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”場”における現実的認識とヒーリングに関する概要
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/359.html
投稿者 Air−Real 日時 2016 年 5 月 02 日 01:00:11: dsfJ1hAY0z6VI gmCCiYKSgXyCcYKFgoGCjA
 

(回答先: ペトロ(ペテロ)とユダ 「この中に私を裏切る者がいる」 −それは一人を指す言葉のはず− 投稿者 Air−Real 日時 2016 年 4 月 27 日 15:39:12)

まずはじめに、一人の人物とその言葉を紹介したい。

wikiから。
以下。
***********
ラルフ・ワルド・エマーソン

別名 コンコードの賢者

生誕 1803年5月25日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
死没 1882年4月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州コンコード

地域 西洋哲学  学派 超越主義
研究分野 個人主義、神秘主義
主な概念 自己信頼、オーバーソウル

ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson )は、
アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。

***エマーソンの言葉***
 

自然とは言語であり、人が学び得るあらゆる新しい発見とは、新しい言葉なのである。

しかしそれは、個々に分けられて辞書の中で生気を失った言語ではなく、
一体として最も重要で普遍的な意味合いを伝えるものである。

私はこの言語を学びたい。それは新しい文法を知ることではなく、
その言語によって書かれた大いなる書物を読むことであるだろう。

+++ +++ + +++ +++ 

我々は連続したものや、断片、かけら、微粒子の中で生きている。

それに対し、人間の内には全なる魂がある。

それは智者の沈黙であり、この世界の美である。

全なる魂故に、あらゆるかけらも粒子も、等しく永遠なる一者に関係している。

そしてその内に我々が存在し、その無上の幸福がすべて我々の手に入るこの深淵なる力は、
どんな時も自らを満たし完全であるだけでない。

見ることと見られるものであること、見る者と見せ物、主体と客体がひとつであるのだ。

我々はこの世界を部分部分で、太陽とか、月とか、動物とか、木とかいうようにしか見ない。

だがそれらのものが一部として光り輝いている、全なるものが魂なのである。

*********
転載、以上。

先駆者は常にわれわれの中に道として続く。


さて。

われわれが学びを得る必要性を感じるのは、現存するあらゆる問題に対処したいと考えるためだが、
裏を返せば、問題がなぜ起こるのかといえば、われわれ人間がいまだ無知だからである。

しかし、われわれの無知さとは、われわれ自身に対する無知さゆえのことなのである。

つまり、他方が他方を軽んじることの無知さにある。

そして今、その無知さはわれわれの存在自体に対する無関心さに置き換えられてある。

つまり、学びの本質、学ぶことの意義もまたそこに書き換えられつつある。

人間的なものに対する存在認識の誤りが無知さにつながるのであり、
そこにおいて得る知識とするものに問題を解決する力はなく、多くの問題を野放しにし、
そこにさらに多くの問題を生むことにしかならないのである。


さて、本スレの話の続きとその補足となる。


イエスキリストの生涯のドラマに欠かせないのは十二使徒の役割である。

それは、それぞれの人格が、人間にみられる十二の性格にそれぞれ対応するからである。

私たちは、彼らのドラマに自分たちを重ねてみることができるゆえに、
そこに人間的な気づき、そして学びというものを得ることもできるといえる。

彼らが残したとするそれぞれの文書が、細かな部分に食い違いを見せる点については、
謎というより、彼ら弟子の性格をそれぞれに現していると見たほうがスルーしやすい。

いずれにしても、そこからもわかるとおり、
弟子たちのそれぞれが違ったコンセプトを持つのは、
ひとつの事実を多角的に見せることが意図されているからである。

そして「裏切り」の冠に対応する人格(者)はそこに一人だけである、ということも理解されることである。

つまりそれは「ペテロ」か「ユダ」、どちらか一人である。


キリストのドラマは人類が、自身の霊性に対する無知さゆえに起こりうる出来事を題材として取り上げている。

つまりキリストの物語に限らず、あらゆる宗教の物語とは常に気づきの”場”として提供されているものである。

ドラマはそれぞれの立場に対応する解釈と意図が加わり、書物に置き換えられてきた。
それらもある意味では教材となりうるのだろうが、誰にも望まれていないことに私もまた関心がない。


ところで、わたしはすでに、ユダはキリストを助けようと画策し、実行に移した人物だと評価した。

身代わりに磔になった酩酊者とする人物もまた、狂信的な性格のものであったため、
身代わりを探すユダの目に留まったのである。
そして彼は自分こそが磔台に上るにふさわしい人物だと信じ、熱烈な信仰心のもとに昇華している。
(パウロも日蓮も熱心すぎるほどの性格ゆえに狂信的ともいえるかもしれない)


では次に、キリスト意識と人類の意識との関わりについて。


聞きなれない方もいると思うので念のために。
→俗に言う「キリスト意識」とは、何を指すのか?


イエスとヨハネ、そしてパウロら三人は、同じキリスト意識から派生した意識的存在である。
(これに関しては別途投稿のこと)
*(上に紹介したエマーソンに関する記述場所でも、オーバーソウルの概念については触れられている)

私たちもまた意識的な存在、つまり物理的身体をまとった”概念的存在”である。


私たち人類はみな、肉体の知覚を通して、読み込んだ情報を脳内で処理し、
そこに「自分自身」とする個我性や現実感覚を得ている。


そこにある”情報”こそは、そうした自分自身、またはわれわれ自身といえる。

”場”の概念を理解する上で、「われわれ自身の意識」とは、物質的な素子を身にまとって活動する意識を指すが、
”情報”とはその物理的な知覚の範疇の外においても同時的にやりとりされているものだといえる。

われわれはそれらの情報を”現実として知覚する段階”で、初めてそれに触れ、反応するものだと考えているが、
それはあくまで概念的な知覚内における出来事であり、真実とはそこだけに限定されない。

そうして、”場”で感知し、やりとりされた情報は、物理的な肉体の知覚に解釈しなおされた後、
われわれはそれを知覚、認識して現実としているのだが、そこで理解できることはつまり、
”それ以前”に、われわれであるものとは、その”情報”の存在自体に対し、反応しているということが理解できるはずである。

例えて、「肉体」はパソコンであり、「五感」は”知覚のモニター”である。
情報はプログラムであり、共通のOS「空間と時間という概念」を通して、
オンラインで現実(映像)空間として、われわれ全体に認識されている訳である。

その世界において、私たちとは「そこに生存している」ように感じていると言えるのである。

言えることは、私たちが肉体上に知覚を通して昇ってくる”現実の認識”以前に、
”情報”だけの段階が存在し、そこにおいても、それらに触れ、そこで十分、
現実と認識されうる以前に、起こりうることをすべて精査する自分がいる、という事実であり、
デジャヴとはその事実の一端を伝えるものである。

またそのプレ現実を知覚する機能の備わった「自身」としての存在から、
あなたという「自己認識」とは発生しているということである。

上の例えに沿えば、そのあなたとは、「PCモニターの前に座っている人物」のことである。

それを守護神や、守護霊という呼び方をするものもいるだろうし、
その存在自体、あなたにアピールしてきたときもあるかもしれない。

それは、”同時的に、前世や来世として存在する”自分である、あなたの存在の本質をあらわすものと言える。

そこには人格的な概念による差異や、差別の必要性を感じるとしても、
それら人間的尺度による解釈の一切は当てはまらない。

いわばそこに霊的な関係、つまりあなた方の価値観で想像しうるすべての関係性は的を得ないだろう。
身内関係にあたるとしても、あなたがそこに差別的な意思を持てば、それらは途端に仰々しく振舞わざるを得なくなる。理解もできないものに変わってしまうのである。


私たちは限定された「モニターに映し出された”情報”」のみを
”極度に肉体の知覚に集中することによって”現実と認識することができているとする。

感覚としては半径一メートルから三メートルの範囲にある「”場”」を自分自身と捉えて考えてみてほしい。

それがあなたが多様な情報を基に集中して作り出せている世界である。


つまり、肉体以外の空間にあるものもまた(理解しづらいのは当然だが)、本質的には「あなた自身(私)」である。

思想的なものではなく、あなたの吐く息も、かつてあなたの一部であったものなら、
これから吸い込む息も、やがてあなたになるものだということができる。

これば事実である。思想的な解釈でも、このことは十分に理解できるものであるはずだが、
私とするものがどこからどこまでが私とするかについては、枚挙に暇がないといっておこう。

当然それら「私」にも多様性があり、流派、流儀にグループ分けができるものだが、
いずれにしても、すべての存在は源流を持ち、すべての支流はひとつの源につながっている。

蛇足だが、
神とは「上(かみ)」である。橋の源流側を上手(カミテのカは右を表す)と呼ぶ。
(対して民タミとは下手(タ=左))

ここで改めて、気づいておいてほしいことだが、これは比喩的例えを用いたひとつの発想であり、ひとつの方便である。


ここは想像を働かせてみてほしい。

あなたとは”場”であり、あなたの”場”ですべてのことが起こる。


あなたは周囲の”場”から情報を受け取り、
自分の”場”に同じコピーしたものを自身で作り上げ、みて、触り、感じ取っている。


たとえば、現実で、誰かからスプーンを受け取るとする。

そのスプーンがあなたの”場”に発生させるには、あなたがそれを受け取るための同意と手続きが必要である。

あなたの場へ同意なく、他人の”場”が進入したり、情報が侵入することはないからである。

あなたがその情報を自分の経験のために利用すると考えることで、そのものが引き寄せられてくるのである。

つまりこの世界とは、それぞれの多様性ある価値に触れ、それらを利用するために存在する。


現実として起きていることとは、自分の”場”でのみ起きていることである。

やりとりされた情報をあなた自身の手で起動させて、
それをモニターに映して、「受け取った」と感じているのである。


もう一例あげると、たとえば現実で、喫茶店に入りテーブルを囲んで誰かと食事をしたとする。

互いにそこにある木でできた硬いテーブルを認識する二人だが、
互いはそれぞれの”場”で、硬い木製のテーブルで大きさや色合い、
位置といった情報を互いにテレパシックにやりとりして完璧に帳尻を合わせているに過ぎない。

つまり、それらはそれぞれの現実認識の中に作り上げているということ。

それは電車の座席も同じであるし、会社の定時上がり、デートの待ち合わせや、
起床といった時間の概念もまた、意識が刷新され行く毎瞬、
それら同意の下に存在していることを告げている。

確かめようがないとするのは、人間的な価値観を通して肉体の知覚に依存し観察しつづけることになるからである。


ともかく、それは何より人間的な経験を優先するためであるし、
当然のこととは言えるのだが、キリストや釈迦といった教師は、
あらゆる概念に通じていたということが理解できるため、訓練など要することもなく、
そうした多次元的な観察眼を通して、すべての存在価値を等しく見ていたとすることができる。 


ここで思い出してほしいのが、ヒーリングに関する話題である。

釈迦やキリストは確かに、そうした知識に秀でた偉大な教師であるといえ、
多次元的な性質を境界なく現在も体現している存在だと確かにいえるのだが、
ヒーリングのしくみ自体は民間の催眠療法とそのしくみは一切違わない。

私たちは、それぞれの”場”に直接的な影響力を与えることはできない。

これは原則としてそうあるのである。

情報そのものとして”場”に存在しているそれぞれは、
唯一、その”場”に対して大きな影響力を持つものだということができる。

つまり、自身に奇跡を起こせる神とは唯一、あなたそのもの自身である。


他者の影響力を自身の下にコピーし、唯一、そこであなた自身の力により、奇跡なるものを起こしているのである。

つまり、それぞれの本質は神聖な光である。上も下もない。
ただそれぞれに受け入れている価値観による差異が、
その影響力の大きさというものに関係すると言えるだろう。

自身に影響力を与えるのは、あなたがそこに受け入れたい情報があるからであるが、
あらゆる経験もまた、それはあなた自身に役立てるために自分で起こしたということができるのである。

それぞれが光であり、特別な価値を持つものであり、
ヒーラーであるということを完全に理解した上で、
偉大な教師というものは、そのもの自身で抱え持つ問題点の本質を見抜き、
その個性に対応した働きかけを熟知していなければならないということになる。

こうした偉大な教師といえる存在とは、常にどの次元においても活動的に存在し、
経験といえるものを常に積んでいる。

釈迦もキリストもそうした魂の一団に属し、教師としての経験を積んでいる。
そこに終わりなどない。

それを知るものはすべてそうあれ、ということである。
 

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コメント
 
1. 中川隆[2331] koaQ7Jey 2016年5月02日 06:17:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2551]
>イエスとヨハネ、そしてパウロら三人は、同じキリスト意識から派生した意識的存在である。


またアホの妄想か(呆れ)

そもそもキリスト意識なんて存在しないし、そもそもイエスの弟子はイエスの教えを全く理解していなかった:


ペトロがマリヤに言った、


「姉妹よ、イエスが他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。

あなたの思い起こすイエスの言葉を私たちに話して下さい、あなたが知っていて私たちの知らない、私たちが聞いたこともないそれらの言葉を。」


 マリアが答えた。 彼女は

「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう」

と言った。・・・・・・・


■3.第二の啓示


 ペトロの求めに応じ、マリヤは、彼女がイエスから示された教えの内容を語り始める(しかしここでも、テキストに4頁の欠損があり、正確な内容は不明)。

 可視的な世界は、以下の七つの「権威」(アルコーン)たちによって支配されている。

  第一の権威 闇

  第二の権威 欲望

  第三の権威 無知

  第四の権威 死ぬほどの妬み

  第五の権威 肉の王国

  第六の権威 肉の愚かな知恵

  第七の権威 怒っている人の知恵


 七つの天を通り抜け、プレーローマ界に帰昇しようとする魂に対して、権威たちは尋問を行う。魂は、イエスから教えられたとおりの言葉を語ることにより、彼らに打ち勝ってゆく。


・・・・・・・・そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。

「私は」

と彼女は言った、

「私は一つの幻の内に主を見ました。

そして私は彼に言いました、


「主よ、あなたを私は今日、一つの幻の内に見ました。」


彼は答えて私に言われました、

「あなたは祝されたものだ、私を見ていても動じないから。

というのは叡知のあるその場所に宝があるのである。」


私は彼に言いました、

「主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、魂か霊か、どちらを通してなのですか。」


イエスは答えて言われました、

「彼が見るのは、魂を通してでもなければ、霊を通してでもなく、それら二つの真ん中にある叡知、幻を見るものはその叡知であり、その叡知こそが・・・・・・・


(このあと欠落)


・・・・・・・・・を。


そして欲望が言った、

「私はお前が降るところを見たことがないのに、今お前が昇るところを見ている。

お前は私に属しているのに、どうして私を騙すのか。」


 魂が答えて欲望に言った、


「私はあなたを見た。

あなたは私を見たこともないし、私を知覚したこともない。

私はあなたにとって着物のようであったのだが、あなたは私を知らなかった。」


これらのことを言った後、魂は大いに喜びつつ、去って行った。


 それから魂は第三の権威、無知と呼ばれるもののところに来た。

その権威が魂を尋問した、


「お前が行こうとしているのはどこへなのか。

お前は悪の内に支配されてきた。

お前は支配されてきた。裁くな。」


と魂に言って。そこで、魂が言った、


「あなたが私を裁くのはなぜなのか、私は裁いたりしたことなどないのに。

私は支配したことがないのに、私は支配されてきた。

私は知られなかったが、私の方は、地のものであれ、天のものであれ、すべてものが解消しつつあるときに、それらのものを知っていた。」

・・・・・・・・・・・魂は第三の権威にうち勝ったとき、上の方に去って行った。


そして第四の権威を見た。

それは七つの姿をしていた。

第一の姿は闇であり、第二のは欲望、第三のは無知、第四のは死ぬほどの妬みであり、第五のは肉の王国であり、第六のは肉の愚かな知恵であり、第七のは怒っている人の知恵である。

これらが怒りのもとにある七つの権威なのである。


彼らが魂に

「人殺しよ、お前が来るのはどこからなのか。

それとも場所にうち勝った者よ、お前が行こうとしているのはどこへなのか」


と尋問すると、魂は答えて言った、


「私を支配するものは殺された。

私を取り囲むものはうち負かされた。

そして私の欲望は終りを遂げた。

また無知は死んだ。

世にあって、私が解き放たれたのは世からであり、また範型の内にあって私が解き放たれたのは天的な範型からであり、一時的な忘却の束縛からである。

今から私が沈黙の内に獲ようとしているのは、時間の、時機の、そして永久の安息である。」


マリアは以上のことを言ったとき、黙り込んだ。

イエスが彼女と語ったのはここまでだったからである。・・・・・・・・・・

■4.使徒たちの論争

 マリヤの言葉を聞いた使徒たちは、その教えを受け入れるべきかどうかについて、次のような論争を行う。

 アンドレアス「彼女が言ったことに関して、あなた方が思うことを言ってくれ。イエスがこれらのことを言ったとは、私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから。」

 ペトロ「イエスがわれわれに隠れて、一人の女性と、しかも公開でではなく語ったりしたのだろうか。将来、われわれ自身が輪になって、皆で彼女の言うことを聴くことにはならないだろうか。イエスが彼女を選んだというのは、われわれ以上になのか。」

 マリヤ「ペトロよ、それではあなたが考えていることは何ですか。私が言ったことは、私が心の中で考え出したことであり、イエスについて私が嘘をついていると考えているのだとすれば。」

 レビ「ペトロよ、あなたはいつも怒る人だ。今、私があなたを見ていると、あなたがマリヤと格闘しているのは、まるで敵対者たちのやり方のようだ。イエスが彼女を認めたのに、彼女を拒否するとは、あなた自身は一体何者なのか。

確かにイエスは彼女をしっかりと知っていて、それゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。むしろわれわれは恥じ入るべきであり、イエスがわれわれに命じたやり方で、福音を宣べるべきである。」

 レビの言葉を聞いた使徒たちは、あらためて決心し、福音の宣教を開始した。

・・・・・・ すると、アンドレアスが答えて兄弟たちに言った、

「彼女が言ったことに、そのことに関してあなたがたの言いたいと思うことを言ってくれ。

イエスがこれらのことを言ったとは、この私は信じない。

これらの教えは異質な考えのように思われるから。」


ペトロが答えて、これらの事柄について話した。

彼はイエスについて彼らに尋ねた、


「まさかと思うが、彼がわれわれに隠れて一人の女性と、しかも公開でではなく語ったりしたのだろうか。

将来は、われわれは自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。

イエスが彼女を選んだというのは、われわれ以上なのか。」


・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・そのとき、マリヤは泣いて、ペトロに言った、


「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。

私が考えたことは、私の心の中で私一人で考え出したことと、あるいは私がイエスについて嘘をついていると考えておられるのですか。」


レビが答えて、ペトロに言った、


「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。

今私があなたを見ていると、あなたがこの女性に対して格闘しているのは敵対者たちのやり方でだ。

もし、救い主が彼女をふさわしいものとしたのなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。

確かにイエスは彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。

むしろ、われわれは恥じ入るべきであり、完全なる人間を着て、彼がわれわれに命じたそのやり方で、自分のために完全なる人間を生み出すべきであり、福音を宣べるべきである。

イエスが言ったことを越えて、他の定めや他の法を置いたりすることなく」。


かれらは告げるため、また宣べるために行き始めた。・・・・・・・・


http://homepage.mac.com/iihatobu/work/Gnostic.html
http://library666.seesaa.net/article/29804099.html
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth017.html  


2. 2016年5月03日 08:53:39 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[33]
ヒ−リング、奇跡について

キリスト心理療法士説に異議をとなえた、スピルチュアルおたくです。

キリストの奇跡は、科学的に理解不能、作り話、ウソ話というのが

大多数ですが、実際に奇跡、神通力は存在するので、

キリストの奇跡も起きた可能性はあったと考えます。


@ユングに易を教えたウイルヘルムの祖父のヒ−リング能力

  ヴィルヘルムの妻の父も牧師でした。しかしその父の父、すなわち祖父
  は超能力者に近かったのです。
  まるでイエスでした。手をかざせば、難病がどんどん治ったのです。その癒
  しを求めてヨーロッパ各地から毎週何百人という病人が集まりました
  教会は病院と化しました。
  相変わらず病気はどんどん治ります。
  村中の家が、病人の泊まる場所として開放されたくらいです。
  そのため、大きな温泉宿を買い取り、そこで礼拝と治療をしました。

(エゴであろうと依存といわれようが、実在しているようだ。)

 https://www.moritaken.com/goroku/goroku01/02.html

A大正、昭和の大霊能者 出口王仁三郎の予知能力(ヒリング能力はあるが
 低い)

 予言[編集]
王仁三郎は鎮魂帰法を広めた霊能力者であるが、病気治療という点では民間療法の域を出ない[371]。その半面、時代に対する予知と警告に関しては突出した力を発揮する

明治末期 - 大正初期の『いろは歌』『大本神歌』『瑞能神歌』に
アメリカ合衆国との総力戦(太平洋戦争)やB-29爆撃機による空襲を示唆する予言がある[374]。

大正8年5月の京都日出新聞に京都府警と王仁三郎の応答が公開され、王仁三郎は世界大戦で日本が占領されると述べる[375]

第二次大本事件における裁判(昭和13年8月10-11日)でも、戦争で外国が東京を攻める・東京は空襲を受けてススキノになると証言し、公判記録にも残っている[376]。

他に1921年(大正10年)の原敬首相暗殺、関東大震災も予言した[377]。特に関東大震災は、なおの筆先に「東京は焼け野が原になるぞよ」との文章があり、相乗して王仁三郎と大本への熱狂的支持に転化した[378]。

昭和十八年の年より三千年の いよいよ経綸の幕は上がれり」と詠い、早くから日本の敗戦を予言[388]。「大本は日本の雛型、日本は世界の雛型。日本がやられて武装解除されれば、いずれ世界も武装解除される」と述べる[389]。広島市への原爆投下やソ連軍の満州侵攻、千島列島や台湾の領土喪失も警告[390]、

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E7%8E%8B%E4%BB%81%E4%B8%89%E9%83%8E


B長南年恵の神通力(超能力)
1895年(明治28年)、長南年恵は詐欺行為(神水を用いて、医師の資格なしに病気治療と称するを行ったとして)を行ったとして、逮捕された。山形県監獄鶴岡支署に7月から60日間勾留されたが、証拠不十分で釈放されている。この勾留期間中、様々な現象が起きたたと言われている。

1900年(明治33年)12月12日、この拘置に対して、神戸地方裁判所で再審が行われた。判決は証拠不十分を理由とした無罪判決となったが、その後好奇心を持った弁護士たちが長南年恵に個人的な試験を申し込み、それに応じて霊水出現の試験が行われる運びとなった。封をした空きビンを渡し、空きビンに神水を満たせるかと質問したところ、長南年恵はできるといったという。この実験の前に長南年恵は全裸にされ、身体を厳重に調べられ、密閉空間の別室に閉じ込められた。この別室で精神を集中した長南年恵は、5分ほど(長南年恵の弟である雄吉は2分ほどと語っているが、大阪毎日新聞の記事によれば5分ほど)の後に空きビンに濃い黄色をした神水を満たし、裁判長に渡したとされる。裁判長はその水を持ち帰ったという[5][6][7]。

(厳密な実験で、封をした空のビンのなかに水取り出した。)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8D%97%E5%B9%B4%E6%81%B5


法廷で認められた“本物の超能力者”明治時代の日本人女せい 長南年恵
http://occult.blog.jp/archives/26735508.html


ここでは3つしか上げませんが、神通力は存在するようです。

本稿のヒ−リングがらみの話です。


3. アーリエル[27] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月03日 13:13:14 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[117]
あなた方に足りていないのは根本的な理解、それは存在の本質への理解だ。

そもそもあなた方に説いて聞かせようなどとするほどの大層な話はここにはない。

あなた方が知ることができるものとは、自分自身のことでしかない。
そしてそれを知る時、あなたは自身にただ素直なあり方を取り戻す、
ということをただ伝えたいだけである。

あなた方はそれを無防備で危険なことだと認識する。

たとえば、知識がなければ、人にだまされたり、あらぬ宗教に属して、被害を受けたり、最後的には人々を戦争に駆り立てたりするというようなことを想像してまで危惧し、人を引き止める。
 
そして「正しいもの」だけを人は持つべきで、
それは与えてやらなければならないとして、論理的な正当性までを自分に与えようとする。

そこに誤りが生まれているということだ。


そして、ここにあるのは実に単純な理解だ。
単にそれで足りるものをあなた方はわざわざ避けている。

つまりそこにあるのはそれぞれの個人が持つ、
自身の価値観による行動、その正当性の上塗りのための行為でしかない。

私がいっていることとは、
あなたが自然な存在として、誰に対しても自分の心を開放してそこに向き合うなら、
あなたの中に光明は見出されるというだけのことに過ぎない。
ということだけである。

言葉は要らない。心に感じるものをただ望ましいとする自分の力と見て、
実行に移すということだけでいい。

鏡を使って自分の目を見て感じてみればいい。

あなたに対峙するのはあなた自身だけである。

外側の知識とするものに対して執着があるのは、
あなたがたの概念化に生まれた多くの思い込みによるものであり、
そうした執着を手放せないうちは、あなた方もまたひとつの正義に燃える僧兵として、
そこにある概念の手先としてその砦をただ守ろうとして動くことになるたけだ。

そこにある教義、イニシエーション、戒律、立法、
さまざまな制約じみた威厳があなた方を囲い、
そこであなた方は自身の存在本質をますます見誤る。

あなた方の本質とは、あらゆる概念下の影響から自由である。
あなたはあなたの”場”を持ち、そこに存在し、そこであなたの必要とされているものはすべて得ることができる。

あらゆる判断のために得られる知識は、
あなたがその自然性を自覚したあとでいつでも手に入るものだ。

だがその時には、求めていたとするそれらのものは、
もはやなんの魅力も価値もないものになっているということになるはずである。

人間的な概念に依存しているうちは、
そこにある思想、想念、感情、さまざまなものに取り憑かれる。

それはそれでよいことだ。

だがそこからどうするかがあなたの課題であり、
あなた方はそこで感じたことにたいして考え、それらが自分たちに適合するかどうか、
そしてまた自分たちとはどうありたいのか、どう変わっていきたいかの想いを明確にすることで、進化の道のりに足を踏み込むことができる。

あなた方は常に、先に出会うものすべての答えを知っているが、
あくまでそれをここで知らないとすることで、その想いに得た力の働きを
この概念体系の世界に反映させることになるのである。

頭で理解するのは、そのような理解だけでいい。

要は素直に感じ、素直にその想いの力を発揮するということだけが肝要であり、
意識の中心に自身を迷わせるものはいらないということである。

あなた方世代が、単に次の世代の種子を刺激して、その成長を促進させる役割でしかないとするならそれはそれでけっこうなことだ。
あらゆるものすべては無駄にならない。


4. アーリエル[28] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月03日 15:04:06 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[118]
>2
言葉足らずにその害毒にまで口をはさんで他者に危険喚起していながら、
その蛇口から垂れ流れた情報に自らを汚染させることにどれたけの意味があるのかは理解できません。
(まあ、言葉足らずなのは自分の書いた本文を見て反省しきりの私も同じですが)

人の自然な感性が、絶えず、そうして刺激に対する耐性を得ようとする行為の陰に
麻痺していく一方であるとするなら、そこには当然、
「(不自然な)人間の価値としての判断指針が必要だ」、といった意見が幅を利かせるようになります。

あらゆる刺激的な事象に興味があるなら、それは個人の判断で追いかけられればよいとは思いますが、
上記の理由から、それらを率先して拡散すべきことに意義があるとはわずかにも思いません。


自分の行動には誰もが後ろ盾や力添えをほしがるものですが、
そのこと自体が自分の力となるわけでもなく、
また自身の存在性に対して、なんらかの正当性を与えることになる訳でもありません。

あなたが自身のとる行動を本心でははっきりと望んでいないと気づいているのなら、
そこには「自制」する働きが足りていないということになります。

そもそも、自然界に存在する力の働きをそのまま伝えるものとして、
言葉というものもまたそこに”その存在性”を示すものであるはずですが、
例えば、「無」や「中心」、「ゼロ」というものは存在しないけれども、
人々の頭の中に何かを描く時に必要な、基準というものをとりわけ理解するために存在するわけです。

「力」という言葉も、概念的なもので、「物理的な力」もあれば、「愛の力」もまたそこにはあるわけです。

人々は、この概念を利用して言葉の論理性というものを展開し、
自然界には存在しない力の働きさえも、さも実在するかのように見せかけることができます。

政治的論理、社会性を背景として出来上がったあらゆる法的根拠などとして使われている言葉はほぼ概念の乱用です。
そこに人々の自然性、つまり言ってみれば、
「自然な善性の働き」をも閉じ込めてしまうものでしかありません。


あなたが、本来望んでいることに対してそれを自制する働きや、
またそのための道理などもあなたの存在性の中に必要とはされていないはずですが、
人々は「人を制する必要性」を常に感じるのは、
言葉の持つ「論理的拘束力」の働きに魅力を感じることに加えて、
その力を守ろうとする意識によるものです。

恥や罪悪感といった価値観を利用してまで、人々を自制するよう促したり、
考えを改めさせるといった働きかけをしたりしますが、実際的にそこにはなんら力はありません。

これは人々を「自制する必要性の認識」による論理性といえますが、
自制すべきと認識する場において、それが果たせないことによる悔やみがそこに拍車をかけます。

しかし、本来ならばそれは、それぞれがそうした場に臨んだとき、
「それをすることを本当に自身が望んでいるのかどうか」をただ自身の胸に問えば、
そこに感覚的に、感覚的に理解されるものであるのです。

そしてそれは雑多な価値観を用いて、そこに照らし合わせて「その行為の正当性を得る」ということではなしに、
自然な感性の元に直接的に理解していなければならないものです。


あなた方の知る教義とするものが如何に制約に満ちたものかは見れば理解できますが、
それらの内容が宗派ごとに違うといったことに関しては、なんらおかしなことはありません。

人々には宗教を必要とする正当性としてのものが、きちんとあるのです。
それは現代社会における法律や規則となんら変わらないものです。

そこで人々が抱いている考えがそれら社会性を生んでいるのです。

つまり本質的に「自身を支配する必要性」というものを信じているためにそれは起こります。

つまり、人間批判を繰り返すものを中心に多く見られることですが、自己批判、他宗差別、すべて、
根本的な問題はそれぞれの個人の問題とするところに収まります。

現在必要とするとした社会依存の論拠となるものとは、
「人々の無知さによる横暴性=無価値な存在性=支配する必要性」を中心として生まれた、
危険性の回避に集約されており、当然そこには、悪(危険視されるもの)が栄えることへの不安があり、
そうした対立の構図が人々のアイデンティティとして生き続けることになります。

本質的にそうしたデータは誤っているといえ、
それらがずっと今日まで一人歩きしてきたのが現状だと言わざるを得ないものです。

あなた方が人々を不安視する原因となるものは、
そうした物事へのきちんとした把握力と対応力、そして自制心がないとすることへの苛立ちから生まれています。

ともかく、そうして外側にある脅威とは、すべてそれぞれの個人の場において形成されており、
外側に感じられる問題、またその原因とはすべて、それぞれ個人的に抱える問題が投影されているに過ぎません。

外側の問題を解消しようと努力するのではなく、それぞれが自分に素直に向き合って、
自分の中身を変えることによって、また外側もそのことで改善されていくに過ぎないということです。

逃げていても何もならないということです。
しかしながら御幣があるとまた言葉足らずになってしまうのでいいますが、
「戦うこともしない」ということです。

ただ望みとするもののみに集中して、人々がその想いをひとつにしていけば、
おのずとすべてはリンクして大きなうねりとなり、新しい時代を呼び込む働きとなります。

不安視することによる心の働きとは、あなたの存在する場において、
それら望みの実現を阻害する抵抗力にしかならない、ということです。


5. 2016年5月06日 15:11:06 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[101]
言葉なんて、媒介(翻訳蒟蒻ドラえもん的ツール)に過ぎない。
言葉遊びは、面白いおもちゃだけどね(^_-)-☆

本来「不立文字」としての
目 正中線 腹

が第一のダイレクトコミだ。あとは、基本邪魔。


6. 2016年5月06日 15:18:56 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[102]
その基本が備わったら、
ワンとかニャーでも話し合えるよ、l🐾

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