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マルチチュードについて私の理解するところ
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投稿者 こいけ 日時 2004 年 10 月 15 日 13:49:31:.czHagD0Wg4eY
 

(回答先: 主体について 投稿者 マオ 日時 2004 年 10 月 14 日 19:20:29)

を述べてみます。

近代という時代がおわり、世界は国民国家の集合という形で表す事ができなくなり、「帝国」が姿を現し始めた。
(もちろん「米帝粉砕!!」のころの帝国ではなく、アメリカはそのなかで重要な位置を占めるものの、それを「アメリカ帝国」と定義する事は出来ないが。)
かって国民国家の主権者として位置づけられた国民、人民、民衆などというくくり方で定義づけられない、「帝国」の居留民。潜勢態から可能態へ、いままさに現実態へと移り変わりつつある新しい人間像。

これがマルチチュードである。 のだと思います。

〈帝国〉を読むまえに「構成的権力」を読んでおくほうが理解しやすいとおもいます。
以下長文ですが、私の要約を貼っておきます。個人的な備忘録のようなものなので飛ばし読みして下さい。

「構成的権力」ノート

1)構成的権力 ― 危機の概念

国家の権力を組織する根本的規範を指示する権力。
政治という概念そのものと同一化する傾向にある。
無から出現すると同時に、法のすべてを組織する権力。
全能的権力としての構成的権力(pouvoir constituant)は、革命そのものに他ならない。
システムの生命力が噴出する源泉。
チェックアンドバランスの立憲主義的思想にまぎれもなく対立する権力。
民主主義的意志のラディカルな表現のしるし。
民主主義的な思想と実践の母体。
過去は現在を説明することはできず、現在を説明するのは未来であるという思想。
構成するというのは維持するということのまさに反対のことなのである。
最も絶望的で最も容赦のない否定ほど構成的権力に似ているものはないという発見・・・
自らを制度化しようとするのではなく、倫理的存在、社会的存在、共同体といったように人間の存在に何かを付け加えようとするもの。
法の内的な源泉、法の改正や憲法の刷新のダイナミズムと混同されてはならない。
近代性の限界の彼方へ
その概念の理解のための唯一の道は、我々自身の欲望をそれを支える千の地層化を通して理解するという道をおいて他にない。

国民国家の概念に組み込まれ、代表制機械の中に吸収されることによって切り縮められ、窒息させられる。
代表制とは、民主主義的な刷新に対立する伝統的な覇権を復活するもの。

法学(法的秩序)が構成的権力に押し付けようとする関係は、常に無力化、ごまかし、あるいは意味の剥奪といった方向に向かう。

真理に適応するために、何らかの解決を求めるのが重要な問題なのではなくて、その概念(構成的権力)の危機的性格をよく見極めて、あらゆる解決の仕方に潜む肯定できない中身、その解決を受け入れない本質といったものを把握すること。

構成的権力⇔構成された権力(主権)
基盤⇔頂上
目的のないもの⇔実現された目的
絶対的な手続き⇔形式的構成
民主主義的政府の概念⇔全体主義的概念
力の表現⇔権力の制度
生きた労働⇔死せる労働
「全体が部分に及ぼす作用、部分の全体の中における作用を説明するような因果律」を考え「閉ざされることのない全体。」という発想の証人となっている。スピノザ

革命を、「人間を取り巻く環境世界全体に働きかける文化的活動」とみなした。カント

その(構成の概念を絶対的手続きとして適合的に支えることができる)主体とは?
≠国民、民衆。
=構成的軌道を持った生産の力。いっさいの事前的決定から外れた時間。特異的な構成。
ここにおいて、政治は、自己産出的、集合的、非目的論的な生産となる。


2)「力量」と運 ― マキアヴェリ的パラダイム

力量(ヴィルトゥ)と「運」は時間を支配する明確な二つの装置として、時間によって律動を与えられる主観性の建造物として定義されるようになる。

力量は世界を構築し、同時にその固有の限界をも作り出す。・・・こうした状況の現実性は、その解決不可能な性質に他ならない。 ― 政治にはいかなる種類の解決も存在しないのである。

力量は、生に対立しながら強化される伝統や権力を徐々に破壊する能力を備えた生きた働きである。

力量は有効性として組織されるのであり、受動的な必要性あるいは衰弱した客観性としてではなくて、集合的理性(集合的身体)の企図として組織されるのである。

力量は、それが欲望と愛であり、非常に高次の自然的本能かつ倫理的条件、そしてまた合理性でもあるということがない限り、建設的な情念ではあり得ない。

力量、都市と多数者(マルチチュード)との統合の産出装置、また合理性、合理的再構成の母体。

ひとえにラディカルな民主主義だけが(そこでは絶対的な権力が多数者の中にそうした民主主義を具現することのできる絶対的主体を見いだす。)力量を全面的に展開することができるだろう。

力量は存在を構築するが、その存在は自らのうちに閉ざされることのない存在である。これこそまさに民主主義の原理そのものではないか。
力量は我々の自由の領土である。そしてそれは民衆が君主になり、構成的権力という絶対性が多数者によって具現されるにいたるまで、我々の自由の領土であり続けるのである。

唯一の問題 ― 力量と運を再統合し、構成的権力をその全ラディカル性において多数者のために作動させることができるかどうか。
起源の強度に達した力の地平の中で、まさに虚空から言語的表現が出現する地点において、我々が芸術と自然を下から統合することができるかどうか。そしてそこから我々が、系統的・建設的な力を潜在的に立ち上がらせることができるかどうか。


政治とは、緊張の蓄積であり、爆発への期待であり、既成秩序や、うち固められた諸々の調和の破断へと向けられた強力な、多元的決定の力が存在者の中に出現することである。

“腐敗した国家の中で、自由な統治というものは、もしそれが既に存在していたとすればいかにして保持し、また、それ以前に存在していなかったとすれば、どのようにしてそれを導入すればよいのだろうか。” マキアヴェリ「共和国論」

歴史は受動的なものではない、。歴史的時間は、空虚で自殺的な反復を宣告された時間ではないのである。それは逆に、再構築と創造の時間に他ならないのである。

“民衆は君主よりも失敗を犯しにくく、かくして彼等に君主よりも多くのことをゆだねることができると私は考える” マキアヴェリ「政略論」

“人間は絶対にあきらめてしまってはならない、なぜなら、人間は己の目的を知らないからであり、運ははっきりしない曖昧な回り道を通って働きかけるものであるのだから、人間はいかなる苦境にあっても、希望を持ち続ける理由、従ってあきらめない理由を常に持っているからである。” マキアヴェリ「政略論」

“人間が運の意図に逆らうことを運が望まない時、運は人間の視野を閉ざす。”
しかし、人はヒロイズムを実行しながら、同時にまた常に物事を透徹した目で見すえることもできるのだ。

ルネッサンスとは何であったか?それは自由の、生産の、建設し発明する行為の力量の、蓄積の可能性と能力の、再発見であった。しかし蓄積を通して富が構築され、定着した富が力量に対立することになった。このような力量の発展の退廃とその弁証法に抵抗する唯一の可能性は、この過程に対立する能力を持った(富の蓄積ではなくて、力量の蓄積を定着させようとする)集合的主体の創設である。

自由はそれ自体が原理でない限り、つまり作動する構成的権力でない限り、開放的でも建設的でもあり得ないし、恐怖政治にも、腐敗にも、教会にも運にも対抗することができない。

構成的原理−構成的権力

歴史的領野に統一性を付与したり、物事の秩序に意味付けする。
物事の秩序の基盤には行動と紛争があり、この紛争が歴史的過程に意味を付与する
存在はあまねく行き渡った分離によって組織される人間的実践によって構成される。
構成的原理が発見され組織されるのは分離を通してなのである。
断絶の方が統合よりも現実的なのである。構成的権力は絶対に瞬間的にしか(混乱、蜂起、君主といったものによって)実現され得ない。
構成的原理はそれにふさわしい主体との関係の中においてしか構成的権力にならない。
絶対的で避けて通ることのできないもの−マキアヴェリに見いだされたその最初の定義。


3)大西洋モデルと反権力思想

マキアヴェリのテキストの受容

国家はそもそも民主的に成り立ったということの絶対性、「不和」・「騒乱」・闘争の原理が持つ絶対的な力、これを認めるかどうか。

フィレンツェ
フィレンツェ・モデル(マキアヴェリの解釈)はブルジョア革命の目的、その危機、および危機を乗り越えるその能力を先取りした原型なのである。

古い世界は崩壊していると見る明晰な意識と新しい世界を構築しようとする予言的な意志との対立があったのである。

フランス
マキアヴェリはトータルに拒否された 。

イギリス(ジェームズ・ハリントン=共和国市民、マキアヴェリ主義思想家)
構成された権力に対する批判の仕方、社会階級分析の仕方、人民の軍を構成的権力と見る考え方とその実践を教える手引きとして 。
力量は改革、革命、自由な活動によって中軸化し、武装した民衆という形で具現する。

共和国とは
「単一者、少数者、多数者の三権力=徳性の混淆ないし均衡」でしかありえない。
物質的な基盤の上に立つ自由のシステムである。
新しく定義されたプロテスタント・マキアヴェリズム
どれほど完全なものであれ政治体制は必ず分裂し再構成されるといい、闘争をその物質
的で必然的な鍵とみなしたのはマキアヴェリである。

国家の腐敗とその宿命的な循環性 − 運命の災禍、その粗暴さを打破するために新しい構成的権力が出現する。それはオープンな力であり、永久に解放されたシステムである。

腐敗が力量に勝つのは、近代的な所有関係が自然の平等性を打ち崩し、それを基盤にして権威の関係が歪んだ仕方で強化され、多数者の参加とその運動に反する形で定着し、恒久化されるからである

近代の思想は循環ではなく革新を本領とする全体性の上に構築される。
条件の欠如が構成的権力の基盤である。 断絶こそが発展の法則である。

蓄積とか腐敗を権力分配の要とするような体制を自由な体制と呼べるはずもない。

ハリントン − 反権力としての構成的権力

17世紀イギリスにおける資本主義生成の一面を示す、利潤の最大化とそのための政治的条件の追求を関心事とする彼等(レン、ホッブス)との対立。− 近代性の内部で、且つ資本主義の是認に反対して。

古代の知恵(人間でなく法の支配)− 混合政府(単一者、少数者、多数者)− 農地配分法(土地所有の社会主義的再分配)

思考から存在へ、哲学から政治へ、個人的機能から集合的機能へと移った存在論的で構成的なファンシー[fancy]とイマジネーションは、構成的権力以外の何ものでもない。

“政府の統一性はいかなる個人も意志を持たないという形態からなる。意志を持てば権力は腐敗する。”

マキアベリからマルクスへとつながる道。 − 近代の政治哲学の呪われた道。

暴力は存在の剥奪であり、絶対的にネガティブな権力の形態である。逆に、何ものかを形成する過程は存在の増大を決定付ける。


4)アメリカ憲法における政治的解放

構成的権力の地平をなし、国の形のパースペクティブをなすのは、もはや時間のコントロールではなく、空間の拡大である。
この空間、新しい現実、拡大の概念、不屈の意志とは何か。
空間はアメリカ的な自由、すなわち所有者の自由を構成する地平なのである。

「原則への回帰」 − 正当な課税と正当な代表という原則、これが反抗の神髄であった。

革命闘争の組織は単に利害得失に根ざすものではない。 − それは人間の変化に道を開くのだ。人間の内面世界、創造する能力、力の意志を変化させるものなのだ。
今や力量そのものが無尽蔵のフロンティアとして立ち現れる。・・・それは思い出を破壊し、新しい組織と新しい秩序を創造する。

権利は憲法に先行し、人民の自治はその形式化以前に存在するのである。

アメリカの構成的権力の新しさ − 社会革命の伝統的な概念の代理か − 何かしらが政治革命を経由して、国土の外縁を権力や社会的自由が拡大しうる場に変えると見ること。
これは破壊的な結果をもたらす幻想か、しかしその有効性の巨大なこと。

アメリカの構成的権力があらゆる憲法に先立って創設する一つの権利 − 自由な人間たちの新しい社会を構成する権力。

[・・・]

アメリカにおける憲法制定という出来事 − ブルジョア社会の政治的解放を生み出すために巨大な努力が矛盾の激化を伴いつつ費やされたことによる − 危機。

合憲性と主体性という二つの柱の整合性についての疑問。

“軍事的な気風と民主的な気風との間には隠れた関係があり、それは戦争によって発見される。” トックヴィル

領有から生まれ、多数者の中に広がり、潜在的に平等に通じる自由、そうした自由の強さ


5)革命と労働の構成(フランス革命)

革命の時間はひとつの絶対である − マキアヴェリのいう力の意志の絶対であり、それは始源において構築される。

階級闘争はフランス革命の源ではなく、その結果なのだ。

主権の肩書きと主権の行為、人民階級はこの分離を拒否したのである。

フランス革命を終える時、時間を開くのは永続革命と共産主義革命を意味し、時間を閉じるのは自由主義、あるいは反動を意味する。

ヘーゲルは一つの結果だ。構成的権力を歴史進化の原理に変えることを目指す短期間の、しかしきわめて密度の濃い作業の結果である。 ― 構成的権力の包摂というパラダイム。

権力とは時間的なもの、多数の時間性を総合する活動だとみなしてこれを人間化し、主権の概念を作り直す。・・・権力の多数の機能を統一し、融合し、発展させることが、今では多数者の手にゆだねられる。時間制は逆転する。

労働の社会的秩序が構成される長期の次元と、革命の時間の短期の次元、この両面において時間をつかまえている、 トックヴィル。

革命が労働の構成を目的とする時、革命は到達不能のものであることが示される。・・・
以後は永遠に「革命を終える」事は不可能となる


6)共産主義の欲望と弁証法の復興

構成的権力を社会全体に浸透する力として構築するのは、近代資本主義である。
近代的な産業の力がそれを市場の当事者と社会全体に分配して、その双方を主役にするとともに、集合的資本を世界の構成のラディカルで荒々しい不断の過程のリュクルゴス[スパルタの伝説的立法者]に仕立て上げる。

資本のもとへの社会の包摂の不断の過程。

マルクス的な構成的権力の概念
権力と協業のダイナミックな関係であり、必然と自由の統合として姿を現し、力と契約、支配と合意、刷新と協業、覇権と革命といった概念が実際にぶつかり合い、近代にとってかわるオルタナティブを提示する地点そのものとして登場する。

近代社会が形成されるダイナミックな始源的状態である蓄積の過程で暴力と協業が相互にかつ交互に関係しあうという事実。

一連の準備的労働によって構成されながら、結局自由な展開が可能になるといった ― ひとつの生産的共同体 ― 構成的権力の表現のモデル。

共産主義とは ― ある解放であり、ラディカルな実践的行為であり、それは自由を欲望と、欲望を社会性と、社会性を平等性と結合するもの。

1917年7月以降 ― 蓄積を押し進めて、社会的生産を管理することができるような再統合された労働者階級の存在を物質的に可能にしなければならない。 状況。

今日、企業との関係の必然性から解放されているような構成的権力の働きは一つとして想像することは出来ない。

資本主義的計画化の編み目の中に共産主義と力の要求が組み込まれるという可能性を構成的権力がある意味で破壊してしまった。・・・評議会主義は新たな予期せざる今日性を見いだす・・・管理関係を実質的に内化しなければならないという資本主義の必要性、・・
・均衡のとれた労働国家を樹立しうるという可能性。
レーニンは、企業規則とその批判を構成的権力の概念を構成する諸要素の複雑性の中に組み入れ、生産規則と民主主義の規則の総合をはかりながら、構成的権力の定義の西欧的歴史に終止符を打つ・・・生きた労働の構成的性格は、社会主義の中でも資本主義の中でも同様に企業規則の基盤として認識されなければならないものである。・・・この同じ構成的権力が…ポスト産業的な国家の現代的進化の中において要請され継承されるという事態が生じる。

マルクスとレーニン以後においては・・・解放は構成的権力なのである。…構成的権力は創設の強度であり、歴史の創設であり、世界の創設でもある。社会主義と手をたずさえて、企業と近代的な生産性の概念を新たな世界のラディカルな構成の計画そのものの中に吸収しながら再び三たび出現するのである。


7)力の構成


構成的権力は一つの主体である。

構成的権力の概念の歴史的持続性
第一のものは、ルネサンスの革命的原理の拡張と進化からの線的持続性 ― 資本主義の誕生と発展、資本主義によって社会に強制された組織形態といったものによってあらわになった権力の危機(社会の生産的力と国家の正当化との関係の危機)に対応し権力の合理化の必要性から登場したもの。
第二のものは、蓄積の持続ではなく、経路の持続であり、客観的形状の持続ではなく主体的な行動の持続である。それはスピノザがマルチチュードを構成する情念と呼んだものの持続である。(形而上学的、政治学的発展)歴史的発展の持続的断絶の持続性、集団的欲望やマルチチュードの表現を構成する力の永続的な再確立の持続性。

政治的なものの構成の緯糸は、社会的構成の決定力としての欲望の拡張の抗いがたい進歩によって支えられる。

民主主義的な生きた神。マルチチュードの力、構成的欲望の様々な段階、そしてこういった諸過程の濃密性や複雑性が結合と愛へと転化すること。

構成的権力は現実の中に潜り込み、戦争のなかや危機の中に潜り込むのであるが、これこそが世界の神性なのである。

創造的力は現代世界において「生産力」と呼ばれるものと同じほど具体的なものになり、そのことによって世界の二番目の相貌、完全に人工的な巨大な「第二の自然」を構築する。マルクスはマキアヴェリが新しい人間の特権と感じ取ったこの創造的緊張、そしてスピノザが欲望の絶対的力として形而上学的に描き出したこの創造的緊張を表現する。
彼はそれを現実態の客観化として、そして新しい世界の可能性として表現するのである。

民主主義へ向かっての構成的権力の緊張は、・・・創造の行為そのものであり、・・・絶対性の諸条件を具現化するのである。この絶対性は・・・人間が統治せんとする第二の自然なのであり、・・・我々を条件づける客体ではなくて、我々が全員で構築した集合的主体だからである。

構成的権力の限界
ユダヤ−キリスト教的な創造のヴィジョン
ある種の目的論的世界観、神学的な統一の影、神性を否定しながらもなお引きずり続けるあの統一性の誘惑、構成的権力は創造性を唯一の性質とするのではなくて、全方位的変移性という性質を持ってもいる。

社会とその基盤についての自然法主義的概念
それは単に一つの教義ではなくて、同時にその中で一連の意味や意義の決定が追求される一つの枠組みなのである。そして時には、それはその中に近代的合理性が閉じ込められるまぎれもない檻である。

超越論的観念論の伝統における力の無力化
ルソーからヘーゲルへとのびる理論的な線。
超越論的形式主義の場合、この理論は対象についての思考の可能性の諸条件に介入する。
カント的な形式主義は、・・・力とマルチチュードのの絆の問題域を破壊し、そこに政治的なものに対する倫理的なものの優位性の相貌を決定的に付与し、構成的権力を個人的な志向性の虚空の中に隔離してしまう。

構成的権力は、こうした限界を超えて、力として生き続け、マルチチュードとして自らを再組織化し続けることによって、未来に開かれた時間的次元のパラダイムとして現出する。

脱ユートピアの政治形態としての構成的権力の歴史哲学 ― それは厳密にいうと歴史の「非」ー哲学である。なぜなら、歴史的現実を構成する過程は、直接性に満ちあふれた予見不可能な断続的過程であり、ひとえに抵抗や拒絶や否定性だけが結びあわせることができ、しかるべき形を与えることができるような正真正銘の矛盾の織物だからである。

スピノザの構成的脱ユートピア
マルチチュードー力の関係の脱ユートピア化は愛の作用によって強化される集合的行為であり、人間の協業的な本質であり、実存者が絶対的なものへ向かってその限界を超えていく行動的な経験でもある。・・・必然と自由の断裂が存在論の中に挿入されていること、そしてその断裂が存在論を規定し、その存在論から永続性や前進的豊富化、刷新の力といったものが説明されている。

断絶としての、そして構成された権力にとってかわるものとしてのこの構成的主体の立場は、近代的合理性とそれに対応する主体性の通常の定義を超えた主体性とその合理性の立場を伴うものである。

近代性とは

個人的、集団的創造性を公に認めながらそれを世界の資本主義的生産様式の道具的合理性の中におき直そうという全体主義的思想の規定と発展の過程。
デカルトによって発案され、ヘーゲルによって完成された観念論的弁証法。
政治的なものをMudの乗り越えとして、そして権力を力の完遂として提起する。
マルチチュードが主体性として自己表現するあらゆる可能性を否定するもの。
Mudの力を政治的に否定し、社会的にはひたすら肯定する、社会的なものを政治的なものから切り離すことを任務とする社会学・経済学。
Mudへの恐れとしての近代性。

マルクスの主題
生きた労働の全方位−拡張的な創造性。
主体の建設 ― 主体は力の持続的な揺れであり、力が世界になりうるための実効的な可能性の持続的な形状化である。・・・主体は、それが造形しなおしながら−そして自らをも造型しなおしながら−作り出す世界を通して、それ自体として変容し続けもする。この過程の中で生きた労働は構成的権力になる。・・・そこにはもはや弁証法もなければ道具的理性もない。なぜならそこにはもはや究極目標がないからであり、・・また乗り越えというものもない。・・・ひとえに構成的権力だけが、そして意志の機能する定められた次元と闘争だけが、存在の行方を決定する。

構成的権力は存在を創造する力、言い換えれば現実、価値、制度、そして現実の製序といったものの具体的な相貌を創造する力、社会的なものと政治的なものを同一視し、それらを存在論的絆の中に結び付けることによって社会を構成する力である。


新たな合理性⇔近代的合理性

創造性⇔限界
決まった尺度はもはや存在せず、我々が測るべき現実を構築するまさにその時点において我々が構築する尺度だけが存在するのである。
手続き⇔機械
手続きは他者との関係における主体性の相貌全体の具体的な形式である。契約というものにまつわる構成的神話を解体し、その系譜を合理的に解釈し発展させるものである。
平等⇔特権
平等が疎外不可能な権利として現出するのはそれが構成的過程の存在論的な前提条件であり、現実的な状況でもあるということによる。
特権というものは生きた労働を構成する運動と矛盾するものである。
多様性⇔画一性
構成的権力は様々な特異性の統一性への還元としてではなくて、それらの特異性の交錯と拡張の場として形成される。
画一性は・・・生成変化の条件そのものを破壊する一要素として、どうしようもない欠陥を付与されて出現する。
協業⇔指令
協業はそれを通して特異性が新たなもの、富、そして力を再生産する形態であり、・・・新たな合理性の中心的な価値であり、またその神髄である。
指令はまさにこのような真理の欠如である。

生の新世界 ― 新たな合理性は新たな世界の建設に適合したものである。

政治的なものとは本当のところ協業的に作動する多数の特異性の存在論的力である。

あらかじめ与えられた共同体は存在しないし、全てを決定するような力も存在しない。・・・共同体は日々決定され再構築されるのであり、暴力はこの決定と再構築の一部をなすものである。

構成的権力の概念は革命の正常態を表現するものである。

旧来の支配階級が息も絶えだえに彼らの帝国の喪失に、その消失に、生の悲惨さを増大させ続ける行政的なルーチン・ワークの中でなすすべもなく立ち会っているという過ぎ去った時代のイメージ。

構成された権力がついに唯一の緯糸となってしまった過去の政治が、腐敗すると同時に残酷な世界として我々の前に立ち現れている。


自由の歴史、・・・それは戯れ言でしかあるまい、そうではなくて、解放の歴史、これこそがわれわれを待ち受けているのだ。

それは苦悩に満ちてはいるが、とてつもなく建設的で、抗いがたい魅力を持った脱ユートピアの作動である。

力の構成はマルチチュードの冒険そのものである。


構成的権力は、このような形のもとで、それ固有の力量を持って再出現するしかないということ。

「構成的権力 ― 近代のオルタナティブ」
アントニオ・ネグリ著より

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