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西郷隆盛の征韓論〜イギリスの被統治者である日本人に真実の像を結ばせないことが重要
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/445.html
投稿者 てんさい(い) 日時 2017 年 2 月 05 日 09:41:20: KqrEdYmDwf7cM gsSC8YKzgqKBaYKigWo
 

『西郷隆盛の征韓論』というキーワードでいつも思い出す過去ログを1スレにまとめてみた

被統治者に真実の像を結ばせないこと
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/676.html
投稿者 リーマン 日時 2003 年 12 月 26 日 08:04:45:FagqpUDXKcu9o

すみちゃんが教えなかった明治時代(補講その4)です


被統治者に真実の像を結ばせないこと

以前中曽根がアメリカから用済みになったとして下ろされたときのすみちゃんの感想文に対して、私は同じような構図の中で処分された人として、坂本竜馬・大久保利通・伊藤博文の名前をあげました。
すみちゃんは、坂本と伊藤については即座に同意してくれましたが、大久保についてはありえることとしながらも一定の留保をつけられました。私にもその感覚はわかります。私も確かな根拠を持って言っているわけではありません。
今日は、私が何故あえてイギリスに処分された人の中に大久保も入れたのか、というあたりを書きたいと思います。

薩摩と長州の手を握らせておこした戊辰戦争は、今でもCIAがアフリカ・中南米でよくやっているような軍事クーデターと類似した構図があったことをまず前提におきます。
鳥羽伏見の戦いが起きる1年まえぐらから、西郷とアーネストサトウの接触ははげしくなっていますが、サトウが西郷に早く軍事行動を起こす様にけしかけたり、西郷がのらりくらりと交わしたり、といったような駆け引きがあったようです。
勿論西郷はサトウ(イギリス)の魂胆を見抜いていたのでしょう。前回も述べましたとおり、西郷は、表面はあくまでイギリスの言う事を聞くフリをして戦いを起こしながら、勝と打ち合わせて最終的には国内が長い間の内乱状態となることを回避し、イギリスの「日本人同士を憎ませ・戦わせることによって利益をえる」というイギリス人得意のDivide and Rule戦法の裏をかきました。

私は、このときの当時のイギリス人関係者達の気持ちを感じることができます。

「我々が遠隔操作で新しく作った日本という国を今後コントロールして行くにあたって、西郷という人間は邪魔だ。いつか彼は処分されなければならない。」〜と。

新しく日本が出来て間もなく、明治政府はヨーロッパに使節団を派遣する事となります。ここでもDivide and Ruleの原理に基づき、革命政府の主要な人物を二つに分けることとなりますが、このような判断を明治政府にさせる際にも、イギリスはかげながら関与していたと思います。
このようにグループを二つに割る事により一種の派閥が生まれ、将来その派閥を戦わせることによって、イギリスが事態の推移をコントロールしやすくなる余地が生まれる(革命家集団が一致団結してイギリスに反抗されることは避けなければならない)とともに、同時に派閥同士が仲たがいする際に、イギリスにとって邪魔な人間を処分することもやりやすくなるからです。(西郷はそうやって、イギリスが自然な形で自分達を追いこもうとしている事も、岸壁から使節団を見送りながら十分わかっていたでしょう。)

ちなみにこのヨーロッパ使節団は、「当初条約改正を目的としていたが、現地に実際に行ってみてそれが事実上不可能である事を知り、目的は西洋視察に切りかえられた。」ということになっています。
これも悪い冗談だと思います。彼ら革命集団がそんなに頭が悪いはずはありません。
では本当の理由はなんだったのでしょうか?私は、新国家設立の挨拶回り、もっと有体にいえば、イギリス女王に「ご挨拶」に行くことが目的だったのではないか、という気がしています。
彼ら自身全員がそのような目的を明確に理解していたかどうかは分かりませんが、トップ数人は少なくとも自覚していたことでしょう。でもそんなことを公にすることはできません。

明治政府の、表面上の「建て前」と裏の「本音」の乖離は既にこの頃から明確に始まっていたことになります。

彼らの留守中にいわゆる朝鮮問題が発生し、西郷が代表として朝鮮に行くことになります。このとき彼がいわゆる「征韓論」を唱えたということが真っ赤な嘘であることは、たしかすみちゃんが以前触れていたと記憶していますので、省略します。(尚、この朝鮮問題の発生原因も裏を調べると以外な事実が出てくるかもしれないと思っています。(北朝鮮不審船と同じような構図があるかもしれません。))

イギリスは、洋行組に命じて西郷渡韓を阻止しようとさせます。イギリスは何故阻止したかったのでしょうか?
私は「西郷が朝鮮政府に真の欧米(特にイギリス)の意図を伝え、水面下で手を握り合うことを阻止したかったから」ではないか、と推測しています。イギリスとしては、いわば江戸城明け渡しで裏をかかれたことの二の舞を避けるため、というのが本来の目的だったのだろうと思います。ここで明確に西郷路線とイギリス路線の対立の構図が明確となり、その意図するものが衝突することがはっきりしてきました。

日本人と隣国の朝鮮人とは憎みあうように仕向けなければならない(Divide and Rule)、というイギリスの基本方針は、この頃から明確に意識されていた事になります。

それでは、イギリスは誰に西郷を始末させれば良いのでしょうか?
あなただったらどうしますか?
イギリスは、若い頃からの革命の同士である大久保に始末させることを選択しました。より上位にある者が、下位者の誰かを始末するときに、自ら手を下さず、昔一番中の良かった人間にやらせ、その忠誠心を確認する、というのは、古来からどこでも行なわれてきたことであり、またイギリス人の好む手法でもあります。類似のシナリオは今でも劇や映画等で良く出てくるのではないでしょうか?
「昔の友人を裏切れ!それがおまえが生きていく為の唯一の道なのだ。」。そのように仕向けることは、統治者として一種の快感が伴います。二人の心の中の葛藤を理解できるからこそ、より一層興趣は盛り上がる、という支配者イギリス人がいかにも好みそうなシテゥエーションです。

友を裏切って葬り去ったとたん、「ご苦労さんだった。ということは君の出番もこれで終わりだっていうことだ。」というせりふで、「ズドン」と始末されてしまう、というのも、これまた三流映画お決まりのセリフですよね。

以上、幕末から西南戦争までのシナリオは、イギリスを主導としてある程度事前に書かれていたものだったようです。主目的は、「第一に西郷の始末。合わせて、最終的にはイギリスに弓を引きそうな人間的力量をもつ大久保も始末し、よりイギリスのいう事を聞きそうな連中(大隈・伊藤)グループへ主導権を移行させる。」ことだったと思います。

ここまで書いてくれば、「なあんだ。このシナリオって、例えば「イラクのバース党がクーデターで政権を取り、上位者が死んでCIA本命のフセインに実権が移っていく」といったシナリオにそっくりじゃん。」ということに気づかれる方も多いのではないか、と思います。

ところで、西郷は何故「征韓論」という汚名を着せられたのでしょうか?
それは、被統治者(日本国民)に西郷が本当にやろうとしていた事を理解させてはならなかったからです。西郷の本質を理解されてしまう事は統治者(含:イギリス)にとって危険なことなのです。
そこで、彼らは、国民が西郷という人間像をきちんと理解できないようにするために「征韓論者」という偽のレッテル(仮面)を貼ります。しかし、一方で、彼が明治維新の際に行った事績を未だ実感として覚えて生きている人は多い。そこで、もうひとつの仮面「彼は敬天愛人を唱えた仁者だった。」という仮面を与えます。

今でも、一般の日本人は、「征韓論」と「仁者」という二つのマジックワードに惑わされ、西郷に関するひとつの明確な「像」を結ぶことを妨げられているようです。もしこのトリックに気づく人間は、同時に明治維新の勝利者側の裏の事跡を見破ることになってしまいます。

悪者・悪人のイメージと仁者・聖人のイメージの両方の仮面(十字架?)をかぶらされて葬られた有名な人として「聖徳太子(蘇我一族)」が挙げられます。彼は一方では、蘇我一族の象徴(入鹿や馬子等の人格の一部を象徴的にとりあげたものと推測しています。)として聖者としての称号を与えられる一方で、蘇我の大悪人というレッテルを同時に与えられました。これも後の時代に蘇我氏の事跡が正しく伝わらず、後代の人々に像が正しく結ばれないように仕組まれたトリックの一種だと思います。

これに関しては、前回述べた「自分が自分の像を正しく理解する事が強さにつながる」こととは逆のことを当該統治者は試みている、とも評価できます。自分が葬り去った偉大な統治者の正しい姿を認識させることは、被統治者にある種の力を与えてしまうことに繋がりかねません。統治者は、被統治者をたぶらかさなければならないのです。(最近の例でいえば、田中角栄がこれに該当するかもしれません。)

ちょっと話は脱線しますが、この手口は男が女をくどく際にも使われることがあります。
「私の今度の彼ってとても不思議な人なの。何故って、いつも私をぐんぐん引っ張っていって、なんだか怖いって思うときがあるかと思えば、突然涙ぐんじゃったりしてカワイイって思っちゃったりもするの。今までの人と違っていて、なんだかつかみ所のない人なの。。。。」
相手をたぶらかそうとする場合は、こちら側の具体的な像を結ばせない、ということがひとつのポイントになるようです。(ビジネス上の契約の際にも使えます。)


我々が西郷の本当の事跡を理解できていない、ということは、明治政府の本当の姿を理解できていない、こととほぼ同義です。

このことが、我々日本人が、我々の姿の等身大をなかなか理解できないひとつの大きな原因になっていることは、間違いないように思われるのです。


以上今回も,証拠・根拠のない「イギリス人から見た日本史」でした。

西郷隆盛を知らない我々は自分の真の姿も見えないという証拠
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/744.html
投稿者 すみちゃん 日時 2003 年 12 月 29 日 11:57:33:xnvpUXgHxuDw6
   


(回答先: 被統治者に真実の像を結ばせないこと 投稿者 リーマン 日時 2003 年 12 月 26 日 08:04:45)


西郷隆盛は偉大な政治家であり、征韓論など唱えておらず、西郷追放はひも付きのクーデター


リーマンさん。 こんにちわ。

最近は時間を見つけて狂牛病投稿(資料翻訳と作成、参考文献のまとめ)を行ったので、
応答できませんでした。
翻訳等に3時間かかりました。

今回はとりあえず西郷さん関係の重要投稿を転載させていただきます。
非常に大事なことなので全文引用で。
何よりも雄弁に事実が語っていると。
性感帯タッチは次ということで。

上野公園にいけば、高村光雲作の西郷像が立っています。
みんなで拝見にいきましょう。


−引用開始−

(Re: 幕末期に入った国際金融資本の魔手
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/380.html
投稿者 通りすがり 日時 2003 年 7 月 20 日 00:12:30:

面白い! ただ私は、メインとなったのは薩摩ではなく長州だと思いますよ。
白石正一郎とか伊藤博文とか井上馨とか。上海にまでしょっちゅう出張ってましたしね。
それに結局、薩摩閥(特に西郷一派)は西南戦争で粛清されちゃいましたし。

ここらへんのことは、副島隆彦の『属国・日本論』に詳しかったはず。一読あれ。

>西郷が征韓論を唱えたということになっていますが、怪しいものです。

毛利敏彦の『明治六年政変』や松浦玲の『横井小楠』に詳しいですが、
「西郷が征韓論を唱えた」というのは、もはやデマで確定でしょう。

−−引用終わり


−引用開始−

((西郷隆盛の生涯)岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで
http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/492.html
投稿者 愚民党))


(西郷隆盛の生涯)岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで

(大久保、木戸らの外遊と西郷の留守内閣)

 明治4(1871)年11月12日、岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通が任命され、
 以下同行の留学生を合わせて百名を超える大洋行団が、横浜を出港しました。
 
 この岩倉洋行団の目的は、江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備とヨーロッパ、
 アメリカなどの文明諸国視察を兼ねていました。
 
 しかし、まだ廃藩置県が行われて4ヶ月しか経っておらず、いつ日本に騒動が起こるかもしれない状況での
 この洋行団の出発は、時期尚早だったといっていいでしょう。
 
 特に、大久保は、島津久光が廃藩置県に対し、大きな不満を持ち、西郷と大久保を憎んでいるということを
 聞いていたので、ほとぼりがさめるまで、それから逃げ出したいという気持ちも恐らくあったと思います。
 かなり無責任な話ですが、大久保という人物は、その生涯において自分に都合の悪いことが起きると、
 それから責任逃れをするクセがあります。特に自分を見出してくれた久光に対しては、
 その大久保の性格が顕著に表れています。
 
 話が横道にそれましたが、こんな困難な状況を一手に任された西郷も西郷だとは思いますが、
 西郷も大いに政府を運営する自信があったからこそ、留守を引き受けたのでしょう。
 木戸や大久保らがいない内に、斬新な改革を進めようと考えていたかもしれません。
 
 鬼のいぬまになんとか・・・という感じだったのでしょう。
 岩倉らが出発すると、西郷を中心とした内閣は、次々と新しい制度を創設したり、改革案を打ち出していきました.
 特筆したものをあげていくと、@警視庁の発端となる東京府邏卒の採用、A各県に司法省所属の府県裁判所の設置、
 B田畑永代売買解禁、C東京女学校、東京師範学校の設立、D学制の発布、E人身売買禁止令の発布、F散髪廃刀の自由、
 切り捨て・仇討ちの禁止、Gキリスト教解禁、H国立銀行条例の制定、I太陽暦の採用、J徴兵令の布告、
 K華士族と平民の結婚許可、L地租改正の布告、などの斬新な改革を次々と打ち出していったのです。
 
 これら全ての改革が西郷の発案によるものでは当然ありませんが、西郷が政府の首班(首相)として成し遂げた改革で
 あることは、まぎれもない事実です。
 よく、西郷に政治能力はなく、明治政府においてただの飾り物に過ぎなかったと書く本が、残念ながらまだ多数出版されています。
 しかし、ただの飾り物でしかない西郷を中心として、このような思い切った改革が次々と出来るでしょうか。
 
 また、西郷が政府の首班として在職していた間は、明治政府が当初悩んだ農民一揆や反政府運動というものは、
 ほとんど起こることがありませんでした。これは世の人々が、西郷の政治に満足していた結果であると言えましょう。
 
 明治新政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどが、この西郷内閣で行われたのです。これをもってしても、
 西郷の政治手腕を高く評価するべきではないでしょうか。

((西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論
http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/493.html
投稿者 愚民党)


(西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論


(征韓論の経緯)

 いよいよ西郷の一番の謎とされる征韓論のことを書く時がやってきました。前にも少しですが書いた通り、
 西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。
 
 では、なぜ西郷が征韓論の巨頭と呼ばれることが、歴史の通説となってしまったかを簡単に述べていきましょう。
 まず、日本と朝鮮の関係がいつ頃からもつれてきたかと言いますと、明治初年、新政府が朝鮮に対して国同士の
 交際を復活させようとしたことに始まります。元来、日本と朝鮮とは、江戸幕府の鎖国政策の時代から交際を続けていました。
 
 しかし、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧迫に負け、通商条約を結んだことにより、朝鮮は、
 日本と国交を断絶したのです。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取っており、
 外国と交際を始めた日本とは交際出来ないという判断だったのです。
 
 このようにして、江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたのですが、当時の幕府はその朝鮮問題に熱心に関わっている
 時間がありませんでした。当時の江戸幕府としては国内外に問題が山積されていたので、それどころではなかったのです。
 
 そして、その江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、江戸時代を
 通じて朝鮮との取次ぎ役をつとめていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めました。
 
 しかし、その当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」とか「奉勅」という言葉があるのを見て、明治政府から
 送られてきた国書の受け取りを拒否しました。朝鮮政府としては、先の「皇上」とか「奉勅」という言葉は、
 朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。
 
 このようにして、朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮
 に国書を送りつづけましたが、朝鮮政府は受け取りを拒否続け、一向にらちがあきませんでした。
 
 そのため、明治政府は、直接、外務権大録(がいむごんのだいろく)の佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、
 斎藤栄を朝鮮に派遣しました。しかし、3人は朝鮮の首都にも入れず、要領を得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。
 
 目的を果たせず帰国した佐田は、激烈な征韓論を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」
 と遊説してまわったのです。これは明治3(1870)年4月のことで、西郷はまだ郷里の鹿児島におり、新政府には
 出仕していません。
 
 そして、この佐田の激烈な征韓論に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允です。
 
 木戸が征韓論を唱えていたということに驚く方がおられるかも分かりませんが、これは事実です。
 木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙に、「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いています。
 木戸はこのようにして征韓論に熱心になったのですが、当時の日本には廃藩置県という重要問題があったので、
 その征韓論ばかりに構っているわけにはいきませんでした。
 
 そして、廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立ったので、木戸としては征韓論を一先ず胸中にしまうという
 ことになりました。しかし、前述の佐田らは征韓論の持論を捨てず、政府の中心人物になおも説いてまわっていたので、
 征韓論は人々の間で次第に熱を持ってきたのです。
 
 そして、明治6(1873)年5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けた
 との報告が政府になされたのです。まさに朝鮮現地においては、日本と朝鮮とが一触即発の危機にありました。
 
 その報告を受けた外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請しました。
 こうして、明治6(1873)年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなったのです。

(西郷の遣韓大使派遣論)

 閣議に出席した外務少輔(がいむしょうゆう)の上野景範(うえのかげのり)は、
 「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、
 二つに一つの選択しかありません」と説明しました。
 
 その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。板垣は、「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、
 政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」と述べ、
 兵隊を朝鮮に派遣することを提議しました。
 
 しかし、その板垣の提案に西郷は首を振り、次のように述べました。
 
「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。
これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。
そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。
ここは、まず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、
朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす。」

西郷の主張することは、正論です。板垣の朝鮮即時出兵策に西郷は反対したのです。
西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな。」
と言いました。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振ります。

「いいえ、兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、
威儀を正して行くべきでごわす。」

この西郷の堂々とした意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人、肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)
だけが異議を唱えました。大隈は、「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い。」と主張したのです。
その意見に西郷は、「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定出来ないのなら、
今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い。」と大隈に言いました。

こう西郷に言われれば、大隈としても異議を唱えることは出来ません。そして、その後、西郷はその朝鮮への全権大使を
自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、このこじれた朝鮮問題を解決できるのは、自分しかいないとも思い、
相当の自信もあったのでしょう。

しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。
また、この朝鮮へ派遣される使節には、非常に危険が伴う恐れがあったのです。

西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあったら、政府にとってこれほどの危機はありません。
そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。西郷はそれでも自分を行かせて欲しいと主張したのですが、
この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。

 このように、これまで征韓論と呼ばれる一連の出来事の経過を、軽くですが書いてきました。
 これを読んで頂ければ分かるように、西郷のどの言葉や行動にも「征韓」などという荒っぽい主張はどこにも出てこない
 ことが分かることでしょう。
 
 逆に、征韓論について、反対意見すら述べていることが分かると思います。
 これとは逆に、西郷を征韓論者だと決め付けている人々は、必ずと言って良いほど西郷の板垣退助宛書簡
 (西郷が板垣に宛てた手紙の中に、征韓を匂わせる文言がある)を持ち出すのですが、これはまったく当て
 の外れた推測としか言いようがありません。
 
 この板垣宛書簡については、書きたい事が山ほどありますが、征韓論については、今後もテーマ随筆で取り上げて
 いくつもりなので、これ以上ここで詳細な経過を書くことは紙幅の関係で控えます。
 しかし、一応、この後のこの征韓論争の経過だけを軽くですが、書いていきます。
 
 西郷はその後、紆余曲折を経て、朝鮮使節の全権大使に任命されます。西郷としては大いに頑張るつもりで
 準備を始めたのですが、ここに洋行から帰った岩倉具視と大久保利通が、西郷の前に立ちはだかります。
 岩倉と大久保は、再び閣議を開き、その席において、西郷の朝鮮派遣に反対意見を述べるのです。
 
 理由は、次のようなことでした。西郷が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争
 をする力がないので、朝鮮使節派遣は延期するのが良い。
 一見すれば尤もな意見と思われますが、大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず戦争になるということを
 前提として論を展開しています。
 
 しかし、西郷は戦争をしないために平和的使節を派遣したいと言っているのです。
 岩倉や大久保が戦争になると決め付けて反対意見を述べるのには、西郷は納得がいきません。
 ここで、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられるのですが、結局西郷の主張が通り、西郷派遣が正式決定
 されたのですが。しかし、岩倉の最も腹黒い策略で、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまいました。
 
 岩倉が閣議で決定された事を天皇に奏上しようとせず、自分の個人的意見(西郷派遣反対)を天皇に奏上する
 と言い張ったのです。今から考えればそんなバカなことがあるか、と思うかもしれませんが、現実にそれが行われたのです。
 そうなれば、今までの閣議は何のための会議だったのでしょうか、と思わざるを得ません。
 一人の人間の私心によって、国の運命が決められたのです。こうして、西郷の遣韓論は潰されたのです。
 
 ここで、一つ付け加えます。よくこの明治六年の政変(いわゆる征韓論争)は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)
 と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であると書かれている本がたくさんあります。
 
 しかし、それはまったく事実と反します。
 
 まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していません。
 また、今まで書いてきたように、当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、平和的使節の派遣を主張すらしているのです。
 また、内政を優先させるのが先決であると主張した大久保の方ですが、大久保がその後にした事と言えば、
 明治7年には台湾を武力で征伐して中国と事を構え、翌8年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮と事を構えています。
 
 朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせました。
 西郷の平和的使節派遣に反対し、内政の方が優先するといった大久保がこんなことをやってのけたのです。
 これをもってしても、外征派対内治派という構図が、いかにまやかしであったかが分かることでしょう。
 
 いつの間にか歴史の通説において、西郷を征韓論の首魁と決め付けるようになったのは、大久保らが自分らの正当性
 を主張するがゆえのまやかしであったのです。
 
 また、その他にも色々な理由があるのですが、それは後日テーマ随筆で取り上げていきたいと思います。

http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/


−引用終わり−


上野近くさんの投稿へのレス
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/203.html
投稿者 リーマン 日時 2004 年 1 月 07 日 00:47:00:FagqpUDXKcu9o
 
 

“上野近く”さん始めまして

わざわざ、私の他愛のない質問に丁寧なご回答をいただきありがとうございます。
また、由来掲示物の本文はわざわざ上野公園に行って手書きで書き写してきてくださったものでしょうか。そうだとすれば、重ねてお礼申し上げます。(雑談板の版が変わっていたためレスを拝見しておらずレスが遅れました。)

そして、その由来掲示物本文の中身にもびっくりしました。この掲示物の文章は活字では本邦初公開なのではないでしょうか。

おそらくはお気づきの通り、この文章は、この銅像を訪れる人に向けて書かれたものであると同時に、西郷さんの御霊に対してささげている文章でもあります。
西郷さんの御霊が怨霊とならないように、「現世の人間は、キチンとあなたのことを理解していますよ。」というメッセージであるかのようです。

また、このような西郷さんに向けられた言葉が、銅像が建立されてから100年も経たなければ明らかにされない(出来ない)という事実にも重たいものがあるように思われます。

一方で、この文章の最後の段落である
「西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお敬慕される所以は実にここにあるのである。 」
の部分には、欲をいえば不満をもたざるを得ません。

「敬天愛人をとなえた仁者だったから日本人に愛されている? どうしてそんな奥歯にモノの挟まったような言い方するの? 単刀直入に、(日本が外国の植民地になることから救うべく自分の命を人柱にしてまで戦ったから敬慕されている。)ってはっきりいいなよ。」〜と突っ込みを入れたくなってしまいます。

西郷さんを慰霊するためには本当のことを書かなければならないけれども、種々の事情から全ての本当のことをしゃべるわけにはいかず、ほんのちょっぴりのウソ(ごまかし)とホントを巧みに混ぜて文章を練り上げる、という手法は、法隆寺の釈迦三尊像の光背文が書かれた昔から連綿と続くものであるに違いありません。
(小室直樹が、将来田中角栄の神社ができるだろう、とどこかで書いていましたが、 その際の神社由来の作成にあたっては、西郷さんの銅像の例が参考にされるでのしょうね。)

上記のような内容で由来掲示物を書き直すためには、日本が真に独立し現在の国家体制が様変わりとなる時代まで更に100年ぐらい待つ必要があるのかもしれません。


尚、前回の投稿で私はこの銅像の建立時期を日露戦争後と書きましたが、上野近くさんの投稿により、日露戦争前であることが判明しましたので、訂正させていただきます。


追伸
西郷さんの銅像の向いている方角は、南よりちょっと東ということでいいようですね。
やはりこの方角しかなかったように思います。

皇居にまっすぐ向かわせるのは、なんだか睨まれているようで怖いし、かといって後ろを向かせて立たせるのも、西郷さんの顔が見えないので不安で、これまた怖い。
さりげなく斜め横を向いているぐらいが一番安心してみていられる。
また、上野という場所も皇居との距離(遠くも近くもない)を考えると適切である。

つまらない話のようですが、当時の元勲たちは結構真剣に検討したのではないか、と思います。


参考:“上野近く”さん投稿
敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/866.html
西郷隆盛と征韓論 教科書と銅像由来の違い
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/868.html


支配の秘訣は「隠された第3項」となること−暗殺のドミノ倒しと分断統治
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/219.html
投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 1 月 07 日 21:44:10:xnvpUXgHxuDw6
   


(回答先: 上野近くさんの投稿へのレス 投稿者 リーマン 日時 2004 年 1 月 07 日 00:47:00)


支配の秘訣は「隠された第3項」となること−暗殺のドミノ倒しと分断統治

リーマンさん。 あけましてあめでとうございます。
年末年始は不在でして失礼いたしました。
民俗学の本に出てくるような山奥におりました。

関連投稿
全く同感です
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/145.html
投稿者 リーマン 日時 2003 年 10 月 27 日 21:43:08:FagqpUDXKcu9o
被統治者に真実の像を結ばせないこと
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/676.html
投稿者 リーマン 日時 2003 年 12 月 26 日 08:04:45:FagqpUDXKcu9o
敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/866.html
投稿者 上野近く
西郷隆盛を知らない我々は自分の真の姿も見えないという証拠
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/744.html

リーマンさんの見方は見事なものです。
もう性感帯が残っていません。
私は幕末明治時代関係から引退させていただこうかと思います。
(もともとそんなに詳しくないので。 こういう詳しい方の多い分野で投稿するのは恥ずかしい)。

これで終わるのも何なので、雑感ということで

「悪辣イギリス人」(人の良いケルト人やブリテン原住民のことではないよ)のやり方は,
「隠された第3項」
となることです。

世の中にはいつも多くの争いごとがあります。
当事者は普通は2つに分かれます。
ここに仲裁者が現れて紛争を仲裁することに成功すると、仲裁者は「顕在化した第3項)だということができます。
(弁証法と関係あるかどうかは存じませんが、こういう「第3項」を析出する歴史過程のことをいいたかったのでは?)

紛争のネタがあるときに、裏から手を回して、表に出ないように両方をけしかけ、
両方を消耗させることで実効支配を貫徹するというやり方。
これを「隠された第3項」と呼びたいと思います。

このような単純な(裏)弁証法みたいな理屈で動いているようです。
この観点からもう一度歴史を見てましょう。

坂本龍馬暗殺については幾つもの説があるそうです。
門外漢の私が実証的に物を言えるような分野ではありません。

あえてその上で言いますと、西郷黒幕説に魅力を感じます(多数説でも定説でもないはずです)。
竜馬は暗殺前に公武合体派に鞍替えしたそうです。
竜馬にこの線で動かれると、内戦の拡大に失敗することになると見たグラバーが、
島津を通して西郷に圧力をかけ、竜馬に暗殺させたという説ですね。

西郷は、グラバーの企みを熟知していましたが、薩摩藩は倒幕を決定していたので逆らえない。
そしで内戦を最小限にとどめる画策を行うと共に、竜馬を暗殺せざるを得なかったと。

悪辣イギリス人から見て、竜馬がなぜ暗殺されなければならなかったのかは上に書いたとおりですが、
哲学的(?)に言うと、
「国内をまとめて分断統治をしにくくする異物」
という判断を下したと見ることができます。

従って、西郷は、竜馬を暗殺しつつ、かつこれと同時に、根本的なところで竜馬の意思を引き継いだ。
だから、「すまん、これで許してくれ」、そういう声が聞こえるような気がする。
こう考えると、諸葛孔明も真っ青のとんでもない策士ということにもなる。

明治維新後、西郷が表舞台に出たがらなかったのも、何か分かるような気がします(気がするだけです)。
彼には全体の構図が明晰に見えていたからに違いない。

この後、少年時代からの大親友大久保を使って西郷を処分したというのは当たりかもしれません。
その大久保も、そして伊藤博文も順に処分されることになる。

このプロセスにどういう力学が働いているのか。

西郷は国内をまとめるだけではなく、
朝鮮との国交問題も平和的に解決してしまう可能性があった。
悪辣イギリス人はこれを絶対に許せなかった。
この理解が正しいと思います。

長州藩閥の人々は、倒幕前から上海を頻繁に訪れており、
明治時代になってからはわざわざイギリスまでご挨拶に行った。
そこで、明治政府は、近代産業を起こし、アジア全域に植民地を広げて近代産業を発展維持させるべきだという洗脳を受けて帰ってきた。

関連投稿
大日本帝国の植民地拡張サイクル
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/408.html

だからこその江華島事件なわけです。
そして大久保を使い、西郷に「征韓論」の咎を押しつけて葬り去った。

ここにも分断統治方針に対する異物である西郷を葬るべき決定的な動機があります。

このラインが大久保−伊藤暗殺へとつながっているようです。
(こう見ていくと、伊藤暗殺が本当に朝鮮民族のためになったのか、むくむくと疑問が沸いてきますが、それはまた別の機会に)


最後に、西郷銅像の碑文について。
私もこの碑文を上野公園で読みましたが、
やはり問題がありますね。

「然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上るや断固反対して、
大使派遣による平和的修交を主張し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学等を興して後年青年の育成に努めた。」

「内治優先論」というのが変です。
この直後に江華島事件でしょう。
岩倉の本音は朝鮮(武力)開国論で決まっている。
内治優先で何で軍艦持って朝鮮にいかないといけないのか分からない。


「西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、
日本の代表的偉人として今なお敬慕される所以は実にここにあるのである。」


「敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我」と征韓論。
リーマンさんのいわれるとおり、この二つの組み合わせに無理がありすぎる。

軍艦持っていって開国を迫るなんて無礼だと思わないのか?
征韓論のどこに敬天愛人の精神があるのか?

この碑文は良いのですが、一般国民はこういう無茶苦茶をなんで信じていられるのか?

答えは簡単。
「敬天愛人」は「臭い消し」にすぎない。
政治的暗殺にさらされた西郷をそのまま放置しておくと、国民に疑念が生じてくる。
言い換えると「怨霊」となる。
そこで「聖人」として称賛することで「血の臭い」を消す。
このような見え透いた謀略にだまされている国民に未来があるのか?という疑問を持ちます。

竜馬についてすら同様の疑問を感ずる。
竜馬については、薩長連合のことだけが大きくとり上げられているように思えます。
しかし、彼は最後に公武合体派になっていたのではなかったのか?
彼の構想力と説得力をもってすれば、
もっと平和的な形で明治政府を成立させる可能性があったのではないか?
これは「if」にすぎません。
しかし、彼の倒幕派の側面を強調する点に、
征韓論と似た感じの違和感を覚えます。

Re: 自分が明治時代の日本とイギリスの関係にこだわるわけ
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/254.html
投稿者 リーマン 日時 2004 年 1 月 09 日 00:17:23:FagqpUDXKcu9o
   


(回答先: 支配の秘訣は「隠された第3項」となること−暗殺のドミノ倒しと分断統治 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 1 月 07 日 21:44:10)


もう性感帯が残っていません。

えッ!オサワリなし?
でもいただいたレスは、十分晩のオカズになり、満足しています。(「両方の陣営に手を突っ込むことで、より状況を立体的に把握した中で、自分の対応を決めていく」というイギリス人の得意技についても、私も皆様にご紹介したいテーマです。)

quote
私は幕末明治時代関係から引退させていただこうかと思います。
unquote

夏頃のすみちゃんの投稿がすばらしいものであったと同時に、一方では誤解されていると感じた部分もあったので、「すみちゃんってさあ。こういうこと言いたかったんじゃない?」というつもりで補講として書いてきたものです。すみちゃんが書かないのであれば、私も書く気がしないですね。

すみちゃんも以前指摘してくれましたが、「イギリスからみていると、イギリス人が日本でやってきたことが丸見えで見えてくることがあるよ。その観点からみると、僕達が習った歴史とだいぶ違っているよ。このズレを認識し、振り返り、自分の中にとりこんでいくことが、今の日本が今後落とし込まれるであろう近未来の到来を避けるために重要な武器となりうると思うよ。」

〜ということだと思います。

更にいってしまうと、明治に行われたようなことは、政治の場だけではなく、実業(私の場合金融)の世界でも、実は現在日々進行中です。
その内容を私が書くことは業務上も差し支えがあるので、明治の時代に起きたことを例にとってご紹介申しあげている、という言い方もできると思います。(私が投稿の中で(そのときのイギリス人の気持ちがわかる、という表現をするのもそのためです。実は、現在のイギリス人たちの気持ち(企み)が分かって辟易するよ、といいたいんです。)


ところで、すでにすみちゃんの書かれた内容の補講とは若干はずれてしまった年末の投稿「円の起源」だけど、、、。金融に勤めているくせに経済知識のない私が一所懸命書いた投稿なんだけどさあ、なんかコメント頂戴よ。

そんなことでは、Intelligence系の研究所には勤められても、幼稚園の先生はできないんじゃないの。(子育てちゃんとやれてる?)

PS:今自分の投稿を読み返していたら、間違っていました。
金本位制の確立は18世紀ではなくて、19世紀です。
 

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