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この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 4 月 30 日 19:36:33: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 明治以後で真に尊敬に価する人は、福沢諭吉、新渡戸稲造、田沢義鋪の3名である。(ケペル先生のブログ) 投稿者 元引籠り 日時 2011 年 4 月 30 日 12:07:15)


こんな女に誰がした __ 福沢諭吉と天皇を恨んでね

天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。

貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html

高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。


「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>

天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。
この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。
詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。

日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」

(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。


娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。


「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」


福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。


至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。 片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。


男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。


このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社


日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」


という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。

(福沢諭吉全集 第15巻)

1900年初頭から天皇の命令の下、

「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」


という宣伝が日本全国で大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。 その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者であった。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。

これが従軍慰安婦の原型である。


日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設された。

(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。


また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。 こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた

米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていた。
そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争 は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っている。

(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)

1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族はこの蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。

(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。


広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。

(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)。


なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。

(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 

ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。


1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった。


天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」

(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語るのがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。

http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

人身売買と近代日本の成立 


自国女性を海外に売るのが「ロイヤルビジネス」だった

「からゆきさん」と呼ばれたどちらかといえば普通の「娘の身売り」の陰には、さらに悪質な詐欺的人身売買が、国策として、天皇のロイヤルビジネスとして、白人商人と連携して組織的に、国策会社日本郵船(=三菱)により、大々的に行われていた。

そして、その人身売買こそが、日本資本主義の原初的蓄積過程だった。

つまり、近代日本国家は自国女を売って成立した。


「オルタナティブ通信」などを通じて知るようになったこの事実ですが、まとまった知識を持った人をTwitterで見つけました。

http://twitter.com/urashima2


戦前の日本は民族差別に反対してたとか言ってる方がいまだに多いが、実際のところは人身売買する上で邪魔だったというのが大きな理由のようだ。そもそもアメリカが排日移民法を作らざるを得なかったのは日本からあまりに膨大な日本人女性が売られてきたからにほかならない。


戦前の日本が差別を許さないとか、プロパガンダにもならない妄想…。

世界最大の賤業婦人(売春婦)輸出大国だったのに。

それも騙して海外へ連れ出すという極悪非道ぶり。


いわゆる「からゆきさん」なんてハイカラな名称付けられているのが、それ。

ジャパゆきさんは自分の意志でオーディション受けて、どういう場所で働くか承知で来るかも知れない、からゆきさんの大半は国策として騙された人や誘拐・拉致同然に連れだされた方々なのでまるっきり違う。


からゆきさんと言っても中国だけじゃない。

世界中に貨物船の片隅に押し込められ売られており、明治から昭和にかけて、その数は30万人以上とも言われている。

戦争責任を追求する大手マスコミでさえ、からゆきさんについては非情に及び腰。

理由はロイヤル・ビジネスだから。


おもに日本郵船=三菱と組んでいるが、三菱といえば岩崎弥太郎。

岩崎といえば龍馬。龍馬といえばグラバー。

グラバーといえば武器商人…ってな具合に背後は真っ黒の助。

そもそも武器を買うための資金として人身売買をはじめた。


グラバーといえばマセソン商会の元社員で代理人。

マセソンといえばアヘン商人。

ようするに茶を買うためアヘンを売るのが、武器を買うために女性を売る…にかわっただけ。

長州ファイブを留学させたのもマセソン商会。

岩崎=長州閥=天皇家は一蓮托生でアヘン・武器商とつるんでた。


騙して日本人女性を売った金で武器を買う。

その両方でピンハネすればボロ儲け。


三菱財閥が巨大化した最大の理由が人身売買…

などとは歴史の教科書や社史にも出てくるわけない。


人身売買であげた利益で武器を買い、それで戦争を行っては国民を虫けらのように死なせた。そういうビジネスを明治以来一貫して下衆なアヘン・武器商人と結託しながらやってきた。宗教も人種も違う連中を奴隷貿易するでもなく、自国の同胞女性を詐欺まがいに海外へ大量に売り飛ばすという豪快なことをしていた日本。


さうがの毛唐も

「オーマイガッツ!

ジャップのやつ正気の沙汰とは思えない。

オークレイジー」

なんて驚いたことだろう。


そういう背景により、クレージーなジャップによる人身売買を阻止するため、アメリカは排日移民法をつくってくれた。それを、差別だとかいうのだから凄い。


戦争の原因について


「カリフォルニア州への移民拒否については、 日本を憤慨させるに十分なものであった」

とは裕仁天皇のお言葉。これが戦争の原因なのだというから素晴らしい。


戦前の国策による人身売買の実態を隠蔽するため「からゆきさん」と混同されるようにイメージの偽装転換が巧妙になされている。実際はからゆきさんなんてレベルをこえた国策の人身売買が壮大なスケールで行わていた。


本来の「からゆきさん」なんてのは九州の貧しい農村部の女性が女衒に連れられアジアの娼館で働くというものだが、日本郵船とかがやってたのは基本的に詐欺。


「海外で教養を身につけよう」

「あこがれのアメリカで働こう」


なんてかんじで良家の子女から寒村にいたるまで処女を集めた。


私もこのブログで、アメリカの人身売買報告書が日本に異常に厳しいことを人種差別ではないかと批判したことがありましたが、見当違いだったかもしれません。

彼らは当然ながらこういう過去の事実を知っている。この件の被害者は日本人であり、欧米商人も関与していたので、あえて言挙げはしないが、日本国がこういう体質をもっているということには留意している。このような過去の犯罪行為について、日本人がほとんど知らされておらず日本国内に批判も反省もないことも見ている。

普通に「人身売買を防止する」という観点から見て、日本が要警戒国になるのは当然ですね。

これから必然的に貧しくなっていく日本ですが、日本女性は日本国家および天皇一族を警戒したほうが良いといえます。同時に、従軍慰安婦問題や南京強姦事件で騒いでくれる近隣国の人々に感謝しなければならない。被害者が日本人だけなら、誰も騒がず、語ろうとする者は口封じをされ、そんな過去はなかったことになります。

天皇と三菱とが一体になり、外国商人と連携して、国策でこのような犯罪行為を行った歴史が「なかったこと」にされている。何の反省もない。

このままでは、日本国家にカネが必要なときにはまた同じことが繰り返されることになるでしょう。


日本国=天皇=三菱等、

はその成立時から人身売買マフィアであり、芯から腐っていると言えます。初めから腐っているものはどうしようもありません。「日本の解体」が是非必要です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

あめゆきさんの歌、山田わか

 日系アメリカ人の歴史の本を読んでいた時に、

「アメリカの日本人の嚆矢(はじまり)は日本人売春婦」

という記述に出会って、愕然としたことがある。


 コロラドに、江戸時代の日本人売春婦の墓標が残されているそうだが、日米和親条約(1853年)が締結される以前の話である。日本から、アメリカに直接に向かうことができなかったので、アジアを経由して、密航者としてアメリカに渡ったらしい。

 この女性たちの歴史の発掘に尽力されたのが、サンフランシスコの日本語協会の石崎五郎さん(UCデイビス校の獣医学の教授、故人)だった。石崎さんは、そうした女性の存在を不憫に思われたようだ。 中国や東南アジアに渡ったからゆきさんのことは、森崎和江や山崎朋子の著作で知ってはいたが、そうした事実が、このアメリカでもあったのだ。


 明治の新聞ダイジェストを読んでいた時に、オーストラリア行きの船の船倉で、日本人売春婦が窒息死体となって発見されたという記事を目にしたことがあるが、日本人売春婦は、オーストラリアにも、密航させられていたようだ。 十九世紀末のアジアに渡った日本人売春婦を意味する”からゆきさん”という言葉から、山崎朋子(ノンフィクション作家)が、”あめゆきさん”という言葉を作り、「あめゆきさんの歌:山田わかの数奇なる生涯」という本を書いたのが、1978年。

 プラムさんに、山田わかが働いていた場所を訊ねられた私は、シアトル時代の山田わかの手掛かりを求めて、この本を読み返した。 この本の記述とシアトル旧日本人街明細図から、20世紀初頭に、彼女が白人相手の売春婦として働いていた場所が分かった。

現在のシアトル・アジア人街のあるインターナショナル・ディストリクトの一角だ。 私自身、以前、インターナショナル・ディストリクトを訪れた時に、山田わかはどこで働かされていたのだろうと、漠然とした疑問をもちながら、同地域を歩いていたのだが、今回、キング・ストリートと5番街の角のアロハ・ハウス(現在は別のお店になっている)で働いていたことが分かった。


 1906年に、26歳で日本に帰国した山田わかは、近所に住んでいたことから平塚らいてふと知遇を得て、青鞜に参加。『朝日新聞』の人生相談の回答者になって、アメリカ帰りの女流評論家として成功した。


 アメリカの図書館で、私は、戦前に発行された山田わかの本を2冊、見掛けたことがあるし、サンフランシスコで、彼女の夫となった山田嘉吉の教える英語塾で山田わかに出会ったことがあるという人から話を訊いたこともある。 私が渡米した頃には、ヤングさんと呼ばれた日系一世の若手がまだ、生きていたのだ。ヤングさんは、英語の勉強のために、サンフランシスコの山田嘉吉の英語塾に通ったようだ。

 山田わかのシアトル時代の記述については、サンフランシスコで発行された『あめりか新聞』(1937年)のオリジナルをUCLAのライブラリー(special collections library)で読んだこともあるし、山崎朋子が出会ったリン(林)司書から、直接、お話を聞いたこともある。リンさんは、UCLAのアジア関係の生き字引のような方だったが、1990年代の前半に退職された。

第二次世界大戦後、山田わかが心血を注いだ仕事に、売春婦の更生施設の建設、運営があった。 売春婦から更生して家庭人となった彼女だからこそ、更生が、いかに大切であるかということを知っていたのであろう。

 私は、アメリカに住む日本人のことをリサーチしている理由の一つに、日本人は、アメリカから何を学ぶのだろか、ということがある。山田わかの場合は、不屈の向上心だったのではないだろうか。

http://plaza.rakuten.co.jp/katiebooks/diary/200408240000/


昔アメリカで、ハロウィーンに英語もできないくせに白人様の真似をして調子こいていた馬鹿な日本人留学生が射殺された事件がありました。しかし、アメリカ白人がやったことなので日本人は怒りません。その因縁のハロウィーンを、やがて日本人たちはアメリカ白人と一緒になって馬鹿騒ぎして祝うようになりました。

だいたい日本人に同胞意識などない。自分が白人様にでも引き立てられれば、黄色人種の同胞なんてクソみたいなものです。日本人で出世して偉くなる人はみんなそう思っています。


天皇のロイヤルビジネスは、日本人の素人女性を騙して、日本郵船の貨物船に乗せて海外に性奴隷として売り、外貨を稼ぐというものでした。


日露戦争などの戦費もそれで出した。

同胞の日本人女でさえ騙して奴隷にして、船内で白人船員に強姦させて売春婦教育し、外国の売春宿に平気で売る事をしてきた日本人なので、朝鮮人従軍慰安婦の強制連行や戦地や日本軍進駐先(前記事のタイにも進駐していた)での住民強姦など朝飯前のことです。

(そんなことを否定したり事実を争ったりする方がどうにかしています)。


日本はもともとそういう麗しい国なのです。なので、マトモな人間なら、日本人であれ外国人であれ、「反日」になるのが自然です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

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彡三ミミヽ       | ..|ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠|  福沢諭吉・・・・・
彡' /| ヾ、    _ノ|_|: ̄二ー:: : ::::ソ ・ ,|
  / ./|.  `ー '    {ヘラ' ・_>シ;テツ"''''"|    ぜったい許さない
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彡'| .:|:::|   ` ̄       `\   ー-=ェっ |    
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三ミ| |:::|        /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|  
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コメント
 
01. 中川隆 2011年4月30日 20:03:22: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、 ケッ!!!


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    .i   |::::::::|;;;;',   ` 、          イ;;;;;;;;;;;;;;;;;;i::::;'  ノ  |
    i    i:::::::|;;;;;ヽ   `丶、    _ ´  |;;;;;;;;;;;;/;;;i::::;'  /   |

明治政府の私設「広報官」である福沢諭吉は、『学問のすすめ』(8編・明治7年)の中で、

「男も人なり女も人なり。・・・其功能如何にも同様」

と宣言していたのですが、『差別の諸相』の注解者・ひろたまさきは、福沢諭吉の女性論は、「文明的な良妻賢母の要請を求める主張」であり、「娼婦的存在には同情を示さなかった」といいます。

福沢諭吉は、その『品行論』において、

「そもそも娼妓の利害に就いては今更これを論ずるもの少なく、所謂道徳家の所望に任ずれば無き方が宜しと云ふは勿論のことなれども、人間世界は道徳のみの世界に非ず。人類の身も之を二様に分かつときは、一方は人にして一方は禽獣に異ならず。・・・」


というのです。


「遊廓」は「人間世界には非ざるなり」と説く福沢諭吉にとって、その世界に身を置く「遊女」(娼妓)は、「人に非ず」、「人非人」に等しい存在としか見えなかったのでしょう。

福沢諭吉にとって、「遊女」(娼妓)は、「人身の自由」が保障される「臣民」(人間)の対象外だったのでしょう。


福沢諭吉は、

「仮に今、人間世界に娼妓を全廃して痕跡おもなきに至らしめん歟、その影響は実に恐るべきものならん。」

といいます。 遊郭を廃止すると、数ヶ月を経ないで、「満都」に「獣欲」氾濫して、「良家の子女」がその餌食となるというのです。「遊女」(娼妓)が遊廓という苦界で、うめこうが苦しもうが一向に構わないが、「良家の子女」がその被害にあうのは「社会の秩序」を守る上で無視できない・・・というのです。


福沢諭吉は、「遊女」(娼妓)は、「最も賤しく、最も見苦し」い存在であるといいます。


「其業たる最も賤しむ可く、最も悪む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞いなり」と断定するのです。


『品行論』において、福沢諭吉は、売春制度に対する自らの主張を明らかにします。


「我輩は娼妓を廃せんとする者にあらず、却って之を保存せんと願」う

というのです。福沢諭吉は、諸外国から日本の遊廓制度に対する批判、「人身の自由」に対する批判があれば、それをさけるため、「深く之を隠すの注意なかる可らず。」と提言します。


日本の公教育における歴史教育で、福沢諭吉はどのような人物として教えられているのでしょうか・・・。

「福沢諭吉は豊前中津藩(大分県)の士族で、緒方洪庵の適塾(大阪)で洋学を学び、幕末に欧米に留学し、イギリスの自由主義を学んだ。帰国後、慶応義塾を設立し、欧米思想の紹介と教育に一生をささげた。」

(文英堂『くわしい学習事典・中学歴史の精解と資料』)と教えられているのではないでしょうか。福沢諭吉の顕彰は、紙幣に刷り込まれることによって、いまでも続けられているのはなぜでしょうか・・・。

http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2006/09/post_4f75.html


■福沢諭吉と慶応大が嫌いな理由。


そもそもアンチ論についてぐだぐだ述べるのは好きではありません。

でもコレだけは言いたい、と思ったので書きます。


福沢諭吉といえばあまりに有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。

そう一万円札のあのヒトです。

学問のすゝめの著者であり、某K大の創始者であられる御大。

その福沢諭吉、をネット検索したくらいじゃ出てこないちょっと深いところのソースから引っ張ってきた文章をどうぞ。


福澤の男女同等論

福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、


「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した。


『男女平等、女性にも男性と同様の教育を』

うん、そうだね。現在に通じる平等の基礎。

…此処まではまだいいのですが。


福澤は、男女同等論を唱えながら存娼論者でもあった。

妾を養うことも芸者を買うことも隠してせよ、

と隠匿論を述べ、公娼制度を積極的に肯定し、『品行論』(明治18年12月出版)のなかでは「社会の安寧」「社会の秩序」のために公娼制度はぜひ必要であると主張している。しかし、

その娼婦を称して

「其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし」

と罵り、隠れて遊べと言っている。


此処です。此処。

『愛人、売春婦とは隠れて遊べ。

社会のために(男性社会のために)売春婦を容認すべきである。

しかし売春業を行なうものは卑しく憎むべきであり、人の倫理に背いた人非人である』


と。なにこれ。


あー、何度読んでも腹立つ!

教育の権利だけが男女平等で、それ以外は???

人格的におかしいのではと思えるほど矛盾甚だしい。

実はコレ、wikipediaで福沢諭吉について以前書かれていた記事の一部分です。

とりあえず今現在wikiではこの引用の後半部分がきれいにまるっと削除されています。

それどころか著書『品行論』についての記事そのものがまるきり空っぽになっていて、不気味なかぎり。

まぁ、仕方ないのかとは思いますが。

巨大な後援会めいた存在が現代に残されていますしね。大学という形で。

深く詮索していくと、日本に巣くう恐ろしく根深い問題にまでたどり着いてしまいますのでこれ以上は此処では書かないことにしておきます。

しかしアカセンあったほうがいいけどそこに働く人は下賤である、だなんて。

教養ある人の発言とはおおよそ思えませんね。あなおそろしや。


一万円札は好きでも、あの肖像画はあんまり直視したくなくなること請け合いです。

http://d.hatena.ne.jp/NextLounge77/20100508/p1


02. 中川隆 2011年5月01日 05:42:34: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q


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福沢諭吉先生はアジア人が大嫌い


福沢諭吉は朝鮮や台湾の人びとのことをどう述べているか:


「朝鮮……野蛮国にして、……我属国と為るも……」、

「台湾蛮人……は禽獣……人の二人や三人を喰い殺すは通常……

朝鮮人は唯頑固の固まり」(本書121頁)

朝鮮は、野蛮な国であり、朝鮮人はただ頑固なだけであり、台湾人も野蛮で獣と同じなのだから、日本人が支配してあげるのが正しいことなのだ、という理屈であろうか。

「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」……

「朝鮮……人民は牛馬豚犬に異ならず。」……

「土人を銃殺……狐と思ふて打殺したり」

「島民が反抗……一人も余さず誅戮(ちゅうりく)して醜類を殲(つく)す可し。」……

「支那兵……恰も半死の病人……之と戦う……豚狩の積りにて」

(本書160−161頁)

なんという人種差別か。 このような読むに耐えないようなアジア蔑視を披露している。……甲申政変の際にさえ


「京城の支那兵を鏖(みなごろし)に」


と発言した諭吉は、……日清戦争では中国兵や台湾住民の「皆殺し」「殲滅」「誅戮」をくり返し呼号するようになる。したがって、日本の兵士が平然と「殲滅」作戦を担えるようにするためには、中国人・兵は「チャンチャン」「孑孑(ぼうふら)」「豚犬」「乞食」「烏合の草賊」の類であると教え、殲滅への抵抗感・抵抗意識を解除するマインド・コントロールを用意することも必要であった。(159頁)

中国人は人間以下の動物だから、皆殺しにしてしまえ、というのだ。


なんという怖ろしい「啓蒙思想家」だろう。戦争にあたって、相手国の人間を、人間以下に描き出すことは、侵略する側のひとびとが決まって行なってきたことである。かつてアメリカも、日本と戦争をするにあたって、日本人がいかに「人間以下」であるかをさまざまな方法でアメリカ国民に対して啓蒙した。

それにしても、これらの発言は、福沢に対するイメージを一変させるのではないか。


「目に付くものは分捕品の外なし。

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚へて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替までも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ。

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、凱陣の上は参謀本部に御払下を出願して一儲け……」


という私有物の強奪の勧めを書いた。さらに


「生擒(いけどり)」にした捕虜の「老将」軍を「浅草公園に持出して木戸を張り……木戸銭」をとり、

老将軍に「阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します」


という慰み物にして金儲けをする提案までした。」(163頁)

目についたものは、すべて分捕ってくるといい、などと言っている。 しかも、捕虜にした中国の老将軍を、浅草公園に連れてきて、見世物にしてしまおう、と言っている。 ここに見られるのは、「啓蒙思想家」としての姿ではなく、強盗・殺人を奨励する単なる「極悪人」の姿である。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

こんな言葉で知られる福沢の思想は、決して日本の民主主義の立役者でも何でもなかった。

「天」に代わって日本「人の上に」天皇制と「帝室の藩屏(はんぺい)」としての華族制度をつくりだした福沢諭吉は、

その日本「人の下に」被差別部落民の存在する事実になんらこだわることなく、

『東洋政略論』で日本「人の下に」アジア諸国民を置き、

百篇をこす論稿で男性「の下に」女性をおく家父長制的女性論を体系化し、

金持ち「の下に」貧乏人を位置づけた教育論を構築した。

たとえば、「今の世」で「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」という考えに基づき、

“貧智者”の出現阻止のために官立大学を廃止して私学に改変することを主張したり、

学問・教育も一種の商品だから


金持ちが「子の為に上等の教育を買ひ」中等は中等の教育、貧民は下等の教育を購入する


という貧富に応じた複線型学校論を主張し、それを合理化するために、

豪農・豪商・旧藩士族の「良家の子弟(男子)は「先天遺伝の能力」をもつ


という遺伝絶対論も主張した。こうした貧民無視の罪滅ぼしに、

「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」


と言って、貧民を宥(なだ)め眠らせるために、自らは信じない宗教の振興論を百篇以上書いた。(235頁)


筆者は、福沢諭吉を、「近代日本のアジア侵略思想とアジア蔑視観形成の最大の立役者の一人」と結論づけている。福沢諭吉を1万円札の肖像に使うことは、どのような意味を持つのか。日本人が、いまだに、侵略戦争・植民地支配を真に反省していない証拠である。 福沢諭吉は、いまも、アジア蔑視の差別意識を、金銭の欲望とともに、日本全国に流通させている。

http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200804/article_14.html


 早     /::::l:::l::、:::::、:::::ヽ::、::::::::::::\:::\::::::::ヽヽ::::::ヽ   駄
 .く      /:::!::::i:::!:::ヽ:::ヽ::::::ヽ::ヽ、::::::::::\:::ヽ:::::::ヽヽ::::::',   目 
 な.     /:l::::!::::ヽ!::ヽ:::::::ヽ:::::::\:::ヽ、::::::::ヽ:::ヽ::::::::!::i:::::::!  だ 
 ん   ハ:::l:::::、::::ヽ::::\:::::\:::::::\:::`ヽ、:::ヽ::ヽ:::::!:::!:::::l
 と   /:::::::l::::::!ヽ:ヽ::::、:::::ヽ:::、:\::::: \::::::\::::!::::ヽ:!:::i:::l:l  こ
 か  !:/!:::::!::::::!::ヽ:ヽ{:::\:::ヽ::::\:::\::ヽ:::::::ヽ!:::::::}!::::l::li|   い
 し  j/:::l:::::!:、:::!::ト、:、:ヽ:::::`ヽ{、::::::\::::\{、::::::::::::::::i::!::l:l !   つ
 な    l:i:l::::i::i:、:l::lテ=-、:ヽ、_、::\_,≧ェュ、_、\:::::::::i::li::!::リ   :
 い   !ハト:{:!:i:トN{、ヒ_ラヘ、{ >、{ 'イ ヒ_ラ 》\::l::!:ト!!:l::l!     :
 と     ヽ i、ヽ:ト{、ヾ ̄"´ l!\   `" ̄"´  |::!:l::! j:ll:!
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福沢諭吉のアジア認識 安川 寿之輔


1.戦後福沢諭吉研究のいい加減さ−「民主主義の先駆者」の虚像


 1万円札の肖像、慶應義塾の創設者、『学問のすすめ』の著者、福沢諭吉は前向きのイメージで見られ、国民作家、司馬遼太郎の「明るい明治」の歴史観とも重ね合わせて、偉大な啓蒙思想家として教えられています。しかし、アジア諸国からは侵略主義者とみられ、たとえば台湾では「最も憎むべき民族の敵」と呼ばれているのも事実です。

実は、民主的啓蒙思想家のイメージは、丸山眞男ら戦後の民主主義を追求をした学者たちが、福沢諭吉全集から自説に都合のいいところを、福沢の文脈とは無関係に抜き出して作り上げた虚像なのです。

たとえば、丸山さんは福沢の天皇制論を「天皇は政治に関与してはならないと主張し、生涯それを貫いた」と述べましたが、


福沢は朝鮮の甲申政変の時は天皇の「御親征」を主張、

日清戦争の時は大本営を旅順に移し天皇の「海外出陣」さえ要求したのです。


天皇は「正宗の銘刀」であるから「深く鞘に収め」と言ったのは、抜きっぱなしでは効用がないから日常的には政治に関与すべきでないという意味でした。


また、『学問のすすめ』の

「一身独立して一国独立する」

は、

「個人の自由が確立しなければ国の独立はない」


と解釈されましたが、これは福沢研究史上最大の誤読です。

理想はそうだが、国の独立が最優先課題であるから民衆の自由の確立は「他日為す所あらん」、すぐにはできないと言ったのであり、やがて「自由民権運動」に出合うと「一身独立」は放り投げ、逆に封建的な制度を擁護する側に回ったのです。

さらに、福沢は無神論者でしたが、民衆に対する啓蒙を放棄するや、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度良き取り合わせ」、


すなわち民衆の支配には宗教が有効だとして、「経世の要具」としての宗教の必要性を100編以上の論説で主張したのです。丸山さんは福沢を「原理原則がある哲学をもった思想家」と最大限に持ち上げましたが、上の例から福沢は原理原則に筋を通す思想家などではないことがわかります。

 なぜこのようないい加減な福沢研究が学問の名の下にまかり通ったのか。それは戦後の研究者たちが、民主主義の追求に目を奪われて、昨日まで続いていた日本の侵略戦争、植民地支配の責任を放置し、日本にも「明るい明治」期には福沢のような先駆者がいたのだと、福沢を民主主義のチャンピオンに仕立てたのです。戦後の学問のいいかげんさは戦争責任を忘却したことの結果であり、その罪は重いと言わねばなりません。


2.福沢諭吉の国際関係認識−侵略路線への逸脱


 福沢の幕末維新期の国際関係認識は「国家平等観」に立脚していたというのが定説ですが、これは丸山さんらが、福沢が建て前論として言った部分のみを取り上げて導いた結論です。

福沢は国際関係を「傍若無人」、「切り捨て御免」、「無情残酷」、「パワーイズライト」と認識していました。

また同じ時期の、「台湾出兵」について


「こんなにお祝いすべきことはない」、

「そもそも戦争は国の栄辱の関する所、国権の由て盛衰の致す所」


と述べ、「江華島事件」では


「小野蛮国」の朝鮮が「来朝し、我が属国になるも我の悦ぶに足らず」


と述べました。先行の研究者たちは、こういった不都合な記述を全く取り上げることなく「国家平等論者」だと結論したのです。

 福沢は国際帝国主義の時代状況を「弱肉強食」の関係だと認識すると、『文明論之概略』の中で、自国の独立確保を至上最優先の課題に設定し、『学問のすすめ』の中では


「一国独立」は「国の為には財を失うのみならず、一命を擲ても惜しむに足ら」ない「報国の大義」だ


と書きました。上述したように丸山さんらは「一身独立して一国独立する」を読み間違えたのです。

さらに国の独立確保を最優先するためには

「…、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別のごとき…文明の方便」

であるから積極的に活用しなければならないと、日本の近代が封建的なさまざまなものを取り組んでいく道を提示したことも極めて重要です。

 中期以降、先進資本主義国が社会主義や労働運動に直面し、「狼狽して方向に迷う」という現実認識が加わると、「富国強兵」ではだめで「強兵富国」でなければならないと唱え、「軍備拡大」、「対外侵略」路線へと踏み出して行きました。そして歴史的現実主義という名の「清濁併呑」路線、すなわち

「世の中そんなに急に変わらないから、民衆があほなら民衆のあほに依拠してやっていく」、


また「権謀術数」的な「内危外競」路線へと傾斜していきました。何よりも見事なのは、天皇制を「愚民を籠絡する詐術」、馬鹿な国民をたぶらかす政治装置だ、と見抜いたことです。その一方で、軽率にも日本人は「完全な文明開化人」になったという宣言をし、「文明史観」の下での対外侵略の合理化を行い、同時代人から


「法螺を福沢、嘘を諭吉」


と非難されました。元外交官の吉岡弘毅からは、「我が日本をして強盗国に変ぜしめんと謀る」道のりは「不可救の災禍を将来に遺せん事必せり」と厳しくも適切な批判を受けたのです。

3.日清戦争と福沢諭吉


 この時期、朝鮮の背後には中国がいるという理由で、一気に北京攻略まで要求し、あまりに激烈な開戦論のために、『時事新報』の福沢の社説は2度検閲で削除され、さらに『時事』は発行停止処分まで受けました。

リベラルなイメージから良識派と考えられがちですが、実像は明治政府を戦争へと誘導、先導する立場だったのです。

 「日本は日清戦争を経ずに近代化の路線を歩むことはできなかったか?」というのは大変に重要なテーマです。実は、当時の権力中枢、山縣有朋や井上毀らは、直接朝鮮半島を支配する野望は持っていたけれども、国際関係等からいきなりは無理であろうから、暴力的にではあってもスイスのように「永世中立国」にすれば、朝鮮を中国の支配からは離脱させられるという考え方をもっていました。日清戦争開戦1ヶ月前の閣議まで、日本が選びうる3つの選択肢の中には「朝鮮の中立化」は存在していたのです。ところが


福沢は日中両国が違いに連携することなど「空想」だと切り捨て、終始一貫、対支強硬論と軍備拡大要求を続けていました。

明治政府よりも右よりで開戦へと誘導・先導する立場だったのです。

4.丸ごとのアジア蔑視と『暴虐のすすめ』


 福沢は侵略合理化のために「文明」という言葉を論説で乱舞させました。すなわち


他国の「国事を改革」したり「国務の実権」を握ることは内政干渉ではない、


「あいつらはばかだから、がつんとやらないとわからないのだ」


という厚顔無恥そのものの論理です。同時にアジアへの蔑視・侮蔑・マイナスの評価はこの時期から悪化の一途をたどりました。初期にもアジア蔑視観は出ていますが、たとえば中国の民族的英雄林則除を「アヘンを焼き捨てた、思慮のない短気者」と侮辱したように、個々の政策を批判するだけだったのです。ところがこの時期になると、中国は、朝鮮はと、丸ごと総体的に侮蔑する言葉を垂れ流すようになりました。

「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆」、

「朝鮮は国にして国に非ず」、

「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」、

「朝鮮人 南洋の土人に譲らず」、

朝鮮人は豚や犬だというのです。


「支那兵…豚狩りのつもりにて」、

「チャンチャン…皆殺しにするは造作もなきこと」、


中国人をやっつけることなど簡単なことだとはっきり書いています。後に日本軍はその通りのことをやったわけです。


中国人を「チャンコロ」呼ばわりすることを、彼は4回書いています。


このような聞くに堪えない侮蔑の言葉を垂れ流すさまは痛々しいとすらいえます。 『時事』の『漫言』では兵士に向けて


「…目につくものは分取り品の田無、なにとぞ今度は北京中の金銀財宝を書き更え…一儲け」


と戦時国際法が禁止する私有物略奪を呼びかけました。 「三光作戦」の勧めです。


 この時期、広島にあった大本営で90回におよぶ御前会議に立った明治天皇を賞賛し、福沢は海外出陣の可能性を提言しました。史実はその4ヶ月後に陸軍内で大本営を旅順に移す案が出て、明治天皇も了解したのですが、知恵者の伊藤博文の反対で流産しました。また「靖国」の思想も先駈けて打ち出していました。


「死を鴻毛より軽しと覚悟」する「軍人勅諭」の「大精神」が勝利の「本源」
であり、

「…益々この精神を養うことこそ護国の要務にして、これを養うには及ぶ限りの栄光を戦死者並びにその遺族に与えて、もって戦場に倒るるの幸福なるを感じせしめるべからず」


と書きました。


 「朝鮮王宮占領事件」、「旅順虐殺事件」、「閔后殺害事件」、「台湾征服戦争」など日清戦争の不義・暴虐を象徴する事件について、ジャーナリストとしての福沢は終始隠蔽・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を行いました。

私たち「南京大虐殺」を追求する者にとって重大な意味をもつ「旅順虐殺事件」はアメリカやイギリスの新聞に大きく報道され、何よりも『時事』の特派員報告でも出たのでした。しかし、日本が「文明の戦争」ということで世界に登場しようとしていた時期に、市民を含む2万人近い無抵抗の中国人を殺害したことは、伊藤首相と陸奥外相の判断で不問に付すことになったのです、

福沢は虐殺を「実に跡形も無き誤報・虚言」と切り捨て事実隠蔽のお先棒を担いだのです。

その「結果、日本軍の軍紀には覆うべからざる汚点を生じ、残虐行為に対する罪悪感は失われ、その後この種の事件を続発させることに」なったと『日清戦争』の藤村道夫は述べています。すなわち「南京大虐殺」にいたる道が敷かれたわけです。

5.「日本の近代化=アジア侵略」の「お師匠様」


 福沢は有名な『自伝』の中で、「明治政府のお師匠様」を自負していましたが、彼は「明治政府」に止まらず、アジア太平洋戦に至る日本の近代化の道の総体にわたる「お師匠様」と位置づけるのが正しいと思います。アジア太平洋戦争の有名なキャッチフレーズ「満蒙は我生命線」は後の外相松岡洋右の演説ですが、その先駈けになったのは福沢の「今、日本島を守るに当たりて最近の防御線は朝鮮地方たるや疑いを入れず」です。これは山縣有朋が同じことを主張するよりも3年早くなされたものでした。日本が大東亜共栄圏の盟主だということも福沢は明確に主張しています。

 家永三郎は名著『太平洋戦争』の中で、「日本の民衆が15年戦争を何故阻止できなかったのか」の重要な要素として「隣接アジア諸民族への謂われのない区別意識」を挙げていますが、この蔑視感の形成の先頭に立ってきたのが福沢だったわけです。そしてこの蔑視感は今の日本の有り様にも繋がっております。自分では「偽りにあらずして何ぞや」と冷静に認識しながら、天皇制を「愚民を籠絡するの詐術」と見抜くと、


天皇崇拝は「日本人固有の性」、


「一般の臣民…雖も帝室の為とあらば生命を惜しむ者なし」


とうそぶくしたたかさを持っていました。その福沢諭吉の力もあって「愚民を籠絡する」天皇制は日の丸・君が代とともに今なお健在です。このしたたかな福沢諭吉にどう対抗し乗り越えるのか、それが私たちの課題として問われています。

http://www.jca.apc.org/nmnankin/news10-3.html


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◆私は、十五、六歳のころ、「何になりたいか」と兄に聞かれて、「日本一の金持ちになりたい」といった(「福翁自伝」).


 金持ちになるためには、国民をだまして「金と命を出させて、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化財を奪うことが必要だ」と考えた.

 そのためには、教育と報道で世論をつくることが必要であった.教育では慶応義塾を、報道では時事新報を創設した.

 そして台湾・朝鮮半島・中国全土を植民地化するためには、戦力を持ち、「国権を皇張すること」が必要と宣伝した.(1881「時事小言」)

 それが成功して、日清戦争(1894-1895)では、台湾の植民地化を達成し、同時にそれを報道した「時事新報」の発行部数を伸ばして、「金持ちになる夢」に大きく近づいた.

諭吉は、天皇家の先生だった!


昭和天皇は、皇太子(2009年3月現在の天皇)の教育に小泉信三をあてました(1946年4月〜1958年).

小泉信三は、福沢諭吉の「帝室論」を教材に、青年時代の現天皇の教育をおこないました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」).


皇太子の家庭教師役を任命されたとき、小泉信三は慶応義塾の塾長(1933年〜1947年)でした. 彼の父親も、慶應義塾の第二代の塾長(1887年〜1890年)でした.慶応義塾は、諭吉が創設し、第1代塾長は諭吉でした.
彼は、「政府の影のお師匠様」(注)であり、天皇家の先生でもあったのです.


(注)「福沢諭吉全集」(第20巻414頁)


「立君の政治」は「人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)


小泉信三は、「そう指摘されたら、どう答えるか」を若き現天皇に教えていたのです.(注)

現天皇は、皇太子に何を教えたのでしょうか?

(注)

「福沢諭吉の『帝室論』を読むために、殿下も私も、それぞれ福沢全集の一冊をこの一隅に持ち込んだこともある」
 
「部屋の大きさは二十畳ぐらい」

「両陛下がお出ましになったときにもここへお通りになる」

「壁に寄せて直立ピアノが置いてある」

「皇太子殿下は主にその二階にお住居になっている」

(小泉信三「ジョオジ五世と帝室論」)

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html


天皇制は「支配者が愚民を篭絡するの一欺術」


(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)
(1882年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)

天皇を頂点とする利権・既得権益の体系、それが「天皇制」の本質ではないか?

それは、天皇制を支持する人びとを見ればわかる.彼らは、何らかの権益をもっている.(反論できる人はいないようだ)

もう一つの証拠は、昭和天皇だ.彼は、終戦の詔勅(ラジオ放送)で、「ここに国体を護持し得て」といった.

天皇制の維持・存続の希望を出し、結果として戦争責任から逃れ、「日本国憲法」第1章に「天皇」を書き込ませたのだ.歴史に残る戦略家というべきではないか?

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_7753.html


「馬鹿と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」

靖国神社が作られた頃の諭吉の文章です.
(福沢諭吉全集 第20巻232頁)

諭吉は、靖国神社の本質をよく理解していた

「国民はだまされて、国のために死んでくれ!」

その諭吉を、一万円札の肖像として毎日拝ませる人たちがいる!

日本の「文化と伝統」は、「だまされること」ではないはずです!

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_14.html

「天皇が、ヤスクニ神社を参拝するべきだ」 (福沢諭吉)

「靖国神社の臨時祭には、辱(かたじ)けなくも天皇陛下の御臨席さへありて、・・・。 
・・・大に遺族のものに給与して死者の功労に酬ひん(むくいん)こと我輩の切望・・・」
(死者に厚くす可し」 

 (1895年 福沢諭吉全集 第15巻341頁)

(天皇陛下が、死者の功労に十分あつくむくいれば、遺族も悲しまないだろう. そうしてほしい. そうすれば国民は、天皇と国のために、喜んで死ぬだろう)

福沢諭吉の時代には、憲法は国の機関の宗教活動を禁じてはいませんでした.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_15.html

英国もフランスも、人の土地を奪っている! 
(対中侵略15年戦争の諭吉の布石)


「今は英国もフランスも、競争して人の土地を奪っている」

「今は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・

皆吾れ負けじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何も構ふことはない、

少しでも土地を奪へば、暖まりこそすれ・・・遠慮に及ばぬ、「さっさ」ととりて暖まるがよい」

(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第19巻711頁 「福沢諭吉のアジア認識」299頁)


「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進て其喉笛に喰付くこと緊要・・・北京、是なり」

(1882年 「喉笛に喰付け」全集第8巻260頁)

「支那国果たして自立を得ずして諸外国人の手に落ちることならば、我日本人にして袖手傍観するの理なし. 我も亦奮起して共に中原に鹿を逐わんのみ」

(1882年 全集第5巻313頁)

「朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を塵(みなごろし)にし、・・・. ・・・両国の戦争となることあらば、・・・日本の勝利必然なり」

(1884年 「戦争となれば必勝の算あり」(全集第10巻159〜)

「目につくものは分捕品の外なし.

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚えて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替えまでも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ. 

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・ 一儲け ・・・. 


・・・其老将等が、生擒の仲間で幸にまだ存命にてあらんには、・・・

之を浅草公園に持出して木戸を張り、・・・之に阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します、・・・御慰み」

(1894年 「漫言」全集第14巻570頁)


この諭吉の教えにしたがって、日露戦争(1904〜1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろせい)の碑」があります.


それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です(朝日新聞 2006年5月28日). おそらく、旧日本軍は、中国の統治を日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.

この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています.

日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません. まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いますが.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/1881711299.html

福沢諭吉:
 
「金と兵は有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なり ・・・
本編(1881年「時事小言」)立論の主義はもっぱら武備を盛んにして国権を皇張するの一点にあり。 

事情切迫におよぶときは、無遠慮にその地面(アジア諸国)を押領して、わが手をもって新築するも可なり」

(福沢諭吉全集第5巻108ページ〜)

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html


私(福沢諭吉)は、「暗に政府のお師匠様」であった

1897年8月22日「時事新報」(社主・福沢諭吉)から 


「王政維新の前後に日本国中の人が専ら老生の著訳書ばかり読んで文明の新知識を得たるは紛れもなき事実にして、或いは維新政府の新施設も拙著の書を根拠にして発表したるもの多く、暗に政府のお師匠様たりしことは、故老の忘れざるところなり」
(福沢諭吉全集第20巻)


その諭吉は、天皇制について「愚民を篭絡するの一欺術」といっています.(全集第5巻)

また、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」といっています.(全集題20巻)

東京招魂社が、靖国神社になったころです.


「日本は天皇を中心に歴史が作られてきた. 
国が強くなることが大切、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化遺産を奪いとれ.

天皇のため、国のためには、『カネ』も出せ、命も出せ!

死んだ後には靖国神社がある」 

諭吉は、国民を馬鹿と見て、これをだまして税金と命を取る、そのダマシのシステムが天皇制と靖国神社だと考えていたのでしょう.

真に賢い師匠でした.今の日本も、その師匠を一万円札の肖像として、毎日拝ませています.

ダマス者が賢く、国民は愚民!
それが、日本の伝統と文化でした.


___________

「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」 ─ 福沢諭吉の理解!

 「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)


諭吉は、こう書いています.


「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」という意味です.(「そういわれたら、『それは、政治を知らない』と答えよ」といっています)


なぜ、彼はそう書いたのか?
それは、次の理由によります.

◆自分は金持ちになりたい.(「日本一の大金持ちになりたい」
これが、彼の少年時代の夢だった(岩波文庫「福翁自伝」)

◆金持ちは、多数の者の生命と財産の犠牲の上に可能となる


◆支配者が国民の生活を犠牲にして、初めて金持ちが可能となる


◆自分は、支配者の側に立ちたい.
門閥制度で一生下級武士はいやだ!


◆一方国民は、だまって生活を犠牲にはしてくれない.


◆だから、国民をだまさなければならない.


◆国民をだますためには、天皇制をもってくるのが一番よい.


◆天皇のために、命も財産も投げ出す.「お国のため、大義のために死ぬ」ということができる.
(若くして殺された特攻隊員がそうだった)


◆彼らと遺族が、がっかりしないように靖国神社(1879年)をつくっておこう.


◆自分は表向き、教育(慶応義塾)と新聞(時事新報)の責任者ということで行こう.


◆実際には「暗に政府のお師匠さま」(全集第20巻頁)として、侵略戦争を推し進め、そこで上前をはねよう.(実際に戦争報道で大もうけをした)

これが、福沢諭吉の真実です.


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福沢諭吉は、少年時代の「大金持ちになりたい(福翁自伝)」夢を実現するためには、天皇制を支持したのだ.


◆「大金持ち」になるためには、略奪・侵略・殺戮・戦争が必要だ.

◆「お前たちが死んで、私たちが略奪物を取るから、戦争に行け」では、賛成してもらえない.

◆そこで、天皇制を利用しよう.

◆「私たちのため」ではなく、「天皇のため」「国のため」「大義のため」に死んでもらおう.

◆そのために、靖国神社も用意しておこう.「英霊になる」なら、死んでも文句はないだろう.

◆そこで、彼は、天皇制についてこういった.

◆「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 (天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための手段だ)
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)

◆彼は、そのリクツを実行して、台湾・朝鮮の植民地化、対中侵略戦争を教育・宣伝して、日清戦争では自分の新聞の発行部数を大いに伸ばして大もうけをした!

◆彼の教えは、日清・日露戦争から、対中侵略15年戦争・太平洋戦争を通じて、2009年の現在にいたるまで続いている.(指導者としての立場は、一万円札の肖像として認められている)


日本では、まだ諭吉の教え子たちが「人主」として生きている.

 
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福沢諭吉は、天皇制を「天皇制は、国民をだますための手段」だと理解していました.


「立君の政治」は、人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)という人がいるが、「それに対しては、『政治を知らない者がいうことだ』と答えればよい」と教えています.

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)

国を富まし、強くするためには、台湾・朝鮮の植民地化だけではなく、対中国侵略こそ「本命」であると主張していました.


「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進で其(その)喉笛に喰付くこと緊要)・・・北京是なり」

(1882年「喉笛に喰付け」全集第8巻260ページ)


中国の領土、資源、労働力をすべて奪いとれ、これが1882年に彼が教えたことです.

国を強くするには、命を捨てろ、天皇のために死ぬことは美しいことだ.


「国のためには財を失ふのみならず、一命を抛て惜しむに足らず」
(1873年「学問のすすめ」第三編 全集第3巻43ページ〜)


(そして、諭吉を含む一部の者が大金持ちになるのです)

日本政府と国民は、この教えを忠実に守り、50年後(1931年)対中国侵略15年戦争に突き進み、太平洋戦争を経て、2009年の現在、諭吉を最高額紙幣の肖像として、毎日拝んでいます.このように、明治以来「ダマシのシステム」はつづいています.

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03. 中川隆 2011年5月01日 19:11:08: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

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★ 大学の教師をしていた頃、「それは間違い。原文を読んで」と、学生達の先入観を正すのに苦労したハナシをご披露したいと思います。それと言うのも、ブログやSNSの日記を見ていると、同じ間違いが随分、多用されているからです。


今日、お話ししたいのは、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず・・・・」の”故事”成句のこと。


★ 私は、大学で「人権論」という講義を担当していました。”天賦人権”を語ると、多くの学生は

「知ってます。福沢諭吉の”天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず” 人間平等の原理」

などと、即答します。高校でそう教えているのですね。


★ その度に、繰り返して来た言葉:


 「それは間違い。その言葉は、福沢諭吉の『学問のすすめ』の一番、最初に出てくる言葉だね。

でも、もう一度、しっかりと原文を読んで来なさい。福沢諭吉は、決して、そうは言っていない。 

福沢諭吉は天賦人権論者ではないョ。 全く逆。 

それをしっかり確かめて来なさい」

★ そのハナシをすると、多くの方々が、「エッ!」と、怪訝な顔を私に向けます。

どなたも日本で最初に人類普遍の原理「平等」を説いたのは福沢諭吉と信じておられるようです。


「天は人の上に・・・・・と言ったのは福沢諭吉では???」

★ 無理はありませんね。 例えば、手軽なネット百科事典として、誰もが利用する「ウィキペディア」にもこのように書かれています。

天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とは、すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思想家により主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に具体化された。日本では明治初期に福澤諭吉・加藤弘之らの民権論者によって広く主張された。

★ しかし、これは間違い。確かに福沢諭吉も、加藤弘之も、明治初期の啓蒙家として、天賦人権の思想を紹介はしていますが、二人とも「天賦人権論者」ではありません。加藤弘之などは、逆に社会進化論の立場からそれを否定しておりますし、福沢諭吉も加藤弘之の社会進化論に近い”学問至上主義”の立場、天賦人権などには否定的です。

★ それをしっかり確かめるために、是非、福沢諭吉の著書『学問のすすめ』を原文で読んでみて欲しいです。巻頭第1ページ冒頭にある、その行を引用してみましょう


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。

そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

         福沢諭吉著 『学問のすすめ』

★ 確かに福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な言葉で、この論文を書き始めています。

大事なことは、それに続く「と言えり」の4文字。「と、言われている」 が、しかし・・・と、以下に続いています。

福沢諭吉が言いたいのは、その先です。 後の文章は、全部、「そうではない」と、その理由を述べています。

◎ 現実は、そうじゃない、賢人愚人、貧しき者、富める者、貴人下人・・・雲泥の差があることは明白。それには理由がある。と言うのです。

つまり人間の優劣は学問によって決定される。優れたものが劣っているものを支配するのは当然のこと。

◎ (天賦人権のような考えより) 我が国で平安時代から子弟の教育に用いられて来た教科書「実語教」にあるように、賢者と愚人の差は、学ぶか、学ばないか、によって定まる。 肉体労働と知的職業に別れるのもそのためだ。


◎ だから医者、学者、政府の役人、富める商人、大地主などは、高い身分の貴人なのだ。


と、そういう論理を展開しています。 

天賦人権論の先駆者どころか、その敵である「社会進化論」の側に立つ主張者ですね。一般に信じられている福沢諭吉像とは全く逆です。 

学問による”弱肉強食” 能ある者が能乏しき者を支配するのは当然、と言っているのです。

★ 「・・・・と言われているが、そうじゃない」と、引用されている「・・・・」句が、短絡にが本文から独立し、しかもその引用句が引用者自身の言葉として一人歩き。 誰も正さないうちに、いつの間にか”故事成句”に成熟して熟語化し、戦後の民主主義の御代になると、爆発的に流行し始めた各種の「人権論」講座の枕詞に用いられる。 

そして我が国における人権論の先駆者として、疑われることもなく君臨し、社会の通念にまでなる。


★ 言葉としては誰もが知っている”社会常識”。 

だが、それを口にするほとんどの人が原文を読んだことがない。

そして間違った”偶像”が信奉され、もはや、誰も疑うものがない・・・・思えば、コワイハナシです。

★ そこで言いたい私の「学問のすすめ」は、故事成句を使うなら、必ず原文を読んで、その真意を確かめよう。 私の大学の恩師は「読書とは師との向かい合いである」と教えられました。その大切さを、今、思います

http://zenmz.exblog.jp/13489906/

 

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安川寿之輔さんの福沢諭吉批判を聴いて考えたこと


安川寿之輔さんが、「「暗い昭和」につながる「明るくない明治」」と題する講演をされた。

1.福沢諭吉の天賦人権論の虚実

 「明るい明治」と「暗い昭和」を対置する司馬遼太郎の歴史観は、近代日本を「明治前期の健全なナショナリズム」対「昭和前期の超国家主義」と捉える丸山真男の二項対立史観をわかりやすい表現に言い換え、踏襲したものである。そして、その丸山が明治前期の健全なナショナリズムの代表格として評価したのが福沢諭吉の天賦平等論であり、一身独立論であった。

 しかし、福沢の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズは、「・・・と云へり」という伝聞態で結ばれていることからわかるように福沢自身の思想を表したものではない(アメリカの独立宣言を借りたことばであった)。


丸山氏はこの点をすっぽり落としている。

「万人の」という意味では後掲の福沢の天皇制論に見られる愚民籠絡論や、ここでは紹介できないが工場法反対論にみられる貧困市民層に対する蔑視の思想、家父長制的な女性差別論などは、福沢の人間平等論の虚実を示す典型例といえる。

こうした福沢の天賦人権論の虚実を精緻な文献考証を通じて徹底的に立証した点で安川さんの研究には特筆すべき価値があると感じた。

2.福沢諭吉の「一身独立論」の変節


 福沢が『文明論の概略』の中で、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という正しい認識を記していた。(もっとも、順序としては「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、(一身独立のような)其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べ、「自国独立」優先の思想を明確にしていたが)。

 また、福沢は自ら、アメリカ独立宣言を翻訳するにあたって、「人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通儀(基本的人権のこと)を固くするための趣旨にて、・・・・・・政府の処置、此趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、・・・・新政府を立るも亦人民の通儀なり」と訳し、人民の抵抗権、革命権を正当に訳出・紹介していた。


 しかし、かく紹介する福沢も自分の思想となると、「今、日本国中にて明治の年号を奉る者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約のこと)を結びたる人民なり」と記して国家への国民の服従を説いた。

 さらに、その後、自由民権運動と遭遇した福沢は1875年の論説において、


「無智の小民」「百姓車挽き」への啓蒙を断念する


と表明し、翌年からは宗教による下層民教化の必要性を説き、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」

という人間蔑視の思想を憚りなく公言するに至った。こうして福沢は啓蒙期の唯一の貴重な先送りの公約であった「一身独立」をも放棄したのであった。


 ところが丸山真男は、福沢自身が優先劣後の区別をした一国独立と一身独立の議論の実態を無視し、さらにはその後の福沢が一身独立の思想を放棄した現実を顧みず、個人的自由と国民的独立の見事なバランスと言い換え、両者に内在する矛盾、軋轢――後年の福沢の一身独立論を変節に導く伏線となる要因――を無視して、福沢賛美の根拠に仕立て上げたのである。


3.福沢の変節の極みとしての神権天皇制論


 安川さんの講演の中で開眼させられた一つは福沢の天皇制論に対する言及だった。福沢は『文明論の概略』の第9章までの記述の中では、たとえば、「保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず」と記し、「新たに王室を慕うの至情を造り、之(人民)をして、真に赤子の如くならしめんとする」のは「頗る難きこと」と述べて、天皇制に批判的な考えをしていた。

 ところが、福沢は1882年に「帝室論」を書く頃には天皇制論を大転換させ、「帝室・・・・に忠を尽くすは・・・万民熱中の至情」などと言いだした。これについて、福沢は国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて人心の軋轢を緩和する「万世無欠の全壁」たる帝室の存在が必要になったと説くとともに、「其功徳を無限にせんとするが故に」帝室は日常的には政治の外にあって下界に降臨し、「一旦緩急アレハ」天下の宝刀に倣い、戦争の先頭に立つよう説いた。

 ところが、丸山真男は福沢が日常的にはと断って説いた皇室=政治社外論を一般化し、福沢が「一貫して排除したのはこうした市民社会の領域への政治権力の進出ないしは干渉であった」と誤解したのである。


4.福沢のアジア侵略思想の歩み


 1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国  政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、


「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」


を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。


 また、これに続けて福沢は、


「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」


と公言して憚らなかった。

 さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、


「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」


と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。

 こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 

また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。

植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。


5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔


 私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。


 まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。


 吉岡弘毅(元外務権少丞):

「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」


 徳富蘇峰:

「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」

 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。


にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、

丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、

福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――

とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。

 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。


 戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。

権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。

しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。


 
               ∧_∧
   _ノ⌒\_ノ      アーっ!  :::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::::
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丸山思想の決定的欠陥 鍜治正啓

丸山真男は「文明論の概略を読む」を書いて福沢諭吉を礼賛しましたが、そこでは福沢の侵略思想を見落としており、私はこの見落としを丸山思想の決定的欠陥だと考えます。


福沢諭吉の実像は、日本の民主化への貢献というよりは、軍国主義を煽ったことの方にありました。


「時事小言」の社説で、


「印度・支那の御(ぎょ)し方を英人に見習うのみならず、その英人をも苦しめて、東洋の権柄を我が一手に握るべし」


とか


「滅亡こそ朝鮮人民の幸福」


などという非常識で勇ましい文章を書きなぐっていました。(このことは安川寿之輔氏の研究に詳しく書いてあります。)


この福沢の実態の見落としは、単なる軽率と済ませられるものではなく、丸山思想の根本的欠陥と見るべきと考えます。


福沢諭吉が日本の侵略主義を煽ったのは、自分の国は自分で守る気概を持った国民を作ること、つまり国民国家を作るためでした。こういう「国民」を作り出すためには、民族の一員としての平等感と国政への参加意識を持たせる必要がある、と考えました。

これが人民主権(民主主義)の思想の役割でした。

福沢にとって独立日本国を作ることが第一義で、民主化はそのための方便という二義的な意味しか持っていませんでした。


ところが丸山は「国民国家を作るための民主主義」という思想構造を理解できなかったために、福沢の民主主義の部分だけしか見えず、一方では福沢が重視した侵略思想の方を見落としたものです。


しかしながら福沢のこの思想は、福沢の性格のゆがみとか間違いというような個人的なものではなくて、明治期の時代の空気であったことに留意する必要があります。


この侵略思想は、自由民権運動の中にも顕著に現れていることは、板垣退助、大井憲太郎などの過激な侵略思想を見れば明らかです。福沢や民権派の運動の効果もあって、この思想が順次政府によって実行されて、挙句の果てに昭和の戦争を招いたものであり、長い眼で見れば、彼らは昭和軍国主義の先駆者ということが出来ます。


しかし福沢や民権派の人々が、この日本近代の侵略主義を作りだしたと言ってしまっては、彼らの力の過大評価になります。

彼等はこういう日本の近代化の時代の空気を代表して表現しているに過ぎません。

問題は日本の近代化という大きな流れの方にあるといえます。

この時代の空気を丸山は分析的に見ることが出来なかったのですから、思想家としては失格だったと言えます。

結論として、丸山は近代化の持つ暗黒面に気がつかなかったという意味で、「近代と言うものが理解できなかった近代主義者」だった、と言えます。

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-79b8.html


04. 2011年5月04日 01:01:38: ETU4MaSquE
朝鮮人が全部するようなことだね。天皇制を廃止して日本を破壊する工作員だな。オルタの嘘をあちこちでかきまくってるが。プロパガンダをやめろ。在日か反日日本人だろ。

05. 2011年6月03日 19:55:52: qgfXIquhZw
バビロン・システムですね。

06. 2011年6月11日 21:17:56: urw8R1reRc
近代日本、戦後日本の壮大な嘘、愚民化がどんどん明らかになってくる。
世界もそうであろうが、ネットのおかげであり
阿修羅のおかげである。

投稿者・コメント者の熱意に感謝!!


07. 2011年6月13日 10:32:59: GrBSnZw7v6
>>天皇制を廃止して日本を破壊する工作員だな。
ああ、痛い痛い。
天皇制を廃止すると日本が滅びるんですかぁ?
日本はやっぱり北朝鮮並みの独裁国家だったんですね。

>>朝鮮人が全部するようなことだね。
>>在日か反日日本人だろ。
はいはい、いつものチョン認定ですね。
戦中の非国民認定の頃から何も変わっていないんですね。
統一思想に染まっていないと自分たちではないというのは
それこそネトウヨの嫌いな共産主義的な思想ですよ。

>>オルタの嘘をあちこちでかきまくってるが。
「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦はただの売春婦」みたいな
「水からの伝言」にも満たないような悪質なトンデモ思想に染まっている連中が
よく他人の事言えますね。

>>プロパガンダをやめろ。
ネット中のあらゆる所でコピペ宣伝しているような奴らがこれくらいでプロパガンダですか。

いずれにせよ、ネトウヨは天皇制が存続しないと精神の安定が維持できないようです。天皇が消えれば勝手にネトウヨも消えるでしょう。


08. 2011年7月18日 06:28:36: MiKEdq2F3Q

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09. 2011年8月02日 03:03:10: kzC8e1AeVY
掌中萬國一覧

掌中萬國一覧
デジタルで読む福澤諭吉
http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_title.php?id=29
以下カナリの長文です。
差別丸出し。お祭りで肌の色が違う人を鎖でつないで見世物にした口上みたいです。
時代の違いとしか言えません。
共通することは白人になれない不幸に精神を蝕まれているかもしれないということです。今の日本の不安定さもここに起因します。

二十一 頁
世界の人員を
五に分ち其性情風俗の大概
を論ずること左の如し
(一)白哲人種 皮膚麗しく毛
髪細にして長く頂骨大にし
て前額
(ヒタイ)
高く容貌骨格都て美
なり其精心は聡明にして文
明の極度に達す可きの性あ
りこれを人種の最とす欧羅
二十二 頁


巴一洲、亜細亜の西方亜非利
加の北方、及ひ亜米利加に住
居する白哲人は此種類の人
なり
(二)黄色人種 皮膚の色黄に
して油の如く毛髪長くして
黒く直くにして剛し頭の状
稍や四角にして前額低く腮骨
平にして広く鼻短く眼細く
且其外眥斜に上れり其人の
性情よく艱苦に堪へ勉励事
を為すと雖ども其才力狭くし
二十三 頁


て事物の進歩甚だ遅し支那
「フヒンランド」(魯西亜領
西北ノ地)「ラプラ
ンドル」(同上フヒンランド北方ノ地)等の居
民は此種類の人なり
(三)赤色人種 皮膚赤色と茶
色とを帯て銅の如く、黒髪直
くして長く、頂骨小にして腮
(ホウ)

骨高く前額低く口広く眼光
暗くして深く鼻の状、尖り曲
て釣の如く又鷲の嘴
(クチバシ)
の如し
体格長大にして強壮、性情険
くして闘を好み復讎の念常
二十四 頁


に絶ることなし南北亜米利加
の土人は此種類の人なり但
しこの人種は白哲人の文明
に赴くに従ひ次第に衰微し
人員日に減少すと云ふ
(四)黒色人種 皮膚の色黒く
捲髪
(チヾレゲ)
羊毛を束ねたるが如く
頭の状、細く長く腮
(ホウ)
骨高く顋
(アギト)

骨突出し前額低く鼻平たく
眼大にして突出し口大にし
て唇厚し其身体強壮にして
活溌に事をなすべしと雖ども
二十五 頁


性質懶惰にして開化進歩の
味を知らず亜非利加沙漠の
南方に在る土民及び売奴と
為て亜米利加へ移居せる黒
奴等は此種類の人なり
(五)茶色人種 皮膚茶色にし
て渋
(シブ)
の如く黒髪粗にして長
く前額低くして広く口大に
して鼻短く眥
(マシリ)
は斜に上ること
黄色人種の如し其性情猛烈
復讎の念甚だ盛なり太平洋
亜非利加の海岸に近き諸島
二十六 頁


及び「マラッカ」(東印度
の地)等の土民
はこの種類の人なり
○蛮野文明の別人間生々の景況に従ひこれ
を区別して二種と為す曰蛮
野曰文明是なり蛮野とは居
に常処なく食を追て此彼に
移転するものを云ふ文明と
は常処安宅に居り礼儀を知
り宗旨を信じ工を勤めて順
序を守り以て天与の幸福を
享るものを云ふ
二十七 頁


此二種を更に分て四類と為
す曰渾沌曰蛮野曰未開曰開
化文明是なり
一渾沌の民は人間の最も下
等にて其禽獣を去ること甚だ
遠からず荒漠の野に徘徊し
て漁猟を事とし或は草根野
菓を食ひ或は虫を食ひ甚だ
しきは人肉を食ふものあり
且其性質争闘を好み絶て信
心の趣意を知らず其居は茅
屋の極て粗なるものを作り
二十八 頁


其体は則ち赤裸群居暫く一
村の体裁を成すと雖ども忽ち
散して他処に移り耕作の道
を知らずして土地に常主な
く文字を知らず法律を知ら
ず嘗て礼儀の何物たるを知
らず然れども尚ほ其酋長ありて
衆を御すること甚だ刻薄なり
亜非利加の中央「ニウギンニ」
及び澳太利の土民の如き是
なり
一蛮野の民は稍や進て第二等

二十九 頁


に位し天幕の下に居り牛羊
を遂て処を移し肉を食ひ乳
汁を飲み耕作の法を知て食
物の種類多し文字なきに非
ざれどもこれを書しこれを読
む者は甚だ稀なり粗ル|の器
械なきに非ざれども其製作極
めて拙なり蛮野の民にも一群
の酋長ありて「シークス」或は
「カン」と称す其法甚だ残刻に
して且妄なり韃靼
(ダツタン)
、亜剌尼亜
(アラビヤ)

及び亜非利加北方の土人等
三十 頁


是なり
一未開とは教化を被て未だ
洽ぬからず風俗未だ開けざ
るを云ふ其民耕作の法を知
て稍や巧を致し芸技の道を解
して人間に有用の物多く村
落を立て都府を開き文学頗
る盛なりと雖ども其人情外国
人を忌み婦人を軽蔑し小弱
を凌ぐの風あり支那、土耳格
(トルコ)

「ペルシヤ」の如きは其最も著
しきものなり
三十一 頁


一開化文明の民とは礼を重
んじ義を貴び才力頴敏精心明
哲文学日に新に技芸月に進
み其勤る所は農耕其励む所
は諸術以て身を安んじ以て心
を楽ましめ真天の幸福を全
する者を云ふ亜米利加合衆
国、英吉利、仏蘭西、日耳曼
(ゼルマン)
等の
人民は開化文明の民と云ふ
可し
抑も亦開化文明の国と雖ども其
教化を被るに自から厚薄の
差別なきに非らず魯西亜及
び日耳曼の某処に於ては縉
紳貴族独り奢侈を極め小民
は苛政に窘められて知識な
く終身自由の味を甞めざる
者多し亜米利加合衆国に於
ては然らず律を立てゝ権を
制し国民一様に教化を被て
一様に自由を得、善を行ふ者
は幸多く、徳を脩る者は身安
しこれを開化文明の真境と
称すべし


10. 2012年1月21日 00:29:52 : AnBkM39RtY
阿呆か貴様。
自分が賢者でもある心算か?
なら街頭に出て己の主張を述べ、聴衆を魅了してみるが良い。
それをしないのは、出来ないからだろうが?
負け犬はさっさと去るが良い。

11. 中川隆 2015年5月24日 07:55:35 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

2015/5/24 晴耕雨読

「『天は人の下に人を造るー「福沢諭吉神話」を超えて』杉田聡先生インタビュー:岩上安身氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/17437.html


https://twitter.com/iwakamiyasumi

5月23日(土)「岩上安身による帯広畜産大学教授・杉田聡氏インタビュー」の模様を実況します。『天は人の下に人を造る』の著者である杉田氏に、福沢諭吉の差別的・拡張主義的言説の実態についてうかがいます。

岩上「本日は『天は人の下に人を造るー「福沢諭吉神話」を超えて』の著者である帯広畜産大学教授の杉田聡先生にお話をうかがいます。私たちは、今日の政治状況を考えるうえで、福沢諭吉を批判的に考えることが重要だと考え、2回目のインタビューをお願いしました」

岩上「まず、前回の振り返りをしたいと思います。福沢の女性差別について。福沢は娼婦制度を廃止することに反対だった。そしてそのうえで、妾や芸妓を非常に差別していました。『賤しき女輩』『汚い賤業婦』『人間以外の醜物』という言い方をしています」

杉田氏「福沢は廃娼論が存在すること自体を否定します。遊郭がなければ、性犯罪や浮気が蔓延する、という理屈です。福沢が言いたいのは、『表向きは隠せ』ということ。娼婦のことを、社会の暗部に追いやろうとします。彼女らが欧米人に見られることを嫌っています」

杉田氏「福沢が言う中等社会、富豪の社会に妾は入ってくるな、ということです」

岩上「奴隷を軽蔑しつつ、奴隷制は必要だ、と言っているようなものですね」

杉田氏「その通りですね」

岩上「『たけくらべ』『にごりえ』『大つごもり』などといった作品を残した樋口一葉は、福沢諭吉とは対照的に、『何物ぞ、はかなき階級を作りて貴賎という』という言葉を残したいます」

杉田氏「福沢のような社会的地位のある男を念頭に置いていたように思えます」

岩上「続いて、福沢による他民族差別の言説を見て行きたいと思います。清国に対して、『チャンチャン』『豚尾』『豚尾児』『豚屋』『孑孑』などと、ヘイトスピーチの限りを尽くしています」

杉田氏「当時の辮髪を差して、『豚』と呼んでいるわけですね」

杉田氏「福沢の場合、こうした言葉が、漫言だけでなく、新聞の社説や著書にも出てきます。『豚尾の兵隊』『豚尾児』『豚尾奴』『豚尾兵と名づくる一種の悪獣』といった表現が出てきます」

岩上「他にも、中国人に対するヘイトスピーチはたくさんあります。『流民乞食』『彼(=支那)の国民の骨に徹したる淫欲の余毒』『半死の病人…豚狩り』などなど」

杉田氏「福沢は他の所で『こんなこと言ってはいかん』と、なんの反省もなく自己合理化しています」

岩上「朝鮮人に対するヘイトスピーチもたくさんありますね。『儒教主義に飽満して腐敗を致したる』『上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆』など」

杉田氏「朝鮮人に対しては、一貫して『腐儒』という言葉を使いますね。福沢の底流には儒教主義があるのですが」

岩上「こういう言説を見ていると、明治の時代精神とはこんなものなのか、と暗澹たる気持になります。そこで、福沢の他に、明治の言論人がどのような言説を残しているのか、見ていこうと思います。まずは、『東洋のルソー』こと中江兆民です」

杉田氏「中江兆民は、1882年の『外交を論ず』のなかで、福沢諭吉の『圧政もまた愉快なるかな』とは正反対のことを書いています. イギリス人やフランス人がインド人、トルコ人に対して無礼に振る舞っていることを批判し、『これが文明か』と問うています」

岩上「次に植木枝盛です。彼は私擬憲法『日本国国権案』を出しています」

杉田氏「敗戦時、米国は日本で芽生えた憲法案として、植木枝盛の『日本国国権案』を参照しています。これは、大日本帝国憲法と比べ、人権を重視した、素晴らしいものです」

岩上「自民党の憲法改正草案を本当に実現しようと、自民党はキャンペーンを始めました。この中で、天賦人権説を認めない、と」

杉田氏「これは、ホッブズ以前、17世紀に戻ってしまう内容のものです。ピューリタン革命以前のものです」

岩上「自民党の礒崎陽輔議員は、『立憲主義なんて聞いたこともない』とツイッターに書きました。これは知らないはずがないんです。オトボケをしているんですね。先進民主主義国の隊列から落伍してしまいます」

杉田氏「植木枝盛は、貧民差別に抗する文章を残しています。福沢が差別する人力車夫、百姓、馬子などを、『天下に至貴・至尊の神』と称えています。植木枝盛は大変頭がまわる人で、街頭で演説会をすると、1000人以上が集まるような人でした」

杉田氏「植木枝盛は、福沢諭吉的な人物に対して、『下等社会を無学だの文盲だのと難癖つけて政治社会の継子にせんとすることは、正しく上等社会と称する一部の輩をして天下国家の政権を私せしめんとするものなり』と言っています」

杉田氏「中江兆民は、妻が被差別民であったと言われています。『平民』や『新平民』という言葉を使わず、『新民』という言葉を使うべきだ、と言っています。『平民』というのは、貴族に対置される言葉なのです」

杉田氏「中江兆民は北海道に移住した際、『西海岸にての感覚』という文章を残しています。この中で、アイヌの人々に対して横暴に振るまい、差別をする日本人に対する怒りを表明しています」

杉田氏「福沢が朝鮮や中国、台湾に対してどのような態度を取ってきたか、見ていきたいと思います。金玉均らが起こした甲申政変に、福沢が関与しています。しかし福沢はその後、この事実を執拗に隠すんですね。しかし、福沢が援助した事実が残っています」

岩上「金玉均や朴泳孝による甲申政変に関して、『自ら進んで役者を選び、役者を教え、また道具立其他万端を差図せられた事実がある』という文言が残っているわけですね。他国の政変を工作するなんて、とんでもないことです」

杉田氏「武器まで提供しています」

杉田氏「金玉均は、日本に来て福沢に対し『誠に申し訳ありません』と謝っています。福沢の期待通りに事を運べなかったことに対し、謝罪しているわけです。このことからも、どれだけ福沢が甲申政変に深く関与していたか、分かるかと思います」

杉田氏「甲申政変の段階で、井上馨による外交交渉が行われているなか、福沢諭吉は『我政府に於ても、止むを得ず曲直を兵力に訴るの外なかる可し』と、戦争を仕掛けろ、と鼓吹しています。日本人が殺されたことの弁償をしろ、という理屈です」

杉田氏「自分で仕掛けておきながら、支那と朝鮮が加害者だ、と福沢は言います。さらに、『御親征の挙、断じて行う可きなり』と言います。天皇が自ら乗り込んで戦争しろ、ということですね」

杉田氏「有名な『脱亜論』はこの時期に書かれます。この論説で明瞭なのは、列強によるアジアの分割に加わるべきだ、ということです。アジアの土地を奪え、遠慮はいらない、といった調子ですね」

岩上「次が台湾です。台湾に対してはよりあからさまです。『一人も残さず殲滅して』などということを書いています」

杉田氏「台湾で次から次に抵抗運動が起こります。そのたびごとに、台湾人を殺戮するよう煽る文章を発表しています」

杉田氏「時事新報に『雑報』という欄があります。この中に、『自分が見切れないで、とんでもないものが出てしまった』と書いています。しかし、台湾人の殺戮を煽っているような文章は、社論として書いています。平山洋さんが言うように、弟子が書いたものではない」

視聴者からの質問「福沢諭吉は病んでいるとしか思えない」

杉田氏「福沢としては、貧知者が生まれないように、かなり自覚的に差別を行っているのだと思います。それは、アジアに対しての視線でも共通しています」

岩上「最後に、日清戦争後に日本が膠州湾を租借した後の福沢の言動を見ていきたいと思います」

杉田氏「支那人の支配には日本人が最適だ、ということを言います。日清戦争の時にいかに日本が手際よく清国を倒したか、ということを強調しています」

岩上「今日の安倍政権が、改憲の動きや戦争法案の制定に動き出しています。さらに、安倍総理は『ポツダム宣言』は読んでいない、と」

杉田氏「これは、表立って否定する段階ではまだない、ということだと思います。すぐ、次の段階がくるでしょう」

杉田氏「集団的自衛権も含めて、かつての自民党ができなかったことを次々とやれるようになってきています。『ポツダム宣言を読んだことがない』というのも、かなり意識的に言っているのだと思います」

以上で「岩上安身による帯広畜産大学教授・杉田聡氏インタビュー」の実況を終了します。

動画アーカイブは準備が整い次第、IWJのトップページに掲載いたします。


12. 2015年10月16日 13:57:36 : WwN4ADBWWk
こんな天皇や福沢諭吉をありがたがっている。日本人はよほどおめでたい白痴の集団である。日本を破壊する安倍政権がのさばっているのは、天皇の支配体制がいまも明治期と同様に続いている証拠にほかならない。一般大衆をだまし搾取して、大企業や1部の者だけが豊かになっている。こんな世界は終わりにしたいものだ。

13. 2015年11月01日 20:55:16 : vqBIqwZ2Kk
反日はまさに宗教ですね。この話のモトネタはエドワード・ベアの与太話じゃないですか?昭和天皇は丸腰でマッカーサーのもとを訪問しましたよね?ダグラス・マッカーサーは天皇ヒロヒトの金に目がくらんで昭和天皇を処刑にしなかったのですか?それはどう説明するか期待してます。

14. 中川隆[3571] koaQ7Jey 2016年8月09日 07:43:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3935]

民衆を裏切った福沢諭吉、隠されたもう一つの顔 2016/08/05


 私たちのお宝、一万円札に描かれている福沢諭吉は、日本の文明開化の先駆けとして高い評価を受けていた。だが、彼には隠されたもう一つの「裏の顔」があり、実際は「民衆を裏切った」福沢がそこにあった、というのだ。

 関係者の間でいま、話題沸騰の衝撃の書、「福沢諭吉」 (岩波現代文庫 ひろた まさき著)をアマゾンの書評から紹介する。

****************

 歴史の変動と個人史が福沢の思想にどのように影響したのかを、批判的に評価する。『漱石とその時代』のような書きぶりで、決して、慶應大学関係者には書けなかった伝記である。

 幕府の船で、幕臣あるいは従僕として三度も洋行すれば、国家意識や忠誠心は自然と強くなる。帰国後は、幕府独裁と富国強兵を上奏し、幕府開明派に取り入った(P.82)。

 「大君のモナルキにこれ無く候ては、ただただ大名同士のカジリヤイにて、我が国の文明開化は進み申さず」 。しかし、開明意識が先走ったのか、政府批判を口走った廉で、謹慎を食らう 。

 これがきっかけとなって政府とは距離を置き始めたちょうどその時、江戸幕府が瓦解する。幕臣エリート洋学者としての途が絶たれた福沢は、視線を民衆に移して、教育による小民の啓蒙を志した(P.101-104)。幕臣福沢から啓蒙福沢へ。これが一回目の転向(P.282)。

 明治五年の『学問のすゝめ 初編』は、「啓蒙家」福沢のピークだった(P.117)。「一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし 。理のためにはアフリカの黒奴にも恐入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず 。」

 しかし、現実には、国が独立するとは、他国を蹂躙する事でしかない。「報国心と偏頗心とは、名を異にして実を同うするものといわざるを得ず」 。とても、西洋文明が文明的だとは言えない。それでも、現在のところ、その西洋文明が、相対的には最も文明的であるのだから、その西洋文明を、清濁併せて学ぶしかない(P.165)。

 近代化とは別の発展段階を考えつくことができなかった福沢には(P.164)、原則を欠いた、権道的な現実追認主義しか見えなかったのである(P.187)。
http://79516147.at.webry.info/201608/article_43.html


下流の民間など犠牲にしてよい、と福沢諭吉 2016/08/05


 また、明治七年に長沼事件と関わったことで、民衆が、自分の期待する「一身独立の気風」を身につけるにはほど遠いことを実感した。日本が文明化するまで、「下流の民間」 が啓蒙されるのは、待ってられない(P.178)。

 同時に、明治八年に四十歳を迎え、老年を意識し、余生の短い事を悟っていた福沢にとって(P.183)、教育のような迂遠な方法に頼っている時間も残されていなかった(P.194)。むしろ、内安外競の「方便」として、「下流の民間」など犠牲にしてもよい(P.167, 281)。

 つまり、明治八年に書き下ろされ、啓蒙思想の頂点と誉れの高い『文明論之概略』は、福沢文明論の凋落でしかなかったのである(P.168)。明治十四年の『時事小言』では、それが露骨に宣言されているという(P.201)。

 啓蒙福沢から権道福沢へ。これが二回目の転向(P.282)。そもそも、「私のために門閥制度は親の敵で御座る」と啖呵を切っておきながら 、中津藩の江戸藩邸に出府を命じられれば、いそいそ出掛けていった頃から、風見鶏だったのである。

 そして最後は、資本主義者/帝国主義者福沢に転向する(P.282)。明治二十三年恐慌を経験した福沢は、明治二十四年の「貧富論」で、大資本こそ国家独立の要であると宣言した(P.232)。すでに、数多くの門下生が三菱商社や三井銀行に入社し、財閥の中核を占めていた(P.235)。

 そして、その大資本確立のために、朝鮮政略を上奏する(P.225, 242)。朝鮮を犠牲にして日本に資本主義を導入しようという発想は、国家独立のためには「下流の民間」など犠牲にしてよいという発想と全く同じである(P.228)。

 福沢は、「政治、経済、社会、学問の分野で節操をまげ現実主義の世俗にまみれることを強いられ続けた」(P.267)。ブレまくったのである。

『学問のすゝめ 初編』の頃、民衆の啓蒙による底上げを説いたまでは良かったが、『文明論之概略』を経て、独立の対象は、民衆ではなく、大資本家へと転向、凋落していった(P.282)。

要するに、弱者切り捨ての歴史だったのである。最後は、天賦人権論や啓蒙主義は、一欠片も残っていなかった(P.255)。その福沢が、最高額紙幣で乙に澄ましていたのは、話が出来すぎている。
http://79516147.at.webry.info/201608/article_42.html


15. 中川隆[3572] koaQ7Jey 2016年8月09日 07:44:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3936]

福沢諭吉 (岩波現代文庫) 2015/9/17 ひろた まさき (著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A6%8F%E6%B2%A2%E8%AB%AD%E5%90%89-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%9F-%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%8D/dp/4006003315


16. 2017年2月21日 14:36:16 : 2ba1UeOS2E : 62OIab_eEe0[261]
週刊金曜日を読んで、福沢諭吉で検索するとここにきたが、 中川隆氏が、、、。

週刊金曜日 2017/2/17 1124号 P30「福沢諭吉を一万円から追放せよ」
雁屋哲さん(美味しんぼの原作者)の「まさかの福沢諭吉」2016出版の紹介など
大日本帝国の侵略と軍国主義の先導者の副題
近代の天皇制の成り立ち
こんなに社会派の人とは知らなかった
美味しんぼの鼻血騒動もこの人ならではだったのかな

「からゆきさん」をチェックしてみようかな


17. 中川隆[-7821] koaQ7Jey 2017年5月01日 14:43:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


18. 中川隆[-13270] koaQ7Jey 2019年1月01日 08:37:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

 【日本人慰安婦の話〜橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより)

 今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。
あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。

 従軍慰安婦というのは半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。メディアは終戦記念日に近くなると、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。

 でも従軍慰安婦の人たちは直に話を聞けないんですよね。

 韓国と中国の従軍慰安婦の人ばかりが取り上げられますけれども、日本人の従軍慰安婦の人たちもいたんですよ。いっぱいいたんです。

 でも日本人慰安婦たちは何故取り上げないのかといったら、その人たちが、もう酷い目に遭ったんですね。

 まず、私が何故そんなことを知っているかと言いますと、終戦後にその人たちが満州、つまり今の中国から引き揚げてきたんですね。

 引き揚げてきて私、長崎でございましょう。長崎には丸山遊郭という有名な、女郎さん遊女たちがいて売春する、そういう街があったんですね。
坂本龍馬なども遊んでいたような有名な所ですね、日本の3大遊郭という。

 これが、戦争中にカフェやバーも遊郭もみんな閉店させられて全部が商売営業停止になったんですよ。そしてその人たちは行き場が無くなったんですね。

 どういう人たちが遊女になっているかというと、人身売買が当たり前の時代でしたから、貧しい農家の娘さんたちが、自分が売られていけばお父さんもお母さんも弟たちも飢え死にしないで済むからといって、女衒(ぜげん)と言われる人買いに連れられて遊郭に身を売られていったんですね。

 一家の犠牲になっている貧しいお嬢さんたちが多かったんです。

 閉鎖されて行き場が無くなった時に、軍の出先機関で大政翼賛会という組織があったんです。

 そこの人に「満州に良い仕事があるぞ」と声をかけられ、カフェとか遊郭があるから、そっちへ行って稼げばいいということで、そして喜んでそちらへ行ってみたらなんと、話が違って従軍慰安婦だったというんですね。

 従軍慰安婦の人たちは、軍に従うと書いてあって第一線を付いて周るんですね。
そして筵(むしろ)みたいなものを敷いて、コーリャンという麦よりももっと不味(まず)い穀物で作った真っ黒いおにぎりですけれど、私も長崎で食べたことがありますけれど、食べられた物じゃないです。

 それを枕元に置いて食べながら、表には兵隊たちが木札をもってズラリと並んで、それを一人ひとり(セックスの)相手をして。

 そして敵が来たら身を守るためといって銃の練習をさせられて、敵が押し寄せてきますでしょう、馬賊とか匪賊(ひぞく)とか。そうすると兵隊と一緒に戦うんですって。

 戦って流れ弾に当たって死んだら、今度は日本婦人がそういうことをしていたというと恥になるからといって、モンペやなにかを脱がして支那服に着替えさせられて、そして放り出されるんですって。

 そして埋めてももらえない。焼いてももらえない。野ざらし、雨ざらし。山犬の食い荒らすままになっていて。

 終戦後に引き揚げてくるときに、まず軍人の将校たちと家族がトラックに乗って逃げて、自分たちは置いてきぼりになったんですって。

 他の移民団、開拓団の人たちと一緒になって、命からがら引き揚げてきて村に帰ったら、村の恥さらしとか面汚しとか言われて。

 そして家へ帰ったら、自分はお父さんお母さん、一家のために売られて行ったのに、「お前のやっていたことが世間様に知られたら、家の恥になる、出て行ってくれ。」と。

 だから、みんな自分が従軍慰安婦だったというのを隠しているんですよ。

 だから日本人の従軍慰安婦は一人も出てきませんでしょう。そういう事情があるんですね。

19. 中川隆[-10318] koaQ7Jey 2019年5月19日 13:50:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2008] 報告

天は人の下に人を造る―「福沢諭吉神話」を超えて – 2014/12/26
杉田 聡 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E3%81%AF%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%8B%E3%81%AB%E4%BA%BA%E3%82%92%E9%80%A0%E3%82%8B%E2%80%95%E3%80%8C%E7%A6%8F%E6%B2%A2%E8%AB%AD%E5%90%89%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%80%8D%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6-%E6%9D%89%E7%94%B0-%E8%81%A1/dp/4755402506


内容(「BOOK」データベースより)

はなはだしい誤解の下に「日本の顔」とされてきた福沢の真実の姿を明らかにする。1万円札からの引退を!

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
杉田/聡
1953年生まれ、現在、帯広畜産大学教員、哲学・思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

カスタマーレビュー

つくしん坊 5つ星のうち5.0
根強い「福沢諭吉神話」を撃ち砕き、「凄まじい差別主義者」の実像を暴き出した労作 2015年7月4日

戦後、丸山真男により福沢諭吉は「典型的な市民的自由主義者」とされ、この評価が広く「福沢諭吉神話」として流通してきた。このことが丸山の「誤読」であることは、安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』(高文研、2000年刊)や『福沢諭吉と丸山真男』(同、2003年刊)により明らかにされた。ところが、「福沢神話」の真贋を巡っての「安川・平山論争」の帰結を知らない人も多く、「福沢神話」が相変わらず根強い([補足]参照)。

本書は、安川氏と同様、「福沢神話」の危険性を深く認識している著者が、前著の杉田聡編『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集』(明石書店、2010年刊)に続き、福沢のカバーした他分野の言説も含め、そのトータルな実像を明らかにしたものである。その結果は、「典型的な市民的自由主義者」という虚像は跡形もなく撃ち砕かれ、「凄まじい差別主義者」としての実像が暴き出される。明治維新後150年、戦後70年という年月が過ぎた現在、日本の近代は何だったのかを「福沢神話」の虚妄さを通じて認識することで、これからのあるべき日本が初めて見えてくる。

本書は、思想史研究者としての著者が、極めてオーソドックスな手法で、『福澤諭吉全集』(全21巻、岩波書店)の全テキストと関連文献を分析したものである。評者が理解した本書のポイントは次の通りである(本書の「終章」を参考にした)。

(1)福沢は絶対主義天皇制を称揚し、教育勅語も発布直後から全面支持していた。また、国権拡張のために軍人勅諭を支持した。

(2)福沢は国家を絶対視し、臣民の義務(納税・遵法・兵役)を重要視した。福沢は自由権を人権とは認めなかった。大本営発表を絶対視し、各種規制法を容認して報道の自由を放棄した。議会内の議論についても厳しい規制を当然とした。

(3)福沢は人民の教育権を全く認めず、特に貧民を(限られた下等教育を除き)教育から締め出すことを説いた。参政権は有産男性にのみ認めた。品行・年齢・家柄・身分等が世間から信用を得るのに重要であるとした。

(4)福沢は労働時間や児童労働を制限しようとする明治政府の方針に強く反対した。地主−小作人、資本家―労働者間の階級格差を維持し、地主や資本家の利益を守るのに熱心だった。男尊女卑、男女間格差を当然とし、公娼制の必要性を積極的に説いた。

(5)対外的には、一貫して朝鮮や中国に対する侵略的言辞を煽った。中韓に対して軍事力を行使することを主張した。朝鮮人や中国人に対する差別的言辞は凄まじい(その内容は、ここではとても書き写せないほど口汚いものである)。朝鮮に対する植民地支配のイデオローグとして、「東洋の盟主論」を喧伝し、朝鮮内の反日運動への軍事的介入を賛美し、資本の輸出、鉄道事業進出、植民を説いた。

以上をまとめれば、福沢諭吉は明治政府の国家主義的人民支配や対外侵略を扇動した御用イデオローグであり、「典型的な市民的自由主義者」という丸山真男が作り上げた神話とは正反対の人物である。また、上記のように、身分差・男女差・貧富差・民族に関する凄まじい差別主義者である。東アジアの人々からも嫌われているこのような人物が四半世紀も長きに渡り日本の最高金額紙幣を飾っているところに、福沢神話の呪縛がいかに深いかが分かる。なお、福沢の差別主義的言辞は、現在の右派政治家・評論家・ヘイトスピーチ団体などのそれと驚くほど似ている。福沢諭吉に「元祖ネトウヨ(ネット右翼)」の称号を奉りたい。

現在の日本に求められているのは、経済学者・竹田茂夫氏が指摘しているように(2015年7月2日付け東京新聞「本音のコラム」)、福沢諭吉的なものが300万人の同胞と2000万人のアジア人を犠牲にした先の戦争の思想的裏付けだったことを直視し、それからの脱却を図ることである。

[補足]安川・平山論争と『時事新報』無署名論文の著者同定問題について

(1) 安川・平山論争(Wikipediaによる)の始まりは、井田進也著『歴史とテクスト』(光芒社、2001年刊)のテキスト比較分析手法(無署名論説の認定方法であり、いわゆる井田メソッドと呼ばれる)である。この井田メソッドに全面的に依存した平山洋著『福沢諭吉の真実』(文春新書、2004年刊)は、史実を無視した荒唐無稽な福沢諭吉の美化を行なった。この平山本は、右傾化の時流に乗って多くのマスコミに取り上げられたため、いまだに『福沢諭吉の真実』が真実であると誤解している人も少なくない。ちなみに、井田氏は東大卒・福沢研究センター客員研究員、平山氏は慶應卒である。

(2)これに対して、安川寿之輔著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(高文研、2006年刊)は、
井田・平山の両書が、およそ学問とは程遠い恣意的な手法であることを丹念に論証した。問題の焦点は、福沢諭吉が創刊した日刊新聞『時事新報』の無署名論文の著者が誰か、ということである。井田・平山本では、日清戦争の前後、アジア蔑視・アジア侵略を盛んに煽った無署名論文が、石河幹明その他の記者が起草したものであり、福沢諭吉の思想とは正反対であるとしている。安川本では、井田・平山本の論拠が全く成立せず、無署名論文であっても福沢自身が執筆したか、あるいは他の記者が福沢の趣旨を踏まえて起草した内容に福沢自身がチェックを入れて発表したものであることを疑問の余地なく論証している。結果として、福沢諭吉の正体が凄まじいアジア蔑視・アジア侵略主義者であることを証明した。この安川本の結論がまだ一般化していないことが残念である。

(3)上記の井田・平山本があまりにも杜撰であるのに業を煮やしてか、慶應関係者が安川・平山論争に参戦している。安形輝(亜細亜大学)・上田修一(慶應義塾大学)両氏が、最新のテキスト解析技術で、この無署名論文の著者問題に挑戦している(三田図書館・情報学会研究論文集2007年)。しかし、明確な結論は提示していない(評者の推定だが、恐らく「望ましい結果」が出なかったのだろう)。安形氏(慶應卒)は、科学的テキスト分析が専門であるが、業績一覧で確認しても上記発表以後は福沢関係の研究発表はないようである。これも評者の推定だが、最新技術を以ってしても、『時事新報』無署名論文著者問題への意味のある解決は無理と判断したようだ。なお、上記の安形・上田論文は、井田メソッドを次のように評価している。「井田メソッドによる判定は人手で行うため、判定の根拠となる語彙は一部の特定のものに限定されてしまう。他の記者による原稿の修正、植字時点でのミスおよび修正、校正を想定したときに、一部の表現に依存するこの手法は、客観性に乏しいといえる」。つまり、井田メソッドは、非科学的・恣意的な手法として、仲間内からも完全否定されたのだ。

(4)ところが、である。平山氏(静岡県立大学・助教、慶應卒)は、いまだに井田メソッド(従って手作業)により、『時事新報』無署名論文の著者同定の「研究」を続けている(たとえば、日本思想史学会2013年度大会)。しかも同「研究」には科研費も使われているようだ。このような非科学的な研究に税金である「科研費」(=科学研究費)が使われること悪い冗談でしかなく、一納税者として大いに疑問である。

(5)そもそも、『時事新報』無署名論文の著者同定に意味があるのかどうかが問題である。安川著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』が明らかにしたように、福沢の思想の変遷は全体の流れの中で捉えなければならない。時事新報社は、福沢が当時の政府要人と相談して、民間から政府を擁護する論陣を張るために設立され、当然のことながら福沢の死去まで、主宰者である福沢は論説の内容について絶対的な権限を持っていた。福沢の在世中、論説記者として計8名が出入りしているが、たとえ記者の署名記事であっても、福沢の意向と異なる論説が記事になるはずがない。無署名論文も、常識から考えて、同様であろう。従って、無署名論文の著者同定問題そのものが無意味である。福沢が在世中の『時事新報』の論説は、(たとえ福沢が執筆しなくても)すべて福沢のその時々の思想を表現しているとみて何の問題もない。本書『天は人の下に人を造る』では、以上述べた無署名論文の著者問題には一切こだわらず、すべて福沢の思想を体現しているとみなして分析している。当然の考え方といえる。

(6) 慶應出身者にとって「福沢神話」の呪縛は非常に深いようだ。代表的な左翼評論家である佐高信氏(もちろん慶應卒)は、佐高著『福沢諭吉伝説』(角川グループパブリッシング、2008年刊)の中で、平山著『福沢諭吉の真実』を根拠にして、悪名高い「脱亜論」が福沢の執筆でなく、従って福沢はアジア侵略主義者ではない、とする珍説を吐いている。さらには、『週刊金曜日』(2010年8月27日号)の安川氏へのインタビュー記事(内容は「福沢神話」批判)に反論(逆上)して、ハチャメチャな論理で口を極めて安川氏を罵っている(同、2010年9月10日号)。評者は、佐高氏の言論活動をそれなりに評価しているつもりだったが、この感情的な反論のレベルの低さを見て驚いてしまった。政治的信条が右か左かによらず、慶應出身者にとって(もちろん全員ではないにせよ)、「福沢神話」の「冒涜」(もちろん、客観的に見れば史実の提示)は、逆上するほど許せないことらしい。佐高氏ともあろう論客が、井田メソッドは慶應関係者さえとうの昔に見放したほどの非科学的・恣意的シロモノであることをご存じないようだ。残念ながら、「左翼」の視野の狭さ、科学性の欠如、底の浅さを垣間見た思いである。

20. 2020年9月15日 16:54:18 : CPdEo490W2 : Lm5MY01XbzF4VlU=[14] 報告

からゆきさん 2020年09月15日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1249.html

 明治新政府が成立して、日本政府が、島原や五島周辺の貧しい娘たちを、海外に連れ出して売春させ、ピンハネしていた歴史的事実を明らかにしたのは、山崎朋子の小説「サンダカンダ8番館」であり、熊井啓によって映画化された。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%AB%E3%83%B3%E5%85%AB%E7%95%AA%E5%A8%BC%E9%A4%A8_%E6%9C%9B%E9%83%B7

 これは「からゆきさん」と広く総称され、明治末まで、性奴隷売買として政府の介入によって行われた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%95%E3%82%93#:~:text=%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%95%E3%82%93%EF%BC%88%E5%94%90%E8%A1%8C%E3%81%8D,%E3%81%8C%E4%BB%8B%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 明治政府で、性奴隷売買に関わったのは、三菱創業者である岩崎弥太郎や福沢諭吉であるという。

 明治維新は、日本の女子に何をやったのか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=360170


 日本史を探れば、日本女性を性奴隷として海外に売り飛ばした者たちは少なくない。
 古代史には、「生口」と呼ばれる、日本人奴隷が多く海外に売り飛ばされたとの記述が複数ある。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%8F%A3

 http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-2/2-3-4.pdf

 日本に火縄銃を伝えたポルトガル人は、銃器や火薬を大名に売って、見返りとして、莫大な金銀や、若い娘たちを性奴隷として船で連れ帰った。
 娘たちは、アジア各地の交易港で下ろされて、現地の奴隷市場で売られ、残酷な人権侵害に遭っていた。
 https://www.susanoo.net/historical-fact/japan/japanese-slave
 これを、遣欧使節団らが記録に残している。その総数は50万人に達していたとされる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93

 歴史上、もっとも残酷かつ醜悪だったキリスト教(カトリック)2020年08月17日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-date-20200817.html

 この性奴隷貿易に関与したのは、小西行長らキリシタン大名であるともいわれるが、歴史ドラマなどで人間性豊かな大名として描かれていた彼らが、背後で奴隷売買を行っていたとするなら、歴史的評価は一変するものになる。
 また秀吉や家康の、バテン連追放弾圧令も、再評価されるべきだろう。

 さらに、明治新政府の要人たちが、性奴隷貿易にかかわっていたとするなら、明治新政府に対する評価も一変させなければならない。
 実は、明治新政府は、甚だしい人権侵害でも利益のためなら平然と実行するような浅ましい、利権第一主義のような発想をする要人たちが少なからずいて、新政府に招かれて、北海道で高級官職を与えられた松浦武四郎も、その官僚制度の汚さに不快感を抱いて、職を蹴飛ばして故郷に戻った。

 台湾総督府初代長官だった後藤新平は、台湾でアヘンを大量に売りさばいて、民衆の資産を吸い上げた。これをモデルにして、麻薬王と呼ばれた里見甫が、岸信介らと共謀して、中国・満州・朝鮮で大規模な日本政府によるアヘン密売組織を成立させたのである。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-320.html

 当時、清国アヘン戦争問題もあって、すでにアヘン売買は国際的に犯罪視され、日本国内でも強く規制されていたにもかかわらず、後藤新平や日本陸軍は、独立派の弱体化と、資金吸い上げを狙って実行した。

 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 人倫を放棄してでも、カネの荒稼ぎを狙った性奴隷やアヘン売りつけの手口を見れば、明治新政府の一部は、完全にマフィア化していたと言うべきだろう。
 従来の歴史観は、日本を美化したがる輩によって虚構の歴史が作られていたのだ。

 その意味では、明治政府による明治天皇の捏造=孝明天皇を伊藤博文・井上馨らが暗殺し、代わりに、自称南朝末裔の大室寅之佑を明治天皇にでっちあげた史実を含めて、明治政府の虚構性について、知っておくべきである。
 そもそも、天皇家は、幕末まで、幕府にとっても、民衆にとっても「伊勢神宮の大神主」にすぎなかった。
 これを「2600年続く日本の現人神」に仕立て上げ、国民に信仰を強要したのが、山県有朋だった。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-date-20181006.html

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-332.html

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-333.html

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-334.html

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-335.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-336.html

 これによって、民衆は見事に洗脳され、「天皇様のおかげで日本があり、自分たちの生活がある」と勘違いさせられた人々を大量に生んだ。
 このことを、私が繰り返し書いていて、その結果、「家を燃してやる」とか、「殺してやる」とかの脅迫を数十回も受け続けた。
 これを信奉しない人間は、真実の有無、正義ではなく、無条件に弾圧し、殺害してきたのが日本政府なのだ。
 だが、誰かが真実を明らかにしなければならない。

 この日本女性の人身売買が、たった今、現代も大規模に続いているとすれば、あなたはどうする?

 統一教会 その1 2018年05月09日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-341.html

http://aszxcv.blogspot.com/2011/09/blog-post.html

 http://the-soliloquy-of-ishikawa-quon.blog.jp/archives/1064999000.html

 統一教会は、日本の若い女性を信仰で洗脳し、合同結婚式という幻想を用意して、多くを韓国の貧村のDV男の嫁に送り込んだ。
 彼女らは、故郷との連絡も絶たれ、性奴隷として事実上監禁状態だといわれる。
 これを指図したのは、文鮮明である。この男は、「日本の娘を韓国の貧村に送り込んで性奴隷にすることが、戦前の日本支配に対する報復になる」と発言している。

 つまり、現代にあっても、統一教会によって、日本の娘たちが性奴隷として韓国に売り飛ばされているのだ。
 こんなことが放置されるなら、ザビエルの時代と、何ら変わりないではないか?
 日本女性は、性奴隷に売り飛ばされるために生きているのではない!
 韓国は、今すぐ、統一教会に洗脳されて、性奴隷として送り込まれた日本女性を帰せ!
 それは、北朝鮮による拉致問題より、はるかに大きく深刻な問題なのだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1249.html

21. 中川隆[-10036] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:02:11 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[11] 報告


 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

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 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
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以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

22. 中川隆[-14741] koaQ7Jey 2021年12月07日 18:19:57 : 2zSsj4hxA6 : M1FvMG5mVWxiOGc=[93] 報告
【ゆっくり解説】日本史の闇!?からゆきさんとは!

23. 2023年11月05日 11:35:44 : Ta4RP4gWlc : c3ZOTzIyZ3RjVHM=[3] 報告
<△26行くらい>

福澤諭吉は見抜いていた!?「朝鮮と断交せよ!」と叫んだワケ【CGS 韓国・朝鮮史 宇山卓栄 第25回】
2019/08/10
https://www.youtube.com/watch?v=l_qtuWUugmw&list=PL6mu43UnNThBkBz92flefdONtNQuLl329&index=25

日本人がほとんど知らない隣国の歴史を知る、「じっくり学ぼう!韓国・朝鮮史」第25回。
講師は各メディアで時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説を行うなど、多方面で活躍中の著作家・宇山卓栄さん。
今回は大変興味深い、朝鮮と福沢諭吉の関係について。

『ハングル』を広めたのは「福沢諭吉」?【CGS 韓国・朝鮮史 宇山卓栄 第16回】
2019/06/01
https://www.youtube.com/watch?v=K3IUkSSlW20&list=PL6mu43UnNThBkBz92flefdONtNQuLl329&index=16

今回は、朝鮮独自の文字『ハングル』の歴史。
中国勢の反対をかわし、「世宗」は『ハングル』を創製していきました。
そして時は流れ19世紀、『ハングル』を普及させたのは日本人であるということをご存知でしょうか?その人物とは「学問のすゝめ」でお馴染み、慶應義塾大学創設者「福沢諭吉」。
「福沢諭吉」はどうして『ハングル』を広めるに至ったのか?もちろん『ハングル』の成り立ちについても学びます。
若い改革派朝鮮人の独立運動を支援するなどしてきた福澤諭吉に「妖魔悪鬼の地獄国」とまで言わしめた朝鮮の非道な行いとは一体何だったのか?
「朝鮮とその背後にいる中国と断交すべき」。現在の日韓関係をも彷彿させる諭吉が感じた朝鮮、その歴史的真実を解き明かします。

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