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神輿の黙示録(18)(消された日本列島史:何故、藤原氏は騎馬民族史を抹殺・隠蔽したのか)
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:39:37: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(17)(日本列島史の謎:日本史とは藤原史のことか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:36:33)

日本列島史を調べようと、仏教渡来よりも古いと信じられている神社の歴史を調べても、日本列島の黎明期を知ることができないでしょう。そして、神代の昔の文字と信じられている神代文字を調べてみても、知ることはできないでしょう。
それは、神社が、古墳の上か、その近辺に建てられているからです。古墳は、日本全国で紀元三世紀から七世紀まで築造されていたのです。その古墳の上に神社を建てるには、古くても三世紀、新しくても、七世紀以降でなくては建てられないのです。
日本列島の岩手県以南の全国に古墳を築造した民族は、六世紀北九州に渡来、そして七世紀に飛鳥ヤマトに渡来した仏教国際組織に壊滅され、その居住跡に仏寺、その後に、古墳上に神社が建てられていたからです。ですから、それらの神社から発見された神代文字なども、そう古くはないのです。
それらの神代文字と云われているものは、漢語を使う民族に駆逐された、エジプト・オリエントから渡来したアラム語の設計図を使い、古墳を築造した民族の文字であったのです。
エジプトのクフ王のピラミッドよりも大きい前方後円墳は、ヒッタイトの製鉄技術、古代エジプトの石切技術、運河削掘技術、数千の建設作業員を管理する技術と、オリエントの日干レンガ製造技術がなければ、ただ土を盛っただけでは、築造できないのです。そして、古墳に埋葬する石棺は、太陽神アトンが冬至の日を浴びることにより再生する、と言う古代エジプトの再生思想からのものなのです。インドのバラモン教では、死者は穢れているので、火で浄化のための火葬です。大乗仏教でも、その基本葬儀思想はバラモン教からのものなので、火葬です。騎馬民族は、鳥葬か風葬なのです。
因みに、歴史上確認されている天皇の火葬は、藤原不比等の傀儡である百済系女帝持統天皇からです。しかし、女帝持統天皇と同葬されていた、藤原不比等を左遷していた新羅系天武天皇は火葬されていなかったようです。このことからも、仏教伝来物語の百済から538年(「日本書紀」では552年)の飛鳥ヤマト朝廷への仏教伝来時期と、飛鳥ヤマトで仏寺を七つも建立し仏教布教に貢献したと伝わる聖徳太子の実在性が疑われるのです。大乗仏教の飛鳥ヤマトへの渡来は、645年藤原氏の飛鳥ヤマト出現とおおいに関係がありそうです。それは、飛鳥時代に続く奈良時代の仏教には、平安時代の「唐色」とは異なり、「インド色」が強く出ているからです。
古代エジプトで開発された石棺は、再生のための子宮だったのです。その石棺の内側の寸法は、古代エジプトの測量単位のキュビットで割り切れるようです。
アラム語はアルファベットを発明したフェニキア語から派生した表音文字なので各国の現地語発音を記号文字として表わすことが出来るので、アラム語→ヘブライ語→ペルシャ語→パフラヴィ語→ソグド語→モンゴル語→突厥語(チュルク語)など、時代と伴に、国際交易商人により各国の言葉に変換していったのです。
日本語のルーツが、21世紀の今でも確定していないのは、日本語を構成する原語が、世界各地から渡来していたので、複数あるからです。日本語の基幹語として北方のウラル・アルタイ語が考えられていますが、南インドのタミル語もあるのはなぜでしょう。
古代タミル語は、遊牧民族トラヴィダの言語です。紀元前八世紀トラヴィダ族は、バラモン教により、不可触賎民に落とされていたのです。古代の賎民は、王権により、奴隷となるか、下級軍人(人盾)となるか、その国から逃亡するより生きる術は無かったのです。
日本語にタミル語もあるということは、古代にトラヴィダ族が、中臣族(ナーガ=ヘビをトーテムとする祭祀氏族で藤原氏の祖)の人盾(奴隷軍人→薩摩ハヤト族の祖)として、南九州坊津に渡来していたからです。
バラモン教の圧制に苦しんだトラヴィダ族は、中国に逃れると、漢字で苗(ミャオ→ビョウ)族と呼ばれるわけです。その苗(ビョウ)が、日本列島では「ボウ」となり、中臣族が管理する奴隷「ボウ」による、南インドのマラバル沿岸から、香木など積んだ貿易船が着く処(津)が、やがて南九州の「坊津」と呼ばれるようになるわけです。
では、各国の歴史を綴った「風土記」はどうでしょう。それも、古代を知る史料とはなりません。風土記は、藤原不比等が、686年新羅系天武天皇の王権を簒奪した後に、蘇我王朝、天武王朝の歴史を隠蔽・改竄するために、二字の漢字で地名・人名を表わすように定めた、713年好字令により、創作されたものだからです。
蘇我王朝は、ブッダ・キリスト誕生・奇跡物語の基を創作した国際交易都市ガンダーラがあるクシャナ朝を倒した騎馬民族エフタルの後継国である突厥帝国の日本列島飛鳥支国であったので、チュルク語を使い、そして、天武王朝は、ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅を祖とするので、飛鳥ヤマト言葉の基である古代新羅語にはオリエントの香りがしていたのです。
飛鳥ヤマト言葉は、平安時代に百済系天皇が、菅原道真に指示をだして、古代新羅語から「万葉語」へと変換したのです。つまり、「万葉集」の多くの歌は、オリエントの香りがする古代新羅語で著されていたのです。後に、菅原道真が、藤原氏の陰謀で消された理由は、遣唐使の廃止と、「万葉集の改竄」でもあったのです。
朝鮮半島での隣同士の古代百済と古代新羅との数詞は、民族が異なっているために、全く違っていたのです。仏教文化を受け入れた百済の数詞は、イル、イ、サム、サ、オ、リュク、チル、パー、クウ、シュップです。それに対して、ギリシャ・ローマ文化国の新羅の数詞は、ハン、トウ、ソェク、ノェク、タセス、エーセス、ニルグブ、ヨデルブ、アホウ、ヨエルなのです。古代百済数詞は、「イー、アル、サン」の中国語系です。しかし、古代新羅数詞は、「ワン、ツウ、ソゥリー」の欧米語系なのです。
それでは、日本古来の神話が語られていると信じられている「古事記」の神話から、日本列島の黎明期を知ろうとしても、その目的は叶わないでしょう。それは、「古事記」は、平安初期812年秦氏末裔多人長が、720年藤原氏が創作した「日本書紀」の神話に対抗して、先祖からの伝聞を基に創作した物語であるからです。
その日本古来の神話と信じられている物語には、ギリシャ神話とソックリなところが多くあるのです。それは、多人長の祖秦氏とは、ギリシャ文化国バクトリア→騎馬民族国大月氏(亡命百済王朝の第三代嵯峨天皇が、814年創作した「新撰姓氏録」では「弓月国」と表示。)→ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)から渡来した民族であったからです。
「古事記」神話のクライマックスである、天皇家の祖神と信じられている天照大神の天岩窟物語が、ギリシャ神話ソックリなのは、秦氏祖の渡来元が、ギリシャ文化国バクトリアであったからです。
何故、バクトリアが大秦国と呼ばれたのかは、紀元前221年バクトリアが中国大陸で興した国が、「秦国」であるからです。ですから、その秦国の母国のバクトリアが、大秦国と呼ばれたわけです。
そして、紀元前146年ローマ共和国が、ギリシャのカルタゴを滅ぼし、ギリシャ植民都市国家を呑み込むと、中国の前秦は、絹貿易の相手国である紀元前27年建国のローマ帝国も「大秦国」と呼んだのです。オリエントから渡来の秦氏とは、そのようなギリシャ・ローマの歴史を持った民族なのです。
この天岩窟物語とは、スサノウの狼藉により天照大神が、天岩窟に隠れてしまったのを、アメノウズメが裸踊りで誘い出す物語です。しかし、この日本神話の天岩窟物語はオリジナルではなく、ギリシャ神話の地母神デメテルと巫女バウボーとの物語を基に創作されていたのです。ギリシャ神話では、

ある事件により塞ぎこんでいる地母神デメデルに、薬草を飲ませようとするが、拒んで飲みません。そこで、巫女バウボーは、裳をまくり女陰を露出すると、下腹部から女陰にかけて描かれた卑猥な顔が、笑いながら現れたのです。その下腹部をよじらせながら巫女バウボーが踊りだすと、地母神デメデルは笑い出し、元気をとりもどし、薬草を飲んで、生成の活力をとりもどした、という物語です。

学校で教える日本列島史は、藤原氏が創作した「日本書紀」を基に創作されているのです。そこで、この章で「日本書紀」により消されてしまった日本列島史を復元してみることにしましょう。
1549年南九州鹿児島に、イエズス会のザビエルが現れるのです。イエズス会の外洋船は、マカオ港から渡来したのです。そして、1853年浦賀にアメリカ艦隊を率いて、ペリーが渡来するのです。1828年秘密結社員のシーボルトが模写した伊能忠敬の日本列島地図を持ったペリー艦隊は、アメリカ合衆国から直接浦賀に渡来したのではなく、一旦マカオ港に立ち寄ってから、浦賀に渡来していたのです。何故、三百年の時が離れた二つの外国船が、マカオ港からの渡来なのでしょうか。
鹿児島に渡来したザビエルは、古の秦王国(後の豊国)である豊後を支配していた、藤原氏末裔大友宗麟をキリシタン大名とし、日本列島をイエズス会の支配下に置こうと戦略を練るのです。そして、イエズス会は、不思議な行動をとるのです。それは、イエズス会の日本列島渡来が、ローマ法王の教えを広めることが第一の目的なら、何故に、過疎地の山奥の、島根県の石見や、奈良県の宇陀に教会を建設したのでしょうか。その理由は、その二つの地域は、縄文の昔から、朱砂、水銀を採掘するオリエント渡来の民族の支配地であったからです。
南九州は、中臣族(藤原氏の祖)が、五世紀頃、ユダヤ・キリスト教のコロニーがある南インドのマラバル沿岸から、外洋船で日本列島に最初に渡来した地であるのです。では、藤原氏は、イエズス会と結託して、何をしょうとしていたのでしょうか。
因みに、イエズス会の「イエズス」とは、ヘブライ語でイエホシューアのことで、ヨシュアのことです。「ヨシュアはメシア」と唱える、ギリシャ語でイエス・クリストス教(日本語でイエス・キリスト教=ユダヤ教一派)は、日本列島の歴史上で何をしたのでしょうか。
「青森県三戸郡新郷村大字戸来」と言えば、古代史マニアには、キリストの墓が思い浮かぶでしょう。戸来は、ヘライ→ヘブライで、そこには古代にキリストが渡来して、その地で亡くなり、そこに墓を建てたという、伝説があるのです。
陸奥国の山中に、何故、キリストの墓があるのでしょうか。この伝説は、「日本書紀」を史実と信じる良識のある文化人には、「トンデモ話」と受け止められているようですが、その戸来村には、無視できない伝承があるのです。それは、赤ん坊の額に、「十字」を書くことです。
十字は、キリスト教オリジナルのシンボルであると信じられているようですが、それは違います。その基は、「太陽の光」であるマルタ・クロスをシンボルとした、「太陽の教え」である、キリスト教の発明時期よりも遥か昔に発明された、ミトラ教(景教)のシンボルであったのです。
キリスト教の十字架は、紀元一世紀にユダヤ・キリスト教が発明された後、ミトラ教(景教)のシンボルを模倣したものだったのです。
秦氏の宗教である、「太陽の教え」の景教は、645年蘇我王朝が、唐進駐軍と藤原氏により乗っ取られると、オリエント文化の飛鳥ヤマトの都から追放され、近畿地方の山奥や陸奥国に逃避していたのです。この頃、仏教徒により、「鬼」が発明されるわけです。その鬼とは、前政権の祭祀一族のことであったのです。
そして、唐進駐軍に敗れた秦氏の武闘部族末裔は、後に、服部氏となり、山奥に砦を築き傭兵軍団の忍者となるのです。その忍者は、秦氏末裔の景教徒だったので、忍術をおこなう前に、十字を切るのはそのためです。
更に、ミトラ教(景教)の「太陽の教え」を、「密教」(太陽→ミトラ→ミル→密)などと神秘的なネーミングに変えた空海も、アラム語の呪文を唱え、印を切るときは、十字であったのです。
更に、平安時代に秦氏から惟宗氏に氏名を変え、そして、秦氏末裔源氏の源頼朝が、1192年天下を執ると、惟宗氏から氏名を島津氏変えた、古代から藤原氏がインドとの南海交易の拠点として支配していた南九州薩摩の島津荘を乗っ取った、島津氏の家紋も十字だったのです。
そして、騎馬民族末裔の徳川家康と伴に、京都王権から関東の穢れ地と言われた「穢土→エド→江戸」のひとも住めぬ湿地帯を開拓した、飛鳥ヤマト時代から高度土木建築技術を伝承している秦氏末裔穢多頭の弾左衛門家の家紋も十字だったのです。江戸時代末期、藤原氏末裔近衛家にコントロールされた、倒幕を画策する島津氏の密使が、関八州の役座を束ねる弾左衛門家を訪れ、「十字家紋の島津家と弾家とは、秦氏の同族ぞ。」と囁くわけです。
つまり、十字イコールキリスト教ではないのです。そのように、古代エジプトから伝わる「太陽の教え」を時間をかけて、ローマ帝国でミトラ教を歴史上抹殺(聖滅)したキリスト教徒のように、日本列島の山奥に生息する「太陽の教え」を信じる民族の文化を、キリスト教の布教という名目で抹殺・隠蔽していたのが、イエズス会の山奥での活動のひとつでもあったのです。
紀元前722年アッシリア帝国の砂漠へ逃れたイスラエル十部族は、消えたのではなく、古代エジプトの多神教から一神教への宗教改革をおこなったアメンホテプ四世(イクナトン)が発明した「太陽神アトンの掟」を、「モーセ十戒」としたユダヤ教の神ヤハヴェが、ヘブライ国王ソロモンと同じに「ヤコブ」であることを知っていたため、ユダヤ・キリスト教徒により、消され(聖滅され)ていたのです。
その「消されたイスラエル十部族」の、製鉄・石切・運河削掘・石材による都市建設の技術を持ち、太陽神と牡牛を祀るエフライム一族末裔は、ギリシャ文化を持ち、製鉄・金メッキの技術を持つ騎馬民族スキタイ末裔と伴にユーラシア大陸を東進し、朝鮮半島を経由して、三世紀に日本列島に渡来していたのです。
その時期から、日本列島全土に、エジプト・オリエントの高度建設技術を駆使して築造された、古代エジプトのクフ王のピラミッドを上回る規模の前方後方墳が現れるわけです。このことにより、四世紀以降の古墳から、金メッキの馬具が出土しているこからも、騎馬民族スキタイ末裔と製鉄民族ヨセフの末裔エフライム(後の秦氏)の渡来が示唆されるのです。
古代の戸来村に、キリストが渡来していたことを、100%否定できないのです。それは、「キリスト」とは、ギリシャ語で、そして、その意味は、「救い主」(ヘブライ語でメシア)であるからです。つまり、「聖書物語」の中で頭に油を注がれた「キリスト」だけが、「キリスト」ではないのです。「救い主」は、全てギリシャ語では「キリスト」なのです。
古代陸奥国の戸来村を訪れた、高度知識を携えた「救い主」とは、誰だったのでしょうか。そして、戸来村がある古の陸奥国全土が、藤原氏と百済亡命貴族末裔に平定されたのは、鎌倉時代初期であったのです。そして、その時期に、鎌倉仏教が発明され、そして、不可触賎民「穢多」がインド思想を基に発明されていたのです。では、この鎌倉仏教と民族差別の穢多思想発明は、藤原氏と関係があったのでしょうか。
イエズス会の外洋船とペリー艦隊とが、三百年の時を隔てて、伴にマカオ港から日本列島に渡来していたことの理由は、マカオ港(南海→廣州→マカオ・香港)は古代からオリエント(アラブ)から中国大陸への国際交易中継港であり、国際交易商人のコロニーがあったからです。
歴史上では、北魏(386年〜534年)の僧法顕は、399年陸路で洛陽からインドを目指し、帰路は国際交易外洋船により、南インドから南海(後の香港・マカオ)を経て、中国山東半島の牢山から上陸して、414年洛陽に帰朝していたのです。
と言うことは、南インドのマラバル沿岸には、紀元前十世紀ヘブライ国のソロモン王の依頼により、インドの香木・孔雀・猿・香料交易のため、海流と貿易風を利用して航行する帆船を開発した国際海洋民族のフェニキア商人が渡来していたわけですから、五世紀には、オリエント(アラブ・ペルシャ)→インド→中国(漂流して南九州坊津)への国際交易海路があったことが推測されるわけです。
鎌倉幕府が成立する前後のユーラシア大陸の各民族国の動きを見ると、907年唐が滅び、五代十国の分裂時代を経て、960年宋国が中国大陸を統一するのですが、北方の騎馬・遊牧民族の契丹(遼)が金を飲み込み、宋国の北方領土を奪い、1115年金王国(北朝)とするのです。ここに、農耕系南朝の南宋(1127年〜1279年)と騎馬系北朝の金(1115年〜1234年)とが、東アジアの中国大陸を支配するのです。この南北朝の文化の違いを、「南船北馬」と言うわけです。
この十二世紀前後の、中国大陸での南北の戦いは、唐との戦闘に破れ、戦いを忘れていた中央ユーラシアの騎馬・遊牧民族を刺激するのです。
七世紀後半、唐に散逸された騎馬民族国の突厥帝国(飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の母国)の末裔が、ユーラシア大陸でちりじりになって暮す騎馬小部族を集結していくのです。その流れの中で、1206年、騎馬民族末裔源義経の部族シンボルと同じ笹リンドウ紋を掲げるテムチンが、中央アジアを支配していたナイマン部を滅ぼし、チンギス汗と称するわけです。これが、後の元(蒙古帝国1271年〜1368年)となるわけです。
そのように、十世紀から十二世紀前後にかけて、中央ユーラシアは激動の時代であったので、ヨーロッパと中国との国際交易は、陸路のシルクロードから、海路の南海ロードへと移り行くわけです。そのオリエント→インド→中国への交易海路の中継地としての南海の港は、国際港の廣州(後のマカオ・香港)へと発展していくわけです。
その結果、ペルシャ・インド文化が国際海洋商人により、南海ロードから、陸路のシルクロード支配を北朝の金に奪われた、南朝の南宋にもたらされるのです。
そして、カースト制度の民族差別思想を持ったインドからのヨーガが、南宋で仏教思想と融合して、禅宗として興るのです。その禅宗が、インドのカースト制度の民族差別思想と伴に、鎌倉初期に、南宋から日本列島に渡来するわけです。
日本列島は、古代から江戸時代までは、日本海側が、太平洋側より、文化が進んでいたのです。それは、ユーラシア大陸のシルクロード、草原ロードから、オリエント文化と伴に渡来した民族が、内海である日本海を船舶により横断して、日本海沿岸に渡来していたからです。特に、朝鮮半島から北九州へは、駱駝商隊によるシルクロードからの渡来民族です。そして、サハリンから北海道へは、騎馬商隊による草原ロードからの渡来民族のルートとなっていたのです。
その十世紀ユーラシア大陸での、騎馬民族対農耕民族との抗争は、南海ロード交易を更に発達させたのです。しかし、その南海ロードを使って、アラブの国際海洋商人が外洋船で日本列島に渡来できても、日本海側の港はすでに、シルクロード・草原ロードからの先住民族に支配されていたので、上陸できるのは、太平洋側であったのです。
五世紀以降、南九州坊津は、中臣族(後の藤原氏)に支配されていたので、更に、黒潮に乗って北上すると、そこは、紀伊半島、更に、伊勢湾へ渡来できるのです。そこで、南インドのマラバル沿岸から渡来した民族より遅れた、アラブ(ペルシャ)から渡来した、赤い衣を着た国際海洋商人は、伊勢湾を渡来港とするのです。
672年新羅系大海人皇子が、百済亡命王朝の近江を攻めた時、大海人皇子軍を、インドのベンガラ染めの赤旗をなびかせて支援した伊勢の軍隊は、アラブ(ペルシャ)から渡来していたのです。何故、伊勢がアラブ商人により支配されたのかは、伊勢地域には朱砂の産地があったからです。伊勢→吉野→四国の宗教施設ルートは、中央構造線上にあり、そこでは、縄文時代から朱砂が産出されていたのです。
そのアラブ(ペルシャ)から伊勢に渡来した民族末裔が、平安末期王権を奪うのです。それが、「平氏」ではなく、ペルシャから渡来の「平家」なのです。
「平氏」と「平家」は、同じではないのです。「平氏」は、825年淳和天皇より賜姓された「官名・公家桓武平氏」であるのに対して、「平家」は、1108年藤原氏のガードマン源義親を追討した、アラブ(ペルシャ)商人護衛軍団末裔を、藤原氏に対抗する白河上皇が、ガードマンとして雇った私兵を、「平家」の正盛と名付けた「私名」であったのです。
学校歴史教育では、日本には資源が無く、あるのは労働力のみだと教えているのは、何故でしょう。
日本列島には、縄文の昔から、イエズス会まで、日本列島各地から産出する、金、銀、銅を求めて、異国の民族が渡来していたのです。島根県の石見などは、十六世紀にメキシコで銀鉱脈が発見されなければ、世界一の銀産出地であったのです。その日本列島での組織的鉱脈開発は、錬金術師空海から始るのです。
平安初期、最澄と空海が、唐に留学の目的は、表向きには仏教経典を持ち帰ることですが、その裏には、鉱脈開発のノウハウと探索工具の購入だったのです。最澄が、留学費は唐国負担なのに、砂金を多く持参したのは何故でしょう。それは、仏典ではなく、採掘工具を購入するためだったのです。何故、仏典ではなく採掘工具を購入したと言えるのかは、それは、最澄は、その一年数ヵ月後に帰朝した、年下の空海に頭を下げて、多くの仏典を借りているからです。
それを裏付けるように、最澄が八ヶ月で唐から帰朝すると、桓武天皇は、鉱物資源が眠る陸奥国への侵略を陸路から開始するのです。それに対して、空海のスポンサーである藤原氏は、海路から陸奥国へ侵入し、陸奥国に奥州藤原氏を興し、陸奥国の金鉱脈を独り占めするわけです。その陸奥の金は、青森県の十三湊から北朝の金へ向けて輸出されるわけです。
平安時代後期、アラブからの歌姫を、京の賀茂川東岸の葬送地である「ギオン」に集め、おんなと莫大な献金とにより、1086年院政をひいた白河上皇に接近した、伊勢湾沿岸を支配するアラブの商人は、やがて、白河上皇の私兵の平正盛となり、「平家」の祖となるわけです。その息子平忠盛は、1132年内昇殿を許されるのです。そして、平忠盛の息子(白河法皇の落胤)平清盛は、1167年太政大臣となるのです。
この平清盛が平安政権を握ると、藤原氏、百済亡命貴族末裔と比叡山延暦寺の既得権を奪い取る行動に出るのです。天下人となった平清盛は、日本列島から産出する金・銀・銅を、アラブや南宋へ売り捌き、その見返りとして南宋の宋銭を多量に日本列島に持ち込んだのです。
何故、宋銭が、藤原氏、百済亡命貴族末裔、そして比叡山延暦寺の既得権を奪い取るのかと言えば、奈良時代まで続いた貨幣経済は、誰でも蓄財することができるため、王権を脅かす勢力を育成する可能性があったからです。
貨幣経済や為替経済は、遠隔交易を騎馬により可能とした騎馬民族が発明したものなのです。奈良時代に騎馬民族末裔の天武王朝を抹殺した藤原氏は、奈良末期、騎馬民族の経済行動を封印するために、貨幣経済から、物々交換経済に移行していたのです。
770年天武天皇系最後の女帝称徳天皇を道鏡の陰謀で倒した藤原氏の王権を、唐進駐軍の支援により奪い取った、百済系桓武天皇も、794年平安京に遷都すると、貨幣経済を否定していたのです。
平安時代、西国では、「米」を、そして、東国では「絹」を貨幣の代わりに使っていたのです。仏寺では、紙に文字を書いた「幣」を物との交換に使っていたのです。
何故、東国の対価物が、「米」ではなく、「絹」であったのかは、それは、唐進駐軍が、中国・雲南の繭(ポンピックス・モリ)を日本列島に持ち込み、東国の農奴に蚕を飼育させ、絹糸を生産させていたからです。蚕の餌である桑畑の北上は、正に、唐進駐軍・桓武天皇軍の支配地北上と重なるのです。
これらの「米・絹・幣」の価値を、時の情勢を見ながら、王権や仏教組織が勝手に決めることにより、庶民から莫大な利益を享受していたのです。
平清盛は、アラブの軍事勢力を背景としているため、平安王朝の誰も手出しができなかったのです。それを良いことに、1180年平重衡は、東大寺に火を放ち全焼させているのです。平家は、アラブ思想を持っていたので、そして、インド文化も知っていたので、大乗仏教の多くの仏像がインドの鬼神であると知っていたので、怨霊を封じ込めていると信じられていた、僧兵の強訴の武器であった「神輿」に矢を射掛けたり、破壊したりしていたのです。
平安後期には、907年百済王朝を支えていた唐進駐軍の母国が滅亡していたために、平家の軍事勢力に対抗できる、平安王朝側の軍事勢力はいなかったのです。桓武平氏は、「武士」ではなく「サムライ」であったので、秘書業務はできても、戦闘の実践向きではなかったので、軍事力に勝る平家により、下界と言われた関東僻地へ追いやられていたのです。そこで、藤原氏と百済亡命貴族末裔に目を付けられたのが、陸奥に棲息する蝦夷末裔であったのです。
蝦夷とは、王権が付けた蔑称で、ヒゲのある夷の意味です。古代飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝は、突厥(チュルクを漢字化)と同族のトルコ系の騎馬民族であったのです。今でも、トルコ系民族はヒゲをたくわえているように、古のチュルク系騎馬民族も、ヒゲをたくわえていたのです。
645年唐進駐軍に支援された中臣軍(藤原氏の祖)により、蘇我王朝が倒されると、蘇我軍残党は、近畿の山奥や陸奥国に逃避していたのです。平安時代初期、その陸奥国へ、金・銀・銅の鉱物資源簒奪のために、唐進駐軍に支援された桓武天皇軍は、侵略を始めるわけです。
そして、801年金髪の坂上田村麻呂の騙しにより、陸奥国の酋長アテルイは京で斬首され、陸奥国は平定されるのです。その時に、捕虜となった蝦夷の武人が、桓武天皇により謀殺された早良親王の怨霊を鎮めるために、公家源氏支配下の「もののふ」となり、そして、その武芸により魂鎮めをおこなう「もののふ」が、天慶の乱の平定で平安王朝から戦闘武力が認められて、武家源氏の武士となるわけです。ですから、武士は、俘囚末裔と言われるのは、そのためです。しかし、武家源氏の祖は、俘囚の陸奥蝦夷などではなく、その祖は古代飛鳥ヤマトを支配していた王族の騎馬軍団末裔であったのです。
何故、古代飛鳥ヤマトを支配した蘇我王族を守った騎馬軍団末裔が俘囚なのでしょう。そして、蘇我王族の軍事都市ヤマトを、石材で建設し、奈良盆地の湿地帯を巨大古墳を築造することで耕地に変えた、高度土木・建築技術で支援した、秦氏末裔が穢多なのでしょう。
古代飛鳥ヤマトの王族末裔が、賎民に貶められたのは、藤原氏により、「日本古来から存在した神道を渡来仏教に代え、六世紀の飛鳥ヤマトは仏教文化で繁栄していた。」、という「情報操作」を「日本書紀」に綴った結果だったのです。
実際の六世紀古代飛鳥ヤマトには、仏寺などひとつもなく、608年隋使が浪速から船で飛鳥の都まで行けるほどの幅広の運河があり、道幅十二mの直線道路が造られ、都の石葺きの公園池には噴水があり、巨石モニュメントや工業用石築造物があり、そして、ガラス器製造工場や富本銭製造工場もあった、オリエント色の強い文化都市であったのです。では、そのオリエント文化を抹殺し、仏教文化で隠蔽した藤原氏の「日本書紀」による情報戦略は、どこからもたらされたのでしようか。
権力とは何でしょう。それは、情報です。その情報を管理し、操作できる地位にいる者が、権力者となれるわけです。ですから、権力者は、常に情報に敏感であるのです。そして、権力者に少しでも不利な情報は、抹殺或いは隠蔽をおこなうのです。そして、権力者は、権力者に有利な情報を、反権力者による破壊から守るために、文字により固定化する必要があったのです。それが、「歴史書」であり、「経典」となるわけです。
紀元一世紀、ローマ帝国軍に占領されたカナンの地に、ローマ帝国軍に反旗を翻す「ヨシュアはメシア」と唱えるユダヤ教の一団が出現するのです。そして、その集団は、ギリシャ語で書かれた多数の教本から、その集団に都合の良い46冊の教本で合本を作り、その合本(ビブリア→バイブル→聖書)の情報を根拠として、ヨシュアがモーセ末裔であると主張するのです。
そのヨシュア派に対して、本家のユダヤ教祭祀はヤムニア会議により、多数のヘブル語教本から、正典と外典とに分け、24書の合本で「旧約聖書」を作るのです。その時期は、およそ紀元98年頃です。つまり、今ある合本としてのユダヤ教の「旧約聖書」は、ヨシュア派による情報操作を否定するために作られたものなのです。
更に、1517年マルチン・ルターによるカトリック教会批判の95ヶ条の宣誓により始る宗教改革の結果、カトリックから分離独立したプロテスタントの「旧約聖書」は、39書を合本したものであったのです。それぞれの宗教組織は、それぞれの権力を維持するために、それぞれに都合の良い「情報操作」をして「旧約聖書」を創っていたのです。
そして、その免罪符を販売するカトリック教会の欺瞞(情報操作)を民衆に宣伝するプロテスタント(うそっぱちの宣伝をプロパガンダというのは、「プロテスタントの布教」が原語です。)を聖滅するために、1534年イエズス会が、パリで創設されたのです。
つまり、合本であるユダヤ教のヘブライ語「旧約聖書」は、ヨシュア派のギリシャ語「旧約聖書」より新しかったのです。
ヘブライ語は、そうとう古い言語と思われているようですが、ヘブライ語は西セム族の言葉で、アラム語から派生した言語です。そのヘブライ語の意味は、「ヘブルびとの言葉」ということで、そのヘブルとは、国境周辺の者とか、国境を越えて侵入してくる者、あるいは動き回る者(放浪者)であるのです。
そのヨシュア派のギリシャ語経典は、紀元前三世紀エジプトのアレクサンドリアに72人の聖書学者を集めて72日間で(アラム語?・ヘブライ語?から)翻訳させた、と言われています。しかし、それは伝説で、情報操作であるのです。
古代ギリシャのアレクサンドル大王(紀元前336年〜紀元前323年)が、ペルシャ帝国を倒すことにより、西洋文化と東洋文化とが融合してヘレニズム文化となるわけですが、紀元前323年アレクサンドル大王がバビロンで病死すると、ギリシャから北インドまであったアレクサンドル大王領は、それぞれの民族により分国にされ、その地からギリシャ文化は消えてしまうのです。
西洋の歴史学者は、そのギリシャ文化は、エジプト王国(紀元前305年〜紀元前30年)のアレクサンドリアに継承され、それが後に、ヨーロッパに引き継がれていったと主張しているのです。しかし、それは情報操作です。
実際は、アレクサンドル大王領のギリシャ文化は、中央アジアのバクトリア国(後の国際交易都市ガンダーラの地。キリスト・ブッダ誕生・奇跡物語発祥の地。)に引き継がれていたのです。そのバクトリアのギリシャ文化が、紀元571年イスラームのサラセン帝国に取り入れられ、そのイスラーム国のギリシャ文化が、1096年第一回十字軍のヨーロッパからの遠征で、キリスト教徒騎士団と遭遇するわけです。
しかし、装備があまりにもみすぼらしい十字軍騎士団は、ローマ教皇が指令した異教徒の聖滅により、十字軍の旗の下に、「旧約聖書」にあるように、イスラームの村々の男は虐殺し、婦女は陵辱され、破壊の限りを尽くすのです。それに対して、豪華絢爛装備のイスラーム戦士は、騎士道精神により、戦いに敗れた十字軍戦士を故国に送り返していたのです。そのような文化の違いを目の当たりにした第一回十字軍騎士団は、そのギリシャ文化を取り入れたイスラーム世界に埋没してしまうのです。つまり、弱者を守るヨーロッパの騎士道精神は、日本武士道が新羅(秦羅)花郎騎士道から学んだように、イスラームからのものなのです。
そして、その度重なる十字軍騎士のヨーロッパからの遠征により、イスラーム化したギリシャ文化が、帰国した十字軍騎士団によりヨーロッパに伝わるわけです。ですから、今ある、ヨーロッパ王族の戴冠儀式で使う王冠やマントは、イスラーム化したギリシャ文化からの租借なのです。
イスラーム化したギリシャ文化のヨーロッパへの影響は、弱者を守る騎士道精神だけではありません。そのイスラームのギリシャ文化は、国際交易商人によりイタリアに持ち込まれ、14世紀に始るルネッサンスの起爆剤となるのです。そして、イスラームの築城技術が、ヨーロッパに持ち込まれ、今に見る美しい城となるわけです。このヨーロッパ城の築城思想を、イエズス会の宣教師から学び、その思想を真似て、織田信長は、1576年石垣の上に天主閣のある城を、日本で始めて建設したのです。
では、何故、ユダヤ教ヨシュア派は、ギリシャ語「旧約聖書」を創ったのでしょうか。それは、ユダヤ教本には、異民族の国や文化を乗っ取る方法が記されていたからです。
カナンの地は、「旧約聖書」の教本によれば、唯一神ヤハヴェから、イスラエル民族に与えられた地だったのです。そこで、カナンの地をローマ帝国から取り戻そうとしたヨシュア派は、ユダヤ教の「旧約聖書」で、ヤハヴェからカナンの地を与えられたとする物語を利用することを考え出したのです。それには、「旧約聖書」を「新約聖書」に繋げて、ヨシュアをモーセの子孫とすれば、良いわけです。
しかし、この試みは失敗し、逆に、ユダヤ教ヨシュア派は、ローマ帝国軍に浸透していた、太陽神の下での平等を説くローマ軍の軍神ミトラ(ラテン語でミトラス神)を疎ましく思う、ローマ帝国王権に取り入れられて、392年ユダヤ教ヨシュア派は、キリスト教となり、ローマ帝国の国教となってしまうのです。
ユダヤ教ヨシュア派がローマ帝国軍との闘争を開始した紀元一世紀のシルクロード西方では、ローマ帝国とパルチア王国が領土争いをしているように、東方では、後漢と匈奴とが領土争いをしていたのです。
紀元一世紀、絹は、ローマ帝国内で、金と同等の重さで取引がおこなわれたように、利益の出る国際交易商品となっていたのです。そこで、中国大陸でのみ産出される絹製品は、国際交易商人に最も需要のある交易品となっていたのです。そこで、シルクロード国際交易商人も、当然その西方と東方との争いに巻き込まれるわけです。
その紀元一世紀に、西方と東方とのシルクロード国際交易都市ガンダーラで、ギリシャ系仏像と無数の経典とにより、大乗仏教が発明されるわけです。
そして、大乗仏教の教祖ブッダ(紀元前五世紀の釈尊とは別。ブッダ=覚醒した者)の誕生・奇跡物語ソックリの、そして、法華経物語ソックリのヨハネ福音書に語られる、ヨシュアも、紀元一世紀のローマ帝国シリア領で誕生するのです。
その国際交易都市ガンダーラの祖は、ギリシャ文化を継承したバクトリア国で、そのギリシャ文化には、哲学者ターレス・ソクラテス・プラトン・アリストテレス、数学・建築学者ピタゴラス、歴史学者ヘロドトス、彫刻家スコーパス、自然科学者デモクリトスなどの思想が継承されていたのです。ですから、中国・インド文化の抹香くさい大乗仏教経典と思われているものが、以外にも科学的なのは、多くの経典類が文殊徒に創作されたガンダーラの地が、科学・自然科学思想を継承したギリシャ文化国だったからです。
その絹交易の中継交易地ガンダーラで発明された聖物語が、国際交易商人と伴に、西に向いユダヤ教に寄生したのがユダヤ・キリスト教となり、東に向かい釈尊の教えに寄生したのが大乗仏教となるわけです。
しかし、紛争が激しい陸路のシルクロードを避けて、ガンダーラから南下する国際交易商人もいたのです。その目的地は、ヘブライ国ソロモン時代に海洋交易があった、南インドのマラバル沿岸です。
その結果、紀元二世紀には、南インドのマラバル沿岸のムジリスでは、ローマ帝国領アレクサンドリアとの国際交易で、インドから象牙、真珠、香料、宝石、木綿を輸出し、アレクサンドリアから金属、ガラス器、ぶどう酒、金貨を輸入していたのです。当然、そこには、ユダヤ・キリスト教教会が建設されていたのです。古来から仏寺とか教会の建物は、強固に建築されているのは、表向きは布教のための施設ですが、裏面では、交易のための倉庫、異教徒との戦闘時には砦として使われていたからです。
四世紀の南インドのマラバル沿岸による国際海洋交易が隆盛となるのに反して、内陸のシルクロード周辺国は、中央ユーラシアから南下する騎馬民族に脅かされていたのです。
四世紀、ジューゼン(柔然・蠕蠕・茹茹)が、匈奴が去った後の蒙古高原を支配して柔然となるのです。そして、552年騎馬民族の突厥(チュルクを漢語化)のトメン(中国語で土門)が、この柔然を破り、突厥帝国を興し、南接する北魏の継承国北周・北齊、その後の隋・唐と死闘を繰り返すのです。この騎馬民族の突厥帝国と農耕民族の中国王朝北周・北齊・隋・唐との死闘時代が、日本列島での、飛鳥・奈良時代であるのです。
ですから、日本列島の飛鳥・奈良時代も、平穏で優雅な時代などではなく、東アジアの権力闘争の影響を強く受けた、騎馬民族対農耕民族との闘争の時代だったのです。
この突厥帝国は、530年飛鳥ヤマトに突然現れた蘇我稲目(チュルク本名不詳)を支援し、その支援により蘇我稲目は、朱砂の国際交易地の三輪山の支配を廻り、高句麗・百済・新羅進駐軍が三つ巴の戦いを行っていた飛鳥ヤマトを、騎馬の軍事力により統一したのです。
そして、六世紀に、その飛鳥ヤマトを統一した騎馬民族の蘇我王朝が、720年藤原不比等が創作した「日本書紀」で記述するところの「大和朝廷」の実態であるのです。
突厥帝国は、絹製品の国際交易に熱心で、東ローマ帝国(395年東西に分裂)とは、内陸砂漠のシルクロードではなく、ユーラシアを貫く草原ロードを使用して、交易をおこなっていたのです。ですから、東ローマ帝国領のローマン・グラスは、黒海沿岸で製造され、騎馬商隊により、草原ロードから突厥帝国まで運ばれていたのです。
このローマン・グラスが、高句麗や百済の古墳から出土しないで、百済の隣国新羅の古墳から出土するのは、ギリシャ・ローマ文化国新羅が、草原ロードの騎馬民族系だからです。
そして、そのローマン・グラスは、聖武天皇の遺品を納める正倉院にあるのは、聖武天皇が、騎馬民族系、新羅系天武天皇の流れにあったからです。因みに、正倉院の校倉造りとは、南方系建築様式などではなく、騎馬民族スキタイの越冬用建築様式であったのです。
568年東ローマ帝国の返礼使ゼマルクスが、突厥帝国の庭(天子が降りる処。)に入るのです。その東ローマ帝国遠征軍の中には、キリスト教を国教としたテオドシウス1世になじまない、古来からミトラ神を崇拝する傭兵軍団も存在していたのです。
六世紀の東ローマ帝国と突厥帝国とは、ローマン・グラスと絹製品の国際交易により、西と東で結ばれていたのです。そして、交易品と伴に東ローマ帝国の文化は、朝鮮半島の新羅を経て、奈良の飛鳥ヤマトとも繋がっていたのです。飛鳥ヤマトを基点として、幅十二mのローマ軍式直線の軍事道路の遺構が発掘される理由が、その流れから納得できます。
六世紀の日本列島飛鳥ヤマトに渡来した、これらのギリシャ・ローマ文化と突厥(チュルク)文化は、当然、飛鳥ヤマト文化の礎となっていたのです。
しかし、中国大陸で突厥帝国と死闘を繰り広げていた唐軍の支援により、645年飛鳥ヤマトの蘇我王朝が、南インドから渡来していた中臣軍に破れ、その後、蘇我王朝の継承者である、日本列島初の天武天皇が686年崩御すると、藤原不比等の「旧約聖書」の物語を真似た謀略により、それらの飛鳥ヤマトのオリエント文化は、720年「日本書紀」の情報操作により、仏教文化を手段として、隠蔽されてしまったのです。
その「日本書紀」による情報操作のヒントは、「旧約聖書」の創作過程にあったのです。その先代史を消すための情報操作の基本は、前政権の文化遺産を徹底的に破壊し、その跡に文化施設を新たに建設(移築)することと、文化を綴る書籍の焚書と隠蔽と改竄です。隠蔽・改竄の手段としては、他国の物語を改竄して、元の物語に挿入することです。そして、乗っ取る民族の祖の前に、架空の人物物語を挿入することです。
例えば、「旧約聖書」の情報操作では、鉄器を発明したヒッタイト帝国から出自した鍛冶技術を持つヨセフ族が、古代エジプトで、その鉄工具を使う建設技術により建設監督にまで登りつめたのが、あまりにも性急な一神教太陽神アトンの宗教改革に反発した多神教の祭祀者に、生命を狙われ、エジプトから脱出した歴史を、それから約八百年後のバビロン幽囚時に、レビ族末裔アロン一派が、メソポタミアのアッカド王サルゴン(紀元前2350年〜紀元前2294年)の物語を租借して、「神の使いモーセ」なる人物を創作し、モーセ五書の「出エジプト記」を創作して、ヨセフ族直属であるエフライム族の太陽と牡牛を祀る祭祀権を、メソポタミアからのヘブルであるレビ族のアロン一派が簒奪してしまうのです。つまり、ヒッタイト帝国からのヨセフ族(イスラエル)の歴史が、メソポタミアからのレビ族(ユダヤ)に乗っ取られてしまったのです。そして、レビ族末裔により創作されたモーセ五書により、太陽と牡牛を祀るイスラエル民族の祭祀権は、(架空の)モーセの子孫としてのレビ族アロンの世襲となり、今日に至るわけです。
この「旧約聖書」による祭祀権簒奪の情報操作方法は、「日本書記」では、685年以降藤原氏が天照大神という神様を創作し、天照大神がスサノウの狼藉(そのひとつに、馬の皮を剥いで、機織女官に投げつけた、という場面があります。馬が、日本列島に現れるのは、およそ四世紀と言われています。この物語は、何世紀の日本列島を描写しているのでしょうか。)で洞窟に隠れてしまう天磐戸物語で、祭祀者の天児屋根命を登場させ、日本列島初の祭祀者天児屋根命を、藤原氏の祖としているのです。つまり、後から飛鳥ヤマトに来た藤原氏が、「日本書紀」でギリシャ神話似の物語を創作することにより、先に飛鳥ヤマトに来ていた秦氏、蘇我氏の歴史を乗っ取ってしまったのです。
何故、天照大神が、685年以降に創作されたのかというと、その宮である伊勢神宮が、壬申の乱後、天武天皇により建立されたのが、685年だからです。その伊勢神宮も建立時は、騎馬民族の神である太一(北極星)を祀る宮であったのです。それが後に、天照大神を祀る宮となったのは、藤原氏の情報操作によるものだったのです。
藤原氏が発明したユダヤ教に酷似した中臣神道の神を祀る春日社の創建も、古くはなく、天武天皇系武力勢力が劣えた頃の、768年であったのです。神社が、日本古来から神を祀っていたと多くのひとが信じているのは、藤原氏の情報操作の結果なのです。
更に、「旧約聖書」の情報操作では、モーセが、唯一神ヤハヴェ(古代エジプトの太陽神アトンが変身した神)から与えられた十戒は、世襲祭祀者レビ族アロンの下で、太陽と牡牛を祀るイスラエル民族が絶対守らなければならないとするのです。それに対して、祭祀者天児屋根命を祖とする藤原氏は、720年「日本書紀」で、聖人厩戸皇子を「日本書紀」で発明して、十七条の憲法を創らせ、「二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。」と述べさせているのです。
厩戸皇子(平安時代に聖徳太子に変身)が、生存したと云われている、574年から622年の飛鳥ヤマトには、仏寺もなければ、仏僧もいなかったのです。その根拠として、藤原氏の興福寺は、710年山背国にあった秦氏の寺(ジ・山階寺=景教寺)を、仏寺に改竄して奈良に移築したものなのです。
仏教伝来552年(百済系では538年)と「日本書記」で記述するのは、その時代以降の飛鳥ヤマトには、秦氏のミトラ寺(景教寺)と蘇我氏の騎馬民族の居住建物である八角堂のパオ(法隆寺の夢堂の祖)が存在していたからです。それらのオリエント・ユーラシアの施設を歴史的に抹殺するには、仏教伝来が、蘇我稲目の飛鳥ヤマト統一直後の、552年(538年)でならなければならなかったのです。
そして、藤原氏が政権を握ると、645年以前にあった飛鳥ヤマトのオリエント色の強い宗教施設や寺(ジ=雑務事務所)は、藤原氏により徹底的に破壊され、その跡に、北九州秦王国にあった仏寺を移築していたのです。その代表例が、厩戸皇子が建立したと云われる法隆寺です。現法隆寺敷地に隣接する地下から、仏教思想とは異なる、太陽神を祀る建築基準の建物跡が発掘されているのは何故でしょう。それは、飛鳥ヤマトには、仏教思想とは異なる、「北極星」と「太陽」を祀る騎馬民族とエフライム族(秦氏)の文化があったからです。
その証拠に、645年突厥帝国に支援された蘇我王朝を倒した、突厥帝国と敵対する唐進駐軍と中臣軍は、その年に仏教興隆の詔を発していたからです。そして、飛鳥ヤマトが、仏教文化ではなかったことを隠蔽するために、飛鳥ヤマトでオリエント渡来の国際交易商人が使っていたアラム語、ソグド語、パフラビィ語、突厥語で記述された書類を焚書・隠滅するために、「蘇我蝦夷が天皇紀と国紀を焚書した。」、と「日本書紀」に記述して情報操作をしていたのです。
それらの藤原氏により抹殺・隠滅された、オリエント国際交易商人が使用した言語は、表音文字であったので、やがて、日本語音を表記する「カタカナ文字」に変身していくわけです。俘囚の末裔と云われる「武士」が、「カタカナ文字」を使用していたのは、「武士」の祖は、新羅花郎軍団で、その祖は、オリエントの表音文字を使用していたローマ帝国傭兵軍だったからです。それらの「武人」に共通するところは、ミトラ神である「太陽」を祀っていたことです。
花郎軍団の「花」とは、化粧した女装のことではなく、「ミトラ」の漢音訳借字であるのです。ですから、花郎軍団とは、太陽神を祀るミトラ軍団ということなのです。392年キリスト教が、ローマ帝国の国教となる前までは、太陽神ミトラが、ローマ帝国軍の軍神であったのです。そして、弱者を守る思想を持つ日本武士道の祖は、←新羅花郎騎士道←ローマ軍騎士道の流れにあったのです。因みに、弱者を守る「任侠道」の役座とは、鎌倉時代に「武士」から枝分かれしたものであったのです。
藤原不比等は、騎馬民族が基本的に歴史書を編纂しない民族であったことをよいことに、六世紀の飛鳥ヤマトの歴史を、ユダヤ教のモーセをモデルとしたような厩戸皇子を登場させ、六世紀の飛鳥ヤマトの実態を改竄・隠蔽していたのです。
藤原不比等が創作した厩戸皇子(後の聖徳太子)の履歴と実績とは、用明天皇の皇子で、おばが推古天皇なのです。そして、厩戸皇子は、推古天皇の皇太子にして摂政なのです。実績としては、冠位十二階・憲法十七条を制定したのです。そして、遣隋使を派遣して大陸の文化を導入したのです。その大陸文化の仏教に帰依し、居住した斑鳩宮に隣接して法隆寺、そして難波に四天王寺、更に飛鳥ヤマトを中心に計七寺を建立して、仏教布教に努めたのです。著作物としては、法華・維摩・勝鬘経の注釈書である「三経義疏」を著していたと云うのです。
しかし、それらの厩戸皇子の履歴と実績は、ユダヤ教のモーセと同じで、飛鳥時代から百年後の奈良時代に、藤原氏一派により創作されたものなのです。
では、六世紀の実際の飛鳥ヤマトは、どのような世界であったのでしょうか。日本列島における六世紀から以前の史料は、藤原氏の焚書により、今現在皆無です。でも、飛鳥ヤマトには、オリエント渡来の遺跡物が多く発掘されていますが、遺跡は歴史を語れません。
そこで、目を中国大陸に転じると、騎馬民族の突厥帝国との戦闘国である隋の「随書」に、600年飛鳥ヤマトから派遣された遣隋使の記述が存在していたのです。さすがの藤原氏も、中国大陸の「随書」には、焚書も改竄もできなかったのです。遣隋使が述べたことを「隋書」で記述するには、

使者言はく、「倭王は天を以て兄と為し、日を以って弟と為す。天、未だ明けざる時に出でて政を聴き、跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停めて云く、我が弟に委ねん」と。高祖曰く、「此れ太だ義理無し」と。

中国の歴史書の真実性は疑われていますが、この記述から想像されるのは、600年の飛鳥ヤマトでの政(まつりごと)は、騎馬民族のものであるようです。騎馬民族は、天子(テングリ=北極星)を敬い、その天命により政を決めていたからです。
その騎馬民族のテングリ(天子)思想が、日本列島に渡来し、テングリから天皇となったのが、672年の太一(北極星)を祀る天武天皇からであったのです。
ですから、天武天皇(672年〜686年)以前には、日本列島には天皇など存在していなかったのです。その証拠に、600年の遣隋使も、隋の文帝に、飛鳥ヤマトは、女帝天皇ではなく、「王(オオキミ)が治めている。」、と述べたわけです。その八年後の608年隋使裴世清の隋帝への報告では、都で倭国の「男王」に謁見した、と報告していたのです。しかし、藤原氏の「日本書紀」によると、600年の飛鳥ヤマトでは、女帝推古天皇の時代(593年〜628年)となっているのです。では、「隋書」と「日本書紀」とのどちらが、情報操作をしていたのでしょうか。
いづれにしても、「日本書紀」、「風土記」、「懐風藻」、「万葉集」などの書籍や古文書で、日本列島史を調べても、それらの史料は、藤原氏、そして、亡命百済貴族により史実を改竄・隠蔽されて記述されたものですから、六世紀の飛鳥ヤマトを支配していた秦氏及び蘇我氏が活躍した日本列島の史実を知ることは困難でしょう。
消された日本列島史を復元するために残された手掛かりとしては、遺跡、伝聞、継承された特殊技術などだけです。しかし、それらは、古代史を語ることはできないのです。そこで、石切の特殊技術の歴史から、日本列島の古代史を推測してみることにしましょう。
1576年戦国時代末期、織田信長は、イエズス会の宣教師より、ヨーロッパ城の築城思想を学ぶと、その思想を基に、石垣の上に仏閣を乗せ、天子が降臨する天主閣を頂く、今までの日本列島にはなかった城を完成させるのです。
その築城技術は、短期間のうちに日本列島全土に普及し、天主閣(後に天守閣となる。)を持つ城が、石垣の上に築城されたのです。この織田信長の城建設技術の短期間に日本列島全土に広がる現象は、古代において、相似形の前方後円墳の全国普及と共通しているようです。
日本城の歴史は、戦国末期の石垣上に天主閣のある安土城←室町時代の平城←鎌倉時代の山城←平安・奈良時代の仏閣←飛鳥時代の朝鮮式山城、となるわけです。古来の「城」とは、土を固めて高い壁を造り、その土壁で囲んだ処を意味していたのです。その土がやがて、石に代わっていったのです。
飛鳥時代に渡来した朝鮮式山城とは、山の中腹を石壁で囲んだ防御施設であったのです。そのような築城の歴史的流れのなかで、巨石を用いて石垣を造る技術は、どのような民族により伝承されていたのでしょうか。
石垣を築造するには、石を切り出すための鋼鉄製工具が必要です。それに、巨石を運搬し、それを組み上げる技術が必要なのです。石垣を築造するには、それぞれの技術を持った部族を管理する技術も必要なのです。では、これらの技術は、どのような民族により、古代の日本列島にもたらされたのでしょうか。
石を切るには、鋼鉄工具が必要です。その鋼鉄工具を造るには、鋼鉄を作る必要があります。その鋼鉄を作るには、鉄鉱石を採掘し、精錬する技術が必要です。その鉄鉱石を精錬するには、その技術と強い炎を作るための炭が必要です。その炭を作るには、炭焼きのための炉と木と、その技術が必要なのです。
巨石を切るためには、それらの技術を持った大部族の連携が必要なのです。このような各種技術を持った部族は、いつ、どのようにして日本列島に渡来したのでしょうか。
日本列島では、鉄を精錬することを、「たたら」と言っていました。では、「たたら」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、突厥語で「ととら→たたら」とは、「強い炎」を意味していたのです。
五世紀の中央ユーラシアに興り、六〜七世紀の東から西のユーラシア全土を支配した突厥帝国は、騎馬民族国であるにもかかわらず、製鉄の技術をもっていたのです。騎馬民族は、スキタイの時代から、製鉄技術を持っていたのは、その部族には鉄器を発明したヒッタイト帝国出自のヨセフ末裔がいたからです。
日本列島に製鉄技術の「たたら」を伝承した突厥文化の遺跡を調べると、そこには石人が現れるのです。飛鳥ヤマトと北九州に多く出土するその石人とは、突厥帝国の祭祀用モニュメントのようです。その石人は、騎馬民族国スキタイの昔から、騎馬民族の子孫を見守るように野原にポッンと設像されていたのです。
短期間に移動を繰り返し定住しない、歴史を綴らない騎馬民族の「風の王国文化」は、その民族が抹殺されてしまえば、農耕民族が土地の所有権を主張するために先祖の伝承を文字で残すのとは異なり、その騎馬民族の文化伝承も途絶えてしまうのです。
飛鳥ヤマトと北九州に石人が多く出土することは、そこに騎馬民族突厥が存在したことを示唆します。その石人が、地中深く埋没していた理由としては、北九州では、527年から528年の磐井の反乱と「日本書紀」に伝わる、朝鮮半島南部と北九州との戦争に関係があるようです。
その時期の東アジアでは、北の騎馬民族突厥帝国と南の北魏(423年〜534年)とが、シルクロードの支配権を廻り戦闘を繰り返していた時代であったのです。北魏は、仏教と対立する「道教」を取り入れ、446年から452年まで仏教弾圧をおこなった太武帝(拓跋系王)が死去すると、452年文成帝より仏教国と変身していたのです。
この戦争直後の528年に、朝鮮半島の新羅国は、騎馬民族のギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国に変身しているのです。そして、530年飛鳥ヤマトに突厥(チュルク)系蘇我稲目が出現していることは、「磐井の反乱」とは、朝鮮半島新羅からの騎馬民族突厥帝国軍による、北九州への侵略戦争であった可能性を示唆します。
その根拠として、六世紀半ば、蘇我稲目は、飛鳥ヤマトを軍事支配すると、飛鳥川が流れる丘陵に挟まれた狭い地域に巨石を多用した軍事都市を建設し、そして、朝鮮半島・大陸からの侵攻を阻止するための軍事施設の「ミヤケ」を、瀬戸内海を臨む沿岸に、そして、畿内各地に設置していたからです。そして、北九州から始る、巨石壁に囲まれた防衛施設としての朝鮮式山城が出現するのは、その蘇我稲目からの飛鳥時代なのです。
藤原氏により隠滅された飛鳥ヤマトの騎馬民族のオリエント文化は、突厥帝国軍と伴に渡来した技術部族連合の秦氏が持ち込んだものだったのです。
そして、飛鳥ヤマトで石人の多くが地中深くから発掘されるのは、645年突厥帝国が支援する蘇我王朝の壊滅と関係があったようです。そして、この石人は、朝鮮半島からも出土していたのです。
その石人出土の流れから推測されるのは、歴史書を持たない騎馬民族は、カスピ海沿岸から興った騎馬民族スキタイ→ユーラシア大陸を支配した騎馬民族突厥→ギリシャ・ローマ文化の新羅→北九州→飛鳥ヤマトへの騎馬民族文化の移動の流れです。石人文化の移動は、当然その文化を持った騎馬民族の移動を伴うわけです。
この騎馬民族の飛鳥ヤマトへの石人文化を、藤原氏は、突厥石人→道祖神→仏教地蔵と改竄・隠蔽していたのです。そして、今も歴史書では、突厥石人を、飛鳥ヤマトの謎の石物としているのです。
更に、騎馬民族突厥の、飛鳥ヤマトに残る文化・伝承を調べると、そこに、「トソ・屠蘇」と「ダイゴ・醍醐」の「言葉」に出会うのです。飛鳥文化から始る、屠蘇と醍醐とは、何のことなのでしょうか。それは、「ソ・蘇」とは、米から造る酒ではなく、馬乳酒のことで、そして、醍醐とは、チーズのことなのです。もし、飛鳥ヤマトの文化が、農耕文化を基盤とした仏教文化だったとしたら、騎馬民族の嗜好品である「トソ・ダイゴ」を、どのように説明するのでしょうか。
六世紀の飛鳥ヤマトには、騎馬民族突厥(チュルク=トルコ)文化が存在していたのです。藤原氏は、720年「日本書紀」の創作で、騎馬民族文化を消し去ったつもりでいても、「日本書紀」の中で、蘇我稲目の息子蘇我馬子の娘を、「刀自古郎女」と記述しているのです。「刀自古」とは、「トルコ」のことで、それは、「突厥」のことなのです。つまり、飛鳥ヤマトでは、蘇我馬子の娘は、「突厥の娘」と言われていたのです。因みに、架空の人物厩戸皇子(後に聖徳太子に変身)の母は、孔部間人王と云うことですが、間人(はしひと)とは、飛鳥ヤマト時代では、ペルシャ人のことだったのです。
では、藤原氏は、何を目的に、飛鳥ヤマトのオリエント渡来の騎馬民族文化を、仏教文化で、抹殺・隠蔽したのでしょうか。それは、騎馬民族スキタイ末裔突厥と伴に渡来した、高度各種技術を保持する部族連合の秦氏が存在したからです。秦氏は、遥か古のヒッタイト帝国出自のヨセフ族末裔(イスラエルの祖)で、レビ族(ユダヤの祖)出自と唯一神ヤハヴェの秘密を知っていたからです。
ですから、レビ族末裔、南インドから渡来した祭祀氏族である中臣族から変身した藤原氏には、その「消されたイスラエル十部族」の最後に残る秦氏一族は、聖滅しなければならない部族だったからです。藤原氏が、レビ族アロン一派により改竄された「旧約聖書」、百済史を基に創作した日本列島史とは、秦氏の歴史的「聖滅」が、大きな目的のひとつだったのです。
秦氏の歴史的聖滅を願う藤原氏に、危惧したことが起こるのです。それは、反ユダヤ・キリスト教のパモス島のヨハネが創作した「ヨハネの黙示録」のような、反藤原氏・反亡命百済貴族の秦氏末裔多人長が創作した「古事記」が、平安時代に現れたからです。  

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