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西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
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投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 02 日 11:42:09: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?


夢を紡いで 田中英道 - YouTube
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田中英道 日本国史学会 連続講演会- YouTube 動画
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田中英道 林原チャンネル - YouTube 動画
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田中英道 - YouTube 動画
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amazon.co.jp 田中英道の著書
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田中英道ホームページ 「美の探究者、歴史と思想を語る」
http://hidemichitanaka.net/

日本国史学会ホームページ
http://kokushigaku.com/contents.html


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田中 英道(たなか ひでみち、1942年2月20日 - )は、日本の美術史家。東北大学名誉教授。東京都出身。


略歴

1960年、都立日比谷高校卒業。
1964年、東京大学文学部仏文科卒業。
1966年、同美術史学科卒業、ストラスブール大学に留学。
1969年、「ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品」で博士号取得。
1970年、国立西洋美術館研究員。
1973年、東北大学文学部講師。
1976年、東北大学文学部助教授。
1992年、東北大学文学部教授。
1996年、「ミケランジェロ・システィナ礼拝堂天上画の研究」で東北大博士(文学)。この間、ローマ大学とボローニャ大学にて客員教授、ベルリン大学招聘教授を務める。
2006年、東北大を定年退官し名誉教授となり、国際教養大学特任教授に就任。酒田市より阿部次郎文化賞を受賞。


歴史教科書について

2001年9月より、新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)の会長を務めた。2005年『新しい日本史観の確立』で、日本近代史にのみ熱意を燃やす「つくる会」の運動に疑問を呈し、もっと幅広い歴史観の見直しの必要性を主張している[2]。つくる会の分裂後は、2006年に設立された「日本教育再生機構」で顧問を務めている[3]。

著作

単著(西洋美術史)
『冬の闇 夜の画家ラ・トゥールとの対話』新潮社〈新潮選書〉、1972年
『ラ・トゥール 夜の画家の作品世界』造形社、1972年
『文学の転身』泰流社、1976年
『微笑の構造 レオナルド・ダ・ヴィンチの二重人物像』小学館、1977年6月
『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』新潮社、1978年6月/講談社学術文庫、1992年
『若き日のミケランジェロ』講談社、1980年5月/『ミケランジェロ』 講談社学術文庫、1991年
『ルネサンス像の転換 理性と狂気が融合するとき』講談社、1981年9月
『画家と自画像 描かれた西洋の精神』日本経済新聞社、1983年3月/講談社学術文庫、2003年
『フォルモロジー研究 ミケランジェロとデューラー』美術出版社、1984年9月
『光は東方より 西洋美術に与えた中国・日本の影響』河出書房新社、1986年3月
『イタリア美術史 東洋から見た西洋美術の中心』岩崎美術社、1990年8月
『美術にみるヨーロッパ精神』弓立社、1993年7月
『ミケランジェロの世界像 システィナ礼拝堂天井画の研究』東北大学出版会、1999年3月
『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界像』東北大学出版会、2005年3月
『モナ・リザは、なぜ微笑むのか レオナルド・ダ・ヴィンチ傑作の構造』PHP研究所、2008年5月


単著(日本史・文明論)
『支倉六右衛門と西欧使節』丸善ライブラリー、1994年1月
『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社、1995年6月/講談社学術文庫、2012年4月
『天平のミケランジェロ 公麻呂と芸術都市・奈良』弓立社、1995年9月
『運慶とバロックの巨匠たち 「仁王」像は運慶作にあらず』弓立社、1998年6月
『歴史のかたち 日本の美―論争・日本文化史』徳間書店、2001年12月[5]
『実証 写楽は北斎である―西洋美術史の手法が解き明かした真実』祥伝社、2000年8月
『まとめて反論―「新しい歴史教科書」の思想』扶桑社、2002年
『法隆寺とパルテノン 西洋美術史の眼で見た新・古寺巡礼』祥伝社、2002年
『国民の芸術』 扶桑社、2002年。新しい歴史教科書をつくる会編
『日本美術 傑作の見方・感じ方』PHP新書、2004年
『聖徳太子虚構説を排す』PHP研究所、2004年
『新しい日本史観の確立』文芸館、2006年3月
『支倉常長−武士、ローマを行進す』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2007年5月
『「やまとごころ」とは何か−日本文化の深層』ミネルヴァ書房、2010年8月
『日本と西洋の対話 一文化史家のたたかい』講談社出版サービスセンター、2010年10月
『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」 二段階革命理論と憲法』展転社、2011年7月
『「写楽」問題は終わっていない』祥伝社新書、2011年12月
『日本の歴史 本当は何がすごいのか』育鵬社、2012年9月/扶桑社文庫、2015年2月
『美しい「形」の日本』ビジネス社、2013年2月
『日本の文化 本当は何がすごいのか』育鵬社、2013年4月/扶桑社文庫、2016年12月
『世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』育鵬社、2013年6月/扶桑社文庫、2017年1月
『世界文化遺産から読み解く世界史』扶桑社、2013年9月
『本当はすごい!東京の歴史』ビジネス社、2014年6月
『戦後日本を狂わせた左翼思想の正体 戦後レジーム「OSS空間」からの脱却』展転社、2014年10月
『日本の宗教 本当は何がすごいのか』育鵬社、2014年11月
『日本史 5つの法則』育鵬社、2015年12月
『日本人が知らない日本の道徳』ビジネス社、2016年2月
『天平に華咲く「古典文化」−続「やまとごころ」とは何か』ミネルヴァ書房、2016年7月
『鎌倉文化の思想と芸術−武士・宗教・文学・美術』勉誠出版、2016年8月
『日本の戦争 何が真実なのか』扶桑社、2016年12月
『芸術国家−日本のかがやき』勉誠出版(全3巻)、2017年4月 「T 縄文時代から飛鳥時代」、「U 天平時代から鎌倉時代」、「V 室町時代から現代」

『日本人にリベラリズムは必要ない。 「リベラル」という破壊思想』ベストセラーズ、2017年5月
『聖徳太子 本当は何がすごいのか』育鵬社、2017年7月
『高天原は関東にあった 日本神話と考古学を再考する』勉誠出版、2017年8月、オンデマンド版2018年7月
『日本の美仏50選 日本文化のすごさがわかる』育鵬社、2017年9月
『葛飾北斎 本当は何がすごいのか』育鵬社、2018年1月
『日本の起源は日高見国にあった 縄文・弥生時代の歴史的復元』勉誠出版〈勉誠選書〉、2018年1月
『天孫降臨とは何であったのか』勉誠出版〈勉誠選書〉、2018年4月
『日本国史 世界最古の国の新しい物語』育鵬社、2018年6月
『日本人を肯定する 近代保守の死』勉誠出版、2018年9月。新書判

共著
『カンヴァス世界の大画家8 ミケランジェロ』 中央公論社、1983年。巻末エッセイは高田博厚
『世界美術大全集西洋編 12 イタリア・ルネサンスU』 小学館、1994年。久保尋二と責任編集
『今昔秀歌百撰』(コンジヤクシウカヒヤクセン)不出售(フシユツシウ)特定非営利活動法人文字文化協會 2012年 ISBN 978-49905312-25 岡崎久彦・蔡焜燦・遠藤浩一・藍川由美・福田逸・高島俊男・桶谷秀昭・稲田朋美・鷲尾英一郎・小堀桂一郎
笹原宏之・松本徹・市村真一・早川聞多・土田龍太郎・山谷えり子・石川忠久・平沼赳夫・井上雅夫

『日本文明論への視点 われら何処より来たり、何処へ往くか』展転社、2012年 第1章 『「日本文明論」への視座』。2011年度拓殖大学日本文化研究所公開講座。全8章
他に、西尾幹二・長谷川三千子・古田博司・井尻千男・小堀桂一郎・北村稔・遠藤浩一(編者代表)

『戦後日本を狂わせた反日的歴史認識を撃つ』展転社、2016年3月(編者代表) ISBN 978-4-88656-425-2


翻訳
F.G.パリゼ『古典主義美術』岩崎美術社〈美術名著選書〉1972年、新装版1983年、1991年
エンツィオ・オルランディ編『ダンテ』田中俊子共訳、世界の文豪叢書1 カラー版、評論社、1976年
エンツィオ・オルランディ編『ディッケンズ』田中俊子共訳、世界の文豪叢書14 カラー版、評論社、1976年
シャルル・ド・トルナイ『ミケランジェロ 彫刻家・画家・建築家』岩波書店、1978年11月
エンツィオ・オルランディ編『ジョットー』田中俊子共訳、世界の巨匠8 カラー版、評論社、1980年6月
エンツィオ・オルランディ編『デューラー』世界の巨匠10 カラー版、評論社、1980年6月
ジョルジョ・ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』平川祐弘・小谷年司共訳、白水社、1982年、新装版2009年12月 『ヴァザーリ 芸術家列伝3』白水Uブックス 2011年8月 ※「ダ・ヴィンチ」の部の訳注、解説「ヴァザーリと二大巨匠」
エドガー・ヴィント『ルネサンスの異教秘儀』加藤雅之・藤田博共訳、晶文社、1986年12月

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93


田中英道東北大学大学院教授ってどうよ
https://academy3.5ch.net/test/read.cgi/gallery/1029412317/


157 :わたしはダリ?名無しさん?:04/11/24 23:36:39

なんで田中さんはこんなになっちゃったんだろ??

158 :わたしはダリ?名無しさん?:04/11/27 01:30:53

同じアホでも篠沢教授みたいな路線なら人畜無害なのに、よりによって作る会だもんなあ

111 :わたしはダリ?名無しさん?:02/11/02 23:23

あの人の文章って支離滅裂で何言いたいのかわからんところ多いんだよな。
ああっ、「そらお前の語彙力が貧弱なんじゃ!」というツッコミが聞こえる。。。


118 :わたしはダリ?名無しさん?:03/01/02 08:25
>>111
俺もよくわからないこと多い。
文の前後の繋がりが不明瞭なことが多いっていうかね。


144 :わたしはダリ?名無しさん?:04/01/06 04:36

かつて、洋行帰りに大量の無修正エロ本を税関で取り上げられたというレジェンドの持ち主


147 :わたしはダリ?名無しさん?:04/06/14 18:23

講義でもますます快調に毒電波飛ばしまくる田中先生
西洋美術史の授業なのに延々と日本の仏像の話するのってどうよ
ああ、今年度末のご定年が待ち遠しいなあ。

...と、研究室のみんなの気持ちを代弁してみるテスト


151 :わたしはダリ?名無しさん?:04/09/16 23:10:10

最近出した新書、何ですかあれ?
完全にイカ(以下略


161 :わたしはダリ?名無しさん?:皇紀2665/04/01(金) 08:44:32 東北大はめでたく定年だな
西美のスタッフ・学生一同も喜んでるよ


8 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/16 08:38

しっかりした研究者だったのに、
運慶がどうとか、写楽がこうとか、専門分野でも
最近電波発信しまくってるけど、
いったいどうしちゃったんどうろう?

あ、それと彼の『フォルモロジー研究』は俺が東京でリサーチした限り、
各古書店での在庫率が一番高い美術研究書だと思う。
似たような書名・装丁の『イコノロジー研究』はなかなか手に入らないのに・・・
皆が売払ってしまいたくなるほどのDQN本なのか?
俺はまだ読んでないけど・・・(読む予定もなし)

12 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/16 23:41
>>8
>しっかりした研究者だったのに、
>運慶がどうとか、写楽がこうとか、専門分野でも
>最近電波発信しまくってるけど、

西洋美術が専門だから、運慶も写楽も全然専門分野ではないよ。
日本彫刻史の専門家からは全然相手にされていない。
一人だけネガティブな批評を書いた研究家がいたが、それに自著で猛反発。
しかし、その後は全く無視されているらしい。


15 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/17 14:15

フランスで博士論文にしたジョルジュ・ド・ラトゥール研究は今でも基本書だが・・・
まあ20世紀では最初期のカタログの試みだったというだけかもしれん。

16 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/17 22:59

天平のミケランジェロ
運慶とバロックの巨匠たち
実証 写楽は北斎である
法隆寺とパルテノン
 (プププププ

17 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/18 00:21
>>16
「天平のミケランジェロ」というのは造東大寺司次官の国中連公麻呂のことらし
い、そしてドナテルロが興福寺の阿修羅像などの作者とされる将軍万福らしい。

この人は天平期の傑作、例えば新薬師寺十二神将像・東大寺法華堂日光月光菩薩
像・東大寺戒壇院四天王像・唐招提寺鑑真和上像などの像の作者を著書の中で勝
手にこの天平のミケランジェロ国中連公麻呂と断定している。

まあ、自分の著書で何をどう書こうが自由なのだが、その学界では全く認められ
ていないDQN説を、こともあろうに扶桑社版「新しい歴史教科書」の中で、あ
たかも広く学界で認められている「定説」であるかのように記述しているのだ。

新しい歴史教科書に反対する陣営もこのことについて触れる人はいないが、教科
書執筆者として、このような態度はいかがなものか。


19 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/18 05:41

24 名前: goatsong 投稿日: 2002/08/17(土) 17:46
ところで、英道さんがある天平彫刻の作者帰属(国中連公麻呂だとか)を行っ
た時、「史料にない」とかなんとかいう理由で、その帰属にいちゃもんをつけた
学者がいたそうな。詳しくは知らないので何ともいえないのだが、もし理由が
それだけなら、この学者のオツムの程度が知れると思う。「史料がない」こと
は、「この帰属は間違っている」という何らの根拠にもなりえない。例えばルネ
サンス期の芸術には、署名なんかもなく、来歴の確認出来ないものが五万と
ある。これは巨匠も同じで、署名や史料のあるもの(基準作)なんかは実際に
は指で数えるほどしかない。

それをどうやって色々の芸術家に帰属させるのかといったら、これは作品自
体の分析(画材や様式等)を通して行われるものであって、そういう結果の後
に今日、例えばヴェロッキオの「キリストの洗礼」の部分が、レオナルド・ダ・ヴィ
ンチに帰属されてる。まぁ、そういったわけで、仮に「違う」と主張するなら、そ
の反対史料の存在以外には、作品自体の分析の結果を提示しない限り、も
う全然意味は無い。
(ちなみに英道さんは、正にこのような日本美術史の史料偏重と様式論の貧弱を批判している人なのです)


25 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/18 16:21
>>19
お前・・・現場の人たちに殺されるぞ。
なんの史料もない、言い伝えのみの仏像を相手にして
年代設定と仏師の出自の推定をしてるんだぞ。
お前、調査の現場知らないでいってるだろ。


27 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/18 19:01>
>>19
自分の著書でどんな学説を書こうが自由だ。しかし、中学生が学ぶ社会科の教科書に学界
では全く認められていない自説(学界ではドキュソ説とされている)を、あたかも確定さ
れた定説のように断定的に載せるのはいかがなものか。教科書を自説の宣伝の場として使
っているとしか考えられない。と、俺は言っているだけだ。田中英道の手法、及びその説
が正しいのか、正しくないのかなどという議論はしていない。


31 :25:02/08/18 19:26

>正にこのような日本美術史の史料偏重と様式論の貧弱を批判している人なのです)

って記述にかっとしちゃったよ。

T氏の日本関係の著作、特に仏像関係は読んでるんだが
明らかに史料を誤読してるし、現代の研究者の論文まで
正反対の意見をいってることにして引用してたりするわけですわ・・・
たとえ仮説として独創的でも、やっぱり即物的な史料の無視・詐欺的引用があると困るんだ。


36 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/19 00:52

某サイトのBBSからのコピペ。

さて、ご指摘の田中英道氏については、私自身はあまり存じ上げておりませんので、ご紹介下さった「天平のミケランジェロ」という本をあたろうと思いましたが、拙ページの「文献」に収録されていない本なので、他のスタッフもおそらく知らないのかもしれません。 ○○○○に電話して聞いてみたところ、

「ああ、あの方は西洋美術の専門家ですよ」

と言い、

「西洋美術の専門家なのに、日本美術についても色々論を出しておりましてね、ただあの方のメジャーは西洋美術のそれでしかないのに、それで日本美術をも論じて独特の見解を述べられておりますね。奇特な方だなあ、とは感じております」

と話しておりました。

××様の御見解にありました、

「奈良時代の作家をドナテルロやミケランジェロに準える、鎌倉時代美術をバロックに準える」考え方を話したら、笑っていました。

「それが田中さんの奇特な点でしてね、少なくとも私個人としては全面的に受け入れ難い。
まあそういう極論もあるかと、適当にほっとくのがいいですね。
あんまりあの方の論をまともに受け取らないことを、私はおすすめしますが」

と話しておりました。

37 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/20 20:53

比較芸術学とか比較史学とかの方法論はあるが、田中さんのは、なあ……


46 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/25 02:24

まあ、それ自身偉大な天平や鎌倉の仏師たちを説明するのに、わざわざドナテルロやミケランジェロを引き合いに出して「ニッポン版ミケランジェロ」とか矮小化したような言い方をしてしまうあたり、このおじさんは自分の国の文化に対し本当は劣等感がある、強い西洋コンプレックスの持ち主だなあと思います。
のびやかさとは無縁な、怨念のこもった認識をお持ちのお方だね(ピュア


116 :わたしはダリ?名無しさん?:03/01/02 04:50

「田中英道」って検索したら、ここに流れてきたのですが、現在の彼ってやっぱり「キワモノ」だと思います。

確かに昔は「学術的に」実績を残している「らしい」けど、やはり「営業右翼」と揶揄されている3K新聞とつるんでいる事で、もう終わっていると。

ジェンダー系の美学・美術史のワークショップに出入りしてたときも、彼の話題が出てましたが、出席者(もちろん「研究者」です。)の方たちは、彼の言説がどうこう、というより、彼を取り巻くメディア環境から判断して、既に「終わってる」 と判断されてました。「まともに相手をするのはよそう」と。

ただ、怖いなぁーと感じるのは、そうした態度が「結果的に」田中氏のような方を「野放し」にしていることにあります。

ここにおられる方は、研究者としての「立場」を堅持されようと努力されている方ばかりなので、慎重になっておられる。

大袈裟な、的はずれな言い方かもしれませんが、「嘘も100回言えば、本当のことになる」ということもあります。

専門家の皆さんだからこそ、早めに声を上げておいた方が、「いろんな意味」でよろしいかと思うのですが…。

117 :わたしはダリ?名無しさん?:03/01/02 07:17

うーん、割とあの人の言うことは納得出来る部分あるけどな。
あの人の作品評価や作者認定についてはちょっと疑問に感じる部分はあるし、
つくる会とつるんでるのも嫌なんだが・・・
でも確かに天平彫刻だろうが作者はいて当然だと思うし、
無著世親像を「弟子が彫るのを運慶が指導した」なんて説明されると
ちょっと一般人の理解を超えてる感じがするよ。
田中説が極論に過ぎるとしても、ある意味では日本の美術史界に
対して大きな問題提起にはなると思う。

田中さんが日本の美術史に対して専門の人に比べると弱点が多いのは
間違いないので、これから専門の人達がその問題提起をどう受け止めて
発展させて行くかってのが楽しみ。
ま、無視されてるんじゃ何も起きようがなさそうですが。
それと日本の美術家を評価するのにミケランジェロとかドナテッロとか
持ち出して来るのはどうかと思うな。
世界を視野に入れた上での位置をはっきりさせたいという狙いがあるのかもしれんが。
それと同じく☆の評価も・・・
https://academy3.5ch.net/test/read.cgi/gallery/1029412317/

▲△▽▼

運慶とバロックの巨匠たち―『仁王』像は運慶作にあらず (叢書 日本再考) 単行本 – 1998/6
田中 英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E6%85%B6%E3%81%A8%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E5%B7%A8%E5%8C%A0%E3%81%9F%E3%81%A1%E2%80%95%E3%80%8E%E4%BB%81%E7%8E%8B%E3%80%8F%E5%83%8F%E3%81%AF%E9%81%8B%E6%85%B6%E4%BD%9C%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%9A-%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%86%8D%E8%80%83-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4896678613
 

「仏像」についての本は大型書店に行くとあまたあるが、「運慶」についての本となると、数は限られている。その中でこの本はわたしが唯一書店で目にした一冊だった。筆者の田中英道(TH)はもともとイタリア美術の研究者。わたしも運慶より先にミケランジェロを見ていたので、きっとわかりやすいだろうと思って買ってみた。実際には運慶についてのパートは全体の40パーセントぐらいで、残りは湛慶・定慶などについやされている。なぜなら、この本の目的は、運慶とその同時代の芸術作品を洗い出し、その作者を見出すことにあるからだ。(おかげでこの本は慶派全体の名作ガイドブックとしてとても便利なものに仕上がっている。ただし、東大寺南大門仁王像と、快慶についての評価はかなり厳しいので、仁王像ファンと快慶ファンは読むと腹が立つと思う)

「彫る行為は一人の彫刻家であって、その固有な手は残るのであり、一個一個の作品の問題である。総合的に見る、などということは出来ないのだ」

とTHは言う。たしかに、ソムリエがラベルを見ずにワインの銘柄を当てるように、美術研究者は文献を見ずに作品を分類・評価できなけれければならない――とわたしも思う。
また、たとえ共同作業で作られたとしても、最終的な制作は一人の彫刻家の手によってなされたはずだ、という主張もうなずける。一人の天才の手によるのでなければ、像は一流の芸術の域には達しない。そうでなければ才能とは言えないだろう。ただの技術になってしまう。
しかしこの考えは現在の日本の仏像研究者には受け入れられないものなのだそうだ。
というわけでTHはこの本の中で相手にしてくれない学会に向かってひとりで主張を繰り返している。まるでシャドウ・ボクシングでもしているかののように。

ちなみに、THは同じテーマで天平時代を扱った『天平のミケランジェロ』という本も書いている。(こちらも天平美術のガイドブックとして便利)
July, 4, 2003 

_____
 

これは奈良国立博物館内の書店で手に入れた本。
産経新聞紙上において往復書簡方式で連載された、上横手(政治史研究者)と松島(美術史研究者)の対論に、根立による解説を加え、さらに運慶を見にいくためのガイドと年表を付け加えたもの。この本があればここサイトはいらない……かも。

この対論でも焦点となっているのは「作者論」。政治史家の上横手にとっても「運慶=総合プロデューサー説」には違和感があるらしく、松島の主張に最後まで納得してはいない。ただし、文献研究者である上横手の観点では、作者として名前の書かれているものが作者なのではないかという主張となり、上記の田中英道とは正反対の結論に達していたりする。

「直接ノミを振るったと思われる者を作者と呼ばず、ノミを振るったかどうか疑わしい者を作者と呼んでいいのだろうか」

と上横手は問う。つまり、上横手によると北円堂無著像の作者は運助であり、世親像の作者は運賀――ということになる。

この対論を見ていてわたしが思うのは、「運慶とは何者か」という問いが現在進行形のものであり、しかも「芸術とは何か」というより大きな問いと直結している、ということだ。運慶とはどのような人物だったのか、何を考え、何を目指していたのか、どのように作品を制作し、どれほどの才能を持っていたのか……答えは誰も知らないし、たぶんたしかな証拠はどこにも残っていない。残っているのは作品だけだ。

だからこそこの問いはいまも有効なのかもしれない。どんな「運慶」をイメージするか――そのイメージはきっと、鏡のようにその人の芸術観、人間観、歴史観を映し出すだろう。
July, 4, 2003 
http://leparadis.fc2web.com/unkei/book.htm

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アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄
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コメント
1. 中川隆[-12526] koaQ7Jey 2019年2月02日 11:54:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

田中英道先生に一番近いのはこの人かな:

ヴィルヘルム・ライヒ(Wilhelm Reich、1897年3月24日 - 1957年11月3日)は、
オーストリア・ハンガリー帝国のガリチア・ドブジャニツァ出身の精神分析家。
学生時代から精神分析について学び、敬愛するジークムント・フロイトからも指導を受けた。


オーストリア生れの精神分析学者。

ウィーン大学卒業後、ウィーン精神分析診療所で、精神分析とマルクス主義の統合を目ざして活躍する一方、精神分析技法ゼミナールを主宰して、研究と指導に専念した。

患者の態度やふるまいに現れる性格抵抗 (主要な抵抗) に注目した〈性格分析〉の理論と技法とを追求して、 《性格分析》 (1932) を発表し、古典的精神分析から現代の自我心理学的精神分析への発展の端緒を切り開いた。

社会学的見地に立ち、社会適応を重視した性格形成論、性を社会的抑圧から解放し、〈性器性欲の優位性〉を確立して、健康なオルガスムの体験能力を獲得することこそ健康の基盤であるとする性革命理論などが知られている。

著書はほかに《衝動的性格》 (1925)、 《ファシズムの大衆心理》(1933)、《セクシャル・レボリューション) 》(1945) など多数にのぼる。
 
ライヒは子供時代に関してあまり語らない人間だった。その理由として、父と母が共に自殺している点があげられる。

13歳の時、母・セシーリアが自分の家庭教師と性交している現場を目撃してしまう。ライヒはそのことを父・レオンに告げた。

精神バランスを崩した父は母を自殺に追いやった。そして自身は、わざと真冬の凍った池に何時間も立ち続け肺炎で死んだ。両親が自殺したのは自分のせいではないかと、ライヒは後悔し続けることになる。

こうした中で、全ての人間は「性欲」(リビドー)に支配されているというフロイトとの出会いは衝撃的であった。やがてライヒはユングが抜けた後の精神分析学会で精力的に活動を行う。

しかし晩年のフロイトも、さすがに「性欲理論」は無理があるとして放棄しつつあった。またユングはリビドーを「性」ではなく生命エネルギーと定義し、右脳と左脳のメカニズムにまで迫ろうとしていた。

 

しかしライヒは時代に逆行する形で、性欲理論を補強していった。

「全ての人間はオルガスム(性的快感)を求めて生活している」

彼は、神経症で悩むオールド・ミスの患者にマスターベーションを勧めた。自虐癖のある患者に「では実際に打ってみようか」と臨んだ。どれも確かに症状は好転した。

そして、性の解放と称し

・未成年の避妊教育の実践
・堕胎の権利の確立

遂には、性の全面的な解放を行えば、神経症や性倒錯、そして犯罪の一切存在しない理想郷が誕生すると主張した。

ライヒの思想は進歩的ともいえるが、いささか過激すぎる点も多い。

 

・・・ライヒの思想は禁欲を重んじる20世紀初頭のヨーロッパ社会で、当然受け入れられるような内容ではなかった。師匠フロイトも、この「明らかに行き過ぎた理論」に不信感を抱きつつあった・・・
 
 

共産主義者としても積極的に活動していたが、 33 年ドイツ共産党から、 ついで 34 年国際精神分析学会から除名され、ストックホルムやオスロ を経て、39 年アメリカに亡命した。ライヒが主張する「性の解放」を全ての人間が嘲笑したのだ。

そのころから精神に変調をきたし、「オルゴン(オルガスムの)・エネルギー」と名付ける宇宙エネルギーの存在を信じこれに熱中するようになった。

世界には至るところに「オルゴン・エネルギー」が満ちている。それが細胞を動かしているのだ。愛するものと別れるとオルゴン・エネルギーが不足して病気になる。しかし休養すればオルゴン・エネルギーが充電されて再び健康になるのだ・・・

このエネルギーを集める力を持った〈オルゴン・ボックス〉に入ると、すべての性障害が治ると称して、ライヒは金属箱を販売した。しかし、これがアメリカの薬事法違反に問われることになる。

それまでのライヒは、思想は別として精神科医として極めて優秀な評価を受けており、裁判に負ける可能性は低かった。しかし、ライヒは陪審員達にこういった。

「オルゴンエネルギーを暴発させて大洪水を引き起こしてやるぞ」

ライヒは裁判中、法廷侮辱罪で投獄され、不遇のうちに獄死した。

 

尚、ライヒの心身相互作用に着目した療法は、今日の心身医学やボディワークの始まりとされている。

http://www.d4.dion.ne.jp/~yanag/kora9.htm

初期フロイトの路線を強調した上で、精神分析に政治的な視点をもたらし、精神分析とマルクス主義を結びつけようと試みた。性的エネルギーの社会による抑圧からの解放を目指したが、その極端な思想や行動が嫌われ、後に精神分析協会からも共産党からも除名された。

1934年ナチス・ドイツのドイツ国からノルウェーに亡命、オスロ大学で性科学を
研究中滅菌した肉汁中の小胞バイオンと1939年バイオンの研究中オルゴンを発見、
アメリカ合衆国のテオドール・ヴォルフ博士の招きで渡米、ニューヨークに住む。

1940年メイン州レーンジュエリーに転居、支援者によりオルゴン研究所
「オルゴノン」でロバート・マッカローらとともにオルゴンの研究に取り組んだ。

1941年にはアルベルト・アインシュタインにオルゴノスコープ(オルゴン拡大鏡)
でオルゴンを見せている。よく知られている物としては、オルゴン蓄積器
(オルゴン・アキュムレーター、蔑称としてオルゴン・ボックス、セックス・ボックスなどとも呼ばれた)という箱と1951年にラジウムとオルゴンの研究中発生したというオラナーとデッドリーオルゴンの雲をなくすため発明したオルゴン放射器のクラウド・バスターなども作成していたことがあげられる。

1954年、UFOを目撃DORを利用した侵略者の宇宙人の宇宙船と直感しクラウド・バスターで撃墜の必要を訴える。1954年にFDAにオルゴン・アキュムレーターの販売が、がん治療機を不法製造販売にあたると裁判を起こされ、裁判所の命令に従わなかったため、有罪判決を受け1957年投獄された。

精神分裂病(統合失調症)の可能性が疑われ、精神鑑定が行われた。オルゴンに
まつわるいくつかの妄想的な言動がみられるが、その他の点では正常だったと
いわれる。出獄することなく、1957年11月3日コネチカット刑務所で心臓発作で死亡した。
http://musical7.org/83948342838B8377838B83808145838983438371/


2. 中川隆[-12518] koaQ7Jey 2019年2月02日 13:35:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告


日本の起源は日高見国にあった: 縄文・弥生時代の歴史的復元 (勉誠選書) – 2018/1/31
田中 英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%AF%E6%97%A5%E9%AB%98%E8%A6%8B%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F-%E7%B8%84%E6%96%87%E3%83%BB%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E5%BE%A9%E5%85%83-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4585234020/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1549027803&sr=8-1&keywords=%E8%8B%B1%E9%81%93+%E7%94%B0%E4%B8%AD+%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F


内容紹介

「高い太陽を見る国=日高見国」は実在した!

美術史の大家が、生物学、神話学、考古学を縦横無尽に博捜して解き明かす、古代史の謎。


*「日高見国(ひたかみのくに)」とは…

『日本書紀』や、その注釈書である『釈日本紀』の中に出てくる、かつて日本に存在したとされる国の一つ。
その名称は今も日本各地に、日高、日田、北上、飛騨、飯高、日上、氷上などの地名として残っている。

常識を覆す歴史解釈から鮮明に浮上する縄文・弥生時代、日本の原郷・原風景。

「高い太陽を見る国=日高見国」はどこにあったのか。

『古事記』『日本書紀』『風土記』などの詳細な検討と鹿島・香取神宮、三内丸山遺跡、富士山などとの関係から東西歴史の巨人・田中英道が解き明かす古墳時代以前約一万年の謎。

カスタマーレビュー

保苅 則雄 悪い書2018年6月13日

個人の意見の押し付け
近親相姦イコールダウン症イコール土偶のモチーフ、など思い込みレベルの論理展開。途中で嫌になって読むのやめた。


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キリシタン 根拠ゼロの妄想史観 2018年3月19日

 日高見国が関東にあったやら、記紀に関東地方の記載がほとんどないから記紀の内容は信用できないやら驚く内容だが、根拠は全くない。

また、神宮の名称は、伊勢と鹿島香取しか許されていなかったと書かれてあるが、日本書紀では、伊勢神宮、石上神宮と出雲大神宮(出雲大社を指す)しか神宮と表記されていない。延喜式神名帳で初めて鹿島と香取が神宮に追加された。明らかに事実誤認である。

 著者は、縄文時代の人口が東日本に極端に偏っていたとし、東日本が日本文化の中心であったかのように主張するが、これは小山氏の人口シミュレーションを根拠にしている。しかし、小山氏の人口シミュレーション後、西日本で縄文遺跡が多数発見された。つまり、縄文時代の人口が、東日本に極端に偏っていたとする根拠はすでに崩れている。

さらに西日本は、アッサムから中国雲南省、長江南岸、台湾などと共通する照葉樹林文化圏であり、陸稲栽培のみならず、水田稲作を受け入れやすい土壌が縄文時代からあった。これに対して、東日本は、シベリア、北方シナ、満州、朝鮮半島(南端を除く)と同様ナラ林文化圏であり、水田稲作を受け入れにくい社会構造であった。ゆえに東日本が日本文化の中心にはあたらない。

 近年では、弥生時代に渡来人が多数渡ってきたとする説を否定する考古学者が多い。分子人類学の見地から日本人と朝鮮半島や中国大陸の人々のDNA分布を比較しても、渡来人が大量に渡ってきたとは考えにくい。むしろほとんど来なかったと考えた方が自然である。

さらに西日本で水田稲作を行われるようになってから、水田稲作で使用された農機具の一部は、縄文時代から陸稲栽培で使用された農機具(石器)が流用された。つまり、西日本の縄文人が水田稲作のシステムを長江周辺から持ち帰り、主体的に水田稲作を始めた可能性が高い。何故なら、弥生人の大多数が渡来人であれば、縄文人が縄文時代から陸稲栽培で使用した農機具を水田稲作に流用するなど有り得ないからである。故に著者が主張する九州に外国人が流入したとする説には根拠がない。

 記紀の内容を否定するにしては、その根拠が主観的かつ薄弱であり、著者のいう記紀に書かれていない真実の根拠が全く明示されていない。

また日高見国は特定の場所を指すのではなく、朝廷からみて日の出にあたる東方に対する尊称である。その根拠として、大祓詞に「大倭(おほやまと)日高見国を安國と定め奉りて」と書かれてある。つまり、日向から見て大和は東の方角に当たる。

神武天皇が東征される前は日向に朝廷が存在したのであるから、日向を中心に考えると大和は日向の東方すなわち日の出の方角にある。これにより大和は日向にとって日高見国にあたる。大和に朝廷が移れば、関東地方や東北地方が朝廷にとって東方にあたる。故にこれらの地域が日高見国とされるのである。

 著者の願望と妄想のみが延々と書かれた読むに値しない代物である。


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歴老人 基礎が成っていない 2018年3月10日

 この本の核心は、75pの「人口シミュレーションに見る歴史」にある。それは「縄文時代は関東に多くの人々が住んでいた「」とする『地質ニュース』(2009年7月)に掲載された『縄文時代の環境、その1−縄文人の生活と気候変動ー」(川幡穂高)に依拠している。そこで川幡氏の論考を読んでみると、それは1984年の小山修三氏の論考、例えば『縄文時代』【コンピューター考古学による復元】1984年に基づいていた。

 小山氏のこの本を読むと、その統計は1974年までの遺跡データだった。しかもこの論文自体、多くの問題があり(『日本人ルーツの謎を解く』展転社120p)、小山氏自身「ここに算出した縄文人口は(中略)実数ではなく、縄文時代の文化や社会を復元し、説明するための仮説に過ぎない。従って将来の調査の結果によっては修正があり、全く別の数値に変わる可能性をも持っている・・・」39pと記していた。

 田中氏の本は2018年に出版されたのだから、小山氏が統計をとった1974年の44年後の本である。では田中氏は、44年間の遺跡データを調査し、その結果を得てデータ修正を行ったのかというと、一切行わなかった。一例を挙げると、九州の上野原遺跡、三角山T遺跡、黒橋貝塚、菜畑遺跡など膨大なデータが欠落したまま、縄文時代は圧倒的多数に人々が関東や東北に住んでいたと結論付けた。

 ご覧の通り学問の基礎であるデータの取り扱いに問題があり、古くて使い物ならないデータを信じて書き連ねのだから、その内容はアッと驚くというより、開いた口が塞がらないことになる。金と時間の無駄使い、無論おススメできません。


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777 太陽崇拝はあくまで朝鮮にいた漢民族の信仰で、縄文人の宗教には無いものです 2019年2月1日

現時点でわかっている事を纏めると

日本は多民族国家で


陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった

水田は弥生初期に長江から北九州に伝わった

弥生人は九州に移住した少数の長江の男が縄文女性を現地妻として作った混血児の子孫

言葉は西日本の縄文人の話していた日本語をそのまま継続使用

漢民族系渡来人は弥生時代後期に北九州に植民市を作り、朝鮮と交易を行った。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けた

信仰対象によってどの民族か簡単に判別できます:

縄文人
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江人
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける

朝鮮からの漢民族系渡来人
中国鏡を神体とする太陽信仰

漢民族と縄文人・弥生人の区別は一重瞼か二重瞼かを見れば大体わかります:


日本人Y-DNAハプログループ比率 (2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

D1b--32% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O1b2-32%(旧表記O2b): 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O2---20%(旧表記O3) : 漢民族、縄文人・弥生人と混血していなければ一重瞼
C2----6% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼
C1----5% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O1b1--1%(旧表記O2a): 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O1a---1% : 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼
N1----1%
D1a,Q1--1%未満

天皇一族は一重瞼か奥二重瞼なので、普通に考えれば漢民族でしょう。

天皇一族は朝鮮を追われて日本に移民して以降

中国華北 → 韓国ソウル
→ 福岡県伊都国 → 天孫降臨(日向、大和 、丹後) → 北九州、瀬戸内、畿内
→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土

の順に支配地域を広げて行った様です。

天孫降臨の話は朝鮮の伝説を焼き直したものだとわかっています:

朝鮮と日本の神話の類似性

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。

 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。

 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

3. 中川隆[-12517] koaQ7Jey 2019年2月02日 13:51:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告


天孫降臨とは何だったのか (勉誠選書) – 2018/3/31
田中 英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4585234039/ref=pd_cp_14_2/357-1870605-3709858?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4585234039&pd_rd_r=fdac85df-2628-11e9-a01d-295130225d46&pd_rd_w=eM1a4&pd_rd_wg=FCeAg&pf_rd_p=960f7b64-96bc-43a7-8a7a-4c4bb301da91&pf_rd_r=XNEJVBMCGJ6CJ1XD881C&psc=1&refRID=XNEJVBMCGJ6CJ1XD881C


内容紹介

縄文時代、圧倒的に人口の多かった関東・東北は、日高見国という太陽信仰の祭祀国を形成、鹿島神宮の祭神タカミムスビからアマテラスヘの一族が率いていた。

大陸からの脅威に対抗するため、関東の鹿島から九州の鹿児島へ、香取(柁取り神宮)と息栖神社(天の鳥船神社)の率いる船団が鹿島立ちして、鹿児島の天降り川に到着した。

そこで準備して、イワレヒコ(神武天皇)が東遷して大和を征服した。

最近の考古学と科学分析の成果は神話の新たな読み解きを導いた。

天孫降臨は天=空から「降りる」ではない?鹿島と鹿児島の地名の関係とは?
高天原はどこにあったのか?
サルタヒコは縄文を体現している?最新の考古学と科学分析の成果から、神話を新たに読み解く。


カスタマーレビュー

不死身 期待外れの古代史 2018年8月14日

縄文時代は東日本が中心だったことは、出土した土器や土偶その他の遺物の量や質から理解できるが、この著者の立論は、天御中主が太陽だという誤謬からなりたち、決してうなずけるものではない。

認識不足にもとずく妄想の古代日本論にすぎずがっかりした。


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歴老人 根拠なきファンタジー 2018年4月25日

この本の肝は、

「高天原は東日本に存在し、日高見国にありました」(56)、

そして

「東京は、縄文時代、まさに日高見国の中心にあった場所だったのです」(28)、

更に

「稲作、機織りなどの生産労働作業が高天原にはあったと書かれていることが重要です」(45)

にあります。要約すると

「縄文時代の東日本に、水田稲作を行い、絹織物を作る日高見国があり、それがアマテラスのいます高天原なのだ」

となります。ではこのような国があったのか、水田稲作の見地から検証してましょう。

 藤尾慎一郎氏(『弥生時代の歴史』)には、

「関東南部で水田稲作が始まるのは前3〜前2世紀と遅かった」、

「前3世紀になると、仙台平野でも本格的な水田稲作が始まる」

とあり、東日本で水田稲作が始まるのは、早くて前3世紀頃と推測できます。すると、

「前3世紀以前、東日本では水田稲作は行われていなかった」ことになります。


 即ち、縄文時代の東日本には、氏の思い描いた水田稲作の盛んな高天原=日高見国は存在していなかった、となります。

この簡単なロジックが、何故分からないのか、それが不思議です。
全ては学問的根拠なき「空想と夢想の世界・ファンタジー」なる所以です。
話の出発からこれですから、後は推して知るべしです。


 話はやがて神武東征に移行します。

ここからは神代ではないので、神武天皇の即位年が書いてあるか?と探したところ、あとがきに

「(前略)西暦でいえば、神武天皇以前の紀元前290年から215年ということになります」(206)

とありました。215年か216年に神武天皇は即位された、と読めますが、その根拠は何処にも書かれておりませんでした。何かの機会に、このことについても書いて下されば有難く存じます。

 こんな訳で、ファンタジーを求める人はいざ知らず、真実を知ろうとした私にとって無駄な出費となりました。


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777 天孫降臨したのはニニギノミコトだけではありません、そしてその出発地は中国鏡が発見されている福岡の伊都国に決まっているのですね 2019年2月1日

丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

  この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。 どちらも弥生時代の伊都国でしか出土していません。

弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

結論だけ書くと

天皇一族は朝鮮を追われて日本に移民して以降

中国華北 → 韓国ソウル
→ 福岡県伊都国 → 天孫降臨(日向、大和 、丹後) → 北九州、瀬戸内、畿内
→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土

の順に支配地域を広げて行った様です。

4. 中川隆[-12516] koaQ7Jey 2019年2月02日 14:02:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

高天原は関東にあった 日本神話と考古学を再考する – 2017/7/24
田中英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E3%81%AF%E9%96%A2%E6%9D%B1%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%A8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E3%82%92%E5%86%8D%E8%80%83%E3%81%99%E3%82%8B-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4585221832/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1549027803&sr=8-3&keywords=%E8%8B%B1%E9%81%93+%E7%94%B0%E4%B8%AD+%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F


内容紹介

日本古代史の常識を覆す衝撃の一冊! !

土偶の造形は「水蛭子」がモデルとなっている!
鹿島・香取神宮の存在が、日高見国の位置を明らかにしている!
邪馬台国・卑弥呼は実在しなかった!
古代の文献と考古学的を読み解けば、新たな古代史が見えてくる。

形象学(フォルモロジー)を基盤に日本の歴史を再構築!!
日本古代史の常識を覆す衝撃の一冊!!


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邪馬台国は存在しなかった (勉誠選書) – 2018/12/25
田中英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/458523408X/ref=pd_cp_14_4/357-1870605-3709858?_encoding=UTF8&pd_rd_i=458523408X&pd_rd_r=509ca307-26a6-11e9-93e8-35846bde9518&pd_rd_w=5efCP&pd_rd_wg=hysSf&pf_rd_p=960f7b64-96bc-43a7-8a7a-4c4bb301da91&pf_rd_r=PTNQBKWDXNGVCJFP42KG&psc=1&refRID=PTNQBKWDXNGVCJFP42KG

内容紹介

『魏志倭人伝』を疑う

なぜ「卑弥呼」も「邪馬台国」も『魏志倭人伝』にしか登場しないのか?
作者・陳寿はどのようにして『魏志倭人伝』を書いたのか?


『魏志倭人伝』にしか登場しない「卑弥呼」・「邪馬台国」。
なぜ「卑弥呼神社」は存在しないのか?
『魏志倭人伝』はどのように書かれたのか?
戦後最大の未解決問題に決着をつける!



▲△▽▼


田中英道さんの問題は左翼学者の意見は一切信用しない事に有るのですね。

しかし、最近まで大学の教官は殆ど全員が左翼のシンパだったので
古代史学者も考古学者も人類学者も文化人類学者も遺伝子学者も殆ど左翼です。

従って、

左翼学者の意見は一切信用しない = 専門家の意見はすべて無視する

という事になりますから、自分の学説がトンデモだというのがわからなくなってしまうのですね。

5. 中川隆[-12501] koaQ7Jey 2019年2月02日 20:10:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告


なぜ卑弥呼神社がないのか――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」
田中英道 『日本国史学』7, 2015
http://hidemichitanaka.net/?page_id=1124


はじめに

戦後最大の未解決の歴史問題として、周知のように「邪馬台国」論争がある。『魏志』の「倭人伝」による「邪馬台国」が果たしてどこにあるか、当時の日本の 正しい姿を伝えているかどうか、すでに千冊以上の本が書かれている、という(1)。日本の歴史家、歴史好事家たちがこれほどのエネルギーを費やしてきたこ とが、果たしてそれだけの成果があったか。これまで何も結論が出ず、いたずらにマスコミの期待感だけを掻き立てているまま固まった状態になっている理由は 何か。西洋の歴史研究の経験の上に立って日本の歴史研究を始めた私のような一歴史家にとっては、この未解決の状態は、日本の歴史家の国際的な、学問的レベ ルの問題にも関わっているだけに、放置できない問題である。

かつて評論家梅原猛氏は「邪馬台国」論争と並んで、「写楽は誰 か」論争は、日本 の未解決な歴史論争の双璧である、と書いていた(2)。その後、前者の問題については、私は『写楽は北斎である』『写楽問題は終わっていない』(3)を著 したが、この問題の解決に一石を投じたと考えている。その後、これに対する反論は一切出ていない。それで、というわけでないが、第二の難問をとりかかるこ とにした。最近、一連の「古代史」といわれる領域に私の研究をシフトさせているからである(4)。

ところで『魏志倭人伝』を韓国の学者が読むと、≪百済が日本を建 てた≫ということになるらしい。ジャーナリストの室谷克実氏の紹介によると、パクソンスという高麗大学名誉教授は、次のように言っている、という。

≪日本古代史は中国の史書、「魏志」倭人伝に至って初めて出てく る。それを見れば、倭人がどこにいたのかというと、韓半島の「帯方郡」(今の黄海道)から南へ降りて行けば韓国があって・・。また降りながら海を東南側に 行けば狗邪韓国(くやかんこく)に出る。倭人はすぐにそちらに住む≫(5)。

つまり、韓半島南側に韓国があり、さらに海を渡って日本となる が、そこにもうひとつの韓国がある狗邪韓国がある、と解釈している。日本の倭人を支配しているのは、この狗邪韓国だ、というらしい。日本には百済の分国、 すなわち植民地があったという。>

同教授がいうには、日本列島に渡った韓国人は百済人ばかりでな く、伽耶(かや)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)に人々がいた。朝鮮の最古の歴史書『三国史記』(一一四五年成る)には、このことは書かかれていな いが、日本には遺跡、遺物が数多くあって、それを証明しているという。日本のあちこちに国を建てた人々は韓国人であって、日本人は野蛮人で国を建てる方法 もしらなかった、と述べている。やっと国が建ったのは七世紀に過ぎない。百済が六六〇年に、唐・新羅連合軍の攻撃に敗れ、国が滅んだとき、多くの百済の王 族が舟に乗って日本に渡って来たのも、すでに百済がそこにあったからだそうだ。

『魏志』「倭人伝」の前に、「韓伝」があって、「卑弥呼」と同時代の朝鮮半島南部の状況を伝えており、そこでは韓族が馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)の三地域に分かれて住んでいたが、馬韓は五四の小国に分かれ、百済はその中のひとつに過ぎなかった。倭国はすでに邪馬台国で統一されていた、とされている。≪韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接すると書かれ、さらに弁韓、辰韓二四か国の一つである斯廬(しろ)国を挙げて≪倭と界を接するとし、朝鮮半島の南部は倭人の地である、と述べているのである。

「倭人伝」の方は、魏の直轄地である帯方郡から、倭国の中心に向かうルートとして≪海岸に従い水行し、韓国をへて、南し東し、その北岸狗邪国に至る。七千余里にしてはじめて一海を渡る。千余里にして対馬国に至る≫と記しているのである。

狗邪韓国は倭国の北岸にあたり、任那と同じ位置にあることになる。倭人も多かったであろう。「倭人伝」によると、倭国は列島だけでなく、朝鮮半島の南部にも広がっていたのである。「韓伝」で≪南は倭と接す≫と同じことを言っていることになる。

室谷氏は、韓国教授の誤読を難じているが、だいたい『魏志倭人伝』の記述は、もともとおかしいのである。これまでの日本の 『魏志倭人伝』論争を読んでも、どんな解読の仕方も可能な態をしていることを、考慮しなければならない。その読み方次第で、九州説、関西説がくりかえし論 じているのであるから、そのような「誇大妄想」の「古代史」を非難しても仕方がないのである。書かれた「距離」の想像性を見れば、最初からフィクションを 書くことを意図していた、と取らなければならない。中国では「歴史」がそのようなものだったのである。あくまで、それは多少の事実は書かれようとも、歴史 資料に値しなものであることを認識しなければならない。

実をいうと、それは『魏志倭人伝』だけではない。現在の歴史で あっても、同じことだ。自らの祖先たちの歴史を、「侵略」「虐殺」「奴隷化」などという言葉で、歴史の真意も事実も閑却し、また「終戦」を「敗戦」とわざ わざ変え、また「降伏」に「無条件」つけて絶対化し、「同盟」を「従属」か「植民地化」とするような、現在の日本の歴史家、評論家の自虐趣味、マゾヒズム は、やはり同じフィクションの類であって、そろそろそうした不自然な態度を改めなければならないのだ。

つまり、現今の中国、韓国のある種の政治的な「捏造」による「歴 史認識」問題の提起は、咋今にはじまったものではないのである。その根底には、隣国同士の「近親憎悪」の類があるものの、日本に対する批判や蔑視の言葉 に、日本自身に、他国に見られない感性があることに対する苛立ちがあることを知らなければならない。その日本の論理を、歴史の解釈にもちいるべきだと歴史 家が気づきはじめたとき、日本の歴史とは何かがわかるはずである。本拙論はそうした考察はそこから始まっている。

その隣国との歴史論争の根源に関わるものが、「邪馬台国」論争で ある。「邪馬台国」とか「卑弥呼」という蔑称が、いつの間にか、歴史用語になり、教科書にまで載せられるようになったこと自体が、日本の歴史家のレベルの 低さを示しているようである。単に言葉に鈍感だけでなく、歴史自体の取り組み方に対する鈍感さがあることは否めないのだ。歴史家も教育者もそれを受け入れ たことは、日本人の人の良さかもしれないがそれを歴史にまで及ばせる必要は全くないことである。

その証拠が「邪馬台国」がどこにあるか、という「所在地」論争が 未だ>に決着がつかないことである。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれているが、日本にやって来たわけでなく、伝聞で書いたものである (6)。何せ、『三国志』という膨大な歴史書のほんの一部としてかかれ、おそらく日本の記述などは、陳寿にとっては、正確に書くなどという意志は、ほとん どなかったことを認識しなければならない。その認識が欠けたのは、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた結果、日本の学者は、これを金科玉条のよう に信じようとしてしまったことによる。魏帝の詔の類も、他の資料が残されていないことをいいことに、そのまま認めてしまったのである。長らくその認識が踏 襲されたから、それは確認されたことであろうと思ったのである。

現在も、古墳や遺跡が発見されるたびにそれが、「卑弥呼」のそれ だ、とか、九州が関西かわかったとか、学界もメデイアが騒ぎ立てる。しかしどの主張者も、具体的な証拠を示すことが出来ず、歴史を変えることにならずに立 ち消えとなっている。逆に、「卑弥呼」伝説なり、何か関連のある神社や仏閣を探すことからはじめて、この言説が、最初から間違っているのではないか、と疑 わなければならないのである。

戦後、この「邪馬台国」論争が活発になり、これだけの歴史家が 『魏志倭人伝』に執着しているのは、第一に日本の「万世一系」の天皇家の歴史への批判精神が流行し、第二に「社会主義」中国に対する偏愛が始まって「中国 文献」至上主義によるものと思わざるをえない。それもマルクス主義史観の跋扈のなせるわざで、日本の歴史を、否定的に見る態度が固定してしまったからであ る。

しかし咋今の中国「共産党」主導国家の「歴史認識」に、虚構や捏 造がなされていることに気づくと、中国人の歴史観は、「卑弥呼」の時代から変わらなかったのではないか、と考えることが出来る。時の政府の政治観が、その まま歴史観になっていき、事実の分析から生まれるものではない、ということなのだ。それがマルクス主義史観のある本質なのであり、伝統や文化を蔑視し、他 国を軽蔑する史観となるのである。そのような歴史家の「虚構」体質が中国の歴史家自体の体質に備わっているといってよいかもしれない。

すでに拙著『「やまとごころ」とは何か』(ミネルヴァ書房)で指 摘しているが、この論考で、詳しく述べてみよう。この無駄な議論が続く限り、『記紀』否定が一方で続き、日本の歴史の根幹である天皇中心の真実の歴史を、 無視するような「歴史認識」が続くことになる。つまり何世紀もかかった不毛な論争をこれ以上、繰り返すことは、日本の歴史家の不見識を、世界に示している ことになるのである。

以下はこの結論を補強する調査結果である。

1 『魏志倭人伝』記述の不正確さ

「古代史」学者、上田正昭氏の「邪馬台国と纏向遺跡」という論文 で、この『魏志倭人伝』が三つのパートの分かれ、第一は誰でも疑う距離の記された土地名がどこであるか、の問題も解決しておらず、第二に風俗記事で、それ が≪有無するところ、儋耳・朱崖と同じ≫と書かれ、この二つの地名が海南島のものであることを指摘する。これは『漢書』の「地理志」の「儋耳・朱崖の条」 を引用したもので、著者の陳寿が、「倭国」の風俗を、海南島あたりと同じだ、と考えていただろうと推測している。また「倭国の大乱」ではなく、単に乱れた 後、部族たちが同盟して「一女」を立てたのではなく、嫡子の相続がないときに立てたという意味だ、と上田氏は述べている。「卑弥呼」が「鬼道に事(つか) えた」というが、この「鬼道」とは道教のことで、「卑弥呼」の「長大たるも」は年を取った女性ではなく、他の書の同語の解釈から、二十代後半から三十代の 女性だと述べる。第三の外交面では、三回の魏への派遣があり、魏や帯方郡からも「倭国」に三回も使節が来ていることを重視すべきだ、と述べている。『日本 書紀』では、日本側から行って使節があったことを記しているが、魏から日本のやって来た使節のことは何も記していないのである。ここにあるのは、陳寿の記 述がいかに不正確か、またいかなる解釈も可能になるか、ということである(7)。それより、重要なのは、「卑弥呼」伝説の日本に於ける存在の可否である。

私は『日本の宗教』(育鵬社)を書いていたときに、全国の神社を 調べていて「卑 弥呼」神社がないだけでなく、その異端の存在を示唆する土地の伝説がどこにもないことに気づいた(8)。平安時代の日本の神社を網羅した『延喜式』の神名帳を調べてみても、式内社で全国にまったく「卑弥呼」神 社の類がないのは当然であるにしても、式外社にさえ、ないのではないかと考えざるをえなかった。

最近、鎌田東二・京都大学教授らが共著で出した≪『記紀』に出て くる神々だけが神様ではない!≫と帯にうたった『日本のまつろわぬ神々 記紀が葬った異端の神々』(新人物往来社)を読んでも、一切、「卑弥呼」のことが 言及されていないのに驚いた。まさに「まつろわぬ」神の筆頭であるはずだが、言及されていないのである。『記紀』が葬った≪鬼道に事え、能く衆を惑わす≫ 「卑弥呼」は「異端」の神ではないのであろうか。民俗学方面の研究者には、最初から探す意図がないことがわかる。つまり「卑弥呼」神など存在しないことを 知っているのである。それなら、なぜそれを言わないのであろう(9)。

たしかに奈良時代の『記紀』や『延喜式』の時代に、そのことが記 されなくとも、今日、「邪馬台国」の信憑性が、学界でもマスコミでも確実だと思っているなら、その後の時代にもその伝承が残り、それを祀る神社や祠があっ ていいはずである。その面での追求を、最初から諦めていること、そのことが、この「邪馬台国」不在の証ではないのか。そんなに確信があるのなら、日本のど こかに、その伝説なり、神社なりを調査してもいいはずである。

「卑弥呼」神社でインターネットを開くと、鹿児島に、たったひと つの「卑弥呼」神社があることを示している。しかし、これが、なぜ無視されているのであろう。それは、この「神社」が、昭和五十七年に建てられた「捏造」 神社であるからである。かえって、いかに「卑弥呼」神話が最近の話であることを、証明しているようなものだ。神社脇に立っている「由緒」書きとやらを引用 しておこう。

曰く、≪中国の魏志倭人伝・古事記・日本書紀・延喜式等によれ ば、卑弥呼女王は日本建国最初の女王であったという。茲に有志相集まり卑弥呼女王の居城隼人・国分地区に神社が建設されたことに、誠に慶賀にたえない。天 照大神は卑弥呼女王がその原型といわれ、ローマ神話のヴィーナスでもある。私共は卑弥呼を縁結びの神としてあがめ日本国土の永久に安泰と発展を祈ってやま ない。昭和五十七年四月吉日、郷土史家 松下寒山兼知≫。

この郷土史家は、隼人に「卑弥呼」の居城があったと信じているら しい。多くの学者も、それぞれ主張しているが、さすがに神社までつくる自信がないのに、まさにこの郷土史家はそれを建ててしまったのである。何百年経て ば、これが証拠となる、とでも信じたのであろうか(10)。

この郷土史家の歴史の「捏造」は批判されなくてはならないとして も、昭和の最後に、はじめて「卑弥呼神社」がつくられたことに驚かなければならない。このことは、まさに、戦後の「邪馬台国」ブームとやらは、一般の日本 国民にとって、寝耳に水の話であったことなのである。全国に八万社以上ある神社にこれ以外に「卑弥呼」神社がないことを知らしめたといってよい。

日本の各地の伝説にも、土地の記憶に一切ないということは、この ことで、そのもともとの不在が問われなければならなかったはずである。古墳があらたに見つかるたびに、これではないか、あれではないか、とメデイアが騒ぐ が、すでにその不在説は定まっていたのだ。その都度、何の確たる証拠が出ないのも、肝心な土地の神社や遺跡、伝承の類を、誰も見出すことが出来ないからで ある。三角縁神獣鏡だけが証拠のようにいうが、それとて「卑弥呼」を想定できる直接の証拠は出てきてはいない。

2 「卑弥呼」の墓、銅鏡について

全国で数十万古墳が造られたとされるが、義江明子氏は『つくられた卑弥呼』で「古墳に眠る女性首長」という項目で、各地の女性首長と思われる古墳の例をあ げ、その可能性を探っているが、さまざまな首長墳があっても、卑弥呼のそれ、といえるものを指摘しえないでいる(11)。

まず、纏向遺跡は、邪馬台国の候補地として有力視されている、と言われてきた。果たしてそうだろうか。纏向遺跡には、何ひとつ「邪馬台国」と思わせるもの はない。たしかに纏向遺跡は三世紀段階という古墳時代草創期の日本最大の遺跡であった。そして地元の奈良盆地だけでなく、全国さまざまな地域せ生産された 土器が発見される一方、農耕具などの出土が少ないところから、ここが日本列島における「都市の出現」の起点となったことは確かなものとなっている。このこ とは、日本統一がなされて最初の都であったこととなる。その「最古の古墳」とされているのが、纏向石塚古墳や箸墓古墳である。しかし≪倭国が乱れ、相攻伐 すること年を歴。乃ち共に一女子を立てて王と為≫った、卑弥呼の存在を思わせる証拠が見出されていないのが現状だ。

魏から百枚下賜された「卑弥呼の鏡」といわれるものがある。それが「三角縁神獣鏡」だとされ、それが現在、約五百六十面あり、鏡径が二十二センチ前後で一 貫している大きさである。橿原考古学研究所研究員の水野敏典氏は、最新の研究成果として、次のように語っている。

≪製作地論争に結論を求めるには、他の中国鏡や倭の同時期の青銅 製品の製作技法、弥生時代の銅鐸など三角縁神獣鏡以外に視野を広げて、時間的、空間的な青銅器生産における三角縁神獣鏡の技術系譜から探る必要がある。

「邪馬台国」がどこまで『魏志』に記載されたとおりに実在したのか、下賜された「銅鏡百枚」と三角縁神獣鏡がどのようにかかわるのか、まだまだ不明であ る。しかし、ほぼ同時期の銅鏡であることから「邪馬台国」の時代に生きた人々の姿を写した銅鏡という言い方はできるかもしれない≫(12)。

くわしく銅鏡の分析をしても、『魏志』の「銅鏡百枚」との関係は不明だ、としている。魏から遣使二人に、下賜された他の金・銀印、紫綬・青綬などが残って いないばかりか、もっとも蓋然性があると考えられてきた「銅鏡」でさえ、不明なのである。このことは深刻な問題である。つまり正直に言った方がいい。この 『魏志』の「倭人伝」は何の、「倭国」のことを具体的なものでなく、若干の同一性を除くと、すべてフィクションであり、検討に値しない、ということであ る。極端なことをいうな、というかもれない。これから証拠が出てくるかもしれない、と抗弁されるかもしれない。しかし違う分野であるとはいえ歴史研究を50年以上やって来た私から言わせれば、絶対に出てこないし、こうした記録は、公式記録とはいえ、歴史という ものを、統治者の忠実に書紀として書かれたものではない、このような記録は信用するに値しないし、論争するのも無駄である、ということだ。

邪馬台国九州説を称える研究者の中には、纏向で出土した土器の年代を百年近くの新しくみるべきだ、と述べるものもいるが、土器は古墳自身よりも後の時代だ というが、纏向の土器の年代を変えることは、他の膨大な土器の編年を考えると、無理だと、桜井市纏向学研究センター主任研究員の橋本輝彦氏が述べている。 「邪馬台国の最有力候補地として注目を集める纏向遺跡。長年の現地発掘調査から見えてきた真実とは何か」と副題に掲げられた同氏とのインタビューで、≪冷 静に考古学的な観点から考えると、箸墓が発掘されただけで、教科書を塗り替えるような大きな発見や成果があるとは思えません。卑弥呼が中国からもらったと いう「親魏倭王」の金印でも出てくれば別でしょうが(笑)、そういう可能性は極めて低い・・ここ数十年、学問としての考古学はかなり研究水準が上がってき ました。ひとつの古墳の発掘によって、大きな歴史が塗り替わるほどの余地はないと、私は思っています。≫と箸墓古墳の発掘現場の主任研究員がはっきりと述 べているのである(13)。

3 「卑弥呼」という名前について

『魏志倭人伝』は、男子の王が七、八十年続いた後に、何年か乱れ た末に、≪乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼を曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす≫と記している。ここで注目すべきは、≪一女子を立てて王 となす≫という表現の中に、あくまで男子と男子の戦いの後、卑弥呼が戦いに勝って王の地位についたわけではなく、その男子たちが「共立」して卑弥呼に 「王」を委ねた、という経緯があったことである。つまり戦争の勝利者よりも、巫女のような精神的な権威者を、世の中が必要とした、ということであろう(14)。

しかしその「卑弥呼」の「宮室・楼観を、≪城柵をもて厳かに設 け、常に人有り、兵を持ちて守衛す≫と述べている。ここには決して「共立」されて、安定した生活を送ったわけではない状態があったということだ。つまり 「王」となった以上、防御が必要になった、ということかもしれない。いずれにせよ、この存在は、権威的存在であって、戦いを制することの出来る権力的な存 在ではないことである。これは一見、天皇の存在に似ている。一方で摂政・関白に藤原氏のような実際に政治を執り行う勢力があって、その上に立つ、霊的な権 威の存在であったことである。

しかしこの女王の国は、倭国のひとつ「邪馬台国」であって、「倭 国」の島々がさらに別にあったことを記している。つまり天皇のように、倭国すべてを統一した上の「権威」的存在ではない、ということである。すると、これ 自体、決して、卑弥呼が「倭国」の「王」的存在ではなく、地方政権のひとつであったことになる。

女王卑弥呼が死亡してから、≪更に男王を立てしも、国中服せず。 更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。復(ま)た卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる≫という記述も、この国において は、戦争で国を制するよりも、巫女の家系の子孫を人々が尊敬する、ということを述べていることになる。このような家系を奉るということ自体、『魏志倭人 伝』の作者が、日本の「天皇=スメラミコト」の存在を仄聞して、その精神的権威というものを、このような記述に変えた、と考えられるだろう。しかし、あく まで神武天皇以来の、「倭国」全体の権威を想定したわけではない。

私は学生であった頃、井上光貞東大教授の「国史」の授業を聞いた が、そのとき「卑弥呼」を「ひみこ」と呼ばす、「ひめこ」と呼ぶべきだ、ということを聞いた。氏の『日本国家の起源』にも、「ひめこ」というルビをふって いる(15)。しかしこの「ひめこ」と呼んだのは、江戸時代の九州邪馬台国説の始祖である本居宣長 である。そして井上教授の前の東大教授の坂本太郎氏が、「ひめこ」説を主張し、その根拠に、『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』その他で、漢字仮名書き した人名や神名で「め」と発音すべきところに「弥」の字を使用されている例を数多く出しているからである。それに対し、原田大六氏は、これらの二つの文献 が、「め」という特別な読み方をすべき統一性をもっておらず、やはり「み」と読むべきことを主張している(16)。

いずれにせよ「卑弥呼=ひみこ」というもっともらしい名前から、 延々と論争がはじまったのである。そのもっともらしさとは、この名が「ひのみこ=日皇子」という『古事記』にも、『万葉集』にも出ている言葉と類似してい るからであろう。日皇子は、日の神の子孫であり、日のように輝く御子という意味で、天皇や皇太子、皇子の美称である。天照大御神の皇孫ニニギノミコトが高 天原から芦原中国に降臨した神話にもとづく表現である。≪高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして≫(2一六七)と、地上 への降臨と統治を一連のものとしてとらえている。天皇の神聖性を神話の起源に立ち返って確認し賛美することは、あたかも「ひみこ」の正当性を示しているよ うに錯覚させたのであろう(17)。

『万葉集』では、誰をさすか明らかでない例がある他は、その対象 は天武天皇とその皇子、天武の皇后であった持統天皇に限られている。その意味で、天照大御神の皇祖神化、伊勢神宮の創建、国家神話の体系化などを、あたか も「ひみこ」という言葉が予知していたように、真実性がある、と日本学者が感じてしまったからであろう。この「卑弥呼」が「日の皇子」であることは、万世 一系の天皇家を、疑わせるに足る史料として、戦後の学者たちにその捏造性も疑わずに、考察されつづけたことである。ここではっきり言えることは「卑弥呼」 は、「日の御子」を軽蔑した言い方であり、その関連は偶然のことであることだ。

4 「徐福」にも神社がある

題名に掲げたように、日本の神社の分布を細かく調べてみても、 「卑弥呼」神社がどこにも、見出せないのに気づく。むろん「卑弥呼」が「鬼道」で人を「惑わす」巫女であるから、神道の神ではない、ということも出来る が、「魏志倭人伝」で語られるような、ある「国」の支配的な「首長」的存在であるならば、鎮魂の意味でも、そこの地元の人々が祀らないはずはないのであ る。『記紀』に出てこない、人々に恐れられた神々、竜神、雷神、閻魔大王、鬼子母神、あるいは鬼の類であろうと神社がつくられている。後に検討するが、民 俗信仰にぞくする山姥、オシラ様等々の女神の中にも、「卑弥呼」らしい存在は見出せない。やはり最初から神々ではない、聖徳太子、柿本人麿、菅原道真、平 将門、崇徳院、楠木正成、新田義貞などの存在であろうと、神社に祀られているのである。どのような「卑弥呼」であっても、一度「王」となった存在は、記憶 に残されないはずはないのである。どこかの場所で言及されないはずはない。しかし「卑弥呼」もしくは、それらしい存在の痕跡は、一切神社にも、またお寺に も(仏教は六世紀以降、日本に入って来たものだから、これは当然かもしれないが)、見出せない。それは一体なぜであろうか。とくに『万葉集』にそれを推測 させる歌が一切ない、というのも「卑弥呼」「王」の不在をよく感じさせる。

同じ中国の史書、司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列 伝」に書かれた物語から発した徐福の伝説は、日本に数多くの地方に残されている。神道の神でも日本人でもない、「徐福」のような人物でさえ祀られ ているのである。「卑弥呼」よりもっと前、「弥生時代」に秦からやって来たとされる伝説上の人物にも、徐福神社が各地につくられているのだ。「徐福」は決 して神とは言えないにもかかわらず、である。名高いのは新宮市の阿須賀の神社で、そこには立派な鳥居と共に、この異郷の人物を、神社の祭神にしているので ある(18)。

徐福ほど有名でなくとも、例えば、滅んだ百済から逃れてきた王 族、禎­嘉王が宮崎県の美郷町南郷区に、その子の福智王が約九十キロ離­れた木城町に住んでいたと­され、死後それぞれが神として祀られるようになっている。むろんこの百済の王たちも神道には関係がない。それ にも関わらず、百済王一族を慰めるために、「師走祭り」という例大祭さえ、地元で行われているのだ。例祭当日、村民が参加して父を祀る神門 神社と子を祀る比木神社の間で親子の対面を再現するという。これであっても、ただの伝承からう まれた神社であり、それに基づく例大祭が行われているのである(19)。

百済からでなくとも、新羅や高麗など、朝鮮から来た人々を祀る神 社もあることも知られている。「卑弥呼」が、「倭の大乱」があったあと、それを平定するために、その首長の地位についた存在であれば、どこかに神社か、祠 にその存在が記されているはずなのに、それが存在しない。また「卑弥呼」の宗女の台与も「王」となっているが、こちらもどこにも祀られている形跡はない。 よほど日本各地の地元の人々に憎まれていたのであろうか。しかし憎悪も、鎮魂の意味で、神社か祠かが造られるものである。

では「卑弥呼」とかその娘の「台与」とかが、日本名ではないから、別の名前で、どこかに祀られているはずだ、という学者もいるかもしれない。この関連が もっとも取沙汰されているのは、一番時代的に近いとされる神功皇后の存在である。

4 「卑弥呼」は神功皇后、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)であったか

『記紀』には、神功皇后は新羅征伐を率いた女傑、高度な霊威力を もった巫女の長、神の子応神天皇を生む母という姿から、≪鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす≫卑弥呼と重ね合されている。第十四代仲哀天皇の皇后であ り、応神天皇の母であることから、卑弥呼と匹敵する「王」の地位にあるのではないか、と。薬師寺の「巫女」王という姿から、邪馬台国の卑弥呼だといわれる こともある。

実際、『日本書紀』巻九の神功皇后三十九年、四十年、四十三年の 条の三カ所に「魏志倭人伝」から引用があり、六十六年には晋(しん)の『起居注』(皇帝の言行を記録した一種の日記)を引用して、皇后を「倭の女王」と記 している。三十九年の条の注には、≪魏志に云う。明帝景初三年(西暦二三九年)六月に、倭女王が大夫難斗米らを遣わして・・≫と書かれている(20)。

『古事記』には、仲哀天皇が熊襲を討つために神の託宣を受けたと き、≪天皇が琴弾き、大臣の武内宿祢が祭りの庭にいて神託をうかがった。すると皇后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)に神懸りして託宣した≫と書かれてい る。『日本書紀』にも、≪皇后は吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となられた。武内宿祢に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を呼んで 審神者(きにわ)(神託を聞いて解釈する人)とした≫という。このような伝説から、神功皇后は、「邪馬台国」の巫女王の「卑弥呼」をモデルにして生み出さ れたとさえ言われる(21)。

神功皇后は「鎮懐石伝承」として語られる異常出産(神の子を産む 神話的な表現)を行ったことでも知られている。新羅遠征中に子が生まれそうになったため、夢のお告げにより、卵形の美しい小石を二個、腰のところに着けて 呪いとし、出産を遅らせることを願ったという。筑紫国に凱旋してから、無事に御子(ホムダワケ命)を生んだ、とされる。妊娠から出産まで十五月かかったと いう。この出産の伝承は九州地方に広がっていた土俗的な母子神信仰ではないか、と推測されている。母子神信仰とは霊的能力の高い女性(神に仕える巫女) が、処女受胎して神の子を産むという考え方に基づいている。しかし「卑弥呼」自身は、子はなく、独身であり、こうした神功皇后の出産と関連づけることは出 来ない。

このような「卑弥呼」に近い存在として神功皇后の神話が書かれて いるにも関わらず、その鎮座地である香椎宮(福岡県東区香椎町)では、一切、「卑弥呼」も「邪馬台国」の存在も、その伝説にも、記録にも表れない。この香 椎宮が、もともと霊墓㙊神功皇后が新羅遠征をしたことにより、朝鮮や中国にある霊廟と して創建されたいう説もあるが、こうしたことも「魏志倭人伝」の様相を伝えるものは全くないのである。それはやはり神功皇后を祀った住吉大社や、石清水八 幡宮も同じである。神功皇后が「卑弥呼」を示唆する何も、その由来や祀られる神々の中にない。

明治時代に東京帝大の白鳥庫吉(一八六五−一九四二)が九州説を 唱え、京都帝大の内藤湖南(一八六六−一九三四)が畿内説を主張して、論争したことは、周知のことである。その内藤が、卑弥呼を、神を祀る役目を担った、 垂仁天皇皇女、倭姫命(やまとひめ)にあてはめたことがあった。しかしこの説も、伊勢に祀られた倭比売命を調べてみても、「卑弥呼」関係を思わせるもは何 もない。天照大神の鎮座地を探して、大和、近江、美濃を経て、最後に伊勢に入った経緯の中にも、その関係を示唆するものはない(22)。

ま た考古学者の笠井新也氏は、「魏志倭人伝」で「卑弥呼」の死に対して≪大いに 家(つか)を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人≫と記されているのに対して、『日本書紀』が「崇神記」で、崇神天皇の叔母の倭迹迹日百襲姫(やまと ととひももそひめ)を葬った箸墓に関する≪日は人作り、夜は神作る・・大坂山の石を運びて造る≫という記述に着目し、箸墓の後円部の直径は百五十メートル で、魏の百四歩にあたり、箸墓の大きさと卑弥呼の墓とされる塚とほぼ一致する、という論を展開した。「魏志倭人伝」の「男弟あり。補佐して国を治める」の 「男弟」は、甥の崇神天皇である、と主張したのである(23)。

箸墓古墳がそれだ、という前に、この倭迹迹日百襲姫(やまととと ひももそひめ) という存在が、果たして「卑弥呼」と同一視できるかどうかについて、検討しておきたい。だが、この点については、すでに議論されていて、結論は否定的であ る。そのひとつ、原田大六氏のものを紹介しておこう。≪「魏志倭人伝」の卑弥呼に関する記事と、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫の記事を比較すると、その間 に共通する要素があるのを発見することができよう(24)。

(1) 邪馬台国の女王と倭の名称を持つ最高の姫。

(2) 鬼道に事える卑弥呼と天皇の請いで神憑りする姫。

(3) 奴婢百余人を殉葬した卑弥呼の墓と人と神でつくったという箸の墓。

しかし、以上のような共通点を指摘しても、なおしっくりしない。『日本書紀』には推古・皇極(斉明)両女帝の記述があり、神功皇后は天皇扱いで巻九に独立 させてある。卑弥呼は建国第一代の女王であったのだから、当然、倭迹迹日百襲姫女帝として出現しているべきであるのに、天皇の座についたという形跡は、 いっさい『日本書紀』には書いていないのである。この点に、「倭迹迹日百襲姫すなわち卑弥呼」という仮説を、承諾できない根元があるという。

また卑弥呼を日の御子とした場合には、倭迹迹姫も太陽の妻に近い太陽神祭祀に従事した女性として出てこなければならないのだが、彼女は出雲系の大物主の神 や倭国魂の神という話になってしまっていることである。これでは、日の御子という名の卑弥呼は倭迹迹姫ではないとさえいいたくなる。この倭迹迹姫の(1) 帝位についた形跡、(2)太陽祭祀の形跡、という二問題が解決されなければ、卑弥呼と倭迹迹姫との類似は、単にいくらか似ているというに過ぎなくなるおそ れが多分にある。

しかし原田氏は倭迹迹日百襲姫の名が、倭国の天界と地界を結ぶ、有翼の、たくさんの衣裳を持つ姫という意味であることから、『日本書紀』の中の存在では、 卑弥呼に一番近いと考えている。次の女王となった壱与についても考察を続けているが、それに近い存在として倭迹迹稚屋姫を挙げているものの、年齢の関係で 合わないので、その合一性の主張を断念している。

いずれにせよ、例え一番近い存在らしい、と考えられても、原田氏自身が投げかけた疑問を氷解させたわけではない。倭迹迹日百襲姫が、天皇でもないし、「卑 弥呼」が「日の御子」という太陽神信仰の持ち主であるという記述もない。二人は重ならないのである。

6 『風土記』の神々たちの中に「卑弥呼」の影を探す

「卑 弥呼」の存在は、中央の『記紀』の神々や家系に出てこないから、滅ぼされた地方の豪族にいたのかもしれない、と考えることが出来る。奈良時代には『記紀』 以外に各地の『風土記』が出されている。和銅六(七一三)年、朝廷は諸国の国司に、それぞれの土地の産物、肥沃度、山川原野の名前の由来、古老の伝える昔 の出来事などを記して、報告するように命じた。それが『風土記』であったから、「王」であった「卑弥呼」が、大和政権が列島各地に勢力を広めていく中で、 滅ぼされた土着の勢力の一人であったかもしれない。

そこで描かれている。代表的なものが「土蜘蛛」の名で伝えられる 部族たちである。「土蜘蛛」というのは、朝廷の側から見た蔑称であるが、その名の各地の首長の中に、何がしかの「卑弥呼」に関連するものがあってもおかし くない。とくに九州地方は、「卑弥呼」の存在が有力視されるだけに、そこになんらかの探す手立てがあるにちがいない。

豊後国(現在の大分県)の『風土記』には多くの「土蜘蛛」が登場 する。その名で呼ばれるのは五馬媛(いつまひめ)他七人、そのうち速津媛(はやつひめ)に密告されてほろばされた。≪此の村に女人あり、名を速津媛といい てその処の長たりき。即ち、天皇(すめらみこと)の行幸を聞きて、親自(みずか)ら迎え奉(まつり)て、奏言(もう)ししく、「此の山に大きなる磐窟(い わや)あり、名を鼠の磐窟といい、土蜘蛛二人住めり。その名を青・白という。また、直入(なおり)の郡(こおり)の禰疑野(ねぎの)に土蜘蛛三人あり、そ の名を打猨(うちさる)・八田(やた)・国摩呂という。この五人(いつたり)は、竝(ならび)に為人(ひととなり)、強暴(ちはや)び、衆類も亦多(また きわ)にあり。悉皆(みな)、謡(ことあげ)していえらく、「皇命(おおみこと)に従わじ」といえり。若し、強(あなが)ちに喚(め)さば、兵(いくさ) を興して距(ふせ)ぎまつらん」ともうしき。ここに、天皇(すめらみこと)、兵(いくさびと)を遣(や)りて、その要害(ぬみ)を遮(さ)えて、悉(こと ごと)に誅(つみな)い滅ぼしたまいき。斯(これ)に因りて、名を速津媛の国といいき。後の人、改めて速見の郡(こおり)という≫(25)。

これは景行天皇が熊襲征伐のために筑紫にやって来た時に、「処の 長」であった速見媛は、天皇を出迎えて、五人の土蜘蛛を滅ぼしてもらったことを述べている。速見媛という女性の「長」は、族長として「邪馬台国」の「長」 である「卑弥呼」に似ていないことはない。やはり戦いがあったのちに「長」となっている点である。しかし速見媛の場合、折から天皇の行幸に合わせて、争う 賊を殺してもらい、その国の「長」であることを確固たるものにした、という物語である。そして「卑弥呼」はあくまで、戦争のあと、「共立」されて権威者と して「王」になったのに対し、この速見媛は、権力者としての「長」としてふるまっている。『風土記』の「長」たちは、明らかに各国の権力者としての「長」 であるのである。

しかし「神」と化した「土蜘蛛」の例もある。景行天皇が熊襲征伐 から凱旋の途中で≪この郡(こおり)に幸でまししに、神あり、名を久津媛(ひさづひめ)という。人と化為(な)りて参迎(まいむか)え、国の消息(ありさ ま)を弁(わきまえ)申しき。斯(これ)に因りて久津媛の郡といいき。今、日田の郡(こおり)と謂うは、訛(よこなま)れるなり≫(26)。この女性首長は、人と化した「神」であるとされており、巫女的存在でもあったことを示唆している。

『風土記』の「土蜘蛛」の中に「卑弥呼」的存在と推し量れるもの が、見られないことはないが、しかしあくまで「すめらみこと=天皇」に従う形で語られる。みずから 「王」として独立的存在として語られることはない。このことは、播磨や出雲には「土蜘蛛」が一切語られていないことにより、そのような存在が近畿、中国地 方には存在しないことを物語っている。いずれにせよ、「土蜘蛛」の中には、「卑弥呼」的存在はない、と言ってよい。

その他に『風土記』には、『記紀』には存在しない数多くの女神が 登場する。女神が男の神と争い、勝つ話も多い。『播磨国風土記』では、讃容(さよ)の郡(こおり)の冒頭に、「妹背(夫婦)の神と田植え」の伝承に登場す るサヨツヒメ命(佐用都比売命)がいる。イワ大神(いわのおおかみ)とタマツヒメ命は、生きた鹿を捕らえてその腹を割き、吹き出た血を苗代として稲種をま いた、という。すると一夜のうちに苗が生えたので、すぐさまその苗をとって田に植えた。それを見て、夫の伊和大神は≪おまえは五月夜(さよ)に田植えをし まったのだな≫と、その奇跡的な田植えに驚き、土地争いをあきらめ去っていったという。土地の名前に、五月夜の郡とあり、鹿を切り裂いた山を鹿庭山とある のは、このせいである。この鹿庭山からは鉄が出て、人々は豊になったとされる(27)。

この田植えの競争に勝ったサヨツヒメ命の勝利は、鹿の呪力(じゅ りょく)と霊性をみごとに使ったからである。≪鬼道に仕え能く衆を惑わす≫という批判の裏にはこのような具体性があったからかもしれない。鹿の霊性と呪力 を使い、大地の豊穣性を引き出したわけで、それは他国の人から見ると「鬼道」に値するかもしれない。サヨツヒメ命の別名は「玉津日女命(たまつひめのみこ と)」であるが、この名からも神霊が依りつく巫女を神格化したものである。それは「卑弥呼」のシャーマニスムと対応するだろう。『風土記』は、八世紀の記 述とはいえ、それまでの各地方の伝承を伝えているから、そうした伝説が中国まで伝わっている可能性がある。ただこのような伝承の中の女神でも、兵庫県の佐 用郡佐用町に、都比売神社に祀られている。「卑弥呼」にはそれが存在しないのである。

『風土記』には、「卑弥呼」のような「王」の家系は語られておら ず、各地の女神の話が多い。例えば、名高い橋姫の伝説も、そうした女神の物語である。名前のとおり橋のたもとに祀られている女神であるが、川の神として知 られている。『山城国風土記』の逸文に、橋姫が懐妊してつわりになり、ワカメを欲しがったため、海辺に取りに行った夫が笛を吹いていると、竜神に気に入ら れて婿にされてしまったという。橋姫は夫を探して海辺の老女の家を訪ねて聞くと、竜神にさらわれたことを知って、家に戻った。しかし夫は竜宮で煮炊きした 食べ物を口にしなかったため(イザナミが黄泉の国から戻れなかったのは、あの世の食物を食べてしまったからである。黄泉戸喫(よもつへぐい)、この世に戻 ることが出来た。そして橋姫と一緒に暮らしたという。こうした伝説上の女神でさえ、平安時代の『古今和歌集』には「千早ふる 宇治の橋姫 なれをしぞ あ はれと思ふ 年のへぬれば」と詠われる。一方、「卑弥呼」が「日の御子」であったとしても、その伝説の歌はどこにも伝わっていないのである(28)。

『風土記』にも「聖母神」がいる。例えば、三輪山の神婚譚と同 じ、努賀毘売(ぬかびめ)の物語である。『常陸国風土記』に出て来るもので、常陸の「哺時臥(くれふし)の山」の話で、「晡持(ほじ)」というのは、申の 刻(午後四時頃)で日暮を意味する。ヌカビコとヌカヒメの兄妹が済んでいて、その妹のところに、素性のわからぬ男が求婚をした。ヌカヒメがその男と夫婦に なると、一夜にして身ごもり、小さな蛇を生んだという。その小蛇は、明るい日中はただ黙するだけであったが、夜、母と会話をした。それを不思議に思ったヌ カヒコは、神の子と思い、坏(つき)(食器)に小蛇を入れて祭壇に安置した。すると一夜で成長し、坏に一杯になり、平か(皿)に入れ替え、その次に甕に入 れた。しかし異常に成長し、入れる容器もなくなったので、ヌカビメがその我が子に、もうこれ以上養育しきれないから、父神のところへ帰りなさいといった。 するとその子は、従者を一人つけてくれれば、母上の言葉に従いましょうといったという。兄妹二人しかいないので、それを断ったところ、怒りを爆発させ、雷 神の本性を露わにし、叔父のヌカビコを雷撃で殺して天に昇ろうとした。おどろいたヌカヒメは、我が子を養育した平かや甕を投げつけると霊力を失って、晡時 臥の山に残ることになった、という(29)。

「卑弥呼」はシャーマンであるが、何かの化身という示唆はない。 その精神的威力が、一体どこから来るか説明がないのである。しかし独身であることは、日本では女性の「王」が、あくまで男系の「王」の家系の中継ぎを意味 し、後の日本の女性天皇のような、存在に似てくる。無論、『魏志倭人伝』の時代には、そうした皇位継承の伝統がまだ知られていなかっただろうから、その説 明の配慮がないのも当然かもしれない。ただ、作者、陳寿が、倭国の実情をほとんど知らないで書いたものであることは、この『風土記』あるいは『日本霊異 記』にあるような、日本人と自然とむすびついた存在であることを、示唆するものがないことでもわかる。

7 「入れ墨」の記述について

『魏志』の「倭人伝」には、有名な「黥面・文身」(顔や体の刺青)についての記述がある。

≪男子は、大小に関わりなく、みな顔や身体に刺青をしている。昔から、その使者が、中国にやって来るときにみな自ら太夫と 称した。夏后少康の子が、会稽に封ぜられると、髪を切り、刺青をして魚、蛤を採っている。(その時に)刺青をして大魚や水禽を避けるのである。その後、し だいに飾りとするようになった。諸国では、身体に刺青をするのにそれぞれ差異がある。あるものは左、あるものは右、あるものは大きく、あるものは小さく、 その尊卑にもそれぞれ差がある≫。

日本人がこれを聞くと、「みな」入れ墨をしていると、と誰しも思わないであろう。しかし『魏志倭人伝』を支持する学者 は、これについて余り抗弁していない。『記紀』に記されていないからこそ、貴重といわんばかりである。たしかに縄文土偶の姿の中に、あたかも入れ墨をして いるかのような姿(例えば遮光器土偶)が見られるが、それらは決して皮膚に刺青を表現したものではない。表面に凹凸があり、顔はむくみ、もしくは異形の表 現であり、身体はあくまで衣服の表現でしかない。入れ墨と考えることが出来る形跡は存在しない、と言ってよいであろう。しかし『魏志倭人伝』に記された時 代は、古墳時代であるから、当然人物埴輪にその可能性をみることができようが、埴輪は文様をもたないし、色彩表現が消えており、その可能性を探ることは出 来ない。畿内地方のみにある人物埴輪にそれを見る研究者もいるが、その人物埴輪の場合は、畿内に来た外来者の像と考えるべきであろう。本来の埴輪のあどけ ない姿は、埋葬者の霊性、神性を象徴化している、と考えられるから、入れ墨があったとは考えにくい。

その頃の畿内地方には入れ墨の習 俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、と考える方が正しいのである。『古事記』の「神武天皇紀」に記された、伊 波礼彦尊(いわれひこのみこと)(後の神武天皇)から伊須気余理比売(いすけよりひめ)への求婚使者としてやって来た大久米命の「黥利目・さけるとめ」(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須 気余理比売が驚いた記述があるからである。さらに、『日本書紀』には蝦夷が入墨をしているという記述があり、倭人の男性がすべて入れ墨をしていたということは、陳寿が「倭 人」を蔑視する材料に使っていると取るべきであろう。当時の中国では、入れ墨は刑罰の一種であったらしいからである(30)。こんな記述によっても、「邪馬台国」は本来の日本と異なる地域のことを言っていると考えるべきであろ う。要するに、この『三国志』の「倭人伝」は、陳寿のフィクションなのである。

8 民俗信仰、昔話の中に「卑弥呼」系があったか

たしかに『魏志倭人伝』では、山のことが書かれている。≪その 山には丹がある。その木にはクス、トチ、クスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデがある。その竹にはシノダケ、ヤダケ、カズラダケがある。 またショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガがあるが、滋味があることを知らない。オオザル、クロキジがいる≫。丹というのは、山の赤土のことらしい。 またここに書かれたこれらの樹木、竹、猿は日本にあるから、あたかも日本の自然を述べているかに見える。しかし、もうひとつ踏み込んで、山に対する信仰が ある、ということは書かれていない。

日本の民俗神は多彩で、民俗信仰、民間伝承などで昔から伝わって いる女性神が多い。もし「卑弥呼」が、日本の歴史の中に残っているとすれば、その中に何らかの形であるはずである。とくに「卑弥呼」が「鬼道に事え、衆を 惑わす」「女王」の存在なら、言葉通り「鬼女」や「鬼婆」のイメージと一致するかもしれない。「女性の霊力」をまさに体現しているのなら、その女神信仰に 残るであろう。何せ、女性の「王」であるからだ。柳田国男が言うような、「妹の力」に似てくるかもしれない。姉妹が兄弟を目に見えない精神的な力で支配す ることをいうが、「卑弥呼」も弟がおり、統治を助けた、と述べている。二人の関係は、それと似ているからである(31)。

「霊性」と「魔性」を併せもつのであれば、「山姥」となるかもしれない。「山姥」は一方で「鬼婆」の名で呼ばれるのである。ただ「山」がついているから、 当然、山と関係した「山の神」となる。「邪馬台国」の「邪馬」も「山」と共通するであろう。そのような共通性からも、「卑弥呼」は「山姥」となってどこか に残されるかもしれない。深い山に住むのは、先祖の霊であり、神のはずである。そうした「山の神」は、里に降りてきて豊穣をもたらすという民間信仰になる 可能性もある。民俗学者の宮田登氏は、≪山の神は、女性神であり出産に関与する、多産の女神であるという民間伝承があり、山姥イメージがそうした山の神信 仰を背景にしていることは間違いない≫(32)。

しかし宮田登氏の研究にも、「卑弥呼」追求は見出せない。そのこ とは、「卑弥呼神話など、各地のどこにも見出せなかった結果であろう。氏ほど、各地を歩き調査した研究者であれば、何らかの「卑弥呼」神話を見出すことは 可能であったであろう。しかし氏程の民俗学者でも、それを見出してはいないのである。各地に伝わる一般的な山姥のイメージは、背が高く、白髪の長い髪で、 鋭く吊り上がった目、耳まで裂けた口の老女である。「卑弥呼」が本当に実在したら、そのようになった「山姥」がふさわしいかもしれない。「山姥」には人間 を食い殺す鬼婆という恐ろしい悪神的な一面があると同時に、幸運をもたらす善神(守護神)的な一面があるといわれる。山中他界に住む鬼女が登場する「山 姥」は、山中にさまよう女の怨念がこもって鬼女に化身するというものだが、「卑弥呼」の「鬼道」の中に、このような一面を想像しても的はずれではないかも しれない。日本各地の山中に住むというこのような「山姥」や「鬼女」「女怪」などには、「卑弥呼」がなってもいいであろう。しかし「山姥」になったかつて の女性の「王」はいないのである。

「邪馬台国」の≪習俗では、行事や往来する際に、何かあれば、そ のたびに骨を焼いて占トをおこなって吉凶を判断し、あらかじめその結果を伝える。そのことばは、(中国の)命亀の法と同じである。ひびを視て、兆候を占う ≫とあるが、この占トは、日本でも亀や鹿の角で行うから共通しているといえるであろう。日本では中臣氏などの祖先は、占トを行って、吉凶を判断していたと いう。俗信では「オシラ様」が農業で、豊作を占う役割を演じていたことが知られている。東北地方の口寄せ巫女であるイタコが、その「オシラ様」を祀って祭 文を語り、人形神であるオシラ様を両手にもって空中に踊らせる所作をするのである。イタコは女性シャーマンで、「卑弥呼」と共通するが、「オシラ様」の由 来は、養蚕の神である。柳田国男の『遠野物語』の第六十九話で、長者の娘と馬のロマンチックな婚姻譚があるが、それは中国の『捜神記(そうしんき)』に由 来されるものという。しかし「卑弥呼」の記述には、彼女は人々の前には姿をあらわさない存在だし、養蚕神でもない。ともあれ『魏志倭人伝』の文章には現実 性がほとんど感じられない(33)。

女性神としては、航海の女神「オナリ神」が琉球王国に残ってお り、かっての琉球王国には、国王の姉妹か、王妃、叔母などが、最高の女神たる「聞得大君(聞こえおおきみ)となって、国王を守るオナリ神になったとう。 「卑弥呼」自身「王」となったから、この「オナリ神」とはならないが、しかし王妃がこのような存在となることは、女性が「霊力」が備わっている、と見なさ れたことでは共通している。女性が生まれながらにもっている神との感応する能力への崇拝があったことを示しているのである(34)。

琉球では姉妹のことをオナリ、もしくはウナリという。兄弟を守護 する「妹の力」を発揮しているのは、沖縄のオナリ神である。政務を司る弟がいる「卑弥呼」の存在は、オナリ神と同じ存在といえるかもしれない。ただ航海す る兄弟を守るオナリ神が多いから、そのような存在から「卑弥呼」の存在を想定したのかもしれないが、やはり「卑弥呼」はオナリ神とは言えない。

こうした霊力のある女神は「淡島様」と呼ばれる、女性の結婚、安 産、子育て、病気を治す神であったり、「瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)」とよばれる穢れを払う水瀬の女神などがいる。しかし女性の安産の神「納戸 神」「産泰神」、子育ての「姥神」、豊漁を祈る「阿波様」、春の女神「佐保様」、秋の女神「龍田姫」などの存在が各地で記録されているが、しかしどの女神 も独身の子供もつくらなかった「卑弥呼」の存在を由来として予想できるものはない(35)。

最後に琉球の「キンマモン」という女神について考えてみたい。こ れは「君真物」と表記される女神で、海の彼方からやって来て、最高神である聞得大君(きこえおおきみ)に依り憑く神である、という。「君」は神女のことで あり、「真」は本当であり、「物」は霊であるという。つまり偉大な神霊という意味だとされる。柳田国男は「君」は巫女で、「真物」は真の巫女を表すものと して、それが神そのものの呼称となったという。折口信夫によると「君」は後にきて「真物」君であって、真の神女ということになる。いずれにせよ、琉球の最 高女神ということになる。

袋中上人の著した『琉球神道記』には≪昔、人間がまだいなかった ころ、男神シチリキュと女神アマミキュが天から降臨して国をつくった。つづいて国王の祖先、神女の祖先、農民の祖先を生んだ。そうして竜宮(ニライカナ イ=海上楽土)から火がもたらされ、国が成り、人間が作り出された。このときに人間を守護する神のキンマモンが現れた。この神は、海底を宮とし、毎月出現 して託宣し、あちこちの拝林(御嶽うたき)で休んだ≫と書かれている。海上楽土から、人間を守るために女神がやってくる、という話だが、やはり「卑弥呼」 のような巫女なのである。「卑弥呼」を人々がキンマモンのように思ったからこそ、世の中が平定したとも考えられる。陳寿は、このような琉球女神のことを仄 聞していたのかもしれない。しかし、ただ巫女だけの類似とすれば、「卑弥呼」がキンマモンである、とは言えない(36)。

私はここで、能楽の女神物について触れておきたい。世阿弥は少 なくとも、能楽の起源が、『記紀』にある、天鈿女命の天の岩戸の前の踊りをその起源と考えた。

世阿弥の『風姿花伝』の第四「神儀にいふ」は、能の起源を次のように言っている。
≪申楽神代のはじまりといふは、天照大神天の岩戸に籠り給ひし時、天下常闇になりし に・・・神楽を奏し細男をはじめ給ふ。なかにも天鈿女の御子すすみ出で給ひて榊の枝に幣をつけて声をあげ、・・・神かかりすと謡ひ舞ひかなで給ふ≫とし、 天照大神が岩戸を開けて国土がまた明るくなったという有名な『記紀』の物語りの場面を≪その時の御遊び、申楽のはじめといふ≫としている。「卑弥呼」が≪ 鬼道に事え衆を惑わす≫行為が、こうした申楽のはじまりと無関係ではないように見える。≪衆を惑わす≫そのことが、演劇の元でもあるからだ( 37)。

能に「鵜羽」という巫女・女神物がある。日向鵜戸の岩屋で参拝してきた廷臣の前に、土 地の海人に化身した豊玉姫命の霊が現れる話で、鵜羽神宮の祭神、鵜羽葺不合命(うのはふきあえずのみこと)の誕生譚を姫の霊が語り、海彦山彦神話に出てく る呪物の満珠をめでて舞い、海中に去っていく、という能である。豊玉姫命といえば、海彦の娘であり、妹は玉依姫命である。「玉」とは「魂」であり、偉大な 霊能力をもった巫女のことでもある。「卑弥呼」が霊能力をもっている巫女であったから、その点できょうつうしている。「卑弥呼」の方は、一切係累を記して いないのは、作者がそうした知識を持ち合わせていなかったことを示すが、しかし『記紀』のこのような巫女・女神の存在を聞き知っていたのであろう。国の場 所を距離関係でくわしく述べる割には、土地の情報を全く持っていなかったということになる。無論その距離も陳寿自体の想像に過ぎないが。豊玉姫命は鹿児島 神社というれっきとした神宮に祀られている。場所と「王」である巫女の関係が日本では重要であることを、著者は何も知らなかったことになる。

「卑弥呼」の墓が箸墓古墳ではないか、と述べる考古学者も多いが、それならその近辺に 「卑弥呼」の祠なり神社なり、その伝承があるのか、誰も調べようとしない。無論調べても無駄だという諦めが先にあるからだろう。能には「三輪」という能が ある。三輪山の玄賓僧都のもとに毎日樒(しきみ)を届ける女性が、ある日、杉の木の下で待て、という。それに従うと三輪明神が現れ、三輪山伝説を語り、神 遊びをして舞った。この三輪明神が、「卑弥呼」のことを語れば、真実性を帯びてくるだろう。しかしそれは全くないのだ。もしくは室町時代まで語り継がれて おらず、消えてしまったのであろうか。『魏志倭人伝』には、日本の伝統に触れる記述がないのである。

9 『魏志倭人伝』の各地の記述を検討する

ここで『魏志倭人伝』で、各地の風習や文化を記述した部分を取り上げて検討しておこ う。口語訳は『倭国伝』(38)によった。まず対馬についてであるが、≪土地は山がちで険しく、深 林が多い。道路は鳥や鹿のけもの道のようである。千余戸ある。良い耕地は無く、海産物を食べて生活している≫と書かれている。この記述を読む限り、土地の 情報をもって書いたという部分がほとんど見出せない。海産物を食べて生活していることは、島国では常識的な事柄である。

一大国とか、末廬国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国など、どこを指すか、書かれた距 離が根拠を欠くために、九州だとか中国地方だとか、研究者によって分かれる。そのことは、記述自身に具体性を欠き、捏造という以外にない。さて邪馬台国に ついてからであるが、国の名前、戸数とか距離は、無視していいであろう。陳寿がどのような知識をもっていたか、だけの問題である。入れ墨のことはすでに述 べた。こうした習慣は東南アジアのことと考える以外にない。

≪その風俗は、乱れていない。男子は皆なかぶりものをつけず、木めんを頭にまいてい る。衣服は、横幅衣で、ただ結んで連続させているだけで、ほとんど縫っていない。婦人は髪を結っているが、露出させている。衣は夜具の布のようで、その中 央に穴をあけて、そこから顔を出して着る≫。この記述が、誤りなのは、同じ時代の人物埴輪から見ても明らかである。男子はかぶりものをしているものが多い し、木綿を頭にまいていると思われるものは少ない。挂甲で身をかためた男子像も多いし、武器をもっているものもある。当時の男性は、帽子が好きだったらし く、さまざまな帽子をつけ、それがお洒落であったと考えられる。帽子には大きなつばのついた丸帽で飾りや彩色をほどこしたものもあった。むろん、みな縫っ た衣服を着ている。女性も被り物をし、髪を露出させているものは少ない。布の中央に穴をあけてそこから顔を出すこともない。盛装の場合は、髪型も凝り、首 飾りをしている。ここの記述は、すべて嘘なのである。

≪稲や苧麻を植え、蚕のまゆをあつめて織り、細い麻糸・絹織物・綿織物を作っている。 その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)がいない。武器には矛、楯、木弓を用いる。木弓は下を短くし、上を長めにする。竹の矢がらに鉄のやじり、 または骨のやじり(を用いる)。・・倭の地は温暖で、冬・夏には、生野菜を食べる。みなはだしである。部屋はあるが、父母兄弟は寝るところが異なる。朱丹 をからだに塗っている。中国で粉を用いているようなものである。飲食には高坏を用い、手で食べる≫。

ここでは稲作が行われ、麻、絹、綿の織物の技術が発達していることが述べられている。 ただ虎、豹はいないにせよ、牛、馬はいたし、乗馬の風習はとくに関東を中心に一般化されていたことがわかっている。武器には、甲冑に太刀、靭(ゆぎ)を背 負い弓を持つ姿が埴輪にある。温暖な地であることは確かだし、生野菜をたべていたが、はだしではなかったことは、埴輪でもわかるし、朱丹で体を塗ること入 れ墨同様、多くあなかったことだろう。

≪死んだときには、棺はあるが、槨はない。土を積み上げて家(つか)を作る。はじめ死 んだときに、十余日間、もがりをする。そのときには肉を食べない。喪主は大声で泣き、他の人たちは、行って歌い舞い、飲酒する。葬りおわると、家中総出 で、水中に行って洗い清め、練沐(れんもく)のようにする≫。棺はあったが、槨がなかったということはない。石槨が存在しているし、土を積み上げるが、墳 丘墓の規模は、箸墓古墳など、すでに巨大であった。大声で泣いたり、歌い舞うことは、日本の葬式では一般的ではない。葬儀後、洗い清めるのはいいとしても 水中に入ることはない。こうした風習は暑い東南アジアでは考えられることである。ここでも当時の「倭国」を考えても、現実的ではない。

海を渡って中国に行くとき、「持衰」(じさい)といって、≪髪をとかず、しらみをしり ぞけず、衣服が垢で汚れる、ままにし、肉を食べず、婦人に近づけず、喪に服している人のようにしておく≫ことが記されている。≪もし行く者が安全であれ ば、持衰に生口(奴婢)や財宝を贈る。もし病気になったり、暴風の害にあったならば、すぐにそれを殺そうとする。その持衰が謹まなかったためだと思うから である≫。この持衰という習俗は残酷な人質と思えるが、しかし当時の海上旅行の危険性を考えれば、ありうることであろう。『日本書紀』によると、ヤマトタ ケルが東征をしたとき、関東の走水の海(現在の浦賀水道)に至ったとき、海が荒れ狂い先に進めなくなったので、海の神の怒りを解くために、弟橘姫が、≪私 は夫である皇子の身に代わって海に入水します≫と念じながら、浪上に萱、皮、絁の畳それぞれ八枚を重ねた上に座り、入水した。すると波は穏やかになり、船 をすすめることが出来た、と伝えている。これと同じ役割を、航海する主人のために、家人の代わりに生口に依頼したのであろうし、品物を献じたのであろう。 ただこのような風習は、日本だけでなく、中国自身に存在した風習でもあっただろう。確かなのは陳寿が、持衰という漢語を使っているからである。

≪習慣として、身分の高い人はみな四、五人の妻をもっており、しもじもの家でも、ある 者は二、三人の妻をもっている。女性はつるましやかで、やきもちを焼かない。追剥やコソ泥がなく、争いごとも少ない。法を犯した者は、罪の軽い場合はその 者の妻子を没収し、重い場合は家族やその一族まで殺す。上下関係がはっきりしていて、目上の者は、目下の者を服従させるのに充分なだけ威厳がある。租税の とりたて制度がある。立派な家もある。国ごとに市場があり、物々交換をして有無あい通じ、これを大官に監督させている≫。

「倭国」には秩序がある社会である、という情報が入っている。やさしい女性の態度や、盗みや争いが少ない社会である ことや、目上の者は、目下の者を服従させるのに充分なだけ威厳がある、と書いているのは、他国の記述にない「倭国」の特色をとらえているといっていいだろ う。租税のとりたて制度があり、立派な家もあることは、安定した社会で、とくに国ごとに市場があり、物々交換をして、これを大官が監督しているという指摘 は、その当時の日本社会を知る上でおおまかなものであれ、貴重なものである。このことから窺えるのは、陳寿の類推は、日本に来たことはないが、多少の情報 はある、という提度であるということだ。

≪ 下戸が道路で大人と逢ったときには、後ずさりをして草の中に入る。言葉を伝えたり説明するときには、うづくまったり、ひざまずいたりして、両手は地面につ いて、キ恭敬の意を示す。答えるときには「噫(あい)」という。中国で「黙諾」(わかりました)というのと同じである≫。この礼儀の観察は、多少の誇張は あっても、間違えではないところを見ると、陳寿は、やって来た倭人の態度を見て感じたことを書いたように見える。

ともかく陳寿が倭国を想像しているだけの証拠としてこのような言葉を吐いている ことだ。≪倭の地理を参問するに、絶えて、海中、州島の上に在り。或いは絶え、或は連なり、周旋、五千余里可(ばか)りなり≫。つまりすべて「参問」 (人々に合わせ問う)しただけで、直接行って調べたわけでない。すなわち自分の想像だ、ということなのだ。

≪景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等(たいふなとめ)等を遣わして(帯方) 郡に詣(いた)らしめ、天子(のもと)に詣(いた)りて朝献せんことを求む≫と書かれている。その後、この『魏志倭人伝』が示す、日本と関係する唯一の公 式文書が、魏の皇帝から「卑弥呼」に与えた詔書である。

詔書を読んでみよう。大夫の正使、難升米、副使の都市牛利らが、献上品の男奴隷 六人、女奴隷六人、斑織りの布二匹二丈を以て到着したことは書いてあるが、どうやら会っていないようなのだ。到着した二人の使者と十二人の奴隷自体の様子 を書いておらず、ただ「卑弥呼」に向けて、≪汝の住むところは、海山を請えて遠く、それでも使いをよこして貢献しようというのは、汝の真心であり、余は非 常に健気に思う。さて汝を親魏倭王として、金印・紫綬を与えよう。封印して、帯方郡の太守にことづけ汝に授ける。土地の者をなつけて、余に孝順をつくせ。 汝のよこした使い、難升米(なとめ)、都市牛利(としごり)は、遠いところを苦労して来たので、今、難升米を率善中(そつぜんちゅう)、都市牛利を率善校 尉(そつぜんこうい)とし、銀印・青綬を与え、余が直接あってねぎらい、賜り物を与えて送りかえす。そして、深紅の地の交竜の模様の錦五匹、同じく深紅の 地のちぢみの毛織十枚、茜色の絹五十匹、紺青の絹五十四で、汝の献じて来た貢物にむくいる。また、その他に、特に汝の紺の地の小紋の錦三匹と、こまかい花 模様の毛織物五枚、白絹五十四、金八両、五尺の刀二振り、銅鏡百枚、真珠・鉛丹をおのおの五十斤、みな封印して、難升米、都市牛利に持たせるので、着いた ら受け取るように。その賜り物をみな汝の国の人に見せ、魏の国が、汝をいつくしんで、わざわざ汝によい物を賜ったことを知らせよ≫。

次いで、≪正始元年(二百四十年)、帯方郡の太守、弓遵は、建中校尉梯儁(けん ちゅうこうていしゅん)らを遣わして、詔と印綬を倭の国にもって行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他の 賜り物を渡した。そこで倭王は、使いに託して上奏文を奉り、お礼を言って詔に答えた≫。

こ れまで長く、日本のことを長く「参問」して書いてきたなら、陳寿自身も、この洛陽までやって来た倭人使節について、あるいは献じられた倭人奴隷への関心 を、記してもいいはずなのである。次の倭人使節についても、≪正始四年(二四三年)、倭王はまた、大夫の伊声耆(いとぎ)・や邪狗ら八人を使いとして、奴 隷・倭の錦、赤・青の絹、綿入れ、白絹・丹木・木の小太鼓・短い弓と矢を献上した。夜邪狗ら八人とも、率善中郎将の印綬をもらった≫だけ書かれている。こ の二人の「倭人」の名前も蔑称として書かれている。≪正始六年(二四五年)、詔を発して、倭の難升米に、黄色い垂れ旗を、帯方郡の太守の手を通して与えた ≫。『日本書紀』の著者は、中国の正史『三国志』に書かれているから、とそれを記したが、「倭国」側で、詔書も印綬も何の関心をもっていないことは何を意 味するのであろうか。それは倭の女王、「卑弥呼」に、日本人が何の関心もはらっていないことと関連するのではないか。

難升米、都市牛利という名の人物は、本当に倭からやって来た使節なのであろう か。正式使節の名をこのような蔑称で書く必要があっただろうか。たしかに『日本書紀』の神功皇后の条に使節のことを注で記しているが、そこでは、朝廷が 送った使節として書かれておらず、『魏志倭人伝』に書かれた使節として、他人事のように記しているに過ぎない。魏の皇帝の詔書は、この『倭人伝』で読んで いるはずなのに、一切触れていないのである。『日本書紀』の著作者は、その魏の皇帝の詔書を完全に無視したことになる。このことは、日本の朝廷が、この使 節を送ったものではないことを示していないか。『三国志』の「倭人伝」に残されている詔書を、信用していいのであろうか。陳寿の「倭国」への記述の流れの 中で、書かれたもので、それ自体、創作ではなかったのか。公式文書に、捏造の詔書などありえない、と日本の研究者は考えるに違いない。しかし陳寿の『三国 志』は少なくとも「倭人伝」に限っていえば、歴史記述ではなく、「倭国」を海南島方面を想像しながら書いた記述であり、そこには日本の歴史に、通底するも のはない、と言ってよいのである。

しかしこうした陳 寿の『三国志』の評価は、日本人が問題にしなければならないのは、まず≪中原に鹿を逐う≫精神が作りだした中国人中心の「歴史物語」であることだ。中原と は黄河の中下流域の平原をいい、周の王都がこの中心に位置していたことから、ここを取れば天下を手に入れることが出来ると彼らは考えた。それは同時に、彼 らのひとりよがりの世界観ともなり、中華意識となったことである。『三国志』に貫くのは、この中原を目指した三国の物語であったことである。そこには隣国 の日本の存在はその貢国のそれでしかなかったのである。周辺は朝貢国であり、蔑称であつかうべき取るに足りないのである。それは「邪馬台国」が、隣の狗奴 国とが仲が悪く、この時も魏が仲裁に入ったなどという記述にもよく出ている。日本人学者は、この二国がどんなものであるかも判断できないでいる。「邪馬台 国」の存在は、朝貢してきただけの存在であり、後は伝聞したわずかな知識によって組み立てればよかったのである。

(1)『古代史研究の最前線 邪馬台国』洋泉社、二〇一五年。

(2)梅原猛『写楽 仮面の悲劇』新潮社、一九八七年。

(3)拙著『写楽は北斎である』祥伝社、二〇〇一年

拙 著『写楽問題は終わっていない』祥伝社新書、二〇一一年

(4)拙著『「やまとごころ」とは何か』ミネルヴァ書房、二〇一 〇年

拙著『天平「古典」文化とその時代』ミネルヴァ書房、二〇 一五年(予定)

(5)室谷克実氏の訳。『日朝古代史 嘘の起源』室谷克実監修、 宝島社、二〇一五年。

(6)陳 寿が一切、二三九年からの「邪馬台国」からの使節を知る立場になかったことは次の経歴からもわかる。その生年が二三三年であるからだが、しかし特別、「倭 国」を知る立場でもなかったことは、その経歴からもわかる。福井 重雅編 『中国古代の歴史家たち 司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』から簡単にたどっておこう。

陳寿(二三三〜二九七年)は、「魏」の明帝青龍元(二三三)年に「蜀」の巴西郡の安漢県に生まれ、字を承祚と云った。「晋書陳寿伝」によると、 若くして学を好み、同郡の先輩で「春秋公羊学」の大家しょう周に師事した。師からもその資質を称賛されたという。長ずるに及び「蜀」の朝廷に仕え、歴史編 纂の官吏である観閣令史(宮中図書係)に登 用された。「宦人の黄皓、專ら威權を弄し、大臣皆な意を曲げて之に附するも、壽(陳寿)は獨り之が爲に屈せず、是に由りて屡々譴黜せらる」と言われたとい う。
二六三年に「蜀」が「魏」に併合されたことにより、 陳寿は三一才の時に「魏」の首都洛陽へと移り住み、魏朝の文官となった。2年後、「魏」は「晋」に替わり、「晋」の皇帝の重臣として司空という土地.民事 を司る最高官の職にあるとともに大詩人でもあった張華によって引き立てられ、任官した。そして著作郎に登用されることとなった。この官職は、「魏」が初め て置いたもので、中書に隷属したが、晋朝では秘書に属し、国史を司るのが役目の職であった。
陳寿は、政敵「蜀」の名将諸曷亮の著作全集の執筆に取組みこれを上宰したが、その書において概ね諸曷亮を称賛する立場でこれを著述した 為、「魏」より発した「晋」王朝の史官としての御用性不忠が問われるところとなったという。こうして、陳寿を廻っての評価は二分されたものの、陳寿の史家 としての厳正な態度を証左しているものとして逆に名声を高める結果に帰着することとなったとされる。
こうしたときに、陳寿は「三国志」の作成を命じられることとなった。この時、官修の史書として魏には王沈(おうちん)の魏書、呉には韋昭 (いしょう)の呉書があり、私家の史書として魚豢の魏略があった。「三国志」は全部で六六五巻より成り、太康年間 (二 八〇〜二八九年)にかけて完成された。その出来栄えは当時から高く評価されており、「敍事に善く、 良史の才有り」との評価を得ている。この当時魏の名将であった夏侯堪(二四三−九一)も同じく同時代史「魏書」を書きあげていたが、≪陳寿の作る所を見、すなわち己が書をこぼちて罷む≫と述懐し たと云われているほどに、追随を許さぬ名著と評価されたという。陳寿の官界における庇護者とでもいうべき張華も正史として偶されるに値するとの評価を与え ている。 こうして「三国志」は不朽の名著として後世に書き継がれていくこととなった。このような経緯からいっても、日本の中国崇拝学者が、その記述を信頼に値する と思い込んだのは無理からぬことである。
陳寿の晩年は、宮廷の派閥抗争に巻き込まれ、失意の中で「晋」の惠帝元康七(二九七)年に六五才でその生涯を閉じた。
陳寿の没後、梁州の人事院長官で皇帝政務秘書の范きん等の働きかけにより、『三国志』は晋王朝の公認の史書として正史の地位を得ることと なった。その上表文には、≪辭に勸誡多く得失は明らかにして風化に益有り。文艷は相如(司馬相如)にしかずといえども、質直は之に過ぐ≫という最大級の賛辞が書かれている。(福 井重雅編 『中国古代の歴史家たち 司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』早稲田大学出版部 二〇 〇六年。『正史 三国 志』 筑摩書房:ちくま学芸文庫全八巻、一九九二〜九三年)

(7)上田正昭『「大和魂」の再発見 日本とアジアの共生』藤原書店、二〇一五年。

(8)『日本の宗教』育鵬社、二〇一五年

(9) 鎌田東二他『日本のまつろわぬ神々 記紀が葬った異端の神々』新人物往来社、二〇一五年。

(10) ≪ 昭和五十七年四月吉日、郷土史家 松下寒山兼知≫と書かれている。

(11) 義江明子『つくられた卑弥呼 女の創出と国家』ちくま新書、二〇〇五年

(12) 水野敏典「三角神獣鏡を科学する」『古代史研究の最前線 邪馬台国』洋泉社、二〇一五年。

(13) 桜井市纏向学研究センター主任研究員、橋本輝彦氏のインタヴュー、遠山光都男監修『日本の古代遺跡』宝島社。

(14) 『倭国伝 中国正史に描かれた日本』全訳注・藤堂明保・竹田晃・影山輝国、講談社学術文庫、二〇一〇年。拙論の「倭人伝」の口語訳は本書によった。

(15) 井上光貞『日本国家の起源』岩波新書、一九六〇年。

(16) 原田大六『邪馬台国論争』三一書房、一九六九年。

(17) 「ひのみこ」『万葉ことば事典』大和書房、二〇〇一年。

(18)秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不 老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の 命を受け、三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出 し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があることから、日本に来たと人々は信じたのである。

(19)朝 鮮の『三国史記』によると、七五六年は統一新羅・景徳王の時代で、この前後 に災害が続き民が飢えたことが記されている。また日本側の記録『続日本紀』によると、天平宝字三年九 月四日(七五九年)条に、以下のように記さ れている。≪近年、新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えることがない。彼らは租税や労役の苦し みを逃れるため、遠く墳墓の地を離れてやってきている。その心中を推し量ると、どうして故郷を思わないことがあろうか。それらの人々に再三質問して、帰国 したいと思う人があれば、食料を与えて帰らせるように≫。こうした帰化人たちも、神社に祀られたのである。

(20)『日本書紀』巻九。神功皇后三十九年、四十年、四十三年の条の三 カ所に「魏志倭人伝」から引用。六十六年には晋(しん)の『起居注』を引用。皇后を「倭の女王」と記している。三十九年の条の注には、≪魏志に云う。明帝 景初三年(西暦二三九年)六月に、倭女王が大夫難斗米らを遣わして・・≫とあるが、すべて「魏」や「晋」の文献からの引用で、『日本書紀』には神功皇后と の関連を思わせる記述は一切ない。

(21) 確かに『日本書紀』の著者は、「魏志倭人伝」を知っていたが、その記述から、神功皇后の祭祀王としての行状を考え出したとは思えない。あくまで、別個の人 物としか考えられない。

(22) 内藤虎次郎「卑弥呼考」『芸文』一ノ二〜四、明治四十三年。原田大六、既出。

(23) 笠井新也「卑弥呼の家墓と箸墓」一九四二年。

(24)原田大六「卑弥呼とは誰か」『邪馬台国論争』既出。

(25) 『豊後国風土記』速見郡条。

(26)『豊後国風土記』日田郡条。

(27)『播磨国風土記』讃容郡条。

(28)『山城国風土記』逸文。

(29)『常陸国風土記』哺時臥山条。

(30)設 楽博巳編『三国志がみた倭人たち魏志倭人伝の考古学』山川出版社、二〇〇一

(31)柳田国男『妹の力』角川文庫、一九七四年。

(32)宮田登「日本の「魔女」考」『日本を語るII 女の民俗学』吉川弘文館、二〇〇六年

(33)柳 田国男『遠野物語 名著複刻全集』(日本近代文学館監修、発売・ほるぷ、新版1984年)原著は一九一一年。『遠野物語 増補版』郷土研究社、一 九三五年。

(34) 谷川健一『日本の神々』岩波書店, 1999年。

(35)戸部民夫 『日本の神々 多彩な民俗神たち』新紀元社。『神道大辞典』平凡社、昭和12年。縮刷復刻版、臨川書店、昭和44年

(36)丸中良定 著 明治聖徳記念学会 編 『琉球神道記』 明世堂書店、一九四三年。- 巻末 に袋中良定上人伝を掲載。伊波普猷・東恩納寛惇・横山重編 『琉球史料叢書 第1』 井上書房〈琉球史料叢書〉、一九六二年。

(37)世阿弥の 『風姿花伝』第四「神儀にいふ」。

(38)『倭国伝』講談社学術文庫版、二〇一〇年、原本・学習研究社、一九八五年。
http://hidemichitanaka.net/?page_id=1124


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2018.12.25
【トンデモ】卑弥呼神社がないから卑弥呼はいない(田中英道|「なぜ卑弥呼神社がないのか」『日本国史学』7, 2015)
https://rondan.net/770

つくる会の歴史戦


田中英道氏は、2001年9月より「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」の会長を務めた保守運動の重要人物の一人です。そして現在では、小堀桂一郎氏、中西輝政氏、竹田恒泰氏らとともに「日本国史学会」という学会を立ち上げ、その理事についておられます。

このように田中氏は保守論壇による歴史戦のボスともいえる存在であり、彼の提示する「歴史」を知ることは、保守論壇の「歴史」の程度を知るうえで格好の目安になると思います。

そこで今回取り上げたいのは、田中英道「なぜ卑弥呼神社がないのか:日本のどこにも存在しない邪馬台国」(『日本国史学』7, 2015)です。

保守論壇における魏志倭人伝叩き

保守論壇の歴史戦において魏志倭人伝は否定的に評価されます。現代の歴史教科書では、最初に出てくる固有名詞はまさにこの魏志倭人伝にでてくる女王・卑弥呼であり、決して『古事記』『日本書紀』に出てくる天照大神や神武天皇ではありません。一方、戦前・戦中の歴史教科書は、記紀神話に基づいて、神武天皇から始まる皇室の系譜の正統性を説明するところから始まります。このように終戦を挟んで歴史教科書が様変わりした理由は、GHQが万世一系の皇室を重んじる神話的内容よりも、考古学的内容を重んじるように要請したためです。


関連記事歴史はどの様に語られるべきか:記紀神話・魏志倭人伝と歴史
2018年10月24日
ですから、東京裁判史観やらWGIPやらを主張し、戦前回帰を目指す保守陣営にとって、魏志倭人伝(しかも中国史書)が記紀神話にとって代わるというのは赦せないことなのです。田中氏も論文中で次のように率直に述べています。


戦後、この「邪馬台国」論争が活発になり、これだけの歴史家が 『魏志倭人伝』に執着しているのは、第一に日本の「万世一系」の天皇家の歴史への批判精神が流行し、第二に「社会主義」中国に対する偏愛が始まって「中国文献」至上主義によるものと思わざるをえない。それもマルクス主義史観の跋扈のなせるわざで、日本の歴史を、否定的に見る態度が固定してしまったからであ る。

第一の理由はまだしも、太字にした第二の「中国に対する偏愛が始まって「中国文献」至上主義によるもの」というのは田中氏による想像力の賜物でしょう。魏志倭人伝をめぐっては、戦前・戦後問わず熱心に論じられていました。まさかそれら諸研究者が、皆社会主義者とでも言い出すのでしょうか。

記紀が歴史書とて評価し難いのは、それが成文化され成立した時期(八世紀)が必ずしも古くないこと、そして上代天皇たちの記述が余りに神話的・空想的だからでしょう。一方の魏志倭人伝は三世紀末の成立であり、しかも歴史書として編纂され神話的・空想的な記述は僅かしかありません。

ゆえに上代日本を考察する史料として記紀よりも魏志倭人伝の信憑性が劣るというのは少々説得力がないわけです。すると、田中氏は論点をすり替えていわば人身攻撃で魏志倭人伝の信憑性を落とそうとします。


しかし咋今の中国「共産党」主導国家の「歴史認識」に、虚構や捏造がなされていることに気づくと、中国人の歴史観は、「卑弥呼」の時代から変わらなかったのではないか、と考えることが出来る。

かくいう保守の人種偏見や歴史修正主義のトンデモさを鑑みると、保守の歴史観もまた記紀の時代から変わらなかったのではないか、とも考えることも出来ますね。ともあれ、このようなイデオロギーに基づいたトンデモ理論でも用いない限り、魏志倭人伝を排除して記紀神話を歴史に復帰させることは出来ないのです。

卑弥呼の墓も、魏から送られた銅鏡もない

そこで何を思ったか田中氏は、魏志倭人伝に記された、卑弥呼の墓や、魏から送られた銅鏡が見つかっていないという点を指摘して次のように述べます。


つまり正直に言った方がいい。この 『魏志』の「倭人伝」は何の、「倭国」のことを具体的なものでなく、若干の同一性を除くと、すべてフィクションであり、検討に値しない、ということである。極端なことをいうな、というかもれない。これから証拠が出てくるかもしれない、と抗弁されるかもしれない。しかし違う分野であるとはいえ歴史研究を50年以上やって来た私から言わせれば、絶対に出てこないし、こうした記録は、公式記録とはいえ、歴史というものを、統治者の忠実に書紀として書かれたものではない、このような記録は信用するに値しないし、論争するのも無駄である、ということだ。

確かに卑弥呼のものと確定できる遺物は何一つとして見つかっていません。しかし、だからといって魏志倭人伝が「若干の同一性を除くと、すべてフィクションであり、検討に値しない」とか「このような記録は信用するに値しないし、論争するのも無駄」というのは余りに極論過ぎます。

何よりおかしいのは、田中氏が史実性を主張する神武天皇をはじめとする上代の諸天皇だって、その墳墓はかなり後代に「発見」されたもの、言い換えれば「宮内庁の認定」を受けたものに過ぎないことを見落としていることです。確実に彼らのものと考古学的に確定される遺物・遺構は何一つとしてありません。したがって田中氏の言説に基づけば、記紀神話こそ、若干の同一性を除くと、すべてフィクションであり、検討に値せず、このような資料は信用するに値しないし、論争するのも無駄ではないかとも評価できてしまうのです。

このように、魏志倭人伝の歴史性は信じないのに、記紀神話については信じられるというのは明らかに不可思議な論理構造でしょう。

卑弥呼神社はないので、卑弥呼は実在しない!

さらに田中氏の想像力は加速し、「卑弥呼神社」がないことを問題視します。


私は『日本の宗教』(育鵬社)を書いていたときに、全国の神社を調べていて「卑弥呼」神社がないだけでなく、その異端の存在を示唆する土地の伝説がどこにもないことに気づいた。平安時代の日本の神社を網羅した『延喜式』の神名帳を調べてみても、式内社で全国にまったく「卑弥呼」神 社の類がないのは当然であるにしても、式外社にさえ、ないのではないかと考えざるをえなかった。

なぜこれが問題視されるかというと、「卑弥呼が実在したならば、土地の伝説などとして記憶に残るはずであるから、それを祀る神社がなければならない」という田中氏一流の思い込みがあり、「卑弥呼神社が無いのは、卑弥呼が実在しなかったので、伝説にも土地の記憶にも残らなかったからだ」という理論を展開したいからです。


日本の各地の伝説にも、土地の記憶に一切ないということは、このことで、そのもともとの不在が問われなければならなかったはずである。


やはり最初から神々ではない、聖徳太子、柿本人麿、菅原道真、平将門、崇徳院、楠木正成、新田義貞などの存在であろうと、神社に祀られているのである。どのような「卑弥呼」であっても、一度「王」となった存在は、記憶に残されないはずはないのである。どこかの場所で言及されないはずはない。しかし「卑弥呼」もしくは、それらしい存在の痕跡は、一切神社にも、またお寺にも(仏教は六世紀以降、日本に入って来たものだから、これは当然かもしれないが)、見出せない。それは一体なぜであろうか。とくに『万葉集』にそれを推測させる歌が一切ない、というのも「卑弥呼」「王」の不在をよく感じさせる。

まぁ伝承や言い伝えも実話を基にしたものが数多くあるでしょうが、神社や伝承の有無で歴史的実在性が決定される理論というのは余りに極論ではないでしょうか…。

『日本書紀』に引用される魏志倭人伝

このように神社が無いだけでその存在性まで否定されてしまった卑弥呼ですが、実際に『日本書紀』を読むと、@『日本書紀』に卑弥呼が言及されないとはまでは主張できないこと、そしてA「卑弥呼神社」が全く存在しないとまでは主張できないことが解ります。

なぜなら『日本書紀』の神功皇后の章では、魏志倭人伝が引用され魏に使節団が送られた旨が説かれているからです。つまり、『日本書紀』の編纂者は「卑弥呼=神功皇后」という関係で、その史実性を認めていたことが解ります。(宇治谷孟『日本書紀(上)』岩波書店, 1988, pp. 201-202)

よって次の点が指摘されます。
『日本書紀』には魏志倭人伝が引用される。そのなかで卑弥呼は神功皇后と同一視されている。鶴岡八幡宮や富岡八幡宮など神功皇后を祀る神社は数多く存在する。そして神功皇后陵は五社神古墳と認定されている。
よって記紀に基づく国史において卑弥呼(神功皇后)の記録が残されており、かつその神社、墓も残されている。「卑弥呼神社」がない理由は、「卑弥呼=神功皇后」に基づき、神功皇后として祀られていたからでろう。

したがって田中氏自身が歴史性を高く評価している『日本書紀』の中に、「卑弥呼=神功皇后」の関係が説かれています。にもかかわらず卑弥呼の歴史性だけは頑なに否定するというのは非論理的であると言わざるを得ません。

加えて、神功皇后(記紀によれば卑弥呼)を祀る神社は存在しますから、卑弥呼を祀る神社が存在するという理解も成り立ちます。しかし田中氏の論考は、このような視点を全く欠いてしまっています。

まとめ

このように田中氏の歴史観は、イデオロギーが強くにじみ出ており、客観的な結論を導き出そうという努力が全く認められません。論文には客観性が求められるにもかかわらず、現代中国人は信用できないから魏志倭人伝の編纂者も信用できないなどといった偏見と独断に満ちています。

まして記紀神話の歴史性を無批判に信じてしまうにもかかわらず、『日本書紀』に残された卑弥呼に関する部分だけは批判的に否定するという論調は説得的ではないでしょう。
https://rondan.net/770

6. 中川隆[-12500] koaQ7Jey 2019年2月02日 22:35:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告


「卑弥呼」神社は五万とあるよ(^_-)-☆ 2019-01-19
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/52512c6d888ffad07f8a5f0311dac737

なせ゛卑弥呼神社か゛ないのか
――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」 田中英道

邪馬台国は存在しなかった : 勉誠出版
https://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/458523408X


の説明では、
『魏志倭人伝』を疑う

なぜ「卑弥呼」も「邪馬台国」も『魏志倭人伝』にしか登場しないのか?
作者・陳寿はどのようにして『魏志倭人伝』を書いたのか?
なぜ「卑弥呼神社」は存在しないのか?
戦後最大の未解決問題に決着をつける!


日本のリベラルの正体を暴いてくれた尊敬する田中英道先生には申し訳ないですが、このタイトルと著書の説明を見ただけで、あれ〜って感じがしますよ( ^)o(^ )

田中先生のブログ(エッセイ)の方にかなり詳細に内容が書かれていたので、それについて述べたい。(*^▽^*)

その前に、「魏志倭人伝」だが、このエッセイしか読んでいない方への予備知識として一言述べておくが、これは単独で存在する書物ではなく、「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷伝」の中の「倭人」の条のことを言う。約二千字の文章の中に三世紀の日本の様子がかなり詳しく書かれている貴重な史料だ。西晋の史官陳寿によって280年頃成立したと言われる。田中さんは陳寿の人物伝を(6)で 福井 重雅編 『中国古代の歴史家たち 司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』より引用しているが、肝心なことが抜け落ちているのだ。

それは何かというと、「三国志」を編纂した陳寿がどういう事情で編纂したのかについて触れていないからだ。

実は陳寿が一番書きたかったのが「魏志倭人伝」だったのだ。岡田英弘さんの「日本史の誕生」(弓立社)に詳しくその事情が述べられているが、陳寿が編纂した頃の西晋の実力者で陳寿のパトロンだった張華の顔を立てるためだったのだ。「三国志」を正史にしたのは張華の力だったとある。

西晋は265年に司馬炎(しばえん)が魏から帝位を禅譲されて建国した国だ。その祖父の司馬懿(しばい)が魏の将軍として大活躍し、実権を握っていたのでその孫が帝位を奪うことができたというわけだ。だから「三国志」は司馬懿の功績を大いに称えるために書かれたと言ってもいいのだ。「三国志」の中で魏・呉・蜀が対等に扱われたわけではなく、西晋の正統性を示すために、西晋の本になった魏の皇帝のみが正式であるとして本紀が書かれている。だが、呉と蜀はそれぞれ列伝扱いだから正式な皇帝とは認めていないのだ。

そこで「魏志倭人伝」で強調されたのは、司馬懿が魏の東側の一大勢力であった公孫氏を滅ぼして、それまで公孫氏に従っていた倭国を魏に朝貢させ、魏と敵対する呉を圧迫したという功績だったのだ。実際、正史に倭の女王の朝貢に対する大賛辞の詔勅が全文記載されているのだ。司馬懿はその大きな功績によって、魏の幼い少帝芳の補佐役として宮廷で実権を振るう地位を得た。だから、西晋の基礎を作った司馬懿は後に晋宣帝という諡まで贈られているのだ。

このような視点で「魏志倭人伝」を見直すと、従来の定説とは異なるものが見えてくる!

つまり、司馬懿の活躍した当時の部下であった帯方郡太守らも、倭国が郡から東南方向に一万二千里も遠く離れた、呉の東方海上に在る東夷の大国であったとしたかったのだとわかる。実際はそんなに距離があるわけではないのだが、遠く離れた倭国にまで魏の皇帝の徳が行き届いて朝貢したと言うことなので、朝貢させた上司の司馬懿の評価が高くなると言うことなのだ。だから、邪馬台国への里数や戸数なども倭国への魏使が誇大に報告し、それに基づいて陳寿が書いたと考えるのが妥当なのだ。(注1)

例えば、魏使が、現在のソウル付近に在ったと考えられる帯方郡から船で半島の西海岸を回ってせいぜい五百キロメートル程度の狗邪韓国(釜山付近)に七千里で着くと書いてある。シナの一里はどの時代も三百歩、約四百五十メートルと決まっているので(岡田、同掲書p.66)、七千里は約三千キロメートルとなり、実際の6倍もサバ読んでいるのだ。何故そうするかと言うと、司馬懿の前の魏の実力者で、病死した曹真が大月氏を朝貢させ、「親魏大月氏王」の金印を与えて、蜀を圧迫した功績があったから、司馬懿の功績はそれ以上だとしたかったからなのだ。だから司馬懿やその部下たちは邪馬台国が洛陽から一万七千里も離れた東夷の大国だとサバを読んで報告し、女王卑弥呼にも「親魏倭王」の金印を与えたのだ。陳寿はそれを意識して「三国志」に西域伝を恣意的に書かなかったことからも分かるのだ。

しかし多くの研究者が「魏志倭人伝」に限って一里を70m位とする短里を使っていたと考えることにより、二重のつじつま合わせをしている。自説に都合の良いように行程記事を解釈している訳だから、真実からさらに遠ざかることになり収拾がつかないのだ。

ついでに言うと、宇佐説を世に広めた富来隆氏が、「自女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種(女王国から東に一千里ほど海を渡ったところにまた倭人の国が在る)」という「魏志倭人伝」の記述が決め手だと指摘したのだが(「卑弥呼」学生社、1970,pp.187-190)、九州説であろうが、畿内説であろうが、自説に不都合なこの記述を平気で無視しているから、今まで邪馬台国の位置に関する説が乱立して全く確定されなかったのだろうね。(;´Д`)

だから、ここで一度「魏志倭人伝」の行程記事を横に置いて、女王国に対する政治的な思惑の少ない別の史料を頼りにすべきなのだ。5世紀の南朝の「宋」の范曄が編纂した「後漢書」は、Wikiに依れば、『東観漢記』、『後漢紀』をベースに以下の書物を参照して完成されたとある。

『後漢書』(呉の謝承)
『後漢書』(呉の薛瑩)
『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)
『続漢書』(西晋の司馬彪)
『後漢書』(東晋の謝沈)
『後漢書』(東晋の袁山松)
『後漢書』(著者不明)
『後漢南記』(晋の張瑩、『漢南紀』とも)
『漢紀』(東晋の張璠)


特に、後の唐の章懐太子李賢の注釈に「華嶠の辞」などと書かれていて、流用した部分があり、全体構成も同一らしい。華嶠は陳寿と同僚であり、共に張華がパトロンであって、華嶠の「後漢書」も西晋の朝廷によって公認された史書だったようだが、残念ながら完本は残っていないようだ(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎2018,p.91)。

「魏志倭人伝」の現存するものは12世紀の「宋」の時代の版本でしかなく、3世紀に作られた原本ではないのだ。

一方、范曄は、陳寿の時代かそれ以降に書かれた上の史書を参考としているので、現代の研究者とは比べ物にならないほど当時の韓や倭に関する知識を持って書いていると考えるべきなのだ。実際、「魏志倭人伝」では「邪馬壹国」と書かれているが、范曄は「邪馬臺国」と書いている。いまだに「邪馬壹国」を探している方もいるようだが、どちらが正しいかは明らかだ。また、「魏志倭人伝」の「自女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」という記述を、范曄はその倭人の国を狗奴国と判断して「自女王國東度海千餘里、至狗奴国」と書いている部分は見逃せない。

狗奴国の場所が分かれば女王が都とする邪馬台国の場所が確定するのだ。

そこで、邪馬台国の最有力候補とされる纏向遺跡だが、水田跡が見当たらない弥生時代後期に作られた大規模な政治都市の遺跡だ。各地から搬入された土器が図のとおり分かっているが、大陸の玄関である北九州からの土器がないのだ。つまり、もしも纏向が邪馬台国であるならば、魏や帯方郡などの使者が伊都国に到着し、大率の指示によって女王への貢物が纏向に届けられねばならないのだが、その痕跡がない。それ以外に「魏志倭人伝」で書かれた物(鉄鏃、棺有って郭無しの墓)が纏向遺跡で見当たらないのだ。更に、建物跡は掘立柱の大型建物や住居であるので、北九州を除く各地の首長層が集まっていたとみられるのだ。

と言うことは、纏向遺跡は邪馬台国ではなく、邪馬台国と対立していた狗奴国であって、邪馬台国を滅ぼしたと考えれば、倭国を統一したヤマト政権が纏向遺跡で成立したという事実を支持するのだ。逆に、もしも纏向遺跡が狗奴国でもなければ、纏向でのヤマト王権の成立を説明できなくなるということだ。

纏向遺跡が狗奴国なので「後漢書」の記述から、女王国は瀬戸内海を西に一千里(約450キロ)渡ったところに在るということなのだ。つまり邪馬台国は宇佐だと范曄は確信して書いたのだ。「魏志倭人伝」では邪馬台国の南に狗奴国があると書かれていたので、「後漢書」は無視されてきたが、「魏志倭人伝」の方が間違いだったと范曄は判断したのだ。

「後漢書」の完成する少し前の421年に「倭の五王」の最初の人物「讃」が倭の都であるヤマトから朝貢したことを把握していたはずだから、范曄は倭人が狗奴国をヤマトと呼んでいたことを知っていたのだろう。

何故、狗奴国ヤマト(ゥ)の都を、狗奴国が滅ぼしたはずの邪馬台国(ヤマトゥ)と同じ名前にしたのかも范曄は理解したのだと思う(注2)。魏に朝貢した親魏倭王卑弥呼の跡に立った女王台与は、265年に西晋が建国されたその翌年に素早く朝貢していた。その台与の国を狗奴国が滅ぼしたと西晋に分かれば、敵対することになる。しかも280年には呉が西晋によって滅亡して三国時代は完全に終わったので、次は狗奴国が強大な西晋に追討される恐れがあった。そこで、多分南九州に逼塞していた台与の子をヤマトに呼び寄せて大王にしたのだと考えられる。つまり倭王の都は常にヤマトとすることにより、西晋とは母の代からお付き合いがあるということにすれば狗奴国が亡ぼされる危険がなくなるからなのだと推理できる。これによって「大和」と書いてヤマトと呼ぶ謎も解けるのだ。

そして、邪馬台国が宇佐に在ったなら台与の子が、ズバリ宇佐神宮に祀られている八幡神=応神天皇だということが分かる!

だから、応神天皇の母親の神功皇后の正体も女王台与と判明する。豊(トヨ)の国という地名とも符合する。

そうすると、宇佐神宮の二の御殿が最も豪華なのだが、一の御殿の八幡神=応神天皇と三の御殿の神功皇后=台与の間に祀られている比売大神とは一体どなたなのだろうか?

宇佐神宮の由緒書では地主神と言うことだが、天皇やその皇太后よりも格上の人物だ!

天照大御神か?

ブッブ〜、女神アマテラスは伊勢神宮で祀られて、宇佐神宮との関係は不明だ!

記紀神話でアマテラスとスサノヲの誓約(ウケイ)によって生まれたことになっている宗像三女神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)だと宇佐神宮の由緒書にもしっかり書かれているんだ。三女神は確かに天孫族なのだが、どうして邪馬台国のある宇佐の地で手厚く祀られるのだろうか?

ヒント、台与はどなたの宗女だった?

答えはもう分かるよね(*^▽^*)

比売大神=宗像女神こそ邪馬台国の卑弥呼だったのよ(^_-)-☆

日本書紀や古事記や風土記には宗像三女神の降臨した場所について幾つも説があるように書いてある。「日本書紀」の「一書の三」に「葦原中つ国の宇佐嶋」に降臨したとあり、宇佐神宮の由緒では南に在る御許山(おもとやま)と書かれているが、いくつかの山に囲まれた標高647mの御許山では宇佐嶋という表現は当たらない。島と言うからには周りに水が欲しい。実は宇佐市安心院(あじむ)町の盆地の西側の台地(三柱山)に三女(さんみょう)神社という三女神を祀る古い神社があり、そこが降臨地だという伝承がある。

安心院の地名の由来だが、「かつて安心院盆地は巨大な湖で、葦の生い茂った土地という意から、この地が葦生、「あじぶ」「あじむ」と呼ばれるようになったとも、また八幡大菩薩が各地遊化の途中、18番目に行幸したのが比淘蜷_の故地、都麻垣(宇佐宮八摂社の1つ妻垣社)で修行の時、ここで利生を語り合い、安楽の御心を得られたため、安心院といったとも言われる。」【角川日本地名大辞典】

三女神が降臨した三柱山が宇佐嶋という表現にぴったりだ。

刮目天は、2世紀後半の(第一次)倭国大乱期に宗像の姫が、宗像大社のある海に面した土地では物騒なので、宇佐津から駅館川を遡った山あいの安心院盆地を見渡す三柱山に疎開してきたと考えた。つまり宗像=不弥(うみ)国から安心院=野麻(やま)国(和名類聚抄より)に匿われて、姫の御心を安んじたという故事が地名の由来だと思う。邪馬台はヤマ国に住まう女王と言う意味なんだ。

そして、帥升(正しくは師升)王の一族の倭王(伊都国男王)が、敵対勢力である旧奴国の王族のひとつ宗像海人族を懐柔して宗像の姫卑弥呼(ひめこ)をシャーマンとして、神のお告げにより政治を行うことにしたのだろう。卑弥呼は太陽神を祀り、海事の吉凶を占う巫女なのだ。半島の東南部の海岸で豊漁や航海の安全を祈願するために祀られている海娘神が宗像女神の原型だろう。

実は、宗像大社に「ムナカタの子がスミヨシ、その子はウサ」と言う伝承がある。スミヨシは海を治める住吉大神であってスサノヲのことだ。父はイザナギだ。ということは、母イザナミが宗像海人族ということになる。ウサは宇佐の八幡様だから応神天皇のことで、父はスサノヲと言うことではなくスサノヲの直系の人物だということだ。さらに住吉大社には「仲哀天皇のモガリで神功皇后と住吉大神が夫婦の密事をした」という伝承がある(関祐二「海峡を往還する神々」PHP文庫、2010、pp.187-188))。

皇后のそばにいつも付き添って居たのは武内宿禰だ。実は応神天皇は仲哀天皇が父親ではなく、スサノヲ直系の武内宿禰が本当の父親だと重大な真実を暴露したものなのだ。そして神功皇后は狗奴国ヤマトから邪馬台国討伐に派遣され、倭国の女王となった台与なので、武内宿禰は狗奴国の官狗古智卑狗(=久々遅彦)のことで、倭国を支配した出雲の大国主だということだ。

「日本書紀」は真実を隠すために、時代も名前も違う人物を登場させて、同じような事績を記す癖があると関祐二さんが指摘している。初代天皇である神武天皇は280年頃祭祀王に即位した応神天皇のことなのだが、大王位を譲ったのは、本当のハツクニシラススメラミコトの崇神天皇だ。帥升王に多分殺害された第18代奴国王素戔嗚尊スサノヲの跡に奴国の大王を引き継いだ天照大神尊ニギハヤヒが吉備を平定して力を蓄え、その直系の大王が狗奴国王卑弥弓呼(ひこみこ)崇神天皇であり、物部氏の祖なのだ。

「日本書紀」がひた隠しに隠す日本建国の真相が明らかになったのだ。

「日本書紀」は通説では壬申の乱に勝利して即位した天武天皇の正統性を主張するために書かれた現存する最古の正史と言うことになっているが、天武天皇は完成前に崩御してしまった。そこで、優秀な皇子を差し置いて皇后鵜野讃良(うののさらら)皇女(天智天皇の皇女)が即位した(持統天皇、687年)。その子の草壁皇子を即位させる予定だったが、すぐに薨去したので(持統天皇3年、689年)、697年孫の軽皇子を14歳で即位させたが(文武天皇)、そのことを正当化するために持統天皇自身を女神アマテラスとして、天孫降臨神話を創作した。

しかし、703年に崩御するとコンビの藤原不比等(中大兄・鎌足コンビの再来)が藤原氏に都合の良いように書き換えたようなのだ。藤原氏の正統性を主張するために、日本建国の真相を隠し、真に貢献した(真)天照大神尊ニギハヤヒの一族である物部氏の功績を抹殺した。同時に父鎌足の蘇我氏暗殺を功績として主張するために、蘇我氏を徹底的に悪人とした。蘇我氏が聖徳太子の子山背大兄王一族を殺した大悪人とするために、聖徳太子を大聖人とする話も創作したのだ(聖徳太子の事績は蘇我氏のもののようだ)。

これが現存する日本最古の正史と言われる「日本書紀」のメインテーマなのだ。

建国当時の有力氏族の伝承を強権で集め、編纂に携わった舎人親王と百済出身の史官等はシナの史書も読んでおり、日本建国の真相を理解した上で、神話に閉じ込めてしまった。そして日本書紀完成後、朝廷は神話で登場した神々を全国のゆかりの神社で祀るように命じて、すでに祀っていた祭神の名前の変更や個々の神社の祭神を寄せ集めて記紀に沿った神社伝承を作る大事業を行ったようだ。(注3)

それでも、当時の人々は天変地異による災害や天然痘などの伝染病が、不幸な死に方をした高貴な人々の怨霊が原因で起こるのだと信じて、祟りを怖れ、ゆかりの神社で手厚く鎮魂の祈祷して、朝廷は神階や位田などを加贈した。実は、それによって歴史の真相が垣間見られることになる。神話ではヤマト建国に貢献して、何ら祟りを人々に与える理由のない神に対しても、逆に異常なほど神経を使っている様子から、実は祟られる理由が朝廷側にあったことを隠しているのだと分かるのだ。

例えば、神功皇后は熊襲征伐から三韓征伐を行い、そして応神天皇を即位させるために仲哀天皇の皇子らと戦い、呪術によって彼らを破っている話になっている。ところが、祟るはずのない神功皇后が祟ったという記事がのちの文献に出ているのだ。「続日本後記」承和十年(843年)4月の条と「日本三代実録」元慶元年(877年)7月の条には神功皇后が祟ったので、山稜に使者が遣わされ篤く祀られたという記録が書かれていると関祐二さんが指摘している。つまり神功皇后は実際はヤマト王権によって殺された倭国女王台与だと分かるのだ。

また祟るはずのない宗像三女神が祟ることが「日本書紀」にあるのだ。

履中天皇五年春三月一日、筑紫においでになる三柱の神(宗像三神)が宮中に現れて、「何故わが民を奪うのか。お前にいまに恥を与えるから」といわれた。しかし祈祷だけを行って祀ることをしなかった。(宇治谷孟、全現代語訳「日本書紀」講談社学術文庫、p.258)。九月十八日に天皇が淡路島で狩りをされた際、島においでになったイザナギの神から部下の入れ墨の傷の血の臭いが嫌だと言われたり、それ以降良くないことが天皇の周りで次々に起きて、結局翌年三月十五日崩御された。宗像三神が履中天皇に祟った怖い話は「日本書紀」中の原因以外に元々、祟られたヤマト王権側に負い目が有ったと言うことを意味するのだ。つまり、狗奴国ヤマト勢が北部九州の倭国討伐に向かった頃、247年3月24日の日暮前に倭国で日食が観測された。そのために政治の実権を握っていた伊都国男王によって卑弥呼が殺されたと考えている。結局狗奴国ヤマトによって倭国が滅ぼされた。恨みのある狗奴国ヤマトの大王が卑弥呼を粗末に扱ったので激怒して祟ったと人々は考えたのだろう!

朝廷は神々の祟りを畏れるので、各地の神社の祭神にも律令制において定められていた正六位から正一位までの位階が、食封や位田と一緒に朝廷から贈られた。そこで、親王・内親王の位階である品位(ほんい)が贈られた特別扱いの神が四柱あるのだ。

Wiki「神階」に依れば、六国史終了時点の品位(ほんい)の一覧は以下のとおりだ。ただし、神名は神階授与時の表記で、括弧内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名。

一品
伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
八幡神、八幡比盗_ (豊前国 宇佐神宮)
二品
吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)

皇祖神である伊弉諾尊の一品は全く問題ないが、第15代応神天皇や宇佐神宮の比盗_(宗像三女神)や第7代孝霊天皇皇子で四道将軍のひとりである吉備津彦にだけ品位が贈られているのは謎だったのではないだろうか。応神天皇が初代神武天皇、宗像三女神が卑弥呼(ひめこ)、そして吉備津彦が(真)天照大神尊ニギハヤヒだということであれば、品位(ほんい)が贈られるべき最重要人物だと誰でもが納得できるだろう。刮目天の仮説が正しいことを朝廷が告白してくれたのだと思う。

「卑弥呼」神社というそのまんまの名前の神社ではなく、宇佐神宮をはじめとする全国に4万社余りあると言われる八幡神社に比淘蜷_として卑弥呼(ひめこ)は祀られている。また、宗像大社は各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神卑弥呼(ひめこ)を祀る神社の総本社だと言われている。

卑弥呼は日本建国に関係する最も重要な人物の一人として、尊崇されてきたことが分かる。

卑弥呼の本名は不明だが、三女神の一人である市杵嶋姫命が主神で、他の二人の女神は真相を隠すために「日本書紀」編纂時に創作され、その後も各地の神社伝承を作って訳が分からないようにしたのだと考えている。神仏習合も宇佐神宮のご祭神に始まり、市杵嶋姫命は弁財天とされた。

と言うわけで、卑弥呼(ひめこ)は日本全国五万社で祀られているんだよ。(^_-)-☆

ちなみに、卑弥呼の墓も見つかってるよ(^◇^)

https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/52512c6d888ffad07f8a5f0311dac737

7. 中川隆[-12499] koaQ7Jey 2019年2月02日 23:28:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
>>5
なぜ卑弥呼神社がないのか――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」 田中英道


>7 「入れ墨」の記述について

>『魏志』の「倭人伝」には、有名な「黥面・文身」(顔や体の刺青)についての記述がある。

≪男子は、大小に関わりなく、みな顔や身体に刺青をしている。昔から、その使者が、中国にやって来るときにみな自ら太夫と 称した。夏后少康の子が、会稽に封ぜられると、髪を切り、刺青をして魚、蛤を採っている。(その時に)刺青をして大魚や水禽を避けるのである。その後、し だいに飾りとするようになった。諸国では、身体に刺青をするのにそれぞれ差異がある。あるものは左、あるものは右、あるものは大きく、あるものは小さく、 その尊卑にもそれぞれ差がある≫。


>日本人がこれを聞くと、「みな」入れ墨をしていると、と誰しも思わないであろう。
>その頃の畿内地方には入れ墨の習俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、と考える方が正しいのである。

>『古事記』の「神武天皇紀」に記された、伊波礼彦尊(いわれひこのみこと)(後の神武天皇)から伊須気余理比売(いすけよりひめ)への求婚使者としてやって来た大久米命の「黥利目・さけるとめ」(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須 気余理比売が驚いた記述があるからである。

>さらに、『日本書紀』には蝦夷が入墨をしているという記述があり、倭人の男性がすべて入れ墨をしていたということは、陳寿が「倭人」を蔑視する材料に使っていると取るべきであろう。当時の中国では、入れ墨は刑罰の一種であったらしいからである(30)。

>こんな記述によっても、「邪馬台国」は本来の日本と異なる地域のことを言っていると考えるべきであろ う。要するに、この『三国志』の「倭人伝」は、陳寿のフィクションなのである。

これも田中英道さんの妄想ですね。

田中英道さんは日本人は単一文化の民族(倭人=縄文人)だと思い込んでいるのですが、実際には


縄文人
狩猟採集民
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江からの渡来人(倭人)
稲作漁労民
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける、銅鐸の祭りを行う

朝鮮からの漢民族系渡来人
商人
中国鏡を神体とする太陽信仰


の三つの民族から構成されています。


魏志倭人伝に描かれた倭人の風俗というのは長江人の生活様式を正確に描写しているのです:


1999年(平成11年)3月23日、中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か

「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。


共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江
(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、
DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、18日までの中日共同調
査団の調査で分かった。

 渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられてい
たが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が
高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。

 同日、東京で記者会見した日本側山口団長らによると、調査団は1996年か
ら3年計画で、江蘇省で出土した新石器時代から前漢時代(紀元前202−紀元
後3年)にかけての人骨と、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人や縄文人の
人骨を比較した。

 その結果、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8―同5世紀)から前漢
時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に
共通点が多かった。

 また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があっ
たが、江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。

 江蘇省の人骨三十六体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の三体でD
NAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。

 中国側団長の鄒厚本南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が
極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えら
れた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話して
いる。

 江蘇省ではこれまで春秋戦国時代から前漢時代までの人骨がほとんど出土せず、
渡来系弥生人との関連を探る研究は進んでいなかった。

「文化的にも江南から影響有」という記事も見られる。

吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かった。当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であり、考古学的に証明された。


中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)

『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。

同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?〜紀元前473)と越(?〜紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』2006年3月7日付の朝日新聞

現在の日本文化の特色となっている神社の原初的形態、しめ縄、鳥居なども中国江南の文化・風俗・風習そのものだと言える事が、考古学的に明らかになっている。

そのほか「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。

ただし中国南部とは、地図上でそういうのであって、その民族は中国人(漢民族)ではない。今も残る中国の少数民族と、すでに消えてしまった民族が混血して出来たものであろう。

春秋戦国時代の呉越の時代の中国、東南アジア、東インド諸島まで視野に入れるべきであろう。
http://sawyer.exblog.jp/7178292/


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倭族と鳥居

神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=191832



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巫女王とは女王が巫女をかねているものです。典型的な例は、『魏志倭人伝』にしるされて有名な卑弥呼です。彼女は邪馬台国の女王であったが、夫をもたず、一人の弟が政治をおこない、彼女じしんは鬼道につかえていたといいます。

 卑弥呼の没後、和国は混乱におちいったので、人々は卑弥呼の長女壹与を王として国を治めさせたといいます。壹与もまた巫女王でした。

 卑弥呼や壹与は邪馬台国にかぎられた特殊な例でなく、古代の日本にかなり一般的にみられる政治と祭事の形態だったようです。ヒメ・ヒコ制とよばれるものがそれです。

 ヒメ・ヒコ制は、兄弟と姉妹が政事と祭事を分担する統治の形態です。一般に「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名をもつ男女が一対となってその地域を支配する原始的な王権のあり方でした。具体例としては、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメの場合などがあります。

 このほかにも『日本書紀』には地方の首長が女性であった例をいくつかひろいだすことができます。政事権または軍事権をもつ男性の名がしるされていませんが、女性が祭事権をもつために首長にされたのであろうと推測されています(鳥越憲三郎「巫女の歴史」『講座日本の民族宗教4』・弘文堂)。

 ただ時代がさがると、男女の役割分担に相互移動もあったようで、女性の首長が政事や生産にたずさわる例もありました(今井尭「古墳時代前期における女性の地位」『日本史研究』397)。

 しかし、ヒメ・ヒコ制の精神は日本の歴史を貫流していました。

 『古事記』や『日本書紀』には天皇の代替わりにともなう皇位継承争いの記事が頻繁と出てきます。そのばあい、ライバルが同母の姉妹をもっていますと、皇位継承者がその女性をめとっている例が多いのです。

 これは、霊的守護者である姉妹を兄弟からひきはなすことに目的があったのではないかとかんがえられます。

 平和のうちにそれが成功すれば、皇位継承者はライバルにたいして優位にたつことができましたが、不幸にして両者が対立関係にあるときは、相手を倒してその霊的守護者である姉妹をめとることによって皇位争奪戦の完全な勝利をかちとることになりました(倉塚曄子『巫女の文化』平凡社・1979年)。

 沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。

 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。

 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。

 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。

 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。

 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。

 私はいまこの少数意見の立場にくみして、女性の霊力の問題を究明してみようとおもっています。

 さらにまた、女帝、斎王、後宮、采女など、日本の王権の維持にふかくかかわる諸制度で、ヒメ・ヒコ制、オナリ神の観点から説明しなければならないものが数多くあります。

 これらの問題を逐次この通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm



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天皇一族は漢民族で、朝鮮でも日本でも支配階級だったので、倭人と呼ばれていた稲作漁労民の長江人を支配して働かせていたのです。

それで魏志倭人伝に出て来る一般民の風俗は倭人と呼ばれていた稲作漁労民の長江人のものなのですね。


8. 中川隆[-12498] koaQ7Jey 2019年2月03日 00:25:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
>>5
>なぜ卑弥呼神社がないのか――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」 田中英道

>3 「卑弥呼」という名前について


>「卑弥呼=ひみこ」というもっともらしい名前から、 延々と論争がはじまったのである。そのもっともらしさとは、この名が「ひのみこ=日皇子」という『古事記』にも、『万葉集』にも出ている言葉と類似してい るからであろう。

>日皇子は、日の神の子孫であり、日のように輝く御子という意味で、天皇や皇太子、皇子の美称である。天照大御神の皇孫ニニギノミコトが高 天原から芦原中国に降臨した神話にもとづく表現である。≪高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして≫(2一六七)と、地上 への降臨と統治を一連のものとしてとらえている。天皇の神聖性を神話の起源に立ち返って確認し賛美することは、あたかも「ひみこ」の正当性を示しているよ うに錯覚させたのであろう。

>卑弥呼を日の御子とした場合には、倭迹迹姫も太陽の妻に近い太陽神祭祀に従事した女性として出てこなければならないのだが、彼女は出雲系の大物主の神や倭国魂の神という話になってしまっていることである。

>これでは、日の御子という名の卑弥呼は倭迹迹姫ではないとさえいいたくなる。

>この倭迹迹姫の(1) 帝位についた形跡、(2)太陽祭祀の形跡、という二問題が解決されなければ、卑弥呼と倭迹迹姫との類似は、単にいくらか似ているというに過ぎなくなるおそ れが多分にある。

>倭迹迹日百襲姫が、天皇でもないし、「卑弥呼」が「日の御子」という太陽神信仰の持ち主であるという記述もない。二人は重ならないのである。


田中英道さんが知らないだけで、太陽信仰は縄文人には無いのですが、倭人(長江人)にはちゃんと有るのですね:

華南長江流域で太陽の信仰

諏訪春雄通信 13
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa13.htm
 

 中国古代の先秦時代、詩ということばは黄河流域でおこなわれた歌謡の歌詞を意味していました。この北方の歌謡はのちに『詩経』とよばれる歌謡集にまとめられました。『詩経』におさめられた詩篇は、周代の民俗と信仰について、かなり豊富な情報をつたえてくれます。北方の民の天への信仰をしめす一篇をつぎに引用します。

 

  ああ諸侯の楽師よ、あなた方は宗廟にいるのだから謹め。
  王はあなた方の豊作のため身を謹み正している。(この事実を)十分よく受け止めよ。
  ああ保介よ、この晩春に、
  (農事以外)また何を求めるのか、新田の様子はどうなのか。
  ああ豊作の麦をみのらせ、多くの実を収穫させたまえ。
  光り輝く上帝よ、豊作をあたえたまえ。
  さて農民たちにいそぎ耕具をととのえさせよ。
  速やかにたくさん刈りいれん。(周頌)

 

 王が臣下とともに神廟で、豊穣を天の神の上帝に祈念し、みずから苗をうえる儀礼をうたった詩です。これを籍田(せきでん)といいました。この祭りに参加した諸侯の楽師につつしんで奉仕することをもとめているのが、一行めと二・三行めです。四行めの保介は農事をたすける者です。

 

 上帝は天命を下して王朝の交替をおこなうだけではなく、豊作を実現させる豊穣の神でもあったことが、この詩であきらかです。

 

 天によって任命された皇帝=天子は、つねに天の祭りをおこない、その意思にしたがって、政治をおこないました。天の神の祭りは天子だけの特権でした。『礼記』によって郊祀(こうし)とよばれた天の祭りの内容をうかがってみます。


 天子は五年に一度諸国を巡視する。その年の二月に、まず東方の巡視をして泰山に至り、柴を焼いて天を祭り、山川にたいして望という祭りをもよおし、その地方の諸侯をあつめて会見し、かつ諸侯の国々に百歳以上の人があるか否かを問い、あれば天子みずから訪問する。そして大師(楽人の長)に命じその地方の詩歌をあつめて並べさせ、その地方の風俗を知る。(王制)


 天子が四方へ行ったときは、まずそれぞれの方角の山嶽に至り、柴を焼いて天を祭る。(郊特牲)

 柴を焼いて煙をたちのぼらせ、その煙をとどけて天をまつることを「燔柴(はんし)」といいました。柴のうえに玉と絹、犠牲などをならべ、これを燃やした祭りでした。

 

 天子による天の祭りは、地方巡行のさいだけではなく、年中行事としても定着し、後続の王朝にもうけつがれていきました。都城の四周に祭壇を常設し、その中心には天をまつる圜丘壇をもうけ、天子みずから祭祀を執行しました。その遺跡である北京の天壇をご覧になった方は多いとおもいます。すでに前漢時代にはおこなわれておりました。その祭祀でも、柴のうえに玉、絹、供物をならべ、焼いて煙を天にとどける儀礼が中心になっていました。

 

 『詩経』が華北の地の民謡や詩であるのにたいし、長江流域の楚の国でうたわれた歌謡の歌詞が『楚辞』です。『楚辞』を分析して、紀元前三、四世紀ごろの中国江南地方の信仰をうかがってみます。


蘭の湯を浴び、香水に髪を洗い、色彩うるわしい衣は花のようである。このように清潔に美しくよそおって神に仕えまつれば、神霊はゆらゆらと降りとどまり、神光はかがやかしく照らして極まりつきることがない。雲の神は、ああ、祭殿に安らごうとして、日月と光をひとしく輝き給う。竜に車をひかせ、天帝の服をつけて、神はしばらく天駆けりさまよい給う。神はかがやいて、すでにここに降り給うたけれども、たちまち遠く雲中にあがってゆかれた(雲中君)

 着飾った巫女が天の神をまつる情景をうたっています。天の神は巫女の招きで地上におりてきます。

 この詩で注意されることは、冒頭部分の神の降臨する場所が、巫女の身体そのものとうけとれることです。この個所は、原詩では、「蘭湯に浴し芳に浴す。華采の衣は英(はな)のごとし。霊連蜷(けん)として既に留まり、爛として昭昭として未だ尽きず」とあります。前の行で巫女をうたい、つづけて神霊がとどまるという表現から、神はその巫女の身体に降り給うたと判断されます。

 この詩は、江南の地のシャーマニズムが、脱魂型(エクスタシー型)、憑霊型(ポゼッション型)の二つのタイプのうち、神が巫女の身体に降りる憑霊型であったことをしめしています。

 太陽をうたった詩があります。つぎにそれを検討してみます。


 赤々と朝日は東方に出ようとして、扶桑のもとにあるわが宮殿の欄干を照らす。私の馬をおさえて静かに駆けると、夜は白白とはや明けてきた。竜に車をひかせ、雷雲に乗り、雲の旗を立てて、ゆらゆらとたなびいている。私は長いため息をついて、いよいよ天に上ろうとするのであるが、心は去りがたくて顧みおもう。ああ、歌声や色うつくしい巫女の私をなぐさめることよ。観る者は皆心やすらかに帰るをわすれる。張りつめた琴と打ちかわす鼓の音、玉でかざった台にかけた鐘を撃つ。鳴り響く横笛と吹き鳴らす笙の調べ。神巫女(かんみこ)の徳すぐれてみめうるわしいのを思うのある。
 巫女たちは飛びめぐり、カワセミのように挙がり、詩を陳(の)べ、集まり舞う。音律に応じて調子を合わせているうちに、もろもろの神の御魂が日を蔽うようにして天下る。私は青雲の上衣に白虹の袴をつけ、長い矢をとりあげて、天狼星を射る。そして自分の弓を持って立ちかえりくだって、北斗の星の柄杓をとり、肉桂のかおる薄い酒をのむ。やがてわが手綱を持って高く馳せかけって、はるかな暗黒の中を私は東へと行くのである。(東君)

 
 東君は太陽です。巫女が太陽神である東君に扮して神威を自賛しています。昇ってゆく朝日である東君が、自分をまつる地上の祭儀に心ひかれて去りがたくおもう。あまりの祭儀の盛観に、日神はついに高い空から降りてきます。太陽神は天狼神を射て、天空を征服し、赫赫と神威をかがやかし、北斗を取って、そなえられた飲み物をのんで、祭りを享受します。そして暗黒の空のなかを東へ去ってゆきます。

冒頭の朝日の光が東君の欄干を照らすという、日神と太陽が分離した表現は、日神に扮した巫女が日の出をうたったもので、客観としての太陽と主観としての日神東君が分離した形式になっています。

 このように、巫女が太陽に扮してその威力を自賛するという詩の表現が成立するのも、神霊が巫の身体に憑依する憑霊型のシャーマニズムが長江流域にひろがっていたからです。

 黄河流域では天にたいする信仰がさかんであり、長江流域では太陽の信仰がさかんでした。このことは、『詩経』と『楚辞』の詩篇からもあきらかですが、より明確なかたちでこの事実を指摘されたのは、中国史の専門である京都府立大學教授の渡辺信一郎氏です。

 今年、二〇〇一年七月二十八日(土)、二十九日(日)の両日、アジア文化研究プロジェクト主催の講演会・シンポジウム「東アジアの王権と祭り」が、学習院百周年記念会館で開催されました。両日をとおして三百五十人余りの方々が参加してくださいました。熱心な聴衆の皆さんに感謝します。

 その初日、「古代中国の王権と祭りー南郊祭天儀礼を中心にー」という題で、中国古代の天子による天の祭りについて、各種の文献を渉猟されて詳細な報告をされた渡辺氏は、結論として、講演内容をつぎのようにまとめられました。覚えておられる方も多いでしょう。

 「匈奴・韓・夫余・高句麗・わい(「さんずい」に「歳」)・烏丸など、中国北方・東北地方ならびに朝鮮半島に活動したモンゴル・トルコ・ツングース系諸族、すなわち遊牧地帯ならびに稲・雑穀栽培地帯には祭天の儀礼が広汎に存在する。しかし、中国南方、長江以南の諸族をはじめ、稲単作文化地帯に属するいわゆる南蛮、西南蛮には祭天の諸儀礼にかかわる記述はない。」

 ここでいう天とは天空または夜空にまたたく星辰をさしています。対する太陽は、昼間は天に位置していますが、夜は地平線にかくれています。太陽は地上の存在と信じられていたのです。

このような太陽にたいする中国人の考え方は、先に紹介した『楚辞』の「東君」にみることができます。そこでは太陽は、夜は扶桑の木のもとにある宮殿にやすんでおり、夜があけると竜車に乗って空にのぼるとうたわれています。同種の観念は、前漢時代初期に成立した『山海経』にもみることができます。

なぜ、黄河流域では天の信仰がおこなわれ、長江流域では太陽の信仰がさかんであったのか。次回はこの問題についてかんがえます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa13.htm


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諏訪春雄通信 14
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa14.htm 


「なぜ華北黄河流域で天の信仰が、華南長江流域で太陽の信仰が誕生したのか」

 この問題を解明するのに参照すべき現象が三つあります。
 その一つは一神教と多神教の分布です。世界の宗教を一神教と多神教にわけることがあります。一神教は、一柱の神をたてて崇拝する宗教です。一神教の神は一般的には抽象的な男性原理を有し、全知全能にして万物の創造主とかんがえられています。ユダヤ教のヤーウェの神、キリスト教の父なる神、イスラム教のアッラーの神などがそれにあたります。

 これにたいし、複数の神々を同時に崇拝する宗教を多神教とよびます。古代ギリシアの宗教、インドのヒンズー教、日本の神道、仏教、道教などがそれにあたります。

 この両宗教が生まれ、分布する地域に区別があります。一神教は砂漠地帯に生まれ、多神教は農耕地帯に多くみられます。多神教が神と人間との交流を教義に説くのにたいし、一神教は神と人間との隔絶を強調します。これは一神教が、砂漠に誕生したことと関係があるとされています。荒涼たる自然環境の砂漠では、地上から超絶する天上の神が祈願の対象にえらばれる傾向がありました。たいする多神教は豊穣の大地にいます神々が信仰の対象になりました。一神教と多神教は天の神と地上の神の対比でもあるのです。

 二つめは、シャーマニズムにおける脱魂型(エクスタシー型)と憑霊型(ポゼッション型)の分布です。通信13であきらかにしたように、長江流域では、神が巫女の身体にやどる憑霊型がさかんでした。太陽神も巫女の身体に憑依しました。他方、黄河流域の王の祭天儀礼では柴とその上の供物を燃やして、煙を天にとどけました。神は天にあって、人間の側から神に接近していました。そこでは脱魂型がおこなわれていたとみることができます。

 現在も長江南部では憑霊型がさかんであり、黄河の北方では脱魂型のシャーマンが活躍しています。私はかなり長期にわたって、江蘇、浙江、湖南、貴州、広西チワン族自治区、黒竜、吉林、内蒙古自治区などのシャーマンを調査してまわってこの事実を確認しています。天の信仰と太陽の信仰は、また、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型の問題でもありました。

 シャーマニズムでなぜこの両タイプが存在するのか、という問いについてはまだ完全な解答は提出されていません。

 シャーマニズムの研究で大きな業績をあげたM・エリアーデは脱魂型を本質とみて、憑霊型を第二次的な変化とかんがえました。その結論的な部分だけを代表作『シャーマニズム』(堀一郎訳・冬樹社・1985年)から引用します。


 アジア的シャーマニズムは、一つの古代的エクスタシー技術と考えねばならない。この原初的根本理論―天界上昇によって直接の関係を持ち得る可能性のある天界至上神の信仰―は、たえず仏教などの侵入を最頂点とする長い一連の異国からの著彩によって変形せしめられてきた。神秘的死の概念は、漸次祖霊と「精霊」との正常な関係、「憑移」にいたる関係を促進した。

 エリアーデの考えがよくうかがわれます。アジアのシャーマニズムはシャーマンが天界への上昇によって至上神と接触するエクスタシー型こそが真の姿であり、仏教などの侵入による異国からの影響と祖先崇拝によって変化が生まれ、憑移(憑霊、ポゼッション)型を増加させたが、しかし、エクスタシー型をなくするまでにはいたらなかった。このように彼は主張します。

 このエリアーデにたいし、民族学者のW・シュミットはポゼッション型を基本とかんがえ(大林太良「シャマニズム研究の問題点」『北方の民族と文化』山川出版社・1991年)、I・M・エリスは二つのタイプは共存するとみています(平沼孝之訳『エクスタシーの人類学―憑移とシャーマニズム』法政大学出版局、1985年)。

 脱魂型は狩猟文化と関わりをもち、憑霊型は農耕社会に顕著です。この事実は多くの研究者がみとめるところです。日本にかぎっても、本土では脱魂型がほとんど存在しないのに、ながいあいだ狩猟採集社会であった沖縄では他界を旅したり空中を飛翔したりする脱魂型の体験をユタなどから聞くことはまれではありません。

 地球的の規模でシャーマニズムの研究をおこなったアメリカの人類学者エリカ・ブールギェヨンとエヴァンスキーは「全世界からの民族誌的事例の通文化的統計研究において、社会の複雑度が低く、ことに採集狩猟経済にもとづく社会などでは、脱魂型シャーマニズムがふつうで、社会が複雑になり、農耕をいとなむようになると、憑霊型シャーマニズムがさかんになる傾向がある」という結論をみちびきだしています(大林氏前掲書)。

 このようにみてきますと、天の信仰と太陽の信仰を解明する重要な鍵がシャーマニズムの脱魂型と憑霊型にあることがたしかになります。

 華北の天の信仰、華南の太陽の信仰とかかわる現象の三つめは仮面の分布です。
 世界の民族に仮面をもつ民族ともたない民族があります。
 日本の仮面使用の祭りや芸能の分布状況を、『日本民俗芸能事典』(第一法規・1976年)によってみますと、南北につらぬく日本列島で、北から南へゆくほどその分布密度は濃くなり、南島とよばれる九州や沖縄の島々が濃密に仮面芸能をつたえるのにたいし、北の北海道にはこの地で生まれた仮面の儀礼や芸能が存在しません。

 北海道は北緯40度以北に位置します。おなじように朝鮮半島の仮面の祭りや芸能の分布状況を、金両基氏の『韓国仮面劇の世界』(新人物往来社・1987年)収載の表によって検討してみますと、北緯39度線より北に仮面芸能は存在しません。日本と朝鮮半島はともに北緯40線あたりに仮面芸能の北限があったことがわかります。おなじような調査を中国でおこなってみますと、やはり北緯40度の北京あたりに仮面祭式の北限があることがあきらかになります。

 しかし、地球規模に調査の範囲をひろげますと、北緯40度という緯度に特別の意味があるわけではありません。アフリカ大陸の仮面の分布は赤道を中心に南緯15度と北緯15度のあいだにみられ、北アメリカでは北緯65度のアラスカ湾あたりまで仮面をみることができます(吉田憲司編『仮面は生きている』岩波書店・1994年)。緯度に特別の意味はありませんが、世界の民族または人々に仮面をもつ人々ともたない人々のあることは確実です。

 一神教と多神教、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型、仮面の有無、の三つの現象と天の信仰・太陽の信仰はふかい関わりがあると私はかんがえます。三つの現象が解明できれば、黄河流域に天の信仰が誕生し、長江流域に太陽の信仰が誕生した理由もあきらかになると信じています。 

 四つの現象をつらぬく共通のキーワードは農耕です。多神教、憑霊型、仮面、そして太陽信仰の四者を誕生育成した社会は農耕社会でした。他の四者を生みだした社会は狩猟または牧畜社会か、農耕社会への転進のおくれた社会でした。こうした私の断定には異論をもつ向きもあるかもしれません。現存の考古学の発掘資料によるかぎり、黄河流域に農耕がはじまった時期は、長江流域に農耕のはじまった時期にそれほど遅れているとはみえないと…。

 黄河流域では紀元前6000年ころまで農耕開始時期をさかのぼることができます。河北省武安県磁山遺跡からは炭化した粟や耕作用の石製鋤、収穫用の石鎌などの農具が出土しています。

 ちょうどそのころ、長江下流域の浙江省余姚市河姆渡遺跡からは野性稲や栽培稲、耕作用の骨製鋤、炊飯用の土器などが大量に出土しています。猪を家畜化した豚の飼育もはじまっていました。それから2000年ほど経過した紀元前4000年ごろの江蘇省蘇州市の草鞋山遺跡では、人工的な水路や水田があらわれています。

 この比較だけでは、両地域はほぼおなじころに農耕社会にはいっていて差はありません。しかし、長江中流域の湖南省にはさらに1000年以上さかのぼった彭頭山遺跡群が存在し、籾や土器、石製農具、集落跡など、水稲耕作のほぼ確実な証拠が発見されています。長江流域の農耕は黄河流域の農耕を1000年以上さかのぼります。さらに湖南省の玉蟾岩遺跡からは12000年前の炭化米を出土しており、これを栽培稲とみる説が有力です。これがみとめられれば、長江中流域に稲作の起源はじつに黄河流域を6000年さかのぼることになります。

 さらに重要な事実があります。長江流域の農耕が稲作であったのにたいし、黄河流域の農耕は雑穀栽培であったということです。毎年おなじ場所に栽培すると連作障害のおこる雑穀では、粟、黍、豆類などを順番に土地を替えて植えなければなりません。その結果、黄河流域では、農耕だけでは十分な食糧を得ることができなかったために、狩猟採集経済がながく並存しました。

 ここで問題はしぼられます。なぜ農耕社会は太陽の信仰を生み、狩猟社会は天の信仰を生むのか。私はそこにいくつかの段階と理由を想定します。

 

1.農耕民は食糧を生む大地を信じ、そこに神々の存在を感得するのにたいし、狩猟民や牧畜民は大地をはなれたところ=天に神の存在を信じる。

2.農耕民の信じる大地の多様な神々のなかでの最高神が農作物の豊凶を支配する太陽神であった。

3.狩猟民は獲物の獣を追う。その獲物は身体の内部に神の分身を宿している。狩猟民はその神をつねに追うことになる。幾世代にもわたって神を「追う」生活が脱魂型のシャーマンを誕生させた。彼らの多くは神の分身の獣を守護霊としている。

4.農耕民は大地をたがやして収穫を待つ。収穫物は農耕民にとっての神の分身である。幾世代にもわたって神を「待つ」生活をくりかえした農耕民のなかのえらばれたシャーマンが、自己の肉体を依代としてそこに神を待ちうける憑霊型を生みだした。

5.仮面も神をよりつかせる依代である。憑霊型のシャーマニズムの分布地帯と仮面の分布地帯がほとんどかさなるのはそのためである。


 

 今回はこの辺で通信を閉じます。次回は長江流域の少数民族社会に太陽信仰以外の信仰を追いかけてみます。 
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諏訪春雄通信 15
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長江流域の少数民族社会にひろまっている太陽神信仰以外の信仰をみてゆきます。
今回のテーマは「稲魂信仰」です。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには、学習院大学内外の多くの研究者が「プロジェクト参加者」としてくわわっておられます。これまでなんらかの形で私たちの活動に関わりをもたれた方々です。その参加者の一人に曽紅さんという中国の女性がおられます。この方は、現在は学習院大学の中国語講師をつとめていますが、本来は中国雲南省のハニ族の稲作について調査研究をかさね、すでに多くの論文も発表している比較民俗学者です。私の中国調査にもよく同行され、各地の民俗をいっしょに見てまわった方です。

 曽紅さんの研究の核心は雲南省ハニ族の稲作儀礼と日本の稲作儀礼との比較研究です。彼女はそこに多くの共通性を発見しましたが、しかし、なぜ遠く離れた雲南のハニ族と日本とのあいだに稲作にかかわる共通の信仰や儀礼が存在するのかという問いについては判断を保留しています。というよりも、明確なことはわからないというのが曽紅さんの本音のようです。

 彼女の研究の一端を紹介します。

 ハニ族の年中行事のうち、稲作に関係する行事にはつぎのようなものがあります。


1月 五穀祭(穀物神に豊作を祈願する)

2月 ガマツ祭(稲魂の降臨をむかえる) 

3月 苗床祭(稲の苗を祭る) 稲娘の聖婚式(稲魂を水田におろす儀礼) 穀物神と田の神を祭るハォへへ

6月 夏の松明祭(松明の火に照らして稲の多産を祈願する) 水口祭(水田の水口に供物をささげる)

7月 虫送り(稲の害虫駆除の祭り) 稲花酒を飲む(初穂を神棚にそなえ稲籾をいれた酒を飲む)

8月 新米節(ホスザ 稲刈に先立ちあたらしい稲魂と家の神棚にまつってある昨年の稲魂との新旧交代をおこなう)

9月 田の神への感謝祭(主婦は水田の真中で田の神に供物をささげ感謝の歌をうたい稲刈をする) 倉入れ(新旧稲魂の交替の儀礼)

10月 松の飾りと団子飾り(松の枝と稲の籾や若草を入れた竹筒、栗の枝を玄関にかざる。団子飾りは餅花) 年取り(団子をたべる)

    曽紅「ハニ族の年中行事」(諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)

 ハニ族の古い暦法は一年を十ヶ月とします。この年中行事はその暦法によっています。このかんたんな叙述からも、

(1)農家の一年の行事が稲作の作業過程とむすびついて進行する、

(2)稲の祭りの中心に稲魂信仰がある、

(3)稲魂は家の神棚と倉に祭られる、

(4)稲魂は新旧交代する、

(5)稲は人々の生命力の根源である、


など、日本の稲作の祭りと共通の信仰が存在することがあきらかになります。

 家庭の主婦となった曽紅さんは、最近、中国調査を一時休止しています。曽紅さんのあとをうけて、雲南省の少数民族の稲作儀礼調査に目覚しい成果をあげているのが、麗澤大学教授の欠端実氏です。欠端氏とは国際日本文化研究センターのプロジェクトでご一緒し、しばしばお話を聞く機会がありました。
 氏の説の核心部分を引用してみます。

 現在の雲南省においても、穀物が発芽し成長し開花し結実するのは、穀霊の働きによると考え、そのための儀礼を執り行なっている小数民族は多い。アチャン族の穀霊祭は典型的なものとされる。アチャンは、稲には稲魂があって、稲魂を離れると稲は育たず、実も入らないと信じている。したがって、ぜひとも稲魂を祀らなければならないと考えている……ハニにおいても稲魂信仰は強く残され、日本の稲作儀礼と同じ儀礼が今日に至っても守られている。
 「雲南少数民族における新嘗祭」(『新嘗の研究4−稲作文化と祭祀―』第一書房・1999年)

 ハニは現在でも新穀を供える新嘗祭(フォシージャー)を行なっている。期日は一定していないが、おおむね七、八月の龍の日に行なわれる。稲魂(新穀の女神)はとても恥ずかしがりやなので、新穀を刈り取るときにはめでたい詞を唱えて、穀物を収穫する目的と新穀の女神をお迎えする誠意を表明しなければならない。穂がびっしりとつまっていて虫に食われていないものを選ぶ。刈り取った穀物は三本一くくりとし、三束に分けて先祖の位牌の所に掛け、一年中そのままにしておく。ただしお年寄りが亡くなったときにだけ持ち出して焼く。
 新米節のときにはまず先祖に供える。主な供え物としてはご飯である。(同上論文)

 氏はまたハニ族の新嘗祭の特徴をつぎのようにまとめています。

1.家の祭である。
 新嘗の時には家族全員で新穀を食べる。その際、客を招かず、家族以外の人には食べさせない例が多い。また新穀を収めた穀倉は他人 に見せようとはしない。

2.女性が主宰する祭である。
 調査した60余の村の内、11の村が「新嘗」は女性家長が主宰すると答えた。男性が主宰すると答えた村は2例であった。

3.新嘗儀礼の中心にあるのは穀霊(稲魂)信仰である。
 田畑にいる穀霊を家の中に迎え入れ祖先棚あるいは穀物蔵で休息してもらう。新穀を祖霊、穀霊および天神に供え共食する。新穀を食することは穀霊を食べることに他ならないという観念が今日も残されている。

4.穀霊信仰と祖霊信仰とが結合している。
 田畑から迎え入れられた穀霊は祖先棚に安置される。この祖先棚の移動や新設は新嘗の日に行わなければならない。

5.穀霊を保護しているのは聖樹である。穀霊信仰と聖樹崇拝とは結合している。
 ハニ族最大の祭は、田植前に行なわれる聖樹祭(アマトゥ)である。稲魂を庇護する天神が聖樹を伝わって降臨すると考えられている。聖樹は村建ての時、村のセンターとして選ばれるものであるが、西双版納(シーサバンナ)では各家で聖樹をもつ村があった。

欠端実「ハニ族の新嘗―アジア稲作の古層―」(アジア民族文化学会秋季大会発表要旨・平成13年11月11日・共立女子短期大学)


 ここでのべられている雲南省のハニ族の新嘗祭はそのままに日本の新嘗祭です。しかものちに変質してしまった日本の新嘗祭の古代の原型を推定する手がかかりさえのこされています。なぜそのような酷似性がみとめられるのでしょうか。これまでの本通信の注意ぶかい受信者ならば、その理由を容易にかんがえつくことができるはずです。

 欠端氏もまた曽紅さんと同様に、日本との類似性は指摘するがその理由についてはふれられません。雲南省は長江中流域にひろがる湖南省、湖北省などよりもさらに西南に位置し、日本からは遠くはなれた山岳地帯です。ここの稲作が、間にはさまる巨大な空間を超えて注目されるようになったのは、いまから三十年以上もむかしに、照葉樹林文化論(上山春平ら編『照葉樹林文化論』中央公論社・1969年初版)が流行したころからです。雲南省のハニ族の稲作が中国の他の土地に先んじて調査対象になったのは、じつはこの照葉樹林文化論の影響でもあったのです。

 1980年代、アジアの稲作の起源地としては、インドのアッサム州から中国の雲南省・貴州省にかけての高原地帯が有力でした。いわゆるアッサム・雲貴起源説です。この説をささえる重要な根拠は、この高原地帯で日本の農学者渡部忠世博士によって野性の稲が発見され、さらに、3、4000年まえにさかのぼる栽培稲が見出されたことでした。渡部博士の説は、1977年に『稲の道』(日本放送出版協会)として発表され大きな影響を学界にあたえました。

 このアッサム・雲貴稲作起源論のうえに華麗な照葉樹林文化論が強化され、日本の学界をにぎわしたことはご記憶の方も多いとおもいます。照葉樹林文化というのは、西ネパール付近からヒマラヤの南山麓を通り、中国南西部を経て西日本にいたる帯状の地帯にひろがっていた照葉樹林地帯(照葉樹林は、クスノキ、シイ、ツバキなどの、葉は革質で光沢のある常緑広葉樹の林で、日本では九州、四国、関東までの沿岸部に分布します)に生まれそだった文化で、焼畑農耕にもとづく雑穀栽培、ナットウやなれずしなどの醗酵保存食の利用、高床式住居の住居形式などなどの文化複合を形成しています。稲作もまたこのルートをたどって日本に到達したと主張されました。

 しかし、湖南省が稲作の源産地として確定した今日、照葉樹林文化論の骨格はくずれました。ほぼ4000年前の雲南省の稲作は、それよりもさらに4000年以上さかのぼる長江中流域から伝来したものと推定されます。したがって雲南の地にひろまった稲作の祭りや信仰もじつは長江中流域が起源地であったということになります。

 日本の稲魂信仰と雲南省ハニ族の稲魂信仰の共通性は、長江中流域の稲作民の稲魂信仰が東西に伝播したためであるといいきることができます。そして、私たちはすでに、湖南、湖北、貴州などの少数民族社会にその原型となる稲魂信仰を見出しています。

 次回は中国長江中流域の少数民族社会の稲魂信仰についてのべます。
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諏訪春雄通信 18
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 通信15で雲南省のハニ族の稲魂信仰についてのべました。最終のねらいは、中国の長江中流域ではじまった稲作が、日本へ伝来したときに、稲作の技術とともに、稲にかかわる各種の信仰を同時に日本へもたらし、日本の天皇制の基盤となった信仰・精神を形成したという事実の証明です。

 中国の少数民族ミャオ(苗)族の居住地は、湖北、湖南、四川、雲南、貴州、広西チワン族自治区などの各省にひろがっていますが、738万人におよぶ全人口(1990年の調査)の50パーセントまでが貴州省にすんでいます(田畑久夫他編『中国少数民族事典』東京堂出版・2001年)。

 ミャオ族の現在の主要な生業は稲作を中心とした農業です。山間低盆地や河谷を主体とする山間部に形成された平坦地では、付近をながれる河川の水を利用する水田稲作が中心で、一部の水田では鯉などの養殖もおこなわれています。これにたいし、山腹の斜面をきりひらいて造成した棚田では天水を利用した稲作が、段々畑ではトウモロコシ、おかぼ陸稲などが栽培されています。

 この貴州省のミャオ族のあいだに顕著な稲魂信仰をみることができます(潘定智「丹寨苗族的穀神崇拝」『貴州古文化研究』中国民間文芸出版社・1989年・他)。藩氏は穀神ということばつかっていますが実体は稲魂です。

 彼らのあいだに地上の穀物の起源について3種の神話がつたえられています。
1.大洪水がおこりこの世から穀物がなくなった。姜告略という老人がいた。老人は白バトとスズメに命じて天上の銀河のあたりから穀物をぬすませた。人間はそのおかげで稲をうえることができた。


2.むかし、人間は山の洞窟にすんでいた。そのころ、ミャオ族と漢族がおなじ洞窟に居住していた。その洞窟に一人の老婆がいて穀物と酒の麹種をもっていた。穀物は大きすぎて煮てもたべることができなかった。そののち、老婆がいなくなった。利口な人間が斧で穀物をわったところ、その破片からトウモロコシ、麦、稲、高粱、粟などが生え、また土中にはいって芋や蕨が生じた。漢族は麹種を得て、辛い酒をつくり、ミャオ族は甘い酒をつくった。


3.もともと穀物はとおくはなれた神農氏の里にあった。老人が犬に命じて穀物をとりにゆかせた。犬は途中に流れのはやい大河があったので、尾の先に穀物の粒をつけてもどってきた。そのために、現在、穀物の穂は犬の尾とおなじ形をしている。

 以上の3話は東アジアに流布している稲作神話の三つのタイプを代表しています。1の鳥のモチーフは穂落し神の伝承として中国、朝鮮、日本に流布しており、3の犬のモチーフはとくに中国南部にひろくおこなわれています。また2の洞窟から穀物を入手するモチーフは、洞窟から米が流出する、いわゆる「流米洞伝説」の変型とみることができます。このタイプは中国や朝鮮にひろがっています(大林太良『稲作の神話』弘文堂・1973年)。

 この三つの稲作神話のうち、1は日本でも東北から沖縄にまでひろまっています。穀物をもたらす鳥は多くは鶴ですが、雀、鴻などの種類もみることができます。3の犬は弘法大師伝説とむすびついてかなり変型した話がひろく流布しています。2の流米洞伝説はいまのところ日本からは発見されていません。朝鮮半島にまでつたわっていながら、海峡をこえることができず、日本につたわらなかった神話、伝説、習俗などはかなりあります。流米洞伝説もその一つです。

 稲魂のことを、ミャオ族は穀魂、米鬼、穀神などとよんでいます。稲が田圃で生長する旧暦の2、3月から8、9月のころまで、稲魂は田にあって稲の生長を見まもります。この時期の稲作の祭は稲魂を中心にいとなまれます。
 起活路 翻鼓節 撤苗 開苗門 粽節 稲魂祭 苗家稲祭 吃新節 稲魂収倉行事など、農事の節目ごとの行事がそれにあたります。

 起活路は春節(旧正月)ののちの決められた日(旧暦2月の第一亥の日など)の農事始めの行事です。河のそばの田を鋤でほりおこし、カヤ・ススキや山椒を田にさします。これは邪鬼の類の侵入をふせぐための儀礼です。

 開苗門は田植開始の儀礼です。もち米のご飯と魚を苗代にささげ、稲魂の保護を祈願します。そのときにとなえる文句のなかで、稲魂に「姑娘(娘)」とよびかけます。稲魂を女神とみなしていることがわかります。稲魂祭は、虫の害などで稲の発育が不良のとき、その原因を稲魂が田のなかにいないせいとかんがえ、鴨、酒などを持参して田にやってきて、稲魂に田にもどるように祈願する祭りです。

 苗家稲祭は、若者や娘が稲魂になる儀礼です。七月半ばの夜半、若者と娘たちが村の岡にあつまってこの儀礼がおこなわれます。指導者で歌い手になる人(巫師)が田から青々とした稲の葉(稲魂の変身とみなされている)をとってきて、えらばれて稲魂になる若者の頭上にさします。そして若者に耳をふさがせておいて、腰の鈴をならしながら、稲魂に生育をうながす歌をうたう。そのあいだに若者はしだいにトランスにおちいって、あの世にはいってゆきます。そして、途中、亡霊にあったりしながら、もっとも美しい場所までいってひきかえしてきます。これで若者は稲魂と一体になって成長することができると信じられているのです。

 吃新節は稲が成熟してきたころ、各家で田から奇数本の穂をぬき十粒の新米を古米のもち米とまぜて祖先と稲魂に感謝しながらたべる行事です。

 稲魂収倉行事は秋の収穫がおわったのち、一升の米をえらび、一把の稲束を小さな天秤棒にかけたものをその米にさし、倉におさめる儀礼です。そのときに

 九月がきました。十月がきました。穀粒はすべて倉におさまりました。稲魂様もどうぞ倉におかえりください。

ととなえます。

 ミャオの人たちにとって、稲魂は田の神であるとともに彼らの一生を守護する神でもあります。母の胎内にやどったときから、最後の死をむかえるまで、稲魂にまもられることによって無事にすごすことができると信じています。

 女性は懐妊すると巫師をよんで稲束を部屋の入口にかかげて祈祷をしてもらいます。邪鬼の類の侵入をふせぐためです。子供が成長すると、一碗の米と一個の鶏卵をいつも床の上においておきます。稲魂の保護を期待するためです。子供の衣服や帽子には穀物や米をいれた布の袋がぶらさげられています。

 病気にかかると枕もとに一束の稲の束をおいて病魔の退散を祈願します。新築のさいには、まず使用する柱に稲束、鶏、魚、酒などをささげて祈祷し、家が完成すると、大きな梁の両端に稲束をかけておきます。不幸があって巫師がよばれると、稲束が重要な役割をはたします。巫師は占いによって稲魂からその家の不幸の原因を聞きとり、災難を消滅させます。

 ミャオの人たちの一生は稲魂の保護のもとにあり、死ぬと稲魂にみちびかれてあの世にゆくと信じられています。出棺のとき、巫師は通過する道に米をまきちらし、死者をほうむる墓穴にも米を敷きます。こようにして稲魂は死者の霊魂につきそいます。

 このような事例をならべると、稲魂が祖霊神と一つになっていることがあきらかです。梁に稲束をかけて、家の保護を期待するのも、死者が稲魂にみちびかれてあの世にゆくのも、稲魂即祖先神だからです。

 そして、稲魂はまた太陽神でもあるはずです。

 この断定については、すこし説明が必要です。通信15で紹介した雲南省のハニ族の稲魂信仰では穀霊信仰が祖霊信仰とむすびついていました。その事実は、欠端実氏の報告によってあきらかです。信仰の有無や結合の判断はむつかしく、調査者のモチーフの持ち方に大きく左右されます。調査する人の側に太陽信仰というモチーフがないと、調査結果からこの部分がそっくりぬけおちてしまいます。つまり、欠端氏は穀霊信仰と祖霊信仰という二つのモチーフはつよくもっていましたので、両者の結合をとらえることができましたが、太陽信仰というモチーフははじめからもっていなかったので、調査結果からぬけおちてしまったのです。

 じつは、私がこれまでの貴州省ミャオ族の稲魂信仰の記述に主として利用した藩定智氏の報告にも、太陽神信仰という視点ははじめからないので、稲魂信仰と太陽神信仰の結合という事実はまったくうかびあがってきません。しかし、私は貴州省のミャオの稲魂信仰は太陽信仰と結合していたと判断します。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには企画を立案し、活動の基本の方針を審議する10名の運営委員がおります。著名な民俗写真家の萩原秀三郎氏もその委員の一人です。萩原氏の最近の著書に『稲と鳥と太陽の道』(小学館・1996年)があります。天皇制に焦点をしぼっている私のこの通信文のテーマとはねらいがちがいますが、稲魂信仰、鳥霊信仰、太陽信仰の三つが中国から日本へわたってきたという認識は共通しています。

 氏は、この書の中で広西チワン族自治区のミャオ族の信仰習俗にふれ、正月に村の中心にたてられる芦笙柱の本質を鳥竿、宇宙樹、太陽樹としてとらえておられます。この柱の上には鳥の作り物がかざられます。その鳥がすべて東の方向をむいているのは太陽をむかえるためで、太陽は稲の豊穣に不可欠であり、そこから柱と鳥、太陽、稲魂がむすびつくとのべておられます。したがうべき説です。

 今年の八月、私たちが中国長江流域の湖南、湖北、貴州3省の少数民族社会を調査してまわったことは、すでにこの通信でも報告しております。そのさい、調査にはいったミャオ族部落で太陽信仰の証跡をいくつも発見しています。

 8月4日には貴州省のミャオ族のー秋節という秋をむかえる祭りを見学しました。その部落入口の門の中央には木製の太陽がかざられていました。娘さんの正装の飾りにも太陽を象徴するものがみられました。
 8月11日に湖南省ミャオ族の竜舟行事を見学したときにも、竜舟や竜王廟の飾りに太陽のモチーフを見出しています。

 長江流域の稲作民族であるトン族の人たちが、稲魂、太陽、女性祖先神の三者の結合した信仰をもっていることについては、この通信10でくわしく報告しました。

 こうした長江中流域の文化複合が稲作とともに日本へ伝来したことは確実です。これまでながいあいだ、中国大陸をさすらってきましたが、次回の通信からは、比較民俗の視点と方法で、日本の王権の誕生と本質についてかんがえます。
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9. 中川隆[-12497] koaQ7Jey 2019年2月03日 00:28:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
続き


長江流域の稲作民族であるトン族の人たちは 稲魂、太陽、女性祖先神の三者の結合した信仰をもっている


諏訪春雄通信10
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9月21日(金曜日)午後5時から、この通信での予告どおり、「中国少数民族の祭りと芸能―トン族・苗族・土家族の世界―」というテーマで、今年の夏におこなった中国調査の報告会を実施しました。

平日の夜、しかも雨という悪条件にもかかわらず、用意した席をすべて埋めつくすほどの、多数の聴衆がつめかけられ、2時間の私の報告を最後まで聞いてくださいました。ありがとうございました。熱心なご質問をいただいた方々にもお礼を申します。

今回の通信は、当日の報告のなかから、日本との関わりで注目されることをぬきだしてのべます。

中国の長江中流域地帯には女神信仰がゆきわたっています。たとえば、私たちが調査したトン族社会では、薩神とよばれる民族の祖先の女神にたいする信仰がさかんです。薩神は薩歳ともよばれています。薩はトン族語で祖母を意味します。祖先の女神ということになります。

トン族の神話では、彼らの世界を創生した人物は薩神の子孫姜良姜妹の兄妹です。天下に大洪水がおきて万物がほろんだとき、薩神が送ったひさごにのってたすかった兄妹二人が夫婦となって、山川動植物を生み、トン族をはじめとする人類の祖先になったというのです。水稲農耕もこの兄妹がつくりだしたものとつたえられています。

薩神はまた隋唐時代の女英雄キョウニの伝説と習合しています。キョウニは、都から派遣された官吏の苛政に反乱をおこした村人の先頭にたってたたかい、幾度も勝利をおさめますが、最後は大軍にかこまれて自殺した女性です。

後人は彼女の霊をなぐさめるために祭壇をきずき、神としてまつりました。このキョウニが薩神と同一視されて崇拝の対象になっています。

薩神信仰とならんで、トン族の二大信仰とよべるのが、太陽信仰です。鼓楼、住居、男女の正装、帽子、その他に円形の鏡として造型された太陽をみることができます。年中行事のなかにも太陽信仰は浸透しています。

また、トン族の男女は雨具ではない紙製の傘を冠婚葬祭や日常生活に頻用します。この傘は太陽を象徴するもので、辟邪の働きがあるとされています。

この太陽信仰と薩神信仰はふかくかかわっており、トン族の人々は両者を同一とみなし、太陽光線は薩神の威力をあらわすものとかんがえています。

日本の創世神話とトン族神話には興味ぶかい一致があります。『古事記』によるイザナギ・イザナミを主人公とした創世神話とトン族神話には以下のような一致点があります。

@ イザナギ・イザナミの二神は、神世七代の洪水後に男女対偶神として誕生し、国土の生成、始動にかかわります。姜良姜妹の二神は、洪水のさいにひさごのなかにはいって命がたすかり、国土と人類の生成にかかわります。

A イザナギ・イザナミの二神は、天神の命をうけて、まず天の浮橋に立ち、海をかきまわして得たオノゴロ島に降り、天の御柱をめぐって結婚します。姜良姜妹の二神は最高神の薩神のはからいで結婚します。

B イザナギ・イザナミの二神は、はじめヒルコなどを生んで失敗しますが、天神の指示をあおいで大八島国および石・海・水門・山野の神々を生んでゆきます。イザナギは日向の橘の阿波伎原でミソギをします。そのさいに防塞神や穢れから成る神またはこれを直す神、海の神などが出現し、最後に左右の眼と鼻をあらうと、アマテラス・ツクヨミ・スサノオが誕生します。姜良姜妹の二神は、十ヶ月に満たない九ヶ月で一人の男子を生みます。その子は、頭はあるが耳はなく、眼があって脚がない不完全な人間でした。その身体が斬りくだかれて民となり、手や指が地におちて高峰となり、骨がおちて岩石に化し、頭髪は万里の河川となり、脳がおちて土手や田畑になり、歯牙が黄金白銀になりました。肝腸が長江大河となり、野牛や野鹿、山脈、三百六十四の姓、トン族をはじめとする人類が誕生しました。

両神話のあいだに、洪水から生存した男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、その結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が生まれたがつぎに国土と人類などが誕生したこと、しかもそうした行為が薩神(『古事記』では天神)の指導ですすめられたことなど、世界創造神話の基本構造が一致していることが注目されます。

さらに薩神とアマテラスとのあいだにもつぎのような一致点があります。

@ 民族の祖先の女神、A太陽神でもある、B稲作の神である、C歴史上の人物(女性英雄神と皇室の祖先)と習合し祭壇がもうけられた、の四点です。

トン族の神話が日本神話の直接の原型であったなどと主張する気はありませんが、長江中流地域が日本の稲作の源流であったことは疑問のない事実である以上、稲作にともなう文化の交流についても真剣に検討する必要があるとおもいます。
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10. 中川隆[-12496] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:05:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
続き

諏訪春雄通信 19
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa19.htm

 この通信では日本の天皇制をささえる基本の信仰と精神が、中国の長江流域の少数民族がつたえている信仰と精神をうけついでいることについてのべます。

そのために、今回は、日本の古代神話を素材とすることになりますが、しかし、私の採用している方法は比較神話学ではなく、比較民俗学です。日中両国の神話の類似を立証するのではなく、日本の天皇制をささえる基本精神の解明が目的です。

 日本の古代神話をつたえている代表的な書物は『古事記』と『日本書紀』です。この二つの書物が記述されるとき、中国の書物、それも黄河流域の漢民族の著述が、多く参照されました。よく知られている事実です。『古事記』や『日本書紀』の神話を分析するときに、留意すべき点はこの書承による修飾的な叙述を排除して、直接に天皇制の支えとなった稲作民の思想を抽出することです。


そうした修飾を排除した、日本神話の基本構造はつぎのように整理されます。主として『古事記』によります。


1.別天つ神五柱、神世七代のあとをうけ、ただよっている国土生成の命を天神からうけて誕生したイザナギ・イザナミの男女二神は、の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてオノゴロ島をつくった。その島に降り、聖なる御柱のまわりをまわって結婚する。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。


2.天神の指示をうけて御柱めぐりと発言をやりなおした二神は、淡路島以下の大八島国、吉備児島以下の六島、石、海、風、木などの神々をつぎつぎに生む。


3.イザナミは日の神カグツチを生んだときに産道を焼かれて病にかかり没した。イザナギはいかってカグツチの首を斬った。その剣の血からは雷神ほか、カグツチの身体からはさまざまな山の神などが誕生した。


4.イザナミは黄泉の国へ去る。そのあとを追ったイザナギは、妻のことばにそむいて死体を見た。「見るなの禁忌」をおかしたイザナミはヨモッシコメらに追われるが桃の実などの呪力で逃走し、黄泉の国と現世との境のヨモツヒラサカを巨大な岩でふさいでしまった。


5.黄泉の国からのがれたイザナギは、筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをする。そのとき、左眼からアマテラスが、右眼からツクヨミが、鼻からスサノオが誕生した。三貴子が誕生したことをよろこんだイザナギは、アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の世界を、スサノオに海原の支配を命じた。スサノオは父の命令にしたがわず泣きつづけたので、イザナギは根の国に追放してしまった。


6.スサノオは根の国におもむくまえに高天原のアマテラスをたずねた。スサノオの振舞のあらあらしさをおそれた姉の疑いをはらすために、天の安河をなかにはさんで姉弟は誓約をおこなった。アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。


7.誓約のあと、勝者としてふるまったスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、神聖な機織屋に逆はぎした馬の皮をなげこむなどの乱暴をはたらいた。おそれたアマテラスは天石屋戸にこもった。そのために高天原も葦原中国も暗闇となってさまざまな災いがおこった。八百万の神々は天安河原にあつまって相談され、長鳴鳥をなかせ、天香具山のサカキに玉、鏡、白幣、青幣などをつけてフトダマがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出させておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスが不思議におもってのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。神々はスサノオの鬚と爪をきって追放した。


8.高天原を追放されたスサノオが食物をオホゲツヒメにもとめたところ、鼻・口・尻などから食物をだしたので、汚いといかったスサノオはオホゲツヒメを殺害した。殺害されたオホゲツヒメの身体から五穀や蚕が生じた。


9.天上界をおわれたスサノオは根の国へむかう途中、出雲の肥の河のほとりで、アシナヅチ、テナヅチの夫婦と娘クシナダヒメにあう。娘はヤマタノオロチという八頭八尾の大蛇にくわれる運命にあったが、スサノオは八つの瓶につよい酒を用意させ、大蛇が酔って寝ているすきにきりころした。そのとき、大蛇の尾のなかから出現した剣をスサノオはアマテラスに献上した。スサノオはクシナダヒメと結婚して出雲の地にすんだ。この二神の子孫からオオクニヌシが誕生する。


10.オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられたいつわりの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。


11.白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオムナチ(オオクニヌシの別名)は兄弟のねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオムナチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。


12.出雲のヤチホコ(オオクニヌシの別名)は高志のヌナカワヒメに求婚に出かけ、歌をうたいかわして結婚した。それを知った正妻のスセリビメがはげしく嫉妬したために大和へ行こうとしたが、夫婦で愛の歌を唱和し、心とけてともに出雲の地に鎮座した。


13.オオクニヌシが出雲の美保の岬にいたとき、小舟にのって海をわたってきたスクナビコナと逢った。両神が力をあわせて国造りにはげんだのち、スクナビコナは常世国へわたっていった。国造りの未完成をなげくオオクニヌシのまえに海を照らして近づいてきた神が国づくりの協力を申しでた。この神は大和の御室の山にまつられた。


14.葦原中国平定のために高天原の神々の命令で派遣されたアメノオシホはオオクニヌシにへつらって三年たっても復命しなかった。そこでアメノワカヒコがあたらしく派遣されたが、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して八年たってももどってこなかった。しかも事情をさぐるためにおくられた雉を射殺し、高木神(タカミムスヒの別名)の射返した矢にあたって死んだ。アメノワカヒコの葬儀がいとなまれ、川カリ、鷺、カワセミ、スズメ、雉が役割を分担して歌舞音曲をつとめた。弔いにおとずれたシタデルヒメの兄アジスキタカヒコネは死者とまちがえられたことをいかって、喪屋をけちらしてしまった。


15.アマテラスはタカミムスヒと相談して、つぎにタケミカヅチにアメノトリフネをそえて葦原中国に派遣した。タケミカヅチがオオクニヌシに国譲りをせまると、子のコトシロヌシにこたえさせた。コトシロヌシは天神の御子に国譲りするとこたえた。しかし、もう一人の子のタケミナカタは承知しなかったので、タケミカヅチは力比べに勝って信濃の諏訪に追いはらった。オオクニヌシは出雲国に御殿をたててもらって住み、葦原中国を天神御子に献上した。


16.アマテラスとタカミムスヒ(高木神)はアメノオシホミミに天降りを命じた。オシホミミは自分とタカミムスヒとのあいだに誕生したホノニニギを代りに推薦した。ニニギが降臨する途中、天の八ちまたにサルタヒコが眼から光を発してあらわれた。アメノウズメにその正体を問わせると、「先導をつとめるため」とこたえた。ニニギにアメノコヤネ以下の五伴緒、オモヒカネなどの供と、三種の神器があたえられた。アマテラスは、ニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。したがって、鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。


17.ホノニニギは笠沙の岬で大山津見神の娘コノハナサクヤビメと出あった。父神は姉のイワナガヒメをあわせて献上したが、ニニギは醜い姉をかえし、コノハナサクヤビメと一夜の契りをかわした。父神は「コノハナサクヤビメをとどめた天孫のお命は木の花のようにはかないでしょう」と申しおくった。一夜で妊娠したコノハナサクヤビメをうたがったニニギにたいし、ヒメは火中出産によって天孫の子であることを証明した。そのときに生まれた子が、ホデリ、ホスセリ、ホオリの三神である。


18.ホデリとホオリは海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針と弓矢を交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。


19.臨月のちかづいたトヨタマビメは御子を生むために夫のもとにやってきた。しかし八ひろワニとなって出産している姿を夫に見られ、誕生した子ウガヤフキアエズをのこして海の宮へかえっていった。天皇家第一代の神武天皇はこのウガヤフキアエズの四男である。

 以上の19段が『古事記』のつたえる初代神武天皇誕生までの王権神話です。これらの神話の個々のモチーフについては、多くの神話学者による研究のつみかさねがあります。それらは、とうてい長江流域から伝来した稲作にともなう伝承としては解釈できない多様性をもっています。

 たとえば、7の著名なアマテラスの天石屋戸隠れについてはつぎのようなさまざまな説明がこれまでになされています。

A.アマテラスは大嘗祭の準備中に穢れにふれた。

B.日神であるアマテラスの日蝕神話である。

C.日神であるアマテラスの冬至神話である。

D.生命力の回復を祈願する鎮魂祭である。

E.大祓の儀礼の性格をもつ。


 7が以上のような多様のモチーフを複合していることはたしかですが、しかし、『古事記』の王権神話には全体をつらぬく主題があり、19段の神話素はその主題にしたがって、選択、配置、変容をくわえられていることも疑問のない事実です。私がはじめに、この通信で神話の比較研究をこころみているのではなく、王権の永続の秘密を比較民俗学の手法で解明しようとしているのだとのべたことにかかわります。個々のモチーフの由来を検討するのではなく、根本をつらぬく構造の解明とその由来が、私の研究目的になります。

 『古事記』神代の神話(多少形をかえてはいるが『日本書紀』にもいえます)はつぎのような基本テーマで編集されています。

1.日本の天皇は国土を生成し、時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である。1,2,3,5

2.日本の天皇の直接の祖先神アマテラスは太陽神、穀霊である。5,6,7,16

3.日本の天皇は天界から地上に下った。5,6,7,8,14,15,16

4.天皇以前に地上を支配していた勢力は出雲を拠点としたオオクニヌシ一族の神々である。9,10,11,12,13,14,15

5.地上勢力オオクニヌシの権力の根源もじつは天界にある。9,10,11,13

6.天皇は海の神の血統と呪力をとりこんで王権を強化した。18,19

 『古事記』神代の神話は以上の王権にかかわるテーマのほかに、国土生成(1,2)、地上と黄泉国の分離(4)、祭祀の起源(7)、穀物の起源(8)、地上の整備(13)、寿命の限界(16)などのテーマもかたっています。しかし、王権に限定すれば、以上の6つに整理されます。そして、この6つのうち、さらに日本の王権を確立させる最重要テーマが1から3までの3つです。この根本構造を決定する3つが、じつは中国南部の稲作にかかわる信仰に由来しているというのが私の基本の考えです。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa19.htm

11. 中川隆[-12495] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:12:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
続き


諏訪春雄通信 20 2002年 1月

2002年最初の通信を、「日本の王権神話と中国長江中流域」というテーマでお送りします。

 『古事記』を中心にまとめた日本の王権神話の最初はつぎのようになります。

 別天つ神五柱、神世七代の神々の最後に誕生したイザナギ・イザナミの男女神は、天の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてつくったオノゴロ島に天降り、聖なる柱のまわりをめぐって夫婦となる。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。天神の指示によって御柱めぐりと発言をやりなおし、大八洲の島々と自然の神々を次々に生んだが、火の神を生んだときに火傷を負ってイザナミは死に黄泉国へゆく。妻を追って黄泉国へいったイザナギは妻のつれもどしに失敗する。筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをしたイザナギは身体から、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子を得て、天・夜・海の三界を分治させる。スサノオは父の命令に不満をもつ。

 これと構成要素がほとんど一致する中国江蘇省の「三官伝承」とよばれる民間伝承を大林太良氏が紹介されています(「イザナギ・イザナミ神話と中国の伝説」『神話の系譜―日本神話の源流をさぐる』青土社・1996年)。三官とは天神水神地神の三神です。大林氏はつぎの六つの要素に分類し、イザナギ・イザナミ神話との一致を論証しています。
1.海に囲まれた島に夫婦
2.夫婦別離
3.生まれた子を流す
4.夫は水中に入り新しい妻をめとり三子を得る
5.三子は三つの宇宙領域の代表者となる
6.三子のうちの一人は、自分に割り当てられた領域に不満

 この三官伝承は『西遊記』第九回「陳光蕊、任に赴いて災いに会い江流の僧讐を復して本に報ず」を直接の種本にしています。この事実をもとに大林氏は、「三官伝説がいま紹介したような形になったのは、もちろん『西遊記』が広まってからの新しいことであるが、イザナギ・イザナミ神話と対応するような大筋は、すでに古くから呉越の地に神話として存在していたのではないか」という仮説を提示しています。

 2と3が入れ替わっただけの一致は不思議にさえ感じられます。大林氏が提案されるような母胎の神話は呉越の地に実在したのでしょうか。それはどのような形をとっていたのでしょうか。広大無辺とでもいうべき学識の持主であった大林氏はその具体例をあげることなく昨年2001年4月12日に他界されました。私どものプロジェクトも創立当初からお世話になりました。ご冥福をお祈りします。

 中国の長江中流域の稲作民トン族が明確な洪水伝説を核とした祖先神話をもっていることについては、この諏訪春雄通信の10で紹介しました。日本神話とのあいだは、A洪水から生存した兄妹の男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が誕生したがつぎに国土と人類などが誕生したこと、Cしかもそうした行為が最高神の指導でおこなわれたことなど、基本構造が完全に一致しています。

 世界の神話研究者には意外に知られていない事実ですが、洪水で兄妹が生きのこり、結婚して人類と国土を誕生させるという、いわゆる洪水神話は中国ですくなくとも58話がすでに発見、紹介されています(林河『儺史―中国儺文化概論―』台北東大図書公司・1994年)。

 著者の林河氏が私のふるくからの友人であり、昨年の夏に中国長江流域の少数民族調査を共同でおこなったことについては、この通信の9でのべました。氏は現代中国最高の民俗学者です。この神話の分布状況を、この神話を保持している民族の居住地域で整理するときわめて興味ぶかい結果が出てきます。居住地域の決定は『中国少数民族事典』(田畑久夫ほか編、東京堂出版・2001年)によりました。

雲南省 29  福建省 3  貴州省    12  広西チ自治区 3ワン族
四川省  3  湖南省 8  内蒙古自治区  2  遼寧省       2
湖北省  2  海南島 4  黄河辺     1

 この数値の総計は69となって、58話を超えます。たとえば、トン族は貴州省と湖南省にわかれて居住しています。そのさいにそれぞれを1として計算したために数値がふえたのです。

 洪水神話は、『旧約聖書』のノアの方舟で知られるように、古代オリエント、古代インド、南アメリカ、東南アジアなどにまで分布していて、その起源地についても諸説があって、一定しません。

 しかし、上掲の表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南などの長江周辺の稲作民居住地に稠密に分布していて、そこから南北にずれると、急速に減少しています。このことから、洪水神話の起源地は長江中流域である可能性がきわめて高いといえます。

 私は、さらに、林河氏の紹介例にあたらしく20余話をつけくわえることができます。収集資料の整理・検討がまだ不十分ですので発表は後日を期しますが、私の資料をくわえても、林河氏の資料の分析から得た結論はつよめられこそすれ、ゆれることはありません。

 典型的な洪水神話のいくつかを紹介しましょう。


 むかし、一人の病気がちの老女がいた。彼女は雷神の肉をたべて病をなおそうと、子供たちに雷神をとらえる方法をかんがえさせた。しかし、彼女の孫と孫娘はやさしい性格であったので、こっそり雷神に危険を知らせた。雷神は兄妹に感謝し、歯を一本ぬいて彼らにあたえ、空に雷がなりひびき、大雨がふり、大洪水がおこるようなときには、いそいでこの歯を土中にうめなさい、そうすれば二人の命はすくわれるであろうと告げた。雷神は天の門をひらいて洪水をおこし、人類をことごとくおぼれさせてしまった。兄と妹は天の門がひらかれたときに、すぐ歯をうめた。歯からは大きな瓢箪が生え、兄妹はその瓢箪を割いてなかにかくれ、洪水から身をまもることができた。旧い人類は死にたえ、兄と妹だけがのこった。兄は崑崙山のまわりをまわって妹を追いかけ、天に兄と妹が結婚してよいかどうか、うかがいをたてた。天の許しを得て、ちぎりをむすぼうとするとき、妹ははずかしがって扇で顔をかくし、結婚したあとに肉の卵を生んだ。兄がそれをくだいて人類の種をまいたという(林河著・平石淑子訳「東アジアの動物信仰」諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)。

 この漢民族の神話はほかの少数民族神話の影響下に成立したものとかんがえられます。同型の神話が、トン、ミャオ、トウチャ、チワン、プイ、コーラオなどの各民族につたえられているからです。洪水、生存した兄妹、宇宙の中心をめぐったあとの結婚、失敗、世界の生成などの、重要な要素が出そろっていることに注意してください。

 漢民族の神話と同型のミャオ族の洪水神話をつぎに紹介します。


 おおむかし、天から雷鳴とともに雨がふりそそいだ。雷のしわざである。一人の勇敢な男が鉄の檻を用意して雨のなかにとびだし、雷をとらえた。男が市へ出かけたるす、雷はるす番の子供たち兄妹にたのんで水をそそいでもらった。そのとたん、雷は檻の外へとびだし、天に飛びさった。そのとき、雷は兄妹に礼として歯を一本わたし、土中にうめるようにいいのこした。二人の子供がいわれたとおりにすると、大きな瓢箪が生えた。雷のいかりで大洪水になり、地上の生物はすべて死にたえたが、瓢箪のなかにかくれた二人は生きのこることができた。あるとき、兄が妹に結婚しようと申し出たが、妹はことわった。兄がなおもたのむと、妹は自分を追いかけてつかまえたら結婚するといった。兄は大きな木のまわりをめぐりながら妹を追いかけた。妹はなかなかつかまえられなかったが、兄は急にむきをかえて妹をつかまえた。結婚して間もなく生まれた子は、手足のない肉のかたまりであった。二人は肉塊をこまかにきざみ、天の神にたずねるために天への梯子をのぼりはじめた。しかし、大風がふいて肉の包みが解け、地におちて人間が生まれた。こうして人類は誕生した(君島久子『中国の神話』筑摩書房・1983年)。

 このミャオ族の神話でも洪水と樹めぐりが結合しています。日本の神話との一致は、樹=柱のまわりをめぐる行為が二度目に成功する細部にまでみられます。

 もうひとつ、リス族の民族創成の長編叙事詩を紹介しましょう。


 天空を黒雲がおおい、大地には強風がふきすさぶ。江水、河水がみなぎり、いまや人類は死にたえようとしていた。そのなかで兄一人と妹一人だけが生きのこった。兄妹は瓢箪にかくれて避難した。七日七夜ただよい、九日九夜漂流した。大江の水、大河の水がへりだし、瓢箪は山谷のあいだにただよった。銀刀、金刀で瓢箪をたたきわってみると、屍が大地をうずめていた。兄妹は人類の絶えるのをおそれ、櫛を二つにわり、腕輪を二つに切って交換し、兄は妻をさがしに北へ、妹は夫をたずねて南へゆく。兄と妹は大地の中央、谷の真中で出あった。兄の髪には白髪、妹の目じりにはしわが生じていた。櫛と腕輪はぴたりとあった。兄は妹にむかっていった。伴侶をさがせないのなら、兄妹で夫婦になるほかはない。妹は承知しない。もし結婚をのぞむなら針穴を弓で射なさい。兄は針の穴を射ぬいた。妹はなおも承知しない。池のほとりに臼をおき、谷のそばに臼をおき、もし結婚がうまくゆくなら、二つの臼は一つになるだろうところがした。臼はくぬぎの丘をころがって上部と下部がかさなった。天神は二人をむすびつけ、地神は臼をひきあわせた。二人は涙ながらに結婚し、リス族、漢族、ヌー族、トウロン族などを生んだ。人類は大地をおおい、活力は山野に満ち満ちた(君島久子氏前掲書)。

 この詩でも重要なモチーフはそろっています。洪水、瓢箪、兄妹、中心めぐり、神の意思による結婚など。柱のまわりをめぐる日本神話にたいし、大地をまわって二人は出あっています。柱を立てることは小宇宙(ミクロコスモス)を設定することです(諏訪春雄編『巨木と鳥竿』勉誠出版・2001年)。柱をまわるとは宇宙の中心をまわることであり、それは宇宙の星座が天界をめぐって秩序が更新されることになぞらえられる行為なのです。人類の祖先の結婚は世界の始原の時間の行為であったことをしめしています。

 もう一つ。人類最大タブーの近親婚をやぶるために慎重な配慮がほこされています。五体不満足のヒルコや肉のかたまりが最初に生まれてくるのは、インセスト(近親相姦)を犯した結果なのです。

 イザナギ・イザナミの国生み神話は岡正雄氏(「日本文化の基礎構造」『日本民俗大系』平凡社・1958年)以来、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するものと論じられ、ほぼ定説とされています。また、火の神カグツチの出産を契機としてのイザナミ・イザナミの夫婦別れも沼沢貴市氏の研究(「天地分るる神話の文化史的背景」『アカデミア』・1952年)以来、これも東南アジアに分布している天地分離神話の一種と理解されてきています。

 中国神話にたいする研究が進展していなかった時代の学説がそのまま今日までうけつがれているのです。王権を論じるこの通信のテーマからはなれますので、深入りはしませんが、天地分離神話も中国の少数民族社会に数多くつたえられています。それぞれの民族がそれぞれの天地創造(分離)神話をもっているといってよく、その数は洪水神話を超えるかも知れません。しかも多くは洪水神話とセットでかたられています。東南アジアで発見される断片的な洪水神話や天地分離神話は中国神話が波及していったものと断定できます。

 中国を中心軸として左右対称に、東南アジアと日本・朝鮮には相似の文化や民俗をみることができます。中国で変質してしまったり、うしなわれたりしたものが、東南アジアの各国や極東の朝鮮・日本にのこっている例もすくなくありません。まして、洪水神話や天地分離神話は中国大陸に数多く発見できるのです。これまでの定説は再検討されなければなりません。

 次回は「太陽と稲魂」をテーマに論じます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa20.htm


諏訪春雄通信 21

 今回は、前回お約束したように「太陽と稲魂」というテーマでお送りします。

 前々回19の通信で整理した神話素によりますと、アマテラスにかかわる神話の大筋はつぎのようにまとめることができます。

 黄泉国からのがれたイザナギが穢れをはらうためにみそぎをした左眼から誕生したアマテラスは高天原の支配を命じられた。鼻から誕生したスサノオは海原の支配を命じられたが、したがわなかったので、根の国へ追放された。
 スサノオは根の国へおもむくまえにアマテラスをたずねた。そのあらあらしさに恐れをなした姉の疑いをはらすために、姉弟は誓約をおこない、アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。誓約のあと、勝者としてふるまうスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、機織屋に逆はぎにした馬の皮をなげこんだ。
 おそれたアマテラスは天石屋戸にこもり、高天原も葦原中国も暗闇となりさまざまな災いがおこった。八百万の神々は、長鳴鳥をなかせ、玉、鏡、白・青の幣帛などをつけた榊をフトダマノミコトがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出しておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスがのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。
 アマテラスは、天降りするニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。

 『古事記』によってまとめたこの梗概からもアマテラスの《太陽神+稲魂》という本質はうかがうことができます。高天原の支配を命じられて、名がアマテラス(天空を照らす)であること、天石屋戸にこもったこと、鏡を魂とするとなどは、アマテラスが太陽神であることをしめしています。

 『日本書紀』を援用すると、アマテラスが太陽神であることはいっそうあきらかです。
 『書紀』によると、アマテラスは、日神(太陽の神)、オオヒルメノムチ(太陽の女神)などとよばれ、「この御子は輝くこと明るく美しく、天地四方の隅々まで照りかがやいた」などと叙述されています。

 天石屋戸ごもりについては、日蝕、冬至、などの解釈がありますが、いずれにしてもアマテラスが太陽神であることをうかがわせます。鏡が本来太陽をあらわしていることは、長江流域のトン族、ミャオ族などの習俗からあきらかです。

 姿をかくした太陽を鶏がよびだす招日神話が中国の少数民族のあいだに伝承されています。ここではミャオ族の「オンドリになぜトサカがあるか」という話を紹介します。

 むかし、天に住む天爺さんにはオテントサンとよばれる十人のせがれがいた。天爺さんは自分がねむっているあいだ、十人のせがれに一人ずつ空を見まわるよう命じたが、子どもたちは父の言いつけにしたがわず、皆で一度に空をまわることにした。しかし、末っ子だけは父の命令をまもって、兄たちに同行せず留守番をしていた。
 九つのオテントサンが照りつけるため、地上は干あがって作物はみな枯れてしまった。こまった人間たちは相談し、声の大きな動物にオテントサンを追いはらってもらうことにし、アカウシ、シシなどがよばれたが失敗してしまった。そこでつぎに弓の名人が太陽を射ることになり、九本の矢で九つの太陽を射落とした。
 兄たちの射落とされるのをみた末っ子の太陽は、肝をつぶし、矢のとどかない山の向こうににげこんで、二度と顔をみせようとしなかった。世の中は真っ暗闇となり、人々はこまりはてた。声の大きな動物に太陽をよびださせることになったが、シシ、アカウシが失敗し、オンドリがよばれた。しかし、しわがれ声で一回めは失敗、二回めも失敗した。猛練習をかさねたオンドリの三回めのよび声にオテントサンは東の山の頂上から大地をのぞいた。あたりは明るくなり、人々はニコニコして歓迎した。
 オテントサンはすっかりオンドリが気にいって、自分の真っ赤な服のはしを切りとって赤い帽子をつくってやった。それからは、オンドリの呼び声にきっと山の後ろから顔をだすようになった。(村松一弥翻訳『東洋文庫 苗族民話集』平凡社・1974年)。

 前半は射日神話とよばれる話型で、後半が鶏と太陽の招日神話になっています。この両神話はセットになって、中国のミャオ族のほかに、ワ、ラフ、ハニ、プーラン、リー、ヤオ、イ、チベット、チワン、トンなどの諸族につたえられています。おそらく、日本に伝来した招日神話も本来は討日神話とセットになっていたものを、前半を切りおとして、体系のなかにくみいれたものとかんがえられます(萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』大修館書店・1996年)。

 たいせつなことは、日本の王権神話の重要な骨格が中国長江流域の稲作民族の神話で説明できるということです。

 アマテラスが稲魂であるということも、『古事記』からうかがえます。

1.アマテラスが田をつくり、新嘗を主宰している。
2.地上に降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味をもつ。

 さらに『日本書紀』を援用するとアマテラスの稲魂、穀霊としての性格はつぎの記述によっていっそう明瞭になります。

1.死んだウケモチノ神の身体から生じた稲などの五穀を天の田にうえ、大きな稲穂を収穫している。
2.新穀をたべる新嘗を主宰している。
3.第二の一書によるとニニギの降臨のさいに高天原の田の稲穂をさずけている。

 皇室の祖先神であるアマテラスは、女神、太陽神、稲魂という三つの性格をかねそなえています。このような性格をもった神がトン族に信仰されていることについては、この通信の10で報告しました。トン族の薩神とよばれる神は、民族の祖先神、女神、太陽神、稲魂、歴史上の人物という五つの性格がアマテラスと一致しています。

 また、祖先神・女神・稲魂・太陽神の四位一体となった神が長江中流の稲作民であるミャオ族やハニ族に信仰されていることについては、通信18で報告しました。

 日本の王権神話の発端となっている、
1 日本の天皇家は国土を生成し時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である
2 日本の天皇家の直接の祖先神アマテラスは太陽神であり稲魂である

という二項の骨格部分が、中国の長江流域稲作地帯の神話伝承や習俗で説明できることをこれまでにのべました。

 次回は、以上の1と2につづく天孫降臨神話についてもおなじ説明方法が適用できるかどうか、検討します。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa21.htm


諏訪春雄通信 22

 前回の通信で次回は「天孫降臨神話」についてお送りすると予告しましたが、1回先延ばしさせていただき、今回は「沖縄の稲作」というテーマでのべます。

 私たちのプロジェクトは学外の各種機関から助成金をもらって活動を継続しています。その援助機関の一つ、サントリー文化財団から、沖縄祭祀研究のテーマで平成12年、13年とつづけて助成金をうけました。そのために、1月23日、大阪の財団本部で、財団理事の方々やほかの研究プロジェクト代表をまえに研究報告をしなければなりません。今回はその報告の概要をお送りします。

 日本列島へ大陸から稲がわたってきた経路は三つかんがえられます。1:朝鮮半島経由ルート、2:江南からの直接ルート、そして3:沖縄経由ルートです。この3のルートは、柳田國男が昭和36年に刊行した『海上の道』で主張した説です。

 1,2は考古学の裏づけがありますが、3には古い遺跡も出土品もありません。いまのところ、沖縄の最古の稲は、玉城の糸数城遺跡から出た、西暦10世紀ごろのもので、それより古い稲は発見されていません。したがって、考古学者や歴史学者は3をみとめませんが、一部の民俗学者や農学者のなかに、かなり根強い支持があります。

 その一人、遺伝子分析で大きな成果をあげている農学者の静岡大学助教授の佐藤洋一郎氏は、東南アジアから台湾、沖縄、九州にかけて、現在、焼畑耕作にともなう熱帯ジャポニカが点在することを根拠に、3の海上の道説は、《魅力ある仮説》といいきっています。

 一方は考古学上の証拠、他方は現在の熱帯ジャポニカの分布、という相反する事由にもとづく二つの対立した立場に、解決の道をさぐろうとして、私は沖縄と本土の稲魂信仰に注目しました。そして、成熟度に差異があることを根拠に、私は沖縄の十世紀以前の稲作の存在を疑問視しています。

 社会人類学者の伊藤幹治氏は、昭和49年に刊行された『稲作儀礼の研究』(而立書房)で、本土と沖縄の稲作儀礼の周到な比較研究をとおして、両者の異質性を指摘し、柳田國男や折口信夫らが研究の立脚点とした本土日本と沖縄の同祖論を否定しています。

 私はおなじ見方が稲魂信仰や太陽信仰に適用できるとみます。そして、本土日本の稲魂信仰と太陽信仰・祖霊信仰の結合は、稲作の誕生地である中国の長江流域の影響を直接にうけているからとかんがえます。沖縄の稲魂信仰は本土を経由して時間をかけて伝来したために、沖縄固有のニライカナイ信仰に包摂されて変質したものと判断しています。以下、私の報告書を掲載しましょう。


沖縄の太陽信仰と稲魂信仰
   沖縄民俗祭祀の源流を東南アジア・中国大陸南部・台湾などの黒潮文化圏に探る研究
                代表:学習院大学文学部 教授 諏訪春雄

 沖縄の神観念
 沖縄の固有信仰の対象となる神々を二つにわける見方がある(高阪薫「沖縄の祭祀と神観念」同氏編『沖縄の祭祀―事例と課題』三弥井書店・1987)。

A 可視と不可視

 見える神…表象認識できる特定の場に滞在する神      
アニミズムの要素をもつ自然の神々 屋敷神 井の神 カマドの神(火の神) 御嶽の神など
 見えない神…表象認識できない不特定な空間のいずこかに存在する観念的、抽象的な神
火の神 ニライカナイの神 竜宮神 アマミヤシネリヤ(開闢神) 祖霊神 オボツ神(天上や山上の神)など
 
B 信仰集団

 家レベル
オナリ神 火の神 祖先崇拝 アニミズム的な具象の神々
 村レベル
御嶽の神 火の神 ニライカナイ神 祖霊神 竜宮神 アマミヤシネリヤ オボツ神など

 このような体系のなかで、太陽神はAでは見える神、Bでは村レベルに分類できるが、ここにあげられた神々ほど顕著な神格ではない。沖縄の年中祭祀を検討しても太陽神だけを対象とした祭祀はみとめられない。粟国島の正月のユークムイ(世を乞う丘)で区長が東方にむかって豊穣を祈願するのは太陽信仰の数すくない事例である。しかし、太陽神を「てるかは」とよんでいる例が『おもろさうし』にみえるところからも、太陽が信仰されていることは確実である。

 これにたいし、稲を対象とした祭りは多い。旧暦の八月前後におこなわれる豊年祭(広義には、八重山諸島の六月下旬のプールィ、八、九月の結願、十月の種子取祭、宮古諸島の世乞いなどもふくめる)は豊穣祈願を目的とし、稲をはじめとする五穀の豊作が、豊漁、子孫繁栄などとともに対象になる。また、稲霊(魂)信仰が存在することは、旧暦八月にアマミ大島でおこなわれるショッチョガマ(片屋根のわらぶき小屋)、つづく平瀬マンカイ(招き合い)によってあきらかである。ともに収穫感謝と豊作祈願の祭であり、この祭で男、女のとなえる文句のなかに稲霊があらわれる

 稲霊が祈願対象となるショッチョガマと平瀬マンカイの基本構造は対応している。

  早朝―男性―垂直神
  夕方―女性―水平神

 ショッチョガマで男たちによってとなえられる文句はつぎのようである。


ハー、トートガナシ(神への尊称・神拝みの常套句)
八月の新節がやってきて
ショッチョガマ祭を祭ってあげましょう
西東の稲霊様は
伊津部の田袋に お寄り下さって
伊津部田袋の稲霊様は
秋名田袋に お寄り下さって
北風が吹いたら上の畔を枕にして
南風が吹いたら下の畔を枕にするように
稲を実らせて下さい
そして名を上げて下さい トートガナシ

 ここで稲霊様は天から招かれている。

 女たちが掛合いでうたう平瀬まんかいの歌はつぎのようである。


〈神平瀬〉
 玉の石に登って 何のお祝いをしましょう 西東の稲霊を 招き寄せよう
〈女童平瀬〉
 秋名の親ノロが すべての稲霊を寄せて 村があるかぎり 祭ってあげましょう
〈神平瀬〉
 朝潮の満ちあがるころは ショッチョガマの祭り 夕潮の満ちあがるころは 平瀬の祭り
〈女童平瀬〉
 今年世は変わって 不思議なことに 海の魚たちが 陸にあがってきたことよ
            (口語訳のみ 『おきなわの祭り』沖縄タイムス社・1991年)

 ここでは稲霊様は海の彼方から招かれている。

 これらの歌から、沖縄の稲霊は、1.稲の豊穣をつかさどる、2.天または海の彼方から招かれる、3.漁労、狩猟などの豊かさをつかさどる神々と同格である、などの性格がみちびきだされる。
 沖縄の稲魂信仰は固有のニライカナイの信仰に包摂されている。


 日本本土の太陽信仰と稲魂信仰

 日本本土では太陽信仰をまだ各地でみることができる。正月に初日の出をおがむこと、彼岸の社日(土地神の祭り)参り、お日待ち、天道信仰、天道念仏、天道花、お火焚き神事、おびしゃの神事、ゲーター祭などの行事や習俗となってあらわれている。

 天道信仰はとくに対馬を中心とし、北九州などにも分布する。日神信仰と稲魂信仰を合体させ、真言密教の教義で体系化したものである。天道は天童とも書き、テンドウサンとよばれる。赤米を耕作し、その稲魂を加持祈祷して神霊とし、崇拝の対象にした。このテンドウとはべつに真言密教系統の天道法師とよばれる菩薩を信仰の対象にした。この天道童子は母が日光に感精して懐妊し、成長して僧となったという伝説をつたえる。

 天道念仏は、福島、茨城、栃木、千葉などの各県におこなわれている念仏行事である。四本の竹で櫓をくんで注連縄をはり、中央に梵天をたて、供え物をして、梵天を中心にして右回りに念仏をとなえながらおどる。一月から三月彼岸にかけて集中しており、テントウすなわち太陽の信仰が核になっており、そこに出羽三山の信仰や大日信仰、念仏信仰などが集合したものとされている。

 関東地方にことに集中して分布するオビシャは、三本足の烏または烏と兎を一対でえがいた的を弓で射る正月行事である。烏は太陽、兎は月をあらわすものとされ、中国にはじまって日本に伝来した射日神話である。太陽の死と再生を儀式化したものと理解されている。おなじように、三重県鳥羽市神島で年の暮れから元旦の早朝にかけておこなわれるゲーター祭も、太陽の死と再生による秩序の更新をはかるものと理解されている。この祭では、アワとよぶぐみの枝に白紙をまいてつくった直径二メートルほどの輪を、若者たちが雌竹ではげしくたたき、初日の出とともに東の浜で高々と空につきあげる。アワは日輪をかたどり、たたくことは偽の太陽をたたきおとすことであり、空につきあげる行為は日の出を意味する。ゲーターとは迎旦つまり日の出をむかえることという。

 稲魂にたいする信仰も、前述の対馬の赤米神事以外にも本土各地でみることができる。その年の初穂を神にそなえて感謝する新嘗祭、十二月の始めに田の神をむかえて収穫を感謝し、二月のはじめに豊作を祈願して田の神をおくりだす能登半島先端部のアエノコトの行事、その年の稔りの豊さを祈願する祈年祭などの行事に稲魂の信仰をみることができるし、ハレの日の餅、悪鬼ばらいの散米、墓への供物としての洗米、病人の枕元での振り米、出産のさいの力米などにも米の霊力にたいする信仰がある。

 本土の太陽信仰と稲魂信仰は全体としてつぎのような特色をもっている。
1.対馬の天童信仰からあきらかなように太陽信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
2.能登のアエノコトにしめされるように祖霊信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
3.稲の豊穣をつかさどるだけではなく、人間の寿命や健康までを左右する米の霊力にたいするつよい信仰が存在する。

 以上を総合して、本土の稲魂信仰は、沖縄よりもはるかに成熟していると、結論づけられる。そして、稲魂信仰と太陽信仰や祖霊信仰との結合は、中国の長江中流の稲作地帯の少数民族社会におこなわれている信仰が、稲作とともに日本に伝来したものとみることができる。


稲の来た道

 よくしられているように、柳田國男は昭和36年(1961)に刊行された『海上の道』で、日本人の先祖は稲作をともなって中国大陸南部から沖縄に漂着して宝貝を発見し、その魅力にとりつかれ、また稲作の適地をもとめて、日本列島各地にひろがったという日本人北上論をとなえた。

 このような柳田の論は現在の考古学の裏づけを欠いている。

 沖縄に稲作のはいった時期は、玉城の糸数城跡から麦とともに出土した炭化米の時代判定によって、10世紀以前とみられ、そのころにはかなり栽培されていたとかんがえられる。また、1477年(尚真一)に与那国島に漂着した朝鮮済州島人(金非衣ら)の記録によると、与那国・西表・伊良部・宮古・沖縄の各島に稲作がおこなわれているとの記述がみられ、15世紀後半には沖縄全域で稲作がおこなわれていた(「いね」『沖縄大百科事典』)。

 沖縄に稲の来た道も最近の研究によれば、中国南部から直接に伝来するよりも日本本土を経由した可能性がつよい。

 本土の最古の稲は岡山県や鹿児島県などから出土しており、縄文時代前期、6000年前にまでさかのぼる熱帯ジャポニカである。おそらく焼畑耕作によって、ヒエやアワ、キビなどの雑穀とともに栽培されていた。この熱帯ジャポニカは中国大陸の江南地方から直接日本に渡来していた。

 日本で熱帯ジャポニカが焼畑で耕作されだした、ちょうどそのころ、中国江南では水田耕作による温帯ジャポニカの生産がはじまっていた。現在わかっている水田の最古の遺跡は江蘇省蘇州市の6000年前の草鞋山遺跡である。この水田は朝鮮半島をへて縄文晩期の2600年前には佐賀県唐津市の菜畑遺跡におよんでいた(浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」『日本人はるかな旅』NHK出版・2001年)。

 水田稲作は、朝鮮半島を経由せず、直接、中国から日本に伝来したものもあった。遺伝子研究によって、佐藤洋一郎氏は、水稲は、中国からの直接ルートと朝鮮半島経由ルートの二つがあったことを主張している(「DNAからみたイネの道」『日本人はるかな旅』)。

 こうした大陸から本土への稲の道に沖縄は登場してこない。

 柳田國男が主張したように、沖縄への稲の伝来を10世紀以前に想定する可能性がまったくないわけではない。

 佐藤洋一郎氏作成の「熱帯ジャポニかの分布図」によると、現在、熱帯ジャポニカは、中国南西部からインドシナ半島半島奥地にかけての地域と、フィリピンやインドネシアなどの熱帯島嶼部で栽培されている。また、熱帯ジャポニカ固有の遺伝子をもつ品種が、台湾の山岳部から南西諸島を経て九州にまで点在している。この事実から佐藤氏は、〈かつて柳田國男が主張した「海上の道」はがぜん魅力ある仮説となる〉とのべている(佐藤洋一郎氏前掲論文)。

 沖縄から古い米が出るか出ないかはいまのところ判断材料はない。また、アジアの熱帯ジャポニカの原産地は中国長江中流域であり、日本には6000年まえには伝来していた。沖縄の熱帯ジャポニカも本土経由の可能性をすてきれない。しかも、沖縄の稲魂信仰が本土にくらべて、太陽信仰や祖霊信仰とむすびつくことがないなど、未成熟または変質の事実を考慮すると、沖縄に十世紀以前のふるい稲作を想定することはむずかしい。
 沖縄の稲作の祭祀儀礼じたいが本土とはかなり異質である(伊藤幹治『稲作儀礼の研究』而立書房、一九七四年)。長い時間をかけて本土から沖縄につたわったために、独自の風土と信仰のなかで変質していった可能性がかんがえられる。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa22.htm


諏訪春雄通信 23

 今回は「天孫降臨神話」についてのべます。

 日本古代神話のなかでも、天孫降臨神話についての研究は格段にすすんでいます。この神話が、日本の王権神話のなかでも核心となる部分だからです。松村武雄、三品彰英、大林太良、西郷信綱、松前健、吉田敦彦などという名立たる神話学者の研究がつみかさねられ、日本の天孫降臨神話が朝鮮半島から内陸アジアにかけてひろく分布している、祖神の天降り神話に由来することは定説となっています。

 これまでに上記の研究者たちによって指摘されている先行神話はつぎのようなものです。

 まず朝鮮の歴史書『三国遺事』がつたえる檀君神話です。
 天帝の子の桓雄は父の命令によって、天符印三個をもって、風・雨・雲および穀物・生命・疾病などをつかさどる神々をひきいて、太白山山上の檀の木をつたわって降臨した。このさいに、熊がよもぎとにんにくをたべて、女に化身し、桓雄と結婚して檀君を生んだ。この檀君が国をひらいて朝鮮と命名した。

 おなじ『三国遺事』がつたえる首露王神話はつぎのようになっています。
 伽耶地方の村々の首長らが亀旨峰という山にあつまって、迎神の祭りをおこなっていると、天から紫色の紐がたれさがってきた。紐の端をみると、黄金の卵が六つはいっている赤い包みがあり、そのなかの一つから伽耶国の始祖である首露がうまれた。

 もう一つ、ブリヤート・モンゴル族のゲセル神話です。
 至高神デルグエン・サガンは、マラトの民の哀願を聞き、一日も早く天神を降して悪者を退治しなければならないと考えた。彼はドロン・オドウン天に全天の諸神九十九柱の主な神々と、天上に住む数千のブルハンをあつめて、悪者征伐の大評定を開いた。最初、至高神サガンの子、カン・チュルマスを下すべきことが提案されたが、チュルマス神は老齢を理由にことわった。そして自分の末子ゲセル・ボグドゥに天下りを命じるよう乞い、四歳のボグドゥが天命を拝受した。ボグドゥは、1)全天の九つの天の主宰神がもつ智謀のすべて、2)祖父のもつ黒い軍馬、3)英雄の準備金、4)祖父の蹄縄、5)祖父の短い槍、6)一人の妻を所望し、これを手に入れて下った。

 この神話を紹介された大林太良氏は、
1.天神の子が天下ることをことわり、孫がその代りに天下る。
2.天下る神が幼児である。
3.日本の三種の神器にあたるものに蒙古の六種がある。
4.日本では荒ぶる神のいる葦原中国を平らげるために神集いにつどい、その結果国譲りがおこなわれたが、蒙古神話でも、荒ぶる神を平らげるために天神の子をくだそうとして神々の大評定がおこなわれた。

という四点の類似をあげて、「おそらく元来はアルタイ語族系の牧畜民文化を母胎とした神話であって、日本へは、皇室の先祖の起源神話として入ったものであろう」と結論づけておられる(『神話と神話学』大和書房・1975年)。

 以上、日本の天孫降臨神話を北方系としてとらえる視点が定着しています。そのばあい、私がこの通信でこれまでのべてきた日本の王権神話の源流であった南方農耕地帯の神話や習俗との関係はどうなるのでしょうか。

 じつは、南方長江流域の少数民族社会にも、民族の祖先が天から穀物をもって下ったという種類の神話や伝説は流布しているのです。いままで考慮されなかっただけのことなのです。そのなかから二つの神話を紹介します。

 まず雲南省を中心にすんでいるナシ族の神話です。

 大昔、兄弟姉妹が近親婚をはたらいたために神の怒りをかって大洪水がおこり、わずかな人類はほろびました。皮鼓のなかにはいってただ一人生きのこったツォゼルウは、天神ツラアブの娘ツフブブミと出会って恋におち、天にともなわれ、父の天神に会いました。若者が気に入らない天神は、一日のうちに九つの林の木をきる、伐採した木を一日でやきはらう、焼け跡に穀物をまいて収穫する、収穫した穀物のうちじゅずかけ鳩と蟻にたべられた三粒の穀物をとりもどす、岩羊の猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、川魚猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、虎の乳をしぼってくる、などの試練を課しましたが、ツォゼルウは娘の知恵にたすけられてことごとく突破します。さすがの天神も二人の結婚をゆるし、家畜、穀物の種などをあたえて下界へかえしてやります。二人は地上の多くの種族の祖先となりました。

 前半は省略しましたが、天地創造神話と洪水型神話が結合しており、後半はスサノオとオオクニヌシの神話と同型の難題婿の話型になっています。しかも天神の娘が人間の男とむすばれて天上から穀物をもたらし、地上の多くの種族の祖先となる話にもなっています。

 もう一つ、湖南省から広西チワン族自治区にかけて居住するヤオ族の神話を紹介します。

 大昔、天は今よりも低いところにあり、人間は大木をつたわってたやすく天へあそびにゆくことができました。そのころ天神に命じられて地上の水をつかさどっていたのは天上にすむ水仙姫でした。ある日、彼女は地上からきた若者に夢中になって、水口をふさぐのをわすれ、地上は大洪水におおわれてしまいました。天神のはげしい怒りにおそろしくなった水仙姫は、若者の手をとってにげだしてしまいました。水仙姫の両親は二人をさがしまわり、月宮の桂の木の下にいる娘と若者を発見しました。たのもしい若者と娘がいることに安堵した両親は、二人に穀物の種子とゴマの種子をあたえて地上へにがしてやりました。
 地上はすでに水がひいていました。二人は穀物とゴマの種をまき、人類や動物をつくりだしました。天神は地上が元通りに豊かになっているのみて、二人をゆるしました。ただ、地上の人間が天に上ってくるのをふせぐため、天をたかくひきあげてしまいました。このときから、地上の人間は天へ登ることができなくなりました。

 このような神話はまだ数多くつたえられています。いずれきちんと分布状況を整理したいとおもっています。

 さしあたり今はつぎのようなことがいえます。
1.天孫降臨神話の骨格は北方諸民族の山上降臨型神話によって形成された。
2.しかし、その北方系神話をうけいれた基盤は、南方農耕民族の天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる神話、稲魂信仰、太陽信仰などであった。そのために天孫ホノニニギは豊穣な穀霊、太陽神などの性格ももつことができた。
3.天孫降臨神話は、シャーマニズムの二つのタイプ、脱魂型と憑霊型が融合して誕生した。

 この3についてさらに説明をくわえておきます。

 天に神がいますという信仰は、北方狩猟採集民族の脱魂型にもとづきます。他方、その神々が地上に降臨して人間にまじわるという信仰は農耕社会に優勢な憑霊型です。この二つが融合しなければ、天孫降臨神話は成立しません。

 2と3をあわせて、これまで、北方系神話が伝来したものといわれてきた天孫降臨神話を、北方、南方両系統の複合としてかんがえなおそうというのが、この通信23の主題です。

 これ以降の日本王権の展開は、北方原理にもとづく思想と南方原理にもとづく思想の葛藤・複合としてとらえることができます。その最初のモデルが天孫降臨神話なのです。これを北方原理だけとしてとらえると、日本の王権の本質は解明できませんし、永続の秘密もみえてきません。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa23.htm


諏訪春雄通信 24

 今回のテーマは「根の国神話」と「海幸山幸神話」です。この二つの神話は、ともにこれまで長江流域の神話や伝説とむすびつけてかんがえられることはほとんどありませんでした。ほとんどといったのは、海幸山幸神話にかぎっては少数意見として、長江流域に源流をもとめる説が存在するからです。

 まず根の国神話から検討してみます。
 王権にかかわる日本神話の基本構造は通信19で整理しておきましたが、念のために根の国神話の梗概をのべておきます。


 オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられた偽りの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。
 白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオナムチ(オオヌニヌシの別名)は兄たちのねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ、根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオナムチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。

 この神話についても、これまでに、松村武雄、松前健、西郷信綱など各氏の研究がすでに世に出ていますが、一種の成年式、通過儀礼としての解釈をしめすのみで、典拠または原型が指摘されたことはありません。

 しかしこの根の国神話の由来も、長江流域の少数民族の神話や伝説にもとめることができるのです。

 前回の通信23で、私は天孫降臨神話の原型として、雲南省にすんでいるナシ族の神話と湖南省や広西チワン族自治区にすんでいるヤオ族の神話を紹介しました。この二つの神話は地上の人間の先祖が天上から稲をもたらす話であるとともに、前者のナシ族の神話は、地上の若者が天神の課した数々の試練を天神の娘の愛と助けによってのりきり、地上に家畜、穀物の種などの宝物をもたらす話でもあるのです。

 このナシ族の神話と日本の根の国神話とはつぎのような類似点をもっております。
1.地上の若者が異界をおとずれる。
2.異界の王から数々の試練を課せられる。
3.試練を異界の王の娘の助力によってのりこえる。
4.その異界の王の娘と結婚し、王から宝物をあたえられる。
5.二人は地上に生還し、地上の人種の祖先となる。

 もちろん、日本の根の国神話と比較すると、異界が根の国にたいし天界であり、宝物が呪術的な宝器にたいする家畜・穀物である、などの相違もあります。

 しかし、私はこの相違よりも、問題のナシ族の神話が、中国長江流域の少数民族社会の思想や信仰と日本の王権神話の構造的関連を検討するという、大きな構想のなかにうかびあがってきた資料であることを重視します。日本王権神話の骨組みを構成する中国長江流域の神話・伝説群にぴたりと適合する神話であり、いわばミッシングリンクであるということです。

 当然、同地域のほかの民族の神話や伝説のなかに類似の話があるであろうという予想のもとに、私は手許の資料にあたってみましたが、いまのところ、同型の話を見出していません。時間をかけて、ていねいに文献を読むだけのゆとりが、この時期の私にないという事情もはたらいているのかもしれません。この通信を一冊の書物にまとめるときまでに類話を発見しておきたいとかんがえています。

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、これまで何人もおもいつくことのなかった基本構想のもとに、つぎに海幸山幸神話を検討します。

 海幸山幸神話の梗概はつぎのようにまとめられます。


 ホデリとホオリの兄弟は、海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針を弓矢と交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。

 この神話は通常、兄弟争いと復讐、海神国訪問、異類婚という三つの要素にわけて説明されます。このうち、兄弟争いについては、東南アジア系の類話が報告されています(『上代説話事典』雄山閣・1993年)。
 インドネシアのケイ族につたわるヒアンとパルバラ兄弟の話はつぎのような梗概です。


 天上に兄弟がいた。ある日、弟のパルバラが釣りをしていて、兄のヒアンから借りた釣針をうしなってしまう。兄は返せとせめた。弟はさがしまわり、偶然出あった魚の協力で、のどに針のささった一尾の魚をみつけた。弟は兄に釣針を返したが、一計を案じて兄に油をこぼさせ、その油を返せとせまった。

 ほかにパラウ島の伝承も紹介されています。


 釣針を魚にとられた族長の息子アトモロコトが父にしかられて海中アダックの地にゆく。そこで釣針をのみこんでくるしんでいる女リリテウダウに会う。針を吐きだして痛みがなおった女は、アッダクの支配者であった。アトモロコトが自分の孫であることを知ったリリテウダウはなんでも欲しいものもって帰ることをゆるす。

 このような説話が紹介されたことによって、源流をインドネシア方面にもつ「失われた釣針型説話」を原型として、婚姻や出産、通過儀礼などの要素がそこにくわわってこの神話が形成されたという説が定着しています。

 この定説形成に大きくはたらきかけた要因が、この神話が隼人の服属神話として王権神話にくみここまれたという事実です。隼人の故郷を東南アジアにもとめる視点はかなりな妥当性をもって承認されるからです。

 しかし、私は今年最初の通信20で、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するとこれまでされてきたイザナギ・イザナミの国生み神話がじつは長江流域に数多く発見される洪水神話にもとづくことを論証しました。東南アジアで発見される洪水神話は、分布状況から判断しても、中国から伝播したものとみられます。

 海幸山幸神話の原型も、同様に、中国の長江流域でおこなわれていた伝承が、隼人の服属神話に組みかえられて、『古事記』や『日本書紀』の神話体系にとりこまれたというように判断されます。

 そのように主張するのは、中国の長江流域で、兄弟の争いと復讐、海神国訪問、呪術的宝物の獲得、などの重要なモチーフをそなえた話がつたえられているからです。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm


諏訪春雄通信 25

 今回のテーマは前回につづいて「海幸山幸神話」です。

 この神話については東南アジアに原型をもとめる説がつよいことについては前回に紹介しました。この神話にかぎらず、全体として日本神話の源流を東南アジアにもとめる傾向が目立つことは、この通信で再三ふれてきました。その理由は二つあります。

 第一の理由は中国神話の調査が不十分だったことです。私は1988年(昭和63)に初版の出た著書『日本の幽霊』(岩波新書)のなかでつぎのようにのべたことがあります。


 中国は幾度も王朝が交替した。王朝が交替するたびに、新しい歴史がつくりなおされ、前王朝の遺制が破壊されたので、日本の『古事記』や『日本書紀』が伝えたような体系的な神話や伝承が後代に残らなかった。中国神話の研究が立遅れている根本の理由はそこにあり、さらにそれに加えて、もともと孔子が『論語』の中で「子は怪力乱神を語らず」といった国柄なので、神話や伝承の類についての研究はあまりさかんではなかった。

 この説明はいまも通用するとおもいます。儒教をまなんだ中国の知識人も、またその影響をうけた日本の研究者も、ながい間、中国には体系的な神話は存在していないとかんがえてきたのです。しかし、この考えは大きな誤りです。私は『日本の幽霊』のなかで、前掲の文につづけてつぎのようにのべました。


 しかし、1950年ごろ、つまり解放の翌年ごろから、中国の神話研究は、ミャオ、チベット、ヤオなどの少数民族のあいだに伝えられてきた口承神話に注目しはじめた。文化大革命によって一時的に頓挫したが、七十七年に復活、前にも増して活発に研究は続行され、少数民族のあいだにそれこそ無尽蔵といってもよいほどに貴重な神話が蔵されていることが明らかになってきた。

 いまから15年もまえに書いた文章ですが、結局、私自身で実践するよりはかはないというのが、この通信をはじめた動機の一つです。

 第二の理由は、当然のことですが、東南アジアについての研究が中国の少数民族の研究よりもはるかにすすんでいるということです。しかもその研究は、日本人による研究ではなく、ほとんどは欧米の学者による研究なのです。海幸山幸神話にかぎっても、前回の通信で紹介したように〈失われた釣針〉型の神話と類似の神話が東南アジアで分布している事実を最初に報告したのは、19世紀以来のフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったようなヨーロッパの研究者たちだったのです。

 ヨーロッパの研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くためにいちじるしくたちおくれていました。この事実が、日本神話の原型を東南アジアにもとめさせることになったのです。

 ただ故人の大林太良氏は、晩年、日本神話の源流として中国南部にとくに注目しておられました。1995年10月28日、29日の両日に私たちのアジア文化研究プロジェクトが学習院大學で開催した公開講演・フォーラム「日本民族の形成」で「日本神話の系統」という題で講演されたさいにも、その最後を、


 このように日本神話の系統論にはまだまだ多くの問題があるということ、そして中国の江南がそのなかで大きな地位を占めていること、を申しあげて、私の講演を終わりたいと思います。

とむすんでおられました(諏訪春雄・川村湊編『日本人の出現―胎動期の民族と文化』雄山閣・1997年)。氏がお元気であられたら、おそらく、中国南部と日本神話の結びつきの研究はかくだんにすすんだこととおもわれます。

 すこし話が横にそれますが、私がこの王権神話と並行して研究をすすめている来訪神祭祀にもまったく類似した現象があります。

 よくご存知のように、日本の各地で、季節の変りめに仮面をかぶったり、蓑笠をつけたりする異様な風体をして集団で部落や村へおとずれてくる来訪神の儀礼が保存されています。秋田県男鹿半島のナマハゲは有名ですが、ほかにも沖縄のアカマタクロマタ、パーントゥ、マユンガナシ、鹿児島県のトシドン、石川県のアマミハギ、新潟県のアマメハギ、山形県のアマハゲ、岩手県のスネカタクリ、青森県のシカタハギなどなど、その数は40種をこえます。

 この日本の来訪神儀礼の源流を、太平洋上のメラネシア・ポリネシアの島々におこなわれている秘密結社の儀礼にもとめる説を提出したのが、日本の文化人類学者の草分けとでもいうべき岡正雄でした(「異人その他―古代経済史研究序説草案の控へー」『民族』三巻六号、昭和3年)。

 岡は、秘密結社には未成年者や女子を参加させず、加入には厳重な入社式をおこない、その成員は時あって異様な服装を身につけ、怪音を出してその出現を報じ、村々を横行して、強奪威圧をあえてし、あるいは祝詞をのべる行為をするなどなど、全部で23条の特色をあげて、この異人こそが日本の来訪神儀礼の源流であると主張しました。

 80年ちかくもむかしにだされたこの岡説は、いまも多くの信奉者をあつめています。しかし、この説は、岡正雄自身が太平洋上の島々を調査して提出した説ではなく、19世紀から20世紀の初頭にかけて、コドリントン、リヴァーズ、ウィリアムソンなどの欧米人類学者の調査に全面的に依拠した説だったのです。

 岡説の問題点は、煎じつめますと、(イ)異人と来訪神が混同されている、(ロ)来訪する目的が日本の来訪神に適合しない、の二つにまとめることができます。男子だけによって維持される仮面結社儀礼は世界各地の農耕社会にひろくみられる習俗であり、日本との関係を想定するためにはその本質が厳密に検討されなければなりません。

 私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その渡来の経路もほぼ特定できます。

 大林太良氏は、海幸山幸神話を海の原理をあらわす海幸と山の原理をあらわす山幸の闘争というようにとらえられ、江南地方につたわる呉越の戦いの伝説をその原型として紹介しておられます(『日本神話の構造』弘文堂)。

 中国江南の浙江省の大河銭塘江は満潮時におこる逆流の高波現象が天下の奇観として有名です。私もちょうどその時間帯にいあわせて、下流から上流にむかっておしよせてくる潮流の迫力に圧倒された体験があります。この逆流現象を春秋時代の呉と越の戦いにむすびつけた伝説が、『呉越春秋』につたえられています。大林氏はその伝説を山の原理をあらわす越と海の原理をあらわす呉との闘争の結果、山の原理が勝利する話として分析されたのです。

 『呉越春秋』の巻三がつたえる伝説です。
 呉と越が一進一退の戦いくりひろげていた時代、呉王夫差は越との和解をかんがえ、越王の提示した講和の条件を呑むことにした。しかし、父の時代から呉につかえていた臣下の伍子胥が講和にはげしく反対したので、夫差は伍子胥に死罪を科した。その死体をなまずの皮の袋にいれて、銭塘江になげこんだ。それ以来、子胥の亡霊はこれをうらんで、潮を逆流させ高波で人びとを溺死させたという。

 また、『呉越春秋』巻六では、越王勾践も家臣の文種に死を命じて、その死体を三峰の下に埋めた。その一年後に、子胥が海上から山に穴をあけて、種をつれさり、共に海上に出現して人々をなやましたという。

 大林氏はこれらの伝承から、越は山の原理、呉は山の原理を代表し、子胥が死後に高潮をおこしたことは、海幸山幸神話で山幸彦が干満珠をもちいておこした満潮に対応するとされました。しかし、山に死体をほうむったから山の原理、海(事実は川)に死体を投じたから海の原理をあらわすというのは、ややくるしい解釈のようにもおもわれます。

 大林氏の紹介した呉越の物語よりも、もっと海幸山幸神話に接近した伝承を紹介されたのが伊藤清司氏でした(「日本と中国の水界女房譚」『昔話―研究と資料21・日中昔話の比較』三弥井書店)。湖南省の土家族のあいだにつたえられている「格山竜珠を与えられる」という話です。


 ある村里に二人の兄弟がいた。兄を格路、弟を格山といった。兄夫婦が格山につらく当たった。堪えられなくなった格山は、ある老人のすすめにしたがって家をぬけだし、さまよいあるく途中、大蛇におそわれて呑みこまれそうになっていた一羽の黄鶯をたすけた。すると、その鶯はうつくしい人間の娘に変わり、竜王の三女と名のり、格山と夫婦になって、竜王の国におもむいた。格山は竜宮で連日歓待をうけたが、やがて望郷の念が昂じ、妻をともなって地上へもどった。帰郷にさいし、竜王が金銀財宝を土産にあたえようとしたが、格山はそれをことわり、
「郷里は水が不足し、田作りもままならず、人びとは暮らしに困っている。水を自由にできるものが欲しい」
と願い出た。そして呪宝の竜珠をもらいうけ、竜王の娘と故郷にもどった。そこで二人は山の上にのぼり、頂から竜珠をたむけると水は奔流となって噴出し、たちまち村の田という田をうるおし、おかげで土家の人びとは裕福になった。

 この話の後日談を伊藤氏が紹介しています。


 如意宝珠である竜珠をもちかえった格山は、その竜珠からりっぱな御殿を出し、その御殿で竜神の娘といっしょに幸福な日々をおくった。意地悪な兄夫婦はそれを知ってねたみ、二人を焼きころそうとするが、格山は竜珠をもちいて逆に兄夫婦を焼きころし、他方、その呪宝から水を噴出させて潅漑の水になやむ土家族の田畑をうるおし、りっぱな耕地に変えた。

 伊藤氏はこの伝説と海幸山幸神話の類似点として、
1.水界訪問
2.水界の女性との結婚
3.水界の女性との結婚
4.水界よりの呪宝の将来
5.呪宝による水の支配
6.兄への復讐

などをあげ、弟の山幸彦が呪宝を得て、最後に日本の統治者の祖先になったという結末と、弟の格山が海神からあたえられた呪宝によって土家族の世界に楽土を実現したという結末とは共通すると主張しています。

 この土家族の伝承と日本の海幸山幸神話の類似性はうたがうことができませんが、「失われた釣針」というモチーフのないのは気にかかるところです。今後、精査する必要があります。

 これまでこの通信でふれてきた稲作農耕地帯に海幸山幸神話につうじるような伝承が散在しています。そのなかには、釣針を魚網にかえただけの同じモチーフの伝承が存在します。私のノートから紹介しましょう。


 むかし、非常にまずしいが人に親切な漁夫がいた。ある日、大河の堤のほとりで網をうって魚をとっていると、一人の老人が大きな岩のうえで泣いているのに出あった。漁夫はすぐに老人にそのわけをたずねた。老人は「自分の娘が奇妙な病気にかかってなおすことができません。どうか家にきて娘の病気を看てください」とたのんだ。承知した漁夫は老人について堤を歩いた。すると老人はどんどん水のなかにはいってゆく。漁夫が老人にむかって、「水のなかには入れない」とうったえると、「いそがずにわしについてきてください。水のなかも地上をゆくのとおなじようになります」とこたえた。ふしぎにも漁夫は地上をゆくように水のなかをすすむことができた。まもなく一軒のうつくしい家がみえてきた。その家の一室に娘が全身を魚網にからめられて横たわっていた。漁夫がその網をとりのぞいてやると娘はすぐに元気になった。父と娘は感謝してたくさんの金銀を礼としてさしだしたが、漁夫はことわって、かわりに刀と鋤をのぞんでその二品をもらった。漁夫がその家を去ろうとすると、門の樹に黄牛と白牛がつながれていた。老人は袋に多量の牛の糞を入れて漁夫に背負わせ、「野菜をうえるときに肥料になさい」といった。漁夫が家にかえると、不思議にも黄牛の糞は金、白牛の糞は銀、刀は金刀、鋤は銀鋤に変わった。漁夫は農夫となって幸福に暮らしたという。

 雲南省のラフ族がつたえている「漁夫の故事」という伝承です。水界の王の娘をたすけ、莫大な宝を得るという話です。その王の娘は魚網にからめられており、漁夫によってその網をとりのぞいてもらっています。失われた釣針と同一のモチーフです。しかも漁夫から農夫に変わるところに、海の原理に野(高地では山)の原理が勝利を占める話にもなっています。日本における海幸山幸神話で、海の原理にたいする山の原理の勝利の意味も、漁労民にたいする狩猟民や農耕民の勝利の話であったことがわかります。

 もう一話、貴州省のコーラオ族がつたえている「竜女と旺哥」という伝承を紹介します。こちらも竜王の娘の報恩物語です。


 むかし、母と子が二人で暮らしていた。母は年をとって眼が見えなかった。子の旺哥は村の金持ちの家にやとわれて毎日手間賃をもらっていた。ある年の正月、旺哥がはじめて金持ちの家に働きにゆくと、主人は「一年はたらいてくれたら三頭の牛を報酬にやろう」と約束した。誠実な旺哥はこの約束を信じて、1年間、金持ちの家の田畑を懸命に耕作した。一年たって、旺哥が主人に約束の三頭の牛をもとめると、主人は「おまえはなにをいうのだ。三頭の牛だって。私はおまえに柄杓で三杯の油をやるといったのだ」といった。あらそうこともできず、旺哥は三杯の油をあたえられただけで帰途についた。
 途中に竜王廟があった。旺哥はせっかく1年間はたらいてもらった油だからと竜王像のまえにその油で灯火ともすことにした。竜王廟を出てまもなく大雨になった。旺哥が村の入口の小川にさしかかったとき、1尾の大きな紅鯉が土砂のうえにのりあげていた。その鯉をとらえて家にもどった旺哥は母に鯉を見せた。鯉の尾から水滴がしたたり、母の眼にはいったとたん、母の眼は見えるようになった。よろこんだ母と子はその鯉を川にはなしてやった。
 その鯉は東海の竜王の娘の変身であった。竜宮にもどり、命をたすけられた恩に報いようと両親に相談すると、竜王夫婦は、ひとり娘であるからと、360日をかぎって旺哥のもとにゆくことをゆるした。うつくしい女性に変わって旺哥の家をおとずれた竜女は、訪問の目的をつげ、一吹き、口でふくと、あばら家はたちまち御殿となり、食物や家具も家内に満ち満ちた。このようにして一家はしあわせな日をおくることになった。
 この噂をきいたのが主人の金持ちであった。旺哥の家にやってきて、うつくしい妻を自分に貸してくれと難題をもちかけた。困惑している旺哥に竜女がそっとささやいた。「わたしは父から360日の日限をみとめられてきたのですが、その日限はもう切れようとしています。あなたは主人の金持ちと家を交換するよう申し出てください」金持ちはすばらしい旺哥の御殿を見て交換の申し出に応じた。母と旺哥は主人の家にうつり、主人は家族をつれて旺哥の御殿にやってきた。
 その夜、主人と竜女が床につくことになったが、竜女は一桶の水をさげて浴室にはいり、そのままもどってこなかった。主人が灯りをともして浴室にいってみると、すでに竜女の姿はなかった。そのとき、一陣の風がふいて御殿が消え、主人はあばら家のなかに身をちぢめて立っていた。 

 長江南部は沼地や河川の多い土地です。ここで数々の水界訪問譚や水界報恩譚が生まれました。海幸山幸神話が海の原理と山の原理が相克するという構造をそなえているとするなら、その誕生地は、地形から判断しても、漁労民、狩猟民、農耕民が混在する中国南部がふさわしいと断言できます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa25.htm


諏訪春雄通信 26

 今回のテーマは「米と雑穀」です。日本の天皇家は、太陽信仰と稲魂信仰にささえられて、その隔絶した地位と永続をたもってきました。この二つの信仰が祖霊信仰や女神信仰などと結合しながら、長江流域から日本に伝来したことについては、これまでこの通信で詳細にのべてきました。

 稲作民にとって米はあらゆる〈穀物や農作物=食料〉のなかで優越した最高の価値をもちます。天皇家の絶対性はこの稲の絶対性にささえられます。しかも稲は大地におち〈朽ちて新しい生命を生みだす〉というサイクルをくりかえすことによって永続性をもちます。天皇家は、この稲の永続性と太陽の永続性の思想にささえられて、その絶対と永続の地位を保証されてきたのです。

 これにたいし、巨大王権が交替をくりかえした黄河流域では天にたいする信仰がさかんであったことについてもこの通信でくりかえしのべてきました。天の信仰は太陽の信仰に対応します。それでは、稲魂信仰に対応して黄河流域で誕生したものは何であったのでしょうか。それがこれからのべようとしている雑穀の信仰なのです。

 低温乾湿の黄河流域は、古来、稲作に適せず、冬小麦、粟、高粱、綿などが栽培の中心になり、水産資源の不足を牧畜などでおぎなってきました。これにたいし、高温多湿の長江流域では、ゆたかな水産資源にめぐまれ、稲をはじめとして、綿、油菜、茶などの多様な作物が栽培されていました。農耕に限定してかんがえると、稲作の長江文明にたいし、雑穀の黄河文明というように対比することができます。

 黄河文明の雑穀は、稲のように一元的絶対的な価値をもつ食物ではなく、複数の穀物にそれぞれ平等の価値をみとめる多元的相対的価値観をそだてます。黄河流域の王権交替を生みだした要因については、通信12で、
1.周辺遊牧民との抗争・軋轢
2.商業を中心とした経済の発展
3.農民勢力の台頭
4.潅漑工事

などをあげて検討しました。こうした要因の基盤にさらに天の思想や雑穀の思想が存在して、王権の交替現象をささえたとみることができます。

 アジアの稲の起源地は、これまでもたびたびのべてきましたように中国の長江中流域に決定しました。そこから日本への稲の伝来ルートの主要なものは二つありました。
  A 江南から直接に九州へ
  B 黄河淮河流域から山東・遼東半島、朝鮮半島を経て九州へ

 注意すべきは、このうち、Aルートが稲単独の伝来であったのにたいし、Bは黄河流域の雑穀地帯を経由したために、稲と雑穀の混合の伝来ルートであったということです。日本の稲作遺跡のほとんどからは雑穀と稲があわせて出土しています。朝鮮半島の稲作遺跡も同様な状況にあることが、この伝来ルートの存在をしめしています。他方、九州の筑後川、矢部川流域の有明湾沿岸部の遺跡からは稲だけが出土しており、江南からの直接ルートの存在をしめしています。

 米がながいあいだ日本人の主要な食物であったことは事実であり、米にともなう稲作文化が日本文化の重要な骨格をつくってきました。日本の王権がこの稲作文化をイデオロギーとして利用してきたのです。そうした様相は、すでに『古事記』や『日本書紀』の神話にみることができます。

 『古事記』の国生み神話で、イザナギ・イザナミの両神は、淡路島以下の大八島国などをつぎつぎに生んでゆきます。その個所で、「讃岐国を米飯の霊のよりつく意味で飯ヨリヒコといい、粟の国を穀物をつかさどるという意味のオホゲツヒメという」とあり、そのオホゲツヒメ神話では、スサノオに殺害されたオホゲツヒメの身体から、「二つの目には稲種、二つの耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生まれた」とあります。このあたり、米だけにとくにほかの穀物から超絶した位置をあたえているようにもみえません。

 しかし、しだいに、天孫降臨の地を「みず穂の国すなわち稲穂のみずみずしい国」とし、主役を「ホノニニギすなわち稲穂の豊穣」という名をあたえるなど、米を特別視する意図がつよくなってきます。

 稲を特別視する意図がよりあらわになっているのは『日本書紀』です。国生み神話でも一書第一に天つ神がイザナギ・イザナミに「豊葦原の、豊に稲穂の実る国がある。そこへいって治めるように」と命じ、天孫降臨神話でも、一書第二では、「わが高天原の神聖な稲穂をわが子にあたえなさい」とアマテラスがホノニニギに神聖な稲の携行を命令するなど、稲の特殊化はいちだんとすすんでいます。

 しかし、稲作農業を唯一の日本の農耕文化であるかのようにみなすことに反対する学者や思想家は数多くいます。昭和以降にかぎっても、宮本常一氏を先駆として、坪井洋文、網野善彦、佐々木高明、杉山晃一らの各氏です。

 この人たちは、麦、そば、粟、ひえ、大豆、小豆、胡麻などの雑穀やいも類などが、日本人の主食であり、米よりも重要な食べ物であったと主張しています。これらは米にくらべて、やせ地や寒冷地でそだち、はるかに耕作に手間がかかりません。しかもこれらの雑穀は水田稲作伝播以前の焼畑農耕で栽培されていました。

 弥生時代の初期から中期、日本人は、炭水化物の総摂取量の半分以上は、米以外の雑穀やいも類からとっていたであろうという見解も出されています(佐々木高明『稲作以前』NHKブックス・1983年)。

 網野善彦氏は、米が日本人の唯一の主食であったとかんがえる風潮がつくられたのは、江戸時代の状況を中世にあてはめ、二つの時代がなめらかに同質的に連続しているかのようにみなしたためであると主張します。

 中世の土地税の納め方をしらべてみると、西日本では、租税は米でおさめられていたが、東日本では、これとはちがって、絹や綿でおさめることが多かったといいます。また、米を租税としておさめていた西日本でも、日常、農民がたべていたのは、主に米以外の穀類であったと網野氏はいいます。

 その根拠として、若狭の国太良荘の貞和三年(1347)の記録を氏は提出しました。女百姓の所有物をさしおさえたときの記録によると、没収されたもののなかに、米五斗と、その二倍の量の粟一石がふくまれており、太良荘のような米を税としておさめている稲作地帯でも、ふだんたべていたのは、米ではなく雑穀であったことをあきらかにしています(『日本中世の民衆像―平民と職人』岩波書店・1980年)。

 日本文化のなかで、米に特別の地位をあたえたのは、支配者のイデオロギーであったといえますが、しかし、その観念がながく日本人にうけいれられてきたのは、稲とともに長江流域から伝来した信仰や思想のささえがあったからだということを私は前回までの通信でのべてきました。

3月2日(土曜日)午後2時から、学習院大学西5号館302教室で、公開研究会

「中国の地方劇」

東洋大學文学部助教授 有澤晶子氏

が、アジア文化研究プロジェクト主催で開催されます。講師の有澤先生は中国演劇の専門家です。日本人に馴染みの京劇、昆劇、川劇も中国の地方劇です。その数は300を超えるともいわれています。

   中国の信仰や祭祀→日本の信仰や祭祀
   中国の神話   →日本の神話
   中国の民俗   →日本の民俗
   中国の民間芸能 →日本の民間芸能

という対応がみられるように、

   中国の演劇   →日本の演劇

という対応が存在するというのが、私の確信です。その一端が今回の研究会であきらかになればと期待しています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa26.htm


諏訪春雄通信 27

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


諏訪春雄通信 28

 今回のテーマは「天皇号」です。

 3月2日(土曜日)午後2時から東洋大學文学部助教授有澤晶子先生を講師にお招きして、「中国の地方劇」という公開研究会を学習院大學で開催しました。この通信の読者のなかで当日おいでいただいた方々もいらっしゃるとおもいます。

 内容といい、発表形式といい、最近の講演や研究発表のなかでは出色のものでした。当日、おいでになった方は幸運であったといってよいでしょう。

 発表形式はパソコンとビデオを組み合わせたもので、私の所属している国際浮世絵学会などではよくおこなわれている形であり、大學での講義などでも採用される先生が多くなりました。

 ただ、有澤先生のばあいは、その演出がよくゆきとどいており、写しだされることばとビデオの配合が絶妙で、観客を飽かせることがありません。

 機械に習熟せず、機械にふりまわされている発表者(私などはその典型です)がままいますが、有澤先生は機械を、平凡な表現ですが、手足のように使いこなしておられました。

 内容は、360種をこえるといわれている中国の地方劇のなかから4大国劇といわれる、昆劇、京劇、川劇、椰子劇の4種をとりあげ、その概要と特色を紹介したものです。私も前々から関心をもって、研究をすすめている分野ですので、発表内容の評価が多分当日の一般的な聴衆の方々よりはできます。

 小さなテーマで高度な発表をすることは、じつは、一定の水準に達した研究者にはそれほどむずかしいことではありません。真にむずかしいのは、そしてこれからの人文科学系の学者にもとめられることは、

「広く、高度な内容を、わかりやすく、興味ぶかく伝える」

ことなのです。有澤先生の実力をあらためて再認識したというのが、私の率直な感想です。

 この公開研究に先立つ2月26日(火曜日)、私のもとにあるテレビ会社からの取材がありました。といっても、テレビ撮影ではなく、番組の台本づくりのための取材です。松竹株式会社からの依頼をうけて、歌舞伎役者、それも今人気絶頂にある三之助クラスの役者を中国に旅させて歌舞伎の源流をたずねさせるという企画です。

 私が平成12年に吉川弘文館から「歴史文化ライブラリー」の一冊として刊行した『歌舞伎の源流』をじつにていねいに読みこんで、要点をついた質問をしてきました。ディレクターと台本作家と二人で、私の研究室に訪れてきて、交互に質問をしてメモをとっていました。

 そのときに、「歌舞伎の遠い原型が故郷の地を出発して、しだいに演劇としての形をととのえながら、日本にまで到達する歌舞伎ロードという構想は成立しますか」という興味ぶかい問題を、台本作家の方が私に問いかけてきました。

 じつはこの問題はここ数年追いかけている私の重要な研究テーマの一つなのです。

 学習院大学文学部は平成13年に人文科学研究所を創設し、助成金を出す研究プロジェクトを募集しました。そのときに私は「東アジア演劇形成過程の比較研究」という3年計画のテーマで応募し、九件の応募のなかからトップで採用されました。

 有澤先生にもそのプロジェクトにくわわっていただいており、3月2日の公開研究会は、この人文研究所の研究プロジェクトの費用で開催されたものでした。

 この通信の25で私はつぎのようにのべたことがあります。


「私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その伝来の経路もほぼ特定できます」

 その伝来の経路は大きく二つにわかれるとかんがえています。一つは西回りのルートです。ほぼ長江にそって貴州、雲南、広西チワン族自治区などを経由してベトナムにはいり、沖縄にわたり、北上して九州、福井、石川、新潟、山形、秋田などにつたわったものです。有名な秋田のナマハゲはその最末端の痕跡です。

 もう一つの経路は東回りです。西回りが比較的純粋に来訪神儀礼の原型を保存しているのにたいし、東回りのコースは、悪鬼ばらいの儺の儀礼と結合しながら、文化の先進地帯を経過したことによって、高度な演劇化をとげたというのが、私の基本的な考えです。

 私は概略以上のような構想で「東アジア演劇形成過程の比較研究」というプロジェクトを立ち上げたのです。

 したがって来訪されたテレビ局の台本作家から歌舞伎ロードについて質問されたときにすぐにこの東回りのルートをかんがえました。そしてつぎのようにこたえました。

「東回りをたどった来訪神と儺の複合体は、中国では古代演劇、宋元南戯、元雑劇、明清伝奇劇、地方劇などへと発展しました。おなじ複合体は、朝鮮半島では、処容舞、山台雑戯、農楽などを誕生させ、日本にも上陸して、中世以降の民間神楽、田遊び、王の舞、能、狂言などを生み、最後に歌舞伎として結晶しました」

 そして、中国長江中流域からいったん北上し、山東、遼東、朝鮮などの各半島を経過し、日本海側の出雲に上陸し、京都の五条、北野を経て、現在の四条の南座を終点とする歌舞伎ロードの具体的な道筋についても説明しました。

 この構想を、テレビ局が、台本としてどのように生かしてくださるか、仕上がりが楽しみです。

 大風呂敷のひろげすぎと眉をひそめる方も多いとおもいます。ことに実証主義をたいせつな方法とする専門研究者はそのように批判するとおもいます。

 しかし、私は、このごろ、学問の究極とは「志」であり「夢の実現」なのだとおもうようになりました。もちろん、堅固な実証にささえられた「夢の実現」です。

 通信26で、中国の古代文化と日本の古代文化につぎのような対応があると申しました。

    中国の信仰・祭祀→日本の信仰・祭祀
    中国の神話   →日本の神話
    中国の民俗   →日本の民俗
    中国の民間芸能 →日本の民間芸能

 自分でもそれなりに調査したことのあるこのような対応を前提に、


中国の演劇→日本の演劇

という対応も確実に存在するとかんがえています。

 「天皇号」についてのべます。

 天皇は中国の道教に由来することばです。その出典は、中国古代、紀元前3世紀ごろの各種の道教文献に「天皇大帝」とみえるのが最初です。たとえば、その一つ『春秋緯合誠図』には


 天皇大帝は北辰の星であり、元を含み陽を秉(と)り、精を舒(の)べ光を吐き、紫宮中に居りて四方を制御する。

 とあります。わかりやすくいえば、宇宙の根源として全世界を統御する北極星である、ということです。中国の道教では最高神として崇拝される北極星を天皇といったのです(福永光司『道教思想史研究』岩波書店・1987年)。

 ここから、日本の天皇号についてはむずかしい議論が生まれました。道教信仰そのものと関係があるのかないのか、いつごろから、どのような目的で使用されるようになったのか、などです。

 こまかな詮索はおいておいて、最新の研究成果にもとづいて、結論的なことだけをのべますと、最初は単なる尊称として使用されていた段階(推古天皇の時代)があり、持統天皇の時代に君主号としてもちいられるようになりました。また、東アジア世界における日本国家の地位を意識した呼称ではあるが、かならずしも道教思想と関連させる必要はないということです。

 日本が国家体制をととのえつつあった7世紀から8世紀のころに、主として対外意識のなかで採用され、浸透していったことばが天皇であったということになります。

 この天皇にたいする和語が「すめらみこと」です。平安前期に成立した『令集解(りょうのしゅうげ)』には


君は一人を指す。天皇これなり。俗にすめらみことというなり。

とあって、公式用語の天皇にたいする一種の俗語とかんがえらえられていたようですが、天皇号が成立する以前にはひろくもちいられていたことばです。

 すめらみことは「すめら」と「みこと」にわけられます。すめらについては、「統べら(統治する)」とおなじ意味というのが通説でしたが、上代特殊仮名遣いから判断して、「統べ」のベはエ列乙類、「すめ」のメはエ列甲類であって、甲乙が一致しないという疑問が提出されました。

 そこから、アルタイ諸民族が世界の中心とかんがえるSUMERE(梵語で至高・妙高の意味の蘇迷盧)と同義とする説、清澄、神聖の意味の「澄める」とおなじ意味であるとする説などが出されました。

 上代特殊仮名遣いというのは、奈良時代およびそれ以前のある種の仮名(エキケコソトノヒヘミメヨロ、古事記ではモも)に二種類の書き分けがあったという説です。したがって、発音と表記法がちがうことばは、当然意味の違うことばになるという考えです。

 しかし、私はこの法則をあまり厳密に適用すると行き過ぎになりはしないかという危惧をもっています。

 私は新潟県の出身であるためにイとエの発音があいまいで、仮名遣いもよほど意識しないと誤ってしるしてしまいます。私の友人の数代つづいた家に生まれた江戸っ子はヒとシの区別がまったくできません。こうした現象が古代にもあったのではないでしょうか。

 すめらみことの「みこと」は「尊」「命」などの字があてられますが、もとの意味は「御言」とする説が有力です。

 各様の説があるにしても、結局、すめらは尊貴な存在をあらわすことばであり、このことばを上にかぶせたすめらみことは「天の神のことばを代ってつたえる尊貴な御方」という、折口信夫の説(「天子の諡」)が妥当性をもちます。つまり、高位のシャーマンです。

 すめらみこととよばれた尊貴な方は、この世にあって天の神のことばを体現する神の代行者でした。南方原理につらぬかれた存在だったといえます。

 これにたいする天皇は、天界の北極星そのものと合一する北方原理をとりいれた存在です。

 この通信で、私がもっとも強調したかったことは、のちには混同されますが、本来は、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったということです。

 日本が、6世紀から7世紀にかけて、国家組織を整備してゆくときに、南方原理を北方原理で補完してゆくという当時の基本略を象徴的にしめすものが、君主号すめらみことと天皇の使い分けでした。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa28.htm


諏訪春雄通信 29


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。


祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。
1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm

諏訪春雄通信 30

 私たちのプロジェクトは、会員とはべつに、40数名の学識経験者の方々を「参加者(メンバー)」とよんで、会の運営についてご助言をいただいています。その参加者の一人谷川健一先生から久しぶりにお電話をいただき、新宿の中村屋でお会いしました。

 用件は、5月の連休あけに韓国へ取材にゆく予定であるが、適当な案内者を紹介してくれないか、というものでした。さっそく、やはり参加者の一人である広島大学の崔吉城先生に連絡をとり、最適の案内者を谷川先生に紹介することができまし。

 中村屋で谷川先生と一緒に私を待っていた方が、新潮社の文芸誌『新潮』の編集長前田速夫さんでした。その場で『新潮』に7枚の短文の寄稿を依頼され、「日本神話と中国長江流域神話」という一文を書いてすぐに送りました。この通信でこれまでにのべたことをまとめたものですが、その後に新しく発見した資料を追加しています。

 その追加資料をふくむ部分だけを、まず、この通信でお送りします。読みやすいように段落分けをします。


「日本神話と中国長江流域神話」

 日本神話の研究には、中国の少数民族社会の神話・伝承の調査研究が必須である。
しかし、残念ながら、日本神話の研究に中国少数民族の神話が考慮されることは、亡くなられた大林太良氏のような先覚者をのぞくと、これまでほとんどなかった。

 その理由の第一は、中国の民間伝承研究の成果が利用しやすいかたちで日本の学界につたえられていないということである。現在、中国神話として日本に紹介されている類書はほとんどすべて、文献に記載のある漢民族の神話であって、少数民族の口承神話ではない。

 第二の理由は、ヨーロッパ研究者による東南アジアや南太平洋の神話研究がはるかに先行していて、日本の神話学者はその成果をほとんど無批判に利用していることである。

 具体例で説明してみよう。

 海幸彦・山幸彦として漁労と狩猟に従事していたホデリとホオリの兄弟が、釣針と弓矢を交換し、弟が兄から借りた釣針をうしなって、竜宮をおとずれる神話は『古事記』と『日本書紀』がつたえている。日本人にもっともなじみのふかい神話の一つである。

 この神話の源流として、これまでに、インドネシアのケイ族の伝承、パラウ島の伝承などが指摘されている。インドネシア方面の「失われた釣針型説話」を原型として、日本の海幸彦・山幸彦の神話が成立したというのが現在の定説である。

 東南アジアの「失われた釣針型説話」の存在を最初に報告したのは、十九世紀以来、この地方に入って調査にしたがったフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったヨーロッパの研究者たちであった。日本の神話研究はその成果を借用してきたのである。

 しかし、最近、中国の長江南部に海幸彦・山幸彦と類似の話が存在することが報告されている。大林太良氏は、この神話を海の原理と山の原理の闘争ととらえ、江南地方につたえられる呉越の戦いにかかわる伝説を、山を代表する越と海を代表する呉の対立として分析し、日本神話の原型として紹介している(『日本神話の構造』)。

 また、伊藤清司氏は、湖南省のトウチャ族につたわる「格山竜珠を与えられる」という話を紹介し、兄弟の争い、水界訪問、水界の女性との結婚、水界よりの呪宝の将来、呪宝による水の支配、兄への復讐、という六つのモチーフが共通することを説いている(「日本と中国の水界女房譚」)。

 私自身はこのほかに、雲南省のラフ族、貴州省のコーラオ族、四川省のイ族、貴州省のプーイー族などがつたえる二十種を超える異型の水界女房譚を、現時点で発掘している。この数はもっとふえるはずである。これらを総合すると、日本の海幸彦・山幸彦の神話の源流は中国の長江南部であると確信をもって断定することができる。

 もう一例、イザナギ・イザナミの国生み神話について検討する。この神話の原型についてもポリネシア、内陸アジア、インドなどの神話との類似がこれまでに説かれてきた。

 日本の国生み神話は、A洪水で生存した兄妹が結婚する、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全な子が誕生したが試行の結果国土と人類などが誕生する、Cしかもそうした行為が神、動物などの指示によっておこなわれる、という三つのモチーフから成る、いわゆる洪水神話の不完全型である。

 『旧約聖書』のノアの方舟で知られる洪水神話は、インド、南アメリカ、東南アジアなどに分布していて、起源地についても諸説があって一定していない。しかし、私は、中国ですくなくとも八十七種の洪水神話を収集している。その分布状況はつぎのようになる。

雲南省 三十八種   貴州省 十五種  湖南省 十一種  広西チワン族自治区 七種
四川省    五種   海南島  四種  湖北省   三種  内蒙古自治区      三種
遼寧省    三種   福建省  一種  台湾    一種  河南省          一種
青海省    一種   黄河辺  一種  黒竜江省 一種

 総数が九十五種となるのは、同一話が二つの地域にまたがって存在する例があるからである。この表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南など、長江周辺の稲作民の居住地に稠密に分布していて、そこから南北にはなれると、急速に減少している。このことから洪水神話の起源地は長江中流域であると確定することができる。

 このほかにも、「アマテラスの天石屋戸隠れ」、「天孫降臨」、「オオクニヌシの根の国訪問」など、日本の王権の成立にかかわる神話の重要な骨格部分が、ほとんどすべて、中国の長江流域の稲作民居住地の伝承を源流としていることがあきらかになっている。太陽神・女神・祖先神・稲魂という四つの性格を兼備して、皇室の祖先となったアマテラスと同一神格への信仰もこの地方に存在している。

 このような中国長江流域神話と日本神話の類似という事実はけっして偶然の暗合ではない。アジアの稲作は一万年以前に長江中流域にはじまって、長い年月をかけてアジア各地にひろまっていた。そのときに稲作の技術とともに、稲作にかかわる信仰や民俗、神話伝承もまた伝播していった。その末端が日本に保存されているのである。

 以上です。ここで洪水神話87種といっているのは、通信20でのべたように、中国の民俗学者林河氏紹介の58話に私が29話を追加した数値です。中国の少数民族の神話については、なおも調査を続行中ですので、結果がまとまりしだいまたご報告します。

 今回は前回お約束した「巫女王」の問題について簡潔にのべます。

 巫女王とは女王が巫女をかねているものです。典型的な例は、『魏志倭人伝』にしるされて有名な卑弥呼です。彼女は邪馬台国の女王であったが、夫をもたず、一人の弟が政治をおこない、彼女じしんは鬼道につかえていたといいます。

 卑弥呼の没後、和国は混乱におちいったので、人々は卑弥呼の長女壹与を王として国を治めさせたといいます。壹与もまた巫女王でした。

 卑弥呼や壹与は邪馬台国にかぎられた特殊な例でなく、古代の日本にかなり一般的にみられる政治と祭事の形態だったようです。ヒメ・ヒコ制とよばれるものがそれです。

 ヒメ・ヒコ制は、兄弟と姉妹が政事と祭事を分担する統治の形態です。一般に「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名をもつ男女が一対となってその地域を支配する原始的な王権のあり方でした。具体例としては、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメの場合などがあります。

 このほかにも『日本書紀』には地方の首長が女性であった例をいくつかひろいだすことができます。政事権または軍事権をもつ男性の名がしるされていませんが、女性が祭事権をもつために首長にされたのであろうと推測されています(鳥越憲三郎「巫女の歴史」『講座日本の民族宗教4』・弘文堂)。

 ただ時代がさがると、男女の役割分担に相互移動もあったようで、女性の首長が政事や生産にたずさわる例もありました(今井尭「古墳時代前期における女性の地位」『日本史研究』397)。

 しかし、ヒメ・ヒコ制の精神は日本の歴史を貫流していました。

 『古事記』や『日本書紀』には天皇の代替わりにともなう皇位継承争いの記事が頻繁と出てきます。そのばあい、ライバルが同母の姉妹をもっていますと、皇位継承者がその女性をめとっている例が多いのです。

 これは、霊的守護者である姉妹を兄弟からひきはなすことに目的があったのではないかとかんがえられます。

 平和のうちにそれが成功すれば、皇位継承者はライバルにたいして優位にたつことができましたが、不幸にして両者が対立関係にあるときは、相手を倒してその霊的守護者である姉妹をめとることによって皇位争奪戦の完全な勝利をかちとることになりました(倉塚曄子『巫女の文化』平凡社・1979年)。

 沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。

 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。

 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。

 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。

 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。

 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。

 私はいまこの少数意見の立場にくみして、女性の霊力の問題を究明してみようとおもっています。

 さらにまた、女帝、斎王、後宮、采女など、日本の王権の維持にふかくかかわる諸制度で、ヒメ・ヒコ制、オナリ神の観点から説明しなければならないものが数多くあります。

 これらの問題を逐次この通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm

12. 中川隆[-12494] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:41:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

諏訪春雄通信


2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。


諏訪春雄通信 789回 (2018年1月22日更新) 天皇の来た道 (8)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja


V 稲作を伴う天孫降臨神話

中国南部に流布する稲作天授神話


タイ族

遠い昔、天に一柱の天神がおられ、広大な田地を所有し莫大な収穫をあげていた。そのころ、人類は穀物を知らなかった。木の実を取り、猟で餓えを満たしていた。ある日、天神の娘が空から人間の生活を見て同情し、父に穀物を人間に与えるよう頼んだが、父は承知しなかった。天女は父の目を盗んで一袋の穀物を盗んで人間に恵んだ。怒った父は彼女を牢に入れたが、逃げ出した天女はさらに多くの穀物と綿花を盗んで人間に与えた。天神は激怒して犬にして下界に追い下した。人間は犬となった彼女に感謝し、毎年の一月の戌の日、魚肉、野菜、新米をまず犬に食べさせることにした。

犬が天上から穀物を盗み、人間に与える神話は華南の他の民族にも伝えられている。犬以外に燕、雀、鶴、鳳凰などが盗む神話もある。

雲南省トールン族

洪水で生き残った少年は、天神と出会い、虎の後について天に登った。天神は二人の娘のうち一人を嫁にえらぶよう少年にいった。二人のうち、一人は魚の嫁になることを願っていたので、少年はもう一人の木美姫をえらび、地上に伴った。そのとき、天神は穀物の種、鳥獣、蜂の種、薬酒などを土産にくれた。利口な木美姫は父が稲の種をくれなかったことに気付き、稲倉から稲籾を盗み出した。天神はふたりに途中けっして振り返えるなと警告した。しかし、鳥獣の吼え声で姫が振り返ったために多くの動物が逃げ去り、牛、豚などわずかな家畜が残った。五穀の種は持ち帰ることができた。天神は地上に稲が生長しているのを見て驚き、収穫物の一部を天上に回収した。実のない空の穀粒があるのはそのためである。


中国地図
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja

      


天皇の来た道 (9)
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 W 天孫降臨神話の二系列と日本への稲作伝来経路

@ 天孫降臨神話の骨格は、A天上の神たちが宝器を持って地上に降って支配者になる宝器神話、Bその際に天上から穀物、ことに稲を地上にもたらした稲作神話、の二系列となる。

A このうち、Aの宝器の系列は北方アルタイ語系諸民族の山上降臨型神話によって形成された。

B しかし、Bの稲作の系列は、中国南部の少数民族農耕民の天から穀物をもたらした神または人が地上の人類の祖先または支配者になる神話によって形成された。

C このBのモチーフは大陸から直接に伝来したものと、朝鮮半島で北方系神話と習合してから日本へ伝来したものと、大別して二系列あった。この二系列は、日本への稲作伝来ルートに対応している。

D このBの系列と結合して、中国南方農耕民の稲魂信仰、太陽信仰なども日本へ伝来していた。

 稲作の起源地と日本への伝来

浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」(『日本人はるかな旅』NHK出版、2001年)を参照する。


アジアの稲の起源地は中国の長江中流域。1995年に湖南省玉蟾岩遺跡から1万2千年前の栽培稲の稲籾が発見され、すこし遅れて隣接する江西省仙人洞遺跡からも1万2千年前の栽培稲が発見された。このころ、私もこの二つの遺跡を訪ねている。

 日本の稲作伝来の二系列


日本で稲作が始まったのは縄文時代前期の鹿児島県で6千年前、焼畑で耕作された熱帯ジャポニカであった。水田稲作の温帯ジャポニカは縄文晩期の二千六百年前の佐賀県の菜畑遺跡から出土した。2003年に国立歴史民俗博物館が、放射性炭素年代測定で弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まるとした。
野生稲の籾の先端の芒(のぎ)が長く、栽培稲では短くなっている。

水田稲作は、直接に中国から日本へ伝来したものと、朝鮮半島経由の二系列があった。天孫降臨神話の二系列に対応する。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 天皇の来た道 (10)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub18.html


  X アマテラスの本質 稲魂

『古事記』


@水田を作り新嘗祭を主宰している。

A最初に地上に降臨するアメノオシホホミミは威力ある稲の神の意味であり、交代して降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味である。

『日本書紀』

@アマテラスは、ツクヨミに殺害されたウケモチノカミの身体から生じた五穀のうち、アワ・ヒエ・ムギ・マメを畑に、稲は水田に植えて大きな収穫をあげている。

Aスサノオと誓約して、オシホホミミ、天上界の霊力ある稲の神の名を持つアメノホヒなどを生んでいる。

B天上で水田を耕作し、新嘗を主宰している。

C第二の一書によると、ニニギの降臨の際に高天原の田で収穫した稲穂をさずけている。

アマテラスの本質 太陽神  


『古事記』 「天を照らす大御神」と表記され、天空(高天原)の支配を命じられたこと、天岩屋戸に籠ったことが日蝕とも冬至とも鎮魂祭とも解釈されること、鏡を魂の依代とすること、などが太陽神の性格を現わしている。

『日本書紀』 アマテラスは日神(太陽の神)、オオヒルメムチ(太陽の女神)などとよばれ、「明るく美しく照らし、天地四方の隅々まで照り輝いた」と叙述されている。

高千穂天岩戸神楽のアマテラス

アマテラスの本質 大地母神

アマテラスは地上で誕生して天に昇った神であった。『古事記』では、黄泉国を逃れて地上に生還したイザナギが筑紫の日向の橘の小門のあわぎ原でみそぎして生んだ神である。『日本書紀』でも、イザナギ、イザナミの両神が地上でアマテラスを生んだのち、「このように神秘で霊妙な御子はすみやかに天上に政事をゆだねるべきである」と、天の御柱を伝わって天上に送っている。


太陽は朝に地上から天に昇り、夕に地上に沈む。この点に注目すれば地上の神であるが、天に輝く日中に注目すれば天の神となる。さらに陽光がやさしいか強烈であるかによって、女神か男神か分かれる。中国南方では太陽は大地の女性神と観念され、北方では天の男性神と意識されている。

アマテラスは稲作の神であり、その稲作を守る太陽神、大地の女神であった。  
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天皇の来た道 (11)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub39.html

2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。通信799回に続きます。


平成大嘗祭(皇位継承最初の新嘗祭)の大嘗宮


祖先の太陽女神と稲魂(アマテラス)の祭祀 地方の女神の霊力(悠紀・主基)支配 廻立殿で清め、次いで悠紀・主基で神と共食、共寝


中国南部少数民族の太陽・女神・稲魂信仰

貴州省黎平県トン族の道切 銅鏡=太陽 貴州省ミャオ族集落入口 双竜と太陽

2001年の8月、長江流域の苗、土家、侗の三族の民俗を調査してまわり、いたるところで太陽神信仰に出あった。

しかもこれらの地域では、太陽の信仰は女神、稲魂に対する信仰と結合して三位一体となっている。これは、日本のアマテラスの信仰と完全に一致している。

日本の稲作文化の起源地が長江中流域に決定している現在、日本のアマテラス信仰の原型も長江中流域の少数民族社会であったことを示している。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub39.html

天皇の来た道 (12)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub40.html


 Y 天の信仰と女神信仰 東アジア少数民族の祖先女神信仰

湖南省西南部トン族 薩歳(老祖母神)という最高位の女神を信仰し、薩祭という祭りでは他の神は招かずこの薩歳だけを祀る。その冒頭で主宰する巫師の唱える文句は「別の女神を招かず、別の神に祈らず、ただひたすらに大婆天子にだけお祈り申しあげます」ということばで始まる。大婆天子は薩歳の漢語訳である。


この他にも民族の祖先神を女性とする少数民族は多い。チワン族では人類の祖先は母六甲(ぼろっこう)とよばれる女の神である。水族、ミャオ族、チノー族、エベンキ族、満族など、女神が最初に天地をきり開いたり、最初の人類を生んだりする神話を伝えている。


動物神と女神の合体した創世神話も多い。ナシ族は一羽の白い鶏が九つの卵を産み、その卵から天の神、地の神、男女の人類が現われたとし、ハニ族は一尾の大きな魚から人類が生まれたとしている。(『中国各民族宗教と神話大詞典』学苑出版社、一九九〇年、他)


男女神信仰の四型


大地母神に代表される女神信仰が男神中心の新しい信仰にとって代わられる現象は世界的規模でみられる。その変化は大きく四つの型に分けることができる。第一は、魔女・異端型である。女神を信奉する宗教者を魔女・異端として退け、女神に代表される古い神々を悪魔、鬼神の類として厳しく排斥する。第二は、男神を最高支配神とするパンテオンに下位神してとして組み入れる型である。 第三は、新旧の神々を並列・混在させる型である。第四は女神を男神に優越させる型である。第一型は主として一神教世界、第二型は一神教的多神信仰世界、第三型・第四型は多神信仰世界にみられる。日本ではこの四つの型のすべてが存在し、四型に基づく祭りの形態がみられる。キリスト教は一型、銀鏡神楽など中世神楽は二型であり、諏訪大社の御柱は三型である。そして、日本の古代は女神優位であり、皇室、沖縄などにいまも女神優位の信仰が保存される。

中国の女神と男神の勢力関係についてみると、黄河流域の大帝国の歴史書に登場する神々は男神中心、南方の少数民族の宗教や叙事詩に登場する神々は女神中心であり、北方少数民族の神々は大きく女神から男神中心へ移ったという結論がみちびきだせる(君島久子編訳『中国女神の宇宙』)。

信仰も、文化の一部であり、生活環境と生業の産物である。  
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天皇の来た道 (13)
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  Z アマテラスとタカミムスヒの関係


日本神話に登場する最高司令神はアマテラスとタカミムスヒである。古文献に登場する両神の関係は三型に整理できる。

1アマテラス・タカミムスヒ併記型 古事記、古語拾遺


2タカミムスヒ単独型 日本書紀一書、先代旧事本紀


3アマテラス単独型 日本書紀一書

アマテラス・タカミムスヒの本質 従前説

@アマテラスとタカミムスヒは本来別系統の神。天皇家の本来の守護神はタカミムスヒ。岡正雄(「日本民族文化の形成」『図説日本文化史大系1 縄文・弥生・古墳時代』小学館、一九五六年)、松前健(「鎮魂祭の原像と形成」『日本祭祀研究集成一』名著出版、一九七八年)、岡田精司(『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九七〇年)、溝口睦子(『王権神話の二元構造ータカミムスヒとアマテラス』吉川弘文館、二〇〇〇年)

Aタカミムスヒについて、男性神とする点は四氏一致するが、その先で、太陽神(岡田)、神木をヨリシロとする農耕神(松前)、朝鮮古代の起源神話と同一系統神(岡、溝口)と分かれる。

Bアマテラスについて、先住母系的種族の主神(岡)、伊勢地方のローカルな太陽神(松前)、タカミムスヒに仕える巫女を神格化した神(岡田)、列島規模の土着の女性太陽神(溝口)と分かれる。

タカミムスヒは宇宙樹


タカミムスヒは『古事記』では高木神の別名でも登場する。この神が主として活躍するのは、天孫降臨神話や神武東征説話である。つまり、天と地を結ぶ神としての性格が強く、天地往来の宇宙樹としての本質を持っている。

宇宙樹は世界樹ともいう。まだ確定していない術語である。一般には天界と地下界とを貫いてそびえ,全世界 (宇宙) の秩序を体現していると信じられる巨木。世界各地の神話にみられ,ことに北欧の古代神話『エッダ』の中の巨木が有名で,その枝は全世界の上に広がり,天の上まで突き出ており,3本の根はそれぞれ神々の国・巨人の国・死者の国へと伸びている。そのほか,古代インドのウパニシャッド哲学,アステカの神話,シベリア諸民族のシャーマニズム信仰などにおいて,宇宙樹は多種多様な表象と意味を持つ。『文化人類学事典』弘文堂、一九八七年


中国南部に流布する稲作天授神話と結合した宇宙樹 


湖南省・広西チワン自治区のヤオ族


大昔、天は低く、人間は大木を伝わって天に行くことができた。そのころ、天神の命で地上の水を管理していたのが天に住む水仙姫であった。ある日、地上から来た若者に夢中になり、水口をふさぐことを忘れたために、地上は大洪水となった。天神ははげしく怒り、水仙姫は若者の手を取って逃げ出した。姫の両親は、頼もしい若者が気に入り、二人に穀物の種子とゴマの種子を与えて地上に逃がしてやった。二人は、すでに水の引いた地上で、穀物とゴマの種を撒き、人類や動物をつくりだした。天神はこの様子を見て二人を許した。ただ、人間が天に登って来ないように、天を高く引き上げてしまった。

この神話では天地を結ぶ大木が大きな役割を占めている。日本の天孫降臨神話でアマテラスとともに活躍する高木神(古事記以外ではタカミムスヒ)が、本来は天地を結ぶ宇宙樹であったことを示している貴重な資料である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub48.html

天皇の来た道 (14)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


タカミムスヒは宇宙樹

中国南部稲作民族の樹木信仰  貴州省トン族の聖樹と祭り(聖母と稲)   

ミャオ族の聖樹祭芦笙柱の祭り 宇宙樹と太陽と鳥


中国南部の苗族集落には、芦笙(ろしょう)柱が立っている。芦笙柱は苗族の生命世界の根幹を司る宇宙樹である。芦笙柱はフウ(楓)の木で作られ、頂上に太陽の昇る方向を向いた木製の鳥が止まっている。この柱には下から竜が巻きつき上方に牛の角が二本突き出ている。

毎年正月や春分・秋分などの祭りには、この芦笙柱を中心にして着飾った男女が輪になって踊る。苗族の子供や若い女性がハレの時に着る百鳥衣には服の裾に鳥の羽がいっぱいに縫い付けてある。昔、苗族に稲穂を運んできてくれたので感謝するためという。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


13. 中川隆[-12492] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:50:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

以上で、田中英道さんが学説と称しているものはすべてトンデモであるのが明らかになりました。

田中英道さんはパラノイアというより単に IQ が低くて論理的思考が全くできないというだけでしょうね。

まあ、恵まれた環境と暗記力さえあれば、学歴だけは一応見栄え良くできるという事でしょう。

問題は、こういうアホを帝国大学の教授にまでした大学の人間なんですね。

14. 中川隆[-12483] koaQ7Jey 2019年2月03日 14:52:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告


聖徳太子虚構説を排す – 2004/8
田中 英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90%E8%99%9A%E6%A7%8B%E8%AA%AC%E3%82%92%E6%8E%92%E3%81%99-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4569638279


内容紹介

まことしやかに流布される「聖徳太子虚構説」に、美術史の観点から徹底反証。
的確な分析から聖徳太子の歴史的意義が浮かびあがる!

「聖徳太子はあくまで虚構の存在である。法隆寺が670年以降に再建されたのは確実である」こんな議論が大手をふってまかり通っている。しかし、仏像や建築物の様式は、そのような論の誤りを雄弁に語っている。日本が誇るべき歴史の真実に、美術史学の視点を交え、鋭く迫る。


カスタマーレビュー


串丸
とても博士号を持っている人間の書いた本とは思えないレベル 2008年10月12日


残念ながら、自分の習ってきたこと、自分の研究してきたこと、自分の教えてきたこと、は宇宙がひっくり帰ろうが正しいと思い込みたい、学者でない学者の書いた本といわざるをえない。

他の学者が手持ちの資料から導き出した説に、自分の思い込みと本質でない些細な欠点だけで反対するのは学者のやることではない。
この本に納得してしまった人はもう一度よ〜く読んで見ることをお勧めする、論を展開する歴然たる事実が何もない、仮定仮定仮定・・・ばかりだと分かるはず。

新資料の発見 → 俺の研究がパァになる → 何とかしてケチをつけよう、

正直、今60代くらいの文系の学者ってこういう人多いよね。

理系でも理論物理屋さんにそういう人がたまーにいるけど。



▲△▽▼


https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/e395a3f899cde8e26b07f4fa4659d19a

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点

2010年12月16日 | 太子礼讃派による虚構説批判を検証する

 出版はだいぶ前になりますが、現在も一般読者にある程度の影響を与えているようなので、聖徳太子虚構説を批判している本について検討しておきましょう。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』
(PHP研究所、2004年)

です。

 聖徳太子の存在を全面的に否定する大山誠一氏の著作が、結論先行で想像と断定が多いのと同様、聖徳太子礼讃・伝承説尊重の立場に立って大山氏の太子虚構説を厳しく批判するこの本も、結論先行で想像と断定的な物言いが目立ちます。また、西洋美術史学者である田中氏は、キリスト教美術に馴染んでいるためもあってか、「天寿国」は「キリスト教の天国とさえ思われる」(98頁)とか、キリスト教の一派である景教(ネストリウス派)の「景教」とは「光明の教え」の意味であって光明皇后の名はそれに由来する(95頁)と述べるなど、学界では認められていない突飛な主張をしている箇所も少なくありません。

 まず、同書は、通説に反対し、現在の法隆寺は再建でないとする主張から始まります。田中氏は、法隆寺西院伽藍は聖徳太子が用明天皇のために建立したものであり、若草伽藍は聖徳太子のために発願された釈迦三尊像を本尊として建立された、とする戦前の別寺説に賛成します。670年の火災で焼けたのは、若草伽藍の方であって、より古い法隆寺は創建当時のままだとするのです。そう主張する最大の根拠は、五重塔心柱の伐採年代は594年だとする年輪年代法の調査結果です。

 年輪年代法による最新の調査については、

前回の記事
https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/5a9d0c674b0786eab159214c9bc22f10


で紹介した通りです。この調査をした研究者たちは慎重であって、心柱の伐採年代によって再建非再建問題が完全に解決したとは主張していないうえ、西院伽藍については、

670年の火災前後に伐採された木材を使った金堂
→ 心柱だけ異様に古く、後は新旧寄せ集めの部材を使った五重塔
→ 690年頃伐採の部材を使った中門、


という建立順序を想定しており、聖徳太子当時の建立という説は成り立ちません。

また、最初期の寺である飛鳥寺や豊浦寺の瓦を受け継いでいて古いのは、若草伽藍の金堂の瓦であって、西院伽藍の瓦はそれよりずっと新しいことが判明しています。田中氏は両伽藍の瓦にも触れているものの、最近の研究成果を正しく紹介していません。

 三経義疏については、藤枝説で決着がついたと断定する大山氏と違い、漢文の誤りなどについて、「私たちはそうした文献的な研究成果を待つだけである」(148頁)と述べているのは、妥当な姿勢です。ただ、三経義疏真撰説については、花山信勝などの先行研究に基づいて論じており、新たな証拠は示されていません。

 天寿国繍帳については、先行研究に基づいて真作であることを強調していますが、「世間虚仮、唯仏是真」における「世間」という語は、「『法』とか『諸行』といった仏教的な言葉と異なる、日本人の社会のあり方への独特な見方を感じさせる」(68頁)だというのは、無理な議論です。
 
 確かに、「世間」という語は現在では日常語として定着していますが、7世紀当時にあっては耳慣れないモダンな用語であって、今で言えば「DNA」に当たるような語感があったはずです。中国では「世間」の語は仏教以外の場面でも使われていますが、用例はきわめて稀です。梵語の manusya-loka の漢訳語である「世間」を僧侶以外の人々が頻繁に用いるようになるのは隋唐以後であって、その場合でも仏教を意識した場面に限られます。

 日本においては、「世間」どころか、それを和語にした「世の中」という語でさえ、『万葉集』ではモダンな印象を与える表現として用いられていることは、講演で触れたことがあります(石井公成「恋歌と仏教--『万葉集』『古今集』『伊勢物語』--」、武蔵野大学編『心 日曜講演集』25集、2006年4月)。

 また、田中氏は、聖徳太子伝説について述べる際、「馬小屋で生まれた」(97頁)としてキリストとの類似を指摘し、戦前に唱えられた景教影響説を再評価するのですが、これも「厩」という語の現在のイメージにとらわれ、文脈と当時の語感に注意していない読み方です。

 『日本書紀』推古元年の「(宮中の役所を視察して回っていた皇后が)馬官に至り、厩戸に当たりて」安らかに産んだという記述は、現代に置き換えれば、「皇室の御用自動車の車庫兼整備工場[英国から派遣された技術スタッフやその二世・三世が仕切っており、英語で話している]を視察した際、その入り口まで来たところで安産した(そのせいもあってか、太子は成人すると車好きとなり、スポーツカーを高速で飛ばすようになった)」などといった感じでしょうか。『日本書紀』は、伝承に基づいて潤色しているのでしょうが、そもそも后が宮中の役所を視察していて「厩戸に当たりて」安産したというのと、「馬小屋の中で生まれた」とでは大変な違いです。

 「百済入朝して、龍編(中国古典)を馬厩に啓[ひら]」いたとする『懐風藻』の序や、百済王が阿直伎を派遣して良馬二頭を献上し、阿直伎は「軽の坂上の厩」でその馬を飼うとともに、儒教の書物に通じていたため「太子菟道稚郎子」の「師」となって教えたとする『日本書紀』応神天皇15年条の記事に着目した新川登亀男さんは、「厩」で馬を飼う者が「太子」を教育する「師」でもあり、「厩」は当時は「教育発信と受容の場でもあった」ことに注意しています(『聖徳太子の歴史学』19-20頁)。「厩」と聞いてすぐ、キリストが生まれた馬小屋を思い浮かべるのではなく、『日本書紀』や天寿国繍帳銘などの資料は、それが書かれた当時の常識と語感に基づいて読まねばなりません。
 
 光明皇后というか、光明子の「光明」にしても、『続日本紀』を読み、また光明皇后・聖武天皇、そしてその娘の孝謙天皇の強烈な『金光明最勝王経』信仰を考えつつその『金光明最勝王経』を読めば、「光明」の由来は明らかです。同経のどの箇所が重要かは、先日、東大寺で行なった講演で述べましたが、別に書きます。

 田中氏は、谷沢永一『聖徳太子はいなかった』を猛烈に攻撃しています。そのように激しく非難するに至る経緯はどうであれ、谷沢氏のこの本は、大山説ときわめて限られた文献だけに基づいて書きとばした間違いだらけの駄作です。近代の書誌学が専門で古代は弱い谷沢氏は、三経義疏を真撰として高く評価していた時期も、三経義疏は「世界で最古の学問書の一つである」と主張するなど、出鱈目を書いていました。三経義疏は、太子の真撰だとしても7世紀初めなのであって、古代のギリシャやインドや中国などの書物に比べれば遙かに後代のものなのですから(インドでは口承が基本であって書物の形になるのは遅いですが)、「世界で最古の学問書の一つ」などというのは、ひいきの引き倒しです。

 ところが、田中氏は、谷沢氏が聖徳太子礼讃の立場から「聖徳太子はいなかった」説に節操なく転じたとして非難する一方で、その谷沢氏が聖徳太子を礼讃していた時期の文章、すなわち、「聖徳太子は……布教はしなかったし、させもしなかった。独り書斎にあって法華経、維摩経、勝鬘経などを読み、研究をした。……仏教を『信じる宗教』ではなく『人生の知恵』だと受け取った証拠である」という文章を引用したうえで、「私もこの聖徳太子への考え方に賛成である」(120頁)と述べているのですから、まったく理解できません。

 これは、大正教養主義などに見られる書斎派の知識人のあり方ではないでしょうか。谷沢氏にしても田中氏にしても、三経義疏そのものや釈迦三尊像銘などを、現代語訳などでなく、原文できちんと読んでもらいたいものです。そういえば、田中氏が釈迦三尊銘の趣旨について説明した箇所も、「太子の病気回復と安寧を祈って太子等身大の釈迦像をつくろうとした」(49頁)とあるのみです。延命が無理なら「浄土に往登し、早く妙果に昇」られるよう願った部分に言及しておらず、かたよった説明になっています。

 こうした例は他にいくつもあります。田中氏は、『日本書紀』などの太子関連の記述をそのまま信じて太子の偉大さや法隆寺の芸術的意義を強調し、当時の日本文化の素晴らしさを説こうとしておりながら、実際には、キリスト教に引きつけて解釈したり、氏が好ましく思う近現代のあり方を太子のうちに読み込むなど、歴史を無視した主張を重ねているのです。
 
 大山氏の常識外れの美術史理解をたしなめたところなどは妥当であるものの、批判の多くは、大昔の古くなった諸説を含む従来の研究成果と、田中氏が想定する聖徳太子像に基づくものであって、新たに客観的な証拠を示して大山説を論破したと言える箇所は、ほとんど無いように思われます。

 田中氏のこの本は、漢文資料の読解と仏教理解の面が十分でなく、結論先行であって歴史の実状や最近の研究成果を無視した想像や断定が多いといった点では、最初に述べたように、大山氏の著作に良く似ているという印象を受けます。大山氏との類似と言えば、津田左右吉の著作をきちんと読まずに津田に論究する点も同じですね。

 大山氏は、津田左右吉説のうち自説に都合の良い箇所だけを孫引きで使い、津田は「憲法十七条」は奈良時代初期に『日本書紀』の編纂者が作成したと述べたなどと事実に反する主張をしていました。


津田左右吉説の歪曲 - 聖徳太子研究の最前線
https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/74c80366b592f6ce79f423af7923ad96


大山氏は他にも、津田は「早稲田大学教授を追われ」た(『聖徳太子と日本人』)などと誤ったことを書いており、古代史の批判的研究の先駆者である津田の伝記も読んでいないことが知られます。

 一方、田中氏は、太子について「明治以降、実証主義とマルクス主義が移入されてから、この人物が天皇に近い権力者の一人であるというので、さらに疑う史家が多くなった。典型は津田左右吉氏である。……彼の否定論……」(156-7頁)と述べ、津田はマルクス主義に近い実証学者であって聖徳太子不在論を述べていたかのように書いています。

 しかし、津田は、皇室を敬愛し日本文化の独自性を強調する明治人らしいナショナリストであってマルクス主義に反対しており、聖徳太子の存在を認めていました。「憲法十七条」や三経義疏などを後代の作と見たことは事実ですが、薬師如来像銘や釈迦三尊像銘などの金石文を史実とみなしていましたので、聖徳太子不在論を唱えたわけではありません。

 ナショナリストでありながら『日本書紀』に見える神話や超人的な聖徳太子像を疑う津田の姿勢は、聖徳太子を尊崇すればこそ後代の伝説を荒唐無稽な神話化として否定した久米邦武の姿勢に、多少似た面があります。その津田を攻撃して著書の発禁にまでもっていった超国家主義的な聖徳太子礼讃者たちについては、

このブログの以前の記事
https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/a20478c37e2db6fe568506b2f1cad204

で紹介した通りです。

https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/e395a3f899cde8e26b07f4fa4659d19a

15. 中川隆[-12482] koaQ7Jey 2019年2月03日 15:16:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

文春も報じた「慰安婦像の正体は米軍事故被害者」は完全なデマだった!
官邸とネトウヨ情報に丸乗りし印象操作 2017.12.07.
https://lite-ra.com/2017/12/post-3635.html

「新しい歴史教科書をつくる会」元会長の田中英道氏が寄稿した月刊誌「WiLL」一七年十月号は、

「『慰安婦像』のモデルは米軍犠牲者の少女だった」

と題して、被害者の一人、沈美善(シム・ミソン)さんと慰安婦像の写真を並べて掲載した〉と、もっともらしく記されている。そのうえで、記者が「WiLL」(ワック)の記事を片手にミソンさんの父親を直撃し、「本当に美善が少女像のモデルなら不愉快です」なるコメントを掲載しているのである。

 やっていることがアホすぎる。

じゃあ田中氏が何を根拠にしているのかというと……。

〈では、一体どのようにして、この像ができたのであろう。インターネットでみると、これについて、多くの人たちが疑問を抱いていることがわかる。そして驚くべき由来が書かれていた。〉(前掲・田中英道氏の記事)

 そう、完全に「ネットde真実」(笑)ってやつなのだ。

なお、このあと田中氏は、ネットに書かれている「由来」を丸呑みして、少女像はもともと米軍装甲車に轢き殺された少女の像としてつくられ、それがのちに慰安婦問題を象徴する像として転用されたと断言。被害者のミソンさんの遺影と少女像の写真を見比べて、〈その死んだ少女の顔とこの慰安婦像と呼ばれる少女像とは、ほぼ同じ顔ではないか〉と驚いてみせ、〈何と杜撰な置き換え〉〈これほどあきらかな典拠をもった像を、別の目的の像に転用するのは、明らかに盗作、偽作の類である〉と猛批判してから、こんな持論で結んでいる。

〈イコノロジー(図像)を間違えた像は、意味がない像となる。つまり韓国の慰安婦像は、実質的に意味がない像なのである。

 私たちが、これを米軍による犠牲者像とはっきり言うことによって、少女像を無意味化することが必要だ。少なくともこれは慰安婦像ではない、と否定することによって、韓国の反日政治運動のシンボルの虚偽性を明確にし、彼らの運動のレベルの低さを笑うべきだ。そんな像をいくら作っても、意味はない、というべきなのである。〉

 戦中の日本軍による従軍慰安婦を象徴する像、いわゆる「慰安婦像」をめぐる日本国内の騒乱はとどまることを知らない。先月、米サンフランシスコ市の慰安婦像受け入れ承認に吉村洋文・大阪市長が姉妹都市関係の解消を宣言したのに続き、韓国釜山市の少女像に対し、姉妹都市の福岡市が年内にも幹部を釜山に派遣、像への懸念と撤去への尽力を求めることが報じられた。

 釜山の少女像は、昨年12月、市民団体が日本総領事館の前に設置したもの。安倍政権は、韓国政府へ抗議するとともに、駐韓大使一時帰国というトンデモ行為で恫喝した。一部報道によれば、今回の福岡の件では、同市の総務企画局長が、前述のサンフランシスコと大阪の事例を例に挙げ、「慰安婦像問題が姉妹都市関係の解消に発展するケースがある」などと伝える方針だという。明らかに、これまでの安倍政権の強行方針を受けて、都市間の国際交流を取引材料にした圧力行為だろう。

 しかも、恐ろしいのは、日本側がこうした国際感覚皆無の暴挙に出ているにもかかわらず、国内マスコミからはその姿勢を批判する声がまったくあがっていないこと。むしろ産経新聞や「週刊新潮」(新潮社)、「週刊文春」(文藝春秋)などは、「慰安婦像問題」をあれやこれやと囃し立て、韓国に対する憎悪と慰安婦問題自体をなかったことにしようとする歴史修正主義を扇動しまくっている。

 とりわけ、先週発売の「週刊文春」12月7日号の特集「『慰安婦像』の正体を暴く!」は、近年稀に見るトンデモだった。文春は「韓国総力取材」と銘打って、サンフランシスコの慰安婦設置問題などを取り上げているのだが、そのなかにこんなくだりが出てくる。

〈一方で、彼らが拠り所とする“オリジナル”の慰安婦像をめぐっては、日本の官邸関係者も注目する「ある噂」がある。
「あの慰安婦像はもともと、慰安婦とは全く関係ない、事故で亡くなった少女をモデルにした像を転用したものだというネット情報です」(別の官邸関係者)
 確かにネットを検索すると、〈慰安婦像のモデルは、〇二年六月十三日、韓国北部の揚州市で、米軍の装甲車に轢かれて死亡した二人の女子中学生の一人〉とする情報が流布している。〉

 ここで文春や「官邸関係者」が言っている「慰安婦像」とは、2011年、ソウル日本大使館前に建てられた、おそらく一般にもっともよく知られている少女像のこと。椅子に腰掛けるチマチョゴリ姿の少女と、誰も座っていないもう一つの椅子が並ぶ。正式な名称は「平和の碑」ないしは「平和の少女像」で、彫刻家のキム・ウンソン、ソギョン夫妻による芸術作品だ。

 ひるがえってつまり、文春は“有名な少女像のモデルは実は慰安婦とは全然関係ない少女だった!”と言っているのである──って、ちょっと待ってくれ。官邸関係者なる人物がいう「ネット情報」とか、地の文の「確かにネットを検索すると」とか……いやいや、それ、完全にネトウヨ界隈のデマだから!


大丈夫か文春!? ネタ元は官邸、根拠はネトウヨ情報とWiLLのトンデモ記事


 実際、いったい文春が何を根拠のその「ネット情報」を報じているのかというと、前の引用部に続けて〈月刊誌「WiLL」一七年十月号は、「『慰安婦像』のモデルは米軍犠牲者の少女だった」と題して、被害者の一人、沈美善(シム・ミソン)さんと慰安婦像の写真を並べて掲載した〉と、もっともらしく記されている。そのうえで、記者が「WiLL」(ワック)の記事を片手にミソンさんの父親を直撃し、「本当に美善が少女像のモデルなら不愉快です」なるコメントを掲載しているのである。

 やっていることがアホすぎる。だいたい、文春が挙げている「WiLL」のソレは、「新しい歴史教科書をつくる会」元会長の田中英道氏が寄稿したものだが、じゃあ田中氏が何を根拠にしているのかというと……。

〈では、一体どのようにして、この像ができたのであろう。インターネットでみると、これについて、多くの人たちが疑問を抱いていることがわかる。そして驚くべき由来が書かれていた。〉(前掲・田中英道氏の記事)

 そう、完全に「ネットde真実」(笑)ってやつなのだ。なお、このあと田中氏は、ネットに書かれている「由来」を丸呑みして、少女像はもともと米軍装甲車に轢き殺された少女の像としてつくられ、それがのちに慰安婦問題を象徴する像として転用されたと断言。被害者のミソンさんの遺影と少女像の写真を見比べて、〈その死んだ少女の顔とこの慰安婦像と呼ばれる少女像とは、ほぼ同じ顔ではないか〉と驚いてみせ、〈何と杜撰な置き換え〉〈これほどあきらかな典拠をもった像を、別の目的の像に転用するのは、明らかに盗作、偽作の類である〉と猛批判してから、こんな持論で結んでいる。

〈イコノロジー(図像)を間違えた像は、意味がない像となる。つまり韓国の慰安婦像は、実質的に意味がない像なのである。
 私たちが、これを米軍による犠牲者像とはっきり言うことによって、少女像を無意味化することが必要だ。少なくともこれは慰安婦像ではない、と否定することによって、韓国の反日政治運動のシンボルの虚偽性を明確にし、彼らの運動のレベルの低さを笑うべきだ。そんな像をいくら作っても、意味はない、というべきなのである。〉

 “少女像のモデルは無関係の人物→慰安婦問題の運動は虚偽”という凄まじい論理展開に閉口してしまうが、しかし実際には、嘲笑すべき低レベルをさらけ出しているのは田中氏と、そのトンデモ記事を根拠みたいに挙げている文春、そして文春のネタ元の「官邸関係者」のほうである。

 もう一度言うが、その「少女像は米軍装甲車事故被害者像の転用」説なるものは、ネトウヨ界隈で流通しているまったくのデタラメに他ならないからだ。


慰安婦像の制作者がインタビューで明かした、本当の制作過程


 いい機会なので、このネトウヨデマをちゃんと検証しておこう。まとめサイトやネトウヨブログらが言うその「根拠」は、前述の2002年の米軍装甲車による事故で亡くなった2人の中学生のうちのひとり、シム・ミソンさんの顔写真と少女像の顔が「似ている」、という主張につきる。ちなみに、もう一人の被害者であるシン・ヒョスンさんは「予算的な問題」で制作されず、少女像の誰も座っていないほうの椅子はその名残であるなどともっともらしげに主張されるケースもある。

 しかし、そもそも少女像の顔とミソンさんの顔は、率直に言って「まあ、似ていると言われるとちょっと似ているかもなあ」というレベルである。しかも、その数少ない類似点も、せいぜい肩上までのボブカットと前髪の分け方の方向、つまり髪型が似ているだけだ。

「WiLL」17年10月号が掲載したシム・ミソンさんと少女像の“比較画像”(田中英道「「慰安婦像」のモデルは米軍犠牲者の少女だった」)

https://lite-ra.com/2017/12/post-3635_3.html

 事実、文春によれば、ミソンさんの父親もモデル説について「初めて聞きました」としており、記者から「WiLL」の比較画像を見せられてから「言われてみれば似ている」と目を細めたという。理解しがたいことに、ネットではこの文春の記事が「父親がモデル説を認めた!」みたいな話に歪曲されているが、むしろ逆で、これは実の父親がいまに至るまで「少女像は娘に似ている」などとは思いもよらなかったことの証左だろう。

 もちろん、本サイトは「似てる・似てない」の水掛け論をやろうというのではない。デマであることの決定的な証拠があるのだ。それは、『〈平和の少女像〉はなぜ座り続けるのか』(岡本有佳・金富子責任編集/世織書房)に収録されている少女像の制作者・キム夫妻のインタビューを読めば自明なのである。

 まず、同書のなかで妻のソギョン氏は、少女像がなぜ少女の形をしているのかについてこう述べている。

「私自身、女性として、娘をもつ母親として、この像をどうつくるか、さまざまなアイディアを考えました。もともとはハルモニの像をつくろうと思いました。しかし、連れて行かれた当時のようすを象徴的に表現するにはどうすればいいかを考えたすえ、あえて一五歳前後の少女の姿にすることにしました。おちろん、一〇代から二〇代後半までさまざまな年齢の女性が連れていかれたことは知っていました。しかし少女時代を奪われたことを象徴的にあらわそうと思ったのです」(『〈平和の少女像〉はなぜ座り続けるのか』より)

 また、ネトウヨが「転用」の根拠とする髪型についても、ソギョン氏は制作過程をこのように明かしている。

「頭は、三つ編みやきれいに切りそろえられた短髪ではなく、ちょっと乱れています。無理矢理切られてしまったということを象徴して、ふぞろいな形になっています。(中略)はじめはお下げ髪にしてみたり、きれいに揃ったおかっぱにもしてみましたが、最後にこのようにむざんに切られた、ザクザクの髪にしました。切られた髪は家族とのつながり、国とのつながりを無理矢理絶たれたことも象徴しています」(同前)

 どうだろうか。この時点で、ネトウヨたちが言う「別の事件の被害者をモデルにした像をのちに慰安婦問題の少女像に転用した」なる説は、なんの証拠もないデタラメであることが明らかだろう。そのうえで、「いや、ソギョン氏は後付けの嘘を言っている」などとほざく輩のために、さらに決定的な証拠を提示しておきたい。

米軍装甲車事件で亡くなった中学生を追悼する作品は、まったくの別物!


 前述のインタビューによると、たしかに、キム夫妻は大学生のころから美術家としてどんな社会的活動ができるかを考え続けてきたといい、例の米軍装甲車事件で亡くなった中学生を追悼する作品も発表している。

 だが、その作品をみると、少女像の形象とは全然ちがって、被害者のミソンさんがヒョスンさんと肩を組んで立っているというもの。少女像と比較してもかなり幼い印象であって、ミソンさんの髪型もネトウヨたちが根拠とする遺影とはまったく異なる。ようするに、少女像とは一点の類似性もない別物なのだ。

ネトウヨが「少女像は転用された」と主張する元の像の実際の姿(『〈平和の少女像〉はなぜ座り続けるのか』より)

https://lite-ra.com/2017/12/post-3635_4.html


 もうひとつ加えておくと、実は、このデマについては、産経新聞の元ソウル支局長である加藤達也・社会部編集委員も、今年6月17日に行われた公益社団法人國民會館主催の講演会のなかで「慰安婦像とは別物」と明言している。同会HPにその質疑応答が記されているので引用しておこう。

 質問者「慰安婦像は、女子中学生2人が在韓米軍の装甲車にひかれる事故で亡くなったのを追悼して作ったところ、日本との慰安婦問題が出てきたので、それを今、慰安婦像にしていると聞きましたが、真実でしょうか」

 加藤氏「当時の記録を調べましたところ、米軍装甲車の女子中学生轢過事件の後にできた像と、慰安婦の像は別物です。デザインが違います。もう少し調べたいと思っておりますが、今のところ関係ないと思っています」

 何度でも繰り返すが、「少女像は別の事件の被害者をモデルにした像の転用」なる話は、ネット発のデマに他ならない。しかし、あらためて戦慄するのは、そのデマが単なるネット上の与太話に終わらず、極右界隈が真実として拡散し、ましてや「週刊文春」が「『慰安婦像』の正体を暴く!」と題して報じた、という事実だろう。

 言っておくが、あの文春が全然裏を取りきれないまま報じたことや、記事の問題部分がもともと「官邸関係者」の話から始まっていることを踏まえれば、ことはかなり重大だ。

 本サイトでは何度か伝えてきたが、文春はこれまでも官邸リークに乗った記事を数多く掲載してきた。その最たるものが、例の「週刊新潮」が追及した「山口敬之『ベトナム韓国慰安所』スクープ捏造問題」だろう。新谷学編集長の肝いり企画で安倍政権御用ジャーナリストである山口氏が執筆したこの記事は、数々の捏造が明らかになっているが、さらに安倍政権の外交を援護する目的で書かれたものだったと新潮に指摘された。実際、山口氏と政府との間ですり合せをしているメール記録という具体的な証拠も挙げられている。

 そう考えると、今回、文春が出したデタラメな慰安婦像記事の背景にも、安倍官邸がいると想定せざるを得ないのだ。政権と日本トップの週刊誌が手に手をとって、ネトウヨばりに頭の悪い情報操作を仕掛けている。悪夢としか言いようがない。

(小杉みすず)
https://lite-ra.com/2017/12/post-3635.html

田中英道さんは IQ が低いと言うより唯の詐欺師なのかも

田中英道さんの著書すべてが資料を改竄捏造している様に思えてきますね

16. 中川隆[-12481] koaQ7Jey 2019年2月03日 15:29:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告


書評『戦後日本を狂わせた左翼思想の正体』田中英道

2014.10.12 Sunday


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どんなアホが田中英道のクルクルパー本を読んでいるのか?


amazon の田中英道のクルクルパー本のカスタマーレビューは何故か 5つ星の大絶賛ばかりですね:

戦後日本を狂わせた左翼思想の正体―戦後レジーム「OSS空間」からの脱却 – 2014/10
田中 英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E7%8B%82%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%81%9F%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%80%8COSS%E7%A9%BA%E9%96%93%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%84%B1%E5%8D%B4-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4886564097

宮崎正弘◆書評

現代世界を襲うグローバリゼーションの深い根はどこから来ているのか
ユダヤ人の国家破壊、国境撤廃、政府の規制撤廃の根底にある「OSS空間」

田中英道『戦後日本を狂わせた左翼思想の正体』(展転社)

CIAの前身だった情報工作・謀略機関は「OSS」である。ここに左翼リベラル、コミンテルンのスパイ、国家破壊を無上の喜びとする左翼が集った。

かれらの大半がユダヤ人であり、東京裁判の裏方で暗躍し、憲法を日本に押しつけ、また南京大虐殺というつくり話をでっち上げた。

彼らを捉えていた思想はマルクス主義のフランクフルト学派の影響を受けた疑似インテリで、代表格はハーバード大学教授だったアンドルー・ゴードン。その残映の亜流がジョン・ダワー、エズラ・ボーゲルなどに受け継がれ、ジューヨクタイムズとよばれる左翼新聞を根城にいまも反日論調を張っている。この新聞と提携関係にあり、似通った論調を繰り出すのが朝日新聞である。

田中氏は、これを「OSS空間」と名付けた。

戦後レジームの克服は、OSS空間からの脱却でなければなるまい、と主張される。

評者(宮?)は、かつて丸山真男を「正真正銘のバカ」と批判してきた。それで十分なのである。読むに耐えるような内容ではない。

ところが、いまもって保守系知識人の一部にまで、まだ丸山政治学の呪縛から逃れられずに転倒した論陣をはる人が居る。とうに消えてしかるべき筈の丸山政治学の残映が日本の論壇を暗くしている。亜流はさきごろなくなった坂本儀和らにも顕著だが、内田樹とかの論考(たとえば『辺疆論』などに)に露骨に現れている。
保守の中にまだ内田樹をほめる人がいるので、再近作を読んでみたが、三行で捨てた。のっけから臭気が漂う、妖怪のような本である(題名も忘れた)。

田中氏は淡々と、客観的事実だけを列挙し、しずかに、しかに適格に敵を討つ。
また評者は『文春の三バカ』として半藤一利、立花隆、保阪某をあげておいたが、さすがに『歴史探偵』と自称する半藤のでたらめな歴史読本的なウソは暴かれた。だが文春を根城に活躍する立花隆は、自らが否定したはずの権威に執着して、わざわざ安田講堂を借りてアカデミズムを偽装し、憲法九条やら戦争放棄やらを論拠に安倍政権批判を展開している。かれは『悪質な左翼売文業者』というべきか。

大江健三郎は『縦に書いたフランス語』、吉本隆明は『長屋のテツガク屋』と評者も批判したこともあるが、本書のなかで、田中氏の吉本批判もじつに適格である。
すなわち吉本は「国家観を解体したところで、あるいは宗教を否定してところで、それが人間にとって必要だという観点がなければ、無責任な思想になってしまう。まさにフランクフルト学派の「反権力」「反権威」の思想の無責任性とおなじなのだ。それが実を言うと、国家を持たない左翼ユダヤ人の思考の産物であった」。

この稿を書き終えようとしたとき、ノーベル文学賞に日本のマスコミだけがはしゃいだ「最有力候補」なる村上春樹が受賞を漏らしたニュースに接した。嗚呼、好かったというのが率直な感想である。

かれは日本人だが、日本を語る小説ではなく、伝統を無視し、無国籍、グローバリズム、反国家である。つまり反原発、環境、男女共同参画などといった新左翼と発想が同根である。

田中氏が言う。

「(原発反対などは)ソ連のコミンテルンのような政治的な扇動とは異なり、自発的な大学人やジャーナリストなどの知的な様相をもった社会運動である。それは道徳的な退廃を伴っており、陰険な恐ろしい動きと言ってもよい」
なぜなら「こうした変種の隠れマルクス主義の社会変革の意図を見抜けな」いわけで、その理由は「反権威主義という名の、ユダヤ人による欧米の伝統社会の破壊と同じく、日本の道徳心の荒廃かをもたらすからである」

経済面においても然り。

「グローバリゼーション、新自由主義の名の下に、金融で世界を支配しようという試み」がウォール街に存在しているが、「これらは、経済において国境をなくし、政府による規制を撤廃し、資本の自由な移動をめざすものだが、その結果が隣国の中国や韓国におけるように、外資による資本占領や資本逃避によって混乱し、窮乏化している」。

久しぶりに一行一行を噛みしめて読んだ良書である。
http://soneaozora.jugem.jp/?eid=1526

17. 中川隆[-12480] koaQ7Jey 2019年2月03日 15:58:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

政治や近代史の話なら、資料を改竄・捏造しても簡単には ばれないけど、遺伝子学、考古学や民族学の話になると、論証がデタラメなのが直ぐにわかってしまいますね:

2018.12.09
【トンデモ】土偶は近親相姦による先天的障害児を象った(つくる会元会長・田中英道)
https://rondan.net/817#i-5

Contents

1 古代人は近親相姦が多く、異形人が多く生まれる

2 土偶はダウン症

3 「遮光器土偶」は「腫れ眼土偶」

4 淡路島が「近親相姦」「異形児」の根拠

5 まとめ


古代人は近親相姦が多く、異形人が多く生まれる

今回紹介したいのは、「つくる会」元会長であった田中英道氏による論文「縄文土偶は異形人像である」


(収録:『高天原は関東にあった:日本神話と考古学を再考する』勉誠出版, 2017)
https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E3%81%AF%E9%96%A2%E6%9D%B1%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%A8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E3%82%92%E5%86%8D%E8%80%83%E3%81%99%E3%82%8B-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4585221832

です。

実は田中英道氏のご専門は西洋美術史であり、その分野の経験を生かして、土偶の姿形を虚心坦懐に観察して、その造形の秘密を解き明かそうとしたのがこの論文です。


日本各地から土偶が多数出土していますが、その制作目的や用途などは未だに定説がありません。これは古代日本が無文字社会だったため、記録が残っていないことが主な原因です。したがって、土偶の制作目的や用途などを考察する際には、研究者の主観が反映されてしまう危険があるため、禁欲的になる必要があります。しかし田中氏にそのような危険を恐れず、次のように断言します。


土偶の形象をありのまま見ることから始めよう。まずすべての土偶に共通することだが、顔の目鼻立が普通ではなく、いずれも手足が短く小さい。つまりその体のつくりが正常な人間の姿には見えない、ということである。するとこの形態異常はこれらが異形人を表現した以外には考えられないのである。その異常性を正直に指摘する以外にないのである。

 田中英道 『高天原は関東にあった:日本神話と考古学を再考する』勉誠出版, 2017, p. 20


土偶の姿が写実的に人間を象っていないことは一見すれば明らかですが、だからといってそれが「この形態異常は異形人を表現した以外には考えられない」というのは憶断も過ぎるでしょう。たとえば月刊ムーでは宇宙服を着た異星人だと言っています。

この様な極論が導かれる背景には、古代社会では近親相姦が多く行われ、異形人が多く生まれていたに違いないという田中氏の想像があります。


古代人の創造世界はより限定されており、彼らの観念体系は、日頃接する世界以上にそう飛躍するものではない、と考えるのが常識であろう。すると彼らが接触するもので特別なものはなにか、といえば、人間自身である。また「近親相姦禁止」という、現代のタブーが必ずしも行われていなかった社会での営みがあるならば、そこからおのずから想定されるのは異形人への注目であるだろう。

 田中英道 『高天原は関東にあった:日本神話と考古学を再考する』勉誠出版, 2017, p. 19

つまりこれらを要約すれば、「古代日本では近親相姦が行われていた、そのため異形人が多く生まれ注目されていた、その異形人を象ったものが土偶である」ということになるでしょう。もちろんこの根拠は田中氏がそう思ったに尽きます。



土偶はダウン症


多くの保守論客に共通する特徴として、自分の思ったことや直感は絶対的に正しいという過信があります。そして、自分が間違っているという可能性はほとんど考慮されません。

田中氏もそれに倣い、土偶を次々と先天的障害児認定していきます。まず、十字型土偶の顔の造形を見て次のように断言します。


田中英道 『高天原は関東にあった:日本神話と考古学を再考する』勉誠出版, 2017, p. 21


その開いた口を見ると、この顔から窺い知れるのは「痴呆」の顔である。……。頭部だけの土偶は口を丸く開け、小さな眼が隈取られたダウン症を示しているように観察される。

 田中英道 『高天原は関東にあった:日本神話と考古学を再考する』勉誠出版, 2017, p. 21

……。まぁそう思うのは自由ですが、「単に口が開いていて、小さい目が隈取られている」だけでダウン症認定するというのは、個人の感想に過ぎないのであって、論文で堂々と宣言することではないでしょう。

これに続いて同じくダウン症を象ったという土偶が紹介されます。

 田中英道 『高天原は関東にあった:日本神話と考古学を再考する』勉誠出版, 2017, p. 21


このようなダウン症候群の眼と口が中期から一貫してあるのを見ると、先天的な染色体異常からくるもので、その体の発達・成長の障害があるとみなければならない。それは土偶が一貫して身体の未発達の体躯であることが説明出来るであろう。

 田中英道 『高天原は関東にあった:日本神話と考古学を再考する』勉誠出版, 2017, p. 22

これも田中氏一流の独断であり、他の可能性も幾らでも考えられます。たとえば、単に手足を長く作ると壊れやすいので短く作っただけかもしれません。また、胸の豊満さや、腰のくびれを意識した体躯の土偶も多くありますから、土偶すべての体躯が未発達とは憶断に過ぎないでしょう(後述する遮光器土偶)。

「遮光器土偶」は「腫れ眼土偶」

これに続き田中氏は、土偶の造形を観察しながらダウン症だとか、巨人症だとか、顔の末端肥大症だとか自信満々に次々と決めつけていきます。土偶は写実的に造られていた保証はどこにもないはずなのですが、土偶の形と外部の人間と姿が一致するとお考えのようです。

そして土偶のなかで最も高名な遮光器土偶の眼の部分は、眼病であると断言されます。


名高い亀ヶ岡のそれや、宮城県恵比寿田遺跡は眼が爛れて潰れた状態が、形式化して美的になっているものである。この形式化は、晩期のこの種の像が、さらに形式的となり、ダウン症的な目蓋や唇の腫れの傾向は残しながら、左右対称形にしたり、頭の装飾も形式化していることでもわかる。この変容の過程は、このような眼病者であり異形人であった人物像そのものが、ひとつの象徴像となって、この「腫れ目土偶」が次々と作られていったことで予想がつけられる。

 田中英道 『高天原は関東にあった:日本神話と考古学を再考する』勉誠出版, 2017, p. 25

百聞は一見に如かず、はたして「遮光器土偶」が「腫れ目土偶」に見えるかどうかは、皆さんの判断に委ねたいと思います。

青森県亀ヶ岡遺跡出土 遮光器土偶(Wikipedia Public domain)

淡路島が「近親相姦」「異形児」の根拠

このように田中氏の所説は、単に「そう見える」「そう思った」という範疇を超えるものではありません。さすがにこれだけでは証拠不十分だと思ったのか、田中氏は記紀神話のうちに近親婚と不具児出産の示唆する記述があると主張します。しかし、この根拠とされる記述とは、なんとイザナギとイザナミの「国生み」だというから驚きです。


最初から驚かされるのは、『古事記』の国生み神話の段で、イザナギノミコト、イザナミノミコトの二柱の神は、国生みの最初に水蛭子を産んでしまい、葦の船に乗せてこれを流し捨てる、というくだりがあることだ。さらに淡島を生んだが、それも子供の内に数えられなかった。二柱の神は「私たちの生んだ神はどうも出来がよくない。天つ神のところに言って伺ってみよう」と参上した。……

イザナギ、イザナミは兄弟の近親相姦であるため、そこからこのような異常児が生まれるのは十分可能性のあることだが、少なくとも神武天皇までの時代はこれが一般化していたようである。

 田中英道 『高天原は関東にあった:日本神話と考古学を再考する』勉誠出版, 2017, pp. 26-27

まさか土偶が異形人像であるこをを証明するために淡路島が根拠にされるとはビックリです。また「兄弟の近親相姦であるため、そこからこのような異常児が生まれるのは十分可能性のある」の言説は全く不可解で、近親相姦でなくとも先天的障害児が生まれる可能性は十分にあります。このような非論理的な言説は誤解を招きやすく、配慮がないと言わざるを得ません。

さらに、『古事記』『日本書紀』にある天地開闢や国生みといった神代の記述は「神話」であって、縄文時代(前15000年-前4世紀頃)の姿を描いた「歴史」ではありません。『古事記』は712年に編纂されたものであって、その成立も古くありません。にもかかわらず神話を根拠にして、縄文時代の歴史を語ってしまうというのは、まったく説得力がないでしょう。

まとめ

以上をまとめれば、田中氏は土偶を虚心坦懐に観察し続けた結果、近親相姦によって生まれたダウン症などの異形人を象ったものが「土偶」であると結論付けます。さらに、記紀神話の「国生み」のエピソードを根拠に、縄文時代には近親相姦と異形児が多かったという、神話と歴史を混同したアクロバティックな理論を展開します。

まぁ月刊ムーでは、同じく土偶を虚心坦懐に観察し続けた結果、宇宙服を着た異星人を象ったものが「土偶」であると結論付けていましたから、いまさら土偶が何に見えてもおかしくはないでしょう。しかし田中氏の学術論文は、月刊ムーの記事と大差ないということは肝に銘じておく必要があると思います。

田中氏はこのほかにも「卑弥呼神社が無いから卑弥呼は存在しなかった」といった超絶理論を展開していますので、よろしければご参照ください。

コメント


匿名 より: 2018年12月26日 1:52 PM


これは酷いです。論壇ネットさんのいう通りです。どうして訳の分からないことを言って日本を貶めるのか?
本当に腹立たしいです。

“土偶の姿が写実的に人間を象っていないことは一見すれば明らかですが、
だからといってそれが「この形態異常は異形人を表現した以外には考えられない」というのは憶断も過ぎるでしょう。

たとえば月刊ムーでは宇宙服を着た異星人だと言っています。

この様な極論が導かれる背景には、古代社会では近親相姦が多く行われ、異形人が多く生まれていたに違いないという田中氏の想像があります。“

との論壇ネットさんの意見に全面賛成です。これは正真正銘の「トンデモ」です。
普通に見たら宇宙人です。

https://rondan.net/817

18. 中川隆[-12479] koaQ7Jey 2019年2月03日 16:11:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

>土偶は近親相姦による先天的障害児を象った(つくる会元会長・田中英道)


土偶もそうですが、アフリカ、ニューギニアやアメリカ・インディアンの異形の仮面や彫像はすべて死霊や先祖の あの世での姿を描いたものです。

生きた人間を写実的に表したものではありません:


西洋や東洋の美術が到達し得なかった高みに達している「作品」


 北極や南極のような人が住んでいない雪や氷の世界で仕事をすることが多い私だが、そのため、無性に人恋しくなることがある。

 それゆえにか、集めているのがアフリカの各部族が祭事のために彫った木彫の仮面だ。これらの仮面は観光客用に媚びを売っている土産ではない。自分たちの祭事に使うための魂がこもっている。そして、これらの仮面は、西洋や東洋の美術が到達し得なかった高みに達している「作品」だと私は思う。

 たとえば、写真一を見てほしい。これはアフリカの西海岸に近いサハラ砂漠の内陸国、マリの面だ。これほど憂愁に満ちた表情を持つ仮面は、日本の能面を含めて、世界でもめったにあるまい。作った人にとっては宗教的なものに違いないが、この憂いの深さは、例えばジャコメッティをほとんど凌ぐほどの芸術に見える。緑と黄色の耳飾りの華やかさと憂愁のコントラストが見事だ。

 仮面の高さは24センチ。この仮面は木彫だが、木の上に薄い真鍮板を被せ、夥しい数の、丸い頭の釘で留めてある。これは、同国に住むマルカ部族の仮面の特徴である。

 じつは、アフリカの国々は、いまはたまたまひとつの国になっていても、そこに住む部族は、人種も文化も違うことが多い。フランス、英国、オランダ、ベルギーなどかつての列強である文明国の、いわば勝手な都合で、それぞれの国にされてしまったのである。

 このため、たとえば象牙海岸(コートジボアール)ひとつとっても、何種類もの違う種類の仮面がある。これはそれぞれの部族によって作る仮面がまったく違うからである。それゆえアフリカの西海岸の部族の仮面と東海岸のそれとは、まったくの別物である。

 フランス・パリの市内、新オペラ座の近くの裏町にあるピカソ美術館には、ピカソの描いた作品だけではなく、ピカソ本人が収集した絵や彫刻も飾ってある。これらにはピカソと親交があった画家の絵のほか、アフリカの木彫もある。動物とも人間ともつかない原始芸術風のアフリカの木彫もある。これらアフリカの木彫から、彼が芸術のインスピレーションを受けていたことは間違いがあるまい。

 写真二は同じマルカ族の、二本の角が生えた男の仮面である。角(つの)も木製の芯が金属板で丁寧に覆われている。製作の基本的な手法は写真一のものと同じだが、真鍮板を留めている釘の数は、こちらのほうがずっと少ない。写真一が釘の配置と数で表現している肌の質感を、こちらはまるで彫金のような真鍮板のディテールで表現している。

 この写真二の仮面が表そうとしているものは、西洋美術のジャコメッティが指向したものと遠くないように見える。くぼんだ眼窩と小さな口。デフォルメと簡略化と、そして必要なところは強調しているというバランスが絶妙である。

 写真ではちょっと見えにくいかもしれないが、両方のこめかみと、そこから下がった真鍮の長いもみあげの先に深紅のリボンが、合計四ヶ所に着いている。これらは、写真一と同様、金属の面に鮮やかな彩りを添えている。 これは、兜を被った戦士の面ではないだろうか。部族のための闘いに赴く戦士の憂愁を表しているように見える。仮面の高さは39センチと、かなり大きなものだ。


 写真三は象牙海岸の女性の仮面だ。アフリカの仮面には比較的柔らかい木に彫って彩色したものも多いが、この仮面には彩色はない。その代わり、とても硬くて目が詰んだ木で、細部までじつに精密に彫られている。とくに頭髪の彫刻は細かい。彫るのには大変な手間がかかったに違いない。

 この仮面は、私には貴婦人の面に見える。みごとに鼻筋が通り、目が大きい。頬も唇も豊満だ。両眉が繋がっているのが不思議に見えるかもしれないが、これは象牙海岸の仮面の特徴である。

 美しいばかりではない。この仮面は、見る角度によって微妙に表情を変える。この写真の角度より、少し下から眺めると、ずっとふくよかで、もっと穏やかな顔になる。

 表情の品の良さ、穏やかさ、見える角度によって変える表情は、すぐれた日本の能面を凌ぐ出来栄えだと思う。仮面の高さは38センチある。

 ここでは私の集めた仮面全部を掲げる紙数はないが、なかにはジョアン・ミロ風のとぼけた丸顔も、穏やかな笑顔も、道化も、また、まるで秋田のなまはげのような怪奇な仮面もある。興味のある方は「魂の詩(うた)」と名付けて私のホームページ(http://shima3.fc2web.com/african-masks/)に、そのうち二十数個を公開しているので、ご覧いただきたい。

 私は、これらの仮面を西欧各国の蚤の市で買うことが多い。日本と違ってアフリカ美術は彼の地では美術品のジャンルのひとつになっていて、専門の店や画商のところに行けば、驚くほど高い値段で、白人たちが売っている。

 しかし、この高い価格が、製作者や、画商以外の流通に関与した人たちに還元されていることは到底、考えられない。一種の搾取というべきだろう。

 しかし、道端で開かれている蚤の市では、仮面を作った人たちの後裔が、他の部族の面も並べて売っている。値段も、画商と比べれば、びっくりするくらい安い。いまのアフリカの国名ではこれこれだが、じつは部族にはこれとこれがあり・・、と言った詳しい話や由来を聞かせてくれる。しかし他の部族についてはほとんど知らないことも多い。

 だが、自分や一家が欧州に来た顛末を話してくれたり、一緒に売っている民族楽器を驚くほど器用に奏でてくれたりする。

 ヨーロッパとアフリカの結びつきは長くて深い。第二次世界大戦前には、多くの西欧の国がアフリカに植民地を持っていた。戦後、それぞれの植民地は独立を果たしたが、それまでの歴史の影響がいまだに強く残っている。たとえば、一般的にアフリカ西海岸の国々はフランス語、東海岸は英語が通じるのもその影響のひとつだ。

 私がつきあっている西欧の知識人の心には、アフリカに対する原罪という底流が流れている。それなりの文化を持っていたアフリカを、植民地として収奪して蹂躙してしまっただけではなく、現在に至るまで貧しくて病気も多く、安定しない状態にしてしまったという贖罪意識なのであろう。

 私の専門である地球物理学からいえば、そもそもアフリカには大地溝帯という大地の割れ目が走り、世界の他の地域よりはずっと高い地熱がある。ここは大陸プレートが割れていずれ大西洋のような海が誕生しようとしているところだ。この地球の息吹は少なくとも数百万年、つまり人類の誕生以前から続いている。

 地球上で最初の人類が発生したのがこのアフリカだ。また、地球上でプレートが陸上で誕生しているのはここだけだ。この二つに関連があるのかないのか、いまだ解けぬナゾとはいえ、なにかの関連を思いながら、遠い昔に思いを馳せさせてくれる仮面なのである。
http://shima3.fc2web.com/sibusawazaidan55.htm


魂の詩・アフリカの仮面

私が持っているアフリカなどの面(マスク、 仮面、African Mask、African Art)をご紹介します。なお、これらを作った「部族 tribes」と今の「国」とは1対1に対応しているわけではなく、また今の国境を越えて同じ部族が住んでいることも珍しくありません。アフリカの国々の国境線は、かつての植民地争奪戦や国際政治の力学によって押しつけられたことも多かったわけですから。
19世紀末以前のアフリカでは、欧州列強の植民地は大陸全体の約10%にしかすぎませんでした。

しかし、アフリカの分割は、1884年のベルリン列国会議から1914年に勃発した第一次世界大戦にかけて、アフリカは欧州列強に分割されていき、ほぼ全域が植民地となってしまったのです。

そして、その影響は、多くの国が独立を果たした現在でも、色濃く残っています。


1-1:マルカ部族(いまのマリ)の真鍮でカバーした木製の「憂いの面」

華やかな耳飾りの陰で、この憂いの深い顔には、どのような感情が込められているのだろう。戦の憂いだろうか。

木製の面の上に、薄い真鍮板を張り付けて、おびただしい数の丸い頭の釘で留めている。これは マルカ(MARKA)部族 (WARKAとも書く)の面の特徴である。

このマルカ部族は、マンデ(Mande)部族の一部だと思われており、マリから象牙海岸にかけて暮らしている。下の西アフリカ内陸の部族分布図にはWarkaと書かれている。人口は知られていない。

バンバラ(Bambara)部族(下の部族の地図の中央部にある)とは別の部族だが、Bambara部族の強い影響を受けているという。また、5-2のセヌーフォ(Senufo)部族とも近くで暮らしている。

(高さ24cm。2001年、フランス・パリ、 レピュブリーク大通りのアフリカ民芸店の地下で買う)


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1-2:マルカ部族(いまのマリ)の、真鍮でカバーした木製の「戦士の面」

上の1-1と同じように、木製の面の上に、薄い真鍮板を全面に張り付けて、丸い頭の釘で留めている。

角も木製の芯が金属板で丁寧に覆われている。製作の手法は上のものと同じだが、釘の数は、こちらのほうがずっと少ない 。

西洋美術でいえばジャコメッティだろうか。デフォルメと簡略化と、そして必要なところの強調のバランスが絶妙である。

見えにくいが、両方の額と、そこから下がった髪の先に赤いリボンが、合計4ヶ所に着いている。 これは、戦士の面ではないだろうか。

(高さ39cm。1991年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う)


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1-3:マルカ部族(いまのマリ)の真鍮でカバーした木製の「鳥の全身像」

では、このマルカ部族が、仮面以外のものを作ったら、どのような才能を発揮するのだろう。

抽象化された、しかし気品のある頭部や嘴、厚い胸、ピンと張った翼。背の高さ。これも、ジャコメッティなのである。あるいは、それを超えているかもしれない。

これはブルキナファソで昔から多く食用にされてきているホロホロ鳥にちがいない。ハゲタカやワシのような猛禽類ではあるまい。

左下の写真は、ホロホロ鳥の骨格標本である。マルカ族の鳥の立像が、身体の特徴をきちんと捉えながら、「芸術表現」としての抽象化が見事になされているのが見て取れよう。

また、抽象化された頭部の中でも、嘴の根元にある鼻の穴も表現されているなど、この鳥を良く知る者だけが表現できるディテールも盛り込まれている。

木製の像の上に、薄い真鍮板を全面に張り付けて、丸い頭の釘で留めている。両足で丸い石をしっかり抱えて立っている全身像である。


なお、ホロホロ鳥は、15世紀くらいから欧州でも食用にされ、フランス料理では美味な鳥として知られている。しかし、この鳥が部族の人たちにとって貴重な蛋白源であるのとちがって、フランス人にとっては、飽食の果ての贅沢な材料なのである。

なお、この鳥のモチーフは、マルカ部族にかぎらず、周辺の多くの部族の仮面にも使われている。しかし、このように金属をかぶせているのではなくて、木彫である。

(高さ40cm。2000年、フランス・パリ北東部の路上の、その日かぎりの蚤の市で買う)


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2-1:バウレ部族(象牙海岸)の木製の「ミロの面」

同じ象牙海岸でも、部族が違うのだろう。これは、まるでジョアン・ミロの世界である。眼とその表情も、口も、そして顔の輪郭も、どれもすさまじい表現力である。

木製の面に、要所だけ彩色されている。

これは象牙海岸の中央部に暮らしているバウレ BAULE部族(BAOULE, BAWULEとも書く)の仮面だ(下の部族の分布図参照)。

バウレ部族はBaule (Akan cluster of Twi)語を話す部族で、人口は40万人といわれている。約300年前にAsante部族(6-1)に西に追われて、いまの地に落ち着いた歴史を持つ。

バウレ部族の木彫りの仮面は、近くに住むセヌーフォSenufo部族(5-2)やグーロ Guro部族(2-3)の仮面に影響されているものもある、といわれている。しかし、この「ミロの面」は独特のものだ。


(高さ46cm。頭の上に、大きな木の輪が着いている。2001年、フランス・パリ南部のバンブの蚤の市で買う)


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2-2:同じバウレ部族(象牙海岸)の「貴婦人の面」

上の2-1と同じバウレ族が、まったく違う仮面も作る。これも木製の面だが木質が違い、表現はもっと違う。鼻筋が通り、目が大きい。

彩色はないが、とても硬くて目が詰んだ木で、細部まで精密に彫られている。とくに頭髪の彫刻は細かい。

この面は、見る角度によって、微妙に表情を変える。この写真の角度より、少し下から眺めると、ずっとふくよかで、もっと穏やかな顔になる。

この、角度によって表情を変えることや、彫りの品の良さは、日本の能面を凌ぐほどの出来栄えである。

(高さ38cm。2001年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う)


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2-3:隣のグーロ部族(象牙海岸)の「道化の面」

この木製の仮面は、徹底して道化ぶりを発揮している。部族を纏めるためには、このような役割が必要であったに違いない。

あでやかな彩色がされている。口のまわりが、なんとも言えない表情を醸し出している。

頭の上に、頭を前に傾げて面を突つこうとでもしている鳥の全身像を背負い、またアゴの下には、面を支える取っ手だろうか、出っ張りが着いている。

日本の能面にも、頭の上に鹿の角をつけているものがある。一角仙人である。しかし、角は本来、鹿の頭に着いているものだから、このアフリカの面の鳥のように「異物」が着いている異様さはない。

この仮面はグーロ(GURO)部族(GOURO, GWIO, KWENI, LO, LORUBEとも書く)のものだ。グーロ部族は象牙海岸の南部に住み、上のバウレ部族の西、セヌーフォ部族の南に、ほとんど隣接している(上の2-1の部族分布図を参照)。人口は約20万人を擁している。

グーロ部族は、もともとはクウェニ部族と自称していた。しかし、196年から1912年にかけて、侵略してきたフランスに強制的に植民地化されてバウレ部族が呼びならわしていたグーロ族という名前に変えられてしまった歴史を持っている。フランスに限らず、欧州各国は、アフリカで暴虐のかぎりをつくした。彼らの心の底には、いまでも原罪意識が流れているのは、その歴史と無縁ではない。

(高さ32cm。2000年、フランス・パリ北東部の路上の臨時の蚤の市で買う)


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2-4:これはヨフレ部族(象牙海岸)の「怒りの面」

これも上の赤い面と似た木製の面だが、上のと同じ赤い色ながら、一転、口をへの字に結んだ険しい表情をしている。目も、頬のバツ印も、四角い鼻も、上の道化とは対照的である。

しかし、対照的に、四角く抽象化された耳と、左右がつながった眉だけは、まるで、しきたりでもあるかのように、微妙に違いながらも、よく似ている。しかし、そのつながった眉は、鼻と離れている点で、バウレ族の仮面(2-2)とは違っている。

これも、頭の上に鳥の全身像を背負っているが、その鳥は顔を真正面に向けて凛としている。またアゴの下には、面を支える取っ手の出っ張りが着いている。

上の面と同じように、木製の面に彩色をしてあるが、上の3-2の、のっぺりした絵の具の塗装とはテクスチュアも色合いも違った、別の表現手法である。

この仮面は、上と同じグーロ部族のものかもしれないが、表現が少し違うところから、多分、ヨフレ(YOHURE)部族 (SNAN, YAOURE, YAUREとも書く)の仮面ではないかと思われる。

ヨフレ部族は象牙海岸の中央部に住む、人口2万人という小さな部族だ(上の2-1の部族分布図を参照)。地理的にも、東にバウレ部族、北と西にグーロ部族が住んでいて、文化的にも言語的にも、この二つの影響が強いという。それゆえ、仮面も似ているのであろう。

長細い顔の上に動物を組み合わせる仮面、そして突き出した口は、このヨフレ部族の仮面の特徴である。

(高さ49cm。2001年、フランス・パリ中央部の路上の臨時の蚤の市で買う)


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2-5:ダン部族(象牙海岸)の穏やかな「少女の面」

これも象牙海岸の木製の面だが、上のと違って、自然の硬い木の肌のままで、彩色はしていない。

眉の形に、バウレ部族やグーロ部族が作った上の象牙海岸の3つの面(2-2, 2-3, 2-4)との共通点がある。 しかし、鼻との連続に、微妙な違いもある。

これはダン( DAN)部族 (DAN-GIOH, GIO, GIOH, GYO, YACOUBA, YACUBA, YAKUBAとも書く)が作ったものだ。ダン部族は、象牙海岸の比較的南部、グーロ部族の西に住む(上の2-1の部族分布図を参照)。一部は隣国リベリアにも住む。

人口は35万人ほどで、Dan (Mande)語を話す。19世紀までは、中央政府を持っていない部族だった。政府らしきものが出来たのは、比較的最近である。

しかし、この仮面は、なんという穏やかな顔だろう。 あるいは永遠の眠りについた死に顔なのだろうか。

画家のアメデオ・クレメンテ・モジリアーニ(モジリアニ。Amedeo Clemente Modigliani, 1884-1920)は、アフリカの仮面に大きな影響を受けた。影響されたのは、たぶん象牙海岸あたりの仮面だと思われているから、このような仮面だったのかもしれない。

しかし、ある意味では、魂の叫びという面では、モジリアニといえども、アフリカの原始美術を超えられなかったのではないだろうか。

(高さ22cm。1991年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う)


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3-1:ガボンのプーヌー部族の木製の「東洋人の面」

ガボンの木製の彩色面。鮮やかな彩りだ。

黄色い肌、細い眼。低くて丸い団子鼻。アフリカの人の面ではないだろう。 私には東洋人を模したものに見える。

頭の上に、嘴をこの顔に向けた鳥の全身像を背負い、またアゴの下には、面を支える取っ手だろうか、出っ張りが着いている。

この仮面はプーヌー(PUNU) 部族(APONO, BAPUNU, MPONGWE, PUONOU, PUNOとも書く)のものだ。額(おでこ)についている菱形の特有の模様が、このPUNU族特有のものなのである。

PUNU族はガボンの南部とコンゴに住む(下のガボンからザンビアまでのアフリカ中西部の部族の分布図参照)。Punu (Bantu)語を話し、部族は約40000人しかいない小さな部族だ。

しかし、この部族がどこから来たか、どんな宗教的な歴史を持っているかは、あまりわかっていない。

(高さ34cm。2001年、フランス・パリ中央部の、路上の臨時の蚤の市で買う。次の日には、影も形もない露店である。)


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4-1:コンゴ民主共和国(旧ザイール)のレガ部族の「白人の面」

穏やかな、見方によっては無表情な木製の面。口の表情が特異である。

アフリカの面の中でも、この面が特異なのは、白く塗られていることだ。白人を模したものであろうか。

これはレガ(LEGA)部族(BALEGA, BALEGGA, REGA, WALEGA, WAREGAとも書く)が作った仮面だ。

レガ部族はコンゴ民主共和国(旧ザイール、コンゴ共和国の東隣)の東部、つまりアフリカの大地溝帯やタンガニイカ湖の近くに住む部族だ(上の3-1の部族の分布図を参照)。 人口は10〜25万人と、比較的小さい部族だ。

じつはカメルーン・ガボン・コンゴ共和国(コンゴ民主共和国の西隣の別の国)が国境を接する近くに住むクウェレ(KWELE)部族(BAKWELE, BEKWIL, EBAA, KOUELEともいう。3-1の部族分布図を参照)も、同じような白くて平板な顔の仮面を作っている。しかし、眉から鼻へのつながりが、このレガ民族のものとは、やや違っている。

なお、KWERE部族は東アフリカ、タンザニアに住む人口5万人ほどの小さな部族で、KWELE部族とは別の部族である。

(高さ26cm。1994年、フランス・パリ南部のバンブの蚤の市で買う)


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4-2:コンゴ民主共和国(旧ザイール)のルバ部族の「ひょっとこの面」

彩色した木製の面。上の象牙海岸の道化の面と同じような用途で使われたものだろうか。

口は真四角で、顔中に皺(あるいは装飾)がある。鼻翼の表現が独特だ。

この仮面は、たぶんルバ(LUBA)部族 (BALUBA, KALUBA, LOUBA, URUWA, WALUBA, WARUAとも書く)のものだ。コンゴ民主共和国(旧ザイール、コンゴ共和国の東隣)の南東部、つまりアフリカの大地溝帯の近くに住む部族である(上の3-1の部族の分布図にLUBAとして出ている)。上の4-1のレガ部族よりは、南に住んでいる。

その北に住むソンギエ部族(SONGYE。その他 BASONGE, BASONGYE, BASSONGO, BAYEMBE, SONGE, SONGHAY, WASONGAとも書く)も、この仮面とやや似た、四角いひょっとこ口の仮面を作っている。顔中に皺(あるいは装飾)があるものもある。しかし、顔の形がデフォルメされているものが多く、このルバ族のものほど、丸と四角の形が単純ではない。

このルバ部族は100万人ほどいる、大きな部族だ。16世紀から19世紀にかけてルバ帝国を作り、領土を拡大していった、しかし、その後欧州列強によって没落させられてしまった。一方、ソンギエ部族は16世紀にこの辺に移住してきた部族で、現在15万人ほどいるといわれている。ルバ部族はCiluba (central Bantu)語を話すが、ソンギエ部族は KiSongye (Bantu)語を話す。

世紀末を彩ったウィーンの画家、グスタフ・クリムト(1862-1918)は56歳でなくなったが、その晩年、時代から取り残される自分を強く感じていた。そして、1914年にブリュッセルを訪れたクリムトは、そこで(当時の)ベルギー領コンゴのアフリカ美術を見て、いたく感心したと伝えられている。「彼らは独自の造形で我々よりはるかに多くのことが出来る」と述べたという。しかし、アフリカ美術から影響を受けて、新しい境地を開拓するための時間は、もう、クリムトには残されていなかったのであった。

(高さ17cm。1996年、英国・ロンドンのカムデンロックの蚤の市で買う。店の白人の主人は、しょっちゅう、アフリカに買い付けに行っているので、この面は留守番役の奥さんから買った。)


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5-1:カメルーンの「部族長の面」

表情を表す、というよりも、手の込んだ細工で威厳を表しているように見える木製の面。鎖風の金属を、ごく硬い木の表面に埋め込んだ、恐ろしく手間がかかったに違いない面である。

顔の周りには髭を模したものだろうか、縄が廻されている。

この仮面を売っていたアフリカ系の男によれば、この仮面はカメルーンから来た、部族はわからない、ということだった。

しかし、いまのところは、この仮面は、そもそもカメルーンかどうかも謎である。しかし、たとえばカメルーンのチカール(Tikar)部族は、いくぶん似たような仮面を作っている。

アンゴラ東部、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の南部、そしてザンビアに広くまたがって住んでいるチョクウェ(CHOKWE)部族(人口110万人を超えるというこの部族は、住んでいる地域が広いせいか、(BAJOKWE, BATSHIOKO, JOKWE, TCHOKWE, TSHOKWEなど、少なくとも30の別の書き方があるという)の仮面には、この硬い木や、顔を覆う縄など、似たところがある仮面が多い。しかし、これほど手の込んだ細工はない。

またダン(DAN)部族(2-5)も、この面に似ていなくもない仮面を作っているが、やはり、この精緻さにはかなわない。

(高さ40cm。1999年、フランス・パリ南部のバンブの蚤の市の「場外」(本来の市としては許されていない場所での露店)で買う)


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5-2:セヌーフォ部族(象牙海岸など)の「女性を背負った面」

この表情は、笑っているのか、泣いているのか、私には読めない。口の表情も独特のものだ。

もちろん、ほかのアフリカの面と同じく、目のところは、このように細いものでも穴が開いていて、面を被ったときに前が見えるようになっている。

頭の上に、顔を正面に向けた女性の裸の全身座像を背負い、また顔の八方には、この写真にも一部見られるような、複雑な、まるで花魁のような飾りが突き出ている。

面は木製で彩色していない。 上の5-1などとは違って、木としてはツヤのない木だ。

これは、象牙海岸の奥地に住むセヌーフォ(SENUFO)部族 (SENOUFO, SIENA, SIENNAとも書く)の仮面だ。セヌーフォの仮面には多くの種類があるが、どの木彫にも、じつにすぐれた能力が発揮されている。

セヌーフォ部族は1-1の西アフリカの内陸の部族(太字)の分布地図の中央部にある(2-1の地図にも、部族の位置が出ている)ように、いまの象牙海岸の奥地を中心にして住んできた部族である。部族の人口は60〜100万、比較的大きな部族だ。

セヌーフォ部族が住んでいるのは象牙海岸とはいっても、海岸からは、はるかに遠い。このほか、ブルキナファソ、ガーナ、マリなど広い範囲に住んでいる。i

(高さ44cm。2000年、フランス・パリ、 レピュブリーク大通りのアフリカ民芸店の地下で買う)


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5-3:タンガニイカ湖畔のベンバ部族の「顔が二つある面」

これも、ジョアン・ミロ風に見えなくもないが、私には、それを超えて、西欧の近代美術が到達できなかった高みの魂が作った面に見える。

パリにあるピカソ美術館には、ピカソの作品のほか、ピカソが収集した美術品やアフリカの木彫品が展示されている。木彫品には、面は少なくとも展示してはいなかったが、動物の立像などがある。

製作した人たちはそう思って作ったのではなくて、祭事に使うために作ったに違いない「アフリカの芸術」に、欧州の近代美術が、それなりに影響を受けたのは間違いがないだろう。

面は木製で彩色してある。不思議なことに、顔が二つあり、口はない。上の眼は安らかで、下の眼は、まるで慈しむような眼だ。鼻は上の顔にはあり、下の顔にはない。しかし、全体としてみると、不思議に、奇妙さも奇怪さもが感じられない。つまり、すぐれた美術品と同じなのである。

この不思議な仮面は、ベンバ(BEMBA)部族 (AWEMBA, AYEMBA, BABEMBA, BEMBE, WABEMBA, WEMBAとも書かれる)のものだと思われる。

ベンバ部族はザンビアの東北部からコンゴ民主共和国の南東部にかけてタンガニイカ湖の岸に住んでいる部族で、人口は6万しかいない(右の東アフリカの部族分布図、と3-1の図を参照)。部族の名前であるベンバ(あるいはBabemba)は「湖の人」の意味である。

小さい部族ゆえ、そして、あるいは戦いを好まなかった部族ゆえか、Lega(4-1), Buyu, Binjiといった周囲の部族と多くの習慣を共有してきている。

じつはタンガニイカ湖の北西部に住むゴマ(GOMA)部族(BAGOMA, BAHOMA, BENEMBAHO, HOMA, NGOMA, WAGOMAとも書く)も、全体の形や眼の表情が似ている仮面を作ってきた。しかし、彼らの仮面は、一様に、丸いおちょぼ口が突き出した、つまり日本のひょっとこのような口をしている。つまり、この口が仮面の表現にとって、大事な要素になっているのだ。それゆえ、この仮面とは違うものだと思われる。

(高さ37cm。2003年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う)


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6-1:アサンテ部族(ガーナ)の「安産のお守り」

これは、見てきたほかの「面」とは違って、全身像の顔の部分のクローズアップである。

これは、安産のためのお守りである。現在のガーナに住むAsante tribe(アサンテ部族)が作ったAkua'ba doll (アクアバ人形)というものだ。

アサンテASANTE部族は、ACHANTI, ASHANTE, ASHANTI、とも書かれるが、いまでいえばガーナの中南部に、17世紀初めに作られたアサンテ帝国の生き残りの部族で、約15000人がいるといわれている。

全身像の形は、日本の埴輪に似たところもある。乳房だけが象徴的に突き出した、簡略化された胴体から下の像と比べて、顔の部分は大きく、また胴体が簡略化されているのと比べて、頭の部分は精緻に作られている。なお、丸い顔は美女の象徴であった。

像は比較的硬い木製で、彩色してある。

2-1 の地図(西アフリカの海岸部の部族(太字)の分布地図)で、ガーナの中南部、象牙海岸に近いところにアサンテ族という表記がある。

(高さ33cm。1996年、オランダ・アムステルダムのウォーターループレインの蚤の市で買う)


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7-1:ナイジェリアの「少年の面」

この面には、まるでウサギのような尖って大きな耳が付いている。その耳から延びた布らしきものが、頬かぶりのように下りてきている。祭りごとなのか、戦に赴く姿なのか、どちらであろうか。

像は木製で、黒いのは地色である。

(高さ21cm。1992年、英国・ロンドンのポートベローの蚤の市の「場外」(本来の市が終わった先)で買う。一般には、昔の植民地の縁で、西アフリカのフランス語圏の国々から来た面はフランスに多く、東アフリカの英語圏の国々の面は英国に多い)


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8-1:(出所不明の)「着飾った丸顔の面」

なんという鮮やかな飾りだろう。色とりどりのビーズのほか、まるで金箔のような三角形の飾りまで纏っている。アイシャドーも金色だ。

面は木製で、彩色してある。飾りは、象嵌細工のように、はめ込んである。

(高さ13cm。1992年、オランダ・アムステルダムの骨董屋で買う。昔の植民地の縁からいえば、西アフリカの国々から来たのかもしれない)
GOMA (BAGOMA, BAHOMA, BENEMBAHO, HOMA, NGOMA, WAGOMA)


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8-2:(出所不明の)「着飾った猿の面」

この面は、胸部まであり、全体は盾の形をしている。写真の左下に見えているが、首から下の衣装部分も精緻な造りになっている。

しかし、衣装が精緻に出来ているのと違って、顔の部分は、あまりにも落差が大きい。顔は真っ平らだし、眼は、単に丸い穴が開いているだけで、なんの表情も窺えないし、色も朱色一色で塗りつぶしてある。

口も、人間をかたどったにしては、形がへんだ。つまり、この面は人面ではなくて、猿か類人猿を表したものではないだろうか。

だとしたら、上の8-1の丸い面も、鳥の顔のようにも見えてくる。 あるいは4-2のザイールの面も、もしかしたら猿のような動物であろうか。

面は木製で、彩色してある。

(高さ35cm。1998年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う。昔の植民地の縁からいえば、西アフリカの国々から来たのであろう)

9-1:パプアニューギニアの「おどけた面」


木製の仮面を作って祭事に使ったり、飾りにする習慣は、アフリカに限らず、世界中にある。

これは、パプアニューギニアの面である。パプアニューギニアは驚くほど多くの部族が独立に暮らしている「国」だから(それが「国として成り立つものかどうかはこちらを参照)、仮面も多岐に渡っている。

この面の表情は、悲しみや怒りではあるまい。驚愕でもなく、たぶん、上の1-6のような道化の面ではないかと思われる。一見不要なようだが、じつは部族にはなくてはならない役回しなのであろう。

この面は木製で彩色してある。面の表情も、絵の具の種類や塗り方も、アフリカの面とは、ずいぶん違う。木は、ごく柔らかい木だ。

(高さ40cm。1997年、パプアニューギニア・ポートモレスビーで買う)


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9-2:パプアニューギニアの「戦士の憂いの面」

この面は同じく木製だが、彩色はしていない。上の面よりは、ずっと硬い木だ。

眉間に刻まれた深い皺、高くてまっすぐ通った鼻、意志の強そうな口、それでいて憂いを含んだ眼。この面は戦士の面に違いないと、私は思っている。

(高さ46cm。1997年、パプアニューギニア・ポートモレスビーで買う)


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9-3:パプアニューギニアの「戦死者の面」

この面も柔らかい木を使った面だが、上のものと違って、鮮やかな彩色がされている。また、眼にはタカラガイがはめ込まれている。

パプアニューギニアの多くの部族は、顔にこのような色を塗って祭事を行っている。かつては頻繁に行われた部族の存続を賭けた闘いや、女性を取り戻すための闘いに赴いた姿である。この面にはめ込まれた貝の目は、死者の目に見えるが、違うのだろうか。

(高さ41cm。1996年、パプアニューギニア・ポートモレスビーで買う)


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9-4:パプアニューギニアの「鳥人の面」

これはパプアニューギニアの本土の東北にある Sepik (セピック)川中流地方の Tambaum (タンバウム)村に住む部族が作った面である。

この鼻。この眼。見るものに恐怖心を与えるための面であろう。鳥をかたどった人というべきであろうか。パプアニューギニアの祭りも、鬼面人を驚かすような飾り付けや衣装が多い。ほとんど、秋田のなまはげの世界なのである。

(高さ39cm。1994年、ニュージーランド・ウェリントンで買う)


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9-5:パプアニューギニアの「抽象芸術、その1」

パプアニューギニアにも、上の9-1や9-3のような大味なものばかりではなくて、上のアフリカの3-1や5-1のような細かい細工の木彫りがある。これがそのひとつの例だ。

全体のフォルム、眼のまわりの念の入った刻み、胴体や鰭の装飾。愛らしい唇。これは具象芸術を昇華した、ほとんど抽象芸術というべきものだろう。

パプアニューギニアの本土の東北に離れているニューブリテン島のラバウルで買った。比較的柔らかい木を彫ったもので、白いところには、貝がはめ込んである。

(長さ16cm。1996年、パプアニューギニア・ラバウルで買う)


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9-6:パプアニューギニアの「抽象芸術、その2」

パプアニューギニアのカメの木彫。カメを知り尽くして、なおここまでデフォルメできるのは、芸術的な才能であろう。要所要所には、上の魚と同じように、7色に光る貝が埋め込んである。

上の魚と違って眼のまわりが素っ気ないわりには、足の付け根や尻尾の先には、念の入った刻みが施されている。一方、甲羅の模様は具象というよりは抽象だ。省くところは省き、必要なところだけは過不足なく表現している。

パプアニューギニアの本土の東北に離れているニューブリテン島のラバウルで買った。黒檀かマホガニーのような硬い木を彫ったものだ。なお、腹側(裏側)にはなんの彫り込みもない。

(長さ26cm。1996年、パプアニューギニア・ラバウルで買う)

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9-7:パプアニューギニアの「具象芸術」

しかし、パプアニューギニアの「抽象芸術」としての木彫りが優れているといっても、それは具象芸術としての「腕」が優れていないことを意味しているわけではない。

あたかもパブロ・ピカソが「青の時代」などに優れた具象的な作品を造ったあと、抽象芸術の花を咲かせたように、優れた具象芸術の腕があってこそ、抽象芸術が優れたものになるのであろう。

このワニはパプアニューギニアのラバウルで、私が滞在中に、現地の火山観測所の技官が半年間にわたった(海底地震計の)共同観測の餞別として彫ってくれたものだ。鼻の先から、尻尾の先まで(ワニの体長に沿って)60cmを超える大作である。

この木彫りには、ワニをふだんから見なれているものにしか分からないディテールまで、じつに細かく表現されている。リアリズムが凄い。そして、一方で、背中の模様などは、それなりに抽象化されているのが興味深い。

この種の「確かな木彫りの腕」が、パプアニューギニアには綿々と受け継がれている。その「腕」の上に、上の9-5や9-6のような具象的な木彫りが造られているのである。

(長さ43cm。1997年、パプアニューギニア・ラバウルで餞別として造って貰う)


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9-8:フィジー諸島のワニ。これも具象芸術だが。

同じワニでも、南太平洋のフィジーで作られている木彫りは、パプアニューギニアのものとは、大分、違う。

この木彫りにも、ワニをふだんから見なれているものにしか分からないディテールがある。背中、腹、尾、脚。それぞれが忠実に表現されている。

しかし、パプアニューギニアのワニのような凄みのあるリアリズムは、ここにはない。殺すか、殺されるかの鋭い部族対立が続いていて殺伐としているパプアニューギニアとはちがって、南海の楽園というのにふさわしかったフィジーでは、木彫りのワニも、人間にとっての、よき「隣人」なのであろう。

しかし、最近のフィジーは、いろいろな問題が噴出している。世界のどこにも、楽園はなくなってしまったのであろう。

なお、このワニも、上のパプアニューギニアのワニも、腹側には雌の生殖器が彫られていることが共通しているのは興味深い。

(長さ37cm。体長は39cm。1973年、フィジー諸島スバで買う)

10-1:フィジー諸島の「王の面」(観光みやげ用の複製)

これは、南太平洋のフィジー諸島の面。貝から取った白い模様を象嵌細工のようにはめ込んであるのは、海の民らしい細工である。

上のアフリカの面とは、唇も、目の「表情」も違う。なお、この面は王冠をかぶっている。強い意志を感じさせる唇を持ち、それなりに気高い顔をしているというべきだろう。

(高さ33cm。1973年、フィジー島スバで買う)

11-1:カリブ海ハイチの「あまりにも貧相な面」


アフリカの面も、そして多くの地域の面も、喜怒哀楽の感情を表したり、あるいは威厳を示したりするためのものに違いない。いわば、魂がこもっているのである。

しかし、この面は、それらの面と違って、なんと貧相な顔つきをしているのだろう。鼻筋が通っていないのは、もしかして民族性かもしれないが、目や口の表情は、なんともなさけない。眼に力がなく、頬に表情がない。

木製でニス(樹脂)を塗った面だ。

どんな気持ちで作られて、どんな用途に使われた面か、私にはわからない。祭事にも、強い個性を発揮してくれては困る「その他大勢」が必要で、そのための面であろうか。

(高さ18cm。ハイチの首都ポルトープランスで買う)


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12-1:サラワク(マレーシア・ボルネオ島)の「仁王様の面」とケランタン(マレーシア)の「身内が見た東洋人の面」

同じ木製の仮面でも、東南アジアに来ると、どこか日本の面に似てくる。左は日本の寺の入り口にある仁王様の顔に似ているし、右下は能面や、あるいはひょっとこの面に似ている。

このふたつの面はマレーシア・クアラルンプールの国際空港のロビーに民俗文化の紹介として展示してあったものだ。

左はボルネオ島(マレーシア。サラワク州)で儀式に使われていた面だ。Kayan mask といわれる。高さ38cm、幅26cm。つまり、顔を十分覆うほど大きい。

しかし、上のアフリカの面と比べると、なんと人間的な表情に乏しいのだろう。泣く子も黙る恐ろしさだけを訴えている日本の仁王像の顔と、無表情という意味では、そっくりである。

この12-1のふたつの面だけは、この頁のほかの木彫と違って、私の持ち物ではない。感情に乏しく、魂がこもっているようには見えないので、この種のものは、買う気がしなかったのである。


右はマレーシア。ケランタン州で演劇と音楽と踊りがミックスされた演芸のコメディアンに使われていた面だ

喜劇ゆえ、顔を全部覆ってしまうのではなく、口の表情を見せたり、聴衆に明瞭な発音を聞かせることが必要だったのだろう。ナマの口を見せるというのは、この頁に出している、どの面とも違った特異なものだ。

アフリカやパプアニューギニアの面と比べると、顔の造作や表情が、なんとも日本的、というよりも東南アジア的、なのが興味深い。上の3-1が「東洋人以外が見た典型的東洋人」なのに対して、こちらは「身内が見た東洋人」なのである。

なお、タイと国境を接するマレーシア北部のケランタン州の州都コタバルは第二次大戦中の南方侵略を始めた日本軍が1941年に最初に上陸したところだ。

最近、コタバルには日本軍が残した「傷跡」を展示する「第2次世界大戦博物館」が作られ、同国の生徒や一般人に歴史を語り継いでいる。日本人は忘れても、現地の人々は忘れていない。

(ともに2009年5月、マレーシア・クアラルンプールの国際空港ロビーで。なお、右写真の赤いものは仮面を置いてある台である。)

13-1:北極海の「牙彫り」


どちらが先か分からないが、木彫りのほかに、動物の牙や骨を彫る「芸術」もある。

たまたま手許にある材料を使ったことは同じで、ただ、入手できる材料の大きさや堅さから、自ずから「芸術」が違ってくる。

動物の牙や骨を彫るものには、象牙が有名だが、セイウチやトナカイなど北極海の動物の牙や角を彫った「作品」が各地で残されている。

これは、セイウチの牙を彫ったもので、材質が硬いから、木彫りのように大きな凹凸を造る代わりに、全体の形を生かして、こみ入った絵を彫り込んだものだ。

全体は鳥の頭を擬している。牙の形を生かして、嘴と鋭い目と頭部と羽根が、じつにみごとに表現されている。

それと同時に、北極海で行われている原始的なクジラ漁のありさまが、左右両側に描かれている。

貴重な蛋白源であり、油や骨やヒゲまで残すところなく使えたクジラは、北極圏に住む人たちにとって、大事な獲物だった。

もちろん、大きなクジラを、冷たくて荒れる北極海で、描かれているような小さな舟と原始的なモリで仕留めるのは、命がけの冒険でもあったに違いない。

この牙には「1850年、北極海で取れた」と英語で書いてある。

私はこの牙をオランダ・アムステルダムの有名な蚤の市 waterloo plein の古美術商から買った。もともと誰が造って、どうしてアムステルダムまで流れてきたものかは、残念ながら、売り主は知らなかった。

それゆえ、サーメやエスキモー(エスキモーと呼ばれるのを嫌がるカナダのイヌイットも、エスキモーと呼ばれてかまわないグリーンランドのエスキモーもいる)の製作になるものかどうかは分からない。もし、お分かりの方がおられたら、お教えいただければ幸いである。

しかし、いずれにせよ、欧州の蚤の市には、なんでもある。私の知り合いのノルウェー在住の地質学者はロンドンの蚤の市で、マンモスの歯を二束三文で買った。ロンドンの売り主には、マンモスの歯は、たんに、形の悪い石にしか見えなかったに違いない。

アムステルダムのこの売り主は、額縁に入っていない藤田嗣治の猫の絵を売っていたことがある。売り主が差し出してくれたルーペで見ると、猫の毛の一本一本が極細の筆で描いてあった。生涯、(芸術家ではなく)Artisan(職人)にすぎない、として批判を受け続けた藤田嗣治ならではの筆使いに感心したことがある。
http://shima3.fc2web.com/african-masks.htm

アフリカの仮面の「眼」

表現の制約のなかで「眼」を表現する難しさ


 以前、この『青淵』で、私が趣味で収集しているアフリカの仮面について書いたことがある、2005年5月のことだ。

 そこでは、アフリカ西部の内陸国マリのマルカ族の仮面と、象牙海岸の仮面を紹介した。今回は、その他の面を含めて、アフリカの仮面の特徴的な眼の表情のいろいろを紹介しよう。

 眼は、人間の表情の中でも、もっとも雄弁に感情を物語るものだ。目は口ほどにものを言い、という言い方もあり、眼だけは笑っていない、という言い方もあるように、眼の表す感情は多彩で、そして正直である。

 ところで、前に書いたようにアフリカの仮面は観光客用に媚びを売っている観光土産ではない。自分たちの伝統的な祭事に使うために、神と対峙して作る魂がこもっている。

 祭事に使うために、仮面の眼のところには、被った人間が前方が見えるように、穴が開いている。じつは、このことは眼の表情を仮面の表現として表現するためには、重大な制約を課せられていることを意味している。絵画や彫刻のように、一番大事な、眼の中心部を表現できないからである。

 写真一はカメルーンの仮面だ。高さ40センチほどあるもので、鎖のように加工した金属を、ごく硬い木の表面にまるで象嵌細工のように丹念に埋め込んだ、たいへんな手間がかかった面である。

 木は黒灰色で目が詰まっていて、ほとんど金属のような光沢を持っている。

 私には、この面は威厳を示そうとしていて、なお、憂愁を含んでいるように見える。

 他の部族との争いで、いつ命を落とすかもしれない武士の憂愁である。多分、戦いも死も、日常からは決して遠いものではなかったはずだ。以前私が『青淵』で紹介したマリのセヌーフォ族の仮面も、深い哀愁を含んだ戦士の仮面であった。

 しかし、アフリカの仮面には、このような憂愁の表情を表したものだけではない。まったく対照的に、あきらかに道化の役割を担ったに違いないものもある。

 たとえば写真二は彩色した木製の面で、高さ17センチほどのものだ。ザイール(現・コンゴ民主共和国)の仮面だ。眼のまわりと鼻は黒に、あとは朱色に近い茶色に着色されている。

 まるで日本のひょっとこの面のような口をしている。顔中の皺や、鼻翼の単純化された表現が、眼の表情と、この仮面の道化としての役割を際だたせている。

 ところで、珍しいものもある。普通の仮面とは違って、一つの仮面にふたつの顔、そしてふたつの違う眼の表情を盛り込んだものだ。

 写真三はタンガニイカ湖畔に住むベンバ部族の仮面だ。高さは37センチある。ある時期以降のピカソの絵には、一つの顔に、正面の表情と横顔の別の表情を盛り込んだものがあるが、これは左右ではなく、上下に別の顔を重ねている。

 ピカソがアフリカの木彫を集めていたことは前回に書いた。ピカソがアフリカの木彫から、なにかを学んだ可能性は大きい。

 両方の顔とも、口がない。しかも下の顔には鼻さえない。つまり他の部分を意識的に省略して、豊かな眼の表情だけが、この仮面の表現を支えているのである。下の顔の眼の慈しむような表情と、上の顔の眼のおだやかな表情を、みごとに描き分けている。

 カラーでお見せできないのが残念だが、この仮面は木に彩色したもので、淡い灰色、淡い深緑、そして淡い桃色が絶妙の彩りを添えている。

 ある意味では、これはジョアン・ミロが表現したかったものに似ている。以前私が『青淵』で紹介したセヌーフォ族の仮面が、ジャコメッティの表現に似ていたように、私には、アフリカの仮面は、西欧の近代美術が究極のものとして望みながら到達できなかった、高みの魂が作ったものだと思える。

 アフリカの仮面には、日本の能面のように、喜怒哀楽をそれぞれ表したものがある。写真四は怒りの表情であろう。これは象牙海岸のものだ。

 赤い色に彩色されている。高さは49センチもあるが、こんなに長いのは、この顔の上に、鳥の全身像を背負っているのと、アゴの下には、面を手で支えるために、取っ手風の出っ張りが着いているためだ。

 このように鳥を頭の上に背負っている仮面は象牙海岸の仮面に多い。

 鳥は、嘴を下げてまるで仮面の人の頭を突こうとしているようなものもあるが、この仮面の場合には、鳥は顔を真正面に向けて凛としている。

 仮面の表情は硬い。口をへの字に結んだ険しい表情をしている。眼はもちろん、頬のバツ印も、四角い鼻も、怒りを露わにした表情をみごとに表現している。顔の下に取っ手が付いているのは、この仮面を付けて出演するべき祭事の場面に、瞬時に対応するためだろう。

 なお、四角く抽象化された耳と、左右がつながった眉は、象牙海岸の仮面に多い特徴である。

 当たり前のことだが、仮面は表情を変えることができない。以前私が『青淵』で紹介した象牙海岸の貴婦人の仮面のように、日本の能面のように、見る角度によって、微妙に表情を変えるものもある。しかし、それにも、もちろん限界がある。

 この限界ゆえ、一見したところでは、なんの表情か分からない仮面も多い。つまり、いくつかの役を演じきるために、顔や眼が表す感情を意識的に殺してしまった仮面である。場面に応じて、声や音楽を変え、あるいは衣装を替えることで、仮面が表す役回りを変えるのであろう。

 そのひとつは、写真五のセヌーフォ部族の仮面である。この表情は、笑っているのか、泣いているのか、私には読めない。仮面を被る人物が役割を演じない限り、誰にも読めないだろう。

 恐ろしく細い眼が、感情を押し殺している。しかし、単に眼を細くしただけでは、間延びしてしまう顔の表情を、頬の隈取りと、抽象化された涙袋で引き締めているのはみごとである。また、口の表情も独特のものだ。

 この仮面は、頭の上に、顔を正面に向けた女性の裸の全身座像を背負い、また顔の八方には、この写真にも一部見られるような、複雑な、まるで花魁のような飾りが突き出ている。仮面は黒い木で作られており、彩色はしていない。 高さは44センチほどある。

 じつは、私はアフリカの仮面だけではなく、パプアニューギニアの仮面もいくつか持っている。人間の顔を同じように模するものとはいえ、アフリカのものとは天と地ほどに違うのが面白い。

 そのひとつに、写真六のパプアニューギニアの戦士の面がある。高さ41センチほどで、現地に多く生えている、ごく柔らかい白い木に彫って、朱色と黒の、鮮やかな彩色がされている。

 パプアニューギニアの多くの部族は、いまでも実際に、顔にこのような色を塗って祭事を行っている。

 この顔の彩りは、かつては頻繁に行われた部族の存続を賭けた戦いや、女性を取り戻すための闘いに赴いた姿である。相手に恐怖を与える化粧だ。

 いかにも海に近い熱帯のものらしく、眼にはタカラガイがはめ込まれている。この面にはめ込まれた貝の眼は、安らかに眠っている死んだ戦士の眼に見える。

 いずれにせよ、近代西洋文明が入ってくる前のアフリカや大洋州では、祭事は人間と神が対話できる限られた機会だった。人々は魂の叫びを仮面作りに込めたのに違いない。
http://shima3.fc2web.com/sibusawazaidan7c.htm


遥かな古代、まだ人々が神について考える事すらなかった時代、その頃から人間は、なんらかの魔法を行っていました。我々の知る最古の魔法は、ネアンデルタール人の時代、つまり現在から7〜8万年前の狩猟成就の儀式です。彼等は、くまの頭蓋骨を並べ、より多くの獲物が得られるよう祈ったのです。4万年程前のクロマニョン人の時代になると、魔法も進歩しています。壁画に動物を描いて、狩猟の成功を祈ったのです。

つまり、熊の頭蓋骨という具体的なものを必要とせず、絵という抽象度の高いもので魔法をかけられるようになったのです。

これらを【フェティシズム】〔Fetishism物神崇拝〕と言います。このような時代の魔法、つまり人類最初の魔法はフェティシズム的世界観によって行われた魔法だと考えられます。

つまり、『もの』の魔力を直接用いる魔法です。ネアンデルタール人の魔法も、熊の頭蓋骨という熊の肉体〔の一部〕そのものの持つ力を用いた魔法である事が分かるでしょう。動物の爪を持つことで自らの攻撃力を高める魔法は、フェティシズムの時代からある古い古い魔法なのです。フェティシズムといっても、異常性欲の一種ではありません。宗教学において、フェティシズムとは、物神崇拝〔または呪物崇拝、霊物崇拝〕の事です。つまり、【物】に魔力があり、その力を崇拝するという思想です。元々は、15世紀にポルトガルの船乗りが西アフリカに行き、住民が歯や爪、木片や貝殻、さらに剣や鏡などを崇拝しているのを見て、自分たちがフェティゾ〔カトリックの聖遺物〕をありがたがっているのと似ていると考えて、フェティシズムという言葉ができたのです。

そして、西アフリカの住人が拝んでいる物神のことをフェティッシュと呼ぶようになりました。西アフリカの例では、部族に一つフェティッシュがあるほかに、家族ごとにもフェティッシュがあります。個人が一つのフェティッシュを持っている例もあります。

フランス人で社会学の祖コント〔1798〜1857〕によれば、「フェティシズムは世界に対する人間の根源的態度」であり、人間の精神史における最初の段階である「神学的状態」における人間の心性であるとされます。つまり、人間の精神が発達し始めた最初の段階で、自分たちが生命を維持する為に使うものたちに、何らかの力を感じ、それを崇拝するようになった状態がフェティシズムなのです。フェティシズム自体、物に潜む魔法を見出す一種の魔法体系だと考えられますが、フェティシズムの考え方は、後の魔法体系にも広く取り入れられました。物に魔力を込めてマジックアイテムを作り出すのは、このフェティシズムが起源でしょう。

ちなみに、フェティシズムには、宗教学的意味、経済学的意味、心理学的意味があり、上記の説明は宗教学におけるフェティシズムです。経済学で言うフェティシズムは、(あの『資本論』を書いた)カール・マルクスによって定義された言葉で、「商品が人間の意志を超えて動き出し、逆に人間を拘束するようになった」状態をあらわしています。日本語では【物神崇拝】といいます。そして、心理学で言うフェティシズムが【節片淫乱症】とも訳される性倒錯の一種です。いずれも、実態(宗教学では物の働き、経済学では物の使用価値、心理学では性の対象となりうる人体)から遊離した物に価値を見出す心理です。

人類の実体から象徴を抽象化する能力に伴う、人類の文化そのものに潜むフェティシズムが、様々な方面にあらわれたものと解釈されています。フェティシズム的魔法の時代が数万年続いたあとで、人類はアニミズム〔Animism 有霊観・精霊崇拝〕的世界観を手に入れました。そして、これによって物の背後にあって魔力の基となる霊的存在に気づくことができるようになりました。

メラネシアの住人がマナと呼んでいるもの、我々日本人があらゆるものに宿っていると感じている神々、これらは全てアニミズム的な霊的存在なのです。物に宿る霊的存在こそが魔力の源であるならば、同じ物でもより強い霊的存在を宿らせる事で、より強力に働かせる事が出来ます。また、病などが起こるのも、人間に宿る霊が抜けてしまう事で人間の働きが悪くなってしまうからなのです。逆に、敵の武器に宿る霊的存在を追い出す事ができれば、敵の刃は味方を傷つける事がないのです。

このように、アニミズム的世界観があれば、魔法に様々な工夫を施す事ができるようになります。そして、その工夫の差によって、魔法の力に大きな差が出るようになりました。魔術専門家の出現です。フェティシズムの次の段階として、「物」それ自身に魔力があるのではなく、「物」に霊的存在が宿っていて、それが力を持っているのだという考え方が登場しました。これがアニミズムであり日本語で汎神論といいます。

この霊的存在のことを、精霊と呼んだり、神々と呼んだりします。イギリスの文化人類学者タイラー〔1823〜1917〕によれば、アニミズムは夢や死、病気や幻想などの経験から、体から離脱できる非物質的で、しかも人格的な存在を信じるようになった事から生まれたとされます。そして、そのような霊的存在を進行する事が宗教の始まりであるとされています。

アニミズムは、現在にも残る魔法の基本となりました。死にかけた人の親族が、屋根の上や井戸に向かってその人の名前を呼ぶのは、死にかけた人の魂がどこかへ行ってしまうのを防ぎ、元の身体に戻るように行う儀式なのです。例えば、ケルト人の間でも首を狩る習慣がありますが、これも首に存在する霊魂を獲得する事で、狩った側の豊穣を祈る魔法なのです。他にも、動物霊の存在はきつね憑きなどの憑依現象の原因であるし、お盆も霊魂が特定の日に戻ってくるというアニミズム的な考え方の名残なのです。トーテミズム〔Totemism 族霊崇拝〕とは、ある集団と、特定の動植物や事物とが、特別な結びつきを持っている事をあらわします。


そして、その特定の何かの事を、トーテムと呼びます。元々は、アメリカ・インディアンのオジブワ族の言葉ototeman〔彼は私の一族の者だ〕に由来するものです。特にそのトーテムを柱に刻んだトーテムポールでして知る人も多いでしょう。

けれども、トーテミズムは、インディアンだけの特殊事情ではなく、世界中で広く行われていました。トーテミズムの例としては、奇妙なものも多いです。特定の部族が熊を自分たちの先祖と信じているものなどは、まだしも分かりやすいです・・が、オーストラリアの部族で、下痢という病気をトーテムに持つ部族もいます。こうなると、一体トーテムとは何なのか、訳がわかりません。ともかく、特定のトーテムを持ち、時にはトーテム名で呼ばれる部族が、そのトーテムに関して何らかの利益を得たり、何らかのタブーをもっています。

これが、トーテミズムです。つまり、トーテムと部族の間には、何らかの神秘的なつながりがあります。そのつながりのために、部族は何らかの約束事を守らねばならず、その代わりに何か利益を受けます。これを魔法と呼ばずして・・何といえばよいのでしょう。シャーマニズム〔Shamanism 祖霊崇拝〕は、アニミズムにおける霊的存在が、物に宿るだけではないことを知ったことによって生まれた魔法です。

つまり、本当に強い霊的存在は物に宿っておらず、人間の手の届かないどこかにいるのだということを知った人間が、その強い存在に働きかける為に作り出した魔法体系がシャーマニズムなのです。そして、このシャーマニズムにいたって、遂に職業的魔術師が登場する事になりました。それがシャーマンです。

シャーマンといっても、大きく分けて2種類のシャーマンがいます。彼等の使う魔法も二つに分けられます。【憑依型シャーマン】と【脱魂型シャーマン】です。

憑依型シャーマンは、強力な霊的存在を自分の肉体に宿らせて、その霊的存在に力を発揮してもらう魔法を使います。つまりシャーマンの魔法は、必要な霊を選択すること、自分の体に宿らせる事の二つです。本当に魔法(奇跡かもしれませんが)を使うのは、シャーマンの身体に宿った霊が行うのです。こう言うと、憑依型シャーマンは、たいした能力を持っていないように思えるかもしれません。しかし、そんな事はありません、自らの肉体を霊に貸し、しかもあとから取り返せるようにしなければならないことを考えると、シャーマンの魔力は大変高いものでなければなりません。

実際、能力不足のシャーマンが悪霊に憑依されたままになった例は、何度も報告されているほどです。憑依型シャーマンの魔法の強さは、呼び出す霊のバリエーションと強さによって決まります。より強い霊を、数多く呼び出せるシャーマン(その上で、呼び出した霊を追い返せる能力も必要)が、強力なのです。


脱魂型シャーマンは、自らの霊魂を肉体から離脱させ、高位の霊的存在に会いに行って、依頼を行います。シャーマンの魔法は、自らの魂を離脱させる事、高位の霊のいる所まで魂だけで旅をする事、高位の霊に依頼を聞いてもらう事の3つです。こちらも、本当に魔法を使うのは、シャーマンが出会った高位の霊です。脱魂型シャーマンの利点は、霊を自らの肉体に宿らせなくても良いので、より高位の霊と接触する事ができる点にあります。

憑依型シャーマンは、霊を強制的に呼び出すため、自らが霊よりも強い力を持っている必要があります。また、強力な霊を我が身に宿らせるのは、本人にとってかなりの負担です。しかし、脱魂型シャーマンは、自らが会いに行くので、そのような制限がなく、どんな強い霊に依頼する事も可能です。その代わり、高位の霊を強制して働かせるわけにいかないので、うまく説得したり、適当な代償を支払ったりする必要があります。けれども、国家的大事件などを解決するには、憑依型シャーマンでは力不足で、脱魂型シャーマンの力が必要となります。

脱魂型シャーマンの魔法の強さは、高位の霊に会う道筋をどれだけ知っているかと、その高位の霊に依頼を聞いてもらう為の技術によって決まります。より高位の霊と接触できれば、より高度な魔法が使えるのです。

シャーマニズム、特に脱魂型シャーマンは、文明社会では早くに衰退しました。というのも、神々について知った人々は、最高位の霊である神に祈る僧侶の祈りの方が、それ以外の精霊に接触するシャーマンよりも強力に見えたからです。特に大事件を扱う脱魂型シャーマンは、宗教というライバルに顧客を奪われ、衰退の憂き目を見る事になりました。

現在では、未開地域を除いて、脱魂型シャーマンを見る事はありません。しかし、憑依型シャーマンは、憑依させる霊の制限から比較的小さな願いをかなえる魔法であった為個人を相手にする魔法使いとして長くその地位を保つ事が出来ました。心霊主義も、憑依型シャーマンの末裔と考える事ができるほどです。つまり、憑依型シャーマンは、20世紀になっても使われつづけた魔法体系なのです。
http://f4f4440.s10.xrea.com/pagefile/sinwa/jujut2.htm



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「神々の糧」:トリプタミン幻覚剤と意識のビッグバーン

ホモ・サピエンスは5万年前に知性が爆発的に急成長し、アフリカから脱出した150人程度のグループが現在のすべての人類の祖先となったとされている。アフリカで意識のビッグバーンを引き起こしたものは何だったのか。

『神々の糧(Food of the Gods)』のテレンス・マッケナは、強いエクスタシー感覚をもたらす世界中の向精神性植物を比較検討し、アフリカ中部で幅広く植生し、人類祖先の食糧となった可能性があるのはトリプタミン幻覚剤を含有する植物・キノコ類ではないか、と推理する。

トリプタミン系のシロシビンを摂取すると視覚が鋭敏になり、性的な興奮を誘発するという実験を引き合いにしながら、マッケナは5万年前の激変を以下の3点から考察している。


■ 1. 鋭敏な視力は狩猟や採集を大幅に向上させ、食糧の大量確保が可能になった。

■ 2. 性的な興奮を引き起こし、人類の急速な繁殖に役に立った。

■ 3. シャーマン的なエクスタシーを経験し、超自然的な判断力・予知能力・問題解決力をもつ指導者が現れた。


視力向上によって「狩猟される側」から「狩猟する側」に転換したともいえる。裸眼視力が3.0〜5.0に上がっただけではなく、心の目による察知能力も高まり、安全な住み家や集落を確保したうえで、生めよ殖やせよ、が起こったのかもしれない。

やがて超自然との交流を専門にするシャーマンの家系が生まれ、神秘世界や生命現象が徐々にコトバで表現されるようになり、ここから宗教や文字社会へと発展した、と想像できる。

わたしが主張したいのは、初期人類の食物に含まれていた突然変異を起こさせる向精神性化学化合物が、脳の情報処理能力の急速な再編成に直接影響を与えたということである。植物中のアルカロイド、とくにシロシビン、ジメチルトリプタミン(DMT)、ハルマリンといった幻覚誘発物質は、原人の食物の中で、内省能力の出現の媒介を果たす化学的要素となり得るものだった。<中略> この過程のもっと後の段階で、幻覚誘発物質は想像力の発達を促し、人間の内部にさまざまな戦略や願望をさかんに生み出し、そしてそれらが言語と宗教の出現を助けたのかもしれない。(p41)

著者はエクスタシー感の高い“ドラッグ”を以下の4つに分類する。

1. LSD型化合物・・・近縁はヒルガオ、麦角など

2. トリプタミン幻覚剤・・・DMT、シロシン、シロシビン(豆類など)

3. ベータ・カルボリン系ドラッグ・・・ハルミン、ハルマリン(アワヤスカのベース)

4. イボガイン科の物質・・・アフリカと南米に存在


余談だが、本書では『神々の果実(Magic Mushroom)』にも登場するベニテングダケについては、若干の向精神性はあるものの、安定的なエクスタシーはもたらさないとして除外されている。私も『神々の果実』を読んでみたが、インドのソーマ(Soma)に関しては文献学的に説得力があるが、飲尿習慣を絶対の前提とするところが難点だ。また、神話学やユダヤ・キリスト教に関しては、拡大解釈が甚だしい。

ともあれ、人類の祖先がアフリカのトリプタミン幻覚剤で意識のビッグバーンを経験したと仮定すると、その後の放浪地では良質の幻覚剤に恵まれなかったということか。

エジプト脱出のモーゼは麦角(LSD)の知識が豊富だったという説もある。エレウシスの秘儀は麦角ビールのような特殊大麦飲料を使っていたという考察もある。だが、麦角は一歩間違うと大量の死者を出す猛毒物質でもあるため、扱いが困難だ。

アヘンは中国を攻略する薬物となり、“スピリット(精神)”と呼ばれるようになった蒸留アルコール飲料も、大量の中毒者を出して社会不安を広げた。アヤワスカは現在注目されているものの、これを使っていた中南米の民族が戦略的な優位に立てていたかどうか。砂糖・コーヒー・茶・チョコレートは、医薬品や催淫剤としては期待倒れだった。現代社会が抱えるタバコの害についてはすでに周知の通りだ。

現代社会では草原で狩猟をするような視力は不要であり、人類全体の視力は低下する一方だ。生めよ殖やせよの効果が効き過ぎたせいなのか、地球上の人口がこれだけ増えても年中型の発情は続き、それでも満足できず、「もっともっと」とドラッグを求めている。

残された快感と英知の世界は、シャーマン型のエクスタシーの世界だ。このエクスタシーを一般庶民が常時体験するような革命の日々は、果たして訪れるのだろうか。

モーゼが視たヘルメス蛇の幻想 ― 龍神イエスを導くマトリックス

ヘブライ大学の認知心理学の教授がモーゼ研究で面白いことを言っている。


◆AFP:十戒を受けたときモーゼはハイだった、イスラエル研究報告(2008/3/6)

 旧約聖書に登場するモーゼ(Moses)はシナイ山(Mount Sinai)で神から10の戒律を授かったとされているが、それは麻薬の影響による幻覚経験だった――イスラエルの研究者によるこのような論文が今週、心理学の学術誌「Time and Mind」に発表された。

 ヘブライ大学(Hebrew University)のベニー・シャノン(Benny Shanon)教授(認知心理学)は、旧約聖書に記されている「モーゼが十戒を授かる」という現象に関し、超常現象、伝説のいずれの説も否定。モーゼもイスラエルの民も麻薬で「ハイになっていた」可能性が極めて高いとしている。

 モーゼが「燃える柴」を見たり、聖書によく出てくる「声を見た」という表現も、麻薬の影響を示しているという。

 教授自身も麻薬を使用して同様の感覚を味わったことがあるという。1991年、ブラジルのアマゾンの森林で行われた宗教儀式で、「音楽を見る」ための強力な向精神薬、アヤフアスカを服用。精神と宗教のつながりを視覚的に体験したと言う。
 アヤフアスカには、聖書の中でも言及されているアカシアの樹皮でつくる調合薬と同程度の幻覚作用があるという。

「アヤフアスカ」はアヤワスカとも呼ばれる幻覚調合剤で、エハン・デラヴィやグラハム・ハンコックなど意識の冒険家たちが何度も服用している。このアヤワスカを飲むと大蛇の幻覚を例外なく見ると言われているが、シャーマンとしてのモーゼがアカシア樹脂を使って同様の幻覚作用を得ていたとすると、モーゼの「蛇の杖」や「炎の蛇」や「青銅の蛇」も説明がつく。

蛇信仰は世界中で普遍的に存在するが、旧約聖書の創世記では蛇はサタンの化身であり、イブをけしかけて知恵の実を食べさせた。一方、エジプト脱出のモーゼは杖を蛇に変えたり、堕落した民を炎の蛇で殺してしまうという“蛇使い”だ。


◆旧約聖書 『民数記(Numbers)』 21:4−9 (新共同訳)

彼らは、ホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海を通って行った。しかし、民は途中で耐え切れなくなって、神とモーセに逆らって言った。

「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」 

主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。

「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」 

モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。

「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者ががそれを見上げれば、命を得る。」 

モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

最も不思議なのは、ユダヤの民が許してくださいと哀願したときに、蛇にかまれても死ぬことのない“解毒装置”として、「青銅の蛇」を用意したことだ。蛇にかまれても、この青銅の蛇を見ると命を得るという。

偶像を拝んではいけない、他の神を拝んではいけないといいながら、チャッカリ蛇の偶像を用意したことになる。みんな死ぬのが怖いので、この青銅の蛇をありがたや、ありがたやと拝むに決まっている。どうして蛇の天敵である「鷲」や「鷹」の像を使わないのか。あるいは

「ヤウェ、ヤウェと10回繰り返せば直る」

という言葉のパワーを使わないのか。

◆旧約聖書 『列王記 下(II Kings)』 18:1−4 (新共同訳)

イスラエルの王、エラの子ホシュアの治世第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。彼は二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。その母の名はアビといい、ゼカルヤの娘であった。彼は父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでにこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。


時代が下ってヒゼキヤ王の時代になると、モーゼの造った青銅の蛇は打ち砕かれてしまう。蛇神は拝んではいけませんよ、何度注意しても、人々は蛇を拝んでしまっていたということだろう。しかしながら、この蛇拝みの元を造ったのはユダヤ教の開祖モーゼなのだ。

蛇神というとおどろおどろしいが、いわゆる地の神の象徴であり、龍神さまと言ってもいい。龍神の側に立って、旧約聖書にある「ヤウェ vs 龍神」の対立構造を読み取ると以下のようになる。


ヤウェがこの世を創造したけれど、ロクなもんじゃないよ、この世界は。
アダムとイブを救うべく、知恵の実を食べさせる龍神さまの電撃作戦がついに決行!

ところがヤウェが「原罪」と恐怖政治の手法を使って闇の人間支配を継続。

これに反撃すべく、モーゼが登場。ヤウェだけを拝むように見せかけて、「青銅の蛇」を拝まざるを得ない仕組みを構築。

ヤウェの化身ヒゼキヤ王がこの工作に気づき、龍神の通信機「青銅の蛇」を破壊。

互角の戦いといったところか。で、この後にユダヤの律法主義を批判しながら登場するイエスは、さて、どちら側の化身なのか。正統派のキリスト教会は口先でユダヤ教を否定・超克したと言いながら、

ユダヤの神=キリストの神

という路線を選択。一方、キリスト教の異端であるグノーシス派は

ユダヤの神=サタン、キリストの神=龍神

を選択している。


ユダヤ教の神ヤウェがサタンであるとすると、アダムとイブに知恵づけをした蛇が本当の神さま(龍神さま)だったということになる。また、イエスこそが龍神の化身であり、ヤウェが仕組んだ「原罪」を浄化するために、あえて十字架に掛かって犠牲になったという解釈や、スキをついてサタンをコブラツイストで締め上げたという解釈も成り立つ。

中世のキリスト教では、旧約の神様が偶像崇拝はいけないと何度も警告したにもかかわらず、イエスの磔刑や聖母マリアを偶像にしてしまう。一方、東欧で栄えたグノーシスのボゴミール派は、龍神イエスを処刑した十字架を拝むなんてトンでもないということで、十字架を含めいっさいの偶像を否定した。

ルネサンスになると、エジプトのヘルメス主義やギリシャの秘儀、ユダヤ教のカバラなどを融合した新プラトン主義が台頭する中で、「十字架に架かる蛇」(フラメル紋章)も現れる。反カトリックの神秘主義者は

蛇神=イエス

をほのめかし、詭弁のキリスト教徒は


これはモーゼの青銅の蛇を意味し、イエスの磔刑を予言したもの


とうそぶいて、“旧約は新約の予表”という預型論(タイポロジー)に溺れる。


いずれにせよ、一方が神で他方はサタンであるという善悪二元論を超越しない限り、旧約を“聖”書に仕立て上げたバイブルであれ、旧約を全面的に否定したグノーシスであれ、英知に至ることは不可能であろうね。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1714647
http://hiro-san.seesaa.net/index-23.html



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宗教の本質はオルギア


オルギア、狂宴(Orgy)

ギリシア語の o[rgia に由来する語で、「秘密の礼拝」を意味した[註1]。ほとんどの秘教の礼拝には、エレウシス、カビリア、シャクティスム、スーフィー教、キリスト教の一派の拝蛇教などの秘儀におけるごとく、性の儀式が含まれていた。ウィルキンズは、「宗教は、自然と密着したすべての祭儀につきもののオルギア的傾向をもはやとらなくなったときでさえ、

……つねに性愛的な一面を持っている。……

遠くさかのぼればさかのぼるほど、性愛と聖礼の違いを見分けるのはますます困難になる。そして『遠くさかのぼる』のは単に時間的な意味だけでなく、経験の深さをもまた意味する」と述べている[註2]。

 現在使われている「休日」holidayという語は東方のホリの祭り(ヒンズー教徒の春の祭り)に由来している。西欧の敬虔な観察者は、この祭りを、「最もみだらな逸楽」を特徴とする「サトゥルナリア祭」として記述している[註3]。参加者はみな一様に、彼らの「逸楽」を、至福を暗示する聖なる行為と考えていた。

 ヒンズー教の聖典は「女神パールヴァティと肉体をもって交わることは、すべての罪を消滅させる徳である」と述べた[註4]。易経は、「万物に生命を与える」性交の神秘的価値について語っている[註5]。イワン・ブロッホ(『現代の性生活』の著者。ハヴロック・エリスと同時代人)によれば、「宗教は、やむことのない渇望、永続の感情、生命の深淵への神秘な没入、永遠に祝福された結合による個と個の合体への切望を、性的衝動と分かち合うものだ」[註6]という。このような理由から、情熱、祝福、恍惚、忘我、栄光のような言葉は、宗教的および性的経験のどちらにも置き換えて用いられた。

 ギリシア時代の異教は、中心となる秘儀を表すものとして、性的狂宴orgiaを行った。キリスト教の禁欲主義者が「大儀式」を、「名を挙げることをはばかる秘教の儀式」、あるいは「エレウシスの売春」として非難した理由は、性的狂宴にあった。女神は「ひそかに寝室に入ってきた」者たちに永遠の生命を約束した。女神の寝室は「花嫁の部屋」pastosを意味し、そこにおいて、女神と女神の崇拝者たちとの間の「聖なる結婚」hieros gamosが達成された[註7]。

 同種の性的狂宴は、北方の未開民族の間でも行われた。ストラボンは、アイルランドのドルイド教の呪術師は、「サモトラケ島のオルギアと同様の」礼拝を行っていると述べた[註8]。


2、3世紀頃の極端な禁欲主義にもかかわらず、キリスト教もまた、その実践にあたって、ある場合には狂宴的な宗教としての徴候をいくつか示すようになってきた。オルレアンのキリスト教の団体は、1年の間に数夜、乱雑な行動に耽るために集まった。同時代の記述は述べている。「明かりが消されると、男たちはみな、たとえそれが母親、姉妹、修道尼であろうとかまわずに、罪の意識なしに、手近の女をひっつかむ。このようなもつれ合いが、彼らにとっては、聖なる行為であり、宗教であると考えられたからだ」[註9]。

 しかし、このような行為を、悪魔崇拝の仕業だと決めつけることは、それを防ぐ手立てとしては決して有効とは言えなかった。公共の場での狂宴は、宗教の聖典が書かれる以前から、世界のいたるところで、宗教に伴って行われる慣例的な行為であった。それは、宗教的な体験を特徴的に示そうとする集団感情のうねりの一部をなしていた。中世の農民にとってこの現象は以前から馴染みのものであって、彼らの好むものであり、たとえ悪魔崇拝と呼ばれようと、この行為に固執した[註10]。

 悪魔崇拝と呼ばれたからといって、かえりみて自分たちを悪魔の崇拝者とみなす狂宴者はほとんどいなかった。概して彼らは自分たちを特別に聖なる者として考えた。ラスプーチン(1971-1916。シベリアの農夫出身の祈祷僧、ロシア皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラに取り入って、勢力をふるった)一派の「神の人々」は、彼らの裸のダンスは天国の天使のダンスの模倣であると主張した。忘我の状態を誘引する歌と踊りの後で、彼らは性の狂宴に耽り、ときには子どもたちはみな、聖霊によって生まれたのだ、と言われた[註11]。

 インディアナ州のあるメソジスト派の説教師はかつてこう語った。「宗教的情熱は他のあらゆる情熱を包括するのであった、他の情熱を刺激せずに、ひとつの情熱だけを激しく感じることはできない」[註12]。アメリカにおける信仰復興運動は、明らかにこの事実を証明するものであり、復興主義者の会合の9か月後に生まれた子どもは、広く「キャンプ集会の子ども」として知られるほどであった。

 外見は清教徒でありながら、その実アメリカの新教運動は、宗教的な行動様式を「復興」させた。その様式は、サモトラケ島の狂宴と好色なサテュロスをもつ古代ギリシア人にとって、全く馴染み深いものであったろうと思われる[註13]。ただ本当の名前で呼ばれなくなったにすぎない。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/orgia.html


密教の起源はインドにおける「尸林(しりん)の宗教」にあります。

「尸林」とは中世インドの葬儀場のことで、大きな都市に隣接してこの尸林が存在していました。死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ、荼毘(だび)にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられました。しばしば尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていました。

これらはまともな神経の人間には実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈(ばっこ)する危険な場所であり、しばしば魑魅魍魎(ちみもうりょう)が徘徊する場所として恐れられていました。

 この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあり、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な秘儀を行なっていたのです。尸林の土着の女神たちは、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていました。それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術を生業としていました。その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)と言いました。

シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。

その聖地(墓場)に土着の女性たちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人・えたひにん)の出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていました。

彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式です。ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は曼荼羅制作、護摩(ごま)、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)などです。

 ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼です。

天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズはこの性行為の秘儀が元になっています。)します。この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女の転移)(サンチャーラ)と言います。女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない女性)を1名加えた9名と言う説もあります。その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります。この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになります。

 この儀式はインドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっています。ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。


星辰(せいしん)の回転を象徴しながら、都合8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は「大楽(マハースーカ)」と呼ばれ、子の大楽が行者を「梵我一如」の境地に連れ去ると言われているようです。

 梵字はこの瑜伽(ヨガ)のポーズを記号化したものであることから、ヨガのポーズや梵字には多くの憑依霊や狐などの動物靈を呼び寄せる大変危険なものなのです。

 上記の尸林に集まる巫女の内、ダーキニーと呼ばれた人たちは、空海が日本に密教を持ち込んだ時に茶吉尼天(ダキニテン)という女神として現在の稲荷神社に祀ってしまいました。稲荷神社でキツネを眷族(けんぞく)として祀っているのは、このダキニテンからきています。

 というのは、もともとダキニテンはインドの墓場、尸林で性行為を伴う黒魔術をおこなっているたダーキニーであり、インドでは人肉を食らいながら裸で踊り狂い、左手には人の腎臓(もしくは心臓)、右手には人からもぎ取った手足を持っている姿で描かれていますが、何と日本の稲荷神社で茶吉尼天となったダーキニーは優しい姿で左手には宝玉、右手には剣を持って描かれています。

 そして、何故キツネかと言えば、もともとダーキニーは夜になると死肉をあさるゴールデンジャッカルの変身した姿だと言われていたり、ゴールデンジャッカルを人食い女神の眷族(けんぞく・使いっ走り)として使っていた、と言うことから来ていますが、日本にはジャッカルが存在しないため、ダーキニーとジャッカルのコンビが茶吉尼天とキツネのコンビに変容してしてしまったようです。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/onmyoukai/newpage109.html




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原始宗教


1) アニミズムとアニマティズム


山崎
「アニミズムとは、動植物から、山や川や海といった無生物、 雨や風や雷などといった自然現象に至る万物に、霊的存在〔霊魂・神霊・精霊・妖精など〕を認める信仰だ」。


ルナ
「つまり自然の万物、万象を生命化するのがアニミズムなのね」。


山崎
「そうだね。もっとも原始的な宗教で、神の観念はこのアニミズムから生じたとされるよ」。


ルナ
「やがて、太陽、山、海、風などが が神格化されて多神教の神になったのね」。


山崎
『アニミズムより以前に、アニマティズム(プレ・アニミズム)が存在したという説もある。

アニマティズムとは、万物に内在する生命力や活力に対する信仰で、ここから神の観念が生じたとも言われている。山や海や太陽などといった人間の力を超える存在に対し、おそれかしこむ心情を抱くこと。火や水の浄化力を信じて禊(みそぎ)したり火祭を行うこと。鏡や剣に霊力がそなわるという考え。これらはアニマティズムに通じていると言えるんじゃないかな。

なお、呪術さらには宗教そのものが、超自然的存在を動かすことを目的としていて、アニマティズムの発展と考えられるよ』。


ルナ
「いずれにしても、かつて人間は、人智を超えた自然神秘や驚異を神と見なしたということね」。
「最初にアニミズム説を唱えた人は?」。


山崎
『エドワード・バーネット・タイラー(1832〜1917・オックスホード大学初代人類学教授)というイギリスの人類学者だ。タイラーは主著「原始文化」で、神や霊魂の観念、呪術、祖霊崇拝などといった宗教現象となっている人間の意識をアニミズム〔ラテン語のアニマ(霊魂・生命・気息の意)から〕と定義し、これこそが最も原始的な宗教の形で、ここから死霊崇拝などを経て多神教へと発展し、さらに一神教へと進化したと述べたそうだ』。


ルナ
「当然、一神教の立場の人たちから激しい批判を受けたでしょうね」。山崎「そのとおりだ」。


山崎
『なお、タイラーは最初に「文化」の概念を明らかにした人としても知られている。彼は、文化や文明は、人間が獲得した知識、信仰、芸術、慣わしなどといった能力や習慣の複合体であるとしている。また、世界各地に同じような神話が見られることから、文化は伝播すると主張したようだね。のちには、世界の諸文化を、野蛮、未開、文明の3つに分け、文化の進化主義をとったというよ』。


ルナ
「アニマティズムを主張した人は?」。


山崎
『タイラーの弟子の マット〔1866〜1943・イギリスの人類学者。オックスフォード大学学長〕だ。彼によると、人類が霊魂や精霊の観念をもったのは、智恵がかなり発達してからだという。例えば「雨よ。やんでくれ」と雨に呼びかけるのは、雨に霊魂が存在していると見ているのではなく、雨を生命そのものとみなしているというのがマットの主張だ』


ルナ
「なるほど」。


山崎
『それからマットは、メラネシアやポリネシアといったオセアニアの島々の原住民が持つ「マナ」の観念を自説の裏付けとしていて、アニマティズムは、マナイズムともいうよね』。

B、マ ナ

ルナ
「マナって?」。

山崎
「自然、人工物、人間、神、祖霊、死霊などあらゆる存在が持つと考えられている超自然的な力だ。広く太平洋諸島にみられる観念だという」。


山崎
『例えば「彼が勇士なのは、マナを有する槍を持っているからだ」とか「彼の土地に作物がよく育つのは、マナを有する石を持っているからだ」とか「マナを持てば家畜が増える」とか「酋長は多くのマナを所有している」などと言われるものだね。

マナの特徴は、その人やそのものに固有な力ではなく、付け加えたり、取り除くことができるということ、また勝手に他のものに伝わっていくということにある。だから、槍や網などの道具類、また病人や疲労した人に、マナを注入することで、望ましい状態にすることができると考えられている。

マナを得ることが利益ももたらすので、人々は強力なマナを得ようと様々な努力をするというよ。
マナの観念は、イギリスの人類学者・カトリックの宣教師 コドリントン(1830〜1922)の著書「メラネシア人」によって世界に紹介されている。彼は、マナとは“転移性を有する超自然力”と定義している。このマナが学会の注目を集めたのは、マナのような超自然力こそが、宗教の原初であり、あらゆる宗教の本質であると考えられたことからなんだ』。


ルナ
「“超自然力を獲得するための努力”なら、修験道では、山岳を霊力が強い場所とみなし、そこで修行すれば霊験(れいげん)を得るとしている。この霊験という超自然力を得て、加持祈祷を行なう人が修験者だわ」。


山崎
『修験道には“転移性を有する超自然力”の観念もみられるよね。
密教では、宇宙の根本仏の大日如来と合一することで即身成仏を目指す。これも超自然力を手にするための努力だ。
護摩木や供物を火の中に投じ、煩悩を焼き尽くす「護摩」という修法には、火を超自然的な浄化力とみなす観念がみられるね。
また日蓮系においては、日蓮の著した曼荼羅にはすごい功力(くりき)があるとされていて、これを拝み題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで、自己の仏性が顕現され、大変な功徳が得られると信じられている。

古神道では「禊」(みそぎ)は、身削ぎ(心身の浄化)だけでなく、霊注ぎ(みそぎ)の意味もあるなんて言われる。水の持つ超自然的な浄化力やエネルギーを信じるものだね。
「神籬」(ひもろぎ・巨木)や「磐座」(いわくら・巨岩石)に、神が依りつくという考えは、超自然力の転移だ。
神道では、巫女(みこ)や神輿(みこし)に神霊が宿ったり(転移)するし、お祓(はら)いなんていうのは、まさに超自然的な力で災いを除く呪術だよ』。


ルナ
「一神教の神も超自然力をそなえた全知全能の神だわ」。


山崎
『一神教においては、人間が神の力を獲得することは説かれないけど、生前に奇跡をなした人を「聖人」という称号を与えて崇めるカトリックの「聖人崇拝」なんてのは、特定な人間に超自然的な力を認めるものだし、
「教会には神より聖霊が与えられていて、秘蹟(サクラメント)の効果は、聖職者に聖霊が宿るから可能である」なんていうカトリックの教義にもマナ的観念がみられる』。


ルナ「カリスマ(ギリシャ語。神の賜物の意)という語も、本来、キリスト教の言葉で、神から与えられた奇跡、呪術、予言などを行なう力をさすというわ」。


山崎『イスラム教神秘主義のスーフィズムでは、すぐれたスーフィー(神秘主義者)は、人々の願望をかなえるバラカという特別な呪力を得ていて、聖者として崇拝の対象となる。


バラカは死後も存続し、ムハンマドや聖者たちの遺体、遺品、墓石などにバラカがあり、これらを拝んだりすると様々な功徳があるとされている』。


ルナ『スーフィズムの聖者崇拝は、カトリックの「守護聖人」(特定の職業や地域などを守護すると崇められる聖人や天使)に対する信仰と近いわね』。


山崎『こうした宗教の源となったアニマティズムというのは、おそらく人類が超自然的な力を恐れ、危害を避けたいと願うと同時に「その力を味方にしたい」と考えたことから生まれたのかもしれないよね』。ルナ「はい」。

C、呪 術


ルナ『「呪術」も超自然的な力を動かすことで目的を達成しようとするものでしょ』。


山崎『呪術は、雨乞いのように人や社会に有益なことを目的とする「白呪術」と、人や社会に災いが起きることを目的とする「黒呪術」に分けられ、黒呪術には、密教の「調伏」〔ちょうぶく・明王などを本尊として、怨敵や魔障を降伏(ごうぶく)させる修法〕や「丑(うし)の時参り」なんかがよく知られている』。


ルナ『丑三つの刻(午前2時半頃)、社寺の樹に、呪う相手のわら人形を取り付けて、呪文を唱えながら五寸釘を打ち込むのが「丑の時参り」ね。よく白衣に身をまとった女性が、わら人形に釘を打つ姿が漫画に描かれたりするわ。


釘を人形の頭に打てば、相手の頭を痛めつけ、手足に打てば手足を痛めつけられる。満願の日までに人に見られると効果がないとか、目撃されたらその者を殺さないと自分が死ぬとか言われているわよね』。


山崎「黒呪術には、この他、写真に針を刺したり、相手の名前を書いた板に釘を打って海に流したり、足跡に釘を打ったり、相手の髪の毛を手に入れて呪うなどの方法があるようだね」。


ルナ『「お百度参り」は、白呪術になるのかしら?』。


山崎『そうだね。百度参りは、平安時代にはじまり、中世以降に一般に浸透したそうだ。特定の社寺に100回参詣し祈願するものが、のちに1日に100度参詣する形式となったそうだよ。


拝殿で祈願すると、そこからお百度石に戻り、そこからまた拝殿に行き祈願することを100回繰り返す。これを、お百度を踏むと言うんだけど、数を間違えないように、小石や小枝や竹べらが用意されていたり、お百度石の壁面にそろばんのようなものが備え付けられていたりするよね』。


ルナ「宗教がどちらかというと、超自然的な存在への帰依や服従であるのに対して、呪術は人間の力によって超自然的な力を動かそうという意識が強いようね」。

D、シャーマニズム T


ルナ「シャーマンが、トランス(恍惚)状態、神がかり状態となって、神や霊といった超自然的存在の言葉を語るシャーマニズムも古いタイプの宗教でしょ。邪馬台国の女王 卑弥呼もシャーマンだったというし」。


山崎『シャーマンは、ツングース語(シベリア東部・中国東北部に住むツングース系諸民族の言語)のシャマン(霊媒師)に由来するという。


日本のシャーマンの代表が、民間巫女(みこ)の「イタコ」(東北)と「ユタ」(沖縄)だね。巫女は、神社で神に仕える神社巫女〔かつては処女をあてた〕と、民間巫女に大別されるんだけど、民間巫女は、口寄せをするところに特徴がある』。


ルナ「巫女の語源は?」。山崎「不明だが、神の子を意味するみかんこの転、貴人の子を敬って称したものなどと言われているよね」。


ルナ「口寄せって、死霊を招いて神がかり状態となり霊の意志を語るのよね」。


山崎『口寄せには、ルナの言った「死口」(しにくち)の他、神霊を寄せる「神口」(かみくち)、生霊を寄せる「生口」(いきくち)があるそうだ。個人によってどれを得意とするかがあるみたいだね』。


ルナ『神や死者・さらには未来人・宇宙人など交信する「チャネリング」は、現代版の口寄せといったところね』。


山崎『シャーマンは、口寄せ(霊との交信)ばかりでなく、とり憑いた悪い霊を除く「除霊」。さまよっている霊を浄化(成仏)させる「浄霊」。またそれらにより、病気を治したり、災いを除くこと。


さらには、予言、占い、前世や過去世をいいあてること。悩み事相談なんかもするよね。悩み事相談の答えは「現在の不幸は、○代目前の先祖への供養が足りないために、その先祖が苦しんでいるのが原因です」とかいうものだ』。


ルナ「最近では、スピリチュアルカウンセラーなんていう連中が登場したど、彼らのしていることは、民間巫女と基本変わらないわね」。


山崎『それから未開社会では、青年期に夢や幻覚で見た鷲や熊などの動物霊を、個人の精霊(守護霊)としたり、日本のように祖霊信仰を持つ社会では、先祖の霊が子孫を加護するという思想があるようだけど、シャーマンは、守護霊と関係が深いようだ。


世界的に見てシャーマンになるには三つの型があるとされるよ。1つは、代々シャーマンの家系で守護霊が継承される世襲型。


1つは、召命型。これは、守護霊に選ばれた者が、巫病(ふびょう)にかかり、夢や幻覚で守護霊を見たり、幻聴で守護霊の声を聞くなど心身に異常をきたす。選ばれてしまったら本人の意志で拒絶することは困難で、拒否すると異常が激しくなり死ぬこともある。先輩シャーマンの指導によりシャーマンになると異常は消え、守護霊に守られるというもの。


もう一つは、修行型といって自分の意志や親族などのすすめにより師のシャーマンのもと修行し、呪文やトランス状態になることなどを学び、最後に守護霊を依り憑かせる儀式をうけてシャーマンになるというもので、このとき陶酔や幻覚のなかに現れた霊体が守護霊となるというものだ。


守護霊は、神霊であったり、先祖の霊であったり、精霊(鷲や熊などの動物霊)であったりするらしい。シャーマンと守護霊が夫婦や主従の関係とされたり、守護霊に眷属(けんぞく・家来)がいて、シャーマンは守護霊の力により眷属を使うことができるとされている場合もあるというよね』。

E、シャーマニズムU〔イタコ〕


山崎「イタコは、東北の津軽、南部〔岩手県と青森県下北半島と北秋田にまたがる地域。狭義には盛岡をさす〕の民間巫女だ。語源は、アイヌ語のイタク(語る)に愛称のコが付いたという説や、戒名を板に書いて祀るので板コである等の説がある。下北半島の恐山〔おそれざん・879mの火山。宇曾利山(うそりざん)ともいう〕を聖地とするよね」。


ルナ「恐山?」。


山崎『恐山は、862年に 慈覚大師 円仁(延暦寺3代座主。天台宗山門派の祖)が地蔵尊を祀ったことに始まると伝承される。菩提寺(円通寺地蔵堂)があり、比叡山、高野山とともに日本三大霊場とされるよ。


菩提寺は1536年に 聚覚(じゅかく)が再建して以来、山腹の円通寺〔曹洞宗。1522年、宏智聚覚(こうちじゅかく)の開山。南部氏の開基(資金的な開山)。本尊 釈迦如来〕の管理となっている。


宇曾利湖というカルデラ湖を中心に、周囲に朝比奈岳、円山、大尽山、釜臥山などの山々がある。周囲の山々は、八葉(はちよう・8つの花弁)蓮華の花弁をあらわしているとされる。いたるところに硫気孔があり、音を立てて硫気を吹き出していて、三途の川、賽の河原、八大地獄などもあり、死霊信仰と地蔵信仰が習合した霊場だ。


死者の集まる山として7/20〜24日の大祭には、参詣や観光でにぎわい、数珠を手にしたイタコによる口寄せが境内のいたるところで行われる。こ2恐山の大祭や、津軽半島 金木町川倉の地蔵盆には、沢山のいたこが集まるという』。


ルナ「イタコには盲目の女性が多いと聞くけど?」。


山崎『天台宗の寺院でも養成しているところがあるそうだが、普通、盲目の女性が少女のときに師のもとに弟子入りし、経文、祈祷、筮竹(ぜいちく)による占いなどを学ぶことが多いというよね。


独立のときにカミ憑(つ)けという神婚式を行い自分を守護する神や仏をもらうらしい。彼岸や盆に死者の供養として口寄せをする他、病気治しのオッパライ(お祓い。猫や馬や蛇などが描かれているイタコ絵馬を用いて病気の原因を占ってオッパライの祈祷を行う)をしたり、オシラサマを祀ったりするというよ』。


【 オシラサマ… 東北地方の民間信仰の神様。多くは30pほどの桑の木2本に男女や馬の顔などを彫ったり書いたりして、おせんたくと呼ぶ布を着せ、家の神、農耕神、養蚕神としたもの。神棚の祠におさめる。春秋の祭の日には祠から出しておせんたくを着せ替えたり、本家の老婆が祭文(さいもん・祭のときに神にささげる祈願や賛嘆の心を表したことば)を唱えるという。


イタコが行う土地も多くオシラサマを両手で持って舞わせながら祭文を唱える。イタコがオシラサマを舞わせたり、少女がオシラサマを背負って遊ばせることをオシラアソバセという。】

F、シャーマニズム V〔ユタ・御杖代〕


ルナ「ユタというのは、聞いたことがないけど…」。


山崎『ユタは、沖縄本島を中心に南西諸島で活動する民間巫女で、女性がほとんどだが男性もいるというよ。語源は不明だが、左右にゆためくことからとか、あらぬことを口ばしるので、ゆた口やゆたゆん(よくしゃべる意)からきたなどと考えられている。


ノロ〔祝女。地域の祭祀を取りしきり、御嶽(うたき)を管理する女性神官。世襲制で、かつては琉球王国より任命された〕が神官であるのに対し、ユタはシャーマン(霊媒師)だ』。


ルナ「沖縄では、女性が祭祀の中心なのね」。山崎「そうだ」。


山崎「ユタは、多くは幼少から病弱で霊能力を持つ者がなる。宿命によってなるのであり一般人はなれないとされるよ」。


ルナ「イタコが修行型であるのに対し、ユタは召命型なのね」。


山崎『幼児期に不思議な精神体験をし、その後、神ダーリ(巫病・神よりユタになるよう与えられる病気)にかかり、精神的に不安定な状態となり、死者と交信したり、予言を語ったり、異常な行動をするという。神の指示に従うことで精神が安定し、異常行動はなくなり、ユタとしての能力が現れてくるというよ。


その後、御嶽(うたき)を巡り、自分の守護神を見つけこれをのり移りさせて、最終的には弟子入りして学ぶという』。


【 御嶽… うたき・おたけ・沖縄県において、神社および鎮守の森に相当する聖地。多くは森の空間。山そのものや島そのものであることもある。


宮古(宮古島など)や八重山地方(石垣島・西表島・竹富島など)では、過去に実在したノロの墓が御嶽となっているものも多く。そのノロは地域の守護神として祀られているという。


社殿はなく、本殿にあたる最も神聖な場所をイベ、イビ、ウブ等と呼び、イベ石という自然石を祀る。イベ石は、古神道の磐座(いわくら)にあたり、神が降臨する場である。


イベには、香炉、線香、ロウソクなどが置かれ、酒や供物が供えられる。琉球王国時代、御嶽は完全に男子禁制で、現在でも、イベには、ノロ(祝女)・ニーガン(根神)・ツカサ(司)等の女性神役しか近づくことはできないという御嶽も多い。


≪ ニーガン… 村の草分け的な家を ニーヤ(根屋)と呼び、その主人(村の長)が ニーンチュ(根人)、主人の姉妹が ニーガン(根神)である。ニーガンは ノロの支配下にあり、村の祭祀を行った。


ツカサ… 宮古、八重山地域には ノロの名称はなく、ノロに代わって村落の祭祀を司る神女。≫


また、大きな御嶽では、人々が御嶽の神を歓待して歌ったり踊ったりするための「神あしゃぎ」(神が足をあげる場=腰を下ろす場の意味という)と呼ばれる四方が吹き抜けの建物が設けられていることもある。


鳥居がある御嶽も見られるが、これは明治の「皇民化政策」による結果。明治初期には、宗教政策の一環として御嶽を神社化する動きもあったが、影響は一部にとどまっている。


御嶽に祀る神は、村落共同体の祖霊神、太陽神、土地神、水神、火の神、農耕神、鍛冶の神、航海神、竜宮神、英雄神など様々。普通、それぞれの御嶽には、これを崇拝する集団がいて、代表者の女性神役を中心に定期的に豊作祈願や悪霊払い等がなされている。


現在でも新しい御嶽が出来たり、逆に統合されたり、放置されるなどしているという。なお、村落や地域の人々が、加護や繁栄を祈願する場所を「うがんじゅ」(拝所)と総称する。うがんじゅの多くは御嶽であるが、他に霊石や洞穴などの場合もある。】


ユタを守護する神(守護霊)は、多くは何代か前の先祖が多いが、観音菩薩などとする者もいるらしい。ユタは、自分の守護神が他人のそれより霊力が強いことを誇りとするそうだ。


ユタによる死霊の口寄せを「マブイワカシ」(マブは霊魂の意。本来は守護する意)という。人により、琉球王朝時代の死霊を呼び出すのを得意としたり、死んで間もない者の霊を得意とするなどの違いがあるらしい。この他、身体から抜け出した生霊を戻して病気を治す「マブイグミ」なんかを行うそうだ。


また、教義も戒律もないことから、ユタの祭壇には、仏教、神道、キリスト教などの偶像なんかが一緒に並べられているそうだ。また、副業としてユタを行なっている者も多いというよね。


また沖縄には、沖縄県には「医者半分、ユタ半分」ということわざがあり、ユタが千〜2千人(5千人とも)いて、多くの人たちがユタと関わりを持ち、結婚相手、結婚の日取り、運勢、転居、ノロなどの神役の選定、家庭の不和などの悩み事について占ってもらうそうだ。


さらに明治以後、移民によりブラジル、アルゼンチン、ペルーなどにも広がり、当地のユタの判示(占いの答え)を受け、沖縄に祈願にくる人もいるというよ。


しかし、不安を煽るような事を言っては、お金を騙し取るユタも多く、社会問題になることも多い。


また、中央集権化や近代化を目指す支配者層は、ユタの存在は、脅威や障害とみなされ、琉球王国以来「世間を惑わす」として、幾度も弾圧、摘発を受けている。近代以降も、明治期のユタの禁止令、大正期のユタ征伐運動、昭和10年代(戦時体制下)のユタ弾圧といった迫害を受けている』。


ルナ「日本初の統一王朝とされる邪馬台国〔初代神武天皇が創始した大和朝廷以前に存在。3世紀半ば頃〕の女王 卑弥呼(ひみこ)は、鬼道(幻術、妖術)に通じた巫女(シャーマン)であったとされるでしょ」。


山崎「飲食を給し、用件を伝えるただ一人の男子と婢(ひ・女の奴隷)千人が仕えていたとされ、弟が卑弥呼の神託に従って政治や軍事を担当していたというよ」。


ルナ「古代の祭祀って女性が中心だったのかしら?」。


山崎『古代の祭祀では、未婚の女性(処女)を神聖視したそうだ。神の妻とされた女性が神がかりして、神の言葉を伝えてきたようだね。例えば、斎宮〔さいぐう・斎王(さいおう・いつきのみこ)〕は、天皇の代わりに伊勢神宮に入り、天照大神に仕えた内親王(未婚の皇女)や 女王(じょおう・天皇の2世(孫)以下の女子)で、天皇即位のさいに選ばれたという。10代 崇神(すじん)天皇のときにはじまり96代 後醍醐天皇(在位・1318〜1339)のときまで続いたとされる。


〔崇神の年代についてはよく分かっていない。3〜4世紀とする説もある。また、崇神天皇を初代天皇とする説や、神武(初代)=崇神とする説、神武=応神(10代)=崇神とする説もある〕


皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ・太陽の女神)の御神体である「八咫鏡」〔やたのかがみ・「天の岩戸開き」の神話に由来する鏡〕は、天皇のもとにあったが、崇神天皇のとき、恐れ多いとして、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に移して、皇女 豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が仕えた。


しかし、その後も天照の霊魂(みたま)が荒ぶったことから、姫が「御杖代」(みつえしろ・自らが天照の霊魂が宿る者)となり、丹波(京都中部)、大和(奈良)、木乃国(和歌山)、吉備国(岡山)を21年間巡っている。


さらに11代垂仁天皇のとき、年老いた豊鍬入姫命に代わり、垂仁の皇女 倭姫命(やまとひめのみこと)が、御杖代となり、新たな鎮座の地を求め、伊賀、淡海(おうみ)、美濃、尾張を巡り、伊勢の五十鈴(いすず)川のほとりに来たとき、天照が「常世(とこよ)の浪(なみ)が重浪(しきなみ)帰(き)する国なり」といたく気に入ったとして神殿が建てられた。これが伊勢神宮だよ。


天照の霊魂が皇居を出て、最終的に伊勢神宮に鎮座するまでに、25ヶ所もの社(宮)に祀られたとされ、これらの場所は「元伊勢」と呼ばれているよ。〔1つの元伊勢に、現在あるいくつかの神社が候補地としてあげられていたりする〕


また、日本武尊〔やまとたけるのみこと・12代景行天皇の第3皇子。14代仲哀天皇の父。小碓命(おうすのみこと)〕は、東北征討の途中、伊勢神宮に立ち寄り、おばで斎宮の倭姫命より、草薙剣を授かっているよ』。


【 草薙剣… 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ともいう。八咫鏡、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともに、歴代天皇の三種の神器、皇位継承の証とされる。天照の弟の須佐之男命(すさのおのみこと)が、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、大蛇のしっぽから出てきた剣。】


このような女性中心の祭祀形態は、神の言葉を伝えるという巫女の役割が形骸化されてゆき、巫女が男性神職の補助的存在になって失われていったと考えられているよね。だから沖縄の祭祀は、古代日本の宗教形態を最もとどめていると言えるかもしれないね』。

G、フェチニズム


山崎『マナの観念と似るものに「フェチニズム」というのがある。アニミズムやアニマティズムとともに宗教の原初形態の1つとされている。現在では、自然崇拝やアニミズムが宗教の原初であるという説が有力だが、かつては、フェチニズムから、アニミズム、多神教へと発展したという説も唱えられたそうだよ』。


ルナ『「フェチ」と言うと、異性全体ではなく、髪の毛とか、足とか、耳とかいった身体の一部や、靴下とか、下着とかといった所持品に、愛着を示すことでしょ』。山崎「そうだね。下着どろぼうや、毛皮(異性の象徴となるモノ)を着ていない女性とは、性交できないなんてのがいい例だ」。


山崎「フェチニズムは、もともとは特定の自然物や人工物に神秘的な力、超自然的な力が内在すると信じ、崇拝するものだよ。アフリカの未開社会をはじめ各地でみられるというよ。物神(フェティシュ)崇拝とか、呪物崇拝と訳される。


語源は、フェチコに由来する。15世紀後半、西アフリカと交易をしたポルトガルの航海者たちが、西アフリカの海岸地域で、原住民が、歯や爪、木片や貝殻や石などを、髪の毛に包んでお守りにして身に付けていたり、剣や鏡や玉、首飾り、臼などを崇拝しているのを見て、


カトリック信者が、聖者たちの遺物や護符をフェチコ(呪符や護符の意)として崇拝しているのと同じとみたところからきているそうだ。


フェチニズムの語を最初に使ったのは、フランスの比較民俗学者で思想家(ヒューマニスト)の シャルル・ド・ブロス(1709〜77)の著書「フェティシュ諸神の崇拝」だとされるよ』。


ルナ「偶像(仏像やキリストの画像)や十字架、曼荼羅、御札やお守り…。これらは広い意味で、フェチニズムと言えるわね」。

H、トーテミズム


山崎「ルナは、トーテムポールを知っているかな?」。ルナ「学校の校庭にあったわ。公園にもみられるわよね。鳥とか動物とか、人間の顔などが彫刻されている柱でしょ」。


山崎『トーテムポールは、カナダ西海岸部から北西アメリカのネイティブ(インディアン)諸族が製作するもので、トーテム〔家系をあらわす紋章。動植物など〕や、彼らのもつ伝説や物語の登場人物を表現したものというよ。


家屋から独立して建てられる独立柱、家屋の正面に建てられる入り口柱、家を支える柱また家の内部の飾りとして建てられる家柱、墓地に特定の個人を記念するために建てる墓標柱、特別な出来事(戦いなど)を記念して建てられる記念柱などがあるようだ。但し、これらは、崇拝の対象ではないというね』。


ルナ「トーテムって何?」。


山崎『氏族の先祖として崇拝する特定の動植物だね。動植物ばかりでなく、自然物、人工物、自然現象などの場合もあるようだ。


トーテムという語は、オジブワ族〔アメリカおよびカナダのネイティブの部族。アメリカでは3番、北米全体でも4番の人口〕の「彼は私の一族の者だ」という言葉に由来する アルバート・ギャラティン〔1761〜1849・アメリカの民俗学者。言語学者。政治家(財務長官を務めた)。アメリカ民族学会の設立者〕の造語だと言われているよ。


トーテミズムは、トーテムを崇拝する信仰だ。この信仰は、はじめネイティブアメリカン(アメリカインディアン)で発見され、のちに世界各地、とくにオーストラリア、オセアニア諸島、アフリカ、インドなどにも見られることが明らかになったそうだ。


オーストラリアには、各氏族のトーテムをあわせると、その数4千にもなる部族があったり、日、月、雲、雪、雨、火、水、季節などもトーテムとなっている部族があったり、安眠、下痢、嘔吐、性交などがトーテムとなっている部族があったり、男がコウモリで、女がキツツキというように、氏族でなく性によるトーテムを持つ例がみられたりするそうだ。


また、メラネシアには、各氏族が、鳥1種、樹木1種、動物1種というように複数のトーテムを持つ部族があったり、インドには、短刀、割れた瓶、トゲの付いた棒、腕輪、パン切れなどもトーテムとなっている部族があったり、


アフリカには、トーテムは牛だけで、各氏族のそれは、赤牛とか乳牛といった牛の種類や、舌、腸、心臓といった身体の部位で区別する部族があったり、アメリカ北西部には、個人が特定のトーテムを持つ例(但しこれは守護霊であるとする考えもある)もみられるというよ。


ほとんどの場合、トーテムとトーテム集団との結びつきの由来を物語る神話が存在するそうだ。また、トーテムは部族や氏族の先祖として畏敬され、殺したり食べたりしてはいけないとされていて、触れたり、見たりすることもタブー(禁忌)とする例もあるという。


一方で、禁忌をともなわない例も多く、トーテム動物は、トーテム集団の者に好意を持っていて、撃たれて食べられることを望んでいるとする例もあるそうだ。トーテム集団の人たちの姿や性格は、トーテム動物に似ているなどとも言われるらしい。


また、同じトーテムを持つ氏族の者同士の結婚は許されないというよね』。

I、アニミズムと神道


ルナ「日本の神道って、アニミズム的要素を割合と濃くとどめていると言えるような気がするけど…」。


山崎『そうだね。経済先進国において、純粋にアニミズム的要素を濃く残している宗教は、日本の神道以外にないかもしれないよ。


アニミズムとは自然の万物に、精霊や霊魂(みたま)が宿るという信仰だね。巨樹、森、山、太陽、月、あるいは、雨や風などの自然現象に精霊が宿るといった信仰だ。


前述したとおり、山、太陽、月、雨、風、雷などが神格化されて、神道のような多神教の神になったとされる。


インドのヒンズー教も多神教ではあるけど、仏教同様、輪廻や解脱を説き哲学性が強いうえ、カースト制度をも包含し、社会への影響は計り知れない。また中国の道教も多神教であるけど、まじない的要素が強いし、人間神も多いからね』。


山崎「ルナはどんなところに、神道にアニミズム的要素が色濃く残っていると感じたのかな?」。


ルナ「そうね-。仏教では仏像が本尊とされたりするけど、神道では神像がほとんど見らないわ。もちろんこれは一神教のような偶像崇拝の禁止とは違うでしょ…」 。


山崎「そこに、神道が自然崇拝を残している感じを持たせるわけだね。ルナにそう感じさせるのは、おそらく社(やしろ)が、本尊を拝む場ではなく、万物、自然を対象とする拝殿って感じがするからかもしれないね」。ルナ「確かにそうね」。


ルナ「鏡や玉や剣が御神体とされるところにもアニミズムの要素が感じるけど…」。


山崎『なるほど。おじさんが、神道がアニミズム的要素を色濃く残すと思うのには、神道がタマ(魂)とカミ(神)の観念が結びついた信仰だからというのもある。


古代の日本人は、言葉には言霊(ことだま)、木には木霊(こだま)、人には人霊(ひとだま)、稲には稲霊(いなだま)、船には船霊(ふなだま)が存在すると考えたそうけど、


天照大神の御神体(ごしんたい・神霊を象徴するもの)=御霊(みたま)を「八咫鏡」(やたのかがみ)とするのなんかは、まさにタマとカミの結びつきを示していよね。


さらに、神道の神、つまり日本神話の神には、ギリシア神話でみられる理念神〔勝利、自由、秩序、愛などの理念を神格化した神。日本神話ではこれといった理念神は登場しない〕がみられず、自然神が多いことも、神道にアニミズム的要素が色濃く残っている根拠の1つになると思うよ』。


ルナ『秩序の神という理念神がみられないのは、古代の日本人が、天体の運行から、花の一生に至るまでの全ての自然現象に、規則性や秩序性を感じ、


自然の摂理こそが、全ての秩序であり、理念であるとみていたからかもしれないわね』。山崎「なるほど」。


山崎「それから、例えば、八幡神社の祭神の八幡神は、応神天皇(15代天皇。5世紀頃)のことだとされている。このように神社の祭神はみな自然神なわけではない。でも、一般の人は、地域の神社は、その祭神に関わりなく、そこの地域や住民を守る 産土(うぶすな)神、鎮守神、氏神であると認識しているよね。ここにもアニミズム的要素がみられるだろうね」。

J、多神教と一神教


山崎『アニミズムやアニマティズムの信仰の対象が、やがて神格化されて、自然神が誕生した。自然神の誕生は、多神教の誕生でもある。


自然神とは、山や川、太陽や月、雷や風といった自然、天体、気象現象を神格化したものだ。アイヌの熊など神聖視される動物も自然神の一種と言える。


その後、人間神や文化神や理念神も誕生する。人間神とは、民族や氏族の統合の象徴で、祖先神や氏神といったものだ。


例えば、奈良の春日大社の祭神 天児屋根命〔あねのこやねのみこと・天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天の岩屋にかくれたとき、祝詞(のりと)を奏して出現を祈った。のちに邇々芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨につきしたがった神の1人。祝詞の神。子孫は大和朝廷の祭祀を司った〕は、


朝廷の祭祀を司った中臣(なかとみ)氏と、中臣氏から分れた藤原氏〔中臣鎌足が大化の改新の功により藤原姓を賜ったことにはじまる〕の氏神だ。


【 春日大社… 710年の平城京への遷都後まもなく、藤原不比等が、武神の建御雷神(たけみかづちのかみ)を春日山の浮雲峰に祀ったのにはじまり、786年に、称徳女帝の命で、藤原永手(ながて・不比等の孫。左大臣)が山麓に移し、建御雷神とともに、祖神の天児屋根命をあわせて祀った。この他、祭神は、武神の経津主神(ふつぬしのかみ)、比売神(ひめがみ)。】


祖先神や氏神は、子孫に律法をさずけたり、子孫を守護する神だね。


歴史や伝説の英雄なども神格化されている。家康は、日光東照宮に、東照大権現〔権現とは、権(かり)に現れた神の意。神仏習合思想で、インドの仏・菩薩が、日本の衆生を教化するために、仮に神の姿をとって現れたという意味〕として祀られている。


この他、人間神の例として、明治神宮は、明治天皇を祭神としている。天満宮の祭神の天神さんは、菅原道真だね。


文化神は、屋敷神、かまどの神、音楽神、学芸神といった生活や文化を司る神だ。


理念神は、勝利、秩序、自由、愛などの理念が、神格化されたものだ。アメリカの自由の女神。ギリシア神話の秩序と正義の女神 テミスや、運命の3女神 モイライ。


最高神のゼウスも雷神であると同時に、人間社会の秩序を支配している。また、バラモン教の宇宙の根本原理ブラフマン(梵)を神格化した ブラフマー(梵天)は、自然神と理念神の性格をもっていると言えるよね。


多神教では、時代がすすむにつれ、神の間に上下関係や支配被支配関係が生まれ、多くの神のなかから最高神が誕生したり、主要な神がトリオで最高神の位置を占めるようになってくる。


3神トリオの例としては、ギリシア神話で世界を3分する ゼウス(天)、ポセイドン(海)、ハデス(冥府)の兄弟。ヒンズー教の ブラフマー(創造)、ビシュヌ(維持)、シバ(破壊)。


古事記の最初に登場する造化3神〔天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神御産巣日神(かみむすひのかみ)〕。


黄泉(よみ)の国から帰った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が海で禊(みそぎ)して生まれた三貴子〔天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)〕などがあげられる。


多神教には、特定の最高神は存在せず、祭儀の目的(福徳・病気平癒・長寿・悪霊退散・和合・祈雨など)にかなった神を最高神とするものもある。


つまり、その場に適した神を、交替で最高神とする信仰で、これを交替神教というそうだ。


リグ・ヴェーダ(バラモン教の聖典ヴェーダの最初部)時代のバラモン教はこれにあたる。密教の別尊曼荼羅〔 密教U 曼荼羅T 分類 〕もこれに属すると言えるよ。


また、多神教でも特定の一神をとりわけ強く信仰するもの、多神教と一神教の中間に位置するものもあるらしい。


一神教の成立については、多神教より発展したという説や、一神教こそ宗教の原初の形態で、多神教は一神教が退化して誕生したという説もあけど、これらはほとんどかえりみられない。


最も支持されているのが、創唱者によって創造されたという説だ。一神教にも、他の集団が崇拝する神を容認するが、自分たちは特定の神しか拝まないというものと、他の神は一切認めないという立場があり、古代イスラエルのヤーウェへの信仰は、前者だね』。

K、汎神論。理神論


ルナ『アニミズムって、一切が神、宇宙や自然すべてが神という「汎神(はんしんろん)論」に通じているわよね』。


山崎「そうだね。ただ汎神論に2種類あるんだよ」。ルナ「2種類?」。


山崎「一切が神というのと、神が一切というやつだ」。ルナ「同じように思えるけど…」。


山崎「一切が神となると、ルナもおじさんも、そこに転がっている石も、あそこに立っている木も神ということだね。すると神という言葉は飾りものにすぎない。形容詞にすぎないってことになる。これは神がいないのと同じだというので“無神論”というんだよ」。ルナ「なるほど」。


山崎「これに対して、神が一切というと、ルナも私も、そこの石も木も、宇宙のすべてが、じつは神の影のような存在で、実際は、本体の神しか存在しないことになるね。だからこっちは“無宇宙論”というのさ」。


ルナ『無神論は多元論。無宇宙論は一元論ね。一神教は「神」と「神の創造物の宇宙」の二元論にあるから、一切が神という多元論や、神が一切という一元論は否定されるでしょ』。


山崎「そうだね。汎神論を、無神論、無宇宙論と立て分けて論じるようになったのも、一神教の立場から、汎神論を否定するためになされたことと想像できる」。


ルナ「いつ頃から汎神論について色々論じられるようになったの?」。


山崎『スピノザが“神即自然”(即はそのままの意)という「理神論」を説いてからだというよね』。


ルナ「理神論?」。


山崎『17〜18世紀のヨーロッパに登場した神学だ。世界の根源としての神の存在は認めるが、これを人格的な神とは考えない立場さ。理神論者たちは、イギリス国教会(聖公会)の説く、神の啓示(おつげ)、神の奇跡、秘儀(サクラメント)などの神秘的要素、超自然的要素を否定し、


神による天地創造以後の世界においては、自然に内在する法則を把握することは可能であり、宗教的真理は自然から理性によって把握できると主張したんだよ。このため、理神論は、自然宗教や理性宗教と呼ばれているんだ』。


ルナ「理性宗教と自然宗教って反対のような感じだけど、キリスト教の世界観では同じなのね」。


山崎『イギリスの思想家 トーランド〔1670〜1722・論争をまきおこす多くの著書のため、迫害され諸国を放浪。貧困のうち死去。「キリスト教は神秘ならず」は処女作〕が「キリスト教は神秘ならず」(1696)を公刊すると、それに反論する国教会側とのあいだに論争が起きたというよ。


トーランドは、信仰が理性に反してはならず、キリスト教の教義は理性に反しないと主張し、教会の伝統的な秘儀を厳しく攻撃したそうだ」。


ルナ「でも、キリスト教の教義を、理性で把握できるという主張もおかしいわよね」。山崎「結局そこが一神教の世界で育った思想家の限界ということなんだろうね」。

L、スピノザ。必然と偶然


山崎「理神論者で最も有名なのが、オランダの哲学者・神学者の スピノザ(1632〜77)だ」。ルナ「スピノザ?」。


山崎『スピノサの両親はポーランドからオランダに移住した裕福なユダヤ商人で、スピノザは、ユダヤ人学校でヘブライ語や聖書を学び、その後、ユダヤ教の神学を研究したそうだ。


しかし批判的な見解をもつに至り、ユダヤ教会から永久的に破門され、学問の研究に生涯を終えたようだね』。ルナ「そうなんですか」。


山崎『スピノザは、まず神を万物の内在的原因と考え、超越的原因ではないとして“神即自然”と主張したんだ」。ルナ「汎神論ね」。


山崎『そして、神は唯一無限の実体である。精神界、物質界の全ての事物、事象は、神の諸様態である。


神の本性は、絶対・無限で、属性を無限に持つ。精神も身体も神の属性の1つにすぎない。と考えたんだ』。


ルナ「これは汎神論の無宇宙論ですね」。


山崎『そうだね。神による一元論さ。さらに、一切は神に内在する必然性(必ずそうなる)によって生成されるので、人間の自由意志や偶然(たまたまそうなる)は全く存在しないとしているよ。


スピノザによると、自由意志と理解されている心像や言語は、じつは単なる身体の運動にすぎないというよね』。


ルナ「決定論、運命論ね」。


山崎「但し、彼は、個の本質に、自己保存の衝動(コナトゥス)を認めている。その上でこのコナトゥスを乗り越えるには、神による必然性を理性によって認識し、この認識を他者と共有する必要があると唱えているよ」。


ルナ「ここに理神論的な思想があるのね」。


山崎『スピノザの真の自由とは、理性を通して、自己を含む全ての存在が、神の必然性の中にあることを洞察し、人間が神を通して思考できていることを知ることだという。


そして、これが最高の善であり道徳あるというのが、彼最大の主張で、これを「神への知的愛」と呼んでいるよ』。


ルナ『デカルト(1596〜1650)の「我思う、ゆえに我あり」を、根拠のない宗教的信念から否定しているわね』。


山崎『さらに「神への知的愛」とは、神が、神の一様態である人間を介して、自分(神)自身を愛することであり、人間は神の一様態であるから、神への愛は人間への愛でもある。


人間は、神が、自分自身を認識し、愛し、満足する行為に参与することで、最高の満足を得ることができると主張するよね』。


ルナ「感情については?」。


山崎『感情には、感覚的な受動感情と、理性的な能動感情があり、欲望の決定が、不完全な受動感情でなされたとき、人間は自らの環境にふりまわされ支配されている状態にある。能動感情により決定されているとき、人間は自由であるとしているよ』。ルナ「なるほど」。


山崎「そして、以上のような理神論の立場から、聖書はあくまで民衆を導く信仰の書であり、科学や哲学の書ではない。聖書にある奇跡を現実の出来事として教えるのは、信仰を迷信におとしめる行為であると主張したそうだ」。


ルナ「スピノザも色々と考えたようだけど、結局、センスのない服をおかしくアレンジしたみたいになっちゃってるわね」。


山崎「もともとオカルトにすぎないものに、色々と理屈をつけたからおかしなものになってしまったということだね」。ルナ「はい」。


山崎「無宇宙論や唯心論〔全ての事物、事象は、心という本体よりあらわれた影であり、本来 心の他に存在しない〕は、神あるいは心を唯一の真理とする一元論だ。一元論の場合、1つの存在だけが真理なんだから、その1つがよほどしっかりとした根拠を持たないと、スピノザみたいに哲学ではなく神学みたいになっちゃうよね」。


ルナ「全てに仏性があるという仏教の立場は、一切が神という無神論と同じだと思うけど…」。山崎「そうだね。仏教は無神論的宗教と言えるね」。


ルナ『スピノザが「全ては必然」という運命論の立場にあるのに対して、仏教はそうではないですよね。すると、仏教って全ては偶然だというの?」。


山崎「仏教でも偶然はあり得ないとみるよ。但し、それは全てを必然とみるからではなく、全ての結果に原因があるという因果の法則の立場からだ」。


ルナ「なるほど。まず因果の法則によって偶然は否定されるわけね」。


山崎『それから一神教では、宇宙は唯一絶対の神によって創造されたとするけど、これに対して仏教では、全ては、因(結果を生じさせる直接的な因。原因)と縁(因を助けて果を生じさせる間接的な因。助因)が、一瞬一瞬 和合して成り立っているという「縁起」を説く』。


ルナ「全てが関係性によって成り立っている。全てが相互依存の関係にあるということね。全ては神の御心という運命論とは違うわ」。


山崎『仏教における、森羅万象の本質は変化だよ。変化しないものはないという「空」だ。空は、縁起と表裏一体の関係にあり、あらわれた果にまた新たな因と縁が加わると、たちまち変化するので、新たな因や縁をつくってゆくことで、未来はいくらでも変えてゆけるという可能性の哲学でもあるんだよ』。


ルナ「空は可能性の哲学なのね。運命論や決定論、つまり全ては必然で決まっているというのとは逆の立場ね。すると、偶然でもなく必然でもないというのが仏教の立場になるわ」。山崎「そういうことだ。 全てが関係性によって成り立っているというのが仏教だ」。

M、アイヌの信仰 T〔アイヌ人〕


ルナ「アイヌの意味は?」。山崎「アイヌ語で人間を意味するそうだ」。


ルナ「そもそもアイヌ人とは?」。山崎「東アジアの古種族で、歴史的には、北海道を中心に、樺太南部、千島列島、本州の東北部を生活圏にしていた人たちだ」。


山崎『現在では、日本とロシアという2つの国に分断されて生活する少数民族で、日本では北海道を中心に、東京他の都市部でも生活しているというよ。その数3万人を超えるとも、北海道内には2万3千人がいるともいうが実際のところ正確な数はよく分かっていないようだ。


これはアイヌと名乗ることができない人がいるからだというよね。またこれらの人たちのほとんどが、日本人との混血によって人種的な特質は薄れているらしい。


なお、アイヌは、他のモンゴロイドに比べて、彫りが深かったり、体毛が濃かったりといった身体的特徴から、コーカソイドに近いという説が広かった時期があったそうだ。のちに、アイヌ=縄文人近似説が主流となっている』。


ルナ「縄文人近似説?」


山崎『この説によると、≪縄文時代、日本列島を含む東アジア一帯には、南方系の人々が住んでいた。およそ5千年前、シベリアの北方系の人々が東アジアに拡大をはじめた。2300年前には、九州北部から日本列島に侵入してきた。彼らが弥生人である。本土の大部分は弥生人によって占められ、わずかに北海道に残った縄文人がアイヌの人々になった。現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7〜8割、南方縄文系2〜3割の比率で混血している≫ということらしい。


〔縄文時代… 今から約1万6500年前(前145世紀)〜約3千年前(前10世紀)。弥生時代… 前10世紀中頃(異論もある)〜3世紀中頃〕


室町中期から江戸後期にかけては、和人(アイヌの立場から日本人を指す語)の抑圧に対して、しばしばアイヌの武装蜂起が起きている。秀吉、家康から松前氏が蝦夷の支配権を認められた後にも、大規模な蜂起が起き、これを収拾することで、松前氏は実質的な支配権を確立したそうだ。


アイヌ人は、食糧や生活に必要な素材のほとんどを狩猟〔エゾシカ・ヒグマ・アザラシ・トド・オットセイなど〕、漁労〔サケ、マス、ニシン、シシャモなど〕、植物採集により得ていたんだ』。


【 シシャモという言葉はアイヌ語のスサム(柳の葉の意)に由来する。神の国の柳の葉が人間の世界に落ちて魚になったとされる。サケは、カムイ・チップ(神の魚)と呼ばれ、サケの回帰性を神が与えてくれたものとみなした。】


ルナ「木の皮の繊維で織った和服に似たアイヌの民族衣装をアツシ(アットゥシ)というわよね」。山崎「アツシには、オヒョウあるいはシナノキの内皮を使うそうだ」。


山崎『しかし明治政府が成立し、多くの和人が移住してくると、森林は伐採され、原野は耕作地となり、狩猟や漁労の権利も奪われてしまったという。これにより彼らは、採集民としての生活が維持できなくなったという。


明治政府は、アイヌの農民化とともに、皇国臣民化を図ったというよ。以来、政策によって日本文化への同化を強いられ、固有の文化を失っていったそうだ。とくにアイヌ語は、日常の会話で全く使われなくなったそうだ。


近年までアイヌに対する根強い差別や偏見があったが、現在では、物質的、精神的ともに、日本人と全く同じ生活を営んでいて、民族としてのアイヌはすでになく、せいぜいアイヌ系日本人となっているともいう人もいるよね』。


ルナ「北海道や東北を、蝦夷地(えぞち)と言うでしょ」。山崎「蝦夷とは、大和朝廷によって異族視されていた北方に住む土着民に対する呼称で、蝦夷地は、時代によりその地域は変化しているよね」。


山崎『アイヌも、近世には、蝦夷(えぞ)と呼ばれたそうだ。アイヌという言葉が一般化したのは明治以降だという。蝦夷は、古代には「えみし」と読み「毛人」とも書かれたらしい。また「えみし」の転訛から「えびす」とも読まれたそうだ。えぞと読むようになったのは平安中期以降だというよ。


えみし、えぞの語源については様々な説があるが、一説によると、アイヌ語の雅語(日常語に対して文章語をいう)の「エンチュ」(人間の意)に由来するという。他には、本来の意味は「田舎(辺境)の勇者」であったという説などがあるようだ』。

N、アイヌの信仰 U〔カムイ〕


ルナ「アイヌの信仰ってどのようなものなの?」。


山崎『まず、ユーカラという神話的叙事詩がある。ユーカラは吟唱するもので、「カムイ・ユーカラ」(神謡)と「人間のユーカラ」(英雄叙事詩)の2つに大別される。また、鳥獣、植物、火、風などの神々が自らの身の上を語るカムイ・ユーカラ(神謡)、人間の祖先神が自らの功績を語るオイナ(聖伝)、人間の英雄(主にポンヤウンペという少年)の戦闘や愛などの体験記であるユーカラ(英雄詞曲)、主人公が女性のマト・ユーカラ(婦女詞曲)の4つに分けられたりする。


カムイ・ユーカラやオイナによれば、アイヌ神話の国造りの神は、コタン・コル・カムイ〔コタンは村や里や集落。カムイは神や神霊の意〕で、この神は巨人神で鯨を串刺しにしてあぶったりする。妹神とともに、大海に陸地をつくり、山や川、人間、動物、植物などを創造し、天上界に帰ったとあるそうだ。


天上界は神々の生活の場〔カムイ・モシリ〕で、ここの支配者は、カント・コル・カムイ〔雷神カンナカムイと同一とする説もある〕で、この神の指示によって、地上世界の創造されたという。


アイヌの世界観には、神々の世界(カムイ・モシリ)、人間の世界(アイヌ・モシリ)、死後に行く(ポクナ・モシリ)があり、死後に行く世界は、地上と同じ様相をしていると考えられていて、主神的な存在は見られないそうだ。


天上界から人間界〔アイヌ・モシリ〕に、生活の知恵や文化を授けた神は、アイヌラックル(人間的な神の意)という始祖神(アイヌ人の祖)で、オキクルミ、アエオイナカムイ、オイナカムイ、オキキリムイの別名を持つ。


この神は、脛(すね)の中に、稗(ひえ)の種を隠して、地上に降り、人間に穀物を授け、狩猟、漁労、耕作、薬草につていの知識、家や舟の作り方、彫り物、機織り、刺繍、神の祀り方や祈りの詞(ことば)などの信仰の儀礼、争いごとの解決法など生活の全てを教えたという。また地上の悪神を退治している』。


ルナ「日本語の神とカムイ〔神威や神居と当て字する〕は関係あるの?」。山崎「共通の祖先語から生まれたという説もあるようだよ」。


山崎「そのカムイ(神霊)が、動植物や自然現象、さらには人工物など、あらゆるものに宿っているというのがアイヌの世界観だね」。ルナ「アニミズムね」。


ルナ「他はどのような神がいるの?」。


山崎『太陽(チュプカムイ)、雨乞い(ホイヌサバカムイ)、雷(カンナカムイ)、狩猟(ハシナウックカムイ)、幣柵(ヌサコルカムイ)、月、風、雪、山、川、湖、草木、鳥獣、魚、虫、火、舟、疱瘡などの神々が祀られるという。


カムイ・ユーカラでは、これらの神々が、自分の来歴や体験などを語り、人間に対する位置づけや祀られるゆえんなどを明らかにしているそうだ。


水の神(ワッカ・ワシ・カムイ)や、魚(チェプコルカムイ)を与えてくれる川の神(ペトルンカムイ)はとくに重要で、また多くの祭儀では、火の神(アぺ・カムイ)がとくに尊ばれるというよ。火の神は人間の言葉を神の言葉に変えて、諸神に伝えてくれるため、どんなカムイに祈りを捧げる場合でも、原則としてアペ・カムイへの礼拝がともなうそうだ。


舟や家をつくる材料となるシランパ・カムイ〔樹木の神霊。樹木の集合である山をも意味した〕には、材料となる良い樹木には良いカムイが、ならない樹木には悪いカムイがいるとみなしたそうだ。


家にも、家の守護霊(チセコロカムイ・家の東北角に存在)、囲炉裏の霊〔アペ・フチ・カムイ。アペは火、フチは老婆の意味で、老婆の姿をした神〕、夫婦の霊(エチリリクマッ・家に入って入口すぐ右の柱に存在)などがいるとされたという。


また、陸、海、空のそれぞれに、最も重要な動物神がいる。陸ではキムン・カムイ(山にいる神)であるヒグマ、海ではレプン・カムイ(沖にいる神)であるシャチ、空ではコタン・コル・カムイ(集落を護る神)であるシマフクロウだ。他には、鹿の霊(ユッコルカムイ)、狐の霊(キムンシラッキ)なども信仰されたようだ。


さらに、人間に幸をもたらすピリカ・カムイ(善きカムイ)と、人間に災をもたらすウェン・カムイ(悪しきカムイ)がいる。流行病や天災は、悪しきカムイとされる。疱瘡(天然痘)や流行病を司る神は、パヨカカムイまたはパイカイカムイといい、この神の射た矢の音を聞いた者が疱瘡になるそうだ』。

O、アイヌの信仰 V〔イオマンテ〕


ルナ「イオマンテ(熊神送りの祭儀)ってよく聞くけど…」。


山崎『イは「それ(神霊)を」、オマンテは「行かしめる」の意味で、飼育した子熊(ヒグマ)を殺し、その霊魂であるカムイを神々の世界(カムイ・モシリ)に送り届ける祭儀だというよ。なお、親熊を狩りで殺した場合、その場で解体し、霊を送るけど、これはカムイ・ポプニレ(カムイを発動させる意)というそうだ。


カムイ・ポプニレは、祭壇を設えてヒグマの頭部を祀る。これは、殺された直後の獣(熊以外の動物も)のカムイ(霊魂)は、両耳の間に留まっているので、これを神々の世界に送り返すからだというよ。


但し、人間を傷つけたり殺したりした熊は、細かく刻んで大地にまいたり、ゴミと一緒に燃やしてしまい、ポプニレを行わないため、こうした熊の霊魂は神の世界に帰れないそうだ。


春先、まだ冬眠から目覚めない熊を狩ると、冬ごもりの間に生まれた子熊がいる場合がある。この子熊を集落に連れ帰って飼育する。はじめは、人間の子供と同じように家の中で育てるそうだ。1、2年ほど育てた後に、集落をあげての盛大な祭儀(イオマンテ)を行う。


花矢(木を装飾的に削ってつくった矢)を射かけ、最後に本物の矢を心臓に打ち込み、さらに丸太の間に首を挟んで屠殺するそうだ。遺骸は一定の様式に従い、頭だけを残して解体される。頭部はポプニレ同様、イナウ(木幣)や酒を供え、祈りを捧げて、霊魂を神々の世界に送り返す。肉は人々にふるまわれるそうだ。


アイヌの人たちは、イオマンテを行うことにより、再び熊神が、自然の恵み(毛皮や肉)をもって、人間の世界に訪れてくれると考えたらしい。


なお、熊神の他、主要な動物神〔シマフクロウ・キツネ・タヌキ・カラスなど〕を送る場合もイオマンテと呼ばれ、クジラやシャチを対象とするイオマンテもあるそうだ。一部の地域では、シマフクロウ〔北海道には130羽しかいない。日本では1971年に国の天然記念物。93年に希少野生動植物種に指定〕のイオマンテが重視されるという』。


翔「イオマンテは、生贄(いけにえ)を神に捧げて守護を願うというものや、人間の罪を動物に着せてあながわせるといった贖罪信仰とも違うみたいだね」。


山崎『アイヌの信仰は、アニミズム的な側面が強い。自然物、人工物、人間に関わるものであれば全てに神霊(カムイ)が存在すると信じられていた。神と霊との関係は、樹を切るときには、その霊を森の神に送り返すといったもので、同様に、使わなくなった食器は、捨てずに特定の場所にもっていき、器や皿の霊を神の世界へ送り返す。葬式では、死者の霊とともに副葬品の霊が他界へ行くように、副葬品を壊したり破ったりするそうだ。イオマンテもこうしたところからきていることが分るよね。


カムイは、カムイ・モシリという神々の世界からやってくる。このカムイ・モシリは、天上界にあると考える場合と、山の獣であれは山の奥に、鳥であれば天界にあるといったように生活の場から想定される場合とがあるようだ。


カムイ・シモリでは、カムイは、人間と同じ姿で、人間と同じように、料理をしたり、彫り物をしたり暮らしているが、人間には見ることができないという。カムイが人間界になにかの理由(シマフクロウなら村を護るため)でやってくる場合、人間に見える衣装を身に付ける。火のカムイなら赤い衣装を、クマなら黒い衣装を身に付ける。これが人間には炎に見えたり、毛皮に見えたりするそうだ。


クマは毛皮と肉という土産をもって、気に入った人間の家を訪れる。狩猟はこれを迎える行為だというよ。本人が心が美しいと熊が好意をもって訪問してくる。猟運とはこれをいうそうだ。


なお、熊やキツネを先祖とする家も多いそうだけど、これをトーテムの残存とするかどうかについては考えが分かれているらしい』。

P、アイヌの信仰 W


翔「偶像は作られたの?」。


山崎『アイヌの信仰は、神殿やら神の像やらは作らない。祭儀では、イナウを用いる。例えばイオマンテでは、熊神の祭壇を中心に、森の神、水の神、狩猟の神、氏神、農業神、祖霊などの祭壇が設けられるそうだけど、祭壇とは、イナウを立てる並べる柵だというよ。

また祭壇は、家の脇にも設けられていて、祭儀ごとに酒を供え、祈りを捧げるそうだ。


【 イナウ… 木幣(もくへい)。通常は、ヤナギを使用。ミズキや、キハダ(ミカン科)で作られたものは上等とされ、肌が白いミズキのイナウは天界で銀に、黄色いキハダのイナウは金に変るとされる。捧げる神によって種々の形がある。

一例をあげると、直径が3センチほどのヤナギやミズキの枝を採集し、70センチほどの長さに切り、皮を剥ぎ、乾燥させる。乾燥したら、表面を削り、先端部あたりにふさふさと飾りたらす。イナウ作りはアイヌの男性の大切な仕事とされ、イオマンテなど重要な祭儀には、泊りがけで集い、イナウを作成したという。】


また、アイヌには神官のような人は存在せず、成人男性であれば誰でもカムイへの儀礼ができなければならないという。一方、女性はふつう火の神以外には祈りを捧げられないそうだ。参加できない祭儀も多いようだ』。

Q、アイヌの信仰 X〔コロボックルと日本人の起源〕


翔『「コロボックル」ってアイヌの説話に登場する小人だよね』。


山崎『地面を50センチくらい掘って屋根をかけた竪穴住居に住むというよね。また、コロボックルとはフキの葉の下に住む人の意味で、フキの葉の下に2〜3人(10人とも)入れる大きさだそうだ。


漁が得意で、笹の葉を合わせて作った舟で漁に出て、多くの舟が力を合わせてニシンなどを捕り、クジラも捕るそうだ。北海道の原住民で、アイヌの家にやってきて物品を交換したりするという。


人類学者の 坪井正五郎〔1863〜1913・東大理学部教授。日本人類学会の創設者〕が、1887年(明治20)に「コロボックルは日本列島の先住民で、アイヌに追われた」と主張し、「日本人の先住民はアイヌである」(当時の主流の説)と主張した 小金井良精〔よしきよ。1858〜1944・東大解剖学部教授。日本解剖学会の創設者〕と激しい論争を展開したそうだ。


これを「コロボックル論争」「アイヌ・コロボックル論争」という。この論争によって、日本人の起源の研究が飛躍的に進歩したというよ。


小金井は、人骨の実証的研究から坪井の間違えを証明し、彼の「アイヌ先住民説」は、修正をなされながらも現在に至っている。つまり、アイヌは縄文人の血を最も直接的に引き継いでいるとみられている。沖縄の人たちも、縄文人の血を濃く受け継ぐ民族だといわれている。


しかし小金井は、縄文時代の先住民のアイヌは、弥生人(日本人)が海外から渡来したことによって、北へと追いやられたと考えたが、これはその後の研究によって、弥生人も基本的には縄文人に由来することが分り、間違えのようだ。


縄文人は、本州では、大陸から農耕文化が入ることによる生活の変化や、西からの遺伝的影響によって体質を大きく変えて弥生人となったが、北日本では、北からの遺伝的影響を受けながらも、漁猟採集を中心とした生活が続き、本州ほど体質を変化することなくアイヌとなったというのが現在の見方のようだね。


なお、縄文人は、2〜3万年前(後期旧石器時代)に、アジア大陸から陸橋を渡ってやってきたモンゴロイド系の集団が、海面が上昇したことで、日本列島に長期に亘って閉じ込められ、その結果、特殊化したものだというよ』。
http://shinri809.com/sono13.html




▲△▽▼

ポリネシアは広大な空間を占める海洋と島々の世界であるにもかかわらず,島ごとの偏差を越えて,言語と文化の共通性がいちじるしい。これは,ポリネシア人がいまでこそ広漠たる大洋に散在する多数の島々に分散居住してはいるものの,もと一つ源泉に出たものであるからにほかならない。

相手かまわぬ乱暴狼籍とはいかないまでも,ポリネシアのあちこちに散見される習俗として,死者の財物を破壊する行為がある(Williamson 233−287)。この場合,破壊される財物には二種類ある。そのひとつは死者が病臥中に使用していたか,あるいは死後その屍体に触れるかしていた品々であり,他はそうしたことにかかわりのない,死者の生前の所有物すべてである。

前者に関しては,たとえばマルケサス諸島(Handy 1923:111)やタヒチ(Oliver 1974:494)では,死者が病臥中および死後に触れていたもの一一ベッド,マット,衣料,食器等々 のいっさいが焼却された。マルケサスでは,死者が病臥していた住居さえもが焼き払われた。

こうした焼却は,浄化の火によって死の不浄を除去するため,と土着宗教の司祭によって説明されている。

ところが,このような,死者が死の前後に触れるか使用するかしていた品物の,焼却による破壊とは別に,生前の身の回り品や道具類を破砕することもあった。タヒチのある女性首長が死んだおり,彼女の身の回り品や特別に愛着のあった品々を,遺体とともに墓所に納めたが,そのさい,それらの晶々は,こなごなに壊したうえで納められた,というロンドン伝道協会宣教師の手になる,19世紀初めの記録が残されている(Oliver 1974:494)。

破壊する品がそれだけにとどまらず,故人の所有にかかる耕地や樹木にまでおよぶばあいもあった。たとえば,ッアモッ諸島では,死者がでると,人びとはただちに死者の持ちものを燃やすばかりか,彼の畑も壊わし,彼のココヤシの木を伐り倒した(Williamson 1933:275−276)。ニウエ島でも,死者のすべての畑が殿たれ,ココヤシをはじめとする果樹類が伐り倒されたうえ,海に投げ捨てられた(WHliamson 1933:278)。

こうした破調行為の理由として,これまでになされてきた説明には,4つのものがある。

その1は,死者(の魂)が死後においても生前の財物を用いうるよう,それらの財物を所有者同様に死なせて(破壊して),財物の霊質だけを死者に同伴させる,というもの。

その2は,死者に生前属していたものはすべて,それが死の前後に死者によって触れられたと否とにかかわらず,死霊がとりついていて危険きわまりないから,というもの。

その3はゴ邪術によって死者の霊を操作しようと待ちかまえている敵対者によって,死者の遺品が邪術の手段に悪用されることを妨げるため,.というもの。

そして最後は,以上の諸説と違って世俗的な説明である。つまり,死者の遺品が他人に盗まれてその所有物にされることを防ぐため,というものである。

これらの説明は,資料採集者もしくは研究者の解釈というだけでなく,その慣習をもつ人びと自身の説明でもある。どれもがもっともらしく,にわかにどれか一つに決定的理由をしぼることは困難である。

畑や果樹まで含めて,死者の財物を破壊するこの慣習は,一見ハワイの場合との類似を思わせるが,つぎの諸点で根本的に相違しているとせざるをえない。

ハワイのばあいには,その慣習の契機となる死者は,原則として王もしくは首長にかぎられる。誰が死んでもというわけではない。他方,破壊の対象とされる財物は,死者のものだけにかぎられない。相手かまわず誰のものでも,手あたりしだいに破壊の対象とされ,破壊ばかりか掠奪されたり放火されることもある。さらに,攻撃が人間にむけられ,傷害や殺人さえおこなわれることもある。まったくの無法・無秩序状態の現出といってよい。こうみてくると,ハワイのばあいを,ポリネシアにかなり一般的な,死者の財物破壊の慣習の,一変異とみなすことはとうていできがたく思われる。他に類例を求めねばならない。


首長の死に続く無法・無秩序 サモアとタヒチの事例

捜してみると,ハワイのそれによりょく似た慣習を,サモア諸島のサヴァイイ島にみいだすことができた。
サヴァイイ島では,首長が死ぬと,戦士たちが首長の遺体を野外に引き出し,これを担って「おおわが首長よ,あなたはわが君主」と歌いながら村のうちを巡回し,行きあたった豚を殺し,カヌーを壊しというように,見つけるかぎりの財物すべてを破壊した。それで,村はあたかも戦争で掠奪されたかのような光景を呈した(Williamson 1933:240−241)。

ウィリアムソンは,この破壊はおそらく首長の霊魂のためになされたのであろう,と解釈している。この報告では,ハワイのばあいによく似てはいるものの,傷害や殺人について触れるところがない。ハワイでは,そうしたことさえもおこなわれたというのである。ところが,こんどは,サヴァイイ島の事例とは逆に,破壊や掠奪こそともなわないものの,傷害が通常のことで,ときとして殺人にまでいたるという例が,タヒチを含むソサイエティ諸島にみられる。これについては,ハワイの事例を報告したエリス自身をはじめ,多くの情報提供者がある)。それらによれば,

大首長が死ぬと,親族と従者の若者たちが,腰帯をまとうだけの裸体となり,その体を赤,自,黒に彩色して,見るからに恐ろしげにつくり,司祭を先頭に領土内をねり歩いた。司祭はすっぽりと頭部を掩う仮面をかぶるほか,全身を着飾り,手には2枚の真珠貝でできたカスタネットと,サメの歯を植えこんだ長さ1メートル半もの大鎌とを携えていた。若者たちは手に手に槍や棍棒をもち,それを回しながら行進した。もし,彼らの行手を横切ったり,無礼とみえる態度を示す者があれば,たちどころにこれを打ちすえ,あるいは斬りつけて,ときには死に至るまでの傷害をおわせた。

このため,彼等の接近を知らせる司祭の鳴らすカスタネットの音は,村の人びとの恐怖心をかきたてた。村を通過するとき,司祭は手にした大鎌で家の壁を激しく叩き,屋内の人びとを怯えさせた。屋内の人びとは,じっと息をひそめて,彼らの通過が少しでも早かれと願うばかりであった。

戸外の人びとは,身の安全をもとめて,マラエ(土着宗教の祭祀場,神域)に逃げこむのであった。マラエだけが,いかなる暴徒といえども乱入をはばかる「聖域」だったからである。

こうした異常事態は,1∼2週間からときには数ヶ月もつづく。その期間が長ければ長いほど,それだけ死者が喜ぶと信じられていたのである。やがて,遺族の意志によって終燃することとなるが,そうはならずに,戦争にまで発展することもあった。他の地域の人びとが鎮圧にのりだしたばあいである。双方に同盟者が加担して,全土をまきこむ深刻な戦乱になることさえあった。首長連中の仲介によって戦乱が収まるまでには,多数の戦死者がでた。司祭が仮面をぬぎ,服装を変えると,これが戦争終結の合図となって,平和が回復するのであった。

この異常な慣習は,ヨーロッパ人との接触以後にもつづき,暴行に用いられる武器に,新たに導入された火器まで加わったという。そこまで狂暴化するこの慣習の意味について,18世紀の末にタヒチを訪れた,南海の探検史上有名なイギリス船バウンティ号の,掌帆良種を務めていたジェームズ・モリソンは,親族の死のために悲しみのあまり狂気に駆られた行動,と述べている(Oliver l974:502)。モリソンの解釈だけでなく,島民自身にもぞうした見方があったようで,それは,こうした暴挙を演じる若者たちが,ネネヴァ(「無意識」とか「錯乱」の意)という名称で呼ばれていたことから推測される。

しかし,かりに錯乱からでた行動であったにしても,それが一定の様式にしたがってなされていることからみて,儀式化された錯乱であったことは明らかである。

エリスの説明はまた別で,死者が生前にうけた侮辱への報復と,遺族にたいする無礼への懲罰とのために,その人びとは死者の霊にのり移られたものと考えられていた,と述べている(Ellis 1831:414)。報復とか懲罰ということはさておき,この暴挙への参加者の異様な扮装,とりわけ司祭の仮装は,死者の霊を象徴しているようにも思われる。
エリスはまた,これが戦争をはじめる手段として利用されたという,政治的な意味も指摘している。


無法・無秩序を演出する理由一ひとつの仮説一

エリスがハワイについて記述した,王や首長などの社会的に高い身分の人びとの死にともなう,慣習としての無法・無秩序状態の意味を探るために,ポリネシア諸地域に類例を求めてえられた結果が,上に述べたサモア(サヴァイイ島)とソサイエティ諸島の事例であった。さきに触れたように,前者では無差別な財物の破壊だけで,人にたいする危害はなく,後者にあっては逆に,人の危害だけで財物の破壊をともなわない。しかし,どちらのばあいも,けっして衝動的な暴動・暴行というようなものではなく,それなりの形式にしたがっている。サモアの例では,首長の遺体を担い,一定の文言を唱和しながらということであったし,ソサイエティ諸島のばあいでは,いっそう形式化しており,暴徒のスタイルを含めて始まりから終わりまでが一定の型にはまっている。

この両者にくらべてハワイのばあいは,エリスの記述にしたがうかぎり,掠奪,破壊,放火,傷害,殺人といった乱暴狼籍のかぎりがっくされ,文字どおりの暴動の印象をうけるのである。

しかし,それにもかかわらず,そうした事態の起こるのは,首長など高位の人物の死去にさいしてだけであり,ある期問,日常の秩序が失われ,無法がまかり通るという点では,ハワイもサモアやソサイエティ諸島のばあいにことならないのである。つまり,ことの本質において,ハワイ,サモア,ソサイエティのそれぞれの慣習は同じである。

この同一性,あるいは一致を,この慣習がそもそも高位の人の死にともないがちな性質のものであり,それゆえに各地域に独立に成立し,結果的に一致を示した,とみることもできよう。しかし,いまのばあい私は,三地域間の一致を,歴史的な関連にもとつく結果であることまちがいないと考えている。それは,三地域間に民族移動の とくに,ソサイエティ,ハワイ問のそれは西紀12世紀ごろという比較的新しい時代に あったことが,先史学的に立証されているからである。

ハワイでは,暴徒が裸のままで走りまわったというが,ソサイエティ諸島でも暴徒の若者たちは腰帯一本の裸体となった。ソサイエティ諸島では,人びとはマラエ(〃研α6,伝統宗教の祭祀場,神域)に難を逃がれたが,ハワイでもキリスト教の教会領が避難所とされた。

ハワイにも1819年の伝統宗教の放棄以前には,ソサイエティ諸島のマラエにあたる,ヘイアウ(加’α枷)と称する祭祀場があちこちにあった。キリスト教以前の伝統宗教の時代であったならば,おそらくヘイァウが避難所とされたことであろう。こうした類似からも,その暴力的慣行が同根であることを疑うわけにはいかない。エリスの記述で一見無統制な暴動を思わせるハワイのそれにも,やはりなんらかの形式があったのではなかろうか。エリスの聞きもらしか,あるいは,のちの変化で失われたか,本来はサモアやソサイエティ.諸島と同様に,演出された無法・無秩序であったにちがいない。

さて,それならば,この慣行にはどのような意味があったのであろうか。すでにこれまでに,ウィリアムソン,モリソン,そしてエリスの説を紹介してきた。そのどれをも,誤った解釈であるとして,否定するだけの積極的根拠を私はもたない。それぞれになるほどと思わせるものがあり,各説相互に矛盾するわけでもないから,むしろ柑補弼に理解することが妥当なのかもしれない。

しかしながら,そうした解釈とは別に,より深いところで,この慣行の意味をとらえることも可能なのではないか,と私は考える。

エリスの著書にハワイのその記事を読んだとき,まず私の頭に浮かんだことは,『古事記』に語られた天岩屋神話であった。つまり,アマテラスが岩屋にかくれた結果,世がヨロズワザワイ コトゴト闇となり「……萬の妖,悉に昇りき」という条である。天岩屋神話が,神話の類型学からみて日蝕神話に属するにしても,上に引用した句は,明らかにアマテラスが世界秩序の体現者であり,彼女の姿が失われるとき,世の秩序もまた失われることを物語っている。いうまでもなく,アマテラスは太陽神であり,あらゆる生命の源泉,世界の秩序の体現者と観念されて少しもおかしくない。

このあと,すぐに述べるように,ポリネシアでは大首長がそのような存在と考えられていた。アマテラスが神話上の存在であるのにたいして,ポリネシアの大首長は肉体をそなえた実在であるという違いはあるものの,観念的にはポリネシアの大首長もまた,生命の源泉であり,世界の秩序を体現した存在であった。であればこそ,大首長が死をヨロズ ワザワイ迎えるとき,世の秩序は失われ,アマテラスが天岩屋にかくれたおりと同様な「萬の妖,コトゴトオコ悉に発」る情況が演出されなければならなかったのであろう。そうした情況を続出せず,ただひたすら厳粛,静謹のうちに大葬が運ばれるならば,そのことはかえって,世界秩序の体現者としての大首長の本質を否定することになるのではないか。

ここで当然に想起されるのが,フレイザーがその昔『金枝篇』の中にはじめて集めたことで有名となった,「王殺し」の諸例である(Frazer 1890)。

このばあいには,人の世の繁栄を維持するために,少しでも体力の衰えをみえた王,あるいは一定の統治期間のすぎた王は,みずから生命を断つか,拭殺されるかしなければならなかった。これは王があらゆる力の源泉と考えられたがゆえにほかならない。帝威衰えるとき天変地異あり,という東洋に古くからみられる思想も右に同じである。

ポリネシアのばあいも同様であり,ただ,ここでは慣行が,フレイザーの諸例とことなる形態をとって発現した,ということなのではないか。


ポリネシアの大首長の本質

さて,ポリネシアの大首長の本質についてである。これについては,ポリネシア人の宗教観念の基本にある,マナの観念から説明を始めなければならない。

マナというのは,精霊や霊魂ともことなって,いわば世界を運行させる原動力ともいうべき超自然力の観念である。作物の成長,家畜の繁殖,海や山からの豊かな収穫,人びとの繁栄,そして人の世のあらゆる企ての成功をもたらすものがマナである。ひとりポリネシアにかぎらず,このマナの観念は,南太平洋諸民族のあいだに広くみられるが,ポリネシアでは,身分制と結びついて特異な発達をとげていた。

ポリネシア人の観念では,マナは生物,無生物を問わず,万物に宿っている。ただし,宿っているマナの量はけっして一様でなく,個々の宿主ごとにことなる。マナをごくわずかしかもたない存在もあれば,大量にもっているものもある。マナとはこのようなものであり,こうしたマナをもっとも大量に,というよりも無限に宿した存在が神であった。神はマナの源泉といってよい。

ところで,ポリネシアではマナはけっして一代かぎりのものでなく,系譜的に継承もしくは相続されていく。そのばあい,なにごとによらず長子優先のポリネシア社会では,長子が祖先のマナをもっとも大量に相続し,他は祖先からの系譜上の位置の遠近に応じて,それなりのマナを相続するものと考えられていた。

ポリネシアの社会は,大きく貴族と平民両落分層から構成されていたが,この二つの身分層を区別する規準は,神の系統に属するか否か,ということであった。いうまでもなく,神の子孫にあたるものが貴族である。この氏族のうち,代々にわたって長子継承の原則にもとつく神の直系の子孫こそが大首長にほかならず,彼は前述したマナ相続の原理にしたがって,神のマナをもっとも大量に身に宿した存在,つまり現人神ということになる。

大首長のこのような本質を理解してみるならば,その死にともなって,社会の一時的な無法・無秩序状態が演出されたとして,けっして理解できぬことではあるまい。ハワイ,サモア,ソサイエティ諸島の准例を,私はそうしたものと解釈したい。

なお,ここで私が大首長と称したものは,首長国(chiefdom)の頂点に立つ首長(chief)のことであって,首長国を構成する諸小集団それぞれの長のことではない。後者もまた首長と呼ばれうるので,それらと区別するために,ことさらに大の字を冠したわけである。土地の言葉でも,たとえばハワイ語では,アリイ(髄)という言葉で首長一般をさすほか,これに「大」を意味するヌイ(nui)を付してアリイ・ヌイ(alii nui)をとくに区別することがある。英語文献では,私のいう大首長を,paramount chiefまたはthe highest chiefと表現することが多いが, chiefとだけ記して,区別の曖昧な例も少なくない。

ウィリアムソンが引用したサモア(サヴァイイ島)の例に語られている首長は,大首長のこととみてまちがいあるまい。エリスもまた,ハワイの記事で「王や首長」と述べているが,この首長も大首長であること疑いない。ハワイ王国は,その群島の各地に割拠分立していた多数の首長国を,カメハメハ大王が1810年に征服・統合したことによって成立したもので,カメハメハ大王もその前身は,ハワイ島かぎりの大首長にほかならなかった。したがって,エリスによって王に併記された首長は,とうぜん,王国成立以前のかつての諸首長国の長,つまり大首長をさすものと考えて誤りないであろう。

エリスは,ハワイにおいて,王母の死去にさいしても,無法・無秩序状態のおこることを人びとが懸念して,避難さわぎのおこったことを目撃している。じっさいには,そうしたことはおこらなかったのであるが,もし人びとの懸念が思いすごしではなく,正当な予想であった ということは,キリスト教以前であればとうぜんにおこった とするならば,死につづく無法・無秩序の慣行は,ひとり大首長の死去のばあいだけにかぎらず,大首長に準ずる高位の人の死にさいしてもみられたこととなる。かりにそうであったにしても,私は,サモアやソサイエティ諸島の事例にてらして,ハワイのそれは,この慣行の真意が忘れられた結果としての拡大現象であると考えたい。

最後に,この慣行が,ときとしてポリネシアで葬儀にともなう模擬戦とは別ものであることを,付言しておきたい。これもまた,大首長の死にさいしての慣行の一つにはちがいないが,模擬戦では,遺族側の集団と,近隣からの弔問者の集団とのあいだで,儀式的に戦闘が演じられるのであって,暴徒が一方的に荒れ狂うのではない。その意味についてここでは立ちいらないが,この慣行が,本稿の主題としたそれとは別ものであることだけを,念のためにここに書きそえておく。

http://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:W5fs8-SrRusJ:ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/1875/1/SER59_004.pdf+%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2+%E6%AD%BB%E9%9C%8A&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEESjEtS4plalExa8V1OWH7eQYsuzpbBxPVQF82TcN3daLeBxtTdQJmY3VkFgeFF9Y7kz3n3TyZCc1AvEbyPq7A9_Dzi0yTmn1j7B3tKkGM9WXxkq5CHKbE8ypelFUbr3_I5SepDaP&sig=AHIEtbQlJ-_RC-hifQKdGt0DC5vBXSkGTw

19. 中川隆[-12478] koaQ7Jey 2019年2月03日 16:18:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

田中英道「日本文明の発祥、縄文土偶とは何か」
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93+%E7%B8%84%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%81%B6


何故、誰も何も言わないのか?

不思議ですね。

20. 中川隆[-12477] koaQ7Jey 2019年2月03日 16:40:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告


2019.01.04
【トンデモ】日本のメディアを支配する“フランクフルト学派”の恐怖(つくる会元会長・田中英道)
https://rondan.net/853

Contents [hide]

1 田中英道氏のふしぎ

2 私怨からフランクフルト学派陰謀論への展開

3 フランクフルト学派の雑な定義
4 気に入らない奴はみんなフランクフルト学派


5 まとめ


田中英道氏のふしぎ


「新しい歴史教科書をつくる会」(つくる会)の会長を務められた経験のある田中英道氏は「卑弥呼神社が無いから卑弥呼は存在しない」だの、「土偶は近親相姦による先天的障害児を象った」だの、個人の感想を超えないレベルの論文(?)を量産していることでも知られます。


【トンデモ】土偶は近親相姦による先天的障害児を象った(つくる会元会長・田中英道)
2018年11月3日

【トンデモ】卑弥呼神社がないから卑弥呼はいない(田中英道|「なぜ卑弥呼神社がないのか」『日本国史学』7, 2015)
2018年11月2日
そんな個性的な論文を多数執筆している田中氏は、「日本のメディアを支配する“隠れマルクス主義”フランクフルト学派とは」(『正論』373号, 2003.8)のなかで、そのタイトルの通り、フランクフルト学派陰謀説を主張しています。

このフランクフルト学派とは、Wikipediaによれば「マルクス主義を進化させ、これにヘーゲルの弁証法とフロイトの精神分析理論の融合を試みた、批判理論によって啓蒙主義を批判する社会理論や哲学を研究したグループ」という、なんだかよく解らない左翼系の集団なのですが、戦前・戦中にこの学派の人がコミンテルン関係者であったり、OSS(戦略諜報局、現在のCIAに相当)の関係者であったりしたため、しばしば諜報や謀略の背景として取り上げられることがあります。

もちろんこのような歴史的背景がありますから、「コミンテルンのスパイの一人がフランクフルト学派にかつて属していた」とか語るなら全く問題ありません。ただそれだけの話です。しかし陰謀論者である田中氏が語り出すと、ともかく話が大きくなる。なんと「日本のメディアを支配する“隠れマルクス主義”フランクフルト学派」というのですから驚きです。

私怨からフランクフルト学派陰謀論への展開

ところで、西洋美術史が専門のはずの田中氏が、どうしてフランクフルト学派陰謀論を思いつくことができたのでしょうか? 実はその経緯が論文冒頭に説かれているのですが、本当にこれが酷い。

まず、田中氏がベルリン大学から「日本の歴史学」の講師として招聘されていたにもかかわらず、「つくる会」の会長だったということで、土壇場で断られてしまうエピソードから始まります。


ところがこの招聘は撤回されてしまった。それは私が「つくる会」の会長をしているから、という理由であった。……
私はこの撤回が、およそ天下のベルリン大学たるものにふさわしくない、と思ったが、未だこの大学には、東ドイツのマルキストが残っているようで、それを気にしたのだな、とその時は考えた。

断られた途端、マルキスト陰謀論ですか (;゚Д゚)

この田中氏の想像力にも驚かされますが、そもそも「つくる会」は歴史修正主義者の集団です。よってホロコースト否定論などの歴史修正主義が禁止されているドイツにしてみれば、「つくる会」会長の田中氏を招聘して歴史を語らせることなど、思想の左右を問わず避けたいのは当然でしょう。

さらに田中氏の想像力は加速し、フランクフルト学派陰謀論が爆誕します。


日本の歴史学講義の依頼の撤回が、単に教授一人の臆病さだけによるものでないことがわかった。というのも、私の日本の文化史講義が、もともとフランクフルト大学の教授がやるはずであり、それが断られたので、私の方にお鉢が回って来た、という経緯があったらしい。その教授の代わりに私を招くということが知られた途端に、反対の声があがったというのだ。その教授が猛反対したばかりでなく、その声が大学理事会において多数を占め、私の講義は中止になった、という。……

その教授のいるフランクフルト大学の名で思い起こされたのが、フランクフルト学派のことであった。マルクス主義学派の牙城である。その教授がどのような思想の持ち主か直接知らなかったが、この学派の影響がドイツでは強いことは知っていた。


ナニヲイッテイルンダ???

と大多数の人は思われるでしょうが、ごもっとも。全く非論理的な想像力からフランクフルト学派陰謀論が導かれているのは明瞭でしょう。まず田中氏の主観的思い込みを除いた状況をまとめると、
1田中氏が依頼を受けた「日本の歴史学」の講義は、もともとフランクフルト大学の某教授が担当するはずであった。しかし何らかの理由でそのフランクフルト大学の某教授はその講義が持てなくなり、結果、田中氏に講義の依頼がまわってきた。
2しかし、田中氏招聘を知ったフランクフルト大学の某教授は、田中氏が「つくる会」会長であることを理由に、これに猛烈に反対した。その後、大学理事会も招聘の中止を決議した。

という事件が起こっただけなのです。にもかかわらず田中氏の主観が入ると、単に招聘に反対した教授がフランクフルト大学所属であったというだけで「今回の招聘中止の背景には、隠れマルクス主義者であるフランクフルト学派の強い影響がドイツに残っていたから」という陰謀論になってしまうのです。

この様な恐るべき想像力は、学者というよりもむしろ小説家に向いているような気がします。なお、その後、田中氏は同じベルリン大学の美術史学のほうから「東洋の西洋美術への影響」というテーマで招聘状が来たということで、


美術史の方は、東独マルキストたちの影響は少ない学科だったのかもしれない。

と述べて、敵ならマルキスト、味方だと思えば非マルキストと決めつけてしまう単純思考が確認できます。

フランクフルト学派の雑な定義

フランクフルト大学の教授から講義招聘の反対を受けただけで、フランクフルト学派の陰謀に気が付いてしまうほど鋭い田中氏の直感には感服せざるを得ません。

もちろんフランクフルト学派の関係者が、アメリカ政府内にいたというだけで、日本国憲法はフランクフルト学派の影響を受けていると断言されます。


アメリカに移ったフランクフルト学派の影響がそれより古くアメリカ政府のなかにも入り込んでおり、それが既に日本の戦後の憲法制作にも影響を与えている、というのだから、問題はかなり深刻である。

さらに今日におけるフランクフルト学派の概要をつぎのようにザックリ説明して、新左翼はすべてフランクフルト学派の亜種であると断言します。


だいたい全共闘世代や団塊の世代に植え付けられたムード的な左翼思想を思い起こせばいい(それこそがこの思想の恐ろしいとこともいえる。その学派の名前など知らなくても、秘儀めいた革命思想なのである。日本でも何やら新しいマルクス主義を難解な言葉で語る新左翼はみなこれの亜流である)。

つまり、たとえその人がフランクフルト学派の名前を知らなくても、田中氏に左翼リベラルだと認定されれば、その人はフランクフルト学派の一味になるようです。こんな適当な定義で思想を語っていいのか不安になるレベルですが、保守論壇とはこんな曖昧で適当な言説をしても赦される世界なのです。

気に入らない奴はみんなフランクフルト学派

このように「田中氏が左翼認定すれば、その人はフランクフルト学派の関係者」という滅茶苦茶適当な定義は、当然、田中氏の敵すべてが左翼であり、フランクフルト学派によって影響を受けているという妄想に昇華します。


現代文化が左翼リベラルに握られ、その言語についていけない保守派は何も発言出来ないからである。美術、演劇、文学、音楽、バレエから、映画、写真、教育、メディアまで彼らの手中に収められている、といってよい。NHKの多くの文化番組も、新聞の文化欄もほぼ彼らによって支配されている。

ここまで妄想がスゴイと逆に心配になります。そしてこの妄想は、とうとう次のように帰結します。


現在のところこの『正論』や『諸君!」などの雑誌以外の商業雑誌はほぼ隠れフランクフルト学派に支配されているように見える。

……。まぁ「見える」のをとめることはできませんが…。おそらく当時(2003年頃)は「つくる会」への非難が激しかったので、被害者妄想に陥ってしまい、このような精神状態を発露してしまったのでしょう。左翼・リベラルと認定されてしまった皆さんは、田中氏をただただ非難するのではなく、温かい眼差しで優しく諭してあげる必要があると思います。

また田中氏は(実際には存在しない)フランクフルト学派の人格攻撃も忘れてはいません。


そして現在、この思想が、テロリズムを肯定するインテリの思想を支えていると、と言ってよい。二度のイラク戦争のことででもたびたびジャーナリズムに登場するチョムスキー、サイード、ソンターくなどアメリカの学者は、大きな意味でフランクフルト学派の中にいるといってよい。ニューヨークの九・一一テロを見てひそかに喝采し、隔離で頻繁に起こるテロを共感して見ている人々の中に巣くう思想を支えているのが、この学派である。

テロに共感したらフランクフルト学派認定とは滅茶苦茶にも程がある言い掛かりで、開いた口もふさがりません。

まとめ


このように、田中氏が主張する「フランクフルト学派陰謀論」は全くの妄想であることは確実でしょう。その一方で、このような妄想が生まれてしまった過程も明確ではないでしょうか。次のように予想します。

この論文が書かれた当時、「つくる会」会長であった田中氏は様々な批判を受けており、世間がすべて敵であるかのような錯覚に陥っていました。そんな折、海外の大学から講師として招聘されていたのに、「つくる会」会長ということでその招聘が取り消しになった事件が起こりました。その時、田中氏はこれはマルキストの陰謀に違いないと確信します。

その後、この招聘中止にはフランクフルト大学に所属する某教授の反対が主原因であることが明らかになりました。そこで田中氏は、その某教授がどのような思想を持っているか知りませんでしたが、フランクフルト大学の所属であるからフランクフルト学派の影響が背後にあるに違いないと確信しました。

そうなると常日頃バッシングを受けていた田中氏は、自分を攻撃してくる敵すべてがフランクフルト学派の一味のように思えてきてしまいました。朝日新聞や毎日新聞などのメディアが自分を執拗に攻撃してくるのはフランクフルト学派だからに違いない。自分のような正しい歴史を語る人間を攻撃してくる卑劣な奴は、フランクフルト学派の一味に違いない。自分から見て人倫に反するやつはみんなフランクフルト学派に支配されているに違いない、と。このようにして「フランクフルト学派陰謀説」が完成したのでした。めでたし、めでたし。
https://rondan.net/853

21. 中川隆[-12476] koaQ7Jey 2019年2月03日 16:47:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告


2018.12.25
【トンデモ】渋谷が外国人に人気なのはフランクフルト学派の陰謀(つくる会元会長・田中英道)


Contents [hide]

1 田中英道氏とフランクフルト学派陰謀論

2 何でもかんでもフランクフルト学派が悪い

田中英道氏とフランクフルト学派陰謀論

つくる会元会長の田中英道氏は、フランクフルト大学の教員の忠言によって講義が中止させられただけで、フランクフルト学派の陰謀説を唱えてしまうトンデモ論者として知られます。

そんな田中氏は、なんと渋谷が外国人に人気なのはフランクフルト学派が原因という陰謀論までも唱え出しています。


1-3【討論!】異変?日本文化の現在[桜H26-7-12] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_MSpYNDibxQ
https://www.youtube.com/watch?v=aWbZTnAaEn8
https://www.youtube.com/watch?v=NPGFlNBf20w


パネリスト:
 小川榮太郎(文芸評論家)
 小浜逸郎(評論家)
 佐藤健志(作家・評論家)
 田中英道(東北大学名誉教授)
 寺脇研(映画評論家・京都造形芸術大学教授)
 富岡幸一郎(文芸評論家・関東学院大学教授)
 古谷経衡(評論家・著述家)
 三浦小太郎(評論家)
司会:水島総

_____

この後にも、ハーバード大学の60%はユダヤ人とか、胡散臭さ満載の言説が続き、聴衆の心をとらえて離しません。みんな真面目な顔して議論していますが、言っていることは基本トンデモです。



何でもかんでもフランクフルト学派が悪い

この様な田中氏の言説は、一旦、陰謀論に嵌ってしまうと、何でもかんでも陰謀のせいにしてしまう典型例でしょう。

そして、このような陰謀論は、「宇宙人の仕業」と同じで、実際には存在しない敵と戦っているため、その敵から反論が出ようはずもなく、ご本人が「誤りだった」と気が付くまで生き残り続けます。

しかし、こんな人が歴史教科書をつくっていたとは…


コメント

匿名 より: 2018年12月26日 7:47 PM

社会崩壊を企む恐ろしき「フランクフルト学派」:田中英道論文要約 というのがありました。

”フランクフルト学派の批判理論、隠れマルクス主義の恐ろしさ

リベラルとは、偽装された左翼。リベラルの武器は批判理論(非暴力革命理論)、その正体は暴力革命をあきらめたに過ぎない革命家。経済破壊から文化破壊へ、内部からの国家破壊へシフトしただけ。メディアは同じ隠れ共産主義者(共産党)の巣窟

メディアが左翼の理由。日本のメディアを支配する“隠れマルクス主義(隠れ共産主義、隠れ共産党)”フランクフルト学派。9条守れ、改憲反対といい、それに抗うような政権は印象操作、報道しない自由、偏向、捏造、レッテル貼り、何でもありで潰していく

今の日本は、実は隠れマルクス主義者にとって、二段階革命の第一段階目にあたります。

共産主義革命(暴力革命)を阻止する軍隊の存在を否定した憲法9条は、まさに本拠地であり、牙城であり、「9条改正」に対して断固反対し続ける理由なのです。
メディアが隠れマルクス主義者の巣窟であり、9条守れ、改憲反対といい、それに抗うような政権は嘘だろうが、疑惑があると悪いことをやっているように印象操作、報道しない自由、偏向、捏造、レッテル貼り、何でもありで潰していくのです。倒せる、倒すとなると、いざ鎌倉となるわけです。敗戦利得者たちは、戦後レジームからの脱却を阻止する体制を築いているのです。

愛国者を出演させることはほとんどなく、リベラル派の芸能人や進歩的知識人・文化人などの左翼ばかりを出演させ日本が悪いと批判を続け、国民を洗脳し続けています。NHKや朝日新聞など左翼系メディアを中心にフェイクヒストリー(嘘の歴史)を使って、自虐、反日の東京裁判史観(GHQ史観)を国民に植え付けています。

また国家の価値や民族の価値、それらのナショナリズムが良いと報道することはなく、極右、排外主義、差別主義だとかレッテル貼りを行い、多民族、多文化共生だ、男女平等だ、LGBTだ、差別だ、人権を守れ、ヘイトスピーチを許さないと左翼リベラルの代弁者となり、国家を徐々に全体主義化していく先兵ともなっているのです。

メディアには、多くの在日朝鮮人が入り込んで反日工作を行っていますが、日本弱体化を謀る敗戦利得者同士であり、利害が一致しているわけです。”

https://rondan.net/3535

どうも、アホの周りにはアホが沢山集まって来るという事みたいですね。

22. 中川隆[-12470] koaQ7Jey 2019年2月03日 22:40:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

田中英道「日本の原爆は8月12日北朝鮮で成功していた?」
日本国史学会4月28日連続講演会開会講演 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93++%E5%8E%9F%E7%88%86


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太平洋戦争当時日本が原発を完成させていた?


チャンネル桜の番組

【夢を紡いで #12】田中英道〜共産革命の下準備、少数派の横行と憲法9条[桜H30/4/6]
司会:中山恭子(参議院議員)
ゲスト:田中英道(東北大学名誉教授)
https://www.youtube.com/watch?v=hquI0BLyqrI

の最初で田中英道さんが日本も原爆を完成させていたとおっしゃっていたのですが、本当でしょうか?

実戦配備とかではなく、原爆実験を成功させて完成させたという意味のようです。

投稿日時 - 2018-04-15 02:39:22

アンサー

海軍から原爆の研究を依頼された中谷宇吉郎博士が、原爆が日本に投下されたその年の10月に、「原子爆弾雑話」という話を『文藝春秋』に寄せています。

以下、長くなりますが抜粋します。

昭和十五年になって、遂にウラニウムの核分裂という新しい現象が恐るべき勢力源として現われて来たのである。その論文が日本に届いたのは、確か太平洋戦争勃発の一年くらい前であった。ラサフォードがキャベンディシュ研究所の俊秀を総動員して、世界の物理学の主流を原子構造論から一歩進め原子の内部に足を踏み込ませ、原子核構造論の樹立に眼を開かせてから約十年、それを受けたアメリカが、莫大な物と金と人とを困難な実験に注ぎ続けて約十年、やっとこのウラニウムの核分裂の発見によって、原子内に秘められた恐るべき力が、科学者の前に初めてその姿の片鱗を現したのである。

 しかしこの現象の発見によって原子爆弾が半ば出来たのではない。原子の性質として知られたこの核分裂現象の発見は、いわば富士山を作っている土の粒子の性質が知られたようなものである。その土の粒子を一粒一粒集めて富士山を作る仕事が、本当に原子爆弾を作る仕事なのである。

 ウラニウムの核分裂の発見から原子爆弾に到達するまでに、平時だったら三十年とか五十年とかの年月を要するだろうと考えるのが普通である。実際のところ私なども、原子爆弾が今度の戦争に間に合おうとは思っていなかった。太平洋戦争勃発直前ルーズベルトがこのウラニウムの核分裂の研究に着目し、これを新兵器として使うべく、チャーチルと協力して、両国の物理学者を総動員したという噂をきいても、聊か多寡をくくっていた。いくらアメリカが金を使い人を集めたところで、二年や三年で出来るべき性質の仕事ではないと考えられたからである。

 ところが実際にそれが使用され、やがてその全貌が明らかにされて来て、初めて今度の戦争の規模が本当によく理解されたのである。アメリカのことであるから、何百人の科学者を動員し、何千万円という研究費を使っているのかもしれないが、それにしても今度の戦争にすぐ間に合うというような生易しい仕事ではないはずである。こういう風に考えていたのは私たちばかりではないらしい。ところがそれがまるで桁ちがいの数字であったのである。

「発見までには二十億ドルを費」し「六万五千を超える」技術作業員を擁した大工場の作業が、極秘裡に進められていようとは夢にも考えていなかったのである。
(抜粋終わり)


この話を信じるか、「チャンネル桜の番組」を信じるかの問題です。

全文は、青空文庫で読むことができます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/53227_49834.html

投稿日時 - 2018-04-15 20:16:15


oska2

>田中英道さんが日本も原爆を完成させていたとおっしゃっていたのですが、本当でしょうか?

完成は、していません。
確か、仁科研究所で原爆開発を行っていたのは事実です。
(ゼロ戦に搭載可能な)超小型の原爆開発を、目指していた様です。

ウランも、(当時)福島県郡山市・石川町で鉱石採取を行っています。
もちろん、米軍に察知されてB29が爆撃を行っています。

当時は、辺鄙な山の中を何故B29爆撃機が飛んできたのか理解出来なかったようです。

※東京の絨毯爆撃に出動した半分の大編隊のB29が郡山・石川を爆撃。

※当時4万世帯の地方都市爆撃にしては、大規模過ぎますね。
結局、ドイツからUボート2隻でウランが日本陸軍に向けて出航。

※「ウランを送れ」との日本軍の暗号を、米軍が傍受。
1隻は、行方不明。もう一隻は、米軍に拿捕。
Uボートの積荷・目的地を知って、米軍は驚愕した様です。

結局、ウランは届かず「原爆開発を行っていた理研荒川工場」はB29の爆撃で徹底的に破壊されます。

結局、理論的(設計図)には完成しても現物は完成していません。

広島・長崎に原爆が投下された時に、「直ぐに原爆だ」と確認したのも仁科研究所です。

この理論の正確さは、後の中性子理論で有名な湯川秀樹博士の論文でも理解出来ます。

高度成長期に、原子力発電技術を日本が持っていた事も証拠のひとつ。
原子力は、平和に利用するに限ります。

投稿日時 - 2018-04-15 22:33:36


ichikawa2017

>田中英道さんが日本も原爆を完成させていたとおっしゃっていたのですが、本当でしょうか?


本当というよりもいろいろな説が錯綜した結果ご本人は原爆を完成させていたと思い込まれたのでしょう。

田中英道という人物は美術史の専門家です。
一風変わった方のようで学会としては正式に認定されていない日本国史学会などを立ち上げた人物です。

現在量子力学と呼ばれる核分裂に関する研究は日本でも非常に速い時期から取り組まれていました。

湯川秀樹が戦後日本人初のノーベル賞を受賞したのは1934年に原子核の中に中性子というものの存在が予測できるという趣旨の論文です

基礎となったのがアインシュタインが理論的に証明した質量とエネルギーとの関係式:E=mc²から物質はエネルギーと互換性があるという理論です。
アインシュタイン自身が物質を急激にエネルギー化することで極めて威力の大きい爆発物を作ることが理論的には可能だという趣旨の手紙を当時のアメリカ大統領に書き送っています。

ただし、アインシュタイン自身は後の原爆の開発計画(マンハタン計画)には直接タッチしていません。
第二次世界大戦の前から日本の学会でもこのアイシュタインの理論的な予想は良く知られていました。
アインシュタイン本人も来日して講演していました。

原子核に電子などを急激に衝突させて異なる分子に変える実験装置(サイクロトロン)は当時の日本には4台あり世界の最先端を行っていました。

日本を占領した米軍は真っ先にこのサイクロトロンを破壊しました。

つまり第二次世界大戦の前にもし日本が意図的にアインシュタインが予測した破壊力の大きな爆発物を作ろうと思えば出来る可能性が多分にあったということです。

恐らく田中某にすれば可能性だけでは満足できなかったのではないのでしょうか。

第二次世界大戦当時の日本軍は既に航空機戦の時代であることを知りながら大艦巨砲主義を捨てきれずに戦艦大和のような無用の長物を作っていたように極めて保守的でした。

日露戦争末期に開発された歩兵銃を第二次世界大戦当時も使っていました。
仮に大学の教授連中が提案しても新型爆弾など到底採用されなかったでしょう。

投稿日時 - 2018-04-15 20:04:53


日本が戦時中に原子爆弾の研究を行っていたことは事実ですが、実際に兵器の製造に着手する段階には至らず、まして完成などはしていません。

世界で初めて核兵器の製造に成功したアメリカのマンハッタン計画では約20億ドル(当時)もの巨費が投じられ、全米に複数の拠点を設けて、多数の優秀な科学者・技術者がこれに参加しました。多数の労働者も動員されています。

日本の原爆研究は、これとは比較にならないほど小規模のうえ、陸軍(理化学研究所)と海軍(京都大学)に分かれていました。原爆の材料となるウラン濃縮を開始する段階にも達しないうちに敗戦となっています。

ご質問に引用されたyoutubeで主張している1945年8月12日は、ソビエト軍が朝鮮にも攻め込んで来て戦闘が始まっていて、「原爆実験」どころではない混乱した時期です。

youtubeで見せている新聞のコピーは1946年10月のアメリカの新聞Atlanta Constitution紙で、この「北朝鮮の興南で日本が原爆を製造し実験に成功していた説」は、戦後すぐからあるようですが、事実ではありません。


投稿日時 - 2018-04-15 06:24:29

http://qa.itmedia.co.jp/qa9488702.html

▲△▽▼

日本の原子爆弾開発 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E9%96%8B%E7%99%BA


第二次世界大戦中に日本で行われた原子爆弾の開発計画と、第二次世界大戦後の状況について記述する。

第二次世界大戦中の原子爆弾開発


第二次世界大戦(太平洋戦争)中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)[注 1]と大日本帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である[注 2]。

ニ号研究

日本の原子爆弾の研究開発は、1940年4月陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎[注 3]に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じたことから始まった。鈴木が指名されたのは、当時原子核を学んだ者が陸軍では鈴木と新妻精一 (最終階級は陸軍中佐) の2名だけだったからである。安田が原子爆弾を着想したのは、ただの思い付きではなかった。安田は当時盛んになってきた原子核物理学に早くから関心を持ち、理化学研究所の仁科芳雄や仁科研究室の若い研究者を航空技術研究所に招き、原子物理学概論の講演をしてもらっていた。これは将来必ず原子爆弾が実現すると考えて、若い軍人たちにも知ってもらうためであった[1]。

そして、1940年5月3日付けの理研の仁科芳雄と東京帝国大学理学部化学科の木村健二郎等の論文には、ウラン238に高速中性子を照射した実験において核兵器の爆発によって生成することが知られているネプツニウム237[2] を生成した[3]ことが記され、同年、米国の物理学誌フィジカル・レビューに掲載された[4]。また、同実験では、1回の核分裂で10個以上の中性子が放出され核分裂連鎖反応(超臨界)を伴うことが知られている対称核分裂による生成物[5]が生成されたことが、『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題して、同年7月6日付けの英国の学術雑誌ネイチャーに掲載された[6]。

鈴木は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出した。安田はその報告書を持って東条英機陸軍大臣ら軍の上層部に原子爆弾の開発を提案するとともに、各大学、研究機関、主な民間企業にも報告書を配布した(この時点ではまだ機密ではなかった)。1941年5月陸軍航空技術研究所から理化学研究所の大河内正敏所長に「ウラン爆弾製造の可能性について」の研究が正式に依頼された。これを受けて仁科芳雄主任研究員は6月から研究に着手した(仁科は当初この要請を断ったという証言もある[7])。

その2年後、1943年5月に「技術的にウラン爆弾製造は可能と考えられる」という内容の報告書を提出した[注 4]。この報告を受け、航空本部[注 5]長に就いていた安田中将は直ちに部下の川島虎之輔大佐に研究の推進を命ずるとともに、これを最高軍事機密扱いにし、航空本部直轄の研究とした。以後、川島が中心になって研究が進められることになった。軍の研究を外部に委託するときは航空技術研究所を通すのが通例であった。上部機関である航空本部が直轄とするのは極めて異例であり、この一件のみであった[8][9]。

アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年5月に、理化学研究所の仁科博士を中心にニ号研究(仁科の頭文字から[10])が開始された。この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散筒が完成し、濃縮実験が始まった。原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり、容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった[11]。濃縮ウランも10%程度ものが10kgで原爆が開発できるとされていた。この原爆開発原理には基本的な誤りがあったことが、黒田和夫の保管していた旧陸軍内部文書[注 6]により発見された[12]。しかし、同様の経緯である1999年9月の東海村JCO臨界事故により、殺傷力のある放射線が放出されることは明らかとなっている。

理化学研究所の研究体制


理化学研究所におけるニ号研究では、仁科研究室にウランを供給するため飯盛研究室も参加した。主任研究員の飯盛里安は、ウランが核エネルギー源になることが知られる以前の1922年からウラン鉱の探索を行っていた実績を買われたためである。当時ウランの用途はほとんど無く、飯盛の探索はウランが目的でなく放射化学の研究に必要なラジウムを得ることが目的であった(ラジウムは常にウランと共存している)。

仁科研究室の体制は、木越邦彦が六フッ化ウランの製造、玉木英彦がウラン235の臨界量の計算、武谷三男と福田信之が熱拡散分離の理論、竹内柾が熱拡散分離装置の開発、山崎文男がウラン235の検出を受け持ち、陸軍航空本部から物理化学系大学出の若い10人の将校が派遣され研究テーマごとの班に配属されていた[9][13]。仁科研究室の全員がニ号研究に参加したわけではない。宇宙線、理論、サイクロトロンの担当者はノータッチであった。朝永振一郎が協力を申し出たが、仁科は必要ないと言って断った[14]。

ウラン235分離方法の選択

原子爆弾を作るには天然ウランの中に0.7%しか含まれていないウラン235を取り出さなければならない。ウラン235の原子核に中性子を当てると核分裂が起こり、大きなエネルギーが放出される。天然のウランは大部分がウラン238でこれは核分裂しない (正しくは核分裂しにくい)。ウラン238とウラン235は同位体であって化学的にはまったく同じなので化学的な方法では分離できない。分離するにはわずかな質量差を利用して物理的な方法で分離しなければならない。ウランは金属で、そのままでは分離できないので六フッ化ウランという揮発性の化合物に変えて分離に供する。

当時知られていた分離法には

1.熱拡散法
2.気体拡散法
3.電磁法
4.超遠心法

があった。本来なら全部試して一番適した方法を選ぶべきだが、当時の日本では時間も資材もなく、理研は一番手っ取り早い熱拡散法を採用することに決めた。

竹内柾が作った分離筒の概要は、直径約5センチメートル、高さ約5メートルの銅製の二重の筒である。外筒と内筒の間には2ミリメートルの隙間がある。この隙間に六フッ化ウランのガスを入れ、内筒の中のニクロム線に電流を流して240 - 250度に加熱し、外筒の周りは約60度の温水を入れたウォータージャケットで囲んである。外筒と内筒の温度差で六フッ化ウランガスが対流を起こし、重いウラン238は塔の下部へ、軽いウラン235は上部に溜まる。塔の材質、寸法などは理論的な裏付けがあるわけでなく、適当に見当で決めたものである[1]。

マンハッタン計画ではすべての方法が試みられた。ウラン235を爆弾に必要な高濃度まで濃縮できるのは電磁法だけであった。実際には気体拡散法でウラン235の濃度をある程度まで高めてから電磁法に掛ける方法が採られた[15]。

詳細は「カルトロン」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3

六フッ化ウランの製造

理研ではもちろん六フッ化ウランを製造した経験は無かった。

六フッ化ウランは、フッ素とウランを反応させて作るが、まずフッ素を作らなければならなかった。フッ素は反応性が激しくガラスさえ腐食されるので、作るのは大変むずかしかった。フッ素は、酸性フッ化カリウムを電解槽に入れて230 - 240度で加熱融解し、炭素電極を入れて電気分解すると一方の電極から出てくる、という原理はわかっていた。

まず、銅板を溶接して作った電解槽で試みたところ、溶接部分が腐食されてしまった。次に、マグネシウムで作ろうとしたが、希望する純度のマグネシウムが手に入らなかった。専門の工場で高純度のマグネシウムを作ってもらい、これでツボ状の電解槽を作った。しかし、これを使ってもフッ素が出てこなかった。そこで、教えを請うため東北帝国大学の著名なフッ素研究者・石井総雄の研究室を訪ねた。その結果わかったのは、電気分解の初期には原料に含まれている微量の水分だけが分解され、完全に無水の状態になってからでないとフッ素は出てこない、ということである。木越らは夕方帰宅する際、電源を切っていたので、せっかく無水になった原料が夜の間に空気中から水分を吸ってしまうので、いつまでたってもフッ素が出てこなかったのである。原因がわかったので、夜間も通電を続けたところ、やっとフッ素が出るようになった。

結局フッ素を作れるようになるまで約1年かかった。さらに六フッ化ウランを作れるようになるのに約1年を要し、分離実験に取り掛かったのは戦争末期であった[1][16]。

仁科は研究室員から「親方」と呼ばれ親しまれていたが、しばしば雷を落とした。研究室員でやられなかった者はいなかった。怒鳴ったあとはケロリとしているので、誰もそれを根に持つことはなかった。六フッ化ウランができなくて四苦八苦していた木越はある日仁科に呼び出されて「お前はいったいどんな気持ちでやっているんだ。できるのかできないのか」と怒鳴られた。木越は平然と「できません」と答えた。仁科は「そんなつもりでやっているんなら…」と言っていったん口をつぐんだ。木越は「やめちまえ」と言われると思ったが、仁科は語調を変えて「まあ、やってみろ」と言った。

その後、木越は文献を調べてウランを炭化物(ウランカーバイド)にしてからフッ素を作用させる方法を見つけた。自宅から配給の砂糖を持ってきて電気炉で加熱して炭素を作り、ウランと反応させてウランカーバイドを作った。これにフッ素を作用させて米粒ほどの六フッ化ウランを作ることができた。深夜のことだったので、朝出勤してくる仁科に報告したくて待ち遠しかったという。実験を続けるには砂糖が必要だったので、軍に交渉したところ、配給用の砂糖に手をつけるわけにはいかないとして、わざわざ台湾に飛行機を飛ばして10キログラムほどを都合してくれた。理研では「木越のところに行くと砂糖がなめられるぞ」という話が広がり、多くの人が役得にあずかった。その後、砂糖の代わりにデンプンが使えることが判ったので、以後はデンプンを使うことになった[1]。

武谷三男が逮捕される

六フッ化ウランの熱拡散分離の理論を担当していた武谷三男は、京都帝国大学在学時代に左翼活動に係わっていた関係で、突然特高警察に逮捕された。仁科は警視庁の上層部に「武谷は重要な仕事をしているからしかるべく頼む」と言って善処を求めた結果、留置場に専門書などを持ち込んで研究を続ける事を許された。そこから警視庁の取調室で刑事に監視されながらの珍妙な研究が始まった。計算をしているうちに、理論的に熱拡散分離法ではウラン235を分離できない可能性が大きくなってきた。面会に来た渡辺慧に、熱拡散分離法はだめかも知れないから、他の方法 (遠心分離法) も並行して進めた方が良い、と仁科に伝えるよう口頭で頼んだ。この言葉を仁科がどう受け取ったかは定かでない。

その後、武谷は持病の喘息が悪化したため、4か月ほどで釈放され、自宅で監視付きの療養生活に入った。理研に行くことはできなかったが、研究仲間 (特に中村誠太郎) が度々連絡にやってきて理研の様子を知らせてくれた。

彼らがもたらしてくれた情報によると、研究者の中に、ニ号研究はもうやめた方がよい、という考えを持つ者が出てきた、ということであった。

その根拠は、ウラン235をうまく分離できたとしても、実際に爆弾を作るとなると、莫大な資材と天文学的な電力が必要になる、しかもかんじんなウラン鉱石が手に入らない、ということである。

しかし、仁科は原子爆弾は必ずできるという確信を持っているようだ、ということであった。


武谷に対する取り調べがすべて終わったのは、広島に原爆が投下された翌々日の8月8日であった。調書に印を押すと、検事が「お前が研究していた原爆とはこれのことか?」と言って新聞を示したので「そうだ」と答えると「検事を集めるから原爆の話を聞かせてくれ」と言われ、原爆の初歩的な知識を話し「B-29が単機でやってきたときは危ないから深い穴にかくれなさい」というような話をした (B-29は通常編隊でやってくるが広島に原爆を投下したB-29は単機だった)。すると「お前はもういいから仁科研に戻って研究を続けてくれ」といわれた [1]。

武谷は、のちになって「原爆の仕事は軍をごまかすにはいい、原爆研究というものは、一つにはわたしたちのの戦時中の逃れ途だった」と書いている。山崎正勝は、武谷は原爆の「盾」で特高警察から逃れることが出来た、と述べている[11]。

分離実験

1944年7月14日から六フッ化ウランを分離筒に入れて分離実験を始めた。しかし、六フッ化ウランの強い腐食作用により、分離筒に穴が開く事故が頻発し、しばしば実験を中断しなければならなかった。修理に時間がかかるため実験は遅々として進まなかった。軍からは「どうなっている」という催促が度々あって仁科は大変困惑していた[1]。

理研が原爆研究を引き受ける際に航空本部に提出した報告書には、分離筒には腐食防止のために金メッキまたは白金メッキを施せばよい、と書いてあったが実際にはメッキはされなかった[8]。

飯盛は戦後になってから、その頃仁科に会うたびに仁科が次のように語っていたと述べている。


「なかなかむづかしい、とにかく核分裂するときに非常なエネルギーが出るんだから、爆弾みたいにしないで、熱源というか、動力源として使うには非常にいいんだが」

爆弾にするということを口にすることはあまりなかった、という[13]。

空襲によって分離筒が焼失するまで6回分離実験を行ったが、6回とも分離はうまくいかなかった。

ウラン235がどれくらい濃縮されたかを知るには、質量分析計で同位体比 (U235/U238) を測定するのがもっとも確実だが、当時の理研には質量分析計が無かった。次善の方法として、サイクロトロンで発生させた中性子を試料に当て、ウラン235の核分裂によって発生するベータ線の強度をローリッツェン検電器で測定することにより、間接的にウラン235の量を求めた。熱拡散分離筒にかける前の試料と分離操作をした試料を同一条件で測定したが、両者の間に有意の差が認められず、分離ができていないと結論された。

分離筒が焼失した後、理研の一部は山形高校に疎開し、木越は六フッ化ウランの製造を続けるとともに、なぜ分離がうまくいかなかったを考えた。そこで分子間力を考慮に入れると、分離筒の中で起こっているのは、単に重いウラン238は下へ、軽いウラン235は上に、という単純な現象ではないことに思い至った。

熱拡散法はアメリカとドイツでも試みられていたが、1941年に熱拡散法ではウラン235は分離できないという結論が出ていた。

つまり理研で熱拡散法を選んだ時点ですでにこの方法では分離できないことが確認されていたのである[13][16]。

終戦時、木越は残っていた六フッ化ウランを山形高校の校庭に埋めた。後年訪れたとき、様子がすっかり変わっていてどこに埋めたかわからなかった[1]。

熱拡散分離筒の焼失

仁科研究室の山崎文男の家は理研のすぐ近くの本郷曙町 (現・本駒込一丁目、二丁目) にあった。当時、山崎は家族を地方に疎開させて、ここに一人で暮らしていた。同じ仁科研の朝永振一郎と福田信之も家族を疎開させて一人暮らしをしていた。山崎の家は理研に通うのに好都合なので、この二人ともう一人物理学校 (現・東京理科大学) の学生の合計四人がこの家で共同生活をしていた。1945年4月12日の夜、空襲があり山崎の家も被災した。その日は福田は不在で三人で消火に当たったが、素人の力ではどうにもならず、全焼してしまった。空襲警報が発令中だったので、山崎と朝永は近くの防空壕に避難した。やがて解除のサイレンが鳴ったので二人は防空壕から出て理研に行ってみると焼夷弾が落ちてあちこちが燃えていた。

熱拡散分離筒がある49号館は燃えていなかったので、そこにいた人たちと協力して水を掛けたり回りにあった材木を片付けて延焼を防ぐ処置をした。一応めどが着いたので49号館の向かいにある43号館で休んでいると、夜が明けた頃、49号館から煙が出ていることに気が付いた。人々が油断している間にモルタルの壁の中に残っていた火が燃え上がったのである。急いで駆けつけたが、もう手が付けられない状態で、結局49号館は分離筒と共に全焼してしまった[1]。

この空襲では理研希元素工業荒川工場 (後出) ウラン抽出棟も直撃弾を受け、工員3名が即死した。この空襲について飯盛は、日本の原子爆弾開発計画がアメリカ側に洩れていたのではないか、と述べている[17]。

熱拡散分離筒の移設

1944年暮れころ、撃墜したB-29から回収した東京の地図に理研が重要目標として記入してあった。これを知った航空本部は鈴木辰三郎に、いずれ理研はやられるから別の場所にも分離筒を設けたほうがよいと勧告をした。鈴木は大阪帝国大学の菊池正士研究所に分離筒を建てることにした。

理研の分離筒は、熱膨張により内筒が外筒に癒着する欠点があったので、鈴木は内筒の内側にさらに鉄製の筒を入れて補強する構造を考えた。仁科は「鉄と銅は熱膨張率が違うからそんなもんくっつけたってだめだ」と反対したが、鈴木はそれなりに成算があったので仁科を説得して了承してもらった。外筒と内筒の隙間は2ミリメートルでは広すぎると考え、1.5ミリメートルとした。

ここに同じものを3本建てたが、実験に取り掛かる前に大空襲があって水も電気も止まって実験どころではなくなってしまった。

さらに鈴木は軍需省から尼崎市の住友金属鋼管(現・日鉄住金鋼管)の工場に分離筒を建てることを指示された。ここには資材が豊富にあり、ベテランの工員がたくさんいたので、作業は容易であった。ここには、大阪帝国大学と同じものを5本建て、窒素や二酸化炭素を用いて予備試験を行って、鉄と銅の膨張率の違いの件はうまく行くことが確認された。あとは六フッ化ウランの到着を待つのみになった。

鈴木はいずれここも危なくなると考え、三重県名張市にある妻の実家の敷地に分離筒を移設しようと100坪ほどの建物を実験棟に改装したり、床や水道の工事をした。もちろん、妻にも親族にも目的は明らかにしなかった。しかし、分離筒を移設する前に終戦になった[8]。終戦時、大阪帝国大学と尼崎市にあった分離筒は解体され、近くの川などに投棄された[8][14]。

仁科は、金沢市にも分離筒を建てようと、航空本部から派遣されて竹内柾のもとで仕事を手伝っていた佐治淑夫中尉ほか数名を金沢に派遣した。市内は空襲が激しいので郊外にある金沢高等工業学校を借りて作業場とした。しかし、資材がまったく手に入らなかった。苦労の末、北海道帝国大学からやっと真空ポンプを譲ってもらったが、何も進展しないまま終戦になった[1]。

原料ウランの調達

当時、陶磁器の釉薬の着色剤として硝酸ウラニル (ウランの硝酸塩) が少量流通していて、どこの化学教室の棚にも有るようなありふれた物だった。木越は薬品問屋に片っ端から電話をして50キログラムほどをかき集めた。理研ではこれを原料として六フッ化ウランを製造した。F研究を担当することになった京都帝国大学も京都市五条坂の陶磁器専門の薬品問屋から硝酸ウラニルを買い付けた[1]。

当時は岡山県と鳥取県の県境に当たる人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、1944年から朝鮮半島、満洲、モンゴル、新疆の地でもウラン鉱山の探索が行われたが、はかばかしい成果がなかった。同年12月に日本陸軍は福島県石川郡石川町でのウラン採掘を決定した。1945年には飯盛里安が率いる実験施設の理研希元素工業扶桑第806工場を開設し、4月から終戦まで旧制私立石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた[18][19][20][21]。しかし、そこで採掘される閃ウラン鉱・燐灰ウラン石・サマルスキー石等は、ごく少量であり、ウラン含有率も少ないものであった

詳細は「飯盛里安#ニ号研究との関わり」および「長島乙吉#理研の嘱託としての業績」を参照


一方、日本海軍は、中国の上海におけるいわゆる闇市場で130kgの二酸化ウランを購入する一方、当時、チェコのウラン鉱山がナチス・ドイツ支配下にあったので、ナチス・ドイツの潜水艦 (U-234) による560kgの二酸化ウラン輸入も試みられたが、日本への輸送途中でドイツの敗戦となり、同艦も連合国側へ降伏してしまった(この点に関して、詳細はU-234及び遣独潜水艦作戦の項目参照)[22]。

こうして、どちらにせよ原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況であった。

理研希元素工業株式会社

1941年、飯盛研究室の希元素関連の業務を事業化するために、大河内正敏所長を会長、飯盛里安を最高顧問として理研希元素工業株式会社が設立された (終戦時に解散)。理研構内の本郷工場のほか足立工場、荒川工場の三工場で各種希元素製品を生産した[9]。

荒川工場では、戦前アメリカから輸入した約200トンのカルノー石を処理してウラン約200キログラムを生産した。このほか、マレー半島産のアマン (スズ鉱石の残渣)、朝鮮半島産黒砂 (砂金採取時の残砂) を処理して約100キログラムのウランを生産し、合計約300キログラムがニ号研究用に蓄積された (ここで云うウランとは通称イエローケーキ、重ウラン酸ナトリウムのこと)。これらは終戦時に米軍に押収された[注 7]。

1944年後半頃から空襲が激しくなってきて工場が被災したので、軍からの指示で工場を福島県石川町に疎開させることになった。移転先として選ばれたのは完成直前のジルコン選鉱場で軍の命令で理研希元素工業株式会社に移譲された。これが理研希元素工業扶桑第806工場となった。選鉱場の人員はそのまま新工場に引き継がれた。この工場では東京から運んだ前記のアマンと黒砂を処理した。石川中学校の生徒が採掘した鉱石は量が少ないので原料にはならなかった。この工場は数か月稼働しただけで終戦になった[9]。

終戦直前、理研希元素工業扶桑第806工場に、いわき市小名浜の日本水素工業株式会社[注 8]から触媒用銅ウラン合金板、約10トンが入荷した。酸化ウラン換算で800キログラムを含有すると見込まれていたが、使用されることはなかった[注 7]。これはメタノールの合成に用いられていたが、新しい製法に転換したことにより不要になったものである。この合金が戦後どうなったかについては資料が残されていない[9]。

終戦直後の1945年10月1日、GHQのマンソン大佐から日本政府に対し、日本国内および戦時中日本の統治下にあった地域に残存するウラン含有資材について保有状況を早急に報告するように命令があった。これに対する回答書中に、「約10.9%のウランを含有する有機合成用触媒4トン(石川工場3トン、荒川工場1トン)」の記述がある。畑晋の私信と数量に食い違いがあるが、ウラン含有の合成用触媒合金が終戦後に確かに存在していたことが裏付けられた[24]。

核物理応用研究委員会

海軍で一番早く原子爆弾に注目したのは、海軍技術研究所の伊藤庸二大佐(電波兵器が専門)である(1939年頃)。1941年11月、アメリカの不審な動き(ウラン鉱石の国外持ち出し禁止など)を察知して知友である東大医学部の日野寿一と理学部の嵯峨根遼吉に原子爆弾の開発を相談した。両名ともその調査の必要性を力説した。その月の終わりまでに海軍技術研究所の上司・電気研究部長佐々木清恭にこの件を諮った。佐々木は日野、嵯峨根の意見を聞き、関係方面と交渉の結果海軍技術研究所の責任において調査に乗り出すことに決定した。ただし、この計画書の目的は原子力機関となっていて原子爆弾の文字は無い。もちろん、本当の目的は原子爆弾であったが、刺激的な文句は使うまいという心遣いであった[1]。

海軍技術研究所は、原爆研究機関「核物理応用研究委員会」(委員長は仁科芳雄)を発足させ、第一回の会合を1942年7月8日、芝の水交社で開催した。メンバーは理研の長岡半太郎、東大の西川正治、嵯峨根遼吉、日野寿一、水島三一郎、阪大の浅田常三郎、菊池正士、東北大の渡辺寧、仁科存、東京芝浦電気(現・東芝)マツダ支社の田中正道らであった。この委員会は1943年3月6日まで十数回[注 9]開催された。しかし、戦局が進むにつれ「電波兵器(レーダー)研究担当の立場にある者が余分なことに力を浪費している」との批判が部内から出たため、この研究は中止されることになった。研究の中止に際して伊藤大佐は「だれかほかに代わってやってくれる人はないものか」と嘆いたという。この委員会で出された結論は「原子爆弾は明らかにできるはずだ。ただ、米国といえども今次の戦争中に実現することは困難であろう」というものであった[1]。

その頃、仁科が航空本部の川島少将に「あちこちから原爆、原爆と言われても困るから軍の窓口は航本(航空本部のこと)一本にまとめてほしい」旨の要望をしたことから、研究の主体は自然と陸軍に移っていった[1]。

F研究

ミッドウェー海戦の惨敗以来、主力艦船のほとんどを失った海軍は危機感を募らせ艦政本部の主導で原子爆弾の研究開発の再開を企てた。1940年頃、ドイツの“ニトロチェルローゼ”という火薬の専門誌に火薬の権威シュテットバッハーが『アメリカの超爆薬』という題の論文を発表した。海軍火薬廠の村田勉少佐がこの論文を翻訳し、艦政本部、火薬廠、各工廠の幹部に配った。この論文には「約1グラムのウラニウム235に緩速中性子をあて核分裂をさせると、当時日本で作っていた松印ダイナマイト13,500トン相当のエネルギーが出る」とあった。艦政本部の千藤三千造大佐、磯恵(いそめぐむ) 大佐 (海兵41期)、三井再男(みついまたお) 大佐 (海兵49期)(いずれも火薬の専門家) はこの論文に着目し、ぜひ海軍で研究しなければならない、という話になった。三井の回想によれば1941年10月、磯大佐からもちかけられた[25]。しかし海軍には人材も設備もないので、磯大佐の出身校である京都帝国大学理学部の荒勝文策教授に研究を依頼することになった[1][8][25]。千藤大佐は、もちろん核物理応用研究委員会が出した結論を知っていた[1]。

荒勝教授へ協力依頼をするため磯大佐が荒勝研究室を訪問した。これがF研究の始まりである。その日時については、戦後読売新聞社のインタビューに対し「着ていた背広が冬服だったので、昭和17年(1942年)10月過ぎだったろうね」と答えている。しかし、戦後GHQのマンソン大佐に提出した公式の報告書には「1943年5月、本研究を海軍の研究として荒勝教授に委託することになり…」と記載されている。荒勝研の木村毅一助教授は「僕が聞いたのは、もっとおそく18年(1943年)の終わりではなかったか」と述べている。同研究室の清水栄講師は「20年(1945年)のはじめごろではないか」と述べている。原爆研究の理論面を担当した小林稔教授は「19年(1944年)の9月か10月だと思う」と述べている。荒勝教授自身は次のように述べている。


京大の『原爆研究』- そのような言葉が適当かどうかわからぬが、ともかく、海軍が原子爆弾製造の可能性について、ぼく(荒勝)の研究室に研究を委託してきたのは、もう戦争も終わりに近いころで、それも、海軍側から直接にではなく、理学部化学教室の堀場新吉教授を通じてだったと記憶している。磯恵君の話だと、ぼくに会って研究を依頼したそうだが、それはさっぱり覚えがない。そういわれれば、そういうことがあったかなあ、という程度だ。

このように各人の見解がばらばらなのは、荒勝教授が依頼を受けてからいろいろと可能性を検討するのに時間を要し、個々の研究者にそのときどきに役割を付したためと考えられている。三井は、他の研究も含めて海軍側が絶えず出入りしていたため「いつ頼んだかわからないぐらい密接だった」と回想している[25]。つまりF研究がいつ始まったかは特定できない[1][25]。

荒勝研究室(海軍側)ではウラン235を分離する方法として、理研と同じ熱拡散法では意味がないので、次に可能性がある遠心分離法を採用することにした[26]。遠心分離法は、六フッ化ウランガスを入れた円筒形の容器を高速回転させることにより重いウラン238は外側に、軽いウラン235は中心付近に溜まることを利用する方法である。概算してみると、回転数は毎分10万回転以上の超高速が必要であることがわかった。当時高速回転するものとしては船舶用ジャイロが知られていた。当時船舶用ジャイロは北辰電機と東京計器が製造していたので、両社に協力を要請し、分離装置の試作を依頼した。これとは別に荒勝研究室でも独自に研究を進めた。

ジャイロの回転数は数千回転くらいであり、当時の技術で実現可能なのはせいぜい3 - 4万回転くらいが限界と考えられていた。高速回転で一番の問題は軸受けの摩擦であり、超高速回転を実現するにはこれまでとはまったく別の仕組みを考えなければならなかった。東京計器が考えたのは、目標を15万回転とし、回転体を圧縮空気で浮かせ誘導モーターで回転させる方法である。ただ、回転体を宙に浮かせると回転にブレが出てしまう。ブレを防ぐには心棒がなくてはならない。しかし心棒が太いと摩擦が大きくなるので、注射針くらい細いものを考えた。これは設計図の前の下書きの段階で終わっている[1]。


荒勝研究室で考案したものは、空気で浮かせる点で東京計器のものと似ているが少し違う。それはお椀を半分にしたような形の容器の外側の横腹に刻みを付け、これに向けて空気を吹き付ける。すると容器と受けの間に空気が入ってエアクッションになると同時に刻みの角度によって吹き込まれた空気で容器が高速回転する。ブレが出ると電気的に検出して正しい位置に戻す。超高速回転をすると、容器には10万Gくらいの遠心力が掛かることが予想され、普通の材料では振り切れてちぎれてしまう。荒勝の知り合いが名古屋の住友金属工業にいて、航空機に使う超々ジュラルミンを作っていることがわかり、サンプルを少し貰ったが、工場はその後すぐ爆撃されて入手できなくなった。この装置も設計前の下書き[注 10]の段階で終わっている[1]。


1944年2月13日、海軍大佐高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮)以下、迫水久常(内閣参事官)、仁科存(東北大)、湯川秀樹(京大)、菊池正士(技研)、中野秀五郎(東大)、仁科芳雄(理研)、西谷啓治(京大)、水島三一郎(東大)、仁田勇(阪大)、渋沢敬三(日銀副総裁)、水間一郎(技研)、深川修吉(日本無電)が集まり会合を開催[27]。

1945年7月21日、琵琶湖ホテルで京大と海軍の第一回合同会議が開かれた。
出席者は京大から荒勝文策、湯川秀樹、小林稔、佐々木申二、海軍から北川敬三少佐、三井再男大佐、東京計器顧問の新田重治であった。そしてこれが最初で最後の会議となった。

荒勝は戦後になってから「あんな会合やったってしょうがないですわ。だけどやらないとかっこうがつかない」と述べている。

荒勝は終戦後もF研究と関係なく回転体の研究をしばらく続けた。F研究以前から関心のあるテーマだったからである。1949 - 1950年ころ、直径0.3ミリメートル、高さ1.5センチメートルくらいのクギ状の鉄の棒を真空中で毎分 1,716,000回転させることに成功した。遠心力は 4,930,000Gであった[1]。

F研究に何も成果がなかったわけではない。 京大工学部の岡田辰三が、日本で初めての金属ウランの製造に成功した(3センチメートル角、厚さ1ミリメートル)。

理研では粉末状のウランしか作れなかった。理研の木越が試しに粉末状のウランにフッ素を作用させたところ、試験管が破裂して木越は危うく失明するところだった。そのため理研では六フッ化ウランを作るのに別の方法を探さなければならなかった。岡田が作った記念すべき金属ウランは京大に長く保存すべきものだったが、行方不明になってしまった。

もう一つの成果は、湯川研究室の小林稔がウラン235の臨界量を理論的に算出したことである。ウラン235の原子核に中性子が当たるとエネルギーとともに2個以上の中性子が放出される。その中性子が他の原子核に当たると4個、さらに8個、16個、32個という具合に幾何級数的に中性子が増加して連鎖反応が起こり、短時間で一挙に巨大なエネルギーが放出される。しかし、現実の原子は隙間だらけで、多くの中性子は原子核に当たらないまま外に逃げてしまう。ウラン235の塊がある程度以上の大きさがあれば、中性子は外に出る前にいずれかの原子核にあたり、連鎖反応が起こる。この量が臨界量である。

小林は手回し計算機で二晩くらいかけて拡散方程式を解いて、半径10センチメートルから20センチメートルくらいの塊があれば連鎖反応が起こって爆弾になるという結果を得た[1]。

また日本海軍としては連合軍側が原爆を実戦投入した際の防御(対策)研究という側面もあり[28]、広島原爆投下では日本側原爆研究関係者が現地調査に赴いている[29][30]。

ニ号研究とF研究の接点

航空本部の鈴木辰三郎によれば、1945年初めころ海軍の技術関係者が航空本部にやってきて「海軍の方でも原子爆弾の研究をやることになった。一からやっていたのでは間に合わないし、むだだから仁科研でやっていた実験データを教えてほしい」と頼まれた。航空本部でもこの段階にきては陸軍だの海軍だの言っている場合ではない、ということで仁科研のデータを全部渡した、という。

また、京大で六フッ化ウランの製造を受け持つことになった佐々木申二が理研の木越のところにやってきて、六フッ化ウランの製造を見学した。木越はそれで京大でも原爆の研究をしていることを初めて知ったという。さらに、荒勝教授が理研にやってきて(時期不明)仁科の案内で熱拡散分離筒を見学している。荒勝は、物資不足の戦時下によくこれだけのものを作った、と努力を評価している[1]。


また陸軍側はウラン鉱石の入手に難儀しており、児玉誉士夫(児玉機関、上海市拠点)を通じてウランを入手していた日本海軍に「陸軍にもウラン鉱石を分けてくれ」と申し出た事もあったという[31]。



研究打ち切りと敗戦

1945年4月13日[1]のアメリカ軍による東京大空襲で熱拡散筒が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった[32]。

その後、地方都市(山形、金沢、大阪)での再構築をはじめた[22]が、同6月に陸軍が研究を打ち切り[注 11]、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。

理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10kgを製造することは不可能と判断されており、京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった所だった。

結局日本の原爆開発は最も進んだところでも基礎段階を出ていなかった。

日本は、8月6日の広島市への原子爆弾投下、8月9日の長崎市への原子爆弾投下で被爆し、8月14日にポツダム宣言を受諾した(調印は9月2日)。敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された[22]。

なお、この際に理研や京都帝大のサイクロトロンが核研究施設と誤解されて破壊されており、その破壊行為は後に米国の物理学者たちにより「人類に対する犯罪」などと糾弾され[33]、当時のアメリカ陸軍長官であるロバート・ポーター・パターソンが破壊を誤りと認めた[34](ただし、京都帝大のサイクロトロンの「ボールチップ」と呼ばれる部品は関係者の手で保管され、現在は京都大学総合博物館に収蔵されている[35])。F研究責任者だった荒勝文策の当時の日誌によると、1945年11月20日に進駐軍将校が来訪し、荒勝は「全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のもの」と抗議したがGHQの命令として受け入れられず、施設破壊後の実験室を「惨憺たる光景であった」と記している[34]。荒勝には施設破壊ばかりではなく研究関連文書やウラン・重水などの提出も求められた[34]。その後、1947年1月に極東委員会が原子力研究の禁止を決議し、占領が終了するまで原子核の研究は一切不可能となった[34]。


1945年5月中頃、仁科は会議室に研究者を集め、ニ号研究の中止を決議した。

5月末、派遣将校の鈴木辰三郎(航空本部との連絡をしていた)に口頭で「もうウラン爆弾はできない、この状態では無理である」と伝えた。

鈴木はただちに航空本部に戻り、それを陸軍大臣に伝える手続きをとった。しかし、この情報は石川町の採掘現場に伝わらず、石川町の生徒たちは玉音放送の日まで作業を続けた。担当の第8陸軍技術研究所の山本洋一少佐は、のちになって「気の毒なことだった」と何度も繰り返したという[9]。

熱拡散分離塔の焼失以後、研究者の間に悲観論が徐々に広がりつつある中、鈴木は最後まで研究の継続を強硬に主張していた[1]。

飯盛里安の手記「終戦の日の証言」[注 12]には「当時石川町の選鉱場に残存したアマン百数十トン、モナズ石粉末[注 13]十数トンを地下に埋めたり川に流したりした」と書いている。これが原因で、数億円相当のウラン鉱石が埋まっているという噂が広がり、1955年ころ山師が町役場に採掘許可を求めて危うく発掘されそうになる騒動があったと伝えられている。理研飯盛研究室助手で理研希元素工業扶桑第806工場長の畑晋(はたすすむ)は私信の中に「…GHQからウラン関係の原材料・製品は没収された」と書いている。

理研希元素工業総務部長の新津甚一は手記「南から北へ八十年」の中に「占領軍の技術将校をふくむ数人がジープで工場にやってきたが、驚いたことにわが社がもっていた原鉱石の種類や数量をおよそ正確に知っていた。スパイがしらべたのではないかという話もでたが、東京で予め調べてきたのかも知れない。何れにせよ、現状のままにして管理するよう命ぜられた」と書いている[9]。

ニ号研究・F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、前記の通り戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹(F研究)も含まれていた[36][27]。

ニ号研究に投入された研究費は、当時の金額で約2000万円であった。ちなみに、アメリカのマンハッタン計画には、約12万人の科学者・技術者と約22億ドル(約103億4千万円、当時の1ドル=4.7円)が投入されている[22]。

海外の主張

中国政府の公式ウエブサイトによると、中国は、日本は1939年から1940年の間に日本で核兵器を製造したと主張している。また、ロシア政府系通信社スプートニクは、日本が1945年8月12日に北朝鮮の咸興沖で核弾頭のサンプルを爆破させたと主張している。北朝鮮の労働新聞も、日本が咸興の興南沖水域で核爆発実験を実施したことについて触れている。

中国政府

中華人民共和国国土資源部中国地質調査局公式サイトの『ずたずたになった山河、ちりぢりにされた金――歴史資料から見た地質分野における日中戦争』と題されたページに、2015年9月6日付けで、「1939年から1940年、日本は中国の遼寧省鞍山市海城地区でウラン鉱を発見し、その後日本で核兵器を製造して実験を進め、ウラン鉱の盗掘と東京への空輸を始めた。」ということを掲載している。[41]

この記事に関連した日本側の記録として、ニ号研究用ウラン資源の一部として「満州国海城県 (現・遼寧省鞍山市) ユークセン石若干」の記述がある[42]。このユークセン石は、当時、日本国内と極東地域を含めて初産であった。分析と同定は東京帝国大学木村健二郎研究室で行われた。分析の結果ウランの含有量は4.53%であった[43]。ただし、公表されている理研希元素工業の各工場の工程には「ユークセン石からのウランの抽出」は含まれていない。

詳細は「飯盛武夫#希元素製品の製造工程の確立」を参照

理研飯盛研究室嘱託の長島乙吉が当地で採取したとされるユークセン石の標本が中津川市鉱物博物館に所蔵されている[44]。

ロシア政府系通信社スプートニク

ロシア政府系通信社スプートニクは、2013年6月13日付けで、『ソ連が米国を日本の核攻撃から救った』と題して、1945年8月12日、日本軍は小型の船艇に核弾頭を載せ、咸興(ハムフン)沖で爆破すると直径1kmの火球が天空に燃え、巨大なキノコ雲が上ったということを報じている。[45]」

日本軍が行なったとされるこの核実験は、ウィルコックスの著書[46]の冒頭に述べられている。

山崎正勝は「1,000m (原著では1,100ヤード)の火球」は広島に投下された原爆の10倍に相当し、エネルギー換算で1メガトンになり、考えられないと述べている。

山崎はウィルコックスが信頼性の低いGHQの資料を引用していると批判し、他の矛盾点も指摘している[11]。


北朝鮮の労働新聞

朝鮮民主主義人民共和国の指導政党である朝鮮労働党中央委員会の機関紙「労働新聞」は、2018年2月9日付の『U.S. Is Chief Culprit of Nuclear Proliferation』(米国は核兵器拡散の主犯)の題する記事に、「日本は、敗戦直前まで咸興の興南沖水域で核爆発実験を実施して捨てばちの努力をした、将来核犯罪を犯す予備軍である。」ということを記している[47]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E9%96%8B%E7%99%BA

要するに

田中英道「日本の原爆は8月12日北朝鮮で成功していた?」

はロシア政府系通信社スプートニクが流したデマを本当だと思ってしまったというだけの事ですね。

23. 中川隆[-12464] koaQ7Jey 2019年2月04日 10:25:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

日本は原子爆弾は完成できたか? 仁科芳雄と「二号研究」
http://www.asyura2.com/0406/senkyo5/msg/583.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 9 月 17 日 20:09:53:akCNZ5gcyRMTo

仁科芳雄 理化学研究所 「二号研究」で検索すると沢山出てきます。

仁科博士がサイクロトロンを開発した様に当時の日本の原子核研究が最先端にあったことは事実ですが、「原爆製造」という技術と直結すると考えるのは早計ですが、「天皇陛下の命」に逆らって?原爆研究は進められていたようです。

堀栄三氏の『大本営参謀の情報戦記』によれば昭和18年東条首相の肝いりで始まったとありますが、『御進講』申し上げるほどの成果が上がったかは疑問です。

仁科芳雄博士とは?
http://www.nishina-mf.or.jp/nishina-bio.htm

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http://www.ii-okinawa.ne.jp/people/ume/Atomic_Reaction_1_0307.htm

広島、長崎を教訓に生まれた核兵器の不拡散体制が崩れ始めた。核保有国は8カ国に増え 、北朝鮮の核保有宣言も飛び出した。核拡散の流れを日米関係を軸に探った。


現代史の重要な瞬間を記録する一つの手紙が埼玉県和光市の理化学研究所記念資料室に展示されている。

手紙を書いたのは日本が一度だけ真剣に原爆開発に取り組んだ「二」号研究の責任者に仁科芳雄(1890−1951)。

45年。8月7日夜、前日広島に投下された「新型爆弾」の実地調査に出向くよう命じられ、同僚に残しまたものだ。

「我々『二』号研究の関係者は文字通り腹を切るときが来た」(米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を出したという)核の恐ろしさを伝えている。

連合国、枢軸国双方で進んだ原爆開発に携わった科学者の中で最初に、その威力を目のあたりにした仁科記念財団(東京都文京区)に残る恩師の原子物理学者ニールス・ポアーに当てた書簡は「核エネルギーの有効な国際管理」を訴えている。

世界政府機構にもひかれた仁科は初代の日本ユネスコ協力会連盟会長にも就任。各時代を到来させた「責任の一端」を持つ「科学者の罪滅ぼし」を胸に、49年には日本学術会議総会で核の国際管理を目指す声明を採択も実現させた。

オッペンハイマーら米国の核科学者らも国際管理を唱えた。原爆に関与した世界最高の頭脳が到達した同じ結論だった。

この科学者らの「核の国際管理」は曲折を経て戦後の核不拡散体制の土台となり、68年の核拡散防止条約(NPT)制定につながった。

しかし仁科が「二つまたは二つ以上に」増えてならないと願った核保有国は今や五代国に加えインド、パキスタン、イスラエルと増え続けた。日本の核武装も唱えられ「北朝鮮、中国の抑止力」として核保有を促す米専門家も登場した。

二号研究でウラン濃縮を担当した仁科記念財団常務理事の中根良平は「仁科先生は戦争中には原爆はできないとわかっていた。特攻隊が出撃する中、苦しかったと思う」と振り返る。「科学者がもたらした悲惨な結果にショックを受けた。だから絶対に戦争をやっては駄目だなとなった」と言う。

だが、仁科は米ソ対立で核の国際管理が一向に達成されないことに悩む。病死する3年前の48年には対談で「望んでいる逆の方向に進んでいる」とも漏らした。(2003.7.29)


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http://www.lookthai.com/jp/news/nwabomb.HTM

日本の第二次大戦中、原子爆弾作成計画

大戦中、日本が原子爆弾を作っていた証拠

第二次世界大戦が終わりのころドイツ潜水艦NAZIが捕獲されニュウハンプシャ州のポーツマスに着いた。

このとき潜水艦に積まれていた荷物の正式発表はなかった。
この潜水艦の目的は当時極秘にされていた。後に発表されたが潜水艦は原子爆弾を作る原料となるウラニウム酸化物を日本へ向けて運んでいたのだ。潜水艦には日本人将校2名が同行していた。しかしポーツマスへ連行される間に自決してしまった。

それから2ヶ月後、最初の原子爆弾がニューメキシコの砂漠で大音響とともに完成した。これが日本の2つの都市に落す原子爆弾のもとである。

このとき日本もまた自国の原子爆弾を作るべく動いていた。この爆弾のことは誰も知らされず公表もされていなかった。
しかしその証拠は残っている。

アドルフ ヒットラーが自殺した後まもない1945年5月19日に北大西洋で捕らえられたドイツ潜水艦のウラニウムである。


証拠資料の公開

今その資料が極秘事項からはずされ詳細が明らかになっている。資料によれば10箱に入った560Kgのウラニウム酸化物が日本軍に送られる予定だった。

「ドイツは崩壊した。彼らは多量のウラニウムを保管していた。彼らの中の何人かがウラニウムを日本へ持って行くことを考えていたのだ。」、カリフォルニア大学の物理名誉教授ハーバートヨーク氏は語っている。

ドイツのテレビ局Zeit−TVは自決し、水葬された日本人将校について当時の船員にインタビューしている。

「日本人将校は自決する権利を強く主張していた。多分秘密を守るためだろう。」と彼らは言う。

押収されたウラニウムはテネシー州のオークリッジに送られた。そしてアメリカの原子爆弾プロジェクトマンハッタン計画に使われと思われる。

「これらのウラニウムの一部が1945年8月6日広島の落とされた原子爆弾であった可能性もあるかもしれない。」とUSエネルギー.デパートメントのスキップゴスリングは言う。しかし1945年8月9日に長崎に落とされた原爆は
ウラニウムでなくプルトニウムをもとに作られている。


日本は原子爆弾は完成できたか?

当時日本が新型爆弾を作ろうと苦心していた事実はもうすでに知られていた。しかしどこまで完成していたかは不明のままである。

また日本に原爆投下を決めたトルーマン大統領が日本の新型爆弾計画について知っていたかどうかもまた不明である。

マンハッタン計画に参加した物理学者たちは、日本の原子爆弾作成プログラムについて戦争が終わるまで知らなかったとインタビューで答えている。

「誰も知らなかったと思う。」とヨーク氏はサンディエゴで答えている。

「日本が何か計画をしているとは考えてもいなかった。私たちが憂慮していたのはドイツ方だった。」

日本が新爆弾を計画していることがトルーマンに原爆投下の決断をさせてしまったのだろうか?

「もし明らかな証拠があったとしても、それは爆弾を使ったことの非難を和らげようとしてやっていることだ。」

原爆反対グループ “ロス アロマス“に30年以上働いているスティブン スタッダート氏は言う。

また同グループの研究班グレッグメロー氏は「全く見当違いもはなはだしい。」とこの話しを非難している。

広島への原爆の死傷者は約13万人、長崎では7万5千人が死傷している。このときアメリカ軍の上層部では日本へ上陸した場合、約200万の命が失われるだろうと予測していた。

メロー氏は日本の原子爆弾は恐怖を感じさせるほど進んではいなかったと主張する。

しかし“日本極秘戦争“の著者ロバートウィルコックス氏は本の中で「新型爆弾について日本はドイツより進んでいたかもしれない。実際の証拠はそのことを示唆している。」と言っている。

ウィルコックス氏は言う

「我々は戦争中に日本は爆弾の開発を続けていたことを知っている。もし完成していたならば戦争は終結しなかった。我々が入手した資料ではそれを“神風“に積んで駆逐艦に特攻させるつもりだったようだ。」

1945年8月15日日本は降伏した。その後アメリカ占領軍は5つの日本製原子核破壊装置を発見している。これはウラニウムから核分裂物質を分離することが出来た。アメリカ軍はすぐに破壊し東京湾へ捨ててしまった。

ウィルコックス氏は1995年新たな極秘文書の公開をもとに彼の本を改訂した。それによれば日本は他に6つの大型分離器を作っていたと言うことだ。

ほとんどの歴史家や科学者は、日本の原子爆弾は完成にはほど遠かったと言っている。「我々は当時何百もの大分離器を持っていた。」と引退したロスアラマスの科学者ジョン ホプキンス氏は言う。

「我々は低い抵抗コイルを作るためフォートノックスからの銀の板を使って何百もの大分離器を作った。ウラニウムからU−235を取り出すため、これを24時間稼動させていた。そして4個の原子爆弾に相当するU−235を作り出すことができた。これは原子核破壊装置となるものだ。」

「当時、もし日本が十分な量のウラニウムを持っていたとしたら我々は驚いたかもしれない。しかし日本が原子爆弾の完成に近かったと言うのは全くナンセンスだ。」とホプキンス氏は言う。

日本軍の原子爆弾開発

戦争中の原子爆弾の開発はヨシオ ニシナ中心に行なわれていた。
彼は若いとき、原子についてのパイオニアであるニールボアとコペンハーゲンで一緒に働いていた。
USジャーナル サイエンスによれば彼の助手であったマサ タケウチは日記に1日当たり300ミリグラムのウラニウムを得るため何百トンものウラニウム石を処理していたことを書いていたと言うことだ。

日本の科学史の専門家テツ ヒロシゲによると日本の原子爆弾予備実験は1940年に始まったらしい。この実験はF号(No.F 「Fission-分裂 からFをもじった])と呼ばれ1942年には京都で本格的な実験になった。情報によると最初この実験に日本軍は関与していなかったらしい。

そして1978年雑誌サイエンスではこの日本の原子爆弾の実現性について全くなかったとしている。

ウィルコックス氏は「その後日本軍部が研究を引き継いでいたことが資料から判断できる。」と言っている。

この研究には日本工業界も参加し、大型の分離器を完成させた。
また日本軍はウラニウムを捜すため、およそ2500万US$を中国につぎ込んだ。

ウィルコックス氏とチャールスストーンの研究者の調べた資料によれば日本は空爆が始まると、この研究所を韓国半島に移したと言うことだ。

ポストワーの資料ではアメリカが今の北朝鮮フングナム(コナン)にある日本プラントを原子爆弾研究所として疑っていたことが判る。

US軍24師団はこのフングナムプラントの噂からここで原子爆弾の研究を行なっていたことは十分有り得ると言っている。

フングナムプラントから出される異常な廃棄物はソ連潜水艦により何ヶ月にもわたり採集されている。

戦争終了後、US軍24師団の取り調べ班の1人ダヴィッドスネル氏は日本人将校を取り調べた。

「彼らは戦争終了の3日前、フングナムのある島で日本軍が小型原子爆弾を爆発させたと述べた。」

とスネル氏は報告している。

報告によれば日本軍はソビエトが来る数時間前に不完全な爆弾を含め、そのプラントを破壊してしまったらしい。

スネル氏の報告を受けアメリカは日本政府を再調査したがその事実は発見されなかった。スネル氏は将校が述べたことをもとに話してくれた。

「B−29の京都爆撃のため研究所はフングナムへ移された。そのため日本軍の研究は3ヶ月遅延した。
もし京都爆撃が3ヶ月遅かったら日本軍は原爆を完成していただろう。」


第2次大戦について研究している明治大学の歴史教師のアキラ ヤマダはフングナムに原子爆弾の研究所があったことは疑わしいと言っている。彼はその証拠は全く発見出来ていないと言う。そこで働いていた研究者やそのことを知る将校は今の
ところ誰も名乗り出てきていない。しかしながら他の戦争兵器、化学兵器の証拠は明らかになっている。

しかし1945年4月の爆撃によりニシナ研究所が打撃を受けたことは明らかである。

それから4ヶ月後原子爆弾が広島に落とされた。サイエンス誌によれば、このときニシナは日本軍から爆弾の開発が6ヶ月で出来るかと尋ねられたと言っている。しかし広島原爆投下の数日後長崎に原爆が投下され、そして日本軍は降参した。

この爆弾で世界中の多くの人が恐怖を覚えたが、また多くの人が狂喜したのも事実だ。
西オーストラリア人がロスアラモス.ナショナル研究所のゲストブックに書いている。「広島に原爆が投下されたとき私は母や妹とジャワ当の捕虜収容所に居た。日本軍は報復として収容所の全員を船に乗せてジャワの海に沈めようとしていた。第2回目の投下で我々は助かった。ジャワ、スマトラやいたるところの捕虜収容所に罪もない女子供たちが拘留されていた。私は助かってとてもうれしかった。」

24. 中川隆[-12463] koaQ7Jey 2019年2月04日 10:31:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

消えた日本人科学者。唯一の被爆国・日本の原爆開発はなぜ頓挫したか 2016年8月18日
https://www.mag2.com/p/money/20338


日本の原爆開発の着想は1934年に遡ります。国内ではウランが手に入らないことから、北朝鮮にその供給源を求めました。このとき、南北朝鮮はまだ分断されていませんでした。

北朝鮮の核開発と日本の関係。失われた「幻の核抑止力」とは

潜在的核保有国としての日本

2014年2月3日、IWJの岩上氏が京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏(2015年3月 同実験所を定年退職)にインタビューしたとき、小出氏が、あることを語り始めました。その一部が、以下です。


「原爆を作るための技術というのは、核分裂性のウランを濃縮するというウラン濃縮という技術。それからプルトニウムを生み出すための原子炉。それから、生み出されたプルトニウムを取り出すための再処理という三つの技術」

「現在の国連常任理事国である米国、ロシア、イギリス、フランス、中国の五カ国は、その三つの技術を持っている」

「核兵器保有国5カ国のほかに、世界で1カ国だけ、この三技術を持っている国がある。それが、日本なんですね」

「核兵器保有国5ヵ国のほかに、世界で1ヵ国だけ、『ウラン濃縮技術』、『プルニウムを生成する原子炉の技術』、『プルトニウムを取り出すための再処理技術』の3つの技術を持っている国がある。それが日本」

小出氏は、このように語りました。これは核兵器を製造する技術のことでもあります。

1934年にスタートした日本の原爆開発計画

元米陸軍情報将校のデイビッド・J・ディオニシが書いた『原爆と秘密結社』には、このように書かれています。


第二次世界大戦中の日本の原爆開発についての情報は、日本ではほとんど公開されていない。

……「死の血盟団」は、連合国の占領管理当局を使って、日本の原爆開発計画の証拠を湮滅(いんめつ)した。

……日本における真実の隠蔽工作は、1945年〜1952年の連合国占領管理下で、フリーメーソンの主要メンバーであったグラス・マッカーサー元帥によって遂行された。

……日本の原爆開発計画の公式な開始時期は、1941年12月17日とされる。だが、原発の着想はそれよりさらに7年早い1934年に遡る。

……北朝鮮の興南地域に日本の原爆開発施設があったことが、なぜ日本がその地域の長津に発電所用ダムを建設したのか、また朝鮮戦争で1950年11月27日から12月13日にかけての「凍結した長津湖での戦い」で、なぜアメリカ軍が不名誉な敗北を喫したのかについて手がかりを与えてくれる。

……もし、1945年の時点で日本の原爆開発計画が広く知られていたら朝鮮はおそらく統一国家として残されていたであろう。

というのも、日本の原爆開発計画にかかわる施設の多くは、今日の北朝鮮にあたる38度線以北にあったからだ。

日本の原爆開発の主要施設をソビエト連邦へ運び出す作業は、当時、朝鮮半島を38度線で分断し、さらに1953年に38度線周辺を軍事境界線とすることによって遂行されたのである。

残念ながら、著作権の関係上、これ以上、引用することは差し控えなければなりません。北朝鮮の核開発と日本の関係の一端を読み取ってください。

北朝鮮・興南地域

日本の原爆開発の着想は1934年に遡ることになりますが、肝心の原料であるウランが国内では十分手に入らないことから、ウランが埋蔵されている北朝鮮にその供給源を求めることとなりました。

また、第二次世界大戦が始まると、アメリカが長距離戦略爆撃機B29を開発したことから、国内で原爆を開発することはリスクが大きいと判断、日本軍は朝鮮半島の38度線以北の北朝鮮の地で開発を行うことを選んだのです。

その場所は北朝鮮の「興南地域」。このときは南北朝鮮は、まだ分断されていませんでした。



原爆の開発には、大量のウランと膨大な電力を必要とします。そのため、日本は興南地域の長津という場所に発電所用ダムを建設しました。

この辺りの事情については、第二次世界大戦の秘話を得意とする作家、ロバート・ウィルコックス(Robert K. Wilcox)の著書『Japan’s Secret War』に詳述されています。

このウィルコックスは、第二次世界大戦終結後、第24戦争犯罪調査分隊とともに朝鮮半島で活動したデービッド・スネル(David Snell)と会って、驚愕の事実を聞き出すことに成功しました。


ソ連に連行された日本人科学者

デービッド・スネルは、調査の過程で、日本軍の北朝鮮・興南原爆開発施設の警備を担当した人間を含む、原爆開発計画に携わった多くの日本人を面接調査した結果、日本の何人かの原爆科学者がソ連に連行されたとの証言を得たのです。

その時、彼が書いた新聞記事がこれです。

1946年10月2日のアトランタ・コンスティテューション(Atlanta Constitution)の記事。見出しは、「日本は原爆を開発していた。ロシアは(日本の)科学者を捕虜にして連れ去った」。


https://www.mag2.com/p/money/20338/2

終戦3日前に核実験成功?

この時の模様については、『1946 Atlanta Constitution Atom Bomb Articles』に詳しく書かれています。

「日本の原爆開発計画は、アメリカのマンハッタン計画と同時期にスタートしたが、第二次世界大戦が佳境にさしかかると計画が思うように進まなくなり、約1年程度の遅れとなった」と報告されています。

この記事の大要は、こちらに翻訳されています。


日本は、終戦の3日前に原爆の核実験を成功させていた……

そして、終戦を知った興南原爆開発施設の日本の科学者たちは、すぐに原爆開発の証拠を隠滅するために施設を爆破しようとしたが、ロシア軍が踏み込んできて施設は残されたままになった……

その後、原爆開発の中心的役割を果たした日本の科学者数名がロシア軍に連行され、消息を絶った……

この記事が掲載されたのがアトランタ・コンスティテューションという小さな新聞であろうと、軍の戦争調査部の人間が書いた記事だけに、アメリカ政府の反応は素早いものでした。


南北朝鮮が38度線で分断された真の理由

翌日のAP通信は、「ジャップが原爆を開発したというレポートは信じるに足らない」という記事を出して、デービッド・スネルの報告のすべてを否定しています。ワシントンとして、絶対に漏れてはならない極秘情報だったのです。

日本軍が北朝鮮で原爆を開発していたことは、元米軍の情報将校、デイビッド・J・ディオニシ氏が簡潔にまとめており、それを日本側の協力者が日本語に翻訳したpdfファイルがアップされています。(第二次世界大戦秘史「日本の原爆計画」)

日本の敗戦後、情報漏えいを防ぐため、興南地区はただちに北朝鮮とソ連の厳しい監視下におかれたため、この地区を偵察に来ていたB29をソ連軍が撃墜するという事件が起きました。

戦後すぐに南北朝鮮が分断され、1948年には、正式に北緯38度線付近に軍事境界線が引かれたのは、実は、日本軍の原爆開発の痕跡を知られないようにするための隠蔽工作だったのです。

興南地区の日本の原爆開発施設は北緯38度線以北に位置しています。この分割によって、1950年、朝鮮戦争が勃発し、ソ連は悠々と日本の核開発施設を接収することができたのです。

アメリカの狙い

なぜ、アメリカは、北緯38度線で朝鮮半島を南北に分断し、あたかも日本の原爆技術と核施設をソ連に引き渡すかのような“お膳立て”をしたのでしょう。

世界は、それぞれの国家によって動かされているのではなく、国境、文化、民族、経済のすべてにわたって横断的に跨っている国際的な金融勢力と国際的な秘密結社カルテルによって動かされているのです。

だから、アメリカは自国を滅亡させることをやり続けているのです。「彼ら」にとって、アメリカは仮の住まいに過ぎないのです。

戦前の旧日本軍は、国際的秘密結社の研究にかなりの力を入れていました。

しかし、今では、秘密結社のカルテルによる証拠の隠滅とプロパガンダ、ディスインフォメーション、そして誤った学問と教育によって、忘却の彼方に押しやられ、それどころか口に出すことさえタブーとされています。

もちろん、日本の国会議員の何人かは、ちゃんと知っています。

しかし、国会でそれを口に出したとたん、変人のレッテルを貼られて議会から永遠に排除されてしまうのです。

第三次世界大戦の発火点「中東」と「東アジア」に仕掛けられた罠

国際的な金融勢力と国際的な秘密結社カルテルは、世界完全支配の最終章に取り掛かっています。

その形は、米ソ東西冷戦時代の高層大気圏での核実験によって、すでに鮮明に描き出されています。

第二次世界大戦の戦勝国だけが核保有の権利を有し、国連の安全保障理事会の常任理事国に居座りながら、実は平和・安全とはほど遠い核戦争を引き起こそうとしていることから、世界中の人々は、こうした連中が平和を望んでいないということに気が付かなければならないのです。

どうやら信じたくないことなのですが、第三次世界大戦が迫っています。

「彼ら」は、世界政府の樹立には世界大戦を引き起こして地球上のすべての秩序を完全に破壊しなければならないと考えています。それがハルマゲドンです。

発火点は、「中東」と「東アジア」、このふたつのポイントです。

「中東」には、イスラエルというシオニストの領土を組み込みました。イスラエルの憲法では国境が定められていません。それは国家ではなく拡張主義の領土に過ぎないのです。

支配層は、イスラエルとイランが戦争するように仕向けようとしています。

一方、「東アジア」に仕込まれた火種は、北朝鮮の核の問題と日韓問題です。そして、最終的には中国を誘い込んで大戦に引き起こそうとしています。

ウィリアムズ・ハワード・タフトとディーン・ラスクによって、竹島問題という後々、日韓の怨念渦巻く確執の元になった領土問題が埋め込まれたことは、「ラスク書簡」に記されていることです。

北朝鮮の金王朝は、東アジアで対戦が勃発するその日のために存続を許されているに過ぎないのです。

中国の反日教育は江沢民の時代から始まりました。江沢民は、13億とも14億とも言われる中国国民の中国共産党への不満をかわすために「反日」を利用したのです。



江沢民は、俗称「ミサイル財団」と言われているヘリテージ財団とつながりを持っています。石原員太郎は、悲しいかな、ヘリテージ財団に乗せられて尖閣問題を複雑化したもっとも愚かな政治家の一人として後世に名を残すでしょう。

このことは「北朝鮮の核爆弾と秘密結社、そして沖縄の核ミサイル基地」で、すでに詳しく書いています。

さて、国際金融勢力と国際秘密結社カルテルは、世界統治の最終段階として第三次世界大戦を引き起こす計画を着々と進めています。

それは「中東」と「東アジア」で予定されているようですが、これらは実は密接なつながりを持っています。それを、これから説明しましょう。

日本が取り上げられた「幻の核抑止力」

日本が研究用プルトニウム331トンをアメリカに返還――これほど重大な意味がある出来事にも関わらず、テレビのニュースできちんと報じたのは報道ステーションぐらいでしょうか。新聞に至っては要点のみ。

東西冷戦時代の真っただ中、1970年に「核燃料サイクルの実験用」という名目でアメリカ、イギリス、フランスが日本に貸し与えた研究用プルトニウム331トンが、やっとアメリカに返還されることになりました。

なぜ第二次世界大戦の戦勝国で、国連安保理・常任理事国のうちの「列強国」が、すぐにでも核兵器開発に転用可能な高純度・高濃縮のプルトニウムを日本に貸し与えたのかというと、表向きの理由としては、「核燃料サイクルの研究開発に必要だったから」ということになっています。

しかし、2009年、チェコのプラハで、オバマが「核なき世界」を目指すと宣言して以来、粛々と核軍縮と核不拡散を進めてきたアメリカとしては、日本に返還を要求するのは当然の成り行きです。

アメリカ側は、2010年にワシントンで第1回核セキュリティー・サミットが開催されたのを機に、東海村にある日本原子力研究開発機構のプルトニウム331キロについても、日本側に返還を求めてきました。

このときすでに、日本は約44トンのプルトニウムを保有していましたが(現在は48トン)、純度が低く高速増殖炉の研究開発には使用できない、ことを理由に返還に応じませんでした。

アメリカ側は、331トンのプルトニウムの返還をさらに迫って、その代わり研究用のデータの提供を日本側に約束しましたが、それでも、日本側は返還に応じることはなかったのです。

この段階で、アメリカが日本に対して警戒感をいっそう強めたことは明らかです。日本には核武装を悲願とする勢力が隠然たる力を持っていて、いずれはヒロシマ・ナガサキの報復に出るであろう面従腹背の連中がいると疑っているのです。

核燃料サイクルは、アメリカ、イギリス、ロシアが挑戦しましたが、トラブル続きですで撤退しています。フランスが最後まで粘ったものの、これも失敗。

なぜ日本だけが、40年以上もの間、5兆円以上もの税金を投入しても1kWさえ発電できないのに、年間数百億円もかけて維持し続けているのかというと、すぐにでも核弾頭ミサイルの開発が可能であることを隣国に知らしめることによって核抑止力になると考えているからです。

しかし、3.11の大地震の後に起こった福島第一原発の事故によって、核燃料サイクルの実現は夢のまた夢となってしまったのです。

もんじゅや六ヶ所村再処理施設の稼働が絶望的となった今、「核燃料サイクルの研究用に必要である」という方便は通用しなくなってしまったのです。



アメリカが、331トンの核兵器転用可能の高純度プルトニウムを引き上げることによって、日本の「幻の核抑止力」は失われることになり、隣国や北の核の脅威に対しては丸腰状態になってしまうのです――<後略>

https://www.mag2.com/p/money/20338

25. 中川隆[-12462] koaQ7Jey 2019年2月04日 10:40:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

1945年8月12日の"genzai bakudan" 2017年01月04日
https://seesaawiki.jp/atomicage/d/Genzai%20Bakudan

1946年10月2日付のAtlanta Constitutionに、

「日本は敗戦前に原爆を開発しており、1945年8月12日に、朝鮮興南沖の小島で原爆実験に成功していた」

という記事が掲載された。

根拠は帝国軍憲兵将校からの伝聞、現地はソ連占領地域で直接調べようもないという怪しいもの。米軍はこの記事を一蹴し、APも否定記事を出した。

このネタは与太以上のものではないが、記事を書いた記者が語るように、この記事はネタ的には「米国による原爆投下の決断を疑問視するモラリストたちへの回答」となるものである。そのためか、21世紀に入っても、Military Channelが取り上げるなど、ときおり話題となっている。


Genzai Bakudan Scene - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=7dJPJ2UepOI

2015/08/01 にアップロード
Detonation scene from Military Channel's "Japan's Atomic Bomb"

___

1946年10月2日 Atlanta Constitution報道


1946年10月2日に、いかにもそれっぽいが、根拠が伝聞1個という怪しい記事が、Atlanta Constitutionに掲載された。

[ David Snell: "Japan Developed Atom Bomb; Russia Grabbed Scientists" (1946/10/02) on the Atlanta Constitution ] (archive)
日本は原爆を開発していた。ロシアが科学者たちを捕縛した。
Actual Test Was Success (原爆実験は成功した)

終戦3日前に、日本は原爆を開発し、実験に成功した。

ソ連陸軍先遣隊が朝鮮に突入する数時間前に、日本は朝鮮にあった原爆プロジェクト拠点で、未完成の原爆と機密文書と原爆プロジェクトを破棄した。

原爆を開発した日本の科学者たちはソ連の捕虜として、モスクワにいる。彼らは、原爆のノウハウを求める捕縛者たちから拷問を受けた。

朝鮮地域はソ連軍の厳格な支配下にある。ソ連軍は、この地域への米国人の訪問を禁じている。戦後、一度、米国のB-29スーパーフォートレスが朝鮮へ飛行中に、Hammung空港近くで、ソ連軍のYak戦闘機4機に撃墜された。

この情報を私は、日本敗戦前に興南プロジェクト(Konan Project)の防諜の任にあったという日本軍将校から得た。彼は日本の原爆プロジェクトの名称と日付と事実と図面を私に手渡した。これを私はソウルの米国陸軍情報部に送った。米国陸軍省はこの情報の大半を保持している。私に情報を提供した人物を保護、及び陸軍からの要請により、彼を偽名、Tsetusuo Wakabayashi大尉と呼ぶことにする。

この情報は、米国の核兵器独占は長くは続かないだろうというスターリンの最近の演説に光を投げかけるかもしれない。おそらく、Henry A. Wallaceのとった立場を説明することになるかもしれない。また、おそらく、連合国が裕仁を傀儡君主として存続させることに同意するという、我々の提示した降伏条件の受入に日本が急に躊躇したという、これまで説明がつかなかった事態の説明になるかもしれない。そして、おそらく、我が軍のB-29を1945年8月29日に興南(Hungnam)地域でソ連が撃墜した事件にも、新たな光を投げかけることになるかもしれない。

この情報を得たのは、私が朝鮮で活動していた第24刑事捜査部(Criminal Investigation Department)の一員だったときだった。私はWakabayashi大尉に、捜査員あるいは陸軍軍人としてだけではなく、報道記者としてインタビューすることができた。彼は自分が話したことが公表されることを知らされ、十分に理解していた。

彼は引揚者として日本に向かう途上で、ソウルに滞在していた。インタビューは朝鮮の首都を見下ろす丘の上の神社だった場所で行った。この神社は故郷へ還る日本人のためのホテルに転用されていた。

日本に対する戦勝後、朝鮮半島北部の沿岸都市興南近くの広大な山岳地帯で、終戦間際の数か月に動いていた、巨大で謎に包まれた工業プロジェクトの存在についての情報の断片が、米国軍情報部の手に流れ着いた。

この興南での活動についての最も完全な証言が米国の耳に届いたのは、この話題について日本が沈黙して以後、初のことではないかと思われる。

興南近くの山の洞窟で、男たちが昼夜なく働き、日本の原爆の名称である"genzai bakudan"の最終組み立てを行った。それは日本時間1945年8月10日で、広島で原爆の閃光が放たれてから、わずか4日後、日本の降伏の5日前のことだった。

その北では、ソ連の大軍が満洲へと雪崩れ込んでいた。

その日の深夜過ぎに、洞窟の入り口から日本のトラック輸送隊が移動し、用心深い歩哨たちの側を通過した。トラックは渓谷を進み、寝静まった農村を通過した。8月で、棚田の泥の中の蛙が夜中も鳴いていた。まだ涼しい夜明け前に、日本の科学者たちと技術者たちは、興南で"genzai bakudan"を船に搭載した。

日本海の入り江近くの沖合で、より必死な準備が進められた。その日の昼と夜を通して、老朽船やガラクタや漁船が停泊地の中へと移動した。

8月12日の夜明け前、停泊地の船をぬって、エンジン音を立てて、ロボットが発信し、入り江で座礁した。乗客は"genzai bakudan"である。そして、時計が時を刻んだ。

20マイル彼方に観測者たちがいた。休みなく働き、その仕事がまったく手遅れであることを知っていた男たちにとって、その待ち時間は困難で、奇妙なものだった。

OBSERVORS BLINDED BY FLASH (閃光で眼が眩む観測者たち)

日本がある方向の東の空が明るくなった。太陽が水平線から顔を出した瞬間、停泊地は閃光に照らされ、溶接用の遮光面をつけた観測者たちの眼が眩んだ。火球は直径推定1000ヤードの大きさになった。極彩色の上記の雲が上空へを湧き上がり、成層圏にキノコ雲を形成した。

爆発直下の船は、水と上記の混合物に包まれて、見えなくなった。停泊地で、船やガラクタが激しく燃え上がった。大気が少し澄みはじめると、観測者たちは幾つかの船が消滅したことを確認できた。

その瞬間の"genzai bakudan"は、東から昇る太陽の輝きに匹敵していた。広島と長崎を破壊したのと同じく恐るべき原爆の実験に日本は成功した。

時間はあまり残されていなかった。戦争はクライマックスへとなだれこんでいた。米軍の日本上陸に対抗して投下するために神風に原爆を搭載する前に、ソ連軍先遣隊が興南へと到達するだろう。

それは難しい決断だった。しかし、決断は為された。

観測者たちは急いで水上を興南へと戻った。ソ連軍先遣隊が数時間先に迫っており、神々の黄昏の最後のシーンが始まった。科学者たちと技術者たちは機械を壊し、組み立て途中の"genzai bakudan"を破壊した。

ソ連軍列が興南に到達する前に、洞窟はダイナマイトで封鎖された。しかし、ソ連軍はあまりに早く到達し、科学者たちは逃げ切れなかった。

これが、Wakabayashi大尉が私に語った話である。

日本が原爆製造の努力を始めたのは1938年、ドイツと日本の科学者が会って、原子の中に秘められたエネルギーの軍事利用についての論じたときからだった。このとき、技術情報は好感されず、理論だけが論じられた。

1940年に、東京の理化学研究所の仁科研究室で、世界でも最大級のサイクロトロンが建設された。(米軍が東京で発見したサイクロトロンは破壊された。)

THOUGHT ATOMIC BOMB RISKY (原爆はリスキーだと考えた)

戦争初期に科学者たちは原子理論の研究を続けていたが、米国が日本との戦争を始めるまで、科学者たちは日本政府に対して、本格的な原子力プロジェクトに関心を持たせることはできなかった。従来、日本政府はそのような冒険は、あまりにリスキーで高くつくと考えていた。真珠湾に続く数年、日本の軍国主義者は核兵器を使うことなく、米国を屈服させられると考えていた。

機動部隊と侵攻軍先鋒による戦線が日本本土に近づくと、日本海軍は水陸両用作戦に対する防衛手段として原子爆弾の製造に着手した。原爆は神風攻撃により連合軍艦船に対して投下されることになっていた。

Wakabayashi大尉は原爆による完全破壊領域を1平方マイルと推定していた。

プロジェクトは名古屋で始まったが、B-29による日本本土の工業都市への攻撃が始まると、朝鮮への移動をよぎなくされた。

「私はB-29こそが日本を打倒したと考えている。B-29により、朝鮮へプロジェクトを移動せざるを得なくなった。これにより3か月を浪費した。B-29の爆撃がなければ、3か月早く"genzai bakudan"を完成できた」とWakabayashi大尉は述べた。

朝鮮でのプロジェクトには約4万人の日本人作業者が配属された。うち約25000人が訓練された技術者及び科学者だった。プラントの組織は、作業者たちの行動範囲を自分の部署に限っていた。プラントの聖域は洞窟深くに合った。ここでは400名の専門家が働いていた。

KEPT IN DARK ON EACH OTHER’S WORK (互いに秘密になっていた)

1人の科学者がプロジェクト全体の総責任者だった。他の6人は、著名な日本の科学者で、原爆製造の6つの工程を受け持ってた。これらの6人は、他の5人の仕事の内容について知らされていなかった。(これらの科学者の名前は米軍の検閲に該当する。)

ソ連は7人のキーマンを含む、最も訓練された捕虜の大半を確保した。7人のうち1人が1946年6月に脱出し、朝鮮半島の米軍占領地域に逃げ込んだ。米軍情報部はこの男を尋問した。Wakabayashi大尉はこの男とソウルで話した。その科学者はソ連人から拷問を受けたと証言した。彼は7人全員が拷問を受けたと証言した。

「ソ連人たちは燃える破片を科学者たちの指先に突っ込んだ。鼻腔に水を注いだ。我が日本の科学者たちは、機密をソ連人に漏らす前に死んでしまうだろう」と彼は述べた。

Wakabayashi大尉はソ連人が、興南地区を精力的に調査していると述べた。

戦争賠償委員会のEdwin Pauleyが朝鮮半島北部を調査したとき、特定の地域しか見ることを許されず、それも厳格なソ連軍の監督のもとだった。

1945年8月29日、米軍のB-29が、連合国捕虜収容所に投下する食糧と医療品の貨物を搭載して、興南地区に向かっていた。近くのHammung空港から飛び立った4機のソ連軍Yak戦闘機がB-29を取り囲み、Hammungに着陸するように信号を出した。

PILOT REFUSES; REDS FIRE (パイロットは拒否し、ソ連軍機は攻撃した)

パイロットである、ケンタッキー州AshlandのJose H. Queen中尉は空港が小さいことを理由に拒否し、「ソ連軍と事を構えたとき」にSaipon基地へと帰還しようと回頭した。海外から10マイル沖合で、Yak戦闘機は攻撃を開始し、B-29を撃墜した。12人の乗員に怪我はなかった。ソ連軍機一機が通信士Douglas Arthurを機銃掃射したが、はずした。

ソ連人が後にQueen中尉に、「ドイツ軍がときどき米軍のマークをつけていたので、日本軍もそうするのかと思い、米軍のマークが見えたが、確信が持てなかったのだ」と告げた。

Wakabayashi大尉は「日本の防諜部隊は少なくとも、広島原爆投下の1年前には、米国東部山脈に巨大で謎めいたプロジェクトがあることに気づいていた(おそらく、テネシー州Oak Ridgeのマンハッタンプロジェクト)。そこで原爆が製造されていると考えていたが、確信は持てなかった。」と述べた。

「一方、連合国情報部は興南の原爆プロジェクトについて知っていたはずだ。というのは、長期計画だった日本海軍の核実験のわずか6日前に広島に原爆を投下したからだ。」と述べた。

おそらく、ここに、米国による原爆投下の決断を疑問視するモラリストたちへの回答があるだろう。

日本人の事務所で、通訳と私は香り立つ緑茶をすすり、Wakabayashi大尉は、偉大な、そしておそらく世界を揺るがす話を繰り広げた。彼の眼は黒縁眼鏡の奥で誇りを持って輝いていた。インタビューが終ると、彼は我々をドアへと案内し、深々とお辞儀をした。

原爆投下の倫理的問題と、ソ連による核武装(実験成功は1949年)への恐怖がただよう米国1946年の記事である。執筆したのはDavid Snellという軍人で記者という人物で、特に与太記事の評判があるわけではないらしい。
[ 1946 Atlanta Constitution Atom Bomb Articles ]
記者: David Snell

日本の原爆実験成功を伝える記事の執筆者であるDavid Snellは、1945年に米国陸軍に入隊したとき、Atlanta Constitutionの報道記者だった。

ルイジアナ州Minden生まれのSnellは、米国陸軍入隊の直前に、MariettaにあるAtlanta Constitutionの報道局に配属された。陸軍入隊中に、Snellは米国内での訓練中も、朝鮮占領軍として赴任中も、多くの記事をAtlanta Constitutionに掲載した。朝鮮からの記事のひとつが、「米国司教協議会を代表して、布教活動再開のために教会の状況を視察して、中国・日本・朝鮮を歴訪した」AtlantaqのArthur J. Moore司教のインタビューだった。

朝鮮で、Snellは、米国に対する犯罪を調査する第24刑事捜査部(24th Criminal Investigation Detachment)に配属された。原爆の記事は、彼の正式任務ではなく、その一部でもなかった。

Atlanta Constitution在職中は、SnellはMariettaに住んでいた。彼の妻はアーカンソー州Augustaの旧姓Julia Williamsで、Marietta在住中に1人息子のBarryが生まれている。

1946年10月2-3日 一蹴する米軍・否定記事を配信するAP


そして、これについて、当時の米軍は一蹴:
[News to Me Groves says of Japanese Atom Bomb. Washington, Oct. 2 (UP).]
Groves少将は日本の原爆について初耳だと述べた

日本が降伏3日前に原爆実験を実行したという記事について知らされた水曜夜に、原爆マンハッタンプロジェクトの責任者であるLeslie Groves少将は「その話が真実なら、とても興味があったと思う。私にはまったく初耳だ」と述べた。

米国陸軍省当局は、刑事捜査部の任を終えて最近帰国した著者が情報を朝鮮ソウルの米国陸軍情報部の渡したというAtlanta Constitutionの記事について、コメントを辞退した。

Massachusetts Institute of Technology学長のDr. Carl T. Comptonは昨年、連邦上院委員会で「日本は原爆を開発しようとしたが、2つの理由で失敗した。ひとつは日本の物理学者たちが誤った結論に到達していたこと。もう一つはB-29の爆撃で、実験が行われていた施設が破壊されたことだ」と証言していた。

米軍が日本降伏後に日本に進駐したとき、サイクロトロン(実験室で使われたatomic splitting device)を発見して、破壊した。

原爆開発に関係した多くの軍専門家たちは、米英加のチームを除いて、原爆開発競争で最も進んでいたのはドイツだと主張している。

帝国の軍事的崩壊前に、ドイツの科学者の研究がかなり進展していたことが知られている。実際、ドイツを逃れた非ナチスの科学者が、ニューメキシコでの最初の原爆製造に到達した研究に、貴重な知識を寄与していることが記録されている。
翌日にAPが否定記事を配信する。


原爆を開発し、終戦三日前に実験に成功した日本の科学者たちが、モスクワでソ連の捕虜となっているとAtlanta Constitutionが自社記事で木曜日(1946/10/02)に述べた。

元Atlanta Constitutionの記者で、ソウルで活動している第24犯罪捜査部隊の軍務から最近、帰国した、その記事の執筆者David Snellは、ソ連人たちが「原爆のノウハウ」を手に入れようとして科学者たちに圧力をかけたと述べた。

Snellはこの話を、朝鮮興南にあった日本の原爆開発拠点の防諜部隊長と称する日本人将校から聞いた。この将校は、ソ連軍侵攻の数時間前に、機械と秘密文書と部分的に完成していた原爆を破壊したと述べたと、Snellは書いている。

「全くの嘘だ」という烙印

東京では米国陸軍情報将校が木曜日に、米日の科学者たちとともに、Snellの証言を嘲った。

「まったくの嘘だ」と日本の最も注目される核物理学者Dr. Yoshino Nishinaはコメントした。

「まずありえない」と東京の米国陸軍情報将校は素っ気なくコメントした。

日本の軍事専門家であるDr. Nishinaは「常に嘘をついており、根拠なくものを言っている。そのような実験は朝鮮では行われていない。ただし、興南には化学肥料工場があった」と付け加えた。

マンハッタン計画を率いたLeslie Groves少将は「話が本当なら、彼は非常に興味を惹かれたことだろう」との見方を示した。しかし、サンフランシスコではPatterson陸軍長官は日本の原爆の爆発報道は真実ではないことを保証した。彼は終戦三日前に日本が原爆実験を行ったという報道を否定した。

"Genzai Bakudan"と呼ばれた

しかし、米軍が日本に入った時、実験室で使われていた原子分離装置であるサイクロトロンを発見して、破壊したことが思い出される。

Snellは、日本の原爆開発スタッフのひとりが、6月にソ連人たちのもとから脱出し、米国情報機関の尋問を受けた件に関係していた。さらに彼自身が、偽名"Tsetusuo Wakabayashi"大尉という情報提供者から得た情報を、ソウルの米国陸軍情報部に提供したと述べた。

しかし、米国陸軍省は「日本の原爆についての得た情報は、ほぼすべてSnellによるものだったと」と真偽を留保した。

[ Assoviated Press 1946/10/3 ]

その後も、よみがえるGenzai Bakudan


この話は、その後、特に相手にされることなく、40年近くの時が流れる。そして、1985年にRobert K. Wilcoxの本"Japan's Secret War: Japan's Race Against Time to Build Its Own Atomic Bomb"で、新たな証拠と主張されるものとともに、とりあげられる。しかし、これも否定されて忘れ去られた。

さらに、20年後の2005年にMilitary ChannelがJapan's Atomic Bombでとりあげるが、このときに至るも、核実験成功の根拠は、David Snellのインタビュー記事のみ。

また、2004年にJoseph P. Farrellが本"Reich of the Black Sun: Nazi Secret Weapons & the Cold War Allied Legend"で、David Snellの記事を引用している。

この他、2004年5/6月号のCold War Timesに、「Genzai Bakudan (Greatest Fighter) 」というWillian J. Pellasの記述が出現している。この奇妙な訳も、その後、真に受ける人が出てきている。

韓国でも取り上げられるGenzai Bakudan


一方、韓国ではMBSが「1945/08/12 Genzai Bakudan実験成功」ネタを事実のように伝える番組を流している。米国とは違った意味で、韓国には、このようなネタの需要があるようだ。
‘이제는 말할 수 있다’


"今だから言える"
(2005/06/12)

◆ 1945년 흥남 앞바다에서 원폭 실험이 있었다?

1947년 연합군사령부 정보 보고서는 놀라운 내용이 들어있다. 1945년 8월 12일 흥남 앞바다에서 섬광과 버섯구름을 동반한 폭발이 있었으며 천 야드 정도 되는 직경의 불덩이가 하늘로 솟았다는 것이다. 섬광과 버섯구름은 바로 원폭실험의 가장 유력한 징표이고 다른 무기는 버섯구름이 불가능했기 때문에 이 보고서는 상당한 논란을 증폭시켜왔다.

8월 12일은 바로 히로시마, 나가사키에 원폭을 맞은 직후여서, 일본이 흥남의 원폭실험 때문에 항복을 늦추고 있었다는 의혹을 낳았다.

또한 일본은 원폭개발에 성공했다면 인간어뢰, 풍선폭탄, 잠수함 등에 원폭을 탑재해 가미가제식으로 미국을 공격하려는 계획을 세웠다. 첫 목표는 하와이였고, 최종 목표는 미국 본토였다.

1945年興南沖で原爆実験があった?

1947年連合軍司令部の情報レポートには、驚くべき内容が含まれていた。1945年8月12日興南沖で、閃光とキノコ雲を伴った爆発があり、1000ヤード程度の直径の火球が空に舞い上がった。閃光とキノコ雲は、まさに原爆実験の最も有力な兆候であり、他の兵器ではキノコ雲が生じえないので、このレポートには、かなりの論議を増幅させてきた。

8月12日は、広島と長崎に原爆攻撃を受けた直後なので、日本が興南の原爆実験のために降伏を遅らせていたという疑惑を生んだ。

また、日本は原爆開発に成功したら、人間魚雷、風船爆弾、潜水艦などに原爆を搭載し、神風式でアメリカを攻撃する計画を立てていた。最初の目標はハワイであり、最終的な目標は、米国本土であった。

[ MBS: 끝나지 않은 비밀 프로젝트, 일본의 원폭개발 ]
もちろん、韓国内にも、ありえないネタという報道もある。
Many modern researchers find fault with Wakabayashi's claims including Walter E. Grunden who compared the American plant at Oak Ridge, Tennessee (93 square miles with 82,000 personnel all dedicated to the production of U-235) to Hamheung, a mere 15 square miles, which at its peak probably had about 45,000 personnel, many of them ``Korean laborers, conscripted students, convicts, and prisoners of war, who were primarily involved in ``manufacturing synthetic fuel, explosives, and industrial chemicals. Grunden also claims that there were only five buildings in Hamheung that the United States was unsure of their purpose.

多くの現代研究家たちが、Wakabayashiの主張に誤りを見出している。Walter E. Grunden は、テネシー州Oak Ridgeの米国のプラント(93平方マイル、ウラン235製造を専門とする要員82000人)とHamheungを比較しており、それによれば、わずか15平方マイルで、最大要員45000人で、その多くは「朝鮮人労働者、学徒動員、囚人、捕虜」であり、主として「合成燃料や爆薬や工業化学製品の製造」に従事していた。Grundenは、米国が用途を特定できなかったHamheungの建屋はわずか5つだったと主張している。 ...
Gruden asserted that stories such as this, once they have become historical myths are almost impossible to dispel and suggested that the allegations of Japan's testing of the bomb in Hamheung was, as Snell had concluded, ``…the answer to moralists who question the decision of the United States to drop an atomic bomb.''

Grudenは、このようなストーリーがひとたび歴史的神話になると、消すことはほぼ不可能だと主張した。そして、Hamheungでの日本の原爆実験があったという嫌疑は、Snellが結論したように「米国による原爆投下の決断を疑問視するモラリストたちへの回答」だと示唆した。

[ Robert Neff:"Japan Tested Atomic Bomb in NK Before End of WWII?" (2009/12/04) on Korean Times ]
それでも、ググってみると、それなり韓国では、1945年8月12日明け方に興南沖で原爆実験が成功したと信じている人がいるようだ。

Genzai bakudan実験場


日本軍による原爆実験がどこで行われたか、場所を特定した主張はない。
北朝鮮Yonghung湾内の小島のどれかということになっている。

Genzai bakuanが登場するフィクション


"Genzai bakudan"の開発製造場所も実験場所も、現在は北朝鮮領内であり、現地確認のしようがない。そのあたりが、フィクションとして使い勝手が良いのかわからないが、Genzai Bakudanが登場するフィクションがいくつかある。

•Nadalia Bagratuni: "Death by Chocolate", Club Lighthouse Publishing, 2007 (Fiction),Page 1939
David Snell記者の記事の引用
•Arthur Cantrell: "Flight of the Valkyrie", Xlibris Corporation, 2013 (fiction), [[Page 265
第2次世界大戦を舞台とするフィクションの一場面に、"Genzai bakudan"が搬出される描写がある。
•Bob Mayer: "The Gate -- Shadow Warriors", Cool Gus Publishing, 2015 (fiction)
1945年に日本が核開発に成功していたら...というGenzai Bakudanを基軸とするフィクション。
•Michael J English: "Not Forgotten", Trafford Publishing, 2002 (Fiction), Page 68
太平戦争直後あたりから始まるフィクション。1945年8月に日本が核実験を行ったことが知られている世界。
•Gary Naiman: "The Tenth Avatar", Fideli Publishing, 2004 (fiction), Page 472

•Bob Mayer: "The Gate" (2015) Fiction
•Charles E. Feldmann: "Pharaoh’S Daughter: The Solomon Secret, Book 2" (2016) Fiction

https://seesaawiki.jp/atomicage/d/Genzai%20Bakudan



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Japan's A-Bomb project
https://sites.google.com/site/naziabomb/home/japan-s-a-bomb-project


Japan's Atomic Bomb research project began quite independently of Nazi Germany's Atomic weapons project. Germany was quite unaware of Japan's efforts until an exchange of diplomatic signals from July to November 1943.[1] Undoubtedly from this time however there was a rush of technical exchanges between the Axis partners. This was hinted by Hitler's decree of September 1944 (BFHQ 219/44) requiring maximum co-operation of all German Armed Forces with Japan.

Journalist Robert K Wilcox wrote an excellect book Japan's Secret War published in 1985 backgrounding Japan's nuclear efforts. His work is amplified by Bill Striefer's excellent work Hog Wilde about a B-29 shot down over Japan's nuclear laboratory at Hungnam after Japan's surrender in 1945 by the Soviets. Striefer drew together accounts from Koreans and former Soviet servicemen plus a US report on the incident which unintentionally survived the censors. Wilcox's major contribution was his meticulous research for wartime and post war intelligence reports on Japan's efforts held in US National Archives. Wilcox also describes in some detail penetration of the wartime Manhattan Project by a Spanish spy ring at Los Alamos Laboratory and the voyage of U-234 carrying Uranium to Japan. [2]

Background

Efforts in Japan by individuals and groups of scientists to develop an Atomic Bomb began as early as 1937. Scientists formed a Colloquiem to press both the Army and the Navy for funding to develop such weapons long before Pearl Harbour in 1941.

During much of World War 2 there were two Japanese teams working in isolation to create an Atomic Bomb. In 1944 these teams were amalgamated to rationalise their efforts. This gave rise to many postwar claims that the Japanese Army's project under Yoshio Nishina was abandoned. It did infact cease, however it's efforts were resumed by a succeeding project.

The Imperial Japanese Navy (IJN) and the Imperial Japanese Army (IJA) were fierce rivals who viewed each other with contempt and suspicion. Co-operation was non-existent between these two armed forces. They duplicated everything. For example each had an air force operating aircraft which shared no engines, or components in common. Even machine guns used different calibres, so that neither branch of the military could use the other's material. Into this bizarre situation was injected an ambition by each service to out-do the other obtaining nuclear weapons.

Japan's Navy was intoxicated by it's early success in the Pacific and at first did not believe Japan would need the advantage of Atomic weapons, but reversals in the Battle of Coral Sea and the Battle of Midway began to change the Navy's thinking. The Army however showed more interest as early as 1940.

As a nation, except for one small mine at Ishikawite, Fukashima prefecture in the Home islands, Japan lacked Uranium deposits, thus relied upon finding deposits within the vast territory conquered early in 1942. Of primary importance to the Army NI Project were alluvial Monazite sands in the rivers of Burma. Monazite is composed from Phosphorous, Thorium and Uranium. Recovery of these sands was one of the driving purposes behind Japan building the railway from Thailand to Burma. At least 5,000 tons of Uranium oxide from Burma reached Tokyo early in 1943. [3]

Rival Project

Even from the very start the Japanese Navy set up a secret scientific advisory committee distinct from the Physics Colloquiem. It was from the advice of this group that the navy withdrew support for the Nishina Project in March 1943 to find a better approach.

The Navy's parallel, but stubbornly different nuclear project code named F-Go was led by Professor Bunsaku Arakatsu at Kyoto University. The Imperial Japanese Navy project is claimed to have commenced in 1943, but informally began 14 June 1941 with Arakatsu building his cyclotron at Kyoto University. Cyclotrons were particle accelerators used to bombard atoms. With these devices aspects of nuclear reactions could be tested and measured on a laboratory scale laying the theoretical groundwork for nuclear weapons.

The F-Go project differed from the Army's NI-Go Project especially in their approach to Uranium enrichment. F-Go emphasised development of gaseous Uranium centrifuges. Little detail of the navy project has ever been declassified. Much of what we know today comes from Arakatsu's disclosures in interviews for post war Magazine articles. This itself was after many years of silence imposed by strict Allied post war censorship.

On 15 October 1946 for example the New York Times published an interview by an ABC reporter who interviewed Prof Arakatsu Bunsuku. At page 4 of the article it was reported that Arakatsu claimed he was making "tremendous strides" towards making an atomic bomb and that Russia probably already had one.

By contrast, postwar the US Government laid bare details of Nishina's far less successful Thermal Diffusion Enrichment facility at Tokyo's Riken Institute with declassification of wartime archives. Archives relating to the F-Go project remained classified and now are back in the hands of Japanese authorities, who refuse to release them. One might be forgiven cynicism for suspecting an intention to conceal the Japanese Navy's much more viable F-Go project.

Nishina's NI Project

The name most frequently associated with Japan's wartime nuclear project is Nishina. Starting in 1931, Dr Yoshio Nishina created the Rikken Institute's Laboratory for Chemistry and Physics near Tokyo. In 1936 he built a 26 inch cyclotron to conduct basic nuclear research. The following year 1934, he built a bigger 60 inch cyclotron and then purchased a third cyclotron in 1938 from the University of California.

Dr Yoshio Nishina

In October 1940, Nishina was encouraged by the ultra nationalist Army officer Lt Colonel Niizuma Seiichi to prepare a report on the feasibility of nuclear weapons. Niizuma was in charge of the New Weapons Division at the Bureau of Millitary Affairs. After reading Nishina's report Lt. General Takeo Yasuda concluded building such a bomb was practical so in July of 1941, Nishina was funded by the Imperial Japanese Army to create the Nichi, or Sun Project. [4]

Much of Nishina's efforts were concentrated on developing Clusius Dickel tubes. These were large steel towers with one cylinder inside another separated by a very fine gap. Through this narrow passage a corrosive gaseous compound called Uranium hexaflouride was heated and rose through thermal convection. Near the top of this tube the radioactive isotope Uranium 235 was finely deposited and collected. [5] After the War it was revealed however, only 11 kilograms of Highly Enriched Uranium 235 was harvested this way. Not even enough for one bomb. The Rikken Institute near Tokyo where this enrichment plant was located was destroyed by B-29 bomber raids in April 1945.

Japan's search for sources of Uranium led to an exchange of encyphered diplomatic signals in 1943 requesting shipments of uranium from Germany. These MAGIC decrypts alerted the Allies to Japan's nuclear ambitions starting in July 1943.

The first signal from General Touransouke Kawashima to Japan's embassy in Berlin requesting Uranium was dated 7 July 1943. Germany responded questioning Kawashima why Japan needed Uranium? In his reply dated 24 August 1943, Kawashima who was not prepared to disclose Japan's nuclear ambitions even to his German allies, stated that Uranium was a catalyst for producing jet fuel in a secret project called Rogo Yaku. Germany however was also increasingly reliant on developing synthetic aviation fuels so asked Kawashima for more details. An exasperated Kawashima finally admitted in a signal dated 18 November 1943 that the Uranium was in actual fact required for an Atomic weapons project. These signals were also read by Allied cryptographers, who termed these signals MAGIC decrypts. In Britain the term used was ULTRA Intelligence. [6]

At first it was intended that Japanese submarines would voyage to France to collect Uranium for Nishina's project however with the sinking of I-52 in the Atlantic in July 1944, Japan was forced to rely on east bound German U-boats.

Numerous U-boats and large former Italian transport submarines voyaged to Asia with a variety of cargos including radar sets, optical glass, plans for aircraft and submarines, jet and rocket engines etc. During an interview with General Kawashima in 1983 for a Japanese television channel, he confessed that Germany successfully shipped 2 tons of Uranium oxide to Japan during the War. Given the small number of U-boats which succeeded in their passage it may also be assumed that many cargoes of Uranium were lost with their U-boats. U-219 and U-195 were the final transport U-boats to reach Djakarta in November 1944. [7] These submarines also carried between them components for twelve V-2 rockets. [8]

There is also evidence of an 800 kilogram Uranium oxide shipment intended for the return voyage of Japanese submarine I-52 waiting for collection at Lorient in July 1944 and 560kg of Uranium oxide captured in the cargo of U-234 upon this U-boat's surrender when War in Europe ended.

When B-29s destroyed the Riken on 13 April 1945, a decision was taken to amalgamate and shift all nuclear projects to Hungnam, North Korea where Geological studies for the Navy had earlier located Uranium Ores. This joint project became known as Ni-Go. Both prior and during the War, Korea was ruled by Japan as Choesul. Hungnam was known as Konan.

F-Go Navy Project

The Imperial Japanese Navy (IJN) decided to create it's own Atomic bomb project in 1943. Known informally as the Kyoto Group, IJN funded a team around the maverick scientist Prof Arakatsu with 600,000 yen in March 1943.


The Imperial Japanese Navy (IJN) project to enrich Uranium 235 was led by rear Admiral Nitta Shigeru. Nitta worked closely during early stages of the project from 1942 to 1944 on isotope separation with Sakae Shimizu . Dr. Shimuzu developed F-Go’s gaseous Uranium centrifuges.

IJN’s centrifuges were developed by a company specialised in precision ship gyros, Hokushine Electric Company with assistance from Tokyo Keiki Electric Co. These were built under contract by heavy engineering firm Sumitomo. Centrifuges were constructed from Rare earth metal alloys and spun at between 100,000 to 150,000 RPM. [9]


This was an impressive speed since even today the best centrifuges only operate at about 50,000 RPM. The measure of efficiency for any centrifuge at enriching Uranium depends upon the speed at which the centrifuge spins. It has been claimed that these centrifuges were never built, but the revolution could not be known without testing of an actual prototype machine. The biggest hurdles for any centrifuge are in creating bearings and rotor drums able to withstand the enormous forces involved. the earliest rotors used aluminium rotors, Subsequently maraging steel construction allowed even higher speeds, but the Japanese used alloys with Rare Earth metals to create exceptionally strong rotor drums. The Nazis developed carbon fibre brushes and may have shared these concepts with Japan.

Prof Arakatsu seated with Dr Kimura standing

Leading nuclear theorists for the Naval A-bomb were Professor Arakatsu Bunsuku, Dr Sugimoto Asao, Dr. Yukawa and Dr. Kobayashi. Heavy water was harvested by two heavy water plants, one in Kyushu and another at Noguchi's JNFC-Nitchitsu Fertiliser factory in Korea. Heavy water was harvested as a by-product of Amonia Production for explosives. Noguchi is now a company known by the name Shoji Kamata. Heavy water was used by F-Go in a nuclear reactor project about which there is little publicly available evidence, except post war claims by Prof. Arakatsu. [10]

It is not known whether Japan's reactor built at Kyoto worked successfully, or managed to breed any Plutonium. All wartime archives are now controlled by the Japanese Government which is under no obligation to disclose them.

An interesting point emerges however that A.H Compton's investigation report for the Manhattan Project notes that Japan made far more progress in the field of developing nuclear energy than Germany did. [11]
Uranium Acquisition


Most of the Navy’s Uranium-oxide at first was captured from the Chinese Navy’s stockpile at Shanghai and also from ceramics factories where it was used in glazes. Captured Ore was collected for Radio Chemists Dr. Sasaki Koji and Dr Okada Shinzo by Commander Iso Megumi, or his assistant Captain Mitsui Matao from naval ordinance at Kure. Uranium ore was then sent to Dr Okada. Naval liaison with scientists at Kyoto University was led by Lt. Cmdr. Kitagawa Tetsuzo. [12]

From March to May 1944 Uranium procurement for F-Go was taken over by Lt. Cmdr. Ishiwatari Miroshi. Kyoto University geologist Takubo Jitsutaro was employed by Japan Nitrogen Fertilizer Company (JNFC, also called by its Japanese name, Nitchitsu) to survey Manchuria and Korea looking for Uranium Ores.

The Imperial Japanese Navy found Uranium Ores in the hills above Konan, present day Hungnam. Ores were assayed under direction of Kyoto University’s Physicist Dr Kumura Kiichi. Commencing between 1915-1916 the Riken was set up by the Japanese Government to exploit private investment in public owned research facilities. Private companies were encouraged to back specific scientists to create specialist laboratories and in return could reap private rewards. [13]

Before the war JNFC-Nitchitsu had created a major plant to export fertiliser to the Soviet Union. This plant also had the industrial capacity meet Japan's need for nitrates used in wartime for explosives. JNFC-Nitchitsu therefore leveraged it's huge supply of industrial hydroelectric power and ability to produce Heavy Water in it's Hungnam fertiliser plant, by funding another vital wartime project.

JNFC-Nitchitsu recruited massed labourers, both Japanese, Korean and Manchurian nationals to conduct mineral sample surveys. Japanese authorities lined up thousands of Korean workers to walk, side by side, over Korean hills in search for outcrops of mineral ores which might bear radioactive elements. Even the smallest deposits were dug out, by hand if necessary. Likely findings were spirited away to JNFC-Nitchitsu for analysis. Ten significant sites bearing Fergussonite were located producing in excess of 500,000 tons of radioactive ores. These ores were shipped to Wonsan in Korea for refining to oxide and then to Konan for reduction to metal.[14] The entire project was conducted on the same scale as Manhattan's Oak Ridge facility.

F-NZ Project

In June 1944, 308,488 Yen in funding were released via the Army Aviation Bureau for development of a nuclear weapon for the purpose of aerial attack against USA. It was given the cover name for funding purposes Kokudoryoku Keikaku (Project Aeropower). This project appears to have been the founding of F-NZ. Later on 6 December 1944 a further one Million Yen were released for this project. It is this project which seems to have amalgamated with efforts by the Japanese Navy.


F-NZ, or "ENNUZETTO," was a secret joint services project led by AdmiralHasagawa Hideo. Captain Mitsui was also involved with the ultra secretive F-NZ laboratory at Konan. [15] F-NZ was said to be a joint forces amalgamation of efforts by the previous Nishina Project and the Kyoto project. It has also been associated with General Kawashima and the 8th Imperial Army Laboratory in Korea. The relationships between these organisations remains unclear.


The history of F-NZ is less clear and only came to light from the escape from North Korea of Chemical Engineer Otogoro Natsume in October 1946. This forced US Army Intelligence to re-open investigation of the Japanese Atomic bomb project. Earlier in August 1945 the OSS had parachuted into Korea just one day after the formal signing of a peace agreement aboard USS Missouri. This had led to a clash with the Manhattan Committee which wanted to keep the Japanese Atomic bomb project secret. Part of this desire appears founded on a secret agreement with the Japanese for USA to acquire all research details from Unit 731 and from Japanese nuclear projects. This was highlighted in 2002 when documents about the Japanese A-bomb project were returned to the Japanese Government, which refuses to make them public. Immediately following Japan's surrender the American military Government in Japan, SCAP exercised draconian powers of censorship to silence Japan's scientists about their wartime activities.

Konan was captured quite suddenly and unexpectedly by Soviet paratroop assault 24 August 1945. In October 1946 a chemical engineer Otogoro Natsume stole a fishing boat and escaped to reach American lines in South Korea where he was interrogated. Otogoro Natsume corroborated Snell's account of a nuclear test blast and asserted that scientists working for F-NZ who were captured by the Soviets, included Oishi Takeo, Wakabayashi Tadashiro, Takahashi Rikizo, Sato Sei, Fukuda Koken and Tsuchida Meiro, none were physicists and all were under the command of Admiral Hasegawa Hideo.[16]

When the Soviets took over they continued the operation of a Thorium refinery at Konan and a secret facility on a hillside above Konan which Otogoro Natsume said was ringed with barbed wire fences. This appears to have surrounded the entrance to an underground facility. The Soviets continued whatever the operation was there until the Korean War began in 1950, removing thorium in small wooden boxes loaded into submarines. The Thorium thus removed was taken back to Russia via Vladivostock where it was to be used to harvest Uranium 233. The strategic significance of Konan prompted Andrei Gromeko, in December 1948, to approve the building of a special railway line to connect Konan to Russia's own rail network
A switch to Thorium?


How does Thorium figure in the Japanese Atomic Bomb project? Throughout the war all the emphasis had been on enrichment of Uranium 235, however progress with enriching Uranium 235 were unimpressive. The switch at Konan to a project developing Thorium from deposits of Monazite marked a fundamental change of approach.

What is interesting to note is that whilst Nishina had experimented with Thorium from 1938-1939, he also claimed after the War that he was unaware of any Thorium project in Korea. Was he genuinely excluded from the F-NZ project?

From very early in the War Arakatsu with a team of other scientists researched photo-fission of Lithium with Duteron beams. [17] As I have noted elsewhere in this website similar research in Germany by Dr Erich Schumann and Dr Walter Trinks spawned 40 wartime patents for hollow charge A-bombs. Did the Germans somehow sell license rights for the Schumann/Trinks patents to Japan?

The illustration below summarises the detonation process of crushing two conical lithium cones against a fissile target.


Nowadays we call such weapons "mini-nukes." Critics dismiss the physics of Schumann / Trinks devices, however in the early 1950s these designs were the basis of an American miniature A-bomb known as the Swan Device.

The Nazi weapons appeared to utilise Uranium 233 harvested from particle accelerators as Protactinium 233. This device is often referred to as the Nazi Bell. It was a device developed under Dr Walter Dallenbach by the German Army Ordnance research team Forschungstelle D. Several such synchrotron type centrifuges were built by the Berlin firm BAMAG Meguin, under contract to C.H. Muller, at Dessau where Junkers also built aircraft engines.

Special flights by Junkers Ju-290 aircraft carrying crates of aircraft engines are said to have occurred during 1944, flown by aircraft with civilian pilots and Deutsch Luft Hansa markings. Could these cargoes in fact have been carried duplicates of the Nazi particle accelerator, or plans for one's construction?


Albert Speer in his memoirs wrote of a Ju-390 flight from Bardufoss Norway to Tokyo via the "Polar Route" in 1945, flown by civilian test pilots. Two wartime test pilots who flew the giant Junkers Ju-390 also referred after the war to the Ju-390's Polar flight to Japan.[18]

Conventional cyclotrons are extremely heavy equipment and unsuited to long range flights because of the extreme weight of their magnets. The German particle accelerator device for production of Uranium 233 described by Dr Rolf Wideroe however appears from descriptions to have been lighter than a conventional Cyclotron and more like a centrifugal synchrotron.


Any Synchrotron would also require extremely high voltage power supply from a Marx Generator like this one in England before WW2:

One clue to this is these particle accelerators were termed Betatrons bythe Germans. The Americans however called the same concept a Caultron. During November 1945 after Japan's surrender half a dozen of these so called Caultrons were gathered by US occupation forces and dumped from a small vessel off Yokohama. These would be the type of artificial radiation sources required to transmute Thorium 232 into Uranium. Japanese scientists protested that they were not used for constructing atomic bombs, however the Allied Government was clearly spooked by information to the contrary to take such action.

Photo-fission can be utilised to bombard Thorium 232 and convert it to Uranium 233, or alternately to bombard Uranium 238 and convert it to Plutonium 239. This breeding process could therefore have provided an Atomic weapon with it's fissile core.

It may be therefore that the Uranium centrifuges developed by F-Go made a contribution to Japan's A-bomb. Arakatsu continued to research photo fusion during the war and wrote further papers on the topic. It could be inferred from this that perhaps photo-fusion was the path taken by Arakatsu and that F-NZ was created after F-Go to explore an entirely different approach to nuclear weapons.

Successful testing of Japan's A-bomb?

An article appeared in World War II Magazine (July 1995) by Al Hemingway that indicates indeed, that Japan may have exploded an atomic bomb on a tiny islet in the Sea of Japan on August 12, 1945. Hemmingway refers to a test also involving a cave.

David Snell reported that Kempetai Captain Tsetusuo Wakabayashi told him the test occured just after Hiroshima was bombed. Wilcox gives an account from Snell that on 10 August 1945 an Atomic bomb was removed from a cave above Konan, transported to a robot launch. It is reported that at dawn 12 August 1945 the launch carrying the A-bomb device called Genzai Bakudan beached itself on a tiny island in the sea of Japan. The location of these islets is north of Wonsan in the Gulf of Yonghung-Man. Unfortunately the name of the individual island where the test occurred is not recorded.

It is known that a Japanese plan for an Atomic Bomb was drawn up in July 1943 and came into possession of the OSS. These plans were rediscovered in 2002 and were returned to Japan where the Japanese government now controls them. [19] A US Army surgeon based in Japan in 1947 with the 237th Medical Disp. to examine after effects of Atomic Bombs on the victims, Leon Thompson wrote to the Millitary Magazine on 9 November 1996, claiming to have seen the Japanese bomb's blueprint in the OSS offices at Tokyo. At this time OSS was known as the SSU and was about to become the CIA.

Radio operator of U-234 Wolfgang Hirschfeld also wrote in an account for the website Sharkhunters, in which he caimed that Japan had alreadysuccessfully tested an atomic bomb in 1943. Conceivably Hirschfeld may be wrong that there was a test in 1943, but it is also interesting to note he was somehow informed about Japan's nuclear project before leaving Germany implying some degree of co-operation between these countries during the War years.

Capt. Wakabayashi asserted to Snell that bomb laboratories hidden in caves above Konan along with a number of completed Atomic weapons were demolished to prevent their capture. Soviet paratroops captured the city unexpectedly on 24 August 1945 whilst fighting was occurring much further north along Korea's coast. This sudden attack led to the capture of six key scientists responsible for F-NZ.

A chemical engineer in the F-NZ project Otogoro Natsume agreed to work for his Soviets captors and in October 1946 used the trust gained to steal a small fishing boat and escape to American forces further south. Natsume was interrogated through an interpreter by the Americans. He had also heard of the nuclear test whilst at Konan before the Soviets arrived.

Natsume revealed that decomposition of Hydrogen Peroxide was part of the process involved in construction of the Atomic weapon implying that it had a thermonuclear aspect. He revealed that there were 700 university graduates working at two Factories for F-NZ. Three hundred of these graduates worked at Konan. One factory was at Konan, the other at Honbu.

Natsume said Soviets arrived so quickly that they captured seven key scientists. Russians tortured the scientists by thrusting burning slivers under their fingertips and pouring water into their noses. One scientist managed to escape to the American zone but the others he learned were taken back to Moscow where they were tortured further for their secrets.[20]

Japan's intended use of the Atomic Bomb

Japan's biggest problem in 1945 was delivery systems. Twelve V-2 rockets had been imported by U-boat before the collapse of Nazi Germany.[21] The correct beach in Kyushu had been identified for the intended Allied invasion in 1946. It seems conceivable that underground lunch silos would have been prepared to fire these V-2 rockets at the Allied beach head and the fleet offshore. Had these been nuclear tipped an invasion of Japan could have been carnage.

Bomber missions to mainland USA were a goal but as the war dragged into it's closing sequences this became less important. Japan was slow to grasp strategic bombing. The distances involved were immense. Honshu Island to Los Angeles was 4,720 nautical miles one way. Seattle was approximately 4,100nm. On the outbound trip a heavily laden bomber would have to climb to 30,000 feet to hitch a ride on Jetstreams and take advantage of higher ground speeds at altitude. The return journey however was against prevailing winds. The shortest possible route was from Paramushiro in the northern Kuril Group. During WW2 the island had four air bases, most with 4,000 ft runways. Had these heavily laden aircraft been able to take off from such runways then the distance to attack Seattle was an acceptable 3,040nm.

It is rumored amongst Nazi veterans that the third Ju-390 prototype was not destroyed but rather completed and flown to Japan. The claim is completely unverifiable, but possible and such an aircraft would have permitted raids on cities along the western USA seaboard. Such an aircraft would have looked something like this:

Prototype Bomber version of the Ju-390A, or Ju-390C had it been in production

Japan of course produced it's own bomber aircraft but strategic bombers came too late. One was the G8N Renzan (RITA) four engined bomber which was made from steel, as Aluminium was in short supply. It was comparable in performance to the B-17 and could never reach USA. Only four prototypes were built but one was later flown to the USA after the war for evaluation.

Wooden wind tunnel model Kawasaki Ki-91

Another prospect which might have managed a one way trip and then to ditch in the sea or possibly a two way trip by returning to Paramishiro was the four engined Kawasaki Ki-91. It could carry an 8,800lb bomb load with a total range of 6,214sm (10,000km). The factory tooled up to build these aircraft was destroyed by B-29 raids in February 1945.

Nakajima G10N1 Fugaku 富岳 bomber

The G10N was developed as part of Project Z begun in 1942 which may have been associated with Project F-NZ begun in 1943. This was a high altitude aircraft with six engines. Three versions were contemplated including a 300 occupant troop carrier, a high altitude gunship with forty 20 mm guns to intercept High altitude B-29 bombers and finally a very long range bomber able to deliver up to 20,000kg or 44,000lb of bombs for distances up to 9,970 nautical miles. Originally it was intended to use six Nakajima 4-row, 36-cylinder 5,000 hp Ha-54 (Ha-505) engines, with contra-rotating propellers, howeverthis engine due to a co-axle drive shaft became too complex so the design was shrunk to use Mitsubishi 2-row 22-cylinder Ha-50 engines developed for the Kawanishi H11K flying boat.[22] This shrink reduced the bomb load to 11,000lb and with this the designation also changed from G10N to the G10N1 Fugaku.

Nakajima GN10 Fugaku bomber from an artist's impression

By 1945 all prospect of an attack on the US mainland by such large bombers was gone. The GN101 project was abandoned in 1944 and in any case the fuel crises in Japan left no spare fuel for such an attack. With the capture of Iwo Jima Mustang fighters were able to reach Japan and later aircraft carriers were able to launch raids by F-4U Corsairs from nearby waters.

Aichi M6A Submarine Launched Floatplane


The I-400 class submarine also known as STo class were very large vessels capable of extremely long range with large watertight hangers for three Aichi M6ASeiran float plane bombers with foldable wings. These aircraft could be launched from catapults on the forward decks of the submarines. The first such submarine, I-401 was intended to undertake a mission with fellow float plane carrying submarines I-13 and I-14 against the Gatun locks of the Panama Canal in April 1945. Their mission with six aircraft was recalled however, possibly so aircraft could be equipped with small tactical nuclear weapons for an attack on the massed US Fleetat Ulithi Atoll. Such an attack hardly makes any sense without nuclear weapons as these aircraft could barely pin-prick such a large force withconventional weapons.

Aichi M6ASeiran float plane bomber

Mainland USA was not the only conceivable target for a Japanese nuclear weapon. The US fleet at anchor inside Ulithi Atoll was a high priority target. A successful attack there with nuclear weapons could have halted US progress in the War, however it appears Japanese progress came too late and the Soviets were busy eying up Japanese real estate.

Concealment of WW2 Records

The Allied Government of Japan practiced severe censorship in postwar Japan. Nuclear scientists involved with the wartime atomic bomb project were legally constrained from talking about it by censorship inside Japan. Vast archives of Japanese military records were seized by US forces and held in USA for 9 years after the war. In 1957 however, all Japanese military records were ordered to be returned to Japan. This was the reason given to the US Congressional POW hearings in 1986, why records of brutality towards captured servicemen could not be provided. John H. Hatcher, Army Record Management of the US Army explained, "because the problem of language was too difficult for us to overcome." The Japanese Government is under no obligation to release the information held in those records. There is no concept of Freedom of information in Japan where the government is hostile to the suggestion Japan attempted to build nuclear weapons. If this were proved it would pose a problem that it might justify the bombings of Hiroshima and Nagasaki.

Sources:
• [1] National Military Branch, US National Archives: SRA 01576 "Tokyo to Berlin 7 July 1943" (General Kawashima requests Uranium oxide from Germany via Japanese embassy in Berlin);...."Tokyo to Berlin 24 August 1943"; ....SRA 04221 "Berlin to Tokyo, 1 September 1943"(relays Germany quizzing why Japan needs Uranium?); ....SRA 06420 "Tokyo to Berlin 15 November 1943" (after earlier attempting to mislead Germany, Kawashima admits that Japan has an Atomic weapons project)

•[2][3][4][5][6] Wilcox, Robert K. Japan's Secret War: Japan's Race Against Time to Build Its Own Atomic Bomb, Morrow Publishing, NY 1985
•[7] Stevens,David. U-Boat Far From Home, The Epic Voyage of U-862 to Australia and New Zealand, Allen & Unwin 1997. ISBN 1-86448-267-2.
•[8] Stallin's Silver, by Bessant, John.

•[9][10][11][12] Wilcox, Robert K. Japan's Secret War: Japan's Race Against Time to Build Its Own Atomic Bomb, Morrow Publishing, NY 1985
•[13] riken/jp website
•[14] King, Byron. Article: North Korea’s Nukes: Of Nukes and Ammonium Nitrate, Feb 2005, Pub. Whiskey & Gunpowder.
•[15] Snell, David, "Japan Developed Atom Bomb; Russia Grabbed Scientists," Atlanta Constitution, 2nd October 1946
•[16] Report Interrogation of Otogoro Natsume by Dr H Kelly, October 31 1946, NA, RG 224, Box 3.

•[17] B. Arakatsu, Y. Uemura, M. Sonoda, S. Shimizu, K. Kimura, and K. Muraoka: Paper "Photo-Fission of Uranium and Thorium Produced by the r-Rays of Lithium and Fluorine Bombarded with High Speed Protons," Proc.Phys.-Math. Soc.,Japan, 23, 440-445 (1941)
•[18] Ju-390 Chief test pilot Hans Joachim Pancherz in 1969 & Hans Werner Lerche in his memoirs.

•[19]BBC online article, Atomic plans returned to Japan, Saturday, 3 August, 2002, 18:44 GMT 19:44 UK, http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/2170881.stm
•[20] Report Interrogation of Otogoro Natsume by Dr H Kelly, October 31 1946, NA, RG 224, Box 3.
•[21] via U-219 and U-195 to Djakarta Nov 1944, cited in "Stalin's Silver", by John Besant
•[22] http://japaneseaircraft.devhub.com/blog/463007-kawanishi-h11k-soku/

Map of present day North Korea:


Konan is now known as Hamnung:


Probable Location of Atomic Bomb Test


© Simon Gunson (non-commercial reproduction permitted, but please cite source)

https://sites.google.com/site/naziabomb/home/japan-s-a-bomb-project

26. 中川隆[-12461] koaQ7Jey 2019年2月04日 10:49:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

田中英道「日本の原爆は8月12日北朝鮮で成功していた?」


まあ、核実験が成功していたとしても、終戦の3日前では意味ないんですけど。

アメリカが日本を長期的に植民地化する目的で、日本脅威論として意図的に流布したデマなんでしょうね。 アメリカは将来、日本に広島・長崎の報復をされるのを恐れていたんですね。

27. 中川隆[-12460] koaQ7Jey 2019年2月04日 10:52:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976

28. 中川隆[-12459] koaQ7Jey 2019年2月04日 11:01:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

1970年代以降 アメリカが日本を非常に恐れていて、何とかして日本を崩壊させようとしていたのは事実です:


1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街では、世界大恐慌の引き金となって、株式大暴落が起こりました。そして、あれから60年後、今度は日本を叩き潰す為に、1990年2月、巨大な経済の逆回転が始まり、平成バブル経済が崩壊しました。

 平成バブルが崩壊するバブル・ピーク時、CIA(Central Intelligence Agency/アメリカ大統領直属の中央情報局)は、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦後の次の敵は、日本だと考え始めていました。

事実、1989年秋から始まった、アメリカ系証券会社の株価動向は不気味な動きをし始めました。バブルと、その崩壊に携わったのは、ユダヤ系の金融機関であるソロモン・ブラザーズ(現在のソロモン・スミスバーニー)という証券会社でした。

 ソロモン・ブラザーズは資本主義の歴史に詳しく、また日本の昭和初期の経済にも精通していて、1989年11月、ニューヨークで「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という『プット・ワラント』のデリバティブ商品を機関投資家や大口投資家に大量に売り始めたのでした。それ以来、ソロモン・ブラザーズが中心になって、債券、為替、株価のトリプル安が始まります。これがバブル崩壊の裏側に隠れたメカニズムだったのです。

 バブル崩壊のシナリオは、どのようにして仕組まれたのか、その筋書きを追ってみましましょう。

 バブル絶頂期は、1989年にそのピークを迎え、株価は天井でした。この時、多くの日本人は、株価の高騰(こうとう)並びに地下の高騰に、湧きに湧き、怕(こわ)いもの知らずで、日本の投機家達は今迄になく傲慢(ごうまん)になっていました。そしてこの頃、事実CIAは、アメリカの敵は日本であると考え始めていました。

 CIA経済部門のスペシャリスト達は、アメリカ系証券会社のソロモン・ブラザーズ(現在はソロモン・スミスバーニー)と手を組み、日本経済の崩壊作戦に向けて本格的に動き出しました。これが今日の不況を長引かせる要因を作ったのです。これが日本株式市場に於ける下落のシナリオ「バブル崩壊作戦」でした。


ソロモン・ブラザーズは、1989年当時の沸き立つような好景気も、60年前のアメリカ・ニューヨーク.ウォール街での大恐慌と同一のものであると、そのバブル崩壊を予測したのです。

 かつて、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの配下であったロックフェラーやデュポン(世界最大の化学メーカー)らは、この大恐慌を利用して天文学的な巨富を手にしていました。ソロモン・ブラザーズはこれに因(ちな)み、バブル崩壊を企てる研究に取りかかったのです。

 「どうしたら一儲けできるか」からはじまり、「どうしたら日本経済を徹底的に叩く事が出来るか」という結論を導き出し、日本経済崩壊に向けて模索し始めたのです。

 60年前のウォール街での「暗黒の木曜日」の立役者は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの息の掛かる東部のエスタブリュシュメント達(ロックフェラーを筆頭に、デュポン、ケネディ、オナシス、アスター、バンディ、コリンズ、フリーマン、ラッセル、ファンダイン、リー・クアンシューの超大富豪十二家)でした。
 この者達は手持ち株を売り捲り、その結果、下落に下落を重ね、二束三文になった株式を買い叩いたのです。それで巨万の富を手にしたのですが、今日とは情況が違うことに気付きます。この難題に、しばらく苦慮しますが、ついに糸口を掴んだのです。

 その糸口とは、「何が株価を暴落させる要因になるか」と言うものでした。つまり株価が暴落する切っ掛けを作ればよいのです。そして、「下落によって、下がった株で大儲けできる商品を持っていればよい」ということに行き当たったのです。それが「デリバティブ」でした。

 デリバティブとは、金融派生商品(通貨・金利・債券・株式・株価指数などの金融商品を対象とした先物取引)のことで、「先物取引」という意味合いを持っています。

次の研究課題は「どうやったら大暴落を人工的に作り出し、然(しか)も、そのタイミングに合わせて、自分達の狙うポイントに、総てを集約することが出来るか」という研究に取りかかったのです。
 人工的に大暴落を作り出す場合、60年前の大恐慌では、アメリカの大富豪達による「大量売浴せ」という手法が使われました。

 大量売浴せとは、売方が買方の買数量より、多量の売物を出して買方を圧倒し、相場を押し下げようとすることで、「売り崩し」とも言われます。
 しかし、それでは巨額な資金が必要であり、当時と違って、それほど経済構造は単純なものではなくなっていました。研究に研究を重ねた結果、巧妙(こうみょう)な手口を考え出します。

 それは、「膨らんだ風船を、更に膨らませる手口」だったのです。
 風船は、空気を送り込んで膨らませれば、それだけ膨らみますが、その実体は「バブル」です。膨らむものは、いつか破裂して、大爆発を起こす物理的法則に制約されます。経済とて、この法則下に制約されているのです。彼等はこれに気付いたのでした。

 彼等はそのシナリオを、綿密なストーリーで組み立てました。徐々に膨らみを見せる風船に、意図的に、頃合いを見計らって、更に膨らませ、次に急激に膨らませるという巧妙なストーリーを演出したのです。風船は、今まで徐々に、周囲の状態に馴染みながら膨らんでいたのですが、これに急激な吹圧を掛け、パンパンの膨張状態を作っておいて、一挙に破裂させるという巧妙な演出を画策したのでした。

 彼等は、この原理を東京株式市場に応用して、バブル崩壊を目論んだのです。
 そして彼等は「デリバティブ」という、風船を一突きにする「針」を手に入れ、膨張し過ぎて破裂状態になったところで、一突きにする演出を手がけたのでした。

1989年当時、日本人エコノミスト達は「デリバティブ」という「先物」の実体を知りませんでした。経済や金融の専門家でも、この実体が何なのか、未だに分からず仕舞いでした。またこの事が、バブル崩壊の悲劇を大きくし、当時の日本経済界は全く無防備であったと言えます。


ソロモン・ブラザーズは裁定取引を使って、意図的に、無防備な日本経済に先制攻撃を仕掛けたのです。「梃子(てこ)の原理」(レバレッジ)を利用して、なるべく少ない資金で、効果的にバブル崩壊に導く人工爆発の状態を作り上げる研究をしたのです。次に、バブル崩壊に導く為に、彼等は日経平均の株価操作の研究に没頭しました。
 彼等は、この二つの研究から面白い現象に気付きます。それは日経平均株価(日本経済新聞社が、東京証券取引所一部上場の代表的な225銘柄について算出し、発表しているダウ式平均株価)が単純平均(相加平均のことで、算術平均ともいわれ、n個の数を加えた和をnで除して得る平均値のこと)で作られた「指数」から出来ている事と、もう一つはこれらの指数の分析から、品薄な銘柄を意図的に買うと、少ない資金で日経平均株価を持ち上げることができるという経済現象に気付いたのです。

 こうして研究の成果を、実行に移した時期が1989年の秋から冬に掛けての事でした。日経平均株価は瞬(またた)く間に膨らみ、バブルは天井へと向かっていました。
 その頃、日本の話題はベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造が終焉(しゅうえん)を迎えれば、世界市場に進出できる等と、日本人経営者の多くが高を括(くく)っていた頃で、日本人の思い上がりの裏側では、こうした巧妙な仕掛けが、水面下で仕掛けられていたのです。
 大蔵官僚も、エコノミストも、この仕掛けには全く気付いていなかったのです。

ソロモン・ブラザーズの真の狙い

 当時の多くの日本人投資家は、「日経平均株価は10万円に到達する」と信じて疑わない人が多くいました。誰もが強気で、今こそ、この好景気に乗って、買いに転じる時機(とき)だと確信していたのです。その結果、バブルは急速な加速度をつけて、瞬く間に膨らみ始めました。
 この時、ソロモン・ブラザーズは信じられない事をニューヨーク・ウォール街で展開していました。
 1989年11月、彼等は「東京株式大暴落の図式」に則り、『プット・ワラント』という金融派生商品を売り始めていたのです。

 『プット・ワラント』とは、「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という新商品であり、この商品をアメリカの大口機関投資家に大量売り込みを図っていたのです。また、これには大口投資家も飛びついたのです。
 彼等の新商品に対するキャッチ・フレーズは「年末から年始に掛けて、日本の株式は大暴落するから、60年前の《1929年10月24日の暗黒の木曜日》の時と同じくらいの大儲けが出来ますよ」でした。

1990年1月2日、ニューヨーク・ウォール街では、日本とは逆に、信じられない現象が起こっていました。突然、為替が円安へと向かったのです。この円安はソロモン・ブラザーズが『プット・ワラント』販売に因(ちな)み、債券や為替や株価の「トリプル安」を企てたものでした。
 そして1月が過ぎ、2月に入り、その月は既に中旬に入っていました。この頃、日経株価はジリ安でしたが、大暴落の兆しは現われていませんでした。

 日本人はまだ、この時にも何も気付いていなかったのです。そして日本経済が、瀕死(ひんし)の重傷に陥っている自覚症状すら、エコノミスト達は感じ取ることが出来なかったのです。

 当時の政治背景としては、自民党の政治家は2月中旬の衆議院選挙で大勝したことに祝杯を上げていた頃で、政界も財界も危機管理意識はなく、全く無防備でした。
 日本人は、まさに「ライオンに、餌を差し出す為に手を伸す呑気(のんき)な兎」でした。腕ごと食いちぎられるか、体ごと丸呑みされるかの、こうした危険すら感じる事もなく、呑気な行動をとっていたのです。
 日本人投資家が、株を買いに奔走している頃、アメリカの金融の裏側ではソロモン・ブラザーズの売り攻勢が激化を極め、これまでジリ安で状態であった株価は、一挙に大暴落へと転じました。バブル崩壊の引き金はこの時に引かれたのです。

ついに1990年2月末には、膨らむだけ膨らんだバブルは、日経平均15,000円台を大幅に割れ込みました。一挙に大暴落が起こったのです。

 ソロモン・ブラザーズの秘密兵器はデリバティブでした。
 デリバティブは説明の通り、現物と先物との価格差を狙った「サヤ取り」であり、「裁定取引」と「オプション」で、日本の株価は下落したら大儲けという派生商品です。この派生商品を、至る処に仕掛けておいて、株価を自由に操ったのです。バブル崩壊の大暴落は証券会社のみならず、大蔵省までを翻弄(ほんろう)の渦に巻き込んだのです。

 この巧妙な仕掛けでソロモン・ブラザーズは、僅か三年の研究とその実行で、一兆円にも昇る莫大な利益を手にしたのです。
 そしてこの後、日本では更に悲惨な状態が続くことになります。
 日経平均株価の大暴落は、株式市場の株価下落だけに止まらず、不動産の分野にも悪影響が及びます。この悪影響は、政府が不動産融資へのマネー供給を停止するという事から始まり、今まで高騰(こうとう)を見せていた大都市の不動産の資産価値が急速に下落したことでした。

 この現象は大都会だけに止まらず、地方にまで波及していきます。不動産の資産価値が下落するとは、それを担保にしていた金融機関の担保価値も大幅に減少したということになります。こうして不良債権の波及が表面化するのです。

 これに対して政府の後手政策は、次から次へと傷口を広げ、日本の資産とマネーの急速な収縮は、今日に見る不景気と連動し始めることになります。
 昇り詰めたものは、いずれ落ちる。これは物事の道理です。この道理に随(したが)い、ソロモン・ブラザーズは、次のプロセスへと準備にかかります。

ソロモン・ブラザーズの真の目的は、ただ単に、日経平均株価を下落させて大儲けすることだけではなかったのです。彼等の真の目的は、日本人の個人金融資産の1300兆円にも上る郵貯(郵便局で取り扱う国営の貯金事業で、元金・利子の支払いは国によって保証される)の食い潰しでした。日本のエコノミスト達は、この事すらも見抜けなかったのです。

 ソロモン・ブラザーズが研究の末に計画した事は、こうした下落が生じた時、政治家はもとより、財界人を始めとして、証券会社等が「これを何とかしろ」と、政府に詰め寄り、殺到することを計算に入れていたのでした。これこそ彼等の真の目的であり、ここに「日本発世界大恐慌」を画策した真の狙いが、ここにあったのです。
http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama20.html

29. 中川隆[-12458] koaQ7Jey 2019年2月04日 12:23:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2018.12.04
歴史教科書から「聖徳太子」を消すのは陰謀(つくる会元会長・田中英道)
https://rondan.net/1065


Contents
1 聖徳太子の謎
2 聖徳太子とイデオロギー
3 聖徳太子抹殺を謀ったのはGHQ
4 自らを省みない歴史修正主義者


聖徳太子の謎

旧一万円札につかわれていた聖徳太子は、古来からその実在性が疑われている人物の一人です。既に江戸時代の頃から実際の聖徳太子の有り様をめぐる議論があり、明治維新後も久米邦武(1839-1931)や津田左右吉(1873-1961)らによって聖徳太子の不在説・虚構説が様々に唱えられ、同時にそれに対する反論も展開されていきました。このような議論は戦後現代に至るまで続いています。したがって、聖徳太子の非実在説・虚構説を唱えようと、実在説を唱えようと、それが学術的な資料や理論に則っていれば全く問題ないはずです。

しかし保守がこの問題を語り出すと、なぜかイデオロギー的な問題にまで発展し、自身の思想的信条まで語り出すという不可思議な現象が生じます。とりわけ2017年に歴史教科書から「聖徳太子」の記述を「厩戸王」に置き換える動きがあり、保守論壇は一斉にこれに猛反発しました。今回はこのような不可思議な現象を、「つくる会」元会長である田中英道氏の論文「聖徳太子を歴史から消そうとしているのは誰か」(『Will』2017.8)を取り上げてみたいと思います。

聖徳太子とイデオロギー

先ほど、保守はイデオロギーに基づいて聖徳太子を語り出すと言いました。その理由を、次の櫻井よしこ氏の文章は雄弁に物語っています。


607年には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という、あの余りにも有名な親書を小野妹子に持たせ、隋に派遣し、遂に隋と対等な関係を築いた。

以降、日本は中華文明に属することなく、日本独自の大和文明を育んだ。大和文明はその後、天武天皇に受け継がれ、聖武天皇によってより強固な日本統治の基本となった。いま、日本と中国の価値観はおよそ何から何まで正反対だ。私たちは、日本が日本であることに、もっといえば中華的価値とは全く異なる日本的価値の社会で暮せていることに感謝しているのではないか。その価値観の源流が聖徳太子である。
 櫻井よしこ「なぜ日本史から聖徳太子を消すのだ」『週刊新潮』(2017.3.9)
つまり聖徳太子は中華文明に対する日本の独立性(大和文明?)や日本的な価値観を確立したと評価されており、日本そのもののアイデンティティに深く関わる人物です。ですから聖徳太子が実在していなかったり、その業績が虚構であったりすると、日本人のアイデンティティが揺らいでしまうと保守論壇は思い込んでいます。

このため保守論壇は、この聖徳太子の実在・非実在の問題を、学問的なレベルではなく、イデオロギー的な土俵に持ち込んで議論したがります。つまり、「聖徳太子の抹殺を謀ろうとするのは、日本の伝統を破壊しようとする反日勢力の仕業だ」といった具合の陰謀論に語り出すのです。

聖徳太子抹殺を謀ったのはGHQ

田中氏もこれに漏れず、聖徳太子実在説を強く主張しますが、議論は脱線してしまい陰謀論を語り出しいます。


そういう聖徳太子の思想をキリスト教徒のGHQは否定し、彼らの”自由”を押し付けた。日本を弱体化し、日本人のアイデンディティを奪おうとする GHQ の意を受けて、左翼思想に支配された日教組は戦後教育を行いました。
たびたび引き合いに出して恐縮ですが、大山誠一氏の「聖徳太子はいなかった」という説の狙いも、結局はここにあります。

聖徳太子の非実在論や虚構論を唱える人間は「GHQの手先で、左翼思想に支配されている」という妄言が確認されます。このような議論は既に江戸末期からあったのですから、キリスト教とかGHQが全くの無関係なのは明白であり、一方的な思い込みに過ぎません。田中氏は余りにも保守的イデオロギーが強すぎるために、ありもしない敵を想像してしまい、このような陰謀論に走ってしまったのでしょう。

ところで、田中氏は GHQ の背後には”隠れマルクス主義”フランクフルト学派がいるという陰謀論を唱えていますから、きっとフランクフルト学派の権威主義批判によって聖徳太子が抹殺されようとしている、とお考えなのでしょう。

自らを省みない歴史修正主義者

ところで田中氏は、この聖徳太子の非実在論・虚構論を次のように評価しています。


近ごろ、実証主義という名のもとに、国民に広く親しまれている伝説や人口に膾炙した定説をあえて覆す異説や珍説を持ち出し、英雄や偉人を貶める動きがあり、それがあたかも「進歩的」であるかのようなつまらない風潮があります。「面白い説」がエンターテイメントとして一時的に囃し立てられるだけならまだ許せますが、意図的に歴史に手を染め、伝統文化を否定し、破壊しようとする流れがある。

恐るべき恥知らずと言わずして何というべきか。かくいう田中氏ご自身こそ、歴史修正主義者として定説をあえて覆す異説や珍説を持ち出し、学界のみならず社会をかき乱している事実を反省いただきたいところです。たとえば、次のようなトンデモ学説を唱えています。
日本メディアはフランクフルト学派によって支配されている。
土偶はダウン症を象った異形人像である。
卑弥呼神社は無いから卑弥呼はいなかった。魏志倭人伝は無視していい。
高天原は関東にあった。記紀神話は歴史的事実を記録している。
写楽は北斎だった。

といった類で、いずれも学界から相手にされておらず、田中氏のイデオロギーを反映させたライトノベルのような代物ばかりです。かかる意味で、田中氏こそ「面白い説」を思い付きで主張しだして、一時的に囃し立てられているだけだということを知るべきでしょう。
https://rondan.net/1065


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2018.12.28
つくる会元会長・田中英道氏に、数十行にわたる「大規模コピペ」の疑惑
https://rondan.net/9542

Contents
1 田中英道氏のトンデモさ
2 比較テーブル
3 恐るべき分量。保守論壇界ではコピペが日常茶飯事?
4 【参考】謄写比較


田中英道氏のトンデモさ

つくる会元会長・田中英道氏は、土偶は近親相姦による奇形児を象っているだの、卑弥呼神社がないから卑弥呼はいないだの、マスコミはフランクフルト学派に乗っ取られているだの主張してデムパ全開中です。

こんな強力な電磁波を放っている人が「つくる会」の会長として歴史教科書政策に携わっていたとは驚きです(現在では袂を別っているようですが)。

さて、その田中氏の著書『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社, 2011)のうちに、百田尚樹氏の『日本国紀』よろしく長大なコピペ箇所があると報告いただきました。

この指摘を元に原本を確認したところ、確かに膨大な量のコピペがあることが判明しました。

田中英道氏は、著書『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社, 2011)のなかで、『日本人に謝りたい : あるユダヤ人の懺悔』(日新報道, 1979)から、4ページ(46行)にわたり無断転載・改変を行っています。

この文量は、局所的な一致度という点では、現在、ギネス級の記録です。


比較テーブル

https://rondan.net/9542

両者を比較すると次のよう成ります。また実物の謄写比較は、本記事の末尾を参照ください。

https://rondan.net/9542


恐るべき分量。保守論壇界ではコピペが日常茶飯事?

以上からも明らかなように、田中氏著作には別媒体との著しい一致が確認されます。これを偶然とするのは極めて困難です。

ところでコピペ元の『日本人に謝りたい : あるユダヤ人の懺悔』は、翻訳書という体裁をとっていますが、原本も現著者も存在しない和製偽書であると指摘されています(小田島雄志×紀田順一郎×渡部昇一「鼎談書評」『文芸春秋』58(4), 1980.4)。このような偽書すらコピペしてしまうとは驚き以外の何ものでもないでしょう。

なお、この田中英道氏は、過去には「新しい歴史教科書をつくる会(通称:つくる会)」の会長として(その後、絶縁)、現在では竹田恒泰氏などとともに「日本国史学会」というさも学会風団体の理事長を務めているなど、保守論壇の中心人物の一人です。

この様な事態を踏まえるならば、保守論壇による歴史戦というものが、いかにいい加減なものかがよく解るでしょう。事実、「歴史戦の狼煙」なとど吹聴されていた百田尚樹著・有本香編集『日本国紀』もコピペだらけでした。彼らが語る「歴史的事実」の陳腐さが知れるというものです。

【参考】謄写比較
【その1】
【その2】
https://rondan.net/9542

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2019.01.04
つくる会、元会長や会員たちの盗用癖を告白
https://rondan.net/10100


Contents
1 つくる会元会長・田中英道
2 つくる会ツイッターアカウントの告白…
3 保守論壇はコピペがお好き?


つくる会元会長・田中英道

先の記事で、つくる会元会長・田中英道氏(現、日本国史学会代表理事)が、自著の中で大量の無断転載をしていたことをスクープしました。

この記事を受け、なんと「つくる会」の公式ツイッター殿が、コメントを。

https://rondan.net/10100

絵文字が😇(SMILING FACE WITH HALO)なのが、なんとも洒落が効いていますね(笑)

20年前から「つくる会」は何度も分裂を繰り返して、当時とは全く別の団体と言えるほど構成メンバーが入れ替わっています。ですから、この御主張はもっともです。

しかし、田中英道氏の肩書を表現するには現職の「日本国史学会代表理事」ではなく、やはり「つくる会元会長」なのです。

それくらい「つくる会」が日本の歴史認識問題に与えた影響力は絶大であると確信します。

つくる会ツイッターアカウントの告白…

この記事を受けてアームズ魂氏が、つくる会に単刀直入に質問。

衝撃の返信ですね…。

どうやら田中英道氏には昔から盗用癖があったようです(;゚Д゚)

さらに質問は続きます。

……。

どうやら保守論壇の歴史戦には「盗用」やら「コピペ」が日常茶飯事で起きているようです…。

最初は、 つくる会の「コピペをやらかした人は他に当会にもいらっしゃる」という発言は、東京書籍の歴史教科書から歴史年表をコピペしてしまった事件のことを指していると思ったのですが、以下のやり取りを見る限りならどうも違うようです。

歴史年表コピペ事件は誰もが知っていますから、いまさら呟いても、ツイッターの中の人がいまさら「解任」ということはないでしょう。

ということは、この事件の他にも、つくる会の関係者のなかでコピペしている人がいると考えるのが妥当ではないでしょうか。

保守論壇はコピペがお好き?

そういえば、「つくる会」から分派した集団がつくった歴史教科書(育鵬社)に、「つくる会」の歴史教科書(自由社)からの剽窃があり裁判になりました。

裁判の判決は、「歴史的事実にかんするありふれた記述に著作権は認めがたい」という理由で自由社側敗訴となりました。にしても、他社の教科書からコピペして新しい教科書をつくってしまうという根性が凄いですよね…。法的にはどうかわかりませんが、倫理的には完全にアウトだと思います。日頃からコピペばっかりしていて感覚がマヒしていたのでしょうか?

その理論を応用すれば、山川出版の歴史教科書をコピペしていれば、誰だって一流の「教科書」を造れてしまうわけじゃないですか。本来、歴史というのものはそんなお手軽に語れるものではないと思います。

にしても、このような重大な身内話をさらけ出した、現「つくる会」のツイッター殿には敬意しかありません。

この様な膿を出し切って、健全な歴史戦が展開されることを祈念いたします。
https://rondan.net/10100

30. 中川隆[-12454] koaQ7Jey 2019年2月04日 14:04:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

贋作である事に全く気付かないで自分の鑑識眼を誇っていた田中英道先生の話

『銀座の怪人』◆贋作(美術)について
http://mugenan8.blog.fc2.com/blog-entry-4.html


某月某日、こんな本を読んだ。


銀座の怪人 (講談社BIZ) – 2006/5/30
七尾 和晃 (著)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062820145/arthistory-22/ref=nosim/

内容紹介

「今さら被害者面できるのか?」——封印されし一大経済疑獄の真相。

銀座・並木通り画廊街——。贋作絵画を雨あられと降らせた男がいた。

松本清張、江上波夫ら大家の名を騙り、手練れの画商たちを操った稀代の詐欺師の罠。

“名画”が紙クズに墜ちる時、“眠れる不良債権”が火を噴く!
『堤義明 闇の帝国』で衝撃的デビューを飾ったルポライターが満を持して放つ、待望の傑作——。

銀座を拠点に、「日本と日本人」に巣食った“異貌の男”がいた——。

失われた10年を経て、ようやく景気回復の兆しを見せ始めた日本経済。だが、水面下では、その先行きに暗い影を落としかねない“爆弾”が、炸裂の時を待っていた!

“眠れる不良債権”=贋作絵画を日本中に撒き散らした「怪人」の正体とは?
暗躍の舞台となった日米欧での国際取材を敢行し、圧倒的なディテールで世紀の犯罪の全貌を明かす——。


イライ・サカイが持ち込んだ作品の画集に「価値あるコレクション」として巻頭言を寄せている第一人者たちとして、以下のような実名もあげられています。

「東北大学教授 田中英道」
「東京芸術大学学長、文化財赤十字構想理事長 平山郁夫」
「総合美術研究所所長 瀬木慎一」
「美術史家・絵画修復家 黒江光彦」

_____


本書は、1982年の三越古代ペルシャニセ秘宝事件の張本人であり、1970年代後半から日本に大量の贋作絵画をはじめとする美術品をもたらしたユダヤ系イラン人、イライ・サカイを追ったノンフィクションである。

敢えて勿体つけるためにか、単純なことを回りくどく言い、内容が整理されておらず、筆者自身の自慢話は頻出して、肝腎の内容は最後まで曖昧かつ朧げなために、実に読みにくい。結局、十分な情報を知りえなかったがために、水増しせざるをえなかったと言うべきか。

それでも、イライはどのようにして数々の画廊に贋作を売り込むことができたのか、いくつかの事例を紹介してくれている。

例えば、あえて真作をオークションで落して「公」に記録させ、それを何枚も模写したうえで鑑定書をつけて売り捌く。

<鑑定書を紛失したとして再発行させたり、鑑定書そのものを偽造したり>したのだ(p.60)。画商が怪しんで購入をためらうと、イライは画商に絵を担保に金を貸してほしいと言う。

<とりあえずはイライの取り出した「担保」の絵を眺めてみる。/そこでアウト、だった。…この絵ならば、イライがもし金を返してこなくても、売りに出せば十分に儲けがとれる・・・。>(p.126)

こうしてイライは贋作をしっかりはめこんでしまう。
画商が贋作に気がついても、知らぬ顔で売り抜けてしまう。

このあたりの画商の狡さは、骨董の世界で贋作がどのように流通するかを描いた中島誠之助の『ニセモノ師たち』に詳しい。

しかし、なぜ日本人は贋作をつかまされても、被害届を出さないのか。

アメリカの捜査員の一人は、日本人の恥の文化をイライに利用され、公表すると恥ずかしいと考えるからだと解釈した(p.57)。

著者はそれに対し、こう考える。

<日本と日本人という文化の土壌こそが先にあり、そこにイライは「贋作」という道具を持ち込んだに過ぎなかったのだ。この詐欺師を受け入れ、贋作を蔓延させた動機こそは、株や土地だけでなく、美を含めたあらゆる「価値」を錬金術の「通貨」へと化けさせた日本という精神風土であり、日本人の経済感覚であったのだ。>(p.258)

気になった記述が二つ。

一つは、<警視庁、警察庁の捜査史上、日本で絵画による詐欺の立件は一つとして前例がなかった。…摘発や立件の段階で絵画や美術の取引そのものを詐欺行為として認定した事件は、長い捜査史上、一つもなかったのである。>(pp.33-4)

本当だろうか。この本の刊行時点までで、そうなのか機会があれば調べてみたい。

もう一つは、日動画廊贋作事件。

1977年後半頃から、従業員が社長の長谷川徳七に命ぜられて、日動画廊地下で絵の模写を行なっていたという告発記事が雑誌に載り、2005年に名誉棄損で裁判になっていたという(p.224)。

なぜか中間の第5章としてこの事件が描かれ、そのあげく<私にとっても、関心はもはや「この画廊で模写を描かせていた事実があったかないか」を超えていた。>

(p.234)と言い放って、裁判の結果に触れることはない。


しかし、こちらとしてはその当事者である長谷川徳七による『画商の「眼」力:真贋をいかにして見抜くのか』を先に読んでいた以上(この事件については記述されていなかったように記憶しているが)、どうなったのかを知りたいものだ。本書と同じ講談社から出ているのも奇縁かもしれない。

最後に、巻末に「参考文献一覧」(pp.332-341)があるが、

平山郁夫、瀬木真一、黒江光彦、田中英道ら錚々たる人物が巻頭言を書いているという『名品集』『全作品集』(イライの贋作を収録、p.281)

など、文中に出てくる重要な文献がすべて掲出されているわけでもなく、まして『ダ・ヴィンチ贋作計画』のような小説まで含んでいるのはどうしたものか。

ちなみに、田中英道氏自身のホームページでは、

『西洋美術コレクション名作集』『同全作品集』(西洋美術史研究所)を、


<日本の西洋美術作品の個人コレクション約550点の調査・選別を行い、その全作品のカタログを制作したもの。とくにその中で80点ほどを選別し、名作集として編んだ。

これらの作品の大部分は西洋でも未発表のもので、新たな調査と同定作業が必要であった。>

として、現時点でも贋作であることに気づかれておらず、ご自身の業績としておられる。
http://mugenan8.blog.fc2.com/blog-entry-4.html


贋作 2007年12月24日
http://blog.livedoor.jp/rsketch/tag/%E8%B4%8B%E4%BD%9C


イラン人画商、イライ・サカイの贋作事件の全貌を追ったルポルタージュです。

銀座の怪人 (講談社BIZ) – 2006/5/30
七尾 和晃 (著)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062820145/arthistory-22/ref=nosim/

日本人の妻を持つイラン人画商であるイライ・サカイが、20年以上も「通貨」代わりに偽の美術品を日本に持ち込んでいた、

この事実に腹は立ちますが、それよりも「被害者」にも「加害者」にもなるのを避ける日本の一流画廊や関係者たちの小賢しさ……。


「贋作ではないと信じていて売買したのか」

「贋作かもしれないけど、鑑定書もついているし、まあいいかと思って売買したのか」

「怪しいけれど、買えるものは買い、売れるものは売ってしまえ。」


著者も書いていますが、実際のところどれに当たるかは当事者本人にしかわかりようがない、というのが事実なのですよね……。

この本には、天才贋作画家、レアル・ルサールも登場します。

「贋作には悪意が感じられる」と美術評論家の瀬木慎一氏は語ったといいますが、このレアル・ルサールの作品には悪意は感じられず、なんと真似をされた画家がレアルの作品を過去の自分の作品としてサインをしたといいます……。

イライ・サカイが持ち込んだ作品の画集に「価値あるコレクション」として巻頭言を寄せている第一人者たちとして、以下のような実名もあげられています。

「東北大学教授 田中英道」
「東京芸術大学学長、文化財赤十字構想理事長 平山郁夫」
「総合美術研究所所長 瀬木慎一」
「美術史家・絵画修復家 黒江光彦」


権威に弱い日本人なら、もうこれでイチコロですよね……。

それ以外にも、東京大学名誉教授の故・江上浪夫氏、松本清張の名前なども登場します。

もちろん、あげられているすべての人物に悪意があったとは決して言えませんが、「決してなかった」と言い切れないのも事実……。

いったい何が真実なのかは、永遠に謎のまま……そう感じてしまうところが、読後感の悪さにもつながっているのかもしれません。


レアル・ルサールの本はこちら:

贋作への情熱―ルグロ事件の真相 – 1994/10
レアル ルサール (著), R´eal Lessard (原著), 鎌田 真由美 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4120023664/arthistory-22/ref=nosim/

内容(「BOOK」データベースより)

27年の沈黙を破る衝撃の告白。世界の美術界を震撼させた〈ルグロ事件〉とは何だったのか。天才的詐欺師ルグロの影で、フォーヴの巨匠たちの贋作を描きつづけた画家レアル・ルサールの真実の記録。

http://blog.livedoor.jp/rsketch/tag/%E8%B4%8B%E4%BD%9C

31. 中川隆[-12453] koaQ7Jey 2019年2月04日 14:15:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

■[美術]『世紀の贋作画商』を読む
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20140424/1398265538


文庫 世紀の贋作画商: 「銀座の怪人」と三越事件、松本清張、そしてFBI (草思社文庫) – 2014/2/4
七尾 和晃 (著)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794220316/mmpolo-22/


内容(「BOOK」データベースより)

9.11テロの関連捜査をしていたFBIがニューヨークで捕えたユダヤ人画商は、日本に驚くほどの数の「贋作」を売りさばいていた。

バブル狂乱の前夜から銀座を拠点に暗躍したこの男は、企業、富裕層、美術館を標的に贋作を撤き散らし、作家松本清張にも接触していたという。

82年には三越の贋作秘宝事件で世間を驚愕させ、社長解任・逮捕まで巻き起こした。FBIをして「世紀の贋作画商」と呼ばせたその数奇な運命、そして彼の贋作バブルに生命を与え続けた日本人の精神の「膿」を、綿密な取材からえぐり出す。

_____


 七尾和晃『世紀の贋作画商』(草思社文庫)を読む。副題が「"銀座の怪人"と三越事件、松本清張、そしてFBI」という大きな名前の列挙。それが誇大広告ではなかった。裏表紙の惹句から、


9.11テロの関連捜査をしていたFBIがニューヨークで捕らえたユダヤ人画商は、日本に驚くほどの数の「贋作」を売りさばいていた。バブル狂乱の前夜から銀座を拠点に暗躍したこの男は、企業、富裕層、美術館を標的に贋作を撒き散らし、作家松本清張にも接触していたという。82年には三越の贋作秘宝事件で世間を驚愕させ、社長解任・逮捕まで巻き起こした。FBIをして「世紀の贋作画商」と呼ばせたその数奇な運命、そして彼の贋作バブルに生命を与え続けた日本人の精神の「膿」を、綿密な取材からえぐり出す。

 このコピーのままの内容で驚いてしまう。三越の岡田社長が解任することになった「古代ペルシャ秘宝展」はほとんど偽物だったが、それを売り込んだのがイラン人画商イライ・サカイだった。その10年後またしてもその男は銀座の一流画廊に印象派などの「名画」を大量に売りさばく。

 本書の著者七尾は、サカイに頼まれて贋作を作っていた画家レアル・ルサールへのインタビューに成功する。ルサールは何と5,000枚もの贋作をサカイに渡しているという。その多くが日本に売り込まれ、それは「国立西洋美術館にもブリジストン美術館にもある」という。ゴッホ美術館にも展示されているそうだ。

 七尾はまたサカイへのインタビューにも成功する。サカイは贋作の売り込みに成功して今では500億円の資産家になっていた。だがついにFBIに逮捕され、司法取引の結果わずか3年半の有罪となった。

 サライは騎馬民族説で有名な江上波夫や、著名な日本美術史家の田中英道まで巻き込んでいた。だがサライの取引先の一流画廊の名前はどこにも書かれていない。それは彼らが被害者であるとともに(贋作を販売した)加害者でもあるから、名乗り出ていないためらしい。

 また1章を割いて、日動画廊の元社員が画廊の地下で有名画家の作品の「模写」を描かされていた事件の裁判について書いている。はっきりとした結論は書かれていないが、脱税のためだったというようにも読めるように書かれている。

 よく調べて書かれていると感心し、また日本の美術館やコレクターに渡っている有名な画家の作品の真贋について、なんだか不信感をかき立てられた。美術に関心があればきっとおもしろいだろう。
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20140424/1398265538


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amazon カスタマーレビュー
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R37QMQEZQM2ZJU/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4794220316


石屋貴浩

松本清張や江上波夫が登場する贋作事件を追った迫真のノンフィクション。
本編だけなら、間違いなく☆5個級の面白さ(後述) 
ドン( ゚д゚)マイ 2016年5月2日


本作は、バブル時代の前後に、ニセモノの美術品を売りまくっていたユダヤ人画商イライ(エリ)・サカイの事件を追いながら、
著者の七尾和晃氏が、イライが逮捕されるまでに直接インタビューを成功させることができるのだろうか・・・という迫真のノンフィクション。

個人的に注目した点は二つ。

一つは、昭和57年(1982)8月29日付の朝日新聞にすっぱ抜かれた、
「三越本店で開かれている古代ペルシャの秘宝展の大半が偽物である」という記事から始まる「三越贋作事件」の顛末。

殺人事件まで起こっていたこの事件(しかも遺体は遂に見つからなかった)には、事件発生前にニセの展示物と同じ
アナーヒター女神像を松本清張に売り込みに来ていたというちょっとした事件もあって、清張も興味津々。

「(三越の)渡辺社長も、サカイという外国人ではなく、『無尽蔵』の主人のような日本人が持ち込んだものなら、
だまされなかっただろうし、三越の展示品でなければ、ニセ物の解説を書く学者も、予約する客もいなかっただろう。

今度のニセ秘宝事件は、舶来崇拝、ノレンや権威に弱い、といった以前から指摘されている日本人の欠点を改めて露呈させたといえる」と
清張が呆れ顔で語るとおり、未だに本当にあった事件なのかと首を傾げてしまうほど馬鹿げた事件。

二つ目は、その事件の中心にいるイライが、「『あの人はいい人だった。もう死んでしまったけれど』」と懐かしそうに称える人物のこと。

「圧倒的な実績と権威を誇っていた。おそらく日本の考古学会では一切の抵抗を無に帰せしめる唯一の人物」と、

著者の七尾氏がノバショッカー大幹部のご登場とばかりに満を持して登場させしめた、本書の裏ボス敵存在の話が大必見。

「東京大学名誉教授の故・江上波夫」その人である。

「(前略)イライが、日本民族の由来を説いた『騎馬民族征服王朝説』で文化人類考古学の最高権威に君臨した、
東大名誉教授の故・江上波夫を『いい人だった』と讃えたとき、日本だけでも潜在被害が数百億円は下らないと言われる

イライ・サカイの贋作事件は、戦後の日本が遮二無二に突き進んだ経済発展の裏で、絵画という文化や芸術をも『通貨』に貶めた
無節操ぶりを、鏡のように映し出してもいよう。

生前の江上をよく知る弟子筋の人間に会って、江上とイライとの関係を質すと、当人は意外といった風もなく、
むしろ納得がいくといった様子で語りだした。『やっぱり江上さんの名前が出てしまいましたか・・・』」

と言って某氏が語る衝撃の話。

「『昔、横浜の保税倉庫に江上さんが来てみろというので行ったらば、なんでもローマの戦車が届いたというんです。

だから僕は、〔先生、これは映画のセットで使ったやつじゃないんですか〕といって、〔もしかしたらこれ、イライじゃないんですか〕なんて
言ったら先生は笑ってましたよ。江上さんは昔から金銭感覚はまったくない人でね。億単位の金でも頓着しなかった。

彼が戦中から研究用に集めていた資料なんかは今でも東大に残っているけど、あれももとは江上さんが旧陸軍や満鉄の調査費で集めて、
戦後のどさくさでそのまま東大に置いてたものだったんだ。

それに、研究者や収集家っていうのはとにもかくにも有象無象のものを持ってきてくれる人を拒まないものだから、
江上さんも三越事件のことは知っていたけど、あれこれと自分のところに運んでくるイライと付き合っていたのかもしれないな。

(中略)
だけど・・・イライも逆に江上さんには振り回されたりもしたんじゃないかな』」

三越贋作事件に対する江上波夫の当時のコメントは必見。よくもまぁ、いけしゃあしゃあと「まったくのニセ物だと断言する」と言えたものです。

ところでこの作品、レビュータイトルに挙げたように本編だけなら間違いなく☆5個級の面白さなのですが、
唯一の難点は、話が突然著者の七尾氏自身の話になったとき。

「やはりこの事件には、私の生き様を賭けてでも、解明するべき『なにか』が、確かに潜んでいる・・・」

『生き様』は俗語で、本当は『死に様』なのですが、というネタは置いておくとしても、
ここまでカッコよく言っておきながら(個人的にはこの時点で3秒ほど白けましたが)、

「私は、イライの妻、里子に同じ雪国の血が流れていることを、イライの逮捕直後に知った。(中略)同じ雪国の空気を私は吸っていた」

「かつては豪雪地帯だった金沢も、私の成長とともに、年々、降雪量は減っていた。80年代に入ると、
もはや雪下ろしの光景さえ珍しいものになりつつあった」

「里子が上京し、さらに米国に渡った70年代、雪国の町々にはいまだ、旧態依然とした『立身出世』への露骨で強い鼓動が確かに脈打っていた」

なぜ、本編とは関係のない話がこうも散りばめられているのか。しかもこれ、七尾氏の故郷である石川県に対する私怨としか思えない。
何度も何度も、本編の途中で腰どころか背骨まで折られる。

さらに、「確かに、戦前と現在では、その時代背景も大きく異なっている」と断りを入れながらも、
イライが起こした事件を『いわゆる東京裁判』に結びつけるワケのわからなさ。

極めつけは、「後書き」の最後の言葉。

「(前略)ここ銀座に立ち、私は、始まりの場所を、終わりの場所にしたかったのだ。そして私も消えよう。銀座の夜が明けぬうちに・・・、
またどこかで同じ宴が繰り返される前に・・・、狂気と乱痴気が世を支配する、その前に・・・」

ごめんなさい、七尾先生。ノンフィクションなのですから無理にカッコつけなくていいです。これはさすがに、ちょっと寒かったです。
塩見鮮一郎先生のように読点(とうてん)が異常に多いことなんてどうでもいいですけど、この寒いのは今後なんとかしてください。

本書は上記のように、本編だけなら文句なしの面白さ。著者の故郷・石川県に対する恨みつらみと、理解不能な表現方法が
クレイモア地雷のようにあちこちに仕掛けられていますが、それを差し引いても本編は面白いです。かなりオススメの一冊です。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R37QMQEZQM2ZJU/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4794220316


田中英道さんは古代史や歴史だけでなく専門の西洋美術史でも判断力ゼロだったのですね。

しかし、何故こんなアホが東北大学教授にまでなれたんだろう?

32. 中川隆[-12448] koaQ7Jey 2019年2月04日 16:47:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

日本国史 世界最古の国の新しい物語 – 2018/6/2
田中 英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%8F%B2-%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4594079822


【内容紹介】

歴史は正しく修正しよう!
最新の歴史研究を踏まえた「田中日本史」の決定版。
歴史とは国家の「来歴」を語る「物語」である!


高天原は関東にあった! ?
天孫降臨はフィクションではない! ?

・神武天皇の実在を示す日本独特の巨大な前方後円墳
・法隆寺は日本人の精神性の結晶
・白村江の戦いを契機に生まれた日本の対外的国家観
・社会福祉活動を政治に反映させた光明皇后の功績
・東大寺の再建によって結びついた天皇家と源頼朝
・外国人を巧みに利用して外交方針を定めた徳川家康
・明治維新最大のポイントは律令制の復活にあった
・三島由紀夫の死と日本人のあるべき生き方……他


【目次より】

第一話 日高見国――縄文・弥生時代、関東にあった祭祀国家
第二話 天孫降臨――関東から九州へ、船で渡った瓊瓊杵尊
第三話 大和時代――神武天皇と日本の統治
第四話 飛鳥時代――日本人の神髄「和」の思想の確立
第五話 白鳳時代――律令国家の誕生と国家意識の確立
第六話 奈良時代――日本の古典を成熟させた天平文化
第七話 平安時代――貴族が極めた宮廷文化の頂点
第八話 鎌倉時代――武家政治が生み出した仏教美術
第九話 室町時代――現代に継承される日本文化の誕生
第十話 戦国・安土桃山時代――西洋文明との邂逅
第十一話 江戸時代――百万人都市が育んだ庶民文化
第十二話 明治維新――西洋文明との格闘、そして独自性の追求
第十三話 日清戦争から大東亜戦争まで――近代化された日本の戦争
第十四話 現代に続く日本文化の財産

本書は平成24年刊行の田中英道著『日本の歴史 本当は何がすごいのか』(小社刊)をもとに、最新の歴史研究の成果を踏まえ、大幅な加筆を行い刊行するものです。


_____


カスタマーレビュー


777 日本はカースト制の多民族国家で、先住民は今も被差別同和部落民として迫害されながら生きています 2019年2月4日

日本に 1万年以上前からずっと住んでいる縄文人は、天皇一族に征服されて以降は被差別同和部落民として迫害されながらやっと生きながら得てきました。

大阪大学の名誉教授で形質人類学・解剖学の専門家の小浜基次さんは形質人類学の立場から日本列島の、 東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。
小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島から来たなどということはまったくの誤りだと強調されているのです:

形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。
とし、
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。
と述べている(図2参照)。
重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。

▲△▽▼

小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」 『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落
われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。
(中略)
身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)

先住民なのか、朝鮮からの渡来人なのかは一重瞼か二重瞼か、で大体わかります:

●日本人Y-DNAハプログループ比率 (2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

D1b--32% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O1b2-32%(旧表記O2b): 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O2---20%(旧表記O3) : 漢民族、縄文人・弥生人と混血していなければ一重瞼
C2----6% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼
C1----5% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O1b1--1%(旧表記O2a): 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O1a---1% : 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼
N1----1%
D1a,Q1--1%未満

天皇一族は一重瞼か奥二重瞼なので、朝鮮から 1700年位前に渡来してきた漢民族の可能性が高いです。

▲△▽▼

纏めますと

日本は天皇一族が日本を占領した1700年前からずっと階級社会
日本は古墳時代以降ずっと厳格なカースト制(氏姓制)の国

差別の実態は家柄による結婚相手の選別です。

穢多・蝦夷・アイヌ・琉球人:縄文人の子孫で Y-DNA は D と C
小作人・貧農:縄文人と長江の稲作漁労民の混血民の子孫で Y-DNA は D と O1: 乱交で父親が誰かわからない、財産無し
豪農、地主:長江の稲作漁労民の子孫で Y-DNA は O1、百姓、家柄で結婚相手を選別する
支配階級:渡来人(朝鮮に住んでいた古代漢民族)、O2, 弥生時代後期から日本に入って来た、苗字を持つ、家柄で結婚相手を選別する

皇室に伝わる昔の言葉や上代日本語は9母音で百済系朝鮮語と同じ母音数

アイヌ語、琉球語、万葉集の東歌は5母音なので、縄文人(Y-DNA は D と C )の言葉は5母音

天皇一族のY-DNAは朝鮮系の O1 か O2

33. 中川隆[-10525] koaQ7Jey 2019年5月13日 09:05:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1761] 報告

田中英道は

『邪馬台国は存在しなかった』(勉誠出版、2019年)
https://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/458523408X


邪馬台国と卑弥呼の存在否定論を展開している。


___

諏訪春雄通信 854回 (2019年5月6日更新)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


 Y 日本の女帝

邪馬台国 卑弥呼


倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島に依りて国邑をなす旧百余国漢の時朝見する者あり。今使訳通ずる所三十国郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国をへて、あるいは南し、東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里。


その国、本また男子を以て王となり住まること七、八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大なるも夫婿なく男弟あり。佐けて国を治む王となりしより以来見るある者少なく婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり。飲食を給し辞を伝え居処に出入す。宮室楼観城柵厳かに設け常に人有りて兵を持して守衛す。(「魏志倭人伝」)


邪馬台国の卑弥呼は中国で三世紀ごろに編纂された歴史書『三国志』のなかの『魏志倭人伝』の上掲の記事による。しかし、その史実については議論があり、なかにはその存在自体を疑う説すらある。

たとえば、田中英道氏は『邪馬台国は存在しなかった』(勉誠出版、2019年)で、


邪馬台国も卑弥呼も『魏志倭人伝』以外に記録がない、

邪馬台国も卑弥呼も蔑称である、

『魏志倭人伝』は伝聞をもとに構成された物語である、

日本に卑弥呼を祀った神社が存在しない、ただ一つ存在する神社は昭和57年に建立された、

などの多くの理由をあげて、存在否定論を展開している。

 たしかに、『魏志倭人伝』の記述通りの固有名詞を持つ国や女王が存在したか、どうかには疑問がのこるが、このような国の制度があったことは信じられる。

 日本の女帝とヒメ・ヒコ制 
 

日本の古代に姉妹と兄弟が祭事と政治を分担する統治形態ヒメ・ヒコ制が存在した。地名∔ヒメと地名∔ヒコの名の男女が分担する。

『古事記』・『日本書紀』・『風土記』などには宇佐地方(豊国)にウサツヒコとウサツヒメ、阿蘇地方にアソツヒコとアソツヒメ、加佐地方(丹後国)にカサヒコとカサヒメ、伊賀国にイガツヒメとイガツヒコ、芸都(きつ)地方(常陸国)にキツビコとキツビメがいたことを伝えている。また『播磨国風土記』では各地でヒメ神とヒコ神が一対で統治したことを伝えている。

その史実を反映して、日本の各地に百社近くヒメ・ヒコで一対となる神社がのこされている。これらをすべて虚構と片付けることはできない。

 

 

このヒメ・ヒコ制の根底には東南アジアから東アジア一帯に広まる姉妹の霊性が兄弟を守護するオナリ神信仰がある。

沖縄にオ(ヲ)ナリ神とよばれる、兄弟を主語する姉妹の霊力に対する信仰がある。はやく伊波普猷(いはふゆう)が『をなり神の島』(楽浪書院一九三八年)で、柳田国男が『妹の力』(創元社、一九四〇年)で論じた問題であった。

オナリは、奄美、沖縄、宮古、八重山の諸地域で、兄弟から姉妹をさすことばである。姉妹から兄弟をさすときはエケリという。

オナリ神は呪詛にも力を発揮するが、多くは兄弟が危機に陥ったときに守護してくれる。航海や戦争に出発の際、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪を持たせ、兄弟が危機に陥ったときに、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶという。

姉妹は兄弟に対して霊力で守護し、他方、兄弟は姉妹に対し、日常生活で守護の役割を果たす。しかも、家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができる。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)などとよばれる地域の信仰関係、聞得大君(きこえおおきみ)と王などの王権の信仰関係である。

この信仰の源流については、東南アジアに求める説が有力である。オナリ神を最初に学問の課題として体系化した柳田国男は、オナリ神の源流を日本の外に求めることはしなかったのであるが、柳田の影響下に、戦後、この問題に取り組んだ社会人類学者の馬淵東一は、東南アジアとの関係を強調した。(「沖縄先島のオナリ神」『日本民俗学』一九五五年)

さらに、馬淵の教え子の社会人類学者の鍵谷明子氏は長期のインドネシア調査を続け、その成果を『インドネシアの魔女』(学生社、一九九六年)としてまとめた。鍵谷氏は、インドネシアの小スンバ列島のなかのサブ島、ライジュア島という二つの島を二十年近く毎年訪れ、沖縄のオナリ神信仰と一致する信仰を発見した。この二つの島では、兄弟が遠い旅に出るとき、必ず姉妹に知らせ、姉妹はイカットとよばれる手織りのかすりの布を贈る。このイカットには、兄弟を守る強力な霊力があると信じられている。

馬淵・鍵谷両氏の研究によって、オナリ神信仰の源流は、確定したように思われていた。


しかし、と私は考える。日本の古代神話でも、イザナギ・イザナミの国生み神話、天地分離神話、海幸彦・山幸彦神話などの王権神話の重要なものが、東南アジア起源として説明されていたが、私は、二〇〇五年に角川書店から刊行した『角川選書 日本王権神話と中国南方神話』で、これらの神話の原型が中国長江流域の少数民族神話にあることを、多くの実例をあげて明らかにした。同じことが、オナリ神についてもいえるのではないか。

東南アジアに、日本の神話や習俗と類似するものがのこっているのは、多くの場合、中国大陸から左右対称にせり出していったものの、末端残留現象として説明できるのである。

オナリ神信仰をアジア起源とすると、説明のつかないことがある。

沖縄のオナリ神信仰と相似の信仰が本土日本のヒメ・ヒコ制である。もしオナリ神が東南アジア起源なら、本土のヒメ・ヒコ制も東南アジア起源となるのであろうか。

ヒメ・ヒコ制は、すでに説明したように、兄弟と姉妹が政治と神事を分担する統治の形態である。一般に、「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名を持つ男女が、一対となって、その地域を支配する原始的な王権のあり方であった。具体例は、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメを始め、日本の古代にかなりの数拾い出すことができる。その原型は、卑弥呼とその弟の関係にまでたどり着くことができる。あきらかにオナリ神信仰に一致する。

ヒメ・ヒコ制は女性の霊力に対する信仰である。このような信仰は、中国南部に過去もいまも広がって存在する。

女性が霊力を持つと信じられる理由の一つは、神がかりによる特殊な予知能力を身につけているからである。憑霊型の女性シャーマンである。日本の古代の女王であった卑弥呼、壱与、神功皇后、飯豊女王の四名ともにあきらかに憑霊型の女性シャーマンであった。長江流域には、神が巫女の身体に宿るシャーマニズムの憑霊型が盛んであり、日本の古代の巫女の女王の源流は、長江流域に存在する可能性が考えられるのである。

このようにのべてくれば、邪馬台国や卑弥呼が単なる中国歴史書の著者が創りあげた架空の物語などでないことは明らかである。古代日本に実在した国家制度の正確な記述である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html

34. 中川隆[-9248] koaQ7Jey 2019年6月28日 10:01:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3257] 報告


右翼が 悪名高い偽書 でも何の疑いも無く信じてしまう例:


【桜無門関】馬渕睦夫×水島総 第7回「イラン、中国、そして日本〜トランプとディープステートの“世界支配”の違い」[桜R1-6-27] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LSpzN66HgyE

出演:馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)・水島総(日本文化チャンネル桜代表)


の中で次の自称ユダヤ人の書いた大昔の本が絶賛されています:

Bell Boyd‏ @Bell_Boyd

モルデカイ・モーゼは日本人。

マルクスのユダヤ名がモーゼス・モルデカイ・レヴィであることから発想して自称したと思われる。
モルデカイはそもそもモーゼのことで、モルデカイ・モーゼはあり得ないユダヤ名。

その思想は日本会議系で、戦前のユダヤ研究を引き継ぐもの。江崎道朗氏と同じ系統。
21:40 - 2017年9月2日
https://twitter.com/bell_boyd/status/904202479444754433

あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」(復刻版) – 2019
モルデカイ・モーゼ (著), 久保田政男 (寄稿)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%8B%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%87%BA%E6%82%94%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%AC%9D%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E3%80%8D%EF%BC%88%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%EF%BC%89-%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC/dp/499108900X/ref=sr_1_2?qid=1561675895&refinements=p_27%3A%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC&s=books&sr=1-2&text=%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC

商品の説明

日本国憲法の元となったワイマール憲法は、ユダヤ人が迫害されてきたヨーロッパでユダヤ人政府のワイマール共和国ができたときに、大多数のドイツ人の中に生きるユダヤ人が復権するために作った人民飼い殺し用の憲法らしく、どうせなので日本でもその写しを戦後の日本でも使ってやれ、と適用されたそうです。

(ちなみにドイツではその危機にドイツ人が感づき、反発でナチズムが横行してユダヤ人が迫害された)

で結果、日本では物質的豊かさと反比例して、日本人の精神・家族・国家をここまでぐちゃぐちゃにしてしまった。

で、このユダヤ人の老人モルデカイ・モーセさんは日本人にはいろいろよくしてもらったのに申し訳ない…最後に謝りたい、とこの告白をしたのがこの本というわけです。

憲法の内容とその効果、資本主義と共産主義をの両方を道具として生き残るための使ってきたユダヤの歴史などを詳しく紹介されています。


<馬渕睦夫氏による推薦文>

本書が東西冷戦最中の1979年に発刊されたのは奇跡と言えます。
当時ソ連を信奉してやまない日本の左翼とは、ユダヤ思想のエピゴーネンであることがばれてしまったからです。

本書を読めば、わが国の國体の真髄である「君民一体」こそ、最先端の民主主義体制であることに誇りを持てるはずです。
〜馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使) 〜

========================

<田中英道氏による推薦文>

戦後、日本を占領したアメリカといいGHQといい、その中核はユダヤ人であることを如実に示した好著である。

四十年前、この本が出た時、買い求めたが、これを左翼の論壇が抹殺したきた。
こうしたユダヤ人の懺悔を聞きたくなかったのだろう。
なぜなら、日本の論壇こそ、左翼ユダヤ人たちが支配してきたからだ。
〜田中英道(東北大学名誉教授)〜

========================

<著者略歴>

モルデカイ・モーゼ: 1907年ウクライナのオデッサ生まれ。父親は哲学者で革命家、ロシア革命では指導的役割を果たした。

レーニン没後ソ連におけるユダヤ権力の将来に見切りをつけた父親と共にワイマール体制下のドイツへ亡命。父親は美濃部達吉博士に「天皇機関説」を説いたゲオルグ・イエリネックと親交があった。

ベルリン大学で政治学、哲学を専攻後、国際連盟労働局で極東問題を担当。独ソ不可侵条約が結ばれると、その本質がユダヤ勢力の抑圧にあることを看破し、ハルビンを経て上海に亡命。

「サッスーン財閥」の顧問となり、日本の国体、神道、軍事力の研究に従事。1941年米国へ亡命、ルーズベルト等のニューディル派のブレーントラストとして活躍。1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画。戦後十数回来日した。

========================

<復刻版にあたって>

本書は、1979年に日新報道から出版され注目された話題の書でしたが、作者と翻訳者の死亡、出版社の倒産などにより長らく絶版となっておりました。
まるで目からウロコが落ちるような興味深い著作は、賛否両論を交え、現在でもネット上で話題になっているほどです。

多くの日本人にこの著作を読んで頂きたく、このたび有志による自費出版でその復刻版をつくらせていただきました。 また、ありがたいことに、尊敬する馬渕睦夫先生、田中英道先生からの推薦文も頂くことが出来ましたので、ぜひご一読頂けますと大変幸いです。

沢口企画 沢口祐司 

▲△▽▼


カスタマーレビュー

小実昌 5つ星のうち3.0

英文のWikiでは作者は訳者自身だと書いています。 2014年11月7日


http://en.m.wikipedia.org/wiki/Antisemitism_in_Japan

「日本人に謝りたい」で検索すれば、ある方が章ごとの要約を紹介されています。ただし、その方は信ぴょう性があるのだろうかについてはいまだにわからないと書いています。

そこで調べました。日本語のwikiには載っていませんでしたが、英語のwikiにはありました。

訳者の自作だろうという内容です。

Post WWIIのところに掲載されています。英文の原文を探しましたが、どこにもありませんでした。多分これが正しいのでしょう。

ただし、面白いです。アルジャー・ヒスはヤルタ会談に同席していますが、ソ連のスパイであるとマッカーシーに追及され、公職追放されました。JFKはマッカーシーを尊敬したいたという話ですし、CPスノーを辱はじめ、アメリカに共産主義者は多いという話は昔からあります。ですから、書いてあることはたとえ訳者が自分で書いた内容であっても、本当または本当に近い可能性はあるのではないでしょうか。一人一人の読者が判断すべきなのでしょう。
http://en.m.wikipedia.org/wiki/Antisemitism_in_Japan

▲△▽▼

あらいやすまさ 5つ星のうち3.0
モルデカイ・モーゼ著「日本人にあやまりたい」のこと 2014年6月9日

 モルデカイ・モーゼ著「日本人にあやまりたい」のこと
1938年うまれ、男性です。

先日、私が所属する総合知に関する学会で ひとりの発表者から紹介された本です。 

*モルデカイ・モーゼ著(久保田政男訳)「日本人にあやまりたい」〜あるユダヤ人の懺悔 日新報道 2000年 新版です。

*この本の初版は1969年。(ちなみにこの年は 私がアメリカに留学します。日本は東大紛争。ヴェトナム戦争の反戦でアメリカの大学での運動が活発化。重厚長大の経済でGNP万歳のころでもありました)

唐突ですが イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」は1970でした。
*上記のモーゼの本の目次を上げてみますと以下です;

1.戦前の日本に体現されていたユダヤの理想
2.二元論的思考法 典型的なユダヤ的思考パターン
3.日本人の知らない東京裁判の本質
4.戦後病理の背景
5.マルクス主義はユダヤ民族解放の虚偽仮説
6.極左的戦後改革を強行したユダヤの秘密


*内容の特徴

・資本主義と共産主義がユダヤ人の陰謀であるという説明をしています。

・ルッソー、レーニン、ルーズベルトそしてニューディール派がユダヤ人であるという前提としている。

・日本の天皇制はユダヤ世界制覇の筋では破壊すべきとされて 戦前から戦略が練られていた。

・日本への占領で知った昭和天皇の態度から天皇制、これがユダヤ人の理想であることを確認したという。

*内容に対する私見1

・全体の主張として ユダヤ人による世界制覇が民族の前提としていうという内容に貫かれているようです。
読者の日本人にとっては、すこしプライドをくすぐられるものでありましたが、とっさにある種の違和感を感じました。

・社会学者橋爪大三郎さんの「旧約をよむ」という公開講座をこの4年間受け、この夏で読み終わるところであるが、このなかで彼らはバビロン捕囚など 民族滅亡に瀕する受難をなんども経験するが かれらが一転、世界制覇につながる筋をあたえる根拠箇所が見いだされない。

旧約の経典外(apocrypha)については私は、目をとおしていないが 彼らの民族の規範となるのは、現在の旧約(タナハ)としてとらえてよいとおもう。


・「ユダヤ議定書」というのがあって、ヒトラーはこれを根拠にユダヤ世界制覇の魂胆がありとして 民族絶滅(cleanse)の口実としたのであるが この書は偽であったことが判明している。(ノーマン・コーン「ユダヤ人世界征服陰謀の神話」) 

・私は、著者モルデカイ氏が ユダヤ人であればたぶんこのような筋で 論を展開することはないであろうという直観をもちます。

・因みに イザヤベンダサン 「日本人とユダヤ人」1970(「ユダヤ人」と略す)でその著者と目されて、本人も否定しなかったのは山本七平( 1921~1991)です。
この本「ユダヤ人」は 当時の私にとっても世界のなかでの日本の文化を知るうえで つよい知的な刺激をうけたことを記憶しています。

・エール大学の博士課程で仏教天台宗の研究のために当時日本に滞在していた友人ポール・グローナー氏(いまはたぶん高名な教授になっているとおもいます)はイザヤベンダサンはユダヤ人かの私からの問いに対して 即座に日本人とおもうと答えました。なぜなら 彼があつかうへブル系の文献はごく一般的なものであるにかかわらず、日本系の文献はきわめて特異であるからと指摘していました。 彼の指摘が正しかったことはその後の経過で証明しています。


 
*いま仮説として モルドカイ・モーゼというペンネームのもうひとりの山本七平がいるとします。

・候補としては 以下の三人としてみます; 山本七平、訳者の久保田政男、そのほか(モーゼ氏)

・それで この著と「ユダヤ人」の出版時機を重ねてみるとおなじころです。ただ文体からくる個性や肝心の論の運びが異なり別人のようにおもわれました。(これも直感的で根拠はありません。)

・訳者久保田政男氏に焦点をうつします。奥付からは 1932(昭和32年生まれ、大阪)で 山本氏は(1921生れ、東京)で約一回り後の世代です。 共通しているのはともにキリスト教系の高等教育機関である青山学院に学んでいるところです。英字新聞の編集長などを経歴としていますが、この辺がトレースできうのかどうなるのか。一般論としてここでの学歴経歴の信ぴょう性が気になりました。。

・それ以外の著者としては やはり ユダヤ人のラビ、モルデカイ氏に焦点をあてます。

・奥付では、ウクライナ 1907生れ 父親が哲学者でロシア革命に関与したこと、ドイツに亡命してワイマール憲法に影響を与えたこと 本人もベルリン大学で哲学や法学で学位を獲たこと。高名な法学者ゲオルグ・イエリネックを通じて、美濃部達吉に「天皇機関説」を伝授したこと。アメリカに亡命してルーズベルトのブレーンになって 最後は日本の占領政策に関係したこととなっています。

・ところで、この書は訳書であるのに 原著の版権表示もありません。

・ここに書くほどの立派な人物ですから、英語のネットで はどうでるかMordekaiとMosで 当たります。

・Jewish Encyclopediaというのに確かにMordekaiというドイツ系ユダヤ人のアメリカ有数家系としてありました。とくに Mordekai Moseもでてきますが このひとは1707年ドイツ生まれのアメリカ人です。

・もちろん 先祖のなまえは継承しますから、ここにないからといって実在しないとはいえません。

*それやこれやで Wikipediaで項目「覆面作家」をひきますと、ここでは確定的表現でMordekai Moseは 久保田政男の「覆面作家」名であるとしてあらわれます。つまり 上記私の仮説である 「別の山本七平」がいるという結論をなります。

 
*内容に対する私見2

さて、出版のモラルという点に焦点を当てたいとおもいました。慣用的に「ペンネーム」や「覆面作家」(「覆面」と略します)で著者を表明し名乗る自由と権利は保証されるべきと考えます。問題は その意味するところが 他者の名誉を傷つけることになるかどうかで、ここに当然の品位と矜持が必要になります。


・ここでの 一番の問題は この著が ユダヤ人の人たちの目に触れるチャンスを配慮した前提に立っているかどうか。

・「覆面」効果によって 日本人にも、他民族に対する誤った認識をあたえる危険性もあります。
上であげた偽「ユダヤ議定書」とおなじ効果になります。

*そういうことを考えるうえで 非常に勉強になった本でありました。 


・章立ての構成が 筋通っているので, 小説として 仮説をたのしむという意味では 一読に値します。しかし、基本的には著者がユダヤ人であることに疑念がぬぐいきれません。 このことはものを書く人間としては もっとも重要なことであります。 こここを一歩誤ると日本人にたいしてもさることながら、ユダヤ人に対しても 彼らについての真の認識を遠ざけるものであります。、また、このことが、この本の価値をも傷つけてきます。

この本を原語であろう英語での発行も ひろく問題をなげかける意味でおもしろいのではないかと思います。 いずれにしても 読者の思考判断の力がためさる本であることを認めるものであります。。


▲△▽▼


夜帆。@楽利多マスター 5つ星のうち1.0
原爆機の名前が「天皇を抹殺せよ」という意味だったってホント? 2003年6月12日

 この本は、1972年に出た旧版で読んだ。
 正直、なかなか良い指摘もないではない。

 しかし、最終章へ来て、原爆搭載機の名前「エノ(ー)ラ・ゲイ」が「天皇を抹殺せよ」という意味であるという話になって、一挙にシラけてしまった (つ_;)。

 これが機長の母親の名前だというのはよく知られていることで、まさか機長の母親がたまたま「天皇を抹殺せよ」だったというわけでもあるまい。

 気になっていろいろ調べてみても、母親の名前説を覆すような資料は見つからなかったし、「天皇を…」説に言及している他の本の多くは出典が書かれておらず、まれに出典への言及があると、この本であった。

 そこで、ふと我に返って訳者の著作類の何冊かに目を通してみると、ホロコーストでヒトラーに悪用された例の有名な偽書『ユダヤ議定書』が、偽書であることを半ば知りつつ紹介したりしているではないか (これについてはノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話』を参照)。

 こうなると、いったい、本当のユダヤ人が、そのような人に自著の翻訳をまかせるだろうか、という疑問がふつふつと沸いてきた。

 このモルデカイ・モーゼという取って付けたような (失礼!) ユダヤ系の名前の人物は、本当に主張されている通りの経歴の人なのであろうか?

 あるいは、第二、第三のイザヤ・ベンダサン氏 (未亡人および子息の証言により、その正体が「訳者」の山本七平氏であることが判明している) なのではないのか?
 残念ながら、自分には、この疑念を充分に払拭してくれるような記述を、本書の中に見つけることはできなかった。

 このページに並んでいる「この本を買った人はこんな本も買っています」のコーナーに並んでいる本がどれも意義深いものばかりであるだけに、それと一緒にこの本が読まれているのかと思うと、何か暗澹としてしまうのである……。


___

黒住玲3年前

Enola Gayについて、宗教哲学に詳しくイディッシュ語が堪能な方々に質問する機会を得たので、結果を御報告します。Enola Gayは、●●を屠れ!という意味を持つ言葉なのだそうです。

順に説明すると、この言葉は母親の名前であると同時に、戦意高揚を目的とした米語の符牒になっているそうです。enolaの綴りを機体に描こうとしたとき逆に読んでalone。この場合のgayは派手に決めてやろう!という意味で、超兵器の原爆を日本に持って行って落す自分達一機だけで、天皇に対して戦争を終結に導く派手な決定的一撃を加えることができる!という意味を持つそうです。たった一発で世界大戦を終結できる超兵器を運ぶに相応しい機体のコードネームだと、ある方の指摘を受けました。

「●●を屠れ!」というイディッシュ語の説明のほうは、門外漢に分かり辛い専門的すぎる内容で、かなりの量の予備知識が必要になるうえに、一部私の理解を超えるためこの場ではしません。文字チャットで一時間半にも及ぶ量になりました。

要は米語との掛詞になっているのだそうです。母親の名前を入れれば、3重の掛詞ということになります。もちろん、元々は母親の名前から始まった戦意高揚の合言葉だと思われます。一般の人々は、米語の符牒と理解していれば十分でしょう。

___


あふぁ7年前

「シオンの議定書」といえば、陰謀論者のバイブル扱いされ、トンデモ本扱いされるか、「偽書」のひとことで切り捨てられているのが現状です。

私は決して陰謀論に全面的に与するものではありません。しかし、結果的に、その内容がマスコミなどを利用した大衆の愚民化手法や、金融による経済支配のノウハウなどを正確に述べているとしたら、出典がどうあれ、問題の書であることは間違いないと思います。

▲△▽▼


次郎 5つ星のうち2.0
自分には判断が付かないが 2011年5月13日

不勉強な自分では、どこがどうと具体例をあげてこの本の真偽を見極めることが難いのですが

もしこれらが本当なら、歴史がひっくり返るだろうってな内容であるにも関わらず、そう表だって議論にあがらない。そこそこ有名な本であるのに関わらず。
とすればそもそも、事実だと見なすには決定的な何かが欠ける、
或いは明らかな誤りがある、論外の産物だと取れるんではないかなと。

日本人の耳障りの良いことを並べ立ててあるところも、どこか不自然に思います。
とはいえ全部が全部嘘で固められたものでも無さそうで、
ここの批評で先の方が書かれてあった通り、何らかの目論見によるものだとすれば、
まさしく陰謀の陰謀って感じです。

___


イオンのバベル4年前

>もしこれらが本当なら、歴史がひっくり返るだろうってな内容であるにも関わらず、そう表だって議論にあがらない。そこそこ有名な本であるのに関わらず。
とすればそもそも、事実だと見なすには決定的な何かが欠ける、
或いは明らかな誤りがある、論外の産物だと取れるんではないかなと。

上のような見方は、非常に多くの人が抱いているのではないかと想像します。このような社会心理から事実を判定するのはおそらく根本的に誤まっています。このような巨大な歴史的な流れは、少しのことでは変わりようがないのではないか。いかに論理的に大転換を起こすような内容であっても、ただ1つの書物にしか過ぎない、とも言えるのです。また、この書物の場合は、日本の上層部を覆い尽くしている左翼勢力によって無視されているのが大きいでしょう。彼らにはこの本の内容は頭の中に入ってこないのです。そのように脳の神経回路が出来上がっていますからね。


▲△▽▼

Аmаzоn力ス夕マレビュ一 5つ星のうち1.0
純真な日本人の無知に付け込む悪質な差別プロパガンダの書 2006年6月8日


本書は、オデッサ出身のユダヤの長老がユダヤ人の立場からユダヤ陰謀論を肯定する内容になっていますが、山本ベンダサン同様、「訳者」久保田政男がユダヤ人を騙って書いた本であることは明白でしょう。根拠は以下の通りです。

1.訳書なら必ずある、原著の版権表示がない。

2.我々ユダヤ人はスクリーン、スリル、セックスの3Sで非ユダヤ人の思考力を奪い家畜化してきた云々という記述は、外国語が出来ない日本人に特有の誤りを含んでいる。(スリルの綴りはthrillです。sではありません)

3.エノラゲイはイディッシュ語で「天皇を殺せ」という意味だなどというデタラメを申し立てている。(「エノラ」も「ゲイ」もイディッシュ語の動詞の命令形とは語形が全く違います。それに、天皇に該当するイディッシュ語の名詞Keyserはどこにある?)

4.ロシア系ユダヤ人に「モーゼ」などという苗字はない。(モイセーエフ、モイセイヴィッチ等ならわかりますが)

山本ベンダサンは無知なりにユダヤ人に敬意を払っていましたが、久保田モーゼにはそれもありません。それも、イディッシュ語に対する一般日本人の無知につけこんで「天皇を殺せという意味だ」などという悪質なデマを流す段に至っては、ほとんど犯罪です。「ユダヤ陰謀論自体が一つの巨大な陰謀である」という皮肉なセオリーを雄弁に証明する一冊と言えるでしょう。

_____


黒住玲3年前 【1】日本人向けに書かれた、翻訳を前提とした原稿は存在しても、原著は存在しないと思いますよ。なぜあなたは原著が出版されていなくてはならないと考えたのですか?短絡的発想に基づく、根拠のないただの盲信にすぎないのではありませんか?もしくは、原著の存在を確認なさったのですか?御主張の根拠をお示しください。

【2】3Sの説明は日本人向けにしているのですから、ユダヤ人の著者が日本人のことをよく理解したうえで、言葉を選んで分かりやすく書いてくれているだけのことなのではありませんか?日本人のことを知り尽くしたうえでGHQの仕事をしていたユダヤ人の著者が、日本語と日本人の発想を知らないと考える根拠をお示しください。また、翻訳者は無教養な「外国語が出来ない日本人」であると断定した根拠をお示しください。色眼鏡を掛けて、完全な見当違いの錯誤に陥っているように見えますが、客観的な視点から正しい判断が出来ていますか?

【3】「エノラ」か「ゲイ」がイディッシュ語の動詞の命令形でなくてはならないと考える根拠は何ですか?母親の名前enolaの綴りを機体に描くとき逆に読んでalone。それにgay=派手に決めてやろう!という言葉を組み合わせれば、超兵器の原爆を日本に持って行って落す自分達一機だけで、天皇に対して戦争を終結に導く派手な決定的一撃を加えることができる!という意味を持つ、戦意高揚を目的とした米語の符牒になっているとは思いませんか?視野狭窄に陥って、こんな簡単な言葉の組み合わせにも気付かないあなたは、本当に著者や翻訳者を上から目線で侮ってバッシングできるほど、外国語に堪能な優れた正しい物差しを持った有識者なのですか?また、あなたはイディッシュ語が堪能なユダヤ人のラビ(長老)に向って、この符牒の意味について質問して、確かな見識に基づく回答を得てコメントをお書きになっておられるのでしょうか?じつは、皇統の母方のなかで最も貴いお家とされて真人の筆頭に位置付けられた、神功皇后を輩出したとされ、初日の出を拝んで天照大神の神託を下す神事を司る息長氏の斎王家の御宗主様の母親は、ヨーロッパ育ちです。そのため当代御宗主様はイディッシュ語が堪能です。女狩衣仕立ての軽装の御神服姿で、御宗主様がユダヤの長老達の参拝をお受けになった後に設けられた雑談の席では、御宗主様の言葉を取り次ぐ者と長老達の間でイディッシュ語が使われていました。そこで私は両者に対して尋ねてみました。結果、Enola Gayは「●●を屠れ!」という意味を持つ符牒という、双方同意の御回答を得ることができました。したがって、この言葉が米語とイディッシュ語の掛詞になっていることが理解出来ず、言葉の組み立てがよく分からないまま、間違った判断をなさっているのは、宗教哲学や伝統的な言葉に詳しい有識者の御宗主様やラビではなく、あなたのほうではないのですか?

【4】なぜモーゼがロシア語であると確信(盲信)なさっておられるのですか?私はモーゼはユダヤ人の姓の日本語の標準的な表記(正しい翻訳)だと思っています。違いますか?ユダヤ人を迫害して命を奪った帝政ロシアを嫌って流浪した結果、米国やイスラエルに在住することになったユダヤ人達が、捨て去ったロシア系の姓を好んで使いたがると本気でお思いになっておられるのですか?そう盲信なさる根拠は何ですか?私なら、レッドパージの迫害を避ける意味でも、GHQに所属した時点で本来の姓に戻すことを考えますが、この発想は間違っていますか?

あなたは、この本の著者と翻訳者を、悪質なデマを流す犯罪者と上から目線で無理解に誹謗中傷なさっておられるように見えますが、稚拙なレベルの錯誤だらけのバイアスがかかった暴力的な言葉を書き連ねた、冷静さや客観的判断を欠くレビューに陥っていませんか?

たとえば、「日本人は死んだ」という本を書いておられるユダヤの長老マービン・トケイヤー氏は、実際に大勢の日本人の前で講演なさっておられるので、実在を疑問視する人はまずいないようです。主張なさっておられることは、モルデカイ氏に近い内容です。つまり、ユダヤの長老達がある程度共通して抱いていた日本観が、正直にそのまま丁寧に記されている一書だとは思いませんか?  

カスタマーレビュー


夜帆。@楽利多マスター 5つ星のうち1.0
原爆機の名前が「天皇を抹殺せよ」という意味だったってホント? 2003年6月12日

 この本は、1972年に出た旧版で読んだ。
 正直、なかなか良い指摘もないではない。

 しかし、最終章へ来て、原爆搭載機の名前「エノ(ー)ラ・ゲイ」が「天皇を抹殺せよ」という意味であるという話になって、一挙にシラけてしまった (つ_;)。

 これが機長の母親の名前だというのはよく知られていることで、まさか機長の母親がたまたま「天皇を抹殺せよ」だったというわけでもあるまい。

 気になっていろいろ調べてみても、母親の名前説を覆すような資料は見つからなかったし、「天皇を…」説に言及している他の本の多くは出典が書かれておらず、まれに出典への言及があると、この本であった。

 そこで、ふと我に返って訳者の著作類の何冊かに目を通してみると、ホロコーストでヒトラーに悪用された例の有名な偽書『ユダヤ議定書』が、偽書であることを半ば知りつつ紹介したりしているではないか (これについてはノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話』を参照)。

 こうなると、いったい、本当のユダヤ人が、そのような人に自著の翻訳をまかせるだろうか、という疑問がふつふつと沸いてきた。

 このモルデカイ・モーゼという取って付けたような (失礼!) ユダヤ系の名前の人物は、本当に主張されている通りの経歴の人なのであろうか?

 あるいは、第二、第三のイザヤ・ベンダサン氏 (未亡人および子息の証言により、その正体が「訳者」の山本七平氏であることが判明している) なのではないのか?
 残念ながら、自分には、この疑念を充分に払拭してくれるような記述を、本書の中に見つけることはできなかった。

 このページに並んでいる「この本を買った人はこんな本も買っています」のコーナーに並んでいる本がどれも意義深いものばかりであるだけに、それと一緒にこの本が読まれているのかと思うと、何か暗澹としてしまうのである……。


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黒住玲3年前

Enola Gayについて、宗教哲学に詳しくイディッシュ語が堪能な方々に質問する機会を得たので、結果を御報告します。Enola Gayは、●●を屠れ!という意味を持つ言葉なのだそうです。

順に説明すると、この言葉は母親の名前であると同時に、戦意高揚を目的とした米語の符牒になっているそうです。enolaの綴りを機体に描こうとしたとき逆に読んでalone。この場合のgayは派手に決めてやろう!という意味で、超兵器の原爆を日本に持って行って落す自分達一機だけで、天皇に対して戦争を終結に導く派手な決定的一撃を加えることができる!という意味を持つそうです。たった一発で世界大戦を終結できる超兵器を運ぶに相応しい機体のコードネームだと、ある方の指摘を受けました。

「●●を屠れ!」というイディッシュ語の説明のほうは、門外漢に分かり辛い専門的すぎる内容で、かなりの量の予備知識が必要になるうえに、一部私の理解を超えるためこの場ではしません。文字チャットで一時間半にも及ぶ量になりました。

要は米語との掛詞になっているのだそうです。母親の名前を入れれば、3重の掛詞ということになります。もちろん、元々は母親の名前から始まった戦意高揚の合言葉だと思われます。一般の人々は、米語の符牒と理解していれば十分でしょう。

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あふぁ7年前

「シオンの議定書」といえば、陰謀論者のバイブル扱いされ、トンデモ本扱いされるか、「偽書」のひとことで切り捨てられているのが現状です。

私は決して陰謀論に全面的に与するものではありません。しかし、結果的に、その内容がマスコミなどを利用した大衆の愚民化手法や、金融による経済支配のノウハウなどを正確に述べているとしたら、出典がどうあれ、問題の書であることは間違いないと思います。

▲△▽▼


次郎 5つ星のうち2.0
自分には判断が付かないが 2011年5月13日

不勉強な自分では、どこがどうと具体例をあげてこの本の真偽を見極めることが難いのですが

もしこれらが本当なら、歴史がひっくり返るだろうってな内容であるにも関わらず、そう表だって議論にあがらない。そこそこ有名な本であるのに関わらず。
とすればそもそも、事実だと見なすには決定的な何かが欠ける、
或いは明らかな誤りがある、論外の産物だと取れるんではないかなと。

日本人の耳障りの良いことを並べ立ててあるところも、どこか不自然に思います。
とはいえ全部が全部嘘で固められたものでも無さそうで、
ここの批評で先の方が書かれてあった通り、何らかの目論見によるものだとすれば、
まさしく陰謀の陰謀って感じです。

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イオンのバベル4年前

>もしこれらが本当なら、歴史がひっくり返るだろうってな内容であるにも関わらず、そう表だって議論にあがらない。そこそこ有名な本であるのに関わらず。
とすればそもそも、事実だと見なすには決定的な何かが欠ける、
或いは明らかな誤りがある、論外の産物だと取れるんではないかなと。

上のような見方は、非常に多くの人が抱いているのではないかと想像します。このような社会心理から事実を判定するのはおそらく根本的に誤まっています。このような巨大な歴史的な流れは、少しのことでは変わりようがないのではないか。いかに論理的に大転換を起こすような内容であっても、ただ1つの書物にしか過ぎない、とも言えるのです。また、この書物の場合は、日本の上層部を覆い尽くしている左翼勢力によって無視されているのが大きいでしょう。彼らにはこの本の内容は頭の中に入ってこないのです。そのように脳の神経回路が出来上がっていますからね。


▲△▽▼

Аmаzоn力ス夕マレビュ一 5つ星のうち1.0
純真な日本人の無知に付け込む悪質な差別プロパガンダの書 2006年6月8日


本書は、オデッサ出身のユダヤの長老がユダヤ人の立場からユダヤ陰謀論を肯定する内容になっていますが、山本ベンダサン同様、「訳者」久保田政男がユダヤ人を騙って書いた本であることは明白でしょう。根拠は以下の通りです。

1.訳書なら必ずある、原著の版権表示がない。

2.我々ユダヤ人はスクリーン、スリル、セックスの3Sで非ユダヤ人の思考力を奪い家畜化してきた云々という記述は、外国語が出来ない日本人に特有の誤りを含んでいる。(スリルの綴りはthrillです。sではありません)

3.エノラゲイはイディッシュ語で「天皇を殺せ」という意味だなどというデタラメを申し立てている。(「エノラ」も「ゲイ」もイディッシュ語の動詞の命令形とは語形が全く違います。それに、天皇に該当するイディッシュ語の名詞Keyserはどこにある?)

4.ロシア系ユダヤ人に「モーゼ」などという苗字はない。(モイセーエフ、モイセイヴィッチ等ならわかりますが)

山本ベンダサンは無知なりにユダヤ人に敬意を払っていましたが、久保田モーゼにはそれもありません。それも、イディッシュ語に対する一般日本人の無知につけこんで「天皇を殺せという意味だ」などという悪質なデマを流す段に至っては、ほとんど犯罪です。「ユダヤ陰謀論自体が一つの巨大な陰謀である」という皮肉なセオリーを雄弁に証明する一冊と言えるでしょう。

_____


黒住玲3年前 【1】日本人向けに書かれた、翻訳を前提とした原稿は存在しても、原著は存在しないと思いますよ。なぜあなたは原著が出版されていなくてはならないと考えたのですか?短絡的発想に基づく、根拠のないただの盲信にすぎないのではありませんか?もしくは、原著の存在を確認なさったのですか?御主張の根拠をお示しください。

【2】3Sの説明は日本人向けにしているのですから、ユダヤ人の著者が日本人のことをよく理解したうえで、言葉を選んで分かりやすく書いてくれているだけのことなのではありませんか?日本人のことを知り尽くしたうえでGHQの仕事をしていたユダヤ人の著者が、日本語と日本人の発想を知らないと考える根拠をお示しください。また、翻訳者は無教養な「外国語が出来ない日本人」であると断定した根拠をお示しください。色眼鏡を掛けて、完全な見当違いの錯誤に陥っているように見えますが、客観的な視点から正しい判断が出来ていますか?

【3】「エノラ」か「ゲイ」がイディッシュ語の動詞の命令形でなくてはならないと考える根拠は何ですか?母親の名前enolaの綴りを機体に描くとき逆に読んでalone。それにgay=派手に決めてやろう!という言葉を組み合わせれば、超兵器の原爆を日本に持って行って落す自分達一機だけで、天皇に対して戦争を終結に導く派手な決定的一撃を加えることができる!という意味を持つ、戦意高揚を目的とした米語の符牒になっているとは思いませんか?視野狭窄に陥って、こんな簡単な言葉の組み合わせにも気付かないあなたは、本当に著者や翻訳者を上から目線で侮ってバッシングできるほど、外国語に堪能な優れた正しい物差しを持った有識者なのですか?また、あなたはイディッシュ語が堪能なユダヤ人のラビ(長老)に向って、この符牒の意味について質問して、確かな見識に基づく回答を得てコメントをお書きになっておられるのでしょうか?じつは、皇統の母方のなかで最も貴いお家とされて真人の筆頭に位置付けられた、神功皇后を輩出したとされ、初日の出を拝んで天照大神の神託を下す神事を司る息長氏の斎王家の御宗主様の母親は、ヨーロッパ育ちです。そのため当代御宗主様はイディッシュ語が堪能です。女狩衣仕立ての軽装の御神服姿で、御宗主様がユダヤの長老達の参拝をお受けになった後に設けられた雑談の席では、御宗主様の言葉を取り次ぐ者と長老達の間でイディッシュ語が使われていました。そこで私は両者に対して尋ねてみました。結果、Enola Gayは「●●を屠れ!」という意味を持つ符牒という、双方同意の御回答を得ることができました。したがって、この言葉が米語とイディッシュ語の掛詞になっていることが理解出来ず、言葉の組み立てがよく分からないまま、間違った判断をなさっているのは、宗教哲学や伝統的な言葉に詳しい有識者の御宗主様やラビではなく、あなたのほうではないのですか?

【4】なぜモーゼがロシア語であると確信(盲信)なさっておられるのですか?私はモーゼはユダヤ人の姓の日本語の標準的な表記(正しい翻訳)だと思っています。違いますか?ユダヤ人を迫害して命を奪った帝政ロシアを嫌って流浪した結果、米国やイスラエルに在住することになったユダヤ人達が、捨て去ったロシア系の姓を好んで使いたがると本気でお思いになっておられるのですか?そう盲信なさる根拠は何ですか?私なら、レッドパージの迫害を避ける意味でも、GHQに所属した時点で本来の姓に戻すことを考えますが、この発想は間違っていますか?

あなたは、この本の著者と翻訳者を、悪質なデマを流す犯罪者と上から目線で無理解に誹謗中傷なさっておられるように見えますが、稚拙なレベルの錯誤だらけのバイアスがかかった暴力的な言葉を書き連ねた、冷静さや客観的判断を欠くレビューに陥っていませんか?

たとえば、「日本人は死んだ」という本を書いておられるユダヤの長老マービン・トケイヤー氏は、実際に大勢の日本人の前で講演なさっておられるので、実在を疑問視する人はまずいないようです。主張なさっておられることは、モルデカイ氏に近い内容です。つまり、ユダヤの長老達がある程度共通して抱いていた日本観が、正直にそのまま丁寧に記されている一書だとは思いませんか?  

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英文のWikiでは作者は訳者 久保田政男だと書いています

日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懺悔 (1979年) − – 古書, 1979/12
モルデカイ・モーゼ (著), 久保田 政男 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%AC%9D%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E2%80%95%E3%81%82%E3%82%8B%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%87%BA%E6%82%94-1979%E5%B9%B4-%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC/dp/B000J8CE02/ref=sr_1_1?qid=1561679615&refinements=p_27%3A%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC&s=books&sr=1-1&text=%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC

しかし、右翼を騙すのは簡単ですね(嘲笑い)

35. 中川隆[-9225] koaQ7Jey 2019年7月02日 17:55:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3363] 報告

2019.02.09
つくる会元会長・田中英道氏に、数十行にわたる「大規模コピペ」の疑惑
https://rondan.net/9542

田中英道氏は、著書『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社, 2011)のなかで、『日本人に謝りたい : あるユダヤ人の懺悔』(日新報道, 1979)から、4ページ(46行)にわたり無断転載・改変を行っています。

ところでコピペ元の『日本人に謝りたい : あるユダヤ人の懺悔』は、翻訳書という体裁をとっていますが、原本も現著者も存在しない和製偽書であると指摘されています
(小田島雄志×紀田順一郎×渡部昇一「鼎談書評」『文芸春秋』58(4), 1980.4)。


田中英道氏のトンデモさ

つくる会元会長・田中英道氏は、土偶は近親相姦による奇形児を象っているだの、卑弥呼神社がないから卑弥呼はいないだの、マスコミはフランクフルト学派に乗っ取られているだの主張してデムパ全開中です。

こんな強力な電磁波を放っている人が「つくる会」の会長として歴史教科書政策に携わっていたとは驚きです(現在では袂を別っているようですが)。

さて、その田中氏の著書『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社, 2011)のうちに、百田尚樹氏の『日本国紀』よろしく長大なコピペ箇所があると報告いただきました。

この指摘を元に原本を確認したところ、確かに膨大な量のコピペがあることが判明しました。

田中英道氏は、著書『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社, 2011)のなかで、『日本人に謝りたい : あるユダヤ人の懺悔』(日新報道, 1979)から、4ページ(46行)にわたり無断転載・改変を行っています。

この文量は、局所的な一致度という点では、現在、ギネス級の記録です。


比較テーブル

両者を比較すると次のよう成ります。また実物の謄写比較は、本記事の末尾を参照ください。

https://rondan.net/9542

恐るべき分量。保守論壇界ではコピペが日常茶飯事?

以上からも明らかなように、田中氏著作には別媒体との著しい一致が確認されます。これを偶然とするのは極めて困難です。

ところでコピペ元の『日本人に謝りたい : あるユダヤ人の懺悔』は、翻訳書という体裁をとっていますが、原本も現著者も存在しない和製偽書であると指摘されています(小田島雄志×紀田順一郎×渡部昇一「鼎談書評」『文芸春秋』58(4), 1980.4)。

このような偽書すらコピペしてしまうとは驚き以外の何ものでもないでしょう。

なお、この田中英道氏は、過去には「新しい歴史教科書をつくる会(通称:つくる会)」の会長として(その後、絶縁)、現在では竹田恒泰氏などとともに「日本国史学会」というさも学会風団体の理事長を務めているなど、保守論壇の中心人物の一人です。

この様な事態を踏まえるならば、保守論壇による歴史戦というものが、いかにいい加減なものかがよく解るでしょう。事実、「歴史戦の狼煙」なとど吹聴されていた百田尚樹著・有本香編集『日本国紀』もコピペだらけでした。彼らが語る「歴史的事実」の陳腐さが知れるというものです。

【追記】なおこの後、「つくる会」公式ツイッターから衝撃のコメントをいただきました。仔細については下の記事を参照ください。

関連記事
つくる会、元会長や会員たちの盗用癖を告白
2018年12月28日
https://rondan.net/10100


https://rondan.net/9542


コピペ元のニセユダヤ人が書いた本については

日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html

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