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「絶対基準」と「主観」――“考察者K”氏の投稿「人は見たいと思うものだけを真実と考える」を手がかりとして
http://www.asyura2.com/0601/dispute24/msg/502.html
投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 12 日 11:02:17: JlAsSjJwTHXA6
 

“考察者K”氏の投稿「人は見たいと思うものだけを真実と考える」(http://www.asyura2.com/0601/dispute24/msg/480.html)を手がかりとして、「真実」の探求における今日の課題を考えてみたい。先ずは、“K”氏の投稿からの引用である。


“個人における「真実」の基準は「主観」である。
音楽においては「絶対音感」なるものが存在し、一部の人は「正しい基準」を持っているそうであるが、「真実」については、今のところ「絶対基準」なるものは示されているとは言い難い。個人個人の「主観」によって「真実」は勝手に決められているのである。”

ここに示されている考え方は、決して珍しいものではない。いや、見方によっては、広く人々の間に共有されていると言えるのかも知れない。とりわけ戦後の日本社会のように本音と建前の使い分けが横行し、真面目な議論が煙たがられる風潮は、人々の意識の中にこうした考え方が根を張っていることの表われと見ることもできよう。とすれば、事は“K”なる“考察者“ひとりに係るのではなく、「真実」を探し求める者全てにとっての課題だと言えよう。

また、「真実」についての「絶対基準」は“示されているとは言い難い”、従って、“今のところ”「真実」は“個人個人の「主観」によって”“勝手に決められている”とする“K”氏の言説に対しどのように語り得るのかは、各々の思想の基本を明らかにすることともなるだろう。

もちろん“K”氏の発言は上に示した内容に止まるものではなく、例によって、異なる趣旨の言説が接木され読む者を混乱に陥れている。それは意図的なものと言うより氏自身の混乱の反映に過ぎないのだろうが、氏に対する苛立ちを引き起こす要因の一つであろう。氏の投稿の表題となっている一文もそれだ。


“人は見たいと思うものだけを真実と考える”

おそらく“K”氏の頭の中では、“見たいと思うもの”=「主観」という漠然たる図式が描かれているのだろう。しかし、主観が必ずしも「〜したい」という願望を意味しないことは明らかであり、また、見たいものを見るという主体性・能動性を主観が持ち続けるわけでもないことは誰もが経験しているはずだ。

仮に、「真実」を“勝手に決め”ているのが「主観」だとしても、その「主観」が、“見たいと思うものだけを真実と考える”とは限るまい。にもかかわらず“K”氏がそのように思い込んでしまったとすれば、その理由は、おそらく“K”氏の「主観」が“見たいと思うものだけを真実と考える”からであろう。そして、そうではない「主観」もあるのだということが“K”氏には信じられない、いや、理解できないのであろう。“K”氏にとって「主観」とは、人が自分勝手に、しかも、好きなように思い込むこと以外のものではないのだ。

すぐ前で私は、「見たいものを見るという主体性・能動性を主観が持ち続けるわけでもないことは誰もが経験しているはずだ」と述べたが、実は“K”氏のような人物の場合、必ずしもそうではないと認めざるを得ない。むしろ見たいものしか見ないことこそ主体性・能動性の証ででもあるかのように考えている人々もいるのだということ。“K”氏の「主観」はこのような主体的・能動的「主観」なのだろうということ。そのように認めざるを得ない。

氏にとって、「客観」なるものはもうひとつの「主観」に過ぎない。つまり、他人の「主観」に過ぎない。そこに何らの優劣はなく、対等平等の権利を有しているはずだとなる。そして、対等平等のはずの「主観」が「真実」を語ろうとするときの作法を、氏は説いている。


“多くの人が「自分だけに見える真実だけに囚われている」
オームの事件を思い起こしてもらえば理解しやすいかもしれないが「自分達が信じるものを守るためには、殺人すらも肯定されてしまう」”

どうやら、氏の考えでは「自分だけに見える真実だけに囚われている」と「自分達が信じるものを守るためには、殺人すらも肯定されてしまう」らしい。もちろん、カギで括られた二つの事の間に因果関係はないし、信じるものを守ることと殺人の肯定の間にも因果関係はない。因果関係を作り出しているのは氏の頭脳に他ならない。危険なのは、氏自身の「主観」だろう。「客観」を認めない「主観」が「真実」を獲得したときの危険である。だからこそ氏は強調する。


“全ての人が、他人との争いや他人への批判行動をする前に、自分の「真実」は間違っているのでは?という検証を行う事をするのなら、無意味な争いは着実に減少するのだろうと思う。”

殺すか殺されるかの世界を前に、自身の潜在的暴力性を前に、氏は憂慮している。平和の道を説いているのだ。


“ローマ帝国の人カサエルは「人は見たいと思うものだけを真実と考える」と言ったそうである。(月刊少年マガジン 9月号 CMB 加藤元浩氏)”
“おそらくであるが「全ての人が、この言葉の意味を真剣に考え、受け止めていくのなら、この世の不幸は大きく減る」ような気がしている。”
“「罪を憎んで人を憎まず」は有名であるが、現在の流れは「罪を無くすには人を憎もう」という流れである。”

氏の言葉は切々として真剣である。自身の「主観」の外に「客観」を見出し得ぬ精神を囲む闇のなかで、氏は孤独に闘っているかのようだ。しかし、その孤独を作り出しているのは、実は、見たいものしか見ようとしない氏の「主観」なのだ。氏が最後に発する寂しげなつぶやきはいつも似かよっている。


“「お前が偉そうに語れるのかよ?」と思う人はいるだろうとも思う。”

もちろん氏は“偉そうに”語っているのではない。なぜなら氏こそが、“偉そうに”語る者を認めない者だからだ。殺人すら肯定する「真実」を警戒し、「主観」を相対化する「客観」を認めない氏は、「絶対基準」の否定に日々努力しているのだ。残念ながら、そうした大事業を遂行するに足る考察力が氏に欠けているとしても。

こうして我々は、冒頭に触れた「絶対基準」に関する氏の問いかけ(そう受け止めることが知的誠実であると信じて)に遭遇することとなる。そして、その問いかけとともに「主観」についての氏の認識に振り回されることにもなる。しかし同時に、氏の思いが純粋であることは認めざるを得ない。「絶対基準」など決して受け入れないという純粋無垢の思いである。信仰という言葉以外にそれを的確に表現することはできまい。何者に対する信仰か?「主観」に対するそれだ。“個人における「真実」の基準”となる「主観」である。

それが信仰であるが故に、「主観」についての探求は憚られる。「主観」の聖性を汚すが如き所業は断然拒絶されることとなる。そもそも「主観」を一般的に論ずることそれ自体が許しがたいこととなろう。「主観」は個人の聖域であり、その一般化は内心の自由に対する挑戦と見なされる。“見たいと思うものだけを”見る自由こそ氏の断固として守るものである。

さて、そうした氏の信仰を前にして一体何を語り得るのだろう。我々もまた自らの信仰を語るしかないのか。それこそ氏の期待するところでもあろう。しかし、信仰や主観の世界からの脱出こそが近代の課題ではなかったのか。科学的方法はそのための遠回りだが確実な道だと思われていた。しかし今や、遠回りであることは確実だが、確実であるには遠回り過ぎることが露になりつつある。科学は科学に過ぎなかったのだ。哲学の代わりにはならなかった。

今や再び哲学が、「主観」の批判が必要ではないか。ついでに科学の批判、「客観」の探求が必要ではないか。そして「主観」と「客観」とを統合する主体の再発見が。こうした地平で改めて問うてみようではないか、“個人における「真実」の基準”とは何だろうと。“考察者K”氏と共にそれを「主観」と言って済ませることができるのだろうかと。

その答えに至る入り口として「個」を考えてみてはどうだろう。「個」とは何か?それは花であり実であり形を成す精粋ではなかろうか。そうだとして、花の「真実」、実の「真実」、形を得た精粋の「真実」を考えれば、そこに生成もしくは創造の秘密が見えてこないだろうか。

もうひとつの入り口として「人」を考えてみてはどうだろう。植物でもなく動物でもない、そして、植物のようでもあり動物のようでもある「人」を。さらに言えば、物質でもあり霊でもあるような、同時に、そのいずれでもないような「人」を。

最後にデカルトに倣って、以上のような思考を営む主体を考えてみてはどうだろう。もちろんデカルトは「主観」などというものに「真実」を求めたりはしなかった。彼が求めたのは幾何学の如き明晰かつ判明な推論であり啓示であった。そして、デカルト以後400年を経る今日の我々はさらにその先まで進まなければなるまい。

しかし、デカルトにとっては明らかに存在した創造主たる神の加護を知らない我々にとって、こうした試みは創造的一面を持たざるを得ないのかも知れない。そこに“考察者K”氏の陥った陥穽が口を開けているとも言える。「真実」を“勝手に決め”る「主観」という陥穽だ。

氏は次から次へと「真実」を量産する。もちろん慎重に限界付けられた「真実」なのだが、そのたわ言の山は、真摯に歩を進めんとする人々の苛立ちを招いてしまう。だが、氏を突き動かしているかに見えるある種の創造性は、より洗練された技術によってコマーシャリズムの領域に君臨しているものだとも言える。その意味で現代的と言うべきなのだろう。氏と同時代を生きる我々もまた、そうした創造性に毒されていないとは言えない。

結局、氏は反面教師である。氏の様になってはいけないと我々に気付かせるため氏は登場したとも言える。我々を監視し、うるさく付き纏う検閲官として。「絶対基準」を摘発する正義の味方として。そうした氏の努力に助けられつつ我々は探求し続けようではないか。「絶対基準」を。

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