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アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 02 日 12:12:47: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔

ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC+%E6%BC%94%E8%AA%AC
https://www.youtube.com/results?search_query=Adolf+Hitler

▲△▽▼

ヒトラーを独裁者にしたのは、一つには彼の性的魅力であったらしい。

彼の姿を一目見ただけで卒倒する女性が続出したそうだ。

ある女性などは、ヒトラーが通り過ぎたあと、彼が踏んだ小石を持っていたガラスびんに入れ、それを大切に抱きしめた。

彼女はそのまま恍惚としてしまい、力が入りすぎてガラスびんが割れた。血がだらだら流れるが、それでもなお彼女は陶然と立ち尽くしていたという。

当時、世界でもっとも進歩的と言われたワイマール憲法下で、ヒトラーがあくまでも合法的に政権の座についたことを考え合わせると、民主主義って本当に大丈夫なの、とつい思ってしまう。
http://www.c20.jp/p/hitler_a.html


ヒトラーというとほとんどの日本人はドイツの独裁者でユダヤ人を虐殺した恐ろしい人とだけしか知らないのではないだろか。

ヒトラーに関して我々がしっかりと知っておかなければならないことは、

ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に独裁者になったということである。

ヒトラーの行くところはどこでもドイツ国民が、「ハイル、ハイル!」の大合唱。ドイツ国民のすべてがヒトラーに心酔していた。

そんな時、「私に全権を与えていただければ、もっと豊かなドイツを実現してみせます!」とヒトラーは言った。

ドイツ国民は将来悲惨なことが起こるなんてことは誰も疑わずに、あっさりとヒトラーに全権を与えてしまった。

1935年にドイツ国内で国民投票が行われた。

そしてなんと国民の90パーセント以上という圧倒的支持で、首相と大統領の兼任(行政権の完全な掌握)、立法権、軍隊の指揮権といった、司法権を除くすべての権力をヒトラーに渡してしまったのである。

こうして三権分立という鎖がはずされ、リバイアサンという怪物が解き放たれたのである。

その後は、皆さんもご承知のように、誰もヒトラーの暴走をくい止めることができなくなり、世界は人類がいまだ経験したことのない第二次世界大戦という大惨事に突入していったのである。
http://kaichan.cocolog-nifty.com/diclongman/2007/09/post_e4df.html

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アメリカの極秘文書が伝えるヒトラーの意外な素顔
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc611.html

●一般にヒトラーは「キ○ガイ」の代名詞であり、20世紀最大の悪魔とも称せられる。

ヒトラーは性的変質者で睾丸がひとつしかなかったなどとまことしやかに言われ、彼が精神異常者であるという印象はごく自然に多くの人に受け入れられている。

ナチスの迫害を受けていた精神分析学の創始者であったユダヤ人ジークムント・フロイトは、ヒトラーを「狂人がなにをしでかすか予想できない!」の一言で片付けてしまったように、

ナチス敗北後、多くの精神医学者もヒトラーを「精神病」と見なしてきた。

 


ジークムント・フロイト

「精神分析学」を創始した
オーストリア生まれのユダヤ人。
1938年にナチスに追われてイギリスに
亡命したが、翌年、ガンで亡くなった。

 

●SS長官ヒムラーのマッサージ師ケルステンは、「ヒトラーは脳梅毒(進行麻痺)であった」という噂を流した。

しかし、ヒトラーの主治医モレルは1940年の梅毒検査でヒトラーは陰性であった、とヒトラーの脳梅毒説を否定している。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●ところで、アメリカの国家記録保存所には「ヒトラーのメディカル・レポート」が保管されている。

これはアメリカ陸軍ヨーロッパ司令部情報部によって作成されたもので、1972年になってようやく極秘取り扱い解除されたものである。

それによると精神面に関するデータは次の通り。


【A】.時間、場所、人間に関しての認識 = <優>

【B】.過去、現在における出来事についての記憶力 = <優>

【C】.数字、統計、名前などの記憶カ = <優>

【D】.ヒトラーのバックグラウンドは大学教育の欠如というハンデがあったが、
    それを彼は読書を通して得た莫大な知識で十分に補った。

【E】.時間や空間についての判断力 = <優>

【F】.まわりの環境に対する反応 = <ノーマル>

【G】.気分が変わり易いところもあるが、平均して協調性があり、集中力は抜群。

【H】.感情的には変化し易い。好き嫌いがはげしい。

【 I 】.思考構造は一定の継続がある。話し方は早くなく遅くもない。
    常につじつまの合う話をする。

【J】.ヒステリー性はなし、健忘症なし。

【K】.妄想や恐怖性なし。

【L】.幻覚、幻想、偏執狂的徴候はなし。

●これを見る限り、ヒトラーという人間はごくノーマルであるばかりでなく、ある面では普通の人より秀れていたということになる。

アメリカ政府はこの情報を1945年に得ていたのだが、27年間極秘扱いとして誰にも見せなかったのであった(一説にはヒトラーのIQは150近くあったという)。

 


1972年になってようやく極秘取り扱い解除された
「ヒトラーのメディカル・レポート」

 

●以下、参考までに、戦後のニュルンベルク裁判の法廷で、ナチス要人が語ったヒトラー像を挙げておたい。

この3人とも誇り高きドイツ貴族出身の軍人であり、貧民街から登場したチョビひげの政治家に、最初から心服していたわけではなかった。しかしヒトラーは、そんな人物まで相手の専門分野の知識で圧倒し、やがてはその人格的影響下に置いてしまったようである。

◆ドイツ海軍最高司令官カール・デーニッツ大将は語る。

「ヒトラーは異常な知性と行動力を持ち、まさに普遍的といってよい教養と力を放射する性格をそなえ、恐るべき暗示力をもった人物だった。

私は総統本部に出入りしないほうが、自分の力を温存できるような気持ちがしたので、たまにしか足を運ばなかった。それに何日も総統大本営に滞在したあとは、ヒトラーの暗示力を洗い落とさなければならないという感じがした」


◆ヴィルヘルム・カイテル元帥は、ヒトラーの軍事知識に驚嘆している。

「軍事問題についての知識は驚くべきものがあった。ヒトラーは世界の全ての陸海軍の組織、武装、指導部、装備に精通しており、ひとつといえども誤りを指摘することはできなかった。

したがって我々は、あの人は天才にちがいないと思ったのだ。軍の単純なありきたりな問題ですら、自分は教えるほうではなくて教わるほうであった」


◆国防軍最高司令部部長アルフレート・ヨードル大将も語る。

「ヒトラーは並々ならぬ大きさを持った指導者としての人格をそなえていた。誰と何について議論しても彼の知識と知性、雄弁と意志が最後には勝利を占めた。

論理と冷静な思考、しばしば来たるべきものを予知するその不思議な能力──。

彼は決して虚言や大言を弄するだけの男ではなく、巨大な偉人であった。最後には地獄的な巨大さにまでなってしまったが、ともかく1938年までは無条件に偉大な人物だった」

 

 

 


●また、敵味方を問わず「ドイツ軍最高の軍人」、もしくは「20世紀最高の戦略能力の持ち主」と評されていた、ドイツ国防軍のエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、ヒトラーとたびたび衝突して、ヒトラーに批判的だった。

しかし、彼ですら次のように認めている。

「ヒトラーは驚くべき知識と記憶力、技術問題と軍需のあらゆる問題についての創造的な想像力を持ち合わせていた。敵や自国の新兵器の威力、生産量についても信じがたいほどの知識を持っていた。

彼が軍需の分野で、その理解力と並外れたエネルギーをもって、多くのものを推進したのは間違いない」

 


ドイツ軍最高の名将と名高い
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン

 

●以上、世間で一般に流布されているヒトラー像とは違うヒトラーの実像が見えてきた。

しかし、ヒトラーが精神的にそれほどおかしな人間でなかったのならば、一体、彼をあそこまで駆り立てたものは何だったのか? 大きな疑問が残ってしまう。

ワーナー・メイザーという高名なヒトラー研究家は次のように言っている。

「ヒトラーの反ユダヤ主義が、いかに展開し継続していったかを概観して説明するのはさほど困難ではない。

しかし、なぜヒトラーのような並外れて我意が強く、才能があり、数多くの書物を読み、広い知識を持っている人間が、このような恐るべき迷信(反ユダヤに到る考え)に囚われてしまったのかという問いに答えることは容易ではない」

 

  

 


●ちなみに、ヒトラーの側近であった者たちは、ヒトラーの大きな「欠点」のひとつとして、彼が何を考えていたのか皆目わからなかったという点を挙げている。

「心の奥底を明かさない人間を、どうして『知っている』と言えようか」と、ヒトラーの側近の1人はニュルンベルク裁判でヒトラーについて語っている。

さらに、「私は今日になっても、彼が、何を考え、何を知り、何をしようとしていたのかがわからない。それが何であったのかは、私が考えたり想像したりできるだけなのだ」と述べている。

 

 

●「ヒトラーに友人がいたというのなら、私は間違いなくその1人だろう──」。ヒトラーの側近の1人としてきわめて多くの時間を彼と過ごしただけではなく、彼のもっとも興味を引いた分野、建築学における気に入りの仲間であったアルベルト・シュペーアはこう語っている。

「ヒトラーほど感情をめったに表さない人間はいない。それに、いったん表したとしても、すぐさまそれを覆い隠してしまうのである」

 

 
アルベルト・シュペーア

建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。

 

●アルベルト・シュペーアはまた、ヒトラーと打ちとけられたと感じられる瞬間についても、かつて副官ルドルフ・ヘスが口にしていた言葉通りだったと証言している。

「我々はやっぱり幻滅せざるをえなかった。私たちのどちらかが少しでも親しげな調子で話そうものなら、ヒトラーは直ちに厚い壁を造りあげてしまうのだ……」

 


ひとり静かに物思いにふけるヒトラー

普段はナイーブで内気な性格だったという…

 

●青年時代のヒトラーの唯一の親友だったアウグスト・クビツェクも、次のように語っている。

「アドルフ(ヒトラー)は内向的な性格で、誰にも立ち入らせない精神領域を常に持っていました。彼には理解不能な秘密があり、私にとっても多くの点は謎のままでした。

しかし、その秘密のいくつかを解く鍵がありました。それは美への熱狂です。ザンクト・フロリアン修道院のような壮麗な芸術作品の前に立つと、私たちの間のあらゆる障壁が崩れ去るのです。熱狂しているときのアドルフはとても打ち解けやすくなり、私は友情がさらに深まったように感じました」

 

  
(左)青年時代のアウグスト・クビツェク(ヒトラーの唯一の親友だった)
(中央)戦後、ヒトラーとの交際について回想録をまとめるクビツェク
(右)出版された彼の回想録『我が青春の友 アドルフ・ヒトラー』

 

●ところで、あのエヴァ・ブラウン(自殺直前にヒトラーと結婚)も、日記に次のように記している。

「ヒトラーは時々、異常なほど内気になる。きっと過去の嫌な体験からきているのだろうと思うけど、あの人の内気さは普通じゃない。とくに人前に出ると、内気な自分を悟られまいと必死になっている。

私にはそれが手に取るように分かる。トイレに逃げ込みたくなるほどおびえているのかもしれない。どうしてあれほど自制するのだろう? うぶな娘のように振る舞うのだろう?」

 


エヴァ・ブラウン

 

●また、彼女は「ヒトラーはとにかく謎めいている。何かを隠そうとしている。そこがとても薄気味悪い」と記している。


彼女によれば、1937年冬のある日、ヒトラーは目をギラギラと輝かせながら、「天才と狂人」について次のような謎めいた話をしたという。

「天才は普通人とは異なる精神領域で生きている。天才はときどき普通人の精神世界に舞い戻る。だが、もし戻れないと、普通人の目には狂人に見えるのだ。ヘルダーリンやネロのように。天才はたいがい限界というものを感じない。危険というものを感じない。

私は自分を知っている。シェークスピアが自分を知っていたように。彼の十四行詩を読めば、それが分かる。シェークスピアは2つの領域を行ったり来たりした。穏やかな人物でありながら、それをやってのけた。情熱的な私なら、難なく2つの領域を行き来できる」

※ エヴァ・ブラウンは日記の中で、この時のヒトラーの眼はとても薄気味悪く輝いていて、まるで燃えているようだった。本当にこの時のヒトラーの表情には背筋がぞっとしたと記している。

 

青年時代からヒトラーの存在感は強烈だったらしく、彼を
記憶する人々は口をそろえて、その異様な雰囲気を描写している。

「射るような眼」 「催眠術師の眼」 「狂気に近い異様に澄んだ眼」などなど…

 

●ところで、エヴァ・ブラウンは同じ日記の中で、ヒトラーの意外な一面を書いている。

彼女によると、ヒトラーは「美容」に関して専門家を驚かせるほどの知識を持っていたそうだ。

「水曜の夜。私は本当に感心してしまった。なにしろ、スパルタ気質のあの人が美容師に、どうやったら女は若さと美しさを保てるか、と延々と説いていたのだから。とにかく、美容についての知識の深さにはびっくりした。

この前、私はあの人から化粧クリームをもらった。それが効くのかどうか、私には分からない。でも、あの人からもらった以上、絶対に使い切らなければならない。それにしても、クリームといっしょに渡されたあのメモには本当に目を疑ってしまった。なにしろ、週に二度は仔牛の新鮮な生肉で夜の洗顔パックをすること、週に一度はオリーブオイルの風呂に入ること、もっとも大切な部分はバストとヒップ、と書いてあったのだから。

たしかに、あの人は美容の専門家だと思う。達人とさえ呼べる。

〈中略〉

私はこの頃しみじみと思う。あの人の言うことは何でもかんでも正しくなる、と。

たまに変に思えたりするけど、結局、それが変じゃなくなる。人々があの人を信じるから、そうなるのだろうとは思うけど、もしあの人が、太陽は地球の周りを回っている、と宣言したら、どうなるだろう。やっぱりドイツ人たちはみなすぐに信じるのだろうか……」(エヴァ・ブラウンの日記/1938年1月)

 

 
(左)アドルフ・ヒトラー (右)エルンスト・レーム

レームはヒトラーの最も古くからの同志で、
ヒトラーと肩を並べるほどの実力を持っていた。
レームはヒトラーに向かって「おまえ」と呼ぶ
ことのできる唯一のナチ党員であった。

しかし、レーム率いる「ナチス突撃隊(SA)」が
急速に力をつけ、「国防軍」との間に深刻な摩擦を
起こし始めると、ヒトラーはこの対立問題が権力基盤の
危機を招くと判断し、レームとSA幹部らを粛清した。

※ この「長いナイフの夜」と呼ばれる「レーム事件」
 により、ヒトラーは「国防軍」との関係を修復した。

 

●かの有名な「レーム事件」(長いナイフの夜)を題材にした戯曲

『わが友ヒットラー』(新潮社)を書いた三島由紀夫は、巻末の「自作解題」でこう述べている。

「『わが友ヒットラー』は、アラン・ブロックの『アドルフ・ヒトラー』を読むうちに、1934年のレーム事件に甚だ興味をおぼえ、この本を材料にして組み立てた芝居である。

〈中略〉

粛清後、ヒトラーが不眠症にかかり、心労の果てにやつれたというのは実話のようで、まだ『人間的な』ヒトラーがヒトラーの中に生きていた時期の物語である。

国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬというのは、政治的鉄則であるように思われる。そして一時的に中道政治を装って、国民を安心させて、一気にベルト・コンベアーに載せてしまうのである。何事にも無計画的、行きあたりばったりな日本は、左翼弾圧からはじめて、昭和11年の2・26事件の処刑にいたるまで、極左極右を斬るのにほぼ10年を要した。それをヒトラーは一夜でやってのけたのである。

是非善悪はともかくヒトラーの政治的天才をこの事件はよく証明している」

 

 
(左)三島由紀夫 (右)彼が「レーム事件」を
描いた作品『わが友ヒットラー』(新潮社)

 

●そして彼は続けてこう述べている。

「ずいぶんいろんな人に、『お前はそんなにヒトラーが好きなのか』ときかれたが、ヒトラーの芝居を書いたからとて、ヒトラーが好きになる義理はあるまい。正直のところ、私はヒトラーという人物には怖ろしい興味を感ずるが、好きか嫌いかときかれれば、嫌いと答える他はない。

ヒトラーは政治的天才であったが、英雄ではなかった。

英雄というものに必須な、爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けていた。ヒトラーは、20世紀そのもののように暗い……」

 

 


 

■■おまけ情報


●戦後、連合軍がナチ戦犯に心理テストを行った結果、高い知能指数(IQ)の人が多かったことが判明。

↓参考までに紹介しておきたい (※ ちなみに日本の東大生の平均はIQ120)。


<ナチ戦犯の知能指数>


■IQ143 ヒャルマー・シャハト

■IQ141 アルトゥル・ザイス=インクヴァルト

■IQ138 ヘルマン・ゲーリング

■IQ138 カール・デーニッツ

■IQ134 フランツ・フォン・パーペン

■IQ134 エーリヒ・レーダー

■IQ130 バルドゥール・フォン・シーラッハ

■IQ130 ハンス・フランク

■IQ130 ハンス・フリッチェ

■IQ129 ヴィルヘルム・カイテル

■IQ129 ヨアヒム・フォン・リッベントロップ

■IQ128 アルベルト・シュペーア

■IQ127 アルフレート・ローゼンベルク

■IQ127 アルフレート・ヨードル

■IQ125 コンスタンティン・フォン・ノイラート

■IQ124 ヴァルター・フンク

■IQ124 ヴィルヘルム・フリック

■IQ120 ルドルフ・ヘス

■IQ118 フリッツ・ザウケル

■IQ113 エルンスト・カルテンブルンナー

■IQ106 ユリウス・シュトライヒャー


◆The Nazi Defendants in the Major War CriminalTrial in Nuremberg
http://www.law.umkc.edu/faculty/projects/ftrials/nuremberg/meetthedefendants.html


http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc611.html

▲△▽▼

ドイツ国民がナチスを熱狂的に支持した理由

 マイナス金利政策を巡る顛末からも分かる通り、現在の日本が抱える問題は、

「特効薬が効かない!」

 という話ではなく、普通の薬を飲まず、特効薬を追い求めている、という点に本質があります。


 と言いますか、ここまで一貫して普通の薬(財政政策)から目をそらし、効果のコミットができない特効薬を探し回る光景は、もはや喜劇です。普通の薬は、効果について事前にコミットできるにも関わらず、頑なにそこから目をそらす。


 実は、現在の日本や欧州同様に、主要国の政策担当者が病的なまでに財政均衡にこだわり、国民経済を貧困化させるという光景が、80年前にも見られました。

『[FT]21世紀におぼろに見えるドイツ帝国銀行総裁の影
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO97052220Y6A200C1000000/

 ジョン・ワイツによるヒャルマー・シャハトの伝記『Hitler’s Banker(邦訳:ヒトラーを支えた銀行家)』を読み返したら、これまで筆者が考えていなかった1930年代と現在の興味深い共通点に気づいた。

ヒトラーが再軍備計画の資金を賄うために、配下の中央銀行総裁だったシャハトに頼ったことは、よく知られている。

だが、ワイツは――そしてここが今日のユーロ圏に潜在的に関係するところだが――、シャハトがライヒスバンク(ドイツ帝国銀行)で非伝統的な政策を追求できたのは、ひとえに独裁者の後ろ盾があったからだとも指摘している。(中略)

 欧州北部諸国に共有されているブリュッセルとフランクフルトの現在の正統的政策には、30年代に一般的だったデフレマインドとの類似点がいくつかある。

今日の政治家と中央銀行家は、財政目標と債務削減に固執している。30年代前半と同様に、正統的な政策には病的なところがある。今日の中央銀行家は、言うことが尽きると「構造改革」に言及するが、そうした改革が一体何を達成するのか決して口にしない。

 原則としては、ユーロ圏の経済問題を解決するのは難しくない。欧州中央銀行(ECB)が市民一人ひとりに1万ユーロの小切手を手渡せばいい。物価の問題はものの数日で解決されるだろう。あるいは、ECBは独自の「IOU(借用証書)」を発行することもできる。

シャハトが行ったのは、それだ。

または、欧州連合(EU)が債券を発行し、ECBがそれを買い上げてもいい。紙幣を印刷する方法はたくさんある。どれも皆、素晴らしい方法だ。そして違法でもある。(後略)』

 ナチスがドイツで政権を握ったのは、デフレーションで国民の間にルサンチマンが蔓延し、「攻撃的」な政党が喜ばれるという形で社会が歪んでしまったためです。


 とはいえ、ナチスが「支持された」のは、これはもう、ヒトラーとシャハトのコンビが、各国が財政均衡主義の魔物にとらわれ、緊縮財政政策を推進する中において、アウトバーン建設に代表される大規模景気対策を打ったおかげなのです。

ヒトラーが率いるナチスは、1932年には43%(!)だった失業率を、五年間で完全雇用に持ち込んでしまいました。


 それはもう、ドイツ国民がナチスを熱狂的に支持したのも、無理もない話なのです。


 ちなみに、わたくしは別にナチスを賛美したいわけではなく、「人類」は歴史的に財政均衡主義を「愛し」、デフレ期の財政出動という普通の薬を飲むことができず、デフレの原因を(なぜか)、

「構造改革が不足しているから」

 という、意味不明というか逆効果(構造改革はインフレ対策)の政策を採用。
 緊縮財政と構造改革、つまりは需要縮小策と供給能力拡大策によりデフレを深刻化させ、

「国の借金で大変だ〜っ!」

「構造改革が足りないからだ〜っ!」

 と、バカの一つ覚えのように自縄自縛となる愚かな政策を繰り返してきたという話です。


 特に、デフレ期には単なる「債務と債権の記録」に過ぎないおカネに国民総じて固執し、政府が普通の薬(財政出動)を飲もうとすると、

「政府は無駄なカネを使うな!」

 と、やるわけです。結果、デフレギャップは埋まらず、国民が貧困化し、ルサンチマンが蔓延し、最後には「他の国民を攻撃する」ことで人気を博すポピュリスト政治家が権力を持ち、民主主義が壊れます。


 あるいは、貧困化が行き着くところまで行き着き、国家は虎の子の供給能力を失い、発展途上国化します。


 民主主義の破壊や、発展途上国化を回避するために必要なのは、「特効薬」でも「万能薬」でもありません。しつこいですが、普通の薬、財政出動を中心とした景気対策という普通の政策なのです。


 それにも関わらず、政治家や国民が「普通の薬」について議論しようとさえしない現状に、わたくしは恐怖すら覚えるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12128570302.html



▲△▽▼

現在の状況は、1930年代のヨーロッパとそっくりです。

 1929年のNY株式大暴落に端を発した大恐慌により、ドイツは失業率が43%(32年)に達してしまいました。国民のルサンチマンがピークに達した状況で、ナチス・ドイツが政権を握り、ヒットラーが首相の座に就きました。


 ナチスはヒャルマル・シャハト(ライヒスバンク総裁)の下で、大々的な財政出動を実施。アウトバーンや国道が建設され、WW2開戦までに、3860kmが建設されました。ナチス・ドイツという独裁的な政権の下で、ドイツ経済は瞬く間に回復。わずか五年間で、失業率が完全雇用の水準に至りました。


 当然ながら、ドイツ国民はナチスを熱狂的に支持します。


 妙な話ですが、現在や大恐慌期のような需要低迷期には、なぜか「民主主義国」の方が大々的な財政出動に踏み切れず、状況が悪化します。逆に、独裁国は政府が剛腕をふるい、財政を拡大し、国力を強化してしまうのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12137232005.html

 

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コメント
1. 中川隆[-12525] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:22:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

祖国を救おうとして闘ったヒトラー、プーチン、サダム・フセイン や カダフィ が欧米のマスコミによって悪魔化された理由

【桜無門関】馬渕睦夫×水島総 第3回
「ネオコンが狙う日露決裂とプーチン潰し」[桜H31-1-31] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jWRxVmGJkDo

2019/01/31 に公開

既成概念にとらわれない大きな視座で国際情勢を俯瞰し、ぶれることのない日本の軸を示し続けている馬渕睦夫氏。
閉ざす門を一度解き放つことによって見えてくるものがあるように、物事の本質を見極める言葉と思考を、対談を通じて伺います。

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)


____

【桜無門関】馬渕睦夫×水島総 第2回「日本解体!
ディープステートによる日本のグローバル化、その尖兵としての霞ヶ関官僚」[桜H30-12-27] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=tOqOn3ttvPg

2018/12/27 に公開

既成概念にとらわれない大きな視座で国際情勢を俯瞰し、ぶれることのない日本の軸を示し続けている馬渕睦夫氏。
閉ざす門を一度解き放つことによって見えてくるものがあるように、物事の本質を見極める言葉と思考を、対談を通じて伺います。

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)

▲△▽▼


馬渕睦夫 deep state の世界を語る

太平洋戦争も朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてユダヤ資本のヤラセだった


馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=親ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、ソ連共産党、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、レーニン、スターリン、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=ヒトラー、プーチン、サダム・フセイン、トランプ、カダフィ、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党


なんですね。


安倍晋三は調整型の政治家で権力基盤が弱く、IQ も随分と低いので、官僚や自民党のグローバリストに引き摺られているのですが、本来はプーチンやトランプと同じナショナリストなのです

▲△▽▼


馬渕睦夫さんが明らかにしたのは

・ロシア革命を行ったレーニン、スターリン、トロツキー等は全員ユダヤ人とそのシンパだった

・ロシア革命に資金援助や支援していたのはアメリカやイギリス・ドイツの金融資本家だった

・毛沢東と中国共産党を支援していたのもアメリカ金融資本家だった

・ルーズベルトとその周辺の人間は全員社会主義者でスターリンと同盟関係にあった

・GHQ は戦後の日本を共産化しようとした

・ボリス・エリツィンはソ連崩壊後に国有財産を民営化して、すべてユダヤ資本に二束三文で払い下げた


要するに、ユダヤ資本は

昔は共産化によって世界各国のグローバル化を進めようとした

現在は移民を大量に受け入れさせて世界各国のグローバル化を進めようとしている

▲△▽▼

馬渕睦夫さんは唯の国際化とグローバリズムとは全く違う概念だと何度も言っています。

馬渕睦夫さんがグローバリズムと言っているのは

ユダヤ国際金融資本はユダヤ教の精神に基づいて、世界を国境の無い文化も同じ一つの国にしようとしているという事ですね。

ユダヤ教は人類で最後に救われるのはユダヤ人だけで、他民族はすべて滅ぼされるという教義です。

すべて滅ぼすのは無理なので、ユダヤ人が目指す現実性のある理想の社会は
1%のユダヤ人が資産や権力を独占して、99%の他民族は被支配者として搾取される世界なんですね。

北朝鮮みたいな共産国家なら大体その通りになっていますよね。

それから中国では都市籍の人間が農民籍の人間を支配搾取する体制になっていますよね。
中国の経済発展は都市籍の人間が農民籍の人間をタダ同然で働かせる事ができたからだというのが定説ですね。


マルクス主義で言う平等というのは 99% の被支配者の間では階級差別が全く無いというだけの話です。

竹中平蔵さんが、

派遣社員と正社員と待遇が違うのは平等の精神に反するから、正規社員も非正規社員と同待遇にしろ

と言っているのも 99% の被支配者の間では階級差別が有ってはいけないという主張ですね。


だから、ユダヤ人は最初は共産化で 1% 対 99% の世界を作ろうとしたのです。

▲△▽▼


馬渕睦夫さんが何度も言っていますが、国際化とグローバリズムとは全く違う概念なのですね。

それは航空機で欧米に数時間で行ける時代だから、海外との輸出入も旅行も技術交流や留学も簡単になった。
コカコーラやネスカフェやマクドナルドは世界中どこでも手に入る様になった。

しかし、それはあくまでも国際化であってグローバリズムとは関係ない

移民を入れたらチャイナタウンとかモスクを中心とするイスラム人居住区みたいな国家内に別国家ができてしまうので、唯の国際化とは次元が違うものなんですね。

ユダヤ資本は利潤を最大化したいだけなので、

・言語はすべて英語に統一して、それ以外のローカルな諸言葉はすべて廃止する
・民族ごとに違う習慣や伝統はすべて止めさせて、世界標準の生活様式に統一する
・賃金は民族によらず、すべて同一作業同一賃金にする

という環境を作りたいのです。


グローバリズム=共産主義

というのは、どちらも 1% 対 99% の世界を作って、

99%の中では民族による賃金や福祉等の差別はしない、中国人でも日本人でも賃金はすべて同一にする(賃金は安い方に統一する)

という事なのですね。

それで、レーニンやスターリンやトロツキーの様な反民族主義のユダヤ系のグローバリストが共産革命を起こし、ユダヤ資本が共産国家を支援した

馬渕睦夫さんはそういう歴史的事実を信頼できる資料と客観的事実に基いて具体的に指摘したというだけです。

2. 中川隆[-12524] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:28:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

アーリア人の赤ん坊を増やせ ! / 同種族を憎むように改造されたアメリカ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html

フリーダが持っていた出生の秘密

Lebensborn 1Nazi girls 6

(写真 / ナチス政権下りの理想的ドイツ人少女)
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  最近のテレビでは予算不足なのか、昔のビデオを集めて懐メロ番組を流す時がある。大きい子供を持つ父親とか母親でも、往年のスターやアイドル歌手を再び目にして大はしゃぎするんだから、若い時の熱狂は一生消えないのだろう。でも、贔屓とするアイドル歌手がいなかった筆者には、残念ながら一緒に懐かしむことができない。とは言え、筆者にも松田聖子とか中森明菜を好きだった友人がいた。しかし、同級生にアバ(ABBA)とかノーランズ(The Nolands)のファンはいなかったから寂しかった。それでも楽しい思い出は尽きない。

今のCDとは違って、LPのアルバムだとジャケットのサイズが大きくて、それぞれのミュージシャンが独自のアイデアを用いてデザインしていたから、ある種の藝術みたいな趣があった。小学生の頃、近所のレコード店に行ってアバのアルバムを注文し、そのレコードが届いたとの知らせを受けた時は嬉しかった。早速、自宅のオーディオ・セットにレコードをかけ、「ヴレヴー(Voulez Vous)」とか「エンジェル・アイズ(Angel Eyes)」「アズ・グッド・アズ・ニュー(As good as new)」といった名曲を毎日のように聴いて、「コンサートに行けたらなぁ」と悔しかったのを今でも覚えている。

Nolans 1ABBA 4

左: ノーランガ
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右: ABBA
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  日本でも1970年代後半から80年代初頭にかけてアバは人気で、ディスコ・ブームも重なっていたから、「ギミ ! ギミ ! ギミ !」とか「ダイシング・クィーン」がよく流れていた。ちなみに、筆者が印象に残っているディスコ・ミュージックと言えば、松田優作のTVドラマ『探偵物語』で使われていた「ディスコ・トレイン(Disco Train)」(歌 / セクシー・リズム・セクションズ)と、沖雅也・柴田恭兵が共演していた『俺たちは天使だ』に挿入されていた「You Can Do, I Can Do」である。(これらの曲はユーチューブにアップされているので、確認したい方は曲名をタイプして検索すれば試聴できます。たぶん、「あの曲か!」と想い出す人もいると思う。) 日本でも成功を収めたアバは、1980年代初頭に解散してしまったが、各メンバーは独自に音楽活動を始めていた。リード・ヴォーカルのアグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Fältskog)とフリーダ・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)は、そけぞれソロ・シンガーの道を歩むようになていった。

  個人活動を始めたフリーダであったが、新曲の「I know there's something going on」はそれほどヒットせず、アバ時代と比べると凋落の様相を否めない。しかし、彼女はドイツ貴族の奥方となった。アバのメンバーであった頃、フリーダはキーボード奏者のベニー(Benny Andersson)と結婚していたが、まもなく離婚してしまい、それでもバンド活動を続けていたという過去がある。人気絶頂で「アバ」というバンドが解散し、ソロ・シンガーになったフリーダは、造園家で伯爵の称号を持つハインリッヒ・ルッツォ・ルウス(Heinrich Ruzzo Reuß)と結婚し、スウェーデンの歌姫からドイツ人のお妃(プリンセス / Prinzessin Reß von Plauen)へと変身していたのである。普通なら、人も羨む華やかなシンデレラ・ストーリーとなるのだが、フリーダには人に話したくない出生の秘密があった。

Anni Frid 2Anni Frid & Benny 2Heinrich Ruzzo Reuss 1

左: アグネッタとフリーダ
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中央: 夫婦となったフリーダとベニー
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右: 再婚したフリーダと夫のハインリッヒ・ルッツォ・ルウス
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  1945年11月に生まれたアニ・フリード(フリーダ / Anni-Frid Lyngstad)は、シニ・リングスタッド(Synni Lyngstad)を母に、アルフレッド・ハーゼ(Alfred Haase)を父に持つ。母のシニは片田舎に住むノルウェー人女性で、まだ18歳の乙女であった。一方、父親のアルフレッドは、ノルウェーを占領したドイツ軍に属する24歳の軍曹であったという。彼は派遣された街でこの娘と出逢い、彼女の姿に惹かれてしまった。この娘に惚れてしまったアルフレッドは、ジャガイモの詰まった袋をプレゼントして交際を始めたそうだ。

現在では笑い話になってしまうが、戦時下の1943年、ノルウェーでは食糧不足が深刻だったので、こうした贈り物は大変貴重であったらしい。逢い引きを続ける若い二人が親密になるのに時間はかからず、彼らは程なくして肉体関係を結ぶようになった。だが、アルフレッドには彼女を幸せに出来ない事情があった。何と、彼は故郷に妻子を持つ既婚者であったのだ。(Ross Benson, "Abba girl's Nazi secret", Daily Mail)

Synni Lingstad 1Alfred Haase 1Alfred Haase & Frida

(左: シニ・リングスタッド / 中央: アルフレッド・リングスタッド / 右: 父のアルフレッドと再会したフリーダ)

  不倫と敗戦は若い二人を引き裂く。1945年、シニは身籠もるが、恋人のアルフレッドは祖国に帰還することになった。悪い時に悪い事は重なるようで、さらなる不幸が彼女を襲うことになる。ノルウェーの寒村に残されたシニは、周囲からの冷たい視線を浴びることになった。村の者は皆、誰が赤ん坊の父親なのかを知っていたので、彼女が街を歩けば、人々は彼女に向かって「このドイツ人の淫売女 !」と罵ったそうだ。敵国の男と情事を交わしてしまったシニとその母アグニーは村八分となり、時が経つにつれ人々からの仕打ちに耐えきれなくなった。そこで、地元に居場所を無くした親子は、隣国のスウェーデンに逃れ、新たな生活を求めるようになったという。(当時、母のアグニーは夫を亡くした寡婦であったそうだ。) スウェーデンに新居を構えたシニは、ウェイトレスとして働くが、間もなく腎臓を患い、21歳の若さで亡くなってしまう。母を失ったフリーダはまだ2歳であった。こうして幼いフリーダは祖母の手で育てられ、寂しい子供時代を過ごしたそうだ。大人になってから、彼女は幼年時代を振り返っていたが、友達はそう多くなかったという。フリーダは父がドイツ軍人であると聞かされていたが、祖母のアグニーは偽の話を孫に伝えていた。すなわち、父のアルフレッドは海路でドイツに帰る途中、船が沈没して亡くなったと教えていたのだ。後にフリーダが父の真相を知ったのは、アバが人気を博していた1977年の頃であったという。

Anni Frid 3Anni Frid 1Anni Frid 7

(写真 / 若い頃の「フリーダ」ことアニ・フリッド)
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アーリア人の赤ん坊を繁殖させる施設

  ドイツ軍人のアルフレッド・ハーゼがノルウェー人娘のシニ・リングスタッドと恋に落ちたのは、偶然の出来事だけではなかった。彼の恋愛は「レーベンスボルン(Lebensborn / 生命の泉)」計画の一環でもあったのだ。エリート組織たる親衛隊(SS /Schutzstaffel)を率いていたハインリッヒ・ヒムラー(heinrich Himmler)は、第三帝國を支える金髪碧眼のアーリア人を増やすことを目論み、ドイツ各地に「レーベンスボルン・ホーム」を創設した。ヒムラーの考えでは、理想的な容姿を備えたエリート部隊の男性が、健康で若いアーリア人の女性と肉体関係を結べば、アーリア人の赤ん坊がたくさん生まれ、ゲルマン民族の肉体が維持できるらしい。もし、個人の自由に任せていると、“へんちくりん”な種族と結婚してしまうから、政府の特別機関が制禦せねばならないという訳だ。こうして、優秀な北方種族の純血性を守り、その優越種族を繁殖させるためには、特別な制度と施設が必要である、との思想がドイツに浸透し始めたのである。

Heinrich Himmler 1Lebensborn 5
(左: ハインリッヒ・ヒムラー / 右: レーベンスボルン・ホームで育つアーリア人の赤ん坊)

  ヒムラーは理想の種族でドイツ帝國を満たすことに心血を注ぐ一方で、彼の民族が持つ血統を穢す劣等人種を憎んだ。ドイツ民族の将来を憂いたヒムラーは、薄汚いスラヴ系民族やタカリ民族のユダヤ人、浮浪者のジプシーなどを排斥しようと決心したのである。彼はまた、腐敗と悪徳が蔓延る都会を嫌悪したので、レーベンスボルン・ホームを美しい田園地帯に建てることにした。現在の日本人にはピンとこないだろうが、ワイマール共和国時代には、ホモ風俗とかキャバレーが花盛りで、おぞましい繁華街には売春婦がたむろっていたというから、ヒトラーやヒムラーはこうした悖徳(はいとく)をドイツ全土から一掃した。「極悪人」の烙印を押されたヒトラーだが、意外にも彼は潔癖症で、倫理・道徳的腐敗に対して峻厳だった。美術を愛したヒトラーからすれば、ゲイ同士のセックスとかストリップ劇場などもっての外。ところが、社会道徳など一顧だにしない世俗的ユダヤ人の中には、ゲイとかレズビアンを用いてキャバレーを経営したり、変態趣味やSMショーとかを商売にして儲ける奴がいたそうだ。

Magnus Hirschfeld 2Weimar Germany 2
(左: マグヌス・ヒルシュフェルド / 右: 男同士でダンスを楽しゲイのむカップル)

  さらに、マグヌス・ヒルシュフェルド(Magnus Hirschfeld)というユダヤ人学者がセックス学(sexology)で有名だったから、ヒトラーやナチ党の愛国者たちが激怒したのも当然だった。この状態は、メル・ゴードン(Mel Gordon)の著書『官能的パニック(Voluptuous Panic)』を繙けば一目瞭然だ。日本人の読者は、ヒルシュフェルドが丸裸の女性を椅子に坐らせ、その手で彼女の性器を開闢させている写真に驚くだろう。こうした本は大学図書館にも無いから、ほとんどの日本人はワイマール期の社会風俗を知らずに、ナチ・ドイツの風紀取締を非難することになる。まぁ、性器丸出しのゲイやレズビアン、性的な幼児趣味、SMプレー、といった写真が満載の本なんて、公共図書館に置くことができないから、大学生でも第三帝國以前のドイツを理解していないのだ。(筆者はこの本を所蔵しているが、その中に掲載されている写真を紹介できない。ブログ運営のライブドア社の検閲が厳しいしこともあるが、実際、あまりにも卑猥な写真なので、いくら鈍感な筆者でも掲載をためらってしまうのだ。どうか、ご勘弁頂きたい。)

  勇敢なアーリア人戦士と美しいアーリア人の母が住むドイツを理想郷としたヒムラーであったが、いくつかの強引な政策もあったから、批判者が出て来ても不思議ではなかったし、排除されたユダヤ人から恨まれることも当然あった。しかし、彼の方針は英米で行われていた社会政策と同じものであったし、現在の福祉制度に通じているから興味深い。レーベンスボルン計画では、由緒正しいSS隊員と健康なアーリア系女性との婚姻が奨励されており、レーベンスボルン・ホームは未婚女性とその赤ん坊、あるいは既婚者との不倫で子供を産んでしまった女性などを保護し、彼らの面倒を見ていたという。ナチ党は逞しい金髪の戦士と家庭を守る母親を理想とし、帝國の未来を担うゲルマン人の子供を産むよう宣伝したし、そうした出産を半ば国民の義務と見なした。こうしたナチスの方針が「悪」なら、日本の武士は単なる殺人鬼だし、家庭を守る専業主婦も否定されねばならない。

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(写真 / ゲルマン系の母親と赤ん坊)
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  そこで、ゲルマン人の出生率を上げるため、ドイツは幾つかの社会政策を推進した。例えば、10歳以下の子供を3人以上持つ母親は、商店の順番待ちの列で優先的に扱われる「名誉母親証」を与えられたという。また、地方の行政当局は、こうした母親達に家賃と公共料金の割引をする制度を採用し、これから家庭を築こうとする若いカップルには、人種的適合性が証明されれば、独身者からの特別税を財源とした融資が行われたそうだ。子供が一人生まれるごとに融資額の四分の一が免除されたという。ということは、四人目を持てば借金がチャラになるということだ。(キャトリーン・クレイ / マイケル・リープマン 『ナチスドイツ支配民族創出計画 』柴崎昭則 訳、現代書館、1997年、 p.92)

  レーベンスボルン・ホームに熱心だったヒムラーと開業医のグレゴル・エーブナー(Gregor Ebner)は、既婚未婚を問わず、とにかく良い血統を持つゲルマン人の子供を増やしたかった。そこで、赤ん坊を養うことが困難な母親を受け容れて、レーベンスボルン・ホームの看護婦が代わりに養育する場合もあったという。とにかく、レーベンスボルン・ホームは魅力に満ち溢れていた。施設は中世の城を思わせる外観をもち、田園地帯にある高級リゾート・ホテルのようでもあった。当時、出産費用は一人頭400マルクであったが、エーブナーは素晴らしい血統を持つ1000名の子供を確保できるのなら、さしたる出費ではないと考えていたそうだ。資金は様々な方法で調達されていて、レーベンスボルン協会の会員からも徴集していた。会員数は1万3千人。そのうち8千名がSSに所属し、766名は各地の警察組織に属する者であった。会費は月に最低27マルクであったが、父親としての義務を果たしていないSSの隊員は、罰としてなのか、余計に会費を払わねばならなかった。しかも、28歳までに最低2人の子供を持たないSS隊員は、より多くの金額を払わねばならなかったそうだ。(上掲書 p.105)

Gregor Ebner 1German girl 2Himmler & daughter 1

(左: グレゴル・エーブナー

中央: ドイツ人の若い女性
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右: 少女と一緒のハインリッヒ・ヒムラー
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  それでも、レーベンスボルン計画を維持するには資金が足りなかったようで、1939年、経済省は拡大する赤字を補填すべく100万マルクの補助金を交付したという。日本政府も少子化対策を取るなら、ナチ・ドイツのレーベンスボルン計画をちょっとは参考にすべきだ。国会議員や地方議員、政府の役人はこぞって児童施設の増加を叫ぶが、肝心の国民はセックスをしても結婚しないし、子供すら産まないから少子化が益々深刻となっている。多少のお金をあげても日本人女性は妊娠を嫌がるし、幼稚園が充実すれば「待ってました」とばかりに外で働くから、専業主婦が減って職業婦人が増えてしまう。子供を増やして生活がキツくなるんなら、子供を産まずに所得を上げようとするのは人情だ。ちょっと脇道に逸れるけど、日本の税制は将来を担う国民に対して酷だ。若い夫婦が借金して新居を構えても、その家屋に固定資産をかけて多額の税金を搾り取るんだから、幸せな家庭を築こうなんて思わない。これじゃあ、まるで懲罰金だ。住宅ローンを返済しながら、年金、国民健康保険、市民税、県民税、ガソリン税の二重課税、自動車取得税、車検に加えて消費税のアップじゃ、重税を払うために働いているようなものである。もし、子供を4、5人産んだら住宅借金を棒引きにして、固定資産税も軽減ないし免除となれば、若い夫婦もちょっとは夜の営みに励むかも知れない。

Lebensborn 4Nazi Germany girls 1

(写真 / ナチス時代のドイツにおけるゲルマン系少女たち)
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  ナチ・ドイツの崩壊でハインリッヒ・ヒムラーの評価は最低だが、彼がSSのために考案した儀式には注目すべき言葉がある。夏至と冬至の儀式に集まった民衆は、次のように唱和しなければならなかった。

  我々は祖先を尊敬し、その前で跪く。祖先の血は、使命と責務として我々の中に流れている。

  血縁共同体によって、男は遺産を守る義務を負わねばならない。
  存在することの意味は、遺産を結実へと展開することである。
  生命の輝きを保つ聖なる場所を守るのは、家族である。
  男とその妻は、生命の芽を授け、それを担い、そして伝播させる。
  我々の子供たちは、我々の交わりと存在の証明である。
  そして、我々の孫たちは、我々の偉大さを証拠立てるであろう。
  (上掲書 p.64)

  ドイツ史を研究する日本の左翼学者は、頭ごなしにナチスを糾弾するが、ドイツ国内でアーリア系、つまり北方種族のドイツ人が増える事に問題は無いはずだ。確かに、ポーランドを侵掠し、現地人を弾圧したことは非難されるべきだが、侵略戦争なら歐米各国とも常習犯である。英国はアジアやアフリカに宏大な植民地を獲得し、現地の有色人種を蔑み、レイシズムに基づく秩序を形成して、現地人を奴隷の如くこき使っていた。インド人やビルマ人、アフリカ人からすれば、ドイツ人もイギリス人も変わりはないし、自由や博愛を掲げていたフランス人など完全に偽善者だ。ドイツ人を非難するアメリカ人だって、国内では黒人を家畜として働かせていたし、黒人との混血を忌み嫌い、一滴でも黒人の血が混じった子供は白人と見なされなかった。これは、ユダヤ人の祖父母を持つユダヤ系混血者を「ドイツ人」と見なさなかったナチスと同じである。アメリカ人は嫌がるけど、ナチ党はアメリカの人種法を参考にしていたのだ。当時の西歐世界はどこでも人種差別が横行していたし、他国への侵掠とか劣等人種の征服などは伝統的行為であったから、殊さら騒ぎ立てる程のものでもなかった。

恨み骨髄のユダヤ人

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(写真 / ユダヤ人の集団)

  しかし、ドイツやその他の西歐諸国に住むユダヤには赦しがたかった。彼らは千年以上も異国にタカってきた寄生民族なのに、自らを正当な「ドイツ国民」と考えていたのだ。しかし、ナチ党が台頭すると、如何なる高位高官のユダヤ人も単なる「ユダヤ人」に貶められたから、大騒ぎしても無理はない。以前なら、強欲な領主や君主を札束でビンタすれば、迫害の手が緩んだし、条件次第では引き続き居住が許され、有能なユダヤ人であれば、秘書とか財務官といった手下になることができた。ところが、ヒトラーは甘っちょろい貴族とは決定的に違っていたのである。彼はユダヤ人の袖の下に屈しなかったのだ。ナチスは法律を以てユダヤ人を炙り出した。例えば、


(1) 氏名変更の禁止。ユダヤ人がドイツ風の名前をつけることを禁止したのである。

(2) ユダヤ人の商店はユダヤ人が所有していることを隠してはならない。

(3) ユダヤ人組織は当局に登録せねばならない。

(4) ユダヤ人は自分がユダヤ人であるとこを示す書類を持ち歩かなければならない。

(5) ユダヤ人は不動産業、金貸し屋、工場経営、調査業、結婚仲介業、看護婦、巡回販売員などを営んではならない。

(6) ユダヤ人はドイツ人の劇場に入ってはならない。

(7)ユダヤ人の子供はドイツの学校から排除される。


  これ意外にも様々な禁止条項があった。こうした条例は他国にも適応され、フランスがドイツに占領された時、そこに住むユダヤ人はケルト系のフランス人と区別された。すると、今までフランス人が営んでいると思っていた商店が、実はユダヤ人の店であったとわかってフランスの庶民が驚く、といったケースがあったそうだ。しかも、「こんなに多くあったのか !」と驚嘆したというから面白い。反ユダヤ主義の伝統が根強かったフランスでは、ドイツ人によるユダヤ人迫害に協力する人が少なくなかった。忌々しいユダヤ人を排除してくれたんだから、征服者にしては「良い事」をしたものだ。

  第三帝國の崩壊はドイツ人にとって悲劇であったが、戦勝国の英米にとってもある意味「敗北」であった。経済的に疲弊した英国は別にして、国内に損害が無かった米国も意外なしっぺ返しがあったのだ。あろうことか、ナチスを悪魔にして糾弾したアメリカ人は、自国内で人種差別が出来なくなってしまった。ナチスのユダヤ人迫害はドイツ人の独創ではなく、以前から継承されてきた排除思想が基になっていたのに、まるでドイツ人だけがユダヤ人を虐待したかのような印象操作が戦時中に行われていたのである。ドイツ人が如何なる人種政策を取ろうとも、アメリカ人はそれとは無関係に、従来の人種差別を継続してもよかったのだ。なぜ戦勝国が敗戦国のせいで人種混淆社会になるのか? そもそも、合衆国の白人兵はユダヤ人を救うために参戦したのではないし、黒人との平等を求めて日本兵と戦ったわけでもない。ところが、奇蹟的に生き残った白人兵が帰国すると、国内にはユダヤ人を始めとする戦争難民が押し寄せ、ついでにアジア系移民に関する法的制限も撤廃されてしまったのである。

Jewish children 002Jewish Immigrants 1
(左: ユダヤ人の子供 / 右ユ: ダヤ人の移民)

  激戦に勝ったら厭なユダヤ人を引き受けることになるなんて、まったく馬鹿げている。同じ種族のドイツ人、特に戦争孤児や夫を亡くした母子家庭のゲルマン人なら受け容れてもいいだろう。事実、ジェイムズ・イーストランド上院議員は、戦争で住処を無くしたドイツ難民を優先しようと述べていた。ところが、優先的にやって来たのはむさ苦しいユダヤ人とか、東歐や南歐からの貧民、その他の不愉快な劣等民族であったから、地元のアメリカ人は眉を顰めていた。案の定、住みついたユダヤ人家庭からは筋金入りの共産主義者や、ピンクの左翼、リベラル派気取りのゴロツキ、空論を弄んで社会に害をなす知識人、白人社会にケチをつける左巻きのジャーナリスト、真っ赤に染まった藝能関係者などが輩出されたのである。以前、当ブログで紹介したように、公民権運動で黒人を焚きつけたのはユダヤ人活動家であったし、異人種混淆を奨励する映画を作っていたのもユダヤ人であった。

  映画界やテレビ局、その他の娯楽産業を牛耳ったユダヤ人は、盛んにナチ・ドイツを侮蔑し、ドイツ人が犯したユダヤ人への暴虐、迫害、ガス室殺人などをアメリカ人に吹き込んだ。それにより、上流ないし中流家庭の白人たちは、兇悪犯のドイツ人を蛇蝎の如く嫌うようになってしまった。映画に現れるナチ高官は決まって残忍冷酷で、米軍に銃を向けるドイツ兵は、皆ロボットのように上官に従い、ケダモノのように民間人を殺しまくる。一方、アメリカ兵は人情味に不溢れた正義漢として描かれている。南洋で投降する日本兵を撃ち殺す卑劣なアメリカ兵とか、絨毯爆撃で女子供を皆殺しにするパイロット、焼夷弾で民間人を焼き殺すよう命じる米軍将校などは描かれない。もちろん、占領下の東京や横浜で日本人女性を強姦する黒人兵とか、少女を凌辱する白人兵などは無視。悪いのはナチズムのドイツ人とファシズムの日本人のみだ。

Kristen Stewart 6Teresa Palmer 7Tiffani Thiessen & Alexandra Daddario 1

左: 二枚クリステン・スチュワートとテレサ・パーマー
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右: 二枚ティファニー・ティッセンとアレクサンドラ・ダダリオ
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  こうしたプロパガンダ映像で洗脳されたアメリカ白人は、同種族のドイツ人を殊さら憎み、異人種であるはずのユダヤ人に親近感を覚える。しかし、日本人の目から見れば、西歐系アメリカ人とアーリア系ドイツ人は同胞に見えてしまう。もし、第二次大戦を闘った高齢の白人が子供や孫の配偶者を選ぶとしたら、必ず同種族の西歐人を望むだろう。戦争が終わって帰還した白人兵は、たいてい白人娘と結婚し、自分と“似た”子供をもうけた。ここでは直接関係無いけど、白人俳優には他人なのによく似ている者がいる。例えば、女優のテレサ・パーマー(Teresa Palmer)とクリステン・スチュワート(Kristen Stewart)は、アメリカ人の目から見ても似た者同士だ。また、映画「ベイウォッチ」に出演したアレクサンドラ・ダダリオ(Alexandra Daddario)と、TVドラマ「ホワイト・カラー」で人気者となったティファニー・ティッセン(Tiffani Thiessen)も、ちょっと見ればよく似ている。これは彼女たちの親が同じ白人同士で結婚し、祖先からの遺伝子を守ってきた結果、同じタイプの容姿が保存されたという実例ではないのか。

住むなら白人地区

  口では綺麗事を述べる人でも、自分のお金を使う時には本音に忠実となる。例えば、いくら南鮮人を擁護する左翼評論家でも、自分の財布で自家用車を買おうとすれば、韓国の「現代(ヒュンダイ)」ではなく、トヨタとかホンダの日本車、あるいはメルセデス・ベンツやBMWいった高級車を選んでしまうだろう。第一、朝鮮のクルマなんか恥ずかしくて友達に見せられない。また、米国に派遣された日本人社員が現地で自宅を購入したり、子供の学校を探そうとすれば、おのずと白人の住宅地に目を向け、グレた子供が少ない白人学校を選んでしまうだろう。アメリカの白人だって「レイシスト」の日本人に賛同するはずだ。しかし、現在では、北方種族だけのドイツ村とか、白人ばかりが住む高級住宅地は評判が悪い。でも、日本人の不動産鑑定士が土地を調べれば、黒人やヒスパニックがひしめく地域より、西歐系アメリカ人だけが住む地域の方に高い評価額をつけてしまうだろう。実際、裕福なアメリカ白人は白人が圧倒的に多い高級住宅地に屋敷を構える。以前、ビル・クリントン夫妻の豪邸を紹介したが、黒人やヒスパニックに同情的なリベラル・カップルは、有色人種が少ないニューヨーク郊外の白人地域に新居を購入していたのである。

Hispanic family 5Muslim Immigrants 2

左: アメリカにやって来るヒスパニック移民
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右: アメリカにやって来るムスリム移民 )

  アメリカの白人は敗者の日本人に向かって、「オレ達の国は自由を尊ぶデモクラシーなんだ。お前らみたいに奴隷根性で暮らしている未開人じゃない」と説教するが、彼らに果たして本当の自由があるのか? 例えば、ヒムラーが夢見た金髪碧眼のゲルマン人ばかりで形成される田園地帯が現れたら、裕福な白人層は我先にと土地購入に奔走するだろう。幼稚園や小学校には黒いアフリカ人や褐色のアラブ人が皆無で、どの子供も白い肌に薔薇色の頬をし、大きな青い瞳を輝かせている。こうしたブロンドの幼児は、縮れ毛の黒人が発する独特のアクセントで喋らず、卑猥なダンスに興味を示すことも無い。健全な白人家庭が多くなれば、刑務所に収監された父親とか、福祉金に頼るアバズレ女房、麻薬でラリっているストリート・ギャング、売春婦と大して違わないズベ公、なども激減するだろう。貧困家庭の黒人生徒なんて、卒業後は刑務所に就職するため学校に通っているようなものだ。白人だけの共同体が社会的に公認されれば、リベラル派を気取ったインテリ夫婦だって、アーリア人村に引っ越したくなる。

そもそも、北方種族ばかりのドイツになったからといって、生粋のドイツ人がどんな損害を受けるというのか? 日本人のみならず、西歐系アメリカ人は冷静に考えてみるべきだ。例えば、ドイツ人に生まれた事を誇る親が、金髪を靡かせるアーリア人だらけの幼稚園を訪れて、「うぁぁぁ〜、北歐種族だらけだぁ ! 怖ろしい! こんな幼稚園にウチの子を入れることはできないわ!」と叫ぶのか? たぶん、それとは真逆だろう。もしかしたら、「まぁ、何て素晴らしい幼稚園なの ! どの子もみんな可愛らしいわ! ウチの子もここに通わせたい !」と、うっかり口を滑らすんじゃないか。「ゲルマン系」「アーリア系」「アングロ・サクソン系」と何でもいいが、西歐系アメリカ人はなぜ自分たちの理想を追求しないのか不思議である。

baby girl 1girl 15baby 15

(写真 / 忌み嫌われるアーリア系の幼児たち)
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  もし、アメリカが「自由の国」ならば、黒人やユダヤ人がギァアギャア騒ごうとも、好ましいタイプの白人だけで住宅地を持ったり、北方種族だけの小学校を作ったり、会員制の白人ゴルフ・クラブを開設すればいいじゃないか。民間組織における「受容」と「排斥」は自由であるべきだ。建国以前、イギリス人入植者は自分の好きなように神様を拝めるよう渡ってきた。彼らは新大陸に根づき、アングリカン教会から指図されず独自の教会を設立し、好き勝手な聖書解釈を行っていたのである。それなのに、アングロ・サクソン入植者の子孫は、自分の好きな者たちだけと暮らすことを禁止され、ユダヤ人が提唱する反米教育や不道徳な価値観に抵抗できない。英国のプロテスタント信徒はカトリック教会に反抗できたのに、ユダヤ人団体の前では隷属するなんて情けない。プロテスタントはユダヤ人の下僕なのか?

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(左: 歓迎されるユダヤ人の大人たち / 右: 大切にされるユダヤ人の子供たち)

  ユダヤ人が哀れな難民として入国した頃は、借りてきた猫みたいにおとなしかったが、この異民族は財力や権力を身につけると、次第に地元民の西歐人へ文句をつけるようになった。白人ばかりのコミュニティーはレイシズムの温床だから駄目。アングロ・サクソン人を始めとするゲルマン種族を称讃するのは、反ユダヤ主義に繋がるから禁止。米国をキリスト教国と定義することは、信仰の自由を阻碍することになるから破棄。西歐文明、とりわけイギリス文化を継承することは、多民族・多文化主義を否定するものだから、テレビや学校の教育プログラムから抹消。こんなアメリカ社会に変貌しているのに、アメリカの白人はフランクフルト学派の毒が廻っているせいか、まったく気づかない。その前に、「ネオ・ナチ」という言葉を聞くだけで震え上がってしまうのだ。ただ、筆者の言うことを理解するアメリカ人も居ることはいる。しかし、彼らは社会的地位を失うことを恐れるから、絶対に賛同することはない。こんな具合だから、綺麗事でしかない理想を語るリベラル派が幅を利かせているのだろう。

白人の赤ん坊は高い

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(写真 / レーベンスボルン計画で理想的モデルとされそうなアーリア人の男女と家族)
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  とにかく、レイシズムを否定するアメリカ社会であるが、養子縁組となれば白人の赤ん坊を望む白人夫婦は多い。もし、アメリカにレーベンスボルン・ホームのような養育施設があって、ヒムラーのように純粋なゲルマン人の赤ん坊を斡旋してくれたら、感涙にむせるカップルがたくさん出てくるだろう。事実、白人の赤ん坊は需要過多で、供給が極めて少ない。だから、白人の赤ん坊は値が高く、その次に白人系のヒスパニック、アジア系と値段が下がり、黒人は最低価格だ。幼くても買い手が付かない。売れ残った黒人の子供が成長してしまえば、もう絶望的である。子供が欲しい白人カップルは、しぶしぶ黒人を引き取るが、ユダヤ人カップルはユダヤ人の養子にこだわるし、異民族の子供を欲しがらない。ユダヤ人は二重思考を恥としないからね彼らは白い肌の子供を優先的に迎え入れ、たまにへそ曲がりのユダヤ人カップルが黒人を養子にする程度。しかし、西歐系白人に対しては人種平等を押しつける。(それなら、パレスチナ難民の子供を養子に迎えればいいのに。)

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左: 黒人の赤ん坊
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中央: 支那人の赤ん坊
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右: ヒスパニック系の子供
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   気前よくユダヤ難民を受け容れたアメリカ人は、本当に愚かである。自分の国なのに“くつろぐ”ことができず、常に異国に居るような気分になるし、周りを見渡せば黒人、アラブ人、南米人、支那人、インド人などが目に付く。しかも、言論の自由があるはずなのに、絶えずユダヤ・メディアの検閲が光っている。そして「自由」と「デモクラシー」を掲げて対外戦争をすれば、その都度、望みもしない難民がやって来るのだ。第二次世界大戦でユダヤ人、朝鮮戦争で朝鮮人、ベトナム戦争でベトナム人、イラク戦争でイラク人、ソマリアの紛争ではソマリア人が雪崩れ込んで来た。こんな結末なら、ナチ・ドイツを徹底的に破壊しなけりゃよかった、と歎きたくなる。日本人が高齢のアメリカ白人を捕まえ、「1950年代以前のアメリカと1960年代以降のアメリカと比べたら、どちらが良いのでしょうか?」と尋ねたら、彼らは声を小さくして「そりゃあ、戦前の方さ」と囁くだろう。「でもなぁ、ワシの孫は黒人との混血児なんだよ」という悲しい告白もあったりして、気の毒なインタビューになったりする。

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(写真 / 高値がつきそうな白人の子供)
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  日本人で歴史を研究する者は圧倒的に文系が多いから、歴史を違った角度から考えるという習慣がない。自然科学や数学を専攻する者なら、自然現象をあらゆる角度から考察し、様々な仮説を立て実証したり、研究したりするだろう。たとえ、「定説」であっても、それを疑い、自分で検証するし、学会の大御所が提唱した仮説といえども決定的ではない。ところが、歴史学会に所属する学者だと、長老教授の「史観」に逆らうことはないし、「定説」通りに論文を書けば、やがて正教授になれる。何も無理して有力教授に挑戦する必要はないし、黙って従えば自分も大御所になれるんだから、学会の主流に逆らうのは愚の骨頂だ。アメリカの学会も似たり寄ったりで、かつてアングロ・サクソンが主流だった米国はユダヤ人の天下になってしまった。ナチスにだっで見倣う点はあるだろう。アメリカ人はナチスのユダヤ人虐殺を非難するが、その立派なアメリカには中絶賛成派の「プロ・チョイス」勢力が存在する。「赤ん坊殺し」をチョイス(選択)の問題にするんだから驚く。たしかに、胎児は喋らない。いや、喋ることができない。母親に殺された赤ん坊は天に訴えるしかないのだ。それなら、未婚の母から捨てられた子供を養育したレーベンスボルン・ホームの方が遙かにマシだ。ユダヤ人の子供を殺すことが残酷なら、まだ母親のお腹にいる赤ん坊を殺すことだって悪である。案外、中絶賛成派のフェミニストは、ヒトラーが待つ地獄に直行するかも知れないね。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html


ナチスが嫌った醜い藝術
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html

頽廃芸術が横行したワイマール時代

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(上絵画 2枚 / ヒトラーの作品)

  今回のブログは1、2年前から発表しようかどうか迷った記事である。ナチス時代のドイツを知るには、ワイマール時代の社会状況を知る必要があるのだが、その一部があまりにも卑猥なのであからさまに伝えることが出来ない。しかも、ブログ運営会社のライブドアによる「検閲」があるので、たとえ「歴史的事実」でも「破廉恥な現実」を掲載すれば、当ブログの閉鎖を余儀なくされるからだ。それでも、歴史の真相を求める日本人には、偏向史観ではない具体的で“生々しい”情報が不可欠なので、肝心なエロ絵画を載せられないが、とりあえず紹介することにした。

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(左: アドルフ・ヒトラー / 中央: カール・トルッペ Karl Truppe と Franz Triebsch によるヒトラーの肖像画 / 右: アルベルト・シュペーア )


  第三帝國の総統となったアドルフ・ヒトラーが、若い頃、画家を志していたことは有名である。したがって、この伍長上がりの政治家は美術に関しては少々うるさく、自らのドイツ帝國を偉大な藝術で飾ろうと思っていた。ヒトラーがベルリンを壮大な首都にしようとした「ゲルマニア世界都市計画(Welthaupstadt Germania)」は有名で、その担当者に建築家のアルベルト・シュペーア(Berthold K. H. Albert Speer)を据えたこともよく知れられている。現在では、ヒトラーと言えば「極悪人」というレッテルが貼られているので、やることなすこと一切が非難の的になっている。だけど、もし敗戦がなく、目論見通りベルリンの再開発が遂行されていたら、たぶん絢爛豪華な帝都の誕生となったであろう。

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左: ドイツ人の少女
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中央: ナチス時代のドイツ人女性
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右: ナチ党のポスター
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  もっとも、追い出されたユダヤ人は恨み骨髄だ。しかし、好ましいアーリア人で賑わう街はヨーロッパ諸国の注目を集め、不動産価格が高騰するのは間違いない。きっと、好奇心旺盛な日本人も、世界に冠たる偉大な都市を見物しようと、ベルリンに押し寄せるんじゃないか。現在の歐米人のみならず、日本人も「ユダヤ人の視点」でしかドイツ史を観ないけど、もし、ゲルマン人の目でヒトラーの帝國を眺めれば異なった感想を持つはずだ。

例えば、仮にドイツの住民がアーリア系ドイツ人ばかりになったとする。そうなると、いったい誰が困るというのか? 日本人観光客で、金髪碧眼の北歐人が集まる商店街とか教会を眺めて、「気持ち悪る〜い」と感じる人はいないだろう。日本人女性だと、ゲルマン人の子供が楽しく遊ぶ幼稚園を見て、「アっ! かわいぃ〜い」と声を上げるんじゃないか。日本人の亭主だと、ブロンド美女の保母さんに“うっとり”する姿を女房に見られて、「アンタ、どこ見てんのよ !」と叱られたりしてね。

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左: ヒトラーとドイツ人の少年
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ドイツ軍士官
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右2枚: 理想的なアーリア人女性
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それに、ドイツを訪れたオランダ人やイギリス人の観光客が「あれ〜ぇ? 白人ばかりだ。ユダヤ人がいなくて寂しいなぁ」と愚痴をこぼすのか? ユダヤ人が大嫌いな愛国的フランス人なら、「アレマン人(ドイツ人)は素晴らしい ! ぜひ、我が国もユダヤ人を駆逐しよう !」と叫ぶに違いない。また、 ユダヤ人を大学やホテルから閉め出したアメリカ人も、同種族のドイツを旅行して感動するはずだ。帝國陸軍から派遣された日本人だって、ゲルマン人ばかりのドイツに違和感は無く、ユダヤ人が居なくても不便はない。ちょうど、江戸や大坂に朝鮮人が居なくても寂しくないのと似ている。

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左: ドイツ人の少年
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中央: ドイツ軍士官の家庭
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右: 1950年代のドイツ人女性
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  ナチ党やヒトラーの評判が悪いのは、ドイツを敗戦に導いたことにあるのだが、ユダヤ人や左翼分子が歐米の学会を牛耳っているのも、見過ごせない原因の一つである。ヒトラーにより追放されたユダヤ人は、アメリカやブリテン、カナダなどの西歐世界に移住し、その地で反ナチス本を大量に出版した。したがって、ドイツの事情に無知な一般人は、「ほとんど」と言っていいくらい、ユダヤ人の洗脳を受けている。フランクフルト学派のユダヤ人を迎入れたアメリカはその典型例で、今でもユダヤ人が撒き散らかした害悪により、訳も解らず“のたうち回って”いるのだ。これは丁度、見知らぬ他人から魚を貰って食ったら、その内蔵に水銀が溜まっていたり、回虫のアニサキス(Anisakis)が潜んでいたことから、食後にもがき苦しむのと同じ症状である。

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(上絵画 / ヒトラーによる風景画)

  排除されたユダヤ人の中には藝術家もいて、彼らは亡命先で散々ナチスを呪った。そして、この呪詛を聞いた現地人もユダヤ人アーティストに同情したものである。しかし、この亡命者たちは一体どのような作品を世に送り出していたのか? なぜ、ヒトラーやナチ党員たちは、彼らを排斥したのか? 日本人としては事の善悪を越えて、その理由を知りたい。我々は迫害されたユダヤ人の怨念だけを鵜呑みにするのではなく、迫害した側のドイツ人による言い訳にも耳を傾けねばならないと思う。とりわけ、1942年3月27日にヒトラーが述べた意見は傾聴に値する。ヒトラー曰わく、

  ワイマール共和国時代が特にひどかった。これは美術界におけるユダヤ人の影響力の怖さを如実に物語っている。ユダヤ人どものやり方は信じがたいほどの図々しさだった。インチキ美術評論家の協力も得て、ユダヤ人どうしでの間で競り上げて、ナイーヴな人々に屑同然の絵を最高傑作と思わせるのに成功したのだ。自らの知的水準には自負を抱いていたはずのエリートたちさえ、ころりとだまされた。今、ユダヤ人の財産没収のおかげで奴らのペテンの証拠が続々と手に入るというわけだ。屑同様の絵をだまして高値で売った金で、反対に過小評価した傑作をばかみたいな安値で購入する。-----これがやつらのペテン藝術の極みともいえる手口だったのだ。著名なユダヤ人から徴発した財産の目録に目を通していつも驚くのは、そこに本物の芸術品ばかりが載っているということだ。(『ヒトラーのテーブル・トーク』 下巻、吉田八岑 訳、三交社、1994年 p.31)

  確かに、ユダヤ人の富裕層はヨーロッパの名画を買い漁っていたようで、ナチスが彼らから奪い取った作品には目を見張るものがあった。最近だと、ナチスに協力した画商のヒルデブラント・ガーリット(Hildebrany Gurlitt)が隠し持っていた絵画に注目が集まったことがある。彼の息子で隠遁生活を送っていたコルネリアスが、ある失態を犯してしまい、盗品が表に現れるという事件が起きた。(Michael Kimmelman, "The Art Hitler Hated", The New York Review of Books, June 19, 2014) 戦災で失われたと思われていた多数の絵画が見つかってドイツ人は驚嘆。その中には、「頽廃藝術(Entartete Kunst)」作品も含まれていたそうだ。ヨーロッパ人の美を愛するヒトラーにとって、ユダヤ人や現代画家の美観は許せなかったそうで、総統は美術展に足を運ぶ度に、その「塗りたくった絵」を取り外させたという。たとえ、プロイセン・アカデミーの“お墨付き”が与えられた作品であっても、「無価値なもの」に対しては容赦無くふるい落としたらしい。

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(左: オットー・ディックスの作品 / 中央: ポール・クリーの作品 / 右: エーリッヒ・ヘッケル)

  ヒトラーによると、アカデミーの会員はきちんと任務を果たさず、いつも仲間内で“なあなあ”で済ませ、ある宗教担当大臣はユダヤ人の罠に嵌まって“とんでもない駄作”に賞を与えてしまったそうだ。しかも、騙された人々は最初、「これは難解な作品だ」などと一応納得した顔をして、「作品の深層と意味を洞察するためには、提示されているイメージの世界に浸る必要がある」と、もっともな“ご託”を並べたという。そう言えば、日本でも西洋美術展が開催されると、評論家気取りの連中が適当な「講釈」を垂れるし、門外漢の一般客は、その「値段」を聞いて作品の「価値」を決める傾向が強い。庶民はピカソやムンクの作品を観たってチンプンカンプン。「こんなの子供の落書きだよなぁ」と心の底で思っても、その値段が何十億円と聞けば、「うぅぅ〜ん、やはり筆のタッチがひと味違うな !」と急に意見を改めたりする。

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(左: パブロ・ピカソ / ピカソの作品 / エドワルド・ムンク / 右: ムンクの作品)

  だが、ヒトラーによる美術批評家への意見は手厳しい。「一般論として、アカデミーの類いは傾聴に値する程の意見を発表しない」そうで、教授どもは落ちこぼれか、枯渇した老人くらいであるという。たとえ、才能豊かな者がいても、彼らは1日に2時間と教えられないそうだ。(上掲書 p.32) ヒトラーの美術論によれば、真の藝術家は他の藝術家たちとの接触を通して育って行くものらしい。かつて、巨匠といわれた画家たちは、工房の助手としてスタートし、技術と器用さで秀でた者、あるいは将来価値のある作品を生み出せそうな者だけが、徒弟の地位へと昇ったそうである。ヒトラーはルーベンスやレンブラントの例を挙げていた。これなら我々にも解る。例えば、「偉大」と称されるピカソなんかより、フェルメールの油絵の方がよっぽど素晴らしいし、ラファエロの聖母像も傑作だ。ヨーロッパの評論家はムンク(Edvard Munch)の『少女と死』とか『思春期』を称讃するけど、日本人には葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の美人画とか版画の方が解りやすい。

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(左: フェルメールの名作「真珠の耳飾りをつけた少女」 / 中央: レンブラントの「善きサマリア人」 / 右: レンブラントの「愉快な仲間」)


エロ・グロ作品を描いていた亡命者

  ヒトラーは、当時の風潮に不満を漏らしていた。ドイツの美術学校では自由放任の方針を取っていたようで、天才なら最初から自分のしたいようにしてもよい、と考えていたらしい。しかし、ヒトラーは「天才画家であっても、最初は皆と同じように学習から始めねばならぬ」と考えており、「たゆみない努力によってのみ、描きたいものが描ける」と信じていた。そして、総統は絵の具の混合をマスターしていない者や、背景の描けない者、解剖学を学んでいない者は、大した画家にはならないだろう、と結論づけていた。そこで、ヒトラーは「曾てのように現代も、画家の卵は親方の工房で美術の伝統にどっぷり浸かりながら訓練を受けるべきだ」という。なぜなら、ルーベンスやレンブラントの作品を観ると、弟子と師匠が描いた部分の区別が附きにくかったからである。つまり、ルーベンスやレンブラントの弟子たちは、師匠と同じ技量を身につけていたということだ。

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(左: ゲオルク・グロス / マックス・ベックマン / エルンスト・ルドウィック・キルヒナー/ 右: エーリッヒ・ヘッケル)

  このように、ヨーロッパに根づく伝統的美意識を愛したヒトラーだから、その伝統を無視する抽象画とか表現主義の作品は許せなかった。ヒトラー率いるナチ党が「頽廃藝術家」と評した者といえば、ゲオルク・グロス(Georg Grosz)や、オットー・ディックス(Otto Dix)、マックス・ベックマン(Max Beckman)、エルンスト・ルドウィック・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)、パウル・クリー(Paul Klee)、ルシアン・フロイト(Lucian Freud)、エーリッヒ・ヘッケル(Erich Heckel)などが挙げられる。特に、ユダヤ人と思われがちなゲオルク・グロスは札付きのワルで、キリスト教の家庭に育ったドイツ人であったが、思想的には真っ赤な共産主義者であった。彼はドイツ共産党に属していたけど、ソ連を訪問し、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev / ユダヤ名Hirsch Apfelbaum)やレーニンと会ったことで失望したそうだ。グロスは形だけではあるが、共産主義から足を洗い、風刺画家に専念したらしい。

  ところが、このグロスは単なる絵描きではなかった。ナチ党の台頭により米国へ亡命したグロスには、マーティー(Marty)という息子が生まれ、この倅(せがれ)はマスコミを相手に父親の偉大さを宣伝していたが、ある作品に関しては沈黙を守っていた。彼はある記者のインタビューを受けて、「父の風刺画や油絵、鉛筆画はベルリンの頽廃と腐敗を厳しくも情熱的に描いていました」と述べている。(Rosie Millard, "My father, the famous artist", The Independent, 17 March 1997) しかし、マーティーは父親の藝術を概ね讃美するも、その恥部だけは巧妙に避けていたから狡(ズル)い。この息子は父のエロ・グロ作品を人前で堂々と掲げるべきだ。グロスの作品総てを知らぬ一般人は、ナチスに迫害された可哀想な藝術家としか思わないが、彼の描いた「卑猥な絵」を目にすれば、ご婦人方は両手で顔を覆ってその場を去るだろうし、美術品愛好家の紳士なら、「何だ、この下品な絵は !」と叫ぶに違いない。日本人もグロスのエロ絵画を見れば、なぜナチ党が彼を「ボルシェビキ風の敵No.1」と評したが判るだろう。

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(上3 枚 / ゲオルク・グロスの作品)

  憐れな亡命者と思われているグロスは、文字にするのも憚れるような卑猥な絵を描いていた。例えば、性器を剝き出しにした女や、客のペニスを膣に挿入する淫売、巨根をしゃぷる痴女、うつぶせの女を背後から襲う男、醜悪な体型をした中年女など、“おぞましい”としか言いようのない作品を残していたのだ。(ライブドア社の禁止規定に抵触するので、実際の生々しい「猥褻作品」を掲載できなくて残念である。でも、規則だから仕方ない。) とにかく、グロスは露骨に性器を描写していたから、とても一般公開などできない。米国の敬虔なキリスト教徒なら卒倒間違いなし。仮に、美術館の壁に掛けることが出来たとしても、訪問客から猛抗議を受けて、即座に展覧会は中止されるだろうし、主催者は責任を取ってクビになるはずだ。こうなれば、一般のアメリカ人もグロスへの同情を失い、「頽廃芸術」が何であったのかが解る。でも、ユダヤ人や左翼ジャーナリストは困るだろう。ヒトラーは絶対的な悪なのに、その追放政策が正しく思えてしまうからだ。したがって、反ナチス派の評論家や歴史家は事実を隠す。

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(左2枚 : ルドウック・キルヒナー / 右2枚: マックス・ベックマン )

  ルドウィック・キルヒナーの作品は卑猥でなかったが、彼の描く人物はどれも醜くて、観ていると暗い気分になる。なるほど、描かれた人物は印象的だが、お世辞にも「美しい」とは言えず、どちらかと言えば「病的」と評した方がいい。ちなみに、キルヒナーは精神病を患っており、展示会に出した自作を撤去されてから一年後に自殺している。フランクフルトのアカデミー会員をクビになったマックス・ベックマンや、700点以上者作品を撤去されたエーリッヒ・ヘッケルの絵も全体的に陰鬱で、部屋に飾ってみたいとは思えない作品である。だいたい、ベックマンの作品などを模範にしたい絵描きがいるのか? 蛭子能収をちょっと上手くしたくらいで、ザビエル山田といい勝負だぞ。(ザビエル山田は漫画『愛の泉』や『オヤジの吐息』の作者である。) 美術評論家は彼らの作品を「素晴らしい」と褒めちぎるんだろうが、一般人ならこんな絵を高値で買おうとはしないし、政治献金の代用品であっても買いたくない。個人の敷地で催されるヤード・セール(庭先の販売会)だと、せいぜい5、6ドルの値札しかつかないんじゃないか。筆者の好みから言えば、安彦良和先生の油絵(例えば、「ガンダム」のシャーとかセイラの人物画)とか、荒木飛呂彦先生が描くジョジョの直筆ポスターなどの方が遙かに価値がある。

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(左と中央 : エーリッヒ・ヘッケル / 右: ルドウィッヒ・マイトナー )

  ユダヤ人の画家になるともっと酷い。ルドウィッヒ・マイトナー(Ludwig Meidner)の絵を見ると、何かの病気を患っているんじゃないか、と思えてくる。だが、彼よりも不愉快なのは、ルシアン・フロイトだ。彼は有名な精神科医であるジクムント・フロイドの孫としても知られている。ルシアンの描く女性などを観ていると、日本人だってヒトラーの反論に賛成するんじゃないか。例えば、ぶくぶくと太った醜い女性とか、性器丸出しの男性などを観れば吐き気がする。ナチ党員たちはゲルマン人女性の美しさや清らかさを称讃したのに、ユダヤ人画家ときたら、北歐種族の肉体的美しさを否定し、それを無視するどころか、却って醜悪にして「美術」と称する。西歐婦人の気品を台無しにした挙げ句、反対の肉体を讃美するんだから、ドイツ人じゃなくても不快になるじゃないか。ヨーロッパ人にとったら、美しい人間というのは、古代ギリシア人が理想とした女神とか、ルネッサンス期の巨匠が描いた英雄である。

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(左ルシアン・フロイド / 中央と右: フロイトの作品)

  しかし、ヨーロッパ人、特にキリスト教徒のゲルマン人を憎んだユダヤ人は、いじめっ子民族の肉体を讃美したくない。アーリア人の肉体美を描くことは、敵対者の優越性を認めることに繋がるし、セム種族の肉体的劣等性を認めることになるからだ。ユダヤ人は一般的に捻れた性格を持っている。美しいゲルマン人女性に憧れる一方で、彼女たちからの侮蔑に耐えねばならぬ運命を有しているからだ。ユダヤ人は西歐人に対しては、人種平等の説教を垂れるが、仲間内では西歐白人女性を獲物にしているから卑劣だ。(イスラエルの売春宿では、西歐人女性のような東歐女性が人気で、フィリピ人女中やアフリカ人娼婦は安値でランクが落ちる。それにしても、貧乏なルーマニア人やウクライナ人、ロシア人の女性を半ば騙して、次々に密輸するユダヤ人の女衒はあこぎだ。TBSの金平茂紀は朝鮮人娼婦なんか放っておいて、スラヴ系娼婦を取り上げればいいじゃないか。看板番組の『報道特集』で「報道」しろ !)

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左: キャメロン・ディアス
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ジェニファー・アニストン
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テリー・ポロ
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右: ジェニファー・ハドソン
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ユダヤ人は多民族主義を唱えるくせに、性慾となれば白人女性一本槍だ。 恋愛映画を造るハリウッドのユダヤ人たちは、決まって相手方を西歐人美女にする。例えば、ユダヤ人男優のベン・スティラー(Ben Stiller)は『メリーに首ったけ』ではキャメロン・ディアス(Cameron Diaz)を共演者にしたし、『アロング・ケイム・ポリー(Along Came Polly)』ではジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)を、『ミート・ザ・ペアレンツ』ではテリー・ポロ(Teri Polo)を恋人役にした。ところが、どのユダヤ人男優も、有名司会者のオプラ・ウィンフリー(Opra Winfrey)とか、ジェニファー・ハドソン(Jennifer Hudson)、タラジ・ヘンソン(Taraji Henson)、クィーン・ラティファ(Queen Latifah)などを恋人役にはしないのだ。(もしかして、黒人への嫌悪と差別なのか ?)

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(左: タラジ・ヘンソン / オプラ・ウィンフリー / クィーン・ラティファ / 右: コートニー・コックス)

大ヒットTVドラマ『フレンズ』でもユダヤ人的嗜好が滲み出ていた。このドラマを制作したプロデューサーのデイヴィッド・クレイン(David Crane)とマルタ・カフマン(Marta Kauffman)は共にユダヤ人で、ドラマの中でもロスとモニカのゲラー兄弟をユダヤ人に設定していた。兄のロス・ゲラーを演じたデイヴィッド・シュワイマー(David Schwimmer)はユダヤ人だけど、妹役のモニカを演じたコートニー・コックス(Courtney Cox)はイギリス系アメリカ人である。呆れてしまうのは、ユダヤ人のロスが憧れるレイチェル役に、西歐系女優のジェニファー・アニストンを起用していたことだ。『フレンズ』にはユダヤ人女優のリサ・クドローがいたのだから、彼女をフィービー役ではなく、レイチェル役にすれば良かったのに、と思ってしまうが、クレインとカフマンにしたら、いかにも「ユダヤ人のカップル」になってしまいそうで、本能的に嫌がったのだろう。もし、ニューヨークに住む「フレンズ」が、全てユダヤ人となったら、不愉快というか余りにも“リアル”過ぎる。たぶん、制作担当者はユダヤ色を薄めるためにも、異教徒の西歐人をキャストに混ぜたんだろう。

Lisa Kudrow 4David Schwimmer 2Marta Kauffman 1David Crane 2
(左: リサ・クドロー / デイヴィッド・シュワイマー / マルタ・カフマン/ 右: デイヴィッド・クレイン)

  ユダヤ人は現実社会でも、ユダヤ人女性や黒人、アジア系女性に興味を示さず、西歐系女性に性的興奮を覚える。ユダヤ人の大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインシュタインについては、以前このブログで触れたからここでは繰り返さない。でも、最近またもやユダヤ人によるセクハラが暴露されたので紹介する。日本ではあまり知られていないが、ミネソタ州選出の上院議員にコメディアン上がりのアル・フランケン(Al Franken)がいる。一連のセクハラ騒動に感化されたのか、彼にセクハラを受けたと表明する女性が現れた。被害者はリーアン・トゥイーデン(Leeann Tweeden)という美女で、以前は水着のモデルや『プレイボーイ』誌のグラビア・モデルを務めたことがあり、現在はテレビ番組の司会やレポーターを務めているそうだ。

Al Franken 1Al Franken 3Harvey Weinstein 1
(左: アル・フランケン / 中央: リーアン・トゥイーデンの胸を鷲摑みにするフランケン / 右: ハーヴェイ・ワインシュタイン )

事件は2006年、彼女が中東アジアに派遣された米軍を慰問した時に起きた。アル・フランケン議員はリーアンが寝ている隙に彼女の胸を鷲摑みにしたり、彼女が嫌がるのに無理矢理キスを迫ったそうだ。(Juana Summers and M.J. Lee, " Woman says Franken groped, kissed her without consent in 2006", CNN, November 17, 2017) セクハラ事件が表沙汰になると、フランケン議員は彼女に謝罪したそうだが、いくら冗談でも有名人の身分を忘れて卑猥な行為をするなんて、アホといか言いようがない。でも、どうしてユダヤ人は黒人とか支那人女性に対しては「いやらしい」事を企てないのか。「人種的平等を考えろ」とは言わないが、獲物に「人種的偏見」を持っているんじゃないかと疑いたくなる。

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左: 司会者としてのリーアン・トゥイーデン
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右: モデル時代のトゥイーデン
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怨念が動機になっている美意識

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(左: ヤンケル・アドラー / 右3枚: アドラーの作品 )

  話が逸れたので元に戻す。ナチ党は頽廃藝術をユダヤ人の“せい”にしているが、こうした趣味に人種は関係無さそうだ。確かに、ヤンケル・アドラー(Jankel Adler)のようにポーランド系ユダヤ人の画家がいたけど、オットー・ディックスのようなドイツ人の画家もいたのだ。民族性と美的感覚の関連は不明確だが、二人の絵画は本当に美術なのかどうか判らない。現代の我々が見ても、アドラーの絵は気分が落ち込むほど陰惨である。ただし、ディックスが描いた絵の方が遙かに酷い。ディックスの描く女性など本当に醜く、お金を払って見る藝術とは思えないし、ヒトラーの言うように駄作と評する方が適切である。彼が描いた裸婦など殴り書きみたいだし、赤ん坊を抱く母親の絵は貧相というより怖い。ガリガリの赤ん坊なんてどうかしている。これじゃあ、アメリカ人だってナチスに賛同したくなるじゃないか。

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(左: オットー・ディックス / 中央と右: ディックスの作品 )

  昔、ヨーロッパでは既存の秩序や常識を否定し、破壊的感情を肯定したダダイズム(Dadaism)が流行ったけど、ユダヤ人には“しっくり”する運動だった。とにかく、ユダヤ人は西歐世界の伝統や秩序を覆したいと願っている。自分の種族が築き上げた訳でもない価値観など紙屑以下。タバコの吸い殻を揉み消すように、西歐人の理想を足で踏みにじりたいのだ。そして、自分たちを“抑圧”し続けた憎い白人を倒したい。だから、アーリア人の美しさを貶して、醜い人物像を「素晴らしい」と言い換えたり、変態的描写を「斬新なタッチ」として言いふらすのだろう。彼らにとり、異教徒の美意識を破壊することは快感なのだ。

Otto Dix Pregnant Woman 2Otto Dix Mother & ChildOtto Dix Ladies of the NightOtto Dix Pregnant woman
(上絵画 / ディックスの作品)

  全共闘世代なら馴染み深いだろうけど、1960年代から1970年代にかけて前衛芸術なるものが“進歩的”と目されていた。フランス語の「アヴァン・ギャルド(avant-garde)」を口ずさみ、寺山修司とか大島渚たちが訳の解らぬ映画を作っていたのを覚えている人も多いだろう。ジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコが、へんちくりんな踊りを披露していたけど、あれも前衛藝術の一種らしい。音楽でも奇妙なものがあり、ユダヤ人音楽家のアーノルド・ショーエンバーグ(Arnold F. W. Schoenberg)とか、ニューヨーク生まれのロシア系ユダヤ人モートン・フェルドマン(Morton Feldman)が有名だ。まぁ、音楽の趣味は人それぞれだから、余計な事をせずに市場に任せておいた方がいい。

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(左: モートン・フェルドマン / 中央: アーノルド・ショーエンバーグ / 右: ヨーコ・オノ)

  一般的に藝術は「自由」な方が良いけど、人々の精神に及ぼす影響も無視できないので、国家が介入する場合もやむを得ない。例えば、公園や路地裏で公然と映画のセックス・シーンを撮影するのは非常識だし、歩行者天国の日曜日に鞭を握ったSMの女王様が闊歩すれば、親子連れの一般人は目を背けるだろう。また、百貨店の展示会だって、しわくちゃの老婆を題材とした全裸写真とか、中高年ゲイが互いにペニスを握りしめているスナップ写真とかは論外だ。でも、西歐ではたまにある。米国で問題になったけど、小便の中に埋もれるキリスト像という絵画が公開され、世間の非難を浴びたこともあるのだ。藝術作品の弾圧は賛成できないが、常識を越えた「藝術」に一定の制限があってもおかしくはない。

  ナチスによる私有財産の没収は違法だが、ヒトラーたちが「頽廃藝術」に憤慨した気持ちも分かる。ヒトラー総統が自分の帝國だから美しくしたい、と考えてもおかしくはない。「盗人にも三分の理」があるように、ナチ党にも1%くらい擁護論があってもいいんじゃないか。日本人にとって重要なのは、ナチスが怒った理由とその経緯を“具体的”に調べることだ。ユダヤ人の本だと“抽象的”に書かれているだけで、不都合な歴史が省略されている場合が多い。「書物の民」は偶像崇拝を嫌って文字を重視し、映像や視覚を回避する傾向が強いから、我々はどのような素性の者が、如何なる思想で批判しているのか検証してみる必要がある。案外、ユダヤ系著者の素顔と正体を知ったら、「えっ、こんな人なの?!」と驚くんじゃないか。(ワイマール時代のドイツについては、別の機会で述べてみたい。ただし、当ブログが閉鎖命令を受けたら不可能になってしまうだろう。もしかしたら、今回が最終回となってしまうかも知れないので、引っ越しを考えているところです。)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html

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ヒトラーの嘘と絵画 − 彼はなぜ芸術家になれなかったのか?
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html


――エカキで作家・マンガ家、旅人でもある小暮満寿雄が世界のアートのコネタ・裏話をお届けする!

 かのショートショートの名手・星新一の短編に、こんな話があるのであらすじを紹介しよう。

 オーストリアのとある町。貧しい画家志望の青年が、愛する女性とのデート資金を求めて質屋にやってくる。担保の質物は何と青年自らが描いた絵。青年は「金を貸してください」と懇願するが、当然、質屋に絵は一顧だにされず「こんな絵で金は貸せません」とキッパリ断られてしまう。そして下記のやりとりが行われる。

「やっとデイトの約束までこぎつけたんです。お願いです、お金を貸してください。お金は必ず返します。ご恩は忘れません」

「だめですな。そんなことで金を貸していたら店はやっていけません。私たちユダヤ人は冷静なんです。甘く見ちゃ困りますな」

「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる・・・」

「そんなにすごんでも、だめなものはだめですよ。さあ、お帰りください、アドルフ・ヒットラーさん」

(星新一『さまざまな迷路』(新潮社)/「ことのおこり」より)

 絵のサインを見ながら主人は、青年の名前言うのだが、彼がすごい剣幕で帰ったあとも、その狂気じみた目つきを思い出し「いずれなにかやらかすかもしらんな」とつぶやくのだった…。もちろん、ユダヤ人質屋が若きヒトラーに金を貸さなかったのは、星新一のフィクションだ。

 しかし、ヒトラーが画家志望の青年だったことは有名な事実で、実際ヒトラーが描いた絵は何点も世に残されている。彼の美術に対する情熱は相当なものだったようで、当時オーストリアで名門校だったウィーン美術アカデミーを受験している。しかし、成績不振ということで受験に失敗。

ヒトラーが描いた絵「YouTube」より
https://www.youtube.com/watch?v=mALbFREo-bk

 その時の恨みやコンプレックスが逆に独裁者ヒトラーを生んだ原動力ともなったわけだが、こちらがその、オーストリア時代に彼が描いたという絵である。

 見ての通り、独創性のない普通の風景画で、レベル的には“上手な素人絵”というくらいだ。これらの絵を見て、ヒトラーの演説にあるようなエキセントリックで妙に人の心を揺さぶる何かを期待した人は、きっと肩すかしを食らった気分になるだろう。


 ところが、ヒトラー本人は自らの絵について「古典派嗜好」と自負していたそうで、当時台頭してきた、いわゆる「世紀末美術」(幻想的で退廃的な性格を有する作品)やアール・ヌーヴォーといった新しい芸術運動にはむしろ嫌悪感すら抱いていたという。


■真実を吐き出す「世紀末美術」を憎んだヒトラー

 一方でこの絵を見てほしい。こちらは、同じ時代に世紀末美術の騎手として活躍し、わずか28歳の若さで亡くなったエゴン・シーレの作品だ。

エゴン・シーレ1915年作「死と乙女」
http://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

 絵画とはある意味、心の中に溜まっている澱(おり)を吐き出す作業なのだが、ヒトラーの絵と比べ(比べることもないが)、まさに強烈な個を解き放っており、肉体と精神すべてを吐き出してキャンバスに塗布したような絵だ。

 もちろん、ヒトラーはエゴン・シーレの作品を忌み嫌い、憎んでいたという。

 実はエゴン・シーレ。ヒトラーより1歳下にあたるのだが、彼が受験に失敗した1年前にウィーン美術アカデミーに入学していたという経緯があるのだ。元来、世紀末美術の台頭に嫌悪感を抱いていたヒトラーだったが、このことでさらに激しい憤りを抱き、独裁者となってからは徹底的に彼らやアカデミーを「退廃芸術」と呼び、弾圧下に置いたのだ。そして、1930年代にヨーロッパで隆盛していた抽象美術や表現主義、バウハウスなどはもちろん、印象派以降の近代の美術はすべてNG。当時、ユダヤ人らが所有していた絵画は財産と一緒にことごとく没収され、略奪され破壊された。

 これは弾圧の対象こそ違えど、まさに星新一の短編を地で行った話ではないだろうか。

「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、オレを認めなかったきさまら退廃芸術家とアカデミー会員全部に仕返ししてやる…」

 さすがは星新一。物事の本質をきちんと捉えているではないか。

 一方でヒトラーが奨励した絵は、農村の労働と大家族を描いた風俗画や、優美で健康的な裸体画、牧歌的風景画、モニュメントとしての巨大彫刻など、芸術としてみると面白くも何ともないものだったのだ。

■ヒトラーの矛盾

 さて、絵とは面白いもので、美しいものを描けば美しくなるというものではなく、立派なものを描けば、それによって人が感動するというものでもない。

adolfhitler4.jpgヒトラーの絵「YouTube」より

 アートに必要なものの一つとして、本当に心の中、体の中にある(自分にとっての)真実を正直に吐き出すことがある。そういった意味において、ヒトラーの絵画は自分にウソをついた絵であり、だからこそ魅力的ではないのかもしれない。

 その理由として、ヒトラーには昔から「ヒトラーユダヤ人説」や「非アーリア説」があとを絶たない。これには、ヒトラーの父親・アロイスが実際には血の繋がった父親ではない可能性や、あるいはアロイス自身が私生児だった可能性があるなどさまざまな憶測が飛び交っているが、要するに、ヒトラーには出生の秘密と謎があったということだ。

 さらに、ヒトラーはアイロスと折り合いが悪かった。そして、“生粋のハプスブルク君主国の支持者”だったアロイスに憎しみを抱いたことが、後のアーリア至上主義、ドイツ民族主義へと走る第一歩となったとも言われている。

 しかしこれは、明らかに大きな自己矛盾だ。ほかにも、ヒトラーは自身を“極貧だった”と吹聴していたが、実際にはそうでもなかったなど、彼はあらゆる独裁者がそうであるように、さまざまな過去を隠し、ウソをウソで固めた人生を送っていたのだった。

 しかし、言葉や経歴でウソが言えても、絵というのはそういう意味でウソがつけない。それは眠ければ寝る、腹が減れば食べるというように、体がウソをつけないのと同じことだ。

 ヒトラーの絵が持つ、えも言えぬ寂しさや荒涼とした風景は彼そのものだったのかもしれない。だが、人の気持ちを惹きつけるには、あまりに貧相なものに違いない。彼は、自分自身を絵で表現するができなかったのだ。

 それにしても、ヒトラーの記事を書いていたら頭の芯を締められるような疲労におそわれた。やはり、何かわるいものがついているのかもしれないな。
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html


アドルフ・ヒトラーによって描かれた35枚の絵画
http://musey.net/mag/35

ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーが、政治家へと転身する前は画家を目指していたことはよく知られている。

ヒトラーは、1905年に実業学校を退学した後で、ウィーンにある名門美術学校「ウィーン美術アカデミー」への入学を希望するものの、「写実性はあるものの、独創性に乏しい」とされて試験に落とされてしまった。

世紀末美術を嫌悪したヒトラー

当時のウィーンをはじめとするヨーロッパでは、幻想的・退廃的な「世紀末美術」や「アール・ヌーヴォー」と呼ばれる新しい美術の流れが盛んに台頭していたが、ヒトラー自身はこうした運動に興味を示さないどころが、嫌悪感すら抱いていたと言われる。

ヒトラーが受験に失敗する1年前には、世紀末美術の旗手であるエゴン・シーレが同校に入学しているが、彼自身は著書『我が闘争』の中で、20世紀以降のダダイスムやキュビズムについて「狂気であり堕落であり病気である」と断じた上で、これらが「ボルシェヴィズムの公認芸術である」とまで述べている。

そんなヒトラーは、人物画よりも風景画・建築画を好んで描いており、いくつもの習作やデッサンなども残っている。これまで、ヒトラーの作品については様々な評価が見られたが、もし彼がそのまま凡庸な画家になり損ねた青年として人生を終えたならば、ほぼ確実にこれらの作品を我々が目にすることはなかっただろう。

以下では、彼の30枚の作品をまとめてご紹介しよう。


ヒトラーは愛犬家としても有名であり、ジャーマン・シェパード・ドッグのメス「ブロンディ」を飼っていた。ちなみに、ヒトラーの愛人であるエヴァ・ブラウンはブロンディを嫌っており、ブロンディを蹴とばしていたことが知られているという。


彼は、第一次世界大戦によって荒廃した街並なども描いている。後に、こうした風景を自らの手によってつくり出すことになる。


ディズニー作品も

なんとその中には、ディズーのピノキオと白雪姫に登場する小人を描いた水彩画もある。これはノルウェー北部の戦争博物館で発見されたもので、ヒトラーが所有していた絵画に隠されていた。
http://musey.net/mag/35


3. 中川隆[-12523] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:33:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

愛国者のプーチンやヒトラーがユダヤ人を野放しにできなかった理由

2015年05月22日
ロシアを食いつぶした経済マフィア / オリガルヒの正体 (1)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68348669.html


ユダヤ人VSロシア人

  ロシア人は狡猾で陰険だが馬鹿ではない。兇暴で情け容赦のないロシア人は、もっぱら掠奪を趣味とする野蛮人であるが、同類の犯罪者を見分ける能力は一級品である。ユダヤ人は学問と同じく悪行においても天才的能力を発揮するので、無防備な西歐人や日本人は容易く隷属してしまう。しかし、同じ穴の狢(ムジナ)たるロシア人には手こずるみたいだ。遵法精神を持つ西歐人なら、ユダヤ人は立法府を牛耳って、彼らを意のままに操れる。しかし、力のみを信奉するロシア人相手だと勝手が違い、札束だけでは調教できないのだ。現代のロシア皇帝ウラジミール・プーチンは、甘っちょろい西歐の政治家とはまったく違う。しかも、ロシア人とはスラヴ人の皮を被ったモンゴル人だ。こんな奴らを束ねる支配者とくれば、相当なワルである。綿密な謀略が得意なプーチンは、本能的にユダヤ人を警戒する。同じ臭いを放つ異邦人に絶対油断しない。だから、プーチンはユダヤ人の軍門に下る前に叩き潰そうとしたのだ。こうしたワルどもの闘いにおいては、「やるか、やられるか」の選択しかないのである。


(写真/ロシアにおけるユダヤ人)


  ロシアにおけるユダヤ人の歴史は長くて暗い。農奴国のロシアに住んでいたユダヤ人の仕事といえば農業くらいしかなかった。だから裕福になれなかったし、おまけに「ポグロム」という虐殺が時折起こって、ユダヤ人は逃げ回っていたのである。こんな惨めさからアメリカに移民できるチャンスを見つけたユダヤ人は、どんな嘘をついてでも新大陸に渡りたかった。文明国のアメリカ合衆国では、たとえユダヤ人でも才能があれば、出世ができたり裕福にもなれたから、ロシアでは就けない職業を求めたのである。希望の国アメリカには、貿易やエンターテイメント、金融、報道など魅力的な職場がいっぱいあった。こうした職業をユダヤ人に解放することは、アメリカ人にとって自殺行為ある。必ずやユダヤ人が要職を占め、その業界を乗っ取り、他分野のユダヤ人と連携して永久支配を完成させるのだ。アメリカで成功したユダヤ人でも、ロシアに残った同胞は気になったらしい。ポグロムを続けてユダヤ同胞を迫害する帝政ロシアが許せなかった。そこで、東洋の新興国日本を利用してロシア皇帝を膺懲(ようちょう)しようとしたのが日露戦争であった。ヤコブ・シフなどのユダヤ人富豪が日本の戦時国債を買ってやったのも、善意からではなくロシア懲罰が目的だったのである。

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(左:レーニン/カール・ラデック/レフ・カーメネフ/右:ヤコフ・スヴェルドルフ)

  敗戦で帝政ロシアがぐらつき始めたら、こんどはユダヤ人過激派、つまりレーニンが率いるボルシェヴィキをアメリカ・ドイツの金融資本家が支援して、憎きロマノフ王家を抹殺してしまった。グルジア人のスターリンを除いて、ボルシェヴィキのメンバーはほとんどがユダヤ人である。レーニンは母方の血統でユダヤ人であったし、国際共産主義のリーダーであったカール・ラデック(Karl Radek/本名Karol Sobelsohn)やレフ・カーメネフ(Lev Kamenev/本名Rozenfeld)、ヤコフ・スヴェルドルフ(Yakov Sverdlov)はユダヤ人であった。かつて人気があったトロツキー(本名/Lev Davidovich Bronstein)はウクライナ出身のユダヤ人である。レーニンとも家族ぐるみで親しかったグレゴリー・ジノヴィエフ(Grigorii Yevseevich Zinoviev)もウクライナ出身のユダヤ人。(高齢の共産党員にとっては懐かしい名前だろう。) とてもウクライナ人とは思えない顔つきのユダヤ人を見れば、いかにユダヤ人が異質な種族かが分かる。日本人によく知られているウクライナ人といえば、映画『バイオハザード』の主役ミラ・ジョボビッチ(Milla Jovovich)であろう。ちなみに、オレンジ革命の時話題になったユーリヤ・ティモシェンコ(Yulia Tymoshenko)は、リトヴィア系ロシア人で、ウクライナの地元民ではない。

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(左:トロツキー/中央:グレゴリー・ジノヴィエフ/右:ミラ・ジョボヴッチ)

  ともかく、こうしたユダヤ人過激派を財政的に支援したのがウォール・ストリートの金融資本家で、将来の市場としてロシアを独占するために革命を支持したのである。(たとえばAmerican International Corporationが有名。)ロマノフ王朝が居坐っていると、巨大銀行がロシアを搾取しようとしても邪魔されるから、うるさくて厄介なロシア皇帝を始末しておいた方が得策と考えていたのだろう。我々は学校の教科書で、共産主義者による「ロシア革命」とだけ習っているが、実際はロシアで起こったユダヤ人コミュニストによる「ユダヤ革命」なのだ。世界史の教科書では、革命家の顔写真を掲載して、ユダヤ人革命家個人について述べないから、日本の高校生は彼らの素性が分からない。日本の子供なら「先生このオッサンたち何者? 」と訊いてくるから、社会科の教師は説明に困るだろう。まさか嘘をつくわけにも行かないが、本当の事を喋るのもちょっと辛い。だが、NHKの高校講座世界史に出てくる赤い講師なら大喜びで答えるかもね。もっとも、如何に共産主義が素晴らしいかを説くだろうけど。

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(左:ミハイル・ゴルバチョフ/中央:ボリス・エリツィン/右:ユーリ・ティモシェンコ)

  ロシアはユダヤ人との腐れ縁で散々な目に遭っているが、日本人からすれば「いい気味だ」と言いたくなる。巨万の富を持ちながらも更なる利益を求めるグローバリストにしたら、ロシアはユーラシア大陸の要となり、何としても押さえねばならぬ大国である。ロシア人は役立たずでも、その土地に眠る天然資源は咽から手が出るほど欲しい。共産主義体制が崩壊したロシアは、西側の金融機関や投資家にとって魅力的な市場経済処女地であった。あくどい手段を用いて莫大な資産を築き、やりたい放題の「オルガルヒ(Oligarch)」の正体は、大富豪のユダヤ人政商である。国家独占経済が急に市場経済に移行したのだから、商才などからっきしなかったロシア人に、ビジネスマンになれといったってどだい無理。ただ、そこには例外があった。ユダヤ人は別だ。勉強と金儲けはユダヤ人の得意技。総合格闘技なら、プライド・チャンピオンのヒョードル・エメリヤネンコ(Fedor Emelianenko)や空挺部隊のセルゲイ・ハリトーノフ(Sergey Kharitonov)といったロシア人の方が強い。しかし、そろばん勘定とくれば、ユダヤ人が三冠四冠のチャンピオンだ。ゴルバチョフを倒して、新生ロシアの大統領になったエリツィンは、ブルドーザーのようなごり押しなら得意だったが、経済政策については全くの素人。ウォカの早飲み大会なら優勝できても、産業育成といった地道な実業には無知であった。経済アドヴァイザーの正体も吟味せずにロシア経済を任せて、国営企業は貪欲なハゲタカとオルガルヒ(新興財閥)の餌食。

  考えてみれば日本も明治維新の時は危なかった。もし、江戸時代にユダヤ人が居たら、我が国の殖産産業は悉く外国勢力に喰われたかも知れない。コ川慶喜(けいき)に渋沢栄一がついて、様々な企業を興したから良かったのだ。近代資本制の産業社会に移行しようとした時、その任務に当たったのが異邦人ではなく日本人であったから、順調に経済発展ができたのである。巨大な財閥を築いた岩崎弥太郎だって愛国心を持つビジネスマンであったし、北海道開拓を任された政治家も日本人だったから問題が少なかったのだ。もし、ロシア系ユダヤ人に任せたら、北海道はユダヤ資本の牙城になっていただろうし、日本の領土であっても巨大な租界の如き様相を呈していたかも知れない。三菱の岩崎弥太郎は渋沢を誘って市場独占体制を図ろうとしたが、それでも祖国を食い潰そうとはしなかった。渋沢栄一はカルテルを結ぶより、日本の企業育成に力を注いだのである。外国人なら日本の将来を考えて新たな産業を興そう思わない。激動期に外人が存在するのは危険である。

ユダヤ商人の勃興

  ソ連末期からエリツィン時代にユダヤ人は勢力をつけた。この原因の一つとしてあげられるのは、ヴァウチャー(voucher)方式による国営企業の私有化であった。エリツッイン大統領の下で経済改革に取り組んだイエゴール・ガイダール(Yegor Gaidar)とアナトリー・チュバイス(Anatoly Chubais)は、国有企業の資産を守るためにその民営化を図ったという。というのも、ゴルバチョフ政権下の後半で広がり始めた自然発生的な私有化を食い止めるとともに、残存する共産主義者らが国家管理・計画経済の復活を叫んでいたからだ。当時、ロシアでは闇経済から怪しい商売人が表面に出てきたし、企業努力をするよりも「親方日の丸」の方が楽だと考える人が多かったからである。それに、政府が企業の所有者ということは、特定の所有者がいないということと等しい。つまり、監視する役目の人間がいないから、企業長ら経営幹部を含む労働集団が、勤務先企業の資産を勝手にぶんどって食い潰してしまうのだ。ガイダールとチュバイスは企業が丸裸にされることを防ぐためにも、国営企業を私有化することで、オーナーになった者が自分の資産を守るはずだ、と考えたのである。

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(左:アナトリー・チュバイス/右:イエゴール・ガイダール)

  産業構造を救済するには、どうしても共産主義の復活を食い止めねばならない。それには経済改革に対する一般民衆の支持を得なければ、ということで、ロシア国民一人あたり1枚の(株券を買える)小切手(ヴァウチャー/または引換券)を配り、これによって国民全体をロシア産業の株主かつ利害関係者に仕立てようと目論んだのである。私企業に転換した会社の所有者になったロシア国民は、僅かばかりでも利益の配当を受けるから、「自らの所有物」が再国有化されることに反対するだろう、とガイダールとチュバイスは踏んだのである。冷戦崩壊後、社会主義に異を唱えていたシカゴ学派理論は輝いていた。企業の所有権を公的管理から解放し、私有化して市場経済の原理に任せれば、生産性が上がり、効率も良くなるということで、私有は国有に勝るのだ、とガイダールとチュバイスは信じていた。

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(左:アンドレイ・シュライファー/中央:ジェフリー・サックス/右:マキシム・ボイコ)

  1991年ガイタールは大胆な経済改革に踏み切り、私有化はチュバイスに担当させることにした。そこでユダヤ人のチュバイスはハーバード大学の少壮教授アンドレイ・シュライファー(Andrei Schleifer)を補佐官に選んだのである。ハーバード大学にはユダヤ人学者がゴロゴロいるからしょうがないけど、偶然なのか意図的なのか分からぬが、ユダヤ人教授が抜擢されたのは不吉な予兆であった。 このシュライファーをチュバイスに紹介したのも、ユダヤ人でハーバード大学教授のジェフリー・サックス(Jeffrey David Sachs)であった。シュライファーはロシア人エコノミストのマキシム・ボイコ(Maxim Boycko)とハーバード・ロー・スクールを出たばかりのジョナサン・ヘイ(Jonathan Hay)を引き連れてやって来た。こうした秀才経済学者らは、自由主義経済の経験がないロシア人に市場経済の原理を導入しても大丈夫と考えたらしい。西側の市場経済が機能するには、ロシアに法の支配があるという前提が必要なのだ。公正な裁判や法秩序を維持する警察、ビジネス関係の法制度、それに非公式の基準や商慣行などが併せて存在しなければならない。闇経済くらいしかなかったロシアで、まともな産業や流通があるわけないだろう。だが、私有化を推進した連中は、構造改革をすれば競争原理が働く一方、規制を求める政治的圧力が湧き上がるから、法制度の改革が起こって企業統治のシステムが出来上がるはず、と考えていた。しかし、実際は一般ロシア人に企業経営など分からないし、不正に対する国民の監視というものがないのだ。市場経済の原理(プリンシプル)を持ち込んでも、それが発芽する土壌(文化/カルチャー)がロシアに無かったのである。

  私有化で多くのロシア国民が小さな株主になるとは幻想であった。実際に起こったことは、企業長やインサイダーが濡れ手に粟でボロ儲けという結果である。チュバイスはロシア産業の産業・商業の資産価値を計算し、これをロシア国民総数で割って一人当たりの分け前をはじき出したという。次ぎに、その価格に相当する株を購入できるヴァウチャー(引換券/小切手)を国民一人に1枚ずつ分配したのだ。これがロシアのヴァウチャー計画の本質である。経営幹部やインサイダーが彼らに振り当てられた株を購入するのはいいとして、残りの資産を分配して一般国民に分け与えようとしたのである。16,500の大企業と中小企業を会社組織に転換し、それらの会社の帳簿上の評価額の35パーセントをヴァウチャー所有者のために取っておく。この価額を低く設定してヴァウチャーの額面価格をはじき出し、1枚当たり1万ルーブルと決めたのである。何かややこしいが、つまり平民でも株主になれるよう、額面を安くしてあげたということ。

  計画がスムーズに進むと思いきや、ヴァウチャー価格を安く設定したことが裏目に出てしまった。ロシアはインフレに見舞われ、ヴァウチャーの実質価格がしぼんでしまい、1万ルーブルが4千か5千ルーブルくらいの値に下落したのである。一時はヴァウチャーを1枚10ドル以下で手放す庶民すら珍しくなかったという。多くのロシア国民は1万ルーブルのヴァウチャーなんてイカサマだと思い始めた。石油や天然ガス、鉱物資源に恵まれたロシアで、一人当たりの受け取り分がたった1万ルーブルだなんて理解できなかった。ロシア国民は共産主義時代と同じように、またもやイカサマの犠牲者にさせられたと受け取ったのだ。(マーシャル・I・ゴールドマン 『強奪されたロシア経済』 鈴木博信 訳 NHK出版 2003年 p.158) エリツッンが打ち出したヴァウチャー計画で、最終的に1億4800万人のロシア国民のうち1億4606万4000人がヴァウチャーを受け取った。受け取った国民はそれを現金と同じく扱って市場で売り払ってもよかったし、私企業に転換された企業の株と交換してもよかった。ほとんどのロシア人は、ヴァウチャーを資本家たちの紙切れと思っていたし、それが本当にどれほどの価値があるのか、またそれをどう使ってよいかすらも分からなかった。

  やがて狡賢い連中が「ヴァウチャー・ファンド」なるものを創立し、このファンドの株を買うのにヴァウチャーを使ってくれたら、すぐにでも高額の配当金を差し上げますよ、と人々に宣伝したという。ところが、ヴァウチャーをこうしたファンドの株に取り替えた人々は、「ファンド」が潰れ始めても何の保障も受けられなかった。つまり、ヴァウチャーを集めるためだけに、ファンドを設立した連中は目的を達成したら、さっさとファンドを破綻させてドロンを決め込んだというわけだ。様々なな手口でウァウチャーを大量に集めた悪党どもは、私有化された国営企業を支配する大株主になれた。こうして、驚くほど安い値段で国有財産を手にした個人が、一挙に大富豪、すなわちオルガルヒに変身したのだ。ロシア国民が豊かになるはずなのに、一部の悪徳商人が裕福になったのでは、私有化は明らかに失敗だった。しかも、私有化担当を務めた顧問のうち二人が、私有化に係わるインサイダー情報を使って懐(ポケット)を膨らませていたのだ。その二人とは、アンドレイ・シュライファーとジョナサン・ヘイである。アメリカ議会はロシアが市場経済に移行できるよう、ハーバードに顧問を派遣するよう頼んだのに、そのアメリカ人顧問官が不正を働いていたのだ。合衆国国際開発庁(USAID)をペテンに賭けたようなもので、ボストンの検事局は二人を告訴したのである。訴えられたシュライファーとヘイは最高で1億2000万ドルの損害を与えたと判断されたようだ。(David Warsh, Judge finds against Shleifer , Hay and Harvard, Economic Principals, July 4, 2004) この訴訟には更なるスキャンダルがあった。告訴されたのは二人ばかりではなく、シュライファーの女房であるナンシー・ジンマーマン(Nancy Zimmermann)とヘイの恋人で後に夫人となったエリザベス・ハーバート(Elizabeth Herbert)が含まれていたという。ナンシーはロシアで投資を行うヘッジ・ファンドのパートナーであった。彼女たちの容疑は判事により却下されたが、女房や恋人をつかって銭儲けをしていたとは、呆れた経済顧問官である。

ユダヤ人の成り上がり者

Vladimir-Gusinsky 2(左/ウラジミール・グシンスキー)
 ユダヤ人は共産主義革命でロシア人を奈落の底に落とし、市場経済への転換期になれば、ロシア国民の膏血(こうけつ)を啜(すす)っていたのだ。悪辣なユダヤ人オリガルヒの一人ウラジミール・グシンスキー(Vladimir Gusinsky)は、地下経済の中から現れた成金だがユニークな経歴を持つ。高校で数学を勉強したウラジミールは、名門のモスクワ理学技術学院に入ろうとしたが、ユダヤ人ということで入れなかったそうだ。それで彼は傷つき憤りを感じたという。(David E. Hoffman, The Oligarchs: Wealth and Power in the New Russia, Public Affairs, Oxford, 2002, p.152) そこで母親が通ったことがあるグプキン石油化学・天然ガス大学に入ることにした。反ユダヤ主義の伝統があるロシアで暮らすグシンスキー家には辛いことが多かった。母方の祖父はスターリンによる大粛正で射殺されたという。ウラジミールは子供の頃、近所のガキどもから「小さなユダ公」と馬鹿にされて悔しかった。それに、グシンスキーの家族は狭いアパートの一間に暮らす労働者世帯であったから貧乏が身に沁みたのかも知れない。お金儲けのためなら、ユダヤ人はとにかく色々なことをする。ウラジミールは大学を中退後、ジーンズやオーディオ・カセットを仕入れて販売したこともあったという。大学を辞めてから陸軍に入ったが、そこは化学戦に備える部隊だった。しかし、ユダヤ人のウラジミールに愛国心などあるわけがない。さっさと軍隊を離れたのちにたどり着いたのが国立演劇藝術大学であったという。シェイクスピアやモリエールさえ読んだことがなかったのに、演劇を学びたかったとは呆れてしまう。でも、ユダヤ人にはこういうタイプが結構多くいて、何となしに各分野を転々としているうちに成功したりするのだ。ウラジミールは演劇界ではユダヤ人は歓迎されぬのではないか、と心配したらしい。ロシアでは反ヤダヤ主義が根強いからだ。

  ドラマの演出をしながら、グシンスキーはタクシー運転手をしたり、銅線を加工してブレスレットを作り、街の屋台でこっそり売るといった副業も行っていた。一時期、グシンスキーは米国のヴァージニア大学で金融経営学を勉強したというから、純粋な芸術家というよりプロデューサーの方に向いていたのだろう。ビジネスにおいて成功するには人間関係が大切だから、グシンスキーは舞台の仕事を続ける一方で、人脈作りにも精を出していたようだ。愚鈍なロシア人と違って、ユダヤ人はお金の臭いに敏感である。1989年、彼はロシアに投資したいという外国人が存在するのを知ると、彼らの相談にのるコンサルタント会社を作れば儲かるのではないかと考え、「モスト」と称する協同組合を開設した。「モスト」はワシントンの有名な法律事務所アーノルド・アンド・ポーターの分社であるAPCOと合弁で始まった会社である。モストは国営企業で売っていない品物を扱ったから、道具類や機械を必要とする建設業にとっては便利な存在であった。そこで、数々の事業から得た利益を基にグシンスキーは、自分の銀行「モスト・バンク」を設立したというわけだ。彼はモスクワ市長のルシコフとつるんで、市が所有する資金を預かり、役所が支払いに用いない資金を、通貨投機や高利回りの政府国際購入に当てて、相当な利潤を得ていたという。こうして、1994年までにモスト・バンクは、ロシア最大の銀行のひとつになっていた。

  エンターテイメントはユダヤ人の得意とする分野で、舞台監督をしていたグシンスキーがその手腕を発揮できる新事業としてふさわしかった。欧米では同類のユダヤ人がマス・メディアを独占して裕福になっているから、グシンスキーが同様の行為にでても不思議ではない。彼はルシコフ市長のコネを使い、モスクワ地域をカバーするチャンネル4の支配権を手に入れ、1日2、3時間の放送を始めることができた。ユダヤ人が危険なのは、最初は小規模でも、一旦キッカケを掴めば、それを徐々に拡大させ独占を目論むからだ。なにしろ、メディアを使えば大衆操作で政界を動かしたり、圧倒的な影響力を駆使してさらなる利益を得る分かっている。だから、異人種との競争より、同族で業界を固めて共存共栄を謀ろうとするのだ。グシンスキーはロシアで最初の民間テレビ網となった全国放送NTV(独立テレビ)を設立し、大衆受けを狙ってエリツィン批判を展開したこともある。彼はユダヤ人らしく巨大メディア帝國を作ろうとした。グシンスキーのモスト・メディアは、衛生通信網の「エフォ・モスクヴィ」といったラジオ局や、『セヴォードニャ』という新聞、『ニューズウィーク』と共同で出版する『イトーギ』といった雑誌を取り込み、手広いメディア複合体に変貌していったのである。グシンスキーの政府批判はエリツィンの逆鱗に触れたこともあり、彼は家族を連れて一時英国に逃れることもあった。ところが、1996年の大統領選挙で、共産党のゲンナージ・ジュガーノフ(Gennady Zyuganov)が台頭するや、エリツィンの地位が危なくなり、それでは困ると思ったグシンスキーは、「独立」メディアを動員してエリツィン支持の方針に転換したという。共産党時代に逆戻りしたら、彼のメディア帝國も危なくなるから、嫌でもエリツィンの勝利を願ったのである。ユダヤ人はこうして自分の為に、巧妙な政治キャンペーンを張って世論を操作するのだ。

  米国のユダヤ人が作る『サタデー・ナイト・ライヴ』みたいに、グシンスキーも政治家を風刺する『クークルィ(Kukly)』という番組を制作した。人形劇のスタイルで政財界の大御所を笑い物にし、彼らを痛烈に批判して大衆の人気を勝ち得たという。エリツィンからプーチン政権に代わってからも、その番組の姿勢は変わらず、原子力潜水艦クルスクが沈没した時などは、プーチンの無策ぶりを手厳しく批判したらしい。グシンスキーは政府から独立したメディアというポーズをとり、自由報道の擁護者と振る舞っていたので、独裁者プーチンにとってもグシンスキーは手強い相手であった。それゆえ、プーチンとしても強引に潰すこともできず、慎重に対処せねばならならなかったという。しかも、グシンスキーは1996年に諸々のユダヤ人宗教組織や福祉団体をまとめて「ロシア・ユダヤ人会議」を創設し、初代会長となった。世界中に蜘蛛の巣のような人脈を張り巡らしているユダヤ人をバックにつければ、いくら豪腕のプーチンでも簡単に手を出せないだろう。用心深い悪党らしく、グシンスキーはイスラエル国籍を取得しており、身に危険が及べばいつでもイスラエルに逃亡できるよう準備していた。こう聞けば、脱税容疑で国外逃亡した米国のマーク・リッチ(本名Marcell David Reich)を思い出す人がいるも知れない。このユダヤ人リッチは逃亡後、イスラエル国籍を取得すると、ユダヤ人脈を利用してクリントン大統領から恩赦を得てしまった。イスラエルとは犯罪をしでかしたユダヤ人の避難場所(シェルター)である。(このリッチについては別の機会で触れる。) 二重国籍を持つユダヤ人が、世界に広がるユダヤ人ネットワークを活用し、ユダヤ人インサイダーのグローバリストになることは当然であろう。

Roman Abramovich 1Berel Lazar 6


(左:ロマン・アブラモヴィッチ/右:ベレル・ラザル)

  忌々しいグシンスキーではあるが、権力基盤を固めたいプーチンとしては、無闇にグシンスキーを投獄しようものなら、ユダヤ人からの国際的非難を浴びてしまい、自らの評判を落とすことになる。グシンスキーはユダヤ人団体にお金をばらまいていたので、彼に心酔していたユダヤ人も多かったらしい。慎重なプーチンとしては、ロシア・ユダヤ人会議を安易に潰したり、強引に乗っ取ったりする危険を冒したくない。そこで、プーチンは外国からユダヤ人指導者を連れてきて、別のユダヤ人団体を作る事にしたのである。毒蛇のコブラには大蛇のパイソンを、ロシアのユダヤ人には外国のユダヤ人をぶつければ良いというわけだ。悪党プーチンは実に賢い。そこで選ばれたのは、ロシア国籍を持たない米国のラビ、ベレル・ラザル(Berel Lazar)であった。ラザルはニューヨークに本部がある「ハバード(Chabad)」と呼ばれる正統派ルバヴィッチ(Lubavitch)のハシディズム(Hasidism)運動に属していた。日本人には何だか分からぬ宗派だが、簡単に言えばユダヤ教の戒律を厳守するウルトラ保守派と考えれば良い。(世俗的改革派と違った復古的敬虔派ユダヤ教徒をイメージしてもらえばいいのだか、これまた日本人には難しいから詳しくは個人で調べてね。) 偶然だが、プーチンの腰巾着オルガルヒでユダヤ人のロマン・アブラモヴィッチ(Roman Abramovich)が、ラビのベレル・ラザルに財政支援をしていたのである。このアブラモヴィッチはまた、レフ・レヴァーエフ(Lev Avnerovich Leviev)と仲が良く、レヴァーエフは元ロシア・ユダヤ人会議の幹部で、イスラエルとロシアにおけるルバヴィッチ派ハジディズム運動の支持者でもあった。

Berel Lazar 1Lev Leviev 1

(左:プーチンと会談するベレル・ラザル/右:レフ・レヴァーエフ)

  レフ・レヴァーエフはウズベキスタン生まれのイスラエル国民で、とかく噂のあるダイヤモンド商であった。迫害されるのか日常のユダヤ人にとって、宝石は持ち運びに便利な資産であるから、宝石商や両替商はユダヤ人らしい職業だ。ユダヤ人の巣窟となったアントワープやアムステルダムで、ユダヤ人のダイヤモンド加工業者や小売商は有名である。政商としての才能があるレバーエフは、プーチンとのコネを使って、デ・ビアス社が独占していたロシア産ダイヤモンドの販売権に食い込んだらしい。デ・ビアス社とはあのローズ奨学金で有名なセシル・ローズが築いた世界最大のダイヤモンド会社である。こうして銭儲けに励んだシレヴァーエフが、ロシア・ユダヤ人会議に代わる新たな組織「独立国家共同体ユダヤ人コミュニティー連盟」の会長に就任したのだ。(「Federation of Jewish Community of the CIS」を指す。)

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(左:アドルフ・シャエヴッチ/右:ピンカス・ゴールドシュミット)

  ユダヤ人同士の対立を利用するプーチンは、まだロシア語を習得していないラザルにロシア国籍を与えて、彼の宣教活動を助けてやったという。プーチンのお気に入りとなったラビ・ラザルは、ロシア各地のハシディズム・ラビの代表を招集し、新たな団体を構築し始めた。集められたラビは満場一致でラザルをロシアの首席ラビに選出したのである。しかし、ロシアには当時ユダヤ人会議によって承認された首席ラビ、アドルフ・シャエヴィッチ(Adof Shayevich)がいたのだ。そんなことは百も承知のプーチンは、たちどころにラザル率いるロシア・ユダヤ人コミュニティ連盟を、ロシアにおけるユダヤ人を代表する公式組織と認めたのである。毒をもって毒を制する、政治の要諦を修めたプーチンならではの策略。さすが仕掛に抜かりのないプーチンだ。これで、グシンスキーのユダヤ人会議は、ロシア・ユダヤ人の公的代表機関でなくなったから、グシンスキーを潰しにかかっても、反ユダヤ主義との非難を招くこともなくなった。鉄は熱いうちに打てとばかりに、さっそくプーチンはグシンスキーを召喚し、有無を言わさず投獄したのである。だが、世界の指導者の数名が異議を唱えたため、告訴は取り下げられグシンスキーは釈放されてしまう。しかし、そんなことで迫害の手を緩めるプーチンではない。シャエヴィッチのもとでモスクワの主任ラビをしていたピンカス・ゴールドシュミット(Pinchas Goldscmidt)が、親分のシャウヴッチからラザルに乗り換えることを拒否すると、滞在ビザの更新をしないという嫌がらせをしたのである。ゴールドシュミットはスイス国籍のユダヤ人であったから、プーチンは邪魔なゴールドシュミットを国外退去処分にし、イスラエルに追い払ってしまった。(Yossi Melman , No love lost, Haaretz, December 8, 2005)

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(写真/ルバヴィチ・ハシディズムのユダヤ人)

  自分に刃向かうグシンスキーとユダヤ人会議を痛めつける一方で、プーチンは従順なユダヤ人連盟を厚遇したのである。ルバヴッチ派が信徒用のビルを増築したら、その建堂式に出席してお世辞を述べ、イスラエルからモシェ・カッツァーヴ大統領が来れば、クレムリンで晩餐会を開いてやったのだ。しかも、そのディナーはコーシャ(ユダヤ教の食物戒律)に則った方法で調理され、厳格な調理法を気にするユダヤ人のために、厨房には特別な洗浄装置を備えたという。日本人並みの気配りができるなんてプーチンも大したものだ。まぁ、狡猾な独裁者にとって、これくらいの「おもてなし」は造作もない。愛国心涵養のためにロシア正教を活用しているプーチンにとったら、ユダヤ教徒をおだてて利用しようとしても不思議ではないだろう。ユダヤ人が居坐る国の支配者が、ユダヤ人の政治的野心を打ち砕こうと思ったら、信仰に熱心なユダヤ人を利用して、ユダヤ人の毒を中和させることだ。彼らはいつも何かに不満を抱いて、批判することが三度の飯より好きである。だから、ユダヤ人を押さえ込もうとするなら、ユダヤ人同士を対立させ、彼らのエネルギーをいがみ合いで消耗させることだ。ユダヤ人には金銭と権力を追求する世俗派がいる一方で、宗教的生活を熱望する頑固な敬虔派がいる。それなら、ユダヤ人には金貨より宗教を与えておく方が無難であろう。

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(写真/正統派ユダヤ教徒)

  栄枯盛衰は世の常である。栄華を誇ったグシンスキーもプーチンの登場で、その権力と財力に翳りが差してきた。2000年、横領罪で逮捕されたグシンスキーは、言葉にするのも恐ろしいモスクワの「バツィルスカヤ(Butyrskaya)」刑務所に放り込まれてしまった。三日後グシンスキーは釈放されて、メディア・モストとNTVの株の一部を手放して、2億6100万ドルを借金しているガスプロムに引き渡すことを約束させられた。そうすることでスペイン行きを許可されたのだが、そのあと再び逮捕状が発行され、今度はスペインで13日間投獄される羽目になったという。その間、同種の嫌がらせとして、覆面の税務査察官から検事総長に至る役人により、30回以上に及ぶメディア・モストの強制捜査が行われたのである。メディア・モストの財務部長は曖昧な容疑で2年以上投獄されるし、NTVのキャスターのうち二人が尋問されるという事態にまで発展したのである。

Mikhail-Lesin 1(左/ミハイル・レシン)
  こうした嫌がらせには裏事情があった。プーチンはミハイル・レシン(Mikhail Lesin)を広報大臣に据えて、オリガルヒ撲滅を命令した。そこでグシンスキーに裏取引が提示されたらしい。メディア・モストをガスプロムに売却すれば、自由の身にしてやる、という最後通牒を突きつけられた。プーチンからの要求に屈したグシンスキーは、3億ドルで自分のメディア帝國を売り渡す決断を下した。グシンスキーは売却を済ませると、即座にプライヴェート・ジェットでスペインに飛び、二度とロシアに戻るつもりはなかったらしい。しかし、スペインで暮らしているうちに心変わりがしてきて、取引を反故にしようとしたのである。すると、プーチンの指金で国際手配を受け、スペインで拘束される羽目となり、二度の投獄を経験することとなったが、スペイン裁判所の介入で保釈されたという。ロシアのメディア支配を課題とするプーチンは、邪魔なグシンスキーを潰すため、その手足をもぎ取ろうとしたのだ。ガスムロムはNTVの役員会に新たな役人を送り込み、テレビ局を実質的に牛耳ってしまった。グシンスキーのメディア帝國はズタズタにされ、彼の新聞社『セヴォードニャ』もついでに閉鎖。3億ドルを手にして大人しく海外生活をしていれば良かったのに、グシンスキーは愚かにもプーチンと闘う選択をしてしまったのだ。権力者と商人では戦争にならない。クシンスキーの没落は決定的になった。

  ロシアに蔓延(はびこ)るユダヤ人オリガルヒは煮ても焼いても食えない奴ばかり。兇暴なロシア人と貪欲なユダヤ人の熾烈な闘いはおぞましい。支那人や朝鮮人くらいで手を焼いている日本人には、兇悪ななグローバリストに立ち向かうなんて無理。挙国一致でグローバリスト排除に努めねばならない。自由主義を支持して、奴隷に転落するなんて愚かである。ユダヤ資本に雇われて、日本で構造改革だの騒ぐ御用学者や政治家、高級官僚に騙されてはならない。迫害されて「可哀想なユダヤ人」といったイメージを宣伝する日本のメディアは、ユダヤ人が本来持つ図々しさや兇暴性を報道しないから、日本の庶民は自ら勉強して彼らを警戒するしかないだろう。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68348669.html


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2015年05月25日
共産主義国を搾取したユダヤ人 / オリガルヒの正体 (2)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68377366.html


権力者と組んだユダヤ人政商
Boris-Berezovsky 4(左/ボリス・ベレゾフスキー)


  ヘビのように狡猾なロシア皇帝ウラジミール・プーチンが、最初の二年間でまず叩き潰そうと思ったのは、グシンスキーとボリス・ベレゾフスキー(Boris Berezovsky)であった。欧米のユダヤ人と同じく、ベレゾフスキーも民衆に影響力を行使するテレビ・ネットワークを支配するユダヤ人である。このベレゾフスキーはギャングみたいな人相からは想像しがたい、アカデミック界から浮上した学者肌のオリガルヒであった。彼は数学を専攻した科学者で、モスクワ林業大学でシステム・コントロールとオペレーション・リサーチを研究していたという。ベレゾフスキーが理数系の分野を専攻したのは、彼がユダヤ人であったからだ。ベレゾフスキーが語ったところによれば、

  俺には政界での将来なんて無いのさ・・・俺は政治エリートの一員じゃなかったしな。俺はユダヤ人だ。制約が山ほどあるのさ。そこんとこは、きっちり分かっている。(David E. Hoffman, The Oligarchs, Public Affairs, Oxford, 2002, p.130)

  科学分野ならユダヤ人への不条理な差別は少ないだろうということで、ベレゾフスキーはコントロール・サイエンス学院に入り、自分の研究機関を主宰するようになった。応用数学を使って意志決定の過程を研究したらしい。1970年代にはハーバード・ビジネス・スクールで研究生活を送ったり、一時はカルフォルニア工科大学で研究をしたようだ。

  学者生活を送っていたベレゾフスキーがビジネスマンに転身したキッカケとは何か? それは自動車販売であった。彼は当時ジグリー(Zhiguli)という乗用車を造っていたソ連最大の自動車会社、アフトヴァス(Avtovas)の経営コンサルタントになって活動していたのだ。流通や販売といった商売が苦手なロシア人は、生産した自動車をどう売ったらいいのか分からなかった。そこに目をつけたベレゾフスキーは、アフトヴァスの経営幹部に食い込んだのである。ベレゾフスキーは「ロゴヴァス(Logovaz)」を創立し、生産した車はロゴヴァスが安値で買い取ることにした。ベレゾフスキーは総合商社のような企業を目指したのであろう。破格の値段で製品を売り渡しても、アフトヴァスの経営幹部は自分の懐が痛むわけでもなかった。彼らは別段困らなかったし、それどころかロゴウァスの重役に迎えられたのである。最終的に廉価販売のしわ寄せは、労働者に押しつけられたのは言うまでもない。

Paul Klebnikov 1(左/ポール・クレブニコフ)
  共産主義体制下でのソ連では、物々交換が珍しくなく、需要と供給を仲介する込み入った売買なんて不得意だった。日本のような流通システムが発達していなかったから、怪しい仲介業者が暗躍したのである。ベレゾフスキーは商社を築いて、売り手と買い手を結ぶ取引を展開したのだ。彼は自家用車に爆弾を仕掛けられるような目に遭いながらも、モスクワの自動車市場に強固な支配権を確立したという。莫大な利潤を得るために、ベレゾフスキーは、チェチェン・マフィアの手も借りたらしい。こんな科学者なんて日本ではお目にかかれない。実験室に籠もって研究していた学者が、商売を始めたら山口組と手を結ぶなんて考えられない。やはりユダヤ人には倫理を無視した天賦の才が備わっているのだろう。『フォーブス』誌のポール・クレブニコフ記者によれば、ベレゾフスキーの商売に割り込もうとした者は、思いがけぬ不幸な死に方をしたという。こうした疑惑の死を報じたクレブニコフ記者も、2004年にモスクワで射殺されてしまった。(C.J. Chivers, Erin E. Arvedlund and Sophia Kishkovsky, Editor's Death Raises Questions about Change in Russia, The New York Times, July 18, 2004) 彼の暗殺はチェチェン人によるものとされているが、その背後にはベレゾフスキーがいたんじゃないか、と推測されている。

Alexander-Voloshin 1(左/アレクサンドル・ヴァローシン)
  1993年、ベレゾフスキーはアレクサンドル・ヴァローシンと共同で、AVVA(全ロシア自動車聯合)と呼ばれる投資会社を設立した。彼はドイツのフォルクス・ワーゲンみたいな、国民車をつくろうと思いつき、その資本集めを考えついたのである。手始めに20億ドルほど必要だったので、資金集めの手段としてAVVAを開設し、株と引き替えができるというヴァウチャーを売り出した。このヴァウチャーは高級紙を使ったもので、わざわざスイスで印刷させ、紙幣のように見せかけていた。1株と印刷された株の額面は1万ルーブルで、理論上AVVAの株と交換できるというものだった。しかし、実際は株に見える紙を販売していたに過ぎない。ベレゾフスキーはその無価値の紙くずを売ったお金でアフトヴァス社の株をインサイダー価格で購入するつもりだったという。そして、アフトヴァスとジェネラル・モーターズ(GM)と合弁会社を設立して国民車を生産しようとするつもりだったらしい。しかし、合弁事業は実現されず、AVVA株は紙くず同然となった。しかし、ベレゾフスキーの懐は痛まず、むしろこの詐欺商法でかなりのお金を儲けたらしい。しかも、共同経営者のヴァローシンは、まもなくエリツィンの首席補佐官になり、その後もプーチンの首席補佐官に納まっている。彼がベレゾフスキーをエリツィン一族に紹介し、エリツィン側近との人脈作りに手を貸したのである。

  NTVを所有していたウラジミール・グシンスキーと同じく、ベレゾフスキーもロシア公共テレビ(ORT)を使って自らの権力を維持していた。1994年に、エリツィン大統領は国営のチャンネル1を競売に掛けず民営化し、51パーセントの株は国家の所有としたが、残りを裕福な支持者に分割したのである。主な株主というのが、ベレゾフスキーを始めとするオリガルヒたちであり、ベレゾフスキーは19パーセントの株しか持っていなかったが、ORT経営陣の人事を掌握し、実質的な支配者となった。これは、エリツィンによる暗黙の了承を得ていたからできたことである。こうした癒着関係があったので、エリツィンが再選を控えて支持率が急落した時、オルガルヒの面々はエリツィンを救済するために、こぞって資金を集めたり、エリツィン支持のキャンペーンを張ったのだ。民衆からの人気を得ていた共産党が復権したら、ロシア国民を食い物にしてきたオリガルヒは真っ先に批判の矢面に立つだろう。彼らは財産を没収されたうえに処刑されるかも知れない、という恐怖に駆られたのだ。

Boris Berezovsky & GussinskySergei Kiriyenko 1Yevgeny Primakov 1

(左:ベレゾフスキーとクシンスキー/中央:キリエンコ/右:プリマコフ)

  後進国では政治家と商売人の不正な結託がひどい。ロシアで権力を振るうエリツィンを支持したオルガルヒは、権力者の恩顧という甘い汁を吸いながら不正蓄財に励んだのである。ベレゾフスキーはアエロフロート航空や石油会社シブネフチ、アルミ産業などにも手を伸ばし、その富を増大させていたのだ。また、ベレゾフスキーはエリツィン再選のご褒美として国家安全保障会議副書記に任命され、のちに独立国家共同体(CIS)調整機構執行書記にも任命された。ユダヤ人ペテン師を国家の要職に据えるとは、エリツィンによる国家の私物化は言語道断。のちにベレゾフスキーは両方のポストから解任されたが、それでもエリツィンの娘タチアーナや側近との人脈を維持していたので、依然として政界で影響力を駆使できたという。例えば、彼はセルゲイ・キリエンコ(Sergei Kiriyenko)首相の解任を仕掛けたらしく、後継者のイヴゲーニー・プリマコフ(Yevgeny Primakov)首相はその危険を察知した。彼はベレゾフスキーの側近をアエロフロートやORTから排除し、抵抗する者は税務調査や会計検査官を送って脅迫したのである。それでもベレゾフスキーは潰されず、なんと選挙に出馬して下院議員になってしまった。しかし、権力を握って安泰かと思われたベレゾフスキーに皮肉な事態が起こったのである。経済危機の煽りを受けたこともあり、エリツィンは強力な指導者を求めるようになったという。そこで、ベレゾフスキーの後押しもあって、FSB長官のプーチンを首相に任命したのだ。これは明らかに、プーチンを大統領に仕立てる布石である。エリツィンはその見返りとして、プーチンに自分の刑事訴追を免責させる腹であった。

Roman Abramovich 3(左/ロマン・アブラモヴィッチ)
  権力者はその座から離れると哀れなものだ。エリツィンの娘による不正は目に余り、その収賄事件は政界から激しい非難を浴びていた。大統領が交代すれば、前政権への不正追及だって激しくなるだろう。プーチンはエリツィン一族と癒着していたベレゾフスキーを狙うようになっていた。ベレゾフスキーからの支援を受けて出世したプーチンだからこそ、かえってその影響力を警戒したのだろう。プーチンはこの危険なオルガルヒのベレゾフスキーに背を向け、不正行為を暴いて投獄するぞ、と脅しをかけた。意思の強いプーチンは追求の手を緩めず、ロシア・テレビ界の支柱たるORTをベレゾフスキーからもぎ取ってしまった。プーチンと対立したベレゾフスキーは下院議員を辞職し、外国に避難しようと思い始めたのである。彼は投資の一部を現金化した方がよいと考え、プーチンのお気に入りであったロマン・アブラモヴッィチに、石油会社のシブネフ株を売却したという。ついでに、ORTの持ち株も8千万ドルでアブラモヴッチに引き渡した。すると、アブラモヴィチはORT株に基づく自分の議決権を、親分のプーチンに恭しく献上したのである。こうして、皇帝プーチンはロシア最大のテレビ・ネットワークを掌握し、自分を批判するメディアを封殺したのだ。

Boris Berezovsky MansionBoris Berezovsky & Elena

(左:ベレゾフスキーが住んでいた英国の豪邸/右:恋人と一緒のベレゾフスキー)

  新たな権力者プーチンと対立したベレゾフスキーは亡命を余儀なくされた。彼は最終的に英国に避難し、憎いプーチンを批判しながら、イングランドで贅沢な暮らしをしていたのである。しかし、そんな亡命者にも不幸な死が訪れた。2013年、彼の遺体が豪邸の浴室で発見されたのだ。(Richard Behar, Did Boris Berezovsky Kill Himself? More Compelling, Did He Kill Forbes Editor Paul Klebnikov?, Forbes, March 24, 2013) ブリテン捜査局の調べでは、他殺の痕跡がなく自殺という結論に達したらしい。しかし、ガーディアン紙のロシア特派員ルーク・ハーディング(Luke Harding)記者は自殺説を疑っている。彼はロシアの諜報機関がベレゾフスキーを自殺に見せかけて殺害したのではないか、と推測していた。そうした疑惑がある一方で、ベレゾフスキーは訴訟による裁判沙汰や破産の危機で悩んでいたとの情報もある。ロシア人亡命者でベレゾフスキーの友人であるニコライ・グルシュコフは、警察やマスコミが報じる自殺や自然死を信じていない。グルシュコフは「奴が自殺したなんて考えは糞食らえだ。・・・裁判の判決が下りた時、奴は活き活きとしていたし、家で待っている若い女について話していたんだ。あとになるが、奴は財政危機を乗り越えていたんだよ」と話していた。(Mark Adomanis, Was Boris Berezovsky Murdered? The Evidence Strongly Suggests No, But Luke Harding Says Maybe, Forbes, March 26, 2013)

Boris Berezovsky & Elena & KidsBoris Berezovsky & Annika Ancvernia

(左:家族と一緒のベレゾフスキー/右:パーティーでのベレゾフスキー)

ただし、ロシアの秘密機関がベレゾフスキーを暗殺したのかどうか謎である。彼をロシアから追放し、権力基盤を固めたプーチンが、十年以上も経ってからわざわざ暗殺するほど、ベレゾフスキーに価値があったのか? 彼を殺すメリットとは何だったのか? プーチン側は英国の防諜機関MI5が暗殺したのだ、との憶測を流した。(Cyril Dixon, Boris Berezovsky ‘died by hanging’as Kremlin blames MI5, Express, March 26, 2013) これと対照的な、別の推測もある。もしかしたら、ロシア諜報機関による暗殺からベレゾフスキーを守るため、MI5が自殺を装って彼を隠匿したのではないか、との噂も流れた。(Will Stewart, Is Boris Berezovsky ALIVE?, Daily Mail, 26 September 2013) 英国側としてもプーチンのイメージを悪くできるし、利用価値のあるベレゾフスキーを温存できるので、何らかのメリットがある。しかし、本当のところは分からない。諜報機関が絡むと真相は闇の中だ。

資源が豊富なロシアを搾取

  共産主義国では逆説(パラドックス)が起こる。理屈では無産労働者(プロレタリアート)の為に建てられた楽園だったのに、いざ出来上がると専制支配、赤い貴族の出現、庶民の搾取と弾圧、貧困の深刻化といった地上の生き地獄が実現される。ロシア、支那、北朝鮮を調べれば一目瞭然。共産主義体制が崩壊したロシアに、成り上がり型の大富豪が誕生した理由は何か? それは北方の半アジア大国が天然資源に恵まれていたからである。何と言っても、石油、天然ガス、ニッケル、アルミニウム、鉄鉱石、レアメタルなどが豊富に埋まっているのだ。だが、この資源国は計画経済と国家所有を前提とした法制度しかなく、自由市場経済における私営企業が存在するなんて考えていない。したがって、民間企業や私有化に関するルールや規制が無かった。まぁ、あったとしても権力者が勝手に歪曲するだろうし、規則や手続きを無視したって、怖い政治家や官僚を掣肘(せいちゅう)しようだなんて国民もいないのだ。傲慢さを絵に描いたようなエリツィンが、法治主義のルールを気にするわけないし、暗殺を厭わないプーチンが、公正な手続きを遵守するわけないだろう。

Mikhail-Khodorkovsky 1(左/ミハイル・ホドルコフスキー)
  石油成金のオリガルヒとくれば、日本人や欧米人なら、まずミハイル・ホドルコフスキー(Mikhail Khodorkovsky)を思い浮かべるだろう。彼は1963年に生まれたユダヤ人で、モスクワの共同アパートに住む貧しい家庭に育ったが、その才能を活かし大富豪への階段を昇ることになる。彼は元々共産主義者青年同盟(コムソモール/Komsomol)出身で、名門メンデレーエフ化学技術学院を卒業した後、別の大学で法律や金融・財政を学んだという。共産主義思想を植え込まれたロシア人なら、馬鹿の一つ覚えのように共産主義思想の擁護者になりがちだが、ユダヤ人のホドルコフスキーはひと味もふた味も違った。彼は大学の級友とコーヒー・ショップやディスコ・クラブを開いたり、ソ連では希少価値のある品を販売したり、と手広く商売をこなしていたようだ。一時は、「ナポレオン」といったブランデーやスイス産の偽ヴォッカを扱ったり、中でも人気だったのは荒く洗濯したジーンズであった。西側のポップ・カルチャーはロシア人青年の垂涎の的であったからだ。西歐の文化に憧れたロシア人の欲求はすごかった。若い娘の中には、コール・ガールになってもいいから、フランスのパリに住みたいと考えるものがいたくらいだ。若くて美しい時期を工場労働で無駄にしたり、国営食料品店で配給を受けたりする生活なんてで嫌だ。雪が降りしきる寒い中、行列に並んで買うのが黒くなった腐りかけの肉だったりする。公営の狭くて汚いアパートで、脂肪分の多い料理を食べながら、ジャガイモのような体型になってゆく。お洒落をしたい年頃なのに、高品質の化粧品もないし、気の利いた娯楽も少ないから、車の中でのセックスが最高の楽しみだったりする。気がつけば肌はかさかさ、シミ皺だらけの顔にはヒゲが生え、小太りの中高年ババアが一丁出来上がり。そんな人生はゾっとするだろう。(考えてもしょうがないけど、なんで可愛らしいロシア人少女が、中年過ぎると大型のブルドッグになってしまうのか不思議である。)

  商才のあるホドルコフスキーは、資金調達のために「メナテップ(Menatep)」と称する協同組合を結成した。科学分野の研究やコンピューター開発に必要な技術や部品も提供したらしい。彼にとって、コンピューターの購入販売は主な収入源となっていた。ホドルコフスキーはまた、ヴェニスの商人みたいに、金貸し業も同時に行っていたという。この協同組合は1988年に「メナテップ」銀行に再編され、「商業新生銀行」として公式に営業免許を受けたのである。この新生銀行は国営銀行とのジョイント・ベンチャーで、資本金は250万ルーブルであったという。創立当時はコムソモール中央委員会をはじめ色々な共産党員が資金を持ち込んだらしく、不正な資金洗浄を行ったようだ。悧巧なホドルコフスキーは警察の嫌がらせや捜査をかわすため、国家委員会の役人に袖の下を渡していたらしい。やはり、灰色のビジネスに手を染める連中は、いざという時のために準備しているものだ。「メナテップ」は再免許を受けて株式会社となり、ホドルコフスキーが取締役会の会長におさまった。彼の欲望はまだこんなもんじゃない。1991年に「メナテップ株主クラブ」を発足させて、政府が国有企業を私有化する時代のチャンスを見逃さなかった。ホドルコフスキーはヴァウチャーを集めて私有化された企業を支配するし、メナテップ・バンクが株を集めれば、それを管理するために「ロスプロム」を設立した。メナテップは各分野に手を広げ、子会社を抱え始めたという。それは化学、建設、織物、鉱業、消費財、石油の分野であった。

henry-kissinger 1Jacob Rothschild 1Hans-Dietrich_Genscher

(左:ヘンリー・キッシンジャー/中央:ジェイコブ・ロスチャイルド/右:ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー)

  こうしたカテゴリーの中で、もっとも成功したのが石油部門の子会社、「ユーコス(Yukos)」であることは言うまでもない。ユーコスはロシア最大の石油会社に成長し、ホドルコスキー帝國の支柱となった。1995年にはグループ管理会社として「ロスプロム」を設立したが、ホドルコフスキーはその取締役会会長になる。成功する悪党は幸運なものが多い。1998年に起こった金融危機でメナテップ銀行は破綻するが、ホドルコフスキーはユーコスを何とか守り抜いたのだ。こうした苦難をくぐり抜けると、翌年は石油価格が高騰して、ユーコスの価値はうなぎ登り。ダーティーなイメージを払拭するために、西歐の幹部をユーコスに招いたり、と透明な経営に務めたらしい。また、公共精神があることを宣伝するために、アメリカの議会図書館に100万ドルの寄附を行い、オープン・ロシア財団を設立すると、ヘンリー・キッシンジャーやジェイコブ・ロスチャイルドを理事会のメンバーに迎えたという。キッシンジャーは確かに有名人だが、いかがわしいユダヤ人に変わりがない。ニクソン大統領から「俺のユダ公(My Jew boy)」と呼ばれた元国務長官は、副大統領のネルソン・ロックフェラーの方に忠誠を誓っていたのだ。ジョン・F・ケネディーからも侮蔑されたキッシンジャーは、支那でもコンサルタント業務を請け負ったりして儲けていたらしい。自らの地位を安泰にするため、ホドルフスキーは不動の地位を誇るロスチャイルドをパトロンにし、プーチンからの攻撃に備えたのかも知れない。

Mikhail Khodorkovsky 5Mikhail Khodorkovsky 3

(右/法廷でのホドルコフスキー)

  ホドルコフスキーは自らの石油帝國を更に拡大しようと、大手石油会社「シブネチ」を吸収合併しようと試みた。しかも、その合併で誕生する会社の株式に、アメリカの巨大石油会社エクソン・モービルを引き込もうとしたのだ。ロシアの主権を自らの手に握っておきたいプーチンにとって、巨万の富を築くホドルコフキスーは脅威となってしまう。危険な芽は早めに刈り取っておかねばならない。ロシア検察当局は脱税などの容疑で、ホドルコフスキーに禁固10年を求刑した。裁判では禁固9年の刑を言い渡され、服役中に2013年プーチンの恩赦を受けて釈放されたのである。ホドルコフスキーの釈放には、ドイツの元外相ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー(Hand=Dietrich Genscher)が動いていたという。(Secret diplomacy in Kordorkovsky case, Pravda, 24 December 2013) また、彼の釈放前にヘンリー・キッシンジャーがモスクワに渡り、プーチンやセルゲイ・イワノフと会談していたというから、奇妙な偶然である。刑期が2017年までに延長されたホドルコフスキーは、恩赦を得るためにプーチンと取引できる何かを隠し持っていたのだろう。あのプーチンが人道主義で動くはずはない。必ず裏取引があったはずだ。なぜドイツのゲンシャーが、悪徳商人の保釈を求めてプーチンと交渉したのか、甚だ不思議である。ただし、釈放されたホドルコフスキーが、再びロシアの政治に介入することはないだろう。今度は命が危ないからだ。

stalin 1毛沢東 2Franklin Roosevelt 1

(左:ヨシフ・スターリン/中央:毛沢東/右:フランクリン・ローズヴェルト)

  ロシアの支配者になるような政治家は実に狡賢い。独裁者は冷徹な目で現実を認識し、邪魔者を早めに片付けようとする。自分の権力基盤にとって脅威となる悪魔は小さなうちに抹殺しようとする。ユダヤ人は金銭を持ち始めると実に厄介だ。厚顔無恥な上に欲の皮が突っ張っている。しかも、世界各地に強力な仲間を持ち、同種のよしみで協力を求めることができる。世界ユダヤ人会議なんて恐ろしい組織まで持っている。日本人が「世界日本人会議」を組織するなんて発想は無い。せいぜい歐洲と北米に、日本アニメ同好会を結成するくらいだ。大学の教授や新聞社の論説委員はけっして口にしないが、ヒトラーやスターリンは悪党だったから、ユダヤ人の危険性に気づいていたし、その脅威を早めに潰してしまおうと思ったはずだ。ヒトラーはドイツで金融を支配するユダヤ人を排斥したかったし、米国や英国にはびこるユダヤ勢力を警戒していた。ユダヤ人だらけのボルシェビキを肉眼で見たスターリンは、ロシアの実権を握るやユダヤ人を排斥したり、ヒトラー以上にユダヤ人を虐殺したのである。邪魔者どころか、将来自らの権力を脅かすユダヤ人に対し、スターリンは先手を打ったといえよう。いかにも野蛮なスターリンらしいが、安心を確保するためには皆殺しが一番。ワルい奴は同類の臭いが分かるのだ。日本人みたいな甘っちょろい民族は、ユダヤ人の本性が分からない。明らかに分かる支那人や朝鮮人に対しても、厳しい処置をとれない日本人が、海千山千のユダヤ人に対抗でき訳がないだろう。島国で平和に暮らしてきた日本人に、大量虐殺が当然のアジア大陸は理解できない。血なまぐさい生活が日常のアジア人は、心に闇を持ち、執念深くて陰険だ。如何なる手段を用いても勝利を確実にする。公正や名誉を求めるなんて、平和な民族の道楽である。ユダヤ人の本性は、同類のアラブ人と対峙した時に現れる。迫害されて哀れなユダヤ人というイメージを日本人は持っているが、そんな幻想はパレスチナ紛争で牙をむき出しにしたユダヤ人を見れば、粉々に消し飛んでしまうだろう。

Hitler 3winston churchill 1(左:アドルフ・ヒトラー/右:ウィンストン・チャーチル)
  ロシアを自分の物にしたプーチンなら、ユダヤ人に支配された欧米諸国をあざ笑うだろう。第二次世界大戦を冷静に眺めてみれば奇妙なことに気づくはずだ。英国のチャーチルが、あれほどドイツと闘いたかった理由のひとつは、迫害されるユダヤ人を救いたかったからである。異常なまでにユダヤ人贔屓だったチャーチルは、同胞のイギリス人を犠牲にしてまで異邦人たるユダヤ人を救いたかったのである。チャーチルとユダヤ人の関係は滅多に書かれないが、調べてみると驚愕の史実が出てくる。第一次大戦で歐洲政治への介入を嫌がったアメリカ国民は、ユダヤ人好きのローズヴェルトによって戦争に引きずり込まれてしまった。共産主義が大嫌いだった英米が、天敵ソ連と同盟を結び、ドイツ人と戦うことを選んだのだ。逆にヒトラーは英米との闘いを望んでいなかった。むしろ、同盟を結びたかったくらいである。莫大な犠牲を払った大戦が終結すると、一番得をしたのはスターリンで、二番目が毛沢東、三番目が米国、認めたくないだろうが英国は負け組である。ユダヤ人を助けて、大英帝国は没落。イギリス人エリートは大量に死んでしまうし、植民地での人種的優越もなくなって、白人の王国だったブリテンに有色人種が逆流してきた。解放されたユダヤ人はおぞましいイスラエルに向かわず、アングロ世界に住み着いたのである。気前よく移住を許した米国や英連邦のアングロ系国民は、ユダヤ人に国家の中枢を握られてしまった。しかし、言論界をユダヤ人に支配された欧米諸国では、こんな簡単な事実を述べる学者はまずいないし、テレビ局がユダヤ人支配の現実を描くドキュメンタリー番組を作ることはない。大抵の歴史家は既存の枠組みの中で、歴史書を綴っているので、外界から歴史を見ることはないのだ。ユダヤ人が設定した枠からはみ出た歴史書は、「反ユダヤ主義」との烙印を押されて、「トンデモ本」と分類されてしまう。ロシアの現実を見ることは、日本人にとって意義がある。露骨な権力闘争は良い勉強になるのだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68377366.html

4. 中川隆[-12522] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:35:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)はワーグナーの愛好家だった

ワーグナーの手紙、イスラエルで競売へ ユダヤ人の「腐食的影響」に言及
2018年4月23日 12:13 発信地:エルサレム/中東・アフリカ


反ユダヤ的な内容が記されたドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの手紙。エルサレムで
(2018年4月16日撮影)。(c)AFP PHOTO / MENAHEM KAHANA


【4月23日 AFP】ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)がユダヤ人による文化への悪影響を危惧した内容の手紙が24日、イスラエルで競売に掛けられる。反ユダヤ主義者だったワーグナーの作品はイスラエルでは公の場での演奏が実質的に禁じられているが、これを機に国内で議論が再燃しそうだ。

 ワーグナーが19世紀に作曲した壮大で国粋主義的な作品は、反ユダヤ主義やミソジニー(女性への嫌悪や蔑視)、民族純化思想に満ちている。

民族純化は後にナチス・ドイツ(Nazi)が大々的に掲げ、その指導者アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)はワーグナーの愛好家だった。

 出品される1869年4月25日付の手紙は、ワーグナーがフランス人の哲学者エドゥアール・シュレー(Edouard Schure)に宛てたもの。その中では、ユダヤ人がフランス社会に同化すれば「ユダヤ精神による近代社会への腐食的影響」を観察できなくなるとし、フランス人はユダヤ人について「ほとんど何も」知らないなどとも記している。

 イスラエルにはワーグナー作品の演奏を禁止した法律はないが、過去に演奏が試みられた際に国民から強い反発が起き、騒ぎになった経緯があることから、オーケストラや会場が演奏や上演を自粛している。

 ワーグナーは1850年、偽名で「音楽におけるユダヤ性」と題した論文を発表し、激烈な反ユダヤ批判を展開。1869年にはこの論文を実名で出している。(c)AFP

5. 中川隆[-12521] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:41:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

ヒトラーがユダヤ人だというのは欧米マスコミが流した悪質な嘘だった


「アドルフ・ヒトラー」は「ユダヤ人」ではなく何の変哲もない一般的な「オーストリア人」
シシリー (土曜日, 05 7月 2014 23:02)

「アドルフ・ヒトラー」は「ユダヤ人」ではなく、何の変哲もない、一般的な「オーストリア人」の可能性が高い状況です。

「アドルフ・ヒトラー」のY染色体ハプロタイプを調査した結果、「E1b1b」であった為、「ユダヤ人」とのデマを広めた者がいました。迷惑な話です。確かに、ユダヤ人であるアルバート・アインシュタインも同じ「E1b1b」であるように、イスラエル人からよく検出されるY染色体ハプロタイプ「マーカ」です。

しかし、Y染色体ハプロタイプを知る者はすぐ分かるのですが、「E1b1b」は、その他、イタリア人、ギリシャ人、エジプト人等からも多く検出される「マーカ」であり、「アドルフ・ヒトラー」が生まれ育ったオーストリアでは、国民の10%が「E1b1b」を占めています。

↓「E1b1b」はヨーロッパ全ての国民から、多かれ少なかれ検出される「マーカ」であり、ジョンソン米大統領、ナポレオン・ポナパルト、ライト兄弟等も同じ「マーカ」です。
http://www.eupedia.com/europe/Haplogroup_E1b1b_Y-DNA.shtml

結論として、「アドルフ・ヒトラー」は「ユダヤ人」ではなく、何の変哲もない、一般的な「オーストリア人」となります。
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「ユダヤ人」との説があることは知っています。しかし、「アドルフ・ヒトラー」は政治家であるため、生前から、誹謗、中傷、攻撃する話は山ほどあるのは当然です。また、面白おかしく捏造した説もたくさんあります。しかし、科学的根拠もなく、記録すら無いものは、評価には値しません。現時点では「デマ」レベルと考えるほうがいいでしょう。
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http://ugaya.jimdo.com/2013/08/06/%EF%BD%84%EF%BD%8E%EF%BD%81%E3%81%8C%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%A8%E3%81%AF/  



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ユダヤ人が猛烈にヒトラーを糾弾するのは、この独裁者が異民族を迫害したからではなく、ユダヤ人が一番気にするセム種族の肉体を標的にしたからだ。ユダヤ人に対する迫害なら、歴史上ヨーロッパの王様や貴族が行っていたから珍しくも何ともない。

だが、お金で買収されない支配者というのは稀だ。大抵の封建領主はユダヤ人の金銭に目が眩み、例外を設けて一部のユダヤ人を優遇する。少数でも生き残れば、狡猾なユダヤ人はこの例外を大きく広げ、いつの間にか大勢のユダヤ人が「例外」となってしまうのだ。そして、再び迫害が起きぬよう、ユダヤ人に対する「偏見」を取り除こうと画策し、ヨーロッパの民衆に人種平等の思想や寛容の精神を刷り込もうとする。これがユダヤ流の心理戦。だから、一部のヨーロッパ人が反撥を覚え、再びユダヤ人を排斥しようと望んでしまうのだ。

憎まれる奴には「憎まれるだけの理由」がある。ユダヤ人はアメリカ人やヨーロッパ人に対して「異人種への憎しみを捨てろ !」と迫るが、それなら先にイスラエルの同胞に対して言ってみろ。きっと、米国のユダヤ人はイスラエルで袋叩きに遭うぞ。イスラエルの保守的なダヤ教徒に殴られ、小声で「ヘイト反対!」と囁く、リベラル派ユダヤ人の姿が目に浮かぶじゃないか。

ユダヤ人や左翼は「弱者救済」とか「自由の擁護」を口にするが、それは彼らにとって利益になる時だけであり、敵対者の自由を尊重する気など毛頭無い。彼らが保守派の言論を抹殺したくなるのは、物事の核心を突く言葉を発するからである。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68719818.html

6. 中川隆[-12520] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:44:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

ヒトラーはユダヤ系少女と仲良しだった……写真競売に 2018年11月14日
https://www.bbc.com/japanese/46204022

にっこり楽しそうに笑う女の子を、男性が抱きかかえている。男性も嬉しそうに笑っている。一見すると、素晴らしく幸せな写真だ。


写っている男性が、アドルフ・ヒトラーでさえなければ。そして、女の子がユダヤ系でなければ。

ヒトラー率いるナチスはユダヤ人を迫害し、後にユダヤ人600万人の大虐殺を遂行した。それにもかかわらずヒトラーは、ローザ・ベルニール・ニナウさんとの友情を大事にしていた。5年後にナチス高官が介入して、やめさせるまでは。


2人の関係を1933年に記録した珍しい署名入りの写真は、米国でオークションにかけられることになった。

写真は、ヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマンが撮影したもの。米メリーランド州の競売業者アレクサンダー・ヒストリカル・オークションは、13日に始まった競売では1万ドル(約110万円)ほどの値がつくだろうと予測している。

「サイン入りのものが表に出てきたことはなかった」と、同社のビル・パナゴプロス氏は英紙デイリーメール電子版に話している。

「ヒトラーはプロパガンダ目的で、しょっちゅう子供と一緒に写真を撮った。しかし、この作品は衝撃的だ。ヒトラーは本心からこの女の子に、親近感を抱いていたようなので。愕然とした」

「ヒトラーの恋人」

ヒトラーと女の子は、誕生日が同じだった。それが出会いのきっかけだった。

競売サイトによると、ローザさんは1933年、母親のカロリーネさんと一緒に、アルプスにあったヒトラーの別荘ベルクホーフを訪れた。別荘の外には、ナチス総統の誕生日を祝う大勢が集まっていた。

ローザさんの誕生日が自分と同じだと知ったヒトラーは、ローザさんと母親を別荘に招き入れたとされている。写真はそのとき撮られたという。

それからまもなくして、カロリーネさんの母親がユダヤ人だったことが判明する。ナチスにとっては、ローザさんもユダヤ人ということになった。


A girl, believed to be Rosa, holds Hitler's hands in a different image from the same dayImage copyright Getty Images
Image caption
ヒトラーは少女がユダヤ系と知りながら、友情を育んだ

しかしそれでも、ヒトラーは少女との友情を終わらせなかった。一緒に撮った写真は、サインをして送っている。

「親愛なる、そして(思いやりのある?)ローザ・ニナウへ、アドルフ・ヒトラー、ミュンヘン、1933年6月16日」と、ヒトラーは書いた。

ローザさんは後に、この白黒写真に自分で花を足しているようだ。

ローザさんは1935〜1938年の間に、少なくとも17回にわたりヒトラーと側近のヴィルヘルム・ブリュックナーに宛てて手紙を書いた。ヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンが、ローザさんと母親(ローザさんの父親は死亡していた)に連絡を控えるよう命令するまで続いた。


現代のドイツ人、2度の世界大戦をどう振り返る 死者をどう追悼する

部下のこの命令を、ヒトラーは気に入らなかったようだと写真家のホフマンは後に書いた。

ホフマンは1955年に発表した回顧録「Hitler Was My Friend(ヒトラーは友達だった)」で、「私のあらゆる楽しみを台無しにするのが本当にうまい連中がいる」とヒトラーが自分にぼやいたのだと書いている。

ホフマンはさらに同書に、「ヒトラーの恋人」とキャプションをつけて、2人の別の写真を掲載。「ベルクホーフで少女に会えるのをヒトラーは楽しみにしていた。しかしそれは、お節介な誰かが、少女が純粋なアーリア人の血統でないと発見したため、終わってしまった」のだという。

ボルマンが、ヒトラーと少女の接触をやめさせた翌年、第2次世界大戦が勃発した。6年後の終戦までに、ユダヤ人600万人が死んだ。

ローザさんも戦争を生き抜くことはなかった。ポリオにかかり、ヒトラーと初めて会った10年後の1943年、17歳でミュンヘンの病院で亡くなった。

(英語記事 Remarkable tale of Hitler's young Jewish friend)

https://www.bbc.com/japanese/46204022

7. 中川隆[-12519] koaQ7Jey 2019年2月02日 13:04:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

ヒトラーが愛したワーグナーの名曲
 

ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888年3月12日 - 1965年10月25日)


ワーグナー《ワルキューレ》「告別と魔の炎の音楽」クナ指揮 - ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm19583361


ワーグナー:楽劇『ワルキューレ』第3幕より
「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」

 ヴォータン:ジョージ・ロンドン
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ハンス・クナッパーツブッシュ(指揮)

 録音時期:1958年 (P) 1958
 録音場所:ウィーン、ゾフィエンザール
 録音方式:ステレオ(セッション)
 プロデューサー:ジョン・カルショー
 エンジニア:ジェイムズ・ブラウン、ゴードン・パリー
 


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ワーグナー《ワルキューレ》第1幕(全曲) クナッパーツブッシュ指揮 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Nm1FanHg2Nw
 ジークリンデ:キルステン・フラグスタート(ソプラノ)
 ジークムント:セット・スヴァンホルム(テノール)
 フンディング:アルノルト・ファン・ミル(バス)
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ハンス・クナッパーツブッシュ(指揮)

 録音時期:1957年10月28〜30日
 録音場所:ウィーン、ゾフィエンザール
 録音方式:ステレオ(セッション)
 プロデューサー:ジョン・カルショー
 エンジニア:ジェイムズ・ブラウン
 (P) 1959


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Wagner Götterdämmerung -- Knappertsbusch -- Windgassen -- Varnay -- Grümmer 1958 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qGu_LQxfcfM


Siegfried: Wolfgang Windgassen
Gunther: Otto Wiener
Alberich: Frans Andersson
Hagen: Josef Greindl
Brünnhilde: Astrid Varnay
Gutrune: Elisabeth Grümmer
Waltraute: Jean Madeira
First Norn: Jean Madeira
Second Norn: Ursula Böse
Third Norn: Rita Gorr
Woglinde: Dorothea Siebert
Wellgunde: Claudia Hellmann
Floßhilde: Ursula Böse

Richard Wagner "Götterdämmerung"
Opera in three acts --
part four in a cycle of four operas titled
"Der Ring des Nibelungen"
Libretto by the composer
Chor der Bayreuther Festspiele
Orchester der Bayreuther Festspiele
Conductor: Hans Knappertsbusch

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トリスタンとイゾルデ全曲

Tristan und Isolde Braun Treptow Klose Knappertsbusch Munich 1950 LIVE - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RZkpNxLMNto


Hans Knappertsbusch Bayerische Staatsoper

Tristan - Günther Treptow
Isolde - Helena Braun
Brangaene - Margarete Klose
Marke - Ferdinand Frantz
Kurwenal - Paul Schöffler
Melot - Albrecht Peter
Hirt - Paul Kuen
Steuerman - Fritz Richard Bender
Stimme eines jungen Seemanns - Fritz Richard Bender
Wagner

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1943. Die Meistersinger von Nürnberg - Prohaska, Lorenz, Müller (Wilhelm Furtwängler, Bayreuth) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MAokG9BrvPo


Jaro Prohaska -- Hans Sachs, Schuster
Max Lorenz -- Walther von Stolzing
Maria Müller -- Eva, Pogners Tochter
Eugen Fuchs -- Sixtus Beckmesser, Stadtschreiber
Josef Greindl -- Veit Pogner, Goldschmied
Erich Zimmermann -- David, Sachsens Lehrbube

Wilhelm Furtwängler
Chor & Orchester der Bayreuther Festspiele
1 Aug 1943

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Wagner - Parsifal Opera (recording of the Century Hans Knappertsbusch 1962) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dzeNnoMmsjM


Amfortas : George London
Titurel : Martti Talvela
Gurnemanz : Hans Hotter
Parsifal : Jess Thomas
Klingsor : Gustav Neidlinger
Kundry : Irene Dalis

Chor und Orchester der Bayreuther Festspiele
Chorus and Orchestra of the Bayreuth Festival

Chorus Master / Choreinstudierung : Wilhelm Pitz
Dirigent / Conductor : Hans Knappertsbusch
Live recording at the Bayreuth Festival in 1962

8. 中川隆[-12515] koaQ7Jey 2019年2月02日 14:35:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

ヒトラーが愛したワーグナーの名曲 2


Furtwangler Siegfried's Funeral March from Gotterdammerung - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=zCE_aYJNfQo

Richard Wagner, composer
Vienna Philharmonic, Wilhelm Furtwangler
Studio Recording, March 2, 1954

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Flagstad, Furtwangler Brunnhilde's Immolation (1-3) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=zP6b4F1cG_k


Excerpt from Richard Wagner's Gotterdammerung
Kirsten Flagstad, soprano
Philharmonia Orchestra, Wilhelm Furtwangler
Studio Recording, 1952

9. 中川隆[-12513] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:27:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

天才ヒトラーの精神が異常になった経緯


ヒトラーとドラッグ:第三帝国における薬物依存 – 2018/9/26
ノーマン・オーラー (著), 須藤 正美 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%96%AC%E7%89%A9%E4%BE%9D%E5%AD%98-%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4560096511

内容紹介

「錠剤の形をしたナチズム」の実態に迫る

ヒトラーの主治医テオドール・モレルは、一本の注射で体調不良を解決する頼りがいのある医師だった。

ヒトラーはホルモン剤、鎮痛剤、覚醒剤、そしてモレルへの依存を深め、不調のたびに投薬や注射を求めるようになった。

第二次世界大戦が始まり、ヒトラーは誇大妄想にとりつかれ、現実遊離が目につくようになり、軍事作戦能力も徐々に失われていった。足を引きずり、腰も曲がって、くたびれた老人のように見えた。

一方、前線兵士は薬物によって「猛獣と化す」ことが目標とされ、無謀な作戦に投入され、総統大本営も制御を失い、もはや究極の破滅に突き進むしかなかった……。

ヒトラーとモレルの危険な関係は、大戦の命運を左右したのか?

本書は、ヒトラーと第三帝国が薬物に深く依存していたことを暴き、世界的ベストセラーとなった歴史ノンフィクションだ。歴史学者ハンス・モムゼンが本書の「あとがき」で、「これまでの全体像を変える本」と評したのをはじめ、イアン・カーショー、アントニー・ビーヴァーら専門家も賛辞を寄せている。著者は作家らしく、逸話を満載し、史料もきちんと渉猟し、早く続きを読みたくなるような、手に汗握る展開をみせる。


内容(「BOOK」データベースより)

「患者A」と主治医の危険な関係、大戦の命運は左右されたのか?「錠剤の形をしたナチズム」の恐るべき実態に迫る、傑作ノンフィクション!英『ガーディアン』年間最優秀図書(歴史部門)選出!

カスタマーレビュー

yasq di Fontana
兵士には覚醒剤を、総統には麻薬を!  驚きのドラッグワールド・第三帝国
2018年11月12日

覚醒剤メタアンフェタミン(1893年に日本人長井長義が合成し1919年にこれまた日本人緒方章が結晶化に成功)が太平洋戦争中の特攻隊で使われていたという話はよく聞くが、これをさらに徹底的に使ったのがナチス・ドイツだった。あの電撃的なポーランド・ベルギー・フランスへの快刀乱麻ともいうべき進攻のスピードは兵士に大量投与された覚醒剤によるものだったとは!

一方で、ヒトラーは戦況の悪化とともに主治医モレルに投与されるオキシコドンに依存。軍首脳部もほとんどがジャンキー状態。暗殺未遂後はコカインまでも加わる。

こうして、上層部はジャンキーの集団となり安全な地下壕みたいとところから無茶苦茶な指示を乱発し、兵士は戦場で覚醒剤漬けにされ独ソ戦の頃にはダメダメな状態に。

最後にベルリンに籠った頃にはヒトラー用のドラッグも底を尽き彼は激しい離脱症状の中で自殺。

あまりにも戦況の変化と薬物乱用がきれいにシンクロするのに驚く。最高指導者がドラッグ依存だとしたら、だれも彼へのドラッグ投与を拒めない。世界史的な出来事がドラッグで突き動かされ得るという恐怖。

当時の日本の軍中枢にこんなことがあったとは聞かないが、本土決戦前に証拠が消されたのかもしれない。まあ、しらふでヒトラーと同じようになっていたと考えるとそれもまた怖い話だが。

オキシコドンはアメリカでは近年も安易に鎮痛薬として処方されてかなり問題になっていますね。日本に持ち込もうとして逮捕された某自動車メーカーの外国人役員も。決して過去の話ではない。




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ヒトラーは「ヤク中」だった? 
ナチス・ドイツの驚くべき薬物事情を暴く『ヒトラーとドラッグ』 2018/10/10
辻田真佐憲 作家・近現代史研究者


『ヒトラーとドラッグ 第三帝国における薬物依存』白水社
ノーマン・オーラー/著 須藤正美/翻訳

戦時下の日本では、苛酷な戦闘や労働をやり抜くため、「ヒロポン」などの覚醒剤が広く使用された。本書は、同じく(いやそれ以上に)ドラッグ漬けだった、かつての同盟国ナチス・ドイツの驚くべき「ヤク中」ぶりを明らかにする。

ドイツ版の覚醒剤は、「ヒロポン」と同じメタンフェタミンの「ペルビチン」だ。著者はこれを「錠剤の形をしたナチズム」と呼ぶ。独裁体制下の厳しい肉体・精神労働も、数日間ぶっ通しの電撃戦も、これなしには考えられなかった。

「いわゆる覚醒剤は爆弾のように的確に命中し、ウィルスのように瞬く間に広まり、食卓の切り分けられたパンや一杯のコーヒーのようにありふれたものとなった」。ナチスのスローガン「ドイツよ、目醒めよ!」は、覚醒剤によって達成されたのである。

もちろん、ナチス・ドイツも薬物天国だったわけではなく、コカインやヘロインは取り締まられていた。だが、1938年に誕生した「ペルビチン」は画期的な新薬として放置(それどころか推奨)された。この点は、戦時下の日本とよく似ている。

だが、最高指導者が「ヤク中」だった点は、ナチス・ドイツでしか見られない。そう、ほかならぬヒトラーもまたドラッグ漬けだったのだ。

自身の健康状態を詮索され、あれこれ指図されることを嫌うヒトラーは、体調不良を注射1本ですぐに治してくれる便利な医者を求めた。それに応えたのが、主治医のモレルだった。

モレルは、求められるがまま、あらゆる薬剤を合成してヒトラーに注入した。戦局が悪化すると、そこにはコカイン、コデイン、オイコダールなどの依存性が高い向精神薬も多く含まれるようになった。そして「ペルビチン」も。たしかに体調はすぐに回復する。だが、薬が切れると体調は以前より悪くなる。するとまた注射を求める――。悪循環だった。

著者はドイツやアメリカの公文書館を訪れ、モレルのメモを読み解いて、「患者A」に注入されたホルモン調合剤、ステロイドその他の有効成分、医薬品などをリストアップしている。その数の多さには驚かされる。

総統大本営では、それまで塞ぎ込んでいたヒトラーが、突然元気になって、自信に満ちて作戦指導する姿も見られたという。「ハイル・ヒトラー」ならぬ「ハイ・ヒトラー」。支離滅裂な作戦は、ドラッグで高揚した状態のなかで指示されていたかもしれないのだ。

表紙の呆然としたヒトラーの写真は1944年秋に撮られた有名なものだが、これほど本書にふさわしいものもあるまい。薬物にこじつけすぎとの指摘もあるものの、それをおいても、読み応えのある一冊である。
https://honsuki.jp/review/9035.html

10. 中川隆[-12512] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:31:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

歴史学者ら「ヒトラーは重度の薬物中毒だった」 2015年09月11日
https://jp.sputniknews.com/life/20150911884675/


アドルフ・ヒトラーは何種類もの麻薬を使用していた。
中でもお気に入りはメタンフェタミンだった。
麻薬を投与していたのは主治医テオ・モレル氏だ。

La Stampa のドイツ特派員、トニ・マストロブオニ氏が発表した。InoPressaが伝えた。


アドルフ・ヒトラーは何種類もの麻薬を使用していた。中でもお気に入りはメタンフェタミンだった。麻薬を投与していたのは主治医テオ・モレル氏だ。La Stampa のドイツ特派員、トニ・マストロブオニ氏が発表した。InoPressaが伝えた。


第三帝国ではスポーツ選手、芸術家、軍人、さらには主婦も麻薬を使用していたという。

「メタンフェタミンは特に第二次世界大戦時のナチスドイツで流行していた」とマストロブオニ氏。

麻薬は元気を出し、長時間にわたり多幸感を持続させるための薬として使われていた。調合を行なったのはフリッツ・ハウシルト医師。この医師は1936年のベルリン五輪で活躍した米国人スポーツマンに対する「ベンゼドリン」の効力に注目した。しかし薬物には依存性があり、悲惨な結果がもたらされた。メタンフェタミンはすぐに第三帝国で人気となった。スポーツ選手、歌手、試験期間中の学生らが服用した。メタンフェタミン工場は主婦用に有効成分入りのお菓子まで開発した。

第二次世界大戦が始まると、兵士の間で薬物が急速に流行した。「Der totale Rausch(完全なる陶酔)」という著書をもつノルマン・オーラー氏は、麻薬は対仏電撃戦(1940年)だけでなくヒトラー自身の行動にも影響した、と主張している。「医師と麻薬がナチズムの内部構造の多くを説明してくれる」とオーラー氏。

オーラー氏によれば、1941年以降、ヒトラーは奇行が目立つようになった。演説にも麻薬の影響が明らかに出始めた。ヒトラーは1349日の間に800回以上メタンフェタミン、ステロイドその他薬物の注射をうち、1100錠以上の錠剤を飲んだ。

ヒトラーがメタンフェタミンを常用していたことは昨年英国の学者らによって発見されている。第二次世界大戦中に米国軍事諜報班によって集められた書類によれば、兵士もメタンフェタミンを使用していたし、ヒトラー自身も愛用していたという。
https://jp.sputniknews.com/life/20150911884675/

11. 中川隆[-12510] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:42:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

南京大虐殺等の日中戦争での日本兵の残虐行為も覚醒剤が原因だった:

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html

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知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史〜芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった!
辻田 真佐憲
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659


芸能界の薬物汚染と太平洋戦争

近年、有名人の薬物事件があとを絶たないが、これは何もいまにはじまったことではない。歴史を振り返れば、太平洋戦争の敗戦直後から、芸能界に薬物汚染は広まっていた。当時よく使われたのは覚醒剤、いわゆる「ヒロポン」である。

漫才師で、のちに参議院議員に転身した下村泰は、1984年6月の国会質疑において、ヒロポン中毒に陥った歌手たちの奇行を、次のように赤裸々に証言している。

いわく、楠木繁夫は、ギャラの契約をせず、「ヒロポンを一升瓶で何本くれたら幾日間行く」といって仕事をしていた。

いわく、霧島昇は、ヒロポン中毒が進み、1曲歌っては「幕を閉める」といったり、アンコールまでいっているのに「アンコールまだだ」といったりして、司会の自分を困らせた。

いわく、樋口静雄は、幻覚症状に陥って、目が機械のように「チャっと」異様な動きをし、「天井の隅で今おれをねらっている刺客がいる」と妄想を語ったりした(第101回国会、社会労働委員会、第11号より)。

なぜ彼らは揃いも揃って、重度の覚醒剤中毒に陥ってしまったのだろうか。

その理由についても、下村は次のように証言している。

「昭和20年代(引用者註:1945〜1954年)にはヒロポン中毒というのがありまして、これは旧軍が持っていたものを市中にばらまいたと言っても過言ではないと思うんです」

つまり、日本軍の保管していた覚醒剤が、敗戦後市中に出回り、「ヒロポン中毒」を引き起こしたというのである。


このように日本の薬物汚染は、戦争の歴史と無縁ではない。それどころか、アヘン、モルヒネ、ヘロインなどの薬物は、日本の植民地統治とも深く関係していた。

薬物事件が注目される今日、こうした暗い歴史を紐解くのも決して無駄ではあるまい。以下では、世界有数の「麻薬大国」だった日本の知られざる一面を紹介したい。

なお、現在日本の法律では、「覚醒剤」「大麻」「麻薬及び向精神薬」「アヘン」が区別されているが、本稿では一括して「薬物」もしくは「麻薬」と呼ぶことにする。

台湾領有とアヘン専売制のはじまり

日本と薬物中毒との本格的な接点は、1895年の台湾領有にさかのぼる。

日本ではそれまで、政府の厳格な取り締まりによって、アヘンの蔓延と無縁だった。ところが、日清戦争の勝利により事情が急変した。清より割譲された台湾は、中国でもっとも早くアヘン吸煙がはじまった場所のひとつであり、同地にはアヘン吸煙者が大勢住んでいたからである。日本はここでアヘン問題に対応せざるをえなくなった。


この問題に対し、日本は「漸禁政策」で臨んだ。いきなりアヘン吸煙を禁止にするのではなく、徐々に減らしていく。そうすることで、混乱を防ぎ、植民地統治を円滑に行おうとしたのだ。そのため、台湾ではアヘンの専売制が敷かれ、アヘンの売買・所有には「特許」が必要となった。

だが、不幸なことに、ここで日本はあることに気づいてしまう。海外から輸入したアヘンを台湾で売りさばくだけで、濡れ手で粟のように利益が得られる。これは、植民地統治の財源になるのではないか――、と。この結果、アヘン専売は「金のなる木」とみなされ、「漸禁政策」は実態を失い、有名無実と化していった。

台湾におけるアヘン吸煙特許者の数は、最大時(1900年)で約16万6千人(台湾人口の6.1%)にも達した。同年度の台湾総督府のアヘン収入は約423万円である。小学校教員の初任給が10円ほどだった時代の話だ。

なお、念のため付け加えておけば、アヘン中毒者に対する矯正事業は、国際的な批判を受けて、1930年以降に推進された。台湾におけるアヘン吸煙は、常習者の死亡や原料の供給停止もあり、太平洋戦争下にようやく根絶された(劉明修『台湾統治と阿片問題』)。

アヘンの専売は、1905年に租借権を獲得した遼東半島先端の関東州でも行われたが、やはりここでも多くの富を日本にもたらした。

アヘン専売制に味をしめた日本は、その後アヘンの国産化にも着手。原料であるケシの生産地には、消費地の台湾ではなく、アヘンが厳禁されていた内地(主に和歌山県、大阪府)と朝鮮が選ばれた。生産地と消費地を分けることで、アヘンの管理・統制を効率的に行い、利益の最大化を図ったのである。

こうして日本は、次第にアヘンのもたらす利益に魅入られ、蝕まれていった。

「麻薬大国」への道とモルヒネ密売

鎮痛剤のモルヒネは、アヘンを原料に作られる。医療用にも使われるが、麻薬としての使い道もあった。

日本は長らく英国とドイツよりモルヒネを輸入していた。ところが、第一次世界大戦の勃発とともに供給がストップしたため、急遽国産化に踏み切ることになった。1915年には、星製薬(社長の星一は、小説家・星新一の父)がモルヒネの製造に成功。その後、他社でもモルヒネの製造が開始された。

このような国産モルヒネは、当初より麻薬として流通した。特に、朝鮮ではそれが顕著だった。


朝鮮では、モルヒネの量産化とともに第一次世界大戦が終結し、在庫がだぶついてしまった。そこで日本政府は製薬会社を保護するため、朝鮮でモルヒネの販売制限を緩和し、在庫の処分を図った。アヘンは禁止なのに、モルヒネは許可。これは明らかにダブルスタンダードだった。この結果、朝鮮では10万人規模のモルヒネ中毒者が出現した

(倉橋正直『阿片帝国・日本』)。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4763410342/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4763410342&linkCode=as2&tag=gendai_biz-22


その後も、日本の麻薬の生産は拡大し続け、1935年の国際連盟の統計によれば、日本のモルヒネ生産額は世界第4位に達した。モルヒネより合成され、より依存性が高いヘロインの生産額にいたっては世界第1位。コカの葉より生産されるコカインの生産額も、やはり世界第1位となった(倉橋、前掲書)。日本は、ついに世界有数の「麻薬大国」になったのである。

当然ながら、これだけの量の麻薬は国内で消費しきれない。ではどうしたのか。今日、日本人(朝鮮人含む)の密売人たちが、国産モルヒネを中国(特に租界があった天津や上海など)で大量に売りさばいていたことが判明している。在留邦人は治外法権で守られていたので、中国側は逮捕や処罰ができない。密売人たちはこの仕組みを悪用し巨万の富を得たのである。

日本は、麻薬取り締まりに関する国際条約に調印・批准していたが、邦人の密売取り締まりには消極的だった。麻薬の密売は、国内で食い詰めた者の貴重な資金源でもあったからだ。こうした日本の態度は国際的にも批判されたが、取り締まりは遅々として進まなかった。

麻薬の利益でアジア太平洋戦争の戦費を賄う

1930年代に入り、日本が中国大陸に侵出するようになると、麻薬の生産・販売は一層組織的に行われるようになった。

日本が中国各地に作ったいわゆる「傀儡政権」では、財源確保のため、ことごとくアヘンの専売制が敷かれた。満洲国、蒙疆政権、冀東防共自治政府、汪兆銘政権(南京政府)などがそうである(広中一成『ニセチャイナ』)。


1932年に成立した満洲国では、主に熱河省でアヘンが生産され、ほかの地域に供給された。生産地と消費地を区別し、管理する手法は、ここで応用されたわけだ。

同じ手法は、中国本土にも適用された。中国本土では、主に蒙疆政権の綏遠省がアヘンの生産地に選ばれた。中国にはもともとアヘン吸煙者が大勢いたため、アヘンは売れに売れた。こうしてもたされた莫大な利益は、日本の戦費・占領統治費を賄ったのである。

たとえば、日本軍占領下の南京市では、占領1周年の1938年12月に、月間の市収入の23.1%をアヘン販売で賄っていた(小林元裕『近代中国の日本居留民と阿片』)。この結果、蔣介石政権のもとで減少しつつあったアヘン吸煙は、ふたたび増加に転じてしまった。

これほどまでアヘンを生産・販売・使用した戦争はほかに例を見ない。そのため、日中戦争の実態はアヘン戦争だったという指摘もある(江口圭一『日中アヘン戦争』)。その指摘に納得するほどに、日本の麻薬政策は大規模かつ巧妙だった。

なお、1941年12月に太平洋戦争がはじまると、日本は東南アジアでもアヘンの専売に着手した。シンガポールでは、英国のアヘンを押収し、精製工場を復旧して、マレー、スマトラ、ボルネオなどに製品を供給。こうしたアヘンの収入は、1942年3月から9月分までで570万7500ドルに達し(当時1ドル=1円)、第25軍(シンガポール攻略担当)軍政部の経常部歳入の約50%、臨時部歳入を加えた全歳入の約25%を占めた(江口、前掲書)。

戦時中の日本は、「日満支(中)の提携」「東亜新秩序」「アジアの解放」「大東亜共栄圏」などのスローガンを高らかに掲げていた。だが、その実態はかくのごとしであった。日本の理想は、薬物で醜く黒ずんでいたのである。


戦争のために配布された覚醒剤

一方、1940年代に入ると、日本本土でも薬物の害が蔓延しはじめた。日本で主に使われたのは覚醒剤である。

覚醒剤の成分は、メタンフェタミンもしくはアンフェタミンである。このうち、メタンフェタミンは、日本の薬学者・長井長義によって19世紀末にエフェドリンより抽出された。

ただし、その中枢神経興奮作用は1930年代に入ってドイツで発見され、「ペルビチン」の名前で商品化された。ちょうどナチス・ドイツの時代だ。


なお、アンフェタミンも同じころに製品化され、英米では「ベンゼドリン」、ドイツでは「エラストン」などの名前で商品化された。これらの商品は、眠気を覚まし、疲れを吹き飛ばす特効薬として、大いにもてはやされた。その危険性はいまだ認識されていなかったのである。

ちなみに、ヒトラーは、1930年代後半より主治医となったモレルよりアンフェタミンを投与され、健康を害したといわれている。

このような欧米の動きを受けて、日本でも1940年代にメタンフェタミンやアンフェタミンが次々に商品化された。メタンフェタミンでは、大日本製薬の「ヒロポン」、参天堂製薬の「ホスピタン」、小野薬品工業の「ネオパンプロン」、富山化学工業の「ネオアゴチン」。アンフェタミンでは、武田薬品工業の「ゼドリン」、富山化学工業の「アゴチン」などがあげられる。1940年代に覚醒剤を製造した会社は23社にのぼったという

(佐藤哲彦ほか『麻薬とは何か』)。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/410603638X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=410603638X&linkCode=as2&tag=gendai_biz-22


この時期に覚醒剤が量産されたのも、戦争と無縁ではなかった。日本はこのころ日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争の開戦も控えていた。労働力や戦力の拡大のため、覚醒剤は「魔法の薬」と考えられたのである。「ヒロポン」開発に関わった医学者の三浦謹之助は、当時、覚醒剤の開発について「最も目下の時局に適合するもの」とあからさまに述べている。

副作用の認識がなかったこともあり、覚醒剤は軍需品として大量生産された。特に、激務の航空部隊に配布されたようで、冒頭に名前をあげた参院議員の下村泰(陸軍の飛行戦隊に所属)も、戦時下に使用したと証言している。なお、覚醒剤はアンプルのほか錠剤でも配布されたという。

このような覚醒剤は、1945年8月の敗戦により不要となり、市中に流出してしまった。その結果、冒頭で引いたようにひとびとが「ヒロポン中毒」になったのである。昼夜を問わず多忙な芸能人の間には、特に蔓延したといわれる。

覚醒剤の有害性は戦後になって広く認識されるに至り、1951年ようやく法律で規制された。


国家が麻薬に取り付かれる恐ろしさ

このように、日本における麻薬の生産・販売・消費は、植民地統治や総力戦と密接に結びついていた。現在でも、日本では他の国より覚醒剤の使用が多いというが、そんなところにもかつての麻薬政策の影響が残っている。

覚醒剤といえば、北朝鮮が外貨獲得のために製造し、密売しているとも指摘される。事実ならば批判されるべきだが、それはまさにかつて日本がやっていたことでもある。歴史を知らず、「日本こそやっていたではないか」と反論され、口ごもるようではあまりに情けない。歴史を学ばなければならない所以である。


個人が麻薬の魅力に取り付かれるのはおそろしいことだ。だが、国家が麻薬の魅力に取り付けられることはもっと恐ろしい。「麻薬大国」日本はまさにそうだった。

その歴史は、反面教師として、今後も参照され続けなければならないだろう。有名人の薬物事件も、そうした歴史を知るきっかけになれば怪我の功名かもしれない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659

覚醒剤については

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html

12. 中川隆[-12508] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:54:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

ヒトラーの様な覚醒剤中毒者が経験する被害妄想と恐怖体験はこの動画に上手く描写されています:


【ホラー】 コワイ女 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=1SYZG44duWM


13. 中川隆[-12058] koaQ7Jey 2019年2月20日 13:08:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22249] 報告

薬物に溺れたヒトラーの秘密 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=9y68Yndc5SU
14. 中川隆[-11737] koaQ7Jey 2019年3月03日 10:33:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[245] 報告

2019年3月3日
ヒットラーとボスニア、苦難の歴史
早春のアルバニアからクロアチアまで中欧自転車&バスの旅 第8回
高野凌(定年バックパッカー)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15523

第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件の舞台

 サラエボで投宿したホステルの名称は何と「フランツ・フェルディナンド ホステル」。 

 1914年のサラエボ事件で暗殺されたオーストラリア・ハンガリー帝国の皇位継承第一位(crown prince)フェルディナンド皇太子の名前だ。

 ホステルの壁や天井は一面に暗殺された皇太子フランツと皇太子妃ゾフィー、そして皇帝一族の写真やサラエボ事件のニュース写真などで覆われている。ホステルは暗殺現場から数分の裏通りである。

 ベッドに寝転んでドミトリーの天井一杯に貼られているフェルディナンドの巨大な肖像写真を眺めていると100年以上前の世紀の大事件の臨場感に包まれた。


サラエボ市街(Ellica_S/Gettyimages)

メルボルン生まれのボスニア青年の嘆き

 ホステルで同室になったジェミーは白人系のフツウの青年であった。しかし話を聞いて驚いた。イスラム教徒の彼の一家はボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争当時にボスニア難民としてオーストラリアに移住。彼はメルボルンで生まれ、現在はメルボルン大学で数学を専攻している。

 歴史的にボスニア・ヘルツェゴヴィナには三つの民族が暮らしていた。同じセルビア系人種であり言語・文化は同一である。イスラム教徒のボシュヤニク人(=ボスニア人)、正教徒のセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人である。

 この三つの民族が独立の主導権を巡り対立。そこに旧ユーゴスラビア軍(のちにセルビア共和国軍)が介入してセルビア人勢力を支援したため紛争が長期化。

 ジェミーは今回生まれて初めてボスニア・ヘルツェゴヴィナを訪れ、両親の故郷であるサラエボ近郊の親戚の家に逗留。故郷を訪問してジェミーが見てきたのは、戦闘行為が終結して20年以上経過した現在でも住民間の敵対感情は消え難く民族間の和解には程遠いという厳しい現実であった。

サラエボ事件の暗殺犯は英雄なのか狂信者なのか

 3月21日。前夜からの吹雪で午前中は観光を断念。ホステルのロビーで受付とガイド兼任のアレン31歳とおしゃべり。3月21日はサラエボの春の祭日(最初の春の日)とのこと。

 イスラム教徒のボスニア人(=ボシュヤニク人)であるアレンは政治意識が高い。アレンからボスニア人から見たバルカン半島の近現代史を拝聴。

 オーストラリア・ハンガリー帝国の皇太子を暗殺したサラエボ事件の実行犯であるガブリロ・プリンチップ(Gavrilo Princip)はセルビア人にとっては国民的英雄(national hero)だが、ボスニアでは狂信的犯罪者と見做されているという。

 ガブリロ・プリンチップはサラエボで生まれ育った。セルビア正教徒のセルビア人である彼の一家はイスラム教徒の大地主の下で働く貧農であった。こうした家庭環境から成長すると汎スラブ主義に傾倒して、セルビアの首都ベオグラードに渡り過激な政治運動に身を投じたという。

 ガブリロ・プリンチップは暗殺実行時点で19歳であったので死刑を免れたが、4年後の1918年に第一次世界大戦の終結を見ずにオーストラリア・ハンガリー帝国の刑務所で病死した。大戦後に彼の墓はセルビア人の人々によって英雄の眠る聖地となったという。

大国ロシアが影を落とすバルカン半島の歴史

 第一次世界大戦以前、ロシアはオスマントルコと敵対してバルカン半島の勢力拡大を狙っていた。そのためロシアは汎スラブ主義(Pan-Slavism)の大義を掲げてセルビア人を支援。

 オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア人をロシアの手先として警戒。このような地政学的背景から皇太子フェルディナンド・フランツはボスニア人の権利を擁護して守護する政策を取った。現在でもサラエボでは皇太子は人々に慕われているという。

セルビア人はボスニア人(ボシュヤニク人)の言語・文化を抹殺

 第一次世界大戦でもロシアとセルビアへ対抗するためにボスニア人はドイツ・オーストリア側について参戦。

 しかし敗戦でオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊。戦後処理では戦勝国ロシアの後押しを受けたセルビア人勢力が建国したセルビア・クロアチア・スロベニア王国にボスニア・ヘルツェゴビナは併合された。

 アレンによると、この時代セルビア人支配者はボシュヤニク人(イスラム教徒のボスニア人)を徹底的に弾圧。ボスニアの独自の言語表記を禁止し、民族的由来の名前の使用を禁止した。セルビア人支配下ではさらに職業も制限されて百姓、大工、石工、そして音楽・ダンス等の芸人という最下層の仕事のみが許されたという。



ナチスドイツはボスニアの救世主?

 第二次世界大戦においてもセルビア人はロシア(ソ連)についた。セルビア人の圧政に苦しんでいたボスニア人は対抗上ソ連と敵対するナチスドイツに接近した。

 ナチスドイツはボスニア人を優遇して同盟(alliance)を結んだ。ナチスドイツは武器を援助してボスニア人の若者はロシア(ソ連)と戦うために東部戦線(Eastern Front)に出征したという。

 亡くなったアレンの祖父の自慢話はナチスドイツの崩壊後にドイツ人の逃亡兵をかくまって保護したことだったという。素朴なボスニア人にとりナチスドイツは過酷なセルビア人支配からの“解放者”(liberator)であったのだ。

チトーはボスニア人を裏切った!

 第二次世界大戦の末期にチトーはボスニア・ヘルツェゴヴィナでも反ナチスドイツ闘争(パルチザン運動)を開始。彼はボスニア・ヘルツェゴヴィナの自主独立という甘言を弄して反ナチス闘争への参加を勧誘した。

 戦後ユーゴスラビア社会主義連邦が成立。アレンによるとチトー政権下でもセルビア人が支配階層となりボスニア人への差別は多かれ少なかれ存在した。ボスニア人はいくら優秀でも各分野の指導者になる道は実質的に閉ざされていたという。

ユーゴ紛争によるボスニア人の民族離散(diaspora)

 1990年から始まったユーゴスラビア社会主義連邦の解体の過程でセルビア人勢力による攻撃を逃れて膨大な数のボスニア人が国外に離散。

 アレンによるとトルコに逃れた難民は100万人以上となり、当時ボスニア難民の数はトルコ国内のクルド人よりも多かったとのこと。さらにドイツ、そして米国、カナダへも多数のボスニア人が移住した。

 混乱の収まった2013年の人口調査(census)ではボスニア・ヘルツェゴビナの総人口は約370万人であったとのこと。

 注)この国勢調査ではボスニア人(ボシュヤニク)が全体の54%であったので2013年時点のボスニア人の人口は約200万人と推計される。他方セルビア人は33%であり120万人程度となる。

ボスニア人にとりセルビアは不倶戴天の敵

 セルビアは歴史上常にロシアの先兵としてバルカン半島でdirty jobを担ってきたとアレンは強調。プーチン政権はセルビアへ最新鋭ミグ戦闘機を含む2億ドルの武器供与をコミットした。

 セルビアは現在も将来も常に危険な隣国であり、それゆえEUとNATOへの加盟がボスニア・ヘルツェゴヴィナの最重要政治課題であるとアレンは力説した。

悲劇の歴史の産物なのか、著名アーティストを輩出するボスニア

 アレンによると旧ユーゴスラビア社会主義連邦時代を含めて長年のセルビア人支配下でボスニア人に許されていた職業分野として歌手や役者などの芸人があった。こうした歴史的背景から現在でも著名なボスニア人アーティストが国境を越えて活躍しているという。

 セルビアの首都ベオグラードで人気を博しているのはボスニア人の歌手やバンドとのこと。TVのボスニア・ミュージック・チャネルはセルビアでも大人気らしい。映画でもボスニア人監督がオスカーを2回受賞。ベネチア映画祭、ベルリン映画祭でも最高賞を受賞したという。

 ボスニア人アーティストの活躍は、アレンの解説通りに歴史的差別の産物なのだろうか。

15. 中川隆[-11289] koaQ7Jey 2019年3月22日 12:19:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[717] 報告

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20

 ドイツ統合は敗戦の否認か


 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

16. 中川隆[-10833] koaQ7Jey 2019年4月07日 21:02:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1198] 報告

側近がみた独裁者ヒトラー 映画監督 レニ・リーフェンシュター (2011年) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YEDXC-CuGSw
17. 中川隆[-10832] koaQ7Jey 2019年4月07日 22:34:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1199] 報告

ヒトラーと6人の側近たち 第1回 「ヨーゼフ・ゲッベルス」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1zZ2RctGP2s
https://www.youtube.com/watch?v=PNZ_jaQxZ4w
https://www.youtube.com/watch?v=_R4QvU3y2zE
18. 中川隆[-10779] koaQ7Jey 2019年4月08日 20:09:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1257] 報告

ヒトラーと6人の側近たちU 第1回 「アドルフ・アイヒマン」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NywuaqlyTwM
https://www.youtube.com/watch?v=LDg3iTLeVJU
https://www.youtube.com/watch?v=_5OxGVOlWFk
19. 中川隆[-10778] koaQ7Jey 2019年4月08日 21:21:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1258] 報告

ヒトラーと6人の側近たちU 第3回 「マルティン・ボルマン」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dQxQaCQTL2M
https://www.youtube.com/watch?v=ZLAOmmrq3do
https://www.youtube.com/watch?v=EV_0tmN1F5E
20. 中川隆[-10777] koaQ7Jey 2019年4月08日 21:43:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1259] 報告

ヒトラーと6人の側近たち 第3回 「ルドルフ・ヘス」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=04MW0fwLMVE
https://www.youtube.com/watch?v=xk05qbC9brg
https://www.youtube.com/watch?v=zRuECyuTohM
21. 中川隆[-10733] koaQ7Jey 2019年4月09日 15:43:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1306] 報告

ヒトラーと6人の側近たち 第2回 「ヘルマン・ゲーリング」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s69UVGkUohM
https://www.youtube.com/watch?v=wraaO0iuzVo
https://www.youtube.com/watch?v=eWXLXasUA_g
22. 中川隆[-10724] koaQ7Jey 2019年4月09日 17:23:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1315] 報告

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc
23. 中川隆[-10703] koaQ7Jey 2019年4月09日 21:25:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1336] 報告

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q
24. 中川隆[-10702] koaQ7Jey 2019年4月09日 22:40:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1337] 報告

ヒトラーと6人の側近たち 第5回 「カール・デーニッツ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nPMYejrhLFQ
https://www.youtube.com/watch?v=Y8dt1Rbfw00
https://www.youtube.com/watch?v=zs_nRkjOoCQ
25. 中川隆[-10696] koaQ7Jey 2019年4月10日 06:49:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1345] 報告

ヒトラーと6人の側近たち 第6回 「アルベルト・シュペーア」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MyNm8amqY5E
https://www.youtube.com/watch?v=af4QmPD_SlU
https://www.youtube.com/watch?v=udA_4PhqLaY
26. 中川隆[-10672] koaQ7Jey 2019年4月10日 16:33:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1369] 報告
ヒトラーとその側近たち 2017年 07月 11日
https://jamal.exblog.jp/25633646/

 レニ・リーフェンシュタールの『回想』を読み続ける傍ら映像で「ヒトラーと6人の側近たち」を見続ける。

BS歴史館シリーズでルドルフ・ヘスとリーフェンシュタールも見ているのだが、フリーアナウンサー渡辺真理の進行で東海大教授の鳥飼行博氏ともう一人という2人のコメンテーターによって語られる内容はとても興味深い。

「6人の側近」中昨日はハインリヒ・ヒムラーについいてみてみた。というのも大分以前ベルハルト・シュリンクの『朗読者』のレビユーを書くにあたって僕としては異例の膨大な資料集めをしノート付けをした。本文にはその半分程度しか活かすことができなかったが、後の為に使えるだろうと思い保存してあった。昨日それを読み返してみたが意味不明な箇条書きも多かったものの結構利用価値のある記述もあって残しておいてよかった部分も多い。しかし何故記録したのか不明な部分については当時本文を書く際には有効だったものが、今となってはわからないことが多々あって賞味期限切れとしか言いようがない。今更ながらノートというのはつけ方が難しものであると思わされる。

それはともかく昨日ふと目についた記述にニュールンベルグ裁判におけるヘルマン・ゲーリングの証言である。ホロコーストのことなのかどうかは不明だがこうある。

「虐殺があったことは間違いないだろうが、自分たちは関与していない。そんな事実も知らなかった」

「ヒトラー自身もこのような虐殺を知らなかった」

と証言している。

じゃあ誰がやったことにしているのかとなった時、昨日のハインリヒ・ヒムラーの映像をみるなかでなるほどこいつならという印象を残した。

ヒトラーがヒムラーと強制収容所を視察したのはたった1回きりでヒトラーは「よくできた施設だ」と感想を述べた程度でその後一切関与していないかのような印象を与える。

ゲーリングにしてもユダヤ人は軍需工場などで貴重な労働力とするほか、強制収容所を教育的配慮で規則的生活、清潔、有効な労働経験・・・などの場として活用する風な発言をしていた。

また僕のノートの記述にラウル・ヒルバーグという人物が

「ユダヤ人絶滅の全作業を担った官庁はなかったし、特定の機関が創出されることもなく、特定の予算も割かれなかった」

というのもある。

 ヒトラーもゲーリングも関与せずいったいどうやってあのような組織的虐殺がなされたのか。「ユダヤ人問題」として提言され主張されるにあたって間違いなくヒトラーも側近たちも支持者や国民にむけて「約束」した筈であり、ゲットー囲い込みや収容所送りから抹殺までの民族的淘汰が現実に行われたということの間に何かしらのトリックを用いて知らぬ存ぜぬを装ったたとしか言いようがない。

大量虐殺は国際法違反。もし敗戦となって罪を問われることを想定するということは当然想定内だったろう。その為のスケープゴートを用意しておかねばならない。多分その一人にヒムラーがいたと思えるのだ。

昨日の映像でもヒムラーを猟奇的人物として強調している。彼が指揮するSSの為の城はユダヤ人による無償の労働にによって豪奢につくられ、ヒムラーの部屋には多分ユダヤ人の大腿骨を用いた3本脚の椅子や人間の皮膚で装丁されたヒトラーの『我が闘争』など尋常な神経ではないヒムラー像をうかがわせるものであった。また目標の為には人の命など顧慮する必要はないという内容の演説もあり非情さを伺わせ、そういうことがSS隊員に伝播し行動化されたなかのひとつがユダヤ人への扱いとなったことは頷ける。

こういうわかりやすい行動をするヒムラーに比べれば他の側近の姑息さはらしいといえばらしいのであって、そのなかでミュンヘン一揆以来のヒトラーの側近であり副総統の地位にあったルドルフ・ヘスなどは純真なナチ党員だったと言えよう。ミュンヘン一揆でヒトラーと共に投獄され、投獄中は『我が闘争』執筆の秘書として働いた。ナチス党が政権をとると副総統の地位に就くがなぜか重大なことさえ知らされない蚊帳の外的存在として扱われた。しかし彼のヒトラーへの忠誠心は強く何かの役に立ちたい一心だったようで、イギリス本土への空爆や侵攻が不成功に終わり逆襲される事態となって、打開策を求めて単独イギリスにわたるというありえない暴挙をしでかしたかどでヒトラーの逆鱗にふれる。それ以後要職をはく奪されたまま終戦となるがニュールンベルグ裁判では他の戦犯とは異なりあくまでナチスへの忠誠と正当性を証言している。当然のことながら戦犯として終身刑となり90歳を超えるまで牢のなかの住人として生涯を過ごすことになった。

「朗読者」のレビューの為のノートの約半分はユダヤ人問題とホロコーストに関するものだったが、この著の大事なところはそれとはあまり関係がない。ただ「教会の火事」事件に関与してハンナがSS隊員としてとった行動及びその報告書の記述が彼女のものかどうかが審判された時、文盲だった彼女が筆跡鑑定のために証言台で文字を書かされる段になってそれを拒否して「私が書きました」と証言する場面がある。この「教会の火事」とは有名な「水晶の夜」事件のことであろう。ユダヤ人の教会「シナゴーク」を焼き払う事件が発端となってユダヤ人の経営する商店の排斥、ゲットーへの囲い込みそして強制収容所への移送、ホロコーストという悲劇の始まりを告げる事件だった。

これもまたナチス時代の悲運を描いた作品であったことを思い出す。
https://jamal.exblog.jp/25633646/

27. 中川隆[-10671] koaQ7Jey 2019年4月10日 16:36:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1370] 報告


ヒトラーと6人の側近たち [VHS] カスタマーレビュー


偏向放送の見本 ある意味必見 2011年8月28日

90年代のドイツで作成された番組で、いかにも当時のドイツを反映した事実のねじ曲げ、悪意ある解釈に満ちている。

つまり、「ナチスに少しでも加担したものはたとえどんな理由であれ(祖国を守るために戦った軍人であっても)すべて悪!」という単純極まりない信念がありありと感じられるということだ。

いい例がカール・デーニッツの回である。ただの海軍軍人で政治にほとんど関心がなかった彼をメンゲレやゲッベルスと一緒に「側近」と纏めているところがまず笑えるのだが、少し番組の内容に触れてみよう。

まず番組は当時の海軍兵士を登場させ、「デーニッツは海軍司令官として戦争に参加したのだから戦死者に対して責任がある!」と言わせる。軍人として当然の行為が罪になるらしい。

どうやら「なんでヒトラーに逆らわなかったんだ!」と言いたいらしいのだが、そもそも軍とは国家に対し忠誠を誓うものであり、ヒトラーが国家元首であった以上、自分の信念がどうであれその命令に従うのは当然のことである。これはデーニッツに限らず、ドイツ軍全体の共通認識であり、アメリカやイギリスなど連合軍諸国でも同様であった(ドイツ軍は伝統的に、特にそうした意識が強かったのは確かだが)。

次にヒトラーの国防軍再建について触れ、「軍は功名心からこのヒトラーの決定を歓迎した」という意味合いのナレーションが入る。もうこの時点でこの番組に何も期待してはいけないことがわかるだろうが一応説明すると、国土の地政学的条件に対して著しく小規模に抑えられた国軍再建は当時のドイツ軍人全ての悲願だった。
近代軍の使命は第一に祖国の防衛であり、軍人たちは己の使命を果たすために必要十分の軍備を整える必要があったからこそヒトラーを歓迎したのであって「功名心」などというくだらないものからではない。ハインツ・グデーリアンの言うように「軍人こそ戦争を嫌う生き物はいない」のであり、番組制作者が視聴者に思い込ませたがっているように、戦争をしたくて再軍備に賛成したわけではない。現にデーニッツも開戦にはショックで日記にそのことを記しているのだが、この番組の目的は真実を伝えるところにはないので、どうでもよいのである。

さらにUボート戦術について。潜水艦の無警告射撃は第一次世界大戦からの常識なのだが、番組はそれについての説明を一切することなく「無警告でイギリスの船を撃沈した」といい、デーニッツが戦争のルールを知らない冷酷非情な人間であると印象づけようと涙ぐましい努力をしている。

アセニア号撃沈事件については言い訳のしようがないが、あれは敵艦と誤認したことによる事故であって、別に客船としってわざと沈めたわけではない。が勿論番組はデーニッツが意図的に沈めたような言い方をしている。

このような誤認による事故は連合国側でもあったし、実際のドイツ海軍は可能な限り撃沈した船からの溺者救助を行うなど規律はかなり良かったのだが、言うまでもなく番組では説明されていない。

傑作なのは続いてスカパ・フローに停泊していた戦艦ロイヤル・オークについても「無警告で撃沈した」とナレーションに言わせているところだ。言うまでもなくすでに戦争は始まっているのであり、敵の軍艦を見つけ次第攻撃しようとなんの問題もない。

おそらくこのテレビ番組位の制作者は、戦場で敵の兵士を見つけてもすぐに攻撃するのは許されないことであり、「見つけましたよー」と敵兵に声をかけなければならないと思っているのだろう。まこと驚嘆すべき思考の持ち主である。

というように、番組開始10分もしない内にこれだけ露骨な悪意ある編集を見せられて唖然としてしまった。ギュンター・プリーンがナチス党員であったことに触れてないことがかえって不自然に思えるほどの凄まじさである。

かのゲッベルス氏もかくや、と思わせるほどのプロパガンダぶり、この制作スタッフが当時のナチス・ドイツにいたならば、さぞ優秀な宣伝員になれただろう。

以上まとめると、とてもまともな番組とは言いがたいのだが、「事実に悪意ある解釈をすることで、無知な視聴者にそれが正しい解釈であると思わせ、制作者の意図通りの認識を与える」という古今のメディアの問題点を象徴したかのようなモノであり、その点においては特筆すべきものがある。私に先立って書かれたレビューからもそのことは窺い知れよう。

デーニッツは晩年「総統を押し付けられたのはとんでもない迷惑だった。あれのせいで私の軍人としての生涯は台無しだ」と語ったという。

たしかに自分の死後、このような名誉毀損ものの番組で偏見に満ちた好き勝手な人物像を作られ、それを無責任なメディアによって流布されたのだから、迷惑というレベルの話ではなかっただろう。デーニッツのためにも、「10年と20日間―デーニッツ回想録」を読んでみようと思う。
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A86%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%81%B4%E8%BF%91%E3%81%9F%E3%81%A1-VHS/dp/B00005RS1L/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A86%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%81%B4%E8%BF%91%E3%81%9F%E3%81%A1&qid=1554881754&s=gateway&sr=8-1-fkmrnull

28. 中川隆[-10670] koaQ7Jey 2019年4月10日 16:39:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1371] 報告

第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月 本筋6:ドイツ降伏〜ヒトラー側近達のその後〜
担当:林梅雪

●敗軍の将達は・・・  今回は、ヒトラーの側近達がドイツ降伏後にどうなったかについて御紹介します。

 1945年4月30日、ドイツの指導者アドルフ・ヒトラー総統は、新妻エヴァ・ヒトラーと共にベルリンの総統地下壕で自殺します。さらに翌5月1日、ヒトラーの側近で後継首相に指名されていたヨゼフ・ゲッベルス宣伝相も、子供6人と妻を道連れに総統地下壕で自殺しました。

 残りの側近や使用人は総統地下壕から逃走を開始しますが、ほとんどがソ連軍に拘束されました。そして、ヒトラーにより後継ナチス党党首に指名されていたマルティン・ボルマン総統官房長は、脱出中行方不明となり、翌年のニュルンベルク軍事裁判では欠席のまま死刑判決を受けていましたが、1972年にベルリン市内で遺骨が発見され、脱出中に死亡(爆死)していたことが明らかとなります。

 5月1日22時20分、北ドイツにいた後継大統領カール・デーニッツ海軍大元帥は、ラジオ放送で「4月30日、ヒトラー総統は官邸前で一兵士として戦車と戦い、壮烈な戦死を遂げられた」と自殺を戦死にすりかえて発表。しかし、ドイツ国民のほとんどがヒトラーの死に興味や関心を示しませんでした。

 反逆者としてすべての地位を剥奪され、SS(親衛隊)に自宅軟禁されていたヘルマン・ゲーリング国家元帥は、ブラウヒッチェ陸軍元帥をアメリカのアイゼンハワー将軍(のち大統領)のもとに急派し、SSからの保護を訴え、国家元帥として話し合いたいと申し出ましたが、完全に無視されます。ゲーリングはこの後捕虜となり、ニュルンベルク裁判に出廷。

 同じく、反逆罪ですべての地位を剥奪された親衛隊隊長ハインリヒ・ヒムラー。
 彼はデーニッツ新政府のもとに赴くも、ここでも厄介扱いされ、偽の身分証明書を持ち逃亡生活に入ります。しかし、ドイツ降伏後の5月23日逮捕。取調べで彼は自分がヒムラーであることを認め、その直後、隠し持っていた青酸カリを仰ぎ死亡しました。

 その、デーニッツ新大統領は、ナチス色を薄めるためにヒトラーが遺言で指名した人物ではなく、自身で新閣僚を任命します。デーニッツはヒトラーの側近だったヨアヒム・フォン・リッベントロープ外相に電話をかけ、「新外相にふさわしい人物を推薦して欲しい」と、遠まわしに彼に罷免を言い渡します。

 その結果、しばらくしてリッベントロープからデーニッツに電話がかかってきます。

 ところが彼は「新外相にふさわしいのはヨアヒム・フォン・リッベントロープだ」と述べます。当然、この厚かましい要求は退けられ、新外相にはヒトラー内閣の閣僚であった貴族、シュベリン・フォン・クロージク伯爵が任命されています。

 アルベルト・シュペーア軍需相は、ナチス党員でヒトラーの側近でしたが、優秀な人材であったため留任し、国民の食料と生活の維持のための実際的な計画に着手。

 こうして新政府らしい形が出来上がり、デーニッツはイギリスのモントゴメリー陸軍元帥に降伏を申し出ました。なお、当初は英米だけと講和し、ソ連とは戦闘を続行しようとしたデーニッツでしたが、最終的には全面的降伏することに決定。

 5月7日、ドイツは連合国への無条件降伏文書に署名し、ここにヨーロッパ戦線での戦闘は終結(ドイツ降伏)。ナチス・ドイツは名実ともに崩壊した。

●ニュルンベルク裁判と判決 ヒトラーの側近達は次々と逮捕され、21名がニュルンベルクで裁判にかけられた。裁判は、被告同士の罪のなすりあい、法廷戦略、また連合国側の不和などで混乱もみられたが、1946年9月に結審。11月には判決が下された。

 ヘルマン・ゲーリング元国家元帥、ヨアヒム・フォン・リッベントロープ元外相、オーストリア元首相ザイス・インクヴァルトら11名は絞首刑(但し、ゲーリングは刑執行直前に服毒自殺)。ルドルフ・ヘス元総統代理ら3名は終身刑。ルドルフ・ヘスは長くドイツのシュパンダウ刑務所で服役しましたが、1987年に93歳で自殺しました(遺族は他殺説を主張)。

 アルベルト・シュペーア元軍需相ら2名は禁固20年の刑、コンスタンティン・フォン・ノイラート元外相は禁固15年の刑、さらにカール・デーニッツ元大統領は禁固10年の刑を受け、1956年出獄、1980年に89歳でその生涯を閉じています。

 一方、宣伝省のニュースキャスターに過ぎなかったが起訴されたハンス・フリッチェ、シャハト元財務相、フランツ・フォン・パーペン元首相は無罪判決を言い渡されます。パーペンは、1932年に首相を務め、ヒトラー内閣では副首相(後オーストリア、トルコ大使)を務めた人物です。

●逃亡者達 ナチス・ドイツ幹部の中には、逃亡機関の支援を受けて南米に逃亡する者もいました。ユダヤ人大量虐殺の責任者であったアドルフ・アイヒマンはアルゼンチンに逃亡しましたが、1961年イスラエル諜報部に察知され逮捕。イスラエルに連行され、翌年処刑されています。

 そして、アウシュヴィッツ強制収容所で残酷な人体実験を行った医師ヨセフ・メンゲレ博士も南米に逃れましたが、1979年にブラジルで溺死したといわれています。
http://www.uraken.net/rekishi/syusen10.html




29. 中川隆[-10669] koaQ7Jey 2019年4月10日 16:53:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1372] 報告

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20


ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

30. 中川隆[-10668] koaQ7Jey 2019年4月10日 17:21:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1373] 報告

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg
31. 中川隆[-10657] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:17:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1385] 報告

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4
32. 中川隆[-10717] koaQ7Jey 2019年4月11日 18:42:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1325] 報告

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc
33. 中川隆[-10714] koaQ7Jey 2019年4月11日 21:09:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1328] 報告

ユダヤ人虐殺を否定する人々3-3 1992 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-RSEEp2nUXU
https://www.youtube.com/watch?v=k4yf_M7jUnw&list=PLnAermtJd4o3NHdxRaR6FptRB6UxThkW0
https://www.youtube.com/watch?v=eEU8cV3GZtQ
34. 中川隆[-10713] koaQ7Jey 2019年4月11日 22:03:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1329] 報告
>>33 に別リンク追加

【白人文化 X】 @a ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

35. 中川隆[-10709] koaQ7Jey 2019年4月12日 15:45:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1333] 報告

【白人文化 X】 @d アウシュビッツの真実 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=EV7nMcajBrs

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アウシュヴィッツの大量殺戮装置
ジャン‐クロード・プレサック、ロベルト‐ヤン・ファン・ペルト
歴史的修正主義研究会試訳・抄訳 最終修正日:2003年5月1日
http://revisionist.jp/pressac/pressac_01.htm

本試訳は当研究会が、研究目的で、Jean-Claude Pressac withRobert-Jan Van Pelt, The Machinery of Mass Murder at Auschwitz, Anatomy ofthe Auschwitz Death Camp, edited by Y. Gutman and M. Berenbaum,IndianaU.P.を試訳したものである。ただし、167にもおよぶ脚注は、ほぼすべてがアルヒーフ資料の典拠番号であるので、歴史叙述に直接関係しているもの以外は、省略した。

 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の焼却棟とガス室の設計、建設、使用、改造、破壊。

 本小論は、アウシュヴィッツ・ビルケナウでドイツ人がユダヤ人その他に対して採用した絶滅装置の歴史である。これは、アウシュヴィッツの収容所に建設されたナチス親衛隊の建設局の文書を10年間にわたって研究したことにもとづいている。これらの資料の3分の2はモスクワに保管されている。それらは1945年にソ連軍によって捕獲されてから、ソ連の解体までは研究のために利用できなかった。残りは、アウシュヴィッツ国立博物館の所有物としてアウシュヴィッツに残っていた。

 ベルリンの壁が崩壊した年(1989年)、プレサックは、アウシュヴィッツのガス室と焼却棟の建設の歴史を扱った本を発表した(注1 Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chamber, trans. Peter Moss (New York, 1989).)。それは、オスヴィエチム(ポーランド)、コブレンツの連邦文書館(ドイツ)、ヴァイマールの国立文書館(当時は東ドイツ)、ヤド・ヴァシェム文書館(イスラエル)の資料にもとづいていた 。そして、ソ連(今日ではロシア)中央文書館の資料の研究が可能となったのは、1991年であったので、著者の以前の結論のいくつかは修正しなくてはならなかった。

 1928年、ハンブルクからの二人の技術者ハンス・フォルクマンとカール・ルードヴィヒが新しい種類の焼却炉の特許権を出願した。それまでは、標準的な焼却炉は、棺を受け入れる加熱室もしくは炉室と燃焼器から構成される中心部を持っていた。この中心部に加えて、燃焼ガスからの熱を熱交換機を介して炉室に戻す節約機があった。節約機は、焼却の初期の過程で燃焼器を閉じ、燃焼をすでに炉に吸収されたエネルギーで続けることを可能にした。しかし、問題点もあった。節約機は燃料を節約したが、建設費用が高価であった。積み重ねられた回路の複雑なシステムは、炉全体の3分の2以上も占めた。フォルクマンとルードヴィヒは、扱いにくい節約機を、圧縮された冷気を炉室に送り込むことにもとづくもっと安価なシステムで置き換えることで、コスト軽減を目指した。

 特許権は期待された富をもたらさず、1934年までに、フォルクマン・ルードヴィヒ・システムはドイツのマーケットから姿を消した。しかし、別の会社がこの考え方に資本を投資することができた。工業用溶鉱炉で有名であったエルフルトのトップフ・ウント・ゼーネ社の焼却棟建設部の技術者クルト・プリュファー(図1)がフォルクマンとルードヴィヒのアイディアを採用し、1935年には、トップフ社は、様々なドイツの焼却棟に、節約機ではなく圧縮空気を使った7つのガス燃料炉を設置した 。



図1:クルト・プリュファー、トップフ・ウント・ゼーネ社の技術者、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の炉の建設者。State Archives Weimar, file 2/555a.

 トップフ社の焼却炉は名声を博し、1937年には新しいマーケットが開拓されていった。5月、ミュンヘンのSS指導部は、ダッハウの強制収容所に焼却棟を建設することを決定し、炉の入札を行なった。それまで、ナチスの強制収容所は、収容所で死んだ囚人の遺体を焼却するために近くの町の焼却棟を使っていたが、収容所の死亡率が、民間の焼却棟の処理能力を超えることもしばしばであったからである。

 アラクのヴァルター・ミューラー社がSSの入札に応じた。この会社は、地元のSSの宿舎やダッハウのSS訓練キャンプの中央暖房システムを建設するなど、ミュンヘンのSSと緊密な関係を持っていた。ミューラー社は、節約機なしで圧縮空気装置を持った1炉室炉の建設(図2)を提案した。そのコストは9250マルクであり、1937年当時は3700ドル、今日では37000ドルほどに等しい。


図2:ダッハウの焼却棟に使うために、ヴァルター・ミューラーが提案した、大理石のネオ・ギリシア風切妻壁をもつ1炉室炉。Archives of the Memorial Place, Dachau,file 943.

 ミューラー社は、使用頻度を増やせば多くの節約が可能であると主張した。冷たい炉は新しく焼却を始めるにあたって175kgの石炭を必要とするが、前日に使用されていれば、わずか100 kgですむ。同日の二回目、三回目の焼却は、圧縮空気のおかげで、余分な燃料を必要としないであろう。それ以後の焼却には、少量のエネルギーが必要なだけであろうというのである。しかし、ミューラー炉は建設されなかった。収容所の大規模な再編成が優先されており、ダッハウその他の収容所に焼却棟を設置するという考えは、一時的に放棄された。

 1939年春、焼却棟問題は、ふたたび焦眉の課題となった。このときまでに、ベルリンの新しい事務局が、強制収容所でのSSの建設活動を統制するようになっていた。このSS中央予算建設局は焼却棟の建設と稼働のための資金を持っており、トップフ・ウント・ゼーネ社にダッハウの契約を与えた。プリュファーは、強制収容所には、ミューラー社が提案したような、大理石のギリシア風の切妻壁で装飾された頑丈な民間用の炉は必要ないことを知っていたからである。そのかわりに、プリュファーが提案したのは、二つの炉室、燃料オイルバーナー、炉室に圧縮空気を吹き込むシステム、強制通風をそなえたむき出しの可動炉であった。その能力は、1時間で2体であった。SS中央予算建設局は、8750マルク(1992年では35000ドル)であったこの簡素で効率的なモデルを採用した。

 炉がダッハウで稼働し始めたのは、プリュファーがブッヘンヴァルトから注文を受けた1939年末であった。ブッヘンヴァルト収容所当局は、1938年6月に焼却棟を設置する必要性を最初に提起していた。エルフルトに近いブッヘンヴァルトはプリュファーの二つの炉のモデルの試験場となった。

 最初のモデルは(図3)、ダッハウの可動式モデルの固定式バージョンであった。その基本コスト7753マルク(1992年で31000ドル)は、ダッハウの炉よりも安価であった。この値下げが可能となったのは、ブッヘンヴァルトではSSの提供した囚人労働を利用することができたためであった。SSはまた、セメント、石灰、砂、煉瓦などの資材を無償で提供した。この基本コストに加えて、煙突の強化通風機構に1250マルク(1992年で6000ドル)が必要であった。



M:モーター

Dlg:強制空気送風機

L:死体

m:炉室

Ö:オイル・バーナー

Rk:導管

Zv:強化通風

K:煙突

PS:馬力

図3:ブッヘンヴァルトに設置されたトップフ・ウント・ゼーネ社製の固定式2炉室オイル燃料炉の図面。すべての図面はプレサックの作成した図面からものであり、版権は彼にある。

 トップフ社がダッハウの炉の建設を始める頃までに、ポーランドがドイツとソ連のあいだで分割された。ドイツは1919年以前の東部領土を回復しただけではなく、第一次大戦以前にはロシア領ポーランド、オーストリア領ポーランドに帰属していた領土を併合した。ここには、オスヴィエチム、ドイツ人のいうところではアウシュヴィッツの町も含まれていた。人口12000名の町は、重要な鉄道交差点に位置しており、ベルリン、ワルシャワ、リヴォフ(レンベルク)、ウィーンと結びついていた。そして、ザソレ郊外には、戦争状態が終わってからは廃屋となっていたポーランド軍の兵営が22あった。

 1940年初頭、SSは以前の軍隊の基地に、10000名のポーランド人囚人の検疫のための収容所を設置することを決定した。収容所には焼却炉が備えられることになっていた。SS中央予算建設局は、アウシュヴィッツに可動式2炉室オイル燃焼炉と、フリュッセンベルク強制収容所の炉の見積もりを出すようにトップフ社に要請した。3月、SS中央予算建設局は、それぞれ9000マルク(1992年では36000ドル)で二つの炉を生産するようにトップフ社に命令した。

 新しい契約はプリュファーを喜ばせたに違いないが、それは、彼が受け取る2%のコミッションのためばかりではなかった。彼は、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、フリュッセンベルク、アウシュヴィッツにトップフ社の炉を建設することによって、マーケットを広げることができ、それを独占できるかもしれなかったからである。彼の唯一の障害は、コリ社であった。コリ社はベルリンのSS高官と良い関係を持っていたので、ザクセンハウゼン強制収容所に、可動式1炉室オイル燃焼炉を2ユニット設置する契約を結んでいた(図4)。この成功は、その他の受注ももたらした。結局、コリ社は、様々な強制収容所に12の炉を建設した。そのうち5つは、程度の差こそあれよく維持されており、いまだにポーランドに存在している。


図4:ザクセンハウゼンに設置されたコリ社製の可動式1炉室オイル・バーナー炉の図面。Archives of the Auschwitz-Birkenau State Museum,negative 6671.

 1940年5月10日、ドイツ軍は低地諸国とフランスを攻撃し、ガソリン、石油、燃料オイルがドイツでは配給制となった。強制収容所のすべての炉はオイル・バーナーを使っていたので、焼却棟が燃料不足に陥った。コリ社はトップフ社よりもこの新しい事態にうまく対処していた。わずか1ヶ月前、コリ社は、マウトハウゼン収容所に、石炭バーナーを使った固定式1炉室炉を売却する交渉を行なっていた。それは5月5日に稼働し始め、まもなく、稼働している唯一の収容所の炉となった。トップフ社は燃料不足を予見しておらず、炉が稼働を停止してしまったとの理由で、ダッハウとブッヘンヴァルトからの不満の総攻撃を浴びた。トップフ社は、SS中央予算建設局がフリュッセンベルクとアウシュヴィッツの注文をキャンセルするのではないかと悩み始めた。

 5月末、アウシュヴィッツ新建設局は、注文中の可動式炉は石炭を使うべきであるとトップフ社に伝えた。プリュファーは、簡単には採用できない可動式モデルに取り組むのではなく、前にブッヘンヴァルトに提供されていた固定式の2炉室炉の再設計を行なうことを決意した(図5)。アウシュヴィッツとフリュッセンベルクの炉には修正がなされた。すなわち、炉と煙突を結ぶ地下の導管の両側に2つの外部石炭バーナーを加えたものであった。


図5:ブッヘンヴァルトに設置されたトップフ社製の固定式2炉室炉図面、石炭燃料に修整。記号は図3と同様。G:石炭ガス放出機。

 プリュファーがブッヘンヴァルト・モデルを再設計していたので、アウシュヴィッツ新建設局は6月28日に、旧陸軍基地の古い火薬庫を新しい焼却棟のための建築現場に採用し始めた。もう一人のトップフ社の監督官ヴィルヘルム・コッホが7月5日に到着した。彼らは、スペースを有効に活用するために、地下の排気管に対して、炉を90度回転させることを決定した。20日後、炉がアウシュヴィッツに設置された(図6)。



S:(導管のなかの)調節器

Sz:強制通風

Sch:煙だまり

図6:アウシュヴィッツ・タイプの石炭燃料のトップフ社製固定2炉室炉の図面。排気:1時間4000㎥の煙。

 この炉は、1時間に4000㎥の煙を排気する電気式の強制通風システムを備えており、冷気を炉室に流し込む電動通風機を備えていたので、1939年のダッハウのモデルよりも50%も効率的であった。トップフ社でのプリュファーの上司であるフリッツ・ザンダーとパウル・エルドマンは10時間に30−36体を、20時間のサイクルで70体を処理できると見積もっていた。炉は1日に3時間のメンテナンスが必要であった。しかし、炉をテストすることはできなかった。建設局は、10mの煙突を完成させていなかった。8月15日になってやっとすべてが整い、最初の焼却が、のちにアウシュヴィッツTとして知られるようになる焼却棟で行なわれて、満足のいく結果となった。

 その後の焼却も問題なく進んだ。だから、任命されたばかりのアウシュヴィッツ新建設局長SS部長シュラヒターは、実験の1ヶ月後に、SS中央予算建設局に、焼却棟が欠陥なく作動していることを伝えている。シュラヒターには、トップフ社に満足するもう一つの理由があった。25%少々も炉のコストを引き上げる炉モデルの根本的改変にもかかわらず、会社は価格の引き上げをしないと決定していた 。余分なコストを愛国的に吸収し、炉の品質を維持することで、トップフ社はさらなる受注の道を開いたのである。

 トップフ社は、アウシュヴィッツに設置されたような新しいモデルの炉をフリュッセンベルクには提供しなかった。会社は、もともと合意されていた可動式2炉室炉の建設をエルフルトで完了していたにもかかわらず、7月初頭、補助的な石炭バーナーを備えたこの炉をグーゼンのマウトハウゼン付属収容所に設置すべきであると伝えられた。ブッヘンヴァルト・モデルよりは小さいグーゼン用の炉は、後ろに石炭バーナーをつける余地がなかった。だから、トップフ社は両側にユニットを付け加えたので、幅は倍になってしまった。

 プリュファーは、コリ社が影響力を持っていたマウトハウゼンに足場を得たことに喜んでいた。10月末、彼はマウトハウゼンに旅行し、そこで建設局長のSS副官ビュヒナーと会った。彼らは、グーゼンにもう一つの炉を、マウトハウゼンに計画されている囚人収容所にもう一つの炉を建設することを話し合った。プリュファーは、アウシュヴィッツの新建設局が最初と同じような第二の炉を建設することをトップフ社に求めてきていることを指摘して、ビュヒナーに、アウシュヴィッツ・タイプの固定式2炉室炉をグーゼン用に売却した。ビュチナーは、死亡率が1炉室炉か2炉室炉のどちらを求めているのか知らなかったので、囚人病院の炉については関与しようとしなかった(結局は、彼は2炉室炉に落ち着いた)。

 1940年12月、アウグスト・ヴィリングがトップフ社からグーゼンにやってきて、可動式炉を設置した 。途中、彼はダッハウにより、既存の可動炉に二つの石炭バーナーを付け加えた(図7)。1941年2月4日までに、ヴィリングはダッハウとグーゼンでの仕事を完了した。二つの収容所は、オイルから石炭バーナーに改造する費用2000マルクを支払わなくてはならなかった。しかし、炉はうまく稼働した。1時間に2体の処理という見積もりの点で、グーゼンの炉(図8)はアウシュヴィッツ・モデルよりも強力ではなかった。しかし、それは満足以上に稼働した。とくに、1941年11月、600の死体を12日間の作業で処理したときにはそうであった。


図7:アウグスト・ヴィリングが2つの石炭バーナーを側面に付け加えたダッハウのトップフ社製可動式炉。


M:モーター

Dlg:強制空気送風機

L:死体

m:炉室

Ö:オイル・バーナー

Rk:導管

Zv:強化通風

K:煙突

G:石炭バーナーガス放出機

煙の流れ:オイル/コークス→炉室→導管→強化通風→煙突

図8:最初はダッハウに設置され、のちに、石炭燃料に変更されてグーゼンに設置されたトップフ社製2重オイル燃料炉の図面。

 アウシュヴィッツでは、焼却棟に第二の新しい2炉室炉を建設する準備が進んでいた。トップフ社は最初のものと同じ価格を提示していたが(7753マルク)、そこには強制通風換気扇は入っていなかった。これは見落としではなかった。プリュファーは、すでに設置されている換気扇で二つの炉には十分であると考えていた。1940年12月19日、プリュファーは第二の炉の場所を決定するためにアウシュヴィッツを訪問した。シュラヒターの代理ヴァルター・ウルバンチュクが彼に同行した。ウルバンチュクは翌年の10月まで焼却棟の建設に責任を負った。彼らは、第一の炉に並んで、第二の炉を建設することを決定した。

 プリュファーは、ウルバンチュクに、別のトップフ社員カール・シュルツェを呼んで、二つの炉がきっちりした、換気されないスペースに設置された場合、隣接する検死室と死体安置室にトラブルが生じるかどうか調べさせたらどうかと提案した。ウルバンチュクはこの提案にしたがった。シュルツェは数日間で、検死室と死体安置室から空気を引き出す限定的な換気システムを設置する提案を提出した(図9)。新建設局は、シュルツェに、炉室を修理するわけではないとの理由で、1784マルクの提案を修正するように求めた 。



Sezierraum:検死室(10回の空気交換)

Vorraum:玄関

Aufbahrungsraum:(死体)配置室

Waschraum:洗浄室

Leichenraum:死体安置室(20回の空気交換)

So:煙だまり

Sz:強制通風

Ofenraum:炉

Kokslager:石炭室

Gebläse:送風機

K:煙突

図9:アウシュヴィッツの焼却棟Tの構造。おそらく、排気システムを始めて配置した図面である。カール・シュルツェが1940年11月30日のトップ社の青写真D.57999にもとづいて1940年12月9日に作成したもの。排気:1時間6000㎥、1.5馬力のモーター。

 1941年1月初頭、アウシュヴィッツの焼却棟の第一の炉が壊れ、第二の炉の建設が緊急に必要となった。1月17日、壊れた炉を修理し、第二の炉を建設する資材を積んだ貨物列車がエルフルトを出発した。作業は1月20日に始まり、1ヶ月後に終わった。しかし、トップフ社は、焼却棟の換気のための修正された設計図を送っておらず、建設が緊要となったために、シュラヒターはフリードリヒ・ボース社に目を向けた。ボース社はSSの看守区画に中央暖房装置を設置しようとしていた。換気システムのために必要な資材と技術を持っていたので、ボース社はそれを2月23日から3月1日のあいだに建設した。ゲシュタポのSSペリー・ブロードはそれについて、「(焼却棟の)屋根からでている大きなカーブしたパイプ、それは、大きな騒音をカットし、焼却室(と死体安置室)の空気を清浄にするために設計された換気装置、死体安置室の天井には換気扇があった」と記している。われわれが検証した新建設局の青写真は、ブロードの記述を確証している。

 一方、シュルツェは焼却棟のなかの検死室と死体安置室の換気問題に取り組んでいた。これらの部屋は依然として、二つの集合パイプからでたものによって換気されていた。これらのパイプは、天井の隅に入り、排気された煙突の送風機につながっており、1時間に6000㎥の空気を排気した。このシステムは1727マルクであり、シュルツェが行なった修正のためにパイプが短くなったために、最初の装置よりも54マルク安かった。炉のホール(320u)は、4つの開口部を持った垂直のパイプによって個別に換気されていた。それは200番の送風機とつながっており、送風機は75馬力であり、1時間に3000㎥の空気を排気した。これも煙突とつながっており、757マルクであった(図10)。


図10:カール・シュルツェが二番目に設計した1941年2月13日のアウシュヴィッツの焼却棟Tの排気システムの推定構造。排気a:1時間3000㎥、0.75馬力のモーター。排気b:1時間6000㎥、1.5馬力のモーター。D:強制通風、X:(平面から見て)炉の上の吸気パイプ、Y:結合パイプと結び付けられた吸気袖(平面から見て)

 暖かい空気について、シュルツェが必要としていたのは、1時間に10㎥という係数だけであった。トップフ社はこの分離した通風を暖かい空気が死体安置室にはいるのを防ぐためと正当化していた。シュルツェの考え方は簡単であった。まったく新しい計画を提出するかわりに、新しい仕様に対応する第二の案を第一の案に足したのである。前の研究にもとづくというやり方は、のちのビルケナウの焼却棟の換気システムを作成するときにも、ルールとなっている。2月15日、新建設局は、この案を否定し、通風は別個の煙だまりを通過するのではなく、炉から直接に煙だまりのなかにはいるべきであると主張した。

 2月24日、第三案がスケッチされた(図11)。死体安置室の空気排気は変わらないままであり、5つの垂直吸入装置が水平の集合パイプに結びついており、それらは炉の煙突に向かっていた。検死室の換気は、シャッターのような吸気網ととって代わった。4つの開口部を持つパイプが炉の上を走っていた。3つの集合パイプは、炉室の上で合流し、その流れは、550番の送風機に吸い込まれていた。それは3馬力のモーターを持ち、1時間8300㎥の空気を吹き出し、炉から煙突まで空気を入れた。この装置のための資材は1884マルクであり、その組立資材は596マルクであった。この提案は、3月15日にウルバンチュクによって採用され、彼は、トップフ社にできる限り短期間に、それを製造して運んでくるように求めた。会社は、6ヶ月、あるいは8月15日までかかると見積もった。


図11:カール・シュルツェが三番目に設計した1941年2月24日のアウシュヴィッツの焼却棟Tの排気システムの構造。排気:1時間8300㎥、3馬力のモーター。Z:垂直に置かれた、シャッターのような吸気網。

 SS長官ヒムラーは1941年3月1日に初めてアウシュヴィッツを訪問しているが、それは収容所の歴史のなかで分水嶺であった。ヒムラーは、30000名を収容できるまで収容所を拡大し、さらに、近くのビルケナウに100000人を収容できる収容所を建設することを決定した。さらに、彼は、IGファルベンに、メタノールと人造ゴムを生産する工業地帯を建設するために10万の囚人を提供し、収容所地域での農業生産を増大させ、収容所の作業場を発展させることを決定した。ヒムラーはまた、軍需プラントが収容所の近くに設置されるとも述べた。

 10万の捕虜がアウシュヴィッツにコロニーを建設するための労働力として使われることになっていた。町とその周辺部をゲルマン化するための膨大な計画では、アウシュヴィッツはパイロット計画であり、東部地区でのその他の収容所のドイツ人・コロニーの苗床であった。1年半にわたって、ブレスラウからの建築技師がこの町の計画に従事した。ナチスが1943年1月31日にスターリングラートで敗北してやっと彼の仕事は終わった。

 ヒムラーの計画は、アウシュヴィッツの焼却棟での進行中の活動に影響を与えなかった。第二の炉は、適切な通風装置がなかったので、不満足な結果となった。シュラヒターは、トップフ社との交渉に不満足であったので、問題を自分で解決することにした。煙突の高さを20mに増やしたので、通風装置がふたたび必要となったのである。

 もう一つの厄介な問題は、収容所の政治部長SS少尉マキシミリアン・グラブナーが近くで生活していることから生まれた問題であった。グラブナーは、焼却棟のすぐ後ろの建物をゲシュタポの尋問のために、また死体安置室を処刑のために使っていた。二つの炉が稼働しているとき、それは日常的に大量の熱を排出したので、死体安置室から空気を排気するはずである換気システムは、その中に炉室から熱風を送り込んでいた。これを避ける唯一の方法は、死体安置室から換気システムを切り離すことであるが、暑い夏の空気のなかではうまくいかなかった。グラブナーは、建設局にこの「スキャンダル」を申し立て、死体安置室に二つの換気扇、一つは新鮮な空気を入れるもの、もう一つは空気を排気するものを備えること、煙だまりを経過する初期のプランに一致させるように求めた。

 連続的焼却は、グラブナーの不満以上の事態を呼び起こした。それは煙突を詰まらせたのである。すべての焼却は6月23日から28日にかけて停止され、鉄のたがで煙突掃除がなされた。

 エルフルトのトップフ社では、焼却棟の換気システムはほとんど完成しており、マウトハウゼンの注文に関する作業はスムースに進行していた。しかし、8月18日に、マウトハウゼンの新しい建設部長SS中尉ノイマンからの書簡が届き、グーゼンの炉のための注文をキャンセルしてきた。ノイマンはまた、すでに運ばれてきていた耐火資材をのぞいて、すべてのものへの支払いを拒絶した。プリュファーは怒りながらも、事態が別の炉の注文に波及することを恐れて、グーゼンの炉のキャンセルを受け入れた。2週間以内に、プリュファーは、グーゼンの炉をアウシュヴィッツの炉に転用することができた。9月16日、ウルバンチュクは第三の2炉室炉を焼却棟の検死室に設置するように命じ、プリュファーは、これにはグーゼンの炉が適していると考えていた。トップフ社のなかで新しい注文に怒った唯一の人物は、シュルツェであった。彼が焼却棟の換気システムを変更しなくてはならなかったのは、これが三回目だったからである(図12)。


図11:カール・シュルツェが四番目に設計した1941年9月末のアウシュヴィッツの焼却棟Tの最終的排気システムの推定構造。排気:1時間8300㎥、3馬力のモーター。

 9月24日、ノイマンは、もともとのグーゼンの炉が壊れたので、トップフ社と再度契約した。この炉を設置したヴィリングは、グーゼンに戻り、そこで10月11日から11月10日まで働いた。その後、プリュファーはマウトハウゼンとの更新された関係を利用しようとした。彼は、SS予算建設局との関係をうまく利用した。その結果、10月16日、ノイマンはベルリンからの電話を受け、ハイダーという名のSSの副官から、アウシュヴィッツ・タイプの2炉室炉に関して、トップフ社に即時注文するように命じられた。ノイマンはこの命令に礼儀正しくしたがったが、この強制的な契約をサボタージュするためにトップフ社に対する秘密のキャンペーンを始めた。その結果、二つの炉のすべての部品が集められるのには一年以上もかかった。マウトハウゼンはトップフ社の資材の保管を拒絶していたので、これはグーゼンに限ってのことであった。1943年1月、トップフ社が炉の建設の現場監督の来訪時期を質問すると、ノイマンはそのような施設は予定されていないと回答した。

 アウシュヴィッツでは、捕虜収容所建設の準備が始まっていたが、それはヒムラーがビルケナウに建設を命じたものであった。1941年10月1日、SS予算建設局長SS准将ハンス・カムラーがSS大尉カール・ビショフを収容所建設の監督の特別事務局長に任命した。ビショフはその日から仕事に就いた。

 ビショフは1935年から空軍に所属しており、北フランスとベルギーで準士官として勤務し、イギリス攻撃を行なう飛行場を設置した。そのときに、彼はやはり空軍に勤務していたカムラーと知り合った。バトル・オブ・ブリテン後には、ビショフには残された仕事はなく、SSに移ったカムラーはビショフにも同じようにしないかと提案した。彼は、ビショフに将校の階級と、巨大な捕虜収容所の建設長官としての独立した権限を与えた。

 ビショフはこの申し出を受け入れたが、それは、建設局の設計部門の長官として自分の部下を任命する権限について交渉してからのことであった。彼が念頭に置いていたのは、オーストリアの建築家ヴァルター・デヤコであった。彼は、短期間シュラヒターのもとで働き、SS予算建設局に1941年秋に雇われた。カムラーが同意すると、ビショフはアウシュヴィッツを訪問し、仕事を始めた。デヤコは10月24日に続くことになっていたが、ビショフは新しい主任設計技師の到着を待たずに、仕事を始めた。

 ビショフが監督し始めてから1週間以内に、彼の事務所は125000名の囚人の収容所の最初の計画を提出した。それは、3つの区画に分かれた大きな施設を提案していた。1つの区画は囚人の検疫、2つの区画は囚人の居住であった。10月14日に作られた第二の計画は、検疫収容所と残りの区画に鉄道線を導入していた。

 設計を作り上げていくにつれて、ビショフは10万の捕虜を扱う予定である自分の収容所が1万の囚人を予定していた中央収容所の焼却棟に依存することはできないことを悟った。だから、10月11日、彼はトップフ社に電報をうって、プリュファーをアウシュヴィッツに派遣するように要請した。プリュファーは10日後にやってきて、彼とビショフは次の2日間で親密となった。二人は互いのことが好きであった。二人とも第一次大戦のベテラン軍人で、専門的な建築家であり、精力的に激務をこなし、自分たちのキャリアを自分自身で作り上げてきた人物であったからである。

 プリュファーは、ビショフに、3つの焼却炉室を1つの炉にまとめ、必要な数の炉を並列させることで、捕虜収容所に必要な焼却能力を達成できると説得した。1つの比較的コンパクトな建物を使って、大きな焼却能力を生み出すことができるというのである。3炉室炉は、トップフ社の2炉室モデルの自然の発展のようであった。その配置は効率と経済性を結びつけていた(図13)。プリュファーは4炉室モデルをあえて提案しようとはしなかった。


図13:ブッヘンヴァルト(2ユニット)とアウシュヴィッツ(10ユニット)に設置されたトップフ社製3炉室炉の図面。Rk:導管。

 プリュファーは、8000名の囚人に1つの炉室と仮定したので、15の炉室で十分であろうと計算した。3つの炉室を持った5つの炉、それらは共通の煙突で結びつけられていた。プリュファーは、各炉が30分で2体を処理し、それゆえ、施設全体では1時間に60体、あるいは24時間で1440体処理できると計算した。昼夜兼行で操業すれば、理論的には、新しい焼却棟は、3、4ヶ月で計画中の収容所の囚人全員を焼却することができた。

 建物は、ビルケナウではなく、アウシュヴィッツ中央収容所の行政当局の建物の反対側、現存の焼却棟の後ろ側に予定された。プリュファーは、55−66m×12mの焼却棟を計画した。その中央には、大きな炉室があった。それに隣接して、石炭貯蔵庫、解剖のために選別された死体の洗浄・死体安置室、現存の焼却棟の検死室――それは第三の炉と交代される――にかわる検死室が存在した。中央の翼には、ゴミ焼却炉、強制通風を作り出す2つの換気扇、二重の煙突が置かれることになっていた。地下には、2つの大きな死体安置室が置かれるはずであった。1つの死体安置室は「新鮮な」死体を、もう1つの死体安置室は焼却予定の死体を保管した。エレベーターは死体安置室を炉と検死室につなげていた。プリュファーとビショフは、炉のホール、検死室、地下の2つの死体安置室から空気を排気するための換気システムを設計することシュルツェに委託した。現存の焼却棟の配置と一致させて、死体安置室の一つは、新鮮な空気をもたらすシステムを備えるはずであった。

 デヤコはプリュファーが出発しようとしたころに、アウシュヴィッツに到着した。彼の仕事は、技術者のスケッチを設計図とすることであった。彼は二つの設計図を作成した。平面図と立面図であった(図14)。この計画のなかで、彼は、死体安置室の規模を次のように示した。すなわち、「B.Keller(Belufteterkeller、通風室)」を7m×30m、「L.Keller(Leichenkeller、死体安置室)」を8m×60m。ベルリンでSS予算建設局のために働いていた建築技師ヴェルクマンも、この問題に取り組むように求められた。彼の焼却棟は、プリュファーのもともとのスケッチに改良を加えたものであった。それは、立面図ではいっそう記念建築的であり、図面では実際的なものであった(図15、16)。例えば、ヴェルクマンは、地上の入り口から地下の死体安置室への死体の輸送を容易とするために、滑降路を設置した。彼は、死体安置室の長さを固定せず、その両方を「L.Keller」として設計した。あらゆる点で、デヤコのデザインよりも改良されていたので、ヴェルクマンの提案が受け入れられ、カムラーによって署名され、11月20日にアウシュヴィッツに送られた。


図14:SS少尉ヴァルター・デヤコがアウシュヴィッツの焼却棟のために作成した1941年10月24日の図面。地上平面図(下)と立面図。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-146 and 502-1-285.


図15:SS建築家ヴェルクマンがアウシュヴィッツの焼却棟のために作成した1941年11月の図面。地下平面図(下)と立面図。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-146.


図16:SS建築家ヴェルクマンがアウシュヴィッツの焼却棟のために作成した1941年11月の図面。地上平面図(下)と立面図。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-146 and 502-2-146.

 一方、エルフルトでは、トップフ社が、新しい焼却棟のための炉の設計に従事していた。3炉室炉の炉室全体のサイズは、2炉室炉のそれよりも大きかったので、会社は、強制通風用の換気扇の数を2から3に増やすことを決定した。さらに、全体の排気能力を1時間あたり20000㎥から120000㎥にまで増やすことを決定した。会社のオーナー兄弟の一人エルンスト・ヴォルフガング・トップフは、「設置される設備は適切であり、うまく設計されている」と保証した。

 コスト見積もりは、アウシュヴィッツは安上がりとなることを示唆していた。各3炉室の炉は、せいぜい6378マルク(1992年で25400ドル)、ゴミ焼却のための炉は、わずか4474マルク(1992年で18000ドル)であった。全体としての計画は(52237マルク1992年で205000ドル)となった。この価格には煙だまりにつながる地下の煙ダクトの建設が含まれていたが、3つのダクトに共通の煙だまりは含まれていなかった。さらに、換気システムのコストも含まれておらず、それはさらに 7795マルク(1992年で31000ドル)必要であった。

 シュルツェは、各部屋の1時間当たりの換気能力を 10㎥と見積もっていた。ために、彼は、排気・吸入を行う483㎥のB.Kellerのために、2つの2馬力の通風機を持った二重のシステムを作動させることを提案した。これは、1時間に 4800㎥の新鮮な空気を部屋の中に入れ、4000㎥の空気を部屋から出すことができた。B.Kellerの2倍のサイズであったL.Kellerは、排気だけが行われ、1時間に10000㎥の空気を排気する5.5馬力の通風機を持った換気システムを備えることになっていた。同じようなシステムは、L.Kellerとほぼ同じ大きさである炉室にも設置されるはずであった。解剖室は全体で 300uであり、1時間に3000㎥の空気を排気することのできるシステムが備えられるはずであった。このころ、会社の2人のオーナーのうち年長のルードヴィヒ・トップフが、建設部隊での一般の兵士として祖国に奉仕するために招集された。会社のメンバーはこれに腹を立てていた。独身のルードヴィヒは、攻撃的でタフな弟よりも扱い安かったからであった(弟は結婚しており、それゆえ兵役を免除されていた)。プリュファーは、できるならば、ルードヴィヒの兵役免除を獲得するためにビショフの助けを求めた。彼は、ルードヴィヒが3炉室の炉の建築に指導的な役割を果たしており、新しい焼却棟は彼の監督なしでは完成されることができないと偽って、兵役の免除の要請を正当化した。ビショフはこれに成功し、ルードヴィヒは除隊した。エルフルトに戻ると、彼は、自分の軍事的な義務すべてから引き上げることに成功した。しかし彼はビショフに借りを作ってしまった。

 プリュファーの焼却の「魔術師」としての名声は、SS予算建設局内で、ますます高まっていった。1941年11月中旬、SS予算建設局部の作業部長であるSS少佐ヴィルツが、プリュファーをベルリンに招いた。会話のテーマは、ロシアのモギリョーフに「焼却棟」を設置することであった。プリュファーは、炉室の数を炉ごとに3つから4つに増やすことが技術的に可能であるとの結論に達していた。そして彼は、4つの炉室を持った二重の炉(図17)が基本要素として適切であるとヴィルツに提案した。二つの要素は、8つの炉室を持った1つのユニットを提供するはずであった。



G:放出機

M:炉室

S:煙だまり

図17:トップフ社製4炉室炉の図面

 アウシュヴィッツの炉と比較すると、モギリョーフの炉は単純であった。それは木材を燃料としていたので、バーナー発生器を閉じるドアも内部の熱絶縁材も持っていなかった。それはまた安かった。8つの炉室を持った1つのユニットは、わずか13800マルク(1992年で 55200ドル)、すなわち、1つの炉室あたり1725マルク(アウシュヴィッツに設置されていた3炉室の炉室あたり2126マルクおよび2炉室の炉室あたり5000マルクとの比較)。SS予算建設局は32の炉室を持つ4つのユニットを建設しようとしており、12月4日にトップフ社と合意に達した。全体の仕事は55200マルク(1992年で 220000ドル)であった。

 いつもの通りSSは急いでおり、ヴィルツは、プリュファーに、契約調印後1週間以内にモギリョーフに出発してほしいと求めた。彼は現場を視察し、炉のための耐火資材の輸送に同行するはずであった。12月19日、トップフ社は、契約の半額の支払い、すなわち27600マルクの支払いを要求した(それは1942年5月に支払われた)。12月30日、4つの炉室を持った1つのユニットがモギリョーフに運ばれた。しかし、さらに15000マルクがトップフ社に支払われたにもかかわらず、モギリョーフではそれ以上何も起こらなかった 。

 モギリョーフの契約が進んでいたころ、トップフ社はアウシュヴィッツの焼却棟Tに第三の炉を設置することについて面倒を見なくてはならなかった。11月20日、マールという名の監督官が炉の土台を設置し始めた。彼は3週間働いたが、続けることはできなかった。なぜならば、ザクセンのコルディツのコルメナー・シャモッテンヴェルケ社が煉瓦をトップフ社に送っていなかったからであった。マールはエルフルトに戻った。

 マールが出発した直後、チクロンBを使った最初のガス処刑が、アウシュヴィッツのブロック11の地下室で実行された。シアン化水素の丸薬であるチクロンBは、フランクフルトのデゲシュ社によって作られ、ハンブルクのテシュ・シュタベノフ社によって供給されていた。それは4つのサイズ(200g、500g、1kg、1.5kg)の金属製の缶によって利用できた。チクロンBは不活性の多穴性の媒体であり、無防備な使用者に無臭性のガスの存在を警告するために、刺激剤を含んでいた。大半の条件の下では、この殺虫剤は危険ではなかった。シアン化水素は27℃で気化するにすぎなかったからであった。チクロンBがアウシュヴィッツに最初に導入されたのは1940年7月であった。その時には、以前のポーランド軍の兵営を燻蒸消毒するために使われた。その兵営には収容所のSSの看守たちが住むはずであった。チクロンBは1940年から1941年には燻蒸消毒に使われていた 。

 1941年12月、チクロンBは初めて殺虫ではなく強制収容所の治療不能の250名の囚人と600名のソ連軍捕虜を殺すために使われた(注62 私は、最初のガス処刑が1941年9月に行われたというダヌータ・チェクの説を否定する。ヤン・ゼーンは、ソ連軍捕虜の最初のガス処刑は、1941年11月にゲシュタポのチームが1ヶ月間訪問したのちに起こったと述べているからである。ゼーンの説の方が信頼できそうである。ブロック11の地下室に入る前には、2日間の換気が必要であったと述べているからである。Danuta Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945 (Reinbek bei Hamburg, 1989), 117 and 119; Jan Sehn, Concentration Camp Oswiecim-Brzezinka (Warsaw, 1957), p. 105.)。ヘス(当時そこを離れていた)によると、即死であった。2日後も生き続けた犠牲者もおり、第2回の毒の投与が必要であったと主張している者もいる。殺人者たちは実験を行なっていた。彼らは、まだ、どのくらいの量のチクロンBが致死性であるのか、どのぐらいの人々に対して致死性であるのか知らなかったし、シアン化水素が27℃でやっと気化することも十分に知ってはいなかった。ブロック11の地下は暖められていなかった。850名の犠牲者を焼却するという作業も予想されていなかった問題であった。第二の炉を作る突貫作業が必要となった。

 実験が終了すると、ブロック11の地下室は、換気設備を備えていないので、ガス室としては理想的ではないことが明らかとなった。また、ブロック11と焼却棟との間は非常に離れていた。殺人者たちは、収容所のメインストリートを使って850名の死体を運ぶことを嫌っていた。焼却棟の死体安置室が、もっと効率的なガス室として推奨された。そこは、毒ガスを排気することのできる機械的換気システムを備えており、1階の構造になっているので、屋根に作られた3つの穴からチクロンBを投入することが容易であった。

 焼却棟Tの死体安置室のなかの新しいガス室は、1942年1月から5月までに断続的にうまく作動した。5月には、第三の炉を建設するために閉じなくてはならなかった。そのときまで、この焼却棟はガス処刑に必要な「隠匿性」を確保しえないことが明らかとなった。トップフ社の人間が、新しい炉の建設に着手した直後、ガス処刑をビルケナウに移すことが決定された。

 1941−42年、ビルケナウは次第に中央収容所に統合されていった。12月1日、中央収容所の建設局とビショフの捕虜収容所特別建設局がビショフを長とする新しい組織、上部シレジア、アウシュヴィッツ、武装SS・警察中央建設局に合同した。1942年1月中旬から2月初頭の間、建設局は、前年11月のヴェルクマンの設計にもとづいて、新しい捕虜収容所焼却棟のための8つの青写真を作成した。デヤコは、ヴェルクマンの設計に細かな修正を加え、煙突を再配置し、焼却作業のための第三の部屋を地下に付け加えた。死体安置室3とされたこの部屋は、死体を登録のために受け入れることになっていた。中央収容所の焼却棟の配置は、変わらないままであった。

 1942年1月末、プリュファーは、アウシュヴィッツに戻り、焼却棟Tのための第三の炉の建設を計画し、新しい焼却棟に加えて、ビルケナウに補助焼却施設を建設する可能性を討議した。それは、ビショフの希望にこたえてのことであったろう。プリュファーは、強制送風機を持たず、構造的に鉄の使用量が少なくてすむ、2つの3炉室炉を備えた焼却棟を提案した。炉は共通の煙突の周辺に置かれたので、コストは14652マルク(1992年では58600ドル)であった(図18、19)。



S:(地下導管の)調節器

A:分離バルブ

R:導管

L:死体

m:炉室

G:発生器

S:シャフトカバー


図18:アウシュヴィッツの焼却棟の焼却システム用のトップフ社製のむき出しの3炉室炉の図面


図19:2つの単純化された3炉室炉を備えた、ビルケナウの補助焼却棟の配置図。

 しかし、SS経済管理中央局(SS予算建設局の強力な後継者)の建設局長となったカムラーは、2月27日に訪問すると、この計画を破棄した。彼は、ビルケナウに新しい焼却棟を建設する方が重要であると提案した。トップフ社は心穏やかではなかった。しかし、SSが、破棄された計画の研究に社が投資した1769.26マルク(1992年では7500ドル)に配慮してくれるのかと要求することを差し控えていた。支払いは行われたが、お金を受け取ったことを後悔するような事態がやって来た。

 3月中旬、ビショフはシュルツェから新しい計算を受け取った。オリジナルの数値を検討したのち、ビショフはビルケナウに建設予定の新しい焼却棟の換気システムの全体の能力を1時間32600㎥から45000㎥に増やすことを決定した。これによってもっとも影響を受けた部屋は、1時間4800㎥から8000㎥、すなわち66%の増加となるB.Kellerであった。ビショフは4月2日にシュルツェの新しい提案を採用した。彼は、トップフ社に会社の青写真での設計を収容所で作成されたものにあわせるように求めた。これは、B.KellerがL.Keller1に、L.KellerがL.Keller2となることを意味した。トップフ社の設計は修正され、5月8日にアウシュヴィッツに戻された。

 4月30日、貨車がエルフルトからアウシュヴィッツに到着したが、それには、11トンの資材が積まれており、そこには新しいビルケナウの焼却棟に建設される5つの3炉室炉のための金属資材の3分の2,強制送風機のすべて、焼却棟Tの第三の2炉室炉に必要な鉄材、すべての空調装置が含まれていた。貨車の中身の大半が保管された。第三の2炉室炉のための鉄材だけが、すぐ使われた。

 同時に、プリュファーは2つの3炉室の第一の炉のブッヘンヴァルトでの建設も監督していた。彼は、早期に完成させることによってビルケナウに5つの同じような炉を建設する前に具体的なデータが入手できると期待していた。5月末、炉は強制送風機をのぞいて完成した。5月29日、トップフ社はビショフに、3炉室炉と3馬力のモーターのために保管されている送風機の一つをブッヘンヴァルトのために貸してくれるように求めた。アウシュヴィッツがこれでうまくやっていけるのか、トップフ社は欠落した部品を再び作らなくてはならなかったのかどうか、これについてはわからない。何が起こったとしても、最初のブッヘンヴァルトの炉が稼動したのは、8月23日、第二の炉が稼動し始めたのは10月3日であった。プリュファーは、稼動ののちに、アウシュヴィッツのもともとの見積もりを修正した。プリュファーは、ビルケナウの新しい焼却棟の5つの炉が焼却できるのは、24時間で800体であると結論した。これは、前年の1440というオリジナルな数字よりもはるかに低かった。

 5月、ヘスは、ビルケナウの灌木の端にある小さな小屋(「赤い小屋」)を新しいガス室に選んだ。それは修理中の最初の焼却棟の死体安置室に取って代わるものだった。60−80uのこの家は、2室から構成されており、その中に500名が押し込まれた。ドアは密閉されており、窓は覆われており、小さな開口部がチクロンBの投入のために開けられていた。2つの部屋からガスを排気するための機械的換気設備は設置されていなかった。処刑は夕方行われるはずであった。そして、すべての囚人が死んだのちに、ドアが開けられ、一晩中開けられたままであった。夜明けになって、死体を安全に運び出し、灌木のなかの埋葬地に運ぶことが可能となった。ブンカー1として知られるようになるこの設備は、その月に稼働し始めた(1942年5月)。

 その間、中央収容所の焼却棟は、修復・修繕された。5月30日、すべての準備が整ったかのようであったが、3つの炉が稼働し始めると、うまくいかなかった。煙突のたがが壊れ、深い亀裂が石造部分に現れ、政治部のメンバーは、煙突が自分たちの事務所を破壊することをおそれ始めた。ビショフは調査を命令し、報告にもとづいて、カムラーが完全なオーバーホールを認めた。

 地元の専門家、ミスロヴィツからのロベルト・ケーラー技師は、25−30mの新しい煙突を推薦した。グラブナーは怒って、煙突は10mを超えてはならないと要求した。ケーラーは、10mの煙突を地下の20mの導管と結びつけ、「仮装の」30mの煙突を作ることによってグラブナーの要求を満足させることができると考えた。しかし、これを行なうスペースがなかった。ビショフはトップフ社に代案を求めた。会社は15mで十分であると答えた。ケーラーは12mの導管をトップフ社の煙突と結びつけ、27mを達成した。作業は6月12日に始まった。

 このときまで、アウシュヴィッツはユダヤ人を殺害するにあたってはまったく周辺的な役割しか果たしていなかった。中央建設局の文書館の資料の証拠は、収容所を虐殺目的で使い始めたのは、やっと1942年6月からのことであったことを示している。この結論は、ヒムラーがヘスにビルケナウは1941年夏に殺人センターとなると述べたという1946年のヘスの陳述と矛盾している。われわれが研究した証拠は、ヘスが1941年と1942年を混同したことを示している。ヒムラーは、1942年6月初頭に、収容所の将来の使用に関して伝えるために、ヘスをベルリンに召喚したに違いない。アウシュヴィッツを選択した一つの条件は、1941年か1942年に適用された。すなわち、収容所のすばらしい鉄道関係である。しかし、もう一つの重要な要因が1941年末に登場した。一日に1440名(あるいは800名にすぎなかった)焼却する能力を持った特別な焼却棟の存在である。ヒムラーがアウシュヴィッツに関心を寄せたのは、この二つの条件の結びつきであった。

 大量殺人は7月1日に始まった。問題が生じた。焼却棟がまだ計画中であったからである。5月17日から、100名の囚人部隊が、建物の基礎を掘り起こしていたにすぎなかった。さらに、ブンカー1は、ガスを排気する機械的な換気設備を持っていなかったので、継続的なガス処刑には使用できなかった。さらに、収容所は資材不足であった。しかし、これらの事情はヒムラーにとっては屁理屈であった。彼は、ヘスが解決策を見つけると確信していた。

 ブンカー1からさほど離れていないところに、白壁のもう一つの農家があった。105uで、「赤い小屋」よりもわずかに大きかった。ヘスは、そこをブンカー1とおなじようにガス室に改造することにした。そこには800名を収容することができた。

 ビショフは、換気についての助言を求められた。彼は、チクロンBの製造者であるデゲシュ社の社長ペテルス博士の論文を思い出した。それは、たがいに並んだ10㎥の8つの小さなガス室を持つチクロンBを使った殺菌駆除システムを記述していた。各室は、二つのガス気密ドア(金属製か木製)を持っており、一つは物品を汚れサイドに、もう一つはそれを清潔サイドに移すものであった。それは暖房のための放熱器、内部空気循環装置を持っていた。それは、最初に、殺菌駆除される物品に媒体を規則的に伝え、次に、60−90分の措置が終わると、効果的な排気を行なった。ペテルス論文は、1941年12月に、デヤコがアウシュヴィッツの将来の囚人受け入れ窓口に19の同様なガス室(2列)をもった殺菌駆除施設の設置を提案したときに、彼の発想の源となっていた。デゲシュ社は、殺菌駆除室は各50㎥でなければならないと提案していた。

 小さな農家の両側にドアを持った平行に配置された部屋を設置することは簡単であった。しかし、循環通風を提供する放熱器は問題を生みだした。このシステムはボース社によって設置されねばならず、輸送するためには、長い遅延を覚悟しなくてはならなかったからである 。放熱器は放棄され、50㎥の4つの並列のガス室を設置するという修正だけがなされた。ガス室は風上に向けられていたので(ビルケナウでは北−南)、自然の換気で十分であると考えられた。毒ガスを投入する方法は、ブンカー1と同様であった。各室あたりチクロンBの一つか二つの500g包みを使うと、ほぼ即死であった。「白い小屋」すなわちブンカー2は1942年末頃稼働した。

 アウシュヴィッツでは大量死をもたらすにあたって、自然と人間が競争していた。SSの医師は5月に、未処置の水に起因する腸チフスの蔓延に直面した。6月末、SS将校、収容所の17の民間会社の社員は収容所の水を飲むことを禁止された。ミネラルウォーターが無料で提供された。発疹チフスの勃発が事態をさらに悪くした。収容所の医師は驚いた。彼らは、防疫措置(検疫、毛髪の切断)と衛生措置(毛髪の消毒、シャワー)が、疫病の媒体者であるシラミを除去することで、収容所への疫病の侵入を防止すると考えた。

 困難は、殺菌駆除処置の対象とはなっていない自由労働者、民間労働者から生じた。彼らは毎日囚人と接触していたからである。1942年中旬、アウシュヴィッツ地区(強制収容所群と居住区)の新しい配置が、1000名の民間労働者を雇用する民間企業にもたらされた。彼らは許可を受けた環境のなかで居住した。作業現場のスタッフやボスたちはアウシュヴィッツの町から徴発した家やアパートに居住したが、労働者の大半は、収容所に隣接した木造のバラックに居住した。7月1日、最初のチフスの発病が労働者バラックで起こり、続く2日間のあいだに、新たに3例が起こった。

 囚人の死亡率が上昇した。1940年5月から12月までに、毎月220名が死んだ。1941年1月から7月までに、この数は三倍となった。1941年8月から12月までに、それは1000名に達した。1942年までに、それは4000名を越えた。不衛生状態はどうしようもない状態となった。周辺地域にチフスが拡大することを防止しなくてはならなかった。7月10日、部分的な隔離が宣言された。

 しかし、たとえ収容所の出口が封鎖されたとしても、入り口は開放されていた。ユダヤ人を積んだ貨車が到着し始めていた。7月4日、囚人の最初の選別が、スロヴァキア系ユダヤ人に適用され、労働に不適格と判断された人々は、即座にガス処刑された。1週間のあいだに、この手順は日常的となった。

 一方、収容所で歓迎を受けた人物はヒムラーとカムラーであり、彼らは7月17日に収容所にやってきて、再定住とIGファルベン群の進行を巡察した。ビショフは、自分の上司に、設計図、青写真、縮小モデルを使って説明した。その後、収容所の様々な農業・工業作業の見学が続いた。午後、ヒムラーはオランダ系ユダヤ人の選別と不適格者がブンカー2でガス処刑されるのを見学した。その後、彼は、モノヴィツのIGファルベン者の作業現場に向かった。大レセプションが日没まで続いた。

 翌日、ヒムラーは、中央収容所を視察した。彼は建設中の3つのトップフ社製2炉室炉と焼却棟の新しい煙突を見学した。その他いくつかの見学ののちに、ヒムラーはヘスに、作業を促進し、収容所の収容能力を100000から200000に増やし、ブンカーの後ろにあった死体の詰まった壕を除去するように命令した。ヘスは昇進し、SS大佐となった。ヒムラーが戻ってくることはなかった。

 ヘスは収容所の不衛生な状態をヒムラーから隠すことに成功したが、チフスは蔓延していた。ヒムラーが出発してから1週間のうちに、状況は破局的となった。7月23日、収容所は完全な隔離状態に置かれた。あらゆるものが即座に殺菌駆除されなくてはならなかった。個人の所有物、バラック、建物、作業場。数トンのチクロンBが収容所の救済に必要であった。大量のチクロンBを入手する唯一の方法は、経済管理局の手を借りることであった。ヒムラーをだましたことを認めたくなかったので、アウシュヴィッツのSSは疫病が流行し始めたのは、ヒムラーが去ってからのことであったと説明した。7月22日、ベルリンは2トン半のチクロンBを積んだトラックの出発を許可した。1週間後、第二のトラックが出発した。しかし、これでも不足であった。

 8月20日頃、疫病はまだ猖獗をきわめていたが、チクロンBの蓄えは消えていた。アウシュヴィッツ当局は、状況をコントロールすることができないことを意味してしまうので、これ以上多くのシアン化水素を注文することをためらっていた。そのとき、誰かが、ユダヤ人のガス処刑に言及することによってチクロンBの購入を正当化するというアイディアを思いついた。経済管理局の高官は、ユダヤ人が殺虫剤によって殺されていることを知っていたが、どれほどの毒が必要であるのかは知らなかった。事実は、1000名の移送者を殺すには、わずか4kgのシアン化水素が必要なだけであった。ガス室で作業に必要な量の3000%も水増しすることによって、SSはそこから95%を殺菌駆除用に汲み上げたのである。トリックはうまくいった。8月26日と9月14日、ビルケナウでの不適格者の清算を意味する「特別措置」「特別行動」のために、大量のチクロンBを購入することが許可された。

 これらのことすべては、収容所にはまだまったく焼却棟が存在しないときに起こった。第三の炉の設置と新しい煙突の建設のために、焼却棟は3ヶ月間使うことができず、とくに、その処理能力の停止は、チフスによる死亡者が倍増したときに明らかとなった。(ヘスは、この停止を1941年から42年にかけての冬としている。) それゆえ、焼却しなくてはならない10000の死体が、ガス処刑された労働不適格なユダヤ人の死体とともに、ビルケナウの灌木の壕のなかに埋められていた。8月8日に、新しい煙突が完成したのち、3炉室炉は最大の処理能力(1日に200−250体)で稼動した。これは、8月13日に煙突に損傷を与えた。明らかに、最初の焼却棟は耐用年数を失ってきたのである。

 多くのユダヤ人が到着するとすぐに殺害されたので、2ヶ月前にも、新しい焼却棟の完成はもっとも緊急の課題であった。6月18日、5トンの資材を積んだ貨車がエルフルトを出発した。5つの3炉室炉の失われた部品、ゴミの焼却炉、強制通風のための3つの新しい送風機の資材であった。1.5馬力のモーターが8月6日に続いた。

 7月初頭、中央建設局は、ビルケナウの建設に関与していた二つの会社、すなわちフタ社とレンツ社を焼却棟の骨組みの建設の入札に招いた。レンツ社は人材の不足を理由にこれを拒否した。7月13日、フタ社は133756.65マルク(1992年では535000ドル)で建物の建設を請け負うという提案を受け入れた。会社は8月10日の月曜日に作業を開始することに同意した。

 アウシュヴィッツ建設局は、経済管理局と3ヶ月後に作成した報告のなかで、「特別行動」によってもたらされた状況によって、新しい焼却棟をすぐに建設する必要があると示唆した。この陳述は、アウシュヴィッツがユダヤ人の絶滅の場所として最終的に選択され、新しい焼却棟が本質的な役割を果たすことを正式に表明したものであった。この焼却棟は、もともとは捕虜収容所のための通常の衛生設備として計画されたものであったが、プリュファーの商業的な確信、職業的な情熱、創造的天才、ビショフとの友好関係のおかげで、新しい重要性を獲得した。

 ゆっくりとではあるが、経済管理局のメンバーは、「ユダヤ人問題の最終解決」を新しい焼却棟の処理能力と結びつけ始めた。ビショフはビルケナウに第二の焼却棟の建設を考え始めた。ヒムラーは、収容所は200000人を収容すべきであると命令しており、中央建設局は7月末には拡大された収容所の設計を完了した。人口の増加は、さらなる焼却棟の建設を意味した。ビショフは建築学的なバランスを取るために、二つの建物を、たがいに対称形に建設することを決定した(図20)。焼却炉室の数は、30に増加され、6670名に一つとなった。しかし、輸送列車が次々と到着したのでこれだけでは十分ではなかったであろう。


図20:ヒムラーは1942年に収容所の収容人員を20万人にまで拡大せよとの命令を出したが、それにこたえて作成されたビルケナウの計画図。Archives of the Auschwitz-Birkenau State Museum,file BW 2/10.

 プリュファーはストックを受け取りに、8月18日にアウシュヴィッツにやってきた。一日後、収容所当局は、2つの焼却棟の建設を認めた。一つは建設中のもの(もともとは捕虜収容所のためのもの)、もう一つは収容所の拡張に対応して計画されたものであった。プリュファーは新しい契約で80000マルク(1992年で320000ドル)を獲得した。

 予備的な研究がプリュファーの道を切り開いていた。ビショフは15の炉室を持った第二の焼却棟を第一のものと並んで建設することを決定していた。彼はまた、ヒムラーの命令によって、埋めるのではなく焼かなくてはならないとされた「製品」を収容するためにブンカー1と2に並ぶ焼却棟も考えていた。多くの焼却棟が考えられていたので、ビショフは新しい名称を考え出した。アウシュヴィッツの既存の焼却棟は焼却棟Tと呼ばれた。焼却棟UからXまではビルケナウに建設されるはずであった。焼却棟UとVは5つの3炉室炉を備え、焼却棟WとXは2つのむき出しの3炉室炉を備えるはずであった。焼却棟Wはブンカー2の隣に、焼却棟Xはブンカー1の隣に建設されるはずであった。(建設計画にもとづく別の設計図では、焼却棟UはBW(Bauwerk)30と、焼却棟VはBW30aと、焼却棟WはBW30b、焼却棟XはBW30cとなっている。)

 プリュファーは、焼却棟WとXの技術的側面を考えていた。プリュファーは、前年に最初のビルケナウの焼却棟にむき出しの3炉室炉を提案していたが、それはその後進展していなかった。すぐさま解決する必要に迫られていたので、プリュファーは4炉室を持ったモギリョーフの2重炉を提案した。その製品はすでに生産過程にあったので、エルフルトの工場はすぐにそれを製造できたからである。ビショフはプリュファーの考えを受け入れて、8月14日に青写真を書かせた 。それは、2つの煙突を持った2重炉の簡単なレイアウトであった。死体安置室の配置図は不完全なままであった(図21)。


図21:ビルケナウの焼却棟Wのための、4炉室2重炉を持つ焼却システムの図面。W.C.:便所、Sas:せき止めと倉庫

 8月19日朝、プリュファーは資材が保管されているアウシュヴィッツ駅の倉庫に出かけ、5つの3炉室炉のすべての部品の資材が到着しており、良い条件のもとで保管されているかを調べた。彼は、エルフルトから4月14日に送られてきた11トンの資材のうち、金属資材の大半がマウトハウゼンの第二の2炉室炉のためのものであることを発見した。それらは、SS中尉ノイマンの戦略によってエルフルトの倉庫に残っていた。プリュファーはこの間違いを利用することに決めた。

 昼食後、プリュファーは、SS少尉フリッツ・エルトルが議長を務める(ビショフはベルリンに召喚されていた)建設局の会議で、煙突の専門家ロベルト・ケーラーと会談した。彼らは、ブッヘンヴァルトで最初の3炉室炉に取りかかったばかりであったマルチン・ホリクが到着したのちすぐに、焼却棟Uの5つの炉の建設を始めることを決定した。ケーラーは炉を並べ、地下の導管と3つのダクトを持った共通の煙突を建設することになった。

 プリュファーは、モギリョーフへの輸送準備が完了していた4炉室二重炉を焼却棟WとXに設置することを提案した。彼は、SS経済管理局が、情報を知らされており、ロシア建設局と資材の移送について交渉していることを知った。ケーラーは4つの煙突に責任を負っていた。安全な側にたつために、中央建設局はケーラーに、むき出しの3炉室炉を持った改良された焼却棟の見積もりを出すように求めた。ビショフはモギリョーフの計画の採用に依然として疑問を抱いていた。とくに、4つの焼却棟の同時建設のために必要な4人の現場監督を即座に用意できなかったためであった。

 焼却棟WとXが大量殺人に関与していることは、会議の参加者全員に自明のことであった。エルトルは、この会議での報告中で、ビルケナウの森のブンカー1と2を「特別行動のための浴場施設」と呼んでいる(図22)。ケーラーは彼の会社をこれらの「特別作業」に関与させた会議で個人的な責任を負っていた。プリュファーはこのような仕事を自分の会社にさせる全権を持っていなかった。だから、彼は独自に行動した。しかし、彼は、自分の上司ルードヴィヒ・トップフがSSのおかげで兵役免除になったので、自分を支持してくれると確信していた。


図22:1943年6月2日のアウシュヴィッツ・ビルケナウ地区の地図。立ち入り禁止地区(Sperrgabiet)が掲載されている。そこでは、ブンカー1と2(「赤い小屋」、「白い小屋」)とよばれた殺人室があった。Central State Special Archives, Moscow, files 502-1-88.

 最終議題は、焼却棟Uの対称型である焼却棟Vであった(図20)。それは最後に建設されることになっていた。作業の開始は、必要な鉄材を確保するための国家保安中央本部との交渉にまったく依存していたからである。ここで、プリュファーは自分が、今朝気づいた間違った資材搬送の存在を指摘し、事態の緊急性を考慮すれば、アウシュヴィッツにマウトハウゼンの2炉室炉を即座に建設すべきであると提案した。

 翌日、SS軍曹ヨーゼフ・ヤニシュは、プリュファーとケーラーを伴って、ビルケナウに行き、彼らに焼却棟Uの作業現場をみせた。エルフルトに戻る前に、プリュファーは焼却棟WとXのための単純化された4つの3炉室炉あるいはモギリョーフ炉の手書きの確認書か注文書を要求した。エルトルは経済管理局(ビショフはまだ到着していなかったので彼ではない)と相談したのちに、8月24日に事態を収めた。ビショフがベルリンから戻ってきたとき、彼はエルトルが勝手に行動したことで彼を責めた。彼がとくに怒ったのは、マウトハウゼンの炉をエルフルトに返送したエルトルの決定であった。

 アウシュヴィッツ中央建設局は、数千の囚人を利用できたにもかかわらず、自前でビルケナウの焼却棟の建設を進めることはできなかった。そのメンバーはかなり単純な労働現場を運営することができた一方で(木造のバラックあるいは居住家の建設)、彼らはもっと技術的な計画に対しては外からの援助を必要としていた。特別な会社の民間技師による研究と当該の会社が派遣した何人かの現場作業員によって実行された実際の建設のためにも、外部からの援助が不可欠であった。ビショフは関係をうまく調整するために、各計画に特別指導者を割り当てた。特別指導者は民間会社と交渉し、作業の進行を監督し、仕事が順調に終わるかどうかを監視した。

 11の民間会社がビルケナウの新しい焼却棟の建設に関与した。トップフ社は炉を建設し、換気システムを設置するはずであった。ミスロヴィツのケーラー社は煙突を建設するはずであった。カトヴィツェのフタ社は、焼却棟Uの外壁作業にすでに取り組んでいたが、焼却棟Vのすべてを建設することに合意する前に、焼却棟Wと焼却棟Xの建設に着手し始めていた。フタ社の下請け会社の一つブレスラウのヴェダグ社は、焼却棟Uと焼却棟Vの地下室の防水を行なった。ベルリンの大陸水工事会社によって始められていた焼却棟Uの下水は、グライヴィツのカール・ファルク社、カトヴィツェのトリトン社によって続けられた。後者はのちに焼却棟V、焼却棟W、焼却棟Xの下水もあつかった。ボイテンのコンラート・ゼグニッツ社は、4つの建物の屋根を設計し、部品を製造したが、実際に設置したのはインダストリエ・バウA.Gであった。ビエリツのリーデル・ウント・ゼーネ社は、すでに終了していた焼却棟Wと焼却棟Xの外壁の建設にあたってフタ社と交代した。グライニツのクルーゲ社は、焼却棟Wと焼却棟Xの炉の建設にあたってトップフ社を支援した。各作業現場は100−150名の人員を雇い、うち、3分の2は囚人で、3分の1が民間人であり、全員が各社からの現場監督に指示されていた。

 フタ社は、8月末には、焼却棟Uの二つの死体安置室の床と壁を終了した。しかし、それらは防水のためにアスファルト処置をされなくてはならなかった。フタ社はヴェダグ社にこれを依頼した。ヴェダグ社はこれを受け入れたが、アスファルトは配給制であり、社はそれを十分にストックしていなかったので、必要量から割り当てを除去することを求めなくてはならなかった。ヴェダグ社は通常の手順にしたがって申し込んだが、それは、長く待たねばならないか、最悪の場合には拒否されることを意味した。申し込みが長引くのを避けるために、ビショフは経済管理局に手を回した。その結果、希望通りのアスファルトが10月末に発送されたので、焼却棟Uと焼却棟Vの死体安置室に対して、地下水が冬に上昇する直前に防水処理が行なわれた。

 トップフ社がこの秋に直面した一つの問題は、モギリョーフのために設計されていた、石炭よりも木材を使った二重4炉室炉を改造することであった。さらに、内部絶縁と放熱機を閉めるドアが必要であった。これらの部品にはさらに3258マルクかかった。9月8日、二つの完全な8炉室炉の建設資材(鉄材と耐火煉瓦)12トンが鉄道でエルフルトを出発した。それは、9月16日にアウシュヴィッツに到着した。資材はトップフ社の二人の現場監督マルチン・ホリックとヴィルヘルム・コッホによって検査・署名された。彼らは焼却棟Uの5つの炉の土台に着手したばかりであった。

 注目すべきは、ビショフもプリュファーも炉の価格の問題についてまだ切り出していなかったことである。10月末、建設局は最終的に、価格を問い合わせた。トップフ社は8炉室炉が13800マルクであると返信した。最終的な見積もりは、アウシュヴィッツのSSが所有するドイツ装備工場の金属作業所がいくつかの仕事を担当することを考慮して、12972マルクに減った。

 9月23日の朝、経済管理局長ポールが突然アウシュヴィッツに姿を見せ、チクロンBのすべてがどこへ行ったのか調査した。ポールは最初に中央建設局に行き、収容所の全体図を説明させ、完成した建物、建設中のもの(ビルケナウの4つの焼却棟を含む)、まだ設計中のものの見取り図を入手した。彼がチクロンBについて尋ねたとき、彼は、それはシラミとユダヤ人の同時破壊のためのものであるとの説明を受けた。ポールはこの話題についてこれ以上質問しなかった。腸チフスとマラリアを防止するために、彼は浄化プラントの建設の促進を推奨した。

 しかし、中央建設局の当座の関心は少々異なった性質のものであった。9月25日、ビショフは焼却棟Vのための焼却装置をトップフ社に注文した。それは、ゴミ処理装置を持っていない点をのぞくと、焼却棟Uと同一であった。焼却棟Vを最後に建設するという8月末の合意にもかかわらず、ビショフは、それは焼却棟Xよりも急ぐべきであるという結論に達した。

 シレジアの冬の到来によって、ブンカー1と2を使うことはますます困難となった。戸外の気温は下がり続け、シアン化水素はうまい具合に気化しなくなっていた。1942年10月末、中央建設局はガス処刑をブンカー1と2から焼却棟の部屋に移すことを考え始めた。そのためには、トップフ社に換気システムの青写真を送ってもらうことが是非必要であった。1週間以内に、焼却棟U、焼却棟Vの送風換気システムを設置する青写真と、焼却棟Tの換気システム――4月に到着していたが、設置されていなかった――の最終青写真を受け取った。

 焼却棟Uの死体安置室をガス室に改造することが決定された。そのような決定を示唆しているのは「リーク」である。すなわち、資料(書簡、青写真、写真)における焼却棟の通常ではない使用についての言及であり、それは人間の大量殺害以外では説明することができない。それは、11月27日に起こった。そのとき、ビショフの助手の一人ヴォルターがトップフ社に、焼却棟Uの死体安置室に換気システムを設置するための金属工の親方を求めた。彼の同僚ヤニッシュは正式の現場監督であったが、この要請を拒否した。ヴォルターはビショフにメモを送り、何が起こったのかを明らかにした。このノートのなかで、彼は焼却棟Uの死体室を「特別地下室」(Sonderkeller)と呼んでいる。リークはこれだけではない。ビルケナウの完成のために必要な120の資材項目は12月10−18日に作成されている。それは「捕虜収容所(特別行動の実施)」というキャプションがつけられているが、それは、殺人作業を意味している。

 別のリークは、デヤコが焼却棟を虐殺機能に適用させ始めたときに生じた。炉のホールとサービス・ルームを持つ地上には、改造は必要ではなかったが、地下は新しい機能に対応して改造しなくてはならなかった。建設中の建物は、地上から2つの地下の死体安置室に容易に死体を移動させるために階段の中央に滑降路を提供していた。しかし、ガス処刑される犠牲者はガス室となる死体安置室に歩いて降りていくことができた。このため、死体滑降路はまったく不必要となり、取り除かれねばならなかった。

 12月19日、デヤコは、犠牲者のための階段のついた新しい地下の配置をスケッチした(図面2003)。青写真のキャプションによると、階段は死体安置室への唯一のアクセスであった。このことは、厳密にいうと、死者は階段を歩いて降りていかなくてはならないことを意味していた。青写真が建築現場30と30aに届いたのは非常に遅かった。このために、コンクリートの滑降路はすでに設置されてしまっていた。のちに、SSがガス室に独自の階段を持った脱衣室(死体安置室2)を付け加えるように決定したとき、滑降路が入り口につながる場所は、犠牲者の通路と重ねられた。滑降路の入り口は破壊されたが、その出口は板で覆われた。

 デヤコは、階段と滑降路をどこに配置するかという単純な問題以上の難題に直面した。11月までに、SSはブンカー1と2での作業になれてきていた。そこでは、脱衣バラックで服を脱いだ犠牲者はブンカーでガス処刑され、その死体は壕に埋められていた。この手順を焼却棟にも適用する必要があった。焼却棟Uと焼却棟Vについては、ガス室として(換気設備を持つ)死体安置室1を選択することは自明であった。SSは、残った二つの死体安置室もガス室として使うことを計画した。5つの3炉室炉は高い処理能力を持っているので、作業が促進されると誤解していたからである。この配置では、戸外の脱衣室が不可欠であった。そして、この戸外の脱衣室は、中央入り口を経由して、2つのホールを結びつける別の階段と直接つながっていなくてはならなかった。さらに、(排気だけの)死体安置室2に吸気システムを付け加えることによって換気システムを改良しなくてはならなかった。炉がテストされ、その能力が見積もられると、二つのガス室の「製品」を処理する能力がないことが明らかとなった。その結果、死体安置室2は脱衣室となった。この配置では、排気はまったく不要であった(犠牲者の死臭を換気するのは、自然換気でも容易であった)。

 結局、死体安置室1はガス室には大きすぎた。1943年末、焼却棟Uと焼却棟Vの作業を「正常化」するために、収容所行政当局は、ガス室を二つに分け、24時間で1000名の新しい到着者(労働不適格者)を殺害するのに、100u以下のスペースをわりあてた。

 1942年8月の焼却棟Wと焼却棟Xの最初のスケッチは、焼却部分だけを提示していた。10月中旬、屋根の建設に責任を負っていたコンラード・ゼグニッツ社は、最終的な配置図面を描いた。炉のホールは48×12mの大きな死体安置室(576u)によって拡張された。それは、これが「一連の手順の鎖の終わり」として使われることを意味していた。犠牲者の脱衣とガス処刑はブンカー2で依然として行われていたが、死体は焼却棟Wの死体安置室に保管されそこで焼却されることになっていた。

 その後、SSはガス室(ストーブ暖房)を建物の中央に置こうとした。この結果、犠牲者は脱衣室からガス室へ、8炉室を持った炉のホールへと移動することになった。焼却棟Wと焼却棟Xには機械的な換気システムが設置されていなかったので、自然換気によるガス室の換気には、偶発的に毒ガスにふれるという危険がともなっていた。ガス室を焼却炉からできるかぎり離しておくことが決定された。最初の配置の修正は、ガス室を炉のホールの反対側に置いた。この結果、犠牲者は、ガス室から死体安置室、8炉室炉のホールに移動することになった。この配置の難点は、脱衣室がまったくないことであった。戸外にバラックを建てる必要があった。

 焼却棟Wと焼却棟Xの焼却能力は、焼却棟Uと焼却棟Vの能力よりもはるかに低かったので、そのガス室も小さくなくてはならなかった。SSは、犠牲者の小グループを処理する低い能力のガス室(100u)を作って、断続的な作業を行なおうとした。1943年1月11日、SSは焼却棟Wの殺人プロセスの最終的な青写真を確定した。

 すでに見てきたように、この考え方には、外部の脱衣室の建設が必要であった。しかし、資金を節約するために、良い天気の時には、犠牲者は戸外で脱衣することが決定された(1944年夏には実際にそうであった)。冬には、中央のホールは脱衣室と死体安置室の二重の役割を果たした。犠牲者は建物の中に入ってきて、脱衣し、ついで裸のままで二つのガス室に歩いていった。殺されると、彼らは中央ホールまで引きずられていき、焼却されるまでそこに横たえられた。この手順は、とくにダッハウの新しい焼却棟の合理的な配置と比較すると、機能的な観点からは、劣っていた。ダッハウでは、犠牲者は入り口から暖房装置を持つ脱衣室に入り、その後、暖房装置と換気装置を持つガス室(「シャワー室」)に歩いていった。死体は、死体安置室に運ばれ、炉のホールに置かれた。ダッハウのガス室は、機械的排気システムを備えていたので中央に置かれた。幸運なことに、それは使われることはなかった。

 ガス室と焼却炉を設計することとそれを建設することは別のことであった。アウシュヴィッツでさえ、SSができることには限界があった。チフスはかなり押さえ込まれていたが、それにもかかわらず、予期せぬやり方で、作業の進行に影響を与えた。11月、アウシュヴィッツの状況は、周辺地域の住民の関心の対象となり始めた。住民たちは収容所のチフスの件を良く知っており、鉄条網を越えたその拡散をおそれていた。

 11月17日、ビエリツの町での公聴会で、地域の相談役は、2例のチフスの発生を指摘した。アウシュヴィッツからの一人のポーランド人女性が病気にかかった。彼女は、カール・ファルク社の民間労働者で、16才になる息子を介して感染していたので、原因は収容所にあった。プレチシャウの別の女性は、11月3日にチフスで死んだ。彼女の夫は、収容所建設に従事する自由労働者であった。地域の相談役は、SSが民間労働者と感染した囚人との接触を禁止しなかったことを非難した。彼は、検疫隔離の厳格な遵守を求めた。12月4日、地域の相談役、強制収容所守備隊の医師、SS少佐エドゥアルド・ヴィルツ、各種の地域、市、政治、軍事、保健衛生の担当者の全体総会がアウシュヴィッツで開かれた。さらに3つのチフスの発生の原因が収容所であることが明らかになった。ヴィルツはSSに対する非難を認めようとしなかった。検疫隔離は厳格に実行されており、それゆえ、感染はSSの責任ではないというのである。アウシュヴィッツ市長は、収容所からのSS隊員と民間人(緑の腕章でわかった)がアウシュヴィッツの鉄道駅で肩をすり寄せているのを目撃したと指摘している。このことが、論点、すなわち、年末休暇問題とかかわっていた。年末休暇は12月25日に始められ、関係者は丹念に消毒されて、出発前の三週間は隔離状態におかれることが決定された。

 32社の関係者は、検疫隔離が21日間に引き延ばされたことを知ると、激怒した。彼らはさらに、12月10日に、フタ社とレンツ社が担当する宿営収容所の民間労働者が病気に倒れたときにいっそう憤激した。21日の期間を守ることは、12月31日以前には年末休暇をとることができないことを意味していた。アウシュヴィッツに数ヶ月も拘束されていた民間人はうんざりしており、12月17日、18日に作業現場から年末休暇に入り始めた。12月18日、収容所のゲシュタポの干渉と、会社幹部との激論の末に、収容所当局は降伏し、1000名の民間労働者が1942年12月23日から1943年1月4日に年末休暇をとることを認めた。

 この退去がさらに、焼却棟の完成を遅らせた。カムラーへの報告のなかで、エルトルは、焼却棟Uは1月31日、焼却棟Wは2月28日、焼却棟Vは3月31日までに完成するようにとのビショフの命令を伝えている。これは平均2ヶ月の遅れであった。焼却棟Xについては、日付は設定されていない。新しい目標日付を伝えられたカムラーは、作業の進行について毎週報告するように主張した。ヒムラーからの指令に喚起されて、ヘスの副官はこのような伝達を拒否したが、結局、報告は書簡で送られた。

 ビショフは、あらゆる障害を乗り越えて焼却棟Uを1月31日までに完成させようとした。彼はトップフ社に、オリジナルなスケジュールにしたがって、必要な資材を配送しなくてはならないこと、焼却棟Uと焼却棟Vは1月31日までに、焼却棟Wと焼却棟Xは3月31日までに完成するようにしなくてはならないことを伝えた。プリュファーは、調整のためにアウシュヴィッツに来ることを求められた。

 プリュファーに先立って、ハインリヒ・メッシングが到着した。彼は1月4日にエルフルトを出発し、翌日の早朝アウシュヴィッツに到着し、すぐに、焼却棟Uに赴いて、そこで10日間、煙突の強制通風システムの設置に取り組んだ。その後、メッシングはまったく休みを取らず、日曜日(8時間働いた)をのぞいて、毎日11時間働いた。焼却棟Uのための3つの強制通風システムは1月26日までに完成することになった。しかし、焼却棟はまだ完全ではなかった。焼却のスピードをコントロールする圧縮空気送風機がまだ設置されていなかった。メッシングは、1月26日にそれを設置し始め、2月7日にその仕事を終えた。

 1月29日、ビショフ、キルシネク、プリュファーが建築現場30、30a、30b、30cを巡察した。SS少尉キルシネクは作業現場の状況について詳しい報告を書いた。プリュファーはキルシネクの報告に影響されて、自分独自の報告を書き、それはカムラーに送られた。焼却棟Uはまだ稼働していなかったけれども、プリュファーはそれがほぼ完成したと述べ、2月15日までには完全に稼働し始めることを約束した。カムラーはこの報告を受けて、ビショフをSS突撃指導者に昇進させた。2月29日のカムラーの書簡には、彼が焼却棟Uの死体安置室1を「Vergasungkeller(ガス処理室)」としているもう一つのリークがある。

 ビショフはカムラーに対して自分をかばってくれたことに恩義を感じて、「中央サウナ」での個人物品の殺菌駆除のための4つの温風室を発注することで彼に報いた。それは39122マルクという破格の値段であった。その一方で、彼は、コリ社による同じような設備にはわずか5000マルクとしている。さらに、彼はトップフ社に、焼却棟Vでのゴミ焼却炉(5791マルク)、焼却棟Vの1500kgの積載能力の臨時のエレベーター(968マルク)、焼却棟Uと焼却棟Vの常設エレベーター(9371マルク)を発注している。

 エレベーターの発注は、ビショフがそれを上部シレジアでは発見できなかったことを示している。フタ社はガス室と炉室を結ぶわずか一つの中古の貨物エレベーターだけしか発見できなかった。それは、2月初頭に焼却棟2に設置された。焼却棟Vのために臨時のエレベーターを発見すること、ハードワークにも耐えられる常設のエレベーターを探し出す課題は、トップフ社に委ねられた。チューリンゲン地方で探す方が簡単であると考えられたからである。たしかに、プリュファーはビショフが必要としたものをすぐに見つけだした。エルフルトの会社グスタフ・リンゼ社が、750kgの積載量をもつ貨物エレベーターを提供した。それは、ケーブルを二重にすることによって、積載量を1500kgまで増やすことができた(図23)。


図23:エルフルトのグスタフ・リンゼ社がアウシュヴィッツに提供し、焼却棟Vに設置された貨物エレベーターの図面。Archives of the Auschwitz-Birkenau State Museum,file BW 37/4, no. 723.

 プリュファーはまた、新しい焼却棟Yの発注も受けた。それは基本的に戸外の焼却のための壕であった(25148マルク)。このようにして、プリュファーは、自分の立場とビショフの困難を利用して、余計にかかる労働コストは別として、総額90000マルク(1992年では360000ドル)の契約を結んだことになる。

 このとき、トップフ社と中央建設局は、中央建設局がプリュファーに作業現場を監督するために週に2、3日アウシュヴィッツにやってくるように求めるという、細かい条件を結んでいた。プリュファーはこの条件を守らなかったが、そのかわりに、マルチン・ホリクとアルノルド・ゼイファースを2月初頭にアウシュヴィッツに派遣した。プリュファーはまた、換気システムの設置のために、第二の金属工の親方を派遣することを約束していたが、この人物はやって来なかった。焼却棟Uの換気システムの設置は、様々な下請け業者が義務を守らなかったために停滞した。その結果、もともとは2月8日に予定されていたガス室(死体安置室1)の吸気・排気システムの設置が遅れた。失われていた部品が2月11日に到着した。この3日間の遅れはビショフをいらいらさせ、彼はカムラーに不平を述べた。とくに、トップフ社の最後の発送に死体安置室2の排気のためのモーターが入っていなかったときには、不機嫌であった。

 中央建設局とトップフ社が2月11、12日に交換した書簡と電報は死体安置室1のための木製の送風機について言及している。これは死体安置室がガス室として使われたことを確証している。ビショフとプリュファーは、濃縮されたシアン化水素(1㎥あたり20g)が混じった空気の排気には非腐食性の換気扇が必要であると考えた(図24)。


図24:非腐食性の木製の換気扇。Bruno Eck, Ventilatoren, 3rd edition (Berlin:Springer-Verlag, 1957), p. 388.初版は1937年に刊行された。

 焼却棟Uに必要なもう一つの装置は、シアン化水素の痕跡を探す検知器であった。トップフ社でのプリュファーとシュルツェの上司ザンダーとエルドマンはこの必要を伝えられた。ザンダーは検知器を求めて数社にあたった。中央建設局は2月26日の電報のなかで、ガス室は検知器なしでは完成させることができないので、ガス検知器をすぐにアウシュヴィッツに配送するように強く要請している。

 もう一つの関心は、ガス室のなかの換気システムであった。死体安置室として計画されていたので、強い吸気と弱い排気のシステムとして計画されていた。ガス室としては、それはそれとは逆に作動しなくてはならない。ザンダーとプリュファーは3月2日に中央建設局に次のように書いている(図25:ドイツ語オリジナル)。

「焼却棟U。われわれは、『合意されたように10のガス検知器の即時の配送。見積りはのちに』というあなたの電報を受け取ったことを認めます。この件に関して、2週間われわれは、シアン化水素の痕跡を示す装置に付いて5社にあたりました。3社からは否定的な解答を受け取り、残りの2社については回答を待っています。この件に関するさらなる情報を入手したときには、この装置を作っている会社とコンタクトをとることができるようにおはからいすることができるでしょう。ハイル・ヒトラー。」


図25:ビルケナウに建設中の焼却棟Uのガス室の換気システムに関する、1943年3月2日の、中央建設局あてのトップフ・ウント・ゼーネ社の書簡。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-313.

 建設局はこの手紙を受け取った。この手紙は3月5日に焼却棟Uのなかに致死性のガス室が存在したもう一つのリークである。

 もう一つの最後の問題は、煙突の周囲の3つの強制通風について起こった。煙突から換気システムへの熱の移動がシステムを使っているすべての部屋の温度を高くするからである。プリュファーは2月19日のこの欠点を指摘し、余分な熱を死体安置室1に移しかえすことを提案した。これは、本来ならば冷たくなくてはならない死体安置室がガス室となったことを明らかに示していた。死体安置室を暖めることはチクロンBの急速な気化をもたらすからである。2月22日SSはこの計画をすぐに認め、トップフ社はアウシュヴィッツに1時間あたり9000−10000㎥の能力を持った銑鉄製の送風機をアウシュヴィッツに送った。これは522マルク(1992年では2100ドル)であった 。

 製造されていない比較的小さな部品は、三つ又のかたちで、強制通風と送風機を持った部屋の天井のロフトに配置される金属製の結合パイプであった。煙突のスライド式調節器が空気の流入をコントロールした。作動する送風機による温風の流入が、ガス室に流れ込み、そこを前もって暖めた。それは毒ガスの発生を促進した。結合パイプの発注は1070マルクで公式に3月6日に承認された。それは1週間のあいだで製造された。

 シュルツェは3月1日にアウシュヴィッツに行き、プリュファーは3月4日に彼に合流した。その日、焼却棟Uの5つの3炉室炉が、プリュファー、シュルツェ、建設局と政治部のSS隊員、ベルリンからのSS高官の前で初めて試運転された。このために、体重の重い50名の死体がブンカー2で選別され、焼却棟Uに運ばれて、そこで焼却された。特別労務班員の火夫ヘンリク・タウバーの大まかな見積もりでは、焼却は45分続いた。手に時計を持って焼却時間を計っていた将校は、計画よりも遅いと記している。この試運転ののち、プリュファーは、炉が十分に乾燥していないと判断し、1週間使用しないで暖めるべきであると推奨した。

 3月10日、シュルツェとメッシングは、焼却棟Uのガス室の吸気と排気システムをテストした。メッシングは3月11日と13日にも作業しているので、装置は完全ではなかったのであろう。3月13日の土曜日の夕方、換気システムは稼働しうると宣言された。

 同じ夜、クラクフのゲットーからの2000名のユダヤ人から選別された1492名の女、子供、老人が新しい焼却棟で殺された。6kgのチクロンBが天井を支える柱の間の4つの鉄網柱の穴に投入された。5分間ですべての犠牲者が死んだ。吸気(1時間に8000㎥)と排気(同じ強さ)システムが作動し、15−20分後には、3−4分で一回更新される空気は十分にきれいになったので、特別労務班員がまだ熱いガス室にはいることができた。この最初のガス処刑では、特別労務班員はガスマスクをつけていた。死体は引き離され、貨物エレベーターのところまで引きずられていった。毛髪は切り取られ、金歯は引き抜かれ、結婚指輪と宝石ははずされた。炉のホールに引き上げられると、死体は炉室の前の広い場所に引きずられ、炉に放り込まれた。1492体の焼却には2日かかった。

 焼却棟Uのガス室は稼働し始めたけれども、まだ完成していなかった。クラクフのユダヤ人を清算したのち、焼却棟Uはサロニカからの2191名のギリシア系ユダヤ人がガス処刑される3月20日まで停止していた。死体が焼却されるので、強制通風のレベルまで火が噴き、それはオーバーヒートをもたらした。プリュファーとシュルツェは、現場に呼び出され、3月24日に損害を調査した。3月25日、彼らは強制通風を除去することを決定し、ガス室を前もって暖めておく可能性を放棄した。さらに、彼らは、ガス室の排気システムのための木製の送風機を金属製に取り替えた。腐食の危険性が過大評価されていたからである。3月中、メッシングは脱衣室の換気システムにかかり続け、それは3月31日に終了した。その日、脱衣バラックが壊され、犠牲者は西側に作られた階段から脱衣室に入った。

 焼却棟Uが最終的に引き渡されたのは3月31日であり、費用は554500マルク(1992年では2215000ドル)であった。建物の受領書メモは、死体安置室1がガス気密ドア、4つの「鉄網投入装置」(チクロンBをガス室に投入するための鉄網柱)、4つの「木製カバー」を備えていたことを示している。脱衣室となった死体安置室2の排気システムにはモーターがつけられなかった。このシステムは不要であったからである。

 4月初頭、焼却棟Uは何の問題もなく作動していた。しかし、ある日、スライド式調節器がうまく機能しないことが発見された。さらに調査すると、内部の内張が壊れていること、地下の結合導管の形が悪くなっていることが明らかとなった。中央建設局はプリュファーに電話して、対処方法を尋ねた。彼は、煙突のための新しい青写真を送ることを約束し、ラインラント地方に商用に出かけた。彼はこれがトップフ社の問題とは考えていなかったからである。彼の会社が煙突を建設したわけではなかったからである。青写真がつかないと、中央建設局は何回も電報をうってこれを求めた。さらに、焼却棟Vのゴミ焼却炉の熱が100のシャワーのための水を温めるために利用できないかどうか研究することを求めていた。4月15日、プリュファーはエルフルトに戻り、2日後にアウシュヴィッツに向かうことを約束した。彼は4月19日にアウシュヴィッツに到着し、SSをなだめ、新しい煙突の青写真を約束し、少々がっかりして、焼却棟Wの炉の保証が消滅したこと、中古の資材を使って建設された炉をもはや修復することはできないことを記した。にもかかわらず、彼は機械的換気が行われれば、ガス室は依然として使用しうると見積もった。彼は、焼却棟Wと焼却棟Xのための2つの排気システムを2510マルクで発注し、4月20日にエルフルトに戻った。

 焼却棟Uは5月22、23日に停止した。ケーラー社が煙突のゴミを清掃した。仕事は5月29日に完了したが 、プリュファーの青写真がまだ届いていなかったので、修理を始めることができなかった。それが届いたのはやっと1ヶ月後のことであった。中央建設局、トップフ社、ケーラー社のあいだの書簡では、損害と停滞の原因を相手になすりつけていることが見て取れる。

 3月の焼却棟Uの完成が遅れたために、焼却棟Wの方が早く、3月22日に公式に収容所管理当局に引き渡されるという結果となった。それは、203000マルク(1992年には810000ドル)であった。ここでもまた、建物の使用目的をわれわれに伝えているリークがある。2月28日、西側部分の内装を完成させていたリーデル・ウント・ゼーネ社の監督官が、堅い木製の「窓」をさしはさまなくてはならなかった。毎日の作業報告で、彼は、「ガス気密ドア」をさしはさんだと報告している。3月2日、彼はガス気密ドアが設置されている場所にアスファルトをしき詰めなくてはならなかったときに、彼はその日の末尾に「ガス室にアスファルトをしき詰めた」と記している 。

 焼却棟Wの最初のガス処刑は、うまくいかなかった。フェイスマスクをつけたSS隊員が、小さなはしごを登って「窓」に向かい、ついで、片方の手でそれを開け、別の手でチクロンBを投下しなくてはならなかったからである。このアクロバット的な繰り返しが、6回も繰り返されなくてはならなかった。ガス気密ドアがガスを排気するために開かれたとき、自然換気が効果的ではないことがわかった。空気の流通をはかるために、北の廊下にドアが作られなくてはならなかった。

 焼却棟Wの二重4炉室炉がうまく稼働したのは、短期間にすぎなかった。プリュファーが価格を安くしようとしたために、それを単純なものとしたので、問題が起り始めた。2週間の過重な稼働ののちに、炉はひび割れた。コッホが耐火土で割れ目を埋めたが、それは再び現れた。5月中旬までに炉はふたたび使えなくなり、焼却棟Wはまったく稼働を停止した。

 プリュファーは、資材の劣悪さを非難したが、自分に責任があることを知っていた。事実、プリュファーは、炉がその稼働開始1ヶ月以上前から、問題を生みだしていることを知っていた。2月、プリュファーは、モギリョーフの原型が炉の中心に偏った設計のために亀裂を生んでいることを伝えられた。このモデルの炉(図26)の構成ユニットでは、2つの炉室と発生器、発生器と煙の排気のための中央ダクトとのあいだの炉室が、発生器から離れているほかの炉室よりもかなり熱くなってしまう。温度差が耐火煉瓦のあいだに衝撃をもたらし、それが亀裂を生み出してしまうのである。



Rk:導管(煙だまりへ)

Es:マンホール

S:調節器

M:炉室

Fk:炎の導管

K:石炭供給器

A:切断バルブ

図26:ビルケナウの焼却棟W8炉室炉の原型の構成ユニットの図面。C:煙を排出するための中央ダクト、2つの炉室を地下の煙導管につなげている。

 焼却棟Wの炉について何もすることができなかったので、プリュファーは、焼却棟Xの炉の修正を決定した。彼はその構造を再設計し、炉室を再グループ化して、端におかれた、二つのダクトでそれを囲んだ(図27)。この新しい配置は、炉を「厚くし」、それを「補強した」。しかし、プリュファーは、亀裂の根本的な原因、側面の発生器を除去することはできなかった。焼却棟Xは4月4日に配送されたが、ガス室の気密ドアは4月16−17日まで設置されなかった 。


→、←、↑:煙の流れ

図27:ビルケナウの焼却棟Wの8炉室炉の強化型の構成ユニットの図面。C1、C2:煙を排出するための周辺ダクト、2つの炉室を地下の煙導管につなげている。

 一方、焼却棟Vの作業は進行していた。5月初頭、メッシングはガス室を設置した。収容所の焼却能力は焼却棟Wが作業停止しており、焼却棟Uも停止していたので、劇的に低下していたために、焼却棟Vを完成させる緊急の必要が生じた。中央収容所の焼却棟Tと、過重な作業をした場合停止するかもしれない弱い炉を持った焼却棟Xだけが稼働していた。焼却棟Vが引き渡されたのは6月24日であった。詳しい発送状には、死体安置室1にはガス気密ドアと14の(偽)シャワーが含まれていることが記されているが、その二つは死体安置室の機能にはふさわしくないものであった。焼却棟Uと同様に、死体安置室2(脱衣室、メッシングによって二度このように記されている)を排気するためのモーターは設置されなかった。

 1週間以内に、焼却棟Uは操業を再開し、中央建設局は、SS経済管理局に、動物の死体の「ユニット」70−100kgとして計算する、収容所の毎日の焼却能力を示す報告を提出している。そこには、公式の数字と潜在的な能力の大きな相違があったようである。焼却棟Tは340kgに対して250 kg。焼却棟UとVは1400 kgに対して1000 kg。焼却棟WとXは768 kgに対して500 kgであった。(実際の能力はもちろん、すべての焼却棟が稼働しているわけではないので、もっと低かった)。にもかかわらず、この数字はある点では有効であった。10 kgの二人の子供と、50 kgの女性を焼却する時間は、70 kgの男性を焼却する時間に等しかったのである。このために、重さを人数に換算すると、1から3までの掛け算の係数が必要となり、焼却棟の能力の人数的な統計数字は、そのどれを採用するかにかかってしまった。焼却棟WとXの見積もり能力は、炉室がUとVと同様の能力を持っていると仮定して、焼却棟Uをもとに計算された。

 しかし、見積もりは楽観的以上のものであった。6月末、焼却棟Wは使えなくなり、Uは停止した。7月末、焼却棟Tは政治部の要請で使えなくなった。Xに関しては、U(修理された)とVがユダヤ人の日々の移送者集団を扱うのに十分であるので、9月以降は使わないことになった。

 ケーラー社は、6月22日に、焼却棟Uの煙突の内部のオーバーホールを始めた。作業は1ヶ月続いた。ついで中央建設局は、トップフ社に、まだ保証期間中の地下の煙ダクトの修理を要請した。中央建設局は、ドイツ装備会社の金属工場が作った新しい調節器を設置した。この作業は8月末までかかった。3ヶ月の停止ののちに、焼却棟Uは9月に再度稼働した。

 誰が余分の費用を出すかという問題が未解決であった。問題は、9月10、11日に議論された。中央建設局は、トップフ社が損害に責任があると考えていた。2つの単純化された3炉室炉(1942年にカムラーが進めた計画)をもった焼却棟の研究のために支払われた1769.36マルクには、ケーラー社の焼却棟2の煙突のための青写真と統計計算が含まれていると誤解されていたためであった。トップフ社は資材をケチったとケーラー社を非難し、ケーラー社はこれを否定した。トップフ社は新しい装置の青写真をケーラー社に提供していた。しかし、トップフ社はこの計画が適切に実行されているかどうか監視できなかったので、あらゆる責任を免れていると考えていた。ケーラー社だけが問題の本質を提起する勇気を持っていた。煙突の損傷は焼却棟Uの過剰稼働によるというのである。結局、合意がはかられなかったので、中央建設局は、かかった費用を3つに分割した。4863.90マルクをそれぞれが、1621.90マルクずつ負担した 。

 トップフ社と中央建設局との関係は9月以降急速に悪化した。双方ともが不満を持っていた。建設局は、焼却棟Wの炉の失敗と焼却棟Uの煙突の問題の件でトップフ社を批判し、一方、トップフ社は泥沼に陥りつつあることを理解し始めていた。枢軸国の戦局が急速に悪化すると、トップフ社の幹部は、連合国の勝利のあとの自社の将来について考え始めた。彼らは状況が絶望的であることを悟った。

 とくに、トップフ社が悟ったのは、SSとの協力が収入を与えてくれるだけの楽な仕事ではないことであった。第一に、SSは最小の請求書さえも点検した。その上、支払いはきわめて遅かった。1943年、8月20日、中央建設局はトップフ社に90000マルク借りていた。資金を回収するには、何回もの督促の手紙が必要であった。最後に、SSは気まぐれで、一貫していなかった。トップフ社が数日間頭を悩まして作成した計画を、SSは説明なく廃棄することがあった。たとえば、焼却棟Yであり、それは日の目を見なかった。焼却棟UとVの死体安置室の予備暖房、焼却棟Vの100のシャワーである。あるいは、焼却棟Tの換気システムのように、もはや必要のないものを発注することがあった。

 トップフ社とアウシュヴィッツの最後の関係は、1944年に発生した。建設局の新しい局長SS少佐ヴェルナー・ヨハンは、ハンガリー系ユダヤ人の即時の到着を予想して、UとVが完全に稼働することを望んだ。また、1943年9月以来使われていなかったWとXの再稼働を望んだ。彼はトップフ社に、焼却棟UとVに常設のエレベーターを設置し、大量ガス処刑のために焼却棟WとXのガス室に排気システムを設置することを希望した。非常な困難と、軍需省とSS経済管理局からの干渉を受けながら、2つのエレベーターは1944年5月にアウシュヴィッツに発送された。しかし、それを設置する時間がなかった。焼却棟Xへの排気システムの設置は、その資材の一部が1月から倉庫にあったので、5月に行なわれた。2つのガス室と廊下は480㎥であり、焼却棟UとVの死体安置室1とほぼ同じであった。シュルツェはこのために、同じパワーの排気システムを計画した。3.5馬力のモーターを持った450番の送風機であり、1時間に8000㎥の能力を持っていた(図28)。第二の換気システムは設置されなかった。



O:チクロンBガスを投入する開口部

G:ガス気密ドア

X:暖房ストーブ

S:ストーブの煙突

C:汚染された空気を排出するダクト

図28:1943年6月にカール・シュルツェが設計し、1944年5月に設置されたビルケナウの焼却棟Xのガス室の排気システムの図面。平面図(上)、A−Bの断面図(下)

 1944年5月6月のハンガリー系ユダヤ人の大量虐殺はおもに焼却棟U、V、Xで行なわれた。焼却棟Xの炉はすぐに満杯となり、ガス室に沿って掘られた壕のなかで、犠牲者は戸外で焼却された。ブンカー2が小グループを処理するためにふたたび稼働し、その死体は30uの壕のなかで焼却された。チクロンBが不足するようになった夏の終わり頃、犠牲者は焼却棟Xとブンカー2の焼却壕のなかに並べられた。

 数千の女性、子供、老人が炎のなかに消えていくなかで、中央建設局とトップフ社は金勘定をしていた。中央建設局は、1943年の最後と1944年の2月初頭に高額な請求額を実際に支払っていた。しかし、建設局はトップフ社がドイツ装備会社金属工場に委託していた仕事、トップフ社が様々な作業現場で必要とした細かな仕事について、トップフ社が支払うことを要求した。たとえば、2ヶ月間レンタルされた酸素シリンダーのコストは、2.10マルクであった。借用されたモーターオイルは、8.25マルクに達した。トップフ社は総額9000マルクに達する請求書を申告した。総額は7500マルクに減らされた。

 2つの8炉室炉の件がきわめてデリケートな問題として残った。ルスランド・ミッテ建設局は、トップフ社に55520マルクでモギリョーフのための4つの炉を発注しており、2つの設置で、総額42600マルク支払っていた。アウシュヴィッツ中央建設局は、27600マルクで2つの炉を発注しており、1つの設置で10000マルク支払った。トップフ社は、6つの炉をそれぞれ13800マルクで売却したと考えていたが、ビルケナウの2つの炉はモギリョーフへの発送から引き抜かれていた。2つの建設局は、トップフ社に30200マルク(6つの炉)ではなく2600マルク(4つの炉)の差引残高の支払い義務を負っており、アウシュヴィッツ建設局はそれに配慮することに合意していた。実際には、トップフ社が建設したのはビルケナウの2つの炉とモギリョーフの1つの半分であり、それは34500マルクであった。だから、不正に着服した18000マルクを返却すべきであった。2600マルクの補足的なクレジットを受け入れることによって、それはまさに20700マルク(1992年では83000ドル)の利益を生んだ。それはアウシュヴィッツのSSとの喧嘩の代償であった。馬鹿を見たのは、ルスランド・ミッテ建設局であった。

 1944年10月7日、ビルケナウの特別労務班が反乱を起こした。労務班員の多くが寝泊まりしていた焼却棟Wは放火された。SSはこれを残酷に鎮圧した。建物は崩壊し、炉の金属部分は溶かされて、鉄道駅に保管された。

 11月末、ヒムラーからの口頭の命令で、ガス処刑は中止された。12月初頭に結成された解体部隊が、焼却棟UとVを解体した。焼却棟Xは使われ続けたが、「自然死」した人間の焼却という「正規」の使われ方であった。

 1945年1月中旬までに、焼却棟UとVはまったく崩壊し、その残骸にはアスファルトがかけられた。収容所群は1月18日に疎開した。1月20日正午、SSは焼却棟UとVの残骸を爆破した。まだ存在していた焼却棟Xは1月22日午前1時にダイナマイトで爆破された。1月27日、ソ連軍の兵士が、4つの建物の雪で覆われた残骸のもとに到着した。

 合衆国第三軍は、その3ヶ月後の4月11日にブッヘンヴァルトを解放した。アイゼンハウワーが収容所を訪れた。ブッヘンヴァルトの焼却棟の2つの3炉室炉はトップフ社の名声を高めた。第三帝国は5月8日に降伏した。5月30日、調査ののち、合衆国憲兵隊はプリュファーを逮捕した。ルードヴィヒ・トップフは5月30−31日に自殺した。プリュファーは6月13日に釈放され、アメリカ人から炉の注文を受けることにさえ成功した。合衆国の調査官は、会社の本部を捜査することを怠り、アウシュヴィッツのガス室建設でのトップフ社の役割を理解できなかった。

 6月14−21日、エルンスト=ヴォルフガング・トップフとプリュファーはアウシュヴィッツでSSと結んだすべての契約を破棄した。米軍はソ連地区となったエルフルトから撤退したので、トップフの弟はアメリカ軍とともに6月21日に西へ移動し、技術的・工業的文書以外の資産を残していった。

 7月3日、ソ連がエルフルトを占領した。10月11日、ソ連軍は、プリュファーとトップフ兄弟についてトップフ社の開発部長グスタフ・ブラウンに尋問した。1946年3月4日、ソ連はブラウン(臨時の社長となっていた)、ザンダー、プリュファー、シュルツェを逮捕した。エルドマンは共産主義組合に登録されていたので、拘禁を免れた。ブラウンは25年間の収容所送りとなったが、1955年に釈放された。プリュファーの運命は知られていないが、彼と残りの技師はおそらくブラウンと同じ運命をたどったのであろう。アメリカ人とは異なって、ソ連人はアウシュヴィッツの建設にあたってのプリュファーの役割にすぐ気がついた 。

 エルンスト=ヴォルフガング・トップフは1949年にヴィスバーデンで会社を再建しようとしたが、資金が不足しており、再建は失敗した。ヴィスバーデン支社は1963年に解散した。彼は法的なトラブルを経験することはなかった。ただし、彼のもとに残ったただ一人の技術者マルチン・クレットナーが1950年に焼却炉の特許権を恥知らずにも申告するという大失態をやらかした。この事件は、当然にもスキャンダルとなり、ヴィム・ファン・レールの戯曲『未解決の特許』の背景となった。この戯曲は1963年にロンドンで上演された。

 ビショフは穏やかに戦後の生活を送り、1950年に死んだ。建設局の二人のメンバーヴォルター・デヤコとフリッツ・エルトルだけが法廷の前に立たされた。デヤコは青写真部長として、すべての青写真を見ていた。エルトルは1942年8月19日のアウシュヴィッツでのプリュファーとケーラーとの悪名高い会議の議長を務めた点で告訴された。そのとき、ビショフはベルリンにいて、新しい焼却棟のための数少ない青写真に署名した。1972年1月にウィーンで開かれた二人の「焼却棟の建築技師」の裁判は、二人の釈放を持って終わった。

 本小論を準備するにあたって、以下の文書館を利用した。ロシア中央国立特別文書館(モスクワ)、10月革命文書館(モスクワ/10月革命)、ヴァイマール国立文書館(ヴァイマール)、カトヴィツェ国立文書館(カトヴィツェ)、ブッヘンヴァルト記念文書館(ブッヘンヴァルト)、ダッハウ記念文書館(ダッハウ)、アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館文書館(オスヴィエチム)、ヤド・ヴァシェム文書館(イェルサレム)、ベルリン資料センター(ベルリン)コブレンツ連邦文書館(コブレンツ)、ヴィスバーデン商工業室(ヴィスバーデン)、パリ現代史資料センター(パリ)、ポーランドにおけるヒトラー一派の犯罪中央調査委員会(ワルシャワ)、産業保護国立研究所(コンピエーヌ)、ウィーン最高裁判所(ウィーン)。
http://revisionist.jp/pressac/pressac_01.htm

36. 中川隆[-10708] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:40:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1334] 報告

【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ホロコースト否認、ホロコースト否定論と呼ばれるものがあります。

それは、第二次大戦中にナチスドイツによって行われた、ユダヤ人の民族絶滅政策(=ホロコースト)をねつ造、あるいは誇張であるという主張全般のことを指すのですが、これは比較的に日本などでは「ありえそうな話」ということで、主にネットを中心に信じている人も多い言説です。これは「マルコポーロ廃刊事件」が日本で騒動を起こしたことが由来しています。

戦後世界史最大のタブー。
ナチ「ガス室」はなかった。

http://www7.plala.or.jp/nsjap/marco/marco0.html

私はとりあえず、ホロコーストがあった、なかったについては、よくわからない、というスタンスで、ホロコーストを否認する主張がどのような経過を辿って今に至るのか、歴史を追ってみたいと思います。あくまで「ニッチな世界史」です。

まずこれを見てください。

ホロコーストとかいう史上最大の作り話

http://fknews-2ch.net/archives/37988034.html

まあ、まずは下の方のコメント欄をご覧ください。

賛否両論ですよね。

ホロコースト否認に同意、賛同する人もたくさんいますし、否定論を否定する人もいます。数えてはいませんが、否定論肯定派の方が数は多いような気がしませんか? 日本のネットユーザーの間では、割と受け入れられている・・・そう考えてよさそうです。

ホロコーストは多数の物的証拠と証言がわんさと溢れているとされています。そして何よりドイツ政府が公的に認めて謝罪していますし、ルドルフ・ヘースやアドルフ・アイヒマンなどのホロコーストに関わったSS隊員も、ユダヤ人の大量虐殺を否定するようなことを主張していません。そもそも疑う理由がないようにも思えます。にもかかわらず、これだけ現代日本人の心をつかむ理由とは・・・わくわくしてきましたねw

では、ホロコースト否認の要点はなんなのでしょうか?上記サイトを参照してみましょう。

ううむ、けっこうボリュームがありますね。私的にこのサイトの主張を上から順番にまとめてみますと・・

@ホロコーストに疑問を持っただけで言論弾圧を受けるのはおかしい。

Aユダヤ人絶滅を指示する命令書が見つかっていない。ヒトラーも「絶滅を示唆する言葉」を一度しか使っていない

Bガス室は存在したかどうかが疑わしい。

CツィクロンBは高価だし、特性上人間の大量殺戮にはむいていない。

D犠牲者の数が多すぎて統計と合わない。陰謀論のにおいがする。

E被害者の証言や主張につじつまが合わない部分がある。

Fガス室で青酸ガスが使われた痕跡がない。(「ロイヒターレポート」を引き合いに出す)

G焼却炉の能力を考えれば、そんなにたくさん灰にできたはずがない。

H「肯定論者」が「否定論者」を相手にしないのが変。言論封殺っぽい。(@に近い主張か)
http://3rdkz.net/?p=434


I南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

・・・・・・

あっ、これだけか。思ったより少なかったですね。

そもそも、ホロコースト否定論はいつごろから言われだしたことなのでしょうか? 少しお勉強してみましょう。


ホロコースト否定論の歴史

ホロコースト否定論は、1948年のフランスの社会主義者、ポール・ラシニエの著作「オデュッセウスの嘘」から始まったとされています。まあ、この辺はWikipediakが詳しいので引用させていただきますと・・


しかしラッシニエ自身の主張そのものは、「ガス室で殺された人数は通説ほど多いものでもないと思われる」という程度のものであり、ラッシニエ自身は虐殺自体を否定してなどいなかった。ところがアメリカの歴史見直し研究所 (IHR) は、ラッシニエの著書を英訳するに当たって、「ガス室で死んだ人間は全くいなかった」とし、彼の主張を改竄している。現在でも否認論者達はラッシニエを「ホロコースト修正主義の父」と呼び、現在も彼の著作をホロコーストに関する通説に異議を申し立てた学術的な研究として引用している

おやおや、改竄されたと書いていますね。。彼はフランスレジスタンス活動の英雄で、なおかつブーヘンヴァルト強制収容所に拘禁されていた人物なので、その経歴からもナチスに親和的な発言をするはずがないと考えられています。

ただし、ブーヘンヴァルトは絶滅収容所ではなかったのですから(全部で6つの絶滅収容所は全てポーランドにあったというのが通説)、組織的なガス殺を見なかったという主張は特別おかしなものではないですし、著作にもいろいろと問題が指摘されているようです。

1960年代、70年代と、ホロコーストを否定する、或いは既存の通説を修正する研究や刊行物が次々と出版されますが、1985年にホロコーストを否定する意見や主張を《侮辱罪》として処罰する法律が施行されると、目に見えてこれらの研究は下火になったそうです。

しかし、1988年2月25日、フレッド・A・ロイヒターという名の米国のエンジニアが、アメリカからポーランドへ飛びアウシュビッツのガス室を調査しました。そして、そこで『アウシュビッツでツィクロンBなる毒ガスで殺害された人は一人もいなかった』という結論を出しました。その研究レポートは、のちに『ロイヒターレポート』と呼ばれ、アウシュビッツや絶滅政策を否認する、否定論者たちの聖典となったのですが、これがいかにして作成されたのか、という顛末を説明します。


Fred A. Leuchter

ドイツ出身の出版業者、エルンスト・ツンデルはホロコーストを否認する内容の出版物を配布したとして、アウシュビッツの生存者サビーネ・シトロンから告発され、1985年には懲役15ヶ月の判決を受けていましたが、オンタリオの控訴審裁判所はこの判決を棄却し、再審を指示していました。

同じく否定論者の、フランスの文学者ロベール・フォーリンソンはツンデルと話し合ってロイヒターに連絡を取りました。ロイヒターは米国の刑務所の毒ガス処刑施設の開発と建設に関する専門家と見なされていましたので、その視点でアウシュビッツを調査し、毒ガスによる大量殺戮が行われなかったと「学問的に」証明できると思って依頼したわけです。

ロイヒターはあまり深いことを考えずにこれを快諾し、たったの一週間で帰国し、たったの一ヶ月で「ロイヒターレポート」をまとめました。

トロントの裁判所は、この「ロイヒターレポート」に、学問的価値や意義を認めませんでした。あまりに素人くさい内容だったからと言われています。それどころかロイヒターは検事による反対尋問の際に、自分はエンジニアとしての専門教育を受けたことがないこと、持っている修士は哲学修士であって工学修士ではないこと、を告白するハメになりました。

結局ツンデルは9か月の懲役刑を受け、「ロイヒターレポート」は彼一人の免罪にさえ全く不十分という有様でした(ツンデルは最高裁で無罪になりましたが、それは言論の自由を尊重する立場を最高裁が重視したからです。ロイヒターレポートが認められたわけではありません 後述)。にもかかわらずなぜ「聖典」になってしまったのでしょうか?

1989年、「ロイヒターレポート」はドイツやフランス、イギリスの極右活動家によって出版されました。その副題には「ポーランドのアウシュビッツ、ビルケナウ、マイダネクにおけるいわゆるガス室についてのあるエンジニアの報告」とありました。まるで公平な第三者が科学的な検証をしたかのような印象を与えます。

それは科学の体裁をとり、もっともらしく書かれていました。調査期間がたったの一週間だったことや、アウシュビッツの壁面を公的機関の立ちあいなしに削り取ったこと(つまり本当にアウシュビッツから削ったのかもわからない)も、ロイヒターが問題の分野にまったく無知で、工学の専門教育をまったく受けたことがないことも、すべて伏せられていました。

その後も「ロイヒターレポート」と同様の主張を行う刊行物が出版され続けましたが、2006年、否定論の核心的論客であったデヴィッド・アーヴィングが、オーストリアにおいて起訴されました。その場において「私は1989年にホロコーストを否定したが、1991年にアイヒマン論文を読んでからは認識を改めた」「ナチスは数百万人のユダヤ人を殺した」「具体的な数字は知らない。私はホロコーストの専門家ではない」と、自らの否定説を撤回する発言を行い、修正論者は理論的核心を完全に喪失しました。


さて、ここまでざーっと見てきましたが、上記サイトにおける10個の要点を今一度確認してみましょう。

@ホロコーストに疑問を持っただけで言論弾圧を受けるのはおかしい。

これはやはりWikipediaが参考になります。


国連では1965年に人種差別撤廃条約を採択、1966年には国際人権規約が採択された。同B規約20条2項には「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」とある。ホロコースト修正主義者は人種差別の罪で告発されることもある。否認論者はこれらは「表現の自由」の侵害であると主張しているが、欧州人権裁判所はガロディ裁判で「明確に立証されたホロコースト」に対して虚偽であるとして異論を唱えることは、人種主義とナチズムの復興をはかり、反ユダヤ主義を激化させる目的があると認定している。同裁判所は否認論の表現を認めることは、かえって人権の基礎となる正義と平和を侵害するものであるとしている。

多くの日本人は勘違いしていますが、言論の自由とは「何でも言っていい権利」ではありません。「言ってはいけない言葉」もあるんです。それは上にも書いてあります、、、、


差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道

・・・です。

つまり、ヘイトスピーチです。ヘイトスピーチは古今東西の民族絶滅政策=ジェノサイドの第一段階と見なされています。

これはいかに言論の自由が保障された国においても、言ってはいけない! これは覚えておくと良いかと思います。

全部読んでくださいね。


欧州人権裁判所はガロディ裁判で「明確に立証されたホロコースト」に対して虚偽であるとして異論を唱えることは、人種主義とナチズムの復興をはかり、反ユダヤ主義を激化させる目的があると認定している。同裁判所は否認論の表現を認めることは、かえって人権の基礎となる正義と平和を侵害するものであるとしている。

・・ということですね。
http://3rdkz.net/?p=434&page=2

これに基づき当のドイツでは・・・


1994年からドイツでは「ホロコースト否定」が刑法で禁じられており、違反者は民衆扇動罪(第130条)で処罰される。オーストリアにも同様の法律がある。なお「民主主義に敵対する言論や結社の自由は認めない」という理念は極右と極左の双方に向けられており、旧西ドイツの最高裁判所は1956年にドイツ共産党に対し解散命令を下した。これはドイツが第二次大戦の教訓から「自由の敵には自由を与えない」とする、いわゆる「戦う民主主義」を採ったためであるが、同時に国家による言論弾圧に対する嫌悪感を生み出すとの立場もある。

こういうスタンスでずっと来ています。強権的だと批判もあります。しかし、ナチズムが選挙で権力を獲得した歴史を苦々しく思うドイツが、こういう処置を取ることを、誰が責められるでしょうか。。。

つまり、ホロコーストを否認することは、言論弾圧を受けているのではなく、民衆に憎悪をまき散らし、再びホロコーストに類じた民族抹殺政策を主導する人物としてみなされているのです。あるいはホロコーストの生存者(著しい苦痛を受けた、家族を喪った人々)を侮辱することになるために逮捕されます。

Aユダヤ人絶滅を指示する命令書が見つかっていない。ヒトラーも「絶滅を示唆する言葉」を一度しか使っていない


ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人殲滅戦の遂行を公言している。これはあくまで過激な表現のプロパガンダに過ぎない,と誤解したドイツ人,連合国指導者もいた。

ヒトラーの政治的遺書


わたしやドイツ人が,1939年に戦争を欲したというのは真実ではない。この戦争は,意図的に,ユダヤ人やユダヤ人の利益のために働く国際的政治家によって,引き起こされた。——和平提案が拒否されたのは,イギリスの政治家の指導者が戦争を欲したのであり,国際的ユダヤ人international Jewryによるプロパガンダによって影響を受けている国際ビジネス界が戦争を欲したからである。

わたしは,非常に明白に,次の点を示してきた。それは、ヨーロッパの諸国民が、国際金融財政の陰謀家によって売り渡される単なる株券のように扱われるなら、このような人種民族であるユダヤ人は,殺人犯であり、責任をとらせられるべきであるということだ。さらに,疑いもないことだが,今度こそ、数百万ヨーロッパ・アーリア人の子弟が餓死し,数百万の男が死を被り,都市で数千万の婦人と子供が焼かれ空襲で殺されるのであれば,そのことは,本当に犯罪者の連中が,より人間的な手段によってではあっても,その罪を贖うことなしには,済まされない。

—–祖国の敵との戦争を継続すること願うのは言うまでもない。——

以上、最後にわたしは国民の指導者とその僕が人種諸法を遵守し、全世界に毒素を撒き散らす国際的ユダヤ人に対し、仮借なき抵抗をなさんことを要求するものである。

ベルリンにて 1945年4月29日 午前4時  ADOLF HITLER

以上、鳥飼研究所より

http://www.geocities.jp/torikai007/war/1943/holocaust.html


ヒトラーは「ユダヤ人種の殲滅・・・」演説を、第二次世界大戦開戦前夜のこととしてしばしば引用して語っているなど、ユダヤ人への宣戦布告として認識していた。
またヒトラーは1920年8月23日に「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外にはその被害から逃れる方法はない」と演説したことや、1934年1月21日にチェコスロバキア外相フランティシェク・チヴァルコフスキーに対して「我々はユダヤ人を殲滅するつもりである」などと述べた例など、ユダヤ人絶滅ととれる発言を行ったことは一度きりではない。

全然一度ではないですねえ。。。

命令書がないことに関しては、ホロコーストは超極秘の国家機密でしたので、口頭命令が基本でした。しかしヴァンゼー会議議事録やヒムラーの発言、ゲッベルスの日記など、文書で照会できるものは残っています。また、以下を参照。


ナチ支配下においては、「総統命令の秘匿」および「人道犯罪の隠蔽」は日常的であった。障害者、同性愛者および労働不能者などに対する組織的な大量虐殺は、T4作戦(戦後の呼称)として既に1939年より行われており、ガス殺も主要な手段の一つとして用いられていた。それは続く14f13作戦に発展し、「社会的に不要な存在」として虐殺される対象は段階的に拡大した。T4作戦の延長がホロコーストであり、その手法はホロコーストに応用された。T4作戦もまた法制化されておらず、ヒトラーによる文書命令は秘密裏になされた。また、この作戦の関係組織には徹底したカムフラージュが行われていた。

以上、ホロコースト否認より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E5%90%A6%E8%AA%8D#.E3.83.A9.E3.83.83.E3.82.B7.E3.83.8B.E3.82.A8.E3.81.AE.E3.82.AC.E3.82.B9.E5.AE.A4.E3.81.B8.E3.81.AE.E7.96.91.E5.95.8F

多分、「一度しか言ってない」との主張をした人は、あからさまな嘘でも言ったもん勝ち、と思っているか本当に「我が闘争」を読んでいないのでしょう。。

Bガス室は存在したかどうかが疑わしい。

いや、なぜこういう疑問が生じたのか、この人の心の闇を解析する作業から始めないといけないのだろうか、と少し暗い気持ちになりましたが、なんのことはないですね。要は第Tアウシュビッツで死体安置所がガス室に改装された件と、ガス室とされた部屋の壁からシアン化合物の残留物が検出されなかったから「そもそもガス室とされた場所でガス殺が行われていたのか?」と疑問に思った、と。そういうことのようです。

私は、アウシュビッツにも行ったことはありますが、第Tアウシュビッツのガス室や焼却場は復元されたものですが、第Uアウシュビッツ=ビルケナウには破壊されたガス室の跡がありました。ダッハウにも行きましたけど、ガス室はありましたし、そこではこれはテスト用に建設されたガス室だ、と説明が書いてありました。設計図も同時に展示されています(ガス室の設計図がないという主張もあるのですが、これは嘘です)。

まあ、この方が「そもそもガス室とされた場所でガス殺が行われていたのか?」と疑問に思った根拠として挙げられているのは、上記の「ロイヒターレポート」です。まあ上でも書いているのでもう一度読んでほしいのですが、ロイヒターはアメリカの囚人処刑用のガス室の専門家を自称(でも実際には専門教育は受けていないのです)していて、ナチのガス室がアメリカのガス室と、全然共通点がない、似ていない、アメリカのガス室を参考にしていないのはおかしい、とまで言ってしまっている人なんですが、このことはアウシュビッツの生存者が「41年から42年の対米戦争の真っ最中に、ナチがユダヤ人を大量に殺戮するためのガス室の設計を、わざわざアメリカにまで行って尋ねなかったことがよほど不思議らしい」と皮肉を書いていますが、これがすべてを物語っているでしょう。真面目に語るのも馬鹿馬鹿しいですね。

しかし、事実をよく知らない人は、修正主義者の言いがかりに真面目に反論しない姿を見て不安になるものらしいのでしっかり書いておきますが、「ロイヒターレポート」では、ガス室とされた場所でシアン化合物の残留物が見つからなかったことを、シラミ駆除用の部屋では検出されたことを引き合いに出しておかしいと疑問を呈しているわけです。アメリカのガス室では当然検出されるそうなんです。

しかし、アメリカのガス室は、たった一人の囚人を殺すために、致死量の10~20倍の青酸ガスを用いました。これは、囚人が苦しむだけ苦しんで死にぞこなうことを防ぐための「人道的措置」ですが、ナチのガス室は数百人を一度に狭い部屋に閉じ込め、ぎゅう詰めにして致死量ぎりぎりの量の青酸ガスで殺していたのです。ぎゅう詰めにされた人々は酸素を求めてパニックに陥り、呼吸の数がアメリカのガス室の囚人よりずっと多かったわけです。このため、壁に残留物が残るほど青酸ガスが余らなかったのです。実際ナチのガス室ではしばしば死にぞこなった人がいたそうです。

青酸ガスが26度以上でないと気化しないことを挙げ、冬はどうしていたんだという修正主義者もいますが、ぎゅう詰めにされた狭い室内では、上記のごとく人々はパニックに陥ってたくさん呼吸をします。それにより室温は容易に26度に達し、人々は青酸ガスを吸いこんで死んでいきました。


また、ツィクロンBはかなり高価な薬剤でしたし、取扱いも手間のかかるものでしたが、なぜわざわざナチスがこれを採用したのか不明です。
自分で開発したサリンでいいじゃん。

青酸ガスが高価だったという感覚は、たった一人の死刑囚に致死量の数十倍の量を使用していたアメリカガス室と比較した、ロイヒターレポートの影響と思われます。アメリカでは確かにガス処刑はコスト対効果が悪いと見なさてれいました。ロイヒターはこの通説を利用したのです。ロイヒターはまた、一人一人の専有面積を考えるとガス室が狭すぎる、などと頓珍漢なことを言っていたらしいですが、これは専門家から「まるでナチがユダヤ人をくつろがせるためにガス室を設計したと言わんばかり」と一笑に付されています。

サリンでいいじゃん。というのは本当にそれこそお粗末な意見ですね。新型の神経ガスを民間人を殺すために使ったとなると、それこそアメリカやソ連によって化学攻撃による報復を正当化することになります。使えたはずがありません。歴史上でもそんなことをしたのはサダム・フセインただ一人です。イラン・イラク戦争でクルド人相手に使ったのですが、相手は報復の手段を持たぬ国なき流浪の民でした。それにサリンは毒性が強すぎて扱いが困難で、使用した実績もありませんでした。そんな状況でもし、簡単なつくりの収容所のガス小屋で使ったりしたら、兵士や警備兵にも大きな被害が出たでしょう。地下鉄サリン事件を目の当たりにした日本人でさえ、こんなおかしな主張をしてしまうのはとても残念ですね。。

それに、ガス殺用のツィクロンBは、無臭だったんですよ。もともと青酸ガスは無臭なんですが、それだと漏れ出た時などに危険を察知するのが遅れるわけでしょう?そこで誤用を防ぐためにシラミ駆除用のツィクロンBには刺激物による臭素をつけるようにと法律で義務付けられていました。しかし、ガス殺用のツィクロンBにはこの臭いをわざわざ消すように特注されたものが使われていました。発注したのはナチス親衛隊(SS)で、受注したのはドイツ害虫駆除有限会社(デゲジュ社)です。ツィクロンBがホントに害虫駆除用に使われていたのなら、なぜそんな臭いを消すような工作が必要だったのでしょうか。もちろん発注書は全て完璧に残っています。

死体安置所がガス室に改装された理由は、それが焼却炉に近接していたという理由に加え、この窓のない部屋に残留する毒ガスを換気装置で素早く吸出し、また新たな犠牲者を入室させることができたから、とされています。

また、解放後のアウシュビッツで見つかった、293もの麻袋の中に女性の頭髪が詰められていましたが、クラクフの法医学研究所は、持ち込まれたこれらの頭髪から「青酸反応が見られる」とはっきり明記しています。

また、ガス室が全部ツィクロンBだったというのも完全な勘違い(というか無知?)で、トレブリンカをはじめとした初期の絶滅収容所は、一酸化炭素ガスやディーゼルエンジンの排ガスを利用したガス有蓋車が、ガス殺に利用されていました。また各絶滅収容所では、銃や飢餓による虐殺もメインの手段でした。全ての犠牲者が整然とガスで殺されたわけではありません。

この説明でCとFの回答にもなっていると思います。

D犠牲者の数が多すぎて統計と合わない。陰謀論のにおいがする。

ホロコーストの犠牲者数の内わけに議論の余地があるのは確かですが、それはSS特殊部隊による移動抹殺作戦による銃殺、6つの絶滅収容所によるそれぞれのガス殺数、労働によって餓死に追い込まれた人々の数が、それぞれ研究の見解によって説にばらつきがあるからです。

修正主義者は戦後のユダヤ人人口の統計からみても、犠牲者は20万から100万人程度ではないか、とする説を採用して声高に主張するのですが、定説とほとんど同じ550〜600万人ではないか、という統計のほうがはるかに多いのです。修正主義者は特に根拠もなく、自分たちの主張にぴったりと合う少ない数字を意図的に選んで根拠として採用しているのです。目的はナチ犯罪の矮小化で、このような数字のトリックを使ってあまり知識のない人に「ナチの犯罪は大したことなかったんじゃないか」と思わせて引き込むことが目的なのです。

また、一般に流布されている通説に誤りが多いことも、修正主義者を利しています。

中にはアウシュビッツで600万人が殺されたと信じている人もいますが、これは通説とはまったく異なります。アウシュビッツを解放したソ連は400万人説を主張していましたが、これは誇張で、ソ連崩壊後に西側の調査が入り、いろいろばらつきがあるものの、現在は100~150万人がアウシュビッツの犠牲者とされています。これはホロコースト全体から見ればわずか6分の1に過ぎません。他はアウシュビッツ稼働前に存在していたベウジェツ、ソビボル、ヘウムノ、トレブリンカ、マイダネクなどの他5つの絶滅収容所や、SS特殊部隊による移動抹殺作戦によって命を落としたと考えられています。
http://3rdkz.net/?p=434&page=3

第Uアウシュビッツ=ビルケナウで、ガス室に向かって走らされる裸の人びと。命がけの隠し撮りです。

アウシュビッツ以外の絶滅収容所で、最も多くの人が死んだのはトレブリンカで、トレブリンカのガス室は一酸化炭素ガスが使用され、銃殺や人工飢餓によって全部で90万人が死亡したとされています。移動抹殺作戦によって銃殺されたユダヤ人の数は、90~250万人と推計されています。銃殺作戦の個々の事例には疑いの余地がないほどに証拠がたくさん残っています。

holoca2
SS特殊部隊による集団銃殺。ユダヤ人全てを処刑するよう命令を受けていた。

horocaust
同上。これは映像も残っています。

holo3
これもSS特殊部隊の有名な写真です。

数字にばらつきがあるのは、ナチが「タイルコマンド1005」などの証拠隠滅を専門の仕事とする特殊部隊を活用していたことや、戦争中の混乱や東西冷戦による調査の遅れによって数字が不正確になっている可能性があるからとされています。

しかし、内わけにはばらつきがあるものの、戦後から現在まで、ユダヤ人の犠牲者総数は550~600万人以上で、これはあまり変わっていません。

E被害者の証言や主張につじつまが合わない部分がある。


西側にある収容所:比較的自由に調査が出来る。→ガス室発見できず
東側にある収容所:情報が閉ざされがちで、調査が難しい。→「ガス室」あり

という状況に。これが偶然とは思えません。

これも無知が原因です。。よく色々ふっかけてくるものですよね。。

偶然ではもちろんありません。ナチは最初に手に入れた占領地ポーランドのユダヤ人を絶滅させることに力を注ぎました。これはオディロ・グロボクニクSS中将が実行した「ラインハルト作戦」と呼ばれるものです。ポーランドには欧州最大のユダヤ人コミュニティがあり、国民の10%近くがユダヤ人で、そのほとんどは都市部に在住していました。これらを集中的に短期間で殺すために、絶滅収容所がすべてポーランド各地に建設されたことはまったく状況と矛盾しません。「ラインハルト作戦」の結果、ポーランドユダヤ人の90%に当たる300万人が殺されました。これは各絶滅収容所の死亡者数の総計と矛盾していません。ナチはこれを手際よくやってのけたのです。

また、アウシュビッツは特にナチ占領地域のほぼ中心に位置していました。占領地のどこからでもアウシュビッツに移送して殺すことは容易でした。

上記のように、まったく疑問に思うようなところではありません。

G焼却炉の能力を考えれば、そんなにたくさん灰にできたはずがない。

これは本当に馬鹿正直な疑問ですね。死体がすべて焼却炉できっちり骨にされたわけではありません。焼却炉の能力は確かに不十分でしたので、その辺に穴を掘ってガソリンぶっかけて焼き殺したり、火炎放射器やナパーム充填剤を使用したりして「野焼き」にされた人々もたくさんいました。これは「サウルの息子」などのような映画作品や、生存者による手記「トレブリンカ叛乱」などの本でも確認できる事実です。しかも「野焼き」中の写真も多数残っています。

Auschwitz
「野焼き中」とのことで超有名な写真です。どう見ても死体を焼却場以外の場所で焼いています。これまで捏造だと言われたら命がけでこの写真を撮った人は報われませんね。。

treb
トレブリンカの火葬場跡。ただの巨大な穴でした。ソ連軍が来る前にSSによって証拠隠滅のために破壊されましたが、人骨が片付けきれずに残されていました。

焼かれて残った骨は囚人を使って砕いて灰にしました。水辺で灰を乗せて待機するトラックの写真などが連合軍の空軍作戦機による撮影で多数残されています。

H「肯定論者」が「否定論者」を相手にしないのが変。言論封殺っぽい。(@に近い主張か)

これは@と同じなんで省略したいところですが、否定論者は既に存在している証拠をあまりに無視し過ぎていると思うのです。言いがかりに近いですし、平然と嘘の証拠や、とっくに否定されている資料を再びもっともらしく持ち出したりします。。これらに反論することを面倒がっていると、↑のように言われるわけですが、実際よく知らない人がそのやり取りを見ていると、否定論者が感情論ばかりになって反論できていない、というように見えるようです。だからこそ、何度使い古された反論でも、また同じことを言わねばならない、と思われるのです(だからこの記事を書いたわけなのですが)。

I南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

南京とホロコーストはまったく個々の事例ですし、話がややこしくなるんでここでは南京大虐殺については言及しませんが、大衆の「信じたいものしか信じない」「聞きたくないものには耳を塞ぐ」という性質を巧みに利用した案件と思われるのです。


さあ、いかがですか? 上の2ちゃんねる系のリンクも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけということがわかっていただければよいのですが。特に「ロイヒターレポート」によるところが大きく、ロイヒターの意見はいまや完全に否定されています。

@〜Iまで全て説明したつもりですが、頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げない傾向にあります。。せめてよく知らないけど・・という人が「ホロコーストなんか本当にあったのぉ?」などと安易に口にしない、ネットに書き込まないことを切に願ってやみません。その言葉で誰かが傷ついているかもしれないことを想像してくださいね。貴方の軽はずみな言動で、日本のことが大嫌いになる外国人がきっといますよ。


あまり難解な専門書を勧めてもとっつきにくいでしょうから、こちらの本をお勧めします。修正主義者の典型的なプロパガンダの手口と、それに対する反論が短くまとめられています。

参考文献
アウシュヴィッツと(アウシュヴィッツの嘘) (白水Uブックス) – 2005/6/7
ティル・バスティアン (著), 石田 勇治 (他) (編集, 翻訳)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4560720800/ref=as_li_tf_il?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4560720800&linkCode=as2&tag=hissyo-22


http://3rdkz.net/?p=434&page=4


37. 中川隆[-10755] koaQ7Jey 2019年4月12日 20:30:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1287] 報告

【ヒトラーを支えた共犯者たち】ナチスの最も極悪な10人 2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=13


ナチスドイツに実在した極悪人を10人ばかり選んでみました。
本当はもっといっぱいいるんですけどね。。

アドルフ・アイヒマン
Adolf Eichmann

ユダヤ人問題の《スペシャリスト》

Eichmann

オーストリア出身の親衛隊(SS)中佐。

ナチスドイツの巨大な秘密警察機構、《国家保安本部(RSHA)》のゲシュタポB4課(ユダヤ人問題担当)に所属し、ナチ占領区の1100万人にも及ぶユダヤ人を絶滅収容所に送り込む仕事をしていた。

アイヒマンは凡庸な男であったが、ユダヤ人問題のスペシャリストになろうと研鑽を重ね、いつしかその道のプロとみなされるようになった。上司のラインハルト・ハイドリヒに見出され、絶滅収容所行きの膨大な量の鉄道ダイヤを管理する立場になった。その仕事を熱心に続け、戦争が敗戦に傾いてもなおユダヤ人の絶滅と、ドイツ本国への移送に執念を燃やし、一人でも多く殺すことに情熱を傾け続けた。

戦後はヴァチカンの手を借りてアルゼンチンに逃亡したが、1960年、イスラエル諜報機関「モサド」によって確保されイスラエルで死刑判決を受けた。これは死刑が存在しないイスラエルでの最初で最後の死刑となった。彼の体は一時間にもわたって吊るされ、死体は焼かれ、灰は散布された。

アイヒマンによって数百万人が絶滅収容所へ送られ、そのほとんどが虐殺されたとみられている。

ラインハルト・ハイドリヒ
Reinhard Heydrich

《金髪の野獣》と呼ばれた秘密警察と諜報部のボス

Reinhard Tristan Eugen Heydrich

親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーによって見出され、ナチスドイツの親衛隊諜報機関(SD)の長官に就任後、ドイツ警察と親衛隊の融合をわずか数年で成し遂げた男である。彼の力で最悪の秘密警察機構《国家保安本部(RSHA)》が産み落とされた。RSHAは、終戦までの各所の弾圧や恐怖政治、ユダヤ人の大虐殺の実行犯として働いた。更にRSHAは強制収容所をも支配し、戦時下における礼状なしの逮捕と強制収容所への拘禁を行うことが出来た。

独ソ戦が始まると、ハイドリヒの命令によって対ユダヤ・パルチザン・共産党員のための特殊部隊(アインザッツグルッペン)が編成される。アインザッツグルッペンはわずか数千人規模の部隊であったが、SDやゲシュタポ、各警察から人員が引き抜かれ、現地の血に飢えたウクライナ・ラトヴィア傭兵を吸い込み、進撃する国防軍の背後で何の罪もない人々を手当たり次第に殺し始めた。わずか一年足らずで数十万人の無辜の民が銃殺された。

1942年1月には、ヴァンゼー会議として知られるユダヤ人絶滅のための会議を招集し、ユダヤ人をいかに絶滅させるかを、各省庁の実力者と話し合った。

9月には総統命令によってプラハに着任し、労働者階級の優遇と、即決裁判と公開処刑など、いわゆる飴と鞭の政策で、ほんの短期間で抵抗勢力を消滅させてしまった。その手腕にイギリス諜報機関はハイドリヒを危険視し、大量報復を招くと知りながらも暗殺を決行。暗殺は成功するが実行犯は全員死亡、関係ない人々まで関与を疑われて大量に死刑となった。

この暗殺に《総統》は怒り狂い、無関係の村リディツェ、レジャーキの消滅を指示。命令は実行に移され、二つの村が地図から消えた。

ハイドリヒが産み落としたRSHAはその後も帝国領内で恐怖政治を滞りなく続け、その地位はナチス崩壊のその瞬間まで微塵も揺るがなかった。

ヨーゼフ・ゲッベルス
Joseph Goebbels

嵐を巻き起こす《国民啓蒙省》

Joseph Goebbels

ナチスドイツには《国民啓蒙省》という珍妙な省があった。その大臣の地位にあったのがゲッベルスである。ゲッベルスの作り出すデマゴーグや、綿密に練り上げられた演説を前にすると、人々は黙り込み熱心に耳を傾けた。ゲッベルスの大衆を魅了する声の調子、誰でも理解できる精確な表現、辛辣なジョーク、容赦ない攻撃性、彼は大衆を扇動し、興奮させ、茫然とさせることができた。

しかし、ゲッベルスはナチ政権内において常に異端児であった。特に私生活では、その口のうまさと権威を傘に来て、手当たり次第に女性と関係を結んだ。ヒトラーがチェコをいかに手にするか思案していた時期に、チェコ人女性と不倫関係に溺れてスキャンダルとなった。

政権中枢から彼は軽く見られ、重要な計画もゲッベルスには知らされなかった。
http://3rdkz.net/?p=13

しかし、ヒトラーはゲッベルスの大衆扇動術を必要としていた。来るべき戦争に備えて国民を総動員し、覚悟を決めさせるためである。

ゲッベルスの言葉によって、男たちは兵士となり、女たちは未来の兵士を量産する工場となった。やがて、スターリングラードで大敗北し、東部戦線の戦局が傾いても、ゲッベルスは勝利がすぐそこにあるかのように《総力戦》を国民に要求し、ありとあらゆる人々が戦争に協力させられた。

そして、ドイツは滅びた。数百万の国民の命を道連れにして。《ハーメルンの笛吹き男》ゲッベルスは、自らの妻と5人の子供をを巻き添えにして殺した後自殺。それが彼の最期の殺人となった。


フリードリヒ・イェッケルン
Friedrich Jeckeln

《缶詰イワシ方式》という処刑法を確立した大物戦犯

yekkeru

独ソ戦開始にあたり、ハイドリヒが急遽編成したSDと保安警察の移動殺戮部隊は、主にバルト三国やウクライナ、ベラルーシで活発に活動した。当初は男のゲリラや政治将校を標的としていたが、徐々に女や子供などの非戦闘員にも殺戮が及び始める。

9月、ウクライナ首都キエフが陥落すると、イェッケルンはキエフに住まうユダヤ人を一網打尽にする計画を立て、9月下旬にはバビ・ヤール渓谷の処刑場でたった2日間で33771人のユダヤ人が銃殺された。手を下したのはイェッケルン麾下のゾンダーコマンド4aや警察、ウクライナの極右民兵たちで、女子供を問わない大虐殺となった。

犠牲者は物品を略奪され、衣服を脱がされ、バビ・ヤール渓谷まで歩かされた。そして処刑場まで着くと少人数のグループに分けられ地面に横たわるように命令された。その後銃殺班が哀れな犠牲者を処刑する。そして死体が何とか隠れる程度に土をかぶせ、また別のグループを呼び出して銃殺する。・・・・この手順が繰り返された。

これは《イェッケルン方式(あるいは缶詰イワシ方式)》と呼ばれる処刑法で、人間を完全にモノとして扱い、墓穴利用の効率性を極限まで追求するこの方法は、ただ残酷というだけでなくある種の薄気味悪さすら感じさせる。

その後もイェッケルンの計画によって、ラトヴィアのリーガ近郊の森の中でも3万人近くのユダヤ人が銃殺される。以降も、彼は様々な場所で移動殺戮部隊の銃殺や破壊活動、パルチザン狩りを指揮・監督した。戦争後期には《武装親衛隊》大将へ就任し、第五SS義勇山岳軍団の軍団長となったが、ソ連軍に拘束されて死刑となる。


オスカル・ディルレヴァンガー
Oskar Dirlewanger

ベラルーシを血の海に沈めた犯罪者旅団のボス

Oskar Paul Dirlewanger

恩赦を受けた犯罪者、密猟者、ソ連兵捕虜によって編成された教化部隊があった。その司令官についたのがこのディルレヴァンガーだ。司令官からして筋金入りの狂人で、第一次大戦やスペイン内戦にコンドル軍団の一員として戦った華々しい経歴と、政治学博士の肩書の裏には、婦女暴行や変態性欲、ユダヤ人の強姦など、常に背徳と犯罪行為が伴っていた。また、彼はアルコールと薬物の依存症で、生来から粗暴な気質を持っていた。

ディルレヴァンガー特務旅団は、独ソ戦で最も過酷なパルチザン戦が繰り広げられた、ベラルーシや西部ソ連地域で本能のままに暴れまわり、旅団の通った跡に残るのは、黒焦げの廃墟と死体の山だけだった。特に彼らが好んだのは、納屋の中に村人を詰め込めるだけ詰め込み、火を放って生きたまま焼き殺すことだった。逃げようとするものがあれば機関銃で撃ち殺した。ディルレヴァンガー旅団はベラルーシだけで3万人以上を殺害したという。

また、イェッケルンの指揮下で行われた「マラリア熱作戦」では、ディルレヴァンガー旅団によってユダヤ人やゲリラ、その疑いのある者1万人が銃殺された。ベラルーシで任務に就いていたドイツ軍・警察は、1日の殺害人数をノルマとして割り当てられ、大抵は村や町を包囲して機関銃で皆殺しにするか、納屋に詰め込んで焼き殺すか、地雷の処理を無理やりやらせて爆死させたりしてノルマを達成した。

1944年にはポーランドの首都ワルシャワで叛乱の火の手が上がるが、その時たまたま近くにいたディルレヴァンガー旅団が呼び出された。

旅団は、通りを一つ占領するたびにその周辺の建物から住民を「避難させる」と誘い出し、広場に追い立てて機関銃で皆殺しにしていった。旅団の通った後には誰一人動く者はいなかった。老人も婦人も子供も皆殺しにされて死体は山と積まれた。そしてそれらにガソリンをかけて火を放ったのだ。虐殺のあとは爆破した建物で埋めた。病院も襲われ負傷者、病人、看護婦、医者や助手など全て射殺されたという。

ディルレヴァンガーはその後も戦い続けたが、やがて重傷を負い、ポーランド人ゲリラによって処刑されたと伝えられている。
http://3rdkz.net/?p=13&page=2


オトマール・フォン・フェアシュアー
Otmar von Verschuer

「死の天使」メンゲレの師

Otmar von Verschuer

大戦中、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長の地位にあり、ナチ時代のドイツにおいて人種優生学や遺伝生物学を研究していた。アウシュビッツの「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレは彼の弟子にあたる。メンゲレが双子を用いた人体実験を繰り返していたことは有名だが、フォン・フェアシュアーはメンゲレよりもずっと前から双子に着眼して様々な医学実験を行っていた。彼はまさにその道の権威であった。

メンゲレはアウシュビッツ医師の立場を利用して、ユダヤ人や双子の囚人に非道な人体実験を行ったが、研究レポートは全て師であるフォン・フェアシュアーに送られていた。それら研究書類はトラック二台分にもなったという。

フォン・フェアシュアーはヒムラーによって許可を得てアウシュビッツでの人体実験を指導・監督していた。メンゲレは手足となって動いていたに過ぎなかったのである。メンゲレは、殺されたジプシーや発疹チフスに感染させられたユダヤ人、双子の体の一部や、眼球、内臓、骨や血液のサンプルなどをベルリンの師に送っていたことがわかっている。

戦後の調査で、フォン・フェアシュアーがホロコーストをはじめとしたナチの破壊的な人種偏見の思想的バックボーンとして君臨していたという、いくつもの証拠が見つかったが、彼は訴追されることなく、ミュンスター大学の遺伝学教授に就任。更に、彼はアメリカの優生学協会の一員として、その道の権威として君臨し続けたという。

1969年、メンゲレの闇の実験の全貌を明かすことなく、自動車事故によってフォン・フェアシュアーはこの世を去った。カイザー・ヴィルヘルム協会はマックス・プランク協会と名を変え、今なお存在している。


ヴィクトル・ブラック
Viktor Brack

障害者安楽死計画「T4」とホロコーストの技術面を補佐したSS医師

Viktor Brack

ナチスドイツの悪名高い障害者安楽死計画「T4作戦」の主催者となった男である。

1939年10月、ヒトラーは、精神障害者安楽死計画の実行を指示した。この頃帝国公衆衛生局の連絡担当官の地位にあったのがヴィクトル・ブラックであった。

ブラックは、1939年12月、ティアガルテン4番地にある自分の事務所を「T4作戦」の本部とした。帝国公衆衛生局の庁舎内ではなく、ブラックの事務所を使ったのは、政府が精神障害者を抹殺していることを秘匿するためであった。障害者安楽死計画により、終戦までに27万5,000人の障害者がガス殺、投薬注射などによって殺害された。

その後、ブラックは、《ルブリン管区親衛隊及び警察指導者(SSPF)》オディロ・グロボクニク親衛隊中将の推挙を受けて、絶滅収容所におけるガス殺の技術面をサポートした。

1941年には、ユダヤ人を断種するための強制不妊化処置として、X線を使用した方法を考案。ヒムラーにこの方法を認めるようにと手紙を書き、ヒムラーはアウシュビッツの囚人で実験することを許可した。

彼はSS隊員でもあり、親衛隊上級大佐にまで出世したが、戦後は数々の非道な行為に加担した罪を問われ、絞首刑となった。ナチス時代に障害者の安楽死センターとして機能したハダマ―精神病院の記念碑にはこう書かれている。

    人間よ、人間に敬意を!


テオドール・アイケ
Theodor Eicke

強制収容所世界の創始者

Theodor Eicke

生来から粗暴な気質の持ち主で、第一次世界大戦には歩兵として出征し、いくつも勲章を受けるが敗戦後の動乱の中で職を転々とし、苦い挫折を味わった。そして、ヒトラーの親衛隊(SS)に活路を見出すが、同僚の党員とたびたび衝突を起こし、あろうことかナチ党員の爆殺謀議のかどで懲役刑を言い渡されてしまう。ナチ政権成立後は他の党幹部ともめ事を起こし、なんと精神病院へ入院させられてしまう。

しかし、《親衛隊全国指導者》ヒムラーはアイケの粗暴な気質を頼りにした。1934年の《長いナイフの夜》の際にはレーム粛清において重要な一翼を担い(レームを銃殺したのがアイケである)、その後はヒムラーより《強制収容所総監及び警備長官》に任命され、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーヘンヴァルト、リヒテンベルクといった強制収容所を支配下におさめ、その警備部隊として《髑髏部隊(SS-TV)》を結成する。《SS-TV》は軍隊式に編成され、後の武装SSの重要な戦力となる。
http://3rdkz.net/?p=13&page=3


ダッハウやザクセンハウゼンには、強制収容所部隊の司令部が置かれていただけでなく、強制収容所官吏の兵士たちに情け容赦ない強者の哲学を教え込む研修地としての側面があった。髑髏部隊の兵士たちは、ナチ党に反抗する「内部の敵」と戦う態度を求められ、敵に対する寛容さは弱さの印であるという信念を徹底的に叩き込まれていたのである。囚人に対する数々の拷問メニューも、ダッハウなど初期の強制収容所にて開発され、模倣されて行った。このような異常な教育を受けた兵士たちが、のちに武装SSとして前線に立った時、捕虜や民間人、ゲリラに対して情け容赦ない残虐行為に及ぶのは無理からぬことであった。

《髑髏》は武装SSに加入して強力に軍隊化され、西方電撃戦や独ソ戦でも第一線の矢面に立たされた。司令官は誰あろうアイケが就任したが、彼とその部下は西部ソ連地域で包囲下に晒されながらも異常に狂信的に戦い、部隊のほとんどが全滅するまで戦い続けた。アイケ自身も43年の2月に敵情視察中に乗機を撃墜されて戦死。

アイケは自らが挫折に満ちた人生であったため、髑髏部隊の隊員には、前科者やごろつき、無学な者であろうと広く採用した。そんな彼らはアイケに恩義を感じ、アイケのことを「親父」と呼んだ。彼らはアイケの命令以外は意に介さなかったという。髑髏部隊は、そのような実に奇妙な部隊であった。アイケ戦死の際には、その死体の回収のための特別部隊が編成され、部下たちは数々の苦難をはねのけ、アイケの亡骸を回収し、師団本部へと送って埋葬した。


オディロ・グロボクニク
Odilo Globocnik

《ラインハルト作戦》の責任者

OdiloGlobocnik

独ソ戦が開始されて以降、ポーランドなど、ナチの東部占領地域において、ゲットーが急遽作られ、ユダヤ人たちはその中に押し込められていた。しかし1942年以降、これらのゲットーは順次解体され、着々と建設が進められていた絶滅収容所へと大量に移送されて行くことになる。これはのちに《ラインハルト作戦》と呼ばれた。

グロボクニクは、元はオーストリアのウィーン大管区長の地位にあったが、汚職によって罷免され、ヒムラーによって引き立てられて《ルブリン管区親衛隊及び警察指導者》となる。名誉回復の場を求めたグロボクニクは、ホロコーストの最も汚く、かつ重要な仕事を熱心に遂行した。絶滅収容所の設置と、ガス室による殺害方法をヒムラーに提案したとされている。

グロボクニクによって、総督府全体のゲットーがすべて解体され、そこで生活していたユダヤ人たちは皆絶滅収容所へと送られ命を落とした。ラインハルト作戦の犠牲者は300万人に及んだ。

しかし、戦況が傾くと、各絶滅収容所で叛乱の火の手が上がった。ヒムラーは各絶滅収容所の閉鎖と証拠隠滅を指示し、ラインハルト作戦は終了となる。以降はアウシュビッツが殺戮の主舞台となる。

グロボクニクは自らの罪の重さを知っていたのか、1945年5月に英兵の捕虜になると、即座に青酸カプセルを噛み砕いて自殺した。


ハインリヒ・ヒムラー
Heinrich Himmler

《総統》の狂気を代行する者

himmler

ナチスドイツ最悪の暴力機関「親衛隊」の最高指導者である。田舎の校長先生のような風貌の通り、性格も真面目な公務員タイプだったそうで、彼の人柄からそのとてつもない犯罪を想像することは難しい。だがSSの歴史は彼の人生であり、SSの犯罪は彼の犯罪である。

ハイドリヒを見出し、アイケを引き立て、グロボクニクを送り込み、医師たちに人体実験を許可し、障害者抹殺計画《T4》やジプシー絶滅計画《ポライモス》を命令し、同性愛者を弾圧し、占領各地で金髪碧眼の子供たちをドイツ本国へと拉致して親衛隊家族に育てさせ、常にヒトラーの影で主の狂気を代理執行した。終戦間際には裏切り者や臆病者を処刑するために部下をフル活用し、第三帝国の最期の瞬間まで恐怖政治を主催した。

ヒトラーはがなり立てただけだが、それを狂的な真面目さで実行したのは、全てヒムラーだった。彼は主の妄想に疑いをさしはさむことなく、人々を血の海に沈め続けたにもかかわらず、終戦間際には裏切り騒動を起こして自分だけ助かろうとしたが、彼の犯罪はあまりに途方もなかった。戦後すぐに捕虜になったが青酸カリを噛んで自殺。裁かれることもなくあっさりと死亡した。


ナチズムによって命を失った、2500万人以上の人々の冥福をお祈りします。
http://3rdkz.net/?p=13&page=4

38. 中川隆[-10753] koaQ7Jey 2019年4月12日 22:24:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1289] 報告

【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】 2017/5/11
http://3rdkz.net/?p=250


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。

なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。

非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。

目次
実験T 低圧・低温実験
実験U 海水を飲料にする実験
実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究
実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験
実験X 毒物接種実験
実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集
実験Z マラリア実験
実験[ 双子実験
実験\ 強制不妊化実験
実験] 飢餓実験

なぜこんなことが起こったか


実験T 低圧・低温実験

低圧・酸欠下での救出実験

hypothermiaドイツ空軍が高度12000メートルに達するジェット機を開発したまでは良かったが、人体がそのような超高度環境にどのような反応を見せるのか、ということに関して信頼できるデータはまだなかった。そこで、ドイツ空軍軍医大尉であり、親衛隊将校でもあったジクムント・ラッシャー博士は、《ライヒスフューラー(親衛隊全国指導者=ヒムラー)》へ手紙を書き、ダッハウ収容所の死刑囚を用いた人体実験の許可を求めた。

1942年3月、ヒムラーは実験を許可し、ラッシャー大尉の責任において、超高度における人体の反応の観察や、パラシュートや特殊機材を用いた救出を実用化するための危険な人体実験が行われた。超高度の低圧環境下で被験者を酸欠の状態に留め置き、どれぐらいの時間をかけて被験者が死亡するのか、またどのようなタイミングでしかるべき処置を行えば彼を救出できるのか、ありとあらゆる場面を想定して実験が行われた。当然のごとく実験は死者が続出したが、ラッシャーは死にゆく被験者の行動を観察し、心電図を記録した。そして、屍を解剖し、肺や心臓、脳の血管の空気塞栓の状況などを記録。逐一ライヒスフューラーへ報告していた。

実験に駆り出された200人の囚人のうち、実に80名の被験者が死亡した。

低体温・冷却からの蘇生実験

freeze
冷却実験の様子

ラッシャーとその協力者たちは、ダッハウにて更に人体実験を行うことにした。今度は海難事故などにより寒冷下に晒された人体を、いかに蘇生・回復できるか、といった実験である。やはりパイロットを救出することを前提とした実験であったが、実際にはダッハウの囚人300名を4〜12℃に冷却した水の中につけ、体を極限まで冷やしたのち、いかにすれば効率よく回復できるかを試すもので、この実験で90名が死亡。今日においてもこの実験結果が国際的専門誌に引用されているという。

この実験は当初よりライヒスフューラーの関心を買った。ヒムラーは冷え切った肉体を温めるためには、同じ人間の皮膚の接触。つまり、裸の女性による抱擁が効果があるのではないか、と考えた(ヒムラーはしばしばこのようなロマンチズムに基づく推測を実践させた)。ラッシャーはヒムラーの意向に沿ってダッハウ収容所より若い女性4名を召喚。そのうちの一人があまりにも見事なアーリア人種の肉体的特徴を備えていたため、ラッシャーは彼女を実験に使用することを拒否したという。つまり、被験者は下等人種とみなされたスラブ人やソ連兵捕虜であり、これを裸で温める乙女がアーリア系であってはならないというのである。この逸話からもわかる通り、人体実験は激しい人種差別の賜物であった。ちなみに女性の体で温める方法は非効率で到底実用に耐えないものであったという。

この実験は、場所を変えてアウシュビッツ収容所でも行われた。アウシュビッツのほうがより寒く、広大で実験が目立たなかったからだという。つまり、被験者は多くの場合、「苦しみにより悲鳴をあげた」からである。ラッシャーは被験者に麻酔をかけることを禁止し、なんら苦しみを緩和するための努力をしなかった。

ある実験では、ソ連軍将校2名がアウシュビッツで、水桶の中に裸で入らされた。通常なら60分程度で意識を失い、死亡するのだが、このソ連将校2名は3時間経過した頃に「同志…銃殺してくれないか」と頼んだという。その後、二人は握手を交わし、「さよなら、同志よ」と言った。ポーランド人の助手が見兼ねてクロロフォルムで二人に麻酔をかけようとしたが、ラッシャーはピストルを突きつけ、これを制止した。二人は5時間後にようやく死亡し、死体は解剖するためミュンヘンに送られた。

ラッシャー夫妻は子供に恵まれず、子供を誘拐、金銭で買い取って自らの子であるとして育てていた。これが明るみに出るとライヒスフューラーは激怒。ラッシャーは多くの囚人を殺害したダッハウにおいて、自らも処刑された。戦争が終わる直前だった。よって戦後もラッシャーは裁きにはかけられず、協力者たちは全ての責任を、同じく死亡したヒムラーとラッシャーにかぶせることに成功。この非道な人体実験で裁かれた者は結局誰一人としていない。

実験U 海水を飲料にする実験

この実験は、やはり海難事故に遭遇し、海の上を漂流することになったパイロットを救うために企画された。

二人の科学者が海水を飲料にするための試みを始めた。シェーファー教授が海水から塩分を分離するための設備を開発しようとして成功したが、これには多額の費用が掛かるため実用性なしと判断された。一方空軍技師ベルカが開発した「ベルカティカ」という薬品は海水の味を飲める程度に変えてしまうもので、この薬品はコストパフォーマンスにも優れ、大量に生産された。

しかし、すぐにこのベルカ方式の海水を飲むと、「より渇きがひどくなる」という声が上がり始めた。味を調整しただけで海水は依然として多量の塩分を含んでいたし、飲みすぎることで渇きが悪化し、下痢すら引き起こすことが分かった。

どちらの方法で渇きを解決するのか、ダッハウ収容所内で再度人体実験が行われた。被験者はいくつかのグループに分けられた。数日間にわたって海水を飲むもの、ベルカ方式の海水を1日500cc飲むもの、1000cc飲むもの、シェーファー方式で精製された水を飲むもの、などである。

被験者はブーヘンヴァルト収容所から連れてこられたジプシーたち40名であった。彼らは表向きは志願であった。実験の詳細についてきちんと説明を受けた上、実験前10日間は完璧な航空兵糧食3000キロカロリーを摂取し、健康管理を入念に行ったうえでの実験であり、死亡した者、後遺症が出た者はいないとされている。しかし、実験は著しく苦しく不快なものとなり、被験者の中には清掃班のバケツの中の汚水を飲んだり、モップから垂れたしずくを舐めた者がいたという。このような実験が本当にすべて志願だったと言えるだろうか?ましてや被験者のほとんどは賤民と見なされていたジプシーである。これは戦後の裁判で検察の激しい疑惑をかい、追及を受け、実験を主導した者たちは禁固15年〜終身刑を受けた。

ただし、実験で重篤な障害を受けた者、死亡した者がいなかったのは確かなようである。フランス人の医療助手や被験者のジプシーのうち数名が、宣誓供述書を提出し、実験を主導した科学者たちの恩赦請求を行っている。

実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究

発疹チフスのワクチン接種実験

東部戦線や各収容所で猛威を振るった発疹チフスから、前線兵士を救うための人体実験がブーヘンヴァルトとナッツヴァイラー各収容所にて行われた。

実験は1942年の春ごろから1944年の末まで続けられた。

それまで存在していた発疹チフスのワクチンは、病気の症状を軽減させることはできても、本来の目標たる免疫力の獲得、つまり病気に罹らずに済む、というものではなかった。これを深刻にとらえたSS上層部の医師団や衛生担当者たちは、人体実験の施行を強く主張。ブーヘンヴァルト内にウィルス研究部が設立され、SS軍医や権威ある熱帯医学者などが参加した。

実験は数十種類にも及ぶ各種ワクチンを接種した上で、数週間の間隔を置いたのち、人為的に発疹チフスに感染させるというものだった。対照群として設置された群は、ワクチン接種群と比較するために、単にチフスに感染させられた。

ワクチンを接種した者たちも、多くの場合、高熱や頭痛など、「発疹チフスの症状」に悩まされた。

被験者に選ばれた者たちは、ドイツ人の刑事犯、ポーランド人、ソ連兵捕虜、ジプシーなどである。健康状態が優良なものたちが数百人選び出され、少なくとも150名以上が死亡した。ブーヘンヴァルトの医師、シューラーSS大尉は終戦間近で自殺したが、彼の業務日誌が囚人によって廃棄を免れた。その中には、他にも黄熱病、チフス、コレラ、ジフテリアに対するワクチンや薬物の効果で800人の被験者が人体実験にかけられたことが示唆されている。

伝染性肝炎ウィルスの研究のための人体実験

独ソ戦が始まると、黄疸症状に悩まされる兵士が非常に増えた。致死的な病ではなかったが、発病者が多く、軍の作戦能力を衰えさせるものとして研究が開始された。肝炎はそれまでバクテリアによる感染と考えられていたが、細菌学者のドーメン軍医大尉がウィルスを発見し、培養するためSSがウィルス株の管理権を要求したがドーメンは拒否して独りで研究を続けていた。

各所からの圧力に耐えかねたドーメンは、ついにザクセンハウゼン収容所内で、囚人に対して人為的に肝炎ウィルスを感染させる人体実験を行った。これは《帝国医師総監(=エルンスト・グラヴィッツ)》の強い要請だった。ドーメンは良心の呵責に苦しめられ、実験が開始されたのは1944年も9月になる頃だった。
http://3rdkz.net/?p=250


アウシュビッツから、子供や青年からなる11人の囚人がザクセンハウゼンにやってきてドーメンに委ねられた。ザクセンハウゼンの第二病棟において彼らの世話をしていた古参囚人ブルーノ・マイヤーは、実験の内容について記録を残している。以下に引用する。


ドーメン博士は医療器具カバンから一本の斜めに歯のついたゾンデを取り出してサウル・ホルンフェルトの背後へ近づき、指で彼の背中を探りました。そしてゾンデを当て、子供の背中の筋肉を通して深く体の中まで突き刺しました。サウル・ホルンフェルトは痛みのあまり、自分の小さな拳を噛みました。急いで私は彼の前へ歩み寄り、声を押し殺して、しっかりしろと言いました。涙で見えない目で彼は私を見ました。そして、医者が再びゾンデを突き刺しました。(中略)その後、私は、ドーメン博士がゾンデから長い針を抜き、ゾンデの開口部に急いで試験管をあてがうのを見ました。黒っぽい血が試験管の中へ滴り落ちました。小さな組織も、―—多分肝臓の一部だったでしょう——少しその中に混じっていました。



結局、肝炎ウィルスを人為的に感染させる実験は成功しなかった。ドーメン博士や囚人たちがその後どうなったかは明らかではないが、博士は戦後実験結果を発表している。

医療用ゾンデ
医療用ゾンデ

第V収容所 1 share 1 user
【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内


少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか...


実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験

人為的にガス壊疽を作り出す実験

1942年5月、《国家保安本部(RSHA)》長官及び、ボヘミア・モラヴィア保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒがイギリス諜報部の襲撃を受けて重傷を負った。治療の責任者は武装SSの顧問外科医カール・ゲプハルトであったが、ゲプハルトの飛行機は延着したので直接手術に携わったのはプラハの医師二名である。ゲプハルトは《総統》とヒムラーの個人的な電話を何度も受けた。ヒトラーは自分の主治医であるモレル博士を派遣するとまで言った。

しかしハイドリヒは処置の甲斐なく6月2日に死亡。ゲプハルトはその後ヒムラーと謁見し、「ハイドリヒの死はドイツがこれまで経験したことのない巨大な敗北であった」と《総統》が考えていることを知らされた。ゲプハルトには汚名返上の機会が与えられた。ハイドリヒ長官が負傷による敗血症によって死亡したことを受け、至急、スルフォンアミドの効果を調べる人体実験の実行が決まった。

実験の舞台に選ばれたのは女性専用の強制収容所ラーフェンスブリュックであった。実験の目的は、当時未解明な部分が多かったガス壊疽という症状を分析し、有効な治療方法を見つけ出すことであった。そして、同時に戦場で多く見られる通常の傷口を調べ、有効な治療法を探す目的もあった。

被験者はザクセンハウゼン強制収容所から連れてこられた男性囚人や、ポーランドの抵抗運動に携わった女性囚人たちである。彼らはわざとけがを負わされ、木片やガラス片を傷口に練りこまれた。

《帝国医師総監》グラヴィッツは、実験場を視察し、被験者に死者が出ていないことに対して実験が手ぬるいと感じ、本物の銃創を彼女たちに負わせるように、と命令した。ゲプハルトはこの命令を拒否したが、より傷口の状態を悪化させることに努力したことに変わりはなかった。彼女たちは下腿の血管を結紮され、壊疽性の腐敗病原体を接種させられたりした。そのうえで彼女たちは処置も受けられず何日も放置され、本物のガス壊疽の症状により3名が死亡した。

人為的にひどい敗血症に陥らせた上でスルフォンアミドの効力を実験したが、傷を負わされただけで何の処置も受けられない囚人もいた。実験内容は1943年の5月にベルリンの軍医大学校で発表されたが、出席者の中で被験者の人権について申し述べた者は一人もいなかった。

他人の骨を移植して治療効果を見る実験

ラーフェンスブリュック強制収容所内で、女性を使って行われた他の実験群は骨の再生と骨の移植の実験である。

肩胛骨を他方から他方へ移す実験が行われた。肩胛骨を除去されたのは、ラーフェンスブリュックの精神病患者の女性であった。この女性は肩胛骨を抜き取られた後速やかに薬殺された。肩胛骨を移されたのは、ホーエンリーヘンの血管の癌により肩胛骨を失った若者で、彼は癌を再発することなく生きながらえたという。

この実験のほかにラーフェンスブリュック収容所内で、神経再生、筋肉再生の各実験、切断やその他の実験が行われたといわれるが、その規模や詳細は不明である。収容所医師の一人、ローゼンタール博士は、負傷に苦しみ、助かる見込みのない重症の囚人を20〜30人、楽に死なせるためにモルヒネを過剰投与したと断言している。

実験X 毒物接種実験

イペリッドガス

大戦期間中、ザクセンハウゼン、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフの各強制収容所内でびらん性(皮膚をただれさせる作用)のイペリッドガス(=マスタードガス)の人体実験が行われた。これは例によってヒムラーの命令だった。

イペリッドガスによる負傷の度合いと、効果的な治療法を見つけることがその目的である。この実験はストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士などが主にかかわった。

この毒ガス実験については、ナッツヴァイラーのカポ(囚人頭)であったフェルディナント・ホルの生々しい証言が残っている。


囚人たちは真っ裸にされ、次から次へと実験室の中に入ってきました。彼らは前膊から10センチほどの箇所にその液体を塗られましたが、その時私が彼らの腕を抑えていなければなりませんでした。その後、処置を施された被験者たちは隣の部屋へ行き、そこで腕を広げたまま約1時間立っていなければなりませんでした。約10時間もすると、あるいはもっと長かったかもしれません、火傷が、それも全身に出てくるのです。盲目になった人々もいました。ひどい苦しみで、被験者たちのそばにはとてもいられないほどでした。その後、被験者たちは毎日写真を撮られました。しかもすべての傷の箇所を、つまり全ての火傷の箇所を写真に撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。(中略)内臓、肺などは全て完全に腐食していました。その後の数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2か月続けられました。



実験は何度も行われ、平均して毎回7~8名の死者が出た。生き残った者たちも後遺症の残った体でアウシュビッツやベルゲンベルゼンに送られた。

硝酸アコニチン弾丸の創痍研究


極秘事項

帝国医師ー親衛隊警察、主席衛生官

日誌番号 秘364/44 ムルゴウスキー

1944.9.12

硝酸アコニチン弾丸について

SS少佐ディング博士、ウィマン博士、および筆者立ち合いで1944年9月11日、5人の死刑囚に、毒物である硝酸アコニチン結晶入りの弾丸(直径7.65o)を用いて実験を行った。被験者を寝かせ、左大腿に1発撃ちこんだが、2人では弾丸は貫通、後になっても毒作用は出なかったので、実験から除いた。(中略)

3人の症状は驚くほど一致していた。最初は異常がなかったが、20分から25分後に動きが不穏となり、遅れて、よだれが少し出始めた。しきりに飲み込もうとしたが、量が増えて飲み込めないほどになり、ついには、泡を含んだよだれが口から漏れてきた。それから、吐き気、嘔吐が始まった…。

約90分後、1人の呼吸が深くなり、同時に運動不穏も増強した。呼吸は浅く速くなった。同時に強い吐き気が現れたが、吐こうとしても何も出なかった。指を4本付け根まで口に深く入れて吐こうとしたが吐けず、顔は真っ赤になるだけだった。

他の2人の顔は早い時期から蒼白になっていた。他の症状は同じだった。運動不穏の出現は遅れたが、極めて強くなり、棒立ちになったかと思うと、また、床に身を投げ出した。白目をむき、手や腕は意味のない動きをした。最後に、不穏の程度は弱くなり、瞳孔は極度に散大、被験者は静かに横たわるだけだった。1人には咬筋の痙攣が現れ、尿失禁が認められた。3人の死亡は、受傷後それぞれ、121,123、および129分であった。
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総括 およそ38mgの硝酸アコニチンを詰めた弾丸による創自体はひどいものではなかったが、2時間後に致死的な中毒が現れた。中毒症状の出現は、受傷後20分から25分で、主要症状は、流涎、瞳孔径の変化、腱反射消失、運動不穏、強い吐き気であった。

講師医学博士ムルゴウスキー、SS上級大佐、主席衛生官

上の手記と一致するかは不明だが、ザクセンハウゼン収容所で死刑囚を用いた毒の弾丸の実験が行われた、との展示がある。その射撃手はムッソリーニ救出の特殊部隊を率いた、オットー・スコルツェニーSS中佐である。

実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集

hiltストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士は、1942年の2月にヒムラーにあてて手紙を書き、ユダヤ人、共産党員、赤軍政治将校の頭蓋骨収集の許可を求めた。ヒムラーはおおいに関心を持ち、ヒルトに自分の政治的権力の全てを委ねてこれを支援した。

当時、ナチスドイツはありとあらゆる人種の頭蓋骨を収集して、その形態を測定したり、歪んだ人種優生学に基づく様々な研究を行っていた。しかし、ユダヤ人に関しては当時サンプルを獲得する術があまりなかったらしい。独ソの開戦はその状況を打開する最良の機会となった。既にホロコーストは開始され、ユダヤ人と共産党や政治将校は同一視されていた。彼らの頭蓋骨を一定量獲得し、データを取得することで、占領地において効率よくユダヤ人や政治将校と、その他の民族の鑑別を容易にし、効率的に撃滅できる、というのが彼らのデタラメな論理であった。

ヒルトとその協力者たちが、いかにしてそれらのサンプルを選定したかは定かでない。既に収容所にいたユダヤ人なのか、占領地から生きたまま拉致してきた政治将校や捕虜たちだったのか、とにかく、彼らがアドルフ・アイヒマンを通してアウシュビッツの囚人約120名を、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフ各収容所の実験施設へ送ったのは確かである。

それら120名の囚人は「首から上を傷つけぬように」ガスによって殺害され、合成アルコール入りの水槽の中で保存された。ヒルト博士はそれらの死体を細かく解剖。

ヒルトは戦後逃亡先で自殺した。

実験Z マラリア実験

ベルリンのロバート・コッホ研究所所長で、熱帯医学部門長であったクラウス・シリング博士は、1936年の現役引退後も、イタリアでマラリアのワクチンの開発研究を続けていた。1941年末、内務省保健衛生事業担当官のレオナルド・コンティ博士によってダッハウ強制収容所で研究ができることを勧められ、翌2月のはじめから実験を開始。1945年の3月半ばに74歳のシリングが手術を受けるためにミュンヘンにでかけたあと、ヒムラーが実験中止を命令した。(敗戦が近かったからであろうか?)

シリングの3年にわたる実験でおよそ1000人がマラリアに感染させられ、330人が死亡した。

実験[ 双子実験

ベルリン、ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長のオトマール・フォン・フェアシュアーは、双子に関する研究を手広く行っていたが、戦争が始まると弟子のSS大尉、ヨーゼフ・メンゲレ博士をアウシュビッツに送り込んだ。彼はアウシュビッツの降車上に自ら赴いて、何千もの双子を集めてコレクションし、過酷な人体実験を行った。

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ヨーゼフ・メンゲレ

メンゲレは、静脈をつなぎ合わせてシャム双生児を人工的に作ろうとしたり、眼球に薬品を注射して瞳の色を変えようとした。また、チフス菌を注射して病気の経過を血清学的に記録した。また頭蓋骨の収集もぬかりなく行われ、それらの実験報告を師のフェシュアーに送っていた。メンゲレは3000対の双子を人体実験にかけ生き残ったのは100名だけだった。


ある生存者の報告

ある日、私の双子の兄のチビが特別実験のために連れていかれた。メンゲレは、最初から、チビに非常に興味を持っていた。なぜか知らないが、比較的歳のいった双生児であったからかもしれない。

メンゲレはチビを何回となく手術した。脊椎手術で麻痺となり、走れなくなった。

性器も除去してしまった。4回名の手術後、チビには2度と会えなかった。

私の気持ちがどんなだったか、あなたに言えないし、言葉にも表せない。

私は父、母、兄2人を失っていたのに、また双子の兄もなくしてしまった。


メンゲレは1979年に逃亡先のブラジルで海水浴中に死亡した。

実験\ 強制不妊化実験

ナチの歪んだ人種思想は戦争前から活発ではあったが、独ソ戦の開始と共に東方民族絶滅の意志はますます固くなるばかりだった。その手段としてずっと論議されてきたのが、断種措置による強制的な不妊化処置の遂行であった。

ナチの断種の施策は大きく分けると3つの経過をたどった。

薬品による断種

カラジューム・セグイヌム(サトイモ科の観葉植物の一種)を接種することによって、特に男性は生殖不能となるとされ、この植物を大量に栽培しようとするのだがコスト面で実用に耐えないことが分かった。ヒムラーは農業に大変関心が高い男であったため、カラジューム・セグイヌムの構成要素の分析を進め、人体実験を行うべし、との命令を発した。

しかし、これを命じられたコッホ博士はありきたりな動物実験を行うのみにとどめ、命令を事実上サボタージュした。それはあまりに実用性がなく、他の方法がどんどん進んでいたからであった。

放射線による断種

帝国公衆衛生局に所属し、障碍者の断種・殺害計画に関与したヴィクトル・ブラック博士は、放射線による断種の研究と人体実験の許可をヒムラーに求めた。それまで行われていた外科手術に頼る方法では、あまりに労力とコスト面で現実味がなかったからである。

これをヒムラーは許可し、第Uアウシュビッツ(=ビルケナウ)や女性収容所のラーフェンスブリュックで、それぞれ放射線による断種の試みが行われた。若い適齢期の男女は、何の説明もないままに不意に呼び出され、性器や子宮、睾丸付近にレントゲンを照射された。

彼らの多くは火傷を負い、傷口は膿み、そのような体で重労働につかされた。歩けなくなったものは銃殺・ガス殺された。

レントゲン照射後数週間してから、男性囚人は外科的に睾丸を摘出された。レントゲンの効果がどの程度であったかを検証するためであったとされる。しかし、レントゲン照射を受けた囚人たちは局部に重傷を負い、結局は絶滅収容所の中で死んでいった。

ブラック博士は、この不妊化処置を「殺すよりはマイルドな方法」と認識していたらしく、裁判で「絶滅政策を緩和するためにあえて提案した方法だった」と証言した。法廷はこの詭弁を却下し、ブラックを死刑に処した。

子宮内の刺激作用による断種

drclaubergこの方法は、ケーニッヒスヒュッテの医学博士クラウベルク教授によって開発された。教授はもともと卵管閉鎖による不妊を治療する方法を開発して有名になった人物だった。

1933年にナチ党に入党し、その医学の知識を、今度は「下等人種」の断種のために傾けようとしていた。
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クラウベルクはヒムラーと協議し、外科手術を用いることなく不妊化させる方法を話し合った。教授が考えていたのは卵管にホルマリン溶液を注入するという方法だった。ヒムラーはアウシュビッツにクラウベルクの実験施設を作るよう、部下のルドルフ・ヘースに命令した。

約500人の女性がクラウベルクの前に引き出され、狂気の実験の犠牲となった。収容所に響き渡る女性の悲鳴の原因は何のか、あの医師は囚人にいったい何をしているのか調べようと、女性看守が飛んできたこともあったほどであった。

実験により少なくとも7人の女性が死亡。残った囚人のうち、何人がガス室に送られたかは不明である。

教授は1945年にはラーフェンスブリュック収容所へ移り、35人の女性に人体実験を行った。戦後は赤軍に捕まり25年の判決を受けるがのちに恩赦。ドイツに戻るとドイツ当局に再逮捕され、57年、拘留中に死亡した。

実験] 飢餓実験

ナチスドイツのユダヤ人絶滅政策は、経済学と一体不可分であった。一体どれほどのユダヤ人を労働力として活用し、1日に与える食事量はどの程度で、平均してどのぐらいの期間働かせたのち餓死させ、最終的にいついつまでに何人殺すのか……

このような狂気の経済学を日夜考え、そろばんをはじき、実践するために各省庁に協力を仰ぎ……ドイツ人の官僚的気質がこれ以上上等に発揮された機会はなかった。

飢餓実験はいわば、このようないわば「虐殺の経済学」とも呼べるものの産物だった。

慢性的な食糧不良に苦しむドイツで、何百万、ともすれば一千万以上にも及んだソビエト兵捕虜やユダヤ人、障害者、ジプシー、同性愛者に与える食糧はなかった。与えるとしたら、元を取るために働かせるためだった。

ナチ親衛隊上層部とドイツ医師会は結託し、下等人種や民族の宿敵たちを、無駄なく効率よく餓死させる方法を考えあい、実験を繰り返した。

いかにすれば、働かせながら餓死させることができるだろうか。どのくらいのカロリーを与えれば良いのだろう。どのような食事のメニューにすれば良いのだろう。どのような栄養素を継続的に断ち、代わりに何を摂取させれば良いのだろうか。

ナチの飢餓実験が、実を結んだ結論は、囚人に決してタンパク質を与えないことだった。代わりにジャガイモやパンなど、少量の炭水化物を摂取させる。このようにしてゆっくりと確実に餓死させることができるのだ。これは一見食糧を与えているようにも見えるため、諸外国からの批判を交わすためにも有効な方法だった。

知的障害者に対する飢餓実験

ミュンヘン、ハール州立精神病院内のエグルフイング施設にかつて「T4作戦」の実行地があった。「T4作戦」はナチの歪んだ優生学に基づく、身体障害者・精神障害者・発達障害児童の抹殺作戦である。これは39年のポーランド侵攻以前からドイツ国内で水面下で実行されていた。エグルフイングの施設長、ヘルマン・プファンミュラー博士は、ナチ・イデオロギーが掲げる「価値のない命」の概念を強く信じており、T4作戦にも当初から参加していた。

彼は「無駄飯ぐらい」(特に小児)を殺す方法として特殊な飢餓セラピーとでもいうような方法を研究していた。

1939年に心理学の学生がエグルフイングの施設内に見学実習に来た。プファンミューラーはその際学生を小児病棟へ案内した。その時に学生が目にしたものとは・・


15〜25人の1歳〜5歳までの子供が寝かされていた。プファンミューラーはこの病棟で特に詳しく自分の考えを明らかにした。次のように要約される彼の説明は驚くほど率直でかなり強く記憶に残っている。彼曰く、『こいつら(子供たち)はナチ党員の私にとって民族のお荷物だ。殺す(殺るという言い方もした)にしても毒や注射は使わない。外国の新聞や赤十字のお偉方にまた非難されるだけだ。方法は皆さんがわかるようにはるかに簡単で自然なのだ』こう言いながら彼は施設の常勤と思われる看護婦に一人の子供をベッドから引き出させ、死んだウサギでも見せるように皆に見せて、専門家ぶった冷笑を浮かべながら『これはあと2、3日はもつだろう』というようなことを言った。太ったニヤニヤ顔、肉付きのよい手に捕まえられてひいひい泣く骨と皮の子供、周りにうじゃうじゃいる飢えた子どもたち、その光景は目に焼きついている。プファンミュラーは食物の供給を急に止めるのではなく、徐々に減らすと説明していた。



エグルフイングにはいわゆる「飢餓病棟」が2つあった。1943年1月から終戦までの約2年3ヶ月の間、患者に肉や脂肪を与えることは禁止された。

被収容者は野菜、ジャガイモ、1日辺り一切れのパンしか与えられなかった。これはプファンミュラーがかつて在職していたカウフボイレン施設で’効き目’が確認された食べ物で、胃を満たすが、次第次第に目的に導く。脂肪分を与えないと彼らはほっておいても死亡する。これはプファンミュラーによる工夫で、多くの施設で効果が証明されているとされている。

彼の飢餓病棟では子供、大人約444人が飢餓に追い込まれ、餓死させられた。戦後、米軍に逮捕された後、裁判で彼は「安楽死作戦は合法だった。昔からあった考え方(障害者を殺すこと)だった」というようなことを述べたという。彼は6年間収監されたがその後はなんなく出所し、75歳まで生きた。

ソビエト兵捕虜に対する飢餓実験

1941年の秋、ハンブルク大学の講師ハインリヒ・ベルニング博士は、軍衛生局総監督部より「水腫病の医学研究」を委託された。実験の材料に使われるのはソ連兵捕虜で、そのための専門施設がハンブルク=ヴァンツベックに設置された。

ベルニングによれば、飢餓水腫が発生するためには、かなり長期にわたって1日のたんぱく質摂取量が、30gを下回るようにせねばならない、とされた。ベルニングは本物の飢餓水腫を実験によって作り出し、それを観察し、飢えた人間が長い段階を経て体重が減少して行き、すぐに疲れやすくなり、性欲がなくなり、頭痛を覚え、めまいがするようになるさまを記録していた。

また、彼は捕虜の下腹部が膨張する様子を観察している。寒さや労働が水腫を強めた。

ベルニングは餓死した捕虜の胃や腸の形態変化を観察して記録。彼は戦後も偉大な博士として活躍、ナチ時代の実験を裁かれることはなかった。

なぜこんなことが起こったか

ナチ占領地が拡大すると同時に、彼らは大量の劣等人種を獲得した。未曽有の総力戦により、ドイツ人は兵士も銃後も含めて、皆命がけの戦争を戦い、窮乏を耐え忍んでいた。占領地ではお互いの全存在を抹消し尽すほどの殺戮と憎悪の応酬が続いていた。

そんな時世の中、「民族の宿敵」や「足手まとい」が、安全圏で食糧を与えられ、何もせずに安穏と暮らす、なんことを決して許さない人々がいた。それがナチの医学界や、上層部、とりわけハインリヒ・ヒムラーであった。

大量の実験サンプルが入手でき、彼らを一箇所にまとめて閉じ込めることができる今、戦争の勝利のために人体実験を行うのは、ナチ上層部にとっては「当然のこと」であった。

そして、人体実験は激しい人種偏見の賜物であった。ユダヤ人やスラブ人、ジプシーは人間とはみなされなかった。ジプシーを実験材料にすることを拒否する科学者はいたが、それは「人間」と比較することが難しい、という理由だった。

曖昧な人種理論の証拠探しという側面もあった。人種が優れている、劣っているなどというのは、今日においては疑似科学であることは誰も疑わない。何をもって「優れて」おり、何をもって「劣って」いるのかなど、そんな定義が歴史上存在したことは一度としてない。

にもかかわらず、ナチはアーリア人が優秀で、ユダヤ人が劣等だと決めつけた。それは政治が勝手に言い始めたことで、これを裏付けるために科学が総動員された。ナチの医学者たちは血眼になってアーリア人が優秀で、それ以外がそれよりも劣るという「証拠」を見つけようとした。それは髪や瞳の色であったり、顎の形であったり、背の高さであったりした。
http://3rdkz.net/?p=250&page=4


ヒトラーやヒムラーは、理想的な北欧人種とは程遠い外見である。ゲッベルスは足が不自由で身体障碍者である。にもかかわらず、ドイツ国民は「ハーメルンの笛吹き男」が奏でるメロディに踊らされるがままに、ヨーロッパ全土を破壊し、滅亡に追い込んだ。この歴史の奇妙を解明することは、今後においても決してできないに違いない。我々にできることは茫然と立ちすくみ、とりあえず人種差別に反対することだけであろう。
http://3rdkz.net/?p=250&page=5

39. 中川隆[-10751] koaQ7Jey 2019年4月12日 22:46:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1291] 報告

【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内 2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=182

少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。

アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか?

一言でいえば、ドイツ政府が作った、ドイツ民族の敵を絶滅させるための場所です。

ドイツ民族の敵

ユダヤ人だけに限らず、同性愛者、共産主義者、ソビエト兵捕虜、エホバの証人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)……などなどです。(余談ですが「ニート=労働忌避者」も絶滅対象でした)

その他の絶滅収容所

ほかにヘウムノ、ベウジェツ、トレブリンカ、マイダネク、ソビボルなどがありました。アウシュビッツはその中でも最も大きく、最も新しく、最も長く使われた絶滅収容所です。

第Tアウシュビッツ、第Uアウシュビッツ=ビルケナウ、第Vアウシュビッツ=モノヴィッツが存在していました。モノヴィッツは現存していません。

アウシュビッツという名

ポーランドのオフィシエンチムのドイツ語の呼び名です。ドイツの支配領域のほぼ中心に位置していました。

Auschwitzmap

絶滅収容所はポーランドにだけ建設された

戦後間もなくの頃は、ダッハウやマウトハウゼンも絶滅収容所と考えられていましたが、現在はドイツ国内に絶滅収容所はなかったというのが通説です。

収容所長ルドルフ・ヘース

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髑髏部隊出身

1900年生まれ。最終階級はSS中佐。1934年に強制収容所総監テオドール・アイケの下で親衛隊(SS)《髑髏部隊(SS-TV)》へ入隊し、ダッハウ収容所で勤務。収容所官吏としてのキャリアを積む。親衛隊全国指導者ヒムラーによって抜擢され、アウシュビッツ所長に就任してからは、収容所近くに家を構えて、家族と共にそこで暮らし、殺戮を監督した。

250万人殺したと証言

ナチスの黒い虐殺機構の歯車の一部となってからは、一度として上に盾突くこともなく、人々をガスと強制労働と人工的飢餓により殺し続けた。戦後の裁判では250万人を殺したと証言。(アウシュビッツの死者は100〜150万人と推定されている)

絞首刑

1947年にポーランドの人民政府によって絞首刑にされる。処刑の地は皮肉にもアウシュビッツ構内であった。ヘースは死の間際、「人々は私もまた、心を持った一人の人間だったとは信じられないだろう」「命令だから実行せねばならなかった」という言葉を残した。

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ヘースを処刑したという絞首台

アウシュビッツにはどうやって行くのか?

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アウシュビッツミュージアムは一年中誰でも訪れることができます。

バスが便利

国鉄「クラクフ本駅」からバスで1時間40分ぐらい。鉄道でオフィシエンチム駅まで行って歩くことも可能だが、より長い時間がかかる上に、駅からミュージアムまでは20〜30分程度歩くことになる。料金も少し高い。バスがオススメです。

冬季以外はガイドが必要

ガイドを雇うことで、送り迎えを世話してくれます。冬場以外は、アウシュビッツの中に入るには専門ガイドの随伴が必要です。中の案内と送り迎えがセットになっていることもしばしば。詳しくは旅行会社に問い合わせてください。専門ガイドには、有名な日本人ガイドの中谷剛氏がオススメです。ポーランド人のガイドにも日本語を話せる人はいます。

古都クラクフ

クラクフはワルシャワから特急で約3時間程度の場所にある古都です。よく京都に例えられます。旧市街は中世の景観が残る、とても美しい街です。

アウシュビッツミュージアム

開館時間

午前8時だが、閉館は季節によって異なる。冬季は午後3時まで。夏季は午後7時まで入場できます。

写真

撮影は基本的に自由だが、フラッシュは禁止。一部の展示物は撮影禁止。

ガイド

4~10月は第Tアウシュビッツは専門ガイドを雇わなければ入れない。冬季は自由。日本語ガイドは中谷剛氏(3000円ぐらい)。英語がわかるなら英語ガイドのほうが安い(500円ぐらい)。集団ガイドなので英語がわからなくてもついていくだけで参加は可能。でもどうせならじっくり観るためにも日本語ガイドがオススメです。

連絡バス

第Tアウシュビッツと第Uアウシュビッツ間は徒歩で20分。連絡バスが走っているので利用するのが普通です。

写真の紹介

アウシュビッツ博物館は広大で、おそらく丸一日かけたとしても全部見て回ることはできないでしょう。

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第Tアウシュビッツ

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囚人から奪ったトランク

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大量の靴

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同じく食器

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義手義足

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同じく眼鏡

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ビルケナウの鉄条網

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囚人を輸送した貨車

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ビルケナウの囚人バラック

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ビルケナウの全景

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毒ガス、チクロンBの缶

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再建されたガス室

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チクロンBを投下した穴

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焼却炉

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焼却炉の煙突

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ビルケナウのトイレ

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ビルケナウの入り口「死の門」

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囚人頭カポの部屋

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銃刑場

アウシュビッツで何が行われたか?

略奪

ユダヤ人などの絶滅対象の人々は、アウシュビッツに到着するとまず身に着けているものを脱がされ、荷物や物品を略奪されました。金目の物を隠し持っていた場合は大抵その場で銃殺されました。

また、移送前から嘘情報で荷物をたくさん持って来させた上でそれらを略奪したり、トランクだけ別の貨車で運ぶからと、トランクに名前や住所を書かせたうえでそれらを奪ったりしました。トランクの持ち主は大抵家族やコミュニティごと絶滅させられましたので、トランクには引き取り手もなく、博物館に大量に展示されています。

その他、眼鏡、被服、食器、義手義足、靴、ユダヤ教のお祈りの際に使う布など、あらゆるものが略奪されました。ドイツ政府はそれらの略奪品を再利用したり、それができない場合は破棄しました。それら膨大な量の略奪品も博物館に展示されています。

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ドイツ人は略奪した品物の種類や数を几帳面に記録しました

1945年1月、アウシュビッツを解放したソ連軍は、倉庫内に大量の仕分けられた略奪品が残されているのを発見しました。また、記録によれば、解放前の一か月間で大量の物資がアウシュビッツから持ち出されたことがわかっています。それでも運びきれなかった品はSSが倉庫に放火して証拠を消そうとしましたが、それらはあまりに膨大な量で、全ての証拠を消しきることはできませんでした。

労働を通じた絶滅

ドイツ人は囚人の食事を極限まで減らした上で、最大の労働効果をあげようとカロリー計算までしていたそうです。囚人が厳しい労働を通じて死んで行くことが望ましかったのです。

石切り作業や土木工事などの厳しい労働に駆り出された者たちは短期間で死亡しました。反面、厨房作業員はつまみ食いできたので人気の仕事でした。また技術者や医療従事者は優遇されました。死体の片付けや荷物の仕分けなどを行うゾンダーコマンドはかなり食事を優遇されましたが、証拠隠滅のため数か月おきに全員処刑されました。

カポという囚人頭はほかの囚人を暴力で統率しました。食事を優遇され、個室も与えられたといいます。カポになれたのは主にドイツ人刑事犯など、比較的ナチ思想のヒエラルキーの中では高い地位にいた者たちです。カポは囚人ではありましたが、残虐行為を働いたとして戦後訴追された者もいます。

囚人に階級をつけ、食糧に差をつけることで、彼らがお互いに憎みあうように仕向け、団結することを防ごうという目論見があります。

ガス殺

第Tアウシュビッツに1つ。第Uアウシュビッツに4つのガス室と焼却場から成る「クレマトリウム」という巨大な施設がありました。囚人たちはアウシュビッツに到着するとまず「労働可能」「人体実験」「無価値」と三つに分けられました。「無価値」と認定された者は即座にガス室へ送り込まれて殺害されました。

「無価値」と認定されたのは主に身長120cm以下の児童、妊婦、老人、病人、障碍者です。

また収容所のひどい環境で働けなくなった病人や衰弱した者はすぐに殺されました。

医学実験

アウシュビッツでは、「死の天使」と呼ばれたメンゲレ医師をはじめ、たくさんの医師がいました。彼らは囚人を使って本国では試せないような人体実験を行っていました。外科手術の練習をしたり、双子を用いた奇妙な実験がその代表です。


第V収容所 26 shares 4 users
【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。目次実験T 低圧・低温実験実験U 海水...

拷問・公開処刑

14万の収容者に対して、警備兵は数千名でした。しかもそのほとんどはウクライナ人の傭兵で、ドイツ人のSS隊員は多くありませんでした。

秩序を維持するため、警備兵は囚人をことあるごとに虐待し、拷問を加え、公開処刑にしました。木の杭に縛り付けたり、鞭打ち刑など拷問メニューは多岐にわたりました。

囚人たちは、SSやウクライナ兵に目をつけられないよう、目立たぬように振る舞い、決して彼らと目を合わせませんでした。

戦後、アウシュビッツはどのように語られたか

死者数

1945年1月27日にアウシュビッツはソ連軍によって解放されました。戦後、ニュルンベルク裁判で、アウシュビッツの死者は400万人と認定され、所長ルドルフ・ヘースは絞首刑にされました。

しかし、ソ連崩壊後に新たな資料が開け放たれ、アウシュビッツでの死者はもっとずっと少ないことが分かりました。今では100〜150万人説が有力です。

総勢はあまり変わっていない

ただし、ホロコースト全体で、ユダヤ人の犠牲者は500〜600万人説が有力で、これは昔からあまり変わっていません。絶滅収容所はアウシュビッツの他に5か所もありましたし、特殊部隊アインザッツグルッペンや警察、地元傭兵などによる移動抹殺作戦による死者は90〜250万人に上ると推定されています。また、ソビエト兵捕虜は劣悪な環境下で人工飢餓による虐殺で、200〜300万人が殺されたと見られています。

その他、《夜と霧》政策や《T4》作戦による犠牲者、通常の戦闘による死者をあわせるとナチズムによって命を失った人は、ヒトラーが政権をとってから、たったの12年間で2000万人以上という推計もあります。


終わりに

最初は野次馬根性で行ったことは否めませんが、実際行ってみるとけっこうひるみます。しかし、いまだにここで行われたことに現実味を感じられないでいます。想像をはるかに上回って広い場所で、第Vアウシュビッツ=モノヴィッツは40の下部収容所を傘下に収めていたそうで、なおその広さを想像することができません。

あまりに途方もない規模で行われた犯罪であるため、アウシュビッツやホロコーストの全貌はいまだに解明されていない部分も多くあります。特に、上記したようにモノヴィッツには謎が多いです。色々と興味深い場所なのは確かなので、クラクフを訪れた際には一度見て行かれてはいかがでしょうか?
http://3rdkz.net/?p=182

40. 中川隆[-10759] koaQ7Jey 2019年4月13日 19:57:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1286] 報告

『ヒトラー思想』とは何か ーまとめ 2017/7/31 ニッチな世界史


『ヒトラー思想』が降りてきた……

2016年7月26日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に男が侵入し、わずか1時間程度の間に45人の入所者を殺傷する事件が起きました。犠牲者は全員体や脳に重い障害を負っていました。犯人は自ら出頭し、その場で逮捕されました。その男の名は植松聖(26歳)。彼が精神病院へ措置(=強制)入院中に医師に話したとされる言葉……それが冒頭の『ヒトラー思想』です。

数々のメディアが、ナチスドイツの障害者絶滅※政策「T4作戦」に注目し、各所で歴史の見直しと考察がなされましたが、どれもこれも表層をなぞるのみに終始し、根本的な理解が得られたようには思えません。ヒトラーがなぜ「T4作戦」を許可したのか、そしてなぜ途中で中止命令を出したのか、中止命令が出されたのにひっそり続けられたのは何故なのか、そもそもT4作戦がいかなる規模でどのような官僚制度のもとで現実に実行されたのか、あなたは答えられますか?

※よく「安楽死」と表現されるんですが、現実にはディーゼルエンジンの排気ガスで窒息死させたり(死ぬのに1時間以上かかりました)、穴を掘らせてその淵で銃殺するなどの方法がとられ、「安楽死」などと呼べるものではなく、「安楽死」という表現はナチスのプロパガンダです

「T4」は『ヒトラー思想』の副産物のひとつにすぎない、と思います。
ナチスが政治的人種的にスケープゴートに定めたのは、多岐にわたります。反政府活動家、社会主義者、民主主義者、同性愛者、エホバの証人、労働忌避者(ニート)、精神障害者、、、、、様々ですが、最も大きなカテゴリーに属し、人種の最も憎むべき宿敵と規定されたのがユダヤ人です。

あるナチス親衛隊員は「西には職務が、東には国会社会主義の使命がある」と言いました。
『国家社会主義の使命』は、もちろんユダヤ人の絶滅を意味する言葉です。当時、ヨーロッパユダヤ人のほとんどは東ヨーロッパに点在し、それぞれで巨大なコミュニティを築いていたのです。

『ヒトラーの思想』はシンプルでしたが、既存のレジームを都合よく解釈しながらも極めて独創的であり、狂気と言えるぐらいに首尾一貫としていました。ヒトラーはそんなユニークなポリシーを頑として曲げることなく冷徹に実行しようとしましたし、その戦略は高度な計算に基づいていました。

冷酷な独裁者と言われ、高度な文明国ドイツで突如、ナチ党を率いて政権の座に就いた男……彼が何を考えていたのか、本当に理解している人は少ないでしょう。ヒトラーに関するあらゆることは、正確さに欠けていたり、偏見や決めつけで凝り固まっていたり、半ば伝説化している場合さえあります。『慶應義塾大学出版界』発行の『ブラックアース』や、ヒトラーの著作『わが闘争』、彼の発言集『ヒトラーのテーブルトーク』などを探りながら、『ヒトラー思想』の源流と基礎をまとめます。
http://3rdkz.net/?p=535


引用・参考文献


ブラックアース ―― ホロコーストの歴史と警告 – 2016/7/16
ティモシー・スナイダー (著), Timothy Snyder (著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/gp/product/476642350X/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=476642350X&linkCode=as2&tag=hissyo-22&linkId=e2ae00fd1ae5f816dc6aa799a558b924
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B9-%E4%B8%8B-%E2%80%95%E2%80%95-%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%AD%A6%E5%91%8A-%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC/dp/4766423518/ref=pd_bxgy_14_2/357-1870605-3709858?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4766423518&pd_rd_r=d29c5dfe-5dd9-11e9-a230-71060148e53d&pd_rd_w=JvWvO&pd_rd_wg=eMk6B&pf_rd_p=2d39d87c-5ff4-47a9-a2d0-79fb936a2d97&pf_rd_r=6FV19F1N0G1MN8V1AY3D&psc=1&refRID=6FV19F1N0G1MN8V1AY3D


わが闘争―民族主義的世界観(角川文庫) – 1973/10/1
アドルフ・ヒトラー (著), 平野 一郎 (翻訳), 将積 茂 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/404322401X/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=404322401X&linkCode=as2&tag=hissyo-22&linkId=4ace054e38906a46877a22f7c451c983
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%81%8C%E9%97%98%E4%BA%89-%E4%B8%8B-%E2%80%95%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E9%81%8B%E5%8B%95-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4043224028/ref=pd_bxgy_14_2/357-1870605-3709858?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4043224028&pd_rd_r=fd06d31b-5dd9-11e9-ab87-0d49d2c4ad6d&pd_rd_w=fCukH&pd_rd_wg=B4kLt&pf_rd_p=2d39d87c-5ff4-47a9-a2d0-79fb936a2d97&pf_rd_r=N68XH7NKJFH94YKT618V&psc=1&refRID=N68XH7NKJFH94YKT618V

ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944 – 1994/12/1
アドルフ・ヒトラー (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4879191221/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4879191221&linkCode=as2&tag=hissyo-22&linkId=53690086f993f297dc5b8a1861c91fc5
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF1941%E2%80%901944%E3%80%88%E4%B8%8B%E3%80%89-%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/487919123X/ref=pd_bxgy_14_2/357-1870605-3709858?_encoding=UTF8&pd_rd_i=487919123X&pd_rd_r=288bb98b-5dda-11e9-b5a3-69c22e5fd3ff&pd_rd_w=iXm6b&pd_rd_wg=WM9QJ&pf_rd_p=2d39d87c-5ff4-47a9-a2d0-79fb936a2d97&pf_rd_r=G1G005QDT64Z89T6B3YE&psc=1&refRID=G1G005QDT64Z89T6B3YE

イェール大学教授ティモシー・スナイダー教授著『ブラックアース』序章に「ヒトラーの世界」と題す短いチャプターがあります。訳文自体は硬くて読みにくいですが、ここに『ヒトラー思想』がシンプルにまとめられていますのでオススメしたいと思います。以下は、大部分が『ブラックアース』からの引用です。

ヒトラー思想@ 人生は土地を求める闘い

ヒトラーの世界観の中では、ドイツ人はわずかな土地から必死で食糧を掘りだそうとする存在ではなかった。土地は食糧の供給を意味したが、その土地からより多くの恵みを得ようという、農業のイノベーションをヒトラーは拒絶した。しかるに、食べ物をより多く得るために、自然の中で動物に過ぎない人間が行うことはただ一つであった。それは敵の土地を征服することであり、新たな土地を獲得することだった。それはドイツ人種の生存と豊かな生活を約束したのだった。

比較的に新しい陸軍国たるドイツは、英仏をはじめとする海洋国家に対して植民地獲得競争に乗り遅れていた。新たな領土として野心の対象となったのは、ロシアやそれに従属する東ヨーロッパ諸国の領土である。彼らから土地を没収するのを正当化するための、スラヴ人を奴隷と捉える人種イデオロギーが必要とされたのだ。

ヒトラーの思想は、ユダヤ人を反「自然」反「人種」として捉え殲滅することを正当化するイデオロギーと、スラヴ人から土地を奪取し、彼らを奴隷化することを正当化するイデオロギーの、大きく二つに分かれた。ヒトラーは、当時自然科学として人々の間で隆盛を誇った「優生学」「ダーウィニズム」「ニヒリズム」「マルクシズム」「心理学」「一元論」「唯物論」などなどを曲解・歪曲することで思想的根拠とした。また、ヒトラーは、聖書や神の言葉など、人々に根付いた伝統的な宗教観や道徳観を刺激し、独自解釈することで理論を補強した。その思想は、ゲッベルスをはじめとした天才的なプロパガンディストたちによって繰り返し大衆へ伝えられたのだ。

ヒトラーだけでなく、当時のドイツ人の多くは第一次大戦中の英海軍による海上封鎖によって、数十万人のドイツ人が餓死するという苦い心的外傷を記憶していた。この時優先的に食糧を配給されたのは兵士など戦争に役立つ人間であり、多くの障害者や病人は冷遇され、食糧を剥奪されて餓死した。戦争に役立たない人間から食糧を奪う、ということは当時から行われていたのだ。ヒトラーはこの苦い記憶から、食糧を確保することが何よりも生存と支配の原理を維持するのに大切であると学んだ。ヒトラーの観ずるところ、食糧を与えたり奪取したりする権力を単独で保有するイギリスこそ、世界経済を支配する黒幕なのである。ヒトラーは英国人以外の誰もが食糧保証が欠如している現状を「平時の経済戦争」と呼んだのである。食糧を確保することは、権力の一形態であるばかりか、それを恒久的に保証さえしたのである。

とはいえ、ヒトラーはイギリスを打倒すべき敵とは見ていなかった。イギリスは人種的に血縁であり、世界中に大帝国を築いたので敬意を払うべき存在であった。見習うべき偉大な海洋国家と見ていたのだ。大英帝国とのハルマゲドンを避けつつ、新興の陸軍国であるドイツを世界的強国にし、しかるのちにイギリスと同盟を組むことが彼の夢であった。西へ行っても英海軍にはとても叶わないから、英国を脅かすことのない東方へ野心が向かったと思われるのだ。

ヒトラー思想A 人間は動物

ヒトラーは人間を動物だと思っていた。そこに妥協や甘えは一切なく、強い種が弱い種から奪い、餓えさせるのは当然にして唯一の理だった。弱者に対する情や憐みは造物主に対する罪だった。

ヒトラーは人種の違いを、動物の種の違いと同じものだと考えていた。優良人種は能うかぎり劣等人種から奪い続けるべきであったし、捕食して生き残り凱歌を上げるべきであった。優良人種は劣等人種とは異なり、進化を続けているし、よって異人種間の交配はあり得ることだが大変罪深いのだ。動物がそうであるように、種は同じ種と交配するべきであったし、異種はあらゆる手段を動員して絶滅させるべきだった。ヒトラーにとってはこれこそが法であった。重力の法則と同じぐらい確かな人種闘争の法であったのだ。この闘争は果てることなく続くかも知れなかったし、勝利して凱歌を上げることもあれば、敗北し、餓えて消滅することもまたあり得るのだ。ヒトラーはそのような思想で世界を見ていたのである。

ヒトラー思想B 弱者の保護は反「自然」

ヒトラーにとって「自然」は非凡で獣的で圧倒的な真実だったし、他の考え方をしようとする歴史は丸ごと幻想だった。ヒトラーの世界ではジャングルの法が唯一の法であった。人々は慈悲の念を持とうなど欠片も思ってはならない。ナチス法理論家のカール・シュミットは「政治は我々が抱く敵意から生じるのだ」と説明した。「我々の人種的な敵は生まれつき選ばれているのであり、我々の仕事は闘い、殺しあうことだ」と。弱者は強者に支配されるべきだった。闘争はヒトラーにとってアナロジーやメタファーなどではなく、まごうことなき真実そのものであった。

ヒトラーの闘争では、つかめるものをつかまないのは人種に対する罪であり、異種の生存を赦すのも人種に対する罪だった。慈悲の念は、弱者が繁殖するのを赦すので事物の秩序を冒すとみなされた。ヒトラーの言では、十戒を拒むのこそまずやらねばならぬことだった。万人の万人に対する闘争はこの宇宙の唯一の理だった。「自然」は人類にとっての資源だったが、それはすべての人間を意味せず、勝利した人種のためのものであった。

勝利し凱歌を上げた人種は交わらなければならない。ヒトラーの理論では、殺人の後に人類が為すべきことはセックスであり、繁殖することだった。ヒトラーにとってみれば、我々の不幸な弱点は、我々が考えることができ、異人種も同じことができると納得してしまい、そのことで異人種を同胞と認めてしまえることにあった。ヒトラーの天国は絶え間ない闘争とその結果だった。人類がエデンを追われたのは、性交によってではなく、善悪をわきまえたからであった。

弱者を率先して絶滅させ、強い者だけが糧を得る…これこそがヒトラー思想の根幹である。ヒトラーの代理執行人ヒムラーに言わせれば、大量殺戮へ参加することは良き振る舞いであった。というのも、大量殺戮は「自然」を取り戻すことを意味したし、人種内部に、共通の敵を倒しその罪悪感を共有するという、美しい調和をもたらしたからだ。

ヒトラー思想C この惑星の「自然」な状態を歪ませたのはユダヤ人

ヒトラー思想は単純に、人間を動物とみなして弱者からの収奪を正当化することであったが、その「自然」な状態を歪ませたのはユダヤ人であった。
http://3rdkz.net/?p=535&page=2

ヒトラーにとって、第一次大戦の敗北はこの惑星の秩序が破壊され、この世界の全ての枠組みに歪みが生じている良い証明だった。ヒトラーはユダヤ人が「自然」の秩序を支配してしまったことの証しと捉えたのだ。このヒトラーの理解は、当時の同胞ドイツ人の土地をめぐる怨嗟やナショナリズムとは一線を画していた。
「国内に巣食うユダヤ人を戦争の最初にガス殺さえしておけば、ドイツは勝利していただろう」と、ヒトラーは主張した。

ヒトラーによれば、この惑星の「自然」の秩序を、人々に善悪の知識をもたらすことによって破壊したのはまごうことなくユダヤ人であった。人類に向かって、人類は動物よりも高位の存在であり自ら未来を決定する能力を持っていると最初に告げたのはユダヤ人だった。ヒトラーは自らが思い描く血塗られたエデンを取り戻すことが自分に課せられた運命であると悟った。ホモ・サピエンスは誰にも抑制されることなく人種間の殺戮を続けることによって繁栄するはずであった。ユダヤ人が言うように、人々が善悪をわきまえ、異種を同胞とみなし、衝動を抑制して理性的に振る舞えば、種は終焉を迎えてしまうのだ。

仮にユダヤ人が勝利すれば、彼は続ける。
「さすれば勝利の王冠は人類にとっての葬儀の花輪になるだろう」

ヒトラーは徹底した人種論者だったが、ユダヤ人が人種であることは否定した。彼に言わせれば、ユダヤ人は優等人種とか劣等人種とかいうものではなく、人種に非ざるもの、「反人種」であった。人種たるものは本能の赴くままに食べ物と土地を求めて闘うのだが、ユダヤ人はそのような「自然」とは相反する論理に従っていた。ユダヤ人は異種の土地を征服して満足するのを否定し、「自然」に抗しようとしていたし、他の人種にもそれを勧めた。地球が人類に提供するのは血と大地以外なかったが、ユダヤ人は薄気味の悪いやり方でこの世界を歪めていた。政治的な互恵性の発達や、人間が他の人間をやはり人間であると認める習慣は、ユダヤ人から発したのだ。

人間は動物であり、倫理的な熟考を重ねることなどそれ自体がユダヤ的腐敗の徴なのだ。普遍的な理想を掲げそれへ向けて精一杯努力することそのものが、まさに忌むべきことなのだ。数千の死の穴で朽ち果てた何十万もの屍を眺めるのに精神的疲労を起こすのは、陳腐なユダヤ的道徳が優越している証しなのだ。殺害への心労は、人種の将来への価値ある犠牲に過ぎないのである。

ヒトラー思想D 人種への忠誠が全てを正当化する

ヒトラーの考えでは、いかなる反人種的態度もユダヤ的であったし、いかなる普遍的考えもユダヤ支配のからくりであった。資本主義も共産主義もユダヤ的であった。それらが見かけ上闘争を容認したとしても、単にユダヤの世界支配の隠れ蓑に過ぎない。国家や法という抽象概念もユダヤ的である。
「国家自体が目標である国家など存在しないのだ」と彼は言う。
「人間の最高の目標は何処か特定の国家なり政府なりを維持することではなく、その種を維持することである」
かりそめの国境線など、人種闘争によって自然に洗い流されてしまうだろう。

法も同じように捉えられた。法も人種に尽くすために存在するべきなのであった。ヒトラーの個人的弁護士であり、占領ポーランド総督のハンス・フランクによれば、人種を外れたいかなるものにそった伝統も「血の通わぬ抽象」なのである。法はフューラーの直覚を成文化する以上の価値を持たない。
カール・シュミットによれば、法は人種に奉仕し、国家は人種に奉仕したので、人種が唯一的を得た概念だった。外的な法的基準や国家の概念など、強者を抑圧するために目論まれたまがい物に過ぎないのだ。

ヒトラー思想E ユダヤ人を取り除くことで、この惑星は「自然」の秩序へ復する

ヒトラーにとっては、人類の歴史など存在しないも同然だった。「世界の歴史で起きたことなど、善かれ悪しかれ人種の自己保存本能のあらわれだ」と彼は喝破した。記憶に留めるべきは、ユダヤ人が自然界の構造を歪ませようとする絶え間ない試みだけだった。この試みは、ユダヤ人が地球に存在する限り続くだろう。
ヒトラーは言う。「秩序を常に破壊するのはユダヤ人どもだ」

強者は弱者を飢えさせるべきだが、ユダヤ人は強者が飢えるように事を運ぶことができた。これは「存在の論理」を侵害しているのだ。ユダヤ思想によって歪まされている宇宙においては、闘争は思いもよらぬ結果を招くことがあり得た。適者生存どころか適者の飢えと消滅である。

この論理では、ドイツ人はユダヤ人が存在している限り常に犠牲者となろう。最優良人種として、ドイツ人種は最大のものを受けるに値するはずなのに、失うもののほうが大きいのだ。ユダヤ人の反「自然」はドイツ人種の未来を殺すのである。ユダヤ人がドイツ人を飢えさせている限り、世界は不均衡の最中にあるのだ。

1918年の敗北から、ヒトラーは将来の戦争について結論を引き出した。ユダヤ人がいなければドイツ人は常に勝利するだろう。しかし、ユダヤ人がこの惑星の全てを支配しているし、その思想をドイツ人にさえも浸透させている。

ドイツ人種の闘争は否応なく二種の目的を持つことになった。劣等人種を飢えさせその土地を奪うことに加え、健全な人種闘争を台無しにしてしまうグローバルな普遍主義を掲げるユダヤ人を打倒する必要があったのだ。出会う人種を支配するのと同時に、彼らをユダヤ支配から解放する責務をおっていた。領土を求めて劣等人種と闘争するのは地球の表面をめぐる争いに過ぎないが、ユダヤ人に対する闘争はそれと異なり生態学的だった。それは特定の敵人種や領土を巡る戦いではなく、地球上の生命の条件に関わるものだったからだ。ユダヤ人は「黒死病よりも悪い疫病、精神的な疫病」なのである。
http://3rdkz.net/?p=535&page=3

ユダヤ人は思想を持って戦うので、彼らの力はどこに行っても見られたし、誰もが自覚のあるなしにかかわらず工作員になり得た。

そうした疫病を取り除く唯一の方法は絶滅だった。仮にユダヤ人家族が一家族でもヨーロッパに残っていたなら、ヨーロッパ全体にその思想を感染させることができたのだから。ヒトラーは言った。ユダヤに毒された惑星は癒すことができると。
「ユダヤ人を取り除いた民族は、自ずと自然の秩序に復する」
「自然」はヒトラーによれば、二種類しかあり得なかった。まず、優良人種が劣等人種を虐殺する天国。もう一つは超自然的な存在であるユダヤ人が、優良人種に当然得るべき恩恵を与えず、可能な場合には飢え死にさせてしまう堕落させた世界であった。

ヒトラー思想F 国家や政府、法の支配が失われた場所でのみ、ユダヤ人を打倒できる

ヒトラーの観ずるところ、世界の問題はユダヤ人が誠実さのかけらもなく科学と政治とを分離し、進歩と人類愛について偽りの約束をばら撒いたことだった。ヒトラーが提案した解決方法は、ユダヤ人をして、自然と社会は一にして二ならぬものだという残忍な真実に触れさせることだった。ユダヤ人は他の者達から分離し、どこか侘しい荒れ果てた土地に住まわせるべきなのだ。ユダヤ人は彼らの反「自然」が他の人間達をユダヤ人に惹きつけるという点で力を持っていた。けれど、ユダヤ人は、残忍な現実に直面できないという点で弱かった。どこか野蛮な土地に再定住させれば、ユダヤ人も超自然的な観念で他の者達を操ることはできなくなるし、ジャングルの法に屈するようになるだろう。ヒトラーの当初の強迫観念は自然環境の最たるもの、「ある島における無政府状態」であった。後にヒトラーの考えはシベリアの荒れ野に向けられた。ユダヤ人がどこに送られようが「関心事ではない」とヒトラーは述べた。

ヒトラーがそう述べてからほぼ一ヶ月後の1941年8月に、ヒトラーの親衛隊やドイツ警察・国防軍は、ヨーロッパのど真ん中、政府を解体し国家を破壊した無政府状態のウクライナで、一時で万という単位のユダヤ人を銃殺し始めたのだ。

※※※※※※※※

終わりに

いかがですか?『ヒトラー思想』の一端がうかがえたでしょうか?『ヒトラー思想』は端的に言って弱肉強食を正当化する思想ですが、一口では語れない複雑な人種観を孕んでもいます。

強者は弱者から奪うべき。それこそが正義である…このような思想は魅力的です(特に男性にとっては)。この「秩序」に、何ら罪悪感に苛まれる必要もなく従えば良い、それこそが種を強化する、望ましい。正義である……これこそが『ヒトラー思想』の根幹です。彼に言わせれば、障害者や病人を慈しむことでさえ、強者を飢えさせようとするユダヤ的陰謀なのです。

しかるに、相模原で事件を起こした植松に、ヒトラーの如き深遠な人種観があったでしょうか?彼は単なる無学なアジア人です。深い考えがあったはずありません。彼は単にT4作戦の歴史を見て、特に思想も主義もなく自分の日ごろの鬱屈を弱者にぶつけただけです。それを『ヒトラー思想』だとこじつけてもっともらしくパフォーマンスしただけであり、それは明らかな間違えであり、見当違いです。

強者を崇拝する価値観は今もなお男子たる我々を惹きつけてやまないのは確かなのですが(それは弱者の否定とほとんど同じことです)、それを声高に訴えた国が、たったの12年で自滅に近い形で崩壊した歴史を、我々は忘れるべきではないでしょう。
http://3rdkz.net/?p=535&page=4

41. 中川隆[-10683] koaQ7Jey 2019年4月18日 21:16:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1372] 報告

すべて演技と演出だけだった天才ヒトラーの人生

HITLER (DC)(全06回)

HITLER (DC) 01|THE OPPORTUNIST イメージ戦略の秘密 - YouTube
HITLER (DC) 02|THE ACTOR 救世主の誕生 - YouTube
HITLER (DC) 03|THE FUHRER 人種差別への道 - YouTube
HITLER (DC) 04|THE VICTOR 勝利の陰で - YouTube
HITLER (DC) 05|THE MONSTER 挫折と堕落 - YouTube
HITLER (DC) 06|THE DOWNFALL 破滅へのカウントダウン - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bTZJE9Ijl4I&list=PLBjWXHGDgc8YGJdoDHkBXhMGtKWlEn7Yu&index=1
https://www.youtube.com/results?search_query=HITLER+%28DC%29+&sp=mAEB

42. 中川隆[-10682] koaQ7Jey 2019年4月18日 21:18:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1373] 報告

すべて天才ヒトラーの演技と演出に騙されたドイツ人の自己責任だった:


【第二次世界大戦】 WWU in Color (BBC)
(全13回:内、第09、11、13回は欠番)
https://www.youtube.com/watch?v=Au6y9Ukvvy0&list=PLBjWXHGDgc8ah3CwUVvVBpE8kKYVYlrCQ
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%80%90%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%80%91+WW%E2%85%A1+in+Color+%28BBC%29&sp=mAEB

43. 中川隆[-10654] koaQ7Jey 2019年4月20日 13:45:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1407] 報告

天才ヒトラーは薬物中毒で破滅した


ヒトラーのカルテ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=9y68Yndc5SU

ヒトラーの様な覚醒剤中毒者が経験する被害妄想と恐怖体験はこの動画に上手く描写されています:


【ホラー】 コワイ女 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=1hDMX_hkZhw
https://www.youtube.com/watch?v=NWMWyqr2gfI

▲△▽▼

覚醒剤中毒者を敵にまわすとこういう目に遭う:

エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン
Job-Wilhelm Georg Erwin von Witzleben


ヒトラーはあらかじめ

「陰謀者たちの死の苦しみをできるだけ長くせよ。連中にはいかなる慰めを与えてはならない。連中を家畜の生肉の様に吊るせ。」

と命令、ヴィッツレーベンの絞首刑執行は上半身裸にし、ピアノ線の輪に首を通し時間をかけて首を絞め、さらに執行人たちは苦しみもがく被処刑者のズボンを脱がすなど、徹底して人間としての尊厳を傷付ける、非常に残忍な方法で処刑したという。


エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン(Job-Wilhelm Georg Erwin von Witzleben, 1881年12月4日 - 1944年8月8日)は、ドイツの軍人。

第二次世界大戦中のドイツ国防軍陸軍元帥。ヒトラー暗殺計画に加担して処刑された。


ヴィッツレーベン家はテューリンゲンに起源を持つ由緒ある貴族の家系で、代々軍人を輩出してきた。ヴィッツレーベンはそのプロイセン王国の分家にブレスラウで生まれた。プロイセン士官学校を卒業後、1901年に少尉として「ヴィルヘルム王」擲弾兵連隊に配属される。1910年、中尉に昇進。

1914年に第一次世界大戦が始まると第19後備歩兵旅団長副官を務め、10月に大尉に昇進し後備第6歩兵連隊で中隊長となった。のち同連隊で大隊長に任命される。ヴィッツレーベンはこの大戦でヴェルダン、シャンパーニュ、フランドルの戦いに従軍し、重傷を負って第一級と二級鉄十字章両方を受章した。回復したのち1918年に参謀教育を受け、終戦時は第121歩兵師団で主席参謀を務めていた。

ヴァイマル共和政でも軍に残り、中隊長となる。1923年、第4師団参謀の少佐としてドレスデンに転属。1928年、第6歩兵連隊で大隊長となり、翌年中佐に昇進。1931年、大佐に昇進し第8連隊長に補される。1933年、ハノーファーの第6軍管区歩兵部隊指揮官に転じる。1934年、ドイツ国防軍と名を改めた軍で少将に昇進し、ポツダムの第3歩兵師団長に就任。ヴェルナー・フォン・フリッチュの後任としてベルリンの第3軍管区司令官となったのち、中将に昇進して1935年には第3軍団司令官となった。1936年、歩兵大将に昇進。


反ナチ運動

1934年の「長いナイフの夜」でシュライヒャー前首相やフォン・ブレドウといった軍人が不法に粛清されたとき、ヴィッツレーベンは国防軍首脳に対して特別調査委員会の設置を要求しており、以降ナチ党に対する反対者となっていた。1938年2月、ヒトラーの戦争を辞さない外交政策に反対した陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュに対する、ナチ党の失脚工作の不法も非難した。

同年のズデーテン危機の際は、ベック参謀総長、カナリス国防軍情報部長、ヘプナー中将、シュテュルプナーゲル参謀次長らといった将官と共にヒトラー打倒のクーデターを計画し、首都ベルリンの駐留部隊をおさえているヴィッツレーベンは大きな役割を担っていたが、ミュンヘン会談でヒトラーが成功を収めてしまったために中止となった。1938年11月、フランクフルト・アン・デア・オーダーの第2軍団司令官に左遷。翌1939年もハンマーシュタイン=エクヴォルト上級大将によるクーデター計画に加わり、演習を視察するヒトラーを逮捕する計画だったが、これも成功しなかった。

第二次世界大戦が始まると、ヴィッツレーベンは上級大将に昇進して西部戦線の第1軍司令官に任命された。1940年5月のフランス侵攻ではレープ上級大将のC軍集団隷下でドイツ第1軍を指揮した。6月14日にマジノ線を突破し、フランス軍部隊を降伏に追い込んだ。この戦功で騎士鉄十字章を受章。さらにフランス降伏後に多くの同僚と共に陸軍元帥に昇進した。1941年にはゲルト・フォン・ルントシュテットの後任として西方軍司令官に任命されたが、1941年6月に開始されたバルバロッサ作戦後に彼はヒトラーを再び非難し、病気を理由に更迭された。


陰謀と処刑

1944年7月20日の、ルートヴィヒ・ベック元参謀総長やクラウス・フォン・シュタウフェンベルクを中心とするヒトラー暗殺計画「ヴァルキューレ作戦」において、ヴィッツレーベンはクーデター成功の暁には国防軍総司令官就任が予定されていた。「ヴァルキューレ」発動に伴う作戦命令は、ヴィッツレーベンの名によって出された。彼はクーデター派の軍事的最高位の人物であったが、当日は積極性を欠いていて出遅れた感が有ったのは否定できないだろう。正装して元帥杖を持ち、クーデター派の“作戦遂行司令部”ベルリン・ベンドラー街の国内予備軍司令部に現れたのは、ようやく午後8時頃。その頃にはクーデター失敗が明らかになっていた。彼はシュタウフェンベルクらの不手際を非難し、これ以後の協力を拒否し、1時間ほどで司令部から退去。ベルリンから約80kmほど離れた友人の荘園に潜伏したが、翌21日正午頃そこで逮捕された。

軍籍にある者は、民間人を対象とする普通裁判ではなく、軍法会議で裁かれるのが通常である。ヒトラーは被告人全てをローラント・フライスラーが裁判長を務める人民裁判所の公判に付すように命令した。このために軍籍にある被告人は、先ず8月2日に設置されたドイツ国防軍名誉法廷(de)で審問されて軍籍を剥奪された上、ナチス党の特別裁判である人民裁判所に委ねられた。国防軍の名誉法廷に関わった軍人はルントシュテット元帥を長としてカイテル、シュロート、キルヒハイム、クリーベル、グデーリアンである。ここでフォン・ヴィッツレーベン元帥を含む55名が軍籍を剥奪された。

1944年8月7日、ヴィッツレーベンとヘプナー、ハーゼ、シュティーフ、ベルナルディス、ハーゲン、クラウジング、ヴァルテンブルクの合計8人は共に人民裁判所での最初の見せしめ報復裁判にかけられ、その裁判の模様は映像が残っている。裁判長フライスラーは開廷にあたり、ヴィッツレーベンに「名誉ある国民のみに許される」ナチス式敬礼をすることを禁じた。獄中でゲシュタポの厳しい取調べを受けて痩せたヴィッツレーベンは、わざとサスペンダーやベルトを外して出廷させられ、始終ズボンを腰のところで押さえていなくてはならなかった。その姿をフライスラーは「見苦しい!何故ズボンを弄くっているのかね?この薄汚い老いぼれめ!!」と嘲笑した。翌8月8日、ヴィッツレーベンは死刑の判決を受けたが、その際フライスラーに向かってこう言い返した。

「 君は我々を死刑執行人に引き渡す事が出来る。だが3カ月もすれば怒り苦しめられた民衆が君にツケを払わせ、君は生きたまま路上を引きずり回される事になるだろう 」


ヴィッツレーベンら政治犯が処刑された、ベルリン・プレッツェンゼー拘置所の一室。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3#/media/File:Gedenkstaette_Ploetzensee01.jpg


部屋の奥にある梁に吊るされ処刑された。


8月8日の夕刻、ベルリンのプレッツェンゼー刑務所の処刑場。レールのような鉄の梁に肉を吊るす鉤とピアノ線のようなワイヤーロープが垂れ下がる。

7月20日事件に関し、人民裁判所で死刑判決を受けた被告人のうち、ヴィッツレーベンは最初に絞首刑にされた。ヒトラーはあらかじめ

「陰謀者たちの死の苦しみをできるだけ長くせよ。連中にはいかなる慰めを与えてはならない。連中を家畜の生肉の様に吊るせ。」

と命令し、神父・牧師など宗教関係者の立会いを禁じた。目撃者の証言によると、部屋の隅のテーブルにはブランデーの瓶とコップが置いてある。さらに映像撮影用カメラと強烈なライトが用意されていた。

執行は上半身裸にし、ピアノ線の輪に首を通し時間をかけて首を絞め、さらに執行人たちは苦しみもがく被処刑者のズボンを脱がすなど、徹底して人間としての尊厳を傷付ける、非常に残忍な方法で処刑したという。

そのような残忍な方法で処刑されたにも関わらず、ヴィッツレーベンは取り乱す事無く、ドイツ帝国軍人として、最高位の元帥として終始威厳を保ったという。続いてヘプナーら7人も順番に一人ずつ同様な方法で処刑された。

処刑の模様はヒトラーに見せるため撮影された。また見せしめのため陸軍士官学校で上映されたが、それは激しい反発を巻き起こした。処刑の映像を見てヒトラーは楽しんだという説と、嫌がったという説の両方がある。いずれにせよ、ドイツの敗戦間近にヒトラーはフィルムの廃棄を厳命し、戦後連合軍関係者が捜索したが、今日に至るまで発見されていない。

戦後のドイツではヴィッツレーベンは反ナチの闘士として顕彰されており、その名を冠した通りや学校が数多く存在する。ベルリン・プレッツェンゼーの処刑場跡は現在、反ナチ抵抗運動記念館となり、鉄の梁と鉤が保存されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3

44. 中川隆[-10604] koaQ7Jey 2019年4月25日 11:38:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1468] 報告
ウィーンには、どこの馬の骨かも判らぬ人間が蝟集していて、若きアドルフ・ヒトラーは戦慄を覚えた
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68763179.html


現代でも、ボスニアやセルビアで民族対立が勃発し、銃撃戦どころか「民族浄化」が行われていた。復讐に燃える兵卒たちは、敵の女を見つけると集団で襲いかかり、自分たちの精子をネジ込んで喜んでいたのだ。これは殺人よりも忌まわしいことかも知れない。なぜなら、輪姦された女性はケダモノに等しい異人の子を宿し、誰が父親なのかも判らぬ子供を育てる破目になるからだ。もし、息子が生まれると別の意味で悲惨である。我が子が成長するに従い、段々と強姦魔に似てくるから、忘れたい過去がフラッシュバックのように蘇ってしまうのだ。彼女の祖父母だって、心から孫を愛することができない。孫の顔に一族の敵が浮かび上がってくるんだから、拷問のような仕打ちである。

  ボスニア紛争以前にも、我々はオーストリア・ハンガリー帝國の悲劇を知っているはずだ。この多民族国家はハプスブルク家によって統合されているだけで、その臣民の間には国民的紐帯は無かった。国家の要(かなめ)である軍隊でも、民族ごとに分かれており、号令だって複数の言語でなされていたのだ。帝國内ではドイツ語を始めとして、ポーランド語、チェコ語、マジャール(ハンガリー)語、ウクライナ語、クロアチア語、ルーマニア語、そしてユダヤ人のイディッシュ語など、多数の言葉が飛び交っていたから不思議じゃない。

とりわけ、コスモポリタンの大都市でもあるウィーンには、どこの馬の骨かも判らぬ人間が蝟集していたから、若きアドルフ・ヒトラーが戦慄を覚えたのも当然である。将来のドイツ第三帝國総統はこう述べていた。

   この国の首都が示している人種集団は、わたしにとって不愉快であり、チェコ人、ポーランド人、ハンガリー人、ルテニア人、セルビア人やクロアチア人等の諸民族の混淆は、いとわしいものだった。しかしそれよりも人類の永遠のバクテリアはなお不愉快だった。------ ユダヤ人、そしてもう一度ユダヤ人だ。

  わたしにはこの巨大都市が、近親相姦の権化のように思えた。(アドルフ・ヒトラー『わが闘争』 上巻、平野一郎・将積茂 訳、角川書店、 昭和48年、 p. 184)


Hitler 2( 左 / ヒトラー総統)


  ウィーンに群がるユダヤ人を毛嫌いしたヒトラーは、当時のオーストリアを「古いモザイク」に譬えていたが、第20世紀初頭のオーストリアなんか、現在のオーストリアーと比べれば白人天国である。特に、現在のドイツを目にしたら、ヒトラーはもちろんのことゲッペルス、ヒムラー、ゲーリングも卒倒したことだろう。「砂漠の狐」と呼ばれたドイツ軍の英雄ロンメル元帥やヒトラー暗殺を企てたクラウス・フォン・シュタウフェンベルク(Claus von Staufenberg)伯爵、リートヴィッヒ・ベック(Ludwig A. T. Beck)上級大将だって、眉を吊り上げ絶叫するに違いない。(逆説的だが、ネオ・ナチを存続させるのは人種混淆を称讃する平等主義者で、ドイツがアーリア人だらけになったら、ネオ・ナチの存在は半減するだろう。) 今では、さほど抵抗が無くなったけど、当時のドイツ社会でアフリカ人や褐色のアラブ人、くすんだ肌のトルコ人などがゲルマン人女性と結婚するなんて論外というか、犯罪に近い行為であった。アシュケナージ系ユダヤ人との結婚だって大反対されたのに、有色人種となんて勘当ものである。


チャーチルが嫌った茶色いイングランド

Winston Churchill 1( 左 / チャーチル首相)
  現在の欧米諸国ではナチスの人種衛生学や優生思想が糾弾されているが、ヒトラーを倒したウィンストン・チャーチルならナチズムの復活を望んでしまうだろう。何しろ、チャーチル自身が人種差別主義者であったから、アジア人やアフリカ人との混血は御法度が当たり前。同盟相手の日本人だって嫌いなんだから、植民地の茶色のインド人やパキスタン人、ビルマ人、黒いケニア人などは論外。マルバラ公爵の御曹司は彼らを原始的な「野蛮人」と思っていたのだ。ただし、チャーチルはユダヤ人の富豪からお金をもらっていたので、英国内のユダヤ人に寛容であった。当時のイギリス人貴族が、自宅にユダヤ人を招き、一緒にディナーを楽しむなんてあり得なかったのに、チャーチル家だけは例外で、商人や富豪、シオニストらと交流を持っていたのである。今は墓場で眠っているチャーチルだが、現在の英国を目にしたら、びっくり仰天して飛び起きるんじゃないか。青ざめたチャーチルは、「ヒトラーと手を組んでいれば良かった」と後悔するはずだ。実際、ヒトラーはアングロ・サクソン国家との同盟を望んでいたから、好戦的なのはチャーチルの方であった。

  チャーチルはユダヤ人を救いたかったのに、「イングランドをドイツの魔の手から救え !」という大義名分で第二次世界大戦を起こしたものの、その結果は無残なものだった。ご自慢の大英帝國は崩壊するし、属していた保守党は野党に転落。チャーチル自身も落選となった。栄光に輝くイングランドは激戦で優秀な人材を失い、植民地も手放したのに、国内には不愉快なユダヤ難民が流入し、チャーチルが嫌ったインド人やジャマイカ人までもが入ってきて民族のモザイク状態。世界各地に植民地を持っていたイングランドには、現地人が逆流してきて、今や王国各地に「ネオ・デリー(新ニューデリー?)」とか「リトル・カブール」、「ニュー・バクダッド」といった入植地が出来ている。とりわけ、ロンドンは著しく、もはやイギリス人の首都ではない。シティーの東に位置するタワー・ハムレッツ(Tower Hamlets)には白人よりも有色人種の方が多く、イスラム教徒やアジア人の方が主流になっている。また、人口統計に記される「白人」といっても、その正体はポーランド人やブルガリア人、スロヴァキア人、ロシア人、東欧系ユダヤ人であったりするから、「白いブリテン人」がどんな連中なのか、よく確かめてからじゃないと、政府の統計は信用できない。

Muslims in Britain 2Muslims in Bradford 1
( 写真 / イングランドに住むイスラム教徒)

  明らかに、第21世紀のイングランド王国は別の国家に成り果てている。例えば、ウェスト・ヨークシャーの都市、ブラッドフォード(Bradford)はイギリス人の街ではない。街角には、パキスタン人やアラブ系のイスラム教徒が溢れており、チャドルを着た女性が堂々と歩いている。アジアからの移民が増えれば街並みが変わるのも当然で、道沿いにはハラル料理を出すパキスタン人の食堂とか、不気味な雰囲気を醸し出す骨董屋、エスニック料理の食材を扱う小売店、奇妙な民族衣装を取り揃える雑貨店などが目立っている。こうしたエスニック商店街には、まともなアングロ・サクソン人は立ち寄らないから、薄暗い貧民窟とか犯罪者がたむろする租界になりやすい。東京上野にあるアメ横にも、トルコ人の屋台があって、中東アジア人がシシカバブ(肉の串焼き)を食っている。いずれ、「アメリカ横町」じゃなくて「ムスリム通り」になるんじゃないか。新大久保は既に「リトル・ソウル」だから、アジア・タウンは全国各地に広がるだろう。フィリピン人やクルド人が群がる埼玉県の蕨市は、別名「ワラビスタン」と呼ばれているから、首都圏に「リトル・サイゴン」とか「ニュー・バンコック」が誕生するのは時間の問題だ。支那人が訪れる東京湾も、やがて「トンキン湾」と呼ばれるかも知れない。在日米軍のアメリカ兵も「トキヨー・ベイ」よりも「トンキン・ガルフ」の方に馴染みがある。

  以前、英国の移民問題に関しては度々述べてきたので、詳しくは過去のブログを参照してもらいたい。(参照記事A、 記事B、記事C 記事D ) それでも、英国の現状は悲惨である。つい最近、英国南東部、ケント州のウァルダースラッドで交通事故が起きたのだが、その状況を記録した映像を見ると、マシェト(Machete / 長めの鉈)を持った黒人が逃走する姿が映っていた。これを見たイギリス人は驚愕したそうだ。以前はアングル人やザクセン人が主流の地域だったのに、今じゃソマリアのモガディシューみたいになっている。「イングランドの庭園」と呼ばれるケント州には、有名なカンタベリー大聖堂とロチェスター大聖堂があって、中世の美しさを残しているのに、黒人が浸透すると、モザンビークやジンバブエに様変わり。麻薬の密売や組織売春、強盗、引ったくり、強姦・輪姦が横行した上に、刃物を持ったアフリカ人が歩いているんだから、温厚なイギリス人でも「責任者出てこい !」と怒鳴ってしまうだろう。人気コメディーの「モンティー・パイソン」で有名なジョン・クリーズ(John Cleese)は、数年前、「ロンドンはもはやイングランドの都市ではない」と嘆いていたが、他の地域でも非英国化は進んでいたのだ。

Blacks in Britain 1John Cleese 1
(左 : 刃物を持って疾走する黒人 / 中央 : 自動車事故 / 右 : ジョン・クリーズ)

  同じ立憲君主国でも日本と違い、英国には貴族が存在する。しかし、その顔ぶれを眺めると、全くイギリス人とは思えない貴族が存在するのだ。正直な日本人だと思わず「これがイギリス貴族なの?」と呟いてしまうが、左翼教育に染まったイギリス人は、不満を抱きつつも、無言のまま堪えるしかない。祖国を愛するイギリス人なら、BNP(ブリテン国民党)やEDL(イングランド防衛同盟)に入りたくなる。(ただ、悲しいことに両組織とも凋落し、メンバーは激減しているそうだ。) 日本では英国の惨状は報道されないので、筆者が代わりにパキスタン系貴族を何名か紹介してみる。例えば、ウィンブルドン男爵となった保守党のタリク・アフメド(Tariq Ahmed)、上院議員のザヒダ・マンズール(Zahida Manzoor)、サイーダ・ワルシ(Sayeeda Hussain Warsi)男爵夫人、労働党上院議員のナジール・アフメド(Nazir Ahmed)男爵、モハメッド・A・カーン(Mohammed Afzal Khan)、自由民衆党のキシュワー・フォークナー(Kishwer Falkner)男爵、ロンドン市長のサディク・カーン(Sadiq Khan)、メイ内閣で内務大臣となったサジド・ジャヴィッド(Sajid Javid)などである。

Tariq AhmedZahida Manzoor 2Sayeeda Warsi 1Nazir Ahmed
(左 : タリク・アフメド /ザヒダ・マンズール / サイーダ・ワルシ / 右 : ナジール・アフメド )

  他人の国だから、どうこう言いたくはないが、こんな異邦人を目にしてもアングロ・ブリテン人は、本当に「貴族」として彼らを尊敬するのか? 戦前の日本で、もし朝鮮人の伯爵や子爵が出現したら、日系庶民は小馬鹿にして相手にしないぞ。子供だって「ギャハハ、ヨボの華族だって !」と笑ってしまうだろう。(「ヨボ」とは庶民が朝鮮人につけた呼称。) 貴族というからには、立派な血統や輝く権威が条件で、国会議員を務めたくらいじゃ「貴族」に相応しくない。やはり、封建領主じゃないとねぇ〜。ウェリントン将軍のように武勲を誇る軍人なら「公爵」でいいけど、百貨店や金融業で出世したユダヤ人が「男爵」なんてチャンチャラ可笑しい。日本でも同じだ。コ川御三家や御三卿、あるいは島津家とか前田家、毛利家のお殿様や家老ならいいけど、朝鮮の両班なんかロクでなしの穀潰しだから、とても仰ぎ見る存在ではない。貴族は血統と人種が重要となる。たとえ、一橋家出身の公爵が誕生してもタイ人との混血児じゃ嫌だし、田安家から出た伯爵でも、ベトナム人の養子じゃ日本人は尊敬しないだろう。

何のために死んだか判らないイングランドの英霊

  異民族の増殖は誠に恐ろしいもので、家系を大切にする旧家や血統を自慢する堅気の家庭にとり脅威だ。良識と伝統に基づいた教育で成長した親は、祖先の肉体を守ろうとするが、左翼教育で大きくなった娘や、コスモポリタン思想にかぶれた馬鹿息子は、「現在」だけを生きている。こうした子供は義務の観念に欠けるから、子孫への配慮など微塵も無い。惚れた相手なら誰でもいいという了簡(りょうけん)だ。リベラル思想が猛威をふるう現代では、実家に住む両親は「もしかしたら・・・」と不安に駆られ、居ても経っても居られなくなる。ある日、年頃になった娘が電話を掛けてきて、恋人に会って欲しいと頼んできたら、「最悪の事態」を覚悟せねばならない。指定されたレストランに赴くと、そこには有色人種の男がいて、娘と談笑していたりするから、親は心臓が止まるくらいショックだ。たとえ黒人じゃなくても、白人に見えない混血青年だったりするから、目眩がしてくる。一応、父親は冷静に振る舞うが、心の底では「何で、こんな奴と付き合うんだ !」と怒りを隠せない。母親も、「他に良い男性がいっぱい居るのに、どうしてこんな人を選んだの !」と不満爆発だ。確かに、溢れんばかりの愛情を注いで育ててやったのに、非西歐世界の有色人種じゃ泣けてくる。これでもし結婚となったら卒倒してしまうだろう。初孫がインド人やアフリカ人との混血児なんて、あまりにも残酷すぎる。生まれたての赤ん坊を抱いたときの涙は、嬉し涙じゃないぞ。

  多民族主義を毛嫌いする保守派のイギリス人にとって、異人種間結婚(miscegenation)は身近に感じられる恐怖だ。とりわけ、藝能界で活躍する娘がいると、その親は心配でたまらなくなる。例えば、ラザ・ジェフリー(Raza Jaffrey)とミランダ・レイゾン(Miranda Raison)の結婚は、現代の恐怖を象徴するニュースだった。ラザは英国の人気TVドラマ『スプークス(Spooks)』にレギュラー出演したインド系男優で、嘗てアメリカのTVドラマ『ホームランド』に出演し、現在は『内なる敵(The Enemy Within)』に出演している。彼は『スプークス』に出演していた時、共演者のミランダと交際し、2007年に結婚した。しかし、2009年に別れている。幸い、二人の間に子供はいなかった。だが、彼は又もや異人種の女優に手を出した。同番組の出演女優ララ・パルヴァー(Lara Pulver)と親密になり、2012に結婚する。だが、それも長くは続かず、2017年に離婚したという。


Raza Jaffrey 2Miranda Raison 6Lara Pulver 3
(左 : ラザ・ジェフリー / 中央 : ミランダ・レイゾン / 右 : ララ・パルヴァー )

  ミランダ・レイゾンの両親がどう思ったかは知らないが、普通のイギリス人ならゾっとするような結婚である。というのも、異民族が大量に流入する英国では無防備な子供が有色人種と毎日接触するからだ。年頃の子供を親は、「もし、自分の子があんな婚約者を連れてきたらどうしよう」と心配になる。一方、ララ・パルヴァーの親なら結構平気だろう。なぜなら、彼女の父親はユダヤ人で、イギリス人の母親は夫に従いユダヤ教へと改宗しているし、二人はララが七歳の時に離婚しているからだ。こんな母親なら、娘の結婚に反対できるはずがない。それに、第21世紀の英国だと、親の世代もリベラルで、多少の抵抗はあっても、概ね異人種間結婚を許してしまうのだ。イングランドの地と血を守るために亡くなった将兵は、墓の底でどう思っているのか? 中流階級以上の陸軍士官とか、パブリック・スクール卒の海軍士官は、まさか、自分の子孫にパキスタン人やアラブ人の遺伝子が混ざるとは考えていなかったはずだ。あの世のチャーチルも絶句するんじゃないか。隣のヒトラーが笑っているぞ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68763179.html

45. 中川隆[-10363] koaQ7Jey 2019年5月03日 18:51:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1727] 報告

ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。


ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull


▲△▽▼

【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405

筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。

「ブラッドランド」には、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ナチ西部占領地域は含まれていない。ルーマニアではファシスト政権の反ユダヤ政策により、強制収容所や移送中の列車の中で30万人が死亡したが、これはナチやソ連政府とは無関係な殺害政策である。ハンガリーでは戦争末期に40万人のユダヤ人がアウシュビッツに送られて死亡したが、ソ連は関与していない。ユーゴではナチ傀儡「クロアチア独立国」により数十万人のユダヤ人やセルビア人が殺害されたが、ユーゴがソ連に支配されたことはない。フランスでも反ユダヤ政策によりユダヤ人が絶滅収容所に送られたが、「ブラッドランド」からは外れる、とのこと。

その理由は、あくまで上記のようにポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域のみに的を絞っているからだ。これらは戦前にはソ連に、戦間期にはナチスの大量殺人政策に痛めつけられた地域である。双方の無慈悲なテロに晒され夥しい数の人が死んだ”流血地帯”である。

筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。


ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。

ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

Soviet_and_German_Troops

1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。

ドイツ国防軍の末端兵士に至るまで、ポーランド人は支配民族(=ドイツ人)に尽くすための奴隷民族であると教えられた。ドイツ将兵はポーランド人を気まぐれに虐待し、ドイツ兵一人が傷つけば身近なポーランド人を報復として数百人規模で銃殺した。また、ドイツ兵は平然とポーランド女性やユダヤ人女性を強姦した。銃声が聞こえれば付近の村人をフェンスの前に並ばせて皆殺しにした。またポーランド軍捕虜から軍服を奪い去り、ゲリラと決めつけて問答無用に銃殺にした。ポーランドにはユダヤ人が数多くいたが、ドイツ兵は彼らも気まぐれに虐待を加え、婦女子を強姦し、村人を銃殺し村を焼き払った。また、ドイツ空軍は開戦以来都市に無差別の爆撃を加え続け、戦闘の混乱により東に逃げる人々の列に機銃掃射を加えて楽しんだ。

1939年末までにドイツ兵に殺されたポーランド民間人は45000人に上った。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


戦後はドイツ軍政と、諜報機関のトップであるラインハルト・ハイドリヒによって編成されたナチス親衛隊の移動抹殺部隊により、ポーランドのエリート階層は根絶やしにされ、銃やガスや人為的飢餓でのきなみ絶滅の憂き目にあった。これは「AB行動」と呼ばれる。

ヒトラーの目的はポーランドをドイツの人種差別主義者の理想通りの世界とすること、社会からドイツの支配に抵抗する力を奪うことだった。とはいえ、当時のドイツの殺戮班はこの手のテロにまだ不慣れで、NKVDほど効率的に敵を排除することができず、総督府領内で徐々にレジスタンス活動が活発化して行く。

独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。


独ソ開戦ー犠牲者?

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ドイツは第一次大戦で英軍の海上封鎖により76万人が餓死した苦い記憶を持つ。その歴史を熟知していたヒトラーは、食糧不安を解消するためになんとしてもウクライナが欲しかった。ウクライナはソ連の穀物生産の90%をしめるヨーロッパ有数のカロリー源であった。ヒトラーは東方総合計画を策定した。これは端的にいえばウクライナを占領し、農民を全て餓死させ、空白になった土地にドイツ人を入植させる。こういうものだった。

ドイツの計画立案者たちは、33年のウクライナ大飢饉に倣い、集団農場を使って農民を餓死させる計画を立てた。また、戦争によって拡大した領土に住まうドイツ人や前線に送るドイツ兵に食糧を効率的に供給するために、スラブ人やユダヤ人から食べ物を取り上げ、餓死させる計画を立てた。これはつまり、ソ連地域の大都市を破壊し、森に帰すことで冬の寒さに晒し、1942年の春までに3000万人を餓死させるというものだった。

しかし、戦況が思ったよりも長引き、ドイツ国防軍は苦戦し、進軍が遅れたために計画通りにはいかなかった。都市や集団農場の住民を殺して食糧源がなくなれば戦況は壊滅的に悪化するだろう。このような事情に加え、ナチス親衛隊やドイツ国防軍にソ連NKVDほどの実力はなかった。実際には飢餓計画は実行不可能だったのである。しかし、ドイツ国防軍に捕らえられた300万のソビエト兵捕虜は、冬の荒野に鉄条網を張り巡らせただけの収容所ともいえぬような場所に拘禁され、食べ物を与えられずほとんど全員が餓死した。またドイツ国防軍やナチス親衛隊は、50万人の捕虜を銃殺し、260万人の捕虜を餓死させるか、移送中に死に至らしめた。初めから殺すつもりだったのだ。犠牲者は310万人ともいわれる。

また、ドイツ兵はポーランド人よりもさらに劣等な人種としてロシア人を見ていた。ドイツ兵は彼らをためらうことなく銃殺したが、このような民間人に対する犯罪行為は、バルバロッサ命令という形で合法とされた。

また、コミッサール命令という政治将校、共産党員、赤軍将兵、または市民のふりをしたゲリラは問答無用に処刑して良いことになっていた。この定義にユダヤ人が含まれるようになると殺戮は拡大した。犠牲者はあまりにも膨大で、はっきりとした数字は未解明である。

1941年の9月までにドイツ軍が包囲した、ソビエト北の要衝レニングラードでは本格的な兵糧攻めが行われた。900日間にわたる包囲戦により、100万人の市民が餓死した。ヒトラーは東方総合計画により、レニングラードを完全に破壊して更地にしたうえでフィンランドに引き渡すつもりだった。はじめから住民を全て殺すつもりだったのである。包囲下のレニングラードでもNKVDは微塵も揺らぐことなく健在で、裏切り者を探し回っては銃殺していた。レニングラード市民は独ソ双方から過酷なテロを受けたのである。

また、1944年のワルシャワ蜂起では、20万人の市民が戦闘の巻き添えになって死亡し、70万人の市民が市内から追放された。

ホロコーストー犠牲者540万人

holocaust2

ホロコーストはバルト諸国のリトアニアから開始された。ナチス親衛隊はリトアニアやラトヴィアで現地民を扇動してポグロムを引き起こし、ユダヤ人やNKVD、共産党員を殺害。ドイツ軍や警察はユダヤ人の成人男性をスパイやゲリラと見なして銃殺した。

1941年の8月ごろになると、ヒトラーは既にソ連への奇襲作戦が失敗し、戦争終了を予定していた9月中旬までにモスクワを占領することは不可能そうであると悟った。総統はせめてユダヤ人を皆殺しにすることを考えた。こうしてユダヤ人の女性や子供・老人がゲリラの定義の中に含まれた。

ポーランドの時と同じように、ソ連の指導者たちを排除するため、保安諜報部(SD)と警察の特殊部隊が編成されていたが、彼らの任務はいつしかユダヤ人を全て殺すことへと変化して行った。SDと警察の移動抹殺作戦により、リトアニアのユダヤ人20万人のうち19万5千人が銃殺された。その他の地域でも気の狂ったような大量銃殺が繰り広げられ、その凶行をとめることができる者はいなかった。全ては総統命令として正当化されたのである。

ウクライナ、ベラルーシ、西部ソ連地区でも状況は似たようなものだった。ドイツ軍が版図を広げるたびに移動抹殺隊が影のように現れ、現地徴集兵を雇ってユダヤ人や共産党員、精神障害者や同性愛者を手当たり次第に銃殺した。ウクライナのキエフではたった2日で3万人以上のユダヤ人婦女子が銃殺され、ベラルーシでは過酷なパルチザン戦が繰り広げられ、国民の4分の1が巻き添えになって殺された。移動抹殺作戦の犠牲者は100万人以上と推計される。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


ポーランドには6つの絶滅収容所が設置され、ヨーロッパ各地からユダヤ人や政治犯、思想犯、同性愛者や障害者がかき集められて、飢餓や強制労働や銃やガスによって命を絶たれた。犠牲者は250万人を超える。

ホロコーストの結果、ヨーロッパの全ユダヤ人のうち3分の2が殺害され、なかでもポーランドの被害が最も深刻で、90%以上、300万人のユダヤ人が絶滅された。

抵抗の果てに

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戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。

戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。


おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。

アウシュビッツはホロコーストの象徴だが、アウシュビッツで死亡したユダヤ人は死亡したユダヤ人の6分の1に過ぎない。アウシュビッツが本格的に稼働するころには、既にユダヤ人の多くは命を落としていた。

ベルゲン・ベルゼンやダッハウ解放後の悲惨な写真は人々の記憶に刻みつけられたが、それらはどちらも絶滅収容所ではなく、西側の連合軍が解放した絶滅収容所は一つもなく、カティンの森もバビ・ヤールも、西側の目に触れたことは一度もない。

ナチス崩壊後も、スターリンの赤い帝国が厳重に引いた鉄のカーテンによって、ロシアばかりでなく、ドイツの犯罪行為も闇に葬られてしまった。ナチスドイツの東部捕虜収容所は、絶滅収容所以上の絶滅施設であった。そこでは310万人が飢餓や銃によって殺害され、ソ連兵捕虜の死亡率は60%近くに上った。ヒトラーの東方総合計画の検証もほとんど進まなかった。”ブラッドランド”は、全て戦後スターリンの帝国に覆い隠されてしまったからである。

激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4

46. 中川隆[-10387] koaQ7Jey 2019年5月07日 14:09:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1710] 報告

電撃作戦 ポーランド侵攻 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=KZtU0l6w9g8
47. 中川隆[-9147] koaQ7Jey 2019年7月10日 07:15:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3536] 報告

錬金術師と呼ばれた総裁
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/

ナチスの経済的錬金術

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(左 : ハイパーインフレに苦しむドイツ人 / 中央 : 札束で遊ぶ子供たち / 右 : 紙幣を燃やして料理を作るドイツ人女性 )

  話を戻す。現在の日本はデフレ経済で苦しんでいるけど、こんな状態になるのは昔から分かっていたんじゃないか。筆者だって長谷川慶太郎の本を読んでいたから、「あぁ〜あ、こりゃ重症になるぞぉ〜」と思っていた。しかし、バブルが弾けた後の処方箋は比較的簡単で、民間企業が元気をなくしているなら、政府が公共投資を増やして景気を回復するしかない。小室直樹先生のファンなら、ケインズの経済学を想い出すかも知れないし、一番分かりやすいのはヒトラーの経済政策だ。

戦勝国から巨額の賠償金を課せられ、ルール地方まで奪われたドイツは、ハイパーインフレの嵐に見舞われ絶望の淵に沈んでいた。(それでも、李氏朝鮮よりマシだろう。) 極度の疲弊は歴史に刻まれている。例えば、

1923年のベルリンではパン1斤の値段が4千280億マルクで
1kgのバターを買うとなれば5兆6千億マルクを払わねばならない。

新聞を読もうとすれば「2千億マルクになります」

と言われ、ギョッとする。

電車賃でさえ1千500億マルクもしたんだからしょうがない。(Constantino Bresciani-Turroni, The Economics of Inflation : A Study of Currency Depreciation in Post-War Germany, G. Allen & Unwin Ltd., London, 1937, p.25.)

さらに、世界大恐慌で失業者が巷にドっと溢れ出したんじゃ、もう泣きっ面に蜂みたいで毎日が青色吐息。

企業の倒産や金融危機が荒れ狂うドイツでは、国内総生産がガタ落ちで、1932年の失業者数は約558万人に上ったそうだ。
(Deutsche Bundesbank, ed. Deutsches Geld und Bankwessen in Zahlen 1876-1975, Knapp, Frankfurt am Main, 1976.)

  このように滅茶苦茶になったドイツを救おうとしたのがヒトラーで、彼は1933年2月に新しい経済計画を発表する。この元伍長は、公共事業による失業者問題の解決や価格統制を通してのインフレ抑制を図ったのだ。一般の労働者を支持基盤にするヒトラーは四年間でドイツ経済を何とかすると約束し、その実現を目指して強権を発動した。

今の日本人はヒトラーを狂暴な独裁者とか、ユダヤ人を虐殺した悪魔と考えてしまうが、当時のドイツ庶民にしてみたら結構評判の良い指導者だった。ユダヤ人に対しては閻魔大王みたいだったけど、ドイツ人労働者に対しては親方みたいな存在で頼りになる。ヒトラーは偉大な救世主を目指したから、国民の福祉厚生に力を入れ、社会の底辺で苦しむ庶民の生活水準を上げようとした。

Schacht 2( 左 / ヒャルマー・シャハト)


  誰でも大々的な公共事業をやれば景気が良くなると分かっている。が、肝心要の「お金」が無い。傘が無ければ井上陽水に訊けばいいけど、資金が無ければ優秀な専門家を探すしかないから大変だ。

でも、ヒトラーは世界的に著名なヒャルマー・シャハト(Horace Greeley Hjalmar Schacht)博士に目を附けた。奇蹟の復興を目論む総統は、シャハトを口説き落とし、ドイツ帝国銀行の総裁および経済大臣になってもらうことにした。

ヒトラーの抜擢は功を奏し、シャハト総裁はその手腕を発揮する。ドイツ経済はこの秀才のお陰で潤滑油を得た歯車のようにグルグルと動く。

マルクの魔術師はドイツの経済状態を診断し、インフレを起こさない程度に国債を発行する。ナチスに元手が無ければ、ドイツ人が持つ「労働力」を担保にすればいい。

労働者を雇っている事業主が、その労働力に見合った手形を発行し、それを自治体が受け取り、銀行に割り引いてもらう。すると、銀行は自治体にお金を渡して、自治体は公共事業を請負業者に発注する。

こうして、仕事が増え、手形がお金に変わって、世の中をクルクルと回ればみんなハッピーだ。「すしざんまい」の木村社長みたいに笑顔がこぼれる。

  ドイツ人のみならずアメリカ人までもが、「シャハト博士は錬金術師か?」と思うほど、彼は金本位制からの脱却に成功した。戦前、通貨の発行は金の保有量を考慮せねばならず、政府が無闇矢鱈に欲しいだけ紙幣を刷るなんて暴挙だった。確かに、当時のドイツを観れば理解できよう。

1935年当時、ドイツの帝国銀行が保有する金は、たったの56mt(メートル・トン)しかないのに、通貨額は約42億マルクもあった。(換算すると1,800,441 troy ounces)

ちなみに、外国が持つ金の保有量を見てみると、

ブリテンが1,464mt、
フランスは3,907mt、
アメリカだと8,998mt、
ネーデルラントは435mt、
ベルギーが560mtで、
スイスは582mt

となっていた。(Timothy Green, World Gold Council and Central Bank Gold Reserves : A Historical Perspective Since 1845, November 1999を参照)

国債反対より、何に使うのかを議論せよ !

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(写真 / ドイツの子供たちから歓迎されるヒトラー)

  ナチスの経済計画でドイツの国民総生産が増大したのは有名だが、注目すべきは公共事業費の流れ方だ。つまり、ヒトラーはアウトバーンなどのインフラ整備を目指したが、その際、末端の労働者に充分な賃金が行き渡るよう心掛けたという。建設工事にかかる支出の約46%までが労働者の給料になったのだ。これにより、一般労働者の懐が温かくなり、前から欲しかった衣料品を帰るようになった。

日本だと、政府や議員がゼネコンに丸投げし、たっぷりピンハネしてから子会社に仕事を回すのが普通だ。そして、この中抜きには「続き」がある。子会社は更なるピンハネを行って、立場の弱い孫会社に分配するから、下っ端の職人が手にするのは雀の涙ていど。これじゃあ、地上波テレビ局と同じだ。例えば、ドラマを制作するためにスポンサーがフジテレビに1億円払えば、局がごっそりピンハネして、子飼いの制作会社に丸投げ。受注した制作会社もピンハネして孫会社に任せ、その孫請けが曾孫会社を使って実際の番組を作るんだから、出来上がった作品が貧相な代物になるのも当然だ。もしも、このドラマがブラック企業をテーマにした作品なら、お金を払って俳優を雇わず、社員の日常を撮影してドキュメンタリー・ドラマを作った方がいい。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/

48. 中川隆[-10632] koaQ7Jey 2019年11月01日 18:25:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2249] 報告
ナチスの亡霊で苦しむ西歐人 / 「血と土」の哲学
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68786228.html

自分の人種を自慢してよい権利

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(左: アドルフ・ヒトラー / 中央 : ドイツ人の家族 / 右 : ユダヤ人の男性 )

  敗戦後、ドイツ人はナチスの「戦争犯罪」を糾弾され、ユダヤ人を虐殺した“極悪人”との烙印を額に押されてしまい、その罪科を贖うために、歐洲で一番の「人権国家」になろうとした。英米から去勢された、このゲルマン人国家は、どんなに厭な種族であれ、一旦“移民”として受け容れてしまえば、貴重な「ドイツ国民」の身分を与え、至れり尽くせりの“おもてなし”をしようとする。こうした手厚い福祉を聞きつけた別のアフリカ人やアジア人は、「ドイツこそ夢に見た黄金のエルドラドなんだ!」と思い込み、「難民」を装って雪崩れ込んだ。リベラル思想に洗脳されたゲルマン人は、当初、「外人労働者なんて所詮“臨時労務者”だろう」と高を括っていたが、それは致命的な誤りだった。トルコ人やアラブ人、アフリカ人は図々しいから遠慮なくドイツ各地に押し寄せてくるし、福祉にタカるどころか、故郷から家族や親戚まで呼び寄せる始末。最初は渺(びょう)とした小川でも、黒や褐色の盲流が合流すれば、それは徐々に大きな濁流となり、最終的には手が付けられない程の津波となる。この水害に飲み込まれるのは“お人好し”のドイツ人で、生き残るのは人権を利用する移民や難民だ。ドイツ人って、まるでノアの箱船に乗り損ねたネズミのようだ。

  10月下旬、ドイツでは地方選挙があって、ヨーロッパではちょっと話題になった。何と、チューリンゲン州の選挙では、“極右”と呼ばれる「ドイツのための選択肢(AfD)」が大躍進。日本でも「右派勢力」と呼ばれるAfDだが、実際はドイツ国民を第一に考える保守派政党だ。その証拠に、投票箱の蓋を開けてみると、23.8%の得票率であったという。これは第二位の得票率になるそうで、アンゲラ・メルケル率いる「キリスト教民衆党(CDU)」は顔面蒼白。というのも、CDUの得票率はAfDよりも低く、22.5%であったからだ。しかし、もっと悲惨なのは「社会民衆党(SPD)」で、こちらの得票率はたったの8パーセント。社民党の凋落は日本だけじゃなかった。で、気になる第一位は? これまたドイツらしく、極左政党の「リンケ党(Die Linke)」ときている。人権教育で頭がおかしくなった国民は救いようがない。

Bjorn Hocke 5Alexander Gauland 1Jerome Boateng 2


(左 : ビョルン・ホッケ / 中央 : アレグザンダー・ガウランド / 右 : ジェローム・ボアテング )

  メルケル首相のプライドをズタズタにしたAfDだが、今回の地方選挙で特筆すべき候補者は、なんと言ってもビョルン・ホッケ(Björn Höcke)である。真っ赤な頭の人物が「良心的」とされるドイツでは、ゲルマン系ドイツ人の生活を一番に考え、ドイツ国家の利益と文化を優先する政治家なんか、レイシストの「極右」である。AfDの幹部もマスコミから吊し上げを喰らっていた。党首のアレグザンダー・ガウランド(Alexander Gauland)は、かつて黒人系サッカー選手のジェローム・ボアテング(Jérôme Boateng)について失言をしたことで責められた。曰わく、「みんな彼のことを好きだが、隣人にしたいとは思わない」、と。(彼の母親はドイツ人だが、父親はガーナ人であるという。) そりゃそうだろう。黒い「ドイツ人」なんて本当のドイツ人じゃない。また、離党した元代表のフラウケ・ペトリー(Frauke Petry)は、国境警備の強化と移民規制を訴え、フェミニストにも反対したから、相当なバッシングを受けたらしい。(現在、彼女は創設した「青の党」の党首になっている。) アリス・ワイダル(Alice Weidel)も「PC(政治的に正しい言葉使い)」に嫌気が差し、「あんなのは歴史のゴミ箱に葬るべき」と発言したから、マスコミの標的にされてしまった。ベアトリックス・フォン・ストーチ(Beatrix von Storch)も、BBCの番組に出演したとき、キャスターから吊し上げを食っていた。

Frauke Petry 1Alice Weidel 3Beatrice Storch 1


( 左 : フラウケ・ペトリー / 中央 : アリス・ワイダル /右 : ベアトリックス・フォン・ストーチ )

  他の党員と同じく、ホッケもマスコミの「タブー・コード(禁忌規則)」に叛旗を翻し、ドイツ人が心の底で思っている事を口にした。左翼ジャーナリストは彼をコテンパンに叩いていたが、ホッケはゲルマン人の男らしいコを備えており、リベラル派やユダヤ人の批判に屈しなかった。例えば、彼はドイツに建設されたホロコースト記念館を「恥ずべき遺物」と評していた。(Justin Huggler, "germany's new Hitler poised to lead AfD to regional elections gain", The Daily Telegraph, 27 October 2019.) ドイツや歐米のメディアは非難囂々だったけど、ホッケの見解は正しい。少なくとも、ユダヤ人の脅しに屈服するCDUの政治家と比べれば、遙かに立派じゃないか。ユダヤ人のシナゴーグ(礼拝の会堂)があるだけでも不愉快なのに、迫害されたことを大々的に宣伝する記念館なんて目障りだ。街の景観を損ねるばかりか、子供達の生育にも有害である。だいたい、なんでユダヤ人は“他国”に自分たちの記念物を設置しようとするのか。

Edouard Drumont 1(左 / エドワルド・デュルモン)
  そもそも、「ユダヤ人迫害」の原因はユダヤ人側にあって、異教徒のユダヤ人が昆虫みたいにドイツへ寄生したことが元兇だ。もし、ユダヤ人がロシアのポグロムを恐れて、外国に逃亡したいなら、逃避先はドイツやオーストリアじゃなく、イェルサレムがあるパレスチナに向かうべきだった。それなのに、ガリシア地方の賤民ときたら、“より良き生活”を求めて、西歐世界へと雪崩れ込んだ。これなら西歐各地で、根強い反ユダヤ主義が沸き起こったのも当然である。フランス人などは戦後、「ナチスに抵抗した善人」のフリをしていたが、彼らは昔からユダヤ人が大嫌いで、エドワルド・デュルモン(Édouard Drumont)が書いた『ユダヤ人ノフランス(Le France juive)』はベストセラーだったじゃないか。フランスの庶民はドイツ軍が忌々しいユダヤ人を排除してくれたら万々歳だった。「協力者(コラボ)」が多かったのも不思議じゃない。とにかく、ユダヤ人はヨーロッパから立ち去って、懐かしい中東アジアに戻り、アラブ人と“共生”しながら、適当に殺し合っていればいい。ユダヤ人は同類と喧嘩しながら暮らすのが自然である。

  今回の選挙で「台風の目」となったホッケは、演説集会に現れる度に、リベラル思想に抑圧されたドイツ国民を励まし、民族意識を鼓舞することで勝利を得た。選挙中、彼は聴衆に向かい「我々は我々なんだ ! (つまり、ゲルマン系ドイツ人という意味 / Wir sind Wir !)」とか、「我々は同じ民族なんだぞ ! (Wir sind das Volk !)、「私は自らが属する民族を愛する ! (Ich liebe mein Volk !)」と述べていた。こうしたキャッチフレーズを聞けば、集まったドイツ人が熱狂したのも納得が行く。ドイツは先祖代々「祖父の土地」に住むゲルマン民族の国家であり、人格と容姿が卑しいユダヤ人やアラブ人、何のゆかりも無いアフリカ黒人の国じゃない。一つの国家、一つの民族、一つの運命がドイツ人のモットーで、異人種との雑居と混淆、イスラム教やユダヤ教徒の共存なんて真っ平御免だ。ドイツ人にはドイツ人だけで楽しく暮らす権利がある。「永遠の放浪者」であるユダヤ人は、ドイツ人のナショナリズムに不満なら、さっさと荷物をまとめて故郷のイスラエルに“帰還”すればいい。イスラエル政府は世界各地に離散した「同胞」の帰りを待っているんだから。

民族の血と国家の大地

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(左 : ナチスが称讃したゲルマン系女性 / 右 : ナチスが増やそうとしたアーリア人の赤ん坊)

  鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクは、1888年2月6日の帝国議会で演説を行い、「我々ドイツ人は、天主以外の何者をも懼れない (Wir Deutsche fürchten Gott, aber sonst nichts in der Welt) 」と豪語た。しかし、現在のドイツ人はどうか? 懼れないのは天主の裁きだけで、自己批判を繰り返す左翼陣営や、歐米諸国の主要メディア、レイシズムを糾弾する人権屋からの抗議に遭えば、膝から崩れ落ちて土下座する。もっと情けないのは、隠然たる勢力を誇るユダヤ人から「仕置き」された時で、皇帝ハインリッヒ4世よりも卑屈な態度になってしまう。もし、民族派のドイツ人が「我々ははユダヤ人よりも遙かに美しく、何千倍も気高く、勇敢である !」なんて口にしたら、たちどころにユダヤ人から袋叩きだ。まるで、針の筵(むしろ)というより、釘で串刺しになる「鋼鉄の処女(中世の拷問器具 / Eiserne Jungfrau)」の中に閉じ込められたような状態になってしまうだろう。実際に殺されなくても、社会的地位(職業)と名声を一瞬で失うから、ドイツ人はどんなに愛国者でも決して本音を吐かないよう注意している。言論の自由があるのは日本だけだ。

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(左 : 陽気なユダヤ人青年 / 中央 : ユダヤ人の美女 / 右 : 敬虔なユダヤ人 )

  ドイツのみならず、ブリテン、フランス、デンマーク、ネーデルラント、スウェーデンでも保守的な国民の間でナショナリズムが芽生えているが、西歐人が滅多に口にできないのは、国家と結びついた人種についてである。基本的に西歐人は各地をうろつく遊牧民ではない。農業を基盤とする定住民族だ。交通機関が発達する前なら、結婚相手は近場の異性で、同じ種族の者同士で子孫を残すのが普通だった。今とは異なり、ユトランド半島の片田舎に住むデイン人の娘が、パキスタン出身のイスラム教徒や北アフリカ出身のアラブ人、あるいは西インド諸島からやって来たジャマイカ人と結婚するなんて想像できなかった。もしあったら一大事。両親はおろか、祖父母や親戚、友人、隣人がびっくりするし、親兄弟の誰もが「やめてくれ !」と号泣するに違いない。こうした「国際結婚」は衝撃的だから、「何があったのか?」と地元の新聞に載ってしまう程だ。

Winston Churchill 1(左 / ユダヤ人好きのウィンストン・チャーチル)
  昔のヨーロッパ人なら家系を重んじ、自分と同じような容姿の子孫を残そうとしたし、それが当たり前の「常識」だった。とりわけ、王侯貴族にとって血統は最重要課題で、黒人やアジア人との婚姻なんて御法度。たとえ、白人系のユダヤ人だって忌み嫌われていたんだから。一緒にディナーを取ることだって穢らわしく、ワインを片手に談笑というのも滅多に無かった。となれば、息子や娘の婚約相手なんか論外だ。しかし、イングランドの名門貴族、マールバラ公爵のチャーチル家は別だった。ランドルフとウィンストンはユダの金貨が大好き。失業中だったウィンストンはユダヤ人のパトロンから養われていたから、首相になった時、昔の恩返しをすべく、ヒトラーの和平交渉を一蹴り。ドイツのユダヤ人を救うためなら、同胞のイギリス兵を何十万も犠牲にしようが平気だった。(チャーチルの正体を説明すると長くなるので省略する。) この裏を知らないイギリス人は今でもチャーチル首相を「英雄」と思っている。どこの国にも馬鹿はいるものだ。

  ちなみに、ユダヤ人はアーリア人と結婚するのが大好きで、白人の女をモノにするのは一種のステータスになっている。例えば、不動産屋の倅(せがれ)であるジャレッド・クシュナー(jared Kushner)は、トランプ大統領の娘であるイヴァンカと結婚した。ベンジャミン・ネタニヤフ首相の息子であるヤイル・ネタニヤフ(Yair Netanyahu)も白人娘が大好き。2014年にはキリスト教徒の家庭で育ったノルウェー人女性のサンドラ・レイカンガー(Sandra Leikanger)と付き合ったし、翌年にはユダヤ系デンマーク人モデルのリー・レヴィー(Lee Levi)と交際していた。ユダヤ人は社会的に成功したり、裕福な家庭に生まれると、無性にヨーロッパ系白人女性と接近したがる。イスラエルの保守的ユダヤ教徒は口々に、「どうしてビビ(ベンジャミン)の倅は非ユダヤ人と付き合うんだ?」と不満を漏らしていたけど、ユダヤ人青年にとったらブロンドの「上等な女」を恋人にしただけだ。ハリウッドのユダヤ系女優を見渡せば分かるけど、人気藝人となるのは矢鱈と「歐洲系」が多い。ユダヤ人の男はユダヤ的容姿の女性に興味が無いらしい。

Yair Netanyahu 2Lee Levi 1Yair Netanyahu & Sandra Leikanger


(左 : ヤイル・ネタニヤフ / 中央 : リー・レヴィー / 右 : ネタニヤフとサンドラ・レイカンガー )

  敗戦後、ドイツ人はユダヤ人から悪魔の如く糾弾されたが、それは単に虐殺の対象にされたからではない。ユダヤ人が心の底からドイツ人を憎むのは、このゲルマン民族がセム種族の“肉体”を槍玉に挙げたからだ。優生学や人種衛生学を重視するナチスの理論家たちは、優秀なアーリア人が持つ遺伝子プールに、穢らわしい遺伝子が混入する事を恐れた。ドイツ人にとって、金髪碧眼の北方種族が「理想的な人間」である。だから、この容姿を醜くする、ユダヤ人の精子や卵子が赦せなかったのだ。ナチスを批判するフランス人だって、発言とは別に本音があって、白いケルト人の遺伝子を守りたいと思っているし、イギリス人も腹の中ではアングロ・サクソン人の容姿を保存したいと願っている。

  現在のヨーロッパ人やアメリカ人、および彼らの主張を鵜呑みにする日本人は、無意識のレイシストになっている。リヘラル派はアフリカ人やアラブ人、あるいはインド人やベンガル人などに同情しているが、これらの非ヨーロッパ人が持つ独自の美意識を決して認めようとしないのだ。彼らは無意識的に有色人種の容姿は醜いと思っている。例えば、ウガンダ人が大きな尻や太い腰を持つ女性を「綺麗」と思うことに違和感を感じているが、現地の黒人にしたら、艶のある黒い肌と脂肪が詰まった頑丈なボディーは魅力的なのだ。ホッテントットの女性は自分の性器を自慢して、他人に見せびらかしていた。一方、インド人女性はイギリス人のような白い肌に憧れ、高価な「美白クリーム」を買っているが、歐米の左翼がこれに触れないのは欺瞞だ。イスラエルの東歐系ユダヤ人は、「俺達は洗練された白人なんだ !」と自慢し、パレスチナ系ユダヤ人を褐色の田舎者と馬鹿にしていたけど、何故か、これは大きなニュースにならなかった。

  ヨーロッパのリベラル派や人権派というのは、「良心」を売り物にしているが、実際は、偽善的な差別主義者である。地球上には様々な種族が存在しているから、「絶対的な美」というものはない。あるのは、「相対的な美」くらいで、「別嬪」や「男前」というのは十人十色。ヨーロッパ人の基準や評価で他国の美意識を否定するのは間違っている。したがって、ドイツ人が自らの肉体を自慢しようが、そんなのは「手前味噌」にすぎず、目くじらを立てる程のものではない。品川や新橋で飲んでいるオヤジが「俺の娘は江戸一番の美女」と自慢したって、そんなのは親馬鹿の戯言(たわごと)だ。もし、こんな自慢を本気にして、「何だとぉぉ〜、それは外見差別になるぞ !」と噛みつくのは野暮天しかいないだろう。まともな大人は、「そうかい。良かったねぇ〜。確かに、娘さんはアンタと似ていないや!」と笑ってお終いである。これが解らないのは、大学でクルクルパーにされた優等生だけ。

ドイツ人にとっては素晴らしかった理論

Walther Darre 1( 左 / ヴァルター・ダレ)
  歐米諸国でも似たり寄ったりかも知れないが、日本の書店ではナチス時代のドイツを暗く描いた翻訳書や歴史書ばかり。北方種族のアーリア人を増やすべく、「生命の泉(Lebensborn)」計画を実行したハインリッヒ・ヒムラーや、「血と土」を強調したヴァルター・ダレ(Walther Darré)は評判が悪く、非人道的な政策を行った極悪人にされている。しかし、どうしてゲルマン系ドイツ人を増やすことが悪いのか? 日本政府は少子化を懸念し、若い女性に「もっと子供を産んで下さい !」と呼びかけ、出産手当とか育児手当、保育所の増設に教育の無償化などを実行している。しかし、誰もこれをネオ・ナチ政策とは言わないだろう。また、日本人が日本の国土を愛し、日本人の子孫を残しても異論は無いはずだ。日本に住み着く支那人や朝鮮人は「排外主義だ !」と激怒するが、そもそも日本は日本人の国で、アジア人が幸せになる為の国ではない。もし、優秀な支那人や朝鮮人がいるのであれば、彼らこそ真っ先に祖国へ戻り、国家の発展に寄与すべきだ。我々は下品な支那人とかヤクザの在日鮮人なんて要らないぞ。

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(左 : ハインリッヒ・ヒムラー / 中央 : ドイツ人少女とヒムラー  / 右 : アルフレート・ローゼンベルク)

  現在、大学やマスコミでは「多文化主義」や「多民族共生思想」が真っ盛りだが、ドイツの文化はドイツ人が維持・継承すべきで、移民労働者として居着いたトルコ人や、紛争を逃れて潜り込んだシリア人が担うものじゃない。ドイツ人を糾弾するイギリス人やオランダ人でも、自国の文化は先祖代々の子孫が受け継ぐべし、と考えているはずだ。ところが、中流階級はおろか、上流階級のドイツ人でも、左翼やユダヤ人の前では腰砕けとなり、ドイツ人の遺伝子プールを守るのは駄目、街から異邦人を追放することも厳禁、非西歐人との混血なら称讃、と悉く非ドイツ化政策が取られている。良識的な公民さえ、ドイツらしいドイツを存続させようとしないのだ。ところが、ユダヤ人は同胞の為なら何でもする。彼らはドイツに寄生するため、あるいは外国からやって来る仲間のため、民族主義に基づいて多文化主義とか人種的多様性を大宣伝。しかし、彼ら自身はアラブ人やアフリカ人と混血したがらないし、イスラエルはユダヤ人とユダヤ教のために建てられた民族国家であると断言してはばからない。テレビ局、新聞社、教育界、藝能界に陣取るユダヤ人は、示し合わせたかのように協力し合っているから、ある意味、立派というか狡猾である。

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(左 : ドイツ人の軍人 / 中央 : 軍服を着たドイツ人少女 / 右 : ナチス時代のドイツ人女性 )

  それなら、ドイツ人が自国をアーリア種族だけの国、つまり北方種族だけが幸せに暮らせる楽園にしたい、と考えてもいいんじゃないか。元々、ドイツ人が主体のゲルマン国家なんだから。サウジ・アラビアなんてサウド家の所有物だし、イランはシーア派のイスラム教で疑問を持たない。日本の歴史家は馬鹿の一つ覚えみたいにナチスを糾弾するが、もし、モザンビークやコンゴが黒人だらけの国家になったら、彼らはアフリカに渡って抗議デモを起こすのか? 日本の学者は日本国内に留まって、反抗する日本人を批判するだけだ。譬えて言えば、弱い後輩だけに威張り散らす不良と同じである。彼らは朝鮮高校の兇暴な不良の前だと、借りてきた仔猫のように「おとなしく」なり、因縁を付けられても「ニャンとも言えない」とばかりに無抵抗主義を貫く。情けないけど、これが和製知識人の実態である。

  日本の保守派は西歐人にペコペコしているが、白人のほとんどは「ハッタリ」が得意なだけの弱虫だ。だいたい、どうして西歐人は正直に「白人だらけの国がいい」と言えないのか? 自分の国なら、嫌いなユダヤ人やジプシーを叩き出してもいいはずだ。例えば、日本人の高校生が自分の部屋にアイドル歌手のポスターを貼ろうが、デス・メタルの音楽を聴こうが、ワンピースのフィギュア人形を飾ろうが、隣人は一向に構わない。なぜなら、自分の邸宅や敷地にある部屋じゃないからだ。ドイツ人はドイツ国内で、イギリス人はイングランド国内で、同胞だけと一緒に暮らす権利がある。そして、今を生きるドイツ人やイギリス人には、先祖から継承する血統を損なわず、きちんと子孫へ手渡す義務があるんじゃないか。祖父母と容姿が違う子孫なんて悲しすぎる。

Franz Boas 1Ashley Montagu 1(左 : フランツ・ボアズ / 右 : アシュリー・モンタギュー )
  西歐人は愛国心を尊び、国防を担う軍人は命に代えても祖国を護ると言い張る。が、丸腰の移民が来ると腑抜けになってしまうから、「見かけ倒しじゃないか」と軽蔑したくなる。民族の血筋や文化、国土を守ってこそ、真の国防だ。異人種との混血を許し、伝統文化の劣化を奨励し、さらに国境までも開放するなんて馬鹿げている。リベラル教育で洗脳されてしまったからしょうがないが、愛国者であれば日本の戦国武将のように鋼鉄の意志を持つべきだ。フランツ・ボアズ(Franz Boas)やアシュリー・モンタギュー(Ashley Montagu)のような文化人類学者は、「人種なんて社会的に構築されたもの」と宣伝するが、現実的には「人間の種類」は存在する。(ボアズとモンタギューは共にユダヤ人。

ちなみに、「モンタギュー」は偽名で、本名は「イスラエル・エレンバーグ」である。) 日本人ならせせら笑ってしまうが、ユダヤ人にはオーストラリアの「アボリジニ(原住民)」とアングロ・サクソン系の白人が“似たり寄ったり”の人種に見えるのか? 左翼学者は熱心に平等思想を宣伝するが、一般人は同族の者と一緒に暮らしたいと考えている。何よりも、祖国で気持ちよく生活できるなら「非科学的」でも「人工的」でもいいじゃないか。

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(左 : ドイツ人女優のヒルデガルト・クネフ / ナチスが理想としたアーリア系女性 / ユダヤ人フェミニストのベティー・フリーダン / 右 : イスラエルに住むユダヤ人女性 )

Arthur Gutt 01 (左 /アルトゥール・グート )

今では、ヴァルター・ダレやアルフレート・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)の主張は全面的に否定され、悪魔の思想となっているが、国家運営や国民の統合には非合理的な神話(宗教)や科学では解明できない国民の絆が必要なのだ。例えば、SS少将のアルトゥール・グート(Arthur Gütt)は、人種文化および遺伝担当の大臣アドヴァイザーを務めていて、ドイツ人の人種的遺伝が如何に神聖であるかを述べていた。

  ゲルマン貴族は自らの遺産を神聖な祖先の種から得ている。その血(生殖用の物質)は最も純粋な形で子孫に継承されねばならない。(Arthur Gütt, "Die Bedeutung von Blut und Boden für das deutsche Volk", Schriftenreihe des Reichsausschusses für Volksgesundheitsdienst, Vol. 4, Berlin : Reichsdruckerei, p.4.)

  また、『第20世紀の神話』で有名なローゼンベルクも、ゲルマン民族の血統に関して持論を述べていた。

  こんにち、新たな信仰、すなわち血の神話が勃興した。これは血を通して人間の神聖なる本質を守る信念である。(Alfred Rosenberg, Der Mythus des 20. Jahrhunderts, Munich, Hoheneichen Verlag, 1935,p.114.)

  親衛隊上級大佐のカール・モッツ(Karl Motz)も、「血と土」を強調する文章を書いていた。 

如何なる民族主義があろうとも、その基盤となるのは、我々の祖国にある聖なる地と血の関係である。(Karl Motz, Blut und Boden : die Grundlagen der deuschen Zukunft, Berlin, Zeitgeschichte Verlag, 1934, p.7.)

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(写真 / ドイツ人少女の歓迎を受けるヒトラー)

  これらの理論家よりも、さらに激しく糾弾されるのがドイツ総統のアドルフ・ヒトラーである。もちろん、この独裁者は戦争末期、自らの地位に固執し、多くのドイツ兵を無駄死にさせたから、徹底的に批判されねばならない。しかし、ナチスが行った人種政策はドイツ国民にとって、本当にマイナスであったのか? ヒトラーはゲルマン人らしいドイツ人を保存したいと望み、国家が必要とする健全な青少年を育成しようとした。また、ドイツ社会を破壊する共産主義を執拗に攻撃したが、これは本当に「悪い事」なのか? ヨーロッパ人は認めたくないだろうが、優生学はドイツ人のみならず、ブリテン、フランス、ネーデルラント、スウェーデンなどでも盛んで、当時としては国家のプラスになったはずだ。ヒトラーの『我が闘争』を読んでみると、意外にも「まっとうなこと」が書かれており、戦前のヨーロッパ人が持っていた本音を語っている。例えば、次のような箇所はイギリス人やアメリカ人でも賛同する人が多いはずだ。
  
  自然は雑種を好まない。特に、第三、第四、第五世代あたりの雑交の初期に生まれてくるものは、はなはだしく苦しまねばならない。かれらは本来最高の成分のもっている価値を、雑交によって失ってしまうのみならず、血の統一を欠いているために、生存一般のための意志力や決断力の統一をも欠いているのである。(アドルフ・ヒトラー 『わが闘争』 (下) 平野一郎・将積茂 訳 角川文庫 p.49)

 また、ヒトラーは優越人種が劣等種族と交わった場合の危険性についても述べていた。

  ・・・・その結果はまず、水準自体が低下するだろうが、さらに子孫が人種的に混血していない周囲のものに比して虚弱化するだろう。最もすぐれた人種の側からの血がそれ以上混入することを完全にさまたげられるならば、お互いに雑種同士の雑交をつづけることによって、雑種は自然によって抵抗力が低下させられるために死滅するか、あるいは幾千年かの間には種々雑多な雑交によって、本来の単一的な要素が完全に混合し、したがってその単一な要素がもはや認められないような新混血物が形成されるであろう。(上掲書 p.50)

  ・・・・最も神聖な人権はただ一つあるだけである。そして、この権利は同時に最も神聖な義務である。すなわち、それは最もすぐれた人類を保持することによって、人類のより尊い可能性を与えるために、血を純粋に保つよう配慮することである。それとともに民族主義国家は、人間と猿との間の生まれぞこないではなく、神の似姿を生むことを任務としている結婚に神聖さを与えるために、まず第一に、結婚を絶え間ない人種汚染の水準から高めてやらねばならない。(上掲書 pp.52-53.)

  戦前から1960年代まで、アメリカ社会において白人が黒人と結婚することは忌み嫌われていた。特に、南部だと一層顕著で、現在とは違い、民衆党の大物が熱烈な人種差別主義者であったことは周知の事実。例えば、リベラル派の長老だったロバート・バード(Robert Byrd)上院議員は、若い頃、KKKのウェスト・ヴァージニア支局に属していたし、ジョージア州の知事を務めたクリフォード・ウォーカー(Clifford Walker)とユージン・タルマッジ(Eugene Talmadge)は、黒人が大嫌いで、黒人の政治参加に猛烈な反対を示していた。アラバマ州にも沢山の白人至上主義者がいて、デイヴッド・グレイヴス(David Bibb Graves)知事や連邦最高裁のヒューゴ・ブラック(Hugo Black)判事は有名だ。彼らは共にKKKを支持。もちろん、こうした「レイシスト」はユダヤ人も大嫌い。アイヴィー・リーグの大学は、なるべくユダヤ人の学生を排除しようと様々な対策を講じていたものだ。

Claude Lanzmann 1(左 / クロード・ランズマン )
  ところが、日本の歴史学者は悉くユダヤ人や黒人の味方で、ドイツ史について論文を書けば、決まって追放されたユダヤ人に同情を寄せてしまう。蛸壺型の思考しかないから仕方がないが、別の角度、すなわち「ドイツ人の視点」でドイツ史を見ることができないのだ。要するに、彼らはユダヤ人学者の言説を繰り返しているだけ。そもそも、「ホロコースト」なる用語が、どのように定義されているのかよく解らない。日本の歴史学者は検死報告書や物的証拠も示さずに、都市伝説でしかない「ガス室殺人」を頭から信じている。フランスのユダヤ人で映画監督のクロード・ランズマン(Claude Lanzmann)が、様々なホロコースト生存者を集め、その証言を映像に収めて『ショアー(Shoah)』というドキュメンタリー・フィルムを制作したが、これらの証言はどれも「証拠」とはならない。なぜなら、法廷での宣誓証言でもなければ、反対尋問を受けた証言でもないからだ。偽証罪に問われず、気楽に話せる噂話を「真実」と称しているんだから、日本の学者は脳天気である。こんなヨタ話が信用されるなら、『週刊実話』の記事だって、みんな「真相」になってしまうじゃないか。

  まぁ、迫害や虐殺に遭ったユダヤ人は気の毒だが、久々にユダヤ人が消え去ったヨーロッパというのは結構気持ちがいい。ユダヤ人やクルクル左翼が記す歴史本には、「可哀想なユダヤ人」という“お涙頂戴”話が満ちあふれているけど、当時のドイツ人からすれば、「あの穢らわしい賤民が居なくなってせいせいした」という気分であった。それに、当時のドイツ人労働者はヒトラーの経済政策により、惨めだった生活水準が向上したし、ゲルマン人だけが暮らす住宅地も建設されて大喜び。イギリス人だって羨むほどだ。現在、戦勝国になったはずのブリテンには、ユダヤ人が政財界にウジャウジャいて、アングル系やケルト系の国民は密かに嘆いたり、憤慨したりと気分が優れない。したがって、「こんな風になるなら、ナチ・ドイツに占領された方がマシだ」と言いたくなるイギリス人の“ぼやき”も分かる。

Michael Levy 2Jack Straw 3Ed Miliband 1David Miliband


(左 : マイケル・レヴィー / ジャック・ストロー / エド・ミリバンド / 右 : デイヴィッド・ミリバンド )

ブリテンの政界はユダヤ・マネーに汚染され、誰も彼もが親イスラエル派だ。多民族共存が実現したブリテン島には、「イギリス人」の振りをするユダヤ人議員が普通にいて、中には「愛国者」を演じることで国民を騙そうとする奴がいる。保守党を見てもユダヤ人が多いし、労働党を見回してもユダヤ人が目につく。例えば、トニー・ブレアのパトロンはマケイル・レヴィー(Michael Levy)だし、外務大臣のジャック・ストロー(Jack Straw)は移民賛成派で、バーバラ・ロッシュ(Barbara Roche)に至っては確信犯的移民推進派であった。労働党の代表になったエドワード・ミリバンドと兄のデイヴィッドは親譲りのマルキスト極左ときている。一方、保守党にはマイケル・ハワード(Michael Howard)やマイケル・リフキンド(Michael Rifkind)のようなユダヤ人が多い。でも、一番腹立たしいのは、下院議長席に腐敗の帝王、ジョン・バーコウ(John Bercow)が坐っていることだ。 焼肉屋じゃあるまいし、あっちでジュージュー、こっちでジュウジュウの状態なんだから、イギリス人だと目眩がしてくる。

Barbara Roche 11John Bercow 1Michael Howard 2Michael Rifkind 1

(左 : バーバラ・ロッシュ / ジョン・バーコウ / マイケル・ハワード / 右 : マイケル・リフキンド )

  ドイツ内外にヒトラーのユダヤ人迫害を非難するドイツ人がいるのは分かるが、彼らは北方種族のゲルマン人を増やした廉でヒトラーを譴責するのか? 現在、ブリテンやフランス、ネーデルラント、スウェーデンでは、移民や難民の有色人種が雪崩れ込んでしまい、深刻な「多民族社会」となっている。そこで、もしも、イングランドやデンマークからアジア人やアフリカ人が一掃され、白人だらけの国家となったら、どのような現象が起きるのか? まさか、リベラル派の白人が大量に逃げ出し、各地で不動産価格が下落するとは考えにくいし、一般国民が嘔吐を催すとも思えない。むしろ、人気の移住先となるんじゃないか。例えば、アメリカやカナダからこぞって白人が流入し、国籍取得を希望するかも知れないぞ。西歐人は決して口にしないが、ユダヤ人はお金の臭いに敏感だから、イスラエルからも不動産業者が参入し、猛烈な「土地転がし」が発生する可能性だってある。白人用の高級住宅地となれば結構な儲けになるし、建築業者や開発業者になればもっと儲かるから、このチャンスを見逃す手はない。巨額の資金を調達できるユダヤ人だと、ライバルを蹴落とすことが出来るから、かなり有利だ。

German boy 11German girl 1Nordic woman 43


(左 : ナチス時代のドイツ人少年 / 中央 : ナチス時代のドイツ人少女 / 右 : 現代のゲルマン系西歐人女性)

  とにかく、ドイツを破滅に陥れたヒトラーを批判するのは構わない。しかし、ヒトラーがしたことを全て否定することは間違いだ。例えば、もしヒトラーがキリスト教を保護したり、「ヨーロッパの文化だから大切にせよ」と発言したら、アメリカ人はキリスト教を邪教と考え、「ネオ・ナチ好みの宗教だ」と毛嫌いするのか? また、もしも、ナチ党が軍人魂を称讃し、「祖国のために命を懸けることは崇高な行為だ !」と宣伝したら、ヨーロッパ人は尚武の精神をゴミ箱に捨てるのか? キリスト教や勇敢な行為はナチスがなんと言おうとも尊い。「善いもの」は誰が口にしても「善いもの」だし、悪事はイギリス人やアメリカ人が行っても正当化されるものではない。

Hitler with girlNazi Germany girls 004

(左 : ドイツ人少女と面会するヒトラー / 右 : 健全なドイツ人少女たち)

  自国の生活環境を良くするためなら、タカリ賤民のユダヤ人や、不愉快な移民・難民を追放しても非難されるべきことではないだろう。第一、ユダヤ人には同胞が暮らすイスラエルがあるじゃないか。アフリカ難民は元々「避難民」なんだから、永住せずにさっさとアフリカへ戻り、どこかの国で農作業でもすればいい。あれだけ広大な地域なら、ブッシュマンみたいに暮らせるはずだ。もし、それが厭なら、パプア・ニューギニアとかフィリピンに移住する選択肢もあるじゃないか。ヨーロッパの左翼は自国の保守派ばかり責めているが、「上等な先進国」を意図的に目指す移民や難民を批判しないのはおかしい。アフリカ難民は他のアフリカ諸国が受け容れるべきだし、シリア難民とかイラク難民は、イスラム教国のサウジ・アラビアとかヨルダン、イランなどが率先して保護すべきである。異邦人を排斥したい保守派は、もっと強靱な精神を持つべきだ。先祖から受け継いだ国家と将来を担う子孫を考えれば、左翼からの苦情・罵声など「ウサギの糞」程度じゃないか。左翼分子は敵の弱点を突くのが上手い。真の愛国者は「ネオナチ」とか「極右」といったレッテルを恐れず、自分の血統をなるべく純粋に保ち、生まれ育った郷土を「自分たちの国」とすべきである。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68786228.html

49. 中川隆[-14831] koaQ7Jey 2019年11月18日 12:38:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1919] 報告
2019.11.18
ラテン・アメリカとヨーロッパを結びつけるファシスト

 ラテン・アメリカで新自由主義を巡る戦いが激しくなっている。新自由主義は一部の人びとへ全ての富を集中させる仕組みを作り上げ、富を独占する私的権力へ国を上回る力を与えることを目標にしている。それに対する反発が強まっているのだ。


 ラテン・アメリカはアングロ・アメリカの「裏庭」だと言われてきた。ラテン・アメリカの資源をアングロ・アメリカを拠点とする巨大資本が独占するという宣言とも言える。


 かつてのスペインやポルトガルの支配層と同じように、アメリカの支配層はラテン・アメリカの資源を略奪、私的な富の源泉にしてきた。そのラテン・アメリカが真の意味で独立することを彼らは許さない。


 第2次世界大戦の後、アメリカの支配層はラテン・アメリカをナチスの残党たちを匿うために利用した。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウォール街やシティ、つまり米英の金融資本はナチスのパトロン的な存在だった。1933年から34年にかけての時期にウォール街の住人がフランクリン・ルーズベルト政権を倒すためにクーデターを計画した理由もそこにある。


 ナチスに率いられたドイツは1941年6月にソ連侵略を開始する。バルバロッサ作戦だ。その時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎなかったと言われている。西側の守りを懸念するドイツ軍の幹部は軍の半分を残すべきだとしたが、アドルフ・ヒトラーがその進言を退けたという。そこで、ヒトラーは西側から攻めてこないことを知っていたのではないかと推測する人もいる。


 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的。そこでイギリスやアメリカは協議、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。


 スターリングラードでの戦いにドイツ軍が敗れると、ナチスの親衛隊はアメリカ側と接触を始める。そのアメリカ側の人間は情報機関OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたち。


 ダレスたちは1944年になるとドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将と接触しているが、その仲介役はダレスの部下で、ウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。ちなみにOSSの長官だったウィリアム・ドノバンはダレスの友人で、自身もウォール街の弁護士だ。


 大戦が終わった直後、ローマ教皇庁の要職にあったジョバンニ・バティスタ・モンティニなる人物がナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめている。


 モンティニは後のローマ教皇パウロ6世で、ヒュー・アングルトンというアメリカ人と親しくしていた。ヒューのボスにあたる人物がアレン・ダレス。ヒューの息子であるジェームズ・アングルトンはCIAで秘密工作に深く関与することになる。このローマ教皇庁が協力した逃走ルートは一般的にラッテ・ラインと呼ばれている。


 ダレスたちは大戦後の1948年からナチスの元幹部や元協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を始めている。この作戦で助けられた人物の中には親衛隊の幹部だったオットー・スコルツェニーやゲシュタポ幹部で「リヨンの屠殺人」とも呼ばれていたクラウス・バルビーも含まれていた。


 元ナチス幹部たちを逃がした先がラテン・アメリカ。ナチスの元幹部たちはまずアルゼンチンへ運ばれ、そこから分かれていき、アメリカの秘密工作に協力したと言われている。バルビーが1980年にボリビアでのクーデターに協力したことは本ブログでも書いた通り。


 このクーデターにはステファノ・デレ・キアイエなる人物も協力している。NATOの加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在、イタリアの組織はグラディオ。(Jeffrey M. Bale, “The Darkest Sides Of Politics, I,” Routledge, 2018)


 デレ・キアイエはグラディオの工作に参加していた。この秘密部隊は1970年にイタリアでクーデターを試みて失敗しているが、これにもデレ・キアイエは加わっている。クーデターに失敗した後、彼はスペインへ逃亡、1973年にはCIA主導の軍事クーデターを成功させたチリを訪問、オーグスト・ピノチェト政権の幹部たちと会っている。


 こうしたネットワークはラテン・アメリカだけでなく、アングロ・アメリカやヨーロッパにも広がっていて、それは今でも消えていない。ウクライナでネオ・ナチが登場したのも必然なのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911170000/

50. 中川隆[-15210] koaQ7Jey 2019年12月06日 11:50:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2275] 報告
2019.12.06
日本軍の真珠湾攻撃から78年


 中国での戦争が泥沼化していた日本軍は1941年12月7日(ハワイ時間)、守りが堅いと言われていたハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。

 その直前、アメリカ政府は日本に対する石油の輸出を禁止していたと言われているが、フランクリン・ルーズベルト大統領はその当時、日本に対する石油の禁輸は「日本をインドシナへ駆り立てる」として消極的で、1937年より前の日本に対する石油輸出量は維持するとしていた。それに対して財務省は石油代金の支払い方法で日本に圧力を加えていたという。(岩間敏「戦争と石油(1)」石油・天然ガスレビュー、2006年1月)

 そうした中、日本軍はアメリカと戦争を始めたわけだが、その直前に行われた日本側の試算によると、アメリカと戦争を始めてから3年目には石油が不足すると見通されていた。ところが、石油がそのように劇的に不足することはなかったようだ。

 その当時、全世界における石油生産量の約半分はアメリカが占めていた。1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始したドイツの場合、アメリカのスタンダード石油から石油の供給を受けている。日本とアメリカとの間で戦争が始まったことでドイツへ石油を直接売ることが難しくなったスタンダード石油はベネズエラにあった支社からスイス経由でドイツ占領下のフランスへ売り、そこからドイツへ運んでいたという。

 ドイツの戦争は1938年10月1日にチェコスロバキアのスデーテン地方を占領したときに始まるという見方がある。9月にドイツのミュンヘンでスデーテン地方の帰属を巡る英仏伊独の首脳会談が開かれ、ドイツへの割譲が認められることになったことにともなう動きだ。その時、ポーランド軍がチェシン・シレジアへ、またハンガリー軍がカルパティア・ルテニアへ侵攻してくる。ただ、この見方を採用するとポーランドを犠牲者として描くことが難しくなる。

 それに対し、ドイツを警戒していたソ連はイギリスやフランスに対し、ドイツとの国境線まで軍隊を派遣すると提案したのだが、受け入れられなかった。そうした対応が1939年8月23日の独ソ不可侵条約につながるという考え方もある。

 その年の5月11日にノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦した。日本側は関東軍が陸軍省と参謀本部の方針を無視して戦闘を継続、外モンゴル軍との相互援助条約に基づいて派兵されたソ連軍と衝突する。8月下旬にはソ連軍の機械化部隊が攻勢、日本軍は大敗した。その頃、ドイツとソ連が不可侵条約を締結する。そして日本軍の目は東南アジアへ向く。

 1941年6月にドイツ軍約300万人は東へ向かって進撃を開始した。西部戦線に残った戦力は約90万人と言われている。西側は手薄になった。この非常識な作戦はアドフル・ヒトラーが主導したものだ。

 ヒトラーは不可解な命令を出すことがある。例えば、1940年5月下旬から6月上旬にかけてイギリス軍とフランス軍34万人がフランスの港町ダンケルクから撤退したが、その時、ドイツ軍に対して追撃を止めている。その命令がなければイギリス軍とフランス軍は壊滅していた可能性が高い。

 1941年12月に入る頃、ルーズベルト政権は日本軍がアメリカの利権にかかわる「どこか」を攻撃すると予想、マレー半島へ日本の艦船が近づいていることに注目している。その周辺を日本軍は狙っていると考えるのが常識的な見方だったが、実際は12月7日に真珠湾を奇襲攻撃したわけである。

 アメリカ軍やイギリス軍は太平洋で日本軍と戦ったが、ソ連へ攻め込んだドイツ軍とは戦っていない。そのドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入する。

 その段階ではドイツ軍が優勢だったが、11月になって戦況が一変した。ソ連軍が反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまうのだ。1943年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。それまでアメリカやイギリスはソ連とドイツの戦いを傍観していた。

 スターリングラードでドイツ軍が敗北した後、アメリカとイギリスは慌て、1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画である。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月だ。この際、ドイツ軍のアーウィン・ロンメルは有効な対応策を立てたが、ヒトラーに拒否されたという。ヒトラー暗殺が試みられたのはその翌月のことだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912060000/

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