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モーツァルトで本当にいいのは 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」だけ
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 20 日 20:07:04: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 19 日 08:22:18)

モーツァルトで本当にいいのは 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」だけ


W. A. モーツァルト:ドン・ジョヴァンニ (フルトヴェングラー, 1954年)【全曲・日本語字幕】


Don Giovanni: 1953 Salzburg Festival - Wilhelm Furtwängler - Siepi, Schwarzkopf, Grümmer



DON GIOVANNI - Ezio Pinza, dir Bruno Walter, Met 1942 (Complete Opera Mozart)


______


『ドン・ジョヴァンニ』(Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni(罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ), K.527)は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1787年に作曲したオペラ・ブッファ(あるいはドラマ・ジョコーソ)である。


初演は、作曲を依頼したプラハのエステート劇場(スタヴォフスケー劇場)で同年10月29日にモーツァルト自身の指揮で行われた。また、ウィーンでの初演は1788年5月7日であった。


『フィガロの結婚』はウィーンではそれほど評判にならなかったが、プラハでは大ヒットし、作曲家が招かれることになった。モーツァルトは街行く人々が鼻歌にフィガロの一節を歌うのに接して大いに感激し、父親への手紙にその評判を書き送っている。その結果、翌シーズンのために新しい作品を依頼された結果できたのがこの作品である。
初演に先立ち、書き掛けの原稿を持ってプラハにやってきたモーツァルトは、友人のドゥシェク夫妻の別荘に滞在して最終仕上げを急いだが、前夜になっても序曲だけは未完成であった。彼は眠気を押さえるために妻コンスタンツェの話を聞いたり飲み物を作ってもらったりしながらほぼ徹夜で総譜を書き上げ、ようやく朝には写譜屋に草稿を渡せたのだという。


台本は『フィガロ』に引き続きロレンツォ・ダ・ポンテによった。ドン・ジョヴァンニはスペインの伝説の放蕩者ドン・ファンの物語の主人公である。もっとも古い作品はティルソ・デ・モリナ(1630年)といわれるが、ダ・ポンテはオペラ化するにあたり、同時代のベルターティの先行作『ドン・ジョヴァンニまたは石の客』(1787年)やモリエールの『ドン・ジュアン』(1665年)を参考にしたものと思われる。特に、ドンナ・エルヴィーラはモリエールの創作と思われ、この作品からの影響は明らかである。


モーツァルトは、この作品を「ドラマ・ジョコーソ」と呼んだ。ドラマが正調の悲劇を表すのに対しジョコーソは喜劇的の意味であり、作曲者がこの作品に悲喜劇両方の要素を込めたと解釈する研究者もいる一方、単に喜劇の意味であるとする解釈もある。このような議論が生ずる理由の一つは、第2幕の最後に置かれたドン・ジョヴァンニの地獄落ちに至る場面の強烈な音楽や、執拗に彼を追いかけるエルヴィーラの行動と彼女に与えられた音楽に、通常のオペラ・ブッファらしからぬ悲劇性を感じ取ることができるからであろう。
ウィーンでの初演にあたり、当地の聴衆の好みや歌手の希望に応じて一部改訂して上演したが、今日ではプラハ版を元にした上で、ウィーン版で追加されたナンバーのいくつかを追加して上演することが多い。



登場人物


ドン・ジョヴァンニ Don Giovanni(バリトン)
女たらしの貴族。従者のレポレッロの記録によると、各国でおよそ2000人、うちスペインですでに1003人の女性と関係を持ったという。老若、身分、容姿を問わぬ、自称「愛の運び手」。剣の腕もたち、騎士団長と決闘して勝つほど。


レポレッロ Leporello(バス)
ジョヴァンニの従者。ドン・ジョヴァンニにはついていけないと思っているが、金や脅しでずるずるついていってしまっている。ドン・ジョヴァンニから見ても美人の妻を持つ妻帯者だが、ドン・ジョヴァンニの「おこぼれ」にあずかり楽しむこともあるようだ。


ドンナ・アンナ Donna Anna(ソプラノ)
騎士長の娘でオッターヴィオの許嫁。ドン・ジョヴァンニに夜這いをかけられ、抵抗したところに駆けつけた父親を殺される。


騎士団管区長 Il Commendatore(バス)
アンナの父。娘を救おうとしてジョヴァンニに殺されるが、石像として彼に悔い改めるよう迫る。


ドン・オッターヴィオ Don Ottavio(テノール)
アンナの許婚。復讐は忘れて結婚するようドンナ・アンナを説得しようとするが、果たせない。


ドンナ・エルヴィーラ Donna Elvira(ソプラノ)
かつてジョヴァンニに誘惑され、婚約するもその後捨てられたブルゴスの女性。始終ジョヴァンニを追い回し、彼を改心させようと試みる。元は身分ある女性だったようで、ドンナ・アンナたちも圧倒されるほど気品に溢れている。ドン・ジョヴァンニが食指を動かすほど美しい召使を連れている。


ツェルリーナ Zerlina(イタリア語の発音ではヅェルリーナ)(ソプラノ)
村娘でマゼットの新婦。田舎娘に似合わずコケティッシュでしたたかな娘。結婚式の最中にドン・ジョヴァンニに口説かれ、その気になる。


マゼット Masetto(バス)
農夫。ツェルリーナの新郎。嫉妬深く、ツェルリーナの浮気な行動にやきもきするが、結局のところ、尻に敷かれている。村の若者のリーダー的存在。


楽器編成
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、マンドリン、弦楽合奏
レチタティーヴォでチェンバロとチェロ


第1幕フィナーレで舞台上に
オーケストラ1:オーボエ2、ホルン2、チェロを欠いた弦楽
オーケストラ2:ヴァイオリン(複数)、コントラバス
オーケストラ3:ヴァイオリン(複数)、コントラバス


第2幕フィナーレで舞台上にオーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、チェロ



あらすじ


序曲はわずか一晩で書かれたが、円熟した曲に仕上がっており、演奏会で独立して演奏されることもしばしばである。騎士長の亡霊の場面の序と軽快なアレグロからなるソナタ形式。なお、この序曲ははっきりした終結部を持たず、そのままオペラの導入曲につながるので、モーツァルト自身が、演奏会用の華々しい終結部を別に作曲している。


第1幕


幕が開く。時間は明け方。場面はセビーリャ市内、騎士長の邸宅の前で、従者レポレッロはこんな主人に仕える仕事はいやだとぼやいている。ドン・ジョヴァンニは騎士長の娘であるドンナ・アンナの部屋に忍び込んだが、彼女に騒がれ逃げようとした。そこへ騎士長が登場し、ジョヴァンニに斬りかかるが逆に殺される。アンナは悲嘆に暮れ、許嫁のオッターヴィオに復讐を果たしてほしいと求める。

騎士長宅から逃れたジョヴァンニがレポレッロを見つけたところで、昔棄てた女のドンナ・エルヴィーラに見つかってしまう。しかしジョヴァンニはその場をレポレッロに任せて去る。残されたレポレッロはエルヴィーラに「旦那に泣かされたのはあんただけじゃないよ。イタリアでは640人、ドイツでは231人、しかしここスペインでは何と1003人だ。」と有名な「恋人のカタログの歌」を歌って慰めたつもりになっている。あきれてエルヴィーラは去る。


場面が変わり、マゼットとツェルリーナの新郎新婦が村の若者とともに登場し、結婚の喜びを歌っているところにジョヴァンニが現れる。早速、新婦ツェルリーナに目をつけた彼は、彼女と二人きりになろうとして、皆を自宅に招待して喜ばせる。彼がツェルリーナを自らエスコートしようとするので、マゼットは拒むが、ツェルリーナ自身が大丈夫だと言い、ジョヴァンニが剣をちらつかせるので、マゼットは「わかりましたよ旦那」としぶしぶ引き、ツェルリーナに皮肉を言って去る。思わぬ展開に半べその彼女を早速ジョヴァンニが口説く「お手をどうぞ」のデュオ。ツェルリーナはあっけなく彼に手を取られて屋敷に向かおうとするが、そこに再び現れたエルヴィーラが、ジョヴァンニの本性を警告して彼女をジョヴァンニから逃す。


「今日はついてないな」とぼやくジョヴァンニの前に、騎士長の仇への復讐を誓っているオッターヴィオとアンナが登場する。しかしアンナは今朝忍び込んで父親を殺した者が目の前のジョヴァンニだとは気づいていない。ジョヴァンニは適当にごまかしてその場を去るが、彼の別れ際のひとことを聞いて、アンナはジョヴァンニが今朝の男だったと気づく。オッターヴィオはまだ半信半疑である。ここで許嫁のアンナを慰めるアリアを歌うが、これはウィーン初演のための追加ナンバーである。

場面は変わってジョヴァンニの屋敷。彼は招待客に酒や料理を振る舞い、「皆で元気に酒を飲め、おれはその間にカタログの名前を増やすのだ」という「シャンパンの歌」を豪快に歌う。



この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。
再びマゼットとツェルリーナが登場。マゼットは新婦ツェルリーナが軽薄で浮気者だと怒っている。しかし新婦は「ぶってよ私のマゼット」と下手に出て機嫌を取るので、単純なマゼットはすぐに機嫌を直す。


そこにエルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオが、ジョヴァンニの罪を暴くため、仮面をつけてやってきて、祝宴に紛れ込む。みんなでダンスをしているとジョヴァンニはツェルリーナを別室に連れて行く。襲われて悲鳴をあげる彼女。それをきっかけに3人は仮面を脱ぎ捨て、ジョヴァンニを告発する。彼は、レポレッロを、ツェルリーナを襲った犯人に仕立ててごまかそうとするが、もはや誰もだまされない。ジョヴァンニは窮地に陥るが、大混乱の内に隙をみてレポレッロととも逃げ出し、第1の幕が降りる。


第2幕


夕方。レポレッロが主人にぼやいている。「もうこんな仕事はいやだ、お暇をもらいたい」というのだが、最終的には金で慰留されてしまう。さて今夜のジョヴァンニはエルヴィーラの女中を狙っており、女中に近づくためにレポレッロと衣服を取り替える。ちょうどその時、エルヴィーラが家の窓辺に現れたので、ジョヴァンニはレポレッロをエルヴィーラの家の前に立たせて自分のふりをさせ、自分は隠れた所から、いかにも反省したような嘘をつく。エルヴィーラは、ジョヴァンニが自分への愛を取り戻してくれたものと信じきって、ジョヴァンニに扮したレポレッロに連れ出される。一方、レポレッロに扮したジョヴァンニは、エルヴィーラの部屋の窓の下で、女中のためにセレナードを歌う(「窓辺に出でよ」)。


そこにマゼットが村の若い衆とともに登場する。皆、棍棒や銃を持ち、これからジョヴァンニを殺すのだという。これを聞いたジョヴァンニは、レポレッロの振りをして皆をあちこちに分散させ、自分とマゼットだけになると、剣の峰でマゼットを打ち据えて去る。
痛がるマゼットのもとにツェルリーナがやってきて、「そんな痛みはこの私が治してあげるわ」といって慰め、マゼットの手をとって自分の胸に当てる。すっかりその気になって痛みも忘れた新郎と、いそいそとその場を去る。

一方、エルヴィーラと思わぬデートをする羽目になったレポレッロは、何とかごまかして彼女から離れようとするものの、運悪くアンナとオッターヴィオに出くわしてしまう。逃げようとすると、マゼットとツェルリーナにも鉢合わせしまう。彼がジョヴァンニだと思っている4人は彼を殺そうとするが、エルヴィーラが現れてジョヴァンニのために命乞いをする。4人は、ジョヴァンニを恨んでいたはずのエルヴィーラが彼の命乞いをすることに驚くが、ジョヴァンニ(実はレポレッロ)のことを許そうとはしない。命の危険を感じたレポレッロはついに正体を白状し、一同は呆れる。レポレッロは平謝りしつつ隙をみて逃げ出す。


オッターヴィオは恋人のアンナを慰めるアリアを歌うが、ウィーン初演版ではこれはカットされた(代わりが第1のアリア)。続いてウィーン版の追加ナンバーで、ツェルリーナがレポレッロを捕らえてひどい目に合わせる二重唱と、エルヴィーラのアリア(ジョヴァンニの裏切りへの恨みと、彼を忘れられない自分の本心との矛盾に心を乱す内容)があるが、前者は通常省略される。


真夜中の2時、墓場でレポレッロと落ち合ったジョヴァンニに対し、騎士長の石像が突如口を利く。恐れおののくレポレッロと対照的に、ジョヴァンニは戯れに石像を晩餐に招待すると言い出し、石像はそれを承諾する。

オッターヴィオはアンナに結婚を迫るが、アンナは父親が亡くなったすぐ後なので今は適当な時期ではないという。オッターヴィオは非礼を詫びるが、これはアンナにオッターヴィオの真実の愛と誠実さを確信させアンナのアリアへとつながる。

ジョヴァンニは早速屋敷で食事の支度を始める。楽士が流行の音楽を演奏している。ビセンテ・マルティーン・イ・ソレルの『椿事("Una cosa rara")』やジュゼッペ・サルティの『2人が争えば3人目が得をする(鳶に油揚・漁夫の利、"Fra i due litiganti il terzo gode")』といった他の作曲家のオペラの一節に続いて、モーツァルト自身の『フィガロの結婚』中のアリア『もう飛ぶまいぞこの蝶々』が演奏されると、レポレッロが『これは有名なやつだ』とコメントして観客を笑わせる。前年ヒットしたこの作品に託した、作曲者からプラハの聴衆へのサービスである。


晩餐が始まり、ジョヴァンニは旺盛な食欲を示してレポレッロに呆れられる(この部分はイ・ソレルの上記の曲の一部からの引用)。つまみ食いしたレポレッロをジョヴァンニがからかっているところにエルヴィーラが登場し、生き方を変えるべきだと忠告する。ジョヴァンニがまともに相手をしないので、エルヴィラは諦めて去ろうとするが、玄関で突然悲鳴を上げて別の出口から逃げ去る。何事かと見に行ったレポレッロもやはり悲鳴を上げて戻ってくる。約束どおりに騎士長の石像がやってきたのである。石像はジョヴァンニの手を捕まえ、「悔い改めよ、生き方を変えろ」と迫る。ジョヴァンニは恐怖におののきながらも頑なにこれを拒否する。押し問答の後、「もう時間切れだ」といって石像が姿を消すと地獄の戸が開き、ジョヴァンニは地獄へ引きずり込まれる。


そこへエルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオにマゼットとツェルリーナが登場する。レポレッロの説明を聞き、一同は彼が地獄に落ちたことを知る。以下プラハ版では、アンナは亡き父親のためにもう1年は喪に服したいといい、オッターヴィオも同意する。エルヴィーラは愛するジョヴァンニのために修道院で余生を送るという。マゼットとツェルリーナは家にもどってようやく落ち着いて新婚生活を始めようとする。レポレッロはもっといい主人を見つけようという(ウィーン版ではこれらの部分がカットされている)。一同、悪漢のなれの果てはこのようになると歌い、幕が下りる。


 

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コメント
1. 中川隆[-14301] koaQ7Jey 2020年1月21日 00:33:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1197] 報告
「ドン・ジョヴァンニ」_ モーツアルトが本当に言いたかった事

ドン・ジョヴァンニが改悛を迫る騎士長(石像)を拒み、「NO!NO!」と叫び続ける。

急に涙があふれ、目の前が見えなくなった。

いつの世も時代を切り拓くのは、若者達のエネルギーだ。

今私達は、「NO!NO!」と信念を貫くことができるだろうか。

ふと問うてみたくなった。
http://www.opera-sai.jp/message/index.html

Don Giovanni - Commendatore scene (Furtwängler)
http://www.youtube.com/watch?v=jATcM8X29zc

Don Giovanni Ópera completa subtitulada .Siepi Salzburgo 1954
http://www.youtube.com/watch?v=mrMNai2skVY
http://www.youtube.com/watch?v=XPYjqz7nToY

ジョヴァンニが、つまみ食いしているレポレッロをからかっているところにエルヴィーラが登場し、生き方を変えてと懇願する。しかしジョヴァンニがまともに相手にしないので、彼女は諦めて去ろうとする。突然、玄関で悲鳴を上げた彼女は別な出口から逃げ去る。何事かとレポレッロが見に行くとやはり悲鳴を上げて戻ってきた。騎士長の石像が約束どおりやってきたのである。

石像はジョヴァンニの手を捕まえ、「悔い改めよ、生き方を変えろ」と迫る。初めて恐怖を感じながらも執拗に拒否するジョヴァンニ。ついに「もう時間が無い」といって石像が消えると地獄の戸が開き、ジョヴァンニを引きずり込む。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B


第十四場/エルヴィラが来る。彼女は「私の愛の」最後の証しとして、ドン・ジョヴァンニに意見をし、生活を変えて欲しいと言うが、ジョヴァンニは取り合わない。退室しようとしたエルヴィラの悲鳴が聞こえ、見に行かされたレポレルロも悲鳴を上げて戻る。

第十五場/石像が
お前と晩餐をともにするよう」に招待されてやって来た。石像は現世の食物は食べないのだ、しかしお前を食事に招待しようとやって来た
という。石像の手を取ると、冷たい。

石像は「悔い改めよ」と忠告するが、ジョヴァンニは受けつけない。
火が燃え上がり、主人公は地下に呑み込まれていく。

ドン・ジョヴァンニが英雄になるのは、最後の死との対決においてである。・・・
この地獄落ちは「天罰」ではない。
それはなぜかといえば、ここで石像は四度にわたって、
「これまでの生き方を悔い改めるか?」
と主人公に尋ねているからである。
つまりドン・ジョヴァンニには、改心して許される可能性が、まだ残されているのである!・・・

しかし、ドン・ジョヴァンニは、まさに自分自身の意志によって、こうした延命措置を拒絶する。・・・

クライマクスのあの凄まじい音楽は、神学的な業火の恐怖などではなく、神と対峙することを恐れぬドン・ジョヴァンニの巨人的な意志としとて解釈されるべきだろう。

 モーツァルトのドン。ジョヴァンニは、「今ここの快楽以外の何ごとも信じない」という無節操のエロティシズムを、命を賭して貫徹することによって、理念に殉じる精神の貴族としての身の証を立てる。
無理念と見えたものが、死の瞬間に英雄的な理念へと転じるのだ。
この地獄落ちのフィナーレにおいて、「わしは卑怯者との咎だけは受けぬ!」と言い放つ主人公の生き様の、巨大な逆説の弁証法が完遂されるのである。
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/donjovan.htm

モーツアルト《ドン・ジョヴァンニ》

作曲年 1787年
舞台  西班牙のある町
原作  ジョヴァンニ・ベルターティ「石の客」、ティルソ・デ・モリーナ「セビリアの女たらしと石の客」、モリエール「ドン・ジュアン」等を参考にしている 。  
台本  ロレンツォ・ダ・ポンテに依る伊太利亜語


登場人物
 ドン・ジョヴァンニ  好色家の貴族
 ドンナ・アンナ    騎士長の娘
 騎士長        ドン・ジョバンニに刺殺される
 ドン・オッターヴィオ ドンナ・アンナの恋人
 ドンナ・エルヴィラ  以前ドン・ジョヴァンニに捨てられた女
 レポレロ       ドン・ジョヴァンニの従者
 ツェルリーナ     結婚間近の村娘
 マゼット       ツェルリーナの婚約者
http://www.d1.dion.ne.jp/~t_imac/giovanni.htm

▼モーツアルトの新作《ドン・ジョヴァンニ》は1787年、まずはプラハで初演され、また大喝采を浴びます。
  この作品を“読む”にはオペラで描かれた時代背景を抜きにしては語れません。
  舞台は、大航海時代を経た17世紀のスペイン。その時代、スペインの男女の人口比率は他のヨーロッパ諸国とは甚だしく異なっていて、男が圧倒的に少なかったのです。大航海時代、スペインから新大陸やアジアを目指すことは、いわば結婚適齢期にある男だけの仕事に限られました。すなわち、男の人口の一方的な激減による男女比のアンバランスが生じていたという事情があるのです。ちなみに、プロテスタント系の移民では、必ずパートナーとして女性を伴っていたので、アンバランスはほとんど起こりませんでした。
 ここに登場するのが、ドン・ジョヴァンニという貴族。彼は女ばかりが目立つ社会に出てきたわけです。カトリックの意識が高いスペインですが、伴侶を求める女性たちにとっては一種の“男日照り”です。ここにドン・ジョヴァンニ、スペイン語で「ドン・ファン」と言えば文字通り色事師の代名詞が現われたのです。言換えれば、そのような時代のまさしく「結婚詐欺師」。

  元ネタとの大いなる違いは、その“色事哲学”にあると言いました。たとえばレポレッロのアリアのなかで、ベルターティのほうでは「女なら誰でもいいが、老女はだめ」と言っています。逆に、ダ=ポンテは「女なら13歳から老女まですべていい」と言い切っています。すなわち、性欲のある限り、いやむしろ「本能のしもべ」となって感情を捨て、すべての女性を対象にするといった哲学的変化が明らかなのです。ベルターティとダ=ポンテの差異は、この点で際立ちます。

  モーツアルト作のこのオペラで描出されたドン・ジョヴァンニは快楽の象徴だと私は見ています。すなわち、デモーニッシュな(悪魔的な)存在そのもの。それが証拠に、いかに彼が女性といたしたとしても女性は妊娠しません。あれだけの回数をこなしても、まるで“実りなし”。

  ここでも、モーツアルトが意図したキリスト教のドグマへの反逆が見てとれるのです。とはいうものの、オペラではそれこそ悪魔のように細心に、舞台上では誘惑は失敗に終ったかのように糊塗されています。ここが、“オペラ読み巧者”かどうかの分かれ目。登場人物たちの表情、ならびに性格描写にちなむ音楽を“読み込めば”、裏では誘惑が成功裏に推移したことがわかるのです。そう読まないとむしろつじつまが合わないとまで私は思います。

  最近、私はドン・ジョヴァンニ物語の元祖とも言うべき《セビリヤの女たらし、または石造の客》(1603年)という芝居を観てきました。ここではドン・ジョヴァンニがアンナを誘惑し、ちゃんとコトに及んでいるのです。しかし、モーツアルトのオペラでは宮廷の手前、舞台上でやるわけにはいかなかった。もっとも観客はその逆をしっかり読んでいたのです。

  もう一つ見落としてはならない点があります。それは、ドン・ジョヴァンニに捨てられた貞淑なエルヴィーラが第2幕で、それでも未練断ちがたく再び彼とおぼしき男とコトに及んだと見られるシーン。その実、その男はドン・ジョヴァンニに扮した下男、レポレッロだったのです。

愛する夫が下男に妻を抱かせた!

悪事極まる。ひどい諦観にあえぐエルヴィーラですが、ラストになって食事中のドン・ジョヴァンニのところに来て、「生活を改めて下さい」と言う。この場面で、彼女はドン・ジョヴァンニとの仲を本当にあきらめたと読むべきです。そして、最後の最後、彼女は修道院に入ることになる。そう深読みすると、彼女の純愛が知れ、万感の思いにとらわれるはずです。

  ラスト、ドン・ジョヴァンニと関係した女たちは、三者三様。
片や身を許したドンナ・アンナは婚約者との結婚を一年間延期。
これは未亡人として喪に服す期間なのです。
もう一人、ツェルリーナだけはすぐさま結婚を望む。
ドン・ジョヴァンニの子を妊娠していたら困るからです。
《ドン・ジョヴァンニ》とはキリスト教では認めない「一夫多妻」の表徴と言われますが、同時に女の愛の“三面鏡”でもあると言えます。(永竹由幸p70-71)

 序曲:悲劇を予感させるような序曲である。

■“冒頭のニ短調の轟音からして「陽気な芝居」とされたオペラの序曲としては、あまりにも異様な始まりである。音程を正確に保つという点ではかなり不安定で、とりわけ音量を大きくするとピッチが狂いやすかった当時の楽器を使って、金菅やティンパニを含む全オーケストラが、目一杯のフォルティッシモを鳴らす。しかも長調と比べて響きが濁りやすい短調の和音だ。

恐らくそれは、現代楽器で演奏したときのような、すぐそれと分かる短三和音ではなくて、耳を聾する割れた大音響のように響いたのではないか。これは一八世紀におけるクラスターであって、当時の聴衆にはそれは、近現代の聴衆にとってのマーラーの第六交響曲やベルクの《管弦楽のための三つの小品》のような響きに聞えたに違いない。

 それに続く、あてどもなく上へ下へとさまよい続ける音階の連続についても、思わずニ〇世紀音楽を持ち出したくなる。私の耳にはそれは、一九世紀を飛び越えて、ほとんど無調の概念を先取りしているように聞えるのだ。”(岡田,2008,p.117より)


 第一幕   
Jovanni and AnnaKill 第一場/ドンナ・アンナの庭園。夜である。
見張り役のレポレルロが、第1曲導入曲「夜も昼も苦労してるのは」とボヤいている。そこへ、屋敷の中から、ドンナ・アンナに騒がれつつ、顔を隠したドン・ジョヴァンニが登場。
悲鳴を聞いて駆けつけたアンナの父親の騎士長がジョヴァンニに決闘を申し込み、剣を交えた後、ジョヴァンニに刺されて倒れ、絶命する。
静寂の瞬間が訪れる。この事態にジョヴァンニさえも動揺している。


■“河上徹太郎によれば、モーツァルトの優美な官能劇は「終始『死』ぼ背景に描かれた歌劇」であって、「幕あきに騎士長がドン・ジョヴァンニに殺され、最後にその復讐が完成されてジョヴァンニが死ぬまで、一貫して劇を曳きずってゆくものは、主人公の絢爛たる背徳であるよりは、死の不可避な招請、否もっと正確に言えば、死の絶対的な背景の上に端的に現われた、生命力の諸相である」。

そして「放蕩」と「死」という二つの観念が、「それぞれ競って互いにどぎすまされていった揚句、ドン・ジョヴァンニの『死』という一点で大きく合体して、劇は終わる。この『死』と最初の『死』とが照応して、このオペラを包んでいる」。私の知る限り、「死との対決」という視点から、ドン・ジョヴァンニを論じているのは、この河上の論考だけである。”(岡田,2008,p.111より)


 第二場/ジョヴァンニとレポレルロは逃走する。 

■“オペラという「歌われる」世界のオーラが完全に消滅し、乾いた散文(レチタティーヴォ)という現実が裸でむき出しになった地点で、ドラマの最初の場面は終わる。寒々しいこの「ディス=イリュージョン(幻滅=幻影の崩壊)」は、ドン。ジョヴァンニのドラマを貫く力学の一つである”(岡田,2008,p.121より)

 第三場/アンナとその婚約者ドン・オッターヴィオが出て来て、騎士長の死骸を発見する。アンナは気を失う。オッターヴィオは騎士長の亡骸を片づけさせる。意識を取り戻したアンナ、第2曲レチタティーヴォと二重唱「なんという痛ましい光景」(ドンナ・アンナとドン・オッターヴィオ)、復讐を誓う二人。

 第四場/夜である。場面は路上に変わる。レポレルロは主人の生活を批判するが、ジョヴァンニは聞き入れず、「女の匂いがしてきた」と言う。 

Elvira 第五場/旅姿のドンナ・エルヴィラ登場。
第3曲アリアと三重唱「ああ!いったい誰が私に言ってくれるの」、エルヴィラは愛情と憎しみが一緒になった劇的なアリアを歌う。早速、声をかけるジョヴァンニだが、自分が捨てたエルヴィラと分かって困る。ジョヴァンニが隙を見て逃走した後、エルヴィラにレポレルロはこれまでに主人がものにした女の名前のカタログを示す。catalogue第4曲アリア「可愛い奥様、これが目録です」、レポレルロの「カタログの歌」である。ご主人さまは女なら誰でもいいのだ、と。


■“要するにドン・ジョヴァンニは、すべての女性に美を贈る霊なのだ。
これをキルケゴール流にいうと、ドン・ジョヴァンニは関係を結んだ女性を汚すのではなく、浄化するのだ、ということになる。『あれかこれか』におけるキルケゴールのみごとなドン・ジョヴァンニ論−彼にとって、ドン・ジョヴァンニを論ずることは音楽の本質を論ずることにつながる−によれば、
女性はドン・ジョヴァンニの巨人的な情熱によって、「高められた美の中で燃え立つ」。そして、ドン・ジョヴァンニは、「老いた女を若返らせて女性的なものの美しい中心に移し、子供をほとんど一瞬のうちに成熟させる」という。


■“(カタログの歌で)主人の偉大な業績を読み上げていくうちに、自分もつい昂奮して声が上ずってくる。・・・(女の身分が上がるにつれ)、旋律も二度ずつ上がる。(主人が女をたらす時の手口を紹介するとき)自分の潜在願望を主人の実績に重ね映しにしているのだ。・・・「大きな女は堂々として」というところにさしかかると、音楽も一緒になって、ぐうっとふくらんで壮大になる。一転して「小さい女は可愛らしくて」というところになると、音楽も小刻みの猫撫で声で、こちょこちょと可愛がる。・・・ラストは完全に酔っ払いの鼻歌のようになってしまう。”(石井宏p65)


 第六場/エルヴィラは復讐の気持ちを自分に再確認して、去る。 

 第七場/農民たちが登場。陽気に歌う。第5曲二重唱と合唱「若い娘さんたち、恋をするなら」(ツエルリーナ、合唱、マゼット)。
 第八場/エルヴィラから逃げた二人が来る。レポレルロにマゼットをひきつけておくように命じ、ジョヴァンニはツェルリーナを誘惑にかかる。座を外すように脅されたマゼットは仕方なく、第6曲アリア「分かりましたよ、お殿様」(マゼット)と言い捨てて、レポレルロと去る。 

第九場/ツェルリーナを口説くドン・ジョヴァンニ。第7曲小二重唱「あそこで手に手をとりあい」(ジョヴァンニ、ツェルリーナ)。最後には、とうとう抱き合いながら傍にある別荘に歩き始める二人。

■“誘惑に最初は躊躇していたツェルリーナも、曲の最後では同衾することに同意してしまった。音楽の進行につれて登場人物の心境が刻々と変化していくのが、モーツアルトのアリアの(より一般的に言うならば、モーツアルトに代表される古典派のアリアの)特徴である。”(笠原潔)。

  第十場/エルヴィラが二人を押しとどめる。
第8曲アリア「ああ、裏切り者を避け」、エルヴィラはツェルリーナを救出する。 

  第十一場/ひとりで残ったジョヴァンニのところへ、アンナとオッターヴィオがやって来て、助けを求める。 

  第十ニ場/そこへエルヴィラが戻り、アンナたちに第9曲四重唱「信用してはいけません、おお、不幸な御方よ」(エルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオ、ジョヴァンニ)。ジョヴァンニはエルヴィラを気狂い女と批難するが、アンナたちはエルヴィラの真剣な様子に心を打たれる。ジョヴァンニはいったん退出する。 

第十三場/アンナは声で思い出す。
第10曲レチタティーヴォとアリア「もうお分かりでしょう」(アンナ)。
あの男が父親を殺したのだ、と。


■“モーツアルトの研究家として有名なアインシュタインは、先ほどのアンナの告白を偽りだとしている。彼女は実はその忍び込んできた黒いマントの男を許婚者のドン・オッタヴィオだと思い、抱かれてしまったのだ。・・・

彼女は許婚者の手前、「抱かれました」とは言いにくい。そこで「身をよじって逃げた」という。だが実際に逃げたのではないということは「十八世紀」の観客にはわかっていた。そこで、許婚の彼が「ああ良かった、それを聞いてホッとした」というと、当時のわかっている観客にはおかしいような、哀れなような「悲喜劇的な効果を与えた」とアインシュタインは言う。そしてこの研究家の卓見は次のポイントにある。

 「以上のことがわかれば、あとはすべて説明がつく。
つまり、何故ドン・ジョヴァンニはアンナに興味を示さないのか。
それは彼がエルヴィラ同様、彼女をすでにものにしてしまったからだ。
なぜドン・オッタヴィオにあれほど復讐を誓わせるのか、なぜ彼女は愛しているのに彼のものになるのを拒むのか、なぜフィナーレでは、すでに自分を誘惑した男は死んだのに、彼女は彼との結婚を一年延ばしてくれというのか」”(石井宏)


■“ドンナ・アンナは、このオペラの間じゅうほとんどヒステリックにわめき続けている。そのため、彼女は十九世紀にあって、心の冷たい石女として扱われていた。しかし、真相はそうではなく、彼女は愛する許婚とまちがえてドン・ジョヴァンニに抱かれてしまうという屈辱的な大失敗をやらかしてしまった。

その心に負った深い傷手が、彼女をしてかくもヒステリックな状態にさせているのだ。そこがわかると、ドラマは自然にほぐれてくる。彼女こそはこのドラマの中の主要な鍵であり、最も複雑な人物である。”(石井宏p56) 

第十四場/オッターヴィオがアンナへの忠誠を誓う、第10曲アリア「私の心の安らぎは」がウィーン稿で挿入された。 

  第十五場/レポレルロがマゼットを騙したときの首尾を主人に説明するが、エルヴィラが現れて計画は水泡に帰した。ジョヴァンニは宴会を開こうという。第11曲アリア「酒で頭がかっとなるまで」を歌っていったん退場。

▼森園みるく作画・河原廣之監修『マンガで楽しむ傑作オペラ ドン・ジョヴァンニ』(自由国民社,2006)では、ドン・ジョヴァンニは幕開き前、ドンナ・アンナと昼食時に面会していることになっており、夜陰に乗じて忍んで行ったときには、アンナの「結婚を」望む言動に白けて情事の途中で止めているという解釈をしている。

既に本作のプロローグで、エルヴィラと誤って結婚して、三日でこりているジョヴァンニは、それ以降もアンナを避け続け、自由奔放な性的な村娘ツェルリーナを求めるという展開になる。そして、ツェルリーナを舞踏会のときに、自分の離れに誘ってとうとう思いを遂げるという解釈をしている。

 しかし、ツェルリーナには言い含めてわざと「誘惑された」と芝居をさせるという展開である。この辺りの解釈はかなり大胆であるが、考えられない展開ではない。
 最後にツェルリーナとマゼットはフランス革命を象徴するドラクロワの絵画の自由の女神とその従者となって出現する。


■“《ドン・ジョヴァンニ》を特徴づけるのは、人間関係の寒々とした希薄さだ。・・・
このうすら寒い世界を、たとえ一瞬であっても燦然と輝かせるのが、ドン・ジョヴァンニである。・・・
彼は、世界を「照らす」だけでなく、本来出会うはずがなかった人々を「結びつける」。希薄な人間関係の中にかろうじて共同体を作るのである。・・・
身分の違いや社会的制約にはお構いなしに、ドン・ジョヴァンニが片っ端から手をつけることでもって初めて、彼らの間には関係が生じたのだ。
「楽しんでくれるなら、楽しませてくれるなら、相手は誰でもいい」という官能の無限抱擁によるかりそめの調和の中心、それがドン・ジョヴァンニに他ならない。”(岡田,2008,p.122より)

第十六場/庭園。農夫たち。マゼットは不実なツェルリーナに怒っているが、ツェルリーナは第12曲アリア「ぶってよ、マゼット」と謝ってしまう。そこへ宴会の準備でジョヴァンニが来る。第13曲フィナーレ「早く早く、あの男が来る前に」(マゼット、ツエルリーナ、ジョヴァンニ、合唱)。 

  第十七場/召使たちに命令する主人。
  第十八場/三重唱「この木々の間に隠れていれば」とツェルリーナは樹の陰に隠れるが、ジョヴァンニにつかまる。しかし、マゼットがいるので驚いて女を返す。

 第十九場/仮面を付けたエルヴィラたち、エルヴィラは「勇気を出すことが必要です」、あの男の不正を暴きましょう。レポレルロが舞踏会への招待を告げる。アンナとオッターヴィオは「正義の天よお守り下さい」。

  第二十場/大広間である。ジョヴァンニは「休憩してください、きれいな娘さんたち」、「ずっと前にお進み下さい」。「皆さん、さあ踊って下さい」。
ツェルリーナを犯そうとするが、マゼットが見張っているし、ツェルリーナも抵抗する。大騒ぎになり、エルヴィラたちも駆けつける。
ジョヴァンニはレポレルロを捕まえて、「こいつが君を犯そうとした悪漢だ」と成敗するふりをするが、エルヴィラは騙されない。「おののけ悪党よ」と全員に批難されても、レポレルロとジョヴァンニは動じない。

■“この踊りの場面にモーツァルトは驚愕するほかないような音楽を書いた。・・・
専ら舞台上に配置された三つの楽団が伴奏をつとめるのだが、何と彼らは、拍子も違えば楽想も関係ない三つの舞曲を同時に奏でる。
第一の楽団は最初に踊り始めるドンナ・アンナとオッターヴィオのためにメヌエット(四分の三拍子)を、第二の楽団はドン・ジョヴァンニとツェルリーナのためにコントルダンス(四分のニ拍子)を、そして第三の楽団は男同士の「カップル」であるレポレロとマゼットのためにドイツ舞曲(八分の三拍子)を。・・・

喩えていうならこれは、日舞と社交ダンスと盆踊りが同じ場所で繰り広げられているようなものであり、異様な意味論的コラージュが作り出されているのである。・・・
メヌエットが宮殿の正式な儀礼、コントルダンスがギャラントな自由人たちが集う田園の奏楽だとすれば、ドイツ舞曲はチロルあたりの農民舞踏である。・・・
ここで意図されているのは恐らくカオスの表現であって、ほとんどニ〇世紀音楽におけるコラージュ技法の予告だと言ってもいい。”(岡田,2008,p.124より)


 第二幕 
  第一場/路上。ドン・ジョヴァンニはもう召使いを辞めるというレポレルロを説得している。第14曲二重唱「おい道化者、わしを困らせるものじゃない」、金貨を与えて思いとどまらせる。食べ物よりも女が必要だという主人にあきれる召使い。
エルヴィラの侍女に惚れたジョヴァンニはレポレルロと服を替えて口説くという。

 第二場/夕刻。窓辺のエルヴィラを口説くジョヴァンニだが、その実は服を交換したレポレルロを立てる。
 第三場 /第15曲三重唱「ああ、お黙り、悪い心よ」。エルヴィラは服を替えたレポレルロをジョヴァンニだと思い込んでしまう。よりを戻そうと降りてくるエルヴィラ。嫉妬したジョヴァンニが声をかけると、二人は逃げ去る。

 ジョヴァンニはエルヴィラの侍女を口説くために、窓辺で愛の歌を歌う。ジョヴァンニの第16曲カンツオネッタ「窓辺においで」。

  第四場/マスケット銃とピストルで身をかためたマゼットと農夫たち。レポレルロに化けたジョヴァンニは第17曲アリア「君たちの半分はこっちに行くんだ」。

  第五場/マゼットから銃を取り上げ、殴り倒すジョヴァンニ。 
第六場/ツェルリーナが怪我をしたマゼットをいたわる、第18曲アリア「見ていらっしゃい、いとしい人」(薬屋の歌)。
一番の薬はここにあるとツェルリーナは胸をさわらせる。

 第七場/松明の列を見て、エルヴィラから逃げ出そうとするレポレルロに、エルヴィラは第19曲六重唱「暗い場所にたったひとり」で残さないでと頼むが、レポレルロは門の蔭に隠れる。ドンナ・アンナとオッターヴィオが登場し、さらに第八場/マゼットとツェルリーナも加わる。主人の服を着たレポレルロの正体が分かって一同、驚愕する。

第九場/ツェルリーナはマゼットを打ったのがレポレルロだと思っている。エルヴィラは、だまされたことが分かってショックを受けている。レポレルロは第20曲アリア「お許しを、皆様」と必死に弁解する。隙を見て逃げ出すレポレルロ。


■“レポレッロはト短調で命乞いをする。他の五人は「ややっ、レポレッロじゃないか。一杯食わされた。こりゃ一体どうしたわけだ」と叫ぶ。この瞬間、音楽はト短調から変イ長調に転調する。この絶妙な転調に、観客は一瞬、自分がその場にいるかのように感じさせられるのだ。

 続いてレポレッロが、変ホ長調で「いろんな思いが混ざりあって」と唱い出すと、ほかの五人もそれを受けて、「いろんな思いが混ざり合って、なにがなんだかわからない」と唱う。さらにレポレッロが、「こんな嵐を抜け出せたら、本当に奇蹟というもんだ」と独白を唱うと。ほかの五人は、「ああ、今日はなんという日だ。思いもかけない奇抜さだ」と、重唱を唱い始める。

 このようにドキッとするほどリアルな転調に続いて始まる、敵味方同士が一体となった重唱は、無個性な声によるコーラスとは全く違うのだ。それぞれがリアルな個性を持ち、自らを主張する人間のからみあいであり、その主張の声がハーモニーを作り出すという非現実性が、一つの劇的空間の中に全て組み込まれるところに、独特のリアリティが生まれてくるのである。

 これについて河上徹太郎は「これこそ他の如何なる歌劇の天才もなし得なかった、モオツアルト独自のものである」とする。そしてさらに「モオツアルトが人物を一刷毛で描き分ける音調なるものは、だから、何等かの音楽上の単位ではない。楽譜の上を探しても無駄だ。それは一つの音の現前である。しかも紛ふことなく、各人物に個性的なものである」とし、最後に「モオツアルトの音楽は、最も純粋な音の実存である」とする。

 これを結論と読むこともできるが、河上はさらにキェルケゴールの『人生行路の諸段階』からの「欺かれるものは欺かれぬものよりも賢く、欺くものは欺かないものよりも善い」という逆説的な言葉を引用し、「これこそモオツアルトがその天才を尽くして《ドン・ジョヴァンニ》で実現した奇跡の真髄であり、借りて以って私の結論にする」と結んでいる。”(井上太郎『モーツアルトと日本人』より131〜133頁)

■“大六重唱は、このオペラの中の、最も素晴らしい曲の一つである。この長くてしかも複雑な一連の音楽の途中、舞台の上ではさまざまな出来事が繰り広げられる。音楽的にも、コミックなものから悲劇的なものまで、驚くような楽想がふんだんに使われれている。”(デント,p.199より)

■“憔悴しきっているドンナ・アンナがオッターヴィオに伴われて舞台に現われると、一瞬だがトランペットとティンパニが微かに鳴り響く。・・・弱音というひどく例外的な用法だ。そのためにこの箇所は、まるでオペラ・ブッファの中にミサ曲が混じりこんだかのように、非常に印象的に響くことになる。・・・

だが、何よりこの六重唱を一種異様なものにしているのは、この厳粛な楽想に続くレポレロが捕まる場面である。ブッファ的な快活さは微塵もない。これは不吉な半音階で下降する動機が執拗に繰り返される、グロステクで哀れっぽいお通夜のような音楽だ。・・・
音楽が短調から長調に転じ、レポレロが早口で言い訳をまくしたてながら、隙をついて逃げ出す場面に至って、この六重唱はさらに奇怪さを増す。・・・
宗教音楽の神々しさ、気が滅入るような不吉さ、そしてブッファのドタバタが、ここでは互いに何のつながりもなく、ただ放置されている。ここに至って、《ドン・ジョヴァンニ》の世界は、ほとんど精神分裂的な様相を示し始めるのである。”(岡田,2008,p.131より)

  第十場/ドン・オッターヴィオは、第21曲アリア「今こそ、私のいとしい人を」、慰めてほしい、自分は復讐を果たすと決意の表明する。
 第十場(ウィーン版では次のエルヴィラのアリアが付加されている)第21曲レシタティーヴォとアリア「あの恩知らずの心は私を裏切った」、復讐の思いと尽くす気持ちで揺れる。


 第十一場/墓地の近く。陽気なジョヴァンニとほうほうの態で逃げ出したレポレルロが再会する。道端で出会って抱いた娘が「いとしいレポレルロ」と叫んだので、それはレポレルロの愛人の一人だったと自慢気に話す主人に、あきれかえるレポレルロ。

そのとき、騎士長の石像が「夜明け前にはお前の笑いも止まる」と予言する。
ジョヴァンニは石像を晩餐に招待しようと提案する。第22曲ニ重唱「とても親切な」石像さま、とおそるおそる晩餐に誘うレポレルロ。石像はわかったと答える。

第十二場/ドンナ・アンナに求愛するドン・オッターヴィオに、アンナは、第23曲レシタティーヴォとロンド「いとしい人よ」、父親の喪に服していなければならないと求婚の受け入れを延ばす。


 第十三場/晩餐の用意がしてある大広間。主人と従者の二人は第24曲フィナーレ「食卓の用意はできた」と食事を始める。『フィガロの結婚』の「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のメロディーも流れる。

第十四場/エルヴィラが来る。彼女は「私の愛の」最後の証しとして、ドン・ジョヴァンニに意見をし、生活を変えて欲しいと言うが、ジョヴァンニは取り合わない。退室しようとしたエルヴィラの悲鳴が聞こえ、見に行かされたレポレルロも悲鳴を上げて戻る。

第十五場/石像が「お前と晩餐をともにするよう」に招待されてやって来た。石像は現世の食物は食べないのだ、しかしお前を食事に招待しようとやって来たという。石像の手を取ると、冷たい。
石像は「悔い改めよ」と忠告するが、ジョヴァンニは受けつけない。火が燃え上がり、主人公は地下に呑み込まれていく。

■“ドン・ジョヴァンニが再び英雄になるのは、最後の死との対決においてである。・・・
この地獄落ちが単なる「天罰」ではないという点を確認しておくことだ。
それはなぜかといえば、ここで石像は四度にわたって、「これまでの生き方を悔い改めるか?」と主人公に尋ねているからである。
つまりドン・ジョヴァンニには、改心して許される可能性が、まだ残されているのである!・・・
しかし、ドン・ジョヴァンニは、まさに自分自身の意志によって、こうした延命措置を拒絶する。・・・クライマクスのあの凄まじい音楽は、神学的な業火の恐怖などではなく、神と対峙することを恐れぬドン・ジョヴァンニの巨人的な意志としとて解釈されるべきだろう。

 モーツァルトのドン。ジョヴァンニは、「今ここの快楽以外の何ごとも信じない」という無節操のエロティシズムを、命を賭して貫徹することによって、理念に殉じる精神の貴族としての身の証を立てる。無理念と見えたものが、死の瞬間に英雄的な理念へと転じるのだ。この地獄落ちのフィナーレにおいて、「わしは卑怯者との咎だけは受けぬ!」と言い放つ主人公の生き様の、巨大な逆説の弁証法が完遂されるのである。”(岡田,2008,p.132より)

 最後の場/アンナたち全員が裁判官を伴って登場。「非道な男はどこ」。
レポレルロにジョヴァンニの最期の様子を聞いて、驚く人々。
オッターヴィオは「いとしい人よ今はもう」、天が裁きを与えてくれたのだからとアンナに求愛するが、やはりアンナは一年待ってくれと言う。
エルヴィラは修道院に入る、ツェルリーナとマゼットは一緒に食事をするために家に帰る、レポレルロは新しい主人を見つけると言う。

 全員で、「これが悪人の最期だ」、そして非道な者たちの死はいつでも生とは同じものなのだと歌う。

 この最後の場面は省略されて上演されることがあったが、最近では省略されることはない。

■“十八世紀においても地獄落ちで終わるドン・ジョヴァンニの方が多かったのであって、つまりモーツァルトは単に同時代の習慣に倣ってハッピーエンドを書いたわけではないのだ。
 モーツァルトのオリジナルな意志は、凄まじい地獄落ちの後に味気ないハッピーエンドがやってくるようにドラマを組み立てたという、まさにこの事実の中にこそ、読み取られなければならない。それはつまりこういうことだ。地獄落ちの轟音とともに、ドン・ジョヴァンニやサド侯爵ヤラクロの『危険な関係』のヴァルモンおよびメルトイユ夫人らが跳梁する、革命直前の貴族たちの官能の夜は終わる。そして道徳的な小市民たちの、あまり面白くもないが安定した近代社会という朝が予感されるところで、このドラマは閉じられるのである。”(岡田,2008,p.137より)

■“六重唱を歌う人々は、要するにすべて他人任せ/神頼みである。諸悪の根源も、それを退治してくれるのも、どちらも絶対的権威(絶対善ないし絶対悪)なのだ。騎士長からの地獄への招待に、毅然として手を差し出すドン・ジョヴァンニの英雄的な姿と、これはあまりに対照的である。

 それにひきかえ、次作《コシ・ファン・トゥッテ》の恋人達は、もはや絶対的権威が存在しない世界を生きなければいけない。”(岡田,2008,p.143より)
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/donjovan.htm

2. 中川隆[-14006] koaQ7Jey 2020年2月06日 13:08:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-675] 報告

クラシック音楽 一口感想メモ
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756 - 1791)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88

天才なバランス感覚、歌心を音に込める才能、あらゆる音楽を自分のものとして取り込む柔軟性、職人技を持っている。

顔で笑って、心の底では泣いているような音楽。寂しがったり、はしゃいだり、おどけたり、そんな人間的なところが大きな魅力である。

一方で「悪魔が人間を惑わすためにこの世に送り込んだ音楽」というゲーテの言葉も非常に素晴らしく見事に特別性を言い当てている。

早熟であり、日本の高校生くらいの年齢の曲で既に神が宿ったかのような天才性や別格性を発揮している。


管弦楽曲

交響曲

最後の二曲が最高であるため、モーツァルトの重要なジャンルというイメージがある。しかし、41曲もあるが30曲は18歳までに書かれた作品。それ以降も改編や急造の曲などあり、ピアノ協奏曲と比較するとモーツァルトにとっては主要ジャンルとは言えなかったのでは、という印象である。特に初期は番号付以外にも多くの曲があり、未熟な三品ばかりである。しかし初期にもモーツァルトの成長の過程がはっきりと現れているのを追いかける楽しみがある。ここでは、ごく初期の作品は除外している。

•交響曲 ヘ長調 K.75 (1771 旧全集番号では第42番)◦2.5点


節回しにハイドンの影響を感じる。全体に元気がよい感じが好印象。モーツァルトらしい特別さはほとんどなく、偽作説に納得ではあるのだが、なぜだか聴きやすい。

•交響曲第12番 ト長調 K.110(75b) (1771)◦3.3点


冒頭のバロックの息吹を感じる清冽な輝かしいメロディーが、モーツァルトとしては珍しいもので、耳に強く残る。それ以外の部分も輝かしい印象。まだ未熟ではあるが、この爽やかさの魅力は忘れがたいものがある。

•交響曲 ハ長調 K.96(111b) (1771? 旧全集番号では第46番)◦2.8点


1楽章のオペラの序曲のような明るい始まりと、モーツァルトには珍しい2楽章の古風な同じリズムがずっと続く憂いのある音楽がよい。楽章に個性があり聴き栄えのする曲。

•交響曲第13番 ヘ長調 K.112 (1771)◦2.8点


爽やかなだけで、特徴が少ないため、単に未熟な発展途上の曲に聴こえる。特に素敵だと思うような箇所はなかった。

•交響曲第14番 イ長調 K.114 (1771)◦3.5点


1楽章の冒頭の流麗で上品なメロディーの魅力はかなりのものである。彼の特質と天才性を見事に見せつけている。それ以外もどの楽章も後年を彷彿とさせる立派さとメロディーの魅力をふんだんにみせる素晴らしい作品であり、初期の交響曲の傑作と言っていいだろう。

•交響曲第15番 ト長調 K.124 (1772)◦2.8点


2楽章がしなやかな旋律のなかなか美しい曲だと思う。他の楽章はシンプルすぎてまだまだ未熟感が漂っており、感動には届かない。

•交響曲第16番 ハ長調 K.128 (1772)◦2.5点


1楽章が3拍子で舞踏性が高いのが面白い。2、3楽章もその雰囲気を受け継いでいる感じがする。とはいえそれだけであり、音の密度が薄い未熟感がまだまだ気になる。

•交響曲第17番 ト長調 K.129 (1772)◦2.3点


しなやかな雰囲気を楽しむ曲と思う。しかし、内容が薄くて聴き終わっても特に何も残らない。

•交響曲第18番 ヘ長調 K.130 (1772)◦2.3点


爽やかな中に少しモーツァルトらしい感性の強さが少しずつ表現され始めているようには思えるが、まだまだ非常に微妙なレベルである。

•交響曲第19番 変ホ長調 K.132 (1772)◦2.3点


規模がかなり大きくなった。しかし、内容がそれに伴った感じではない。あくまで、もっと後の曲のような規模感だけであり、内容は初期の未熟さから卒業できておらず、あまり面白くない。

•交響曲第20番 ニ長調 K.133 (1772)◦3.0点


祝典交響曲で華やか。2楽章のメロディーなど、聴き栄えのする楽しみのある曲でよい。4楽章のメロディーはハイドンみたいだ。規模感に内容が伴っている。

•交響曲第21番 イ長調 K.134 (1772)◦2.3点


J.C.バッハやC.P.Eバッハと聴いた印象がかなり近い。主題が単純であり、優美さやバランスの良さもまだ不十分であり他の作曲家を凌駕するものを感じない。唯一3楽章の中間部が耳を捉えた。

•交響曲第22番 ハ長調 K.162 (1773)◦2.3点


1楽章はメロディーが単純すぎる。2楽章と3楽章はいくぶんましだが、単純明快すぎてやはりあまり楽しめない。

•交響曲第23番 ニ長調 K.181(162b) (1773)◦3.0点


全3楽章8分で切れ目なく演奏。トランペットの輝かしさにより祝典的で高揚感のある雰囲気が創られている。割と好き。

•交響曲第24番 変ロ長調 K.182(173dA) (1773)◦2.3点


全3楽章10分の短い曲。この曲はメロディーに魅力がないため、あまり面白い曲ではい。短いため聴き通すのは容易だが、楽しめずに終わる。

•交響曲第25番 ト短調 K.183(173dB) (1773)◦5.0点


アマデウスの冒頭だが、この曲の燃えるような情熱は素晴らしい。40番より熱気があり心を動かされる。

•交響曲第26番 変ホ長調 K.184(166a) (1773)◦3.5点


全3楽章で続けて演奏される。これは深みがあり初期の中でも特に注目するべき曲の一つ。1楽章はイタリア風で快活で面白いが、素敵なのは2楽章と3楽章。短調でドラマチックで陰影に富んだ2楽章は晩年の作品以上にロマンチックである。3楽章はその余韻を反映した晴れやかな感情に満ちた曲で感動的。

•交響曲第27番 ト長調 K.199(161b) (1773)◦2.8点


快活で颯爽とした魅力がある。2楽章の滋味あふれる雰囲気はモーツァルトにしては珍しい。

•交響曲第28番 ハ長調 K.200(189k) (1774)◦3.0点


初期の一連の交響曲の中で最後に書かれた曲。ティンパニを使用しハ長調の堂々とした曲想が特徴。特殊なことをしている場面は少ないが、憂いがなく華やかで爽やかで輝かしいモーツァルトを楽しめる点で価値がある。

•交響曲第29番 イ長調 K.201(186a) (1774)◦4.0点


初期の交響曲の中では25番についで有名。明るい瑞々しい感性に支えられた勢いと楽しさ、爽やかさと優美さが、愉しいメロディーとともに奏でられており、それらが巨匠的な完成度で練り上げられて作品化されている。初期らしい汚れのなさと、聞きやすさで、後期の交響曲の中の大半の曲よりも魅力がある。

•交響曲第30番 ニ長調 K.202(186b) (1774)◦2.5点


初期の最後の交響曲で、それなりの規模と充実感はあるが、ありきたりな素材ばかりである。成熟して立派さが現れてきており、明るくて華やかであるが、深みや新鮮さには欠けると思う。


31番以降(20歳以降の作品)
•交響曲第31番 ニ長調 K.297(300a)『パリ』 (1778)◦2.5点


この曲は異例なほど推敲を重ねたそうだが、残念ながらその結果が自分にはあまり素晴らしいと感じられない。名曲とまではいかないと思う。

•交響曲第32番 ト長調 K.318 (1779)◦3.0点


1楽章のような長さの連続した曲の中に3つの楽章があるという特殊構成。印象的な冒頭を始めとして内容が豊富で、30番台前半では一番よい曲だと思う。

•交響曲第33番 変ロ長調 K.319 (1779)◦2.5点


1楽章は主題に多少の目新しさはあるものの、基本的に普通。2楽章は優美だが、天才性はあまりない。3楽章のメヌエットはごく普通。4楽章はオペラの伴奏みたいで面白くない。

•交響曲第34番 ハ長調 K.338 (1780)◦2.8点


メヌエットなし。1楽章はごく普通の序曲風の曲。2楽章は半音階を使ったメロディーがやや目新しいものの、全体の印象は普通だし冗長。3楽章は伸びやかで三連符の連続的な使用は目新しく、エネルギッシュで一番聴き所がある。

•交響曲第35番 ニ長調 K.385『ハフナー』 (1782 セレナーデからの改変曲。)◦3.3点


1楽章はオペラの序曲のように快活。2楽章は優美で呑気で美しく、この曲で一番印象的。3楽章は優美で華やかさのあるメヌエット。4楽章は祝典的。全体に元々がセレナーデとして書かれて改作されただけあり、天才的というほどではないが優美な華やかさを楽しめる。

•交響曲第36番 ハ長調 K.425『リンツ』 (1783)◦3.5点


どの楽章もオペラの音楽のようだ。登場人物が何かの行動をして物語を進行させているような生き生きとした感じがある。1楽章はオペラの序曲にそのまま使えそうである。たった四日で書かれたのは凄いが、知っていて聴くとやはりどこか仕事の荒さを感じてしまう。

•交響曲第38番 ニ長調 K.504『プラハ』 (1786)◦4.0点


39番より華やかでありながら叙情的であり各楽章に光る部分がある。特に1楽章は秀逸でメロディーが印象的。最後の3大交響曲はどの曲も特殊さがあるので、この曲は堂々とした正統派の音楽としては最大の交響曲かもしれない。

•交響曲第39番 変ホ長調 K.543 (1788)◦3.5点


最後の三大交響曲の1作だが、他2作と比べてしまうと地味であり、音楽の複雑度が低くて単純に聞こえるため物足りなく感じる。1楽章の純白の世界は素晴らしいのだが、2楽章と3楽章がもの足らず、4楽章もノリノリで楽しいがメロディーの魅力が足りない。個人的には、40番および41番と同時に書かれたとはいえ、3大交響曲として一括りにするべきでない大きな差があると思う。

•交響曲第40番 ト短調 K.550 (1788)◦6.0点


1楽章の有名メロディーはやはり非常に印象的であり、第二主題の魅力も全体構成も完璧な出来である。秋の憂愁と人間愛を感じさせる2楽章がまた大変に感動的で、どんなロマン派の曲も凌駕するほどに人間的でロマン的で胸がいっぱいになる。3楽章は3小節区切りなのが面白い。4楽章の性急さはモーツァルトがよく見せるものでやや小ぶりな印象があり、神がかり的とまではいかないが、この名作の締めくくりには十分な出来である。

•交響曲第41番 ハ長調 K.551『ジュピター』 (1788)◦6.0点


壮麗で神々しくて全世界に君臨する神のような偉大さを感じさせる音楽であり、まさに「ジュピター」の名がピッタリである。特に1楽章はそうなのだが、2楽章や3楽章でさえも、神々しさを発揮しているのが凄い。1楽章は堂々とした開始部分から、人間には及びもつかない神々の領域を感じさせる天上的で壮大で、かつ完璧なバランスで造形されている驚異的な音楽である。最後のフーガ楽章の畳み掛けるような高揚感と圧倒的な充実感の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。


セレナーデ

•セレナーデ第1番 ニ長調 K.100(62a) (1769 カッサシオン ニ長調 K.62と同一。)◦2.8点


13歳の作品。素朴な音楽の作りは幼さとともに古典派の初期の作曲家達の作品を想起するが、既に十分にセンスが良くて楽しい気分になれるのはさすがである。27分もの大作だが寛いで楽しく聴ける。

•セレナーデ第3番 ニ長調 K.185(167a) (1773)◦2.8点


45分。1曲目が面白くない。全体に古典派の標準を越えていない単純な書法。しかしだんだん耳が慣れてくるのか、聴き進むにつれてヘンデル的な華やかさや、活力のある音楽が楽しく聴けるようになってきて、聞き終わるとそれなりに満足できる。

•セレナーデ第4番 ニ長調 K.203(189b) (1774)◦2.8点


この時期のセレナーデにしては、優美で現代の楽器に合っている雰囲気である。快活さが足りないかわりにしっとりしていて、後年において増える雰囲気が出ており、聞きやすい。

•セレナーデ第5番 ニ長調 K.204(213a) (1775)◦2.8点


K.203からさらに進歩している。書法がこなれてきており、モーツァルト独特の気の利いた場面転換の巧みさが目立つようになっている。物語のような性格があり、オペラを聴くように楽しめるのも特徴。コミカルでドタバタ劇のような雰囲気もある。

•セレナーデ第6番 ニ長調 K.239 『セレナータ・ノットゥルナ』 (1776)◦3.0点


祝典的な華やかな雰囲気を管楽器を使わずに見事に出していて、なかなか楽しめる。メロディーも耳に残るもの。ティンパニを使っている場面もそれに頼っていない。最後のティンパニ独奏にはびっくりする。

•セレナーデ第2番 ヘ長調 K.101(250a) (1776)◦2.3点


弦楽合奏の短いセレナーデ。メロディーが地味で幼く聞こえる。あまり良い曲ではないと思う。

•セレナーデ第7番 ニ長調 K.250(248b) 『ハフナー』 (1776)◦2.8点


オーケストラ曲。全8楽章1時間。和声は単純であり、複雑さはあまり楽しめない。だが、結婚式の前夜祭のための曲というだけあって、貴族的なキラキラした華やかさと祝典的気分に溢れており、その点では楽しめる。また中間の2楽章から4楽章までがヴァイオリン協奏曲のようであり、この独奏は単なる単純明快さだけでない複雑さや音の動きを楽しめる。

•セレナーデ第8番 ニ長調 K.286(269a) 『ノットゥルノ』 (1776/77)◦2.8点


コンパクトで聞きやすい。変化はあまり多くなくシンプルすぎるため、現代的な意味ではあまり高く評価しにくいところがある。ただ、柔らかく美しい音楽を基調としつつ控えめに適切な快活さなどを取り入れていて、音のつくりはよい。娯楽音楽としてそれなりのレベルにあると思う。

•セレナーデ第9番 ニ長調 K.320 『ポストホルン』 (1779)◦3.5点


1楽章はオペラの序曲のような堂々とした曲。2楽章は後期の交響曲のメヌエットのような堂々とした曲。3楽章と4楽章は繊細な雰囲気。4楽章の管楽器の活躍は楽しい。5楽章は短調で気分転換。6楽章のポストホルンはラッパの音色が楽しい。7楽章はノリノリ。

•セレナーデ第10番 変ロ長調 K.361(370a) 『グラン・パルティータ』 (1781/83-84?)◦3.3点


成熟したモーツァルトらしいハルモニームジークの曲であり、初期とは一線を画している。様々な気分を内包しつつ、しなやかさを持った明るい楽しめる音楽を作っているのはさすがだ。しかし、フットワークの軽さ、場面転換の鮮やかさなどの特質が活かせないので、管楽合奏はやはりあまりモーツァルトには向いていないと思う。

•セレナーデ第11番 変ホ長調 K.375 (1781, 改訂1782)◦2.8点


管楽器の合奏としての楽しみよりも、モーツァルトらしい曲としての楽しみの方がようやく上回った曲だと思う。かなり成熟しており、制約に縛られずに伸び伸びとしたモーツァルトらしい旋律や雰囲気を作れている。ただ、それでも十分にいい曲であるという印象には至っていない。


•セレナーデ第12番 ハ短調 K.388 (384a) 『ナハトムジーク』 (1782/83)◦3.5点


管楽器の合奏によるハルモニームジーク。弦が無いのに慣れると、音色を楽しめる。

•セレナーデ第13番 ト長調 K.525 『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』 (1787)◦5.5点


有名曲。簡潔でありながら豊かな内容を持ち、優美で非の打ち所がない完璧な均整が取れている。4楽章がすべてよい出来でありバランスが良い。

ディヴェルティメント

•ディヴェルティメント 第1番 変ホ長調 K.113 (1771)◦2.5点


音に充実感が出てきたが時代の第1作なのだが、音楽がありきたりで、新鮮な素晴らしさに欠けてあまり面白くないと思う。

•ディヴェルティメント K.136(125a) ニ長調 (1772):弦楽四重奏◦3.5点


冒頭のメロディーがキャッチーで耳に残る。明るく快活でのびやかな雰囲気が楽しい曲であり、優美さとも両立している。

•ディヴェルティメント K.137(125b) 変ロ長調 (1772):弦楽四重奏◦3.0点


K.136が直球勝負の曲なのに対して、この曲は冒頭いきなり悲劇的に始まりその後もしばらく穏やかであるなど、変化球の曲である。とはいえ途中の本編からは伸びやかな曲になり、その部分はK.136と同様に素敵である。

•ディヴェルティメント K.138(125c) ヘ長調 (1772):弦楽四重奏◦3.0点


K.136やK.137と同様の弦楽四重奏によるディベルティメント。優美で中庸なテンポで違いを作っている。メロディーの魅力があと一息であり惜しい印象。所々美しい場面がある。

•ディヴェルティメント 第2番 ニ長調 K.131 (1772)◦3.0点


30分の大作。既に活き活きとした楽しい音使いで聞き手を楽しませる技を完全にマスターしており、ディベルティメント作曲家としては完成している。若い時代のシンプルな清々しさと音楽のバラエティーを楽しめる。

•ディヴェルティメント 第4番 変ロ長調 K.186(159b) (1773)◦2.5点


K166と同じくハルモニームジークで印象もほぼ同様。楽しいがごく普通の曲。

•ディヴェルティメント 第3番 変ホ長調 K.166(159d) (1773)◦2.5点


管楽合奏のハルモニームジーク。初期らしい爽やかさだが、モーツァルトの独自性をあまり感じないごく普通の曲。

•ディヴェルティメント 第7番 ニ長調 K.205(167A) (1773)◦2.5点


素朴すぎて、モーツァルトの天才性が発揮できていない。ごく普通の曲が並んでいる。

•ディヴェルティメント 第8番 ヘ長調 K.213 (1775)◦2.8点


モーツァルトらしさ、音楽の充実感において、1773年作のディベルティメントとは雲泥の差である。しかし、まだハルモニームジークの制約により十分な力を発揮出来ていないように聞こえる。

•ディヴェルティメント 第9番 変ロ長調 K.240 (1776)◦3.0点


この曲ではハルモニームジークの穏やかさとモーツァルトのセンスが融合して、ようやく独自性がある作品として完成レベルに達したという印象。

•ディヴェルティメント 第12番 変ホ長調 K.252(240a) (1776)◦2.8点


この時期の他の曲と似たようなハルモニームジーク。あと少し何か輝くものが欲しい所。

•ディヴェルティメント 第6番 ハ長調 K.188(240b) (1776)◦2.5点


2本のフルートと5本のトランペットとティンパニ。広々とした元気な印象を与える編成を楽しめる。曲は普通。

•ディヴェルティメント 第10番 ヘ長調 K.247 (1776)

•ディヴェルティメント 第11番 ニ長調 K.251 (1776)◦2.5点


本当にモーツァルト作のディベルティメントなのか耳を疑ってしまった。バロック的な清澄な響きであり、和声があまり機能していない。モーツァルトらしいフレーズがあまり登場しない。このようなバロック的な音楽の世界はそれはそれで別ジャンルとして好きではあるのだが、やはりモーツァルトらしさに驚くほど欠ける曲である。

•ディヴェルティメント 第13番 ヘ長調 K.253 (1776)◦3.0点


ハルモニームジーク。1楽章の変奏曲が目新しくて面白い。他の楽章も軽快でなかなか楽しい。

•ディヴェルティメント 第14番 変ロ長調 K.270 (1777)◦2.8点


ハルモニームジークだが、モーツァルトの管弦楽曲のような優美なメロディーが取り入れられている。ありきたりではないが、必ずしも管楽合奏の良さを活かせているとはいえないと思う。

•ディヴェルティメント 第15番 変ロ長調 K.287(271H) (1777)◦2.5点


かなり長い曲。全体に平凡でモーツァルトらしい冴えや天才性が感じられなくて、あまり楽しめない。

•ディヴェルティメント 第16番 変ホ長調 K.289(271g) (1777) …偽作説が有力。◦2.0点


リズムが平板であり、メロディーも面白くなくて、ひどくのっぺりした印象。メロディーの癖にモーツァルトらしさがなく、確実に偽作だと思う。

•ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 K.334(320b) (1779)◦3.3点


弦楽合奏の曲。有名だが長いし演奏を選ぶと思う。曲中では有名なメヌエットがやはり断然輝いてる。他も優雅で充実した娯楽音楽だが、感動を感じるほど素晴らしいとは思わない。

•ディヴェルティメント K.563 変ホ長調 (1788):弦楽三重奏◦4.0点


何度聴いても飽きない充実の名作。他のディベルティメントよりもはるかに充実したこの曲がたった3つの弦楽器で演奏されるというのが驚異的。

その他

•フリーメイソンのための葬送音楽 ハ短調 K.477(479a)◦4点

迫力ある短調の音楽。

•『音楽の冗談』 (2Hr,2Vn,Va,Vc)K.522 (1787)◦3.5点

人を馬鹿にしたようなネタが面白すぎ。ホルンが入っていて活発な曲調なので音も楽しめる。面白すぎて初めて聴いた時は声を出して笑ってしまった。特に最後の終わり方。聞いていると映画アマデウスに出てくる人をはしゃいでサリエリを小ばかにするモーツァルトの姿が思い浮かぶ。


協奏曲

協奏交響曲

•オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲 (1778 偽作?)

聴いた印象では、モーツァルトの手癖と少し違う感じのフレーズが多いと思った。したがって偽作だろうと思う。

•ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364 (320d) (1779)◦2.8点


交響的な音の豊かさを持った曲なのだが、それがモーツァルトらしい独走楽器の伸びやかで自由な活発さという協奏曲のよさをスポイルしてしまっていると思う。特に目立つような良い点はないし、実際のところ決して悪い曲ではないにしても、聴いて楽しいモーツァルトの協奏曲の魅力に欠けているため、あまりお勧めできない。


ピアノ協奏曲

交響曲とは違い20歳以降に沢山の曲を書いている。20番で急に覚醒して、芸術性の高い作品群となる。それまではやはり、美しいものの演奏会用のエンターテイメント曲の粋を出ないと感じる。

•ピアノ協奏曲第5番 ニ長調 K.175 (1773)◦3.0点


4番までは編曲なのでオリジナル作品のピアノ協奏曲の第一作。爽快であるとともに、トランペットとティンパニの祝典的な雰囲気が楽しい気分にさせる。2楽章の瑞々しさも魅力。バランスが良くて、ピアノがよく歌っており、既に完成度がかなり高い。協奏曲の作曲家としての才能の高さに痺れる。

•ピアノ協奏曲第6番 変ロ長調 K.238 (1776)◦3.0点


1楽章は5番と同じ位に魅力的でより技巧的に華やかにした感じ。2楽章は5番より陰影が豊かになった。3楽章はメロディーがシンプルすぎていまいち。

•ピアノ協奏曲第7番 ヘ長調 K.242『ロドロン』(3台のピアノのための)(1776)

•ピアノ協奏曲第8番 ハ長調 K.246『リュツォウ』 (1776)◦2.8点


1楽章は定形化の兆しを感じて、あまり面白くない。2楽章は美しいのだが、瑞々しく初々しいようなものが少なくなった。3楽章は悪くないがメロディーの魅力が今一歩。

•ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調 K.271『ジュノーム』 (1777)◦3.3点


冒頭にいきなりピアノが登場するのは先駆的で最初は驚くが、慣れてくると後世の作品と比較すればごく控えめな使われ方であると感じる。清新で瑞々しさがあると共に、充実感が20番以降に匹敵するほどであり、名作の一つである。

•ピアノ協奏曲第10番 変ホ長調 K.365(2台のピアノのための) (1779)

•ピアノ協奏曲第11番 ヘ長調 K.413 (1782-83)◦2.0点


特にこれといった魅力がない。

•ピアノ協奏曲第12番 イ長調 K.414 (1782)◦3.0点


アダージョ楽章が優美でなかなかよい。他楽章もよく、10番台前半の中では音楽に魅力があり聞きほれる。

•ピアノ協奏曲第13番 ハ長調 K.415 (1782-83)◦2.5点


祝典的雰囲気が少しあり楽しい気分を感じる。

•ピアノ協奏曲第14番 変ホ長調 K.449 (1784)◦2.5点


ピアノ独奏が華やかさを増して、20番台に近づいた感がある。

•ピアノ協奏曲第15番 変ロ長調 K.450 (1784)◦2.5点


アダージョの美しさとロンドのノリノリで華やかな感じはなかなか良い。

•ピアノ協奏曲第16番 ニ長調 K.451 (1784)◦3.0点


20番台に匹敵する充実感を感じられるようになった。

•ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K.453 (1784)◦3.0点


優美さを持っており長い作品の中で微妙なニュアンスの移ろいを楽しめる。

•ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調 K.456 (1784)◦2.5点


充実感はあるものの、耳をひいたり胸を捉えるような素晴らしい瞬間はあまりない。

•ピアノ協奏曲第19番 ヘ長調 K.459 『第二戴冠式』(1784)◦3.0点


祝典的な華麗さがあって聴いていて楽しい。


20番以降
•ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466 (1785)◦5.5点


内に秘めた情熱と悲しみの第1主題と、そこからの展開として絶妙な心の中で泣いているような第2主題のどちらも良い1楽章。感動を内包する素晴らしく魅力的な静寂の主題と、強烈な対比をみせる激情的な中間のどちらも素晴らしい2楽章。疾走感があるロンドが、カデンツァのあとに最後にパッと雲が消えたように晴れやかに終わる感動的な3楽章。すべてが完璧な大傑作である。

•ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K.467 (1785)◦4.5点


いいメロディーが沢山あって聴きやすい。

•ピアノ協奏曲第22番 変ホ長調 K.482 (1785)◦3.5点


スケールの大きな威勢のいい曲。

•ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488 (1786)◦5.0点


こじんまりとしているが、非常に愛らしくて可愛らしさに心を奪われる1楽章。歌曲のように憂いのある優れたメロディーを存分に歌わせる2楽章。めまぐるしく新しい主題が出てきて息をつかせない3楽章。どれも素晴らしい。逸品である。

•ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491 (1786)◦4.0点


ソナタもそうだが短調の二曲目の方はハ短調で少し理屈っぽい。でも慣れると感動的。

•ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K.503 (1786)◦3.5点


20番台の中では地味でずば抜けた所が無い。それでも10番台よりはいい曲。

•ピアノ協奏曲第26番 ニ長調 K.537『戴冠式』 (1788)◦4.0点


華やかな中に独特の美しさが散りばめられている。

•ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595 (1791)◦4.5点


最後の年の曲であり、透明な純白の曲調。1楽章の気力が衰えた感じの第1主題からして聴いていて悲しくなる。3楽章の三拍子の主題メロディーは、顔で笑って心で泣いている雰囲気の代表的なものであり、感動する。

ヴァイオリン協奏曲

残念ながら19歳で打ち止めなので、ピアノ協奏曲と比較すると見劣りする。

•ヴァイオリン協奏曲第1番 変ロ長調 K.207 (1775)◦2.5点

書法の未熟さが気になる。あまりに単純なフレーズが多く作曲の初心者のようだ。ただしモーツァルトらしい魅力ほそれなりにある。


•ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ長調 K.211 (1775)◦2.5点

快活さや優美さに一定の魅力はあるが、オーケストラの四分音符伴奏など内容面で未熟さが気になる。


•ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K.216 (1775)◦3.0点

優美でありながら生き生きとした雰囲気は悪くないし、書法に進歩が見られるものの、旋律があまり印象的ではない。


•ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218 (1775)◦3.3点

明るく優美であり、楽想の繋ぎが流れるようになっている。旋律も少し良くなっている。3番よりも進歩が見られる。


•ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調『トルコ風』K.219 (1775)◦3.8点

キャッチーなメロディーが多くて聴きやすく楽しめる。どの楽章も耳を楽しませる分かりやすいフレーズのオンパレードである点ではモーツァルトでもかなり上位であり、深みに欠けるものの、かなり楽しめる。明るく快活で、雰囲気が良い。

•2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ K.190(186E)◦3.0点

コンチェルーネという名称であるが、長い曲である。オーボエの独奏もときどき入っていて目立つ。それほど協奏曲らしい活発さがない、まろやかで柔らかくて大人しい曲。まったりした雰囲気の中で多くの独奏パートがはっとするような刺激をくれるため、娯楽曲としては案外楽しめる。

•ヴァイオリンと管弦楽の為のアダージョ ホ長調 K.261◦3.3点

単発の曲としては、このアダージョは陰影をもったしみじみとした美しさを堪能できるためK.269よりも楽しめる。ヴァイオリンを存分に歌わせていて、聴き応えがある。

•ロンド 変ロ長調 K.269(261a)◦2.8点


ヴァイオリン協奏曲の最終楽章としてなら悪くない曲。この時期らしい出来になっている。しかしながら、単発の楽章だけで聴くと深みが足りない。わざわざ聴くべき内容ではない。

•ロンド ハ長調 K.373(フルート協奏曲版(K.Anh.184)あり)◦3.3点


優雅なロンドのテーマは耳に残るもの。一連のヴァイオリン協奏曲よりも後に書かれたことによる成熟と、優雅な楽しい雰囲気を楽しめる小品。


管楽器のための協奏曲

管楽器の明るく伸びやかで歌心溢れた協奏曲群はモーツァルトの特質が生かされており素晴らしい。

•バスーン協奏曲 変ロ長調 K.191(186e) (1774)◦3.3点


18歳の作品なので深みはないが、一流の音楽的センスは完成の域に達している。彼のセンスが管楽器の協奏曲においてプラスに働いていており、センスが良く音楽的に楽しめる作品である。

•フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299 (297c) (1778)◦4点


2楽章の高雅な美しさは知名度どおりの素晴らしさ。これほどまでに雅な音楽は思い当たらないくらい。キラキラした西洋の貴族というよりも平安時代以来の伝統の日本の京都の貴族をイメージするのは自分だけだろうか。しかしながら、1、3楽章はあまり冴えない曲で印象に残らない。

•フルート協奏曲第1番 ト長調 K.313(285c) (1778)◦3.0点


フルート協奏曲の2番と比較すると旋律の魅力に欠けており冴えがない。フルートの魅力を生かした良い作品ではあるだが、古典派の中の並みのレベルだと思う。

•フルート協奏曲第2番 ニ長調 K.314 (1778)◦3.5点


1楽章は伸びやかで明るくて清々しい。軽やかな気持ちなれる曲である。2楽章は優美でフルートの軽やかさと清らかさが活かされてる。3楽章の明るくて快活なところも魅力。全体的に深さはないもののフルート協奏曲として非常に魅力的な曲。

•オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314(285d) (1778)

フルート協奏曲2番と同曲(先にオーボエ協奏曲が書かれたものをフルート協奏曲に編曲)

•ホルン協奏曲第1番 ニ長調 K.412+K.514(386b) ◦3.5点


1楽章は柔らかく美しいメロディーが優れている充実した傑作。メロディーセンスが光る。2楽章は1楽章ほどの名曲感はなく普通。この曲はモーツァルトが無くなった年に書かれたのが定説との事だ。その割には晩年の透明感はないが、充実の傑作である。

•ホルン協奏曲第2番 変ホ長調 K.417 (1783)◦2.5点


ホルンの柔らかさを楽しめるが、わりと当たり前のフレーズばかりで、内容に隙間が多く、印象に残らない。

•ホルン協奏曲第3番 変ホ長調 K.447 (1783)◦3.3点


1、2楽章はモーツァルトらしい繊細な流麗さがよく発揮されている。3楽章の快活さもホルン協奏曲なので控えめであるものの楽しい。

•ホルン協奏曲第4番 変ホ長調 K.495 (1786)◦3.3点


3番と似た感じだが、どことなくより繊細さが増している気がする。この曲に限らずホルン協奏曲全曲に言えるが、フルートなどの他の管楽器の協奏曲とは一味違うホルンらしい温かみを上手く活用した楽しい古典派協奏曲である。

•クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 (1791)◦5.5点


モーツァルトの協奏曲の最高傑作だと思うし、全作品の中でも屈指の出来栄えだと思う。モーツァルトの協奏曲のフレームワークは他の曲と同様だが、この曲はその中で天才的なバランスを保持しながら、愛おしさ、人恋しさや諦観や未来への希望を歌心いっぱいに表現している。充実感と感動にあふれていて、強く胸を打つ作品になっている。

•フルートと管弦楽のためのアンダンテ ハ長調 K.315(1778)◦3.3点


歌心があり朗らかで牧歌的な主部と、陰影のある中間部。変化もあり中身は濃い。協奏曲の緩叙楽章としては、なかなかの出来だと思う。


室内楽曲

弦楽五重奏曲

30歳を超えて、四重奏よりも力を入れたジャンル。ヴィオラ1本でだいぶ印象が違う。充実作が並ぶ。


•弦楽五重奏曲第1番 変ロ長調 K.174 (1773)◦2.5点

爽やかで若々しいが、それ以上の魅力はない。とはいえ五重奏の音の充実感は楽しめる。


•弦楽五重奏曲第2番 ハ短調 K.406(516b) (1787年 管楽セレナードK.388 (384b) の編曲)◦3.5点

管楽セレナードの編曲。短調曲だが、悲痛な感じはあまりなく、美しく短調のメロディーを鳴らすのを楽しめる。どの楽章も内容が充実している。

•弦楽五重奏曲第3番 ハ長調 K.515 (1787)◦3.5点

1楽章は広々とした旋律で始まるのが印象的。全編が清々しく美しくしなやかで豊かな雰囲気を持っている。二楽章はよくある雰囲気だが美しさに満ちてる。三楽章はいまいち。最終楽章もよくあるロンドだが、美しくて大規模。


•弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516 (1787)◦4.0点

憂いと悲しみを含んだメロディーが各所で現れる。イントロからして半音階的で悲しい。主要な短調の器楽曲の中で、ここまで憂いの色が濃い曲は無い気がする。アダージョは短調曲でのいつもの魅力を見せているが、その中でも傑作かもしれない。最終楽章がいつもと違いゆっくり始まるのが悲しいが本編は吹っ切れたかのような明るいロンド。


•弦楽五重奏曲第5番 ニ長調 K.593 (1790)◦4.0点

どの楽章も晩年の透明感を持つ美しさを楽しめる曲として貴重。人恋しさ、現世への儚くも淡い思い出を感じる。かなり名曲。

•弦楽五重奏曲第6番 変ホ長調 K.614 (1791)◦3.0点

最晩年の曲だが、5番ほど最後の透明な美しさを感じない。割と内容も出来も普通の曲だと思う。


弦楽四重奏曲

モーツァルトのカルテットは聴きやすいものの、ハイドンと比較すると自由闊達さも構築性も足りず、伸びやかさも足りない。どのジャンルでも高レベルな作品を作る彼においては、相対的にみてあまり向いているジャンルではないかもしれない。

•弦楽四重奏曲第1番 ト長調「ロディ」 K.80(73f) (1770)◦1.5点


まだ完全に未成熟な作品であり、スカスカで内容が無く面白くない。試しに聴いてみる以上の鑑賞価値はない。

•弦楽四重奏曲第2番 ニ長調 K.155(134a) (1772)◦3.0点


1楽章はメロディーに活き活きとしてかなり魅力的。2楽章は優美でそれなりに魅力がある。3楽章は可もなく不可もない。あっという間に終わる。弦楽四重奏曲の書き方に未熟な感はあるが、1番とは雲泥の差の作品である。

•弦楽四重奏曲第3番 ト長調 K.156(134b) (1772、第2楽章改訂1773年)◦3.0点


1楽章は愉しい雰囲気、2楽章は短調でともに雰囲気は良いが旋律の魅力としてはあと一息。3楽章は悪くない。4楽章で再びの短調の嘆きの歌で驚く。こちらはなかなか良い。序奏かと思いきや最後まで続く。

•弦楽四重奏曲第4番 ハ長調 K.157 (1772-1773)◦2.5点


1楽章は旋律の癖にハイドンの影響を感じる。しかし旋律に幼さを感じていまいち。2楽章は短調。しかし単純すぎて魅力はいまいち。3楽章は舞曲のようで少し面白い。

•弦楽四重奏曲第5番 ヘ長調 K.158 (1772-1773年)◦2点


1楽章はスカスカで未熟。2楽章は短調。スカスカでこれまでより劣る。3楽章もスカスカ。未熟な作品。

•弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 K.159 (1773)◦3点


4番あたりと比較すると成長著しくなかなかいい曲だと思った。

•弦楽四重奏曲第7番 変ホ長調 K.160(159a) (1773)◦3点


さわやかなディベルティメント風でいいと思った。

•弦楽四重奏曲第8番ヘ長調 K.168 (1773)◦3.0点


弦楽合奏にも使えそうな雰囲気。いい曲。

•弦楽四重奏曲第9番イ長調 K.169 (1773)◦3.0点


爽やかさと柔らかさを持っている。

•弦楽四重奏曲第10番ハ長調 K.170 (1773)◦2.8点


1楽章はしなやかで滋味があるところ、リズム感もハイドンに似ている。2楽章の単純ななかの響きの複雑さはなかなか良い。3楽章のしなやかで伸びやかな緩徐楽章はモーツァルトでは目新しい気がする。4楽章は普通。

•弦楽四重奏曲第11番変ホ長調 K.171 (1773)◦2.5点


おとなしい楽想。同時期の他曲と比較して少し落ちる気がする。聴く順番は後がいいかも。

•弦楽四重奏曲第12番変ロ長調 K.172 (1773)◦2.5点


11番同様に同時期の他曲と比較して少し落ちる気がする。ものすごく微妙な違いなので自信は無いが。

•弦楽四重奏曲第13番ニ短調 K.173 (1773)◦3.0点


初の短調のカルテット。モーツァルトの短調曲らしさがあり、聴く価値あり。


ハイドンセット

長い時間をかけて書かれた作品集。モーツァルトにしては作曲に時間をかけすぎた弊害で息苦しさがある、という意見に自分も賛成である。

•弦楽四重奏曲第14番 ト長調『春』 K.387 (1782)◦3.5点


一楽章がキャッチー。まさに春が訪れたように、明るく暖かくなりぱっと晴れたような気分になる。二楽章も三楽章も明るくて解りやすい。対位法的な高揚感のある四楽章もよい。全体に力作。

•弦楽四重奏曲第15番 ニ短調 K.421(417b) (1783)◦3.0点


ハイドンセット唯一の短調。二、三楽章がもの足らないし、一、四楽章も他の多くの短調の傑作と比べれば凡庸。それなりにいい曲ではあるが。

•弦楽四重奏曲第16番 変ホ長調 K.428(421b) (1783)◦3.5点


人を愛おしく思うような感情が満ちている。柔らかくて優しい音楽。前半の二つの楽章が素晴らしい。

•弦楽四重奏曲第17番 変ロ長調『狩』 K.458 (1784)◦3.5点


一楽章は牧歌的で活動的な主題が印象的。確かに狩りのようだ。二楽章も明るくてリズムに乗って主題が演奏されて愉しい。三楽章は美しく、四楽章はノリがよくて聞いていてウキウキする。

•弦楽四重奏曲第18番 イ長調 K.464 (1785)◦3.0点


ハイドンセットの中では規模は大きいが楽想は一番地味。大人しめの曲であり、それを代償とする際立ったものもない。いい曲ではあるが。

•弦楽四重奏曲第19番 ハ長調『不協和音』 K.465 (1785)◦3点

なんじゃこりゃ???、と驚く斬新な不協和音の冒頭は面白いアイデアで、ソナタの主題が魅力的になるのに大きな効果を発揮してる。全体に明るく美しさを重視した曲調でまとめられている。

ハイドンセット以降

•弦楽四重奏曲第20番 ニ長調『ホフマイスター』 K.499 (1786年)◦3.3点

全体にモーツァルトにしてはあまり音は耳触りの良い方ではないし明快さが少ないが、内面的に寂寥感や人恋しさを湛えていて精神面は充実している。4楽章でさえもどこか暗い。

プロシア王四重奏曲

•弦楽四重奏曲第21番 ニ長調 K.575 (1789)◦3.3点

しなやかで人間愛にあふれた切ない雰囲気が全体を支配している。また弦楽合奏の方が向いていそうな印象もあり、特に2楽章において特に顕著である。平均してどの楽章も充実している。


•弦楽四重奏曲第22番 変ロ長調 K.589 (1790)◦3.5点

2楽章が感動的。ハイドン後期の弦楽四重奏に近い。晩年らしい胸のうちに秘めた様々な感情が抑えきれずに音楽に現れている感じであり、聴き応えがある。


•弦楽四重奏曲第23番 ヘ長調 K.590 (1790年)◦3.3点

2楽章が一番良い。雰囲気や内容はプロシア王セットの他の2曲と同様。


弦楽三重奏曲

•二つのヴァイオリンと低音楽器のためのアダージョとメヌエット K.266 (1777)◦2.5点


かなり音のバランスが悪い特殊構成の曲。中間の音がないため、いわゆるドンシャリのような音がする。2つの楽章があるが、どちらもあまり面白い曲ではない。この曲は、特殊な構成であるという価値しかないと思う。

•ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563 (1788)

ディベルティメントの方に記載。


弦楽二重奏曲

•ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 第1番 ト長調 K.423 (1783)◦3.5点


決してキワモノ曲としていい加減に書かれた作品ではなく、随分と内容が充実している立派な作品である。アイデアが豊富につぎ込まれている。たった2声部にも関わらず驚異の充実感であり、アレンジだけでも楽しめる。この2曲において声部の不足に伴う違和感がほとんどないのだから、逆にいえばモーツァルトの音楽が本質的には2声部で書かれているということに他ならないのかもしれない。

•ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 第2番 変ロ長調 K.424 (1783)◦3.5点


1番と同様の感想である。かなりの充実感のある作品である。


ピアノが入った室内楽曲

•ピアノ、オーボエ、クラリネット、ホルン、バスーンのための五重奏曲 変ホ長調 K.452 (1784)◦2.5点


1楽章は冴えない。2楽章は優美でなかなか良いが感動する程のものではない。3楽章はいまいち。全体にいまいちだが、ハルモニームジークが好きな人や生演奏なら楽しめるだろう。

•ピアノ四重奏曲第1番 ト短調 K.478 (1785)◦4.0点


ピアノ入りの室内楽の中では本格派の曲。1楽章は典型的なモーツァルトのト短調。悲劇性を帯びている情熱的な曲。2楽章はなかなか美しい。ピアノ四重奏のバランスの良さがプラスに働いている気がする。そして何より3楽章が素晴らしい。ピアノ協奏曲のようなピアノと弦のかけあいや、次々とテンポ良くメロディーが移り変わっていく技法が上手い。

•ピアノ四重奏曲第2番 変ホ長調 K.493 (1786)◦3.0点


叙情的で大らかな雰囲気で魅力があり、1番と同様に本格的で響きが豊かで楽しめるが、特別感のある楽章が無く、モーツァルトとしては普通の曲。1、2楽章は割といいが3楽章が面白くない。

•ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 K.254 (1776)◦2.8点


ハイドンのような、古典派の中でも前期から中期のような素朴な曲と感じる。モーツァルトにしては爽快で快活さを味わう楽しみがある曲であり、成熟してからのピアノ三重奏曲の出来がいまいちなので、それよりむしろ魅力があるかもしれない。名作といはいえないが。

•ピアノ三重奏曲第2番 ニ短調 K.442 (1783,90 未完成)

•ピアノ三重奏曲第3番 ト長調 K.496 (1786)◦2.0点


どの楽章も音がスカスカで聴いていて楽しくない。メロディーが面白くないし、楽器の絡みも面白くない。これはモーツァルトにしては駄作だと思う。

•ピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調 K.502 (1786)◦3.3点


2楽章がモーツァルトらしい純粋で切ない、協奏曲のかんじょ楽章のような美しさ。室内楽なのでより穏やかで個人的な切なさが表現される。1楽章と3楽章は名作とはいえはないが前作よりは充実している。

•ピアノ三重奏曲第5番 ホ長調 K.542 (1788)◦2.5点


3楽章が楽想豊かで快活でなかなか良いものの、全体的にはモーツァルトとしては水準以下。

•ピアノ三重奏曲第6番 ハ長調 K.548 (1788)◦2.5点


ピアノ三重奏の中ではしっかりした書法で書かれている曲だと思う。とはいえ音の薄さとチェロが有効活用されていないのは相変わらずだし、良いメロディーは無い。

•ピアノ三重奏曲第7番 ト長調 K.564 (1788)◦3.0点


前半の2楽章はK.548と音楽的レベルはほとんど同じレベルの印象だが、3楽章が最後のピアノ協奏曲27番を連想する晩年らしい純粋さを持った魅力作。

•ピアノ、クラリネット、ヴィオラのための三重奏曲 変ホ長調 K.498『ケーゲルシュタット・トリオ』 (1786)◦3.5点


ボーリングの前身に興じながら書いたと言われる割には、随分と穏やかで上品な曲調である。クラリネットとヴィオラとピアノは特殊構成ながら非常にバランスが良く、この構成自体が見事な発明である。名メロディーは無いものの、楽しめるなかなかの佳品。


管楽器が入った室内楽曲

•フルート四重奏曲第1番 ニ長調 K.285 (1777)◦4.0点


フルートの輝かしい華やかさと優美さを存分に生かしており、快活な1楽章と3楽章が非常に魅力的。また2楽章の情緒的な悲しいメロディーもまた非常に魅力的。短いから聴きやすい。

•フルート四重奏曲第2番 ト長調 K.285a (1778)◦2.0点


1楽章も2楽章もつまらない。偽作の疑いがもたれているが、出来の悪さや響きの薄さを考えると、偽作の方がしっくりくる。

•フルート四重奏曲第3番 ハ長調 K.Anh.171(285b) (1778)◦3.0点


1楽章はフルートが出ずっぱりのソナタで、たいした曲ではない。2楽章は変奏曲でそれなりにバラエティーに富んでいるので楽しめる。

•フルート四重奏曲第4番 イ長調 K.298 (1788)◦3.0点


他の作曲家の歌曲のメロディーを拝借してフルート四重奏に仕立てたもので、オペラのような軽いノリの曲。

•オーボエ四重奏曲 ヘ長調 K.370 (1782)◦2.5点


管の響きを堪能出来る内容だが、曲としては特別な工夫を感じないごく普通の曲でモーツァルトにしてはもの足らない。

•オーボエ五重奏曲 ハ短調 K.406 (1782)

弦楽五重奏曲2番のオーボエ五重奏曲への編曲版

•ホルン五重奏曲 変ホ長調 K.407(386c) (1782)◦3.0点


ほのぼのとしてくつろいだ雰囲気のディベルティメント的な内容。ホルンの柔らかい音色を堪能できる。

•クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581 (1789)◦5.0点


晩年の澄み切った透明感と、クラリネットが弦楽の響きのなかに溶けるようにして歌うことにより醸し出される豊穣さと愛おしさが全編にあふれている、何とも素敵な曲。モーツァルトの室内楽の中では一番わかりやすいし内容も素晴らしい。

•2つのクラリネットと3つのバセットホルンのためのアダージョ 変ロ長調 K.411(484a) (1785)◦3.3点


モーツァルトのアダージョらしい、柔らかくて温かみのありつつも透明感と憧れのある美しい音楽。オーケストラ曲のような雰囲気を管楽器だけで出せている。小品だが内容が豊かで十分に楽しめる。

•グラスハーモニカ、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロのためのアダージョとロンド K.617 (1791)◦3.5点


映画「アマデウス」の雰囲気を彷彿とさせる、不穏さと生の継続への憧れに満ちた独特の雰囲気がすばらしい曲。つい引き込まれてしまう。15分もある大曲。ただし、曲の構成が自由すぎるため、何度も繰り返し聴くような種類の音楽ではないと思う。

•バスーンとチェロのためのソナタ 変ロ長調 K.292(196c) (1775)◦2.8点


低音の2つの楽器という特殊構成のソナタ。しかしバスーンはそれなりに高音のメロディーを吹けるため、それほど低音だけという感じはしない。さすがに特殊すぎてモーツァルトの作曲能力を十分に発揮できているとはいい難いが、バスーンを堪能するという目的ではそれなりに楽しめる。

•2つのバセットホルンのための12の二重奏曲 ハ長調 K.487(496a) (1786)◦2.8点


モーツァルトには珍しいタイプの曲集である。ごく小さな曲が並んでいる。モーツァルトの原風景の一つとして案外発見がある。とはいえ、習作もしくは練習曲のような内容で、あまり鑑賞する対象となるような音楽とはいえない。12曲もありだんだん飽きてくる。


ピアノとヴァイオリンのためのソナタ

ベートーヴェン以降のヴァイオリンソナタの感覚で聴こうとすると失敗する。ピアノ主体で、ヴァイオリンはいろどりを添えるような役割となっている。

•ヴァイオリンソナタ第24番 ハ長調 K296 (1778)◦3.0点


優美で快活というのに尽きる。ごくありきたりの内容なのだが、美しい瞬間もそれなりにあり心地よくて気軽に楽しく聴ける。

•ヴァイオリンソナタ第25番 ト長調 K301(293a) (1778)◦2.5点


24番と似たような内容だが、快活さが減少して楽しさも減少してありきたりな感が増している。

•ヴァイオリンソナタ第26番 変ホ長調 K302(293b) (1778)◦2.5点


25番と同様の印象。

•ヴァイオリンソナタ第27番 ハ長調 K303(293c) (1778)◦2.5点


優美な曲。冒頭の助奏が良いが、その後はごく普通の曲。

•ヴァイオリンソナタ第28番 ホ短調 K304(300c) (1778)◦3.5点


短調曲であり、物悲しい雰囲気を楽しめる曲。しかし多くの短調曲のような激情や強烈な悲しみはなく、割と淡々とした切なさや物悲しさであること、長調メロディーとの落差もあまり大きくないのが特徴で、それに慣れると楽しめる。

•ヴァイオリンソナタ第29番 イ長調 K305(293d) (1778)◦3.0点


快活で元気がよいので楽しい。冒頭のユニゾンを始めとして、1楽章は管弦楽曲のようである。

•ヴァイオリンソナタ第30番 ニ長調 K306(300l) (1778)◦3.5点


生き生きとした魅力的な楽章ばかり。モーツァルトのピアノ入りの室内楽の中ではかなり良い出来だと思う。

•ヴァイオリンソナタ第31番 変ロ長調 K372 (1781)◦3.0点


優美で愛らしい佳曲。どの楽章もそれなりに良い。

•ヴァイオリンソナタ第32番 ヘ長調 K376(374d) (1781)◦3.0点


1楽章は音の跳躍や無窮の主題、3楽章は影のあるメヌエット、2楽章は短調の変奏曲と、どの楽章も癖がある。

•ヴァイオリンソナタ第33番 ヘ長調 K377(374e) (1781)◦3.8点


モーツァルトらしい美しさがコンパクトな編成により引き立つ作品。特別感を感じるほどではないものの、メロディーが良くて、ヴァイオリンソナタらしい愛らしく美しく、可愛らしい音楽を非常に楽しめる名作。

•ヴァイオリンソナタ第34番 変ロ長調 K378(317d) (1779)◦3.3点


長い前奏のあと突然に短調で主題が始まり驚く。悲劇的で情熱的な雰囲気だが、長調の時間も長いので、それ程短調らしさは強くない。2楽章は変奏曲で時々いいなと思う位。

•ヴァイオリンソナタ第35番 ト長調 K379(373a) (1781)◦3.0点


どのあまり主題の旋律に魅力が無く、名作という感じはしない。普通の曲。

•ヴァイオリンソナタ第36番 変ホ長調 K380(374f) (1781)

未完成の作品


•ヴァイオリンソナタ第37番 イ長調 K402(385e) (1782)

未完成の作品


•ヴァイオリンソナタ第38番 ハ長調 K403(385c) (1782)

未完成の作品


•ヴァイオリンソナタ第39番 ハ長調 K404(385d) (1782)◦3.3点

フレーズや管弦楽的、協奏曲的な音楽で演奏時間も長い。規模が大きいのを楽しめるが、オーソドックスな正統派すぎてヴァイオリンソナタらしいコンパクトさの中の才能の輝きは足りない。


•ヴァイオリンソナタ第40番 変ロ長調 K454 (1784)◦3.3点

前作が正統派なのに比べて、この作品は工夫してありきたりにならないようにしている。2楽章がなかなか美しい。3楽章の変奏曲も主題に魅力があるし、変奏も変化が十分なので楽しめる。


•ヴァイオリンソナタ第41番 変ホ長調 K481 (1785)

未完成の作品


•ヴァイオリンソナタ第42番 イ長調 K526 (1787)

未完成の作品


•ヴァイオリンソナタ第43番 ヘ長調 K547 (1788)◦3.0点

純度が高まりややシンプルで、その代わりに輝きや精気がやや失われた感じで、それまでの曲と雰囲気が違う。うまく演奏すればこの雰囲気は活かされるかもしれないが、普通の演奏だとやや面白くない。


器楽曲

特殊楽器作品

•自動オルガンのためのアダージョとアレグロ ヘ短調 K.594 (1790)◦3.5点


怖いほどの焦燥感に驚く。人生の終わりに何か悪魔のような心がモーツァルトを追い詰めていたのでは?と思わせる。鬼気迫るような曲。

•自動オルガンのためのアレグロとアンダンテ(幻想曲)ヘ短調 K.608 (1791)◦4.0点


オルガンという楽器の素晴らしさのために、ロマン派の音楽よりもロマンチックな内容となっており素晴らしい。迫力満点になったり表情豊かで、対位法の利用も効果が高い。かなり感動的な名曲。

•自動オルガンのためのアンダンテ ヘ長調 K.616 (1791)◦4.5点


人恋しさや人生に対する名残惜しさのような者が滲み出て、感動が止まらない名曲。冒頭のメロディーは聴いていて本当に泣けてくる。モーツァルトが可哀想という気分になる。オルガンでこのようなメロディーを鳴らした人は他にいただろうか?

•グラス・ハーモニカのためのアダージョ K.356(K6.K.617a) (1791)◦3.8点


人生の総決算を感じさせるような曲。グラス・ハーモニカの独特な淡くてセンチメンタルな音色が、人生の儚さを驚異的なまでに音楽で演出する。メロディーとして単純であるから、モーツァルトの曲のなかできわめて高レベルとまでは本来ならばいかないのだが、グラス・ハーモニカという特殊楽器のおかげでかなり魅力的な作品となっている。


https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88

3. 中川隆[-14005] koaQ7Jey 2020年2月06日 13:11:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-674] 報告

モーツァルト(クラヴィーア曲、声楽)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%28%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%9B%B2%E3%80%81%E5%A3%B0%E6%A5%BD%29


クラヴィーア曲

ピアノソナタ

モーツァルトのピアノソナタは愛らしく可愛らしい曲が多い。単旋律を歌わせることに長けているモーツァルトに向いている分野である。現代ピアノの機能の一部しか使わずスケール感やピアニスティックな楽しみには少々欠けるものの、良作揃いで楽しめる。素直でシンプルな初期や中期の良く、後期の作品は考えすぎの感がありイマイチである。

•ピアノソナタ第1番 ハ長調 K.279(189d)◦3.5点


どの楽章もオーソドックスな構成や内容で、モーツァルトのソナタの魅力を端的に味わうことが出来る。

•ピアノソナタ第2番 ヘ長調 K.280(189e)◦3.5点


1、3楽章は1番の方が良いが、2番は二楽章の短調のアダージョの魅力が素晴らしいのでトータルでは同じくらいよい。

•ピアノソナタ第3番 変ロ長調 K.281(189f)◦3.5点


各楽章いい。コロコロとした曲であり、最終楽章らしい感情に満ちた三楽章は特に魅力的。

•ピアノソナタ第4番 変ホ長調 K.282(189g)◦3.5点


いきなりアダージョで始まり、その魅力がかなりのもの。他の楽章は並。

•ピアノソナタ第5番 ト長調 K.283(189h)◦3.0点


イントロは耳を捉える魅力があるが、それ以降は詩的な魅力において1から4番までより少し下がると思う。

•ピアノソナタ第6番 ニ長調 K.284(205b)◦2.5点


最後の長い変奏曲は聞くのが大変。それ以外も発想の素晴らしさがあまりない。

•ピアノソナタ第7番 ハ長調 K.309(284b)◦3.5点


オーケストラのようにユニゾンで鳴らすイントロが耳に残る。各楽章が6番までより華やかでどの楽章も魅力がある。

•ピアノソナタ第8番 イ短調 K.310(300d)◦3.5点


初の短調ピアノソナタ。1楽章と3楽章の悲しみが疾走する感じが良い。

•ピアノソナタ第9番 ニ長調 K.311(284c)◦3.5点


1楽章がかなり魅力的。2,3楽章はいまいち。

•ピアノソナタ第10番 ハ長調 K.330(300h)◦3.5点


全部の楽章が魅力的。16番同様にハ長調をやさしく柔らかく詩的に非常に魅力的に鳴らしている。

•ピアノソナタ第11番 イ長調 K.331(300i) 『トルコ行進曲付き』◦3.5点


一楽章が主題や前半部分は魅力的だが、長い変奏曲なので後半は次の曲にいきたくなる。二楽章は並。三楽章の有名なトルコ行進曲は素晴らしいの一言。

•ピアノソナタ第12番 ヘ長調 K.332(300k)◦3.5点

一楽章は内容充実。二楽章は伴奏に乗って歌うような曲。三楽章は技巧的フレーズなど工夫あり。短調を活用したり作者の意気込みを感じる。

•ピアノソナタ第13番 変ロ長調 K.333(315c)◦3.5点


全編がしなやかな瑞々しい美しさにあふれた曲。三楽章にカデンツァがあるのは面白い。

•ピアノソナタ第14番 ハ短調 K.457◦3.5点

二曲目の短調曲。同じハ短調の協奏曲を思い出す。イントロはベートーヴェンのようだ。二楽章の穏やかさによる対比はモーツァルトの得意技の一つだがやはり素敵。三楽章の性急さを持った悲しみの表現も素敵。で少し理屈っぽい。慣れが必要な曲だが良さが理解できると感動的。

•ピアノソナタ第15番 ヘ長調 K.533/494(旧全集では第18番)◦3.0点


大作というより長すぎの曲だと思う。モーツァルトのピアノソナタは若いときの発想の瑞々しさがだんだん無くなってそれを技術でカバーされてクオリティーを維持している印象があるのだが、この曲でいよいよ発想の衰えが顕著になって隠しきれなくなった感じがする。

•ピアノソナタ第16番 ハ長調 K.545(旧全集では第15番)◦4.0点


初心者向けとして有名だし、一般的な観賞用にもトルコ行進曲を除いてもっとも有名な曲。シンプルでコンパクトな中に巧みな作曲技術を生かした絶妙なバランスがあり、他人には真似出来ない不思議なほど耳を捉えて離さない美しさ。

•ピアノソナタ第17番 変ロ長調 K.570(旧全集では第16番)◦1.5点

モーツァルトのピアノソナタの中でダントツの駄作。冗長で内容も薄い。

•ピアノソナタ第18番 ニ長調 K.576(旧全集では第17番)◦2.0点

一楽章や三楽章のテクニカルさが楽しむポイントと思うが、発想力の豊さも美しさも足りないと感じる。


4手および2台のピアノのためのソナタ


•四手のためのピアノソナタ ハ長調 K.19d◦2.0点

9歳の作品。まだお子様の作品で、独奏のソナタでも構わないような単純な部分が大半である。しかしモーツァルトの旋律の癖や優美さなどのセンスが現れ始めているのが興味深い。

-四手のためのピアノソナタ ト長調 K.357(497a)

•四手のためのピアノソナタ 変ロ長調 K.358(186c)◦2.8点


音感の良さでは悪くはないのだが、冴えている霊感を感じる瞬間がほとんどない地味な曲。4手ピアノの音の厚さもあまり生かせていない。

•四手のためのピアノソナタ ニ長調 K.381(123a)◦3.3点


序曲風の豪華さがある1楽章。モーツァルトらしい穏やかな優美さを発揮しいる2楽章。オペラのような活力のある3楽章。いずれも管弦楽的で編曲のようであり、華やかさで耳を楽しませてくれる愉しい曲。

•四手のためのピアノソナタ ヘ長調 K.497◦3.3点


モーツァルトにしては、かっちりとした印象。規模が大きくて、堂々としていて、あまり優美さや愛らしさは感じない。2手用ピアノソナタとも協奏曲などの別ジャンルとも違うし、2人が活発に絡むのとも違う、独特のこの曲だけの音世界の美しさを作っている。若い新鮮さやメロディーの魅力が足りない点は物足りない。

•四手のためのピアノソナタ ハ長調 K.521◦2.8点


若いときの愛らしい曲調を取り戻している。しかし、音が薄くて4手で演奏する価値が低く、2手でいいのでは?と思ってしまう。メロディーも発想の瑞々しさに乏しい。愛らしいだけで面白くない曲になってしまっている。

•2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448(375a)◦3.3点

冒頭が非常に印象的。オペラが開幕するような威勢のよい音楽。1楽章はそのまま元気に管弦楽的な豊かさを見せる。2楽章は優美で管弦楽的なまったりした豊かさがある。3楽章は少し印象が薄いが、悪くない。


その他のピアノ曲

•アレグロ ト短調 K.312◦2.5点


普通のアレグロ曲。特段感動しなかった。ひどい曲というほどではないが。

•メヌエット K.355

モーツァルトにしては異様な不協和音に近い響きや半音階的進行を使った部分に驚かされる。しかし、全体に美しさが感じられず、あまり価値が高い曲とは思えない。

•プレリュードとフーガ◦2.5点


モーツァルト本人のスタイルによる作品というより模倣による習作であるのは明らか。プレリュードといっても普通の曲ではなく、自由な疾風怒濤の激しい幻想曲である。CPEバッハとJSバッハの作品を真似したものとはっきり分かる。フーガは感心するほどの出来ではなかった。

•カプリッチョ K.395◦2.5点


モーツァルトとは思えないヴィルトゥオーゾ的な即興的パッセージで埋め尽くされた曲。違うCDと間違えたかと思うほど異色の作品で驚いた。たいした曲ではない。

•組曲 K.399◦3.0点


ヘンデルの組曲の影響を受けた曲。バロック音楽色がかなり強い、異色の曲。アルマンドが素敵だし、他の曲も頑張っている。

•アレグロ K.400◦3.0点


未完の曲。活発なソナタ形式のアレグロ。将来ソナタにする予定だったため、きっちりとした形式感があるし、かなり華やかな派手さがあるため楽しめる。

•フーガ ト短調 K.401◦2.8点


バロック風のフーガであり、未完成である。まだ若い時の作品であり、昔の作品を真似しながら書いたように感じた。

•行進曲 K.408◦3.5点


かなり楽しめる行進曲。規模が大きくて勇壮で、心踊るような元気な楽しさに満ちていて、かなり魅力的。行進曲を書いても一流であることに感服した。管弦楽曲の編曲。

•2台のピアノのためのフーガ ハ短調 K.426◦3.0点


成熟した内容である。大バッハのフーガにテーマも展開も非常に似ており、伝記に登場するようなモーツァルトのバッハ体験の強烈さを体感できる曲の一つ。

•小さな葬送行進曲 K.453a◦3.0点


ごく小さな曲であるが、内容はしっかりしており、小品として良い曲である。葬送曲らしさを楽しめる。

•主題と2つの変奏曲 K.460◦3.0点


愉しいテーマと細かく音を分断して派手にする変奏曲。自筆譜に2つの変奏しか無いそうだ。おかげで短くて聞きやすい小品になっている。

•アンダンテと5つの変奏曲 ト長調 K.501 (四手のための)

•幻想曲 ハ短調 K.475◦3.8点


ハ短調の曲らしく悲劇的で堅い印象。内向的な作品で形式にとらわれない自由なドラマ構築がされている。かなり暗い曲であり、モーツァルトの内に秘めていた熱いものをさらけ出している。堅さはあるものの、悲しみを乗り越えて現実を受け入れるかのようなメロディーは胸をうつ。ドラマティックな場面展開はかなり優れていて、ソナタには無い自由さと長大さを正しく使いこなして、曲を成功させている。

•幻想曲 ニ短調 K.397◦4.0点


短調の曲における悲劇と悪魔的な雰囲気を最も感じさせるクラヴィーア曲。むしろやり過ぎで、あからさま過ぎなのが気になる。とはいえ、素直に音楽の流れに乗れれば感動できるし、印象的な場面ばかりなのは確か。同じ二短調のピアノ協奏曲と共通点がある。

•ロンド ニ長調 K.485◦3.5点


愛らしい主題によるロンド。成熟した音楽であり、転調を繰り返しながら、場面展開を繰り返す。ピアノソナタの大半の楽章以上に複雑で充実した作品である。

•ロンド イ短調 K.511◦3.5点


晩年の諦観の香りがする曲。どこもなく人恋しく寂しい感じのする主題が胸をうつ。書法に他の作品とどこか違う簡素さがあり、モーツァルトのクラヴィーア曲の中で特殊な曲という印象を与える。

•小葬送行進曲 ハ短調 K.453a

•アダージョ ロ短調 K.540◦3.5点


悲しい人生経験を衝動的に表現したくなって書いた事が容易に想像出来る曲。モーツァルトらしい悪魔的な表現、内面的なドラマティックさの塊のような曲であり、切々とした寂しさや悲しみに強く胸を打たれる。これだけ端的にこのような表現をされた曲は珍しい。10分の大作だが、聞き入っているうちにあっという間に終わる。とはいえ、時間をかけて何か特別な用意をした感じの曲ではないので、点数は抑え目にした。

•小さなジーグ K.574◦2.5点

2分以下の小さな曲。ソナタでは聴かれない特殊な軽快で活発な音楽という点で、モーツァルトの新しい面を聴ける。スケルツォのようでもある。ただ、良い曲という印象はない。

•2台のピアノのためのラルゲットとアレグロ変ホ長調◦2.8点

2台ピアノの書法に成熟感があり楽しめるだが、メロディーにあまり魅力がないため、全体としてはいまいちな作品である。

声楽作品

ミサ曲

•戴冠ミサ ハ長調 K.317◦3.3点

華やかで豪華な印象の強い曲。しかし、あまり目立つ良さがない。モーツァルトの良さが十分に生きていないというか、ミサ曲に馴染んでいないと感じる場面が多いのと、メロディーにこれはという感動がない。職人的に書かれた機械音楽の趣が強いと感じる。とはいえ舞台音楽の名手らしい躍動感で音の輝きをみせるし、華やかな聴き栄えの良さはなかなかである。

•大ミサ曲 ハ短調 K.427(K6.417a)◦4.5点

このような曲を自主的に書き始めるのは、どのような切羽詰まった心境だったのだろうか?冒頭こそ半音階的でバッハのような堅さが目立つが、すぐに音楽は悲しみにくれた心情を露わに表現する音楽が始まる。ロマン派の誰よりも直接的な感情表現の得意なモーツァルトの独壇場となって、次々とシンプルでありながら見事に心を打つメロディーをみせる。その迫力においてやはり非常に価値のある曲と言えるだろう。レクイエムと比較したくなる曲だが、自身で完成している割合がずっと高い点ではこちらの方が素直に楽しめる。ただし長いため最後の方は飽きてしまうが。


合唱音楽・モテット

•モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618

•カンタータ『悔悟するダヴィデ』K.469

大ミサ曲ハ短調を改作した曲

•レクイエム ニ短調 K.626◦5.0点


映画アマデウスのイメージが強い。心の叫びのような素晴らしく感動的な曲が並んでいる。本人作は全曲良いが、その中でも特に全部本人が書いた1曲目は素晴らしいし、その後も次々と凄まじい曲が続いて圧倒される。ただし、全てが清算される無に返る超越的な事象である死を受け入れるというより、どちらかというと生への執着と劇的な悲しさを感じてしまう。他人が鎮魂するための曲というより、本人が死と格闘する曲であるかのようだ。


https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%28%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%9B%B2%E3%80%81%E5%A3%B0%E6%A5%BD%29

4. 中川隆[-12997] koaQ7Jey 2020年3月06日 11:42:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[537] 報告
モーツァルト論

神がかり的なバランス感覚、天真爛漫さ、悪魔的な魅力、メロディーメーカーとしての才能、ロマンチックさなど、天才的な愛される要素を多くもっていた、古今のクラック音楽家の中でもっとも素晴らしい作曲家の一人。

オペラのように自由に楽器を活躍させて、歌わせる事にも長けていた。


現代楽器との相性がよいのも、現代における人気の源泉のひとつだと思う。


モーツァルトの得意分野はオペラと協奏曲とよく言われる。

18世紀後半のオペラと協奏曲で現代でもメジャーなレパートリーになっているのはモーツァルトの作品だけである。

ハイドンとの差がもっとも大きな分野といってもよい。

結局、ベートーヴェンが1800年以降に主要な曲を書き、一方でバロックの大作曲家達は1750年ごろまでに主要な曲を書いている。

ある意味で1750年〜1800年は谷間の世代である。

ただし、モーツァルトとハイドンという大巨匠がいるために、音楽的遺産は決してものたりないものではないのだが。


モーツァルトは多くの音楽をよく勉強し、自分の音楽の中に取り込んでいた。


モーツァルトは形式的な厳格さ、単純な和声という古典派時代における制約の厳しさをむしろ逆用し、シンプルな中であるからこその豊かさを実現した。


形式的な整備の完璧さ、バランスの良さと外面的な手持ちの表現手段の豊富さ故に、モーツァルトは最も芸術的に純度の高い結晶として、深い段階に到達した作品を書いた作曲家といえる。

音楽に限らず、相対的な評価は、同じような高いレベル同士で比較するからこそ可能である。モーツァルトは基礎的なレベルが高く、その中でさらに厳選されたさらに高いレベルに到達する音楽を作り上げることが出来た。


モーツァルトの軽やかさと気軽さは、モーツァルトの人気の高さの大きなウェイトを占めている。

モーツァルトの音楽は、本当に聴きやすい。

次の世紀に入ると気軽さが薄れて芸術音楽としての側面が強くなっていく。

バランスにおける絶妙な天才性があるため、軽さだけで終わっていない。これてあわせて軽さが成り立っているところはある。


モーツァルトの音楽におけるフットワークの軽さと、人間の生理的感覚との一体感は、非常に優れた面のひとつである。

息継ぎするように一瞬の休憩を入れたり、気分転換したり。ちょっと急いでみたり、立ち止まってみたりというような当意即妙な身体感覚と適合する音楽は、楽しさの大きな理由となっている。

一方で、ロマンチックさや芸術性ももっている。彼の音楽は同時代の多くの音楽と比較して複雑であり、次の時代に近いものがある。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E5%AE%B6%E8%AB%96

5. 中川隆[-13339] koaQ7Jey 2020年3月25日 09:28:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1565] 報告
踏みにじられた「ウィーンの名花」-----デラ・カーザ降板劇
http://www.fugue.us/Intermezzo_combined.html


Tomoyuki Sawado (Sonetto Classics)
リーザ・デラ・カーザ

不可解な主役の変更

1960年7月26日、ザルツブルグ祝祭大劇場のこけら落とし公演において、スイス生まれの名ソプラノ、リーザ・デラ・カーザ(1919-)は「バラの騎 士」の元帥夫人マルシャリン役を歌い、満場の聴衆を魅了していた。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のウィーン・フィル、セーナ・ユリナッチのオクタヴィ アン、ヒルデ・ギューデンのゾフィーという、伝説的な共演者達であった。公演は歴史的と言える成功をおさめた。そして、この後、本来ならば、デラ・カーザ を主役としたオペラ映画「バラの騎士」が撮影される運びだった。彼女にとっては、キャリアのピークとなる、輝かしい夏となる筈だったのだ。ところが、実際 の映画の撮影現場にいたのはデラ・カーザではなく、ライヴァル、エリーザベト・シュヴァルツコップだった。完成した映画は公開当初から最高の評価を受け、 デラ・カーザの公演での大成功にも関わらず、マルシャリン=シュヴァルツコップのイメージだけが後世に残ることとなった。


映画において、シュヴァルツコップの良くコントロールされた歌唱、毅然とした佇まいが、元帥夫人の一つの優れたモデルを提供していたのは確かである。しか し、当初の予定通り、デラ・カーザが映画に出演していたら、映像の魅力は、より大きなものとなっていたかもしれない。というのも、デラ・カーザはハリウッ ド黄金期の女優達を彷彿とさせる、優艶なる美貌の持ち主だったからだ。人はデラ・カーザを「アラベリッシマ=最美のアラベラ」「ウィーンの名花」と賞賛し ていた。彼女の舞台姿を評して、「ルードヴィヒ一世のギャラリーにある素晴らしく美しい肖像画から抜け出て来たような」と讃嘆したのは、名バリトンのハン ス・ホッターである("Memoirs", Hans Hotter, p126)。

「デラ・カーザは新しいアラベラになるぞ」(リヒャルト・シュトラウス, 1947年)




バイエルン国立歌劇場での「サロメ」より「7つのヴェールの踊り」を舞うデラ・カーザ。1961年のカール・ベーム指揮の公演はセンセーショナルな成功を収めた。


しかし、デラ・カーザは、単に美貌で売っていた歌手だったわけではな い。彼女はオペラ史上でも稀に見る万能ソプラノだったのだ。なにしろ、彼女は「バラの騎士」において、メゾのアンニーナとオクタヴィアン、ソプラノのゾ フィーとマルシャリンという、音域も性格も異なる4つの女声役全てで成功している。しかも、彼女は、本来ドラマティックソプラノの領分であるクリソテミス やサロメを歌ってセンセーショナルな成功を収め、パミーナ、フィオルディリージ、伯爵夫人などのモーツアルトのリリックな役柄では当代随一の評価を得てい たし、ミミ、トスカなどのイタリア系の役柄でも高く評価された。そしてデビュー当時はコロラトゥーラの夜の女王まで手がけていたのである。ここまで来ると 一種の異才というべきだろう。

フリッツ・ライナーは、ある時、デラ・カーザに向かって、「リーザ、私が歌手の連中を好んでいないのは知っているな。でも君は歌手じゃない。音楽家だ。」 と言ったという。この発言は、二つの観点から解釈することができる。まず、純粋な歌唱技術という観点から見ると、デラ・カーザは100%完璧なものを持っ ていたわけではなかった。もちろん、第一級と言っていい歌唱能力の持ち主ではあったが、弱音になると、中低声部の音程が若干フラットになることがあった。 銀色の美声の持ち主ではあったものの、決して声楽技術を売りにする「歌手」ではなかったと言える。第二に、彼女の最大の特質は、音楽性、特にその歌の「真 正さ」にあった。表情が硬い、と指摘されることがあったが、一方で何を歌っても、控えめな美しさ、清純さ、若々しい息吹を感じさせた。この点で、彼女はマ リア・チェボターリ、マリア・ライニング、グンドゥラ・ヤノヴィッツの系列に属する、正統的シュトラウス・プリマだったと言える。



デラ・カーザのアラベラと、フィッシャー・ディスカウのマンドリカは、黄金の組み合わせだった。


高貴な美貌はもとより、その若々しく上品な歌声は、シュトラウスのオペラ「アラベラ」の世界に完璧にマッチしていた。結婚を夢見る令嬢の心の揺れ動きを、 デラ・カーザほどさりげなく、そして見事に歌い、演じた歌手はいない。彼女のアラベラは伝説的で、いまだに世界中のどこかで誰かがこの役を歌うたびに、 「デラ・カーザ」の名が比較にあげられるほどである。現在、4種類の公式録音が手に入る上、全曲のライヴ映像もドイツのテレビ局に残っている。特に、最近 オルフェオから発売された「アラベラ」のライヴ録音は瞠目すべき演奏で、そこでは彼女の最高のアラベラを聴くことができる。もちろん、名盤として知られる ショルティとの1957年のデッカ録音では、ジョン・カルショーによる見事な録音と、瑞々しいデラ・カーザの美声が満喫できるのだが、一方で彼女の表現は ややクールに過ぎ、ショルティの指揮も力づくで味わいに欠けているのは否めない。1963年のカイルベルトとのDG録音では、デラ・カーザの表現ははるか に深みを増している反面、声は重くなり、そのコントロールは完璧ではなくなっている。その点、1958年のオルフェオ録音は、声、表現、カイルベルトの指 揮VPOの豊麗な伴奏ともに、ほぼ理想的な状態にある。


完璧なマルシャリン


1960年の「バラの騎士」ザルツブルグ公演の美しい舞台写真。マルシャリンのデラ・カーザ(左)とオクタヴィアンのユリナッチ(右)。



冒頭にあげた公演、1960年に行われた「バラの騎士」プレミエの録音が、最近になってDGから発売になった。モノラルの放送録音由来というハンディをい れても、演奏内容でシュヴァルツコップとカラヤンが製作した著名なEMI盤を凌駕する、という意見が多い(英グラモフォン誌のAlan Blythもこのライヴ盤をEMI盤よりも上位に置いている)。実際、カラヤンの流麗な指揮は見事なもので、EMIのスタジオ録音よりも音楽が自然に流れ ている。ゾフィーを歌ったギューデンだけはやや不調だが、他の歌手は素晴らしい出来だ。特に、デラ・カーザに関しては、レコードで聴くことのできるマル シャリンの中でも最上のものに属する。入念に準備されたらしく、低音から高音までムラなく美しい声で、非の打ち所の無い歌唱を聴くことができる。最後の三 重唱では、遅めのカラヤンの指揮によりそい、クリスタルガラスのように輝くトーンと、見事なヴォイス・コントロールを聴かせている。そして、少しもわざと らしさ、押し付けがましさを感じさせない表現が新鮮だ。他の歌手が歌うとやりすぎて暑苦しくなる「時計のモノローグ」も、さりげなく歌われ、心の微妙なゆ らめきが伝わってくる。何より、30代前半の女性を想定されて書かれたマルシャリンに相応しく、声に若々しい息吹を感じさせるのが良い。全ての点でゾ フィーを上回る魅力を持つマルシャリン、というのはプロット上問題かもしれないが......

この素晴しい結果から見ても、指揮者カラヤンと監督ツインナーが、当初、デラ・カーザを公演と映画でのマルシャリンに起用しようとしたのは正しい判断だっ た。カラヤンは、この公演に先立つ1959年の夏、デラ・カーザに翌年の「バラの騎士」の出演を依頼している(ただ、この時点から、なぜかカラヤンは、 シュヴァルツコップをセカンドとしたダブルキャストにこだわっていた)。そして、公演の4カ月前の1960年の3月に、音楽祭のプレジデントであった Baron Puthonが、デラ・カーザ夫妻に「バラの騎士」映画製作の話をした。デラ・カーザが喜んだのは当然である。特に、監督のツインナーは、ことのほかデ ラ・カーザ起用に熱心であったようだ。彼らは1960年の4月の段階でデラ・カーザに映画主演のオファーを出し、デラ・カーザも受諾した。6月には、ツイ ンナーは、デラ・カーザ夫妻に「マルシャリンとザルツブルグでの映画を大変楽しみにしている」というカードを送っている((Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", p249-251)。デラ・カーザが心配することは何も無かった。あとは公演をこなし、カメラの前に立つだけである。

寝耳に水の降板劇と6年前の伏線


流れが突然変わったのは、7月、ザルツブルグ音楽祭が始まった後である。突然、彼女は映画の主役から外されたのだ。しかも、その決定は、デラ・カーザ本人にさえ知らされなかったらしい。メゾ・ソプラノのクリスタ・ルードヴィヒの自伝に以下の記述がある。

「リー ザ・デラ・カーザは、ザルツブルグで不愉快な驚きを経験させられた。彼女は、新しい祝祭大劇場で、1960年の7月、カラヤンの指揮で素晴らしいマルシャ リンを歌った。私がきいたところでは、その公演が映画化されるとのことだったが、(実際の)映画では、シュヴァルツコップがマルシャリンだった。音楽祭の 最中、私はリーザに道でばったり会ったのだが、彼女はその映画の話をし始め、わたしにその映画に出演することをどんなに楽しみにしているか、ということを 語ったのだ。私はひどく無邪気に、「あなた、シュヴァルツコップが映画でマルシャリンを歌うことになっているのを知らないの?」と言ってしまった。リーザ は、誰かが彼女を排除した、ということを全く知らなかったのだ。契約というのは破るためにあるのだ。ヴォータンが「指輪」で幾度もやったよう に............」(「In My Own Voice:Memoirs」p185-6)



ドンナ・エルヴィーラに扮した、イングリッド・バーグマン風のデラ・カーザとサイン。(筆者蔵)


いったい、何が起こったのだろうか?

Richard Fawks のOpera on Filmsによれば、ツインナーの1954年の映像作品、「ドン・ジョヴァンニ」に、「バラの騎士」降板事件の伏線があるという (p161)。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のこの映像作品のプロトタイプとなった本公演では、シュヴァルツコップがドンナ・エルヴィーラ役とし て、ザルツブルグの6公演に参加した。しかし、シュヴァルツコップ夫君のEMIプロデューサー、ウォルター・レッグの意向で、シュヴァルツコップは映像版 への参加を取り止めてしまう。

その理由は、「ドン・ジョヴァンニ」の製作中に、ツインナー監督で「バラの騎士」映画制作の計画があることをレッグが知ったためである。レッグは、その映 画に妻のシュヴァルツコップをマルシャリンとして登場させることを優先させたのだ。「ドン・ジョヴァンニ」をあきらめることで、最初の映画出演から派生す る契約上の束縛から自由になることも狙っていたことだろう。シュヴァルツコップが役を降りてしまったため、急遽、デラ・カーザが映画「ドン・ジョヴァン ニ」のドンナ・エルヴィーラ役に起用された。既に製作は進んでいたこともあって、デラ・カーザの登場箇所のみは、後になって改めて撮り直され、シュヴァル ツコップが登場する箇所と差し替えられた。つまり、シュヴァルツコップとレッグの間では、「バラの騎士」は数年越しの夢だったのだ。そして、この夢は何が 何でも達成されなければならなかった。

シュヴァルツコップ、レッグ夫妻の水面下での動き


自伝ではぼかしているのだが、クリスタ・ルードヴィヒはデラ・カーザ降板の舞台裏を知っていた筈である。デラ・カーザの夫君、デベルジェヴィッチ (Dragan Debeljevic)の「Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken"」によれば、ルードヴィヒとデベルジェヴィッチは、ザルツブルグ祝祭劇場の前でばったり出会い、以下の会話を交わしているという (p251)。

ルードヴィヒ「私、エリーザベトには頭に来てるの」

デベルジェヴィッチ「どのエリーザベトのことで怒っているんだい?」

ルードヴィヒ「(驚いて)シュヴァルツコップのことよ」

デベルジェヴィッチ「なぜ?」

ルードヴィヒ「なぜ?映画のことに決まっているじゃないの。シュヴァルツコップが映画に出演するなんて、ひどい話だと思うわ。」

デベルジェヴィッチ「そんなはずはないさ。リーザはずっと前から出ることが決まっている。ツインナーとは、出演料の話がのこっているだけなんだよ」

ルードヴィヒ「シュヴァルツコップの契約のことで誰もあなた達に連絡していないの?」

驚いたデベルジェヴィッチは、リハーサル中の妻のデラ・カーザに電話をかけた。デラ・カーザは、当初、夫の話を信じなかったのだが、ついに監督のツイン ナーから一件をきかされるはめになる。デベルジェヴィッチによれば、ツインナーは「うなだれた姿」で、「ひどい話だ。私は運が悪い」と口走っていたとい う。ツインナー曰く、「シュヴァルツコップとその夫君(レッグ)がロンドンの映画会社と直接交渉し、最終契約を結んでしまった」というのである。そして、 ツインナーは、「自分は知らなかったんだ」としつつも、「口約束しかしなかったのは君たちのミスだった」とデラ・カーザ側を責める言葉を吐く。デベルジェ ヴィッチは激昂し、激しくツインナーを罵る。デラ・カーザはカラヤンに直訴しようとするが、ツインナーは「もう変更はきかない」と言うのみだった。 (Dragan Debeljevic, p251-2)



映画は、ライヴァル、シュヴァルツコップのマルシャリン歌いとしての名声を不朽のものとした


確かに、デラ・カーザがカラヤンのもとへ行ったとしても、時間の無駄だったろう。シュヴァルツコップは既にカラヤンとも手を打ってしまっていたからだ。ロ ンドンの映画会社といい、カラヤンといい、彼女の動きは見事なまでに素早く、効果的で、そして容赦の無いものだった。

「  最初に問題が起きたのは、カラヤンがマルシャリン役にシュヴァルツコップではなく、リーザ・デラ・カーザを起用する、と決めたときであった。デラ・カーザ はマルシャリンの役をそれほど好んでいなかったから、シュヴァルツコップには二重のショックだった-----彼女は、前年の12月にコヴェント・ガーデン でショルティの元でこの役を歌った時、イギリスのメディアから、「好意的に見ても賛否半ば」、という評価を受けていたのである。-------シュヴァル ツコップはカラヤン指揮で『ドン・ジョヴァンニ』のドンナ・エルヴィラを、ベーム指揮で『コジ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージを歌う予定になっ ていたのにも関わらず、1960年のザルツブルグ音楽祭から完全に降りると脅した。そして、シュヴァルツコップは、カラヤン指揮、パウル・ツィンナー監督 の映画、「バラの騎士」のマルシャリンとして出演する、という合意を確実に取り付けた。」
(Herbert Von Karajan: A Life in Music, p454 Richard Osbone)


普 通であれば、帝王カラヤンを脅した段階でシュヴァルツコップのキャリアは暗転していたかもしれない。仮にシュヴァルツコップがザルツブルグ音楽祭から完全 撤退したとしても、芸術面、人気面で音楽祭が損害を受けることはなかったろう。なにしろ、当時のデラ・カーザの高いレパートリー能力と人気は、シュヴァル ツコップの穴を埋めるに十分すぎるものだったからだ。そして、もしそうなっていたら、1960年のザルツブルグ音楽祭の主役はデラ・カーザになっていた。 そして、後世は、オペラ演奏史上、もっとも美しいマルシャリンのカラー映像を目にしていたに違いない。


音楽ビジネスの論理を優先したカラヤン



一世を風靡した当たり役、美女アラベラに扮したデラ・カーザ。作曲者リヒャルト・シュトラウスは、脇役を演じる20代の彼女の舞台を見て、「彼女は将来、新たなアラベラになるだろう」と予言した。


だが、実際にはそのような事は起きなかった。カラヤンがシュヴァルツ コップの要求をそのまま受け入れ、シュヴァルツコップを映画の主役にしてしまったからである。カラヤンの翻意の理由は、シュヴァルツコップの実力というよ り、シュヴァルツコップの夫君、ウォルター・レッグの存在があったからに他ならない。レッグは敏腕プロデューサーとして、大会社EMIを実質的に統括して おり、ある意味、カラヤン以上に大きな力を持っていた。また、カラヤンは、ナチ党員として演奏活動が禁じられていた戦後間もない時期、レッグが創設した フィルハーモニア管弦楽団との録音の場を提供してもらっていた。カラヤンにとって、シュヴァルツコップを切って、恩も力もあるレッグとの関係にヒビを入れ ることなど想像もできなかっただろう。そして、シュヴァルツコップは、当時、賛否半ばだったとは言え、独自のマルシャリンを歌い、演じることが出来たか ら、カラヤンの行為は、道義的にはともかく、芸術的には理不尽な判断ではなかった。そのことは、シュヴァルツコップ主演の映画が成功したことからも明らか である。

無惨だったのは、さんざん持ち上げられたあげくに梯子を外され、しかも、部外者であったルードヴィヒから道端で一件を知らされたデラ・カーザ夫妻である。 カラヤンを始めとする関係者は、誰も彼女に説明しようとしなかったのだ。大物達の政治的思惑が交錯する中、後ろ盾のない彼女は、ただ苦い涙を飲む他なかっ た。デベルジェヴィッチによれば、彼女は、降板が決定した後、数日間というもの、ひどくふさぎ込み、プレミエの大成功についても、「何の意味があるの?明 日になれば皆忘れてしまうわ。でも映画は記録として残るのよ。」と言っていたという。そして、「自分は裏切られた。自分は失敗者」とさえ考え、「Ich will nie mehr nach Salzburg-----もうザルツブルグ音楽祭では歌わない」と語るまでになっていた(Dragan Debeljevic, p252)。実際、翌年以降の同プロダクションはシュヴァルツコップが歌ったし、シュトラウス・イヤーであった1964年にも、カラヤンからの音楽祭への 出演オファーを断っている(Dragan Debeljevic, p253)。もちろん、彼女も栄光あるザルツブルグ音楽祭への出演を断りつづけることで、自身のキャリアを傷つけていることは分かっていたが、彼女は自分 をもてあそんだ場所を許すことができなかった。間もなく、彼女のメジャーレーベルへの録音も途絶えてしまう。


苦い涙とともに

こ の不条理な降板事件は、デラ・カーザの心に、音楽業界に対する大きな不信をもたらした。彼女は、これ以降もシュヴァルツコップと共演しており、少なくとも 表面上、二人のライヴァルの関係がささくれ立つようなことはなかったようだ。ただ、音楽ビジネスの象徴であるザルツブルグ音楽祭への思いは別である。「陳 腐」「誇りも人間味もない」「不公正。嘘。詐欺」「私はザルツブルグ音楽祭なしでも生きていけるし、ザルツブルグは私なしでも生きていける」と、プライ ヴェートな場でではあるが、激しい言葉を使っていた(Dragan Debeljevic、p253)。そして、後年のデラ・カーザは、音楽ビジネス全体、オペラの世界に充満する陰謀、嫉妬、政治的な動き、スター歌手達の 自己中心的な振る舞いに対する違和感を表明するようになっていく。彼女は1974年、突然、引退を表明した。娘の病気が理由である。とあるインタビュー で、「とてつもなく深い悲しみの表情とともに」、かつて負った心の傷を伺わせるような言葉を残している。

歌手の運命の一番奇妙なところは、目的のために全てをなげうち、そして儚く全てが終わってしまうこと.............

私達の残した足跡なんて、今日の午後降った雪のようなものなのです。明日には消え、何も残らないの。

そうね、何人かは覚えていてくれるでしょう。でも、それも本当に短い間だけね。

(The Prima Donnas, Lanfranco Rasponi)


彼女は敗北したのか?


1960年のザルツブルグでの「バラの騎士」の舞台から。デラ・カーザ(左)とセーナ・ユリナッチ(右)



幸運なことに、これらの言葉は、彼女に限ってはせいぜい半分程度しか当てはまらなかった。確かに、現在、デラ・カーザの名は、レッグと彼の息のかかったメ ディアによって過剰なまでに神格化されたシュヴァルツコップに比べ、ひどく過小な扱いを受けている。しかし、その反面、彼女が1960年代前半までに残し たいくつかの録音は、オペラを少しでも聴き込んだ人々にとっての大切な宝物であり続けている。「アラベラ」4種(DG、デッカ、オルフェオ、テスタメン ト)、ミトロプーロスとの「エレクトラ」(オルフェオ)、ベームとの「四つの最後の歌」「コシ・ファン・トゥッテ」(デッカ)「ナクソス島のアリアドネ」 (DG)、エーリヒ・クライバーとの「フィガロの結婚」(デッカ)、セルとの「魔笛」(オルフェオ)、フルトヴェングラーとの「ドン・ジョヴァンニ」 「フィデリオ」、そして、何と言ってもカラヤンとの1960年の「バラの騎士」のライヴ録音(DG)..........。これだけ多くの名盤、綺羅星の ような名演に関わって来た歌手の名が、「雪のように、明日には何も残らない」ことがありうるだろうか。

興味深いことがある。近年、シュヴァルツコップの歌唱アプローチが、若い世代の歌手や批評家達から、作為的、表情過多、マンネリズムと批判されることが増 えてきているのである。巷で「完璧」とされてきた技巧についても、よく聴いてみれば、音程も正しいわけではないし、特に後年は、もっぱら声の美感の不足を 隠すために使われていたようにも聴こえる。ウォルター・レッグによる宣伝とは無縁の若い世代の聴衆には、かつて「お行儀が良すぎる」と言われた、デラ・ カーザのナチュラルで上品な歌い方の方がフレッシュに響くのではないだろうか。実際、ここ10年の間に彼女が参加した公演のライヴ録音が、オルフェオ、 DG、テスタメント等を通じて日の目を見て来たが、どの盤も最高の評価を受けている。1960年にバイエルン国立歌劇場で収録された、「アラベラ」の全曲 映像が正規ルートで発売される日もそう遠くはないだろう。

来年初頭、「ウィーンの名花」リーザ・デラ・カーザは89歳になる。彼女は、ささやかだが、着実に進行しているリバイバルの流れをどのように見ているのだろうか。できることなら、話をきいてみたい気がする。

10/23/2007
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References

Memoirs, by Hans Hotter

Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", Dragan Debeljevic

In My Own Voice: Memoirs, by Christa Ludwig

Herbert Von Karajan: A Life in Music, by Richard Osbone

The Prima Donnas, by Lanfranco Rasponi

Opera on Films, by Richard Fawks

"Lisa Della Casa" (International Opera Collector, p26-31), by Roger Nichols


追記)デラ・カーザの90歳記念特集のテレビ番組が制作された。その中で、白黒ではあるが、60年ザルツブルグ音楽祭の「薔薇の騎士」の舞台を記録した映像が流されている。

http://www.fugue.us/Intermezzo_combined.html

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