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モーツァルト 魔笛 ・ドン・ジョヴァンニ を聴く
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/559.html
投稿者 中川隆 日時 2014 年 6 月 13 日 22:19:02: 3bF/xW6Ehzs4I
 

イングマール・ベルイマン 魔笛


Ingmar Bergman's Trollflöjten (The Magic Flute) 1975
http://www.youtube.com/watch?v=DGVO2hCi15w


監督:イングマール・ベルイマン
脚本:エマヌエル・シカネーダー、イングマール・ベルイマン
音楽 作曲:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
指揮:エリック・エリクソン
演奏:スウェーデン放送交響楽団、合唱団


キャスト
タミーノ:ヨゼフ・コストリンガー
パミーナ:イルマ・ウルリラ
パパゲーノ:ホーカン・ハーゲゴール
パパゲーナ:エリザベト・エリクソン
夜の女王:ビルギット・ノルディーン
ザラストロ:ウルリック・コールド
モノスタトス:ラグナール・ウルフンク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E7%AC%9B_(1975%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)


映画の巨匠ベルイマンの魔笛です。通常の魔笛の舞台の映画ではなく長い準備期間と何ヶ月も撮影期間をかけた映像作品です。スウェーデンの国営放送のための番組として作られたので画面サイズは4:3のスタンダードサイズ、言葉もドイツ語でなくスウェーデン語です。子供も楽しめるように随所にスェーデン語の歌詞カードが出ます。

 この魔笛の特徴はものすごく官能的だということです。

3人の侍女の登場シーン(タミーノやパパゲーノ)のからみやモノスタトスのストレートな愛情表現、パパゲーノとパパゲーナのお互いの服を脱がしあうアリアなどすごくエロチックです。

 またザラストロよ夜の女王が国の覇権を争う分かれた夫婦という設定となっています。

1幕では子供を奪われた哀れな母親であった塊??の女王が2幕ではザラストを暗殺しようとする暗殺集団の長へと様変わりするのがわかりやすくなっています。
普通の魔笛はこのへん説明がないので見ていて頭がこんがらがるのですがなんとか合理性をもたせています。

 配役もよくできています。ものすごく人の良さそうなお兄さんのパパゲーノ、むちゃくちゃチャーミングなパパゲーナ、清楚なパミーノ、出だしは頼りないが少しずつ成長していくタミーノ。
本当に賢そうな賢者ザラストロ、前半と後半でドラマチックに変身する夜の女王。

ものすごく官能的な3人の侍女。

ものすごくきれいなメロディを歌う3人の童子だって服ぬいじゃいます。
いやらしさたっぷりでちょっと寂しいモノスタトス。ロールプレイングにも使えそうな設定です。

 さていろいろ書きましたが、この魔笛はなんと言ってもわかりやすいです。うちの奥さんも初めて筋が理解できたと言ってます。
色ぽいだけでなく歌もりっぱです。登場人物が多いので通常どこか配役に不満が出るのですがよくできています。録音もすごくいい。
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/B000091LEO/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending


ベルイマンが元旦の子供のための特別番組として演出・撮影した「魔笛」。

彼が子供の頃から愛好した数少ないオペラ。 演奏のテンポは遅め。

女性はみな美人で、特に三人の侍女はチャーミング!

沈黙の行の二人に侍女達が来る場面で、侍女たちは二人を熱く誘惑する。

弁者は書物に囲まれた学者。

パパゲーナは老婆ではなく醜女で登場。

雪の降る場面が特に美しい(パミーナの絶望の場面と、それに続いてパパゲーノの嘆きの場面)。

魔法のベルが鳴って、パパパの二重唱が始まると、雪解けで花が開き始め、二人はぶ厚い毛皮のコートを脱ぎ始める。

タミーノとパミーナの試練の場を、この二重唱の後に移動していた。

試練の火の世界では、半裸体の群像がうごめく。

水の世界も同様。夜の女王の軍隊は四十人規模で黒い鎧を着ている。

吉田秀和『僕のオペラ』(海竜社、2010年)でも、観客の少女の映像には「つまらないことをする」と閉口していました。しかし、天下のベルイマンだからと最後まで映画館のひどい客席に我慢して座り、見つづけて良かった、

ベルイマンが性的なもの、肉欲的なものを罪悪と感じ、そのけがれにまどわされぬものこそ真の勝利者だと考えていることが判った

と屈折した批評を書いています。 同感です。
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/cr/rR2OJVHK9P9EOF4


私が初めて『魔笛』に親しんだのは、LPや放送ではなく、スウェーデンの映画監督のイングマール・ベルイマンの映画『魔笛』(1974年制作のテレビ映画)によってだった。

この映画はイントロダクションとして観客少女の視点が描かれる以外はほとんどこのオペラの舞台での歌唱・演技・演奏の全曲を映像化したもので、特にパミーナを演じた歌手(女優?)の美しさが印象に残っている。

そして、夜の女王とザラストロの関係についてはこの映画は非常に独特な個性的な解釈をしている。善が悪に、悪が善にという初歩的な破綻というほどのストーリーの不整合をどう考えるかがこのオペラの鑑賞の眼目の一つであり、ストーリーの破綻を棚上げして音楽だけを楽しもうという立場もあれば、それに合理的な説明をしながら全体を調和したものとみる立場もあり、その他にもいろいろな解釈がある(その一つに下記のフリーメーソン的な解釈があるあるようだ。)これについて、自分の中で解決がついたわけではないが、よくある神話的な不整合とみてもいいのではと思っている。
http://kniitsu.cocolog-nifty.com/zauber/2006/11/post_cd91.html


特徴的なのは、ザラストロと夜の女王が、憎みあって別れた夫婦になっていることでしょうか。そう見えました。親権を争う父母というところ。

パミーナが、ひどく暗い陰険な表情を見せることもあり、これはちょっと印象的というか、迫るものがあります。じっくり眺めていると、なんというか、奇妙に暗い不思議な雰囲気が迫ってきます。ほとんど画面いっぱいの顔の大写しが、ある意味効果的なのかも・・・

ちらっと意味不明の場面も入ります。舞台裏を映しているのかしらとも思いますが、パルジファルという題の本を読んでいるザラストロに対して、だらしない格好でお付きたちに化粧を直させている女王とか。女王も侍女たちもなぜかたばこをふかしています。タミーノとパミーナは楽しそうにチェスをやってます。

場面の順序、多少入れ替え、カットも? があるようです。歌の繰り返し、台詞など、かなり省かれたり、短縮されているようで、演奏時間はおよそ2時間になっています。

パパゲーノとパパゲーナの年齢会話は、大笑いしながら、

「年は?」
「18歳と2分よ」
「ずいぶん若いんだね」
「恋人もいたりして・・」
「もちろんよ」
「若いの?」
「う〜〜ん、10歳ぐらい上」

と続きます。字幕情報です。この映画はスウェーデン語です。そして、フィナーレに、子沢山で登場します。
http://euridiceneeds.blog.so-net.ne.jp/2005-09-02


映画中には隠されたメッセージがいろいろあるように思われる。
例えば、第2幕でパパゲーノの持つ魔法の鈴がクローズアップされると、男女の艶めかしい姿(?)が描かれていたり

繰り返し何度も観て、ベルイマン監督の「魔笛」に刷り込んだ真意をより研究したいと思っているところ
http://classic.opus-3.net/blog/?p=10272

就寝中の姫を襲おうとする奴隷頭モノスタトスの歌にこめられた、女ができないのは自分の黒い肌のせいという嘆き。彼女にふられるのは、肌の色でなく貴方の心のありようだと伝えたいではないか。そこへ「夜の女王」がやってきて復讐を誓う有名なアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」 がははじまる。玉がころがるような難技巧コロラトゥーラを披露して盛り上がる女王の歌は、娘への威嚇でもある。姫にとっては父であり、自分にとっては夫であるザラストロを刺すようにと命じて剣をおしつける「夜の女王」の豹変ぶりに驚きおびえる姫。おびえるのは姫だけではない。

悪魔とののしられたザラストロが、思慮深く娘思いのパパだったと理解するにつれ、ママ「夜の女王」の憎い夫謀殺案の手口には、夫婦の深い溝と憎しみに笑えるくらいに戦慄する。悪と善が完全に入れ替わる意外性は、このオペラに大衆をあきさせないおもしろみと、社会のシステムへの不満のガスぬきをも与えている。これは、現代でも充分に通用する。またこのあたりの母と娘の関係は、妊娠中の安達祐実さんと、ヌード写真集を出すというママのあり方を彷彿させる。

軽率で野卑だが本音を炸裂するパパゲーノと、真面目でいいつけをきちんと守る王子の対比。一度は、王子の心変わりを疑い、絶望のあまり剣で自殺しようとまで思いつめた姫の純粋さと底の浅さ。未来の婿殿の肝試しをする父としてのザラストロの威厳と絶対性の息の詰まる迫力、復讐のためだったら娘さえも道具とする女の凄みを感じさせる夜の女王。
あくまでも格調高く芸術作品に撮ったイングマル・ベルイマンの映画をきっかけに、モーツァルトを再発見し、オペラの魅力にめざめつつある、かもしれない。やっぱりオペラは、CDで聴くだけではね・・・。
http://blog.goo.ne.jp/konstanze/e/5280ad0a4760e364c229874fd294a921


オペラ「魔笛」を超えたベルイマンの「魔笛」

12歳にして既にワグネリアン(ワーグナー信者)だったという。そんなベルイマンがフランス・オペラの作曲家アンブロワーズ・トマの「ミニョン」と共に無二受け入れたオペラがモーツァルトのオペラ「魔笛」。

本作「魔笛」は演劇と映画を知り尽くしている人だから撮りえた映像、演出方法だと思う。
オペラ「魔笛」を愛し、自らの血肉ともなっているからこそ描きえた作品だと思う。
そして子供も楽しめる楽しさ、分かりやすさ。
本作をみて私も改めて「魔笛」の魅力を教えてもらった。

「われわれの職業はエンタテイメントです。楽しさといっても陽気なのも深刻なのもありますが、重要なのはそれは皆観客のためのものだということです。観客なんかどうでもいいという人がいますが、ぼくには理解できませんね、われわれを認めてくれるのは観客なんですからね」(「ヴェッコ・レヴィーン」誌・1956年第九号) 

「魔笛」の序曲が流れる。
オペラ「魔笛」が上演されているストックホルム市郊外の小島にあるドロットニングホルム王立劇場の外観から始まる映像。

この劇場は1760年に建てられ、国王グスタフ3世の暗殺現場で彼の死後閉鎖されたままであったが、20世紀に入ってから封印が解かれ、夏の間だけオペラ上演がされるようになった劇場。200席ほどのこの劇場は、ロココ調の内装と18世紀当時の舞台機能がsんまま残されている稀有な劇場で、この映画で一躍世界的に脚光を浴びたそうです。長時間のライトの持込は危険なため、ほとんどのシーンをスタジオで再現して撮影とのこと。


そして舞台正面。
世界各国のあらゆる世代の人々の、舞台を見ている表情がクローズアップで次々と映し出されれていく。この中にはベルイマン作品の常連のエルランド・ヨセフソン、撮影のスヴェン・ニイクヴィストの貌も見える。そしてベルイマンとリブ・ウルマンの娘の顔も映されているとのこと。途中幾度か舞台をじっと見入る少女の顔が映し出されているけれど彼女かしら。二人によく似ている。利発そうな目をした子。

これも演出の一つなのでしょう。途中何度か舞台をみている少女の映像が挿入されるが、目障りでなく、むしろ見る側としてほっと一息つくそのタイミングで挿入されており、この辺りにも観客の呼吸に視線をおいたベルイマンの演出の巧みさというか、鋭い感性を感じる。見るものに舞台劇を印象付ける。

拍手と共に第一幕の幕が開く。
みるからに張りぼてのユーモラスな恐竜が現われ王子タミーノを襲う。3人の侍女が恐竜を退治し、夜の女王に報告に行く。舞台で演じられている劇であることを感じさせる。

画面が変わり、
ここから一挙に映画とオペラの「魔笛」の世界に誘い込まれる。
道化役パパゲーノが寝過ごして大慌てで舞台に登場する。

あくまでも額縁の中で演じられる舞台劇という印象を見せながら、スタジオ撮影の映像がなんの違和感なく舞台と繋がる。

また歌の場面では歌詞の一部がパネルで現われたり、幕間があり楽屋裏を映すという大胆な演出も行っている。けれど、この幕間がさらに登場人物たちをより強く印象付ける効果をもたらしている。それが次の第2幕に自然に引き継がれていく。
大胆奇抜ともいえるこれらの演出が、物語の世界を損なうことなく、むしろ見るものにより分かりやすく、その印象を深くしている。
オペラ「魔笛」も見ていて、舞台を現代に置き換えて映画化されたケネス・プラナーの「魔笛」も見た私は、そして見ている私が更に誘い込まれる、ベルイマンのこの演出は見事というしかない。知り尽くしたからこその演出方法。

舞台美術も素晴らしい。
撮影はベルイマンとコンビを組んでいるスヴェン・ニクヴィスト。彼の撮影する光は素晴らしい。

本作も冒頭の映像が素晴らしい。時刻は夕暮れでしょうか。茜色に染まる水の揺らぎ、そして夕日で茜色の中の木立、その向こうに見える劇場。「叫びとささやき」では北欧のしんと冷えたく冴え渡る空気すら感じる木立に差し込む光。好きな映像です。


本作は、スウェーデン放送協会が創立50周年の記念番組として1975年の元旦放送用に「魔笛」のテレビ版をベルイマンに依頼した作品とのこと。子供たちもわかるようにとオリジナルのドイツ語による歌唱ではなくてスウェーデン語による翻訳だったそうです。

出来上がった作品は世界が放っておく訳がなく、カンヌ映画祭では特別上映され、絶賛を浴び、その後各国で上映され、数数の賞を受賞し、全米批評家協会賞では「オペラをいいかに満足に映画化することへの実践」という特別賞を受賞しています。

台本はベルイマン自身によって改編され、原作のフリーメーソンの秘儀的な部分は大幅に削られ、また話の流れの順序も一部変更をしたそうです。登場する役者は全てオペラ歌手を起用していますが、美声よりも自然な声の持ち主のほうを採用したとのこと。
 


ベルイマンが「魔笛」で高らかに謳いあげているのは「愛」

愛はあらゆる試練を甘美にする
愛こそ毎日の暮らしの生気を与え、自然に生きる存在
何より尊いのは男女の愛。愛が人間を神性に導く。
二人の人間の真実の愛は叡智の始まりだ。 

パパゲーノとパパゲーナの生命力あふれる愛
タミーノとパミーナが煉獄の炎を越えて成就させる神聖なる愛

その一方で男と女の深い愛憎、確執も描いている。
深い淵を見るような夜の女王のザラストロに対する燃え滾る憎しみの炎
パミーナはザラストロと夜の女王との間の一人娘。二人の間にある確執は深い。
あの女に聖なる心が破壊されるというザラストロ。ザラストロに添う娘に「殺せ」と命ずる夜の女王。「ある結婚の風景」で分かれるときに内面生活を話す夫婦の凍りつくような溝と重なる。
ザラストロの家臣モノスタトスのパミーナに対する愛欲

彼は生きる意味を見つけたいと望んでいる。
二人が試練に耐え、それを示してくれるなら、私はこの領土を二人に譲ってもいいと思っている。 


「人間はどう生きるべきか」作品を通して常に問い続け、「人間の精神の冬を視つめる人」と言われるベルイマンの姿が、この「魔笛」でも、はっきりと存在している。

歌い上げる部分とセリフの部分が内面描写に、とても効果的に使い分けされており、子供たちにも登場人物の心の内が充分に伝わるだろうと思う。

これはもう、モーツァルトのオペラ「魔笛」の映画化というよりも、すでにベルイマンの「魔笛」という名の作品といえるほど、ベルイマンの他の作品に重なり、通じる。

本作は舞台で演じられるオペラ仕立てという設定だけれど、歌唱部分はあるけれど、それ以外は音楽というものが映像の前に出てこない。これはベルイマン作品全体についていえるのではないかしら。それだけ映像の引力が強いというより、音楽は流れているけれど、決して映像の前に出ることなく、音楽がさらに映像への集中力を高めている。以前ベルイマン特集を見たとき、重いから3本はきついかなって思ったけれど、見終わった後はなぜか心地よく、頭がしっかり冴えている。何故かなって思って、注意してみると、こんな風な音楽の使い方かなって気がしました。それに加えて作品の映像の素晴らしさにひきつけられる魅力もある。とても重いテーマなのだけれど疲れない。人の動きも自然な緩やかさのリズムをもっている。
映像と音楽と緩やかなリズムそして全体に流れる品位。

そして、タミーノ王子もパミーナもけっして美男美女ではないけれど、観ているうちに美しく魅力的に感じてくる。三人の童子たちも宗教画に出てくる天使のよう。


「ファニーとアレクサンデル」で少年アレクサンデルが卓上劇場で遊ぶ姿と、ベルイマンが重なる。「魔笛」をみて、改めてイングマール・ベルイマンという人の大きさと豊かさと深さを思い知った。
http://yorimichim.exblog.jp/5917972/


モーツァルトとフリーメーソン

モーツァルトは1784年にフリーメーソンに加入したようです。 理由についてはわかりません。しかし貧しくなってしまった晩年のモーツァルトにとって仕事の面でフリーメーソンに助けられたそうで すごくたすかったことでしょう。

そして「魔笛」には、 そのフリーメーソンの影響というか内部というかそういったものが見られ、 モーツァルトの同志への恩義への感謝といったものがあったそうです。 しかしこれは同志の秘密を公開したというひんしゅくを買ってしまい、 その後わずかな収入もなくなってしまうことになってしまいました。

では、「魔笛」のどういったところがフリーメーソンを表しているのかを 述べてみましょう。

序曲にはフリーメーソンの名の由来の石工の、石材を刻む音と取れる ところがあったりします。 第一幕で、ザラストロの神殿に、「自然の神殿」、「知恵の神殿」、「理性の神殿」と書かれてあり、 この三つはフリーメーソンの思想に通じるものです。

そしてその後主人公タミーノは「女を信じてはいけない」と忠告を受けますが、 これは女人禁制を示すものだそうです。

第二幕での歌「この神聖な殿堂には」では、 愛、友情、義務といったフリーメーソンの守るべきことが歌われ、 フリーメーソン賛歌と言われているそうです。
http://www.asyura2.com/sora/bd3/msg/617.html

《魔笛》に秘められた象徴

心理学者エーリッヒ・ノイマン(1905-1960)と、象徴学者アルフォンス・ローゼンベルグ(1902- 199?)の観点から《魔笛》を見てみます。

象徴としての数字
 まず始めに、2元性、2という数字の象徴について考えてみます。たとえば、上と下、右と左、天と地。これが転じて、日本語では、上手、下手、ドイツ語ではrecht(右、正しい)、link(左、間違った)といような対比的な意味に使われます。このような対比では、2つのものが一つになって完全なものになります。たとえば、光りと闇があってこの世は完全になります。光りが良い、闇が悪いと、一概には決めつけられないのです。

 《魔笛》には、この2元性の問題がたくさん出てきます。男性と女性、長調と短調、火と水、太陽と月、陽と陰。陽はエネルギーで、陰はそのエネルギーを受けています。具体的には、パパゲーノとパパゲーナ、タミーノ とパミーナ、ザラストロと夜の女王、といった対比です。
 3という数字は「時間」を象徴しています。過去、現在、未来。新月、三日月、満月。すなわち、3は時間とお月さまに関係しています。キリスト教の三位一体や、フリーメースンでも3は重要です。《魔笛》では、3人の童子、3人の侍女、タミーノが入ろうとした3つの神殿などが出てきて、随所に、3和音が3回現れる場面があります。

 一方、4という数字は場所を示します。部屋は四角いですよね。一年は春夏秋冬に別れます。すなわち、太陽と関係しています。東西南北も太陽の動きに関係した場所です。


フリーメースン
 《魔笛》の中には、フリーメースンの思想が入っています。フリーメースンとは何でしょうか。中世に大きな教会を造る時、建築家、大工さん、石工職人、彫刻家をヨーロッパ中から集めた。これらの職人達の集まりがフリーメースンです。彼らはとても優秀でした。彼らは政治や宗教の世界には直接は所属していませんでしたので、教会の枠を越えた科学技術の知識が豊かでした。その為、職業団体であったフリーメースンが、徐々に、知識階層のエリートクラブに代わっていったのです。知識を交換し、秘密を守り、通過儀礼として人間を鍛える。教会にとって、フリーメースンは聖 堂を建てるために必要だったけれども、その思想とは相容れない場合もあり、時代によってはフリーメースンを禁止しました。

フリーメースン思想でも、神が世界を造ったのですが、その後人間に世界を任せるところがキリスト教と異なります。フリーメースンによれば、神もコンパスを使って世界を設計した。フリーメースンの歌では神という言葉は避けていますが、一応、聖書を信じています。フリーメースンの儀式では、今も聖書、分度器、水準器、コンパスなどを使います。

 フリーメースンに入るためには入信会があり、そこで人間として鍛えられます。裸で自分の持ち物なしに、暗い部屋に入れられ、自分と対面する。タミーノが蛇に追われているときに気絶するのも、その象徴であるかもしれません。蛇というのが自分の一部で、それと始めて対面して気絶する。

 この入信会を経て、職人として弟子入りして、やがて親方(Meister)になる。これが、ドイツのマイスター制度で、原則として男性社会です。オペラの中でもザラストロとその僧侶達はフリーメースンの世界であり、女性の悪口ばかり言っています。しかし、不思議なことに、最後にはパミーナを仲間として受け入れる。

イシスとオシリス
 大昔の社会は女性社会でした。日本でも、天照大神がいます。《魔笛》にはイシスとオシリスというエジプトの神が出てきます。エーリッヒ・ノイマンは様々な文化での女神をとり上げて、die grosse Mutter という本を書いています。

 イシス・オシリス信仰によれば、母は海のようなもので、人間は生まれる時だけでなく、死ぬときも母に帰る。お母さんから生まれ、お母さんに戻る。女神イシスは男神オシリスより主導権を握っています。イシスは双子の兄弟のオシリスと結婚しますが、オシリスは殺されて、粉々にされてしまいます。イシスはその破片を集めて、もう一度命を吹き込んで、子供をもうけます。母性的なものが命の源泉になっている。これが、エジプト人のミイラ信仰となり、キリスト教では、復活思想として受け継がれます。

 グリム童話などでは、魔法使いとか悪いお母さんが出てきます。これは、母性の中に、そういう二つの面があるからです。子供は親がいなくても育つけど、親は子供が可愛くて手放したがらない。これは、夜の女王の心理に出てきます。ですから、タミーノがパミーナと結婚する条件は、パミーナを夜の女王の所に連れ戻すことです。夜の女王の心理は女神のようだといえるでしょう。


フルートの原型
 フルートと笛は、形は男性的ですが、音は女性的です。一方、太鼓は形は女性的ですが、音は男性的です。多くの古代文化では女性は笛を吹くことが許されなかった。戦争などで精神を鼓舞するために使う男性の楽器だったからです。
お祭りの笛でも男性的迫力がありますね。ギリシャ神話ではフルートはディオニソスという神の楽器でした。ディオニソス(バッカス)は踊り、お酒、そして女性に陶酔してしまう本能的な神です。それに対して、弦楽器はアポロンの楽器でした。アポロンは技術とか数学のような文化的な神様です。弦楽器の手入れは調律など大変で知識のいる楽器ですが、それに対してフルートは原始的です。弦楽器はそのあとの時代に生まれた文化的な所産です。


ジングシュピール
 《魔笛》はジングシュピールの形態をとっており、会話が多く取り入れられています。この形態は《魔笛》の前では《後宮からの逃走》にもみられます。フランス革命の時代ですから、このような庶民的な形態に人気がでてきました。

しかし《魔笛》にはせりふと同時にイタリアのオペラ・セリアから取り入れたレチタティーヴォ・アコンパニャートといった、音楽を伴った語りがあります。3人の童子は喋らないで歌うだけです。多分、モーツァルトにとってこの童子たちは人間ではなく、違う世界から来た天使なのでしょう。ウェーバーの《魔弾の射手》、ベートーヴェンの《フィデリオ》もジングシュピール的要素がありますね。

 《魔笛》の構成は2幕になっています。しかし、エーリッヒ・ノイマンは《魔笛》の台本をみて、これは実質的には3幕の構成とも考えられる、と言っています。2幕でタミーノとパミーナが二人で火と水の試練に耐え抜いた後の、フィナーレからが3幕ではないかというのです。

 この3幕説は、調性から考えても裏付けることができます。

 《魔笛》の調の構成は以下のようになっています。


第1幕
 Es [ c-C -Es-B-B-G-Es-C ]
第2幕(フィナーレの前まで)
 F- [ F-C-G-C-d-E-A-g-D-B-F ]
第3幕(フィナーレ)
 Es-c-F-C-G(g)-C-G-c-Es

この構成を見ると、音楽的にも第2幕フィナーレが第3幕といってもいいような構成になっていることが判ります。…
…(登場人物の主な調、調の特性についてピアノ演奏による実演説明)。

舞台装置、登場人物の類型
 舞台について見てみます。タミーノは「日本から来た」王子です。この時代の人はギリシャ神話に飽きて、東洋趣味がありました。タミーノがザラストロの寺院にくると、三つの入り口があります。Natur (自然、天性)、Vernunft(分別、理性)、Weisheit(知恵、知性)です。

 なぜ、ザラストロがパミーナを夜の女王から奪って彼の寺院に連れてきたか。
これにはいろいろな説があります。

通常の説は、パミーナの父親とザラストロが友人で、父親が死ぬときにパミーナをザラストロに託した、というものです。

もう一つの説は、本当はザラストロは夜の女王の旦那さんで、今は離婚した、というものです。

 エジプト風の寺院にパミーナは捕らわれています。そして、見張りの黒人モノスタトスに狙われています。モノスタトスの取り扱いには人種差別にならないように気を付けなければなりません。モノスタトスがこの寺にいる理由としては、彼が違う寺からここに見習いに来たという説と、アフリカからの留学生であったという説があります。なぜザラストロがモノスタトスのような邪心を抱く人間を自分の側に置きパミーナを見張らせているのか、は面白い問題で、次のようなノイマンの説があります。

ザラストロのような聖職者は、建前上、禁欲的な生活を送り奔放なことができない。

そのザラストロが押さえている邪心、すなわちザラストロの影としてモノスタトスが登場している、というものです。

ザラストロは立場上、パミーナが好き、とは絶対に言えない。モノスタトスを通して、その邪悪な心の一面を具現させている、というわけです。ここにも、《魔笛》の2元性が出ている、とエーリッヒ・ノイマンが言っています。

ですから、ザラストロがモノスタトスを罰するのは、自分の影を罰しているマゾヒズムでもあるわけです。

 このザラストロの人格を見るために、ベルイマンの映画の一幕のフィナーレを観てみましょう。……(鑑賞)……。 皆さんは、ザラストロの2元性についてどう感じましたか?

 パパゲーノは羽の付いた鳥人で、鳥を捕って夜の女王に捧げて暮らしている。
羽の付いた人間というのは、人間離れして少し天使に近いという象徴でもあります。


音楽的特徴 (一部省略)

拍子について 
 2拍子と3拍子について検討してみます。2拍子と4拍子は歩くリズムですが、3拍子は踊りのリズムです。昔は、3拍子は三位一体を象徴する神のリズムとして、完璧なリズム tempus perfectus と呼ばれていました。4拍子は(神からすると不完全な)人間が歩くのに自然なリズムなので、tempus imperfectusと呼ばれていました。4拍子を表す楽譜記号に現在、アルファベットの C を使いますが、これは、もともとは、不完全なリズムという意味で、半円を表していたのです。

 《魔笛》では3拍子は全体的には少なく、ここぞという箇所で効果的に使われています。……(一部省略、ピアノによる実演)。

6/8拍子が使われる場所
(1)第1番 中間部 G-dur allegretto 3人の侍女
(2)第7番 Es-dur andantino
            パミーナとパパゲーノ
(3)第16番 A-dur allegretto 3人の童子
(4)第17番 g-moll andante パミーナのアリア
(5)第20番 中間部 F-dur allegro パパゲーノ
(6)第21番 後半 G-dur allegro  パパゲーノ
        (g-moll andante)  
3/4拍子が使われる場所
(1)第4番 前半 g-moll largo
             夜の女王のアリア
(2)第10番 F-dur adagio ザラストロのアリア
(3)第21番 前半 Es-dur allegro 3人の童子
(4)第21番 中間部 F-dur andante パミーナ

何れも、神の助けと関連して、神への祈りのリズムとして使われていることがわかります。


ゲーテの《魔笛》続編
 ゲーテは、未完ですが《魔笛》の続編のジングシュピールを書いています。
《魔笛》と対比してみると興味深いので、粗筋をご紹介しましょう。

 ゲーテの話では、まず、パパゲーノとパパゲーナは結婚して、結婚のプレゼントとしてタミーノから魔笛を鳥あつめのためにもらいました。ところが、あれ程子供を望んだのに、子供ができない。

 パミーナとタミーノの間には子供が生まれますが、生まれたばかりの男の子は、夜の女王の依頼により3人の侍女とモノスタトスに盗まれてしまいます。夜の女王はモノスタトスと結婚の約束をしています。

 盗んだ子供は箱の中に入れられてしまいます。子供の居なくなったパミーナとタミーノは夫婦仲が悪くなってしまいます。タミーノはザラストロの後継者になっているので、ザラストロは、新しい道を求めて巡礼に出る。そして、パパゲーノとパパゲーナに会い、パパゲーノ達の魔笛でタミーノ達を助けようとする。ザラストロはパパゲーノ達に子供ができるように3つの大きな卵を与えます。その卵がかえって、パパゲーノ達は子供を 連れて宮殿に行き、魔笛を吹く。

そうするとパミーナとタミーノの間の愛情が戻ってくる。そして最終的に魔笛のお陰で、箱に入れられた子供も外に出ることができる。しかし、その子供はその時、天使のように羽が生えており、空に飛び去ってしまう。ここで、この物語は終わっています。

 ゲーテの物語では、《魔笛》では或る意味で不真面目とみられたパパゲーノがタミーノ達を救います。パパゲーノの自然のエネルギーが知恵のあるタミーノ達を助ける。知恵だけでは人生は旨く行かない、というゲーテの教訓です。また、権力のあったザラストロも新しいものを求めて出直している。すなわち、これらを通してゲーテが訴えようとしているのは、《魔笛》で出てくる Natur (自然)、Vernunft(分別)、Weisheit(知恵) の3つのバランスの大事さのようです。  
http://www.asyura2.com/sora/bd3/msg/617.html


モノローグ「魔笛」について

様々な工夫
このオペラ、鳥の羽根に覆われたパパゲーノが出て来たり、3人の童子が雲にのって現れたりするので、幼児でも楽しめるところがあります。WEBには、オーストリアでは「人生で最初に接するオペラ」、と「魔笛」を紹介する記事があります。目で観ても楽しめる上に、ワクワクするような旋律や、鳥や蛇などの動物も登場するので楽しい。しかし、「魔笛」はそれだけではないのです。

先に述べた「夜の女王」の最初のアリアはどんなイタリア・オペラより高い声を要する難曲ですし、技術的にも難しく、大変な曲です。大変親しみ易く、そして物凄く難しい曲。ああいう音の階段は滑らかにレガートで歌うのも良いし、逆に階段のエッジを立ててキリキリと歌うのも良いと思います。私自身はどちらかと言えば後者が好き。その方が、「魔笛」全体としての夜の女王のイメージと一致します。

もしこれを歌い分けて、2ツあるアリアのうち最初の方で滑らかさ、切なさ、哀しく訴えるさまを強調し、後のアリアの方では復讐や、怒り狂った心をキリキリと歌うのなら、本当に驚異的な夜の女王になりますが、実演でも録音でも、そういう歌い分けはまだ聴いたことがありません。

初期にTVで観たのは畑中良輔氏のパパゲーノ。ただし畑中氏は当時から少し中年太りだった(失礼)し、一般にパパゲーノ歌いと言われる人は殆どが中年太りです。まずい! ここで鑑賞に堪えるような体形をしたクヌート・スクラムとかチェーザレ・シェピのような人が演じたら良いのに、と考える次第。

3人の童子役は大概は大人の女声に頼っていますが、あれだって本来のボーイ・ソプラノ(ベルイマン監督の映画や、ショルティ盤はボーイ・ソプラノです)だったら良いのに、と思います(実際には、歌う勤務時間が深夜に及ぶので、不可能)。それでも第1幕第1場でパパゲーノとタミーノ、そして3名の侍女と夜の女王、と次々と現れるところは圧巻ですね。そして第1幕第2場に至ると黒人モノスタトスが登場し、舞台はエジプトっぽくなります。

これらはしっかりした演出があれば、確実に観衆の目を釘付けにできます。演出計画が肝要! めまぐるしい程の変化と、それぞれに珍しい人間の姿、これで子供の目を引きつけられないはずがありません。手練手管を尽くし、子供達でも退屈しないように工夫してあるのが「魔笛」。

これが第2幕に入るや否や全体がザラストロの支配に屈してしまう。
これは返す返すも残念です。音楽は良いのですが、あのプロットの醸し出す教訓臭さに、私はうんざりしてしまいます。

音楽の作曲が進んでいるのに、途中で劇の進行プロットが変更されたからですね。という訳で、私が楽しんで聴くのは主として第1幕です。
第2幕でも2人の武士が歌う壮大な2重唱とか、夜の女王の怒り狂う歌とか、素晴らしい音楽が次々と飛び出して来ます。でも、基本的にそこはザラストロの世界。尤もらしいが、しつこく、重厚壮大な一方、面白くもへったくれも無い結末になってしまう(これは全く私の独断です)。
第2幕で初登場するモノスタトスって、英語で言えばモンスター(化け物)ですし、ザラストロとは拝火教徒のゾロアスターでしょう? と書くと色々物議をかもし出すかも。


「魔笛」の筋立て
第1幕の時代は大昔。世の中は夜を支配する夜の女王と、昼を支配する昼の王がいました。両者の間にはパミーナという娘がいました。やがて昼の王が亡くなり、その後を継ぐのがザラストロ(プロットが混乱して、まるでザラストロがパミーナの父親のように思っている方は御注意)。

ストーリーの始め、ある国の王子タミーノは大蛇に追いかけられ、逃げ回っています。恐怖のあまり失神してしまったところ、夜の女王に仕える3人の侍女が現れ、大蛇を殺してタミーノを救います。そこにやって来たのがパパゲーノ。彼は自然児で、自由に鳥を捕らえては夜の女王に献上し、その代償としてパンやワインを貰って生計を立てています。彼が、目を覚ましたタミーノに問われ、大蛇もパパゲーノ自身が殺した、と説明します。

このウソに怒る3人の侍女達は、パパゲーノに罰を加えますが、そこに現れたのが夜の女王その人。娘を拉致された悲しみを歌い上げます。タミーノとパパゲーノはザラストロの宮殿に押し入る約束をして、一緒に救出に出掛けることにします。侍女達は魔法の笛と、危機から救い出してくれるグロッケンシュピール(チェレスタみたいな楽器)をタミーノ、パパゲーノに渡し、さらに3人の童子の乗った「空飛ぶ雲」の後をついて行くように申し渡します。

(ここまでは別段不思議でも無いのですが、それはプロット作者が最初はそのように書き、モーツアルトはそれを忠実にオペラ化したからです。ところがプロット作者はここで別の考えに基づき、悪玉だったザラストロを善玉の修道者にしてしまい、逆に善玉だった夜の女王はヒステリーを起こした哀れな女として悪玉にしてしまいました)

第2幕でパミーナはザラストロの集団の中にいますが、パミーナにはまだなぜ自分が此処に、という疑問が解けません(解けるはずが無い。ザラストロのやり方は拉致ですから)。タミーノは修道士たちから試練の大切さ、その難しさを刻み込まれ、もうすっかりザラストロの手中です。

夜の女王の侍女達が現れ、なぜそこに居るのですか、と聴きますがもう手遅れ。パミーナの目の前には夜の女王本人が現れ、父親手製の短剣を与え、あのザラストロを仕留めるように、と命じて消えます。パミーナは躊躇いを見せますが、そこに現れたザラストロから静かに時を待て、と言われます。

試練は続き、タミーノとパパゲーノは沈黙を守るよう教え込まれます。じっと我慢すれば、タミーノはパミーナを伴侶として得られ、またパパゲーノはパパゲーナを伴侶として得られることを告げられます。タミーノはそうしようとしますが、パパゲーノの口を塞ぐのは大変なこと。おまけにパパゲーノの目の前にはパパゲーナが変装して現れたりして、撹乱します。一方パミーナは沈黙を強いられたタミーノに何も聴いて貰えないので絶望しており、手にした短剣で自らの命を断とうとしますが、あの雲に乗った童子達によって止められます。ついにパミーナはタミーノと共に修練を積むことを許され、これから一緒に行くようにと言われます。多くの悪霊達のいる炎の中に入って行きますが、両人は修練に耐えました。

また夜の女王とその一群は最後の勝負に出ますが、あたわず、地面の割れ目に落ちて行きます。一方パパゲーノはそういうことに関心無く、パパゲーナと一緒に森の中に走って行って子沢山になったというストーリー。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/column-002/appendix/appendix_036.html

ベルイマン監督の「魔笛」

「魔笛」の楽しさを味わうのに最適なのは、筋がどんどん進む演出ではないか、と思います(特に余り慣れていない場合)。即ちモーツアルトに多いレシタティーヴォ・セッコの早口で喋る箇所を、本当に早口で喋らせてしまうのです。その方が時間も短くなって退屈せずに済む(本当はレシタティーヴォ・セッコにはそれなりの良さがあるのですが、それはオペラに慣れてからにしましょう)。特に子供達にオペラを観せるなら、レシタティーヴォ・セッコの省略はテです!

スウエーデンのベルイマン監督の映画「魔笛」がありますが、あれがイチオシでは無いでしょうか。よく考えられた劇進行と、演出です。昔私がニューヨークに行った時、Alからベルイマン監督の「魔笛」を観るように勧められたのですが、当時はまだ持っていませんでした

(「音楽のすすめ」第2章 第29話「ウオルドーフ・アストリア・ホテル」を参照)。
http://www.kit-ya.jp/etc/club/column-002/2nd/2nd-029.html

後で買って観たらナカナカのシロモノでした。そこで使われる言語はスウエーデン語です。基本的にドイツ語もスウエーデン語も同じ言語から進化した従兄弟同士ですが、Nein, nein(ナイン、ナイン)となっている所をネイン、ネインと発音するので、時々そうだった、これはスウエーデン語だったんだ、と苦笑しています。

ベルイマン監督の映画では序曲が遅く、どうしたんだろうと思いますが、いざ開始した時、舞台を右に左にと逃げ回るのは、ぬいぐるみになった(漫画チックな姿ですが)竜と、それに追いかけられて逃げ回るタミーノ。まずはこの演出で子供達の目が開きます!そして3人の侍女たちの満面笑みを浮かべた合唱と、それに続く夜の女王の登場。この場面では背後にあるウズ状の星空は夜の表現にピッタリ合います。そして見るからに楽しそうなパパゲーノの登場と、総勢が舞台から客席に向かって並んで歌う歌の場面!これにはやられた、と思いました。オペラでは堂々と歌手が客席を見ることは滅多に無いので。タミーノは歌わなければならない義務感が少し見えましたが、あとのメンバーは歌うことが楽しくて仕方がない、という風情。

そして天から気球が降りて来ますが、その中に3人の童子に扮した少年達が乗っています。童子を演じる子供達の思いっきりの笑顔を見て、これは相当な訓練をしたな、と思いました。あのシーンは大好きです。まだ小学校にも行っていないような年齢と判断しました。大きく口を開けているし、本当に歌っているんだろうな、と思った次第。

この後は、音楽は素晴らしいのですが、ザラストロの仲間に引き入れようとする一方的なお節介に、イライラします。まるで秘密結社に引き込もうとする拉致騒ぎみたい、というのが私の本音です。でも童子達が出て来てパミーナを説得しようとする場面とか、夜の女王が再度登場してタミーノを叱る場面は素晴らしい。特に夜の女王はこの第2幕のアリアで、スタッカートを強調して歌っているのに気がつきました。そうでなければイケナイのです!

第1幕はレガートに、そして第2幕は激しいスタッカートで、と使い分けなければいけません。ここの処理は全くの正解でした(但し、あの歌の味付けにはチョッと抵抗がありました)。純声楽的に見たとき、ビルギット・ノーデンというソプラノが本当にあの音色になるのかどうかは分かりません。私の耳には、高音部になるとエコーが聴こえましたし、弱い声なのかもしれません。夜の女王だけでなく、他のキャストも本当にああいう声が出ていたかどうかは疑問です。でもコレは子供でも楽しめる「魔笛」、しかし決して子供相手だからと言って手抜きの無い「魔笛」。その場合、トリックは許されるのでは無いでしょうか。

それにザラストロを除く全キャストは生き生きとしていますし、観ていても楽しい。あのバイキンマンを思わせるような帽子を被ったモノスタトスだって楽しい。パパゲーノの言うような、そんな説教は聞きたくない、それよりも食べたいし、寝たいし、女房が欲しいよ、という主張は実は勝手にプロットを変更されたモーツアルトの抗議だったのではないでしょうか。だから最終場面で幕が降りる時、パパゲーノとパパゲーナはドウしたんだろう、とフト湧く疑問に答えるべく、カーテンが着地する直前に、そのカーテンの前に両人が現れ、それも多くの生まれた子供達を引き連れて、舞台を食っていました。ああこれは楽しい世の中だなあ、と言うところ。これが「魔笛」。キャスト達の見せる極上の笑顔と最後のシーン、これですね。ザラストロは姿格好からして力がありません。モノスタトスのことを「あの嫌らしいムーア人」などと言っているのは今日的ではないし。

途中で出て来る多くの歌、例えばパミーナが歌う「恋する男は」とかタミーノの「おお永遠の夜よ」、「多分彼はパミーナに逢えたな」とか、あるいはグロッケンシュピールを鳴らしてモノスタトス一同を骨抜きにしてしまう箇所等(その一部にシューベルト「童は見たり」と聴こえて来る)は、本当にモーツアルトが天才だという証明です。

最後に気がついた箇所を2つ。それは第1幕でザラストロがモノスタトスに77回のムチを与えようと言う場面がありますね(翻訳の付いているものとして、ショルティ盤とフリッチャイ盤で確認)。映画の画面上に出る翻訳は確実に555回のムチと出ていました。あれは間違いではありませんか。同様に、第2幕で夜の女王が登場したあと、ザラストロはパミーナと対話するのですが、そこでパミーナはザラストロのことを父上と呼ぶ対話プロットが出ていますが、原文では単にHerrと呼びかけているだけですから、額面通り受け取ると間違います。尤も修道院等では長老のことを皆、父上と呼ぶのかも知れません。このレーザーディスクは、間違いが見つかれば書き直してくれるそうなので、それに期待しましょう。

ベルイマンの映画でパパゲーノを歌っているホーケン・ハーゲゴートの顔を見ていると、私は米国YYY機構のC君を思い出して懐かしく思います。30年前に初めて逢った当時のCの顔に似ているからです。その後30年の間に、Cはすっかり体脂肪がたまり、体の外観も変ってしまいましたが、初めからああだったのではなく、もう少し締まっていた(太めだとしても)のです。Cがモーツアルトが一番好きと言っていましたが、それはオペラ「魔笛」を含むものだったのでしょうか。それでは最後に、バイエルン歌劇場で録画したウオルフガング・ザヴァリッシュの指揮したものを通して聴いて(観て)みましょう。


それにしてもパパゲーノ達は、そのあと、どこに行ってしまったのでしょう?
パパゲーノがザラストロの集団の中で暮らすなんて考えられないし、最後のシーンにも特に登場しなくても可だろうと思うのです。解説を読むと、パパゲーノとパパゲーナはサアーッと森の中に消えて行った、とあります。それで良いのです。野生児パパゲーノの生き方です。

一つ心配なのは、パパゲーノは鳥刺しですが、今まで夜の女王が買ってくれましたが、女王がいなくなって(本当?)毎日の生活のカテをどこで得たのでしょうか。また3人の童子達のMentor(導師)は誰だったのでしょう。そして魔法の笛も、グロッケンシュピールの効力は誰が持ち主でも(ザラストロ側でも夜の女王側でも)続くのでしょうか。最後に私が得た印象は、このオペラ「魔笛」の主人公は間違いなくパパゲーノです。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/column-002/appendix/appendix_037.html


結論として、音楽がわかる人はみんなザラストロが大嫌いなんですね。
ザラストロをまともだ思う人は音楽も人間も全く理解できないという事ですね。


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参考 ベルイマンの映画

Kris (1946) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=ygRCsij7Es8


Port of Call (1948) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=dSgsvSkq_ic


Prison (1949) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=_lVVdpZ5eDk


Summer with Monika (1953) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=BMNxfoltCTM


Uma Lição de Amor - Ingmar Bergman - 1954
http://www.youtube.com/watch?v=jQ8RYhGtgkE


Ingmar Bergman: "Sommarnattens leende" (1955)
http://www.youtube.com/watch?v=Z_zP-zEylYk


イングマール・ベルイマン 夏の夜は三たび微笑む
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23167020
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23167047
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23167073
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23167105
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23167138

Smiles of a Summer Night (1955) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=EvikpyWw59g


ingmar bergman - el septimo sello (1956) subtitulos en español
http://www.youtube.com/watch?v=FBAPmaXVmLc

イングマール・ベルイマン 第七の封印
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23153039
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23153094
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23153162
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23153233
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23153305


Wild Strawberries (1957) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=9anlOTzIrkM


''Il posto delle fragole'' di Ingmar Bergman, 1957
http://www.youtube.com/watch?v=J_dDkRIAt60


FRESAS SALVAJES - INGMAR BERGMAN
http://www.youtube.com/watch?v=4HivG6fBC8M


Il settimo sigillo di Ingmar Bergman
http://www.youtube.com/watch?v=sLasN9RRYVw


イングマール・ベルイマン 女はそれを待っている
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23274691
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23274737
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23274752
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23274774


Brink of Life (1958) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=s9hHtfTmlTU


The Magician (1958) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=cRYnn4dJ70E


The Virgin Spring (1960) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=h82_I4kH6H8


Through a Glass Darkly 1961 - Ingmar Bergman
http://www.youtube.com/watch?v=5yTWFT-y718


Come in uno specchio - Ingmar Bergman (film completo ita)
http://www.youtube.com/watch?v=rhRyr42cG2I

O silêncio Tystnaden Ingmar Bergman Legendado em português completo YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=hJSBpmqEvwQ


El silencio (Tystnaden) Subtitulada
http://www.youtube.com/watch?v=V2dMM98pVm8


Persona (1966) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=vMfqSuRlerU


Shame (1968) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=HlyUC_pnL3c


L'ora del lupo - Ingmar Bergman (film completo ita)
http://www.youtube.com/watch?v=iN7O6GVIo2k


Hour of The Wolf(1968)
http://www.youtube.com/watch?v=ITG2SXj_-Rg&list=PLE95BC4EC7E6093C0
http://www.youtube.com/watch?v=b5gEfJDqQZY&index=2&list=PLE95BC4EC7E6093C0
http://www.youtube.com/watch?v=UtixhUSovMw&index=3&list=PLE95BC4EC7E6093C0
http://www.youtube.com/watch?v=hKrLw-B-yWs&index=4&list=PLE95BC4EC7E6093C0
http://www.youtube.com/watch?v=SAHt-EBdRac&list=PLE95BC4EC7E6093C0&index=5
http://www.youtube.com/watch?v=PWMTQChkcW8&list=PLE95BC4EC7E6093C0&index=6
http://www.youtube.com/watch?v=XY4UPN_xI9E&index=7&list=PLE95BC4EC7E6093C0
http://www.youtube.com/watch?v=P4ZiowHkbxU&index=8&list=PLE95BC4EC7E6093C0


Riten - Ingmar Bergman
http://www.youtube.com/watch?v=rqbnlbIDgKE


En Passion [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=lNjXnFS09RI


Sussurri e grida - Ingmar Bergman (film completo ita)
http://www.youtube.com/watch?v=ronxMVoINW8


叫びとささやき 1972 イングマル・ベルイマン
http://www.youtube.com/watch?v=DptXkyj0ldg
http://www.youtube.com/watch?v=1a8Jh-rtSQg


Scenes from a Marriage (1974) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=SwOQMpuIAa8


Face to Face (1976) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=NepL3SVL8NQ


The Serpent's Egg (1977) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=PTKIEr6V__k


イングマール・ベルイマン 秋のソナタ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23152464
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23152526
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23152592
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23152632
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23152720


From the Life of the Marionettes (1980) [MultiSub] [Film] - (Ingmar Bergman)
http://www.youtube.com/watch?v=jAGhiDgx1XA


Fanny and Alexander (1982)
http://www.dailymotion.com/video/x124pts_fanny-and-alexander-1982-pt-1_creation
http://www.dailymotion.com/video/x125vof_fanny-and-alexander-1982-pt-2_creation
http://www.dailymotion.com/video/x1277qu_fanny-and-alexander-1982-pt-3_creation
http://www.dailymotion.com/video/x128cvu_fanny-and-alexander-1982-pt-4_creation
http://www.dailymotion.com/video/x129olb_fanny-and-alexander-1982-pt-5_creation
http://www.dailymotion.com/video/x123m9v_fanny-and-alexander-1982-pt-6_creation


【リヴ&イングマール ある愛の風景】 特報映像!
http://www.youtube.com/watch?v=g4opdmMpGEk

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2.「ドン・ジョヴァンニ」_ モーツアルトが本当に言いたかった事

ドン・ジョヴァンニが改悛を迫る騎士長(石像)を拒み、「NO!NO!」と叫び続ける。

急に涙があふれ、目の前が見えなくなった。

いつの世も時代を切り拓くのは、若者達のエネルギーだ。

今私達は、「NO!NO!」と信念を貫くことができるだろうか。

ふと問うてみたくなった。
http://www.opera-sai.jp/message/index.html

Don Giovanni - Commendatore scene (Furtwängler)
http://www.youtube.com/watch?v=jATcM8X29zc

Don Giovanni Ópera completa subtitulada .Siepi Salzburgo 1954
http://www.youtube.com/watch?v=mrMNai2skVY
http://www.youtube.com/watch?v=XPYjqz7nToY

ジョヴァンニが、つまみ食いしているレポレッロをからかっているところにエルヴィーラが登場し、生き方を変えてと懇願する。しかしジョヴァンニがまともに相手にしないので、彼女は諦めて去ろうとする。突然、玄関で悲鳴を上げた彼女は別な出口から逃げ去る。何事かとレポレッロが見に行くとやはり悲鳴を上げて戻ってきた。騎士長の石像が約束どおりやってきたのである。

石像はジョヴァンニの手を捕まえ、「悔い改めよ、生き方を変えろ」と迫る。初めて恐怖を感じながらも執拗に拒否するジョヴァンニ。ついに「もう時間が無い」といって石像が消えると地獄の戸が開き、ジョヴァンニを引きずり込む。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B


第十四場/エルヴィラが来る。彼女は「私の愛の」最後の証しとして、ドン・ジョヴァンニに意見をし、生活を変えて欲しいと言うが、ジョヴァンニは取り合わない。退室しようとしたエルヴィラの悲鳴が聞こえ、見に行かされたレポレルロも悲鳴を上げて戻る。

第十五場/石像が
お前と晩餐をともにするよう」に招待されてやって来た。石像は現世の食物は食べないのだ、しかしお前を食事に招待しようとやって来た
という。石像の手を取ると、冷たい。

石像は「悔い改めよ」と忠告するが、ジョヴァンニは受けつけない。
火が燃え上がり、主人公は地下に呑み込まれていく。

ドン・ジョヴァンニが英雄になるのは、最後の死との対決においてである。・・・
この地獄落ちは「天罰」ではない。
それはなぜかといえば、ここで石像は四度にわたって、
「これまでの生き方を悔い改めるか?」
と主人公に尋ねているからである。
つまりドン・ジョヴァンニには、改心して許される可能性が、まだ残されているのである!・・・

しかし、ドン・ジョヴァンニは、まさに自分自身の意志によって、こうした延命措置を拒絶する。・・・

クライマクスのあの凄まじい音楽は、神学的な業火の恐怖などではなく、神と対峙することを恐れぬドン・ジョヴァンニの巨人的な意志としとて解釈されるべきだろう。

 モーツァルトのドン。ジョヴァンニは、「今ここの快楽以外の何ごとも信じない」という無節操のエロティシズムを、命を賭して貫徹することによって、理念に殉じる精神の貴族としての身の証を立てる。
無理念と見えたものが、死の瞬間に英雄的な理念へと転じるのだ。
この地獄落ちのフィナーレにおいて、「わしは卑怯者との咎だけは受けぬ!」と言い放つ主人公の生き様の、巨大な逆説の弁証法が完遂されるのである。
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/donjovan.htm

モーツアルト《ドン・ジョヴァンニ》

作曲年 1787年
舞台  西班牙のある町
原作  ジョヴァンニ・ベルターティ「石の客」、ティルソ・デ・モリーナ「セビリアの女たらしと石の客」、モリエール「ドン・ジュアン」等を参考にしている 。  
台本  ロレンツォ・ダ・ポンテに依る伊太利亜語


登場人物
 ドン・ジョヴァンニ  好色家の貴族
 ドンナ・アンナ    騎士長の娘
 騎士長        ドン・ジョバンニに刺殺される
 ドン・オッターヴィオ ドンナ・アンナの恋人
 ドンナ・エルヴィラ  以前ドン・ジョヴァンニに捨てられた女
 レポレロ       ドン・ジョヴァンニの従者
 ツェルリーナ     結婚間近の村娘
 マゼット       ツェルリーナの婚約者
http://www.d1.dion.ne.jp/~t_imac/giovanni.htm

▼モーツアルトの新作《ドン・ジョヴァンニ》は1787年、まずはプラハで初演され、また大喝采を浴びます。
  この作品を“読む”にはオペラで描かれた時代背景を抜きにしては語れません。
  舞台は、大航海時代を経た17世紀のスペイン。その時代、スペインの男女の人口比率は他のヨーロッパ諸国とは甚だしく異なっていて、男が圧倒的に少なかったのです。大航海時代、スペインから新大陸やアジアを目指すことは、いわば結婚適齢期にある男だけの仕事に限られました。すなわち、男の人口の一方的な激減による男女比のアンバランスが生じていたという事情があるのです。ちなみに、プロテスタント系の移民では、必ずパートナーとして女性を伴っていたので、アンバランスはほとんど起こりませんでした。
 ここに登場するのが、ドン・ジョヴァンニという貴族。彼は女ばかりが目立つ社会に出てきたわけです。カトリックの意識が高いスペインですが、伴侶を求める女性たちにとっては一種の“男日照り”です。ここにドン・ジョヴァンニ、スペイン語で「ドン・ファン」と言えば文字通り色事師の代名詞が現われたのです。言換えれば、そのような時代のまさしく「結婚詐欺師」。

  元ネタとの大いなる違いは、その“色事哲学”にあると言いました。たとえばレポレッロのアリアのなかで、ベルターティのほうでは「女なら誰でもいいが、老女はだめ」と言っています。逆に、ダ=ポンテは「女なら13歳から老女まですべていい」と言い切っています。すなわち、性欲のある限り、いやむしろ「本能のしもべ」となって感情を捨て、すべての女性を対象にするといった哲学的変化が明らかなのです。ベルターティとダ=ポンテの差異は、この点で際立ちます。

  モーツアルト作のこのオペラで描出されたドン・ジョヴァンニは快楽の象徴だと私は見ています。すなわち、デモーニッシュな(悪魔的な)存在そのもの。それが証拠に、いかに彼が女性といたしたとしても女性は妊娠しません。あれだけの回数をこなしても、まるで“実りなし”。

  ここでも、モーツアルトが意図したキリスト教のドグマへの反逆が見てとれるのです。とはいうものの、オペラではそれこそ悪魔のように細心に、舞台上では誘惑は失敗に終ったかのように糊塗されています。ここが、“オペラ読み巧者”かどうかの分かれ目。登場人物たちの表情、ならびに性格描写にちなむ音楽を“読み込めば”、裏では誘惑が成功裏に推移したことがわかるのです。そう読まないとむしろつじつまが合わないとまで私は思います。

  最近、私はドン・ジョヴァンニ物語の元祖とも言うべき《セビリヤの女たらし、または石造の客》(1603年)という芝居を観てきました。ここではドン・ジョヴァンニがアンナを誘惑し、ちゃんとコトに及んでいるのです。しかし、モーツアルトのオペラでは宮廷の手前、舞台上でやるわけにはいかなかった。もっとも観客はその逆をしっかり読んでいたのです。

  もう一つ見落としてはならない点があります。それは、ドン・ジョヴァンニに捨てられた貞淑なエルヴィーラが第2幕で、それでも未練断ちがたく再び彼とおぼしき男とコトに及んだと見られるシーン。その実、その男はドン・ジョヴァンニに扮した下男、レポレッロだったのです。

愛する夫が下男に妻を抱かせた!

悪事極まる。ひどい諦観にあえぐエルヴィーラですが、ラストになって食事中のドン・ジョヴァンニのところに来て、「生活を改めて下さい」と言う。この場面で、彼女はドン・ジョヴァンニとの仲を本当にあきらめたと読むべきです。そして、最後の最後、彼女は修道院に入ることになる。そう深読みすると、彼女の純愛が知れ、万感の思いにとらわれるはずです。

  ラスト、ドン・ジョヴァンニと関係した女たちは、三者三様。
片や身を許したドンナ・アンナは婚約者との結婚を一年間延期。
これは未亡人として喪に服す期間なのです。
もう一人、ツェルリーナだけはすぐさま結婚を望む。
ドン・ジョヴァンニの子を妊娠していたら困るからです。
《ドン・ジョヴァンニ》とはキリスト教では認めない「一夫多妻」の表徴と言われますが、同時に女の愛の“三面鏡”でもあると言えます。(永竹由幸p70-71)

 序曲:悲劇を予感させるような序曲である。

■“冒頭のニ短調の轟音からして「陽気な芝居」とされたオペラの序曲としては、あまりにも異様な始まりである。音程を正確に保つという点ではかなり不安定で、とりわけ音量を大きくするとピッチが狂いやすかった当時の楽器を使って、金菅やティンパニを含む全オーケストラが、目一杯のフォルティッシモを鳴らす。しかも長調と比べて響きが濁りやすい短調の和音だ。

恐らくそれは、現代楽器で演奏したときのような、すぐそれと分かる短三和音ではなくて、耳を聾する割れた大音響のように響いたのではないか。これは一八世紀におけるクラスターであって、当時の聴衆にはそれは、近現代の聴衆にとってのマーラーの第六交響曲やベルクの《管弦楽のための三つの小品》のような響きに聞えたに違いない。

 それに続く、あてどもなく上へ下へとさまよい続ける音階の連続についても、思わずニ〇世紀音楽を持ち出したくなる。私の耳にはそれは、一九世紀を飛び越えて、ほとんど無調の概念を先取りしているように聞えるのだ。”(岡田,2008,p.117より)


 第一幕   
Jovanni and AnnaKill 第一場/ドンナ・アンナの庭園。夜である。
見張り役のレポレルロが、第1曲導入曲「夜も昼も苦労してるのは」とボヤいている。そこへ、屋敷の中から、ドンナ・アンナに騒がれつつ、顔を隠したドン・ジョヴァンニが登場。
悲鳴を聞いて駆けつけたアンナの父親の騎士長がジョヴァンニに決闘を申し込み、剣を交えた後、ジョヴァンニに刺されて倒れ、絶命する。
静寂の瞬間が訪れる。この事態にジョヴァンニさえも動揺している。


■“河上徹太郎によれば、モーツァルトの優美な官能劇は「終始『死』ぼ背景に描かれた歌劇」であって、「幕あきに騎士長がドン・ジョヴァンニに殺され、最後にその復讐が完成されてジョヴァンニが死ぬまで、一貫して劇を曳きずってゆくものは、主人公の絢爛たる背徳であるよりは、死の不可避な招請、否もっと正確に言えば、死の絶対的な背景の上に端的に現われた、生命力の諸相である」。

そして「放蕩」と「死」という二つの観念が、「それぞれ競って互いにどぎすまされていった揚句、ドン・ジョヴァンニの『死』という一点で大きく合体して、劇は終わる。この『死』と最初の『死』とが照応して、このオペラを包んでいる」。私の知る限り、「死との対決」という視点から、ドン・ジョヴァンニを論じているのは、この河上の論考だけである。”(岡田,2008,p.111より)


 第二場/ジョヴァンニとレポレルロは逃走する。 

■“オペラという「歌われる」世界のオーラが完全に消滅し、乾いた散文(レチタティーヴォ)という現実が裸でむき出しになった地点で、ドラマの最初の場面は終わる。寒々しいこの「ディス=イリュージョン(幻滅=幻影の崩壊)」は、ドン。ジョヴァンニのドラマを貫く力学の一つである”(岡田,2008,p.121より)

 第三場/アンナとその婚約者ドン・オッターヴィオが出て来て、騎士長の死骸を発見する。アンナは気を失う。オッターヴィオは騎士長の亡骸を片づけさせる。意識を取り戻したアンナ、第2曲レチタティーヴォと二重唱「なんという痛ましい光景」(ドンナ・アンナとドン・オッターヴィオ)、復讐を誓う二人。

 第四場/夜である。場面は路上に変わる。レポレルロは主人の生活を批判するが、ジョヴァンニは聞き入れず、「女の匂いがしてきた」と言う。 

Elvira 第五場/旅姿のドンナ・エルヴィラ登場。
第3曲アリアと三重唱「ああ!いったい誰が私に言ってくれるの」、エルヴィラは愛情と憎しみが一緒になった劇的なアリアを歌う。早速、声をかけるジョヴァンニだが、自分が捨てたエルヴィラと分かって困る。ジョヴァンニが隙を見て逃走した後、エルヴィラにレポレルロはこれまでに主人がものにした女の名前のカタログを示す。catalogue第4曲アリア「可愛い奥様、これが目録です」、レポレルロの「カタログの歌」である。ご主人さまは女なら誰でもいいのだ、と。


■“要するにドン・ジョヴァンニは、すべての女性に美を贈る霊なのだ。
これをキルケゴール流にいうと、ドン・ジョヴァンニは関係を結んだ女性を汚すのではなく、浄化するのだ、ということになる。『あれかこれか』におけるキルケゴールのみごとなドン・ジョヴァンニ論−彼にとって、ドン・ジョヴァンニを論ずることは音楽の本質を論ずることにつながる−によれば、
女性はドン・ジョヴァンニの巨人的な情熱によって、「高められた美の中で燃え立つ」。そして、ドン・ジョヴァンニは、「老いた女を若返らせて女性的なものの美しい中心に移し、子供をほとんど一瞬のうちに成熟させる」という。

■“(カタログの歌で)主人の偉大な業績を読み上げていくうちに、自分もつい昂奮して声が上ずってくる。・・・(女の身分が上がるにつれ)、旋律も二度ずつ上がる。(主人が女をたらす時の手口を紹介するとき)自分の潜在願望を主人の実績に重ね映しにしているのだ。・・・「大きな女は堂々として」というところにさしかかると、音楽も一緒になって、ぐうっとふくらんで壮大になる。一転して「小さい女は可愛らしくて」というところになると、音楽も小刻みの猫撫で声で、こちょこちょと可愛がる。・・・ラストは完全に酔っ払いの鼻歌のようになってしまう。”(石井宏p65)


 第六場/エルヴィラは復讐の気持ちを自分に再確認して、去る。 

 第七場/農民たちが登場。陽気に歌う。第5曲二重唱と合唱「若い娘さんたち、恋をするなら」(ツエルリーナ、合唱、マゼット)。
 第八場/エルヴィラから逃げた二人が来る。レポレルロにマゼットをひきつけておくように命じ、ジョヴァンニはツェルリーナを誘惑にかかる。座を外すように脅されたマゼットは仕方なく、第6曲アリア「分かりましたよ、お殿様」(マゼット)と言い捨てて、レポレルロと去る。 

第九場/ツェルリーナを口説くドン・ジョヴァンニ。第7曲小二重唱「あそこで手に手をとりあい」(ジョヴァンニ、ツェルリーナ)。最後には、とうとう抱き合いながら傍にある別荘に歩き始める二人。

■“誘惑に最初は躊躇していたツェルリーナも、曲の最後では同衾することに同意してしまった。音楽の進行につれて登場人物の心境が刻々と変化していくのが、モーツアルトのアリアの(より一般的に言うならば、モーツアルトに代表される古典派のアリアの)特徴である。”(笠原潔)。

  第十場/エルヴィラが二人を押しとどめる。
第8曲アリア「ああ、裏切り者を避け」、エルヴィラはツェルリーナを救出する。 

  第十一場/ひとりで残ったジョヴァンニのところへ、アンナとオッターヴィオがやって来て、助けを求める。 

  第十ニ場/そこへエルヴィラが戻り、アンナたちに第9曲四重唱「信用してはいけません、おお、不幸な御方よ」(エルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオ、ジョヴァンニ)。ジョヴァンニはエルヴィラを気狂い女と批難するが、アンナたちはエルヴィラの真剣な様子に心を打たれる。ジョヴァンニはいったん退出する。 

第十三場/アンナは声で思い出す。
第10曲レチタティーヴォとアリア「もうお分かりでしょう」(アンナ)。
あの男が父親を殺したのだ、と。


■“モーツアルトの研究家として有名なアインシュタインは、先ほどのアンナの告白を偽りだとしている。彼女は実はその忍び込んできた黒いマントの男を許婚者のドン・オッタヴィオだと思い、抱かれてしまったのだ。・・・

彼女は許婚者の手前、「抱かれました」とは言いにくい。そこで「身をよじって逃げた」という。だが実際に逃げたのではないということは「十八世紀」の観客にはわかっていた。そこで、許婚の彼が「ああ良かった、それを聞いてホッとした」というと、当時のわかっている観客にはおかしいような、哀れなような「悲喜劇的な効果を与えた」とアインシュタインは言う。そしてこの研究家の卓見は次のポイントにある。

 「以上のことがわかれば、あとはすべて説明がつく。
つまり、何故ドン・ジョヴァンニはアンナに興味を示さないのか。
それは彼がエルヴィラ同様、彼女をすでにものにしてしまったからだ。
なぜドン・オッタヴィオにあれほど復讐を誓わせるのか、なぜ彼女は愛しているのに彼のものになるのを拒むのか、なぜフィナーレでは、すでに自分を誘惑した男は死んだのに、彼女は彼との結婚を一年延ばしてくれというのか」”(石井宏)


■“ドンナ・アンナは、このオペラの間じゅうほとんどヒステリックにわめき続けている。そのため、彼女は十九世紀にあって、心の冷たい石女として扱われていた。しかし、真相はそうではなく、彼女は愛する許婚とまちがえてドン・ジョヴァンニに抱かれてしまうという屈辱的な大失敗をやらかしてしまった。

その心に負った深い傷手が、彼女をしてかくもヒステリックな状態にさせているのだ。そこがわかると、ドラマは自然にほぐれてくる。彼女こそはこのドラマの中の主要な鍵であり、最も複雑な人物である。”(石井宏p56) 

第十四場/オッターヴィオがアンナへの忠誠を誓う、第10曲アリア「私の心の安らぎは」がウィーン稿で挿入された。 

  第十五場/レポレルロがマゼットを騙したときの首尾を主人に説明するが、エルヴィラが現れて計画は水泡に帰した。ジョヴァンニは宴会を開こうという。第11曲アリア「酒で頭がかっとなるまで」を歌っていったん退場。

▼森園みるく作画・河原廣之監修『マンガで楽しむ傑作オペラ ドン・ジョヴァンニ』(自由国民社,2006)では、ドン・ジョヴァンニは幕開き前、ドンナ・アンナと昼食時に面会していることになっており、夜陰に乗じて忍んで行ったときには、アンナの「結婚を」望む言動に白けて情事の途中で止めているという解釈をしている。

既に本作のプロローグで、エルヴィラと誤って結婚して、三日でこりているジョヴァンニは、それ以降もアンナを避け続け、自由奔放な性的な村娘ツェルリーナを求めるという展開になる。そして、ツェルリーナを舞踏会のときに、自分の離れに誘ってとうとう思いを遂げるという解釈をしている。

 しかし、ツェルリーナには言い含めてわざと「誘惑された」と芝居をさせるという展開である。この辺りの解釈はかなり大胆であるが、考えられない展開ではない。
 最後にツェルリーナとマゼットはフランス革命を象徴するドラクロワの絵画の自由の女神とその従者となって出現する。


■“《ドン・ジョヴァンニ》を特徴づけるのは、人間関係の寒々とした希薄さだ。・・・
このうすら寒い世界を、たとえ一瞬であっても燦然と輝かせるのが、ドン・ジョヴァンニである。・・・
彼は、世界を「照らす」だけでなく、本来出会うはずがなかった人々を「結びつける」。希薄な人間関係の中にかろうじて共同体を作るのである。・・・
身分の違いや社会的制約にはお構いなしに、ドン・ジョヴァンニが片っ端から手をつけることでもって初めて、彼らの間には関係が生じたのだ。
「楽しんでくれるなら、楽しませてくれるなら、相手は誰でもいい」という官能の無限抱擁によるかりそめの調和の中心、それがドン・ジョヴァンニに他ならない。”(岡田,2008,p.122より)

第十六場/庭園。農夫たち。マゼットは不実なツェルリーナに怒っているが、ツェルリーナは第12曲アリア「ぶってよ、マゼット」と謝ってしまう。そこへ宴会の準備でジョヴァンニが来る。第13曲フィナーレ「早く早く、あの男が来る前に」(マゼット、ツエルリーナ、ジョヴァンニ、合唱)。 

  第十七場/召使たちに命令する主人。
  第十八場/三重唱「この木々の間に隠れていれば」とツェルリーナは樹の陰に隠れるが、ジョヴァンニにつかまる。しかし、マゼットがいるので驚いて女を返す。

 第十九場/仮面を付けたエルヴィラたち、エルヴィラは「勇気を出すことが必要です」、あの男の不正を暴きましょう。レポレルロが舞踏会への招待を告げる。アンナとオッターヴィオは「正義の天よお守り下さい」。

  第二十場/大広間である。ジョヴァンニは「休憩してください、きれいな娘さんたち」、「ずっと前にお進み下さい」。「皆さん、さあ踊って下さい」。
ツェルリーナを犯そうとするが、マゼットが見張っているし、ツェルリーナも抵抗する。大騒ぎになり、エルヴィラたちも駆けつける。
ジョヴァンニはレポレルロを捕まえて、「こいつが君を犯そうとした悪漢だ」と成敗するふりをするが、エルヴィラは騙されない。「おののけ悪党よ」と全員に批難されても、レポレルロとジョヴァンニは動じない。

■“この踊りの場面にモーツァルトは驚愕するほかないような音楽を書いた。・・・
専ら舞台上に配置された三つの楽団が伴奏をつとめるのだが、何と彼らは、拍子も違えば楽想も関係ない三つの舞曲を同時に奏でる。
第一の楽団は最初に踊り始めるドンナ・アンナとオッターヴィオのためにメヌエット(四分の三拍子)を、第二の楽団はドン・ジョヴァンニとツェルリーナのためにコントルダンス(四分のニ拍子)を、そして第三の楽団は男同士の「カップル」であるレポレロとマゼットのためにドイツ舞曲(八分の三拍子)を。・・・

喩えていうならこれは、日舞と社交ダンスと盆踊りが同じ場所で繰り広げられているようなものであり、異様な意味論的コラージュが作り出されているのである。・・・
メヌエットが宮殿の正式な儀礼、コントルダンスがギャラントな自由人たちが集う田園の奏楽だとすれば、ドイツ舞曲はチロルあたりの農民舞踏である。・・・
ここで意図されているのは恐らくカオスの表現であって、ほとんどニ〇世紀音楽におけるコラージュ技法の予告だと言ってもいい。”(岡田,2008,p.124より)


 第二幕 
  第一場/路上。ドン・ジョヴァンニはもう召使いを辞めるというレポレルロを説得している。第14曲二重唱「おい道化者、わしを困らせるものじゃない」、金貨を与えて思いとどまらせる。食べ物よりも女が必要だという主人にあきれる召使い。
エルヴィラの侍女に惚れたジョヴァンニはレポレルロと服を替えて口説くという。

 第二場/夕刻。窓辺のエルヴィラを口説くジョヴァンニだが、その実は服を交換したレポレルロを立てる。
 第三場 /第15曲三重唱「ああ、お黙り、悪い心よ」。エルヴィラは服を替えたレポレルロをジョヴァンニだと思い込んでしまう。よりを戻そうと降りてくるエルヴィラ。嫉妬したジョヴァンニが声をかけると、二人は逃げ去る。

 ジョヴァンニはエルヴィラの侍女を口説くために、窓辺で愛の歌を歌う。ジョヴァンニの第16曲カンツオネッタ「窓辺においで」。

  第四場/マスケット銃とピストルで身をかためたマゼットと農夫たち。レポレルロに化けたジョヴァンニは第17曲アリア「君たちの半分はこっちに行くんだ」。

  第五場/マゼットから銃を取り上げ、殴り倒すジョヴァンニ。 
第六場/ツェルリーナが怪我をしたマゼットをいたわる、第18曲アリア「見ていらっしゃい、いとしい人」(薬屋の歌)。
一番の薬はここにあるとツェルリーナは胸をさわらせる。

 第七場/松明の列を見て、エルヴィラから逃げ出そうとするレポレルロに、エルヴィラは第19曲六重唱「暗い場所にたったひとり」で残さないでと頼むが、レポレルロは門の蔭に隠れる。ドンナ・アンナとオッターヴィオが登場し、さらに第八場/マゼットとツェルリーナも加わる。主人の服を着たレポレルロの正体が分かって一同、驚愕する。

第九場/ツェルリーナはマゼットを打ったのがレポレルロだと思っている。エルヴィラは、だまされたことが分かってショックを受けている。レポレルロは第20曲アリア「お許しを、皆様」と必死に弁解する。隙を見て逃げ出すレポレルロ。


■“レポレッロはト短調で命乞いをする。他の五人は「ややっ、レポレッロじゃないか。一杯食わされた。こりゃ一体どうしたわけだ」と叫ぶ。この瞬間、音楽はト短調から変イ長調に転調する。この絶妙な転調に、観客は一瞬、自分がその場にいるかのように感じさせられるのだ。

 続いてレポレッロが、変ホ長調で「いろんな思いが混ざりあって」と唱い出すと、ほかの五人もそれを受けて、「いろんな思いが混ざり合って、なにがなんだかわからない」と唱う。さらにレポレッロが、「こんな嵐を抜け出せたら、本当に奇蹟というもんだ」と独白を唱うと。ほかの五人は、「ああ、今日はなんという日だ。思いもかけない奇抜さだ」と、重唱を唱い始める。

 このようにドキッとするほどリアルな転調に続いて始まる、敵味方同士が一体となった重唱は、無個性な声によるコーラスとは全く違うのだ。それぞれがリアルな個性を持ち、自らを主張する人間のからみあいであり、その主張の声がハーモニーを作り出すという非現実性が、一つの劇的空間の中に全て組み込まれるところに、独特のリアリティが生まれてくるのである。

 これについて河上徹太郎は「これこそ他の如何なる歌劇の天才もなし得なかった、モオツアルト独自のものである」とする。そしてさらに「モオツアルトが人物を一刷毛で描き分ける音調なるものは、だから、何等かの音楽上の単位ではない。楽譜の上を探しても無駄だ。それは一つの音の現前である。しかも紛ふことなく、各人物に個性的なものである」とし、最後に「モオツアルトの音楽は、最も純粋な音の実存である」とする。

 これを結論と読むこともできるが、河上はさらにキェルケゴールの『人生行路の諸段階』からの「欺かれるものは欺かれぬものよりも賢く、欺くものは欺かないものよりも善い」という逆説的な言葉を引用し、「これこそモオツアルトがその天才を尽くして《ドン・ジョヴァンニ》で実現した奇跡の真髄であり、借りて以って私の結論にする」と結んでいる。”(井上太郎『モーツアルトと日本人』より131〜133頁)

■“大六重唱は、このオペラの中の、最も素晴らしい曲の一つである。この長くてしかも複雑な一連の音楽の途中、舞台の上ではさまざまな出来事が繰り広げられる。音楽的にも、コミックなものから悲劇的なものまで、驚くような楽想がふんだんに使われれている。”(デント,p.199より)

■“憔悴しきっているドンナ・アンナがオッターヴィオに伴われて舞台に現われると、一瞬だがトランペットとティンパニが微かに鳴り響く。・・・弱音というひどく例外的な用法だ。そのためにこの箇所は、まるでオペラ・ブッファの中にミサ曲が混じりこんだかのように、非常に印象的に響くことになる。・・・

だが、何よりこの六重唱を一種異様なものにしているのは、この厳粛な楽想に続くレポレロが捕まる場面である。ブッファ的な快活さは微塵もない。これは不吉な半音階で下降する動機が執拗に繰り返される、グロステクで哀れっぽいお通夜のような音楽だ。・・・
音楽が短調から長調に転じ、レポレロが早口で言い訳をまくしたてながら、隙をついて逃げ出す場面に至って、この六重唱はさらに奇怪さを増す。・・・
宗教音楽の神々しさ、気が滅入るような不吉さ、そしてブッファのドタバタが、ここでは互いに何のつながりもなく、ただ放置されている。ここに至って、《ドン・ジョヴァンニ》の世界は、ほとんど精神分裂的な様相を示し始めるのである。”(岡田,2008,p.131より)

  第十場/ドン・オッターヴィオは、第21曲アリア「今こそ、私のいとしい人を」、慰めてほしい、自分は復讐を果たすと決意の表明する。
 第十場(ウィーン版では次のエルヴィラのアリアが付加されている)第21曲レシタティーヴォとアリア「あの恩知らずの心は私を裏切った」、復讐の思いと尽くす気持ちで揺れる。


 第十一場/墓地の近く。陽気なジョヴァンニとほうほうの態で逃げ出したレポレルロが再会する。道端で出会って抱いた娘が「いとしいレポレルロ」と叫んだので、それはレポレルロの愛人の一人だったと自慢気に話す主人に、あきれかえるレポレルロ。

そのとき、騎士長の石像が「夜明け前にはお前の笑いも止まる」と予言する。
ジョヴァンニは石像を晩餐に招待しようと提案する。第22曲ニ重唱「とても親切な」石像さま、とおそるおそる晩餐に誘うレポレルロ。石像はわかったと答える。

第十二場/ドンナ・アンナに求愛するドン・オッターヴィオに、アンナは、第23曲レシタティーヴォとロンド「いとしい人よ」、父親の喪に服していなければならないと求婚の受け入れを延ばす。


 第十三場/晩餐の用意がしてある大広間。主人と従者の二人は第24曲フィナーレ「食卓の用意はできた」と食事を始める。『フィガロの結婚』の「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のメロディーも流れる。

第十四場/エルヴィラが来る。彼女は「私の愛の」最後の証しとして、ドン・ジョヴァンニに意見をし、生活を変えて欲しいと言うが、ジョヴァンニは取り合わない。退室しようとしたエルヴィラの悲鳴が聞こえ、見に行かされたレポレルロも悲鳴を上げて戻る。

第十五場/石像が「お前と晩餐をともにするよう」に招待されてやって来た。石像は現世の食物は食べないのだ、しかしお前を食事に招待しようとやって来たという。石像の手を取ると、冷たい。
石像は「悔い改めよ」と忠告するが、ジョヴァンニは受けつけない。火が燃え上がり、主人公は地下に呑み込まれていく。

■“ドン・ジョヴァンニが再び英雄になるのは、最後の死との対決においてである。・・・
この地獄落ちが単なる「天罰」ではないという点を確認しておくことだ。
それはなぜかといえば、ここで石像は四度にわたって、「これまでの生き方を悔い改めるか?」と主人公に尋ねているからである。
つまりドン・ジョヴァンニには、改心して許される可能性が、まだ残されているのである!・・・
しかし、ドン・ジョヴァンニは、まさに自分自身の意志によって、こうした延命措置を拒絶する。・・・クライマクスのあの凄まじい音楽は、神学的な業火の恐怖などではなく、神と対峙することを恐れぬドン・ジョヴァンニの巨人的な意志としとて解釈されるべきだろう。

 モーツァルトのドン。ジョヴァンニは、「今ここの快楽以外の何ごとも信じない」という無節操のエロティシズムを、命を賭して貫徹することによって、理念に殉じる精神の貴族としての身の証を立てる。無理念と見えたものが、死の瞬間に英雄的な理念へと転じるのだ。この地獄落ちのフィナーレにおいて、「わしは卑怯者との咎だけは受けぬ!」と言い放つ主人公の生き様の、巨大な逆説の弁証法が完遂されるのである。”(岡田,2008,p.132より)

 最後の場/アンナたち全員が裁判官を伴って登場。「非道な男はどこ」。
レポレルロにジョヴァンニの最期の様子を聞いて、驚く人々。
オッターヴィオは「いとしい人よ今はもう」、天が裁きを与えてくれたのだからとアンナに求愛するが、やはりアンナは一年待ってくれと言う。
エルヴィラは修道院に入る、ツェルリーナとマゼットは一緒に食事をするために家に帰る、レポレルロは新しい主人を見つけると言う。

 全員で、「これが悪人の最期だ」、そして非道な者たちの死はいつでも生とは同じものなのだと歌う。

 この最後の場面は省略されて上演されることがあったが、最近では省略されることはない。

■“十八世紀においても地獄落ちで終わるドン・ジョヴァンニの方が多かったのであって、つまりモーツァルトは単に同時代の習慣に倣ってハッピーエンドを書いたわけではないのだ。
 モーツァルトのオリジナルな意志は、凄まじい地獄落ちの後に味気ないハッピーエンドがやってくるようにドラマを組み立てたという、まさにこの事実の中にこそ、読み取られなければならない。それはつまりこういうことだ。地獄落ちの轟音とともに、ドン・ジョヴァンニやサド侯爵ヤラクロの『危険な関係』のヴァルモンおよびメルトイユ夫人らが跳梁する、革命直前の貴族たちの官能の夜は終わる。そして道徳的な小市民たちの、あまり面白くもないが安定した近代社会という朝が予感されるところで、このドラマは閉じられるのである。”(岡田,2008,p.137より)

■“六重唱を歌う人々は、要するにすべて他人任せ/神頼みである。諸悪の根源も、それを退治してくれるのも、どちらも絶対的権威(絶対善ないし絶対悪)なのだ。騎士長からの地獄への招待に、毅然として手を差し出すドン・ジョヴァンニの英雄的な姿と、これはあまりに対照的である。

 それにひきかえ、次作《コシ・ファン・トゥッテ》の恋人達は、もはや絶対的権威が存在しない世界を生きなければいけない。”(岡田,2008,p.143より)
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/donjovan.htm

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参考映画

イェジー・カヴァレロヴィチ 尼僧ヨアンナ
http://www.youtube.com/watch?v=MYLKK78mA1M

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グリフィス「散り行く花」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18744057
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18744111
http://www.youtube.com/watch?v=mx7wbYp5izw
http://www.youtube.com/watch?v=yqLnjgNiX-o&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=AVATXNggs1o&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=OpRwCTDT6sc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=xYtIE3Is3iM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=rTNnpAWK9zo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=bvQQllxbDGI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=mFAuLODXgog&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=D9853ozGcsY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Hg1OUlNcR38&feature=related


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アンドレイ・タルコフスキー Andrey Rublev
http://www.youtube.com/watch?v=EjEkUPXdceI&feature=results_video&playnext=1&list=PL2354BE862810ED06


アンドレイ・タルコフスキー 僕の村は戦場だった
http://www.youtube.com/watch?v=X-cOMy9k-6s


アンドレイ・タルコフスキー 鏡(1975)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9863922
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9863976
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864040
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864127
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864211
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864281

アンドレイ・タルコフスキー 惑星ソラリス 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2202085
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2202659
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2203283
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2203722
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2204067
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2204763
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2205261
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2205752
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2206278
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2206783

アンドレイ・タルコフスキー ストーカー 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1840924
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1841131
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1841280
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1841507
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1841694
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1841884
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1842217
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1842368


アンドレイ・タルコフスキー ノスタルジア
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864730
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864786
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864867
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864910
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864936
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864961


アンドレイ・タルコフスキー サクリファイス
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2026762
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2025583
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2025880
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2026086
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2026399
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2027422
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2029092
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2031292

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フェデリコ・フェリーニ La Strada
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8485221
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8485762
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8487033
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8487727
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8488311
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8488786
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8489419

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テオ・アンゲロプロス 永遠と一日
Eternity and a day - Bus scene
http://www.youtube.com/watch?v=NZX6uvMAWks

Eternity and a Day - tracking shot
http://www.youtube.com/watch?v=GyoSHXAMpKs

Eternity and a day, Eleni Karaindrou at Concert Hall of Athens
http://www.youtube.com/watch?v=F1kZFlVTRB0

Eleni Karaindrou - Best Of (Collection - 55 minutes piano playlist)
http://www.youtube.com/watch?v=iQf6eBBZfBg

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El espantoso Midori,la chica de las camelias.
http://www.youtube.com/watch?v=gWaGiXY33Fo&list=PL9iNRJRyCrIhMURMtOYNLzHuIWB1XmSUF


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kazuo umezu's horror theater - bug's house sub Eng & Esp
[楳図かずお恐怖劇場 蟲たちの家]
http://www.youtube.com/watch?v=Sak3Nfz87ps

Tamami The Baby's Curse sub Español [赤んぼ少女]
http://www.youtube.com/watch?v=PDnwkWIsTnE

【Kazuo Umezu Horror Theater】 楳図かずお恐怖劇場 まだらの少女
http://www.youtube.com/watch?v=eWgnHvhoG_w

【邦画】楳図かずお恐怖劇場 絶食(diet)(Eng Sub)full move2005
http://www.youtube.com/watch?v=vhx2ikZjbt4

Kazuo Umezu's Horror Theater - The Wish sub Eng & Esp
[楳図かずお恐怖劇場 ねがい]
http://www.youtube.com/watch?v=dIQ6aGcywwk

Kazuo Umezu's Horror Theater - The Present sub Eng & Esp
http://www.youtube.com/watch?v=a5JPjI4tVc4  

 

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コメント
 
01. 2014年6月13日 23:13:51 : 3cdYZYbVIc

YouTube をダウンロードする方法
http://www.dvdvideosoft.com/jp/products/dvd/Free-YouTube-Download.htm#.UraNBJ2Cimx

パソコン・オーディオについては

中川隆 _ オーディオ関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/451.html


02. 中川隆 2014年6月15日 00:17:12 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
>>1 が何故か削除されてしまいました。
『削除コメント表示切り替え』を押して表示して下さい。

03. 中川隆 2014年10月18日 19:33:33 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

「ドイツオペラの魅力」(中島悠爾著、日本放送出版協会、1981/9)
http://books.rakuten.co.jp/rb/66039/


というちょっと古い本ですが、『状況設定への配慮こそいささか不手際があるとはいえ〜(中略)〜筋は逆転していない、少なくともシカネーダーは、しっかりつじつまを合わせている。

ここで描かれているのは、「善」と「悪」の世界の対立というよりは、

二つの世界、

「昼」と「夜」

「太陽」と「星辰」

あるいは「男の世界」と「女の世界」

せいぜい「二つの異なる価値観」の対立なのだ。』


という趣旨を述べられています。
http://d.hatena.ne.jp/wagnerianchan/comment?date=20100127§ion=1264603319

魔笛談義〜魔笛の由来〜


モーツァルトのオペラ魔笛のあらすじや台本の不備については今日までいろいろと数多くの非難、論評がなされている。あの美しい音楽と台本とのアンバランスがついつい目立ってしまうのだろう。

いわく「善玉と悪玉が途中で逆転してしまう」「筋書きが途中から変更された」とか、「信じ難い展開ばかりが続く支離滅裂な台本だ」という類の話である。

しかし、「このオペラの台本をよく読めばそういうことはない」とその辺の疑問を明快に解いているのが「ドイツオペラの魅力」(著者:中島悠爾氏)だ。

まず、「このオペラは何故「魔笛」と名付けられているのか」への答えを要約してみよう。

このオペラの中で魔法の笛はたしかに重要な小道具になっているが、この笛をめぐって話が展開するほどには重要な存在ではない、それなのに何故、標題が魔笛となっているのだろうか。魔笛に親しむ人なら誰もが抱く疑問だろう。

ところが、この問いを台本の中に探ってみると、このオペラ全体の構成が実にくっきりと浮かび上がって見えてくるのだ。段階的に追ってみよう。

第一ステップ(魔法の笛の由来)
第二幕第二十八場「火と水の試練」でパミーナ(王女役)はタミーノ(王子役)に向かって言う。「この笛こそ私の父が・・・千古のカシワの樹の幹の奥の奥から刻んだ笛・・」。実はここに出てくる「私の父」を解明することこそが魔笛の台本の矛盾を解く鍵になるのである。

第二ステップ(「パミーナの父」であり「夜の女王の夫」とは一体何者なのか)
この父であり夫である人物は、このオペラに姿を現すことはないが、第二幕第八場で夜の女王が娘のパミーナに短剣を渡すときの十数行の科白の中にその死の前後の経緯が語られる。しかし、その肝心の部分がかなり長い台詞で語られるためか、ほとんどの上演でカットされてしまうのが筋が分からないという大きな混乱のもとになっている。

第三ステップ(そのカットされた十数行の科白の全容)
「かって太陽世界を支配していた偉大な王は、妻(というよりはむしろ女性)を信頼せず、死ぬ間際に太陽の世界とそれに伴う力とを神々に仕えるザラストロ達に譲ってしまう。(ただし、それ以外の宝物は形見となる魔法の笛を含めて母娘に与えた。)

しかし、妻たる夜の女王は王の真意を解せず不当な辱めを受けたとして怒りに燃える。ザラストロは無垢な少女パミーナ姫をこの母のもとに置くことに危惧の念を抱き彼女を己のもとへ連れ去ってしまう。

自分の無力を知る夜の女王は、そこで王子タミーノの力で娘を、ひいては太陽世界を奪い返そうと計る」

たしかに、以上の科白の全容で台本や筋書きに関するいろんな矛盾が大筋で氷解する。少なくとも「善玉と悪玉の逆転説」はありえないのである。

このように魔法の笛の由来をたどっていくと全体のつじつまが合う仕組みになっているので、結局、魔笛という題名は伊達ではなかった。

ただし、余談だがこのおとぎ話のようなオペラに魔笛という堅苦しい題名は似つかわしくないという意見も一部にはあるようだ。

以上、縷々魔笛という題名の由来をたどったが私の本音を言うと台本の辻褄が合わなくても少しも構わないと思っている。むしろ、破天荒さ、支離滅裂さがあったほうが、いかようにも解釈できて夢や幻のような世界にマッチしており、そのメリットの方が大きいのではないかとさえ思っている。要は音楽が美しければそれで十分。

また、台本の解釈によってさまざまな魅力が存在する魔笛はまるで指揮者の力量を示す見本市の観があって面白い。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/12089603190e8d2aec77e7b9cee5d15b


04. 中川隆 2014年10月19日 22:05:19 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

モーツァルト 魔笛

アルトゥーロ・トスカニーニ指揮、ウィーン・・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン国立歌劇場合唱団、演出ヘルベルト・グラーフ

ザラストロ(アレグザンダー・キプニス)
夜の女王(ユリア・オスヴァート)
パミーナ(ヤルミラ・ノヴォトナ)
タミーノ(ヘルゲ・ロスヴェンゲ)
パパゲーノ(ヴィリー・ドムグラーフ・ファスベンダー)
パパゲーナ(ドーラ・コマレク)

第一の侍女(ヒルデ・コネツニ)、第二の侍女(ステファニア・フラトニコヴァ)、第三の侍女(ケルスティン・トルボルク)

三人の童子(クルト・ペッヒ、アルバート・フュエル、フリッツ・マーシャ)

弁者(アルフレート・イェルガー)、モノスタトス(ウィリアム・ウェルニク)、司祭(リヒャルト・サラバ)、二人の武装した男(アントン・デルモータ、カール・ビッスティ)


1937年7月30日、ザルツブルグ音楽祭。NAXOSのHistorical。

▼付録のライナー・ノーツの音源の記録(英語)から:1937年にザルツブルグ音楽祭で制作された6つのオペラは8mmセレノフォン・フィルムで録音された。

6作とは、トスカニーニの『フィデリオ』『ファルスタッフ』『マイスタージンガー』『魔笛』とワルターの『ドン・ジョヴァンニ』『フィガロの結婚』である。

NBCはコピーを申請したが、事務員のタイプ・ミスで『フィデリオ』が落ちてしまったため、それは送られず、結局戦争で消失してしまった。他の録音はディスクに移された。この『魔笛』のテープはガードナー・コレクション(彼はトスカニーニが好んだ録音技師の一人)にあったもので、彼のトスカニーニの録音は1965年と1983年にリチャード・カニエルに遺贈された。


▼リチャード・カニエルのライナー・ノーツ"A full measure of magic" Toscanini and The Magic Flute(英語)から:ロンドンの「タイムズ」の音楽時評は1937年8月14日のコラムでこう述べていた。

「トスカニーニの『魔笛』の再創造はヘルベルト・グラーフの舞台と共に、“魔法でいっぱい”であった。

トスカニーニ師はモーツアルトには水晶の明晰さがあるという見方を取った。

彼は『魔笛』のフリーメーソンの詩句のすべては厳粛に、序曲の冒頭から終幕の合唱まで、印象的な幅と威厳をもたらしただけでなく、すべてにおいてクリアであった。

明晰なテクスチュアが最も音楽的な効果を生み出した。

特にパパゲーノの歌はもちろん、モノスタトスの“誰でも恋をする”でさえ、想像力豊かな音楽となった。

夜の女王の第2のアリアは凄い速さで、人間の声の美しさと音楽的な能力の拡充の成果となった。・・・その効果は驚くべき美しさだった」

▼宇野功芳の評価

 「史上最悪の《魔笛》だな。こんなの聴いたことないよ。

 まず序曲ですね。癇癪もちのモーツアルト。速くて、せっかちで、モーツアルトではなくて完全にトスカニーニの音楽になっているね。

 序曲が終わって、大蛇に追われながらタミーノが登場します。このタミーノが大時代的なんだよ。「俺は英雄だ」っていっているようだね。

三人の侍女がそろいもそろってみんなずり上げ専門。

ぼくにはとうていモーツアルトとは思えない。ひどいよ。フォルテも強くてベートーヴェンのようだしね。


 第三曲、タミーノのアリアも表情をつけすぎ、語りすぎ、歌いすぎです。

 第五曲、五重唱、「フム、フム、フム・・・」は元気がよすぎる。音楽を汚しちゃているんだよね。

元気良く歌えばモーツアルトになるという、ひとつのパターンがあって、不必要に元気のいい表情をつけてしまう。だからしゃべりすぎてメロディーがわからないんですよ。五人全員が表情をつけすぎ、活発すぎ、そしてずり上げる。それから変なところで音がはずむ。それがモーツアルトだと思っているからね。

 第六曲ではモノスタトスが出てくるんだけれど。どういう音楽だかさっぱりわからないですよ。メロディーを崩してしまっているから。

パパゲーノと「フー」「フー」といい合うところは、ふざけすぎ。音程をなくしちゃってるんだ。ただ奇声をあげているだけ。

音程をなくしてどうします。ハーモニーになるところもあるんだからね。
しかも、最後にアッチェレランドまでかけるんだ。


 第七曲の『愛を知るものは』というパミーナとパパゲーノの二重唱ですが、音楽の美しさがまるでわからないですね。

奴隷たちが出てきてパパゲーノが鈴を振る。この鈴の音がひどい。

チンドン屋です。音を硬くし、しかも音程を狂わせているんだな。

これはほんとうにひどいです。
トスカニーニは音楽を破壊するためにやっているようなものですよ。


 三人の童子はウィーン少年合唱団が歌っています。これが出て来るとホッとするんだ。さすがに少年はずり上げないですよ。そこだけまともな音楽という感じがする。


 第ニ幕に入ってきて、第十四曲、夜の女王のアリアは細かい音程がいい加減ですね。

 第十五曲、ザラストロはいかにも偉そう。
「俺は偉いんだぞ」といっているようです。タミーノと同じで大時代的。

 第十七曲、パミーナのアリアは、悲しみによよと泣き崩れるようですな。まあそれはそれでいいと思いましたよ。


 許せないのは第二十曲、パパゲーノのアリアの合間に聞かれる鍵盤付きグロッケンシュピールだ(鍵盤付きの鉄琴)。

歌と音程が違うんですよね。半音くらい低いんですよ。違う調がなるんだ。

ほんと、腹立たしくなって、CDを叩き壊したくなったよ。

パパゲーノが「恋人が欲しい」と哀れっぽく歌うんだけれど。
これが泣いているんだか、笑っているんだかわからないんですよ。
表情をたくさんつければいいと思っているんですよねえ。


 面白いと思ったのは、超一流の指揮者で、しかもオペラの悪しき慣習を改革していったトスカニーニと、天下のウィーンフィルが、こういう音程のずれた音楽をわざわざ求めているということですね。

ぼくだったら怒りますよ。ぼくが聴衆だったらブーイングだし、指揮者だったらそんなことはさせない。

ということはぼくが日本人だからかな、とも思った。

本場の人はそういうのは超越しちゃうのかな、

トスカニーニやウィーンフィルみたいに、あんな耳のいい連中が怒らないでやっているわけでしょ。こっちは気持ち悪くてCDを叩き壊してやりたいと思っているのに、これは面白い現象だと思った。

 とにかく、このパパゲーノのアリアをみんなに聞いて欲しいな。

日本人はみんな癪にさわると思うよ。

今のウィーンの人たちにもこれを聴かせたいね。それでどう思うのか聞いてみたい。とても耐えられないというかもしれないしね。


 第二幕の最後に大合唱があるでしょう。コーラスが全員ずり上げるんですよ。

馬鹿じゃないかと思うね。だいたいモーツアルトの演奏というのは、基本が清潔でないと駄目なんですよ。その清潔さの中で気持ちをこめていかないと。みんなでずり上げたんじゃぶち壊しですよ」
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/magiccd.htm


05. 中川隆 2014年10月19日 22:11:42 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

モーツァルト 魔笛

ブルーノ・ワルター指揮、メトロポリタン歌劇場、マチネー興業(昼興業)の放送

ザラストロ(ジェローム・ハインズ)
夜の女王(ロバータ・ピータース)
パミーナ(ルシーネ・アマーラ)
タミーノ(ブライアン・サリヴァン)
パパゲーノ(テオドール・ウップマン)
パパゲーナ(ローレル・ハーレイ)、弁者(ジョージ・ロンドン)
モノスタトス(ポール・フランク)

第一の侍女(ハイディ・クラル)、第二の侍女(マデレーン・チェンバーズ)、第三の侍女(サンドラ・ウォーフィールド)

童子(エミリア・クンダリ、ロザリンド・エリアス、マーガレット・ロッジェーロ)
司祭(ジェイムズ・マックラケン、オシー・ホーキンス)、護衛(アルベルト・ダ・コスタ、ルイス・スガッロ)、奴隷(ヘンリー・アーサー、ジョン・フライデル、ハル・ロバーツ)

1956年3月3日

2006年のWest Hill Radio ArchivesのCD

▼リフレッシュ盤である。

ライナーノーツの宇野功方氏の評価、

 “歌手全員がワルター・チームの一員として機能し、雄弁なドラマを展開しており、タミーノ、パミーナ、夜の女王などは本当に満足できる。

でも、真の主役はもちろんブルーノ・ワルターだ。

録音日は3月3日、例のニューヨーク・フィルとの「ジュピター」をスタジオ録音する2日前であり(ちなみに同曲のライヴは1日と2日)。あの男性的な迫力と豊麗な歌に満ちた演奏をそのままオペラに移し替えたものということができよう。いや、ここにはもっと激しい、切羽つまったものがある。

 たとえば、「序曲」の導入部。まるでベートーヴェンのようなぶ厚い響きと金管の競奏。主部に入ってからのアクセントの強調やアッチレランドによる追いこみ、そして途中のアダージョの菅合奏で、三小節目にフルートが加わると金管を押さえるという芸の細かさ、ニュアンスの多彩さ、それらがオペラ全曲に及ぶのである。

 第一幕があく。ワルターは曲の終わりまでのすべてを見通している。全体を大きくつかんで、その上に立って細部を組み立ててゆく。したがって、全体が網の目のように有機的につながっており、部分的に聞くとワルターの表現に入り込めず、大きな感銘を得ることができない。”

 “歌手の表情に大時代的なずり上げなどが目立ったり、三人の童子に女声歌手を使っているのは良いとしても、ヴィヴラートなどの人間味が出すぎていたり、パパゲーノの声質に問題があったり。さらにはいくらライヴとはいえ、歌手とオケとのずれや、プレイヤーのミスが多すぎるなど、技術面では現今の水準には達していない。また、50年代は世界中が訳詞上演全盛であり、英語で歌っていることも多少の抵抗はある。”

 “ワルターの『魔笛』ほどオーケストラがものを言っている演奏は他にはあるまい。弦も菅もあらゆる声部が歌いぬく。モーツァルトが散りばめたすべての旋律が人間の声のように歌い尽くされる。それは立体的で豊麗なハーモニーがつけられ、一方においては威厳に満ちた厳しいダイナミズムが対比される。フレーズも余韻とともに消えるかと思えば、スタッカートできっぱりと立ち切られる。このように柔と剛、女性的なるものと男性的なるものが少しも反発し合うことなく、見事に溶け合っていて、表現をいよいよ多彩なものにしているのである。

 例えば、第二幕のパパゲーノのアリア「恋人か女房か」において、弱く引き始められるチェレスタが、曲の進むにつれて鉄琴を加え、パパゲーノの夢をふくらませてゆく。「二人の武士」の金管強奏、恋人を探し求めるパパゲーノの歌のスピード感、「パ、パ、パの二重唱」の加速、終幕の最後の遅めのテンポの妙、実に素晴らしさの限りである。

 ワルターは『魔笛』をモーツァルトの遺言と考えていた。そしてモーツァルトの音楽につけられたロココの衣装を剥ぎ取り、ベートーヴェンにも匹敵するシンフォニックな迫力と楽器の抉り(えぐり=意表をつく表現をする)を優先させた。それは典雅、優美なモーツァルト演奏への挑戦であった。ワルターのおかげで、モーツァルトは真の偉大さを獲得したのである。

 もちろんノリントン、クリスティのような古楽演奏による純粋音楽美を聴き慣れた今日、ワルターの表現は、ベートーヴェンに近づけようとする意志の強すぎるというのか、あまりにスケール雄大、あまりに堂々とした威容を誇りすぎているいるかもしれない。しかし、第一幕の三人の侍女の三重唱や、その後のタミーノとパミーナを加えた五重唱を始めとして、最近流行の妙なデリカシーや弱音過多gたなく、モーツァルトの音楽がどこまでの豊かにあふれ出ている点を、僕は何よりも高く評価したい。

久しぶりに耳にしたワルターの『魔笛』は、ここに旧スタイルによるベストCDとして見事に蘇ったのである。”(2006年)
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/magiccd.htm


6. 中川隆[-6070] koaQ7Jey 2017年10月24日 18:26:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「2018年度版!」「YouTube」の動画を安全にダウンロードする方法について
https://www.japan-secure.com/entry/blog-entry-459.html

YouTube動画変換 - MP3、MP4、AVIダウンロード
https://www.onlinevideoconverter.com/ja/video-converter


7. 中川隆[-11350] koaQ7Jey 2019年11月06日 22:37:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1548] 報告
モーツァルト ドン・ジョヴァンニ の二大名演


Don Giovanni - 1954 Salzburg Festival - Wilhelm Furtwangler HD - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=i7Teu60nNYc

Don Giovanni - Cesare Siepi
Leporello - Otto Edelmann
Donna Anna - Elisabeth Grümmer
Donna Elvira - Lisa Della Casa
Don Ottavio - Anton Dermota
Zerlina - Erna Berger
Masetto - Walter Berry
Commendatore - Deszö Ernster
Wiener Staatsopernchor; Wiener Philharmoniker
cond. Wilhelm Furtwängler
dir. Herbert Graf; film dir. Paul Czinner

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DON GIOVANNI - Ezio Pinza, dir Bruno Walter, Met 1942 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XS3z2yeNpqg


Metropolitan Opera
Matinée Broadcast
7th March, 1942

Don Giovanni - Ezio Pinza
Donna Anna - Rose Bampton
Don Ottavio - Charles Kullman
Donna Elvira - Jarmila Novotna
Leporello - Alexander Kipnis
Zerlina - Bidú Sayão
Masetto - Mack Harrell
Commendatore - Norman Cordon

Conductor - Bruno Walter

8. 中川隆[-11348] koaQ7Jey 2019年11月07日 08:11:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1550] 報告
LE NOZZE DI FIGARO 29-01-1944 Directore Bruno Walter - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jwJtrqkHB8k


LE NOZZE DI FIGARO 29-01-1944 Directore Bruno Walter

Il Conte d’Almaviva John Brownlee
La Contessa d’Almaviva Eleanor Steber
Suzanna Bidu Sayao
Figaro Ezio Pinza
Cherubino Jarmila Novotna
Marcellina Ira Petina
Bartolo Salvatore Baccaloni
Directore Bruno Walter


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Die Zauberflöte 3-3-1956 English MetOpera (Sullivan, Uppman, Amara, Peters, Hines - Walter) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=G2xsfpKosqQ


Die Zauberflöte - Mozart
(In English)

Metropolitan Opera
Matinée Broadcast
3rd March, 1956

Tamino......................Brian Sullivan
Pamina......................Lucine Amara
Königin der Nacht.....Roberta Peters
Sarastro....................Jerome Hines
Papageno..................Theodor Uppman
Papagena..................Laurel Hurley
Monostatos...............Paul Franke
Speaker.....................George London
Erste Dame...............Heidi Krall
Zweite Dame ............Madelaine Chambers
Dritte Dame...............Sandra Warfield
Genie.........................Emilia Cundari
Genie.........................Rosalind Elias
Genie.........................Margaret Roggero
Priest........................James McCracken
Priest.........................Osie Hawkins
Guard........................Albert Da Costa
Guard.........................Louis Sgarro
Slave..........................Henry Arthur
Slave..........................John Frydel
Slave..........................Hal Roberts

Conductor.................Bruno Walter


9. 中川隆[-14382] koaQ7Jey 2019年11月10日 12:48:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1484] 報告
モーツァルト(1756−1791)
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP017.html

 モーツァルトは、かつては「神童」と呼ばれ、どちらかと言えば神に祝福された、幸福な幼児のイメージで語られていた。「モーツァルトはそんな幼稚な音楽じゃない」と反論しても、かえって「何をこいつは。そういうお前自身が幼稚なんだ」という目で見られてしまう傾向があった。ベートーヴェン風の苦悩と闘争、それを経て達する歓喜の歌、あるいはブラームス流の諦観、そうしたものが「高度な音楽」であり、すばらしいものだ。ベートーヴェン以前には、真に偉大な作曲家はいない。そう思っている人が少なくなかった。

 だが苦悩と闘争というのは、いわば文学的イメージである。ホッブスは原始状態を「万人の万人に対する闘争」と考えた。その闘争を緩和するのが法による秩序であり、国家という存在なのだ。

 しかし、原始人も群れて暮らしていた。群れから離れると、生存していく上での脅威は高いものになった。誰かが大きな獲物を仕留めると、それを巡って殺し合い奪い合うのではなく、群れで分かち合うのがむしろ普通だったらしい。群れの安定性を保つために、分かち合いが義務とされ、人に分けない者は群れの成員としての資格がないとされる。また殺し合いは、群れを不安定にし、成員の生存を脅かすものとして、排除された。またその頃にはリーダーという存在も現れた。多分リーダーがまず現れ、そのリーダーが群れを統率する上で「殺すな」「分かち合え」といったことを説いたのだと思う。もちろん、そうした群れでは、獲物を最初に食べるのはリーダーだっただろう。しかし比較的に公平な分配が行われていたようだ。

 闘争がわれわれの日常の現実になるのは、「競争社会」といったものが成立したからである。闘い勝つことが美徳であり、だめなヤツは敗れ去る。そのだめなヤツの悲哀を歌うのもいい。だが単にだめで終わらず、あくまで積極的に挑戦する。それが正しい道だと誰もが思っている。「夢を追う」という言い方もある。「夢」とは、要するに他人に勝つことである。

 もちろん、勝つことだけが目的で、他人の失敗を願うといったことは卑怯だとされるが、戦争や格闘競技で相手のミスを誘うことは、正当な戦術である。相手を実力が出し切れない状況に追い込む、あるいは相手のミスに乗じて勝ちを取る、といったことが賞賛されるのだ。

 皆さんも「宋襄の仁」という言葉を聞いたことがおありだろう。宋の国の襄公は、敵軍が川を渡るのを見て、自軍の参謀が「今こそ攻撃のチャンスです」と言うのを聞かず、「今攻撃するのは卑怯である」と、そのまま見ていた。また川を渡り終えた敵軍がへとへとに疲れて、陣形を立て直すこともできないのを見て、また参謀が「今が最後のチャンスです」と言ったのに、やはり「今攻撃するのは卑怯である」と見逃し、敵軍が十分に戦闘準備するまで待っていた。

 それからやっと攻撃しかけたのだが、宋はあっけなく敗れてしまった。そこでこのように「敵に無用の情けをかける」ことを「宋襄の仁」と呼んで、中国では笑いものにする(ただし宋の国では「襄公は正々堂々としていた」というので、賞賛されたそうだ)。

 他にも井戸に落ちて「助けてくれ」と叫んでいる敵兵を憐れんで助けた兵士が、その敵兵にいきなり殺されてしまった、という話もある。このように、戦争は情け無用であって、卑怯と言われようと何と言われようと、勝つことが最大の目的だとされている。多くのスポーツは、そういう考え方で行われているだろう。

 しかし、たとえばフィギュアスケートの場合を考えてもらいたい。ある時、トップ争いをしていた女子選手がジャンプの失敗で転倒した。次に荒川静香が完璧な演技を披露して優勝した。彼女が前の選手の演技の時に「転んでくれますように」と思っていたり、転倒の瞬間に「やった、これで私のもの」と喜んでいたとすると、その後完璧な演技ができただろうか。そういうマイナスの演技イメージを思い浮かべたのでは、自分の演技にも乱れが出たことだろう。やはり「相手は完璧だった」と仮定して、全力を尽くしたのだと思う。

 芸術で「競争する」というのは、フィギュアスケート・タイプの競争である。モーツァルトは自分が完璧な作品を書けると確信していた。他人のまずい作品を嘲笑したが、それによって勝とうとしたわけではない。他の選手の転倒という事実を許せなかったのだ。相手も完璧な演技をしてもらいたい、それでこそ競技全体のレベルが高くなる。

 モーツァルトは、今日で言うADHDだったと思われる。ヒルデスハイマーの皮肉に満ちた評伝で、モーツァルトの落ち着きのない性格について、ある人が「いつもピアノに向かったときのように落ち着いていてくれればいいのに」とぼやいたという話が出てくる。音楽についてだけ、驚くべき集中力を発揮したということである。

 しかしまた、彼はバッハと並ぶ完璧な耳を持っていた。よくモーツァルトの天才を証明する逸話として、システィナ礼拝堂で歌われていた門外不出の秘曲、アレグリの『ミゼレーレ』を一度聴いただけで、その夜、宿で完全な楽譜に書いたという話が取り上げられる。だが絶対音感を持つ人は、聴いた音に対する記憶力が優れているのが普通らしい。『ミゼレーレ』は、主要声部がいささか単調な繰り返しであり、高音部に即興的なメロディを付け加えて演奏された。モーツァルトには容易に聞き取れただろうし、繰り返しも多いので、記憶することも簡単だったのだろう。


<モーツァルトの耳>

 モーツァルトの耳には軽微な奇形があった。耳殻に襞が全くなく、皿のように平板だったのだ。このページにはWikipediaからもらった肖像を掲げたが、それは生前の画像であると伝えられること、耳を髪で覆ってその現在では「モーツァルト耳」と呼ばれる奇形を隠していることに、信憑性を感じたからである。

 この『ミゼレーレ』は、タリス・スコラーズの非常に美しい演奏のCDが出ている。2005年の再録音盤は、まだ日本語解説付きで手に入るだろう。ト短調で始まり、ハ短調の装飾旋律がからむ。ここで聴くノン・ビブラートのハイCは、実に美しい。装飾音型を変えた二種類の演奏が入っていて興味深いし、解説も大いに参考になる。

 モーツァルトの天才性は、そうした『曲技団的』能力にあるのではない。そういう能力では、グラズノフの方が優っている。彼は、一度聴いた曲なら、どんな駄作でも憶えていたそうだ。だがその中で、人類史上最高の作品を書いたかというと、そうでもない。私には、むしろ絶対音感がなかったといわれるチャイコフスキーの方が、はるかに面白いと感じる。

 ロビンズ・ランドンの「モーツァルト」に次のような話が紹介されている。まだモーツァルトがさほど有名でなかった頃、ある人がアマチュアの弦楽四重奏団を作っていたが、知人からモーツァルトの楽譜を見せられ、「一度これを演奏して見給え」と言われた。しかし、彼らの技量では難しくて弾けなかった。そこで、知り合いの老作曲家にその楽譜を見せに行った。どの程度の作品か、判断してもらおうというわけである。老作曲家は、ぱらぱらとページをめくって、「かなり熟達した作曲家だな、40歳代だろう」と言った(実は20歳代の作品)。それから譜面を読み始めた。ところがそのまま黙ってしまったので、「先生、どうなんですか?」と尋ねたところ、老先生は顔を上げたが、その目はうっとりと夢見るような眼差しだった。「なんてすばらしい音楽なんだ!」と老大家は叫んだ。

 天才とは、ナニカの技術において人より優れているだけのものではない。楽譜を読むだけで頭の中に音として響くとか、逆に音を聴いただけで楽譜になるという人は多いのである。ベートーヴェンも、聴覚を失ってからでも作曲していたし、シューベルトの歌曲の楽譜を読んで感心したという。

 要するに、モーツァルトの天才性とは「なんてすばらしい音楽なんだ!」という一言に尽きる。彼はこの世で最美の音楽を書いた。ある時、イタリアの大作曲家が死んだ。人から「後継者は誰がいいでしょう?」と尋ねられたパイジェルロは、言下に「それはモーツァルトだ」と答えたそうである。「彼の音楽には少し難しいところがあるが、非常に優れている」(ランドン「モーツァルト」より)。

 モーツァルトが難しいと思う人は、今日では一人もいないだろう。だが実際、当時の人には難しく聞こえた。テンポが速く、次から次へと新しい楽想が湧いて出るので(多動性)、当時はすべてを味わい尽くすことができなかったらしい。


<モーツァルトのテンポ>

 ヒルデスハイマーの著書に、次のようなエピソードが出ている。ある裕福な市民(ブルジョア)が、娘を連れて評判の歌劇「フィガロの結婚」を見に行った。ところが、第一幕が終わっても、一つもアリアが出て来ない。「どういうことだろうね」と娘に言うと、彼女は「何を言ってるの、お父さん、もういくつもきれいなアリアが出て来たじゃないの!」と返事した。父親は、どれもレシタティーヴォだと思い込んでいたのである。なぜか。テンポが速過ぎたのだ。当時の音楽愛好家の心に染みついていたのは、グルックのオペラであった。そのテンポは、現代では当時よりやや速く演奏されているが、実はかなり遅く、変化も少ない。要するにメロディは聴き取りやすい。

 話し相手より少し遅いテンポで話せば、相手をリラックスさせ、説得力が増すという実験結果があるそうだ。最近は、私には聞き取れないほど早口にしゃべる人がいて、就職面接で「頭の回転が速い、雄弁だ」と思わせることがあるらしい。ところが、そういう人に営業を担当させたらさっぱりだったということが多い。顧客から見ると、相手の思惑に関係なく、言いたいことをぺらぺらとしゃべりまくっただけで、営業になっていない。組織のリーダーや営業マンは、しゃべる能力より聴く能力の方が重要なものらしい。

 アメリカン・ジョークの一つに、こういう話がある。鉄鋼王カーネギーのところに、一人の客が尋ねてきた。秘書が部屋の外で聴いていると、その客はのべつ幕なしに何かをしゃべり続けている。カーネギーは時折「ふむふむ」、「ほう」と相槌を打つだけである。やがて用件が終わって部屋から出て来た客は、感嘆して叫んだ。「なんて話し上手な人なんだ!」

 よく「話し上手は聞き上手」と言うが、上記のエピソードは、本当にあった話かも知れない。「王者」たるものは、聞き上手でなければならないのである。たとえば戦国を制した徳川家康は、家臣の意見をよく聞いたそうだ。時には疑問があっても家臣の言う通りに動く。結局彼が覇者になった一番の理由が、そこにあると言う人もある。

 モーツァルトの音楽は、当時の人々にとっては早口で一方的にしゃべりまくる営業マンのようだっただろう。だが、すでに次の世代(娘の世代)は、モーツァルトのテンポを聞き取ることができるようになっていた。モーツァルトが死んでから、ウィーンは空前のモーツァルト・ブームに沸いたが、それは偶然ではないのだ。

 音楽のテンポは、ある程度社会性を帯びている。江戸時代の日本は、すべてのテンポが緩やかだった。オランダ人が江戸の町を歩いていたら、向こうから誰かが歩いて来る。「いずれは道を譲り合うことになる」と思いながら歩いて行くと、薄ら笑いを浮かべながら、どこまでもまっすぐ進んでくる。ぶつかる寸前になって「あぶない」と、とっさに身をかわしたが、見ていると日本人は何事もなかったかのように、なおもそのまままっすぐ歩いて行く。

 実際、町人同士がぶつかり合うまでまっすぐ歩き、ぶつかった後に初めて「これはどうも失礼しました」と互いにペコペコお辞儀する場面がよく見られたという。かといって歩くのが速いわけではない。むしろオランダ人が世界のどこで見たよりも遅い。そのため、彼らは「日本人はおそろしく動作の鈍い人種である」と報告した。だが逆に日本人は、オランダ人の素早い動きが信じられなかったそうだ。普通ならぶつかり合うところなのに、突然目の前から消えてしまったのである。「オランダ人はおそろしく素早いぞ」「バテレンの妖術か?」というのが当時の印象だったらしい。

 昭和30年代の日本は、新しい建築が相次ぎ、都市の景観はめまぐるしく変化した。日本人は忙しく動くようになった。後年、日本人(特に大阪人)は、世界一速く歩いているという測定結果が出た。だからぶつかることが多くなったわけではない。通行量が多く、しかも非常に速く歩いているなら、ぶつかり合いは江戸時代より多くても不思議はないのだが、事実は逆だった。みんながすばしこく、ちょこまか動いているのであって、おそらく江戸時代人から見ると、全員忍者のように見えるだろう。

 江戸時代は変化の少ない社会だった。あまり歴史を知ることのない庶民は、宇宙が始まって以来、江戸は徳川が治めていたと思いこんでいることも少なくなかった。「変化が激しい」「人口密度が高い」というのは、動作を敏捷にさせる要因なのである。絶えず周囲の状況に注意を払い、危険には機敏に反応する必要があるからだ。

 その意味で、モーツァルトのテンポを見直すのも悪くない。現在はせかせかした演奏が多いが、本当に昔はそうだったろうか。ある時テレビを見ていると、戦後復興期に登場した美空ひばりの「りんご追分(52年)」が出て来たのだが、桂三枝がそのオリジナル録音に付いて歌おうとすると、あまりにも遅いテンポなので、全く間が持たない。私もこの歌は記憶にあり、美空ひばりの声で流れてくると。「ああ、この歌はこうこうで、次の音符はこう」と、すぐ分かるのだが、それは桂三枝の憶えているテンポと同じだった。2割ないし3割も速いタイミングだ。

 52年(昭和27年)と言えば、朝鮮戦争の特需でやっと一息ついた日本が独立を果たした年だ。敗戦後の日本は、アメリカ領土になっていた。その間、日本という国家は、名目上、世界地図から消滅していたことになる。もちろん49年には国旗(日の丸)の掲揚が許されるなど、徐々に国家としての体面が回復しつつあったらしいが、戦争の傷跡は随所に見られた。たとえば私の生まれた家の近くには、空襲で破壊された大阪砲兵工廠の焼け跡が57年頃まで存在していた。

 記憶の中のテンポと、実際のテンポの違い。それは社会状況の違いである。昭和27年はまだほとんどの日本人がやせ細っていて、物産も貧しく、夏にはラジオの高校野球中継でも聴きながら昼寝をし、夕涼みに屋外の縁台に腰をかけることができれば最高だった時代だ。すだれが風にそよぎ、風鈴がチリンと鳴って、時には「さおーだけー」という声が聞こえてくる。当時はみんなが貧しかったというのは大げさだが、敢えて言えばみんながホームレスだった。欲を持つと言っても、せいぜい毎日白米のご飯を食べたい、という程度のことだった。ちなみに、私は白米1:麦2のご飯を食べて育った。冷えると臭いニオイがあるが、それに醤油をかけ、お湯で薄めて食べた。おかずなど何もない時代である。味噌汁をかけて食べることができれば、贅沢な方であった。卵かけご飯など、夢のようなごちそうだったが、それさえも冷えた麦ご飯の臭いニオイを覆い隠すものではなかった。


<モーツァルト晩年の困窮>

 モーツァルトは、死んだときほとんど破産状態だった。未亡人(コンスタンツェ)が皇帝に謁見すると、皇帝は破産報道を知っていて、彼女に厳しい目を向けた。当時は、破産というのは犯罪のようなものだったからだ。その時、コンスタンツェは夫の遺作演奏会、楽譜出版など、2,3の試みを提示して、破産を免れることが可能だと弁術した。事実、彼女はすべての負債を完済したばかりか、亡夫の遺した作品で大もうけしたという。

 だが晩年の収入が少なかったわけではないらしい。それどころか、当時としては相当な高収入だったようだ。彼はハイドンやサリエリのような高い地位にはなれなかったが、一応宮廷作曲家の称号を得て、給与ももらっていたし、ピアノ教師と楽譜出版、オペラでの収入もあった。夫婦共に浪費癖があったことが、困窮の理由かも知れないが、それだけでは説明できない。人気にかげりが見えた死の年だけでも、現在の日本円にして5000万円以上の収入があったのである。

 浪費癖は、「神童」時代に王侯貴族の生活を垣間見たこと、ザルツブルグに戻ってからは召使い同然に扱われて、憤懣のあまり大司教の下を飛び出したことを考え合わせれば、つまりは貴族のように暮らしたかったということだ。ある意味では父親にも責任があったと言える。

 またある人によると、フリーメーソンの支部を作ろうとしていたのではないかという。そのための費用が必要だったというのである。

 そういう可能性もあるだろうが、秘密結社だというので、フリーメーソンの影響を過度に考えるのも正しくないそうだ。当時の知識階級には、フリーメーソンの会員だった人物が多い。ハイドン、サリエリもフリーメーソンの会員だったと言われ、皇帝ヨーゼフ2世も寛容であり、実際はかなりオープンなものだったらしいのである。

 結局、モーツァルト晩年の経済的困窮の理由は分からない。ただ死の年には、収入が全盛期の半分ぐらいに減ってしまっており、実際以上に困窮した感じがあっただろう。現代でも莫大な収入のあった人気アーティストが、人気にかげりが見えて収入が減ると詐欺を働いたり、かつては高額の年棒をもらっていたプロ野球選手が、退団後に落ちぶれて強盗になった例がある。「あの金はどこに消えたの?」と聞いても、本人にも分からない。


<モーツァルトが愛した女性>

 モーツァルトが生涯愛したのはコンスタンツェの姉、アロイージアであった。美人だというだけでなく、音楽的才能がすばらしかったらしい。彼が結局コンスタンツェと結婚したのも、そうすればアロイージアの側にいられると思ったからだろう。だが、コンスタンツェを愛していなかったとは思えない。

 しかし彼がADHDだったとすると、コンスタンツェにとってもかなり扱いにくい夫だった可能性がある。

 彼が死んだとき、コンスタンツェにしてみれば、「バカな男と結婚して、まだ芽が出ないうちに死なれてしまった」と、嘆かわしいことおびただしい。ところが、ある弔問客が「あなたの夫は天才だった」と言ったので、「あのバカが天才?」と、彼女は心底驚いたという。それまで、夫の作品などただのクズだと思っていたのだ。しかしその後、散逸していた夫の作品をかき集めて演奏や出版を行い、事業家としての能力を発揮している。

 コンスタンツェは、しかし、やはりモーツァルトを愛していたのだろう。彼らの結婚生活はひどいものだったが、それなりに楽しい一面もあった。われわれは現在、モーツァルトのほぼすべての作品を耳にすることができる。それはコンスタンツェが、散逸していた楽譜を精力的に集めたことが大きく寄与している。それは、作品によほどの愛情を注いでいなければできないことだ。

 彼女自身はヘンデルなどの古い音楽を好み、夫が在世中は、全く彼の音楽を理解しなかった。しかしニッセンと再婚して共同で伝記を執筆したりするうち、やはり音楽への理解や、前夫への愛が甦る瞬間はあったに違いないと思う。「私より姉を愛していた」と思い知ることもあっただろうが、姉に劣らず彼女自身を愛していたことも分かったと思う。


<モーツァルトの死>

 あまりにも急な死だったので、モーツァルトの死は、音楽史上のミステリーとされることが多い。死後に訪れたモーツァルト・ブームの中で、サリエリが突然「私がモーツァルトを殺した」と叫んで自殺を図ったという史実もある(映画『アマデウス』の冒頭場面である)。オーストリア官憲が彼を精神病院に閉じ込めたので、真相は分からなくなってしまったが、モーツァルト自身も「誰かに毒を盛られた」と思い込んでいたらしい。

 「サリエリがモーツァルトに一服盛った」という噂は、モーツァルトが死んだ直後からあった。サリエリ自身は、モーツァルトが死んだと聞くと「死んだって?それは助かった。あんな天才にいつまでも生きていられたんじゃ、われわれ凡才は仕事を失ってしまうからね」と語ったそうだ。後にサリエリが「私が殺した」と言って自殺しかけたとき、ベートーヴェンは「やっぱりあいつか。初めからそうだと思っていたよ」と言った。実はベートーヴェンもシューベルトもサリエリに学び、そのタチの悪い妨害や陰謀に悩まされた経験があるそうである。

 ただし、サリエリが築いていた宮廷作曲家という地位は、有力な競争相手が出現したら突然失ってしまうような不安定なものではなかったらしい。たとえ解任されても、年金を受け取ることができたのではないだろうか。モーツァルトも晩年には宮廷作曲家に任命されたが、特に妨害は受けていないようだ。サリエリが地位を守るためにモーツァルトを殺すという可能性は小さい。

 単純な病死だったという説がある。モーツァルトは幼い頃から病弱で、その病歴からリューマチ熱だったのではないかというのである。モーツァルトの遺骨が出れば検証できるかも知れないが、現在のところ、モーツァルトの墓は見つかっていない。当時の医師の診断は「粟粒熱(ぞくりゅうねつ)」という訳の分からない病名で、現代の医学では「そのような病気は存在しない」とされる。

 食中毒説もある。ディスカバリー・チャンネルで紹介された、豚肉の寄生虫による中毒で、1860年頃、彼とよく似た症状で死んだ農家の娘は、遺体の検証で、食中毒だったことが確認されたそうだ。

 一番有力なのが毒殺説で、当時は毒と言えばヒ素と決まっていた。モーツァルト最後の病状は、ヒ素中毒によく似ているという。トファナ水というのはヒ素の溶液で、濃度を注意深く調整すれば、飲ませてから何日後に死ぬかを正確に決定できるという話まであった。ただこれは、人によって致死量が違うことも分かっているので、かなり誇張されたおとぎ話である。

『元素の百科事典』に出ているエムズレー博士の説は、アンチモン中毒である。モーツァルトの頃はアンチモンが発見されて間もない時代で、あまり正体がよく分からないまま、胃腸薬などとして処方されていたそうだ。だがアンチモンは毒性があり、飲み過ぎるとヒ素中毒に似通った症状が出る(周期表でもヒ素と同族である)。モーツァルトにもアンチモン製剤が処方されていたので、誤って飲み過ぎたのではないかという。なお現在では、医薬として用いられることはない。


<モーツァルトの姉>

 もう一つ、モーツァルトの生涯で特徴的なのは、姉ナンネルとの関係である。それはメンデルスゾーンの姉ファニーとの関係にも似ている。この姉たちは、弟たちの先生でもあった。たとえばモーツァルトは当時ヨーロッパ一のピアノの名手と言われたが、クレメンティとの競争演奏では、客観的に見ると引き分けだった。そのクレメンティを、モーツァルトは「達者な腕前だが機械的で情感に欠ける」として否定している。また、何人かいた弟子について、「それにしても女の子の方が音楽的に弾くのはどうしたことでしょう」と言っている。彼の感想では、女性のピアノの方が情感があり、音楽的なのだった。男が弾くと、無機的になりがちだ。それは音楽ではない。

 この話は、彼の幼児期のピアノの先生が、実はナンネルだったということを明かしているのだろう。ナンネルの作品は残っていないが、作曲を行っていたことは分かっている。だがヴォルフガングが「お姉ちゃん」の真似をして作曲し始めると、父レオポルトは、もうそれ以上姉には教えず、弟を神童として売り出すことに熱中した。

 ナンネルも神童だったらしいことは、当時の人たちの記録に残っている。あるとき、宿に足止めを食らった客の中に、まだ幼かったモーツァルト姉弟がいた。彼らは退屈しのぎに連弾だったか二重奏だったかを披露したそうだ。「この二人の神童のピアノは、われわれを大いに愉しませた」という。

 父親レオポルトが、弟の方を特に熱心に育てたのは、当時の男女差別的な社会情勢が原因であっただろう。女性はピアノの名手であっても、それは身持ちのいいお嬢様の趣味の芸事を時たま披露するだけであって、職業的音楽家の道などはどこにもなかった。貴族の奥様になる、といった目標の方が、はるかに重視された。ましてや作曲家などとんでもない。

 実際のナンネルの才能は、現在知られているよりはるかに優れていたと思われる。彼女はしばしば弟の協奏曲のソロを努めた。彼女のピアノこそモーツァルトの音楽の原点にあったのではないだろうか。

 それはさておき、私の好きな作品について述べたい。


『グラン・パルティータ』〜第3楽章「アダージョ」

 モーツァルトには傑作が多いが、「グラン・パルティータ(大組曲)」は、その中でも最高の一つである。正式な名称は「13管楽器のためのセレナード」といい、木管のアンサンブル曲だ。セレナードとしては第10番(変ロ長調)とされる。

 モーツァルトの時代、まだ現在のように「交響曲が最高のジャンル」といった考え方はなかった。交響曲、セレナード、ディヴェルティメントの区別は「演奏機会」の区別なのだろう。内容で分けられているわけではない。もちろん演奏機会は内容に結びついている。たとえばベートーヴェンの七重奏曲などは同じ性格を持ち、やはりリラックスした気分の曲である。ここに「苦悩と闘争」のベートーヴェン像を見出すのは、深読みに過ぎる。こういった作品は、リラックスした気分を作り出すためのものであり、食事時のBGMとして演奏されたりしていたのだ。

 本題の「グラン・パルティータ」について言うと、私は80年頃、エド・デ・ワールト指揮のオランダ管楽合奏団(?)のLPをオーディオ的な興味で買って聴いた。最初は「まあ、いい音はするがモーツァルトらしい能天気な曲だなあ」と思っただけだった。

 グラン・パルティータの本当の良さが分かったのは、父の死の直後だった。長い間、寝たきりの父の存在は重荷だったし、愛情の薄い人だったので、「早く死んでくれればいい」とさえ思っていた。だが、死んだとき、重荷だろうと厄介だろうと、父と母と私しかいなかったその年月、良くも悪くも、父が家族の中心にいた。いささか子供っぽいが、「ボクたちは明日からどう生きていけばいいの」というのが、当時の心境だった。

 それは暑い8月のことで、当時は父の家の屋根裏部屋に住んでいたのだが、夏には50度以上にもなり、30分もいれば半狂乱になるような部屋だった。そこに私のオーディオ・システムを置いていた。葬儀まではレコードを聴くこともなく、屋根裏部屋には立ち入らずにいたのである。だが葬儀の後、世間が「盆休み」に入り、親戚一同も去って、静かになった。母と仲が良かった伯母だけがしばらく家に留まっていたが、その日は二人でどこかに出かけ、私は一人で家にいた。

 久しぶりに音楽を聴こうと屋根裏部屋にこもったが、哀しかった。なぜもっと父に優しくできなかったのだろう。父がまた歩けるようになり、一緒に笑うことができるようになる。それが父と私の共通の夢だったではないか。なのに何もできないまま死なせてしまう。後追い自殺したいほど、非常な罪悪感があった。自殺の動機の中には、肉親が死んで、遺族が後追い自殺したケースが多いそうだ。当時の私もそういう状態だったのだ。

 だが私は、音楽を聴けば多少は慰めになるかも知れないと思った。

 最初にかけたレコードは、ハイティンク指揮のブラームス『ドイツ・レクィエム』である。名曲・名演で、録音もいいのだが、その時の私には、むしろブラームスの傲慢さが耳障りだった。「どうせお前らの悲しみというのは、この程度だろう」と下品に口を歪めて笑っているようだった。要するに嫌みな訳知り顔をした、人生などてんで分かってないオッサンがでっち上げた曲なのだ。

 レコードを代えて、ベーム指揮のベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」にした。ブラームスほど嫌な感じはないが、「お前らの個人的な悲しみは関係ないよ」というような音楽だった。

 次はリヒターの「マタイ受難曲」。史上最高の名曲と思う「憐れみたまえ、わが神」のくだりを聴いたが、やはりどこか客観的な音楽だった。ベートーヴェンほど突き放した感じではなく、戸口に立っている友人のようである。「分かる。分かるよ。大丈夫か。しっかりしたまえ」と言っているようだが、それ以上気持ちの側にやってくることはない。

 他にもいくつか聴いたと思うが、あまり記憶にない。とにかく最後に聴いたのは、『グラン・パルティータ』である。なぜそんなものを取り出して聴いたのかも分からないが、私にとっては最高の救いの音楽だった。年若い友人が耳元で一生懸命慰めてくれているような、「世界は美しいし、人生はもっともっと生きる価値があるんだよ」と話してくれているような音楽なのだ。

 よく晴れた日で、陽がやや夕暮れの色彩を帯び、青空の下に黄金の光が満ちた。隣家の壁や屋根が、すべて美しい光に照らされた。第3楽章のアダージョに差し掛かったときのことだ。いつもは貧しく汚らしく感じていた風景なのだが、柔らかい木管の響きの中で、突然この上なく美しい風景に変容した。それはまるで魔法の眼鏡を通して見ているようだった。

 モーツァルトは魔法の眼鏡である。その眼鏡をかければ、この世のことはすべてが美しく見える。

 その日から、モーツァルトの大ファンになった。実を言うと、その時までモーツァルトと言えば、交響曲第40番やピアノ協奏曲第20番といった短調作品以外は、退屈な曲が多いと思っていた。一部の曲はいろいろな機会に耳にタコができるほど聴いていたし、知らない曲でも、どれも同じようなワンパターンの節回しで、聞き慣れた響きがする。だから「ああ、またあのパターンか」と最初から飽きてしまい、しっかり聴くことがほとんどなかった。

 しかしそれ以後、彼の作品を注意して聴くようになった。楽器の音色を活かした音響の美しさ、ありきたりなようだが情感あふれるメロディ。「フルートとハープのための協奏曲」などは、依頼があったので、やむを得ずこの取り合わせで作曲した(彼はフルートが好きではなかった)のだが、後の作曲家にはもうこの他の組み合わせを考えられなくなったほどの調和がある。もっとも、ドビュッシー晩年の美しい「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」やラヴェルの「序奏とアレグロ」では、それぞれヴィオラ、クラリネットを加えることで、新たな音響美を模索している。

 なお「十三管楽器」という編成をユニークだと思う人は多いだろうが、当時は木管アンサンブルが流行していたので、そんなに珍しいわけではないようだ。セレナード第11番変ホ長調、同第12番ハ短調も管楽アンサンブルである。ちなみに、木管をウィンド(Wind=風?)と呼び、金管はブラス(Brass=真鍮)と呼ぶ。他にリード楽器(Reed=舌、簧)という分類もある。

 CDでは、ベーム指揮ベルリン・フィル管楽アンサンブルの演奏が一番納得できる。やや古い録音なので、音響面では最上とは言い難い。少し艶が不足しているようである。だが、第3楽章はやはり美しい。私の耳には、北に大きな窓がある部屋で、その窓から見える緑が室内に照り映えている中で演奏しているように聞こえる。

 小学館版のモーツァルト全集に採られたマリナー=アカデミーの演奏はディジタル録音でもあり、音質は万全である。第1楽章の開始部分は、ばら色の光が差すような美しい音である。第3楽章はトリラーがやや耳障りに聞こえるのが残念だ。他の楽章は優れたアンサンブルが展開されている。

 コレギウム・アウレウムの2回目の録音(ディジタル)は、音も表情も美しく、楽しめる。全体に青白い音が立ち並ぶ。アンサンブルに清潔感があり、他の演奏に比べるとこぢんまりして、いかにも室内楽風である。この曲の交響楽的壮麗さを愛する人には、物足りないかも知れない。


『ピアノ協奏曲第9番変ホ長調「ジュノーム」』

 モーツァルトが21才で書いた大傑作で、当時ウィーンに滞在したジュノームという未婚の女性ピアニストのために書いたと伝えられる。第1楽章の開始はあまりスケール感がなく、むしろ「可愛い」と言いたいようなシンプルな始まりだが、音楽が進行するにつれて実は壮大な曲であることが分かってくる。第2楽章はハ短調の透明な悲しみに満ちた音楽。ロマンティックな味わいと、バラード風の展開が魅力である。第3楽章もユニークだ。ロンドなのだが、中間部で大きくテンポを落とし、突然別の楽章が始まったかのような変化を見せる。

 なおジュノームというピアニストは記録に残っていないので、どんな女性だったかはよく分かっていない。最近の研究では、モーツァルトの知人の娘でジュナミという女性が(既婚婦人?)がその正体だと言われる。だが「ジュノーム」というニックネームがいかにも若きモーツァルトの憧れを表したロマンティックな響きを持っているので、今後もそう呼ばれ続けるだろう。

 この曲を初めて知ったのは、ルドルフ・ゼルキンのピアノ、アバド=ロンドン響のCDである。第2楽章で、ゼルキンは心の打ち震えるようなみずみずしい表情を聴かせていて、すばらしい演奏だ。オーケストラも透明感と色彩感があり、万全と言える。

 シフのピアノ、ヴェーグ指揮ザルツブルグ・モーツァルテウム。ゼルキン盤よりさっそうとした切れ味の良さがあり、なかなかの名演である。ただ私の耳には、音が全体に青みがかって単色に近いように聞こえる。

 内田のピアノ、テイト=イギリス室内管のオケ。2006年に発売されたポリドール版『モーツァルト全集』の中の1枚で、内田光子のピアノには濃やかな表情があり、オケの響きも悪くない。日本では、実力の割に内田の人気が低いような気がするのは、私だけだろうか。

 ピリス/グシュルバウアー盤は、録音のせいか、オケが少し透明感を欠く。ハスキル盤もモノラルなので、ここでは番外とする。

 なお、ゼルキン盤など、多くのCDでなぜか『ピアノ協奏曲第17番』ト長調と組み合わされていることが多い。これもしっとりした味わいのある傑作で、モーツァルト自身、大いに気に入っていたそうだ。未聴の人にはお奨めする。


『交響曲第36番ハ長調「リンツ」』

 私の偏愛する曲だが、実は第1楽章の短い序奏が気に入っていて、その遅いテンポに引きずられたかのように、主部も遅く演奏されるのが面白いのである。雨は止んだが、まだすっかり晴れ上がったわけでなく、道端の木々には薄暗い蔭が残っている。しかし、息を潜めていた虫たちがやっと鳴き始めた、という雨上がりの気分である。もし序奏がなく、いきなり主部が始まっていたとすれば、現代の演奏家なら、もっと速く演奏するだろう。

 このことが、モーツァルト演奏の正しいテンポを疑わせるのである。この主部は、現代の常識的なテンポから見れば、半分近くも遅く演奏されているのが普通なのだ。だからといってモーツァルトの味がしないわけではなく、むしろかえって面白い。彼の在世当時は、こういうテンポだったのかなと思わせるのである。

 CDでは、ベーム指揮ベルリン・フィルが一番いい。いかにも壮大な曲のように響き、序奏部分も単なる序奏に終わっていない。

 レヴァイン=ウィーン・フィル盤やバーンスタイン=ウィーン・フィル盤も、序奏は単に主部を導入する経過句のように演奏していて、やや不満である。

 昔コンサートホール・ソサエティで出ていたシューリヒトのLPは、すばらしかったように記憶する(現在手元にはない)が、CDへの復刻は、発売が予告されながら実現しなかった。


『フィガロの結婚』

 モーツァルトの典型ともいうべき美しいメロディが続々と現れる、すばらしいオペラである。私はバッハの『マタイ』とこの『フィガロ』を西洋音楽が到達した二大高峰と思う。もちろん彼はこの後にも『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』、『魔笛』といった名作を書き、人によっては『フィガロ』より上だと言う。たとえばキエルケゴールは、『ドン・ジョヴァンニ』こそ最高傑作だと思っていた。なるほど音楽は美しいが、私には、『フィガロ』ほどの緊密なドラマにならず、少し弛緩が見られるような気がする。モーツァルトは、やや落ち目に差し掛かっていたのではなかろうか。上り調子だった時期の『イドメネオ』、『後宮からの誘拐』などの張り詰めた清冽感に比べて、少し物足りないものを感じるのである。

『フィガロ』を頂点と考えるなら、彼が落ち目になったのは、やはりこの作品が思うほどの成功を収めなかったことにあるだろう。初演は大成功で、「アンコール、アンコール」が続き、上演は深夜に及んだ。あまり極端なので、政府は過度のアンコールを禁止する政令まで出したという。ところが、それほどの大成功なのに、劇場では早々と演目からおろしてしまった。当時は、まだモーツァルトは前座扱いで、興業主はソレールというスペインの作曲家のオペラで大もうけを企んでいた。そのため、「駆け出し作曲家」、モーツァルトのスペインを舞台とした『フィガロ』がアペリティフとして用いられたというのである。事実ソレールのオペラ『椿事(珍事)』は、『フィガロ』以上の大当たりだったそうだ。

 当時はフランス革命騒ぎの最中であり、ヨーロッパではいわゆる「革命の輸出」に神経を尖らせていた。ところが台本の原作となったボーマルシェの戯曲は革命思想に親近感のあるものだったので、ウィーンでは上演が禁止されていた。こうした事情があるので、政治的な理由から葬り去られたという説もある。

 今となっては真相は分からないが、その頃からモーツァルトの予約演奏会のチケットが売れなくなり、かつて彼をもてはやした知人たちが、何となく距離を置くようになったのは事実らしい。彼の収入は少ないものではなかった(事実は相当な高収入だった)が、しきりに困窮を訴えるようになったのもこの頃からだ。

 それはそうと、私が一番いいと思うのは、やはりベーム指揮、プライ他のDVD(ポネル演出のオペラ映画)である。F=ディースカウ演ずる伯爵が、夫人の部屋にやって来る。ちょうどケルビーノを匿おうとしていたところなので、夫人とスザンナは大慌て。この場面が手に汗握る緊迫感で描かれる。このDVDでは、伯爵夫人をキリ・テ・カナワが演じているが、同じベームのCDでは、伯爵夫人をヤノヴィッツが歌っており、彼女の透き通るような美声を好む人には、CDの方がいいかも知れない。あの美しい『手紙の二重唱』では、ヤノヴィッツの声がうっとりするようなハーモニーを形作る。

 世界文化社から出ている「オペラ名作鑑賞」の第四巻にはバレンボイム=ベルリン国立歌劇場の上演と、コンピエーニュ帝国劇場の上演が収められ、かなり興味深い。コンピエーニュ版は歌劇のエロス的な側面を強調したというが、ケルビーノはテノールが演じており、普通の演出の性倒錯的な魅力はかなり減じている。第四幕の女たちの演技は、なるほどやや官能性を表に出しているが、驚くほどでもない。ここでスザンナは不倫の予感に身を震わせ、イケナイ感覚に酔っているように見える。台本にはそういう要素が内在しており、変わった演出というには当たらない。

 バレンボイムは、日本ではジャクリーヌ・デュ・プレとの不幸ないきさつがあってあまり人気が出ないが、実力はやはり大したものである。欲を言うと、このDVDではケルビーノの『恋とはどんなものかしら』が、大人の女性が歌っているように聞こえてしまう。

 メータ指揮=フィレンツェ歌劇場の公演。伯爵夫人のグヴァザーヴァがとても美人で愛らしく、魅力的だ。『恋とはどんなものかしら』は少年っぽくストレートに歌われている。スザンナは実力の高い歌手らしく、悪くはないが、いささか魔女風の顔立ちであり、色気では伯爵夫人に負けている。

 このように見ると、歌手という存在は生まれついての容貌や体つき、声質に多くを負っているのであって、努力だけではどうにもならない部分があると思う。バレエやフィギュアスケートもそうだろう。浅田真央のビールマン・スピンは世界一美しいと思うが、もっと短足に生まれついた人が同じことをやっても、感銘を与えることは難しい。かなり難易度の高い(つまり難しい)技らしいが、彼女はあまりにも楽々とやってのけるので、素人目には普通の技のように見える。結局、ああきれいだなと思うのは、彼女の肉体を賞賛しているのだ。

 そう言えば、私は映画が好きだが、特定の俳優のファンではなく、どちらかと言えば映画を監督で選ぶ方である。一番好きな映画監督はフェデリコ・フェリーニであり、中でも『魂のジュリエッタ』は最高に美しい映画だと思っている。私小説的な『8・1/2』や『アマルコルド』はイマイチである。もちろん他にもいる。詩的イメージに満ちたウッディ・アレンは、映画というジャンルに限定されない天才だと思う。少々古いが、巧妙な映画造りのヒチコック、ゲーム的映画というべき一つの典型を作り上げた黒澤明、フェリーニの衣鉢を継いだような寺山修司(ただし「田園に死す」以外はそれほどでもない)、一時期熱心に見ていたタルコフスキーなど数多い。

 しかし、絶対的に好きな俳優もいる。それはオードリー・ヘプバーンで、「マイ・フェア・レディ」や「シャレード」など、物語そっちのけで彼女の映像に見入ってしまう。ちょっと見ただけでは大して美人にも見えないし、特別私好みのタイプとも思わないのだが、なぜあれほど魅力を感じるのか、自分でも分からない。彼女が出演した映画なら、すべて見たいと思うのは、「着せ替え人形」のイメージだろう。いろいろな衣装を着せて、そのあらゆる美質を味わいたい。それは好きな曲をいろいろな演奏で聴いてみたいのに少し似ている。いわば彼女自身が芸術品で、彼女を見ることが喜びだというわけだ。彼女自身は容姿に劣等感を持っていたそうだが、「ローマの休日」を見たマリア・カラスは彼女のようになろうと、猛烈な減量をした。その結果、歌手生命を縮めることになったようだが、少なくとも当時のカラスは美人だった。

 話は逸れるが、カラスはもちろん天才的なプリマ・ドンナで、オペラの歴史を変えたと言われるほどのすばらしい歌手である。そのカラスのエピソードには、興味深い話がいくつもある。

 カラスがまだある教室でレッスンを受けていた頃、普通の生徒は、自分のレッスンが済むとさっさと帰ってしまうのに、カラスはいつまでも残っていて、全然関係ないはずのバス歌手のレッスンなどを興味津々で聴いていたというのである。後年、彼女が配役に加わるとなぜかアンサンブルが引き締まり、「みんなが上手になった」という。彼女が何か指示したわけではない。他の配役の分まで知っていて、みんなが上手に歌えるような演技、そういう刺激を与える演技をしたということである。

 また彼女が端役しかもらえなっかた駆け出しの頃、フィデリオ役を歌うことになっていたある歌手が、急な病気で出られなくなった。「誰か代役のできる者はいるか?」と聞くと、カラスが手を挙げた。「フィデリオなら以前からスコアを研究していたし、デビューするなら最高の役で、と決めていたの」というのだ。この志の高さと研究心は、やはり最高の芸術家にのみ見出されるものであろう。

 もちろん歌手には恵まれた天分が必要なわけだが、それだけでは間に合わないものがある。「志が高い」と言うと「野心的だ」と思う人もいるだろうが、それは違うと思うのである。目の前に願ってもない大役のチャンスがあるのに、首をすくめてやり過ごすのでは、プリマ・ドンナになれるはずがないし、「彼女がメンバーに加わると、全体のレベルが上がった」というのは、音楽全体を見通す力があったからだ。

 われわれの日常の仕事でもそういう面がある。向上心を出世欲と見なして嫌う人はいるが、少しでも会社を伸ばそうと思うなら、同僚に遠慮して力を発揮しないのは、間違っている。私はいつももう一歩上をと考えてきた。同僚には上昇志向に見えただろうが、私には反対に、同僚が適当なところで手を打って、力を出し尽くさないのがもどかしく思えた。出世などは関係ない。全体のレベルが上がれば、自然に自分の収入も増えるはずだと思っていたからである。現に会社は成長した。私の功績だけとは言わないが、少しずつ周囲の人たちの考え方もそういう方向に変わってきたと思う。

 とにかく、モーツァルトにはそうした意味での「天才」もあった。時には突飛な言動に見えても、音楽に関する限り、彼は正しかっただろうと思うのである。

http://kumoi1.web.fc2.com/CCP017.html

10. 中川隆[-14414] koaQ7Jey 2019年11月10日 13:36:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1516] 報告
クールな音楽家モーツァルト
---モーツァルト:ピアノ協奏曲 Nos. 11&14 坂崎 紀
https://www.seitoku.ac.jp/daigaku/music/mozart06/writings/sakazaki.html

 ヒットする曲の条件は何だろう。必ずしも音楽の質だけで決まるとはいえないが、誰でもわかりやすく、多くの人が共感できる曲はヒットするといえるだろう。逆に一部の専門家しかわからないような凝った音楽、聴き手に一定水準の音楽的能力や音楽経験を要求するような曲はヒットしにくいといえる。

 この問題について、モーツァルトが1782年12月28日付の手紙の中で興味深いことを書いている。


 「予約演奏会用の協奏曲が2曲必要です。これらの協奏曲は、非常に易しいものと非常に難しいものとの中間を正確に狙ったもので、とても華やかで聴いて楽しく、シンプルで自然ですが無内容に響くことはありません。専門家のみが真に楽しめる個所もここかしこにありますが、素人でも満足を感じるはずです、たとえその理由がわからなくても。」

 ここには作曲家の職業上の秘密、あるいはモーツァルトのプロ作曲家としてのドライな面が感じられる。予約演奏会というのは前売り券を売り、演奏会を行う方式。およそ18世紀頃から公開演奏会が一般化するにつれて採用されるようになった。不特定多数の人が安価にチケットを入手できるようにするかわりに聴衆の数が多くなるように演奏会を企画して利益を上げようというものだ。いわば薄利多売。これは現在の各種演奏会の方式と本質的には同じだ。

 チケットが売れなければ話にならないから、幅広い層にアピールしなければならない。しかしモーツァルトは決して「わかりやすければいい」とか「素人にはわかりやすいものを」といってはいないし、もちろん「理解できる人だけが聴けばいい」ともいっていない。その中間を正確に狙う、というところがミソ。

 「華やかで楽しく、シンプルで自然」というはこの時代の古典主義の理念で、技巧を凝らしたり複雑さを追求した難解な音楽は好まれなかった。これはひとつには啓蒙思想による人間の自然な感覚を尊重する風潮に由来し、社会的には音楽を享受する階層がそれまでの王侯貴族から中産市民階級に拡大したためだ。

 晩年のバッハは、当時の音楽評論家から「技巧が過度、もっと自然であるべきだ」と批判されているが、これは古典主義的な音楽観からなされたものと解釈できる。「一部の音楽通の貴族にしかわからないような音楽はこれからは時代遅れ」ということなのだ。だからハイドンやモーツァルトの音楽は、ある意味ではバッハよりも単純素朴といえるが、これは音楽がより広い層に受け入れられることにつながる。

 さてウィーンといえども、音楽通の数は限られるだろう。チケット金額が同じなら、演奏会に音楽通がひとり来てくれるよりも、平均的一般人(素人)が3人来てくれた方が営業面では有利なのだ。しかしモーツァルトはもっと計算して「音楽通も満足するし、一般人も楽しめる」と書いている。つまり4人来ることを狙っているのだ。これは作るテクニックとしてはむずかしい。凝った和声や繊細な表現といったものは音楽通には受けるが、一般人にはわからない。逆に派手で明快な音楽は一般人にはわかりやすいが、そればかりだと、音楽通には内容空疎な印象を与える。

 ただ音楽というのは時間経過の中で変化していくものなので、わかりやすい部分と、やや凝った部分をうまく混ぜ合わせれば、音楽通も一般人もある程度まで満足させることは可能だろう。モーツァルトはそういう曲を書こうとしていたのだ。

 ではモーツァルトはこの手紙を書いた後、どんな協奏曲を書いたのだろうか。この手紙の直後に書かれたのはピアノ協奏曲第11番ヘ長調 K.413(387a)と第14番ハ長調 K. 415(387b)だったと考えられている。インマゼールがフォルテピアノで演奏したCDを聴いてみよう*。

 これらの曲は大局的にはウィーン古典派の音楽で、現在の基準からすると明快でわかりやすい音楽。しかし作曲された18世紀末の時点では斬新で新しい面もあったと思われる。特に第1楽章ではさまざまな音楽的要素が出てきて、感傷的なフレーズもあれば、大げさな身振りでハデなところもあるが、これらの要素のうちのいくつかは当時としては新しくユニークで音楽通向けであり、いくつかはより一般的で大衆的だったのだろう。

 モーツァルトはしばしば「神童」、「天才」といわれるから、人によってはインスピレーションに駆られて神がかり状態で一気に曲を書き上げる「ゲイジュツカ」というイメージを抱くかもしれない。しかしそれはいささかロマン主義的な幻想というべきだ。

 前掲の手紙からすると、彼は自分の音楽に対してかなりメタ認識ができており、ある意味では冷静かつ客観的に「どうすればウケるか」を考えながら作曲し、演奏していた。そう、モーツァルトは「冷静」、「カッコいい」、という2つの意味でクール cool なミュージシャンだったのだ。

-----
*W. A. Mozart: Clavier-Concerte 11, 13 & 14.
Orchestra Anima Erterna/ J. v. Immerseel
(Channel Classics CCS 0990)
https://www.seitoku.ac.jp/daigaku/music/mozart06/writings/sakazaki.html

11. 中川隆[-13059] koaQ7Jey 2022年5月24日 16:59:11 : tAXHicUgKA : dy9hWEQ5bm94OFU=[4] 報告
イングマール・ベルイマン『モーツァルト 魔笛 Trollflöjten』1975年

監督 イングマール・ベルイマン
脚本 エマヌエル・シカネーダー イングマール・ベルイマン
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
公開 1975年1月1日

作曲:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
指揮:エリック・エリクソン
演奏:スウェーデン放送交響楽団、合唱団

動画
https://www.youtube.com/watch?v=ufQxByt7dNM

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『魔笛』(スウェーデン語: Trollflöjten、英語: The Magic Flute)は、モーツァルト作曲のオペラ『魔笛』を題材にした、イングマール・ベルイマン監督による1975年公開のスウェーデンの映画。もともとは元日のテレビ放送用の作品であったが、その芸術性の高さから映画に仕立て直され、諸外国にも配給された。日本では1976年に公開されている。

演出
小劇場での上演を撮影している、という設定で演出されている。この劇場はストックホルム郊外にあるドロットニングホルム宮廷劇場という、1760年に建てられた200席ほどの劇場であるが、あくまで設定であって、撮影自体はほとんどがスタジオで行われた。この演出はこの音楽劇の素朴な雰囲気をよく現しているといえる。冒頭、タミーノを追って現れる竜は全くの着ぐるみであるし、また前奏や間奏の時の映像には出演者がくつろいでいたり、幕の隙間から観客席を覗く光景なども挟み込まれている。客席の少女(ベルイマン監督の娘)の顔も何度も登場する。

正月のテレビ用ということで、原語のドイツ語でなくスウェーデン語で演じられ、また、フリーメイソンの儀式にかかわる部分などは省略が行われている。


キャスト

タミーノ:ヨゼフ・コストリンガー
パミーナ:イルマ・ウルリラ
パパゲーノ:ホーカン・ハーゲゴール
パパゲーナ:エリザベト・エリクソン
夜の女王:ビルギット・ノルディーン
ザラストロ:ウルリック・コールド
モノスタトス:ラグナール・ウルフンク

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E7%AC%9B_(1975%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)


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