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神輿の黙示録(20)(武士とサムライの戦い:何故、武士のヒゲは濃いのか)
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 01 日 10:44:56: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(19)(消された蘇我王朝末裔:何故、猿が馬を守るのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:44:50)

昭和生まれのひとには理解できるかもしれませんが、棒切れを刀に見立てて、チャンバラゴッコは少年の遊びとしては、ポピュラーなものでした。そして、東映のチャンバラ映画観賞は、数少ない娯楽のひとつでした。
そのチャンバラ映画に登場する、刀を携帯する武人には、二種類いたように思えました。刀を同じく腰に差しているのに、ひとりは華奢で剃髪し羽織袴に裃のひと、もうひとりは髪を束ね体格ががっしりとした粗野な服装のひとです。その顔付も異なっているのです。ひとりはヒゲが薄く、目もほそくノッペリ顔です。そして、もうひとりはヒゲが濃く、目が大きく鼻も高いのです。俳優の故三船敏郎は、後者の武人を演じさせると、天下一品でした。
東映のチャンバラ映画のストーリは勧善懲悪で、諸国を流離う粗野な服装の武人が、お城のお家騒動に巻き込まれ、羽織袴の悪人武人に利用されるのですが、最後には、流離いの武人が黒幕の悪人家老を切り、それにより、悪人家老にイジメられていた善人が返り咲き、メデタシメデタシで終わるのです。
しかし、気になるセリフがあったのです。それらは、「おサムライ様」があるのに、「お武士様」はありません。その代わりに、「野サムライ」はないのに、「野武士」があるのです。そして、幕府の役人に追われる野武士が、町方の役人により捕らわれると、「不浄の縄に捕らわれた。」と悔しがるのです。何故、役人の縄が不浄なのでしょうか。
後で分かったことですが、その前者が「サムライ」で、後者が「武士」の特徴だったのです。このサムライと武士の二種類の武人は、日本列島史上どのようにして現れたのでしょうか。そして、何故、町役人の縄が不浄なのでしょうか。
そのサムライと武士の歴史を調べると、その不浄思想と武士の発生とは、大いに関係があったのです。
元々、日本列島には、異民族不浄思想などはなかったのです。そして、その異民族不浄思想は、平安時代に、遊牧民族を蔑視するインドのヒンズー教の影響を強く受けた、空海が発明した真言宗と、そして、最澄が中国から導入した、騎馬民族を蔑視する法華経を経典とする中国天台宗の平安仏教の渡来により、日本列島に広まっていったのです。
では、何故、平安時代に、異民族不浄思想が広まっていったのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトを支配した前政権のユーラシアから渡来の騎馬民族と異なる民族が、平安時代に出現したからです。その民族とは、東アジアで騎馬民族の突厥帝国と戦っていた唐(618年〜907年)の軍事的支援により、663年母国が滅亡して渡来した百済系末裔桓武天皇(781年〜806年)の指示により、中国山東半島から京の都に移民してきた、ツングース系亡命百済貴族一族だったのです。
唐は、新羅に恨みを持つ亡命百済民を利用して、陸奥国に居住する突厥帝国と新羅花郎軍団残党の抹殺を計画していたのです。そのための手段が、百済系桓武王朝成立の背景であったのです。その証拠として、789年桓武軍は、唐進駐軍と共に、陸奥国の蝦夷討伐をおこなっているのです。そして、蝦夷平定は、その後801年金髪の坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁アテルイを騙して、京で惨殺するまで続いていたのです。しかし、その後も、蝦夷の反乱は続き、鎌倉初期に、同族の源頼朝により、平定されるのです。その後、異民族蔑視思想が、鎌倉時代に、日蓮や親鸞など、比叡山で騎馬民族差別思想を含む「法華経」を勉強した僧達により、庶民にまで広がっていくわけです。
平安時代の907年唐滅亡までは、平安京は唐の支配下にあったのです。ですから、平安京は、インド色の強い奈良の藤原京・平城京とは異なり、唐文化に溢れていたのです。しかし、907年唐が滅ぶと、興福寺・春日社により奈良を支配していた、南インドから渡来した中臣族が変身した藤原氏が、平安京を、1167年アラブ(ベルシャ)から渡来の海洋民族末裔平家・平清盛(平氏ではない。)が台頭するまで、支配するわけです。
では、我々日本人は、いつ頃から「日本人」と言われてきたのでしょうか。それは、672年日本国初の天皇、新羅系天武天皇(672年〜686年)からです。その時、倭国は日本国に変身したのです。しかし、その日本人の実効支配地は、近畿一帯にすぎなかったのです。そして、蝦夷が支配する陸奥国が実効支配されるのは、約六百年後の鎌倉時代なのです。
672年以前の日本列島には、「日本国」がないわけですから、当然「日本人」が存在していなかったのです。それまでは、対外的には、日本列島には、倭国、扶桑国、大漢国、文身国、女真国、大食国、秦王国(608年隋使裴世清が見聞)などが存在していたことが、中国の歴史書に記述されているのです。
日本国が歴史上現れたのは、朝鮮半島の統一新羅国とほぼ同じ七世紀後半であったのです。ですから、672年以前の飛鳥ヤマトには、「天皇」もいないし、「日本人」も存在していなかったのです。
つまり、「日本書紀」で述べるように、四世紀から出現する歴代の天皇が支配する「大和朝廷」など、歴史上存在していなかったのです。実際の六〜七世紀の飛鳥ヤマトには、先住民の他に、オリエントから渡来の国際交易商人、突厥帝国軍人、高句麗人、百済人、新羅人、隋・唐人、それに南方からの渡来人(藤原氏の祖)が暮していたのです。
しかし、藤原氏末裔近衛家が支配する秦氏末裔薩摩藩の指導の下、1868年イギリス東インド会社の陰謀による明治革命で、政権中枢に返り咲いた藤原氏末裔は、錬金術師空海が、834年仁明天皇(833年〜850年)の御衣に、ダキニの呪法で加持祈祷(御修法)をおこなったのを始まりとして、孝明天皇(1846年〜1867年)まで続いていた、天皇の即位式を「仏教の真言密教」によりおこなっていたのを、1867年明治天皇から、「神道儀式」に代えてしまうのです。
1868年の明治革命は、645年中臣族による、所謂「大化の改新」が唐進駐軍の軍事支援がなければ成功しなかったように、イギリス東インド会社の資本・軍事的支援が無ければ成功しなかったのです。
しかし、イギリス外務次官ハモンドの訓令で、「日本の体制変化には、日本人だけから発生したような外観を呈しなければならず、どこまでも、日本的性格によるものだという印象を与えるようなものでなければならない。」、とイギリス公使パークスに述べているのです。かくして、イングランド銀行の支援により、1882年日本銀行が設立され、日本国は、金融をとおしてイギリスの支配下に位置し、現在に至るのです。
日本国の貨幣を造る銀行が、国立ではなく、私立の株式会社であるのは、アメリカ合衆国と同じです。これには、明治革命と何か関係があったのでしょうか。明治革命の謎は深まるばかりです。
さて、明治革命で、天皇の即位式を祀る神が異なったということは、その天皇の民族性が替わったということです。
日本初の天皇、新羅系天武天皇は、672年北極星(太一)を大嘗祭の儀式で祀っていたのです。それが、藤原氏が、729年太一を祀る天武天皇の孫長屋王を陰謀により抹殺し、大嘗祭を新嘗祭とに分離し、天武天皇が祀っていた太一(北極星)を、農耕神の天照大神に摩り替えてしまうのです。そして、祭祀権を握った藤原氏は、770年亡命百済下級貴族を光仁天皇とするのです。
当然、祭祀権を天武天皇系王族から簒奪した藤原氏は、672年壬申の乱で天武天皇軍に対して赤旗をたなびかせて軍事支援をした、伊勢湾一帯を支配するアラブ海洋民族末裔(後の平家)に対して、百済亡命近江王朝を壊滅した記念として、伊勢に道観を建立し、北極星(太一)を祀っていたのを、その道観を徹底的に破壊して、その跡に天照大神を祀る伊勢神宮を建立するわけです。しかし、伊勢の建物を「道観」から「神宮」に改竄できても、庶民の思想までは改竄できないのです。その証拠として、今も「太一」の文字が伊勢の祭りで使われているからです。
奈良末期、藤原氏の支配下から抜け出すために、光仁天皇の息子山部親王は、唐の軍事支援の下、781年桓武天皇として即位するのです。その時の即位式は、藤原氏が「日本書紀」で述べるように皇室の神が天照大神であるのなら、桓武天皇の即位式では、当然として天照大神の下でおこなうべきところを、なんと、父親の百済系光仁天皇を祖神として、唐式の儀式により即位式がおこなわれたのです。
そのように、天皇体制は、672年天武天皇から江戸末期まで続いているわけですが、その中身である王族の民族性が、騎馬民族系の新羅系天皇から、770年以降からはツングース系の百済系天皇へと、異なっていたのです。そこで、藤原氏末裔に支配された明治新政府は、その騎馬民族王朝が存在していた史実を隠すため、645年「乙巳の変」の革命を「大化の改新」と改竄して、明治革命を王政復興と位置づけ、その古におこなわれた王政改革の習いとのキャンペーンを、学校での歴史教育でおこなうわけです。その「明治の改新」のスローガンとは、「祖神天照大神」、「万世一系の天皇家」、「大和単一民族」です。
その「明治版大化の改新」を進めるために、明治新政府は、それまでの桓武天皇から続く百済系天皇家の、錬金術師空海が発明した、仏教式・唐制風儀式を廃止することにし、新たな神道儀式を発明するわけです。
明治新天皇がおこなう儀式は、十三となるのですが、元禄元年(1688年)に復興されて以来続けられてきた、藤原氏が仕切る五節舞をおこなう新嘗祭と、そして、藤原氏が仕切る伊勢神宮の祭祀をとりいれた神嘗祭を除いた、十一の祭祀は、古代飛鳥ヤマト時代から続くものではなく、すべて明治革命の後に、新発明された儀式であるのです。
そして、明治天皇は、百済系桓武天皇(平安時代)から孝明天皇(江戸時代)まで、途絶えていた伊勢神宮参拝をおこなうのです。何故、桓武天皇から伊勢神宮参拝が途絶えていたかの理由としては、685年建立の伊勢神宮の元は、百済の宿敵である新羅系天武天皇が、騎馬民族の神・北極星(太一)を祀っていた道観であることが解れば、それ以上の説明は必要ないでしょう。
江戸時代、騎馬民族末裔の徳川政権を、1582年山崎合戦で明智光秀軍を裏切った騎馬民族末裔の徳川家康を憎む、明智家のお福である春日局の陰謀で、乗っ取った第三代徳川家光から始る第三百済王朝は、1635年から始る参勤交代では、西国からの歴代の大名の多くは、その伊勢と徳川家康が支配した三河を「穢れ地」として避け、江戸へ向かっていたのです。皇室の祖神を祀っていると云われる伊勢の地には、そのような歴史もあったのです。
この虚構の「万世一系天皇物語」の藤原日本史の創作は、幕末から始められていたようです。その根拠は、藤原不比等が創作した「日本書紀」物語での、日本初の架空天皇・神武天皇の墓を、幕末から造り始めていたからです。
そして、1868年の明治革命を意図してか、1866年江戸と大坂で打壊しが突然同時に起こり、翌年1867年伊勢神宮のお札が空から舞い降り、庶民・農民を問わず無銭で伊勢へお参りする「ええじゃないか運動」がおこるのです。それにより、庶民には、伊勢の地は、「穢れ地」から、天皇の祖神が祀られる地に、明治革命前の幕末に変身していたのです。そして、明治革命と同時に、1868年神仏分離令が発令され、百済王朝幕府の手先として騎馬民族末裔を穢多の差別語でイジメていた仏寺は、賎民により徹底的に破壊されてしまうのです。特に、秦氏末裔が多く住む、薩摩では、禅寺を除き、殆んどの仏寺が破壊されたのです。
明治革命軍は、反仏教の賎民の力を利用して、戦国時代の浄土真宗が、イエズス会の織田信長軍と闘うために、太陽神アトン(古代エジプトでミトラ神が変身した神)を阿弥陀(アミ様)として祀り、ミトラ神を信じる秦氏末裔の穢多の軍事力と金力とを利用したように、第三百済王朝の江戸幕府にイジメられていた薩摩藩と長州藩の秦氏末裔の賎民を、革命戦士として利用していたのです。では、体制側正規軍を相手に、互角に戦える戦術と戦闘技術を持つ賎民軍団の正体とは何なんでしょうか。教科書歴史では、その賎民軍団の正体を記述していないようです。
そのように、日本列島には日常生活を異にする、騎馬民族・農耕民族・海洋民族とが存在していたのです。その生活信条が異なる民族が暮す日本列島史の史実を隠蔽する目的で、歴史教育を「日本史」と「世界史」に分けるのです。明治新政府のこの分離歴史教育により、子供達は「農耕民族日本人」純粋培養思想が刷り込まれてしまうのです。そして、明治新政府は、農耕民族を「オオミタカラ」として、それ以外の異民族を蔑視していくわけです。
その結果、多民族が暮す朝鮮半島には同族もいたのに、明治新政府により、天皇の赤子・日本人とは別種と教育されたひとのなかには、同族である朝鮮半島人を蔑視するひとも現れてしまうわけです。
東アジア地図を南北逆さに眺めれば、日本海は、内海となり、日本列島は、極東での北アジアと南アジアとをつなぐ、回廊であることが理解できるでしょう。そのような日本列島が歴史上孤立していたはずはないのです。
日本列島の回廊は、時の軍事力により、南から北に、あるいは、北から南に、紀元前から異民族が渡来していたのです。ですから、日本列島史を調べるには、隣国朝鮮半島史だけではなく、ヨーロッパ史、オリエント史、あるいはユーラシア騎馬民族史をも視野に入れる必要があるのです。
そして、日本人が、「神国ニッポン」の選民思想により、異民族をイジメる思想の発生を調べるには、エジプト・オリエントの宗教、そして、バラモン・ヒンズー教、特に、太陽神ミトラを調べる必要があるのです。そして、騎馬民族末裔をイジメた日本仏教思想を知るには、ユダヤ・キリスト教の歴史を調べる必要があるのです。それは、日本の仏教思想の元は、それらの宗教の寄せ集めであるからです。
日本人の人種的視野を狭めてしまった原因としては、「聖書」と「日本書紀」が考えられます。これらの二書は、日本列島史を創作した藤原氏と大いに関係があるからです。
歴史的に、藤原氏が、日本国と日本人のイメージを創作したと言っても過言ではないでしょう。それは、「日本書紀」の創世記物語のなかで日本神話を創作し、その神話の中で天照大神を発明して、その天照大神を日本人の父・天皇家の祖神としたからです。そして、神武天皇という人物を、神代の国から地上に降臨させ、歴代の天皇が飛鳥ヤマトを支配し、その後、日本列島を支配してきた、と錯覚させ、勝者の史料を疑うことを知らない、多くの歴史学者のメシの種を創出したからです。では、その日本人の歴史的視野を狭めた魔術書である「日本書紀」を創作した藤原氏とは、何処から降臨したのでしょうか。
日本人が国際人であることは、その言語の基が国際的であることからでも証明できるでしょう。
日本語の文法構造が、ツングース語、モンゴル語、トルコ(チュルク)語と極めて類似しているから、日本語は、その三つの言語を一括する、アルタイ語であると言われてきました。しかし、多くの研究の結果、それらのアルタイ語の単語と対応するものが、日本語に乏しいので、日本語の基は、アルタイ語だとは断定できないのです。
言語は、経済活動に優れた民族の言語が、経済が劣る国に広がる傾向があるのです。ですから、現在の日本経済が弱い証明として、国際金融資本を支配する欧米語の語学学校が流行るのと同じに、古代日本列島に波状的に渡来した、経済的優位の民族が持ち込んだ言語が、古代の日本列島に広がって、そして、定着していったのです。
その傾向から、日本語の単語に、アルタイ語の単語が少ないということは、遊牧・騎馬民族であるツングース民族、モンゴル民族、トルコ(チュルク)民族が渡来する以前に、他の民族が渡来していたことが示唆されるのです。
因みに、モンゴル文字とチュルク文字は、表音文字で、その祖語は、古代海洋民族のフェニキアが発明したアルファベットで、そして、そのフェニキア文字は、古代ペルシャでの国際交易商人が交易で使ったアラム語へ派生していくわけです。そして、時代と供に、これらの表音文字は、国際交易商人・騎馬民族と供に、西アジアから東アジアへと伝播していったのです。それらの国際交易語としての遊牧・騎馬民族のアルタイ語は、シルクロートの東の終着点飛鳥ヤマトに渡来し、そして、定着したわけです。
日本語の言語は、子音で終わるよりも、「あ・い・う・え・お」の母音で終わることが多いのです。この母音で終わる言語を使う民族は、南方のポリネシア民族が考えられます。その狩猟・採取民族であるポリネシア民族末裔は、環太平洋の島々に分布しています。
日本列島の経済歴史は、狩猟・採取から、畑の農耕へ移り、そして、紀元前四世紀からの弥生時代に、鉄器使用の水田稲作が始ったようです。しかし、そのポリネシア語には、水田稲作に関する日本語の単語が見つからないのです。
水田稲作は、教科書歴史によれば、中国南部から朝鮮半島を経由して渡来した、と述べているようですが、その水田稲作に関する日本語に対応する単語が、中国語・朝鮮語には乏しいのです。
稲には、三種類あります。それらは、インディカ、ジャポニカ、そして、ジャワニカです。それらは、環境により変化したようです。古代の日本列島では、ジャワニカが栽培されていたようです。では、そのジャワニカ種を栽培する、日本語の単語と対応する、水田稲作関連単語は、何処から渡来したのでしょうか。それは、南インドからジャワを経由して、南海ロードにより渡来したのです。
古代インドは、農耕・遊牧民族トラヴィダが支配していたのですが、紀元前二千年アーリア人の侵略により、トラヴィダ民族は、被征服民となり、そして、紀元前八世紀、アーリア人の発明した、輪廻転生のバラモン教のカースト制度で、トラヴィダ民族は、アウトカーストの不可触賎民に落とされてしまうのです。
そのアーリア人によるバラモン教の圧制を逃れて、東の中国へ、そして、南インドへ逃れたトラヴィタ民族末裔がいたのです。その南インドへ逃れた民族は、タミル語を使っていたのです。
この南インドのタミル語が、日本語の水田稲作の単語と多く対応するのです。アゼ・アデ・クロ(畔)、ウネ(畝)、タンボ(田)、シロ(泥)、ハタ・ハタケ(畑)、コバ(焼畑)、ニ(稲)、アハ(粟)、コメ(米)、クマ(神米)、ヌカ(糠)、アレ(餅粉)、カユ(粥)、モチヒ(餅)、カス(粕)などなどです。
では、何故に、紀元前四世紀の弥生時代に、南インドから、遥々極東の列島に、タミル語を話すトラヴィダ民族末裔が渡来したのでしょうか。それは、国際交易品を求めて、弥生時代に日本列島に渡来していたのです。
日本列島は、火山国で、亜熱帯の気候であったので、鉱物(金・銀・銅・鉄・水銀・朱砂・琥珀)・動植物(熊・鹿・猿・大麻・漆)・海洋物(真珠・珊瑚)の資源宝庫であったのです。ですから、琥珀が産出する岩手県久慈には、ユーラシア大陸の西の果てのバルト海沿岸とにより、紀元前から琥珀ロードが存在していたのです。
紀元前十世紀ヘブライ国の王ソロモンは、隣国フェニキアの海洋国際交易商人と結託して、貿易風と海流を利用した外洋船のタルシシ船で、南インドから、孔雀、猿、香辛料、そして、極東の列島で採取した真珠・珊瑚等を輸入して、それをギリシャ都市国家に売りさばいて、大儲けをしていたのです。つまり、南インドでは、紀元前から西洋と東洋とを結ぶ国際交易港を築いていたのです。
紀元一世紀、西のローマ帝国と、東の後漢との間で、絹貿易が盛んになると、そのシルクロード交易の中継地、ギリシャ文化のバクトリアを継承したクシャナ朝の国際交易都市ガンダーラで、ギリシャ語とサンスクリット語による物語が沢山創作されるのです。恐らく、それらの物語の基はひとつであったようです。それは、元々、ギリシャ語とサンスクリット語とは、印欧祖語を原語とする言語であったからです。
そして、それらの物語は、国際交易商人の商隊と供に行動する僧侶により、各国に広められていくのです。そして、西に向かった物語は、やがて「新約聖書」物語となり、東に向かった物語は、大乗仏教の「法華経」などの経典物語となるのです。ですから、「ヨハネの福音書」物語と、「法華経」物語には、同じテーマの物語が多くあるのは、そのためなのです。
その国際交易都市ガンダーラから、そのギリシャ語とサンスクリット語の物語を持った民族が、南下して、南インドのマラバル沿岸にたどり着くのです。その地を目指したのは、紀元前十世紀から、南インドのマラバル沿岸は、西洋と東洋との国際交易湊であったからです。
四世紀、この南インドのマラバル沿岸の東西を結ぶ国際交易港も、中央ユーラシアを支配した騎馬民族鮮卑の影響を受けるのです。
鮮卑の支配地拡大に伴い、周辺民族の大移動により、東西シルクロードの通過国パルチア王国が293年滅び、そのあとにササン朝ペルシャが興るのです。そのオリエントでの騒乱の影響で、隣国のクシャナ朝が衰退すると、ガンジス川河口の小国グプタ朝がインド中央部に侵攻してくるのです。そのグプタ朝軍団のインド大陸での膨張で、南インドの民族は、アラビア海やインド洋の海上へ押し出されてしまうのです。このなかに、ギリシャ語とサンスクリット語の物語を持った民族もいたのです。
五世紀、南インドから、南インド特産の香木を持った民族が、国際交易品の真珠・珊瑚を求めて、極東の列島の南九州坊津に現れるのです。やがて、その南インドから渡来した国際交易商人達は、先住民の軍事部族の「ハヤト」を従え、南九州を支配するのです。
そのハヤトが使う言葉は、飛鳥ヤマトのアルタイ語と異なり、タミル語と類似していたのです。この軍事部族ハヤトは、平安時代半ば、藤原氏が、朝廷の支配権を亡命百済貴族から簒奪すると、都の警備に駆りだされるのです。
六世紀の飛鳥ヤマトは、東アジアの覇権を競う、騎馬民族突厥帝国と農耕民族の北周・北齊との闘争の影響を受け、騒乱状態であったのです。飛鳥ヤマトは、奈良の宇陀から産出される朱砂の国際交易地として、縄文時代から渡来人が訪れていたのです。その飛鳥ヤマトを支配することは、国際交易商人にとっては願うことだったのです。
しかし、突厥帝国と北周・北齊とにとっては、飛鳥ヤマトを支配することは、国家存亡の問題であったのです。それは、日本列島の中心である飛鳥ヤマトを、突厥帝国が支配できれば、南北に続く列島を利用して、中国大陸中部を海上から攻撃できるし、その反対に、北周・北齊が支配できれば、北海道からカラフトに侵攻し、突厥帝国の背後を攻撃できるからです。
東アジアでの、突厥帝国と北周・北齊との攻防は、589年北周・北齊を滅ぼし、隋が建国することより、事態がかわるのです。
530年突厥は、朝鮮半島で高句麗・百済・新羅の三国が覇権を争っているのと同じように、日本列島で高句麗・百済・新羅の進駐軍が三つ巴の紛争をしている、近畿の飛鳥ヤマトに、騎馬軍団を送り込み、そこを軍事支配するのです。そして、小高い岡に挟まれた飛鳥ヤマトの地に、チュルク軍の王(「日本書紀」によりチュルク名は蘇我氏に改竄される。)によりチュルク軍の砦が建てられるのです。そして、中国大陸からの侵攻に備えて、北九州から瀬戸内海へかけて、47もの防衛軍事施設の「ミヤケ」を設けるのです。
突厥進駐軍の二代目の時代になると、近畿に進駐していた朝鮮半島の勢力を取り込み、飛鳥ヤマトを騎馬の軍事力で完全に支配したチュルク王タリシヒコ(日本名:蘇我馬子)は、607年隋の煬帝に使者を遣わし、「東の天子が、西の天子に告ぐ。お元気ですか?」、と突厥帝国が飛鳥ヤマトを完全支配したことを告げるのです。
隋の煬帝は、漢族ではなく、騎馬民族の胡族(チュルク・トルコ)出身であったので、同族のタリシヒコは、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや」、と気軽に上表文を書いたのでしょう。
天子(テングリ)とは、騎馬民族の言葉で、北極星(騎馬民族の神)の命を受けた王の意味です。もし、煬帝が、騎馬民族の胡族ではなく、漢民族であったとしたら、遣唐使は斬首されていたことでしょう。それは、漢族では、中華思想により、全ての外国人は、獣と同じ蛮族と考えていたからです。蛮族が、中国の王と同列であることは、ゆるされることではないからです。
隋の煬帝と、飛鳥ヤマトのタリシヒコとは、言葉が通じていたようです。その根拠は、遣隋使には、通訳が伴っていなかったようです。中国の史書では、公式の外国への使節に関する記事では、「訳を付す」とか「重訳を付す」と断り書きをするのが慣わしですが、「隋書」の倭国の記事にはそのような但し書きが一切ないからです。
「日本書紀」では、隋の煬帝への書簡を書いたのは「聖徳太子」としているのです。そして、この607年の遣唐使を、「日本書紀」では、「小野妹子」としているのですが、「隋書」では、「ソ・インコウ」(蘇因高)としているのです。では、どちらの記述が正しいのでしょうか。それは、「隋書」のソ・インコウが正しいのです。
その根拠は、漢字二文字表記名の出現は、藤原不比等が天武王朝から権力簒奪した、713年の「好字令」以降だからです。つまり、「古代歴史資料」での漢字二文字で表記の人名・地名は、なんらかの意味で、藤原氏の作為があるからです。
その遣唐使ソ・インコウの書簡に対して、隋の煬帝は、608年隋使裴世清を、飛鳥ヤマトに送り込み、偵察させるのです。そして、裴世清は、都で「男王・アマタリシヒコ」に謁見したことを、煬帝に報告した記述が、「隋書」にあるわけです。
藤原氏が創作した「日本書紀」によれば、その飛鳥ヤマト時代では、女帝推古天皇の摂政厩戸皇子(後に聖徳太子に変身)が仏教布教のため、607年法隆寺を建立し、そして、多くの豪族達が寺を建立したため、飛鳥ヤマトは仏教文化に溢れ、その仏教の都で聖徳太子は大臣蘇我馬子と供に天皇紀・国紀を編纂していた、と言うのです。
しかし、飛鳥ヤマトの遺跡群は、「日本書紀」が描く仏教世界と異なる、オリエント世界を示すのです。それは、607年建立とする仏寺法隆寺(670年焼失)の遺跡は、仏教思想の南北軸ではなく、太陽神ミトラを祀る民族思想と同じに、南北軸から西に約二十度傾いているのです。そして、最古の寺と言われる飛鳥寺の瓦は、チュルク瓦(突厥瓦)と同じ、中国建築物の平瓦ではなく、丸瓦なのです。
更に、仏教建築文化には、石敷きの池に噴水を造る技術などありません。その噴水公園施設は、水が貴重物である砂漠地帯の文化であるのです。その噴水の技術は、山から水を引く、地下水道のカナートの技術なくしてはできないのです。カナートは、水の乏しいオリエントでは日常の水道施設であるのです。しかし、日本列島は、いたるところに滝が見られる、水の宝庫国なのです。噴水もカナートも、オリエントの文化技術で、日本列島古来の文化技術ではないのです。
そして、645年に壊滅した蘇我蝦夷・入鹿の館の遺跡は、飛鳥時代が平和な時代ではなく、戦闘状態であったことを示しているようです。その館は、石垣で防御を施してあったのです。
何故、南北約800m、東西約二kmの、それも都の真ん中に飛鳥川が流れる、長く幅が狭い飛鳥の土地に、国際都市が築かれたのでしょうか。そして、何故、蘇我氏親子の館は、岡の上に建てられていたのでしょうか。
蘇我氏が、「島の大臣」と云われていた理由は、その飛鳥川の下流にある仕掛けが原因のようです。その仕掛けとは、設置された大石を川床へ移動すると、飛鳥川が溢れ、飛鳥の都が水没し、飛鳥一帯は湖となるからです。しかし、蘇我氏の館は岡の上にあるため、水没から免れ、その岡が島となるのです。この装置は、正に、水城(みずき)です。
では、蘇我氏の館より下に建設されていると思われる、飛鳥ヤマトの天皇が住む館は、飛鳥川の氾濫で、どのようになるのでしょうか。この推測からも、「日本書紀」で述べる、飛鳥時代の宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古天皇の存在が疑われるのです。
飛鳥時代の蘇我王朝以前に、統一政権である「大和朝廷」が存在していなかった根拠として、国家を維持するための税制がなかったことがあげられます。国が臣民から税を徴収するには、戸籍がなくてはなりません。その戸籍が歴史上に現れたのは、689年「庚午年籍」からです。ですから、国庫収入がない「大和朝廷」は、存在できないのです。
それに、飛鳥時代以前の近畿地方は、山々から流れる川の氾濫により、農耕に適さない湿地帯であったのです。そのような地域では農業がおこなえないため、強力な国家財政など維持できないのです。
教科書歴史では、巨大古墳を築造するだけの財力があったから、四世紀に「大和朝廷」が存在していた、と述べるのですが、その巨大古墳を近畿に築造した理由のひとつは、戦国末期関東の荒川河口の湿地帯を神田掘の運河を削掘し、その残土で海抜十mの人工山を築き、穢れ地を宅地に変えたように、農耕に適さない湿地帯を、巨大運河を削掘し、その残土で土地を改良するためだったのです。
更に、飛鳥ヤマトの遺跡が、仏教文化と異なるところは、七世紀まで古墳が築造されていたことです。古墳の埋葬者は、死者を不浄物として火葬(ヒンズー教から導入)し、浄物(成仏)とする仏教思想とは異なり、再生を願うため土葬なのです。
そのような再生を願う土葬思想の民族が、ヒンズー教のように死者を不浄とし燃やしてしまう仏教思想を受け入れるわけがありません。天皇家でも、686年新羅系天武天皇は土葬で埋葬されたのです。しかし、藤原不比等の傀儡天皇である、百済系女帝持統天皇は、697年に火葬で埋葬されたのです。この女帝持統天皇が、歴史上初の火葬で埋葬された天皇であるのです。
そして、日本列島に張り巡らされていたと思われる飛鳥を基点とした幅十二mの直線道路、難波から飛鳥の都まで外国の賓客が乗る船が運航できる運河、ガラス器製造工場、金メッキ工場、富本銭製造工場、そして突厥石人などの巨石建造物などなど、それらは、仏教文化などではなく、古代エジプト、ギリシャ、ローマ、オリエント、ユーラシア騎馬民族等の文化であるのです。
藤原氏は、「日本書紀」で、後世のひとたちに、どのようなメッセージ(ウソ物語)を伝えようとしたのでしょうか。
1868年明治革命が、日本史が示すように、薩摩・長州藩を主体とした日本人革命軍だけで成功したわけではないように、645年の乙巳革命も、インドから渡来の中臣族軍だけではなかったのです。そのふたつの革命の背後には軍事・経済支援をした黒幕の存在があったのです。それらは、明治革命では、イギリス東インド会社をダミーとする、イギリス・ロンドンの国際金融組織であったのです。そして、乙巳革命では、突厥帝国の壊滅を目指す唐国の存在があったのです。
唐は、東アジアの突厥帝国を、630年に散逸させると、その余勢を駆って、日本列島の飛鳥ヤマトを支配している、突厥帝国支配下の蘇我王朝の壊滅を目指すのです。そして、唐進駐軍は、中臣族を軍事・経済的に支援して、645年飛鳥ヤマトの蘇我王朝の壊滅に成功するのですが、騎馬民族は、戦況が不利だと判断すると、玉砕してまで戦うのではなく、戦場から逃避するため、飛鳥ヤマトの蘇我王朝軍を全滅させることができなかったのです。
このことは、東アジアでの突厥帝国との戦いでも同じでした。630年唐軍の全軍進撃を、自軍に不利と見た突厥帝国軍は、中央ユーラシアへと散逸するのですが、中央ユーラシアで体勢を立て直した突厥帝国軍残党は、682年唐の国力が衰退するのを見て、東突厥帝国を再興していたのです。
645年唐進駐軍と中臣族軍に敗れた蘇我王朝軍残党は、飛鳥ヤマトから伊勢へ逃れ、陸奥国で体勢を立て直すと、663年百済が滅びた結果、母国を追われた百済貴族は日本列島に亡命し、その百済亡命政権である近江朝を、百済の敵国新羅の皇子を押し立てて攻撃するわけです。それが歴史に言う、672年壬申の乱です。壬申の乱は、歴史教科書で述べるような、天智と天武兄弟(ふたりは遊牧民族ツングース系とスキタイの流れを汲む騎馬民族系の異民族で、兄弟ではない。)の内乱などではなく、唐と突厥帝国との国際紛争の一部であったのです。
その壬申の乱で勝利した新羅皇子が、672年日本列島初の天武天皇となり、第二蘇我王朝を飛鳥ヤマトの浄御原宮に興すわけです。ですから、第二蘇我王朝の天武系王朝の奈良時代までは、陸奥国の蝦夷とは仲良く暮せたのです。それは、陸奥国の蝦夷軍とは、チュルク系の第一蘇我王朝軍の残党であったからです。つまり、天武系も蘇我系も、同じユーラシア渡来の騎馬民族末裔だったのです。
しかし、686年陸奥国の蝦夷に支援された天武天皇が崩御すると、唐軍は、再び飛鳥ヤマトの天武王朝残党の壊滅を目指すのです。その唐の手先となるのが、天武朝で従五位下の籐史人(後の藤原不比等)です。
唐の密命を受けた籐史人は、686年百済系の讃良姫、天武天皇の后を、女帝持統天皇として即位させ、騎馬民族が支配していた飛鳥ヤマトから、694年藤原へ遷都させるのです。「籐原」とは、「トウゲン」で、唐の支配地という意味なのです。
この藤原京と言われる都の遷都は何を意味しているのでしょうか。それは、日本国が、明治革命の後、イングランド銀行の意向により日本銀行を設立して、経済的支配下となったのと同じように、唐の支配下になったことを意味しているのです。
唐は、690年女帝則天武后が実権を握ると、国号を周とするのです。そして、暦法を儀鳳歴に替えるのです。それは、天から命を受けた、新しい天子(テングリ)が、新しい歴の下で政治をすることを意味するのです。
この周(唐)の女帝則天武后の暦法の儀鳳歴が、唐進駐軍の手先の籐史人の暗躍により、天武天皇の后が女帝持統天皇として即位すると、その持統天皇の政治に採用されたのです。
つまり、中国大陸の周(唐)と、日本列島の藤原京では、「年、月、日」が同じとなり、そして、その周(唐)の年月日で、藤原京の政治が執り行こなわれるようになってしまったのです。このことからも、藤原京が、周(唐)の支配下になってしまったことを示唆します。
歴史教科書では、藤原京は、唐の都を真似して造られた、と述べているのですが、それは違います。中国・周のコロニーが、「トウゲン京」の実態だったのです。
694年都を飛鳥京から藤原京へ遷都した理由は、飛鳥ヤマトを中心とした近畿の支配者が、騎馬民族王朝から唐進駐軍傀儡王朝に替わったことを意味しているのです。それは、政治の仕組みが替わったことで証明できます。その根拠は、都を飛鳥から藤原京に遷都すると、その七年後の701年大宝律令が、日本列島で始めて発令されたからです。
律令の「律」とは刑罰法のことです。そして、「令」とは国家の統制組織や官人の服務規程、人民の租税、労役などの行政に関する法のことです。
この大宝律令は、周(唐)の政治の基準、永徽律令(えいきりつれい)を手本として作成されたものです。それ以前には、律令による政治は、日本列島ではおこなわれていなかったのです。その根拠として、607年遣隋使ソ・インコウは、隋の煬帝に、倭王は夜に政をし、夜明けと供に政を終える、と述べているのです。
歴史教科書では、日本初の律令は、645年所謂「大化の改新」後の、668年(天智7年)藤原鎌足らによって編纂された、「近江令」と述べるのですが、その根拠となる資料は、「弘仁格式」・「籐氏家伝」などの、「藤原氏による藤原氏のための史料」であるため、その信憑性が疑われるのです。更に、現在では、その「近江令」を編纂したと云われる藤原鎌足の実在性も疑われているのです。
では、何故に、唐進駐軍により、大宝律令が作られたのでしょうか。その理由はふたつあります。ひとつは、全ての豪族の土地を百済系女帝持統天皇の孫文武天皇に献上することにより、豪族達を経済的に自立できないようにして、唐進駐軍傀儡天皇の支配下にすることです。そして、もうひとつは、臣民の奴隷化です。
その大宝律令の「令」には、更に「格式」というものがつくられたのです。この「格式」が、臣民を奴隷化するためのトリックなのです。
「格式」の「挌」とは令の追加規則のことです。そして、「式」とは施行細則のことです。そのような、こまごまとした罰則のある規則により、臣民から租税と労役を、唐進駐軍傀儡王朝が吸い上げるのです。その基本が、祖庸調です。
唐での祖庸調は、祖は丁男(成年男子。16〜60歳)あたり栗(穀物)二石、庸は年間二十日の労役、そして、調は綾・絹二丈と錦三両、または布二丈五尺と麻三斤であったのです。藤原京でも、似たような租税と労役を臣民に課したのです。
更に、藤原京遷都から、唐の制度にはない、高利貸しのようなことをおこなっていたのです。それが、官稲出拳(かんとうすいこ)です。それは、高利貸しのシステムと同じで、貧民達に、春に稲(潁稲・えいとう)を貸し出し、秋には所定の利子を上乗せして返済させていたのです。これは、正に、奈良時代版のベニスの商人です。
では、何故に、唐進駐軍は奈良盆地の外れに、藤原京を遷都したのでしょうか。そのひとつは、奈良の宇陀で産出される朱砂の確保と、前政権の天武王朝を軍事的支援をしていた近畿の山々に潜伏している突厥帝国残党の殲滅のためです。騎馬民族の闘い方は、形勢が不利と判断された場合は、玉砕戦法ではなく、その戦場から一時逃避する傾向があるからです。
何故、縄文時代から三輪山の麓の海石榴(つばき)が国際交易地となったかの理由のひとつは、この三輪山の麓からは、南海アラブ(ペルシャ)からの海洋民族渡来地の伊勢に抜ける道があったからです。このことは、三輪山の麓の纏向遺跡から出土した土器の約半数が、東海と関東のものであったことで証明できるでしょう。奈良盆地は、東側を笠置山地により囲まれているのです。しかし、三輪山の麓には、伊勢に向かう道が、中央構造線に沿ってあるのです。この道は、朱砂ロードとも云われる、縄文時代からの古道であるのです。
ですから、唐進駐軍は、伊勢に残存する蘇我王朝残党軍のヤマトへの進撃に備えて、奈良盆地の外れ、三輪山近くに藤原京の防衛都市を築いたのです。それ故、藤原京は、戦闘体勢下の都として、その藤原京の中心に、蘇我王朝軍残党の襲撃からの防御のため高さ5mの土壁を1km四方に廻らせた藤原宮を造っていたのです。この高い塀を廻らした中に、都を築く思想は、正に、中国の農業民族が、騎馬民族からの襲撃を防ぐのと同じです。
そして、藤原(とうげん)が前線基地として選ばれたのは、その藤原が三山に囲まれていたからです。その三山とは、北の新羅コロニー(後の磯城)に対峙する海抜136mの耳成山、紀ノ川からの侵攻を防ぐ海抜199mの畝傍山、そして、東の伊勢からの侵攻を防ぐ海抜148mの天香具山です。
以前の藤原京遺跡の説明では、三山に囲まれた地に、藤原京が遷都されたと云われていたのですが、最近の調査後では、その規模が、三山を含む広大な都で、平安京を凌ぐ規模であることがわかったようです。
その蘇我王朝残党軍からの防衛基地の「藤原京」の記述は、「日本書紀」にはないのです。その代わり、持統天皇が「藤原宮」に移った、と記述しているだけです。そのように、飛鳥・奈良の古代遺跡が、「日本書紀」の記述と異なること示すのは、何故でしょうか。
日本列島の白鳳時代末期、東アジアでは、周(唐)の女帝則天武后(690年〜705年)と、682年に復興した東突厥帝国との戦闘が再び始った時代であったのです。そして、その東アジアでの、唐と東突厥帝国との戦闘は、744年東突厥帝国が滅びるまで続いていたのです。この唐と東突厥帝国との戦いの影響は、日本列島の政治にも強く現れていたのです。
この唐による、北東アジアの支配を目指した突厥帝国・騎馬民族殲滅作戦の流れは、日本列島の近畿地方の唐のコロニーである、694年藤原京、710年平城京、794年平安京への遷都の流れと合致するようです。
この奈良の南から京都の北への遷都は、794年秦氏の支配地である山背国(後の山城国)の侵略で終わり、その後の遷都は、約千百年後の1868年江戸城明け渡しまでなかったのです。
この藤原京から平安京までの百年間に、度重なる遷都がおこなわれたのですが、歴史教科書では、何を目的に遷都がおこなわれたのかを知ることができません。不可思議なのは、一年で遷都した都もあるのです。ある歴史書では、怨霊を恐れて遷都したと述べているようですが、遷都には、莫大な費用と労働日数が掛かることから、その説では説得力に乏しいようです。
その度重なる遷都は、都とは文化を誇る処ではなく、敵からの防衛施設の砦であると考えると、その度重なる遷都の意味が理解できるようです。では、唐のコロニー防衛都市を何度も放棄させた敵対軍事勢力とは、何でしょうか。それは、794年平安京から千百年も遷都しなかったことと関係があるようです。その謎を解くヒントは、蝦夷(エミシ:ヒゲのある夷)の存在です。
794年平安時代から、道幅が、以前の十二mから六mに狭められるのです。それは何故でしょう。その意味は、794年平安時代から軍団の装備・組織が替わったことを示唆します。
飛鳥ヤマト時代の、道幅十二mの直線道路が、日本列島の現在の高速道路と同じ位置に築かれていた意味はなんでしょうか。それも現在の高速道路のSA(サービスエリア)と同じ位置に駅舎の遺跡が多く発掘されているのです。そして、その道幅十二m直線道路には、側溝があり、水はけの技術もあったのです。このような高度道路建設思想をもった軍団は、歴史上ではローマ帝国軍以外には存在しません。
ローマ帝国軍は、谷は埋め、峠は切り開き、幅広の直線軍事道路を侵略した支配地に建設し、戦闘時は騎馬軍団が迅速に移動できるように、そして、平和時では、支配国からの貢物をローマへ馬車で輸送していたのです。その日本列島に張り巡らされた幅広の直線道路から轍(わだち)の跡が確認されていたことは、飛鳥ヤマト時代に、ローマ帝国軍と同じに、輸送手段として馬車の使用が示唆されます。
このローマ帝国と突厥帝国とには、絹とローマン・グラスとの貿易により使者の往来があったのです。それは、東西の絹貿易の通過国に、国際交易都市ガンダーラのあるクシャナ朝が、五世紀半ばに崩壊すると、謎が多いエフタルが興るのです。この東ローマ帝国と突厥帝国との絹貿易を妨害するエフタルを、ローマ帝国軍と協力して突厥帝国は、567年滅ぼすのです。その返礼に、568年東ローマ帝国の返礼使ゼマルクスが突厥庭に入るのです。
庭とは、神が降臨する処で、王(天子)が政(まつりごと)を行う場所です。「朝廷」とは、元は「朝庭」で、朝、神が降臨する処で、テングリ(天子)が政を行ったことが、原語なのです。その突厥庭に、東ローマ帝国の使者が入れたということは、それほど東ローマ帝国と突厥帝国とは、絹とローマン・グラス貿易で親密であった証拠になります。
では、飛鳥ヤマト時代に、そのような道路建設技術は、何処の誰により日本列島にもたらされたのでしようか。それは、新羅の軍団からです。356年ナムル(奈勿)王から始る新羅(=秦羅は、アレクサンドル大王国のギリシャ文化継承国バクトリアの末裔。紀元前221年始皇帝の秦とは、バクトリア国の中国でのコロニーであったのです。)は、ギリシャ・ローマ文化国であったのです。その根拠は、新羅慶州の天馬古墳が証明します。
「日本書紀」で述べる、527年筑紫国造磐井の反乱とは、その新羅のギリシャ・ローマ文化を保持する軍団一族が、新羅から北九州に侵攻した史実を、隠蔽するための物語なのです。
何故、ギリシャ・ローマ文化を保持した軍団一族が、新羅から北九州に渡来したのかは、翌年528年から、新羅は、ローマ帝国軍の軍神ミトラ信仰から仏教信仰へと変身したことで説明できるのです。それは、中国南朝の仏教を国教とする「梁」の軍事支援を得た仏教国の百済軍の、新羅への侵略を意味しているのです。527年仏教信仰の百済軍に敗れた、ミトラ信仰の新羅軍の一部が、日本列島に避難してきたのです。
新羅は秦羅で、新羅から渡来の秦氏とは、ヒッタイト帝国、古代エジプト、オリエント、ギリシャ、ローマ、バクトリアを流離った製鉄・石切・削堀・土木建設技術等を持った民族の集まりですから、530年突然、飛鳥ヤマトに出現した、東ローマ帝国と親密な関係があった突厥帝国軍とは、ミトラ信仰(中国語では、景教)により意気投合できるわけです。
この新羅から渡来の「ミトラ神」を、「日本書紀」の仏教伝来物語では、「弥勒菩薩」に改竄しているわけです。ミトラ(ペルシャ)→マイトレーヤ(インド)→弥勒(中国)の流れが、北周りの大乗仏教の仏の本体なのです。
飛鳥ヤマト時代、そのように、東ローマ帝国と突厥帝国との絹とローマン・グラスとの交易のため、ローマ帝国軍末裔の技術者が、飛鳥ヤマトから日本列島本土に、絹などの交易品を馬車で運ぶために築いた、幅十二mの高速道路は、「日本書記」の仏教文化のうそ物語で埋められてしまったのです。
しかし、昭和時代の高速道路建設で、飛鳥ヤマトのローマ帝国軍末裔が建設した古代高速道路跡が発掘され、「日本書紀」の闇に葬られていた、オリエント文化の飛鳥ヤマトが蘇ったのです。でも、「日本書紀」の呪縛から解けないひとの多くは、いまだに、「ぶっきょうでんらいごみやさん」の呪文を唱えているのです。
奈良時代、唐進駐軍の砦である都を、奈良の南から京都の北に移動しながらの、この唐進駐軍対蘇我王朝残党軍との戦闘は、六国史では知ることができないでしょう。それは、その奈良時代の唐進駐軍と騎馬民族軍団との戦闘の実態が知れると、突厥帝国のコロニーであった蘇我王朝が、飛鳥ヤマトに存在したことが証明されるため、その結果、「日本書紀」のウソがバレ、藤原氏の出自が南インドからの渡来祭祀民族であることと、桓武天皇家が、飛鳥ヤマト政権の正統な継承者ではなく、民族が異なる簒奪者であったことを、暴いてしまうからです。
794年唐進駐軍は、秦氏が支配していた近畿の地から、蘇我王朝軍残党を東国へ駆逐し、平安京の軍事都市を築いたのです。そして、唐進駐軍は、母国を滅ぼした新羅を憎む亡命百済民を中国山東半島から平安京に移民させ、健児兵を組織して、陸奥国を支配している新羅花郎軍団や突厥軍残党の殲滅のため、唐の儀式で即位した百済系桓武天皇軍を軍事支援するのです。
何故、唐進駐軍は、中臣族から変身した藤原氏ではなく、亡命百済貴族出の桓武天皇に鞍替えしたのでしょうか。それは、710年奈良の平城京遷都から、唐進駐軍を差し置いての、藤原氏の横暴が目立ってきたからです。
奈良の都とは、韓国語でナラは、都という意味がありますが、ヤマト語にもナラの言葉があるのです。その意味は、「土地をナラす」とは、「土地を平らにする」と言う意味もあるのです。では、ナラで、何を平らにしたのでしょうか。それは、奈良盆地にあった巨大古墳です。奈良の平城京の大極殿は、巨大古墳をナラした跡に建てられたのです。
このことは何を意味しているのでしょうか。それは、古墳文化を築いた民族の敗北です。
藤原京から進撃した唐進駐軍と藤原軍は、奈良盆地を支配していた民族を駆逐し、その宗教的シンボルの前方後円墳を破壊し、ナラし(平らにし)、その跡に、唐進駐軍の大極殿を建立することで、勝利宣言をしたわけです。そのことにより、奈良盆地を放棄した民族は、北方のミトラ神を祀る秦氏の支配地である山背国を目指して逃避するのです。その残党軍を追撃するように、都が南から北に移動していくのです。
神社が、日本列島古来の建物ではない根拠は、そこにあるのです。神社の多くは、古墳の上や、その近くにあるのは、前政権の古墳築造民族の支配地が、侵略軍の武力により制圧された後に、建てられた建築物だからです。しかし、「日本書紀」の神代物語と、蘇我氏と物部氏との神仏戦争物語の呪縛により、多くのひとは、いまだに、神社は仏寺よりも古い建物である、と信じて疑わないのです。
しかし、死者を穢れとする神道思想は、死者を石棺に納め永遠に保存する思想により築造する古墳思想とは、その思想体系が全く異なることからも、神社が古墳と同居できるわけがないのです。ですから、古墳時代には、「死」に対する穢れ祓いの儀式などなかったのです。つまり、史実は逆で、侵略軍の砦である仏寺の後に、前政権の死者が眠る古墳の上に、神社が、抹殺された前政権者の怨霊封じのために現れたのです。その「日本古来の神社」のトリックを考えたのは、祭祀氏族末裔の藤原氏であるのです。
その仏寺よりも古いと言われる神社の創建の歴史は、藤原氏以外の氏族による史料には記述はないのです。
藤原京の砦から侵攻し、710年前政権の古墳跡に造られた平城京は、不思議な地形をしているのです。それは、唐の都の築造思想では、南北軸に対して正方形とされるのに、平城京には、東側にも街の一角が造られているのです。そして、その出っ張りの地に、藤原氏の氏寺の興福寺があるのです。そして、興福寺から東の御蓋山の麓に、藤原氏の氏神を祀る春日社があるのです。
仏と神を同時に祀る藤原氏とは、一体、何者なのでしょうか。藤原氏には多くの謎があるように、その興福寺と春日社の建立にも謎があるようです。
興福寺の建立は、710年とされているのです。しかし、その興福寺とは、改名で、元の寺名は、京都山科の山科寺で、その後、その山科寺が飛鳥に移築され厩坂寺となり、その厩坂寺が、平城京に移築され、興福寺となった、と説明するのです。
この寺名の数回の変名は、山背国の支配者秦河勝が建立した、ミトラ教(=景教)の蜂丘(岡)寺を、数回の変名の後、仏寺広隆寺に変えたトリックそっくりです。
そのような目で、春日社を調べると、768年造営の春日社も、その前身は鹿島の神社で祀っていた武甕槌命を御蓋山に遷して祀り、その武甕槌命を春日神と称して祀ったのに始まる、とするのです。しかし、最近の発掘調査では、その768年に創建されたと言う春日社より以前に、御蓋山の麓には、祭祀がおこなわれた可能性が示唆されているのです。と、言うことは、飛鳥ヤマトのオリエント文化の建造物を徹底的に破壊した跡に、北九州から仏寺を移築したように、御蓋山の前政権の祭祀場を徹底的に破壊した跡に、春日社が建てられた、とも推測できるわけです。その推測の根拠のひとつとして、藤原氏の仏寺である興福寺が新設した、中臣神道の春日若宮があります。
「若宮」とは、従来の先住民が祭祀したの祭神の勢いを弱めるための宗教施設のことです。そして、その目的は、先住民の祭祀儀式を折り曲げ、隠蔽し、そして、新しく創作された神を、官幣氏族神への信仰に振り替えさせるための装置施設であるのです。その若宮のおん祭りとは、その前政権の宗教思想の隠蔽が成功したことを祝う儀式のことなのです。つまり、全国で行う若宮おん祭りには、前政権の祀りの儀式が隠蔽・改竄されているのです。
では、若宮に、隠蔽・改竄された神様は、何だったのでしょうか。それは、奈良の「さんちゅう」で祀られていた、「牛頭天皇さん」です。牛は、奈良(「たいら」にされた)先住民から祀られる神様の化身であるのに、何故か、旱魃での雨乞いの儀式で屠殺されてしまうのです。その屠殺儀式の意味が、今日分からないのは、藤原氏が建立した春日若宮により、その儀式が「血の穢れ儀式」として、仏教・神道思想により隠蔽されてしまったからです。
飛鳥ヤマト時代から、その牡牛を屠る儀式とは、オリエント渡来の秦氏の神・太陽神ミトラに願いを叶えてもらうためのものであったのです。
紀元前十四世紀、牡牛は、古代エジプトで、三神の太陽神ミトラが、アメンホテプ四世の独善的宗教改革で、唯一神の太陽神アトンに変身した時、その太陽神アトンの化身となったのです。太陽は、冬至の日、死から再生すると信じた古代エジプトの一部の部族では、人工的に神を再生(願い事をする)する儀式として、牡牛を屠っていたのです。この宗教儀式が、秦氏により、日本列島にもちこまれ、それが奈良の盆地での巨大古墳築造のための儀式としておこなわれていたのです。
奈良の都平城京とは、先住民の宗教シンボルの巨大古墳をナラした跡に造られたのです。そして、先住民のそのオリエント渡来の宗教儀式は、藤原氏の仏教と中臣神道とにより、奈良盆地にある宗教施設や祭祀場を、徹底的に破壊し、その跡に、仏寺と神社が建てられていくのです。このことにより、藤原氏が、後に、前政権の神の祟りを受けることになるのです。
このような、歴史的トリックをおこなった事例は、ローマ帝国で、392年キリスト教がローマ帝国の国教となり、それ以前に繁栄していたミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教の教会を建てて、前政権の宗教を歴史的に抹殺したことと同じであるようです。何故、歴史は繰り返されるのでしょうか。
奈良盆地を支配していた軍事部族を失った、土葬で葬られた騎馬民族末裔天武天皇の孫である長屋王は、729年藤原氏の陰謀により抹殺されるのです。その結果、奈良朝廷内には藤原氏の当面の敵がいなくなるのです。
しかし、蘇我王朝軍残党が殲滅されたわけではありません。近畿の山々に逃れた騎馬民族は、玉砕戦法ではなく、ヒッテンドラン戦法のゲリラ戦を得意とするのです。
平城京を支配した唐進駐軍は、更に北に進軍し、741年山背国の南端に恭仁京に遷都するのですが、蘇我王朝軍残党のゲリラ戦により、その三年後744年難波京に遷都するのです。しかし、思うように進撃できない唐進駐軍は、翌年745年再び平城京に遷都するのです。
決定的な軍事力が乏しい蘇我王朝残党軍の攻撃を見て、謀略で淳仁天皇の姻戚となった恵美押勝(藤原仲麻呂)は、763年、平城京の本国唐の政治の年月日と同調していた儀鳳歴を廃して大衍歴に替えてしまうのです。これは、唐進駐軍の支配下からの脱却を意味していたのです。
そのように藤原仲麻呂が行動をおこした背景には、755年から始まる中国唐の政権を揺るがした安録山の乱があったからです。755年から763年まで続いたその乱により、唐進駐軍の、奈良の都での軍事支配体勢が一時緩んでいたのです。
この機会を捉えて、藤原仲麻呂は恵美押勝となり、天皇をロボットとして、平城京を支配するために、国の印を私邸に置き、銭の鋳造権を得て、恵美押勝の新銭を旧銭の十倍の価値として流通させようとしていたのです。
奈良時代、唐進駐軍の指導の下、中臣族から変身した籐氏(後の藤原氏)が唐の税制を基本として創った、大宝律令や養老律令により、山の民を除く近畿周辺国臣民から搾取した産物を、唐国に運んでいたのが、所謂、遣唐使船の実態です。
761年、奈良の平城京を支配している唐進駐軍の母国が、吐蕃の侵攻や傭兵軍の内乱を鎮圧するために、兵器の素材の牛の角7800本の貢納を命じてきたのに対しての、唐国への貢物運搬船である遣唐使船の船出を、恵美押勝(藤原仲麻呂)は、新造船を難波の江口で難破させる謀略により中止させていたのです。
母国唐での乱が平定されると、このことに激怒した唐進駐軍は、天武天皇系最後の女帝天皇であった考謙上皇を再び即位させるのです。それが、女帝称徳天皇です。称徳天皇は、蘇我王朝残党軍に、太政大臣となり傍若無人の恵美押勝を、764年謀反者として葬るのです。
何故、従五位下の籐史人(後の藤原不比等)の孫藤原仲麻呂が、短期間に政権の中枢に登りつめることができたかの理由のひとつは、藤原氏が祭祀者一族であったからです。藤原氏は、仏教と中臣神道を支配する一族であったのです。それは、藤原氏の出自が、南インドのマラバル沿岸から渡来した、ヘビをトーテムとする中臣族であったからです。
勝利者としての侵略軍側の祭祀者は、前政権の神(祟り神・怨霊)を封印するためと称して、色々な儀式をおこなうことが、侵略王権により許されるのです。ですから、祭祀者は、自族に都合の良い儀式を、色々と創作することができるのです。そのひとつが、「権力者に、自族の女を捧げる儀式」の「五節会の舞」です。
藤原氏は、藤原の娘を天皇に捧げることにより、その孫を支配することで、天皇家の姻戚となり、その孫を天皇としてロボット化することで、中央政権に躍り出ることが出来たのです。その藤原氏のロボット天皇第一号が、淳仁天皇だったのです。
唐進駐軍の支援の下、この奈良の平城京の砦を構築し、前政権の蘇我王朝軍残党を奈良の地から駆逐し、そのオリエント文化施設を徹底的に破壊し、オリエント交易の関連文書を焚書したことで、祭祀者藤原氏により720年「日本書紀」が創作され、日本国のイメージの基が創られたのです。
しかし、794年唐進駐軍の支援により即位した百済系桓武天皇は、その藤原氏が創作した「日本書紀」から、母国百済を滅ぼした新羅関係史を改悪又は抹殺し、そして、百済史を挿入することにより、「日本書紀」の日本列島史を改竄するわけです。そして、反藤原氏の聖武天皇の遺品を集めた正倉院の中から、百済亡命貴族に不都合な史料を焚書するのです。ですから、今日、飛鳥・奈良時代の史実を知ることができないのです。
その結果、仏教伝来が、「日本書紀」の552年と、桓武天皇家史料の538年のふたつの物語ができてしまったのです。その矛盾は、二度ある物部氏と蘇我氏との神仏戦争に、中臣鎌子(後の藤原鎌足)が二度出演してしまうわけです。更に、藤原氏が、ガンダーラで創作されたヨシュア教の「聖書物語」を参考にして創作した人物「厩戸皇子」を、ギリシャ・ローマ文化の新羅で信仰されていた、地母神イシスの子神ホルスである子供神が変身して、「太子信仰」となったのを基に、「聖徳太子」なるネーミングとし、そして、794年亡命百済貴族が乗っ取った山背国の支配者であった、太陽神ミトラ教祭祀者の秦河勝を、その「聖徳太子」の忠臣とし、太秦に仏像安置のために、仏寺の広隆寺を建立させた、とするのです。そして、オリエント文化の飛鳥ヤマトの蘇我王朝の存在を抹殺するために、そのオオキミ蘇我馬子(アマタリシヒコ)を、女帝推古天皇の大臣とし、「聖徳太子」と天皇紀と国記を編纂した、とするのです。しかし、その天皇記と国記は、645年蘇我馬子の息子蘇我蝦夷の館で燃えてしまった、とするのです。何故、大臣の私邸に、大事な国書があったのでしょうか。
以上の「日本書紀」物語の大筋をとらえただけでも、その物語を素直に信じることができないのは、著者だけなのでしょうか。
1776年7月4日アメリカ十三州のイギリス王国からの独立宣言がされ、国民国家が歴史上始めて誕生し、そして、国民皆兵により国民軍が創設され、固定した国境が出現するまでは、国力とは、軍事力のことだったのです。ですから、それ以前の世界では、国力のある国は、国力のない国を侵略し、その土地を支配することは日常的な出来事であったのです。
では、国力の基の軍事力は何により創設されたのでしょうか。それは、経済力です。経済力のある国は、強い軍隊を創設するために、外国から軍事的に優れた雇い兵を集めることができるのです。ですから、古代国家は生き延びるために、軍事力の基である経済力を増すために、国を挙げて交易、または略奪をおこなうわけです。
資源のある国は、国力のある国に、常に狙われるのは、今日も古代もかわりありません。中東が、紛争の火種となったのは、地下資源の石油が開発されてからです。20世紀末に、アメリカ合衆国は、世界の平和を守るために大量破壊兵器を破壊する、との理由で、イラクを侵略したのですが(実際は大量破壊兵器はなかった。)、しかし、核を保持していると独裁者が公言する東アジアの小国には、軍隊を侵攻させません。それは、その小国には、石油の埋蔵が確認されていないからです。そのように、資源国は、今日も古代も外国の勢力に狙われるのです。
日本列島は、亜熱帯の火山国であるので、真珠・珊瑚の海洋資源、そして、金・銀・水銀・朱砂・琥珀・黒曜石・翡翠などの鉱物資源、更に、絹・大麻・鹿・熊などの動植物資源の大国であったのです。このような宝の日本列島は、四海が海流に洗われるため、諸外国勢力には、どこからでも上陸できる宝島であったのです。
ですから、縄文時代以前、ユーラシア大陸の西の果てのバルト海沿岸と岩手県久慈には、国際交易商人が行き来する琥珀ロードがあり、そして、古代中国の皇帝に献上された翡翠は、糸魚川から産出されたものが多かったのです。
弥生時代には、タミル語を話す南インドのトラヴィダ族(薩摩ハヤトの祖)は、真珠を求めて九州を訪れていたのです。その結果、日本列島に水田稲作が普及したのです。
紀元一世紀には、東ローマ帝国と後漢との絹貿易が盛んになると、温暖な日本列島に、繭の生産拠点が作られ、在来種よりも大きい、南中国種の蚕・ポンピックスモリが養殖されるのです。
紀元三世紀末から、埋葬思想が異なる民族が、日本列島に渡来して、古墳が築かれていくのです。その古墳がある三輪山麓の纏向遺跡に、関東・東海・出雲・吉備製の土器が埋葬されていたのは、その三輪山麓に、海外から渡来の国際交易商人が、諸外国の装飾品や薬などをもたらし、宇陀から産出された朱砂や伊勢で獲られた真珠などと交換していた、国際交易市場のツバキがあったからです。
そして、四世紀には、ユーラシアからの騎馬民族が渡来していたのです。その証拠は、四世紀からの石積木郭墳に、馬具の埋葬品が現れるからです。更に、古墳は巨大化し、古代エジプトの埋葬思想と同じ、石棺が古墳内に設置されるのです。その石棺の内寸は、古代エジプトの単位・キュビットで割り切れるのです。
そして、六世紀の飛鳥時代に、ローマ帝国軍道路と酷似した、幅十二mの直線道路が日本列島本土に張り巡らされ、そして、国際湊・難波から三輪山麓のイワレまで、船が航行できる運河が造られるのです。このことは、日本列島での交易・略奪が大規模に行われていたことを示唆します。そして、飛鳥ヤマトには、賓客を歓待するための噴水のある池が造られ、外国に輸出するためのガラス器工場、そして交易のための富本銭鋳造工場が造られるのです。
そして、そのオリエント文化の突厥帝国のコロニーである飛鳥ヤマトは、645年仏教が栄えた唐の進駐軍に壊滅されるのです。そして、砦である仏寺が、前政権の宗教施設跡に築かれていくのです。それが、奈良時代です。何故、武士が「もののふ」と云われたのかは、その奈良時代の出来事が原因のようです。しかし、教科書歴史では、奈良時代の史実が分からないのです。
飛鳥時代の史実が分からないのは、奈良時代に、藤原不比等が「日本書紀」物語で、オリエント文化飛鳥の歴史を改竄・隠蔽したからです。そして、奈良時代の史実が分からないのは、平安時代に、百済系桓武天皇家により、唐のコロニーが支配する奈良時代の出来事を、改竄・隠蔽したからです。
では、奈良時代とはどのような時代であったのでしょうか。その奈良時代を代表する都に平城京があります。その都は、710年奈良盆地南の藤原京から遷都されたのですが、その遷都と同時に、藤原氏の興福寺が飛鳥の地から移築されていたのです。
では、その平城京の住人の半分以上が官僚であったのは、何故でしょうか。それは、701年大宝律令と718年養老律令で発令された租税改革と関係があったのです。律令とは、罰則と義務とにより、支配下の臣民から税と労働を搾取する技術であるのです。
飛鳥時代は、騎馬民族が支配していたので、恐らく、その租税制度は、騎馬民族は土地に定着する民族ではなく、遠方の異民族に売るための商品と供に移動する民族であるため、交易通行税と人頭税であった可能性があります。
湿地帯から耕作地として土地改良された奈良の盆地を支配した、藤原氏を傀儡とする唐進駐軍は、列島の各国から奈良の都に集積する税である物品や労働サービスの管理運営をするために、平城京に漢語に熟達した官僚を住まわせたのです。このことは、現在の国際的企業の日本支社に勤務するサラリーマンが欧米語に堪能なのと同じです。では、その平城京に集積された租税の富は、何処へ行ったのでしょうか。それは、中国・唐への可能性があります。
630年から始まる遣唐使は、教科書歴史では、唐の高度文化を輸入するため、と説明しています。しかし、三十年前の600年からの遣隋使では、ソ・インコウ(日本名:小野妹子)が一年で往復していたように、安全に航行していた遣隋使船が、奈良時代になると、その遣唐使船の半分は転覆し、更に不思議なのは、その遣唐使の帰還の多くは、統一新羅国の商船によるのです。この謎を解くヒントは、安全性に不安のある遣唐使船の運営には、国際海洋商人の顔を持つ藤原氏が絡んでいたことです。
遣唐使船の渡航ルートは、難波津→北九州博多津→中国・蘇州が正式なのに、南九州坊津→種子島(タネ島)→奄美→中国・杭州の別ルートを採る事もあったのです。この別ルートを逆に、中国・杭州から更に南下して辿れば、南インドのマラバル沿岸へのアラブ中継ルートと繋がるのです。
戦国時代、この南インドのマラバル海岸→中国・マカオ→南九州坊津→種子島→紀伊半島→雑賀→根来寺→本能寺のルートは、イエズス会がもたらした鉄砲・弾薬の密輸ルートであったのです。更に、1853年米使ペリーの艦隊は、アメリカ合衆国から直接ではなく、わざわざ遠回りして、中国・マカオを中継して、浦賀に渡来していたのです。やはり、藤原氏の出自の謎を解くヒントは、南インドのマラバル沿岸にあるようです。
平城京の進駐軍施設に集積された日本列島の物産が、唐に略奪されているのを、国際海洋商人の顔を持つ藤原氏が黙って見ているはずはありません。計画的に、貢物を満載した船が沈没してしまえば、その唐国への貢物を合法的に掠め取ることができるわけです。
藤原氏は、文武・女帝元明・女帝元正天皇を傀儡として、唐進駐軍の日本からの略奪政策に、遣唐使船の計画的転覆で、対抗するのです。その藤原氏の陰謀は成功するかに見えたのですが、729年騎馬民族末裔天武天皇の孫長屋王を抹殺した頃から狂い始めるのです。それは、藤原氏四兄弟とその側近の相次ぐ不自然な死と、そして、藤原氏のロボット天皇と思われた聖武天皇が、反藤原氏となり、奈良盆地から殲滅され、山背国の山奥に隠棲する蘇我王朝軍残党とコンタクトを取り始めたからです。そして、その不自然な藤原氏子息の相次ぐ死は、藤原氏により謀殺された長屋王の祟りと、噂されていたのです。
聖武天皇のお妃は、藤原不比等の娘光明子であったので、藤原氏も安心していたのですが、聖武天皇が知識寺で、山の民と知り合うと同時に、反藤原氏となったのです。そして、聖武天皇は、大仏鋳造の詔を発するのです。この大仏鋳造に対しては、藤原氏は何度も妨害するのです。どうも、聖武天皇は、山の民と接触することにより、藤原氏のロボット文武天皇の実子ではなかったことに気づいたようです。
何故、聖武天皇は、奈良に大仏の鋳造を思い立ったのでしょうか。この奈良の大仏は、教科書歴史の記述と奈良の住民との認識とが、多く掛け離れているのです。その大仏鋳造の意味が分からなくなったのは、平安時代に、藤原氏と関係が深い錬金術師空海により、その奈良の大仏が、藤原氏の興福寺を、丘の上から見下し威圧する「遍照鬼」から、平城京を守護していたと云われる「大日如来」に変名されてしまったからです。
江戸時代では、奈良の大仏に対しての庶民の認識が、恐ろしい仏像で、大仏の手から災いがもたらされる、と信じられていたのです。この手印の恐怖は、平安時代に空海が発明した密教呪術の影響によるのです。刷り込まれた恐怖心は、先祖から受け継がれていくのです。ですから、寺側は、大仏を観光資源化とするために、大仏の顔だけが覗ける門を設置したのです。その方策により、江戸時代の庶民は、恐る恐る大仏の顔だけを門の窓から見ていたのです。
この江戸時代の庶民の奈良の大仏にたいしての恐怖の認識は、それ以前の時代でも同じであったようです。不思議なことに、仏教文化が花咲く平安時代末期には、聖武天皇の命令で造られた国分寺に安置されていたと思われる仏像が、ひとつも存在していなかったのです。やはり、奈良の大仏鋳造には、教科書歴史に隠された謎があるようです。
平安末期、1180年石橋山で平家側に敗れた源頼朝は、伊豆から千葉へ逃れると、関東の各地にある廃寺となっていた国分寺に行き、そこを拠点として、ペルシャ平家の平清盛との戦いに敗れ、賎民として関東の山奥に棲息する源氏武士を集めていたのです。奈良の大仏と、「もののふ」と言われた源氏武士とは、どのような関係があったのでしょうか。
では、奈良の大仏の開眼供養がおこなわれた、752年前後の唐国を廻る国際事情はどのようになっていたのでしょうか。
西アジアでは、571年ムハンマドが興したイスラム教によるサラセン帝国は、瞬く間に、帝国領土を広げ、642年には、ササン朝ペルシャはサラセン帝国に飲み込まれてしまうのです。そのサラセン帝国の中央アジア制圧により、東ローマ帝国と突厥帝国、そして、唐国との絹貿易に支障がきたすのです。
その結果、中央アジアで草原ロードを交易路としていた、突厥帝国の交易が困難になっていくわけです。経済が衰退することは、軍事力が衰退することになるわけです。その結果、国力も衰退するわけです。
サラセン帝国の領土が、東西に広がることと同調するように、突厥帝国は衰退し、西突厥帝国は739年、そして、東突厥帝国は744年に滅びてしまうのです。この東西の突厥帝国の滅亡は、日本列島で、唐進駐軍と戦闘をしている蘇我王朝軍残党に強い影響をあたえるわけです。軍人・武器・食料の大陸からの補給がなければ、敵の唐軍団と戦うことができないからです。
そのサラセン帝国の拡大は、シルクロード交易にも支障をきたすのは当然です。更に、サラセン帝国の東進は、吐蕃を圧迫し、その結果、吐蕃の住民が唐国境を乗り越えて東進することにより、唐国の治安が不安定となっていくわけです。その結果、755年から763年安録山・史思明の乱が起こり、そして、763年には吐蕃の軍隊が、唐の都である長安に陥るのです。唐の国内も、奈良の平城京と同じに、平安ではなかったのです。それは、唐の軍団は、722年から傭兵制となり、民族が異なる諸外国の傭兵軍が存在していたからです。
そのサラセン帝国に、北の草原ロード、中央のシルクロードが支配されると、国際交易商人は、南海ロードを交易路とするのです。このことにより、南インドのマラバル沿岸は、東ローマ帝国と唐国を結ぶ交易海路の中継基地として栄えていくわけです。その南海交易により、アラブの国際海洋商人(平家の祖)だけではなく、インドの文化・宗教、そして、バラモン僧も多く中国・唐に渡来するわけです。
そのようなアジアの動乱期に、奈良の仏像が鋳造されるわけです。では、その大仏は、誰により、何を目的に鋳造されたのでしょうか。
歴史教科書では、聖武天皇の発願で鋳造されたというのですが、聖武天皇は、藤原氏によりコントロールされていたのです。その藤原氏の興福寺を見下ろす丘の上に大仏を設置する、それも、遍照鬼といわれる、仏の敵神を設置することは、反藤原氏の聖武天皇ひとりの力ではできないでしよう。
聖武天皇が発願したとしても、その莫大な鋳造資金は、何処からもたらされたのでしようか。そして、最も不可思議なのは、752年の開眼供養では、大仏の鍍金は完成していなかったのです。何故、鍍金が未完成なのに、インド高僧による開眼供養なのでしょうか。
それは、反藤原氏の聖武天皇の死期が近づいていたことがひとつの原因です。怪僧行基に先導された山の民は、突貫工事で像を完成させたのですが、鍍金の完了までには、聖武天皇の命がもたないことが分かっていたので、急遽752年の開眼供養となったのです。
そして、その式典には、九州宇佐八幡の山の民が祝賀に訪れ、「神輿」を担いだのが、日本列島での歴史上初であったのです。日本列島では、「神輿」は、山ノ神(反体制の神)を祀る「社」であったのです。そして、その九州宇佐とは、古の「秦王国」の地であったのです。
宇佐八幡は、元は新羅(秦羅)の神を祀る社の「や・はた」でしたが、新羅系天武天皇が、近江の百済亡命王朝を倒した「壬申の乱」の戦勝祝いに建立した道教思想による「観」であった「伊勢の社」が、藤原氏の創作した中臣神道の神・天照大神を祀る「伊勢神宮」に改竄されたように、藤原氏に乗っ取られ「はちまん」となってしまっていたのです。
ですから、反藤原氏の聖武天皇の大仏建立の意図を、平城京を支配している仏教組織を騙す策略により、その大仏が、姿は仏像であるが、その実態が遍照鬼(ひとびとを分け隔てなく平等に照らす、仏教の敵神・太陽神ミトラ)であることを、山の民はよく知っていたのです。つまり、奈良の大仏は、言わば、隠れキリシタン像であったのです。
奈良の大仏の周辺を調べると、不思議なことが次々と現れるのです。それらは、大仏を管理する東大寺は、丘の下にある興福寺と、互いの僧兵により度々紛争を起こしているのです。その訳は、その東大寺の前身は、どうも、反体勢の山岳修験者の寺であったからのようです。そして、大仏鋳造に尽力した行基とは、歴史教科書では仏僧ということになっているようですが、山の民との交流が知られているのです。
大仏鋳造に関しても、その鋳造、鍍金は、騎馬民族末裔の技術であるのです。銅を融解させる1200度の炎をつくるには、自然下での炭の燃焼では800度なので、多量の酸素を供給するフイゴの大規模設備が必要なのです。そのフイゴは鹿革製で、タタラ製鉄の必需品なのです。その「タタラ」とは、騎馬民族である突厥語の「トトラ」(強い炎の意味)から変化した製鉄民の言語であるわけです。そして、鍍金のアマルガム法は、騎馬民族スキタイが開発した技術なのです。
そして、最も不思議なのは、752年開眼供養をした大仏の首が、855年地震で落ちてしまった、と云うのです。更に、1180年には、ペルシャ平家の平重衡により、東大寺と供に大仏が焼失してしまったのです。そして、1185年ペルシャ平家を滅ぼした、騎馬民族末裔の源頼朝により、大仏は再興されたのですが、室町時代、1567年松永久秀の永禄の変の兵火により、再び、大仏は焼失してしまったのです。そして、現在に見る奈良の大仏は、江戸元禄時代、1692年開眼供養され、現在に至るわけです。
この度重なる大仏の焼失と再興は、藤原氏が得意の、異教の寺を仏寺に替えるトリックのようにも思えます。現在見ている大仏の顔は、鋳造時の顔であるのかは、855年大仏の首が地震で落ちてしまったため、確かめることができないのです。
しかし、第三百済王朝となっていた、百済仏教文化が花咲く江戸元禄時代の庶民が、奈良の大仏を恐れていた不可思議は、奈良の大仏が仏の化身である仏像とするならば、どのように説明できるのでしょうか。その説明のひとつの推測として、鋳造当時の奈良の大仏は、仏像などではなく、異教の神であった、ということです。
そのような観点から、奈良の大仏のネーミングを調べると、やはり、不可思議なことがあるのです。それは、平安初期、錬金術師空海が、大仏に「大日如来」とネーミングしたものは、その前では、「盧遮那仏」なのですが、そのネーミングにはウソがあるのです。それは、盧遮那仏とは、故意にネーミングしたもので、正しくは、「毘盧遮那仏」です。では、何故、「昆・ビ」の文字を故意に省いたのでしょうか。それは、「昆」の意味にあったのです。
奈良の大仏は、山の民には「遍照鬼」と言われていたのですが、そのネーミング前は、サンスクリット語で、「ビローチャナ」です。ビローとは、「光」のことです。このビローが、漢語化されると、「昆・ビ」となるわけです。
何故に、仏教勢力は、「ビローチャナ」の漢語化の「毘盧遮那仏・ビルシャナブツ」から、「昆=光」の文字を外したのかは、その「昆」の文字から、「異教の神」が、推測されてしまうと恐れたからです。
ビローチャナ(光・照らす)とは、紀元前十世紀インドでリグ=ヴェーダが成立した頃、太陽神ミトラが変身した、西アジアから渡来した異教の神であったからです。インドの神々は、古代エジプトの神々と同じで、異民族の神でも、庶民に人気があると、取り入れてしまう傾向が強かったのです。
つまり、奈良の大仏とは、太陽神ミトラ←ビローチャナ←遍照鬼←毘盧遮那仏←盧遮那仏←大日如来、で、その実体は秦氏が祀る太陽神ミトラであったことが推測されるわけです。
そのように、聖武天皇が発願した像とは、仏像ではなく、実体が秦氏の神・太陽神ミトラであったから、奈良時代、全国に七十もの国分寺にあったご本尊が、仏像でないことが分かっていたので、秦氏・蘇我王朝軍残党が抹殺され、亡命百済貴族により日本列島が支配されると、その国分寺に安置されていた太陽神ミトラ像が破壊・抹殺されたわけです。
そして、平安末期、その廃寺に、山奥に隠れ住んでいた新羅花郎軍団・突厥帝国軍団末裔の源氏武士が、騎馬民族末裔の源頼朝により、ペルシャ平家殲滅のために集められた、ということです。
ですから、奈良の大仏は、仏教徒勢力が体制を支配している時は、穢れ神として恐れられたため、首を落されるか燃やされて破壊されていたのです。しかし、山の民となった秦氏系、騎馬民族系の支配体制下では、奈良の大仏は再興され、崇拝されていたのです。
では、反藤原氏の聖武天皇側の勢力は、何故に、藤原氏の興福寺を見下ろす丘の上に、異教の神を鋳造したかの意図は、表向きには、藤原氏による先住民・前政権王族末裔に対する暴虐に対しての意志表示であったのです。しかし、その裏には、謀略があったのです。それは、藤原氏が牛耳る平城京の壊滅であり、抹殺です。
平安時代、985年ひとの死に対処するためのガイドブックである、「往生要集」が源信により著されたのです。その内容は、現世の地獄世界から、彼の世の西方浄土の世界へ至るための心得を述べたものです。源信は、そのために、地獄・極楽に関する古文書を集めて、それを基に、往生のためのガイドブックを編集したのです。
その書籍内容の地獄に関する描写は、あまりにもリアルであるので、その「往生要集」は中国・宋にも輸出されたほどです。今日の地獄世界のイメージは、平安時代の「往生要集」によるのです。
バラ色の極楽浄土を述べて、貴族から少しでも多くの布施をもらうことが、平安時代の仏教であったのに、その極楽浄土世界の描写にはリアルさがないのに、何故、地獄世界の描写にはリアルさがあったのでしょうか。
それは、奈良時代の平城京の有様を記述した文書の種本があったからです。百数十年前の平城京の惨状をそのまま記述すれば、その記述は地獄世界となるのです。では、何故、青によしの奈良の平城京が、地獄世界となってしまったのでしょうか。
平城京は、前政権の宗教的シンボルの巨大古墳を破壊して、ナラした跡に造られたため、そして、前政権の祭祀場を破壊して春日社を造営したために、その前政権の神の祟りであった、というのは平安時代の解釈です。実は、大仏鋳造と平城京の地獄世界化とは、大いに関係があったのです。
その原因は、怨霊などではなく、大仏鋳造時での、銅の精錬とアマルガム法の鍍金での水銀とによる鉱毒中毒であったのです。平城京の水源のひとつは、その大仏が鎮座する若草山からのものです。その鉱毒をタップリ含んだ川水を飲料とすることで、鉱毒中毒を起こし、ひとの中枢神経を侵すことにより、筋肉が麻痺し変形してしまうわけです。
近代医学が発達するまでは、病気とは、目に見える症状のケガ・皮膚病等のことであったのです。ですから、身体表面に異常が無く、身体を侵す症状は、怨霊が原因であるとひとびとは信じていたのです。
この鉱毒の被害が、平城京から長岡京へ遷都された原因のひとつであったのです。つまり、当時の解釈では、平城京は、前政権の怨霊(もののけ)に呪われた都であったのです。
この怨霊による遷都は、藤原氏に虐げられ、下級貴族として隷属させられていた亡命百済貴族達に幸運をもたらすことになるのです。
1945年8月26日、日本国が連合軍に無条件降伏すると、連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木飛行場に降り立つのです。そして、天皇が住む皇居前の富国生命ビルに、日本占領総司令部を置き、日本統治を始めるわけです。
そのために、前歴を問わず英語に堪能な者を集め、アメリカ文化の翻訳係りとするわけです。そして、キリスト教会を各地に建て、そこをラジオ発信基地として、天皇に人間宣言をさせ神国ニッポンのイメージ破壊を目的に娯楽番組を発信するわけです。それまでは、明治革命組織のプロパガンダにより、天皇は現人神であったのです。その結果、神国ニッポンの幻想が消え、街の看板には、やまと言葉が消え、英語の文字が氾濫するわけです。戦勝国の言語は、今も昔も、敗戦国の言語を駆逐してしまうのです。
さて、奈良時代、日本国が独立国だと言うのならば、何故、「日本書紀」は、唐国の漢語で記述されているのでしょうか。それは、その「日本書紀」が創作された奈良時代は、唐国に、近畿地方の平野の一部が占領されていたからです。
「日本書紀」巻二十七で、671年12月、「唐国の使人カクムソウが、総勢二千名を引き連れて、九州筑紫に着いた。672年1月10日に天智天皇が崩御したので、それを口実にお引取りを願い出た。しかし、カクムソウ一行二千名は、そこに駐留した。」、と述べるのです。そして、半年後、672年5月12日、「天武天皇が、カクムソウに、甲冑、弓矢、アシキ゛ヌ1673匹、布2852端、綿666斤を与えて、帰国させた。」、と記述しているのです。
この「日本書紀」の記述には、ウソがあるようです。それは、天武天皇の前には、天皇は存在していないからです。近江朝の天智天皇は、奈良時代に、唐国渡来僧淡海三船により発明された天皇名であるのです。
亡命百済近江王朝を滅ぼし、日本初の天武天皇が即位した、672年とは、663年唐・新羅連合軍により百済を滅ぼした後、そして、唐が、668年高句麗を滅ぼした後、新羅は唐に反旗を翻し、朝鮮半島から唐軍を追い払ってしまったのです。
その結果、唐と新羅は戦闘状態に突入寸前であったのです。そのような時に、新羅系天武天皇が、敵の唐軍側のカクムソウ将軍に、多数の武器を与えて、お引取り願うことなど、できるはずがないのです。
そのような時期の唐国使人のカクムソウが、九州の筑紫に二千名の軍団を侵攻させたのは、厚木基地に降立ったマッカーサーと同じに、朝鮮半島を支配した後に、日本列島を統治するためでしよう。その推測を裏づけるように、その二年後、674年唐軍は、新羅に攻撃をしかけているのです。
しかし、唐と敵対する、北東アジアを支配する東突厥帝国が健在なため、新羅と第二飛鳥王朝の天武天皇を、唐軍は壊滅できないでいたのです。しかし、686年天武天皇が崩御すると、飛鳥ヤマトの情勢が変化するのです。それは、南インドから渡来した中臣族から変身した藤原氏の台頭です。
その藤原氏の、漢語の「日本書紀」により、天武天皇の前に、天智天皇を創作して、その天武天皇と天智天皇を兄弟としてしまうのです。しかし、そのトリックは、「日本書記」を精査した研究者により、弟の天武天皇が、兄の天智天皇より四歳も年上であることが発表されたことにより、バレてしまうのです。
そのことにより、「日本書紀」で述べる、女帝推古天皇と厩戸皇子が活躍する飛鳥時代の歴史が疑われ、突厥民族のアマタリシヒコ(蘇我馬子)が支配した、第一蘇我王朝のオリエント文化の飛鳥の存在が確認されるわけです。
藤原氏は、「日本書紀」で、突厥帝国の日本支社の蘇我王朝を、奈良時代に渡来した仏教文化で隠蔽・抹殺していたのです。その手段のひとつが、表意文字の漢語による、表音文字のオリエント渡来の言語(アラム語・ゾグド語・突厥語)の抹殺です。
では、奈良以前の文字は、何語であったのでしょうか。それは、645年唐進駐軍と中臣族により、前政権の文書を綴った書籍は、焚書されてしまったため、推測する以外に方法はないのです。神代文字の存在もあるのですが、天照大神など、686年以降に藤原氏により創作された神様を記述しているので、その信用性が疑われます。
日本語の原語が、アルタイ語と文法が酷似しているため、紀元四世紀から、ユーラシアの騎馬・遊牧民族が、飛鳥ヤマトを支配していた可能性は疑えません。そして、時代を更に遡り、紀元前四世紀から始まる水田稲作作業周辺の原語が、タミル語が多くあることは、南インドからのトラヴィダ族の存在を疑えません。
いずれにしても、飛鳥ヤマト時代には、漢語が主言語ではなかったことは確かです。あらゆる国の言葉が話されたのが、国際交易都市飛鳥ヤマトであったのです。つまり、万葉語とは、万国の言葉の意味だったのです。
そこに、唐進駐軍が、飛鳥ヤマトを支配する突厥帝国進駐軍殲滅のため、日本列島に侵攻して、645年突厥帝国日本支社である飛鳥ヤマト政権を壊滅するわけです。しかし、672年伊勢で勢力を回復した突厥帝国残党軍は新羅軍と共闘し、百済と敵対していた新羅の皇子を立てて、百済亡命近江朝を壊滅するわけです。そして、新羅の皇子は、日本初の天武天皇となり、飛鳥ヤマトに再び騎馬民族王朝を開くわけです。
その第二飛鳥ヤマト王朝の天武天皇の祖国は、356年ユーラシアから渡来の騎馬民族のナムル王が支配したギリシャ・ローマ文化国であったので、漢語を知らないため、東晉(312年〜420年)や前秦(351年〜384年)との交渉には、高句麗や百済は通訳無しで交渉できたのに、通訳が必要だったのです。それは、372年高句麗は、前秦により仏教を導入させられ、そして、384年百済は、東晉より仏教を導入していたからです。
何故、大国は、被支配国に仏教を強制したかの意味は、それは、仏教は、被支配国を統治するための武器でもあったからです。仏教教義のひとつ、殺生禁止とは、武器の使用禁止を意味していたのです。このことにより、被支配国の軍団の勢力を削ぐことができるのです。
大乗仏教の経典は、ギリシャ文化を継承したガンダーラで創作された後、サンスクリット語に翻訳され、中国に伝来した時には、漢語に翻訳されていたのです。ですから、仏教文化を導入した国は、漢語が理解できたのです。しかし、ギリシャ・ローマ文化国の新羅が、仏教を導入したのは、528年であったのです。ですから、百済民に比べて、新羅民は、漢語に強くなかったのです。
701年藤原京の砦を築いた唐進駐軍は、籐氏(後の藤原氏)に、奈良を統治するために、唐の租税制度を基に大宝律令を創らせるわけです。その前政権の敗戦民を奴隷として支配するには、戦勝国の思想・法律を刷り込む必要があったのです。そのために、前歴を問わず漢語に堪能な者が集められたのです。
そして、太平洋戦争後にキリスト教の教会が各地に建てられたように、戦勝国の情報発信基地として仏寺が、飛鳥・奈良の占領各地に建立されていくわけです。そのため、飛鳥ヤマトにあった景教寺や道教の観が破壊され、その跡に、仏寺が建てられたため、現在では、飛鳥ヤマトは仏教文化に溢れていた、と錯覚してしまうのです。しかし、飛鳥ヤマトの遺跡は、オリエント文化を示しているのです。
そのような唐占領軍の漢語の世界で、亡命百済民は、祖国が仏教国であったため、漢語が理解できたため、租税徴収の下級役人として働くことができたのです。
770年天武天皇系最後の女帝称徳天皇が、道鏡に一服盛られたため崩御すると、百済亡命下級貴族老齢の白壁王が、光仁天皇として即位するのです。
何故、亡命百済貴族、それも下級貴族の白壁王が光仁天皇として即位できたのでしょうか。それは、恵美押勝(藤原仲麻呂)の暴虐非道の行いにより、唐進駐軍により、藤原氏の行動が制限されていたからです。この時期に、亡命百済貴族達が巻き返しに奔走したのです。
その結果、天武天皇の血を引く娘をお妃にもつ白壁王に白羽の矢が立ったのです。その結果、その天武天皇の血を引く娘は、井上皇后となり、その息子は他戸皇太子となったのです。しかし、白壁王には、百済系の下級官僚の娘が側室しとていたのです。その息子が山部皇子であったのです。この百済の血を引く山部皇子は、「旧約聖書」物語のソロモンとソックリの行動を起こすのです。
紀元前十四世紀、ヒッタイト帝国から、宗教改革をおこなった古代エジプトに、新都建設のための技術集団として渡来したヨセフ族は、その急激なアメンホテプ四世の宗教改革に反対するエジプトの神官達の迫害を逃れて、エジプトを脱出するのです。
そのエジプトを脱出する頃には、ヨセフ族の子孫が増え、エフライム族が支配する集団となっていたのです。そして、その集団は、エジプトの宗教改革で発明された、唯一神・太陽神アトン(太陽神ミトラが変身した神)とその化身の牡牛(紀元前2907年〜紀元前747年は牡牛座の時代であった。)を祀っていたのです。
シナイ半島を彷徨う出エジプトの集団に、メソポタミアから流離いの旅を続ける集団と遭遇するのです。その集団は、ヘブルびと、と呼ばれていたのです。ヘブルとは、国境を越えて進入する者、とか、当て所も無く流離う者、とかの意味です。
そのエジプトからの集団とメソポタミアからの集団は、エジプト軍が破壊して、廃墟となっていた地にたどり着くと、そこに、それぞれの部族ごとに国をつくるのです。そして、その十二部族の連合国はヘブライ(紀元前1020年〜紀元前932年)となのるのです。その主権を握ったのが、メソポタミアからの部族、レビ族末裔だったのです。やがて、そのレビ族末裔から王が立てられるのです。その王がダビデ(紀元前1004年〜紀元前965年)です。ダビデには、多くの子供がいたのです。やがて、ダビデ王の死期が近づくと、ヘブライ王権の簒奪闘争が、多くの息子達の間で起こるのです。
その中に、ソロモン(紀元前965年〜紀元前932年)がいたのです。ソロモンは、正統な後継者ではないのに、祭祀氏族アロンと結託して、頭に油を注いでしまうのです。そのことにより、ソロモンは、ダビデ王の王権を引き継ぐのです。その王権簒奪の裏には、凄惨な親族殺しがあったのです。ソロモンは、異母兄弟の全てを抹殺してしまったのです。
このことを知った、ヒッタイト帝国からのヨセフ族正統末裔のエフライム族を中心に十部族が、ソロモン王が死去すると、ヘブライから独立して、紀元前932年、太陽神バアル(太陽神ミトラの変名)と牡牛を祀るイスラエル王国(紀元前932年〜紀元前722年)を建てるのです。
それに対して、ソロモン王の末裔は、レビ族を中心に、唯一神ヤハヴェ(エジプトの太陽神アトンが変身した神)を祀るユダ王国(紀元前932年〜紀元前586年)を建てるのです。
ソロモン王のヘブライでは、正統ヨセフ族(イスラエル民族)の王権が、後に加わった異民族のレビ族(ユダヤ民族)の不正な手段により、簒奪されてしまったのです。
奈良時代末期、光仁天皇の息子山部皇子は、新羅系天武天皇の血を引く次期天皇候補の井上皇后の息子他戸皇太子が存在すると、次期天皇になれないと、ソロモンと同じことをするのです。それは、山部皇子が、井上皇后と他戸皇太子の謀略による抹殺と、更に、実弟早良親王も謀略により、抹殺してしまうのです。
奈良時代末期、新羅系天武王朝の血を引く井上皇后と他戸皇太子の母子が、百済系民族の山部皇子により、抹殺されることにより、日本列島の天武天皇系民族は、ユダヤ民族によりイスラエル民族が不可触賎民サマリア人とされたように、賎民として民族差別されていくのです。日本列島での民族差別の発生は、平安時代の京から始まるのです。
そして、山部皇子は、781年桓武天皇として即位するわけです。
ソロモンがダビデの王権を簒奪できたのは、祭祀氏族アロンの手助けがあったからです。では、亡命百済民族の山部皇子は、誰の協力により、天武系王権を簒奪できたのでしょうか。
778年唐使孫興進が、筑紫に渡来するのです。そして、779年唐使一行は、行列の左右に唐の旗を立て、杖(武器)を帯びて行進し、門外に騎兵二百騎と蝦夷二十人が出迎える平城京に入り、光仁天皇に謁見するのです。これは、唐進駐軍の軍隊が、戦国時代の織田信長が天皇家を威圧するための馬揃と同じで、天武王朝の血筋を抹殺した、亡命百済下級貴族出自の光仁天皇に逆らう、山の民を威圧するための行動です。
更に、唐使高鶴林一行が、779年入京しているのです。しかし、唐使高鶴林一行が帰国したことを歴史書では、確認できないのです。軍団を伴った、唐からの相次ぐ唐使の渡来は何を意味しているのでしょうか。その唐使が渡来した二年後、781年桓武天皇は、唐の儀式により即位したのです。
この唐からの軍団の平城京への渡来は、東アジアの軍事情勢を調べると理解できます。それは、飛鳥王朝を軍事支援していた、そして、北東アジアを支配していた東突厥帝国が、唐軍により744年に滅んだことと、そして、東進するイスラーム軍団に押されて、唐の西隣国吐蕃軍の東進も原因のひとつです。
そして、唐の経済を支えていた東ローマ帝国とのシルクロード交易が、イスラム帝国により奪われ、更に、絹製品の原料である繭が、僧により唐から持ち出されてしまっていたのです。それにより、絹製品は唐の独占交易品ではなくなってしまったのです。これらのことにより、唐の経済が急速に疲弊していくわけです。その疲弊していく唐の経済建て直しの手段のひとつが、日本列島の海洋・鉱物・動植物資源の簒奪です。そのためには、山背国以北を支配している飛鳥王朝残党軍を殲滅しなければならないわけです。
飛鳥王朝残党軍とは、ギリシャ・ローマ文化国の新羅からの花郎軍団(ローマ傭兵軍末裔)と突厥帝国軍団とであるわけです。それらの軍団は、飛鳥ヤマトを中心に張り巡らしたローマ軍式幅広の直線道路を利用して騎馬戦を得意とするわけです。
645年飛鳥王朝を唐進駐軍と供に倒した中臣軍は、後に、藤原氏の私兵軍となって奈良の都で活躍していたものが、764年恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で、新羅系女帝称徳天皇を支える山の民軍(飛鳥王朝残党軍)より、近江で壊滅されてしまったため、奈良の都には、農民により組織された軍団しか存在していなかったのです。
そこで、770年亡命百済下級貴族の光仁天皇を即位させた唐勢力は、780年藤原氏の私兵軍団を解散させて、新たに、農民より武闘力に優れた者を徴兵し、唐軍武将から、騎馬民族の蝦夷(飛鳥王朝残党軍)に対抗するために、弓馬による戦闘技術を習得させるのです。
そして、792年桓武天皇は、今までの軍団を廃止して、農民からではなく、中国山東半島から移民させた亡命百済民から兵を募り、健児とし、新たな支配地に配置するのです。これらの桓武天皇軍団には、唐軍将校が指揮官となっているのは言うまでもありません。奈良時代の兵が、藤原氏のための兵とすれば、平安時代の兵は、亡命百済貴族のための兵であったのです。
母国百済を滅ぼした新羅を憎む桓武天皇軍を利用して、唐進駐軍は、久慈の琥珀、平泉の金・砂金、釜石の鉄等の資源が豊富に眠る陸奥国を支配している蝦夷(飛鳥王朝残党軍)の壊滅を謀るのです。
唐軍の組織は、722年より外国からの傭兵軍で組織されていたため、あらゆる人種・民族が存在していたのです。801年蝦夷の棟梁アテルイを騙した坂上田村麻呂が金髪であったのは、大陸から渡来した田村麻呂の先祖に白人種の血が流れていたからでしょう。因みに、蝦夷の棟梁アテルイは、赤毛であったようです。短弓・蕨手刀を武器にした騎馬による戦闘形式だけではなく、髪の毛の色からも、蝦夷は、真っ黒毛のアイヌ民族とは、異なる民族であったことが分かるのです。
アテルイが、坂上田村麻呂に簡単に騙された理由のひとつは、坂上田村麻呂が、ツングース系の薄毛ではなく、金髪であったため、白系チュルク騎馬民族の同族と、アテルイが認識したのかもしれません。
チュルク(漢語では「突厥」)民族とは、紀元前五世紀頃に中央アジアに興ったトルコ民族の祖のことで、遊牧・騎馬民族を主とする多人種民族で構成されていたのです。
八世紀、カスピ海沿岸を支配した、国際交易国のハザール王国は、キリスト教とイスラム教との戦闘を避けるため、弱小宗教組織のユダヤ教に改宗して生き延びるわけですが、その第十三部族のハザール(カザール)人とは、白系チュルク民族であったのです。
国際交易民族の白系チュルクのハザール民族が、ユダヤ教徒となったために、イスラム教と共生していた弱小宗教のユダヤ教徒は、やがて、白系チュルク民族末裔のロス・チャイルド家の勃興により、世界の金融を支配していくわけです。
唐進駐軍に軍事支援された桓武王朝は、父光仁天皇が組織した軍団の軍事力を背景に、亡命百済王朝を平安京に開くのです。その手始めとして、桓武天皇は、唐の儀式により即位するわけですが、その儀式により、前政権の儀式を全て否定するのです。
1868年明治革命でのスローガン、「万世一系の天皇家」、「天皇家の祖神・天照大神」、「天皇家の社・伊勢神宮」などは、藤原氏が創作したものです。それらの藤原氏の創作思想や建物を、百済系桓武天皇は、その唐の儀式により全て否定するのです。
唐の即位の儀式では、祖神である天神から命を受けるのが常識です。もし、天皇家の祖神が天照大神であるのなら、桓武天皇も、祖神を天照大神にしなくてはなりません。しかし、桓武天皇は、祖神を父光仁天皇としたのです。そして、即位式を伊勢神宮でおこなわなかっただけではなく、貴族による伊勢神宮の祭祀を禁止し、更に、奈良時代におこなわれていた庶民による星祭も禁止してしまうのです。それは、藤原氏が改竄した伊勢神宮の前身が、685年に敵国新羅系天武天皇が建立した、北極星(太一)を祀る「道教の観」であったことを、桓武天皇は知っていたからです。
そして、万世一系の桓武天皇家では、なんと約千年後の孝明天皇まで、正式に伊勢神宮には参拝していなかったのです。百済系桓武天皇家では、明治天皇が始めて正式に伊勢神宮に参拝したのです。
祀る祖神が異なると言うことは、前天武天皇家とは別の王朝が、平安時代に興ったことを意味しているのです。万世一系の天皇家とは、770年から始まる亡命百済王朝のことだったのです。このことを証明するように、百済系の桓武天皇家を祀る寺では、新羅系の天武天皇から女帝称徳天皇までの位牌は存在していないのです。
秦氏の支配地の山背国を武力により乗っ取った桓武天皇は、781年長岡京に遷都するのです。
更に、その長岡京の砦より出撃する、唐進駐軍の指揮の下、桓武天皇軍は、比叡山を死守する飛鳥王朝残党軍を壊滅すると、794年平安京に遷都するのです。その後、母国東突厥帝国が滅んだため、軍事支援が受けられない飛鳥王朝残党軍は、802年胆沢城を築きそこを拠点に北上する唐進駐軍と桓武天皇軍により、出羽・陸奥の北限まで追い詰められていくのです。その陸奥国の北限には資源の埋蔵が確認されていないため、唐進駐軍は更なる進撃はおこなわれなかったのです。そして、陸奥国全土が侵略されるのは、四百年後の平安末期なのです。
桓武天皇は、古代エジプトの神官が勝手に神様を創作し、王の権限を制約する神官を抹殺する宗教改革をおこなったアメンホテプ四世と同じに、奈良の都で我が物顔の仏教組織を壊滅させるため、僧侶を奈良の都に封じ込めるわけです。
奈良の仏教組織は、藤原氏の支配下で、貴族相手に、賭博・聖婚(売春)・高利貸しをおこなっていたのです。それらの悪行が、実際は鉱毒中毒であったのに、奈良の地獄を招いた原因と考えた、桓武天皇は、奈良仏教の平安京への布教と末寺の建設を厳しく禁止したのです。
紀元一世紀に国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教は、異国に布教をすることを名目に、侵略のための武器として、国際交易商人に利用されていくわけです。渡来人を調べる「寺・ジ」が、やがて、仏像を祀る建物となると、そこは、治外法権の建物に変身してしまうわけです。その治外法権の建物「寺・ジ」では、僧形の国際交易商人が、現地の豪族を、賭博・聖婚で接待する場となるわけです。
ですから、大乗仏教が栄えると、僧として相応しくない者が金の力で得度を受け、僧侶となり、治外法権の「寺・ジ」で、風紀を乱す行為をおこなうのです。北魏での仏教弾圧(446年〜452年)、北周での仏教弾圧(574年)、唐での仏教弾圧(845年)などは、「寺・ジ」での風紀を乱す行為を禁止するためにおこなわれていたのです。
日本国の平安時代に、その売春と博奕とが宗教施設内でおこなわれていたことを裏付ける史料として、真言宗の別格本山、高雄山神護寺の再興のための起請文に、次のような一文があるのです。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師を入れたりしてはならない。

桓武天皇は、皇后・母・側近の死と度重なる地震・落雷・不審火などの災難が、桓武天皇が謀殺した井上皇后・他戸皇太子・実弟早良親王の怨霊によるものと考え、平安京の支配国の唐から、それらの怨霊を鎮めるためと、そして、藤原氏が支配する奈良仏教壊滅のために、新しい宗教を導入することを考えるわけです。それが、801年遣唐使の任命となるわけです。しかし、この第十四回遣唐使(14回は暫定的回数。現在も遣唐使船の回数は確定していません。それほど遣唐使船には謎が多いのです。)には、藤原氏の陰謀が隠されていたのです。
801年第十四回遣唐使に任命された者は、遣唐大使従四位下藤原朝臣葛野麻呂、副使従五位下石川朝臣道益などであったのですが、その後遣唐大使から何の音沙汰も無く、その人事発表二年後の803年から唐への出発準備にとりかかるのです。
そして、803年4月16日遣唐使船団一行は、難波津を出航するのです。しかし、大使には御被三領、御衣一襲、金二百両、そして、副使には御衣一襲、金百五十両が、桓武天皇より下賜されたものが、その難波津出航後五日で、瀬戸内海で難破し、そして、唐への献上品と多くの留学生の人材が船と供に、海の底に消えてしまうのです。そして、奇跡的(?)に生き残った藤原朝臣葛野麻呂と石川朝臣道益は、803年5月22日、平安京に帰還して、節刀を奉還しているのです。
そして、翌年804年5月12日、再び難波津から、遣唐使船が出航しているのです。その船団は四隻で、第一船は遣唐大使藤原朝臣葛野麻呂で、留学僧空海が、そして、第二船は副使石川朝臣道益で、請益僧最澄が乗船していたのです。
そこで疑問が起こるのです。それは、第十四回遣唐使船の瀬戸内海での難破と、空海の仏籍との関係です。空海は、803年の遣唐使船出航時では、仏籍には入ってはいなかったのです。そして、大学を中退した後の七年間の経歴は不明なのです。その空海が、藤原氏の支援により、一年の修行により仏籍に入れたのです。そして、804年藤原朝臣葛野麻呂が指揮する第一船に、私僧の留学生として、乗り込むのです。この空海と藤原氏との謎の関係は、後ほど明らかにされるのです。
この留学僧空海と最澄にも、疑問符が付くのです。それは、留学僧の修学年は二十年と決まっているのに、空海は二十ヶ月、そして、最澄は、何と八ヶ月で帰還しているのです。そして、唐への往路については、その経過が分かるのに、その帰路については、客観的な史料が無いのです。
そして、更に不思議なのは、「新唐書」には、「貞元年間の末年(804年)に桓武という王が使者を遣わして朝貢してきた。学生橘逸勢、僧空海は、滞在して学業を修めることを願い、二十余年の歳月がたった。」と記しているのです。何故、唐政府に、二十ヶ月を二十年と偽ってまでして、僧空海は、日本国へ帰還しなくてはならなかったのでしょうか。それは、最澄が、八ヶ月の唐の滞在で、日本国へ帰還していたのを、藤原氏が知ったからです。
では、八ヶ月で帰朝した最澄は、何を目的に留学僧として入唐したのでしょうか。表向きには、奈良仏教に対抗するために、中国で智(チギ・538年〜597年)が「法華経」に基づいた瞑想法を実修する「天台宗」として開発した教えを、日本国に導入するため、と云われています。しかし、805年最澄が、桓武天皇の命により、天台宗を創めるも、806年帰朝の七歳年下の空海に、頭を下げて、その弟子となり、仏典の多くを借り受けているのです。
その最澄の入唐の謎を解くヒントは、最澄の親は近江出身者であったことです。近江の古は、百済国のコロニーがあった所です。
そこで、最澄が乗船した第二船が、中国の何処へ漂着したかを調べれば、そこは、揚子江より南よりの明州だったのです。この一行は、9月1日長安に向かい、11月15日には長安に着いていたのです。しかし、最澄は、9月12日明州刺史孫階より、その南にある台州行きの通行証を発行してもらい、明州から直接、台州の国清寺に向かっていたのです。そして、帰朝したのが、翌年の805年1月であるのです。帰路の船旅を入れて、入唐の9月より実働四ヶ月で、天台宗の奥義が究められるものなのでしょうか。
では、最澄への、桓武天皇からのミッションは何んだったのでしょうか。それは、北からのウイグル、そして、西からの吐蕃の侵略による政情不安の唐からの、亡命百済民の、平安京への移民手続きであったのです。
そのことを証明するように、最澄の帰朝後、桓武天皇が謀殺した井上皇后・他戸皇太子・実弟早良親王の怨霊に祟られて人気(ひとけ)のない平安京には、亡命百済民の移民で溢れるわけです。そして、桓武天皇は、その中国からの移民の多くを貴族として採りたてるのです。
では、藤原氏により支援された空海の、真の入唐の目的は何だったのでしようか。
空海の「御遺告」によれば、蘇州から七百キロ南の衡州に漂着したと述べているのです。しかし、空海の第一船の責任者藤原葛野麻呂の上奏では、「8月10日福州長渓県赤岸已南の海口に到れり」、と述べているのです。いずれにしても、唐の都長安への近道は、揚子江口の蘇州へ上陸するのが一番なのに、数百キロも南に漂着した意味がわかりません。
しかし、五島列島田之浦から九州を南下して坊津→奄美→瑠求(台湾)→福州とするならば、第一船の福州への唐渡ルートは、理解できます。そこは、藤原氏による密貿易の南インドのマラバルへの中継ルートだからです。
福州に上陸してからも、不思議なことがおこるのです。空海側の史料では、遣唐使船である第一船が、福州の役人により不審船の漂着として認識された、と述べているのです。
唐と日本国との正式な遣唐使船であるのならば、たとえ見知らぬ土地に漂着しても、そこが唐の支配地であるのならば、不審船扱いは、空海側の創作であるのかもしれません。それを証明するように、藤原葛野麻呂の上奏では、「9月1日明州より京に入り、11月15日長安城に到る」、と記述しているのに、福州漂着後のトラブルや空海の中国語の筆談による活躍については全く述べてはいないのです。
更に不思議なのは、空海側が、二十ヶ月の滞在を二十年として帰国した理由を述べた「本国の使に与えて共に帰らんと請う啓」によると、「寝食を忘れて勉強した結果、十年かかる学業を一年で成し遂げて、密教の真髄に到達することが出来ました。この上は一刻も早くこの教えを持って帰り、天皇の命令にお答え申し上げたい。」と、桓武天皇の命で渡唐したように述べていることです。
しかし、空海は、806年帰朝後、806年桓武天皇が崩御し、809年平城天皇が嵯峨天皇へ譲位するまでは、九州の大宰府に留まり、平安京へは登れなかったのです。それは、公費留学の最澄とは異なり、私僧の空海は、奈良仏教を支配している藤原氏がスポンサーであることを、反藤原氏の桓武天皇側は知っていたからです。実際には、空海は、桓武天皇に嫌われていたのです。それは、空海の出自が、佐伯部であったからです。
佐伯部とは、713年の好字令により発明された、漢語二文字で表された部族名です。それ以前の佐伯部は、蝦夷と呼ばれていたのです。蝦夷とは、唐進駐軍側が付けた蔑称で、「エビのようなヒゲのあるエビス」、と言う意味です。つまり、蝦夷とは、反唐軍側の蘇我王朝軍(天武朝は、第二蘇我王朝)のことだったのです。
唐進駐軍に敗れた蝦夷(蘇我王朝軍)は、飛鳥ヤマトから駆逐され、吉野の山奥や四国、あるいは山背国の山奥へ落ち延びたわけです。その四国へ落ち延びた蝦夷が、713年の好字令により、佐伯部と呼ばれるようになるわけです。漢字二文字の地名・人名の多くは、713年以降の表記であるのです。
何故、空海が述べる遣唐使物語と藤原氏が述べる遣唐使物語とが一致しないのでしょうか。それは、空海と藤原氏との渡唐の意図が異なっていたからです。
では、空海は、唐から何をもたらしたのでしょうか。空海側の史料では、都で一生懸命に勉学に励んだ結果、十年かかる学業を一年で成し遂げた、と述べるわけです。しかし、藤原葛野麻呂の上奏では、「内は節度を疑い、外は吐蕃を嫌う。京師の騒動暫くも休息すること無し。」、と述べているように、唐の都長安では、年賀の儀式後には、天子徳宗の崩御と、その後の継嗣争い、そして、西隣の吐番軍の侵攻などにより、騒乱時様態で、空海が落ち着いて勉学できるような状況ではなかったのです。
そこで、空海側による、「長安において、中天竺国の般若三蔵及び恵果大阿闍梨(アーチャリー・先生)に逢うことができ、その直後の教えを受けて寝食を忘れて勉強した結果、十年かかる学業を一年で成し遂げて、密教の神髄に到達することができました。」、と述べていることが疑われるわけです。
では、空海に密教を授けたと言われる恵果先生とは、何者であったのでしょうか。
八世紀末から九世紀にかけての中央アジアと東アジアは、イスラム帝国軍の急速な膨張により、周辺国は混乱状態となっていたのです。唐の都長安を一時占領した吐蕃軍も、西から侵攻するイスラム帝国軍の影響によるのです。このイスラム帝国軍の膨張は、南のインド大陸にも多大の影響を与えたのです。
インド大陸を南下するイスラム帝国軍により、インド大陸でも民族移動が起こるわけです。そこで、最初に逃亡するのは、王族・宗教者・豪族などの金持達です。八世紀末には、南インドと唐とは、定期的な国際交易船により、繋がっていたのです。そこで、唐の都長安には、インドの王族・宗教者・豪族が亡命していたのです。その宗教者の多くは、バラモン教を取り入れたヒンズー教者であったのです。しかし、唐は則天武后(690年〜705年)の趣味で、仏教が盛んであったため、ヒンズー教僧は、仏教僧へ変身してしまうわけです。
その変身仏教僧により、空海は、密教を教授されるわけです。では、密教(タントラ)とは何なのでしょうか。歴史教科書の説明では、仏教での表の教えが顕教で、裏の秘密の教えが密教である、とするのです。
しかし、密教の密は、秘密の密ではなく、「ミル」、つまり、光(ミトラ)の漢訳語が「密」となるわけです。つまり、密教とは、本来の意味は、「ひかりの教え」→「太陽の教え」であったのです。この密教の本来の意味を知っていた空海は、仏の中心に「大日如来」を置いているのです。「大日如来」の流れは、大日如来→遍照鬼→ビローチャナ→ミトラ神→太陽神、であるのです。
この空海が、バラモン教を取り込んだヒンズー教僧から学んだ「密教」が、日本国にもちこまれると、バラモン教やヒンズー教の神々と共に、奈良仏教とは異なる儀式や仏教グッズが開発されるのです。それらは、力のある言葉(マントラ=真言・ダーラニー)、護符(ヤントラ)、お守り(カヴァチャ)、手印(ムドラー)、護摩(拝火のゾロアスター教から導入)等です。これらの仏教儀式や仏教グッズは、今では寺や神社ではあたりまえのものとなっているのですが、それらはヒンズー教思想の影響を強く受けたものであるのです。
更に、奈良仏教の仏像のビ・ルシャナブツ(奈良の大仏)のバラモン教外道の鬼に対抗して、空海側は、バラモン教とヒンズー教の神々を、日本列島に持ち込むのです。その平安仏教に導入されたバラモン教とヒンズー教の変身仏像群は、基本的には四つの群に分けられるようです。それらは、「如来群」、「菩薩群」、「明王群」、「天群」です。
「如来」とは、悟りを開いた者の意味です。
「菩薩」とは、悟りを求めて修行している者の意味です。
「明王」とは、ヒンズー教の神で、仏を護衛する神の意味です。
「天」とは、ヒンズー教の天に住む神で、仏を守護する神の意味です。
その四群の平安仏教に導入された仏像は、時の支配者の需要に答えて、○○如来、○○菩薩、○○明王、○○天など色々な仏像として開発されて、今日の仏寺に安置されているわけです。
更に、バラモン教から変身した仏教僧の密教には、「化学の教え」も隠されていたのです。
紀元前八世紀にインドで発明されたバラモン教が、先住遊牧民族トラヴィダを屈服させたのは、輪廻転生などの教えだけではなかったのです。そのひとつに、薬物による意識改革があったのです。その薬物とは、水銀です。
水銀は、用い方により、消毒・解毒・意識の覚醒等の作用が期待できるのです。水銀には、知覚神経と自律神経を麻痺させる作用があるのです。そこで、バラモン教では、宗教体験を高めるために水銀の研究が盛んであったのです。
しかし、やがて、その副作用としての水銀中毒により、神経が麻痺することも知られてくるのです。その効果と副作用との葛藤は、やがて、水銀薬研究が秘密の技術となっていくわけです。
水銀は、自然状態で採取することは困難です。そこで、朱砂から水銀を採取する技術が確立されていくわけです。それが、やがて錬金術となるわけです。つまり、卑金属から貴金属への変身です。この技術は、騎馬民族スキタイにより、水銀アマルガム法の金メッキの技術として発展していくわけです。
バラモン僧は、朱砂から水銀を採る蒸留法の技術を開発していたのです。その朱砂は、日本列島の中央構造線で縄文時代から採取されていたのです。空海が誕生した四国讃岐は、伊勢→宇陀→吉野(海を越えて)→四国讃岐へと、中央構造線は続いていたのです。
水銀薬を開発していたのは、インドのバラモン教だけではありません。中国の土着宗教から発展した道教も、水銀薬を開発していたのです。
紀元前三世紀、秦の始皇帝は、長生術を信じたため、道士徐福に神仙薬(水銀薬)を求めさせるために蓬莱国(日本列島?)に、百隻の船に軍団、技術者、童男女二千人を同乗させ、派遣していたのです。それほど、水銀薬は、古代から、権力者や金持ちには魅力あるものであったのです。
空海の、真の渡唐の目的は、藤原氏が遣唐使船を計画的に沈没させて唐への朝貢品を掠め取るのとは異なり、長安に亡命していたバラモン僧から、錬金術の極意書を買い求めるためであったのです。それを裏付けるように、空海は、勉学に必要以上の大量の砂金を唐に持ち込んでいたのです。
そのように、錬金術師空海を眺めると、そこには仏教者よりも、鉱山師の姿が現れてくるのです。空海が、大学を中退した原因のひとつに、山岳修行者から、記憶術としての虚空蔵求聞持法を授かったことがあげられます。
その虚空蔵とは、明星→金星→虚空蔵→金属の流れにあるのです。そして、虚空蔵は、サンスクリット語で、アーカーシャ・ガルバと言い、アーカーシャとは、空・虚空で、ガルバとは、胎・蔵の意味です。
貴金属の多くは、隕石が落下したところで採取されるのです。そして、虚空蔵尊とは、隕石のことで、それは岩裂神、根裂神とも呼ばれ、鉱山神となるのです。つまり、虚空蔵(隕石)を祀る処には、鉱脈が存在するために、鉱山が多くあるのです。空海が、四国に多くの寺を建立しているのですが、その近くには、銅山・銀山が多くあるのは、そのことを示しているのです。
この空海側の水銀鉱脈探索は、やがて、従来の産鉄族タタラ(突厥帝国残党民)、そして、山の民(蘇我王朝残党民)との権利争いとして発展していくわけです。その鉱脈探索の山の民は、空海側の仏教勢力に敗れ、山伏修験者として変身していくわけですが、山中で冶金のための火を治す「火治・ひじり」が、やがて、空海の創建した高野山の寺の奴隷となり、「高野聖・ひじり」となるわけです。ですから、「山伏修験の行くところに金属資源がある。」との言い伝えがあるのはそのためです。
この高野聖の奴隷身分を拒否した産鉄族タタラや山の民は、山奥に逃れ、反仏教組織として戦うわけです。その山の武装民は、やがて、仏教組織に恐れられることにより、「てんく゜・天狗」と蔑称されていくわけです。このことは、反仏教の河の民が、「カッパ・河童」と蔑称されていくのと同じです。
さて、この章の表題の武士とサムライは、どのようにして発生したのかを、これから述べることにしましょう。これまでの記述は、そのためのウォーミングアップであったのです。
平安時代に出現した武士の発生を理解するには、飛鳥ヤマトの真の支配者の実態と、藤原氏の実態、、平安王朝を創生した亡命百済王朝の実態、そして、奈良仏教と平安仏教の実態を知らなければならないのです。それらの予備知識を知ることで、武士の発生が理解できるのです。
第二蘇我王朝の天武天皇系最後の井上皇后・他戸皇太子を謀殺して、その王権を簒奪した百済系桓武天皇は、秦氏(=ギリシャ・ローマ文化新羅国渡来民)が支配していた山背国を、唐進駐軍と桓武天皇軍とにより、乗っ取ると、その前支配者の秦氏一族を、藤原氏傀儡の豊臣秀吉が騎馬民族末裔の徳川家康を、1590年関東の荒川河口の湿地帯(後の江戸)に移封したように、淀川河口の湿地帯に追いやるのです。
そして、奈良の都を、ヨシュア教(後のキリスト教)に酷似した大乗仏教思想とユダヤ教に酷似した中臣神道(中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。)との祭祀者として、実効支配していた藤原氏を、その配下の仏教組織(南都仏教)もろとも、奈良の都に封じ込めてしまうわけです。その表向きの理由は、奈良仏教は、貴族相手に賭博・売春(聖婚)・高利貸し(借上)をおこなって、堕落してしまったというのです。
そこで、桓武天皇は、奈良仏教思想を抹殺するために、百済系の最澄を唐に派遣して、「聖書」の「ヨハネの福音書」ソックリの「法華経」を信奉する中国天台宗を導入して、ローマ・カトリックがミトラ教地下神殿を破壊して、その跡に、バチカン聖堂を建てたように、秦氏の祭祀場があった比叡山の景教寺を破壊して、その跡に、821年延暦寺東塔を建立するのです。そして、秦河勝の建立した、景教寺の蜂丘(岡)寺を破壊して、その跡に、仏寺の広隆寺を建立するわけです。
そして、秦氏が祀る太陽神ミトラを魔多羅と変名し、804年ミトラ教儀式の牡牛を屠ることを政令で禁止するのです。その平安王朝のミトラ教(景教)抹殺手段に対抗するために、秦氏末裔は、太陽神の化身の牡牛を、「牛頭天皇」と呼称するのです。
飛鳥時代より、山背国の比叡山で、秦氏が祀る太陽神ミトラの化身の牡牛を屠る儀式をおこなっていたものが、794年百済系桓武天皇にその支配地・比叡山を乗っ取られると、桓武王朝は比叡山に、中国天台宗を導入して、秦氏の祭祀場跡に、仏寺の延暦寺を建立するわけです。
そして、比叡山に祀られていたミトラ神を歴史上抹殺するために、魔多羅神登場の物語を創作するわけです。その物語とは、848年唐より帰朝した慈覚大師円仁より、叡山常行堂が創建され、その堂で念仏三昧をしていた折、魔多羅神が示顕したとするのです。しかし、魔多羅神が現れたのは、それが最初ではなく、慈覚大師円仁が、唐からの帰朝途中で、「私を崇敬しなければ浄土往生はかなわない。」との魔多羅神のお告げを聞いていた、と言うのです。そこで、比叡山の常行堂に魔多羅神を勧請したというのです。
そのような魔多羅神勧請物語を創作することにより、先住民の秦氏の神・ミトラ神の歴史を隠蔽したのです。
その奈良仏教抹殺の処置に対抗するために、遣唐使船の運営をおこなっていた藤原氏は、804年錬金術師空海を仏教僧に変身させて渡唐させ、最澄の動向を探るためと、そして、桓武天皇の奈良仏教抹殺の宗教政策に対抗するために、空海を南都仏教の手先として利用することを考えるわけです。このことは、つまり、蝦夷末裔の空海を使って、亡命百済王朝を制する、「夷を以って夷を制す。」藤原氏得意の戦術であるのです。
平安初期は、宗教改革の時代であったのです。その背景には、奈良仏教壊滅だけではなく、平安京に災害をもたらしている怨霊を鎮めるのが目的のひとつでもあったのです。
唐進駐軍と桓武天皇軍は、資源の眠る陸奥国の支配を目的に、蝦夷討伐に大軍団を派遣するのですが、騎馬戦術に長けている蝦夷軍に対して、全戦全敗であったのです。
しかし、蝦夷軍を軍事支援をしていた東突厥帝国が744年に滅亡してしまった結果、蝦夷軍にも厭世気分がおこって来るわけです。そこを見透かして、白系チュルクの坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁のアテルイを騙して、京に連れて来て、そこでアテルイを斬首してしまうのです。このことにより、蝦夷軍の勢いが削がれていくのです。
蝦夷軍が、関東から北方へ追いやられるのは、平安朝の巧みな戦略もあったからです。騎馬民族は、その戦いで馬が疾走できる平原が無ければ、その潜在闘争力が発揮できません。そして、騎馬民族は、農耕をしないため、必要な食料は農耕民との交易によって調達していたのです。その農耕民との交易のために、騎馬民族は、貨幣や為替の商取引を開発していたのです。
この騎馬民族の平安王朝との戦闘を維持するための条件を、平安王朝は条例で破壊したのです。それらは、貨幣の流通の禁止です。そして、貨幣の代わりに、関西では「米」を、関東では「絹」をつかったのです。そのため、蝦夷が実効支配していた関東の農耕民は、山の麓や川沿いなどの空き地に、桑の木を植えていくわけです。
この桑畑の北上と、蝦夷軍の北への撤退に関連性が確認されるのです。つまり、関東平野から北に広がる桑畑は、騎馬民族の軍事活動に対しての、自然のバリケードの役割を果たしていたのです。そして、山里の農耕民から食料を調達したくても、貨幣が使えないため、食料調達のために、新天地を北方に求めなくてはならないわけです。
そのような戦略により蝦夷軍団は、平安王朝に敗れていくわけです。奈良時代までは、敗れた武人は、殺されるか、奴隷になるか、そして逃亡するかの方法しか存在していなかったのです。
しかし、平安時代になると、敗残兵の処刑は禁止されるのです。それは、血の禁忌思想の平安仏教の平和主義のためではなく、平安王朝を軍事的に支えている唐の軍事事情によったのです。
唐は、西隣の吐蕃軍の度重なる侵攻と、北方の騎馬民族ウイグルの南下により、国境を守るための軍事力の増強が必須だったのです。唐の軍団は、722から傭兵制度となっていたため、農民の子弟を子供の頃から軍事訓練をさせていなかったため、自民族の軍団を編成することができなくなっていたのです。そこで、日本国の陸奥国の弓馬の巧みな蝦夷軍敗残兵の需要がおこるわけです。
陸奥国で破れた蝦夷の武人は、関西に連行され、盆地の捕虜収容所に、唐へ送り込むための軍事再教育のために押し込められるわけです。それらの捕虜収容所は、別所、湯浅、散所、垣内などと呼ばれていくのです。これが「部落」の始まりです。
この捕虜収容所の蝦夷武人に、怨霊渦巻く平安京で、新たな仕事が起こるのです。それは、戦闘ではなく、「武芸」です。
桓武天皇は、唐進駐軍の軍事支援の下、794年秦氏の支配地であった山背国の平安京に遷都するわけですが、その地を追われた蘇我王朝残党兵や秦氏が、近隣の山奥からゲリラ戦を仕掛けていたのです。平安京は、そのゲリラ戦の不審火だけではなく、落雷・地震が頻発に起こっていたのです。
科学の知識が乏しいのと、奈良時代の平城京の鉱毒中毒による地獄世界を実際に経験していたことがトラウマとなっている平安京の住民に、唐からもたらされたバラモン教やヒンズー教のおどろおどろしい閻魔様のいる地獄世界を、平安仏教信者獲得のために、平安仏教徒が絵解きで宣伝したために、それらの不審火・落雷・地震は、井上皇后・他戸皇太子・実弟早良親王の怨霊によるものと信じられていたのです。
そこで、怨霊の祟りに苦しむ桓武天皇は、最澄に天台宗を創めさせるのですが、何せ八ヶ月の唐留学では、怨霊鎮静の儀式をおこなうことができなかったのです。その弱みに付け込んで、奈良仏教に敗れた道教や景教の師は、陰陽師に変身して、怨霊退治に活躍するわけです。しかし、平安京を呪う怨霊の正体は、反亡命百済王朝の蘇我王朝残党兵や落雷・地震であるので、それらの陰陽師の祈祷では退散させることができなかったのです。
更に、奈良の都に封じ込められた藤原氏も、桓武王朝の転覆を図るために、色々な策謀を図っていたのです。
そのひとつが、桓武天皇の子息安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)兄弟の確執を煽ることです。長岡京で暗殺された藤原種継の子供の藤原仲成・薬子兄妹は、病弱な平城に、親ほどの薬子が「女の武器」で接近するのです。その陰謀を知った桓武天皇は、藤原薬子を平安京から追放するのです。しかし、桓武天皇が806年崩御し、平城天皇が即位すると、薬子兄妹は、平城天皇に急接近するのです。
病弱な平城天皇は、809年退位し、嵯峨天皇が即位するのですが、薬子兄妹は、平城上皇をそそのかして、810年嵯峨天皇を抹殺するために兵を挙げるのです。これが藤原薬子の乱です。
藤原薬子の軍団は、嵯峨天皇軍団にすぐさま壊滅されるのですが、嵯峨天皇は、今後の藤原氏の不穏な動きを探るためと、それを阻止するために、令外官として検非違使を置くのです。検非違使の役割は、嵯峨天皇を藤原氏の陰謀から守るため、都での治安警察業務であったのです。ですから、その人材は、亡命百済貴族の子弟であったのです。
そして、嵯峨天皇の近くに侍(はべる・さぶらう)る武装者は、やがて、侍(さぶらう)→サムライと呼ばれていくわけです。サムライの業務は、敵との戦いではなく、天皇の秘書役の武人であったのです。その資格は、亡命百済貴族の子弟で、漢字が読め・書ける秘書業務ができる者であったのです。
嵯峨天皇は、病弱な平城天皇と異なり、子作りが盛んで、その皇子皇女の数が分からないほどいたのです。平安王朝の財政は、陸奥国の侵略戦争などに使われ、傾きかけていたのです。そこで、嵯峨天皇は、数多くの皇子皇女を公費で養育できなくなったため、臣籍降下のために、814年源氏賜姓をはじめるわけです。これが世に言う「嵯峨源氏」の始まりです。因みに、「公家桓武平氏」の賜姓は、825年であるのです。
そして、亡命百済王朝が、日本国の祖であるとの書、「新撰姓氏録」を、814年に編纂するのです。この「新撰姓氏録」の皇・神・蕃の民族差別により、亡命百済貴族は、日本国の皇族の祖となるわけです。因みに、奈良時代を支配していた藤原氏は、祭祀氏族の神籍で、そして、平安京のある山城国の地を飛鳥時代から支配していた秦氏は、蕃籍の渡来人とされてしまうのです。
嵯峨天皇は、藤原氏の軍団を壊滅させても、不審火・落雷・地震が収まらないため、その対策として、怨霊が前政権の王者の無念によるものだから、その前政権の臣下の子孫に、怨霊鎮めをさせるのです。その怨霊鎮めの儀式が、「武芸」であるわけです。
「芸」とは、神を、歌謡・舞で楽しませるための神事であったのです。平安京以前には、山背国を支配していた秦氏は、太陽神を祀るため、太陽の化身の牡牛を屠る儀式をおこなっていたのです。当然、そこには、歌謡と舞があったのです。その秦氏の芸は、亡命百済王朝の陰謀により、秦楽→申楽→猿楽と貶められてしまうのですが、平安初期には、未だその秦楽の霊力は健在だったのです。
そこで、蝦夷の前身とは、飛鳥時代の蘇我王朝の武人であったわけですから、井上皇后・他戸皇太子は第二蘇我王朝末裔であるわけですから、その蘇我王朝の怨霊は、蝦夷の「芸」により鎮められるわけです。
しかし、実際に、蝦夷の「武芸」で怨霊が鎮められたのは、怨霊の不審火の元は反亡命百済王朝の蘇我王朝残党兵によるわけですから、その蘇我王朝残党兵は騎馬民族末裔であるため、騎馬民族の掟「同族は闘わず。」を守ったにすぎません。蝦夷の「武芸」に対して、「騎馬民族の掟のため」、山の民は攻撃を仕掛けられなかったのです。
何事の儀式でも、そのパフォーマンスにより、その影響力が発揮するのは、古代も現代もかわりありません。ですから、ひとびとのこころを揺さぶるには、その儀式の仕掛けが派手で、今までに見たことも無いほどのものであることが必要であるわけです。
そこで、怨霊鎮めを命ぜられた蝦夷は、「武芸」の儀式をおこなうための小道具を開発するわけです。それが、派手な鎧と、角のある冑、そして、妖艶な光を放つ片刃の刀(日本刀の祖)です。
しかし、蝦夷は、平安王朝の捕虜の立場であるので、それらの「武芸」の儀式武具は、鎧は総革製で、刀の刃は実戦に使えないように薄かったのです。
日本武士の冑には、何故に二本角があるのでしょうか。一般的説明では、昆虫のカブトを真似て、冑に角を付けた、としているのです。昆虫のカブトの角を真似たのであれば、その角の並びは、横ではなく、縦でしょう。それでも昆虫の角であると説明するのならば、カブトではなく、クワガタでしょう。クワガタであるのならば、その角は横にあるからです。
では、冑の角が、昆虫を模したのでなければ、それは何を模したのでしょうか。それは、鹿と牛の角です。鹿は、騎馬民族スキタイのトーテムです。牡牛は太陽神の化身、ミトラ教を信じるローマ帝国軍のシンボルです。それらのオリエント・ユーラシア渡来の軍人の末裔である蝦夷には、鹿角や牡牛の角がある冑を被る武人は、神と一体となって闘うことにより、不死身であると信じられていたのです。
その角のある冑と派手な鎧と、妖艶な刀で「武芸」をおこなう蝦夷は、検非違使の配下として、前政権の神を封じ込めた神社で、歌謡と舞により、怨霊鎮めをおこなうわけです。この怨霊鎮めの武人は、やがて、民衆の畏敬を受けるようになると、蘇我王朝残党の蝦夷による亡命百済王権転覆の不安を抱く平安王朝は、民衆との隔離のため、「武芸者」の貶めに掛かるのです。
日本列島には、景教(ミトラ教)の太陽神、道教の北極星(太一)、大乗仏教の仏、そして、藤原氏が創作した天照大神が渡来する前には、カムイ・モノという精霊が存在していたのです。それらの精霊は、日本列島のあらゆる処に存在していたのです。
それらの精霊は、太陽や北極星などの自然神を祀る宗教とでは共生できたのですが、ブッダ(覚醒した者)などの釈尊のキャラクタを真似た人工神を祭る宗教とは、共生ではなく、対立したのです。
やがて、人工神のブッダの宗教(釈尊の思想とは正反対の思想)が、武力により、他の自然神宗教を壊滅させると、日本列島古来のモノは、仏敵の化け物として、モノノケ(モノの怪)として貶められてしまうのです。
前政権の支配者が眠る古墳近辺で、前政権の神(カムイ・モノ)が封じ込められている神社で、「武芸」により、前政権の怨霊(カムイ・モノ)を鎮めるために、歌謡と剣舞の儀式をおこなう蝦夷は、やがて、先住民から「もののふ・モノの夫」と呼ばれていくわけです。
先住民から、神の僕「もののふ」と呼ばれていく蝦夷は、やがて、平安王朝にも平安仏教組織にも、抹殺すべき存在となっていくのです。それは、騎馬民族には、草・動物による薬物創生の技術があったからです。
飛鳥時代の蘇我王朝では、草・動物による創薬業も盛んにおこなわれていたのです。鎌倉時代に発生する、騎馬民族末裔の武士の流れにある役座が祀る神様は、薬草学の神様・神農様であることでも、騎馬民族が創薬業に長けていたのが理解できます。古代から現在まで、大坂や富山に、薬商が盛んであるのは、そこは、大陸から渡来した騎馬民族末裔が多く暮していたからなのです。
中世ヨーロッパで、キリスト教により、魔女狩りがおこなわれていたのは、経済的理由も原因のひとつであったのです。
キリスト教の収入源である、庶民からのお布施が、民間の医療行為に支払われることにより、激減してしまうのです。それは、キリスト教教会に布施するよりも少ない金額で、動植物の薬により、民間治療者は病気を治してくれるからです。
庶民が、神様にすがるのは、経済的理由と病気・怪我の治癒のためによるのです。中世ヨーロッパのキリストの神様は、貧乏人に、お金をめぐむのではなく、お布施としてむしりとる存在だったのです。ですから、庶民が神様に求めることは、商売繁盛の「願い」だけと病気の治癒「願い」なのです。その庶民に対しての医療行為では、キリストの神様への祈りよりも、民間治療者(多くは女性)の技術の方が優れていたのです。
それは、古代の医療とは、もともとは薬草や魔術と関係があったからです。そのことを証明するように、「医学」を意味するギリシャ語(pharmakeia)には、「薬」「魔術」の意味もあるのです。
キリスト教は、カトリックもプロテスタントも、神に祈るだけでは治療ができないことを悟ると、教会公認の「男性」の医師に、下剤、瀉血、燻蒸消毒、ヒル吸血、水銀薬、そして、ランセットによる英雄医学を認めるのです。その英雄医学の名残が、床屋さんの赤(動脈)と青(静脈)のサインであるわけです。中世ヨーロッパの床屋さんでは、髪を調整するだけではなく、瀉血もおこなっていたのです。
しかし、自然と暮らし、病に患った動物の治癒過程の生態を観察し、個々の薬草の薬理作用を理解し、そして、臨床としての治療経験が豊富な賢女の治療技術は、キリスト教公認の英雄医学の医師の敵ではなかったのです。治療に失敗したキリスト教公認の医師は、その失敗を悪魔の仕業に転化するのが日常だったのです。
その医療行為に長けた賢女の存在が、キリスト教をして、魔女を発生させるのです。キリスト教は、カトリックもプロテスタントも、寄付を募るために教会に庶民を集めるための目的に、医療を独占するために、薬学に詳しい賢女の治療者を、魔女として、聖なる炎で浄化してしまうのです。そのために、キリスト教の牧師は、カトリックもプロテスタントも、悪魔の手下の魔女物語を創作して、教会で病に苦しむ庶民を洗脳するわけです。
前政権の支配者が封じ込められている神社で、「もののふ」として、庶民から畏怖される武芸者に対して、平安王朝は、中世ヨーロッパの魔女狩りのごとく、武芸者の貶めにかかるのです。その先鋒者が、空海なのです。
空海は、唐より帰朝しても、桓武天皇、そして平城天皇から疎まれていたのですが、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位すると、弟子の最澄をとおして、嵯峨天皇に接近するのです。その接近の小道具のひとつが、水銀薬です。
水銀薬は、知覚神経・中枢神経を刺激する作用があるため、子作りが好きな嵯峨天皇は、空海に興味を示すわけです。
南都仏教の手先として、藤原氏により送り込まれた空海は、やがて、嵯峨天皇に気に入られていくのです。そして、平安王朝の儀式に取り入れられていく、空海の、バラモン教とヒンズー教思想を基にした「密教儀式」が、「もののふ」の蝦夷を、不可触賎民として貶めていくのです。
その根拠として、藤原氏傀儡の空海は、812年「性霊集」で、蝦夷を「非人のともがら」、と述べているのです。更に、「我および仏弟子にあらずば、いわゆる施陀羅悪人なり。」と、非仏教者(蝦夷)を施陀羅とも述べているのです。
施陀羅とは、インドのバラモン教が発明した、カースト制度に属さない、不可触賎民のチャンダラーを漢音化した言葉です。ユダヤ思想では、イスラエル民族を貶めるための、不可触賎民サマリア人のことです。
平安仏教は、その根底は、民族差別を助長する、インドのバラモン教思想・ヒンズー教思想です。それらの思想には、遊牧・騎馬民族を差別する思想が多く含まれていたのです。もともとバラモン教は、インドの先住民族の遊牧民トラヴィダを支配するために発明された宗教であったわけです。
空海が、騎馬民族を貶める行動にでたのは、キリスト教が有能な民間治療者を魔女として抹殺したように、経済的な理由もあったのです。
平安仏教は、奈良仏教が律令制度による税で賄われたのとは異なり、自費で組織を維持しなければならなかったのです。そこで、空海は、金集めのために、水銀薬・祈祷・護符・護摩などによる治療をビジネスとして考えていたのです。
仏教の経典には、「除一切疾病陀羅尼経」「能除一切眼疾病陀羅尼経」「仏説療痔病経」「仏説呪歯経」などがあるように、疾病の治療指導書が多くあるのです。それは、お布施を集めるための信者獲得の近道は、キリスト教も仏教も、まずは治療行為から始まるからです。
その治療のために、古代から鉱物・動物・植物から薬物を創製していたのです。そのため、鉱山師、遊牧民族、草原の民達は、日常生活において創薬の技術を獲得していたのです。中世ヨーロッパで医療行為が上手な医師パラケルススは、元は鉱山師(錬金術師)であったのです。
錬金術師空海は、唐から持ち込んだ創薬技術の、水銀と塩を混ぜて焼くことにより創薬した白粉を、平安貴族に売り捌くのです。その効能は、蝦夷による動植物からの創薬よりも、ある疾患に優れていたのです。それらは、堕胎と毛じらみの治療です。
古代の宗教ビジネスの聖婚では、神の代理の地母神・聖母・巫女・比丘尼は、清潔でなければならなかったのです。しかし、衛生状態がよくなかった古代では、毛じらみは多くの神の代理を悩ませていたのです。そこで、空海の創薬した白粉(後の京白粉)を髪にかけると、毛じらみがいなくなったのです。それは、水銀による滅菌・消毒作用のためです。
神の代理の地母神・聖母・巫女・比丘尼の末裔の遊女が、髪に櫛を挿す習慣は、毛じらみの駆除済みをアピールするためだったのです。つまり、櫛を髪に挿す遊女は消毒積みとのサインということです。
紀元前932年ヘブライのソロモン王が死去すると、今まで虐げられていたヨセフ族直系の部族は、「ソロモンはヤコブだ。」、と罵るのです。ヤコブとは、不正な手段で王権を簒奪した者の意味です。
そこで、レビ族末裔は、その罵りを抹殺するために、ヤコブがヨセフの父であるという物語を創作して、ヨセフ物語の前に挿入してしまうのです。その隠蔽技術により、ヨセフ族末裔のイスラエル民族は、ソロモンをヤコブと、罵ることが出来なくなってしまったのです。その反対に、レビ族末裔のユダヤ民族により、アッシリア帝国に滅ぼされて、アッシリアに同化したイスラエル部族は、不可触賎民サマリア人とされてしまうのです。
平安時代の神社で、怨霊鎮めの儀式をおこなうことにより、奈良時代の修験者出自の行基が遍照鬼(後の奈良の大仏・大日如来)の像を建立するために各地の山々を廻るうちに、何千何万の山の民が行基の下に集まったように、「もののふ」の武芸者の下に山の民が集まってきたのです。
そこで、唐進駐軍と桓武天皇軍に敗れた蝦夷の武芸者は、自らの出自を、民衆に語るわけです。それは、今は捕虜の武芸者であるけれども、二百年ほど前では、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の武人であった、ということです。そして、平安王朝の皇族は、百済の亡命民である、と言うのです。
それに対して平安王朝は、奈良時代の亡命百済民の食うや食わずの惨状を記述した書籍・絵画を粉砕し、レビ族がヤコブ物語を創作してヨセフ族の歴史を乗っ取ったように、「538年飛鳥ヤマトに仏教を伝来させたのは、百済聖王だ。」と言う物語を創作し、「日本書紀」に挿入するのです。そして、その百済仏教は、聖徳太子という立派な聖人が、飛鳥ヤマトに七寺を建立して、布教に努めた、との物語を創作するのです。そして、その創作物語で、秦氏の祖秦河勝は、聖徳太子の忠臣であって、仏寺の広隆寺を山城国に建立した、と述べるのです。
平安時代、騎馬民族差別の種を蒔いたのが錬金術師空海だとすれば、その種を発芽させたのは最澄です。最澄が唐から持ち込んだ「法華経」には、仏罰の思想があり、その仏罰が具体的に述べられているのです。
「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節には、「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べているのです。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

つまり、比叡山の天台宗は、「法華経に敵対する者は、仏罰としてハンセン氏病になる。」、と言うのです。
平安王朝は、「もののふ」の武芸者に集まる山の民や民衆を、その武芸者から隔離するために、その仏罰思想を利用するのです。
捕虜収容所にいた蝦夷や平安王朝に従わない秦氏一族は、山の民や民衆から隔離するために、中洲に集められるわけです。つまり、これが河原者の発生です。少しでも従う者は、坂地の部落に集められるのです。これが、夙(宿)の始まりです。その夙に集められた者は、寺や神社の奴隷として働かされるわけです。
その夙は、百済系の清水坂部落と、藤原氏系の奈良坂部落が中心です。そして、その清水坂と奈良坂の部落民は、平安王朝(京都)と藤原氏(奈良)との戦いに僧兵として利用されていくわけです。
そして、平安王朝は、中世のキリスト教が医療技術を持った賢女を魔女として社会的に抹殺したように、河原(中州)や坂にある蝦夷・秦氏の部落に、そのハンセン氏病患者の世話をさせて、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝末裔を、不可触賎民として貶めていくのです。
平安時代では、仏教は、庶民を色々な苦難から救うためのものではなく、貴族社会に取り入ってお布施を集めるために、色々な儀式をおこなっていたのです。ですから、平安仏教の、不可触賎民として武芸者を貶めるバラモン思想の宣伝は、未だ庶民には届かなかったのです。その騎馬民族差別思想が庶民に広がるのは、第二百済王朝(桓武平氏末裔北条政権1203年〜1333年)での、民族差別の法華経思想に染まった鎌倉仏教の発生と同時なのです。
平安京の街の仏寺や神社で、怨霊鎮めをおこなっていた鹿・牡牛角を付けた冑・派手な鎧・妖艶な刀で武装した武芸者は、その祖は、オリエント渡来の太陽神ミトラを祀る祭祀者の流れにあるわけですから、その儀式には、太陽の化身牡牛を屠ることがあるわけです。804年に牡牛の屠殺儀式の禁止令が出されるほど、平安初期には、その本来の意味が理解されていないけれども、牡牛の屠り儀式は、頻繁におこなわれていたのです。しかし、この武芸者による牡牛を屠る儀式の霊力は、平安仏教の儀式である加持祈祷の霊力により、否定されてしまうのです。
願い事を叶えるために、太陽神に牡牛を犠牲としても、自然は自然の法則により流れているわけですから、ひとの力では、その流れをコントロールすることはできません。派手に武具で着飾った武芸者による、「武芸」による怨霊鎮めにも、ひとの力の限界があったのです。
しかし、平安仏教の加持祈祷の儀式には、その霊力らしき体感が認められるのです。薄暗い密閉された部屋で、憤怒の形相をしたインド神が変身した仏像を配し、護摩壇を設けて火を焚き、その炎の中に乾燥大麻を投入すれば、その部屋に居る貴族達の意識が変性するのは当然です。
そこで、僧侶が印を結んで、アラム語の訳の分からない呪文(主にヨシュアが唱えた、「神よ何故わたしを見捨てるのですか。」などの言葉)を低音で唱え続けると、やがて、意識が朦朧とするのは、密教の霊力ではありませんが、その大麻煙の薬理作用を知らない貴族は、幻覚により仏の霊力に恐れをなすわけです。
そのような儀式にゴマ(護摩)化された平安貴族は、平安仏教僧に加持祈祷を依頼しても、武芸者に怨霊の警護を依頼しなくなるわけです。そこで、武芸者は、河原(中洲)や神社(結界された地域で、怨霊封じの施設のため仏教信者は近づかない。)で、武芸(室町時代に始まる能の祖)を始め、そこに集まる山の民や庶民と交易(バザール・祭りの「島」の祖)をおこなうわけです。元来、ユーラシアを生活圏としていた騎馬民族は、交易民族でもあったのです。
その中州に追いやられた民の多くは、古代エジプトの高度土木建設技術により、古代エジプトの死者を葬る風習と同じに石室に石棺を収めた巨大古墳・外来船が運航できる大運河・馬車が疾走できる幅十二mの直線道路を築造していた秦氏末裔ですから、淀川河口の湿地帯でも、戦国末期関東の荒川河口に移封された騎馬民族末裔徳川家康が、秦氏末裔弾左衛門配下の土木技術者と共に、ひとも住めぬ湿地帯を居住地に変えた様に、エジプト・オリエント渡来の高度土木技術で、居住地に変えてしまったのです。その淀川河口は、やがて、平安王朝に追われた秦氏(新羅系日本人)の拠点となり、後に、武家源氏発祥の地となるわけです。
そのように、逞しく生き抜く秦氏末裔に対して、平安王朝は、その営業活動拠点の神社を管理する方法を考え出すのです。それが、本地垂迹説です。つまり、神は仏の化身である、と言うのです。その思想により、武芸者が活躍していた神社は、仏寺に併合されてしまうのです。この本地垂迹思想により、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の怨霊を封じ込めていた神社が、「仏の化身の神」を祭る処へと変身するわけです。つまり、太陽神や北極星に対して犠牲(牡牛の屠り等)をおこなう祀りである「血の儀式」ではなく、穢れ祓いを行い、舞踊により人工神(ジン)を、神楽等で祭る神社は、日本列島古来の建物ではないのです。
平安王朝を支援する平安仏教(真言宗・天台宗)により、営業活動拠点の神社を追われた武芸者の一団は、街道での営業活動を始めるわけです。これが、遊芸集団の始まりとなるのです。
亡命百済王朝に虐げられていた武芸者一団に、チャンスが訪れるのです。それは、907年唐が滅びたからです。
平安王朝は、亡命百済貴族の桓武天皇が、781年「唐の儀式」により即位したことでも分かるように、唐が、律令制度の下で、裏からコントロールしていたのです。ですから、平安初期の文化は、唐文化一色だったのです。
その中国大陸での政変を知った、奈良に封じ込められていた藤原氏が、動くわけです。唐の軍事支援を求められなくなった平安王朝に、939年反旗を翻す者が、西国と東国に現れたのです。それが、西国の藤原純友で、東国が平将門です。
平安王朝は、それらの反乱に対して、もはや唐進駐軍の支援を仰ぐことが出来なかったのです。では、平安王朝には、公家桓武平氏(平氏と平家は別種。「平氏」は姓で、「平家」は姓ではない。)という武人が居たではないか、と言っても、その公家桓武平氏は、戦闘集団として訓練されていない、天皇の側に武装して侍り、武官としての秘書業務をおこなう「サムライ」だったのです。
そこで現れたのが、元蝦夷残党兵の武芸者の一団です。山奥から馳せ参じた武芸者は、実戦に長けた指導者の下で、弓馬戦術による組織的な活躍により、平安王朝打倒で決起した、西国の藤原純友と、東国の平将門の反乱軍を、941年に壊滅するのです。
このことにより、平安王朝は、武芸者を「武士」と認めるわけです。つまり、「武士」とは、この「天慶の乱」(939年〜941年)で活躍した武芸者の子孫だけが名乗れる名称なのです。この時、大活躍した武芸者は、淀川河口に住む秦氏末裔だったのです。
何故、武芸者の一団が、反乱軍を短期間に壊滅できたのでしょうか。それは、武芸者のルーツを辿れば、簡単に説明できます。
武芸者が、「天慶の乱」の功労で「武士」となった背景は、武士←武芸者(もののふ)←陸奥国蝦夷武人捕虜←第二蘇我王朝武人(新羅系天武王朝)←蘇我王朝の突厥帝国進駐軍・新羅花郎軍団、の流れにあるからです。
その突厥帝国の武人は、突厥(ローマ帝国と交易を行う)←柔然←匈奴←スキタイの騎馬民族の流れにあり、そして、新羅花郎軍団は、新羅(ギリシャ・ローマ文化国)←辰韓←大月氏←秦←バクトリア(ギリシャ文化継承国)←アレクサンドル大王領(ギリシャ文化国)、の流れにあったのです。
この軍団の流れが、356年ナムル王により、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅)を興すのですが、528年中国南朝の宋に支援された仏教国百済により、ローマ軍の軍神ミトラを祀る新羅花郎軍団は、朝鮮半島から排除されたのです。
その新羅花郎軍団は、527年には北九州に侵攻し、その後、北九州に秦王国を興すのです。そして、軍備を整えた北九州の秦王国は、吉備→飛鳥ヤマトを目指すのです。その中国大陸の高度文化と同じ文化を保持する、日本列島に存在した秦王国は、608年渡来の隋使裴世清(随書では裴世)により、隋の煬帝に報告されているのです。
そして、530年突然、飛鳥ヤマトに突厥帝国の騎馬軍団が現れるのです。しかし、その騎馬民族の軍団長は、720年奈良の都で藤原氏により編纂された「日本書紀」では、蘇我稲目とされ、大和朝廷の大臣とされてしまうのです。突厥帝国軍人である蘇我氏の本名は、未だ不明なのです。つまり、漢字二文字の人名・地名は、713年以降の表記だからです。
しかし、609年隋使裴世清の煬帝へは、「都で男王アマタリシヒコに謁見した。」、と報告しているのです。しかし、その頃の飛鳥ヤマトは、「日本書紀」によれば、女帝推古天皇の統治下で、厩戸皇子(後の聖徳太子)と共に、蘇我稲目の息子・蘇我馬子が活躍していた仏教の黎明期の時代なのです。これはどちらかが、ウソをついているわけです。
武士が、941年以降の名称であることは理解できたとしても、その戦い方など実態は不明のままです。
時代劇で、武士の戦闘シーンが描写されますが、その史料の元は、第三百済王朝(1623年〜1867年・第三代将軍徳川家光から第十五代将軍徳川慶喜)で創作された武闘演劇であるのです。
江戸時代の演劇小屋の舞台は狭いため、武士の戦闘シーンは、本来の武士の武器は弓矢であったのが、武士の魂である日本刀を使った演出が、後のひとに、武士は刀を武器に、敵に立ち向かった、と誤解されていくわけです。
戦国時代、イエズス会が、日本列島を支配するために、伊勢に勢力を張っていたアラブ商人護衛軍団を祖とする平家末裔の織田信長に鉄砲を提供するまでは、戦いでの死傷者の傷の多くは、矢傷であったのです。その次が、槍傷です。刀傷での死傷者はごく少なかったのです。それは、日本刀は、折れる、曲がる、刃毀れするから、死を賭した戦いでは使用される確率が少なかったのです。
では、武士の魂の日本刀は、何のために使用したのかと言うと、それは、「武芸」において怨霊との戦いでの武器であったのです。つまり、日本刀の発生は、実戦用ではなく、武芸者(祭祀者=もののふ)の祭祀武具であったのです。
鉄器の製作には、鋳型に流す鋳造法と、鎚で叩く鍛造法とがあります。日本刀の祖は、陸奥国の蝦夷の武器である蕨手刀です。この蕨手刀を、ヒッタイトで発明された鉄器製造法の鍛造法により、刃を長くしたのが、日本刀の祖であるわけです。そして、この蕨手刀は、突厥帝国軍の武人の武器でもあったのです。それは当然です。蝦夷の出自は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝で、その祖は、突厥帝国であったからです。
この日本刀の祖である蕨手刀は、ユーラシアの騎馬民族では、身を守るためと、敵将の首を落すために使用されたのです。
騎馬民族は、輪廻転生ではなく、戦闘で死んだ勇者は死後再生される、と信じられていたのです。ですから、死者は、土穴の中に、木棺に収められ、石で覆われ、その上に土を盛り、再生するまで石積木郭墳で眠り続けるわけです。
この死者に対しての騎馬民族と大乗仏教の思想は、全く別であることからも、「日本書紀」による仏教伝来物語の虚構性が証明されるわけです。それは、死者を不浄物として燃やしてしまう大乗仏教思想を、騎馬民族の蘇我稲目も蘇我馬子も、受け入れる崇仏派であるわけは無いのです。しかし、その仏教伝来物語の二度にわたる神仏戦争では、物部氏が廃仏派で、蘇我氏は崇仏派である、と云うのです。騎馬民族の葬儀は、死者を燃やすのではなく、そのまま葬る土葬が基本であるのです。
そこで、勝者は、敵将を再生させないために、首を落すわけです。そして、その敵将の首を、棟梁に差し出すことにより、褒賞を受け取ることが出来たのです。武士の妻が、落首に死化粧をするのは、立派な敵将を演出して、褒賞を多く貰うためであったのです。
中国大陸では、この騎馬民族の戦い後の落首の儀式は、農耕民族である漢族に恐れられたために、「道」の字が作られたのです。「道」とは、騎馬民族が、敵将の首を手に掲げて、敵陣に向かうことにより、敵軍団が恐れおののき後ずさりすることにより、間隙ができた処を一歩一歩前に進むことを意味しているのです。
この「道」の本来の意味が分かれば、剣道とか茶道・華道など、○○道と付くものが、「芸事」といわれることが理解できるでしょう。その「道」の付く芸事とは、人工神を祭る仏教徒ではなく、自然神を祀る騎馬民族末裔のみが携われるものなのです。芸事は、他人と勝ち負けを競うのではなく、「いかにすれば、自然と一体となり自然神の領域に至ることができるのか」、を究める神事の流れにあるのです。
では、長らく平安王朝に、蝦夷俘囚の武芸者(もののふ)として貶められていた武士が、天慶の乱で、何故、棟梁の指揮で、統率の取れた合戦ができたのでしょうか。それは、蝦夷には「掟」があったからです。その掟は、現在では、正統役座の「任侠道」にみることができます。任侠道の軸は、「忠誠」と「弱者擁護」です。この任侠道の祖は、武士道なのです。
武士道は、明治維新後に再発見されたものですが、その思想は以下のようです。

仁、上の立場であっても、おごらず下に居て慈愛にて善事をおこなう。
義、善悪の分別判断をし、善に従い悪を避ける。
礼、尊と卑を分別し謙虚に上を敬い、下を侮らない。
智、よくものごとを観察し、善悪を見抜き、策略を練ること。
信、ひとを欺かず、誠実で温厚篤実であること。

武士の祖の武芸者が、平安王朝により、賎民に落され、中洲の部落に封じ込められても、その心情が賎にならなかったのは、その「掟」があったからです。では、その「掟」はどこから伝来したのでしょうか。それは、新羅花郎軍団の「騎士道」からです。
騎士道と言うと、一般的な解釈では、1096年神聖ローマ帝国での、第一回十字軍を思い起こすひとが多くいることでしょう。しかし、それは違います。それは、キリスト教側のプロパガンダにより、騎士道の発生が、十字軍の騎士から始まった、と刷り込まれてしまった結果です。
中世ヨーロッパを支配したキリスト教は、その内部矛盾により腐敗していたのです。そのため、キリスト教は、存続の危機に面していたのです。そこで、キリスト教側は、1095年クレルモンの公会議で、内部矛盾から民衆の目を逸らすため、イスラム教徒が支配するエルサレム奪回を決議するのです。
キリスト教の神の加護を受けた十字軍は、エルサレムに至るイスラム教徒の村々を、聖書にあるように、女子供も虐殺していくのです。そのような蛮行をおこなう十字軍に対して、イスラム教徒軍は、巧みな騎馬戦術で打ち負かしてしまうのです。そして、イスラム教徒軍は、負傷した十字軍戦士の傷を手当てし、祖国に送り返していたのです。このイスラム教徒軍の騎士の行為が、騎士道であるのです。
では、イスラム教徒軍の騎士道は、何処からもたらされたのでしょうか。それは、ギリシャ文化を継承したバクトリアの後継国吐火羅からです。吐火羅とは、大乗仏教が発明された国際交易都市ガンダーラがあった処です。そこには、ギリシャ文化が継承されていたのです。
紀元前四世紀、ギリシャのマケドニアから興った、アレクサンドル大王領は、その版図が、東はインド、西はエジプトまで広がっていたのです。そのような大帝国を築けたのは、アレクサンドル大王の思想によるのです。それは、被征服国の文化・宗教を保護し、敗戦者に寛大に対処することにより、自軍の兵士として再雇用したからです。
古代の戦闘では、「旧約聖書」にあるように、女性は陵辱され、老人子供は虐殺され、捕虜の兵士は惨めな処刑を受けていたのです。
しかし、アレクサンドル大王は、それまでの戦争処理とは全く別の方法を考え、それを「掟」としたのです。その思想の基である、「忠誠」「弱者擁護」を核として、やがて、その騎士道精神が、各民族の軍団に受け継がれ、日本列島に伝来されていくわけです。
この騎士道精神が、十一世紀のイスラム騎士により、十字軍騎士をして、ヨーロッパにもたらされていたのです。ですから、ヨーロッパの騎士道は、イスラム騎士道より、歴史的に新しいのです。
しかし、イスラム騎士道よりも以前に、東には騎士道精神が伝播していたのです。その騎士道思想は、ギリシャ文化に憧れていたローマ帝国軍のミトラ神を祀る傭兵軍により、ギリシャ・ローマ文化国新羅に継承されていたのです。それが、花郎騎士道です。
新羅花郎軍団とは、「花」の意味が分かれば、その祖がローマ帝国軍末裔であることが分かります。その「花」とは、「ミトラ」の漢訳借字であるからです。つまり、花郎軍団とは、392年キリスト教がローマ帝国の国教となる以前の、軍神ミトラを祀るローマ帝国傭兵軍の末裔であったのです。
この新羅(秦羅)から渡来した「軍神ミトラ」は、「日本書紀」の仏教伝来物語では、厩戸皇子(聖徳太子)が、忠臣秦河勝に与えた「弥勒菩薩」と改竄されてしまうのです。そして、その仏教伝来物語では、その弥勒菩薩を安置するために、603年広隆寺の前身蜂丘(岡)寺を、秦河勝が建立したことになっているのです。景教(ミトラ教)の祭祀者である秦河勝が、果たして、仏像安置のために、仏寺など建立するものなのでしょうか。
では、国宝第一号の弥勒菩薩とは、実態はどのような像であったのでしょうか。現在に残る弥勒菩薩像は、明治維新での廃仏毀釈によりボロボロになっていたものを、後に修復したもので、新羅からもたらされた当時の像のままではないのです。ですから、その像を手掛かりとして、その由来を解明することは困難です。
しかし、その仏像名から、その元の名を知ることは、それほど困難ではありません。それは、弥勒(中国)←マイトレーヤ(インド)←ミトラ(オリエント)の流れがあるからです。弥勒とは、ミトラの変名だったのです。そして、弥勒菩薩を安置するための蜂丘寺の建立地は、秦氏の支配地の山背国で、それは秦王国であったのです。
つまり、秦氏の秦王国の渡来ルートは、山背国(〜紀元794年)←吉備←北九州(紀元527年〜)←ギリシャ・ローマ文化国新羅(紀元356年〜紀元528年)←秦(紀元前221年〜紀元前206年)←バクトリア(大月氏・紀元前250年〜紀元45年)←アレクサンドル大王領(紀元前336年〜紀元前323年)←アッシリア帝国(紀元前722年〜紀元前612年)←イスラエル王国(紀元前932年〜紀元前722年)←ヘブライ(紀元前1230〜紀元前932年)←エジプト(紀元前十四世紀)←ヒッタイト帝国(紀元前十四世紀)、となるわけです。ヒッタイト帝国では、ミトラ神は、太陽神でもあり、そして、異民族との交易を見守る契約神でもあったのです。
その山背国の秦王国は、794年唐進駐軍と桓武天皇軍とにより乗っ取られると、淀川河口へ追いやられてしまうのです。そして、その淀川河口の地を開拓した秦氏は、そこに秦氏の部落国家(実際の国家ではなく、平安王朝とは異なる、ギリシャ都市国家と同じ、合議制による統治組織のこと。)を造るのです。その合議制による組織運営が、全国に広がる武家源氏の統治の基となるのです。
この秦氏の秦王国(合議制による都市国家)の流れは、明治維新での関東で、第十三代弾左衛門(弾左衛門は世襲名。全国の組織長による合議により選出される。)が、弾直樹と改名することにより、消滅するのです。
それまでは、江戸幕府とは異なる税制・司法により、関東の秦氏末裔の都市国家は運営されていたのです。それは、戦国末期から江戸初期にかけて、世良田部落出自の騎馬民族末裔の徳川家康が、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により、「かわた・穢多」と賎民に貶められてイジメられていた、大阪にある秦氏末裔の部落から、その住民を、秦氏末裔の弾左衛門支配下の土木技術で開発した、エド(穢れ地→穢土→江戸)の地(秦王国最後の地)に移住させていたからです。しかし、その大坂(秦王国)から移住した秦氏末裔は、1623年百済の血が流れる第三代将軍徳川家光(第二代将軍徳川秀忠の実子ではない。明智光秀末裔お福(春日局)の子説がある。)により、江戸の地から北関東へ移住させられてしまったのです。しかし、秦氏末裔を支配する弾左衛門の役所は、浅草寺裏の新町(秦町)に留められたのです。でも、その屋敷は、堀を廻らされ、更に、仏寺に囲まれていたのです。
そのギリシャ・ローマ文化の秦王国の名残が、北関東で制作される人形に託されているのです。その人形とは、雛人形です。
騎馬民族末裔徳川家康は、関白豊臣秀吉に、1590年関東の荒川河口のひとも住めぬ湿地帯に移封されると、そこを秦氏末裔の高度土木技術で、宅地に変えてしまうのです。そして、そこに、大坂に住む秦氏末裔を移住させたのは、秦氏末裔には武具製作技術者が多く居たからです。
それは、秦氏末裔は、騎馬民族末裔であるから、牛馬の飼育は得意だったからです。その牛馬は、乗り物だけではなく、その皮や角は、武具や武器の原材料となったのです。ですから、唐が支配していた平安時代、唐は平安王朝に、牛の角を拠出するように命じていたほどです。その沢山の牛角は、遣唐使船で唐に運ばれていたのです。
その武器製造者として、関東のエドに移住させられた秦氏末裔は、三代将軍徳川家光により、エドから北関東に移封されてしまうのです。そして、その秦氏末裔が、移封された後に、今までと異なる雛人形が現れるのです。その雛人形には、武器を携えた武人が登場するのです。そして、内裏雛の「おひなさま」は、向かって右に鎮座し、その頭には、三本角の王冠があるのです。
京雛の内裏雛は、向かって右が内裏さまです。そして、おひなさまには、三本角の王冠はないのです。エドの雛人形と京の雛人形との差異は、一体何を意味しているのでしょう。
まず、座席の違いは何でしょう。唐に支配されていた平安王朝では、向かって右が高貴者が座すところです。何故、向かって右が上座かというと、騎馬民族は、出陣の時、左翼が先陣を切ったからです。
騎馬民族は、南の農耕民族と対峙すると、中央を司令部として、左翼と右翼に布陣するわけです。そのように、南面すると、日の出は、左側となります。ですから、出陣は左翼軍からなのです。そこから、左は、右よりも格上となったのです。
では、何故、エド雛は、向かって右の高座におひなさまが鎮座するのでしようか。それは、ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)は、唐、高句麗、百済と異なり、女王国であったからです。
では、その女王の頭を飾る三本角の王冠は、何を意味しているのでしょうか。それは、ギリシャの王冠である、三本樹をデフォルメしたものであるのです。
第三百済王朝から、北関東に移封された武具製作者は、もはや武具を製作できなくなってしまったので、その武具製作技術を生かして、エド雛人形を製作していたのです。そして、そのエド雛人形に、騎馬民族秦王国のメッセージを込めたのです。
さて、唐が、907年に滅びることにより、平安王朝はどうなったのでしょうか。それは、武芸者から変身した武士の登場の他に、文化も変化したのです。それまでの平安文化とは、唐文化だったのです。それは当然で、平安王朝の実態は、唐のコロニーであったからです。
その変化のひとつは、新しい文字とそれによる物語の登場です。このことを、教科書歴史では、国風文化と表現しています。その新しい文字とは、かな文字のことです。
しかし、教科書歴史では、そのかな文字登場の由来を明確には述べてはいません。何故でしょう。それは、そのかな文字の由来を述べることにより、騎馬民族が支配していた飛鳥ヤマトを知られてしまうからです。
良心的な歴史書では、かな文字は、空海により開発された、と述べているのです。しかし、それ以上のことは述べません。何故でしょう。それは、空海の出自は、佐伯部だからです。その佐伯部とは、その部名以前(713年漢字二文字表記の好字令以前)は、蝦夷と言われていたのです。つまり、空海の先祖は、蝦夷だったのです。
蝦夷とは、唐進駐軍が律令制度で支配した奈良・平安王朝による、前政権の蘇我氏末裔への蔑称です。その蝦夷とは、中国大陸で唐と死闘を巡らせた突厥帝国から渡来した民族であったのです。それが、飛鳥ヤマトを支配した蘇我王朝です。
しかし、645年唐進駐軍と中臣軍(後の藤原氏)により、蘇我王朝は壊滅し、そのオリエント渡来の飛鳥文化施設とともに、その書籍も焚書されてしまったのです。ですから、飛鳥ヤマト時代に使われていた文字を知ることはできないのです。
しかし、十九世紀末になって、モンゴル平原でオルホン碑文が発見され、それに書かれていた文字が、突厥帝国で使われていた文字であることが分かったのです。その突厥文字は、表音文字であったのです。
平安中期に登場したかな文字は、漢字の表意文字と異なり、表音文字です。突厥帝国から渡来した民族は、奈良・平安王朝により、蝦夷と言われていたのです。その蝦夷は、当然、表意文字ではなく、表音文字を使っていたはずです。そこで、その突厥帝国渡来の蝦夷が、漢字から表音文字を開発したことは、ありえることです。その根拠として、突厥文字の開発の流れは、突厥文字←ソグド文字←アラム文字(シリア文字)←フェニキア文字(アルファベット)の流れにあるからです。
907年唐が滅びたことにより、東アジアが動乱へ突入するのです。唐滅亡により、北東アジアでは、遼が周辺遊牧民族を結集させ、907年契丹を興すのです。その契丹が南下することにより、唐が支配した地は、分裂時代を迎えるのです。その唐滅亡の影響は、国際海洋交易を通じて、日本列島にも強く現れるのです。
唐が滅びた原因は多くありますが、そのひとつにイスラム帝国の興隆が考えられます。唐の経済を支えたシルクロード交易は、そのイスラム商人が支配することになってしまったのです。
それに対して、西欧の国際交易商人は、陸路ではなく、海路での交易を開発していくわけです。この海洋交易は、陸路交易と異なり、交易税を徴収するのに困難です。それは、陸路であれば交易路に関所を設ければすみますが、外来船の渡来を補足することが困難だからです。
交通税を徴収されにくい海洋交易は、アラブ(インド以西はペルシャと云われた。)から、インドを中継港として、中国大陸と頻繁におこなわれていくわけです。このことは、日本列島でも、例外ではありません。それまでは、南インドとの南海交易は、南九州の坊津を支配する藤原氏の独断状態だったのです。しかし、やがて、水銀や銀が産出する地域に隣接する伊勢湾へは、武装した護衛軍団に守られたアラブ(ペルシャ)の国際海洋交易商人が頻繁に訪れてくるわけです。
藤原氏は、唐進駐軍の勢力が衰えると、その祭祀儀式を利用した政治力(藤原の女)により、平安王朝へ食い込んでいくのです。そして、唐進駐軍が、日本列島を支配するためのシステム、701年大宝律令から始まる、律令制度を破壊していくのです。律令制度とは、簡単に述べれば、私有地をなくし、国有地にして、農奴に貸し与えて働かせて、各種の税により、合法的に「富」をむしりとるシステムのことです。そのためのトリックが、奈良時代の文武天皇(697年〜707年)から始まる、藤原氏が裏から支配する天皇制度です。
律令制度では、土地は全て天皇に属していたのです。ですから、天皇をコントロールしてしまえば、日本列島を支配したことになるのです。
藤原氏は、藤原氏を奈良に封印した桓武天皇による、その唐進駐軍が支配する、平安王朝を経済的に支える律令制度を破壊するために、荒地を開発した処を私有地として、唐進駐軍の後ろ盾が衰弱したため、軍事的に弱体化した平安王朝に認めさせるのです。その私有地が、荘園ということです。
その結果、奴隷を多く持つ藤原氏や寺社が、その奴隷を使って、荒地を開拓して荘園とするのです。しかし、当時、荒地は誰の所有物でもないため、混乱が起こるわけです。そこで、その解決に武力が使われていくのです。そこで、武士団の登場となるのです。
この荘園が発達していく日本列島の勢力図は、唐進駐軍が平安王朝を支配していた頃は、京都一極でしたが、武士団が登場した頃になると、大きく分けると三極化してくるのです。
それは、百済系日本人が支配する京都、藤原氏系日本人が支配する奈良、そして、新羅系日本人が支配する大坂です。それらは、それぞれ軍事組織の後ろ盾を持っていたのです。京都は公家桓武平氏、奈良は僧兵、そして、大坂は武家源氏の軍事集団です。
亡命百済王朝の京都を守るのは、亡命百済のツングース民族末裔です。ツングース民族の特徴は、ノッペリした顔で、髪の毛・ヒゲが薄いことです。公家桓武平氏は、武芸者末裔の武士ではなく、王族の側に武装して侍る「サムライ」です。漢語を読み書きできたため、治安業務の武闘ではなく、秘書業務が主な仕事であったのです。
藤原氏の奈良を守るのは、僧兵です。僧兵は、興福寺に集められた夙者から武力に優れた者に、中国的武器の薙刀で武装させていたのです。藤原氏(中臣族)には、南インドから渡来の軍団(後の薩摩ハヤト族)が存在していたのですが、764年恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、810年藤原薬子の乱、そして、蝦夷末裔の武芸者(もののふ)が武士として王権から認められた、939年藤原純友の乱などで、その藤原氏の主要軍事部族は壊滅していたのです。
秦氏末裔の大坂を守るのは、武家源氏の武士集団です。何故、大坂が武家源氏発祥のひとつであるのかは、それは、嵯峨天皇の皇子が、源氏の賜姓を、814年に受け、その末裔源綱が、母方の淀川河口の秦氏の地に移り住んだことにより、その秦氏の地が源氏武士団発祥の地となったのです。
その河口に面した地は、エジプト・オリエント渡来の秦氏の地であるため、古代エジプト語の「ワタ・波の意味」から、「波の打ち寄せる地」の意味である「わたなべ・渡辺」と言われていくわけです。この源氏渡辺党は、ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)からの渡来民族であったので、その大坂に至る前の地、古には「秦王国」があった北九州には、同族の源氏松浦党が興るのです。この松浦党は、水軍ですが、その祖は騎馬民族であったので、その組織運営は、ギリシャ都市国家の運営法と同じ、合議制であったのです。
この大坂の地は、後の源平合戦での、1185年屋島の合戦で、唐進駐軍に支援された平安王朝軍団の侵攻を最後まで阻止していた、蝦夷軍団棟梁源義経が、渡辺津から屋島へ向けて出陣した理由は、大坂渡辺津の武家源氏と陸奥国蝦夷とは、元は飛鳥ヤマトの蘇我王朝末裔であったからです。
ですから、武士は、俘囚の末裔(蝦夷)と言われているのです。つまり、武士のヒゲが濃い理由は、ツングース族末裔の「サムライ」とは異なり、武士(もののふ)の祖は、騎馬民族突厥帝国のチュルク族末裔とギリシャ・ローマ文化国の新羅(秦羅)末裔の、毛の薄いツングース族ではなく、多毛の蝦夷(=エビのようなヒゲのある夷)であったからです。  

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