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三人のキリスト的存在 
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/358.html
投稿者 Air−Real 日時 2016 年 5 月 02 日 00:02:54: dsfJ1hAY0z6VI gmCCiYKSgXyCcYKFgoGCjA
 

(回答先: ペトロ(ペテロ)とユダ 「この中に私を裏切る者がいる」 −それは一人を指す言葉のはず− 投稿者 Air−Real 日時 2016 年 4 月 27 日 15:39:12)

*「キリスト的存在」とは教師の役割を自認する意識グループのひとつをさす言葉と理解することができる。

われわれ人類の意識をその生徒と見れば、”キリスト”とはたびたび姿や時代をかえ、
われわれの前に教師として現れている存在だということになる。

つまり、人々の評価の大なり小なり違いはあれど、キリストと呼べる存在は人類史に多数存在しているとすることができる。

われわれも同じように、すべての転生とは、
多種多様な場所と人種間を選んで偏りなく生まれている。

そこに理解できることとは「キリスト」とは、また、それぞれの魂は、たった一国の宗派、
また種族に属しつづけるものでなどないということである。

またそれは個人の名を指すものでもない。


*ヨハネ、イエス、パウロ(サウロ)は三人のキリストである。


われわれの意識とは、地球の意識を母体として、肉体をともにする同質存在としてある。
だが永劫にわたってそうあるわけではないように、キリスト意識そのものもまた、
地球の意識に属すものではない。

人類はすでにその数回の接触のおり、人類の目覚めに必要な「変容の種子」が埋め込まれている。

そしてわれわれの意識の中にも、そのキリスト意識は内蔵されているということだ。

私たちが宗教という題材に過敏に影響力を受けて反応するのはそこに起因する。

それはこれまで以上の何者かになろうとする、それぞれの欲する期待が、
そのことを通じて、外側へと現れようとするからである。

種子は既に蒔かれている。
常にその期待に通じているものを選んで、その種子は外側に芽を伸ばそうとするだろう。


繰り返すことだが、現代の私たちが抱える問題とは、ひとつの価値観を境にしてその解釈の食い違いによる争いが絶えないことにある。

われわれはそもそもひとつの価値観の中に統べられ、
ロボットのように働くようプログラムされてはいない。

生命とはわれわれそのものであり、それはただ多様性を発揮するために存在する。

つまりわれわれに必要な統一的価値観とは、
あらゆる多様性ある価値を認めるということ、
そして互いの存在性を認め合うというものだけである。


われわれの変容によって世界はその様相をがらりと変化させてしまうだろうが、
その時期はもうそこまできているのであり、われわれはその理解を推し進めようとしている。

新しい価値観への目覚めと、意識の抜本的改革が起こることで、
資源を求めて、支配権をめぐって争うといった数々の根本的な争いの原因もすべて、
そこに一掃させてしまうほどのことが起こりはじめるだろう。

教師たちはそれをこの今のわれわれの時代に合わせて、
過去にその種子を蒔いてきているというわけである。

それぞれの出来事はその今に通じている。

失敗はもう繰り返されない。

適宜に新たな物語は到来すると既に予言されていることである。


この話を信じられないとして、眉唾と聞き流すものにもその恩恵は平等に訪れる。

誰もそこから排除されない。

すべての生命がそのことを祝う日が近づいている。


彼ら教師も私たちも、ともに同じ、「概念的な人格存在」であることを理解すれば、
この先の話がとんとんと進むことになる。


 

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コメント
 
1. アーリエル[23] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月02日 00:04:12 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[112]
*キリストの物語とは、その当時の人類の意識(地球意識)が勧請(要請)したものだということ。

人類の意識がひとつの大きな泡の塊ようなものだとすれば、キリスト意識は、
より遥かに多様なさまざまな概念的体系での経験を経て、
人類より遥かに豊富な経験と知識と精神性が集った老齢なる意識、ということになるだろう。

(すべては同時的に存在するということだが、)
人類の泡がその老齢なる巨大な泡に接する時はこれまでも、そしてこれからも、
周期的にあると考えることができる。

その人類である泡に、教師としての泡が接する時、地球には偉大な教師が誕生する。

そのとき、それまでになかった新たな概念が人類に贈与される。

キリストの物語に三人の役割が必要だったのは、
その魂の巨大さにも比例されることだが、
上演される物語が(当時の)人類の許容範疇(尺度)に収まらない、
壮大なものであったからだということとも理解できる。

ひとつの意識は三つに分かれて、それぞれ、その土地とそれぞれの時代背景を要したのである。


そして、私の知る限り、これもまた知る者は知る周知の事実として、
空海と日蓮もまた同様の条件下に生まれたひとつの教師的魂であったということである。
(パウロと日蓮が似ているといったのはこのことを含んでいたため)


これまでもキリストは時代と場所を変えて、規模の大小はあるが、
そのドラマ以前も、それ以後もこの地球上に現れ、人々に必要とするドラマが上演される予定である。

そして最寄の上演は既に始まっていると見ることができる。

+ + + + + + + + + + + + +


2. 中川隆[2330] koaQ7Jey 2016年5月02日 06:07:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2550]
>ヨハネ、イエス、パウロ(サウロ)は三人のキリストである。


ド素人の妄想はもういいよ

この3人に共通するものなんか何一つないよ

特にパウロはイエスの教えを完全に無視してデタラメな教義をでっち上げた詐欺師だからね


3. 中川隆[2332] koaQ7Jey 2016年5月02日 06:22:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2552]
パウロ書簡から史実のイエスを傍証する


ちなみに、パウロ書簡は現存する最古のキリスト教文書ですが、新約聖書の約3分の1を占める膨大な量であるにもかかわらず、そこには史的イエスの描写が「一切」といっていいほど存在しません。唯一つの例外は『コリント人への第一の手紙』(11:23〜26)で、そこに、

「主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行ないなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」

という記述があります。たったこれだけです。

これでさえ、死の影にほとんど包み込まれたイエス、生身のイエスの消滅を前提とした最後の晩餐でのイエス、それもその教義的解釈の枠内でしか史実のイエスを記述していません。これを史実のイエスへの言及と言っていいかどうか?

パウロがイエスに触れるのはキリストとしてだけ、つまりその十字架の死と復活と栄光の来臨についてだけであり、それもそれぞれについての神学的意味づけに関してだけです。

パウロは「意図的に」史実のイエスには触れません。
イエスがどのような家庭に生まれ育ち、いかに成長し、いかなる目的で伝道を始め、どのような集団を構成し、どのようにして死に至ったかについては何も語りません。
つまりそこには肉のイエス論(生前のキリスト論)はなく、霊のキリスト論(死後のイエス論)しかありません。『コリント人への第二の手紙』第5章16節には、

  「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方はすまい」

と記しています。手紙としてこれを記しているというのは、読む人々にも「そのようにしなさい」と薦めてもいるわけです。

肉のイエスに関わる「作り話やはてしない系図などに気をとられることのないように、命じなさい」とも記しています。

「もうそのような知り方はすまい」というパウロの態度は、史実のイエスへの単なる無視ではなく、むしろ拒否を意味しています。


しかし、もしマタイ、マルコ、ルカなどの共観福音書で描かれたように、十字架贖罪死へ意図的に歩むイエス像が史実として正しいならば、最強最大の十字架贖罪論者であるパウロがイエスの言行についてほとんど一言も触れないのは言語に絶する不可解なこととなります。

そこには当然十字架贖罪死へ向かう感動的なイエスの言行が数限りなく存在した筈だからです。


なぜパウロはイエスの言行について一切触れなかったのでしょうか? 

この重大な問題については、ふつう、「史実のイエスと直接接触のあったペテロ・ヤコブ・ヨハネなど直弟子たちに対する劣等感からくる反撥や開き直りかもしれない」と解釈されて、納得が求められています。

しかしパウロ自身のそのような個人的な境遇が救い主の生涯そのものへの無視へと続くことは決してありえません。これはさも解答があるかのようにみせる一種の誤魔化しや誤導です。

とにもかくにもイエスは彼と全人類にとって「神の子」で「救い主」だから、そのイエスの生涯について一言も語らないというのは、本当は信じられないほど奇妙なことなのです。

その奇妙さを実感していただくために、ここでひとつ質問してみたいと思います。もしあなたの命の恩人がいて、その人がまた家族一人ひとりの命の恩人でもあり、さらに存亡の危機にあった国家をも救った恩人だったとしましょう。

これでもパウロが信じた「全人類を救ったイエス」という大恩人よりはまだもう一つスケールの小さい恩人ですが、それでも、もしこういう人物がいたとするなら、あなたはその人の生まれや成長や活動内容に全く無関心でいられるでしょうか? 

そのようなことは人間として100%ありえません。

ところがパウロはそういうこと一切に対して拒否の態度を示し、事実上、積極的に「無視せよ」と薦めているのです。

これは非常に不自然です。言葉に尽くせないほど不可解です。


もしイエスが十字架死へ向けて意図的に生きたのが史実として正しければ、熱烈な十字架贖罪論者のパウロは彼一流のあの素晴らしい筆法で、十字架への道を歩むイエスの感動的な生き様を数多く紹介してくれたことでしょう。

むろんイエスの生き様に対するパウロのこのような度外れた無視と拒否は、事実上、史実のイエス・本当のイエスへの甚だしい侮辱に他なりません。


________________________________________


パウロが、イエスの言行・史実のイエス・肉のイエス・生前のイエスに一切触れようとしなかったのは、「史実のイエス」と「彼の信じたもの」とがその質において正反対と言っていいほど全く違っていたからなのです。 

それはイエスが自覚的に十字架贖罪死へ向けて生きたのでなかったこと、言いかえれば、イエスはこうした彼岸的・肉否定的な「宗教的メシア」でなく、本当はダビデ王の子としての、此岸的・肉肯定的な、栄光の「政治的メシア」を目指した者であったことを意味しています。


当時の主なメシア像には、


 (1)ローマの植民地からユダヤを独立させる軍事闘争をやっていれば、必ず神からの助けがあるとする戦闘的で自力本願的なもの

 (2)神の定めた時が来れば宇宙的な変動が起きて一切が転覆され神の国が到来するという待望的で他力本願的なもの


とがありましたが、積極的か非積極的かの違いはあるものの、ともかくどちらも直接的にはローマ支配の終焉によるユダヤの解放を意味していたわけですから、ともに政治的でした。


事実、ヨハネとヤコブなどイエスの直弟子たちは生前のイエスに、近く地上に建設される神の国でイエスの左と右の座を占めさせてほしいと頼み(マルコ10:35〜40)、あるいは、神の国では自分たちのうちで誰が一番偉いかと論議もしています(マルコ9:33〜37)。『マタイによる福音書』(21:20〜21)では彼らの母も同伴して頼み込んでいます。

福音書にあるような自己犠牲的な贖罪死を目指す「宗教的メシア」のもとでは、弟子たちのこういう世俗的野望は辻褄が合いません。
だから十字架の贖罪死を目指す「福音書のイエス」は彼らを強くたしなめます。しかしこれは史実のイエスがもともと「政治的メシア」だったことの痕跡なのです。

また四つの福音書全てに、処刑時、十字架の上に「ユダヤ人の王」という罪状の札があったことが記されていますが、「ユダヤ人の王」を決めるのはローマ皇帝の専権事項であったため、これはイエスが「政治的メシア」として「ユダヤ人の王」を僭称して活動したことで処刑されたことを示すもう一つの痕跡です。

また、イエスは自分を「人の子」と呼んでいますが、これは旧約聖書の中の「ダニエル書」7章13〜14節にある次のような預言を根拠にして使っている自称です。

  みよ、人の子のような者が、
  天の雲に乗ってきて、
  日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
  彼に主権と光栄と国とを賜い、
  諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、
  なくなることがなく、その国は滅びることがない。

その他にもイエスが「政治的メシア」だった証拠としては、


 ・ガリラヤの海の漁夫ペテロとアンデレ兄弟に「人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ1:17)と述べている

 ・幹部弟子のなかに軍事戦闘派の熱心党員がいる(マルコ3:18 マタイ10:4 ルカ6:15 行伝1:13)


などもあります。 したがって、


 神の力によって神の国を打ち立てローマの植民地支配からユダヤを独立させようとしていた「政治的メシア」としてのイエス


これが史実 (中川隆 注:実際は史実ではなくて、ローマ人にはイエスはこういう姿で捉えられていたというだけでしょうね) のイエスであり、そのためにローマ兵に捕らえられて、ローマ総督ピラトから「ユダヤ人の王」という罪名の死刑宣告を受け、ローマの処刑法である十字架に掛けられ、ローマ兵によって刑殺されたのです。


イエスが十字架贖罪死を目指して生きたのでないことが、すでに上記の五つの理由や史的イエスに対するパウロの徹底的な無視から明らかになっていて、しかもローマの官憲によって刑死した以上、彼は「政治的メシア」だったということです。
むろんこの「政治的メシア」はその独自の律法解釈やそれによる破戒行動を行なうため、必然的に既存のユダヤ教権力層とも宗教的対立関係に入ります。

イエスが軍事戦闘型の「政治的メシア」だったのか、それとも待望型のそれだったのか、福音書の捏造があまりにも甚だしいためどちらであるか決定するのは難しいですが、

弟子たちの中に軍事戦闘型の熱心党員のシモンがいることもあり、またイエスが逮捕される際に弟子たちのうちのある者(ルカ22:50では弟子たちのうちの誰か、ヨハネ18:10ではペテロ)が剣を抜き、イエスを捕らえに来た祭司長あるいは大祭司の僕(しもべ)の右耳を切り落としたとあるように、

私は闘争型の要素を持つ待望型だったのではないかと想像しています。
つまり戦闘性も多少持つが主に納税拒否などさまざまな反ローマのサボタージュを行なう非軍事的な性格のものです。熱心党員の弟子はシモンの他にも幾人かいたかもしれません。

「政治的メシア」としてのイエスは十字架死によって敗北しました。
これを弟子たちは「宗教的メシア」に仕立て直してイエスを勝利者とし、みずからも勝利者としたわけです。
そのとき史実のイエスは直弟子たちからも見捨てられ放棄されたわけです。

イエスが逮捕された後、直弟子筆頭とされているペテロが官憲などに三度尋ねられて、そのたび「自分とは関係ない」と告げ、雄鶏が鳴くまでに三度イエスを裏切ったという福音書の話も、ひとつはそういう事情を反映したものでしょう。
キリスト教は史実のイエスとは何の関係もありません。それは直弟子たちの創作物です。

________________________________________


パウロはイエスを直接知っていた直弟子たちから、先ほど述べた「最後の晩餐」の様子(これについては、パウロは、十字架贖罪死信仰を前提とした「これは私のからだ、これは私の血」などのイエスの架空の言葉によって、すでにペテロなどに欺かれているか、あるいは、たぶん、自分自身を欺いている)だけでなく、イエスの言行について無数の事実を知らされていましたが、ほとんど全て「政治的メシア」に関する史実であったため、あえて「肉のイエス」には一切触れませんでした。


彼は過去の「肉のイエス」に触れないことを、

「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」

(『コリント人への第二の手紙』第5章17節)と神学的に正当化さえしています。


パウロが史実のイエス・肉のイエスに一切触れずに済ませることが「できた」ということは、すなわちイエスの直弟子たちも、「政治的メシア」と直結する部分は全て排除するという仕方で、イエスの生涯や生き様を無視したということを示しています。


現代聖書学ではルドルフ・ブルトマンの福音書に対する詳細な様式史研究などによって、

「史的イエス研究のための唯一の資料である福音書からは史実のイエスを再構築できない」

という結論が出されています。つまり福音書に書かれているイエスの記事はほとんど信用できないということで、これは福音書が非事実の塊だということに他なりません。


さて、「政治的メシア」から「宗教的メシア」へ転換することで、キリスト教はイエスの政治性から脱してローマ帝国と妥協可能になり、その成功とともに際限なく非政治化してゆき、帝国内部に広く浸透できることになりました。

しかしそのかわりローマ帝国との妥協の産物として、

「ローマ人でなくユダヤ人たちがイエスを刑死させた」

というありもしない罪が捏造され、それが史実とは異なる十字架贖罪論の福音書に描かれて、その後の二千年に及ぶユダヤ人迫害の土台を形作ることになりました。


キリスト教がイエス殺害の主犯としての罪をローマ人からユダヤ人に転嫁したのは、ローマ総督がイエスを殺害したという姿のままではローマ帝国内部での成功がとうてい不可能だったからです。

その姿はイエスがローマ支配に反抗する「政治的メシア」として処刑されたことを示すもので、ローマ人は帝国内にこういう敵性宗教が蔓延するのを絶対に許さなかったことでしょう。

また、「宗教的メシア」を強調するために治癒奇跡や自然奇跡(風を叱って止めさせる・水上を歩く・パンと魚を数千倍にする)など様々な奇跡を次々と行うイエス像が捏造されるに至りました。
http://www.geocities.jp/toryon33/syuukyoukaitou.html#hitonoko

歴史はイエスを抹殺した。


しかし、そのあとを完全に消し去ることはできなかった。
それで、今度はかかえ込んで骨抜きにしようとした。

そしてそれは、一応見事に成功してしまった。

大勢への反逆児が、暗殺されたり、抑圧による貧困の中で死んでいったりしたあと、体制は、その人物を偉人として誉めあげることによって、自分の秩序の中に組み込んでしまう。

マルクスが社会科の教科書にのった時、もはやマルクスでなくなる、ということだ。


こうしてイエスも、死んだあとで教組になった。

抹殺と抱え込みは、だから、本来同じ趣旨のものである。

キリスト教は、イエスの抹殺を継続するかかえ込みであって、決して、先駆者イエスの先駆性を成就した、というものではない。

イエスは相変わらず成就されずに、先駆者として残り続けている。
http://fanto.org/diary-new/archives/669.html


4. アーリエル[26] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月02日 19:33:42 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[116]
>nakid

あなたの知識とするものは中身がない。本質がごっそり抜けている。
そして私への反論になっていない。ただの拒否反応しかみせていない。
それは、もちろんあなただけではないが。

だが、その反応は大方、誰もが正解とみなすだろう。

私は誰かに気に入られようとしてこれを書いているわけではないので、勘違いしないでほしい。

あなた方を脅かすものでないと知るのなら、何も恐れることはない。
これはあなた方を驚かすことになるとは思うが、怯えさせるために書かれているのではないのだから。

まあ、いずれあなたも知ることになる。そのときが楽しみだ。
その時は人々のために本当に必要とされる力であってほしい。

もっと素直に自分をさらけ出したほうがいい。とアドバイスだけしておこう。


5. 中川隆[2343] koaQ7Jey 2016年5月02日 19:59:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2565]
>>4
パウロがイエスの人格と思想を忌避していた事がわかればそれでいいんですけどね。

6. 2016年5月06日 14:39:58 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[99]
ニーチェによれば、パウロなんて唯の俗物に過ぎない。

アンタ直接キリストと関わったことあんの?
無いでしょうが。で、いつ何時何故関わったことになってんの?
似非シャーマン(もろ黙示録で云うところの魔術妖術を弄する者でしょうがw)
に過ぎないのでは?

ま、人間の「騙されたい」意識に即して俗キリスト教なるものを汎世界的に
交付した実績なら認めてもいいがね(嘆息笑)

つまりニーチェの方がパウロより格上っしょ。


7. 2016年5月06日 14:49:32 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[100]
中川某は、仏教で云うところのデーヴァダッタ
や、キリスト教でいうとこののパウロ

あたりを「気取った」御仁にすぎない。

つまり頭でっかちのキモエロめんどくさい奴。


8. アーリエル[31] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月06日 20:29:05 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[121]
>5

ご存知のように、その後180度転換することになるが。

組織的見地というものが人々の信憑性の基礎となりうる、という考えが人々にある限り、
組織的宗教が獲得しようとするものが何かもまた、そこに理解できるものである。
「相場は決まっている」とはじめから結論づけてしまえることを
当時のパウロが理解できていなかったわけではない。そこには回避できない認めざるを得ない事情というものがあったのである。

そこには、人間側の無責任さぶりを改めて感じるものである。

さて、組織的見地による信憑性に対して、
”個人的見地における信念”とは、どういうものだといえるだろうか。

私にも覚えがあるのだが、そのもの自身にしか起こりえない強烈な体験によって、
獲得しうるものであり、そこに組織的見地は常に対立するものとしてある、ということができる。

パウロもまたその強烈な個人的体験によって、それまでの自身を変えてしまった。
ということである。

教義にあることを頭で理解する以前に、先に”経験させられる”という体験を通して、
そのもの自身がそれに向かって必死に究明しようと動き出すことになる。

私のこれまでの半生もまさにそうしたものだった、だから容易に理解できるのである。
つまり、それは全体性のドラマの中で予定されていたことだと言える。

>6

あなたが感じておいでの”パウロ像”はあなた独自のものであり、
それを正しいとみる根拠もまたあなたの中にしかないが、それがあなたに何らかの恩恵を与えるというのなら、ここに書かれていることは何もそれを阻害するものではない。

あなた自身が何かそのことで損害を受ける、というものでない限り、
互いに好きにすればよいだけのこと。

そして、ここに書かれている内容物に関して、興味がなければそれでいいはずだ。

価値観を対立させることによって、あなたが常々何を果たそうとしているかは、
ご自身でご自分の”ハラ”に理解されているはず。

>7

純粋にデータを通して本質を見抜こうとしている努力家の姿勢であることは認めます。

そのことで、人々のためになろうとしているはずですが、
逆に人々に閉塞感を与えてしまっていてはいないかということです。


9. 2016年5月09日 04:36:11 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[107]
私は何もパウロが純粋ではなかったとか、嘘つきの権力者だったと
云いたいわけではない。

ただ、彼のキリスト経典への染まり方が、何か敗戦後、
舶来物や洋楽や、自由なダンスホールや映画文化や服装に衝撃を
受けた、急激にアメリカ被れしていった日本人像を彷彿とさせる、
と言いたいのだ。
「なんと!
ユダヤ出身の癖に、いや、であるにもかかわらず、愛なんてことを、
臆面もなく謳っちゃってるよ!しかもその内容の美しさときたら!」とかね。

ジョンレノンがキリスト発言したのも無理はない(笑)

そして、感動の余り書いたライナーノーツが、
逆に分かり易い解説と世間に映り、大ヒットを齎したというような。
だから、誤訳や田舎の解釈みたいなのが混じるのは仕方がない。

という以前に、パウロが介在しなかったら、
聖書がこんにちまで、世界一読まれた本になり、
世界一信仰される宗教になることは無かっただろう。

我々が今聖書を手に取る事が出来るのも、全てはパウロのお陰である。

そういう意味では、生身らしく、親しみさえ感じる存在として
高く評価している。


ただ、キリストユダ等と、同格に置くのは如何なものか、その後の
バチカンの権威付けや腐敗等を鑑みても、、とまあ、
天皇制にだって何だって言える事ですが、有り体の話です(笑)


10. 2016年5月09日 05:19:03 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[108]
それとね、デーヴァダッタにもパウロにも、
其れなりの「格」があるのですが、彼らの立場を「気取る、又は忖度し、
背後関係を推理する」なんてのは、自らをメシアだの、その直弟子を
名乗りたがる、少し人格に難のある自称宗教者が、往々にして
やらかしがちなことだと思う。

どころか、中川隆の言い分は、強引に既知の地上的弁証法に、
強引に牽強付会したものと見受けられてしまう。
いわば堂々巡りなのだ。
直接神智の展開に、傷の入ったレコード盤や、音飛びのするCDのアタマ知のみを
以て飛び込もうなどとは、土台無理な相談なのだ。

私は抑々聖書は旧約、新約とも、アッシリア近辺の洞窟等に散じて置かれた、
ローマ以前の「文書」を、言い伝えによりローマ期に寄せ集め編纂された
ものだろうと、これまでの研究者の説の蓋然性を測ったうえで見做しているのだが、
「文書」である限り、何処までが史実で何処までが脚色したストーリー
であるかは、数千年も隔てた今となっては、論証しようがない。

しかし、旧約、新約の持つ魅力は、何に依るものなのか、
そして、どんな道標(真理への誘導)となっているのかを、
自らの「内なる神」に照らし合わせてみる(ある程度の考察も含めて)
面白いものではありましょう。成果のあるなしは別としても。


11. 2016年5月09日 05:46:58 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[109]
どうも、中川隆は接して来るようで、自らを放していってしまう癖のようだ。

世俗を嫌う世俗ストーカーみたいで、陰鬱としている。

ネットに張り付くより、自らの心に丁寧に接する時間をセンターに置いた方が
いいだろう。
こんなことは、「何か」を持っている人以外には言わないよ。
唯の「屑」と見做した者には、言っても無駄なだけだからね。

どうだろう?寂しさや不安の原因を看破した上で、
敢えて数年離れてみたら。
20年前、自分がどうしていたか思い出してみたらいい。

ネットは薬としてはあまり質が宜しくない。自家中毒の元だ。
アーリエルさんは、重々分かっておられるはずだが・・・


12. 2016年5月09日 06:22:39 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[110]
阿修羅ので意味深い議論を求めている者にとって、アンタの書き込みはウザいんだよ、
ということは無論自覚しているだろうね。でも書かずにはいられない。

でも、どうせ解りっこない、どうせ仲間なんてできっこない、
議論なんて無駄骨で、結局みんな俺をハブって傷つけたいだけなのさ、・・・。

で、なんで書いてきてんのこのニヒリスト気取りが、
ってなった時

-- 抑々対話姿勢にないんだからkz同様。

-- 単に寂しいんだろうね。
-- 単に痛い奴。めんどくさ。

その反応が常にあるの解ってて態々意見するのって、単なる自分虐めだよ?
痛みの押し売りじゃん?
ネトウヨの定義ってMプレイ、面倒がられて厭がられて攻撃力とか影響力に、
陶酔する奴だから、当然そういう範疇に見なされる。実は違ってても同類。

勿体なくね?

汝隣人以前に己の存在、魂を愛せよ、だ。

そして人に解って貰える、あるいは貰えないなどと努々思うな。甘ちゃんよ。


13. 2016年5月09日 06:35:54 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[111]
中川君嫌いだろ?こういう言い方・・・

「もっと素直になればいいのにw」


14. 中川隆[2394] koaQ7Jey 2016年5月09日 08:11:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2635]
僕はコピペしてるだけだからね

要約する事はあるけど自分の見解を書いた事は無いよ


15. 中川隆[2395] koaQ7Jey 2016年5月09日 08:52:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2636]

それは自分の間違いを指摘されたら誰でも腹立つよね

僕は専門家じゃないけど、誰の言ってる事が正しいかは大体わかるんだ

阿修羅に書いている人はみんなレベル低過ぎ

だから真実を教えてあげてるだけ


16. 2016年5月11日 05:56:07 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[119]
つまり、頼まれてもいないのに、いちいちお節介を焼きたがる、
訳知り指南オバさん役を買って出てるんだよ(売られてもいないのに)、でいいか。

問題は掲示板は、狭いご近所やオタクサークルではない、という事にある。
公共性というものが、自然と生じるコミュだという認識に欠けすぎる。

要するに付き合いベタ、異文化と接する機会の多い社会との接触が希薄な、
つまり引きこもり体質
或いは防具を着込みすぎて身動きとれない状態で社会と関わっているつもりの、
カタツムリタイプ()大差はないが。

防衛本能は自然なものだが、誤った対処は却って己の尊厳をを傷つける
ことになる。一応反省込みでの提言だ。

判らないなら仕方ない。社会に適応し切れていない(ことにコンプレックスを
持ちながら誤魔化し開き直る)貴方を客観的に評価する目、つまり
対外的な評価は概ね、
「殻の中からスピーカーで自己主張する、傍迷惑な青二才」、ってこと。

社会に出るには余りに幼いネットマナーノーヴィスの自己陶酔者、という
意味だよ。
これはレッテル張りではなく、貴方の書き込みに対する一般的な感想を捉えたものだ。

だから勿体ないと言っている。
若者は勉強法を間違えさえしなければ、いくらでも伸びるからね(年齢は
関係ない)。


17. 2016年5月11日 06:17:14 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[120]
何となく、だけど、基本真面目(過ぎた)な貴方は親御さん(養育者)との、
相当な軋轢や葛藤があったんではないかい?

無理解に遭ったり、理不尽と接触する(虐待の可能性含めて)機会が多かったが、
長らく逃れる術もなかったというような。。

もし間違ってたらごめんね。

でも、経験上ある種の離人的傾向を見せながらも、自分の存在を印象付けたい、
という者との、共通点が見え隠れするんだ。
なんかコメント読んでるとふと、哀しくなるんだよね。。
そう、心開きたいんだけど開けない、みたいな。。。所謂「リスカ」
常習者なんかと共通してるっていうか・・・

(それこそお節介だったらゴメン)


18. 2016年5月11日 07:56:10 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[121]
物凄く穿った言い方をすれば、貴方が伝えたいことは
全て貴方の実体験、実感から来る主観だ。

此処からは唯の想像だから、全然違ってたら嗤ってください。

貴方は、事実上レイプされ支配され洗脳された母親の元に生まれてきたのでは
ないか、と。
つまり、暴行虐待レイプ(準殺人、魂に於いては正殺人)の結果、
事態を受け入れ仕方なく産み落とされ育てられてきた。
当然、捩れた忌まわしい空気やいくら包み隠しても滲み出してくるウソ、
を実感せざるを得なくなる。
愛の対極にあるような、嫌悪=愛着(心中の気配)
と言った恐怖をも、一身に背負いつつ必死に生き延びてきた。

だから、南京虐殺や従軍慰安婦など無かった、のような誤魔化しや
美化は、人が化け物に化すというおぞましき「実感」を通せば、
唾棄すべきものだろうが、当然戦争を介せば尚のこと、
当たり前の「事実」として実感されてきたものでもある。
貴方にとっては、母性も父性もあったもんじゃない筈だ。
自分の性のアイデンティティーや、エネルギーの制御にも、
混乱が生じないほうがおかしい。

さりとて、差別や冷笑に晒される恐ろしさ(実体験上も含め)更に、
「自分なんてどうせ」という気持ちが邪魔になり、
堂々と体験を語るより、シニカルな立場に徹した方が安全、でも
理解はして欲しい。
ま、無理からぬことだ。

実際体験しているのなら、貴方は貴重な「歴史の証言者」だ。

それを伝えることで大勢が笑おうとも、ウヨがよくやる血筋国籍に関する
レッテル張りをしようとも、私は笑わない。アーリエルさんも笑わないだろう。

だからと言って、こんな掲示板に告白文を書け、なんて(余程必然性を感じる
きっかけでもない限り)冗談でもいえないわw


ってなわけで自分の妄想に乙でした〜🗽
(勝手に誤解満載御免、ちと腐女子だもんでw)
ワロてやって。


19. 中川隆[2421] koaQ7Jey 2016年5月11日 09:30:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2666]
アホの相手したくないけど

明らかな間違いを見つけたらそれを指摘するのがまっとうな社会人の義務

子供が嘘情報を見て本当だと信じたら困るからね


20. 2016年5月11日 14:54:46 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[129]
>Sister.MuZe

あなたが相手にしなくてもいいんですよ。相手にする必要はまったくないです。
どういう相手かはもうわかってるんで、ただ無視してください。


21. 中川隆[2423] koaQ7Jey 2016年5月11日 18:55:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2668]
アホは内容に対しては何一つ反論できないのが つらいんだよな

22. 2016年5月12日 07:37:57 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[126]
>20
了解!
(笑)

23. 中川隆[2426] koaQ7Jey 2016年5月12日 08:25:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2673]
>>22
何も反論できないなら最初から書くなよ

24. 2016年5月12日 09:05:33 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[127]
反論?w

蜘蛛の糸プッツン

をわり。


25. 中川隆[2431] koaQ7Jey 2016年5月12日 09:11:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2679]
>>24
せめて聖書を一度くらいは読んでから発言しろよ

26. アーリエル[33] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月12日 15:31:13 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[134]
>9,10
同格においてはいけない、おかなければならない、といった基準で、
すべての存在のあり方を順位付けようとする時点で、
その価値観は根本的に自分の立場を制限するために働きもし、それは、
物事の本質にたどり着くことを自ら放棄するようなことだとも言えます。

価値観を大事にするのと執着するのとでは意味が違いますが、
ある意味、そこに毒されていながら、そのことに気づけないままであるというのが、
現代までに続いたあらゆる病理の根源であると思います。

特定の価値観の元に理性は働きもしますが、
そこにある理性の働きがそもそも正しいと判断するのは人間的な価値観のみです。

そこで徐々に感性の働きが蝕まれてきた、ということだと言えはしないでしょうか。

それは、聖書などをいくら繰り返し読んでもたどり着かない見地であるということができます。

むしろどうしたものも、そうして繰り返すことによって、
なんら人々の求めるものに辿りつかないことを知るとき、
人はそこから納得して自分の力で離れることができるのでしょう。

その時には、それに変わる新たな見地を求めることになるはずですが、
それは同様の宗教観などではない、ということに自然となるはずです。

結局のところ、そうして、その時代時代にあわせて、
ありていの人間的な解釈に収まりを見せるだけというのなら、
なにも特定の観念的な価値観など、はじめから人は必要とはしないものです。

私はそもそも本というものを読んで何かを得ようという考えを持たなかった人間です。
押し付けられる価値観に対しては、ことに極端な反発を繰り返してきました。

ただし、自分では判断しようのない体験をしたときだけに限り、
手にとりはしましたが、パラパラとめくるだけで、
十分それが必要な情報かそうでないかを感覚的に察知し、
目の止まった場所だけ吸収する、ということをやってきました。

ですから、何かを探していて、真っ先に手に取り、
一番先に開いたページに必要な情報が載っている、
ということが当たり前に日常で起こりえたのですが、これに関しても、
私の心からの知人となる方々は、同様の経験をしている事がわかるために、
そのことで一瞬にして意気投合し、それ以上言葉を交わさずとも、
そこに深いつながりを感じ取ることになるわけです。

私も10代20代前半は、激しい気性の持ち主だったとも言え、
体験主義的な様相の中に、自分の考えを確立することに躍起でした。

感覚的な判断ですべてイエスサインがでたので、
他人の持つ余計な価値観や観念を極力持ち込むことはありませんでした。

そのことによって、自然と独自的に「自己的見地による信念」にたどり着いたのです。

そうして信念がひとつ自分の中心にあるとわかると、
あらゆる自分の必要とする情報が、自然な流れで、
多くの専門的な人物などを介して集まってきて、
不思議なことで毎日が彩られるといった恵まれた環境を感じていたものです。

私はその一風変わった人々との関わりの中で、多くの立場に接し、
立場によるさまざまなものの見方、そしてそこにある流儀や、
物事の解釈もまた多様にあっていいのだということを理解することができました。

つまり、どれかだけが正しいとする考えを私はそこで持つことができなかったのです。
しかしながら、そのどれもが、それぞれの多様な価値観に対応して、必要であるのです。

よって私は独自に、自身の納得する、それらをまとめるひとつの解釈を求める旅に出ることになったのです。

私の場合はまず”経験ありき”で、必要なきづきの為の体験を”させられ”ました。そう思っています。

神秘的な体験後、自分がそのことについてひとり理解を深めていくと、
しばらくしてそこにはまた自然と、その独自的考えが正しいものかどうかの答え合わせが待っているわけです。

そして言うまでもなく、すべて正解だったと気づいたときには、
必然的にそこでその独自的見解へ対し、より自信を深めることにつながったわけです。

けれども今の私は、そうした自信というものがまた驕りにつながるものと感じ、
自分のより上の気づきを阻害するものだとして、すでに過去のものにしてきました。

それらすべてはたったひとつの気づきのためでしかなかったと理解しています。

今はより統合された自分を感じています。
そしてそこに自己として執着するものがほとんど消えてしまいました。

批判的な態度、つまり抵抗感情を自分の中から消すことによってそれはいつでも可能となります。

それら批判的な感情は恐れや怯えとつながり、自己の本来の能力を制限するものは、
すべて自分の価値観のフィルタを通すことによって得られるものです。

ですから、そうした感情によって自分を制限したくない、
また心から望ましい自分にたどり着きたいと願うのであれば、
その自身の価値観の見直しを自分の手ですることです。

もし現代に、キリストや釈迦といった人物が現れていると仮定するなら、
人々は新たな自分の能力を開花するための価値観を手に入れることができるのかもしれませんが、
たんにそこに依存的になり始めるだけであれば、
それは相変わらず、そこに宗教的な枠組みが生まれてしまうだけかもしれません。

ですから、次に現れる時がいつかは、
”時宜にあわせて適宜に現れる”ということとして理解されているものです。

つまり同じ過ちはしないのです。

人々は常に、そこに価値観による振り回された自分の姿を感じ取ることです。

そうしてその自分の望まない姿を十二分に感じ取ればよく、
自己の存在性の本質に気づきたいと願うのであれば、まず、
その望まない自分の姿を自らの手で、意思の力で変える、
ということだけがそのもの自身に要求されることです。

今私が感じていること、そして伝えたいこととは、
いままさに、その機会が訪れている、その恵まれた機会を逃すなということです。

つまり、自身で作り上げているすべての個人的な問題を
一挙に解決できる機会はもうすでに訪れているのです。

私はそのことを日々感じ取っています。

そこにのみ目を向けられるべきでしょう。

かつて作り上げた自分の思い込み、価値観によって今まだ、
狂気の淵を彷徨い歩き、苦しんでいる者がいるとしたら、
それを自分の力で、そこにある観念を塗り替えることが容易となっています。

すべての転生における集大成がいまこの時期のあなた方一人ひとりに現れていると考えることは無難なものです。

>nakid

私は私以外の者に”私の肩代わりになって意見される”ことを好まない。
だからご辞退いただいたまで。

けれどそこで、私自身はあなたに意見しないとは一言も言っていない。

そもそもこちら側からはそちら側に反論する理由が見当たらない。
ただひとつあるとすれば、私がなんらかの”専門家”を自称したことは一度もないということだ。

そしてあなたの意見はどれもすべて、
信憑性の域をでない組織的見地によるものであるはずだが、
それを「正しい」と一点張りできる姿勢にも理解できない。

まああなたの言い分では、正しいとするから正しいとする、だけだろう。

そして宗教的に依存する人々を批判するという一方で、
あなたもまたその宗教的教義に依存的なままであり、
もしくは同質の依存的性質をずっと抱え続けたままであり、
ともに狂気の淵を彷徨う仲間を勧誘しつづけているだけのような気がする。

私は、「批判を受けることを前提」に書かれたものであるが、
あなたに返す言葉がないというのはそれ以前の問題だ。

ともかく、あなたが抱えるあなた個人で片付ける問題を外側に求めていることは理解できる。
あなたの投稿姿勢、その動機、そこにある狂気、
すべてはあなた自身で作り上げたものだ。

自分の手で作り上げたものは自分の力で抜け出せばいい。
誰もあなたを助けるものはいない。そんなことはできないからだ。

自分が何を望んでいるかにきちんと気づいてやることだ。

あなたはまず自分を信じなさい。
そのことであなたは真に人から信じられるものとになる。

誰も先にあなたを批判して攻めたりはしていない。
そこに気づくことだ。

自分で自分を責め立てているに等しいことが理解できれば、単にやめればいい。

できなくとも、誰もそれで何も困らない。それが楽しいなら、好きにすればいい。


27. 中川隆[2442] koaQ7Jey 2016年5月12日 17:25:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2692]
>>26
前にも書いた様に、僕は自分の意見は一つも書いてないですから。

今は聖書学が進歩して色々な新事実が明らかにされているので

そういう専門家の研究を何も知らないで自分勝手な感想を言っても意味ないというだけの事ですね。


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