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<記憶>89年前、朝鮮人虐殺あった/関東大震災/牲者追悼式平和への決意(しんぶん赤旗)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/707.html
投稿者 gataro 日時 2012 年 9 月 02 日 11:25:47: KbIx4LOvH6Ccw
 

89年前、朝鮮人虐殺あった/関東大震災/牲者追悼式平和への決意
「しんぶん赤旗」 2012.09.02 日刊紙 14面

 89年前、東京や神奈川を中心に10万人以上の死者を出した関東大震災直後の混乱のなか、天皇制政府と反動勢力が「朝鮮人が暴動を起こした」などと流言を広めたため、当時の軍隊や警察、民衆らでつくった自警団などによって何の罪もない朝鮮人約6000人が虐殺されました。その犠牲者を追悼する式典が1日、東京都墨田区の横網町公園で行われました。主催は日朝協会などでつくる実行委員会です。

 関東大震災では、ほかにも中国人700人以上が殺され、救援活動を行っていた川合義虎=当時(21)・日本共産青年同盟初代委員長=などが捕らえられ、虐殺された亀戸事件も起こっています。

 開会のあいさつにたった日朝協会東京都連合会の吉田博徳会長は「今年初めて米韓の軍事演習に日本の海上自衛隊が参加した。3カ国の軍事同盟をすすめようとする動きもある」と指摘し、北東アジアの平和に寄与する決意を述べました。

 日本宗教者平和協議会の小嶋弘遵さんの読経につづき、韓国無形文化財太平舞保存会日本東京支部長の金順子さんが「鎮魂の舞」を披露。亀戸事件追悼会実行委員会の榎本喜久治・副実行委員長、日本共産党の畔上三和子都議らが追悼の辞を述べました。

 和田敏行さん(30)は日朝協会東京都連合会の手伝いを始めた5年ほど前に、虐殺の事実を知りました。「事件を風化させないよう、記憶しておかなければいけないと思います」と語りました。

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<参照>

関東大震災(日本ペンクラブ・電子文藝館)から抜粋


 朝鮮人暴動の流言がひろがると、各地では青年団・在郷軍人会・消防組などを中心に自警団がつくられ、女子供をまとめて避難させるとともに、朝鮮人をかりたてては迫害を加えた。戒厳令による軍隊の出動は、ただでさえ気のすさんだ罹災地付近の人びとのあいだに、いっそう血なまぐさい殺気をもちこんだ。刀や竹槍・棍棒・鳶口(とびぐち)・鎌などで武装した自警団は、要所要所に検問所をつくって通行人を訊問した。顔つきが朝鮮人らしいとか、言葉が不明瞭だとかであやしいとなると、半死半生の目にあわせて警察につきだしたり、残虐な方法で殺害したりした。演劇ずきの学生伊藤圀夫(くにお)も、二日の晩、千駄ガ谷(せんだがや)の自宅付近を警戒中、朝鮮人とまちがえられてこづかれたが、顔見知りの酒屋の若い衆が来合わせたのであやうく助かった。センダガヤのコレヤン(朝鮮人)、これが千田是也の藝名の由来である。

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甘粕事件(Wikipedia)
 

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コメント
 
01. 2012年9月02日 11:32:42 : HNPlrBDYLM

朝鮮人の言うことが誇張表現ではなかった例


■「虐殺」という表現について

 関東震災後の日本人による朝鮮人殺害について、「虐殺」と表現するのが適当かどうか。今回の参考文献に、以下のような記述があった。俄かに信じられない(あるいは信じたくない)内容だと感じると同時に、ここに書かれているのはやはり事実なのではないかと思う。正直に言って、どう取り扱うべきかは手に余る問題だったので、虐殺と言う表現の妥当性については、各位の判断にお任せする。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。
 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……

身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、

という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。
(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm


02. 2012年9月02日 11:35:54 : HNPlrBDYLM

〈関東大震災から80年〉 朝鮮人女性への残虐な性的虐待


荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。


 「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。

西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。

1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。

それからひどくなった。

四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。

なかには女もいた。


女は……ひどい。

話にならない。

真っ裸にしてね。いたずらをしていた」

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ)


 これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。

これは例外的な事件ではない。

女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。


 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件

 湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。

「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。

しかも妊婦である。

正視することができず、サッサと帰ってきた」

と回想した。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ)


 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。

この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。

その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。

赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」

(崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ)


 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。


「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。


その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。

なんという残酷さ、

あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」

(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ)


 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で

「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」

ことを記した。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ)


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味


 上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。

このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。

それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。

その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。

吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。

(「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ)


 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。

(山田昭次、立教大学名誉教授)

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0827-00001.htm

関東大震災直後の朝鮮人に対する殺人行為


 当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)で発生した朝鮮人殺戮事件は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事である。

 本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。

警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度の朝鮮人を殺させた。

しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。


 それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。

さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。


これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。 


この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。

けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,さらに恩赦もあって,受けた刑をとり消してもらっていた。


第2次大戦後後に法務省の高官は,外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」(1965年の発言)と言ってのけた。


 関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,それよりも32年も前の悲惨な出来事であったけれども,すでに庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じ地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を実行に移していた。


裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する

 1) 殺人行為の様子

 1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅して合邦し,植民地にした日本帝国であった。

朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。

この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどうなったかといえば,朝鮮民族を心底でひどく恐れる感情を醸成してもいた。

 関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは,

「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」

「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」

と聞かされたのだから,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんとかしてもかまわぬ」と考えた。

ある意味でこの考えは理の必然でもあった。


 国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺或いは射殺するなどの虐殺をおこなった。

こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。


さらに,その「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。

 「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。

その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった(前掲『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』13頁)。

萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその記憶を頼りにして描かれた絵画であるが,よくみると右下部分には「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっていた(つぎの左側にその部分を切りとった画像をかかげておく)。

まわりの人たちは「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」図である。

これは,萱原の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を復元させたものである。

     

 この絵画全体(9月1日参照)を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に棒切れをもった子どもまで描かれていることに気づく。

前段の著作『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子がこの絵画には正直に写されている。

 前掲右側の写真は,関東大震災時における殺人行為を現わした〈有名な1葉〉である。

警察官と民間人が「殺した朝鮮人2体」を,それも民間人は棒で突くかのような格好で,あたかも記念写真を撮るかのように構えている(前掲書,口絵より)。


「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」(同書,167頁)。


 2) 裁判の様子

 さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』はその一場面をつぎのように描写している。


 a) ある被告の答弁。

裁判長から「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」と叱られると

「そうです。そうですが首は落ちませんでした」

といい,石を打ちつけたことについては,「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。

満廷もクスクス笑う。

事件とは思われぬ光景だ(158−159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。


 b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。

「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。

〇〇万治は

「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」
(159頁,1923年10月23日『東京日日』)。


 c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまででと答え,

裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。

また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。


 d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。

一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』

とありのままを申し立て『お前のやった事について今日はどう思っている』ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。


それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。


 そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。

したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとりのように,人殺しの犯人たちにしてはふざけたような口調さえ聞こえてくる。

 つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲がわがでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。

しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて疑われてよい。


 要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。

そもそも軍隊が,多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺していただけでなく,社会主義者・無政府主義者もついでにといっていいように,無法なかたちでもって捕縛・虐殺していた。

これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2394667


03. 2012年9月02日 11:37:15 : HNPlrBDYLM


歴史の汚点といえば、大正12年(1923年)関東大震災のときの朝鮮人虐殺はどうであろう。

日本人はよくアメリカ人のマネが得意だといわれるが、なぜこのような、おぞましいことまでまねる必要があったのだろうか。

それもたんなる排斥にとどまらず、虐殺の挙にでたところなど、出藍の誉れというべきか。

しかもその虐殺は、政府筋の計画的煽動に乗って一般の民間人がおかした犯行だという点で、アウシュビッツのことは、その存在さえも知らなかったというドイツ人のばあいとも異なる。


震災がおそった9月1日の午後、東京市内の被害状況を巡視した内務大臣水野錬太郎(元朝鮮総督府内務総監)は、その惨状のなかにあえぐ人々のいら立ちがが支配階級に向けられることを防ぐためには、朝鮮人と社会主義者の弾圧が必要であると判断し、

1日夜から2日夜にかけて、東京、神奈川の各警察署に朝鮮人暴動のデマを流させ、

さらに3日午前、朝鮮人暴動の「事実」についての電文を作成、船橋海軍無線送信所から全国地方長官当宛に打電させた。


中山競馬場の名物になっていたこの無電台が1971年夏撤去され、「なつかしい風物詩」が消え去ったことを嘆く人も少なくないという。

しかしわたしはあの不気味な鉄塔をながめるたびに、背筋に寒気をおぼえずにいられなかった。



朝鮮人暴動のデマは、またたく間に日本全国にひろまり、警察とそれに呼応した民間の自警団は、政府公認の朝鮮人虐殺を開始した。


竹槍で刺し、トビグチで頭を割り、ノコギリで首をひき、さしみ包丁で妊婦の腹をさく……


阿鼻叫喚の地獄絵図のなかで、抵抗のすべもなく殺されていった朝鮮人の数は6,000人をこえた。



「ハダカ同然の死がいが、目をあけたまま頭を北にして空地に並べられていました。

数は二百五十ほど。

ノドを切られて気管や食道が見えている人、

首筋を切られて肉がザクロのようにわれている人、

無理に首をねじ切られたらしく、皮と筋がほつれている人…


なかでもあわれだったのは、まだ若い女性の腹が真一文字に切りさかれ、その中に六、七ヶ月の胎児が目をとじて姿でした」



以上は仏文学者田辺貞之助氏が目撃した、その日の朝鮮人の姿である。



「旦那、朝鮮人はどうですい。

俺ァきょうまで六人やりました。…

天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさァ。…

電信柱へ、針金でしばりつけて、…

焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。


そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。



けさもやりましたよ。…

奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。…

みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。


ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。

しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。

そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。…

舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。

トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」


『横浜市震災誌』に記録されている、ある日本人のその日の武勇談である。



サンフランシスコ震災で、日本人排斥運動が燃えあがったとき、大統領テオドル・ルーズベルトは怒りにふるえてこれを非難したという。

大統領が国会に送った年頭教書(1906年12月4日)を読むと、大統領は日本人排斥運動を「ウィキッド・アブサーディティー(悪辣な愚行)」と痛罵し、これがアメリカの恥であることを述べ、もしこのような愚行がやまないならば、日本人保護のために、軍隊を動員するとまでいきまいている。



日本のばあいどうか。


虐殺が行われた大正12年から今日にいたるまで、わたしたちは、責任ある日本の為政者から、一言たりとも陳謝の言葉を耳にした記憶はない。

いや、「貧乏人は麦を食え」で勇名を馳せた池田勇人元首相からは一言きいたことがある。


「朝鮮を併合してから、日本の非行に対しては私は寡聞にして存じません」。

http://blog.livedoor.jp/danjae/archives/51404976.html


04. 2012年9月02日 11:38:55 : HNPlrBDYLM


震災当時、修羅の巷と化していた東京近郊では、もう一つの惨劇が発生していました。

事実無根の流言蜚語に踊らされた人々が、次々に無辜の朝鮮人を虐殺していったのです。


 元来、巨大地震などの激甚災害襲来直後には、情報の空白が生まれ、その中でさまざまな流言蜚語が生まれるといわれています。

関東大震災の時にもやはり、根拠の定かではない怪しげな噂が東京周辺を駆け巡っています。

最初は巨大地震再来や大津波襲来、富士山大噴火の噂が流れました。

これら自然の脅威に関する噂は、震災の記憶が生々しい間には威力を振るいますが、事態が小康を得るにつれ、次第にフェードアウトしていきます。

これに取って代わるように頭をもたげて来たのが、世情不安に絡む諸々の噂です。

地震によって刑務所から放たれた受刑者たちが暴動を起こすと言う噂、平生の世の中に不満を持つ社会主義者たちが混乱に乗じて暗躍すると言う噂…。


そして、日本社会で虐げられてきた朝鮮人が、震災を千載一遇のチャンスとばかりに日本人に対する逆襲を行うと言う噂です。

世情不安型の噂の中でも、朝鮮人に関する噂に対する反応は、前二者に比べてひときわ鋭敏だったようで、つまるところそれが虐殺に結びつきました。


 当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。

背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。


そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。

その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。

しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。

日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。

小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。


 惨劇を招いた流言はどこから発生したのか。

噂・流言研究の題材としては定番中の定番ともいえるようなこの関東大震災時流言ですが、実のところ最初の流言が、いつ、どこで発生したのかについて、はっきりとしたことは分かっていないようです。

確認できる範囲でもっとも早い段階の事例だと思われるものは、地震が発生した9月1日当日の夕方、横浜市本牧町あたりのもののようです。

実際には、似たような噂が同時多発的に発生していたと見るのが自然でしょう。

最初に囁かれた噂は、「地震の混乱に乗じて朝鮮人が放火を行っている」という様なものです。


噂は夜を越えるうちに、朝鮮人による強盗、強姦、殺人、井戸水への毒の投げ込みという形へ発展していきました。

噂の伝播・変質をもっと長いスパンで捉えた場合には、「朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込んで地震を起こした」というような突飛なものまでも発生したようです。


 井戸水へ毒を投げ込まれるという毒水流言は、古くその歴史を遡る事ができ、決して関東大震災に特有の珍しいものではありません。

中世ヨーロッパでは、(大正期日本における朝鮮人と同じように差別待遇を受けていた)ユダヤ人が井戸水にペスト菌を投げ込むと言う噂が流れた事があります。

日本国内の酷似した事例では、明治19年、愛知県下之一色村(当時。現在の名古屋市中川区下之一色)での出来事があります。

当時、全国的にコレラが流行しており、下之一色でも患者が発生しました。

そこで官憲が公衆衛生維持のために井戸水へ消毒薬を投げ込んだのですが、これを見た村人たちは「住人を殺害するために毒薬を投入した」と誤解し、竹槍や鎌で武装して暴動を起こしました。

そして鎮圧に動いた官憲と衝突、双方に死者を出しています。

若干余談になりますが、この名古屋の事例からは、人間には自分の命を脅かす者を容赦なく殺す部分があることをうかがえます。

虐げられた朝鮮人の存在は、震災時に毒水流言の真実味を補強する材料となりましたが、虐殺という行為に直接つながったのは、民族差別とは別次元の要素なのかもしれません。


 地震によって井戸水が濁るのは良くあることです。

関東大震災の時も上野でこの現象があり、知識のない一般人にとっては、これが毒水流言の真実味を補強する材料となりました。


 東京帝国大学教授・吉野作蔵の調査によると、

「朝鮮人はもともとテロ活動を目論んでいたが、震災の破壊と混乱を千載一遇のチャンスとして蠢動しはじめた」

という見方が、数多くの流言の底流にあったと思われる節があります。

そう考えた人たちにしてみれば、「火災被害の拡大も朝鮮人の暗躍のせい」となりました。


 また偽情報の傾向を追っていくと、朝鮮人の襲撃は神奈川方面から東京を目指して行われると考えられていたようです。

あるいは、噂の伝播の傾向と一致するものなのでしょうか。

 このように流言蜚語による混乱が生じた場合の対処には、正確な情報の周知徹底が必要である事は論を待ちません。

現代的な感覚で言えば、行政の広報や、各種マスコミが正しい情報を発信する役割をになう事になります。

では関東大震災の時、各種情報インフラはどのような状態だったのでしょうか。


 当時まだテレビなど存在していなかった事は言わずもがなですが、大正12年にはラジオの放送も行われていませんでした。

NHKによるラジオ放送開始は、震災から2年後の1925年(大正14)の話です。

この時代の情報伝達の手段としては、電信・電話網が重要な役割をになっていたようですが、これも被災して壊滅状態。

在京各社の新聞報道も社屋の被害により停止状態。

復旧が順調だった東京日日新聞の場合で、新聞の発行が再開されたのは5日の夕刊から。遅いところでは19日になるまで新聞記事を発行する事ができませんでした。


これに対し、震災の被害を被らなかった地方新聞は、流言の内容を真に受け、そのまま報道するという失敗(脚注参照)を犯しています。

また地震により発令された戒厳令の関係で、官憲による情報管制も敷かれました。


 その官憲は、早い段階においては流言の内容を信じ、むしろ自分が朝鮮人虐殺に加担していたと言われています。


官憲は自分自身が流言情報の権威付けを行った上でこれを民衆に向けて発信し、そこから跳ね返ってきた情報を自分で受信してそれを信じ込むという過ちを犯してしまったようです(脚注参照)。


官憲による虐殺は、関連資料の多くが隠蔽されたため、実態が良く分かっていません。


そもそも、この流言の発生源が、他ならぬ官憲であったとする陰謀論の見方も根強く、これが一定の説得力を有しているようです。


亀戸事件・甘粕事件など、憲兵隊は流言による混乱に乗じて、日ごろから自分達が不穏分子と見なしていた集団の「粛清」を行ってもいます。

マッチポンプの可能性すら疑われている憲兵に比べ、警察や震災を受けて発足した戒厳令司令部は、比較的早い段階で流言はあくまで流言に過ぎないことを看破し、事態の収拾に向けて動き出しています。


 日本では伝統的に隣組的な組織が存在しており、その点で自警団の結成をうながす素地はあったと言えます。

関東大震災時に結成された多くの自警団も、もともとは朝鮮人に限らず火事場泥棒に対し、また、地震被害に対処するために自然結成されたものでした。

自警団に参加していた人の言によると、飢餓と流言が自警団を虐殺行為へと駆り立てたという実感があるようです。

また、民衆の中でも流言が流言である事に気づいている人が少なくなかったのかもしれません。


しかしながら、そのことに気づきつつ、これを積極的に吹聴した者もいました。

また、内容に不信を持っていても、頭からそれを否定するような事をしにくい空気があったようです。


噂を否定する事で回りから浮き上がってしまう恐れもあったのでしょうし、万一の危険の可能性を見逃してしまう事を恐れたからなのかもしれません。


ある種の使命感に駆られて積極的に言いふらした者もいたようですが、不思議なもので、事実かどうかは怪しいことを自覚しているはずの情報も、「事実である」と言う触れ込みで吹聴して回っているうちに、話者の中で次第に紛れもない事実であると認識されれるようになっていくようです。


 自警団の活動は、流言が盛んに飛び交い始めた前述の1日夜を越えたあたりから始まりました。

手近で武器になりそうなもの、中には銃や日本刀で武装した彼らは、中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿とさせる朝鮮人狩りを開始しました。

外見上では日本人との明確な差異を認められない朝鮮人を識別するために用いられた方法の代表的なものが、「十五円五十銭」と発音させてみる方法です。

朝鮮人には、「チュウゴエンコチュッセン」としか発音できない人が多いそうです。


この方法は官憲も用いていました。


これ以外の識別法としては、「教育勅語の暗誦」「座布団と言わせる」「歴代天皇の名前を答えさせる」「ザジズゼゾ、ガギグゲゴを発音させる」「君が代を歌わせる」「いろはカルタを言わせる」などといったものがあったようです。


もちろんこの方法は、簡易ではあるものの確実な識別法ではなく、勘違いから日本人や中国人も殺害されています。


被害者数は調査主体でまちまちですが、「朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人」(内務省警保局調査)、「2711人」(吉野作造調査)、「6415人」(独立新聞調査)などの数字があがっています。内務省警保局の算出した数はあまりにも少ないと言えます。


事後の事務処理を簡略化するため、「虐殺」の認定条件を極端に厳しくしている可能性があるようです。

その反面、独立新聞=朝鮮人側の新聞が提示した6000人超と言う数字も、他の事実との整合性に問題があるために絶対的に信頼の寄せられるものではありません。

政治的思惑がもっとも薄いと思われるのが、吉野作造による調査結果ですが、組織力=調査力において他の二者に見劣りする感が否めないのも事実です。

なお、この件に関する犠牲者をもっとも多く出したのは、神奈川県ということで間違いないようです。


 最終的に事態が沈静化に向かったのは、民衆が警察などが発信する情報を受け入れて冷静さを取り戻したためではなく、自警団が軍による力での押さえつけに屈したからだと見るのが妥当なようです。

民衆が理性的な判断を行ったのは、力で行動を押さえつけられ、文字通り手も足も出なくなってからの事でした。

なお余談になりますが、当時の警察は、人員数はもちろん、そしてその武装の内容においても、自警団に劣っていたため、最終的には軍部の軍事力を背景にして事態の沈静化に乗り出さなければならなかったようです。

■各地方紙の誤報 ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P61より抜粋


「朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。

東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり……」(河北新報、九月三日)


「歩兵と不逞朝鮮人戦斗を交ゆ 京浜間に於て衝突す 

火災に乗じ不逞鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣……」
(福島民友新聞、九月四日)


「放火・強盗・強姦・掠奪 驚くべき不逞鮮人暴行 

爆弾と毒薬を所持する不逞鮮人の大集団二日夜暗にまぎれて市内に潜入 

警備隊(自警団のこと)を組織して掃討中……」(河北新報、九月四日)


「不逞鮮人凶暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ 

彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」

(北海タイムズ、九月五日)


■官憲の主な動き(時系列) ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P66より抜粋

九月二日十四時ごろ:内務省警保局長より呉鎮守府、地方長官宛電報。

東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。

スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。


九月二日夕刻:警視庁、戒厳令司令部に、朝鮮人による火薬庫放火計画があると報告。

同    :警視庁菅下各警察署に通達。
 
鮮人中不逞ノ挙ニツイテ放火ソノ他凶暴ナル行為ニイズルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。

コノ際コレラ鮮人ニ対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ。

 九月三日十六時三十分:海軍省船橋送信所所長電信発信(独断)。全国で受信。

船橋送信所襲撃ノオソレアリ。至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未ダ来タラズ。


九月四日八時十分:船橋送信所電信発信。

本所(船橋送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、

右ノ兵員ニテハ到底防御不可能ニ付約百五十ノ歩兵ノ急派取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ。


■不逞鮮人

 震災当時の政治用語。抗日的な運動を行う朝鮮人に対し、官憲が用いた呼称。

この言葉にも当然、「朝鮮人」と同じ問題が付きまとう。

 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。

 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、

一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……


身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。

実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。

そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、

その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、


という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。


なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。

したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。

(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)

 魔女狩りを彷彿とさせる、集団ヒステリーが生んだ狂気か。


 この「虐殺」に関する話は、関東大震災を起源とする「防災の日」の各種行事の場面などでも、滅多に触れられる事がないのだという。

この種のイベントは専ら自然災害としての地震の恐ろしさに対する啓蒙を目的に行われるものらしく、天災から派生した人災についてはほとんど言及しないのだそうだ。そして、その現状を無念に思う韓国人・朝鮮人は多い。


参考文献
山岸秀 、2002年、『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』、早稲田出版
http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm


05. 2012年9月02日 11:40:47 : HNPlrBDYLM


1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。
この時政府の宣伝


「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」

に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。

9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。


 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。

これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。

しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。


 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。

幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。


 これに関連して福永操は次のように述べている。

「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。

なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。

事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。

労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。


 以下、検証する。 


【関東大震災発生】

 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。

地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。

焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。

これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。


 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。

この日、後藤新平が内務大臣に就任している。

 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について


 正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。

同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。

「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。

正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。

同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。


【流言飛語飛び交い、朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる】


 直後、

「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」

との噂が飛び交い始めた。

発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めた。

9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。


 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある


 「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。

夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。

帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。

そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。

石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。

 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。

間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。

その部下が言うには、正力から、

『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。

君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』

との伝言を託されてきたというのである。

 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。

下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。

『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。

予期していれば、こんなことになりはしない。

朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。

流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。


 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。

正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。

いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」


 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、

「こうなったらやりましょう」と息まいている。


この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。


 正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、

[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している]

と結論づけている。

更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、


「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」

と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。


【関東大震災時事件その@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺】


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、

「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、

「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」

という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。


 9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。

自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。

無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名。

 その後毎年、9.1日は共産主義運動、朝鮮民族運動の逃走記念日として追悼されていくことになる。


【関東大震災時事件そのA、川合義虎らが虐殺される亀戸事件発生】


 9.3日午後10時頃、亀戸事件の被害者となる南葛労働組合の指導者にして共産青年同盟初代委員長にして党員北原龍雄と共に第一次共産党事件後の留守委員会を構成していた川合義虎ら8名の社会主義者と、アナーキスト系の元純労働組合長・平沢計七らが亀戸警察署に拘束監禁された。


 9.5日、河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵、山岸実司、吉村光治(南喜一の弟)、加藤高寿、近藤広造、鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七らが亀戸警察署で虐殺された。

これを「亀戸事件」と云う。

 その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。

古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、千葉県習志野騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。

 その虐殺の様について今日奇跡的に伝えられた二葉の写真があり、これを見るに多数の刺傷はそれとしても生きたまま打ち首にされている。

遺体は家族に引き渡されず、二、三日放置された後、荒川放水路の一般の火葬死体の中に投擲された。

田村少尉らは軍法会議にもかけられておらず、「この乱痴気が軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させた」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)とある。

 ちなみに、南喜一は、弟の吉村光治虐殺という権力の横暴に義憤して、共産党活動に入った。

「大正13年の春、私は工場や家を全部処分し、17万円の金をつくつた。

妻子に4万円渡し、13万円を持って、亀戸の南葛飾労働組合に入った。

共産党に入党したのだ」、


「大正15年の共同印刷の争議までは、命ぜられることを名誉とし、火の中でも水の中へでも喜んで飛び込んだ」(「南喜一著作全集」)とある。


【関東大震災時事件そのB、中国人留学生・王希天虐殺事件発生】


 この時、東京中華日キリスト教青年会幹事、中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生・王希天は、亀戸署に拉致監禁された上陸軍に引き渡され、陸軍将校の手で斬殺されている。

死体は切り刻まれて川に捨てられた。

警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」。警察と軍の関係を取り持っていたのは、官房主事の正力であった。


 10.20日、中国代理公使から王の殺害について抗議が為される。

中国政府は王希天殺害調査団を派遣してくることになり、一気に国際的大事件となった。日本政府はその対応に苦しむことになった。

警視庁はじめとする当局は口裏を合わせて知らぬ存ぜぬの「徹底的に隠蔽するの外無し」対応に終始した。

結局、事件そのものは当時の日中の力関係を反映し、最後にはうやむやのままに葬り去られることになった。


【関東大震災時事件そのC、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件発生】


 9.16日関東大震災の混乱に際して、アナーキストで社会運動家のリーダー的存在だった大杉栄は妻・伊藤野枝(いとうのえ、28歳)、甥(おい)の橘宗一(たちばなそういち、6歳)と共に甘粕憲兵大尉(あまかすまさひこ、32歳)に殺害された。

享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。


 この日、大杉は、その妻(婚姻はしていなかったので正式には同棲)の伊藤野枝と横浜鶴見にあった弟の家から自宅へ帰る途中に東京憲兵隊本部に検束された。

一緒にいた甥の橘宗一も一緒に連れ去れた。検束された大杉達は、麹町憲兵分隊に連行された。


午後8時頃、取調中だった大杉に対し、部屋に入ってきた憲兵大尉《甘粕正彦がいきなり背後から大杉の喉に右腕を回し締め上げた。

大杉がもがき後ろに倒れると、背中に乗りさらに締め上げ絞殺したと伝えられている。

続いて伊藤野枝も絞殺され、橘宗一は部下の憲兵が殺害し、遺体は憲兵分隊内にあった古井戸に投げ込まれた。


 ちなみに甘粕のその後は次の通り。

大杉虐殺事件の軍法会議の進行は非常に早かった。戒厳令下の10.8日に第一回、以後、11.16日、17日、21日の4回で結審となり、12.8日に10年の禁固刑に処せられたものの、軍閥団体の助命運動によって3年で出獄、満州国へ渡り参議の地位に上り詰めていく。


 この大杉栄の拘束・殺害が発端となって、軍部による社会主義者の徹底的な弾圧が始まる。

【官房主事・正力松太郎の暗躍】


 この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。

これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。

後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。


 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。

船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。

今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。

内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。


この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。

つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。


 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

 9.11日、更に、正力官房主事名で、

「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令


が発せられている。

 研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。

自身も「悪戦苦闘」という本で、

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。

当局者として誠に面目なき次第」


と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。

 この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、

「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」

と示唆されたことを明らかにしている。

しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。


「正力の胡散臭さ」について

 後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。


関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。

こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。

その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。

しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。

新聞でさんざん戦争を煽った。

これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。

しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。

「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」


 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。

日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。
http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm


52. 中川隆 2010年10月24日 21:50:11: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

 正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。
内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。


【後藤新平の履歴(1857〜1929)】


 岩手県水沢市の小藩出身。

幕末の蘭学者高野長英の親族。

須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。

1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。

その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。

1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。


後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。

結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。


 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、

1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、

続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、

山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。


植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。

未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。


 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。

 1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。

訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。

帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。

これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。


【内務省】


 内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。

要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。

現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。

全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。

内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。


 大逆事件の年の1911(明治44)年に高等課特高係(特高)が新設され、後に特別高等部に昇格し、得意な指揮系統を持つ事になった。

新聞の統制など言論動向の調査は特高の中の検閲課の任務であり、更に全国の警察機構の元締め内務省警保局の図書課でも行われた。

両者の関係は、図書課が本庁であり、検閲課は出先機関となる。


 内務省本省の図書課は、後藤新平内務大臣時代の1917(大正6).9月、直接の声係りでロシア革命への対応を意識して拡張された。

同時に警視庁の人員増強も要請され、当時の6000名が6年後には1万2000名に倍増された。特高も同時期に12名から80名へと約7倍化している。

【正力松太郎の履歴(1857〜1929)】

 1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。

青春時代を柔道に打ち込む。

 1911(明治44)年、東京帝国大学法科大学独語科卒業(26歳)。

翌年に内閣統計局に入り、高等文官試験に合格し、1913(大正2).6月、警視庁に雇用される。

直ちに警部となり、翌年に警視、日本橋堀留署長となる。


 1917年、第一方面監察官。

 1918(大正7)年、米騒動鎮圧に一役買い、勲章を貰う。

 1919(大正8)年、刑事課長。

 1920(大正9)年、普通選挙大会の取締まり、東京市電ストの鎮圧。

 1921(大正10)年、警視庁で警視総監に次ぐbQの位置とされる官房主事となり、高等課長を兼任(36歳)。


本人自身が「私ほど進級の早いのはいません」(「週間文春」1965.4.19日)と語っている。


 1923(大正12)年、正力の警視庁官房主事、共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。

 「米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、

読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、

軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った」。

 「関東大震災時の暗躍」


 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。


 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。

この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。

こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。


 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。

9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。


 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。


@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、

A、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、

B、中国人留学生・王希天虐殺事件、

C、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)


等が記録されている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mascomiron_yomiurico2.htm


53. 2010年10月25日 07:30:46: FtBpZiRG09
>僕は朝鮮人は大嫌いだし、
嫌日も結構だが、とは書いたが、朝鮮人の好き嫌いなんてことは訊いてないんだが(笑)
共産党な人だったのか・・・・・といいたいところだが実際は、朝鮮人も大好きなんでしょうね。
>混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が暴動をたくらんでいるというデマが流れ、当局も
>「震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ…」
デマを聞きつけた上で、電信自体が海軍の持っていたものしか使えなかったことから
誤った情報が唯一の報告となって電信が打たれたのが現実。

実際はコレらしい↓
「東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、
現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。
スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、
鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。」

あくまで取締りだったし、地方の鎮守府宛に発信されたので罹災民衆には届いていない。
それ以前に、この時点では社会主義者出てきてないけどね。
予め震災が起こることを予測し、それを利用して流言を流すとかできないだろ、普通に考えて。
現代科学でもムリ。

>この時政府の宣伝「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」に乗せられた民衆は
電信不通、電話不通、携帯なんてもちろんない。新聞社も関東方面はまともな配達は不可能
そんな状況で1日や2日で朝鮮人虐殺計画を広めるというのは根本的に無理、というより無茶。
元々、計画として民衆に流布していたというのなら可能だが。

震災によって不安にかられた民衆が、異民族排他に動いたのが、この結果。
社会主義者については、時期を狙っていた可能性はあったかも知れないがね。


それにして、またコピペネタ見つけて、無駄に長いだけのコピペ馬鹿中川隆に戻ったか。
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五月晴郎さん
>日本統治下の朝鮮は情報も厳しく統制されていた。
厳しいというのは、どういうのが厳しいとみるかで違ってくると思いますが。
どちらかというと詳細を知りたいですね。どこまでセーフで、どこからアウトだったとか。

>大震災時朝鮮人虐殺に関連する朝鮮人側のハングル資料なんかあるの?
自分も日本資料しか見れないのでなんとも。あるかどうかと考えれば、ないんじゃないですかね。
当時、日本に在住していて、朝鮮に戻った人が書いていない限り。
横浜市震災誌に出てきた李根榮さんみたいな人が書いていませんかね。

>あったとしても朝鮮人側が書いたの分かったらアレで残されてないだろうし
アレとはなんぞや?
コピペ馬鹿中川隆のいうところの、大震災を利用した社会主義者抹殺陰謀説
(今ならともかく印刷された大正13年当時ならそう言われておかしくない)物まで
印刷された本が残ってるくらいですから、朝鮮人側が書いた本でも、
仮にあったとすれば、全く残っていないとは思えませんけどね。
もっとも朝鮮にのみ流通していれば朝鮮戦争で消されている可能性もありますけど。

>虐殺行動自体は、真偽混じった情報を計画性を持って流し
まぁ、それは後知恵じゃないですか?としか言えませんね。
上でも書いたように、社会主義者については、時期を狙っていた可能性はあるでしょうが。


54. 中川隆 2010年10月25日 10:40:00: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q
必死だね。
(そんな状況で1日や2日で朝鮮人虐殺計画を広めるというのは根本的に無理、というより無茶。)

朝鮮人を搾取して絶えず朝鮮人の怒りを感じていたんだから、後藤新平と正力松太郎はいざという時の準備をして待っていただけさ。

資料としてこれも貼っとくよ:


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告がある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。

いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html

関東大震災に便乗した治安対策


陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒

 正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。

 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。

このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。

この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。

月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。


 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。

この時、正力は官房主事兼高等課長だった。

 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。

 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。

 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。

警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。

ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。


 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、

第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。

その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。

朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。


 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。

そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。


 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。

正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。

正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-1.html


「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力


 正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」

 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。

以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。

いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。

 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。

「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」

 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。


伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。

論理的な解明は不可能ではない。

ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。

「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。

字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。

 詳しい研究は数多い。

『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。


 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、

すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」


 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。

では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。


 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。


 シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。

石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。

震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。

ところが食料がまったくない。

石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。


「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。


『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。

それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。

ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、


『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』


と頼まれたということであった」

 ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、


予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、

というのが下村の論拠だった。

下村は台湾総督府民政長官を経験している。

植民地や朝鮮人問題には詳しい。

そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html


東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見


 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。

内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。

『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。


『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。

この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。


 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。

わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。

念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。


 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。

報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。

各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。

各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。

戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。


 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。

要点はつぎのようである。


「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」


「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」


 同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。


 実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。

同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。

発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。

ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html


号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄


 務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。

「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。

ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。

「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。


 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。

そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。

地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。

輪転機用の巻紙もない。

だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。

しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。


 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。

本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。


 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。

普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。

晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。

つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。


 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。

斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。

 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。

『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。

そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。

 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。

もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。

しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。

結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。


奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。

著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。

 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。

読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。

あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html

「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。

軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。


いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。

 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。

歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、

大森大尉は、

「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、

『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』

と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。


 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。

 なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。

「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。

前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。


「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。

これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」


 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。

ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。


 戒厳令には「敵」が必要だった。

警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。

 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。

その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。


 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。

 震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。

 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。

さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。

 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。

正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。


 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺


 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。

前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。

「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ

『こうなったらやりましょう』

といきまき、阿部信行参謀をして

『正力は気がちがったのではないか』

といわしめたと語っている」


 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。

これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。

正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。

「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。


森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。


だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。

だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。

警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。

その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html


「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁


 関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。

 第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。

前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。

背後には日本の最高権力の意思が働いていた。


 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。

日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。

朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。

社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。

これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。

その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。

上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。


 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。

 中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。

警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。

軍の方が虐殺業務の下請けなのである。

当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。

全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。


『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。

「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、

『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』

という通牒を出した。

さらに十一日には、正力官房主事名で、

『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』

という命令が発せられた」


 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。

ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-7.html


「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力


『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、以下『関東大震災と王希天事件』)では、川合義虎ら八名の社会主義者が近衛騎兵によって虐殺された「亀戸事件」の経過を細部にわたり、「時系列にしたがって検分」している。

 かれら八名の社会主義者が

「三日午後十時ごろ、理由も何もなく、狙い打ちで検束されてしまった」

時点では、十一日の「検束」命令どころか、五日の「監視」通牒さえ出ていなかったのである。


 亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。

署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。


古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。


 社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。

「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」

 つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。

『20世紀を動かした人々』(講談社)所収の「正力松太郎」(高木教典)には、正力が亀戸事件について語った当時の新聞談話が収録されているが、つぎのような説明ぶりで、古森署長の行動の後追い弁護になっている。


「実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も古森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、

軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、

今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。

警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」


 この新聞談話から、社会主義者にかかわる部分を抜き出して、検討してみよう。

 まずは、「思想団」が「横行していたそうで」というが、そのような事実があったと主張する歴史書は皆無である。

つぎには、「法に触れて刺殺」と断定していうが、せいぜいのところ、留置場のなかで抗議の大声を挙げたり、物音を立てたぐらいのことであって、

そのどこがどういう「法に触れ」たのかの説明がまったくない。

「暴行者を留置場外に引き出したことは事実」としているが、これも同じ趣旨である。

正力はいったい、どの行動を指して「暴行」だと断定しているのだろうか。


 最後の問題は、「[警察側が]刺殺には絶対関与していないと信ずる」という部分にある。

正力としては、虐殺の責任を「軍隊」になすりつけ、監督責任を逃れたかったのであろう。

だが、すでに指摘したように、当時の制度では警視庁の要請で軍が動くのであった。


『関東大震災と王希天事件』には、古森署長がみずからしたためた「第一次亀戸事件」に関する報告が収録されている。

警視庁が編集した『大正大震火災誌』からの引用である。

引き渡しの理由は、「兵器ヲ用ウルニアラザレバ之ヲ鎮圧シガタキヲ認メ」たからだとなっている。

古森は、「兵器」による「鎮圧」を予測しつつ、または希望しつつ、反抗的な自警団員四名を軍に引き渡したのだ。

結果は、違法なリンチ処刑だった。


 この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。

警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。

留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。

「結局、軍・警察の処置は妥当と認められ、四人は死に損となった」とあるが、リンチ処刑が「横行」するような「無警察」状態を演出したのは、いったいどちらの方なのだろうか。

 しかも、『関東大震災と王希天事件』ではさらに、この四日夜の「第一次亀戸事件」を、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺、いわゆる「亀戸事件」への導火線になったのではないかと示唆している。

反抗的な自警団員四名の引き渡し以後、留置場内は「前にもまして騒然となった」のである。そこで「古森は、ついに五日午前三時」、川合らを騎兵隊に引き渡した。同書では時系列の記述の最後を、つぎのように結んでいる。

「古森は『失態』を告発する恐れのある川合らを抹殺した。

両次亀戸事件の犠牲者十四人の死体は、こっそり大島八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」


 同書はまた、この「両次亀戸事件」に、中国人指導者王希天虐殺事件と大杉栄ら虐殺事件に共通する「パターン」を指摘する。

「法にしばられる警察は、自ら手を下さずとも、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっとそそのかすだけで、目的をとげることができた」のである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-8.html


留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の虐殺事件


 さらに重大な問題は、すでに何度か記した在日中国人の指導者、王希天の虐殺事件であった。

 ここで「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。

この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。

つまり、この事件は、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。


 元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。

だが、およそ重大な犯罪の背景には、間接的または一般的な状況だけではなくて、直接的な契機、または引くに引けない特殊な動機があるものである。

とくに、一応は正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには、それだけ強力で衝動的な動機が必要である。

わたしは、この事件の真相を知ることによって初めて、長年の、もどかしい想いの疑問の核心部分に達したと感じる。

読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが、正力の読売「乗りこみ」という、これまた稀有な事態の直接的な動機だと、確信するに至ったのである。


 関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。

 だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の三文字は、これまで付け足りのようだった。

とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。

中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。

「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。


 一九九五年には、さまざまな角度から日本の戦後五〇年が問われた。

試みに、その年の暮れの集まりで会った在日朝鮮人の研究者と、駐日特派員の中国系ジャーナリストに、「王希天虐殺事件を知っていますか」という質問を向けてみた。

案の定、二人とも、まったく知らなかった。

詳しく話すと、真剣な表情で耳を傾けてくれたのちに、「大変に貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました」と、ていねいにお礼をいわれた。

その後、何人かの日本人ジャーナリストにも同じ質問を向けてみたが、やはり、王希天の名を知っている人は非常に少ない。

ただし、わたし自身も数か月前に知ったばかりで、自慢などできる立場ではなかった。「五十歩百歩」そのものである。


 王希天が代表としてノミネートされる中国人の大量虐殺事件については、いまから七三年前の一九二三年(大正12)、関東大震災の直後に、中国政府が派遣した調査団が訪日している。

日本政府が対応に苦慮した国際的大事件である。ではなぜ、そんな大事件が、いまだに広くどころか専門家にさえ知られていないのだろうか。


 中心的な理由は簡単である。

当時、日本政府首脳が「徹底的に隠蔽」の方針を決定し、全国の警察組織を総動員して、新聞雑誌(放送は発足前)報道をほぼ完全に押さえこんだからである。

基本的には、そのままの言論封鎖状況が続いているのだ。


 王希天は、関東大震災の直後、亀戸署に留置されたのち陸軍に引き渡され、以後、警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」となっていた。

陸軍当局も、当時は警視庁官房主事兼高等課長の正力松太郎を実質的責任者とする警視庁も、王希天殺害の事実を知りながら、国際的追及の最中、必死になって、ひた隠しにしていた。

実際には王希天は、陸軍の野戦重砲第三旅団砲兵第一連隊の将校たちにだまされて連れ出され、背後から軍刀で切り殺されて、切り刻まれて川に捨てられていた。

事件そのものは、当時の日中の力関係を反映し、最後には、賠償問題さえうやむやのままに葬り去られた。


 象徴的なドラマは、「支那(ママ)人惨害事件」と題する読売新聞(23・11・7)の社説および関連記事の周辺に展開された。

同社説(別掲)と記事をそのまま載せた地方向けの早版は、少部数だが輪転機で刷り出され、発送まで済んでいたのだが、急遽、検閲で不許可、発売禁止となり、各地で押収されたのである。

同時に、その問題の紙面には、「写真3、4」のような鉛版段階での削除という稀有の処置が取られた。


 関係資料は十数点ある。

戦後最初の大手メディア報道は、毎日新聞(75・8・28夕)の「『王希天事件』真相に手掛かり/一兵士の日記公開/『誘い出して将校が切る』」だが、同記事の段階ではまだ、王希天殺害についての証言は、所属部隊の一兵士の「伝聞」にしかすぎない。

以後、日本の研究者、ジャーナリストらの招きで、王希天の遺児が来日した際に、数件の報道があった。

しかし、残念ながら、それらの報道の中には、当時の言論弾圧状況の紹介がなかった。

 専門雑誌の記事、少部数の単行本、断片的なマスコミ報道、それだけでは世間一般どころか普通の企業ジャーナリストの目にさえ、「事件は存在しない」と同様である。

わたしが湾岸戦争以来、「マスコミ・ブラックアウト」と名付けている現象である。

王希天事件の場合には、この現象が意識的かつ政治的に作り出され、しかも、約四分の三世紀にもわたって続いていることになる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-1.html


「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発見


 おおげさなようだが、わたし自身も、この問題に関する「マスコミ・ブラックアウト」の被害者の一人である。

というのは、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆の際、わたしは王希天について何も知らなかった。

正力と関東大震災後の虐殺事件の関係を調べるために、何冊かの関係書に当たったが、そこには王希天のことは書いてなかった。

実際には、すでにそのころ、雑誌論文や何冊かの単行本に、王希天に関する研究が発表されはじめていたのだが、わたしの資料探索は、そこまで達していなかったのである。


 旧著の発表後にも、つぎつぎと新たな資料が発表されていた。

 前出の『関東大震災と王希天事件』の終章の題は「事件発掘史」となっているが、それによれば、王希天に関して戦後に最初の国内論文が発表されたのは一九七二年である。

 関西大学講師の松岡文平は、『千里山文学論集』(8号)に「関東大震災と在日中国人」を発表した。

その研究の発端の説明は、「震災当時の新聞に、王の『行方不明』が大きく報じられているのに疑問を抱き」始めたからとなっている。

つまり、当時の新聞を調べていたら、偶然、「王希天」というキーワードに突き当たったわけである。


 一九七五年に出版された『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)には、松岡論文を米軍押収資料など裏付け、さらに発展させた横浜市立大学教授、今井清一の研究が収められている。

だが、その時点では、王希天虐殺の事実については、つぎのような推測の範囲にとどまっている。

「野重[野戦重砲第三旅団砲兵]第一連隊の将校が、おそらく旅団司令部の意もうけて人に知られない時間と場所とを選んで殺害したのであろう」


 『甘粕大尉』の著者、角田房子は、一九七九年に同書の中公文庫版の「付記」として、つぎのように記している。

「『甘粕大尉』執筆中私は、関東大震災直後のドサクサの中で惨殺された王奇天を調べたが、努力の甲斐もなく確かな資料を見つけることが出来なかった。

 本書初版は昭和五十[一九七五]年七月二十五日に出版された。それから一ヵ月後、八月二十八日の『毎日新聞』夕刊に『「王奇天事件』真相に手掛り/一兵士の日記公開』という記事と、王奇天の経歴が発表された。関連記事は九月一日夕刊にもあった」

 角田は「希」を「奇」と誤記している。わたしの旧著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、79刊)は、この『甘粕大尉』の「付記」が書かれたのと同じ年の、一九七九年に出版されている。そのころまでは、こんな状況だったのである。

 さきの毎日報道から七年後、『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋(よう)は、王希天を殺した本人の「K中尉」こと、元砲兵中尉(のち大佐)の垣内八州男を探し当てた。

垣内は、拉致された王希天の「後ろから一刀を浴びせた」ことを認める。

「[殺害を指示した佐々木大尉]は、上から命令を受けておったと思います。……

後で、王希天が人望家であったと聞いて……驚きました。

可哀そうなことをしたと……[殺害現場の]中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ」、

などと、その後の心境を、ポツリ、ポツリと告白する。


『将軍の遺言/遠藤三郎日記』(宮武剛、毎日新聞社、86刊)は、毎日新聞の連載記事をまとめたものである。

のちに紹介するが、遠藤は当時、垣内中尉の直属上官だった。

 つい最近の一九九三年に発行された『震災下の中国人虐殺/中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(仁木ふみ子、青木書店、以下『震災下の中国人虐殺』)には、「日本側資料について」の項目がある。

それによると、「軍関係資料」の内、参謀本部関係は米軍による接収以前に処分されており、防衛庁戦史資料室には皆無である。

警視庁関係は米軍に接収され、現在は国会図書館と早稲田大学で一部のマイクロフィルムを見ることができる。

一部の、しかし、きわめて貴重な資料が、外務省外交史料館に、「一目につかない工夫をして保存」されていたようである。

『関東大震災/中国人大虐殺』(岩波ブックレット、91刊)の著者でもある仁木ふみ子は、以上のような資料探索の結果、ついに、外務省外交資料館に眠っていた「まぼろしの読売新聞社説」までを発見した。

 これだけの材料が揃っているのを知ったとき、とりわけ、「まぼろしの読売新聞社説」の「発見」について、最初に『巨怪伝』の記述を目にしたとき、徐々に、そしてなお徐々に徐々に、長年の疑問と戦慄の想いが、わたしの胸の奥底からこみ上げ、背筋を走り、全身に広がり始めた。

これらの発見は、わたし自身にとっても、大変な半生のドラマの一部だったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-2.html


「相手は外国人だから国際問題」という理解の重大な意味


 以上の資料に接するより一六年前、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』の仕上げの段階で、わたしは一応、国会図書館のマイクロ・フィルムで当時の読売の記事を検索していたのである。

そこには明らかに、輪転機にかける鉛版の段階での削除と見られる紙面があった。だが、その時には、それ以上の詳しい追及をする時間の余裕がなかった。

そこで旧著では、「なお、読売新聞の紙面そのものの細部にわたる調査も必要である」という心覚えを残し、つぎの点だけを中間報告として記しておいたのである。

「実物をみると、関東大震災の記事に、相当量の、鉛版段階における全面削除がみられる。一部の残存文字から察するに、震災時の朝鮮人、社会主義者に関する記事であることに間違いない」

 ところが、「間違いない」と断定的に書いた記事内容の推測は、不十分であった。

まずは「中国人」が抜けていた。

拡大した「写真5」で見れば、全面を削り取られた一九二三年一一月七日の読売記事の残存文字のなかには、明らかにルビ付きで「王希天氏(おう き てん し)」とあるのだが、その意味が、当時のわたしには分からなかった。

その左隣の、やはりルビ付きの「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」の方だけに気を取られて、王希天を朝鮮人だと思い込んでしまったのである。

残念といえば残念だが、わたしは、長年の戦慄の想いに終止符を打ち、この訂正と調査不足の告白を余儀なくしてくれた諸氏の研究に感謝する。


『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋の場合には、わたしとはまったく逆で、偶然の機会に王希天事件の存在を知り、それから追跡取材を開始した。

 念のために田原本人にも直接聞いて確かめたが、田原は別の用向きで、元陸軍中将の遠藤三郎と会った。

話がたまたま関東大震災当時におよび、遠藤が、当時は大尉で、江東地区の第一線の中隊長だったと語った。

田原が「大杉栄が殺されましたね」と相槌を打つと、遠藤は意外なことを語りだした。

 正確を期すために、田原の著書の方から引用すると、遠藤は、「大杉栄どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言い出した。

「オーキテンという支那人(原文傍点有り)労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。

朝鮮人(原文傍点付有り)とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(いんぺい)したんだ」

 文中の支那人(原文傍点有り)と朝鮮人(原文傍点有り)の傍点は、田原が付けたものである。

遠藤が育った時代の用語そのままだから、別に他意はないと思う。

最大の問題は「相手は外国人」の部分にある。

 わたしの場合、この部分を自分のワープロで入力した時に、初めて、その意味の重大さに気付いた。


それまでの頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」を、関東大震災の際の「虐殺被害者」という項目で一括して考えていたのである。

「虐殺」を告発する立場の人々の多くは、わたしと同じ錯誤に陥っている可能性が高いと思う。

ところが、立場が違えば、同じ物が別の角度から見える。時の権力の頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」の三者は、まったく別の項目で整理されていたのである。

とくに「中国人」は、別扱いの「外国人」だった。

監督官庁としても外務省が加わるから、行政上では決定的な違いが出てくる。


 震災時の朝鮮人の大量虐殺事件も、もちろん重大であるし、国際的にも非難を浴びた。

しかし、当時の国際法の秩序からいえば、植民地保有とその支配自体は非合法ではない。

許しがたいことではあるにしても、いわゆる欧米列強の帝国主義国を中心とする国際外交上で考えるかぎりでは、日本人の社会主義者の虐殺問題と同様の国内問題である。

ところが、中国人の虐殺となると、当然のことながら、明確に外国人の虐殺であり、国際外交上の問題とならざるをえない。

だから遠藤は、「大杉栄どころじゃない」と語ったのである。


 しかも、当時の日本は、満鉄の利権拡大を中心に、中国東北部への侵略の意図を露骨にしていた。

第一次世界大戦中の一九一五年(大4)には、火事場泥棒で奪った旧ドイツ領の青島に増兵を送って威圧を加えながら、対中国二一ヵ条要求を突き付け、その内の一六ヵ条を承認させていた。

中国の内部での反日運動も高まっていたし、国際的な批判も日を追って増大していた。

だから、「中国人指導者・王希天」の虐殺は、現在の日本人が感じるよりも、はるかに重大な国際問題だったのである。


 その後の資料探索で、田原は読売の紙面の削除を知り、紙面の検索をしている。田原は、事前に、その削除された紙面の執筆者が、中国通の著名記者、小村俊三郎だということまで知っていた。

「中国問題に詳しい小村俊三郎」については、『読売新聞百年史』にも非常に簡単ながら、その「入社」が、松山社長時代の項に記録されている。それだけのキャリアが認められる人物だったのである。

しかし、削除された紙面の内容については、まだ、残存文字という手掛りしかない。田原は、非常に残念そうに、つぎのように記していた。

「削除された記事は、いまとなっては復原の方法はない。

『読売』のバックナンバーは、削られた白紙のままだし、小村も記録は残していない」

 田原はさらに、つぎのような想像を付け加えていた。

「そこで推測するしかないが、この記事の筆者は小村俊三郎記者であった。

彼は期するところがあって、ある“過激な”記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って『鉛版』をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。

が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった。

鉛版工のベテランが、指定された記事に削り(のみを使う)を入れる。……

と、そのとき、小村が必死の形相で近より『ここだけ削り残してくれ』と耳打ちする。

あるいは何らかの方法で、小村の“頼み”が伝えられた。

残せといった文字は『王希天』の三文字であった。

この三文字が残っていれば、何が書かれていたか、およその察しはつくのである」

 田原の想像は、おそらく「当たらずといえども遠からず」であろう。

さきにも記したし、「写真3」で明らかなように三文字のみではないが、「王希天氏(おう き てん し)」と「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」という決定的に重要なキーワードだけが、なぜか明瞭に残っているのだ。

とうてい偶然の結果とは思えない。

戒厳令が敷かれていた当時のことだから、その鉛版がはまっていた輪転機の側には、警察官、それもかなり重要な地位の検閲のベテランが、にらみを利かせていたのではないだろうか。

そうだとすれば、まさに、その目の前で、緊迫の鉛版削りのドラマが展開されていたことになる。

 この想像のドラマの緊迫感が、わたしの全身に、いい知れぬ戦慄を走らせるのだ。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-3.html


「まぼろしの読売社説」の劇的発見! 分散して資料を温存か?


 さて、それだけのドラマを秘めた削除紙面の実物が、また、なんとも劇的なことには、その後に発見されたのである。

削除は二か所にわたっていて、二面は社説、五面は関連記事であった。

「写真6、7」の「要保存/発売禁止トナレル読売新聞切抜」がそれである。

 発見者の仁木は、元日教組婦人部長である。

会ってみると、かつてのいかめしい肩書きとは違って、優しい教師そのままの気さくな人柄だった。

「定年後に時間ができて、ただただシラミ潰しに探し回っただけのことですから……」と、静かにほほ笑む。

とくに事前にお願いしたのでもないのに、貴重この上もない発見資料のコピーをも用意してくれていた。

わたしは、それを押し頂いて、発見の経過をうかがった。


 仁木は、『震災下の中国人虐殺』の中で、つぎのように記している。

「これは『要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜』と墨書されて、外務省外交資料館にひっそりとしまわれていたのであった」

 この「ひっそりと」という表現の裏にも、おそらく大変な戦慄の人間ドラマが潜んでいたようなのである。

仁木は、「人目につかない工夫をして保存」されていたという表現もしている。

くわしくは同書を参照していただきたい。

何か所にも分かれて外務省外交資料館の資料管理状況が記されている。

とりあえず簡略に要約紹介すると、「書類を分散させて一見関係なさそうな項目の下に配列し」てあったのである。

最後には、つぎのように謎を解く鍵の人名が出てくる。


「だれがこのような文書配列をしたのであろうか。

事件の結末に何とも納得できなかった一青年事務官が、歴史の検証の日に備えて、暗号のように分散させ保管したのではなかったか。

かれの名は多分守島伍郎である。後の駐ソ大使、戦後は自由党代議士一期。

日本国連協会専務理事、善隣学生会館理事長をつとめ、一九七〇年、七〇歳で亡くなった」


 田原によれば、守島は、「同じ外交出身のワンマン吉田茂(一八七八〜一九六七)とは一定の距離を保ち、『オレは社会党から出てもおかしくはない』と語ることもあった」という。

いわゆるリベラル派であろう。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-4.html


中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国


 さて、以上はまだ、王希天虐殺事件をめぐる緊迫のドラマの導入部にしかすぎない。

もう一度、物語の主人公を紹介し直し、この事件の国際的および国内的な位置付け、引いては歴史的な意味を確認し直したい。

 王希天は、当時はエリートの留学生で、その後に満州国がデッチ上げられる中国東北部の吉林省から来日していた。

推定二七歳。東京中華留日キリスト教青年会の幹事、および中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった。


1948年、東京にて、前列右から周恩来、王希天
写真提供:仁木ふみ子


 事件発生当時においても、日本国内の報道よりも中国での報道の方が早かった。

『中華日報』(23・10・17)の社説では、「共済会長王希天が警察に捕らわれたまま行方不明」という事態を「故意の隠蔽」と疑い、「軍、警察の手」によって「殺された」可能性を指摘していた。

仁木はさらに、王希天の出身地、長春、吉林省の新聞、『大東日報』(23・11・1)の記事から、つぎのような憤激の呼び掛けの部分を紹介している。


「本件発生につき考うるに彼等は吾に人類の一分子と認めざる方法を試みたるものなり。

吾々もし放任し、彼等を問罪せず黙認せば吾々は人間にあらざるなり。同胞起きて醒めよ」


 情報源は、捜索に当たった王希天の友人の留学生や、震災発生後、上海に送還された中国人労働者たちだった。

上海や吉林省などの現地の憤激を背景にして、北京政府も調査団を日本に派遣した。

日本側当局は事実の隠蔽に終始したが、中国側代表団は帰国する前に日本の外務省書記官に対して、「王希天は大杉栄同様陸軍の手で殺されたと思う」と語っていた。

『震災下の中国人虐殺』では、「まぼろしの読売新聞社説」という小見出しを立てて、つぎのように指摘している。

「十一月七日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、二面の社説と五面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。

政府に強烈なインパクトを与えたといわれる『まぼろしの読売社説』は復原すると次のようである」

 以下、二面の社説、「支那人(ママ)惨害事件」の全文は、巻末(367頁・WEB版(15)資料)に小活字で紹介する。

とりあえず要約すると、「惨害」の犠牲者を「総数三百人くらい」としている。

「支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実」を指摘し、「重大なる外交問題」の真相を明らかにしないのは、「一大失態」だと論じている。

 結論部分は、「本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。[中略]

故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する」となっている。

 仁木は、この「まぼろしの読売新聞社説」を、つぎのように評価している。

「戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。[中略]

一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ」


 同時に鉛版から削除された五面の記事は、

「支那政府を代表し抗議委員が来朝する/王氏外百余名の虐殺事件につき精査の上正式に外務省へ抗議申込/我態度を疑う公使館」

という三段大見出しで、本文約八〇行である。

これは、もしかするとわたしの新発見なのかもしれないが、削除された二面の社説の下のベタ記事を眺めていたら、「虐殺調査委員/支那から派遣する」という本文七行の「北京四日国際発」電が残っていた。

いずれも記事の本文では「調査委員」または「特別委員」となっているのに、見出しで「抗議委員」または「虐殺調査委員」と表現している。

社説の題にも「惨害」とある。

当時の読売新聞のデスクの、この事件に対する判断基準が伝わってくるような気がする。

 読売の全面削除された社説は当然、王希天その人と中国側の動きを知り、その惨殺の事実を知るか、またはその事実にせまりつつあったジャーナリストの存在を示している。

 全面削除の社説を執筆した小村俊三郎(一八七二〜一九三三)は、「外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日日など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者」だった。

王希天事件については、その後も独自の調査を続け、外務省に「支那人被害の実情踏査記事」と題する報告書を提出している。

 しかもこの小村俊三郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結で有名な小村寿太郎と、祖父同士が兄弟の再従兄弟の関係にあった。

いわば名家の出でもあるし、もともと東京の主要名門紙に寄稿するコラムニストなのだから、顔も広い。

政府筋が個人的に攻撃すれば逆効果を生み出しかねない。

当時の松山社長時代の読売には、そういう人材が集まっていたのである。

『巨怪伝』では、当時の読売の報道姿勢を、つぎのように指摘している。

「大杉栄殺害の事実を、時事と並んでいち早く号外で報じたことにも示されるように、関東大震災下に起きた一連の虐殺事件の真相と、政府の責任を最も鋭く追及したのが読売新聞だった」

 もしかすると、内務省関係者は、田原が想像したような、「王希天」の三文字をかすかに残す印刷現場でのひそかな抵抗のドラマにも気付いて、警戒の念を高めていたのかもしれないのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-5.html

九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視


 さて、ここで愕然とせざるをえないのは、日本の三大新聞、朝日・毎日・読売、すべての社史に、ほぼ共通する実情である。

王希天虐殺事件はもとより、関東大震災下の言論弾圧に関しての記述が、あまりにもお粗末なのである。

 まずは前項の「まぼろしの読売社説」の件であるが、『読売新聞百二十年史』を最新とする読売の社史には、たったの一行の記述もない。

それどころか、関東大震災後に報道規制があったことすら、まったく記されていない。

改めて呆れはしたが、読売のことだから、さもありなんと諦めた。


 毎日新聞はどうかというと、『毎日新聞七十年』にはまったく記載がないが、最新の『毎日新聞百年史』には、つぎのように記されている。

「新聞は“大杉栄殺し”を直感したが、戒厳令下、報道の自由はなかった」

 ただし、これだけでは、陸軍憲兵隊による社会主義者大杉栄の一家惨殺事件のみが、報道規制の対象になったかのような、誤解が生れかねない。

「王希天」の三文字はもとより、「朝鮮人」という単語も、「中国人」という単語もない。

 朝日の場合も、『朝日新聞の九十年』には確かに、「惨禍の中で特報や号外を連発」の見出しはある。

「『大阪朝日』数十万部を増刷して、船と汽車で東京に送」ったことなどの奮闘の経過は、八頁にもわたって克明に記されている。

だがやはり、報道規制の「キ」の字も出てこないのである。

 朝日は『百年史』を発行せずに、「百年史編修委員会」名で、創立から数えると一一一年目に当る一九九〇年から『朝日新聞社史』全四巻の社内版発行を開始し、一九九五年から全巻を市販している。

本文六五九頁の第二巻、『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』には、つぎのように記されている。

「震災直後の流言からおこった社会主義者や朝鮮人の陰謀騒ぎで多数が殺された事件の実態は、九月二日に出された戒厳令によって報道が差し止められ、東朝[東京朝日]は十月二日になってその一部の報道が許された」

 ここでかろうじて「朝鮮人」という単語が、報道差し止めとの関係で登場する。

しかし、「中国人」も「王希天」もない。


 この状況は、いかにも不自然であり、不都合なのである。

国際的にも評判の「横並び」方式による隠蔽工作が、いまだに継続されているのではないかとさえ思えるのである。

 歴史的な資料がなかったわけではない。

さきに挙げたほかにも、たとえば、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会、75刊)では、これらの一連の虐殺事件に関する「ジャーナリズムの沈黙と右傾化」と、それを促進した権力の「強圧」を指摘している。

出典として『災害誌』(改造社編)などを挙げており、当時の新聞統制の模様を、つぎのように要約している。

「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で、発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、

新聞紙の差押えが、十一月頃まで殆ど三十以上に及び、一新聞紙の差押えが優に二十万枚に達したものがあった」


 ただし、ここにも「中国人」が登場しないという弱点があるし、さらには、この数字でも実は、まだまだ控え目だったようなのである。

おそらく、ここでいわれている「米騒動の際における処分に比すべきもの」という水準をはるかに越えていたに違いない。

日本の言論弾圧の歴史上、最大規模の問題として根本的な見直しをせよ、日本のメディア史の研究をやり直すべきだと、強調せざるをえないのである。

『関東大震災と王希天事件』の著者、田原は、当時の内務省警保局図書課の秘密報告を入手し、「表1」の「(秘)震災に関する記事に依り発売禁止並びに差押処分に付せられたる新聞件数調」を作成している。

「総件数」は、なんと、さきの『災害誌』の「三十以上」という数字を一桁以上も上回り、「九二四件」に達しているのである。

その内、「亀戸警察署刺殺事件に関する記事」(王希天行方不明記事を含む)と分類されているものだけでも、「三〇件」である。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-6.html

後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定


 これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。

 おりから新内閣の組閣中で、

関東大震災発生の九月一日までは留任中の水野錬太郎(一八六八〜一九四九)、

二日からは再任の後藤新平(一八五七〜一九二九)だった。

つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、二度目の要職を引き受けていたのである。


 後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に、つぎのように記されている。


「一〇月中旬に王希天の行方不明が報道され、同二〇日に中国代理公使から王の殺害について抗議をうけると、日本政府も対策の検討をすすめた。

内務省当局では大島事件、王希天事件を両者とも隠蔽する意見で、

一一月七日には閣議のあと後藤内相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎法相、田中陸相、それに山本首相も加わって協議したうえ、

『徹底的に隠蔽するの外なし』と決定し、中国がわとの応対方法については警備会議に協議させることになった」


 この「閣議のあと」の「協議」については、『関東大震災と王希天事件』にも『震災下の中国人虐殺』にも、さらに詳しい記述がある。

内務省や外務省の関係者の記録が残されているからである。

「協議」の場は「五大臣会議」と通称されている。

 本稿の立場から見て、もっとも重要なことは、この「五大臣会議」が行われた「一一月七日」という日付である。

つまり、「まぼろしの読売社説」を掲載した少部数の早版が、輪転機で刷り出されてしまい、その後に急遽、鉛版が削られた日付なのである。

日付の一致は偶然どころではない。

これこそが「協議」開催の原因であることを示す明白な記録が、すでにたっぷりと発掘されているのである。

 閣議後に協議を呼び掛けたのは後藤である。

だが、内務大臣の後藤が「五大臣会議」を発案したという経過の裏には、なにやら、ご都合主義の謀略的な臭気がただよう。


 本来の建て前からいえば、内務省は、犯罪を捜査し、処罰すべき主務官庁である。

ところが後藤個人は、すでに簡略に紹介したように、外務大臣時代に推進したシベリア出兵とそれに続く米騒動に際して、外務省の霞倶楽部の記者たちと紛争を起こしたり、報道取締りの先頭に立ったりしていた。

メディア界の進歩的勢力とは激しい対立関係にあった。

すでに紹介したように「新聞連盟」結成工作、ただし時期尚早で実らず、などの「新聞利用」なり「新聞操縦」政策を展開していた。

ラディオ放送の支配に関する構想をも抱いていたはずである。

後藤は、しかも、首相の座を狙う最短距離にいた。

その機会に備えて、メディア界の敵対分子を排除したいと腹の底で願っていた可能性は、非常に高い。

当の読売社説の内容自体も重大な問題ではあったが、それを逆手を取って政府部内の主導権を握り、一挙に、かねてからの狙いを実現しようと図ったのではないだろうか。

 政府部内の主導権を握る上では、王希天の虐殺事件は絶好の材料だった。

後藤と田中陸相とは不仲だったというし、外務省は国際世論上、日頃から言論統制には消極的だった。

ところが、この際、後藤と相性の悪い陸軍は加害者であり、被告の立場である。

外務省は国際世論対策で四苦八苦である。

いまこそ特高の親玉、内務官僚の出番であった。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-7.html


「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」


『関東大震災と王希天事件』では、関係者が残したメモ類を多数収録している。

その日の午後五時から開かれた「警備会議」の冒頭で、岡田警保局長は、つぎのような発言をした。

「本日、急に五大臣会議を開いたのは、今朝の『読売』のためであります。

相手の出方を待つ姿勢で、政府がふらふらしていると、新聞に対する取締まりも徹底を欠くし、むずかしい。

今朝は、

危いところで削除 → 白紙のまま発行

という荒療治になってしまったが、今後は隠蔽の方針も定まったことであるし、お互いに緊密なる連携のもとに、ことを進めたいと思うので、よろしくご協力をお願いします」

 早版地区に送られた少部数の「削除前」の読売は、配達直前に押収されていた。

「五大臣会議」の決定は、あくまでも政府段階での正式決定であって、内務省はすでに隠蔽工作を実施していた。

検閲の実務担当者たちは、「まぼろしの読売社説」を目にした時、冷汗三斗の思いだったに違いないのである。

「警備会議」は、実務担当者による実行手段の相談の場である。

そこには、なんと、小村寿太郎の長男の小村欣一が、外務省情報部次長の立場で参加していた。

読売社説の執筆者、小村俊三郎は、東京高等師範学校に在学中、寿太郎の邸宅に書生として住み、この欣一の家庭教師をしていた。

岡田警保局長が、小村たちに事情を話して隠蔽の「諒解を求むる」という方針を報告すると、欣一は、小村たちについて、「主義上の運動者」だから「諒解を求ることすこぶる困難なるべし」という意見をのべ、「考慮を要する」と注意した。

 いやはや、こうなると最早、何ともものすごい接近戦である。

敵味方入り乱れての白兵戦の様相である。

関係者たちは、上を下への大騒ぎ、という感じがしてくる。

 警視総監の湯浅倉平は「すこぶる沈痛なる態度」であった。

以下、関係者のカナまじりのメモに残された湯浅の「熱心説述」を、ひらがなで読みやすいようにしてみよう。


「本件は、本官のいまだ際会せざる重大問題なり。

本件は実在の事件なれば、これを隠蔽するためには、あるいは新聞、言論または集会の取締をなすにつきても、事実においてある種の『クーデター』を行うこととなる義にて、誠に心苦しき次第なり。

また本件は必ず議会の問題となるべきところ、その際には秘密会議を求め得べきも、少くとも事前あらかじめ各派領袖の諒解を求めおく必要あり。

 さればとて、本件の隠蔽または摘発、いずれが国家のため得策なるかは、自分としては確信これ無く、政府において隠蔽と決定したる以上、もちろんこの方針を体し、最善の努力をなすべきも、自分の苦衷は諸君において十分推察されたし」

 この「苦衷」を訴えた警視総監、湯浅倉平は、その後、正力松太郎とともに虎の門事件で責任を追って即日辞任届けを提出し、のち懲戒免官、恩赦となる。

警視総監になる以前に岡山県知事、貴族院議員になっていた。

虎の門事件の恩赦以後には、宮内相、内相となっている。

 湯浅の発言のあとには、「北京政府が派遣する調査団および民間調査団の調査にどう対処するか、新聞取締などが話題」になった。

新聞取締に関する警保局長の提案は、つぎのようであった。

「適当の機会に主なる新聞代表者を招致し、大島町事件は厳密調査を遂げたるも、結局事実判明せず、

ついては事実不明なるにかかわらず揣摩(しま)憶測して無根の記事を掲載するにおいては、厳重取締をなすべき旨を告げ、

もって暗に発売禁止の意をほのめかせば、効果あるべし」


 この発言内容には、当時の言論弾圧の実情が露骨に表れている。

警保局長はさらに、「新聞取締の必要上、戒厳令撤廃の延期」まで提案したが、これには同意者が少く、そのままとなった。

 この時にはまだ官房主事兼高等課長だった正力松太郎は、職責からいえば、当然、右の「警備会議」に出席しているはずであるが、以上に挙げた資料の「警備会議」の発言者の中には、正力の名はない。

まだ位が低いのである。

もちろん、研究者たちは、正力の存在を十二分に意識してきた。

 田原は、遠藤元中将から直接の証言を得て、詳しい経過を記している。


 正力は、遠藤を警視庁に呼び出していた。

「ニヤニヤ笑いを浮かべ」ながら、「聞き込みも一応終わっています」などと脅しを入れた。

すでに後藤と「五大臣会議」の間にただよう「臭気」を指摘したが、この件で、正力または内務省勢力は、陸軍と対等に取り引きができるネタを握ったわけである。

その強みが正力の顔に表われていたのではないだろうか。

田原はさらに、その後の読売への正力の乗りこみと、小村俊三郎の退社との因果関係をも指摘している。

『将軍の遺書』の方には、つぎのような日記添付「メモ用紙」部分の記載がある。

「佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て、王希天のみをもらい受け、中川堤防上にてK[垣内]中尉、その首を切り死がいを中川に流す。[中略]

正力警備課長[警視庁官房主事の誤記]は、その秘密を察知ありしが如きも深く追及せず」

 以上、概略の紹介にとどめるが、いやはや、驚くべき本音の記録の連続である。

これらの発言記録を発見したときの、田原ら先行研究者の興奮が、じかに伝わってくるような気がするのである。


 事件の翌年、一九二四年(大13)二月二六日に、正力は読売「乗りこみ」を果たす。

 同年一〇月四日、読売記者の安成二郎は、築地の料亭で開かれた前編集長千葉亀雄の慰労会での会話を、あとでメモし、「記憶のために」と注記しておいた。

本人が三六年後に自宅で再発見したこのメモは、『自由思想』(60・10)に発表された。

内容のほとんどは、大杉栄ら虐殺事件の関係であるが、その最後の短い(三)は、つぎのようになっている。

「(王希天はどうしたんでせう、軍隊では無いでせうが……)と千葉氏が言うと、

正力氏は(王希天か、ハハハ)と笑って何も言はなかった」


 この正力の「ハハハ」という笑い声は、どういう響きのものだったのだろうか。

壮年期の正力の声については、『経済往来』(10・3)に、「男性的で丸みがあり、声量があって曇りがない」と記されている。

六尺豊かの大男が、柔道で鍛え、警官隊を指揮してきたのだったから、それだけの迫力のある声だったに違いない。

だが、「虐殺」の話題で出た「ハハハ」という笑い声には、いわゆる「地獄の高笑い」のような、真相を知りつつとぼける不気味さが、漂っていたのではないだろうか。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-8.html


戒厳令から治安維持法への一本道の上に見る正力の配置


 軍や警察当局が恐れていたのは、新聞報道の内容や新聞そのものだけではなかった。

小村欣一の発言にもあったように、「主義上の運動者」の動きもあった。

すでに「警備会議」の「話題」にものぼっていた「民間調査団」がある。

そこには、読売の小村記者以外に、東京日日(毎日系)、大阪毎日、東京朝日の記者が参加していた。

かれらは中国から来日した宗教家の調査団と接触する一方、吉野作造邸で協議をしていた。北京政府が派遣した調査団も、吉野作造邸に立ち寄っていた。


 吉野作造(一八七九〜一九三三)は、東大法科卒で、同大教授として政治史を講義していた。

デモクラシーを「民本主義」と訳したことでも知られている。

東大新人会の総帥でもあり、いわゆる大正デモクラシーの理論的主柱ともいうべき存在であった。

後日談になるが、関東大震災の翌年に当たる一九二四年(大13)には、朝日新聞社論説顧問に迎えられ、五か月あまりで退社した。

退社の原因は、「五ヶ条のご誓文は明治政府の悲鳴」という講演内容などを、右翼団体が「不敬罪」として告発したためである。

『朝日新聞の九十年』でも、退社の経過について、「検察当局の意向もあり」と記している。

「不敬罪」の告発自体は不起訴となったが、この件でも朝日は「白虹事件」の時と同様、右翼と検察のチームプレーに屈服したのである。


 さて、以上のような状況を背景にしながら、強権の発動による王希天虐殺事件の隠蔽工作が行われたのだが、それはまず戒厳令下にはじまっている。戒厳令は約二か月半も続いた。

解除は一一月一六日である。『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、戒厳令の解除後に「かわって憲兵が大増強され、警察官もまたピストルまで配備された上に増員された」と指摘する。

 戒厳令下、および以後の虐殺問題報道の全体像をも、調べ直す必要があるだろう。

田原は、王希天虐殺事件の隠蔽工作と大杉殺害事件の関係を、つぎのように示唆する。


「王希天事件は『行方不明』扱いで、十月十七日から二十日にかけて、各紙に掲載された。

『殺害』をにおわせる記述は厳重にチェックされたので、さりげない震災エピソード風に受けとめられ、やがて“関係者”以外には忘れられた。

大杉栄殺害事件で、甘粕らがスケープゴートとなった意味は、単に『犯人』を買って出ただけでなく、報道操作の陽動作戦に必要な犠牲バントとしての役割もあったのである」

 大杉栄殺害事件の軍法会議の進行は、非常に早かった。

戒厳令下の一〇月八日に第一回、以後、一一月一六日、一七日、二一日の四回で結審となり、一二月八日には、甘粕に懲役一〇年などの判決が出ている。

この間の新聞報道は、シベリア出兵以来の「反ソ」キャンペーンとも呼応している。

社会主義者への世間一般の反感をも土台にして、甘粕らに同情的な風潮さえ作り出したようである。


 その後、甘粕はたったの三年で釈放され、満州国の黒幕となる。

緊急事態を根拠にして公布された「治安維持勅令」は、そのまま法律化され、翌々年の一九二五年(大14)に制定される治安維持法への橋渡しの役割を果たした。

このようなドサクサまぎれの突貫工事によって、外にはシベリア出兵、内には米騒動、関東大震災という人災、天災のはさみうちの混乱のなかで、昭和日本の憲兵・警察支配、治安維持法体制は完成を見たのである。


 わたしは、正力の読売「乗りこみ」を、以上の政治状況と深くかかわりながら企まれた一大政治謀略に相違ないと確信している。

 さらにさかのぼれば、当時の読売が「出る釘は打たれる」のたとえ通りの襲撃目標に選ばれた理由には、まさに日本のメディア史の矛盾を象徴するような典型的経過があったというべきであろう。

 第一の理由は、その明治初年以来の歴史的ブランドである。

第二の理由は、「白虹事件」残党を中心に形成されつつあった大正デモクラシーの「メディア梁山泊」としての位置づけである。

最後の第三の理由、すなわち、「まぼろしの読売社説」をめぐるオロドオドロの衝撃ドラマは、それらの歴史的経過の必然的な帰結であった。

読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、「汚い靴」のかかとに踏みにじられたのである。

 日本の最高権力と、それに追随する勢力は、関東大震災という天災を契機として、大量の中国人とその指導者を虐殺し、卑劣にも、その事実の徹底的な隠蔽を図った。

この虐殺と隠蔽工作とは共に、以後ますます拡大される中国大陸侵略への狼煙の役割を果たした。

 正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右旋回し、「中道」の朝日・毎日をも、さらに右へ引き寄せ、死なばもろとも、おりからのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった。

正力の読売「乗りこみ」は、いいかえれば、この地獄の戦線拡大への坂道を転げ落ちようとしている日本にとって、雪だるまを突き落とす最初の、指のひと押しの位置づけだったのではないだろうか。

 正力本人は、戦後にA級戦犯として巣鴨入りした。

だが、この時も、アメリカの世界政策上の措置によって、その罪は裁かれずに終わってしまった。

今こそ改めて、多数の中国人労働者と王希天の虐殺事件とその報道状況とを、日本のジャーナリズムの歴史の中央に位置づけ直し、事実関係を確認し直すべきなのではないだろうか。

自社の歴史を正確に記して過去を反省するか否かは、また、メディア企業の決定的な試金石でもあろう。

 わたしは一応、読売新聞広報部に電話をした。本書に記したような事実を読売新聞は把握しているか、今後の社史などで明らかにする予定があるか、などを問いただした。

しかし、「お答えすべき筋のことではないと思う」という、番犬の唸り声のような返事だけだったので、この件について、本書を「公開質問状」とすると告げた。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-9.html


06. 中川隆 2012年9月02日 11:59:50 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

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参考


朝鮮人の見た日本人の姿
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/405.html

悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html

『朝鮮進駐軍』の嘘 _ こんなのに騙されるアホが居るんだ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/535.html

間違いなく日本の朝鮮統治は全てが悪
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/500.html

日本の朝鮮統治は摂取と収奪の地獄だったとは歴史の捏造、朝鮮は一番、得をした。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/414.html

アホ?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/415.html

朝鮮人が食っていけなくなったのは搾取だけが原因ではない _ 換金作物を作らせると餓死者が続出する
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/416.html

結婚したくなったら統一教会に入ればいい
http://bakusai.com/thr_res/ctgid=119/acode=11/bid=98/tid=1331929/tp=1/

日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される…フィリピン
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/334.html

韓国の風俗で ぼられるアホ日本人
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/335.html

中川隆_アジア関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak50/msg/909.html

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半月城通信
http://www.han.org/a/half-moon/

「従軍慰安婦」は商売か性奴隷か
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/05/top_5.htm

従軍慰安婦について〜昭和初期から戦中まで〜
http://www2.ocn.ne.jp/~adult/ianfu/index.html

◆ 美しい壺日記 ◆ [従軍慰安婦]「強制連行された証拠はない」は嘘
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-58.html

ブログテーマ[従軍慰安婦関連]|誰かの妄想
http://ameblo.jp/scopedog/theme-10003414403.html

Stiffmuscleの日記
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/archive

秦郁彦と吉田清治
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070802

「従軍慰安婦」の真相
http://tnngsg4601.blog110.fc2.com/blog-entry-66.html
http://tnngsg4601.blog110.fc2.com/blog-entry-67.html
http://tnngsg4601.blog110.fc2.com/blog-entry-69.html
http://tnngsg4601.blog110.fc2.com/blog-entry-70.html
http://tnngsg4601.blog110.fc2.com/blog-entry-72.html



07. 中川隆 2012年9月02日 12:06:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

慰安婦関係の資料は終戦時に証拠隠滅の為にすべて焼却した筈だったんだけど…
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/408.html

08. 2012年9月03日 20:30:49 : v5sE55MwHs
gataro先生、中川隆センセ、どうもです。

当時の日本の闇警察ボス連中を、ローマ教皇命の極東版と

対比された点が画期的で良かったです。

またこれだけ虐殺されたトラウマから、「日本の革新勢力」が

欧州のプロテスタント贔屓な人が多い理由も理解できました。


虎ノ門事件の時の、闇警察ボス連中ののテンノー命の狂信者ぶりについても

当時、ドイツから助っ人外国人として来ていた科学者のレポートに

よれば「日本人の高級官僚のテンノー命の狂信ぶりは、

帝政ドイツ時代のドイツ皇帝の支持者とは比較にならない位に常軌を

逸している、比較するならローマ教皇庁の異端審問官僚と

比較すべきだ」とのドイツ本国に送った記事が、昔、出版されて

おりましたのでそちらの方の貼り付けが出来ましたならばお願い致します。



09. 2012年9月03日 23:55:16 : A7lU6kJBGs
で、そんな目にあったと自称しながら密入国を続けてきた朝鮮人。
矛盾もいいとこですな。なかったとは言わんが。

10. 2012年9月04日 22:10:10 : kdRoH3a0tv
コピペ馬鹿、中川隆3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLMの醜態が見れるのはコチラ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/416.html

11. 2012年9月06日 06:16:22 : v5sE55MwHs
>>09さん

ニッポン外務省の怠慢を忘れてはなりませんぞ。

納税者の権利行使をしないと。つまり1630年代以前の古地図によると

済州島は日本領と記された古地図もあるのに、税金寄生虫役人の

怠慢を鵜呑みにして「密航者」あつかいですかぁ???

済州島蜂起の真相が「日本領帰属」への島民たちの非暴力活動だった

可能性が高いのにそういう態度をとられるのですかぁ???


12. 2012年9月06日 23:05:59 : VjgrFvWIIo
11によれば済州島は日本領土らしい。

そして朝鮮からの密航者は全て済州島人らしい。

そして、昭和23年4月に済州島で起きた済州島四・三事件の避難民が
すでに戦中にいたらしい。

・『鮮人内地密航/発見されて説諭』 大阪朝日 1921/7/15 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・又も帆船で密航した不逞鮮人四名逮捕さる』 大阪朝日 1922/5/20 〔7/4〕 下関・兵庫 【社会】
・『北鮮から密航の怪鮮人/新羅丸の石炭庫に潜伏/労働者には不似合の所持品が不審』 福岡日日 1922/5/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人十名密航』 大阪朝日 1922/7/2 夕 〔2/1〕 下関・山口 【社会】
・『鮮人十名の密航者/京畿丸に潜伏』 京城日報 1922/7/4 〔4/8〕 下関・山口 【渡航】
・『ブロ−カ−の手で密航する鮮人が多い/大部分は山口福岡両県に上陸/北九州一帯では特に警戒を厳にして居る』 九州日報 1923/4/17 〔1/5〕 ・福岡・山口 【渡航】
・『密航鮮人発見(遠賀郡芦屋町)』 門司新報 1923/11/7 〔1/5〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『内地密航と取締』 大阪朝日 1923/12/6 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の内地密航に警戒の眼が光る/釜山水上署の取締』 京城日報 1923/12/20 〔2/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『発動船で密航/鮮人九名発見』 福岡日日 1924/2/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『潜入を企つ/立神丸に忍んで(舞鶴〜元山定期航路・立神丸で自称島根県人が密航企図。「不逞鮮人」と連絡ある者と見込み取調中)』 大阪朝日 1924/4/20 京附 〔1/9〕 舞鶴・京都 【警備】
・『丗名の鮮人欺されて密航/山口特牛港に』 福岡日日 1924/5/2 〔1/3〕 ・山口 【渡航】
・『五十余名の密航団/難船して露見に及ぶ』 京城日報 1924/5/9 夕 〔2/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人渡来制限撤廃/密航は取締る』 福岡日日 1924/6/7 〔1/7〕 下関・福岡 【渡航】
・『密航の鮮人』 門司新報 1924/7/11 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『極左傾の不逞鮮人が日本へ密行した/手配が廻つて警視庁活動(青山爆弾事件。在ウラジオストクの活動家が日本に密航した形跡があるという朝鮮総督府の打電により活動開始)』 京都日出 1924/8/15 〔〕 東京・東京 【警備】
・『巧妙な鮮人の密航/当局も取締りに悩まさる』 京城日報 1925/5/15 〔3/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人労働者を内地へ密航させる/大仕掛な企て暴露』 京城日報 1925/5/21 〔3/6〕 ・朝鮮 【渡航】
・『四十二名の密航者検挙/第一回の小手調べ/募集人は厳重処分』 京城日報 1925/10/11 夕 〔5/1〕 慶南・朝鮮 【渡航】
・『労働者釣りの悪玉縮み上る/密航者は次第に減少の傾向がある』 京城日報 1925/10/16 〔6/1〕 慶南・朝鮮 【渡航】
・『鮮人丗五六名を乗せた奇怪な密航船来る/白木署に上陸して行衛不明/其筋では頗る重大視(門司市)』 福岡日日 1926/3/12 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『小発動機船で鮮人の密航団/三十名釜山から門司に上陸し行方を晦す』 大阪毎日 1926/3/14 夕 〔2/5〕 門司・福岡 【渡航】
・『長さ四間の発動機船で/鮮人三十余名密航す/氏名も目的も行先も判らぬ/時節柄厳戒を加ふ』 中国 1926/3/14 〔〕 門司・福岡 【渡航】
・『密航鮮人一部発見さる/小倉駅頭にて(小倉市)』 福岡日日 1926/3/14 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人密航団を発見/同勢三十六名の内/十六名を捕へて送還』 中国 1926/3/23 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮から内地へ/内地から朝鮮へ/虻蜂とらずに終った/密航鮮人団三十余名』 大阪朝日 1926/4/7 朝鮮朝日 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『大胆な鮮人団帆船で密航/玄海を横切って鐘崎へ/福岡署に知れて取調らる(宗像郡岬村)』 福岡日日 1926/4/11 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『怪しき汽船に/六十名が潜伏/大規模な密航団が/釜山署の手で逮捕』 大阪朝日 1926/4/13 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団鮮人取押へらる』 大阪毎日 1926/4/16 〔11/7〕 門司・福岡 【渡航】
・『七十余名の密航船/下関で発見』 京城日報 1926/4/17 〔3/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人の/乗込船が沈没/海上を漂流中救はれ/四国宇和島に上陸』 大阪朝日 1926/4/17 朝鮮朝日 〔〕 宇和島・愛媛 【渡航】
・『密航者七十余名が/釜山に送還さる/警察で保護を加へ/渡航或は帰郷さす』 大阪朝日 1926/4/20 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の密航団/又また津屋崎へ上陸す(宗像郡津屋崎町)』 九州日報 1926/4/21 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航に/頭を悩ます山口県/悪周旋業者に過られた/哀れな彼らの心情』 大阪朝日 1926/4/24 広島 〔〕 ・山口 【渡航】
・『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県へ/既に三百名に達した』 大阪朝日 1926/4/29 〔5/9〕 下関・山口 【渡航】
・『又も鮮人の密航団/山口へ六十名』 福岡日日 1926/4/29 〔1/2〕 山口・山口 【渡航】
・『六十名の密航団/山口県の北海岸で発見』 京城日報 1926/4/30 夕 〔2/4〕 ・山口 【渡航】
・『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県三百名(東宮行啓を控え県警察部は漫然渡航者を乗船地で阻止しているが、密航を企てる者も増加。近頃も大津郡深川村に60名上陸)』 京都日出 1926/4/30 〔〕 長門・山口 【渡航】
・『大密航バレる』 大阪朝日 1926/5/1 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人が帆船で渡っても密航でない、つまらぬ取締りをされては思想上面白くないと朝鮮総督府から横槍』 神戸新聞 1926/5/3 〔6/3〕 釜山・朝鮮 【社会】
・『又も糸島に密航団/朝鮮から渡航六十余名(糸島郡芥屋村)』 福岡日日 1926/5/4 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航朝鮮人は/既に二百に上る/行啓後に対策を/赤木特高課長の沿岸視察』 大阪朝日 1926/5/5 広島 〔〕 ・山口 【渡航】
・『生き残った/密航者送還/厳原警察から/釜山に向けて』 大阪朝日 1926/5/20 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二十余名の密航者団逮捕/下関水陸両署活動/時節柄とて重大視す』 中国 1926/5/26 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『依然と困る密航者/釜山署の大弱』 大阪朝日 1926/5/28 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪しい鮮人密航者/夜陰に乗じ門司海岸に上陸/大部分を取押へ取調中』 神戸新聞 1926/5/29 〔8/4〕 門司・福岡 【社会】
・『大里に又密航団/十九名の鮮人(門司市)』 福岡日日 1926/5/29 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団逮捕/募集した鮮人男女を/売り飛ばすつもり』 中国 1926/6/6 〔〕 徳山・山口 【渡航】
・『密航者体裸で泳ぐ/鮮人が陸岸目蒐けて/泳ぎ上つた処を引捕ふ(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1926/6/12 〔1/2〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『鮮人青年が密航企つ/上海から乗船』 神戸新聞 1926/6/20 〔8/10〕 神戸・兵庫 【社会】
・『戦慄を感じる/あぶない密航/産業の過渡期に立ち/生活に悩む下層鮮人』 大阪朝日 1926/8/14 朝鮮朝日 〔〕 ・朝鮮 【渡航】
・『鮮人密航の/首魁を逮捕/釜山警察署で』 大阪朝日 1926/8/25 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『さても現金な/密航者が絶える/渡航阻止者に対しては/釜山で就職口を周旋(水電工事にも)』 大阪朝日 1926/10/6 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『渡航鮮人の/素質が向上/密航者の群もだんだんと減少』 大阪朝日 1926/11/17 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『朝鮮から五六十名/御大喪に参列さしたい/不逞団の取締は厳重にする/湯浅総監下関で語る(浦塩或は上海方面から密航、十分警戒)』 大阪毎日 1927/1/15 朝鮮 〔9/2〕 下関・山口 【警備】
 ・『警備船で密航者取締』 京城日報 1927/2/24 〔6/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
 ・『三名の鮮人怪漢繋留中の発動船を盗み出す/機関長を脅迫して運転を初め舵を操り沖合に逃げ去る(内地密航鮮人の所為と睨み厳重捜査中)』 大阪毎日 1927/3/2 朝鮮 〔9/3〕 釜山・朝鮮 【窃盗】
 ・『密航鮮人/八十名/北浦海岸に上陸(豊浦郡川棚村)』 大阪朝日 1927/3/3 朝鮮朝日 〔〕 豊浦・山口 【渡航】
・『六十名の密航鮮人/下関吉見海岸に上陸(山口県吉見村)』 九州日報 1927/3/7 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人丗四名内地へ密航途中暴風にあひ対馬に漂着す』 大阪毎日 1927/3/8 朝鮮 〔9/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪帆船の中から百名の密航者現はる/下関市外吉見海岸で発見され釜山へ送還さる』 京城日報 1927/3/9 〔7/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航発覚頻々(吉見村)』 大阪毎日 1927/3/11 朝鮮 〔9/8〕 ・山口 【渡航】
・『密航団また捕はる』 京城日報 1927/4/8 夕 〔6/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『夜陰に乗じ/密航を企つ/鮮人を発見(五十余名)』 大阪朝日 1927/4/9 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブロ−カ−鮮人/取押へらる(糸島郡前原町)』 九州日報 1927/4/15 〔1/5〕 前原・福岡 【犯罪】
・『船底に潜む怪鮮人/密航者と判る』 神戸新聞 1927/4/16 夕 〔2/8〕 敦賀・福井 【社会】
・『密航鮮人/十余名捕る(田の浦海岸)』 大阪朝日 1927/4/20 朝鮮朝日 〔〕 門司・福岡 【渡航】
・『七十名を内地へ密航させんとした四人捕はる』 大阪毎日 1927/4/27 朝鮮 〔10/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『<慶尚南道>密航幇助で取調べ』 京城日報 1927/5/10 〔4/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人/蘆屋に上陸/目下取調中』 大阪朝日 1927/5/15 朝鮮朝日 〔〕 芦屋・福岡 【渡航】
・『怪機船/密航鮮人の輸送を企つ』 大阪朝日 1927/5/18 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『検挙された富士丸/三回に亘つて密航/犯行を自白す』 京城日報 1927/5/19 〔4/1〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団を利用し一儲け志願オヂヤン』 京城日報 1927/5/19 〔7/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人が/積み帰さる』 大阪朝日 1927/5/20 朝鮮朝日 〔〕 芦屋・福岡 【渡航】
・『密航鮮人少年を/船中で殺害か/伏木入港の鮮海丸の怪事』 北國 1927/7/8 〔5〕 伏木・富山 【社会】
・『三人組の密航詐欺/横浜水上署で検挙す』 京城日報 1927/7/20 夕 〔2/8〕 横浜・神奈川 【渡航】
・『米国の母を尋ねて密航した十四歳の鮮童/新聞売子をして苦学した果/アリゾナ号にて送還さる』 福岡日日 1927/7/30 夕 〔1/2〕 横浜・神奈川 【社会】
・『密航者送還(支那労働者)』 京城日報 1927/8/2 〔5/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『慶尚南道/女房に化けて内地へ密航/際どい処で発見さる』 京城日報 1928/1/19 〔4/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『三鮮人密航/石炭庫にひそんで』 福岡日日 1928/1/25 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人難破し西戸崎で救はる(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1928/2/19 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『十一名の密航者送還せらる』 大阪毎日 1928/2/21 朝鮮 〔9/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『北日本汽船の「以智丸」が多数の密航鮮人を乗せて神戸に帰る/水上署、厳重取調べの歩を進む』 神戸新聞 1928/3/6 夕 〔2/4〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『船長が首謀で鮮人を密航させる/一人から十一円とった/南鮮航路の以智丸』 大阪毎日 1928/3/6 〔7/9〕 神戸・兵庫 【社会】
・『背任罪その他の罪名で三名を司法係りに/以智丸鮮人密航事件』 神戸新聞 1928/3/7 夕 〔2/8〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『密航の鮮人(門司市)』 福岡日日 1928/6/29 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『帆船で内地密航/三十余名の一団で』 京城日報 1928/9/12 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪しまれた密航の鮮人/手続不備と判る』 神戸又新日報 1928/9/29 〔5/8〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『鮮人の密航/対州からが多い』 福岡日日 1928/10/12 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『支那人の密航を企つ/発動汽船で準備中を/釜山水上署で検挙』 京城日報 1928/10/25 夕 〔2/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を種に/詐欺を働く』 大阪朝日 1928/11/28 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航料三百円/支那人から捲上げる』 京城日報 1928/11/29 〔5/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『長崎県(対馬)対州にて密航鮮人/五名発見さる』 福岡日日 1929/1/25 夕 〔1/2〕 ・長崎 【渡航】
 ・『石炭庫内に密航鮮人/横浜から大阪へ』 大阪毎日 1929/1/29 夕 〔2/4〕 大阪・大阪 【社会】
・『密航支那人失敗して送還/草梁からぬけ出し福岡で上陸禁止』 京城日報 1929/1/30 〔7/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪朝鮮少年/密航成功を申立つ(門司)』 門司新報 1929/3/20 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航して内地見物』 京城日報 1929/3/27 〔4/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二十余名の密航鮮人/西唐津で発見』 福岡日日 1929/4/10 夕 〔1/2〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『内地に密航し/送り還さる』 大阪朝日 1929/4/11 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航を企つ』 大阪朝日 1929/4/11 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『旱害農民の/生血を吸ふ/内地密航の悪周旋業者』 大阪朝日 1929/5/2 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『朝鮮人四十名山口県へ密航/上陸し捕はる』 大阪朝日 1929/5/2 夕 〔2/9〕 豊浦郡・山口 【密航】
・『内地へ密航/張本人捕る』 京城日報 1929/5/3 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『<全羅南道>命懸けの内地密航/無人島に集り帆船で』 京城日報 1929/5/10 〔4/13〕 木浦・朝鮮 【渡航】
・『五十余名内地へ密航/仮泊中捕る』 京城日報 1929/5/13 〔3/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人二十六名内地密航/西戸崎を徘徊(粕屋郡志賀島村)』 門司新報 1929/5/14 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『内地密航者/卅名送還さる』 大阪朝日 1929/5/17 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『釜山から密航した挙動不審の二鮮人、きのふ長城丸で水上署員に発見/同署で引続き取調中』 神戸新聞 1929/5/28 〔5/8〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航者と/誤られて/福岡県から釜山へ送還さる』 大阪朝日 1929/5/28 南鮮 〔〕 前原・福岡 【渡航】
・『内地官憲と/協力し/朝鮮人の密航を極力ふせぐ』 大阪朝日 1929/6/4 朝鮮朝日 〔〕 ・日本 【渡航】
・『鮮人密航者/十五名上陸/糸島海岸に(糸島郡北崎村)』 九州日報 1929/6/25 〔1/7〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『姪浜海岸に密航鮮人/十八名上る』 福岡日日 1929/6/29 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航専門の怪発動汽船/船長等遂に捕はる』 京城日報 1929/7/8 〔3/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『石炭庫の中の密航者二名/新舞鶴で検挙(島谷汽船大成丸で木浦から敦賀へ密航企図)』 大阪朝日 1929/7/11 京版 〔9/7〕 舞鶴・京都 【渡航】
・『密航鮮人廿五名山林に潜伏中を取押へらる(遠賀郡島郷村)』 福岡日日 1929/8/4 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人廿五名の密航団押へらる/妙齢の婦人や社会主義青年/遠賀郡下の海岸で(遠賀郡島郷村)』 九州日報 1929/8/5 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人十四五名捕はる/姪浜海岸で』 九州日報 1929/8/12 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『鮮人十三名密航して捕はる』 福岡日日 1929/8/12 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航者一杯喰ふ』 京城日報 1929/8/31 〔5/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を/企てた一味/十余名検挙』 大阪朝日 1929/8/31 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地に密航鮮人検挙』 大阪毎日 1929/8/31 朝鮮 〔9/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航の/帆船が/時化に遭ひ/全部救はる』 大阪朝日 1929/9/12 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人多数溺死か/内地への密航中遭難す(対馬比田勝沖)』 大阪毎日 1929/9/13 〔7/9〕 上県郡・長崎 【渡航】
・『遭難の/密航者/送り還さる』 大阪朝日 1929/9/14 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人(神戸へ送還)』 大阪毎日 1929/9/28 神毎 〔9/7〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航常習者/出発間際に逮捕』 京城日報 1929/10/5 〔4/2〕 南海郡・朝鮮 【渡航】
・『内地密航に/飛行機/利用せんとして取押へらる』 大阪朝日 1929/10/24 西北 〔〕 慶州・朝鮮 【渡航】
・『強ひて罪人にして鮮人少年を保護さす/複雑な家庭の事情から死出の旅の密航哀話』 大阪朝日 1929/11/21 神版 〔9/6〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航鮮人少年/船で使ってくれと哀願す』 大阪毎日 1929/11/21 神毎 〔9/7〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航鮮人十数名取押へらる(門司市)』 福岡日日 1929/12/25 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航上陸の十三鮮人/それゞゝに斡旋(門司)』 門司新報 1929/12/26 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人十九名西戸崎に上陸し寒さにふるふ(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1929/12/27 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『関釜連絡船で怪しい鮮人/密航を企て逮捕さる』 大阪毎日 1929/12/29 朝鮮 〔9/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『寒風にふるえて鮮人の密航団/叉もブローカーに騙される/発動船で玄海横断(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1930/1/7 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『内地渡航を望む鮮人を食物にする不正船員/叉も密航団十二名下関に現る/怪発動船の行方を厳重捜索』 福岡日日 1930/1/8 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航卅八名逆戻り』 京城日報 1930/1/9 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航船の行方捜査』 京城日報 1930/1/10 〔4/2〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『卅二名の密航団送還』 京城日報 1930/1/11 〔4/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二鮮人の密航』 門司新報 1930/1/12 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『西戸崎に密航鮮人/子供を混つて十数名』 九州日報 1930/2/13 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団十三名を発見(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1930/2/13 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人八十八名を逮捕/遠賀郡岡垣村に上陸/炭坑方面に潜入(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1930/3/5 〔1/2〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『又も鮮人密航/けさ、西公園へ三名』 九州日報 1930/3/19 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『多数の密航鮮人/西公園付近から上陸し三十名は検挙さる』 福岡日日 1930/3/19 夕 〔1/4〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又も西戸崎鮮人密航(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1930/3/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『姪浜にも密航鮮人(早良郡姪浜町)』 福岡日日 1930/3/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航超特作/マストの先端に隠る』 京城日報 1930/5/2 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『命がけの密航/関釜連絡船の数十尺の/マストによぢ登り』 大阪朝日 1930/5/2 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『<慶尚南道>生血を吸ふ悪ブローカー/内地密航を種にして近く大々的検挙する』 京城日報 1930/5/3 〔4/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二十八名を密航させて/手数料を取った/三名遂に捕る』 大阪朝日 1930/5/3 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『雑魚寝の密航鮮人/六名門司老松公園に』 九州日報 1930/5/4 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人九名密航/発動機船に便乗』 門司新報 1930/5/14 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航支那人送還(朝鮮の草梁海岸から門司に上陸)』 京城日報 1930/5/20 〔4/4〕 北九州市門司区・福岡 【渡航】
・『密航朝鮮人を/船中で脅迫/所持金を全部巻上ぐ/海賊動揺の密航ブローカー』 大阪朝日 1930/5/21 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『潜航、密航斡旋の首犯原田捕はる/一味の蛭子丸船員も悉く検挙さる』 大阪毎日 1930/5/22 朝鮮 〔9/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人発見』 門司新報 1930/6/5 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航を企て/大時化に逢ふ』 大阪朝日 1930/6/17 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人泣く/飲まず食はずに』 福岡日日 1930/8/25 〔1/7〕 ・佐賀 【渡航】
・『密航労働者を/脅迫の船長らに/それぞれ懲役を求刑』 大阪朝日 1930/10/16 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航の鮮人/七尾で保護さる』 北國 1930/11/19 夕 〔2〕 七尾市・石川 【渡航】
・『朝鮮人四十三名/内地密航を企つ/漁業会社の船員と詐称/下関入港発見さる』 大阪朝日 1931/2/27 広島 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『四十二名の鮮人密航団/鮮魚運搬船へ潜伏/下関署に発見さる(川尻町で漁業従業のため雇入れて来たものと訂正あり、三月一日付け記事)』 中国 1931/2/27 〔〕下関・山口 【渡航】
・『四十三名の鮮人密航/下関入港の機帆船にて』 門司新報 1931/2/27 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『男女三十九名が/密航詐欺にかかる/犯人は姿を晦ます』 大阪朝日 1931/3/12 南鮮 〔〕 対馬・長崎 【渡航】
・『欺かれた鮮人密航団/四日間玄界灘を漂流し厳原で置き去らる』 大阪朝日 1931/3/19 夕 〔2/7〕 長崎・長崎 【密入国】
・『石炭庫にかくれていた/密航者発見さる/怪しいトランクを所持』 中国 1931/3/25 〔〕 呉・広島 【渡航】
・『丗名の密航者又朝鮮から/花見酒宴中の騒ぎ(糸島郡北崎村)』 福岡日日 1931/3/31 〔1/3〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『四十二名の鮮人密航/中には甘い道行きもある』 門司新報 1931/4/1 〔1/5〕 ・山口 【渡航】
・『密航の朝鮮女に鮮人土工連が暴行/説得する親方等を負傷さす/女房にすると頑張て』 福岡日日 1931/4/10 〔1/3〕 ・佐賀 【社会】
・『朝鮮人の密航団/一人あたり十五円の料金で/三十二人山口県へ』 中国 1931/4/30 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人四十名の上陸』 門司新報 1931/5/10 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『丗六名の密航鮮人糸島の北崎海岸に上陸/前原署で取調の上送還(糸島郡北崎村)』 福岡日日 1931/5/17 夕 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航の二鮮人』 大阪朝日 1931/5/27 神版 〔9/7〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『密航発見さる』 大阪毎日 1931/5/27 神毎 〔9/5〕 神戸・兵庫 【社会】
・『下関署で/密航鮮人/厳重取締る』 大阪朝日 1931/6/13 南鮮 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮を本拠に密航の周旋/不正の戸籍謄本を所持した男の口から暴露す』 神戸新聞 1931/6/22 〔7/5〕 神戸・兵庫 【社会】
・『全鮮に網を張る密航の大周旋団/内地居住朝鮮人の謄本を盗用/本拠を仁川に置く』 大阪朝日 1931/6/22 神版 〔9/6〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『西戸崎に密航鮮人(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1931/6/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航朝鮮人領事館へ自首(在神戸)』 大阪朝日 1931/7/4 神版 〔9/7〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『密航鮮人二十三名発見さる(早良郡藤島村)』 福岡日日 1931/7/7 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『廿八名の鮮人若松に密航(若松市)』 福岡日日 1931/8/17 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『夫恋ひしさに鮮人密航(糸島郡北崎村)』 九州日報 1931/8/18 〔1/7〕 ・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航』 福岡日日 1931/8/20 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『三日不飲不食の密航二人鮮人(門司)』 門司新報 1931/11/22 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『朝鮮人二十三名密航/糸島へ上陸(糸島郡芥屋村)』 九州日報 1931/12/4 〔1/7〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『鮮人内地密航団/釜山に送還さる』 大阪朝日 1932/3/3 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航団/釜山で検挙』 大阪朝日 1932/3/13 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『五十余名の密航鮮人/北崎と志賀島に』 福岡日日 1932/3/29 夕 〔1/2〕 糸島郡、福岡・福岡 【渡航】
・『朝鮮から十四名発動船で密航/小倉海岸に上陸す(門司)』 門司新報 1932/3/30 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『神天丸に密航者(大阪摂津汽船)』 大阪朝日 1932/4/2 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人二十五名小戸海岸に上陸/九名は行方不明』 福岡日日 1932/4/3 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又も廿二名の鮮人密航団(門司市)』 福岡日日 1932/4/8 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人密航者十五名/門司駅で捕はる(門司)』 門司新報 1932/4/9 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『発動船による/内地への密航/最近またも増加す』 大阪朝日 1932/4/12 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『頓に劇増した鮮人の内地密航/一月以降千名に上らん』 門司新報 1932/4/14 〔1/5〕 ・佐賀 【渡航】
・『朝鮮人の/内地密航/絶滅計画』 大阪朝日 1932/4/26 南鮮 〔〕 ・朝鮮 【渡航】
・『又も戸畑に鮮人の密航/内三名を門司水上署で逮捕(門司)』 門司新報 1932/4/26 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『最近非常に多い鮮人の内地密航/発見護送された者の外潜入した者もかなり多数(門司市)』 福岡日日 1932/5/13 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『発動船で密航の鮮人十九名/門司市大久保に上陸(門司)』 門司新報 1932/5/13 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『取締上厄介千万な朝鮮人の内地密航/内鮮協力して研究/池田総督府警務局長語る』 福岡日日 1932/5/14 〔1/4〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人四十名/豊浦郡へ上陸』 門司新報 1932/5/15 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『四十名の密航鮮人』 福岡日日 1932/5/16 〔1/3〕 ・山口 【渡航】
・『またも密航鮮人/不逞の徒の潜入を警戒し福岡県警察部大緊張(糸島郡福吉村)』 福岡日日 1932/5/25 〔1/3〕 ・福岡 【渡航】
・『八十五名の密航鮮人/門司水陸両署大活動開始(門司)』 門司新報 1932/5/25 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『大仕掛の/密航ブローカー/釜山で検挙される』 大阪朝日 1932/5/28 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人大検挙/昨朝下関両署が』 門司新報 1932/6/3 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『又も密航鮮人十一名神ノ湊海岸に上陸 東郷署に連行取調べ 首謀者二名も逮捕(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1932/6/4 夕 〔1/2〕 宗像・福岡 【渡航】
・『五人連の鮮人/丗余名の密航一味と判る(門司市)』 福岡日日 1932/6/5 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『また下関へ鮮人密航/一部は逃走す』 門司新報 1932/6/11 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『不穏文書を持った密航鮮人/新韓会幹部からの重要指令/下関署色めく(山口県川中村)』 九州日報 1932/6/12 〔1/7〕 下関・山口 【共産主義】
・『密航の検挙から鮮人の陰謀暴露/朝鮮独立運動の不穏文書現れ/下関署異常な緊張』 門司新報 1932/6/12 〔1/5〕 下関・山口 【民族運動】
・『又々九名の密航鮮人(糸島郡野北村)』 福岡日日 1932/6/14 夕 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航団三十余名/釜山で検挙/ブローカー二名も取押へ』 大阪朝日 1932/8/7 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人密航団又も姿を現はす/昨日門司日野海岸に(門司)』 九州日報 1932/8/30 〔1/4〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航者/時節柄門水署大活動(門司)』 門司新報 1932/8/30 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『「赤手」防御の陣/但馬海岸を警戒/朝鮮方面の密航者に備ふ/警官十名を増派し』 大阪朝日 1932/10/16 神版 〔1/13〕 城崎郡・兵庫 【警戒】
・『下関方面に続々鮮人密航す/陸軍大演習を前に/愈よ警戒を固む』 福岡日日 1932/11/1 〔1/3〕 下関・山口 【警備】
・『大演習を機に鮮人不穏計画/発動機船で密航下関署に挙らる』 九州日報 1932/11/5 〔1/7〕 下関・山口 【警備】
・『密航鮮人取押表彰(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1932/11/13 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『労働者の/内地密航/を企て一味検挙さる』 大阪朝日 1933/1/20 南鮮 〔〕 馬山・朝鮮 【渡航】
・『証明書を偽造/鮮人の密航』 門司新報 1933/2/3 〔1/5〕 下関・福岡 【渡航】
・『大規模な内地密航/釜山で捕はる』 大阪毎日 1933/2/5 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人三名発見送還さる/他の一味を捜査中』 福岡日日 1933/2/10 夕 〔1/2〕 下関・福岡 【渡航】
・『密航鮮人の方割れ捕はる/門司水上署員に(門司)』 門司新報 1933/2/10 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『十六名の密航鮮人/五名発見送還される(糸島郡加布里村)』 福岡日日 1933/2/21 夕 〔1/2〕 前原・福岡 【渡航】
・『神ノ湊に密航鮮人/十九名上陸(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1933/3/16 〔1/3〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『夜雨を衝いて密航鮮人/大捕物の幕』 福岡日日 1933/3/28 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人三十名/又も糸島へ上陸(糸島郡加布里村)』 福岡日日 1933/3/29 夕 〔1/2〕 前原・福岡 【渡航】
・『密航鮮人送還(糸島郡前原町)』 九州日報 1933/3/30 〔1/7〕 前原・福岡 【犯罪】
・『密航者満載の/怪船捕はる/僅か十五トンの小舟に/密航者六十六名潜伏(福岡へ)』 大阪朝日 1933/4/5 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を企て難破す』 大阪毎日 1933/4/9 朝鮮 〔5/5〕 浦項・朝鮮 【渡航】
・『警戒網を潜る密航鮮人/門司水上署手配(門司市)』 福岡日日 1933/4/10 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人逮捕』 福岡日日 1933/4/12 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『子供も交つて十三名が密航/下関署に一網打尽』 門司新報 1933/4/13 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮人の密航周旋/二人共謀して手数料をとる』 大阪毎日 1933/4/17 西部 〔7/13〕 宇部・山口 【渡航】
・『二鮮人密航』 大阪毎日 1933/4/17 西部 〔7/13〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『下関にも密航鮮人現はる(山口県川中村)』 九州日報 1933/4/22 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『またも鮮人の密航/糸島海岸に上陸(糸島郡芥屋村)』 九州日報 1933/4/22 夕 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(糸島郡芥屋村)』 福岡日日 1933/4/22 〔1/3〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『八名の密航/釜山で逮捕』 大阪毎日 1933/4/30 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人十二名』 福岡日日 1933/4/30 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人/十一名中一名逮捕』 福岡日日 1933/5/10 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『廿三名の密航鮮人逮捕』 福岡日日 1933/5/13 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『またも密航鮮人/けさ西戸崎にて十五名取押へらる(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1933/5/24 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又復密航鮮人』 福岡日日 1933/5/31 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『またも密航鮮人(若松市)』 福岡日日 1933/6/7 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『四十余名の大密航/釜山で検挙』 大阪毎日 1933/6/10 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人四名/吉隈坑で逮捕』 大阪毎日 1933/6/11 西部 〔6/6〕 嘉穂郡桂川町・ 【渡航】
・『鮮人十七名またも密航』 福岡日日 1933/7/11 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人の密航』 門司新報 1933/7/12 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『六百円を盗んで靴の下にかくして密航』 福岡日日 1933/7/16 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航ブローカー二名検挙さる』 大阪毎日 1933/8/27 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『赤の密航、新潟港で監視』 社会運動通信 1933/9/16 〔2/5〕 新潟・新潟 【治安】
・『十数名の鮮人密航』 福岡日日 1933/10/4 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『下関に密航鮮人』 門司新報 1933/11/2 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『釜山から釜山へ/喜劇“内地密航”/一人十五円宛絞られ/馬鹿を見た十一名』 大阪毎日 1933/11/24 朝鮮 〔?/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団三十一名/ブローカー四名も検挙』 大阪朝日 1933/11/28 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人をつんだ怪発動機船(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1933/12/7 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『炭坑景気を慕ひ/鮮人密航最近相つぐ(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1933/12/22 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又も密航鮮人』 福岡日日 1933/12/30 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『 「景気」に釣られた鮮人五十名/密航して捕はれすぐさま送還(宗像郡岬村)』 福岡日日 1934/1/16 〔1/3〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人の上陸を厳重監視/前原署の取締(糸島郡芥屋村)』 福岡日日 1934/1/19 〔1/3〕 糸島郡・福岡 【警備】
・『三十名中の密航鮮人六名/門司で検挙』 福岡日日 1934/1/26 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航/二十二名補る』 九州日報 1934/3/3 〔1/7〕 ・佐賀 【渡航】
・『朝鮮人の密航者/各方面へ潜入/済州島で手数料をとり斡旋/中の四名は検挙さる(岩白石粉工場)』 芸備日日 1934/3/4 〔〕 木江・広島 【渡航】
・『密航珍風景/門司に辿りついた七勇士?』 大阪毎日 1934/3/4 朝鮮 〔5/9〕 北九州市門司区・福岡 【渡航】
・『密航鮮人三名/木ノ江町で発見された(岩白石粉工場)』 中国 1934/3/4 〔〕 木江・広島 【渡航】
・『十円廿円で鮮人に密航周旋/主魁下関署に捕はる』 門司新報 1934/3/20 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『糸島今津海岸に密航鮮人八名(糸島郡今津村)』 福岡日日 1934/3/21 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『警官も舌を巻いた/新手の密航法/ナンセンス偽狂人』 大阪毎日 1934/3/22 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航の青年、朝鮮から二名』 大阪朝日 1934/3/31 神版 〔4/19〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『六十名の密航団/渡航料一人四円づゝ徴収して出帆の間際検挙さる』 大阪毎日 1934/4/1 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『丗余名の鮮人が密航/下関で検挙』 門司新報 1934/4/10 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『宇部に密航鮮人』 九州日報 1934/4/18 〔1/7〕 宇部・山口 【渡航】
・『間一髪/取押へた密航者百名/赤崎半島から内地へ』 大阪朝日 1934/4/18 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『またも下関へ鮮人が密航す』 門司新報 1934/4/18 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】

・『密航首謀者/海中に姿を晦す/寸前警官隊に追はれ/密航料を握ったまま』 大阪朝日 1934/4/20 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/検挙が端緒に/釜山署警官不正事件』 大阪朝日 1934/5/10 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『一人十円で朝鮮人の密航/下関に上陸して発見』 門司新報 1934/5/13 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人か/阿品海岸へ発動船/十数名夜陰に上陸』 中国 1934/5/16 〔〕 廿日市・広島 【渡航】
・『朝鮮の大密航団/広島県特高課と加計署が/検挙に大活動を開始(下山発電所の間組飯場)』 中国 1934/5/18 〔〕 ・広島 【渡航】
・『五十名の密航者/発見され逃走』 大阪毎日 1934/5/24 朝鮮 〔5/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『またも鮮人が下関に密航』 門司新報 1934/5/24 〔1/5〕 下関・福岡 【渡航】
・『下関市外に鮮人の密航頻々/六十余名を検挙』 福岡日日 1934/6/2 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『一人十円で密航の斡旋/門司で主魁御用(門司)』 門司新報 1934/6/7 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『着流しの朝鮮人/何と堂々と密航/気狂ひを装ふ手もある/“釜山ケ関”の富樫も顔負け』 大阪毎日 1934/6/21 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『五十名の密航団/部落民の応援で遂に逮捕』 大阪朝日 1934/6/26 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者を世話し航海中に巻上ぐ/恐ろしいブローカー逮捕さる』 大阪毎日 1934/6/27 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『六十余名の/密航団捕る/漕ぎ寄せた密航船長/ブローカーら四名も』 大阪朝日 1934/6/30 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/またも検挙』 大阪朝日 1934/7/5 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地人に化け鮮人が密航』 門司新報 1934/7/10 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人六名検挙さる(門司市)』 福岡日日 1934/7/30 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航の鮮人四十名上陸/広島方面に潜入の形跡/門司では二人を逮捕(門司)』 門司新報 1934/7/30 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人上陸』 門司新報 1934/8/2 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航者泣かせのブローカの一団/一味十名逮捕さる』 大阪毎日 1934/8/3 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人三十名上陸』 門司新報 1934/8/21 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人発見』 門司新報 1934/8/26 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『臭ひ密航(門司)』 門司新報 1934/8/26 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『八幡へ密航鮮人(八幡)』 門司新報 1934/8/30 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『門司和布刈へ鮮人が密航/門司署憲兵隊で十九名逮捕/逃亡者目下捜査中(門司)』 門司新報 1934/9/2 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航者送還(下関の彦島より)』 大阪朝日 1934/9/28 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『慰問金を割き密航料を払ふ/下関で発見された三十二名連絡船で送還さる』 大阪毎日 1934/9/28 朝鮮 〔5/7〕 下関・朝鮮 【渡航】
・『密航の阻止にブローカー掃蕩/水害罹災者を口車に乗せて絞り取る奸策』 大阪毎日 1934/10/7 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/大征伐に着手/跋扈いよいよ甚だし』 大阪朝日 1934/10/20 南鮮 〔〕 ・朝鮮 【渡航】
・『卅余名密航談/またも捕る』 大阪朝日 1934/10/24 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『月明の海上で密航船捕り物陣/三十余名を逮捕』 大阪毎日 1934/10/25 朝鮮 〔5/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の密航/志賀島に二十九名上陸(粕屋郡志賀島村)』 九州日報 1934/11/2 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航船転覆し三十余名溺死/三トンの帆船に六十余名/玄界灘闇夜の風浪で』 大阪朝日 1934/11/21 夕 〔2/5〕 釜山・朝鮮 【密航】
・『密航の朝鮮人三十余名溺死/遭難曳船中に沈没』 大阪毎日 1934/11/21 夕 〔2/1〕 釜山・朝鮮 【社会】
・『憧れの内地へ、が生む密航の悲劇/玄海を越える月百名の潜航者/頭を悩ます取締当局』 大阪毎日 1934/11/22 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『広島市を中心に鮮人大量の密航/県特高課、俄然動き/昨夜首魁ら一斉検挙』 芸備日日 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『無知を利用し/種々な奸策/阻止する当局の眼を逃れて/鮮人密航事件余聞』 芸備日日 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『朝鮮からの密航者/首魁等百八十名検挙/県特高東西両署特高課/昨夜から今暁への大捕物』 呉日日 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『首魁遂に捕る/多数を内地に密航させた大掛り鮮人密航団』 神戸又新日報 1934/11/29 〔7/7〕 広島・広島 【渡航】
・『県下に上陸した/多数の密航朝鮮人/下関で借りた発動機船に/百五十名乗せて玖波港へ(大竹海岸埋立工事や可部鉄道工事場)』 大阪朝日 1934/11/29 広島 〔〕 広島・広島【渡航】
・『鮮人密航団へ/一斉に大手入れ/広島県警察部が/県下各警察署を督励(大竹海岸埋立工事や可部鉄道工事場)』 中国 1934/11/29 〔〕 広島・広島【渡航】
・『汽船を傭ひ切って/鮮人の大密航/金を巻きあげ素裸かにし/トラックで工事場へ売る』 中国日報 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人を密航させ濡手に粟の儲け/六名が共謀して広島に多数潜入さす』 福岡日日 1934/11/29 〔1/3〕 ・広島 【渡航】
・『二百名の大量密航/広島県へ鮮人が潜入』 門司新報 1934/11/29 〔1/5〕 ・広島 【渡航】
・『広島県下密航鮮人/引続き検挙/今後徹底的取締り』 芸備日日 1934/11/30 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航者の取調/各飯場を捜査(可部線)』 大阪朝日 1934/11/30 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『本県にも張る/密航警戒網/先づ漁業組合と連絡』 大阪朝日 1934/11/30 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『海上にも怖い目/内地密航者を徹底的に取締る/警察網も大に拡充』 大阪毎日 1934/11/30 朝鮮 〔5/3〕 ソウル(京城)・朝鮮 【渡航】
・『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1934/11/30 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『見張が厳重で/密航者広島へ転向/福岡山口両県へ見切りをつけて/県当局密航防止に大童は』 呉日日 1934/12/1 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人の第二次検挙/更に十三名を発見/可部署は満員すし詰(可部線)』 芸備日日 1934/12/2 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『またまた密航鮮人/十四名を検挙/安佐郡飯室付近で/なほ数十名もゐる(可部線)』 中国 1934/12/2 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人五十数名を/第一次に送還/警官十数名を乗り込ませ/七日に広島港出帆』 中国 1934/12/4 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人の/第二次検挙/更に十三名を発見(可部線工事場)』 中国日報 1934/12/4 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『モダーン留置場/いよいよ店開き/最初のお客さんは密航鮮人(可部線)』 芸備日日 1934/12/5 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『慌てちゃいけない/便器で洗面/モダン留置場に入れられ/大喜びの密航朝鮮人(可部線)』 大阪朝日 1934/12/5 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『県庁留置場へ/いと賑々しく初のお客様/例の鮮人密航団』 中国 1934/12/5 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人五十名/先づ故国へ送還/更に全面的に検挙』 中国日報 1934/12/5 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『門司雨ヶ窪へ密航鮮人上陸/何れも悪船頭に欺されて(門司)』 門司新報 1934/12/5 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航者送還』 大阪朝日 1934/12/7 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『とてもものものしい/密航鮮人の送還/警護の警察官へは/拳銃も携帯さして』 中国 1934/12/7 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『帰りは大っぴらに/ピストル警官隊に護られて/密航鮮人団の送還』 中国 1934/12/8 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『物々しく警戒/密航鮮人送還/拳銃も携帯さして/船内の暴動化をも』 中国日報 1934/12/8 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『内地密航送還さる/高興の五十七名』 大阪毎日 1934/12/11 朝鮮 〔5/10〕 高興・朝鮮 【渡航】
・『鮮人四十名密航/若松に上陸』 九州日報 1934/12/12 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『若松築港へ密航鮮人(若松)』 門司新報 1934/12/12 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『下関市外へ密航鮮人』 門司新報 1934/12/13 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『二度目の密航/香川県の発動船』 大阪朝日 1934/12/16 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人下関市外へ上陸』 門司新報 1934/12/19 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『四十四名の鮮人密航(小倉市)』 福岡日日 1934/12/27 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『貨物船に隠れて/朝鮮青年の密航/吉浦に入港検閲中に発見/身柄を大阪税関に』 中国日報 1935/1/19 〔〕 呉・広島 【渡航】
・『今津海岸に密航鮮人(糸島郡今津村)』 福岡日日 1935/2/14 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人捕る/頻りに暗躍』 神戸新聞 1935/2/16 〔6/8〕 神戸・兵庫 【社会】
・『又も密航/ブローカー捕る』 大阪毎日 1935/2/28 朝鮮 〔7/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人又も密航』 福岡日日 1935/3/1 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人西公園下に上陸』 福岡日日 1935/3/6 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人/三田尻署へ』 中国 1935/3/10 〔〕 三田尻・山口 【渡航】
・『密航鮮人に/光る鋭い眼/思想的黒幕あるか』 中国日報 1935/3/11 〔〕 広島・広島 【警備】
・『発動機船満載の/密航団捕はる/釜山水陸両署の活動』 大阪朝日 1935/3/20 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『またまた大懸りな/密航鮮人募集計画/検挙に大活動開始』 中国 1935/3/24 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『又も密航鮮人』 福岡日日 1935/3/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航の土方(帝国人絹三原工場建設)』 中国 1935/3/25 〔〕 三原・広島 【渡航】
・『大規模な鮮民の/団体密航計画暴露/危機一髪宇品署に検挙さる』 芸備日日 1935/3/27 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『大規模な鮮民の/団体密航計画暴露/危機一髪宇品署に検挙さる/驚くべきその全貌』 中国日報 1935/3/28 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『性懲りなき密航鮮人』 福岡日日 1935/3/28 夕 〔1/2〕 ・福岡、佐賀、長崎 【渡航】
・『三日間一食もせず/密航鮮人丗名芦屋で捕はる(遠賀郡芦屋町)』 福岡日日 1935/3/29 夕 〔1/2〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『悪ブローカーを厳重に監視/当局の密航者取締』 大阪毎日 1935/4/14 朝鮮 〔5/6〕 ソウル(京城)・朝鮮 【渡航】
・『姪浜小戸海岸に密航鮮人上陸』 福岡日日 1935/4/21 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人』 中国 1935/4/22 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『海のギャング/十四名を密航させる途中短刀を揮ひ裸にす』 大阪朝日 1935/5/1 〔11/8〕 対馬・長崎 【密航】
・『出帆後気づく密航者の取締り/警備船新造を申請』 大阪毎日 1935/6/7 朝鮮 〔5/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『警察の名で偽電/鮮人が密航企つ(林田)』 大阪毎日 1935/6/13 神版 〔8/13〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『鮮人の密航/門司を徘徊(門司)』 九州日報 1935/6/17 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『映画もどきで密航者を逮捕/豪勢な主謀者』 大阪毎日 1935/7/11 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『六銭で密航』 大阪毎日 1935/7/21 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『糸島海岸に密航鮮人(糸島郡北崎村)』 福岡日日 1935/8/6 〔1/7〕 ・福岡 【渡航】
・『またゝゝ密航鮮人/ 釜山署から門水署へ手配(門司市)』 福岡日日 1935/8/15 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『他人の戸籍謄本を用ゐて密航/鮮人渡来の裏面に怪しい事情の者が多い』 福岡日日 1935/8/24 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『廿名の密航鮮人/釜山の密航団本部から九州へ 時節柄重大視さる(門司)』 九州日報 1935/9/7 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人四十数名/下水署に捕はる』 門司新報 1935/10/20 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人四十三名/一斉に逮捕(山口県川中村)』 九州日報 1935/10/21 〔1/7〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人五十名』 福岡日日 1935/10/22 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人の密航』 九州日報 1935/11/5 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『「妻が見たい」/哀号・哀号/密航男還さる』 大阪朝日 1935/12/7 広島 〔〕 尾道・広島 【渡航】
・『女房恋しさに密航/貨物船に潜伏中発見』 中国 1935/12/7 広島 〔〕 尾道・広島 【渡航】
・『密航朝鮮人/宇品署の取調べで/大胆な組織判明』 大阪朝日 1936/1/23 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人密航団発覚/ブローカーが全鮮に散在/宇品署が手配活動』 中国 1936/1/23 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人の内地密航/又増加の傾向/ブローカーの手で至極巧妙/一名宇品署員に捕る』 呉日日 1936/1/24 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『両県下に潜在する/鮮人の大密航団/陰に踊るブローカーの魔手/宇品署活動を開始』 中国日報 1936/1/24 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『大掛りの密航鮮人/広島県下で発覚』 福岡日日 1936/1/24 夕 〔1/2〕 ・広島 【渡航】
・『小倉に密航鮮人』 九州日報 1936/3/4 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人/門司で五名逮捕(門司)』 九州日報 1936/3/9 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人捕る/大里松原海岸で/七名逮捕十三名逃亡(門司)』 門司新報 1936/3/9 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『大掛りの鮮人密航/約八十名が上陸四十八名を門司署で補ふ(門司)』 九州日報 1936/3/15 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『四十七名の密航鮮人門司で捕はる』 福岡日日 1936/3/15 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『厳戒を潜り大挙密航鮮人/和布刈に七十名上陸(門司)』 門司新報 1936/3/15 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人と判る』 福岡日日 1936/3/20 〔1/7〕 ・大分 【渡航】
・『密航朝鮮少年/水上署に保護』 神戸新聞 1936/3/26 〔6/8〕 神戸・兵庫 【社会】
・『大久保海岸に密航鮮人/一名だけ捕る(門司)』 門司新報 1936/4/19 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『又も密航鮮人』 福岡日日 1936/4/20 〔1/7〕 下関・山口 【渡航】
・『密航者の水先案内/鮮人二名を京で取押ふ(東九条上殿田町、玄海灘の密航船に関与)』 京都日出 1936/4/22 〔〕 京都南区・京都 【渡航】
・『百余名の密航を企つ/発動船を借つて』 大阪毎日 1936/4/25 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人二十七名』 福岡日日 1936/4/25 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人丗名の内四名だけ捕はる/下関署で厳探開始』 門司新報 1936/4/28 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人(門司市)』 福岡日日 1936/5/5 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人丗名香椎に上陸/二名は門司で取押へらる(粕屋郡香椎村)』 福岡日日 1936/5/31 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『釜山へ巧みに連絡/密航鮮人の媒介/発動機船の両船長が結託/一人十円乃至十五円で』 中国 1936/6/6 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人密航船/海上で拿捕(門司)』 九州日報 1936/6/7 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『無燈火発動船/果して密航鮮人積載/門司港内で拿捕さる(門司)』 門司新報 1936/6/7 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人取締/関門両水署対策協議』 門司新報 1936/6/9 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『救命ボートに/潜んで密航/はるびん丸の怪青年』 大阪朝日 1936/6/14 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航ブローカーは船員の留守宅荒し』 大阪毎日 1936/7/21 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者検挙』 大阪毎日 1936/7/30 朝鮮 〔5/1〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『半島の密航少年/広島駅前で検挙/他にも数名県下へ潜入』 中国 1936/8/14 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『数年間捜し廻つた密航ブローカー/隠れ家で逮捕さる』 大阪毎日 1936/9/13 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人の一味数名/宇品署へ検挙/思想的背景も追及(錦華人絹工事場)』 中国 1936/9/18 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『数年間に二千人世話し一万数千円を捲あぐ/十人の妾をもち住所を転々/密航ブローカーの巨頭、犯行自白』 大阪毎日 1936/9/26 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人又も志賀島へ(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1936/9/30 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航ブローカーで二万数千円捲あぐ/釜山水上署が検挙』 大阪毎日 1936/10/23 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人密航ブローカーの一味を捕ふ/思想犯人として手配中の者/宇品署警官に即賞』 芸備日日 1936/10/31 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『朝鮮人密航の/首魁逮捕/宇品署の手柄』 中国 1936/10/31 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『朝鮮から密航』 中国日報 1936/11/1 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『徘徊中の密航鮮人』 門司新報 1936/12/5 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人の密航周旋発覚』 九州日報 1936/12/18 〔1/7〕 直方・福岡 【渡航】
・『冷雨を衝いて鮮人六十名密航/彦島田ノ首海岸へ上陸』 門司新報 1936/12/23 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『半島人密航団/宇部に上陸か/下関港では二十名位いが上陸/目下厳重行方捜査中』 芸備日日 1936/12/24 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人逮捕(若松)』 九州日報 1936/12/26 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人十三名を検挙(若松市)』 福岡日日 1936/12/26 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(遠賀郡遠賀村)』 九州日報 1936/12/27 〔1/7〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『下関市外海岸へ/多数の密航鮮人!/正月の手薄に乗じて混れ込み/十二名を逮捕、残る一味厳探』 中国 1937/1/5 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『内地密航団八十名検挙/長崎県下で』 大阪毎日 1937/1/7 朝鮮 〔5/10〕 松浦・長崎 【渡航】
・『七十余名の鮮人が密航』 福岡日日 1937/1/9 〔1/7〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人の一名/広島で逮捕/盛り場徘徊中宇品署員に』 中国 1937/1/14 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航ブローカー一味を検挙/前科数犯の強者のみ』 大阪毎日 1937/1/17 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『門司に密航鮮人(門司)』 九州日報 1937/1/23 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『大量の密航鮮人/和布刈天ヶ窪に上陸(門司)』 門司新報 1937/1/23 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航を企つ/資産家の息子』 大阪毎日 1937/2/6 朝鮮 〔5/10〕 大邱・朝鮮 【渡航】
・『四十五名の密航鮮人(宗像郡津屋崎村)』 福岡日日 1937/2/24 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『数十名の鮮人を堂々と密航さす/宇部署に十数名引致して極秘裡に取調ぶ』 福岡日日 1937/2/24 〔1/7〕 ・佐賀 【渡航】
・『佐渡航許可証を偽造/密航鮮人に売る/森永巡査懲戒処分に付さる/佐賀県警察界の不祥事』 福岡日日 1937/2/28 夕 〔1/2〕 ・佐賀 【渡航】
・『警官に応援の二人帰途袋叩きに逢ふ/彦島本村鮮人飯場の密航鮮人/下水署で厳重取調べ』 門司新報 1937/3/9 〔1/5〕 下関・山口 【喧嘩】
・『鮮人密航船/門司に上陸(門司)』 九州日報 1937/3/11 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人逮捕/田地を売つてきた農夫たち/田野浦海岸へ上陸(門司)』 門司新報 1937/3/11 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航の半島人/広島で発見/炭鉱生活に耐えず九州から潜入』 中国 1937/3/12 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人捕はる』 福岡日日 1937/3/18 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(若松市)』 福岡日日 1937/3/24 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航者二名発見』 大阪毎日 1937/3/25 朝鮮 〔5/10〕 上県郡上対馬町・長崎 【渡航】
・『密航鮮人(京都郡行橋町)』 九州日報 1937/3/26 〔1/7〕 行橋・福岡 【渡航】
・『密航船検挙』 大阪毎日 1937/3/30 朝鮮 〔5/5〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『深夜の若松へ密航鮮人群上陸/水陸より包囲されその儘逃走(若松)』 門司新報 1937/3/31 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人相手の不良団(門司市)』 福岡日日 1937/4/6 〔1/7〕 北九州・福岡 【社会】
・『密航の癩病鮮人? 三十八名中二十名を検挙/十八名は上陸逃走(門司)』 門司新報 1937/4/6 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『対馬に密航鮮人ブローカー(門司市)』 福岡日日 1937/4/7 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1937/4/8 朝鮮 〔5/10〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『山に逃込んだ密航鮮人/山狩りして引捕ふ(門司市)』 福岡日日 1937/4/21 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『喜多久海岸に密航鮮人三十名/天然痘続発の折柄重大視/逃走者を厳重に捜索(門司)』 門司新報 1937/4/21 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人密航(門司市)』 福岡日日 1937/4/22 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(小倉)』 九州日報 1937/5/1 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『入学証を購入/新手密航鮮人』 門司新報 1937/5/12 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人一網打尽』 福岡日日 1937/5/20 〔1/7〕 ・山口 【渡航】
・『二組の密航団/一味六十名検挙』 大阪毎日 1937/6/8 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航(江波町埋立工事人夫)』 中国 1937/7/1 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『六十名の密航鮮人/廿名は行方不明(宗像郡岬村)』 福岡日日 1937/8/31 夕 〔1/2〕 ・福岡 【渡航】
・『十八名の密航鮮人/東郷署と折尾署で取押へ(宗像郡岬村)』 福岡日日 1937/9/17 〔1/5〕 ・福岡 【渡航】
・『密航鮮人博多湾へ/十一名捕はる(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1937/11/2 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人盗む』 福岡日日 1937/11/20 〔1/7〕 福岡・福岡 【社会】
・『大密航団検挙/ブローカー五名と外に六十六名』 大阪毎日 1937/12/18 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人大量送還』 大阪毎日 1937/12/21 朝鮮 〔3/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30 〔1/2〕 ・福岡 【渡航】
・『鮮人密航団/西戸崎に大挙上陸(粕屋郡志賀島村)』 九州日報 1938/2/17 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『レプラ患者の密航鮮人団/奈多海岸より上陸(粕屋郡和白村)』 福岡日日 1938/2/17 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『鮮人七十二名西戸崎に密航(粕屋郡志賀島村)』 九州日報 1938/3/3 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人百七十/姪濱小戸海岸に上陸』 九州日報 1938/3/15 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航者送還』 大阪毎日 1938/3/17 朝鮮 〔3/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/一味五名を逮捕/風を食つて首魁逃走』 大阪毎日 1938/3/20 朝鮮 〔3/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙/殺人の前科者ら/ブローカー七名を逮捕』 大阪毎日 1938/3/27 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航者に化け密航船を検挙/船上の大活劇』 大阪毎日 1938/4/3 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『四十数名の密航鮮人(粕屋郡和田村)』 九州日報 1938/4/30 夕 〔1/2〕 糟屋郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2 〔1/5〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『密航者送還』 大阪毎日 1938/5/14 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『変装して乗込み/密航一味七十一名を逮捕/海中に飛入るものさへあつて/映画さながらの活劇』 大阪毎日 1938/5/18 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21 〔7/6〕 神戸・兵庫 【社会】
・『半島少年が密航』 大阪毎日 1938/5/21 神版 〔12/13〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『意外、密航船は行方不明中の第二照丸と判明/船長らの悪事暴露』 大阪毎日 1938/5/25 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『半島少年仏国への密航を自白』 神戸新聞 1938/5/29 〔7/11〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航一味逮捕』 大阪毎日 1938/6/1 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『警官隊が乗込み密航船内で大格闘/船は沈没、百余名の密航者警備船に救はる』 大阪毎日 1938/6/8 朝鮮 〔5/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/大物が殆ど捕はる/大掛りな密航根を断つ?』 大阪毎日 1938/6/10 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団捕る』 大阪毎日 1938/7/30 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人六十名/八幡署に捕る』 九州日報 1938/8/18 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1 〔〕 海田・広島 【渡航】
・『鮮人百名密航(小倉)』 九州日報 1938/9/9 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1938/9/22 朝鮮 〔6/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人仲介首魁捕はる/苦心の折尾署に凱歌(門司)』 九州日報 1938/10/14 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人の一味捕はる(門司市)』 福岡日日 1938/10/27 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航船座礁 半島人六十名を乗せた儘/船長は逸早く逃走(若松)』 九州日報 1938/12/5 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人唐津大島に』 福岡日日 1938/12/6 夕 〔1/2〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『又も密航鮮人(小倉)』 九州日報 1938/12/13 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航の半島人』 大阪朝日 1938/12/15 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『神湊に密航半島人(宗像郡神湊町)』 九州日報 1938/12/17 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1938/12/17 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人上陸を企つ(宗像郡津屋崎町)』 九州日報 1938/12/20 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/12/20 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21 〔1/2〕 ・佐賀 【渡航】
・『密航船検挙』 大阪毎日 1938/12/3(?) 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『五百人を密航させ五千円を捲あぐ/密航船坐礁、船長逃走』 大阪毎日 1939/1/21 朝鮮 〔5/9〕 北九州市若松区・福岡 【渡航】
・『持てあます密航鮮人(南田平海岸に208名上陸)』 大阪毎日 1939/1/22 長崎 〔5/12〕 北松浦郡・長崎 【渡航】
・『密航料詐取/袋叩きに廿余名を欺く』 大阪毎日 1939/1/25 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』 福岡日日 1939/2/3 〔1/7〕 ・福岡 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/2/7 朝鮮 〔?/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『海上時余の猛追撃/鈴なりの密航船捕る(103名)』 大阪毎日 1939/2/11 北九州 〔5/10〕 小倉・福岡 【渡航】
・『五千人を密航さす常習ブローカー(昭和9年ころより5000名)』 大阪毎日 1939/2/11 北九州 〔5/11〕 小倉・福岡 【犯罪】
・『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』 呉日日 1939/2/12 〔〕 倉橋・広島 【渡航】
・『半島から密航船/倉橋島方面へ出現』 芸備日日 1939/2/13 〔〕 倉橋・広島 【渡航】
・『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13 〔〕 倉橋・広島 【渡航】
・『密航鮮人使役/関係者を調ぶ(戸畑市)』 福岡日日 1939/2/13 〔1/7〕 北九州・福岡 【労働】
・『密航半島人/戸畑署で取調べ(60名検束)』 大阪毎日 1939/2/13 全九州 〔5/7〕 戸畑・福岡 【渡航】
・『密航者逮捕』 大阪毎日 1939/3/9 朝鮮 〔5/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人逮捕(28名)』 大阪毎日 1939/3/15 大分 〔5/12〕 北海部郡・大分 【渡航】
・『密航半島人を検挙/船長以下廿五名を一網打尽/唐津署で連累者取調べ』 大阪毎日 1939/3/18 佐賀 〔5/7〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『海上活劇演じ密航発動船拿捕/平戸署殊勲の大捕物(今まで一千余名上陸)』 大阪毎日 1939/4/12 長崎 〔5/10〕 北松浦郡・長崎 【渡航】
・『密航半島人の激増/きのふ五十余名姿を晦す/今春すでに二百五十名(唐津署)』 大阪毎日 1939/4/28 佐賀 〔5/7〕 東松浦郡・佐賀 【渡航】
・『密航者根絶に/五十余名検挙(唐津署)』 大阪毎日 1939/4/30 佐賀 〔5/12〕 東松浦郡・佐賀 【渡航】
・『密航の半島人高鍋署に引致(児湯郡木城村小丸川県営電気工事場人夫)』 大阪毎日 1939/5/6 宮崎 〔5/12〕 高鍋・宮崎 【渡航】
・『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航半島人(糸島郡野北村)』 福岡日日 1939/5/20 〔1/5〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航六十名を一人で逮捕/腕きゝの金刑事』 大阪毎日 1939/5/27 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を仲介/不届きな船長逮捕さる』 大阪毎日 1939/5/31 山口 〔5/11〕 下関・山口 【犯罪】
・『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1939/6/5 〔1/7〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『六十名を乗せ密航船漂流/救助、送還さる(比田勝)』 大阪毎日 1939/6/7 朝鮮 〔5/12〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『密航者百廿名送還』 大阪毎日 1939/6/7 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人補る(八幡)』 九州日報 1939/6/10 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『お尋ね者をはじめ/密航ブローカー続々検挙/捜査陣に凱歌あがる』 大阪毎日 1939/6/17 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕 〔2/7〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版 〔5/13〕 神戸・兵庫 【融和】
・『密航者送還』 大阪毎日 1939/7/8 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『(小型世間)密航が判明し(林田)』 大阪毎日 1939/7/11 神版 〔7/12〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『卅五人が密航(宇部市の中原炭坑の労務係から「鮮人稼動者の斡旋を依頼」)』 大阪毎日 1939/7/11 山口 〔5/12〕 宇部・山口 【渡航】
・『前科六犯を持つ密航ブローカー捕はる/若松市で豪遊中を』 大阪毎日 1939/7/18 北九州 〔5/9〕 若松・福岡 【犯罪】
・『大格闘の末密航団逮捕/ブローカー九名とともに』 大阪毎日 1939/7/23 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『又も密航(若松)』 九州日報 1939/8/1 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『半島人密航/豊西海岸(山口)に』 福岡日日 1939/8/2 〔1/7〕 ・山口 【渡航】
・『又も密航』 九州日報 1939/8/4 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航ブローカー/麗水で逮捕』 大阪毎日 1939/8/13 朝鮮 〔5/11〕 麗水・朝鮮 【渡航】
・『また密航群』 大阪毎日 1939/9/8 朝鮮 〔5/12〕 馬山・朝鮮 【渡航】
・『又も密航』 九州日報 1939/9/13 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航(25名)』 大阪毎日 1939/9/15 山口 〔5/12〕 下関・山口 【渡航】
・『団体密航の失敗/半島人職工を内地人に仕立て/出帆間際に捕はる』 大阪毎日 1939/9/16 朝鮮 〔5/7〕 清津・朝鮮 【渡航】
・『八十名が密航/四十余名を捕ふ』 大阪毎日 1939/9/23 山口 〔5/11〕 下関・山口 【渡航】
・『密航半島人大検挙』 九州日報 1939/10/6 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『釜山署を舞台にした密航ブローカー/見破られて御用』 大阪毎日 1939/10/14 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー廿三名検挙/北釜山署の手入れ』 大阪毎日 1939/10/15 朝鮮 〔5/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/10/25 朝鮮 〔5/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『大格闘の末/密航親分逮捕』 大阪毎日 1939/10/26 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者を乗せ出港直前御用』 大阪毎日 1939/10/12(?) 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/11/1 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1939/11/5 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『半島人密航五十名』 大阪毎日 1939/11/10 佐賀 〔5/12〕 松浦郡・佐賀 【渡航】
・『密航半島人』 九州日報 1939/11/14 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航団逮捕』 大阪毎日 1939/11/17 朝鮮 〔5/10〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30 〔〕 ・広島 【渡航】
・『密航団検挙/釜山港口で』 大阪毎日 1939/12/2 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/12/8 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者検挙』 大阪毎日 1939/12/15 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『釜山の強盗が内地へ密航/福岡県下で逮捕』 大阪毎日 1939/12/20 朝鮮 〔5/12〕 甘木・福岡 【渡航】
・『博多に密航』 福岡日日 1939/12/27 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『百十余名溺死(?)の密航船の正体判明/常習ブローカー阿比留も悪運つく』 大阪毎日 1940/1/8 朝鮮 〔?/1〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『運命をさとり密航の親分激浪中に大金を投出す/兄弟三人とも溺死』 大阪毎日 1940/1/8 朝鮮 〔?/1〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『遭難密航船のその後/まだ死体一個も発見されぬ』 大阪毎日 1940/1/9 朝鮮 〔5/10〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『密航船検挙/神仙台海岸で』 大阪毎日 1940/1/11 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地の夫と連絡し/密航の手引き/大胆な女捕はる』 大阪毎日 1940/1/12 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕 〔2/5〕 北九州・福岡 【密入国】
・『猟奇!箱詰め密航/釜山の山中で荷造り小倉駅止で発送/頼まれた朴の細工』 大阪毎日 1940/1/14 北九州 〔5/1〕 小倉・福岡 【渡航】
・『猟奇!箱詰め密航/釜山の山中で荷造り/小倉駅止で発送/頼まれた朴の細工』 大阪毎日 1940/1/15 朝鮮 〔5/1〕 小倉・福岡 【渡航】
・『半島人百廿余名乗る/密航船伊万里へ/上陸してが発覚・検挙』 大阪毎日 1940/1/20 佐賀 〔5/9〕 伊万里・佐賀 【渡航】
・『鮮人密航の悪ブローカー退治』 大阪毎日 1940/1/21 佐賀 〔5/10〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『箱詰密航結末編/李鶴祚けふ郷里へ』 大阪毎日 1940/1/26 北九州 〔5/10〕 小倉・福岡 【渡航】
・『密航の半島人一網打尽捕る/船長のみ逃走』 大阪毎日 1940/1/31 山口 〔5/11〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮で雇入れた船員密航者として送還/内地に連れ帰って』 大阪毎日 1940/2/2 大分 〔5/10〕 津久見・大分 【渡航】
・『密航者百余名/一人残らず逮捕/巧みに連絡とつて』 大阪毎日 1940/2/9 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航青年検挙』 中国 1940/2/19 〔〕 ・広島 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1940/2/27 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『行方捜査中の密航ブローカー自宅で御用』 大阪毎日 1940/3/1 朝鮮 〔?/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『約五十回にわたり千名を密航さす/常習の船長ら出帆間際に捕る』 大阪毎日 1940/3/5 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航土工逮捕』 大阪毎日 1940/3/29 長崎 〔5/12〕 佐世保・長崎 【渡航】
・『密航新戦術二つ/一は帰還勇士に化け/一は内地人の息子に』 大阪毎日 1940/3/12(?) 朝鮮 〔?/11〕 下関・山口 【渡航】
・『密航者に化けブローカーを逮捕/船頭姿を晦す』 大阪毎日 1940/4/14 朝鮮 〔?/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『密航船検挙/お尋ねものも捕はる』 大阪毎日 1940/4/24 朝鮮 〔?/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航船逮捕』 大阪毎日 1940/5/3 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航防止の新取締/廿トン未満の船舶による旅客輸送を禁止』 大阪毎日 1940/5/19 朝鮮 〔5/7〕 ・朝鮮 【渡航】
・『密航新取締/最初の違反/人命救助した天神丸』 大阪毎日 1940/5/26 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『公文書を偽造/密航詐欺/四名検挙さる』 大阪毎日 1940/5/30(?) 朝鮮 〔?/12〕 ・朝鮮 【渡航】
・『一警官の篤行に妾狂ひの父が更生/密航少年に絡る佳話』 大阪毎日 1940/6/1 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航手数料を詐取して豪遊/一味釜山署に御用』 大阪毎日 1940/6/21 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人脱走/汽車で護送途中(13名中の1名)』 大阪毎日 1940/6/28 山口 〔5/10〕 下松・山口 【渡航】
・『密航船機関長唐津で捕はる』 大阪毎日 1940/7/2 佐賀 〔5/9〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『密航の悪計発覚』 大阪毎日 1940/10/4 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航に失敗』 大阪毎日 1940/11/? 朝鮮 〔?/12〕 木浦・朝鮮 【渡航】
・『内地密航増加/釜山水上署で厳罰』 大阪毎日 1943/6/15 朝鮮 〔4/9〕 釜山・1946  密入国者・強制送還者。21420名・15925名 (警察庁調)
1947  GHQの命令で「外国人登録令」が在日韓国・朝鮮人等に施行。
     密入国・米の不正受給防止が目的。
1947  密入国者・強制送還者。6888名・6296名
1948  密入国者・強制送還者。8500名・6207名

結論 朝鮮人はタイムトラベラー密航者


13. 2012年9月07日 16:36:50 : v5sE55MwHs
>>12資料の貼り付けどうもです。

年代を見てみると、ロシア革命勃発数年後からシベリア出兵を経て

第二次大戦敗北後一部ソ連占領地から数年後の出来事。

当時のマスコミの記事ゆえに信憑性に問題があるものの

「ロシアに支配されるくらいなら密航してでも日本に渡りたい」との

親日派朝鮮人の数が多かったとの証明にはなりますね。


ロシア革命以前の「密航者摘発」の記事も上げていただけると

ありがたいのですが。


14. 2012年9月08日 19:59:58 : 3H9iQTzW8Y
>当時のマスコミの記事ゆえに信憑性に問題があるものの
まぁ、何出してもこういうこと書かれるのでしょうけどね。
最近数十年で書かれた妄想の産物からのHNPlrBDYLMの憶測推論よりは、ずっとマシでしょうね。

とりあえず簡単に見つけられたのはこれくらい
長崎県警察統計書
・外国人事故・船内密航者ノ取調ヲ受ケシモノ
明治27年2件
明治30年10件


15. 2012年9月08日 20:01:50 : 3H9iQTzW8Y
書き忘れたけど14は朝国からのもので長崎県内分だけの数ね。

16. 2012年9月09日 03:32:14 : v5sE55MwHs
>>14>>15 3H9iQTzW8Y様、どうもありがとうございます。

矢張り、歴史に学べる、朝鮮人・韓国人・中国人の皆様は

「あの時、日本に占領されて良かった。もしもロシアだったら

 この10倍以上の惨禍を蒙った事は間違いがない」

「李氏時代や清帝国時代が理想社会だったというのは政府の捏造」

「日本で貧困生活してた方が、祖国で中産階級扱いされる連中よりも

 豊かな暮らしが出来る」などの言い分がホンネだったのですね。


ワタシのこの情報源は、一応gataro先生とは師弟関係にある

HPの名前で「楽なログ」および「RISA 1972」の関係者によるものです。

自慰史観に陥らない中道公平な投稿をありがとうございました。


阿片戦争や江華島事件以来の、半島や大陸からの「密航者」で、

そのまま日本に居ついて帰化した子孫たちで、

本人たちは土着の日本人と信じ込んでいる人々はかなりになるのでは?です。

神風特攻隊の遺族の方々で靖国神社に英霊として奉られておられる

方々も調査すれば相当の数になるのではないでしょうか。


 


17. 2013年4月06日 09:53:58 : Kse53zYp5s
民団「『関東大震災で朝鮮人虐殺』は韓国の捏造でした、謝罪し撤回します」


1 名前: バーマン(新疆ウイグル自治区) 2013/04/05(金) 19:24:06.28 ID:Uk9pxXDmP PLT(12350) ポイント特典

民団「『関東大震災で朝鮮人虐殺』は韓国の捏造でした、謝罪し撤回します」

民団新聞3月20日付4面の「関東大震災加害者調書を公開」の記事は、
早稲田大学文学学術院の藤野裕子助教に直接取材したかのような印象を与え、なおかつ、
「藤野助教は『軍隊がデマを流したことを裏付ける決定的な証拠』と話している」
など、一部に不正確な内容が含まれていました。

同記事は藤野助教の了承を得て掲載したものではなく、
同記事に関する責任の一切は本紙にあります。関係者にお詫び申し上げます。

http://www.mindan.org/shinbun/news_view.php?page=10&category=2&newsid=17233

関東大震災時の朝鮮人に対する虐殺経過を加害者から直接聞き取った調書の存在がこのほど、明るみとなった。
発見した早稲田大学文学学術院の藤野裕子助教によれば、歴史研究者がこのような裁判記録を明らかにしたのは初めてではないかという。
藤野助教は「軍隊がデマを流したことを裏付ける決定的な証拠」と話している。

調書を読んだ藤野助教はあまりの凄惨さに正気でいられず、何回も席を立ったほどだったという。
コピーは許されず、タイプライターを持ち込んで2カ月がかりで写し取った。現在はマイクロフイルムにして早稲田大学で公開している。

法務省によれば刑事確定訴訟記録法による保管年限は、
「死刑又は無期の懲役若しくは禁固に処する確定裁判の裁判書」であっても保管期間は100年。
「有期の懲役又は禁固に処する確定裁判の裁判書」に至っては50年でしかない。誰に見せるのかは法務大臣の裁量とされている。
それだけに、弁護士会の合同図書館が保管していた今回の裁判記録は貴重なものといえよう。

(2013.3.20 民団新聞)
http://www.mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=2&subpage=4766&corner=2(元記事削除済)

依頼
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1365083196/34
おまけ  関東大震災の朝鮮人 http://ccce.web.fc2.com/sinnsai.html


104 名前: メインクーン(チベット自治区) :2013/04/06(土) 06:58:43.13 ID:J0iOMoG/0
m9っ^ω^) 朝鮮総督府時代を正当に評価したまえ!

105 名前: カナダオオヤマネコ(チベット自治区) :2013/04/06(土) 07:46:01.67 ID:5FAbsVPk0
さすがにこのスレは伸びないなw

106 名前: 茶トラ(大阪府) :2013/04/06(土) 07:53:59.37 ID:8UpSA22w0
アゲ

107 名前: ヨーロッパヤマネコ(茸) :2013/04/06(土) 08:10:23.69 ID:bQpBe38s0
>>84
>>86
先ず、被害者が数千人というのは嘘。何故なら、震災における朝鮮人死者の総数が数千人だから。
次に、朝鮮人による暴動があったのは本当。当時の新聞でも報道されている。
従って、日本人によって殺された朝鮮人がいたとしてもそれは正当防衛の範疇。

108 名前: ターキッシュアンゴラ(福岡県) :2013/04/06(土) 08:11:23.05 ID:HRU2QYTy0
まーたウンコリアングックモンキーの嘘がバレたのか

109 名前: ジャングルキャット(神奈川県) :2013/04/06(土) 08:17:03.27 ID:ZSI5Uoie0
>>1に張られているような
当時の新聞記事見れば、
朝鮮人の卑劣で残虐な行為は明白。
違うというのなら、なぜ多くの新聞は
同じ方向に向いているのか説明してもらいたいね(笑)。
軍部がデマwを流したとかしたいだろうが、
だったら是非証明してほしいなww。

110 名前: 白黒(埼玉県) :2013/04/06(土) 08:20:52.81 ID:cxYXOZ2i0
30 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2013/02/03(日) 15:45:42.40 ID:BNGN79xx0
"虐殺が誤解?" 関東大震災朝鮮人虐殺推定写真公開
http://www.yonhapnews.co.kr/international/2013/02/01/0602000000AKR20130201199200005.HTML
http://img.yonhapnews.co.kr/photo/yna/YH/2013/02/01/PYH2013020111390001300_P2.jpg ←チョン写真
> "虐殺はない?"、関東大地震朝鮮人虐殺推定写真公開(ソウル=連合ニュース)
> 関東大震災当時虐殺された朝鮮人犠牲者たちを撮った写真と推定される写真が公開された。
> 写真の上部には"大正十二年九月一日(大正12年9月1日)"と日付が記されており、
> 写真の中には数十体の遺体が羅列されており、遺体の下が剥がれている。
> 遺体のそばには男性が竹槍や鉄串に見える長い棒を持って立っている。
> 大正は日本克人(嘉仁)天皇の年号で、大正12年9月1日は関東大震災が起こった1923年9月1日である。
> 2013.2.3 > 2013.2.1 yunzhen@yna.co.kr

写真の実態

新吉原公園の惨状(しんよしわらこうえんのさんじょう)
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

111 名前: 白黒(埼玉県) :2013/04/06(土) 08:21:35.32 ID:cxYXOZ2i0
37 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2013/02/03(日) 15:53:19.93 ID:BNGN79xx0
ウソつきチョンのドヤ顔
http://imgnews.naver.net/image/001/2013/02/03/PYH2013020300330001300_P2_59_20130203092205.jpg
http://imgnews.naver.net/image/001/2013/02/03/PYH2013020300320001300_P2_59_20130203092205.jpg

これには「大正十二年九月一日」の文字が無い?!
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18. 2013年6月02日 22:30:34 : Un6heX4IUI
関東大震災において朝鮮人が暴動・放火を行ったのはデマと捏造したのは社会・共産主義の学者
テーマ:ブログ
2009-05-19 01:30:21
194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/18(月) 18:01:44 ID:Ze2GuhPS0
sea_lake_riverさん
SAPIOの連載によると、つまり朝鮮人と社会主義者=アカが結託してクーデターを
起そうと準備していた。そこに関東大震災が起き、混乱に乗じて朝鮮人が暴動・
放火・強姦行為をやった。特に横浜方面から品川にかけてのエリアで物凄い人数で
襲い掛かってきた。横浜方面だけでなく、深川、墨田他のエリアでどうみても火災が
起きるはずの無いエリアで爆発や火災が発生した。
その情報が警察とかに上がって丸の内とか外国の要人が居るので朝鮮人の暴動に
備えて厳戒態勢で備えていた。
この朝鮮人の暴動に怒り狂った日本人の自警団がそいつらをとっ捕まえて自衛の
為に殺害した。
なかには無実の朝鮮人と朝鮮人に間違われた日本人も居た。
戦後アカが主導になってでっち上げの人数を6000人とか捏造してデマで殺され
たと言い回った。本当はアカと朝鮮人が結託してテロ行為を起した事実を
知られるとまずいから。
苦し紛れにデマ説を必死で流した某学者は日本の社会・共産主義の土台を
作った一員でも有った(しかしそのアカの学者でさえ、実際に朝鮮人の
暴動破壊行為が合った事を大筋認めている)つまり、隠蔽工作である。
朝鮮人が暴動を起していたという証言は多数でありリアリティが有り、当時の新聞は
それを伝えているが、当時の内務大臣、後藤新平が「朝鮮人の暴動が有った事は
事実だが、自警団による自衛行為はやめさせてこの混乱を収拾させるべきだ」と
考え、風評の打ち消しに徹した。→それが所謂デマ説の正体。
「それではアカ朝鮮人から市民の安全を保証出来ない」と読売の正力氏は後藤大臣
の決定に怒り、反発して、9月末に地方へ転勤願いを提出した。
後藤新平は社会主義者と交友が有り、社会主義への知己も持っていた(後藤は右翼
とも関係が有り、いわば両刀使いだった)が、一連の暴動をきっかけに、
これではまずいと、治安維持法が制定され、社会共産主義者への弾圧へと、政府は
政策を見直し、遂行して行った。

これが大筋の事実です。朝鮮人の暴動から自衛の為に戦ったという事が歴史の
真実です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1426289464

と、2chのコピペが有ったので取りあえず「デマ説を必死で流した某学者」と言うのを調べてみた。

その学者とはズバリ、吉野作造 ですね。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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吉野 作造(よしの さくぞう 1878年(明治11年)1月29日 - 1933年(昭和8年)3月18日)は、大正期を中心に活躍した政治学者、思想家、明治文化研究家。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。号は「古川学人」。弟は政治家の吉野信次。

思想 [編集]

吉野は民本主義の思想家として知られている。民本主義はDemocracyの訳語であり、大日本帝国憲法下においては天皇主権が法理学上の建前であったため、民主主義(主権在民)という言葉を避けてこの語が用いられた。吉野の民本主義論の主眼は、いかにして国民がよき政治主体となるかではなく、いかによき執政者を選択し、かつ監督するかという点にあった。すなわちそれは、普通選挙の提唱・推進ではあっても、政治主体としての国民大衆を想定したものではない。

しかし、晩年になると吉野は無産政党関係者とかかわるようになり、その時点においては民本主義という言葉をやめ、デモクラシー、民主主義と表現するようになり、政治スタンスはオールドリベラルから社会民主主義的なものへと変化している。

吉野自身は、朝鮮の独立運動家や中国の民族主義者に対して共感する部分が多く、朝鮮の独立運動家呂運亨について、道徳的に評価できると弁護したり、孫文の起こした辛亥革命に対しての共感を覚えている。また、関東大震災時における朝鮮人虐殺について批判論文を発表するなどした。日本の帝国主義的政策に対して批判的であったため、大杉栄とともに憲兵に狙われた。関東大震災直後、憲兵が吉野宅を急襲したが、近隣の住民に気付かれ暗殺は未遂に終わった。

以上が吉野の思想的な特質であるとされ、大山郁夫や長谷川如是閑ら、同時代の大正デモクラシーの理論的指導者が進化論や多元的国家論の影響のもとにその社会観を変容させていった。吉野の影響を受けた東大の学生らは、新人会という社会運動団体を作るが、マルクス主義の影響が強くなると、吉野の思想は古いとみなされるようになった。

大日本帝国憲法下という時代的制約のなか、Democracyが世界の大勢であると広く一般向けに論じ、大正デモクラシーの機運を盛り上げた功績は、吉野の国際協調主義の今日的意義と並んで評価されるべきであろう。

まあ、日本の社会共産主義思想のタマゴみたいな方なんですねえ。
このお方が「流言蜚語」だと言いふらしていた訳ですが、中央公論で必死に朝鮮人を弁護していました。
「〜〜サラでも貧乏な彼らは、途中飢に迫られて心ならずとも民家に行って食物を掠奪し、自らまた多少の暴行も働いた。これが朝鮮人掠奪の噂を生み・・・ 」中央公論 大正12年11月号

  ・・・ただの強盗じゃねえか。さらに、

「よし、(暴動や放火)があったとした所が、あの位の火事泥は内地人にも多い。普通ああいう場合にありがちの出来事で、特に朝鮮人が朝鮮人たるの故を以って日本人に加えた暴行という訳にはいかない。・・・」中央公論 大正12年11月号


  ・・・暴行を日本人に加えたと言っているじゃないか。

と言う事で、朝鮮人による暴行・強奪は有りました。と、デマ説を流していた張本人でさえ認めていたんですねえ(^A^)。

http://ameblo.jp/sinesayoku/entry-10263667714.html


19. 2014年5月24日 14:09:05 : Osu9WIpB36


正しい歴史認識、国益重視の外交

関東大震災朝鮮人虐殺当時の写真か 韓国研究家が公開・【捏造と判明!】・写真入手したチョン氏「見て驚愕した。女性の下衣が脱がされ、恥辱的だったので公開したくなかった」・吉原大火の別の写真を使い捏造!
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4954.html

●関東大震災と朝鮮人

反日左翼や朝鮮人どもは、関東大震災のとき、約6千人の朝鮮人が殺されたというが、大嘘だ。


『写真 明治大正60年史』(1956年、毎日新聞社)では数百人となっている。

『朝鮮人虐殺関連官庁資料』によれば、朝鮮人被害者死亡231人、重軽傷43人。

『関東戒厳司令部詳報』の兵器使用調査票によれば、震災後一週間の「治安維持のため」の朝鮮人殺害254人、日本人殺害27人。


大震災による大混乱の最中、それまで散々悪事を働いていた不逞鮮人どもがデマも加わった民間の自警団による過剰防衛によって殺害される事件が起きると、不逞鮮人以外の朝鮮人まで殺害される事件が起きた。


                  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
そのような混乱が発生したとき、日本の警察や軍隊は命がけで朝鮮人を守った。


20. 2014年11月14日 17:18:38 : QWy1IgxZQf
日韓トンネル開通なんかしたらどうなることやら。ろくなコトんならんぞ。


311
【漢字を棄てた国】韓国TVニュース「関東大震災の時、多くの朝鮮人が日本人に虐殺されました」→満州で朝鮮人たちが中国人を虐殺した記録を放送


2014年11月11日06:00
http://hosyusokuhou.jp/archives/41223247.html

(抜粋)

Long Room @toushika77
フォローする
Googleで画像検索したらWikipediaにありました。絵が一部見切れているのかも知れませんが、右上に「倭奴族使鮮人惨殺我同胞之血痕」、攻撃している人物に「鮮人」と書かれていますね。漢字が読めたら絶対使わない絵だと思いますが… @Che_SYoung


2014年11月7日 12:09


(残酷な絵の写真)

「倭奴嗾使鮮人惨殺 我同胞之血痕」 日韓併合により日本人となった鮮人が、
旭日旗を持って、惨殺行為 我が同胞の血痕・・・という、被害者側の中国が報道した風刺画
中央の警官の制服?を着た人物も ちゃんと「鮮人」と書かれている。
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2703.html


21. 2015年9月05日 20:59:32 : NBnuO3OmVg

シールズの福田和香子さんも和光大学だった。

無敵の太陽
2015年02月12日13:49

カテゴリ朝鮮人について

嘘を歴史書にした平凡社 / 朝鮮人の独立捏造史 特別編
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68312900.html

歴史書と称して嘘を書き連ねる

  「折れた煙草(たばこ)の吸いがらで、あなたの嘘がわかるのよ〜、誰かいい女(ひと)できたのねぇ〜、できたのね〜ぇ」と中条きよしが昭和49年(1974年)に歌っていた。滅多に演歌を聴かない筆者も知っている。しかし、作詞家山口洋子に代わって、朝鮮人が作詞したらどうなっただろうか? 「ひどい日本の憲兵がぁ〜、いい鮮人(チョンコ)らを〜、殺したのよぉ〜、殺したのよぉ〜ぉ、ニダ、ニダ、スミダぁ〜」と歌うのではないか? 作曲家の平尾昌晃・大先生は激怒するだろうが、著作権なんか無視の朝鮮人だから、「ウリ(俺)のオリジナルだぁーい」と平気で言うかもよ。日本人はタバコの吸い殻でも「ウソ」が分かるのに、朝鮮人は見え透いた大嘘を堂々とつく。

●姜徳相(カンドクサン/当時和光大学講師)という朝鮮人は、朴殷植(ぼくいんしょく)(『朝鮮独立運動の血史』 1と2東洋文庫 平凡社 昭和47年)を翻訳して、平凡社から出版したのである。

(以下略)


22. 2016年9月21日 12:18:22 : O9zV5tpjvT : 6nrWKkhLVsg[1]
東北大地震と熊本大地震の時に混乱に乗じて火事場泥棒を働いた連中は日本人じゃ無かったよね?
それを考えると自ずと答えは出るじゃないか。腹立たしい。
「一銭と言ってみろ」と訊いたという話だって、片っ端から調べられるわけもなく、
不逞の輩を捕まえて問いただしたんじゃないの?自警団としたら当たり前の行為じゃん!
中には誤解された被害者も少々いたかもしれないが、混乱期だから仕方ない。

どう考えてもこれが正しいよ。

  ↓
                
>救助が最優先の不測の震災時に、

>顔のよく似た朝鮮人のみを選り分けての殺害は、不可能! これは常識!

  ↓


今日のNEWS USからコメント抜粋


被害者成り済ましコリアン泣き売! 朝鮮人のみが殺されたのではなく、「朝鮮人のみが不逞の輩」だった!関東大震災!

 日本列島は天災列島なので、助け合い無き者は淘汰され、生存出来得なかった。

日本民族は助け合いを宗として、歴史を刻み、生きてきた。

互いに助け合わなければならない大震災時に、なんと、前代未聞の、火付け盗賊強盗強姦の不逞集団がいた。

災害救助の真っ最中、自警団を組織した日本民族は、不逞の輩をことごとく成敗した。当然である!

 不逞の輩を調べたら、なんと驚くことに、ことごとくが、朝鮮人であった。

救助が最優先の不測の震災時に、顔のよく似た朝鮮人のみを選り分けての殺害は、不可能! これは常識!

 朝鮮人のみが殺されたのではなく、「朝鮮人のみが不逞の輩」だった!

 帰化や難民の安易な認定や、二重国籍は、天災列島日本においては、上記の如く、簡単にテロリスト化するので、断じて看過するな!

国家の職責不履行は、亡国!

詳細は下記を選択し検索
朝鮮族捏造日本人差別碑関東大震災碑群馬県強制連行犠牲者追悼碑等々

真実史観

Posted by 真実史観 at 2016年09月21日 07:56
http://www.news-us.jp/article/20160921-000002z.htmlより


23. 中川隆[-9524] koaQ7Jey 2019年6月17日 19:23:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2954] 報告
大河『いだてん』に関東大震災「朝鮮人虐殺」を示唆するシーンが! 右派の虐殺否定デマに抗した勇気
https://lite-ra.com/2019/06/post-4779.html
2019.06.17 『いだてん』が関東大震災「朝鮮人虐殺」を示唆! リテラ

    
    朝鮮人虐殺を示唆した『いだてん』(番組HPより)


 16日放送のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が話題になっている。関東大震災時に起きた、朝鮮人虐殺を示唆する描写に踏み込んだからだ。

 ご存知のとおり、関東大震災は1923(大正12)年9月1日に起きたのだが、『いだてん』の主人公のひとり・マラソンランナーの金栗四三も当時東京府女子師範学校で教員として勤めており、震災に遭遇する。

 ドラマ中盤、ちょうどお昼時だった東京の街を地震が襲う。地震そのものも以上に火災の被害も大きく、浅草から日本橋、芝まで炎に包まれ、2日かけて東京が焼き尽くされる。なかでも浅草の被害は大きく、シンボルだった凌雲閣の倒壊をはじめ、2日で街が消えるほどの壊滅的な被害を受ける。

 混乱さめやらぬなか四三は、浅草で行方不明になっている同僚教師を懸命に探すのだが、そこで棒を手にした数人の男に声をかけられる。

 男らは「おまえ、日本人か? どこから、どうやって来た?」と、四三にいきなり出自を問う。四三が「いやいや、どぎゃんも、こぎゃんも……」と出身である熊本訛りで答えると、男らは「なんだ? なんだ、その言葉? 日本人じゃないな」四三を取り囲む。四三が「熊本! おら熊本だげん!」と答えても、「くまもとぉ?」とさらに問い詰める。

 そこへたまたま、四三の教え子の父親で医師の大作があらわれ、「娘の学校の先生だ、日本人だ」「大丈夫だ!」と、四三を助け出したことから、なんとか事なきを得たが、男らは「本当か!?」としつこく詰め寄っていた。

「ご無事で何より」と無事を労う四三に、大作は先ほどの男らについて「自警団ですよ」「この災害のどさくさで、根拠のない流言飛語が出回っている。大きな余震がくるとか、井戸に毒がまかれたとか、とんでもないデマがね」と説明する。

 時間にしてわずか1分足らずの場面で、「朝鮮人」という言葉こそ出していないものの、関東大震災時に起きた「朝鮮人虐殺」を描いたものだ。

 大作が流言飛語が飛び交っていると説明していたとおり、実際の震災時も「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」「火をつけて回っている」などのデマ・流言飛語が飛び交い、それを信じた自警団を称する日本人たちにより多くの朝鮮人たちが殺害された。

 また熊本訛りの四三に対し「おまえ日本人か?」「なんだその言葉? 日本人じゃないな」と問い詰めていたのも、実際に当時「アイウエを言え」「教育勅語を言え」などと詰め寄り言葉に詰まったり発音が違ったりすると「朝鮮人だ」として暴行するという行為が横行していたことに基づいている。また、四三のように棒を手にした自警団に「朝鮮人だろう」と取り囲まれるというのは、実際、当時中学生だった故・黒澤明監督も同様の体験を自伝のなかに記している(https://lite-ra.com/2017/09/post-3425.html)。

■右派の圧力のためか、「朝鮮人」という言葉は使わなかったが…

 もちろん、『いだてん』も本来は「朝鮮人」という言葉をきちんと盛り込んで、「朝鮮人虐殺」というヘイトクライムを明確に描くべきだったと思うが、それでも現在の言論状況で、NHKがゴールデンタイムの看板ドラマで朝鮮人虐殺を示唆する場面を描いただけでも価値がある。

 というのも、近年、関東大震災時の朝鮮人虐殺の史実を闇に葬りなかったことにしようという歴史修正の動きが激しくなっているからだ。

 ネトウヨのみならず、ヘイト本や極右雑誌などがこぞって「朝鮮人虐殺はなかった」というデマや、「本当に朝鮮人の暴動があった」というデマを掲載し、朝鮮人虐殺否定を盛んに喧伝している。

 また東京都の小池百合子知事は、2017年から、それまで歴代都知事が毎年9月1日に行ってきた朝鮮人犠牲者の追悼式典への追悼文を取りやめた。

 さらに安倍首相も、2016年「政府は、関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したことを事実として認定するか」との質問主意書に対し、「お尋ねの「関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したこと」については、調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することができる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である」との答弁書を出すなど、明らかな史実をなかったことにしようとしている。

 関東大震災の際、デマによって大規模な朝鮮人のジェノサイドが起き、警察や軍がこれに加担したのは、保守系の歴史学者も認めている歴史的事実であり、なにより、当時を生きた人々による膨大な証言が残されている。

■右派の虐殺否定はデマ、数々の資料が描く朝鮮人虐殺の凄惨な現場

 朝鮮人虐殺否定デマが活発化していた2014年、震災当時の証言や記録で構成されたノンフィクション本『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(加藤直樹/ころから)が出版されているが、同書には、公文書や軍の資料、戦後の検証記録から、被害者の朝鮮人、目撃した一般住民、さらには作家の芥川龍之介や国学者である折口信夫の証言まで、虐殺の事実を裏付ける資料がいくつも紹介されている。

 たとえば、『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)にも収録された葛飾区四ツ木橋付近の地元住民からの聞き取り。ここには自警団と称する民間の日本人による凄惨きわまりない“朝鮮人狩り”の目撃証言がいくつも登場する。

「四ツ木橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを切って下に落とした。旧四ッ木はしの少し下手に穴を掘って投げ込むんだ」

「(自警団が殺したのは)なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」

 もっと生々しいのは子どもたちの証言だ。同書では、関東大震災から半年の間に書かれた子どもの作文を紹介しているが、そこには子どもならではのあまりにリアルすぎる目撃談が大量に出てくるのだ。

「朝鮮人がころされているというので私わ行ちゃんと二人で見にいつた。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによつてみた。すると頭わはれて血みどりにそまつていた」(横浜市・高等小学校1年女児)

「私たちは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました・それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがつて居ました」(同1年女児)

「歩いて居ると朝鮮人が立木にゆはかれ竹槍で腹をぶつぶつさられ(刺され)のこぎりで切られてしまひました」(同小学校男児)

「するとみなさんがたが朝鮮人をつついていましたからは(わ)たくしも一ぺんつついてやりましたらきゆうとしんでしまひました」(横浜市尋常小学校4年男児)

■デマを広めた張本人・読売社主の正力松太郎も後にデマを認めていた

 さらに、自警団だけでなく、警察、軍隊まで出動して「戦争気分」で朝鮮人を虐殺した。当時、習志野騎兵連隊に入隊していた越中谷利一はこう記している。

「(亀戸駅付近に止まっていた列車の内外を調べ)その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声──国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!」(『関東大震災の思い出』)

 実際、朝鮮人の暴動デマは、戦後、衆院議員、読売新聞社主として政界、マスコミ界に君臨した正力松太郎が警視庁官房主事時代に広めたことがわかっている。

『九月、東京の路上で』でもそのことは指摘されていて、「デモや集会を取り締まり、朝鮮人学生のひそかな独立運動に目を光らせていた」正力がそのデマに振り回され、「軍人達に『こうなったらやりましょう!』と腕まくりをして叫び、警視庁に駆けつけていた新聞記者たちには『朝鮮人が謀反を起こしているといううわさがあるから触れ回ってくれ』と要請する」とある。

 だが、その正力は後に、この朝鮮人暴動がデマだったと認めているのだ。正力の回顧録『米騒動や大震災の思い出』にはこんなくだりがある。

「しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちにようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。(中略)要するに人心が異常なる衝撃を受けて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第であります(後略)」
 
 普通の人々が持つ潜在的な差別意識と恐怖心、加えて震災で通信が寸断され、何が正確な情報が分からなくなった時、虐殺は起こった。歴史修正主義者やネトウヨがどういおうと、これはまぎれもない事実なのだ

■『いだてん』は伊藤博文暗殺でもネトウヨから攻撃を受けていたが

 つまり、『いだてん』は、今回、右派政治家やネトウヨのデマ、歴史修正主義に屈することなく、こうした当たり前の史実を描こうとしたということだ。『いだてん』の場合、必ずしもこの1分足らずの場面があってもなくても、ストーリーの大勢には大きな影響はなかっただろう。それでもあえてこの場面を入れたのには、脚本の宮藤官九郎をはじめとした、製作陣の明確な意図があったことは間違いない。

 本サイトは『いだてん』について、国家主義や戦争と無縁ではいられないオリンピックというテーマを描くことの難しさについて書いたことがある。さらに『いだてん』はいまの日本で扱うと炎上しやすい近現代史を描くという高いハードルにも取り組んでいる。実際、伊藤博文暗殺に関するナレーションひとつで、ネトウヨ連中からイチャモンをつけられるなどしている。

 そんななかでも最もコントラバーシャルなトピックのひとつである朝鮮人虐殺について、『いだてん』がなかったことにせず少しでも描いたことは評価に値する。今後、戦争に突入していく日本をどう描くのか、ヒトラーのベルリン五輪をどう描くのか、そのベルリン五輪に日本選手として出場した朝鮮半島出身者たちの存在をどう描くのか。視聴率の低さばかりがニュースになっている『いだてん』だが、このチャレンジはもっと注目されていいのではないか。

24. 中川隆[-15200] koaQ7Jey 2019年12月07日 17:36:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2265] 報告
2019.09.01
日本がウォール街の属国になる切っ掛けになった関東大震災から96年

 今から96年前、1923年の9月1日午前11時58分に東京周辺は巨大地震に襲われた。被災者は340万人以上に及び、死者と行方不明者を合わせると10万5000名以上、損害総額は55億から100億円に達していたと言われている。

 その直前、8月24日に加藤友三郎首相が死亡、山本権兵衛が組閣している最中だったことから政府は機能していない。そうした中、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監が震災対策の責任者になる。両者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビだ。

 1日の夕方になると「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」、「不逞鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・●姦をする」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、2日夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電して戒厳令も施行された。

 こうした雰囲気が社会に蔓延、少なからぬ朝鮮人が虐殺されている。どういうプロセスでこうした流言蜚語が広まったのかは不明だが、その結果として数千人の朝鮮人や中国人が殺されたと言われている。さらに社会主義者やアナーキストが虐殺されているが、そうした犠牲者のひとりがアナーキストの大杉栄だ。彼は妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉だった甘粕正彦に殺されたのである。地震当時、東京に住んでいた人の話では、焼き殺された朝鮮人もいたようだ。実行者は日本の庶民にほかならない。

 その時、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われ、殺されそうになっている。伊藤は後に俳優や演出家として活躍することになるのだが、その時には「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、「千田是也」と名乗った。

 地震は日本の経済も揺るがした。そこで山本内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だ。

 銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になる。しかも銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 そこで復興資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助である。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。

 必然的にJPモルガンは日本に対して大きな影響力を持つようになり、緊縮財政と金本位制への復帰を求めてくる。1929年7月に誕生した浜口雄幸内閣がこの要求を実現、日本の経済状況を悪化させ、庶民は塗炭の苦しみをなめさせられることになった。その時の大蔵大臣は井上だ。

 JPモルガンは1932年から33年にかけての頃、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルト大統領を倒してファシズム体制を樹立する目的でクーデターを計画した。

 この計画はアメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将が阻止、議会でクーデターについて詳しく証言している。そのバトラー少将によると、ウォール街は金本位制に執着していた。

 日本では金本位制へ復帰した結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。

 そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

 ルーズベルトを大統領にした選挙は1932年に実施されたが、その年にハーバート・フーバー大統領は駐日大使としてジョセフ・グルーを日本へ派遣する。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻だ。

 グルーは日本の支配層に太いパイプがあり、秩父宮、近衛文麿、松平恒雄、徳川家達、幣原喜重郎、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていた。その中で最も親しくしていた人物は松岡洋右。1941年12月に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、翌年の8月にグルーは日本を離れるが、最後にゴルフをした相手は岸だった。ちなみに、松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

 1932年に日本は「満州国」をでっち上げているが、そこで権勢を振るった「二キ三スケ」の中に松岡(スケ)と岸(スケ)は含まれている。そのほかのメンバーは東条英機(キ)、星野直樹(キ)、そして鮎川義介(スケ)だ。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。戦前レジームと戦後レジームはつながっている。


(注)●は「強」
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201909010000/

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