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日本の無条件降伏をもたらしたのは何か:原爆か、それともソ連参戦か?(Sputnik)
http://www.asyura2.com/16/warb17/msg/688.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 5 月 09 日 23:52:40: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

日本の無条件降伏をもたらしたのは何か:原爆か、それともソ連参戦か?
http://jp.sputniknews.com/opinion/20160509/2107825.html
2016年05月09日 23:01 


5月9日の大祖国戦争における対ナチズム勝利71周年を記念して、スプートニク日本記者は、ロシアの軍事史専門家アナトーリイ・コーシキン氏に一連のインタビューを行った。

事実上、戦後ずっと、日本と世界の世論においては、日本の無条件降伏を導いたのは、広島と長崎への原爆投下であるとの意見が支配的だ。いかなる軍事インフラも、実際のところなかった日本の2都市に、その破壊力において類を見ない、野蛮でかつ残忍な爆弾を投下したことは、人類に対する犯罪と言ってよいものだ。しかし米国内では、今も、戦争の終結を早め、犠牲者の数を減らすことになった、あの原爆投下は完全に正しかったと考えられている。

奇妙な話だが、戦後、日米が戦略的パートナーとなってからは、原爆投下に関する米国の見方が、日本社会でも実際のところ、浸透している。他のいかなる歴史的解釈も、幅広く討議されることはない。

以下、ロシア戦略研究センターの専門家で、第二次世界大戦歴史研究家協会理事、自身日本学者でもあるアナトーリイ・コーシキン氏の、意見を皆さんにご紹介したい-

「理由は、この説を全体として米国人達が支持している点にある。そして日本の歴史家達も、それに追随している。広島・長崎への原爆投下後も、実際のところ、日本政府には、そもそも降伏するつもりなどなかった。逆に、日本の国土と国民を、敗北が決定づけられた本土決戦に向け準備させるつもりだった。例えば『神風』の父とされる人物は、戦いに向け2千万の国民は立ち上がり、国の名誉を救うため自分の命を犠牲にせよと述べていた。実際のところは、まさにソ連の対日参戦により、日本の政治家のみならず軍人達も『さらなる抵抗は無意味だ』と理解し、あらゆる人達が望む結果へと、事態が動いたのだ。

1945年8月15日の天皇の勅語の中には、確かに、原爆についての言及がある。しかし別のやはり重要な、兵士や水兵達に対する勅語の中では、原爆投下については何も述べられていない。その代わり、そこでは『ソ連の対日参戦後、もはや戦いを続けることはできない』とはっきり述べられている。

原爆は、日本のエスタブリシュメントに対しては、実際心理的に強い影響を及ぼしたと考えられる。しかしソ連軍の攻撃により壊滅的打撃を受けた後、日本政府と軍部は、何よりも本土への、とりわけ北海道へのソ連軍の上陸を恐れていた。ソ連軍上陸は、朝鮮のように日本が分割される状況を作り出すものであった。まさにこのことが、降伏の現実的土壌を準備したのだと思う。なぜなら日本はもう、自分達には抵抗する可能性など事実上ないと理解していたからだ。

『実際、何が日本を降伏へと導いたか』という問題については、現在に至るまで、欧米、ロシア、中国の歴史学者の間で論争が続いている。米国人は、自分達の説が絶対だと主張している。広島・長崎への原爆投下70周年に当たり行われた世論調査では、アンケートに答えた米国人の60%が、原爆使用は、全く正しかったと考えていることが分かった。

しかし。この調査では、アジア太平洋地域で平和が取り戻されてゆく過程で、ソ連が演じた重要な役割がなぜか忘れられている。原爆ではなくまさにソ連兵が、大きな役割を果たしたのだ。

様々な側面での役割を、過大評価も過小評価もしてはならない。そして満州での作戦が展開され、朝鮮やサハリンそしてクリルが解放された際、12500人のソ連の将兵が命を落としたことを思い出す必要がある。しかし次のことも、忘れてはならない。それは、もし日本政府が、もっと早く戦争をやめていれば、日本は、何十万もの同胞の非業の死を避けることができた、という事である」。


 

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コメント
 
1. 2016年5月10日 00:32:23 : nJF6kGWndY : n7GottskVWw[1438]

>広島・長崎への原爆投下後も、実際のところ、日本政府には、そもそも降伏するつもりなどなかった
>ソ連の対日参戦により、日本の政治家のみならず軍人達も『さらなる抵抗は無意味だ』と理解

ロシアとしてはソ連参戦の成果にしたいのだろうが

ソ連参戦もドイツが敗北した後、当然、予想はされていたことだから、

あまり説得力はない


>天皇の勅語の中には、確かに、原爆についての言及がある

ま、昭和天皇や、当時の責任者に聞くしかないが

やはり原爆には無視できない心理的効果があったことは否定はできないということだろう



2. 2016年5月10日 07:20:34 : KzvqvqZdMU : OureYyu9fng[20]
米軍もソ連軍も、日本軍に比べれば、隔絶した残虐さ、おそらう文明の違いも
あろうが、人種差別的なものもあったであろう。
 だらしないのは戦後の日本人である。ま、公職追放や焚書による強力な
言論統制にもよるだろうが。勝者が作り上げた、日本=悪玉論に すっかり
のっかって自虐史観におちいり、反日に転じて喜んだことである。


[32初期非表示理由]:担当:アラシコメントが多いので全部処理
3. 中川隆[2409] koaQ7Jey 2016年5月10日 07:43:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2654]

真実は


原爆投下まで

・第二次世界大戦は国際金融資本が金儲けのために仕組んだ。
原爆の開発目途はついていたので、それを使用することが目的のひとつであった。

・その決定で、日英同盟が破棄され、アメリカでオレンジ計画がスタートする。

・日本の最高幹部と海軍は筋書きどうりに戦争を始めた。 陸軍はほとんど関知していない。
昭和天皇は命令どおりに動かされただけだ。

・昭和天皇とジョセフ・グルーは、終戦時期について討議したが、原爆を二発落とすまで終戦はさせてもらえなかった。
戦争が長引いたのは、原爆の開発が思った以上に遅れたからだ。

・広島は昭和天皇が決めた。だから、自分の嫌いな者達を広島に集合させ、見殺しにした。

・長崎はクリスチャンの教会が多いことで選ばれ、三菱のドックを目標とした。海軍は三菱にいたアメリカ人の捕虜を事前に救出していた。

・日本の情報機関は原爆の開発、投下時期、投下目標をすべて承知していた。もちろん昭和天皇も承知だ。


4. 2016年5月10日 11:47:01 : 1cz9P1E6DQ : a4CWEf3uhtE[78]
> そして日本の歴史家達も、それに追随している。広島・長崎への原爆投下後も、実際のところ、日本政府には、そもそも降伏するつもりなどなかった。逆に、日本の国土と国民を、敗北が決定づけられた本土決戦に向け準備させるつもりだった。

日本政府は戦争末期にソ連へ和平斡旋依頼を行っていた[1][2]。
それ故、「日本政府には、そもそも降伏するつもりなどなかった」は事実に反するし、ソ連政府は「日本政府が降伏するつもりだった」ことを熟知していた。

ロシアの軍事史専門家アナトーリイ・コーシキン氏が多くの日本人が知っている上記を知らないはずは無い。恐らく、スプートニク日本記者が隠蔽したのだろう。

[1] 日本の降伏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%99%8D%E4%BC%8F
東郷は近衛文麿に(ソ連政府への)特使を依頼し、7月12日に近衛は天皇から正式に特使に任命された。外務省からはモスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった[注 1]。

[2] 戦争末期のソ連への和平斡旋依頼
( 天羽英二:あもうえいじ 元情報局総裁 日本週報 No322 1955/7/5)
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/amo.htm
6 ついに近衛文麿公を特使にかつぎ出す top
 他方広田は直接自身あるいは知人を通し、マリク大使との連絡をとっていたが、先方から広田にたいし、日本の意向を承知したい、との申出があったので、広田は東郷外相と協調のうえ、
 一、東亜の平和を長期にわたり維持するために相互支持および不侵略に関する協定を締結するを本義とす。
 二、につき満州の中立化、北洋漁業権の解消を辞せない。
 三、交渉の窓口を開いておくため、その他ソ連の希望する諸案件についても論調するに異存ない。
 旨を六月二十九日マリク大使に申入れた。
 これに対し、マリクはこれを本国政府に取次ぎ本国から回答あり次第さらに会談を進めると返答した。
 そこで東郷外相は在ソ佐藤大使に広田・マリク会談の経緯を電報して、ソ連側の回答を促進するように訓令した。即刻佐藤大使はモロトフ外相とロゾフスキー次長に対しその旨を申入れたのであった。


5. 2016年5月10日 14:08:02 : fsffmZTZcI : NSQpkj6jA4U[42]
▼側近「ソ連が参戦しました」→18分後→天皇「降伏しよう」 公開された昭和天皇実録で判明
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1410225717/
▼終戦の詔勅で使われている「原爆投下終戦論」は、精々云って「降伏の口実」として使われた、有り体にいって、アメリカの公式見解同様、「大うそ」なのである。 現実は佐藤の予見したとおり、ソ連は参戦し、それが「遅すぎた降伏」の直接の引き金になった。 8月6日広島原爆投下の後、日本の指導層には戦争終結に向けた具体的な動きはなかった。 ソ連外相モロトフと佐藤の会見は8月8日に実現した。モロトフは、日本政府への「仲介依頼」に対する回答に替わりに、宣戦布告文書を読み上げてこれを佐藤に手渡した。戦争終結に向けた動きが慌ただしくなるのは、その後である。結局「ソ連参戦」という事態が、戦争終結へ向けて事態を動かしたのである。 極めて重要なことは、「長崎原爆投下」の報が、政府の意志決定になんらかの影響を及ぼした痕跡がないことだ。 最高戦争指導会議の結論は、「天皇制存続を条件としてポツダム宣言受け入れ」に決定した。「天皇制存続」は、文言の言い回しはどうあれ、すでに日米支配層の「暗黙の了解事項」であった。 「降伏の条件」は「ソ連の参戦」と「天皇制存続」だったのであり、決して日本に対する「原爆の使用」ではなかったのである。 原爆は、日本降伏の決め手にはならなかった。それは精々軍部の「メンツ」を救ったに過ぎない、というのである。 「終戦の詔勅」での「原爆」は「降伏の理由」ではなく「降伏の口実」だったのである。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/why_atomic_bomb_was_used_against_japan/05.htm
▼ソ連はヤルタ会談での合意に基づいて8月8日に日本へ宣戦。アメリカは8月6日に広島へ、8月9日に長崎へ原子爆弾を投下したが、ソ連参戦を意識してのことだろう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201605030001/
▼なぜアジア・太平洋諸国民5000万人を虐殺した最大最高の【戦争犯罪人】昭和天皇が【戦争犯罪】を全面的に免責・免罪され戦後の【象徴天 皇制】の天皇に復帰できたのか? それは、昭和天皇がユダヤロスチャイルド国際資本マフィアと米国支配層によって二つの役割を与えられ選ばれた役者だったからである。 第一の役割は、アジア・太平洋侵略戦争を開始して第二次世界大戦を勃発させる役目。 第二の役割は、敗戦後の日本を植民地として支配・搾取するための【駒】として免責・免罪した昭和天皇を【国民統合の象徴】【平和天皇】として機能 させる役目。
http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/15bc0c284635798c262b91a751a8d39c
▼日本の仕組みに油ダ屋式を敷き直すための負け戦。連合軍の正体は言わずと知れたアメリカ油ダ屋の進駐軍。具体的には中央集権(官民合わせた)要職、およそ20万ポストから日本人を排除、マイノリティー(多くが朝鮮半島系)を配置する。官僚中枢はもとより油ダポだが、政治行政司法をポチで固める。産業経済の要職にも、地方自治にもポチを配する。能力がどうであれ、忠実なシモベであることが条件。昔ながらの日本人気質(壮年男子)は戦争で淘汰済みである。
http://ameblo.jp/geneumi/entry-12115088637.html

6. 2016年5月10日 22:28:18 : 7f3OcFdpAo : IrCxpBoArIs[1]
>ソ連参戦もドイツが敗北した後、当然、予想はされていたことだから、あまり説得力はない

単なる無知w
では、何故ヒロシマ投下以後に、日本は近衛特使をソ連に派遣しようとしたのか?

明治以来の、日本の対外戦略(北進論、南進論)を知っておれば、当然、それは理解出来るはずだが。

以下のスレを参照されたし。
なお、中川某のコメは読むのに値しないから無視、だなw


何故8月15日に終戦したのか?  <核の神話>の破壊の為に
http://www.asyura2.com/12/senkyo134/msg/431.html
投稿者 影の闇 日時 2012 年 8 月 15 日 09:18:27:


7. 2016年5月11日 13:59:32 : RTWWw8j8P6 : 0[62]
戦争末期、海軍はもろくも壊滅したが陸軍は硫黄島、沖縄などで米軍に大打撃を与えてもいた。
万歳突撃の禁止、ペリリュー島、サイパンでの軍民一体の玉砕、硫黄島での洞窟戦、1人10殺、沖縄での徹底抗戦などで米軍に多大な出血を強いていた。

陸軍主力は満州にいた対ソ戦用の関東軍、南方に兵力を抽出したとは言え、大兵力を擁し、2セットあったソ連軍の1セットを極東に拘束していた。

陸軍は海軍が壊滅し制海権、制空権を喪失した中で、力戦敢闘、米兵を殺し続ければアメリカの反戦気分は大きくなると考えていた節はある。いずれにせよ陸軍にとって南方は局地戦であり、本土決戦で米軍に大打撃をあたえ、さらには天皇を満州に移してとの考えだった。

朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争などを見るにその考え方は間違ってはいない。

その陸軍の継戦意志を砕いたのは都市の一般市民に向けられた原爆ではなく、陸軍主力の関東軍の壊滅だというのは、まあ常識的の範囲ですな。


8. 2016年5月11日 16:59:06 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[514]
原爆投下とソ連参戦 どちらがより終戦を早めたか やはりソ連参戦のほうが軍人達への衝撃は
大きかったと言わざるを得ない 原爆の被害の絶大さは時間を掛けて徐々に判明する訳であり
さらに 原子爆弾であろうと言う事も 軍上層部と政府の指導層しか知らなかった事で
「敵の新型爆弾」 としか、当初は受け取られなかった

だが、それでも陸軍の強硬派の戦争継続への意欲は旺盛であり、本土決戦に持ち込めば米軍に痛撃を
与えうると言う認識で一致していた そして海軍の一部でも同様で 厚木基地の司令官は降伏に頑じ得ず
徹底抗戦を訴えて立て籠もるという事件まで起こしている

【本土決戦になれば相当な被害を出したであろう事は 米軍上層部や指導層でさえ認める事】

本当に彼らの経戦意欲をくじいたのは、原爆投下でもソ連参戦でもなく 天皇の意向(大命)なのである
「もうこれ以上 国民を苦しめる事は出来ない 自分の立場(国体護持)はどうでもいい」
この言葉を聞いた阿南陸軍大臣が 配下の中堅将校たちを思いとどまらせ その代わりに自分が割腹自決を
遂げる事によって、辛うじて 少壮将校たちの蹶起を抑えたのだ

つまり、終戦の最大の要因は、「天皇の意思」 これに次ぐのが 「阿南の切腹」 なのである
「阿南の切腹」 がなければ、終戦の決定は (天皇を人質に)陸軍のクーデターによって覆され
なし崩しに 本土決戦へと突入せざるを得なかったのですから

天皇と皇居を 直接警護する近衛師団が 終戦に反旗を翻したら 誰にも手出しは出来なかったのです。


9. 2016年5月11日 17:07:32 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[515]
ついでに、3の馬鹿にも 誰も手出しは無用ですから 南無

10. 2016年5月11日 22:12:40 : h5sboWWjPs : Nn4qGs@1bZY[1]
>8.

違うな。

その「天皇の意思」は本当は何によってもたらされたか?だ。


跳ね上がりの「強硬派」は、とどのつまり、2.26事件の青年将校の様になったであろことは容易に推測出来る。


これを読めば、「ソ連の参戦」以外に無いことが解るだろう。
 
A明治以来の国防戦略の破綻  米国のソ連への「対日参戦要請」(ポツダム)の裏の理由
http://www.asyura2.com/12/senkyo134/msg/432.html
投稿者 影の闇 日時 2012 年 8 月 15 日 09:24:10


11. 2016年5月12日 03:31:07 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[518]
>>10
もちろん、天皇の意思をもたらした要因に ソ連の裏切りという部分も大きい事は確かではある
が、しかし 天皇の意思は もっと早い段階で 戦争終結に傾いていた
ポツダム宣言を受けた直後に天皇は 「もはや受諾するより他に無し」 の発言をしている事は
「日本の一番長い日」 にも明記されている

なぜ宣言の受諾に時間が掛かってしまったか ソ連などに仲介を頼むと言う馬鹿さ加減のせいではあるが

もっと詳細に言えば、最高戦争指導会議が 最もこだわった部分は 「国体護持」 つまり天皇の立場である
これを天皇自身が 自分の身はどうでも良い 国体護持にも確信は有る と発言した事が最も大きく
強硬派の戦争継続の主張が それ以上広がる事なく 反乱が一部の人間だけで終わった理由だと思うが
_____________________________________

5月の最高戦争指導会議構成員会合(首相・陸海軍大臣・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)では、ソ連の参戦防止・中立確保のための交渉を行う合意を得た。当初はこれに戦争終結も目的として含まれていたが、阿南惟幾陸軍大臣が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」として反対したため、前記の2項目のみを目的とすることになった[1]。東郷は、元上司で元首相の広田弘毅をヤコフ・マリクソ連大使と箱根などで会談させたが、具体的条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言せず、はかばかしい成果は得られなかった。6月6日の最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されると、内大臣の木戸幸一と東郷、米内光政海軍大臣は、戦争の際限ない長期化を憂慮し、ソ連を通じた和平の斡旋へと動き出した[2]。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋をすみやかにおこなうよう政府首脳に要請した[3]。しかし東郷は広田・マリク会談に時間をかけすぎ、進展が見られなかった(広田はマリクとの最後の会談でソ連に和平斡旋の条件として、満州国の中立化などを提案している[4]が、マリクは政府上層部で真剣に考慮されるだろうと回答しただけであった[5])ことから、天皇は7月7日に親書を持った特使を派遣してはどうかと東郷に述べた[6]。東郷は近衛文麿に特使を依頼し、7月12日に近衛は天皇から正式に特使に任命された。外務省からはモスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった[注 1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%99%8D%E4%BC%8F


12. 2016年5月12日 15:06:47 : fpt8itpB5Q : zW@YYVl31Kw[662]
アメリカは広島原爆の前に1回だけ核実験をしている
トリニティ実験と呼ばれ、プルトニウムを爆縮方式で起爆するものだ
広島原爆はウラン原爆であり、起爆はガンバレル方式と言われる

アメリカは現在まで広島型原爆は作ったことがないので、
それはナチスが作ってアメリカが入手したのだろうという説が登場する
しかし、ナチスでも核実験をした形跡がない
そして、広島原爆は日本製という説が出てきた

考えてみて欲しい
天皇は広島に原爆が落とされるのを知っていたので、投下3日前から小学生1万7千人を集めておき
その死に具合をデータにしてアメリカに渡すことで、敗戦処理を有利に進めようとしたと言われる
そこまでの気違いならば、自分で原爆を開発して、自分でデータを採って特許申請するだろう
その目的は達成したし、アメリカから石油を買って続けられていた戦争も、
アメリカが石油を売らなくなったのでフィニッシュに向けて各部隊を自滅させていた
日本人をもっと殺したかったが、周辺国から略奪した財宝もスイスに移管し終えたし
そろそろ終わりにしてやってもいいかなという思いが天皇にはあったのではないか


13. 2016年5月12日 21:49:00 : GInkdB2A9U : PmKsxKoNglI[1]
>11.

>天皇の意思をもたらした要因に ソ連の裏切りという部分


国防戦略上の想定外の事態だった、ということ。

それに、「裏切り」って(笑)、「天皇自身が 自分の身はどうでも良い、、と発言した事が最も大きく」といい、情緒的に捉えちゃあダメですな。
「終戦秘話物」に囚われ過ぎですよ。 メディアリテラシィ能力をもう少し鍛えた方がいいのでは?

この問題を解くカギは「大本営作戦参謀」、即ち実質的な戦争指導者瀬島隆三が何故、戦争終結直前に満州に飛んだのか?ということ。

戦後、シベリア抑留から還った瀬島を、天皇は直に「瀬島は御苦労であった」と労いの言葉を掛けたというが、オレは、終戦直前の彼の行動は、言うならば”ミッション・インポッシブル”だった、と思う。
もちろん、対米の戦争終結を有利に進めるための、残された最後の手段としてね。


14. 2016年5月13日 03:04:50 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[522]
>>13
情緒的かどうかはともかく 強硬派の軍人達の意思を萎えさせたのは 間違いなく天皇の発言です

(リンクで示したように)6月の時点で戦争終結への発言が有った訳だが まだこの時は陸軍は
戦争終結には断固 抵抗していた、天皇の発言は当然 耳に入っていたはずではあるが
土壇場に来て決定打となった発言は 天皇自身が 「国体護持に固執せず」 と言う発言です

なぜなら、陸軍を中心とする強硬派たちの論理の 唯一の絶対的根拠は 「国体護持」 であった訳ですから
これを天皇みずから否定してしまったら、軍人達の意識は急速に萎えてしまったと考えるのが普通です
そもそも、この時代の軍人達の考え方そのものが 「情緒的」 だった訳ですから

なんにせよ、天皇を直接警護する近衛師団が 終戦に頑じ得ず反旗をひるがえし
天皇を人質に皇居に立て籠もっては だれも手出しは出来ず あの時点での終戦は不可能だった訳ですから
反乱が あくまで一部の将校にとどまった最大の要因は 天皇自身の 「国体護持に固執せず」 という発言が
最も大きかったのです これが私の考えで 押し付けるつもりは有りませんが。


まあ、私は 陰謀論など興味はありませんので 後はよろしく


15. 2016年5月13日 22:25:51 : CHLTVyyZlw : jKvbzO9VQ@k[1]
>14.

能力の無い者は、こういった事柄について、コメントしない方がいいだろう。ww

瀬島は前年1944年12月、単独でモスクワに2週間行っている。
決して、唐突な行動ではなかった、ということ。

斯かる軍部の終戦工作が万策尽きたことで天皇の発言が重みを持ったのであって、逆ではない。
そうでなければ、何故、天皇自身が「戦争に反対したら、自分は(軍部)に殺されていた」なる発言が出て来る?


>私は 陰謀論など興味はありませんので 


陰謀論??? 嘲笑
自分の能力の無さのエクスキューズってやつだなww


16. 一隅より[329] iOqL94Lmgug 2016年5月29日 11:05:35 : iyJ2MZrxS6 : topKgcEuDxs[23]
上記の各コメントはどれも正確な事実だと思います(>>3は除く)。

2つ付け加えたい。

ソ連が参戦したために、日本は大急ぎでアメリカに対して降伏する必要があった。
もちろん、「もうこうなってはダメだ、ソ連にはとうてい勝ち目はない」からではない。
勝ち目はないのは、アメリカに対してだってとっくに分かっていた。

大急ぎでアメリカに対して降伏したのは、もちろん日本全土にアメリカ軍を受け入れ(=ソ連軍を入れない)ためである。
そしてこれはアメリカの最大の関心事であり、その利益の実現でもあった(同時に、日本支配層の最大の利益だった)。

ドイツでは、同じ目的から西部戦線(対米英戦線)での抵抗は弱く、東部の対ソ戦線では最大限の抵抗がされたが、(つまり、降伏するなら米英軍に降伏しろ、赤軍には決して降伏するなという方針であったが)、うまく行かなかった。

この轍を踏んではならない、これが日本のあの時期での降伏の最大の理由である(朝鮮半島の半分ではうまく行かなかったが)。


もうひとつ、広島・長崎での原爆使用は、新兵器の実験のためである(とくに2種の実験が必要だった)が、それはとくにこの実験の成果をソ連に見せつけ、優位を誇示するためだった。
(こちらのほうは、ソ連の原爆開発がさほど遅れることなくなされ、追いつかれてしまったが。)


以上が、日本の降伏と原爆の使用とがあの時期に相次いで、大急ぎでされたことの事情だと思います。

つまり、ことほどさように米英の戦略は、すでに第二次大戦開戦以前から(ドイツをソ連に向かわせよう、けしかけようとしていたときから)、対独・対日だけでなく、いやそれ以上に、戦後の対ソ対決・打倒を視野に入れていたものだった。(およびアジアに関しては、蒋介石政権の擁護とそれを通じた中国進出も目標だった。)


17. 2017年2月09日 05:08:06 : NnyxcJNKtc : VyCOGew8@W4[17]
かつて日本は美しかった

ポツダム宣言受諾は日本の無条件降伏ではない
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/07/post-a2df.html

ポツダム宣言は「無条件降伏」ではない 日本政府は条件付きで降伏した(1/2ページ)

2015.05.30   連載:ニッポンの新常識 ケント・ギルバート
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150530/dms1505301000005-n1.htm(全文)


安倍晋三首相(自民党総裁)と、日本共産党の志位和夫委員長との党首討論がきっかけで注目された「ポツダム宣言」の英文と日本語現代語訳を、久しぶりに読んでみた。申し訳ないが、数カ所で笑ってしまった。

 ●例えば、第10条の後半だ。「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである」とある。

 ●終戦後、徹底した検閲を通じて日本のマスコミを管理し、虚偽の報道で日本人に贖罪(しょくざい)意識を植え付けた側が、宣言では日本政府に「言論の自由を確立しろ」と命じているのだ。

 ●GHQ(連合国軍総司令部)は「プレス・コード」で報道機関を統制した。露骨な二重基準には笑うしかない。

 ●日本人がポツダム宣言受諾を「無条件降伏」と呼ぶのも大間違いだ。

 第5条は『Following are our terms』で始まる。●「我々の条件を以下に示す」という意味だ。日本政府は条件付きで降伏したのである。

 ●具体的には「軍国主義の追放」「領土占領」「日本領土は本州、北海道、九州、四国と諸小島」「戦争犯罪人の処罰」「民主主義復活」「平和的政府の樹立」などである。

 ●そして、第12条には「条件が達成された場合に占領軍は撤退する」と明記してある。

 ●無条件降伏の要求はこの後の第13条、「全日本軍」に対するものだ。


ポツダム宣言は「無条件降伏」ではない 日本政府は条件付きで降伏した(2/2ページ)

2015.05.30
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150530/dms1505301000005-n2.htm


●『我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める(以下略)』

 第13条に従い、日本軍は進駐軍に1発の銃弾も撃たなかった。昭和天皇が玉音放送を通じて、日本国民に戦争終結を訴えられたおかげだと思う。

 ちなみに、ポツダム宣言を持ち出した日本共産党は、戦後平和の功労者たる「天皇」について綱領にこう書いている。

 『党は、一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、(中略)その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである』

 「第1章 天皇 第1〜8条」の撤廃は日本共産党最大の悲願である。どこが護憲政党なのか。

 さらに言えば、日本国のために尊い命をささげた英霊を祀る靖国神社への参拝に反対する政治家が、安全保障関連法案の審議では、自衛官のリスク増大を反対理由にしている。軍人や自衛官への感謝や敬意を示しているとは思えない彼らの、偽善的態度とご都合主義にはあきれるしかない。

 ■ケント・ギルバート 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。80年、法学博士号・経営学修士号を取得し、国際法律事務所に就職。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、人気タレントに。現在は講演活動や企業経営を行う。自著・共著に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、『素晴らしい国・日本に告ぐ』(青林堂)など。



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