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モーツァルト 歌劇「魔笛」
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 20 日 20:29:06: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: モーツァルトで本当にいいのは 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」だけ 投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 20 日 20:07:04)

モーツァルト 歌劇「魔笛」


Die Zauberflöte 3/3/1956 English MetOpera (Sullivan, Uppman, Amara, Peters, Hines - Walter)


Die Zauberflöte - Mozart
(In English)


Metropolitan Opera
Matinée Broadcast
3rd March, 1956


Tamino......................Brian Sullivan
Pamina......................Lucine Amara
Königin der Nacht.....Roberta Peters
Sarastro....................Jerome Hines
Papageno..................Theodor Uppman
Papagena..................Laurel Hurley
Monostatos...............Paul Franke
Speaker.....................George London
Erste Dame...............Heidi Krall
Zweite Dame ............Madelaine Chambers
Dritte Dame...............Sandra Warfield
Genie.........................Emilia Cundari
Genie.........................Rosalind Elias
Genie.........................Margaret Roggero
Priest........................James McCracken
Priest.........................Osie Hawkins
Guard........................Albert Da Costa
Guard.........................Louis Sgarro
Slave..........................Henry Arthur
Slave..........................John Frydel
Slave..........................Hal Roberts


Conductor.................Bruno Walter


__________



『魔笛』(独: Die Zauberflöte)K. 620は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1791年に作曲したジングシュピール(歌芝居、現在では一般にオペラの一種として分類される)。モーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラである。


台本は興行主・俳優・歌手のエマヌエル・シカネーダーが自分の一座のために書いた。


現在もモーツァルトのオペラの中で筆頭の人気を持つ(「Opernwelt」誌の毎年の作品別上演回数統計、「音楽の友」誌の定期的な人気作品投票など)。


作曲の経緯と初演


シカネーダーは当時ヨーロッパ各地を巡業していた旅一座のオーナーで、モーツァルトとはザルツブルク時代の知り合いであり、モーツァルトが所属したフリーメイソンの会員でもあった。シカネーダーはウィーンの郊外にあるフライハウス(免税館)内のヴィーデン劇場(Theater auf der Wieden、フライハウス劇場とも呼ばれる。フライハウスは劇場も含む建物群。1000人以上収容の集合住宅、市場、礼拝堂、菜園、工房、厩舎までを含む巨大な複合施設)を管理し、一座の上演を行っていた。


シカネーダーは、当時仕事がなく生活に困っていたモーツァルトに大作を依頼した。モーツァルトは1791年の3月から9月にかけて作曲を進め、プラハでの『皇帝ティートの慈悲』の上演のため中断を経て、9月28日に完成させた。当時妻コンスタンツェがバーデンへ湯治に出ており、モーツァルトは一人暮しをしていたため、シカネーダーは彼にフライハウス内のあずまやを提供した(このあずまやはザルツブルクの国際モーツァルテウム財団の中庭に移設され現存する)。


『魔笛』の台本は、次の作品からアイデアを流用したものである。
パウル・ヴラニツキー作曲のオペラ『オーベロン』 - シカネーダー一座のための台本は、一座の一員カール・ルートヴィヒ・ギーゼケによる。


トービアス・フィーリップ・フォン・ゲーブラーの戯曲『エジプト王ターモス』 - モーツァルトは以前にこの戯曲のための音楽(K.345)を書いている。
クリストフ・マルティン・ヴィーラントの童話劇集『ジンニスタン』から『ルル、またの名、魔笛』


ギーゼケはのちに『魔笛』の台本は自分が書いたと主張したが、真偽は定かでない。音楽コラムニストのジェイミー・ジェイムズは、「魔笛」の物語はフリーメイソン団員のアッベ・ジャン・テラッソンが書いた古代エジプトの応じセトスをめぐる寓意小説『セトス』に基づいている、と述べている[1]。


初演は1791年9月30日、ヴィーデン劇場で行なわれ、大好評を博した。モーツァルトはバーデンの妻に「アントニオ・サリエリが愛人カヴァリエリとともに公演を聴きに来て大いに賞賛した」と手紙を書いている(10月14日)。


同じ年の12月、死の床にあったモーツァルトは時計をみながら当日の上演の進行を気にしていたという(フリードリヒ・ロホリッツのモーツァルト逸話集:1798年)。



オペラの内容


シカネーダーの興行は一般市民を対象としており、演目もそれにふさわしく、形式ばらずにわかりやすい物を中心とした。魔笛の各所には聴衆を楽しませる大掛かりな見せ場が盛り込まれている。歌や会話の言語もドイツ語で、レチタティーヴォに代えて台詞で筋を進行する、ジングシュピールの形式を用いた。


物語は王子によるお姫様の救出劇の形で始まるが、途中で善玉と悪玉が入れ替わる。シカネーダーが台本作成中に他の作品で似た筋書きが発表されたため急いで変更したためであるという説もあるが、単なる意外性を求めたストーリー上の工夫とみなすこともある。これまでの各種の解釈に対して、夜の女王の国と、ザラストロの国とでは善悪見方が相反するもので、全て相対的な世界であるとすれば筋について問題はないと考えられる。


本作にはフリーメイソンのさまざまなシンボルや教義に基づく歌詞や設定が用いられていることも特徴で、とりわけ各所に「3」を象徴的に使っているのが目立つ。序曲の最初や中間部で鳴り響く和音(同じフレーズが3回演奏される)は、フリーメイソンの儀式で使われるもので、劇中ザラストロの神殿内の場面でも再現されている。2人の作者がメンバーとしてフリーメイソンの精神をオペラ化したとも、当時皇帝から圧迫を受けつつあったフリーメイソンの宣伝であったなど、教団との関わりを重視する指摘があり、今日の演出にも影響を与えている。現在では否定されているが、モーツァルトの急死はフリーメイソンの教義を漏らしたため、フリーメイソンのメンバーが暗殺したという説さえ見られたほどである。


いずれにせよ、第2幕ではそれまでの救出劇から登場人物の(フリーメイソン的な)修行と試練の内容に変わる。これと対照的なのがブッファ的・道化的なキャラクターのパパゲーノである。シカネーダー自身が演じる役なので当然だが、要所要所に登場し、場をもりあげる役割を果たしている。モーツァルトもこの役に親しみやすく魅力的な音楽を与えており、魔笛を代表するキャラクターとなった。


途中から善悪交代する夜の女王とザラストロはオペラ・セリア的な役柄である。このオペラの中の最高音と最低音をそれぞれ歌う歌い手でもある。特に夜の女王の2つのアリア(No4, No,14)は至難なコロラトゥーラの技巧を要求する難曲であり、才能あるソプラノが若いころに歌って注目をあつめることがよくある。ドイツ圏のソプラノには、若年期に夜の女王を演じた後、娘のパミーナへ役を転じる例も多い。その一人であるルチア・ポップに至っては、夜の女王の後で三人の童子の一人を演じた記録が残っている。ザラストロの2曲(No10, No,15)も、低音が豊かなバッソ・プロフォンド歌手にとって重要なレパートリーのひとつでもある。


なお、文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、「魔笛」を愛し、その第2部を執筆しようとしたが、多神教的性格を好まなかったためか断念した。



登場人物


神官ザラストロ(B)
夜の女王(S) - 初演ではモーツァルトの義理の姉ヨゼーファ・ホーファーが歌った。
王子タミーノ(スペイン語版)(T)
夜の女王の娘パミーナ(S)
鳥刺しパパゲーノ(BまたはBr) - 初演ではシカネーダー自身が歌った。
老女/パパゲーナ(S)
夜の女王の3人の侍女(S,S,S)
3人の童子(S,S,S)- 以前はおおむね成人女性歌手が演じたが、近年は少年(ボーイソプラノ)が演じるケースが多い。
弁者(B)
3人の神官(T,B,Sp)
2人の武者(T,B)
奴隷頭の黒人モノスタトス(T)
S:ソプラノ、T:テノール、B:バス、Br:バリトン、Sp:語り役
3人1組の役が多いのはフリーメイソンの象徴的数字だといわれる。



あらすじ


時と場所:時代不詳のエジプト(正確には、漠然と「ラムセスの時代」と書かれている)


第1幕


日本の狩衣を着た[2]王子タミーノが大蛇(初演前の原案ではライオン)に襲われ、「神々よ助けて!」と叫ぶ。そこに3人の侍女があらわれ彼を救出する。3人はタミーノのことを夜の女王に報告に行くが、そこへ鳥を女王に献上して暮らす鳥刺しのパパゲーノがやってくる。大蛇(ライオン)のことを聞かれ、成り行きから自分でやっつけたとパパゲーノは嘘をつくが、戻ってきた3人の侍女に見つかり口に鍵をかけられてしまう。侍女たちがタミーノに女王の娘パミーナの絵姿を見せると彼は彼女に一目惚れする。そこに夜の女王が登場し、悪魔ザラストロにさらわれて娘を失った悲しみを語り、彼に救出を依頼し、タミーノは意気込んで引き受け、ようやくしゃべることを許されたパパゲーノとともに姫の救出に向かう。2人にはお供の3人の童子が付き添い、タミーノには魔法の笛(魔笛)、パパゲーノには魔法の鈴が渡される。


ザラストロの神殿内。逃げ出そうとしたパミーナを捕らえようとする奴隷頭モノスタトスと部下の奴隷の前に、偵察に来たパパゲーノが突然現れる。彼らは互いに初めて見る姿に驚き、双方ともパミーナを置き去りにして逃げ出す。しかしパパゲーノはすぐに引き返し、パミーナに救出にきたことを告げる。

ザラストロの神殿前にタミーノが案内役の童子につれられてやってくる。3つの扉を順に試すと、最後の扉が開いて弁者(神官の一人)が登場する。2人の長い問答が始まり、ザラストロは悪人ではなく夜の女王のほうが悪人であると告げる。一人になったタミーノが笛を吹くと、神殿から逃げようとしていたパパゲーノとパミーナが聞きつけやってくる。そこにモノスタトスが登場し、2人を捕らえるが、パパゲーノの鳴らす魔法の鈴の音に動物たちも、奴隷たちも皆浮かれて踊ってどこかに去ってしまう。そこへザラストロと神官たちが登場する。彼は逃げようとしたパミーナにやさしく語り掛けるが、そこにモノスタトスがタミーノを捕らえてやってくる。初対面にも関わらず、パミーナとタミーノは互いに惹かれて走り寄り、抱き合う。怒ったモノスタトスが2人を引き離すが、ザラストロに足を77回叩きの仕置きを受ける。一同ザラストロの裁きを受け容れて讃える合唱で幕となる。



第2幕


ザラストロは神殿で神官たちにタミーノに試練の儀式を受けさせることを説明し、賛同を得る。一同イシス神とオシリス神を称える。
神官がタミーノとパパゲーノのもとへやってきて、試練について説明する。試練に挑むというタミーノとは対照的に、パパゲーノはそんな面倒なことは御免こうむるという。神官はパパゲーノに試練に打ち勝ったら似合いの娘を世話するといい、ようやくパパゲーノはその気になる。


そこに3人の侍女がやってくる。彼女たちはタミーノがザラストロの言うなりになっているのに驚き、翻意させようとするがタミーノは取り合わない。一方パパゲーノは侍女たちの話に釣られそうになるが、そこに雷鳴とともに神官が現れ彼女らは去る。
場面が変わり、庭でパミーナが眠っている。そこにモノスタトスがやってきてパミーナを我が物にしたいと狂わしい思いを歌うが、そこに夜の女王が登場し、彼は隠れる。女王は復讐の思いを強烈に歌い、パミーナに剣を渡しこれでザラストロを刺すように命じて去る。


隠れていたモノスタトスが出てきてパミーナに迫るが、ザラストロが登場し、彼を叱責して去らせる。モノスタトスは今後は夜の女王に寝返るか、とつぶやく。
パミーナが母の命令のことを話すと、ザラストロは「この神聖な殿堂には復讐などない」、と教団の理想を歌い上げる。


場面転換。2人の神官がタミーノとパパゲーノに沈黙の修行を課して去る。しかしパパゲーノは黙っていることができず、しきりに喋ってはタミーノに制止される。そこへ黒いフードで顔を隠した老女がやってくる。彼女に歳を尋ねると自分は18歳だと言うので、パパゲーノは涙を流して大笑いする。そんなに若いなら彼女には年頃の恋人がいるはずだと思い、パパゲーノが聞いてみると案の定、恋人はいるという。しかもその名はパパゲーノだというので驚いてお前は誰だ?と尋ねる、それと同時に雷鳴が轟き、名前を告げずして彼女はどこかに消えてしまった。


そこへ3人の童子が登場し、2人を励まし酒や食べ物を差し入れる。パパゲーノが喜んで飲み食いしていると、パミーナが現れる。彼女はタミーノを見つけて喜び話しかけるが彼は修行中なので口を利かない。パパゲーノもまた口いっぱいに頬張っているので喋れない(自省して喋れないとする演出もある)。相手にしてもらえないパミーナは、もう自分が愛想をつかされたと勘違いし、大変悲しんでその場を去る。


次の場面で、神官たちとともにザラストロが登場し、タミーノに新たな試練を課すと告げる。パミーナも出てきて試練を受けに出発するタミーノと互いに別れを告げる。
沈黙の業に落第したパパゲーノが神殿に近寄れずうろついていると、神官がやってきて、お前の望みは何かと尋ねる。パパゲーノは恋人か女房がいればいいのに、というと先程の老女がやってきて、私と一緒になると誓わないと地獄に落ちると脅かす。パパゲーノがとりあえず一緒になると約束すると、老女は若い娘に変身する。「パパゲーナ!」と呼びかけ、パパゲーノは彼女に抱擁をしようとするが、神官がパパゲーノにはまだ早いと彼女を連れ去る。


場面が変る。パミーナはタミーノに捨てられたと思い込み、母のくれた剣で自殺しようとしている。3人の童子が現れてそれを止め、彼女をタミーノのもとに連れて行く。タミーノが試練に立ち向かっているところにパミーナが合流し、魔法の笛を使って火と水の試練を通過する。


さらに場面が変り、パパゲーナを失ったパパゲーノが絶望して首を吊ろうとしている。そこに再び童子たちが登場して魔法の鈴を使うように勧める。パパゲーノが鈴を振ると不思議なことにパパゲーナがあらわれ、2人は喜んで子どもを大勢作るんだ、とおおはしゃぎする。


場面が変り、夜の女王と侍女たちを案内してモノスタトスが神殿を襲撃しようとやってくる。しかし光に打ち勝つことはできない。
ザラストロが太陽を讃え、一同イシスとオシリスを讃える合唱のうちにタミーノとパミーナを祝福して幕となる。



音楽


序曲 Ouverture


全曲を通じて大きな役割を果たす「フリーメイソンの三和音」が登場する。なお、主部の第1主題はクレメンティの『ピアノソナタ 変ロ長調』(作品24-2)の第1楽章主題に酷似しており、モーツァルトがこの曲でクレメンティをからかったという見方がある。序奏・アダージョ→アレグロ・ソナタ形式、変ホ長調。序曲の編成は、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦5部。



第1幕


No.1: 導入「助けてくれ! 助けてくれ!」 Introduktion - Zu Hilfe! zu Hilfe!(タミーノ、3人の侍女)
No.2: アリア「私は鳥刺し」 Arie - Der Vogelfänger bin ich ja(パパゲーノ)
パパゲーノがパンフルートを吹きながら愉快に歌う。(なお、3番目の歌詞は台本、自筆譜ともに記載されていない)
No.3: アリア「なんと美しい絵姿(英語版)」 Arie - Dies Bildnis ist bezaubernd schön(タミーノ)
タミーノの歌うパミーナへの愛の歌である。
No.4: レシタティーヴォとアリア「ああ、怖れおののかなくてもよいのです、わが子よ!(英語版)」 Rezitativ und Arie - O zitt're nicht, mein lieber Sohn!(夜の女王)
有名な2つの「夜の女王のアリア」の1曲目。レチタティーヴォの後、アンダンテが続き、その後極めて技巧的なコロラトゥーラが出現する。コロラトゥーラ・ソプラノのための曲で、極めて高い演奏技術を要する。
No.5: 五重唱「ウ! ウ! ウ! ウ!」 Quintett - Hm! hm! hm! hm!(パパゲーノ、タミーノ、3人の侍女)
口に鍵を付けられたパパゲーノがしゃべれないまま錠を取ってくれと歌うユーモラスな歌。侍女たちは、世の嘘つきたちにこのような罰を与えればよいのに、と歌う。
No.6: 三重唱「可愛い子よ、お入りなさい」 Terzett - Du feines Täubchen, nur herein!(モノスタートス、パミーナ、パパゲーノ)
No.7: 二重唱「愛を感じる男の人達には(スペイン語版)」 Duett - Bei Männern, welche Liebe fühlen(パミーナ、パパゲーノ)
愛することの喜びを歌った美しい二重唱。(なお冒頭の4つの音に続くクラリネットとホルンのアッコードは、自筆譜には記載されていない)
No.8: フィナーレ「この道はあなたを目的へと導いていく」 Finale - Zum Ziele fuhrt dich diese Bahn


第2幕


No.9: 神官の行進 Marsch der Priester
No.10: 合唱つきアリア「おおイシスとオシリスの神よ(フランス語版)」 Arie und Chor - O Isis und Osiris(ザラストロ、合唱)
No.11: 二重唱「女の奸計から身を守れ」 Duett - Bewahret euch vor Weibertücken
No.12: 五重唱「どうしたの? どうしたの? どうしたの?」 Quintett - Wie? Wie? Wie?
No.13: アリア「誰でも恋の喜びを知っている(フランス語版)」 Arie - Alles fühlt der Liebe Freuden(モノスタートス)
No.14: アリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」 Arie - Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen(夜の女王)
「夜の女王のアリア」の2曲目。超絶技巧を要する。
No.15: アリア「この聖なる殿堂では」 Arie - In diesen heil'gen Hallen(ザラストロ)
No.16: 三重唱「再びようこそ」 Terzett - Seid uns zum zweitenmal willkommen
No.17: アリア「ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが(フランス語版)」 Arie - Ach, ich fühl's, es ist verschwunden(パミーナ)
No.18: 神官たちの合唱「おおイシスとオシリスの神よ、なんという喜び!」 Chor der Priester - O, Isis und Osiris, welche Wonne!
No.19: 三重唱「愛しい人よ、もうあなたにお会いできないのですか?」 Terzett - Soll ich dich, Teurer, nicht mehr seh'n?
No.20: アリア「娘か可愛い女房が一人(フランス語版)」 Arie - Ein Mädchen oder Weibchen wünscht Papageno sich!(パパゲーノ)
パパゲーノが、可愛い女の子か奥さんがいたら、この世は実に素晴らしい、と歌う楽天的なアリア。グロッケンシュピールの音が美しく響く。モーツァルトは、2つのパパゲーノのアリアを、当時の流行歌から取ったという。
No.21: フィナーレ「やがて朝を告げるために輝きわたるのは」 Finale - Bald prangt, den Morgen zu verkünden


https://ja.wikipedia.org/wiki/魔笛
 

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コメント
1. 中川隆[-14300] koaQ7Jey 2020年1月21日 00:40:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1196] 報告
イングマール・ベルイマン 魔笛


MOZART_ BERGMANS_ TROLLFLÖJTEN, 1975 [The Magic Flute/ E. subtitles]



監督:イングマール・ベルイマン
脚本:エマヌエル・シカネーダー、イングマール・ベルイマン
音楽 作曲:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
指揮:エリック・エリクソン
演奏:スウェーデン放送交響楽団、合唱団


キャスト
タミーノ:ヨゼフ・コストリンガー
パミーナ:イルマ・ウルリラ
パパゲーノ:ホーカン・ハーゲゴール
パパゲーナ:エリザベト・エリクソン
夜の女王:ビルギット・ノルディーン
ザラストロ:ウルリック・コールド
モノスタトス:ラグナール・ウルフンク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E7%AC%9B_(1975%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)


映画の巨匠ベルイマンの魔笛です。通常の魔笛の舞台の映画ではなく長い準備期間と何ヶ月も撮影期間をかけた映像作品です。スウェーデンの国営放送のための番組として作られたので画面サイズは4:3のスタンダードサイズ、言葉もドイツ語でなくスウェーデン語です。子供も楽しめるように随所にスェーデン語の歌詞カードが出ます。

 この魔笛の特徴はものすごく官能的だということです。

3人の侍女の登場シーン(タミーノやパパゲーノ)のからみやモノスタトスのストレートな愛情表現、パパゲーノとパパゲーナのお互いの服を脱がしあうアリアなどすごくエロチックです。

 またザラストロよ夜の女王が国の覇権を争う分かれた夫婦という設定となっています。

1幕では子供を奪われた哀れな母親であった塊??の女王が2幕ではザラストを暗殺しようとする暗殺集団の長へと様変わりするのがわかりやすくなっています。
普通の魔笛はこのへん説明がないので見ていて頭がこんがらがるのですがなんとか合理性をもたせています。

 配役もよくできています。ものすごく人の良さそうなお兄さんのパパゲーノ、むちゃくちゃチャーミングなパパゲーナ、清楚なパミーノ、出だしは頼りないが少しずつ成長していくタミーノ。
本当に賢そうな賢者ザラストロ、前半と後半でドラマチックに変身する夜の女王。

ものすごく官能的な3人の侍女。

ものすごくきれいなメロディを歌う3人の童子だって服ぬいじゃいます。
いやらしさたっぷりでちょっと寂しいモノスタトス。ロールプレイングにも使えそうな設定です。

 さていろいろ書きましたが、この魔笛はなんと言ってもわかりやすいです。うちの奥さんも初めて筋が理解できたと言ってます。
色ぽいだけでなく歌もりっぱです。登場人物が多いので通常どこか配役に不満が出るのですがよくできています。録音もすごくいい。
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/B000091LEO/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending




ベルイマンが元旦の子供のための特別番組として演出・撮影した「魔笛」。

彼が子供の頃から愛好した数少ないオペラ。 演奏のテンポは遅め。

女性はみな美人で、特に三人の侍女はチャーミング!

沈黙の行の二人に侍女達が来る場面で、侍女たちは二人を熱く誘惑する。

弁者は書物に囲まれた学者。

パパゲーナは老婆ではなく醜女で登場。

雪の降る場面が特に美しい(パミーナの絶望の場面と、それに続いてパパゲーノの嘆きの場面)。

魔法のベルが鳴って、パパパの二重唱が始まると、雪解けで花が開き始め、二人はぶ厚い毛皮のコートを脱ぎ始める。

タミーノとパミーナの試練の場を、この二重唱の後に移動していた。

試練の火の世界では、半裸体の群像がうごめく。

水の世界も同様。夜の女王の軍隊は四十人規模で黒い鎧を着ている。

吉田秀和『僕のオペラ』(海竜社、2010年)でも、観客の少女の映像には「つまらないことをする」と閉口していました。しかし、天下のベルイマンだからと最後まで映画館のひどい客席に我慢して座り、見つづけて良かった、

ベルイマンが性的なもの、肉欲的なものを罪悪と感じ、そのけがれにまどわされぬものこそ真の勝利者だと考えていることが判った

と屈折した批評を書いています。 同感です。
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/cr/rR2OJVHK9P9EOF4




私が初めて『魔笛』に親しんだのは、LPや放送ではなく、スウェーデンの映画監督のイングマール・ベルイマンの映画『魔笛』(1974年制作のテレビ映画)によってだった。

この映画はイントロダクションとして観客少女の視点が描かれる以外はほとんどこのオペラの舞台での歌唱・演技・演奏の全曲を映像化したもので、特にパミーナを演じた歌手(女優?)の美しさが印象に残っている。

そして、夜の女王とザラストロの関係についてはこの映画は非常に独特な個性的な解釈をしている。善が悪に、悪が善にという初歩的な破綻というほどのストーリーの不整合をどう考えるかがこのオペラの鑑賞の眼目の一つであり、ストーリーの破綻を棚上げして音楽だけを楽しもうという立場もあれば、それに合理的な説明をしながら全体を調和したものとみる立場もあり、その他にもいろいろな解釈がある(その一つに下記のフリーメーソン的な解釈があるあるようだ。)これについて、自分の中で解決がついたわけではないが、よくある神話的な不整合とみてもいいのではと思っている。
http://kniitsu.cocolog-nifty.com/zauber/2006/11/post_cd91.html




特徴的なのは、ザラストロと夜の女王が、憎みあって別れた夫婦になっていることでしょうか。そう見えました。親権を争う父母というところ。

パミーナが、ひどく暗い陰険な表情を見せることもあり、これはちょっと印象的というか、迫るものがあります。じっくり眺めていると、なんというか、奇妙に暗い不思議な雰囲気が迫ってきます。ほとんど画面いっぱいの顔の大写しが、ある意味効果的なのかも・・・

ちらっと意味不明の場面も入ります。舞台裏を映しているのかしらとも思いますが、パルジファルという題の本を読んでいるザラストロに対して、だらしない格好でお付きたちに化粧を直させている女王とか。女王も侍女たちもなぜかたばこをふかしています。タミーノとパミーナは楽しそうにチェスをやってます。

場面の順序、多少入れ替え、カットも? があるようです。歌の繰り返し、台詞など、かなり省かれたり、短縮されているようで、演奏時間はおよそ2時間になっています。

パパゲーノとパパゲーナの年齢会話は、大笑いしながら、

「年は?」
「18歳と2分よ」
「ずいぶん若いんだね」
「恋人もいたりして・・」
「もちろんよ」
「若いの?」
「う〜〜ん、10歳ぐらい上」

と続きます。字幕情報です。この映画はスウェーデン語です。そして、フィナーレに、子沢山で登場します。
http://euridiceneeds.blog.so-net.ne.jp/2005-09-02




映画中には隠されたメッセージがいろいろあるように思われる。
例えば、第2幕でパパゲーノの持つ魔法の鈴がクローズアップされると、男女の艶めかしい姿(?)が描かれていたり

繰り返し何度も観て、ベルイマン監督の「魔笛」に刷り込んだ真意をより研究したいと思っているところ
http://classic.opus-3.net/blog/?p=10272



就寝中の姫を襲おうとする奴隷頭モノスタトスの歌にこめられた、女ができないのは自分の黒い肌のせいという嘆き。彼女にふられるのは、肌の色でなく貴方の心のありようだと伝えたいではないか。そこへ「夜の女王」がやってきて復讐を誓う有名なアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」 がははじまる。玉がころがるような難技巧コロラトゥーラを披露して盛り上がる女王の歌は、娘への威嚇でもある。姫にとっては父であり、自分にとっては夫であるザラストロを刺すようにと命じて剣をおしつける「夜の女王」の豹変ぶりに驚きおびえる姫。おびえるのは姫だけではない。

悪魔とののしられたザラストロが、思慮深く娘思いのパパだったと理解するにつれ、ママ「夜の女王」の憎い夫謀殺案の手口には、夫婦の深い溝と憎しみに笑えるくらいに戦慄する。悪と善が完全に入れ替わる意外性は、このオペラに大衆をあきさせないおもしろみと、社会のシステムへの不満のガスぬきをも与えている。これは、現代でも充分に通用する。またこのあたりの母と娘の関係は、妊娠中の安達祐実さんと、ヌード写真集を出すというママのあり方を彷彿させる。

軽率で野卑だが本音を炸裂するパパゲーノと、真面目でいいつけをきちんと守る王子の対比。一度は、王子の心変わりを疑い、絶望のあまり剣で自殺しようとまで思いつめた姫の純粋さと底の浅さ。未来の婿殿の肝試しをする父としてのザラストロの威厳と絶対性の息の詰まる迫力、復讐のためだったら娘さえも道具とする女の凄みを感じさせる夜の女王。
あくまでも格調高く芸術作品に撮ったイングマル・ベルイマンの映画をきっかけに、モーツァルトを再発見し、オペラの魅力にめざめつつある、かもしれない。やっぱりオペラは、CDで聴くだけではね・・・。
http://blog.goo.ne.jp/konstanze/e/5280ad0a4760e364c229874fd294a921




オペラ「魔笛」を超えたベルイマンの「魔笛」

12歳にして既にワグネリアン(ワーグナー信者)だったという。そんなベルイマンがフランス・オペラの作曲家アンブロワーズ・トマの「ミニョン」と共に無二受け入れたオペラがモーツァルトのオペラ「魔笛」。

本作「魔笛」は演劇と映画を知り尽くしている人だから撮りえた映像、演出方法だと思う。
オペラ「魔笛」を愛し、自らの血肉ともなっているからこそ描きえた作品だと思う。
そして子供も楽しめる楽しさ、分かりやすさ。
本作をみて私も改めて「魔笛」の魅力を教えてもらった。

「われわれの職業はエンタテイメントです。楽しさといっても陽気なのも深刻なのもありますが、重要なのはそれは皆観客のためのものだということです。観客なんかどうでもいいという人がいますが、ぼくには理解できませんね、われわれを認めてくれるのは観客なんですからね」(「ヴェッコ・レヴィーン」誌・1956年第九号) 

「魔笛」の序曲が流れる。
オペラ「魔笛」が上演されているストックホルム市郊外の小島にあるドロットニングホルム王立劇場の外観から始まる映像。

この劇場は1760年に建てられ、国王グスタフ3世の暗殺現場で彼の死後閉鎖されたままであったが、20世紀に入ってから封印が解かれ、夏の間だけオペラ上演がされるようになった劇場。200席ほどのこの劇場は、ロココ調の内装と18世紀当時の舞台機能がsんまま残されている稀有な劇場で、この映画で一躍世界的に脚光を浴びたそうです。長時間のライトの持込は危険なため、ほとんどのシーンをスタジオで再現して撮影とのこと。


そして舞台正面。
世界各国のあらゆる世代の人々の、舞台を見ている表情がクローズアップで次々と映し出されれていく。この中にはベルイマン作品の常連のエルランド・ヨセフソン、撮影のスヴェン・ニイクヴィストの貌も見える。そしてベルイマンとリブ・ウルマンの娘の顔も映されているとのこと。途中幾度か舞台をじっと見入る少女の顔が映し出されているけれど彼女かしら。二人によく似ている。利発そうな目をした子。

これも演出の一つなのでしょう。途中何度か舞台をみている少女の映像が挿入されるが、目障りでなく、むしろ見る側としてほっと一息つくそのタイミングで挿入されており、この辺りにも観客の呼吸に視線をおいたベルイマンの演出の巧みさというか、鋭い感性を感じる。見るものに舞台劇を印象付ける。

拍手と共に第一幕の幕が開く。
みるからに張りぼてのユーモラスな恐竜が現われ王子タミーノを襲う。3人の侍女が恐竜を退治し、夜の女王に報告に行く。舞台で演じられている劇であることを感じさせる。

画面が変わり、
ここから一挙に映画とオペラの「魔笛」の世界に誘い込まれる。
道化役パパゲーノが寝過ごして大慌てで舞台に登場する。

あくまでも額縁の中で演じられる舞台劇という印象を見せながら、スタジオ撮影の映像がなんの違和感なく舞台と繋がる。

また歌の場面では歌詞の一部がパネルで現われたり、幕間があり楽屋裏を映すという大胆な演出も行っている。けれど、この幕間がさらに登場人物たちをより強く印象付ける効果をもたらしている。それが次の第2幕に自然に引き継がれていく。
大胆奇抜ともいえるこれらの演出が、物語の世界を損なうことなく、むしろ見るものにより分かりやすく、その印象を深くしている。
オペラ「魔笛」も見ていて、舞台を現代に置き換えて映画化されたケネス・プラナーの「魔笛」も見た私は、そして見ている私が更に誘い込まれる、ベルイマンのこの演出は見事というしかない。知り尽くしたからこその演出方法。

舞台美術も素晴らしい。
撮影はベルイマンとコンビを組んでいるスヴェン・ニクヴィスト。彼の撮影する光は素晴らしい。

本作も冒頭の映像が素晴らしい。時刻は夕暮れでしょうか。茜色に染まる水の揺らぎ、そして夕日で茜色の中の木立、その向こうに見える劇場。「叫びとささやき」では北欧のしんと冷えたく冴え渡る空気すら感じる木立に差し込む光。好きな映像です。


本作は、スウェーデン放送協会が創立50周年の記念番組として1975年の元旦放送用に「魔笛」のテレビ版をベルイマンに依頼した作品とのこと。子供たちもわかるようにとオリジナルのドイツ語による歌唱ではなくてスウェーデン語による翻訳だったそうです。

出来上がった作品は世界が放っておく訳がなく、カンヌ映画祭では特別上映され、絶賛を浴び、その後各国で上映され、数数の賞を受賞し、全米批評家協会賞では「オペラをいいかに満足に映画化することへの実践」という特別賞を受賞しています。

台本はベルイマン自身によって改編され、原作のフリーメーソンの秘儀的な部分は大幅に削られ、また話の流れの順序も一部変更をしたそうです。登場する役者は全てオペラ歌手を起用していますが、美声よりも自然な声の持ち主のほうを採用したとのこと。
 


ベルイマンが「魔笛」で高らかに謳いあげているのは「愛」

愛はあらゆる試練を甘美にする
愛こそ毎日の暮らしの生気を与え、自然に生きる存在
何より尊いのは男女の愛。愛が人間を神性に導く。
二人の人間の真実の愛は叡智の始まりだ。 

パパゲーノとパパゲーナの生命力あふれる愛
タミーノとパミーナが煉獄の炎を越えて成就させる神聖なる愛

その一方で男と女の深い愛憎、確執も描いている。
深い淵を見るような夜の女王のザラストロに対する燃え滾る憎しみの炎
パミーナはザラストロと夜の女王との間の一人娘。二人の間にある確執は深い。
あの女に聖なる心が破壊されるというザラストロ。ザラストロに添う娘に「殺せ」と命ずる夜の女王。「ある結婚の風景」で分かれるときに内面生活を話す夫婦の凍りつくような溝と重なる。
ザラストロの家臣モノスタトスのパミーナに対する愛欲

彼は生きる意味を見つけたいと望んでいる。
二人が試練に耐え、それを示してくれるなら、私はこの領土を二人に譲ってもいいと思っている。 


「人間はどう生きるべきか」作品を通して常に問い続け、「人間の精神の冬を視つめる人」と言われるベルイマンの姿が、この「魔笛」でも、はっきりと存在している。

歌い上げる部分とセリフの部分が内面描写に、とても効果的に使い分けされており、子供たちにも登場人物の心の内が充分に伝わるだろうと思う。

これはもう、モーツァルトのオペラ「魔笛」の映画化というよりも、すでにベルイマンの「魔笛」という名の作品といえるほど、ベルイマンの他の作品に重なり、通じる。

本作は舞台で演じられるオペラ仕立てという設定だけれど、歌唱部分はあるけれど、それ以外は音楽というものが映像の前に出てこない。これはベルイマン作品全体についていえるのではないかしら。それだけ映像の引力が強いというより、音楽は流れているけれど、決して映像の前に出ることなく、音楽がさらに映像への集中力を高めている。以前ベルイマン特集を見たとき、重いから3本はきついかなって思ったけれど、見終わった後はなぜか心地よく、頭がしっかり冴えている。何故かなって思って、注意してみると、こんな風な音楽の使い方かなって気がしました。それに加えて作品の映像の素晴らしさにひきつけられる魅力もある。とても重いテーマなのだけれど疲れない。人の動きも自然な緩やかさのリズムをもっている。
映像と音楽と緩やかなリズムそして全体に流れる品位。

そして、タミーノ王子もパミーナもけっして美男美女ではないけれど、観ているうちに美しく魅力的に感じてくる。三人の童子たちも宗教画に出てくる天使のよう。


「ファニーとアレクサンデル」で少年アレクサンデルが卓上劇場で遊ぶ姿と、ベルイマンが重なる。「魔笛」をみて、改めてイングマール・ベルイマンという人の大きさと豊かさと深さを思い知った。
http://yorimichim.exblog.jp/5917972/
2. 中川隆[-14299] koaQ7Jey 2020年1月21日 00:42:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1195] 報告
ベルイマン監督の「魔笛」

「魔笛」の楽しさを味わうのに最適なのは、筋がどんどん進む演出ではないか、と思います(特に余り慣れていない場合)。即ちモーツアルトに多いレシタティーヴォ・セッコの早口で喋る箇所を、本当に早口で喋らせてしまうのです。その方が時間も短くなって退屈せずに済む(本当はレシタティーヴォ・セッコにはそれなりの良さがあるのですが、それはオペラに慣れてからにしましょう)。特に子供達にオペラを観せるなら、レシタティーヴォ・セッコの省略はテです!

スウエーデンのベルイマン監督の映画「魔笛」がありますが、あれがイチオシでは無いでしょうか。よく考えられた劇進行と、演出です。昔私がニューヨークに行った時、Alからベルイマン監督の「魔笛」を観るように勧められたのですが、当時はまだ持っていませんでした

(「音楽のすすめ」第2章 第29話「ウオルドーフ・アストリア・ホテル」を参照)。
http://www.kit-ya.jp/etc/club/column-002/2nd/2nd-029.html

後で買って観たらナカナカのシロモノでした。そこで使われる言語はスウエーデン語です。基本的にドイツ語もスウエーデン語も同じ言語から進化した従兄弟同士ですが、Nein, nein(ナイン、ナイン)となっている所をネイン、ネインと発音するので、時々そうだった、これはスウエーデン語だったんだ、と苦笑しています。

ベルイマン監督の映画では序曲が遅く、どうしたんだろうと思いますが、いざ開始した時、舞台を右に左にと逃げ回るのは、ぬいぐるみになった(漫画チックな姿ですが)竜と、それに追いかけられて逃げ回るタミーノ。まずはこの演出で子供達の目が開きます!そして3人の侍女たちの満面笑みを浮かべた合唱と、それに続く夜の女王の登場。この場面では背後にあるウズ状の星空は夜の表現にピッタリ合います。そして見るからに楽しそうなパパゲーノの登場と、総勢が舞台から客席に向かって並んで歌う歌の場面!これにはやられた、と思いました。オペラでは堂々と歌手が客席を見ることは滅多に無いので。タミーノは歌わなければならない義務感が少し見えましたが、あとのメンバーは歌うことが楽しくて仕方がない、という風情。

そして天から気球が降りて来ますが、その中に3人の童子に扮した少年達が乗っています。童子を演じる子供達の思いっきりの笑顔を見て、これは相当な訓練をしたな、と思いました。あのシーンは大好きです。まだ小学校にも行っていないような年齢と判断しました。大きく口を開けているし、本当に歌っているんだろうな、と思った次第。

この後は、音楽は素晴らしいのですが、ザラストロの仲間に引き入れようとする一方的なお節介に、イライラします。まるで秘密結社に引き込もうとする拉致騒ぎみたい、というのが私の本音です。でも童子達が出て来てパミーナを説得しようとする場面とか、夜の女王が再度登場してタミーノを叱る場面は素晴らしい。特に夜の女王はこの第2幕のアリアで、スタッカートを強調して歌っているのに気がつきました。そうでなければイケナイのです!

第1幕はレガートに、そして第2幕は激しいスタッカートで、と使い分けなければいけません。ここの処理は全くの正解でした(但し、あの歌の味付けにはチョッと抵抗がありました)。純声楽的に見たとき、ビルギット・ノーデンというソプラノが本当にあの音色になるのかどうかは分かりません。私の耳には、高音部になるとエコーが聴こえましたし、弱い声なのかもしれません。夜の女王だけでなく、他のキャストも本当にああいう声が出ていたかどうかは疑問です。でもコレは子供でも楽しめる「魔笛」、しかし決して子供相手だからと言って手抜きの無い「魔笛」。その場合、トリックは許されるのでは無いでしょうか。

それにザラストロを除く全キャストは生き生きとしていますし、観ていても楽しい。あのバイキンマンを思わせるような帽子を被ったモノスタトスだって楽しい。パパゲーノの言うような、そんな説教は聞きたくない、それよりも食べたいし、寝たいし、女房が欲しいよ、という主張は実は勝手にプロットを変更されたモーツアルトの抗議だったのではないでしょうか。だから最終場面で幕が降りる時、パパゲーノとパパゲーナはドウしたんだろう、とフト湧く疑問に答えるべく、カーテンが着地する直前に、そのカーテンの前に両人が現れ、それも多くの生まれた子供達を引き連れて、舞台を食っていました。ああこれは楽しい世の中だなあ、と言うところ。これが「魔笛」。キャスト達の見せる極上の笑顔と最後のシーン、これですね。ザラストロは姿格好からして力がありません。モノスタトスのことを「あの嫌らしいムーア人」などと言っているのは今日的ではないし。

途中で出て来る多くの歌、例えばパミーナが歌う「恋する男は」とかタミーノの「おお永遠の夜よ」、「多分彼はパミーナに逢えたな」とか、あるいはグロッケンシュピールを鳴らしてモノスタトス一同を骨抜きにしてしまう箇所等(その一部にシューベルト「童は見たり」と聴こえて来る)は、本当にモーツアルトが天才だという証明です。

最後に気がついた箇所を2つ。それは第1幕でザラストロがモノスタトスに77回のムチを与えようと言う場面がありますね(翻訳の付いているものとして、ショルティ盤とフリッチャイ盤で確認)。映画の画面上に出る翻訳は確実に555回のムチと出ていました。あれは間違いではありませんか。同様に、第2幕で夜の女王が登場したあと、ザラストロはパミーナと対話するのですが、そこでパミーナはザラストロのことを父上と呼ぶ対話プロットが出ていますが、原文では単にHerrと呼びかけているだけですから、額面通り受け取ると間違います。尤も修道院等では長老のことを皆、父上と呼ぶのかも知れません。このレーザーディスクは、間違いが見つかれば書き直してくれるそうなので、それに期待しましょう。

ベルイマンの映画でパパゲーノを歌っているホーケン・ハーゲゴートの顔を見ていると、私は米国YYY機構のC君を思い出して懐かしく思います。30年前に初めて逢った当時のCの顔に似ているからです。その後30年の間に、Cはすっかり体脂肪がたまり、体の外観も変ってしまいましたが、初めからああだったのではなく、もう少し締まっていた(太めだとしても)のです。Cがモーツアルトが一番好きと言っていましたが、それはオペラ「魔笛」を含むものだったのでしょうか。それでは最後に、バイエルン歌劇場で録画したウオルフガング・ザヴァリッシュの指揮したものを通して聴いて(観て)みましょう。


それにしてもパパゲーノ達は、そのあと、どこに行ってしまったのでしょう?
パパゲーノがザラストロの集団の中で暮らすなんて考えられないし、最後のシーンにも特に登場しなくても可だろうと思うのです。解説を読むと、パパゲーノとパパゲーナはサアーッと森の中に消えて行った、とあります。それで良いのです。野生児パパゲーノの生き方です。

一つ心配なのは、パパゲーノは鳥刺しですが、今まで夜の女王が買ってくれましたが、女王がいなくなって(本当?)毎日の生活のカテをどこで得たのでしょうか。また3人の童子達のMentor(導師)は誰だったのでしょう。そして魔法の笛も、グロッケンシュピールの効力は誰が持ち主でも(ザラストロ側でも夜の女王側でも)続くのでしょうか。最後に私が得た印象は、このオペラ「魔笛」の主人公は間違いなくパパゲーノです。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/column-002/appendix/appendix_037.html

3. 中川隆[-14298] koaQ7Jey 2020年1月21日 00:43:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1194] 報告
モーツァルトとフリーメーソン

モーツァルトは1784年にフリーメーソンに加入したようです。 理由についてはわかりません。しかし貧しくなってしまった晩年のモーツァルトにとって仕事の面でフリーメーソンに助けられたそうで すごくたすかったことでしょう。

そして「魔笛」には、 そのフリーメーソンの影響というか内部というかそういったものが見られ、 モーツァルトの同志への恩義への感謝といったものがあったそうです。 しかしこれは同志の秘密を公開したというひんしゅくを買ってしまい、 その後わずかな収入もなくなってしまうことになってしまいました。

では、「魔笛」のどういったところがフリーメーソンを表しているのかを 述べてみましょう。

序曲にはフリーメーソンの名の由来の石工の、石材を刻む音と取れる ところがあったりします。 第一幕で、ザラストロの神殿に、「自然の神殿」、「知恵の神殿」、「理性の神殿」と書かれてあり、 この三つはフリーメーソンの思想に通じるものです。

そしてその後主人公タミーノは「女を信じてはいけない」と忠告を受けますが、 これは女人禁制を示すものだそうです。

第二幕での歌「この神聖な殿堂には」では、 愛、友情、義務といったフリーメーソンの守るべきことが歌われ、 フリーメーソン賛歌と言われているそうです。
http://www.asyura2.com/sora/bd3/msg/617.html

《魔笛》に秘められた象徴

心理学者エーリッヒ・ノイマン(1905-1960)と、象徴学者アルフォンス・ローゼンベルグ(1902- 199?)の観点から《魔笛》を見てみます。

象徴としての数字
 まず始めに、2元性、2という数字の象徴について考えてみます。たとえば、上と下、右と左、天と地。これが転じて、日本語では、上手、下手、ドイツ語ではrecht(右、正しい)、link(左、間違った)といような対比的な意味に使われます。このような対比では、2つのものが一つになって完全なものになります。たとえば、光りと闇があってこの世は完全になります。光りが良い、闇が悪いと、一概には決めつけられないのです。

 《魔笛》には、この2元性の問題がたくさん出てきます。男性と女性、長調と短調、火と水、太陽と月、陽と陰。陽はエネルギーで、陰はそのエネルギーを受けています。具体的には、パパゲーノとパパゲーナ、タミーノ とパミーナ、ザラストロと夜の女王、といった対比です。
 3という数字は「時間」を象徴しています。過去、現在、未来。新月、三日月、満月。すなわち、3は時間とお月さまに関係しています。キリスト教の三位一体や、フリーメースンでも3は重要です。《魔笛》では、3人の童子、3人の侍女、タミーノが入ろうとした3つの神殿などが出てきて、随所に、3和音が3回現れる場面があります。

 一方、4という数字は場所を示します。部屋は四角いですよね。一年は春夏秋冬に別れます。すなわち、太陽と関係しています。東西南北も太陽の動きに関係した場所です。


フリーメースン
 《魔笛》の中には、フリーメースンの思想が入っています。フリーメースンとは何でしょうか。中世に大きな教会を造る時、建築家、大工さん、石工職人、彫刻家をヨーロッパ中から集めた。これらの職人達の集まりがフリーメースンです。彼らはとても優秀でした。彼らは政治や宗教の世界には直接は所属していませんでしたので、教会の枠を越えた科学技術の知識が豊かでした。その為、職業団体であったフリーメースンが、徐々に、知識階層のエリートクラブに代わっていったのです。知識を交換し、秘密を守り、通過儀礼として人間を鍛える。教会にとって、フリーメースンは聖 堂を建てるために必要だったけれども、その思想とは相容れない場合もあり、時代によってはフリーメースンを禁止しました。

フリーメースン思想でも、神が世界を造ったのですが、その後人間に世界を任せるところがキリスト教と異なります。フリーメースンによれば、神もコンパスを使って世界を設計した。フリーメースンの歌では神という言葉は避けていますが、一応、聖書を信じています。フリーメースンの儀式では、今も聖書、分度器、水準器、コンパスなどを使います。

 フリーメースンに入るためには入信会があり、そこで人間として鍛えられます。裸で自分の持ち物なしに、暗い部屋に入れられ、自分と対面する。タミーノが蛇に追われているときに気絶するのも、その象徴であるかもしれません。蛇というのが自分の一部で、それと始めて対面して気絶する。

 この入信会を経て、職人として弟子入りして、やがて親方(Meister)になる。これが、ドイツのマイスター制度で、原則として男性社会です。オペラの中でもザラストロとその僧侶達はフリーメースンの世界であり、女性の悪口ばかり言っています。しかし、不思議なことに、最後にはパミーナを仲間として受け入れる。

イシスとオシリス
 大昔の社会は女性社会でした。日本でも、天照大神がいます。《魔笛》にはイシスとオシリスというエジプトの神が出てきます。エーリッヒ・ノイマンは様々な文化での女神をとり上げて、die grosse Mutter という本を書いています。

 イシス・オシリス信仰によれば、母は海のようなもので、人間は生まれる時だけでなく、死ぬときも母に帰る。お母さんから生まれ、お母さんに戻る。女神イシスは男神オシリスより主導権を握っています。イシスは双子の兄弟のオシリスと結婚しますが、オシリスは殺されて、粉々にされてしまいます。イシスはその破片を集めて、もう一度命を吹き込んで、子供をもうけます。母性的なものが命の源泉になっている。これが、エジプト人のミイラ信仰となり、キリスト教では、復活思想として受け継がれます。

 グリム童話などでは、魔法使いとか悪いお母さんが出てきます。これは、母性の中に、そういう二つの面があるからです。子供は親がいなくても育つけど、親は子供が可愛くて手放したがらない。これは、夜の女王の心理に出てきます。ですから、タミーノがパミーナと結婚する条件は、パミーナを夜の女王の所に連れ戻すことです。夜の女王の心理は女神のようだといえるでしょう。


フルートの原型
 フルートと笛は、形は男性的ですが、音は女性的です。一方、太鼓は形は女性的ですが、音は男性的です。多くの古代文化では女性は笛を吹くことが許されなかった。戦争などで精神を鼓舞するために使う男性の楽器だったからです。
お祭りの笛でも男性的迫力がありますね。ギリシャ神話ではフルートはディオニソスという神の楽器でした。ディオニソス(バッカス)は踊り、お酒、そして女性に陶酔してしまう本能的な神です。それに対して、弦楽器はアポロンの楽器でした。アポロンは技術とか数学のような文化的な神様です。弦楽器の手入れは調律など大変で知識のいる楽器ですが、それに対してフルートは原始的です。弦楽器はそのあとの時代に生まれた文化的な所産です。


ジングシュピール
 《魔笛》はジングシュピールの形態をとっており、会話が多く取り入れられています。この形態は《魔笛》の前では《後宮からの逃走》にもみられます。フランス革命の時代ですから、このような庶民的な形態に人気がでてきました。

しかし《魔笛》にはせりふと同時にイタリアのオペラ・セリアから取り入れたレチタティーヴォ・アコンパニャートといった、音楽を伴った語りがあります。3人の童子は喋らないで歌うだけです。多分、モーツァルトにとってこの童子たちは人間ではなく、違う世界から来た天使なのでしょう。ウェーバーの《魔弾の射手》、ベートーヴェンの《フィデリオ》もジングシュピール的要素がありますね。

 《魔笛》の構成は2幕になっています。しかし、エーリッヒ・ノイマンは《魔笛》の台本をみて、これは実質的には3幕の構成とも考えられる、と言っています。2幕でタミーノとパミーナが二人で火と水の試練に耐え抜いた後の、フィナーレからが3幕ではないかというのです。

 この3幕説は、調性から考えても裏付けることができます。

 《魔笛》の調の構成は以下のようになっています。


第1幕
 Es [ c-C -Es-B-B-G-Es-C ]
第2幕(フィナーレの前まで)
 F- [ F-C-G-C-d-E-A-g-D-B-F ]
第3幕(フィナーレ)
 Es-c-F-C-G(g)-C-G-c-Es

この構成を見ると、音楽的にも第2幕フィナーレが第3幕といってもいいような構成になっていることが判ります。…
…(登場人物の主な調、調の特性についてピアノ演奏による実演説明)。

舞台装置、登場人物の類型
 舞台について見てみます。タミーノは「日本から来た」王子です。この時代の人はギリシャ神話に飽きて、東洋趣味がありました。タミーノがザラストロの寺院にくると、三つの入り口があります。Natur (自然、天性)、Vernunft(分別、理性)、Weisheit(知恵、知性)です。

 なぜ、ザラストロがパミーナを夜の女王から奪って彼の寺院に連れてきたか。
これにはいろいろな説があります。

通常の説は、パミーナの父親とザラストロが友人で、父親が死ぬときにパミーナをザラストロに託した、というものです。

もう一つの説は、本当はザラストロは夜の女王の旦那さんで、今は離婚した、というものです。

 エジプト風の寺院にパミーナは捕らわれています。そして、見張りの黒人モノスタトスに狙われています。モノスタトスの取り扱いには人種差別にならないように気を付けなければなりません。モノスタトスがこの寺にいる理由としては、彼が違う寺からここに見習いに来たという説と、アフリカからの留学生であったという説があります。なぜザラストロがモノスタトスのような邪心を抱く人間を自分の側に置きパミーナを見張らせているのか、は面白い問題で、次のようなノイマンの説があります。

ザラストロのような聖職者は、建前上、禁欲的な生活を送り奔放なことができない。

そのザラストロが押さえている邪心、すなわちザラストロの影としてモノスタトスが登場している、というものです。

ザラストロは立場上、パミーナが好き、とは絶対に言えない。モノスタトスを通して、その邪悪な心の一面を具現させている、というわけです。ここにも、《魔笛》の2元性が出ている、とエーリッヒ・ノイマンが言っています。

ですから、ザラストロがモノスタトスを罰するのは、自分の影を罰しているマゾヒズムでもあるわけです。

 このザラストロの人格を見るために、ベルイマンの映画の一幕のフィナーレを観てみましょう。……(鑑賞)……。 皆さんは、ザラストロの2元性についてどう感じましたか?

 パパゲーノは羽の付いた鳥人で、鳥を捕って夜の女王に捧げて暮らしている。
羽の付いた人間というのは、人間離れして少し天使に近いという象徴でもあります。


音楽的特徴 (一部省略)

拍子について 
 2拍子と3拍子について検討してみます。2拍子と4拍子は歩くリズムですが、3拍子は踊りのリズムです。昔は、3拍子は三位一体を象徴する神のリズムとして、完璧なリズム tempus perfectus と呼ばれていました。4拍子は(神からすると不完全な)人間が歩くのに自然なリズムなので、tempus imperfectusと呼ばれていました。4拍子を表す楽譜記号に現在、アルファベットの C を使いますが、これは、もともとは、不完全なリズムという意味で、半円を表していたのです。

 《魔笛》では3拍子は全体的には少なく、ここぞという箇所で効果的に使われています。……(一部省略、ピアノによる実演)。

6/8拍子が使われる場所
(1)第1番 中間部 G-dur allegretto 3人の侍女
(2)第7番 Es-dur andantino
            パミーナとパパゲーノ
(3)第16番 A-dur allegretto 3人の童子
(4)第17番 g-moll andante パミーナのアリア
(5)第20番 中間部 F-dur allegro パパゲーノ
(6)第21番 後半 G-dur allegro  パパゲーノ
        (g-moll andante)  
3/4拍子が使われる場所
(1)第4番 前半 g-moll largo
             夜の女王のアリア
(2)第10番 F-dur adagio ザラストロのアリア
(3)第21番 前半 Es-dur allegro 3人の童子
(4)第21番 中間部 F-dur andante パミーナ

何れも、神の助けと関連して、神への祈りのリズムとして使われていることがわかります。


ゲーテの《魔笛》続編
 ゲーテは、未完ですが《魔笛》の続編のジングシュピールを書いています。
《魔笛》と対比してみると興味深いので、粗筋をご紹介しましょう。

 ゲーテの話では、まず、パパゲーノとパパゲーナは結婚して、結婚のプレゼントとしてタミーノから魔笛を鳥あつめのためにもらいました。ところが、あれ程子供を望んだのに、子供ができない。

 パミーナとタミーノの間には子供が生まれますが、生まれたばかりの男の子は、夜の女王の依頼により3人の侍女とモノスタトスに盗まれてしまいます。夜の女王はモノスタトスと結婚の約束をしています。

 盗んだ子供は箱の中に入れられてしまいます。子供の居なくなったパミーナとタミーノは夫婦仲が悪くなってしまいます。タミーノはザラストロの後継者になっているので、ザラストロは、新しい道を求めて巡礼に出る。そして、パパゲーノとパパゲーナに会い、パパゲーノ達の魔笛でタミーノ達を助けようとする。ザラストロはパパゲーノ達に子供ができるように3つの大きな卵を与えます。その卵がかえって、パパゲーノ達は子供を 連れて宮殿に行き、魔笛を吹く。

そうするとパミーナとタミーノの間の愛情が戻ってくる。そして最終的に魔笛のお陰で、箱に入れられた子供も外に出ることができる。しかし、その子供はその時、天使のように羽が生えており、空に飛び去ってしまう。ここで、この物語は終わっています。

 ゲーテの物語では、《魔笛》では或る意味で不真面目とみられたパパゲーノがタミーノ達を救います。パパゲーノの自然のエネルギーが知恵のあるタミーノ達を助ける。知恵だけでは人生は旨く行かない、というゲーテの教訓です。また、権力のあったザラストロも新しいものを求めて出直している。すなわち、これらを通してゲーテが訴えようとしているのは、《魔笛》で出てくる Natur (自然)、Vernunft(分別)、Weisheit(知恵) の3つのバランスの大事さのようです。  
http://www.asyura2.com/sora/bd3/msg/617.html


モノローグ「魔笛」について

様々な工夫
このオペラ、鳥の羽根に覆われたパパゲーノが出て来たり、3人の童子が雲にのって現れたりするので、幼児でも楽しめるところがあります。WEBには、オーストリアでは「人生で最初に接するオペラ」、と「魔笛」を紹介する記事があります。目で観ても楽しめる上に、ワクワクするような旋律や、鳥や蛇などの動物も登場するので楽しい。しかし、「魔笛」はそれだけではないのです。

先に述べた「夜の女王」の最初のアリアはどんなイタリア・オペラより高い声を要する難曲ですし、技術的にも難しく、大変な曲です。大変親しみ易く、そして物凄く難しい曲。ああいう音の階段は滑らかにレガートで歌うのも良いし、逆に階段のエッジを立ててキリキリと歌うのも良いと思います。私自身はどちらかと言えば後者が好き。その方が、「魔笛」全体としての夜の女王のイメージと一致します。

もしこれを歌い分けて、2ツあるアリアのうち最初の方で滑らかさ、切なさ、哀しく訴えるさまを強調し、後のアリアの方では復讐や、怒り狂った心をキリキリと歌うのなら、本当に驚異的な夜の女王になりますが、実演でも録音でも、そういう歌い分けはまだ聴いたことがありません。

初期にTVで観たのは畑中良輔氏のパパゲーノ。ただし畑中氏は当時から少し中年太りだった(失礼)し、一般にパパゲーノ歌いと言われる人は殆どが中年太りです。まずい! ここで鑑賞に堪えるような体形をしたクヌート・スクラムとかチェーザレ・シェピのような人が演じたら良いのに、と考える次第。

3人の童子役は大概は大人の女声に頼っていますが、あれだって本来のボーイ・ソプラノ(ベルイマン監督の映画や、ショルティ盤はボーイ・ソプラノです)だったら良いのに、と思います(実際には、歌う勤務時間が深夜に及ぶので、不可能)。それでも第1幕第1場でパパゲーノとタミーノ、そして3名の侍女と夜の女王、と次々と現れるところは圧巻ですね。そして第1幕第2場に至ると黒人モノスタトスが登場し、舞台はエジプトっぽくなります。

これらはしっかりした演出があれば、確実に観衆の目を釘付けにできます。演出計画が肝要! めまぐるしい程の変化と、それぞれに珍しい人間の姿、これで子供の目を引きつけられないはずがありません。手練手管を尽くし、子供達でも退屈しないように工夫してあるのが「魔笛」。

これが第2幕に入るや否や全体がザラストロの支配に屈してしまう。
これは返す返すも残念です。音楽は良いのですが、あのプロットの醸し出す教訓臭さに、私はうんざりしてしまいます。

音楽の作曲が進んでいるのに、途中で劇の進行プロットが変更されたからですね。という訳で、私が楽しんで聴くのは主として第1幕です。
第2幕でも2人の武士が歌う壮大な2重唱とか、夜の女王の怒り狂う歌とか、素晴らしい音楽が次々と飛び出して来ます。でも、基本的にそこはザラストロの世界。尤もらしいが、しつこく、重厚壮大な一方、面白くもへったくれも無い結末になってしまう(これは全く私の独断です)。
第2幕で初登場するモノスタトスって、英語で言えばモンスター(化け物)ですし、ザラストロとは拝火教徒のゾロアスターでしょう? と書くと色々物議をかもし出すかも。


「魔笛」の筋立て
第1幕の時代は大昔。世の中は夜を支配する夜の女王と、昼を支配する昼の王がいました。両者の間にはパミーナという娘がいました。やがて昼の王が亡くなり、その後を継ぐのがザラストロ(プロットが混乱して、まるでザラストロがパミーナの父親のように思っている方は御注意)。

ストーリーの始め、ある国の王子タミーノは大蛇に追いかけられ、逃げ回っています。恐怖のあまり失神してしまったところ、夜の女王に仕える3人の侍女が現れ、大蛇を殺してタミーノを救います。そこにやって来たのがパパゲーノ。彼は自然児で、自由に鳥を捕らえては夜の女王に献上し、その代償としてパンやワインを貰って生計を立てています。彼が、目を覚ましたタミーノに問われ、大蛇もパパゲーノ自身が殺した、と説明します。

このウソに怒る3人の侍女達は、パパゲーノに罰を加えますが、そこに現れたのが夜の女王その人。娘を拉致された悲しみを歌い上げます。タミーノとパパゲーノはザラストロの宮殿に押し入る約束をして、一緒に救出に出掛けることにします。侍女達は魔法の笛と、危機から救い出してくれるグロッケンシュピール(チェレスタみたいな楽器)をタミーノ、パパゲーノに渡し、さらに3人の童子の乗った「空飛ぶ雲」の後をついて行くように申し渡します。

(ここまでは別段不思議でも無いのですが、それはプロット作者が最初はそのように書き、モーツアルトはそれを忠実にオペラ化したからです。ところがプロット作者はここで別の考えに基づき、悪玉だったザラストロを善玉の修道者にしてしまい、逆に善玉だった夜の女王はヒステリーを起こした哀れな女として悪玉にしてしまいました)

第2幕でパミーナはザラストロの集団の中にいますが、パミーナにはまだなぜ自分が此処に、という疑問が解けません(解けるはずが無い。ザラストロのやり方は拉致ですから)。タミーノは修道士たちから試練の大切さ、その難しさを刻み込まれ、もうすっかりザラストロの手中です。

夜の女王の侍女達が現れ、なぜそこに居るのですか、と聴きますがもう手遅れ。パミーナの目の前には夜の女王本人が現れ、父親手製の短剣を与え、あのザラストロを仕留めるように、と命じて消えます。パミーナは躊躇いを見せますが、そこに現れたザラストロから静かに時を待て、と言われます。

試練は続き、タミーノとパパゲーノは沈黙を守るよう教え込まれます。じっと我慢すれば、タミーノはパミーナを伴侶として得られ、またパパゲーノはパパゲーナを伴侶として得られることを告げられます。タミーノはそうしようとしますが、パパゲーノの口を塞ぐのは大変なこと。おまけにパパゲーノの目の前にはパパゲーナが変装して現れたりして、撹乱します。一方パミーナは沈黙を強いられたタミーノに何も聴いて貰えないので絶望しており、手にした短剣で自らの命を断とうとしますが、あの雲に乗った童子達によって止められます。ついにパミーナはタミーノと共に修練を積むことを許され、これから一緒に行くようにと言われます。多くの悪霊達のいる炎の中に入って行きますが、両人は修練に耐えました。

また夜の女王とその一群は最後の勝負に出ますが、あたわず、地面の割れ目に落ちて行きます。一方パパゲーノはそういうことに関心無く、パパゲーナと一緒に森の中に走って行って子沢山になったというストーリー。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/column-002/appendix/appendix_036.html

4. 中川隆[-14297] koaQ7Jey 2020年1月21日 00:45:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1193] 報告
「ドイツオペラの魅力」(中島悠爾著、日本放送出版協会、1981/9)
http://books.rakuten.co.jp/rb/66039/


というちょっと古い本ですが、『状況設定への配慮こそいささか不手際があるとはいえ〜(中略)〜筋は逆転していない、少なくともシカネーダーは、しっかりつじつまを合わせている。

ここで描かれているのは、「善」と「悪」の世界の対立というよりは、

二つの世界、

「昼」と「夜」

「太陽」と「星辰」

あるいは「男の世界」と「女の世界」

せいぜい「二つの異なる価値観」の対立なのだ。』


という趣旨を述べられています。
http://d.hatena.ne.jp/wagnerianchan/comment?date=20100127§ion=1264603319


魔笛談義〜魔笛の由来〜


モーツァルトのオペラ魔笛のあらすじや台本の不備については今日までいろいろと数多くの非難、論評がなされている。あの美しい音楽と台本とのアンバランスがついつい目立ってしまうのだろう。

いわく「善玉と悪玉が途中で逆転してしまう」「筋書きが途中から変更された」とか、「信じ難い展開ばかりが続く支離滅裂な台本だ」という類の話である。

しかし、「このオペラの台本をよく読めばそういうことはない」とその辺の疑問を明快に解いているのが「ドイツオペラの魅力」(著者:中島悠爾氏)だ。


まず、「このオペラは何故「魔笛」と名付けられているのか」への答えを要約してみよう。

このオペラの中で魔法の笛はたしかに重要な小道具になっているが、この笛をめぐって話が展開するほどには重要な存在ではない、それなのに何故、標題が魔笛となっているのだろうか。魔笛に親しむ人なら誰もが抱く疑問だろう。

ところが、この問いを台本の中に探ってみると、このオペラ全体の構成が実にくっきりと浮かび上がって見えてくるのだ。段階的に追ってみよう。

第一ステップ(魔法の笛の由来)
第二幕第二十八場「火と水の試練」でパミーナ(王女役)はタミーノ(王子役)に向かって言う。「この笛こそ私の父が・・・千古のカシワの樹の幹の奥の奥から刻んだ笛・・」。実はここに出てくる「私の父」を解明することこそが魔笛の台本の矛盾を解く鍵になるのである。

第二ステップ(「パミーナの父」であり「夜の女王の夫」とは一体何者なのか)
この父であり夫である人物は、このオペラに姿を現すことはないが、第二幕第八場で夜の女王が娘のパミーナに短剣を渡すときの十数行の科白の中にその死の前後の経緯が語られる。しかし、その肝心の部分がかなり長い台詞で語られるためか、ほとんどの上演でカットされてしまうのが筋が分からないという大きな混乱のもとになっている。

第三ステップ(そのカットされた十数行の科白の全容)
「かって太陽世界を支配していた偉大な王は、妻(というよりはむしろ女性)を信頼せず、死ぬ間際に太陽の世界とそれに伴う力とを神々に仕えるザラストロ達に譲ってしまう。(ただし、それ以外の宝物は形見となる魔法の笛を含めて母娘に与えた。)

しかし、妻たる夜の女王は王の真意を解せず不当な辱めを受けたとして怒りに燃える。ザラストロは無垢な少女パミーナ姫をこの母のもとに置くことに危惧の念を抱き彼女を己のもとへ連れ去ってしまう。

自分の無力を知る夜の女王は、そこで王子タミーノの力で娘を、ひいては太陽世界を奪い返そうと計る」

たしかに、以上の科白の全容で台本や筋書きに関するいろんな矛盾が大筋で氷解する。少なくとも「善玉と悪玉の逆転説」はありえないのである。

このように魔法の笛の由来をたどっていくと全体のつじつまが合う仕組みになっているので、結局、魔笛という題名は伊達ではなかった。

ただし、余談だがこのおとぎ話のようなオペラに魔笛という堅苦しい題名は似つかわしくないという意見も一部にはあるようだ。

以上、縷々魔笛という題名の由来をたどったが私の本音を言うと台本の辻褄が合わなくても少しも構わないと思っている。むしろ、破天荒さ、支離滅裂さがあったほうが、いかようにも解釈できて夢や幻のような世界にマッチしており、そのメリットの方が大きいのではないかとさえ思っている。要は音楽が美しければそれで十分。

また、台本の解釈によってさまざまな魅力が存在する魔笛はまるで指揮者の力量を示す見本市の観があって面白い。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/12089603190e8d2aec77e7b9cee5d15b

5. 中川隆[-14296] koaQ7Jey 2020年1月21日 00:46:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1192] 報告

モーツァルト 魔笛
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮、ウィーン・・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン国立歌劇場合唱団、演出ヘルベルト・グラーフ

ザラストロ(アレグザンダー・キプニス)
夜の女王(ユリア・オスヴァート)
パミーナ(ヤルミラ・ノヴォトナ)
タミーノ(ヘルゲ・ロスヴェンゲ)
パパゲーノ(ヴィリー・ドムグラーフ・ファスベンダー)
パパゲーナ(ドーラ・コマレク)

第一の侍女(ヒルデ・コネツニ)、第二の侍女(ステファニア・フラトニコヴァ)、第三の侍女(ケルスティン・トルボルク)

三人の童子(クルト・ペッヒ、アルバート・フュエル、フリッツ・マーシャ)

弁者(アルフレート・イェルガー)、モノスタトス(ウィリアム・ウェルニク)、司祭(リヒャルト・サラバ)、二人の武装した男(アントン・デルモータ、カール・ビッスティ)


1937年7月30日、ザルツブルグ音楽祭。NAXOSのHistorical。


▼付録のライナー・ノーツの音源の記録(英語)から:1937年にザルツブルグ音楽祭で制作された6つのオペラは8mmセレノフォン・フィルムで録音された。

6作とは、トスカニーニの『フィデリオ』『ファルスタッフ』『マイスタージンガー』『魔笛』とワルターの『ドン・ジョヴァンニ』『フィガロの結婚』である。

NBCはコピーを申請したが、事務員のタイプ・ミスで『フィデリオ』が落ちてしまったため、それは送られず、結局戦争で消失してしまった。他の録音はディスクに移された。この『魔笛』のテープはガードナー・コレクション(彼はトスカニーニが好んだ録音技師の一人)にあったもので、彼のトスカニーニの録音は1965年と1983年にリチャード・カニエルに遺贈された。


▼リチャード・カニエルのライナー・ノーツ"A full measure of magic" Toscanini and The Magic Flute(英語)から:ロンドンの「タイムズ」の音楽時評は1937年8月14日のコラムでこう述べていた。

「トスカニーニの『魔笛』の再創造はヘルベルト・グラーフの舞台と共に、“魔法でいっぱい”であった。

トスカニーニ師はモーツアルトには水晶の明晰さがあるという見方を取った。

彼は『魔笛』のフリーメーソンの詩句のすべては厳粛に、序曲の冒頭から終幕の合唱まで、印象的な幅と威厳をもたらしただけでなく、すべてにおいてクリアであった。

明晰なテクスチュアが最も音楽的な効果を生み出した。

特にパパゲーノの歌はもちろん、モノスタトスの“誰でも恋をする”でさえ、想像力豊かな音楽となった。

夜の女王の第2のアリアは凄い速さで、人間の声の美しさと音楽的な能力の拡充の成果となった。・・・その効果は驚くべき美しさだった」


▼宇野功芳の評価

 「史上最悪の《魔笛》だな。こんなの聴いたことないよ。

 まず序曲ですね。癇癪もちのモーツアルト。速くて、せっかちで、モーツアルトではなくて完全にトスカニーニの音楽になっているね。

 序曲が終わって、大蛇に追われながらタミーノが登場します。このタミーノが大時代的なんだよ。「俺は英雄だ」っていっているようだね。

三人の侍女がそろいもそろってみんなずり上げ専門。

ぼくにはとうていモーツアルトとは思えない。ひどいよ。フォルテも強くてベートーヴェンのようだしね。


 第三曲、タミーノのアリアも表情をつけすぎ、語りすぎ、歌いすぎです。

 第五曲、五重唱、「フム、フム、フム・・・」は元気がよすぎる。音楽を汚しちゃているんだよね。

元気良く歌えばモーツアルトになるという、ひとつのパターンがあって、不必要に元気のいい表情をつけてしまう。だからしゃべりすぎてメロディーがわからないんですよ。五人全員が表情をつけすぎ、活発すぎ、そしてずり上げる。それから変なところで音がはずむ。それがモーツアルトだと思っているからね。

 第六曲ではモノスタトスが出てくるんだけれど。どういう音楽だかさっぱりわからないですよ。メロディーを崩してしまっているから。

パパゲーノと「フー」「フー」といい合うところは、ふざけすぎ。音程をなくしちゃってるんだ。ただ奇声をあげているだけ。

音程をなくしてどうします。ハーモニーになるところもあるんだからね。
しかも、最後にアッチェレランドまでかけるんだ。


 第七曲の『愛を知るものは』というパミーナとパパゲーノの二重唱ですが、音楽の美しさがまるでわからないですね。

奴隷たちが出てきてパパゲーノが鈴を振る。この鈴の音がひどい。

チンドン屋です。音を硬くし、しかも音程を狂わせているんだな。

これはほんとうにひどいです。
トスカニーニは音楽を破壊するためにやっているようなものですよ。


 三人の童子はウィーン少年合唱団が歌っています。これが出て来るとホッとするんだ。さすがに少年はずり上げないですよ。そこだけまともな音楽という感じがする。


 第ニ幕に入ってきて、第十四曲、夜の女王のアリアは細かい音程がいい加減ですね。

 第十五曲、ザラストロはいかにも偉そう。
「俺は偉いんだぞ」といっているようです。タミーノと同じで大時代的。

 第十七曲、パミーナのアリアは、悲しみによよと泣き崩れるようですな。まあそれはそれでいいと思いましたよ。


 許せないのは第二十曲、パパゲーノのアリアの合間に聞かれる鍵盤付きグロッケンシュピールだ(鍵盤付きの鉄琴)。

歌と音程が違うんですよね。半音くらい低いんですよ。違う調がなるんだ。

ほんと、腹立たしくなって、CDを叩き壊したくなったよ。

パパゲーノが「恋人が欲しい」と哀れっぽく歌うんだけれど。
これが泣いているんだか、笑っているんだかわからないんですよ。
表情をたくさんつければいいと思っているんですよねえ。


 面白いと思ったのは、超一流の指揮者で、しかもオペラの悪しき慣習を改革していったトスカニーニと、天下のウィーンフィルが、こういう音程のずれた音楽をわざわざ求めているということですね。

ぼくだったら怒りますよ。ぼくが聴衆だったらブーイングだし、指揮者だったらそんなことはさせない。

ということはぼくが日本人だからかな、とも思った。

本場の人はそういうのは超越しちゃうのかな、

トスカニーニやウィーンフィルみたいに、あんな耳のいい連中が怒らないでやっているわけでしょ。こっちは気持ち悪くてCDを叩き壊してやりたいと思っているのに、これは面白い現象だと思った。

 とにかく、このパパゲーノのアリアをみんなに聞いて欲しいな。

日本人はみんな癪にさわると思うよ。

今のウィーンの人たちにもこれを聴かせたいね。それでどう思うのか聞いてみたい。とても耐えられないというかもしれないしね。


 第二幕の最後に大合唱があるでしょう。コーラスが全員ずり上げるんですよ。

馬鹿じゃないかと思うね。だいたいモーツアルトの演奏というのは、基本が清潔でないと駄目なんですよ。その清潔さの中で気持ちをこめていかないと。みんなでずり上げたんじゃぶち壊しですよ」
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/magiccd.htm

6. 中川隆[-14295] koaQ7Jey 2020年1月21日 00:47:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1191] 報告
モーツァルト 魔笛
ブルーノ・ワルター指揮、メトロポリタン歌劇場、マチネー興業(昼興業)の放送

ザラストロ(ジェローム・ハインズ)
夜の女王(ロバータ・ピータース)
パミーナ(ルシーネ・アマーラ)
タミーノ(ブライアン・サリヴァン)
パパゲーノ(テオドール・ウップマン)
パパゲーナ(ローレル・ハーレイ)、弁者(ジョージ・ロンドン)
モノスタトス(ポール・フランク)

第一の侍女(ハイディ・クラル)、第二の侍女(マデレーン・チェンバーズ)、第三の侍女(サンドラ・ウォーフィールド)

童子(エミリア・クンダリ、ロザリンド・エリアス、マーガレット・ロッジェーロ)
司祭(ジェイムズ・マックラケン、オシー・ホーキンス)、護衛(アルベルト・ダ・コスタ、ルイス・スガッロ)、奴隷(ヘンリー・アーサー、ジョン・フライデル、ハル・ロバーツ)

1956年3月3日

2006年のWest Hill Radio ArchivesのCD


▼リフレッシュ盤である。

ライナーノーツの宇野功方氏の評価、

 “歌手全員がワルター・チームの一員として機能し、雄弁なドラマを展開しており、タミーノ、パミーナ、夜の女王などは本当に満足できる。

でも、真の主役はもちろんブルーノ・ワルターだ。

録音日は3月3日、例のニューヨーク・フィルとの「ジュピター」をスタジオ録音する2日前であり(ちなみに同曲のライヴは1日と2日)。あの男性的な迫力と豊麗な歌に満ちた演奏をそのままオペラに移し替えたものということができよう。いや、ここにはもっと激しい、切羽つまったものがある。


 たとえば、「序曲」の導入部。まるでベートーヴェンのようなぶ厚い響きと金管の競奏。主部に入ってからのアクセントの強調やアッチレランドによる追いこみ、そして途中のアダージョの菅合奏で、三小節目にフルートが加わると金管を押さえるという芸の細かさ、ニュアンスの多彩さ、それらがオペラ全曲に及ぶのである。

 第一幕があく。ワルターは曲の終わりまでのすべてを見通している。全体を大きくつかんで、その上に立って細部を組み立ててゆく。したがって、全体が網の目のように有機的につながっており、部分的に聞くとワルターの表現に入り込めず、大きな感銘を得ることができない。”

 “歌手の表情に大時代的なずり上げなどが目立ったり、三人の童子に女声歌手を使っているのは良いとしても、ヴィヴラートなどの人間味が出すぎていたり、パパゲーノの声質に問題があったり。さらにはいくらライヴとはいえ、歌手とオケとのずれや、プレイヤーのミスが多すぎるなど、技術面では現今の水準には達していない。また、50年代は世界中が訳詞上演全盛であり、英語で歌っていることも多少の抵抗はある。”

 “ワルターの『魔笛』ほどオーケストラがものを言っている演奏は他にはあるまい。弦も菅もあらゆる声部が歌いぬく。モーツァルトが散りばめたすべての旋律が人間の声のように歌い尽くされる。それは立体的で豊麗なハーモニーがつけられ、一方においては威厳に満ちた厳しいダイナミズムが対比される。フレーズも余韻とともに消えるかと思えば、スタッカートできっぱりと立ち切られる。このように柔と剛、女性的なるものと男性的なるものが少しも反発し合うことなく、見事に溶け合っていて、表現をいよいよ多彩なものにしているのである。

 例えば、第二幕のパパゲーノのアリア「恋人か女房か」において、弱く引き始められるチェレスタが、曲の進むにつれて鉄琴を加え、パパゲーノの夢をふくらませてゆく。「二人の武士」の金管強奏、恋人を探し求めるパパゲーノの歌のスピード感、「パ、パ、パの二重唱」の加速、終幕の最後の遅めのテンポの妙、実に素晴らしさの限りである。

 ワルターは『魔笛』をモーツァルトの遺言と考えていた。そしてモーツァルトの音楽につけられたロココの衣装を剥ぎ取り、ベートーヴェンにも匹敵するシンフォニックな迫力と楽器の抉り(えぐり=意表をつく表現をする)を優先させた。それは典雅、優美なモーツァルト演奏への挑戦であった。ワルターのおかげで、モーツァルトは真の偉大さを獲得したのである。

 もちろんノリントン、クリスティのような古楽演奏による純粋音楽美を聴き慣れた今日、ワルターの表現は、ベートーヴェンに近づけようとする意志の強すぎるというのか、あまりにスケール雄大、あまりに堂々とした威容を誇りすぎているいるかもしれない。しかし、第一幕の三人の侍女の三重唱や、その後のタミーノとパミーナを加えた五重唱を始めとして、最近流行の妙なデリカシーや弱音過多gたなく、モーツァルトの音楽がどこまでの豊かにあふれ出ている点を、僕は何よりも高く評価したい。

久しぶりに耳にしたワルターの『魔笛』は、ここに旧スタイルによるベストCDとして見事に蘇ったのである。”(2006年)
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/magiccd.htm

7. 中川隆[-13060] koaQ7Jey 2022年5月24日 16:58:53 : tAXHicUgKA : dy9hWEQ5bm94OFU=[3] 報告
イングマール・ベルイマン『モーツァルト 魔笛 Trollflöjten』1975年

監督 イングマール・ベルイマン
脚本 エマヌエル・シカネーダー イングマール・ベルイマン
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
公開 1975年1月1日

作曲:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
指揮:エリック・エリクソン
演奏:スウェーデン放送交響楽団、合唱団

動画
https://www.youtube.com/watch?v=ufQxByt7dNM

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『魔笛』(スウェーデン語: Trollflöjten、英語: The Magic Flute)は、モーツァルト作曲のオペラ『魔笛』を題材にした、イングマール・ベルイマン監督による1975年公開のスウェーデンの映画。もともとは元日のテレビ放送用の作品であったが、その芸術性の高さから映画に仕立て直され、諸外国にも配給された。日本では1976年に公開されている。

演出
小劇場での上演を撮影している、という設定で演出されている。この劇場はストックホルム郊外にあるドロットニングホルム宮廷劇場という、1760年に建てられた200席ほどの劇場であるが、あくまで設定であって、撮影自体はほとんどがスタジオで行われた。この演出はこの音楽劇の素朴な雰囲気をよく現しているといえる。冒頭、タミーノを追って現れる竜は全くの着ぐるみであるし、また前奏や間奏の時の映像には出演者がくつろいでいたり、幕の隙間から観客席を覗く光景なども挟み込まれている。客席の少女(ベルイマン監督の娘)の顔も何度も登場する。

正月のテレビ用ということで、原語のドイツ語でなくスウェーデン語で演じられ、また、フリーメイソンの儀式にかかわる部分などは省略が行われている。


キャスト

タミーノ:ヨゼフ・コストリンガー
パミーナ:イルマ・ウルリラ
パパゲーノ:ホーカン・ハーゲゴール
パパゲーナ:エリザベト・エリクソン
夜の女王:ビルギット・ノルディーン
ザラストロ:ウルリック・コールド
モノスタトス:ラグナール・ウルフンク

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E7%AC%9B_(1975%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)

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