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たそがれのプロカメラマン物語  第三章 平安時代へタイムトリップ
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投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 9 月 12 日 15:56:59: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: たそがれのプロカメラマン物語  第二章 奈良時代へタイムトリップ 投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 9 月 12 日 15:40:26)

http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html#1-18

第三章 平安時代へタイムトリップ


怨霊渦巻く平安時代

オレは、真夏のギラギラの太陽を浴びて、さきたま古墳公園の稲荷山古墳の上にいる。何かの霊に惹かれたかのように、愛用バイクのトモスに乗って、荒川大橋から産業道路へ抜け、国道17号線を法定速度30kmで北上して来たのだ。
全長120m程と言われる稲荷山古墳は、公園の北側にあった。高さ10m程の古墳の上から公園を眺めると、一瞬、5世紀の古墳時代に迷い込んだ錯覚が起きた。
史料によれば、この稲荷山古墳は、以前古墳の上に小さな稲荷社があったため、稲荷山古墳と命名されたようだ。このことも、田辺さんからの歴史講義がなければ、ただ読みすごしてしまうが、その古墳の上に社・神社(モリ)を設置したのは、古墳時代後に渡来した埋葬思想の異なる民族が、古墳に眠る霊を怨霊として、封じ込めたためだ。
社(モリ・ヤシロ)に封じ込められた霊は、古墳から出土した金錯銘鉄剣にある115文字により、ワカタケル大王に仕えたヲワケと推定されている。この出土した剣の遺物も、藤原日本史によれば、5世紀の飛鳥大和を支配したとする雄略天皇から、ヲワケに賜った剣としている。つまり、藤原日本史では、古代の東国は未開地なので、大王など存在していなかったので、ワカタケル大王を、雄略天皇とするのだ。そして、先進国の飛鳥大和の大王から、全国の支配下の者に剣を与えた、とするのだ。
この古墳群のある行田市は、荒川と利根川に挟まれた地に位置している。古代日本地図によれば、日本海側の酒田津から明日香ヤマトまで続く東山道の白河を越えた群馬と、そして、国際海洋民族アズミ族により古代中国へ翡翠を供給していた地域を流れる糸魚川を遡って、イズモから渡来した国際海洋民族アズミ族とユーラシアから渡来した騎馬民族との支配地のトルファン(諏訪)の上田から碓氷峠を越えた群馬から、利根川が太平洋に注ぐ河口へ下る途中にある。
行田市は、古墳時代に、ユーラシア大陸から日本海を渡海して、日本海沿岸に渡来した騎馬民族が、その二方向から上陸して出会った大湿地帯だったようだ。そのさきたま古墳群の地に繋がるトルファン(諏訪)地域には、8世紀末、陸奥国を支配した蝦夷(明日香ヤマト残党軍)の棟梁アテルイをだまし討ちにした、律令軍の鎮守府将軍である金髪の坂上田村麻呂と戦った、八面大王の砦であった古墳の大王窟がある。
関東から東北の各地にかけて存在した相似形の巨大前方後円墳のある地域は、陸奥国の砂金・琥珀・鉄・絹製品の簒奪を目論む飛鳥大和朝廷から派遣された律令軍に抵抗するために、道幅12mを超える直線道路の東山道により各地域の反律令軍とのネットワークを形成していたのだ。
その大湿地帯に、エジプトの測量技術と高度土木建築技術を持った渡来民族が、巨大前方後円墳を築造することにより、湿地帯を居住地に改良すると供に、先住民を建設労働者として雇い入れ、建設工事での号令作業を習得させ、前方後円墳を完成後、鍬を武器に換えれば、指揮者の号令により動く軍団となる。前方後円墳築造の目的は、唯の墓を築くためだけではなかった。
この関東の稲荷山古墳と、近畿の明日香ヤマトの前方後円墳の築造年度は、それほどの隔たりがないことは、古墳時代の築造技術者は、藤原日本史が述べるように飛鳥大和中心に各地に伝播したのではなく、全国に張り巡らされた道幅12mの直線道路を騎馬が疾走し、全国一斉に活動していたことが示唆される。
ここでも、藤原日本史の「日本書記」による歴史改竄のトリックが暴かれる。「日本書記」は、713年好字令と供に、唐令の大宝律令により支配された奈良朝廷から、全国の国司を通して、強制的に被支配者から地名・人名・地理・歴史などの資料を提出させ、その全国各地から集められた資料と、そして、聖書・ギリシャ神話・朝鮮半島史・中国資料を素材として、藤原不比等により720年完成されたものだ。
だから、「日本書記」にある記述は、全国から発掘される遺構・遺物と整合性があることになる。「日本書記」にある、新しい年代より、古い年代の方の歴史物語が詳しく記述されているのは、誰も知ることが出来ない古い年代の方が改竄し易いからだ。
「日本書記」の偽書性は、その記述する暦で分かる。「日本書記」に表れる暦は、元嘉暦と儀鳳暦だ。元嘉暦は中国南朝の宋が443年から施行し、そして、儀鳳暦は唐が665年から施行したものだ。この二つの暦は、「日本書記」では、604年以降からは元嘉暦であったものが、604年以前では儀鳳暦で記述しているのだ。その訳は、「日本書記」の創作中の暦が、周帝国女帝則天武后から、唐令の大宝律令と一緒に押し付けられた儀鳳暦だからだ。このことからも、ワカタケル大王の雄略天皇が存在していたとする、5世紀の日本列島の「日本書記」の歴史記述には疑問がある。
このことからも、稲荷山古墳から出土の剣は、関東のシキの宮を治めたワカタケル大王と、「日本書記」で述べる飛鳥大和朝廷を支配したとする雄略天皇とはリンクしないことが示唆される。藤原日本史では、飛鳥大和時代として、色々な天皇が発明されているが、その飛鳥時代とは、古墳時代のことだ。
その飛鳥時代後期に、奈良盆地の古墳地帯を破壊して築かれた都が、奈良の平城京だ。その平城京の中心的建物である大極殿は、巨大前方後円墳を破壊した跡に建てられた。さきたま古墳群は、奈良時代には、まだ、古墳を築いていた明日香ヤマト残党軍(蝦夷)の勢力が残存していたので、平城京の敷地や三笠山のミトラ教祭事場と異なり、権力者の藤原氏と祭祀者の中臣氏による完璧なる歴史的抹殺から免れた。
古墳時代から奈良時代の歴史の流れを簡略して述べれば、4世紀前後、朝鮮半島の辰韓(秦の国)からエジプトの土木建築技術者が渡来し日本列島各地に相似形の前方後円墳築造→6世紀半ば、花郎騎士団と供に古代新羅(秦の国)王族が北九州に渡来→6世紀半ば、越前から明日香ヤマトへ騎馬民族突厥進駐軍が侵攻→花郎騎士団と突厥進駐軍の連合軍により高句麗・百済進駐軍勢力を一掃し近畿一帯を支配→645年唐進駐軍が明日香ヤマト占領→672年新羅と明日香ヤマト残党軍が近江亡命百済王朝を倒す→694年統一新羅の援助により新羅系皇子・女帝持統天皇が藤原京に遷都→701年周帝国女帝則天武后による日本列島経営のため唐令の大宝律令施行→710年藤原不比等により平城京へ遷都→763年女帝則天武后により押し付けられた儀鳳暦を廃止して大衍暦を施行→藤原王国の完成なる→764年藤原仲麻呂が斬首されたため藤原王国崩壊(藤原氏の滅亡ではない。)→770年女帝称徳天皇毒殺→新羅系天武天皇王朝崩壊→亡命百済貴族の台頭、となり平安時代に続く。

こうやって古墳の上から、古墳時代人となったつもりで遠方を眺めると、古代日本列島の色々な歴史的場面が去来する。オレは、角の革が擦られて毛羽立ってしまっているマスミのカメラマンバックから、ペンタックスSPブラックを取り出し、スーパーマルチコーテッドタクマー28mmF2.8、をネジって装着した。広角レンズによりデフォルメされた古墳群の映像は、オレを日常世界から遊離させる。レンズフードから洩れる太陽光が、レンズにフレアーを起こした一瞬、オレの視界に、砂煙を上げて疾走する騎馬軍団の勇姿が現れた。

オレは、さきたま古墳公園から自宅に戻ると、早速、田辺さんに稲荷山古墳での雑感をメールした。一週間ほどはメールをチェックしたが、返事はなかった。田辺さんも何かと忙しいのかと思って、その後はメールチェックをしなかったが、忘れた頃に返信メールが届いた。
「返事おくれてすみません。学会で出張などしていましたので。もう一寸で「平安時代」のレポートがアップの予定です。
稲荷山古墳上に稲荷社があったように、信州わさび農園の八面大王の砦であった古墳の大王窟の上にも小さな祠がありましたね。稲荷社は、農耕民族の社などと、藤原日本史では述べていますが、「稲荷」は、本来は農耕民族の神ではなかったようです。何故、騎馬民族の墓の上に、農耕民族の社とする「稲荷社」を設置するのか、今執筆中のレポートで解明する予定です。」、とのメールがあった。
それから一週間後、添付ファイル付きのメールが、田辺さんから届いた。オレは、即座にプリントアウトした。今回は、前回よりも情報が多かった。レポートの本題に入る前に、但し書きがあった。

「平安時代の歴史を知るには、藤原日本史のトリックに引っかからないように注意する必要があります。そのひとつに、「日本国は農耕民族国だ。」、というのがあります。藤原氏が発明した「現御神天皇」による万世一系のトリックは、「奈良時代」の歴史を解明したことにより、もう引っかからないと思いますが、この「日本国は農耕民族国だ。」、のトリックを暴くことは難解です。
先日のメールでも述べましたように、稲荷社を農耕民族の社と思っているひとは大勢います。その影響のひとつに、柳田国男氏による「常民」の布教があります。柳田国男氏の民俗学での「常民」は、「農民」の意味が濃厚に込められているからです。
この「常民」の言葉自体は、元をたどると、朝鮮半島での「普通の人々」を意味する「常民」(サンミン)からのようです。大陸から時代時代の戦火を逃れて流入した異民族の坩堝である朝鮮半島では、歴史上の勝組の特権的官僚階級の「両班」(ヤンパン)や、負組の白丁などの被差別民以外の人々は、「常民」(サンミン)と呼ばれています。
日本国では、騎馬民族が勃興した源氏鎌倉時代以降に南九州に隠棲していた藤原氏が、明治革命後復活し、奈良時代に藤原不比等が発明した養老律令により神祇官が復活設置され、、奈良時代の藤原王国の「神国ニッポン」の支配体制を復活するため、明治2年(1869年)に、華族、士族、平民の身分制が作られました。しかし、その平民には、「平民」と「新平民」との二種類があったのです。日本列島には、藤原日本史が述べるように、単一民族の「大和民族」などは、存在していなかったのです。これから述べる「平安時代」のレポートにより、古墳時代の日本列島を支配していた、その「新平民」の租である「明日香ヤマト民族」のルーツを解明します。」

オレの「平安時代」のイメージは、貴族文化の華やかな時代だ。しかし、田辺さんのレポートの但し書きにより、オレのイメージが壊される予感がした。
その予感は的中した。田辺さんの「平安時代」レポートの出だしから、藤原日本史の歴史物語と異なっていた。以下に、藤原日本史と「田辺説」の違いの概略を述べる。
藤原日本史では、宝亀元年(770年)女帝称徳天皇が崩ずると、光仁天皇が即位して、延暦元年(781年)には、光仁天皇の息子の桓武天皇が即位し、そして、延暦13年(794年)平安京に遷都することにより、貴族により唐文化華やかな平安時代を迎えることになっている。
しかし、田辺さんのレポートでは、称徳天皇が崩じた後に、光仁天皇は即位してはいない。即位したのは、白壁王(光仁天皇の前身)の井上内親王で、皇太子は、山辺皇子ではなく、その井上内親王の息子他戸親王だった。そして、その女帝井上天皇とは、天武天皇の孫筋にあたる。
奈良時代は、「天武天皇の10人の皇子」対「出自不明の藤原氏」の戦いの時代だった。そこに、何故、母国百済を滅ぼした新羅を敵国とする亡命百済貴族の白壁王が、天武王朝を引き継ぐ天皇として即位できるのか。
藤原日本史では、称徳天皇が正殿で崩ずると、吉備真備が天武天皇の孫長皇子の子智努王を推したが否定され、式家藤原宇合の子藤原百川等の策により、62歳の白壁王が立太子し、同年光仁天皇として即位したことになっている。そして、聖武天皇の娘井上内親王と他戸親王は、光仁天皇を呪詛したことにより謀殺された、とする。藤原日本史では、井上内親王が、何故、光仁天皇を呪詛したかの理由が述べられていない。
しかし、その藤原日本史での説明では理解できないことがある。それは、光仁天皇が、近江大津宮を治めたとする天智天皇の孫、施基皇子の追尊称である田原天皇の第六皇子であるとすると、何故、光仁天皇即位の宣命文に、天智天皇が皇子達に残したとする呪文である「改めてはならない常の典(不改常典)により」即位すると記さなかったのか。それに対して光仁天皇は、即位の理由として、「奈良の宮に天下を治めた称徳天皇が天下の業を拙く劣無き朕に賜れり」、であると述べている。
その光仁天皇の父とする施基皇子の「施基」とは、さきたま古墳群の稲荷山古墳から出土の剣にあった文字「シキの宮」と同じで、「新羅」のことだ。何故、亡命百済貴族の白壁王の父親が、「新羅」の皇子なのか。
この光仁天皇による天武王朝簒奪物語には、藤原不比等の戦略が見え隠れする。それは、藤原氏のハザール王国に居る同族を日本列島に移民させること、そして、東北の蝦夷の国から産出する砂金を簒奪する戦略だ。
その蝦夷が支配する砂金を産出する陸奥国は、天武天皇家と親交があった。それは、天武天皇が、近江の亡命百済王朝を倒す時に軍事援助をしたのが、東北に本拠を設置していた突厥進駐軍だったからだ。その突厥進駐軍は、古墳時代(藤原日本史では飛鳥時代)に古代新羅から渡来した花郎騎士団との軍事同盟により、明日香ヤマトを支配していた。
藤原不比等は、当時、唐進駐軍の軍事力を利用して陸奥国の侵略を考えていた。しかし、パルチア王国を租とする塩の闇商人安禄山により、755年以降唐帝国の国力が衰え、唐帝国玄宗皇帝が、奈良王朝に遣唐使船で武器の素材である牛の角を送るように命令していたほど、唐帝国内が混乱していた。その虚を突いて、藤原仲麻呂は、国璽を私邸に持ち込み、私幣を鋳造したりして、「藤原王国」を樹立したが、翌年、吉備真備等の暗躍で、藤原仲麻呂のロボットであった孝謙太上天皇が反藤原氏となり、764年藤原仲麻呂は斬首された。しかし、藤原不比等が計画した戦略は、残る藤原四家により続行されていた。
藤原不比等が計画した、同胞移民と資源簒奪のための東北経営の布石の歴史を辿ると、

和銅2年(709年)従五位下藤原房前を東海東山の二道に遣わして関を検察し風俗をみてまわらせた。
養老3年(719年)令外官としての按察使は、陸奥国にも陸奥按察使として設置した。
養老5年(721年)出羽国を陸奥按察使の管下に隷し、東北地方全域を管轄下に入れ、軍事機能を付加した。
神亀元年(724年)海道の蝦夷を征せんが為なり、との理由で、式部卿正四位上藤原宇合を以って持節大将軍となし、多賀城を築く。
天平9年(737年)持節大使従三位藤原麻呂は、大野東人の上奏した陸羽直路により、出羽国府を庄内から一挙100kmも北進させ、秋田に設置した。

このように、藤原氏は、東北を藤原氏の支配下に置くために、着々と布石を打っていた。天武天皇系女帝称徳天皇が在位の時、陸奥国の蝦夷は、奈良王朝に従う者も多くいた。天武天皇の血が流れる女帝称徳天皇は、蝦夷と友好関係を持っていたからだ。
神護景雲3年(769年)藤原仲麻呂の息朝猟が修造した礎石造り瓦葺の豪壮な多賀城から北上した地に、伊治城が一ヶ月たらずで完成したのは、蝦夷の抵抗がなかったからだ。
しかし、女帝称徳天皇が毒殺された翌年、宝亀元年(770年)天武天皇系女帝井上天皇と他戸皇太子が毒殺され、亡命百済下級貴族の白壁王が、62歳で立太子すると、俘囚のウカメノキミウクツハウが、今度は必ず一二の同族を率いて伊治城の城柵を侵してやる、といって蝦夷の本拠地に逃げ帰った。
俘囚とは、東国の住民が帰服し、あるいは、軍事作戦で捕虜や降人となった騎馬民族を、近畿一帯を支配した律令軍が卑しめるために使う言葉だ。そして、城柵とは、律令軍が蝦夷の支配地を侵略し、そこに養蚕のための桑畑や稲田を作る農耕民族を入植させるための柵を廻らせた安全地帯だ。しかし、蝦夷軍との戦闘時には、蝦夷軍団に対する最前線の軍事基地となる。
701年から始まる唐令の大宝律令の庸調の税制は、西国では米などが主であったが、東国では絹が主だった。その東国から税として集められた絹は、遣唐使船で唐帝国に朝貢品として運ばれていた。そのように、近畿一帯を支配した律令軍にとっては、蝦夷の国・陸奥出羽を侵略する理由があった。
藤原百川は、老人の光仁天皇をロボットとして、東北侵略のために、伊治城の他に、太平洋側に桃生柵、そして、出羽の内陸に雄勝柵を設置した。この三柵の造営は、俘囚側の律令国家体制への反発を助長させた。
藤原氏は、強硬手段と懐柔手段とを使い分けて、「夷を以って、夷を制す。」戦略を実行した。懐柔手段として、俘囚達の中で、その主だった者に「公姓」を与え、そして、外位官に任じられた者には「夷爵」を与えた。しかし、騎馬民族である異民族の蝦夷には、律令制の爵位は与えず、差別をおこなっていた。
明日香ヤマトに流れていた騎馬民族の血が、百済の血が流れる光仁天皇により断絶されたため、陸奥国への侵略を阻止する蝦夷軍団は、宝亀5年(774年)律令軍が支配する桃生城の一角を崩壊した。そして、宝亀11年(780年)光仁天皇の母橡姫の従兄弟である陸奥出羽按察使従四位下紀広純が、上治郡の郡司外従五位下伊治公呰麻呂(蝦夷)に殺された。
延暦元年(781年)唐の儀式により即位した、光仁天皇の息子桓武天皇は、同族の紀広純を殺した郡司外従五位下伊治公呰麻呂を撃つべく、征夷軍団を陸奥国に送り込んだが、戦意のない律令軍団は、少数精鋭の蝦夷騎馬軍団に蹴散らされ、大敗しただけではなく、藤原仲麻呂の息朝猟が修造した、藤原王国の東北経営のための豪壮な多賀城は襲われ、収納されていた武器や食料全部を略奪され、多賀城は火に包まれた。
桓武天皇は、光仁天皇が次の皇太子とした実弟早良親王を、実子平城を皇太子にするために謀殺するほど、謀略・智略に長けていた。亡命百済貴族の血が流れる桓武天皇は、藤原不比等と同じことを考えていた。それは、663年母国百済が滅ぼされたため中国山東半島などに暮らす同胞の日本列島への移民と、そして、陸奥国の砂金の簒奪だ。
日本列島から金が産出されることは、日本列島各地から朱砂が採取されていたことで、縄文時代から分かっていた。朱砂がある処には、水銀が産出される。朱砂は、水銀と硫黄との化合物だからだ。金は、単体で採取できるのは、川床からだけだ。石に含まれている金を取り出す方法が、日本列島では、当時はまだ知られていなかった。
しかし、水銀薬を瞑想剤として古くから使用していたバラモン教の一部の者は、水銀を利用して鉱物に混じっている金の産出方法を昔から知っていた。そのバラモン僧は、イスラム帝国の膨張により、インドを逃れ、唐帝国に移住していた。
桓武天皇は、延暦20年(801年)遣唐使を企画した。唐の山東半島から亡命百済民を平安京に移民させるためと、鉱物から金を抽出する技法を習得するためだ。その任務が、大陸人を租とする最澄に命じられた。藤原氏は、桓武天皇に対抗するために、最澄に匹敵する人物を探し出した。それが、四国の鉱山で活躍していた錬金術師空海だ。しかし、蝦夷を租とする佐伯氏の流れにある錬金術師空海には、僧籍がない。
そこで、遣唐使船を運営する藤原氏は、遣唐使船の出港を「例の」難破策略を用いて、一年遅らせた。その一年間で、錬金術師空海は、留学僧の資格を得て、遣唐使船に乗り込んだ。

藤原日本史では、最澄も空海も、新しい仏教を求めるために唐に渡ったと述べる。しかし、最澄は、804年遣唐使の請益僧として渡唐する16年前、788年に比叡山延暦寺を創建している。そして、空海は、遣唐使船に乗船するために僧籍を得る前には、水銀薬を用いて不老長寿を標榜する道教を学んでいた。これらのことを考えると、801年遣唐使を企画した桓武天皇には、同族の移民と金精錬法の修得だけではなく、何か別の目的があったことが推測される。
延暦2年(783年)桓武天皇は、山背国の長岡京に遷都する前年、「いま京内の諸寺は利潤を貪り求め、家を質に取ったり、利子を元本に繰り入れたりしている。三綱(管理僧)が法規を無視するだけではなく、宮司もまたへつらって容認している。どうしてこの官吏の道がたやすく国法に違反し、出家したはずの僧侶の輩が再び俗世間と結びつこうとしているのか。」、と平城京での僧侶の行動を批判している。
645年明日香ヤマトが、唐進駐軍により壊滅すると、仏寺や貴族の屋敷内に「内道場」が設置された。唐帝国が、女帝則天武后により乗っ取られ、周帝国と国号が替わると、周帝国から正式な得度を得ない私度僧が、今まで以上に飛鳥大和に渡来した。その私度僧により、治外法権の仏寺や「内道場」では、仏教修行ではなく、俗世間の悪事が行われていた。日本初の博打を行ったのは、天武天皇だ。
その治外法権の宗教施設で行われた博打を禁止するために、持統天皇3年(689年)「双六禁止令」が出され、そして、文武2年(698年)博打や賭けごとをして遊び暮らしている者を取り締まりるために、その場所を提供した者も同罪として、仏寺での博打を禁止していた。
何故、神聖な宗教施設で、悪事の博打が行われたのか。それは、古代では、博打は神事で神聖な儀式の一部だったからだ。ひとは、一秒先も知ることは出来ない。そこで、未来を占う行為が、物(金)を未来に賭ける博打に変化した。
天平勝宝6年(754年)には、博打禁止に違反した場合、六位以下の者は100回の鞭打ち刑とし、それ以上の者は現職を解任し、土地を取り上げる、と罰則を強化した。そのように博打禁止の罰則を強化しなければならないほど、平城京では仏寺で博打が行われていた。そして、桓武天皇が、「平城京の諸寺が利潤を貪り求めている。」、と言っているのは、仏寺では、博打の他に「高利貸し」も行っていたのだ。
宝亀10年(779年)「続日本紀」には、「近年、人民は競って利潤を求め、わずかな銭を出挙して多くの利息をむさぼり得たり、重い負担のある契約を交わして、無理に質材を責め取ったりしている。」、とある。この質屋を営むには、金利の計算や契約書を作成するには漢字習得が必要なため、当時のインテリ層である僧侶が、渡唐してそのビジネスを学び導入した。
何故、仏寺が「高利貸し」を行ったのかは、出挙の制度があったからだ。唐の律令制度が日本列島に持ち込まれると、人民は税を負担する義務が生じた。その税を取り立てるため、朝廷は、春に種籾を貸し出し、秋の米の収穫に返済させた。これは、公出挙であったので、利子はそれほど多くはなかった。しかし、朝廷に替わって、仏寺がこのビジネスシステムを導入した。それが、私出挙だ。仏寺では、始めは米貸しを行っていたが、貨幣が流通すると、米の替わりに銭を出挙するようになった。
藤原不比等が統治していたまでは、養老4年(720年)「負債の稲が長年経過しているとしても、利息は半倍を超過してはならぬ。」、との規定を設けていた。しかし、奈良時代末期には、漢訳仏教組織は、仏教思想を悪用して、高利で返済が滞る者に対して、「生前に悪行する者は、来世に畜生となる。」、と脅し、桓武天皇が嘆くほど、平城京の奈良仏教の倫理は荒廃していた。

奈良時代を舞台とした仏教物語本である「日本霊異記」には、借金を返済しないと、地獄に落ちるとする物語が多く掲載されている。仏寺で高利貸しを営む漢訳仏教僧により、その「日本霊異記」の物語が広く庶民に布教されたことにより、「生前に悪行を行った者は、来世は畜生として生まれ変わる。」、とする仏教思想が平安時代に広まっていった。
奈良時代から、唐令の税制による納税で苦しむ農民には、旱(ひでり)が最大の関心ごとになった。そのため、旱をコントロールする技術者が求められた。藤原日本史では、道教では効力が少なかったが、神仏に祈ったら雨が降ったとする物語がある。しかし、奈良仏教は、鎮護国家のためのもので、庶民を苦しみから救うためのものではなかった。そこで、古墳時代に行われていたミトラ教の儀式が、庶民から求められていた。それは、ミトラ教の儀式は、旱の源である太陽を神として祀る宗教であるからだ。そのミトラ教の儀式では、牡牛が犠牲となる。
延暦10年(791年)桓武天皇は、伊勢、尾張、近江、美濃、若狭、越前、紀伊などの百姓に対して、牛馬を殺すことを禁じた。それらの国は、古墳時代までは、肉食する騎馬民族が支配者として統治していた。突厥民族は道教の北極星を祀るが、同盟する花郎騎士団は、ミトラ教の太陽を祀っていた。当然、それらの国では、牡牛を犠牲として、太陽神を祀っていた。牛馬屠殺禁止の意味は、桓武天皇にまつろわせるために、そのミトラ教の儀式を禁止させたのだ。しかし、民族を構成する言葉と宗教儀式は、征服者により、強制的に変革はできない。
延暦13年(794年)遷都した平安京は、ミトラ教を祀る秦氏(ギリシャ・ローマ文化の古代新羅からの渡来民族)の根拠地だった。そして、比叡山は、平城京の近隣にある三笠山と同じに、ミトラ教の祭祀場だった。
桓武天皇は、平城京にある興福寺・春日大社を支配する藤原氏と、平安京周辺の山奥に隠棲するミトラ教を祀る秦氏一族(鬼)を、歴史的に抹殺する戦略を考えなければならなかった。そのひとつが、「日本書記」と「続日本紀」の改竄と、もうひとつが、中国山東半島から、藤原氏の中臣神道の神に対抗する、シャンワン神(山王神)の導入だった。
その中国土着の神シャンワンを、山背国を山城国として支配した亡命百済貴族が、ミトラ神の祭祀場であった比叡山に勧請し、比叡山の山王神として、比叡山に祀られていたミトラ神を魔多羅神として貶め、藤原氏が奈良時代に発明した神アマテラスオオミカミに対抗させた。
奈良時代後期の756年以降、藤原氏は、平城京の東側の丘の上のミトラ教の祭祀場を破壊して、空き地の「神地」とし、その空き地に、中臣神道の神を祀るために春日大社を創建して、藤原氏の奈良王朝に反抗する、山の民となった明日香ヤマト残党軍等を「ケガレ者」として、災いを祓う儀式を奈良王朝で行っていた。
現在の神道の儀式で詠まれる「祝詞」は、10世紀の始めに編纂されたものだが、その中の「六月晦大祓」は、藤原不比等のロボットであった女帝持統天皇の時代に、藤原氏の支配下にある中臣氏が作文したものだ。その儀式の趣旨は、国内に起こる災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因だ。そこで、それらの罪悪を拭い取れば、平穏安息が得られるとする。
その祓うべき罪事には二種類ある。天津罪と国津罪だ。これは、藤原不比等が発明した、天津神と国津神とに対比する。天津罪として、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸の8つの所業がある。そして、国津罪として、生膚絶、死膚絶、白人、胡久美、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母と犯す罪、蓄犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、蓄仆し・蠱物する罪、の13の所業がある。この奈良時代の「ケガレ」思想には、平安時代に発生した「穢れ」思想の「血の禁忌」も「肉食の禁忌」もなかった。
藤原氏は、奈良王朝を支配するために、祭祀儀式は中臣氏に独占させ、そして、政治は朝廷の執行機関である廟堂を独占することにより可能としていた。
桓武天皇が即位する前の廟堂は、天武天皇系皇子と藤原氏により構成されていた。そして、桓武天皇が即位した、延暦元年(781年)から延暦16年(794年)までの廟堂の構成は、右大臣藤原氏、大納言藤原氏72%、中納言藤原氏27%だった。この時期の桓武天皇は、藤原氏のロボットだった。
しかし、桓武天皇側の勢力が増した延暦17年(798年)から延暦25年(806年・大同元年)までの廟堂の構成は、左大臣なし、右大臣神王(みわおう・天智天皇系)、大納言壱志濃王(いしのおう・天智天皇系)、中納言和氏、紀氏、坂上氏、参議紀氏、石川氏、渡来系坂上氏、渡来系菅野氏、渡来系秋篠氏、となっていた。
このことから、桓武天皇が、藤原氏のロボットではなく、権力者として在位していた時期に、廟堂から藤原氏が排斥されていたことが分かる。桓武天皇は、桓武天皇の政治を行うため、奈良王朝を政治と祭祀で独占支配していた藤原氏を排斥することにより、藤原不比等が計画していた移民と東北の砂金簒奪を、我が計画として実行できたのだ。
桓武天皇が唐の儀式により即位し、その儀式で祀る租神を、藤原不比等が発明した皇祖神とするアマテラスオオミカミではなく、父光仁天皇としたことは、奈良王朝を支配した藤原氏との決別を意味していた。そして、桓武天皇は、藤原氏の軍事力に対抗するために、百姓から練達の者を徴兵し、792年には、藤原氏に支配されていた軍団を解散させ、健児(こんでい)を設置した。その健児の軍団を指揮するのは、渡来系坂上氏などの唐帝国の将軍だ。唐帝国では、722年から傭兵制度を開始したため、中国大陸土着の黄色人種だけではなく、遥か西域から渡来した白人、黒人など、異人種の軍団が都を警備していた。蝦夷棟梁アテルイを騙まし討ちにした金髪の坂上田村麻呂の租も、その中のひとりだった。
桓武天皇の平安時代から、濁音の少ない唐音(京都弁の租)が平安朝廷で使われ、平安京が唐文化一色になるのは、唐帝国の軍団が日本列島に進駐してきたことと、中国山東半島から、遣唐使の請益僧最澄の導きで、亡命百済民が大挙して平安京に移民して来たからだ。
桓武天皇が、平安京から藤原氏の勢力の隔離を意図したことは、廟堂から藤原氏を排斥したり、藤原氏の神アマテラスオオミカミに対抗して中国山東半島土着の神シャンワンを山王神としたりしていたことからでも分かる。更に、桓武天皇は、奈良仏教も平安京から隔離した。
奈良には三論、成実、華厳、倶舎、法相、律の南都六宗があり、東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の七寺がある。その南都六宗派七寺の末寺が、大和の外には無い。何故なのか。教祖の教えを広く知らしめるには、各地の布教地に支店である末寺を建てることにより活動できる。しかし、南都六宗派七寺の末寺が、平安京はもとより、他の地にもないのだ。
桓武天皇は、それらの奈良時代を支配していた宗教的権威を排斥することで、平安京を、奈良の「藤原王国」に対する、「百済王国」とすることを意図していたのだ。そのために、桓武天皇は、最澄を遣唐使船に乗せた。その表向きの使命は二つ。ひとつは、中国山東半島から亡命百済民の日本列島への移民手配。そして、藤原氏が支配する南都仏教に対抗するために、中国天台宗の比叡山への勧請だ。密命としては、金精錬法の修得だ。
しかし、藤原三家は、桓武天皇の行動を黙って見ていたわけではない。そのひとつが、錬金術師空海を、唐に留学僧として送り込み、桓武天皇の命を受けた最澄の動向を探らせた。そして、藤原三家は、「藤原の女」を使う伝統的戦術により、桓武天皇を篭絡することを考え、実行した。
藤原南家は是公の娘吉子、式家は良継の娘乙牟漏、式家の百川は娘旅子、そして、北家には娘がいなかったので、内麻呂は自分の妻永継を、桓武天皇の後宮として送り込んだ。
それぞれの娘と元妻には、桓武天皇の子が宿された。式家の乙牟漏には安殿親王(後の平城天皇)と賀美能親王(後の嵯峨天皇)、式家の旅子には大伴親王(後の淳和天皇)、そして、北家の永継には安世が生まれた。藤原三家にとって、後は、桓武天皇の崩御を待つだけだ。その桓武天皇の在位は、それほど長くはなかった。桓武天皇は、祟られていたからだ。
百済系桓武天皇は、藤原氏による多くの陰謀と謀殺により誕生した。藤原氏は、桓武天皇の父、亡命百済下級貴族で、62歳の白壁王を天皇にするために、白壁王の妻である天武天皇の孫筋にあたる女帝井上天皇とその子他戸皇太子を無実の罪を着せて謀殺。そして、桓武天皇は、光仁天皇から次期皇太子とされた実弟早良親王を無実の罪を着せて謀殺していた。
桓武天皇は、平安京での度重なる不審火や落雷、そして、実母や側近が次々に死んでいったのは、それらの怨霊が、自分を祟った為だと考えた。それは、桓武天皇は、「続日本紀」を改竄していた過程で、奈良時代に藤原氏が、天武天皇10皇子を次々に無実の罪で謀殺し、その結果、「藤原王朝」の奈良の都が、反藤原氏となった聖武天皇により鋳造された遍照鬼により祟られていた実態を知っていたからだ。
729年天武天皇の孫長屋王を無実の罪で謀殺した藤原不比等の四人の息子は、五ヶ月以内に次々と奇病で死去した。そして、聖武天皇を光明皇后によりコントロールできなくなると、藤原広嗣は九州で兵を挙げた。それに対して、反藤原氏となった聖武天皇は、山の民である行基一行と結託し、藤原氏の都を見下ろす丘に、藤原氏が支配する仏教の敵、遍照鬼を鋳造した。聖武天皇が崩御した後、その大像の遍照鬼が完成すると、藤原氏の都「平城京」に奇妙な病が蔓延した。それは、都に住む多くのひとが、生きながら奇形して死に至る病だ。
桓武天皇は、「続日本紀」を改竄する過程で、奈良時代のそれらの怨霊により祟られた藤原氏と「平城京」の実態を知ったことにより、自分の犯した罪の意識を増幅させていた。更に、新しい都を造営する過程でも、山背国で秦氏の神を祀っていた巨大古墳を破壊して、律令軍にまつろわぬ先住民を抹殺していたのだ。平安京近隣の山奥に逃れた先住民の秦氏は、鬼となって、百済系天皇家が支配する平安時代を、祟る存在となっていた。


錬金術師空海と鬼

オレは、ここまで一気に読んだが、田辺さんのレポートの五分の一ほどまでだ。オレの貧弱な前頭葉を酷使し過ぎたので、脳が糖分を要求している。砂糖を多めに入れた温めの紅茶を一気に飲み干すと、レポートの続きを読んだ。その概要は以下のようだ。

藤原日本史では、稲荷社を農耕民族の「社」(やしろ・モリ)とするようだ。しかし、稲荷社については、多くの謎があるようだ。
藤原日本史のトリックに引っかかってしまったひとは、日本列島には古代から稲荷神社(いなりじんじゃ)が存在していた、と信じているようだが、神社(じんじゃ)は、明治革命後に発明されたものだ。「万葉集」には、「神社」の文字が存在するが、読みは「モリ」だ。だから、明治時代以前を記述する文章内に、○○神社(じんじゃ)とする歴史書物は、その記述内容に気おつけたほうがよい。
稲荷社についての史料では、892年菅原道真が編集したとする「類聚国史」がある。それによると、空海が東寺建立の為に稲荷山の木を切ったため、嵯峨天皇の後、淳和天皇が病気になり、淳和天皇が慌てて稲荷社に五位の位を授けたところ、病気が治ったとある。
更に、空海は、朝廷が力を入れて建設しようとしていた東寺がなかなか完成しなかったものを、京都稲荷山の木を切って建築木材として、わずか半年で完成させ、そして、東寺の守護神として稲荷神を勧請した、との史料もある。この二つの物語に出てくる稲荷社と稲荷山とには、何かを隠蔽していることが推測される。

藤原日本史では、空海は、最澄と供に、平安仏教を開祖した人物だ、とする。しかし、そのふたりの遣唐使船での渡唐による、仏教勉学の軌跡を辿ると、疑問符がつく。
804年7月五島列島田之浦から四隻の遣唐使船が出帆した。しかし、20年間の勉学を強いられる留学僧空海の乗船する第一船と、短期留学の請益僧最澄の乗船する第二船は唐に向けて出帆したが、第三船と第四船は何かのトラブルにより筑紫に舞い戻ってしまった。
空海の乗船する第一船は、804年8月福州長渓県に到着した。長安から存問使が来たのが10月頃で、11月に長安へ向かって旅立った。そして、長安には、12月到着した。
最澄が乗船していた第二船は、明州に着いたが、到着日は不明だが、804年9月に長安に向かい、11月に長安に到着した。しかし、そこには最澄はいなかった。明州に上陸した最澄は、9月12日付の台州行きの通行証を発行してもらい、中国天台宗がある台州の国清寺に向かった。
空海一行が、年賀の朝貢を済ませた後、天子徳宗が崩御した。そのことにより、順宗と憲宗との継嗣争いや節度使らの反乱、更に、隣国の吐蕃軍の侵略などで、唐帝国内の混乱に遭遇した。
そのような混乱した長安の都から、805年2月一行は出発し、3月越州永寧県に到着、4月明州郭下に到り、出帆する5月まで43日間滞在した。そこには、空海はいなかった。長安に留まっていたからだ。
天台山へ赴いていた最澄は、4月頃皆のいる明州に戻ったが、5月出発までの間、書物の入手と密教の受法を志して越州の龍興寺に向かった。そして、鏡湖の峯山道場で不空三蔵の弟子阿闇梨順暁から灌頂と曼陀羅などの尊様と印契を受けたとする。そして、5月最澄は、一行が待つ明州に戻った。
805年6月第一船と第二船は、明州を発ち、第一船は、7月対馬島に着いた。最澄が乗船した第二船も、7月に肥前国松浦郡血鹿島に着いた。
第一船、第二船が帰国した翌年、806年9月空海は、第四船で帰国した。しかし、この判官高階遠成が指揮した第四船の出港日も帰着日も帰着した場所も不明なのは、何故だ。
以上が、数少ない史料から割り出した空海と最澄の唐留学の旅程だ。航行日数と中国大陸での移動日を引くと、ふたりの唐での学習日数が、それほど多くないことが分かる。更に不思議は、留学僧の学習期間は20年だ。それなのに、留学僧の空海は、航海日数と中国内の移動日数を加えても、20ヶ月足らずだ。これには、何かのトリックがあったはずだ。
「新唐書」に、学生橘逸勢、僧空海は滞留して学業を修めることを願い、20余年の歳月がたった。使者高階真人がやって来て逸勢等と倶に帰国することを奏請した。皇帝はこれを許した、とある。空海は、20ヶ月を20余年と偽って奏請したのだ。これは、明らかに違法だ。
空海は、このことを気にしていたのか、「本国の使に与えて共に帰らんと請う啓」に、「長安において中天竺国の般若三蔵及び恵果阿闇梨に会うことができ、その直接の教えを受けて寝食を忘れて勉強した結果、10年かかる学業を1年で成し遂げて、密教の真髄に到達することができた。」、と述べている。しかし、その恵果阿闇梨は、805年に死去している。
空海が数ヶ月滞在していた長安は、皇帝が死去したための後継者争いと、それにつけ込んで隣国の吐蕃軍が侵攻したほど、内乱状態だった。そのような時期に、いくら天才ともいえ、恵果阿闇梨がいない長安での数ヶ月で、密教の真髄を極める修行ができるものなのか。
広い意味でインド密教は、タントラと呼ばれているが、その扱うテーマはには、秘教的ヨーガ、賛歌、祭式、儀礼、教義、法律、医学、天文学、占星術、魔術(科学・化学)まで含まれる。そして、それらを習得するには、書物を読むのではなく、師からの実践が要求される。そのように多義に渡る密教の真髄の何を、数ヶ月で空海が習得したというのか。
806年9月空海は、藤原氏の指示により勉学の途中で、急遽、判官高階遠成が指揮した第四船で帰朝した。そして、10月朝廷に「御請来目録」を提出した。その内容に、密教の技法を、「昔、金剛サッタが親しく遍照如来から伝授され、数百歳ののちに龍猛菩薩に授け、龍猛菩薩が龍知阿闇梨に授け、龍知阿闇梨が金剛阿闇梨に授けた。」、と密教伝授の遍歴を書き、更に、「龍知和尚は八百歳にして老いず。」、とも書いている。この提出文から、とざされた島国にいる平安朝廷には、唐の密教など何も分かりはしない、知っているのは自分だけだという空海のこころが読み取れる。
しかし、帰朝した空海は、桓武天皇より遠ざけられ、平安京の都には上れなかった。それは、藤原氏の勢力を奈良の都に封じ込めることを意図していた桓武天皇には、不正な手段で渡唐し、そして、不正な手段で帰朝した錬金術師空海に、藤原氏の影が見えたからだ。桓武天皇に避けられた空海は、北九州で好機を待つことにした。その好機は、意外に早く訪れた。

桓武天皇は、坂上田村麻呂による蝦夷棟梁アテルイを騙し打ちにしたことにより、青森以南の蝦夷を平定した。そして、最澄の渡唐での活躍で、中国山東半島から平安京に、多くの亡命百済民を移民させた。移民中で貴族以外のものは、平安京ではなく、関東の沿岸部に移民させた。
それは、関東の内陸部には、古墳時代に高句麗からの移民が高麗や国領の民として暮らし、そして、ワカタケル大王が治めた「シキの宮」などの古代新羅のコロニーがあったからだ。その中国山東半島から関東や伊豆の沿岸部に移民してきた者が、後の桓武平氏の租となった。
806年桓武天皇が崩御すると、平城が即位した。桓武天皇の崩御を待っていたかのように藤原三家が動き出した。その平城天皇に、藤原薬子が再び接近した。桓武天皇が存命中は、藤原薬子の品性を知っていたので、安殿親王(後の平城天皇)に言い寄る藤原薬子を遠ざけていた。
平城が即位した時には、藤原薬子は、藤原縄主の妻だった。その桓武天皇が崩御したことにより、側室となった藤原薬子の娘が平城天皇とに子が誕生しなかったので、娘を押しのけて藤原薬子自ら平城天皇に再接近した。
大同4年(809年)平城天皇は、病気を理由に、弟の神野親王に位を譲った。それが、嵯峨天皇だ。退位した平城太上天皇の後宮に入った藤原薬子は、平城太上天皇をして奈良の平城に遷都させた。藤原薬子は、藤原王国復活を目論んでいた。しかし、平城太上天皇は、この藤原薬子の陰謀を知らなかった。
この藤原薬子の陰謀を知った嵯峨天皇は、810年天皇個人を護る蔵人所を設置して、藤原薬子を宮外に退けた。この嵯峨天皇の処置に怒った平城太上天皇は、畿内と紀伊の兵を発して藤原薬子と、中国山東半島から移民してきた亡命百済民が多く住む東国に逃れようとした。
この乱は、平城・薬子側の兵の多くが逃亡したことにより、平城太上天皇は剃髪入道、藤原薬子は服毒自殺、兄の藤原仲成は射殺により終わった。そして、この藤原薬子の乱により、錬金術師空海が、嵯峨天皇に接近できた。
この藤原薬子の乱は、奈良時代の藤原広嗣の乱により藤原氏のロボットであった聖武天皇が、反藤原氏となったように、嵯峨天皇を反藤原氏とした。その乱以前に、嵯峨天皇には反藤原氏の芽があった。それは、天武天皇家や父桓武天皇は藤原の娘を后・後宮としていたのが、嵯峨天皇は藤原氏から娶らず、藤原不比等が計画した「藤原王国」を確立した藤原仲麻呂に反抗した、橘奈良麻呂の流れにある嘉智子を后としていたからだ。
しかし、嵯峨天皇の朝廷の執行機関である廟堂は、左大臣欠、右大臣北家藤原内麻呂、同藤原園人、同藤原冬嗣、大納言南家藤原縄主(藤原薬子の元夫)、北家藤原葛野麻呂、式家藤原諸嗣、坂上田村麻呂、巨勢野足、とあり、桓武天皇が避けていた藤原三家に支配されていた。
橘氏勢力と結んでいる嵯峨天皇は、藤原氏や旧桓武天皇官僚から離れて独自の政治を行うために、桓武天皇が最澄をして比叡山に中国天台宗の支店を構えた宗教勢力と、奈良の興福寺を中心とした藤原氏が支配する宗教勢力とに対抗する新しい宗教組織を求めた。それは、政治は「まつりごと」と言われるように、宗教的権威を利用することなくして人民を統制することができないからだ。そして、戦国時代に織田信長が比叡山延暦寺の仏教軍団を壊滅させる前まで、寺社には僧兵軍団がいたからだ。そこに現れたのが、唐から密教経典をもたらし新しい宗教「日本版密教」を発明し、そして、唐から仏具だとする金剛製の武器をもたらした錬金術師空海だ。

密教は、6世紀末から7世紀にかけてインドで発明されたと云う。そのインド密教(タントラ)が唐中期に、本格的・組織的に伝えられたのは、「大日教」を漢訳したシュバカラシンハと、「金剛頂」系の経を漢訳したウマジュラボーディと云われている。その「大日経」には、いろいろな願望を成就するための呪法や儀軌作法が述べられている、とする。
「大日経」や「金剛頂経」に基づく密教を、一般に正純密教と呼び、それ以前の除災や守護などを内容とする体系化されていない断片的な密教を雑部密教などと呼ぶ風習が日本にはあるようだ。その雑部密教の方には、「科学的・化学的」内容が多く語られている。空海は、「付法伝」に神妙の薬が大石に落ちるとすべて金になった、と述べているように、仏法説よりも、錬金術(ケミストリー)に興味があったようだ。
密教の呪法の経典を拾ってみると、医学や科学に関する経典が多くある。それらは、請雨呪経、止雨呪経、呪水経、薬呪経、呪毒経、呪時気病経、呪小児経、呪歯経、呪牙痛経、呪眼病経、義足経などだ。
藤原日本史によれば、入唐した空海は、密教を習得して日本に持ち帰り、高雄山寺、高野山、東寺を中心として真言宗を開いた、と述べる。しかし、空海が入唐していた当時の中国密教は、呪術的密教(科学的・化学的密教)ではなく、鎮護国家的色彩を強く色づけされていた。それに、インド密教を最後に引き継いだとされる恵果阿闇梨は、空海が入唐時には病の床にあり、805年に死去した。
科学的・化学的密教を唐に学びに行った空海には、インド密教(タントラ)の修行をするどころか、混乱する長安から密教経典を運び出すことしかできなかった。しかし、九州での滞在中に読破した密教経典から、次なる目標を見つけた。それが、水銀薬による、長生術、蘇生術、回春法だ。
それは、密教がタントラと呼ばれていたインドでは、医術において水銀や金属を調合して治療する技術が確立され、持ち帰った経典に記述されていた。更に、そのタントラ(密教)に付随する実践が、それらの経典から読み取れた。それらは、ダーラニー(力あることば・呪文)、ヤントラ(護符)、カヴァチャ(お守り)、ムドラー(手印)だ。これらの技法は、奈良朝廷の宗教儀式を支配していた奈良仏教にはない、新しいものだ。
そして空海は、水銀薬の知識、密教(タントラ)に付随する実践、漢訳仏教理論、そして、インドの神鬼をごちゃ混ぜにして、新しい宗教を発明した。それが、空海の密教だ。その密教を、真言密教と呼んだ。その真言とは、サンスクリット語でマントラと言い、仏が説かれた真実という意味だ。
その空海が開いた真言宗の本尊には、大日如来、薬師如来、阿弥陀如来、観世音菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩、不動明王、その他の諸仏で多枝にわたるが、その本尊群の頂点には大日如来が君臨する。
大日如来のサンスクリット語は、ヴァイローチャナで、密教僧ゼンムイは「大日」と字訳した。音写では、摩訶毘慮遮那とし、その意味から、昼間だけではなく夜も遍く照らすとする「大遍照如来」と漢訳した。そして、錬金術師空海は、反藤原氏の聖武天皇が鋳造した奈良の遍照鬼を、「大日如来」と命名した。それは、遍照鬼も「大日如来」も、太陽神であるからだ。空海は、明日香ヤマトで祀られていたミトラ教の神を、大日如来像と命名したことで、歴史上消してしまった。今日では、「奈良の大仏」と呼ばれているのはそのためによる。
その空海の密教の教えには二体系がある。ひとつは、「大日経」の「仏の慈悲はあたかも母の胎内に大悲をもって胎児の生育を計るごとし。」とし、もうひとつは、「金剛頂経」の説教にあるように、堅固なること金剛石のごとく、「武器の金剛」のごとく修行者の金剛不退の求道心とした。空海は、右手に「母なる慈悲」、そして、左手には「父なる武器」を持って、怨霊が跋扈する平安京の嵯峨天皇の前に現れた。子づくりに励む嵯峨天皇は、空海が調合する水銀薬を創製する真言密教に大変興味を示した。

嵯峨天皇の時代の平安京では、桓武天皇時代の怨霊の祟りが引き継いで起こっていた。その原因のひとつは、陸奥国・出羽国から捕虜として蝦夷が、近畿一帯の捕虜収容所に連れてこられていたからだ。それらの捕虜収容所は、別所、散所、湯浅、垣内、海渡などと呼ばれていたが、それらの地は、元産鉄民族が居住していた処だ。
征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、蝦夷棟梁アテルイを騙し、京まで連れて来た。その京で、赤毛のアテルイは首を刎ねられた。その結果、801年以降、蝦夷が支配していた陸奥国と出羽国とは、青森以南が、桓武天皇の支配下となった。
桓武天皇は、藤原不比等と同じに、陸奥国の金を狙っていたのだ。そのために、最澄を唐に渡らせ、金精錬法を学ばせに行かせた。しかし、唐帝国は、805年徳宗皇帝が崩御したため、長安の都が大混乱となっていた。そのため、亡命百済移民や中国天台宗の導入活動で密教を勉強していなかった最澄は、後に、年下の錬金術師空海の弟子となり、密教・金精錬法を学ぼうとした。しかし、錬金術師空海は、厳しい言葉でこれを拒否した。
桓武天皇は、陸奥国と出羽国を軍事管理する陸奥出羽按察使を独占する藤原氏を排斥するため、796年以降、廟堂の構成員から藤原氏を排斥した。そして、790年から陸奥出羽按察使であった多治比浜成に替えて、796年に坂上田村麻呂を陸奥出羽按察使とした。しかし、桓武天皇に継ぐ平城天皇を藤原薬子によるコントロールに失敗したが、809年嵯峨天皇が即位すると、再び、廟堂は藤原三家が支配することになった。すると、その翌年、810年薬子の反乱では平城太上天皇側に従って兵を挙げた文室綿麻呂は、禁固されていたが許され、同年810年文室綿麻呂は陸奥出羽按察使に任命された。
弘仁2年(811年)陸奥出羽按察使となった文室綿麻呂は、平安朝廷に俘囚軍一千人を以って、岩手県北部の幣伊村の夷を討ちたい、と奏上してきた。この陸奥国での軍事行動は、平安朝廷側ではなく、文室綿麻呂を影でコントロールする藤原氏によるものだ。これ以降、陸奥出羽按察使は、藤原冬嗣、歴史上初の摂政となった藤原良房など藤原氏一族により、明治革命前夜まで、藤原氏が独占して任命されて行く。
その文室綿麻呂の軍事行動は、何のためだったのか。それは、混乱する唐帝国で需要のある軍事奴隷を確保するためだった。アメリカ合衆国の奴隷貿易は、1808年に禁止されたが、日本国では、明治革命前夜まで、奴隷は売買されていた。
陸奥国や出羽国から連行された奴隷の蝦夷は、古墳時代は明日香ヤマトで活躍していた突厥進駐軍と花郎騎士団末裔だった。それらの奴隷軍人達は、それぞれの捕虜収容所に入れられていたが、桓武天皇軍に山背国を追われ、鬼となった山の民に助けられ、近畿一帯の山奥に逃れた者も多くいた。そのため、平安京の治安が乱れていた。この鬼達が、平安京の都で暴れまわらないように、嵯峨天皇は、令外官として、816年検非違使を設置した。
桓武天皇は、平城京が藤原京から仏寺を多く移築して建設されたのとは異なり、穢れた平城京の仏寺を平安京に移築することを禁止しただけではなく、奈良の僧侶の平安京への移動も禁止した。そのため、794年遷都した平安京には、荘厳な仏寺が少なかった。
桓武天皇は、平安京の東側に東寺の建立を計画し、実行したが、近隣の山に棲む鬼達の妨害により完成することがなかった。それは、その平安京の地は、元々は秦氏の支配地だったからだ。古墳や宗教施設を破壊され、山背国から追われて、山奥に暮らす鬼達は、平安京での仏寺の建設を妨害していたのだ。
嵯峨天皇の時代、その東寺建築に名乗りを上げたのが、錬金術師空海だ。錬金術師空海は、稲荷山の木を材料として、半年で東寺を完成さ、そして、稲荷神を祭ったと云う。これは、何を意味しているのか。それは、金剛杖で武装する錬金術師空海の仏教軍団が、夜な夜な平安京を跋扈する鬼達が住む山奥の棲家を壊滅したことを意味している。

京の東寺には、突厥ビシャモンが祀られている。その像は、かって平安京を鎮護するため羅生門の楼上に安置されていたものだ。ビシャモンは、北方を守護する神だ。平安京の北方には鞍馬山がある。その鞍馬山には、牛若丸の物語にあるように、ひとびとから恐れられている天狗が住んでいる、と云われていた。
「鞍馬蓋寺縁起」に、寛平年間(889年〜898年)には、鞍馬山には三尺の舌を持つ大蛇や髪を夜叉のように振り乱す鬼がいた、との記述がある。そして、その魔の山に、ビシャモンを祀り、鞍馬寺を創始したとする。では、ビシャモンに退治されたとする、その大蛇や鬼とは、何なのか。
ビシャモンとは、ヒンズー教の魔族クベーラで、金属や宝石を地上界にもたらし、地下の洞窟に住むとする、金属神のことだ。その鞍馬寺では、創始当時、ビシャモンを太陽の精霊として、又は、光の象徴として崇める信仰があったと云う。ビシャモンの属性が、太陽や光、そして、金属神とはどういうことだ。
京都には、京都三大奇祭がある。それらは、今宮神社の「やすらい祭り」、広隆寺の「牛祭り」、そして、鞍馬の「火祭り」だ。やすらい祭りとは、鬼による厄病退治らしい。広隆寺の牛祭りも、牛頭天皇による厄病退治らしい。そして、鞍馬の火祭りは、鬼による拝火をルーツにしているらしい。「らしい。」、とするのは、祭りには勝者側による、敗者の神を隠蔽する演出があるからだ。祭りの表面の演出により、裏の史実が隠蔽・改竄されていることが多い。だから、それらの祭礼の儀式には、微かな敗者の歴史の「ニオイ」がする。
ビシャモンのルーツを辿ると、延暦15年(796年)造東寺長官の藤原伊勢人の説話に突き当たった。その説話には、「伊勢人が、ある日夢を見た。その夢で、白髪の老翁が、観音像を祀るお堂を建てるに相応しい霊山があると教えた。夢から覚めた伊勢人がその霊山に行くと、そこには方丈の草堂があり、ビシャモン像が祀られていた。伊勢人は、自分が祀りたいのは観音像であるが、その霊山にはビシャモン像があったと不思議がった。するとその夜の夢に、童子が現れ、「因果の理からいえば、ビシャモンは観音である。おなじ仏教真理を説く経典にも般若経と法華経とがあるように、ビシャモンも観音も呼び名が違うだけで、もともとは一つのものである。」、と述べたと云う。これを聞いた伊勢人は、草堂をこわし、精舎を造営し、そこに千手観音とビシャモン像を祀った。」、とある。
では、ビシャモンと同じとする観音とは、何か。観音とは、サンスクリット語でアヴァローキタ・スヴァラで、竺法護は漢訳して「光世音」とし、鳩摩羅什は「観世音」と訳した。「光世音」も「観世音」も、共に太陽神の神格を表す。その後、バラモン教からヒンズー教への変遷に伴い、観音のインドにおけるサスクリット語名が、アヴァローキタ・イーシュヴァラとなった。これを玄奘は「観自在」と訳した。意味としては、色々な姿に変身できるからだ。
その観音信仰は、日本に入ると、「法華経」の普及とともにひろまった。それは、観音菩薩は、「観世音菩薩不門第二十五」の物語によれば、自由自在に人々の苦悩を観じ、三十三にも変現し、人々を救済する、と述べている。この観音信仰が、真言宗修験道と習合して、薬師如来信仰において、観音色が強くなっていく。
修験道は、山岳信仰と仏教とが習合してできたものとする。では、その山岳信仰とは、何なのか。修験道の聖地は、山形県出羽三山と云われている。その三山とは、羽黒山、月山、湯殿山と云われている。しかし、室町時代末期までは、湯殿山ではなく、葉山であった。では、その葉山とは、何か。全国にある葉山には、産鉄民族の歴史の「ニオイ」がある。
錬金術師空海が、真言密教の修行場とする寺や山には、「産鉄民族」と「太陽信仰民族」の「ニオイ」が残る。その葉山(湯殿山)に詣でて、即身成仏を果たすことが、羽黒修験道の修行目的だ。そして、その葉山(湯殿山)は、大日如来の密厳浄土だ。
以上のことから推測すると、錬金術師空海は、産鉄民族と太陽信仰民族の歴史を消すために、山岳に真言密教の修行所を建設していたようだ。それは、それらの民族は、錬金術師空海のビジネスとダブルからだ。そのビジネスとは、鉄・水銀・銀・金の採取と、創薬による治療だ。
藤原日本史では、蘇我氏とするが、その実態はユーラシア大陸から渡来した突厥民族である騎馬民族は、道教思想により、水銀薬、薬草、動物薬により不老長生を目指していた。そして、馬を乗りこなす鐙を作るために、鉄器製作に長けていた。その鉄器製作のための鉄作りを、タタラ製鉄と言う。タタラは、ユーラシア大陸でのタタールからのものだ。
日本列島に騎馬民族と供に渡来した産鉄民族は、日本列島には鉄鉱石が産出されなかったので、浜砂鉄を原料に、タタラ製鉄で鉄を手にしていた。しかし、侵攻して来た仏教信仰民族との戦いに敗れると、山奥に逃れ、山砂鉄を原料に鉄を作っていた。そして、産鉄民族は、仏教信仰民族により、金棒を武器とする「鬼」にされてしまった。
鬼の頭に角が生えているのは、鬼は元々は、太陽信仰のミトラ教徒で、太陽の化身である牛の頭を、捧げて太陽神を祀る儀式をもっていたからだ。その儀式のための牛頭が、鬼頭としてデホルメされたのだ。
一方、ミトラ神を祀る太陽信仰民族は、ミトラ神が誕生するとする山を崇拝していた。そこで、産鉄民族と太陽信仰民族は、融合して、山の民となった。
その山の民の太陽神や産鉄民族の風習を抹殺・隠蔽するために、錬金術師空海は、真言密教の神々を発明した。その神々の素性を知ると、錬金術師空海が、太陽神の隠蔽を意図していたことが示唆される。
真言密教では、大日如来が憤怒した姿が、不動明王とする。その大日如来の租は、バラモン教のヴァルナ神で、その租は光の神である太陽神アフラ・マズダだ。
阿弥陀仏→バラモン教のヴィシュヌ神→エジプトの太陽神アトン
観音菩薩→バラモン教のヴィシュヌ神→光世音→太陽神
薬師如来→バラモン教のヴァルナ神→瑠璃光
弥勒菩薩→ヒンズー教のマイトレーヤ→太陽神ミトラ
奈良仏教は官営だが、私営経営をしなければならない錬金術師空海は、山奥で水銀を採取し水銀薬販売や加持祈祷・手印・護符・お守りにより密教ビジネスをしなければならない経済的事情のために、同業を営む山の民を「鬼」として歴史上抹殺しなければならなかった。
このことは、江戸時代のエド(穢土→江戸)では、「稲荷」は「伊勢屋稲荷に犬のクソ」と蔑まされて言われていたが、大阪では、「病弘法、欲稲荷」と言われていた。民族差別が激しい西国では、「稲荷」は尊称ではなく、蔑称だったのだ。それは、「稲荷」は「夷なり」だからだ。この童子歌により、錬金術師空海が、平安時代から西国で水銀薬・加持祈祷により民間治療ビジネスをしていたことが分かる。
そして、「鬼の歴史」を消すための真言(?)が、「稲荷」だ。稲荷→イナリ→夷なり。稲荷→ジュガ→ツカ→塚→土の家→古墳、となる。だから、古墳に眠る霊を怨霊として封じ込めるために、モリ(古墳)の上に稲荷社を建てた。日本列島各地にある神社(モリ)が、こんもり茂った森の小山の上に多くあるのは、そのためだ。それは、さきたま古墳群の稲荷山古墳名の由来からも分かる。
空海が、東寺を建てるため、稲荷山の木を切ったとは、鞍馬山に棲む山の民を根絶やしにした、ということだ。稲荷神を祀ったということは、山の民の神を、真言密教の神々に習合したということだ。このことから、稲荷社は、山の民の社で、農耕民族の社などではないことが示唆される。
犠牲により神を祀る山々に棲む「鬼」が、加持祈祷による錬金術師空海の真言密教により「退治」されると、平安京の都に、一風変わった民族が集団で現れた。それが「芸能民」だ。


奈良の藤原王国対京都の百済王国

オレは、一休みした時、ふと思いついた。
田辺説によれば、奈良時代とは「天武天皇の10皇子」対「藤原氏」の闘争の時代とするようだ。そして、平安時代とは「藤原氏」対「亡命百済貴族」の闘争時代と位置づけているように、オレには読み取れた。
7世紀末期に、突然明日香ヤマトに現れた藤原不比等とは何者だったのか。そして、日本列島の歴史を改竄し、明日香ヤマト時代には漢字アルファベットを使っていたのに、奈良時代に漢語による「日本書記」を創作し、日本列島史を乗っ取った技術は、どこからもたらされたものなのか。
藤原日本史では、陸奥国・出羽国は、平安時代まで未開の地とするようだが、田辺説を読むと、藤原日本史に平安末期に奥州藤原三代の記述が突然現れる意味が理解できた。
藤原氏は、奈良時代から明治革命まで、陸奥出羽按察使の軍事・行政権限を最大限に利用した、東北の間接的支配者だったのだ。その東北支配の目的は、ハザール王国の同胞の移民と、鉱物資源と絹生産地の奪取だ。その藤原氏の国際性と遣唐使船の南方への遭難の謎は、ハザール王国→南インドのマラバル沿岸→中国マカオ→南九州坊津→紀伊半島熊野→東北仙台の南海路ルートで解明できるようだ。
日本列島史を古代から現代までを俯瞰してみると、藤原氏が政権を支配する時期に、日本国の軍隊は、異民族の地を軍事侵略する傾向があるようだ。そのような目で日本の歴史を調べてみると、奈良時代からの東北支配の延長線上に、戦国末期に藤原氏と姻戚関係を結び、藤原氏のロボットになった関白豊臣秀吉の朝鮮出兵による清国侵略計画と、そして、明治維新で復活した藤原氏の明治新政府による「神国ニッポン軍」による、イギリス東インド会社の流れにある国際金融組織にコントロールされた日清・日露戦争の流れの先に、満州国樹立があったようだ。
それらの海外侵略戦争には、奈良時代の陸奥国・出羽国の侵略と同じ意図があったようだ。それは、663年以降の亡命百済貴族と同じように、イスラム帝国により国を失ったハザール王国末裔の「白いユダヤ人」の同胞の移民地を求めた戦争だったことが示唆される。

田辺さんのレポートを読んだことにより、仏教伝来年が、538年説と552年説のふたつがあるのが理解できた。それは、奈良時代に藤原不比等が創作した、552年厩戸皇子による仏教伝来物語で仏教文化が芽生えたとする飛鳥時代を記述する「日本書記」を、平安時代に百済の血が流れる桓武天皇家が、538年百済から伝来した仏教が聖徳太子により興隆したとする飛鳥大和の仏教興隆物語として改竄したからだ。
その平安時代における、「藤原氏」対「亡命百済貴族」の戦いによる日本列島史の田辺説は、以下のようだ。

天応元年(781年)唐の儀式で桓武天皇が、奈良時代に呉音で読まれた漢語を漢音に替え、藤原不比等が発明した皇祖神アマテラスオオミカミに替え父光仁太上天皇を祀り、即位すると、延暦元年(782年)散楽戸が廃止された。
散楽とは、奈良時代まで近衛の官人の多くが教習に参加していた神を祭る芸能だ。その散楽は、平安時代になると「猿楽」と貶められていく。そして、秦氏は、姓名を惟宗氏に替えた。何故だ。
奈良時代までは、明日香ヤマト時代に広く認められていた騎馬民族とギリシャ・ローマ文化の古代新羅の文化・芸能がまだ残っていた。その散楽から派生した猿楽は、騎馬民族末裔が再び支配する室町時代になると、「能」として武家社会に現れた。
その能を完成させたとする世阿弥著「風姿花伝」の序によれば、「聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしより以来、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。」、と述べている。古代の「遊び」とは、神を祀る意味だ。その世阿弥は、申楽(猿楽)の租は、秦河勝だと述べている。
秦河勝は、その猿楽者の租神として「大荒大明神」(おほさけ大明神)と名付けられ、本地は「ビシャモン」と意味付けられていく。ビシャモンとは、太陽神の神格を持った鬼で、錬金術師空海がインド密教思想から導入したものだ。
では、猿楽の「猿」とは、どのような歴史的意味があるのか。猿は、古くから「山神」の使者としてはばかられていた。その猿の名前を付けられた者が、「日本書記」にいた。猿田彦だ。その猿田彦の「彦」とは、「日の男」の意味で、太陽信仰民族の「男」を表す言葉だ。因みに、「女」は、「ヒメ」若しくは「ヒルメ」だ。では、その猿田彦の素性は、何か。
平安時代初期に「日本書記」の偽書性を暴くために著された「古事記」によると、「天孫降臨」の条に、「私は国津神で、名は猿田彦と申します。」、とある。猿田彦は、国津神だったのだ。
国津神とは、藤原不比等が、明日香ヤマトで祀られいた道教の神である北極星と、ミトラ教の神である太陽とを歴史上抹殺するために発明された神のことだ。因みに、天津神とは、藤原氏の神のことだ。
645年仏教が組織的に伝来する以前、日本列島にある古墳近くの祭事場では、血による祭儀が行われていた。ミトラ教の太陽神化身である、牡牛を屠る儀式のことだ。その「血の儀式」は、仏教軍団との戦いでミトラ教徒軍が敗れると、仏教儀式の読経により否定されていく。そして、平安時代になると、錬金術師空海の発明した加持祈祷の「火の儀式」により否定された。そして、その国津神は、宿神として貶められていった。
その宿神には、障礙(しょうげ)と守護との性格を持つ。障礙とは、祟りのことだ。その宿神は、平安時代には、魔多羅神、大避大明神、秦河勝、翁、守宮神、鏡、猿楽の宮、星宿神などと呼ばれていく。
祟りは、怨霊が原因と云われている。怨霊は、無念の死を迎え、消滅できずにこの世に漂う敗者の魂だ。その怨霊は、この世で恨みを晴らそうとして漂う「さまよえる傷ついた魂」だ。天津神に抹殺された国津神は、宿神となって平安京を彷徨っていた。その国津神の怒りは、国津神の神によってのみ鎮めることが出来る。
怨霊は、国津神側からすれば、「さまよえる傷ついた魂」であるが、天津神側からすれば「ケガレた魂」だ。奈良時代の「ケガレ」は、国家反逆を行う行為のことだが、平安時代の「ケガレ」には「汚い」の意味が付加されて行く。この変革の意味は、どのようにして起こったのか。

高野山真言宗のある寺で、お札を配布していた。その内容に「栴多羅屠者のたぐいの穢れたる人を見たならば、このしんごんをとなうべし。」、とあった。その栴多羅(せだら)とは、何者なのか。錬金術師空海は、入唐で、インド密教経典と供に、インドのバラモン教の民族差別思想も日本列島にもたらした。そのインドの経典には、「チャンダーラに触れたとき、彼らと言葉をかわしたとき、彼らを見たときには、穢れをうける。そのさいには浄化儀礼をせねばならない。」、とある。
平安時代、唐帝国により押し付けられた律令制が解体していき、荘園公領制が確立していく中で、官営ではない新しい宗教は政治に協力することで生き延びていった。人民は、新しい宗教に経済的に支援することができないほど、貧しかったからだ。
そこで、錬金術師空海は、自身の宗教を目指すための経済的理由のために、陸奥国・出羽国の蝦夷を平定した桓武天皇の時代から続く、平安京での怨霊に苦しむ嵯峨天皇に近づいていった。
錬金術師空海は、インド密教の民族差別思想と供に、民族差別用語も日本列島にもたらした。それらは、栴多羅と非人だ。非人とは、騎馬民族の流れにあるシャキャ族の元王子であった釈尊が、民族差別をするバラモン教の永遠に輪廻する思想から解脱するために、この世とあの世との中間に暮らすことにより、バラモン教が唱えるカルマから逃れられるとした。それが、人でもなく、死人でもない「非人」となることだ。
その釈尊の唱えた「非人」の意味を、835年錬金術師空海は、「遍照発揮性霊集」で、「蝦夷は非人のともがらなり。」、と述べた。蝦夷とは、明日香ヤマト時代の突厥進駐軍と古代新羅から渡来した花郎騎士団を租としている武人だ。更に、「我および仏弟子にあらずば、いわゆる栴多羅悪人なり。」、とも述べている。
日本最古の仏教説話集「日本霊異記」にも、「七人の非人ありき。牛頭にして人身なり。」、とある。平安時代になると、錬金術師空海が発明した真言密教の布教により、釈尊の唱えた「非人」の意味が、百八十度回転して、全く別の意味となってしまった。
804年桓武天皇は、牛屠殺の禁止令をだした。その3年前の天応元年(781年)桓武天皇が即位した年、北九州の八幡神は、「護国霊験威力神通大菩薩」の称号を賜り、八幡大菩薩となった。この時の廟堂は、藤原氏に占められていたので、桓武天皇は藤原氏のロボットだった。
その宇佐八幡宮の最大の神事のひとつに、「方生会」(ほうじょうえ)がある。その方生会の最初は、天平16年(744年)秦氏の支配地である山背国の恭仁京から難波京への遷都の時期だ。その九州での、律令軍による先住民の殺戮は、藤原日本史では、740年藤原広嗣の乱としているが、その乱を知った反藤原氏となった聖武天皇が、翌年741年都を平城京から、秦氏の支配地である山背国の恭仁京に遷都したほど、おぞましい殺戮であったと示唆される。
藤原日本史が述べる藤原広嗣の乱とは、秦王国残党狩りであったのだ。そして、藤原氏が、奈良の三笠山にあったミトラ教の祭祀場を徹底的に破壊した跡に、春日社を創建したように、宇佐にあったミトラ教の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、宇佐八幡宮を創建したのだ。そして、明日香ヤマトを飛鳥大和として騎馬民族の歴史を抹殺したように、宇佐の秦氏の支配地を豊国として、ギリシャ・ローマ文化の秦王国の歴史を抹殺したのだ。
天応元年(781年)北九州の八幡神が、「護国霊験威力神通大菩薩」の称号を賜り、八幡大菩薩となったことの意味は、秦王国残党が、奈良の藤原王国の支配下に強いられた、ということだ。
このことから、752年聖武天皇が奈良の遍照鬼鋳造を完成した時、宇佐の神人が訪れたことの意味が分かる。それは、遍照鬼は、太陽神ミトラだったので、太陽神ミトラを祀っていた秦王国末裔が、聖武天皇が発案した遍照鬼の鋳造を援助したのだ。そして、道鏡事件での宇佐八幡宮の神託も、その延長線上にあった。769年和気清麻呂に「道鏡を朝廷から排除せよ。」との神託を与えたのは、藤原氏の傀儡神官だった。
その方生会とは、律令軍が殲滅した新羅人と隼人の国家反逆者の怨霊鎮めのための仏法行事だ。つまり、国津神系軍人の怨霊を鎮めるための仏教行事だ。その裏の目的は、「血の儀式」を放棄させる証として被支配者に行わせた。
では、方生会を行った宇佐八幡宮とは、何か。宇佐八幡宮とは、土豪の宇佐氏と新羅系渡来人の辛島氏、そして、藤原氏が支配する奈良朝廷が派遣した大神氏による三氏により営まれた。何故、民族が異なる三氏により、宇佐八幡宮が営まれたのか。
藤原日本史によれば、宇佐八幡宮の八幡神は、571年欽明天皇の時代に、初めて大神比義(おおがのひぎ)によって祀られた、と述べる。では、その八幡神とは、何か。
現在では、全国の八幡神社(はちまんじんじゃ)の主祭神は、藤原不比等が日本初の天皇として発明した応神天皇である。(平安時代、桓武天皇は、応神天皇を15代とし、初代天皇を神武天皇として「日本書記」を改竄した。)しかし、地域によっては、相殿神は異なる。宇佐八幡宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮は、比売神(ひめのかみ)と神功皇后だ。比売神の「比売」(ヒメ)とは、太陽信仰民族の「女」という意味だ。
しかし、欽明天皇や神功皇后などは、奈良時代に藤原不比等が発明した歴史上の架空人物だ。すると、宇佐・石清水・鶴岡八幡宮の祭神から、架空の人物である神功皇后を取り去ると、残るのは比売神(ひめのかみ)だけとなる。つまり、元来の八幡神とは、太陽信仰民族の神であったのだ。それを、藤原氏が、架空の神功皇后などで太陽信仰民族の神を隠蔽したのだ。
では、八幡神の本当の姿は、何なのか。その謎解明のヒントが、宇佐八幡宮の祭礼儀式にある。宇佐八幡宮の御遷宮、行幸会、方生会などの祭礼では、王権に敗れ部落に暮らす者が、「清め役」として、奈良時代末期から近世まで、神事に奉仕していた。その宇佐方生会の行事から、八幡神の素性が推察できる。
宇佐方生会には、古宮八幡宮で造った銅鏡を宇佐八幡宮に奉納する神事がある。この神事の流れは、香春岳から採取した銅鉱により銅鏡を作り、香春岳の麓にある古宮八幡宮から宇佐八幡宮に、御神体として奉納される。
その古宮八幡宮には、新羅神である豊比売を祭っている。その古宮八幡宮の新宮は、香春社だ。その香春社の宮司は、赤染氏だ。その赤染氏は、新羅系渡来人だ。このことから、八幡神とは、新羅系の神であることが分かる。その宇佐とは、古墳時代に、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族により興された、秦王国が存在した地だった。その秦王国は、藤原日本史により、豊国(トヨクニ)と改竄される。

奈良時代、藤原氏は、明日香ヤマトの各地拠点であった地に、奈良三笠山には春日社、伊勢には伊勢神宮、イズモには出雲大社、常陸には鹿島神宮、九州には宇佐八幡宮などを創建して、前政権の歴史を抹殺していたが、藤原仲麻呂の時代、唐帝国と内通する吉備真備の暗躍により、藤原仲麻呂のロボットであった女帝称徳天皇は、反藤原氏となり、藤原仲麻呂軍団を壊滅してしまった。
このことにより、反藤原勢力に対抗するために、藤原四家は、唐令の大宝律令を養老律令に替え藤原王国を樹立していたため唐帝国に軍事援助を頼むことが出来ないため、新しい協力者を探さねばならなかった。それが、平城京で下級官僚として働いていた亡命百済貴族一族であった。
亡命百済貴族は、672年新羅・明日香ヤマト残党連合軍団により壊滅されるまでは、近江に百済亡命王朝を築いていた。更に、古墳時代には、日本列島に渡来した百済民は、各地に百済コロニーを築いていた。その亡命百済貴族の勢力を利用することで、反藤原勢力と対抗することを考えた。
しかし、62歳の光仁天皇を即位させたのはまだしも、光仁天皇が、息子山辺皇子を桓武天皇としたことから、藤原氏の日本列島乗っ取りの計画が狂いだした。桓武天皇は、藤原不比等に匹敵するほど、知略・謀略に長けていたからだ。
即位してまもなくは藤原氏のロボットであった桓武天皇は、唐帝国の支援を受けると豹変した。794年平安京に遷都すると、奈良の仏寺の移築はもとより、末社の平安京での設置と奈良僧侶の移動を禁止して、平城京の藤原氏の権勢を封じてしまった。そして、中国山東半島から亡命百済民を平安京に移民させ、奈良仏教に対抗するために、中国天台宗を比叡山に勧請した。更に、藤原氏の中臣神道の神アマテラスオオミカミに対抗するために、中国土着の神シャンワンを導入して山王神として、比叡山に祀った。
そして、桓武天皇は、前政権の歴史を改竄・抹殺した。聖武天皇の遺品が保管されていた正倉院の絵画、像、史料の内で、亡命百済貴族に関する物を焚書・破壊した。そして、「日本書記」と「続日本紀」の内容を、母国百済を滅ぼした新羅憎しの感情により、敵国新羅とし、飛鳥大和時代の仏教文化は全て百済から伝来したと改竄した。そして、近江の百済亡命王朝を、飛鳥大和朝廷の政権とし、そして、年下の百済系中大兄皇子を、新羅系大海人皇子の兄として、天智天皇とした。そして、「不改常典」の呪文により、百済天皇家を万世一系とするために、紀元前660年即位の初代神武天皇を創作した。しかし、神武天皇が即位したとする奈良盆地は、周囲の山々から流れ込む川により、人も住めぬ大湿地帯だった。
勿論、藤原不比等が創作した日本神話も改竄した。平安時代に中国から導入した山王神の出自を、藤原神話の「天孫降臨」の時代とするために、「本朝食鑑」で、「山王は猿田彦神に天孫降臨のとき、ニニギノミコトの道案内をさせた。そこで山王は猿を神使いにしたのだ。」、と述べさせた。
奈良時代、729年藤原氏は、天武天皇の孫長屋王を無実の罪で謀殺すると、東北からの騎馬民族の軍事道路であった北陸道に愛発関、東山道に不破関、東海道に鈴鹿関を設けて、西国の防衛線とした。このため、西国の騎馬民族は孤立した。平安時代初期、孤立した騎馬民族軍団は、唐帝国から招かれた坂上氏などの軍事顧問に指揮された百済系健児軍団の攻撃により壊滅し、山奥に逃れ、山の民となった。
その山の民を、錬金術師空海は、金剛杖の武器により平伏させた。そのため、平安京には騎馬民族末裔の集団が現れた。それが、芸能民だ。西国の平安京近隣の平地は、亡命百済民の土地となっていたため、山から追われた芸能民は、神が住むと信じられていた聖地の河原や橋の下を居住地とした。河原は、神が見守る地とされていたために、古来から交易地とされていた。橋は、この世とあの世との架け橋と信じられていたため、橋の下は聖地であったのだ。
それらの芸能民の「芸」とは、神に奉仕するための各種の高度技術を表す。その芸能民の出自は、古墳時代から奈良時代までは、天武天皇家の「まつりごと」を支えていた各種技術者達だった。
平安時代初期、桓武天皇家は、陸奥国・出羽国の新羅末裔の蝦夷壊滅に没頭していたため、それらの芸能民を賎民として貶める行動をおこさなかった。しかし、青森以南の東北の蝦夷が平定された嵯峨天皇の時代、芸能民は、民族差別思想により賎民として貶められていく。その原因のひとつに、錬金術師空海の平安朝廷での登場がある。
平城京での藤原氏の朝廷儀式に対抗するために、平安京で新しい朝廷儀式を求めていた嵯峨天皇は、錬金術師空海が発明した真言密教のダキニの呪法による儀式を導入した。この真言密教の朝廷での儀式は、江戸時代末期孝明天皇が暗殺されるまで続いた。
藤原氏の色の付いた錬金術師空海の真言密教の儀式が、百済系桓武天皇家の儀式として採用されたのは、それは、桓武天皇が期待した最澄は、唐での仏教儀式の勉学をおこなっていなかったからだ。そのため最澄は、年下の錬金術師空海の弟子となって、インド密教の教えを求めていたほど、密教儀式に習熟していなかった。
錬金術師空海のもたらした密教思想の基は、インドのバラモン教だ。インド侵略者のバラモン教は、先住の遊牧民族トラヴィダをチャンダーラとして、不可蝕賎民として社会から排除していた。そのチャンダーラを錬金術師空海は、自著内で栴多羅とし、悪人とした。
そして、密教ビジネスの加持祈祷、護符・お守りを西国の貴族・庶民に販売するために、「栴多羅屠者のたぐいの穢れたる人を見たならば、このしんごんをとなうべし。」、と宣伝販売に励んだ。
しかし、錬金術師空海は、佐伯氏の流れにある。その佐伯氏とは、夷である蝦夷の流れにある。錬金術師空海の蝦夷を社会から排除する行動の裏には、「夷を以って、夷を制す。」の藤原氏得意の戦術があった。錬金術師空海の影に藤原氏があることは、山奥で儒教や道教を学んでいた空海を、一年で仏籍に入れ、留学僧として唐に送り込んだのは、藤原氏であったことで分かる。
反藤原氏の嵯峨天皇は、亡命百済貴族の品格を高めるために、814年「新撰姓氏録」を著し、亡命百済貴族を「皇族」、藤原氏を「神族」、そして秦氏などを「蕃族」の渡来人として身分差別をおこなった。しかし、平安京近隣の河原で営業する芸能民は、元は天武天皇家に仕えた秦氏達であった。その古代新羅(秦の国)から渡来した秦氏の租である紀氏は、古墳時代に辰韓(秦の国)から日本列島に現れた、百済民よりも、最も古い氏族だ。それが蕃族の渡来民族であるはずがない。すると、新羅系天武天皇の兄とする、百済皇子の中大兄皇子を天智天皇としたトリックが、後のひとにバレでしまう。そこで、明日香ヤマトを支配していた秦氏末裔の芸能民を、社会から隔離する戦略を考えた。
河原で営業する芸能民を疎ましく思っていたのは桓武天皇家だけではなかった。それは、寺社領から税として集めた米を酒造して、般若湯として販売していた比叡山延暦寺や水銀薬を販売していた高野山真言宗も同じだった。芸能民は、歌や踊りだけではなく、簡単な外科手術・抜歯、ロクジョウなどの動物薬や薬草などを使用した治療、神との交流を行うための性技などを河原で営業していたのだ。
その芸能民を社会的に隔離する手段として利用されたのが、「法華経」の布教だ。「法華経」には、法華経を疎んじる者は皮膚病となるとの一文があった。その「法華経」は天台宗の聖書だ。その仏敵が皮膚病を罹患するとの「法華経」の布教が、ハンセン氏病者を仏罰者としてしまった。平安王朝や平安仏教は、このハンセン氏病者の保護・看護を、その河原に住む芸能民に押し付けたのだ。
ハンセン氏病が仏罰であるということは、平安京の貴族や庶民にはリアルに訴求した。それは、ほんの数十年前、奈良時代の大像鋳造後、平城京では、人体が変形して死に到る銅・水銀鉱毒患者の実態が平安京でも伝聞されていたからだ。この伝聞は、後に、源信により、985年「往生要集」として著され、ひとの死に到る描写があまりにもリアルであったので、宋国に輸出されたほどだった。
このハンセン氏病の仏罰戦術により、国家反逆行為である「ケガレ」が、仏罰者のハンセン氏病の「ケガレ」として広まって行った。やがて、国家反逆の「ケガレ」と仏罰の「ケガレ」とが習合して、仏罰者の国家反逆者の「ケガレ」を扱う機関として、816年令外官として検非違使庁が設置された。
奈良時代の律令制下では、国家反逆者にたいするケガレの「清め」は、僧兵軍団を擁する鎮護国家仏教の寺社が、国家の代行として行っていた。しかし、律令制度が崩れ荘園制度となった平安時代では、ハンセン氏病者の仏罰者である国家反逆者のケガレの「清め」は、「非人宿」の長吏がその役割を担がされた。
長吏とは、中国では高級官人の呼称であるが、錬金術師空海が「非人」の意味を変えて布教してしまった結果、ハンセン氏病者を保護・看護する部落の「長」(おさ)の意味として貶められてしまった。

桓武天皇家は、朝鮮半島からの百済民族を租としているのに、「新撰姓氏録」により、日本国古来の「皇族」と自称したが、その平安京の地は、蕃族とする秦氏の支配地だった。そこで、桓武天皇家は、秦氏の歴史を消すために山背国の歴史を改竄した。その改竄素材が、「秦河勝」だ。
藤原日本史によれば、秦河勝は、聖徳太子の忠臣で、聖徳太子の命により、弥勒菩薩を安置するために広隆寺を創建したと述べる。しかし、その広隆寺は、平安時代に創建されたもので、それ以前は数回寺名を変え、秦氏が支配していた山背国では、蜂丘寺と言って、ミトラ教の神を祀る景教(ミトラ教)の寺だった。因みに、広隆寺に安置した弥勒菩薩とは、ミトラ神のことで、そして、飛鳥時代に聖徳太子が実存していたとする確定史料は今のところ皆無だ。聖徳太子が登場する現存史料のほとんどは、平安時代に創作されたものだ。
山背国でのミトラ教の儀式では、太陽神を祀るため太陽神の化身である牡牛を屠る「血の儀式」が行われていた。804年桓武天皇は、その牡牛を屠る「血の儀式」を禁止した。そして、その「血の儀式」の歴史を改竄するために、平安時代に、広隆寺による、厄除け祭事の「牛祭り」とされてしまった。更に、山背国の歴史を改竄するために、秦河勝が平安京の土地造成をおこなった、とする。
藤原日本史が、秦河勝が聖徳太子の忠臣で、広隆寺を創建したとするならば、そして、平安京の土地造成を行ったとするならば、そのような平安京に所縁のある秦河勝の墓は、広隆寺境内か、それがかなわないのならば、せめても平安京近辺にあってもよさそうだ。しかし、秦河勝が没したのは、赤穂の坂越で、その墓は大阪府寝屋川だ。これには、何かを隠しているニオイがする。
平安京を含む京都盆地一帯は、元は山背国と言って、秦氏の支配地だった。平安時代に、その山背国が、山城国になると、前政権の歴史を消すために「山城国風土記」が著された。その文中に、稲荷の由来が、「伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ租、伊呂具の秦公、稲染を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用いて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。」、としている。
桓武天皇家では、「山城国風土記」により、伊奈利(稲荷)を、稲霊としている。そして、927年「延喜式」でも、大殿祭の祝詞に、「是れ稲霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻(ウカノミタマ)」、としている。その稲霊を祀るのが、稲荷社とするのだ。そのように、桓武天皇家が編纂した史料に、度重ねて、「稲荷を稲霊」としていることには、何かの謎があるはずだ。
現在、全国の稲荷神社(いなりじんじゃ)の頂点に立つのは、稲荷信仰の総本山である伏見稲荷大社だ。その伏見稲荷大社は、京都市の南端、伏見区深草の地に鎮座する。その社の背後には、稲荷山の峯峯がつづき、峯一帯には「塚」(ツカ→ジュカ→稲荷→いなり)と呼ばれる約一万の磐座や、七ヶ所の聖石がある。磐座とは、ミトラ神が誕生するとする石のことだ。古墳の多くには、丸石があるのは、そのためだ。
そして、伏見稲荷大社には、朱色に塗られた御本殿の脇から峯に向かってつづく参道があり、それに沿って「千本鳥居」がある。その意味は、何か。
鳥居の歴史は謎である。朝鮮半島から魔除けとして伝来した、とか、二本の木に張った縄に鳥が止まった縁起による、とかの説明が「神社本」にはあるが、説得力がない。しかし、鳥居と朱とは、関連がある。中には、朱色ではなく、白木の鳥居もあるが、稲荷社の鳥居は、朱色だ。
朱は、別名「丹」と言う。その「丹」を木で造ると、鳥居の原型となる。「丹」は、古来から魔除けの呪術として利用されていた。その鳥居は、どうも丹(水銀)と関係があるようだ。すると、錬金術師空海が、思い浮かぶ。
錬金術師空海は、水銀薬を創薬するために、山奥の水銀鉱脈を探索し、その山の民を金剛杖で平伏させ寺奴隷の「聖」(ひじり)とし、そして、そこを聖地の禁足地とし、そこに宗教施設とする水銀採掘工場を建設していた。
京都の東寺を建設するのに、稲荷山の木を材料としていたのも、錬金術師空海だ。錬金術師空海の足跡と、稲荷社の設置との関連が示唆される。それは、稲荷社は、錬金術師空海の足跡と供に、日本列島全国に広がっていったからだ。
その稲荷山を背にした伏見稲荷大社の祭神は、ウカノミタマ(稲霊)、四大神、田中大神、そして、佐田彦大神だ。その佐田彦大神の実態は、猿田彦神のことだ。猿田彦神とは、猿→申→シン→秦となり、秦氏の神のことだ。
その秦氏の神を祀る稲荷山の頂上の峯には、数基の前方後円墳と円墳がある。そして、その周辺の峯にも、五基の円墳がある。その古墳のある稲荷山に、伏見稲荷大社があるとは、どのように説明されるのか。
藤原日本史では、伏見稲荷の創建は、和銅年間(708年)元明天皇の時代とする。すると、畿内で古墳時代が終わるのは、七世紀半ばとされている。すると、古墳時代終焉後に、稲荷社が創建されたことになる。
稲荷社の歴史は、その神事により推測できるようだ。伏見稲荷大社の神事のひとつに、毎年1月5日に「注連張神事」がある。その神事は、三つの峯の渓谷が集まる御膳谷で、「御饌石」(みけいし)という神石がある祭祀場で、新しく注連縄を張る神事だ。
その注連縄とは、「神社本」の解説にあるように、神を祀る神具などではなく、怨霊を封じるための縄だ。その注連縄が、毎年秦氏の神とする神石のある祭祀場で、新たに張られると言うことは、怨霊封じの儀式だ。
更に、鳥居は、神を祀る神具などではなく、怨霊を結界に封じ込める道具だ。それも、伏見稲荷大社では、千本の鳥居で結界を封じている。その意味は、稲荷山とは、「夷なり山」で、古墳のことだ。だから、稲荷社は、こんもり茂った木々のある丘の上にあったり、古墳を破壊した跡である藪の中にあることが多いのは、そのためだ。その古墳を祭祀場とする秦氏末裔を、その聖地に近づけなくするのが、鳥居であり、注連縄の仕事だ。
怨霊が跋扈する平安時代、桓武天皇家の命により、中国山東半島から移民してきた亡命百済民達の居住地を確保するために、その秦氏の神を祀る古墳(夷なり山)を破壊して、その跡に、怨霊封じとして稲荷社が建てられた。さきたま古墳群にある、稲荷山古墳もその例のひとつだ。
稲荷社とは、秦氏の神を、怨霊(ケガレ)として封じ込めるための装置だった。しかし、平安王権が、そのような注連縄や鳥居を稲荷社に設置して「夷なり山」を結界地としても、錬金術師空海の密教軍団に平伏され鬼となった秦氏末裔は、再び、稲荷山(古墳)に集まっていた。それに対して、桓武天皇家は、策を講じた。それは、国津神の怒りは、国津神の神によって鎮めることができる、とする策だ。
その策のひとつは、892年イズモ族の流れにある反藤原氏の菅原道真が編纂した「類聚国史」に、「空海が東寺建立のために稲荷山の木を切ったため、嵯峨天皇の後の淳和天皇が病気になり、淳和天皇が慌てて稲荷神に五位の位を授けたところ病気が治った。」、と記述にあることだ。
「淳和天皇が病気になり」とは、錬金術師空海に稲荷山を追われた鬼達が、桓武天皇家に対して蜂起したことの比喩だ。それに対して、桓武天皇家が「稲荷神に五位の位を授けた」ため、鬼達の蜂起が収まったのだ。平安時代初期には、稲荷山だけではなく、平安京周辺の山々には、桓武天皇軍に山背国を追われた「鬼」が多く棲んでいたのだ。

芸能民から武士への流れの平安京

今回の田辺さんのレポートは、オレの歴史知識では、理解不能、納得できないことが多い。そのひとつが、藤原日本史では古来から存在していたとする稲荷社が、平安時代に空海によって設立され、古墳の上か、古墳が破壊された地に設置されたとする、田辺説には、全面的には、納得することができない。
しかし、よく考えてみると、日本人の多くは、正月元旦の祭日や困難が生じた時など、祭神の名前も知らない神社(じんじゃ)にお参りに行く意味が少し理解できた。その神社境内には、古墳時代には騎馬民族の租霊が祀られていた古墳があった地だったからだ。だから、少しでも騎馬民族の血が流れる末裔達には、何かの困難が生じた時とか年が替わり人身を改める時など、騎馬民族の租霊に導かれて神社(モリ)にお参りに出掛けるのだ。
しかし、明治革命後に、古墳の上や古墳が破壊された跡に建てられていない神社(じんじゃ)は、何も霊気を感じることはないことがある。明治神宮も、オレが何度か訪れるうちに霊気を感じなくなったのは、古墳跡ではなく、ただの平地に人工森を作り、藤原氏が復活した明治時代に、その地に建てられているからだろう。
しかし、伊勢神宮は、オレが何度も訪れても霊気を感じるのは、古墳時代には、騎馬民族の霊が祀られていたからだろう。騎馬民族の流れにある、日本初代天皇である新羅系天武天皇が、672年近江の亡命百済王朝を壊滅した後に、685年道教の神である北極星(太一)を祀る道教の観(寺)を創建した。が、しかし、奈良時代になると、藤原不比等が、太陽神である皇租女神アマテラスオオミカミを発明し、その藤原氏の神を祀るために、伊勢の道観を徹底的に破壊した跡に、伊勢神宮を創建したからだ、と思う。伊勢には、古来、騎馬民族の歴史があったのだ。では、明治時代に創建された、藤原日本史では日本初の天皇とする神武天皇稜に、オレは霊気を感じるか、ふと思った。

オレは、そのようなことを考え、一息つくと、再び、田辺さんのレポートを読んだ。以下が、その要旨だ。

藤原日本史では、平安時代に芸能民が歴史上現れた、と述べる。そして、その芸能民達は、各種の技術を持ち、定住地を持たず遊行営業する、とする。そして、河原で各種芸能を営業するため、芸能民は、河原者と呼ばれていた、と述べる。更に、芸能民は、貧しい賎民だったように描写している。果たして、芸能民は、貧しい賎民だったのだろうか。しかし、平安時代末期、後白河院は、芸能民の流れにある遊女(後に丹波局)を寵愛して、子供までもうけていたのは、何故か。
その謎を解く鍵が「神社」だ。「神社」を「じんじゃ」と読むのは、明治革命後だ。それ以前は、「モリ」と読んだ。その「じんじゃ・神社」と「モリ・神社」とは、その意味が百八十度異なる。「じんじゃ・神社」は、神を祭る施設だ。それに対して、「モリ・神社」は、怨霊(前政権の霊)を封じ込める施設だ。
何故、「神社」が明治革命後に、その「仕事」が百八十度変わってしまったのか。それは、1868年(明治元年)神仏分離令が発令されると、全国で廃仏毀釈運動が起こり、全国の神宮寺が破壊され、その跡に「じんじゃ・神社」が創建されていったからだ。
神宮寺は、奈良時代に藤原氏が、明日香ヤマトで祀られていたミトラ教や道教などの神を国津神とし、そして、その国津神を天津神と集合させ、国津神の歴史を消した後、それらの神々を仏の支配下として祀るために発明された、宗教施設だ。だから、神宮寺には、仏像が安置されていた。
明治革命後の廃仏毀釈運動の流れは、伊勢神宮にも押し寄せた。伊勢神宮境内には、300余の神宮寺が存在していた。勿論、その神宮寺には、仏像が安置されていたのだ。それらの神宮寺は、明日香ヤマトの宗教施設の破壊と同じように、徹底的に破壊され、安置されていた仏像も破戒された。その跡に、内宮と外宮とが分離され創建された。その内宮と外宮とは、一神教徒のユダヤ民族と多神教徒のイスラエル民族が、唯一神ヤハヴェと太陽神バアルとの異なる神を祀っていたように、祀る神が異なっていた。
内宮は、藤原氏の皇祖女神アマテラスオオミカミだ。外宮は、トヨウケノオオカミだ。その内宮と外宮との立地も異なっている。内宮は、木々が立ち並ぶ、太陽光がよく通る小高い丘の平地にある。しかし、外宮は、こんもり茂った木々の中だ。これには、何か訳がありそうだ。
外宮がある森は、船岡山と呼ばれる船形に延びる小山を覆う森を指す。その森にある外宮の境内からは、須恵器や土師器が出土していた。それらの土器は、鉄器を造るのに必要な温度1200℃で焼かれて造られたものだ。その高温を得るには、鹿革製のフイゴを「替わりバンコ」でタタラ踏みして人工風を起こさなければならない。
そして、その付近には、荒神塚古墳、大明神塚古墳、そして、古代エジプトの埋葬思想の流れにある横穴式石室を持つ城山古墳などがある。これらのことから、外宮の前身は、怨霊封じの施設であったと推測される。
この藤原氏の神を祀る伊勢の森には、古墳を築造した古代新羅の歴史が隠蔽されているようだ。その根拠のひとつとして、内宮と外宮との間に、猿田彦神社(モリ)が鎮座しているからだ。その猿田彦とは、古代新羅から渡来した秦氏を貶めるために、藤原氏が藤原日本神話で発明した蔑称だからだ。更に、その伊勢の地が、平安時代となるとケガレ地とされていく。
百済系桓武天皇は、即位すると、奈良時代の藤原仲麻呂による藤原王国の、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲の四文字年号ではなく、二文字の「延暦」とした。桓武天皇は、即位式も唐制ならば、その元号「延暦」も、唐帝国の二代目大宗皇帝が編纂を命じた「群書治要」の一節、「庶民が徳政を喜べば、王の治世は延び、歴(暦)がすぎていく。」からのものだ。
唐文化一色の平安王朝から江戸時代末期まで、桓武天皇家は、大和百済王国初代光仁天皇から121代孝明天皇まで、公式に伊勢神宮に行幸してはいない。桓武天皇家では、122代明治天皇(天皇すり替え説あり)が、1869年(明治2年)初めて伊勢神宮を参拝した。
何故、百済系桓武天皇家は、伊勢神宮を避けたのか。それは、伊勢の地は、古墳時代秦氏の租である紀氏が、前方後円墳を築いた聖地だからだ。その新羅は、亡命百済貴族には母国を滅ぼした「憎き国」であったのだ。
平安時代、桓武天皇家は、その「憎き国」の末裔を貶める戦術を行使した。それが、ハンセン氏病を利用して、古代新羅から渡来した秦氏末裔の芸能民を「ケガレ」思想で貶める戦術だ。日本国での民族差別思想は、平安時代の京都から始まったのだ。
そのために利用したのが、錬金術師空海が、唐からもたらしたインドのバラモン教による、肉食民族を「チャンダーラ」とする民族差別思想だ。このことにより、平成の現在まで、そのケガレ思想を日本国にもたらした錬金術師空海の呪縛から、多くのひとが解かれないでいる。

錬金術師空海の密教軍団により、鞍馬山や稲荷山から追われた山の民は、生活の場を求めて、誰の土地でもない聖地の河原に集まってきた。そのひとつに、加茂川の河原があった。加茂川は、元は京都盆地の中央を流れていたが、古墳時代に秦氏の土木建設技術により、高野川に合流させ、京都盆地の東側を北から南に流れるようにした。
現在では、仏教が葬儀を専門に営業しているから、平安時代も仏教は葬儀を行っていたと思いがちだが、仏教が庶民の葬儀をおこなったのは、織田信長に仏教軍団が壊滅されて、寺社の各種権利を剥奪され、そして、楽市楽座により交通税や場所代を庶民から徴収できなくなった後からだ。
平安時代、漢訳仏教は死者を「ケガレ」として避けていたので、庶民は仏教式葬儀をおこなうことなく、死者を河に投げ捨てていた。京都の東側を流れる加茂川も、その例外ではなく、上流から流れ着く死者が、川辺に溜まるところができた。その状況から、京都の加茂川の東側は、いつしか「ドクロ河原」と呼ばれるようになった。このドクロ河原が、平安末期に、アラブ系国際海洋民族を租とする「平家」の拠点となると、ドクロハラ→ロクハラ→六波羅となっていく。
亡命百済貴族が支配する平安京では、最澄が中国から導入した天台宗と、錬金術師空海の真言宗が布教されていた。しかし、藤原氏が支配する奈良仏教は、桓武天皇により奈良に封印されていた。
奈良仏教は、鎮護国家を仕事とする官営であったが、律令制から荘園制に移行する平安時代には、租庸調の税制が崩れ庶民からの税が減少していたので、仏寺の経営が疲弊していた。ここに、新興宗教の平安仏教と旧宗教の奈良仏教との、潜在顧客としての平安貴族争奪の仏教ビジネス戦争が勃発した。
桓武天皇、平城天皇が平安京の東側の防御のための東寺を建設していたが、稲荷山に棲む山の民の妨害で完成することがなかった。しかし、嵯峨天皇の時代、錬金術師空海により、6ヶ月で東寺が完成した。更に、嵯峨天皇は、錬金術師空海に、平安京の北側の高雄山寺を与え、山の民の北側からの攻撃から平安京を護る神護寺とした。
これらの業績により、嵯峨天皇は錬金術師空海に、真言宗の寺創建を許した。それが、816年高野山金剛峰寺の創建となった。その高野山金剛峰寺は、中央構造線の伊勢→紀伊半島→四国→北九州の鉱脈上に位置していた。錬金術師空海は、その中央構造線にそって、真言密教の宗教施設を付設していくのは、真言密教の布教目的だけではないことが分かる。
嵯峨天皇の時代、平安京は混乱の最中だった。その混乱から嵯峨天皇は身を護るために、810年令外官として蔵人所を設置した。蔵人所とは、別名「男房」と言って、王の側近として王宮に宿直(とのい)して、王の身の回りの世話をする武装した貴族集団のことだ。この蔵人所が、後に、「王の侍」(さむらい)と呼ばれていく。
この嵯峨天皇の危機管理は、同年の藤原薬子の乱で発揮された。蔵人所の活躍により、藤原薬子の乱はすぐに鎮圧された。しかし、平安京の混乱は続いていた。その平安京の治安を護るために、嵯峨天皇は、816年令外官として検非違使庁を設置した。
検非違使とは、近衛以下の衛府の官人から選抜された天皇の親衛隊だ。その令外官の天皇の親衛隊は、徐々に藤原氏によりコントロールされていた刑部省や弾正台の機能を吸収していく。そして、遂に、京都の役所である京職の役割である、都市警察機能を担い、宮城内部と首都の治安を護る強力な組織としてい機能していった。
しかし、平安京の治安は保たれなかった。それは、鬼の存在だ。鬼とは、漢訳仏教が発明した、山奥に追われた明日香ヤマト残党軍末裔のことだ。その鬼は、夜な夜な平安京を跋扈し、ゲリラ戦により不審火を起こしていた。そこで、嵯峨天皇から淳和天皇の時代になると、鬼の懐柔策に出た。そのひとつに、稲荷山の神に従五位の位を授けた。
しかし、それでも鬼のゲリラ戦は続いた。そこで、淳和天皇は、「国津神の怒りは、国津神の祀りにより鎮まる。」とする戦術にでた。それが、検非違使の配下に、陸奥・出羽から連行した蝦夷の捕虜を付けた。蝦夷とは、古墳時代の明日香ヤマトの武人を租としている。つまり、鬼と蝦夷とは、同族なのだ。
平安京を彷徨う怨霊は、亡命百済貴族側からすれば、「ものの怪」ではあるが、鬼や蝦夷側からすれば、「恨みを持った彷徨える魂」だ。そこで、検非違使の配下となった蝦夷は、ある演出を考えた。それが、藤原氏が支配する中臣神道が発明した「ケガレ祓い」に対抗する、「清め」だ。その「清め」により、彷徨える魂を鎮めることだ。そのために開発されたものが、武芸だ。芸とは、神を楽しませる技術だ。そして、武芸とは、武人の剣舞により神を楽しませる技術だ。
そこで開発された武芸のための衣装や祭祀道具が、牛・鹿の角を付けた冑と派手な鎧だ。しかし、蝦夷の武芸者は、捕虜の身なので、実戦用の武具は法度だ。そこで、騎馬民族の技術のひとつである革製品製造技術により、総革製の鎧兜を製作した。そして、武芸の剣舞を華々しくするために、チュルク系騎馬民族の武器の蕨手刀を改良して、長刃の反りの片刃の武具を製作した。それが、後に、「日本刀」と呼ばれていく。
騎馬民族は、タタラ製鉄と鍛造法により鉄器の製作に長けていたから、それらの刀を製作することは容易いことだった。しかし、武芸者は、捕虜の身であったので、その長刀は、実戦に堪えられない刃幅だった。しかし、刃が薄いため、風を切る時、絶妙な音をだして、剣舞の効果を演出した。
この武芸者が、後に、武士となる。武士を、別名、「もののふ」と言い、日本刀を「武士の魂」というのは、武士の租は、祭祀者であったからだ。「もののふ」とは、「ものの怪」から王や貴人を護る者のことで、「物部」と言っていた。古墳時代、物部は、ものの怪を退治したり、処刑する者を意味していた。
平安時代、サムライと武士とが発生したが、その仕事により全く別ものであることが分かる。武装はしているがサムライは、王や貴人の側にいて近習・奉仕を本管とする。しかし、武士は、祭祀者を租とし、武装し実戦において、騎馬で貴人を護衛し、そして、捕えた賊の刑吏を職能とする。そして、その民族の違いがある。サムライは、亡命百済貴族の子弟から登用されたのに対し、武士は、明日香ヤマトの武人末裔の蝦夷を租としていることだ。


源氏、平氏、平家と奥州藤原氏の陰謀

オレは、今まで日本史の何を勉強してきたのか。日本列島史の史実を学んでいないのは、学校での歴史教育が、年号の丸暗記で、縄文と弥生時代は遺跡や遺物の羅列で、歴史時代になると架空の天皇である神武天皇や女帝推古天皇などの在位年の丸暗記だからだ。
藤原日本史では神武天皇としているが、史実は、日本列島での初代天皇は、騎馬民族系天武天皇だ。そして、天武天皇時代以前には、日本列島には、「日本人」は存在していない。勿論、「大和民族」なども存在していない。それは、「日本」と言う国号が歴史上に現れたのが、7世紀末期の天武天皇以後だからだ。
因みに、「大和」(ヤマト)の言葉が発明されたのは、奈良時代の713年藤原不比等による好字令以降で、そして、「大和民族」の言葉が発明されたのは、明治革命以降だ。
それらの藤原日本史に基づいた学校歴史については、田辺さんのレポートにより、別の角度から眺めることができた。そのことにより、奈良時代に藤原氏と、そして、平安時代に亡命百済貴族とにより隠蔽・抹殺・改竄された日本列島史を知ることができた。
その例のひとつとして、「百済語で分かる古代日本史」とか、「飛鳥大和の歴史は百済語で分かる。」などの歴史本が多く出版されるのは、平安時代に亡命百済貴族が、藤原日本史の基本史料である「日本書記」を改竄して、藤原日本史での初代天皇応神の事績をコピーして、神武天皇を初代天皇とし、そして、藤原日本史では仏教伝来が552年なのに、百済から538年伝来したとし、架空の聖徳太子と秦河勝の弥勒菩薩を安置する広隆寺創建物語を創作したからだ。漢訳仏教が、明日香ヤマトに組織的に現れたのは、645年以降だ。
そして、田辺さんのレポートにより新たに認識できたのは、「平氏」と「平家」の歴史の違いだ。中世を述べた歴史本の中には、「平氏」と「平家」をゴチャ混ぜにしている歴史本もある。それは、ユダヤ民族は唯一神ヤハヴェを祀る一神教徒で、そして、イスラエル民族は太陽神バールを祀り、そして、太陽の化身である牡牛を屠る多神教徒であるのに、その異民族のユダヤ民族とイスラエル民族とゴチャ混ぜにしていることと同じに、明らかに歴史的に間違いだ。
「平氏」は、天皇から賜姓されたものだ。しかし、「平家」は、私的な呼称だ。それに、「平氏」は、「桓武平氏」と言われるように、平安京を支配する亡命百済貴族の子息を租としているのに対し、海洋民族を租とする「平家」の京都での拠点は、加茂川の東側のドクロ河原だ。後に、平清盛の「平家」が王権を握ると、そのドクロハラが「六波羅」となる。
平安時代では、そのドクロ河原では、漢訳仏教により築かれた砦である「山寺」により、鞍馬山や稲荷山の居住地から追われた、明日香ヤマトでの祭祀者や技術者を租とする芸能民(鬼)が営業していた、亡命「百済王国」の平安王朝側からすれば、反体制側の「ケガレ地」だ。そして、アラブ方面から渡来した「平家」の日本列島での本拠地は、伊勢だ。桓武天皇家が「ケガレ地」として避ける伊勢の地を本拠地とする「平家」とは、何者なのか。
以下が、平安時代末期までの田辺レポートの要旨だ。

「平氏」と「平家」が同じであるならば、1243年完成の「平家物語」は、何故、唯の私名である「平家」ではなく、天皇から賜姓された格上の姓である「平氏物語」とならなかったのだろう。それは、「平氏」と「平家」とは、鎌倉時代の百済系北条氏が、源氏三代の頼朝・頼家・実朝を抹殺して、そして、北条政子による第二百済王国の北条鎌倉幕府成立以前には、「平氏」と「平家」とは出自も民族も異なっていたことを、「平家物語」の著者も読者も知っていたからだ。
数々の謀略で源氏三代を抹殺した北条政子は、「平家」が祀る厳島神社(モリ)を、「平氏」の氏神の祀り処として取り込み、アラブ系海洋民族の「平家」の歴史を、奈良時代に藤原氏が騎馬民族文化の明日香ヤマトを仏教文化の飛鳥大和としていたように、百済出自の「平氏」の歴史に取り込んだのだ。だから、北条鎌倉幕府以降の史料では、「平家」と「平氏」とがゴチャ混ぜとなってしまった。
「平家」には氏名はないが、「平氏」には「秩父氏」、「大掾氏」、「千葉氏」、「上総氏」、「三浦氏」、そして、「北条氏」など氏名がある。そして、それらの「平氏」の支配地は関東近辺で、地方の豪族に過ぎない。が、しかし、平安末期の「平家一門」は、「平家物語」には、「すべて、一門の公卿16人、殿上人30余人、諸国の受領・衛府・諸司、都合60余人なり、世には又人なくぞ見えられける、日本秋津島はわづか66カ国、平家知行の国30余カ国、既に半国に越えたり、その外、庄園田畠幾らと云ふ数を知らず。」、とあるように日本列島の支配者だった。その「平家」が、藤原日本史によれば、1185年壇ノ浦の戦いで、源氏軍団により滅んだとする。
その「平家」と「源氏」との戦いの源平合戦の初戦は、1180年伊豆の石橋山合戦からで、その時の源頼朝は、「平氏」の北条時政に担がれていただけだ。その戦いは、伊豆(イズ→夷住)の北条氏の支配地が、「平家」に侵略されたことに対しての反撃だった。しかし、軍事力に勝る「平家」軍団に蹴散らされた「源氏」源頼朝と「平氏」の北条時政は、上総に落ち延びた。
その「源氏」と「平氏」の合同軍団の劣勢は、陸奥国からの源義経軍団の進撃により挽回した。「平家」軍団は、富士川→一の谷→屋島→壇ノ浦へと追い詰められて、8歳の安徳天皇が入水したことにより、1185年「平家」が滅亡したと、藤原日本史は述べる。では、「平家」軍団を蹴散らせた源義経とは、何者なのか。
藤原日本史によれば、源義経は、源頼朝の異母弟で、父源義朝が平清盛により討たれたため、鞍馬山の寺に預けられ幼年を過ごしたとされる。そして、成長すると奥州藤原氏を頼り陸奥国の平泉に行った、とする。しかし、源義経の出自や経歴は謎で、藤原日本史で述べる源義経の資料は、1254年「源平盛衰記」、1266年「吾妻鏡」、1424年「義経記」などの物語による。その源義経と奥州藤原氏との関係には、何かの謎が潜んでいるようだ。
奥州藤原氏は、藤原日本史では、平安時代末期の源平合戦の源義経が陸奥国から進撃する時に突然現れるが、奈良時代から藤原氏は、令外官である陸奥按察使を設置して、そして、その任を独占して、陸奥国の砂金を狙って支配者となっていた。
奈良時代、陸奥国の蝦夷を平定するための前線基地の多賀城は、陸奥国按察使となった藤原氏により建設されていた。そして、藤原日本史では、平安時代に奥州藤原氏は三代で滅んだように述べているが、それはウソで、明治革命時まで、陸奥出羽按察使は、藤原氏により独占されていた。それは、藤原氏が、陸奥国の砂金などの貴重鉱物を独占するためだ。その砂金は、藤原氏の古代からの支配地である九州坊津から、南海航路により、南インドへ運ばれていた。
907年唐帝国が滅ぶと、アラブの海洋交易民族は、遣唐使船により唐帝国への絹、金、銀、水銀、真珠などの資源物資を、奈良時代から唐令の庸調税制により貢いでいた日本列島に現れた。アラブ海洋民族は、紀元前10世紀には、南インドから孔雀、猿、真珠、染料ベンガル、香料などを手に入れ、エジプトやアッシリア王国と交易を行っていた。
9世紀のサラセン帝国で著されたアラビアンナイトの「千夜一夜物語」は、8世紀頃のアラブ海洋交易商人が、南インドや唐帝国の中国沿岸で海賊交易をしていた事績を素材として創作された物語だ。
そして、10世紀、アラブの海洋交易民族は南九州の先にある種子島を侵略基地とすると、志摩半島の真珠と伊勢の水銀を求めて伊勢湾から上陸し、そこを支配した。そして、平安京に加茂川を挟んで隣接するドクロハラを支配した「平家」軍団は、当然、藤原氏が独占していた陸奥国の砂金の強奪を考えていた。
そこで、藤原氏と対立し孤立した百済系白河法皇に取り入って百済王国の平安王朝を乗っ取った「平家」軍団は、その軍事力により日本列島各地を次々と支配すると、陸奥出羽按察使の藤原氏の支配下となった蝦夷末裔の安倍氏軍団の守りの堅い陸奥国を避け、隣接する出羽国の蝦夷末裔の清原氏の支配地を占領した。東北を支配する安倍氏も清原氏もその租は、騎馬民族が支配した明日香ヤマトの武人を租とする蝦夷末裔だ。
それらの軍事行動により、「平家」は、日本列島の約半分を支配するまでになっていた。これは、奈良時代から現御神の天皇をロボットとして日本列島を支配していた藤原氏にとって、「平家」の存在は脅威となっていた。
更に、「平家」三代目の平清盛は、藤原氏の南海交易に介入するだけではなく、南宋との国際交易の為に、福原に大和田泊の国際港を建設した。そして、平清盛は、1180年福原に遷都した。この「平家」の遷都に対して行われたのが、「平氏」北条時政が「源氏」軍団を利用するために、源頼朝を源氏棟梁として担ぎ出した、伊豆石橋山の挙兵だった。
「平家」の存在を疎ましく思っていたのは、藤原氏だけではない。平安京の百済王国を祀るために、亡命百済王家の宝刀「大刀契」(だいとけい)を天皇位を象徴する宝物とした、百済系桓武天皇は、奈良の仏教を支配する藤原氏に対抗するために、秦氏のミトラ教の神を祀る比叡山の祭祀場を破壊して、その跡に、788年延暦寺を創建させた。そして、唐帝国から天台宗と中国土着神シャンワンを導入した。そのシャンワンを、山王神とすると、ミトラ神を宿神の魔多羅神として貶めた。
平安京を鎮護国家として祀る比叡山延暦寺は、奈良の仏教が官営であるのに対して、民営のため経済的に自立を求められていた。延暦寺の経営は、寺社領からの税の他に、「借上」という金融業と、唐帝国との交易で賄われていた。しかし、907年唐帝国が滅ぶと、中国国内は、大混乱となった。その頃、日本列島に現れたのがアラブの海洋交易民族だった。
唐帝国の五台山の天台宗は、その交易組織を日本国の比叡山に移すと、907年建国の呉越国を交易国として、中国の書画骨董や錦織の絹製品を日本国に輸入した。比叡山延暦寺の僧侶寛建や日延などは、中国天台山の招請を受け、呉越国の商人蒋承勲の貿易船に乗って、呉越国に行ったのは、仏教の修行だけではなかった。
935年朝鮮半島に興った高麗が新羅を滅ぼすと、呉越国の商人蒋承勲は、何度も、比叡山延暦寺を訪れた。新羅は、唐帝国と日本国との仲介交易により経済の基盤としていたのだ。その中国と日本国との仲介交易権を、呉越国が奪った。
しかし、978年呉越国は、宋により吸収されてしまった。比叡山延暦寺は、その宋との交易を盛んにした。そして、九州で借上の金融業を拡大する目的で、延暦寺僧侶の法薬禅師は、宋の商人から大宰府役人への賄賂の融資を受けて、大宰府の大山寺の支配を目論んだ。それは、その大山寺を、北九州での借上活動の拠点とするためだ。
宋の商人と結んだ延暦寺は、中世において最大の借上集団を抱え込む基礎は、この時期に形成されたのだ。しかし、宋は、遊牧騎馬民族を支配者とする金により、1126年北宋は滅ぼされ、南朝の南宋と北朝の金とに分裂した。
その南宋と、日本列島の約半分を支配した「平家」は、国際交易を始めた。そして、横暴を極めた「平家」は、興福寺や延暦寺の強訴の道具である「御輿」に矢を射掛けたり、平清盛の息子平重衡などは、1180年東大寺に火を放って、遍照鬼を大日如来とした大仏を炎上させたのだ。これには、藤原氏と同じに、南宋と交易を行っていた比叡山延暦寺も、奈良の興福寺も黙って見ているわけには行かなかった。その「平家」撲滅に動いたのは、源氏軍団を裏から操る藤原氏だった。
「平家」に支配された出羽国と隣接する陸奥国の砂金産地を死守するには、源氏の源頼朝や平氏の北条時政の軍団では荷が重すぎる。そこで藤原氏は、得意の戦術「夷を以って、夷を制す。」を実行した。海洋民族の「平家」は、陸上戦には弱い。そこで、陸上戦に強い騎馬軍団を雇った。
その騎馬軍団は、陸奥国の砂金を独占する奥州藤原秀衡により雇われ、「平家」を滅ぼした後、藤原泰衡により衣川館で抹殺されたため、その出自を知られることもなかった。しかし、その藤原氏により雇われた騎馬軍団が、日本列島在住の軍団ではないことは、当時、武家には家紋などまだなかったのに、笹竜胆を旗印としていたことで分かる。
この笹竜胆の家紋は、ユーラシア大陸の騎馬軍団が使っていたものだ。特に、元帝国を興したテムジン軍団の紋は、その笹竜胆だ。そこから、源義経ジンギスハーン説が唱えられている。実は、「元」と「源」とは、意味は同じ「みなもと」なのだ。
では、814年嵯峨天皇により賜姓された「源氏」とは、何処からもたらされたものか。その「源氏」の姓は、北魏時代に現れ、そして、唐帝国から日本国にもたらされたのだ。
北魏から唐帝国におよぶのは、拓跋国家である。北魏は、拓跋部を主体とする遊牧騎馬民族の鮮卑系36部の諸部族連合により構成されていた。遊牧騎馬民族である拓跋国家は、単一王家をいただくピラミッド構造ではなく、複数の家系が「王権」を分かち合うかたちで並存する、車座の「談合」による輪構造により構成されていた。
因みに、胡坐(あぐら)は、騎馬民族の正式な座法であるのに、日本国に伝来した仏教文化では下品な作法とされる。しかし、日本では、上品な作法とされる正座は、騎馬民族文化では罪人の座法だった。
北魏の支配地が拡大するにつれ、支配者の拓跋氏やその部族である政府官僚たちが横並びでいることは、政府を運営するためには不都合となった。そこで、36部の旧族長たちの序列化をはかるために漢姓の導入となった。
そこで、36部の拓跋部の族長である、拓跋連合体の盟主である拓跋氏は、「元」(もと)という漢姓を名乗った。その北魏の拓跋氏の漢姓「元」を、後世のフビライ以後のモンゴル帝国が、「元」を国号として採用した。
414年騎馬民族の禿髪氏の河西王国が滅亡すると、禿髪破羌は、北魏の太武帝のもとに奔った。そこで、太武帝は、騎馬遊牧民族で同族の禿髪破羌に、「卿は、朕と源(みなもと)を同じくす。事に因りて姓を分つ。源氏と為す可し。」、と言った。これより、禿髪破羌は、姓一字、名一字の源賀と名乗ることになった。
日本国での皇族賜姓の姓は、公姓、真人姓で、8世紀初頭になると橘姓、在原姓となり、平安時代になると源、平の漢風の単姓となる。その平姓は、桓武天皇、仁明天皇、文徳天皇、光孝天皇など、平安時代初期の天皇の子孫のみに集中している。
814年嵯峨天皇は、財政負担軽減を理由に、皇子、皇女に、一字姓一字名で、源朝臣をあたえ、臣籍降下させた。では、嵯峨天皇は、兄である平城天皇は在原姓としているのに、何故、騎馬民族禿髪氏の「源氏」を賜姓として採用したのだろう。
平安王朝は、その構成員である貴族の多くは、中国山東半島から移民してきた亡命百済貴族であったので、中国大陸の文化によく通じていて、宮廷や政府を含めて中華風の教養が定着していた。だから、源氏の姓の歴史的意味も、平安王朝では良く知られていた。
騎馬民族出自の北魏王室の分族としての源氏は、北斉においては秦州刺吏となり、隋にあっては刑部侍郎となり、更に、唐帝国においては宰相にまでも登りつめ、名流中の名流として知られていた。
嵯峨天皇は、ある目的をもって、その北魏王室の分族の姓の「源氏」を、臣籍降下の皇子・皇女に賜姓した。その目的は、ひとつは経済的に、そして、もうひとつは政治的であった。
亡命百済王国を樹立した桓武天皇も、その政治的実態は藤原氏により支配されていた。それは、奈良時代に、藤原不比等により仕込まれた蔭位制により、藤原氏の子息が自動的に貴族身分となれるため、朝廷での藤原氏の占有率が突出していたからだ。そのため、藤原氏の貴族がいなければ、政治の実務ができないのだ。更に、朝廷の執行機関である廟堂の、実務最高責任者である右大臣を、藤原氏が独占していた。
この藤原不比等が仕組んだ政治構造を破壊するために、北魏の騎馬民族の姓「源氏」を、嵯峨天皇は採用したのだ。その証拠は、北魏の源氏は、一字姓一字名だ。嵯峨源氏も、713年藤原不比等により制定された漢字二文字で地名・人名を表す決まりを無視して、源信(まこと)、源融(とおる)、源拳(こぞる)、源順(したごう)、などの一字姓一字名だ。そして、藤原氏の女を近づけなかった嵯峨天皇は、妻を反藤原氏の橘氏から娶り、数多くの側室は、反藤原氏の土着豪族の娘だ。
嵯峨天皇は、藤原氏の支配から独立するために、嵯峨王国樹立を考えた。そのひとつが、藤原氏四家の中で勢力のある式家との決別だ。しかし、藤原氏の貴族の働きがなければ政治を実行できないため、式家に替わり北家を取り込むため、嵯峨天皇の娘潔姫を北家藤原良房に下賜した。
そして、廟堂から藤原氏を排除するために、左大臣源信、同源常、同源融、大納言源弘、同源定、同源昇、同源湛とし、「源氏」一族で固めた。しかし、反藤原氏の嵯峨天皇の失策は、右大臣を娘婿藤原良房としたことだ。
左大臣は、位としては右大臣より上位であるが、政治上の実務権は右大臣にあった。嵯峨天皇は、源氏一族で廟堂を固めたつもりでいたが、政治上の実務権は、藤原良房に握られた。
左大臣は、単なる名誉職的職掌なのだ。つまり、嵯峨天皇の源姓皇子は、奈良時代に天武天皇の10皇子を懐柔するために創られた、実権のない名誉職である、令にもない「知太政官事」を設置して実務から排除したように、名誉職のような左大臣に任じられ平安王朝の政治から排除された。
この藤原良房は、嵯峨天皇が崩御すると、藤原不比等のように、藤原氏に有利に政治機構を改編していく。
天安元年(857年)藤原良房は、太政大臣に任ぜられると、右大臣を弟の藤原良相とした。太政大臣も、左大臣と同じに、名誉職的な職掌だった。しかし、太政大臣となった藤原良房は、律令官位令にある管掌する職能の無い太政大臣を、「凡てを統括する最高官」としてしまった。
この藤原兄弟の太政大臣と右大臣とにより、百済王国は、藤原氏により乗っ取られてしまったのだ。この藤原良房が太政大臣となった平安時代の850年文徳天皇から、1926年昭和天皇に到る80代の天皇家外戚占有率は、藤原氏が75%を占めていた。
天安2年(858年)藤原良房は、惟仁親王を清和天皇として即位させ、9歳の清和天皇の代役として「摂政」となった。日本列島史において、初代の「摂政」は、架空の女帝推古天皇の摂政となった架空の聖徳太子などではなく、藤原良房だ。
藤原良房は、反藤原氏の源氏皇子を廟堂から徐々に排除していた。清和天皇即位の廟堂の構成は、摂政兼太政大臣藤原良房、左大臣源信、右大臣藤原良相、大納言安倍安仁、中納言源定、同源弘、同橘峰継という顔ぶれだ。
実質的に天皇となった摂政の藤原良房は、奈良時代に藤原不比等が仕掛けたトリックの仕上げにかかった。それは、天皇を、現御神と祀り挙げる「中臣神道」を全国的に広めるために、日本列島にある土着の神を藤原氏の神である天津神に取り込むことだ。
大宝元年(701年)藤原不比等は、藤原氏の神により日本列島を支配するために、律令の中に神祇官が太政大臣に並ぶ官制を設置した。その神祇官をして「天皇権威」の名の下に、地方の神々に、幣を班って懐柔する手段とした。しかし、明日香ヤマトを支配していた秦氏や突厥帝国進駐軍は、それぞれの神、太陽神ミトラと北極星の太一信仰を捨てなかった。
奈良時代に明日香ヤマトを追われた秦氏や突厥帝国進駐軍末裔は、近畿地方の山の民となり、それぞれの神を祀っていた。だから、大宝元年(701年)から天長11年(834年)までは、取り込んだ土着神は年30社に過ぎなかったが、平安王朝に逆らう秦氏や突厥帝国進駐軍末裔が近畿一帯から排除された藤原良房の時代になると、近畿一帯では藤原氏に取り込まれた土着神は、爆発的に増えた。
その取り込まれた神々の増え方は、藤原良房が官位を昇って行くのと比例するように、官位勲等を授けられた「神々」が激増した。
「お稲荷さん」の赤い鳥居のそばに、「正一位稲荷大明神」の幟を見たことがあるひとは多くいることでしょう。何故、「人間」ではない、「神」に位があるのでしょう。それは、ひとには名誉欲があるからで、土着の神を祀るひとを懐柔する目的で、王権は官位や勲等を土着神に授ける。その官位や勲等を授けられた神は、授ける神の支配下となる。劃して、明日香ヤマトで信仰されていたミトラ教も道教も、ローマ帝国のミトラ教がキリスト教徒により歴史的に抹殺されたように、歴史的に抹殺されてしまった。
そして、元慶元年(877年)延喜式祝詞は、「中臣、斎部の両氏人を五畿七道諸国に分遣、国内の天神・地祇3134座の神に幣を班ち、大嘗祭に供奉させるため。」に発明された。そのように摂政兼太政大臣となった藤原良房の活躍により、7世紀末に突然日本列島の歴史に現れた藤原不比等が発明した、「日本古来の神」アマテラスオオミカミを祀る稲荷社のトリックが完成した。
国際金融組織が経営するイギリス東インド会社により軍事的・資金的に援助された明治革命戦争後、明治新政府の内閣最高幹部の廟堂に、左大臣従一位藤原道孝、右大臣正二位藤原家信、同従一位藤原実美、内大臣正二位源忠礼権大納言正二位藤原実徳、同正二位藤原資宗、同正二位藤原雅典、同正二位藤原光愛、同正二位藤原胤保、同正二位藤原重胤として復活した。
藤原日本史では、明治革命後の藤原氏一族の復活を隠す目的で、武器商人グラバーと勝海舟の手先であった坂本竜馬なる人物の英雄物語を創作し、宣伝に励んだ。その結果、明治革命の「本当の歴史」が隠蔽されてしまっている。「坂本竜馬」の英雄物語創作により、明治革命の謎を隠蔽する藤原氏のトリックは、平成の現在まで暴かれないでいるようだ。
そして復活した藤原氏一族は、1868年(明治元年)奈良時代の藤原不比等の統治戦術を真似て、明治新政府内に神祇官を設置し、そして、神仏分離令により全国の神宮寺を破壊させ、その跡に、鎮守の「社」(もり)として「神社」(じんじゃ)を設置させ、「現人神」天皇による「神国ニッポン」を宣言した。
それにより、平安時代に藤原良房が全国に設置した稲荷社は、古来は騎馬民族の神を封じた「夷なり」の施設だったのに、農耕神を祀る稲荷神社(いなりじんじゃ)となった。
明治革命後に、「社」を「神社」(じんじゃ)に摩り替えたトリックにより、後世のひとの多くは、明治革命後に現れた神社(じんじゃ)を、日本古来の神を祀る神代の昔から存在していた「社」と誤解してお参りしている。

オレは、田辺さんの平安時代のレポート読み終えると、幻視のために暗室に入った。そして、幻視した「体験」をレポートにして、メールで田辺さんに送った。


国風文化って何ですか?

オレが田辺さんに幻視レポートを送ってから2日後、バソコンにメール着信のサインがあった。返信を送ると、早速返事が返ってきた。

「カメさんこんばんわ。レポート読ませていただきました。」
「こんばんわ。ナベさんからこんなに早く返事があるとは思いませんでした。」
「カメさんの幻視レポートで、私の説が「トンデモ説」ではないことが確信できました。源義経は、海洋民族の平家壊滅のため奥州藤原氏に雇われた、ユーラシア大陸のチュルク系騎馬民族の傭兵軍の将軍だ、というのが私の説です。カメさんの源義経の武装の描写で確信しました。」
「オレが幻視した源義経の軍団は、歴史絵本にあるように、角のある冑など被っていませんでした。鞍のない裸馬に乗り、ズボンと筒袖服に、鎌倉武士の流鏑馬で使うような長弓ではなく短弓を背負い、腰の革製ベルトには柄の先が丸くなった反りのある短剣を差していました。」
「平安時代初期まで、東北の陸奥国を支配した蝦夷の武装が、カメさんが幻視した源義経の武装描写と重なります。しかし、801年坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁アテルイをだまし討ちしたため、陸奥国の蝦夷は、律令侵略軍に平定され、主力部隊は青森津刈に後退したのです。しかし、蝦夷は、平安時代末期まで、渡島に津軽津を設け船によりユーラシア大陸との交通路は確保していたのです。」
「すると、「平家」が百済王国の平安王朝を支配していた時期には、東北には、日本列島の半分を支配していた「平家軍団」に対抗できる「源氏軍団」は存在していなかったのですね。」
「1051年前九年の役、1083後三年の役により、蝦夷の流れにある安倍軍団と清原軍団の主力部隊が「源氏」により壊滅し、そして、その「源氏」も、1156年保元の乱、1159年平治の乱により「平家」により、主力部隊が壊滅していたのです。源頼朝は、その戦乱の時の捕虜の子息で、「平氏」の北条氏が支配する、京都からすれば辺境の地である伊豆に流されていたのです。」
「その東北を支配していた清和源氏が、「平家」により壊滅した結果、藤原氏が東北を実質的に支配したわけですね。」
「そうです。蝦夷、源氏の武装集団が存在しない東北は、奈良時代が第一藤原王国とすれば、第二藤原王国となっていたのです。」
「その藤原王国の存在を脅かすのが「平家」というわけですね。」
「そうです。しかし、日本列島には、「平家」に軍事的対抗できる軍団が存在しない。そこで、ユーラシア大陸で傭兵軍を、奥州藤原氏が雇った、というわけです。」
「それが源義経軍団というわけですね。」
「藤原日本史は、その歴史の流れの中心が政治の頂点である天皇の交代にあります。しかし、政治は、経済基盤の上で成り立つのです。経済が健全でなくては、政治は行えません。しかし、藤原日本史では、時代時代の経済史を述べることは稀です。その理由のひとつとして、日本経済史を述べることは、奈良時代の遣唐使船の謎が解かれ、藤原氏の南インドとの南海交易を暴いてしまうからです。「源平合戦」もその背景には、天皇家と平家との紛争などではなく、その裏には経済紛争があったのです。」
「経済紛争って、藤原氏によりロボット化された天皇家は、経済にタッチしていませんよね。」
「それは、「平家」と藤原氏との経済戦争です。藤原氏は、古代から南インドと日本列島との南海交易を行っていたのです。そこに、10世紀にアラブ系海洋交易民族が、日本列島に渡来して、南海交易権を藤原氏より奪った背景が、「源平合戦」にあるのです。」
「その説の根拠はあるのですか。」
「「平家」の知行地を見れば分かります。日本列島の約半分を支配した「平家」の知行地は、日本列島の港を含む沿岸地です。勿論、藤原氏の南海交易の拠点である南九州坊津も、「平家」の知行地となっていたのです。平安末期には、藤原氏の交易支配地は、奥州藤原氏が支配する仙台湾となっていたのです。その陸奥国も、隣接の清原氏が支配していた出羽国が「平家」の知行地となっていたため、何かの手を打たない限り、「平家」に乗っ取られる寸前であったのです。」
「そのように平安末期の歴史を眺めると、「源義経チュルク系騎馬民族説」も納得できますね。」
「源義経の進撃ルートを辿ると、更に、日本の「源氏」の民族ルーツが分かります。」
「「源氏」は、5世紀頃の北魏で発生した姓ですよね。」
「そうです。その北魏の「源氏」の姓が、平安時代初期に反藤原氏の嵯峨天皇により採用されたのです。」
「その「源氏」に一字姓一字名と、一字姓二字名があるのは、何故ですか。」
「嵯峨天皇が、「源氏」の姓を採用したのは、騎馬民族拓跋部の流れにある北魏「源氏」です。そのため、嵯峨源氏は、一字姓一字名です。しかし、その後に発生した、清和源氏は、二字名です。その清和源氏は、藤原氏により支配されていたのです。9歳で即位した清和天皇は、完全に摂政藤原良房のロボットだったからです。反藤原氏の嵯峨天皇は、ユーラシア大陸を支配していた拓跋部を誇りに思い、北魏「源氏」により、奈良時代から朝廷を天皇をロボット化して裏から支配した藤原氏に対抗したのです。」
「それと、源義経の進撃ルートと何か関係があるのですか。」
「京都に攻め上った源義経軍団は、四国屋島に逃れた「平家」軍団を壊滅するため、進撃するのですが、その進撃地が渡辺であるのです。」
「渡辺って、あの渡辺さんの名前ですか。」
「渡辺は、嵯峨源氏の源綱の母の生地だったのです。そこには、津があったのです。渡辺津と呼ばれていました。津とは、大きな船が停泊できる港のことです。」
「その渡辺と源義経とは、何か関係が有るのですか。」
「渡辺津と言われたのは、713年藤原不比等による漢字二文字で地名・人名を表す好字令以降です。それ以前は、難波←浪速←ローランと言われていたシルクロード交易の国際港だったのです。渡辺も、それ以前のエジプトの埋葬思想による横穴式石室・石棺の古墳時代では、小山の麓にある津であったのです。古代エジプト語では、ワタは「波」で、ナーベは「小山」を意味していて、「ワータ・ナーベ」は、波の打ち寄せる小山で、「岬」を意味していたのです。」
「その説明、一寸納得できません。大方の氏名辞典などでは、「渡辺」の地名は、渡し守の職名からとなっていますが。」
「「渡辺」の地名と渡し守との説明は、定説ではありません。しかし、渡辺と水軍とは、大いに関係があったのです。「源平合戦」で源義経に加勢して活躍した「松浦水軍」は、「渡辺党」から派生していたのです。」
「松浦水軍って、室町時代に「倭寇」として東シナ海を暴れ回っていましたよね。」
「そうですね。松浦氏の租は源正で、松浦氏(源正)←源直←源久←渡辺党の棟梁源綱(渡辺綱)、と繋がるのです。」
「摂津の渡辺党と北九州の松浦水軍とは、歴史的に関係があったのですか。」
「摂津がローランと呼ばれていた6世紀頃、河内には秦王国があったのです。その頃の大阪城辺りは、上町台地に繋がる湿地帯だったのです。」
「古代地図で知ったのですが、縄文時代の大阪地域の一部は、河内湾を囲む岬だったようですね。」
「弥生時代頃には、河内湾は、川上からの土砂により、岬が形成されたのです。その結果、河内湾は、河内湖となったのです。その河内湖を形成する岬は、4世紀末に渡来してきた古代エジプトの埋葬思想を持つ民族により「ワタ・ナーベ」と言われていくのです。その岬は、後に、上町台地と呼ばれていくわけですが、その河内湖の水を抜くために、古代エジプトの高度土木建設技術により、その台地に大運河が掘削されたため、河内湖は、河内平野となっていくのが、4世紀の古墳時代の始まりです。」
「古代エジプトの土木技術で掘削された大運河が、奈良時代に藤原氏が創作した仏教伝来物語に登場する物部尾輿と物部守屋親子が、災厄を招く蕃神とする仏像を二度も投棄したとする「難波の堀江」のことですね。」
「そうです。」
「すると、藤原日本史では廃仏派の物部氏の支配地とした、河内の歴史との整合性はどうなるのですか。ナベさんの説では、その6世紀頃には、物部氏の拠点に秦王国があったわけですよね。物部氏と秦氏との関係はどのように説明できるのですか。」
「藤原日本史の奈良時代以前の歴史は、藤原不比等による創作物語です。「旧約聖書」、朝鮮半島史、日本列島先住民史を基に、藤原日本史の飛鳥時代は創作されたのです。物部氏や蘇我氏などは、明日香ヤマトに歴史的上存在していなかったのです。」
「それって、本当ですか。」
「漢字二文字で表記される地名・人名は713年以降で、それ以前の地名・人名表記は漢字アルフアベットであることが分かれば、それ以上の説明は必要ないでしょう。カメさん、物部氏や蘇我氏のルーツを調べてみてください。納得できる説明が存在していないことが分かると思います。」
「そういえば、前から気になっていたことがあります。藤原日本史によれば、物部氏の先祖は、饒速日命(にぎはやひのみこと)となっていますよね。そして、蘇我氏の先祖は、武内宿禰となっていますよね。」
「そうなっていますね。」
「するとおかしなことになるのです。それは、饒速日命は、神武東征に先立ち、アマテラスオオミカミから神宝を授かり、天磐船に乗って河内国に天降り、その後、大和国に移った、と藤原日本史では述べていますよね。」
「そうです。」
「そうだとすると、物部氏の祖先饒速日命の存在が疑われます。それは、神武天皇の大和での即位が、紀元前660年と藤原日本史ではされているからです。それ以前に、饒速日命が河内国に天降ることは不可能だからです。紀元前660年とは、日本列島では縄文時代末期で、饒速日命が天降った処は河内湾となっていたので、その当時には河内国など存在していないからです。更に、アマテラスオオミカミから神宝を授かった、としていることは、饒速日命の歴史的存在の否定を決定付けます。それは、アマテラスオオミカミは、奈良時代に、藤原不比等により発明された神だからです。物部氏の祖先が、饒速日命とするのは、時系列的に否定されます。先祖が架空の人物であるのならば、その子孫物部氏も架空の人物であることが示唆されますよね。」
「カメさんのその説、面白いですね。では、蘇我氏の歴史的存在の否定は、どのように説明できるのですか。」
「藤原日本史によれば、蘇我氏は河内の石川を本拠にした土着豪族としているようです。しかし、蘇我氏の出自は不明で、日本列島史上に、6世紀中頃に突然現れるのが蘇我稲目です。その蘇我稲目の出現の不自然さを取り繕うために、蘇我氏の祖を、竹内宿禰→蘇我石川麿→満智→韓子→高麗→蘇我稲目→蘇我馬子→蘇我蝦夷→蘇我入鹿とし、645年「大化の改新」で、蘇我氏が滅んだことになっているのです。その蘇我氏の租竹内宿禰も、物部氏の租饒速日命と同じように、実在性が疑われるのです。それは竹内宿禰の末裔は、蘇我氏だけではなく、巨勢氏、平群氏、葛城氏、そして、紀氏となっているからです。」
「カメさんも、蘇我氏の租竹内宿禰は架空の人物だと思っているのですね。」
「当然です。藤原日本史によれば、竹内宿禰は、神功皇后の三韓征伐で活躍したとしています。しかし、3世紀に活躍していたとする仲哀天皇の皇后、応神天皇の母、神功皇后の実在性は、三韓征伐物語での新羅の記述描写が4世紀以降のものであることから、否定されているのです。古代新羅の建国は、356年です。そして、奈勿王により建国された古代新羅は、ギリシャ・ローマ文化国で、漢字アルフアベットによる表記の郷札(ヒャンチャル)で歌を詠んでいたのです。この古代新羅の郷札と騎馬民族のウラル語系突厥語の文法により、万葉歌が、日本列島の明日香ヤマトで詠まれていたわけです。」
「カメさん、論点がズレているようですが。」
「蘇我氏の実在性が疑われるのは、竹内宿禰の末裔に、紀氏が、蘇我氏と同列でいるからです。漢字二文字で地名・人名を表記するのは、713年以降です。では、何故、紀氏は、漢字一文字なのでしょうか。平安時代に、嵯峨天皇は、藤原氏に逆らって、嵯峨源氏を一文字姓一文字名としていたように、古来から紀氏は、藤原氏の支配下にいなかったことが示唆されます。」
「カメさんの説では、6世紀の明日香ヤマトに実在していたのは、紀氏だけで、巨勢氏、平群氏、葛城氏、そして、蘇我氏は、713年以降に藤原不比等により発明された氏名で、明日香ヤマトでは実在していなかったというのですか。」
「ピンポン、当りです。紀氏は、4世紀頃から朝鮮半島の辰韓(秦の国)から日本列島に渡来して、紀伊半島の紀ノ川一帯を支配していたようです。その根拠は、紀ノ川河口に騎馬民族を表す埋葬品が納められた古墳群が多く点在しているからです。」
「何故、紀ノ川なのですか。」
「それは、4世頃の河内一帯は、平野ではなく、河内湖が存在していて、そして、奈良盆地は大湿地帯で、縄文時代から続く三輪山麓のイワレやツバキ市の国際交易地へ行くには、紀ノ川を遡り、吉野から北上して奈良盆地へ入るルートがあったからです。」
「紀氏が、朝鮮半島の辰韓から渡来したとの根拠は何ですか。」
「ユーラシアの騎馬民族は、鞍など付けず、裸馬を乗りこなすことができます。それにより、振り向きざまの騎射が可能となるのです。しかし、ギリシャ文化を尊敬するローマ軍は、ロンギヌスの槍の歩兵と、馬冑と馬鎧で武装した重騎馬軍団がいたのです。」
「ローマ軍の戦記映画に出てきますね。」
「その馬冑と馬鎧が、朝鮮半島南端と日本列島の紀ノ川河口の5世紀頃の古墳から出土しているのです。東アジアでは、今のところ、それ以外では出土が確認されていません。このことにより、朝鮮半島から日本列島に、馬冑・馬鎧で武装した重騎馬軍団の渡来が示唆されます。」
「朝鮮半島南端というと、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の花郎騎士団が考えられますね。」
「ナベさんも、そう考えますか。オレも、以前から、河内の嵯峨源氏の祖は、古代新羅の花郎騎士団だと思っていたのです。花郎騎士団の租は、ローマ軍ですよね。その根拠は、花郎騎士団の「花」とは、太陽神ミトラの借字で、392年ローマ帝国でキリスト教を国教としたことで、軍神ミトラを崇拝していたローマ軍の一部が、キリスト教に帰依することを拒否して、ローマ帝国を去って東進したわけです。」
「ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者は、それ以前の2世紀後漢の時代にも中国に来ています。その太陽神ミトラを軍神とするローマ軍の一部がたどり着いたのが、辰韓と新羅の時代というわけですね。日本列島に最初に伝来した仏像が、新羅の弥勒菩薩というのも、藤原氏による歴史改竄を示唆します。日本列島に伝来した弥勒とは、弥勒(中国)←マイトレーヤ(インド)←ミトラ(ヒッタイト帝国)の流れですから。」
「紀氏は、秦王国の先遣隊として紀ノ川一帯を支配すると、河内湖に進出し、そこを古代エジプトの土木建築技術で干拓し、前方後円墳を築くことで河内湖や奈良盆地の大湿地帯を開拓していくわけです。」
「カメさん、秦王国をもう少し説明願います。」
「秦王国とは、ギリシャ文化を継承したバクトリアの衛星国秦帝国の末裔が支配した都市国家を意味しています。この秦王国の都市国家は、ギリシャ文化の秦帝国が、紀元前206年滅ぶと、各国に移住して興るのです。秦とは、西方の国を表し、中国では、ローマ帝国を大秦国と呼んでいたのです。」
「バクトリアとは、紀元前4世紀ギリシャのアレクサンドル大王領の東端に、紀元前250年に興った国ですね。そのバクトリアの地が、中国では大月氏と言われるわけですね。」
「そうです。814年「新撰姓氏録」では、秦氏の租は融通王(弓月君)とされていますが、月氏とは、中央アジアに興った騎馬民族のことです。その秦王国は、朝鮮半島の辰韓(秦の国)→新羅(秦の国)→北九州秦王国(608年隋使が見聞している。)→吉備秦王国(藤原日本昔話では「鬼が島」。)→河内秦王国(藤原日本史では物部氏の支配地)→斑鳩秦王国(藤原日本史では聖徳太子の法隆寺の町)、と移動しています。その河内秦王国が、嵯峨源氏の本拠地で、藤原氏と亡命百済貴族が支配する平安時代では、河内の民は三等民族に落としこめられていたのです。それは、新羅は、平安貴族となった亡命百済貴族の母国百済を滅ぼした憎むべき民族であったからです。」
「その河内秦王国のあった渡辺津に、源義経が、屋島の平家を攻撃するために訪れたわけですね。」
「そうです。ユーラシアからのチュルク系源義経傭兵軍団には、近畿一帯の武人が集まらなかったからです。しかし、その渡辺津には、明日香ヤマトを軍事的に支配していた騎馬民族突厥の末裔が秦氏末裔に混じって同居していたのです。645年唐帝国進駐軍に明日香ヤマトが乗っ取られると、斑鳩秦王国の防衛軍団は、河内秦王国に後退したのです。しかし、唐進駐軍に支援された律令軍が、その都市砦を、藤原京→平城京→長岡京→平安京と北進するたびに、河内の秦王国は徐々に壊滅していったのです。そして、平安時代末期には、秦王国の軍団は完全に壊滅していたのです。しかし、明日香ヤマトを支配していた民族末裔は、河内に現存していたのです。それが、秦氏と突厥民族末裔です。騎馬民族拓跋氏が支配した北魏で「北魏源氏」となった禿髪氏は、突厥と同族の騎馬民族であったのです。拓跋、禿髪、突厥、鉄勒、丁零とは、それらの民族が「チュルク」(トルコ)と自称した発音を、中国人がチュルクの音声を漢字に当てはめたものです。因みに、突厥は日本語読みでは「とっけつ」ですが、中国語読みでは「トゥージュエ」です。ナベさん、オレが源義経と河内との関係を調べたことは、これまでです。ネタは古書からです。ナベさんの日本史の講義を受けてから、藤原日本史が信じられなくなり、古書もナナメ読みするようになりました。」
「よくここまで調べましたね。源義経は謎だらけです。突然平安末期に現れ、わずか5年しか「源平合戦」で活躍しなかった源義経の史料や資料が、あまりにも沢山ありすぎることにより、その源義経の出自の謎が解けないからです。しかし、敗将の源義経が、今日までも語り継がれているのは、藤原日本史により日本列島に存在していた騎馬民族の歴史・文化が抹殺・隠蔽されてしまっていても、日本人の多くに、源義経と同じ騎馬民族の血が流れているからでしょう。」
「ナベさん、オレは、前から気になっているのが、奈良時代では馬に乗っていた貴族が、平安時代になると、馬が疾走していた道幅12mの畿内七道の幹線道路が埋められ、牛車に乗る平安貴族の男は、何故、顔に白粉を塗り始めたのか、です。」
「モノの本によりますと、平安時代の家屋は、日光が入らないので薄暗いため、顔の表情が良く見えるように白粉を塗っていた、との説明があります。しかし、その説明は、説明になっていないようです。それは、下々の者は、絶対に貴人の顔を直接見てはいけないことになっていました。それに、貴人は、簾越しに接見していたことを考えれば、平安貴族の男が、白粉を顔に塗ることの意味は、外の理由が考えられます。」
「どんな理由ですか。」
「考えられるのが、藤原氏の存在です。686年女帝持統天皇が即位すると、689年(持統3年)藤原不比等は、「従五位下藤原朝臣史を判事(ことわりのつかさ)となす。」、として、突然歴史上に現れたのです。この女帝持統天皇は、唐帝国の影響を直接受けていて、690年暦を唐帝国で使用している儀鳳暦としたのです。」
「奈良以前の藤原不比等と平安貴族の白粉化粧に、何か関係があるのですか。」
「騎馬民族系天武天皇が、686年(朱鳥元年)崩御する2年前、684年唐帝国では三代目皇帝高宗が死去し、皇后武氏が政権を握ったのです。唐帝国は、朱砂、水銀、銀、金、真珠、絹を産する日本列島を殖民経営する目的で、645年明日香ヤマトを攻略したのですが、その後、新羅と突厥進駐軍に軍事支援された大海人軍は、672年亡命百済王朝の近江を壊滅すると、明日香ヤマトに進駐し、飛鳥浄御原宮に遷都し、天武天皇として即位するのです。これが、日本初の天皇です。」
「飛鳥大和の歴史と平安貴族の白粉化粧との関係は、何ですか。」
「唐帝国の政権を握った皇后武氏は、唐帝国の女帝となるための仕掛けを考えたのです。それが、アルビノ動物(白色動物)の発見を吉祥の前触れとして、漢訳仏教組織を利用して、皇后武氏を女帝則天武后とする宣伝を実行したのです。このアルビノ戦術は、見事に成功し、中国の歴史上で唯一人の女帝則天武后が、690年誕生したのです。」
「ナベさんのその説明で、平安貴族の白粉化粧の理由となるのですか。」
「684年唐帝国の政権を握った皇后武氏は、再び、日本列島を経営するために、689年一人の男を、女帝持統天皇の通訳として送り込んだのです。それが、東西のシルクロード交易の中継国であるハザール王国の白人種を租とする、藤原不比等です。藤原不比等は、皇后武氏が唐帝国を乗っ取った戦術を、明日香ヤマトに持ち込むのです。白色貴種信仰を、日本列島で宣伝するために、近畿一帯や明日香ヤマトにあった、秦氏のミトラ教の寺院や突厥進駐軍の道教の観の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、法興寺、四天王寺、広隆寺、法隆寺、大安寺などを、北九州から移築して、オリエント文化の明日香ヤマトを、仏教文化の飛鳥大和に改竄したのです。そして、則天武后が入り浸りとなった、「内道場」の施設も、飛鳥大和に持ち込まれたのです。この「内道場」は、後に、女帝称徳天皇と道鏡との密会場となっていくのです。」
「ナベさんの説では、藤原不比等が白人種で、仏教施設を明日香ヤマトに持ち込んで、白色貴種信仰を、漢訳仏教徒により宣伝したことにより、白粉化粧が平安時代の貴族に広まった、と言うのですか。それだったら、白人種の貴族は、元々顔が白いから、白粉化粧などする必要はないわけですよね。」
「そうです。白人種が高貴で、元々白人種であれば、平安貴族は白粉化粧の必要はないわけです。しかし、奈良時代の貴族の多くは、騎馬民族系の天武天皇系皇子と白色系の藤原氏だったのですが、781年桓武天皇が即位すると、平安京には、中国山東半島から亡命百済貴族が移民してくるわけです。亡命百済貴族は、白人種ではなく、モンゴロイドの黄色人種です。桓武天皇の出自は、百済貴族の流れにあり、白人種の藤原氏を平城京に封殺し、平安京には藤原氏の貴族を入れなかったのです。勿論、藤原氏が支配していた奈良仏教も、平安京には入れなかったのです。しかし、奈良時代に、白色貴種信仰を漢訳仏教組織が宣伝していたため、黄色のモンゴロイドの平安貴族は、そのコンプレックスを隠す戦術を考えたわけです。」
「それれが、平安貴族が白粉化粧する理由だというわけですね。」
「平安時代末期、貴族のほかに武士も化粧を始めたのです。それが、「平家」です。アラブ系海洋民族を租とする「平家」は、白河法皇の私兵となりその武力で、敵対する藤原氏の支配下にある清和源氏の勢力を制すると、鳥羽上皇の1132年平忠盛は内昇殿を許されたのです。アラブ系の褐色の肌の「平家」は、白い肌が高貴で、褐色肌は地下であるとされていた時代、武士であるのに自ら白粉化粧で昇殿していたのです。しかし、チュルク系騎馬民族の傭兵軍に壇ノ浦で敗れた「平家」は、最初で最後の白粉化粧をした武士であったのです。「平家」が、平安末期に急速に勢力を拡大できたのは、伊勢の真珠だけではなく、伊勢の水銀鉱を支配していたからです。「日本書記」には、692年元興寺の僧観成が日本で始めて「鉛白粉」を作り、持統天皇に献上した、とありますが、「はやら」と言われる水銀系白粉は、伊勢の特産品であったのです。伊勢は、中央構造線上にあるため、縄文時代から朱砂の採取地として広く知られていたのです。朱砂のある処には、水銀が眠っていることは、広く知られていた知識です。アラブ系海洋民族の「平家」は、南宋に真珠や水銀を輸出することにより、宋銭を日本にもたらし、その宋銭により、短期間に日本列島の二分の一を支配できたのです。」
「化粧の歴史を知ることにより、色々な歴史を知ることになるのですね。ところで、平安時代の歴史本を読むと、平安時代中期に「国風文化」が興ったとありますが、その「国風文化」って何ですか。」
「藤原日本史によれば、894年菅原道真により遣唐使が廃止され、唐の文化が途絶えると、日本列島の文化が変化し、平安貴族の宮廷生活において変化した文化を「国風文化」と呼んだ、となっています。」
「ナベさん、その説明って変ですね。日本文化には、奈良時代に完成した、万葉仮名による「万葉集」ってのがあったはずですよね。だったら、何故、平安時代に「国風文化」が興った、としているのですか。」
「カメさん、よいことを指摘しますね。「万葉集」が、一般庶民に知られたのは、奈良時代や平安時代ではなく、近代に入ってからです。1908年(明治41年)伊藤左千夫氏を中心に集まった短歌結社の言説が大きく関わって、「万葉集」は一般人に知れ渡ったのです。それ以前は、「万葉集」は、一般人にとって縁もゆかりもない存在だったのです。」
「それって、本当ですか。学校では、「万葉集」は、「日本書記」、「古事記」に並んで重要暗記ものでしたよね。何故、「万葉集」が、明治時代に短歌結社により広められたのですか。」
「その短歌結社は、ナショナリズム色が強かったから、明治軍部に利用されたのです。日本列島の歴史の流れを読むと、奈良時代の陸奥国侵略、戦国時代の朝鮮侵略、明治時代の中国侵略など、藤原氏が政権を握ると異民族の地への侵略を始める傾向があるのです。明治革命で、藤原氏が復活したことは以前述べましたよね。その「万葉集」の元となる歌集の編纂が始まったのは、藤原不比等のロボットである女帝持統天皇の時代からです。しかし、「万葉集」が完成したのは、天平宝字3年(759年)と云われています。」
「四文字暦年は、「藤原王国」の時代ですね。「万葉集」の編纂には、藤原氏による多くの謎があるようですね。」
「大ありです。現在の研究では、「万葉集」の歌は、その成立が四期に分けられます。第一期は、629年即位の舒明天皇から672年壬申の乱まで。第二期は、672年から710年平城京遷都まで。第三期は、710年から山部赤人の活動が終わる737年まで。そして、第四期は、737年から大伴家持の万葉終焉歌が詠われた759年までです。」
「それって、変ですよ。学校で教わった「万葉集」の始めの歌は、456年即位した雄略天皇からです。」
「そこです、藤原不比等が「万葉集」の歌集編纂を始めた意図は。藤原不比等は、713年日本列島各国に派遣した国司に命じて、各地区の地名・人名の詳しい歴史を提出させ、日本列島各地の歴史を精査し、「日本書記」創作の基礎資料としたのです。そして、同時に、各国の歴史を消すために、各地区の地名・人名を漢字二文字で表記する命令を発したのです。」
「それと、「万葉集」との関係は何ですか。」
「「万葉集」は、20巻、概数で4500首あまりの歌が収められています。その巻第一の巻頭の歌が、雄略天皇の歌なのです。」
「その歌知っています。籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この国に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ告れ しきなべて 我こそいませ 我こそは 告らめ 家をも名をも、ですよね。」
「よく覚えていますね。藤原不比等が喜びますね。この歌は、雄略天皇の歌と云われていますが、実際は、毎年若菜摘みで詠われるもので、新春の儀礼の役割を果たす歌なのです。その歌を、何故、雄略天皇の歌としたのかが、謎ですね。」
「何故ですか。」
「藤原日本史によれば、雄略天皇は、「倭の五王」の中の倭王武で、和名オホハツセ・ワカタケノ・スメラミコトとしています。その雄略天皇の実在性を示す史料として、さいたま県稲荷山古墳から出土した剣にある「ワカタケル大王」を根拠として、5世紀には大和朝廷の勢力は、北関東まで及んでいたと主張するのです。しかし、雄略天皇の実在性は、稲荷山古墳の剣では証明できません。「日本書記」は、藤原不比等により、各国の歴史を精査した後に創作されていたからです。つまり、「ドロナワ」式歴史改竄テクニックを、藤原不比等が使ったのです。」
「では、二番目の歌は、雄略天皇の次に即位した、清寧天皇の歌ですか。」
「それが違うのです。二番目の歌は、628年即位した舒明天皇の歌です。カメさんが歌う前に、私が舒明天皇の歌を詠います。大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は。」
「パチパチパチ。拍手です。不思議ですね。巻頭歌が456年即位の雄略天皇で、二番目の歌が628年即位の舒明天皇の歌ですね。その248年間には、誰も歌わなかったのですか。」
「それは分かりません。しかし、舒明天皇以降は、途切れることなく即位した天皇の歌が掲載されているのです。」
「その舒明天皇の時代は、終末古墳時代ですよね。すると、清寧天皇から女帝推古天皇までの歌が「万葉集」に無いことは、何か意味があるのですか。」
「その時代が、藤原日本史で述べるところの、日本国の黎明時代で、飛鳥時代と言われているのです。しかし、その飛鳥時代とは、古墳時代でもあったのです。」
「そう言えば、「古事記」は、女帝推古天皇の時代を40文字ほどで記述していましたよね。そして、最後は、後に、舒明天皇となる田村皇子の即位記事でしたよね。」
「「古事記」を平安時代に著した多人長は、万葉語学者であったのです。当然、藤原不比等が仕掛けた歴史改竄のトリックは見破っていたのです。そこで、「古事記」を女帝推古天皇で終わらせていたのです。藤原日本史によれば、603年飛鳥小墾田宮に都を営んだのは、女帝推古天皇としているのです。その後、百年間が飛鳥に都があったとするのです。でしたら、当然、「万葉集」にも女帝推古天皇の歌があってもよいと思いませんか。」
「そうですね。やはり、仏教文化が興った飛鳥時代は、ナシですか。」
「「万葉集」には、神を詠った歌はあるのですが、仏を詠った歌はないのも不思議ですね。」
「やはり、仏教伝来は、飛鳥時代ではなくて、古墳時代にはなかったのですね。ナベさん、「国風文化」に話を戻してくれませんか。」
「平安時代に「国風文化」が興ったとするならば、それ以前は何かというと、唐風文化であったのです。桓武天皇は、その即位式を、唐制下で、唐服を着て、奈良時代の呉音ではなく、唐で使われていた漢音でおこなっていたほど、オール唐文化一色であったのです。」
「では、桓武天皇以前は、何文化だったのですか。」
「「万葉集」で作品年代が分かっている新しい歌は、天平宝字3年(759年)大伴家持の歌です。そして、その「万葉集」が完成したとされるのは、その序文により延喜5年(905年)と云われています。この約150年間の「国風暗黒時代」には、ほとんど和歌が残っていないのです。その「国風暗黒時代」では、唐風文化の漢詩文が重要視されていたのです。貴族は、漢詩が詠めなければ、一人前として扱われなかったのです。」
「オレ、奈良時代に生まれなくってよかった。学校の古文の時間で、漢詩を読むのがアレルギーだったからね。でも不思議ですね。藤原日本史では、飛鳥大和時代には、万葉仮名により歌を詠んでいたのではないですか。その万葉仮名は、何処に消えたのですか。」
「藤原日本史では、万葉仮名を下地にして、平安時代に、漢字の偏から「カタカナ」、そして、漢字の草書体から「ひらかな」が発明されたと述べています。しかし、古墳時代に使われていた万葉仮名と、平安時代に発明されたとする「かな文字」は、連続しないのです。」
「それって、どういう意味ですか。」
「万葉仮名は、漢字の音や訓を利用して、漢字アルフアベットとして、日本列島で使われていた言葉を書き表したものです。万葉仮名と、平安時代に発明された「かな文字」とには連続性が無いと言ったのは、「ひらかな」には、長らく濁音を表す文字がなかったのです。しかし、万葉仮名には、濁音を表す専門文字が使われていただけではなく、平安貴族が聞き取れない、母音の一部には二種類の発音があり、単語ごとに明確に使い分けられていたのです。」
「古墳時代の言葉が、平安時代のひとに通じないとすると、平安時代の人は、新しく渡来してきた民族で、古墳時代の末裔ではないと言うことですね。」
「そのように考えられます。」
「すると、古墳時代には、どのような民族がいたのですか。」
「考えられるのが、騎馬民族の突厥です。唐が日本列島を完全に制圧していたとしたら、当然、日本語は、中国語を基本に構築されていたはずです。しかし、日本語の語順と、中国語の語順とは異なるのです。日本語語順は、主語+目的語+述語です。しかし、中国語語順は、主語+述語+目的語です。」
「その日本語のルーツが、北周、隋帝国、唐帝国とシルクロード交易権をめぐって長い間戦っていた、ユーラシア大陸を支配していた騎馬民族の突厥が使用していた、ウラル語系の突厥語というわけですね。」
「そう考えています。平安時代の京都は、唐文化一色で、唐人も多く渡来していたのです。その平安時代のひとが、先住民の言葉を聞き取れないほどの発音とは、中国語には「て」「に」「を」「は」に相当する格助詞はありません。しかし、突厥語は、「て」「に」「を」「は」を表す「格語尾」があるのです。言葉の語尾が微妙に変化することにより、格助詞と同じ働きをするのが突厥語です。」
「すると、ナベさんは、突厥語の文法が、日本語の文法のルーツと考えているのですね。」
「そうです。突厥民族が、530年明日香ヤマトに現れて、645年壊滅するまでの約100年間に、突厥語が日本語文法の基礎となったと考えています。」
「530年と言えば、大臣の蘇我稲目が突然歴史上に現れた時期ですね。そして、藤原日本史では、欽明天皇の時代ですね。」
「日本列島での天皇の始まりが、672年天武天皇であることが分かれば、藤原日本史が述べる欽明天皇の時代などなかったことは、カメさん理解できますよね。当然、大臣の蘇我稲目など実在しなかったのです。」
「分かりますよ、ナベさんの説。すると、オリエント文化の明日香時代から、どのようにして、平安時代に「国風文化」が興り、「ひらかな」により、清少納言の「枕草子」や紫式部の「源氏物語」などの女流作品が著わされたことが繋がるのですか。」
「清少納言や紫式部の高い教養を持った女官が、平安王朝の半ばに現れたのは、唐進駐軍の京都の支配力が、907年唐帝国が滅んだため衰え、それに替わって、藤原氏の勢力が復活したからです。唐帝国が滅んだため、日本列島に進駐していた唐帝国軍が日本列島から引き上げたため、935年瀬戸内海では藤原純友、そして、関東では平将門が、それぞれ唐帝国からの独立を目指し兵を起こしたのです。しかし、蝦夷末裔の武芸者軍団により、それらの独立運動が壊滅されたのです。藤原日本史では、これを天慶の乱と呼んでいます。この乱での功績により、怨霊を鎮めるために神社(モリ)で武芸をおこなっていた「もののふ」は、公に「武士」となったのです。その武士の清和源氏の武力を背景に、摂政関白を独占した藤原氏が、再び、平安朝廷を支配したのです。」
「その話、以前聞きましたけど。平安女流はどうしたのですか。」
「唐進駐軍が、唐令の大宝律令を、701年明日香ヤマトに持ち込む前、日本列島では、政治は、「まつりごと」と言っていたのです。王は、「まつりごと」をおこなうため、カミの啓示を受けなければならなかったのです。日本初の天武天皇も、天文台を造り、天帝である太一(北極星)を観察して、「まつりごと」を行っていたのです。それ以前にも、人々は、異界からカミを迎えてその威力を授けてもらうために、「カミまつり」を行っていたのです。その「まつり」では、カミのこころを慰めるため、飲食や歌舞がおこなわれ、その締めくくりに、カミと一体になるために「まぐわい」をおこなったのです。これを「カミあそび」と言うのです。しかし、カミは、空想上の架空の存在ですから、王はカミと「まぐわい」を行えません。そこで、巫女が、カミの代行で王とまぐわったのです。」
「ナベさん、その儀式を取り込んだのが、天武天皇が発明した、天帝と地帝が一体となる、、一世一代の大嘗祭の儀式ですね。」
「天武天皇が発明した大嘗祭も、天武天皇が崩御すると、大嘗祭の本来の意味を変形するために、毎年行う収穫祭の新嘗祭を、藤原不比等が発明したのです。そして、701年大宝律令により、律令国家が成立すると、「まつりごと」が「政」となり、政治的な儀式の場から女性が排除されて行くのです。その「まつりごと」で行われていたことは、後宮での宴席として制度化されていくのです。その後宮では、貴族の宴席に侍ってもひけをとらない知識と教養を持った女官が必要だったのです。しかし、奈良時代の都では、それ程の教養のある女官はいなかったのと、女性蔑視思想を持つ漢訳仏教が唐より伝来し、僧侶が勢力を伸ばした結果、女性の地位が低くなっていたのです。桓武天皇が、女性蔑視の奈良仏教を平城京に封印したため、平安京では、新興仏教の真言宗などは、後に真言立川流などの流派が興るほど、平城京ほと女性蔑視ではなかったのです。」
「「国風文化」と女流作家との関係が説明されていないようですが。」
「唐進駐軍の勢力がなくなった平安王朝では、漢詩を詠むことが遺棄されていくのです。それに替わって発明されたのが「和歌」です。しかし、貴族の宴席に侍って「和歌」を詠むほどの教養のある女性を雇うには、それ相当の財力が無くては出来ません。そこで登場したのが、遊行女婦(うかれめ)です。」
「「うかれめ」って、遊女のことでは。」
「「うかれめ」が、売春専門の「遊女」と言われるのは、鎌倉時代からです。平安時代では、「うかれめ」は、貴族に引けをとらない教養と知識がなければ勤まらない職業だったのです。しかし、宴の後には、「まぐわい」をおこなっていたことは普通です。それは、宴会は、「カミまつり」から派生したものだからです。現在でも、宴会の変形の重要人物の「接待」では、締めくくりに「おんな」が登場するのはそのためです。」
「ナベさん、話がそれてしまったようですが。「和歌」と「万葉歌」とは、関係あるのですか。」
「カメさん、古墳時代に詠まれていた万葉歌が、平安時代に詠まれていたと思いますか。平安時代、万葉歌が詠まれたのは、天暦5年(951年)です。平安時代に万葉歌が、史上初めて訓読されたのは、天暦5年勅撰和歌集「後撰集」の編纂の時です。その訓読結果を、「古点」と言っているのは、そのままの形で現在に伝わったわけではないからです。現在に伝わる訓読は、「新点」と言い、鎌倉時代の仙覚によるのです。」
「万葉歌が訓読されたのが、鎌倉時代ですか。万葉歌が訓読されていたのは、飛鳥時代ではなかったのですね。」
「平安時代、万葉歌の詠み方が分からなかったのです。ですから、951年「古点」で解読された歌は、万葉仮名の本文とは別の行を立てて「ひらかな」で歌の読みを書き記していたのです。」
「平安時代の万葉歌は、まるで、オレの英語読解と同じですね。英語の下にカタカナ書きしていました。平安時代の貴族にとって、万葉仮名は、外国語だったわけですね。」
「そのようにも言えます。「万葉歌」の訓読は、ひらかなが成立して、万葉仮名がわからなくなってきた時代に、特に、女性達を中心とした和歌を詠むひとたちのために始められたのです。」
「日本の古典作品のほとんどの原本が残っていないといわれているのに、「万葉集」も入るわけですね。」
「「万葉集」は謎だらけって、以前言いましたよね。現在出版されている「万葉集」は、鎌倉時代に仙覚が整えた、20巻本を基本としている、と言いましたよね。それが、平安時代には、20巻もなかったようです。」
「それって、どういうことですか。」
「現在に伝わる「万葉歌」は、平安時代では、「万葉集」に全て収められていなかった、ということです。905年醍醐天皇は、紀貫之などに「万葉集」に入っていない古い歌と彼ら自身の歌とを提出せよ、とおっしゃって、日本初の勅撰和歌集「古今集」が著わされたのです。この序文の条件からすれば、「古今集」には、「万葉集」に集録された歌が入っていないはずです。それは、勅撰集の基本的編纂方針は、別の歌集にある歌は、採用しないからです。しかし、実際には、「万葉集」の歌が、「古今集」には、15首もあり、そして、巻7の歌が、まったく同じで「古今集」にあるのです。更に、951年「後撰和歌集」にも、「万葉集」の歌が、23首もあるのです。カメさん、これってどう思います。」
「不思議ですね。オレの考えでは、平安当時詠まれていた「万葉集」は、現在のような20巻などではなく、もっと巻数が少なかったのでは。誰かが、「万葉集」を政治的に利用するために、例えば、「日本書記」の天武天皇以前の架空の天皇物語の欺瞞性を隠蔽する目的に、後の時代に、平安時代に詠まれていた「万葉集」とは別の歌を、「万葉集」に挿入して20巻にして創った、との考えはどうですか。」
「面白い発想ですね。万葉仮名で詠まれた歌が、万葉歌なら、平安時代の「国風文化」時代に発明された、「和歌」に万葉仮名で詠まれた歌があるのです。その万葉仮名で詠まれた和歌は、奈良県斑鳩町の法隆寺五重塔の落書きであったのです。その天井板の落書きは、8世紀頃と言われています。」
「斑鳩と言えば、ナベさんの説では、河内秦王国から進出し、6世紀に太陽神ミトラを祀るため、冬至の太陽光を浴びるため、建築基準を東西軸より西に約20度傾けた斑鳩秦王国があった処ですね。」
「その落書きは、「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」と読めたのです。」
「その漢字アルファベットの万葉仮名の和歌、もしかして、「古今集」の仮名序にある、「難波津に 咲くやこの花 冬篭り 今は春べと 咲くやこの花、ではないですか。」
「そうです。その歌の名は。」
「「難波津の歌」だと思います。」
「ピンポン。カメさんの真似です。」
「ナベさんの説では、難波は、難波←浪速←ローランで、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の民族が渡来して、河内秦王国を築いた地ですよね。そして、古代新羅は、漢字アルフアベットで歌を詠っていた。それが、郷札(ヒャンチャル)でしたよね。やはり、古墳時代のオリエント文化の明日香ヤマトで詠われていた、万葉歌と古代新羅の歌とは関係があったのですか。」
「関係はあると思われます。両歌は、漢字アルフアベットで詠われていますからね。」
「すると、明日香ヤマト時代の漢字アルフアベットによる万葉歌を読めない、そして、明日香ヤマトでは濁音や二重母音や格助詞を使っていたのに、701年大宝律令が制定されると、宮廷では万葉歌に替わって漢詩が詠まれていたのに、唐進駐軍の勢力が一掃された平安時代中期となると、漢詩に替わって和歌が詠まれ、「国風文化」が興ったとするその「国風文化」とは、史実的には「百済文化」ではなかったのですか。」
「カメさんは面白い発想をしますね。国文学者が聞いたら目をむいて怒り出しますよ。」
「だってそうでしょ。百済語には濁音がありませんよね。濁音のないひらがな、そして、平安初期からの唐服が、国風文化となると、女官の衣装が、朝鮮半島のチマ・チョゴリ風になりますよね。それらを総合して考えると、国風文化とは、百済文化以外に考えられないと思いますが。平安女官が、チマ・チョゴリを着て、方膝立てて、貴人にマッコリをお酌している図、なんてどうですか。ナベさん、どう思う。」
「その考えはありえますね。高松塚古墳の石室にある女官の衣装は、明らかにチマ・チョゴリ風ですからね。その古墳は、高句麗の文化を色濃く伝えています。唐進駐軍が、645年明日香ヤマトに進駐してくる前の奈良盆地の各地には、それぞれ、朝鮮半島三国の高句麗、百済、新羅のコロニーがあったことが示唆されます。河内が古代新羅のコロニーであった地とすれば、淀川中流の長岡は百済のコロニーがあった地だったのです。」
「それで、百済系桓武天皇は、長岡に遷都したわけですね。そして、山背秦王国を乗っ取ると、そこを平安京としたわけですね。すると、平安京を支配した民族は、百済系となるわけですね。」
「そのように考えられます。ですから、カメさんの「国風文化=百済文化」説も、あながちハズレではないと考えられます。平安時代は、藤原日本史が述べるように、日本文化の基礎が起こった時代とするには、謎が多すぎるのです。」
「ナベさんの講義を基に、もう少し平安時代を調べてみます。オレが疑問に思っていたことは、ナベさんの説明で解消しました。」
「そうですか。では、次に、鎌倉時代を付き合っていただけますか。」
「勿論です。」
「鎌倉時代も、平安時代以上に謎が多くあるのです。」
「どんな謎ですか。」
「そのことは、レポートで述べますが、ヒントとして二つだけ述べます。それは、鎌倉宗教の謎と元寇の謎です。平安時代の女流が方膝立てて、そして、僧侶が胡坐をしていたのが、日本伝統文化といわれるものが発生する室町時代、華道、茶道などは、その座り方の基本が、正座となっていくのです。」
「正座は、罪人の座り方ですよね。何故ですか。」
「その謎解きのヒントが、鎌倉時代にあるのです。カメさん、鎌倉時代も、平安時代以上に謎だらけですよ。」
「その謎解き、楽しみにしています。本日は、ありがとうございました。おやすみなさい。」
「お休みなさい。」
オレは、パソンコのスイッチをOFFにしたが、おれの前頭葉はONのままだった。今日も眠れそうもない。このまま寝てしまうのは、モッタイナイ!  

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