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たそがれのプロカメラマン物語  第二章 奈良時代へタイムトリップ
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投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 9 月 12 日 15:40:26: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: たそがれのプロカメラマン物語 第一章 古代日本史へタイムトリップ 投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 9 月 12 日 15:36:41)

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第二章 奈良時代へタイムトリップ


謎だらけの奈良時代

オレは溜まっていた「仕事」をし終わり、紅茶など飲みながら午後の一服をしていると、管理人さんから宅急便が届いたとの連絡を受けた。田辺さんからのものだ。紙バックの形からすぐに書籍と分かった。部屋に戻り、封を開けると、二冊の本と、レポート一枚があった。そのレポートには、簡単なあいさつ文に続き、「チャットでは詳しく説明できなかったと思いますので、騎馬民族についての参考資料として下さい。」、とあった。
一冊目は、杉山正明著「遊牧民から見た世界史」で、もう一冊は、東 巌夫著「騎馬民族がもたらした日本のことば」、だった。一冊目の書籍を手にとって、パラパラ捲ると、91頁に付箋があり、マークがしてあった。

「スキタイは、その格好の反証となる。ようするに、「国家」としての名称だから、「ギリシャ系スキタイ人」もありえるのである。スキタイは、遊牧民が中核となった「国家」でありえても、スキタイという「民族」単位の遊牧民族国家ではありえない。また、その「遊牧国家」とはいっても、世界史上、単一の遊牧民集団によって「国家」と呼べるものが形成されることはまれであり、その嚆矢となったスキタイがそうであるように、さまざまな雑多の人間集団の連合体、つまり限りなく「コンフェデレイション」であることにこそ、存在の要諦があることも、ここによく示されている。
そうであるからこそ、結束・連合のかなめが揺るげば、こうした連合体はたちまち雲散霧消しかねない。史上の遊牧国家が形成されやすく、瓦解しやすいのは、そのためである。遊牧国家の強さも弱さも、ここにある。強さともろさは、背中あわせのものである。その宿命を、はじめから濃密に帯びている。この点を、是非、頭にとどめておいていただきたい。これからの叙述には、このことが時代や事例をこえたテーマのひとつとして伏在するかたちで流れている。」

オレは、田辺さんがマークした文章の意図を考えた。スキタイは、紀元前8世紀に鉄製の轡を発明したことにより、乗馬を始めた民族で、騎射により黒海周辺諸国を支配した騎馬民族国家の租であることは分かる。その騎馬民族の「かなめが揺るげば、連合体の遊牧国家は雲散霧消する。」、とは、「645年唐進駐軍の奇襲により、明日香ヤマトを防衛していた突厥進駐軍があっけなく崩壊した。」、ことの説明となる。
オレは、二冊目の書籍を捲ってみた。オレの苦手な文法の解説書のように丁寧にテュルク語と日本語との対比を述べている。やはり、最終章の扉に付箋があった。タイトルは、「古代テュルク語から日本語への流れの深層」とある。内容は、田辺さんがチャットで述べたことのネタ元のようだ。この書籍により、日本語にも、チュルク(テュルク)の言葉が多く残っているのが分かる。やはり、突厥民族は、古墳時代の日本列島に渡来していたのだ。
書籍をパラパラしているうちに、田辺さんが、「次は奈良時代」、と言ったことを、オレは急に思い出した。奈良時代を復習するために、以前、古本屋で手に入れていた中学校の歴史教科書を開き、奈良時代の主な出来事の年表を作成した。教科書によれば、奈良時代とは、710年平城京遷都から、794年平安京遷都との間のことを云うようだ。

701年大宝律令成る
704年諸国に国印を造らしむ
710年平城京に遷都。山階寺を奈良に移し興福寺と改称
712年「古事記」
713年風土記撰上の詔。漢字二文字による地名・人名表記の好字令
714年国史撰上の詔
☆717年遣唐使、吉備真備、僧玄ムら留学、翌年県守帰朝
718年養老律令なる。薬師寺を奈良に移す
720年「日本書記」
724年聖武天皇即位
727年渤海使出羽に渡来し、入京
729年左大臣長屋王の事件
☆733年遣唐使大使多冶比広成出発
☆735年遣唐使多冶比広成、吉備真備、僧玄ムら帰朝
738年新羅使を放還
740年藤原広嗣の乱
741年山背国恭仁京に遷都。牛馬を殺すを禁ず
744年難波京に遷都
749年女帝孝謙天皇即位。「三宝の奴」と称す
751年「懐風藻」
☆752年東大寺大仏開眼供養。遣唐使、藤原清河、吉備真備出発
758年淳仁天皇即位
☆759年新羅東征の議起こる。遣唐使、藤原清河を迎えに行くが、安禄山の乱により果たさず。「万葉集」
☆762年遣唐使を任命するが、出発を中止
764年孝謙上皇が、称徳天皇として即位
765年道鏡太政大臣禅師となる
769年道鏡事件。和気清麻呂大隈に配流。
770年光仁天皇即位。道鏡を配流。和気清麻呂を召還
☆777年遣唐使、副使小野石根出発
☆779年唐使来朝
780年百姓より徴兵し、練達の者に武を習わす
781年桓武天皇即位
784年山背国長岡京に遷都
792年軍団を廃し、健児(こんでん)を置く
794年平安京に遷都

年表作りは意外と早くできた。眺めている限り、何も不思議はないように思えるが、遣唐使が出発するか、帰朝した時に、奈良の都に異変が常に起こるようだ。復習はこんなところで止めにして、田辺さんが送ってくれた書籍の続きを読むことにした。
騎馬民族の歴史本など正面切って読んだことがなかったので、意外なことが分かった。中国語で、匈奴、鮮卑などと蔑称を付けられていたため、騎馬民族は無文化の蛮族のように思っていたが、スキタイなどは、ギリシャと接触していたために、高度な芸術文化を保持していたようだ。それに、中国は、漢民族が支配者だと思っていたが、田辺さんが言っていたように、漢族化した騎馬民族が、漢民族を官僚として使役し、長らく中国を支配していたようだ。
頁が進むと、200頁から209頁までが、何度も読まれていたことが、頁が「よれて」いることで分かる。中見出しは、「中華王朝史観からの脱却」とある。そして、206頁にマークがあった。

「これらの正史群は、すべて太宗から次の高宗の唐朝初期に、集中してつくられた。くわしくは、太宗期にまず「梁書」「陳書」「北斉書」「周書」「隋書」のいわゆる「五代史」が、646年には「晋書」が(以上の李世民時代につくられたものを「六史」と総称する)、ついで高宗期に「南史」「北史」が、それぞれ完成した。中国正史とされる「史記」から「明史」までの二十四史のうち、三分の一にあたる八つの正史が、このときにつくられている。」

そのマーク文章の「六史」に、オレの前頭葉が素早く反応した。藤原氏が編纂に携わっていたのが、「日本書記」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」の「六国史」だ。それも、全て漢語で記述され、唐帝国が907年に滅ぶ、6年前の、901年を最後として、それ以降、漢語による「国史」は日本列島では著されてはいない。そして、唐帝国が滅ぶと、平安王朝は、唐文化一色だったものが、国風文化となり、天皇は「天子・テングリ」又は「院」と呼ばれていく。奈良時代から平安時代初期までは、唐文化一色だった。何故だ。
そう言えば、その李世民である唐帝国二代目の太宗が六国史を編纂していた時代、布教を始めた、天台宗、律宗、禅宗、法相宗、浄土宗、唯識宗、などの漢訳仏教が、649年唐帝国三代目の高宗が王位に付くと、興隆となっていたのだ。その太宗・高宗父子の皇后であった武氏は、690年女帝則天武后となると、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教を厚遇した。騎馬民族は、死者を燃やし殺生禁止・肉食禁止の仏教ではなく、永遠の「生」を約束する神仙思想の道教を崇拝していたのに、則天武后は仏教を厚遇していた。何故だ。
その690年則天武后が中国大陸を「周」として支配した時の暦、儀鳳暦が、天武天皇の次に即位した藤原不比等の傀儡女帝持統天皇690年に、日本列島に導入(?)されていたが、763年藤原氏の傀儡淳仁天皇の時代に廃止されたのだ。その翌年、764年淳仁天皇をコントロールしていた藤原仲麻呂(恵美押勝)は、反乱を起こし滅亡した。何故だ。
聖武天皇は、6年間に都を、恭仁京→紫香楽宮→難波京→平城京と替えた。740年九州で起こった藤原広嗣の乱の時には、400騎の軍団に護られて平城京を脱出した。それを、藤原日本史では、伊勢に行幸と言う。行幸に400騎の軍団は必要ない。そして、平城京に戻らず、木津川沿いの地に、恭仁京を遷都した。何故だ。
平城京は、唐の長安を参考に造られた都だと云う。しかし、正方形か長方形が、中国の都の基本形なのに、平城京は、東側に飛び出た一角がある。そこには、藤原氏の氏寺の興福寺と、そして、飛鳥大和から仏像だけを残してきた飛鳥寺を移築した元興寺がある。常識的には、正方形、又は、長方形の都の中に、仏寺が在るはずなのに、平城京では、そうではない。何故だ。
藤原日本史では、神道は、552年(538年?)仏教伝来以前から存在していたように記述している。が、しかし、奈良の盆地には、669年藤原鎌足が山城国に山階寺を創建し、710年その山階寺を奈良に移築し、仏寺の興福寺とされるのに、奈良盆地の東側の御笠山の麓には、神道の「ヤシロ」である春日大社など存在していない。そこには空き地が「神地」としてあるだけだ。神道の「神」を祀る「ヤシロ」である春日大社は、その「神地」にいつ建てられたのか。そもそも、平城京には「神社・もり」の存在がない。何故だ。
そして、奈良時代の最大の謎は、何故、日本国の国書とする「日本書記」が、720年漢語で記述されたのか。この謎解きのヒントは、日本列島ではなく、中国大陸にあるようだ。オレには、その謎解きのヒントに心当たりはあるが、田辺さんの「説」を聞いてみたいと思い、連絡を待った。

山背国(突厥+花郎騎士団)対奈良盆地(周対藤原氏)の奈良時代

オレは現像の仕事を終えて、パソコンを開くと、田辺さんからメールが届いていた。あれから二週間ほど経っていたのだ。学会の準備などでレポートが遅れたことを詫びた文章の次に、添付資料を読む前の注意事項があった。古代篇の時と同じように、学校で学んだ日本史は忘れてください、ということと、勝者ではなく、敗者の目線で奈良時代を書いている、と言うことだ。
オレは添付ファイルを開き、コピー用紙を装備し、プリントアウトした。前回よりも頁数が多かった。分厚いレポートをパラパラ捲り、拾い読みしてみると、藤原日本史と全く異なる史観で、奈良時代が綴られているのが分かる。でも、その内容が面白いので、集中して読めそうだった。
しかし、レポートを読破するのに一週間ほどかかってしまった。あまりにも内容が、藤原日本史と違っているので、理解するのが困難だったからだ。一度刷り込まれた情報を否定するには、非常な努力が必要だと言うことが分かった。レポートの要点を述べると次のようだ。

No.1 奈良時代とは、東アジアでの民族紛争時代の縮小版だ。東アジアでは、北の騎馬民族国と南の農耕民族国とが対峙していた。それと同じに、奈良時代の近畿では、北の山背国を支配する騎馬民族と、奈良盆地を支配する農耕民族とが対峙していた。
No.2 山背国を支配していたのは、645年明日香ヤマトを追われた突厥帝国進駐軍と、古代新羅から渡来した花郎騎士団残党だ。
No.3 奈良盆地を支配していたのは、645年から690年までが唐帝国進駐軍で、690年から705年までは周の進駐軍だった。そして、705年以降は再び唐帝国の進駐軍だ。その支配方法は、直接支配ではなく、アメリカ合衆国のエージェントによる「年次要望書」などで間接支配されている現在の日本国のように、エージェント(代理人)による間接支配だ。唐帝国の税制(租庸調)である「大宝律令」で日本列島住民を支配したのが、唐帝国(周)の代理人である藤原氏だ。
No.4 藤原京や平城京は、北の山背国を支配する騎馬民族からの攻撃を防ぐための砦都市だ。その根拠は、その防衛都市は、大垣により囲まれていたからだ。
No.5 唐から周に国名を替えた則天武后一派による中国大陸の内乱により、唐・周進駐軍による奈良盆地での支配力の衰えに乗じて、藤原氏は奈良王朝の乗っ取りを企画し、実行していた。そのためのひとつが、720年「日本書紀」だ。「日本書記」が、唐帝国向けに漢語で著されたのは、藤原氏が日本列島古来からの民族であることを、日本人に示すためではなく、唐帝国(周)に示すためだ。藤原氏の祖先が、古来から日本列島の祭祀者としての支配層であったことにするためには、前政権を支配していた民族の存在を消す必要があった。「日本書記」は、713年好字令により、日本列島にあった先住民の土地名・人名を消した後、明日香ヤマトを支配していた突厥帝国軍を「蘇我氏」とし、河内から山背国を支配していた花郎騎士団を「物部氏」として、古墳時代の歴史から消すために創作された歴史物語だ。
No.6 奈良王朝を支配した藤原氏は、古墳時代を消すために、ミトラ教の寺や道教の観を徹底的に破壊した跡に、仏寺を北九州から移築し、そして、前政権の支配者が眠っていた古墳を破壊した跡に、怨霊を恐れて、それを封じ込めるために神社(モリ)や社(ヤシロ)を築いた。出雲大社を初めとして、神社や社は、古代からあったのではなく、古墳時代終焉以降に築かれていたのだ。藤原氏は、その古墳時代を歴史上消すために、仏教文化が芽生えた「飛鳥時代」を発明し、北九州から仏寺を飛鳥大和に移築していた時期を、朝鮮半島で使われていた年号を租借して、仏教文化溢れる「白鳳時代」としたのだ。
No.7 藤原氏は、騎馬民族の血を引く天武天皇の孫、長屋王一家を「道教」(鬼道。鬼は仏敵)の儀式を行ったとして謀殺し、天武天皇家の乗っ取りを企画、実行した。
No.8 藤原氏は、奈良貴族を支配するために、唐帝国進駐軍が持ち込んだ漢訳仏教ではなく、中臣神道を発明し、新嘗祭や五節舞など色々な宮廷儀式を発明していた。藤原氏が発明した神社や宮廷儀式や舞が、東南アジアやインド色が強く感じられるのは、藤原氏の出自が、南インドだからだ。藤原氏の私兵であった隼人の租は、トラヴィダ語を話す民族だった。
No.9 中臣神道が、古来から存在していたことを庶民に認知させるために、「日本書記」に、神話物語を挿入した。そして、世界中の太陽神が「男神」であるのに、女神アマテラスオオミカミを発明し、伊勢の道教の観を破壊した跡に、伊勢神宮を建立した。そして、神話物語に真実性を見せるために、イズモにあった古墳を破壊し、その跡に、出雲大社を建立し、オオクニヌシの国譲り物語を「日本書記」に挿入した。
No.10 藤原氏のロボットであった聖武天皇は、反旗を翻し、反藤原氏となり、唐進駐軍により、明日香ヤマトの都から追放され、山奥に暮らす山の民の側に立った。藤原日本史では、山の民の指導者であった行基を、仏教僧として描いているが、そうではない。山の民は、645年以降より唐進駐軍に、明日香ヤマトの都から追われた民族だ。その唐進駐軍は、漢訳仏教を思想武器として、先住民を支配していたのだ。だから、山の民が、仏教信者であるはずはないのだ。
NO.11 聖武天皇は、奈良王朝を支配する藤原氏の氏寺の興福寺を威圧する目的で、興福寺を見下ろす岡の上に、仏教の敵である遍照鬼の巨大像を鋳造した。太陽神のミトラの化身である「遍照鬼」は、平安時代に、仏像の「大日如来」に変身させられた。
No.12 藤原日本史での、奈良時代のハイライトのひとつ、遣唐使には不思議が沢山ある。そのひとつが、遣唐使派遣の回数だ。現在の学会でも、12回から20回までの6通りの考え方がある。そして、遣隋使にも同様な不思議がある。
No.13 遣隋使や遣唐使の史実については、ウソがつけない。それは、中国側の史料があるからだ。藤原日本史が遣隋使物語や遣唐使物語でウソをついても、中国側史料を照会すれば、分かってしまうからだ。遣隋使は、日本側史料では、607年小野妹子、608年小野妹子、614年犬上御田鍬となっているが、中国側の史料では、600年(倭国伝)、607年(倭国伝)、608年(「煬帝紀」)、610年(「煬帝紀」)となっている。不思議なことに、中国側の史料では、608年隋使は、倭国の「男王」に謁見したとするのに、藤原日本史では、女帝推古天皇の時代なのだ。更に、614年犬上御田鍬の記録は、中国側にはない。
No.14 遣唐使にも不思議は沢山ある。そのひとつは、遣唐使派遣回数を、630年(古墳時代)から838年(平安時代)までの15回とすると、702年第7回遣唐使からは、朝鮮半島沿岸を通る北路から、東シナ海を直接横断する南路(南島路)に変更されている。そのひとつとして考えられるのは、676年統一新羅の存在だ。そして、もうひとつが、則天武后一派による、「唐」の国号を、690年「周」に変更したことだ。その第7回遣唐使派遣の前年、701年唐の税制を真似た大宝律令が発令されていた。
No.15 15回の遣唐使の記録を、「日本書記」「続日本紀」と中国側史料と比較しながら見ると、藤原日本史では分からなかった、「古墳時代(飛鳥時代)」と「奈良時代」の影(藤原日本史のウソ)が浮かび上がってくる。
No.16 第1回遣唐使(630年〜632年)「日本書記」巻23、「大仁犬上御田鍬、大仁薬師恵日を大唐に遣わす。」とある。藤原日本史では、飛鳥王朝が唐の文化を輸入するために、「大和朝廷主体」で遣唐使を組織した、とする。しかし、中国側の史料を見ると、遣唐使のイメージが変わる。「旧・新唐書」には、「大宗の貞観5年(631年)、倭国は使者を遣わして入朝してきた。帝は倭国からの道程が遠いことを矜れにおもい、所轄官庁に詔して年毎の朝貢を強制しないように命じた。そして、帰国に当たっては新州刺史の高表仁を遣わし、倭国に行って論教させた。」、とある。遣唐使は、朝貢していたようだ。そして、倭国が独立国として唐に看做されていなかったことは、「帰国に当たっては新州刺史の高表仁を遣わし、倭国に行って論教させた。」、の文章で分かる。
No.17 「日本書記」の第1回遣唐使の帰国記事には、632年唐使高表仁の倭国到着状況は記されているが、その倭国での動静については、全く記されておらず、633年に帰国した、との記事だけだ。しかし、「新唐書・倭国伝」には、「高表仁は、倭国の王と礼節を争そって穏やかではなく、天子の命を伝えることを承知せず、帰国した。」、とある。そして、高表仁を、対馬まで送って還った、と記されている。この頃、明日香ヤマトを支配していたのは、藤原日本史で云う舒明天皇ではなく、唐との国際交易を望んでいた突厥帝国進駐軍だ。「争そって穏やかではなく、天子の命を伝えることを承知せず、帰国した。」で分かることは、唐使と突厥帝国進駐軍との交易交渉が決裂したようだ。
No.18 第1回遣唐使とする630年には、東アジアで唐帝国と戦っていた東突厥帝国が、唐帝国軍により散逸させられていた。東突厥帝国のコロニーである日本列島の明日香ヤマトでは、母国東突厥帝国が唐帝国に敗れたため、中国大陸との国際交易の拠点を日本列島の明日香ヤマトに置いていた。その唐帝国との交易のための突厥帝国進駐軍の使節を、藤原日本史では第1回遣唐使としていた。その唐使高表仁が帰国した12年後、645年明日香ヤマトは、唐進駐軍の奇襲により壊滅していた。
No.19 第2回遣唐使(653年〜654年)「日本書記」巻25には、吉士長丹を大使として遣わしたとの簡単な記事があるだけだ。しかし、二船で出発したが、第二船は薩摩半島の先端で沈没し、百人以上の犠牲者をだしていた。第7回遣唐使以前は、南路ではなく、北路であったのに、何故、南九州の薩摩半島沖で沈没したのか。その謎解きのヒントは、その南九州には、藤原氏の支配港の坊津があることだ。そこで考えられることは、645年明日香ヤマトを攻略した唐帝国進駐軍の戦利品を唐帝国に運ぶための二船を、藤原日本史では第2回遣唐使としていた。藤原氏の租は、古墳時代から、南インドと南九州坊津との南海路を支配してたほどの、海洋国際交易民族だからだ。
No.20 第3回遣唐使(654年〜655年)「日本書記」巻25、「二船分かれて乗り、留連すること数月、新羅道を取りてライ州に泊つ」、と唐への到着を記している。そして、高向玄理の死について記してある。高向玄理は、608年小野妹子(中国名ソインコウ)の二度目の遣隋使に留学生として随伴し、640年帰朝し、654年押使として再度遣唐使となったが、唐滞在中に病死していた。高向玄理は、高向漢人玄理と言われていた通り、その出自は、中国の支配部族である騎馬民族の拓跋氏ではなく、漢民族だった。その第3回遣唐使について、「唐録」には、「高宗の永徽5年(654年)、倭国の使、琥珀、瑪瑙を献ず。」、とある。日本列島では、縄文時代から、岩手県久慈の琥珀、糸魚川の翡翠などを、中国へ輸出していた。
No.21 第4回遣唐使(659年〜661年)「日本書記」巻26、道奥の蝦夷男女二名を連れて行った、という以外は不明。この遣唐使船の航路には不思議があった。それは、8月11日筑紫の大津浦を発し、それから1ヶ月以上経った9月13日に百済の南畔の島に至った、とされているからだ。15回の遣唐使船の博多から中国大陸までの平均航海日数は、7.1日だ。玄界灘の対岸の百済であったならば、数日で着くはずだ。第4回遣唐使船は、博多を出発してから百済に着くまで、32日間も、何処で何をしていたのか。
No.22 この第4回遣唐使船が出発する翌年、660年百済の首都扶餘は、唐進駐軍により陥落していた。そして、663年百済の日本列島のコロニーから組織された百済救済軍は、白村江で唐帝国と新羅連合軍により壊滅し、ここに百済が歴史上消えた。
No.23 第5回遣唐使(665年〜667年)「日本書記」巻27、「是の歳に小錦守君大石等を大唐に遣す。」、とある。この年11月唐使劉徳高、カクムソウが、254人を率いて九州筑紫に渡来した。664年には、唐の百済鎮将劉仁願は、部下のカクムソウを倭国に派遣し、表函と献物を進上し、年末に帰国した。665年カクムソウは、朝散大夫の劉徳高とともに254人の軍団を率いて再来した。「日本書記」には、「是月(12月)劉徳高等罷り帰る。」、とある。その送使は、667年筑紫に帰国するが、唐の百済鎮将劉仁願と百済の占領長官である県令司馬法聡らに送られていた。
No.24 第6回遣唐使(669年〜671年?)「日本書記」巻27、「是の歳に小錦中河内直鯨等を大唐に遣す。」、とし、そして、「又、大唐、カクムソウ等2000余人を遣す。」とあるが、帰国の記事はない。「新唐書」では、「高麗(高句麗)の平定を慶賀する使節が到来し、唐の高宗に謁見を賜った。」、とある。670年高句麗が滅んだ前後の、669年と671年に、唐の百済占領軍の将軍カクムソウが、日本列島に渡来していたのは、何故だ。
No.25 671年カクムソウは、2000名の軍団を、47隻の船団により九州に上陸させ、半年間に渡って駐留していた。このことについて、「日本書紀」では、渡来についての記事はなく、5月30日「カクムソウ等罷り帰る。」、としている。しかし、その前の記述には、カクムソウらに、甲冑、弓矢、布などを与えている。カクムソウは、日本列島に存在する軍団との戦闘を準備していた。そして、その翌年、672年吉野の山奥に隠棲していた明日香ヤマト残党軍が、伊勢の軍勢と合同して、近江の百済亡命王朝を攻撃して、672年亡命百済近江王朝を壊滅させ、明日香ヤマトに、突厥民族による騎馬民族の復活政権を樹立し、日本国初代の天皇、天武天皇を擁立した。
No.26 この明日香ヤマト再興の時期は、東アジアでも動乱の時代だった。676年統一新羅興る、682年東突厥帝国復興、690年唐から周に国号変更、となっていた。そして、漢訳仏教組織を利用して中国大陸を支配した則天武后一派は、日本列島の資源を求めて、侵略を開始する。そして、その手助けをしたのが、南九州坊津を支配する藤原氏だ。明日香ヤマトが、仏教文化となったのが、古墳時代(飛鳥時代)からではなく、この奈良時代からだ。
No.27 日本列島に唐(周)文化が侵攻(伝来?)していた根拠は、唐(周)の暦号が使われているからだ。唐では、676年から679年までが儀鳳暦が使われていた。その儀鳳暦が、倭国では、690年女帝持統天皇の時代に使われ始めた。そして、764年(天平宝字8年)からは、唐と同じ、大衍暦(だいえんれき)に改暦された。暦が同じということは、経済的基盤が同じことになったことが示唆される。つまり、日本国は、唐帝国の経済的支配下に入ったことだ。
No.28 更に、日本国が、唐帝国の強い影響下にあったことは、藤原氏に送り込まれた、聖武天皇の光明皇后は、奈良王朝を乗っ取る戦略を、唐帝国(周)の則天武后の戦略を手本にしていたからだ。
No.29 則天武后は、皇后になる前、武氏と名乗る芸妓であった。14歳の時、第二代唐帝国の皇帝大宗の後宮に入り、649年皇帝大宗が死去すると、皇后は尼となったが、皇帝大宗の息子高宗に見出され、再び後宮に入り、姦計を用いて高宗の皇后王氏や淑妃を卑劣な手段で陥れ、第三代唐帝国皇帝高宗の皇后となった。武氏は、父子二代に渡って皇后となった。
No.30 684年夫の皇帝高宗が病死すると、漢訳仏教を重んじた。それは、信仰心からではなく、漢訳仏教経典「大雲経」に、「浄光天女が南天竺の王位に即く。」、とあったからだ。その「大雲経」を全国の寺にそなえさせ、皇后の皇帝即位への請願運動のプロパガンダとした。そして、様々な吉祥を策謀して、690年皇后は、唐帝国の皇帝となり、国号を「周」に替えた。女帝の誕生である。
No.31 この690年倭国では、女帝持統天皇の時代、唐の暦法である儀鳳暦が使われ始めた。この女帝持統天皇には謎が多い。そのひとつに、吉野の行幸がある。吉野には、藤原氏の国際交易センターがある。その藤原氏は、唐帝国(周)のエージェントなのだ。女帝持統天皇は、その吉野を度重ねて訪れていた。その女帝持統天皇8年(694年)藤原京に遷都した。そして、697年女帝持統天皇が死去すると、日本国初の仏教式の火葬が行われた。日本初の天皇である天武天皇は、騎馬民族系埋葬法である土葬であった。この埋葬方の違いは、何を意味するのか。それは、女帝持統天皇の時代に、漢訳仏教の影響力が、朝廷の葬儀儀式まで及んでいたことだ。天武天皇の皇后を、女帝持統天皇としたのは、藤原不比等だ。
No.32 漢訳仏教は、どのようにして、女帝持統天皇の時代に宮廷に入り込んだのか。その謎解きのヒントは、「続日本紀」にあった。その「続日本紀」には、「僧玄ム」の死についての記事がある。僧玄ムは、第8回遣唐使(717年)に随行し、天平7年(763年)大使多冶比真人広成に伴って帰還していた。その紫袈裟を奈良王朝から賜っていた僧玄ムについて、「尊んで僧正となして内道場に安置された。これから以後栄寵日に盛んにして稍沙門(ややぼうさん)の行に違犯したので、時の人はそれを悪んだ。そのため徒所(ながされところ)で死んだ。」、とある。僧玄ムは、何故、追放されたのか。そして、内道場で何を犯したのか。
No.33 内道場とは、風紀が乱れたとして446年から7年間仏教弾圧のあった北魏の時代に始まった、宮中に造った仏教道場のことだ。その内道場で、宮中の皇后、采女の仏教修行の場とするが、その実態は、有髪の女性と僧侶との密室で行う修行であった。古代の神殿は、神との「まぐわい」の場所でもあった。その内道場が、「周」の不道徳な則天武后の時代に盛んであったことは、その内道場で不道徳な行為が行われていたことが示唆される。つまり、内道場は、不道徳の温床でもあった。この内道場は、奈良時代から、漢訳仏教の私度僧により「周」から日本列島にもたらされ、盛んに貴族の館内に造られていた。しかし、今に残る日本仏教史料には、勿論その内道場の記述はない。後に、唐僧の鑑真が、藤原氏の数度にわたる渡海の妨害を乗り越えて、渡来して「南伝仏教戒律」を、反藤原氏の聖武天皇に伝えたのは、漢訳仏教の私度僧経営による内道場での風紀の乱れが原因のひとつだ。
No.34 第7回遣唐使(702年〜704年)「続日本紀」巻2、「遣唐使等去年筑紫より海に入るに、風浪冒険にして渡海すること得ざりき。是に至りて乃ち発す。」、とある。この第7回遣唐使からは、第6回以前と比べて、規模も、船も、目的も、航路も違っていた。そして、中国側史料では、「倭国」ではなく、「日本国」と国号が表記されていく。この第7回遣唐使からは、北路ではなく、南路(南島路)となっていた。この遣唐使にも不思議がある。二船で出港したのに、第一船が帰国後、その記事がないのに、出発後5年も経って、「遣唐副使巨勢朝臣邑冶等唐国より至る。」、とあるだけだ。第二船は、5年間も、何処で何をしていたのか。「続日本紀」には、遣唐使についての記述が極めて乏しいのは何故だ。更に、大使坂合部大分が、唐に留まって帰国していない。藤原日本史で説明する遣唐使は、唐から高度文化を取り入れるための使節ではなかったのか。遣唐使が、唐に行ったまま帰らないのなら、何のための遣唐使か。この第7回遣唐使が出発する前年、701年唐(周)の税制である租庸調が、大宝律令として発せられていた。そして、翌年、702年、その唐の税制により庶民から税を取り立てるため、諸国司にその国の印鑑と府庫の鍵を頒布し、「日本国」で初めて度量(物サシと枡)を天下諸国に頒った。この第7回遣唐使の任務を推測すると、唐(周)進駐軍に支配された近畿一帯の、突厥進駐軍と花郎騎士団残党が支配する山岳部を除く、平野を、唐の支配制度を真似て、中央集権の王朝国家を律令制度によって、いかに運営していくかの日本国経営の学習のためのようだ。
No.35 第8回遣唐使(717年〜718年)「続日本紀」巻7・8、元正天皇により任命されたとし、「大宰府申す、遣唐使多冶比真人県守来帰すと。」、と簡単な記述があるだけだ。しかし、この第8回遣唐使からは、派遣人数が倍増し、557人となっていた。そして、船も、従来の二船から、四船となっていく。そして、後日、内道場で事件を起こした僧玄ムが、留学僧として乗船していた。
「続日本紀」には記述はないが、「旧唐書」には、「この使節の一人朝臣仲満は、唐の風を慕って留まり帰国せず、姓名を改めて朝衡とし、左補闕、儀王友を歴任、京師に五十年も留まり、書籍に親しんでいた。郷に帰ることを許したが、逗留して離れなかった。」、とあり、73歳で長安で死没した。朝臣仲満とは、藤原日本史での遣唐使物語で登場する阿倍仲麻呂のことだ。前第7回遣唐使でも、逗留して帰国していない遣唐使がいた。これでは、遣唐使とは、何を目的にしていたのか分からない。
この第8回遣唐使が出発する7年前、710年三笠山の麓にあった巨大古墳が破壊され、その跡に、藤原京から平城京へ遷都された。そして、藤原氏の氏寺である興福寺の元である山階寺が、突厥進駐軍と花郎騎士団が支配していた山背国から移築された。更に、巨大古墳を見下ろしていた三笠山のミトラ教の祭祀場も破壊され、空き地となった場所を禁足地の「神地」とした。このことは、奈良盆地が唐進駐軍に完全支配され、山背国を支配していた元明日香ヤマト連合軍の突厥進駐軍と花郎騎士団残党の壊滅を示唆する。
そして、中国大陸では、690年から国号を周と替えていたが、705年女帝則天武后が死去すると、710年から再び、国号を「周」から「唐」に替えた。そして、日本列島では、713年好字令の漢字革命により、前明日香ヤマト政権時代で使われていた地名・人名が漢字二文字で表記されていく。そして、遣唐使が帰国した年、718年藤原不比等により養老律令が発せられ、720年藤原不比等による、漢語による「日本書記」が完成した。この「日本書記」により、明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍や、河内を支配していた花郎騎士団の歴史が、「蘇我氏」(=突厥民族)と「物部氏」(=古代新羅花郎騎士団)の登場する歴史物語により消されてしまった。
No.36 この第8回遣唐使派遣後から、つまり、710年新生の「唐」から帰国後の718年から、日本列島古代史の改竄がおこなわれていく。その歴史改竄の見本が、唐帝国第二代皇帝太宗にあった。李世民である皇帝太宗は、漢族文化にどっぷり漬かっているが、その出自は騎馬民族の鮮卑拓跋系だ。その鮮卑拓跋系の出自を消すために、六つの国史を編纂した。それらは、「梁書」「陳書」「北齊書」「周書」「隋書」そして、「晋書」だ。その六つの国史で、中国国家での騎馬民族の歴史を消そうとしたが、北魏から唐までは、非漢民族政権だ。
No.37 386年拓跋珪が、遊牧民族鮮卑から自立して北魏を興した。その弱小国の北魏が、騎馬民族柔然に敗れた鮮卑族を取り込んで強大化すると、439年華北を統一し、統一北魏を興した。その統一北魏の拓跋の太武帝は、まだ騎馬民族の誇りを持っていた。そのため、風紀を乱す、騎馬民族を蔑視する思想を保持する漢訳仏教を弾圧し、血の禁忌や肉食禁止などしない神仙思想の道教を保護した。しかし、465年道教を保護した太武帝が暗殺されると、再び、漢訳仏教が復活した。その復活の原因のひとつは、仏教思想が道教思想より優れていたからではなく、風紀を乱す内道場によるようだ。その統一北魏も、535年東西に分裂した。更に、東魏は、550年に北齊に、そして、西魏は、557年北周に国号を替えた。その北周が、581年隋に、その隋が、618年唐になったが、その各国の支配者は、騎馬民族拓跋部であった。
No.38 中国史から騎馬民族の歴史を消そうとした第二代皇帝太宗の息子、第三代皇帝高宗も、父に比べ劣らず、中国国史の「編纂」に励んだ。高宗は、中国の歴史を、「南史」「北史」に分けて歴史書を編纂して、中国王朝での騎馬民族の歴史を消していた。更に、高宗の皇后は、漢訳仏教経典と組織を利用して、唐帝国を乗っ取り「周」とした。藤原不比等は、この唐帝国での騎馬民族の歴史を消すための国書編纂としての歴史改竄と、そして、仏教経典と仏教寺から発するプロパガンダによる国乗っ取りのノウハウを応用して、日本列島を乗っ取ることを企画し、実行した。
No.39 藤原氏は、唐進駐軍の手先で納まるような民族ではなかった。唐進駐軍は、魅力ある内道場を経営する漢訳仏教を日本列島に持ち込んで、日本列島の豪族・貴族を取り込み、日本列島民を支配しようと企んだ。その手先に藤原氏を使ったのだが、藤原氏は、その租が中臣と言うように、中→ナーガ(ヘビ)を信仰する民族だった。そして、ナーガ族は、仏教の仏ではない神を信仰していた。そのナーガ族の神により、仏を支配下に置き、日本列島を支配することを考えていた。そのための布石が、685年天武天皇が伊勢の地に建てた道教の観の歴史を利用することだ。そのために、その道教の観を破壊した跡に、伊勢神宮を建てた。そして、その伊勢神宮で祀る神の名を、ミトラ教が祀る太陽神の歴史を取り入れて、女神アマテラスオオミカミとした。しかし、唐進駐軍の監視下に奈良盆地があるため、ナーガ族の神を祀る「社」を建てることができなかった。藤原氏の神を祀る春日大社が奈良の地に建てられるのは、もう少し後のことだ。そして、この時期、7世紀末に古墳時代が終わる前には、社も神社(モリ)も日本列島には存在していなかった。
No.39 第9回遣唐使(733年〜735年)「続日本紀」巻11・12、今回の派遣人数は、594人で記録上最大。この遣唐使が出発する4年前、729年藤原氏の最大のライバル、日本初の天皇である天武天皇の孫長屋王が、藤原氏の陰謀により謀殺されていた。これにより、奈良王朝で藤原氏に対抗できる貴族がいなくなった。
次期王と目されていた長屋王の一族郎党を謀殺後、藤原氏は、「唐」を乗っ取り「周」とした女帝則天武后の戦術を用いるために、藤原不比等の娘、光明子を聖武天皇の皇后とした。これは、皇族の血が流れていない娘が、皇后となった日本初だ。そして、藤原宇合は参議となり、藤原氏の奈良王朝の支配が始まる。その背景は、奈良の唐進駐軍の支配力が、サラセン帝国図版の拡大により、ササン朝ペルシャが衰退し、その王族や貴族、そして、ネストリウス派キリスト教などの宗教者などが、多く唐の長安に亡命してきて、唐帝国の国内が混乱していたため、奈良王朝で弱まっていたからだ。
このような藤原氏の勢力が増して行く時の遣唐使には、多くの謎がある。この遣唐使についての記述は、国史「続日本史」には多くないが、「扶桑略記」に、7月6日博多那の津を出帆して唐に旅立ったと記しているが、その航海期間が1ヶ月近くかかっている。遣唐使15回の平均値7.1日に比べて非常に長い航海だ。博多を出発してから何処に向かったのか。
唐に到着した遣唐使は、長安には行かず、洛陽で玄宗に朝見し、美濃あしぎぬ、水織あしぎぬを献上していた。この遣唐使には、秦忌寸が乗船していたが、その父は第7回遣唐使の留学僧弁正だ。僧弁正は、還俗して唐女と結婚し、朝慶と朝元の二男子をもうけた。その次男朝元が、唐の宮史に取り入れられ、唐から秦忌寸の氏姓を与えられた。秦忌寸は、日本側の者ではなく、唐の宮史だった。
そして、この第9回遣唐使の帰路では、唐人、唐僧、バラモン僧、ペルシャ人などが同乗していた。この4船の帰路には不思議がある。
第一船は、種子島に着いた。種子島は、藤原氏が支配する南インドからの国際交易港の坊津と同じに、藤原氏の南海交易港としての支配地だ。
第二船は、筑紫に帰着した。その帰着について「続日本紀」にはないが、唐皇帝玄宗が日本国に発した勅書に、「入唐副使中臣朝臣名代等、唐人三人、波斯人一人を率いて朝を拝す。」、とある。この勅書について、「続日本紀」にないのは、この唐皇帝玄宗の勅書によれば、日本国が唐の属国であることがバレてしまうからだ。
第三船は、「悪しき風忽ち起こりて彼此相失う。」との状態で、南海に漂流し、崑崙国(ベトナム)に漂着。90人余りは病死(?)し、平群広成等4人が生き残り、唐国の役人により救出され唐国に戻り、渤海国の船で帰国した。
第4船は、「又一船在る所を知らず。」と、唐帝国玄宗の日本国王への書にあるように、行方不明だ。
この第9回遣唐使の帰路で、唐帝国が、藤原氏により支配されてしまった奈良王朝の経営改革をするために官使を送り込んだようだ。推測すれば、ベトナムまで漂流した第三船、行方不明の第四船には、唐帝国の官僚や唐軍団が乗船していたはずだ。しかし、第一船は種子島、第二船は筑紫に、無事到着していた。藤原氏にとって、邪魔な者が日本列島に到着してしまったようだ。この唐帝国により送り込まれた官使により、藤原氏の勢力が排除されることに抵抗した争いが、740年藤原広嗣の乱となった。この藤原氏の武装蜂起に、反藤原氏の聖武天皇は、400騎の軍団と供に、平城京から、明日香ヤマト残党軍が支配する伊勢の山奥に向けて、脱出した。
No.40 第9回遣唐使からは、藤原氏の勢力が奈良朝廷の奥まで及んでいた。それは、720年藤原不比等が死去すると、日本列島を「日本書記」と仏教組織とにより乗っ取るという藤原不比等の戦略は、参議となった藤原宇合に託されていたからだ。ライバルの長屋王を密告により謀殺すると、奈良朝廷は、伊勢国鈴鹿、越前国愛発、美濃国不破の三関を閉じる処置を迅速におこなった。この三関は、東北を支配する突厥進駐軍の本拠地から西国へ騎馬軍団が疾走できる軍事道路である、北陸道、東山道、東海道の要所だ。この三関を閉じれば、東北の突厥進駐軍は、陸路では西国に侵攻できない。このことにより、近畿一帯の山岳地帯、そして、山背国を防衛していた明日香ヤマト残党軍の補給路が断たれてしまったことを意味した。
No.41 唐帝国は、藤原不比等の戦略を見抜いていたようだ。それは、701年大宝律令に僧尼令があるからだ。645年明日香ヤマトが唐進駐軍に壊滅された以降、漢訳仏教僧は僧兵軍団と供に、唐帝国から明日香ヤマトに進駐していた。僧尼令とは、その僧尼を統制するための規定だ。その内容とは、僧が甲冑を帯びて民衆を脅してはいけない。僧が民衆から武器・馬などを調達してはいけない。僧は民衆に接してはいけない。僧は民衆に、魔除け、まじない、吉祥を説いてはいけない。俗人に経巻や仏像を授けてはいけない。民衆の門ごとに訪ねて教化したら処罰する。寺の外に道場(内道場)を建てるのを禁ずる。等等を法律で規定していることは、それらのことが奈良の都で実際におこなわれていたからだ。その奈良の仏教組織の中心に藤原氏が、興福寺を建てて君臨していた。その藤原氏の氏寺の興福寺にも、不思議がある。
No.41 藤原氏の氏寺の興福寺は不思議な寺だ。それは、その歴史にウソがあるからだ。藤原日本史によれば、669年山背国(後の山城国)に山階寺が創建された。その山階寺が、大和国厩坂に移築され厩坂寺となった。その厩坂寺が、710年平城京に移築され興福寺となった、と説明している。しかし、その興福寺は、平城京の下京にある。中国伝来の都は、正方形か長方形だ。しかし、平城京は、正方形でも、長方形でもない。東側に藤原氏の都が隣接されている。更に、興福寺には不思議がある。
No.42 興福寺は、春日大社に支配されている。その春日大社は、興福寺の東側にある三笠山に存在するが、興福寺が移築されたとする時期には、その場所は、空き地で、禁足の「神地」であった。不思議にも、春日大社の奈良での出現は、興福寺出現の後だ。その春日大社は、藤原日本史によれば、藤原不比等が常陸の鹿島神宮の神を春日御蓋山に勧請し、祀ったことが始まり、と云う。その頃、三笠山には春日大社は存在していない。春日大社が奈良に出現するのは、藤原不比等の死後、約40年後だ。藤原不比等が生存していた720年以前、東国は、騎馬民族の支配地だった。騎馬民族が祀る神は、北極星(太一)だ。鹿島神宮に、北極星(太一)が祀られていたか。春日大社は、星の北極星ではなく、太陽を模した「カガミ」が祀られている。東国が、唐進駐軍の傀儡王朝に支配されて行くのは、平安時代からだ。それに、神宮、社(もり)、神社(もり)が、日本列島に創建されていくのは、古墳時代終焉の7世紀末からだ。常陸の鹿島神宮も、出雲大社と同じに、それほど歴史は古くはない。
No.43 藤原不比等の、日本列島乗っ取りの戦略は、唐帝国を乗っ取った女帝則天武后を手本としていた。そのために仏教組織を支配するため手段としての興福寺を手にした。そして、日本列島版則天武后は、藤原不比等と橘三千代との間に生まれた安宿媛だ。藤原不比等は、女帝元正天皇の次の聖武天皇の皇后を、安宿媛とするための戦術を企画した。それが、ミトラ教の神の太陽を祀る冬至に行われた、天武天皇が発明した一世一代の大嘗祭を改竄して、収穫祭の新嘗祭とした後におこなわれる五節の舞だ。五節の舞は、インドのバラモン教の祭祀儀式を真似て、透けるような衣装をまとった娘が貴族の前で舞い踊る儀式だ。この舞の儀式では、何ヶ月前からの振り付けからリハーサルまで、天皇や貴族は同席できる。この間に見初められた舞妓は、天皇や貴族の側室とされる。その五節の舞を仕切るのが、藤原氏だ。こうして、藤原の女を、皇室に送り込む。
No.44 神亀元年(724年)皇太子首皇子は、平城京の大極殿で即位した。聖武天皇の誕生だ。729年8月藤原不比等の娘、安宿媛であった光明子は、聖武天皇の皇后となった。その7ヶ月前、天武天皇の孫、次期王とされた長屋王が謀殺されていた。ライバルが謀殺された奈良王朝では、皇族の血が流れていない者が、皇后となったことに対して不満を表立って言える者がいなかった。それをよいことに、藤原不比等が創作した「日本書記」の仁徳天皇の皇后の磐之媛が、皇族ではない葛城曾豆彦の娘であったと云う物語を前例として押し通した。このようにして藤原氏の傀儡皇后となった光明皇后は、唐の女帝則天武后の戦略に倣って、法華寺、新薬師寺、海竜王寺など多くの仏寺を建立した。その多くの寺の建立発願が信仰心だけではないことは、海竜王寺は藤原不比等の邸宅で、後に「内道場」事件を起こす入唐僧の玄ムが住したことで分かる。
No.45 藤原氏に一大事が起こった。それは、聖武天皇と夫人県犬養広刀自との間に、安積親王が生まれたからだ。そこで、光明皇后は、安積親王の即位を阻止するために、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた安倍内親王を皇太子とした。この、皇女を立太子とするのは異例だ。しかし、長屋王亡き後では、誰も藤原氏の不正をとがめる者はいない。しかし、藤原氏のロボットであった聖武天皇は、737年から変心した。反藤原氏となったのだ。
No.46 737年聖武天皇は、長らく施設に幽閉されていた母藤原宮子と面会した。藤原宮子は、聖武天皇が生まれると、精神的な病に冒されたとし、藤原不比等により幽閉されていたが、僧玄ムによる「内道場」での修行(?)により心の病が治ったとされる。この治療のことにより、745年僧玄ムは、藤原氏により破戒僧との烙印を押され、左遷される。反藤原氏となった聖武天皇は、藤原氏からの攻撃をかわすために都を、恭仁京、紫香楽京、難波京、平城京と、7年間に替えた。そして、仏教の敵、鬼の巨大像を、藤原氏の氏寺の興福寺を見下ろす岡の上に鋳造した。そして、聖武天皇は、藤原氏の支配下にある仏教徒の横暴を阻止するために、戒律が奈良の北伝仏教よりも厳格な、南伝仏教(北伝の大乗仏教により、小乗仏教と蔑称されていた。)の戒律を持ち込むことを考えた。それが唐僧鑑真の日本国への招聘となる。
No.47 藤原氏は、鑑真の渡来を阻止するために、第10回遣唐使に藤原清河を乗船させた。藤原清河の鑑真渡来阻止の工作が失敗したため、藤原清河は二度と日本の土を踏めなかった。こうして、鑑真は、遣唐使船を運営する藤原氏の目を逃れるため、密航と言うかたちで渡来した。この鑑真渡来の経緯は、「続日本紀」にはない。
No.48 756年聖武天皇が死去すると、光明皇太后となった光明皇后は、藤原氏の本領を発揮する。それは、唐帝国の制度である中書省を改称した紫微省と、尚書省を改称した中台にならって、正式の官制ではない令外の官である紫微中台を創設した。紫微中台は、光明皇太后の命令を伝える、非公式の機関だ。そして、その長官を甥の藤原仲麻呂とした。このことにより、反藤原氏の聖武天皇の娘である孝謙天皇と、藤原氏の傀儡光明皇太后との、国家の指揮系統が二つとなった。このような時代背景下で、第10回遣唐使がおこなわれた。
No.48 第10回遣唐使(750年〜754年)「続日本紀」巻18・19、光明皇后は、甥の藤原清河の無事を、「大船に ま楫しじ貫き 此の我子を 唐国へ遣る 斎へ神たち」、と春日の山に祈っていた。この三笠山での遣唐使渡海の安全祈願は、「続日本紀」によれば、第8回遣唐使の時(717年)にもおこなわれていたようだ。それは、「二月壬申の朔、遣唐使、神祇を蓋山の南に祀る。」、とあるからだ。この「続日本紀」の遣唐使安全祈願の文により、藤原日本史での春日大社建立時期の謎が解ける。それは、その安全祈願の時に読まれた歌の解説文に、「春日祭神之日」(春日に神を祭る日)とあるからだ。この時点では、三笠山には、春日大社の神殿がなく、祭りのために社に神を招く方式がとられていたようだ。その根拠として、756年完成の正倉院「東大寺山堺四至図」によれば、春日山の西に「神地」とあり、春日大社が建立されている処が空き地となっているからだ。このことから、春日大社が建立された時期は、第10回遣唐使が帰国後、756年以降ということが示唆される。因みに、禁足地の空き地である「神地」とは、古墳や前政権の祭祀場が破壊され、その跡が整地された処だ。後に、前政権の怨霊を封じ込めるため「神社」(モリ)が建立される。旧勢力が温存する地では、怨霊封じの本殿が建立できないため、空き地のままとなる。
741年牛屠殺禁止令が発令されていた。それは、ミトラ教の儀式禁止を意味する。645年明日香ヤマトを唐進駐軍により追われ山の民となった、太陽を祀るミトラ教徒は、旱を解消するために牡牛を屠っていたのだ。その儀式の意味は、ミトラ教では、牡牛は太陽神の化身だったからだ。牡牛を屠り犠牲とすることで、太陽神に旱解消の願い事をしたのだ。奈良盆地が唐進駐軍に完全に支配された後、三笠山のミトラ教の祭祀場が、破壊されて「空き地」となっていた。
No.49 第10回遣唐使が送られる前、749年聖武天皇が、東大寺の遍照鬼の巨大像の前で額ずき、自らを「三宝の奴」と宣言し、皇位を娘の孝謙天皇に譲った頃、東アジアでは、744年唐帝国と長年戦っていた東突厥帝国が滅んで、唐帝国も不安定な情勢となっていた。
この東突厥帝国が滅んだことにより、日本列島の東国と近畿一帯の山岳地帯を支配していた突厥進駐軍のユーラシア大陸からの補給路が断たれていた。そのような東アジアと日本列島の情勢を見た藤原氏は、反藤原氏の聖武天皇の政治を無視して、奈良王朝で権勢を欲しいままとしていく。聖武天皇が、「三宝の奴」と言ったのは、奈良の仏教組織を利用している藤原氏の言動により、身動きが出来ない自分を揶揄したからだ。
No.50 744年東突厥帝国が滅んだのは、西アジアを支配したサラセン帝国によりヨーロッパとの交易権を奪われたからだ。このことは、唐帝国も同様だ。サラセン帝国の商人により交易権を奪われた唐帝国は、財政を立て直すために塩に税金をかけた。この税制により、唐帝国内の庶民の生活は一層苦しくなっていた。そこに、塩闇商人の安禄山による内乱の芽が発芽していた。
No.51 このような情勢時期に渡海した、第10回遣唐使についての記述は、「続日本紀」には多くない。「新唐書・日本伝」に、「新羅が海路を塞いだので、明州、越州を経て朝貢した。」、とあるだけだ。しかし、この第10回遣唐使には、奈良王朝を支配する藤原氏からの密命が、藤原清河に与えられていた。それは、南伝仏教の戒律をもたらす鑑真の渡海を阻止せよ、と言うことだ。反藤原氏の聖武天皇は、奈良仏教組織を支配する藤原氏の横暴を抑えるために、戒律の厳しい南伝仏教僧の鑑真を招聘していたのだ。
No.52 唐帝国の皇帝に朝貢を済ませ、帰路の準備をしていた第一船に、5度の渡海を阻止されていた鑑真和上は、崑崙人、胡国人、波斯人など24人を従え乗船した。日本に南伝仏教の戒律を伝えるためだ。しかし、出港前、鑑真一行は、難癖を付けられ下船させられた。その第一船の指揮者は、藤原清河だった。
No.53 この藤原清河の鑑真に対する処置に義憤を感じた副使大伴古麻呂は、鑑真一行を密かに、指揮する第二船に匿った。鑑真一行は、日本国に密航者として渡来したのだ。この鑑真渡来阻止の藤原氏の密命を果たせなかった藤原清河は、二度と日本の土を踏めなかった。こうして渡来した鑑真は、病気で臥せっていた聖武法皇と女帝孝謙天皇に、南伝仏教の戒律を正式に授けることができた。
この第10回遣唐使の帰路での4船の航海にも不思議がある。第1船、第2船、第3船は、沖縄に漂着したが、第4船は沖縄に立ち寄った記録がない。しかし、その第4船は、「続日本紀」では、「帰航途上炎上」とあるが、754年薩摩国に着いたとの報告がある。では、中国の蘇州出帆から151日間も、何処で何をしていたのか。
第2船は、薩摩国坊津に漂着、第3船は、屋久島に漂着したが、藤原清河が乗船していた第1船は、沖縄を出発後、進路を南に向け、ベトナム北部驩州(かんしゅう)に漂着した。そして、乗員180余名は現地人に殺害されたとしたが、藤原清河ら10余名が生き残り、唐に舞い戻れたのは何故か。
No.53 第11回遣唐使(759年〜761年)「続日本紀」巻22、23。この遣唐使の高元度一行99名は、渤海国を経由して、第10回遣唐使の藤原清河を迎えに行くのを使命としていた。しかし、唐帝国では、塩闇商人の安禄山による武装蜂起により、混乱していた。安禄山の姓は康、漢姓康とはサマルカンドの音写で、突厥貴族の母が、安氏に嫁いで、安禄山が生まれた。安とは、アルサケス朝パルティアの音写だ。安禄山の禄山とは、ソグド語の「ロクシャン」(光・光明)の音写だ。その非漢民族の安禄山が、756年から763年にかけて、唐帝国を撹乱していた。そのため、99名の使者は、11名で入唐した。
唐帝国の長安の都に入った高元度一行11名は、唐の官使と藤原清河の帰還を交渉したが、特進秘書監となっていて、妻子のいる藤原清河の帰国請願は受け入れられなかった。その43年後、藤原清河は唐で死去した。その高元度に対して、唐皇帝粛宗は、「禄山が乱離に属びて兵器多く亡せり。今弓を造らんとして牛の角を要む。聞くならく本国に牛の角多く有りと。卿(なんじ)、国に帰らば為に求めて使の次にて相贈れ。」、との命令を高元度に言い渡した。
唐朝は、長さ八丈(約24m)の船を造らせ、唐使沈推岳が指揮する船に乗って、760年高元度一行10名は、日本に到着し、761年平城京へ帰還し、唐皇帝粛宗の牛の角を贈れとの命令を伝えた。では、その命令に、奈良王朝は従ったのか。
No.54 奈良王朝は、東海、東山、北陸、山陽、南海の各道諸国に牛の角7800隻(本)の貢納を命じていたことは、この頃には、騎馬民族の支配地であったそれらの平野が、奈良王朝の支配下となっていたことを示唆する。
No.55 奈良王朝は、牛の角を唐帝国に贈るための船4隻の建造を安芸国に命じた。しかし、完成した4隻が、難波の江口に至るに及んで、灘に着いて浮かばずの状態で、一隻は船尾が破裂してしまった。そして、残る3隻も難癖を付けることにより唐に向けて出帆することはなかった。これらの唐皇帝粛宗の命令に逆らう奈良王朝の行動の背景には、761年藤原仲麻呂が、正一位となっていたことが考えられる。それ以前、藤原仲麻呂は、756年反藤原氏の聖武天皇が崩御すると、日本列島支配を目論む藤原氏の傀儡光明皇后は、皇太后となり、私設の紫微中台を作り、その長官に任命された為、奈良王朝で権勢を誇っていた。正一位となった藤原仲麻呂は、恵美押勝を名乗り、淳仁天皇を傀儡として、私邸に国璽を持ち込み、私幣を作り、唐から押し付けられていた儀鳳歴を、763年廃止して、大衍歴とした。これはもう、藤原王朝そのままだ。
No.55 この恵美押勝(藤原仲麻呂)の横暴に対して、反藤原氏の尼僧となった孝謙上皇は、764年淳仁天皇を廃して、重祚して、称徳天皇として即位した。この措置に対して恵美押勝(藤原仲麻呂)は、私兵6000名を集め、称徳天皇軍を攻撃した。しかし、伊勢や北陸の山奥に隠棲していた、突厥進駐軍や花郎騎士団の明日香ヤマト軍残党が蜂起したことにより、藤原氏南家の恵美押勝(藤原仲麻呂)軍団はあっけなく壊滅した。しかし、藤原氏本体が壊滅したわけではない。藤原氏の創始である藤原不比等は、氏族温存の危機管理のため、藤原氏を、南家、北家、式家、京家の4家に分散して、敵味方として互いに戦わせていた。このことにより、藤原氏一族の全滅はない。
藤原氏は、ユーラシア大陸を支配していた騎馬民族の王称である「天子」(テングリ)を「天皇」とし、そして、騎馬民族を統治する「天子制」を「天皇制」とし、その天皇制を支える天皇や貴族達に藤原の女を送り込み、天皇家や皇族の姻戚として寄生し、ユダヤ教儀式に酷似した多くの朝廷儀式を発明し、その祭祀者となり平成の現在まで生き延びている。(注:名前の「藤原さん」と、氏姓の「藤原氏」とは、歴史的に無関係。)
No.56 第12回遣唐使(775年〜778年)「続日本紀」巻33、34、35。この第12回遣唐使と、前回第11回遣唐使との間の、23年間には、天皇家の血筋が、新羅系から百済系に替わっていた。天皇家は、万世一系ではなかった。
No.57 764年称徳天皇の出現と供に、河内国生まれの道鏡が、「内道場」での称徳天皇の修行(?)指導者として急速に朝廷に進出し、765年道鏡は太政大臣禅師となる。この称徳天皇の道鏡優遇に対して、奈良の貴族は反発した。奈良朝廷の儀式は、藤原氏の発明した神道儀式で行われていたからだ。称徳天皇も出家したので尼僧の身であった。藤原不比等により建立された伊勢神宮は、すでに神仏習合がすすんでいたが、仏僧を近づけなかった。それに対して、称徳天皇は、仏典に「仏の御法を護りまつり尊びまつるは諸の神たちにいましけり。」、とあるのを根拠として、神々と仏とは離れてはいない、との理屈を述べて、僧尼が、神事をなすことを忌むべきではない、とした。そして、天平神護2年(766年)7月、称徳天皇は、使を伊勢大神宮寺におくり、丈六(1丈6尺)の仏像を造らせ、安置させた。奈良時代の伊勢神宮内には、仏教思想による神護寺や宮寺が建てられていた。
766年道鏡が法皇となった年、大宰府の主神(かむつかさ)が、宇佐八幡神が、「道鏡を皇位に即かしめば、天下太平ならむ。」、との神託を上奏してきた。769年奈良朝廷は、称徳天皇の側近尼法均の弟和気清麻呂を宇佐に派遣した。持ち帰った神託は、「天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。」、だった。この神託を聞き、称徳天皇は、和気清麻呂を「別部穢麻呂」として大隈に、そして、姉の法均を備後国に流罪とした。神託を聞きに行った処が、伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮であったことは、伊勢神宮は藤原氏が創建した宮だったからだ。因みに、宇佐八幡宮は、花郎騎士団に護られた古代新羅王族が明日香ヤマトの斑鳩へ移動する前、宇佐の秦王国にあったミトラ教の宗教施設を破壊した跡に建立されていた。
No.58 769年称徳天皇が謎の死をむかえると、道鏡は配流された。しかし、下野に配流といっても、下野薬師寺の造営長官の高位の身分のままだった。この道鏡の処置から、称徳天皇の謎の死と、道鏡の配流処分の軽さが疑われる。そして、和気清麻呂は召還された。これらの処置には、奈良朝廷を裏からコントロールする藤原永手と藤原百川があった。
No.59 亡命百済下級貴族の白壁王が、62歳で皇太子となり、770年光仁天皇として即位した。この即位劇にも藤原氏が暗躍した。62歳皇太子も前例がないが、皇族でもない下級貴族出の天皇も前例がない。それを覆す理由として、藤原氏は白壁王の妻の血筋が、聖武天皇の娘であったから、と言う。白壁王が光仁天皇となったため、妻は井上皇后となり、その子は他戸皇太子となった。他戸親王は、聖武天皇の血が流れているため、次期天皇候補だった。しかし、反藤原氏の聖武天皇の血が流れる他戸天皇を望まない藤原氏は、他戸皇太子の天皇即位を避けるようと策略した。
No.60 光仁天皇には、百済の血が流れる高野新笠との間に、山辺親王が生まれた。藤原氏は、781年山辺親王を桓武天皇として即位させた。この前年、井上皇后と他戸皇太子は、わずか1年余で廃されていた。そして、桓武天皇が即位した年に、「井上内親王、他戸王、並に卒しぬ。」、との謎の死を遂げていた。
No.61 このような奈良王朝での謎の事件が多く起こった歴史の流れの中で、第12回遣唐使が企画されていた。この遣唐使は、初めから謎に満ちていた。それは、776年5月筑紫から五島まで航海したが、9月となり、「逆風日に扇けり」、ということで、本年の渡海を諦めていた。それに対して、奈良朝廷もあっさり許容した。そして、翌年、777年肥前国松浦郡桶浦から出帆し、唐に8月到着した。
No.62 この第12回遣唐使の帰路でも、第1船が遭難している。その遭難には不思議がある。その第1船は、舳と艫とに二分された、と言うのだ。そして、艫の方は薩摩国に漂着し、舳の方は肥後国天草郡西仲島に漂着した、とするのだ。更に不思議は、その艫には56人、舳には41人が乗船していた、と言うのだ。この遭難事故があったのは、12月の真冬だ。しかし、唐大使趙宝英一行25人は水没死していた。この唐使25人の死と生存者97人との説明がつかない。
No.63 この第12回遣唐使の帰路の4船には、多くの唐帝国の宮使が乗船していた。第1船の25名は、水没死をしていたが、第2船、第3船、第4船には、多くの唐使が乗船していたことが、光仁天皇の奈良王朝の動きで分かる。それらの唐使を平城京へ迎える準備のために、779年左右京に命じて六位以下の子や孫から騎兵の任務に堪える者800人を徴発させた。唐使節を平城京に迎えるのに備えて儀衛兵を編成するためだ。更に、東国の経営がうまくいっていることを、唐使節に見せるために、陸奥、出羽に命じて、蝦夷20名を召し出した。
No.64 779年5月唐使節一行は、平城京の門外の騎兵200騎、蝦夷20名の出迎えを受けて、平城京に入った。そして、光仁天皇に謁見した、と日本側史料では述べる。日本側史料には、この唐使節についての詳しい記述がないのは何故か。しかし、この唐使節一行は、6月に平城京を出て帰国した、と日本側史料では述べている。しかし、第4船で、遅れて入京した唐使高鶴林については、帰国の記述はない。この第12回遣唐使の帰路に同船して渡来した唐使節は、唯の返礼使などではなく、光仁天皇を裏から操る藤原氏と奈良仏教僧の朝廷からの排除にあったようだ。それは、780年官史を減員し、政治刷新が、奈良王朝でおこなわれたからだ。
No.65 第13回遣唐使(780年〜781年)「続日本紀」巻35、36。第13回遣唐使は、第12回遣唐使の帰還に同乗した唐使を、唐に送還するために企画された。しかし、12月には担当者が任命されていたのに、出発の記事はどこにもない。ところが、781年7月に都に帰着して節刀を返上したとの記述がある。この781年には、桓武天皇が、天神に父光仁を配祀して、即位した。藤原日本史が、伊勢神宮が祀るアマテラスオオミカミが皇神であるとするのに、何故、桓武天皇は、父光仁を皇神として即位したのか。更に、それ以前では、儀式で呉音で読むところを、桓武天皇の儀式では漢音を使った。
桓武天皇即位の前年、780年光仁天皇は、百姓より徴兵し、練達の者に武を習わし、軍団づくりを始めていた。それは、反藤原氏であった聖武天皇の血が流れていた井上皇后と他戸皇太子を謀殺したことに対して、東国の突厥進駐軍と花郎騎士団残党が動き出したからだ。
唐帝国は、サラセン帝国の商人と交易をするために、銀を必要としていた。銀は、国際貨幣であったからだ。銀は、朱砂が産出する地で採掘される。日本列島は、縄文時代から朱砂を中国大陸に輸出していた。唐帝国は、陸奥で金が産出したのを知っていたので、その陸奥を征服することを企んだ。
唐進駐軍は、645年明日香ヤマトを攻略すると、694年藤原京、710年平城京と北進した。そして、784年山背国長岡京に遷都した。山背国は、古墳時代に花郎騎士団と突厥進駐軍が支配していた地だ。母国東突厥帝国が、744年に滅んでしまったため、最後の補給路である淀川系を唐進駐軍に支配されてしまった明日香ヤマト残党軍は、比叡山の砦で応戦するしか手立てはなかった。
785年唐進駐軍に支援された桓武天皇は、地位を盤石にするために、実弟早良親王を無実の罪を着せて謀殺した。この早良親王、井上皇后、他戸皇太子の謀殺による結果が、桓武天皇をして、平安時代の都で、怨霊に苦しめられて行く。
ここに、怨霊に苦しめられる桓武天皇により、長岡京から平安京へ遷都されることにより、藤原氏の謀略の数々により翻弄された奈良時代が終焉した。

オレは、田辺説の奈良時代のレポートを読み終わると、虚脱状態に陥っていた。それは、あまりにも、学校で習った奈良時代、奈良の大仏建立による仏教文化華やかな天平文化と、進取の気性に燃えた若き遣唐使達の歴史、と異なっていたからだ。学校歴史を刷り込まれている前頭葉が、混乱を起こしている。納得いくまで、田辺さんに質問しようと夜を待った。

国史「続日本紀」は本当のことを語らない

「カメです。こんばんわ」
「ナベです。こんばんわ。仕事忙しくて連絡できなくてすみませんでした。レポート読んでくれました。」
「ええ。読みましたけど。内容が「今市」理解できないところがあります。」
「どこのところ、ですか。」
「奈良時代のハイライトは二つあると思うのですが。ひとつは遣唐使で、もうひとつは、孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇后列席の、鑑真による大仏開眼の華やかなセレモニーの歴史が書かれてなかったのは、何故ですか。」
「そのような華やかなセレモニーは、史実として確認できないからです。」
「歴史教科書には記述があるのは何故ですか。」
「歴史教科書の記述が常に正しいとは限りません。六国史のひとつ、「続日本紀」があります。「続日本紀」は、文武天皇元年(697年)から延暦10年(791年)まで、95年間にわたり、40巻に収められた記録です。ほぼ奈良時代をカバーする記録書です。この記録書は、2部に分かれて編纂されました。前半20巻は、天平宝字元年(757年)までに纏められ、藤原氏に担がれた光仁天皇に奏上され、後半20巻は桓武天皇の命により編纂され、前半20巻を合わせて40巻として、延暦16年(797年)に完成したのです。つまり、「日本書記」が藤原不比等の意向が反映されているのに対して、「続日本紀」には、亡命百済貴族出自の桓武天皇の意向が反映されているのです。その「続日本紀」によれば、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養には、聖武太上天皇は列席していなかったのです。」
「何故ですか。」
「聖武太上天皇は、銅・水銀鉱毒により重い病で臥せっていたのです。開眼供養の4年後、756年崩御しています。」
「何故、聖武太上天皇が鉱毒中毒なのですか。」
「それは、東大寺の大像鋳造で、銅の精錬と、アマルガム鍍金(金メッキ)で水銀を使ったからです。」
「その東大寺の大像とは、ナベさんが、奈良の大仏ではなく、太陽を祀るミトラ教の化身遍照鬼といっていたヤツですね。」
「そうです。その大像が、仏像となったのは、855年遍照鬼像の頭を落とされ、仏頭に挿げ替えた、平安時代からです。その興福寺を見下ろす岡の上で、遍照鬼を鋳造していたことにより、その鋳造を頻繁に視察していた聖武天皇は、銅鉱毒、水銀中毒を患っていたのです。」
「岡の上が鉱毒で汚染されていることは、その下にある平城京も鉱毒に汚染されていたのですか。」
「勿論、汚染されていたと考えられます。平城京において多くの鉱毒中毒者の存在が考えられます。その根拠として、平安時代中期、985年僧源信が、仏教宣伝書の「往生要集」を著すのです。その内容は、ひとが死に至る過程をリアルに描いていたのです。そのため、「地獄世界」を説く仏教界で評判となり、宋国にも「往生要集」が輸出されたのです。」
「鉱毒中毒は、200年以上も前の奈良時代の出来事ですよね。」
「それほど、奈良の平城京の鉱毒中毒の惨状がひどかったのです。その背景には、奈良時代初期に、藤原氏が日本列島に持ち込んだ、中臣神道の思想があります。その思想によると、「死」は「穢れ」で、伝染すると言うのです。ですから、「穢れ」の伝染を避けるため、死寸前のひとを、家の外に放り出していたのです。死に行くひとの観察は、周囲のひと達のリアルな体験となり、子孫に伝えられていったのです。」
「「死」が穢れですか。すると、やはり、中臣神道は、古墳時代には存在していなかったことになりますよね。」
「そうですね。古墳は、死者の再生を願ってか、あの世でも「生きる」ことを前提に造られていたのです。ですから、古墳には、死者が「穢れ」として燃やされることもなく、生前のまま埋葬され、生前の生活用品や武器も死者の傍らに埋葬されたのです。」
「そのように考えると、藤原日本史で云う、奈良の巨大前方後円墳が、天皇の墓であるということの根拠が薄れてしまいますよね。」
「そうですね。藤原日本史では、天皇家はアマテラスオオミカミを皇神としていたわけですからね。アマテラスオオミカミは、中臣神道の神でもあるわけですから、古墳には、死者など埋葬するはずはない、と言うことです。」
「すると、アマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮なども、古墳時代には存在していなかったことになりますね。と言う事は、藤原日本史の神話も飛鳥時代も、「ウソ」と言う事ですか。」
「そうなります。それらの日本神話や飛鳥時代の歴史は、奈良時代に、藤原不比等により創作されていたのです。藤原日本史が語る、4世紀「倭の五王」を仁徳(履中)・反正・允恭・安康・雄略天皇とする、507年越前から進駐したとする継体天皇の即位、欽明天皇13年(552年)の仏教公伝、604年聖徳太子の憲法17条、645年中大兄皇子と中臣鎌足が出演する「大化の改新」、などは、歴史ではなく、創作物語なのです。藤原不比等は、前政権の歴史を国史を編纂することで消すことや、仏教組織を使って国を乗っ取るノウハウを、唐帝国から学んでいたのです。」
「それって本当なのですか。」
「「日本書記」の構成は、神話物語は「旧約聖書」で、その後は、中国史と朝鮮半島史を参考に創作されたのです。日本国での政治の始まりとする「大化の改新」は、朝鮮半島での「ヒドンの乱」のコピーです。ネットで調べてみてください。カメさんも、きっと驚くはずです。あまりにも「大化の改新」物語と同じストーリですから。」
「後でネットで調べてみます。それにしても、教科書歴史での大仏開眼供養の描写はリアルですが。」
「それは、平安末期に著された「東大寺要録」を基に創作された、小説家による「天平の甍」が、史実として伝わってしまったからです。エンターテイメントの歴史小説と、歴史書との区切りを付ける必要がありますね。」
「ナベさんの説では、「日本書紀」もエンターテイメントのように取れますよ。」
「「日本書記」が、古代日本列島の歴史書ではなく、創作物語だと言っても、無価値というわけではないのです。「日本書記」や「続日本紀」を権力者が、創作するには、それなりの訳があるのです。その訳を知ることにより、闇に葬られた歴史が現れるのです。」
「具体的に、どういうことですか。」
「例えば、「続日本紀」があります。「続日本紀」は、文武天皇の即位前紀に続いて、即位の詔があるのです。その詔が、漢文ではないのです。」
「何故、ですか。」
「その詔の文には、「止・と」「尓・に」「乎・を」などの文字があるのです。カメさん、これから何を想像できますか。」
「突厥語の格語尾です。日本語の「テニオハ」の格助詞ですね。」
「送った本、読んでくれたのですね。中国語には、格語尾も格助詞もないのです。その詔は、宣命体と言って、天皇の詔を宣言する文体です。つまり、奈良王朝でも、口語では、明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍が使用していた突厥語の文体を使っていたことが、「続日本紀」の詔の文章により示唆されるのです。」
「ナベさんの説では、藤原氏が「日本書記」を創作した目的のひとつは、明日香ヤマトと河内を支配していた、ユーラシアからソグド国際商人を伴って渡来した突厥進駐軍と、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団の歴史を消すために、突厥進駐軍将軍家を蘇我氏とし、花郎騎士団を物部氏とした、とするのですよね。すると、桓武天皇は、「続日本紀」で、奈良時代の何を消そうとしたのですか。」
「遣唐使についての、日本側史料と唐帝国側史料との「ズレ」に、桓武天皇が消そうとした、奈良時代の歴史があるのです。遣唐使は、日本側史料では、奈良朝廷の自発的な使節で、文化先進国の唐文化を取り入れるために組織され、送られた、とするのです。しかし、唐帝国側史料では、遣唐使は、日本列島各地から中央に納める、「庸調」の唐帝国の税制で集められた貢物を持って朝貢していたとするのです。朝貢とは、属国が母国の皇帝に貢物を持って挨拶に行くことです。そして、その遣唐使の帰国には、唐帝国の官史や軍団も同船していたのです。」
「確かに、ナベさんのレポートを読めば、そのように理解できます。奈良王朝は、唐帝国の属国だったようですね。唐帝国側史料を読めば、自虐的日本史となってしまいますね。」
「一般的に、藤原日本史を正しいとし、その藤原日本史を否定する史観を、自虐的日本史と言うひともいるようですが、客観的に歴史を見ることが、何故、自虐的日本史になるのでしょう。そこには、現在も勢力を温存する藤原氏の存在が見て取れます。藤原氏、亡命百済貴族により消された、騎馬民族の歴史を復元することは、自虐的日本史を述べることになりません。」
「ナベさんの言うこと理解できます。でも、何故、ナベさんは、世間的に「トンデモ歴史」と思われる、明日香ヤマト騎馬民族征服史を調べているのですか。」
「血の流れだと思います。私には、騎馬民族の血が流れているようです。私の家系は、江戸時代から代々漢方医だったようです。」
「エリートだったんですね。」
「明治革命で、イギリス東インド会社の手先として活躍した蘭学医は、エリートとなりましたが。江戸時代では漢方医はエリートではありません。漢方医は、賎業者と思われていたのです。」
「漢方医が賎民ですか。」
「漢方医は、薬草学の神である神農様を祀っていたのです。その神農様は、ヤクザの的屋(テキヤ)の神でもあったのです。」
「すると、漢方医とヤクザは、同族ということですか。」
「そうです。漢方医もヤクザも、その租は騎馬民族だったようです。ヤクザと言っても、現在のような私的利益だけを求める暴力団ではありません。ヤクザは、役座と書かれるように、禁足地の神社(モリ)での賎民によるバザールでの商いを、権力側の暴力から賎民を武力で護り、座を仕切る顔役だったのです。古く、鎌倉時代に発生した、武力集団です。唯の暴力団と違うところは、「任侠」の思想において暴力を振るったのです。」
「任侠ですか。懐かしいですね。東映ヤクザ映画を思い出しますね。」
「任侠とは、弱い立場のひと達の関係を狭める、つまり、弱者擁護のことです。」
「役座の任侠思想は、何か、中世ヨーロッパの騎士道精神に通じますね。」
「「根」が同じだからです。」
「「根」が同じとは、どういう意味ですか。」
「役座の租は、唐進駐軍に明日香ヤマトの都を追われた、花郎騎士団だったからです。その花郎騎士団の租は、ローマ帝国軍です。」
「役座の租が、ローマ帝国軍ですか。一寸理解不能です。」
「古代新羅は、356年に朝鮮半島に興ったのですが、その王は、外来者の意味がある「奈勿王」と呼ばれ、その古代新羅の文化は、ギリシャ・ローマ文化だったのです。この根拠は、古代新羅文字と慶州の遺跡・遺物が証明します。古代新羅は、高句麗や百済が仏教を取り入れ、それに伴い漢字文化を取り入れていたのに、漢字をアルファベットの文字として使っていたのです。」
「それって、古代日本の万葉仮名と同じでは。」
「古代新羅の郷札という漢字アルファベット方式と、古代日本の漢字をアルファベットとする万葉仮名は、そのルーツは同じようです。アルファベットから派生した表音文字を使う民族が、日本列島に渡来して、漢字文化国との交易をするために発明した文字だからです。その古代新羅の軍団が、花郎騎士団です。」
「花郎騎士団って、オカマ軍団ですか。」
「漢字は、その文字自体に意味とイメージがありますから、「花」には、「オンナ」の弱弱しい、やさしい意味がありますが、この場合、「花」は、太陽神ミトラ教の「ミトラ」の借字なのです。つまり、花郎騎士団とは、ミトラ神を信仰する騎士団という意味です。」
「そういえば、古代ローマ帝国軍団は、ギリシャ文化を崇拝していて、アレクサンドル大王が征服した地で流行っていたミトラ神を、ローマ帝国軍の軍神として祀っていましたよね。」
「そうです。ローマ帝国が、392年ユダヤ教ヨシュア派をキリスト教として国教とし、そのキリスト教を国教としたテオドシウス大帝が395年死去すると、ローマ帝国は東西に分裂したのです。その東ローマ帝国で、キリスト教を利用して政治や商売を有利にすることを考えた一派が、人間キリストを神にすることを考えたのです。そのことに反対するネストリウス派は、431年エフェソスの公会議で、異端とされ、435年東ローマ帝国から追放されたのです。この時、キリスト教を信じない、軍神ミトラを祀る、異端者の東ローマ帝国軍の一部も、東ローマ帝国を後にしたのです。」
「すると、ナベさんの説では、その軍神ミトラを信じる東ローマ帝国軍が、花郎騎士団として古代新羅に現れた、と言うのですね。」
「軍神ミトラを信じる東ローマ帝国軍団は、ガンダーラを目指したと思われます。そのガンダーラの地は、アレクサンドル大王領の東端で、紀元前250年ギリシャ文化を継承したバクトリアが興っていたからです。そのバクトリアは、東征するために弱小国秦を軍事支援して、紀元前221年秦帝国を興したのです。」
「すると、秦帝国は、ギリシャ文化継承国のバクトリアの衛星国というわけですね。」
「そうです。古代新羅から日本列島に渡来した「秦氏」が、秦帝国の末裔と言っていたことは、「ウソ」ではなかったのです。秦氏の渡来の背景は、北魏から弾圧で追われた仏教教団は高句麗から南下して、新羅に侵攻するのです。仏教組織は北魏時代から武装していたようです。その仏教教団が軍団を伴って南下したため、古代新羅から追われたギリシャ・ローマ文化の古代新羅の王族が、花郎騎士団を伴って、527年北九州に渡来したのです。藤原日本史では、この歴史を「筑紫国磐井の反乱」として隠蔽するのです。北九州に渡来した秦氏は、宇佐に秦王国を興すのです。この秦王国は、608年隋使裴世清が唐皇帝煬帝への報告に登場しています。その秦王国が、吉備、明日香イカルガへと東進したのです。その朝鮮半島→北九州→河内へと移動した秦氏の歴史を、藤原日本史では、「物部氏」として、587年の神仏戦争物語で抹殺したのです。その古代新羅の民族(秦氏)が、ギリシャ・ローマ文化を継承して日本列島に渡来していたことは、以上のことで説明されます。」
「役座の租が、ローマ帝国軍を租とする、花郎騎士団だということは理解できましたが、何故、役座は薬草神の神農様を祀るのですか。そもそも神農様は何処から来たのですか。」
「神農様は、中国土着の神で、不老長寿の神仙思想の道教に取り入れられたのです。道教は、不老長寿を目指し、仙術のひとつとして、薬草学を研究していたのです。その薬草学の神様が、神農様というわけです。」
「でも、藤原日本史では、日本列島には神道と仏教しか出てきません。歴史書などにも、道教は日本列島に上陸しなかった。その証拠に道教関係の施設が建てられた形跡が認められない、とあるのですが。」
「それは、日本列島騎馬民族征服説を否定するひと達と、同じ理論です。騎馬民族征服説を否定するひとは、騎馬民族が朝鮮半島から渡来したと信じているのです。ですから、それらの騎馬民族征服説否定者は、九州や中国地方の遺跡に、その騎馬民族を示す遺跡・遺物が発掘されていないから、日本列島に騎馬民族が渡来していなかったと、主張するのです。しかし、6世紀のユーラシア大陸をソグドの国際商人と供に支配していた突厥騎馬軍団は、日本海を渡海して、北九州ではなく、東北・北陸越前に渡来していたのです。その歴史を消すために、藤原不比等は、「日本書記」で、越前から侵攻した継体天皇物語を創作して、騎馬民族の渡来ルートを隠蔽していたのです。」
「すると、道教の歴史は、どのようにして隠蔽したのですか。」
「それは、「日本書記」の斉明2年の条にある物語です。」
「どのような物語ですか。」
「その物語は、「田身の嶺に周れる垣を冠らしめ「田身は山の名なり」また嶺の上に両つの槻の辺に観を起て、号けて両槻宮とす。亦天つ宮と曰う。」、とあることです。この両槻宮を、「日本書記」では、「ふたつきのみや」と読ませていますが、この宮の観こそ、道教寺院だったのです。その他にも、斉明天皇物語では、明日香ヤマトの歴史を隠蔽しています。それは、4世紀から奈良盆地が古代新羅から渡来していた技術者により、古代エジプト土木建築技術での巨大前方後円墳、石組建築物、大運河、花郎騎士団がいるイカルガと突厥進駐軍のいる明日香を結ぶ南北軸から西に約20度傾いた幅12mの直線道路などを開発していたことです。」
「「田身」とは、「トウノミネ」で、騎馬民族の突厥語で、「連なる山々」の意味ですよね。」
「そうです。その連なる山々の意味の突厥語のトウノミネを、「日本書記」では、わざわざ注をつけて、「田身は山の名なり」、としているのです。広域に移動する騎馬民族は、いちいち山に名前などつける習慣はないのです。その渡来した騎馬民族と供に、道教が、日本列島にもたらされたのです。中国大陸では、騎馬民族は、血の禁忌や肉食禁止の仏教ではなく、犠牲の儀式を持つ道教を保護していたのです。それは、道教の神は太一の北極星で、広域を移動する騎馬民族も、真北にあり移動しない北極星を旅の目印として祀っていたからです。
遊牧民族鮮卑出自の北魏の太武帝は、仏教を弾圧して、道教を保護していたほどです。古代日本列島には、漢訳仏教と中臣神道が伝来する前に、古代新羅から花郎騎士団によるミトラ教と、騎馬民族突厥による道教が存在していたのです。645年以前の奈良盆地では、南側を支配地とした突厥軍団は、トウノミネに道観を建て、北側のイカルガには花郎騎士団により、太陽神の再生日である冬至の太陽光があたるように南北軸より西に約20度傾いたミトラ教の寺が建てられていたのです。その花郎騎士団の支配地であったイカルガのミトラ教寺を、藤原氏が破壊した跡に、奈良時代の黎明期に、法隆寺が北九州から移築されたのです。古代日本列島史が、奈良時代に藤原氏により創作された、との根拠は以上のことからなのです。」
「645年その奈良盆地から、唐進駐軍に、近畿一帯の山奥に追われた北極星を祀る突厥軍団と太陽を祀る花郎騎士団の明日香ヤマト軍残党が、役座の租というわけですね。そのミトラ教と道教の歴史を、奈良時代に藤原氏が、仏教と中臣神道で隠蔽していたというのですね。」
「藤原氏が、古代日本列島史を改竄していた奈良時代の歴史を、今度は、平安時代初期に、亡命百済貴族出自の桓武天皇が、奈良時代の歴史を改竄していたのです。」
「何か、その証拠でもあるのですか。」
「桓武天皇の焚書は有名ですが、反藤原氏の聖武天皇の遺品が納められていた正倉院から、絵画や像や文書を持ち出して、処分していたのです。奈良時代を表す絵画類がないのは、そのためです。常識での奈良時代は、桓武天皇が監修した「続日本紀」を基に復元されたのです。このことが、奈良時代は闇の時代だという根拠です。」
「そうですか。すると、奈良時代の歴史には、東大寺大仏開眼供養も遣唐使にも、亡命百済貴族の桓武天皇が、後世のひとに知られたくない闇の歴史があるわけですね。」
「藤原氏にも、知られたくない奈良時代であったようです。それは、1309年高階隆兼により「春日権現験記絵」が描かれたのです。この絵は、14世紀に奈良春日社に奉納されたものですが、中世の興福寺僧の生活を知ることが出来るのです。その絵巻の中のひとつに、興福寺僧の紀伊寺主(事務担当僧)が寝て夢を見ている絵があるのです。その絵には、寝ている僧の横に女性と思しきひとが描かれているのです。そして、枕元には刀が立てかけてあるのです。カメさん、これってどう思いますか。」
「仏教では女犯禁止で、そして、殺生禁止だから、701年大宝律令の僧尼令でも武装禁止としていましたよね。14世紀の絵だとしても、大宝律令の禁を犯していますよね。」
「奈良時代の絵は、桓武天皇により処分されていたので存在しません。その絵が奈良時代の興福寺の僧の生活を描いているとは言えませんが、その女性と思しきひとは、稚児です。14世紀の寺では男色があったと、その絵師は描いているのです。肛門の疾患を「ジ」と言いますが、その「ジ」は、「痔」と表されるのは、それは「寺」で多く見られる疾患だからです。」
「その絵、歴史書で見たことがあります。しかし、そこまでは気がつきませんでした。すると、奈良時代に興隆した仏教軍団が壊滅するのは、1571年織田信長による比叡山の焼き討ちと、石山合戦、そして、1585年関白豊臣秀吉による紀伊根来・雑賀の一揆を平定してからですよね。それまでは、仏教教団には、武装した僧兵による軍団があったようですね。その絵の事務担当の僧は、刀で武装する警備員も兼ねていたようですね。」
「そのようですね。藤原日本史は、藤原氏、亡命百済貴族、そして、仏教関係者達の史料により構成されていますから、それらの組織に都合が悪い歴史は、隠蔽または削除されていますから、本当の歴史があるとするならば、気をつけてそれらの史料を読む必要があるようです。その奈良時代の、藤原氏の氏寺である興福寺が支配する奈良仏教にも、謎があるのです。それは、鑑真の渡来です。藤原日本史では、鑑真は、奈良仏教の援助者のように描かれていますが、実際は、興福寺にとっての鑑真は、疫病神ではなく、厄病僧であったようです。」
「厄病僧とは、どのような意味でですか。」
「藤原日本史では、「日本書記」により仏教伝来552年とするのです。そして、飛鳥時代の聖徳太子により、仏教が興隆して行くとするのです。そして、朝鮮半島の白鳳年号を取り入れ、仏教文化が花咲く白鳳時代とし、仏教文化が完成する天平時代と、仏教史を綴るのですが、その仏教史で活躍するとする仏僧は、どのような資格を持っていたのでしょうか。」
「仏教僧に資格などあるのですか。」
「僧侶が一人前になるには、仏説を学び、剃髪や法名を得度し、戒律を受ける受戒の必要があります。戒律の戒とは、サンスクリット語でシーラで、自分を律する内面的な道徳規範を意味します。そして、戒律の律とは、サンスクリット語でヴイヤナで、教団で守るべき集団規則のことです。そして、出家者には、戒師の前で10戒、不殺生、不偸盗、不淫、不妄語、不飲酒、不塗飾香鬘、不歌舞観聴、不坐高広大牀、不食非時食、不蓄金銀宝、の護持を誓うことにより、沙弥という雛僧となれたのです。」
「仏教の10戒ですか。キリスト教の「モーセの10戒」を連想させますね。」
「紀元一世紀、突然現れた大乗仏教とキリスト教(ユダヤ教ヨシュア派)との共通点は多く指摘されています。その話は、後程します。その10戒の中での4戒、不淫、不盗、不殺、不妄語、を破ることは教団からの追放となり、破戒僧と呼ばれるのです。先ほど述べた、鎌倉時代の絵に描かれていた興福寺の僧は、その絵から二つの戒を破っていることが示唆されます。」
「興福寺の僧が、何故、戒を破れるのですか。」
「興福寺は、それほど権力があったからです。日本での戒律を授ける授戒制を確立したのは、奈良時代の鑑真によるのです。8世紀前半までの日本では、唐帝国が認める正式な戒壇がなかったのです。戒壇とは、10人の有資格者の戒師から、完全にそろった戒である具足戒を受けるための施設です。その施設が日本国になかったため、奈良王朝で勝手な振る舞いをする、藤原氏の氏寺の興福寺の僧を抑えるため、反藤原氏の聖武天皇は、戒律に精通した唐僧を日本への招聘を考えたのです。」
「仏の名において勝手な振る舞いをする僧とは、古代エジプトの神官に通じますね。その神官の勝手な振る前を封じるために、ヒッタイト帝国の契約の太陽神ミトラを導入して、唯一神アトンを、エジプト王のアメンホテプ4世(イクナトン)が発明したのでしたよね。その古代エジプトの唯一神アトンから、ユダヤ教の神ヤハヴェが生まれるわけですね。」
「神や仏を出されれば、誰も抵抗ができないからです。奈良仏教の宗教改革を望む反藤原氏の聖武天皇は、栄叡と普照の二人の僧に、唐僧の鑑真に頼み、鑑真の弟子を日本に送るよう密命を与えたのです。それに対して、唐帝国のエージェントの藤原氏は、唐帝国と謀議を図っていたのです。鑑真の弟子は、誰も日本へ行くことを承諾しなかったので、鑑真自身が渡海を決意したのです。鑑真の渡海は、5度も唐側の妨害にあったのです。6度目の渡海では、藤原氏により鑑真渡海阻止の密命を受けた藤原清河は、鑑真一行を第1船に乗船させた後、難癖を付けて下船させてしまうのです。」
「藤原日本史では、鑑真は船出して、5度も難破したように描写していますが、出帆の前に阻止されていたのですか。」
「一度だけ出帆した記録がありますが、5度の難破の唐帝国側の記録はありません。藤原清河の陰謀により下船させられた鑑真一行は、第2船の指揮者の副使大伴古麻呂の義侠心により匿われ、密航者として、藤原氏が古来から支配していた南九州坊津に上陸するのです。その坊津が、古来から中国大陸と交通があったことは、中国の航海の神「娘媽」(ろうめ)が祀られていたからです。その「娘媽」とは、中国では「媽租」と言って、道教の神であったのです。この坊津の近くには、中国との恒常的な海洋交易があったため、中国人町があったのです。この坊津は、南海から北上する黒潮が海岸を洗うので、古来から南海交易が盛んであった港だったのです。」
「鑑真の坊津渡来には、藤原氏も驚いたことでしょうね。」
「鑑真は、南伝仏教が盛んな揚州江陽県の出身で、14歳で出家し、18歳で南山律宗の菩薩戒を受け、21歳で具足戒を受けた、唐帝国中部での律僧としての第一人者であったのです。渡来した鑑真は、754年聖武太上天皇、孝謙天皇、光明皇后らに菩薩戒を東大寺の戒壇で授けたのです。菩薩戒とは、自己のみならず、他者の救済をめざす大乗仏教の大乗戒のことです。鑑真は、南伝仏教僧であったのですが、菩薩戒を護持していたのです。」
「鑑真の渡来まで、日本には戒壇がなかったのですか。すると、それ以前の女犯(男色)し、武装する興福寺の僧は、私度僧ということですか。」
「この鑑真による授戒がなかったため、日本から遣唐使と供に渡唐した僧は、唐帝国から一人前の僧とは認められていなかったのです。この東大寺の戒壇での授戒制の創始により、日本国僧は、唐帝国から沙弥扱いされなくなったのです。」
「藤原日本史での、遣唐使に随伴していた僧は、一人前の僧として認めてもらえなかったのですね。」
「そうです。だから、日本からの留学僧は、20年間の修行が義務付けられていたのです。このことは、平安時代初期の空海渡唐の謎となるのです。錬金術師空海は、留学僧として渡唐したのに、2年足らずで帰朝していたのです。この話は、「平安時代篇」で述べます。天平勝宝7年(755年)東大寺に戒壇院が完成し、761年筑前(福岡県)観世音寺と下野(栃木県)薬師寺にも、鑑真により、国立戒壇が樹立されるのです。九州は、大宰府があり、唐帝国との国際交易の地であることから戒壇が樹立されたのは理解できます。しかし、東国の蝦夷の支配地だった下野の薬師寺に戒壇が樹立されたこと、カメさん、理解できますか。」
「藤原日本史の北関東の歴史にも、多くの謎がありますね。5世紀埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土の剣に記されたワカタケルを、藤原日本史では、雄略天皇としていますよね。そして、倭の五王のひとり、武を雄略天皇としていますよね。5世紀からの古墳には、全国的に実戦用の馬具や武器が埋葬されていきますよね。実戦用の馬具は、農耕民族のものではなく、騎馬民族のものですよね。ナベさんの説では、騎馬民族は、朝鮮半島から北九州へではなく、東北・北陸越前に渡来した、のですよね。すると、5世紀の北関東にも騎馬民族が渡来していたと考えてもおかしくはありませんね。」
「倭の五王とは、5世紀に朝鮮半島南端と北九州を支配していた民族の王です。奈良県の王ではありません。720年「日本書記」に登場する雄略天皇は、713年藤原氏の命令により、唐進駐軍により侵略した地の豪族達に、奈良王朝に提出させた地方史の王を基に合成された人物です。ですから、関東からワカタケルと銘がある剣が発掘されたのは、奈良の王・雄略天皇の実存を証明することにはなりません。その剣は、奈良の王から与えられたのではなく、関東のシキの宮を支配したワカタケル王に仕えた王の剣だったからです。5世紀の関東地域には、騎馬民族の都シキがあったのです。」
「奈良の三笠山にある春日大社の神も、常陸鹿島神宮から、藤原不比等が勧請したと、藤原日本史にありますね。神宮が建てられたのは、古墳時代が終焉した後で、それ程古くはないですね。その謎の多い関東の下野に、鑑真は、国立戒壇を樹立したのですね。」
「その謎を解く鍵は、国分寺にあるようです。反藤原氏の聖武天皇は、741年国分寺を全国に造らせていました。関東にも国分寺が造られていました。もし、国分寺が、仏像を安置する仏寺だとしたら、聖武天皇が発案した国分寺に安置された仏像は、後世までも存続しているはずです。しかし、国分寺は、平安時代末期には廃墟となり、そこに安置されていたはずの仏像も、全国で一体もないのです。カメさん、これって変だと思いません。」
「そう言われれば、確かに変ですね。江戸時代末期、九州に漂着したリーフデ号の船首像を、ある仏寺では、カテキ様として祀るほど、何でもかんでも仏像にして仏寺に祀る習慣があるのが、日本の仏教ですからね。」
「もしも、その国分寺に安置された仏像が、実際は、仏像ではなかったらどうでしょう。国分寺造営を発案したのは、興福寺を支配する藤原氏に対抗する聖武天皇です。聖武天皇が発案した奈良の大像は、最初は仏像ではなく、仏敵の遍照鬼だったのです。関東で、勝手な振る舞いをする興福寺の僧を抑えるために、反藤原氏の聖武天皇は、鑑真をして、関東の下野に国立戒壇を樹立した、と考えられます。その下野の国立戒壇は、平安時代に、摂関政治により藤原氏が台頭する時期になると、機能停止となるのです。」
「5世紀からの関東が、騎馬民族の支配地であって、そして、645年以降、唐進駐軍と藤原氏の僧兵軍団が関東に侵攻していたとするならば、それ以前の東国の歴史はどのようになっていたのですか。」
「それについては、「古事記」の暗号が答えてくれます。出雲の国譲り物語では、イズモ地域を支配していたアズミ族は、飛鳥大和王朝(唐進駐軍+藤原氏)に脅され、出雲国を乗っ取られると、信濃の諏訪に逃げ込むのです。カメさん、出雲物語の年代を何時頃だと思いますか。」
「神話だから、紀元前というのは、答えになりませんよね。」
「出雲神話では、オオクニヌシの妻の父親、悪役のスサノウが新羅に行ったとありますから、356年以降です。」
「そうですか。出雲物語は、それほど古い物語ではなかったのですね。「古事記」の国譲り物語は、「日本書記」の国譲り物語と違いますよね。「日本書記」では、話合いの上、オオクニヌシが国を譲る替わりに、大和朝廷が出雲大社を建て、租神を祀るように願った、となっていますよね。どちらが史実として正しいのですか。」
「歴史が正しかどうかを判断するのは、その歴史を読んだひとの史観によります。そもそも、歴史には、正しいとか、正しくない、との客観的判断はできないのです。コインには、表と裏があります。コインの実態を知るには、表と裏を見る必要があります。それと同じです。歴史も、表と裏を知ることにより、より史実に近づけます。
その「古事記」の物語により、アズミ族は信濃に移動したことが分かるのです。この信濃と天武天皇との関係が、大津皇子事件により分かるのです。」
「大津皇子事件とは、686年日本初の天皇である天武天皇が崩御後、後を継いだ百済系の女帝持統天皇が、自分の息子草壁皇子を天皇にすることを図って、持統天皇の姉の子大津皇子を、河島皇子に密告させ、謀反の罪により謀殺した事件のことですか。」
「そうです。その事件では、30余名が連座したことになっているのですが、二名を除いた残りのひと達は、罰せられるどころか、昇進した者が多くいたのです。」
「その大津皇子事件は、何か、謎めいていますね。」
「その流罪となった二人とは、礪杵道作(ときのみちつくり)と新羅沙門行心です。この礪杵道作とは、美濃国土岐郡の出身で、当時では、漢字アルファベットで三野国刀支評(みのくにときのこおり)と記す行政地域で、信濃との国境を接する広大な国だったのです。この刀支評には、軍馬の休憩所である土岐駅が設置されていたように、ユーラシア大陸からの騎馬民族の渡来港である秋田県酒井津と、突厥進駐軍の都の明日香ヤマトを結ぶ、騎馬民族の軍事道路の東山道が、東西に貫通する重要地域だったのです。
その名である礪杵道作とは、東山道の軍事道路建設に携わっていたことを暗示します。そして、その刀支評では、天武天皇が支配する明日香ヤマトに米を大量に送っていたのです。その三野国刀支評に接する信濃に、天武13年(684年)天武天皇は、信濃に宮都をつくる計画をたて、三野王以下の使者が信濃まで派遣されていたのです。しかし、その2年後、天武天皇は崩御するのです。」
「その話の信濃と出雲国譲りの信濃の話と、何か関係があるのですか。」
「藤原日本史では、「壬申の乱」を、天智天皇と天武天皇との兄弟の内乱のように描いていますが、それは違います。天智天皇と天武天皇とは、兄弟どころか、その二人は、百済皇子と新羅皇子の敵対関係にあったのです。その根拠は、兄と言われる天智天皇は、天武天皇より4歳も年下だったのです。更に、その二人のそれぞれの娘は、それぞれの皇子の側室となっていたのです。4歳年下の兄などはこの世にいないし、実兄弟の娘をそれぞれ側室にすることは、常識的にはありえないことです。「壬申の乱」の実態は、663年百済が、唐・新羅連合軍により壊滅されると、一部は中国山東半島へ、そして、一部は日本列島の近江に亡命してきたのです。そして、667年近江に百済亡命王朝を興すのです。それに対して、645年明日香ヤマトが、唐進駐軍により壊滅し、近畿一帯の山奥に逃れていた明日香ヤマト残党軍が、672年新羅の皇子をかかげて蜂起して、近江の百済亡命王朝を倒した、朝鮮半島からの百済・新羅戦争の続きだったのです。その戦争に勝利した新羅の皇子が、日本初の天皇である天武天皇です。天武天皇は、突厥進駐軍と花郎騎士団による明日香ヤマト残党軍に支援されていたので、672年、再び、明日香ヤマトの浄御原宮に都を興したのです。しかし、近畿一帯は、東アジアの影響を受けていて政情不安であったのです。それは、サラセン帝国の台頭により、642年ササン朝ペルシャが滅亡し、ペルシャの王族や貴族達が、大挙して唐帝国に亡命してきていたからです。」
「ナベさんの説では、645年唐進駐軍が、明日香ヤマトを滅ぼした、と言うのですよね。その唐進駐軍は、その後どうなっていたのですか。」
「その当時、唐帝国の国内が混乱していたのです。そのため、遠方の日本列島の経営を一時棚上げして、軍団を唐帝国に呼び戻していたのです。」
「そのタイミングを見て、明日香ヤマト残党軍が蜂起したわけですね。」
「そのような情勢の明日香ヤマトの天武天皇は、唐進駐軍が再び攻撃してくるのを予測して、684年天武天皇は、都を、明日香ヤマトから信濃に移動する計画を立てていたのです。」
「何故、信濃なのですか。」
「信濃の都は、諏訪です。その諏訪は、713年以降の地名です。それ以前の地名は、トルファンで、騎馬民族が暮らしていたのです。」
「そう言えば、以前、ナベさんと、信濃のわさび農園にある八面大王の古墳の話をしましたよね。」
「その八面大王が、797年鎮守府将軍となった坂上田村麻呂に敗れるのが、平安時代初期です。それまでは、信濃の諏訪には、騎馬民族とアズミ族が暮らしていたと推測されます。その諏訪から北上すると、糸魚川にたどり着きます。その糸魚川流域では、翡翠が産出され、縄文時代から海洋民族により中国に輸出されていたのです。」
「そう言えば、諏訪神社には、不思議が多くありましたよね。神社に、本殿がなく、そこには空き地があり、神山を拝する拝殿所から、神山が見えなかったり、そして、古代では鹿の生首を奉納していたのですよね。更に、アズミ族の日本海沿岸巨木文化を伝える御柱祭りもありますね。」
「鹿は、騎馬民族スキタイの聖獣です。その鹿の生首を神に捧げることは、騎馬民族の儀式で、農耕民族の儀式ではありません。」
「すると、信濃の諏訪には、古代から平安時代初期まで、海洋民族と騎馬民族が暮らしていたと言えるわけですね。」
「そのような歴史背景のある信濃に、天武天皇が、明日香ヤマトから都を移そうと考えたのは、そこはまだ、騎馬民族の支配地だったことが示唆されます。」
「すると、百済系女帝持統天皇により、大津皇子事件で処罰された二人のうちの、もう一方の新羅沙門行心にも、流罪にする訳があったのですね。」
「新羅沙門行心とは、その名が示すように、新羅から渡来した者です。その本名は、新羅王姓と同じ金姓です。礪杵道作が道路建設技術関係者だったのに対して、新羅沙門行心は地形測量技師であったのです。その頃の地形測量技師とは、算歴術、天文術、方位術などがごちゃ混ぜの呪術師であったのです。」
「すると、その二人は、天武天皇が計画していた、明日香ヤマトから信濃への遷都に大いに関係しますよね。と言うことは、信濃遷都を可能にする技術者である礪杵道作と新羅沙門行心を、新羅系大津皇子と供に抹殺してしまえば、百済系女帝持統天皇の天下となるわけですね。」
「百済系女帝持統天皇は、頻繁に吉野行幸をおこなっていたことは、よく知られています。その吉野には、藤原氏の南海国際交易センターがあったところです。その女帝持統天皇の大津皇子事件での行動の裏には、藤原不比等の存在があったのです。」
「その藤原不比等は、唐帝国のエージェントであった、のですよね。」
「近畿一帯で、百済・新羅戦争があった4年後、676年朝鮮半島では、新羅軍団が唐進駐軍を朝鮮半島から追い出し、統一新羅を興したのです。新羅の皇子であった天武天皇の王朝設立と、統一新羅の建国は、ほぼ同時であったのです。このように東アジアの警察国としていた唐帝国が、朝鮮半島や日本列島で軍事的に劣勢になっていたのは、唐帝国の西隣の吐蕃や北辺の騎馬民族が、西アジアの図版を広げるサラセン帝国の膨張により、唐帝国の両方向の国境を侵していたため、その防衛のために、朝鮮半島や日本列島から唐軍団を引き上げていたからです。そのように唐帝国の国内が混乱していた時期、第三代皇帝高宗の皇后武氏が、漢訳仏教組織と結託して勢力を伸ばしていたのです。」
「漢訳仏教は、仏の道を広める組織ですよね。何故、皇后武氏は、漢訳仏教と結託したのですか。」
「古代の宗教施設は、現代のテレビ会社や新聞社のような機能を果たしていたのです。つまり、プロパガンダの道具です。」
「漢訳仏教組織がプロパガンですか。プロパガンタって、1517年神聖ローマ帝国での宗教改革で、カトリック側から発せられた「ヤジ言葉」ですよね。プロテスタントのマルチンルターが、ローマ・カトリックの腐敗に対して、95か条の質問状を出して、民衆による宗教改革の布教行動に対して、ローマ・カトリックが、「プロパガンダ」、つまり、「プロテスタントによるウソの布教」、と言ったことが語源ですよね。」
「そうです。皇后武氏を女帝にするため、漢訳仏教組織は、吉祥を利用したのです。」
「吉祥って、何ですか。」
「喜ばしい出来事のことです。漢訳仏教でのプロパガンダとしては、珍しいカメとかネズミ、コウモリなどが利用されます。その喜ばしい動物は、大抵、白い動物です。」
「白い動物と言えば、アルビノですね。」
「そうです。染色体異常により、色素が脱落している動物です。自然界では、珍しい動物です。そのアルビノの動物を、漢訳仏教は吉祥として、唐帝国の皇后武氏を女帝則天武后にするために、プロパガンダとして利用したのです。そして、このアルビノ動物を使うブロパガンタ戦術が、日本国の天武天皇の皇后を、女帝持統天皇にするために応用されていたのです。同じようなプロパガンタ戦術が、唐帝国と日本国で、ほぼ同時に行われていたことを、カメさん、どう思いますか。」
「そのアルビノ、日本ではどのように使われたのですか。」
「694年飛騨国から、白いコウモリが女帝持統天皇に献上されるのです。そのことにより、この年12月に女帝持統天皇は、藤原京に遷都するのです。この女帝持統天皇の時代、唐帝国を乗っ取った女帝則天武后との連動が示唆されるのです。」
「どのようなことですか。」
「唐帝国には、儒教、仏教、道教などが勢力を張っていたのです。皇后武氏は、その内の仏教と接近したのです。騎馬民族出自の唐帝国貴族は、仏教を避け、儒教や道教を保護していたのです。しかし、皇后武氏は、仏教寺院を全国に建てさせ、仏教組織のプロパガンダを使い、多くの吉祥により、女帝誕生を画策させたのです。その結果、690年皇后武氏は、女帝則天武后となり、唐の国号を周に替えてしまうのです。その当時の暦は、儀鳳暦だったのです。この女帝則天武后が支配する周帝国の暦が、日本国の女帝持統天皇の、690年から、中国南朝で445年から509年まで使われていた元嘉暦と平行して、儀鳳暦が使われ始まるのです。」
「日本の暦の始まりが、中国の暦と同じなのですか。先ほどの、ナベさんの質問と合わて考えると、女帝持統天皇は、女帝則天武后のコピーのように感じますが。」
「コピーですか、おもしろい表現ですね。女帝則天武后が出現した8年前、682年騎馬民族の東突厥帝国が復興したのです。その結果、唐帝国の北の国境では、再び、唐帝国軍と東突厥帝国軍との戦闘が始まっていたのです。この影響は、当然、騎馬民族系天武天皇が支配している明日香ヤマトにも波及していたのです。そのような時期、明日香ヤマトを支配していた天武天皇は、唐軍団が日本列島に再び侵攻して来ると考え、明日香ヤマトから信濃への遷都を計画していたのです。しかし、その計画の2年後、686年天武天皇は死去し、百済系女帝持統天皇が即位したのです。その女帝持統天皇を、裏でコントロールしていたのが、唐帝国(周)のエージェントの藤原氏であったのです。女帝則天武后は、女帝持統天皇をコピーとして、日本経営を計画していたのです。」
「そのような史観で、奈良時代を見てみると、藤原日本史の闇の歴史が現れてくる予感がします。特に、遣唐使の意味が、藤原日本史と異なる解釈となりますよね。」
「藤原日本史では、遣唐使は、日本から唐への留学僧を送り込み、その帰りに唐文化を輸入した、と述べています。しかし、それだけではないのです。718年遣唐使帰国船で帰朝した留学僧道慈は、完成まじかの「日本書記」に細工を施すのです。その細工とは、仏教が公伝したことを、552年とするため、義浄新訳「金光明最勝王経」にある文章を利用して、蘇我稲目と欽明天皇との会話物語を創作して、「日本書記」に挿入するのです。この会話の素材が飛鳥時代のものではないことは、新羅にも「金光明最勝王経」がもたらされたのは、704年だからです。」
「すると、藤原日本史で云う、仏教公伝552年は、ウソですか。」
「勿論、ウソです。日本列島に仏教が伝来した時期は不明です。それは、儒教、仏教、道教が、それぞれの宗教的有利点を取り入れたことにより思想や儀式が重層し、それぞれの宗教思想や儀式が分離されるのは、それほど古くはなかったからです。古代では、それらの宗教の違いを知ることは非常に困難だったのです。道教が、経典を持って独立するのは、女帝則天武后が死去してからです。」
「では、仏教が日本に公伝したことはないのですか。」
「仏教が、日本で勢力を増すのは、729年道教である鬼道をする長屋王が、藤原氏により謀殺されてからです。つまり、「日本仏教史」は、その長屋王の死から始まったと考えています。それと同時に、伊勢神宮と神祇官人の中臣朝臣氏との結びつきが深められていったのです。」
「それって、どういう意味ですか。仏教と中臣神道とは、異なる宗教ですよね。」
「伊勢神宮は、それ以前は、中臣朝臣氏ではないひと達に、異なる神が祀られていた、ということです。外宮と内宮の始まりです。そして、日本仏教も、ここから始まったようです。女帝持統天皇を傀儡として日本列島を経営することを画策した、女帝則天武后は、705年死去してしまうのです。その結果、女帝則天武后に寵愛を受けていた、儒教・道教の敵、仏教はその立場を失い、日本列島に亡命したことが推測されます。」
「ナベさんは、仏教が日本に伝来したのは、552年ではなく、奈良時代初期だというのですか。」
「そのように考えています。女帝則天武后の周帝国で権勢を張っていた仏教は、その後ろ盾を失って、北魏の仏教弾圧の時と同じように、国外に新天地を求めたと考えられます。そのひとつが、日本列島で、その唐(周)のエージェントであった藤原氏と結託したと考えています。道教の神太一(北極星)を伊勢の道観で祀った祖父天武天皇と同じに、神仙思想の道教を崇める長屋王の謀殺後、藤原氏に支配された国司は、各国の天神・地祇を祀る責任を担い、それに伴い、古来から先住民により祀られていた山川の神も必要に応じて、その枠内に取り込まれていったのです。そして、藤原氏が支配する中臣朝臣氏を中心として、皇祖神を祀る伊勢神宮を頂点として日本の神々の帳簿である「神帳」が作成されることにより、ここに「日本神社史」の基が築かれていくのです。」
「すると、伊勢神宮が、藤原氏により支配されたのは、奈良時代ということですね。それで、道鏡事件の時、神託を、伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮に聞きに行った意味が分かりました。藤原日本史では、神代の昔から伊勢神宮が存在していたように描写していますが、史実は、飛鳥時代の歴史は、藤原氏により奈良時代に創作されていたのですね。」
「そうです。カメさん、私のレポート読んでくれましたよね。そのような史観で、レポートを、再び読んでみて下さい。奈良時代の闇の日本史が現れると思います。」
「ナベさんから奈良時代の講義をうけたので、レポートの全ての疑問が解消しました。奈良時代を幻視してみます。幻視レポートお送りします。今夜もありがとうございました。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」

パソコンを閉じた。チャットに夢中になっていたので、急にのどの渇きを感じた。オレは、冷えきった紅茶を飲みながら、再びパソコンを開き、チャットの履歴をたどっていた。今日は、とうぶん眠れそうもない。

消え行く明日香ヤマトの奈良時代


オレは、パソコンの前で眠りこけていたようだ。窓の外がうっすらと白じんでいた。窓を開けると、東の空が薄紫色に弧を描いていた。久しぶりに、日の出の太陽でも拝もうと、外に出た。夏の夜明け前、ひんやりとした川風を受けながら荒川の土手を少し歩くと、赤水門に到着した。
東の空は、ある一点を中心に弧を描いて、空の色が紫色からオレンジ色へと刻々と変化していった。やがて、その一点が照り輝くと、強い光が目を射した。オレは、仏教徒でもないのに、思わず手を合わせていた。手を合わせる動作が、いつの時代から仏教作法と言われるようになったのか。仏教では、太陽ではなく、仏を祀るのに、オレは仏教作法と言われる合掌をしている。不思議だ。
朝陽を浴びたオレは、ふと考えた。
太陽は、万人の神として、古来から祀られていたことは、朝陽を浴びれば理解できる。貴賎・老若男女・民族を問わず、宗教者という介在者も必要なく直接、あまねく光の祝福を与えるからだ。そして、万人の身心を活性化させるからだ。太陽光線の温かさが、身体だけではなく、こころにも到達する。その朝陽は、力強さを感じる。だから、世界的に、太陽は父のイメージで、男神となる。しかし、藤原日本史で登場する、太陽神のアマテラスオオミカミは、女神だ。これはどうしたことだ。女神であることは、奈良時代に藤原氏が創作した「日本書記」の神話物語で、アマテラスオオミカミは、スサノウの姉となっているからだ。
その「日本書記」の神話物語で疑問がある。アマテラスオオミカミが天磐屋に隠れた時、その天磐戸の前で、女の裸踊りでおびき出す場面がある。女神は、男神と同じに、女の裸踊りに興味を持つのか。睡眠不足の前頭葉は、その疑問の答えを探しているようだが、思考は空回りだ。急に空腹を感じた。家に戻って朝食したら、その答えを探すため、田辺さんの昨夜の奈良時代の講義の復習だ。そして、奈良時代を幻視だ。

ここは東ユーラシアのようだ。騎馬民族が集結している。630年ユーラシアを支配していた東突厥帝国は、唐帝国軍団により散逸されていた。その40年後、朝鮮半島で百済、高句麗を壊滅後、軍事力が消耗した唐帝国の軍事力をみた、ユーラシアの草原に散逸していた騎馬民族は、再び、集結しているのだ。
その東ユーラシアに再集結した騎馬民族の一団が、日本海を渡海して、唐進駐軍から明日香ヤマトを奪回するため、日本列島の秋田や越前に上陸している。日本列島でも、本国に主力部隊を引き上げていた唐進駐軍の軍事力をみた、645年明日香ヤマトを追われ、近隣の山奥に逃れていた明日香ヤマト残党も、再び、吉野の山奥に集結していた。
663年百済が唐・新羅連合軍により壊滅したため、亡命百済貴族により、琵琶湖南端に砦が築かれていた。亡命百済王朝も、日本列島に基盤を築くために、古来からあった日本列島各地の百済コロニーからひとを集めている。
朝鮮半島を支配した唐帝国軍団の一部は、その近江に集結した亡命百済王朝を倒すべく、2、000名の軍団を北九州に上陸させいてる。しかし、吉野を中心に、再集結していた明日香ヤマト残党軍により、北九州からの東進を阻止され身動きできないでいる。
吉野の山奥に集結していた軍団は、三方に分かれて出陣している。それらは、難波、山前(やまさき)、尾張方面だ。更に、ユーラシア大陸から東北に渡来した突厥軍団は、北陸道、東山道、東海道の古墳時代に築いた軍事道路からも近江を目指して進撃している。
亡命百済王朝の支配地である近江の砦も、難波の砦も、突厥軍団に軍事支援された明日香ヤマト残党軍団により、瞬く間に壊滅された。その亡命百済王朝の皇子は、明日香ヤマト残党軍の前で、斬首され、敗残兵は奴隷として、突厥軍団の支配地に連行されて行く。亡命百済貴族は、百済が仏教文化だったため、漢字に熟達していたからだ。中国大陸との国際交易を望む騎馬民族突厥は、海洋国際交易民族のフェニキアが発明したアルファベットから派生した突厥語を使っていたので、漢字に熟達した者を必要としていた。
明日香ヤマト残党軍の本隊は、元の都である明日香ヤマトに到着すると、新羅の皇子を、騎馬民族の王の意味である天子(テングリ)とし、呼称を「天皇」とした。
その明日香ヤマトの都は、唐進駐軍により廃墟となっていた。丘の上の突厥進駐軍の司令部は焼け爛れ、明日香川を挟んで、都の入り口に立てられていた砦も破壊されていた。しかし、南側の丘陵にある巨大方墳は健在だった。そして、奈良盆地の北側にあった花郎騎士団の拠点、イカルガの太陽神を祀ったミトラの都も廃墟となっていた。その奈良盆地には、仏寺も神社(モリ)の存在も認められなかった。
676年統一新羅は、統一新羅の王子等を明日香ヤマトに派遣してきた。明日香ヤマト軍団の花郎騎士団は、元古代新羅の部族で、統一新羅と同族であったからだ。明日香ヤマト王朝は、統一新羅からの情報により、唐帝国が日本列島の資源の略奪を計画していることを知り、九州に駐留する唐帝国2000の軍団が、明日香ヤマトに進撃してくることを予測し、都を、ユーラシア大陸との交易中継地である信濃に移動する計画を立てていた。
この頃、唐帝国は、三代目皇帝高宗の健康がすぐれず、皇后武氏の暗躍により、国内が混乱していた。その虚を着いて、ユーラシアに集結していた騎馬民族突厥は、682年東突厥帝国を復興していた。その2年後、皇帝高宗が死去したため、唐帝国を乗っ取ることを策謀していた皇后武氏は、騎馬民族出自の貴族達に保護を受けていた儒教、道教に対し、騎馬民族出自の貴族達に避けられていた仏教を保護した。
皇后武氏は、仏教寺院を唐帝国の全土に建てさせ、各地の仏寺をプロパガンダの拠点とし、皇后武氏を、唐帝国の女帝とする運動を起こすため、各地に命令し、アルビノ(白色)の動物を集めさせていた。そのアルビノ動物を吉祥とし、仏寺で広告・宣伝をした結果、690年皇后武氏は、唐帝国の女帝則天武后として即位すると、国号を「唐」から「周」に替えてしまう。
686年明日香ヤマトの天皇が崩御した。騎馬民族の統治制度は、実力者が天命により天子(テングリ)となる。実力は武闘により決まる。明日香ヤマトは、天子を決めるために混乱を生じる手前だ。しかし、騎馬民族では、夫人が王の後を継ぐ。それが、百済の血が流れる女帝だ。
祭祀者として、吉野を拠点として、南インドからの国際交易をおこなっていたナーガ族は、その明日香ヤマトの女帝に接近した。ナーガ族の日本列島の拠点は、南九州坊津だ。その坊津には、中国人町があるように、唐帝国との繋がりがあった。ナーガ族は、唐帝国から周帝国となった女帝則天武后のエージェントとして、明日香ヤマトの女帝を傀儡として、明日香ヤマト王朝に溶け込んで行く。
明日香ヤマトの男王が崩御してしまったが、近畿一帯を支配する騎馬民族軍団は健在だ。その軍団は、ユーラシアを支配する東突厥帝国に軍事支援されている。女帝則天武后の周帝国は、北辺を侵略する東突厥帝国の壊滅を目指しているので、日本列島まで、大軍団を送り込む余裕がない。そのために、祭祀者のナーガ族をエージェントとし、明日香ヤマトの女帝を傀儡として、間接支配を計画した。その手始めが、周帝国と同じ暦である儀鳳暦を明日香ヤマト朝廷に採用させることだ。そして、軍事要塞化している明日香ヤマトから、軍事力と統治機能を移すために、周帝国の女帝則天武后はナーガ族の祭祀者を通し、都の遷都を明日香ヤマトの女帝に命じた。

オレが幻視したのは、唐・新羅連合軍が、663年百済、668年高句麗を滅ぼした頃から、694年藤原京遷都前年までのようだ。
田辺さんの史観では、明日香ヤマトと飛鳥大和を地域・年代で区別していた。明日香ヤマトとは、「突厥進駐軍と花郎騎士団」が支配する地域・時代だ。それに対して、飛鳥大和とは、「唐進駐軍と藤原氏」が支配する地域・時代だ。
645年以降、672年までは、近畿一帯は飛鳥大和王朝が支配していた。しかし、飛鳥大和の母国唐帝国が、遊牧民族吐蕃などの周辺諸国からの侵略を受けていたため、日本列島の経営から一時、唐進駐軍の本隊を母国に引き上げたため、近畿一帯の飛鳥大和の軍事統治が緩んだ。その間隙を縫って、近畿一帯の山奥に潜んでいた明日香ヤマト残党軍が、ユーラシアの母国突厥軍団の軍事支援を得て、近江の亡命百済王朝を倒し、そして、飛鳥大和の唐残留軍を壊滅し、飛鳥大和の地を奪還し、再び、明日香ヤマトとした。
しかし、その530年から645年以前の明日香ヤマト時代の、オリエント文化が花咲いていた地は、荒れ果てていた。都の南端にあったガラス工場、鉄器製造工場、鏡製造工場、製薬工場、富本銭製造工場など、そして、都の中央にあった噴水のある石組み庭園も徹底的に破壊されていた。わずかに、石像や破壊し切れなかった巨大石塊が残っていた。
唐帝国が間接支配する奈良時代に、それらのオリエント文化の明日香ヤマト時代を歴史的に隠蔽するために、唐(周)帝国のエージェントの藤原不比等は、720年「日本書記」を創作し、オリエント文化の噴水を仏教の須弥山とし、そして、都の入り口の突厥進駐軍の砦跡に588年飛鳥寺(法興寺)、河内のローラン港(浪速→難波)の交易施設跡に593年難波四天王寺、山背国(後に山城国)の太陽神ミトラを祀る景教寺の跡に603年蜂岡寺、イカルガの花郎騎士団の神ミトラを祀る景教寺の跡に607年法隆寺、山背国の秦氏の神ミトラを祀る景教寺の跡に669年山階寺などの仏寺を建立した、とする物語を創作した。
奈良時代になってからの、それらの藤原不比等による明日香ヤマトの隠ぺい工作は、その後の施設の動向で分かる。
藤原日本史で云う飛鳥時代、つまり、古墳時代には仏教は伝来していない。552年仏教伝来は、歴史的に不明だからだ。よって、古墳時代に須弥山などの仏教思想による噴水など、石組み庭園に造ることはない。
飛鳥寺は、蘇我氏の氏寺で、仏像を飛鳥に置いたまま、建物だけが平城京に移築され元興寺となった、と日本仏教史は云う。仏寺は、仏像を安置する施設ではなかったのか。
難波の四天王寺は、聖徳太子が建立したことになっているが、聖徳太子は平安時代に「聖書」に登場するモーセ、ダビデ、キリスト像を合成した架空の人物。
蜂岡寺は、弥勒菩薩を安置する広隆寺となった。しかし、弥勒とは、太陽神ミトラを仏に改竄したもの。
法隆寺は、607年聖徳太子が建立したことになっている。その法隆寺は、670年炎上してしまった。しかし、その法隆寺境内から発掘された遺跡は、太陽神を祀るミトラ教寺院を示す、南北軸から西に約20度傾いている。イカルガの都は、ミトラ神の都を示す軸により建設されていた。イカルガとは、日の光の都(景)の意味だ。
山階寺は、厩坂寺となった後、平城京に移築され、藤原氏の氏寺である興福寺となった。
藤原氏が、建物の出自や歴史を隠蔽・改竄するテクニックは、移転だ。何回かの移転により、マネーロンダリングと同じに、前歴史を隠蔽・改竄する。藤原氏の神を祀る春日大社も、この移転テクニックにより、古墳時代ではなく、奈良時代に出現した。以上のことを考えれば、古墳時代の明日香ヤマトが、仏教文化の花が咲いていた地、であったはずはない。
当時の明日香ヤマトの一帯は、湿地帯だった。大建築物を建てられる平地は、限られていた。「万葉集」に壬申の乱(672年)が平定されたあとの歌がある。その歌とは、「大君は神にし座せば赤駒の匍匐ふ田井を都となしつ」、「大君は神にし座せば水鳥の多集く水沼を都となしつ」、とある。その歌の内容から推測すれば、赤駒の馬が腹這う湿地帯や水鳥が多く集まる沼があったのが、日本初の天皇が都とした明日香ヤマト一帯の地だった。
その地に、騎馬民族に支援された天子(テングリ)が、近江の亡命百済王朝を壊滅後、都を定めた。騎馬民族は、中国大陸でも、儒教や道教は保護しても、仏教を保護するどころか弾圧をしていた時代もあった。それは、農耕民族が多く暮らす中国で発明された漢訳仏教思想には、騎馬民族の肉食の風習を否定する、血の禁忌・殺生禁止があるからだ。では、漢訳仏教は、どのようにして、騎馬民族の突厥語を日本語文法とする日本列島に浸透していったのか。
再興明日香ヤマトの時代は短かった。日本初の天皇が、686年崩御したからだ。その日本初の天皇は、日本初の賭博をおこなった天皇でもある。この賭博により、漢訳仏教の布教手段が示唆される。
「日本書記」天武天皇14年条に、「天皇が大安殿に王卿たちをよびあつめて双六のような博戯をさせた。」、そして、「天皇が大安殿に出て諸王卿を召して宴をした。」、とある。大安殿は、「おおあんどの」と呼ばれる殿舎で、公的な業務をおこなう大極殿とは異なる。
公的業務をおこなう大極殿とは、「史記」によれば「信宮を極廟と改名したが、それは天極にかたどってつくられたからだ。」とあるように、北極星である太一を祀る廟だ。日本初の天武天皇は、突厥の騎馬民族により担がれていたので、当然、騎馬民族が祀る北極星(太一)を崇拝していた。その騎馬民族の神を祀る大極殿と、賭博や宴会をおこなう大安殿とが、同じ施設ではないことは分かる。では、賭博や宴会をおこなう大安殿とは何か。
考えられるのが、女帝則天武后の周帝国で流行っていた内道場だ。内道場は、北魏の時代に発明された、漢訳仏教の特殊修行場のことだ。僧が修行する仏寺と違うところは、外出が出来ない皇后や貴婦人が私邸内で仏教修行ができる、邸内の施設から隔離された密封された私的空間だ。そこで有髪の皇后や貴夫人が、僧侶と仏教修行をすると言うわけだ。
唐帝国では、この内道場が、多くの貴族の邸内に建てられていた。皇后武氏は、この内道場に入り浸りだったようだ。
686年天武天皇が崩御すると、皇后は、称制の時代から女帝の時代の間に、吉野に31回も行幸していると、「日本書記」にはあるが、「吉野宮に幸す」とあるだけで、その理由が述べられていない。明日香ヤマトの都から吉野までの距離は約20kmで、1日で行ける距離だ。その吉野宮での女帝の滞在は、7日から10日だ。そこで女帝は、「何」をしていたのか。女帝持統天皇の吉野行きは、謎の行動だった。
女帝持統天皇は、祭祀者藤原氏にコントロールされた、周帝国の女帝則天武后のコピーだ。その品性が卑しい女帝則天武后が足繁く通う内道場が、女性に魅力的な施設であったことは、未婚の年増の女帝孝謙天皇が、内道場で道鏡により仏教個人修業をうけていたことにより理解できる。更に、聖武天皇の実母が長い間こころの病であったのが、僧玄ムによる内道場での仏教修行により全快したことでも、内道場が、身もこころも寂しい貴婦人に魅力的な施設であったことがわかる。
これらのことから、漢訳仏教は、この内道場を足がかりに、貴族社会に受け入れられていったことが示唆される。その内道場を仕切るのが、祭祀者藤原氏だ。女帝持統天皇は、都を移す命令を受けた。その都の名は、藤原京。

明日香ヤマトの男王が崩御すると、朝廷軍団は二分したように、一部の軍団が東国に向けて出発している。信濃を目指しているようだ。それは、北九州に駐留していた2000名の唐帝国軍団が、巨大軍艦の楼船により、移動を始めた情報が、駅令により明日香ヤマトに伝達されてきたからだ。
645年唐進駐軍は、河内に上陸ではなく、紀伊半島南端に上陸して、熊野古道を北進して、明日香ヤマトの軍事都市を南側から攻撃した。その明日香ヤマトの守備は、北側の岡の砦と、明日香川を挟んだ砦とで防御する計画であった。南側は、山々により防御され敵軍は攻撃してこないと考えていたからだ。しかし、南側の岡が唐進駐軍に制圧された。南北約2km東西800mの要塞都市は、唐進駐軍団の弩(おおゆみ)の射程範囲内だった。
騎馬民族の戦い方は、広い草原では有効であるが、狭い盆地では不利だ。ヒッテンドランの騎射ができないからだ。騎馬民族が、日本列島の西国に拠点を設けなかったのは、東国と異なり、騎馬の戦いが有利な広い草原がないからだ。
生前の天武天皇は、北九州に駐留する唐帝国軍の明日香ヤマトへの進撃を予想して、都を信濃に移す計画を立て、三野王達を視察に行かせていた。そして、天武天皇崩御後、騎馬民族の武将に人気のあった息子の大津皇子も、信濃に移動することを計画していたが、藤原氏の暗躍により、無実の罪を負わされて、謀殺されていた。明日香ヤマト王朝は、百済の血が流れる皇后を支配者とした。その皇后は、藤原氏の国際交易センターがある吉野の内道場のある宮に足繁く通っている。
新しい都は、明日香ヤマトの軍事都市を北側から塞ぐように、北側の耳成山、東側の天香具山、西側の畝傍山に囲まれた三角地の中心に宮を置くように設計されいる。そして、中心の宮は、高さ5mの土塁で囲まれている。これは、どう考えても軍事都市だ。この都が、唐帝国の指令を全て受けいれて計画されていないことは、宮が、北側ではなく、中央に置かれていることで分かる。この新都市のモデルは、新羅の都市だ。
この新しい未完成の都には、何かに急かされるように、多くの者が移動をおこなっている。この移動には、騎馬民族系と藤原氏の傀儡女帝持統天皇系の二派に分かれているようだ。この二つに分かれた流れの意味を知るには、時間を少し前に戻る必要があるようだ。

明日香ヤマトの男王、日本初の天武天皇は、同族が、676年朝鮮半島の支配者となると、明日香ヤマトと朝鮮半島との交易を始めていた。しかし、統一新羅と唐帝国は戦闘状態であった。当然、明日香ヤマトも、唐帝国とは敵対状態だった。そのため、唐軍団は、北九州と南九州坊津に駐留して、天武天皇の死を待っていた。唐帝国軍には、ある計画があった。
天武天皇が死去した。天皇には10人の皇子がいた。皇子達の没年は、687年大津皇子、689年草壁皇子、696年高市皇子、699年弓削皇子、705年刑部皇子、715年長皇子、715年穂積皇子、735年舎人皇子、735年新田部皇子、磯城皇子だ。この中で、没年が分からない皇子がいる。それは、磯城皇子。何故、没年が分からないのか。それは、「磯城」に謎がある。磯城皇子の「磯城」とは、「新羅」のことだ。つまり、磯城皇子とは、新羅皇子ということになる。
713年好字令が発令された以降、新羅は、天武天皇朝では遣新羅使を送っていたほど親新羅であったが、天武天皇の皇子が次々と消されて、唐帝国に貢物を贈る遣唐使が送られる平城京王朝では嫌新羅となっていた。そのため、奈良の都に百済寺はあっても、新羅寺はない。そして、日本列島に散在していた新羅コロニーの民は生き延びるため、その地名を、設楽、白木、白国、白子、白、志木、白髭、磯城などに替えていた。

690年突然歴史上に現れた人物がいる。その690年に周帝国の暦が、天武天皇死去の4年後に、女帝持統天皇の明日香ヤマトで使われている。その人物が、女帝持統天皇の前にいる。その男は朝廷で、女帝持統天皇の横に立ち、大群衆に向かって、突厥語、アラム語、ソグド語、ギリシャ語など、ユーラシア大陸で使われている言葉で、女帝が発する言葉を訳している。死去した天武天皇は、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族により支えられていた。騎馬民族は、他民族とは融合せず、同族同士で部族連合を形成する。そのため、部族連合国の騎馬民族王国では、末端の民族が使う言葉を統一することが困難だからだ。
女帝持統天皇の詔を聞いた群集は、新都に移ることに対して、明日香ヤマトに残る者もいれば、部族一団で去る者もいる。その後、女帝持統天皇は、その通訳の男と供に、伊勢、伊賀、尾張、美濃、参河に行幸している。それらの国は、新女帝持統天皇を受け入れたのだ。しかし、それ以外の東国は、東突厥帝国と敵対する周帝国の暦を採用した女帝持統天皇の明日香ヤマト朝廷と敵対状態になった。

このことを、720年に藤原氏により創作された「日本書記」のヤマトタケルの東征伝経路を「古事記」と、「日本書記」とで比べてみよう。
「日本書記」大和→伊勢→駿河→焼津→相模→上総→陸奥→日高見→常陸→甲斐→武蔵→上野→碓氷→信濃→尾張→近江→尾張→伊勢→能褒野で没。
「古事記」大和→伊勢→尾張→駿河→相模→足柄→甲斐→信濃→尾張→美濃→伊勢→能褒野で没。
二つの経路で気になるのは、「日高見」と「武蔵」だ。このヤマトタケルの東征は、4世紀から5世紀のことのようだ。それは、「日高見」とは、延喜式の祝詞に「四方の国中と大倭日高見国」とあるように、古代では筑波、茨城の郡地域のことだ。「日本書記」のヤマトタケルの東征経路では、日高見と常陸とは、別の地としている。何故だ。
そして、5世紀の武蔵は、さきたま古墳群の稲荷山古墳の剣に記されているように、シキ宮の王ワカタケルが支配していた。女帝持統天皇の時代では、平安時代に万葉語学者の秦氏末裔の多人長が、「日本書記」のウソ物語を否定するために著した「古事記」のヤマトタケル東征伝経路には記されていない、陸奥、常陸、武蔵、上野、碓氷までは、飛鳥大和朝廷の支配地ではなかったようだ。

明日香ヤマトから藤原京に都が移って6年後、唐の税制に倣った律令が発令される。その律令には、女帝持統天皇に寄り添うあの男の意図が含まれている。それは、唐の律令にはない、「神祗令」の挿入だ。その神祗令一に、「凡そ天神、地祗は神祗官、常の典によって祭れ」とし、「前件の諸祭、百官を神祗官に集め、中臣、祝詞を宣し、忌部、幣帛を班」、とする。その男は、その神祗令で何を企んでいるのか。
その男は、神祗令により、日本列島を乗っ取ることを考たようだ。それは、日本列島の人民を支配するために、最高権威である「現御神天皇」(あきつみかみ)を創り出そうとしている。
日本初の天武天皇は、「神」ではない。天武天皇は、「神」である北極星(太一)の命を訊いて、政をする。あくまでも、天武天皇は、北極星の命を地上で実現するための代理人だ。しかし、あの男が創り出す「現御神天皇」は、神そのものだ。その「現御神天皇」が、日本列島の諸国に散在する神々を支配するために、律令の中に唐令にもない「神祗令」を創設し、その地位を太政官に並べた。この奈良時代に発明された神が、千数百年後の明治革命での藤原氏の復活と供に「現人神」となって登場する。
あの男は、侵略した土地にある古墳を破壊し、その跡に神社(モリ)を建てている。そして、その神社(モリ)に、朝廷より勲位を授けている。世界のどのような国でも、ひとから、神に位を授けることはない。しかし、奈良時代から、日本国では、神の序列が発生した。勲位を授けるということは、授ける者と授けられる者との上下関係を生む。つまり、支配・被支配の関係だ。あの男とは、何者だ。

藤原日本史によれば、あの男藤原不比等は、内大臣藤原鎌足の次男で、659年(斉明5年)に生まれ、山科の田辺史大隈等に養われたため、「史」(ふひと)の名が付けられた、と云う。しかし、「大化改新」物語で突然登場する中臣鎌足(後に藤原鎌足)は、その「大化改新」物語が朝鮮半島の革命物語のコピーであるように、架空の人物なのだ。架空の人物の次男とするには、何かの謎が潜んでいるようだ。
藤原不比等は、幼少の頃、田辺史やその他の者に養われていたようだ。では、その田辺史とは、何者か。「新撰姓氏録」によれば、田辺史は左京諸蕃上、漢王の後、知惣より出づ、とあるように渡来人で、「史」とは通訳のことだ。藤原不比等が、女帝持統天皇の詔を各国語に翻訳することは、通訳家に養われていたことにより理解できる。では、その通訳一家は、何処から日本列島に渡来したのか。

オレの視界が藤原京から急速にズームアウトして行く。視界が急に異国の地を写した。ここは何処だ。丸い地球からズームインしていく時、記憶情報からそこがカスピ海であることが認識できたのは数秒もかからなかった。
そのカスピ海沿岸で戦闘がおこなわれている。東ローマ帝国軍とイスラム帝国軍が、対峙している。その戦闘地域には、国際交易国のハザール王国がある。ハザール王国の実態は不明だが、6世紀頃から中国と東ローマ帝国との絹馬交易の中継地として栄えていたようだ。国際交易商人は、国力を増すためには必要な者だ。東ローマ帝国もイスラム帝国も、無宗教のハザール王に自国の宗教に改宗することを強要していた。
国際交易をおこなうには、異宗教国に入り込むためには、強烈な個性がある宗教は不利だ。そこで、ハザール王は、キリスト教でもイスラームでもない、弱小宗教のユダヤ教に目を付けた。「旧約聖書」では、ユダヤ民族は、メソポタミヤのウルが発祥地とするように、セム族の有色人種だ。しかし、ハザール王国の民は、白系チュルク民族だ。ここに、白色系ユダヤ民族が誕生した。
ユダヤ教の民は、ローマ帝国に痛めつけられたため、その軍団も壊滅され、経典のみをこころのよりどころとして平和に暮らしていた。ただ、土地を所有することは制限されていたため、国際交易で生計を立てていたのは、ハザール王国の民と同じだ。ハザール王国の民は、異教徒の国々で交易をおこなうために、各国語を幼少の頃から学習させられていたため、何ヶ国語も話すことが出来た。
一世紀、ユダヤ教の民は、ローマ帝国に虐げられていたため、ユダヤ教ヨシュア派は、南インドに拠点を設けていた。その南インドでは、古来からギリシャやエジプトへ、孔雀の羽、猿、香料、染料のベンガル、真珠などを輸出していた。真珠は、東南アジアや日本列島の伊勢、志摩で採取されて、南インドへ国際交易商人により、外洋帆船で運ばれていた。その南インドから、東シナ海の黒潮に乗り、南九州坊津までに海路が、古来から開発されていた。
古来から、その南九州坊津には南インドから渡来した褐色の民族が多く暮らしていたが、7世紀になる頃、南インドから渡来した異民族の部落が坊津に出来ていた。その異民族部落の住民は、白色系だった。その白色系渡来民族の母国ハザール王国が、イスラム帝国に飲み込まれるのは時間の問題だった。そこで、ハザール王国の民が移住できる地を探す先遣隊が、「旧約聖書」を持って、南九州坊津に侵略拠点を構えた。その「旧約聖書」には、どのようにして異民族の歴史を乗っ取るかの方法が記されていた。その部落長のひとりが、あの男・藤原不比等だった。

新しい都・藤原京に遷都してから6年後、唐令を真似た大宝律令が発令された年、250人を乗せた二隻の船が周帝国(唐)に向けて出帆をしている。しかし、瀬戸内海までは順調だったが、九州沖で船にトラブルがあり、次の年に出帆した。この間に、大使の高橋朝臣笠間に替わり、副使の坂合部大分が大使に昇格している。
この二隻の船は、33年前と、規模も、船も、目的も、航路も異なっているようだ。今までは、朝鮮半島経由で唐帝国まで行っていたものが、今回は、南九州に南下して、島づたいで沖縄まで行き、そこから東シナ海を横断している。
その船には、日本列島の住民から大宝律令の税制で集めた、絹、米、海産物、翡翠、真珠などが満載されている。遣唐使とは、大和朝廷が文化国唐から、書籍など高度文化を摂取するための使節ではなかったのか。
不思議なのは、副使から昇格した大使坂合大分は、周帝国(唐)に留まって帰国船で帰らず、出帆から16年後の718年に帰国している。大使坂合大分は、周帝国(唐)の人質だったのか。
日本側の史料では、今回の遣唐使の意味が分からないので、周帝国(唐)側の史料「旧唐書・日本国伝」をみてみよう。そこには、「703年周の長安で、唐の冠を被った粟田朝臣真人を遣わして土地の産物を女帝則天武后に献上し、それに対して、女帝則天武后は粟田朝臣真人を麟徳殿に招いて宴し、司膳卿の官位を授けて本国に帰らせた。」、とある。この周帝国側の史料では、日本国の使者は周帝国の臣下となり、女帝則天武后に朝貢していたようだ。
この遣唐使船が、周帝国(唐)の文化を日本国の民のために輸入することを第一の目的としていないことは、第一船が、書籍を満載して704年に帰国していることで分かる。その当時、日本国の民は、漢文が読めたのか。「万葉集」の歌でも分かるように、万葉語と言われる漢字アルファベットを使用していたのではないか。では、その周帝国(唐)から輸入された漢文の書籍は、誰を対象に輸入されたのか。それは、日本列島に渡来した漢字文化の民族のためのものだ。唐進駐軍と供に渡来した、日本国の民を「租庸調の唐令」(大宝律令)で管理するための唐の官人のためだった。
遣唐使船の主目的が、周文化の輸入ではないことは、帰国船の第二船が、707年4月に帰国していることで分かる。日本側の史料では、第二船の帰国が遅れた原因を、暴風雨に遭遇し、ベトナムまで漂流したと説明しているが、こうして東南アジアを俯瞰して眺めると、その第二船は、マカオに到着し、そこで、乗船していた周帝国の官人や武人を下船させ、替わりに、南インドからの香木などの荷や白色系民族を乗せている。
マカオは、南インドと南九州坊津を結ぶ南海交易路の中継港だ。このことは、第七回遣唐使船の帰国船が「ベトナムに漂着した」ように、その後の遣唐使船の帰国船が「ベトナム」(マカオ)に度々「漂着」して、南九州に到着していることで分かる。この遣唐使船を管理・運営しているのは、藤原氏だ。

オレには見える、690年唐の暦である儀鳳暦と供に、明日香ヤマトの政界に現れた藤原不比等の計画が。

赤髪、碧眼、高鼻、背高、白肌で白衣を身に着けた祭祀者は、天武天皇が崩御すると、南インドから渡来した民族の国際交易センターがある吉野へ度々訪問していた皇后が、喪の儀式を2年間もおこない時間稼ぎをしている間に、皇后の前に現れた。
絹生産地として日本列島の経営を企む周帝国のエージェントであったが、その祭祀者には別の計画があった。それは、日本列島を乗っ取り、遥か彼方の母国ハザールの同胞を移住させることだ。そのための戦略と戦術は、「旧約聖書」の中に述べてある。
「旧約聖書」では、太陽神を祀る先住民族の歴史を乗っ取るために、その先住民族の父としてヤコブなる人物を創作して、先住民族をその息子ヨセフとしている。そして、周辺民族の歴史を調べ上げ、その史料を基に神話物語「創世記」を創作して、その物語に登場する創作人物達の出自を消す。そして、絶対神ヤハヴェを古代エジプトの太陽神アトンを租借して創造し、その唯一神の代理人モーセ(アマテラスオオミカミ)の僕となり、祭祀者ザドク一派(藤原氏)が、「神」(現御神天皇)の言葉を「不改常典」の呪文とし、臣民(日本列島先住民)を呪縛することだ。
この人間を神にする戦術は、5世紀の東ローマ帝国で、「人間キリスト」を「神の子キリスト」に変身させていた。その神の子キリストにより語られたとする言葉は、すべてのひとを、一部の祭祀者を除いて、呪縛した。その神の出現により、平和も戦争も、神の思し召しとなってしまった。

その日本列島支配を企む祭祀者は、朝鮮半島の革命物語を基に「大化改新」物語を創作し、祭祀者の父である中臣鎌足(後に藤原鎌足)を創造した。そして、高天原の神話物語を創作して、先住民が祀る太陽神ミトラを、女神アマテラスオオミカミとして登場させた。その女神アマテラスオオミカミの再来として、皇后を絶対神「現御神」(明治革命で現人神となる)の位置まで高めた。そして、神となった女帝から、「不改常典」の詔を発せさせることにより、日本列島の政をコントロールすることを考えた。
そこで、アマテラスオオミカミの別名をオオヒルメムチとし、皇后から女帝となった和名を、高天原広野姫とした。「ヒルメ」と「広野」とは同じ「言葉」だ。アマテラスオオミカミと女帝をオーバーラップさせる戦術は、藤原の女を天皇に娶らさせ、その孫を天皇として即位させ、コントロールすることを考えていたからだ。
そこで、その祭祀者は、神話物語を創作し、アマテラスオオミカミが孫であるニニギノ命に譲位する物語を神話物語に挿入した。そして、「不改常典」の呪文により、女帝は、孫に譲位した。つまり、高天原→アマテラスオオミカミ→ニニギノ命(孫)の神話物語の流れが、高天原広野姫である女帝持統天皇→文武天皇(孫)となって実現した。女帝の息子草壁皇子を抜かしたのは、道教の神である北極星(太一)の命を受けて日本国初の天皇となった、新羅系天武天皇の血の流れを絶つことを考えたからだ。それは、天帝(太一・北極星)により皇族となった天武天皇の10人の皇子を抹殺しなければ、古墳時代に祀られていた道教の神を抹殺することができないからだ。

絶対神を創るには、先住民の神、道教とミトラ教の神を、抹殺か、改竄する必要がある。7世紀後期まで、日本列島は古墳で死者を祀る民族の時代だったからだ。日本列島乗っ取りを図る祭祀者が祀る神は、死者を「ケガレ」とし、御祓いによりケガレを清める、古墳埋葬思想と正反対の思想を持つ。
そのため、日本列島を乗っ取ることを考えているその祭祀者は、東ローマ帝国でキリスト教が、ミトラ教を歴史上から抹殺した戦術を採用した。それは、日本列島全土にある古墳や道教の観を徹底的に破壊して、その跡に、新しい宗教施設「神社」(モリ)を建てることだ。しかし、先住民の神を祀る古墳や観を破壊することは、先住民の抵抗が予想され、武力で先住民を駆逐できない場合もある。そこで、時を待つ戦術をおこなう。それは、三代、百年もすると風俗習慣が消滅する、「待ち」の戦術だ。
しかし、その祭祀者には、時間がなかった。イスラム帝国は、ユダヤ教に改宗したハザール王国への侵略を始めていたからだ。急いで、同胞の移住地を確保しなければならない。

遣唐使帰国船の第二船に乗船していた周帝国の官人や武人は、マカオで下船させたため、日本列島には上陸できなかった。しかし、704年帰朝した第一船には、周帝国の命令を受け、日本列島経営のための官人や武人が乗船していた。藤原京の砦に入ると、それらの周帝国の官人や武人は、東北侵略のために準備を始めた。
近畿一帯の平野は、藤原京の砦からの出陣で、明日香ヤマト残党軍の多くは駆逐されて、周帝国進駐軍の支配地となり、唐令を真似た大宝律令により、その人民は隷属していた。その支配にまつろわぬ者の多くは、突厥進駐軍の本管がある陸奥国を目指した。

690年唐帝国を漢訳仏教組織と連帯して乗っ取り、周帝国の女帝則天武后となった武氏は、絹を多く産出する日本列島を周の支配下で経営するために、女帝持統天皇の朝廷に、唐暦の儀鳳暦を押し付けた。そして、女帝則天武后は、遣唐使船で朝貢してきた粟田朝臣真人に周帝国の司膳卿の官位を授けて、周帝国の官人や武人と供に日本列島に送り込んだのだ。しかし、705年女帝則天武后が死去してしまった。そのため、陸奥国侵略は、709年まで待たなければならなかった。
本国周帝国は、女帝則天武后が死去したため、712年玄宗が立ち、唐帝国を復活させるまで、無政府状態だった。その時期、女帝則天武后に寵愛されていた漢訳仏教組織は、儒教や道教の徒の反撃を受け、その多くは日本列島に亡命してきた。北九州に、仏寺跡が多く残るのは、周→北九州→飛鳥大和への仏寺の移築があったからだ。

709年3月、女帝則天武后に日本列島征服の命を受けて渡来した周帝国武人は、遠江、駿河、上野、越前、越中など、飛鳥大和朝廷の支配下となった地域から兵を徴し、兵力両道合わせて約1万の軍団を、陸奥国や越後の突厥帝国進駐軍が死守する地に進駐させた。
大和朝廷軍団が、短期間で北関東から南東北まで侵略できたのは、古墳時代にギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団が、ローマ帝国軍式の騎馬軍団が疾走できるほどの幅広の直線道路、北陸道、東山道、東海道を、東北の日本海沿岸まで敷設していたからだ。
周帝国進駐軍が支配する奈良時代に、この古墳時代の高速道路を、唐製武器の弩(おおゆみ・古代の大砲)で武装した歩兵大軍団が北上し、東北の平地を瞬く間に支配地とし、その地を柵で囲み桑畑にして養蚕に励んだ。しかし、騎馬戦法で組織化された陸奥国軍団は、それらの俄作りの飛鳥大和侵略軍団を蹴散らしていた。
大和朝廷侵略軍司令官は、中国大陸の東突厥帝国本国から陸奥国への軍事物資補給路を断つために、709年7月軍船百隻に、軍人兵器を乗せ、越前、越後、佐渡の港を封鎖させ、出羽柵の進駐軍基地に送り込んだ。しかし、攻めれば引き、引けば攻撃してくる騎馬軍団の戦術に翻弄された飛鳥大和軍団は、その後も、武力で陸奥国を完全平定することはできなかった。そこで、飛鳥大和朝廷は、戦術を替えた。その戦術とは、「夷を以って、夷を制す。」だった。

705年周帝国の女帝則天武后が死去したことにより、中国大陸が混乱していたのと同様、日本列島の藤原京も混乱していた。それは、周帝国の王族が、反則天武后派の粛清を恐れて、日本列島に、漢訳仏教と供に亡命してきたからだ。そのため、広大な藤原京の治安や環境が乱れていた。
この藤原京のこの混乱は、祭祀者の藤原不比等にはチャンスとなった。それは、周帝国の大宝律令による官僚支配から解放されるからだ。その戦術は、周帝国王族と新政権を対立させることにより、その二つの勢力をコントロールすることだ。そのためには、周帝国の官人が多く住む藤原京から、新しい都へ遷都することで、その周帝国の支配機構を替えることが可能だ。更に、奈良盆地にある前政権の宗教施設である、巨大古墳や道教の観も、同時に破壊でき、その跡に、都を建設すれば、明日香ヤマトの歴史も抹殺できる。
女帝持統天皇の孫文武天皇が死去し、その母が女帝元明天皇として即位した翌年、和銅元年(708年)奈良盆地北辺のミトラ教の祭事場がある、三笠山の麓に広がる平野に点在する巨大古墳や道教の観の破壊が開始された。

この平城京遷都の理由として、藤原日本史では、「最近、諸司の容儀、多く礼儀を失う。その上男女の別なく、夜昼かまわず密会している、聞くところによると京城の内外不潔で腐臭多く。」と述べている。この描写は、周帝国から亡命してきた王族達がもたらした「内道場」が男女の風紀を乱したことを述べているようだ。周帝国では、品性が卑しい女帝則天武后が好んだ、漢訳仏教の私的修行施設である「内道場」での修行が盛んだった。
710年平城京の謎の遷都は、東アジアの情勢を眺めれば理解できる。
中国大陸は、705年女帝則天武后の死去から、712年玄宗による唐帝国復活までの間、無政府状態だった。そのため、日本列島の統治も混乱していた。このチャンスを藤原不比等は逃さなかった。
708年平城京遷都計画が実行され、都が完成していない710年に、藤原京から平城京に遷都された。この遷都が、藤原氏のためにおこなわれたことは、その都の形で分かる。
藤原京は、新羅の都をモデルに造られた。しかし、今度の都は唐帝国の都をモデルに造られた訳ではないのは、その都の東側に藤原氏の都が造られているからだ。その平城京に併設された藤原氏の都には、砦としての興福寺と元興寺の大寺がある。しかし、藤原氏の神を祀る春日大社は、まだない。それは、周帝国の女帝則天武后が唐帝国を乗っ取るために漢訳仏教の寺を利用したように、日本列島を経営する手段として漢訳仏教の寺を、政府のプロパガンダ機関として、飛鳥大和を中心に近畿一帯に、周帝国や北九州から移築させていたからだ。

この平城京遷都の混乱振りは、「続日本記」和銅4年(711年)9月「勅りして、この頃聞く、諸国の役民、造都に労して逃亡なお多く禁じても止まなかった。今、宮垣がまだできていないので防守不備のため仮に軍営を建てて兵庫を守らせた。」、と描写されている。まだ、山背国を実効支配する明日香ヤマト残党軍による、飛鳥大和朝廷への攻撃は、終わっていなかったのだ。
こうして平城京を眺めると、平城京の砦を中心として、奈良盆地以南は飛鳥大和朝廷の支配下となっているが、比叡山や鞍馬山に挟まれた湿地帯は、未だ、明日香ヤマト残党軍の支配下にある。しかし、東北日本海沿岸に続く、北陸道、東山道、東海道の騎馬民族のための軍事道路は、飛鳥大和側が設置した愛発関、不破関、鈴鹿関の三関により、突厥進駐軍が支配する陸奥国との連絡網が、遮断されている。

藤原不比等は、周帝国進駐軍の「夷」を以って、古墳時代まで日本列島を支配していた騎馬民族の「夷」を制することで、同胞の移住先を着々と確保している。
701年唐令の大宝律令により、土着豪族の土地を取り上げたが、それは周帝国の官人が支配する地で、藤原氏の私有地ではない。そのため、藤原不比等は、その唐令である大宝律令を骨抜きとする、藤原氏のための養老律令を、718年に完成していた。しかし、その実施は、安禄山の内乱で唐帝国が衰退する奈良時代中期まで待たなければならなかった。

その藤原氏のための養老律令は、藤原氏が橘一族を飛鳥大和朝廷から抹殺した757年から、1945年日本国敗戦の昭和の時代まで有効だった。
日本列島史を、藤原日本史という根拠のひとつに、養老律令の存在がある。天皇の地位、性格は、大宝律令(実は養老律令)の成立まで、具体的に規定した成文がなかった。律令公式令により、天帝である北極星(太一)から命を受ける天皇ではなく、絶対神である「現神」(あきつかみ)と大八州国しろしめす天皇が、歴史上出現した。
奈良時代に創られた成文法により、祭祀者の藤原氏がコントロールする天皇の勅がなければ、鎌倉時代からの武士の政権となっても、将軍にはなれなかった。それは、武士の棟梁である将軍の任命は、藤原氏の手を経ずには、天皇に将軍申請を遡上できないシステムを、藤原氏が奈良時代に創っていたからだ。
そのように日本列島住民を支配する天皇を「現神」とするシステムを考え出した藤原不比等が存命中に、近江国12郡94郷が藤原氏の私有地となった。そして、平安時代に摂政となった藤原良房の時代には、美濃国18郡121郷、その孫藤原忠平の時代には、信濃国10郡66郷が封じられ、合わせて藤原氏の支配地は337郷となり、平安時代中期での全国郷数の12分1が、藤原氏が支配することになる。その支配地に、南インドから南九州坊津へ上陸した異形の民族が、移住することになる。
しかし、この藤原氏の支配地は直接支配地で、藤原氏の支配下にある興福寺や春日大社の寺社領を含めれば、その支配地は、百済の血が流れる桓武天皇の時代から平成の時代までの百済系天皇家の支配地を遥かに超えていることが示唆される。

710年明日香ヤマトの発祥地に、平城京の都に隣接した藤原氏の都を建設した藤原不比等は、道教やミトラ教の明日香ヤマトで祀られていた神々を、歴史上抹殺する手段を計画していた。
「ヤマト」の語源とは、海辺や川辺と同じように、山辺のことだ。奈良盆地の南側の三輪山が騎馬民族の突厥進駐軍の「明日香ヤマト」の神山とすれば、奈良盆地の北側の三笠山は花郎騎士団の「イカルガ」の神山だ。その三笠山には、花郎騎士団の神である太陽神ミトラの祭事場がある。その三笠山のミトラ教の祭事場を、平城京造営時に破壊していたが、その跡に、藤原氏の神を祀る春日大社を建立するには時期が早いことを知る藤原不比等は、そこを空き地とし、禁足の「神地」とした。
705年周帝国の女帝則天武后が死去したために、中国大陸が混乱していたが、712年には玄宗が中国大陸を統一して唐帝国が復活していた。当然、唐令の大宝律令の税制で、突厥進駐軍が支配する陸奥国以外の、日本列島各地から集められた貢物を復活した唐帝国に納めなければならなくなった。それが、714年「遣唐使?」の復活だ。
復活した唐帝国は、藤原不比等には好都合だった。それは、女帝則天武后が、儒教や道教を弾圧し、漢訳仏教を寵愛していた反動で、唐帝国を復活させた玄宗は漢訳仏教を避け、儒教を保護していたからだ。
このことは、「旧唐書」に、「開元の初めに、日本は再び使を遣わし来朝した。そして儒士について儒学の教えを受けたいと要請した。そこで玄宗は詔を下して、四門の助教の趙玄黙に鴻臚寺において教えさせた。」、とある。今回の「遣唐使」の僧は、仏教を学びに行ったのではなかった。その中には、後に反藤原氏となる、吉備真備と僧玄ムがいた。
藤原日本史では、「寺」を「仏教寺」と錯覚を起こすように記述するが、古代の「寺」とは、仏教寺だけではなく、特殊な「役所」を意味していた。そこで、古代の日本列島でも太陽を神として祀るミトラ教の施設も景教寺と言われていた。
女帝則天武后により周帝国から送り込まれた漢訳仏教の日本列島での支配力を削ぐためには、漢訳仏教と敵対する儒教を日本列島に取り入れることで、「夷を以って、夷を制す。」ことができる。
藤原不比等は、周帝国残党の漢訳仏教の衰退を期待して、明日香ヤマトで祀られていた道教とミトラ教の神を歴史上抹殺する呪文を考え出した。それが、高天原から降臨したとする絶対神の天皇家の神と、日本列島土着の神だ。その二神を、「天津神」と「国津神」とした。この「天津神・国津神」が歴史上、その後、「天神・地祇」となり、嘉祥元年(848年)「五畿内七道諸国の天神地祇」と記されたのが最後となり、それ以降は、「諸社」、「諸国名神」となり、「天神・地祇」の差別的表記がなくなった。つまり、「国津神」が「天津神」と習合して、藤原氏の神となり歴史上消されてしまったことになる。では、日本列島の土着神とする「国津神」とは何んだったのか。
藤原不比等により歴史上消されてしまった国津神を推測するには、国津神を集合した天津神の実体を知ることが必要だ。それは、藤原不比等が、古墳時代を飛鳥時代とし、その時代の神仏戦争物語で、552年仏教が伝来する前に、廃仏派が祀る八百万の国津神が存在していたとするからだ。では、その神仏戦争物語で仏を排除する八百万の国津神とは、どのような神だったのか。
藤原不比等が創作した天津神の租神は、紀元前660年神武天皇が奈良盆地で日本初の天皇として即位したとする以前の、神代の昔に高天原に存在していたとする。そして、イザナギとイナザミの二神が降臨して、日本列島の島々を創造したという。その高天原から降臨した天皇家が祀る皇神の流れが、中臣神道の神となったとする。しかし、その中臣神道の儀式は、ユダヤ教の儀式と酷似しているのだ。
中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々だ。これらの中臣神道とユダヤ教との宗教思想の共通点は、単なる偶然の一致なのか。
この中臣神道の神を祀る春日大社は、神仏戦争があったとする飛鳥時代ではなく、その後の奈良時代中期に、突然、奈良盆地北側の三笠山のミトラ教祭事場跡の空き地の「神地」に現れた。すると、552年神仏戦争での「神」とは、中臣神道の神ではありえない、と考えられる。その藤原不比等の神仏戦争物語の神が、中臣神道の神ではないことは、中臣神道では、死者をケガレとするからだ。飛鳥時代とは、中臣神道のように死者をケガレとし「穢れ祓い」をするのではなく、再生を信じて死者を古墳に埋葬する、古墳時代だったからだ。
藤原日本史では、紀元前660年以前に天津神が、日本列島に存在していたように記述している。では、八百万の国津神は、その天津神が日本列島に降臨する前に存在していたというのであろうか。しかし、それはない。何故ならば、藤原日本史では、天津神が降臨する前には日本列島はなく、天津神の租がドロドロの液体をすくい上げ、その滴で日本列島を創造したことになっているからだ。

藤原不比等は、前政権の明日香ヤマトで祀られていた景教の太陽神ミトラと道教の北極星(太一)を、「国津神」として歴史上消す物語を考えたが、そのトリックを暴かれないように、その前政権の神々を知る者を抹殺しなれければならない。それらが、天武天皇の10皇子だ。687年大津皇子、689年草壁皇子、696年高市皇子、699年弓削皇子、705年刑部皇子、715年長皇子、715年穂積皇子、と抹殺してきたが、磯城皇子は行方不明、残るは、新田部皇子と舎人皇子だ。
舎人皇子は、高市皇子の息子長屋王を補佐して、平城京に広大な敷地に砦を構えていた。さすがの藤原不比等も、その舎人皇子と長屋王には手出しできなかった。それは、新羅系天武天皇と同族の統一新羅王族が、舎人皇子と長屋王のバックにいたからだ。
藤原日本史で言う、壬申の乱は、兄天智天皇系と弟大海人皇子との兄弟による内乱などではなく、朝鮮半島での百済と新羅との国際戦争の続きだった。
663年百済が朝鮮半島で完全に滅亡したため、朝鮮半島から亡命してきた百済王族が、日本列島の百済のコロニーがあった近江に、671年亡命百済王朝を興した。672年その近江百済王朝を、朝鮮半島を支配した新羅軍団が軍事支援する明日香ヤマト残党軍が攻撃したのだ。その百済と新羅との国際戦争に勝利した明日香ヤマト残党軍は、新羅の皇子を天子(テングリ)とした。672年日本初の天武天皇の誕生だ。
その4年後、676年朝鮮半島では、新羅軍団が、唐帝国進駐軍を朝鮮半島から追い出し、統一新羅を興した。明日香ヤマトに再興した天武王朝の日本国と、統一新羅とは同族の兄弟国だった。この明日香ヤマトを引き継いだ、女帝孝謙天皇まで続く天武王朝の日本国と、統一新羅の二国は、東アジアでは珍しい、女王国だった。それは、その二国の支配層が、騎馬民族の流れにあったからだ。周帝国で、女帝則天武后が即位できたのも、唐帝国の支配層が、騎馬・遊牧民族の鮮卑拓跋部だったからだ。
明日香ヤマトに砦を築いた天武天皇は、朝鮮半島から統一新羅軍団に追われて北九州に進駐してきた唐将軍と軍団2000名の侵攻を想定して、明日香ヤマトから都を突厥進駐軍の支配地の信濃に移すことを計画していた。それは、645年唐進駐軍の弩の攻撃により、小山に挟まれた狭い地にある明日香ヤマトの砦は、あっけなく陥落していたことを、天武天皇は知っていたからだ。しかし、686年天武天皇は、10人の皇子を残して死去してしまった。
天武天皇が死去すると、その息子大津皇子は、天武天皇の意思を継いで、明日香ヤマトから信濃へ都を移す行動を起こしたが、その実行途中、百済の血が流れる女帝持統天皇により、687年謀反の罪により謀殺されてしまった。そして、女帝持統天皇は、奈良盆地北側の三山に囲まれた湿地帯に、藤原京遷都を実行した。
抹殺しなければならない皇子は、9人。次々に天武天皇の皇子を、女帝持統天皇は藤原不比等との連携で抹殺してきたが、新田部皇子、舎人皇子と高市皇子の息子長屋王は、平城京遷都まで生き延びていた。それは、統一新羅の使者が、度々、舎人親王と長屋王邸を訪れていたからだ。
藤原不比等は、朝鮮半島から唐進駐軍を追い出した統一新羅軍団の強さを知っていた。そこで、藤原不比等は、統一新羅からの使者を丁寧に平城京の都に迎え入れていた。藤原不比等が統一新羅使者を厚遇していたことは、平城京に統一新羅の使者を向かい入れる準備のために、畿内七道に命じて騎兵990騎を集めていたことでも分かる。
統一新羅の使者を冷遇するのは、729年長屋王を謀殺し、舎人親王を平城京内で無視し始めた以降、720年藤原不比等が死去し、その息子藤原宇合が奈良朝廷で暗躍し始めた頃からだ。

720年藤原不比等は死去したが、死去する前に、オリエント文化の明日香ヤマトの前政権の歴史を消すための偽書「日本書記」を創作した他に、ハザール王国の同胞を移住させるために、蝦夷の支配地の陸奥国を手に入れるための仕掛けも考えていた。奈良時代に藤原不比等が考えた仕掛けにより、鎌倉時代になると、奥州藤原三代の時代となるのだ。
伝承によれば、東北に「ヘライ村」があり、その村には「キリストの墓」があると云う。その伝承の裏には、奈良時代に藤原不比等が考え出した仕掛けにより、ユダヤ教に改宗したハザール王国の民が南インドから南九州坊津に渡来し、そして、藤原不比等が考え出した仕掛けにより藤原氏末裔が蝦夷の陸奥国を乗っ取り奥州とした地に、移住していたからだ。

藤原不比等が創作した仕掛けは、スケールが大きいので、その仕掛けに気付くひとはそれほど多くはない。オレだって、田辺さんのレポートと「古事記」の暗号がなければ、今の今まで、藤原不比等の仕掛けを見抜くことは出来なかった。
その仕掛けのひとつが、騎馬民族の支配機構の頂点に立つテングリから派生した「天皇」を、「旧約聖書」の唯一神ヤハヴェを真似て絶対神の「現御神」を発明し、その「現御神」を習合して「現御神天皇」とした。そして、前政権の神々を封印するために、その神を祀っていた宗教施設を破壊して、その跡に、神社(モリ)を建てた。その前政権の神を封じ込めるための「神社」(モリ)を、1167年後の明治革命で復活した藤原氏は、神を祀る神社(ジンジャ)として改竄した。
そして、もうひとつの仕掛けが、按察使の令外官だ。この按察使を設置したのが、藤原不比等だ。この按察使を設置したことにより、東北は、1868年明治革命前夜までの約1000年間も、藤原氏の支配が及ぶ地となっていた。では、その按察使とは、どのような使節であったのか。
和銅5年(712年)「法を制してから大分時も経ったが、まだ律令に熟せず過失が多い。今より令に違えれば、その犯す所に準じて律に依って科断する。」、との提案が右大臣藤原不比等から朝廷に出された。
その藤原不比等の提案が出される3年前、和銅2年(709年)「陸奥・越後の二国の蝦夷、野心馴れ難くしばしば良民を害す。」、という理由で、律令軍が陸奥・越後に侵略を始めた。これ以降、元慶2年(878年)まで、169年間の蝦夷殲滅戦争がおこなわれていく。この第一回征夷戦を始めた時、藤原不比等は、右大臣であり、奈良王朝の実質的指導者だった。
蝦夷とは、何か。藤原日本史では、「日本書記」で、「巣に棲み、穴に住む。」、「東夷の中に日高見の国あり、これを蝦夷という。また土地肥えて広し、撃ちて取るべし。」、「東夷の中に蝦夷という者がいて頗る強し。男女、父子の別なく、冬は穴に住み、夏は樹に樔む。毛を敷いて血を飲み、兄弟互に疑う。山に登ること飛ぶ鳥のようで、原野を走ること獣のようだ。」、とある。「日本書記」の記述では、東北の蝦夷は無文化の野蛮人のように記述している。
しかし、東北は、709年律令軍が侵略を開始する以前から、高度文化の国であったことは、東北地方から発掘された遺跡が証明する。仙台平野には、紀元1世紀から2世紀にかけての広大な南小泉遺跡の水田跡が発掘されている。4世紀から5世紀にかけて、仙台市所在の全長110m遠見塚古墳、名取市に全長170mの雷神山古墳がある。そして、岩手県胆沢町に全長45m角塚古墳があり、会津地方にも、全長90mの古墳がある。つまり、日本列島の古代東北は、古代エジプト・オリエントの高度土木建築技術で造られた巨大古墳築造の、古墳文化圏にあった。
では、蝦夷とは、何か。「日本書記」では、東夷と蝦夷を区別して、東夷の支配地の中に蝦夷が暮らしていた、と述べている。東夷とは、中華思想により蔑称された、中国王城から北方の僻地に住む蛮族のことだ。645年日本列島に侵攻してきた唐進駐軍は、畿内を制圧すると、東北に続く古代高速道路の北陸道、東山道、東海道に、愛発(あらち)、不破、鈴鹿の三関を設け、以東を化外国(げかいのくに)と蔑称していた。その東夷の地に住む蝦夷とは、エビのような髭がある夷の意味で、チュルク系騎馬民族の突厥の蔑称だ。東北には、645年唐進駐軍に、明日香ヤマトを追われた、突厥進駐軍や花郎騎士団残党が暮らしていたのだ。
その東夷、蝦夷が暮らす陸奥、越後の支配地に、藤原氏の同胞のハザール王国の白いユダヤ人を移住させるために、東北の地を奪うことを考えた藤原不比等は、その仕掛けを考え出した。それが、按察使の設置だ。その目的は、「国郡司の不正糾弾、農桑の奨励、そして、人口の増殖」だ。「人口の増殖」とは、移民政策のことだ。そして、それらの目的を完遂するために、按察使は、国司の罷免、抜擢を判断決定する権限を与えられた。その結果、東北地方には、ユダヤ・キリスト教思想を持つ民族の部落、ヘブライ村が作られていく。
国司、郡司の不正、放任、怠慢を監視する行政監察使の設置は、按察使だけではなかった。時代と供に、その令下官は、巡察使、按察使、鎮撫使、節度使、検税使、問民苦使、勘解由使、検非違使などと名前を変えていくが、大同元年(806年)六道観察使を最後に大方は廃されていた。しかし、陸奥出羽按察使だけは、明治元年(1868年)まで続いていた。何故なのか。
藤原不比等が考えた按察使による東北地方の侵略の考えの中には、同胞の移民の他に、もうひとつの目的があった。それは、陸奥国から産出される砂金の強奪だ。この藤原不比等が考えた砂金強奪戦略の仕掛けにより、四百年後の鎌倉時代に、奥州藤原三代の時代となる。では、その仕掛けとは何か。
藤原不比等は、720年死去する前に、4人の息子に、按察使の特権としてひとつの事項を追加させることを命じていた。その事項は、養老5年(721年)太政官符となって、按察使の特権としての追加事項となった。その追加事項とは、「風土出づる所に随って通融相折り今より永く恒例となす。」とあり、東北から産出する物は、按察使が融通(手に入れること)できることにしたのだ。どうも、藤原不比等は、東北には砂金が産出されること知っていたようだ。
縄文時代の古代から、東北に貴重鉱物が産出されることは、ユーラシア大陸の西方には知られていたようだ。それは、岩手県久慈から琥珀が産出されていたからだ。その岩手県久慈と、バルト海沿岸とは、古代から琥珀ロードが拓かれていた。古代では、琥珀は貨幣として、東西の国際商人の間では通用していたほど貴重鉱物だった。
6世紀に、ユーラシア大陸から騎馬民族突厥が進駐してくる、ずっと以前から、日本列島の東北には、西アジアの諸民族が渡来していたのだ。大陸からの日本列島への文化渡来ルートは、藤原日本史が述べるように朝鮮半島からだけではない。
当然、ユーラシア大陸の黒海、カスピ海沿岸に暮らしていた、中国と東ローマ帝国との絹馬交易の中継交易国のハザール王国の民には、その日本列島東北から産出される鉱物のことは知っていた、と推測できる。
藤原不比等の仕掛けを太政官符として追加した28年後、天平勝宝元年(749年)陸奥国から砂金が発見された。この砂金は、当然、按察使が融通できることになる。この陸奥出羽按察使には、藤原氏が任命されることが、他氏に比べると圧倒的に多く、明治革命までの藤原氏と他氏との比率は、75%にも及ぶ。
奈良時代に、藤原不比等が仕掛けた按察使の設置により、その後の東北の経営は、藤原氏の思いのままで、産出する砂金を、南九州坊津から南インドに輸出することにより、奈良時代、平安時代と藤原氏の財力が増していった。こうして、鎌倉時代になると、奥州藤原三代の平泉黄金文化の花が咲いたのだ。しかし、何故、天平勝宝元年(749年)に、「陸奥国で砂金が発見された。」、と陸奥出羽按察使は朝廷に報告したのか。そこには、藤原氏の陰謀があった。

藤原日本史では、645年大化改新で、日本列島の土地制度は、氏族私有地制度から公地公民となったとする。そして、652年班田収授法施行、723年三世一身法を定め、743年墾田永世私財法となり、貴族や寺社が私有地を経営できるようになったとする。しかし、645年大化改新などは架空の物語で、日本列島での公地公民の宣言などは史実ではない。その根拠は、日本列島の土地を公地公民とするには、強力な中央集権により、地方の豪族を武力で支配する前提が必要だからだ。
701年唐令の大宝律令を発しても、東北はもとより、近畿一帯の土着豪族は、中央集権により、奈良王朝の支配下になったわけではない。奈良王朝は、地方豪族による連合国家だった。その根拠は、文武天皇元年(697年)女帝持統天皇の孫が天皇として即位した時の詔が、「続日本紀」には、宣命体の文体で記されているからだ。
「続日本紀」は、誰に読ませるのか漢文で書かれている。しかし、天皇の詔の部分だけは、漢文では記されていない。天皇は、朝廷で臣下の者達に、詔を読み上げなければならない。その朝廷で読み上げられた詔が、「続日本紀」に宣命体で記されている。宣命体とは、話言葉を綴った文章だ。その宣命体には、漢文にはない、「止」(と)、「尓」(に)、「乎」(を)などの格助詞がある。この格助詞のある文体は、ウラル語系突厥語だ。
このことから、奈良王朝は、二重構造と考えられる。それは、藤原京や平城京の都内では漢文が使われ、都外と地方ではウラル語系突厥文が使われ、漢文民族と非漢文民族とが日本列島に暮らしていた、と考えられるからだ。だからと言って、突厥語が日本語のルーツではない。日本語の言葉の中には、ポリネシア語、タミル語、アイヌ語、朝鮮半島の高句麗・百済・古代新羅語、呉音・漢音・唐音の中国語などの言葉があるからだ。藤原日本史では、それらの多民族の言葉を、「万葉語」と言って誤魔化す。
言葉は、民族の基盤だ。それらの言葉が日本列島にあることは、日本列島には、それらの言葉を話す民族が暮らしていたことを示唆する。つまり、日本列島は、多民族が暮らす地であった。
それらの多民族の文法をウラル語系文法に統一したのが、6世紀に日本列島に渡来し、奈良盆地の湿地帯の明日香ヤマトを支配し、3世紀後期に渡来して巨大前方後円墳や幅広直線道路を日本列島に築いていた民族を融合した、突厥民族と考えられる。
6世紀半ばから、その突厥進駐軍が支配していた明日香ヤマトを、645年壊滅したのが、唐進駐軍だ。しかし、672年新羅系天武天皇が、明日香ヤマトを復活していたように、日本列島は政治的に不安定だった。それは、日本列島には、古来から渡来民族により、各地に異文化の小国家が存在していたからだ。
日本列島の大部分は山岳で、平野が少ない。このような地形の地を支配するには、武力だけでは不可能だ。それには、各地区の支配者である豪族を武力で滅ぼすより、何らかの方法で傘下とする方が得策だ。その武力ではなく、土着豪族を味方に取り入れるには「知恵」が必要だ。その「知恵」は、「旧約聖書」にある。藤原不比等は、その「知恵」を使って、各地の豪族を、奈良王朝の傘下とした。
その「知恵」の戦術とは、ひとの「欲」を満たしてあげることだ。多くのひとには、欲がある。その欲は、物欲、名誉欲、性欲の三つだ。藤原不比等は、その三欲を満たすことにより、地方豪族を支配した。
藤原不比等の仕掛けのトリックが、多くの人に見えないのは、そのトリックのスケールが、一般人のフレーム(常識)を超えるほど、非常に大きいからだ。藤原不比等は、地方豪族を直接支配するのではなく、その豪族の神を支配することで、間接的に豪族を支配した。その方法が、班幣・叙位制度だ。
班幣とは、天皇権威の名の下に地方豪族の神に幣を班って祀ることだ。つまり、神話物語を創作して、日本列島を創りだしたとする天津神の子孫である現御神天皇が、地方豪族の氏神のために珍しい舶来の供物を提供することだ。この物欲を満たす仕掛けにより、代々の各氏族の風習により氏族古来の供物を神前に掲げていた物が、奈良王朝からの舶来鏡や剣などの供物に替えられた。
そして、絶対神である現御神天皇から地方神に、名誉欲を満たすために、位を授けるのだ。この「ひとから神に」位を授ける、前代未聞の神をも恐れぬ、ことが奈良時代におこなわれていたのだ。その奈良王朝から与えられた叙位を、各地の社では旗等に記して、誇らしげに掲げられた。
これらの藤原不比等が考え出した班幣・叙位の仕掛けにより、地方豪族の神を、現御神天皇の支配下とし、そして、その天皇から叙位を受けた神を祀る豪族は、必然的に奈良王朝の現御神天皇の傘下になった。このことにより、地方豪族が奈良王朝の臣下に列された。そして、地方豪族の性欲は、藤原の女が満たした。しかし、地方豪族の土地を取り上げることは出来なかった。豪族の土地を取り上げるには、更なる仕掛けが必要だ。
その班幣・叙位制度に権威を付けるためのトリックとして、奈良時代初期に、奈良王朝の支配地となった、秦王国のあった九州宇佐には「宇佐八幡宮」、国際海洋民族アズミ族の出雲には「出雲大社」、道教の神・太一(北極星)を祀っていた伊勢には「伊勢神宮」、太陽神ミトラを祀っていた鹿島には「鹿島神宮」を、先住民の宗教施設を徹底的に破壊した跡に創設した。それらの藤原氏が支配する宗教施設は、藤原日本史が述べるように古代から存在していたのではなく、古墳時代後の、奈良時代に現れたものだ。
不思議なことに、藤原京にも平城京にも、神社(もり)が建設されてはいない。藤原氏の神を祀る春日大社も、平城京の都の外に建設されている。何故だ。それは、奈良時代に出現した神社(モリ)は、藤原日本史が述べるように租神を祀る宗教施設などではなく、死者が眠る古墳を破壊した跡に、前政権の神を怨霊として封じるために建設された宗教施設だからだ。
それらの宗教施設を管理運営するために、698年藤原不比等は、「藤原朝臣の賜った姓はその子、不比等がこれを継承する。但し、意美麻呂は神事に仕えるので旧姓の中臣に復することにする。」、としていたのだ。つまり、政敵を奈良王朝から排除するために、政治と神事とを分け、政治は藤原氏、神事は中臣氏がおなうことにしていたのだ。この藤原不比等の命により、奈良王朝での神事は中臣氏による、ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道が独占していく。
では、奈良王朝以前の古墳時代に、前政権の宗教施設で活動していた祭祀者はどうなっていたのか。藤原日本史では、ミトラ教(景教)や道教は日本列島に伝来していないことになっているので、史料により調べることは出来ないが、「続日本紀」には、不思議な宗教者の記述がある。それらの宗教者とは、山奥に暮らし呪術や土木事業をおこなったようだ。
「続日本紀」には、文武天皇3年(699年)「呪術で人々を惑わすので伊豆に流罪」とした、役小角の記述がある。そして、天武天皇の孫長屋王が存命中の、養老5年(721年)「この頃、百姓は法に背き、勝手に僧侶の身なりをし、」とあり、その私度僧(?)の指導者を、「小僧行基」と記述している。では、役小角や行基は、仏教僧なのか。仏教僧でないのならば、神道の宮司であるのか。
役小角は、空中を飛行できる仙人であるので、神仙思想の道教の師であるようだ。そして、行基は、橋を造り運河を築くなど高度土木事業を行ったことにより、仏教僧でないことが分かる。それは、仏教では、不殺生の戒律により、地中の生き物も殺してはいけないことにより、地面を掘ることは、破戒となるからだ。すると、高度土木事業を行った行基は、どのような組織の宗教者なのか。考えられるのは、ミトラ教(景教)僧だ。
太陽神を祀るミトラ教僧は、古代新羅から花郎騎士団と供に、日本列島の古墳時代に渡来した。太陽神ミトラ(ミトラは借字で「花」)を祀る花郎騎士団は、ローマ帝国軍の流れにある。ミトラ神を軍神とするローマ帝国軍は、道路敷設や土木建築が得意だった。ミトラ教僧が渡来した古墳時代とは、日本列島がピラミッドのように石葺された巨大前方後円墳、河船が航行できる運河、騎馬で疾走できる幅広の古代高速道路網などが築かれる、日本列島改造時代だった。
ミトラ教僧は、奈良盆地北側のイカルガに、太陽神を祀るために、冬至の太陽の日の出の角度に合わせて、南北軸から西に約20度を建設基準として、太陽の都(景)を築いていた。しかし、645年唐進駐軍により、ミトラ教と道教の施設は、徹底的に破壊されていた。その明日香ヤマトを追われた宗教者は、山奥に逃れた。そして、ミトラ教僧は、その山で、太陽神に犠牲を捧げるために、太陽神の化身の牡牛を屠る儀式を行っていた。そのミトラ教の儀式が行われた祭祀場のひとつが、後の奈良時代に春日大社が建立される、三笠山だった。

オレの幻視と思考がオーバーラップしてきた。幻視と思考とが合致していれば、前頭葉での混乱は生じない。しかし、前頭葉と後頭部にある視覚域の細胞がヒートアップしてきたのを感じた。日本史を思考する基礎情報は、学校で歴史教育として刷り込まれた情報だ。田辺さんの古代史の講義で、藤原日本史のトリックを教えてもらい、藤原日本史が述べる情報を否定したつもりでいたが、学校での歴史教育で刷り込まれた、「仏教文化が花咲く天平文化の奈良時代」の情報が時々幻視に介入してくる。先ほどから、幻視と思考を交互に繰り返していたのはそのためだ。そこで、藤原日本史のトリックを幻視により暴くために、藤原日本史の古代史を創作した、藤原不比等について、もう一度学習してみよう。

藤原不比等は、持統3年(689年)「従五位下藤原朝臣史を判事(ことわりのつかさ)となす。」、と突然、歴史上に現れた。そして、持統10年(696年)朝廷の執行機関である廟堂の最下位の直広弐の位となった。それ以前の客観的史料は、「日本書記」以外にはない。
藤原不比等が、奈良時代の720年に創作した「日本書記」以前の、藤原氏出自についての史料がないのは、「日本書記」以前の史料は、藤原日本史では、645年蘇我蝦夷が天皇紀・国紀を焚書してしまったから、と述べている。
藤原日本史の基本史料である「日本書記」では、藤原鎌足の次男などとしているが、藤原鎌足は、奈良時代に藤原不比等により「日本書記」での「大化改新」物語で創作された架空の人物だ。では、藤原不比等とは、何者か。
藤原不比等の思考能力は、一般人を遥かに超えているようだ。それは、何年、何十年、何百年もの先を読むことができたようだ。奈良時代に起こった出来事や、平成の現在の支配体制の基礎は、全て、藤原不比等が撒いた種による。日本国の支配体制の基盤を創ったのは、藤原不比等が創作した数々の物語による、と言っても過言ではない。
藤原不比等は、「日本書記」で、万世一系の天皇家の物語を創作し、その天皇家を乗っ取った。その方法は、日本初の天皇である天武天皇崩御後、その皇后を女帝持統天皇とし、天武天皇の皇子草壁を謀殺し、草壁皇子の子を文武天皇として即位させ、天武天皇の血が薄くなった文武天皇に、藤原不比等の娘宮子を嫁がせた。そして、文武天皇と宮子とに生まれた首皇子(後の聖武天皇)に、藤原不比等の娘安宿媛(後の光明皇后)を嫁がせた。このことにより、天武天皇家は文武天皇を以って終わり、藤原氏の血が濃く流れる聖武天皇が即位して、新しく藤原天皇家の創立となった。天皇家の謎は、藤原氏の謎と言うのは、このことによる。
更に、藤原不比等は、周帝国の女帝則天武后から、日本列島を経営するために押し付けられた唐令の大宝律令を骨抜きにするために、718年養老律令を草案していた。しかし、唐進駐軍の日本列島での統治能力が衰える、757年まで、その養老律令の実施を留め置いていた。
周帝国が705年に壊滅し、そして、712年玄宗が唐帝国を復活させ、その後の時期の唐帝国内では、塩の闇商人である安祿山が、755年から大規模な内乱を起こしていた。そのため、唐帝国の玄宗は、日本列島の奈良王朝に、安祿山の内乱軍と戦うために、遣唐使船により武器の素材である牛の角を運ぶようにと要請するほど、唐帝国による日本列島の経営を管理する余裕がなくなっていた。その時期に、藤原不比等の孫は、養老律令を実施し、その後、昭和の太平洋戦争敗戦まで、藤原不比等が立案した養老律令が、日本列島では実施されていた。
そして、藤原不比等は、東アジアの情勢も的確に把握していた。藤原不比等が、右大臣として奈良王朝を支配していた時期、唐帝国に軍事的対抗が出来るほど統一新羅には国力があった。それは、藤原京が新羅の都をモデルとしていたことからも分かる。統一新羅軍団は、朝鮮半島だけではなく、明日香ヤマトからも唐進駐軍を駆逐していた。
そして、藤原不比等が存命中、統一新羅の軍団が、情勢不安な近畿一帯の国境を警備していたことは、神亀3年(726年)聖武天皇が、奈良王朝を訪れた統一新羅使に述べた、「金順貞はどうしているのか。順貞は彼此の国境を安全にし、我が国に忠事してくれた人だ。」、ということから分かる。
統一新羅の使者が聖武天皇に謁見できて、そして、聖武天皇が、近畿一帯の国境を警備していた金順貞の安否を聞くほど、統一新羅と奈良王朝とが友好関係を結んでいた頃の廟堂の構成員は、知太政官事舎人親王、左大臣長屋王、大納言多治比池守、中納言大伴旅人、同藤原武智麻呂、参議藤原房前、同安倍広庭、非参議藤原宇合であった。天武天皇の皇子が、奈良王朝を支配していた時期は、天武天皇と同族が支配する統一新羅とは友好関係であった。
藤原不比等が、奈良王朝の廟堂から天武天皇の皇子勢力を完全に排除できないまでは、統一新羅の使節を平城京に歓迎するために、近隣国から騎馬990騎を集めるほどまでしていたのは、まだその頃、統一新羅の国力が、唐帝国に対抗できるほど、強かったからだ。
しかし、天平7年(735年)舎人親王、新田部親王が死去することで、天武天皇10皇子が完全にいなくなると、廟堂の構成員は、右大臣従二位藤原武智麻呂、大納言欠、中納言正三位多治比県守、参議正三位藤原房前、同正三位藤原宇合、同従三位藤原麻呂、同従三位鈴鹿王、同従三位橘諸兄、同正四位下大伴道足となっていた。この廟堂の構成は、藤原不比等の四兄弟の南家、北家、式家、京家が、奈良王朝を乗っ取ったことを意味する。これにより、天皇家はもとより、奈良王朝の執行権も、完全に藤原氏により乗っ取られた。
天武天皇の皇子である舎人親王や孫の長屋王が存命中は、統一新羅の使者を歓待していたが、天平7年(735年)「新羅の使金相真入京、中納言多治比県守をして新羅使に入朝の旨を問う。」とあり、新羅から国名を「玉城国」と称したとして、新羅使を追い返していた。この後、統一新羅は、奈良王朝の仮想敵国となった。
平安時代初期、母国百済を滅ぼした新羅を憎しとする百済系桓武天皇の時代、30巻・系図1巻の「日本書記」を、系図を焚書し、そして、藤原不比等が創作した「日本書記」の物語を、新羅不利に、そして、百済有利にして改竄し、更に、神武天皇東征物語や神功皇后新羅征伐物語を挿入した。
今に残る「日本書記」は、奈良時代に創作された藤原不比等のオリジナルではない、平安時代に改竄された「日本書記」だ。更に、藤原氏を排除するため、唐進駐軍の支援を受けた桓武天皇は、反藤原氏となった聖武天皇の、正倉院に納められていた絵画・像・書籍の一部を処分することで、奈良時代の亡命百済貴族が、漢文が理解できたため、唐進駐軍の下級官人として「平城京」で使役させられていたことを、歴史上抹殺した。
「日本書記」での神功皇后の新羅征伐の物語がフィクションだとする根拠は、神功皇后の統治していたとする、201年から269年には、新羅などの国は、馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代の朝鮮半島に存在していないからだ。それは、ギリシャ・ローマ文化の新羅の建国は、356年だからだ。因みに、藤原日本史の神話物語で、悪役スサノウは新羅に行くし、出雲物語でも新羅が登場しているのは、藤原神話が、神代の物語ではないからだ。
その奈良王朝の執行機関である廟堂を乗っ取った藤原四兄弟は、天平元年(729年)宿敵長屋王を左道(北極星を祀る道教)をしたとの嫌疑で謀殺した後、聖武天皇の正三位藤原夫人を光明皇后としていたが、更に、唐帝国の命令を無視して勝手なことを行い始めた。
これに対して、唐帝国玄宗は、藤原四兄弟を滅する使者を、735年日本列島に送り込んだ。それが、遣唐使として唐に渡って、唐制を学んだ、下道真備(後に吉備真備)と僧玄ムだ。帰国した下道真備は、後宮の禁苑で皇后、中宮、女御の在所である中宮亮に任ぜられ、そして、僧玄ムは僧正に任命された。この二人の唐皇帝からの命は、後宮の皇后、中宮、女御への藤原四兄弟を抹殺するための情報操作だ。
中宮亮の下道真備は、後宮を管理する業務上で、後宮にある「内道場」で僧玄ムも、聖武天皇の実母宮子に急接近した。その後宮の内道場での僧玄ムの修行(?)により、こころを病んでいた宮子に験があった。宮子は、下道真備と僧玄ムとの仲介により、藤原氏の傀儡ロボットとなっていた聖武天皇に謁見した。宮子は、首皇子を産むと、後宮に長期間幽閉されていたので、聖武天皇となった我が子と会うのは始めてであった。この後、聖武天皇の行動に大変化が現れた。
下道真備と僧玄ムとが入唐中は、玄宗皇帝の最盛期で、周帝国の女帝則天武后が漢訳仏教寺を全国に建立して人民を支配していたのを真似て、開元寺を諸国に設置していた時期であった。仏寺は、貴族の文化・娯楽施設のほかに、人民を支配するため、プロパカンダ(情報操作)のための施設でもあった。この仏寺を全国に設置して、人民操作を日本列島でも行うことも、下道真備と僧玄ムへの玄宗皇帝からの命令であった。
701年近畿一帯を支配するために唐令の大宝律令と供に、周帝国の女帝則天武后は、唐帝国を乗っ取った手法、仏寺により人民を情報操作することを、日本列島でも行うために、周帝国や北九州にあった仏寺を、近畿一帯の巨大古墳、景教寺、道観などの宗教施設を破壊した跡に、移築していた。しかし、705年女帝則天武后が死去してまったため、その仏寺戦略が頓挫したため、近畿一帯に移築されていた仏寺は、霊亀2年(716年)「諸国の寺家、多く法(律令僧尼令)を無視して門庭荒れ果て、尊像は塵埃、風雨にさらされていた。」状態になっていた。
再び、唐帝国に都合の良いように、仏寺により日本列島の人民を統治するためには、奈良王朝の執行権を支配する、中臣神道を祀る藤原四兄弟を抹殺する必要がある。そして、下道真備と僧玄ムの行動に都合のよい執行部をつくる必要がある。このことにより、下道真備と僧玄ムの使命が達成される。
天平9年(737年)九州に上陸した流行り病が、奈良の都にも伝染したことにより、藤原四兄弟が死去した、と藤原日本史は述べる。しかし、その説明には不思議がある。それは、5ヶ月以内に、藤原四兄弟が死去しただけではなく、廟堂の構成員の知太政官事鈴鹿王を残し、全て死去しているからだ。ただ一人生存したその鈴鹿王とは、反藤原氏の天武天皇の皇子高市の子であった。
天平10年(738年)反藤原氏の橘諸兄は、右大臣となった。そして、藤原四兄弟が謎の死により廟堂から排除されたため、廟堂に入った藤原氏は、藤原豊成ただひとりであった。藤原氏の子孫が廟堂で生き残ったのは、藤原不比等による、藤原氏を四家に分けた危機管理が機能していたからだ。
奈良時代の右大臣は、左大臣より位は低いが、実力では、左大臣より上だ。左大臣は、云わば、名誉職であった。天武天皇存命中では、左大臣が活躍していた。それは、騎馬民族の社会では、右より左が上位だった。それは、ユーラシア大陸での異民族との戦闘で、南側の農耕民族国への進撃は、鳥が羽を広げるように布陣して、中央に司令部を置き、太陽が昇る東側(左翼)からの左翼軍団が先陣を切るからだ。その騎馬民族による戦闘布陣形式から、先陣を切る左翼軍団が、右翼軍団よりも上位となった。しかし、非騎馬民族社会になると、左より右が優位となってしまった。
藤原四兄弟を抹殺した下道真備と僧玄ムにより、右大臣橘諸兄を裏で操ることで、奈良朝廷が藤原氏の支配から完全に脱却させられることを恐れた、式家藤原宇合の子藤原広嗣は、天平12年大宰府に転出されていた。そこで、太宰少弐従五位下藤原広嗣は、藤原氏が再び朝廷を支配できるように、下道真備と僧玄ムとを朝廷から除くことを理由に、兵を起こした。これが、藤原日本史で述べる、藤原広嗣の乱だ。
藤原広嗣の反乱軍は、律令軍により鎮圧され、藤原広嗣は斬首されたが、奈良の都では混乱を起こしていた。それは、672年近江の亡命百済王朝が、新羅・明日香ヤマト残党連合軍により壊滅していたが、その亡命百済王朝の貴族達は、漢文が読めるために下級官人として、平城京に多く暮らしていたからだ。その亡命百済貴族達が、藤原広嗣残党軍と結託するとすれば、奈良の律令軍の多くは鎮圧軍として九州に出払っているため、都に残っている兵力だけでは、都を護ることが出来ないと、実母宮子に会って反藤原氏となった聖武天皇は考えた。
藤原広嗣の乱が都に伝えられた翌月10月、聖武天皇は、「朕、思う所あって今月の末、しばらく関東に往こうと思っている。」、と言って、騎兵大将軍、御前、御後の長官など、400名の部隊が、関東に向かって出発した。
何故、関東なのかと言うと、天武天皇もその息子大津皇子も、唐進駐軍や亡命百済王朝残党兵の攻撃からの防御に、狭い土地の明日香ヤマトでは不安があるので、突厥進駐軍の前線基地がある信濃に都を移す計画を立てていたように、聖武天皇も関東を目指したが、時既に関東には、騎馬民族が支配する地はなく、藤原氏や亡命百済貴族が豪族として暮らしていた。
古墳時代の明日香ヤマトまでは、ユーラシアを支配していた東突厥帝国も健在であった。しかし、8世紀半ばの東突厥帝国は、イスラム帝国に東ローマ帝国との交易権を奪われたため国力が衰え、そして、国力を増した唐帝国軍団の攻撃により、744年には東突厥帝国は滅ぶ。それにより、日本列島の東北を支配していた突厥進駐軍(蝦夷)は、多賀城を前線基地とする律令軍により、陸奥国内に城輪柵、玉造柵、桃生柵を築かれ、それらの柵以北に追い遣られていた。
関東を目指していた聖武天皇一行400名は、関東への移動を諦め、不破関から折り返し、橘諸兄の別荘がある恭仁の地に、宮を建てた。この恭仁宮への逃避行には、藤原不比等の孫藤原仲麻呂が、前騎兵大将軍正五位下の官位で陪従していた。
天平13年(741年)恭仁宮に遷都した聖武天皇は、国分寺建立の勅を発した。この国分寺建立の勅には、下道真備と僧玄ムの思惑があった。
藤原日本史では、国分寺建立の理由として、凶作や飢餓に苦しむ人民のために建立を計画した、としている。しかし、その下道真備と僧玄ムの本音は、藤原氏が祭祀者として支配する仏寺(756年以前には春日大社は存在していない。)を、国分寺により制御することだ。それは、741年太政官符に、「国分寺は、金光明四天王護国の寺と名づけ、法華滅罪の寺となすとした様に、悪臣邪臣、此の願を犯し破る者を滅するためだ。」、とあることからも、人民の困難を助けるために、国分寺が建立されたわけではない。
藤原氏や藤原氏が支配する仏寺は、仏教思想を日常生活に苦しむ人民に布教するのではなく、その宗教力で土地の私有化を狙っていたのだ。そのための戦術は、藤原不比等が考えていた。それが、墾田永世私財法だ。この法を実行するために、藤原不比等の孫藤原仲麻呂は、ある計画を立てていた。しかし、藤原仲麻呂は、正五位下の官位で、廟堂に上がれない。
この国分寺創建の時点での恭仁宮の廟堂員は、右大臣橘諸兄、知太政官事鈴鹿王、参議大野東人、同巨勢奈弖麻呂、同大伴道足、同藤原豊成、同大伴牛養、同県犬養石次、散位藤原弟貞(長屋王の子)、同百済王南典で、藤原氏は藤原豊成ひとりだけだ。
天平15年(743年)聖武天皇は、紫香楽宮に行きたいと言い出し、その3ヶ月後に大仏鋳造の勅が出された、と藤原日本史は述べている。しかし、その大像が、仏像であったかを、藤原氏側の史料以外で知ることは出来ない。そして、その大像が、仏像であったかを確かめることは出来ない。それは、その大像の首が、855年に落とされてしまっているからだ。現在に残る大仏は、江戸時代製だ。
この大像鋳造の発案は、藤原仲麻呂だ。それには、藤原氏の企みがある。しかし、反藤原氏の聖武天皇にも企みがあった。藤原日本史では、大像鋳造の発案を聖武天皇だとするために、「続日本紀」勝宝元年(749年)に、「去る辰の年(天平12年)河内国大県郡の知識寺にある盧舎那大仏を見て朕も造りたかったができなかった。」、とわざわざ記述しているのは何故か。それは、大像鋳造の発案を聖武天皇にしたかったからだ。史実では、聖武天皇は、河内の知識寺には行ってはいない。
藤原仲麻呂の企みは、地方豪族の土地をタダで取り上げることだ。つまり、豪族の土地の喜捨。知識とは喜捨のことだ。つまり、知識寺とは、喜捨により造られた寺のことだ。
天平15年(743年)聖武天皇は、紫香楽の宮を造るので、橘諸兄の別荘地での恭仁宮の造作を停めた。それは、橘諸兄の後ろにいる下道真備と僧玄ムに、唐帝国玄宗の影を見たからだ。そして、聖武天皇は、左大臣従一位橘諸兄を兼太宰師として降格させた。太宰師とは、従三位相当の官位だ。その後、勝宝2年(750年)橘諸兄のブレーンであった下道真備は、左降し筑前守とされ、左遷された。
反藤原氏の聖武天皇は、藤原仲麻呂による大像鋳造の発案に乗った。藤原仲麻呂の大像鋳造の資金集めは、地方豪族達の土地を喜捨させることで賄うことだ。地方豪族は、欲が深いからタダでは、大像鋳造のためだけには喜捨しない。そこで、723年に発令された三世一身法を緩和して、大像鋳造に土地を喜捨した二倍の開墾を許し、その開墾地を永世に私財としてよいとの、墾田永世私財法を、天平15年(743年)大像鋳造の勅と一緒に発令した。
このことにより、大像鋳造の資金が地方豪族より集まった。その影で、地方に散っていた藤原氏が、私有地にするために、開墾に狂奔した。このことにより、藤原氏の広大な私有地や藤原氏が支配する寺社領が全国に現れた。この法の実施により、唐税制の基本である、公地公民制が崩れ去った。
しかし、反藤原氏となった聖武天皇にも企みがあった。その企みとは、平城京に隣接する藤原氏の都を見下ろす丘の上に、仏教の敵である鬼像を鋳造することだ。
聖武天皇には、光明皇后の他に、広刀自夫人がいた。その広刀自夫人との間に安積王がいたが、16歳の時、突然死去した。それは、藤原氏による暗殺だとされていた。その根拠は、光明皇后との間に基王が生まれたが、一歳で夭折してしまっていた。そこで、安積王が次期天皇候補だった。しかし、安積王が、天皇として即位してしまうと、藤原天皇家の血が絶えてしまうからだ。
安積王は、三笠山に葬られた。その安積王が眠る三笠山に、聖武天皇は、仏教の敵である遍照鬼像を鋳造することを考えた。藤原日本史では、この大像をビルシャナブツとしているが、実態は、遍照鬼で、「遍照」とは、太陽のことだ。つまり、遍照鬼とは、太陽神ミトラのことだ。この太陽神ミトラ像は、平安時代に錬金術師空海により、大仏の大日如来像として改名されてしまう。
その遍照鬼鋳造に協力したのが、藤原氏が支配する奈良王朝から敵視されていた小僧行基だ。小僧とは蔑称で、行基は、高度土木建築技術をもっていた。その訳は、行基の本貫地が、河内と摂津だからだ。それらの地は、明日香ヤマト時代に、秦王国があった。河内平野にあった秦王国は、古墳時代にギリシャ・ローマ文化の古代新羅から、日本列島に渡来してきた漢字アルフアベット(藤原日本史では「万葉語」)を使う民族により興された都市国家だ。河内・摂津が、平安時代に武士源氏発祥の地とするのは、古墳時代に、古代新羅から、太陽神ミトラを祀る花郎騎士団が、その地に渡来していたからだ。その花郎騎士団には、幅広の道路を敷設したり、大運河を造る技術があった。
奈良の大像が、仏像ではなかったことは、その大像鋳造に協力した行基一門が、仏教徒でなかったことでも分かる。行基一門は、近畿一帯で土木事業をおこなっていた。仏教の戒律では、不殺生のため、土中の生き物を殺してはいけないことで、土木事業は破戒となるからだ。奈良朝廷から、小僧と蔑称されていた破戒僧行基は、仏像など造らない。
奈良時代、朝廷に逆らうことを「ケガレ」と言っていた。そのケガレ思想が、平安時代になると、藤原氏に援助されて唐に渡った錬金術師空海が、唐より民族差別のインド思想「施陀羅」を日本列島に持ち込み、中央構造線上にある鉱脈地の高野山から、その差別思想を広めたことにより、奈良時代の「ケガレ」の意味が、汚いの意味の「ケガレ」となり、肉食の騎馬民族を「ケガレ者」として貶めて行くことになる。
752年大像開眼供養の時、宇佐から御輿を担いでお祝いに神官が来ていたのは何故か。宇佐は、古墳時代に秦王国があった地だ。608年明日香ヤマトでアマタリヒシコ男王に謁見した隋使裴世清は、北九州で秦王国を見たと隋帝に報告していた。
行基の住む河内・摂津にあった秦王国のルーツを辿れば、河内秦王国←吉備秦王国←北九州宇佐秦王国←軍神ミトラを祀る花郎騎士団の古代新羅←秦帝国←バクトリア←軍神ミトラを祀るアレクサンドル大王領←太陽神バアルを祀るカナン・イスラエル王国←太陽神の絶対神アトンを祀る古代エジプト←契約の神として太陽神ミトラを祀るヒッタイト帝国、となる。そのヒッタイト帝国では、鉄器の発明があった。その歴史の流れにある民族には、鉄器製造技術があった。その鉄器は、高度土木建築作業には必須道具だ。645年明日香ヤマトを追われた民族は、山奥に逃れた。その頃から、仏敵の鬼が山奥に現れる。その鬼達の武器は、金棒だ。近畿一帯で高度土木建築をおこなっていた行基一行は、鬼だった。
藤原不比等が仕掛けた戦略の目的は、絶対神の天皇を発明し、その現御神天皇の下に、同胞の移民のために土地を先住民から奪うことだ。そのためには、周帝国女帝則天武后から押し付けられた唐令の大宝律令を骨抜きにするために、養老律令を発明し、太政官と同じ権力を持つ神祇官の設置をした。
そして、奈良王朝の支配地管理者を監視する按察使が、その土地の産物を融通できるようにした。そして、日本列島各地にある先住民の神を国津神として、藤原氏の神を天津神としてそこに習合し、その藤原氏の習合神を祀る祭祀者を、藤原氏から派生した中臣氏とした。そして、前政権の神を祀る古墳や宗教施設を破壊し、その跡に、神社(モリ)を建立した。しかし、その藤原不比等が仕掛けた計画が完了するのは、藤原不比等の孫藤原仲麻呂の時代まで待たなければならなかった。
藤原仲麻呂は、聖武天皇に大像鋳造を提案した。そのための資金集めとして、土地制度の改革を提案した。それが、大像鋳造の勅と同時に発令された、墾田永世私財法だ。その法により、豪族の土地を喜捨させることで、豪族の土地は合法的に奈良王朝の土地となる。そして、その奈良王朝を藤原氏が支配することで、日本列島の土地が、藤原氏の支配地となるわけだ。
しかし、藤原氏のロボットであった聖武天皇は、下道真備と僧玄ムの謀略により、反藤原氏となってしまった。そこで、藤原仲麻呂は、天平勝宝元年(749年)正三位大納言となると、藤原不比等の娘光明皇后と図って、翌月、紫微令の令外官を設置した。そして、藤原仲麻呂は、その紫微長官となった。紫微とは、光明皇后直属の機関だ。その権限により、京・畿内および諸国の兵を一元的に統括した。このことにより、反藤原氏の聖武天皇と、藤原氏の光明皇后との、二元的支配体制が奈良王朝に確立された。
光明皇后をバックに紫微長官となり、奈良王朝の軍隊を掌握した藤原仲麻呂に、その年、陸奥国から砂金が発見されたとの報告があった。藤原日本史では、その陸奥国での砂金発見により、大仏の鍍金が可能になった、と述べている。
しかし、日本列島には、縄文時代から、翡翠、琥珀、朱砂などの鉱物を採掘する民族が海外から渡来していて、貴重鉱物が日本列島各地に産出されることは広く知られていた。朱砂は、水銀化合物で、朱砂が産出される場所には、水銀、銀、銅、金などが埋蔵されている可能性がある。縄文時代から、貴重鉱物が採鉱されていたのに、何故、砂金発見の報告が、天平勝宝元年(749年)なのか。
何故、天平勝宝元年(749年)に、陸奥国から金が発見されたと、「続日本紀」に記したのか。それは、藤原不比等の仕掛けの流れを逆にたどれば、その謎が解ける。その流れとは、陸奥国砂金の発見←藤原仲麻呂が軍団を支配する←藤原仲麻呂が紫微長官となる←紫微令←墾田永世私財法←大仏鋳造←陸奥出羽按察使の土地産物融通令←藤原氏を陸奥出羽按察使とする、となる。
天平勝宝元年(749年)に、「陸奥国から金が発見された。」、とした時期は、再び、奈良王朝が、光明皇后と紫微長官藤原仲麻呂により、藤原氏の支配下になったからだ。これにより、陸奥国の豪族達により喜捨された土地も砂金も、藤原氏のものとなった。
しかし、反藤原氏の聖武天皇は、反撃に出た。それは、平城京に隣接した藤原氏の都を見下ろす地に、漢訳仏教の敵、遍照鬼を鋳造し、天皇の位を貶めるため、聖武天皇は、その遍照鬼像の下に、自ら「三宝の奴」と称した。
藤原日本史では、この聖武天皇の言動を以って、聖武天皇が仏教の臣下となり、飛鳥大和に仏教国家が誕生したとしている。しかし、聖武天皇の行動の意図は、その正反対だ。聖武天皇は、藤原不比等が仕掛けた計略を阻止するために、「三宝の奴」となったのだ。
741年藤原氏のロボットであった聖武天皇は、牡牛屠殺禁止の御触れを出した。それは、山奥に逃れていた民が行う、太陽神ミトラを祀る祭祀儀式を禁止するためだ。山奥に逃れたミトラ教徒は、祭祀者の下、旱や凶作を回避するため、三笠山などの山々で、太陽神に太陽の化身である牡牛を屠ることで、犠牲を捧げ太陽神に願をかけていたのだ。奈良王朝では、太陽神や太一(北極星)を祀ることを「左道」と蔑称していた。
しかし、下道真備や僧玄肪と知り合い、反藤原氏となった聖武天皇は、河内出自の反体制の山の民行基一派と知り合うことにより、反仏教にもなった。それらの反体制の民を知ることで、聖武天皇は、藤原不比等が、天皇を現御神天皇とし、そして、仏教を手先として、日本列島を乗っ取る計画を知った。
藤原不比等は、大宝律令に付随して、僧尼令を発して、私度僧が民衆に吉祥を説いてはならないと規制した。それは、周帝国女帝則天武后の戦術を真似るためだ。その戦術とは、漢訳仏寺での情報操作をするため、アルビノ動物(白色動物)の発見を吉祥の前兆として、民衆をコントロールするためだ。つまり、アルビノ動物が発見されたのは、何かの吉祥の前兆だと、漢訳仏寺から情報を発信して、情報操作をするのだ。その戦術を用いて、唐帝国の皇后武氏は、唐帝国を乗っ取ることが出来たため、周帝国女帝則天武后となれた。藤原不比等は、この女帝則天武后の戦術を行い、娘の光明皇后を女帝とするために、僧尼令を発していたのだ。そして、藤原不比等は、娘光明皇后に、女帝則天武后の吉祥戦術を実行するために、仏寺を建立することを指示していた。
光明皇后は、その藤原不比等の戦術を成功させるため、法華寺、海竜王寺、新薬師寺の発願をした。しかし、法華寺、海竜王寺も、もともとは、藤原不比等の私邸の一部を利用して建立したものだ。そして、橘諸兄の発願した国分寺・国分尼寺の構想を壊滅するために、その法華寺を、大和の国分尼寺とした。

オレは、以前から不思議に思っていたことがあった。それは日本国の年号のことだ。日本国の年号は、大宝元年(701年)が最初だ。その日本国初の年号は、漢字二文字で表示されている。しかし、女帝孝謙天皇、淳仁天皇、女帝称徳天皇(=孝謙天皇)の時代、749年から770年までは、漢字四文字となっている。何故だ。
この疑問は、田辺さんのレポートで解消した。その漢字四文字の年号の時代は、近畿一帯は、藤原王国だったからだ。
天平勝宝元年(749年)聖武天皇は、某王を皇太子に立てたが一歳で没したため、娘の安倍皇太子を、女帝孝謙天皇として即位させ、自身は太上天皇となった。このため、皇族出自でもない藤原不比等の娘の光明皇后は、皇太后として、聖武太上天皇と同等の権力を掌握した。それには、藤原仲麻呂が、光明皇后直属の紫微長官として律令軍団を支配していたことも作用した。
漢字四文字の天平勝宝の年号は、光明皇太后が、女帝孝謙天皇の藤原王国誕生を祝い、周帝国女帝則天武后が「天冊万歳」などの年号を用いたのを真似て、創作したものだ。
藤原不比等は、娘の光明子を、周帝国女帝則天武后のように、女帝にすることを計画していた。しかし、藤原氏のロボットだった聖武天皇が、玄宗皇帝の密使である下道真備や僧玄ムらの陰謀により、反藤原氏となってしまった。
そこで、藤原不比等の死後、光明皇后は自分が女帝になることを諦め、娘の安倍皇太子を女帝にすることにした。この計画は、藤原不比等が撒いた種により成功した。それが、「蔭位制」だ。蔭位制とは、三位以上の貴族の子、孫、五位以上の子に、成人すると自動的に高い位階を授ける制度だ。その蔭位制は、氏族社会の母子制を破壊するために考え出されたものだ。騎馬民族の氏族社会では、母子制で、血の流れは母による。だから、女王国が成立する。蔭位制は、騎馬民族の氏族社会を否定するための、父子関係を基本とした。藤原不比等が仕掛けたこの蔭位制により、奈良王朝には、藤原氏の多くの子息が貴族となって入り込んでいた。
更に、藤原不比等は、三位以上の貴族に公的な「家」を設けた。「家」とは、現在の「家」の認識とは異なり、広義の官庁のひとつで、「家令」などその職員は、政府の官人であった。この官庁の「家」を、藤原不比等の子供四人に与え、南家、北家、式家、京家として、奈良王朝の行政に忍び込ませた。このことにより、藤原王国を築く光明皇太后の陰謀を、側面から支援できた。
しかし、天平勝宝6年(754年)「皇太后崩ず。」となるが、光明皇太后と紫微長官藤原仲麻呂との陰謀の数々により、橘氏や大伴氏などの反仲麻呂勢力を屈服させていたので、奈良王朝での政敵はいなくなっていた。このため、重石の光明皇太后がいなくなったので、藤原仲麻呂の暴走が始まる。
天平勝宝8年(756年)聖武太上天皇が崩御する前、聖武太上天皇は次期天皇候補として、天武天皇の孫新田部親王の子である道租王を考えていた。しかし、聖武太上天皇が崩御すると、藤原仲麻呂の陰謀により、道租王は淫縦であるということで、廃太子となってしまった。
天平宝字元年(757年)橘諸兄の子橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂の陰謀により惨殺された。このことにより、奈良王朝には、藤原仲麻呂の政敵が完全に存在しない状態になった。藤原仲麻呂は、藤原不比等の日本国乗っ取りの陰謀計画を実施した。それが、「養老中に朕が外祖父、故太政大臣(不比等)勅を奉じて律令を刊修した。よろしく所司に告げて早く施行するようにせよ。」、と養老律令を実施した。藤原王国の成立だ。そして、藤原仲麻呂は、藤原部を久須波良部(くずはらべ)とし、藤原氏の氏名を独占した。
藤原日本史では、この養老律令の実施により、大宝律令が破棄されたと述べるが、その大宝律令の完全成文が、まったく残っていないのは何故か。それは、大宝律令とは、周帝国女帝則天武后により、周帝国コロニーとなった飛鳥大和を支配するために、押し付けられた、唐令そのものだったからだ。
藤原不比等は、その唐令の大宝律令を養老律令に摩り替える仕掛けを考えていたのだ。しかし、藤原不比等は、天武天皇系豪族の勢力があるうちは、騎馬民族の氏族社会制度を否定して、全て藤原氏に都合よく書き換えられた養老律令の実施をひかえていた。やっと、孫の藤原仲麻呂の時代に、天武天皇系勢力を抹殺できた。そこで、養老律令の実施となった。
唐令の重圧から脱却した藤原仲麻呂は、奈良王朝を間接支配する唐帝国が安禄山の内乱で混乱しているのをよいことに、唐帝国の玄宗皇帝を真似て、大宝律令で定められていた官名を、太政官を乾政官、太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保、大納言を御史大夫、など唐風名に変えて、日本国の「玄宗皇帝」のつもりとなっていた。
藤原仲麻呂は、藤原不比等の日本国乗っ取りの計画を着々と実施した。藤原仲麻呂は、大炊王に息子真従の後家粟田諸姉を娶すために私第に呼んでいた。そして、藤原仲麻呂の弟で、大炊王を立太子させていた。
天平宝字2年(758年)藤原仲麻呂のロボットである女帝孝謙天皇と藤原仲麻呂が図って、大炊王を淳仁天皇として即位させ、孝謙天皇は太上天皇となった。即位した淳仁天皇は、紫微内相の藤原仲麻呂を大保(右大臣)に任じ、恵美を姓に加え、藤原恵美朝臣押勝とした。
藤原仲麻呂(恵美押勝)は、今度は、淳仁天皇をロボットとして、藤原不比等が描いた世界を、近畿一帯に実現させた。そのひとつが、ミトラ教の儀式で牡牛を屠っていた三笠山の祭祀場跡の空き地の「神地」に、藤原氏の神を祀るための春日大社の建立だ。ここに、藤原不比等が国津神としたミトラ教の三笠山の歴史が、天津神とする藤原氏の神により、歴史上消された。
「続日本紀」養老元年「遣唐使が御蓋山で神祇をまつった。」とあるが、そこには「空き地」があるだけで、春日大社はない。藤原日本史では、「藤原不比等が常陸の鹿島神宮の神を春日御蓋山の頂上にまつったのが春日大社のはじまり。」、と述べている、が、鹿島神宮は、太陽神を祀る祭祀場を破壊した跡に建てられた宮だ。鹿島神宮の建立は、古墳時代後で、伊勢神宮、宇佐八幡宮、出雲大社と同じに、藤原日本史が述べるように紀元前の神代時代の建立などではなく、奈良時代初期で、その歴史はそれほど古くはない。
藤原仲麻呂は、701年大宝律令による唐帝国の間接支配から、藤原王国を独立させることを画策した。それは、貨幣の発行だ。唐帝国は、建国直後の621年「開元通宝」を発行した。この貨幣は、唐帝国との通商を行う国々により、周辺諸国に流通した。この唐の貨幣が国際交易で使われたため、高句麗、百済、統一新羅、吐蕃、南方の南詔などは、唐帝国滅亡まで、貨幣を鋳造していなかった。日本列島だけが、例外的に、古墳時代の明日香ヤマトで「富本銭」が鋳造され、そして、708年「和同開珎」を鋳造していた。
貨幣や為替は、異民族と広域交易を行う、物々交換経済の農耕民族ではなく、交易商業民族でもある騎馬民族が発明したものだ。唐帝国も明日香ヤマトも、その支配者が騎馬民族出自であったため、国際広域交易を行うため、貨幣を鋳造していた。
天平宝字4年(760年)藤原仲麻呂は、国璽(国の印鑑)を私邸に持ち込み、貨幣発行の特権を、藤原氏のロボット淳仁天皇から得た。そして、藤原仲麻呂は、唐帝国の貨幣「開元通宝」が金銭、銀銭、銅銭の三種であるのを真似て、金銭の「開基勝宝」、銀銭の「太平元宝」、銅銭の「万年通宝」を鋳造した。何故、藤原仲麻呂は、私幣を鋳造したのか。それは、藤原氏の出自をみれば分かる。
藤原氏の租は、国際交易国ハザール王国から、南インドを経由して、南九州坊津に渡来していた。藤原氏は、祭祀者の他に、南蛮国際交易者の顔を持っているのだ。藤原氏の租が渡来した南九州坊津は、戦国時代のイエズス会、江戸時代末期のイギリス東インド会社の外洋船が停泊した国際港なのだ。
藤原氏が運営管理した遣唐使船が、往路ではベトナム方面に漂流しないで、帰路の遣唐使船4船組の一隻だけが、何回かの渡唐で、何回もベトナムに漂流していた謎は、ベトナムの手前に、南インドと唐帝国との中継港のマカオがあることで解明できる。唐令の大宝律令の税制で日本列島の民から集めた奈良王朝から唐帝国への貢物の返礼として、唐帝国からの贈り物を満載した遣唐使船が、ベトナムに漂流したのは、唐帝国の物品を、日本列島に運ぶのではなく、マカオに運んでいたからだ。
唐帝国と国際交易をおこなっていたのは、周辺諸国だけではなく、サラセン帝国と対峙していたササン朝ペルシャや東ローマ帝国もそうだ。ササン朝ペルシャは銀銭で、東ローマ帝国は金銭だ。藤原王国を興し、藤原氏を陸奥出羽按察使に指名して東北の砂金や絹製品を合法的に簒奪した、藤原氏国際シンジケート(藤原王国)を支配する藤原仲麻呂が、金銭、銀銭、銅銭を鋳造したのは、唐帝国だけではなく、それらのペルシャ、サラセン、東ローマ帝国などの西域諸国との国際交易を視野に入れていたからだ。因みに、ヨーロッパ→南インド→マカオの藤原氏の南蛮交易ルートで日本列島に渡来した、イエズス会は日本列島石見の銀を、イギリス東インド会社は日本列島の絹製品の強奪を目的に渡来したのだ。
藤原仲麻呂が行ってきたことは、官名を唐帝国の官名に替えたり、唐帝国と同じに三種の貨幣を鋳造したりしたことは、明らかに、唐帝国からの独立を意識したものだ。この藤原王国の唐帝国からの独立を画策した藤原仲麻呂の行動を、唐帝国は手をこまねいて見ていたわけではない。

712年女帝則天武后の残存勢力を一掃した玄宗は、唐帝国を復興させた。玄宗皇帝は、女帝則天武后の日本国経営を復活させるため、717年遣唐使船に、留学生として下道真備(後に吉備真備)と、留学僧として僧玄ムを乗船させることを命じた。735年吉備真備と僧玄ムは、玄宗皇帝の命を受けて帰国した。その命とは、藤原不比等が計画した藤原王国樹立の阻止だ。その第一歩が、聖武天皇の実母宮子の懐柔だ。そのことにより、聖武天皇は、藤原氏のロボットから反藤原氏となった。
反藤原氏となった聖武天皇は、藤原王国設立を目指す光明皇太后と藤原仲麻呂の行動を阻止する行動に出た。それは、藤原氏の手先として振舞う興福寺の壊滅だ。興福寺の僧だけではなく、奈良仏教の僧は、唐帝国では、一人前の僧とは認めてもらえていたわけではない。遣唐使船で入唐した日本国の僧は、雛僧と呼ばれていた。それは、唐帝国で認められた戒壇で得度を受けていなかったからだ。鑑真が渡来する754年以前に、日本国には正式な戒壇で得度を受けた仏僧は存在していなかった。
吉備真備と僧玄ムに支援された聖武天皇は、留学僧として栄叡と普照に密命を授けた。それは、仏法の戒律を伝える僧を探して、日本国に招致することだ。そのことにより、奈良王朝を支配する藤原氏の手先として、治外法権を悪用して寺社内で女犯・男色や賭博などを行い、我が物顔に振舞う興福寺の雛僧を一掃することで、藤原氏の行動を封じることができる。
しかし、遣唐使船を運営管理する藤原氏のため、日本国に戒壇を設け、戒律を授けることに情熱を燃やす唐僧鑑真の渡海は、5回も妨害された。そこで、752年聖武太上天皇は、遣唐使船に吉備真備を乗船させた。この遣唐使船の大使は、藤原王国設立を画策する光明皇太后の後ろ盾により紫微長官として律令軍団の掌握を計画していた藤原仲麻呂の従兄弟、藤原朝臣清河だ。吉備真備の渡唐の目的は、鑑真の招聘だ。それに対して、藤原清河の目的は、鑑真渡来の阻止だ。
玄宗皇帝に謁見した日本国の使節は、帰路についた。天宝12年(日本国では天平勝宝5年/753年)鑑真和上は、弟子僧14人、崑崙人、胡国人、波斯人など都合24人を従え、帰国船第一船に乗船した。しかし、出帆寸前になって、鑑真一行は下船させられてしまった。その謎は、その第一船を指揮するのが、藤原朝臣清河だった。藤原朝臣清河は、奈良王朝(藤原王国)を支配する藤原仲麻呂の密命を遂行したのだ。
しかし、第二船を指揮する副使大伴古麻呂が、鑑真一行を乗船させ、匿った。大伴氏は、古来の豪族で、新興の藤原氏の我が物顔の行動に義憤を感じていたのだ。第三船には、吉備真備が乗船した。すると、前回の遣唐使船で聖武天皇からの密命を受けて鑑真招聘に動いた普照も、第三船に同乗した。鑑真招聘の吉備真備の行動には、聖武天皇の密命を受けた普照の支援があった。
しかし、第一船の藤原朝臣清河の船は、沖縄にたどり着き、そして、沖縄を出港すると、例のごとく、遭難しベトナムに漂着した。不思議なことに、藤原朝臣清河や阿倍仲麻呂など数人を除いて、百数十名の同乗者は、現地人に殺されてしまった、と藤原日本史は述べる。そして、藤原朝臣清河と阿倍仲麻呂は、どうしたことか、唐帝国に舞い戻っていた。

この遣唐使船の第二・三船が帰国する2年前、天平勝宝4年(752年)東大寺の大像の開眼供養がおこなわれた。しかし、藤原日本史が述べるように、聖武太上天皇、光明皇太后、女帝孝謙天皇、文武百官列席の、僧一万人を集めた華やかな奈良の大仏開眼供養式典はなかった。その描写は、平安末期に編まれた「東大寺要録」の記録を素材に、昭和時代の小説家により創作された物語だ。その頃、聖武太上天皇は、銅・水銀中毒により病に臥せっていた。
749年反藤原氏の聖武天皇の権勢が衰えたのを見た、光明皇后と藤原仲麻呂は、謀略を用いて、聖武天皇の娘安倍内親王を即位させた。女帝孝謙天皇の誕生だ。聖武天皇は太上天皇となり、光明皇后は、皇太后となった。そして、光明皇太后と藤原仲麻呂は、女帝則天武后が唐帝国を乗っ取り、周帝国とし、四文字年号を使っていたのを真似て、女帝孝謙天皇による藤原王国誕生を祝して、「天平勝宝」を年号とした。
そして、749年女帝になりそこねた光明皇太后は、聖武太上天皇から律令軍団の指揮権を奪うため、光明皇太后直属の機関、紫微を設置して、その長官に藤原仲麻呂を任命した。このことにより、律令軍団は、藤原王国の指揮下に入った。
そして、翌年の750年紫微長官の藤原仲麻呂は、橘諸兄の影で暗躍する吉備真備を、従四位上から筑前守に左降させ、都から遠ざけた。勿論、藤原氏の政敵である左大臣従一位の橘諸兄は、それ以前の743年に、従三位相当官の兼太宰師とされていた。
この筑前守に左遷させられた吉備真備は、聖武太上天皇に頼み、752年遣唐使に追加遣唐副使として乗船して、鑑真を招聘するために唐に渡った。それに対して、藤原仲麻呂は、従兄弟の藤原朝臣清河を遣唐大使として、鑑真渡来阻止を命じた。

藤原仲麻呂は、女帝孝謙天皇を私弟に行幸させ、そこを御在所とした。そして、子飼いの大炊王を、758年即位させ淳仁天皇とし、女帝孝謙天皇を太上天皇として、藤原王国を支配した。
しかし、藤原仲麻呂の絶頂期は、長くは続かなかった。

天平勝宝6年(754年)入唐副使の大伴古麻呂が、唐僧鑑真とその弟子をつれて帰京した。しかし、鑑真の戒壇設立により興福寺を解体することを計画していた聖武太上天皇は、重い病に臥せっていた。鑑真は、聖武太上天皇の病気平癒を願ったが、756年死去してしまった。ここに、吉備真備の計画が挫折した。
聖武太上天皇の看病に熱心だった鑑真は、大僧都に任命されたが、女帝孝謙天皇が、758年大炊王を淳仁天皇として譲位した時、「鑑真は老齢なので、大和上と呼んで敬い、政事に老い身を労しないように。」、という名目で、僧尼を監督する網(ごう)の任を解かれてしまった。そして、天平宝字7年(763年)この世から去ってしまった。鑑真の「天平の甍」の活躍も、後世の人の物語による。
この鑑真が去った同年、孝謙太上天皇は、「少僧都慈訓は政を行うこと理に背き、綱(ごう)として不適格であるのでその任を解き、衆の議する所、道鏡法師を少僧都にした。」、と述べた。この勅は、孝謙太上天皇の、藤原仲麻呂に対する反乱だ。
何故、孝謙太上天皇は、藤原仲麻呂に反乱したのか。それには、吉備真備の影が見える。吉備真備は、聖武天皇の実母宮子を、僧玄肪が「内道場」の修行により歓楽させ、藤原氏のロボットであった聖武天皇を、反藤原氏にした実績がある。
今回の孝謙太上天皇の反乱にも、僧道鏡がいた。僧道鏡は、「内道場」での孝謙太上天皇との修行を行っていた。その「内道場」での修行(?)に対して、淳仁天皇が孝謙太上天皇を諌めたところ、孝謙太上天皇は激怒して、淳仁天皇を廃して、出家の身でありながら、自ら、764年再び天皇に返り咲いた。女帝称徳天皇の誕生だ。
何故、奈良王朝の律令軍を掌握する藤原仲麻呂を敵にして、出家した孝謙太上天皇が、藤原仲麻呂のロボットである淳仁天皇を、廃することができたのか。その謎は、東アジアの情勢を知ることで解ける。

唐帝国の玄宗皇帝は、744年東突厥帝国を滅ぼした。しかし、度重なる騎馬軍団との戦闘で、国内経済が疲弊した。そこで、玄宗皇帝は、塩に重税をかけた。この処置に対して、塩の闇商人安禄山は、東突厥帝国敗残兵などを取り込み勢力を伸ばしていた。そして、755年安禄山は、公然と唐帝国に武力闘争を挑んだ。この唐帝国全土での内乱を鎮圧できなかった玄宗皇帝は、756年西南に敗走した。その後を、太子の享が即位した。粛宗皇帝の誕生だ。
天平宝字4年(760年)唐帝国粛宗皇帝は、長さ八丈(約24m)の船建造を命じて、唐使沈椎岳に指揮を執らせて、遣唐使高元度一行10名を乗船させ、日本国に向かわせた。そして、一行は、翌年天平宝字5年(761年)平城京に入った。
唐帝国が安禄山軍団との闘争で、日本国経営に手が回らなこいことを好機と見た藤原仲麻呂は、平城京で、701年唐令の大宝律令ではなく、藤原不比等が定めた養老律令が実施した。このことにより、757年から、平城京の都は、藤原王国となっていた。

何故、唐帝国の船が、遣唐使高元度一行10名を乗せて、唐使沈椎岳に指揮されて渡来したのか。そのことを知るには、3年前に遡らなければならない。

698年建国の渤海国の使者楊承慶が、天平宝字2年(758年)「藤原清河らは生きて長安に戻れり。」、との情報を奈良朝廷に伝えた。このことを知った藤原仲麻呂は、自ら、鑑真渡来阻止の密命を授けて唐に渡らせた、従兄弟の藤原清河の迎えを出すことに決めた。そこで、高元度を迎入唐大使使とした。
しかし、藤原仲麻呂は、唐令を廃して、藤原不比等が制定した藤原氏のための養老律令を実施して、実質的に唐帝国から独立した藤原王国としていたので、直接、唐に渡ることが出来なかった。
そこで、天平宝字3年(759年)高元度は、渤海国使の楊承慶と供に、渤海国に渡り、藤原清河救出の要請を、渤海政府に要請した。そこで、高元度一行11名は、渤海国から唐に派遣される賀正使の楊承慶に随伴して唐に向かった。
しかし、高元度は、鑑真渡来阻止の密命を達成できなかった藤原清河を、帰国させることが出来なかった。その高元度に対して、唐帝国粛宗皇帝は、「禄山が乱離に属びて兵器多く亡せり。今弓を造らんとして牛の角を要む。聞くならく本国に牛の角多く有りと。卿、国に帰らば為に求めて使の次にて相贈れ。」、との命令を高元度に下した。その唐帝国粛宗皇帝の命令を受けた唐使沈椎岳一行が、天平宝字5年(761年)平城京に入った。
天平宝字5年(761年)唐帝国粛宗皇帝から命令された、兵器としての牛の角を集め、唐帝国に運ぶために、遣唐使が企画された。そのために、奈良王朝(藤原王国)は、安芸国に遣唐使船4隻の建造を命じ、東海、東山、北陸などの突厥進駐軍の支配地だった国や、秦王国があった山陽、南海の各道諸国に、牛の角7800本の貢納を命じた。それらの諸国は、古墳時代では騎馬民族の支配地であったので、牧畜が盛んであった。
天平宝字6年(762年)安芸国で建造された船が、難波津まで回航された。しかし、不思議なことに、難波の江口に至るに及んで、浅瀬に座標、舵も動かせなくなり、船尾が破裂してしまった。このことにより、唐帝国に牛の角を運ぶための遣唐使が中止された。残る三隻が健在なのに、何故、中止なのか。その謎は、その事件の一ヶ月前にあった。
その一ヶ月前、藤原仲麻呂が、正一位となり、奈良王朝の最高位に就いていたのだ。そして、正一位となった藤原仲麻呂は、遣唐大使石上宅嗣を突然罷免して、従五位上藤原朝臣田麻呂に替えた。この人事変更から、一挙に、遣唐使廃止の流れになった。その過程に、難波江口での難破(?)があった。
唐使沈椎岳が指揮して渡来した約24mの船には、高元度一行10名の他に、誰が乗っていたのか。同長の遣唐使船には、120名から150名が乗船していた。そのことから推測すると、百数十名の唐軍人が乗船していたことが示唆される。
「続日本紀」には、遣唐使についての詳しい情報がない。遣唐使が、唐から書籍など唐文化をもたらしていたとするのは、平安時代の書籍・史料による。実際は、遣唐使船は、唐文化輸入業務もしていたが、唐帝国が日本国経営のために、唐軍人や軍事物資を日本列島に運ぶ手段でもあった。

藤原仲麻呂は、平城京を改修したり、琵琶湖の南端に保良宮を造営したりして、孝謙太上天皇を喜ばしていたが、吉備真備の暗躍で、孝謙太上天皇は僧道鏡の「内道場」での術に陥落して、反藤原仲麻呂となっていた。
そして、762年孝謙太上天皇が親裁を行えたのは、761年平城京に入っていた唐使沈椎岳一行の軍団の存在があった。その2年後、764年孝謙太上天皇は、淳仁天皇を廃した。その孝謙太上天皇の行動に対して、藤原仲麻呂は兵を挙げた。
藤原仲麻呂の反乱軍は、唐使沈椎岳が指揮する唐進駐軍や、山奥に逃れていた明日香ヤマト残党兵により、壊滅された。この乱により、藤原仲麻呂による藤原王国は壊滅したが、藤原氏が消滅したわけではない。それは、藤原不比等により藤原氏を四家に分けた危機管理機構が機能していたからだ。

その藤原氏四家は、状況により結束したり、対立したりして、千年もの時の流れに順応した。その藤原氏は、徳川幕府崩壊直後、明治元年(1868年)左大臣従一位藤原道孝、右大臣正二位藤原家信、同従一位藤原実美などなど、藤原氏が内閣最高幹部として復活できたのは、奈良時代に藤原不比等が創作した「日本書記」と、藤原氏の神を利用して日本国人民を支配するための神祇官を設置した「養老律令」による。明治革命で、藤原不比等が仕掛けた701年設置の神祇官が復活し、そして、奈良時代の「現御神天皇」が、「現人神天皇」として復活した。

その藤原王国も、770年女帝称徳天皇の毒殺により終焉したが、藤原仲麻呂軍団を壊滅した唐進駐軍は、絹製品や金・銀を唐帝国にもたらす日本国経営のため、新羅系の天武天皇系豪族に代わる、新しい傀儡氏族を探した。それが、藤原王国で下級官人として働いていた、母国百済を滅ぼした新羅系の天武天皇系豪族に敵意を燃やす、亡命百済貴族末裔だ。

オレの幻視は、ここで終わった。

奈良時代は藤原氏の時代だった。

オレが、田辺さんに奈良時代幻視レポートをメールしてから10日後に、田辺さんとコンタクトできた。
「カメさん、レポートありがとう。奈良時代という70年間ほどの短い期間なのに、色々な事が幻視できたようですね。」
「結構複雑な時代でした。仏教文化花咲く「天平の甍」のイメージが、オレの幻視に介入するからです。」
「奈良の大仏と遣唐使の奈良時代ですね。その奈良時代のイメージ作りは、学校での歴史教育の成果ですね。それで、カメさんの幻視では、鑑真が平城京で活躍していましたか。」
「それがレポートにも書いたように、全然ナシです。よぼよぼの貴賓のある老僧が現れました。鑑真の弟子は、東大寺の戒壇設立で活躍していましたけどね。でも、藤原日本史では、鑑真は奈良仏教復興で大活躍ですよね。」
「遣唐使はどうでした。」
「それが、藤原日本史では、遣唐使は日本側からの行動としているようですが、唐帝国製の船で、唐の軍人や軍事物資を日本国に送り込み、その帰りに、日本列島の人民から税として集めた絹製品や鉱物などの産物を積み込んでいるのが幻視できました。」
「遣唐使については、「続日本紀」以外の奈良時代の史料がないのです。その「続日本紀」にも、遣唐使について、その目的や渡航の詳しい記述がないのです。最も、遣唐使は、15回程ですが、遣新羅使や遣渤海使は、遣唐使以上の行き来が有るにもかかわらず、「続日本紀」には、ほとんどその記述がないのはどうしてでしょう。遣唐使、遣新羅使、遣渤海使については、奈良王朝には知られたくない歴史があったようです。」
「でも、遣唐使についての「歴史」が、多くの書籍に記述されていますよね。」
「それは、平安時代に創作された史料を基に、創作された歴史です。「続日本紀」も、平安時代初期に、桓武天皇が監修して、内容の一部を改竄しているのです。」
「すると、現在に伝わる1286年平安王朝以来の御用史家の卜部家が写本したと云われる「弘安本」の「日本書記」と同じに、「続日本紀」も偽書ということですか。」
「そこまでは言えませんが。公に著された歴史書は、敗者ではなく、勝者の歴史です。「日本書記」も「続日本紀」も、そいう観点から言えば、勝者の歴史書です。しかし、敗者の歴史書は、公には現れません。ですから、敗者の歴史を推測するには、勝者の歴史書の行間を「読む」必要があるのです。」
「行間ですか。難しいですね。」
「そこで、敗者の歴史を知るために、カメさんの幻視が必要なのです。」
「でも、幻視は、あくまでもイメージで、史実ではありませんよ。」
「歴史に完全な史実などありません。歴史は、個人の史観により、客観性を装う物語です。百人いれば、百の歴史があっていいのです。」
「すると、私小説みたいですね。」
「私小説と、一寸違うのは、客観性ということです。その歴史物語が、多くの人に認められる証拠を示す必要があることが、私小説と異なるところです。ところで、藤原不比等を幻視できましたか。」
「オレの幻視に突然現れたのが、35・6歳ぐらいの壮年です。それ以前の藤原不比等は、日本列島では幻視できませんでした。」
「風体はどうでした。」
「それが、背が高く、鼻高で、顔に真っ白に白粉を塗っていました。金髪で碧眼です。どうみても白人です。何故、白粉を塗っているのか理解できません。あまりにも異様なので、レポートには書きませんでしたが。」
「顔に白粉を塗ったのは、二つ理由があると考えます。ひとつは、周帝国女帝則天武后は、アルビノ動物は吉祥の前兆で、縁起が良いと漢訳仏教僧から人民に宣伝していたからです。その漢訳仏教僧によるプロパガンダのアルビノ動物戦術により、唐帝国の皇后武氏は、唐帝国を乗っ取れたのです。女帝則天武后により、日本国経営のエージェントとして送り込まれた藤原不比等は、通訳兼祭祀者として、顔に白粉を塗ってアルビノ人間に変身することで、被支配者となった明日香ヤマトの豪族や日本列島先住民を惑わせたのでしょう。そして、もうひとつは、白人種の特徴を、白粉を塗り、眉を額に書くことにより、目立たなくしたのでしょう。」
「すると、白粉を顔に塗っていた平安時代の貴族は、白人種ということですか。」
「全部が全部ではないでしょう。亡命百済貴族は、ツングース系の黄色人種でノッペリ顔ですから、白人種ではないようです。白人種は、藤原氏系です。」
「その藤原氏白人説の根拠でもあるのですか。」
「東北には、白色・碧眼の人が今でも見受けられます。色白の新潟美人などもいます。」
「新潟美人は、雪が影響した、と巷では云われていますが。」
「雪は、雪焼けして色黒になりますから、答えになりません。やはり、新潟や東北には、白人種が渡来していたようです。」
「そういえば、岩手県にヘライ村があって、キリストの墓があると云われていますよね。」
「キリストが渡来していたかは確証がありませんが、ユダヤ教に改宗した白人種民族が、東北に渡来していたことは推測できます。朝廷を支配していた藤原氏は、奈良時代に藤原不比等が、同胞を日本列島に移民させるために、東北の地を支配する手段として、令外官の陸奥出羽按察使を設置して、藤原氏をその職に任じて、平安末期陸奥国の蝦夷を平定して職務がなくなっているのに、明治革命までその職にいましたからね。」
「その流れに、黄金の奥州藤原三代の時代があるわけですね。」
「そです。それに、戦国時代から江戸時代にかけて、仙台湾にはイスパニア王国の貿易船が、火薬原料のチリ硝石を満載して入港していたほど、国際交易人の顔がある藤原氏の影が、東北にはあるのです。」
「藤原日本史では、平安時代まで、東北は、未文化で未開の地と述べていますよね。」
「東北の岩手以南には、巨大前方後円墳が築かれていたように、古墳文化圏であったので、平安時代まで、東北が未開地であったわけではないのです。相似形の古墳を東北の各地に築くには、測量法や幾何学を知っていないとできません。それに、秋田の日本海沿岸から明日香ヤマトまで、谷を埋め、峠を切り通し、幅広の路を築くには、高度土木技術が必要です。それらの遺跡を残した民族が、未文化であるはずはないのです。奈良時代と同じに、東北の歴史も、藤原氏にとって、公に知られたくない歴史があったようです。」
「そう言えば、藤原日本史では、奈良時代から律令軍が、陸奥国の蝦夷と戦うわけですよね。オレの幻視では、その蝦夷ですが、アイヌ民族と異なる風体で、騎射を得意としているのです。ユーラシア大陸の、短弓と反って片刃の腰刀で武装した騎馬民族そのものです。」
「藤原日本史では、蝦夷を野蛮人として描写していますね。しかし、陸奥国の蝦夷は、百数十年間も、中国製武器の弩(おおゆみ)や太刀で武装した律令軍何万と戦っていたのです。その蝦夷の戦闘術は、ユーラシア大陸での戦いで学習したものです。陸奥国の蝦夷には、ユーラシア大陸から流れる歴史があるのです。その蝦夷の歴史を知れば、騎馬民族が支配した明日香ヤマトの歴史が現れてしまうので、藤原日本史では、蝦夷については触れたくないようです。」
「明日香ヤマト時代の蝦夷と言えば、大臣の蘇我蝦夷がいますよね。藤原日本史では、645年「大化改新」により蘇我氏が滅び、その時、天皇紀と国紀を燃やしたのは蘇我蝦夷ということになっていますよね。何故、大和朝廷の大臣の名前が、藤原日本史では野蛮人とする「蝦夷」なんですか。」
「日本列島の古代史に登場する地名・人名の多くは、漢字二文字で表されています。しかし、その漢字二文字での表記法は、奈良時代の713年好字令以前には、存在していなかったのです。ですから、古墳時代に活躍した蘇我蝦夷が、その当時、蘇我蝦夷であったわけはないのです。蘇我蝦夷の表記は、713年好字令によるからです。」
「すると、蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿は、飛鳥大和には存在していなかったのですか。因みに、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の名は、「蔑称」と言われていますね。」
「そうです。それらの名は、蔑称です。その飛鳥大和の地名表記も、713年好字令以降からです。」
「誰が、何の為に、好字令を考え出したのですか。」
「藤原不比等が、考えられます。それは、古墳時代の騎馬民族の「蘇我氏?」が支配した歴史を消すためです。藤原日本史で述べる飛鳥時代(=古墳時代)の歴史物語は、奈良時代に、藤原不比等の指導の下に創作されたのです。奈良時代に、藤原不比等により、日本古代史が創作され、その影響により、1300年後の明治革命で、「現人神」が現れたのです。「現人神」の原型は、奈良時代にあるのです。奈良時代の藤原氏の歴史を知ることにより、万世一系の「天皇家」が、神代の古来から日本列島を支配したとする物語の謎が解けるのです。」
「そのナベさんの説に、何か裏付けでもあるのですか。」
「それは、天武天皇以前に、日本列島には「天皇号」などなかったからです。樹木の「藤」は、幼木の時、支柱になる大木に絡みつき成長していくのです。そして、徐々に成長し、やがて、その支柱の大木を絡め執って、「藤の大木」となっていくのです。」
「その喩え、どういう意味ですか。」
「藤の木が「藤原氏」で、支柱が「天武天皇家」と言うことです。」
「それは言えますね。オレの幻視では、天武天皇の10皇子は、藤原氏により次々と消されていましたからね。その天武天皇の皇子に、藤原の娘を「接木」していることは、正に、藤の木の成長物語ソックリですね。」
「その「接木」戦略に平行して、藤原不比等の仕掛けたトリックは、平成の現在まで見破られていないほど、完璧だったようです。」
「それって、何ですか。」
「天津神と国津神の創作です。そして、その二神を習合して、ユダヤ教の神ヤハヴェのような唯一神・絶対神「現御神」とするのです。そして、その「現御神」と「天皇」を習合して「現御神天皇」とし、その「現御神天皇」から勅を発して、藤原氏の思うように政事を行うことにより、日本国の歴史を乗っ取ったのです。」
「そのこと、もっと分かり易く説明願います。」
「藤原氏の神を天津神とするのです。そして、被征服民族の神を国津神とするのです。そして、その二神を習合して絶対神「現御神」として、その「現御神」から国津神に、供物と叙位・叙勲を与え、その「国津神」を「現御神」の支配下の神としたのです。」
「その藤原不比等の戦術は、成功したのですか。」
「簡単にはいきませんでした。しかし、神には「物欲・名誉欲・性欲」はありませんが、生身のひとには、その三欲があります。藤原氏は、諸国3134座の神社(モリ)に班幣を授けるのに、701年(大宝元年)から881年(元慶元年)まで、180年間をかけたのです。」
「しかし、オレの幻視には、平城京には神社(モリ)が全く見えませんでしたけど。」
「平城京遷都の710年は、周帝国女帝則天武后が死去してから5年しか経っていません。まだ、周帝国進駐軍の残存勢力が飛鳥大和に残っていました。周帝国は、唐帝国を乗っ取った戦略を日本列島に持ち込み、仏寺を侵略拠点として日本列島を経営することを計画していたのです。そのため、藤原不比等は、藤原氏の神を祀る施設の建設時期を先延ばしにしていたのです。」
「その代わりに建てたのが、仏寺の興福寺と言うわけですね。平城京遷都の頃には、藤原氏の勢力は、かなりのものだったようですね。」
「そうです。残る天武天皇の皇子は、舎人皇子と新田部皇子、そして、高市皇子の子長屋王です。抵抗勢力を一掃した藤原不比等は、平城京の東側に隣接する、藤原氏の都を築いていましたからね。その藤原氏の寺の歴史には、何かを隠蔽する仕掛けがあったようです。」
「どんな仕掛けですか。」
「興福寺は、移築されたとするのですが、その移築年度が分かりません。「続日本紀」には、「養老4年10月17日に造興福寺仏殿の司をおいた。」、とあるだけです。その移築の流れは、天智天皇8年(669年)山城国に山階寺を創建、その寺が大和国厩坂に移り厩坂寺となり、その寺が興福寺として移築された、とするのです。カメさん、この移築の説明どう思いますか。」
「たしかに臭いますね。まず、天智天皇8年が気にかかります。弟の天武天皇より「4歳年下」の兄である天智天皇は、実在の天皇ではありませんよね。それに、山城国は、645年以前は、山背国で、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏の支配地でしたよね。そして、大和(ヤマト)の語源は、海辺や川辺と同じで、山辺の意味で、「厩坂」は、山裾に広がる地で「馬の牧草地」を連想させますよね。このことから、騎馬民族の明日香ヤマトの支配地を占領した、軍団の砦(仏寺)の移転の流れが考えられますね。」
「そのようにも考えられますね。北魏の時代から、護りに堅牢な仏寺は、仏像安置の他に、武器安置の砦でもあったのです。このことを知った北魏太武帝は、446年から452年に暗殺されるまで、仏教弾圧をしていたほどです。時代が飛びますが、戦国時代、織田信長が爆殺された深堀を廻らした本能寺は、藤原氏が南蛮から仕入れた武器・弾薬を戦国大名に売るための保管庫でもあったのです。」
「では、砦である興福寺は、いつ頃移築されたのですか。」
「「続日本紀」には、藤原不比等の一周忌に、女帝元明天皇が八角堂をつくり、弥勒仏を安置した、とあるからその前と考えられます。藤原氏の氏寺の歴史に不思議があるように、藤原氏の神を祀る春日大社にも不思議があるのです。」
「どんな不思議ですか。」
「興福寺の移築年度が分からないように、春日大社の創建年度も分からないのです。春日大社が創建された地は、天平勝宝8年(756年)に著された「東大寺山堺四至図」には、空き地の「神地」となっていたので、春日大社の創建は、その756年以前ではないはずです。「社」は、氏神を祀る施設です。その藤原氏の神を祀る春日大社の祭神に、不思議があるのです。通常でしたら、藤原氏の租神はアメノコヤネノミコトですから、その神を第一に祀るはずです。しかし、春日大社では、そうではないのです。春日大社の祭神は4柱です。その第1柱は、白い鹿に乗って鹿島神宮から遣って来たタケミカツチノオオカミです。そして、第2柱は下総国香取神宮の神フツヌシノミコト、第3柱は河内国牧岡神社のアメノコヤネノミコト、第4柱は河内国牧岡神社のヒメガミ、とするのです。カメさん、これどう思いますか。」
「不思議ですね。藤原日本史では、藤原氏の租は、アメノコヤネノミコトになっていますよね。その藤原氏の租神アメノコヤネノミコトが、どうして、野蛮人の蝦夷が棲む未開地とされる関東の神よりも位が低い、第三殿に祀られているのですか。それと、鹿島の神は、何故、白い鹿に乗って飛鳥大和に渡来したのですか。オレには、理解できません。」
「藤原氏には、謎が多くあるように、その祀る仏や神にも不思議があるのです。そもそも、藤原日本史によれば、仏と神は、飛鳥時代には神仏戦争をしていた間柄です。それが、奈良時代になると、藤原氏は、仏も神も同時に祀るのは何故でしょうか。」
「春日大社の鹿島と香取の神も蝦夷の国の関東から「転勤」(?)させたのは、興福寺の移築物語と同じに、前政権の明日香ヤマトで祀られた神を消すためかも。」
「そう考えられますね。鹿島神宮の神が、白い鹿に乗って飛鳥大和に現れた、とするのは、関東の騎馬民族の支配者が壊滅されたことを意味していることが示唆されます。」
「どう言う理由ですか。」
「鹿は、騎馬民族スキタイの聖獣で、シンボルです。騎馬民族末裔の武士が被る冑の角は、牛と鹿の角をイメージして付けられていたのです。」
「牛と鹿の角が、冑の飾りのルーツですか。」
「牛の角は太陽神ミトラを祀る花郎騎士団末裔で、鹿の角は北極星を祀る騎馬民族突厥進駐軍末裔と言うことです。奈良時代に、騎馬民族の神を、春日大社の神とすることで、関東の騎馬民族敗残兵を従属させたと考えます。しかし、陸奥国の騎馬民族・蝦夷は、平安時代まで健在でした。」
「同族の天武天皇の皇子末裔を守るための統一新羅軍団の九州への侵攻を防衛するために送られた防人が、全て、東国人であったことは、ナベさんのその説明で納得できますね。では、藤原氏の租神よりも、鹿島の神を上位にしたのは、何故ですか。」
「藤原氏には、本当の神がいるからです。アメノコヤネノミコトは、真の藤原氏の神ではないからです。日本神話物語は、奈良時代に、藤原不比等により、日本列島の神を支配するために創作されたものです。ですから、それらの、興福寺や春日大社で祀られる仏や神は、藤原氏にとっては、どうでもよいものです。」
「藤原氏か祀る本当の神とは、何ですか。」
「私には、断定できませんが、藤原氏の支配下の祭祀者の中臣氏が神を祀る儀式が、ユダヤ教の儀式と酷似していることが、ヒントになると思います。」
「誰も口に出してはいけないとする、唯一神ヤハヴェですか。」
「そうとも言えますね。」
「そうだとすると、藤原氏が、敵対していたとする仏と神を同時に祀る意味が分かりますね。仏と神を習合して支配するテクニックは、天津神と国津神を習合して「現御神」を創造したことに繋がりますね。」
「奈良時代に、神が仏の化身として現れたとする「本地垂迹説」が発明されたことは、藤原氏による、そのような戦略だったかもしれませんね。藤原氏の陰謀が優れていることは、その仕掛けのスケールが大きいことと、その陰謀を実施する前に、綿密な仕込みをおこなうことです。」
「仕込みって、どういうことですか。」
「藤原氏の神を祀る春日大社を創建する前に、神宮寺を建てていたのです。」
「その神宮寺って、何んですか。」
「仏と神を祀る施設です。」
「何故、そんなもの造るのですか。」
「神宮寺が歴史上現れたのは、「籐氏家伝」によれば、霊亀(715年〜716年)の頃、藤原不比等の息子南家の藤原武智麻呂が、「神が、どうか私のために寺を造り、私の願いを助けてください。」、との夢を見たからとするのです。」
「それって、変ですよね。神が、何故、神宮ではなく、神宮寺を願ったのですか。仏寺は、神の敵の仏が安置されている処でしょ。藤原日本史では、飛鳥時代に、蕃神(あたしくにのかみ)の仏を祀ると、従来からの国津神が怒る、と言っていましたよね。では、飛鳥時代の神は、どんな所に居たのですか。」
「そう言われれば、藤原武智麻呂の夢は不思議ですね。そこで、「籐氏家伝」では、「私は宿業によって長い間神となっています。今仏道に帰依し、福業を修行しようと思うのです。」、と説明するのです。」
「すると、その当時、神は、仏より下の存在なんですか。」
「奈良時代初期、女帝則天武后により日本列島に送り込まれた漢訳仏教の思想では、前政権の明日香ヤマトの神は「天」の範疇に位置づけられていたのです。その漢訳仏教の思想によれば、この世は、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天、の六道に別れていて、仏教の修行により、その六道の輪廻する苦しみから解放される、とするのです。周帝国進駐軍が存在していた奈良時代初期では、神も「天」での六道の苦しみの世界にいたとするのです。その六道の苦しみから、「神身離脱」するには、仏教による供養が必要だ、と漢訳仏教では宣伝していたのです。」
「神が、苦しみが輪廻する六道にいたのですか。だったら、藤原日本史の、廃仏派の物部氏が仏寺を燃やし、仏像を難波の堀江に投棄したとする神仏戦争物語の意味が分からなくなりますね。この飛鳥時代では、仏寺が燃やされ、祟りをする仏像は捨てられる存在だった、のですよね。」
「その飛鳥時代とする神仏の謎は、645年以前の「神」は藤原氏の神ではなかった、とすることで解けます。それらの神は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した景教の太陽神ミトラと、ユーラシア大陸から騎馬民族突厥進駐軍と供に渡来した道教の北極星(太一)であったのです。」
「そう考えれば、漢訳仏教の言っていた、苦しみの世界にいる「神」の意味が分かります。被征服民の神は、征服側の漢訳仏教にとって、「鬼」ですからね。」
「その鬼が、日本列島の歴史上に現れるのが、漢訳仏教が進駐してきた奈良時代です。」
「山奥に棲む鬼が、仏教の敵ということは、ナベさんの言うように、645年以降に漢訳仏教と供に侵攻して来た唐進駐軍により、山奥に追われた明日香ヤマトの神だったのですね。」
「私は、そのように考えています。」
「すると、山奥で多くの人を集めて、近畿一帯で高度土木作業をしていた行基が、反藤原氏となった聖武天皇の命を受けて、平城京に隣接する藤原氏の都を見下す丘の上に、仏教の敵である遍照鬼鋳造に協力した意味が分かりました。古墳時代に秦王国があった河内を本拠地とする行基は、仏教僧などではなく、太陽神ミトラを祀る景教徒だったわけですよね。」
「しかし、平安時代になると、その太陽神の遍照鬼は、藤原氏をスポンサーとする錬金術師空海により、太陽神の大日如来に改竄されてしまったのです。」
「でも、藤原日本史では、行基は、最初は小僧行基と言われていたのに、死の直前には、仏教の高僧である大僧正となって、ひとびとから行基菩薩と慕われていたのですよね。」
「それは、藤原日本史得意の、敵の歴史を取り込んで敵の歴史を抹殺する、敵対者の歴史を消すためのテクニックです。絶対神である「現御神天皇」の聖武天皇は、自ら、遍照鬼に額ずいて「三宝の奴」と宣言していたのです。その反仏教の聖武天皇の命を受けた行基が、仏教僧であるはずはないのです。公の歴史書は、全て勝者のものです。奈良時代の出来事を記した「続日本紀」は、平安時代初期に、百済系桓武天皇により、明日香ヤマトの祭祀者の歴史を消すために、改竄されていたのです。」
「でも、藤原日本史では、聖武天皇は、東大寺を拠点として、全国に国分寺と国分尼寺を建立して、庶民の幸福を祈願した、と述べていますよね。東大寺の大像が、反仏教の遍照鬼だとすると、矛盾しませんか。」
「その答えは、もし、国分寺や国分尼寺に仏像を安置して庶民の幸福を願ったとするならば、全国各地に造られたとするそれらの寺に安置されていたとする仏像が、一体でも現存していてもよいはずです。しかし、一体も現存していないのです。」
「インドの鬼でも、何でもかんでも仏像としてしまう仏教寺にしては、それは不思議ですね。」
「時代が飛びますが、平安時代末期、「平氏」の北条氏に担がれた「源氏」の源頼朝は石橋山の戦いで「平家」に敗れ、千葉に逃げるのですが、ペルシャ系海洋民族「平家一族」に敗れ、山奥に追われ隠れ棲む「源氏残党」を集めるために、仏像(?)も安置されていない廃墟となった国分寺を拠点としていたのです。仏教文化花咲くと云われる平安時代に、仏寺が廃墟になっているのは何故でしょうか。その答えのひとつとして、その国分寺は、仏像を安置する仏寺ではなかったということです。」
「源氏と言えば、その租は、太陽神ミトラを祀る花郎騎士団ですよね。」
「そうです。古墳時代、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した騎士団です。その国分寺の聖武天皇への発願者は、仏寺の興福寺を支配していた藤原氏に敵対していた、橘諸兄です。その国分寺に、どのような像が安置されていたかは分かりませんが、仏像でないことは確かだと考えています。」
「こうして、ナベさんとチャットしていると、「天平の甍」の奈良時代のイメージが、だんだん崩れていきますね。奈良時代って、本当は、どんな時代だったのですか。」
「ひとは、本当の歴史など、知ることはできません。それは、歴史は、史料や遺跡・遺物により復元されるからです。その遺跡や遺物は、自ら歴史を語れません。その遺跡・遺物や史料を基に、ひとが物語りを創るのが歴史です。文字や言葉は、ひとの意識を介して、ひとに伝わります。その時、発信者と受信者とのイメージ変換が、同等と言うことは稀です。更に、受信されたイメージは、受信者の情報倉庫にある過去の情報を動員して、再構築されることにより、「意識」されます。こうやって、カメさんとチャットしていても、私のイメージそのものが、カメさんに到達しているかは疑問です。」
「何か、難しい話になってしまいましたね。では、ナベさんは、奈良時代をどのように認識しているのですか。」
「私のイメージでは、奈良時代は、藤原氏の時代だと思います。」
「藤原氏の時代とは?」
「藤原氏が、日本列島に現れて、これから日本列島を乗っ取るための基礎作りをしていたのが、奈良時代だと考えています。」
「具体的に、基礎作りとは何を指しているのですか。」
「日本列島民を支配する「法律」と、それに従わせる「仕組み」です。その「法律」とは「養老律令」で、そして、「仕組み」とは「現御神天皇」に「藤原の女」を側室として召しだす「五節の舞」などの儀式と、人民の精神を呪縛するための「神社」(モリ)による宗教ネットワークです。」
「その基礎作りの「養老律令」は理解できますが、奈良の平城京には「神社」(モリ)がなかったはずですが。」
「藤原不比等は、目先のことを考えていなかったのです。その基礎作りの結果が、明治革命で実現するのです。明治革命後、前政権の神(怨霊)を鳥居と注連縄で封じ込める「神社」(モリ)は、「ひと」を「神」として祭る「神社」(ジンジャ)として変身して、日本国人民を思想的に支配して行くのです。そして、奈良時代の「現御神天皇」が、「現人神天皇」となって、日本国を統治していくのです。この明治時代の世は、1300年前の奈良時代に、藤原不比等がイメージしていた世だったのです。」
「では、「五節の舞」が、どうして天皇に藤原の女を側室として召しだすシステムとなるのですか。」
「藤原不比等は、天武天皇が、天皇として即位する儀式の大嘗祭から派生させて新嘗祭の儀式を発明するのです。その新嘗祭の儀式の中に「五節の舞」を挿入したのです。」
「大嘗祭って、天皇が即位するための一世一代限りの儀式ですよね。そして、新嘗祭は毎年行う収穫祭ですよね。その収穫祭の時に行う儀式が、「五節の舞」ですね。」
「そうです。藤原不比等は、明日香ヤマト残党軍に支援された天武天皇が考え出した大嘗祭の儀式を、新嘗祭の儀式により、その歴史を消すことを考えたのです。」
「どういうことですか。」
「大嘗祭の儀式は、花郎騎士団と突厥進駐軍との宗教儀式を折衷したものです。大嘗祭を行う祭日は、冬至です。この日は、太陽神ミトラが再生する、ミトラ教の聖日です。そのミトラ教の祭日の冬至に、騎馬民族突厥が祀る北極星(太一)から天皇としての「命」を授けられるのです。天武天皇は、北極星の天帝から、地上の支配権を授けられた者であったのです。天武天皇は、決して、ユダヤ教の唯一神ヤハヴェのように、絶対神の「現御神」などてはなかったのです。」
「新嘗祭が「冬至の祭り」とは、キリスト教の「クリスマスの日」を思いだしますね。」
「その「クリスマスの日」は、ローマ帝国の国教となったキリスト教徒が、ローマ帝国軍団が祀っていた軍神ミトラの歴史を消すために、キリスト教のイエス・キリストの誕生日としたのです。そのキリスト教の戦術を、藤原不比等が真似て、大嘗祭の日に、農耕民族の祭りの収穫祭としての新嘗祭を被せて、ミトラ教と道教との大嘗祭儀式の歴史を消したのです。藤原日本史では、日本民族を単一の農耕民族としていますが、古墳時代以降の日本列島には、アズミ族の海洋民族も、チュルク系突厥の騎馬民族も暮らしていたのです。」
「そう言えば、11月下旬に行う新嘗祭は、太陽暦ではなく、太陰暦では12月下旬ですよね。通常、農耕民族の収穫祭は「秋」ですよね、それが、冬至の「真冬」に収穫祭は不思議ですね。」
「その真冬に行われる新嘗祭の時、藤原の娘が、天皇の前で、羽衣のような透き通る衣を着て舞うわけです。その舞の日夜行う練習を何ヶ月も前から、天皇は側で見学できるのです。そして、その「五節の舞」の儀式で舞う気に入った舞姫は、天皇の側室となるのです。」
「そのシステムは、いつまで続いていたのですか。」
「戦国・江戸の武士の時代には廃れていたのが、明治革命で藤原氏が復活して、昭和の時代まで「五節の舞」により藤原の娘を天皇の側室として贈り続けていたと聞いています。近代までの詳しいことは、「不敬罪」の法律と「明治天皇のかぶら」の暗躍により闇のベールの中です。藤原不比等は、天皇家の祭祀業務を藤原氏から切り離し、中臣氏に専属させていましたから、時代の流れで藤原政権ではない時でも、天皇家の儀式は、藤原氏が支配する中臣氏が独占できたのです。」
「恐るべし藤原不比等ですね。」
「如何に優秀な藤原不比等でも、山奥に逃れた民族により受け継がれていくミトラ教や道教の宗教儀式や、それらを祀る民族の言葉や風習を消すことは困難です。そこで考え出されたのが、「ケガレ」思想です。」
「ケガレって、汚いことの意味ですか。」
「違います。奈良時代の「ケガレ」とは、王権に逆らう行為のことです。「ケガレ者」とは、平城京を支配した藤原王国に逆らう「反体制者」のことだったのです。その奈良時代の「ケガレ」思想が、流浪する芸能民が現れる平安時代になると、現在に通じる、血の禁忌と肉食を悪とする意味の「穢れ」となっていくのです。」
「そうなんですか。知りたいですね、その「ケガレ」から「穢れ」への変革を。」
「今日は、ここまでにしましょう。又、レポート送ります。次は「平安時代」です。」
「レポート、楽しみにしています。お休みなさい。」
「では、お休みなさい。」
 

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