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日本を操る赤い糸〜田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等 第3章 引きずりこまれた日中戦争
http://www.asyura2.com/13/senkyo152/msg/382.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 8 月 11 日 17:38:59: 8rnauVNerwl2s
 

(回答先: 日本を操る赤い糸〜田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等 第2章 嵌められた日本〜張作霖事件 投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 8 月 11 日 17:36:16)

「ほそかわ・かずひこの<オピニオン・サイト>」から
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion07b.htm


第3章 引きずりこまれた日中戦争

 戦前、日本と中国が戦った戦争は、歴史的にはシナ事変といいます。近年、日中戦争といわれることが多いのですが、戦争と事変の違いは、戦争は政府が宣戦布告をした戦闘行為、事変は宣戦布告なき戦争をいいます。日本・中国とも宣戦布告をしなかったので、シナ事変といわれます。
 張作霖爆殺事件について書いたように、『マオーー誰も知らなかった毛沢東』(講談社)には、戦前の日中関係史につき、根底を揺るがすような数多くの新発見が盛り込まれています。その新発見の一つに、シナ事変の展開があります。

◆中共のスパイによって全面戦争に

 シナ事変の発端は、昭和12年7月8日、深夜に起こった盧溝橋事件です。その後、日中の全面戦争になったきっかけとなったのは、同年8月13日に起こった第2次上海事件でした。『マオ』は、この事件について、国民党の張治中という将軍が、蒋介石の命令を無視して、日本軍攻撃を指揮して起きたものであることを明らかにしていまし。張治中は、中国共産党の秘密党員であり、スパイ工作員でした。中共とコミンテルンの指令を受けた張の企てによって、日中は全面戦争へと導かれたというのです。
 当時、スターリンは、シナ大陸に駐屯している日本軍が、北上してソ連に侵攻することを防ぎたいと考えていました。それには、日本軍をシナ大陸で国民党軍と戦わせればよいと考えたのです。一方、毛沢東は、国民党軍を日本軍と戦わせながら、中国共産党の勢力を温存し、シナの奥地で勢力を拡大しようと考えていました。スターリンと毛の思惑は一致したのです。
 『マオ』によれば、これを一人で実現したのが、張治中でした。日本は、共産主義の謀略によって、泥沼のような戦争に、引きずり込まれたのだ、ということになります。

 この説の持つ重大性を理解するには、シナ事変の発端から確認する必要があります。昭和12年(1937)7月初旬から8月中旬にかけての展開を追跡しつつ、その重大性を考えてみたいと思います。
 この年7月8日、シナの盧溝橋で日中両軍の衝突事件が起こりました。第1次近衛内閣の時です。当時、日本軍がシナに駐屯していたのは、侵略のためではありません。清国は各国に対して駐兵権を認めていました。日本軍も、その駐兵権に基づいて駐屯していたのです。日本軍は国民党軍と戦う意思はなく、蒋介石も日本軍との戦いを望んでいませんでした。ところが、深夜突如として日本軍と国民党軍に不法射撃をして姿を消した者がありました。
 わが国は事件発生当初から不拡大方針をとりました。現地部隊は数度の不法射撃に対しても、7時間にわたって、一発の応射もせずに隠忍自重したのです。政府も陸軍中央も現地解決を期待して、3週間にわたり、事態の推移を注視しました。決して、中国との戦争を仕掛けたわけではない証拠です。ところが、その後の展開によって、徐々に戦争に引き込まれていってしまいます。

 歴史家の秦郁彦氏は、最初の「なぞの発砲」がシナの第29軍第3大隊第11中隊から行われたことを、第3大隊長だった金振中の回想録から突き止めました。金振中は事件から2年後、中国共産党軍に転じています。第29軍には、ほかにもかなりの中国共産党シンパが潜入していたのです。
 中国共産党は早くも事件の翌日に、日本との開戦を主張する激烈な声明を出しました。そして、蒋介石に対日開戦を強く迫っていたのです。
 今日では、「なぞの発砲」が中国共産党員によって行われたものであることが、明らかになっています。このことは、中国共産党の指導者が、自ら明らかにしていることです。

 昭和24年(1949)10月1日、中華人民共和国宣言の際、周恩来首相は誇らしげにこれを語りました。「あの時、我々の軍隊が日本軍と中国国民党軍の両方に鉄砲を撃ち込み、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨げたのが、我々に今日の栄光をもたらした起因である」と。
 また、毛沢東に次ぐナンバー2だった劉少奇(後に国家主席)は、「盧溝橋事件によって、蒋介石と日本の軍国主義を両方とも滅亡させることができた。中国軍にとってはまさに思うつぼであったのである」と演説しました。劉少奇の部下が、「なぞの発砲」を工作したことが、中国側の資料によって、わかっています。それでもなお盧溝橋事件は、日本軍が発砲したものという説を唱えている学者がいます。どちらが発砲したかわからないという説を唱える学者もいます。これでは学問の名を借りて、真実を隠し、国民を誤導するものといわざるを得ません。

 中国共産党の謀略に背後には、スターリンからの指令があったのです。盧溝橋事件の後、モスクワのコミンテルン本部は、直ちに次のような指令を発しました。(興亜院政務部『コミンテルンに関する基本資料』による) 

一、あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならない。
ニ、右目的の貫徹のため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって、支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい。
三、下層民衆階級に工作し、彼らに行動を起こさせ、国民政府として戦争開始のやむなきにたち到らしめねばならない。
四、党は対日ボイコットを全支那に拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ。
五、党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。

 毛沢東率いる中国共産党は、この指令に従って行動し、幾度も停戦協定を破りました。そして、日本側から働きかけた事変解決のための和平交渉をすべて失敗に帰さしめたのです。

◆停戦への努力が水泡に

昭和12年7月8日、盧溝橋事件の勃発後、日本政府は不拡大方針をとり、早期解決に努力しました。その最中に、同月29日、悲惨極まりない日本人虐殺事件が起こりました。通州事件です。
 この日、中国保安隊約3千名が突如、日本軍守備隊を攻撃しました。同時に、日本人居留民を襲撃しました。在留邦人385名のうち、女性、子供を含む224名が惨殺されました。ある者は耳や鼻を削がれ、女性は陰部に棒切れを挿し込まれ、あるいは生き埋めにされ、手をワイヤーロープにしばられ、つながれ、素裸にされて池に投げ込まれたのです。居留民の家屋はすべて焼かれ、家財は略奪されました。これこそ、まさに虐殺、つまりむごたらしい殺し方です。

 通州邦人虐殺事件は、シナの冀東保安隊第一、第二総隊の計画的行動であることが、中国側資料によって明らかになっています。
 邦人虐殺が報道されると、わが国の国民の憤慨は頂点に達しました。日本人がかつて知らない地獄図絵でした。「悪逆無道の支那を討つべし」という声が全国に轟々と巻き起こりました。
 しかし、それでも政府は不拡大方針を変えませんでした。昭和天皇は外交解決を希望しておられました。その御意思を体して、政府・軍部は一致協力し、中国との交渉を開始しました。
 ところが、その開始当日の8月9日、上海で大山中尉虐殺事件が発生しました。中国兵によって、大山勇夫海軍中尉と斎藤一等水兵が惨殺されたのです。この事件によって、交渉は即日中止されました。 一体、誰が何のためにこんな時に、事件を起こしたのでしょうか。なぞのまま今日まで数十年が経過しています。

 当時、日本側が用意していた和平案は、簡単に言うと満洲国だけを認めてくれれば、満洲事変以降に発生した中国における日本の権益はすべて白紙に戻す、そして共同で共産勢力の防止にあたり、経済面では両国の貿易を促進しよう、という内容でした。中国側が塘沽停戦協定で実質的に満洲国を認めていたことを考えれば、中国に対する新たな要求は何もありません。その上、日本の多くの権益を放棄するという、思い切った譲歩案でした。直前に邦人多数が虐殺された通州事件があったにも関わらず、日本側はこのような提案を用意していたのです。

 大山中尉らの惨殺の後も、なお日本側は慎重に対応しました。8月12日、岡本上海総領事の提案により、停戦協定共同委員会において、「日華双方とも、互いに相手より攻撃を受けない限り戦端を開かない旨、日華委員より双方の司令官に申し入れる」との決議を行っています。
しかし、翌13日、中国軍が攻撃を始めたのです。これが、第2次上海事変です。この時点で日本の兵力はわずか4千人でした。それに対し、中国兵は配備された者に限っても3万人にいました。この兵力差を見れば、日本が中国を侵略するどころか、在留邦人を守るのさえ困難な状況にあったことは、明らかです。

 翌14日、中国側は、自国民、外国権益に対する見境のない空爆を行い、本格的な戦争に発展していきました。その2日後、わが国は「従来とり来たれる不拡大方針を放棄し、戦時態勢上、必要なる諸般の準備対策を講ずる」という閣議決定を行いました。日本側が臨んだのではありません。事ここに至って、望まざれども戦いをせざるをえなくなったのです。

 盧溝橋事件の後、通州事件、大山中尉虐殺事件、第2次上海事変が続いたことによって、日本は泥沼の戦争に引きずり込まれていきました。決して計画的な侵攻ではないのです。事変を拡大したくなかったのです。
 東京裁判では、通州事件に関する日本側の証拠は、7割方、却下されました。大山中尉虐殺事件、無差別誤爆事件に関する証拠も多く却下されました。そんな不公平ななかで行なわれたのが、東京裁判です。しかし、現在も、東京裁判の判決が、多くの日本人の歴史観を拘束しています。
 蘆溝橋事件は、偶発的に起こったと書いている歴史書や百科事典が多くあります。これに対し、第2次上海事変については、ほとんどが日本の「侵略行為」として書いています。果たしてそうなのでしょうか。

 『マオ』は、シナ事変の展開に関する新たな事実を明らかにしています。『マオ』は、当時、日本側も蒋介石側も、衝突を望んではいませんでした。望んでいたのは、ソ連のコミンテルンと中国共産党だったというのです。
 『マオ』は、次のように書いています。「スターリンは、いずれ日本が北へ転じてソ連を攻撃するのではないかと心配していた。スターリンの狙いは、中国を利用して日本を中国の広大な内陸部におびきよせ、泥沼にひきずりこむこと、そして、それによって日本をソ連から遠ざけることだった」と。
 では、スターリンの意思はどのように、実行されたのでしょうか。その点を次に書きたいと思います。

◆スターリンの謀略を、張治中が実行

『マオ』は、日本が中国と全面戦争をするに至ったのは、スターリンの謀略によるところが大であることを明らかにしています。
 先に書いたように、盧溝橋事件の後、全面戦争に至る過程で起こった出来事の中に、大山中尉虐殺事件と第2次上海事変がありました。これらは、実はスターリンの指令を受けた張治中という中国共産党のスパイが起こしたものでした。『マオ』は、第19章「戦争拡大の陰に共産党スパイ」で、このことを詳細に記述しています。

 昭和12年7月8日、中国共産党の仕掛けによって、盧溝橋事件が起こりました。『マオ』によると、この事件後、「日本がまたたく間に華北を占領したのを見て、スターリンははっきりと脅威を感じた。強大な日本軍は、いまや、いつでも北に転じて何千キロにもおよぶ国境のどこからでもソ連を攻撃できる状況にあった。すでに前年から、スターリンは公式に日本を主要敵国とみなしていた。事態の急迫を受けて、スターリンは国民党軍の中枢で長期にわたって冬眠させておいた共産党スパイを目覚めさせ、上海で全面戦争を起こして日本を広大な中国の中心部に引きずり込むーーすなわちソ連から遠ざけるーー手を打ったものと思われる」。

 その「冬眠から目覚めたスパイ」が、張治中でした。張は、1920年代に黄埔軍官学校の教官をしていました。1925年に中国共産党に共鳴し、入党したいと、周恩来に申し出たのでした。周は張に対し、国民党の中にとどまって「ひそかに」中国共産党と合作してほしいと要請しました。そして張は中国共産党の秘密党員として、国民党軍に潜伏し、重要な地位に就くにいたったのです。1930年代半ば頃、国民党軍の南京上海防衛隊の司令官だった張は、ソ連大使館と密接な連絡を取っていたことがわかっています。

 盧溝橋事件の勃発後、「蒋介石は宣戦布告しなかった。少なくとも当面は、全面戦争を望まなかったからだ。日本側も全面戦争を望んではいなかった」。しかし、張は、日本に対して「先制攻撃」を行うよう蒋介石に進言しました。しかも、華北ではなく上海において日本軍を攻撃すべしと繰り返し迫ったのです。

 8月9日、和平交渉の開始日に、大山中尉惨殺事件を起こしたのは、誰だったのでしょうか。張治中だったのです。張が配備しておいた中国軍部隊が、大山中尉と斎藤一等兵を射殺したのです。さらに、それを大山らが先に発砲したように見せかける工作をしたのでした。
 『マオ』は、この事件については、あまり詳しく書いていないので、簡単に補足します。7月29日の通州事件の後も、日本政府は不拡大方針を変えず、中国との交渉を始めました。その当日に、大山中尉らが惨殺される事件が起こりました。事件によって、交渉は即日中止されました。交渉に当たり、日本側は思い切った譲歩案を提示しようとしていました。それを妨害したのが、中国共産党のスパイ、張治中だったのです。
 日本政府は、大山中尉虐殺事件後も、なお慎重に対応しました。8月12日には、停戦協定共同委員会で、「日華双方とも、互いに相手より攻撃を受けない限り戦端を開かない旨、日華委員より双方の司令官に申し入れる」との決議を行いました。日本側は、事態の不拡大に何度も粘り強く努力したのでした。

 ここで、再び『マオ』の記述に戻ると、14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」や海軍陸戦隊、海軍航空機に爆撃を行ったのです。これが、第2次上海事変の初めとなりました。停戦に向かっている動きに逆らうように、爆撃が行なわれたのです。
 この時、総攻撃を命じたのが、張治中でした。蒋介石は「命令を待て」と張を制したのです。待てども命令が来ないのを見た張治中は翌15日、「蒋介石を出し抜いて、日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めた、と虚偽の記者会見をおこなった。反日感情が高まり、蒋介石は追いつめられた」。
 そこで16日、「蒋介石はようやく『翌朝払暁を期して総攻撃をおこなう』と命令を出した。一日戦闘をおこなったところで、蒋介石は18日に攻撃中止を命じた。しかし、張治中は命令を無視して攻撃を拡大した。8月22日に日本側が大規模な増援部隊を投入するに至って、全面戦争は避けがたいものとなった」。

 こうして、第2次上海事変が、日中全面戦争の開始となったのです。『マオ』によると、「蒋介石も日本も上海での戦争は望んでいなかったし、計画もしていなかった」。その双方を全面戦争に引きずり込んだのが、張治中だったのです。
 張は、中国共産党のスパイであるだけでなく、中国駐在のソ連大使館付き武官のレーピンとソ連大使・ボゴモロフらを通じて、スターリンの指令を忠実に実行し成功したのです。スターリンの指令とは、日本軍に攻撃を仕掛け、日中全面戦争を引き起こせ、という指令です。

 『マオ』は書いています。
 「たった一人の冬眠スパイを使ってソ連に対する日本の脅威を交わしたのだから、これはおそらくスターリンにとって大成功の作戦だったと言えるだろう」。
 「張治中は史上最も重要な働きをしたスパイと呼んでも過言ではないだろう。ほかのスパイは大半が情報を流しただけだが、張治中は事実上たった一人で歴史の方向を変えた可能性が大きい」。

 『マオ』によると、「蒋介石が全面戦争に追い込まれたのを見て、スターリンは積極的に蒋介石の戦争続行を支援する動きに出た」。金を融資をして、航空機・戦車・大砲等の武器を売却したのです。「このあと4年間にわたってソ連は中国にとって最大の武器供給国であったのみならず、事実上唯一の重火器、大砲、航空機の供給国であった」。
 またソ連は、空軍と軍事顧問団を派遣しました。「1937年12月から1939年末までのあいだに、2000人以上のソ連軍パイロットが中国で戦闘任務につき、日本の航空機約1000機を撃墜し、日本統治下の台湾に対する爆撃までおこなった」。

 また、補足すると、アメリカは、大東亜戦争に先立って、昭和16年(1941)春、中国国民党を支援する、通称フライングタイガースと呼ばれる部隊を送っていました。彼らは民間義勇軍といわれていましたが、実は米国防総省の承認の下に集められた正規のエリート空軍部隊でした。米国は日本の真珠湾攻撃以前に、すでに対日参戦に踏み切っていたわけです。これも、宣戦布告なき攻撃でした。
 しかし、ソ連は、上記のように、そのまた3年以上も前から中国に空軍を派遣し、日本を攻撃していたのです。つまり、昭和12年末に、早くも対日参戦をしていたのです。ソ連の行動は、アメリカの先を行くものでした。スターリンによる武器・人員の派遣は、英米の援蒋政策の先例をなすものでもあったのです。
 それは、日本を中国との戦争に引きずり込むためだったのです。
 『マオ』によると、ソ連外相リトヴィノフは、フランスのブリュム副首相に「ソ連は中国と日本の戦争ができるだけ長く続くことを望んでいる」と語ったといいます。

 『マオ』は、書いています。
 「黒幕として日中全面戦争を実現させたスターリンは、共産党軍に対して積極的に戦争に関わるよう命令し、中国共産党は国民党に適切に協力して蒋介石に抗日回避の口実を一切与えないよう行動すること、とはっきり指示した」と。

 後は、スターリンが望むように、日本は中国との泥沼のような戦争に深入りしていきました。その広大な泥沼から抜け出せないうちに、アメリカとの関係が悪化し、遂に米英との無謀な戦争に突入しました。
 日本は、スターリンの謀略に、まんまと嵌められたのです。

◆汚辱の歴史は書き換えられねばならない

戦前の中国共産党の活動は、日本と国民党政府を戦わせるというスターリンの方針に基づいていました。そのことを『マオ』は克明に記しています。日中を全面戦争に引きずり込み、その戦争で国民党を弱体化させ、代わりに共産党が勢力を伸ばし、中国を共産化するという革命戦略が、そこにはありました。

 『マオ』は、次のように書いています。
 「毛沢東は、蒋介石の力を利用することなしに日本軍を中国から追い出す戦略など持ち合わせていかなかった。また、蒋介石が敗北した場合に共産党軍が日本の占領軍に対抗できるとも思っていなかった。毛沢東にとって、すべての希望はスターリンにかかっていた」
 「抗日戦争に臨む毛沢東の基本姿勢は、共産党軍の戦力を温存し勢力範囲を拡大していく一方でスターリンが動くのを待つ、というものだった」
 昭和20年、日本の敗戦と国民党軍の消耗、そしてスターリンの中国侵攻は、毛沢東に望みどおりの結果をもたらしました。毛沢東は、中国の共産化という野望を実現しました。
 『マオ』は、記します。
 「後年、毛沢東は、日本が『おおいに手を貸してくれたこと』に対して一度ならず感謝の言葉を口にしている。戦後、訪中した日本の政治家たちが過去の侵略について陳謝すると、毛沢東は、『いや、日本軍閥にむしろ感謝したいくらいですよ』、彼らが中国を広く占領してくれなかったら『われわれは現在もまだ山の中にいたでしょう』と述べたという。これこそ毛沢東の本心だ」と。
 
 『マオ』は、これまで紹介したように、20世紀の世界史の書き換えを迫るような新事実を多く掲載しています。それは、衝撃な内容です。しかし、一つ一つの事実が示すものは、まったく新しい歴史像というわけではありません。これまでにも、相当数の歴史家が、20世紀の国際関係史において、スターリンを司令塔とする国際共産主義の謀略が重大な働きをしてきたらしいことを、述べてきたからです。
 わが国の歴史を振り返る上でも、この視点を欠いてはならないのです。

 例えば、台湾人の歴史家・黄文雄氏は、『大東亜共栄圏の精神』(光文社新書)で、概略、次のように書いています。
 大東亜戦争への突入について見逃してはならないのは、共産主義という巨大な潮流との戦いであったという視点である。明治維新以来、大日本帝国は、はじめ恐露から出発し、日露戦争によりクライマックスにたっした。やがてロシア革命後、『赤化の脅威』という新たな世界情勢の変化により、『防共』なるテーマを含む軍事とイデオロギーが一体となる脅威論が醸成され、『赤化ソ連』との軍事的対決が至上の目標となる。
 日露戦争以後の日本の国家戦略は、主に対ソ戦争を想定して、日本陸軍主力も関東軍に投入し、対ソ戦にそなえていた。満州事変の背景にも、コミンテルンとの戦いがあり、日中戦争の背後にも共産主義の拡大から東アジアを守るという問題意識があった。大東亜戦争にいたるまでの日米交渉と対決にも、中国における防共駐兵の争点があった、と。
 
 最後に、上記の視点を参考にした私の見方を簡単に書いて結びとしたいと思います。
 1930年代、日本はスターリンの謀略に嵌められ、中国との戦争に引きずり込まれました。日中が全面戦争に進むと、英米は蒋介石を支援し、日本には経済圧迫を加えて、シナの抗日戦意をあおり、日中の抗争を長引かせ、泥沼化させました。
 ソ連は中国に戦闘機や爆撃機を与え、軍事顧問団ととともにパイロットを派遣していました。アメリカも中立を装っていながら、軍事顧問団に加え、空軍パイロットを送っていました。これは中立国としては絶対に許されない行為でした。白人諸国は、東洋の黄色人種、日本と中国を戦わせ、アジアでの権益を拡大しようとしていたのです。日本も中国も、この白色人種の魂胆を見抜いて、日中が堅く提携していくべきでした。しかし、それを実行できる指導者ともに欠いていました。

 日本は中国との戦争を解決できないまま、アメリカとの関係が悪化し、遂に米英との無謀な戦争に突入しました。その結果、わが国は開国以来ない大敗を喫しました。この過程で、ソ連の謀略がわが国の進路を狂わせ、日本を破滅へと導く大きな作用をしたのです。

 ソ連の世界共産主義革命戦略の基本方針は、レーニン以来、「帝国主義戦争を革命へ」であったと私は考えています。
戦争によって資本主義国が相打ち、相弱ることは、革命運動に有利な状況を生み出します。この戦略のもと、スターリンは、日中だけでなく、日米をも戦わせようとしていました。W・ビュリット駐ソ大使は、早くも昭和10年(1935)7月、「アメリカを日本との戦争に引き込むのがソ連政府の心からの願望」だと米国政府に知らせています。しかし、ルーズベルト大統領は、スターリンの遠大なスケールの謀略を見抜くことが出来ませんでした。
 ルーズベルトは、ソ連・中国の捏造した『田中上奏文』を真に受けて日本を敵視していました。昭和14年(1941)9月、欧州でナチス・ドイツが電撃的な進撃を開始すると、ルーズベルトは欧州への参戦を願っていました。しかし、選挙では、不参戦を公約しています。そこで日本を挑発して先に手を出させ、それを口実に大戦に参入しようとしていたのです。
この思惑はスターリンの狙いと一致していました。ソ連は大統領の側近にスパイやエージェントをつくって工作し、ハル・ノートの作成にも一部関与しました。スターリンは、アメリカを早く太平洋に誘い出し、力を分散させることで、戦後の欧州やアジアの共産化を狙っていたのでしょう。

 スターリンは、世界革命戦略の中で、日本の共産化を非常に重視していました。スターリンの意思を受けたゾルゲと尾崎秀美は、日本で工作活動を行い、日本軍を対ソ北進から南進政策に転じせしめました。これによって、スターリンは、ドイツと日本による挟み撃ちを免れました。それと同時に、日米を激突させることにも成功したのです。
日本の南進は、アメリカの強い反発を招きました。石油の対日輸出禁止は、日本の喉元を締め上げるものでした。ハル・ノートを突きつけられた日本は、これへの対処を誤り、真珠湾攻撃へと突き進みました。

昭和20年(1945)8月9日、日本が原爆投下によって瀕死の状態に陥ったところを見計い、スターリンは日ソ立条約を一方的に破棄して、満州・樺太・千島に侵攻しました。わが国は、辛くも北海道または日本の東部を軍事占領されることは、避けられました。しかし、ソ連は、アメリカによる自由化・民主化に乗じて、共産主義を日本に浸透することに成功しました。日本人の精神は、敗戦による自信喪失と、アメリカ・ソ連から流入した外国思想によって、分裂状態に陥りました。

 大戦後、スターリンは、中国で大成功を収めました。ソ連は満洲から華北にまで侵攻し、中国共産党に武器・人員を直接支援し、共産党軍を国民党軍に勝利せしめました。
一方、アメリカは、日本には勝利したものの、大陸では中国の共産化を許してしまいました。東アジアでの地域支配において、アメリカはソ連より大きく後退しました。欧州でも、ドイツの半分と東ヨーロッパをソ連に共産化されてしまったのです。

こうしてソ連は、20世紀半ばに世界の約半分を共産化しました。さらに世界を併呑するかに見えました。しかし、共産主義は、本来矛盾に満ちた思想です。その矛盾は増大を続け、遂にロシア革命の70年後に、ソ連は崩壊しました。

ソ連の崩壊後も、共産主義そのものは死んではいません。スターリンがアジアに産み落とした共産中国は、21世紀のこの今も健在です。そして、共産中国は、日本の、アメリカの、アジアの、そして世界の脅威として、ますますその不気味な力を強めています。
共産中国は、日中戦争の中から誕生しました。日本は、中国共産党と、その背後にいるスターリンによって、戦争に引きずりこまれたのでした。こうした観点から歴史の総点検をする必要があります。
また、共産中国の由来と将来を考えることは、現代世界の由来と将来を考えることにつながります。中国を革命へと導き、今日の軍国主義的全体主義国家を建設した最高指導者が、毛沢東です。『マオ』の主題は、この毛沢東の人物・生涯を描くことですが、同時に、共産主義の謀略が現代世界にいかに多くの災厄をもたらしたかを、膨大な資料と多数のインタビューをもとに明らかにしています。本書の内容は、発見と示唆に富んでおり、興味の尽きないものがあります。しかし、その点に触れることは、本稿の目的ではありません。『マオ』によって垣間見られた日中戦争の真相について述べるだけにとめることにします。


※第二次世界大戦と日本の戦前戦後政治、日本のスパイ勢力と左翼

 


 

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