で、ある変死事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及した。

自然光を生かすためにレフ板を使わず鏡を使ったり、当時はタブーとされてきた太陽に直接カメラを向けるという撮影[注釈 1]を行ったり、その画期的な撮影手法でモノクロ映像の美しさを極限まで映し出している。撮影は宮川一夫が担当し、黒澤は宮川の撮影を「百点以上」と評価した[1]。音楽は早坂文雄が手がけ、全体的にボレロ調の音楽となっている。

日本映画として初めてヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞[注釈 2]を受賞し、黒澤明や日本映画が世界で認知・評価されるきっかけとなった。本作の影響を受けた作品にアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』などがある。

製作経緯

伊丹万作唯一の弟子として指導を受けた橋本忍は、伊丹の死後佐伯清の弟子となり、サラリーマンをしながら脚本の勉強をしていた。1949年(昭和24年)、橋本は芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を執筆、佐伯にこの脚本を見せたところ、かねてから付き合いのあった黒澤明の手に脚本が回り、黒澤はこれを次回作として取り上げた。橋本の書いたシナリオは京の郊外で旅の武士が殺されるという殺人事件をめぐって、関係する三人が検非違使で証言するが、それがみな食い違ってその真相が杳として分からないという人間不信の物語であったが、映画にするには短すぎたため、杣売りの証言の場面と芥川の『羅生門』のエピソードと、ラストシーンで出てくる赤ん坊のエピソードを付け足した[4]。

当時黒澤は、東宝争議の影響で成瀬巳喜男、山本嘉次郎、本木荘二郎らと共に映画芸術協会を設立してフリーとなっていたが、同協会は大映と契約を結んでいたこともあり、同社で製作交渉を行った。しかし、大映はこの難解な作品の映画化に首をひねったため、黒澤は社長の永田雅一に「セット一杯で出来る」と説得してようやく企画が了承された[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E7%94%9F%E9%96%80_(1950%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)

▲△▽▼


ヨーロッパの映画人の評価では文句無く日本映画の最高傑作 _ 黒澤明「羅生門」


この日 ヴェネチアでは “ヴェネチア国際映画祭” が フィナーレを迎えようとしていた。グランプリ(金獅子賞)をはじめ、全受賞作がつつがなく選出されたが、その裏で “前代未聞のとんでもない騒ぎ” が持ちあがっていた。

祝福されるべき最高の栄誉「サンマルコ獅子像」を満場の拍手とともに受けとるはずの関係者の姿が、どこをどう探しても見当たらないのだ。

見事 金獅子を射止めたのは 「羅生門」という日本映画だった。 ところが 信じられないことに、プロデューサー、監督、俳優など関係者は ひとりとして ヴェネチアに来ていなかった。 しかし、そもそも どうしてこういう事になったのか?

話は その年の春にさかのぼる。

ひとりのイタリア人女性が、東京を拠点に精力的に活動していた。イタリーフィルム社長、ジュリアーナ・ストラミジョリ女史である。彼女の仕事は、イタリア映画を 日本に売り込むことであった。大戦直後に起こった空前の「ネオ・レアリズモ」ブームの中、彼女は 多くの利益をイタリアにもたらした。そんな経緯から、彼女の伊映画界への発言力は増していた。

また、伊映画を愛してくれる日本国民への謝意を表す意味でも、欧米に 日本映画の良作を紹介してあげようか、と考えたのはごく自然の成り行きだった。

1951年6月、ヴェネチア映画祭への出品作を探していた女史は、何本か観るうちに 「羅生門」 にぶつかった。運命の出会いだった。

ベリッシモ! (何て素晴らしいの!) こんな美しい映画 観たことないわ。ぜひとも 世界に紹介したい。


胸の高鳴りを押さえることが出来ない彼女は、すぐさま 大映に対し (映画祭への) 出品を要請した。 ところが なぜか 大映・永田社長は出品に消極的で、「イタリアの国際映画祭に出したい? 何のために? 日本の映画が海外で評価されるなんて 有り得んだろう。出したところで、恥をかくのがオチだ。

英語・イタリア語の字幕を付けるための費用が要る?

そんな金は出せないよ。 まさか詐欺じゃないだろうね。ま、いずれにしても 今回は遠慮させてもらうよ」

と冷ややかな対応に終始した。 永田のこの対応に落胆した女史だったが、やはりどうしてもあきらめることが出来なかった。思い悩んだ末、“熱血行動派”の彼女は 大胆な行動に出た。自費で英語字幕をつけ、秘密裏にヴェネチアに送ったのだ。

いくら映画芸術に通じた者でも、よほどの映画愛がなければ こんなことは出来ない。そして、ストラミジョリ女史は 「熱血慧眼の映画人」だった。
彼女の眼がいかに鋭かったかは、“金獅子”の獲得によって見事 証明されることとなる。

日本には名誉とか栄光に全く無関心な、クロサワという大変な実力の映画人がいる。

湖に巨石が投じられ、そのすさまじいエネルギーは、次々に大きな波紋を作り出していった。

「ジャパンのクロサワ」への世界の映画人からの尊敬ぶりは、“ヴェネチア事件”をきっかけに、日本人の想像を超えたものになっていく。 映画祭に顔を出していた フェデリコ・フェリーニという新人監督は、「羅生門」観賞後 しばらく興奮が収まらなかった。

「ブラーヴォ! すごいものを見たぞ!」
 
「クロサワという日本人が作った凄い映画を この目で見たんだ!」

と 辺り構わず大声で話し続け、周囲にたしなめられた。 彼にとって 「羅生門」 の衝撃は大き過ぎたのだ。この映画祭で見た奇跡について話すとき、この純情な男の眼から涙があふれ 流れ落ちた。

その後も、イタリーフィルムの ストラミジョリ女史が日本から帰国するたび 頻繁に彼女のもとを訪れたフェリーニ青年は、質問攻めにすることがたびたびだった。

「クロサワとはどんな男? どんな顔をしてる?」

その質問は 子供のそれと変わらなかった。ストラミジョリには、そんなフェリーニが可愛らしくも思えた。 彼女は、クロサワの他作品も観たいと熱望する彼のために、1本の映画を日本から直送し、“個人上映会” を開いた。映画のタイトルを 「白痴」といった。

映画鑑賞後のフェリーニの様子は、またしても尋常ではなかった。泣きはらして充血したその目は、異様な光を帯びていた。映画は、彼にとって 「羅生門」 以上の衝撃だったのだ。

1954年、フェリーニの最初の傑作 「ラ・ストラーダ」(邦題 「道」)が公開され、世界に大きな衝撃を与えた。「白痴」のムイシュキンは ジェルソミーナ となって、このイタリアの地に甦ったのだ。

「道」 から28年が過ぎた1982年9月、ヴェネチア国際映画祭創立50周年を記念して設けられた 獅子の中の獅子賞(歴代グランプリ中の最高傑作)として、満場一致で「羅生門」が選出された。 選定にあたって諮問を受けたフェリーニは こう述べた。

「我々映画人はクロサワから多くのことを学んだ。クロサワは映画界にとって最大の恩人である。どれだけ感謝しても足りるものではない。

映画祭50周年にあたり、最も優れた映画を1本選べというなら、私は迷わず「羅生門」を推挙する。

この偉大な映画を世界で最初に見出したのが、わがヴェネチアだったという事実は、イタリア人にとって何よりの名誉である」

http://white-knight.blog.so-net.ne.jp/2007-02-01

黒澤伝説はここから始まった


“羅生門”は今では日本文化・芸術を代表する作品の一つになってしまった、と言っても過言ではないと思います。 外国人のほうが日本人より鑑賞眼があるーなどど言う気は毛頭ありませんが、こと“羅生門”に関して言えば、“よく分からない映画”という評論が支配的だったという国内の状況より、国際映画祭の批評家たちの方が慧眼だったーと言えるのではないでしょうか。 世界人類が共通に抱えている問題を画期的な映像表現で描き出し、その世界的価値に日本人自身が気が付かなかったわけですから。

同じ事象でも、見る人によって感じ方、捉え方がまったく違うーという、言ってみれば20世紀後半のポストモダニズムを先取りしているわけですが、そんな小難しいことを言わずとも、人間の本質に切り込む先鋭的な内容をめくるめくような映像美でとらえたエンターテイメントとして現在でも通用すると思います。 

実は私、アメリカの大学で“映画史”の授業を二度取った事があるのですが、いずれの場合も“羅生門”が上映された時の、学生たちの画面に食い入るような反応が忘れられません。 “国民の創生”とか、“戦艦ポチョムキン”や“市民ケーン”といった欧米の歴史的名作が上映された時とは、ディスカッションの場においてもみんなの熱の入りようがまるで違っていました。 

それらの作品が映画史においては、技術的・理論的な革新をもたらしたのに過ぎないのに対して、“羅生門”のもつ、人間の心の闇に肉薄する答えのない問いかけーという内容は時代が変わっても古びることがないのだと思います。 基本的に、古いものーそれも昔の外国映画などにまったく興味の無いアメリカの一般の若者たちに引き起こしたあの反応は、この作品の持つ底知れぬ力を純粋に証明するに足るものではないでしょうか?

http://www.amazon.co.jp/%E7%BE%85%E7%94%9F%E9%96%80-DVD-%E9%BB%92%E6%BE%A4%E6%98%8E/dp/B0014IMRQM

日本映画が世界を驚かせた端緒となった作品です。実際、今見ても非常に見事な作品だと思います。物語は神話的であり、それ故、普遍性に満ち、黒澤作品の中でもこれから評価が高まるでしょう。

映画は、冒頭の篠付くような豪雨に、半壊した大門、羅生門の描写から、異様な予感をはらみます。これだけで断然たる出来です。 そして最初のセリフが

「わからない。さっぱりわからない」

と来る。いきなり映画のテーマ、結論を言ってしまっているんですが、その後の映像が見事なので、まったく退屈しない。

呆然と空を見上げるシーンから登場する三船は、唐突に狂騒的な笑いを発し、森を駆ける様は野生そのものです。 その三船が女の手を引き、森を疾走するだけでスリルが高まります。

京マチ子の体現した、女の性の際どさと、刃の鋭さ、その毒性の濃厚さ。そう言えば近年、このレベルの高度なエロティシズムは見かけませんね。

その時の感情と共に、幾たびも幾たびも姿を変えては再生される「客観的と主張される記憶」この人として内包する根源的な矛盾を突き、「羅生門の鬼ですら、人の恐ろしさに逃げ出した」という深遠を問うことに成功したから、この映画は永遠の命を得たのだ、と思うのです。

http://harukun1147.cocolog-nifty.com/firosofianholiday/2008/04/post_4dcf.html

時代は平安時代、能を取り入れた伝統の様式美・・・・これでは「王朝絵巻のような 時代がかって退屈な映画」 以外の具体的イメージを持てというほうがムリだ。

封切り当時、多くの観客が、そんな先入観で頭を一杯にして映画を観、そして裏切られた。 でも、不思議なことに 客の入りは悪くなかった。ほとんどの映画館が満員だったという記録が残っている。(不入りだったというのは、後から作られた“伝説”です)

人々の “満足” は別の所にあった。 映画を観た人の口伝えに、三船敏郎と京マチ子の扇情的なキスシーンやレイプ場面が 密かに話題になっていたのだ。人々は、まるで “成人映画” を観る感覚で「羅生門」を観に行き画面にくぎ付けになった。

じつに、「羅生門」は “ケモノの匂い” のする映画だった。 盗賊多襄丸を演じる三船敏郎の、日本人離れしたエネルギッシュでギラギラした野性。

人妻・真砂を演じる京マチ子の、西洋人のようなグラマラスな肉体。盗賊が女を犯す場面やキスシーンの欲望むき出しの刺激的演出。 しかも、全編にわたって流れる音の基調は “ボレロのリズム” だ。当時の観客からすれば、どこをどう探しても“日本的情緒の片鱗”さえ見いだせないこの映画に心底面くらい、“真のねらいや価値”について考える余裕など持てなかったのである。

そう、すべては “タブー”だったのだ。 夏の太陽にカメラを向けることも、ギラギラした欲望を大胆に解き放つことも。そんな黒澤の野心的演出に、保守的な批評家たちは内心面食らったのだろう。

http://white-knight.blog.so-net.ne.jp/2007-02-01

 黒澤はの土砂降りのシーンを撮影するにあたり、雨に墨汁を混ぜて重い質感を出したという。さらにこの場面に凄まじい迫力を加えるために、消防車三台の出動を求めて消化ホース5本を使用。屋根には放水装置を施して、瓦の壊れから滝のように落下する雨を表現した。さらに、門の周囲に掘つた溝には水槽タンクから大量の水を一気に流し込んで溝に溢れる豪雨の感じを出し、しかも万全を期するためにわざわざ雨の日を選んで撮影を行なうという凝りようだった。このことは"日本映画史上類を見ない大胆な撮影"として、今も語りつがれている。

 この他にも、羅生門の屋根瓦を作るために、新たに焼きあげた瓦の数が4000枚、その一つ一つに「延暦寺十七年」と年号が刻まれていたとか、羅生門のセットが大き過ぎて上部の屋根を作つたら柱がささえきれないから、屋根を半分壊した形にしたとか、黒澤の偏執狂的な映画製作に関するエピソードは尽きない。

 その飽くなきこだわりがことごとく映画に独特の雰囲気を醸し出し、この名作が誕生するに至った。

 なお、カメラ技法における工夫も多く、中でも有名なものは"ギラギラと輝く太陽を望遠レンズで映す"という手法だった。当時は太陽にカメラを向けることはフィルムを焼き切る可能性があったため、一般的にはタブーとされていたのだが、この難題に敢然と挑戦したのが撮影担当の宮沢一男だった。

彼のカメラは森の奥深くに入り込み、大きな反射鏡を利用しながら、木々の間から見え隠れするギラついた太陽を延々と追いかけ、それによって照り付ける陽光と乾いた森の雰囲気を遺憾なく描写することに成功した。この技法が映画公開時、世界の批評家から絶賛され、「黒澤は太陽を初めてカメラにおさめた」という有名な賛辞が生まれた。

 当時の映画界の巨匠、溝口健二のキャメラマンとしても名高い宮川一男は、「色を使わずに、白と黒の間にある無数の鼠色の濃淡によってみるものに色を感じさせる」という黒澤の演出に対しても、独特の水墨画感覚で応じた。雨の“黒”と検非違使庁の庭に敷かれた砂の“白”との絶妙な対比、木樵りが森を歩いていくシーンでの木々の微妙なコントラスト、木漏れ陽の輝き、斧の刃にきらめく日光、何とも豊穰な映像表現である。

 他にも、当時としてはまだ新しいテクニックだったパン・フォーカス(近景と遠景と同時にピントを合わす技法)が、随所に使われていることも見逃せない。

 さらにこの作品にはおびただしい数のカットつなぎ(画面と画面の切り返し)が施されている。評論家のドナルド・リチー氏によれば、映画の本体だけで408ショット、これは普通の作品の二倍以上にもなるという。しかし観客はショットの多さで気が散るようなことはない。それどころか、ともすると単調になりがちなストーリーに言い知れぬ躍動感を生みだしている。  黒澤のこの天才的な編集が、「七人の侍」をはじめとするのちの彼の作品に確実に受け継がれていることは言うまでもない。

「羅生門」は戦後間もなく公開され、51年度ヴェネチア映画祭グランプリ、52年度アカデミー賞最優秀外国語映画賞に輝いた。この受賞が当時、敗戦の痛手の中で何もかも自信を失っていたわが国の人々に与えた衝撃と希望は計り知れないものが合ったという。

 海外で高く評価された理由としてさまざまな要因が云われているが、あの時代にこういった観念論的な裁判劇を世界に先駆けて生みだした黒澤の先見性こそが、その最たる理由であったことに今や疑いの余地はない。 「羅生門」はまさに日本映画を黒澤の名とともに世界に送り出した記念すべき「門」でもあった。

http://www.asahi-net.or.jp/~ij9s-ucym/rasyoumon.html

世界の「ミヤガワ」  

宮川一夫は、映画監督として世界の「クロサワ」と呼ばれる黒澤明と同じで、映画撮影技師として世界の「ミヤガワ」と称された、偉大な映画カメラマンです。彼の作風は、溝口健二や黒澤明などの名監督の作品において大きな役割をはたしました。宮川のカメラワークなしには、溝口も黒澤も世界の映画コンクールで数々の栄誉には輝かなかったと言っても過言ではありません。今回は、この宮川一夫の撮影テクニックと映画において表現された宮川芸術を紹介します。


カメラマンの丁稚奉公

1908年生まれの宮川は、昭和元年に、ふとしたことがきっかけで映画の世界に足を踏み入れました。当時、スチルカメラに興味を持っていた宮川青年は、友人が日活撮影所にいた関係で、しばしば彼にフィルムの現像を頼みました。その見返りとして日活野球部の助っ人をしているうちに、撮影所の仕事を手伝うようになりました。現在のようにカメラマンの専門学校があるわけではありませんから、3年間の現像処理の仕事に続き、その後12年間の撮影助手、例えば、カメラのピントのみを手動で合わせるピントマンを経験し、晴れて撮影技師になることができました。この時の15年間の修行が宮川にとって、撮影テクニックの基本を習得する場であったと後に述べています。サイレント時代からカメラマンをしていた宮川の作品の多くは、白黒です。彼は映画作品だけで、136の作品にカメラマンとして関わりましたが、その半分以上がモノクロ作品でした。しかし、その単色の作品で最も色を感じさせることのできる色調を出せたのは、世界において宮川カメラマンをおいて他にいません。

日本の水墨画を感じさせるカメラワーク

宮川が撮影でこだわったのは、鼠(ねずみ)色です。白黒映画は単純に言えば、白と黒の2階調ですが、鼠色には無限の色があるというのが彼の持論でした。

宮川に日本画を教えた先生が、彼に絵の具を一切使わせなかったため、彼は鼠色の中で自然の色を表現しようと努力しました。その教えが後のカメラワークに多大な影響を与えています。白黒映画は、その色の階調から光と影の表現が重要でした。従って、光と影のコントラスト、その中間に位置する鼠色の表現方法により、作品の雰囲気が大幅に変わりました。

カラー時代のカメラワークが、動きやカットの仕方に重きを置いているのと比べて、白黒時代は、光と影のコントラストをどう表現するかにより、硬調か軟調かの絵作りを監督や脚本家も含めて、論じられました。そのためか、カメラマンの技量や美的センスがより作品に反映されたのも事実です。宮川はモノトーンで自分が育った京都の色彩を出していたと言っています。


「羅生門」で見せたカメラワークの芸術

1950年の作品、「羅生門」は黒澤監督にとっても、宮川にとっても、ターニングポイントとなった作品です。もともと軟調指向の宮川のカメラワークは、ダイナミックな絵作りを目指す黒澤とは相容れない部分がありました。監督から「太陽を画調としてどう考えるか?」という難題を投げかけられて、宮川が答えたのは、「白と黒と鼠、この3つの色でこの映画を撮りたい」というものでした。

監督は了解し、最初の難題が、「羅生門」の話の中で、主役となる盗賊と暴行を受ける侍の妻との抱擁シーンでした。2人のバックに太陽が背景に映っているコントラストの強いカットを望んだのです。

しかし、一般に太陽を大きく撮るには望遠レンズが必要ですし、通常、人物を撮るのは標準レンズです。ズームカメラなどない時代ですから、ほとんど手作りの手法を編み出すしかありません。そこで考えられたのが、25メートルの高さのやぐらの上で三船敏郎と京マチ子の2人に演技してもらい、それを下から太陽を背に撮りながら絞りを最小にして、2人と太陽をくっきりと撮影しました。

何のことはない原始的な方法ですが、必要に応じて様々な撮影方法を試しました。批評家から絶賛された薮(森)のなかのシーン。例えば、三船が延々と薮の中を走りまくるシーン、森の中の木洩れ日や風にゆれる木の葉の影など、海外のカメラマンを驚嘆させました。

タネを明かせば、延々と走っているのは同じところで、カットにより走り続けるように見せたのです。三船が走る前に現れる木の葉は、撮影助手がレンズの前に枝を置いたもの、森の中での影の絞り込みは、鏡に光を反射させて陰影を表現したもの、すべて宮川のスタッフが手作りで表現した特殊効果など一切ない世界です。

このような絶え間ない努力と工夫が、黒澤の作品を色彩感が強いダイナミックな作品に仕上げました。そして結果が、翌年のベネチアの映画祭におけるグランプリ受賞です。


フィルム1コマの集中

宮川が後輩のカメラマンに残した言葉で、意味深いものがあります。要約しますと「映画の1コマに集中する情熱。例えば、茶碗一つ取るにしても、そこに暖かな雰囲気をだす細かな神経が必要である。脚本を読んで、それが熱いお茶か冷たいお茶かをきちんと描くことが大事である」

さらにこう続けています。「手作りで1コマ1コマ描くというと、時間がかかってしょうがないと言うが、それは違う。カメラを構えて、1コマにいかにスタッフの思いを注ぐか、時間がかかるものではない。そういう見極め方や、内容の把握の仕方がとても大切なのです」

確かになにを創るにも、作者の思いがなければ、たとえ技巧的に優れていても、結果はつまらないものになりがちです。物の見極め方や内容を把握する力は、実は普段からの旺盛な好奇心や学習から得られるもので、長い時間をかけて身につくものです。勉強家で芸術に造詣が深かった宮川だからこそ、あの独特で美しい映像が表現し得たと言えるでしょう。そういう意味でも、宮川一夫は世界的に傑出したカメラマンでした。(nao)

宮川一夫の略歴

本名宮川一雄 1908年(明治41年)2月25日、京都市生まれ。京都商卒業後、18歳で日活京都へ現像部助手として入社する。撮影技師(カメラマン)昇進第1作は「お千代傘」(尾崎純監督)。43年(昭和18年)の「無法松の一生」(稲垣浩監督)の美しい映像で高い評価を得て、溝口健二、黒沢明、小津安二郎、市川崑監督ら巨匠の作品を撮影し始める。

黒沢監督との初コンビ「羅生門」(50年)は、日本映画史上初の国際賞となるベネチア国際映画祭金獅子(きんじし)賞を受賞。

「雨月物語」(溝口監督)は英国エジンバラ芸術祭で最高賞受賞。

「用心棒」(黒沢監督)などでNHK映画賞撮影賞。「おとうと」「はなれ瞽女(ごぜ)おりん」「瀬戸内少年野球団」などで毎日映画コンクール撮影賞など、受賞多数。

78年に紫綬褒章、83年に勲4等旭日小綬章。92年(平成4年)には山路ふみ子文化賞、川喜多賞を受賞。映画134本、テレビ映画8本を撮影。宮川最後の作品は篠田正浩監督の「舞姫」(89年)。

http://www.mozartant.com/Jordan/Movie_Play/Miyagawa_camera.htm

世界の映画作家が溝口作品に注目し、フランスのヌーベル・バーグ作家たちに強い影響を与えたのが、一般に“ワンシーン・ワンカット”と呼ばれる長回しの手法である。

 溝口健二登場以前は、モンタージュ理論に代表されるように、細かなカットを積み重ねて一つのシークエンスを積み立てるのが定石だった。しかし溝口は、カットを切ることによって俳優の演技が寸断されることを嫌い、芝居を持続させることを望んだ。彼は、カットを短く切り返して見せると訴え方が弱い、という意味のことを自ら語っている。

 また、溝口は移動撮影やクレーンからの撮影を積極的に取り入れ、特にクレーンを好んだ。戦中の『元禄忠臣蔵』では、舞台演劇的な動きの少ない場面で演者の周りを移動撮影して独得の荘重なリズム感を生み出し、作品を死の静謐から逃れさせることに成功する。のちの『西鶴一代女』や『雨月物語』等では、登場人物や観客の感情を反映したようなカメラの動きがあり、観客が作品世界に没入するのを助けた。

 戦後、大映に入ってからは名カメラマン宮川一夫(1908-1999)を得た。彼は移動・クレーン撮影において超絶的な技巧を発揮し、『雨月物語』では全体の約七割をクレーンで撮影して幽玄な雰囲気を生み出し、ワンシーン・ワンカットの手法を完成させたと評された。

『新・平家物語』では冒頭の群衆シーンを自在に動く視点からの長いワンカットで撮り、一見して信じられなかったジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーは映写室に入ってフィルムを確かめたという。
http://www.fsinet.or.jp/~fight/mizoguchi/01.htm


志村喬が語る三人のシーン

ベルイマンを含め欧米の映画人が驚愕したのは特にこのシーンの台詞による逆転劇の連続とその映像・カットの素晴らしさ。そして美しい美しい三船敏郎・京マチ子・森雅之。  

『羅生門』の名セリフは一杯あるが、一番素晴らしいのは杣(そま)売り役の志村喬が真実として語る第四においての以下の真砂役の京マチコが話すセリフだ。英語ヴァージョンで。 言葉の凄さをこれほど著したセリフは映画史上でも稀ということができる。


(侮辱された夫:森雅之に向かって)

It's you who are weak.

If you are my husband, why don't you kill this man?

Then you can tell me to kill myself.

That's a real man.

You're not a real man either.


(多襄丸:三船敏郎 も向かって)

When I heard you were Tajomaru, I stopped crying.

I was sick of this tiresome daily farce.

I thought, ''Tajomaru might get me out of this.''

''If he'd only save me, I'd do anything for him.''

I thought to myself.

But you were just as petty as my husband.

この言葉によって、二人の男から侮蔑のどん底にまで落されていた京マチ子は蘇り、二人の男は殺し合うことになる。宮川一夫のカメラと三人の演技とこのセリフのシーンは何回観ても唸ってしまう。


以下が夫の辱めの言葉:

Hold it!

(待って)

I refuse to risk my life for such a woman.

(俺はこんな女の為に命を掛けるのは御免だ)

You've been with two men. Why don't you kill yourself?

(二人の男に恥をみせて、何故自害しようとはせぬ)

Hopeless.

(あきれ果てた女だ)

I don't want this shameless whore.

(こんな売女は欲しくない)

You can have her.

(呉れてやる)

At this stage, I'd rather lose her instead of the horse.

(今となっては こんな女よりあのあしげが盗られる方が惜しい)

京マチ子が語るところでは森雅之の蔑んだ冷たい眼差しのところが最高です!:

Even now, when I think of his eyes,
My blood turns cold in my veins.

What I saw in them was neither anger,
nor sorrow,
a cold lgiht, a look of loathing..

Don’t
Don’t look at me like that.
It’s too cruel.
Beat me,
kill me, but don’t look at me like that.
Please stop.
Now, kill me.
Kill me at once.


私はその眼を思い出すの、
今でも体中の血が凍るのを思い出します
夫のその眼の中に閃いていたのは怒りでもなく
悲しみでもなく
ただ私を蔑んだ冷たい光だったのです

止めて
そんな眼で私を見るのを止めて
あんまりです
私はは打たれても、
いいえ、殺されても構わない。 でも、でもそんな眼で私を見るのはあんまりです。
さあ 殺してください。 ひとおもいに私を殺してください。
http://d.hatena.ne.jp/tougyou/20070920/p3
 


▲△▽▼

黒澤の「羅生門」は何かがおかしい_この映画を欧米人しか評価しなかった理由1

橋本忍は、黒澤の助監督であった野村芳太郎(『砂の器』監督)に尋ねた。

「黒澤さんにとって、私、橋本忍って、いったいなんだったのでしょう?」

野村「黒澤さんにとって橋本忍は会ってはいけない男だったんです」

  「そんな男に会い、『羅生門』なんて映画を撮り、外国でそれが戦後初めての賞などを取ったりしたから、映画にとって無縁な、思想とか哲学、社会性まで作品へ持ち込むことになり、どれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになった」

橋本「しかし、野村さん、それじゃ、黒澤さんのレパートリーから『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』が?」

野村「それらはないほうがよかったのです」

  「それらがなくても、黒澤さんは世界の黒澤に。。現在のような虚名に近いクロサワではなく、もっとリアルで現実的な巨匠の黒澤明になっています」

  「僕は黒澤さんに二本ついたから、どれほどの演出力。。つまり、力があるかを知っています。彼の映像感覚は世界的なレベルを超えており、その上、自己の作品をさらに飛躍させる、際限もない強いエネルギッシュなものに溢れている。だから。。。いいですか、よけいな夾雑物がなく、純粋に。。純粋にですよ、映画のおもしろみのみ追求していけば、彼はビリーワイルダーにウイリアムワイラーを足し、2で割ったような監督になったはずです」

  「ビリーワイルダーより巧く、大作にはワイラーよりも足腰が強靱で絵が鋭く切れる。その監督がどんな映画を作るのか。。橋本さんにもわかるはずです。。。文字どおり掛け値なしの、世界の映画の王様に。。橋本さんはそうは思いませんか?」

字を書く職人であれ。伊丹万作はこのことを橋本忍に何度も述べたそうだ。
橋本忍は、シナリオライターとは職人である、芸術家であろうとおもうな、という戒めであると解釈した。

1946年9月21日肺結核で伊丹万作死す。橋本は伊丹の死を、新聞の死亡欄を読んで知った。

橋本が療養所で最初に書いたシナリオ『山の兵隊』を、伊丹万作に送ったのは療養所を無断退院して姫路でサラリーマンをしていた頃。1942年のこと。伊丹からは丁寧な返書が来た。橋本は京都に伊丹を尋ねて指導を受けた。シナリオは会社までの通勤電車で書いた。

伊丹万作法要の席で、伊丹の奥さんが伊丹万作の助監督を務めた佐伯清を紹介した。佐伯は黒澤明と知人であった。この縁で、橋本の書いたシナリオ『雌雄』に黒澤が目をつけた。が、このシナリオは短すぎる、と黒澤が言う。芥川の『羅生門』を追加することを伊丹が提案した。

http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-05-05


橋本 忍(はしもと しのぶ、1918年4月18日- )は、昭和期の脚本家、映画監督。男性。兵庫県神崎郡鶴居村(現・神崎郡市川町鶴井)に生まれる。

中学校卒業後、1938年応召したものの、粟粒性結核に罹り、療養生活に入る。シナリオに興味を持ち、伊丹万作のもとに作品を送り、指導を受ける。伊丹死去後、上京し、伊丹夫人より佐伯清監督を紹介される。

1949年、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書く。
伊丹死後、未亡人が伊丹の手元にあった橋本脚本を佐伯に渡し、黒澤明がそれを譲り受ける。黒澤は『藪の中』の脚色作品に注目、黒澤の助言により芥川の同じ短編小説『羅生門』も加えて完成。

この脚本を基に翌1950年黒澤が演出した映画『羅生門』が公開され、橋本忍は脚本家としてデビュー。同作品はヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞するなど高い評価を受けた。


◆映画『羅生門』のアイデアは突発的に・・・

「あんたの書いた、『雌雄』だけど、これ、ちょっと短いんだよな」

「じゃ、『羅生門』を入れたら、どうでしょう?」

「羅生門?」

「じゃ、これに『羅生門』を入れ、あんた、書き直してみてくれる?」

「ええ、そうします」

同じ不条理ではあっても、真相は分らないとするテーマから、人間とは得手勝手なものであるとするテーマへの移行が感じられ、映画全体を少し難解で分りにくいものにしている。

http://book-sakura.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/2006_4e39.html


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B しかし、黒澤の「羅生門」は何かがおかしい_この映画を欧米人しか評価しなかった理由2


芥川龍之介「藪の中」を読む 植島 啓司


01 男と女

 男と女のあいだで隠し事をしないというのはなかなかむずかしい。この世で起こるほとんどの事件が男女の問題と深くかかわっているわけだが、それは男女の関係のうち3割くらいに嘘が混じっているからではなかろうか。そこに「事件」が入り込む隙間が生じるのである。自分ではそうと意識しないで嘘をついていることもあるし、相手のためを思ってのこともあるだろう。しかし、皮肉なことに、この嘘がからんだところに恋愛のもっとも甘美な部分がひそんでいるのである。なにも正しいことだけが必要とはかぎらないし、それではかえって社会はうまく動かないかもしれない。あえて言い切るならば、恋愛というものも嘘がなければ成立しないのではないか。そうなってくると、実際のところ、いかに相手に誠実かということよりも、いかに相手に寛容でいられるかが、愛情のバロメーターになるのかもしれない。


02 謎

 山科の藪の中で、夫婦が盗人(多襄丸)に襲われ、縛られた夫の前で妻はレイプされる。そして、残るは夫の死骸のみ。殺されたのは金沢の武弘26歳、妻は真砂19歳、彼女は「男にも劣らぬぐらい勝気な女」で「まだ一度も武弘のほかには、男を持ったことがない」(媼の話)。妻・真砂を凌辱した盗人はそのまま逃げ去ろうとしたのだが、妻に「あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ。二人の男に恥を見せるのは死ぬよりつらい」と請われ、夫を殺害する(多襄丸の白状)。遺留品は「一筋の縄」と「櫛」のみ。殺された夫の死霊が巫女の口を借りて語るところによっても、彼女はやっぱり「あの人を殺して下さい」と言ったということになる(武弘の死霊の物語)。ところが、後に清水寺に現れて懺悔した妻によれば、「我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました」となり、何を叫んだのかは不明のままとなっている(真砂の懺悔)。いったいそこでは何が起こったのか。

 1922年1月『新潮』に発表された芥川龍之介の「藪の中」は、これまで多くの人々の関心を集めてきており、「真実は藪の中」という流行語にもなった。物語は、京都の山科近くの藪の中で見つかった男の死骸をめぐる7人の証言からなっている。最初の4人の証言は事件の当事者によるものではなく検非違使による取調べによって明らかにされたものである。それゆえ、いわゆる事件の当事者3人による陳述とは性格が異なっている。問題なのは、盗人・多襄丸、彼によって犯された妻・真砂、殺された真砂の夫・武弘(死霊の言葉を語る巫女)の陳述がそれぞれ矛盾していることである。それも無罪を主張するのではなく、それぞれ自分が男を殺した張本人(夫の場合は自殺)だというのだから、まったく奇妙はことではないか。いったい本当はだれが彼を殺したのか。だれが真実を語り、だれが嘘をついているのか。さらに、最後に「そっと胸の小刀を引き抜いた」のはいったいだれなのか。


03 主題と論争

 芥川龍之介の「藪の中」が『新潮』に発表されたのは1922年。これを読んだ多くの人々は、結局、「事件は迷宮入り」と思ったのだった。ところが、1970年6月に中村光夫「『藪の中』から」(『すばる』)が発表されるや、1970年10月に福田恆存「『藪の中』について」(『文學界』)が中村光夫説を批判し、さらに、1970年12月に大岡昇平「芥川龍之介を弁護する」(『中央公論』)が発表されて、論争は異常な高まりを見せたのだった。

 中村光夫は次のように述べている。

 ―「藪の中」では、妻、夫の「陳述」はそれぞれ前の「陳述」を否定する性格のものであり、結局、夫の死は他殺か自殺かという疑問に解決が与えられないし、他殺なら犯人は誰かもわからず仕舞いです。これでは活字の向うに人生が見えるような印象を読者に与えることはできないのではないでしょうか。ある事実に三つの面から異なった解釈をあたえるのは、それを人の三倍考えぬくことですが、ひとつの「事件」について事実が三つあるのは、考えの整理がつかぬということです。

 そして、彼は、「この作品のもっとも重要なテーマは、強制された性交によっても、女は相手の男に惹きつけられることがあるということ」だと論じている。果たして本当にそうだろうか。

 福田恆存はそれに対して以下のように反論を試みている。

 心理的事実もまた事実である。「藪の中」について言えば、多襄丸、女はそれぞれ自分が殺したと言い、男は自殺したと言っており、この三つの「陳述」は現実の事実としては矛盾しているが、もしそのいずれも現実の事実ではなく、三人が銘々そう思いこんでいる心理的事実に過ぎぬものだと解すれば、その矛盾はかえって主題を強調するものとして成り立つのではないか。

 すでに、吉田精一は「当事者達の事実に対する迫り方、受けとり方が各種多様で、めいめいの関心、解釈、感情によって、単純な一つの事実がいかに種々の違った面貌を呈するかを、従って人生の真相がいかに把握し得ぬものかを語ろうとしたのが、この作の主題と思われる」(『芥川龍之介』1942年)と述べており、福田恒存説はこれを踏襲しているともいえるだろう。

 それでいながら、福田恒存は次のように結論づけている。「どうしても「事実」というものが必要なら、それはこういう風に考えられないか。すでに書いたように多襄丸は女を犯した後、その残虐な興奮状態から、武弘を刺して逃げた。だが、武弘はそれだけでは死に切れなかった。そして互いに不信感を持った夫婦が後に残され、妻は心中を、夫は自殺を欲した。そういう両者が小刀を奪い合い絡み合ううちに、夫は多襄丸の負わせた深手によって死んだ」。つまり、多襄丸真犯人説である。

 しかし、これはどう考えても不自然ではなかろうか。高田瑞穂は「『藪の中』論」(『芥川龍之介論考』1976年)において、福田説に対して、まもなく息の絶えるほどの重傷を負った武弘にそんな余力などあるはずがないし、そもそも「妻は心中を」「夫は自殺を」欲したというが、なぜ夫が自殺しようとしたか動機が不明である、と疑問を投げかけている。彼の結論は、「藪の中」は危機に直面した人間の自己暴露を描いたものであるとして、最終的には武弘自殺説を取り上げている。
 それに対して、大岡昇平はなかなか慎重である。

 申すまでもないことだが、ここで問題になっている「事実」とは現実の事実ではなく、作品の中に述べられている事実である。さらに三人の人物が陳述している事実である。人物が一人称で述べるので、福田がいう心理的事実という性格を持ち、同時に人物の性格描写の役割を果たすものである。

 このことは実は意外に大きな意味を持っている。ただし、大岡昇平もそれほど歯切れがいいわけでもない。「『藪の中』には、多くのテーマが含まれている。芥川の意図は福田のいうように「真相はわからない」というような観念的なものではなく、当事者の陳述を並置して、その間の矛盾と一致によって、緊張と緩和の交替を作り出すことにあったと思われるのだが(それが奏功しなかった)」と書いている。それでいながら、結論としては、「死霊が口を利くのは現代の常識に反するが、死者は生者のように、現世に利害を持っていない。それは刑死を覚悟した犯罪者、懺悔する女よりも、真実を語っている、と見なしてよいのではないか。…三つの陳述の最後におかれているということによっても、信じられる資格があろう」と武弘自殺説を採用している。

 こうなってくると、何がなんだかよくわからなくなってくる。駒尺喜美も、「『藪の中』は探偵小説的な興味を持たせる作品ではあるが、しかし、もちろんそうではない。探偵小説は、言うまでもなく真相究明の面白味をねらったものだが、『藪の中』はその逆である。つまりその真相が絶対に解けぬところに面白さがある」(「芥川龍之介『藪の中』」1969年)と述べており、海老井英次『芥川龍之介論攷―自己覚醒から解体へ』(1988年)になると、「基本的には三つの陳述がそれぞれ〈真相〉を語っているのであり、したがって読者は、その中からそれぞれ自分で一番「美しく」語られていると思うものを選ぶ他ないのである」と(ある意味では)さじを投げている。

 ここでまとめてみると、結局のところ3つの見解があるということである。


01 だれか一人だけが真実を語っている。

02 だれにも心理的な真実がある。矛盾を矛盾として受けとめるのが人生だ。

03 みんなが嘘をついている。


 ここで注意したいのは、多襄丸の「白状」、真砂の「懺悔」、武弘の死霊の「物語」を、それぞれ同じ平面で捉えることはできないということである。多襄丸の「白状」は検非違使の前だが、真砂の「懺悔」は清水寺でのもので、いくら告白しても罪に問われることはないのである。さらに、武弘の死霊の「物語」となれば、それがどこで語られたにせよ、武弘自身によるものでも、死霊の手によるものでもなく、あくまでも巫女の口から出たものでしかないのである。


04 研究と解釈

 それに対して、大里恭三郎『芥川龍之介―『藪の中』を解く』(1990年)は、これを徹底的に推理小説として捉えて解読しようと試みたものである。芥川龍之介はあくまでも真犯人を特定して「藪の中」を書いているはずで、一つの真相に向けて焦点が合わさっていかなければ、それは明らかに作品の破綻を意味すると考えたのである。

 彼らの陳述が三者三様であるのは、彼らが真相を知らなかったからではなく、むしろ全く逆に、彼らは真相を知るゆえにこそ、自分にとって都合の悪い何事かを伏せ、事実を歪めた陳述をしていると考えるべきであろう。

「作品が非常に曖昧に見える」のは、言うまでもなく彼らが「わざと嘘をついている」からであって、この作品ははじめから、「事実の相対性」などを主題とはしていないのである。

 そういう意味では、はじめに登場する木樵り、旅法師、放免、媼による証言も、すべてを手放しで事実と認めるわけにもいかない。そうなると、最後に「そっと胸の小刀を抜いた」のはだれなのか、そして、

「その小刀はどこに行ってしまったのか」という疑問も、「目撃者である木樵りが持ち去った」という解釈だって可能になってくる。実際、黒澤明は映画『羅生門』においてそういう解釈を下している。

 なによりもまず物語のクライマックスをここで再現してみよう。いったいそれは各自によってどのように表現されているのか。

武弘の死霊の「物語」はそれを次のように語っている。

 「あの人を殺して下さい。」

―この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様におれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪わしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか?

 たしかに「武弘の死霊の怨念はここに激しく渦巻いている。この小説の異様な迫力、不気味なまでのリアリティは、ここを源泉として溢れ出ているものである」(大里)と言うとおり、巫女の口を通して噴出するこの武弘の死霊の独白こそ、この作品のクライマックスにふさわしいものといえよう。

では、女は本当に「あの人を殺して下さい」と言ったのだろうか。多襄丸の「白状」では次のようになっている。

 女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、―そうも喘ぎ喘ぎ云うのです。

 ここで、「二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらい」とは言うものの、実際には夫に見られるのがつらかったのであり、実質的には「あの人を殺して下さい」と言うに等しいように思われる。

「生き残った男につれ添いたい」と言われながら、もし夫が生き残ったとして、なんとも気まずいことにならないだろうか。

では、真砂の「懺悔」ではこの場面はどのように表現されているのか。
 口さえ一言も利けない夫は、その刹那の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかし、そこに閃いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、―ただ私を蔑んだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。

 このとき「あの人を殺して下さい」と叫んでいたとすれば、彼女が清水寺での懺悔において、その言葉を具体的に述べられなかったのも当然であろう。

真砂は、夫の冷たい視線に曝されて、「わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまった」と語っているが、おそらく真砂は夫のそばに駆け寄ろうとして、多襄丸によって蹴り倒されてしまったのであろう。それは、彼女にとって、多襄丸の度重なる乱暴な振る舞いに絶望すると同時に、夫の冷たい視線を感じ、もはや二度と夫のもとには戻れないことを感知するきっかけとなったのだった。動揺し、気を失う真砂。

 さらに、「死霊の言葉を語る巫女の陳述」を見てみよう。それは、あくまでも夫・武弘の死霊がみずから語ったことではなく、巫女の口寄せであり、彼女自身が語ったことだという点にも注意する必要があるだろう。巫女の語り口の中には、同性ゆえにか、真砂に対する憎悪と侮蔑の念が垣間見られるようである。

よく考えてみよう。たとえば、自分を凌辱した男の誘いの言葉に「うっとりと顔を擡げ」「では、どこへでも連れて行って下さい」「あの人を殺して下さい」なんて果たして言うものだろうか。それこそ夫・武弘の嫉妬がえがきだした妄想だったとしても、そこに巫女の感情がまったく含まれていないとは言えないだろう。「突然迸るごとき嘲笑」などのト書きをも参照されたい。

 たしかに武弘は妻に憎しみの目を向けたかもしれない。しかし、それは、真砂が多襄丸に犯されたからでもなければ、また、彼女が多襄丸の肉体に反応したからでもない。それは彼女が多襄丸に向かって「あの人を殺して下さい」と叫んだからである。

「夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たい蔑みの底に、憎しみの色を見せているのです」というように、「憎しみの色」が追加されたのも、彼女が「あの人を殺して下さい」と叫んだ後のことなのである。


05 嘘

 おそらく、これまで「藪の中」についてうまく語られてこなかったのは、「だれか一人だけが真実を語っている」と考え、それぞれの陳述をつき合わせて真実を明らかにしようとしたか、または、「だれにも銘々そう思いこんでいる心理的事実がある」として、それぞれの言い分を認めてしまったからではなかろうか。実際には、多襄丸も、真砂も、死んだ夫も、三人が三人ともに嘘をついていたのである。では、いったい彼らはなぜそんなことをしたのであろうか。
http://shinsho.shueisha.co.jp/column/aikake/080421/index.html


06 みんなが嘘をついている

 山科の藪の中で、夫婦が盗人(多襄丸)に襲われ、縛られた夫の前で妻はレイプされる。残るは夫の死骸のみ。後にそれぞれの陳述が明らかにされる。それも、多襄丸は検非違使の取調べの前で、妻は清水寺での懺悔というかたちで、そして、夫の場合は、殺された夫の死霊が巫女の口を借りて語るというやり方で、それぞれの言い分が明らかになっていく。

 ところが、各自の言い分はそれぞれまったく矛盾するどころか、普通ならば自分がやったことではありませんと弁解するところを、それぞれが夫の武弘の死は自分がやったものであると(殺された夫の場合は自害であると)自白しているのである。果たしてだれが本当のことを言っているのだろうか。そして、だれが嘘をついているのだろうか。前回は、まず、全体の見取り図のかわりに、次のような問題提示を行った。


01だれか一人だけが真実を語っている。

02だれにも心理的な真実がある。矛盾を矛盾として受けとめるのが人生だ。

03みんなが嘘をついている。

 
 そして、これまでうまく理解されてこなかったのは、「だれが本当のことを言っているのか」「だれが嘘をついているのか」という点にばかりとらわれて、肝心な点が抜け落ちてきたからではないかと思うのである。そう、この小説の中では「みんなが嘘をついている」という点がやや見過ごされてきたのではないかというのである。だれもが、自分が自分に嘘をつくことをも含めて、さまざまな虚偽の申告を行っているのである。


07 矛盾

 物語のポイントとなるのは、夫の前で多襄丸に犯された後で「突然、女がなにやら叫んだ」という一節に集約されるのではなかろうか。それについての証言をもう一度まとめてみよう。


(1)多襄丸の「白状」:すでに目的を達してその場を去ろうとしたまさにそのときに、真砂が「突然わたしの腕へ」「縋りつき」なにかしら叫んだ。実際は、とんでもない悪党で好色な男で、すべて自分に都合のいいように理解する男である。だが、縄を解いて戦いあったのは事実かもしれない。武弘を殺した後、女にはすっかり興味を失って、その場を去る。


(2)真砂の「懺悔」:真砂は手込めにされた後で、夫のそばに駆け寄ろうとして、盗人に蹴り倒される。そして、そのときに夫の自分を蔑(さげす)んで冷たく光る夫の眼に気づき、なにやら叫んだきり気を失ってしまった。彼女の意識はとぎれとぎれで現実感がまるでない。「夢うつつの内に」小刀で刺したというが、本当のところはどうなのか。意識が戻ると、「夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました」と言う。そして最後に縄を解いたというが、それもすべては妄想のなせるわざかもしれない。


(3)死霊の言葉を語る巫女:真砂が盗人の腕にすがりついて「あの人を殺して下さい」と言うのを聞いて、多襄丸が「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか?」と言ってきたので、もうそれだけで盗人の罪は赦してやりたいと思った。妻はおれがためらううちに、なにか一声叫ぶがはやいかたちまち藪の奥へ走り出した。これは最後への伏線となっているのかもしれない。

 では、その後、「真砂はどこへ行ったのか」。逃げたか、そこに昏倒していたのか、それとも、いったん逃げて、また戻ってきたのか。いや、おそらく彼女は最初から最後までその場にいた可能性大なのである。武弘の死霊が「誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか?」というが、この科白は、武弘の悲しみとともに付近の真砂の存在を暗示している。これは真砂が「わたしは泣き声を呑みながら、死骸の縄を解き捨てました」と語っている箇所とも重なっている。

 よく考えると、真砂の清水寺での懺悔はけっして罪に問われることのないものである。彼女は「(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐ないものは、大慈大悲の観世音菩薩も、お見放しなすったものかも知れません」というが、ここにも彼女のごまかしがあると高田瑞穂(「『藪の中』論」1976年)は指摘している。なぜ「お見放しなすったにちがいありません」と言わなかったのか。まさに夫が死んだのだからもはや自分が死ぬ必要はなくなったと言わんばかりではないか。彼女の生きることへの本能的執着を感得せざるを得ないというのである。

 そうはいっても、高田の結論はあくまでも自殺説である。彼は大岡昇平の次の語句を引用し、私見と重なると述べている。「ではなぜ、夫は自殺しました、といわなかったか。彼女の失心(女性の常用の武器)したと言明することによって自分の重大な言葉と、その結果について証言を回避し、逃走をかくしたことによって、夫の自殺をとめなかった事実を合理化する根拠を失っているからである。もっとも失心から醒めたら、夫は自殺していた、と合理化することができるが、そうしなかったのは、自分が夫の自殺の原因になったことについて、深い罪障感があり、自己処罰欲があったかたであろう」と。

 ここで、だれが縄を解いた(切った)かという問題が浮上してくる。いったいだれが武弘の縄を解いたのだろうか。おそらく多襄丸ではないだろう。刀で切ってしまえば、残留品は「一筋の縄」というわけにはいかなくなる。もちろん本人にはとてもムリだ。となれば、夫の縄を解いたのは真砂以外の何者でもないということになる。

 さらに、上野正彦(『「藪の中」の死体』2006年)は、法医学の立場から、多襄丸が男を刺したとは到底考えられないと述べている。「木樵りの話にあったように、創口に乾血が付着し、死骸の周りの落ち葉には血液が染み込んでいた。とすると、現場に血液が飛散したような著しい流血はなかったということでもある。さらに、受傷から死亡までの時間が短いようなので、刺創はおそらく心臓に達していたと思われる」「この場合、胸に刃物を刺しすぐに引き抜けば、心臓からの出血はものすごい勢いで体外に飛散し、現場は血だらけになるのが一般的である。しかし、刃物を刺したままに放置すれば、心臓からの出血はあっても、創口は刃物で塞がっているから胸腔内(体内)の出血にとどまり、からだの外に大きく飛び散るほどの出血はなくてよい」。ということであるから、刃物を胸に刺されたまま放置したと考えるべきで、凶器も大刀ではなく小刀であった可能性が高いことがわかると結論づけている。

 つまり、縄を解いたのは真砂、刺し傷は小刀によるものとなれば、結論的にいうと、多襄丸は、女の叫び(「あの人を殺して下さい」)を聞いて、恐れをなして逃げていったというのが本当のところではないかと思われる。彼はすでに性欲と物欲が満たされており、これ以上無益な殺生をする必要がなかったのである。しかも、多襄丸は真砂の要求には応じなかった。「となれば、真砂は自ら夫を刺殺するほかなかったであろう。夫に対する裏切りの意識は、逆に、自ら夫を殺すほかないところまで、彼女を追いつめていたのである」という大里恭三郎説(『芥川龍之介―『藪の中』を解く』1990年)を支持したくなる。多襄丸が去り、二人して残されたという状況下で自殺するというのはなかなか考えにくいのではなかろうか 。


08 女は諸悪の根源

 ここに、さらに事件の真相を知るための三つのデータがある。一つは物語の出典『今昔物語集』であり、一つは芥川自身の残したメモ(手帳)であり、一つは執筆当時の彼をめぐる交流関係である。

 まず、出典についてだが、この物語が『今昔物語集』巻第二十九第二十三話に依拠したものだということは、よく知られたことである。平安末期に集められたという『今昔物語集』(1120年代以降成立)の説話の記述は、あまり修辞に凝らず、事実をそのまま述べるような坦々としたもので、口語体も多く混じっており、読みやすい。この『今昔物語集』にも出典があって、『日本霊異記』、『三宝絵』、『本朝法華験記』などを典拠にしたものが多いのだが、ここではそれに言及するのは控えよう。なにより巻第二十九第二十三話がどういう話なのか簡単に要約してみたい。それは「妻を具して丹波の国に行く男、大江山において縛られたる語」と題されている。

 男が妻を馬に乗せて大江山にきたとき、大刀を持った男(盗人)と道づれになり、あなたの持っている弓矢とこの大刀を交換しないかと持ちかけられ、男はなかなか立派な大刀だったので喜んで交換してしまう。では、そろそろ昼食をということになり、人前では見苦しいので、ちょっと藪に入ったところでと誘われ、そこで、弓に矢をつがれて「ちょっとでも動いたら殺す」と居直られ、木に強く縛りつけられてしまう。そして、盗人はようやく女のもとに戻ると、あまりの魅力に心を奪われ、その場で裸にして(自分も裸になって)地面に押し倒して犯してしまう。その後、盗人は「そなたに免じて男は殺さずにおく」と言い残し、馬に乗って去る。女は男に近寄って縄をほどくが、男は茫然自失の様子。これではどうしようもない(情けない)と思いつつ、ともに丹波の国に向かったのだった。

 ここでは、男の情けなさばかりが強調されており、三者三様の交わりという側面は出てこない。芥川の興味は「目の前で自分の最愛の妻を犯された男の話」という域から、さらにそれぞれの心理状態の移り変わりへと向かうことになるのだが、それはどのように構想されることになったのか。

 その秘密を垣間見せるのが、芥川自身が残したメモである。そこには、「―心中。かけ落ちの途中、女rapeさる。男を殺す」と書かれている。芥川にとって「女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である」(『侏儒の言葉』)というようにも考えられており、その点からすると、どうも「藪の中」は殺された男の妻・真砂に厳しい内容ではないかと想像されるのである。

 さらに、この小説が書かれた背景に実際の三角関係が隠されているのではないかという推理も成り立つ。たしかに当時、芥川龍之介は、自分の友人でもあり門下生でもあった南部修太郎と秀しげ子との間の三角関係に悩んでいた。高宮檀は『芥川龍之介の愛した女性』(2006年)において、アナグラムまで持ち出して(KANASAWA NO BUKOU(TAKEHIRO)は「南部修太郎、若様」となるという)、多襄丸は芥川自身で、武弘が南部、真砂がしげ子に相当し、「藪の中」は彼ら三者の関係を描いたものだと述べている。高宮は、1922年8月7日付けの芥川から南部への手紙に、「僕のした事の動機は純粋ではない。が、悪戯気ばかりでした事ではない。純粋でない為にはあやまる」と書かれているのを見て、それは「藪の中」のことを指しているのではないかと推測している。どうもしげ子は(芥川にとって)なかなか一筋縄ではいかない女だったようである。

 そういうわけで、さらに、妻・真砂犯人説がもっとも説得力があるように思えてくるのだが、その当否はともかくとして、彼らの告白の背後に隠された真実とはいったいなんだろうか。なぜ彼らは三者三様に嘘をつかなければならなかったのか。その点について簡単にコメントしておきたい。


09 秘密

 彼らがどうしても隠しておかなければならなかった事柄とはいったいどういうことだったのか。大里説を援用させてもらいつつ、なぜ彼らがウソをつかなければならなかったのか、その心理状態をここで推測してみる。

 まず、武弘の死霊だが、おそらく、欲に目が眩んで盗人に一杯食わされ、縛られた上、眼前で妻を犯され、しかもその妻によって自分が刺し殺されたなどとは、侍としてあまり惨めで、語るにしのびなかったのではなかろうか。彼は自殺というフィクションを捏造することによって恥辱の底から這い上がろうと思ったのである。盗人に殺されたというのも恥だが、妻に殺されたとは口が裂けても言えなかったに違いない。

 多襄丸は、自分の好色を精一杯否定した上で、結婚の話まで持ち出し、真砂から依頼された決闘(それも縄を切って公明正大な戦いを挑んだと主張)という大義名分までつくりあげたのだが、自分が女の叫び(「あの人を殺して下さい」)を聞いて、恐れをなして逃げたという事実を隠蔽しようとしたのである。
すでに他の事件でも嫌疑をかけられており、ここでは「ケチな女好きの小悪党」というイメージを払拭するのに懸命だったのだ。そういうことなら、そちらの事件とは無関係と言い逃れしつつ、また、こちらの罪も軽くなるだろうし、おまけに面目も立つというものである。さらに、もうひとつの見方として、どうせ創口(傷跡)などを調べれば彼の仕業ではないことは一目瞭然と踏んでいたのかもしれない。さんざん検非違使や放免らをおちょくっているところをみると、そちらの可能性もまた否定できないだろう。

 真砂の懺悔は、なんとか多襄丸に自分の夫を殺すように依頼した自分の夫への背信行為を伏せ、重要な場面では失心していたと言い逃れしつつ、かつ、自殺幇助、心中未遂という言い訳をも用意して、ようやく夫の殺害を告白しているが、そこにはエゴイズムからくる自己正当化が隠されているように思われる。
夫が「冷たい蔑みの底に、憎しみの色」まで見せたのは、そして、事態が最悪の結末を迎えたのは、本当は自分の裏切りによるものだからである。おまけに、先ほど指摘したように、彼女の懺悔は清水寺でのもので一切罪に問われるものではないという点も見逃すことはできない。


 男と女がまともに付き合えば必ず破綻する。

もし二人だけでずっと密室に閉じ込められたとすると、いつか相手の存在に耐えられなくなってしまうのである。相手の身体の匂い(臭い)とか、口ぶり、受け答えのまずさ、乱雑な振舞い、思いやりのなさ、等々。相手のいやなところばかりが気になってくる。そうしたことはどんなに努力しても仕方がないことなのである。
それよりなんとか二人のあいだにある(根源的な)ひび割れ(「一緒にいればいるほど関係は綻びていく」)を隠し通さなければならない。ささいな不満がそこまでたどり着いてしまうともはや修復は不可能となる。もしかしたらそのギャップを埋めるのが嘘の働きなのかもしれない。

 嘘は、単に自己正当化のためのものではなく、もっと大きな社会的役割を持っているということである。人間同士のあいだにひそむひび割れ(ギャップ)をなんとか見えないようにするための無意識的な振舞いなのかもしれない。われわれは心の底ではだれにも真実を語ってほしいとは思っていないのではないか。わざわざ見えないものを暴き出す必要がどこにあろう。ぼくには「藪の中」の隠された主題はそのことをひそかに物語っているように思われるのである。
http://shinsho.shueisha.co.jp/column/aikake/080516/index.html


黒澤明の作品群の中で、ただ一つだけ、見終わった後にどうしても釈然としない作品がある。それが皮肉にも彼の名を一躍世界に知らしめるきっかけとなった映画「羅生門」(50)なのである。いかに黒澤作品といえども、最後まで犯人が分からないストーリー展開に、他の黒澤映画に慣れ切つた僕たちは、映像の美しさなどさしおいて、不遜にも軽いいらだちすら覚えてしまう。こんなことは彼の作品においては極めて稀なことなのだ。

 果たして彼はこの作品で何を表現したかったのだろうか?などと普段しなくてもよいはずの詮索をついしてみたくなる。黒澤の代表作といわれ、世界的にも評価の高い作品であるだけにもっと思う存分楽しみたいと思うのは僕だけではないだろう。そのためには、僕たちはどうしてもその原作に一度立ち返つてみる必要がありそうだ。

 ご存じのように、この映画の題名は芥川龍之介の短篇小説からとったものだが、実際に小説「羅生門」の中の描写があるのは冒頭の1シーンだけで、ストーリーそのものは同じ芥川の短編「薮の中」が原作となっている。

<時は戦乱と天災で荒れ果てた平安時代の乱世。一人の侍が森の中で胸を刺されて死んでいるのが発見される。この事件の犯人をめぐって、検非違使庁の庭において一種の法廷劇が展開される。木樵り、旅法師、放免の状況説明に続いて尋問されるのは悪名高き盗賊の多襄丸、死んだ男の妻、そして巫女の口を借りた男の死霊。この三人によって事件の経緯が次々と説明されるのだが、何故かこれらの供述が微妙な食い違いをみせる。果たして真犯人は誰だったのか。真相は最後まで明らかにされない。>

 この小説に関しては従来から何人もの人たちによって分析が試みられてきた。その結果、<薮の中>という常套句に代表されるように、「犯人を特定すること」がこの作品の主題なのではなく、「あえて作者がそれを明瞭にしないところ」にこの小説の真髄があるという考え方が、現在における定説になっている。
 黒澤の「羅生門」は、木樵りにも男を殺した可能性があるとした点を除いてほぼ忠実に原作を再現しているのだが、僕ら観客にとっては、そもそも三人の証人かいずれも"自分が犯人だと言い張つている点"がどうしても賦に落ちない。

 普通、証言台で嘘をつくのは罪を逃れるためなのに、このニ人はそうではない。

山賊はいとも簡単に男を殺したことを認め、
妻も無意識のうちにせよ夫を殺したと言い、
男自身も自分で命を絶つたと頑なに主張している。

めいめい自分の有罪を認めており、決して罪のなすりあいはしていない。最後に述懐する短刀を盗んだと思われる心樵りはともかく、他の三人は嘘をついても何の得もないように思われる。それなのに何故彼らは嘘をつくのか。
 学者らの説によれば、作者は「すべてのモラル、すべての真実に疑問を投げ付けることでアナーキーな自分の心情を吐露したかった」とか、あるいは、「最初から事件の真相などというのはさしたる重大事ではなく、告白の欺瞞性を通して現実社会の裏側を透視したかった」とかいった解釈が主流なのだが、しかし、それではあえて作者が三人に殺人を犯したと告白させている必然性がない。

 芥川といえば志賀直哉とともに、大正期における短篇作家の双璧であり、その作風は理知的で洗練巧緻を極めているにもかかわらず、きわめて大衆的であり、しかも分かりやすい風刺に富んでいる。そんな彼が、何故この作品だけことさら分かりにくくする必要があったのだろうか。なぜこの作品を同じ中世の「今昔物語」から題材をとった他の平易な作品(例えば「鼻」や「芋粥」など)と並列に論じてはいけないのか。

 この小説を難しくしているのは、かえって後世の「不条理劇」に影響された学者たちではないのか。芥川が言おうとしていたことは、実はもっと単純で、誰の心にも思い当たるような、人の心理の"あや"だったのではないのだろうか。

 真相は思いの外、単純なのかもしれない・・・・・。

 事件の鍵は、見知らぬ頑強な男に夫の前で「強姦」された女性(真砂)が何を考えるかということだ。 

第一に思いつくことは辱めを受けた我が身を恥じて自殺をはかるということ。次には自分を犯した男を殺害して復讐を遂げるということ。しかしこの小説の場合、彼ら二人は生きているわけだからいずれも当たっていないことになる。
残るはもう一つの可能性、さして愛してもいない夫であれば(中世の男尊社会では、女性の意に反する結婚は十分考えられることだ)唯一の目撃者である夫を殺し、その忌まわしい事実を抹殺するということである。

 彼女は最初、それを多嚢丸に頼んだ。彼女の心には「憎むべき多嚢丸を殺人犯にすれば、同時に彼をも死刑にできる」という考えが一瞬浮かんだかもしれない。 そこで彼女はそれまでとはうって変わった妖艶さを漂わせながら、多襄丸にささやく。「あの人を殺して下さい!あなたについていきます」。

 ところが彼は世間の噂とは大違い、実は口先だけ巧みな、女好きの盗人にすぎなかった。彼がおじけ付いて逃げだした後、彼女は自分の貞操と引き換えに、止むを得ず自らの手で木に縛り付けられている夫を殺害したのである。

 最初の目論みは見事に外れたものの、「人は行きずりの強盗殺人と思うはず・・・・・」。現場から逃れる道すがら、真砂は冷静にそう考えたに違いない。

 ところが清水寺で心を落ち着けている彼女のもとに、思いがけない情報が入る。多嚢丸が捕らえられたというのだ。
彼女はてっきり事の一部始終が彼の口から明らかにされたと思い、半ば観念して懺悔を始める。(原作では彼女の述懐は検非違便庁ではなく、あえて清水寺という別の場所が設定されている)
 しかし実はこの懺悔も真っ赤な嘘。彼女はとっさの機転で架空の心中劇をでっちあげ、多襄丸への殺人依頼のことは伏せた形で供述した。
「無理心中を拒んだうえでの殺人なら、よもや死刑にはならないだろう・・・・。」恐るべきしたたかな計算である。

 一方、多襄丸の方は別件の殺人で、もはや死刑はまぬがれない身、どうせならこの侍も雄々しい立ち回りの末に自分が殺したことにして、悪名高い極悪人のまま死してなお名を残そうと考えたのではないか。

 それでは死んだ侍はどうか。小説ではこの男の言葉は巫女の口を借りて最後に語られていて、いわば種明かし的な位置を占めている。したがって、ほとんど真相を語つているのだが、
この男も死してなお自分の名誉を重んじるあまりただ一点だけ嘘をついた。
「妻を犯された上、その妻に殺されるのではあまりにも男として情けない」。
そう思つた彼は武士の面目を守るために、妻の無礼をひとしきり非難した後、妻の犯行は明かさず、最後の瞬間だけは自分で自分の胸を刺したことにしたのである。

 この推理が正しいとすると、この小説の構図は自ずから明らかになってこよう。すなわち、死んでもなお名誉や名声にこだわろうとする男の"哀れさ"や"愚かさ"と、それ対比される女の"したたかさ"である。
芥川は「侏儒の言葉」の中で「女人はまさに人生そのものである。すなわち諸悪の根源である」と書いている。 彼は十才の暗に、実の母親を発狂の末亡くしているのだが、この事件が原体験として彼の心象に深く根ざしていることを思えば、最初の傑作といわれる「羅生門」の中にこのような彼の悲観的な女性観が反映していても不思議ではない。

(先頃出版された大里恭一郎氏の「芥川龍之介・『薮の中』を解く」によれば、芥川は大のミステリーファンだったという。彼はこの中で、芥川の作風や"小説"というものののもつ根源的な問題に触れながら、証言の事実はいく通りあっても真実は一つと断定し、「薮の中」を芥川会心の推理小説であると決め付けている。 実は氏の結論も、"真砂"真犯人説なのだが、古い文献や原作の一字一句をつぶさに検証しながらの詳細な分析は大変興味深い。)
 さて、以上の原作分析をふまえて、再び映画「羅生門」に戻つてみると、冒頭から極めて修辞的な演出が施されていることに気付かされる。タイトル画面に続き現われるのは、凄まじい雨に煙る羅生門の遠景。それが次のショットではやや近づいた形で映し出され、さらに次のショットでその細部があらわになる。この一瞬の三ショットの中に、後に展開される三人の証言の信憑性が何気なく暗示されてはいまいか。 さらに、

明らかに演技過剰な三船敏郎扮する多襄丸の勇ましい台詞が、どこか小心者の遠吠えのように聞こえてこないか。


 それまでの殺陣場面の常識を打ち破る、太刀を片手に持ちながら、猛獣のような叫び声をあげてのたうち回る多襄丸と侍の死闘の描写からは、どこかしら滑籍で哀れな男たちの本性が見えてこないか。 

そして顔を覆つた両手の指の間からその決闘を垣間見る真砂の表情から、恐怖以上のしたたかな"何か"が感じられないだろうか。

 映画化にあたって黒澤らがこの辺のことをどう考えていたのか分からないが、京マチ子扮する真砂に、女のもつ"したたかさ"を見ていたことだけは確かだろう。

 なぜ「羅乍門」が海外でも国内でもこんなに有名になったかときかれて、黒澤は「まぁー強姦の話だからねっー」とだけ答えたというエピソードは有名だが、これを彼一流のジョークとだけ笑い飛ばすわけにはいかない。芥川のこの短篇は強姦、殺人に伴う女作の"性"がテーマになっていることは確かで、これがよく言われる黒沢の悪女趣味にピッタリしたのではないか。

 そういえばマクベスに題材をとった「蜘蛛巣城」にしても、リア王を基調にした「乱」にしても典型的な悪女が登場する。「羅生門」の女性は確かに表面上は聖女か悪女か判然としてはいないか、原作を読んだ時、黒澤はここに登場する妻を"悪女"と断定するにいたり、その時点から映画化に興味を待つたのではなかろうか。
 この映画の終盤で語られる、原作にはない<木樵り>のエピソードは、事件をことさら複雑にするために新たに付け加えられたのではなく、黒澤がこの映画の中で"真砂"の人格をより強烈に描くために"是が非でも必要だったのだ。原作の中で、母親に「男にも劣らぬくらい勝ち気な娘」と言わせているこの女性のイメージ作りに、演技指導の点でも映像表現の面でも極端な情熱が注がれていることに注目したい。

http://www.asahi-net.or.jp/~ij9s-ucym/rasyoumon.html


この映画の終盤で語られる、原作にはない<木樵り>のエピソードが黒澤明の想定していた真相ですが完全な見当外れでした。

まあ,黒澤明が「藪の中」を理解できていたら,これを映画化するのは諦めていたでしょうね.

最初の三人の話からおかしい部分だけ取り除いて組み合わせたのが真相ですから,単純過ぎて映画のシナリオにならないですからね:


杣売(焚き木売り・・志村 喬)の証言 : 黒澤明の想定した”真相 ”

多襄丸は女の前に手をついて謝っていた(写真4)。「俺の妻になってくれ!
妻になると言ってくれ!」多襄丸はしつこく迫った。
やがて、女が言った。「無理です。女の私に何が言えましょう」
「そうか、男同士で決めろというのだな」多襄丸は武士の縄を解いた。

「待て!俺はこんな女のために命を賭けるのはごめんだ。」と武士は妻に言った。

「二人の男に恥じを見せ、何故自害しようとせん!・・・
こんな女は欲しけりゃくれてやる!」

多襄丸も急に嫌気が差し、立ち去ろうとした。「待って!」と女。

「来るな!」再び女の号泣。「泣くな!」と武士。

「まあ、そんなに未練がましくいじめるな。女は所詮このように他愛無いものなのだ。」と多襄丸。

泣いていた女の声がいきなり狂ったような嘲笑に変わった。

「ハハハハハハッ・・・他愛無いのはお前達だ!・・・夫だったら何故この男を殺さない!

賊を殺してこそ男じゃないか!・・・お前も男じゃない!多襄丸と聞いた時、
この立場を助けてくれるのは多襄丸しかないと思った。・・・お前達は小利口なだけだ。

・・・男は腰の太刀に賭けて女を自分のものにするものなんだ!」

まったく面目のつぶれた二人は、刀を抜いた。男達は口ほどにも無くだらしない。
お互いを怯え、剣を交えるやさっと逃げる体たらくである。

しかし、多襄丸がやっとの思いで武士を刺した時、女は悲鳴を上げて逃げ去った。 多襄丸にはもはや、女を追う気力は無かった。

http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/Rasyoumon.htm


E 黒澤明には全くわからなかった日本女性の恐ろしさとは_「羅生門」を欧米人しか評価しなかった理由3


黒澤明ってアホ?

この映画の終盤で語られる、原作にはない<木樵り>のエピソードは西部劇で良く出てくる奴だね。

黒澤明って西部劇ばかり見ていて日本人の考え方がわからなくなったんだ.
これは絶対に日本の女の発想ではあり得ない :

「ハハハハハハッ・・・他愛無いのはお前達だ!・・・夫だったら何故この男を殺さない!

賊を殺してこそ男じゃないか!・・・お前も男じゃない!多襄丸と聞いた時、
この立場を助けてくれるのは多襄丸しかないと思った。・・・お前達は小利口なだけだ。

・・・男は腰の太刀に賭けて女を自分のものにするものなんだ!」


黒澤明の「羅生門」での真砂の強さというのはあくまで欧米女性の持つ意志的な強さであって日本女性が無意識に持っている母性的な強さとは全く次元が違うもの。
欧米女性の強さとは男性と全く同じ自我意識の強さであって、グレートマザーの強さとは本質的に違うんですね。


______________


これが日本女性の強さ:


今昔物語集巻二十九第二十三「具妻行丹波国男於大江山被縛」より

妻と伴い丹波の国へ行く男が大江山で縛られる話


若い男は、太刀と短刀を取り上げ、男を押さえつけ、馬の手綱で木にきつく
縛り付けた。そして、女に近寄って見ると、二十歳過ぎで、身分は賤しいけれど
魅力がありたいそう美しかった。

男は、女に心を奪われ、ほかに何も考えられなくなったので、女の衣を
脱がそうとすると、女は拒むことができそうにないと思い、言われるがままに衣を脱いだ。
そして、男も着物を脱ぎ、女を押し倒して交わった。

女はしかたがなく、若い男に言われるがままに男が縛り付けられている様子を見たが、その時見られた男はどのような気になったのだろうか。

その後、若い男は起きあがり、もとのように服を着て、箙を背負い、
太刀を帯び、弓を手に持ち、馬に乗り、女に言った。

名残惜しく思うけれども、どうしもようもないから、このまま行くことにする、
あなたに免じてその男は殺さずにおいておくが、急ぎ逃げるために馬はいただいていくぞ、 と言って、一散に馬を走らせ、いずこともなく去っていった。

その後、女は男の縄を解いてやると、男は呆然としていたので、女は、
あなたはほんとうに頼りない、これからもこのように頼りないようでは、
いいことがありっこないですよ、

と言うと、夫は黙ったままだったが、そこから二人は連れだって丹波まで行った。

http://www.lares.dti.ne.jp/~ttakagi/diary/translation/konzyaku29_23.htm


それから、最後に「そっと胸の小刀を抜いた」のは誰なのか?


黒澤明は 「目撃者である木樵りが持ち去った」 という解釈を下している。
しかし、武士の遺体の発見者が死体から金目の物を盗む訳ないだろ.(呆れ)

後で追及されるに決まってるからね.

そもそも、元話では木樵りは単に事件の説明をするだけの脇役で、話の本筋に関わる様な重要な役ではない.

武士を殺したのも胸の短刀を引き抜いたのも真砂(武士の妻・・京マチ子)の仕業に決ってるよ.

胸の短刀をそのままにしておいたら,盗賊に夫が殺されたという言い訳が嘘だとバレテしまうから短刀をどこかに隠したのさ.


黒澤明は唯の西部劇オタクの映像マニアで、人間の事が全くわからないんだ。
人間がわからないから,話の筋だけを追いかける事になる.

そして,話の筋は変わっても,中身は黒澤明が何時も見ていた西部劇と何も変わらない.

要するに、黒澤明は最初から最後まで西部劇の翻案をやっていただけさ.:


黒澤明の「隠し砦の三悪人」、このタイトルと内容が個人的に一致していないと思っています。

隠し砦からすぐに出ていくし、悪人が3人出ているわけでもない。

この謎は黒澤明が西部劇が好きだったことで氷解する。「隠し砦」「三悪人」
というのは西部劇で出てくる言葉です。三船敏郎のデビュー作「銀嶺の果て」
の脚本は黒澤明ですが、原題は「山小屋の三悪人」だったそうで、
(悪人は3人出てくるがすぐに2人になった)いかに、「三悪人」という言葉が好きだったか。

「用心棒」も西部劇の匂いがする。居酒屋のテーブル席は江戸時代には存在しない。卓袱台も江戸時代では使わない方が良いみたいです。居酒屋でも膳であったらしい。 江戸時代の絵でもテーブルはない。それはさておき、

「用心棒」も「七人の侍」も西部劇になった。西部劇と時代劇の相性は良いのでしょうか。

同じ時代ものというだけではないのです。実は明治政府ができた折に前時代の江戸的なものを禁止した。 歌舞伎や落語まで江戸時代とは異なるものを強要した。
「剣術」が「剣道」になったのもこの頃の様です。時代劇映画が作られる頃には明治生まれの人々だけで江戸の実情を知る者がいない、語り継がれることが禁止されていて、考証がおぼつかない時期に始まった様です。

「鞍馬天狗」が「怪傑ゾロ」を下敷きにしたように、製作者たちはチャンバラ映画の基礎を西洋の活劇に頼った。だからというわけではないのでしょうが、時代劇は西部劇に変化しやすかったのではないでしょうか。黒澤明は西部劇と時代劇の類似性を感じ取っていたのでしょう。

http://gimpo.2ch.net/rmovie/subback.html


昨夜、NHK−BS2で放送されたジョン・フォードの名作「荒野の決闘」。


この映画は僕にとって特別な映画だ。まず第一の理由は、作られたのが、僕が生まれた年、1946年であること。そしてもう一つは西部劇にとどまらず、映画というものの見方を開眼させてくれた一本であること、この二つだ。

初めて観たのがたしか1961年、最初のリバイバル上映だった。 ブループリントという妙な映像ではあったが、何回かリピートして観にいったことを憶えている。

実はこの作品が、黒澤明監督が最も好きな西部劇であったことを数年前まで知らなかった。 調べてみたら、たしかに「黒澤明が選ぶ世界の名画100本」などにロバート・D・ウェッブの「誇り高き男」とともに入っている。 100本のうち、西部劇はこの2本だけだ。

あれほどジョン・フォードをお手本にしたと公言して憚らなかった黒澤監督が選んだフォードの西部劇がなぜ、一本だけなのだろう。 もっと言えば、なぜ「駅馬車」や「捜索者」じゃないのだろう。もちろん、100本を選んだ企画の趣旨もあったとは思うが、「七人の侍」のような大活劇を選んでいないことは僕にとってずっと謎だった。しかし、昨夜の放送でその謎を解く手がかりみたいなものがつかめた。

それは放送後のシネマ・レビューで、山本監督がいみじくも言われたことだ。
山本監督は

「『シェーン』が成瀬巳喜男的な西部劇なら、『荒野の決闘』は溝口健二的西部劇である」と。

つまり、黒澤監督の選んだ100本には、「自分には描けないもの」に対する憧憬の念が大きく影響していないだろうか。 その象徴的な一本が「荒野の決闘」だったのではないかと。ちなみに100本の中に入った自らの作品は「赤ひげ」だけであることは興味深い。

http://blog.goo.ne.jp/np4626/e/1793ce4fad62d9146b5299511483c3c9


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さらに言うと、黒澤明だけでなく芥川龍之介自体が日本人の心性を理解できていなかったのかもしれませんね:


『今昔物語集』巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛らるること)」の説話が題材となっている。


ここでは、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたあげく、藪の中で木に縛られ妻が手込めにされる様子をただ見ていただけの情けない男の話で、語り部は妻の気丈さと若い盗人の男気を褒め称えて、話を締め括っている。

この情けない男を殺し、殺人事件に仕立てたのが芥川龍之介『藪の中』


藪の中 芥川龍之介

     検非違使(けびいし)に問われたる木樵(きこ)りの物語

 さようでございます。あの死骸(しがい)を見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今朝(けさ)いつもの通り、裏山の杉を伐(き)りに参りました。すると山陰(やまかげ)の藪(やぶ)の中に、あの死骸があったのでございます。あった処でございますか? それは山科(やましな)の駅路からは、四五町ほど隔たって居りましょう。竹の中に痩(や)せ杉の交(まじ)った、人気(ひとけ)のない所でございます。

 死骸は縹(はなだ)の水干(すいかん)に、都風(みやこふう)のさび烏帽子をかぶったまま、仰向(あおむ)けに倒れて居りました。何しろ一刀(ひとかたな)とは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳(すほう)に滲(し)みたようでございます。いえ、血はもう流れては居りません。傷口も乾(かわ)いて居ったようでございます。おまけにそこには、馬蠅(うまばえ)が一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。

 太刀(たち)か何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄(なわ)が一筋落ちて居りました。それから、――そうそう、縄のほかにも櫛(くし)が一つございました。死骸のまわりにあったものは、この二つぎりでございます。が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。何、馬はいなかったか? あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。何しろ馬の通(かよ)う路とは、藪一つ隔たって居りますから。


     検非違使に問われたる旅法師(たびほうし)の物語

 あの死骸の男には、確かに昨日(きのう)遇(あ)って居ります。昨日の、――さあ、午頃(ひるごろ)でございましょう。場所は関山(せきやま)から山科(やましな)へ、参ろうと云う途中でございます。あの男は馬に乗った女と一しょに、関山の方へ歩いて参りました。女は牟子(むし)を垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。見えたのはただ萩重(はぎがさ)ねらしい、衣(きぬ)の色ばかりでございます。馬は月毛(つきげ)の、――確か法師髪(ほうしがみ)の馬のようでございました。丈(たけ)でございますか? 丈は四寸(よき)もございましたか? ――何しろ沙門(しゃもん)の事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、――いえ、太刀(たち)も帯びて居(お)れば、弓矢も携(たずさ)えて居りました。殊に黒い塗(ぬ)り箙(えびら)へ、二十あまり征矢(そや)をさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。

 あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真(まこと)に人間の命なぞは、如露亦如電(にょろやくにょでん)に違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。


     検非違使に問われたる放免(ほうめん)の物語

 わたしが搦(から)め取った男でございますか? これは確かに多襄丸(たじょうまる)と云う、名高い盗人(ぬすびと)でございます。もっともわたしが搦(から)め取った時には、馬から落ちたのでございましょう、粟田口(あわだぐち)の石橋(いしばし)の上に、うんうん呻(うな)って居りました。時刻でございますか? 時刻は昨夜(さくや)の初更(しょこう)頃でございます。いつぞやわたしが捉(とら)え損じた時にも、やはりこの紺(こん)の水干(すいかん)に、打出(うちだ)しの太刀(たち)を佩(は)いて居りました。ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携(たずさ)えて居ります。さようでございますか? あの死骸の男が持っていたのも、――では人殺しを働いたのは、この多襄丸に違いございません。革(かわ)を巻いた弓、黒塗りの箙(えびら)、鷹(たか)の羽の征矢(そや)が十七本、――これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。はい。馬もおっしゃる通り、法師髪(ほうしがみ)の月毛(つきげ)でございます。その畜生(ちくしょう)に落されるとは、何かの因縁(いんねん)に違いございません。それは石橋の少し先に、長い端綱(はづな)を引いたまま、路ばたの青芒(あおすすき)を食って居りました。

 この多襄丸(たじょうまる)と云うやつは、洛中(らくちゅう)に徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。昨年の秋鳥部寺(とりべでら)の賓頭盧(びんずる)の後(うしろ)の山に、物詣(ものもう)でに来たらしい女房が一人、女(め)の童(わらわ)と一しょに殺されていたのは、こいつの仕業(しわざ)だとか申して居りました。その月毛に乗っていた女も、こいつがあの男を殺したとなれば、どこへどうしたかわかりません。差出(さしで)がましゅうございますが、それも御詮議(ごせんぎ)下さいまし。


     検非違使に問われたる媼(おうな)の物語

 はい、あの死骸は手前の娘が、片附(かたづ)いた男でございます。が、都のものではございません。若狭(わかさ)の国府(こくふ)の侍でございます。名は金沢(かなざわ)の武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気立(きだて)でございますから、遺恨(いこん)なぞ受ける筈はございません。

 娘でございますか? 娘の名は真砂(まさご)、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。顔は色の浅黒い、左の眼尻(めじり)に黒子(ほくろ)のある、小さい瓜実顔(うりざねがお)でございます。

 武弘は昨日(きのう)娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、壻(むこ)の事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。どうかこの姥(うば)が一生のお願いでございますから、たとい草木(くさき)を分けましても、娘の行方(ゆくえ)をお尋ね下さいまし。何に致せ憎いのは、その多襄丸(たじょうまる)とか何とか申す、盗人(ぬすびと)のやつでございます。壻ばかりか、娘までも………(跡は泣き入りて言葉なし)
       ×          ×          ×


     多襄丸(たじょうまる)の白状

 あの男を殺したのはわたしです。しかし女は殺しはしません。

ではどこへ行ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくら拷問(ごうもん)にかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯(ひきょう)な隠し立てはしないつもりです。
 わたしは昨日(きのう)の午(ひる)少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍子(ひょうし)に、牟子(むし)の垂絹(たれぎぬ)が上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。ちらりと、――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩(にょぼさつ)のように見えたのです。わたしはその咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。

 何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女を奪(うば)うとなれば、必ず、男は殺されるのです。ただわたしは殺す時に、腰の太刀(たち)を使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派(りっぱ)に生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)

 しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。が、あの山科(やましな)の駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫(くふう)をしました。

 これも造作(ぞうさ)はありません。わたしはあの夫婦と途(みち)づれになると、向うの山には古塚(ふるづか)がある、この古塚を発(あば)いて見たら、鏡や太刀(たち)が沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪(やぶ)の中へ、そう云う物を埋(うず)めてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、――と云う話をしたのです。男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、――どうです。欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半時(はんとき)もたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路(やまみち)へ馬を向けていたのです。

 わたしは藪(やぶ)の前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇(かわ)いていますから、異存(いぞん)のある筈はありません。が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺(つぼ)にはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。

 藪はしばらくの間(あいだ)は竹ばかりです。が、半町(はんちょう)ほど行った処に、やや開いた杉むらがある、――わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合(つごう)の好(い)い場所はありません。わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩(や)せ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。その内に竹が疎(まば)らになると、何本も杉が並んでいる、――わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。男も太刀を佩(は)いているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括(くく)りつけられてしまいました。縄(なわ)ですか? 縄は盗人(ぬすびと)の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張(ほおば)らせれば、ほかに面倒はありません。

 わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも図星(ずぼし)に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女は市女笠(いちめがさ)を脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛(しば)られている、――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐(ふところ)から出していたか、きらりと小刀(さすが)を引き抜きました。

わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈(はげ)しい女は、一人も見た事がありません。もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹(ひばら)を突かれたでしょう。いや、それは身を躱(かわ)したところが、無二無三(むにむざん)に斬り立てられる内には、どんな怪我(けが)も仕兼ねなかったのです。が、わたしも多襄丸(たじょうまる)ですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀(さすが)を打ち落しました。いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。

 男の命は取らずとも、――そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女を後(あと)に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋(すが)りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥(はじ)を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘(あえ)ぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)

 こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷(ざんこく)な人間に見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊にその一瞬間の、燃えるような瞳(ひとみ)を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴(かみなり)に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。妻にしたい、――わたしの念頭(ねんとう)にあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑(いや)しい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒(けたお)しても、きっと逃げてしまったでしょう。男もそうすればわたしの太刀(たち)に、血を塗る事にはならなかったのです。が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那(せつな)、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。

 しかし男を殺すにしても、卑怯(ひきょう)な殺し方はしたくありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)男は血相(けっそう)を変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利(き)かずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。――その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。わたしの太刀は二十三合目(ごうめ)に、相手の胸を貫きました。二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)

 わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか? わたしは女がどちらへ逃げたか、杉むらの間を探して見ました。が、竹の落葉の上には、それらしい跡(あと)も残っていません。また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉(のど)に、断末魔(だんまつま)の音がするだけです。

 事によるとあの女は、わたしが太刀打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。――わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐにまたもとの山路(やまみち)へ出ました。そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。その後(ご)の事は申し上げるだけ、無用の口数(くちかず)に過ぎますまい。ただ、都(みやこ)へはいる前に、太刀だけはもう手放していました。――わたしの白状はこれだけです。どうせ一度は樗(おうち)の梢(こずえ)に、懸ける首と思っていますから、どうか極刑(ごっけい)に遇わせて下さい。(昂然(こうぜん)たる態度)


     清水寺に来れる女の懺悔(ざんげ)

 ――その紺(こん)の水干(すいかん)を着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲(あざけ)るように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶(みもだ)えをしても、体中(からだじゅう)にかかった縄目(なわめ)は、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転(ころ)ぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に、わたしをそこへ蹴倒しました。ちょうどその途端(とたん)です。わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚(さと)りました。

何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震(みぶる)いが出ずにはいられません。口さえ一言(いちごん)も利(き)けない夫は、その刹那(せつな)の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃(ひらめ)いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを蔑(さげす)んだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。

 その内にやっと気がついて見ると、あの紺(こん)の水干(すいかん)の男は、もうどこかへ行っていました。跡にはただ杉の根がたに、夫が縛(しば)られているだけです。わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たい蔑(さげす)みの底に、憎しみの色を見せているのです。恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中(うち)は、何と云えば好(よ)いかわかりません。わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。

「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥(はじ)を御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」

 わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。それでも夫は忌(いま)わしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしは裂(さ)けそうな胸を抑えながら、夫の太刀(たち)を探しました。が、あの盗人(ぬすびと)に奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には見当りません。しかし幸い小刀(さすが)だけは、わたしの足もとに落ちているのです。わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。

「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」

 夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇(くちびる)を動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。

夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」と一言(ひとこと)云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹(はなだ)の水干の胸へ、ずぶりと小刀(さすが)を刺し通しました。

 わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交(まじ)った杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。わたしは泣き声を呑みながら、死骸(しがい)の縄を解き捨てました。そうして、――そうしてわたしがどうなったか? それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。小刀(さすが)を喉(のど)に突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢(じまん)にはなりますまい。(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐(ふがい)ないものは、大慈大悲の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)も、お見放しなすったものかも知れません。しかし夫を殺したわたしは、盗人(ぬすびと)の手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば好(よ)いのでしょう? 一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しき歔欷(すすりなき))


     巫女(みこ)の口を借りたる死霊の物語

 ――盗人(ぬすびと)は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利(き)けない。体も杉の根に縛(しば)られている。が、おれはその間(あいだ)に、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真(ま)に受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然(しょうぜん)と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬(ねたま)しさに身悶(みもだ)えをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆(だいたん)にも、そう云う話さえ持ち出した。

 盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡(もた)げた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有(ちゅうう)に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚(しんい)に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)

 妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇(やみ)の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色(がんしよく)を失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。「あの人を殺して下さい。」――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様(さかさま)におれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪(のろ)わしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか? 一度でもこのくらい、――(突然迸(ほとばし)るごとき嘲笑(ちょうしょう))その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。「あの人を殺して下さい。」――妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋(すが)っている。盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒(けたお)された、(再(ふたた)び迸るごとき嘲笑)盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷(うなず)けば好(よ)い。殺すか?」――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦(ゆる)してやりたい。(再び、長き沈黙)

 妻はおれがためらう内に、何か一声(ひとこえ)叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。盗人も咄嗟(とっさ)に飛びかかったが、これは袖(そで)さえ捉(とら)えなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。

 盗人は妻が逃げ去った後(のち)、太刀(たち)や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄(なわ)を切った。「今度はおれの身の上だ。」――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟(つぶや)いたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度(みたび)、長き沈黙)

 おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小刀(さすが)が一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺(さ)した。何か腥(なまぐさ)い塊(かたまり)がおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山陰(やまかげ)の藪の空には、小鳥一羽囀(さえず)りに来ない。ただ杉や竹の杪(うら)に、寂しい日影が漂(ただよ)っている。日影が、――それも次第に薄れて来る。――もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。

 その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇(うすやみ)が立ちこめている。誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀(さすが)を抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢(あふ)れて来る。おれはそれぎり永久に、中有(ちゅうう)の闇へ沈んでしまった。………
(大正十年十二月)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/179_15255.html




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芥川龍之介は石打ち刑の事が念頭に有って、真砂に夫を殺させたのでしょうね:

狂った宗教_ キリスト教、ユダヤ教、イスラム教


生きたまま火をつけられて殺される。生き残った女性の小説があります。

イスラム教は女性を差別している宗教です。女性を守っているとか何とか理由をつけて美化しようとしますが、冗談ではありません。自分たちの地位を脅かされないように法律と言う形で宗教を成立させている信じられないほど人道的ではない宗教です。

女性は男性を乱す悪魔と同等の扱い。だからレイプと言う犯罪すら悪魔に惑わされた結果だから悪魔を成敗するという意味で被害者であるはずの女性が加害者に仕立てられるのです。


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イランで女性7人に石打ち刑の判決


貧困のため夫に売春を強要され、姦通罪で石打ちによる死刑判決を受けている女性など7人のうちほぼ全員が、姦通罪での石打ちによる死刑判決である。

シャリア法に従い、囚人は胸まで埋められ、手の自由も奪われる。 さらには即死せずに苦しんで死ぬよう投げる石の大きさまで定められている。

石打ちによる死刑は男女ともに対象であるが、石打ち刑の適用は女性が圧倒的に多い。 自分が強姦されたと4人以上の証言によって証明できない限り、その女性は姦通罪に問われることになる。

石打刑の映像
http://d.hatena.ne.jp/free_jamal/20090129/p1


51才の男性にレイプされた16才の少女が死刑


事件が起きたのは今から2年前のイラン。2004年8月15日、Atefah Sahaalehという16才の少女がイランの公共広場で絞首刑に処されました。

イスラムの法律である「シャリーア」によると、死刑に相当する罪は大きく3種類。殺人、麻薬密輸入、そして婚外交渉、だそうで。

少女が死刑にされた理由は「姦通」の罪と言うことですが、もちろん結婚なんてしていないわけで。 このことは出生証明書と死亡証明書の双方が揃っていることから証明されており、これがきっかけで調査が行われたそうです。

彼女は13才の頃にパーティに出席した際、自動車の中で少年と2人きりでいたという理由で「道徳警察」によって「純潔に関する犯罪」で逮捕され、刑務所で短期間ではあるが放り込まれ、むち打ち100回の刑を受けたそうです。

また、刑務所からの釈放後、彼女の年の3倍と同じくらいの年齢の男性から暴行を受けていたそうで。
それが、Ali Darabiという既婚で子どもがいる51才の男性。この男から数回にわたってレイプされていた、とのこと。 彼女はこの事実を警察や家族にも言わず、結果として再び道徳警察によって逮捕されたそうです。

さらに追い打ちをかけるようにしてとんでもないことに、彼女が不道徳の原因であり、地域の同年代の少女に対して悪影響を与えている、という申し立ても地元民によって行われたそうです。 逮捕されてから3日後、彼女は裁判にかけられ、この段階にいたってついにレイプされた事実を告白したのですが、年齢を考えると、レイプされたことが証明できなければ彼女の罪となり、そしてレイプされた事実を証明することがイランの法廷では極めて難しく、さらに男性の証言の方が女性の証言よりも重視されるため、絶望的状況となりました。

彼女は自分の主張が全く受け入れらないため、裁判官に叫んで訴え、挙げ句の果てにベールを脱ぎ捨てたそうです。その行為が致命的な打撃となり、彼女には死刑が宣告されました。翌朝の午前6時、絞首刑となりました。

彼女の死刑は家族には通知されず、裁判所の記録によると彼女の年齢は「22才」ということで処理されたそうです。一応イランもいろいろな国際法に批准しており、18才以下の場合にはイスラム法を適用しないとなっているのですが、それを無視するために「22才だ」ということにしたようです。
22才という年齢は裁判官が彼女の体を見て決めたそうです。

ちなみにレイプした男性の方は95回のむち打ち刑で済みました。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20060728_execution_teenage_girl/


詳細は


独占インタビュー 元弟子が語るイエス教団「治療」の実態!!
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html

狂った宗教 イスラム教 _ 頭がおかしいのは中国人と朝鮮人だけではない
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/332.html

ムスリムは悪い
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/106.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/321.html#c12

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
162. 中川隆[-10914] koaQ7Jey 2019年4月05日 16:15:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1114]

ゴーン前会長、送金隠しの偽装工作か 複数の口座を経由
4/5(金) 13:00配信 朝日新聞デジタル



 日産自動車の前会長カルロス・ゴーン容疑者(65)がオマーンの販売代理店に不正に支出させた日産資金を私的に流用したとされる会社法違反(特別背任)事件で、販売代理店からレバノンの投資会社「GFI」に送金する際、複数の口座を経由させていたことが関係者への取材でわかった。東京地検特捜部はこの投資会社を前会長が実質的に保有していたとみており、資金の還流を隠すための偽装工作だったとみている。

 関係者によると、還流した資金の一部は、GFIからゴーン前会長の息子が起業した米国の会社に流れていたとみられる。特捜部は、米国司法当局に捜査共助を要請し、検事を派遣。米当局を通じて息子の会社の口座を解析するなどし、資金の流れを調べるとみられる。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c162

[リバイバル3] 北海道の最低市町村ランキング 中川隆
198. 中川隆[-10913] koaQ7Jey 2019年4月05日 16:44:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1115]

【ch北海道】北海道が日本で無くなる日〜中国の土地爆買いとアイヌ新法の罠[H31-3-22] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=NC6rdT4WmW0


2019/03/22 に公開

北海道 心はひとつ 私の心 みんなの心  
チャンネル北海道は、正直で元気な北海道情報をまるごとお送りしています!

講師:小野寺まさる(前北海道議会議員)

「正論を聞く集い」
北海道が日本で無くなる日〜中国の土地爆買いとアイヌ新法の罠

平成31年3月18日 サンケイプラザ(東京都千代田区大手町)

1 北海道における中国資本による買収
2 アイヌ政策と日本分断活動の歴史
3 アイヌと中国共産党の繋がり
4 アイヌ新法の危険性
◇質疑応答

◆チャンネル北海道公式HP
http://ch-hokkaido.jp/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/588.html#c198

[昼休み53] 阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい 中川隆
25. 中川隆[-10912] koaQ7Jey 2019年4月05日 16:52:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1116]

【誰だってマイノリティー】注意で「攻撃対象」に……電車での独り言、障害のある人が望む対応とは? 4/5(金) 14:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190404-00000002-withnews-soci

電車で出会う、「独り言」を話す人たち。一体、どんな理由でつぶやいているのでしょうか?「ちょっと怖い」と思ったことのある人、一緒に考えてみませんか?=(c)Takami Kizu


【誰だってマイノリティー】

 電車に乗ると、時折ひとりで話している人を見かけます。「ブツブツと何かつぶやいていて、驚いた」という経験談は少なくありません。実は障害が原因で、やむにやまれず口にしている場合があるんです。ただ、声のかけ方によっては、衝突してしまう可能性も……。障害のある人に聞いた「独り言」を口にする理由とは? 先入観なく向き合うため、どんなことができるのか、調べてみました。(withnews編集部・神戸郁人)

【漫画】「ブス!」馬鹿にするのは誰だ…って幻聴!? 統合失調症の女性、「独り言」体験を赤裸々に漫画化
.

怖くて距離を取ったことも

 実は筆者も電車で移動中、誰もいない場所で話す人に出会ったことがありました。わずかな恐怖心を抱きつつ、距離を取ってしまったことも、少なくありません。

 でも当事者の皆さんにとっては、きっと何か意義が存在するはず。そう考え、今回の記事を書きたいと思い立ちました。

 この記事では、独り言との関わりが深いとされている、二つの障害にフォーカス。背景事情を深掘りしました。

 まずは最初のケースです。分かりやすくするため、架空の物語から始めましょう。
.

ケース1・誰もいない方向に謝る彼女

 ある朝の通勤時、いつものように電車に揺られているあなた。ターミナル駅でたくさん人が降り、目の前の席が空きました。

 「どれ、座って一息つこうか……」。腰をかけ、スマートフォンでお気に入りの漫画を読み始めようとした時のことです。

 「スミマセン……スミマセン……わたしだって……」。隣り合った女性が、何やら謝り始めました。話し掛けている方向を確認してみても、誰もいません。

 状況が飲み込めないあなた。その場をやり過ごそうと、再びスマホ画面に目を落とし、時が過ぎるのを待つことにしたのでした……。
.

無いはずのものを見聞きしていた

 これ、もしかしたら「似たような体験をした」という人もいるのではないでしょうか?

 乗客の女性は、どうして謝っていたのでしょう。実は、「統合失調症」という障害の当事者であると考えられます。

 専門家に、少しかみ砕いてもらいしょう。精神科医の阿部大樹先生に聞きました。


◆統合失調症とは?

 統合失調症とは、考えや行動がうまくまとまらなくなる状態のことです。およそ二十歳前後に現れることが多く、およそ100人に1人が当事者です。


 特徴の一つが、幻聴などの「陽性症状」と呼ばれる症状です。症状が強い場合は、「他人に悪口を言われている」などの妄想に発展する場合もあります。

 幻聴が聞こえてくるのに返事をしてしまうことで、周りからは「誰かと話しているような独り言」というように見えることもあります。

 お薬を規則的に飲むことで、数か月で症状が落ち着くことが多いですね。


 特徴の二つ目は、元気がなくなったり、考えるのがゆっくりになったりする「陰性症状」と呼ばれる症状です。

 周りの人にまで気が回らなくなって、「疲れたー」などの独り言が出てくることもあるかもしれません。

 陰性症状の結果として情報を整理するのが難しくなり、会話が難しくなる時もありますが、カウンセリングなどを通して生活リズムを整えることで問題なく日常生活を過ごせるようになります。


 原因はよく分かっていませんが、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れることが原因ではないか、とも言われています。

 思春期の対人関係の変化や、進学や引っ越しなどの生活環境の変化をきっかけにして起きることが一般的です。

脳内の「3人」が馬鹿にしてくる

 幻覚を体験する時、当事者はどのような状態にあるのでしょうか? エッセーコミック『統合失調症日記』(ぶんか社)の作者で、漫画家の木村きこりさん(28)を取材しました。

 木村さんが異変に気づいたのは、高校3年生の頃でした。美術系大学に入るため、受験勉強に打ち込んでいると、急に脳内で3人の人物の声が響くようになったといいます。

「男性と女性、子どもが後ろから話し掛けてくるんです。それぞれに役割があり、女性は料理を食べていると『まずそう』と罵倒してきたり、男性は両親との関係に口を出してきたり。子どもについては、ずっと私を小馬鹿にする、といった調子ですね」

 しばらくすると、「ストーブに焼き殺される」といった被害妄想が顕著に。家族に手をあげてしまうこともあり、21歳の時、精神科で正式に診断を受けました。
.

注意を受ける→幻覚が加速

 木村さんは、幻覚によるストレスが極まると、大声を出して心を落ち着けています。

 苦労するのは、人目が多い場所に出かける時です。特に電車の中で、子どもや学生の集団と鉢合わせると、監視されているような感覚に襲われるといいます。

 「お前を見て笑っているぞ」――。そんな幻聴まで聞こえ、人がいない方向に「うるさい」と叫んでしまったこともありました。

 そして他の乗客から不審そうに見られるたび、気まずくなって途中下車したり、別の車両に移動したりしてきたそうです。

 当事者が独り言を発している際に、乗り合わせた人はどう対すればいいのでしょう?

「独り言を注意されると、その人のいる方面からも、幻覚が現れることがあります。脳が相手を『攻撃対象』と見なすためか、余計につらくなってしまうんです」

「だから怒らず、まず『もしかしたら統合失調症かな?』と思って欲しい。苦しそうに見えたら、車掌さんや駅員さんに、それとなく助けを求めてもらえるとうれしいですね」
.

ケース2・「甲子園の実況」を繰り返す彼

 では、二つ目のケースに移りましょう。こちらも、フィクションから考えてみます。

 仕事を終え、帰路についたあなた。電車に乗り、「夕飯は何を食べようか」と思いを巡らせています。

 「はいっ、やってまいりました夏の甲子園!」。途中で乗り込んできた男の子が、勢い良く話し始めます。どうやら、高校野球の試合中継を再現しているようです。

 その「実況」ぶりは、まさに立て板に水。しかし、よく聞くと、同じフレーズを繰り返しています。

 突然のことに、びっくりするあなた。驚きのあまり、夜の献立のことを忘れてしまったのでした……。

「いつものパターン」に見いだす安心

 この場合に考えられる障害は、「自閉症スペクトラム障害(ASD)」です。ASDは発達障害の一種とされています。阿部先生に再び解説してもらいましょう。

◆ASDとは?

 「相互的な対人関係の障害」「コミュニケーションの障害」「興味や行動の偏り」の三つの特徴をあわせもつ状態のことを言います。それぞれ説明してみますね。


 最初の二つの特性がありますから、対人関係を結ぶのがあまり得意でないかもしれません。好き・嫌いの表し方が独特で、周りの人が理解できないこともありえます。

 例えば、視線の置き方が不自然に感じられる場合や、立ち話をするときの距離が近すぎたり遠すぎたりすることもあります。


 また、繰り返しの行動を好む人が多いです。同じ服を毎日着たり、お風呂の温度が決まっていたり、といった具合です。周りからは独特の「こだわり」と思われていることもありますね。

 逆に言えば、いつものパターンを繰り返すことで安心感を得られる方が多いようです。その一つとして、同じ単語を繰り返すような独り言が現れることもあります。

 普段のリズムが乱されない限りは、日常生活を問題なく送れる方がほとんどです。
.

一人で話すのは、呼吸のようなもの

 「彼が自分だけで話すのは、呼吸のようなものなんです」。ASDの息子がいるイラストレーター・中尾佑次さん(59)は語ります。

 知的障害もある一人っ子の秀真(ほつま)さん(27)は、当事者が対象のグループホームで共同生活をしています。実家で暮らしていた幼少期から、独り言が多かったそうです。

 繰り返すフレーズは様々です。お気に入りのテレビ番組やCM、ネット動画のセリフ。音楽番組などで聞いたメロディー……。障害の特性上、予想通りに事が運ばなかったり、生活リズムが崩れたりすると、回数が増えました。

 ストレスが高まると、過去の嫌な記憶が、脳内で再生されたと思われる言葉を口にする場合も。気持ちが不安定な思春期までは、そのケースが多かったといいます。

「電車などのシートが満席だった場合は、特に盛んでしたね。本人は『座れるもの』と考えているけれど、実際は違うこともある。そうしたイレギュラーな出来事が苦手なため、理解が追いつかなかったんです」

「無視」と「具体的な声かけ」のバランス

 しかし年齢を重ね、秀真さんは公共の場で、かなり自分の衝動を抑えられようになりました。中尾さんは、プライドを保つためルールを守っている、と考えているそうです。

「僕が彼の独り言を、その場に居合わせた人に謝ったため、より情緒不安定になったことがあります。他人に注意されたとなれば、なおさらです。『俺は一人前の人間だ』という気持ちが折れてしまうんでしょうね」

 こうした経験から、電車で独り言を話す人と出会った時は、「見て見ぬ振り」をして欲しいと訴えます。

「よく乗るタクシーの運転手さんたちが、息子の独り言が激しい時も、黙って送迎してくれるんですよ。これが、すごくうれしい。電車の中でも同じように、『積極的な無視』をお願い出来たら助かりますね」

「ただ、電車が長時間動かない場面などでは、落ち着きを失うことがあります。そうした際は、『あと●時間で動く』と紙に書き、具体的に示してもらえたら。障害を理解した上での対応は、本人や家族にとって、とてもありがたいです」
.

独り言の否定=その人自身の否定

 障害の有無にかかわらず、誰しもに「自分自身」がある。取材を通して確認したのは、そんな当然の事実でした。

 荒唐無稽なことを話しているようでも、当事者は必要に迫られています。独り言の否定は、その人の否定でもあるのです。

 記事に登場した中尾さんは「今は昔と比べ、障害の当事者が外に出やすくなった。『世の中にはこんな人もいる』と感じてもらえるといい」と話していました。今も、強く印象に残っている言葉です。

 生き方は、人の数と同じだけ存在する。私自身、そのことに思いをはせ続けたい、と考えています。


※必ずしも、障害が独り言の原因になるわけではありません。その人自身の特性や、性格が影響している場合もあります。

◇ ◇ ◇

 この記事はwithnewsとYahoo!ニュースによる連携企画記事です。多様な人々が生きる現代社会は、誰もがマイノリティーになりうる社会といえるかもしれません。4月4日から5回にわたる連載を通じて、「障害者」「健常者」を分ける枠組みそのものについて考え、誰もが生きやすい社会にするためのヒントを探ります。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190404-00000002-withnews-soci


原発板の魑魅魍魎氏と同じ症状ですね

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/899.html#c25

[お知らせ・管理20] これが阿修羅に巣食う電通工作員 中川隆
248. 中川隆[-10911] koaQ7Jey 2019年4月05日 16:53:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1117]
【誰だってマイノリティー】注意で「攻撃対象」に……電車での独り言、障害のある人が望む対応とは? 4/5(金) 14:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190404-00000002-withnews-soci

電車で出会う、「独り言」を話す人たち。一体、どんな理由でつぶやいているのでしょうか?「ちょっと怖い」と思ったことのある人、一緒に考えてみませんか?=(c)Takami Kizu


【誰だってマイノリティー】

 電車に乗ると、時折ひとりで話している人を見かけます。「ブツブツと何かつぶやいていて、驚いた」という経験談は少なくありません。実は障害が原因で、やむにやまれず口にしている場合があるんです。ただ、声のかけ方によっては、衝突してしまう可能性も……。障害のある人に聞いた「独り言」を口にする理由とは? 先入観なく向き合うため、どんなことができるのか、調べてみました。(withnews編集部・神戸郁人)

【漫画】「ブス!」馬鹿にするのは誰だ…って幻聴!? 統合失調症の女性、「独り言」体験を赤裸々に漫画化
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怖くて距離を取ったことも

 実は筆者も電車で移動中、誰もいない場所で話す人に出会ったことがありました。わずかな恐怖心を抱きつつ、距離を取ってしまったことも、少なくありません。

 でも当事者の皆さんにとっては、きっと何か意義が存在するはず。そう考え、今回の記事を書きたいと思い立ちました。

 この記事では、独り言との関わりが深いとされている、二つの障害にフォーカス。背景事情を深掘りしました。

 まずは最初のケースです。分かりやすくするため、架空の物語から始めましょう。
.

ケース1・誰もいない方向に謝る彼女

 ある朝の通勤時、いつものように電車に揺られているあなた。ターミナル駅でたくさん人が降り、目の前の席が空きました。

 「どれ、座って一息つこうか……」。腰をかけ、スマートフォンでお気に入りの漫画を読み始めようとした時のことです。

 「スミマセン……スミマセン……わたしだって……」。隣り合った女性が、何やら謝り始めました。話し掛けている方向を確認してみても、誰もいません。

 状況が飲み込めないあなた。その場をやり過ごそうと、再びスマホ画面に目を落とし、時が過ぎるのを待つことにしたのでした……。
.

無いはずのものを見聞きしていた

 これ、もしかしたら「似たような体験をした」という人もいるのではないでしょうか?

 乗客の女性は、どうして謝っていたのでしょう。実は、「統合失調症」という障害の当事者であると考えられます。

 専門家に、少しかみ砕いてもらいしょう。精神科医の阿部大樹先生に聞きました。


◆統合失調症とは?

 統合失調症とは、考えや行動がうまくまとまらなくなる状態のことです。およそ二十歳前後に現れることが多く、およそ100人に1人が当事者です。


 特徴の一つが、幻聴などの「陽性症状」と呼ばれる症状です。症状が強い場合は、「他人に悪口を言われている」などの妄想に発展する場合もあります。

 幻聴が聞こえてくるのに返事をしてしまうことで、周りからは「誰かと話しているような独り言」というように見えることもあります。

 お薬を規則的に飲むことで、数か月で症状が落ち着くことが多いですね。


 特徴の二つ目は、元気がなくなったり、考えるのがゆっくりになったりする「陰性症状」と呼ばれる症状です。

 周りの人にまで気が回らなくなって、「疲れたー」などの独り言が出てくることもあるかもしれません。

 陰性症状の結果として情報を整理するのが難しくなり、会話が難しくなる時もありますが、カウンセリングなどを通して生活リズムを整えることで問題なく日常生活を過ごせるようになります。


 原因はよく分かっていませんが、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れることが原因ではないか、とも言われています。

 思春期の対人関係の変化や、進学や引っ越しなどの生活環境の変化をきっかけにして起きることが一般的です。


脳内の「3人」が馬鹿にしてくる

 幻覚を体験する時、当事者はどのような状態にあるのでしょうか? エッセーコミック『統合失調症日記』(ぶんか社)の作者で、漫画家の木村きこりさん(28)を取材しました。

 木村さんが異変に気づいたのは、高校3年生の頃でした。美術系大学に入るため、受験勉強に打ち込んでいると、急に脳内で3人の人物の声が響くようになったといいます。

「男性と女性、子どもが後ろから話し掛けてくるんです。それぞれに役割があり、女性は料理を食べていると『まずそう』と罵倒してきたり、男性は両親との関係に口を出してきたり。子どもについては、ずっと私を小馬鹿にする、といった調子ですね」

 しばらくすると、「ストーブに焼き殺される」といった被害妄想が顕著に。家族に手をあげてしまうこともあり、21歳の時、精神科で正式に診断を受けました。
.

注意を受ける→幻覚が加速

 木村さんは、幻覚によるストレスが極まると、大声を出して心を落ち着けています。

 苦労するのは、人目が多い場所に出かける時です。特に電車の中で、子どもや学生の集団と鉢合わせると、監視されているような感覚に襲われるといいます。

 「お前を見て笑っているぞ」――。そんな幻聴まで聞こえ、人がいない方向に「うるさい」と叫んでしまったこともありました。

 そして他の乗客から不審そうに見られるたび、気まずくなって途中下車したり、別の車両に移動したりしてきたそうです。

 当事者が独り言を発している際に、乗り合わせた人はどう対すればいいのでしょう?

「独り言を注意されると、その人のいる方面からも、幻覚が現れることがあります。脳が相手を『攻撃対象』と見なすためか、余計につらくなってしまうんです」

「だから怒らず、まず『もしかしたら統合失調症かな?』と思って欲しい。苦しそうに見えたら、車掌さんや駅員さんに、それとなく助けを求めてもらえるとうれしいですね」
.

ケース2・「甲子園の実況」を繰り返す彼

 では、二つ目のケースに移りましょう。こちらも、フィクションから考えてみます。

 仕事を終え、帰路についたあなた。電車に乗り、「夕飯は何を食べようか」と思いを巡らせています。

 「はいっ、やってまいりました夏の甲子園!」。途中で乗り込んできた男の子が、勢い良く話し始めます。どうやら、高校野球の試合中継を再現しているようです。

 その「実況」ぶりは、まさに立て板に水。しかし、よく聞くと、同じフレーズを繰り返しています。

 突然のことに、びっくりするあなた。驚きのあまり、夜の献立のことを忘れてしまったのでした……。


「いつものパターン」に見いだす安心

 この場合に考えられる障害は、「自閉症スペクトラム障害(ASD)」です。ASDは発達障害の一種とされています。阿部先生に再び解説してもらいましょう。

◆ASDとは?

 「相互的な対人関係の障害」「コミュニケーションの障害」「興味や行動の偏り」の三つの特徴をあわせもつ状態のことを言います。それぞれ説明してみますね。


 最初の二つの特性がありますから、対人関係を結ぶのがあまり得意でないかもしれません。好き・嫌いの表し方が独特で、周りの人が理解できないこともありえます。

 例えば、視線の置き方が不自然に感じられる場合や、立ち話をするときの距離が近すぎたり遠すぎたりすることもあります。


 また、繰り返しの行動を好む人が多いです。同じ服を毎日着たり、お風呂の温度が決まっていたり、といった具合です。周りからは独特の「こだわり」と思われていることもありますね。

 逆に言えば、いつものパターンを繰り返すことで安心感を得られる方が多いようです。その一つとして、同じ単語を繰り返すような独り言が現れることもあります。

 普段のリズムが乱されない限りは、日常生活を問題なく送れる方がほとんどです。
.

一人で話すのは、呼吸のようなもの

 「彼が自分だけで話すのは、呼吸のようなものなんです」。ASDの息子がいるイラストレーター・中尾佑次さん(59)は語ります。

 知的障害もある一人っ子の秀真(ほつま)さん(27)は、当事者が対象のグループホームで共同生活をしています。実家で暮らしていた幼少期から、独り言が多かったそうです。

 繰り返すフレーズは様々です。お気に入りのテレビ番組やCM、ネット動画のセリフ。音楽番組などで聞いたメロディー……。障害の特性上、予想通りに事が運ばなかったり、生活リズムが崩れたりすると、回数が増えました。

 ストレスが高まると、過去の嫌な記憶が、脳内で再生されたと思われる言葉を口にする場合も。気持ちが不安定な思春期までは、そのケースが多かったといいます。

「電車などのシートが満席だった場合は、特に盛んでしたね。本人は『座れるもの』と考えているけれど、実際は違うこともある。そうしたイレギュラーな出来事が苦手なため、理解が追いつかなかったんです」


「無視」と「具体的な声かけ」のバランス

 しかし年齢を重ね、秀真さんは公共の場で、かなり自分の衝動を抑えられようになりました。中尾さんは、プライドを保つためルールを守っている、と考えているそうです。

「僕が彼の独り言を、その場に居合わせた人に謝ったため、より情緒不安定になったことがあります。他人に注意されたとなれば、なおさらです。『俺は一人前の人間だ』という気持ちが折れてしまうんでしょうね」

 こうした経験から、電車で独り言を話す人と出会った時は、「見て見ぬ振り」をして欲しいと訴えます。

「よく乗るタクシーの運転手さんたちが、息子の独り言が激しい時も、黙って送迎してくれるんですよ。これが、すごくうれしい。電車の中でも同じように、『積極的な無視』をお願い出来たら助かりますね」

「ただ、電車が長時間動かない場面などでは、落ち着きを失うことがあります。そうした際は、『あと●時間で動く』と紙に書き、具体的に示してもらえたら。障害を理解した上での対応は、本人や家族にとって、とてもありがたいです」
.

独り言の否定=その人自身の否定

 障害の有無にかかわらず、誰しもに「自分自身」がある。取材を通して確認したのは、そんな当然の事実でした。

 荒唐無稽なことを話しているようでも、当事者は必要に迫られています。独り言の否定は、その人の否定でもあるのです。

 記事に登場した中尾さんは「今は昔と比べ、障害の当事者が外に出やすくなった。『世の中にはこんな人もいる』と感じてもらえるといい」と話していました。今も、強く印象に残っている言葉です。

 生き方は、人の数と同じだけ存在する。私自身、そのことに思いをはせ続けたい、と考えています。


※必ずしも、障害が独り言の原因になるわけではありません。その人自身の特性や、性格が影響している場合もあります。

◇ ◇ ◇

 この記事はwithnewsとYahoo!ニュースによる連携企画記事です。多様な人々が生きる現代社会は、誰もがマイノリティーになりうる社会といえるかもしれません。4月4日から5回にわたる連載を通じて、「障害者」「健常者」を分ける枠組みそのものについて考え、誰もが生きやすい社会にするためのヒントを探ります。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190404-00000002-withnews-soci


原発板の魑魅魍魎氏と同じ症状ですね

http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c248

[お知らせ・管理19] 管理人さん、赤かぶのデタラメ投稿をいつまで放置するのですか。 SOBA
22. 中川隆[-10910] koaQ7Jey 2019年4月05日 16:55:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1118]
【誰だってマイノリティー】注意で「攻撃対象」に……電車での独り言、障害のある人が望む対応とは? 4/5(金) 14:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190404-00000002-withnews-soci

電車で出会う、「独り言」を話す人たち。一体、どんな理由でつぶやいているのでしょうか?「ちょっと怖い」と思ったことのある人、一緒に考えてみませんか?=(c)Takami Kizu


【誰だってマイノリティー】

 電車に乗ると、時折ひとりで話している人を見かけます。「ブツブツと何かつぶやいていて、驚いた」という経験談は少なくありません。実は障害が原因で、やむにやまれず口にしている場合があるんです。ただ、声のかけ方によっては、衝突してしまう可能性も……。障害のある人に聞いた「独り言」を口にする理由とは? 先入観なく向き合うため、どんなことができるのか、調べてみました。(withnews編集部・神戸郁人)

【漫画】「ブス!」馬鹿にするのは誰だ…って幻聴!? 統合失調症の女性、「独り言」体験を赤裸々に漫画化
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怖くて距離を取ったことも

 実は筆者も電車で移動中、誰もいない場所で話す人に出会ったことがありました。わずかな恐怖心を抱きつつ、距離を取ってしまったことも、少なくありません。

 でも当事者の皆さんにとっては、きっと何か意義が存在するはず。そう考え、今回の記事を書きたいと思い立ちました。

 この記事では、独り言との関わりが深いとされている、二つの障害にフォーカス。背景事情を深掘りしました。

 まずは最初のケースです。分かりやすくするため、架空の物語から始めましょう。
.

ケース1・誰もいない方向に謝る彼女

 ある朝の通勤時、いつものように電車に揺られているあなた。ターミナル駅でたくさん人が降り、目の前の席が空きました。

 「どれ、座って一息つこうか……」。腰をかけ、スマートフォンでお気に入りの漫画を読み始めようとした時のことです。

 「スミマセン……スミマセン……わたしだって……」。隣り合った女性が、何やら謝り始めました。話し掛けている方向を確認してみても、誰もいません。

 状況が飲み込めないあなた。その場をやり過ごそうと、再びスマホ画面に目を落とし、時が過ぎるのを待つことにしたのでした……。
.

無いはずのものを見聞きしていた

 これ、もしかしたら「似たような体験をした」という人もいるのではないでしょうか?

 乗客の女性は、どうして謝っていたのでしょう。実は、「統合失調症」という障害の当事者であると考えられます。

 専門家に、少しかみ砕いてもらいしょう。精神科医の阿部大樹先生に聞きました。


◆統合失調症とは?

 統合失調症とは、考えや行動がうまくまとまらなくなる状態のことです。およそ二十歳前後に現れることが多く、およそ100人に1人が当事者です。


 特徴の一つが、幻聴などの「陽性症状」と呼ばれる症状です。症状が強い場合は、「他人に悪口を言われている」などの妄想に発展する場合もあります。

 幻聴が聞こえてくるのに返事をしてしまうことで、周りからは「誰かと話しているような独り言」というように見えることもあります。

 お薬を規則的に飲むことで、数か月で症状が落ち着くことが多いですね。


 特徴の二つ目は、元気がなくなったり、考えるのがゆっくりになったりする「陰性症状」と呼ばれる症状です。

 周りの人にまで気が回らなくなって、「疲れたー」などの独り言が出てくることもあるかもしれません。

 陰性症状の結果として情報を整理するのが難しくなり、会話が難しくなる時もありますが、カウンセリングなどを通して生活リズムを整えることで問題なく日常生活を過ごせるようになります。


 原因はよく分かっていませんが、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れることが原因ではないか、とも言われています。

 思春期の対人関係の変化や、進学や引っ越しなどの生活環境の変化をきっかけにして起きることが一般的です。


脳内の「3人」が馬鹿にしてくる

 幻覚を体験する時、当事者はどのような状態にあるのでしょうか? エッセーコミック『統合失調症日記』(ぶんか社)の作者で、漫画家の木村きこりさん(28)を取材しました。

 木村さんが異変に気づいたのは、高校3年生の頃でした。美術系大学に入るため、受験勉強に打ち込んでいると、急に脳内で3人の人物の声が響くようになったといいます。

「男性と女性、子どもが後ろから話し掛けてくるんです。それぞれに役割があり、女性は料理を食べていると『まずそう』と罵倒してきたり、男性は両親との関係に口を出してきたり。子どもについては、ずっと私を小馬鹿にする、といった調子ですね」

 しばらくすると、「ストーブに焼き殺される」といった被害妄想が顕著に。家族に手をあげてしまうこともあり、21歳の時、精神科で正式に診断を受けました。
.

注意を受ける→幻覚が加速

 木村さんは、幻覚によるストレスが極まると、大声を出して心を落ち着けています。

 苦労するのは、人目が多い場所に出かける時です。特に電車の中で、子どもや学生の集団と鉢合わせると、監視されているような感覚に襲われるといいます。

 「お前を見て笑っているぞ」――。そんな幻聴まで聞こえ、人がいない方向に「うるさい」と叫んでしまったこともありました。

 そして他の乗客から不審そうに見られるたび、気まずくなって途中下車したり、別の車両に移動したりしてきたそうです。

 当事者が独り言を発している際に、乗り合わせた人はどう対すればいいのでしょう?

「独り言を注意されると、その人のいる方面からも、幻覚が現れることがあります。脳が相手を『攻撃対象』と見なすためか、余計につらくなってしまうんです」

「だから怒らず、まず『もしかしたら統合失調症かな?』と思って欲しい。苦しそうに見えたら、車掌さんや駅員さんに、それとなく助けを求めてもらえるとうれしいですね」
.

ケース2・「甲子園の実況」を繰り返す彼

 では、二つ目のケースに移りましょう。こちらも、フィクションから考えてみます。

 仕事を終え、帰路についたあなた。電車に乗り、「夕飯は何を食べようか」と思いを巡らせています。

 「はいっ、やってまいりました夏の甲子園!」。途中で乗り込んできた男の子が、勢い良く話し始めます。どうやら、高校野球の試合中継を再現しているようです。

 その「実況」ぶりは、まさに立て板に水。しかし、よく聞くと、同じフレーズを繰り返しています。

 突然のことに、びっくりするあなた。驚きのあまり、夜の献立のことを忘れてしまったのでした……。


「いつものパターン」に見いだす安心

 この場合に考えられる障害は、「自閉症スペクトラム障害(ASD)」です。ASDは発達障害の一種とされています。阿部先生に再び解説してもらいましょう。

◆ASDとは?

 「相互的な対人関係の障害」「コミュニケーションの障害」「興味や行動の偏り」の三つの特徴をあわせもつ状態のことを言います。それぞれ説明してみますね。


 最初の二つの特性がありますから、対人関係を結ぶのがあまり得意でないかもしれません。好き・嫌いの表し方が独特で、周りの人が理解できないこともありえます。

 例えば、視線の置き方が不自然に感じられる場合や、立ち話をするときの距離が近すぎたり遠すぎたりすることもあります。


 また、繰り返しの行動を好む人が多いです。同じ服を毎日着たり、お風呂の温度が決まっていたり、といった具合です。周りからは独特の「こだわり」と思われていることもありますね。

 逆に言えば、いつものパターンを繰り返すことで安心感を得られる方が多いようです。その一つとして、同じ単語を繰り返すような独り言が現れることもあります。

 普段のリズムが乱されない限りは、日常生活を問題なく送れる方がほとんどです。
.

一人で話すのは、呼吸のようなもの

 「彼が自分だけで話すのは、呼吸のようなものなんです」。ASDの息子がいるイラストレーター・中尾佑次さん(59)は語ります。

 知的障害もある一人っ子の秀真(ほつま)さん(27)は、当事者が対象のグループホームで共同生活をしています。実家で暮らしていた幼少期から、独り言が多かったそうです。

 繰り返すフレーズは様々です。お気に入りのテレビ番組やCM、ネット動画のセリフ。音楽番組などで聞いたメロディー……。障害の特性上、予想通りに事が運ばなかったり、生活リズムが崩れたりすると、回数が増えました。

 ストレスが高まると、過去の嫌な記憶が、脳内で再生されたと思われる言葉を口にする場合も。気持ちが不安定な思春期までは、そのケースが多かったといいます。

「電車などのシートが満席だった場合は、特に盛んでしたね。本人は『座れるもの』と考えているけれど、実際は違うこともある。そうしたイレギュラーな出来事が苦手なため、理解が追いつかなかったんです」


「無視」と「具体的な声かけ」のバランス

 しかし年齢を重ね、秀真さんは公共の場で、かなり自分の衝動を抑えられようになりました。中尾さんは、プライドを保つためルールを守っている、と考えているそうです。

「僕が彼の独り言を、その場に居合わせた人に謝ったため、より情緒不安定になったことがあります。他人に注意されたとなれば、なおさらです。『俺は一人前の人間だ』という気持ちが折れてしまうんでしょうね」

 こうした経験から、電車で独り言を話す人と出会った時は、「見て見ぬ振り」をして欲しいと訴えます。

「よく乗るタクシーの運転手さんたちが、息子の独り言が激しい時も、黙って送迎してくれるんですよ。これが、すごくうれしい。電車の中でも同じように、『積極的な無視』をお願い出来たら助かりますね」

「ただ、電車が長時間動かない場面などでは、落ち着きを失うことがあります。そうした際は、『あと●時間で動く』と紙に書き、具体的に示してもらえたら。障害を理解した上での対応は、本人や家族にとって、とてもありがたいです」
.

独り言の否定=その人自身の否定

 障害の有無にかかわらず、誰しもに「自分自身」がある。取材を通して確認したのは、そんな当然の事実でした。

 荒唐無稽なことを話しているようでも、当事者は必要に迫られています。独り言の否定は、その人の否定でもあるのです。

 記事に登場した中尾さんは「今は昔と比べ、障害の当事者が外に出やすくなった。『世の中にはこんな人もいる』と感じてもらえるといい」と話していました。今も、強く印象に残っている言葉です。

 生き方は、人の数と同じだけ存在する。私自身、そのことに思いをはせ続けたい、と考えています。


※必ずしも、障害が独り言の原因になるわけではありません。その人自身の特性や、性格が影響している場合もあります。

◇ ◇ ◇

 この記事はwithnewsとYahoo!ニュースによる連携企画記事です。多様な人々が生きる現代社会は、誰もがマイノリティーになりうる社会といえるかもしれません。4月4日から5回にわたる連載を通じて、「障害者」「健常者」を分ける枠組みそのものについて考え、誰もが生きやすい社会にするためのヒントを探ります。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190404-00000002-withnews-soci


原発板の魑魅魍魎氏と同じ症状ですね

http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/534.html#c22

[近代史3] 凡人が天才になる方法はあるか? 中川隆
13. 中川隆[-10909] koaQ7Jey 2019年4月05日 17:12:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1119]

まともな人間は天才にはなれない


ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC+%E6%BC%94%E8%AA%AC
https://www.youtube.com/results?search_query=Adolf+Hitler

▲△▽▼

ヒトラーを独裁者にしたのは、一つには彼の性的魅力であったらしい。

彼の姿を一目見ただけで卒倒する女性が続出したそうだ。

ある女性などは、ヒトラーが通り過ぎたあと、彼が踏んだ小石を持っていたガラスびんに入れ、それを大切に抱きしめた。

彼女はそのまま恍惚としてしまい、力が入りすぎてガラスびんが割れた。血がだらだら流れるが、それでもなお彼女は陶然と立ち尽くしていたという。

当時、世界でもっとも進歩的と言われたワイマール憲法下で、ヒトラーがあくまでも合法的に政権の座についたことを考え合わせると、民主主義って本当に大丈夫なの、とつい思ってしまう。
http://www.c20.jp/p/hitler_a.html


ヒトラーというとほとんどの日本人はドイツの独裁者でユダヤ人を虐殺した恐ろしい人とだけしか知らないのではないだろか。

ヒトラーに関して我々がしっかりと知っておかなければならないことは、

ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に独裁者になったということである。

ヒトラーの行くところはどこでもドイツ国民が、「ハイル、ハイル!」の大合唱。ドイツ国民のすべてがヒトラーに心酔していた。

そんな時、「私に全権を与えていただければ、もっと豊かなドイツを実現してみせます!」とヒトラーは言った。

ドイツ国民は将来悲惨なことが起こるなんてことは誰も疑わずに、あっさりとヒトラーに全権を与えてしまった。

1935年にドイツ国内で国民投票が行われた。

そしてなんと国民の90パーセント以上という圧倒的支持で、首相と大統領の兼任(行政権の完全な掌握)、立法権、軍隊の指揮権といった、司法権を除くすべての権力をヒトラーに渡してしまったのである。

こうして三権分立という鎖がはずされ、リバイアサンという怪物が解き放たれたのである。

その後は、皆さんもご承知のように、誰もヒトラーの暴走をくい止めることができなくなり、世界は人類がいまだ経験したことのない第二次世界大戦という大惨事に突入していったのである。
http://kaichan.cocolog-nifty.com/diclongman/2007/09/post_e4df.html

▲△▽▼

アメリカの極秘文書が伝えるヒトラーの意外な素顔
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc611.html

●一般にヒトラーは「キ○ガイ」の代名詞であり、20世紀最大の悪魔とも称せられる。

ヒトラーは性的変質者で睾丸がひとつしかなかったなどとまことしやかに言われ、彼が精神異常者であるという印象はごく自然に多くの人に受け入れられている。

ナチスの迫害を受けていた精神分析学の創始者であったユダヤ人ジークムント・フロイトは、ヒトラーを「狂人がなにをしでかすか予想できない!」の一言で片付けてしまったように、

ナチス敗北後、多くの精神医学者もヒトラーを「精神病」と見なしてきた。

 


ジークムント・フロイト

「精神分析学」を創始した
オーストリア生まれのユダヤ人。
1938年にナチスに追われてイギリスに
亡命したが、翌年、ガンで亡くなった。

 

●SS長官ヒムラーのマッサージ師ケルステンは、「ヒトラーは脳梅毒(進行麻痺)であった」という噂を流した。

しかし、ヒトラーの主治医モレルは1940年の梅毒検査でヒトラーは陰性であった、とヒトラーの脳梅毒説を否定している。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●ところで、アメリカの国家記録保存所には「ヒトラーのメディカル・レポート」が保管されている。

これはアメリカ陸軍ヨーロッパ司令部情報部によって作成されたもので、1972年になってようやく極秘取り扱い解除されたものである。

それによると精神面に関するデータは次の通り。


【A】.時間、場所、人間に関しての認識 = <優>

【B】.過去、現在における出来事についての記憶力 = <優>

【C】.数字、統計、名前などの記憶カ = <優>

【D】.ヒトラーのバックグラウンドは大学教育の欠如というハンデがあったが、
    それを彼は読書を通して得た莫大な知識で十分に補った。

【E】.時間や空間についての判断力 = <優>

【F】.まわりの環境に対する反応 = <ノーマル>

【G】.気分が変わり易いところもあるが、平均して協調性があり、集中力は抜群。

【H】.感情的には変化し易い。好き嫌いがはげしい。

【 I 】.思考構造は一定の継続がある。話し方は早くなく遅くもない。
    常につじつまの合う話をする。

【J】.ヒステリー性はなし、健忘症なし。

【K】.妄想や恐怖性なし。

【L】.幻覚、幻想、偏執狂的徴候はなし。

●これを見る限り、ヒトラーという人間はごくノーマルであるばかりでなく、ある面では普通の人より秀れていたということになる。

アメリカ政府はこの情報を1945年に得ていたのだが、27年間極秘扱いとして誰にも見せなかったのであった(一説にはヒトラーのIQは150近くあったという)。

 


1972年になってようやく極秘取り扱い解除された
「ヒトラーのメディカル・レポート」

 

●以下、参考までに、戦後のニュルンベルク裁判の法廷で、ナチス要人が語ったヒトラー像を挙げておたい。

この3人とも誇り高きドイツ貴族出身の軍人であり、貧民街から登場したチョビひげの政治家に、最初から心服していたわけではなかった。しかしヒトラーは、そんな人物まで相手の専門分野の知識で圧倒し、やがてはその人格的影響下に置いてしまったようである。

◆ドイツ海軍最高司令官カール・デーニッツ大将は語る。

「ヒトラーは異常な知性と行動力を持ち、まさに普遍的といってよい教養と力を放射する性格をそなえ、恐るべき暗示力をもった人物だった。

私は総統本部に出入りしないほうが、自分の力を温存できるような気持ちがしたので、たまにしか足を運ばなかった。それに何日も総統大本営に滞在したあとは、ヒトラーの暗示力を洗い落とさなければならないという感じがした」


◆ヴィルヘルム・カイテル元帥は、ヒトラーの軍事知識に驚嘆している。

「軍事問題についての知識は驚くべきものがあった。ヒトラーは世界の全ての陸海軍の組織、武装、指導部、装備に精通しており、ひとつといえども誤りを指摘することはできなかった。

したがって我々は、あの人は天才にちがいないと思ったのだ。軍の単純なありきたりな問題ですら、自分は教えるほうではなくて教わるほうであった」


◆国防軍最高司令部部長アルフレート・ヨードル大将も語る。

「ヒトラーは並々ならぬ大きさを持った指導者としての人格をそなえていた。誰と何について議論しても彼の知識と知性、雄弁と意志が最後には勝利を占めた。

論理と冷静な思考、しばしば来たるべきものを予知するその不思議な能力──。

彼は決して虚言や大言を弄するだけの男ではなく、巨大な偉人であった。最後には地獄的な巨大さにまでなってしまったが、ともかく1938年までは無条件に偉大な人物だった」

 

 

 


●また、敵味方を問わず「ドイツ軍最高の軍人」、もしくは「20世紀最高の戦略能力の持ち主」と評されていた、ドイツ国防軍のエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、ヒトラーとたびたび衝突して、ヒトラーに批判的だった。

しかし、彼ですら次のように認めている。

「ヒトラーは驚くべき知識と記憶力、技術問題と軍需のあらゆる問題についての創造的な想像力を持ち合わせていた。敵や自国の新兵器の威力、生産量についても信じがたいほどの知識を持っていた。

彼が軍需の分野で、その理解力と並外れたエネルギーをもって、多くのものを推進したのは間違いない」

 


ドイツ軍最高の名将と名高い
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン

 

●以上、世間で一般に流布されているヒトラー像とは違うヒトラーの実像が見えてきた。

しかし、ヒトラーが精神的にそれほどおかしな人間でなかったのならば、一体、彼をあそこまで駆り立てたものは何だったのか? 大きな疑問が残ってしまう。

ワーナー・メイザーという高名なヒトラー研究家は次のように言っている。

「ヒトラーの反ユダヤ主義が、いかに展開し継続していったかを概観して説明するのはさほど困難ではない。

しかし、なぜヒトラーのような並外れて我意が強く、才能があり、数多くの書物を読み、広い知識を持っている人間が、このような恐るべき迷信(反ユダヤに到る考え)に囚われてしまったのかという問いに答えることは容易ではない」

 

  

 


●ちなみに、ヒトラーの側近であった者たちは、ヒトラーの大きな「欠点」のひとつとして、彼が何を考えていたのか皆目わからなかったという点を挙げている。

「心の奥底を明かさない人間を、どうして『知っている』と言えようか」と、ヒトラーの側近の1人はニュルンベルク裁判でヒトラーについて語っている。

さらに、「私は今日になっても、彼が、何を考え、何を知り、何をしようとしていたのかがわからない。それが何であったのかは、私が考えたり想像したりできるだけなのだ」と述べている。

 

 

●「ヒトラーに友人がいたというのなら、私は間違いなくその1人だろう──」。ヒトラーの側近の1人としてきわめて多くの時間を彼と過ごしただけではなく、彼のもっとも興味を引いた分野、建築学における気に入りの仲間であったアルベルト・シュペーアはこう語っている。

「ヒトラーほど感情をめったに表さない人間はいない。それに、いったん表したとしても、すぐさまそれを覆い隠してしまうのである」

 

 
アルベルト・シュペーア

建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。

 

●アルベルト・シュペーアはまた、ヒトラーと打ちとけられたと感じられる瞬間についても、かつて副官ルドルフ・ヘスが口にしていた言葉通りだったと証言している。

「我々はやっぱり幻滅せざるをえなかった。私たちのどちらかが少しでも親しげな調子で話そうものなら、ヒトラーは直ちに厚い壁を造りあげてしまうのだ……」

 


ひとり静かに物思いにふけるヒトラー

普段はナイーブで内気な性格だったという…

 

●青年時代のヒトラーの唯一の親友だったアウグスト・クビツェクも、次のように語っている。

「アドルフ(ヒトラー)は内向的な性格で、誰にも立ち入らせない精神領域を常に持っていました。彼には理解不能な秘密があり、私にとっても多くの点は謎のままでした。

しかし、その秘密のいくつかを解く鍵がありました。それは美への熱狂です。ザンクト・フロリアン修道院のような壮麗な芸術作品の前に立つと、私たちの間のあらゆる障壁が崩れ去るのです。熱狂しているときのアドルフはとても打ち解けやすくなり、私は友情がさらに深まったように感じました」

 

  
(左)青年時代のアウグスト・クビツェク(ヒトラーの唯一の親友だった)
(中央)戦後、ヒトラーとの交際について回想録をまとめるクビツェク
(右)出版された彼の回想録『我が青春の友 アドルフ・ヒトラー』

 

●ところで、あのエヴァ・ブラウン(自殺直前にヒトラーと結婚)も、日記に次のように記している。

「ヒトラーは時々、異常なほど内気になる。きっと過去の嫌な体験からきているのだろうと思うけど、あの人の内気さは普通じゃない。とくに人前に出ると、内気な自分を悟られまいと必死になっている。

私にはそれが手に取るように分かる。トイレに逃げ込みたくなるほどおびえているのかもしれない。どうしてあれほど自制するのだろう? うぶな娘のように振る舞うのだろう?」

 


エヴァ・ブラウン

 

●また、彼女は「ヒトラーはとにかく謎めいている。何かを隠そうとしている。そこがとても薄気味悪い」と記している。


彼女によれば、1937年冬のある日、ヒトラーは目をギラギラと輝かせながら、「天才と狂人」について次のような謎めいた話をしたという。

「天才は普通人とは異なる精神領域で生きている。天才はときどき普通人の精神世界に舞い戻る。だが、もし戻れないと、普通人の目には狂人に見えるのだ。ヘルダーリンやネロのように。天才はたいがい限界というものを感じない。危険というものを感じない。

私は自分を知っている。シェークスピアが自分を知っていたように。彼の十四行詩を読めば、それが分かる。シェークスピアは2つの領域を行ったり来たりした。穏やかな人物でありながら、それをやってのけた。情熱的な私なら、難なく2つの領域を行き来できる」

※ エヴァ・ブラウンは日記の中で、この時のヒトラーの眼はとても薄気味悪く輝いていて、まるで燃えているようだった。本当にこの時のヒトラーの表情には背筋がぞっとしたと記している。

 

青年時代からヒトラーの存在感は強烈だったらしく、彼を
記憶する人々は口をそろえて、その異様な雰囲気を描写している。

「射るような眼」 「催眠術師の眼」 「狂気に近い異様に澄んだ眼」などなど…

 

●ところで、エヴァ・ブラウンは同じ日記の中で、ヒトラーの意外な一面を書いている。

彼女によると、ヒトラーは「美容」に関して専門家を驚かせるほどの知識を持っていたそうだ。

「水曜の夜。私は本当に感心してしまった。なにしろ、スパルタ気質のあの人が美容師に、どうやったら女は若さと美しさを保てるか、と延々と説いていたのだから。とにかく、美容についての知識の深さにはびっくりした。

この前、私はあの人から化粧クリームをもらった。それが効くのかどうか、私には分からない。でも、あの人からもらった以上、絶対に使い切らなければならない。それにしても、クリームといっしょに渡されたあのメモには本当に目を疑ってしまった。なにしろ、週に二度は仔牛の新鮮な生肉で夜の洗顔パックをすること、週に一度はオリーブオイルの風呂に入ること、もっとも大切な部分はバストとヒップ、と書いてあったのだから。

たしかに、あの人は美容の専門家だと思う。達人とさえ呼べる。

〈中略〉

私はこの頃しみじみと思う。あの人の言うことは何でもかんでも正しくなる、と。

たまに変に思えたりするけど、結局、それが変じゃなくなる。人々があの人を信じるから、そうなるのだろうとは思うけど、もしあの人が、太陽は地球の周りを回っている、と宣言したら、どうなるだろう。やっぱりドイツ人たちはみなすぐに信じるのだろうか……」(エヴァ・ブラウンの日記/1938年1月)

 

 
(左)アドルフ・ヒトラー (右)エルンスト・レーム

レームはヒトラーの最も古くからの同志で、
ヒトラーと肩を並べるほどの実力を持っていた。
レームはヒトラーに向かって「おまえ」と呼ぶ
ことのできる唯一のナチ党員であった。

しかし、レーム率いる「ナチス突撃隊(SA)」が
急速に力をつけ、「国防軍」との間に深刻な摩擦を
起こし始めると、ヒトラーはこの対立問題が権力基盤の
危機を招くと判断し、レームとSA幹部らを粛清した。

※ この「長いナイフの夜」と呼ばれる「レーム事件」
 により、ヒトラーは「国防軍」との関係を修復した。

 

●かの有名な「レーム事件」(長いナイフの夜)を題材にした戯曲

『わが友ヒットラー』(新潮社)を書いた三島由紀夫は、巻末の「自作解題」でこう述べている。

「『わが友ヒットラー』は、アラン・ブロックの『アドルフ・ヒトラー』を読むうちに、1934年のレーム事件に甚だ興味をおぼえ、この本を材料にして組み立てた芝居である。

〈中略〉

粛清後、ヒトラーが不眠症にかかり、心労の果てにやつれたというのは実話のようで、まだ『人間的な』ヒトラーがヒトラーの中に生きていた時期の物語である。

国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬというのは、政治的鉄則であるように思われる。そして一時的に中道政治を装って、国民を安心させて、一気にベルト・コンベアーに載せてしまうのである。何事にも無計画的、行きあたりばったりな日本は、左翼弾圧からはじめて、昭和11年の2・26事件の処刑にいたるまで、極左極右を斬るのにほぼ10年を要した。それをヒトラーは一夜でやってのけたのである。

是非善悪はともかくヒトラーの政治的天才をこの事件はよく証明している」

 

 
(左)三島由紀夫 (右)彼が「レーム事件」を
描いた作品『わが友ヒットラー』(新潮社)

 

●そして彼は続けてこう述べている。

「ずいぶんいろんな人に、『お前はそんなにヒトラーが好きなのか』ときかれたが、ヒトラーの芝居を書いたからとて、ヒトラーが好きになる義理はあるまい。正直のところ、私はヒトラーという人物には怖ろしい興味を感ずるが、好きか嫌いかときかれれば、嫌いと答える他はない。

ヒトラーは政治的天才であったが、英雄ではなかった。

英雄というものに必須な、爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けていた。ヒトラーは、20世紀そのもののように暗い……」

 

 


 

■■おまけ情報


●戦後、連合軍がナチ戦犯に心理テストを行った結果、高い知能指数(IQ)の人が多かったことが判明。

↓参考までに紹介しておきたい (※ ちなみに日本の東大生の平均はIQ120)。


<ナチ戦犯の知能指数>


■IQ143 ヒャルマー・シャハト

■IQ141 アルトゥル・ザイス=インクヴァルト

■IQ138 ヘルマン・ゲーリング

■IQ138 カール・デーニッツ

■IQ134 フランツ・フォン・パーペン

■IQ134 エーリヒ・レーダー

■IQ130 バルドゥール・フォン・シーラッハ

■IQ130 ハンス・フランク

■IQ130 ハンス・フリッチェ

■IQ129 ヴィルヘルム・カイテル

■IQ129 ヨアヒム・フォン・リッベントロップ

■IQ128 アルベルト・シュペーア

■IQ127 アルフレート・ローゼンベルク

■IQ127 アルフレート・ヨードル

■IQ125 コンスタンティン・フォン・ノイラート

■IQ124 ヴァルター・フンク

■IQ124 ヴィルヘルム・フリック

■IQ120 ルドルフ・ヘス

■IQ118 フリッツ・ザウケル

■IQ113 エルンスト・カルテンブルンナー

■IQ106 ユリウス・シュトライヒャー


◆The Nazi Defendants in the Major War CriminalTrial in Nuremberg
http://www.law.umkc.edu/faculty/projects/ftrials/nuremberg/meetthedefendants.html


http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc611.html

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ドイツ国民がナチスを熱狂的に支持した理由

 マイナス金利政策を巡る顛末からも分かる通り、現在の日本が抱える問題は、

「特効薬が効かない!」

 という話ではなく、普通の薬を飲まず、特効薬を追い求めている、という点に本質があります。


 と言いますか、ここまで一貫して普通の薬(財政政策)から目をそらし、効果のコミットができない特効薬を探し回る光景は、もはや喜劇です。普通の薬は、効果について事前にコミットできるにも関わらず、頑なにそこから目をそらす。


 実は、現在の日本や欧州同様に、主要国の政策担当者が病的なまでに財政均衡にこだわり、国民経済を貧困化させるという光景が、80年前にも見られました。

『[FT]21世紀におぼろに見えるドイツ帝国銀行総裁の影
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO97052220Y6A200C1000000/

 ジョン・ワイツによるヒャルマー・シャハトの伝記『Hitler’s Banker(邦訳:ヒトラーを支えた銀行家)』を読み返したら、これまで筆者が考えていなかった1930年代と現在の興味深い共通点に気づいた。

ヒトラーが再軍備計画の資金を賄うために、配下の中央銀行総裁だったシャハトに頼ったことは、よく知られている。

だが、ワイツは――そしてここが今日のユーロ圏に潜在的に関係するところだが――、シャハトがライヒスバンク(ドイツ帝国銀行)で非伝統的な政策を追求できたのは、ひとえに独裁者の後ろ盾があったからだとも指摘している。(中略)

 欧州北部諸国に共有されているブリュッセルとフランクフルトの現在の正統的政策には、30年代に一般的だったデフレマインドとの類似点がいくつかある。

今日の政治家と中央銀行家は、財政目標と債務削減に固執している。30年代前半と同様に、正統的な政策には病的なところがある。今日の中央銀行家は、言うことが尽きると「構造改革」に言及するが、そうした改革が一体何を達成するのか決して口にしない。

 原則としては、ユーロ圏の経済問題を解決するのは難しくない。欧州中央銀行(ECB)が市民一人ひとりに1万ユーロの小切手を手渡せばいい。物価の問題はものの数日で解決されるだろう。あるいは、ECBは独自の「IOU(借用証書)」を発行することもできる。

シャハトが行ったのは、それだ。

または、欧州連合(EU)が債券を発行し、ECBがそれを買い上げてもいい。紙幣を印刷する方法はたくさんある。どれも皆、素晴らしい方法だ。そして違法でもある。(後略)』

 ナチスがドイツで政権を握ったのは、デフレーションで国民の間にルサンチマンが蔓延し、「攻撃的」な政党が喜ばれるという形で社会が歪んでしまったためです。


 とはいえ、ナチスが「支持された」のは、これはもう、ヒトラーとシャハトのコンビが、各国が財政均衡主義の魔物にとらわれ、緊縮財政政策を推進する中において、アウトバーン建設に代表される大規模景気対策を打ったおかげなのです。

ヒトラーが率いるナチスは、1932年には43%(!)だった失業率を、五年間で完全雇用に持ち込んでしまいました。


 それはもう、ドイツ国民がナチスを熱狂的に支持したのも、無理もない話なのです。


 ちなみに、わたくしは別にナチスを賛美したいわけではなく、「人類」は歴史的に財政均衡主義を「愛し」、デフレ期の財政出動という普通の薬を飲むことができず、デフレの原因を(なぜか)、

「構造改革が不足しているから」

 という、意味不明というか逆効果(構造改革はインフレ対策)の政策を採用。
 緊縮財政と構造改革、つまりは需要縮小策と供給能力拡大策によりデフレを深刻化させ、

「国の借金で大変だ〜っ!」

「構造改革が足りないからだ〜っ!」

 と、バカの一つ覚えのように自縄自縛となる愚かな政策を繰り返してきたという話です。


 特に、デフレ期には単なる「債務と債権の記録」に過ぎないおカネに国民総じて固執し、政府が普通の薬(財政出動)を飲もうとすると、

「政府は無駄なカネを使うな!」

 と、やるわけです。結果、デフレギャップは埋まらず、国民が貧困化し、ルサンチマンが蔓延し、最後には「他の国民を攻撃する」ことで人気を博すポピュリスト政治家が権力を持ち、民主主義が壊れます。


 あるいは、貧困化が行き着くところまで行き着き、国家は虎の子の供給能力を失い、発展途上国化します。


 民主主義の破壊や、発展途上国化を回避するために必要なのは、「特効薬」でも「万能薬」でもありません。しつこいですが、普通の薬、財政出動を中心とした景気対策という普通の政策なのです。


 それにも関わらず、政治家や国民が「普通の薬」について議論しようとさえしない現状に、わたくしは恐怖すら覚えるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12128570302.html

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現在の状況は、1930年代のヨーロッパとそっくりです。

 1929年のNY株式大暴落に端を発した大恐慌により、ドイツは失業率が43%(32年)に達してしまいました。国民のルサンチマンがピークに達した状況で、ナチス・ドイツが政権を握り、ヒットラーが首相の座に就きました。


 ナチスはヒャルマル・シャハト(ライヒスバンク総裁)の下で、大々的な財政出動を実施。アウトバーンや国道が建設され、WW2開戦までに、3860kmが建設されました。ナチス・ドイツという独裁的な政権の下で、ドイツ経済は瞬く間に回復。わずか五年間で、失業率が完全雇用の水準に至りました。


 当然ながら、ドイツ国民はナチスを熱狂的に支持します。


 妙な話ですが、現在や大恐慌期のような需要低迷期には、なぜか「民主主義国」の方が大々的な財政出動に踏み切れず、状況が悪化します。逆に、独裁国は政府が剛腕をふるい、財政を拡大し、国力を強化してしまうのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12137232005.html


 




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コメント


1. 中川隆[-12525] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:22:48: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
▲△▽▼

祖国を救おうとして闘ったヒトラー、プーチン、サダム・フセイン や カダフィ が欧米のマスコミによって悪魔化された理由

【桜無門関】馬渕睦夫×水島総 第3回
「ネオコンが狙う日露決裂とプーチン潰し」[桜H31-1-31] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jWRxVmGJkDo

2019/01/31 に公開

既成概念にとらわれない大きな視座で国際情勢を俯瞰し、ぶれることのない日本の軸を示し続けている馬渕睦夫氏。
閉ざす門を一度解き放つことによって見えてくるものがあるように、物事の本質を見極める言葉と思考を、対談を通じて伺います。

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)


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【桜無門関】馬渕睦夫×水島総 第2回「日本解体!
ディープステートによる日本のグローバル化、その尖兵としての霞ヶ関官僚」[桜H30-12-27] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=tOqOn3ttvPg

2018/12/27 に公開

既成概念にとらわれない大きな視座で国際情勢を俯瞰し、ぶれることのない日本の軸を示し続けている馬渕睦夫氏。
閉ざす門を一度解き放つことによって見えてくるものがあるように、物事の本質を見極める言葉と思考を、対談を通じて伺います。

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)


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馬渕睦夫 deep state の世界を語る

太平洋戦争も朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてユダヤ資本のヤラセだった


馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=親ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、ソ連共産党、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、レーニン、スターリン、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=ヒトラー、プーチン、サダム・フセイン、トランプ、カダフィ、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党


なんですね。


安倍晋三は調整型の政治家で権力基盤が弱く、IQ も随分と低いので、官僚や自民党のグローバリストに引き摺られているのですが、本来はプーチンやトランプと同じナショナリストなのです


▲△▽▼


馬渕睦夫さんが明らかにしたのは

・ロシア革命を行ったレーニン、スターリン、トロツキー等は全員ユダヤ人とそのシンパだった

・ロシア革命に資金援助や支援していたのはアメリカやイギリス・ドイツの金融資本家だった

・毛沢東と中国共産党を支援していたのもアメリカ金融資本家だった

・ルーズベルトとその周辺の人間は全員社会主義者でスターリンと同盟関係にあった

・GHQ は戦後の日本を共産化しようとした

・ボリス・エリツィンはソ連崩壊後に国有財産を民営化して、すべてユダヤ資本に二束三文で払い下げた


要するに、ユダヤ資本は

昔は共産化によって世界各国のグローバル化を進めようとした

現在は移民を大量に受け入れさせて世界各国のグローバル化を進めようとしている

▲△▽▼


馬渕睦夫さんは唯の国際化とグローバリズムとは全く違う概念だと何度も言っています。

馬渕睦夫さんがグローバリズムと言っているのは

ユダヤ国際金融資本はユダヤ教の精神に基づいて、世界を国境の無い文化も同じ一つの国にしようとしているという事ですね。

ユダヤ教は人類で最後に救われるのはユダヤ人だけで、他民族はすべて滅ぼされるという教義です。

すべて滅ぼすのは無理なので、ユダヤ人が目指す現実性のある理想の社会は
1%のユダヤ人が資産や権力を独占して、99%の他民族は被支配者として搾取される世界なんですね。

北朝鮮みたいな共産国家なら大体その通りになっていますよね。

それから中国では都市籍の人間が農民籍の人間を支配搾取する体制になっていますよね。
中国の経済発展は都市籍の人間が農民籍の人間をタダ同然で働かせる事ができたからだというのが定説ですね。


マルクス主義で言う平等というのは 99% の被支配者の間では階級差別が全く無いというだけの話です。

竹中平蔵さんが、

派遣社員と正社員と待遇が違うのは平等の精神に反するから、正規社員も非正規社員と同待遇にしろ

と言っているのも 99% の被支配者の間では階級差別が有ってはいけないという主張ですね。


だから、ユダヤ人は最初は共産化で 1% 対 99% の世界を作ろうとしたのです。


▲△▽▼


馬渕睦夫さんが何度も言っていますが、国際化とグローバリズムとは全く違う概念なのですね。

それは航空機で欧米に数時間で行ける時代だから、海外との輸出入も旅行も技術交流や留学も簡単になった。
コカコーラやネスカフェやマクドナルドは世界中どこでも手に入る様になった。

しかし、それはあくまでも国際化であってグローバリズムとは関係ない

移民を入れたらチャイナタウンとかモスクを中心とするイスラム人居住区みたいな国家内に別国家ができてしまうので、唯の国際化とは次元が違うものなんですね。

ユダヤ資本は利潤を最大化したいだけなので、

・言語はすべて英語に統一して、それ以外のローカルな諸言葉はすべて廃止する
・民族ごとに違う習慣や伝統はすべて止めさせて、世界標準の生活様式に統一する
・賃金は民族によらず、すべて同一作業同一賃金にする

という環境を作りたいのです。


グローバリズム=共産主義

というのは、どちらも 1% 対 99% の世界を作って、

99%の中では民族による賃金や福祉等の差別はしない、中国人でも日本人でも賃金はすべて同一にする(賃金は安い方に統一する)

という事なのですね。

それで、レーニンやスターリンやトロツキーの様な反民族主義のユダヤ系のグローバリストが共産革命を起こし、ユダヤ資本が共産国家を支援した

馬渕睦夫さんはそういう歴史的事実を信頼できる資料と客観的事実に基いて具体的に指摘したというだけです。



2. 中川隆[-12524] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:28:51: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
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アーリア人の赤ん坊を増やせ ! / 同種族を憎むように改造されたアメリカ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html
フリーダが持っていた出生の秘密

Lebensborn 1Nazi girls 6

(写真 / ナチス政権下りの理想的ドイツ人少女)
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  最近のテレビでは予算不足なのか、昔のビデオを集めて懐メロ番組を流す時がある。大きい子供を持つ父親とか母親でも、往年のスターやアイドル歌手を再び目にして大はしゃぎするんだから、若い時の熱狂は一生消えないのだろう。でも、贔屓とするアイドル歌手がいなかった筆者には、残念ながら一緒に懐かしむことができない。とは言え、筆者にも松田聖子とか中森明菜を好きだった友人がいた。しかし、同級生にアバ(ABBA)とかノーランズ(The Nolands)のファンはいなかったから寂しかった。それでも楽しい思い出は尽きない。

今のCDとは違って、LPのアルバムだとジャケットのサイズが大きくて、それぞれのミュージシャンが独自のアイデアを用いてデザインしていたから、ある種の藝術みたいな趣があった。小学生の頃、近所のレコード店に行ってアバのアルバムを注文し、そのレコードが届いたとの知らせを受けた時は嬉しかった。早速、自宅のオーディオ・セットにレコードをかけ、「ヴレヴー(Voulez Vous)」とか「エンジェル・アイズ(Angel Eyes)」「アズ・グッド・アズ・ニュー(As good as new)」といった名曲を毎日のように聴いて、「コンサートに行けたらなぁ」と悔しかったのを今でも覚えている。

Nolans 1ABBA 4

左: ノーランガ
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右: ABBA
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  日本でも1970年代後半から80年代初頭にかけてアバは人気で、ディスコ・ブームも重なっていたから、「ギミ ! ギミ ! ギミ !」とか「ダイシング・クィーン」がよく流れていた。ちなみに、筆者が印象に残っているディスコ・ミュージックと言えば、松田優作のTVドラマ『探偵物語』で使われていた「ディスコ・トレイン(Disco Train)」(歌 / セクシー・リズム・セクションズ)と、沖雅也・柴田恭兵が共演していた『俺たちは天使だ』に挿入されていた「You Can Do, I Can Do」である。(これらの曲はユーチューブにアップされているので、確認したい方は曲名をタイプして検索すれば試聴できます。たぶん、「あの曲か!」と想い出す人もいると思う。) 日本でも成功を収めたアバは、1980年代初頭に解散してしまったが、各メンバーは独自に音楽活動を始めていた。リード・ヴォーカルのアグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Fältskog)とフリーダ・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)は、そけぞれソロ・シンガーの道を歩むようになていった。

  個人活動を始めたフリーダであったが、新曲の「I know there's something going on」はそれほどヒットせず、アバ時代と比べると凋落の様相を否めない。しかし、彼女はドイツ貴族の奥方となった。アバのメンバーであった頃、フリーダはキーボード奏者のベニー(Benny Andersson)と結婚していたが、まもなく離婚してしまい、それでもバンド活動を続けていたという過去がある。人気絶頂で「アバ」というバンドが解散し、ソロ・シンガーになったフリーダは、造園家で伯爵の称号を持つハインリッヒ・ルッツォ・ルウス(Heinrich Ruzzo Reuß)と結婚し、スウェーデンの歌姫からドイツ人のお妃(プリンセス / Prinzessin Reß von Plauen)へと変身していたのである。普通なら、人も羨む華やかなシンデレラ・ストーリーとなるのだが、フリーダには人に話したくない出生の秘密があった。

Anni Frid 2Anni Frid & Benny 2Heinrich Ruzzo Reuss 1

左: アグネッタとフリーダ
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中央: 夫婦となったフリーダとベニー
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右: 再婚したフリーダと夫のハインリッヒ・ルッツォ・ルウス
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  1945年11月に生まれたアニ・フリード(フリーダ / Anni-Frid Lyngstad)は、シニ・リングスタッド(Synni Lyngstad)を母に、アルフレッド・ハーゼ(Alfred Haase)を父に持つ。母のシニは片田舎に住むノルウェー人女性で、まだ18歳の乙女であった。一方、父親のアルフレッドは、ノルウェーを占領したドイツ軍に属する24歳の軍曹であったという。彼は派遣された街でこの娘と出逢い、彼女の姿に惹かれてしまった。この娘に惚れてしまったアルフレッドは、ジャガイモの詰まった袋をプレゼントして交際を始めたそうだ。

現在では笑い話になってしまうが、戦時下の1943年、ノルウェーでは食糧不足が深刻だったので、こうした贈り物は大変貴重であったらしい。逢い引きを続ける若い二人が親密になるのに時間はかからず、彼らは程なくして肉体関係を結ぶようになった。だが、アルフレッドには彼女を幸せに出来ない事情があった。何と、彼は故郷に妻子を持つ既婚者であったのだ。(Ross Benson, "Abba girl's Nazi secret", Daily Mail)

Synni Lingstad 1Alfred Haase 1Alfred Haase & Frida

(左: シニ・リングスタッド / 中央: アルフレッド・リングスタッド / 右: 父のアルフレッドと再会したフリーダ)

  不倫と敗戦は若い二人を引き裂く。1945年、シニは身籠もるが、恋人のアルフレッドは祖国に帰還することになった。悪い時に悪い事は重なるようで、さらなる不幸が彼女を襲うことになる。ノルウェーの寒村に残されたシニは、周囲からの冷たい視線を浴びることになった。村の者は皆、誰が赤ん坊の父親なのかを知っていたので、彼女が街を歩けば、人々は彼女に向かって「このドイツ人の淫売女 !」と罵ったそうだ。敵国の男と情事を交わしてしまったシニとその母アグニーは村八分となり、時が経つにつれ人々からの仕打ちに耐えきれなくなった。そこで、地元に居場所を無くした親子は、隣国のスウェーデンに逃れ、新たな生活を求めるようになったという。(当時、母のアグニーは夫を亡くした寡婦であったそうだ。) スウェーデンに新居を構えたシニは、ウェイトレスとして働くが、間もなく腎臓を患い、21歳の若さで亡くなってしまう。母を失ったフリーダはまだ2歳であった。こうして幼いフリーダは祖母の手で育てられ、寂しい子供時代を過ごしたそうだ。大人になってから、彼女は幼年時代を振り返っていたが、友達はそう多くなかったという。フリーダは父がドイツ軍人であると聞かされていたが、祖母のアグニーは偽の話を孫に伝えていた。すなわち、父のアルフレッドは海路でドイツに帰る途中、船が沈没して亡くなったと教えていたのだ。後にフリーダが父の真相を知ったのは、アバが人気を博していた1977年の頃であったという。

Anni Frid 3Anni Frid 1Anni Frid 7

(写真 / 若い頃の「フリーダ」ことアニ・フリッド)
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アーリア人の赤ん坊を繁殖させる施設

  ドイツ軍人のアルフレッド・ハーゼがノルウェー人娘のシニ・リングスタッドと恋に落ちたのは、偶然の出来事だけではなかった。彼の恋愛は「レーベンスボルン(Lebensborn / 生命の泉)」計画の一環でもあったのだ。エリート組織たる親衛隊(SS /Schutzstaffel)を率いていたハインリッヒ・ヒムラー(heinrich Himmler)は、第三帝國を支える金髪碧眼のアーリア人を増やすことを目論み、ドイツ各地に「レーベンスボルン・ホーム」を創設した。ヒムラーの考えでは、理想的な容姿を備えたエリート部隊の男性が、健康で若いアーリア人の女性と肉体関係を結べば、アーリア人の赤ん坊がたくさん生まれ、ゲルマン民族の肉体が維持できるらしい。もし、個人の自由に任せていると、“へんちくりん”な種族と結婚してしまうから、政府の特別機関が制禦せねばならないという訳だ。こうして、優秀な北方種族の純血性を守り、その優越種族を繁殖させるためには、特別な制度と施設が必要である、との思想がドイツに浸透し始めたのである。

Heinrich Himmler 1Lebensborn 5
(左: ハインリッヒ・ヒムラー / 右: レーベンスボルン・ホームで育つアーリア人の赤ん坊)

  ヒムラーは理想の種族でドイツ帝國を満たすことに心血を注ぐ一方で、彼の民族が持つ血統を穢す劣等人種を憎んだ。ドイツ民族の将来を憂いたヒムラーは、薄汚いスラヴ系民族やタカリ民族のユダヤ人、浮浪者のジプシーなどを排斥しようと決心したのである。彼はまた、腐敗と悪徳が蔓延る都会を嫌悪したので、レーベンスボルン・ホームを美しい田園地帯に建てることにした。現在の日本人にはピンとこないだろうが、ワイマール共和国時代には、ホモ風俗とかキャバレーが花盛りで、おぞましい繁華街には売春婦がたむろっていたというから、ヒトラーやヒムラーはこうした悖徳(はいとく)をドイツ全土から一掃した。「極悪人」の烙印を押されたヒトラーだが、意外にも彼は潔癖症で、倫理・道徳的腐敗に対して峻厳だった。美術を愛したヒトラーからすれば、ゲイ同士のセックスとかストリップ劇場などもっての外。ところが、社会道徳など一顧だにしない世俗的ユダヤ人の中には、ゲイとかレズビアンを用いてキャバレーを経営したり、変態趣味やSMショーとかを商売にして儲ける奴がいたそうだ。

Magnus Hirschfeld 2Weimar Germany 2
(左: マグヌス・ヒルシュフェルド / 右: 男同士でダンスを楽しゲイのむカップル)

  さらに、マグヌス・ヒルシュフェルド(Magnus Hirschfeld)というユダヤ人学者がセックス学(sexology)で有名だったから、ヒトラーやナチ党の愛国者たちが激怒したのも当然だった。この状態は、メル・ゴードン(Mel Gordon)の著書『官能的パニック(Voluptuous Panic)』を繙けば一目瞭然だ。日本人の読者は、ヒルシュフェルドが丸裸の女性を椅子に坐らせ、その手で彼女の性器を開闢させている写真に驚くだろう。こうした本は大学図書館にも無いから、ほとんどの日本人はワイマール期の社会風俗を知らずに、ナチ・ドイツの風紀取締を非難することになる。まぁ、性器丸出しのゲイやレズビアン、性的な幼児趣味、SMプレー、といった写真が満載の本なんて、公共図書館に置くことができないから、大学生でも第三帝國以前のドイツを理解していないのだ。(筆者はこの本を所蔵しているが、その中に掲載されている写真を紹介できない。ブログ運営のライブドア社の検閲が厳しいしこともあるが、実際、あまりにも卑猥な写真なので、いくら鈍感な筆者でも掲載をためらってしまうのだ。どうか、ご勘弁頂きたい。)

  勇敢なアーリア人戦士と美しいアーリア人の母が住むドイツを理想郷としたヒムラーであったが、いくつかの強引な政策もあったから、批判者が出て来ても不思議ではなかったし、排除されたユダヤ人から恨まれることも当然あった。しかし、彼の方針は英米で行われていた社会政策と同じものであったし、現在の福祉制度に通じているから興味深い。レーベンスボルン計画では、由緒正しいSS隊員と健康なアーリア系女性との婚姻が奨励されており、レーベンスボルン・ホームは未婚女性とその赤ん坊、あるいは既婚者との不倫で子供を産んでしまった女性などを保護し、彼らの面倒を見ていたという。ナチ党は逞しい金髪の戦士と家庭を守る母親を理想とし、帝國の未来を担うゲルマン人の子供を産むよう宣伝したし、そうした出産を半ば国民の義務と見なした。こうしたナチスの方針が「悪」なら、日本の武士は単なる殺人鬼だし、家庭を守る専業主婦も否定されねばならない。

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(写真 / ゲルマン系の母親と赤ん坊)
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  そこで、ゲルマン人の出生率を上げるため、ドイツは幾つかの社会政策を推進した。例えば、10歳以下の子供を3人以上持つ母親は、商店の順番待ちの列で優先的に扱われる「名誉母親証」を与えられたという。また、地方の行政当局は、こうした母親達に家賃と公共料金の割引をする制度を採用し、これから家庭を築こうとする若いカップルには、人種的適合性が証明されれば、独身者からの特別税を財源とした融資が行われたそうだ。子供が一人生まれるごとに融資額の四分の一が免除されたという。ということは、四人目を持てば借金がチャラになるということだ。(キャトリーン・クレイ / マイケル・リープマン 『ナチスドイツ支配民族創出計画 』柴崎昭則 訳、現代書館、1997年、 p.92)

  レーベンスボルン・ホームに熱心だったヒムラーと開業医のグレゴル・エーブナー(Gregor Ebner)は、既婚未婚を問わず、とにかく良い血統を持つゲルマン人の子供を増やしたかった。そこで、赤ん坊を養うことが困難な母親を受け容れて、レーベンスボルン・ホームの看護婦が代わりに養育する場合もあったという。とにかく、レーベンスボルン・ホームは魅力に満ち溢れていた。施設は中世の城を思わせる外観をもち、田園地帯にある高級リゾート・ホテルのようでもあった。当時、出産費用は一人頭400マルクであったが、エーブナーは素晴らしい血統を持つ1000名の子供を確保できるのなら、さしたる出費ではないと考えていたそうだ。資金は様々な方法で調達されていて、レーベンスボルン協会の会員からも徴集していた。会員数は1万3千人。そのうち8千名がSSに所属し、766名は各地の警察組織に属する者であった。会費は月に最低27マルクであったが、父親としての義務を果たしていないSSの隊員は、罰としてなのか、余計に会費を払わねばならなかった。しかも、28歳までに最低2人の子供を持たないSS隊員は、より多くの金額を払わねばならなかったそうだ。(上掲書 p.105)

Gregor Ebner 1German girl 2Himmler & daughter 1

(左: グレゴル・エーブナー

中央: ドイツ人の若い女性
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右: 少女と一緒のハインリッヒ・ヒムラー
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  それでも、レーベンスボルン計画を維持するには資金が足りなかったようで、1939年、経済省は拡大する赤字を補填すべく100万マルクの補助金を交付したという。日本政府も少子化対策を取るなら、ナチ・ドイツのレーベンスボルン計画をちょっとは参考にすべきだ。国会議員や地方議員、政府の役人はこぞって児童施設の増加を叫ぶが、肝心の国民はセックスをしても結婚しないし、子供すら産まないから少子化が益々深刻となっている。多少のお金をあげても日本人女性は妊娠を嫌がるし、幼稚園が充実すれば「待ってました」とばかりに外で働くから、専業主婦が減って職業婦人が増えてしまう。子供を増やして生活がキツくなるんなら、子供を産まずに所得を上げようとするのは人情だ。ちょっと脇道に逸れるけど、日本の税制は将来を担う国民に対して酷だ。若い夫婦が借金して新居を構えても、その家屋に固定資産をかけて多額の税金を搾り取るんだから、幸せな家庭を築こうなんて思わない。これじゃあ、まるで懲罰金だ。住宅ローンを返済しながら、年金、国民健康保険、市民税、県民税、ガソリン税の二重課税、自動車取得税、車検に加えて消費税のアップじゃ、重税を払うために働いているようなものである。もし、子供を4、5人産んだら住宅借金を棒引きにして、固定資産税も軽減ないし免除となれば、若い夫婦もちょっとは夜の営みに励むかも知れない。

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(写真 / ナチス時代のドイツにおけるゲルマン系少女たち)
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  ナチ・ドイツの崩壊でハインリッヒ・ヒムラーの評価は最低だが、彼がSSのために考案した儀式には注目すべき言葉がある。夏至と冬至の儀式に集まった民衆は、次のように唱和しなければならなかった。

  我々は祖先を尊敬し、その前で跪く。祖先の血は、使命と責務として我々の中に流れている。

  血縁共同体によって、男は遺産を守る義務を負わねばならない。
  存在することの意味は、遺産を結実へと展開することである。
  生命の輝きを保つ聖なる場所を守るのは、家族である。
  男とその妻は、生命の芽を授け、それを担い、そして伝播させる。
  我々の子供たちは、我々の交わりと存在の証明である。
  そして、我々の孫たちは、我々の偉大さを証拠立てるであろう。
  (上掲書 p.64)

  ドイツ史を研究する日本の左翼学者は、頭ごなしにナチスを糾弾するが、ドイツ国内でアーリア系、つまり北方種族のドイツ人が増える事に問題は無いはずだ。確かに、ポーランドを侵掠し、現地人を弾圧したことは非難されるべきだが、侵略戦争なら歐米各国とも常習犯である。英国はアジアやアフリカに宏大な植民地を獲得し、現地の有色人種を蔑み、レイシズムに基づく秩序を形成して、現地人を奴隷の如くこき使っていた。インド人やビルマ人、アフリカ人からすれば、ドイツ人もイギリス人も変わりはないし、自由や博愛を掲げていたフランス人など完全に偽善者だ。ドイツ人を非難するアメリカ人だって、国内では黒人を家畜として働かせていたし、黒人との混血を忌み嫌い、一滴でも黒人の血が混じった子供は白人と見なされなかった。これは、ユダヤ人の祖父母を持つユダヤ系混血者を「ドイツ人」と見なさなかったナチスと同じである。アメリカ人は嫌がるけど、ナチ党はアメリカの人種法を参考にしていたのだ。当時の西歐世界はどこでも人種差別が横行していたし、他国への侵掠とか劣等人種の征服などは伝統的行為であったから、殊さら騒ぎ立てる程のものでもなかった。

恨み骨髄のユダヤ人

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(写真 / ユダヤ人の集団)

  しかし、ドイツやその他の西歐諸国に住むユダヤには赦しがたかった。彼らは千年以上も異国にタカってきた寄生民族なのに、自らを正当な「ドイツ国民」と考えていたのだ。しかし、ナチ党が台頭すると、如何なる高位高官のユダヤ人も単なる「ユダヤ人」に貶められたから、大騒ぎしても無理はない。以前なら、強欲な領主や君主を札束でビンタすれば、迫害の手が緩んだし、条件次第では引き続き居住が許され、有能なユダヤ人であれば、秘書とか財務官といった手下になることができた。ところが、ヒトラーは甘っちょろい貴族とは決定的に違っていたのである。彼はユダヤ人の袖の下に屈しなかったのだ。ナチスは法律を以てユダヤ人を炙り出した。例えば、


(1) 氏名変更の禁止。ユダヤ人がドイツ風の名前をつけることを禁止したのである。

(2) ユダヤ人の商店はユダヤ人が所有していることを隠してはならない。

(3) ユダヤ人組織は当局に登録せねばならない。

(4) ユダヤ人は自分がユダヤ人であるとこを示す書類を持ち歩かなければならない。

(5) ユダヤ人は不動産業、金貸し屋、工場経営、調査業、結婚仲介業、看護婦、巡回販売員などを営んではならない。

(6) ユダヤ人はドイツ人の劇場に入ってはならない。

(7)ユダヤ人の子供はドイツの学校から排除される。


  これ意外にも様々な禁止条項があった。こうした条例は他国にも適応され、フランスがドイツに占領された時、そこに住むユダヤ人はケルト系のフランス人と区別された。すると、今までフランス人が営んでいると思っていた商店が、実はユダヤ人の店であったとわかってフランスの庶民が驚く、といったケースがあったそうだ。しかも、「こんなに多くあったのか !」と驚嘆したというから面白い。反ユダヤ主義の伝統が根強かったフランスでは、ドイツ人によるユダヤ人迫害に協力する人が少なくなかった。忌々しいユダヤ人を排除してくれたんだから、征服者にしては「良い事」をしたものだ。

  第三帝國の崩壊はドイツ人にとって悲劇であったが、戦勝国の英米にとってもある意味「敗北」であった。経済的に疲弊した英国は別にして、国内に損害が無かった米国も意外なしっぺ返しがあったのだ。あろうことか、ナチスを悪魔にして糾弾したアメリカ人は、自国内で人種差別が出来なくなってしまった。ナチスのユダヤ人迫害はドイツ人の独創ではなく、以前から継承されてきた排除思想が基になっていたのに、まるでドイツ人だけがユダヤ人を虐待したかのような印象操作が戦時中に行われていたのである。ドイツ人が如何なる人種政策を取ろうとも、アメリカ人はそれとは無関係に、従来の人種差別を継続してもよかったのだ。なぜ戦勝国が敗戦国のせいで人種混淆社会になるのか? そもそも、合衆国の白人兵はユダヤ人を救うために参戦したのではないし、黒人との平等を求めて日本兵と戦ったわけでもない。ところが、奇蹟的に生き残った白人兵が帰国すると、国内にはユダヤ人を始めとする戦争難民が押し寄せ、ついでにアジア系移民に関する法的制限も撤廃されてしまったのである。

Jewish children 002Jewish Immigrants 1
(左: ユダヤ人の子供 / 右ユ: ダヤ人の移民)

  激戦に勝ったら厭なユダヤ人を引き受けることになるなんて、まったく馬鹿げている。同じ種族のドイツ人、特に戦争孤児や夫を亡くした母子家庭のゲルマン人なら受け容れてもいいだろう。事実、ジェイムズ・イーストランド上院議員は、戦争で住処を無くしたドイツ難民を優先しようと述べていた。ところが、優先的にやって来たのはむさ苦しいユダヤ人とか、東歐や南歐からの貧民、その他の不愉快な劣等民族であったから、地元のアメリカ人は眉を顰めていた。案の定、住みついたユダヤ人家庭からは筋金入りの共産主義者や、ピンクの左翼、リベラル派気取りのゴロツキ、空論を弄んで社会に害をなす知識人、白人社会にケチをつける左巻きのジャーナリスト、真っ赤に染まった藝能関係者などが輩出されたのである。以前、当ブログで紹介したように、公民権運動で黒人を焚きつけたのはユダヤ人活動家であったし、異人種混淆を奨励する映画を作っていたのもユダヤ人であった。

  映画界やテレビ局、その他の娯楽産業を牛耳ったユダヤ人は、盛んにナチ・ドイツを侮蔑し、ドイツ人が犯したユダヤ人への暴虐、迫害、ガス室殺人などをアメリカ人に吹き込んだ。それにより、上流ないし中流家庭の白人たちは、兇悪犯のドイツ人を蛇蝎の如く嫌うようになってしまった。映画に現れるナチ高官は決まって残忍冷酷で、米軍に銃を向けるドイツ兵は、皆ロボットのように上官に従い、ケダモノのように民間人を殺しまくる。一方、アメリカ兵は人情味に不溢れた正義漢として描かれている。南洋で投降する日本兵を撃ち殺す卑劣なアメリカ兵とか、絨毯爆撃で女子供を皆殺しにするパイロット、焼夷弾で民間人を焼き殺すよう命じる米軍将校などは描かれない。もちろん、占領下の東京や横浜で日本人女性を強姦する黒人兵とか、少女を凌辱する白人兵などは無視。悪いのはナチズムのドイツ人とファシズムの日本人のみだ。

Kristen Stewart 6Teresa Palmer 7Tiffani Thiessen & Alexandra Daddario 1

左: 二枚クリステン・スチュワートとテレサ・パーマー
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右: 二枚ティファニー・ティッセンとアレクサンドラ・ダダリオ
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  こうしたプロパガンダ映像で洗脳されたアメリカ白人は、同種族のドイツ人を殊さら憎み、異人種であるはずのユダヤ人に親近感を覚える。しかし、日本人の目から見れば、西歐系アメリカ人とアーリア系ドイツ人は同胞に見えてしまう。もし、第二次大戦を闘った高齢の白人が子供や孫の配偶者を選ぶとしたら、必ず同種族の西歐人を望むだろう。戦争が終わって帰還した白人兵は、たいてい白人娘と結婚し、自分と“似た”子供をもうけた。ここでは直接関係無いけど、白人俳優には他人なのによく似ている者がいる。例えば、女優のテレサ・パーマー(Teresa Palmer)とクリステン・スチュワート(Kristen Stewart)は、アメリカ人の目から見ても似た者同士だ。また、映画「ベイウォッチ」に出演したアレクサンドラ・ダダリオ(Alexandra Daddario)と、TVドラマ「ホワイト・カラー」で人気者となったティファニー・ティッセン(Tiffani Thiessen)も、ちょっと見ればよく似ている。これは彼女たちの親が同じ白人同士で結婚し、祖先からの遺伝子を守ってきた結果、同じタイプの容姿が保存されたという実例ではないのか。

住むなら白人地区

  口では綺麗事を述べる人でも、自分のお金を使う時には本音に忠実となる。例えば、いくら南鮮人を擁護する左翼評論家でも、自分の財布で自家用車を買おうとすれば、韓国の「現代(ヒュンダイ)」ではなく、トヨタとかホンダの日本車、あるいはメルセデス・ベンツやBMWいった高級車を選んでしまうだろう。第一、朝鮮のクルマなんか恥ずかしくて友達に見せられない。また、米国に派遣された日本人社員が現地で自宅を購入したり、子供の学校を探そうとすれば、おのずと白人の住宅地に目を向け、グレた子供が少ない白人学校を選んでしまうだろう。アメリカの白人だって「レイシスト」の日本人に賛同するはずだ。しかし、現在では、北方種族だけのドイツ村とか、白人ばかりが住む高級住宅地は評判が悪い。でも、日本人の不動産鑑定士が土地を調べれば、黒人やヒスパニックがひしめく地域より、西歐系アメリカ人だけが住む地域の方に高い評価額をつけてしまうだろう。実際、裕福なアメリカ白人は白人が圧倒的に多い高級住宅地に屋敷を構える。以前、ビル・クリントン夫妻の豪邸を紹介したが、黒人やヒスパニックに同情的なリベラル・カップルは、有色人種が少ないニューヨーク郊外の白人地域に新居を購入していたのである。

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左: アメリカにやって来るヒスパニック移民
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右: アメリカにやって来るムスリム移民 )

  アメリカの白人は敗者の日本人に向かって、「オレ達の国は自由を尊ぶデモクラシーなんだ。お前らみたいに奴隷根性で暮らしている未開人じゃない」と説教するが、彼らに果たして本当の自由があるのか? 例えば、ヒムラーが夢見た金髪碧眼のゲルマン人ばかりで形成される田園地帯が現れたら、裕福な白人層は我先にと土地購入に奔走するだろう。幼稚園や小学校には黒いアフリカ人や褐色のアラブ人が皆無で、どの子供も白い肌に薔薇色の頬をし、大きな青い瞳を輝かせている。こうしたブロンドの幼児は、縮れ毛の黒人が発する独特のアクセントで喋らず、卑猥なダンスに興味を示すことも無い。健全な白人家庭が多くなれば、刑務所に収監された父親とか、福祉金に頼るアバズレ女房、麻薬でラリっているストリート・ギャング、売春婦と大して違わないズベ公、なども激減するだろう。貧困家庭の黒人生徒なんて、卒業後は刑務所に就職するため学校に通っているようなものだ。白人だけの共同体が社会的に公認されれば、リベラル派を気取ったインテリ夫婦だって、アーリア人村に引っ越したくなる。

そもそも、北方種族ばかりのドイツになったからといって、生粋のドイツ人がどんな損害を受けるというのか? 日本人のみならず、西歐系アメリカ人は冷静に考えてみるべきだ。例えば、ドイツ人に生まれた事を誇る親が、金髪を靡かせるアーリア人だらけの幼稚園を訪れて、「うぁぁぁ〜、北歐種族だらけだぁ ! 怖ろしい! こんな幼稚園にウチの子を入れることはできないわ!」と叫ぶのか? たぶん、それとは真逆だろう。もしかしたら、「まぁ、何て素晴らしい幼稚園なの ! どの子もみんな可愛らしいわ! ウチの子もここに通わせたい !」と、うっかり口を滑らすんじゃないか。「ゲルマン系」「アーリア系」「アングロ・サクソン系」と何でもいいが、西歐系アメリカ人はなぜ自分たちの理想を追求しないのか不思議である。

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(写真 / 忌み嫌われるアーリア系の幼児たち)
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  もし、アメリカが「自由の国」ならば、黒人やユダヤ人がギァアギャア騒ごうとも、好ましいタイプの白人だけで住宅地を持ったり、北方種族だけの小学校を作ったり、会員制の白人ゴルフ・クラブを開設すればいいじゃないか。民間組織における「受容」と「排斥」は自由であるべきだ。建国以前、イギリス人入植者は自分の好きなように神様を拝めるよう渡ってきた。彼らは新大陸に根づき、アングリカン教会から指図されず独自の教会を設立し、好き勝手な聖書解釈を行っていたのである。それなのに、アングロ・サクソン入植者の子孫は、自分の好きな者たちだけと暮らすことを禁止され、ユダヤ人が提唱する反米教育や不道徳な価値観に抵抗できない。英国のプロテスタント信徒はカトリック教会に反抗できたのに、ユダヤ人団体の前では隷属するなんて情けない。プロテスタントはユダヤ人の下僕なのか?

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(左: 歓迎されるユダヤ人の大人たち / 右: 大切にされるユダヤ人の子供たち)

  ユダヤ人が哀れな難民として入国した頃は、借りてきた猫みたいにおとなしかったが、この異民族は財力や権力を身につけると、次第に地元民の西歐人へ文句をつけるようになった。白人ばかりのコミュニティーはレイシズムの温床だから駄目。アングロ・サクソン人を始めとするゲルマン種族を称讃するのは、反ユダヤ主義に繋がるから禁止。米国をキリスト教国と定義することは、信仰の自由を阻碍することになるから破棄。西歐文明、とりわけイギリス文化を継承することは、多民族・多文化主義を否定するものだから、テレビや学校の教育プログラムから抹消。こんなアメリカ社会に変貌しているのに、アメリカの白人はフランクフルト学派の毒が廻っているせいか、まったく気づかない。その前に、「ネオ・ナチ」という言葉を聞くだけで震え上がってしまうのだ。ただ、筆者の言うことを理解するアメリカ人も居ることはいる。しかし、彼らは社会的地位を失うことを恐れるから、絶対に賛同することはない。こんな具合だから、綺麗事でしかない理想を語るリベラル派が幅を利かせているのだろう。

白人の赤ん坊は高い

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(写真 / レーベンスボルン計画で理想的モデルとされそうなアーリア人の男女と家族)
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  とにかく、レイシズムを否定するアメリカ社会であるが、養子縁組となれば白人の赤ん坊を望む白人夫婦は多い。もし、アメリカにレーベンスボルン・ホームのような養育施設があって、ヒムラーのように純粋なゲルマン人の赤ん坊を斡旋してくれたら、感涙にむせるカップルがたくさん出てくるだろう。事実、白人の赤ん坊は需要過多で、供給が極めて少ない。だから、白人の赤ん坊は値が高く、その次に白人系のヒスパニック、アジア系と値段が下がり、黒人は最低価格だ。幼くても買い手が付かない。売れ残った黒人の子供が成長してしまえば、もう絶望的である。子供が欲しい白人カップルは、しぶしぶ黒人を引き取るが、ユダヤ人カップルはユダヤ人の養子にこだわるし、異民族の子供を欲しがらない。ユダヤ人は二重思考を恥としないからね彼らは白い肌の子供を優先的に迎え入れ、たまにへそ曲がりのユダヤ人カップルが黒人を養子にする程度。しかし、西歐系白人に対しては人種平等を押しつける。(それなら、パレスチナ難民の子供を養子に迎えればいいのに。)

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左: 黒人の赤ん坊
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中央: 支那人の赤ん坊
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右: ヒスパニック系の子供
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   気前よくユダヤ難民を受け容れたアメリカ人は、本当に愚かである。自分の国なのに“くつろぐ”ことができず、常に異国に居るような気分になるし、周りを見渡せば黒人、アラブ人、南米人、支那人、インド人などが目に付く。しかも、言論の自由があるはずなのに、絶えずユダヤ・メディアの検閲が光っている。そして「自由」と「デモクラシー」を掲げて対外戦争をすれば、その都度、望みもしない難民がやって来るのだ。第二次世界大戦でユダヤ人、朝鮮戦争で朝鮮人、ベトナム戦争でベトナム人、イラク戦争でイラク人、ソマリアの紛争ではソマリア人が雪崩れ込んで来た。こんな結末なら、ナチ・ドイツを徹底的に破壊しなけりゃよかった、と歎きたくなる。日本人が高齢のアメリカ白人を捕まえ、「1950年代以前のアメリカと1960年代以降のアメリカと比べたら、どちらが良いのでしょうか?」と尋ねたら、彼らは声を小さくして「そりゃあ、戦前の方さ」と囁くだろう。「でもなぁ、ワシの孫は黒人との混血児なんだよ」という悲しい告白もあったりして、気の毒なインタビューになったりする。

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(写真 / 高値がつきそうな白人の子供)
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  日本人で歴史を研究する者は圧倒的に文系が多いから、歴史を違った角度から考えるという習慣がない。自然科学や数学を専攻する者なら、自然現象をあらゆる角度から考察し、様々な仮説を立て実証したり、研究したりするだろう。たとえ、「定説」であっても、それを疑い、自分で検証するし、学会の大御所が提唱した仮説といえども決定的ではない。ところが、歴史学会に所属する学者だと、長老教授の「史観」に逆らうことはないし、「定説」通りに論文を書けば、やがて正教授になれる。何も無理して有力教授に挑戦する必要はないし、黙って従えば自分も大御所になれるんだから、学会の主流に逆らうのは愚の骨頂だ。アメリカの学会も似たり寄ったりで、かつてアングロ・サクソンが主流だった米国はユダヤ人の天下になってしまった。ナチスにだっで見倣う点はあるだろう。アメリカ人はナチスのユダヤ人虐殺を非難するが、その立派なアメリカには中絶賛成派の「プロ・チョイス」勢力が存在する。「赤ん坊殺し」をチョイス(選択)の問題にするんだから驚く。たしかに、胎児は喋らない。いや、喋ることができない。母親に殺された赤ん坊は天に訴えるしかないのだ。それなら、未婚の母から捨てられた子供を養育したレーベンスボルン・ホームの方が遙かにマシだ。ユダヤ人の子供を殺すことが残酷なら、まだ母親のお腹にいる赤ん坊を殺すことだって悪である。案外、中絶賛成派のフェミニストは、ヒトラーが待つ地獄に直行するかも知れないね。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html


ナチスが嫌った醜い藝術
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頽廃芸術が横行したワイマール時代

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(上絵画 2枚 / ヒトラーの作品)

  今回のブログは1、2年前から発表しようかどうか迷った記事である。ナチス時代のドイツを知るには、ワイマール時代の社会状況を知る必要があるのだが、その一部があまりにも卑猥なのであからさまに伝えることが出来ない。しかも、ブログ運営会社のライブドアによる「検閲」があるので、たとえ「歴史的事実」でも「破廉恥な現実」を掲載すれば、当ブログの閉鎖を余儀なくされるからだ。それでも、歴史の真相を求める日本人には、偏向史観ではない具体的で“生々しい”情報が不可欠なので、肝心なエロ絵画を載せられないが、とりあえず紹介することにした。

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(左: アドルフ・ヒトラー / 中央: カール・トルッペ Karl Truppe と Franz Triebsch によるヒトラーの肖像画 / 右: アルベルト・シュペーア )


  第三帝國の総統となったアドルフ・ヒトラーが、若い頃、画家を志していたことは有名である。したがって、この伍長上がりの政治家は美術に関しては少々うるさく、自らのドイツ帝國を偉大な藝術で飾ろうと思っていた。ヒトラーがベルリンを壮大な首都にしようとした「ゲルマニア世界都市計画(Welthaupstadt Germania)」は有名で、その担当者に建築家のアルベルト・シュペーア(Berthold K. H. Albert Speer)を据えたこともよく知れられている。現在では、ヒトラーと言えば「極悪人」というレッテルが貼られているので、やることなすこと一切が非難の的になっている。だけど、もし敗戦がなく、目論見通りベルリンの再開発が遂行されていたら、たぶん絢爛豪華な帝都の誕生となったであろう。

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左: ドイツ人の少女
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中央: ナチス時代のドイツ人女性
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右: ナチ党のポスター
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  もっとも、追い出されたユダヤ人は恨み骨髄だ。しかし、好ましいアーリア人で賑わう街はヨーロッパ諸国の注目を集め、不動産価格が高騰するのは間違いない。きっと、好奇心旺盛な日本人も、世界に冠たる偉大な都市を見物しようと、ベルリンに押し寄せるんじゃないか。現在の歐米人のみならず、日本人も「ユダヤ人の視点」でしかドイツ史を観ないけど、もし、ゲルマン人の目でヒトラーの帝國を眺めれば異なった感想を持つはずだ。

例えば、仮にドイツの住民がアーリア系ドイツ人ばかりになったとする。そうなると、いったい誰が困るというのか? 日本人観光客で、金髪碧眼の北歐人が集まる商店街とか教会を眺めて、「気持ち悪る〜い」と感じる人はいないだろう。日本人女性だと、ゲルマン人の子供が楽しく遊ぶ幼稚園を見て、「アっ! かわいぃ〜い」と声を上げるんじゃないか。日本人の亭主だと、ブロンド美女の保母さんに“うっとり”する姿を女房に見られて、「アンタ、どこ見てんのよ !」と叱られたりしてね。

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左: ヒトラーとドイツ人の少年
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ドイツ軍士官
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右2枚: 理想的なアーリア人女性
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それに、ドイツを訪れたオランダ人やイギリス人の観光客が「あれ〜ぇ? 白人ばかりだ。ユダヤ人がいなくて寂しいなぁ」と愚痴をこぼすのか? ユダヤ人が大嫌いな愛国的フランス人なら、「アレマン人(ドイツ人)は素晴らしい ! ぜひ、我が国もユダヤ人を駆逐しよう !」と叫ぶに違いない。また、 ユダヤ人を大学やホテルから閉め出したアメリカ人も、同種族のドイツを旅行して感動するはずだ。帝國陸軍から派遣された日本人だって、ゲルマン人ばかりのドイツに違和感は無く、ユダヤ人が居なくても不便はない。ちょうど、江戸や大坂に朝鮮人が居なくても寂しくないのと似ている。

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左: ドイツ人の少年
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中央: ドイツ軍士官の家庭
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右: 1950年代のドイツ人女性
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  ナチ党やヒトラーの評判が悪いのは、ドイツを敗戦に導いたことにあるのだが、ユダヤ人や左翼分子が歐米の学会を牛耳っているのも、見過ごせない原因の一つである。ヒトラーにより追放されたユダヤ人は、アメリカやブリテン、カナダなどの西歐世界に移住し、その地で反ナチス本を大量に出版した。したがって、ドイツの事情に無知な一般人は、「ほとんど」と言っていいくらい、ユダヤ人の洗脳を受けている。フランクフルト学派のユダヤ人を迎入れたアメリカはその典型例で、今でもユダヤ人が撒き散らかした害悪により、訳も解らず“のたうち回って”いるのだ。これは丁度、見知らぬ他人から魚を貰って食ったら、その内蔵に水銀が溜まっていたり、回虫のアニサキス(Anisakis)が潜んでいたことから、食後にもがき苦しむのと同じ症状である。

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(上絵画 / ヒトラーによる風景画)

  排除されたユダヤ人の中には藝術家もいて、彼らは亡命先で散々ナチスを呪った。そして、この呪詛を聞いた現地人もユダヤ人アーティストに同情したものである。しかし、この亡命者たちは一体どのような作品を世に送り出していたのか? なぜ、ヒトラーやナチ党員たちは、彼らを排斥したのか? 日本人としては事の善悪を越えて、その理由を知りたい。我々は迫害されたユダヤ人の怨念だけを鵜呑みにするのではなく、迫害した側のドイツ人による言い訳にも耳を傾けねばならないと思う。とりわけ、1942年3月27日にヒトラーが述べた意見は傾聴に値する。ヒトラー曰わく、

  ワイマール共和国時代が特にひどかった。これは美術界におけるユダヤ人の影響力の怖さを如実に物語っている。ユダヤ人どものやり方は信じがたいほどの図々しさだった。インチキ美術評論家の協力も得て、ユダヤ人どうしでの間で競り上げて、ナイーヴな人々に屑同然の絵を最高傑作と思わせるのに成功したのだ。自らの知的水準には自負を抱いていたはずのエリートたちさえ、ころりとだまされた。今、ユダヤ人の財産没収のおかげで奴らのペテンの証拠が続々と手に入るというわけだ。屑同様の絵をだまして高値で売った金で、反対に過小評価した傑作をばかみたいな安値で購入する。-----これがやつらのペテン藝術の極みともいえる手口だったのだ。著名なユダヤ人から徴発した財産の目録に目を通していつも驚くのは、そこに本物の芸術品ばかりが載っているということだ。(『ヒトラーのテーブル・トーク』 下巻、吉田八岑 訳、三交社、1994年 p.31)

  確かに、ユダヤ人の富裕層はヨーロッパの名画を買い漁っていたようで、ナチスが彼らから奪い取った作品には目を見張るものがあった。最近だと、ナチスに協力した画商のヒルデブラント・ガーリット(Hildebrany Gurlitt)が隠し持っていた絵画に注目が集まったことがある。彼の息子で隠遁生活を送っていたコルネリアスが、ある失態を犯してしまい、盗品が表に現れるという事件が起きた。(Michael Kimmelman, "The Art Hitler Hated", The New York Review of Books, June 19, 2014) 戦災で失われたと思われていた多数の絵画が見つかってドイツ人は驚嘆。その中には、「頽廃藝術(Entartete Kunst)」作品も含まれていたそうだ。ヨーロッパ人の美を愛するヒトラーにとって、ユダヤ人や現代画家の美観は許せなかったそうで、総統は美術展に足を運ぶ度に、その「塗りたくった絵」を取り外させたという。たとえ、プロイセン・アカデミーの“お墨付き”が与えられた作品であっても、「無価値なもの」に対しては容赦無くふるい落としたらしい。

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(左: オットー・ディックスの作品 / 中央: ポール・クリーの作品 / 右: エーリッヒ・ヘッケル)

  ヒトラーによると、アカデミーの会員はきちんと任務を果たさず、いつも仲間内で“なあなあ”で済ませ、ある宗教担当大臣はユダヤ人の罠に嵌まって“とんでもない駄作”に賞を与えてしまったそうだ。しかも、騙された人々は最初、「これは難解な作品だ」などと一応納得した顔をして、「作品の深層と意味を洞察するためには、提示されているイメージの世界に浸る必要がある」と、もっともな“ご託”を並べたという。そう言えば、日本でも西洋美術展が開催されると、評論家気取りの連中が適当な「講釈」を垂れるし、門外漢の一般客は、その「値段」を聞いて作品の「価値」を決める傾向が強い。庶民はピカソやムンクの作品を観たってチンプンカンプン。「こんなの子供の落書きだよなぁ」と心の底で思っても、その値段が何十億円と聞けば、「うぅぅ〜ん、やはり筆のタッチがひと味違うな !」と急に意見を改めたりする。

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(左: パブロ・ピカソ / ピカソの作品 / エドワルド・ムンク / 右: ムンクの作品)

  だが、ヒトラーによる美術批評家への意見は手厳しい。「一般論として、アカデミーの類いは傾聴に値する程の意見を発表しない」そうで、教授どもは落ちこぼれか、枯渇した老人くらいであるという。たとえ、才能豊かな者がいても、彼らは1日に2時間と教えられないそうだ。(上掲書 p.32) ヒトラーの美術論によれば、真の藝術家は他の藝術家たちとの接触を通して育って行くものらしい。かつて、巨匠といわれた画家たちは、工房の助手としてスタートし、技術と器用さで秀でた者、あるいは将来価値のある作品を生み出せそうな者だけが、徒弟の地位へと昇ったそうである。ヒトラーはルーベンスやレンブラントの例を挙げていた。これなら我々にも解る。例えば、「偉大」と称されるピカソなんかより、フェルメールの油絵の方がよっぽど素晴らしいし、ラファエロの聖母像も傑作だ。ヨーロッパの評論家はムンク(Edvard Munch)の『少女と死』とか『思春期』を称讃するけど、日本人には葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の美人画とか版画の方が解りやすい。

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(左: フェルメールの名作「真珠の耳飾りをつけた少女」 / 中央: レンブラントの「善きサマリア人」 / 右: レンブラントの「愉快な仲間」)


エロ・グロ作品を描いていた亡命者

  ヒトラーは、当時の風潮に不満を漏らしていた。ドイツの美術学校では自由放任の方針を取っていたようで、天才なら最初から自分のしたいようにしてもよい、と考えていたらしい。しかし、ヒトラーは「天才画家であっても、最初は皆と同じように学習から始めねばならぬ」と考えており、「たゆみない努力によってのみ、描きたいものが描ける」と信じていた。そして、総統は絵の具の混合をマスターしていない者や、背景の描けない者、解剖学を学んでいない者は、大した画家にはならないだろう、と結論づけていた。そこで、ヒトラーは「曾てのように現代も、画家の卵は親方の工房で美術の伝統にどっぷり浸かりながら訓練を受けるべきだ」という。なぜなら、ルーベンスやレンブラントの作品を観ると、弟子と師匠が描いた部分の区別が附きにくかったからである。つまり、ルーベンスやレンブラントの弟子たちは、師匠と同じ技量を身につけていたということだ。

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(左: ゲオルク・グロス / マックス・ベックマン / エルンスト・ルドウィック・キルヒナー/ 右: エーリッヒ・ヘッケル)

  このように、ヨーロッパに根づく伝統的美意識を愛したヒトラーだから、その伝統を無視する抽象画とか表現主義の作品は許せなかった。ヒトラー率いるナチ党が「頽廃藝術家」と評した者といえば、ゲオルク・グロス(Georg Grosz)や、オットー・ディックス(Otto Dix)、マックス・ベックマン(Max Beckman)、エルンスト・ルドウィック・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)、パウル・クリー(Paul Klee)、ルシアン・フロイト(Lucian Freud)、エーリッヒ・ヘッケル(Erich Heckel)などが挙げられる。特に、ユダヤ人と思われがちなゲオルク・グロスは札付きのワルで、キリスト教の家庭に育ったドイツ人であったが、思想的には真っ赤な共産主義者であった。彼はドイツ共産党に属していたけど、ソ連を訪問し、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev / ユダヤ名Hirsch Apfelbaum)やレーニンと会ったことで失望したそうだ。グロスは形だけではあるが、共産主義から足を洗い、風刺画家に専念したらしい。

  ところが、このグロスは単なる絵描きではなかった。ナチ党の台頭により米国へ亡命したグロスには、マーティー(Marty)という息子が生まれ、この倅(せがれ)はマスコミを相手に父親の偉大さを宣伝していたが、ある作品に関しては沈黙を守っていた。彼はある記者のインタビューを受けて、「父の風刺画や油絵、鉛筆画はベルリンの頽廃と腐敗を厳しくも情熱的に描いていました」と述べている。(Rosie Millard, "My father, the famous artist", The Independent, 17 March 1997) しかし、マーティーは父親の藝術を概ね讃美するも、その恥部だけは巧妙に避けていたから狡(ズル)い。この息子は父のエロ・グロ作品を人前で堂々と掲げるべきだ。グロスの作品総てを知らぬ一般人は、ナチスに迫害された可哀想な藝術家としか思わないが、彼の描いた「卑猥な絵」を目にすれば、ご婦人方は両手で顔を覆ってその場を去るだろうし、美術品愛好家の紳士なら、「何だ、この下品な絵は !」と叫ぶに違いない。日本人もグロスのエロ絵画を見れば、なぜナチ党が彼を「ボルシェビキ風の敵No.1」と評したが判るだろう。

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(上3 枚 / ゲオルク・グロスの作品)

  憐れな亡命者と思われているグロスは、文字にするのも憚れるような卑猥な絵を描いていた。例えば、性器を剝き出しにした女や、客のペニスを膣に挿入する淫売、巨根をしゃぷる痴女、うつぶせの女を背後から襲う男、醜悪な体型をした中年女など、“おぞましい”としか言いようのない作品を残していたのだ。(ライブドア社の禁止規定に抵触するので、実際の生々しい「猥褻作品」を掲載できなくて残念である。でも、規則だから仕方ない。) とにかく、グロスは露骨に性器を描写していたから、とても一般公開などできない。米国の敬虔なキリスト教徒なら卒倒間違いなし。仮に、美術館の壁に掛けることが出来たとしても、訪問客から猛抗議を受けて、即座に展覧会は中止されるだろうし、主催者は責任を取ってクビになるはずだ。こうなれば、一般のアメリカ人もグロスへの同情を失い、「頽廃芸術」が何であったのかが解る。でも、ユダヤ人や左翼ジャーナリストは困るだろう。ヒトラーは絶対的な悪なのに、その追放政策が正しく思えてしまうからだ。したがって、反ナチス派の評論家や歴史家は事実を隠す。

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(左2枚 : ルドウック・キルヒナー / 右2枚: マックス・ベックマン )

  ルドウィック・キルヒナーの作品は卑猥でなかったが、彼の描く人物はどれも醜くて、観ていると暗い気分になる。なるほど、描かれた人物は印象的だが、お世辞にも「美しい」とは言えず、どちらかと言えば「病的」と評した方がいい。ちなみに、キルヒナーは精神病を患っており、展示会に出した自作を撤去されてから一年後に自殺している。フランクフルトのアカデミー会員をクビになったマックス・ベックマンや、700点以上者作品を撤去されたエーリッヒ・ヘッケルの絵も全体的に陰鬱で、部屋に飾ってみたいとは思えない作品である。だいたい、ベックマンの作品などを模範にしたい絵描きがいるのか? 蛭子能収をちょっと上手くしたくらいで、ザビエル山田といい勝負だぞ。(ザビエル山田は漫画『愛の泉』や『オヤジの吐息』の作者である。) 美術評論家は彼らの作品を「素晴らしい」と褒めちぎるんだろうが、一般人ならこんな絵を高値で買おうとはしないし、政治献金の代用品であっても買いたくない。個人の敷地で催されるヤード・セール(庭先の販売会)だと、せいぜい5、6ドルの値札しかつかないんじゃないか。筆者の好みから言えば、安彦良和先生の油絵(例えば、「ガンダム」のシャーとかセイラの人物画)とか、荒木飛呂彦先生が描くジョジョの直筆ポスターなどの方が遙かに価値がある。

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(左と中央 : エーリッヒ・ヘッケル / 右: ルドウィッヒ・マイトナー )

  ユダヤ人の画家になるともっと酷い。ルドウィッヒ・マイトナー(Ludwig Meidner)の絵を見ると、何かの病気を患っているんじゃないか、と思えてくる。だが、彼よりも不愉快なのは、ルシアン・フロイトだ。彼は有名な精神科医であるジクムント・フロイドの孫としても知られている。ルシアンの描く女性などを観ていると、日本人だってヒトラーの反論に賛成するんじゃないか。例えば、ぶくぶくと太った醜い女性とか、性器丸出しの男性などを観れば吐き気がする。ナチ党員たちはゲルマン人女性の美しさや清らかさを称讃したのに、ユダヤ人画家ときたら、北歐種族の肉体的美しさを否定し、それを無視するどころか、却って醜悪にして「美術」と称する。西歐婦人の気品を台無しにした挙げ句、反対の肉体を讃美するんだから、ドイツ人じゃなくても不快になるじゃないか。ヨーロッパ人にとったら、美しい人間というのは、古代ギリシア人が理想とした女神とか、ルネッサンス期の巨匠が描いた英雄である。

Lucian Freud 112Lucien Frud 7Lucian Freud Sleeping
(左ルシアン・フロイド / 中央と右: フロイトの作品)

  しかし、ヨーロッパ人、特にキリスト教徒のゲルマン人を憎んだユダヤ人は、いじめっ子民族の肉体を讃美したくない。アーリア人の肉体美を描くことは、敵対者の優越性を認めることに繋がるし、セム種族の肉体的劣等性を認めることになるからだ。ユダヤ人は一般的に捻れた性格を持っている。美しいゲルマン人女性に憧れる一方で、彼女たちからの侮蔑に耐えねばならぬ運命を有しているからだ。ユダヤ人は西歐人に対しては、人種平等の説教を垂れるが、仲間内では西歐白人女性を獲物にしているから卑劣だ。(イスラエルの売春宿では、西歐人女性のような東歐女性が人気で、フィリピ人女中やアフリカ人娼婦は安値でランクが落ちる。それにしても、貧乏なルーマニア人やウクライナ人、ロシア人の女性を半ば騙して、次々に密輸するユダヤ人の女衒はあこぎだ。TBSの金平茂紀は朝鮮人娼婦なんか放っておいて、スラヴ系娼婦を取り上げればいいじゃないか。看板番組の『報道特集』で「報道」しろ !)

Cameron Diaz 2Jennifer Aniston 213Teri Polo 222Jennifer Hudson 2

左: キャメロン・ディアス
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ジェニファー・アニストン
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テリー・ポロ
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右: ジェニファー・ハドソン
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ユダヤ人は多民族主義を唱えるくせに、性慾となれば白人女性一本槍だ。 恋愛映画を造るハリウッドのユダヤ人たちは、決まって相手方を西歐人美女にする。例えば、ユダヤ人男優のベン・スティラー(Ben Stiller)は『メリーに首ったけ』ではキャメロン・ディアス(Cameron Diaz)を共演者にしたし、『アロング・ケイム・ポリー(Along Came Polly)』ではジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)を、『ミート・ザ・ペアレンツ』ではテリー・ポロ(Teri Polo)を恋人役にした。ところが、どのユダヤ人男優も、有名司会者のオプラ・ウィンフリー(Opra Winfrey)とか、ジェニファー・ハドソン(Jennifer Hudson)、タラジ・ヘンソン(Taraji Henson)、クィーン・ラティファ(Queen Latifah)などを恋人役にはしないのだ。(もしかして、黒人への嫌悪と差別なのか ?)

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(左: タラジ・ヘンソン / オプラ・ウィンフリー / クィーン・ラティファ / 右: コートニー・コックス)

大ヒットTVドラマ『フレンズ』でもユダヤ人的嗜好が滲み出ていた。このドラマを制作したプロデューサーのデイヴィッド・クレイン(David Crane)とマルタ・カフマン(Marta Kauffman)は共にユダヤ人で、ドラマの中でもロスとモニカのゲラー兄弟をユダヤ人に設定していた。兄のロス・ゲラーを演じたデイヴィッド・シュワイマー(David Schwimmer)はユダヤ人だけど、妹役のモニカを演じたコートニー・コックス(Courtney Cox)はイギリス系アメリカ人である。呆れてしまうのは、ユダヤ人のロスが憧れるレイチェル役に、西歐系女優のジェニファー・アニストンを起用していたことだ。『フレンズ』にはユダヤ人女優のリサ・クドローがいたのだから、彼女をフィービー役ではなく、レイチェル役にすれば良かったのに、と思ってしまうが、クレインとカフマンにしたら、いかにも「ユダヤ人のカップル」になってしまいそうで、本能的に嫌がったのだろう。もし、ニューヨークに住む「フレンズ」が、全てユダヤ人となったら、不愉快というか余りにも“リアル”過ぎる。たぶん、制作担当者はユダヤ色を薄めるためにも、異教徒の西歐人をキャストに混ぜたんだろう。

Lisa Kudrow 4David Schwimmer 2Marta Kauffman 1David Crane 2
(左: リサ・クドロー / デイヴィッド・シュワイマー / マルタ・カフマン/ 右: デイヴィッド・クレイン)

  ユダヤ人は現実社会でも、ユダヤ人女性や黒人、アジア系女性に興味を示さず、西歐系女性に性的興奮を覚える。ユダヤ人の大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインシュタインについては、以前このブログで触れたからここでは繰り返さない。でも、最近またもやユダヤ人によるセクハラが暴露されたので紹介する。日本ではあまり知られていないが、ミネソタ州選出の上院議員にコメディアン上がりのアル・フランケン(Al Franken)がいる。一連のセクハラ騒動に感化されたのか、彼にセクハラを受けたと表明する女性が現れた。被害者はリーアン・トゥイーデン(Leeann Tweeden)という美女で、以前は水着のモデルや『プレイボーイ』誌のグラビア・モデルを務めたことがあり、現在はテレビ番組の司会やレポーターを務めているそうだ。

Al Franken 1Al Franken 3Harvey Weinstein 1
(左: アル・フランケン / 中央: リーアン・トゥイーデンの胸を鷲摑みにするフランケン / 右: ハーヴェイ・ワインシュタイン )

事件は2006年、彼女が中東アジアに派遣された米軍を慰問した時に起きた。アル・フランケン議員はリーアンが寝ている隙に彼女の胸を鷲摑みにしたり、彼女が嫌がるのに無理矢理キスを迫ったそうだ。(Juana Summers and M.J. Lee, " Woman says Franken groped, kissed her without consent in 2006", CNN, November 17, 2017) セクハラ事件が表沙汰になると、フランケン議員は彼女に謝罪したそうだが、いくら冗談でも有名人の身分を忘れて卑猥な行為をするなんて、アホといか言いようがない。でも、どうしてユダヤ人は黒人とか支那人女性に対しては「いやらしい」事を企てないのか。「人種的平等を考えろ」とは言わないが、獲物に「人種的偏見」を持っているんじゃないかと疑いたくなる。

Leeann Tweeden 3Leeann Tweeden 4

左: 司会者としてのリーアン・トゥイーデン
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右: モデル時代のトゥイーデン
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怨念が動機になっている美意識

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(左: ヤンケル・アドラー / 右3枚: アドラーの作品 )

  話が逸れたので元に戻す。ナチ党は頽廃藝術をユダヤ人の“せい”にしているが、こうした趣味に人種は関係無さそうだ。確かに、ヤンケル・アドラー(Jankel Adler)のようにポーランド系ユダヤ人の画家がいたけど、オットー・ディックスのようなドイツ人の画家もいたのだ。民族性と美的感覚の関連は不明確だが、二人の絵画は本当に美術なのかどうか判らない。現代の我々が見ても、アドラーの絵は気分が落ち込むほど陰惨である。ただし、ディックスが描いた絵の方が遙かに酷い。ディックスの描く女性など本当に醜く、お金を払って見る藝術とは思えないし、ヒトラーの言うように駄作と評する方が適切である。彼が描いた裸婦など殴り書きみたいだし、赤ん坊を抱く母親の絵は貧相というより怖い。ガリガリの赤ん坊なんてどうかしている。これじゃあ、アメリカ人だってナチスに賛同したくなるじゃないか。

Otto Dix 4Otto Dix self-portrait-with-museOtto Dix Sailor & Girl
(左: オットー・ディックス / 中央と右: ディックスの作品 )

  昔、ヨーロッパでは既存の秩序や常識を否定し、破壊的感情を肯定したダダイズム(Dadaism)が流行ったけど、ユダヤ人には“しっくり”する運動だった。とにかく、ユダヤ人は西歐世界の伝統や秩序を覆したいと願っている。自分の種族が築き上げた訳でもない価値観など紙屑以下。タバコの吸い殻を揉み消すように、西歐人の理想を足で踏みにじりたいのだ。そして、自分たちを“抑圧”し続けた憎い白人を倒したい。だから、アーリア人の美しさを貶して、醜い人物像を「素晴らしい」と言い換えたり、変態的描写を「斬新なタッチ」として言いふらすのだろう。彼らにとり、異教徒の美意識を破壊することは快感なのだ。

Otto Dix Pregnant Woman 2Otto Dix Mother & ChildOtto Dix Ladies of the NightOtto Dix Pregnant woman
(上絵画 / ディックスの作品)

  全共闘世代なら馴染み深いだろうけど、1960年代から1970年代にかけて前衛芸術なるものが“進歩的”と目されていた。フランス語の「アヴァン・ギャルド(avant-garde)」を口ずさみ、寺山修司とか大島渚たちが訳の解らぬ映画を作っていたのを覚えている人も多いだろう。ジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコが、へんちくりんな踊りを披露していたけど、あれも前衛藝術の一種らしい。音楽でも奇妙なものがあり、ユダヤ人音楽家のアーノルド・ショーエンバーグ(Arnold F. W. Schoenberg)とか、ニューヨーク生まれのロシア系ユダヤ人モートン・フェルドマン(Morton Feldman)が有名だ。まぁ、音楽の趣味は人それぞれだから、余計な事をせずに市場に任せておいた方がいい。

Morton Feldman 1Arnold Schoenberg 1Yoko Ono 2
(左: モートン・フェルドマン / 中央: アーノルド・ショーエンバーグ / 右: ヨーコ・オノ)

  一般的に藝術は「自由」な方が良いけど、人々の精神に及ぼす影響も無視できないので、国家が介入する場合もやむを得ない。例えば、公園や路地裏で公然と映画のセックス・シーンを撮影するのは非常識だし、歩行者天国の日曜日に鞭を握ったSMの女王様が闊歩すれば、親子連れの一般人は目を背けるだろう。また、百貨店の展示会だって、しわくちゃの老婆を題材とした全裸写真とか、中高年ゲイが互いにペニスを握りしめているスナップ写真とかは論外だ。でも、西歐ではたまにある。米国で問題になったけど、小便の中に埋もれるキリスト像という絵画が公開され、世間の非難を浴びたこともあるのだ。藝術作品の弾圧は賛成できないが、常識を越えた「藝術」に一定の制限があってもおかしくはない。

  ナチスによる私有財産の没収は違法だが、ヒトラーたちが「頽廃藝術」に憤慨した気持ちも分かる。ヒトラー総統が自分の帝國だから美しくしたい、と考えてもおかしくはない。「盗人にも三分の理」があるように、ナチ党にも1%くらい擁護論があってもいいんじゃないか。日本人にとって重要なのは、ナチスが怒った理由とその経緯を“具体的”に調べることだ。ユダヤ人の本だと“抽象的”に書かれているだけで、不都合な歴史が省略されている場合が多い。「書物の民」は偶像崇拝を嫌って文字を重視し、映像や視覚を回避する傾向が強いから、我々はどのような素性の者が、如何なる思想で批判しているのか検証してみる必要がある。案外、ユダヤ系著者の素顔と正体を知ったら、「えっ、こんな人なの?!」と驚くんじゃないか。(ワイマール時代のドイツについては、別の機会で述べてみたい。ただし、当ブログが閉鎖命令を受けたら不可能になってしまうだろう。もしかしたら、今回が最終回となってしまうかも知れないので、引っ越しを考えているところです。)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html


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ヒトラーの嘘と絵画 − 彼はなぜ芸術家になれなかったのか?
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html


――エカキで作家・マンガ家、旅人でもある小暮満寿雄が世界のアートのコネタ・裏話をお届けする!

 かのショートショートの名手・星新一の短編に、こんな話があるのであらすじを紹介しよう。

 オーストリアのとある町。貧しい画家志望の青年が、愛する女性とのデート資金を求めて質屋にやってくる。担保の質物は何と青年自らが描いた絵。青年は「金を貸してください」と懇願するが、当然、質屋に絵は一顧だにされず「こんな絵で金は貸せません」とキッパリ断られてしまう。そして下記のやりとりが行われる。

「やっとデイトの約束までこぎつけたんです。お願いです、お金を貸してください。お金は必ず返します。ご恩は忘れません」

「だめですな。そんなことで金を貸していたら店はやっていけません。私たちユダヤ人は冷静なんです。甘く見ちゃ困りますな」

「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる・・・」

「そんなにすごんでも、だめなものはだめですよ。さあ、お帰りください、アドルフ・ヒットラーさん」

(星新一『さまざまな迷路』(新潮社)/「ことのおこり」より)

 絵のサインを見ながら主人は、青年の名前言うのだが、彼がすごい剣幕で帰ったあとも、その狂気じみた目つきを思い出し「いずれなにかやらかすかもしらんな」とつぶやくのだった…。もちろん、ユダヤ人質屋が若きヒトラーに金を貸さなかったのは、星新一のフィクションだ。

 しかし、ヒトラーが画家志望の青年だったことは有名な事実で、実際ヒトラーが描いた絵は何点も世に残されている。彼の美術に対する情熱は相当なものだったようで、当時オーストリアで名門校だったウィーン美術アカデミーを受験している。しかし、成績不振ということで受験に失敗。

ヒトラーが描いた絵「YouTube」より
https://www.youtube.com/watch?v=mALbFREo-bk

 その時の恨みやコンプレックスが逆に独裁者ヒトラーを生んだ原動力ともなったわけだが、こちらがその、オーストリア時代に彼が描いたという絵である。

 見ての通り、独創性のない普通の風景画で、レベル的には“上手な素人絵”というくらいだ。これらの絵を見て、ヒトラーの演説にあるようなエキセントリックで妙に人の心を揺さぶる何かを期待した人は、きっと肩すかしを食らった気分になるだろう。


 ところが、ヒトラー本人は自らの絵について「古典派嗜好」と自負していたそうで、当時台頭してきた、いわゆる「世紀末美術」(幻想的で退廃的な性格を有する作品)やアール・ヌーヴォーといった新しい芸術運動にはむしろ嫌悪感すら抱いていたという。


■真実を吐き出す「世紀末美術」を憎んだヒトラー

 一方でこの絵を見てほしい。こちらは、同じ時代に世紀末美術の騎手として活躍し、わずか28歳の若さで亡くなったエゴン・シーレの作品だ。

エゴン・シーレ1915年作「死と乙女」
http://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

 絵画とはある意味、心の中に溜まっている澱(おり)を吐き出す作業なのだが、ヒトラーの絵と比べ(比べることもないが)、まさに強烈な個を解き放っており、肉体と精神すべてを吐き出してキャンバスに塗布したような絵だ。

 もちろん、ヒトラーはエゴン・シーレの作品を忌み嫌い、憎んでいたという。

 実はエゴン・シーレ。ヒトラーより1歳下にあたるのだが、彼が受験に失敗した1年前にウィーン美術アカデミーに入学していたという経緯があるのだ。元来、世紀末美術の台頭に嫌悪感を抱いていたヒトラーだったが、このことでさらに激しい憤りを抱き、独裁者となってからは徹底的に彼らやアカデミーを「退廃芸術」と呼び、弾圧下に置いたのだ。そして、1930年代にヨーロッパで隆盛していた抽象美術や表現主義、バウハウスなどはもちろん、印象派以降の近代の美術はすべてNG。当時、ユダヤ人らが所有していた絵画は財産と一緒にことごとく没収され、略奪され破壊された。

 これは弾圧の対象こそ違えど、まさに星新一の短編を地で行った話ではないだろうか。

「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、オレを認めなかったきさまら退廃芸術家とアカデミー会員全部に仕返ししてやる…」

 さすがは星新一。物事の本質をきちんと捉えているではないか。

 一方でヒトラーが奨励した絵は、農村の労働と大家族を描いた風俗画や、優美で健康的な裸体画、牧歌的風景画、モニュメントとしての巨大彫刻など、芸術としてみると面白くも何ともないものだったのだ。

■ヒトラーの矛盾

 さて、絵とは面白いもので、美しいものを描けば美しくなるというものではなく、立派なものを描けば、それによって人が感動するというものでもない。

adolfhitler4.jpgヒトラーの絵「YouTube」より

 アートに必要なものの一つとして、本当に心の中、体の中にある(自分にとっての)真実を正直に吐き出すことがある。そういった意味において、ヒトラーの絵画は自分にウソをついた絵であり、だからこそ魅力的ではないのかもしれない。

 その理由として、ヒトラーには昔から「ヒトラーユダヤ人説」や「非アーリア説」があとを絶たない。これには、ヒトラーの父親・アロイスが実際には血の繋がった父親ではない可能性や、あるいはアロイス自身が私生児だった可能性があるなどさまざまな憶測が飛び交っているが、要するに、ヒトラーには出生の秘密と謎があったということだ。

 さらに、ヒトラーはアイロスと折り合いが悪かった。そして、“生粋のハプスブルク君主国の支持者”だったアロイスに憎しみを抱いたことが、後のアーリア至上主義、ドイツ民族主義へと走る第一歩となったとも言われている。

 しかしこれは、明らかに大きな自己矛盾だ。ほかにも、ヒトラーは自身を“極貧だった”と吹聴していたが、実際にはそうでもなかったなど、彼はあらゆる独裁者がそうであるように、さまざまな過去を隠し、ウソをウソで固めた人生を送っていたのだった。

 しかし、言葉や経歴でウソが言えても、絵というのはそういう意味でウソがつけない。それは眠ければ寝る、腹が減れば食べるというように、体がウソをつけないのと同じことだ。

 ヒトラーの絵が持つ、えも言えぬ寂しさや荒涼とした風景は彼そのものだったのかもしれない。だが、人の気持ちを惹きつけるには、あまりに貧相なものに違いない。彼は、自分自身を絵で表現するができなかったのだ。

 それにしても、ヒトラーの記事を書いていたら頭の芯を締められるような疲労におそわれた。やはり、何かわるいものがついているのかもしれないな。
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html


アドルフ・ヒトラーによって描かれた35枚の絵画
http://musey.net/mag/35

ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーが、政治家へと転身する前は画家を目指していたことはよく知られている。

ヒトラーは、1905年に実業学校を退学した後で、ウィーンにある名門美術学校「ウィーン美術アカデミー」への入学を希望するものの、「写実性はあるものの、独創性に乏しい」とされて試験に落とされてしまった。

世紀末美術を嫌悪したヒトラー

当時のウィーンをはじめとするヨーロッパでは、幻想的・退廃的な「世紀末美術」や「アール・ヌーヴォー」と呼ばれる新しい美術の流れが盛んに台頭していたが、ヒトラー自身はこうした運動に興味を示さないどころが、嫌悪感すら抱いていたと言われる。

ヒトラーが受験に失敗する1年前には、世紀末美術の旗手であるエゴン・シーレが同校に入学しているが、彼自身は著書『我が闘争』の中で、20世紀以降のダダイスムやキュビズムについて「狂気であり堕落であり病気である」と断じた上で、これらが「ボルシェヴィズムの公認芸術である」とまで述べている。

そんなヒトラーは、人物画よりも風景画・建築画を好んで描いており、いくつもの習作やデッサンなども残っている。これまで、ヒトラーの作品については様々な評価が見られたが、もし彼がそのまま凡庸な画家になり損ねた青年として人生を終えたならば、ほぼ