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[近代史5] 財政破綻するとこうなる 中川隆
1. 2020年7月19日 08:17:30 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[1]
未来への意思 投資を増やす経済の復活を!
2020-07-19 三橋貴明
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12611769750.html


 改めて、国民経済の五原則。

◆国民経済において、最も重要なのは「需要を満たす供給能力」である。
◆国民経済において、お金は使っても消えない。誰かの支出は、誰かの所得である。
◆国民経済において、誰かの金融資産は必ず誰かの金融負債である。
◆国民経済において、誰かの黒字は必ず誰かの赤字である。
◆現代世界において、国家が発行する貨幣の裏づけは「供給能力」である。

 投資とは、未来への意思です。
 国民経済において、最も重要なのは「需要を満たす供給能力」である。ならば、供給能力が国民の需要を満たせなかった場合、そうなるのか。


 まさに、現在のレバノンのごとく「財政破綻」し、国民は「飢え」に苦しめられることになります。


 いつもは、財政破綻について「財政破綻した」という結果の方から見ていますが、今回は逆方向からアプローチしてみましょう。すなわち、「供給能力」が不足する国の最終的な運命です。


 供給能力、より具体的には財やサービスの生産能力が足りない国は、どうなるのか。
 もちろん、国内の供給能力では国民が必要とする財やサービスを生産できないため、人々が「財やサービスの不足」に苦しめられることになります。


 というわけで、供給能力が不足することは「輸入」を増やします。つまりは、貿易赤字の拡大です。

 そして、国内で財やサービスを売った「外国企業」は、通貨を外貨に両替しようとしていきます。
 必然、貿易赤字が大きい国は、ひたすら「為替レートの下落」圧力にさらされることになるのです。

【レバノンの貿易収支(百万ドル)】


http://mtdata.jp/data_70.html#boueki

 内戦で供給能力が毀損したレバノン(それ以前からかも知れませんが)は、国民の財やサービスに対する需要を満たすため、ひたすら貿易赤字を拡大していきました。


 その分(※厳密には経常収支赤字分)、レバノンポンド(以下、LBP)を外貨に両替しようというニーズが発生することになります。


 これを放置しておくと、LBPはひたすら対ドル(厳密には外貨)為替レートが暴落し、輸入物価が急騰し、国民は「適切ではない」インフレ率高騰に苦しめられることになります。


 ならば、どうすればいいのか。

 LBPの為替レートを、対ドル固定相場とする。他に手はありません。


 実際、レバノン政府は「1ドル=1507LBP」の固定相場制を採用しました。とはいえ、為替の固定相場とは、政府が「1ドル、1507LBPとする!」と、宣言すれば達成されるわけではありません。

 貿易赤字である以上、外為市場では常にLBPからドルへの両替が行われます。レバノン政府は、手持ちのドル(外貨準備)で売られたLBPを買い戻す為替介入を続けなければなりません。


 貿易黒字、経常収支黒字国であれば、「外貨の自国通貨への両替分を、自国通貨を調達して買い戻す」形で、外貨準備を蓄積することができます。とはいえ、レバノンは恒常的な貿易赤字、経常収支の赤字。


 自国通貨で外貨を買う形で外貨準備(≒ドル)を手に入れられないレバノン政府は、いかにして為替介入に必要なドルを手に入れるのでしょうか。


 もちろん、ドル建て国債です。

 実際に、レバノン政府はドル建て国債を発行し、国際金融市場からドルを調達し、為替介入を行い、1ドル=1507LBPの為替レートを維持してきたのです。


 とはいえ、ドル建て国債は「実質的」に、償還期限が来たら返済しなければなりません。ドル建て国債を償還するには、ドルが必要なのです。


 そもそもレバノン政府はドルを手に入れられないからこそ、ドル建て国債を発行していたわけです。返済のためのドルを手に入れられないと、どうなるのか。


 償還期限がきたドル建て国債の返済不能。すなわち、債務不履行、デフォルト、財政破綻に至る以外の道はありませんでした。


 レバノン政府が(ドル建て国債の)デフォルトになると、当たり前ですが公式の「1ドル=1507LBP」は維持不可能になります。外為市場あるいは「闇市場」において、LBPはひたすら対ドル(※外貨)で下落していくことになります。


 LBPが暴落すると、輸入物価が急騰し、国民は「財やサービスの不足」というインフレに苦しめられることになります。分かりやすく書くと、飢える、のです。


『レバノンの通貨大幅下落 財政悪化で信用失墜、コロナが追い打ち
https://www.sankeibiz.jp/macro/news/200716/mcb2007160500003-n1.htm

 中東レバノンの通貨が大幅下落し、経済危機が悪化した。困窮していた財政に新型コロナによる不況が追い打ちとなった。目立つ産業がなく輸入に頼る同国では、物価が高騰し自殺者や犯罪が増加、反政府デモも継続し、混乱が加速している。

 通貨レバノン・ポンドはこれまで安定していたが、財政悪化に端を発する昨年10月からの反政府デモや、今年3月のデフォルト(債務不履行)で通貨の信用が失われた。新型コロナでの失業増もあり、下落に歯止めがかからなくなった。

 昨年10月まで1ドル=約1500レバノン・ポンドだった交換比率は、デフォルト後の今年4月に約3600レバノン・ポンドに下落。地元紙デーリー・スターによると、闇市場では2日に一時、1万レバノン・ポンド近くまで急落した。

 輸入に頼る生活物資は急騰し、困窮者が増加。軍は兵士の食事を肉抜きにして経費を削減している。在レバノン日本大使館などによると、経済苦とみられる自殺者が出ているほか、殺人が昨年と比べ倍増、強盗が2割増など治安が悪化した。
 自らの腎臓を売りたいとネット上で申し出る失業者も。首都ベイルートに住む30代のオマル・ティビさんは新型コロナで飲食店を解雇された後、子供のミルク代にも苦しんでいると言い、「車も宝石も、家具も売った。この国の未来が見えない」と途方に暮れていた。』

 レバノンが経済危機を脱するためには、どうしたらいいのでしょうか。


 通貨暴落を「奇禍」とし、国内の投資を拡大し、供給能力を引き上げ、輸出増により貿易赤字の解消を目指すしかありません。

 とはいえ、投資による供給能力引き上げは、一朝一夕には達成しえない。供給能力とは、過去の「先人」たちによる努力、すなわち、
「将来の供給能力を引き上げるために、今、投資をしよう」
 という、未来への意志が蓄積された「結果」なのです。


 現代のレバノン人が苦しんでいるのは、過去の先人が十分な投資をしなかった「結果」なのですよ。


 そして、我々が日本国において、それなりに「供給能力のある経済」を満喫できているのは、過去の先人の苦難、努力、投資のおかげなのです。


「国民経済において、最も重要なのは「需要を満たす供給能力」である。」

 レバノンの「財政破綻の事例」を知れば、経済において最も重要なのが何か、我々が「未来」のために何をするべきなのかが、誰にでも分かるはずです。

 そして、財政破綻論者の「日本の供給能力を潰す言論」に対し、わたくしがどれほど怒っているかが、理解できると思うのです。


https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12611769750.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/227.html#c1

[近代史5] 高齢者は死んでいいのか _ 大西つねき「命、選別しないと駄目だと思いますよ」 中川隆
29. 2020年7月19日 08:36:44 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[2]
松尾匡のページ
20年7月18日 大西つねきさんの発言をめぐって
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__200718.html

【つねき発言事件でショック】
 前回のエッセーで、山本太郎東京都知事選挙出馬によって、反緊縮運動における左派・リベラル派の影響力が減退し、極右的な影響力が増すのではないかという危惧を表明しましたが、それをアップしたあと、れいわ新選組のメンバー(当時)の大西つねきさんが、例の「命の選別」発言をしていたことを知り一気に気持ちが沈みました。この事件の結果、私の危惧した方向が、ますます進行したような気がします。
 何よりもショックなことは、れいわ新選組の支持者らしき人はじめ、反緊縮政策に理解があると思われる人たちの間で、こんなにも大西つねきさんを擁護する人がいるのかということでした。私のつたないネット技術で見る限り、反緊縮勢がつねき擁護し、反・反緊縮勢がつねき批判・れい新批判しているような印象で、それ以外は存在感が薄い感じがしました。
 それだから、れいわ新選組の立候補予定者で、私が代表をしている薔薇マークキャンペーンの事務局(念のために書いておくと、ここには共産党員も立民支持者もいて反緊縮だが特定政党に偏ってはいない)の大石あきこさんが早い段階で問題を指摘してくれたことは大きな功績だったと思います。遅れていたらどうなっていたことか。もっと手のつけられない大きな傷になったと思います。でもそのために大西つねきさんの発言の擁護者からたくさんのバッシングを受けているようで、これもまた心が沈む事態です。
 つねき発言が、反緊縮思想にもれいわ新選組の基本思想——「すべての人は生きているだけで価値がある」——にも、根本的に相容れないことは明白なことで、筋金入りの反緊縮の大石あきこさんがすばやく反応したことは当然のことと思いますが、中にはそんな彼女の反緊縮を「ウケ狙い」と疑う人もいるそうで、残念に思いました。彼女は、私の反緊縮経済理論を深いところから理解してくれている数少ない人の一人だと思っています。

【大西つねきさんの発言がどんなものでなぜいけないのか】
 大西つねきさんは私と同じく日本における数少ない政府貨幣論者で、これについての日頃の啓蒙・宣伝活動には常々心強く思っていました。れいわ新選組の経済政策も、大西さんがいるなら安心だと思っていました。それだけに今度の事態はとても残念です。
 一時は大西つねきさんも発言の撤回、謝罪をされていましたので、期待するところはあったのですが、残念ながら謝罪撤回されてしまって、開き直られては、「除籍」ということに至ったのは当然のことだったと思います。「構成員」のみなさんは、みんな傷ついて、お疲れになったことと思います。しばらくお疲れをいやしていただけたらと思います。

 大西さんの発言がどんなもので、何がいけないのかは、下記リンクの荻上チキさんのnoteをご覧いただければ、おわかりいただけると思います。つねき発言の動画の文字起こしが載っています。

大西つねき氏の「命の選別」発言の問題点(文字起こし付き)

 私は荻上さんとほとんど同じ意見ですし、大西さんの処分を報告した山本太郎さんの記者会見の説明ともほとんど同じなのですが、若干荻上さんの議論の繰り返しになるところもありますが、以下に私見を述べておきます。(山本太郎さんの記者会見で出たコロナの問題については、私の医療知識がないので保留します。)
 以下に述べることは、私、松尾匡の個人的な見解であり、薔薇マークキャンペーンの見解ではありません。薔薇マークキャンペーン事務局での議論は方向性として私と同じですが、対外的な意見表明となるには、今しばらく慎重な議論が必要です。
 また、私はれいわ新選組の外部の人間ですので、以下の見解はれいわ新選組の見解でもありません。

【トリアージや個人・家族の選択の問題ではない】
 まずおさえておかなければならないのは、トリアージとか個人の生死観の問題とかは、この議論とは関係ない筋違いな問題だということです。つねき発言の問題は、平時に継続的に維持される公的システムをこう変えようという話だから問題なのです。しかも、結局は個人の人権とか個人の願望を根拠にした話ではなくて、あからさまに労働制約を究極根拠にした全体論だから問題だという、このことがおさえられなければ議論がへんになると思います。

 ちなみにこのたびの騒動で、れい新支持者にも、財政制約を根拠にする人がいるのだとわかりましたが、これはまずもって入り口で、財政制約などないと説得することがれい新の役目でしょう。そこまで言い切っているところがれい新の反緊縮のオリジナリティなのですから、世の中に流布する命の選別論が結局ほとんどが財政制約を根拠にしている以上、それをちゃぶ台返ししないと何のためにれい新の反緊縮論があるのかわからなくなります。

 大西つねきさんはもちろん、財政制約などないということはご存知です。だから労働制約の話をされているわけです。これが、個人を超えた全体論的な理屈づけで政治が個々人の命を選別する話になっている点で問題なのです。

 だから、つねき発言を問題にすることは、経済的理由が(本音では)根拠で延命治療を断らざるを得ない家族や、医療資源不足でコロナのトリアージを余儀なくされた医療労働者を責めるものではないということを理解してほしいです。
 これらのことは緊縮をはじめとした貧弱な体制のせいです。だから、政治運動として公的に実現を訴えることは、まずは緊縮をやめろ、誰もが長生きしたくなる社会を作れと言うことです。しのごの言わずに政府が金費やして今のうちに人工呼吸器量産しろ、危険手当ていっぱい出して医療従事者をたくさん確保しろと言うことです。現状の貧弱な体制を話の前提にしてはなりません。
 肉親の延命治療を止めざるを得なくなった家族、トリアージを余儀なくされた医療労働者の、苦渋の思いは、みんなでその重みをシェアして緊縮への怒りに向けるようにめざすのが反緊縮運動だと思います。こんな現状でも現場の関係者が思い悩まずスッキリさせる方向に公的制度を向けようというのは反緊縮運動としてちょっと違うと思います。

 それから、つねき発言を問題にすることは、残された命を苦痛なく快適に生きるために、寿命が縮むリスクはあるけど緩和ケアを優先することを本人が選ぶことを否定するものでもありません。むしろ本当に当人にとって生きててよかったと思える丁寧なケアを実現するためには、単なる延命治療よりも多くの人手と医療資源を必要とする可能性があります。十分にそうした資源をつぎ込める保障があってこそ、本当の意味で個々人にとって自由な選択が機能できるのだと思います。大西さん流の労働制約の根拠づけからは、むしろこうしたことは根拠づけられなくなります。
 (17日の大西つねきさんの除籍後の記者会見でも、個人が「生きる質」を享受する自由の問題と全体論的な労働制約の問題の混同が見られましたが、労働制約を根拠にすると「生きる質」の充実にとっても制約になるということを認識しておられない気がします。)
 大西さんの根拠づけの問題は、そういう、個人の快適さとか人権とか尊厳とかのことにはないのだということに気をつけてください。上のリンクさきの荻上さんのnoteの文字起こしをよく読んだらわかります。

【「人は生きているだけで価値がある」の真のポピュリズム】
 なによりも、私は、山本太郎さんが常々語るれい新の基本哲学、「人は生きているだけで価値がある」という言葉は、非常に革命的な言葉だと思っています。どこが革命的かというと——
 普通の政治勢力は、新自由主義者もリベラルも、人格の所在を「理性」に見て、身体を理性の持ち物のようにみなします。そして、理性的にお金儲けを計算するとか、理性的に公共的なことを考えるとかを個人に課してきます。そしてその優劣で人をランクづけし、不遇な結果を自己責任扱いします。
 れい新はそうした押し付けに生きづらさを感じた人たちにアピールできたのです。それは、それに代えて、「生きているだけ」でも存在する生身の個人を人格の主人公にすえ、空腹の胃袋や筋肉痛の手足を変革の根拠にして、エリートの「理性」が作った強者の都合の押し付けに反逆したからだと思います。

 これが本当のポピュリズムというものだと思います。
 荻上チキさんの上のリンク先の文章で一つだけ全面的には納得できないのは、れい新のポビュリズム的側面を支える情念がこのような「命の選別」を合理化する危険を持つとされた点です。
 大西つねきさんの動画での言い方は、合理的な自分が政治判断して、生身の命を救うか救わないかを決めるということです。これはエリートの理性が支配して、生身の個々人のコントロールのきかない外から、生身の個々人の誰彼を損壊してくるということであり、ポピュリズム的情念が本来最も敵視してきた図式の極端な例と言えます。これを「犬笛」として出てきたいろいろな「命の選別」論は、やっぱり自分の方が情緒を離れて合理的だということを互いに競い合っている感があります。おそらく大西さんのこういう議論を、街頭の大観衆の前でしたら、大衆が熱狂するかと言うとしないでしょう。引くと思います。

 私見では、「人は生きているだけで価値がある」という姿勢は、「生きているだけ」でも存在する生身の個人を人格の主人公にすえているからこそ、たとえ一般に「意識」と呼ばれるものがない状態で生きている人でも、尊厳ある人格を持った権利主体として扱うことを要請します。その人の身体反応レベルの選択は、いわゆる理性的選択と優劣なく、最大限尊重しなければならないと思います。ここにはつねき流命の選別の入る余地はありません。

 そして、だからこそ反緊縮になるのだと思っています。
 緊縮政策とは、「生きているだけ」でも存在している生身の個人が損壊されるかされないかが、所得の大小や、総需要不足で限られた雇用にたまたまありつけているかどうかで、選別されるシステムです。それが、分別ぶった財政規律論のお説教で押し付けられるわけです。それに反対するからこその反緊縮です。
 私も多くの反緊縮派も、財政危機論は誤った幻想だとわかっています。しかし、たとえそれが間違ってなかったとしても、「財政」も「通貨」も、本来は人が生きていくためのツールとしての決まりごとにすぎません。それを自己目的にして、「生きているだけ」でも存在している生身の個人を犠牲にすることは本末転倒です。まずは、「生きているだけ」でも存在している生身の個人が、誰一人漏らすことなく「生きていてよかった」と言えることをめざすことが優先されるべきです。

【問うべきものは労働配分の選択】
 この立場は大西さんが指摘されている労働制約があったとしても変わるものではありません。
 将来的に、高齢化が進行することで、医療・介護などに人手がたくさん必要になり、それらの部門で必要になる物財の生産のためにも人手が必要になって、日本経済全体でどれだけの労働不足が発生するかという問題は、同僚の橋本貴彦教授と私が2030年について産業連関分析によって簡単な計算をしています。

高齢化時代における蓄積と社会サービスへの総労働配分と搾取:投下労働価値計測の応用

 ここでは、高齢者一人当たりの医療・介護サービスを2010年のスウェーデン並みにしたときに、必要となる総労働のうち約15.4%が,そのときに存在する推計総労働賦存量に比べて不足することをみいだしています。
 これは、医療・介護部門以外で、基準時点の2010年からの20年間で、年率0.84%の労働生産性の上昇があれば、医療・介護関連で必要になる不足分の労働は作り出されることを意味します。これまでの現実に照らして年率1〜2%ぐらいの労働生産性上昇はあるものだと考えれば、十分に達成されます。しかし、これは政策を考えるときに今あてにしていいものではないと思います。あえて労働生産性を上昇させる政策など、供給構造改革とかろくでもないものです。

 だとすればどうすればいいでしょうか。
 この場合、社会的合意をつけて選別されるべきものは大西さんの言うような「命」ではありません。どの分野の労働配分を減らすかということです。消費財を生産したり流通させたりする労働を減らすというのであれば、消費税を上げることになります。私たちは、日本の場合、固定資本形成(機械や工場などをつくること)のための直接・間接の労働配分割合が他の成熟先進国と比べて高く、民間のそれは高度成長期末期の1970年と変わらぬ約2割を維持し続けていることを発見しました。そこで私たちは、この労働配分割合をまず減らすことを提言しています。これは法人税を上げることなどを意味します。
 そのほかにも、労働配分を減らしていいと社会的合意をつけられる分野はあると思います。それが政府支出で維持されているならばその政府支出を削減すればいいし、そうでなければそこに税金をかければいいことになります。
 この計算は荒削りのもので、まだまだ改良が必要です。それに女性や高齢者の労働力化が、この計算で前提している政府の予想以上に進行することも考えないといけません。いきなり命の選別の話をはじめる前に、このような方向を考えていくことこそ必要なことなのだと思います。


※ 当初、文中、「たとえ大脳が全く機能しなくなった人でも、尊厳ある人格を持った権利主体として扱うことを要請します。もちろん殺してはならないことは健常者を殺してはならないことと同じです。その人の身体反応レベルの選択は、健常者の理性的選択と同等に、最大限尊重しなければならないと思います。」という表現がありました。ここで、大脳が機能する人を指して「健常者」という表現を使いましたが、「健常者」は「健常者/障害者」という対比の中で、上に立つグループという差別的ニュアンスのある言葉でした。したがって、無思慮にこの言葉を使うと、「障害者は殺してもいいのか」という大変恐ろしく差別的な意味で受け取られかねないことがわかりました。無思慮をおわびし、ご指摘に深く感謝いたします。大西つねきさんの発言が、差別・選別される側に痛みをもたらした問題をとりあげた文章で、同様にひとを傷つけることに気づかなかったことを大変恥ずかしく思います。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__200718.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/220.html#c29

[近代史4] 大塚家具 大塚久美子社長はどうやって老舗企業を潰したのか? 中川隆
1. 2020年7月19日 09:06:56 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[3]
大塚家具の看板が消滅する日 社長留任も崖っぷちの久美子氏
2020/07/19


大塚家具会長に就任するヤマダ電機の三嶋恒夫社長(左)と大塚久美子社長(時事通信フォト)© NEWSポストセブン 提供 大塚家具会長に就任するヤマダ電機の三嶋恒夫社長(左)と大塚久美子社長(時事通信フォト)

 ヤマダ電機傘下で経営再建に取り組んでいる大塚家具。だが、業績低迷に歯止めはかかっていない。経営主導権を巡る父娘の激しい“骨肉バトル”を繰り広げてから5年。大塚久美子社長は再び崖っぷちに立たされている。果たして、大塚家具はどうなってしまうのか。ジャーナリストの有森隆氏がレポートする。

 * * *

 ヤマダ電機による大塚家具の本格的な再生計画が始まった。

 7月30日、東京・江東区有明の東京ファッションタウンビルで第49回定時株主総会を開く大塚家具だが、2019年12月、大塚家具を子会社にしたヤマダ電機は社長の三嶋恒夫氏(60)を会長に送り込む。

 大塚家具社長の大塚久美子氏(52)は続投するものの、ヤマダからは取締役兼専務執行役員事業統括本部長の村澤圧司氏(58)、事業統括本部インテリア家電事業部長の名取曉弘氏(47)、経営企画室参事の清野大輔氏(45)が取締役として送り込まれる。

 大塚家具側は久美子氏の妹の夫である取締役専務執行役員流通本部長兼海外営業部管掌の佐野春夫氏(55)など3人が再任となる。ヤマダと大塚がそれぞれ4人、独立社外取締役の弁護士1人で取締役会(ボード)は構成される。社外取締役の陳海波氏(46)は退任する。

「陳氏は大塚家具の資本支援をとりまとめた人物。日中をつなぐネット通販、ハイラインズの社長です。中国大手の家具店、居然之家(イージーホーム)を呼び込む再建計画を立てた久美子は、『日本から一歩、歩みだす。中国の富裕層の取り込みを目指す』と大見得を切りました」(関係者)。

 しかし、再建計画は久美子氏の思惑通りにはいかなかった。

「陳氏は久美子氏の経営力を評価しておらず、『父・大塚勝久氏(77)との和解』を支援の条件としました。久美子氏は、自ら設立した業界団体の名誉会長に就任するよう勝久氏に説得しましたが、勝久氏は断った。これを口実に中国のファンドは出資を見送り、中国での展開も、通販サイトの利用も白紙に戻りました」(金融筋)

 振り返れば、大塚家具の父と娘の骨肉の争いは、連日、ワイドショーを賑わし、国民の好奇の目にさらされた。

 詳しい経緯は省くが、2015年3月の株主総会で父親に勝利し、「古い大塚家具ではダメだ」と声高に主張する久美子氏の改革は、結局、役員や従業員の支援を得られず頓挫。永年の宿痾(しゅくあ)だった赤字経営が一気に表面化した。

 父の勝久氏はすでに匠大塚というライバルの家具会社を立ち上げており、おいそれと大塚家具には戻れなかった。「久美子氏は勝久氏の手の内を読んで、一歩先を行った」(大塚父娘について詳しい関係者)と解説されている。

 そんなどん詰まりの窮状に陥った久美子氏に手を差し伸べたのが、ヤマダ電機の創業者で代表取締役会長兼取締役会議長の山田昇氏(77)だった。

「久美子氏は何度も山田氏に出資してくれと頼んでいたが、久美子氏がヤマダの子会社になる条件を呑まなかったため、なかなか話がまとまらなかったが、最後に折れた」(前出の関係者)

◆再建請負人はリフォーム事業の“切り込み隊長”

 ヤマダ電機が会長に送り込む三嶋恒夫氏は北陸が地盤の家電量販店「100満ボルト」を運営するサンキュー(福井市)の社長を務めていた。サンキューでリフォーム事業の切り込み隊長だったほか、サンキューを傘下に収めた家電量販店業界3位のエディオンでもリフォームを担当した。

 こうした住宅リフォーム事業の実績を買い、山田氏がスカウトし、2017年6月、執行役副社長にした。さらに、1年後の2018年6月、代表取締役社長兼代表執行役COO(最高執行責任者)に昇格し、異例の大抜擢と評された。

 創業者の山田氏は、「家電販売だけではジリ貧になる」との強い危機感を持っている。人口減少が続くなか、テレビなどの家電がどんどん売れる時代ではなくなった。インターネット通販のアマゾン・ドット・コムなど、強力なライバルも出現している。

 大量の仕入・大量販売を前提としたビジネスモデルを築いた山田氏は、その限界を強烈に意識している。「安いだけでは買わない」賢い消費者が主流になってきた。

 代わって山田氏が力を入れたのが住宅関連事業だ。2011年、注文住宅のエス・バイ・エル(現ヤマダ・エスバイエル)を買収した。

 2017年からは家電と住宅関連サービスの複合店「家電住まいる館」の出店を開始した。家電の売り場を縮小し、家具や住宅、リフォーム関連のスペースを拡大したのである。今では家電の売り場が店舗全体の半分しかない店もあるほどで、2020年3月末現在、「家電住まいる館」は109店にまで増えた。

 そんな「家電住まいる館」を担当したのが、ヤマダ入りしたばかりの三嶋氏だった。

◆家電と家具のコラボは相性良くない!?

 ヤマダによる大塚家具の再生計画は、家電と家具のコラボ展示から始まった。

 2月7日、ヤマダの旗艦店「LABI1日本総本店池袋」(東京・豊島区)、「LABI品川大井町」(東京・品川区)、「LABI1なんば」(大阪・浪速区)、「LABI LIFE SELECT千里」(大阪・豊中市)の4店舗をリニューアルオープンした。

 ソファやテーブル、椅子など大塚が扱う商品とヤマダの有機ELテレビや白物家電を組み合わせて展示。色合いを揃えるなどして実際に使用したらどうなるかを顧客がイメージできるようにした。

 池袋店の改装オープンは報道陣にも公開された。ゆっくりと店内を視察する会長の山田氏の後ろを、大塚家具社長の久美子氏がしずしずと歩む。大塚家具がヤマダの傘下に入ったことを象徴する光景だった。

 ヤマダ社長の三嶋氏は「単に家電を売るのではなく、テレビを楽しむために部屋をどう変えれば、より快適にできるかを提案する。大塚家具と協力して家電量販店の垣根を超えたい」と抱負を語る。

 その後、大塚家具は6月19日から全国7か所(有明、新宿、横浜みなとみらい、名古屋栄、大阪南港、神戸、福岡)のショールームで家電の展示販売を本格化した。

 各店舗のフロアでは、リビングやダイニング、寝室など暮らしのシーンごとに、家具やインテリアとマッチする家電を揃えている。テレビとソファ、ダイニングテーブルと冷蔵庫やスチームオープンレンジ、ベッドと空気清浄機といった組み合わせだ。デザインや色彩のトーンを上手に調和させている。

 当初は、3月の有明ショールームでの家電の展示販売を皮切りに、順次展開する計画だったが、新型コロナウイルスの影響で延期。緊急事態宣言の解除にタイミングを合わせ、7店舗一斉オープンとなった。三嶋氏が陣頭指揮を執る家具と家電のコラボ店への転換こそが、大塚家具の再生を左右することになる。

 小売業界にはこんなジンクスがある。「家具の家電はライバル。相容れない」(大百貨店の営業担当役員)。家具と家電はいずれも耐久消費財と区分されていて、購入頻度は低い。家具の良いものを買ったら、しばらく家電は買わない(買えない)、というのがサラリーマン家庭のサイフを握っている主婦の感覚なのだ。だから「家具と家電のコラボは砂上の楼閣」(前出の百貨店の営業担当役員)といわれている。

◆大塚久美子社長の“賞味期限”は、あと1年

 現状、大塚家具の業績は最悪だ。決算期の変更に伴う16か月変則決算の2020年4月期の単独決算は、最終損益が77億円の赤字だった。最終赤字は4期連続で赤字幅はどんどん広がっている。

 4か月も長い16か月もありながら売上高は348億円。12か月決算だった前期実績(2018年12月期、373億円)をも下回っている。新型コロナウイルスによる臨時休校や外出自粛要請で新学期の需要期にあたる3〜4月に客数が落ち込んだのが痛かった。

 同業他社と比べても大塚家具の落ち込みは際立つ。家具・ホームセンター大手の島忠の2020年8月期の売上高にあたる営業収益は、前期比3%増の1508億円、純利益は1%増の60億円を見込む。「家具を買い替える家庭が増えている」という“新常態”をうまく取り込み、数字として示した。

 絶好調なのは家具大手のニトリホールディングスだ。一時、全店の約2割にあたる110店で休業したが、2020年3〜5月期の連結決算の売上高1737億円、純利益255億円と過去最高となった。テレワークの広がりで仕事用の机や椅子が売れ、収納家具やキッチン用品も伸びた。

 似鳥昭雄会長(76)は決算会見で、「外食しなくなり、洋服も買わなくなった。そのお金が家の中で使われている」と分析した。家庭で豊かに暮らすために、使い古した家具とオサラバする人が増えているというのだ。

 緊急事態宣言で止まっていた人の動きが、解除を受けて徐々に戻りはじめているが、こうした消費を「リベンジ消費」と名付け、株式市場では盛り上がっている。コロナで外出を制限され、不要不急の買い物を我慢してきた人々の、新たな購買行動をリベンジと捉えている。

 大塚家具は、新たに家電の取り扱いを開始したことから、5月以降月次情報の開示をやめている。リベンジ消費の大波に、はたして乗れているのだろうか。

 山田会長は買収会見で、「ウチは結果主義。黒字にできるというからやらせる。(久美子社長に)1年任せる」と語った。久美子社長の賞味期限は、あと1年。2021年4月期に黒字転換できなければ、フェードアウトする運命にある。

 ヤマダ社内からは早くも「完全子会社(※2019年12月現在、51.3%の出資)にしたほうが合理的」という声が聞こえてくる。2012年に買収したベスト電器は完全子会社となり、上場廃止されている。

 上場廃止すれば、株価や株主への目配りをせずに、リストラを円滑に進めることができる。有価証券報告書の作成など上場を維持するために必要なコストも減らせる。

 このまま業績が上向かなければ、大塚家具の看板が消滅し、“ヤマダ家具”になる日は近そうだ。

https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%e5%a4%a7%e5%a1%9a%e5%ae%b6%e5%85%b7%e3%81%ae%e7%9c%8b%e6%9d%bf%e3%81%8c%e6%b6%88%e6%bb%85%e3%81%99%e3%82%8b%e6%97%a5-%e7%a4%be%e9%95%b7%e7%95%99%e4%bb%bb%e3%82%82%e5%b4%96%e3%81%a3%e3%81%b7%e3%81%a1%e3%81%ae%e4%b9%85%e7%be%8e%e5%ad%90%e6%b0%8f/ar-BB16UxEY?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/585.html#c1

[近代史3] 大塚家具 久美子社長はどうやって老舗企業を潰したのか? 中川隆
4. 中川隆[-12086] koaQ7Jey 2020年7月19日 09:08:02 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[4]
大塚家具の看板が消滅する日 社長留任も崖っぷちの久美子氏
2020/07/19

大塚家具会長に就任するヤマダ電機の三嶋恒夫社長(左)と大塚久美子社長(時事通信フォト)© NEWSポストセブン 提供 大塚家具会長に就任するヤマダ電機の三嶋恒夫社長(左)と大塚久美子社長(時事通信フォト)

 ヤマダ電機傘下で経営再建に取り組んでいる大塚家具。だが、業績低迷に歯止めはかかっていない。経営主導権を巡る父娘の激しい“骨肉バトル”を繰り広げてから5年。大塚久美子社長は再び崖っぷちに立たされている。果たして、大塚家具はどうなってしまうのか。ジャーナリストの有森隆氏がレポートする。

 * * *

 ヤマダ電機による大塚家具の本格的な再生計画が始まった。

 7月30日、東京・江東区有明の東京ファッションタウンビルで第49回定時株主総会を開く大塚家具だが、2019年12月、大塚家具を子会社にしたヤマダ電機は社長の三嶋恒夫氏(60)を会長に送り込む。

 大塚家具社長の大塚久美子氏(52)は続投するものの、ヤマダからは取締役兼専務執行役員事業統括本部長の村澤圧司氏(58)、事業統括本部インテリア家電事業部長の名取曉弘氏(47)、経営企画室参事の清野大輔氏(45)が取締役として送り込まれる。

 大塚家具側は久美子氏の妹の夫である取締役専務執行役員流通本部長兼海外営業部管掌の佐野春夫氏(55)など3人が再任となる。ヤマダと大塚がそれぞれ4人、独立社外取締役の弁護士1人で取締役会(ボード)は構成される。社外取締役の陳海波氏(46)は退任する。

「陳氏は大塚家具の資本支援をとりまとめた人物。日中をつなぐネット通販、ハイラインズの社長です。中国大手の家具店、居然之家(イージーホーム)を呼び込む再建計画を立てた久美子は、『日本から一歩、歩みだす。中国の富裕層の取り込みを目指す』と大見得を切りました」(関係者)。

 しかし、再建計画は久美子氏の思惑通りにはいかなかった。

「陳氏は久美子氏の経営力を評価しておらず、『父・大塚勝久氏(77)との和解』を支援の条件としました。久美子氏は、自ら設立した業界団体の名誉会長に就任するよう勝久氏に説得しましたが、勝久氏は断った。これを口実に中国のファンドは出資を見送り、中国での展開も、通販サイトの利用も白紙に戻りました」(金融筋)

 振り返れば、大塚家具の父と娘の骨肉の争いは、連日、ワイドショーを賑わし、国民の好奇の目にさらされた。

 詳しい経緯は省くが、2015年3月の株主総会で父親に勝利し、「古い大塚家具ではダメだ」と声高に主張する久美子氏の改革は、結局、役員や従業員の支援を得られず頓挫。永年の宿痾(しゅくあ)だった赤字経営が一気に表面化した。

 父の勝久氏はすでに匠大塚というライバルの家具会社を立ち上げており、おいそれと大塚家具には戻れなかった。「久美子氏は勝久氏の手の内を読んで、一歩先を行った」(大塚父娘について詳しい関係者)と解説されている。

 そんなどん詰まりの窮状に陥った久美子氏に手を差し伸べたのが、ヤマダ電機の創業者で代表取締役会長兼取締役会議長の山田昇氏(77)だった。

「久美子氏は何度も山田氏に出資してくれと頼んでいたが、久美子氏がヤマダの子会社になる条件を呑まなかったため、なかなか話がまとまらなかったが、最後に折れた」(前出の関係者)

◆再建請負人はリフォーム事業の“切り込み隊長”

 ヤマダ電機が会長に送り込む三嶋恒夫氏は北陸が地盤の家電量販店「100満ボルト」を運営するサンキュー(福井市)の社長を務めていた。サンキューでリフォーム事業の切り込み隊長だったほか、サンキューを傘下に収めた家電量販店業界3位のエディオンでもリフォームを担当した。

 こうした住宅リフォーム事業の実績を買い、山田氏がスカウトし、2017年6月、執行役副社長にした。さらに、1年後の2018年6月、代表取締役社長兼代表執行役COO(最高執行責任者)に昇格し、異例の大抜擢と評された。

 創業者の山田氏は、「家電販売だけではジリ貧になる」との強い危機感を持っている。人口減少が続くなか、テレビなどの家電がどんどん売れる時代ではなくなった。インターネット通販のアマゾン・ドット・コムなど、強力なライバルも出現している。

 大量の仕入・大量販売を前提としたビジネスモデルを築いた山田氏は、その限界を強烈に意識している。「安いだけでは買わない」賢い消費者が主流になってきた。

 代わって山田氏が力を入れたのが住宅関連事業だ。2011年、注文住宅のエス・バイ・エル(現ヤマダ・エスバイエル)を買収した。

 2017年からは家電と住宅関連サービスの複合店「家電住まいる館」の出店を開始した。家電の売り場を縮小し、家具や住宅、リフォーム関連のスペースを拡大したのである。今では家電の売り場が店舗全体の半分しかない店もあるほどで、2020年3月末現在、「家電住まいる館」は109店にまで増えた。

 そんな「家電住まいる館」を担当したのが、ヤマダ入りしたばかりの三嶋氏だった。

◆家電と家具のコラボは相性良くない!?

 ヤマダによる大塚家具の再生計画は、家電と家具のコラボ展示から始まった。

 2月7日、ヤマダの旗艦店「LABI1日本総本店池袋」(東京・豊島区)、「LABI品川大井町」(東京・品川区)、「LABI1なんば」(大阪・浪速区)、「LABI LIFE SELECT千里」(大阪・豊中市)の4店舗をリニューアルオープンした。

 ソファやテーブル、椅子など大塚が扱う商品とヤマダの有機ELテレビや白物家電を組み合わせて展示。色合いを揃えるなどして実際に使用したらどうなるかを顧客がイメージできるようにした。

 池袋店の改装オープンは報道陣にも公開された。ゆっくりと店内を視察する会長の山田氏の後ろを、大塚家具社長の久美子氏がしずしずと歩む。大塚家具がヤマダの傘下に入ったことを象徴する光景だった。

 ヤマダ社長の三嶋氏は「単に家電を売るのではなく、テレビを楽しむために部屋をどう変えれば、より快適にできるかを提案する。大塚家具と協力して家電量販店の垣根を超えたい」と抱負を語る。

 その後、大塚家具は6月19日から全国7か所(有明、新宿、横浜みなとみらい、名古屋栄、大阪南港、神戸、福岡)のショールームで家電の展示販売を本格化した。

 各店舗のフロアでは、リビングやダイニング、寝室など暮らしのシーンごとに、家具やインテリアとマッチする家電を揃えている。テレビとソファ、ダイニングテーブルと冷蔵庫やスチームオープンレンジ、ベッドと空気清浄機といった組み合わせだ。デザインや色彩のトーンを上手に調和させている。

 当初は、3月の有明ショールームでの家電の展示販売を皮切りに、順次展開する計画だったが、新型コロナウイルスの影響で延期。緊急事態宣言の解除にタイミングを合わせ、7店舗一斉オープンとなった。三嶋氏が陣頭指揮を執る家具と家電のコラボ店への転換こそが、大塚家具の再生を左右することになる。

 小売業界にはこんなジンクスがある。「家具の家電はライバル。相容れない」(大百貨店の営業担当役員)。家具と家電はいずれも耐久消費財と区分されていて、購入頻度は低い。家具の良いものを買ったら、しばらく家電は買わない(買えない)、というのがサラリーマン家庭のサイフを握っている主婦の感覚なのだ。だから「家具と家電のコラボは砂上の楼閣」(前出の百貨店の営業担当役員)といわれている。

◆大塚久美子社長の“賞味期限”は、あと1年

 現状、大塚家具の業績は最悪だ。決算期の変更に伴う16か月変則決算の2020年4月期の単独決算は、最終損益が77億円の赤字だった。最終赤字は4期連続で赤字幅はどんどん広がっている。

 4か月も長い16か月もありながら売上高は348億円。12か月決算だった前期実績(2018年12月期、373億円)をも下回っている。新型コロナウイルスによる臨時休校や外出自粛要請で新学期の需要期にあたる3〜4月に客数が落ち込んだのが痛かった。

 同業他社と比べても大塚家具の落ち込みは際立つ。家具・ホームセンター大手の島忠の2020年8月期の売上高にあたる営業収益は、前期比3%増の1508億円、純利益は1%増の60億円を見込む。「家具を買い替える家庭が増えている」という“新常態”をうまく取り込み、数字として示した。

 絶好調なのは家具大手のニトリホールディングスだ。一時、全店の約2割にあたる110店で休業したが、2020年3〜5月期の連結決算の売上高1737億円、純利益255億円と過去最高となった。テレワークの広がりで仕事用の机や椅子が売れ、収納家具やキッチン用品も伸びた。

 似鳥昭雄会長(76)は決算会見で、「外食しなくなり、洋服も買わなくなった。そのお金が家の中で使われている」と分析した。家庭で豊かに暮らすために、使い古した家具とオサラバする人が増えているというのだ。

 緊急事態宣言で止まっていた人の動きが、解除を受けて徐々に戻りはじめているが、こうした消費を「リベンジ消費」と名付け、株式市場では盛り上がっている。コロナで外出を制限され、不要不急の買い物を我慢してきた人々の、新たな購買行動をリベンジと捉えている。

 大塚家具は、新たに家電の取り扱いを開始したことから、5月以降月次情報の開示をやめている。リベンジ消費の大波に、はたして乗れているのだろうか。

 山田会長は買収会見で、「ウチは結果主義。黒字にできるというからやらせる。(久美子社長に)1年任せる」と語った。久美子社長の賞味期限は、あと1年。2021年4月期に黒字転換できなければ、フェードアウトする運命にある。

 ヤマダ社内からは早くも「完全子会社(※2019年12月現在、51.3%の出資)にしたほうが合理的」という声が聞こえてくる。2012年に買収したベスト電器は完全子会社となり、上場廃止されている。

 上場廃止すれば、株価や株主への目配りをせずに、リストラを円滑に進めることができる。有価証券報告書の作成など上場を維持するために必要なコストも減らせる。

 このまま業績が上向かなければ、大塚家具の看板が消滅し、“ヤマダ家具”になる日は近そうだ。

https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%e5%a4%a7%e5%a1%9a%e5%ae%b6%e5%85%b7%e3%81%ae%e7%9c%8b%e6%9d%bf%e3%81%8c%e6%b6%88%e6%bb%85%e3%81%99%e3%82%8b%e6%97%a5-%e7%a4%be%e9%95%b7%e7%95%99%e4%bb%bb%e3%82%82%e5%b4%96%e3%81%a3%e3%81%b7%e3%81%a1%e3%81%ae%e4%b9%85%e7%be%8e%e5%ad%90%e6%b0%8f/ar-BB16UxEY?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/547.html#c4

[近代史3] チベットの歴史 中川隆
1. 2020年7月19日 09:24:04 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[5]
2020年07月18日
複数集団の混合により形成された現代チベット人
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_21.html


 現代チベット人の起源に関する研究(Wang et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。本論文はやや長いので、まず要約を述べます。考古学的研究では、チベット高原における人類の存在は16万年前頃までさかのぼり、これは非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)です。現生人類(Homo sapiens)では4万〜3万年前頃までさかのぼります。しかし、チベット高原の過去の人類の移動は、現代人および古代人のDNA研究において初期段階に留まっています。

 本論文は、3017人の旧石器時代から現代のユーラシア東部人のゲノムで、最初となる古代および現代のゲノムメタ分析を実行しました。3017人の内訳は、チベット高原のウー・ツァン(Ü-Tsang)地域とアムド(Ando)地域とカム(Kham)地域の98人のチベット人を含む183集団2444人の現代人と、573人の古代人です。分析の結果、古代および現代の高地チベット人と、低地島嶼部および沿岸部の新石器時代アジア東部北方人との間の、より密接な遺伝的つながりが特定されました。これは、高地チベット・ビルマ語族の主要な系統の起源が、黄河中流および下流域の後李(Houli)文化と仰韶(Yangshao)文化と龍山(Longshan)文化関連集団にあることを反映しており、シナ・チベット語族の共通する中国北部起源および雑穀農耕民の拡散パターンと一致します。

 チベット人と低地アジア東部人との間の共有されたアジア東部北方系統はありますが、チベット高原高地人と低地アジア東部北方人との間の遺伝的分化も識別され、前者はより深く分岐したホアビン文化(Hòabìnhian)およびアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人関連系統を有しており、後者はより多くの新石器時代アジア東部南方人およびシベリア人関連系統を有しています。これは、現代および新石器時代のアジア東部高地人における、旧石器時代と新石器時代の両系統の共存を示唆します。

 ウー・ツァンとアムドとカム地域のチベット人は、その文化的背景および地形(人類の移動にとって障壁となります)と一致する、強い集団階層化を示します。それは、ウー・ツァン地域チベット人におけるより強いネパールのチョクホパニ(Chokhopani)文化集団との類似性と、アムド地域チベット人におけるより多いユーラシア西部系統と、カム地域チベット人におけるより大きな新石器時代アジア東部南方人系統です。また、チベット高原の過去における人類移住の複数の波も明らかになりました。斉家(Qijia)文化農耕民と混合した在来の狩猟採集民の第1層から、チョクホパニ文化集団関連の先チベット・ビルマ語族が派生し、ユーラシア西部草原地帯と黄河と長江からの追加の遺伝子流動により、それぞれ現代のアムド地域とウー・ツァン地域とカム地域のチベット人が形成されました。


●先行研究

 チベット高原は平均標高が海抜4000mを超え、通年の低温・極度の乾燥・低酸素など、人類にとって最も厳しい環境の一つです。しかしチベット高原には、現生人類が拡散してくるずっと前の16万年以上前に、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が存在していました(関連記事)。その後、4万〜3万年前頃までには現生人類がチベット高原に拡散してきた、と推測されています(関連記事)。また、言語学では、チベット・ビルマ語族が含まれるシナ・チベット語族の起源は7200年前頃で(関連記事)、シナ・チベット語族の拡散・多様化は5900年前頃に始まった(関連記事)、との見解が提示されています。現在、700万人以上の先住チベット人がチベット高原に居住しており、低酸素環境に適応しています。低酸素環境である高地へのチベット人の適応には遺伝的基盤があり(関連記事)、その中にはデニソワ人由来のものがある、と推測されています(関連記事)。チベット高原の人類史研究の問題点は、アジア東部の他地域と比較して発掘された遺跡が少ないことです。

 現在まで続く問題として、初期人類がチベット高原へどこからどのように移住してきたのか、現代チベット人の祖先は誰なのか、といったことが挙げられますが、考古学・古人類学・遺伝学はまだこの問題に対して充分に答えられません。上述のように、考古学的証拠から、デニソワ人が16万年以上前に、現生人類が、4万〜3万年前頃までにチベット高原に存在していた、と示されています。ゲノム解析からは、現生人類が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前にチベット高原に存在した、と提案されており、現代チベット人における上部旧石器時代住民の遺伝的痕跡は、チベット高原における最初の住民と現代チベット人との間のある程度の遺伝的継続性を示唆します。先史時代ヒマラヤ集団の遺伝的研究からは、ヒマラヤ最初の住民は高地アジア東部人起源との証拠が得られており、チベット高原における新石器時代よりも前の人類の活動が間接的に示唆されます。

 チベット高原における人類の居住に関して、後期更新世の狩猟採集民の場合とは対照的に、永続的な居住の時期と様相に関しては議論が続いています。考古学およびゲノム解析からは、チベット高原における永続的な定住は、農耕・牧畜の確立と一致する比較的最近の事象と推測されています。チベット高原でも標高2500m以上で農耕が始まったのは、耐寒性のオオムギが導入された3600年前頃以降と推定されており(関連記事)、永続的な定住はそれ以降ではないか、というわけです。チベットの羊の包括的なゲノム調査では、唐柏(Tang-Bo)古道を通じてのヒトの段階的な居住パターンが明らかになり、3100年前頃には中国北部からチベット高原北東部へ、1300年前頃にはチベット高原北東部からチベット高原南西部へと拡大した、と推測されています。しかし、耐寒性のオオムギと家畜を誰がチベット高原に導入したのか、また在来の狩猟採集民は拡散してきた農耕民とどのように相互作用したのか、まだ不明です。

 考古学では、拡散してきた農耕民は在来の狩猟採集民を置換したわけではなく、2集団が長期間共存した、と示されています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析と放射性炭素年代からは、雑穀農耕民が3600〜3300年前頃にチベット高原へとオオムギ農耕を採用して導入し、同時代のチベット人はその胃全摘痕跡を新石器時代雑穀農耕民にたどれる、と推測されています。他の高地集団とのゲノム比較からは、チベット人は複数祖先の遺伝子プールの混合で、旧石器時代と新石器時代の系統が共存している、と結論づけられています。

 まとめると、チベット高原の人類集団に関する先行研究では、中期更新世の到来と旧石器時代における居住、新石器時代の永続的な定住の理解が深められつつあります。しかし、以前の考古学的調査のほとんどは、海抜4000m以上となるチベット高原北東部におもに焦点を当てており、チベット高原の古代標本の欠如とアジア東部の古代人の包括的分析がなされていなかったことは、時空間的に分散したアジア東部古代人と現代チベット人の接続を妨げました。したがって本論文は、チベット高原の現代および古代人と周辺の低地ユーラシア東部人の遺伝的多様性をメタ分析し、アジア東部高地人と参照される世界規模集団との間の系統的関係を調査します。アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体群と現代チベット人のゲノム規模データを分析することにより、チベット高地住民の遺伝的移行・置換もしくは継続性・祖先の構成・人口史に焦点が当てられます。


●古代および現代チベット人とアジア東部北方集団との遺伝的類似性

 チベット高原の11地域から現代人98人のゲノム規模データが収集されました。地理的内訳は、チベット自治区5ヶ所、青海省(Qinghai)が2ヶ所、甘粛省(Gansu)が1ヶ所、四川省(Sichuan)が2ヶ所、雲南省(Yunnan)が1ヶ所です。さらに、他のアジア東部の古代人および現代人のデータが統合されました。現代人では、アルタイ諸語、シナ・チベット語族、ミャオ・ヤオ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、タイ・カダイ語族です。古代人では、ネパールからは、3150〜2400年前頃のチョクホパニ(Chokhopani)、2400〜1850年前頃のメブラク(Mebrak)、1750〜1250年前頃のサムヅォング(Samdzong)という異なる3文化期の8人(関連記事)、黄河とアムール川と西遼河流域の48人、曇石山(Tanshishan)文化など中国沿岸南東部や台湾の58人です。これらのゲノムデータは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)と、中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)と、新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)で提示されました。また、新石器時代から青銅器時代もしくは鉄器時代のアジア南西部とシベリア集団も、包括的な分析のいくつかで用いられました。

 現代チベット人と新石器時代から歴史時代のアジア東部人は全員、ユーラシア人の主成分分析では第2構成に沿った遺伝的勾配で集団化されます。アジア東部人の遺伝的多様性に焦点を当てて、アジア東部とアジア南東部島嶼部および大陸部の現代人106集団の遺伝的多様性に基づき、アジア東部人の主成分分析が構築されました(図1B)。アジア東部現代人は、4つの遺伝的勾配もしくはクラスタに集団化されます。それは、アジア北東部集団で構成されるモンゴル・ツングース遺伝的勾配、オーストロアジア語族とオーストロネシア語族とタイ・カダイ語族とミャオ・ヤオ語族から構成される中国南部・アジア南東部遺伝的クラスタ、中国関連の北部から南部への遺伝的勾配、チベット・ビルマ語族クラスタで、言語区分および地理的領域と一致します。

 チベット人は集団化され、中国北部のモンゴル語族およびツングース語族のいくつか、北部漢人、他の低地チベット・ビルマ語族と比較的密接な関係を示します。チベット人の下部構造に焦点を当てると、標本抽出場所の地理的位置と一致する、異なる3下位クラスタが観察されます。本論文では、高地適応チベット人もしくはウー・ツァン(Ü-Tsang)チベット人クラスタ、チベット高地北東部の甘青(Gan-Qing)もしくはアムド(Ando)遺伝的クラスタ、低地南東部遺伝的クラスタもしくはカム(Kham)チベット人と呼びます。ウー・ツァン地域クラスタはラサ(Lhasa)とナクチュ(Nagqu)と山南(Shannan)とシガツェ(Shigatse)、アムド地域クラスタは循化(Xunhua)と剛察(Gangcha)と甘南(Gannan)、カム地域クラスタはチャムド(Chamdo)と新竜(Xinlong)と雅江(Yajiang)と雲南(Yunnan)で構成されます。

 次に、古代人集団とアジア東部現代人との間の遺伝的類似性パターンが調べられ、243人の古代ユーラシア東部人が上述の現代人集団の遺伝的関係のパターンに投影されました。これは、アジア東部の現代人および古代人のゲノムに関する、最初の包括的なメタ分析となります。その結果、古代人4集団の遺伝的クラスタが明らかになりました。まず、台湾と福建省の後期新石器時代個体群を含む新石器時代から歴史時代のアジア南部人で、現代人ではタイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族とクラスタ化します。

 第二に、新石器時代から青銅器・鉄器時代のアジア東部北方人で、後李)文化・仰韶文化・龍山文化・斉家(Qijia)文化と、沿岸部および内陸部の個体群を含み、アジア東部の主要な3遺伝的系統と漢人の最北端との接点近くで集団化します。このクラスタは、主要な生存戦略が狩猟採集と関連する前期新石器時代の山東省の後李文化集団と、河南省に近い中期〜後期新石器時代の仰韶および龍山文化農耕民との間で密接な遺伝的関係が観察され、前期新石器時代の中国北部における狩猟採集から雑穀農耕への移行の遺伝的継続性が示唆されます。また、これらの中国北部の新石器時代から鉄器時代の個体群の微妙な遺伝的違いも識別されました。山東省の後李文化集団は、現代モンゴル語族のバオアン(Baoan、保安)人やツー(Tu)人やユグル(Yugur)人やドンシャン(Dongxiang)人と近い一方で、前期新石器時代の河南省の小高(Xiaogao)個体群は、現代ツングース語族のホジェン(Hezhen、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)人やシーボー(Xibo)人の近くに位置づけられます。山東省新石器時代の全集団は、山東省の現代漢人からは離れて位置し、現代中国北部少数民族の方へと移動しています。これは、現代の北方漢人が、アジア東部南方の祖先系統から追加の遺伝子流動を受けたか、新石器時代の後李文化個体群がより多くのシベリア関連祖先系統を有していたことを示唆します。河南省の、後期新石器時代の龍山文化集団と、青銅器時代・鉄器時代個体群は集団化し、漢人の遺伝的勾配の方へと移動しており、部分的に山西省と山東省の漢人と重なりました。これは、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)のアジア東部北方人の遺伝的類似性を示し、中国文化の各地域における遺伝的安定性を示唆します。中期新石器時代となる河南省の仰韶文化集団は、陝西省楡林市靖辺県五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡集団の何人かと集団化し、より北方の現代少数民族へと移動します。山西省や内モンゴル自治区や黄河上流のより内陸に位置する中期〜後期新石器時代のアジア東部北方人はクラスタ化し、現代チベット人およびネパールの高地に適応した祖先系統へと移動して、部分的に現代の地理的に近いチベット人と重なり、ネパールの古代人と密接な遺伝的類似性を示します。

 第三に、西遼河の古代集団です。この西遼河古代集団では、遺伝的類似性の異なる3パターンが識別できます。北方クラスタは、シベリアのシャマンカ(Shamanka)とモンゴルの新石器時代個体群と遺伝的類似性を示します。中期紅山(Hongshan)文化クラスタは、モンゴルの少数民族と剛察の現代チベット人との間に位置します。夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体など北方クラスタに関しては、草原地帯牧畜民と関連するモンゴル高原北部新石器時代個体群と、黄河流域雑穀農耕民の両方が、西遼河流域における後期新石器時代とその後の集団形成に加わった、と示唆されます。南方クラスタの後期新石器時代個体群は、アジア東部北方の沿岸部前期新石器時代個体群と、内陸部の新石器時代仰韶文化および龍山文化個体群との間に位置し、黄河中流および下流域(河南省と山東省)の雑穀農耕民が、内陸部および沿岸部両方の北方への集団移住により、紅山文化集団もしくはその子孫の形成に重要な役割を果たした、と示唆されます。

 第四に、モンゴル高原とロシア極東とバイカル湖地域とアムール川流域の古代集団です。これらには新石器時代から青銅器時代までの46人が含まれ現代ホジェン人およびウリチ(Ulchi)人と、モンゴル語族の一部との近くでクラスタ化します。日本列島の「縄文人」は集団化し、現代日本人からはずっと離れており、ロシア極東沿岸部新石器時代個体群と台湾の漢本および新石器時代アジア東部南方(現在の福建省)沿岸部個体群との中間に位置します。

 主成分分析では、現代チベット人と古代ネパール人集団と現代・古代のアジア東部人とシベリア人との間のゲノム類似性が明らかになりました。遺伝的構造と対応する集団関係をさらに調べるため、系統構成とクラスタパターンが推定され、アジア東部の主要な2系統が観察されました(図1C)。沿岸部アジア東部北方系統は、新石器時代シベリア人と現代ツングース語族で最大化されました。また沿岸部アジア東部北方系統(黄緑色)は、高い割合を有する山東省の沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人と同様に、中国北東部とロシア極東の青銅器時代から現代の集団にも存在します。他の沿岸部アジア東部北方系統は、現代高地チベット人と後期新石器時代の斉家文化関連集団において多く見られ、ネパールの青銅器時代から歴史時代の個体群および古代アジア東部北方人でも最大化し、それは現代低地シナ・チベット語族、内陸部のミャオ・ヤオ語族とタイ・カダイ語族でも同様です。本論文はこのチベット人関連系統を内陸部アジア東部北方系統と呼び、これはチベット人と現代および古代のアジア東部北方人との間の密接な遺伝的類似性の直接的指標です。

 沿岸部前期新石器時代のアジア東部南方人、鉄器時代の台湾の漢本(Hanben)人、現代のオーストロアジア語族の台湾先住民であるアミ(Ami)人とタイヤル(Atayal)人で多く見られる系統は、本論文では沿岸部アジア東部南方系統(濃緑色)と呼ばれます。青色系統はミャオ・ヤオ語族とタイ・カダイ語族に広く分布する沿岸系統の対応としてラチ(LaChi)人で最大化され、この内陸部アジア東部南方系統は、雲南と雅江・新竜と甘南のチベット人を含む低地チベット人に、比較的高い割合で存在します。さらに、チベット高原北東部のチベット人は、より多くの沿岸部アジア東部北方系統を有している、と明らかになりました。タイとラオスの国境のムラブリ(Mlabri)人で最大化されるいくつかのオーストロアジア語族関連系統は四川省と雲南省のカム地域チベット人で、青銅器時代のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化とヤムナヤ(Yamnaya)文化集団で最大化される系統(赤色)は青海省および甘粛省のアムドチベット人でそれぞれ識別されました。古代ネパール人集団は、シベリア北東部の鉄器時代エクヴェン(Ekven)人と関連した共通系統を有していました。以下、チベットチベット高原の11地域、主成分分析、系統構成を示した本論文の図1です。

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●アジア東部人の集団分化とチベット人における下部構造

 11地区の現代チベット人と現代もしくは古代の参照集団との間の遺伝的差異をさらに調べるため、まず現代人82集団と現代および古代の32集団の遺伝的距離が計算されました。チベット自治区において、高地のウー・ツァン地域チベット人の南(シガツェと山南)と中央(ラサ)と北(ナクチュ)、北東となるカム地域のチャムドのチベット人は、近隣地域と最小のFst遺伝距離を有しており、チベット高原北東部の低地アムド地域(青海省と甘粛省)のチベット人と、チベット高原南東部のカム地域(四川省と雲南省)のチベット人と、ツー人など他のチベット・ビルマ語族集団がそれに続きます。これらの遺伝的関係の観察パターンは、低地集団とは顕著に異なっており、ミャオ・ヤオ語族のシェ(She)人は低地アジア東部人とほとんどの系統を共有しています。

 青海省と甘粛省のアムド地域のチベット人では、剛察チベット人が北部もしくは北東部チベット人(チャムドとナクチュ)と最小のFst遺伝距離で密接な遺伝的類似性を有し、チアン(Qiang)人とツー人もしくは他の地理的に近いチベット人がそれに続きます。剛察と循化のチベット人では異なるパターンが観察され、相互に最も密接な関係を示し、その次がツー人とユグル人になります。また、甘南および循化のチベット人とテュルク語族のカザフ集団との間の比較的小さい遺伝的距離も明らかになり、チベット高原において、中央部のチベット人と比較して、北東部のチベット人のユーラシア西部人との遺伝的類似性が示されます。

 四川省と茂県地区(Ganqing Region)の雅江と新竜のチベット人は、四川省のチベット・ビルマ語族(ツー人やユグル人やチアン人)と密接な遺伝的類似性を有します。雲南省のチベット人は、剛察とチャムドのチベット人と最小の遺伝的距離を有し、チアン人とイー(Yi)人とツー人がそれに続きます。チベット人と新石器時代から鉄器時代のアジア東部人の間で、各現代チベット人と最小のFst値を有する遺伝的に最も密接な集団は、他の現代チベット人により証明され、台湾の漢本集団は他の古代アジア東部人と比較して、現代チベット人と最も密接な関係を示します。

 TreeMixに基づく分析により、ユーラシアの現代人集団とユーラシア東部古代人の遺伝的多様性の下で、さらに系統関係が推定されました。現代チベット人と他のユーラシア人の遺伝的多様性に基づく図2Aの系統樹は、移住事象なしと想定されていますが、類似した語族集団が1集団にクラスタ化する傾向を示します。アルタイ諸語(テュルク語族とモンゴル語族)集団は、ウラル語族とクラスタ化しました。オーストロネシア語族のアジア東部人は、まずタイ・カダイ語族と、次にミャオ・ヤオ語族およびオーストロアジア語族とクラスタ化しました。チベット人はまず相互に、とくに高地適応のウー・ツァン地域でクラスタ化し、次に低地アジア東部人とクラスタ化しました。この観察された地理的孤立は、高地チベット人と低地アジア東部人との間の遺伝的差異を示し、共有された共通起源系統があるものの、識別されます。

 さらに、事前に定義された3回の交雑事象で、近東からのアナトリア半島新石器時代農耕民系統を除き、現代チベット人とユーラシア東部の26人の古代人との間の集団分岐と遺伝子流動が分析されました。甘南と新竜を除く現代チベット人は、まずネパールの高地古代人と、次に低地アジア東部北方新石器時代人および新石器時代から青銅器時代の南シベリア人とクラスタ化し、高地現代チベット人と低地アジア東部北方古代人との間の遺伝的区分が示されました(図2B)。このクラスタパターンはまた、高地の現代および古代チベット人と低地アジア東部南方人と同様に、アジア東部の北方人と南方人との間の遠い関係を示しました。これは、チベット人とアジア東部北方人との間の特別なつながり、もしくはより密接な遺伝的関係の証拠をさらに提供します。以下、この系統関係を示した本論文の図2です。

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 外群f3統計(現代チベット人、ユーラシア古代人および現代人、エチオピアのムブティ人)で、遺伝的類似性がさらに評価されました。現代人184集団の中で、各地域のチベット人にとって最も類似性が共有されるのは、地理的に近い別地域のチベット人です。山南チベット人はラサとシガツェとナクチュのチベット人と最もアレル(対立遺伝子)を共有しており、集団の類似したパターンは、ウー・ツァン地域において南方に位置するシガツェと中央に位置するラサのチベット人で特定されました。しかし、ウー・ツァン地域でも北東に位置するナクチュのチベット人は、そこからさらに北東に位置するカム地域のチャムドのチベット人と最もアレルを共有し、四川省のチベット・ビルマ語族のチアン人と、他のチベット人およびシェルパ(Sherpa)人が続きます。これらのパターンは、チャムドのチベット人における集団の特徴と一致します。

 現代チベット人内のゲノム類似性に続いて、5地域のチベット人が低地漢人と最も強い遺伝的類似性を共有する、と明らかになりました。これは、シナ・チベット語族の黄河中流および下流域の共通起源と一致します。四川省と雲南省の低地カム地域では、新竜チベット人が、上海や重慶や湖北省や江蘇省の漢人および他の低地チベット・ビルマ語族のチアン人やトゥチャ(Tujia)人と最も遺伝的浮動を共有しています。新竜チベット人とは異なり、地理的に近い雅江と雲南省のチベット人は、チアン人および地理的に近いチャムドおよび新竜のチベット人と最も遺伝的浮動を共有しており、それら漢人と他のチベット人が続きます。これら低地漢人もしくはアジア東部南方人は、中国南西部に位置する低地のカム地域チベット人が、先史時代と歴史時代において集団移住と混合により、アジア東部南方人と系統の変化を有していた、と示唆します。アムド地域の剛察チベット人は、漢人およびチベット・ビルマ語族と遺伝的類似性を共有しているだけではなく、テュルク語族集団との類似性の兆候も示します。甘南と循化のチベット人におけるアレル共有は、漢人集団が甘南および循化のチベット人と最も系統を共有している、と示します。

 外群f3統計から推測される、現代チベット人と旧石器時代から歴史時代のユーラシア古代人106集団(ロシアが33、中国が41、モンゴルが29、ネパールが3)との間の共有されるアレルの水準は、現代チベット人が新石器時代から鉄器時代のアジア東部北方人と最も明確なつながりを有すると示し、これは主成分分析・Fst・ADMIXTURE・現代人集団に基づく類似性推定と一致します。中程度の高度となるチャムドのチベット人は、新石器時代の陝西省五庄果墚遺跡個体群および後期新石器時代となる斉家文化の黄河上流域農耕民と最も遺伝的浮動を共有しており、鉄器時代の雲南省の大槽子(Dacaozi)人と陝西省の石峁(Shimao)人、中国北部の紅山文化関連の中期新石器時代の半拉山(Banlashan)人、黄河中流および下流域の他のアジア東部北方人が続きます。

 ロシアとモンゴルの新石器時代人および歴史時代ネパールの青銅器時代人は、チャムドの現代チベット人とは比較的遠い遺伝的関係を示します。チャムドのチベット人のパターンとは異なり、ウー・ツァン地域南部および中央部のチベット人は、ネパール古代人と関連する系統の増加を示し、ウー・ツァン地域北部のナクチュのチベット人は、2700年前頃のチョクホパニ人と集団類似性の中間的傾向を示します。中国南西部および北東部の低地チベット人は、アジア東部北方古代人と似た集団類似性を示します。新竜チベット人を除くチベット人は、相互に他のチベット人と最も遺伝的浮動を共有してクラスタ化し、次にネパール古代人と集団化し、高地クラスタを形成します。前期新石器時代から鉄器時代のアジア東部北方人がまずクラスタ化し、次に高地クラスタと集団化します。アムール川および西遼河流域の古代クラスタも、高地チベット人とより密接な関係を示し、新疆の石人子溝(Shirenzigou)遺跡人とアジア東部南方人は、低地アジア東部北方人および高地チベット人クラスタと、比較的異なる関係を保ちます。


●チベット高原における現代チベット人と古代人集団との混合の痕跡

 最近の遺伝的混合の証拠があるのか検証し、対応する祖先集団(もしくは現代集団で代理とされる仮定的祖先集団)を決定するため混合f3統計が実行され、各地域のチベット人集団が祖先集団と派生的アレルをどの程度共有しているのか、評価されました。また、3集団比較と古代人および現代人の包括的な参照データベースにより、ネパールの古代人9人および青海省の後期新石器時代から鉄器時代の11人の混合の痕跡が再評価されました。その結果、高地と低地の現代および古代チベット人における、混合の兆候と祖先集団の異なるパターンが見つかりました。さらに、1地域もしくは類似した文化のチベット人の間で、小さいものの有意な違いが識別できました。

 ウー・ツァン地域では、南部の山南とシガツェにおいて4万組以上の検証で混合の兆候が観察されず、中央部のラサに関しては、1500年前頃となるネパールのサムヅォング文化個体群と、カム地域のチベット人とチアン人、もしくは新石器時代アジア東部北方人とチベット南部人との混合集団、もしくはバイカル湖地域古代人という4集団が祖先集団候補として検出されました。検証された188集団では、一方はチベット・ビルマ語族と、もう一方はユーラシア西部人と有意な値を示します。古代アジア東部北方人および南方人ではなく、低地アジア東部現代人と組み合わされた南部および中央部チベット人も、ナクチュのチベット人と有意な混合の兆候を示します。ウー・ツァン地域とカム地域のチベット人の間の接合領域に位置するチャムドのチベット人は、潜在的な文化的およびヒト集団の移動と混合を有していますが、一つの混合兆候のみが観察されます。茂県地域の3人のチベット人は数千以上の集団の組み合わせから混合の兆候を有しており、一方はアジア東部の現代人もしくは古代人、もう一方はユーラシア西部人です。

 f3統計の結果、北方系統の祖先としての新石器時代内陸部アジア東部北方人である、内モンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡の前期新石器時代個体が、南方系統の祖先としてのオーストロアジア語族およびタイ・カダイ語族と組み合わされ、有意なf3値を示します。四川省のチベット人は、アジア東部北方人と南方人との間の混合、もしくは高地チベット・ビルマ語族と低地アジア東部人との間の混合の結果としてのみ、有意な兆候を示します。南部チベット人の結果と同様に、雲南省チベット人では混合の兆候は観察されず、遺伝的孤立もしくは最近起きた明らかな遺伝的浮動が原因だったかもしれません。チベット高原の古代人集団に焦点を当てた検証では、青海省の鉄器時代の大槽子遺跡集団からの混合の兆候が示され、これはアジア東部北方古代人とアジア東部南方現代人の祖先集団との混合、もしくはチャムドのチベット人関連集団と台湾の鉄器時代漢本個体のような集団との混合の結果です。


●f4統計から推定される高地および低地チベット人の集団内分化

 現代チベット人の間の下部構造を調べるため、f4統計が実施されました。チャムドのチベット人は、他のチベット人との比較で、ナクチュおよび雲南省のチベット人とクレード(単系統群)を形成します。アムド地域の剛察と甘南と循化のチベット人と比較して、他のチベット人はチャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。雅江と新竜の低地チベット人と比較して、チャムドのチベット人は高地チベット人(ラサ、ナクチュ、シガツェ、山南)関連系統をより多く有していますが、甘南のチベット人はチャムドのチベット人と比較して、新竜のチベット人とより多くのアレルを共有します。高地チベット人と比較して、チャムドのチベット人は比較的低地の他のチベット人とより多くのアレルを共有します。

 ウー・ツァン地域南部および中央部のチベット人の間では、明確な遺伝的均一性が示され、アムド地域のチベット人と比較して、南部チベット人とより多くのアレルが共有されます。しかし、ウー・ツァン地域の北部チベット人はチャムドおよび雲南省のチベット人とクレードを形成し、四川省のチベット人と比較して、より多くの高地チベット人関連派生的アレルを有します。低地チベット人では、中国北西部となるアムド地域の剛察と循化のチベット人がクレードを形成します。同じくアムド地域の甘南チベット人と比較して、青海省チベット人はチベット自治区のチベット人とより多くの系統を共有します。甘南チベット人をf4統計の対象とすると、他のチベット人と比較して、甘南チベット人とより多くのアレルを共有するチベット人集団は見つかりません。中国南西部の雲南省チベット人はチャムド・新竜および雅江チベット人とクレードを形成し、全てはカム地域チベット人に属します。低地の四川省と雲南省のチベット人は、茂県チベット人と比較してチベット人関連系統を、また他の高地チベット人と比較して高地チベット人関連系統をより多く有しています。

 さらに、f4統計により、古代ユーラシア集団(おもに中国とモンゴルとシベリア東部とユーラシア西部の草原地帯牧畜民)を用いて、高地および低地チベット人の間の観察された遺伝的類似性と集団下部構造が調べられました。ウー・ツァン地域のチベット人内のゲノム類似性パターンが確認され、またアムド地域とカム地域のチベット人と比較して、ウー・ツァン地域のチベット人におけるネパール古代人との明らかなより多くの類似性が特定できました。山南チベット人と比較して、ナクチュのチベット人は、中国南部の南東部沿岸地域における新石器時代から歴史時代のアジア東部南方の低地古代人集団と関連する系統の増加を示し、この系統はバイカル湖地域後期新石器時代個体でも見られます。アムド地域のチベット人と比較して、ウー・ツァン地域のナクチュのチベット人は、ネパール古代人関連系統の増加と、循化チベット人と関連する後期新石器時代の青海省の喇家(Lajia)遺跡個体関連系統の増加を示します。またナクチュのチベット人は、福建省のアジア東部南方沿岸部後期新石器時代集団と、黄河中流域の新石器時代から鉄器時代集団と、夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団と、内陸部新石器時代アジア東部北方集団と、他の黄河上流域新石器時代および鉄器時代集団と関連する系統の増加を示します。

 黄河上流域古代人集団では、地理的に近い剛察チベット人ではなく、ナクチュのチベット人との間でより密接な類似性が見つかり、喇家遺跡などの古代人集団が、ナクチュの現代チベット人の直接的祖先だったかもしれません。アムド地域のチベット人に関しては、ロシアのシンタシュタ(Sintashta)文化など中期〜後期青銅器時代のユーラシア草原地帯牧畜民関連系統の増加が示されます。また、アムド地域のチベット人の間の強い遺伝的類似性が、確認されています。アムド地域の甘南チベット人は、現代オーストロネシア語族や福建省・台湾などアジア東部南方前期新石器時代集団に代表される、アジア東部南方人関連系統の増加を示します。甘南チベット人の同じアジア東部南方人の類似性は、ウー・ツァン地域のチベット人との比較でも識別されます。

 ナクチュのチベット人とチャムドのチベット人とユーラシア東部古代人とエチオピアのムブティ(Mbuti)の現代人によるf4統計では、ナクチュのチベット人とがチャムドのチベット人とクレードを形成し、チャムドのチベット人におけるアジア東部北方の中期新石器時代の半拉山関連系統の増加を示し、半拉山遺跡の人々は紅山文化と関連している、と証明されました。またラサのチベット人と比較してチャムドのチベット人では、悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡(関連記事)個体群のようなロシアもしくはモンゴル関連新石器時代系統、中期新石器時代の紅山文化関連系統、後期新石器時代にかけての黄河中流域もしくは龍山文化農耕民関連系統、黄河上流域後期新石器時代の斉家文化関連系統の増加が示唆されます。遺伝的類似性は、前期新石器時代におけるチベット高原とアジア東部北方の古代人集団間のつながりを示します。

 ウー・ツァン地域南部の山南チベット人と比較して、カム地域のより北方に位置するチャムドのチベット人は、低地アジア東部の異なる古代集団と関連する系統の増加を示します。まず、沿岸部アジア東部南方の後期新石器時代の曇石山遺跡、台湾の鉄器時代の漢本遺跡、歴史時代となる福建省の伝云(Chuanyun)遺跡の人々は、山南チベット人よりもチャムドのチベット人と多くの遺伝的浮動を共有しています。第二に、山東省の沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人は、チャムドのチベット人とより多くの遺伝的浮動を共有します。第三に、河南省の中期新石器時代から後期青銅器時代および鉄器時代の古代人集団は、チャムドのチベット人とより多くの派生的アレルを共有します。第四に、黄河中流域の新石器時代集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。第五に、黄河上流域の後期新石器時代と鉄器時代の個体群は、甘南チベット人よりもチャムドのチベット人と多くのアレルを共有します。第六に、西遼河流域の新石器時代3集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。第七に、新石器時代から現代のモンゴルおよびロシアと関連する祖先集団は、チャムドのチベット人とより多くのアレルを共有します。ウー・ツァン地域南西部のシガツェのチベット人と比較して、共有派生的アレルの類似のパターンが観察されます。アムド地域のチベット人と比較して、チャムドのチベット人は高地および低地の古代人集団と関連する系統の増加を共有します。四川省のチベット人と比較して、チャムドのチベット人はネパールの2125年前頃のメブラク文化および1500年前頃のサムヅォング文化集団とより多くのアレルを共有します。チャムドのチベット人で観察された遺伝的類似性のパターンと似て、カム地域の他の3地区のチベット人も、アジア東部南北両系統の増加を示します。


●現代チベット人とアジア東部古代人の時空間的比較分析および現代チベット人の遺伝的混合と継続

 全体的なアジア東部人の遺伝的構造と人口動態を明確にし、文化的・地理的に多様なチベット人の起源への新たな洞察を得るため、f4統計により時空間的な調査が行なわれました。山東省の新石器時代沿岸部アジア東部北方人と現代チベット人との間には、類似した遺伝的関係が見られます。山東省の小荆山(Xiaojingshan)遺跡個体群では、新石器時代沿岸部アジア東部南方人関連系統の増加が識別でき、アジア東部における沿岸部集団との密接な関係が示されます。

 河南省の後期青銅器時代〜鉄器時代の遺跡(Luoheguxiang)の個体群は、河南省滎陽市(Xingyang)汪溝(Wanggou)遺跡の中期新石器時代個体群と比較して、台湾先住民であるオーストロネシア語族の現代アミ(Ami)人と関連する系統の増加を示します。河南省の後期新石器時代の郝家台(Haojiatai)遺跡個体群は、汪溝遺跡個体群と比較して、台湾の漢本遺跡や福建省の遺跡(Xitoucun)と関連するアジア東部南方人系統をより多く有し、アミ人やタイヤル人など類似の沿岸部南方集団の類似性が、河南省の後期新石器時代の平糧台(Pingliangtai)遺跡個体群で観察されますが、後期新石器時代の瓦店(Wadian)や中期新石器時代の汪溝や前期新石器時代の小呉(Xiaowu)といった河南省の各遺跡の個体群では観察されません。

 陝西省と内モンゴル自治区の古代人に焦点を当てると、現代チベット人とアジア東部南北両方(黄河流域と中国南部)の人々は、新石器時代の陝西省の石峁遺跡集団とより多くのアレルを共有します。黄河上流域古代人の経時的分析によると、現代チベット人は全員、黄河上流域古代人との類似した関係を示しますが、鉄器時代の雲南省大槽遺跡の人々は、より多くのアジア東部南方人系統を有します。これらの結果は、中国南部からの集団移動が、少なくとも鉄器時代からチベット高原北東部集団の遺伝子プールに有意な影響を有した、と示唆します。また、年代の異なるネパール古代人集団との、アジア東部人の間の対称的な関係が示されます。

 次に、現代チベット人と全ての利用可能なアジア東部古代人の空間的比較分析により、新石器時代アジア東部北方人の共有された遺伝的構成の類似性と差異が調べられました。現代チベット人11集団および他のアジア東部古代人が、地理的に異なるアジア東部北方古代人および古代チベット人と比較されました。その結果、山東省の沿岸部新石器時代4集団と比較して、ウー・ツァン地域チベット人が最も強い高地アジア東部人との類似性を有する、と明らかになりました。さらに、沿岸部および内陸部古代人と比較すると、現代チベット人は内陸部アジア東部北方人、とくに黄河上流域の後期新石器時代の喇家遺跡個体群と強い類似性を有している、と明らかになりました。この喇家遺跡個体群もしくはアジア東部北方人との類似性は、内陸部の中期新石器時代となるモンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡を沿岸部アジア東部北方人に置換しても成立しましたが、後期新石器時代個体群を前期新石器時代アジア東部北方人と置換すると消えました。アムド地域とカム地域のチベット人は、低地アジア東部北方人との類似性を、ウー・ツァン地域のチベット人はネパール古代人との類似性を示します。

 上述の集団ゲノム研究は、現代チベット人の間の集団下部構造(ウー・ツァンとアムドとカムの各地域)と、アジア東部現代人との最も密接な関係と、アジア東部南方人およびシベリア人との類似性を明らかにしてきました。現代チベット人3集団がそれぞれアジア東部の北方人および南方人とシベリア人との類似性を示すことと一致して、追加の遺伝的混合なしにこれらのソース集団の1つの直接的子孫だった、との仮定が検証されました。まず、現代チベット人が長江流域の稲作農耕民と関連するアジア東部南方人の直接的子孫だった、と仮定されました。アジア東部北方人もしくはシベリア人を用いたf4統計からは、それら参照集団からの明らかな遺伝子流動事象と、密接な遺伝的関係が示唆されました。

 チベット人の直接的祖先が沿岸部新石器時代アジア東部北方人との仮定で、追加の遺伝子流動事象を詳細に検証するためf4統計が行なわれ、ネパール古代人のみが負の値を示し、シナ・チベット語族の黄河中流および下流域の共通起源と一致します。仰韶および龍山文化農耕民もしくはその関連集団、陝西省古代人と他のアジア東部北方古代人と南シベリア人を、現代チベット人の直接的祖先として仮定すると、これらのパターンは確認されました。裕民遺跡個体もしくはアムール川下流域のツングース語族のウリチ(Ulchi)人を直接的祖先として仮定すると、アジア東部南方人(台湾の漢本遺跡個体)と黄河流域農耕民からの追加の祖先的遺伝子流動が識別されました。ネパール古代人を直接的祖先として仮定すると、低地アジア東部古代人からの追加の明らかな遺伝子流動事象が、カム地域チベット人で検出されました。ロシアと中国新疆ウイグル自治区の追加の事前定義された祖先的集団は、強いアジア東部との類似性を確認します。


●現代および古代チベット人の系統構成

 現代チベット人と新石器時代アジア東部北方人の密接な遺伝的つながりと、チベット人とアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人と「縄文人」の父系(Y染色体)類似性を考慮し、qpWaveを用いて現代チベット人とネパール古代人と「縄文人」の祖先集団の数が調べられ、さらにqpAdmにより、1方向〜3方向の対応する系統割合が推定されました。オンゲ人と「縄文人」は、アジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)の7700年前頃の個体と密接な関係がある、と示されています(関連記事)。

 qpWaveの結果から、対称となった集団における観察された遺伝的多様性を説明するには、少なくとも2祖先集団が必要と示されました。まずオンゲ人と内陸部および沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人6集団の2方向モデルが採用され、内陸部の裕民遺跡個体が対象となった集団の遺伝的多様性に適合しませんでした。河南省の前期新石器時代となる小高遺跡個体とオンゲ人の2方向モデルは、甘南チベット人を除く全ての現代チベット人とよく合致します。小高遺跡個体関連系統の割合は、山南チベット人で0.846、新竜チベット人で0.906です。

 2700年前頃のネパールのチョクホパニ遺跡個体群は、地理的に近いウー・ツァン地域チベット人と類似しており、小高遺跡個体に代表されるアジア東部北方人関連系統の割合が0.861、オンゲ人関連系統の割合が0.139となります。より新しいネパール古代人は、チョクホパニ遺跡個体群よりも、オンゲ人関連系統の割合が高く、アジア東部北方人関連系統の割合が低くなります。縄文人は小高遺跡個体関連系統の割合が0.484、わずかな統計的有意性を有するオンゲ人関連系統の割合が0.516でモデル化できます。

 前期新石器時代の小高遺跡個体を、山東省の前期新石器時代となる淄博(Boshan)遺跡および變變(Bianbian)遺跡個体群と置換すると、類似した結果が得られますが、淄博遺跡個体を同じ山東省の前期新石器時代となる小荆山遺跡個体と置換すると、1500年前頃となるネパールのサムヅォング文化個体群は、2方向モデルに適合しません。シベリアの前期新石器時代となるジャライノール(Zhalainuoer)遺跡個体とオンゲ人関連系統は、より高いオンゲ人関連系統を有する高地チベット人および雲南省チベット人の祖先集団として適合しましたが、他のアムド地域およびカム地域チベット人には適合しませんでした。

 中期新石器時代アジア東部人をソース集団として用いると、河南省の小呉遺跡とオンゲ人関連系統のモデルは全対象集団で適合せず、悪魔の門遺跡個体とオンゲ人関連系統のモデルは、オンゲ人関連系統のより高い割合を有する、四川省チベット人と縄文人とチョクホパニ文化個体群でのみ適合できました。ユーラシア西部人との類似性を有する集団(アムド地域チベット人とネパールのサムヅォング文化集団)以外の全ての現代人および古代人集団は、オンゲ人と中期新石器時代の各遺跡のアジア東部北方人関連系統との混合としてモデル化できます。

 アジア東部北方人関連系統の割合は、汪溝遺跡個体を用いると、チベット人では0.898〜0.960、縄文人では0.518、ネパールの2400〜1850年前頃のメブラク(Mebrak)文化集団では0.889、チョクホパニ文化集団では0.914です。半拉山遺跡個体を用いると、山南および新竜チベット人ではそれぞれ0.795と0.847、縄文人では0.458、チョクホパニ文化集団では0.800です。内モンゴル自治区の廟子溝(Miaozigou)遺跡個体を用いると、チベット人では0.906〜0.952、縄文人では0.615、メブラク文化集団では0.906、チョクホパニ文化集団では0.933です。

 さらに、ソース集団として後期新石器時代アジア東部北方人を用いると、剛察および甘南のチベット人とサムヅォング文化集団は、剛察チベット人での、瓦店遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(割合は0.932と0.068)、郝家台遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(0.973と0.027)、サムヅォング文化集団での郝家台遺跡個体とオンゲ人関連系統モデル(0.908と0.092)を除いて、すべて適合しませんでした。残りの全集団は、より高い新石器時代アジア東部人系統とより小さいオンゲ人関連系統の混合として適合できます。

 さらに、南方起源集団としてホアビン文化個体をオンゲ人と置換し、前期〜後期新石器時代のアジア東部北方人をもう一方の起源集団として2方向混合を実行し、サムヅォング文化集団と縄文人を除いて、剛察および甘南チベット人とネパール古代人の割合を推定しました。その結果、オンゲ人に基づく2方向モデルと比較して、わずかに異なる系統構成でも良好な適合が得られました。最後に、アムド地域の剛察および甘南チベット人とサムヅォング文化集団で遺伝的多様性に適合する3方向混合モデルにて、ファナシェヴォ文化個体群がユーラシア西部人のソース集団として採用されました。この3集団は全て、青銅器時代草原地帯牧畜民関連系統を導入すると、上手く適合ました。

 新石器時代アジア東部人と現代チベット人との間の系統関係を包括的に要約し、人口史を復元するため、qpGraphにより一連の混合モデルが構築されました。核となるモデルでは、デニソワ人、現生人類の最も深い分岐を示す集団としてアフリカ中央部のムブティ人、ユーラシア西部人の代表としてルクセンブルクの中期石器時代となるロシュブール(Loschbour)遺跡個体、アンダマン諸島の狩猟採集民である現代オンゲ人、ユーラシア東部の南北の深い系統を表す、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)個体が含まれます。

 図6Aに示されるように、アジア東部人は、ユーラシア西部人からの1%程度の遺伝子流動を有するモンゴル東部の新石器時代集団に代表される北部系統と、オンゲ人と密接な系統から35%程度の遺伝的影響を受けた、福建省連江県亮島の前期新石器時代となる粮道2(Liangdao2)遺跡個体に代表される南部系統に分けられます。後期新石器時代の斉家文化関連の喇家遺跡個体群は、アジア東部北方人関連系統84%とアジア南部オンゲ人関連系統16%の混合として、ネパールのチョクホパニ文化集団は、喇家遺跡個体群系統86%とオンゲ人関連系統14%の混合としてモデル化できます。このモデルは、チョクホパニ文化関連古代チベット人と後期新石器時代の喇家遺跡個体群における、チベット高原在来住民と関連する旧石器時代狩猟採集民系統と、新石器時代アジア東部北方人系統との共存の古代ゲノム証拠を提供します。

 次に、チベット高原の11地区全ての現代人をこのモデルに追加し、新竜チベット人を除くウー・ツァン地域とカム地域チベット人は、2700年前頃のチョクホパニ文化集団の直接的子孫として適合でき、アジア東部北方人系統1集団からの追加の遺伝子流動がある、と明らかになりました。このアジア東部北方人系統は、台湾の鉄器時代の漢本個体群に33%の追加系統をもたらしました。この遺伝子流動は、チベット高原への新石器時代の拡大の第二の波の典型とみなせます。したがって、図6の結果は、チベット人7集団が、オンゲ人関連系統、後期新石器時代の喇家遺跡個体群関連系統、アジア北東部人関連系統の第二の波という、3祖先集団によく適合できる、と示唆します。それぞれの割合は、山南では0.1235と0.8265と0.05、シガツェでは0.144と0.816と0.04、ラサでは0.1344と0.8256と0.04、ナクチュでは0.1176と0.7224と0.16、チャムドでは0.1001と0.6699と0.23、雲南省では0.1106と0.6794と0.21、雅江では0.1232と0.7568と0.12です。以下、本論文の図6です。

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 図7に示されるように、2〜3%のロシュブール関連系統の割合を有する茂県のアムド地域チベット人への1回の遺伝子流動事象を考慮すると、上手く適合できます。以下、本論文の図7です。

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 アジア北東部人関連系統の第二の波の最良の祖先集団の代理をさらに調べるため、新石器時代の内陸部および沿岸部のアジア東部北方人と南方人の集団を導入した、拡張混合グラフが再構成されました。図8に示されるように、新石器時代アジア東部南方人との類似性を有する低地のカム地域チベット人への第二の波は、割合が5〜11%となる台湾の漢本遺跡個体関連集団に直接的に由来する、と上手く適合できます。以下、本論文の図8です。

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 次に前期新石器時代となる後李文化の淄博遺跡個体群、中期新石器時代となる仰韶文化の小呉遺跡個体群、後期新石器時代となる瓦店遺跡個体群、青銅器時代〜鉄器時代の郝家台遺跡個体群を図6の核となるモデルに追加し、全てのチベット人をそれに適合させました。雲南省のカム地域チベット人は、龍山文化集団と関連する追加の系統を33%有しており、四川省雅江のカム地域チベット人は、龍山文化集団と関連する追加の系統を26%有しています。ラサのウー・ツァン地域チベット人の遺伝子プールも、龍山文化集団と関連する第二の移住の波に影響を受けています。この第二の遺伝子流動事象は、龍山文化集団を他の新石器時代もしくは青銅器時代〜鉄器時代集団として、受け入れ可能な系統の割合と置換しても持続し、これらの現象は中原(河南省と山東省)の主要な系統の遺伝的安定性に起因するかもしれません。以下、本論文の図9です。

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●考察

 チベット高原における先史時代の人類の活動と、高地適応の現代チベット人の起源は、遺伝学・考古学・人類学・歴史学などで注目されてきました。近年における古代DNA研究の発展は目覚ましいものの、アジア東部で遅れていることは否定できません。しかし、最近になってアジア東部の古代DNA研究は大きく進展しました(関連記事)。北京近郊の4万年前頃の田园洞窟個体からは、アジア東部の初期集団構造が、アジア東部人とアメリカ大陸先住民との分岐の前に存在した、と示されました(関連記事)。中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)では、アジア東部における南北の遺伝的分化が前期新石器時代以来続いていた、と示されました。この研究ではまた、山東省の後李文化集団から南方への移住と、福建省の曇石山文化集団から北方への移住とともに、アジア南東部のベトナムから極東ロシアまでの、アジア東方沿岸部のつながりも示し、これは後に太平洋に拡散したオーストロネシア語族の祖型集団と推測されます。新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)では、生存戦略が集団の移動と混合に関連している、と報告されました。さらに、ヤムナヤ文化関連のユーラシア草原地帯関連系統が、アジア東部とユーラシア西部の間の混合をもたらし、インド・ヨーロッパ語族を中国北西部にもたらしたことも推測されています(関連記事)。これらの発展はあったものの、アジア東部の高地と低地の現代人と古代人との間の遺伝的関係と分化はまだ曖昧でした。本論文では、チベット高原に関連する新石器時代から歴史時代までの広範なゲノムデータを分析することにより、チベット高原を中心にアジア東部の人類集団の旧石器時代から現代までの歴史を検証しました。

 チベット高原の現代人と古代人のゲノムは、現代漢人および新石器時代アジア東部北方人、とくに山東省の沿岸部の後李文化と河南省の内陸部の仰韶および龍山文化、茂県地区の斉家文化個体群との明確なつながりを示し、チベット・ビルマ語族現代人集団の中国北部起源を示唆します。シナ・チベット語族の起源について、言語の多様性などに基づき、仰韶・馬家窯(Majiayao)文化と関連する中国北部起源、中国南西部の四川省起源、インド北東部起源という3仮説が提示されてきました。農耕と言語の拡散仮説、チベット高原とアジア東部とアジア中央部および南部とシベリアにおける物質文化の類似性に基づくと、現代および古代チベット人の起源は依然として曖昧です。

 本論文における古代高地人とアジア北東部低地人の諸分析は、これらの集団の密接な関係を示し、母系・父系のみで伝わるmtDNAやY染色体のハプロタイプ分析により明らかになった遺伝的類似性と一致します。本論文で直接的証拠により確認されたシナ・チベット語族の仰韶文化・馬家窯文化と関連する中国北部起源説は、系統関係の再構築により提示されました。系統学的結果に基づくTreeMixとqpGraphは、現代チベット人における主要な系統を示し、チベット高原古代人(ネパールと斉家文化の人々)は、モンゴル東部新石器時代人および中原の仰韶文化・龍山文化・後李文化個体群と関連する、共通のアジア東部北方人系統に由来します。したがって、本論文のメタゲノム分析では、チベット高原の人々の主要な系統は、雑穀農耕民の新石器時代の拡大を伴う黄河中流および下流域に起源がある、と支持されます。本論文の新石器時代から現代の常染色体ゲノムに基づく知見は、ミトコンドリアとY染色体の多様性により明らかにされてきた、現代シナ・チベット語族集団の起源と多様化と拡大を確証します。

 シナ・チベット語族の共通起源の強い証拠は提示されましたが、依然としてその系統構成の違いが識別されます。チベット高原高地と比較して、低地の後期新石器時代から現代の人々は、新石器時代アジア東部南方人およびシベリア人と関連する系統をより多く有しています。茂県地区の鉄器時代となる大槽子遺跡の人々も、曇石山文化のアジア東部南方人とより密接な遺伝的類似性を示し、それは稲作農耕民の北方への拡散の遺伝的痕跡を示します。低地内陸部の仰韶文化と龍山文化もしくは沿岸部の後李文化集団と比較して、高地集団は、オンゲ人もしくはホアビン文化集団と関連する旧石器時代狩猟採集民系統を一定の割合(8〜14%)で有します。したがって、本論文のメタ分析は、アジア東部高地人の遺伝子プールにおける旧石器時代系統と新石器時代系統両方の共存、チベット高原の人々の旧石器時代の居住と新石器時代の拡大に関する新たな証拠を提供します。これは以前に、現代人の全ゲノム配列とミトコンドリアとY染色体のデータで明らかにされていました。

 さらに、現代チベット人の間の明らかな集団下部構造も見つかりました。チベットの核地域であるウー・ツァンのチベット人はおもに旧石器時代系統と新石器時代系統を示し、中国北西部のアムド地域チベット人はユーラシア西部人と混合して2〜3%程度の遺伝的影響を受け、四川省と雲南省のカム地域チベット人は新石器時代のアジア東部南方人とのより強い類似性を有します。したがって、現代チベット人の間で観察される集団下部構造は、地理的および文化的区分と一致します。これが示唆するのは、複雑な文化的背景と地形がある程度、集団移動と混合の障壁になっていた、ということです。qpGraphに基づく系統によく適合した集団移動と混合の第二の波は、鉄器時代のアジア東部南方人からカム地域チベット人、新石器時代アジア東部北方人からカム地域およびウー・ツァン地域チベット人、ユーラシア西部人からアムド地域チベット人への遺伝子流動を明らかにしました。これは、シベリアとアジア東部南北両方からの複数の移動の波が、チベットのアジア東部高地人の遺伝子プールを形成した、と示します。


●まとめ

 ユーラシア東部、とくに中国に焦点を当てた新石器時代から現代の包括的なゲノムメタ分析は、チベット高原の高地人と低地アジア東部人との間の関係を明確にし、チベット高原の人々を調査するために行なわれました。遺伝的調査の結果は、古代および現代チベット人と新石器時代から現代のアジア東部北方人との間の強い遺伝的類似性を示します。これが示唆するのは、チベット・ビルマ語族の主要な系統は中国北部の黄河中流および下流域の仰韶文化・龍山文化集団に起源があり、漢人との共通祖先を有し、雑穀農耕民とシナ・チベット語族の拡大を伴う、ということです。

 古代チベット人と低地の仰韶文化・龍山文化・後李文化集団の間で共有された系統が存続しますが、遺伝的分化も見つかりました。高地チベット人は深く分岐したユーラシア東部オンゲ人関連狩猟採集民系統を、低地の新石器時代から現代のアジア東部人は新石器時代アジア東部南方人とシベリア人系統からより多くの系統を有します。これは、現代および古代チベット人における旧石器時代と新石器時代の系統の共存、および旧石器時代の居住と新石器時代の拡大の集団史を示唆します。

 さらに、地理的・言語学的区分と一致して、現代チベット人において3集団下部構造が識別されました。それは、ウー・ツァン地域チベット人におけるより高いオンゲ人・ホアビン文化集団関連系統と、アムド地域チベット人におけるより多いユーラシア西部人関連系統と、カム地域チベット人におけるより大きいアジア東部南方人関連系統です。要約すると、アジア東部高地現代人は、少なくとも古代人5集団に由来します。最古層としてのホアビン文化関連集団、アジア北東部の内陸部および沿岸部からの新石器時代の2回の拡大による追加の遺伝子流動、新石器時代のアジア東部南方人の北方への拡大が1回、ユーラシア西部人の東方への拡大が1回です。


 以上、ざっと本論文を見てきました。本論文は、今年(2020年)になって大きく進展したアジア東部人類集団に関する古代ゲノム研究の成果を取り入れた包括的な分析になっており、たいへん注目されます。現代チベット人集団の遺伝的類似性とともに、その下部構造も明らかになっており、それが地理および文化と関連している、との推測は妥当でしょうし、興味深いものだと思います。ただ、中国領となっているチベット人の主要な居住地域では古代ゲノムデータがほとんど得られておらず、それが今後の課題となるでしょう。チベット高原の人類の古代ゲノムデータが蓄積されていけば、現代チベット人の形成過程がさらに詳細に解明されるでしょうし、それはアジア東部における各現代人集団の形成過程の分析にも役立つと期待されます。

 現代チベット人と現代日本人の類似性は、現代日本社会において一部?の人々により強調される傾向にあるように思われますが、本論文からも、類似した遺伝的構成が示されます。それは、おもに狩猟採集に依拠していた古層としての在来集団と、後に到来したアジア東部北方新石器時代集団との混合により形成され、遺伝的には後者の影響の方がずっと高い、ということです。この古層としての在来狩猟採集民は、出アフリカ後の現生人類がユーラシア東西系統に分岐し、さらにユーラシア東部系統が南北に分岐した後の南方系統に由来する、と推測されます。現代日本人と現代チベット人において高頻度で見られるY染色体ハプログループ(YHg)Dは、おそらくこの狩猟採集民系統に由来するのでしょう。もっとも、これも単純化はできず、現代日本人における古層としての在来集団である「縄文人」は、本論文が示すように、ユーラシア東部南方系統と、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統との混合だった、と推測されます。

 今年になって大きく進展したアジア東部の古代ゲノム研究ですが、今後の課題は、まず新石器時代アジア東部南方人を代表すると考えられる長江流域新石器時代個体群のゲノム解析で、あるいは、すでにゲノムデータが得られている福建省の新石器時代個体群とはかなり異なる遺伝的構成を示す可能性もありますが、おそらく両者は類似した遺伝的構成だと思われます。次に、アジア東部ではほとんど得られていない更新世人類のゲノムデータです。現時点では、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統がいつどのようにアジア東部に拡散してきて、南北両系統に分岐したのか、ほとんど明らかになっていません。

 ただ、中国の大半はヨーロッパと比較して古代DNAの保存に適していない自然環境なので、今後も更新世人類のゲノムデータはさほど期待できないかもしれません。上述の4万年前頃となる北京近郊の田园洞窟個体と、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された35000〜34000年前頃の個体(関連記事)からは、アジア東部系統はユーラシア中緯度草原地帯を西進してきたユーラシア東部北方系統から派生してアジア東部北方に4万年前頃かその少し前に到達し、その後にLGMによる各地域集団の孤立を経て南北両系統に分岐したのではないか、と現時点では考えていますが、自信はなく、今後の研究の進展を俟つしかないのでしょう。


参考文献:
Wang M. et al.(2020): Peopling of Tibet Plateau and multiple waves of admixture of Tibetans inferred from both modern and ancient genome-wide data. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.07.03.185884


https://sicambre.at.webry.info/202007/article_21.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/968.html#c1

[番外地7] 大西つねきさんの経済の話は意図的な捏造・改竄が目立つなので、アメリカ金融資本との繋がりが有りそうなんですね 中川隆
2. 中川隆[-12085] koaQ7Jey 2020年7月19日 10:00:47 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[6]
大西つねきはアメリカ金融資本のエージェント
大西つねきさんの経済の話は意図的な捏造・改竄と悪質な嘘が目立つので、アメリカ金融資本との繋がりが有りそうですね:
319無党派さん (ワッチョイ 7533-dDBt)2020/07/18(土) 13:49:27.80ID:1L6docQJ0
織原 然
@orihara_zen
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/giin/1594899614/
れいわ新選組(山本太郎)と大西つねき、に関する考察がめっちゃ長くなった。需要がないかもしれないけれど流します。
3.
ともかく@の問題ですが、この二人、経済思想的にはお互い真逆です。私は実は当初から言ってましたが、真逆なのに共闘しているのです。
大西氏の経済理論はMMTを知らなくてもおかしいし、MMTを知ってからだとなお、おかしいこと気にづきます。
4.
因みに、去年7月にふわっちでそのことは解説していますが、改めて文章で解説します。
彼はまず、信用創造の説明、として「又貸しモデル」という嘘の説明をします。
それは2014年も2019年れいわ新選組出馬後も同様です。
5.
大西恒樹の「日本から世界を変える動画vol_002/お金の発行のしくみ」
https://youtube.com/watch?v=IRSJ6G6ma6g&list=PLFU_7EoHUSO0J8JlpNA1qFrF1dw9drfcL&index=2
6:37から「又貸しモデルを信用創造と嘘をついているシーン」
途中で「日銀ではなく民間銀行です」と言っておきながら日銀が関わらないとできない準備預金制度の説明も挟んできます。

7.
いや、昔そう言ってただけで今は違うんじゃ?と思われる方もいるかもしれません。
でも、昨年、れいわ新選組に合流すると決意した後に「ベーシックインカム・実現を探る会の白崎一裕」さんと一緒にこんな対談をしています。
https://youtube.com/watch?v=zCROccYD64A
しかも、この動画の主題はMMTに関する説明です。
8.
つまり、はっきり申し上げてこの思想のままれいわ新選組に入った、ということはMMTの貨幣発行の方法を金融的な「又貸しモデルにすり替えようとした」という疑惑すらあるのが実情です。
因みに、先ほど示した
https://youtube.com/watch?v=IRSJ6G6ma6g&list=PLFU_7EoHUSO0J8JlpNA1qFrF1dw9drfcL&index=2
10:34からは「こんな借金を増やし続けるシステムが持続可能なわけがない、いずれ破綻する!」を連呼し続けています。

9.
因みに、先ほど示した
https://youtube.com/watch?v=IRSJ6G6ma6g&list=PLFU_7EoHUSO0J8JlpNA1qFrF1dw9drfcL&index=2
10:34からは「こんな借金を増やし続けるシステムが持続可能なわけがない、いずれ破綻する!」を連呼し続けています。
10.
https://youtube.com/watch?v=IRSJ6G6ma6g&list=PLFU_7EoHUSO0J8JlpNA1qFrF1dw9drfcL&index=2
11:31「皆さんは気づいたでしょうか?信用創造で発行されたお金の仕組みに?それはすべてのお金が誰かの借金だということです。」
特にこれは明確に違います。というか明らかに捏造です。
貨幣は「借金をしても破綻しない政府の借金であり、国民の借金ではありません」。
11.
https://youtube.com/watch?v=IRSJ6G6ma6g&list=PLFU_7EoHUSO0J8JlpNA1qFrF1dw9drfcL&index=2

12:05からは、返済されるお金の「金利分も新たに借金という負担が国民に増える」、という嘘をついています。しかも面白いことに「借金を返済することがまるで良い事のような誘導」が言葉巧みに行われています。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/844.html#c2

[近代史3] インダス文化 中川隆
1. 中川隆[-12084] koaQ7Jey 2020年7月19日 11:31:15 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[7]
インダス文明を導いた人々の祖先は古代イラン人、古代イラン人の祖先はトルコの北東部に住んでいた民族


インダス文明の秘密、ゲノムで解いた
Posted September. 06, 2019
http://www.donga.com/jp/article/all/20190906/1840492/1/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%80%81%E3%82%B2%E3%83%8E%E3%83%A0%E3%81%A7%E8%A7%A3%E3%81%84%E3%81%9F


世界4大文明の一つであるインダス文明を起こした主人公たちが、今のイラン地域から移住した人類の子孫である事実が、旧人類500人のゲノム(生命体が持つDNAの総合・遺伝体)の解読結果明らかになった。彼らは独自に農業革命を成し遂げてレベルの高い都市文明を遂げたが、気候変動により、バラバラに分かれて東南アジアや欧州遊牧民に混ざって、今の南アジア人になったことが分かった。

デビッド・ライシ米ハーバード大学医学部教授チームは、約8000年前から今まで中央アジアと南アジアに住んでいた523人の遺骨でゲノムを解読して、南アジア人の移住と文明の進化経路を明らかにした。研究結果は、国際学術誌「サイエンス」と「セル」6日付にそれぞれ発表された。

インダス文明は、約4500〜3500年前にインド北西部とパキスタン地域で花咲かせた古代文明である。農業が発達し、「ハラッパー」と「モヘンジョダロ」のような排水路を備えた人口数万人の計画都市が建設された。メソポタミアなどの他の文明との貿易も活発だった。しかし、約3500年前に気候変動により、この地域が急激に乾燥したことで、人口の多くが他の場所に移動し、文明は崩壊した。人類の歴史の中で最も重要な古代文明の一つだが、暑くて湿気の多かった昔の気候のため、遺骨からDNAを採取することが困難で、彼らの移動経路を明らかにできなかった。しかし、人類が移住しながら、現地で出会った他の人類と遺伝子を交換することになり、混ざった遺伝子の割合を追跡して移動経路を明らかにすることができた。

ライシ教授チームは、インドの研究チームと一緒に中央アジアと南アジアにかけて約8000年前から今まで住んでいた人類523人の遺骨からゲノムを採取して解読し、長い時間にわたる人類の移住経路を明らかにした。また、インダス文明の代表都市の一つであるラーキーガリーで発掘した61人の遺骨から試料を採取して、当時の人類の正体も把握した。ライシ教授は、「暑さと湿気によって破壊され、一人一人のゲノムは解読できなかったが、61名の部分別のDNAを集めて全体集団のゲノム特性を把握することができた」と語った。

研究結果、インダス文明を導いた人々の祖先は、今のイラン地域に住んでいた古代イラン人であることが分かった。古代イラン人の祖先は、それより西に位置した今のトルコの北東部に住んでいた人類と確認された。例えるなら、インダス人の母親は古代イラン人、祖母はトルコ北東部の人類であるわけだ。

トルコの北東部はよく「肥沃な三日月地帯」と呼ばれ、農業の発祥の地として知られている。このため、これまでインダス人が「祖母」のトルコ北東部の人類から農業を伝授されたとされてきた。しかし、今回の研究結果、農業伝授はなかったことが確認された。トルコの北東部から古代イラン人が分離されたときは1万2000年前で、まだ人類初の農業が誕生していなかったからである。インダス文明は農業を独自に誕生させたことになる。

一方、インダス文明の崩壊後、インダス人は東南アジア人と混ざった。ロシア・モスクワ南付近の草原地帯(ステップ)に住んでいたと推定される青銅器遊牧民のヤムナ族とも混ざった。このように形成された混血インダス人が、今のインドなどの南アジア人になったことが分かった。研究チームはこの過程で、英語などの欧州語とインド語、イラン語、ロシア語など、世界30億人が使う言語群である「インド欧州語」がユーラシアに広がったと明らかにした。


ユン・シンヨン東亜サイエンス記者 ashilla@donga.com
http://www.donga.com/jp/article/all/20190906/1840492/1/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%80%81%E3%82%B2%E3%83%8E%E3%83%A0%E3%81%A7%E8%A7%A3%E3%81%84%E3%81%9F  



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News Release 5-Sep-2019
中央および南アジア由来の古代DNAからユーラシア大陸における人々と言語の拡散が明らかに

中央および南アジアから得られた500人以上の古代DNAの全ゲノム解析から今回、この地域に現在住む人々の複雑な遺伝的祖先について新たな光が当てられることを、新しい報告が明らかにしている。

この研究は、ユーラシア・ステップ、中近東および東南アジアに由来する集団における遺伝子交換を記述しているだけでなく、古代ヨーロッパに認められるものと類似し並行したゲノムパターンを反映する集団の歴史をも明らかにしており、これらの所見は印欧語族の文化的拡散を例証するものと考えられる。

はるか昔に生きていた人々の遺伝子が保存された遺物は、古代の様々な集団の移動と相互関係だけでなく、文化的革新(農業、牧畜、言語など)の世界規模での拡散の様子を明らかにしてくれる。

Vagheesh Narasimhanらは、およそ8,000年前に生きていた523人の古代DNAを用いて、中央および南アジアへの、またこれらの地域内における、先史時代の人類の拡散について理解を深めることを試みた。Narasimhanらによれば、

現代アジア人の祖先は主として、インダス文明の崩壊後にやってきた中近東の農民集団、ならびにヤムナ文化として知られるヨーロッパのステップ地帯に由来する青銅器時代の牧畜民集団に遡るという。

これまでの研究では、同じ集団が東ヨーロッパ地域にも移動しており、このことがインド・イラン語派およびバルト・スラヴ語派の広範な拡散に貢献した可能性が示されている。

関連するPerspectiveでNathan ShaeferとBeth Shapiroは「今回のデータセットの規模により、Narasimhanらはかつてない広範な空間および時間にわたってゲノムの比較を行うことができ、それにより数年前には答えることのできなかった、増加しつつある特定の疑問に焦点を当てることが可能になった」と記している。
https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2019-09/aaft-5_2090319.php


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2019年09月08日
アジア南部の人口史とインダス文化集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_23.html


 アジア南部の人口史関する二つの研究が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。日本語の解説記事もあります。なお、以下の主要な略称は以下の通りです。アンダマン諸島狩猟採集民(AHG)、古代祖型インド南部人関連系統(AASI)祖型北インド人(ANI)、祖型南インド人(ASI)、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)、シベリア東部狩猟採集民(ESHG)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)、中期〜後期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯牧畜民(WSMLBA)、前期〜中期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯牧畜民(WSEMBA)、バクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化。

 一方の研究(Narasimhan et al., 2019)は、すでに昨年(2018年)、査読前に公開されていました(関連記事)。その時点よりデータも増加しているので、今回改めて取り上げます。本論文は、中石器時代以降のアジア中央部および南部北方の、新たに生成された古代人523個体のゲノム規模データと、品質を向上させた既知のゲノムデータ19人分を報告しています。これらと既知のデータを合わせて、古代人837個体分のデータセットが得られました。現代人では、686人のゲノム規模データと、アジア南部の246民族の1789人の一塩基多型データが比較されました。

 本論文(サイエンス論文)はこれらの個体を地理的に3区分しています。それは、182人分のゲノムデータが得られたイランおよびトゥーラーン(アジア中央部南部、現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・アフガニスタン・キルギスタン)、209人分のゲノムデータが得られた草原地帯と北部森林地帯(ほぼ現在のカザフスタンとロシアに相当します)、132人分のゲノムデータが得られたパキスタン北部です。文化的に区分すると、(1)中石器時代・銅器時代・青銅器時代・鉄器時代のイランおよびトゥーラーンの集団で、紀元前2300〜紀元前1400年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化も含まれます。(2)シベリア西部森林地帯の早期土器(陶器)使用狩猟採集民で、北部ユーラシア人の早期完新世の遺伝的傾向を表します。(3)ユーラシア草原中央部の銅器時代・青銅器時代の牧畜民で、青銅器時代カザフスタン(紀元前3400〜紀元前800年)を含みます。(4)アジア南部北方で、後期青銅器時代と鉄器時代と歴史時代を含み、現在のパキスタンに相当します。

 イランおよびトゥーラーンでは、アナトリア農耕民関連系統の比率が西から東にかけて減少するという勾配が見られます。紀元前九千年紀〜紀元前八千年紀のイラン西部ザグロス山脈の牧畜民は、特有のユーラシア西部関連系統を有していたのにたいして、広範な地域のもっと後の集団は、この独特なユーラシア西部関連系統とアナトリア農耕民関連系統との混合系統です。銅器時代から青銅器時代にかけて、アナトリア農耕民関連系統の比率が、アナトリア半島で70%、イラン東部で31%、トゥーラーン東部で7%というように、東から西へと減少していく勾配が見られます。アナトリア半島でもイラン農耕民系統が見られるようになり、農耕と牧畜を担う集団が双方向に拡散し、在来集団と混合した、と推測されます。

 紀元前三千年紀には、イラン東部とトゥーランでは、最小限のアナトリア農耕民関連系統だけではなく、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)系統の混合も検出され、イラン農耕民関連系統の拡大前にこの地域に存在した、まだ標本抽出されていない狩猟採集民からの交雑を反映している、と本論文は推測しています。ユーラシア北部関連系統は、ヤムナヤ(Yamnaya)遊牧文化集団の拡大前にトゥーラーンに影響を及ぼしました。ヤムナヤ文化集団の遺伝的構成では、WSHG関連系統よりもヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)関連系統の方が多いので、ヤムナヤがこのユーラシア北部関連系統の起源だった可能性は除外できます。また、ヤムナヤ文化集団にはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)U5aとY染色体ハプログループ(YHg)R1bもしくはR1aが高頻度で存在するものの、これらのハプログループは標本抽出されたイランおよびトゥーラーンの銅器時代〜青銅器時代には見られないことからも、この見解は支持されます。

 紀元前2300〜紀元前1400年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化集団は、アジア南部集団の主要な起源ではありませんでした。イランおよびトゥーラーンの青銅器時代のBMACとその直後の遺跡から、紀元前3000〜紀元前1400年頃の84人のゲノム規模データが得られました。この84人の大半はトゥーラーンの先住集団と遺伝的に近縁で、BMAC集団の起源集団の一つと考えられます。BMAC集団の遺伝的構成は、早期イラン農耕民関連系統が60〜65%、アナトリア農耕民関連系統が20〜25%、WSHG系統が10%程度です。BMAC集団は、先行するトゥーラーンの銅器時代個体群とは異なり、追加のアンダマン諸島狩猟採集民(AHG)関連系統を2〜5%ほど有しています。アジア南部におけるこの南方から北方への遺伝子流動は、インダス文化とBMACの間の文化的接触と、アフガニスタン北部のインダス文化交易植民地を示す考古学的証拠と一致しますが、アフガニスタン北部のインダス文化交易植民地では古代DNAは得られていません。一方、逆の北方から南方への遺伝子流動は検出されませんでした。BMAC集団のアナトリア農耕民関連系統比率はやや高いので、古代および現代のアジア南部人類集団の起源集団にはならないだろう、と本論文は推測しています。

 以前の研究(関連記事)では、BMAC集団をアジア南部の現代人集団の祖先集団の一つとする可能性が提示されていましたが、対象となる標本数が本論文の36点に対して2点と少なく、BMAC期もしくはアジア南部の古代DNAが欠けており、本論文はその見解に否定的です。紀元前2300年頃、BMAC関連遺跡でWSHG関連系統を有する外れ値の3人が観察されます。紀元前三千年紀には、カザフスタンの3遺跡とキルギスタンの1遺跡で、この3人の起源として合致したデータが得られています。紀元前2100〜紀元前1700年頃には、BMAC関連遺跡で西方草原地帯前期〜中期青銅器時代(EMBA)系統から派生した系統を有する3人の外れ値が観察されており、ヤムナヤ派生系統は紀元前2100年までにトゥーランに到達した、と考えられます。ヤムナヤ系統は紀元前二千年紀の変わり目までにアジア中央部へと拡大した可能性が高そうです。

 紀元前2500〜紀元前2000年頃のBMAC遺跡と紀元前3300〜紀元前2000年頃のイラン東部遺跡から、11人の外れ値が観察されます。その遺伝的構成は、AHG関連系統が11〜50%で、残りはイラン農耕民関連系統とWSHG関連系統の混合(50〜89%)です。こうした外れ値の個体群では、BMAC関連系統では20〜25%となるアナトリア農耕民関連系統が検出されず、BMAC集団が起源である可能性は否定されます。インダス文化集団の古代DNAなしに、これらの外れ値がインダス文化で一般的な遺伝的構成だった、と明確に述べることはできません。しかし、アナトリア農耕民関連系統が検出されず、11人全員でAHG関連系統の割合が高く、そのうち2人では現在おもにインド南部で見られるYHg- H1a1d2が確認され、インダス文化との交易の考古学的証拠があり、アジア南部関連の人工物が共伴していることから、この外れ値の11人はインダス文化後のインダス川上流近くの古代人86人の祖先として適合的だろう、と本論文は推測します。また、この11人におけるイラン農耕民関連系統とAHG関連系統との混合が紀元前5400〜紀元前3700年頃に起きたと推定されることから、11人の遺伝的構成がインダス文化集団を表している可能性は高い、と本論文は指摘します。

 ユーラシアの草原地帯および森林地帯系統の遺伝的勾配は、農耕出現後に確立しました。ユーラシア北部の後期狩猟採集民は、西方から東方へと、アジア東部系統が増加する勾配を示します。新石器時代と銅器時代には、この勾配に沿った異なる地域の狩猟採集民が、異なる地域の系統を有する人々と交雑し、5つの勾配を形成しました。そのうち2つは南方(アジア南西部とインダス川周辺部)で、残りの3つはユーラシア北部に存在しました。草原地帯および森林地帯の最西端にはヨーロッパ勾配があり、アナトリア農耕民の拡大により紀元前7000年後に確立し、ヨーロッパ西部狩猟採集民と交雑しました。黒海からカスピ海に及ぶ緯度のヨーロッパの東端の勾配は、ヨーロッパ東部狩猟採集民関連系統とイラン農耕民関連系統の混合から構成され、いくつかの集団では追加のアナトリア農耕民関連系統が見られます。ウラル山脈の東ではアジア中央部勾配が検出され、一方の端のWSHG個体と、もう一方の端のトゥーラーンの銅器時代〜早期青銅器時代の個体で表されます。

 紀元前3000年頃に、ユーラシアの多くの集団の遺伝的構成は、西方のハンガリーから東方のアルタイ山脈まで、コーカサス起源のヤムナヤ文化集団系統に転換していきました。この前期〜中期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯(WSEMBA)系統は、次の2000年にわたってさらに拡大して在来集団と混合し、西はヨーロッパの大西洋沿岸、南東はアジア南部まで到達しました。アジア中央部および南部に到達したWSEMBA系統は、最初の東方への拡大ではなく、第二の拡大によるもので、WSEMBA系統を67%、ヨーロッパ関連系統33%を有する集団でした。この中期〜後期青銅器時代ユーラシア西方草原(WSMLBA)集団は、縄目文土器(Corded Ware)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化やシンタシュタ(Sintashta)文化やペトロフカ(Petrovka)文化集団を含んでいます。WSMLBAとは異なる中期〜後期青銅器時代ユーラシア中央草原地帯集団(CSMLBA)も検出され、おもにWSHG関連系統の中央草原地帯の青銅器時代牧畜民に由来する系統を9%ほど有しています。

 シンタシュタ文化集団では、50人のうち複数の外れ値が検出されました。外れ値の一つはWSHG関連のCSMLBA系統の比率が高く、二番目はWSMLBA系統の比率が高く、三番目はヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)系統の比率が高い、と明らかになりました。現在のカザフスタンとなる中央草原地帯では、紀元前2800〜紀元前2500年頃の1人と、紀元前1600〜紀元前1500年頃の複数個体が、イラン農耕民関連系統からの顕著な混合を示し、トゥーランを経由してのアジア南部へのCSMLBAの南進とほぼ同時期の、トゥーランから北方への遺伝子流動を示します。紀元前三千年紀半ばから始まったこうした人類集団の移動は、考古学的証拠で示される物質文化と技術の動きと関連しています。

 クラスノヤルスク(Krasnoyarsk)市の草原地帯遺跡で発見された紀元前1700〜紀元前1500年頃の複数個体は、シベリア東部狩猟採集民(ESHG)関連系統と25%程度のアジア東部関連系統と、残りのWSMLBA系統という遺伝的構成を示します。後期青銅器時代までに、ESHG関連系統はカザフスタンからトゥーラーンまで至る所で見られるようになります。これら紀元前千年紀から紀元後千年紀にアジア南部において文化的・政治的影響の見られる文化集団は、アジア南部現代人にアジア東部系統がほとんど見られないことから、アジア南部現代人の草原地帯牧畜民系統の重要な起源ではありません。その起源として有力なのは、草原地帯の中期〜後期青銅器時代集団で、トゥーラーンへと拡散してBMAC関連系統と混合しました。総合すると、これらの結果は、アジア南部に現在広範に見られる草原地帯系統がアジア南部に到達したのは、紀元前二千年紀の前半と推定します。ヤムナヤ文化に代表される草原地帯牧畜民集団の拡大前後での遺伝的構成は、本論文の図3で示されています。

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https://science.sciencemag.org/content/sci/365/6457/eaat7487/F4.large.jpg

 以前の研究では、アジア南部現代人集団は、ユーラシア西部集団と近縁な祖型北インド人(ANI)と、ユーラシア西部集団とは近縁ではない祖型南インド人(ASI)との混合により形成された、と推測されました。本論文はまず、インダス文化との接触が考古学的に示されている遺跡で確認された、上述の外れ値の11人を取り上げます。この11人は、2集団の混合としてモデル化できます。一方は、AHG関連系統集団、もう一方は90%程度のイラン農耕民関連系統と10%程度のWSHG関連系統の混合集団です。このインダス川流域系統に合致する人々は、アジア南部現代人の祖先の大半を構成します。これはアジア南部に特有の系統をもたらす西方からの遺伝子流動というよりも、インダス川流域集団の人々のもっと後のアジア南部人への寄与です。

 アジア南部北方の紀元前1700〜紀元後1400年の間の117人では、紀元前2000年以降に草原地帯系統が見られます。これは2集団の混合としてモデル化され、一方はインダス川流域集団、もう一方は41%程度のCSMLBAと比較的高いイラン農耕民関連系統を有する59%程度のインダス川流域集団の亜集団です。現代インド人で見られる遺伝的勾配の形成に合致したモデルは起源集団として、CSMLBAもしくはその近縁系統と、インダス川流域集団と、AHG関連系統もしくはAHG関連系統を比較的高頻度で有するインダス川流域集団の亜集団を含みます。

 インド南部のいつくかの集団では、CSMLBA系統が見られません。これは、ASIのほぼ直系の子孫が現在も存在することを示し、ASIはユーラシア西部関連系統を有していないかもしれない、という以前の見解の反証となります。つまり、インド南部のユーラシア西部関連系統はANI のみがもたらしたのではなく、ASIはイラン農耕民関連系統を有していただろう、というわけです。イラン農耕民関連系統とAHG関連系統の混合は紀元前1700〜紀元前400年頃と推定され、インダス文化の時点では、ASIは完全には形成されていない、と推測されます。

 インドには、パリヤール(Palliyar)やジュアン(Juang)といった、ユーラシア西部系統の影響の小さいオーストロアジア語族集団も存在します。ジュアン集団は、更新世からアジア南部に存在したと考えられ、ユーラシア西部系統要素のない古代祖型インド南部人関連系統(AASI)系統(48%)およびアジア東部起源のオーストロアジア語族の混合集団(52%)の混合系統と、AASI(70%)とイラン農耕民関連系統(30%)の混合集団としてのASIとの混合としてモデル化されます。農耕技術から、オーストロアジア語族はアジア南部に紀元前三千年紀に到来した、と推測されています。ANIは、草原地帯牧畜民系統との混合年代が紀元前1900〜紀元前1500年頃と推定されることから、インダス文化衰退後に形成されたと推測されます。つまり、現代インド人の勾配を形成する主要な2集団であるASIとANIは、どちらも紀元前二千年紀の前には完全に形成されていなかっただろう、ということになります。

 アジア南部最北端となるパキスタンのスワート渓谷(Swat Valley)の青銅器時代・鉄器時代の複数個体では、草原地帯系統が、常染色体において20%程度になるのに、Y染色体では、草原地帯においてはほぼ100%となる系統(YHg- R1a1a1b2)が5%と顕著に低く、おもに女性を通じて草原地帯系統が導入された、と推測されます。しかし、現代のアジア南部では、常染色体よりもY染色体の方でCSMLBA関連系統がずっと多い集団も見られます。これは、おもに男性により草原地帯系統が拡散したことを示唆します。類似の事象はイベリア半島でも見られますが(関連記事)、アジア南部はイベリア半島ほど極端ではありません。アジア南部でY染色体において草原地帯系統の比率の高い集団は、司祭の地位にあると自任してきた集団に見られますが、この相関はまだ決定的とまでは言えません。私の説明が下手で分かりにくいので、以下に本論文の図5を掲載します。

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https://science.sciencemag.org/content/sci/365/6457/eaat7487/F6.large.jpg


 本論文は以上の知見から、アジア南部における完新世の人口史を以下のようにまとめます。紀元前2000年まで、イラン農耕民関連系統とAASI系統の異なる比率を有するインダス川流域集団が存在し、本論文はこれを多くのインダス文化集団の遺伝的特徴と仮定します。ASIは紀元前2000年以後に、このインダス川流域集団とAASI関連系統集団の混合として成立しました。紀元前2000〜紀元前1000年の間に、CSMLBA系統がアジア南部へと拡大し、インダス川流域集団と混合してANIを形成しました。紀元前2000年以後、ASI とANIが混合し、現代インド人に見られる遺伝的勾配を形成していき、アジア南部の現代の多様な集団が形成されました。

 インダス川流域集団はインダス文化の発展前となる紀元前5400〜紀元前3700年に形成されます。これは、インダス川流域集団のイラン農耕民関連系統はインダス川流域狩猟採集民の特徴で、それはコーカサス北部およびイラン高原農耕民の特徴と同様だった可能性を提示します。イラン北東部の狩猟採集民におけるそうした系統の存在も、この可能性と整合的です。もう一つの可能性は、イラン高原から農耕牧畜集団が紀元前七千年紀にアジア南部へと拡大した、というものです。しかし、この仮説は、インダス川流域集団ではアナトリア農耕民関連系統がほとんど存在しない、という知見と整合的ではありません。

 そのため本論文は、アナトリア農耕民関連系統の東方への拡大がイラン高原およびトゥーラーンへの農耕拡大と関連していたという見解を支持しているものの、アジア南西部からアジア南部への大規模な移動は、イラン高原において全員にかなりのアナトリア農耕民関連系統が見られる紀元前6000年以後にはなかった、と推測しています。国家成立以前の言語は人々の移動に伴うのが通常なので、アジア南部のインド・ヨーロッパ語族は、アジア南西部の農耕民拡大の結果ではないだろう、との見解を本論文は提示しています。

 これは、アジア南部のインド・ヨーロッパ語族が草原地帯起源であることを示唆します。しかし、中期〜後期青銅器時代の中央草原地帯とアジア南部の物質文化の類似性はひじょうに少ない、と指摘されています。ただ本論文は、ヨーロッパ西部起源と考えられるビーカー複合(Beaker Complex)文化が、ヨーロッパ中央部ではヤムナヤ文化に代表される草原地帯牧畜民系統を50%程度有する集団と関連していることから、物質文化のつながりの欠如は遺伝子拡散を否定するわけではない、と指摘しています。ヨーロッパでは、草原地帯系統集団が在来の物質文化を取り入れながら、遺伝的には在来集団に大きな影響を及ぼした、というわけです。

 本論文は、アジア南部集団が、ヤムナヤ文化集団に代表されるWSEMBAから、その影響を受けたCSMLBAを経由して(30%程度)、20%程度の影響を受けた、と推定しています。以前の研究(関連記事)では、アジア南部に草原地帯牧畜民系統をもたらしたのは直接的にはヤムナヤ文化集団ではない、と推測されていましたが、間接的にはヤムナヤ文化集団のアジア南部への遺伝的影響は一定以上あるようです。さらに本論文は、インド・ヨーロッパ語族のサンスクリット語文献の伝統的な管理者と自任してきた司祭集団において、男系を示すY染色体においてとくに草原地帯牧畜民系統の比率が高いことからも、インド・ヨーロッパ語族が草原地帯系統集団によりもたらされた可能性が高い、と推測します。

 アジア南部で2番目に大きな言語集団であるドラヴィダ語族の起源に関しては、ASI系統との強い相関が見られることから、インダス文化衰退後に形成されたASIに起源があり、インダスインダス文化集団により先ドラヴィダ語が話されていた、と本論文は推測しています。これは、インダス文化の印章の記号(インダス文字)がドラヴィダ語を表している、との見解と整合的です。また本論文は、先ドラヴィダ語がインダス川流域集団ではなくインド南部および東部起源である可能性も想定しています。この仮説は、インド特有の動植物の先ドラヴィダ語復元の研究と整合的です。

 ヨーロッパとアジア南部は、農耕開始前後にアジア南西部起源の集団が流入した後、銅器時代〜青銅器時代にかけて、ユーラシア中央草原地帯起源の牧畜民が流入してきて遺伝的影響を受けたという点で、よく類似しています。しかし、更新世から存在したと考えられる狩猟採集民系統の比率が、アジア南部ではAASIとして最大60%程度になるのに対して、ヨーロッパではヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)として最大で30%程度です。これは、ヨーロッパよりも強力な生態系もしくは文化の障壁がアジア南部に存在したからだろう、と本論文は推測しています。

 これと関連して、草原地帯牧畜民系統の到来がアジア南部ではヨーロッパよりも500〜1000年遅くて、その影響がアジア南部ではヨーロッパよりも低く、Y染色体に限定しても同様である、ということも両者の違いです。本論文は、この状況はヨーロッパ地中海地域と類似している、と指摘します。ヨーロッパでも地中海地域は、北部および中央部よりも草原地帯系統の比率はかなり低く、古典期には多くの非インド・ヨーロッパ語族系言語がまだ存在していました。一方、アジア南部では非インド・ヨーロッパ語族系言語が今でも高い比率で使用されています。これは、やや寒冷な地域が起源の牧畜民集団にとって、より温暖な地域への拡散は難易度が高かったことを反映しているのかもしれません。


 もう一方の研究(Shinde et al., 2019)はオンライン版での先行公開となります。インダス文化の遺跡では何百人もの骨格が発見されていますが、暑い気候のためDNA解析は困難です。しかし近年、内耳の錐体骨に大量のDNAが含まれていると明らかになり、熱帯〜亜熱帯気候の地域でも古代DNA研究が進んでいます。本論文(セル論文)は、インダス文化最大級の都市となるラーキーガリー(Rakhigarhi)遺跡で発見された、多数の錐体骨を含む61人の遺骸からDNA抽出を試み、そのうち有望とみなされた1個体(I6113)から、31760ヶ所の一塩基多型データを得ることに成功しました。I6113は性染色体の配列比較から女性と推定され、mtHg-U2b2と分類されました。このハプログループは、アジア中央部の古代人では現時点で確認されていません。

 I6113は、上述のサイエンス論文で云うところの、インダス川流域集団に位置づけられ、アジア南部現代人集団の変異内には収まりません。つまり、I6113もアナトリア農耕民関連系統を有していないわけです。I6113は、イランのザグロス山脈西部遊牧民とアンダマン諸島狩猟採集民(AHG)との混合としてモデル化されます。つまり、イラン系統と更新世からアジア南部に存在した系統の混合というわけです。上述のように、サイエンス論文では紀元前2500〜紀元前2000年頃のBMAC遺跡と紀元前3300〜紀元前2000年頃のイラン東部遺跡の外れ値となる11人はインダス文化集団からの移民との見解が提示されており、本論文(セル論文)でその具体的証拠が得られたことになります。インダス文化期のラーキーガリー遺跡ではI6113のような遺伝的構成が一般的だっただろう、と本論文は推測しています。

 本論文は、サイエンス論文の外れ値となる11人とラーキーガリー遺跡のI6113を合わせてインダス文化集団と把握しています。I6113には草原地帯系統が見られず、イラン系統が87%と大半を占めます。このインダス文化集団におけるイラン系統は、イラン系統が狩猟採集民系統と牧畜民系統に分岐する前に分岐した系統と推定されています。その推定年代は紀元前10000年よりもさかのぼり、イラン高原における農耕・牧畜の開始前となります。これは、インダス文化集団におけるイラン系統が、農耕開始前にアジア南部に到来したことを示唆します。紀元前7000年以後、イラン高原ではアナトリア農耕民関連系統が増加し、サイエンス論文で示されているように、西部ではアナトリア農耕民関連系統の比率が59%と高く、東部では30%と低い勾配を示します。私の説明が下手で分かりにくいので、以下に本論文の図3を掲載します。

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https://marlin-prod.literatumonline.com/cms/attachment/39fa94c3-2fb2-46ec-8afb-d11af2e98911/gr3_lrg.jpg

 本論文はこれらの知見から、アジア南部ではヨーロッパと同様に、最初に農耕の始まった肥沃な三日月地帯からの直接的な移住により農耕が始まったわけではない、と指摘します。ヨーロッパの場合は、アナトリア半島東部の狩猟採集民が外部からの大規模な移住なしに農耕を始め(関連記事)、その後でヨーロッパに拡散していきました。アジア南部の場合は、まだ特定されていない地域の狩猟採集民が、外部からの大規模な移住なしに農耕を始めたのだろう、と本論文は推測しています。ただ本論文は、アジア南部内で初期農耕民による大規模な拡大が起き、農耕の拡大とともに集団置換が起きた可能性も想定しています。そのような事象が起きたのか否かは、本論文が指摘するように、農耕開始前後の古代DNA研究で明らかになるでしょう。

 インダス文化集団は、アナトリア農耕民関連系統を有さず、イラン高原の古代の農耕民系統とは異なるイラン系統を有するため、アナトリア半島からアジア南部へ初期農耕民がインド・ヨーロッパ語族をもたらしたとする仮説と整合的ではない、と本論文は指摘します。本論文はサイエンス論文と同様に、アジア南部にインド・ヨーロッパ語族をもたらしたのは紀元前二千年紀に到来した草原地帯牧畜民系統集団だろう、と推測します。本論文は、I6113に代表されるインダス文化集団がインダス文化全体の遺伝的構成に共通している可能性を主張しつつも、まだ標本が少なく、今後広範囲で標本数を蓄積していき、定量的に分析していく必要がある、と指摘しています。サイエンス論文とセル論文の著者の一人でもあるパターソン(Nick Patterson)氏は、インダス文化集団は遺伝的にたいへん多様だっただろう、と推測しています。


参考文献:
Narasimhan VM. et al.(2019): The formation of human populations in South and Central Asia. Science, 365, 6457, eaat7487.
https://doi.org/10.1126/science.aat7487

Shinde V. et al.(2019): An Ancient Harappan Genome Lacks Ancestry from Steppe Pastoralists or Iranian Farmers. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2019.08.048

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_23.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/993.html#c1

[近代史3] インダス文明を導いた人々の祖先は古代イラン人、古代イラン人の祖先はトルコの北東部に住んでいた民族 中川隆
3. 中川隆[-12083] koaQ7Jey 2020年7月19日 11:32:24 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[8]
2020年07月19日
インダス文化に関するまとめ
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_22.html

 当ブログのインダス文化に関する記事を短くまとめます。インダス文化はメソポタミアやエジプトといった年代の重なる他地域の古代文字文化と比較して、謎めいた印象を持たれているように思いますが、それはインダス文字(インダス文化の印章記号)がまだ解明されていないからなのでしょう。インダス文字で書かれた文書の文字配列の統計的構造を、シュメール語や古代タミル語やリグ・ヴェーダのサンスクリット語といった他の言語体系、人間のDNAや細菌の蛋白質配列といった非言語体系、人工の言語体系と比較した研究では、インダス文字は言語体系と酷似しており、非言語体系とは似ていない、と指摘されています(関連記事)。ただ、この研究により文字の意味的理解が進んだわけではなく、インダス文字の解読には、インダス文字と他の解読済の文字の併記された文書の発見が必要となるでしょう。

 インダス文化は、メソポタミア・エジプト・黄河・長江といった他の古代文化とともに、大河文化と定義されてきました。しかし近年では、インダス文化は他の大河文化とは大きく異なる性格を有する、との認識が浸透しつつあるように思います。従来の通俗的なインダス文化像の見直しを強く主張するのが、長田俊樹『インダス文明の謎 古代文明神話を見直す』です(関連記事)。同書は、メソポタミア文化やエジプト文化をモデルに構築された古典的なインダス文化像を徹底的に批判します。つまり、王のような専制権力の存在・活発な軍事活動・大河に依存した灌漑農耕・奴隷制社会を特徴とする文化像です。また同書は、モヘンジョダロとハラッパーに偏ったインダス文化像の構築も批判します。

 さらに同書は、インダス文化は大河文化ではない、と指摘します。現在は乾燥地帯にある遺跡の側をかつて大河が流れていた、という説は今では否定されているそうです。また同書は、植物遺存体の分析から、インダス文化において大河に依存した灌漑農耕の比重は必ずしも高くなく、多様な作物が栽培されていた、と指摘します。同書が提示する新たなインダス文化像は、牧畜民も含む流動性の高い人々により各都市が密接に結びつき、ヒトだけではなくモノも活発に動いた多民族・多言語共生社会だった、というものです。また同書は、インダス文化期には現代よりも海水面が高かったので、南部の都市は海に面しており、オマーンやバーレーンやメソポタミア方面とも交易していた、とも強調します。同書刊行後の研究でも、インダス文化の多くの都市が、大河から離れて反映していた、と指摘されています(関連記事)。

 インダス文化の担い手については確定していませんが、ドラヴィダ系住民との見解が有力だと思います。しかし、アジア中央部考古学専攻の研究者の中には、インダス文化の担い手を「アーリア系」と考える人もいます(関連記事)。この問題は、アジア南部における古代DNA研究の進展(関連記事)により明らかになりつつあります。インダス文化最大級の都市となるラーキーガリー(Rakhigarhi)遺跡で発見された1個体(I6113)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はU2b2で、アジア中央部の古代人では現時点で確認されていません。

 I6113は核DNA解析では、紀元前2500〜紀元前2000年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化遺跡と紀元前3300〜紀元前2000年頃のイラン東部遺跡で確認された11人と類似しており、アジア南部現代人集団の変異内には収まりません。これはインダス川流域集団と呼ばれており、その遺伝的構成は、イラン関連系統およびシベリア西部狩猟採集民(WSHG)関連系統の混合系統(50〜89%)と、アンダマン諸島狩猟採集民(AHG)関連系統(11〜50%)の混合です。イラン関連系統とAHG関連系統との混合が紀元前5400〜紀元前3700年頃に起きたと推定されていることからも、インダス川流域集団はインダス文化の担い手と考えられます。インダス川流域集団にはアナトリア新石器時代農耕民関連系統が検出されず、イランからアジア南部への人類集団の移住は、イランにおける農耕開始前だったと推測されます。

 アジア南部のインド・ヨーロッパ語族はユーラシア中央草原地帯、より具体的にはポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)起源と考えられますが、インダス川流域集団のゲノムにはユーラシア中央草原地帯関連系統が見られないので、インダス文化の担い手はインド・ヨーロッパ語族ではなかった、と推測されます。インダス川流域集団と古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が紀元前2000年以後に混合して祖型南インド人(ASI)が形成され、紀元前2000〜紀元前1000年の間に、ユーラシア中央草原地帯系統がアジア南部へと拡大し、インダス川流域集団と混合して祖型北インド人(ANI)が形成されました。アジア南部現代人は遺伝的に、ASIとANIの地理的勾配として表されます(関連記事)。

 アジア南部で2番目に大きな言語集団であるドラヴィダ語族の起源に関しては、ASI系統との強い相関が見られることから、インダス文化衰退後に形成されたASIに起源があり、インダス文化集団により先ドラヴィダ語が話されていた、と推測されます。これは、インダス文字がドラヴィダ語を表している、との見解と整合的です。また、先ドラヴィダ語がインダス川流域集団ではなくインド南部および東部起源である可能性も想定されます。この仮説は、インド特有の動植物の先ドラヴィダ語復元の研究と整合的です。これらの知見から、インダス文化の担い手の言語は先ドラヴィダ語と考えられます。ただ、インダス文化は広範な地域に分布しており、その担い手の遺伝的構成は多様だった可能性が高そうです。とはいえ、アジア南部にインド・ヨーロッパ語族をもたらしたと考えられ、アジア南部現代人のゲノムに大きな影響を残しているユーラシア中央草原地帯関連系統は、基本的に欠けていたでしょう。おそらくインダス文化の担い手の多くの遺伝的構成は、イラン関連系統とAHG関連系統の割合が多様だったのではないか、と推測されます。

https://sicambre.at.webry.info/202007/article_22.html  


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/611.html#c3

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
584. 2020年7月19日 11:41:54 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[9]
森永卓郎「東京を捨て田舎暮らしを選んだ理由」 人生観に応じて住みたいところに住めばいい
森永 卓郎 2020/07/19

経済アナリストの森永卓郎氏はなぜ「埼玉の田舎」で暮らすことを選んだのか?


コロナ禍によりテレワーク満喫している。なぜ、都会を捨て、郊外で暮らすようになったのか。その理由は意外なものだった。新書『年収200万円でもたのしく暮らせます コロナ恐慌を生き抜く経済学』から一部抜粋・再構成してお届けする。


じつは、私は30年以上前からが普及し、都心ではなく田舎でリモート勤務するビジネスパーソンが増えているという。また、都市一極集中を問題視する声も多く、今後企業の地方進出も活発になるかもしれない。経済アナリストの森永卓郎氏は以前から、埼玉県所沢市に住み、「トカイナカ」暮らしを都心から1時間半もかかる都会と田舎の中間に存在する「トカイナカ」で生活しており、そこから都心に出稼ぎに出ています。

東京と比べれば、自然も豊かで、人の密集もはるかに少ない。近隣の農家が作った農産物を直接買うこともできます。私自身、畑を借りて、野菜作りもしています。こうしたトカイナカこそ、年収200万円時代でも豊かに暮らすのにふさわしい「理想郷」なのです。

限界を迎えつつある「東京一極集中」
私が考える新しい時代における理想的な社会のあり方とは、グローバル資本主義の基本理念である大規模・集中を捨て、「小規模・分散」に転換することです。

これまで東京一極集中が進んできたのは、農林業の市場開放によって木材や農産物の価格が下落し、農業だけで生活できなくなったからです。さらに工場が海外移転して、地方での雇用の場が失われてきたからと言ってよいでしょう。

現代社会では社会保険料や電気代などの支払いのため、ある程度の現金収入が必要になります。ところが、農業だけではそれが賄えなくなり、若い人を中心に故郷を捨て東京へと向かう動きが顕著になりました。

一方、政府がとってきた政策は、農業の担い手に農地を集約して農業基盤を整備し、農家の所得を高めることでした。そうすれば、農業だけで生活できるだろうという考え方です。しかし、それだけでは、確実に国土が荒廃します。

これまでの日本の小規模農業は、里山との共存の下で行われてきました。山に入り自然の恵みを得るとともに、干ばつをして、木材を育て、炭を焼いたりして現金収入を得てきたのです。こうして、日本の山を守り、環境を守ってきました。その伝統的習慣が失われてしまうのです。

さらに、利益の最大化を目的とした大規模農業では、食の安全を守れる保証がありません。現にアメリカでは植物を軒並み枯れさせてしまう非選択性の除草剤を散布し、その除草剤に耐性のある遺伝子組み換え作物を育てています。多くの国民が知らず知らずのうちに口にしている可能性があるのです。日本の大規模農家も、効率最優先の農業をいっそう推進すれば、そうならないという保証はありません。

消費者も考え方を改める必要があります。インド建国の父、マハトマ・ガンディーが唱えた「近隣の原理」です。近くの人が作った食べ物を食べ、近くの人が作った服を着て、近くの大工さんが作った家に住む――そうした小さな経済の輪が、グローバル資本主義からの防御壁となります。いわば「地産地消」の考え方です。

ただ、グローバル資本主義を完全に否定することは、現実問題として無理でしょう。明日から全国民が地方に移り住み、農業に従事できるとは思えません。一時的にすべての経済活動がストップしてしまいます。

現実的な解決策は、従来の日本の兼業農家を守るとともに、多くの国民が「自分の食べ物は自分で作る」というマイクロ農業を普及させることなのです。

「都心は人の住むところではない」
トカイナカにいても、これまでどおりの仕事はできます。パソコンがあれば、オンラインで会議や打ち合わせは可能です。

私の場合、テレビの収録などは早朝や深夜に及ぶことが多いため、どうしても東京に宿泊施設が必要です。そこで2007年から都心の小さなマンションを借り事務所にして、家に戻れないときは、事務所のソファで寝泊まりをしています。もちろん、電車があるときは、家に戻ります。

13年にわたる都心とトカイナカのパラレル生活を経験した結果、「都心は人の住むところではない」という考えに至りました。

例えば朝、所沢では鳥のさえずりで目が覚めますが、都心ではパトカーのサイレンとか、バイクの爆音で起きます。それが1日ぐらいであれば「仕方ないかな」と思うのですが、年がら年中となるとまったく話が変わってきます。

都心の地価のバブルは間もなく崩壊すると拙著『年収200万円でもたのしく暮らせます コロナ恐慌を生き抜く経済学』でも書きましたが、いまはそのピークの状態にあると考えられるでしょう。アパートでも3畳一間で8万円などという、信じがたいほど高い賃料が設定されています。

その狭い中で暮らそうと思うなら、「断捨離」しかありません。徹底的に物を排除する。テレビやパソコン、冷蔵庫すらない人もいます。そういう人に「どうやって生きていくの?」と聞くと、「コンビニがある」と答えるわけです。

目の前のコンビニエンスストアで必要な物を買えば、冷蔵庫は必要ないという考えです。しかし、そのような暮らしは食費を必要以上に高いものにするし、地震などのリスクに対してあまりに脆弱と言えます。

食品は腐るため買いだめができず、生活用品を大量に買うとストックする場所がありません。そのため、コロナ禍のような緊急事態になると、スーパーに殺到。商品の奪い合いが始まり、生活が回らなくなってしまいます。

災害にも強いトカイナカ
都会に比べると、トカイナカは災害のリスクに強いのが特長です。東日本大震災のときも、私の家族はほとんど困りませんでした。普段から家の中に物が山のように積んであるし、食料も1カ月もつぐらいのストックはあります。

私は自分で畑もやっていますし、家の周りは畑だらけなので、スーパーに買いに行かなくても、旬の野菜が農家の「直売所」で買えます。ケージのようなものが置いてあり、そこに100円を入れて持って帰る方式です。

コロナ禍では、ニューヨークで野菜が買えなくなりパニックになりました。ところが私のところは野菜がなくなることはありえません。近所の畑だけではなく、わが家の庭にも畑にも、野菜が植えてあるからです。

テリー伊藤さんが、東京大空襲を経験した女性から聞いた話を教えてくれました。東京が火の海になって食べるものがなく、女性はずっと北に向かって歩いていったそうです。ようやく食べ物を手にできたのは、埼玉県に入ってからだったそうです。都会と所沢の違いを象徴する話です。

私が住む所沢市は人口約34万人、と決して小さな市ではありません。人口の規模では高槻市(大阪府)、大津市(滋賀県)、旭川市(北海道)、高知市(高知県)などと同程度。

そのため、所沢駅周辺は都内と遜色のないにぎやかさですが、駅から20分程度の距離になると風景は一変し、田園風景が広がります。私の場合、駅に出るときは家内に自動車で送ってもらいますが、信号の引っかかり方次第ですが5、6分で到着します。

その程度の距離で、それほど田舎になるのかと驚かれる方もいることでしょう。しかし、現在の住宅市場では当たり前のことです。需要があるのは、駅から徒歩10分以内の物件。わが家は歩けば、おそらく17〜18分だと思います。わが家よりもさらに離れると、劇的に安くなります。一戸建てがキャッシュで買えます。

都心の生活に慣れてしまうと、駅やスーパーが近くないと不便に感じてしまうかもしれませんが、マイカーを利用すれば駅の近くに住む必要はありません。

また、都会を離れるほど、ガソリンが安くなります。私の事務所がある都内のガソリンスタンドは、リッター150円台の看板が出ていますが、埼玉では1リッター当たり20円以上安いです。埼玉は東京に比べて地価が安く、また、幹線道路も多くあるためにガソリンスタンドの激戦区で、値下げ競争になりがちという事情もあるのでしょう。

都会での生活では、駐車場コストが問題になります。私が住む場所では、借りれば月に6000円から7000円です。都心の仕事場にしているマンションの駐車場は4万3000円ですが、所沢ならアパートが借りられる金額です。この点だけをとっても、都心は住むのに適した場所ではないと感じます。

家と山が800万円で手に入る
さらに都心から離れたイナカに行けば、地価は0円に近くなると言っても過言ではありません。例えば地方の中山間地域に行くと、畑が1ヘクタールぐらい、家があって、山がついて800万円程度です。1000万円台はほとんどないと思います。少し頑張ってお金を貯めていれば、キャッシュで買える価格です。

もちろん、田舎はユートピアではありません。近隣にコンビニやカラオケがなく、夜になると真っ暗になる。現金収入を得るための生業のほかに、祭祀事や町内会の集まり、清掃活動など共同体を支えるための仕事を分担するなど、それなりの苦労があります。時として近所の人が生活エリアに入ってくることもあります。東京の生活に慣れた人には人間関係が濃厚すぎると感じるでしょう。

その人の人生観に応じ、東京や大阪から適切な距離をとるのがいちばんよいと思います。私の場合、その距離が所沢というトカイナカだったわけです。

若い人であれば、トカイナカではなく、完全な田舎にチャレンジしてもよいと思います。自治体が移住のための助成金を支給するところがありますし、一定期間住む条件で家を提供してくれるところもあります。

実際に移住したビジネスパーソンも少なくありません。「自給自足」を実践するとともに、スタートアップ(起業)や、近隣の企業で働くなどして生活資金を稼いでいます。思い切って新天地に飛び込むのも1つの選択肢ではないでしょうか。

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e6%a3%ae%e6%b0%b8%e5%8d%93%e9%83%8e-%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e3%82%92%e6%8d%a8%e3%81%a6%e7%94%b0%e8%88%8e%e6%9a%ae%e3%82%89%e3%81%97%e3%82%92%e9%81%b8%e3%82%93%e3%81%a0%e7%90%86%e7%94%b1-%e4%ba%ba%e7%94%9f%e8%a6%b3%e3%81%ab%e5%bf%9c%e3%81%98%e3%81%a6%e4%bd%8f%e3%81%bf%e3%81%9f%e3%81%84%e3%81%a8%e3%81%93%e3%82%8d%e3%81%ab%e4%bd%8f%e3%82%81%e3%81%b0%e3%81%84%e3%81%84/ar-BB16UxR7?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c584

[近代史4] 新型コロナウイルスはデザイナーズウィルス、免疫細胞を無効化することが判明 中川隆
60. 2020年7月19日 18:27:44 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[10]
特番『河添恵子さんに訊く!隠蔽されたコロナの正体とは!?』ゲスト:ノンフィクション作家 河添恵子氏
2020/07/19






http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/768.html#c60
[近代史4] 河添恵子 : 習政権が必死に隠している武漢コロナ・ウイルスの発生源 中川隆
33. 中川隆[-12082] koaQ7Jey 2020年7月19日 18:29:04 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[11]
特番『河添恵子さんに訊く!隠蔽されたコロナの正体とは!?』ゲスト:ノンフィクション作家 河添恵子氏
2020/07/19






http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/602.html#c33
[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 豊川悦司・芦田愛菜 ビューティフルレイン(フジテレビ 2012) 中川隆
6. 2020年7月19日 20:01:38 : 4QXwIIK7dY : Z3YxRFBjTld1RTY=[12]
ビューティフルレイン 第08話「親なのに、離れる。親だから、離れる」




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/991.html#c6

   

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