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日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア
http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 8 月 06 日 21:42:25: igsppGRN/E9PQ
 

5日、台海網は日本の天皇がどこから来たのかについて報じた。写真は皇居。


日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア
http://www.recordchina.co.jp/a115854.html
2015年8月6日(木) 20時7分


2015年8月5日、台海網は日本の天皇がどこから来たのかについて報じた。

日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か。あるいはアジアのどこかの遊牧民か。日本の皇室は長期に渡って神格化されてきたため、皇室に関する資料は完全なものがない。天皇の“出自”にはさまざまな議論があるが、謎のままである。

日本の歴史においても天皇の祖先の記載ははっきりしない。初代の神武天皇は天照大御神の子孫で、紀元前660年に即位したとされているが、実際に文献が登場するのは第10代の崇神天皇からである。日本の初期の歴史に空白があることから、日本や海外の歴史家の間では天皇の祖先は現地人ではなく、中国人あるいは朝鮮人だとする見方が有力だ。中国にも、「神武天皇は秦の始皇帝が派遣した徐福だ」とする説が存在する。

中国大陸と朝鮮半島は日本から近いため、古代には多くの渡来人が日本に渡り、今日の日本人を形成している。1970年代に日本の学者である鳥越憲三郎氏は、日本人は雲南から来たと指摘している。また、英紙タイムズはかつて日本政府が学者の天皇陵に対する調査を厳しく禁じた理由について、「天皇が中国や朝鮮半島から来たという証拠が見つかるのを恐れたため」と報じている。(翻訳・編集/北田)


 

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コメント
 
1. 2015年8月06日 22:52:21 : YjDk0WtHiY
桓武天皇のお母さんは百済系なんだそうだ。
今上天皇が仰ったらしい。ウヨは無視したらしい。
ジョフクは、不老不死の薬を探しに来たんだったか。その頃から日本人は長生きで有名だったのか。
雲南起源説は、納豆食べるからか。今はそうでもないが、昔は関西では納豆食わなかったらしいよ。

2. 2015年8月07日 10:01:51 : GeeXtTQITg
桓武帝の母君は高野新笠と仰る百済系の方で、記録に残っているので無視しようも無い事実である。
但し、出自が卑しい(百済系だから)ので桓武帝もなかなか親王宣下が受けられなかった。
いろいろな政治的思惑があり最終的には帝に昇られたから、有能なお方ではあったのだろう。
そんなことは別にしても、縄文期から土着の人が居り、南洋諸島や大陸や半島やシベリア辺りからも渡来したから、ある意味では多民族国家であるとも言える。
だから中国(と言っても北と南では大違いだが)の遺伝子もはいっているだろうし、南洋諸島の遺伝子も混じっているだろう。
日本という土地を愛して、日本の文化や伝統を大事にしようとする限りは、誰でも日本人と名乗れる。そういう国なんだ。

3. 2015年8月07日 10:13:51 : b5JdkWvGxs

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、昭和天皇に質問したそうだ。
天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、

天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、 風習がとても似た村があると指摘されていて、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
知らない方が良いこともあるのだ と答えたという研究者の話が伝わっています。

因みに、朝鮮の支配階級は漢民族(Y-DNA はO3)のなので当然 天皇一族も漢民族なのですね


弥生人のY-DNAは O2

漢民族ののY-DNAは O3

天皇の様な朝鮮から来た漢人のY-DNAも O3

朝鮮の支配階級のY-DNAも O3

縄文人のY-DNAは D2


要するに、日本・朝鮮は漢民族が支配している中国の領土という事で間違いない
です

天皇一族は一重まぶたなのですが、それは黄砂適応と言って華北に長く住んでいた中国人の特徴)なのです:


昭和天皇
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CIABEIkeahUKEwiPjLjzn4fHAhXDraYKHfBmBuU&biw=970&bih=904

今上天皇
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E6%98%8E%E4%BB%81&lr=lang_ja&hl=ja&biw=970&bih=904&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&sqi=2&ved=0CHwQiR5qFQoTCL7MtIygh8cCFUcipgod9uELlA

つまり 天皇一族は朝鮮で権力闘争に負けて日本に逃げてきた負け犬 漢民族

大陸で負け犬でも、縄文人や弥生人はまともな武器を持っていなかったので、日本では勝ち組になれたんですね。



4. 2015年8月07日 11:56:28 : YjDk0WtHiY
日本人は大陸より複雑に混血してるって話もありますね。
トックですか。
そういえば、お米は大陸から来た他所のものだからって、正月に餅ではなくサトイモお供えしたり食べたりしてた地域があるとか。昔きいたことが。
もち米というのは中国の雲南省あたりが特産地。シーサンパンナとか。
中国と言ってもあのあたりはほとんどタイ・ラオス。
雲南はミャンマーとも接し、反対側の麗江などは標高も高くチベット仏教系で、何だかんだ、九割が漢族と言われる中国にあって九割が少数民族という地域です。

もちろん好みもあるでしょうけど、南より北の方が見た目オトコマエ、らしいです、漢族。南は目がパッチリして鼻が低くて地黒。背も低い。
北は、昔で言う「しょう油顔」で。背が高い。
広東語ってまったくわかりませんけど、響きが東南アジアっぽくないですか。
やっぷんやん

そういえば百済は上質の鉄が取れたとか言ってたような。ドラマでww


5. 2015年8月07日 12:50:52 : nBbJNDnPdg
02、当時、百済は日本より文化文明の発達した国だったから卑しい出自の扱いはされなかったのではないかと思う。
昔は皆殺しが主流だったから大陸で王朝が滅びるたび王族や貴族だけでなく僧侶や技術者が日本に逃げ延びてきて今の日本の礎を築いたのではないか。そういう意味では日本は古代中国や古代朝鮮のタイムカプセルのようなものかもしれないな。

6. 2015年8月07日 12:54:31 : nBbJNDnPdg
最後に。
天皇は日本の象徴であることはゆるぎない。どこからきたかはもはやどうでもいい話だ。

7. 2015年8月07日 13:03:39 : b5JdkWvGxs
天皇はチョンで日本人じゃないよ

天皇一族の様な朝鮮から来た帰化人は戦前までは日本人とは混血していない


8. 2015年8月08日 07:50:06 : GeeXtTQITg
>05

よく言われるように百済(クン-ナラ説も)が本家なら、百済出自の皇子は優遇される筈だ。また斉明帝の頃は百済から王子を質として預かっていたこともある。
百済王家と大和朝との関係は深かったと思うが、桓武帝の頃には少なくとも対等の関係ではなかったのだろう。


9. 2015年8月08日 08:54:22 : 62QaAmZ1Pg

敗戦後 国民への慰藉と激励の意味で

昭和二十一年から数年にわたって昭和天皇と香淳皇后は

全国四十六都道府県を地方行幸啓した

その際の写真で忘れられないものがある

 昭和天皇は普通の背広姿だが

 香淳皇后は一見すると和装コートのような

     しかし胸高にしめた細い帯と広がった裾など 

  チマチョゴリとしか思えない服装をしている 一葉の写真がある

   敗戦から七十年を経た昨今はほとんど見かけないが

      当時の写真集には収められている

          興味あるひとは探して欲しい


10. 2015年8月08日 09:06:44 : b5JdkWvGxs
>昭和二十一年から数年にわたって昭和天皇と香淳皇后は全国四十六都道府県を地方行幸啓した


天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。

戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm

昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。

ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。

だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


11. 2015年8月08日 09:10:43 : b5JdkWvGxs
昭和天皇の冷酷さ、あくどさ、平気で嘘を付く性格は漢民族特有のものですね。

日本人なら恥を知っていますから。


12. 2015年8月08日 09:27:12 : b5JdkWvGxs
>昭和二十一年から数年にわたって昭和天皇と香淳皇后は全国四十六都道府県を地方行幸啓した

その際の写真で忘れられないものがある

 昭和天皇は普通の背広姿だが香淳皇后は一見すると和装コートのような しかし胸高にしめた細い帯と広がった裾などチマチョゴリとしか思えない服装をしている一葉の写真がある

皇后の百済人の服装
http://fujipeko.exblog.jp/24340446

香淳皇后の服装は和服ではない

天皇一族は2000年前には帯方郡の近くに住んでいた漢民族なので、当時の言葉や衣装が皇室に代々伝わっているんでしょうね。


13. 2015年8月09日 07:45:59 : GeeXtTQITg
>12

あまり宮中のことをご存知無いようだから申し上げますが、あのお写真は「袿袴」と言うお衣装で、明治になって洋装の要素を取り入れて制定されたものです。
平たく言えば、今でも卒業式で女学生が着る「着物+袴」とほぼ同じです。
胸高に帯を締めるのは江戸期以降の女性の「和服」の基本ですから、何も可笑しいものではありませんし、そこだけを取り上げて着物とチマチョゴリが同系の衣装であるとも言えません。
少なくともチマチョゴリには身体に巻きつける「帯」がないという点で、決定的に和服とは構造が違います。


14. 2015年8月09日 11:19:56 : b5JdkWvGxs
>あのお写真は「袿袴」と言うお衣装で、明治になって洋装の要素を取り入れて制定されたものです。


袿袴は元々平安時代の貴族が着たものですね。

皇室では平安初期まで中国語で会話して、漢文で文書を書いていたと言われていて
衣服も朝鮮支配層の漢民族と同じものだった可能性が高いですね:

袿袴 - Google 画像検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E8%A2%BF%E8%A2%B4&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CBwQsARqFQoTCKbc8JP2mscCFUwblAod998LXg&biw=967&bih=904

袿袴【けいこ】

〈ちきはかまとも。袿(うちき)に袴(はかま)をつけた姿。平安時代には貴族の女性の一般の姿であったが,次第に正装視されるようになった。小袖(こそで)の発達以後は小袿・単(ひとえ)・袴・小袖で構成され,明治以後には女官その他宮中の諸祭儀に参列する女性の服制となった。
https://kotobank.jp/word/%E8%A2%BF%E8%A2%B4-440326

袿(うちき、うちぎ)は公家装束を構成する着物の一つである。主に女性の衣だが、男性が中着として着用する場合もある。


平安時代

元は「袿衣」と書き、家庭着として主に夜に着用されていたものが、国風文化の発達により、袖や身丈が長大化、この時代に全身着として重要な役割を果たす着物となる。

貴族の通常生活では単、緋袴を穿き、上に数枚の袿を重ねる袿姿が平服であった。次第に肌着として小袖が着られるようになると、もともとは肌着であった単が形式的になり、袿と共に色彩の配色美も兼ねる性格を持つようになっていった。

袿の役割は重ね着により豪華さを演出する重量感、衿や裾に襲の色目でアクセントを加えることであり、季節や状況によって様々なバリエーションが生まれた。

一方、十二単を着るほどでもなく、平服でも失礼な場合の時に着用する着物として小袿なる物が発明される。これを着用するときには裳をつけない。高位の女性しか着用できない着物であった。ちなみに上記で書いた中陪をはさむ調製はこの小袿から始められた。


明治時代以降

1950年(昭和25年)、 婚礼で袿袴を着用した孝宮和子内親王(左端)
天皇を中心とした中央集権の復活により、宮中に参内するときの服飾は袿を着用するよう定められた。基本的な規定として「白い小袖に朱の切袴(くるぶしまでの短い袴)、単の上に規定に従った袿を着用し、外出の際は腰でたくし上げて帯で固定し着用する」という物である。この格好を袿袴装束(けいこしょうぞく)という。

明治時代の貴族女性はこれが礼装であり、鹿鳴館にもこの格好で出席した女性が多かったらしい。しかし、明治政府の方針は「更なる洋装化」であり、次第に皇后への拝謁など特殊な条件下でしか着用されなくなっていく。

戦後は皇族女性が特別な行事(大嘗祭、婚礼など)の際に袿袴を着用するが、その機会は非常に少ない。神社本庁で規定された女性神職の正装はこの「袿袴装束」が基になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%BF


15. 2015年8月12日 07:10:08 : GeeXtTQITg
>13

ググッて調べたらしいから褒めてあげましょう。それを見てもまだチマチョゴリだと思いますか?
主観の相違なんでしょうから仕方ないですね。あまり他所で吹聴して嗤われないよう、老婆心ながら申し添えます。
なお、チマチョゴリについては次のサイトに詳しいですから、袿袴と似ているか再度確認されるとよいと思います。

http://jeogori.web.fc2.com/


16. 2018年11月14日 07:34:11 : vt8NoLEn3I : UQ7ctF3twVE[3] 報告
なぜ天皇が自慢気に百済由来を言ったか?
百済王家はユダ王家と同祖で、
つまり世界の支配層のロスチャと同族だから。
ただ現皇統のDNAはロスチャから同じと認められなかった。

多くの古来からの源平藤橘の血筋を無視したのが現皇統。
欧米ではフェイクエンペラーと言われているが、
日本人が考えるのを避けていた問題の明治維新で皇統が南朝に戻ったが、
DNA的(慈悲が埋め込まれているはず)に正しかったのか?

コアの宗教(神の絶対則)のこだわりが現皇統に見られない、
民への慈悲についても戦争責任を考えると、
元寇勝利以後大陸進出を止めた平氏鎌倉北条氏とは違い無い。
個人の見解だが明治帝は男系でなかったと思っている。

安倍が世界外交で異常に丁寧に扱ってもらっていることから分かるように、
日本は古代ユダヤと血縁がある。
宗教的にも神道=ユダヤ教、キリスト教=仏教(景教)と対応し、
サミットで伊勢参りをG7首脳が参ったことからも世界の支配層には認知されいる。
権力の権威付けに重要な宗教の一派の長の皇統がDNA的に正しいかは一番の問題なので、
イルミナティ内のユダ族王家ロスチャの血筋と比べられて正されるでしょう。
新天皇になる挨拶にロスチャ本拠地フランスへ行った後、
皇居上空を超低空でエアフランスに飛ばれる所を見るとDNAが正しくはなかったようだが。。

整理すると、平民と皇孫の2階層が外国ではあるがユダ族王家ロスチャは慈悲の心で運営する努力はしている。
イルミのユダ族ロスチャ以外のアメリカメイソンに戦後支配された日本は、
フェイクエンペラーとその一族のフェイク皇族を正せず、
源平藤橘を無視し社会のコアがないため朝鮮系のステルス侵略で長期停滞にいる。
これを正すには社会のコアに源平藤橘特に平氏系(百済ユダ王族流)を戻す必要がある。

平というかユダ王族系がなぜ王に選ばれたかの自説なのですが。
ダビデ王は初代のイスラエルの王ではない。
10支族からでている。
初代は暴政をしてクビ、ラビ元老からダビデが選ばれた、なぜか、
人々の気持ちが分かる感性のDNAが優れていた。
人の気持がわかると慈悲がなせる。
感性が強いと受け身の性格になる、私が私がと自我を出すことがない、
ユダ王族子孫ロスチャを見ればわかるが私が私がということはない。
感性が強いDNAのネガティブな面はハゲること、王冠はハゲ隠し、
鎌倉時代まで日本人は烏帽子を被っていたのもハゲ隠し、
しかし烏帽子百済系が社会のコアにいた鎌倉時代までがメイン、
それ以後は下克上になり日本がおかしくなった転換点は
源(イスラエル10支族)平(ユダ2支族)政権の崩壊。
現皇統は禿げてない、ロスチャがどう思うか、冗談でなく。
転換点はまったく、第三神殿建設、ロスチャ子分トランプが
10支族メイソンのアメリカの大統領、
何も無いはずが無いですね。
安倍晋三(李晋三)が日本人でない出自を隠してトランプに取り入っているが、
ぶち壊しにしないように祈ります。
メタニヤフとの会食で靴の食器を出されていたのでバレるのは時間の問題でしょうが。

17. 中川隆[-13588] koaQ7Jey 2018年11月15日 05:07:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20671] 報告

日本人の源流考 2018/10/18
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が 間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


0.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。


・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたる
 まで狩猟採集の原始生活から前進せず、ホモエレクトスの生活レベルのままだったの
 か?

・出アフリカを決行した結果、分化したシ−ラカンス古代4亜型の中でY-DNA「D」、
 Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸
 島、アフリカなどの僻地に残った集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩
 猟採集から抜け出せなかったのか?

・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸
 でホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると
 出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。


2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens=解剖学的現生人類)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」は かなり遅れて進化したと考えられていた様だが、最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、 8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、 原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。

Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化したが、

  この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、Y-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化した。

  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

  この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデル
  タール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではない プロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、 ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。


3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」と「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級として ネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)
  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。


4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族で100%の頻度である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。


5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。


6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。


  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、


  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

  これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも 遺伝子が繋がっているのだから。恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。


8.余談

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけです。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた Y-DNA「O2」(旧O3)がもたらしてきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が近代までに確立「出来なかったか/出来たか」の違いなのでしょう。)


9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系−弥生系(長江文明系)−武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。

  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう。

  当分の間はY-DNA「R1b」のアメリカとY-DNA「O2」(旧「O3」)の中国が覇権争いを続けるでしょうが、中国も日本もアメリカに 対する輸出で生産性を上げてきたので、アメリカにとって代わることは逆に自滅に向かうためまず不可能でしょう。
  非常に残念ですが、現代世界の構図は、世界の警察官であり輸入超大国のアメリカが太陽として中心に存在し、世界中から生産物を 買いまくり、そのおかげでアメリカの周りに各国が衛星のように回っていられるだけなのです。 水星、金星はEU諸国、地球は日本、火星はロシア、木星が中国、土星がインドという感じでしょうか。

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空想談

  このコラムの項目2で「北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。」と書いたのですが、 布団に入ってウトウトし始めた時に、突然、”空想の語り部”が降臨してきて グチュグチュと御託言を言い残していったので、忘れないうちに書き留めます。

  何故、ヒトを含む類人猿の進化ツリー前半のギボン(テナガザル)やオランウータンは(東南)アジアにしか棲息しておらず、 進化ツリー後半のゴリラやチンパンジーはアフリカにしか棲息していないのか?

  ヒトがアフリカで発祥したのはチンパンジーとの共通の祖先がアフリカにしかいなかったからなのは極めて明白ですが、 では何故共通の祖先はアジアにはいなかったのか?何故アフリカにしかいなかったのか? この疑問に関する納得できる説明を探してみたのですが、今のところ全く見つかってはいません。

  今のところの進化ツリーでは進化の後半で、ゴリラの祖先になった類人猿はアジアからアフリカに大移動をしたことになります。 要するに、ヒトの遠い源郷はアジアだったから、人は出アフリカしてユーラシア大陸を東に進んだと言うことになります。 つまりサケやウナギが戻ってくるのと一緒で、源郷戻りが遺伝子に埋め込まれているのではないか!? では逆に、なぜ類人猿はアジアからアフリカに移動をしたのか?も依然、極めて大きな謎です。

  とにかく解剖学的現代ヒト族は宿命に導かれ出アフリカし、中東あたりで先輩ヒト族の中東型ネアンデルタール人と交雑し分化し、 インド洋の沿岸に沿って東のアジアを目指し大移動を決行し、古代遺伝子Y-DNA「C」と「D」はアジアに到達しそこで棲息をしてきたわけです。 ところが別の古代遺伝子Y-DNA「E」は、せっかく出アフリカしたにも関わらずまたアフリカに出戻ってしまった。 ということはアフリカに進むことも遺伝子に組み込まれているのかもしれない。

  では残りの古代遺伝子Y-DNA「F」は、なぜインド亜大陸に留まり全新興遺伝子の親遺伝子となったのだろうか? アフリカ大陸でヒト族がチンパンジーとの共通の祖先から分化したように、インド亜大陸で新興遺伝子の共通の祖先の古代遺伝子「F」から 分化したのでしょう、それを実行した最も考えられる要因はアジア型ネアンデルタール人との交雑でしょう。

  インド亜大陸はアフリカ大陸と同様の、進化や分化を後押しするパワーがあるのではないか?誰か研究してくれませんかね!!!!!。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1


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18. 中川隆[-13587] koaQ7Jey 2018年11月15日 05:12:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20671] 報告
歴史REAL日本人の起源 (洋泉社MOOK 歴史REAL) ムック – 2018/6/5
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%B4%8B%E6%B3%89%E7%A4%BEMOOK-%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL/dp/4800314739

『洋泉社ムック歴史REAL 日本人の起源』 2018/07/24
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


 洋泉社より2018年6月に刊行されました。本書はおもに、弥生時代までの古代DNA研究・縄文時代研究・弥生時代研究の解説で構成されています。それぞれの執筆者は篠田謙一・山田康弘・藤尾慎一郎の各氏で、期待できそうなので購入しましたが、期待通りに最近の研究成果を知ることができました。とくに、弥生時代までの古代DNA研究の解説では、私が不勉強なため、多くの知見を新たに得ることができ、たいへん有益でした。以下、本書で注目した見解について、備忘録的に取り上げていきます。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析から、縄文人にはハプログループM7aとN9bが広範囲で見つかっており、現代ではほぼ日本人にしか見られません。ただ、どちらも出現(分岐)年代が3万〜2万年前頃なので、38000年前頃に日本列島に進出してきた人類と縄文人とは直接的な祖先-子孫関係にはなかった可能性が指摘されています。もっとも、あくまでもmtDNA解析に基づく推測ですから、38000年前頃の日本列島の人類集団と縄文人とが、もちろんその後の流入による遺伝的影響はあるとしても、直接的な祖先-子孫関係にある可能性も考えられます。

 縄文人のmtDNA解析数も蓄積されて、地域差が見えてくるようになりました。琉球列島を含む関西以西ではM7aが卓越するのにたいして、北海道・東北ではN9bが多数を占めています。また、サブグループまで分類すると、関西以西と東北・北海道では、M7aでもそれぞれ異なるグループが分布しています。そのため本書では、地域間の人的交流が広範囲に及ぶものではなかったかもしれない、と指摘されています。もっとも、後述するように、遺伝的交流は盛んではなくとも、交易などによる文化的交流はある程度以上活発だった可能性もじゅうぶんあるとは思います。

 また、現代日本人では、N9bが2%程度で、7%程度存在するM7aも、縄文時代の関西以西のサブグループで大半を占めることから、現代日本人に継承されている縄文人のDNAは、おもに西日本の縄文人に由来するのかもしれません。そうだとすると、弥生時代最初期にユーラシア大陸から九州北部に渡来した集団が在地の縄文人と混合し、東進していったために、現代日本人に占める縄文人の遺伝的影響は、西日本系の方が東日本系より高くなったのかもしれない、と本書は推測しています。

 縄文人のゲノム解析も進められており、最近になって、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3800〜3500年前頃の女性のゲノムは、現代人とほぼ同じ精度で解析されたそうです。平均網羅率は明示されていませんでしたが、30倍以上ということでしょうか。この女性の血液型はA型で、耳垢は湿式、切歯はシャベル状ではなく、巻き毛だったことが明らかになっています。これらの表現型はおおむね予想通りでしたが、目の虹彩は茶色で、人骨からの推測通り、身長が低くなる傾向を有する遺伝子が確認されました。

 この女性の両親は近い血縁関係にあり、両親の近縁関係の程度はアマゾンの先住民と同じくらいと推測されています。船泊遺跡からは、新潟県の糸魚川沿いの翡翠や、シベリアで発見されたものと類似した貝製装飾品が発見されていますが、婚姻圏は狭かったのではないか、と本書は推測しています。ただ、こうした狭い婚姻関係が一般的だったのか否かは、もっと縄文人のゲノム解析数が蓄積されないと、判断が難しいように思います。

 船泊遺跡の女性のゲノム解析の結果、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の縄文人と同様に

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_3.html


船泊縄文人も現代の東アジア集団とは大きく離れている、と明らかになりました。現代人の集団で船泊縄文人とある程度遺伝的に近縁性を示すのは、アイヌ・琉球・「本土」日本・台湾や沿海州などユーラシア東部圏沿岸地域の先住民でした。本書は、東南アジアからの初期拡散により北上した集団のなかでユーラシア東部圏沿岸地域に居住した人々が融合し、縄文人が形成されたのではないか、と推測していますが、確証するにはユーラシア大陸の古代DNA解析が必要だ、と指摘しています。

 船泊遺跡では縄文時代の男性遺骸も発見されており、ゲノムが部分的に解析されているそうです。この男性もゲノムが解析された女性も、海獣など脂肪分に富む食資源に依存している場合に有利となる、脂肪代謝に関連する多様体を有しており、北極圏の先住民集団も同様です。船泊遺跡ではじっさいに漁撈具や海獣の骨が多数発見されているので、海獣への依存度が高い食生活を送っていたようです。船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、現代日本人では30%以上存在するものの、中国や韓国ではほとんど見られないD1bでした。しかし、船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、D1bの中でも現代日本人で多数を占めるサブグループD1b1ではなく、Y染色体でも、北海道の縄文人が現代日本人にはさほど遺伝的影響を及ぼしていない、という可能性が想定されます。

 弥生時代の人類のゲノム解析も進められていますが、縄文系と渡来系という以前からの形態学的分類がそのまま当てはまるものではなく、複雑な様相を呈していることが明らかになってきました。福岡県那珂川町安徳台遺跡で発見された弥生時代中期の女性は、典型的な渡来系弥生人と考えられており、遺伝的には韓国や中国の集団と類似する、と予想されていましたが、ゲノム解析の結果、現代日本人の範疇に収まり、むしろやや縄文人に近い、と明らかになりました。本書は、安徳台遺跡の弥生時代中期の集団が東進し、在来の縄文系と混合していったとすると、現代日本人における縄文人の遺伝的影響はもっと高くなっていると予想されることから、弥生時代中期〜古墳時代におけるユーラシア大陸からの渡来を想定する必要がある、と指摘しています。

 縄文系とされる弥生人のゲノムも解析されています。長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡で発見された弥生時代後期の合葬された男女2人は、縄文人と共通する形態学的特徴を有している、と評価されています。mtDNAのハプログループでは、女性が縄文系と考えられるM7a、男性が渡来系と考えられるD4aと明らかになりました。しかし、核ゲノム解析では、縄文人と現代日本人の中間に位置する、との結果が得られました。上述した安徳台遺跡の事例からも、弥生時代には在来系と渡来系との融合が進んでおり、弥生人は均一な集団ではなく、独自の遺伝的構成を有していた、と言えるでしょう。本書は、弥生時代の渡来系は当初より在来系の縄文人と融合し始め、当時の朝鮮半島には渡来系弥生人と同じ遺伝的構成を有する集団はいなかっただろう、と推測しています。

 また本書は、弥生時代になっても日本列島の大半に縄文系の人々がいたと考えられることから、弥生時代以降もユーラシア大陸から日本列島への流入があり、現代日本人につながる集団の完成は古墳時代だろう、との見通しを提示しています。まだ予備的な研究の段階ですが、古墳時代になると、関東の集団の遺伝的な構成が大きく変わるそうで、古墳時代の日本列島の住民のDNA解析の進展が期待されます。また、飛鳥時代以降の古代DNAの解析も、日本史研究に大きく寄与するでしょうから、今後の研究の進展が楽しみです。


 これまで、先史時代の研究は考古学と形態学が主流でした。近年では古代DNA研究の進展が目覚ましいものの、考古学と形態学でも研究は着実に進展しています。日本列島最初期の土器は北海道では発見されておらず、朝鮮半島最古の土器は1万年前頃であることから、縄文土器は日本列島で開発された可能性が高そうです。また南島地域においては、縄文文化との共通性も相違点も見られ、時期により縄文文化と連動したり離れたりしていたそうです。本書は、他地域との交流はあるにしても、対馬海峡において文化的な境界線を引けることからも

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

縄文文化の空間的範囲は、現代の日本国の領域と厳密に一致しているわけではないものの、ほぼその範囲に収まる、との見解を提示しています。

 これは形態学的にも言えることで、縄文人の形質は、空間的には北海道から九州まで、時代的には早期から晩期前半までほぼ同一で、世界中で類似した古人骨は発見されていないそうです。そのため、縄文時代には、形質を大きく変化させるような他地域からの人的流入はなかった、と考えられています。それでも、やはり地域差はあり、北海道では地位内の差異が比較的大きい一方で、九州では小さいことが明らかになっており、縄文人の形成過程と関わっているかもしれません。

 縄文時代には定住が進みましたが、その度合いは地域により異なっており、その要因は依存していた食資源の違いだろう、と推測されています。縄文時代の農耕は近年よく主張されるようになりましたが、畑はまだ見つかっておらず、ダイズやアズキなどの作物が確定しただけだ、と本書は慎重な姿勢を示しています。縄文時代には、後期において、墓の分析から、北海道や東北でかなりの階層化が生じていた、と推測されています。しかし本書は、晩期にはこれらの地域で均質化が見られることから、おそらくは人口の少なさが要因で、階層社会は持続しなかっただろう、と指摘しています。

 弥生時代については、本書では紀元前10世紀にさかのぼるとする早期説が大前提となっていますが、まだ議論が決着したとは言えないようです

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_1.html


茨城県と栃木県以北では、水田稲作が行なわれても環濠集落が見られませんが、本書はその理由を、地域の核となる存在がなかったからではないか、と推測しています。水田稲作は、災害にあってもすぐに再開する傾向が強いのですが、東北の北部では、水田稲作が途絶えて数百年再開されませんでした。本書はその理由として、寒冷な気候が要因ではなく、東北の北部には水田稲作が始まっても土偶があることから、何らかの信仰形態・世界観の違いを挙げています。本書では古墳時代についても少し言及されており、九州や近畿では墳丘墓が早くから見られるものの、紀元後には衰退して古墳時代には直結しておらず、古墳時代の直接の起源は、紀元後2世紀半ば〜後半にかけての吉備や出雲にあるのではないか、との見解が提示されています。
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


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19. 中川隆[-13586] koaQ7Jey 2018年11月15日 05:15:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20671] 報告
最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明 2018年7月25日
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540

金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覺張隆史特任助教,医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野の佐藤丈寛助教および田嶋敦教授は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約2千500年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨1個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8〜2千年前の東南アジア人など80を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2千500年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析(※5)によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。

特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト(※6)』の成果の一つとなります。

これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。

本研究成果は,2018年7月6日に国際学術誌「Science」に掲載されました。

https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540
図 古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート

【用語解説】

※1 ゲノム解析
生物が持つ遺伝情報の広範囲な解析のこと。

※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡
愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200体以上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多くの人骨が検出されている。

※3 約2千500年前の縄文晩期の女性人骨
2010年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥生時代の開始は3000年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期のものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。

※4 全ゲノム配列
生物が持つDNA配列の中でも,タンパク質の発現に関連する遺伝子領域のDNA配列だけでなく,遺伝子以外の領域全てを含めた広い範囲のDNA配列のこと。

※5 クロスチェック分析
異なる分析機関,異なる分析手法,異なる解析手法で,独立して同じ結果が得られるかを評価する分析手法のこと。古代DNA研究で重要な科学的指標の一つに当たる。

※6 縄文人ゲノム解読プロジェクト
日本の考古学者と人類学者,遺伝人類学者,ゲノム研究者などから構成される研究プロジェクト。
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540


以下、詳しい説明(PDF)より抜粋
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【研究成果の概要】

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出土人骨25 個体と日本の縄文人骨1 個体の計26 個体の古人骨からDNA 抽出を実施し,ゲノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団のゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグループに分類できることが分かりました(図3)。

グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年前)の古人骨がそのグループに分類されました。

また,このグループ1 に分類された古人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。

さらに,伊川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。

一方,他のグループ2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約500 年前までの古人骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。

グループ2はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。

さらにグループ1 と東アジア集団が分かれた後に,グループ1 からグループ2 への混血の痕跡が見つかりました。

また,グループ3 は現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語族と遺伝的に近く,グループ4 は現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分かりました。

さらに,グループ5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グループ6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混血の痕跡なども見られました。

このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾などの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分かってきました。

従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。

本研究成果では,すでに稲作文化を持っていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも4 回以上はあったことが解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。

本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南アジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になりました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=337608


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20. 中川隆[-13585] koaQ7Jey 2018年11月15日 05:45:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20671] 報告

縄文時代における九州と朝鮮半島との交流 2018/05/27


 以前、当ブログで


つくられた縄文時代: 日本文化の原像を探る (新潮選書) – 2015/11/27
山田 康弘 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%83%8F%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E5%BA%B7%E5%BC%98/dp/4106037785


を取り上げ、縄文時代における九州と朝鮮半島との交流についても少し言及しましたが

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_30.html

もう少し詳しく同書の見解を取り上げることにします(同書P129〜133)。

じゅうらい、縄文時代の日本列島は他地域との交流がほとんどなかった、と考えられてきました。それは、「縄文人」のような形態の人類集団が他地域で確認されず、細かな地域差・時代差があるとはいえ、地理的範囲は北海道から九州まで、時間的範囲は早期から晩期前半まで、「縄文人」の形態はほぼ同一とされてきたからでした。

 しかし、考古学的資料により、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになってきました。たとえば、西日本各地に分布する縄文時代前期の轟式土器や曽畑式土器は、朝鮮半島に分布する隆起線文土器や櫛目文土器との類似性が指摘されています。また、轟式土器と曽畑式土器の間に位置づけられる西唐津式土器と朝鮮半島の土器との関係も指摘されるようになっており、相互の土器形式に影響を及ぼす水準で交流があったことは確実とされています。

 朝鮮半島の煙臺島遺跡からは、縄文時代の石器として一般的な石匙が出土しています。縄文時代後期に西北九州で多くみられる石鋸も、朝鮮半島の松島遺跡など南岸部から出土しています。佐賀県の腰岳から産出する黒曜石は、朝鮮半島南岸部からも出土しています。また、朝鮮半島の土偶の中には、縄文時代早期のものとの類似性が指摘されるものもあります。その他にも、縄文時代には珍しくない貝輪・獣歯牙製装身具・土製耳飾りなどが、朝鮮半島南部で出土しています。こうした遺物だけではなく、人類遺骸でも、朝鮮半島と縄文時代の日本列島との交流の可能性が指摘されています。煙臺島遺跡から出土した人類遺骸には、縄文人の形態がよく認められるそうです。

 しかし、近年の研究の進展により、九州を中心とする縄文時代の西日本と朝鮮半島との交流については、一時期の過大評価が訂正される傾向にあるようです。まず、朝鮮半島における縄文(系)土器の出土点数は、在地の有文土器と比較すると0.1%にも満たない、とのことです。また、土器の製作技法・文様の割り付け方法・結合式釣針の製作技法などの比較の結果、縄文時代の日本列島と朝鮮半島との類似性は、同一の文様構成原理や技法で製作されたという水準ではなく、あくまでも視覚的な部分に留まっている、とも指摘されています。見た目は類似しているものの、人間が恒常的に往来して製作技法そのものが伝えられているような状況ではなかっただろう、というわけです。

対馬の越高・尾崎遺跡や夫婦岩遺跡などでは、朝鮮半島系の土器が主体的に出土することもありますが、これは特定の時期だけの減少で、他の時期では基本的に縄文土器が出土するそうです。朝鮮半島には縄文(系)土器が主体的に出土する遺跡は存在せず、あくまでも単発的・客体的に出土するにすぎません。

 これまで、縄文時代の日本列島と朝鮮半島の考古学的資料の類似性は、交流の証明としてひじょうに高く評価されてきましたが、再考が必要ではないか、と本書は指摘します。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部との交流はさほど多くなく、南島地域との比較でも少なかったので、北部九州と朝鮮半島南部の間には言語の壁があったのではないか、との見解も提示されています。

また本書は、朝鮮半島では土偶はほとんど出土せず、大型のものはないことと、縄文文化でよく見られる呪術具は朝鮮半島では出土頻度が低いことなどからも、縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有するという状況ではなく、対馬海峡で線を引くことが可能ではないか、と指摘します。縄文文化がユーラシア大陸からの影響を受けたことは間違いないとしても、縄文文化はおおむね日本列島内に収まっているとの見解にも一理ある、と本書は指摘しています。
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

21. 中川隆[-13598] koaQ7Jey 2018年11月15日 09:26:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20701] 報告

畿内の被差別部落民は縄文系

2013年12月17日 形質人類学のデータ

エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06
同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

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Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
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穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

22. 中川隆[-13603] koaQ7Jey 2018年11月15日 11:53:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20713] 報告

奈良時代まで皇室で使われていた言葉は 8母音の百済語であり、百済語を縄文人・弥生人の 5母音の日本語に翻訳する為に 平仮名・片仮名が発明された


日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない


  今朝の朝日新聞にまさしく日本学の研究者・マニアには衝撃的なニュースが小さく掲載されました。恐らく2012年の日本学最大のニュースの1つになるでしょう。

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The origin and evolution of word order

Murray Gell-Manna, Santa Fe Institute and Merritt Ruhlenb, Department of Anthropology, Stanford University
Contributed by Murray Gell-Mann, August 26, 2011

Abstract

Recent work in comparative linguistics suggests that all, or almost all, attested human languages may derive from a single earlier language. If that is so, then this language—like nearly all extant languages—most likely had a basic ordering of the subject (S), verb (V), and object (O) in a declarative sentence of the type “the man (S) killed (V) the bear (O).” When one compares the distribution of the existing structural types with the putative phylogenetic tree of human languages, four conclusions may be drawn. (i) The word order in the ancestral language was SOV. (ii) Except for cases of diffusion, the direction of syntactic change, when it occurs, has been for the most part SOV > SVO and, beyond that, SVO > VSO/VOS with a subsequent reversion to SVO occurring occasionally. Reversion to SOV occurs only through diffusion. (iii) Diffusion, although important, is not the dominant process in the evolution of word order. (iv) The two extremely rare word orders (OVS and OSV) derive directly from SOV.

Conclusion:

The distribution of word order types in the world’s languages, interpreted in terms of the putative phylogenetic tree of human languages, strongly supports the hypothesis that the original word order in the ancestral language was SOV. Furthermore, in the vast majority of known cases (excluding diffusion), the direction of change has been almost uniformly SOV > SVO and, beyond that, primarily SVO > VSO/VOS. There is also evidence that the two extremely rare word orders, OVS and OSV, derive directly from SOV.

These conclusions cast doubt on the hypothesis of Bickerton that human language originally organized itself in terms of SVO word order. According to Bickerton, “languages that did fail to adopt SVO must surely have died out when the strict-order languages achieved embedding and complex structure” (50). Arguments based on creole languages may be answered by pointing out that they are usually derived from SVO languages. If there ever was a competition between SVO and SOV for world supremacy, our data leave no doubt that it was the SOV group that won. However, we hasten to add that we know of no evidence that SOV, SVO, or any other word order confers any selective advantage in evolution. In any case, the supposedly “universal” character of SVO word order (51) is not supported by the data.

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  語順のルーツはSOVだと言うことがアメリカ科学アカデミー紀要(業界用語でPNAS=プロナス、当方の学生時代はProNASと呼んでいました)に発表されました。つまり日本語やチベット語などY-DNA「D」遺伝子集団の文法である語順、S(主語)・O(目的語)・V(述語)が欧米語等のSVOより古いことがわかり、しかもホモサピエンスの祖語だろう、との驚異的な言語学上の発見です。

  これは遺伝子の調査結果と完璧に合致します。我々古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D」は古代の出アフリカした当時のホモサピエンスの形態を留めていると言うのが欧米の研究者の結論です。特に「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族、Jarawa族は出アフリカ当時の形態をそのまま残していると信じられています。ならば当然言葉も出アフリカ当時のままのはずです。言葉は生き物でその時代のリーダーの決断で言葉は採用されるため、ドンドン変わります。そして征服者の人口が多く、経済力もあれば非征服者の言語はあっという間に征服者の言語に変わってしまいます。

  ところがOnge族や、Jarawa族は外来者を殲滅するという古代習慣を強く持っていたため、遺伝子を保ってきたわけですが、当然言葉も保ってきたはずです。と言うことが今回の発表で間接的に証明されたことになります。

  日本語は長い間孤立語として扱われてきましたが、とんでもない、縄文語から熟成したY-DNA「D2」日本語こそがY-DNA「D1」チベット語と並んで、出アフリカした当時のホモサピエンスの言葉(文法)を維持し続けてきた由緒正しい言葉だと言うことが正にアメリカの研究者によって証明されたのです。

  マレー・ゲルマン博士のチームの仕事ですが、なんとマレー・ゲルマン氏は言語学者ではなく、1969年「素粒子の分類と相互作用に関する発見と研究」でノーベル物理学賞を受賞した物理学者でクォークの提唱者の一人です。恐らく筋金入りの言語学者ではないことが柔軟な発想を生んだのでしょう。西欧優越主義の言語学者なら絶対に欧米語のSVOを祖語として主張すると思われるからです。何はともあれ縄文文化・時代を矮小化したい「O3」御用学者に取っては目障りな発表となりました。

  このことは当然ながら日本人の行動様式こそがホモサピエンスとして本来持っている行動様式であり、ガラパゴス的民族性こそがホモサピエンスの本来の行動様式である事が間接的に証明されたことにもなるはずです。

  そーなんです。やはり日本がガラパゴス化を捨てるのではなく、世界をJaponization(日本化)することこそが人類にとって正しいことなのです。日本人よ自信を持って世界に向かって発言しよう!スティーヴ・ジョブズごとき「R1b」御用商人の日本人に対する悪口・たわごと等クソくらえだ。そしてJaponizationで世界を導こう!

  このニュースの重大さは、何故日本列島人はY-DNA「D2」縄文人の文法を守り続けてきたのか?という点です。「D2」縄文人が圧倒的な文化を確立し、技術者集団だった「C1」、「C3a」縄文人が土器つくりなどで「D2」の精神風土を支え、後からボートピープルとして断続的に韓半島から水田稲作農耕技術を携えて流れてきた呉系長江人「O2b」の子孫も圧倒的な多数派の「D2」と敵対せず、その精神風土を受け入れたため言語の文法も縄文文法を受け入れたのでしょう。

  「O」は「R」などと同じ新興遺伝子集団です。既にSVO文法だったはずです。我々日本人は語順が変わってもそれほど奇異に感じず意味が通じるような適当にあいまいな言葉になっているのはこの「O」の人口と、文化がしっかりと根付いているためです。基本は縄文語ですが、呉系の長江語も漢語の語順でもその中間でも日本人は融通を利かせて理解してしまうように共存してきたからなのです。そして或る動作を強調したい時、我々は平気でSVOになるのです。なぜならSVOの方がキツく聞こえるからです。SOVの方が聞こえ方がやさしいのです。これが縄文の精神風土なのです。

  そして更に後から侵略者として韓半島から暫時流れてきた大和朝廷族や武士団族などのSVO文法の「O3」集団も朝廷内や官僚エスタブリッシュメント階級の中ではSVO漢語を話していたにも関わらず、全国をまとめるために縄文語文法を受け入れることにしたのだと思われます。そして縄文語に翻訳するために開発したのが「かな」、「カナ」なのでしょう。もしこれがなければ、縄文人は漢語を全く理解せず、日本の統一は相当遅れ、日本列島は文化レベルが立ち遅れ西欧列強の植民地化していた可能性が大です。当時の大和朝廷の上層部の誰かが縄文語を認め、縄文人に指示命令するために「かな」「カナ」の開発を命じたのでしょう。この人物こそ本当は歴史に名を残すべきなのでしょうが......。

  またこのニュースは、最近の研究で、人類の祖先は50000年前頃に突然洗練された道具を使ったり、絵画などの芸術活動を始めた、とも書いていますが、これは当たり前のことです。中東でネアンデルタール人と遭遇し交配し、彼らの文化を遺伝子とともに受け継いだけに過ぎません。もしかするとSVO文法はネアンデルタール人の文法だった可能性が実は大です。

  ホモサピエンスは本来SOV文法
  ホモネアンデルターレンシスはSVO文法だったのしょう。
  
  なかなかおもしろくなってきましたね。当ガラパゴス史観が歴史の真実に迫っていることが、少しづつ実証されつつあります。やはりデータマイニング手法はマーケティングだけでなく、古代日本学にも有効なようです。

http://galapagojp.exblog.jp/i29/  

  日本語の祖先はこれまで書いたようにY-DNA「D2」の話していた縄文語です。現在世界でY-DNA「D」語を祖先にしているのは、わかっている範囲ではチベット語と「D*」100%のアンダマン諸島のJarawa族とOnge族だけです。Y-DNA「D」72%の雲南のPumi族は未調査です。つまりY-DNA「D」語は孤立言語です。

遺伝子調査で初めて理解できたことです。しかもY-DNA「D」は人類が出アフリカを果たした際の形質を最も残していると欧米の研究者は述べています。ということは縄文語が最も古いホモサピエンスの言葉を残している可能性もあるのです。Jarawa族やOnge族、Pumi族の語彙を徹底的に追いかければ解明できそうですが、日本の御用学者ではない欧米の気鋭の言語学者が研究してくれるとありがたいですね!

  現代アイヌも日本列島人と同じY-DNA「D2」85%の「D」民族ですが、残念なことにオホーツク文化時代に侵略者だった古代ニヴフ族に征服され、熊祭りなどすっかり古代ニヴフ文化(古住シベリア民文化)に変貌してしまっています。言語も恐らく古代ニヴフ語に変わっているでしょう。

丹念に追えば語彙には「D」語の痕跡が残っているかもしれません。日本列島のように「D2」が圧倒的な人口多数派だったなら「D」語が残ったかもしれませんが、人口そのものが少なかった北海道では文化も言語も語彙も古代ニヴフ語に変わってしまっている可能性が大です。
http://galapagojp.exblog.jp/i31/



遺伝子調査から追う日本語の成り立ち考


  これまでもブログで断片的に触れてきましたが、遺伝子調査の結果だけでどこまで言及できるか、いささか冒険ですが日本語の成り立ちに迫ってみました。

日本語とは、

●ガラパゴス的民族性の基層である古代シーラカンス遺伝子の縄文倭人(文字通り小柄なネグリート)の話していた古代語の縄文語が基層です。特に縄文倭人の多数派のY-DNA「D2」の祖先の「D」が出アフリカ以来話していた言語が縄文語の祖形です。世界でこの縄文語の祖形を受け継いでいるのは日本以外では「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族とJarawa族、「D1」「D3」のチベット族のみです。他に近い言語は全く存在しません。このため日本語は古代語の形態のままの孤立言語なのです。もしかするとコイサン族やピグミー族の言語と同様にアフリカで話されていた古代言語の直接の子言語かもしれません。

●縄文語はこれに更に出アフリカ以来数万年行動を共にしたと考えられている土器製作などの技能集団でもあったと思われる沿岸漁労系Y-DNA「C1a」と大型獣ハンター系「C3a」の語彙が重なっている複合言語です。縄文語は日本列島でも石器時代以来少なくとも2万年近くは話され根付いた熟成された言語のはずです。もしかすると西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族の漁労採集の言葉に日本語に似た単語があるかもしれません。

●そこに最初の外来文化言語である長江文明系オーストロアジア古語(水田稲作農耕文化の言語)の弥生系語彙が追加され、弥生人Y-DNA「O2b」「O2a」「O1a」は「O3」に極東ユーラシア大陸を追い出されボートピープルとして満州−韓半島南部−北九州と逃げ、これ以上行く先のない日本列島で大多数の縄文人と仲良く共存・融和するために縄文語を受け入れ新しい文化である水田稲作農耕の語彙を上積みしたのです。弥生人が迅速に溶け込んだため、稲作農耕技術は青森まで以外に早く伝播したのでしょう。

  このオーストロアジア古語系「O2b」は呉音を持ち込んだようです。日本列島に越音が残っていないということは呉系の稲作農耕民が北方へ逃れ「O2b」になったようです。当方が以前予想していた百越系の残党=百残=百済は越音ではなく支配層の使っていた唐音を持ち込んだようです。一方陸稲系稲作農耕(O3」系)も縄文晩期頃に日本列島に入ってきたようなのですが語彙上の影響度はまだ全くわかっていません。

  一方、「O2b」の兄遺伝子の「O2a」が東南アジア-東インド-南インドと逃れ、現代ドラヴィダ人に14%以上の遺伝子頻度を残すぐらい交配し、ドラヴィダ語に水田稲作農耕文化の語彙を持ち込んだため、もともと同一だった稲作関連の語彙が日本語とドラヴィダ語(特にタミール語)で似ているのは当然です。またオーストロネシア語系の古単語も古日本語には見つかっているそうですが、それは当然「O1a」が話していたはずのオーストロネシア古語の持っていた語彙のはずです。

●ところが、紀元後になり中華王朝の膨張に伴い韓半島から続々と中華王朝辺縁部の黄河文明系「O3」集団がはじき出されて渡来・移住するようになりました、複数の戦闘集団が前後して列島に日向など各地に占領地を設け、最終的に縄文-弥生交配集団の中心地だった畿内を目指して侵攻し、ある集団が渡来集団同士の戦いを制して大和に占領軍の王朝を築くまでになりました。我が縄文-弥生遺伝子集団は下等な民として扱われたわけです。

  この占領軍のGHQは大和朝廷と称され奈良盆地に置かれ、支配階級は大和朝廷族となり漢語を日常語(母語)として読み書き話し、平安時代に最終的に百済系朝廷族が勝ち残りました。百済は一般民衆は呉音系のY-DNA「O2b」ですが支配階級は「O3」で唐音系だったようです。

  そしてこの2番目の外来語である漢語を母語とする大和朝廷族は先住民の縄文-弥生交配集団を支配・懐柔するため漢語から縄文語へ翻訳するためにかな・カナ文字を開発して読み下し、支配用の当時の古漢語の語彙を列島隅々まで浸透させ一気に列島の支配者にのし上がったのです。そしてできあがったのが正統性を主張し都合のよい経緯を書いた記紀です。こんなものは我々縄文-弥生交配遺伝子集団から見れば進駐軍のたわごと・絵空事に過ぎないのです。無視しましょう!

●一方、武士階級では、高句麗系武士団(坂東武者系)や新羅花郎系武士団(源氏系)など韓半島から渡ってきた武士団族も「O3」漢語派だったため、縄文語に武士団系の語彙がかなり取り込まれたはずです。武士団は地元に根を下ろし地元密着型になり力を蓄え大和朝廷族と覇権争いを繰り広げることになったわけです。

●しかし幕末の動乱期まで日本列島の中で全員が話した標準言語はまだなく、支配階級と一般民衆は同じ言語を話していたわけではありません。幕末から明治の動乱期に第三の外来語である明治新政府系の新作語彙や翻訳語彙や西欧諸国の語彙が洪水のように入り込み、縄文語の文法の上にどんどん上積みされ日本語の祖語に昇華・熟成されたのです。しかしこれでも日本語の完成ではありませんでした。明治の標準語とされたのは明治政府の教育を握った長州閥の山口弁でした。

●日本語が完成したのはほんの60年程度前の第二次大戦後です。あたらしい教育によって今我々が話している現代標準語になりやっと日本語になったのです。日本語の歴史は極めて新しいのです。それまで縄文語にオーストロアジア古語の弥生語語彙と漢語の語彙が上積みされた複合言語だったのです。話し手も階級によって分かれていました。

  以上、語彙は時代と共にどんどん新しい文化のものが追加され古いものは消えて行き、言葉遣いも同時に変化して行きますが、最も基層になっている文法は縄文語、それも古代遺伝子Y-DNA「D」の話していた古代語です。このため地理的に極めて近いはずの朝鮮半島も台湾も極東の諸民族も日本語とは全て言語体系が全く異なるのです。しかし日本語は古い外来語彙をどんどん取り込んできたため、今でも古語の語彙は似ているものも結構あるのです。
http://galapagojp.exblog.jp/i35/


日本列島の農耕を請け負ってきた長江文明の子孫は、農村という代表的な日本の原風景の一つの担い手として縄文語の文法の上に農耕文化関連の単語を大量に上乗せし、縄文語を豊かなものにしたのです。

日本列島の言葉を決してオーストロアジア語文法に代えることはしませんでした。なぜなら圧倒的に縄文人の人口の方が多かったからです。弥生人は自分たちのオーストロアジア語の文法を捨てて溶け込む道を選んだのです。
http://galapagojp.exblog.jp/i34/



大和朝廷族と武士団族は韓半島での勢力争いに敗れて、武力を持った武装勢力として日本列島に流れて侵略したのですが、狩猟用の戦闘力しか持たなかった縄文・弥生交配集団を武力で征服・支配し神話も乗っ取り、大和朝廷を現在にまで存続させるという奇跡を成し遂げたのです。
http://galapagojp.exblog.jp/16672971/

日本人のガラパゴス的民族性の核をなすのは、縄文系ではなく侵略者系のY-DNA「O3」です。

楽浪郡、帯方郡など中華王朝の出先機関が牛耳っていた韓半島での生存競争を勝ち抜くことができず、流れ者武装集団として日本列島に逃げ込んできた戦闘集団の中で最後に勝ち残ったのが大和朝廷族となり、敗れた集団はその他天神集団となったようです。

最後に勝ち残った百済系大和朝廷族の親衛隊からのし上がった戦闘要員の中から平氏が生まれ、高句麗から落ち伸びた戦闘集団の中から坂東武者が生まれ、新羅の落ち伸び花朗集団の中から源氏が生まれ、このような韓半島出自のY-DNA「O3」を中心とする武士団族が縄文-弥生交配集団が居住していた地方を制圧し力を蓄えていったようです。

日本列島はこうして韓半島発のY-DNA「O3」漢族出自の大和朝廷族と武士団族という侵略者達に征服されたのです。

そして漢語で読み書きをしていた少数派の征服者は大多数の縄文-弥生集団をコントロールするために漢語を読み下しできるように「かな・カナ」を開発し、縄文系と長江文明・呉・楚・弥生系の神話を盗み取り自分たちの神話に付け加え、大和朝廷族があたかも古代から日本列島を支配していたように神話を改ざんし記紀をでっち上げてきたのです。
http://galapagojp.exblog.jp/16831514/

記紀の神武東征に象徴されているように、漢語を話す漢族の端くれだった韓半島を追い出された大和朝廷族は(その頃の韓半島南部は弥生人と同じ呉系長江人のY-DNA「O2b」が民衆層を形成していたはずです)日本列島の恐らく九州に上陸し旧唐書が言うように「日本」なる小さな拠点を形成し侵略遠征を開始し、山陽道に既に割拠していた先陣の「O3」集団や縄文−弥生先住民土着集団を征服しながら大阪平野から奈良盆地を制圧し列島侵略に成功したのです。というより最後に勝ち残った「O3」集団が大和朝廷を名乗った、というのが正しいでしょう。

  記紀神話は、征服した先陣・先住集団の祖先伝承の都合の良い部分を取り込み創りあげたものです。そして確立した大和朝廷は漢語の支配する漢族の官僚が運営する政府でした。その後の日本列島はこの漢族朝廷と漢族官僚が文字通り牛耳ってきた中国化というより漢化されつつあった土地だったのです。

  日本人が漢族大和朝廷支配のもと漢民族に同化しなかった理由は1万年以上に渡る縄文時代とその後の弥生時代で日本列島が人口も含め完全に縄文・長江混成文化の風土が確立していたからです。漢族側が、人口的に大勢であった日本語の文法であるY-DNA「D2」の縄文語に合わせかなやカナを開発したように漢族側が歩み寄ったことが、日本人が漢民族化しなかった理由でしょう。何故歩み寄ったのかは今後の調査が必要です。
http://galapagojp.exblog.jp/15362496/

今や世界最大の遺伝子集団となったY-DNA「O3」抜きに日本民族は語れません。何かの本に和泉式部日記の時代の大和朝廷族は読み書きを含め漢語を話していた、完全な漢文化民族だったと、確か女性の研究者だと思いましたが、ハッキリと書いていました。その通りだと思います。

いづれにせよ王族と宮廷官僚たちは明らかに「O3」と思われます。新羅に敗れた後、「O3」ボートピープルが日本列島に押しかけ好戦的な「O3」は縄文−弥生交配集団と闘いながら最終的に大和朝廷を興したのでしょう。

蘇我一族は蘇我蝦夷の名前が占めすように縄文ー弥生系の土着集団だったのではないだろうか。当時奈良という土地の支配者だった縄文ー弥生系が「O3」に負けた歴史を書いたのが占領軍が書いた日本書紀です。縄文ー弥生の子孫を自認する小生から見ると、大和朝廷族は異遺伝子集団の占領軍に過ぎないのです。宮中独特の言葉と言うのはその時代の漢語の名残に他ならないのでしょう。
http://galapagojp.exblog.jp/15270404/


漢人(「O3」族)の言葉は八母音、縄文ー弥生系の言葉は五母音だった

韓国語と日本語はどちらもウラル・アルタイ・ツングース語族に属し、非常によく似ています。 弥生時代以後の本土日本民族(主として九州・四国・本州に住む日本人を指します)が、東南アジア起源の南方系モンゴロイドと、中国大陸および朝鮮半島起源の北方系モンゴロイドの混血であることは考古学にも生物学的にも証明されつつあります。 そして生物学的には南方系モンゴロイド1〜2割に対して、北方系モンゴロイド9〜8割程度の混血だと言われています。 南方系モンゴロイドの血が濃い日本人の典型としては俳優の緒方拳を、北方系モンゴロイドの血が濃い日本人の典型としては俳優の中井貴一を思い浮かべていただければ、何となく両者の特徴を把握できると思います。

また弥生時代以後も朝鮮半島から絶え間なく渡来人がやって来て、古代日本の歴史と文化に多大な影響を与えました。 このことから、古代日本語が古代朝鮮語の影響を強く受けていることは至極当然だと思われます。 例えば「万葉集」の表記法として有名な万葉仮名は、日本の国文学者によれば日本独自のものだとされ、教科書でもそのように説明されています。 しかし実際には、古代の朝鮮にも「吏読(イドゥ)」と呼ばれる万葉仮名方式の表記法──古代朝鮮語を漢字の音読みと訓読みの音だけを使って表記したもの──がありました。 年代的にみて、古代日本の万葉仮名はこの吏読を真似したものと思われます。

万葉仮名では同じ「イ」「エ」「オ」という母音を持つ音が2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記されています。 このため現代の言語学者や国文学者は、多い方を「甲類」、少ない方を「乙類」と呼び、その区別について色々と議論しています。

ある学者は古代の日本には現在の5つの母音「アイウエオ」以外に、さらに3つの母音「イエオ」があったのではないかと主張し、別の学者はそれらの母音は条件異音――前後の音環境によって同じ音が異なる音声として表れる現象――を異なる漢字で表記したものだろうと主張し、また別の学者は文法的な使用法の違いによるものだろうと主張しています。

この一見難解で高度に学問的に思える議論は、韓国語のフィルターを通して眺めますとあっけないほど簡単に答が得られます。 現在の韓国語には10種類の単母音と11種類の複合母音(2種類以上の母音が合成されてできた母音)があり、古代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われています。 古代朝鮮語の影響を強く受けていた古代日本語にも、同じように現在よりも多くの母音があったと思われます。 このことを踏まえ、母音と発声法の関係を図示しますと次のようになります。


※口を大きく開くほど前母音と後母音が
中母音に近づき、区別がしにくくなります。

(1)普通のイ、発音記号で表すと「i」。

日本語の「イ(万葉仮名・甲類のイ)」、韓国語の「イ」、英語の「i(sitのi)」

(2)イとウの中間音、発音記号で表すとmのひっくり返った記号。

古代日本語の「イ(万葉仮名・乙類のイ)」、韓国語の「ウ」。

(3)普通のウ、発音記号で表すと「u」。

日本語の「ウ」、韓国語の「ウ」、英語の「oo(bookのoo)」。

(4)普通のエ、発音記号で表すと「e」。

日本語の「エ(万葉仮名・甲類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「e(getのe)」。

(5)口を半開きにした「ア」、発音記号で表すとeがひっくり返ったもの。

韓国語に少し前まで存在した「ア」、英語の「a(agoのa)」。

(6)普通のオ、発音記号で表すと「o」。

日本語の「オ(万葉仮名・甲類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(omitのo)」

(7)エとアの中間音、発音記号で表すと「ε」。

古代日本語の「エ(万葉仮名・乙類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「a(maryのa)」。

(8)口を大きく開けたアに近いオ、発音記号で表すとcのひっくり返った記号。

古代日本語の「オ(万葉仮名・乙類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(stopのo)」。

(9)普通のア、発音記号で表すと「a」。

日本語の「ア」、韓国語の「ア」、英語の「a(calmのa)」。

つまり古代の日本語には、「アイウエオ」以外に、ウに近い「イ」、アに近い「エ」、アに近い「オ」の3つの中間音的な母音、つまり乙類の母音があったと考えられ、これらの母音は韓国語には現在も存在するのです。 漢字の韓国語読みではこれらの母音ははっきりと区別して使用されていますので、漢字を知っている韓国人が万葉集を読みますと、日本の専門の学者でなければ区別できない甲類と乙類をごく簡単に自然に区別することができるということです。

古代の日本語に存在した3つの母音が時代が経つにつれて消滅し、現在の5つの母音が残った理由はある程度想像がつきます。 本土日本人は元々南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの混血であり、当時の日本列島は現在のアメリカのような移民の多い土地でしたから、色々な言語や方言が混在していたはずです。 そして中間音的な母音は色々な言語や方言によって発音が微妙に違いますので、それらの母音は次第に明確な発音の母音に収斂していったと考えられます。

つまり乙類の「イエオ」は普通の「イエオ」に収斂したと考えられます。 このことは前述の母音と発声法の関係図を見ますと納得できると思います。 図からわかりますように、現在の日本語の5つの母音「アイウエオ」は、発音上、非常に区別しやすい音なのです。 現在でも、各地の方言や神社などで使用される特殊な言葉に中間音的な母音が残されていますが、これは古代の名残だと考えられます。

ただし万葉仮名では区別されていたこれらの母音が、奈良時代後期から平安時代になって漢字と仮名で日本語を表記するようになると、表記上は区別されなくなります。 いくら母音が収斂したとしても、わずか50年ほどで母音が完全になくなるわけはないので、これは大きな謎です。

この謎は、それらの中間音的な母音は実は条件異音に収斂していたため、それを話している日本人はそれらの母音を区別していなかったと考えれば解決します。 つまり万葉仮名は朝鮮からの渡来人が吏読を参考にして編み出した表記法であり、奈良時代後期から平安時代になって、ようやく日本人が仮名を発明して自らの言葉を表記する方法を編み出したという説です。

万葉仮名が朝鮮からの渡来人によって書かれたのなら、条件異音を区別することができた彼等が母音を書き分けていたことも、万葉仮名で書かれた文章の中に古代朝鮮語と思われる言葉があることも納得できますし、日本人が書いた漢字仮名混じりの表記法ではそれらの母音が区別されていないことも納得できます。

飛鳥時代から奈良時代の文化の担い手は渡来人が中心だったことを考えると、朝鮮渡来人が日本語を表記するために万葉仮名を発明したことは十分に考えられます。 これはちょうど、幕末にイギリス人のジェームス・カーティス・ヘボンが、日本語を表記するためにヘボン式ローマ字を発明したのと同じような工夫だったのでしょう。
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon01.html





「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  

≪日本語の起源の古さ≫

 日本列島と韓半島の歴史を比べてみて、際立って目立つのは、日本では7世紀の建国直後から国語が発達しているのに、韓半島では、やはり7世紀の新羅の統一からはるかに遅れて、やっと15世紀になって韓国語(朝鮮語)が国語として正式の地位を認められたことです。それまでの新羅朝、高麗朝の時代には、公用語は土着の言葉ではなく、中国語・漢文でした。漢文を日本のように返り点をつけて訓読するのでなく、そのまま漢文を上から下へ、韓国式の漢字音で音読するのです。韓国語が本格的に発達するのは、日本に比べると800年も遅れました。

 日本語は不思議な言語です。近ごろの有力な学説では、日本語の語彙はオーストロネシア系(マダガスカル島から台湾・東南アジア、南太平洋の島々に拡がっている言語)であるとされています。また、日本語の統辞法はアルタイ系の言語(トルコ語・モンゴル語・満州語など)と共通な要素があるとされています。日本語は奇妙な混合語だということになります


≪日本語は人造語≫

 どこの国においても、国語というものは、天然自然に存在するものではなく、建国に際して人工的に作りだされるものである。これが歴史の法則で、日本語も例外ではない。

 7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


≪「万葉集」に見る国語開発≫

 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。


≪散文は未発達≫

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


≪日本型の歴史は反中国≫

 日本の歴史は、720年に完成した「日本書記」に始まる。倭人たちが7世紀に突然、目覚めて、日本人となったのは、中国の脅威に対する自己防衛の必要からである。

 いずれの文明でも、最初に書かれた歴史の枠組みが、人間の意識を規定してしまう。「日本書紀」の表現する日本は、中国と対立する。まったく独自の正統を天からうけついだ国家であるという思想は、長く日本の性格を規定した。
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html




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アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書) – 2016/2/8
瀬川 拓郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87-%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%80%AC%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E9%83%8E/dp/4480068732


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
 

日本人や日本文化が世界で最近、注目されている。

理由や現象は敢えて並べないが、一言で表せば思考方法や行動、言語等が人類の本源的、源流的であるという点。裏返せば独自的、孤立的、世界中に広がった他の地域、人類との類似が少ないという点ではないだろうか。

最近の研究で言語学的にも遺伝子的にもそれは証明されてきており、人種の孤島として縄文人、アイヌ人の事を書いた著書の一説を紹介したい。


「アイヌと縄文」〜瀬川拓郎著

>「人種の孤島」としての縄文とアイヌ

本土人、琉球人、アイヌの遺伝的多様性の分布を見ると、それらは他の東アジア人や、ヨーロッパ人と混血した中央アジアの人々(ウイグル人、ヤクート人)のまとまりとは反対の方向に分布しています。

 現代の本土人、琉球人、アイヌは直線状にならび、この順でアジアの人々から離れていきます。直線の延長上にはかれらの共通祖先である縄文人が想定できます。つまり本土人、琉球人、アイヌのDNAを特異な方向に「引っ張って」いるのは縄文人であり、そのことは縄文人が現代のどの人類集団とも大きく異なる特徴を持っていたことを物語っているのです。

縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように嚙み合い、彫が深く、鼻が高いといった形質的な特徴をもっていました。これはアイヌにも共通します。

そのアイヌは形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、1960年代に総合調査が行われ、歯冠の形などから本土と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論付けらました。

ただし、先のアイヌの特徴は一般的なモンゴロイドとは異なるものです。一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです。

つまり、私たちが常識のようにみなしているアイヌ=モンゴロイド説は学界で完全に受け入れられているわけではありません。形質人類学者の百々幸雄はアイヌがどの人類集団とも異なる、現生人類という大海に浮かぶ「人類の孤島」であるとし、アイヌと縄文人は「出アフリカ」をはたした現世人類が、ヨーロッパ人とアジア人に分化する以前の状態を保っているのではないかと述べています。(百々2007年)

このこととかかわって興味深いのは、同学者の山口敏が旧人のネアンデルタール人のあとに出現した、化石現生人類のクロマニョン人と縄文人の類似性を指摘し、縄文人の形態的特徴は、現生人類のなかの古層に属すると見なされている事です。

 日本列島の縄文人は北海道から沖縄まで形質的な共通性をみせています。かれらは地域性がはっきり認められず、均質な形態をもつ人々でした。つまり縄文時代の日本列島には、アイヌにうかがわれるような「モンゴロイド離れ」した人々が暮らしていたのです。

1万年以上続いた縄文時代には、日本列島をとりまく朝鮮半島、中国、台湾、サハリンとの交流はほとんどありませんでした。そのため縄文人のヒトとしての特異性はかなり純粋に保たれてきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

同様に言語学でも日本語、アイヌ語は世界中の言語から孤立している。


>日本列島を含むユーラシア大陸では2500以上の言語が話されています。ただし、同系関係を辿っていくと、これらのほとんどはアルタイ系言語、シナ・チベット系言語、インド・ヨーロッパ系言語のようなわずか10あまりの大きな「語族」にまとめられます。

その中で同系関係がたどれず系統的に孤立していた言語はわずかに9つにすぎません。さらにその約半数が日本列島の周辺に集中している。日本語、アイヌ語、朝鮮語、サハリン先住民のニブフ語です。

これ以外はピレネー山中のバスク語、西シベリアのケット語、インド中部のニハーリー語、東ヒマラヤのクスンダ語でいずれも人里から離れた辺境地帯の言語である点が共通しています。

言語学者の松本克己はこのうち日本列島周辺に集中する日本語、アイヌ語、朝鮮語はかなり旧い時代につながっていたと述べています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=312916




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京都を中心に近畿地方の人達は平均的な日本人のデーターと全く違う数値を示します。

100%朝鮮からの渡来人の特徴を示すそうです。


京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。
http://www.ishikari-...cs/2013/10/10-7.html

はい縄文時代の西日本はスッカスカ
http://web.joumon.jp...5%AF%86%E5%BA%A6.gif

ここでもスッカスカ
http://ichigen-san.c...2014/07/15/photo.jpg

弥生期に渡来人が増えるまでスッカスカ
http://homepage2.nif...nin/jinkoubunpu1.jpg

日本語は百済語と近接しているという説は多い。

ブログ「日本語と韓国語は同系語」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-3a69-1.html


という中から信憑性のある部分を紹介します。

>飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。

「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。

『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80〜90%は朝鮮人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。


※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

※ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)


司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。

故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。

従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上抜粋ーーーーー

これらを読むに付け、日本の宮廷、天皇、王朝を語る際に「百済」という朝鮮半島から消えてなくなった国家が大きく影響している事が判る。

それを日本土着のものに取り戻すのに鎌倉時代までの400年かかっている。
しかし再び明治以降、この百済の復興が天皇を担ぎ上げる事によって為された。

百済王朝が日本に亡命してまだ1300年しか経っていない。

この影響は日本語という言葉の中に浸透しただけでなく日本人の気質や一つに成り切れない民族の核心部にまだ残っているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314004




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【言語の進化】8.1.5万年前〜1万年前頃の抱合語
 
アイヌやエスキモーやインディアンは、現在でも、一つの文言を一語で表す抱合語を使っているが、それら隔絶された地域に残された抱合語は、人類が洞窟から出た後の原初的な言語の形を現在に伝えていると考えられる。
 
エスキモー語の例
qayar−pa−li−yug−a−qa(カヤック−大きい−作る−たい−私−お前)
           「私はお前に大きなカヤックを作ってやりたい」


アイヌ語の例
a−e−kore(私−お前−与える)「私はお前に与える」※「て・に・を・は」
                          がない一語。

a−e−ipe−p(我々−それ−食事する−物)「食器」


 
アイヌ語では、主句・対象句・述句という語順規則が見られるが、エスキモー語の場合、語順規則も明確ではなく、その瞬間瞬間に最も言いたい言葉を順に並べただけのように見える。

おそらく、より隔絶度の高いエスキモー語の方が古い言語だと考えられ、洞窟を出た原初の言語は、エスキモー語に近い、「て・に・を・は」はもちろん、語順規則さえ明確には定まっていない(言いたい単語を言いたい順に並べただけの)一言だったのだろう。

つまり、1.5万年前の人類の言語は、エスキモー語のように、語順規則もさだまっていなかったと考えられ、1万年前頃に、ようやくアイヌ語に見られるようにS・O・Vの語順規則ができたと推定される。

(なお、アイヌはユーカラという長大な伝承物語を持っているが、部族の物語を伝える程度の文言ならば、て・に・を・は(関係詞)無しでも用は足りたという点は、注目すべきだろう。又、アイヌ語は縄文語から枝分かれしたと見られており、そうだとすれば縄文語も原初は抱合語であったことになる。この点も、興味深いところである。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314835




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 7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。
方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。

それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


【出典】「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html



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日本語は縄文由来
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/03/3176.html

日本語は言語学的にも独立言語でありほぼ人類最古の方の言語に類する。

この日本語がほぼ一貫して変わることなく縄文ー弥生―現在へと引き継がれてきた。

母音を言語脳(左脳)で聞き分ける日本語は擬態語(ザーザー、しとしと等)が多い。そして日本語以外のほとんどの地域の言語が音声を左脳と右脳で使い分けるのに対して全ての音を左脳でとりいれる日本人は特徴的でもあり、それ故に自然の音を細かく聴き分けることができる。これが日本人特有の同化能力の基盤となり、自然に向けた同化能力を使って、現在でも人や社会に視座を向けることが可能な民族として存在している。


★自然の音を左脳で取り入れる日本人、その特徴を明らかにしたのが角田教授である。
⇒やっぱり、『日本語』はすごい言語のようです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=222237


★日本語研究は進んでいるが、結局今判っているのは日本語はどの系統にも属さない独立言語であるという事のようだ。

アルタイ語起源説やタミル語起源説、朝鮮古語起源説などがあるが、部分的に類似しているというだけで母音言語であり膠着語である日本語を定義つけるとしたら人類古語が起源であり、それを今も脈々と残しているのは日本と世界中の辺境の小部族だけという事になる。

学説で解明できないのは日本語がどこからの由来かという視点で見ているからなのだろう。


⇒日本語の起源研究の状況
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=184840

⇒日本語の起源をアルタイ語とするのは誤りではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=242652


★日本語がなぜすばらしい言語なのか 黒川伊保子氏の著書を読めばストレートに伝わってくる。


日本語はなぜ美しいのか (集英社新書) – 2007/1 黒川 伊保子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%BB%92%E5%B7%9D-%E4%BC%8A%E4%BF%9D%E5%AD%90/dp/4087203743


黒川氏が語る日本語の特徴を要約すると以下のようになる。


@ 日本語を含めて「言語」には、共認機能や観念機能の構造との密接な関係があるはずで、これを追求することには、大きな可能性があると思われる。発音体感と対象(実態)の一致は、日本語に顕著であり、日本語こそが「始原の言語」、太古よりこの土地で育まれた言語であると述べられている。

A 母音語の使い手は、自然とも融和する。
母音を言語脳で聴き取り、身体感覚に結び付けている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。いわば自然は、私たちの脳に”語りかけて”くるのである。

B 何千年も続く、豊かな自然が、私たちに、融和する母音語をもたらした。
一方で、融和して共存する日本人の特性は、日本語という母音言語がもたらしているとも考えられる。なぜなら、DNA上日本人とまったく無関係でも、日本語を母語として育つと、母音を左脳で聞くようになることが確認されているからだ。環境は言語を作り、言語は人を作るのである。

C 子音言語に比べ圧倒的に長い歴史を持つのが母音言語で、その原型を現在まで引き継いでいるのが日本語と言えるかもしれない。自然に同化し、調和する日本語とはこれからの共認時代に相応しい、時を得た言語なのではないだろうか。

黒川氏の著書の記事を集約しています。参考に一読いただければと思います。

⇒始原の言語・日本語の可能性〜むすび
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/09/001437.html





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萬葉集と風土記に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布
アレキサンダー・ヴォヴィン 国際日本文化研究センター, 2009.3.12.
http://publications.nichibun.ac.jp/ja/item/foru/2009-03-12/pub

アイヌ語と日本語との関係は非常に複雑であると思う。近年、上村幸雄氏はアイヌ語と
日本語が同源要素を持つ可能性について多数論文をお書きになり上(村80PPOOωP
POOωFPOOメPOO。。)、大変勉強になった。私も以前は諸言語の関係を同源説の観点から研
究していたが、ここ八年間に私の研究の焦点は日本列島諸言語とその周辺の諸言語の接点
に移り変わったので、今回は主にアイヌ語から日本語への借用語とそれに基づいた上代口n
本列島におけるアイヌ語の分布について発表させて頂くつもりである。
現在通説となっている伝統的な意見は、上代日本語にはアイヌ語からの借用語は殆どな
、というものである。たとえば佐伯梅友氏は、上代中央日本語に見られる冨巳冨〜冨巳日冨
「桜の皮」のみをアイヌ語の冨旨冨「山桜の皮」の借用語として挙られた佐(伯ピいPωP。)
しかし、以下で示すように、冨巳冨〜ξ巳目冨「桜の皮」のみが唯一の例ではない。
アイヌ語が上代日本列島において少なくとも東北地方の全地域で話されていたというこ
とはもう定説になったと言ってもいいであろう。地名はいうまでもなく、東北の方言には 「山の言葉」として残っているアイヌ語の言葉もある金(田一POO命宝Oーミ)。また、関
東の古い地名を見ると、「武蔵」元(来万葉仮名音声表記「牟射志」\日信N婁.\)、「阿之賀利」
\琶、冨ミなどは日本語の地名ではなく、アイヌ語であると解釈できる。
1
〈地名一関東〉
「牟射志」\85N.9・。く「武蔵」
たとえば、「牟射志」\目⊆N.9・。ぐは東国歌に出る。
萬一四二壬二七九武(蔵国の歌)
和我世故乎安杼可母伊波武牟射志野乃宇家良我波奈乃登吉奈伎母能乎
わがせこをあどかもいはむむざしののうけらがはなのときなきものを
我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを
2
「牟射志」く目`N9.。。ぐは蕾目き。。。。一に遡る。梼日巷旨巴は日本語としての解釈は困難だが、
アイヌ語では完全に意味が通る。アイヌ語目自「草」服(部一〇ひ井6ひ)、夥「濱」知(里ちいひ親  
=ω)、「野原」】(W9一〇げ0一〇円一〇Pひ日N甼Oり)、自三人称所有接尾辞(日本語では臣-は。・-一になる。
後述の上代東国日本語の言葉である「思太〜之太」葭量.\「時」〈アイヌ語ぼ$も参照)。
従って、武蔵は「牟射志」\目N`9.。。ぐく蒡目巷。・色く梼日き。。甲ぼ「草の野原」であろう。武
蔵は東京に変わる以前は、日本で一番大きい草の野原だったにちがいない。
「阿之賀利」\9巴、 Qσ巴\「足柄」
あしがら 次に「足柄」を見てみよう。「阿之賀利」\琶q、僧αユ\または「安思我良」\婁q。輿σ9\という
地名も東国歌に出てくる。
萬一四・三四三一相(模国の歌)
阿之我里乃安伎奈乃夜麻尓比古布祢乃斯利比可志母與許己波故賀多尓
あしがりのあきなのやまにひごふねのしりひかしもよここばこがたに
足柄の安伎奈の山に引こ舟の後引かしもよここば来がたに
萬一四・三三六三相(模の国の歌)
和我世古乎夜麻登敝夜利弖麻都之太須安思我良夜麻乃須疑乃木能末可
わがせこをやまとへやりてまつしだすあしがらやまのすぎのこのまか
我が背子を大和へ遣りて待つ時す足柄山の杉の木の問か
一3
阿之賀利\量。q巴σ\または安思我良\9巴、。。9逗には後世「足柄」という漢字が当てられた
としても、地名として余り意味が通じないだろう。安思我良\琶。 q碧oミは阿之賀利\蟲、q豊σ\
より頻繁に現れるが、この音声上の違いは\婁. q9ユo\〉\琶。。σ鐔ミの音声同化の結果であろ
う。ところで、阿之賀利\9巴. q9ミσは北海道にある「石狩川」の一・。貯9ユ一[。。一q卑σ二]を連想させ
はしないだろうか。アイヌ語の。・貯9ユの[督9邑は。。貯・二。。[お9包「川の中の水の回流する所」
または罕冨ユ「迂回する、回る、回流する」として解釈される傾向がある知(里おいひ親一PO)。
アイヌ語の冨ユは「回る、徘徊する」という意味を持っている菅(野POOD…PON)。しかし、冨二
は説明がつくとしても、残りの部分の9。。学は説明が困難である。アイヌ語には一人称の複
数の包括接頭語kがあるが、その甲は他動詞にしか付かない。色-はアイヌ語の。・学「自
分」と解釈する可能性もあるが、私の意見では、そのような解釈は信憑性が低い。では、
もう一つの可能性を考えてみよう。アイヌ語の千歳方言、沙流方言と旭川方言には訝冨巨。
「きれい、清潔な、清い」という言葉がある中(川一〇〇い"ひ)、(田村一遷9P。。)、菅(野PO8…一い)、
太(田POOい"一〇)。アイヌ語では8--子音群はいつも目--に変化するため知(里6いひげ"
一$も一)、中(川・中本一ゆ旨二い)、アイヌ祖語では梼ーヨーを再構しなければならないZ>目9ぐ土(佐風逸四九九・九)或いは「大穴持」\O噌O>Z>
目αミ(出雲風一〇二"五、一〇六"一〇・一二、一〇八"二・一二、一一〇"一、一二
六"四・七、一六六二二、エハ八"六、一八○"八・一二、一八二二、一九〇二四、
二〇二二・八・一〇、二〇四二・三、二〇人"四、二一六二・五、二二〇二、二
二四二四、二二六"二・六、二三六"五・七・九、二一二八"九、二四二…五、伊豫風逸
四九五"六)、『萬葉集』では於保奈牟知\o℃o蠧日三ぐ萬(一人.四一〇六)、そして『目
41 本書紀』では於褒婀娜武智\名。き9巨昌ぐ紀(一・一四)と表記されているので、『古事記』
の「大穴牟遅」も静O勺O諺Z>巨目象.ではなく、\O噌○諺Z>目二↓ぐと読まねばならない。そ
して、万葉仮名の「遲」は鼻音有声子音がある\鞋.の音節のみならず、無声子音がある
註\の音節も表す事ができる。
従って、『肥前風土記』の「比遲波」を\冨象.嚏\ではなく\℃↓ξ9\と読む可能性もある
わけである。『肥前風土記』の言↓喜ミ「岸」という言葉は、他の上代日本語文献にも、中
古日本語文献にも、現代日本方言にも見られない。しかし、アイヌ語には葱号9〜冨8「岸」
という言葉がある。たとえば、幌別方言℃σ号9、帯広方言忌89、美幌方言℃。89「岸」服(
51 部6ひ命Pま)、旭川方言冨言笹「岸」(一位=一DQ=NOO斜"Pいひ)、釧路方言℃。89「岸、川岸」(山
本POO舒一遷)、樺太方言篦8蕁「寄せ波が砕ける海岸の部分」】()。訂9≧ゆ。。9・一を.ξぎ8喜-皀。ゴ巴・・二@婁・・貫弖8霞く。琶ω..牢@ω婁畧8・α冨・・二冨 ⊂巳く・『・・芽亀匡署曁gζ畧8こお=蕗80。唱畧8@巨ゴ@。・α鎚。Q@邑羮 . 。。§談βぴ8三§げ・寄.自。・…。牾§。】-〈。蔘白它唇賽自く。≦・互・菖。旨罠】〈。掃・・.畧.臼驀…巨g 罍巨・§ぎ邑08貯@・88=ぎ旨巴詈 q・α一眷・×Hδ×9づ似奠POOいP=月げ0団ロ血Oh爵0>冒巴OOO巨δδ×9p傷9POOいげ・匡b題ミ鷽瓢菴Q嵩翫60ミミ無、ミ〜蒸Q、無ミミ匙丶◎丶ミ窃、ミ謡Oミξ窺嵩驚鼬・℃9巨一日きko§6赴oき
ミYミ嵩qσ匂ミ恥ミ亀ミ翫、隷oミo丶o堕℃卜爰皆o鐸〉δミ旨亀壁×一×+とP℃づ・"聞o貯o。。8昌Φ"O一〇げ亀O賦@巨巴・
δ×p口血qPOO◎Q9」一℃δδ-f℃o巳oσ@koロユ一げ09000巨。。k。。8目=.ぎ…、、ミo毒ミ謡軸器、腎向ミ題亀ミ翫℃、o竜象聲
厘曽時oi@=o。。≦qαLo『p≦巨酔日き(9。。)●●〉日・。8a9ヨこ卑5ゆo彑9目言ω…P8。0Ψb歹玉でいひ・
5×きα2NO。OGげ(8§8巨昌q)σ●鼠b題ミ鷽嵐蕊匙嵩亀Oo耄ミミ丶菴Qミミミミ£丶ミ鮮向紺ミOミ書亀ミ吻馬丶ミ、
9惹§§℃譚蚤退§・穿為ミ§§蕩`ミミ・・`毳§・ミ§・×××+。。。。。bb`。器・・喜ρo喜巴9ぎ件鉾

1北海道教育大学旭川校の井筒勝信先生はアイヌ語への翻訳をしてくださつた。感謝申し上げる。
2標準語でも\げぐはよく強\と発音される。たとえば、≧δ\「人」〉[簿o]。その音声変化は多くの
日本方言だけでなく、韓国語の方言にもツングース諸言語にもよく見られる。また、上代日本語には
\ミという音素がなかったことも忘れてはならない。
3ところで、この反映は母音の間に出る上代日本語の無声破裂音\b\uミΨミは有声破裂音[げ尸[色"q][α
として発音されたという=9日き。と昌q9oの仮説(}山卑【P9コOPOOO)、(C昌qgoPOO伊POOい)に対するもう一 つの版袵鬣 す娩田濯絡輜勤仮説への他の反証についてく。<一昌巴(Oいσ"ωSω。。)を参照. 4『源平盛衰記』は『源平盛衰記』とも知られている。
5アイヌ語o冒≦吋三卑「はこべ」は」U讐9@δ円の辞典にもo巻ロ冠蠧として記録されてある(一〇Pひ"ωいい)
ので、一九世紀の北海道方言にもあったらしい。
6この伝説をインターネットで探し出してくれた妻の石崎(ヴオヴィン)賛美に感謝を表す。
一53一
7『萬葉集』の第十四巻末に防人歌が十二首も集められてあるが、その内には思太〜之太\ωぎ量\「時」
という言葉は見られない。
8あはのへ\巷 -き19-誘\「逢わなかったりする」に見られる上代東国日本語のーoは(甲類の-罵とし て書かれている)上代東国日本語の特別な連体形であるらしい。後に引用した萬二〇・四四〇七のこ
え爵身-。\も参照。西洋の言語学者の大部分は上代以前日本語(蔑¢6匡旨巷き@ωo)の連体形が元来甲類
の\O\であったと信じている(国巴8≦ q"o。。2農β鬢『一巨きとの個人的だ話し合いによる)。上代東国 日本語では連体形は甲類のδ\とも乙類の\o\とも書かれているが、上代東国日本語では甲類のδ\と
乙類の\α\の区別が消滅したため、そのような混合した書かれ方も納得できる。私の意見では、連体
形は甲類のδ\より乙類の\α\であった可能性が高いと思う。その一つの証拠として、上代中央日本語
の繋辞の昌-の連体形は〒αであることが挙げられる。上に言及した上代東国日本語に現れる -oの連 体形はもう一つの証拠であるとも考えられる。少なくとも、上代東国日本語の\@\と上代中央日本語
の\α\の間に何か密接な関係があったらしい事は確かであろう。たとえば、上代中央日本語の叶欝曾α
「心」と上代東国日本語の冨犀臼o(古今集二〇・一〇九七)を参照。
9『肥前風土記歌謡』の引用は(秋本6い。。)による。しかし、『肥前風土記歌謡』の番号は(土橋一〇い刈)
による。そして、万葉仮名の「素」は上代日本語には\Z。。α\ではなく、\のひ\であるから、仮名の書き
下しには秋本の「ぞ」を「そ」に変えた。
01『肥前風土記』の引用は(秋本一りい。。)による。
11この歌の「遲」は≧\である理由については高木氏などの意見も参照(高木など這いSひPω黯)。
21ただしζ霞。自●ζ蔓艮@が指摘したように、森(一〇〇一)のα\β区別は理解が困難である(80ω勲雪-ひO)。
31『日本書紀歌謡』の引用は(土橋6い刈)による。
41『日本書紀』の引用は(黒板勝美這ひひ)による。
54
51旭川方言の冨89目「岸」はく梼b♀の馨から発展した形なので(太田N8い…一い。。)、需8騨には関係がな
い。
61冒鋳ロはぎ艮「歯」の所属形巨艮二-であろう。千島(鳥居竜蔵資料)巨9『ぎ騨巨「歯」(服部這ひ命ひ)
参照。
η前にはぜ§臣として再構した<(。<巨澤塞い)雪が、今はぜ睫よりはゴーの再構は自然だと
思う。
81例外は・。o目。が助動詞匡「する」で伴う場合に、。。。日。匹が主動詞の後に出る。

注記本書のタイトルは日文研フォーラム第二一五回の原題「萬葉集に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布」を改題したものである。
http://publications.nichibun.ac.jp/ja/item/foru/2009-03-12/pub




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「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!
読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治.2017年12月15日
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html

日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?


 斎藤教授は、日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。


第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで

第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、

第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。


「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。

第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。

第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。


 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也 なるや 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。


世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目


縄文時代を代表する大規模な集落跡、青森市の三内丸山遺跡。復元された6本柱の大型掘立柱建物が威容を誇る
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50003

 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。

 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔かえん土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。

 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。


福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功


(『核DNA解析でたどる日本人の源流』に掲載された図をもとに作成)
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=2


 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地さんがんじ貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元げん教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯きゅうし)1本ずつを取り出し、提供してくれた。

 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。

 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。


アジア集団の中で最初に分岐した縄文人


 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万〜8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏いかだで海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

分岐した時期は2万〜4万年前の間


 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万〜4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊ふなどまり遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。

 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原はにはら和郎かずろう(1927〜2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。


遺伝的に近かった出雲人と東北人


 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。

 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。

 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。


日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?


 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。


弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土


 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津いかわづ貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」

沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した約2万7000年前の日本最古の人骨
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50007


 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原しらほさおねたばる洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。

 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。





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ikz********さん 2012/10/19 16:29:16
日ユ同祖論 信憑性はどの程度なのでしょうか。

言語が似ている、歌をヘブライ語にすると意味が通る(君が代、かごめかごめ、 ソーラン節など)という具体的な共通点から、遺伝子が中国韓国人にはないものをもつという根拠不明なものなどが上げられます。

某掲示板では、宗教観が違いすぎる、戦前の白人コンプレックスの日本の学者が作り上げたものだとしているのをみて妙に納得してしまいました。確かにユダヤ教と神道、仏教は違いすぎます。まず一神と多神、偶像崇拝禁止と仏像とで明確です。

ただはっきりどちらに分があるとは判断しにくい部分が多いため詳しい方いたらよろしくお願いします。

aki********さん 2012/10/21 01:10:58

歌の類似性と言えば、和歌がインドの民謡と共通性が高いほうが注目に値すると思います。今でも日本人は海外の文化を輸入して、独自に発展させる才能を発揮していますが、昔もそうだったと考えるべきだと思います。ただし、ヘブライ語と日本語の類似性は他の言語と同程度で、かなり低いと思います。多くは音が似ているだけのコジツケになっていると感じます。

本当に日本語と近いのは、大陸の高句麗語です。言語が近縁かどうかを観察するとき、真っ先に見るのが数詞と言われています。日本語と高句麗語の数詞の比較を行うと、朝鮮語などよりもはるかに近縁の言語という結果が出るようです。

高句麗は滅亡して、その人々は女真族と名を変え、今は満州族と呼ばれています。

彼等は清帝国を築いたわけですが、清の時代に遭難した日本の商人が北京に行って驚いたのが、一二三四ではなく、ヒ・フ・ミ・ヨの日本語の数え方がそのまま通じたことだそうです。高句麗の流れを汲む女真族の言葉を話す人々と、北京で普通に接触できたようです。

百済は扶余・高句麗から枝分かれした王室で、朝鮮半島は異民族支配されていました。

そのため、百済の王室と民は異なる言語を話しているという指摘が、中国側に残っています。

神道の世界には古い朝鮮語が数多く残っていると指摘されることがありますが、実際にはそれが失われた高句麗語という説も出てきています。


高句麗語は日本語と同じ膠着語です。

系統が違う漢民族の言葉と文字がいきなり日本に輸入されたわけではなく、まず漢民族の言葉と直接接していた高句麗語が漢字表記されるようになり、それが、高句麗と近い山東半島や遼東半島付近の海人の手を経て日本にもたらされて、古い神道の祝詞の言葉などが作られていったと考えられます。

纏向型祭祀と高句麗国の東盟祭の類似性も、かなり指摘されているようです。

倭人文化圏が北九州から済州島を経て山東半島や遼東半島付近に分布していたと認識している中国側の史料が幾つか散見されるようです。

卑弥呼寒冷期と呼ばれる地球規模の寒冷化に伴って、飢饉に直面した高句麗地域の人々が日本に渡来した結果、弥生時代が古墳時代に変わっていったという説があるようです。

九州に山東半島原産の三眠蚕が入り、纏向(奈良)にも山東半島付近の製鉄と蚩尤(兵主・天日槍)の信仰が入っています。その結果、天照大神のモデルになった古い日女神を祭った比売許曽(ヒメコソ)神社が建てられるといった現象が起こったようです。

比売許曽は姫を祀る神社という意味の高句麗語(朝鮮古語)です。だから、比売許曽神社の末尾の「神社」は必要のない筈ですが、時代が下って元の意味が見失われた結果、付けられるようになったと考えられます。祝詞にも高句麗語由来の言葉が大量に入っている、というより、本来祝詞は高句麗語(吏読)だったそうです。謎が多いとされる「ひふみ祝詞」は、高句麗語として意味がほぼ通じる形で伝わっているそうです。飛鳥という都の名前も元は高句麗語のようです。

トルコからシルクロードを介して日本まで、膠着語圏が広範囲に広がっています。
文法的に近いため、日本語に輸入しやすかったことが考えられます。


たとえば、天皇を古い時代はスメラ・ミコトと呼んでいました。

シュメール文明と日本語の関係がかなり指摘されていますが、シュメール・ミグトと言えば、天降りた支配者のことで、日本語と音が似ているだけでなく、意味も一致しています。したがって、シルクロードを介して日本に入ってきたのは、なにも古代イスラエルの文化に限られるわけではないと思われます。

秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成になっていて、ペルシャ人の人骨が近くから出ているようです。

ササン朝ペルシャの滅亡に伴って、シルクロードに逃れた王子が中国に亡命し、妻子を安全な日本まで連れて来ているケースもあるようです。わずか数年で日本とペルシャは繋がる距離にあります。西の文化が日本に断片的に入っていても、不思議ではありません。仏教も入れば、ギリシャ彫刻もガンダーラの地域で形を変えながら伝わっています。

しかし、文化的影響が認められるからと言って同祖論を持ち出すのは、不自然すぎると感じます。それを言うなら、人類はアフリカ原産の動物で、皆同祖という話になります。

遺伝子に関しては本来akatamayorihimeさんが御専門の筈ですが、完全スルーしているようです。相手にする必要もない勘違い、ということだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1195894356




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実はとてつもなく古かった日本語 2018 05.01
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more


日本語は、もしかすると世界最古の言語であり、しかも世界で最も美しい言語かもしれません。

かつて谷村新司がロンドン交響楽団をバックにレコーディングをしたことがあります。
そのとき日本語の素晴らしさを再認識し、日本語を大切に歌っていくことを信念にしたそうです。

ディズニー・アニメの『アナと雪の女王』は、世界的ヒットとなったアニメ映画ですが、そのなかの挿入歌の『レット・イット・ゴー、ありのままで』は、世界25ヶ国語に翻訳され、それぞれの国の歌手が歌ったものが youtube で公開されました。

このとき、世界中の人たちが驚き、そして圧倒的な人気をはくしたのが日本語バージョンです。

Let It Go - Behind The Mic Multi-Language Version (from Frozen) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BS0T8Cd4UhA

松たか子ver(日本語吹替版)「Let It Go」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=4DErKwi9HqM


それは、歌った松たか子さんの声の素晴らしさももちろんあるでしょうが、日本語による発声が、メロディに+αの効果をもたらしたのかもしれません。

どこの国でも、それぞれにお国自慢があります。
ここで日本語が世界一だと述べるつもりは毛頭ありません。
ただ、ひとついえることは、どうやら日本語には、他の言語にはない、不思議なところがあるということです。

ひとつは言霊(ことだま)です。
言葉に魂が宿る。

ではどうして言葉に魂が宿るのかというと、日本語が実はもともとそのように構造された言葉だからなのだそうです。

構造とは、日本語の文法や発音や語彙のことです。

つまり、自然との共生を大切に育くむこと、自然を征服したり、人と自然とどちらが上かのような上下構造をもとうとするものではない文化の下で、人と自然とが対等な関係を育んで来たのです。

2つ目はオノマトペ(仏:onomatopee)です。
オノマトペというのは擬声語を意味するフランス語です。

擬声語は、たとえば

わんわん、メーメー、ブーブー、ニャーオ、ホウホウといった動物の鳴き声を真似たものや、

ドキドキ、パチパチ、バキューン、チリーン、ドカン、カリカリ、バタン、ガタピシ、ガタンゴトン、パチバチ、ビリビリ、ジュージュー、グワァ〜ン、パタパタ、ボキポキなどなど、音を真似たもの、

あるいは、

おずおず、おどおど、めろめろ、ふらふら、きゅんきゅん、きらきら、ぴかぴか、ぐずぐず、ツルツル、サラサラのように、本来音を発しない感情などを言葉で表現するものなどのことです。

おもしろいことに、擬声語(オノマトペ)は、言語ごとに、表現がまったく異なります。

冒頭にあるのは、その違いを示した絵本の抜粋で、クリックしていただくと当該ページに飛びますが、たとえば食事をするときは、日本では「PAKU PAKU」ですが、英語では「CHOMP」、フランス語では「MIAM」、イタリア語では「GNAMグナム」、Korea語では「NYAM」です。

キスは日本語では「CHU」ですが、英語では「MWAH」、China語では「BOH」です。
つまり言語によって擬声語(オノマトペ)は、まったく異なります。
ということは、それぞれの言語圏においては、音がそのように聞こえているということです。

そして日本語の擬声語(オノマトペ)は、China語やKorea語ともまったく異なるものです。

ということは、日本語はChinaやKorea半島からの輸入語では絶対に「ない」ということです。

それだけではありません。

日本語は、この擬声語(オノマトペ)が、他の国の言語と比べて著(いちじる)しく多いのです。
その数、なんと5千語です。

日本語の単語数は、たとえば『日本国語大辞典』の収録単語数が50万語です。
このことは、日本語の1%、およそ100語にひとつが擬声語(オノマトペ)であるということです。

そして単語の中には、日常生活でよく使われるものと、そうでない(たとえば学術用語)ものがあります。

オノマトペは日常的によく使われる語です。
早い話、今朝起きたとき、ご家族に「ぐっすり寝れた?」と聞く。
その「ぐっすり」というのがオノマトペです。

しかし睡眠は「ぐっすり」などという音は立てません。
ではなぜ「ぐっすり」というのかというと、「ぐうぐう、すやすや」寝ているからです。
その「ぐうぐう+すやすや」が短縮されて「ぐっすり」です。

「ぐうぐう」も「すやすや」も、なんとなく、そのような音を立てているといわれれば、なんとなくそうかもしれないと思われるかもしれません。
では、

 風が「そよそよ」と吹く
 太陽が「かんかん」に照る
 白い雲が「ぽっかり」浮かぶ
 星が「きらきら」光る

などはどうでしょうか。

風は「そよそよ」などという音をたてないし、太陽は「かんかん」なんてしゃべったりしません。

ではなぜこのようなオノマトペが使われているのでしょうか。

実は、自然がそのような音を立てているのではなくて、受け止める側が自然が発する音をそのように聞いているのです。

このことについて考古学者の小林達雄先生は、「人々が、人と人との間で行うコミュニケーションのための言語活動と同じか、あるいはそれに近いレベルで自然と向き合い、自然との間で活発な言語活動を行ってきた結果」(『縄文文化が日本人の未来を拓く』p.134)と述べておいでです。

つまり、日本語は「自然と対話しながら発達してきた言語」なのです。

だから欧米人にはただの雑音にしか聞こえないカエルの鳴き声や虫の声も、日本人には美しい秋の音色となって聞こえる。なぜ美しいのかといえば、それは人がカエルや虫たちとコミュニケーションしているからです。

では日本語は、いつ頃の時代から形成されはじめたのでしょうか。
言語の発達には、ムラの形成が欠かせません。
なぜならムラを営むには、言語が必要だからです。
そしてそれは磨製石器の登場と時期を同じにするというのが世界の考古学会の定説です。

世界の磨製石器は、おおむね7千年前以降のものです。
中には2〜3万年前のものもあります。

 シベリアの2万年前のもの
 ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
 オーストリア中部の2万9000年〜2万1500年前のもの。

など、ほんの数例です。

ところがこれらは、異常に早過ぎる磨製石器であって、作成経緯等はすべて不明です。
そして、その後に起こるおよそ7千年前の磨製石器の時代(新石器時代)と接続していないのです。

ところが日本の磨製石器は、3万年前の磨製石器だけが単独であるのではなくて、昭和48年に東京・練馬区石神井川流域の栗原遺跡で2万7000年前の地層から磨製石斧が発掘され、また同じときに千葉県三里塚からも磨製石斧が出土、以後、秋田から奄美群島まで、全国135箇所から400点余の磨製石器が発掘されています。

そして1万7千年前には縄文時代が始まるのですが、なんとものの見事に、その縄文時代の文化へと、磨製石器の時代が接続しているのです。

ちなみに長野県日向林遺跡から出土した60点、長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点の磨製石器に用いられている石は、伊豆の神津島から運ばれてきた石です。

つまり当時の日本人は航海術に長け海洋さえも自在に往来していたことも伺わせています。

こうしたことから、英国のJ・ラボックという考古学者は、

「日本列島の住民は世界に先駆けること二万数千〜三万年前に新石器時代を迎えていた。」

と述べています。

言い方を変えると、これはつまり、日本は世界最古の文明を持っていたことが証明されている国である、ということです。

そして磨製石器の登場と言語の登場、そしてムラを営むための神話の登場が重なるものであるならば、日本語は、およそ3万年前には生まれ、そこから現代に至るまで、ずっと続いている世界的にも稀有な言語である、ということになります。
そしてそれが可能になったのは、日本人が殺し合いや、自然への征服を好まず、人と人、人と自然が常に調和することを好む民族であったからです。

というより、調和を好むという日本人の性質は、最低でも3万年という途方もない長期間のなかで、最終的に生き残ってきた性質である、ということができます。

おもしろいもので身勝手な文化、自分さえ良ければという文化は、一時的な成功を手に入れることができても、必ず最後に崩壊し、再起不能になります。
ところが調和を大切にする文化は、一時的にどん底に落とされても、必ずまた再生し復活します。

植物には一年草と多年草があります。

最近は品種の改良によって、どちらも美しい花を咲かせますが、もともとは一年草の多くは、だいたい派手な花を咲かせるのに対し、多年草の花は、わりと地味な花が多いです。
地味だけれど、ずっと咲き続けます。
まるで日本人そのもののようです。

日本人は、はっきりとわかっているだけでもおよそ3万年、ずっと自然と調和し共生する道を選んできました。

だから日本語には擬声語(オノマトペ)が圧倒的に多いのです。

コメント


新宿の縄文人は、どんな言葉を話していたか?

東京の新宿のど真ん中、皇居の御堀端から2q程の地点から、縄文時代中期や後期(5千年前〜4千年前)の人骨が多数出土した事がありました。

江戸時代の遺跡を調査すると、その下から縄文時代や弥生時代の古い遺跡が続いて出土する事がありますが、その場合、江戸時代以降の大開発等によって、無残に破壊されていてる場合が多いそうです。

僅かな貝殻の堆積が確認されたとはいえ、分厚い貝層が存在しない内陸の地域から、多数の人骨がまとまって出土すること自体が非常に珍しく、当時現場は大変な興奮に包まれたそうです。

当時、保存状態の良かった、40代ぐらいの男性の顔が復元されました。

やや長めの顔に、上下に潰れた長方形の眼窩、彫りの深い目元の頭蓋骨は、ヨーロッパ人の様な風貌、あるいは、若い頃の宇梶剛士さんに似たイケメン風に仕上がりました。

彼のミトコンドリアDNAのハプロタイプは北方系と言われるA、一方彼の近くに葬られていた別の人骨は、南方系と目されるM7aだったそうです。

様々な地域をルーツに持つ縄文人たちが、新宿の地で仲良く暮らしていたのですから興味深いです。

日本語が「どのように成立したか分からない」と言われる所以は、様々なルーツを持つ人々の言葉が、極めて長い時間をかけて、ゴチャゴチャに混じり合った結果ではないかと思います。
2018/05/14(月) 11:38 | URL | 疑問 #iydQorAY[ 編集]

外国人に日本語で話しかける時にこの擬声語は使わない方が良いそうです。

擬声語に相当する外国語がないので、彼らにはさっぱり分からないようです。

また、行けなくも無いなどの二重否定もダメ。

日本人なら、何とかすれば行けると理解できますが、外国人は
理解できないようです。

外国人にとって日本語は本当に難解のようですが、
この言語を意識せず使いこなしている
我々は本当、凄いのかもしれませんね。
2018/05/14(月) 13:40 | URL | 名無し #mQop/nM.


新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘

新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘
http://www.city.shinjuku.lg.jp/video/video_jm01.html
https://www.youtube.com/watch?time_continue=607&v=P7VUMR0Mvzo

これですね。
2018/05/14(月) 14:31 | URL | KI


加賀町二丁目遺跡の関連本が出版されています。>KIさん

KIさんへ

動画等のご紹介ありがとうございます。

加賀町二丁目遺跡に関しては、講談社から関連書籍も出版されています。

『おどろきの東京縄文人』(瀧井宏臣著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E4%B8%96%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89-%E7%80%A7%E4%BA%95-%E5%AE%8F%E8%87%A3/dp/4062870029

という本です。

この本は、考古学少年から考古学おじさん・おばさんまで、幅広い層の人々が興味深く読める内容になっていると思います。

映像で見るのと、写真で見るのとでは、復元された縄文人の顔の印象は少々異なりますね。

映像の方はバックが暗めで、陰影が強調されていますが、写真の方は細部まで鮮明に写っていますので、少し印象が違ったのかも知れません。
写真で見ると、かなり欧米風味の顔に見えます。

個人的に注目されたのは、12号人骨(復元された縄文人)が腰にぶら下げていた、イルカの下顎の骨のアクセサリーです。

縄文人は、イルカやクジラやサメやエイ等も捕獲していたことが分かっていますが、丸木舟しかない時代ですから、漁の腕前は、現代人と比較しても大したものだったと思います。
2018/05/15(火) 09:54 | URL | 疑問 #iydQorAY
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more






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オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー
http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html

 6月18日の北海道新聞朝刊に興味深い記事が掲載された。

5〜13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに北大の研究グループが成功。オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかったというもの。

また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦紋人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。


アイヌ民族と共通性

 大学院理学研究員の増田隆一准教授(進化遺伝学)らのグループで、日本人類学会の英語電子版「アンスロポロジカル・サイエンス」に発表した。同グループは、道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体を分析。うち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した。

その結果、ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っているハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことがわかった。現在、カムチャッカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。

  一方、縄文人―続縄文人―擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、縄文人や現代の本州日本にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。
http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html


ニヴフ人とアイヌ語

ニヴフ語はアイヌ語や日本語、朝鮮語と同じように系統のわからない、いわゆる孤立語である。アイヌ語やウィルタ語といった隣り合った言語とも長い接触の歴史があるが、借用語程度の共通語彙しかなくお互いの言語が通じあうことはない。

ニヴフ人はかつて狩猟、漁労、採集を主な生業としていたが、最近の研究では中国(清)と日本との仲介貿易として知られる「サンタン交易」の重要な担い手であったことも明らかになってきた[1]。蝦夷錦や鉄器、毛皮といった商品を積んだ交易船を水面に走らすたくましい海洋交易民族でもあったのだ。
http://ext-web.edu.sgu.ac.jp/hidetos/HTML/mombetsuhandout.htm


ニヴフ語


ニヴフ語は少し昔までギリヤーク語と言われた。こう言うと聞いたことがあると思う人もいるだろう。サハリンが樺太といわれた時も、その遙か昔からニヴフ語はアイヌ語の隣にあった。つまり日本語の向こう隣にあった。奈良・平安時代にオホーツク海沿岸にオホーツク文化という古代文明があった頃、ニヴフの人たちは網走や稚内とか西は江差の方まで活動していたという見方もある。いまでこそニヴフの人たちが主に住んでいるところはサハリンの中部以北とアムール川の下流だけになってしまったが、ニヴフ語は日本地域の諸言語の中の一つであることになる。アイヌの人たちニヴフ人とのつき合いはもちろん古い。しかし日本人との触れあいも稀ではない。例えば間宮林蔵がアムール川を遡って清朝の出先交易所デレンへ行ったとき、同行して案内してくれたのはニヴフの人たちであった。

ニヴフの人たちがどこから来たかを問うのは愚問かも知れない。縄文以来その辺りに住んでいたと考えるほかはないからである。だから当然ニヴフ語も昔からそこにあって、アイヌ語と隣り合っていたに違いない。ところがこの両言語を比べて似ているところはない。おそらく親類ではない。それどころかニヴフ語はアイヌ語よりもむしろ日本語の方に似ている。といっても共通な語彙があるわけではない。ただ文法に構造に比較的共通な面が見られるというに過ぎない。

それに何と言っても人のすがた形がわれわれにそっくりなのには驚く。日本のスーパーマーケットではニヴフ人がレジで叱られる。「日本人のくせに日本語の計算できないの」というわけである。一方、アムールの店では日本人をニヴフ人と区別する目安ははいているジーンズの出来くらいのものである。

アムールの下流には2000人ほどのニヴフ人がネギダール人などと一緒に住んでいる。殆どニヴフだけの村もまだ2,3箇所は残っている。しかし家でも道路でも店でもニヴフ語は聞かれない。名の知れたおばあさんのところへ行って頼んで話していただけれるのがやっとである。一方サハリン全体でもやはり2000人を少し越える位のニヴフ人が住んでいる。だがこちらでは州議会にニヴフの代表を送ったり、著名な作家が活動していたり、あちこちの博物館に学芸員をやっていたり、ニヴフは大活躍である。『ニヴフ語』という新聞(月刊)も出している。だがそれでもニヴフ語が家庭語になっている家は一・二軒か、それもあのおばぁちゃんとあの娘との会話だけかなと言えるくらいである。

公教育でニヴフ語を正課にしているところはアムールとサハリン合わせて二校である。もっとも随意科目としてニヴフ語教室をおくところがほかにいくつかある。それにしては立派な教科書が1970年代から作られ、学習用の辞書も読本もある。しかも北西方言(アムール下流と北西サハリン)と南東方言(サハリンのトゥミ川流域以南)に分かれて、結構使われている。それでもニヴフ語はすでに生活語として使われてはいない。全員がロシア語の母語話者になってしまっている。昔話を語るひとも数えるほどしかいない。この言語の先行きは見えない。いまのところ完全に先細りである。あのお婆さんが亡くなったらどうするんだと思うばかりである。そして事実、一昨年はあの方が、去年はあの人が、という有様である。

しかし『ニヴフ語』の編集と配布に精を出している姿を見て、たとえ余所者であっても、何か手伝いたいと思う。本やビデオ番組を作る手助けでもできればと願う。「危機言語」だなどとよそよそしいことを言わないでほしい!このほれぼれするほどに立派な言語を必死にに守ろうとするひとたちがそこに生きているのだから。

《金子亨:言語学(2006年掲載)》
http://www.chikyukotobamura.org/muse/low060402.html


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アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書) – 2016/2/8
瀬川 拓郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87-%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%80%AC%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E9%83%8E/dp/4480068732


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
 


日本人や日本文化が世界で最近、注目されている。
理由や現象は敢えて並べないが、一言で表せば思考方法や行動、言語等が人類の本源的、源流的であるという点。裏返せば独自的、孤立的、世界中に広がった他の地域、人類との類似が少ないという点ではないだろうか。

最近の研究で言語学的にも遺伝子的にもそれは証明されてきており、人種の孤島として縄文人、アイヌ人の事を書いた著書の一説を紹介したい。

「アイヌと縄文」〜瀬川拓郎著
>「人種の孤島」としての縄文とアイヌ

本土人、琉球人、アイヌの遺伝的多様性の分布を見ると、それらは他の東アジア人や、ヨーロッパ人と混血した中央アジアの人々(ウイグル人、ヤクート人)のまとまりとは反対の方向に分布しています。

 現代の本土人、琉球人、アイヌは直線状にならび、この順でアジアの人々から離れていきます。直線の延長上にはかれらの共通祖先である縄文人が想定できます。つまり本土人、琉球人、アイヌのDNAを特異な方向に「引っ張って」いるのは縄文人であり、そのことは縄文人が現代のどの人類集団とも大きく異なる特徴を持っていたことを物語っているのです。

縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように嚙み合い、彫が深く、鼻が高いといった形質的な特徴をもっていました。これはアイヌにも共通します。そのアイヌは形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、1960年代に総合調査が行われ、歯冠の形などから本土と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論付けらました。

ただし、先のアイヌの特徴は一般的なモンゴロイドとは異なるものです。一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです。

つまり、私たちが常識のようにみなしているアイヌ=モンゴロイド説は学界で完全に受け入れられているわけではありません。形質人類学者の百々幸雄はアイヌがどの人類集団とも異なる、現生人類という大海に浮かぶ「人類の孤島」であるとし、アイヌと縄文人は「出アフリカ」をはたした現世人類が、ヨーロッパ人とアジア人に分化する以前の状態を保っているのではないかと述べています。(百々2007年)
このこととかかわって興味深いのは、同学者の山口敏が旧人のネアンデルタール人のあとに出現した、化石現生人類のクロマニョン人と縄文人の類似性を指摘し、縄文人の形態的特徴は、現生人類のなかの古層に属すると見なされている事です。

 日本列島の縄文人は北海道から沖縄まで形質的な共通性をみせています。かれらは地域性がはっきり認められず、均質な形態をもつ人々でした。つまり縄文時代の日本列島には、アイヌにうかがわれるような「モンゴロイド離れ」した人々が暮らしていたのです。

1万年以上続いた縄文時代には、日本列島をとりまく朝鮮半島、中国、台湾、サハリンとの交流はほとんどありませんでした。そのため縄文人のヒトとしての特異性はかなり純粋に保たれてきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

同様に言語学でも日本語、アイヌ語は世界中の言語から孤立している。

>日本列島を含むユーラシア大陸では2500以上の言語が話されています。ただし、同系関係を辿っていくと、これらのほとんどはアルタイ系言語、シナ・チベット系言語、インド・ヨーロッパ系言語のようなわずか10あまりの大きな「語族」にまとめられます。

その中で同系関係がたどれず系統的に孤立していた言語はわずかに9つにすぎません。さらにその約半数が日本列島の周辺に集中している。日本語、アイヌ語、朝鮮語、サハリン先住民のニブフ語です。

これ以外はピレネー山中のバスク語、西シベリアのケット語、インド中部のニハーリー語、東ヒマラヤのクスンダ語でいずれも人里から離れた辺境地帯の言語である点が共通しています。

言語学者の松本克己はこのうち日本列島周辺に集中する日本語、アイヌ語、朝鮮語はかなり旧い時代につながっていたと述べています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=312916


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縄文体質は日本語を通じて我々の心に息づいている
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3361.html

縄文体質はさまざまな方法で、分野で人々の暮らしに、文化に、心に残存していきました。しかしその影響力の中で最も大きなものはなんでしょうか?私は間違いなく日本語だと思います。

日本語は縄文時代に作られた言語であり、もっと言えばその以前、旧石器時代、さらにホモサピエンスが登場した時代に人類が言語を作り出した最も旧い古語を母体にしています。日本列島には縄文時代、それ以降も様々な大陸人が渡来し、定着していきましたが、彼らはいずれも母国語を持ちながらも日本に定着する為に日本語を使えるようになり、2世代、3世代を経て日本人になっていきます。それは現代でも同じで、アメリカ人であっても生まれて直ぐに日本で生活し、日本語で育った子どもは顔は西洋人でも心はまったくの日本人です。(テニスプレーヤーの大坂なおみや野球のダルビッシュ有などを見てもわかるでしょう)日本人は日本語で考えるから日本人になれるのです。

縄文―弥生―平安から江戸時代、明治、昭和、そして現在まで、日本語はほとんどその骨格を変化させず、時々の外来の文化を取り込んできました。るいネットでは日本語で検索するだけで100以上の投稿が掲載されています。

その中で縄文体質がどのように日本語を通じて我々の血肉に、心になっていったか、それを推し量る投稿をいくつかダイジェストで紹介します。


これらを読んで改めて思うのは日本語教育の大切さ、今学校教育で最も必要なの英語教育ではなく母国語を使った思考力育成教育ではないでしょうか?

日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=312916


これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。


縄文語は抹殺されなかった
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=307372&h_d=1433&m_d=rpc


人類学でほぼ定説になっているのは、日本列島には縄文時代の一万年にわたってアイヌ人を含む南方モンゴロイド系の縄文人が生活しており、紀元前二・三百年ごろ北方モンゴロイド系の渡来人が移入してきたことである。

しかし、大量の渡来人が一挙に押し寄せてきて、日本列島を席巻してしまったわけではなかった。縄文人が抹殺されたり、奴隷にされたりして、日本列島から縄文文化が消滅したわけでもなかった。大陸からある程度の集団的な渡来があったとしても、この時代の渡航技術からして先住民を一気に駆逐したり虐殺したりできるほどの大規模な移動はできなかった。

渡来人の移入以前、縄文人は、前期からすでに日本列島にはひろく住んでおり、土器の生産に従事し、相互に交流していた(ヒスイが糸魚川で産出し加工され、日本列島に広く流通していた例など)。縄文人はかなり均質化した文化をもっており、とすれば、地域差はあったにしろ、異言語の乱立するような状況は考えにくい。縄文前期からすでに縄文語という原日本語が形成され始めたのではないかと著者はいう。

(中略)

とすれば、言語もまた制圧と断絶という形で入れ替わったとは考えにくい。しかも日本語は、様々な学説はあるものの、現在までのところ琉球語以外にその同族関係が証明されていないという。「周辺言語との同型性を証明する比較方法の手がかりがつかめないとするならば、日本語は、日本列島が孤立して以来一万年の間に、この島国の中で形成されたと考えなければならない」と、著者は主張する。確かに、二千数百年前に渡来した弥生人が縄文語を消滅させてしまったなら、大陸のどこかに弥生語ときわめて親近性の高い言語が残っているはずなのに、それが見つからないのだ。日本語は、縄文文化とともに始まり、断続なく現代に連なる長い歴史ももっているというべきだろう。

原始日本人の感覚は、「ひらがな」によって継承されている
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=321391

文字を持たない時代の言語とその感覚を、現代まで引継いでいるのは、世界の中でも「ひらがな」のみという。どんな文字も、「てにをは」のひらがなにし組み立てることで、話し言葉しかなかった原始日本人の感覚を伴った理解ができる。「ひらがな」が、日本人の縄文体質を継承する基盤になっているということ。

日本語の感覚はひらがなの言葉やひらがなの使い方の中に脈々と継承され続けているのです。ひらがな以外の文字は他国の先進文明や新しい技術・考え方などを日本語として取り込んできたものなのです。


日本語の凄さ〜お互いが分かり合うこと(日常会話)に特化した言語〜
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=333010


日本語を含め計4ヶ国語を勉強した方が、日本語の秘密=日本語の凄さを書いてくれている。この日本語の凄さを読めば読むほど、日本語ほど相手と意思疎通を図るのに適した言語は無いのではないかと思えてくる。


○主語がなくても通じる

日本語は、主語がなくても通じます。良い例が、「愛してる」。
誰が、誰を、愛していると言わなくても、「愛してる」と言うだけで意味が伝わりますね。誰も日本語で「私はあなたを愛しているよ」なんて長ったらしいフレーズは使いません。

しかし、英語では「I love you」、中国語では「我愛(あなた)」を普通に使います。


○言葉を入れ替えても通じる

日本語は、英語や中国語に比べて言葉の並びをあまり気にしない(法則性が少ない)と感じます。例えば、英語で「Where are you now?」

日本語では、「今どこにいるの?」・「どこにいるの今?」・「どこに今いるの?」どれも不自然でなく使うことができます。

しかし、英語では「Now where are you?」とは言いません。なぜか説明できないけれど、しっくりきません・・・。もちろん「Where are now you?」とも言いませんよ。


思考するための最高の言語:日本語
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=332003


・・・日本語が思考言語としてはこれぼど適したものはないということになります。

特にアイデアや発想の広がりは、他の言語の比較にならないものだということができます。

問題は、その特徴を使いこなしているかどうかということになります。
枠にはまった思考や、限られた知識に縛られた思考では、せっかくの日本語のチカラを生かしていないことになります。


日本語が作る脳〜日本人の“縄文体質”や“本源性”は日本語を母語とする限りは失われない!?A
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=291491&h_d=1433&m_d=rpc


角田教授の発見で興味深いのは、自然音を言語脳で受けめるという日本型の特徴が、日本人や日系人という「血筋」の問題ではなく、日本語を母語として最初に覚えたかどうか、という点で決まるということである。

その端的な例として、南米での日系人10人を調査したデータがある。これらの日系人は1名を除いて、ポルトガル語やスペイン語を母語として育った人々で、その脳はすべて西洋型であった。唯一日本型を示した例外は、お父さんが徹底的な日本語教育を施して、10歳になるまでポルトガル語をまったく知らずに過ごした女性であった。その後、ブラジルの小学校に入り、大学まで出たのだが、この女性だけはいまだに自然音を言語脳でとらえるという完全な日本型だった。

日本語とポリネシア語の共通性〜ともに母音を中心として認識する言語
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=285350


日本で日本語を母語として育った在日の人々は、完全な日本型になっている。こう考えると、西洋型か日本型かは人種の違いではなく、育った母語の違いである可能性が高い。「日本人の脳」というより、「日本語の脳」と言うべきだろう。角田教授の今までの調査では、日本語と同じパターンは世界でもポリネシア語でしか見つかっていない。

世界の言語のほとんどは子音を中心に認識するものです。

ヨーロッパ語もアラビア語も中国語も、口から空気を出す時に障害を作って変化をつける子音によって音声の認識をしています。

子音は感覚的には、相手との距離を保ち威嚇する発音体系ということができるのだそうです。子音語族(こんな言い方があるのかどうかわかりませんが)においては、会話をすることによって、相手との対立や違いを明確にしていくことができるようです。

母音は息で制動を付けなくても、声帯の振動をそのまま伝えることで発することができる自然な音です。痛いときには「うー」と奥の方から自然に発せられます、感動した時には「おー」と自然な音が発せられます。母音は自然に発せられる音からできています。

母音を中心とした言語である日本語やポリネシア語の話者は、母音を言語脳がある左脳で聞いています。


『生きる力を育てる教育』〜日本語の力(番外編)こんこんと流れる日本人の心の地下水脈
http://web.kansya.jp.net/blog/2012/05/001281.html


子どもの頃に暗誦した言葉で意味の分からなかった所も、人生の経験を積み重ねていくうちに、ふと分かる瞬間が訪れる。嬉しい事や悲しいことがあった時に、子どもの頃に暗誦した言葉がふと思い浮かんで、その言葉の持つ深い意味に気づく。そういう経験を積み重ねると、その言葉を口ずさむだけで、自分の人生の様々な場面が思い起こされるようになる。子どもの頃に暗誦した言葉は長い人生において、自分を導き、支え、励ましてくれる道連れとなる。老人方の「喜び」とは、そういう道連れに恵まれた幸福であろう。

自分が共に生きた言葉を、また子や孫の世代が習い覚えてくれるなら、それはまた大きな喜びである。自分はこの世から去っても、自分がともに人生を歩んだ言葉は後の世代が大切に受け継いでくれる。自分はいなくなっても、自分が大切にした根っこは、後の世代が大切に引き継いでくれるのだ。

国語はこのようにして世代を貫いて民族の心の地下水脈をなす。暗誦文化が衰退したといっても、たかだかこの1,2世代のことである。現在の世代が忘れていても、国語の地下水脈はこんこんと流れ続けている。


日本語が美しい理由

言葉はその音が単なる記号ではない。
その音が持つイメージから言葉は作られる。太古、精霊を見て、観念を発明したとき、彼らの感覚にしっくりくる発音が与えられたはずだ。
日本は幸い、太古から民族、文化、言語がずっとつながっている。
日本語が持つ語感は、日本の風土の中で作られた言葉が変化しながらもずっとつながりを持っている。

だから日本語には擬態語が多い。

カラカラ、クルクル、コロコロ
サラサラ、ソロソロ、スルスル
タラタラ、ツルツル、トロトロ

Kは回転する固体、Sは乾いた空気の摩擦、Tは粘性のある液体のイメージだ。

日本人ならみんな共有できる音のイメージ。新しく擬態語を創ってもすぐ通用する。ところが、外国人にはこれが理解できない。

無数の音節単位を認識する他国の言語では、各音に対する性格付けがほとんど不可能。

音の語感だけで雰囲気の解る日本語発音体系、それを太古から途切れずに発達させることが出来た。

日本語は美しい。

黒川伊保子 「日本語はなぜ美しいか」 より

サクラサク、この語感の美しさ。みんなが共有できることの幸せ。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3361.html



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23. 中川隆[-13604] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:10:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20716] 報告

記紀の天津神神話は百済神話の焼き直しだった

「朝鮮と日本の神話を考える」 上田正昭 京都大学名誉教授

 敬愛してやまない末本徹夫さんがお亡くなりなって早くも2周年になります。仏教で申しますと3回忌になりますが、徹夫さんは京都大学の先輩でもありました。学生でありながら京都市会議員に当選され、人権問題、とりわけ日朝友好促進に力を入れられました。末本徹夫さんを偲んでの2周年の集いに「神話の問題」の話をしてほしいと雛子さんから言われまして喜んで参上した次第です。末本徹夫さんの写真がここに置かれていますが、その志を受け継いでいきたいと念じております。

 今日は「朝鮮と日本の神話を考える」というテーマです。新しい歴史教科書の問題がありますが、歴史学も科学です。小説家の歴史ではなく、歴史的事実を正確に認識することが大前提になります。伝仁徳天皇陵も仁徳天皇が葬ってあるかどうか大変あやしいのですが、伝仁徳天皇陵は私が学長をしていました大阪女子大学の近くにある日本最大の前方後円墳です。巨大な前方後円墳の仁徳天皇陵と伝えられている古墳ですが、堺では大仙という地名がありますので、我々は大仙古墳と言っています。大仙古墳を天皇を尊敬する方々がご覧になったら全長六百メートルの古墳になる。天皇制に反対の方がご覧になったら二百メートルだ、ということでは学問として成り立たない。

歴史は解釈の問題も大事ですが、誰がどういう立場で言おうと、史実は変わらない。正確な史実をまず認識するということが学問としての歴史研究の第一歩です。神話についても皇国史観の人が解釈する神話と、左翼の人が解釈する神話で全く違う評価が生まれるということでは学問になりません。

神話の定義

そこで神話をどう定義するか。定義が正確でないと内容が間違って解釈されることになりかねないと思います。「神話」という漢字の熟語は中国の古典にもありません。漢字文化圏である朝鮮半島の古典にも神話という漢字の熟語はありません。中国の『三国志』にも神話という文字はない。翻訳漢字です。日本の学者が1890年代に英語のmyth,mythusを「神話」と漢字に訳したものです。神話という翻訳漢字は失敗であったと思います。神話は神様の話という単純なものではありません。

日本の古典の中に神話に類似する用語があるか。「神語」というのはあるんです。『日本書紀』、皇極天皇2年、同3年の条、西暦643・644年の条に「神語」と文字があります。「カムガタリ」という方が皆さんがお考えになっている神話の意味がより正確に言えると思います。神の語りです。神話の定義は神話学者の数ほどあると言われるようにいろんな定義があります。

ギリシャ神話とか文字に記録された神話は神話の本来の姿ではないんですね。記録された神話は第二次、第三次の神話です。書かれた神話は本来の神話とは違うということです。文字を知らない人や、民族でも神話を持っています。なぜなら神の語りだからです。耳から口へ、口から耳へと語り伝えていくものが本来の神話です。文字に属するのではなく言葉の世界に属します。ホーリー・ラングウェッジ、聖なる言葉が神話の大事な点です。

沖縄の研究も復帰前から進めてまいりました。沖縄での国際会議にもたびたび招かれています。沖縄が本土に復帰する以前、米軍が占領していた時代、沖縄に行くにはパスポートがいった時代です。その時代から沖縄の調査をしていますが、本島から先島つまり宮古、八重山諸島など台湾に近いところです。

たとえば宮古島では神話が伝わっていますが、記録にはない。巫女さん、「ツカサ」のおばあさんたちが神話を言葉として語り伝えている。祭りの場で伝えられる。記録としてはないわけです。祭りに参加しなければ神話は聞けない。日常は語られません。男子禁制なので入れない。ツカサの神話の語りを録音させてほしいと申し入れて、

「祭りの場でもないのに語れません」

と拒否されました。お供えをして帰ろうとしたらおばあさんが

「待ってなさい。あなたは神の子だという御告げがあったから語ってあげます」

と録音させていただいたこともありました。

記録された神話

 『記・紀神話』といわれているものは、語られた神話ではなくて書かれた神話です。『古事記』は3巻あっては上巻に神話が書いてある。『日本書紀』は30巻ありまして、巻第一と巻第二が神代の話です。『古事記』は和銅5年、西暦712年正月28日に完成しましたが、時の天皇家の立場から作為的に記録されたものです。天武天皇の勅語に

「偽を削り、実を定める」

と書いてある。天皇家の立場からこれはふさわしくないというのは削ってある。天皇家の立場から書いている。神話のすべてを書いてあるわけではありません。


例えば今日の話について皆さんは、私の言葉を速記するなら別ですが、上田の話はここは大事だなと思う箇所を書いておられる。全部書いているわけではない。皆さんの日記でも全部正確に書いているとはいえない。都合の悪いことは自分の都合のいいように書く。日記だから本当のことが書いてあると思ったら間違いです。将来、孫が読むかもしれない。「おじいちゃんはこんなに立派だった」と第三者を予想して書いている場合もある。

記録する時には作為がある。歴史学をやるものは、書かれたものが全て本当だと思うようでは歴史研究をする資格がない。どこが本当で、どこがウソか文献批判が必要です。ラブレターはそれの最たるものです。「私はあなたを愛しています」と書くわけです。その瞬間はそう書くんです。口説くために。騙されて結婚して今日に至っている人もたくさんいると思います。ラブレターの文献批判をしていない。

自由民主党の新聞に書いている内容と共産党の新聞に書いている内容では違うことがありうる。一つの事実がさまざまに記録されるわけです。新聞が書いているからその通りだと思ってはいけない。毎日新聞の立場がある。朝日新聞には朝日の立場がある。6紙くらい読んでどれが真実かと考える。

 これは文字による記録の限界なんですね。書かれた神話には誇張の潤色が入る場合がある。『古事記』や『日本書紀』が日本の神話のすべてだと言っていたら、神話を教科書に載せる資格は全くない。こんな教科書で勉強するのは気の毒です。戦争中はそういう教育を受けた。神話を疑ってはいない。神武天皇橿原宮で即位された。「紀元は二千六百年、ああ一億の」という時は中学2年生でした。昭和15年。私は級長でしたから並んで国旗掲揚をしました。

紀元二千六百年の元年は西暦ではB.C.660年です。縄文時代の晩期の頃です。弥生時代の前です。そういう時代に日本国ができたというのは、少し勉強したらちょっと待ってくれと言わざるをえない。日本国家が縄文時代にできたなんてことはありえない。邪馬台国よりはるかに昔の話ですよ。邪馬台国の卑弥呼の時代は紀元後3世紀前半の話です。そのときから900年くらい昔の話です。日本国が誕生したという考えには幼稚園の子どもでも待ってくれと言わざるをえないのではないでしょうか。だけどそれは『日本書紀』に書いてあるわけです。『日本書紀』に書いてあるからその通りですと言うていたら、ウソということになるわけです。

神話とはなにということを理解していただかないと、これからお話する日本と朝鮮の神話の問題も間違ってくると思います。神話はまさに聖なる言葉でした。

神話とよく似た言葉には「伝説」「昔話」があります。語り伝える口頭伝承です。言葉の世界に属していますが、しかし内容はみな違うんです。

神話は神様が出てくる。この世のはじめ、天地開闢と関係がある。

「この世のはじめにおける神と人との重要な出来事を語り伝えた聖なる言葉」

が神話です。ハレは非日常、ケは日常。神様をお祭りするハレの時に着る着物が本来の晴れ着です。日本人の晴れ着は祭りの日に着る着物です。ケ着は日常の着物です。ハレの非日常の聖なる時と場の語りが神話です。神の行いを信じるという信仰が神話にはある。語られている内容がどんなに非合理であっても。

国産み神話。イザナギとイザナミの命が鉾を天空から海中に下ろして、それが塩で固まって島ができた。次々に国を生んでいく。塩が固まって島ができる、国土ができる。全く不合理な話ですが、語っている人、聞いている人が信じていた。信仰です。祭りの場に参加していないと聞けない。信じてかつてそのような出来事があったことを深く信じている。

 ところが伝説というのは全く違うんです。ある特定の物に則して語られる。伝説には神様が登場しなくてもいい。即物性がある。弘法大師が池をつくられた。弁慶が運んだ石がある。義経が腰をかけた石がある。何か物に則して伝説は語られる。語られている内容は自分たちの祖先がやってきたこととして語る。伝説には何年何月何日、「頃は元禄15年12月14日」は忠臣蔵の日ですが、日時まで物に則して語られる場合がある。

昔話は語られる内容が全く違う。どの昔話でも「昔、昔、あるところに」と時がわからない。伝説は特定している。昔話は特定しない。「で、あったとさ」と語りの最後は結ばれる。もちろん土地の言葉で語られる。伝説や昔話はケの語りです。いろり端で語る。「昼の話はネズミが笑う」という諺がありますが、夜、語られる。

神話はケの語りではない。神を祀るというハレの時と場で語られる。文字を知らないどこの民族でも神話はある。朝鮮民族には朝鮮民族の神話があり、日本民族には日本民族の神話があるわけです。それが後に記録化される。日本の場合は記録化された神話としては『古事記』『日本書紀』が有名です。

『古事記』『日本書紀』以外も我々の祖先のことが書かれているものがあります。『風土記』があります。『古語拾遺』は西暦807 年にまとめられたものです。『風土記』は各国々で編纂されましたから国々にあります。語り部の神話の記録もあります。『万葉集』の中にも『延喜式』にもあります。『先代旧事本紀』の神話もある。『古事記』や『日本書紀』だけが日本神話のすべてではないということを押さえておかないといけないと思います。

朝鮮の神話では

 朝鮮の神話はどうか。もちろん朝鮮民族の神話も最初から文字で書かれたわけではない。好太王碑文は有名ですが、その冒頭は建国神話で、高句麗の祖先はこういう人たちであったと語っているわけです。25、26年前、高句麗文化展がありました。京都市立美術館で朝鮮民主主義人民共和国から貴重なものを送っていただきました。京都を皮切りに巡回されました。私は西日本の高句麗文化展の責任者だったんです。東日本の責任者は騎馬民族説で著名な江上波夫先生でした。

碑は高さが6メーター38センチあります。これをレプリカにして送ってきましたが、美術館に入らない。京都の場合は屋外に展示しました。そのはじめに高句麗の神話が書いてある。広開土王という高句麗の王様の石碑が彼の子どもの長寿王の2年の時に建った。西暦414年、5世紀のはじめです。[史料5]この碑文が有名なのは、碑文に

「由来朝貢而倭以辛卯年来渡」。

西暦391年に倭人が海を渡ってきた。「百殘」は百済です。「新羅以為臣民」と書いてあります。

倭イコール大和朝廷と解釈しているのは歴史的事実に反します。

倭をどう解釈するか問題があるのですが、北九州を中心にする倭の勢力が海を渡ってきて、朝鮮半島の百済、新羅、伽耶を破って臣民にしたと書いてある。

これを明治以来の日本の政府はかつて朝鮮半島は日本の属国であったということをこの碑文を証拠に言ったわけです。その中心になったのは東京帝国大学の先生方ではなく、陸軍参謀本部なのです。そのことを明らかにしたのが、在日の歴史家の李進熈さんです。和光大学の名誉教授の考古学者です。

陸軍参謀本部が改ざんしたのだというのが李さんの説です。李説が発表された時、中国の学者も韓国の学者も台湾の学者も日本の学者もショックを受けた。好太王碑文の陸軍参謀本部の改ざん説が契機になりまして、好太王碑の研究が前進しました。その功績は高く評価していますが、改竄説には賛成してはいないのですが、李さんの問題提起がなければ好太王碑の研究はあれほど盛んになるとは思われません。

共和国の学者も好太王碑についての論文も書きました。中国の学者も書きました。好太王碑をめぐって大変な論争を展開することになります。その火付け役をしたのが李進熈さんです。このことはちゃんと認めないといけないと思います。

 好太王碑が立っているところは中国の吉林省にある集安、鴨緑江を挟んで対岸は朝鮮で共和国の皆さんが歩いておられる姿が見えます、川を挟んで。

その碑文の調査に私は3回行きました。碑文の文字は残っているのですが、剥落して判読できないところも若干あります。

 この碑文が大事なひとつは高句麗の神話が記述されている事です。

朝鮮にも古典はたくさんあります。たとえば『三国史記』がありますが、『古事記』や『日本書紀』より出来たのははるかに遅いんです。1145年に編纂の命をうけて書かれました。12世紀のなかば、日本でいえば平安時代の終わりです。平清盛の頃に書かれた神話を高句麗の本来の神話として議論してはいけない。

高句麗の神話は5世紀にあったということは好太王碑文を見たらわかるわけです。この碑文ができたのは414年です。414年の好太王碑文の最初に神話が書いてある。

「惟昔始祖 牟王之創基也」。

朱蒙が高句麗の基を築いた祖先である。

「出自北夫餘天帝之子」、

天の神様の子どもであって、お母さんは「河伯女郎」なり。河の神の娘である。お父さんは天の神様。お母さんは河の神の娘である。卵を裂けて世に降りる。生まれながらにして聖。

高句麗には5世紀のはじめのころに建国神話があったということは、好太王碑文によってわかるわけです。もちろん書かれた神話ですが、そういう神話が5世紀のはじめに高句麗にあったことを物語っているわけです。

 昨年12月23日の天皇誕生日の前の12月17日、宮中で記者会見があった。記者クラブが7つ質問している。その中の一つが

「来年はワールドカップで日韓共催でやる。天皇はどう思われるか」

という質問に

「自分の先祖である桓武天皇の生母高野新笠は百済武寧王の子孫であった。
韓国とのゆかりを感じます」

と語られたわけです。私にもすぐ朝日新聞社からコメント依頼がきました。私が感動したのは、人物の交流が皇室を含めてあったのだけれども

「不幸な関係があったということも忘れてはなりません」

とちゃんと言っておられる点ですね。そこがあまり報道されてないんです。

 私は朝日のコメント依頼に「そこが大事だ。それを書いてくれなければコメントしない」と申し上げたのです。1月16日、京都新聞には載りませんでしたが、共同通信が後追いの記事を出しました。なるほどと思ったのは「誕生日の記者会見くらいは自分の言葉で言わせてほしい」と言われたそうです。宮内庁のチェックはなかったようですね。宮内庁は大慌てになったということを1月16日の共同通信配信で知りました。私はその日、松江に行っていまして、山陰中央新報で知りました。実はこれは、神話の問題とも関係があります。


桓武天皇のお母さんの高野新笠は、勅撰の歴史書である『続日本紀』が明記するとおり武寧王の子孫ですが、延暦8年12月に亡くなります。お葬式は正月にあった。葬ったのは大枝の沓掛にある旧山陰道の右手の山の中腹。そこに高野新笠のお墓があります。階段を登らないと行けません。延暦9年1月にお葬式をしている。

『続日本紀』に新笠の伝記が書いてある。どういう人だったかということを書いて百済の神話を書いている。そこに書いてあるものを読むと

高句麗の建国神話と百済の建国神話が同じであったことがわかります。今、残念ながら朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国は分断されていますが、百済の建国の神話と高句麗の建国神話は同じです。在日の皆さんが自分の祖国の神話も知らずにいるというのでは残念です。

朝鮮と日本の神話の類似性

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。

 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。

朝鮮と日本の神話の相違性

 日本の神話と朝鮮の神話は極めて類似性がある。
玄界灘を隔てて隣り合っている国ですから共通性がある。
日本の神話と朝鮮の神話には共通性がある。

比較というのは似ている点だけをすることではない。どこがどう違うかということを正しく理解することが極めて重要です。朝鮮の文化と日本の文化のどこが共通しているか。

日本の中に朝鮮の文化がこんなにたくさんある。
遺跡めぐりをしても朝鮮の文化が各地にある。
それにあわせてどこがどう違うかという、共通性だけでなく独自性も見ていないと、本当の友好、連帯はできない。全く同じだったら改めて勉強する必要はないんです。キムチと漬物の文化とは違うじゃないですか。

なぜ違ってきたのかを正しく理解しなければ、本当の連帯はできない。同じだと言ってばかりいると「日鮮同祖論」になる。祖先は同じなんだから日本に朝鮮が併合されてももとは一緒ではないかという論理と類似のものになってくる。どこがどう違うかということだけを言っていても具合悪いんですね。共通性と独自性の両方を理解することが必要だと思います。


 書かれた日本の神話と、書かれた朝鮮の神話の決定的に違うところが三つあります。それも知っておく必要がある。

クシの峰、天降った山の名は類似している。

けれども、日本の神話では「荒ぶる神」がいた。降ってきて平定するんです。

高天原から降って「言向和平」する。

朝鮮の神話では違う。民衆が

「どうか神様降ってください」

とお祈りすると降ってくる。 [史料4]「又曰 

皇天所以命我者 御是處 惟新家邦 為君后為茲故降矣 称須掘峯頂撮土 歌之云 亀何亀何」。

もしもし亀よ亀さんよと歌うわけです。

「首其現也 若不現也 燔灼而喫也」。

亀さんの姿を現せ、そうでなければ焼いて食べるぞと。民謡だと思います。

「以之踏舞 則是迎大王・歓喜踴躍之也」。

神が降ってきたといって民衆が喜び、踊り回る。

「歓喜踴躍」する。すばらしいシーンです。


 朝鮮の高句麗や百済、伽耶の神話の場合は卵が天から降ってきて、それが割れて中から誕生する。卵から生まれるという卵生型は日本の神話にはありません。

 そして朝鮮の神話ではお供を連れて天降ってこない。単独降臨です。

日本ではお供の神様がついてくる。

アメノコヤネの命は中臣氏の祖先です。瓊瓊杵尊と一緒に天降ってくる。

後の天皇家の周辺の有力貴族の祖先も一緒に天降ってくる。
朝鮮には檀君神話を除いて随伴神伝承はないんです。
後の時代はお供が増えますが。そのように内容が違う。


 もとは共通であったはずの朝鮮と日本の神話がなぜこのように違ってきたのか。

語られた神話、『古事記』『日本書紀』に書かれる段階で、すでに我が国には天皇制があった。

天皇制を背景にできあがった『古事記』『日本書紀』の神話に対して、朝鮮の場合は貴族の合議制。王者はいるのですが、貴族が合議しながら政治をやる(和白制)。

よりデモクラティックな民主的な要素の強い朝鮮社会と、我が国のように天皇制を中心にする社会体制ができあがっている。記録化の背景が違ってくる。社会の仕組みが違うので神話の内容も専制的なものになっていく。極めてデモクラティックな朝鮮との違いができたのではないかというのが私の説です。文庫本(日本の神話を考える)をお持ちの方もおありのようですが、そこにも詳しく書いておりますので参考にして下さい。

 韓国、朝鮮は日本と最も近い国です。善隣友好、隣と仲良くできなくて、どうしてアメリカ、ヨーロッパと仲良くできるか。近くで対立しているようでは、国際化日本にはなれないと思います。そのためには日本の文化と韓国、朝鮮の文化のどこが共通しているかを確かめると同時に、なぜこんなに違ってきたのかということを相互に詳しく理解しなければ本当の信頼関係は生まれないと思います。国際化ということは、相手を知ることがまず第一です。

我々が朝鮮の文化、朝鮮の歴史、朝鮮の生活を知る。そして己を知る。自分を知る。日本人が日本を知らなくて国際化なんてできません。在日の皆さんもそうです。朝鮮の皆さんが朝鮮のことを知らなくてどうして国際化ができますか。朝鮮民族が日本のことだけを知っているのではなく、己を知ることも大事です。いかに友好の関係史があったか。そのことにあわせて極めて不幸な侵略の歴史、大変なご迷惑をかけた、拭うことのできない歴史も忘れてはなりません。

共通の認識と共にどこがどう違うか。異質性、独自性の認識が正しい理解を生むのだと思います。共通性もありますが、違う点もあることをよくご理解いただきたいと思います。以上で終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました

質問 三つだけ教えてください。

@神話は科学的に実証することができるかどうか。
A真床追衾(まとこおふすま)について。
B邪馬台国について。

上田 神話を正しく理解するには書かれた神話、記録化した時にどこにどう手を加えたということを知ることが大事です。原像を復元することはむずかしいと思います。しかしその作業をなおざりにはできません。

 2番目の真床追衾。マは形容語で、寝床の床です。高御座の台です。
被りものを被って降臨する。オブスマは被りもの。スマは中が空洞になっているものです。

 3つ目に邪馬台国、卑弥呼の時代は3世紀前半です。
邪馬台国は私の考えでは前期邪馬台国と後期邪馬台国に二つに分けて考えられる。

後期邪馬台国は畿内の大和だと思います。前期は九州だと考えています。

講談社学術文庫『大和朝廷』に私の説が書いてありますのでお読みください。大王家の祖先は邪馬台国の卑弥呼になるのですが、神武天皇が北九州から入ってくる。北九州から大和に入ってくる伝承を全くの架空とは断言できない。西から東に王権が移ったということがあったに違いない。考古学は1、2世紀の文化は畿内大和より北九州の方が進んでいる。3世紀では畿内大和が進んでいる。

弥生時代の前期は九州の方が進んでいる。弥生時代後期は断然大和が進んでいる。2世紀後半に遡る可能性がある。最近は畿内説の方が調子がいい。畿内説から九州説に寝返った人もいるが、私は一貫して畿内説ですが、生え抜きの畿内ではない。邪馬台国後期の畿内論です。

(2002年1月26日 講演記録より)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html


「朝鮮隠し」 と 「日本神話」

「白村江の戦」で新羅に破れ国を追われた百済人は、故郷を追われた怨念もあったであろうか、追われた身としてではなく「天から降臨した神の子」として新天地づくりに熱情を傾けた。自分たちの国として、自分たちの位置づけを明確化し、故郷に対する優越意識を高めるために、「朝鮮隠し」なるものを発揚させたのである。

「日本」という国号を作り、「我々は日本人である」という意識高揚が、現日本人の祖先の位置づけを曖昧化させた。朝鮮系の地名・人名を変え

加羅→唐 高麗→呉 金→今、

その風潮は1300年経った現在も消えず、朝鮮の痕跡を顕在化させまいとする歴史が今でも点灯している。

「日本神話」の真実

ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催されたとき、アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開された。その際、上田氏の

「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」

という記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、

日韓の天孫は山頂に降臨しており、共通点が多い

と主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘しているという。


日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。「日本神話」は、主に八世紀初めに書かれた「記紀」の記述がもとになっている。

この説は、「駕洛国記」による韓国の降臨地「亀旨kuji」と「記紀」による降臨地「久志」の音がそっくりであることからも否定できないという。

日本にも朝鮮にも、「仏教」以前から「神道」が存在している。

「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れに日本も乗っていることになる。

弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道」をもちこんだのはごく自然な流れだろう。

梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、

「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、

スサノオは朝鮮半島から出雲へ来た

という説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。

スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」

と述べている。さらに、梅原猛は、著書『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』で、

「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。
スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。
新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。
古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」


と述べている。

出雲市の斐伊川の上流に「鳥髪」という所がある。

市町村合併によりその地名なくなったが、奥出雲の「鳥上小学校」「鳥上公民館」の「上 かみ」は「髪」の音から転用した語である。

AD四世紀ごろ スサノオは韓国の「소머리 somoli 牛頭」から奥出雲の「鳥髪(とりかみ)」へ渡来し、「たたら流し」のリーダーとして名を成した人であるという。

スサノオは砂鉄によって「草薙の剣」を作った偉人という伝説があり、「草薙の剣」はヤマタノオロチの尾にあった剣のことである。「記紀」の神話を書く際に、フィクションのモデルにされたのはスサノオであろうという説がある。奇妙に思うかもしれないけれども、

「記紀」を書いたのは渡来人(主として百済のエリート)であり、「記紀」が書かれるより300年前の伝説の人 スサノオも渡来人である。

「日本神話」の成立についてのこのような話は、現在の日本人にとって想像を超えた物語に聞こえるだろう。


「소머리 somoli 牛頭」と「鳥髪(とりかみ)」は同じ言葉で、「소 so 牛」が「새 se 鳥」に転訛し、「머리 moli 頭 髪」は「鳥髪」の「髪」と同じ言葉であるという。

スサノオが天から降りて来たという神話は、朝鮮の「天孫降臨神話」を模したものでフィクションに過ぎない。このような真実を、馬鹿馬鹿しい想像によるものであると影に移し、「記紀」が書かれて1300年たった現在ですら「スサノオ」と「ヤマタノオロチ」は日本神話の真髄である。朝鮮の影が映っている歴史は影に過ぎないと追跡せず、朝鮮由来の歴史は朦朧と曖昧化されている。従って、日本の古代史の書籍には「謎である」という解釈が目立ち、日本語のルーツは明治以来150年にたってもわからないのだから、今後も「謎だらけ」であろうと豪語する学者らしき人の書籍が店頭を飾っている。
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1eca.html

[庚戌国辱100年紙上座談会・上]韓日元老6人が100年を論ずる
◇古代からの韓日交流史 2010年04月14日 中央日報/中央日報日本語版

−−韓国と日本は古代からさまざまな交流をしてきた。 お互いどんな影響を及ぼし合いながら現在の社会文化を形成してきたと考えるか。

梅原猛=中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。
私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、

出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。

『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。 これは新しい考えだ。

弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。 したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を越の国の支配から独立させた。

出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。 大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。

(神話に出てくる)スサノオが韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。

新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。 古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。

朴泰俊(パク・テジュン)=古代韓国は日本に文明を伝授した。
ポスコがある迎日湾の村には、『三国遺事(サムグクユサ)』に記録されている新羅時代の「延烏郎細烏女」という夫婦の話が伝えられている。

この夫婦が日本に‘太陽と月’(光)を伝え、王と王妃に推戴されたという話だ。

‘光’は文明を意味する。

1973年に迎日湾には日本の協力で新しい‘光’が誕生した。 溶鉱炉の光、すなわち浦項製鉄だった。 迎日湾を背景に両国間でやり取りした‘光’の話は、両国関係の未来を照らす灯火と考えてもよい。 韓日間には日本の侵略と植民地という痛ましい歴史もあったが、お互い助け合いながら発展した時期も多かった。
http://japanese.joins.com/article/246/128246.html?sectcode=&servcode=A00



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24. 中川隆[-13603] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:14:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20716] 報告
出雲王国は実在したか?


結論から言ってしまえば、この問いに対する私の答えはYESである。後で述べるような意味合いにおいてであるが、出雲に象徴される一大「山陰王国」は実在したと思う。しかもその「王国」は、はるか紀元前後から大和朝廷が成立する古墳時代まで続いていた可能性がある。

1984(昭和59)年の夏、神庭・荒神谷遺跡からの大量銅製品の出現は、従来の出雲観を塗り替えたと言ってよい。それまで出雲には目立った遺跡・遺物は出土しないとされていた為、日本史上多くの謎を秘めていたのである。

なぜ「古事記」「日本書紀」に出雲関係の記事が多いのか、日本神話はどうしてああまで出雲を取りあげているのか、山陰の鄙びた一地方である出雲に、伊勢神宮を上回る規模で最古・最大の神社が存在しているのはなぜか? 

これらは誰にも解けない謎として、過去多くの研究者や古代史マニア達を悩ませていたのだ。


神話の持つ歴史性にさほど信頼を置かない歴史学者や考古学者にとっては、山陰地方に考古学的遺物・遺跡の少ないことが、「記紀」の歴史性を否定する理由にもなっていた。「記紀」の出雲神話や「出雲の国風土記」はもっぱら文学者や民俗学者の研究対象だったのである。

それが今回の発見で、全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る358本の銅剣、銅矛16本(翌'85年)が出土した。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土したのである('85年)。日本神話の故郷は、一気に考古学最前線としてのアプローチを受ける事になった。


この時から出雲に対する認識は一変したと言える。

誰もが、出土した銅剣のその量の多さに驚き、多くの疑問が各方面から提示され、本格的な研究もやっと端緒についた 1996年(平成8年)、今度は加茂岩倉遺跡から実に39個もの銅鐸が一挙に出土した。トンボ、シカなどの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人は殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。出雲はふたたび世間の耳目を集める事になった。更に同じ年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。もはや出雲は何もない国ではなくなったのである。誰もが出雲王国の存在を予感した。


更に、1992(平成4)年から昨年(1998年)まで発掘調査された鳥取県の「妻木晩田遺跡」の出現は、後述するようにその周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えたと言ってもよい。


私が表題に掲げた「出雲王国」というのは、ただ島根県だけを指しているのではないことをご理解いただきたい。現在では出雲と言えば島根県という事になるが、私の考える「出雲王国」というのは出雲を中心として、西は山口県から東は丹後半島から、もしかすると能登半島を通り越して現在の糸魚川あたりまでの広い範囲を考えている。

勿論、ただ一つの国がこれらの広い範囲を支配・管轄していたとは考えられない。2000年前の紀元前後に、王をいただいた唯一つの行政機関がこれらの地域を統括していたとは一寸想像し難い。しかし中国においては「漢王朝」があの広大な領土を統治していたのであるから全く可能性が無いわけではないが、現在の所この地方にそれを窺わせる文献も考古学的知見も存在してはいない。私の言う「王国」とは「文化圏」と同義である。北九州、畿内とは異なる、環日本海文化を共有する集団が存在していたと考える。


クニとしてはそれぞれ独立し、王や首長のもと原始国家を形成していたと思われるが、これらの人々はある一つの大きな事実で互いに結びつき、文化圏を同じくしていた。それは「渡来」である。彼ら環日本海地方の人々は、出身地方こそ違え、皆朝鮮半島からの「渡来人」であった。

一部中国大陸からの人々も居たかもしれない。北九州と同様な、或いはそこよりも進んだ文化と技術を携えた人々が、段階的に日本海側に渡来したのである。

それは縄文末期もしくは晩期にその萌芽を見て、弥生期に入って本格的に形成され古墳時代中期頃まで続いたと考えられる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku.html

我が国に現存する五つの風土記の内、「出雲国風土記」のみがほぼ完全形で伝えられている。成立年代や編作者もあいまいなものが多い中、「出雲国風土記」のみは、天平五年(733)、出雲国造出雲臣広嶋(いずものくにのみやっこ・いずものおみひろしま)編という事がわかっている。この風土記は、神社・寺院・山川・地名の由来、地方の物産などの他に、出雲の国が出来た由来を伝える「国引き物語」など、他の風土記にはない内容を多く伝えており、当時の様子を知ることが出来る第一級の史料である。


「国引き神話」によると、古代の出雲は小さく領土が不足しているので四つの国から土地を引いてきて今の形にしたとある。

現在の島根半島である。衛星からの写真で島根半島を見ると、大きく四つの山塊に別れている事が見てとれる。


「三穂の埼」みほのさき・・・・・・・・・・美保関町北浦・稲積から松江市手角町にかけての東側の岬。美保神社がある。

「闇見の国」くらみのくに・・・・・・・・・・・鹿島町多久川から美保関町北浦・稲積までを言う。闇見の神が鎮座する。

「狭田の国」さだのくに・・・・・・・・・・・・平田市小津から鹿島町多久川の切れ目までを指す。佐太大神が鎮座する。

「八穂米支豆支の御埼」やほしねきづきのみさき・大社町日御碕から平田市小津・平田までを指す。ここに出雲大社がある。

地質学的には、島根半島は約7000年前には日本列島から離れた横に細長い独立した島であった。3000年から2500年ほど前に現宍道湖の東側・西側が地続きになり宍道湖が出来、弓ヶ浜半島も陸続きとなって中海も湖となった。1200年ほど前、弓ヶ浜半島の付け根が再び海となり中海は湾となり、現在に至っている。

神話は例えば三穂の埼を、高志(越:北陸地方。)の国から弓ヶ浜半島を綱にして、大山を杭に引き寄せたという荒唐無稽なものであるが、その地形的な成り立ちと一致しているのには驚かされる。また西側の杵築(きづき)の御崎は、遠く新羅の国から引き寄せたとあるが、衛星も地図もない時代にただ想像力だけでこういう壮大なスケールの物語を作った古代人には圧倒される。


しかし実は、古代出雲人が単なる想像力だけで新羅の国を持ち出したのではない事は明白だ。環日本海ル−トとでも呼ぶべき、大陸・半島との交流が相当昔から存在していたと見るべきだろう。

地図を見れば一目瞭然だが、朝鮮半島東側の新羅からは、実は北九州に行くよりも出雲や伯耆・若狭あたりの山陰・北陸へ行く方が自然である。対馬海流の流れを見ても、逆らってわざわざ松浦に行く事はない。

こぎ出せば海流に乗って自然に出雲あたりへ流れ着くのだ。北九州に負けず劣らず、山陰地方にも古くから大陸・半島からの渡来が行われていたと推測できる。とりわけ出雲では他の地域に先駆けて朝鮮半島と交易を行い、最新ハイテク技術である金属加工法を獲得していたのではないか? 

技術とともにその技術を伝える人々も渡来してきたはずだ。人的交流も盛んだったはずである。その成果が冒頭の358本の銅剣につながるのだろう。


スサノオ、オオナムチを中心とする出雲神話は、我が国神話(記紀)の約3分の1を占めている。8世紀初頭に成立した古事記・日本書紀がここまで出雲を取りあげた、或いは取りあげねばならなかった理由は一体何であろうか。

出雲は、記紀が成立した時代にそれほど重要な、又は重要な記憶を秘めた場所であったのか。


出雲の最高神、大国主(オオナムチ:大国主の命)は、遠く高志(越)のクニまで進出し糸魚川の翡翠製産をもその勢力下に納めようとするほどの権勢を誇っていたが、この出雲王朝に悲劇は突然訪れる。

高天原の天照大御神(アマテラス)と高御産巣日神(タカミムスビ)は孫の火瓊瓊杵(ホノニニギ)を下界へ降ろし、大国主以下の神々に出雲の統治権を高天原に譲るよう交渉させようと試みるのである。しかし第一陣、第二陣の使者達は出雲側の懐柔に会い使命を放棄してしまう。三度目の使者、建御雷(タケミカヅチ)と天鳥船(アメノトリフネ)は出雲の稲佐の浜(出雲大社東岸)に降り立ち、建御雷は、波頭に突き立てた刀の刃先にあぐらをかくという奇怪な格好で大国主と「国譲り」の交渉を開始する。

大国主は即答せず、長男の事代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。事代主は大国主に国譲りを勧め、自らは沈む船の中に隠れてしまう。そこで大国主は国譲りを決意するが、末子建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建御雷に信濃の諏訪まで追いかけられ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、ここに「出雲の国譲り」が成立する。

大国主は国譲りにあたって、高天原の神々の子らと同様の壮大な宮殿造営の条件を出す。高天原はこれを了承し、大国主の為に多芸志の浜に宮殿を造る。


この宮殿について日本書紀は、


(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。

(2).田を作る。

(3).海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。

(4).天の安川に打橋を造る。


....などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)を大国主の祭祀者として任命する。

(この天穂日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の宮司はその83代目にあたるとされている。)


以上がいわゆる「出雲の国譲り」と称される神話の概要である。古事記と日本書紀で細部は異なるが、話の大筋は同じである。この神話を巡っての解釈も諸説あり、神話の中に何らかの史実性を見いだそうとするもの、全くの創作だとするもの、
殆ど史実ではないかと唱えるものなど様々だ。私見では、かなりの確率でこの話は史実に基づいているのではないかと考える。そう仮定すると、出雲の重要度、弥生以後の我が国の展開が矛盾なく説明できると思う。


皇学館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかって大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。

又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(るざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地である、と考えている。これは現在のところ、学会では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文化的な先進性を認めたとしても、それは元々大和にあったのだという発想である。

特に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。

しかしながら私には、大和に文化が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的なように思える。どうしてあんな辺鄙な盆地に突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?

渡来によらず、縄文からどうしていきなり青銅器や稲作を始められるのか?

渡来文化しかありえないではないか。


しかも大陸・半島からいきなり大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。

渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ南下した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱かった奈良盆地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。


大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないような気がする。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとんでもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。

「記紀」によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日命(アメノホヒノミコト)が天下る。

天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大国主の命の領地であった(可能性が高い)大和には、邇芸速日の命(ニギハヤヒノミコト)が天下る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。邇芸速日の命の降臨は神武東征の前であり、出雲の国譲りの後のように思われる。

「杵築(きづき)を見たということは、これはただ珍しい社殿を見たにとどまらず、それ以上のものを見たことになるのである。杵築を見るという事は、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・・・ 悠久な古代信仰の脈拍にふれることなのである。」

明治 23年(1890)9月13日夜半、出雲大社に初詣したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、翌14日、唯一昇殿を許された外国人として、この感動・衝撃的体験をその著書「杵築」で語っている。(昭和50年、恒文社刊 小泉八雲著「杵築」平井呈一訳)


出雲大社十六丈復元図(「日本のやしろ出雲」美術出版社)によれば、古代の出雲大社は、実に巨大で異常な高さを持つ。

往古三十二丈、中古十六丈の社伝が残っていて、現在が八丈(24m)であるから、大昔(創建時)には96mの高さを誇っていた事になる。現在の伊勢神宮が9mである事を考えると出雲大社がいかに高さを主張していたかが理解できる。96mがほんとに建っていたのか、48mにしても、古代にそんな建造物製作が可能であったかについては、大林組プロジェクトチームによる「出雲大社の復元」に詳しい。

復元図を見ていると、この建物は何かに似ている。初めは何かわからなかったが、左右に建っている柱でようやくわかった。

これは縄文・弥生の遺跡から発見される「高床式建物」である。柱がぐーんと伸び、階段も広く長くなっているが、これはまさしく高床式建物ではないか。

高床式建物が渡来文化の賜(たまもの)だとすれば、これは見事にその文化の行き着いた先を表わす「象徴」である。むしろその為にこそ、大国主は高天原にこの宮殿を建てさせたのかもしれない。また、その条件を呑みこの宮を建てた高天原にとっても、出雲はそれほどの強大な権力と見なされていたのであろう。階段の端は遠く稲佐の浜まで続いていたとされている。大国主の命が、宮殿から海に遊びに行く時のために、高橋と浮き橋と天の鳥船が造られたと「日本書紀」は伝えるが、この絵を見ていると宮殿から遙か日本海の彼方を眺めては、自らの父祖の地を想っている大国主の姿が目に浮かぶようである。

1665(寛文5)年10月10日、出雲大社の東方200mの摂社(せっしゃ:本社の付属社で、本社に祀られている神以外を祀る。

勿論本社の神と関わりが深い神々を祀るのが普通である。)「命主神社」裏において、石の切り出し作業中、硬玉(ヒスイ)製勾玉と銅戈が発見された。後世この鑑定が行われているが、硬玉は、京都大学原子炉実験室による成分解析の結果、新潟県糸魚川地方の産とほぼ認定され(近似値を得た)、銅戈は、中細形と言われる形式であり、弥生時代中期に北部九州で濃密な分布があり、鋳型も春日市を中心に多く発見されている。

糸魚川は越(高志)の国とも呼ばれ、大国主がここを訪れ奴奈河比売(ぬなかわひめ)に求婚した話も残っているし、また銅戈とともに出土した土器片は、北部九州に多く見られる木葉文がくっきりと残されており、出雲が北部九州から越の国まで広く交流していたことはほぼ間違いない。北九州と糸魚川を結ぶ環日本海ルートのちょうど中間の位置に出雲はある。

「古事記」によると奴奈河比売訪問の後、大国主は倭国行脚を想起し「出雲国造神賀詞」には大国主の和魂(にぎたま)を大和の三輪山に祀るとある。大和は、出雲の支配下にあった事をうかがわせる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku1.html


大林組 出雲大社本殿の復元
http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/izumo/p01.html


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25. 中川隆[-13608] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:25:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20722] 報告
神社は支配の道具か、縄文の残存か
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html
第3回は神社を扱います。

神社といえば日本古来から存在していたように殆どの人は思われているでしょうが、神社の本質は渡来人が土着縄文人や混血した弥生人を支配する手法であり税を徴収する役所機関です。また神社は地域と密着し、一部には裏情報を収集する諜報機関としても存在していました。そんな神社がなぜ縄文体質の史的足跡になるのか?そこに絞って言及してみます。

やはりどうしても触れておきたいのが神社が作り出す環境です。或いはどのような環境に神社が存在しているかです。

全ての神社に大小あるのでしょうが、最も特徴的なのが三輪山を抱える大神大社です。日本最古と言われる三輪神社は鳥居こそありますが、境内は山そのもので、人々は山に向って拝み、祈ります。

今でも三輪山は神社の所有地で山に存在する木も石も土も持ち出すことは禁じられています。倒木も腐って土に帰るまで何十年も重ねて放置されています。山の全てに神が宿っているからです。神社とはその始まりにおいて縄文人が持っているアニミズムを取り込み、形にしたのです。例えそれが渡来人の意図であっても、逆に言えば渡来人が縄文人に同化する上でアニミズム信仰は進んで取り込み、縄文人もまた渡来人を神社を通じて渡来人を巻き込んでいったという見方もできるかもしれません。

この三輪山と同様の古代の神社は各地に大和時代〜奈良時代にかけて多く作られていきます。その代表が、出雲大社、伊勢神宮、諏訪大社です。いずれも巨木と深い森の中に存在しています。

もう一つは縄文の性です。渡来人は縄文人と婚姻、混血する際に神社を使ったと言われています。

それが巫女であり、誓約の儀式です。縄文が性を肯定視していた事と、神社を仕切る巫女、これらが大量の渡来人を受け入れながら縄文体質を残し続けた象徴的な儀式と言えるかもしれません。

アニミズム(精霊信仰)の歴史@

アニミズムが神社に発展した事例を紹介したい。

後のヤマト政権の時代になって、大己貴神などの「国津神」が加えられ主な祭神となる

・奈良県の三輪山 ⇒ 大神神社(おおみわじんじゃ)
・滋賀県の山の神・大山咋神信仰 ⇒ 日吉大社(ひえたいしゃ)
・島根県の磐座信仰 ⇒ 出雲大社
・長野県の土着の神々(蛇神、木霊など) ⇒ 諏訪大社(すわたいしゃ)
・埼玉県見沼の水神 ⇒ 氷川神社(ひかわじんじゃ)
・神奈川県の神山(駒ケ岳山頂) ⇒ 箱根神社
・長野県の地主神・九頭龍信仰 ⇒ 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
・富士山の神霊信仰 ⇒ 富士山本宮浅間大社
・島根県の火を祀る信仰 ⇒ 熊野大社
・和歌山県熊野地方の太陽神、水神、木神 ⇒ 熊野本宮大社
・奈良県吉野の水神信仰 ⇒ 丹生川上神社(上社、中社、下社)


名だたる古社のルーツは、ほぼ全てがアニミズムです。
これらの古社は、次のヤマト政権になってから「神社」化されていくようになります。


古代日本の月信仰と蛇信仰、その変遷

■日本古代の祭り

日本の古代の祭りは、概ね二つの類型があるようである。
一つは男女の祖霊神としての蛇を何らかの方法で現出させる様式。例えば藁や縄で作られた蛇を祀る等。現在も豊年祭で使われる雄綱、雌綱はその好例である。もう一つは男祖霊神である蛇と巫女との交合により巫女が神を身ごもり、籠もり(こもり)の儀礼の後、神として現出する様式である。つまり蛇との交合、受胎、出産を儀礼化させたものである。この場合、概ね男根と蛇の象徴として蔓の絡まる御神木や、山を蛇がとぐろを巻いている姿を蛇に見立てているものが多く、こちらの祭りが多数を占めていた。

これらは満月の夜に行われていたとされる。

実際神社の出来る前の古神道に於いては、蛇や山そのものをご神体としているものが多い。

例えば三輪山(大神神社)、出雲の佐上神社(神事で海蛇を奉納する)、諏訪大社(冬眠中の蛇を奉納する)等が上げられる。

また 物部氏は日本における強力な蛇信仰の担い手であったと推測され、物部氏の子の天語山(あめのかごやま)命(のみこと)は別名、高倉下(たかくらじ)と呼ばれた。この高倉とは高床式の倉であって、倉は富の象徴であった。高倉は鼠害から穀類を守る設備なので、そこには鼠の天敵としての蛇、あるいは蛇を象徴する蛇行剣が祀られていた。蛇が祀られている倉は、その意味でも住居の守護神的存在となるが、これらの理由から、穀倉が神社の起源になっていったようである。


諏訪と縄文 〜なぜ諏訪が人々を惹きつけるのか

諏訪を今日まで縄文的な聖地として確定させたのは諏訪大社の存在です。この大社は数ある日本の神社の中でも最古と言われており、建立時期もあきらかになっていません。

おそらくは弥生時代前期〜中期、紀元前200年〜紀元後100年くらいの時期に一番旧い社屋ができていると言われています。大社と言われる神社はおそらく縄文人と弥生人との合作、原点の神社です。諏訪大社は中国から渡来した出雲族が土着の諏訪人と融合し、作り上げた神社と言われています。諏訪大社には4つの神社が諏訪湖を囲むように存在していますが、各神社は御柱4本が神社の4隅に建てられ、杉の柱で囲まれた領域を聖なる地として領域付けられているのです。

さらにこの御柱を7年毎に新しい柱に交換する、御柱祭りは現在も活き続けています。

2010年には3人の死者を出しながらも現在も続けられる御柱祭り。

現在でも諏訪に在住の普通の人々が祭りを作り運営している。諏訪の人々は7年に一度のこの祭りの為に生きているというくらい、祭りは人々の生活に入り込み、祭りを中心に多くの民が暮らしているのです。祭りと言えば祇園、ねぶた、天神など大きなものは日本中にたくさんありますが、この縄文由来の祭りが今もほとんど変わらず行われている、そんな地は他にはありません。


【誓約(うけい)】

この国には、二千年の永きに渡り特殊な性文化が存在した。

元を正すと、縄文末期に日本列島に数多くの征服部族が渡来して縄文人(原住民・/エミシ族)を征服し、それぞれが土地を占有して小国家を打ち立てた。

その征服部族の出身が、中国大陸から朝鮮半島に到る極めて広域だった事から、被征服者の縄文人(原住民・/エミシ族)を含めそれぞれが対立したこの環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。

その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成されたその事情が、仲間として和合する為の誓約(うけい)の性交を産みだしたのである。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々(それぞれ)に部族集団を多数形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

(中略)

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。

それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。

「誓約(うけい)」とは、一義的には性交を伴う現実的和解であり、結果的に両部族(両民族)の子孫が融合して新たな部族(民族)を創造する事である。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html


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東漢氏の遺産・「祓いの神道」


梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言っている。詳しくは「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んでほしいが、その要点のみここに紹介しておこう。梅原猛は、次のように述べている。すなわち、

『 平城遷都とともに、まさに、飛鳥の時代は完全に終焉を遂げるのである。後に、東漢氏の中にただ一氏、坂上氏が栄えたが、それは、武人・坂上田村麻呂を出現せしめたことによってである。東漢氏は、文化的指導力を失って、武人として生き残ったのである。(岩井國臣の注:梅原猛は丹波康頼に眼がいっていないのは残念である。阿知王の子孫は、坂上氏と丹波氏がずっと歴史を通じて文化的指導力を発揮したのである。丹波氏のこと、医心方のことを忘れてはならない。)』

『 こうして、飛鳥はと遠くなったが、私は、不比等、というより藤原氏は、東漢氏から実に重要なものを受け継いでいると思う。それは、「祓いの神道」である。われわれはふつう日本の神道というと、祓いのことを考えるが、祓いは、けっして昔から日本の神道の中心的行事ではなかった。』

『「大宝令」の施行とともに、この祓いの行事は、もっとも重要な国家の神事の一つになったのである。この定例の祓いの神事に、東漢氏は西漢氏とともに重要な役割を演じるのである。』

『 まず、東西の漢氏によって祓いが行われ、次に文武百官を集めて、中臣氏によって祓いが行われるのである。この東西漢氏の祓いと、中臣氏の祓いの言葉が、「延喜式」の祝詞(のりと)に残されているが、東西漢氏の祓詞(はらえごと)は漢語であり、中臣氏の祓詞(はらえごと)は和語である。東西漢氏の祓詞(はらえごと)次のようである。「謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司令司籍、左東王父、右西王母、五方五帝、四時四気、捧以禄人、請除、禍災捧以金刀、請延帝祚、呪曰、東至扶桑、西至虞淵、南至炎光、北至弱水、千城百闕、精治万歳、万歳万歳」』

『 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形(ひとがた)を捧げて、天皇の身のけがれを除き、金刀を捧げて、天皇の齢(よわい)の長久を祈る訳である。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈るためである。しかし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官を侍らせて、祓いがなされ、神の言葉が告げられる。皇孫が天降りましましてから多くの罪が出たが、この罪を、この六月の晦(つごもり)、あるいは十二月の晦(つごもり)を期して、水に流してやる。それゆえに、購(あがな)いを出せ。これを私は、国家による司法権の確認の神事であると思う。』

『 このように不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、「中臣の大祓の祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと思われるが、この祓いに刑罰を含ませる事は、おそらく天武帝から学んだのであろう。』・・・と。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-db00.html

【天武天皇】

日本書紀の天武紀を見ますと、第四〇代天武天皇(在位六七三〜六八六年)の和風の諡は、「天淳中原瀛真人」(あまのぬなかはらおきのまひと)といいます。

「天淳中原」は沼の中の原ということで、天武天皇が水沼を開拓して飛鳥浄御原宮の都づくりをしたことに由来しています。

瀛州は東海に浮かぶ神山の一つです。八色の姓の最上位は真人であり、真人は仙人の上位階級になるので、天皇も道教の最高神に近い存在であることを示しています。

ここに天武天皇の宗教観に道教の要素がみられるのです。

「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神のことを指し、仙人の上位にいる存在であったのです。天武天皇は天文遁甲を重視していたことがわかります。この道教への関心は天武天皇だけではなく、母の斉明天皇に顕著にみえます。天武天皇の没後以後は、日本の道教と神道と分かちがたく融合し、独立には存在していないといいます。ただし、影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれるところです。(『日本の古代』6、鎌田元一稿、五三頁)。

天武天皇などの名称は漢風の諱で八世紀の後半ころにつけられました。この「真人」とは道教でいう勝れた道士とか覚者の呼称です。陶弘景は神・真人・仙人の三階級を説き、それぞれは七または三に分け、これらのランクに対応して天宮を説きます。最高の宮殿は玉清宮で、中央にあるのは元始天尊(虚皇道君)です。

また、真人とは現人神のことで、悟りを開いた神仙のことです。後漢になりますと天上世界の最高神となります。この「天皇大帝」は北極星を神格化したものです。紀元六世紀に老子の「元始天尊」が説かれますと、この新しい最高神である「元始天尊」に移行します。つまり、日本の天皇に道教の影響が伝わっていたということです。「天淳中原瀛真人」の「瀛」というのは司馬遷の『史記』始皇本紀に、仙人がすむ東方海中の三神山の一つです。三神山は蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことで、瀛州にすむ真人という諱が送られているのです。理由は風神を祭った竜田の風神の祭祀や、占星占台を作る道教の行事を行っていることに関係しているといいます。

天武四(六七五)年に始めて占星台が置かれます。『日本書紀』に天武天皇は「天文遁甲を能くす」とあり、これらの基盤に八門遁甲や天文占星を使いこなしていたことがわかります。天武天皇が式占に通じていたということは、式盤(ちょくばん)のような占具や占法を記した易書が輸入されていたことになります。式盤の現物は北朝鮮の平壌府の近郊にある漢代楽浪郡治の遺跡から発見されています。(村山修一著『日本陰陽道史話』四〇頁)。

また、天武天皇は伊勢の日神を天照大神としてあがめ、天武三年に大来皇女を伊勢に遣わして祭祀にあたらせています。一方では鎮護国家の経典として『金光明経』を重視していました。神道と仏教をその目的に向かって両立させていました。天武天皇と天照太神は強い結びつきがあります。

神道の振興は外来文化の浸透に対抗する、日本の民族意識を高揚させるためであったといいます。結論的には、天武天皇は日本古来の豪族の信仰を重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げたのが天照太神といえます。しかし、各地豪族の祭祀をそのまま容認することではなく、天皇家が祖神とした天照大神の下位に、各地の神を位置づけ体系化することにありました。つまり、天皇権力の強化の指標でもあったのです。

この条件のもとに各地の神社・祭祀は保護されますが、引き換えに国家の管理に服すことを余儀なくされたのです。こういう情勢のなかに古代の国家神道が形成されました。天武天皇は伊勢神宮を日本の最高の神社とする道筋をつけたのです。天武天皇が天照太神を祭祀した由来は「壬申の乱」にあります。

『日本書紀』に「壬申の乱」のとき伊勢に入った大海人皇子は、途中の迹太川(朝明川)のほとりで伊勢神宮の方角に向かい天照大神を望拝したとあります。

古代の伊勢神宮は「私幣禁断の制」があり、皇族であっても私的な参拝や奉幣はできませんでした。天武天皇が陣中から望拜しただけではなく、戦勝祈願のため使者を神宮に使わしたとも言います。(萩原龍夫編『伊勢信仰』T、六二頁)。

天武天皇は式占と呼ぶ仙術に通じていたといいます。式は栻(チク)とも書き、楓子棗の心木で作り回転して吉凶を占う陰陽道の用具です。伊賀国を通過するとき黒雲が十余丈にわたって天になびいたのを見て、式占により天下が二つに分かれる兆候であること、そして、自分が勝利すると占ったといいます。楽浪の遺跡から式が二個発見されており、方円の二枚の小薄板で表面に黄粉を塗り朱線で輪郭を書いています。

円盤は径が九a、北斗七星を朱画し一二月神名・十干十二支を墨書し、方盤は一三、四a、墨で八卦・十干十二支・二十八宿を配列し、方盤の上に円盤を重ねて使用します。(金指正三著『星占い星祭り』五五頁)。この『日本書紀』の天照大神望拜の記事は、『安斗智徳日記』を基に書かれたといいます。安斗智徳は天武天皇に従って吉野を出発した舎人の一人です。

ここから天武天皇における天照太神と伊勢神宮の創立が始まります。

伊勢神宮は陰陽五行説を導入した当初の姿を今に伝える重要な宮といいます。

天武朝の思潮は星の信仰と五行の理の応用の二つに分けられ、星の信仰は主として仏教に吸収され、五行の理の応用は神社の祭祀に下降していったといいます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』三六九頁)。

ただし、一説には天武天皇が望拜したのは天照太神ではなく、滝原の地で祭られていた伊勢大神であるともいいます。この解釈においては、天照大神の出現は伊勢大神からの移行ではなく新しい神の創出であるとし、伊勢大神を望拜したが伊勢大神を通して天照大神にであり、その神は名前も無くいわば原初の天照大神であるとします。そして、この根拠は仏教にあるとします。

欽明天皇の仏教受容いらい、傍観中立の立場をとってきた倭王家でしたが、始めて仏教受容に踏み切った舒明天皇の子として生まれ、出家した経歴をもっていたのが天武天皇でした。つまり、『金光明経』(正論品)の帝王神権説を基にして、天照大神を祖神とする神統譜がつくられたとします。

天照大神は三十三の諸天=神になぞらえられたのであり、その子孫である天孫・皇孫は天護によって天子となったとのべます。天皇=明神=現人神の思想的根拠となります。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』一一八頁)。

道教の天皇・地皇説と『金光明経』の正法治世説の両者が融合されたことになります。

「壬申の乱」が終わり天武元(六七二)年九月に飛鳥京に帰ります。まず嶋宮に着き数日後に岡本宮に移ります。岡本宮は斉明天皇の後飛鳥岡本宮です。そして、翌六七三年二月に即位します。近江朝廷に従った豪族が排除され、皇后の鵜野皇女(持統天皇)や草壁・大津皇子などの皇族を重用し、その下に豪族を位置づける皇親政治を行います。そして、味方となった美濃の尾張氏(熱田神社)、鴨氏(賀茂神社)、三輪氏(三輪神社)などに、功績により伊勢神宮・熱田神宮として国家から擁護され、三種の神器の賦与がこの二神宮におこなわれました。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』二三一頁)。

即位後の一番初めの新嘗祭を大嘗祭といいます。天武天皇が最初(次の持統天皇とも)に始めます。新嘗祭は一一月下の卯・辰の二日間の行事で常設の神嘉殿を祭場としますが、大嘗祭は卯の日から午の日までの四日間行います。大嘗宮を臨時に増設して祭場とします。二日目の辰の日には中臣寿詞(よごと)の奏状や、忌部による神器の鏡剣献上という即位儀そのままの儀式があります。(『神道史大辞典』六二七頁)。

大嘗祭において天皇は新穀を神と共食したのち、神座に莚と薦を重ねてとじた褥(しとね)を巻いて作られた坂枕を寝具として、その床に籠もる儀礼を行います。この寝具を天孫瓊瓊杵尊が降臨するさいに覆われていた真床追衾に比定し、天皇がこれに籠もることによって、天孫の霊を獲得することができるとします。(折口信夫稿「大嘗祭の本義」『古代研究』民俗学篇)。

このような床に籠もる儀礼が特徴です。美園古墳(大阪府八尾市。古墳時代前期末から中期初頭)出土の家形埴輪は床を持つことから、新嘗祭を行う建物を表現しているといいます。豪族居館のハレの場の中心となる建物には床が設けられていたのです。(『日本の古代』5、辰巳和弘稿、三七六頁)。また、六七四年に斎宮制度の復活として、娘の大来皇女を伊勢神宮に送り、初代斎王として仕えさせます。四年二月一三日には娘の十市皇女と天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣します。

天武天皇の没後の七〇一年(大宝元年八月三日)に大宝律令が施行されます。六八一年に天武天皇は律令制定を命ずる詔を発令し六八六年に没します。持統天皇の三(六八九)年六月に飛鳥浄御原令が制定されます。この令は律がなく国情に適さないものでした。

律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂などで、藤原不比等は天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った藤原鎌足の子です。

文武天皇二(六九八)年に不比等の子孫のみが藤原姓を名のり、太政官の官職に就くことができました。不比等の従兄弟たちは中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当します。不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めます。

大宝律令において初めて日本の国号が定められたように、白村江の敗戦を契機に進められた大きな国家事業でした。これにより、天皇を中心として二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官制を骨格にした中央集権統治体制が成立します。天皇は律令的な官僚機構に裏付けられた王権となったのです。

二官は国政を総括します。神祇官(カミツカサ・カムツカサ)の淵源は、推古・舒明朝ころの祭官である中臣氏が担当しています。中臣氏は従来の物部・忌部氏に代わって、宮廷祭祀を担当した新興氏族でした。中国の皇帝に対する日本の天皇の特徴は、祭祀に大きな役割がかかっていることです。そのような天皇像をつくりだしたのが、律令の立法者である藤原不比等(六五九〜七二〇年)にほかならないといいます。(『日本の古代』一四、佐藤宗諄稿、一二頁)。

伊勢神宮の式年遷宮開始年については、天武天皇一四(六八六)年、持統天皇二(六八八)年などがありますが、持統天皇四(六九〇)年に第一回が行われたとされます。注目すべきは同三(六八九)年正月に吉野に行幸を始めたことです。

方位のうえで内宮は熱田神宮と吉野宮までの距離が同じです。外宮は断夫山古墳と吉野宮までの距離も同じです。伊勢神宮の内外宮ともに吉野宮とつながる方位なのです。「高天原広野姫天皇」の諡号は、高天原の女神である天照太神になぞらえたことです。天武天皇一四年一月二一日に冠位制定がなされ、二月四日に大唐人・百済人・高麗人の併せて一四七人に官位を与えています。藤原京造営に関わるものとされますが、伊勢神宮の遷宮にも関わっていたといいます。

百済王氏への位階授与と賜姓は百済系渡来人に結束をもたらし、大仏造立にあたり藤原仲麻呂と関与していきます。(大坪秀敏著『百済王氏と古代日本』一三三頁)。持統五(六九一)年に呪禁博士木素丁武・沙宅万首に銀二十両を賜っています。翌六(六九二)年二月、伊勢行幸に先だって、陰陽博士沙門法蔵・道基に銀二〇両を賜っています。

これは、行幸の安全や神宮祭祀など、政策における褒美といわれます。先には、天武天皇三(六七四)年八月三日に、石上神宮に忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせています。同四(六七五)年四月一〇日には、竜田の風神を祀るために美濃王を、広瀬の大忌神を祀るために間人大蓋を遣わしています。両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされます。この年一月二三日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もあります。同一三(六八五)年の二月に広瀬王を畿内に遣わします。このとき陰陽師が同伴し四神相応の要件を相地しています。

占筮相地の判断は『周易』『新撰陰陽書』『黄帝金匱』『五行大義』『大唐陰陽書』によります。天武天皇の強権により、道教が日本土着宗教との合体により図られたといいます。持統朝には斎王の派遣はありませんが、同六(六九二)年三月に伊勢に行幸します。その後の天皇は行幸をしていません。ここに、伊勢神宮の謎といわれる一面が指摘されています。(関裕二著『伊勢神宮の暗号』九六頁)。

明治から敗戦までの国家神道全盛時には、道教が海を渡って神道になったとか、天皇が立てた多武峰の両槻宮は道観と同じというと、学会から非難されたといいます。

いずれにしても七世紀の伊勢神宮にその変化の秘密が隠されていました。

天武天皇の玄孫になる称徳天皇の崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移ります。これにより天武天皇の血筋は皇統から絶えますが、舎人親王の子孫が清原真人の姓を賜り清原氏の祖となり、高市皇子の子孫が高階真人の姓を賜り高階氏の祖となっています。ともに、後世になっても「真人」を名のっています。

そして、天武・持統陵が藤原京の真南(丙午)に造ったのは、蘇りの地を意味していました。持統天皇は子供の草壁皇子と敵対した大津皇子を刑死させ二上山に葬りました。二上山は藤原京からは庚の方角で、「金=刑死」を意味した所です。『万葉集』に飛鳥の神奈備や神岳をよんだ歌が二〇首あまり収められています。

そのなかに、天武天皇の死にさいしての持統天皇の歌があります。この神岳は通説では雷岳(いかずちのおか)でしたが、橘寺の背後に「ミハ山」という小字名があることから、この山を神奈備・神岳にあてることができます。

ミハとはミワともいえます。ミハ山の麓一帯は橘と呼ばれた地域で、橘は神仙の常世にある「非時の香菓」(ときじゃくのかぐのみ)のことです。つまり、ミハ山はこの神仙の山なのです。(『日本の古代』9、千田稔稿、一三四頁)。

また、天武天皇は「壬申の乱」のとき迹太川畔で天照太神に加護を祈っています。古来、伊勢大神は倭王によって日の神として、伊勢の滝原に祀られていました。

また、伊勢神祀の原初形が蛇神(竜蛇神)を祀るものであったといいます。クサナギのナギは蛇の古語を意味しており、クサナギの剣は猛蛇剣といえる霊異をもつ剣の通称で、スサノオのヤマタノオロチ退治の神話がクサナギ剣を通してヤマトタケルにつながるとき、伊勢を舞台に同じような大蛇退治と霊剣発見の英雄譚が語られたといいます。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』三四頁)。

即位した天武天皇は律令国家の樹立をめざし、伊勢大神を皇祖神天照大神として祀り、伊勢神宮を国家の総廟、日本統治の根幹としました。そして、天皇は天照大神の聖性を継承した明神、現人神としたのです。

また、即位のときに大来皇女を斉内親王として泊瀬で潔斎させ迫瀬斎宮に送ります。これにより、斉内親王による伊勢奉斉を再興しました。同時に護国の経典である『金光明経』と『仁王経』を寺院で読誦させます。

さらに、その皇統を確立するために『古事記』の編纂を命じ、養老四(七二〇)年には諸氏族の伝承も納めた『日本書紀』がまとめられます。

皇大神宮の創始に関する伝承は、こうした天武天皇の意図に即した記述といいます。(宮家準著『神道と修験道』五八頁)。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index205.htm




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26. 中川隆[-13609] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:36:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20725] 報告

日本人の思想の原基


 吉本さんと梅原さんが、中沢新一さんの司会で、1994年に対談をしている。その対談を収録した本「日本人は思想したか」(新潮社)の第一章『日本人の「思想」の土台』から、「縄文時代までさかのぼる」という問題意識を語り合っている部分を抜書きしてみる。


中沢

 いま期せずして国家という問題が出てきました。これは日本の思想というものを考える時、一番のカギになる言葉だと思います。たとえば日本人の思想がどうしてお茶の思想とか、お花の思想というふうな、個別的で具体的な表現の形態として出てくるかということにも、深く関係していると思います。日本人が何か創造的な思想を試みようとすると、実感や情念がとらえているものと、仏教や儒教や道教のような、超越的ないし普遍的な表現のちょうど中間のようなところで表現を試みていたように思います。たとえば、仏教はとても普遍的な表現の体系を持っているけれども、日本人の創造的な思想家は、その体系の中で作業をしたわけではなくて、自分の実感と普遍の体系との間(はざま) というか、ずれというか、そういうところに立脚して思想をつくり出そうとしてきて、そのずれというようなものが、日本的な仏教とか日本化された儒教としてあらわれてきて、そのことが一番出ているのが国家にかかわる問題なのだろうと思います。

 普遍的な国家という考え方を、近代日本人はヘーゲルなどを通じて知りますが、一日本人にとって国家が実体性を持った意味を含み始めた時に、とても重要な意味を持ったのは中国に発生した国家という考え方だったと思います。梅原さんは古代史をめぐるさまざまなお仕事をなさってきましたが、そのとき日本に起こることを、つねに広いアジア史の中でとらえようとしていらっしゃったように思います。日本人の国家という概念は、ヘーゲルが考えたような国家とも違うし、中国人がとらえていた国家とも違う。日本がおかれていた位置や環境とのかかわりで、国家というものについて日本の特殊性が発生している。いつまでたっても日本人には国家というものが、ヘーゲルや中国人が考えたようなものにはなり得ない。その日本的国家という問題を、梅原さんはいつ頃を起点にして考え始めたらよろしいとお考えでしょうか。


梅原

 私が日本研究に転向した時に、一番の問題は、戦争中からの日本主義はイコール国家主義であった。そして日本の思想家も、非常にリベラルな思想家と言われる人も、戦争中には完全に国家主義になった。日本的であることが国家主義であるような、そういう日本主義とは無縁なものを私は探していた。だからいま出たヘーゲル的な国家論は、日本でたとえて言うと和辻哲郎の『倫理学』にある。あれは見事な哲学的体系なんですよ。人間を個人と考えず、人間の間柄で考える。間柄という概念には個人主義を止揚する重要な思想が含まれている。私は儒教思想の現代版だと思いますけど、現代でもなお十分傾聴に値する哲学的思想だったと思うんです。しかし結論は、全部国家の中に飲みこまれてしまう。最終的には国家が万能であり、普遍的なものである。まあ、ヘーゲルの日本版だと思いますけど、そういう和辻に対して、私は厳しく批判した。それから鈴木大拙ですら、最後はやっぱり国のために死ぬことだ、それが無だというようなことを言っている。そういうことも一切私は許すことができなかった。私はそういうものの批判者として登場した。

 特に私が仏教をやったのは、明治以後の神道は完全に国家主義になってしまって、そういう神道に対するアレルギー反応を長い間脱却することができなかったからです。神道に対してアレルギーを脱却できたのは、アイヌの宗教を知ってからです。仏教は比較的国家主義の色彩が少なかった。また、その時は万葉集にもアレルギーがあって、万葉より古今を、と言った私の最初の論文の『美と宗教の発見』で、古今を日本美の中心においたというのも、一種のアレルギー反応でしてね。国家というものはとにかくかなわない、という意識が非常に強かった。そんなことを考えていたのですが、偶然のように、七、八世紀の、吉本さんの言った日本国家成立期の歴史を勉強するようになった。そしてそこで『隠された十字架』や『水底の歌』が書かれた。そこで私が見出したものは、国家成立期に権力から排除されて、怨みを飲んで死んでいった怨霊の姿だった。たとえば、聖徳太子は一度は体制側の人だったけど、やがて藤原氏が律令体制をつくると、それに滅ぼされて、そして怨霊になった。柿本人麿も同じように一旦は律令体制で高い地位につくがやがて失脚して水死刑死をする。聖徳太子とか柿本人麿の怨霊というような、国家形成の影に隠れた怨霊が十何年の間、私のパトスそのものだったんですね。怨霊がのりうつったわけですが、なぜ怨霊が外ならぬ私にのりうつったのかはよく分らない。

 私の七、八世紀研究は、主として怨霊の研究に始まったのですが、しかし自ら七、八世紀の日本の考察をせざるをえない。七、八世紀は、日本が中国から律令制度を移入し、それで日本国家をつくった。しかしそれは中国の律令制度がその まま移入されたものではない。あれは中国から借りて国家をつくったんですけど、その中国文化は変質させられた。変質させたのは、それよりも前に日本に存在した何かだろうということに気づいたんですね。その前に何があるか、それからいろいろ思想的に問い詰めると、どうも縄文文化がそれではないか。そして、アイヌと沖縄に縄文文化が残っているんじゃないかというふうに考えてきた。そうすると、吉本さんと思弁の方法は違うんですけど、結論は大変似ているところに行っているような気がしているんだけど。そういうふうに日本を奥へ奥へと掘り下げてゆくことによって、国家という枠を超えた、むしろ普遍的なところに達した。そういうところに達したことによってやっと神道に対するアレルギーを捨てることができた。アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。そこから見れば明治以後の神道は、これは神道と言えないようなものだ。しかし神道の国家主義化はすでに律令時代に始まっていて、だから神道は二度大きな国家主義化を受けた。ひとつは律令時代、ひとつは明治以後。明治以後の神道は、神道とさえ言えない、プロイセン主義なりナポレオン主義に伝統の殻を着せただけのようなものだといま考えているんですけどね。

中沢

 いま梅原さんから、同じ言葉が二度出ました。ふたつのちがう意味をこめて、「普遍」という言葉を二回使われました。
 ひとつは、実感を超えて超越である普遍。これはたぷんヘーゲルの国家概念や中国の国家みたいなところにたどりついて行くんだと思います。ところが最後に梅原さんが、たとえば神道のようなものを通して普遍へ行くんだとおっしゃったその普遍は、まえの普遍とちょっと違うのでしょうね。

梅原

 ちょっと違いますね。


中沢

 その、あとの方の普遍というのは、いまとこれからの日本が超近代というような形で出てくるものとして探っている普遍なんじゃないかと思うのですね。それはひょっとすると日本の国家が、前方へむかってさぐっているものとつながっているんじゃないか。梅原さんの考えてらっしゃるアイヌの神道などは、ヘーゲル的な普遍とは異質な、もうひとつの普遍に触れているのかも知れませんね。


梅原

 そうと言えるかもしれん。


中沢

 それは神道以前のもので、ひょっとするとそれは、オーストラリア原住民の神道とか、南中国の少数民族の神道とか、チベット人の神道とか、そういう神道につながっていて、そういう形でもうひとつの普遍というものがいま大きく浮上してきた感じがしますが、このふたつの普遍が混同されて、普遍という問題を考える時に、日本人の思考を混乱させているのではないでしょうか。

 これは吉本さんが超近代の問題として考えているテーマとつながっている、と僕は思います。
 古代の向こうにあるもの、アジア的なものの向こうにあるもの、それを吉本さんはアフリカ的という言葉で表現しようとしています。それは新しい普遍につながる考えです。
 いまお二人の話の中に期せずして普遍という言葉の、二通りの使い方というものが浮上してきて、ヘーゲル的な普遍の国家や神道や日本国家に取り込まれてしまって、見えなくなってしまうもうひとつの神道がそこで同時に出てきました。近代の原理を解体していくものと、壊していくものと、縄文や南島のテーマが浮上してくるプロセスが、お二人の思想の中では同時進行しているような感じを受けるのですが。


吉本

 僕はそうだと思いますね。梅原さんのアイヌについての論文は、柳田国男の初期の仕事から延長していくと大変よくわかり、位置づけがしやすいんですが、とても重要で、僕はずいぶん影響を受けたように思うんですね。

 アイヌの問題や沖縄の問題は、いま「遡る普遍」という言い方をすれば、どうしても出てくるんじゃないかなという感じです。それをヘーゲル、マルクス流の国家と直かに対応させることはなかなかできないので、現在は、対応できそうな超近代のところを睨んで持っていくよりしょうがないと思います。でも「遡る普遍」のところでは、かなり確実に出てくるんじゃないかと思い込んでいるんです。

 ちょうど中間のところで、梅原さんの言われた神道があって、それはふたつの理解ができます。明治以降、天皇制神道、あるいは伊勢神宮神道と結びついた意味の神道と、それからそうじゃなくて、田舎へ帰れば鎮守様があって、お祭りがあって、とてもいいんだ、というのと二重性があるような気がするんです。明治以降の天皇制神道と結びついた部分は、僕も梅原さんと同じでアレルギーが多い。つまり自分が戦争中イカレた分だけアレルギーがあって、ということになります。そこで、遡る神道といいましょうか、あるいは村々の鎮守様へ行く神道とはちょっと分けなくちゃいけないよ、ということになってくる気がします。鎮守様としての神道みたいなのは宗教というふうに言わなくて、もっと風俗・習慣というところで生きられる部分があるように僕は思ってます。これは国家神道にまで編成されちゃったものと区別しないといけない。国家神道に収斂させられてしまったものは、何となく第二次大戦までが生命だったという気がして、それ以降はあるとしても、そんなに生きられるものとしてあるというわけではなく、壊れつつある過程としてあると考えたほうがいいんじゃないか、僕はそう思ってます。


 以上のやり取りで、梅原さんと吉本さんが、方法論は違っていても、同じ問題意識を持って日本人の思想の原基にアプローチしようとしていることが分かると思う。 この後、梅原さんは「アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。」という前段の発言を敷衍してその内容を詳述しているので、その部分を抄録しておく。


 七、八世紀の神道は祓い、政の神道なんですよ。それが私、なかなかわからなんだ。『古事記』の書かれた時代、国家に有害なやつは祓ってしまう。そしてまだ祓わんやつは禊をさせて改心させる。やはりこれは律令国家体制の産物だ、という点を考えんと神道は理解できない、と思った。そこまでは行ったんですけど、それから向こうの神道が見えてこなかった。

 そしてアイヌをやった時に、ほんとに目から鱗が落ちるようなショックを受けたのは、アイヌ語の神の概念、神をあらわす言葉が全部、古代日本語と一致し、しかもその古代語の中にラマットなんていう言葉がある。ラマットというのはヤッコラマットという、祝詞や宣命にわずかに出てくる言葉で、本居宣長もこれは古代語が残ったんだと言ってる。そのラマットという言葉が魂という意味でアイヌ語にある。それを知った時に、アイヌ語と日本語は同起源である、やっぱり日本の古代語の縄文語がそこへ残ったんだろうということと同時に、神道の古い形がアイヌの神道の中にあるという直観があったんですね。それでアイヌの神道をいろいろやってると、国家主義なんて全然関係ない。それはやはり森の中で人間が宇宙の精霊と、魂たちと共存して生きて、その魂の力で自分たちの生活を守り、そして死んでいき、あの世へ行ってまた魂がこの世へ帰ってくる。そういう信仰であるということがわかった。

 その眼で沖縄を見ると、沖縄の神道もアイヌと同じような神道ではないか。柳田国男や折口信夫は、今まで日本研究の外におかれた沖縄を日本研究の中に取り入れた。しかしそれは弥生時代で日本本土を沖縄と結んだ、米で結んだ。つまり沖縄は弥生時代の古い米文化が残ったものだとした。これはいわゆるあの柳田の南方の島を伝わって稲がやって来るという説ですが、この説は実証的に否定されている。こういう沖縄と本土を結ぶと、米栽培しないアイヌは落ちて、それは日本じゃないということになる。私は柳田も記紀の史観に無意識に影響されていると思う。私は、それは違う、沖縄と日本というのは縄文でつながるんじゃないか。アイヌ、沖縄、日本、この三つを結ぶものが日本的じゃないかと。ずっと思弁してそういうふうになってきたんですけどね。私はそこへ来て初めて、この原理はどうもいわゆる普遍的なんじゃないかと思った。それは恐らく、中沢さんのおっしゃったようにアボリジニーやアメリカ・インディアンとも同じだし、あるいはシベリアの狩猟採集民族と同じ、あるいはケルトとも同じもので、一時代前の、人類の普遍的な原理がまだ残っていたんじゃないか。それが日本国家をつくった後にわずかに日本に残ってる。


 「日本本土と沖縄」を米で結ぼうとし、「米栽培しないアイヌ」を見落としてしまうことは、柳田や折口の民俗学が「日本=瑞穂の国」という虚像の枠の中で展開されていることからくる限界を示している。「日本=瑞穂の国」という虚像については、いずれ取り上げる予定でいる。

 
縄文人と弥生人


  吉本、梅原、中沢三氏の鼎談より8年前(1986年)に、吉本さんと梅原さんは対談をしている。その対談が「対話・日本の原像」(中央公論社)という本になっている。 その本の中に梅原さんが日本語の源流について次のような意見を述べている。


 縄文人のつかう縄文語というのがあって、これはかなり日本列島全体に行き渡っていただろう…‥。縄文土器が朝鮮半島にはほとんどないのに、日本列島にはほぼ全体に普及している。そのように、だいたい同質の言語が南は沖縄から北は千島まで、多少のローカルカラーがあるけれども、日本列島に普及していたのではなかったかと思います。

 そして弥生人が入ってきて日本列島の中枢を占領した。そして弥生人はまったく縄文人とは違う言語をもってきたけれども、言語学の法則として、少数の民族が多数の民族の中に入ってきて、それを支配する場合、その言語は被支配民族の言語になるが、発音その他は相当な変更を蒙り、そして、支配民族が新たにもってきた新文化や技術にかんするものの名称は支配民族の言語で呼ばれる、というふうな法則がある。こういうことが弥生時代以後、起こったのではないでしょうか。
 だから縄文語が弥生時代以来かなり変質した言語が倭人の言語であり、それが日本語の源流になったのじゃないかと思うんです。そして南と北により純粋な縄文人が残っていて、縄文語がより純粋な形で生きのびて残ったのではないだろうか。琉球は朝鮮や中国とも近いから人種も混血し、言葉もかなり変質しているけれども、あそこは稲作農業には不適な所なので、かなり強く縄文文化が残っている。北の方は中国などとの交渉も薄いし、沿海州あたりとの接触があるにせよ混血も少なく、縄文語がいちばん強く残った。それが小進化してアイヌ語になったと考えているんですけれどね。


 この梅原さんの仮説と考古学の成果を照らし合わせてみよう。

 近年、古代遺跡の発掘がいよいよ盛んで、古代像のさまざまな仮説・通説が書き換えられている。その近年の考古学の成果をまとめた本がある。天野幸弘という方の著作で、こちらの書名は「発掘・日本の原像」(朝日選書)という。
 この本から梅原さんの仮説に関係すると思われる部分をまとめてみる。もちろん、考古学による学説もいまだに仮説レベルのものも多い。さしあたってはそれらの学説から古代のおおまかなイメージが描ければよいとする。


 まず縄文人について。

 東アジアで縄文人と似た人骨が判明した例は今のところない。ということは、特定の集団が日本列島になだれこんで縄文人になった形跡はないわけだ。こう考えて、京都大学霊長類研究所の片山一道教授(人類学)は科学誌『サイアス』(1997年5月2日号)に書いた。タイトル「縄文人は来なかった」は刺激的だ。これまでに見つかっている縄文人骨の特徴を詳しく分析したうえで、「縄文人は日本列島で生まれ、育った」と結論づけている。決着がついたとされるルーツ探しより、これまでに数千体見つかっている縄文人骨の精査の方が大切だと考える片山さんは、「混血しなくても体格が変わるのは、われわれ現代人も経験した通りだ。生活の変化も大きな要素だ」。だから縄文人がどのように形づくられたか、生活の復元こそが問題だ、と強調する。例えば「海民的な性格が加わるなど、大陸の人びととは別の道を選んだ結果なのだろう」。
 確かに、縄文時代は独特だ。その次の弥生時代から現代までの五倍弱、一万年近くも続いた。ところが北海道から琉球列島に至るまで、人びとの体格などに地域による大きな違いはなかった。地域差より、時代の推移に伴う変化の方が目立つといわれる。アメリカ人の生物学者エドワード・S・モースが東京の大森貝塚を発掘調査し、七体の縄文人骨を見つけて以来、120年間にわたる調査や論争、研究の結果である。そして、「縄文人は先住民などではなく、現代日本人の祖先だ」というのが、大方の研究者の見解になってきた。

(中略)

   この年(1998年)、北海道の北西端の離島、礼文島にある船泊(ふなどまり) 遺跡でも、同じころの縄文時代の人骨約三〇体分が発掘された。サハリンやバイカル湖周辺で見つかるのと似た形式の貝製装飾品、日本列島南方産の貝製品も副葬されていたため、「縄文時代に大陸から来た渡来者か」と注目された。先の片山教授の説と食い違いが出そうだったが、専門家の詳しい鑑定による結論は「すべて典型的な日本列島の縄文人」だった。もちろん、縄文人の活発な行動力を印象づける発見として、重要な遺跡が新たに分かった意義ははかりしれない。


 弥生人は縄文人に比べて顔が細長く彫りが浅く、縄文人より長身だ。それまでの縄文人とかなり異なる体格などから「渡来系」とされてきた。では弥生人はどこから来たのか。

 「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」館長の松下孝幸さん(人類学)たちは中国社会科学院考古学研究所の韓康信教授らと共同で、山東省出土の紀元前5世紀から400年間ほどの人骨500体分を調べた。その結果「体の各部の計測データや顔面のプロポーションのほか、神経が通る頭の骨の小さな穴といった細かい部分も土井ケ浜人とそっくりだった。」


 調査は新たに黄河、長江の最上流部の青海省へ舞台を移す。「人と文化はおそらく、中国では大河に沿ってつながるに違いない。これまでの南北の流れとは別の『東西の道』を探りたい」からだ。中国原郷説への自信がのぞく。

 青海省での1998年までの日中共同調査でも、山東省に似た結果が出た。李家山など三遺跡から出土した約3000年前などの人骨計約300体は、いずれも土井ケ浜や佐賀県の吉野ヶ里などから出た渡来系弥生人骨の特徴をそなえていた。「黄河、長江上流の人びとが北部九州など一部の弥生人の祖先だった可能性がある」という分析結果なのだ。

 1999年の共同調査では、長江下流の江蘇省梁王城(りようおうじよう) 遺跡と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡出土の二体の人骨の、母系遺伝子に限定されるミトコンドリアDNAの塩基配列がぴったり一致する例まで分かった。縄文時代の稲作伝播も長江との関係で考えられており、重視されている。


 一方、縄文人そっくりの弥生人の人骨が発掘されている。 阪神・淡路大震災の被災者住宅の建設に先立つ調査(1997年)のときに出土した人骨は、紀元前三世紀の前半、弥生時代前期のものである。しかしその人骨は縄文人そっくりの特徴を示していた。典型的な弥生時代の遺物、遺構の中から、土井ケ浜遺跡で見つかったような渡来系の人ではなく、弥生以前に一万年近くも続いていた縄文時代の人の体つきの人骨だったのである。

 福岡県志摩町新町遺跡から出土した人骨も「縄文的な弥生人」だった。しかもこの遺跡の墓は中国東北部から朝鮮半島にかけて築かれているものとよく似ているという。さらに、中国・秦時代(紀元前221〜202年)の銅貨や新時代(紀元8〜23年)の硬貨も出ている。またその近くの、明らかに稲作が行われていたとみられる曲り田遺跡では出土した土器のうち朝鮮半島由来の無文土器はごくわずかで、多くは縄文時代の流れを汲む土器だったという。

 これらの事実は何を物語っているのだろうか。


 縄文的な特徴をとどめた弥生人骨は、西北九州などからも出ている。ところが、遺物との関係がつかめないことが多い。この新町や神戸の新方は数少ない例である。「朝鮮半島から渡来人が稲作などをもたらした時、地元がそれらの中からいいものを選び取った。土器が激変しないのは渡来人がそんなに多くはなかったためで、やがて在来人は彼らと融合しながら変わっていった」と、中橋さんは見る。「大勢の渡来人が縄文人を追い払い弥生時代になった」という人もいる。しかし近年、調査・研究が進むにつれて、ひとことではいえない複雑な様相が弥生当初、各地で繰り広げられたことが浮き彫りになってきた。

 中橋さんが数学者の飯塚勝さんと連名で1998年に『人類学雑誌』(106号)に発表した論文「北部九州の縄文〜弥生移行期に関する人類学的考察」は、その面からも興味深い仮説といえる。弥生時代の中期、渡来系弥生人と見られる人びとが占める割合は80〜90パーセントにのぼっている。これは中期初めまでに形成された人口構成と見られる。しかし、初期の渡来人はこれまでの発掘成果から見て、少数だったようだ。そうすれば、200〜300年間にこの逆転現象が一体、なぜ起きたのか。その答えは「渡来系集団の人口増加率が、水田稲作などの進んだ文化を背景に、土着系集団を大きく上回り、弥生中期には圧倒的になった可能性が大きい」というものだ。弥生の開花期はこうして始まったようだ。その後、人びとの行き来は次第に頻繁になり、多くの渡来人が来た、と歴史書にも記されている通りだ。

天皇制の古層(1)


 どうやら、琉球・蝦夷とヤポネシア中央部との間の大きな断層とは、まったく無関係という意味の断層ではなく、ヤポネシア全体に分布していた古層の上に、中央部だけ新来の人種が覆いかぶさって新たな層=天皇制の基層を形作った結果である、と考えてよさそうだ。そうであれば、天皇制の基層とその下の古層との関係を明らかにすることは天皇制を相対化あるいは無化する上で重要な課題となる。

 「第314回」(6月28日)の引用文の中で梅原さんは、アイヌ語の魂を表す言葉ラマットが祝詞や宣命に残っている古代日本語=倭語と一致していると指摘していた。日本文化の古層にあるアイヌ文化の痕跡を言葉の面からもう少し探ってみる。「対話・日本の原像」から拾い出す。二つの第一級の思索が響きあう対話は気持ちよく読める。内容もとても興味深いものなのでそのまま引用する。

 まず吉本さんが地名を二つ重ねる枕詞を論じている。枕詞については吉本さんは著書「初期歌謡論」(枕詞論・続枕詞論)で詳細に論じているが、ここでは「初期歌謡論」を調べる労はとらない。「対話・日本の原像」で話題にされたものでその大略を知ればよいとする。


 枕詞の中に地名を二つ重ねる枕詞がある。例えは「春日の春日」――「ハルヒノカスガ」と読みましょうか ―― とか「纏向の檜原」とかね。これはとても古い、原型にちかいタイプの枕詞なんです。

 『古事記』に、ヤマトタケルが東国へ遠征してきたところ、海が荒れ、オトタチバナヒメが海に飛び込んで海を鎮めるという話がありますね。そこのところで、オトタチバナヒメが「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」という歌を詠んで飛び込むのですが、この「さねさし相模」の「さねさし」というのは、どういう意味か全然わかっていないんです。アイヌ語に、陸地がちょっと海の方へ突き出た所という意味で「タネサシ」という言葉があって、僕は、「さねさし」はアイヌ語の地名じゃないか、というふうに考えました。

 つまり相模もちょっと出っ張った所ですから、そこに昔、アイヌあるいはそれに近い人たちが住んでいたときに地形から「タネサシ」というふうに言われていた。それをもうひとつ重ねて「さねさし相模の小野に燃ゆる火の」とした。「さねさし」という枕詞はアイヌ語だとするのが一番もっともらしいのじゃないか、そこのところで、柳田国男の地名の考え方にちょっと接触していくのです。

 柳田は、アイヌ語の地名は自然の地形をそのまま名づけた所が多いのだという。なぜアイヌ語の地名が残っているのかというと、それは単にそこにアイヌ人が住んでいたからではなくて、アイヌ人またはそれに近い人たちが住んでいたときの地名があった所へ、後から移り住んで来た人間がいる。先住民たちを完全に駆逐してしまったら、その地名はなくなってしまう。そこで地名が残っているということは、アイヌ人たちと後から来た人間たちとが共存状態であったのだろう、というふうに柳田は言っています。

 つまり、アイヌ語の地名という問題はそういう意味でとても大切なことになってきます。先住民と後住の人とが異なった人種であっても、共存していたか、駆逐してしまって新しい地名をつけたか、またはこの「さねさし相模」みたいに、枕詞の形で残したか ―― そういうふうに分けると微妙にいろんな段階があって、それはとても重要なことだなと、たしか『地名の研究』の中で言っているんです。


 これを受けて、梅原さんは次のように応答している。

 枕詞の発生はそういう二つの異言語の接触、いってみれば「春日の春日」というのは、「カスガ」をどうして「春日」と書いたかという謎を説明しているわけですね。そういう言語の違う二つの文化が接触して、そこで生ずる言語のギャップを枕詞によって埋めようとしたという説はたいへん興味深いのです。私もぼんやりそういうことを考えていました。「さねさし」は「タネサシ」から来ているだろうとおっしゃるのは、きっとそうでしょう。「タンネ」というのはアイヌ語で「長い」という意味で、「種子島」も「長い島」ですからね。アイヌ語で解ける地名が東北地方に広がっているのは当然ですけれど、もっとはるか沖縄にまであるということは非常に重大な問題だと思います。

 日本の真ん中にはなくて、北と南の両端にだけ残っている言葉がだいぶたくさんあるんですね。例えば沖縄ではサンゴ礁と海の境目を「ヒシ」といいますが、アイヌ語でも、海と浜との境目−海岸線を同じように「ピシ」というんです。ところが興味深いことには、『大隅風土記』に必志の里というものがでてきて、その必志の里に「海の中の州は隼人の俗の語に必志という」と註がついています。ということは、『大隅風土記』が作られた八世紀現在でもヒシという言葉はもう中央ではわからなくなっていたけれど、大隅の国では方言として残っていたということです。

 そうすると、ヒシという言葉はアイヌと沖縄に現在も存在し、本土では八世紀にわずかに大隅地方の方言として残っていた、この問題をどう考えるかということです。いまの「タネ」の問題でもそうですが、そういうのがたくさんありますね。たとえば「ト」という言葉はアイヌ語では湖あるいは沼を意味しますが、古くは海を意味したと知里其志保はいいます。ところが『おもろ草子』に「オクト」とか「オオト」という言葉が出てきますが、それは「奥の海」「大きい海」を意味します。本州の「トネガワ」とか「セトノウミ」の「ト」も海あるいは湖の意だと思います。利根川は海のような川、セトはおそらくセプト、広い海ということになります。

 私も枕詞についてそういうことを考えることがあって、例えば「チハヤ」という言葉があるでしょう。「チハヤビト宇治」とか「チハヤフル神」とか、『古事記』には、「チバノカドノニ」という言葉がある。「チハヤフル」「チハヤビト」「チバノカドノニ」 ―― 全部神様につながっているけれど、意味はよくわからない枕詞なんですね。

 ところが「チバ」というのは、アイヌ語では「ヌサバ」なんですよ。つまり神に祈る時にイナウというものを作るのですが、イナウが集まったものを「ヌサ」という。日本の古代語では御幣そのものをヌサというけれど、アイヌ語では御幣の集合をヌサといいまして、ヌサのある所がチバなんです。そうすると「チハヤフル」は神を祭るヌサのあるチバが古くからある、だから神につく。「チハヤビト」というのはヌサ場で一族が集ってお祭をする、だから氏につく。「チバノカドノニ」というと、チバの多くあるカドノニ。平城京跡からたくさんイナウが出てきた。古代日本にも到る所にチバがあったと思います。私はそういう解釈で、「チハヤフル」などの枕詞は理解できるのではないかと思うのですよ。

 だから、おっしゃるように、そういう異言語の接触で、枕詞として古い言葉を残しておくというのはたいへん興味深い解釈で、いま言われた「さねさし」が「タネサシ」から、というのは私は気がつかなかったのです。これは柳田国男の洞察に敬意を表したい。枕詞をもう一度、アイヌ語で考えてみることは必要なんでしょうね。金田一(京助)さんのようなアイヌは異民族でアイヌ語は異言語、アイヌ文化と日本文化とは全くの異文化であるという通説、その通説について私は批判しましたが、その通説のタブーさえなくなればいまのような解釈は十分成立可能だし、そう考えることによって、日本の古代語研究は飛躍的に進むと思いますよ。

記紀歌謡をもういちど、アイヌと琉球の歌謡との比較を通して見直してみる必要があると、お二人の意見は一致している。枕詞だけではなく、記紀歌謡の中で、どう考えても近世以来のこじつけに近い解釈が多々ある。もしかすると、そういうことは全部、アイヌや琉球の歌謡とよく照合することができれば、解明できるのではないかと考えている。
 そういう観点から、枕詞の次に取り上げられたのは「逆語序」という文法面での古層だった。


吉本さんの問題提起。

 これは地名の重ねと同じことになるんですが、琉球の古い歌謡の『おもろ草子』の中にも例がありますが、古い問題ではないかと考えていることが一つあるのです。それは僕が考えたというよりも、その前に折口信夫が「日琉語族論」などでいちはやく指摘していることなんです。

 現在の常識でいえば、地名を呼ぶ場合、東京都中央区とか京橋何丁日というふうに、大きか地域の地名を先に言って、だんだん小さくしていきます。

 ところが、折口さんは古い形はそうじゃなくて逆語序になっていて、小さい地名を先にいって大きい地名を後でいう言い方があったんだと指摘しているんですね。その例は『おもろ』の中にいろいろあります。
 「ヒルカサリ(辺留笠利)」という場合に、「カサリ」村の中の何とかという意味で「カサリ」の方が地域的に大きい。


 逆語序の関連でいうと、「大工の吉本」というのが普通の語序ですが、『おもろ』の中では「吉本」を先にいって「吉本が細工」のように、大工だから細工人というような言葉を後でいう言い方がある。折口信夫は「それは古い言い方なんだ」といっているんですね。

 たとえば「山があってその傍に村がある」とすると、それをヤマカタという。それをカタヤマというふうにいうと、後世は「片山」という言い方になってしまって、片方が削げている山みたいに思うかもしれないけれど、本当は、昔はそうじゃなくてヤマカタと、いって、山の傍という意味で、山の途中をそう呼んだと、折口さんは言っているわけです。

 それらを全部合わせて、いわゆる「逆語序の時代」というのがあったというのが折口さんのとても大きな指摘で、 僕らも初期歌謡を調べてその種の例をいくつか見つけて、折口さんの説が正しいということを論じたことがありま す。その種のことを考えていくと、これは梅原さんのご領域でしょうが、日本の古代あるいは古代以前のことは、 どうも半分だけわからないところがあるような気がしてしょうがないのです。


 この問題について、梅原さん次のように応えている。

 地名を小さい順から書くというのは、外国もそうですね。アイヌと沖縄の形容詞の書き方を比べてみると、アイヌ語はわりと自由で、形容詞が名詞の前にきていたり後にきていたり、いろいろあると思うのです。どちらの形が古いのか、そこのところはまだ検討していないのですが、たいへん面白い問題を含んでいると思います。

 これは少し大胆すぎる意見かもしれませんが、アイヌ語では顔のことを「エ」および「へ」といい、お尻のところを「オ」あるいは「ホ」というんです。古代日本語でも上と下の対立を「エ」と「オト」で表現します。「エヒメ」「オトヒメ」、「エウカシ」「オトウカシ」などです。また、「エボシ」とか「エダ」とか、上のほうを「エ」あるいは「へ」という。それでお尻のほうも尻尾のことを「尾」という。「山の尾」というのも山の裾ではなくて、ちょうど山のお尻にあたる所と考えるとよくわかる。

 ところでアイヌ語では動作を表すのに「ホ〜」「へ〜」というのが実に多いんです。人間の動作を、顔と尻の二点でだいたい表現している。それが名詞の前にもおかれ、「へ何々」「ホ何々」という。「へ何々」というのは、何々に顔を向けて、何々の方へとなり、「ホ何々」は何々の方へ尻を向けて、何々から、ということになる。こういう言葉から、さらに「へ」および「ホ」が言葉の後について、「何々へ」「何々ホ」「何々ヲ」となる。こうなると日本語の助詞「へ」と「ヲ」に近くなる。日本語の助詞と非常に似ている。「東京を発って京都へ行く」は、東京に尻を向けて京都へ顔を向けるという意味であるということになるわけです。

 そういうふうに考えると、肉体の部分を表す「エ」あるいは「オ」が前置詞のように用いられ、後に後置詞になって、助詞になってゆくという、そういう助詞の成立の過程がわかるように思うんです。さきの逆語序という問題とこの問題とはつながっているように思われて、私にはたいへん興味深い。

 それから吉本さんが「わからない部分がある」とおっしゃったのは、まさにその通りでして、私はついこの間まで、縄文文化というのはわからないと思っていたのですね。考古学ではある程度物質生活は知ることができるが、精神生活を知りえない。いくら頑張っても、考古学だけでは縄文人の精神生活や宗教意識がわかるはずがない。ところが私はいま、アイヌ文化を発見して、沖縄文化との対比で考えると、あるところまで縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのではないかと思うようになったのですね。今までわからなかった縄文文化を解く鍵が多少みつかってくると思います。


 琉球やアイヌの文化を読み解くことによって、縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのではないか、と梅原さんは言っている。それは同時に天皇制の古層を掘ることでもあり、天皇制の相対化あるいは無化へと向かう道筋でもある。
 吉本さんと梅原さんの対話は、ヤポネシアを広く覆っていたであろう天皇制以前の精神文化や宗教意識の問題へと続く。吉本さんの問題提起から。


 たとえば、中央部でも岩磐とか巨石とか樹木信仰というのがありますね。これはむしろ先住民の信仰だと考え、そこに天皇家みたいなものが入ってきて、それをそのまま容認したんだというふうに考えると、三輪山信仰でも考えやすいところがあります。

 それから、たとえば諏訪神社の信仰もそうですが、どうもこれは北方系あるいは東北からきているんじゃないかと思えるのですが、信仰の形として男の生き神様を造って、それは生涯不犯で神事ばかり司って、その兄弟が政治を司るみたいな形がいろんな所に見えるのですね。諏訪地方の信仰もそうですが、瀬戸内海でも大三島の信仰のあり方もそうです。

 そういうのと、そうじゃなくて母系制で、耶馬台国のように女の人が神事を司り、その御託宣によってその兄弟が――これは沖縄もそうですが――政治を司る、そういう形と両方あるような気が僕はするんですね。

 ですから神話の中でも、実在かどうかわかりませんが、神武というのがいて、その兄に五瀬命(イツセノミコト)というのがいますが、これは神事を司っていた長兄と思われますが、遠征の途中で登美の那賀須泥此古(ナガスネヒコ)と戦って撃退され、熊野の方に廻って転戦して、戦死してしまうことになっています。この五瀬命が、神人というか神事を司っていたと考えると、男系の匂いもするんですね。

 そうはいうものの、たとえば神武が熊野から入っていって三輪山の麓まできて、その地の村落共同体の首長の娘を嫁にもらうか入婿するかどちらかわからないが、それと結婚する。すると、それはどうも母系制に従っているようにも思える。ところがいろんなところを見ていくと、男系の神様を奉っておいて、兄弟が村落を支配するという形が、どこかにほの見えたりして、よくわからないところがあるんです。 これをどういうふうに理解すればいいのかということです。それはつまり時代の差異とか、そういうものを象徴しているのか、あるいはまた先住・後住ということを意味しているのか、それとも系統が違うということなのか、そこがよくわからないんです。


 この問題について、以下のように対話が続く。

梅原 おっしゃるように、どれが縄文文化なのか、どれが弥生以後の文化なのか、またどれが記紀にいう神武天皇という新しい支配者が出た大和朝廷以後の文化なのか、それを分別するのは容易ではないですね。私は構造として縄文文化を根底において、次に弥生文化を――神武伝承以前の弥生文化というものもあると思いますけれど――その次に神武伝承以後の大和朝廷の文化を考えますと、三輪山はどこに属するのか。朝鮮などに行くと、そっくりそのまま三輪山みたいな山があって、同じように崇拝されている。こう見ると、これは端的に縄文文化とはいえない。あるいは神武以前の弥生文化の遺跡ではないのかとも思われますが、それらは重層的に重なり合っているので粘り強く一つ一つ解いていくよりしょうがないだろうと思います。

 最後に出された男系の問題ですが、男の司祭の問題は、私は気がつかなかったが、たいへん面白い。それも父系社会と双系社会の問題と関係するのではないでしょうか。社会学者の中根千枝さんなどの考え方でも、中国・韓国は父系社会であるけれども日本はそうじゃなくて、双系社会だという。ところがアイヌも双系社会なんですね。どういうふうに違うかというと、父系社会というのは、本貫を同じくする氏により団結がたいへん固い。ですから当然大家族制になってくる。そして同姓娶らず、その範囲では結婚はできない。中国や韓国は今でもそういう社会です。

 そういう社会だと姓は増えないわけです。だから韓国は全部で二百姓ぐらいしかない。中国も百姓といいますが、今ちょっと増えましたが、少数民族を含めても五百くらいでしょうね。こういう父系社会では同姓を超えた団結はなかなか生まれません。会社でも同姓で集まるし、異姓の人が入っても絶対に社長になれないから、どうしても会社に対する帰属感がない。

 ところが日本ではそうではなくて、父系社会の団結が弱い。古代では「物部鹿島」というような複姓がある。父は物部氏、母は土着の鹿島の人、そこで物部鹿島という姓ができ、物部氏から独立する。だから姓は無数にふえる。日本の苗字というのはほとんど地名ですが、結局、氏、血よりも今住んでいる土地のほうが大事なんです。だから苗字が何十万とあるわけです。

 またアイヌでは、財産を継承するときに、男のものは父系で相続、女のものは母系で相続するのです。弓矢のような男の持ち物は男の血縁で相続され、女の持ち物は女の血縁のほうに行く。上代日本もそうではないかと思われます。それから、「同姓娶らず」の韓国では本貫を同じくする同姓のものが結婚したら、禽獣の行為だとされるくらいたいへんです。同姓を娶ったら法律で罰せられて、監獄に行かなければならない。それを免れるためには亡命をしなくちゃならん。現に最近でもそういう悲劇の実例があるのを私は知っていますよ。

 ところが古代日本の場合は、父親が一緒でも母親さえ違えば兄妹でも結婚してもかまわない。それは父系社会からみれば、まったくの禽獣の行為としかみえないかもしれないけれど、それはそれで双系社会の掟はある。母親が一緒だったら、これはやはり畜生の行為ということになるわけです。

 いまの話でいうと、初期天皇家が父系的な社会であったか、双系的な社会であったか――私は、入ってきたとき、初めは父系的であったと思います。けれど、いつの間にかだんだん双糸的に変ってきたのではないかという気がしてしょうがないんです。

 入婿の話が出ていましたが、父系社会では入婿は絶対あり得ないわけですね。


吉本 あり得ないですね。


梅原 ところが、神武天皇が大和を支配するために入婿みたいな形になっていますね。


吉本 入婿ですね。三輪山の麓の長の娘と結婚して、そこに入婿していますから。そこで僕は思うんだけれど、初期天皇でも、十代目ぐらいまでたいてい長男坊ではないですよね。それは長子相続ではなかったという意味なのか、それとも長男というのは隠れているけれど、宗教的な司祭をしていて、全然子孫を残さないことになっているから、長男ではなかったのか、そこがよくわからない。


梅原 末子相続でしょう。


吉本 それに近いと思います。


梅原 アイヌも末子相続です。アイヌは家が小さいから、大家族はできないのですね。長男が嫁さんをもらうと独立をしてまた家をつくる。兄弟がだんだん独立をすると、最後の子どもが年とった親父さんと一緒にいる。だからアイヌは財産は子どもにみんな平等に分けるけれど、最後まで親父さんと一緒にいるのは末子ということになる。ここに末子相続的な原理が含まれていると思うんですね。


 それと、いま吉本さんがおっしゃった、天皇家はだいたい末子相続ということとつながりが出てくるような気がしますね。応神天皇の時、ウジノワキイラツコとオオササギノミコトが皇位をゆずりあって困り、ついにワキイラツコが自殺したという事件がありますが、あれも伝統的な末子相続と儒教的長子相続の争いと見られます。この場合、末子相続法によって皇位の相続の権利を主張できるワキイラツコが儒教信者であり自分は相続すべきではないと考えたところに悲劇の原因があったと思います。とすると古代日本社会はアイヌ社会に似ていた。だからいまの問題は言語だけでなくて、習俗というものを考えても、アイヌと沖縄をみると古代日本のことがいろいろわかってくることになるのじゃないかと思いますね。


吉本 そう、アイヌの問題を調べていくと、弥生時代から残っているいろいろな宗教的な行事とか文化的なもの、風俗・習慣もそこに保存させている部分がありますから、そういうことがとてもわかってくるという問題があるわけですね。


梅原 しかし、アイヌにないものを調べることも大事だと思いますね。弥生時代にすでにあってアイヌにまったくないものは何かということです。それは外から持ち込んできたものである可能性が高い。アイヌでは消えてしまった可能性もありますけれど。そういうものをいろいろと比較・検討してみると、今までわからなかったものが、少しずつわかってくるのじゃないかという気がしますね。


 縄文文化と弥生文化を対比するとき、その違いは非農耕民と農耕民の違いに還元される部分が多いと思う。そして非農耕民と農耕民という場合、縄文人と弥生人という対比の外にもう一つ考慮すべきことがある。「山の民」と「里人」の対比である。

 山の民=山人とは何か。

 私たちは普通「山人」というと、木地師や 木樵などと呼ばれている人たち、さらに は狩猟を仕事とする「マタギ」や「山窩」と呼ばれている人たちを考えると思う。しかし山人研究をしていた柳田国男は、 放浪の鍛冶屋とか 鉱山師、あるいは放浪の修験者とか放浪の宗教者みたいなものも山人として考えてい たらしい。

 柳田は山人研究を半ばにして放棄しているが、これについて梅原さんが次のように言っている。


吉本 柳田さんはそれ(山人)を異人種、人種が違うと考えていたんでしょうか。


梅原 初期にはそうでなかったと思いますね。『山人の研究』で「自分の生まれたところは昔、異族が住んでいたところだと『播磨風土記』にある記事を見て、自分も山人の子孫の血が入っているのじゃないかと思った」という意味のことを言っている。それが彼にはショックだったと思いますね。だから彼はたいへん厭世的になり、民俗学の研究に入っていく。あの玉三郎が演じた泉鏡花の『夜叉ケ池』で竜の女と住む学者は柳田さんがモデルだといわれているくらいですからね。自分の血とつながっているそういう山人の文化のすばらしさを明らかにし、里人をおどろかしてやろうという気特が、山人の研究に入っていった彼の気持であり、それが『遠野物語』になってゆく。彼の民俗学の出発点は明らかに「山人研究」「異族研究」なのです。

 しかし柳田さんは大正六年頃を境として変った。山人研究は完成しなかった。おそらく私は、幸徳事件などが間接的な原因と思います。山人研究を続けていたらたいへんなことになると心配し、それは天皇制とぶつかって危険だと、官僚でもある柳田さんはそこで転向し、山人研究から里人、つまり常民の研究者となる。自分を山人じゃなくて里人と一体化する。そこで新しい柳田民俗学が生まれたと思います。そういうふうに、柳田さんには微妙な転換があるような気がしますね。だから、初期の柳田さんはアイヌに対する関心が非常に強かったのだけど、どこかの段階で捨ててしまった。柳田さんを考えるときに、そのへんがいちばん大事になってくるのじゃないか、と私は思うんです。


 山人研究から常民研究への柳田の転向の理由を幸徳事件と結びつけるのは、私には穿ち過ぎのように思える。しかし、そういう結びつきを想像できる要素が山人研究には濃厚に含まざるを得ないのは確かだ。 吉本さんと梅原さんの対話は、天皇制の基盤である農耕民とその古層の狩猟採集民との関係を神話から読み解く議論に移っていく。


吉本 そういうところから考えますと、柳田さんは何を日本人というふうに見ていたのでしょうか。
 『海上の道』でもそうですが、よくよく突きつめてみると、柳田さん流にいえば、稲作をもって南の島からだんだんと東北の方に行った、そういうものを日本人と呼んでいるみたいに思えます。これではとても狭い気がしますね。そうすると、ほとんどが日本人じゃない、ということになりそうな気がしてくるところがあるんですが、それはどうでしょう。


梅原 柳田さんは農林省ですか、勤めていたのは。


吉本 農商務省ですね。


梅原 やはり農商務省の役人としての職業意識が強くなると、どうしても日本を農業国と考える。稲作農耕民の渡来によって日本の国はできたと考えた。しかしその背後には記紀史観の影響があると思いますね。

 アマテラスオオミカミ、というのは明らかに農耕民族の神だし、その孫のニニギノミコトも農耕民族として日本の国に来た。ところが土着のクニツカミ、というのがすでにいた。たとえばオオヤマヅミというのは山民ですし、ワダノカミというのは漁撈民でしょう。ニニギとその子孫が、そのオオヤマヅミやワダノカミ、の娘を娶った曾孫が神武天皇です。ですからあの神話は、農耕民がやってきて、山地狩猟民や漁撈民と混血して、日本民族ができたということを物語っている。

 日本人は渡来の農耕民が土着の狩猟民を支配してつくった国家だ――こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思いますよ。

 しかし記紀のニニギから以後の九州での話は、事実そのままではないとしても、日本人の成立の過程についてたいへん正確に語っていると思われます。渡来した稲作農耕民を父系、土着の狩猟採集民を母系に、その二つの混血によって日本人はできてきたということをその神話は示している。そのために出産のときにトラブルが起きたりする。文化が違うと出産がいちばん問題だと思います。出産のときに必ず文化のトラブルが起きてくる――そういうものを、とてもうまく語っていると私は思いますけれどね。

 次いで、「マタギ」と「山窩」の社会習俗や宗教が話題となる。


吉本 それから、柳田さんのいう山人の中に事実として、たとえば山の中腹から煙が立っているのを見て、「あれは山窩の人がまたやってきたんだ」というような言い方で出てくるけれど、山窩というのは、つまり山人のうちにどういうふうに位置づけられるのでしょうかね。


梅原 まあ、柳田さんを読むとびっくりするのは、大正天皇の御大典のときに、京都の若王子の山の中腹から煙が出ていた、あれは天皇の即位を祝って山人がたいた火の煙だと書いてあるんですね。僕は若王子の山裾に住んでいるんで、どうしてそんなことを柳田さんが考えたか、びっくりしてしまいますけれど。(笑)

 山窩とかマタギという人たち――山窩とマタギとはどう違うのか。マタギというのは東北に住んでいる狩猟民で、山窩というのはもうちょっと中部の山岳地帯に住んでいる狩猟民ですね。マタギのほうがまだ農耕民との間の、ある種の友好関係があるけれど、山窩は差別され非常に迫害されていた、と考えていいのではないでしょうかね。

 ところがマタギ社会ですけど、ご承知のようにカメラマンの内藤正敏さんがダムで埋没する新潟県のマタギの社会を撮っていますね。この間、私も山形県の小国町という所のマタギ部落へ行って、マタギの熊祭を見てきましたよ。マタギ部落というのはもうどこでもほとんどなくなってしまいましたが、まだそこには少し残っているんです。

 熊を獲るのに、今はライフルですから、かなり遠い所からでも撃てるはずなんですよ。ところが、そんなふうにパッと撃たないで、やはり勢子が出て、熊を下の方から追い上げ、一の鉄砲、二の鉄砲、三の鉄砲が待ちうける。そしてずーっと追い詰めてきて、一の鉄砲から順に撃って行く。武器がすっかり近代的に変っても、昔、熊を追い込んで、槍で仕止めるのと同じ方法でやっているんです。

 ここにどうしてマタギ社会が残ったのかというと、彼らは片方で農耕をやっている。冬になって農耕ができなくなってからマタギの生活に入るんですね。ふだんは農耕をやって、冬の間だけマタギですから、かえって純粋に残ったのです。

 そこでいろいろ聞きましたけど、完全な共産社会ですね。分配が実に公平です。つまりマタギの親方を能力によって、今度の熊狩りには誰がいちばんいいか相談して決める。一種の職能的な秩序が完全にできていて、親方はご飯も炊かなくていいし、寝ていればいい。しかし親方の命令には全部従う。その代り、親方は責任をもたなくてはならない――そういう形でやっているわけです。ところが熊を獲って、熊の肉を分けるのはみんな平等で、狩りに参加できない未亡人とか年寄りにもちゃんと平等に分けるんです。ですからマタギ社会は見事な平等社会で、長は機能に応じてできる………というので、私は感動しましたね。

 そんな彼らが熊祭をしている。それがいつやるかというと、マタギをやめるとき、つまり熊が冬眠からさめて出て来るときに熊を獲るわけです。ですから熊を獲り終ると春で、彼らはそれから農耕生活に入るんです。その熊祭もやはり、アイヌの熊送りに似ていました。熊の魂を天に送るという、そういう意味が残っているようでした。同時に、熊祭を終えて、自分たちはこれからマタギをやめて農耕の生活に変るという、そういう意味ももっているけれども、どこかにアイヌの熊祭の面影を保っていました。

 ところで、そういうマタギとか山窩――山窩はまたちょっと生活が違うと思いますけれども ――彼らの生活習慣を見ていると、ふつうには、山人はやはり異民族だと考えられるんじゃないかと思うんです。しかし、分配の見事な平等主義の社会を実際に見ると、やはり感動しましたね。

 記紀歌謡の中には近世以来のこじつけに近い解釈が多くある。このことと山窩が結びついて思い出したことがある。
 吉本さんは著書「共同幻想論」で柳田国男の「遠野物語」や「記紀」の神話の他に三角寛の「サンカの社会」 を素材に用いている。その「共同幻想論」の「規範論」に、古事記の中の次の歌の意味について論じているくだりがある。


 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
(やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)


 通説ではこの歌を

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

と読み下している。そしてその意はおおよそ

「八雲の幾重にも立ちのぼる出雲の宮の幾重もの垣よ。そこに妻をむかえていま垣をいくつもめぐらした宮をつくって共に住むのだ」

とするのが通説だ。 学者たちは何故そのような読解と解釈をしたのか。

この歌は、「天津罪」を犯して高天原を追放されたスサノオが出雲を平定し、その地に宮を作ったという物語に挿入されている。


 故ここをもちてその速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして詔りたまひしく、

「吾此地に来て、我が御心すがすがし。」

とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。この大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。ここに御歌を作みたまひき。その歌は、


 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁


 「其地より雲立ち騰りき」という物語の地の文にとらわれてのことであるのは明らかだ。勿論これは古事記の編者の意図であっただろう。しかし、記紀の歌謡については、物語の部分とは別個に考えなければならない場合が多いことが一般に認められている。伝承の歌があってそれをもとに物語が作るられたり、物語の前後の関係からその物語にうまく会う伝承歌を挿入されたりした可能性があるのだ。

 実はこの歌はサンカの社会にも伝承されていて、サンカの解釈はまったく違うという。吉本 さんが「サンカの社会」から引用している部分を孫引きする。


サンカは、婦女に暴行を加へることを「ツマゴメ」といふ。また「女(め)込めた」とか、「女込んだ」などともいふ。この「ツマゴメ」も、往古は、彼らの得意とするところであった。そこで、「ツレミ」(連身)の掟( ヤヘガキ)ができて、一夫多婦を禁じた。それが一夫一婦(ツ レ)の制度(ヤヘガキ) である。

 ここで問題になるのは、古事記・日本書紀に記された文字と解釈である。すなはち、


(古事記)夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微雨夜幣賀岐都久留骨能夜幣賀岐衰

(日本書紀)夜句茂多菟伊都毛夜覇餓岐菟磨語妹爾夜覇餓枳菟m盧贈廼夜覇餓岐廻


 右に見るやうに、両書は、全く異った当て字を使ってゐるが、後世の学者は、次のやうに解釈してゐる。


八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を

と、決定してゐるやうであるが、サンカの解釈によると、(昭和11年、富士山人穴のセプリ外 18ヶ所にて探採)次の通りである。


ヤクモタチ(ツ)は、八蜘昧断ち(つ)であり、暴漢断滅である。

イヅモ、ヤへガキは、平和を芽吹く法律で、ツマゴメ(ミ)ニは、婦女手込めにし、である。

ヤへガキツクルは 掟( ヤヘガキ)を制定して、コ(ソ)ノヤへガキヲ、はこの 掟( ヤヘガキ)をこの守る憲法を―で、これが「一夫一婦」の 掟( ヤヘガキ)である。

 それで出雲族を誇示する彼らは、自分たちのことを、「沢瀉(おもだか) 八蜘蛛断滅」だと自称して、誇ってゐるのである。


 吉本さんは「サンカの伝承の方が確からしく思われてくる」と言い、その理由を次のように述べて いる。

 なぜこういう解釈に吸引力があるかといえば、スサノオが追放されるにさいして負わされた〈天つ罪〉のひとつは、農耕的な共同性にたいする侵犯に関しており、この解釈からでてくる婚姻についての罪は、いわゆる〈国つ罪〉に包括されて土着性の濃いものだからである。『古事記』 のスサノオが二重に象徴している〈高天が原〉と〈出雲〉における〈法〉的な概念は、この解釈にしたがえば大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接合点を意味しており、それは同時に〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点を意味していることになる。


 「規範論」はこのあと「〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点」を論究していく。


 前回、梅原さんが「こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観 だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思います よ。」と言っていた。上記のような記紀歌謡の洗い直し、あるいは記紀の神話の古層の掘り 起こしはそのことと別のことではないと思う。網野さんのお仕事もその線上にある。


 サンカの誰かが里に下りてきて、古事記あるいは日本書紀を読む機会をもった。その中の「ヤクモタツ・・・」という歌を知り、自分流に解釈しなおしてサンカ社会に流布した、なんてとても考えられない。とすると「ヤクモタツ・・・」の歌は古事記の編者が伝え聞いた伝承と同じ発祥のものを、古事記編纂の時代よりずっと古くから、古事記とは無関係に、サンカの祖先の社会に伝承され、今日まで伝えられてきたと考えるのが自然だ。そういう点からもサンカの人たちが解く解釈の方が確からしい。
 サンカの人たちは出雲族を誇示しているという。出雲族というのは歴史的な信憑性のある種族だろうか。
 出雲神話はまったくの作り話だというのがこれまでの通説だが、梅原さんはこの通説にも疑問を呈している。


 実はこの間、出雲にすばらしい銅剣がたくさん出たので見に行きました。銅剣が356本。これは今まで日本全土で出ているより多い数です。それに銅鉾が16本、銅鐸が6個――ちょっと日本の古代史を書き換えなくてはならない。われわれもそうですが、長いこと「出雲神話」はフィクションだと考えてきた、これは津田左右吉に影響された日本の古代史家が一様にもってきた考え方です。

 ところが、「出雲神話」の中心地である斐伊川の近くの、ほんの小さい丘からそれだけのものが出てきて、国譲りの話をそのままあらわしているようなことになってきた。

 それから、和辻哲郎の銅鐸文化圏、銅剣・銅鉾文化国の対立で弥生文化を、近畿文化圏と北九州文化圏の対立と考える図式もすでにおかしくなってきましたが、この荒神谷遺跡の出現でもう一度大きく問い直されなければならなくなった。

 そこで、どうしてそんなものがそこに埋められていたか、いろんな説が出ていますが――最初、銅鐸を使って地の祭をしていた。ところが今度は太陽を祀る宗教になったから、要らなくなって埋めたという説が有力のようですが、埋めたにしては数が多すぎる。それと同時に、地の神から太陽の神へと、そんな簡単に信仰の対象が移るものかどうか。どうにもうまい説明がつかないんですね。私はこの遺跡がヤマトタケルと関係する記紀や『風土記』のタケルべの里であることを考えて、やはり出雲権力の大和権力への降服儀式ではないかと思いますね。


 「発掘・日本の原像」がこの神庭荒神谷(かんばこうじんだに) 遺跡に関連した記述をを書き出してみる。


  島根県松江市に弥生時代の戦場跡らしい遺跡がある。田和山遺跡という。この田和山の西約 40kmに出雲大社、約17km西南西に神庭荒神谷と加茂岩倉の両遺跡がある。

 この田和山遺跡は標高46mの丘陵にあり、2100年あまり前の弥生時代前期後半につくられ、200 年ほど続いた不思議な遺跡だという。まるで砦か、聖地のようだという。人が住んでいた形跡はない。こんな弥生遺跡はきわめて珍しい。見晴らしの良い丘陵に、倉庫にしてはあまりにも小規模、しかも厳重な防衛態勢をとって営まれた形跡が濃い。いったいどんな施設だったのだろうか。神庭荒神谷遺跡はこうした周辺の遺跡とも関連して考えなければいけないだろう。

 神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣、銅鉾、銅鐸が発掘されたのが1984年。梅原さんがそれに注目して上記のような発言をしたのが1986年のこと。その後、1998年には吉野ヶ里遺跡から九州初の銅鐸(高さ約26cm)が発見されている。さらに99年6月、これまで6種類以上の鋳型が出土している大阪府茨木市東奈良遺跡から、朝鮮式小銅鐸と日本式銅鐸双方の特徴をもち、「日本式が考案される過程でつくられた祖形のひとつで、絶滅してしまった型の遺物」ともいわれる古い銅鐸(高さ14.2cm)が出土している。同じ年の9月には奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で、類例のない文様の銅鐸鋳型が見つかった。このように近年、銅鐸関係の新発見が続いている。しかし、鋳型が見つかった約35ヵ所のうち、30ヵ所を近畿地方が占めている。


 このため、春成秀爾・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は「近畿に銅鐸の中心部があったことは依然、揺るがない」という。そして「高度で繊細な技術やデザインなどから見ても、銅鐸は当時の地域集団にとって、格別なものだった。とても対価を支払って入手できるものではなく、製作も限られていた。贈り主と贈られた相手の間には、半永久的に従わざるを得ないような関係ができたに違いない」とし、社会統合の象徴とも考えている。

 銅鐸はこれまで、その用途や埋納目的に関心が向きがちだった。奈良国立文化財研究所は、加茂岩倉銅鐸の原料産地などの科学分析を始めている。詳しい分布状態や製作推定地、兄弟関係などから、銅鐸の「動き方」が解明されれば、ここからも弥生社会の実態が見えてくるだろう。

農耕があると富の蓄積がきくわけですね。狩猟社会というのは絶えず移動していますから、富を一カ所に貯蔵することはなかなか困難ですね。だから例のオオクニヌシノミコトが袋を背負っていくというのは、狩猟民族の移動方法を示しているのではないかと私は思います。

 獲物があった場合でも食べられない分は腐ってしまいますから、自分だけ一人占めにすることはできないだろうし、部族の全部に分ける――そういう、非常に共産主義的な社会だったと思います。

 ところが農耕が発明されて、富の集中が可能になり、そしてそこから国ができる。国ができれば国家を統一する大宗教、世界宗教が出てくる。そして巨大な神殿ができてくる。それからそれに対して必ず文字が出てくる――ということになると思うのですが、縄文文化というのは、そういう意味でいうと、すでに世界の他の地区にそういう大文明が出現しているのに、一時代前の生産方法のもとにかなり精神的に高い文化を発展させた特殊な文化であったと思いますよ。

 日本では農耕の成立が遅れ、巨大な国家の出現が遅れたために、富の集中する社会が出てくるのがたいへん遅かった。それから文字の出現も遅かったと思いますが、それはいいことではなかったか、といま僕は考えているんですよ。

 国家のできるのが遅かったからよかったという考え方です。巨大国家が造られたときは富の集中があって、階級社会ができて、うんと金持と貧乏人の差ができる。そういうところから生ずる人間の心の歪みがたいへんきつい。そのきつい歪みを世界宗教が反映しているのではないかと、私は思うんです。


 縄文文化は、巨大国家や大文明は生み出さなかったが、それはむしろよいことだったのだと言っている。大文明の代わりに「精神的に高い文化を発展させ」ていた。現代の人類が陥っている陥 穽から人類を救い出し人類の未来を開くための新しい思想あるいは倫理を創出する手懸りが、 縄文文化を発掘・考究することによって得られるのではないか。梅原さんと吉本さんの対話から、 こんな壮大なモチーフが浮かび上がってくる。

 さて、いきおい、お二人の話題は「日本国」ということになる。 梅原さんの要請に従って、吉本さんが「共同幻想論」のモチーフと方法論を次のように語っている。


吉本

 制度的というか、政治的というか、そういうところから考えると、日本人の歴史と、日本国家、つまり初期の大和朝廷成立以降の国家らしい国家が農耕を基礎にしてできあがったことは同じではありません。つまり日本国の歴史と日本人の歴史は違って日本人の歴史の方がずっと古いわけです。それこそ縄文早期、あるいはもっと前から始まっているかもしれませんから。日本人の歴史と日本国の歴史――もっといえば天皇家の歴史とを全部同じものとして見るのは不当ではないかという感じ方はあったのです。

 だから、天皇家の始まりが日本国の始まりというのはまだいいとしても、天皇家の始まりが日本人の始まりだ、というのは少なくとも違うから、日本人の歴史というところを掘り起こしていけば、天皇家を中心にしてできた日本国家の歴史のあり方を相対化することができるのではないかということが問題意識の一番初めにあったわけです。


 網野さんの厳密な定義に従えば、日本国成立以前には「日本人」はいなかったことになるが、吉本さんが「日本国」と「日本人」とを使い分けている意図が網野さんの問題意識と同じであることは言うまでもないだろう。吉本さんは「日本人」という語を「日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉」として用いているのではない。ヤポネシアを「日本列島」と呼ぶときと同じで、吉本さんがこの文脈で「日本人」というときの「日本」は国名ではなく地名を表していると考えてよいだろう。
 不要な解説だったかもしれない。吉本さんの発言の引用を続ける。

 ですから初めの頃、熱心にやったのは、天皇家の即位の仕方とか宗教の作り方というもの――僕は主としてそれを琉球・沖縄をみて、沖縄にずっと後まで、十世紀以降まであった聞得大君(キコエオオキミ)という女官の制度的な頂点にいる、宗教を司る女性たちの即位の仕方と比べると、たいへん似ているところがあるのではないか、そこを知ろうとしました。
 『共同幻想論』の中では何を考えたかというと、能登半島などの田の神が来訪してくるという田の神の儀式と、大嘗祭の神事のやり方とがわりあい似ているのではないか。同じ型があるのではないか――それを調べて研究すると、日本人の歴史という問題と天皇家の成立以降の国家の歴史、あるいは天皇家の祭儀や祭の中に残っている制度的な名残りなどを類型づけられるのではないかというふうに考えて、初めはそんなことばかりつつき回していたように思います。

 初期の天皇家が大和盆地に入ってきて、そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰のありかたは、沖縄の聞得大君の即位のときの信仰のやり方と似ていて、いずれもはっきりいえば一種の巨石信仰あるいは樹木信仰みたいなもので、その巨石や樹木、あるいは小高い丘の頂点から神が降りてくるという感じがあって、それは同じ類型づけができるのではないかと考えたんです。

 それが、天皇家あるいはもっと普遍化して農耕民に特有な信仰だったのか、あるいはそれ以前からあった信仰を継承したのか、そこがわからないから、初めは農耕民のいちばん古い祭の仕方を、天皇家が大和盆地で継承して最初にやったのだと考えたのですけれども、後になるにつれて、それは前からいた先住民の信仰ではないのかと思えるようになってきているんです。でも本当は、そこがよくわからないんです。

 つまり初期の天皇をみていても、相続は少なくとも長子相続ではない。しかし婚姻になるといつでも姉と妹がいて、入婿的で、女系的な匂いがするのは確かです。そうすると、そこのところはどういうふうに理解したらいいか。つまり宗教的な為政と、現実に一族のあり方としてとっている相続の形とがどうしても混合していて、よくわからないというのが問題です。

 これと異質なのは、縄文時代からの狩猟民的な祭式といわれる、諏訪湖のほとりの諏訪神社の祭のあり方と相続の仕方です。あれは男系の子どもを連れてきて、何十日かその子どもを籠らせたあと、岩盤みたいなものの上で相続の儀式をする。それは一種の生き神様の役割をさせるという形で、大和朝廷が近畿地方、大和盆地でやったやり方とちょっと違うんですね。

 それと、瀬戸内海の大三島神社の古くからの相続の仕方――河野氏の祖先でしょうけれども ――あのやり方が、兄が生き神様を相続して、それは生涯結婚できず子孫を残すことかてきないことになっていて、弟が支配するという形を強固に保ってきた――わずかにその二つぐらいが異質だということがわかっていた。

 江上(波夫)さんのいうように、もし大陸からやってきたのが天皇家だというのならば、そのとき大勢の原住民がいて宗教的な形態も決まっていた、そこに支配的な民族が土着の人たちより少人数という形で入ってきた場合に、自分たちの宗教を押しつけるものなのか、あるいはそこに元からあったものをうまく使うのか――僕は、そこのあたりの解明がとても重要ではないかという感じがします。


梅原

 記紀の記事を尊重すると、神武天皇の次に重要なのは崇神天皇でしょう。神武天皇も崇神天皇も、どちらもハツクニシラススメラミコトといわれている。どうして二人に同じ名前をつけたのかという問題が生じてくるけれども、政治支配は神武天皇から始まっている。記紀の記述に従って南九州からやってきて、巨大な統治政権を固めたのが神武天皇だとすれば、それの宗教的な基礎を固めたのが崇神天皇であるということになる。そういう意味で崇神天皇が神武天皇とともにハツクニシラススメラミコトと呼ばれるのだと思います。

 崇神天皇の時代に疫病がはやってたいへん多くの人が死んだことがある。どうして疫病がはやるのか占ってみたら三輪の神様が崇っている。そこで三輪山の神様の子孫であるオオタタネコを見つけ出して三輪山を祀らせたら、疫病はおさまって日本の政治はうまくいったという記事が『古事記』にも『日本書紀』にも出ているんです。

 これは、神武天皇以後九代までの天皇が向こうからもってきた、近くは南九州、その前はおそらく朝鮮半島からもってきた宗教で交配しようとしたけれどうまくいかない。そして世の中がいろいろ乱れたので、結局、先住民が信仰していた宗教を祀ることによっておさまった、ということではないかと私は解釈するんです。三輪山の宗教が縄文時代までさかのぼるものか、それとも弥生時代に始まるものか、これまた難しい問題ですが……。

 一応、日本の国を考えるときに、言語だの宗教だのはだいたい土着のものを基本にして、それを継承したのではないか。そうしないと、少数の支配者が多数の被支配者をうまく治めることはできないだろうと、そう考えているんです。

 それでは先住民、縄文住民の宗教はどうであって、弥生初期にどう変って、再びいまの天皇家の祖先が来たときにどう変ったかということはなおわからない。私は、いわゆる神様が山の峰に天降って、それが現在の支配者の祖先だという考え方は、天皇家が大陸のほうからもってきた思想ではないかと思っていました。ところがそれもやはり、それ以前の縄文時代の人たちがすでにもっていた考え方ではないか――沖縄やアイヌの例もあって――そういうふうに今は考えております。
 アイヌでもかれらの祖先が降った山が必ずあるところを見ると、天上から神が降臨するというのがアマツカミ渡来農耕民の考え方であるとはいえないようです。

http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/nippontoha.html


ヤマト王権の出自(1)


 吉本さんと梅原さんの対話が次に取り上げたのはヤマト王権の出自である。この問題に まつわる事柄はいまだほとんど仮説の域にあるが、それらの仮説を照らし合わせたり組み合わせたりしながら、より信憑性のある説を作り出すほかはない。そのときの基準・方法は たぶん、「常識的な感性」だと思う。
 ヤマト王権は弥生文化を生活基盤とする人たちによって樹立された。ヤマト王権の出自を問う前に弥生文化がだれがどこからどのようにヤポネシアに伝えたのか、まず歴史学者の見解を聞こう。「岩波講座・日本の歴史1」所収の山尾幸久氏の論文「政治 権力の発生」を利用する。山尾さんはもちろん、考古学や文献学の成果を論拠にして論を進めているが、それらの論拠は省いて、大まかな論旨だけを追うことにする。
 朝鮮に青銅器文化が始まったのは遅くとも前四世紀ごろを下らないとといわれている。やがて中国戦国時代末期、前240年代〜前220年代、燕や斉の亡命者が鋳造鉄器を朝鮮にもたらした。 漢が朝鮮に四郡を設置(前108年〜前107年)した後には錬鉄鍛造品も作られるようになったという。 南部朝鮮が鉄器時代に入るのはさらに一時期遅れて一世紀とされている。
 燕や斉の亡命者は鉄だけではなく、鉄とともに稲をももたらしたと考えられる。 「日本の弥生文化複合の物質的二大要素すなわち鉄と稲」はまず朝鮮半島に伝えられた。
 そのころの南部朝鮮の人々の生活様式特色の一つは西南部の多島海などでの漁撈活動にあり、 造船・航海術にも習熟していたことが察せられる。また、低湿地では初期的な水稲栽培が行われていたと考えられる。

 さて、中国を統一した漢は朝鮮を征服して四郡を設けた。そのうち「真番」という郡は早くも26年後(前82年)完全に放棄された。その理由として反乱などの外的要因は考えられない。そこで山尾さんは次のように推論している。
 漢の郡県制支配の特色の一つは、前後三回行なわれた戸口調査を基礎とする人頭課税と力投 徴発であるが、国家権力の基盤「庶民」「編戸の民」の中心、力役や兵役を負担する15〜56歳の男子が種々の方法で国家権力の掌握から逃れて減少し「荒地」(『魏志』韓伝)と化した場合、 長吏を派遣して郡県として維持する意味は稀薄になる。真番郡廃止の理由の一つとして、この ような事情があったのではなかろうか。(その逃亡者たちが)豪族の私的経済機構に流入する といった事態は考えられないから、郡県支配の及ばぬ地に、かなり多数の人々が新たな安住の地を求めて移動したのであろう。

 漢の郡県制を嫌った南部朝鮮の人々の中にヤポネシアにまでやってきた人たちがいただろう ということは、地理的条件や北九州の海民たちの活動からも容易に考えられる。山尾さんの説は次のとおりである。

 北部九州人の縄文晩期以来の南部朝鮮人との接触または歴史的親縁性を前提として、当初の ある期間、弥生文化の主として物質的・技術的領域などが学ばれていたのであろう。その後し ばらくして伊勢湾沿岸までの西日本に、比較的短期間に人間集団が飛び地的に移住することに より、この文化が伝播したとされる。その人間集団は南部朝鮮の系統であったらしいが、しか し水稲栽培がなぜ日本列島に定着したかとは一応別個の説明を要するはずの、南部朝鮮からな ぜ人間集団が移住したかの問題は、いまだ必ずしも明らかではない。弥生時代の開始期を想定するについても、その時期の南部朝鮮の可耕地がどのように分布しており、いかなる稲作がど の程度行なわれ、人間集団を移住させた特殊歴史的な事情はなにであったのか、あまり関説されてはいないように思われる。小稿のように鉄と稲との大同江流域への伝来を前三世紀後半と考え、南部朝鮮への伝播や北部九州人の海を越えての接触による習得の期間をある程度考えた場合、前三世紀じゅうに、南部朝鮮人または北部九州でのその二世などが、畿内から伊勢湾沿 岸にまで移住して弥生文化を伝えたといったことは、あまり考えられなくなる。かりにそのよ うなことがあれば左に述べる特別の政治的事情は畿内などへの弥生文化伝播の第二波であった ことになりかねないが、小稿は、前記した前108年ないし前82年の、真番郡の設置から放棄まで の時期に、注目したいのである。

 朝鮮半島西南部全羅道地方の、鉄器を使用し稲作を行ない、航海にも長じた半農半漁民の一 部分が、漢の郡県制支配を忌避して朝鮮半島東南部慶尚道地方などに移住する過程で、さらに その一部分は、すでにかなり長期にわたって接触があった北部九州にも渡来し、西日本の各地に初めて進出したと考える可能性もあるのではなかろうか。

 こう考えると朝鮮四郡の設置は、北部九州などに限られていた弥生文化の西日本各地への伝播の直接的契機であり、弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した ことになり、朝鮮のそれ自体が、江准地区や山東地方の稲作や墓制、北アジアに系譜がたどれる遼寧地方の牧畜民の青銅器文化や墓制、もちろん戦国期の四大文化系統の一つとされる燕・斉の鉄器文化等々が、朝鮮半島西南部の河畔・沿海の漁撈生活者としても特色があった人々の新石器 文化を基礎として、習合したものであったことになるであろう。
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山尾さんの説から当面のテーマに沿った部分を取り出してみる。

1. 朝鮮半島西南部と北部九州とはかなり長期にわたって接触があった。

2. 北部九州に朝鮮からの本格的な移住が始まったのは、真番郡の設置から放棄までの前108年〜前82年ごろからである。

3. 弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した。


 また、山尾さんは中国の史書の記述を詳細に吟味して、そこに登場する倭人の「国」の地理上の位置を次のようにまとめている。すなわち『前一世紀中葉ごろの北部九州の多数の「国」、一世紀半ばの那珂郡の「奴国王」、二世紀初頭の北部九州の「倭国」とその王、三世紀中ごろ、「親魏倭王」が都する畿内の「邪馬台国」』。「邪馬台国」畿内説を採用しているが、「邪馬台国」がどの地方の「国」なのかという問題は、いまは問題としない。そのかわりに初期ヤマト王権の王と考えられている「倭の五王」の記事が「宋書」に書き留められたのが413年〜502年であることを付け加えておきたい。

 以上のことを前提として梅原さんと吉本さんの対話に戻る。

 まず江上波夫さんの「騎馬民族渡来説」が取り上げられる。「騎馬民族渡来説」は、たぶんいまは歴史学会ではまったく問題にされていないのではないか。吉本さん、梅原さんももちろん否定的取り上げている。

 吉本さんは時間の幅を問題にする。異質の宗教と乗馬の技術と武器をもった一団が、何の抵抗もなくスーッと入ってきて短期間に畿内へ進出したと考えるのは不自然だという。 ヤマトにやってきたヤマト王権の祖先が騎馬民族だったのか、北九州の定住民だったのか、あるいは記紀が記述するとおり高千穂の峰あたりからやってきたのか、いずれにしても九州に定住した弥生人であり、幾世代もの定住を経ながら漸進してきたと考えるのが自然だという。

 そのそのように考えるヒントの一つとして柳田さんの考えを紹介している。


 そこで、興味深いと思えるんですが、稲の種子とか耕作をもって南の島づたいに来た人たちはどうやって近畿地方に入ってきたかについて、柳田さんが言っていることは、外側、つまり四国の土佐の太平洋側を海岸伝いに通って近畿地方に入るのは、それほど高度な航海術や大きな船でなくても可能であったということです。けれど、豊後水道か北九州の関門海峡かわかりませんが、そこを通って瀬戸内海を航海するというのは、相当な航海術と船の大きさとがなければできなかったといっています。

 だから、柳田さんの考え方を敷術すると、琉球・沖縄から島づたいにやってきた、稲作をもった人々は、南のほうからやってきて、海峡を通って瀬戸内海から近畿地方に入るという船の技術が充分に身につくまでは、そこまで来るコースによって北九州か南九州かわかりませんが、そこへんの沿岸に何代かにわたって住んでいた、というふうに潜在的に考えていたんじゃないか、と僕は思っているんです。

(中略)

 つまり日本列島で人類が発生したと考えない限りは、どうせ大陸から渡ってきているわけですから、おおざっぱにいえば王権も民衆も大陸から渡ってきたというのは確かでしょう。しかし、それは時間的にたくさん幅をとらないといけないので、あまり早急に考えると違ってくるのではないか。


 柳田さんは稲と稲作技術が南の方から伝わってきたという説に依拠している。私が冒頭にまとめた朝鮮渡来説とは真っ向から対立する説である。南方渡来説が今なお有力な説の一つなのかどうか詳らかにしないが、ここでは太平洋側の海岸伝いの航海より瀬戸内海の航海のほうが難しいという点に注目したい。そして、弥生人の移住が本格的に始まってから「倭の五王」までに数百年の時間があることを考慮すれば吉本さんの「時間的にたくさん幅をとらないといけない」という判断はきわめて「常識的」だと思う。

 この吉本さんの考えを受けて、梅原さんも「騎馬民族説」を二つの点で退けている。一つは歴史書にその反映がないこと、二つは騎馬民族は父系社会で日本は双系社会と間には相当に断絶があるという点をあげている。そして、梅原さんはさまざまな新説よりも記紀の記述のほうがずっと納得できるといっている。


 その点、『古事記』にあらわれているニニギノミコトから神武天皇までは――曾孫ですね。これは非常に自然ではないでしょうか。ニニギノミコトというのは向こうから来た種族にしても、その次に来ると、オオヤマヅミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメとの間に次の子ができて、それが二代にわたってワダノカミの娘との結婚によって神武ができるということになると、外国から来た血統が結局、八分の一になってしまいますね。そういう土着の血が入らないと渡来民が、なかなか日本を支配することは難しいのじゃないかという気がしますね。

 それでもしかし、神武天皇が大和に入ってくれば、さっそく土地の娘を娶らなきゃならんということになる。次代の天皇は、九州の女の子どもではなくて、大和の三輪山の神の血を引く娘の子どもでなければならぬという――こういうところにそれが事実でないとしても日本の国の成り立ちが、大変よく説明されているような気がするんです。ですから、いろいろな人が頭で考えた戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないかと、この頃思うようになりましたよ。

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 それを認めても、決して国家主義の史観にはならないのではないか。天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった、そう考えさせるものがすでに記紀の中に秘かに含まれているのじゃないか、という気がしてしょうがないんですね。柳田国男とちがって記紀神話を、天つ神の方からでなく国つ神の方から読むことが可能ではないでしょうか。

 「天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった」というくだりの「日本人」「日本文化」は、もちろん「縄文人」「縄文文化」と読まれるべきだろう。また「天つ神の方からでなく国つ神の方から読む」という読み方により新たに開けてくるものがあるかもしれない。梅原さんの仮説を聞いてみよう。

 そして、それは南九州の権力が大和に攻めてきたということになっている。文化的にみると、北九州は弥生時代にすばらしい文化をもっているわけで、北九州文化圏あるいは大和文化圏と二つの文化圏があって、弥生時代の末になって一つに統一される、ということが大体いえるわけですね。そこで和辻(哲郎)さんは、北九州権力が大和に攻めてきて、統一したのではないかと考えている。私もそういう考えでしたが、だんだん記紀神話どおり、北九州権力ではなく南九州権力が大和へ攻めてきたと考えた方がいいのではないかと考えるようになってきた。

 大体、そういう言葉があるように、金持ちはあまり喧嘩しないもんでね(笑)。アレキサンダーとかジンギスカンのように、遠征したり冒険したりするやつは、みんな貧乏でハングリー精神をもっている(笑)。だからおおよそ弥生末期にいわゆる天孫族が外国から日本に入ってきたとしても、北九州のいいところは全部、先に来た部族に押えられていて南九州にゆくより仕方がない、そして南九州は環境的にとても不利なところですよ。ああいう所で農業をしていたら食っていけないに決まっているから、そこで大きな賭に出た。今でも薩摩の人は気が荒い。おくればせに日本にやって来た天孫族とアマ族との混血の部族集団が大和へ攻めてきたと考えてよいと思う。

 そして、宮中儀式に使ういろいろなものは、南のものが大変多いですね。例の仁徳天皇の豊楽の式のときに、紀州でも南の新宮地方にしか出ないようなミツナガシワが必要になって、それを求めるために仁徳天皇の皇后のイワノヒメが紀州に行く。すると、その間に天皇はワカイラツメと浮気をしていた。カシワの葉を船に積んで帰ってくる途中でその浮気のことを聞いたイワノヒメは、怒って摘んできたカシワをみんな海へ捨てたという話がありますけど、そんな南にしかないものが即位の式に必要だということは、やはり南方説をどこかで裏付けているような気がしますよ。だから僕は、そういう意味で、記紀神話というのが意外に事実を忠実に伝えているのじゃないかと考えているんです。


 どうやら弥生人は稲と鉄とともに、中国大陸の殺戮・略奪・征服による富と権力の樹立方法をも携えてきたようだ。縄文時代の穏やかな暮らしは一変する。

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話題は再度、精神文化とくに信仰や祭祀の問題が取り上げられる。まず神道について梅原さんが自論を展開している。その根源を縄文時代までさかのぼれる宗教としてとらえている。

 日本の土着宗教は二度、国家による大きな変化を受けた。一度は律令時代、もう一度は明治以後。ふつうわれわれが神道と考えるのは律令神道で、これも当時としては大変新しいものだったのではないだろうか。国家を造っていく場合に、

「要らないやつは祓ってしまおう。そして、心の悪いやつを改心させよう」

という、祓い禊の神道ですが、これもそれほど古いものではないと思うんです。あの時代、7,8世紀に、むしろ道教などの影響を受けながら作られたものだと思います。

 ちょうど明治以後の国家神道が、ヨーロッパの国家主義を伝統宗教で受け止めようとして生まれたように、律令神道も律令国家建設という大きな歴史的課題のもとで、道教を神道の伝統と結ぴつけてつくりだされたものだと、僕は考えるのですね。


 この観点から、政治家たちが政治的に利用して日本の伝統と妄言している「靖国神社」について、次のように述べている。


 靖国神社にしても、あれは日本の国のために死んだ人だけ祀っているんでしょう。ところが、日本の神道の本来はそうじゃないですよ。自分たちがやっつけたほうを祀っている。それのほうが恨んでいるわけですから、それの鎮魂をする知恵なんです。だから敵を味方にする知恵ですね(笑)。自分のほうだけ祀るのでは、昔の敵はいよいよ恨みを深める。これは、日本民族の知恵と反対のやり方だ。だから僕は、明治の国家神道は、ほとんど外来のものだと思うんですよ。


 では国家による作為を受ける以前の土着宗教はどんなものだったのだろうか。


 日本の土着宗教の最も基本的な哲学は、やはり霊の循環という考え方じゃないかと、この頃思うんです。人間の生まれてくるのは、霊が肉体に宿ることから始まりますが、その霊がやがて肉体を離れて天に帰って行く。すぐには天に行けないから山にゆき、そこで清められてから天に行く。そして天に何十年、何百年いて、またこの世に還ってくる……。これは人類が自分の住んでいる世界を考える場合、すべてそういう循環の理に従っていると考える。太陽が朝昇って夜没する。そして次の朝また出てくる。太陽も生きて、死んで、また復活してくる。月が満月になったり欠けたりするのもそうだ。植物も春夏秋冬と生死のリズムを繰り返す。昆虫も同じである。そういう循環する世界を見ていたら、人間の霊魂も、一度天に昇って、また還ってくると考えるのは、きわめて自然でしょうね。

 その霊魂が人間・動物・植物みんな共通で、そういう生死の輪廻を無限に繰り返しているという世界観は、旧石器時代の人類に共通したもので、とくに狩猟採集文化が後代まで続いた日本では非常に色濃く残っているのじゃないか、といまは考えているんです。

 神道の本質は基本的にはそういう思想にあるんじゃないかと、この頃考えているんです。で、僕はそういう考え方がだんだん好きになってきたな。死んで地獄へは行きたくないけれども、極楽へもあんまり行きたくはない(笑)。極楽を考えるのは、よっぽどこの世で恵まれてない人間ですよ。向こうへ行ったら、今度は腹いっぱい食べて女にもてたいと思っている。死後の地獄極楽という考えの中には、この世はどうにもならない悪の里だという考えがある。(笑)

 ところがキリスト教のようになってくると、イエスが再臨して、最後の審判がある。そこで良いものと悪いものが二分され、裁判される。これはニーチェのいうように復讐心の末世への投影である。仏教は少しちがうが、やはり地獄極楽に分かれる。キリスト教や仏教の世界観は、厳しい階級社会から生まれてきたもので、どうも日本人の本来もっている世界観のそれとは違う。死んでも、ときどきはお盆やお彼岸には孫の顔を見に還ってきて、あんまり邪魔しないで三日ほどで帰っていって、何十年、何百年、天に留まって、また子孫に生まれかわってこの世に還ってくる……。こういう世界観が、だんだん好きになってきました。

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楕円構造の文化


 梅原さんは日本の文化を中心(焦点)が二つある楕円構造をしているものとしてとらえることを提唱している。

 僕は日本文化を楕円構造をもつものと考えると一番いいと思っている。一つの中心は縄文文化で、もう一つの中心が弥生文化です。日本の精神構造は縄文的なものに大きく影響されていますが、技術的なものや制度的なものは、やはり弥生の精神で、弥生時代以来、ずっと日本人は大陸から先進文化を輸入している。古い伝統的な縄文文化を精神の根底にしながら、絶えず海外の文化や制度を貪欲に輸入している。この二つの面を考えないと、日本文化は解けないと思いますよ。

 ただ、私も一貫して日本とは何かを考えてきた点でナショナリストですけれど、日本文化の根底をずっと掘っていくと、今の人類が失ってはいるが、かつて人類が共通にもっていたものにぶっからざるをえないと思います。
 私はそれを「縄魂弥才」といっているんですよ。縄文の魂に弥生の知恵――日本人は、そういう矛盾する魂を自己の中にもっている。たしかに狩猟採集時代の文明にふさわしい魂をもっているが、弥生時代から新しい文明を海外から移入し続けていることを、つまり私のいう弥才と称するものを考えないと日本文化は十分よく解釈されない。この縄魂弥才が後に和魂漢才になり、また和魂洋才になったというのが私の考え方です。

 吉本さんは、日本文化はわからないことが多いと謙虚におっしゃるが、それは本当だと思います。まだ分からないことが多い。私のは一つの仮説ですがこの仮説は誤っているかもしれない。日本の文化が世界の文化の中で、どのような特質をもっているのか、そしてそういう特質をもった日本文化が今後の世界にどのような役割を果たすべきなのか、こういうことを個別科学の正確な認識にもとづいて、多くの学者でそれを明らかにすべきです。そしてその仮説は出来るだけ多い方がよい。多い理論が自然に淘汰され必要なもののみが生き残るのが歴史の摂理なのです。だけど仮説なしには生きてはゆけない時代が来ているように思うのです。


 一方、吉本さんは日本を日本の中から見る眼のほかに上から大きく見る鳥瞰の眼をもつ必要があると指摘している。また、日本と日本人の分からなさのゆえんを述べて、梅原さんが言うところの楕円構造と同趣旨の意見を述べている。

 これは、梅原さんの日本学というものの根本的なモチーフになるわけですが、僕はとても内在的といいますか、自分の中から見る眼を使うと、とても面白い考え方だと思いますし、それはとても重要な問題提起だと思えるんです。でももうひとつ、いわゆる鳥瞰というか鳥の眼で見る見方からいきますと、どう考えても日本国は東アジアの片隅の、小さな島に過ぎません。先ほどの地名でいきますと、アジア・オリエントの一般的な制度・風俗・習慣・思想・宗教を考えてみますと、アジア・オリエントのそういうものがまず最初にあって、その次にたとえば東アジアの風俗・習慣・宗教・思想というのがあって、そこに今度はまたもう少し島という条件がひとつ加わって、この島も地形がかなり細長くて北と南にわたっているから、とても特殊な島でしょうけれど、そういう島という条件があって、その条件をまたアジア・オリエントの一般条件の中から特殊に考えていかないと、日本の問題はわからないよ ――と考えています。つまり大きな地名から小さな地名、それからまたその下にある小さな地名……と考えていきますと、「日本学」というものを取り出して、つくりあげていくという考え方と、もうひとつ鳥の眼で見る見方と……その両方の交錯点的なものを想像力の中で入れてないと、なんとなく特殊の普遍化みたいな感じがするんですね。

 そういう点はどうでしょうかね。そういうところが、梅原さんの日本学という概念は、特殊をとても普遍化するといいましょうか、そういう感じがしないこともないです。

 僕は、いま梅原さんが言われたことと同じことなんですが、ニュアンスを違えて考えて、日本も日本人も、よくわからないなと思っているところがあるんですね。

 つまり先ほどから、アジアの全体から見て東アジアの片隅の小さい島だと考えて、地勢的には済んでしまうところもあります。現在の日本を考えると、世界第二の先進国だというのが気になってきます。現在の日本の社会の規模と高度さを支えている技術の多様さは、ちょっとどうしようもないくらい高度なものです。多分、理屈とか技術の詳しい内容はわからなくても、この間行なわれた筑波万博を見ても、秋葉原の電気製品街を歩いても、どんな高度な技術製品が並べてあっても、民衆の誰もびっくりしない。何か一種の古さと、わけのわからないほど高度になっている新しさとが共存している奇妙なあり方はたいへん不思議な気がします。これはちょっと、日本というのはわからないぜ、というのが僕の実感ですね。

 梅原さんが言われたように、僕も楕円というのを考えていて、世界有数の高度な技術を持っている技術民としての現在の日本あるいは日本人と、依然としてアジア的な農耕社会の共同体意識を残している古い面の日本あるいは日本人と、この二つの軸を中心として回っていて、しかも共通に重なり合う部分もあると思います。この二つの軸を強いて一致させてはいけないのではないかというのが僕の考え方です。そう考えていかないと日本についての理解は間違えるのではないかと漠然と考えています。

 梅原さんが日本の歴史の深層を掘っていき、弥生的と縄文的という両方の軸を考えないといけないと言われたのは、そういう意味でとても興味深いことですね。


 網野さんが農耕民以外の人たちに焦点当てたり、島国の中だけでなく海の方にも視線を向けてるのも、梅原さんや吉本さんと同じモチーフによるものだと思う。

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梅原さんは記紀神話には歴史的な投影があるという仮説のもとにヤマト王権の祖先を南九州から大和に侵略してきた種族だと考えている。この問題をもう少し追ってみる。

 久しぶりに本屋をのぞいたら「歴史としての天皇制」という本が眼にとまった。その中に書名と同じ「歴史としての天皇制」というテーマでの網野さんと吉本さんの対談が収録されている。川村湊さんが司会役ということで参加しているが、むしろ鼎談といったほうがよいだろう。その鼎談がもたれたのは 1987年で、「対話・日本の原像」の一年後ということになる。 その鼎談の中に次のような興味深い話がある。


吉本

 ぼくは高千穂というところに行ったことがあるんです。車で3時間も4時間もかかる山のなかへ皇族というのが参拝に来ていて、記念の植樹とかあるんです。だけども、なんとなく、おおっぴらには参拝に来たことを、言えないみたいなところもあるんですね。

 なぜならば、おおっぴらに高千穂神社に参詣したと言っちゃえば、神話のなかの、自分たちの出自はあそこらへんの縄文中期に栄えた山のなかの村落にあったんだと認めたことになっちゃいますからね。天皇制がさ。つまり神話のとおりに、自分たちの祖先は南九州の山のなかの縄文時代の村落がたくさんある、そういうところが出自だとおおっぴらに認めることになるわけでしょう、間接的に。

 だから、ぼくはなんとなく、これはひっそりと来ているなという感じを持ったんです。それはとても面白かったですね。あれは、ひっそりと参詣に来て、ちゃんと何々が来た、記念のなんとかと、ちゃんとあるからね。だから、ひっそりとは、ちゃんと参詣しているんですね。

 それは神話にそう書いてあるから、なんか自分たちの祖先はあそこだというふうに、一応なっているんじゃないでしょうか。ひそかになっているんじゃないですか。でもそれをおおっぴらにしたら、別になんてことはないじゃないか、おまえの祖先は田舎の山の奥の奥の縄文人だったんじゃないかっていうことを認めたことになるわけでしょう。

 しかしみんな来てるなというのが、ぼくの印象で、とても面白かったです。


川村
 「象徴天皇」のなかに出てますが、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵なんてのもちゃんとあるらしいですね。


吉本
 みんなありますよ。ちゃんと対応関係は皆ありましたね。ちゃんとそれは出来ているんですよ。


川村
 やっぱりほんとうに神話のなかの天皇なんですね。


吉本
 これまた考古学者の仕事なんでしょうけども、とにかく大規模な縄文村落の発達したところですから、もちろん可能性だってあるわけだし、出自だという象徴的必然はあるわけなんですよ。 だけど、それをほんとうに認めたら、別になんていうことじゃない、この人たちは、ということにも、なってしまいます。

 つまり、畿内にきて初期王朝を築いたみたいなところにきちゃえば、堂々たる中央の大きな王権のはじめなんだということを言えるんだけど、しかし、もともとはあそこだったんだということを認めたら、それはどうということはないわけです。 ぼくの印象はひっそりと来てるなという感じです。


川村
 何とかの別荘に行くときには新聞に出るけれども、そういうときは出ないですね。


吉本
 出たらおかしなことになりそうな気がしますね。別におかしかないんだけど、日本人の先入の印象とはぜんぜん違っちゃうみたいなことになり、イメージダウンにつながります。


 神話はヤマト王権のふるさとが高千穂の山の中の一集落だと語っている。

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「対話・日本の原像」には巻末に、対話で取り上げられた話題について、吉本さんが「註記」と題する補足を書いている。その中の「信仰・祭祀」に関する部分を読むことにする。


 ここには日本列島の住人の種族における南北問題と、縄文期、弥生期を貫き初期古墳期にいたる歴史時間の問題が複雑にからみあっていて、神話、伝承、地域信仰や習俗を解き分けてゆかなければ、とうてい一義的な確定が得られそうもない。この問題を具体的に整理してみる。

(1) 諏訪地方に諏訪神社を中心とした大祝祭政体が成立していたことが、比較的よく研究されている。このばあい男性の生き神大祝と随伴する共同体の政事担当者の起源の関係は、神話の伝承に入り込んでおり、時代を降ってまた中世・近世の態様も比較的よく知られている。

(2) 神話伝承の最初期の天皇群(神武から崇神まで)の祭政の在り方は、『古事記』『日本書紀』の記載の読み方によっては、長兄が祭祀を司り、末弟(またはそれに準ずるもの)が政治を司る形態とみられなくはない。これらは次第に皇后が神事を司り、天皇が政治を司る形、皇女が分離した祭祀を司る形へと移行する。

(3)おなじように長兄が祭祀を司り、生涯不犯の生き神として子孫をのこさず、弟が共同体を統括する形は、瀬戸内の大三島神社を中心とする祭司豪族河野氏の祖先伝承として存在するとされる。

(4)沖縄地方では姉妹が神事を司り、その兄弟が政治を司るという形態が古くからあり、聞得大君の祭祀的な村落共同体の統轄にまで制度化された。

(5)樹木・巨石の信仰は、日本列島の全域にわたって遺跡が存在する。諏訪地方における諏訪神社信仰。三輪地方における三輪神社信仰。高千穂地方における岩戸神社信仰。沖縄における御岳信仰。これらは神話や伝承に結びついているが、その他制度化されていない形で無数に存在する。そしてこの信仰は狩猟や木樵の祭儀の形態と農耕祭儀の形態とを重層しているばあいもあれは、狩猟だけ、農耕だけの祭儀に結びついているはあいもある。

(6)神話、伝承の考古学的な対応性ともいうべきもの、また民俗学的な対応性ともいうべきものが存在する。それは縄文期、弥生期、古墳期のような区分が、日本列島の地理的な条件の上では、地勢の海からの標高差に対応している面があるからである。狩猟、木樵、漁業、農耕(水稲耕作)などの差異は、地勢上の標高差の問題と対応し、縄文、弥生、古墳期のような歴史以前と歴史時代初頭の問題との対応をもっている。


 「神話・伝承」と「民俗学」の対応の一つとして、吉本さんは柳田国男の例をあげている


 わたしたちはこの問題について民俗学者柳田国男を論じたとき、柳田国男が民俗学の眼から神話をみていた視点を想定して、つぎのように述べたことがある。柳田国男のばあいには、この種の対応は、海流と航海技術と造船技術が、神話とのある対応関係にあるとみなされていた。

 このところには柳田国男の『記』『紀』神話にたいする微妙な異和と同和とが同時にふくまれている。始祖の神話の持主である初期王権が、いわゆる「東征」といわれたものの起点を南九州(もちろん日向の沿海であってもいい)においているところまでは「船」を仕立て直す休息点(あるいは「日本人」が成長してゆく熟成点)として、柳田の「日本人」がはしってゆく流線と、一致できるものであった。

 だがそこから瀬戸内海にはいる経路と土佐国の沿岸を連ねる経路とのあいだの〈分岐〉〈異和〉〈対立〉は、柳田のいわゆる常民「日本人」と初期王権の制度から見られた「日本人」との絶対的差異として、柳田の容認できないところであった。

 初期王権が『記』『紀』のなかで始祖神話の形で暗喩している支配圏や生活圏の版図は、北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々にかぎられている。わたしのかんがえでは、柳田国男はこの神話の暗喩する版図になみなみならない親和感をいだいていた。この親和感が、南九州(日向沿岸でもよい)のどこかで南西の島から東側海岸に沿ってやってきた柳田の「日本人」が、「船」を整えなおしたというかんがえに愛着した理由だとおもえる。

 またしいていえば柳田が、本来無意味なのに、じぷんの常民的な「日本人」の概念を、制度や王権の問題にまで無造作に拡大して、朝鮮半島を南下したいわゆる騎馬民族が初期王権に坐ったという説に、抜き難い不信を表明した理由であった。

 もうすこしくわしくできるだろうが、柳田のいう「日本人」は、地上二米以下のところしか歩いたり、走ったり、願望したりしない存在だから、制度や王権にかかわりない、まったくべつの概念であった。
          (吉本「柳田国男論」第T部「国文学 解釈と教材」29巻9号、59年ア月号)

 整理しなおすと次のように言っていると思う。

柳田の「原」常民は宝貝を求めてはるか南の方からやってくる。南九州で「船」を仕立て直した「原」常民は「土佐国の沿岸を連ねる経路」を通っていくはずである。しかるに「記紀」神話が描く経路は「瀬戸内海にはいる」。

「北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々」という「記紀」神話が描く支配圏・生活圏を柳田は原「常民」の版図と考えたいのだが、ヤマト王権がたどる経路が柳田の「原」常民の経路と整合しない。その矛盾は、もともと、「制度や王権にかかわりない」常民という概念を「制度や王権の問題にまで無造作に拡大」したためだ。

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ヤマト王権の出自(続き)

(3)即ち、鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)、吉野の井光(ゐひか)、同じく磐排別(いわおくわく)、苞苴担(にへもつ)、国見岳の八十梟帥(やそたける)、磐余(いわれ)の兄磯城(えしき)・弟磯城、磯城の磯城八十梟帥、高尾張の赤銅(あかがね)八十梟帥、兄倉下(えくらじ)・弟倉下、波?丘岬(はたのおかさき)の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂(わにさか)の居勢祝(こせほふり)、臍見長柄丘岬(ほとみのながらのをかさき)の猪祝(ゐのほふり)、高尾張の土蜘蛛(つちくも)などとあります。地名は動く可能性もあり、また奈良朝人の想定も予測されるが、地名と部族名が平行して出て来るところから、古くからその部族がそこに住んでいたという気がします。これらの地名を現在の地図にあてはめると、全部標高 70m線以上にあります。若し神武紀が奈良朝に偽作されたものならは、考古学や地質学の知識のない、しかも地盤隆起の原則を知らなかった奈良朝人は、これらの地名のうち一つ位は地盤の低い所をあてても良いと想像される。このようなところに案外、古代人の活躍の史実が古典に投影しているのではないかと思われるわけです。


 古い土地、つまりより標高の高い土地70m以上のところには土着の人たち、たぶん縄文人と弥生人が融合しながら平穏な社会を営んでいた集落があった。

 更にこれらの遺跡を発掘してみますと、全部が縄文土器終末期のものです。最近、晩期縄文土器の年数設定が出来た。炭素放射能の減退量をミシガソ大学が測定したところによると、近畿地方の中期弥生式土器は大体今から二千四百年ほど前、そして晩期縄文土器は約二千六百年前のものと測定された。もちろんプラス・マイナス二百年の誤差はありますが、この事実は科学的に信用せざるを得ないのではないでしょうか。従って神武天皇遺跡は大体において少なくとも二千六百年、更にはそれ以上前の湖岸もしくはそれよりも高い所の地名が舞台になっていると云うことが出来ます。14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。


 樋口さんは土器から推定された紀元前600〜400年という年代をそのままヤマト王権の初期の大王たちの時期とみなしているようだが、私たちが史書の記録から100〜300年頃と推定した年代とはるかに異なり、容認しがたい。その反論の根拠は素人としさし控え、深入りしない。

 しかし「14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。」という点は、その可能性は否定しがたいと思う。

(4)しかも橿原遺跡は、奈良県では珍らしく大きな縄文末期のものです。この岡で人間は半水上生活をしていたこともわかっております。舟も着きやすく、見張りにも便であり、三方が水であってみれば敵から守ることにも都合がよかったようです。そしてこの遺跡から出た食糧を眺めると、水の幸・山の幸の両面に恵まれた生活であったことが想像出来る。即ち、鼬廃鼠(いたち)・野兎・猪・鹿・狼・山犬・狸・狐・河獺・熊・穴熊・猿・鶴・白鳥・鴨・鳩・鴫・山鳥・鯨・石亀・?(えい)・鯛・河豚・鯔(ぼら)・鱸(すずき)・海豚など、まことに多種多彩です。魚類にしても近くの淡水魚はもちろん、?(えい)・鯛・鯔などの海魚は恐らく遠く大阪湾から持ち運んだと思われ、また鯨・海豚などは紀伊方面からの経路が想定されます。更にこの遺跡から出る石器の石質は吉野地方の緑泥片岩であって、かくみると、橿原遺跡の生活圏或は物資伝播の経路は非常に広いということになります。所で、檪(くぬぎ)・樫はやや亜寒地性のところに好んではえる植物で、今の大和平野にはありませんが、当時の気温環境はより寒冷に近いものだったことも同時にわかって、まことに面白いと思います。 このように縄文晩期の聚落はこの地に栄えていましたが、或る時期に川が流れて来て半島の先をけずり、水で包んでしまったために木は枯れ、その上から堆積土が2mも重なり長い間地下に埋まってしまった。もし橿原の地名が畝傍山の東南にあったとしても、その地名は消え去ってしまう可能性が肯けるのであります。

 かく云う私は、神武天皇個人の存在を無条件で認めているわけではない。神武天皇紀の説話に、 歴史的信憑性があり、歴史の投影があると云っているのです。


  吉本さんのコメントで結論付けると、樋口さんは

「これらの根拠から、神武東征の神話が、北九州の稲作や製鉄器の技術を伴った弥生式の文化が、畿内に伝播し、流入する経路を象徴するに足りることを結論している。」

ことになる。 しかし私が注目したいのは、ヤマト王権がよそから畿内に侵略してきた種族だとすると、その侵略までは縄文人 たち(弥生人との融合を深めながら)が豊かで平穏な社会を営んでいたらしいということである。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-597.html


樋口さんは、畿内にやってきた勢力がどこから来たのかという問題には言及していない。「ヤマト王権の出自」についての諸説をまとめてみる。

 「第328回」(7月11日)で紹介した論文「政治権力の発生」の筆者・山尾幸久さんは邪馬台国畿内説を採っている。その邪馬台国が発展して「倭の五王」につながっていくと考えているようだ。従ってイワレヒコの東征についてはまったくの歯牙にもかけていない。

 一方、邪馬台国北九州説を採る人たちはその所在地を筑後山門郡とする説が有力のようだ。「神武天皇」(中公文庫)の著者・植村清二さんはその説に同意して、邪馬台国の所在を筑後御井付近、投馬国は薩摩の川内付近としている。そして北九州の連合国家の支配権を手にした邪馬台国が東征して畿内に入ったと考えている。東征したのは邪馬台国ではなく薩摩にあった投馬国だという説もある。

 これらの諸説に対して、「戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないか」という梅原さんの考えを先に述べた(第329回)。梅原さんは「記紀」の記述の通り、ヤマト王権の始祖は日向から東征したと考えている。

http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-599.html


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27. 中川隆[-13611] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:42:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告

葬られた王朝: 古代出雲の謎を解く (新潮文庫) 梅原 猛 (著)
価格: ¥ 935
http://www.amazon.co.jp/%E8%91%AC%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%8E%8B%E6%9C%9D-%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4101244146


『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(新潮文庫)

著者は梅原猛。
哲学者にして日本文化の深層を解明する論考を世に問うている泰斗である。  

この本は梅原の著作のなかでも重要な意味をもっている。  

梅原はかつて『神々の流竄』(集英社)という本で「出雲神話はヤマトで起こった物語を出雲に仮託したものだ」という説を唱えた。出雲神話などフィクションだという立場をとっていたのだ。

しかし、出版から40年を経て、梅原は自らの説を否定し、出雲王朝は神話ではなく事実であったと、その存在をフィールドワークも加えながら検証している。  

出雲王朝を語るうえで重要な資料となるのは『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』があるが、記紀については大きく2つのとらえ方がある。  

ひとつは本居宣長の唱えた「『古事記』こそ日本の「神ながらの道」が記された神典である」という説。
もうひとつが、津田左右吉による、「記紀の応神天皇以前の記事は、6世紀末に創作された、天皇家に神聖性をもたせるためのフィクションであった」という説である。  

第二次世界大戦以前は宣長の説に支配されてきたが、戦後の歴史学者の多くは津田の説によっており、現在もその声は大きい。

梅原は『神々の流竄』において、中臣鎌足の嫡子である藤原不比等を日本歴史偽造の中心人物と考えた。それについては正しいという立場は現在も変わっていない。
梅原が自分の説に疑問を抱いたのは、出雲神話だけでなく日本の神話はフィクションであると断じたことにあった。  

というのも、昭和59年(1984)に、島根県斐川町の荒神谷遺跡から358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土し、出雲の存在をフィクションであると一蹴することができなくなったのだ。  

この本では神社に残された伝承や祝詞、荒神谷遺跡などから発掘された大量の銅剣や銅鐸などの例証を挙げながら、出雲神話の伝承が事実に基づいていたことを明らかにしていく。

記紀に登場する神々やストーリーを解説するのは、読み解く側の視点によって見え方が変わってくる。ここでは梅原の解釈にしたがって話を進めていくことにしよう。 

日本人なら一度はヤマタノオロチ伝説を聞いたことがあると思う。
悪行により高天原を追われたスサノオが、高志(越)の国を荒らしていた八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチを退治したという説話だ。オロチの尾を切り開くと、そこから三種の神器のひとつ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣)が出てくる。  

この話は、出雲を治める「国つ神」の子孫アシナヅチが、毎年娘を食べにくるヤマタノオロチを退治してほしいとスサノオに懇願することからはじまる。
スサノオがヤマタノオロチを退治したのは出雲の国の鳥髪山の近くで、現在の奥出雲地方の木次(きすき)に当たる。
この一帯には、ヤマタノオロチにまつわる神社や伝承地がいまでも数多く点在している。

出雲の国の民の救済者となったスサノオは、アシナヅチの娘クシナダヒメと結婚し、?賀(須賀)の地に家を建てるのだ。
この?賀の宮の地は、鳥髪山から北東に15qほど離れた場所にあり、いまも須我神社として歴史を刻んでいる。

八重垣神社
所在地:島根県松江市佐草町227
TEL:0852-21-1148
奥の院の森の中には「鏡の池」があり、クシナダヒメの御霊が水底深くに沈んでいる。縁結びの神として知られ、硬貨を紙に乗せてお供えし、早く沈むと早く結婚できるという。
スサノオが住んだという場所は、出雲ではここだけではない。  

ヤマタノオロチを退治する際、クシナダヒメを隠す場所として選ばれたのが、斐伊川の川上から七里離れた「佐久佐女(さくさめ)の森」にあり、夫婦が住んだこの宮は八重垣神社となっている。  

梅原はこれらの地に残された数々の伝承や事実をつなぎ合わせ、スサノオこそが出雲王朝の初代王であると結論づけている。  

そしてその6代目として、古事記に兄弟の神々の従者として大きな袋を背負って登場するのが、オオナムヂことオオクニヌシである。  

八十神(ヤソカミ)たちは、稲羽(因幡/現在の鳥取市周辺)のヤガミヒメに求婚しようと、オオナムヂに重い荷物を背負わせて東方の因幡国に向かう。
この旅の途中に挿入される説話が、「因幡の素兎(しろうさぎ)」の話だ。
素兎はワニ(鮫)と八十神に翻弄され、いじめられるのに対し、オオナムヂだけがやさしく兎を介抱する。その結果、ヤガミヒメが結婚相手に選んだのが一番身分の低いオオナムヂであった。

当然、八十神たちの嫉妬は激しさを増す。
兄弟の神々の画策により、オオナムヂは殺されてしまう。
嘆き悲しんだのはオオナムヂの母、サシクニワカヒメだった。母は高天原に参上し、出雲の守護者であるカミムスビに助けを乞う。カミムスビはふたりのヒメを遣わし、オオナムヂを治療し、見事に蘇生させる。

しかし、八十神の迫害は止まらない。

身を案じた母のサシクニワカヒメは、紀伊国(和歌山県)のオオヤビコの元へとオオナムヂを逃がしてやる。
それでも追手がやってくるため、オオヤビコの手引でスサノオのいる根之堅洲国(ねのかたすくに/黄泉の国)へと送ってやるのだ。

黄泉の国では祖先であるスサノオが王であった。
スサノオは、オオナムヂを温かく迎えたわけではなく、いくつかの試練を与える。  

そこでオオナムヂの苦難を救ったのは、スサノオの娘であるスセリビメだった。
愛を交し合ったふたりは、スサノオの隙を突き、宝物である太刀と弓矢と玉飾りのついた琴を抱えて逃げ出す。
スサノオは我が娘スセリビメを奪っていったオオナムヂが憎いのだが、その反面、この娘婿がかわいくてしかたがないのが、和歌からありありと伝わってくる。

黄泉の国から帰ったオオクニヌシことオオナムヂは、苦難を克服する強い男に成長していた。  

八十神を討つため、オオクニヌシが最初に城を構えたのは、木次町里方の妙見山の尾根筋に位置する城名樋山(きなひやま)であったという。
ヤマタノオロチを退治した、スサノオゆかりの地で挙兵したオオクニヌシは、出雲平野の北部の地を占領して出雲の王となった。
正妻には黄泉の国より連れてきたスセリビメを迎えたが、最初の妻であった因幡のヤガミヒメはスセリビメを恐れ、因幡へと帰って行った。  

熊野大社
所在地:島根県松江市八雲町熊野2451
TEL:0852-54-0087
古代出雲において、最も格式が高い一之宮とされたのが熊野大社。出雲大社の宮司が亡くなって引継ぎが行われる際、直ちに熊野大社の「鑽火殿」に赴いて「火継」の式を執り行わなければならない。
兄弟神を征伐し、大国の王を継いだオオクニヌシは、次にヌナカワヒメという女王が支配する越の国に軍を進める。
ヒスイを産出する糸魚川を支配する越の国は、豊かな富を誇っていたに違いないと梅原は説く。
ヒスイは縄文時代より「玉」という呪力を持つ宝石であった。  

オオクニヌシはヌナカワヒメと契りを結び、しばらく越の国で暮らす。
ヌナカワヒメとの間に生まれたタケミナカタは、「国譲り」の際に最後までヤマト王朝に抵抗することになる。その後、戦いに敗れ、諏訪に追いやられて諏訪神社の祭神となっている。  

越を征服したオオクニヌシは、出雲へ戻るとすぐにヤマト(奈良県)へと向かう。
その様子は古事記の、正妻スセリビメとオオクニヌシとの間で交わされた和歌に表れている。遠征先で次々に女性を娶るオオクニヌシに対し、嫉妬心を抱くスセリビメ。オオクニヌシはその心中を察しながら、妻に癒す言葉を返すのだ。

このヤマト遠征の旅については、『古事記』にも『日本書紀』にもその記述がない。
しかし、梅原は「オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる」という。
関西周辺にある神社に、オオクニヌシやその子ら、同神といわれるオオモノヌシなど、出雲系の神を祀った古社が非常に多いことに着目する。  

ヤチホコノカミという別名を持ち、日本海沿岸だけでなく近畿、四国、山陽までをも支配下においていたと思われるオオクニヌシだが、戦争で征服するのと統治するのとは違う。  

梅原が指摘するのは、どこからともなくオオクニヌシを補佐する有能な参謀が現れるということだ。

 『古事記』によれば、オオクニヌシが島根半島の東端にある「御大の御前」(美保関の岬)にいるときに、「羅摩(かがみ)の船」に乗ったスクナヒコナが登場する。
「羅摩」というのは多年草の蔓草のガガイモの古名であり、その実を割った姿が小舟に似ている。それに乗ってきたというのだから、小人のような神である。そう梅原は推測する。  

『古事記』では、出雲の守護者カミムスビ(タカミムスビ)には1500もの神の子がおり、スクナヒコナは指の間からこぼれ落ちた子で、『日本書紀』には自分の教えに従わなかった悪い神であるとされている。  

ところが、オオクニヌシは、海を渡って他の国からやってきたと思われる素性のわからないスクナヒコナを、国造りの最大の協力者として重用するのだ。  

オオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績。それは医療技術をもたらし、民の命を救ったことであると梅原は指摘する。  

その施設のひとつが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えた玉造温泉である。  

玉造温泉 湯之助の宿 長楽園
所在地:島根県松江市玉湯町玉造323
泉質:ナトリウム・カルシウム−硫酸塩・塩化物泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
源泉:69.7度
pH:8.1
TEL:0120-62-0171
120坪の大露天風呂「龍宮の湯」をはじめ、すべての浴槽が加温、加水をしない源泉かけ流しになっている。残念ながら日帰り入浴はない。
ここまできて、ようやく温泉の話にたどり着いた。

玉造温泉は、出雲大社の宮司が沐浴して身を清めなければならない聖泉とされている。  

『出雲国風土記』によれば、宮司である出雲国造が都へ就任あいさつの詞(「出雲国造神賀詞」)を奏上しに都へ上る際、「御沐(みそぎ)の忌の里」である玉造へと向かう。
「再び沐(ゆあみ)すれば、万(よろづ)の病悉(やまいことごと)に除(い)ゆ」とあり、万病に効いたことが記されている。

『日本鑛泉誌』(明治19年・内務省衛生局編纂)に、玉造温泉の歴史について興味深い記述がある。

温泉の発見は養老年間(717−724)であるらしい。というのも古の温泉は洪水によって失われており、再興したきっかけは佐々木義綱(富士名義綱か/?―1336)にある。
義綱が病に倒れ、家族が仏神に祈ると、夢のなかに源泉のありかが示されたという。その温泉に入ることで義綱は治癒し、延慶2年己酉(1309)7月、義綱は医王の祠を造営した。
温泉はその後も興衰を繰り返し、寛永18年辛己(1641)、出雲松江藩主松平直政(1601−1666)が浴場を修補する、と記述されている。  

さて、スクナヒコナの功績は、医療だけではなかった。  

この神は醸造技術ももたらし、記紀にも「スクナヒコナの造った酒が美味しい」という歌があるほどだ。  

王朝が変わっても、オオクニヌシとスクナヒコナの政治に対する賛美は日本各地に残っていた。
国造りに励んだスクナヒコナだが、国造りが一段落すると突如姿を消してしまう。
出雲国内についての後継者争いについて、『古事記』や『日本書紀』、『出雲国風土記』にその記述はない。だが、梅原は『伊予国風土記』の逸文のなかに、ふたりの決定的な争いの様子が残されていることを示す。  

ともに国を造ってきた間柄ではあったが、暴力をふるうオオクニヌシに対し、これ以上協力するわけにはいかず、これからの出雲の近い将来の衰亡を予見して王国を去ったのではないか、と梅原はまとめている。  

その後、出雲王朝がどのようにしてヤマト王権に敗れていくのか。ここでは触れないでおこう。  

たとえヤマト王権に敗れ、歴史書から抹殺されていたとしても、万民に愛され、そして語り継がれてきたからこそ、オオクニヌシの物語は現在もこうして全国に遺されている。  
http://www.smart-acs.com/magazine/12110103/onsen001.php

梅原猛 「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」 2011/1/12(水)


梅原猛先生の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」 を読みました。

記紀神話に関して、本居宣長説、津田左右吉説のみならず、自らの、「神が
みの流ざん」までも否定して、古代出雲王朝について語りました。


@記紀神話は、高天原神話、出雲神話、日向神話の三つの神話から成り立っている。

特に日向神話は、アマテラスの孫ニニギが日向の高千穂に降臨して以来三代を経て、ひ孫カムヤマトイワレヒコ、すなわち神武天皇が東征の旅に出て、ついにヤマトを占領し、天皇家の祖となる話である。


@出雲王朝は少なくとも6代は続いたとみなければならない。出雲王朝はオオクニヌシ以来、日本全国を支配する王ではなく、出雲一国を支配する王としてささやかながら続いたと考えなければならない。

「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とするヤマト王朝の前に、スサノオを開祖とする出雲王朝が、この日本の国に君臨していたと考えねばならない。

そして出雲王朝が存在した形跡を追って、写真多数で、出雲の各地を回るのですね。
そしてそこには見事に、出雲王朝の存在を立証するかのような様々な形跡が残されているのですね。

@アマテラスは石屋戸から現れるが、神がみは、スサノオの悪行に憤り、スサノオを流罪にしてしまう。そこでスサノオは出雲の国にやってきたのである。


@イザナギ、イザナミはその子孫によって、二つの系統の神々にわかれた。
ひとつは、イザナギ、アマテラス、ニニギのヤマト王朝の系統である。
もうひとつが、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシの出雲王朝の系統である。


@多くの出雲の山々が越の豪族の支配下にあり、その山々が荒廃していることを表現したのではないかと思う。すなわち、スサノオは出雲の森林の荒廃を嘆き、出雲の国を越の支配から解放して山々に木を植え、そして今のような植林が青々とした森の国にしたのではなかろうか。このようにスサノオは出雲の森林を再生することによって、さらにまた農業も盛んにしたのだと思う。


@オオクニヌシはヌナカワヒメと結婚し、しばらくこの越の地で暮らした。そしてヌナカワヒメとの間に生れた子が、「国譲り」の際、最後まで抵抗して、ついに諏訪に追いやられ、諏訪神社の祭神になったタケミナカタであった。
ヌナカワヒメは半ば強姦のような形でオオクニヌシの妻となったが、結局彼女は追われて、北陸のあちこちを流浪したらしい。

クロヒメというのは、ヌナカワヒメの別名で、越後には黒姫山という山がいくつかあり、クロヒメを祀る神社は、オオクニヌシに追われた晩年のクロヒメの怒りと悲しみを伝えている。
黒姫山ってそこから来てるんですね。歴史ロマンを感じますね。


@海外から一人でやってきた前歴の全くわからないこのスクナヒコナを、オオクニヌシは国造りの最大の協力者として重用した。
オオナムジことオオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績は、日本に医療をもたらしたことである。
おそらくスクナヒコナは朝鮮から先進の医療技術を持ってきて多くの人命を救ったであろう。そのような医療に関する施設の一つが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えたという、玉造温泉である。


@私は、日本に新しい医療技術をもたらし、病に苦しむ多くの人を救ったスクナヒコナはまた温泉の開拓者ではなかったかと思う。
またスクナヒコナは酒の醸造技術をもたらした神でもあったらしい。記紀には、「スクナヒコナが造った酒は美味しい」という歌がある。酒造りが米作りと深い関係があることを考えれば、オオクニヌシとスクナヒコナが行った米造り、酒造りをはじめとする農業の改良政策はおおいに民衆を喜ばせたに違いない。


@出雲大社で毎年旧暦十月に行われる有名な神在祭は、日本全国の神々が出雲にお悔やみにやってくる、いわばオオクニヌシの葬式であると私は思うが、それに対して、「一つ山大祭」「三つ山大祭」は、むしろ生きているイタケルとオオクニヌシに二十一年あるいは、六十一年に一回、敬意を表して全国の神々が集まり、その神々をもてなすという祭りなのである。


@神在祭はオオクニヌシの葬儀に全国の神々が集まり、神譲りをおこなう祭事なのである。それは言葉を変えれば、オオクニヌシが日本海に身を隠して現身の人ではなくなったが、黄泉の王として再生したことを祝う祭りとも言える。
この手の込んだ神在祭は、「古事記」「日本書紀」に語られる国譲りの神話は決して架空のことではなく、事実であることを末永く後世に伝えるものであろう。


@銅鐸の起源は馬のクビにつける鈴である。
朝鮮の馬の首につける鈴がそのまま日本に移入され、銅鐸という宝器になったわけではない。朝鮮の人にとって漢式馬車に乗る貴族こそ尊敬の的、憧れのまとであった。そして漢式馬車を持つ貴族は、その墓に貴族の証拠として漢式馬車の部品を副葬したのであろう。

貴族のシンボルとして、馬の首につける鈴ほど適当なものはない。それゆえにこのような馬の鈴を日本で祭器、宝器としたのは、朝鮮から来た貴族か、あるいは貴族に強い憧れを持つ人物であったに違いない。
それが私は、朝鮮からきた、スサノオを想起する。銅鐸は出雲王朝の祖であるスサノオと結びつく。


@私はやはり銅鐸は出雲でうまれ、出雲王朝の領土拡大と共に中国、四国、近畿まで多く造られるようになったのではないかと思う。


@荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣のうち344本になかごといわれる柄に差し込まれる部分に「×」印が刻まれている。


この「×」印の謎について、梅原先生は解き明かします。
凄いですよ。

@縄文時代の土偶は全て胎児を宿した成熟した女性であり、そして土偶はすべて必ず破壊されている。


そしてこの謎も解き明かします。


@アイヌの葬式の話。
「まあふつうの大人が死ねば型どおりに葬られますが、子供が死んだ時は特に大変でした。アイヌの社会では子供をはらむと、その子は必ずあの世へ行った祖先の霊が帰ってきたものだとしんじられています。

その子が幼くして死ぬと、遠いあの世から帰ってきた祖先にこの世の幸せを十分味あわせずにすぐにあの世へ帰すのは申し訳ないと考え、子供の死体を甕に入れて、人のよく通る入口に埋められるのです。それは、その子を産んだ夫婦がセックスに励んで、死んだ子が次の子として生まれ変わってくるようにという願いからなのです。」

この話は私にとって、とても興味深かった。縄文時代の竪穴住居の入り口には、子供の骨が入れられた甕が逆さにして埋められていることがある。この風習がアイヌの社会に残されていたのだろう。
さらに、

「しかし子供が死んだときよりもっと大変なのは妊婦が死んだ時でした。せっかく祖先の霊が帰ってきて妊婦の腹に宿ったのに、妊婦が死んでしまったら、その子は妊婦の腹に閉じ込められてあの世に行けません。妊婦の腹に入ったままであの世にいけない先祖の霊は祟りをなすと思われていたのです。

ですから妊婦はいったんふつうの人と同じように墓に埋められますが、翌日、霊力を持った女性がその墓を掘り返し、妊婦の腹を割いて、その胎児を女性に抱かせて葬ります。」


縄文の文化が色濃く残っているアイヌ。
このアイヌに残る風習は大きな謎を解くカギとなったんですね。


@土偶について、
1、 土偶は全て生きた人間とはおもえない異様な形をしている。
2、 土偶は全て妊婦である。
3、 土偶はすべて破壊されている。
4、 土偶は全て縦に腹をひきさいたような真一文字の線がある。

 土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像であり、妊婦が胎児とともに葬られる時、その妊婦が完全な人間として再生することができるようにバラバラにして埋められるものである。

@眼のない死体は再生不可能であり、眼のある死体は再生可能であるという信仰によって、死んだ妊婦が完全な人間としてあの世で生まれ変わることを願って、巨大な眼窩のある土偶がつくられたのであろう。また長年の謎の、土偶の腹の縦真一文字の線も、腹を割いて胎児を取りだした後として理解できた。

凄いでしょ?
土偶の謎はそうゆう事だったんですね。


@このような縄文時代からのあの世観は、ずっと日本人の中に残っていて、この世とあの世はあまり違わないが、万事あべこべであり、この世で完全なものはあの世では不完全であり、この世で不完全なものはあの世では完全であるという信仰がずっとあったと思われる。それゆえ死者に贈られるべきものは必ず壊して贈らねばならない。

死者に供えるものはそのように、壊されたり、焼かれたりする。
日本で恒久的な都が遅れたのは、前代の帝の宮殿を焼いて死んだ帝に捧げられたためであると私は考える。


このことは、縄文時代のことを考えるときに決して忘れてはいけないことですね。これを忘れると、現代の感覚では理解できないことになってしまいますね。


@二つの遺跡から出土した銅器に付けられた「×」の謎が初めて理解される。それらの銅鐸、銅剣、銅矛は、全て死者に贈られたものの印であろう。しかし、この堅固な銅鐸などを壊すのは容易でなく、また忍びがたい。それで、「×」の印を刻んで、不完全なものであることを示そうとしたのではないか。


凄いでしょ??
興奮するでしょ??
いやーそうだったんですね。


@紀元一世紀といえば、記紀に語られる南九州にいた天孫族が東征して、西日本全体を戦乱の渦に巻き込んだ時代である。とすれば、それはオオクニヌシの国譲りの時代とも重なってくる。この大量の青銅器は、稲佐の海に身を隠し、今は黄泉の国の王となった、地下のオオクニヌシに贈られたものではないだろうか。

@天皇の御陵が前方後円墳になるのは、ハツクニシラススメラミコトと称される崇神天皇の御陵からである。とすれば、出雲小王国は崇神天皇以前に滅びたことになる。

@出雲は四角形の墳墓に強く執着し、四隅突出型墳丘墓が消失した後も、円墳ならぬ方墳が多く造られ、ヤマトで前方後円墳よりも、前方後方墳が造り続けられた。この四角形への執着は、黄泉の国を支配するオオクニヌシの宮殿に対する敬意であり、オオクニヌシへの深い愛情の心を示すものではなかろうか。

コメント

ついでに三輪山の神と出雲の神の関連について、考察していただけませんか?
私は三輪山の神が出雲に放逐されたのではないか?と疑っているのですが・・・
確か梅原先生もそのような説を立てていませんでしたっけ?
2011/1/13(木) 午後 3:30 [ mak**ina38 ]


実は、大神神社を参拝して山之辺の道を旅したとき、神武天皇の皇后を祀る「狭井神社」の周辺が出雲屋敷と呼ばれていることを知りました。

皇后の父が三輪の大物主(大国主神の和魂?)であることからふと、神武東征まで三輪の地を拠点としていた三輪氏なる豪族が神武天皇に娘を差し出して降伏したあと、出雲に放逐されたのでは?と想像してしまったのです。

大和政権に匹敵する大きな力と祭祀権を持っていた三輪氏に対する畏怖の念から、東西にほぼ一直線をなす東・伊勢ー三輪ー西・出雲という重要な地点に巨大な神殿を築いて今もなお天皇は丁重に祀り続けてこられたのでは?

という推察ですが、学問的な構築の土台が弱いので、所詮推理作家的視点でしか見ることができないので、突然こんなお願いをしてしまい、申し訳ありませんでした。

私の考えは梅原氏が以前に出された「神々の流竄」が下敷きにあったのかもしれませんが、梅原氏はこの「葬られた王朝」で前説を訂正されているようですね。
それでもなんか三輪神と出雲神・・どうも気になるんですよね〜
2011/1/14(金) 午後 11:03 [ mak**ina38 ]
http://blogs.yahoo.co.jp/warabe401/60202767.html

梅原猛の「古代出雲王朝の謎を解く」(1)
アマテラスとスサノオという光と影 2012-01-04

梅原猛氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみました。
古来、日本海沿岸には大きな文明があり、アマテラスに追放されたとされるスサノオの住んだ世界は実在した、という話です。

著者梅原氏は、以前に書いた自分の本の説は間違っていた、大国主に謝りたい、という気持ちで出雲地方を旅し、新しい説を書いたということです。 「環日本海文化圏」という発想は、日本という風土に風穴を開ける発想であるように思います。


           (引用ここから)

出雲には神話にふさわしい遺跡がないという説は昭和59年(1984)の出雲市の荒神谷遺跡の発見によって吹き飛んでしまっていた。 出雲市の荒神谷遺跡から銅剣358本と銅鐸6個、銅矛16本が出土したのである。 それまで全国で出土していた銅剣の総数は約300本。 銅剣の数は一挙に倍以上になったのである。

われわれは学問的良心を持つ限り、出雲神話は架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならないことになる。

「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とする「ヤマト王朝」の前にスサノオを開祖とする「出雲王朝」がこの日本に君臨していたと考えなければならない。

スサノオとは何者であろうか?

「古事記」・「日本書紀」によれば、スサノオには出雲の神となる以前に、高天原を舞台にした前史がある。

愛しき妻イザナミを失ったイザナギは死者の国である黄泉の国に行った。
イザナミの変わり果てた姿を目にしたイザナギは、驚いて黄泉の国から命からがら逃げ帰ってきた。 そして汚れた体を清めようと「禊ぎ」をし、水の中に潜って体を清めると、左の眼を洗った時にアマテラス、右の眼を洗った時にツクヨミ、鼻を洗った時にスサノオの三貴子が生まれたのである。

つまり「出雲王朝」の祖先神スサノオと「ヤマト王朝」の祖先神アマテラスとは、「禊ぎ」によって生まれた姉弟と言うことになる。 ところがスサノオは母を慕って泣いてばかりいて海原を支配しようとしないので、イザナギは怒ってスサノオを追放してしまう。

スサノオは母のいる根の国に行く前に、姉アマテラスと誓約(うけい)をして、それぞれ子どもを産み出す。 その誓約(うけい)に勝って勝ち誇ったスサノオは傲慢になり、アマテラスの作った田の畔を壊し、悪しき業を繰り返す。 そしてそのことが原因でアマテラスが天の岩戸に隠れるという、天人族にとっての大事件が起こるのである。

そして神がみはスサノオの悪行に憤り、スサノオを流罪にしてしまう。
そこでスサノオは出雲の国に来たわけである。

この契約でスサノオの口から吐き出された5柱の男神はアマテラスの意志によってアマテラス直系の男神となる。そしてその男神の子がアマテラスの孫、天孫ニニギなのである。

つまりスサノオを祖とする「出雲王朝」とアマテラスを祖とする「ヤマト王朝」の関係は、契約によって深く繋がっていることになる。

「出雲王朝」の祖であるスサノオは、イザナギが最後に産んだ三貴子の嫡男とも言える男神である。 スサノオは当然葦原の中津国、つまり日本の国を支配してもよいわけである。 スサノオは実際にイザナギから日本国の支配を命ぜられたのである。それなのに、彼は黄泉の国で暮らす母イザナミを慕思し、根の国に流罪になった。

このようにイザナギ・イザナミはその子孫によって二つの系統の神がみに分かれた。

一つはイザナギ・アマテラス・ニニギの「ヤマト王朝」である。

そしてもう一つはイザナギ・スサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」の系統である。

前者はまさに日本を支配する光の神であり、後者は一旦は成功をおさめるが、最後には悪神となり、根の国へと行かざるをえない神である。

ヤマト王朝と出雲王朝の神々はもともと親戚であったが、ヤマト王朝の神々はすべて光の神、善神であり、出雲王朝の神々は結局闇の神、悪神である。

二つの王朝の関係は、たとえば「ヤマト王朝」に伝わるやたの鏡・勾玉、草なぎの剣の「三種の神器」にも見ることができる。

その内、鏡は「ヤマト王朝」の独自の神器である。

これに対して「草なぎの剣」はスサノオがヤマタノオロチを切ってその尾から取り出したものである。

勾玉についてもまた出雲の土地で盛んに作られていたもので、「出雲王朝」でも宝とされるものである。

このことから、「ヤマト王朝」は「出雲王朝」の権力を受けついでいるという継承性と、「ヤマト王朝」の独自性と正統性を示すために、このような「三種の神器」の神話が作られたと見るべきであろう。

つまり「古事記」・「日本書紀」に書かれた神話は「ヤマト王朝」と「出雲王朝」の血縁関係を示すものであり、すでに5世紀以前に成立していたに違いないと思われる。
         (引用ここまで)
          


荒神谷博物館HP
http://www.kojindani.jp/


wikipedia「荒神谷遺跡」より

荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭西谷の小さな谷間にある国指定の史跡である。

1983年広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。
この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始された。
1984年 - 1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。

銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。
これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。

その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。

出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。


銅剣

丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。 弥生時代中期後半に製作されたとみられている。

この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。

また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。
このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/724e9a0543a63c28f546eb8996670106

梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(2)
スサノオは渡来人だったのか? 2012-01-07

         (引用ここから)

「古事記」ではスサノオは高天原から出雲にやってきたということになっているが、「日本書紀」には異なる伝承が語られている。

それによると、スサノオは高天原から追放されてただちに出雲に降りたわけではなく、まずその子イタケルとともに新羅の「ソシモリ」という所に降り立ったというのである。 おそらく「ソシモリ」は韓の国のかなり豊かな町であったのであろう。

ところがスサノオはこのような豊かな地に自分は住みたくないといって、舟を造り、その舟に乗って出雲の国に至る。


さらにまた「日本書紀」は、スサノオの故郷を物語る別の一書も伝えている。

そこではスサノオがヤマタノオロチを切った剣は「韓(から)さいの剣」であるという。

それは韓国から伝来した小刀を指す。 その小刀でヤマタノオロチを切ったのだとすれば、スサノオ自身も韓国から来たと考えるのが自然であろう。

このようにスサノオに始まる「出雲王朝」には朝鮮の陰が強く射しているのである。


「古事記」には「高志(こし)の八俣のオロチ」と書かれているが、「高志(こし)」は「越(こし)」であり、明らかに越前・越中・越後の「越」を意味している。

また「出雲国風土記」には「越の八口(ヤクチ)」とある。
クチは蛇・蝮と同義で、「越のヤマタノオロチ」と同じ意味である。
八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。

オロチはしばしば強くて悪い人間に譬えられる。
鬼退治やオロチ退治というのは、人民を苦しめる強くて悪しき人間を退治することを言うのであろう。

このように考えてみるとヤマタノオロチとは人民を苦しめる悪い豪族を指すのかもしれない。

出雲の「国引き神話」においては、オオクニヌシは西は新羅の国から、東は越の国から国を引いてきたという。 つまり「出雲王国」の交易範囲は、西は新羅から東は越に及んでいたことを意味するのであろう。

日本海に臨む当時の国ぐにの中で、ヒスイを生産する越の国がもっとも豊かで強い国であったに違いない。 そしてこの越の国からやって来た越のヤマタノオロチに、スサノオは酒を飲ませて油断させ、皆殺しにしたのではないか。

このように土着の神であり、初期農業の神である国津神の支配を妨げ、出雲の国を植民地として荒廃させた越の豪族が、朝鮮の国からやって来たであろうスサノオに退治されたと解釈すると、ヤマタノオロチ伝説は良く理解出来るのである。

オオクヌヌシは越のヌナガワヒメを娶り、さらにヤマト遠征の旅に出た。

オオクニヌシがヤマトといかなる戦いをしたかは分からない。 これについて「古事記」も「日本書紀」も何も語っていない。 しかしその戦いは幾多の困難があったにせよ、オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる。

関西周辺の地域にはオオクニヌシおよび彼の子たちをまつる神社や出雲の名を当てる場所がはなはだ多い。 こう考えると、古くはヤマトも山代も出雲族の支配下にあり、この地に多くの出雲人が住んでいたと見るのがもっとも自然であろう。

このようにオオクニヌシは日本海沿岸だけでなく、近畿・四国・山陽の地までも支配下に置いていたと思われる。

そしてこのオオクニヌシを助ける有能な参謀が現れた。 島根県松江の美保関に、誰も知らない小人のような神スクナヒコナが小舟に乗ってやってきたのである。

スクナヒコナは一体どこからやってきた神なのであろう。
やってきた場所から考えれば、やはりスサノオと同じ韓国からであろう。

オオクニヌシはこの海外からやってきた前歴のまったく分からないスクナヒコナを国づくりの最大の協力者として重用したのである。

スクナヒコナが去ると次に、海の向こうから神々しい新たな神が現れた。

「日本書紀」にはこうある。

「時に、神しき光海に照らして、たちまちに浮かび来る者あり。
我は日本国の三諸山に住まんと欲ふ。」

スクナヒコナの時と同様、またも海の彼方から光を放ちながら、オオクニヌシの国づくりを手助けする神が現れたのである。

わたしはかつてこの三輪の神をヤマト土着の神と考えたが、「古事記」「日本書紀」が語るように、オオモノヌシは外来の神であると考える方がよいのかもしれない。

          (引用ここまで)


スクナビコナが誰だったかについては、別の考え方として、歴史研究者・山崎謙氏は著書「まぼろしの出雲王国」で以下のように考察しています。


          (引用ここから)

神の名はスクナビコナ神といい、神産巣日神の子だという。
神産巣日神は、天地開闢の際に登場した「造化三神」のうちの一柱。
神産巣日神はスクナビコナ神に対して

「オオクニヌシ神と兄弟になって、葦原の中津国をつくり固めよ。」

と言う。

日本神話に登場する神は、「天津神」と」国津神」に大別される。
オオクニヌシ神は「国津神」である。

不思議なのは、「国津神」の代表的な存在であるオオクニヌシ神の手助けをして、一緒に国づくりをおこなったスクナビコナ神が「天津神」系だということだ。

またその後オオクニヌシ神を助けて国づくりをしたオオドシ神も「古事記」では「天津神」系になる。

神話はこの話の後「国造り」になるが、オオクニヌシの国づくりに「天津神」系が協力したという記述は、それを正当化するために意図的に挿入されたと考えられるだろう。
         (引用ここまで)


しかし同書でも、スクナビコナ神は韓国から来た渡来神だと考えられるとも述べられています。
 


         (引用ここから)

奈良市に漢国(かんごう)神社がある。

「漢」はもともとは「韓」、「国」はもともとは「園」であった。

祭神はもともと大物主神で、藤原不比等が韓神としてオオナムチ神とスクナビコナ神を合祀したという。 不比等は「日本書紀」の編纂に関わっており、「日本書紀」は不比等の構想によるものだという見方もある。

この神社では、オオナムチ神とスクナビコナ神は韓国から来た神ということになる。

確かにスクナビコナ神は神話でも海上からやって来たことになっており、渡来した神である可能性が高い。

         (引用ここまで)


wikipedia「スクナビコナ」より

スクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など他多数)は、日本神話における神。

『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って来訪した神。

国造りの協力神・常世の神・医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物霊・知識・酒造・石など多様な姿を有する。

『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した。

『日本書紀』にも同様の記述があり、『記』・『紀』以外の文献では多くは現れない神である。

酒造に関しては、酒は古来薬の1つとされ、この神が酒造りの技術も広めた事と、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えた時の歌にも「少名御神」の名で登場する為、酒造の神であるといえる。

ただし石に関しては記述よりそうした面が見られると想像されるだけであり、あくまで性質的なものである。

創造における多様な面を持つ神ではあるが、悪童的な性格を有すると記述される(『日本書紀』八段一書六)。

オホナムチ同様多くの山や丘の造物者であり、命名神として登場する。のちに常世国へと渡り去る。

小さいと言われているが、「鵝(ひむし・蛾)の皮の服を着ている」と高御産巣日神の「わが子のうち、指の間から落ちた子」という記述からの後世の想像である。

名前の由来について、『古事記伝』によれば「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とあり、名前が必ずしも体の大きさを表すわけではない。

あるいは金井清一によれば「若き日の御子」の意とする説もある。

また、この神が単独ではなく、必ずオホナムチと行動を共にすることから、二神の関係が古くから議論されている。

大林太良はこの神に「第二の自我」を見、吉田敦彦は双生児的な関係を指摘している。

海から来訪したとの記述により渡来人という説もあるが、船で渡来=外国人という単純な図式からの連想であり、奇説の域を出ない。

wikipedia「国引き神話」より

国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。

『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。

八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。

そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。

国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。

そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/bbafc7f59e87fd98e00bbb362834869d

梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(3)
出雲の国譲りと、たたり 2012-01-11


          (引用ここから)

では、オオクニヌシの「出雲王朝」はどのようにして崩壊したのか。

内部分裂とアメノヒボコと言われる韓国から来た強力な神の出現によって追いつめられたオオクニヌシの下に、ついに「国譲り」の使者がやって来る。


「古代出雲王朝」がどのように滅びたか、史実として確かなことは全く分からない。

しかしオオクニヌシ王国を滅ぼしたのは物部氏の祖先神であるという説がある。

「古事記」では「国譲り」の使者はアメノトリフネを従えたタケミカヅチであるのに対し、「日本書紀」では主なる使者は物部の神を思わせるフツヌシであり、タケミカヅチは副使者にすぎないのである。


「出雲王国」を滅ぼしたのはニニギ一族より一足先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない。

青柴垣神事、諸手船神事といった、たいそう手の込んだ「国譲りの神話」を象徴する祭りは、「古事記」や「日本書紀」に語られる「国譲り」の神話は決して架空の事ではなく、事実であることを末永く後世に伝えるものであろう。


「古事記」を虚心に読むかぎり、「出雲王朝」がヤマトをも支配していたことはほぼ確実であると思われる。


神武天皇は日向からはるばると遠征して、ヤマトにいるナガスネヒコと、一足先にヤマトに来ていたニギハヤヒの子、ウマシマジの連合軍を滅ぼし、ヤマトを占領した。

しかし神武天皇が権力を保つには、かつてこの国を支配したオオクニヌシ一族の血を引く女性を娶り、その女性との子を次の天皇にすることが必要であった。

そこで探してきたのが、三島と三輪のオオモノヌシの娘である。


神武天皇が亡くなった時、日向の元の妻との間の息子は殺された。
おそらく日向の豪族の血を持つ王子が皇位を継ぐことに、ヤマトの人たちの支持は得られなかったのであろう。

そして明らかに出雲王朝の血を持つヌナガワミミが第二代の天皇に就くことによって、神武天皇は安泰を保つことができたのだろう。
しかし以後オオクニヌシ系の女性で正妃の位に就く人はなく、物部系の女性が多く就くようになる。


新たに政権の座に就いた王朝がもっとも力を尽くすのは、前代の王朝の鎮魂である。
疫病が流行したり災害が起こったりしたとき、それはおそらく前代の王朝の祟りであると考えられた。


第10代の天皇、天皇家の祖とされる崇神天皇の御代に悪性の流行病がたびたび起こり、それはおそらく前代の「出雲王朝」の祟りであると考えられた。

このような出雲大神のたたりは崇神、垂仁で終わらず、「古事記」が作られた和銅の御世に近い過去にも起こったのである。


「日本書紀」の斉明天皇5年(659)に次のような記事がある。

「この歳、出雲国造に命せて神の宮をつくりよそわしむ。」

斉明天皇は天智・天武天皇の母であり、「古事記」選集当時の天皇であった元明天皇の祖母に当たる。

現天皇の祖母の時代にまで出雲大神の祟りが存在していたとすれば、「古事記」選集の段階において出雲大神の鎮魂ということが重要な国家的課題であったと考えられるのである。
          (引用ここまで)
 

著者梅原氏は、「出雲王朝」の崩壊の原因には直接言及することなく、話をすすめていくように思えます。もしかしたら「出雲王朝」を滅ぼしたのは物部氏の祖先フツヌシだったかもしれない、、と軽く触れられますが、深い詮索は行われません。

ただ、「青芝神事」や「諸手舟神事」、また姫路の「一つ山・三つ山祭り」といった地域の古い伝統行事は、まさにスサノオやオオクニヌシたちが今も生きているように生き生きとした伝承を行っており、「出雲の国譲り」は神話や物語などではなく、かつて出雲のオオクニヌシ一族の支配下にあった人々の心には決して忘れられることがない史実であり、心の奥深くに刻み込まれている記憶であることを証明していると考える、と語る道を選んでおられます。

そしてまた、だからこそ、「出雲王朝」にたたられているという出来ごとは、「古事記」・「日本書紀」が書かれている当時の人々にとって、最大の恐怖をもたらす最大の関心事であり、最大の悩みの種であったであろうと考えられています。

ニギハヤヒとは何者なのか、物部氏とは何者なのかということは、後で他の研究者の著作も比較してみてみたいと思っていますが、かつて在った者により「たたられている」という感覚は日本の歴史の中には脈々と流れ伝わっているように思います。


wikipedia「ニギハヤヒ」より

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。

ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。

ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。

イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。

これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。

また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。

大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。


wikipedia「フツヌシ」より

経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神である。

『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。

別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。


『日本書紀』の神産みの第六の一書では、伊弉諾尊が軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。

第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が生んだのが経津主神であるとしている。

葦原中国平定では武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。

『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では経津主神のみが天降ったとしており、出雲の意宇郡楯縫郷(島根県安来市)で天石楯を縫い合わせたとの逸話が残っている。


神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神であるとの解釈がある一方、「フツ」は刀で切る音ではなく「フツフツ」と沸き上がり「フルイ起す」フツであるとも解されている。

一説には、神武東征において建御雷神が神武天皇に与えた刀である布都御魂(ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。

逆に『先代旧事本紀』では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。

『古事記』においては、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとしており、葦原中国平定は建御雷之男神が中心となって行っているなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるように書かれている。

布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。

後に中臣氏が擡頭するにつれて、その祭神である建御雷神にその神格が奪われたものと考えられている。

経津主神は香取神宮で主祭神として祀られているが、香取神宮と利根川を挟んで相対するように、建御雷神を祀る鹿島神宮がある。

また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。

これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地であったため、両神社の祭神を勧請したものである。

また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。


コメント

国譲りの試論 (須賀の語部)2012-03-29 19:45:26 

古事記の出雲神話は弥生後期の四隅突出型墳丘墓と古墳時代を先取りした王墓が造成された時代と不思議とマッチすると。渡辺島根大学名誉教授が季刊「考古学」に書いておられた。

 私の解釈だとこうだ。

こたつ状の形をした四隅突出墳丘墓の分布は東は島根県の安来市、西は出雲市を中心とした王族が造成した。

発達時期は東が若干早く、数は東が、大きさは西のものが大きく国内最大級のものがある。しかし両者とも出雲の中では、数量、規模とも他を圧倒している。

つまりこれは、東はスサノオの王国、西はオオクニヌシの王国があったと考えるとすると説明がつく。

これが古墳時代に入ると、墳丘墓(古墳)を突然作らなくなる。
この西の勢力の衰弱が、国譲りを表しているとピッタリ符合する。

それでも西の勢力は古墳時代中期には回復し、当時全国的に流行していた前方後円墳を作り始める。一方東部は四隅突出墳丘墓の伝統を濃厚に引き継いだ、方墳、前方後方墳を頑なに作り続け、奈良時代までの500年間栄える。

また、古墳時代に埋葬された大刀の東西の差異も面白い。
東部は装飾性の強い大刀で蘇我氏系のもので、西部は装飾性が弱く、物部氏系のものであると考古学者は言っている。

つまり、大和朝廷の有力豪族として東部は入廷し、西部は吉備で栄えた大和朝廷の有力豪族物部氏の軍事侵攻に屈したと解釈するのが自然だろうと考えられる。

今年は島根県が神話博しまねをやっているのでこのあたりの詳しい情報は、島根県にある古代出雲歴史博物館に行って実物や考古学的成果を見てみるとより臨場感がわくだろう。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/0ebb60e97215cb8f6449e18dcfb5d7a7


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(4)
縄文から弥生へ 2012-01-14


          (引用ここから)

わたしはイザナギ・イザナミは縄文の神であると思う。

縄文の哲学は産みの哲学である。

タカミムスビ・カミムスビの「ムスビ」というのは、子を産むことを意味する。

このような「ムスビ」の神が、縄文時代において最も崇拝されていたことは、縄文時代にあまねく崇拝された石棒を見ても分かる。

これに対してイザナギ・イザナミに続く神々は、明らかに弥生の神であり、農耕の神々であろう。


「古事記」では国産みの後に神産みの話が続く。 イザナギはその最後にアマテラス・ツクヨミ・スサノオを産んだというが、この三人はいずれも農耕の神々である。 つまり縄文時代が終わり、弥生時代が始まるのである。

このように考えるとスサノオ、オオクニヌシの出雲神話は弥生時代の話なのであろう。

この弥生時代について、これまで紀元前5世紀から紀元後3世紀頃の間の約800年間と考えられていたのだが、放射性炭素年代測定法により、その始まりが通説より500年ほど遡った。 つまり紀元前10世紀頃にはすでに稲作農業が日本で行われていたと考えられる。


新たに認識された約3000年前の弥生時代初期に目を向ける時、われわれは古代の日本が現代の日本とははなはだ違う状況にあったことを認識しなければなるまい。

それは、かつてはこの日本列島の文化的中心は太平洋沿岸ではなく、日本海沿岸であったということである。

このような日本海沿岸の高い文化を示すものに、主として北陸地方に出土する巨大なウッドサークルの遺跡がある。 その代表的なものが能登半島の真脇遺跡であろう。

最大直径1メートルもある10本の栗の木が柱の断面を外側に向けている環状木柱列が発見された。 そのサークル状の柱の穴は幾重にも重なっていて、10本の柱が何年かに一度、立て替えられていたことを示していた。

また少し時代は後になるが、そこに無数のイルカの骨塚があったのが発見されている。 そこはおそらくアイヌの「熊送り」のように、「イルカ送り」をした場所であったのであろう。

サークル状に配された10本の柱は、生命の永劫回帰を意味するのかもしれない。


巨大な建造物の遺跡は山陰にもある。

このような伝統の下で、出雲のオオクニヌシの隠居の宮殿として、現在の出雲大社の本殿の高さの二倍もある巨大な宮殿が建てられたと見るべきであろう。


そしてもう一つ、この日本海沿岸で栄えた文明は、「玉 」の文明であった。
近年の調査で、新潟県糸魚川地方がヒスイの現産地であることが確かめられた。
この勾玉の起源を猪や魚の形をした獣型勾玉に求める梅原氏の説に、わたしはたいへん興味を覚えた。

アイヌ語は縄文語の名残を留めている言語だと私は考えているが、アイヌ語の「タマ」は「カムイ」と同じように霊的な存在を意味する。 玉はまさに霊的な存在であり、特に、勾玉は霊的存在の最たるものである。

勾玉はやはり魂の形を示しているのであろう。
その魂は植物の魂であるよりは動物の魂であろう。
動物と植物の違いは、動物にははっきりと死があることである。
それは動物の肉体から魂が去っていくからであろう。


魂の去った肉体はむしろなきがらであり、縄文人にとっては全く意味のないものであった。 縄文人はそのようななきがらを山に捨てて二度と参ろうとは思わなかった。 彼らが参るのは別の墓なのである。

縄文人は人が死ねばその魂は西の空に行き、そこでほぼこの世と同じ生活をすると考えてきた。 そしてその人物の子孫に妊娠が告げられると、あの世にいる祖先の誰かの魂が選ばれ、またこの世に帰ってくると考えていたのである。

それゆえ魂はこの世とあの世との間を永遠に行き来するものであった。

勾玉はそのような魂を表わすものであると考えられる。
人間をはじめすべての獣の、死からの復活を願う祈りが込められている。


「古事記」にある出雲の神オオクニヌシの越の神ヌナガワヒメに対する恋の話は、同時に征服の話なのである。 勾玉文化の中心地、越はついに出雲のオオクニヌシの手に帰したのである。

出雲の地は長年、ヒスイ王国・越の支配下にあった。

 その越の支配からの解放が、スサノオによる越のヤマタノオロチの退治の話であり、逆に出雲による越の征服の話がオオクニヌシの強引なヌナガワヒメとの結婚の話であろう。
            (引用ここまで)


wikipedia「真脇遺跡」より

真脇遺跡(まわきいせき)は、石川県鳳珠郡能登町字真脇にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡である。

真脇遺跡は能登半島の先端から少し内海に入ったところにある入江の奥に位置する。

用水路工事に伴う1982-83年にかけて行われた発掘調査により発見された。

遺跡は入江奥の沖積低地の包含層の、最近の水田の土地の約1メートル下にあって、そこから約3メートル下に亙って遺跡の含まれる層が年代順に層を成していた。

そこから発掘される史料なども豊富であるため、「考古学の教科書」などとも呼ばれる。

約6000年前から約2000年前まで、採集・漁撈の生活を営む集落があったものと考えられている。

発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、厳つい風貌の土面は後期に属する日本最古の仮面、整然とした地層などが話題を呼んだ。

この遺跡に住んでいた人々はイルカ漁を盛んに行ったらしく、大量のイルカの骨が発掘されている(特に前期-中期にかけて多く見られる)。

イルカの骨には石器の鏃や槍が残っていて、獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた。

また、イルカは、この土地だけでなく他地域との交易に使われたと考えられる。

船は出土しなかったが、船の櫂(ヤチダモ材)が出土している。

さらに中部山岳地帯や東北地方からの土器や玉が出土していることからも分かる。


遺跡最晩期の地層からは、円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。

10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。

その太さは直径80〜96センチもある。

小さな環状木柱列もあり、これらは何度も立て替えられたと考えられる。

同じ石川県金沢市で先に確認されたチカモリ遺跡の環状木柱列(ウッド・サークル)と良く似ており、注目されている。


このような巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、日本海沿岸から中央高地にかけていくつか確認されている(新潟県糸魚川市の寺地遺跡、富山市古沢の古沢A遺跡、長野県原村の阿久遺跡など)。

2000年11月の発掘で、縄文時代中期頃の盛り土で区画された大規模な集団墓地遺構が検出された。

大量の土を動かし、それを積み上げて盛り土をし、墓を造っている。

盛り土は、日本列島では、縄文時代後期に属する北海道斜里郡斜里町の環状土籬、弥生時代の墳丘墓、古墳時代の各種の古墳などがある。

人間の労働力を集中して自然の景観を変えてしまう共同作業が縄文の時代にも行われていた。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/8f8f1191a02512bca01e813e5afc50b4

梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(5)
×印をつけて埋葬された銅鐸をめぐって 2012-01-21

梅原猛は近年島根県の遺跡から大量に発見された銅鐸について、以下のような問いを立てます。


>近年発見された荒神谷遺跡や加茂倉遺跡で発見されたおびただしい青銅器は、どのような形でスサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」と結びつくというのだろうか。


        (引用ここから)

ヒスイおよび玉の産地はほぼ環日本海地域である。
日本海沿岸はこのような巨大建築と玉の文化が栄えていた。
そしてさらに青銅器文化も栄えていたのである。
それは大量の銅鐸の出土によって分かったことである。


弥生時代の芸術作品といえば、銅鐸をあげねばならぬと思う。
弥生文明は稲作農業を生産の基礎とする文明であった。
農業に従事する人々を統合する宗教的・政治的権威が必要である。
それが神聖たるべき王の存在であろう。
日本では昔から「政りごと」は「祭り事」と言われるように、政治はすなわち祭事でもなければならなかった。 そしてそこで、青銅器は「出雲王朝」の政治と深く結びついた祭器であったと考えられる。


「古事記」「日本書紀」は、日本の農業はスサノオ、オオクニヌシの始めたものであるとする。

では、近年発見された荒神谷遺跡や加茂倉遺跡で発見されたおびただしい青銅器は、どのような形でスサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」と結びつくというのだろうか。


銅鐸研究家佐原氏は、銅鐸の起源について、銅鐸は中国から来たものではなく、朝鮮の馬の首につける鈴が日本に来て、祭器になったものであるとする。
朝鮮の人にとって漢式馬車に乗る貴族は尊敬の的、憧れの的であった。
貴族のシンボルとして馬の首につける鈴ほど適当なものはない。
それゆえにこの様な馬の鈴を日本で祭器としたのは朝鮮から来た貴族、あるいは貴族に強いあこがれを持つ人物であったに違いない。

わたしはそういう人物として「日本書紀」の記述により朝鮮から来たと考えられるスサノオを想起する。 そうであるとすれば、銅鐸は「出雲王朝」の祖であるスサノオと結びつく。

では、このような大量の青銅器を所有していたのは誰か、そしてそのような大量の青銅器を埋蔵したのはなぜなのだろうか。


これほど多くの宝器を所有したのは間違いなく「出雲王朝」の大王であり、おそらくオオクニヌシと言われる人であったに違いない。

しかしそのような宝器をなぜ人目につかない丘の中腹に埋めたのか。

その謎を解く鍵は、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸のほとんどに×印が刻まれていたことにある。

西洋から近代科学文明を採り入れて以来、日本人は「あの世」について考えなくなった。
しかし日本人の「あの世」信仰は、浄土教が日本に移入される以前に、すでに深く日本人の魂に浸透していた信仰であると思わざるを得ない。
日本人は縄文時代以来、深い「あの世」感を持っていたので、とりわけ浄土教が日本仏教の主流になったのではないかと思う。

かつて柳田国男が指摘したように、日本人には人が死ぬとまず近くの里山に行き、しばらくたって亡くなった祖先達の住むあの世へ行き、お盆やお正月やお彼岸にはこの世に帰ってくるという縄文時代以来の信仰と、十万億土離れた遠い極楽浄土へ往生するという浄土教の信仰がまだら染めのように混在していたと思われる。

このような「あの世」観において「あの世」は、「この世」とあまり変わりない所と考えられていたのである。


ただし一つだけ大きく違うことがある。
「あの世」と「この世」は万事あべこべなのである。
たとえば「この世」の夏は「あの世」の冬、「この世」の冬は「あの世」の夏。

「この世」の昼は「あの世」の夜、「この世」の夜は「あの世」の昼、というように、「この世」で完全なものは「あの世」では不完全であり、「この世」で不完全なものは「あの世」で完全なものであるという信仰でもある。


そうした信仰の最もはっきり認められるものが、縄文時代に作られた土偶であろう。

土偶はすべて必ず破壊されていた。

また土偶の特徴は中央に縦一文に引き裂いたような跡があることである。

土偶の中にはあたかも人間を葬るかのように丁寧に埋葬されたものもある。

土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像であり、妊婦が完全な人間として再生することが出来るようにバラバラにして埋められるものである。

それゆえ、死者に贈られるものは必ず壊して贈らなければならない。

弥生時代の副葬品として貴重な鏡が供えられることもあるが、その鏡はばらばらに壊されているものがあり、死者に供えるものはそのように壊されたり、焼かれたりする。

火で焼くことによって、そのものを「あの世」へつつがなく贈るのである。

日本で恒久的な都が作られるのが遅れたのは、前大帝の宮殿を焼いて、死んだ帝に捧げられたためであると、私は考えている。


このように考えると、遺跡から出土した銅器に付けられた×印の謎が初めて理解される。

それらの品物は、すべて死者に贈られたものの印であろう。

×印を刻んで、不完全なものであることを示そうとしたのではないか。

大量の銅鐸の出土した遺跡は賀茂氏の祖先であるオオクニヌシの愛児・アジスキタカヒコネのいたところで、この地に彼の宮殿があったと思われる。

それゆえ、「国譲り」後も生き残った彼とその子孫たちは、持っていた銅鐸をすべてこの丘に埋蔵して、父・オオクニヌシに送り届けようとしたのではあるまいか。

いずれの遺跡においても、銅鐸は愛情をこめて、実に丁寧に埋葬されている。

そこにオオクニヌシに対する深い哀悼の心が込められているのではないかと私は思ったのである。  
           (引用ここまで)


梅原氏は、出土した銅鐸は朝鮮からやってきて、出雲王国を作り上げたスサノオノミコトが朝鮮からもたらしたものであり、出雲王朝の王オオクニヌシが所有していたものであり、オオクニヌシの息子が死者の住むという「あの世」にいる亡き父オオクニヌシに贈ったものではないだろうか、と考えています。


この考えとは別の考えとして、山崎謙氏は著書「幻の出雲王国」において別の見解を述べておられます。

       (引用ここから)

古代出雲は日本海をつうじて諸地域と交流があった。

近年の考古学的発見の数々はその様子を次第に明らかにしつつある。

弥生時代は中国の史書に「倭国騒乱」の文字があるように、各地に地域国家が出現し、勢力争いが勃発していたと見られる。

弥生時代の出雲は、青銅器の出土量は全国でもトップクラスであり、その後の鉄器も北九州に次いで出土数が多い。 出雲は当時、現在で言えばハイテク分野でトップクラスの力をもつ強国であったと考えてよい。

青銅器は鉄器が流入すると、急速にすたれる。
荒神谷遺跡などの青銅器の大量埋納はそのことと関係があるかもしれない。
あるいは青銅器を使用することに意味をもつ宗教的な行事が意味を失い、廃棄されたのかもしれない。

また、古代出雲王国が大和王権に屈し、伝えられてきた同国の象徴である青銅器を廃棄させられたという可能性も捨てがたい。

        (引用ここまで)
確かに、どの説の可能性も捨てがたいと感じます。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/ce75cf2f7f37e0487c4f1305c5e2f258




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28. 中川隆[-13610] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:44:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告

hoh********さん 2016/2/13 01:29:09
神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?

pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

29. 中川隆[-13609] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:46:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告

文献は語る −日本神話


1.天孫降臨

天孫降臨の話は、基本的には高天原の神々がその直系の神を高天原から地上の世界へ降ろし、地上を支配していた国津神たちから国土を譲り受ける、あるいはそのまま支配する話なのだが、これは以下のような構成になる。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

このうち(1)、(2)はオオクニヌシの支配する葦原の中津国、すなわち出雲地方のことで、この物語は天孫降臨よりも、「出雲の国譲り」としてのほうが知られている。しかしこれも意味合いから言えば天孫降臨である。「国譲り」とはぶんどった方の呼び方であって、取られた方からすれば略奪であり、占領である。

難波や日向に天下った際には特別な記事はないのに、出雲だけ何故建御名方神が抵抗したのか。おそらく、当時の国々の中では出雲だけが、高天原(天津神(渡来して北九州にいた集団)たちの国)に抵抗できるだけの体制(軍備・文化・技術等々)を持っていたからに相違ない。これは、出雲が北九州とは独立して、遙か昔からの先進文化を受け入れていたことを示している。

葦原中国を平定後、アマテラスは最初、我が子天之忍穂耳命(オシホミミノミコト)に、葦原中国を統治するように命じたが、オシホミミノミコトに子が生まれ、アマテラスは、その子番能邇邇藝(ホノニニギノミコト)を降臨させる。 最初命を受けたオシホミミノミコトが、降臨の役目を辞退してしまうのはなぜかよくわからない。アマテラスは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、伊斯許理度売命(イシコリドヒメ)、玉祖命(タマノオヤ)を孫のニニギノミコトに付けて、共に地上に行くように命じ ニニギノミコトに、八尺の勾玉(ヤサカノマガダマ)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、そして草薙剣(クサナギノツルギ)を授ける。更に、思兼神(オモヒカネノカミ)、天手力男神(タヂカラヲノカミ)、天石門別神(アメノイハトワケ)、らにニニギノミコトと一緒の天降りを命じた。ニニギノミコトには、

「この鏡を私の魂と思って、私の前で拝むような気持ちでいつも敬うように」

と下命した。一行の降臨を国津神の猿田彦神(サルタヒコ)が待ち受けていた。こうして、ニニギノミコトは、高天原を離れ、随行する神々と、途中、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降った。

この地は韓国に向き、笠沙の岬にまっすぐ道が通じていて、朝日がまぶしくさす国であり、夕日が明るく照りつける国でもあった。ニニギノミコトはここに宮殿を造るが、ニニギノミコトが天降った高千穂という伝説地は、宮崎県西臼杵郡高千穂町と宮崎・鹿児島両県にまたがる高千穂峰が有名である。天孫降臨の話は、古事記と日本書紀では若干違っており、日本書紀では本伝のほかに多くの異伝を伝えている。天上から地上への降臨による地上支配の発生という神話は、東アジアを中心にして多くの民族に共通し、それらを北方的な要素とみなす見解もある。 天孫降臨のあとは、いわゆる日向神話における山幸彦・ウガヤフキアヘズ命の誕生を経て、初代神武天皇へと直結する。


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古事記での「天孫降臨」


故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。
(倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年)

日本書紀での「天孫降臨」

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店1993年)

(注;)日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。


日向國風土記逸文での「天孫降臨」

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
(秋本吉郎校注「日本古典文学大系2 風土記」岩波書店)


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梅原猛は、この神話は一般に「天孫降臨」として知られるが、最初は「天子降臨」だったのではないか、という指摘をしている。この神話の原典は古事記・日本書紀・万葉集だが、万葉集が一番古い資料で、古事記・日本書紀では確かに 「天孫降臨」になっているが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではない。そこで梅原は、万葉集の原型が作られたのが、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時に、この孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、としている。なかなか興味深い推察である。


天孫が降臨した「高千穂」を巡っても諸説ある。古事記では、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)、日本書紀では「一書に曰く」と諸説あるため、高千穂峯(たかちほのたけ)、久志振流岳(くじふるだけ)などに降臨した事になっているが、宮崎県の高千穂町と、鹿児島の霧島山系・高千穂の峰が「高千穂峯」の本家争いをしているのは有名な話である。しかしその「くじふるだけ」という呼び方から、大分県の「久住岳」(くじゅうだけ)と言う意見もあるし、福岡県の英彦山には、天忍穂耳神が降臨されたという伝説があり、農業や鉱業などの守り神として今も信仰されている。


本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと言っている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)

 
また宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、 知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」
(『古事記』十七之巻)


前出梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく 新潮社刊」の中で、この本居宣長説について、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動したのではないかとこの説を補強している。

2000年9月14日(木)から17日の間、第38回歴史倶楽部例会で、「南九州/神話・遺跡の旅」と称して、宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡などを廻ってきた。高千穂町はほんとに山深い鄙びた町である。こんな所に神々が降ったとは一寸思えない。しかしそれは、一大生産地としての観点から見ればであって、神話に言うただ降りてきただけの「降臨の地」とすれば納得できない事ではない。山深い幽玄な雰囲気はそれを十分感じさせるだけの説得力を持っている。だが神話を離れて、外来民族か或いは他地方からの民族移動を「天孫降臨」だとすれば、この地はあまりに辺境すぎる。あまりにも山の中である。天孫ニニギの尊が、「葦原の中つ国」を治めるために降りて来るには一寸ばかり山峡すぎる。日向に三代に渡って住んだと記紀は書いているが、高千穂から日向の国へ移ったという記述はない。とすれば、降りてきた高千穂にニニギニミコト、ウガヤフキアエズ、カンヤマトイワレビコと三代住んだと考える方が自然だろう。それにしてはここはあまりにも山の中である。ここでは東に良い国があるなどという情報も到達しないのでは、と思える程辺境だ。


(以下古事記による。)

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爾くして、天照大御~・高木の~の命(みことのり)以ちて、太子(おおみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命に、

「今、葦原中國を平らげ訖(おわ)りぬと白す。故、言依(ことよ)」

さし賜いし隨(まにま)に降り坐して知らせ」

と詔りき。爾くして其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命、答えて、


「僕、將に降らんと裝束(よそ)える間に、子、生まれ出でぬ。 名は天邇岐志國邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能邇邇藝(あまつひたかひこほのににぎ)の命、此の子を降すべし」


と白しき。 此の御子は高木の~の女、萬幡豐秋津師比賣の命に御合して生める子、天火明(あめのほあかり)の命、次に日子番能邇邇藝の命【二柱】也。是を以ちて白しし隨に、日子番能邇邇藝の命に科(おお)せて、「此の豐葦原水穗の國は汝が知らさん國と言依さし賜う。


故、命の隨に天降爾くして日子番能邇邇藝の命、將に天より降らんとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上は高天原を光し、下は葦原中國を光す~、是れ有り。故、爾くして天照大御~・高木の~の命以ちて、天宇受賣の~に、

「汝は手弱女人(たわやめ)に有りと雖も、伊牟迦布(いむかふ)~と面勝(おもかつ)~ぞ。故、專(もは)ら汝往きて將に、

『吾が御子の天降らんと爲す道に、誰ぞ如此して居る』と問え」

と詔らしき。 故、問い賜いし時に答えて、

「僕は國つ~、名は猿田毘古(さるたびこ)の~也。出で居る所以は、天つ~の御子、天降り坐すと聞きし故に、御前に仕え奉らんとて參い向い侍る」

と白しき。


爾くして、天兒屋(あめのこやね)の命・布刀玉(ふとだま)の命・天宇受賣(あめのうずめ)の命・伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命・玉祖(たまのおや)の命、并せて五伴緒(いつとものお)を支(わか)ち加えて天降しき。是に其の遠岐斯(おきし)、八尺勾(やさかのまがたま)、鏡、及び草那藝の劍、また常世思金の~、手力男の~、天石門別(あめのいわとわけ)の~を副え賜いて詔らさくは、

「此の鏡は專ら我が御魂と爲て、吾が前を拜むが如く伊都岐(いつき)奉れ。次に思金の~は前の事を取り持ちて政を爲せ」

と、のりき。此の二た柱の~は、佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拜み祭る。次に登由宇氣(とゆうけ)の~、此は外宮の度相(わたらい)に坐す~也。


次に天石戸別の~、またの名を櫛石窓(くしいわまど)の~と謂い、またの名を豐石窓(とよいわまど)の~と謂う、此の~は御門の~也。次に手力男の~は佐那縣(さなあがた)に坐す也。故、

其の天兒屋の命は【中臣連(なかとみのむらじ)等の祖(おや)】。
布刀玉(ふとだま)の命は【忌部首(いんべのおびと)等の祖(おや)】。
天宇受賣(あめのうずめ)の命は【猿女君(さるめのきみ)等の祖(おや)】。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は【鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖(おや)】。
玉祖(たまのおや)の命は【玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖(おや)】。


故、爾くして天津日子番能邇邇藝の命に詔りて、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多那(たな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾くして天忍日(あめのおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挾み、御前に立ちて仕え奉りき。

故、

其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。

是に詔らさく、

「此地は韓國に向かい、笠紗(かささ)の御前に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國也。 故、此地は甚吉(いとよ)き地」

と、詔りて、底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て坐(いま)しき。


【ホノニニギの、諸文献における表記】

古事記 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子番能邇邇芸命
天津日子番能邇邇芸命
日子番能邇邇芸命
日本書紀 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
天之杵火火置瀬尊
天杵瀬尊
火瓊瓊杵尊
天津彦火瓊瓊杵尊

風土記 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
瓊瓊杵尊
哀能忍耆命

先代旧事本紀 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊

ホノニニギの神名の多さと長さは記紀にもあまり例がない。ちょっと異常と思えるほどだが、想像をたくましくすれば、北九州の高天原からあちこちへ降臨した神々がいたのではないかと思わせる。日向へ降ったホノニニギはその一人で、神話が形成されていく過程で、ホノニニギ一人に集約されたもののようにも思える。ホノニニギの「ホ」は「穂」であり、ニニギは「にぎにぎ」の意で「賑やかな」「賑わう」と解釈し、稲穂が豊穣に実っている様を表していると言われる。

また、ホノニニギは「天神御子」とも称され、神から天皇へ繋がる系譜上の重要なポイントに位置し、先に見たように、記紀編纂当時の、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の皇位継承問題の事情が反映されているのではないかとも言われる。日本書紀九段本書では、天孫降臨の任務は初めからホノニニギであり、赤ん坊の姿でマトコヲフスマに包まれて降臨している。ホノニニギは、崩じた後日本書紀によれば「可愛之山綾」に葬られ、現在その場所は、鹿児島県川内市宮内町や、宮城県延岡市北方の可愛岳などが想定されている。

「国譲り」神話を、何らかの史実を秘めた伝承であるとする立場からすれば、冒頭にも記したように、これは明らかに民族間の領土移譲を含めた権限委譲である。若干の武力抗争もあっただろうが、「国譲り」と表現されるような、圧倒的な軍事力の違いの前に、国を譲らざるを得ないような状況があったのだろうと想像できる。見てきたように、それは北九州の高天原に、出雲の葦原の中津国が屈したのだと考えれば、以後の歴史展開が、考古学の成果も含めて一番説明が容易である。そうやって北九州の、当時の日本列島で一番勢力が強かった一団が、出雲や畿内や南九州を屈服させていったのだろうと思われる。天孫降臨は、それらの屈服させた領地へ派遣する司令官とそのお供の武官達を任命した、いわば壮行会であり、辞令交付式だったのだろうと思われる。そして時代を経て、それは高天原と国津神たちの支配する中津国とのお話として神話となって伝承された。


高天原の神々が降臨に用いる乗り物は天の磐船であり、雲であり、その上に乗って大勢のお供とともに天下っている。これは明らかに海上を船によって移動したことを示唆している。陸上を馬や徒歩で移動したのであればこういう表現にはなっていない。これは高天原が少なくとも近畿ではなかったことを強く物語る有力な証左である。


2.日向三代


天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。

神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、すぐ側の西都原(さいとばる)古墳群を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここにあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研究がなされてもいいような気もする。


こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったものである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。


さて、ニニギの尊が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会う。迩迩芸命が名を尋ねると

「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫(このはなのさくやひめ)といいます。」

と答えた。そこでニニギは咲夜姫に結婚を申し込むが、咲夜姫は

「私の父に言って下さい」

と答える。そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、姉の石長姫も一緒に娶ってくれといい、婚礼用品を添えて二人の娘をニニギの元にさしだした。

ところが石長姫の方は醜女だったため、ニニギは大山津見神の所へ返してしまう。すると大山祇神は怒り、

「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持てたのに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」

と答えた。古事記は、だから代々の天皇の寿命は短いのだとコメントしている。

さて、その咲夜姫だが、ニニギとは一度しか交わらなかったのに、その一回の交わりだけで妊娠してしまう。ニニギは、1回交わっただけで妊娠するとは、と疑った。咲夜姫は、

「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」

と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落した。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命という。火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦である。山幸彦はまた、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名を持つ。


海の神の娘、豊玉姫神と結婚し、やがて鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産む。彼は豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚して、神武天皇が産まれる。


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是に天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗の御前に麗しき美人に遇いき。爾くして、

「誰が女ぞ」

と問いき。答えて、


「大山津見の~の女、名は~阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂う」

と白しき。また、

「汝、兄弟有りや」

と問いき。答えて、

「我が姉、石長比賣(いわながひめ)在り」

と白しき。 爾くして、

「吾は汝と目合(みあ)わんと欲う。奈何に」

と詔りき。答えて、

「僕は白すことを得ず。僕が父、大山津見の~、將に白すべし」

と白しき。故、其の父の大山津見の~に乞い遣りし時に、大きに歡喜びて其の姉の石長比賣を副(そ)えて、百取(ももとり)の机代の物を持たしめて奉り出だしき。故、爾くして其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟の木花之佐久夜毘賣を留めて一宿、婚爲き。爾くして大山津見の~、石長比賣を返ししに因りて大きに恥じて白し送りて、

「我(あれ)の女、二並(ふたりとも)に立て奉りし由は、石長比賣を使わさば、天つ~の御子の命、雪零り風吹くと雖も、恆に石の如くして、常わに、堅わに動かず坐さん、また木花之佐久夜毘賣を使わさば、木の花の榮ゆるが如く榮え坐さんと宇氣比弖(うけいて)貢進(たてまつ)りき。此く石長比賣を返らしめて、獨り木花之佐久夜毘賣を留むる。故に天つ~の御子の御壽(みいのち)は木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さん」

と言いき。故、是を以ちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等の御命(みいのち)は長くあらぬ也。


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豊玉姫は妊娠し、天津神の御子は海の中で生んではならないと地上へやってきた。そして渚に鵜の羽を茅葺(かやぶき)にした産屋を建ててくれと山幸彦に頼み、異郷の者が出産するときには、すべて元の国の姿になるので、出産現場を見ないでくれと頼む。山幸彦は見ないと約束するが、心配と好奇心で産屋を覗いてしまう。そこに居たのは、八尋(やひろ)ワニの姿に戻った豊玉姫がいた。驚く山幸彦に、約束を破って姿を見られたからにはもうここにはいられないと豊玉姫は、我が子ウカヤフキアヘズノミコトの世話を、妹である玉依姫神に託すと単身海の国へと戻っていった。


山幸彦ことホヲリノミコト(火遠理命)は、日向で580年生き、高千穂の山の西に葬られた。ホヲリノミコトの子、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)は、やがておばの玉依姫神と結ばれ、イツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)が生まれた。ワカミケヌノミコトの別名は、カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼昆古命)と言った。

ミケヌノミコトは常世国へ行き、イナヒノミコトは母のいる海原に入った。


故、後に木花之佐久夜毘賣、參い出でて、

「妾(あれ)は妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、是れ天つ~の御子にして、私(わたくし)に産むべきにあらぬが故に請(もう)す」

と白しき。爾くして、

「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める。是れ我が子に非ず。必ず國つ~の子ならん」

と詔りき。爾くして答えて、

「吾が妊(はら)める子、若し國つ~の子ならば、産むこと幸くあらず。若し天つ~の御子ならば幸くあらん」

と白して、即ち戸の無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞(ふさ)ぎて、方(まさ)に産まんとする時に火を以ちて其の殿に著(つ)けて産む也。 故、其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命【此は隼人(はやと)の阿多(あた)の君の祖(おや)】。 

次に生める子の名は、火須勢理(ほすせり)の命【須勢理の三字は音を以ちてす】。 

次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見(あまつひたかひこほほでみ)の命【三つ柱】。

(略)

是に海の~の女、豐玉毘賣の命、自ら參い出でて、

「妾(あれ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今産む時に臨みて此(これ)を念(おも)うに、天つ~の御子を海原に生むべくあらず。故、參い出で到れる也」と白しき。爾くして即 ち其の海邊の波限(なぎさ)に鵜の羽以ちて葺草と爲て産殿を造りき。

是に其の産殿の未だ葺き合えぬに御腹の急(にわ)かなるに忍(た)えず。故、産殿(うぶや)に入り坐しき。爾くして將方(まさ)に産まんとする時に其の日子に白して、「凡そ他(あた)し國の人は産む時に臨みて本(もと)つ國の形を以ちて産生(う)むぞ。故、妾(あれ)今本の身を以ちて産まんと爲(す)。願う妾を見る勿(なか)れ」


と言いき。是に其の言(こと)を奇しと思いて竊かに其の方(まさ)に産まんとするを伺えば、八尋和邇(やひろわに)と化りて匍匐(はらば)い委蛇(もごよ)いき。

即ち見驚き畏みて遁(に)げ退(そ)きき。爾くして豐玉毘賣の命、其の伺い見る事を知りて心恥(はずか)しと以爲(おも)いて、乃ち其の御子を生み置きて、

「妾は恆に海の道を通りて往來(かよ)わんと欲(おも)う。然れども吾が形を伺い見ること、是れ甚(いと)(はずか)し」

と白して、即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて返り入りき。

是を以ちて其の産める御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)の命と謂う。然くして後は、其の伺いし情(こころ)を恨むと雖ども戀(こ)うる心に忍(た)えずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌を獻(たてまつ)りき。 

(略)

故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命は、高千穗の宮に坐(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)。御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山の西に在り。是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命、其の姨(おば)の玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、五瀬(いつせ)の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛沼(みけぬ)の命。

次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命、またの名は~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命【四つ柱】。故、御毛沼の命は浪の穗を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は妣(はは)の國と爲(し)て海原に入り坐しき。


古代、南九州には隼人と呼ばれる一族がいた。山幸彦に降伏した海幸彦は、溺れたときの所作を演じ、ふんどしをつけ顔や手足を赤く塗り、俳優の技をして弟を慰めたといい、そして、この子孫が隼人であるといわれる。海幸・山幸神話は、皇孫である山幸彦に隼人の祖である海幸彦が服従するという、隼人の朝廷への服従起源でもある。この話は、もともと南九州にいた隼人族の伝承であったといわれており、その伝えていた芸能隼人舞の由来話という形で、その首長の前で演じられていたのではないかといわれている。猟具の交換を発端とする海底国への訪問、失った釣針などに類似する話としては、喜界島の「竜神と釣縄」という話があり、そのほか、パラオ等、インドネシアからミクロネシアにかけて類似した話が語られている。


日向国が、現実の南九州の日向であったかどうかについても色々な議論がなされている。日向とは現在の宮崎県ばかりでなく、大隈と薩摩を含んだ地域であるとすると、それは隼人族の住む未開の地でもあるので、皇室の祖先はそうした未開の地は原郷にしないという説もあるし、日向とは単なる「太陽の照らす聖地」という意味にすぎないという説もある。そもそも邪馬台国問題と同じで、或いはそれ以上に情報量は少ないので、神話や民俗学に興味がある者なら、いかようにも解釈できることになる。

日向三代の神話が全て隼人族の伝承だったとすると、「コノハナサクヤヒメの神話」「海幸山幸の話」も同じくインドネシア、ミクロネシアに類似した神話が多くあるので、隼人族そのものも南方種族ではないかとする説もあり、かなり有力視されている。しかし、日向三代神話が隼人の伝承であったとすると、これを大和朝廷が皇室の神話系譜の中に取り入れたのは何故なのか、またいつごろなのかという問題が残る。

北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたのだと解釈すれば、宮崎に残る西都原古墳群やこの神話の持つ意味も理解できる。日向に三代も住めば、そこが地理的に日本列島の統治にとって都合のいい場所ではないと判明したかもしれないし、もっと実りの多い、稲作に都合の良い平野を抱えた地方が東にあるという情報も、派遣した先兵や偵察隊が報告していたかもしれない。実際に、後に神武天皇と呼ばれる人物が東を目指して旅だった可能性も高いが、私が邪馬台国東遷説にいまだ同意できないのは、もし、高天原=北九州、天照大神=卑弥呼だとすると、その後の邪馬台国はどうなったのかという疑問が未だに解けないからでもある。邪馬台国から日向へ降りてきたニニギは日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。

3.神武東遷


初代の天皇である神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日向国に天下りした邇邇芸命(ニニギのみこと)の曾孫にあたる。神武の時期から人代で、それ以前は神代とされる。神武の一族は、日向国高千穂宮に住んでいたが、兄のイツセノミコトと共に、東国に豊かな土地を求めて移住を始め、豊国宇佐足一騰宮(あしひとつあがりのみや:

大分県宇佐市)、竺紫岡田宮(福岡県遠賀川河口)、阿岐国多祁理宮(たけりのみや:広島県府中町)、吉備高嶋宮 (岡山市高島)、青雲の白肩津(東大阪市日下町)、紀国男水門(大阪府泉南郡樽井町)、熊野村(和歌山県新宮町)、吉野の川尻(奈良県吉野郡)を経て、宇田(奈良県宇陀郡)へ到着した。

岡田宮に一年、多祁理宮に七年、高島宮には八年も滞在したとされる。瀬戸内海を渡った神武は、難波の津で長髄彦に抵抗され、兄・五瀬命を失うが、和歌山の大台ヶ原から大和に入り、長髄彦を破って大和の平定に成功し、辛酉年春正月一日に、橿原宮で即位し、百廿七歳で、橿原宮にて死んだ。


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宇佐に行く前、二人は速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で亀の甲羅に乗って釣をしている人間を見つける。お前は誰かと尋ねると国つ神だといい、海路をよく知っているというので案内人とし、サヲツネヒコ(棹根津日子)という名をあたえる。

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  一行は難波に上陸するが、登美(奈良市富雄町)の豪族、ナガスネビコ(那賀須泥昆古)が軍勢を率いて攻めてきた。戦闘はナガスネヒコが優勢で、イツセノミコトも敵の矢を受ける。イハレビコは

「日の神の御子である我々が、日に向かって攻め入ったのが良くなかった」

として、日を背にして敵を撃とうと紀州沖を南下し熊野から内陸をめざすが、兄のイツセノミコトは船上で絶命してしまった。今、イツセノミコトの御陵が紀伊の国の竈山にある。

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イハレビコは、和歌山から南に回って、熊野村に到着したが、大きな熊に出会い、やがて一行の兵士達は突然気を失い、次々に倒れ伏す。そのとき一振りの太刀をもった男が現れ、イハレビコに剣を献上した。この太刀で、イハレビコは熊野の山の荒ぶる神を退治した。この時剣を献上したタカクラジ(高倉下)が、イハレビコに剣を渡した訳を説明する。

夢をみて、夢にアマテラスとタカギノカミが現れ、二人は、タケミカヅチ神を呼び寄せて

『葦原中国はひどく騒然としており、我が御子たちは病み悩んでいるようだ。かの国はそなたが服従させた国なのだから、もう一度そなたがいって御子たちを助けてこい。』

と。タケミカヅチは、

『私が降らなくても、かの国を平定した太刀がありますから、このサジフツノカミ(佐士布都神)を降しましょう』

と、タカクラジが授かって届けに来たのだという。さらにタカクラジは、夢の中で、タカギノカミからの伝言を預かっていると言う。

「荒れすさぶ神がたくさんいるから、天つ神の御子をこれ以上奥に行かせてはならない。」

「今、天上からヤタガラス(八咫烏)を遣わそう。そして、そのヤカガラスが先導するので、その後についていくように。」

ヤタガラスの後を追いながら吉野川の川下にたどりついたカムヤマトイハレビコは、魚をとっている人物に出会った。 さらに進むと、井戸から尾の生えた人物に出会った。さらに、山に入ると尾の生えた人物が岩を押し分けで出てきた。それぞれ、天津神の御子が来るというので、出迎えにきた国つ神だった。そして、奈良県の宇陀という場所にたどりついた。タケミカヅチから授かったこの霊剣、サジフツノカミは別名、フツノミタマ(布都御魂)といい、現在石上神宮に鎮座している。


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これが神武東征神話の概略である。戦前は史実として流布され、戦後は一転して全面的に否定された。辛酉年は紀元前660年にあたり、1月1日は太陽暦の2月11日にあたるとされる。神武天皇は、なぜ辛酉年に即位したと考えられたのだろうか。中国人の革命思想は、天地を支配する天帝は、人民の中から仁の心に富んだ男を選び、愚民を支配する権力を委任する。

天子は道徳的な力に満ちた男であるが、その権力を譲られた子孫はそうとは限らない。人民を痛めつける天子は、もはや天子ではなく、新たに自分が天子だと自覚する男が、これを殺すことが正当化される。これを革命(革令)といい、このうち、辛酉年には新しい王朝が建てられるという。ただし、60年ごとの辛酉年ではなく、60年の21倍の1260年ごとの辛酉年である。600年代はじめ、推古天皇の摂政だった聖徳太子を責任者として、国史の編纂が行われた。西暦601年が辛酉年であり、ここから1260年さかのぼった紀元前660年が、神武天皇の即位の年と計算され、日本書紀にも引き継がれたのである。神武天皇は、紀元前660年の人物であり、この時期は縄文時代とされているから、とても実在の人物とはいえない。産能大教授の安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を示しているのである。


ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。

これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という私の史観と合致する。わたしはこの「神武東遷」に象徴される、九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、まだわからない。

だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的である。


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古事記・日本書紀に書かれている天孫降臨や神武東遷伝承が、大和朝廷の役人達によって机上で述作されたものであるという考え方は、全くの想像である。記紀が編纂されてから今日まで、そういう事を書いてある古文献は1点も存在しない。それを、述作されたものであるとか、創作されたものだとする考えは、完璧に主観的判断に基づいて、歴史をねつ造しているのと同じである。

歴史学者・考古学者たちの第二次世界大戦における敗戦のショックと、戦前・戦中を通じて、強権に確執を醸せなかった自らの贖罪を求める気持ちはよく理解できる。同胞が、戦時中に近隣諸国に対して行った行為に対して、それらの国々に対する謝罪の念も持って良い。しかし、そういったイデオロギーと学問の世界における真理の追究とは全く別物であるということに、もうそろそろ気づいても良い頃だ。古事記・日本書紀という、我が国最古の歴史書に書かれ、また多くの伝承を持ち、長きにわたって多くの研究がなされてきたこれらの日本神話が、戦後50数年間にわたって、歴史家によって殆ど無視され、語られもしなかった事実は全く異常としかいいようがない。教科書にも載せず、読み物にも書かれない今の現状では、やがて日本人は、自分たちの祖先が語った多くの神話と、その中にもしかしたら潜んでいるかもしれない歴史の核を、まるで理解できない、世界でも希有な民族になってしまう。


私は古代史を学んで、日本国家の成立を探り、天皇家の起源を探り、ひいては自分が誰なのかを探ろうとしている。それには、掛ければ色や形が変わって見えてしまう、イデオロギーというサングラスだけは絶対に掛けたくないと思う。
http://inoues.net/yamahonpen10.html


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30. 中川隆[-13617] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:50:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20737] 報告

古代史の鍵・丹後 籠神社

太陽信仰もつ海人集団の拠点

「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。

 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。

浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。

息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。


 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/

京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。

息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。


古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。


もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。


丹後半島の古墳公園(加悦町)


倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。

ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html


十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。

十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D


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31. 中川隆[-13619] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:57:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20740] 報告

神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html

奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm


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32. 中川隆[-13621] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:00:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20743] 報告
巫女(みこ/シャーマン)
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/


御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

◆【性文化史関係一覧リスト】
http://miracle-jiyoudan.com/seibunka_yougo.html

をご利用下さい。

この文章は、

小論・【遊女(女郎)の歴史】
http://miracle-jiyoudan.com/yuuzyonorekisi.html


の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/


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33. 中川隆[-13620] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:04:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20743] 報告
そもそも巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。

ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

 幼蛇を生むこと。

 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。

http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595

何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。 神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。

実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。 一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。

おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。

とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。

http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html


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34. 中川隆[-13625] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:47:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20749] 報告

鳥居の起源は長江の稲作文明

吉野ヶ里遺跡の紹介 門と鳥形
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。

当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。

南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

▲南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。

それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。

鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。

天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

鳥居から鳥が消えた日 2016/5/5
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


神社と鳥居はワンセットになっている。


日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。

しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。

学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。

しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。

弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園

遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。

吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。


鳥形木製品

恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居

(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。


穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。

特に有名なのは中国のミャオ族である。


芦笙柱(トン・カー

(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説

倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶

朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。

鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ

s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門

日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。


高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社

吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。

特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇

日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。

神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。

日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。

ここからが本題である。

鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。

注連縄である。

これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。

鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。

注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄

6−1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm


星宮神社


くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html

鳥から蛇に変っていったのだ。

鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも


蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。

蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。

それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。

ジャパンフィルターが稼働したのである。

渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。

古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。

空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。

日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。

これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。

そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。

荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。

チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。

日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336

タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族


http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870

タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。

アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。
http://maesai.main.jp/page068.html


アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。
http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php

倭族と鳥居
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832


神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832


112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。

113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ


タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 

■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。

■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html

『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274


 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。

三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。

日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。

ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。

秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html


「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352


「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」

テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html

安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。


一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。


二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。


三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。

四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。

五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。

六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm

日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03

■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。


■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。

■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。


■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。

■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。

■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。

■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。

■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。

■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

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04. 2012年10月16日 22:11:21 : HNPlrBDYLM

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/450.html
大和朝廷は漢民族?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/451.html



05. 2012年10月16日 23:01:40 : HNPlrBDYLM


弥生人の起源


弥生時代は紀元前800年から始まる。日本人の起源や現在に至る氏族を追いかけていくと朝鮮半島に始まるが、その前の稲作伝来まで数百年の隔たりがある事を忘れてはならない。

朝鮮半島の紀元前の歴史は殆どなく、中国がようやく半島の鉄資源を求めて鉄職人を送り込んできた時期である。稲作もその頃に半島南部に広がっており、日本列島まで渡来して先進文化を伝える状況になかった。

朝鮮半島からの渡来人は早くて2世紀まで遅れる。その間、九州、中国地方を中心に弥生の文化や技術を創ってきたのは間違いなく大陸の渡来人である。先行して大陸から渡来人が稲作、漁労、養蚕を伝え、拡げていったのが呉人である安曇族であるという説がある。安曇族はその後の奴国を作り、57年に大陸から金印を授かっている。


「海から見た日本列島」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

にある以下の記事はそのくだりが書かれており、かなり信憑性が高いので紹介しておきたい。

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【安曇族を解く鍵「金印」】

 博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。

中国大陸を制覇した後漢から奴国王が金印を授かったことは破格の厚遇である。なぜ光武帝は倭国の中の一部族に過ぎない奴国に金印を与えたのかまたなぜ奴国王は遠く洛陽まで使者を出したのか。両者の間には 金印授受に値する結びつきがあったはずだしまた 突然の訪問で金印を授かることは考えられないからそれ以前に奴国は中国大陸と交流があったはずである。

その交流にしても奴国王の使者が洛陽まで出かけるにしても海を渡らなければならない。そこには航海術に長けた海人の安曇族が深くかかわっていたはずである。
 


【安曇族はBC5世紀に呉から渡来。】

『魏志・倭人伝』や『晋書』『梁書』など中国史書にある倭人は入墨などの習俗から会稽地方(現在の浙江省から江蘇省)と共通している。またAD57年に洛陽へ行った奴国の使者は呉の祖といわれている太伯の後裔と述べたと記述されている。 
一方、中国大陸では春秋時代(BC770〜403年)に呉は越と30年ほど戦ってBC473年に亡ぼされた。長年の戦争に船を駆使して戦ってすぐれた航海術をもっていた呉人が日本列島へ亡命してきた可能性は大きい。

以上記した習俗、呉の後裔、呉人の亡命の3点から奴国の使者は呉が亡びたときに日本列島へ亡命した呉人の子孫であると考えた。


北九州へ亡命して来た呉人すなわち安曇族は仇敵越への復讐を誓い志賀島を根拠地に中国大陸に出かけて越の情報を集めるのに都合がいい交易をはじめた。

 ところがBC334年には仇敵の越も楚に亡ぼされる。元々呉と越は同族で呉越同舟という言葉は両国は戦争をつづけているが何か呉と越に共通する敵が現れたら力を一つにしてその敵に向かうという意味である。このように呉越は兄弟のようなものだから越が亡びて困っていると呉の後裔の安曇族は得意の航海術を使って越人が日本列島へ亡命することを手助けした。

 またBC221年に秦の始皇帝が天下を統一すると万里の長城を築いたり阿房宮をつくったりでそのために過酷な税の取立てや強制労働などを行った。安曇族はこれらに耐えかねて祖国を棄てる人たちの亡命も手助している。


【亡命者を日本列島の水田稲作適地に斡旋】

 亡命者たちは水田稲作・養蚕や漁撈の技術をもっていた。安曇族は 中国大陸との交易が軌道に乗ると交易で取り扱う品を多くするため日本列島内にも交易網を広げていたから鉄製品がまだ普及せず石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報ももっていたし魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報ももっていた。だから 安曇族は亡命者たちに水田稲作と養蚕に適した地へ漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。
 
その斡旋先での生産物は安曇族が一手に引き受け日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。ということで日本列島内においては水田稲作・養蚕と漁撈が盛んになってきた。
 
こうなると倭国においては一部族に過ぎない奴国すなわち安曇族ではあるが商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては取引先として大切な相手であった。安曇族にとっても光武帝から金印を授かることは円滑に交易を進める上で欲しいものであった。ということで「漢委奴國王」の金印を安曇族が授かったという仮説は成立するのではないか。


【安曇族の橋渡しで水田稲作技術は中国大陸から伝わった】

●水田稲作について〜稲のDNAを調べた佐藤洋一郎によると 水田稲作技術の日本列島への伝播ルートは 中国大陸から直接と朝鮮半島経由の二つのルートがあるという。ここでは中国大陸からの直接水田稲作技術が日本列島へ入った点に注目する。


●養蚕について〜布目順郎は確定的とは言えないがと前置きして浙江省や江蘇省から東シナ海を直接渡ってきたといっている。水田稲作の適地と養蚕の適地は豊かな水、風通しがよいなど条件が重なっている。


●言葉について〜森博達は日本には中国南朝の音である呉音が入ってきた。そのルートは朝鮮半島経由というのが通説だが呉音には濁音があるが朝鮮の漢字音には濁音がない。と朝鮮半島との結びつきに疑問を投げかけ中国南朝から直接日本列島へ入ってきた可能性を示唆している。


これらの技術や文化が中国大陸から直接日本列島へ伝わるには東シナ海を渡らねばならないからそこに安曇族が関与したことは間違いない。中でも水田稲作と養蚕は日本列島内の交易と中国大陸との交易に結びつくし、安曇族の入植地斡旋は日本列島内の水田稲作の短期間普及につながっている。
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

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以上のように呉人である安曇族が航海技術に長けた海人としての特徴を生かして、中国から人、物、技術を運んできたと考える事は、その後の日本の海洋国家としての歴史を見ても頷けます。

また、弥生時代の最大の集落である吉野ヶ里遺跡に養蚕が盛んに行われており、中国とも交易をしていたという史実とも整合します。

一方、安曇族が越人を運んだと言われる北陸地方から関東にかけても同質の弥生文化は広がっていったと思われます。

朝鮮半島から来る渡来人第2波の前に既に相当程度、中国の先進文明を受け入れていた可能性があるのです。古墳時代を経て大陸の隋の時代に至るまで、日本列島が半島からの戦火を免れている背景には、弥生時代に構築した中国との関係は見逃せないのではないでしょうか。

戦争に明け暮れた朝鮮半島と戦争史がほとんどなかった日本、その対比を見ていく上で中国からの視点が必要になってくると思います。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202671
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202674


百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。

現在の浙江省の東海岸が起源と見られる。言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかった。秦および漢の時代には、「北方胡、南方越」といわれ、「越」は南方民族の総称ともなっていた

周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれた。漢代には、2つの越の国が確認できる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、中国の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。この時代、中国の南方を占めた越人は、北方民族による力の支配とぶつかり、しばしば反乱がおきている。チュン姉妹の乱は、現代に伝わる当時の反乱の1つである。

その後は、徐々に北方からの人々の南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっていく。北部ベトナムは中国王朝の支配が後退すると、939年に最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。

文化面では、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A


句呉(こうご、くご)は、中国の周の時代に、太伯(泰伯とも)が、弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国である。紀元前12世紀から紀元前585年まで続いた。後に、太伯の弟の子孫である寿夢が国名を呉と改名する。国姓は姫(き)。
太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。姓は姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。


日本との関連
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。
例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。

九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。

鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。

『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2


呉 (春秋)
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉。
呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。
周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。

後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。

興隆と滅亡
6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しかし新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。
夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡に
「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」
と言われ、和議を蹴った。それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)



越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。

呉との抗争
隣国の呉とたびたび抗争し、紀元前515年、楚に遠征した呉王闔閭の留守を狙って越王の允常[1]は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子の勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。

闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなったが勾践が謝罪したために滅亡は免れる。謝罪後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借り、越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉が伍子胥を殺害し夫差が中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて呉を攻め、呉に大打撃を与え、紀元前473年には呉を滅ぼした。呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し(江蘇省連雲港との説もある)、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。

勾践は讒言によって腹心の文種を粛清した。これを聞いた范蠡は勾践の猜疑心を知り尽くしていたために、既に斉に逃亡しており、陶朱公と称して富豪となっていた。紀元前465年、勾践は死去した。


滅亡
紀元前334年、勾践の6世の孫である無彊の代に楚の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡するも、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑された。その後、楚懐王の代の紀元前306年頃までに、楚の王族卓滑によって滅ぼされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A



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35. 中川隆[-13657] koaQ7Jey 2018年11月18日 09:19:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20872] 報告
弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江系、後期は朝鮮系で、別民族みたいですね。 天皇一族は勿論朝鮮系ですね:


弥生時代後期の弥生人骨 大半が渡来系 2018年11月18日
https://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20181117-OYTNT50025.html


研究の成果について報告する篠田副館長(右、鳥取市青谷町で)

DNA分析に使われている弥生時代の人骨。青谷上寺地遺跡展示館で展示が始まった

 ◇青谷上寺地遺跡

 ◇DNA分析 後期、盛んな交流


 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。

大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。(河合修平)

 遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。市民ら約130人が聞き入った。

 篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。

 青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、交易で栄えていたことがうかがえるという。また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。

 共同研究では今後、細胞核のDNAから父系のルーツについても分析する。2019年3月には、鳥取市内で最終的な研究成果を発表する予定で、篠田副館長は「当時の人々がどのように暮らしていたのかを明らかにしていきたい」。報告を聞いた同市の会社員宮川昌樹さん(64)は「青谷でどんな人が暮らし、自分たちのルーツはどこにあるのか、興味をかき立てられた。研究内容に注目したい」と語った。

 同町の青谷上寺地遺跡展示館では17日、研究に用いられている人骨5点の展示も始まった。午前9時〜午後5時。月曜、祝日の翌日は休館。無料。終了日は未定。問い合わせは同展示館(0857・85・0841)。

2018年11月18日 Copyright © The Yomiuri Shimbun


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36. 地下爺[3538] km6Jupbq 2018年11月18日 18:46:45 : ygnIofYuD6 : wi1STPEnmmE[339] 報告

  歴史マニアとして 知的興味は あるが 北朝・南朝なんて話は実際の

  問題としては どうでも良い。

  近上天皇は まさに 今の日本国憲法の シンボル。

  こんな 民主的な 人は いない。 このまま続けられたら 良いが

  続かないのであれば なにか 対策は 必要 !!


  失礼かも しれないが 皇族方の 人権 も 含めて 議論は必要。


 


  

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37. 中川隆[-13657] koaQ7Jey 2018年11月19日 18:58:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20908] 報告

2017-05-31 日本神話=朝鮮神話
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557

日本人が天から舞い降りた民族でもなければ日本から生えてきた民族でも無い以上日本人はどこからかやってこなければならない。そしてそれは間違いなく朝鮮半島であった。日本神話は確実に朝鮮神話に源流を持つ。日本神話で有名な八咫烏も高句麗のシンボルである。

↓高句麗の壁画に描かれた八咫烏

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八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。 日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、 導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏について - 熊野本宮大社 | 公式サイト

平安から鎌倉時代にかけて皇族や貴族から篤い信仰を受けた熊野神社の主祭神は朝鮮半島ソシモリ出身のスサノオであり、そのお仕えである八咫烏は高句麗のシンボルである。熊野神社は高句麗系渡来人の神社であったのだろう。スサノオは朝鮮半島のソシモリから虵の韓鋤の剣を携えやってきてヤマタノオロチを退治した。「虵の韓鋤の剣」は間違いなく朝鮮製の剣であろう。ヤマタノオロチは蛇である。日本の古くからの信仰は蛇信仰である。蛇信仰は注連縄や鏡餅や土器などに見ることができる。脱皮し永遠の命を持つと思われた蛇は信仰の対象であった。その蛇を朝鮮半島からやってきた神が朝鮮製の剣で退治したヤマタノオロチの神話は示唆的である。これは渡来人が蛇信仰の土着倭人を殺戮した歴史では無いだろうか。

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古神道とはどのようなものか考えたときそれは原始的なアニミズムであっただろう。その特徴を色濃く残す神社と言えば諏訪大社である。諏訪大社の巨木信仰はまさにアニミズムだろう。また諏訪大社ではソソウ神という蛇神やミシャグジ神を祀っている。柳田国男もこれを先住民族の信仰と考えた。諏訪大社の主祭神は建御名方神と八坂刀売神である。建御名方神といえば国譲り神話でこっぴどくやられた神であり八坂刀売神は記紀神話には存在しない諏訪土着の神である。おそらく土着の倭人が朝鮮系の民族に追いやられた歴史を反映していると考えられる。縄文の信仰を残す諏訪大社と国を譲らざるを得なかった神。偶然の取り合わせでは無いだろう。実際縄文系のDNAは日本の周縁へと追いやられている。朝鮮系渡来人である弥生系DNAは日本の中心に分布している。

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古神道を考える上で忘れてはならないのが出雲大社である。記紀の3分の1の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社には出雲系の神が祭られているという。間違いなく古神道といえるだろう。出雲大社の主祭神は大国主大神である。国譲りで国を明け渡さなければならなくなった神であり、大和へその地位を譲らなければならなかった古代出雲文明の神であろう。事実、大国主神は祟り神として知られている。大国主神は国津神の主祭神であり土着の神である。大国主神もまた縄文系の土着の倭人の神であろうか。出雲大社にも流れ着いた海蛇を祀る風習があるという。古代の蛇信仰も色濃く残した神社である。研究によれば出雲の人々のDNAは朝鮮人や中国人とは違うようだ。やはり出雲大社は土着の倭人の神社であるように思われる。

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比較的新しい信仰が天照大神信仰であろう。天照大神は天津神である。渡来人の神であろう。天照大神は機織りや稲作を行う記述があることからも渡来人であることが伺える。天孫降臨神話においても天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊は「この地は韓国に面して、笠沙の岬にも通じており、朝日と夕日が照らす素晴らしい土地である」と発言したように、朝鮮半島との関係をうかがわせる。天照大神は皇室の祖神であり、国家神道の主祭神である。大化の改新の後に皇祖神となったと言われている。持統天皇が日本書紀を編纂させた。その日本書紀が天照大神に特別な地位を与えたと言われている。
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557

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38. 中川隆[-13637] koaQ7Jey 2018年11月21日 11:36:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20959] 報告

高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032

高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。

春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注
1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91

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39. 2018年11月21日 12:33:15 : RDkQgVSE9o : aQYQGSkSfHk[1] 報告
寒い時代は北方では人は住めませんから人類が生存できる北端が日本ということになるんでしょうね。
今より人口が少ないから海の幸山の幸でなんとかなる。

中国朝鮮は寒ければ人は住めない。
温かい時代になってやっと出てくる程度だから歴史も浅い。
文化は日本から大陸に渡ったんですね。

文化があったのは中国南端から日本にかけてくらい。
人が住める場所にありました。
日本文明は世界最古の文明ですね。

40. 中川隆[-13636] koaQ7Jey 2018年11月22日 09:06:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20977] 報告

10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

41. 中川隆[-13635] koaQ7Jey 2018年11月22日 09:09:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20977] 報告

昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16


あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。



空港まで車で三宅さんを迎えに行った。



高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。



あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。



天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。

三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。



いま、あのときの顔を思い出しています。



三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

42. 中川隆[-13637] koaQ7Jey 2018年11月22日 10:22:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20983] 報告

朝鮮と日本の神話の類似性
上田正昭 京都大学名誉教授(2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

43. 2018年11月23日 13:49:43 : DL7DCpUkkw : SwPFLrY4xBU[1] 報告
「明治以降、日本の天皇家は二重国籍で、かつ英国王室のメンバーだよ。」
https://ameblo.jp/eigo-garage/entry-12052541306.html

軍産にいいようにされてますが、いつかは日本古来のものに戻ることを願ってます

44. 中川隆[-13626] koaQ7Jey 2018年11月23日 17:56:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21040] 報告


aki********さん 2012/11/13 22:28:43

高句麗は朝鮮ですか大陸(中国?)ですか?民族的に文化的に言語的にどうなのか、それぞれの視点からお願いします。


補足
回答ありがとうございます。

高句麗が騎馬民族だったことを示す、文献なり遺跡なりは残っているのでしょうか?

高句麗は農業大国扶余の分国という情報をネットで拾い読みしましたが、これは間違っているでしょうか?



ベストアンサーに選ばれた回答

aka********さん 2012/11/15 08:36:25


高句麗国の神宮(高天原)の日の巫女の王の忌名と姫姓を受け継ぐ、社家の者としてお答えします。

高句麗は扶余と同じツングースで、北から来たと思っている人も多いようですが、じつはスンダランドが消滅したことで、中国大陸東岸を北上した人々の血がかなり入っているようです。言語的に日本語と近いことは数詞の一致などから見て取れます。固有語レベルで共通性がほとんどない現在の朝鮮語と日本語の関係と比べると、大違いです。とはいえ、地理的に隔たった分だけ差異が認められます。文献研究者が吏読と思っている言葉の多くが、じつは高句麗語というケースが多々あります。当家では日の巫女の王の名を襲名する者は高句麗語(文語的)を第一言語として育てられるので、はっきり認識出来るのですが、そうでない一般の日本人は、失われた言語についてほとんど認識出来ないと思います。

縄文人達は、鬼界カルデラの大噴火の災厄から逃れるために、海外脱出しています。疎開先に東北平原の地域を選んだ人々もいたようです。日の昇る方角に二柱の祖先神が立っていると考える、扶桑信仰が誕生しました。扶は寄り添って立つ同根一対の御神木を指す言葉で、扶余の国名になったようです。この二柱の神々は、現在の日本神話ではイザナギ・イザナミと呼ばれていますね。

扶余国は広大な平野に興った国ですが、寒冷化の影響を受けやすい地域です。太陽の力が陰ったのは王の人徳に問題があるからだという噂が広まって、民から責められた出来事を、漢民族が書き留めています。食糧難が発生して南下を余儀なくされた結果、高句麗や百済が派生したと見るべきでしょう。

高句麗は扶余と同じ太陽信仰の国でした。国母神とその息子の男王の二廟を祀っていることを漢民族が記録しています。これは、夜明けが太陽を産む→明姫(アカルヒメ)が東明聖王を産む→天照大神(神功皇后)が皇統を産んだ、という形で、皇室神道へと繋がっています。高句麗国が半農の国だったことは、東盟祭を観察すれば明らかです。隧穴を大地母神のホトに見立てて、隧神の男性のシンボル(箸=丸太の棒)で突いて、翌年の豊穣を祈願するお祭りをしていました。現代の新嘗祭の原型となった、纏向型祭祀(土坑祭祀)と共通します。箸墓古墳の箸でホトを突くという伝承は、墓の主の死因ではなく巫女が主宰した祭祀形態の伝承です。後世の人々が意味を取り違えたのです。隧穴は高句麗式の石組みのトンカラリン遺跡として日本にも残ります。隧神の箸は日矛鏡で反射した陽光(日矛)へと変り、隧穴を照らす形になりました。天岩戸伝説にも見ることが出来ますね。五穀豊穣を祈願する祭祀は農耕文化の象徴です。当家の主食は今もヘンプ(麻の実)の醗酵粥の醍醐です。東明聖王は朱蒙(弓の名手)の異名を持ちますから、半狩猟民族です。当家の者はボーラや印地の技を伝えています。

扶桑信仰は神仙思想と習合して、東夷=倭人=和人の人々の、蓬莱(日本)への東進を促す原動力になりました。和人文化圏が、山東・遼東半島付近から纏向の地まで広がっていたようです。もし東征だったら、男性は移動しても女性の移動は見られない筈です。ところが、九州の弥生の遺跡からは、縄文に見られないミトコンドリアの遺伝子の型、N9aやZが見出されます。今日の日本人と共通性を持ったパターンが、山東半島や遼東半島付近まで分布しています。つまり女性を伴っての移動だったのです。ところが、男性が担うY染色体のO2bのほうは、かつての和人文化圏に沿った分布が見られません。朝鮮半島付近は、後から男性のみの集団が侵入してY染色体を上書きしています。つまり侵略を受けたのですね。

天照大神の原型となった日の巫女の王が、難民達に日国への里帰りの託宣を下して、自ら日本に渡来して大王家(後の天皇家)を産みだした結果、高句麗の精神文化と言葉が日本にもたらされました。飛鳥や大和や息長などは、高句麗語の音写が変化せずに現代まで残ったものです。この時はO3の型を持った人々が大勢含まれていたと思われます。東明聖王が5部族を無血統一した故事に由来する、和を尊ぶ大和民族の精神に導かれた豊葦原瑞穂の国への里帰りの入植だったようです。京都や奈良の湿地帯の干拓事業を行ったので、古くから日本に住んでいた人々の土地を奪ったわけではないようです。平和的な入植だったので、Y染色体のD2遺伝子などが駆逐されずにちゃんと日本には残っていますね。

高句麗は半農半狩猟の民族で、言語や精神文化は日本が受け継いでいます。難民となって移動した人々は、Y遺伝子で見るとO2bやO3のほうが多いようです。多くの高句麗国の人々は大陸に残ったようですね。東進しやすかったのは、高句麗の民よりも半農・半漁労の人々だった、ということでしょう。

当家の神庫に残る故老の伝承を裏付けるものが多く見出せます。それなりに史実を反映していると思われます。


質問した人からのコメント

2012/11/15 09:09:10

高句麗に大和民族の精神的ルーツがあるという姫様のお家の伝承を元にした御説を以前から読ませて頂いてきましたが、遺伝的な痕跡まであったとは驚きです。

東北平原の土地は肥沃で中国最大の食糧生産地ですが、寒冷化が当時の扶余のヘンプの生産にどういう影響を与えたのか詳しく知りたくなってきました。日女神のお家の主食が米でなく麻の実の発酵粥の理由が、なんとなく分かってきました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1197169726


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

45. 中川隆[-13624] koaQ7Jey 2018年11月23日 21:19:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21046] 報告

>>44 の妄想の続き

aki********さん 2012/10/31 13:54:35
天照大神は女神とされていますが、なぜ伊勢神宮などに男神の装束が奉納されているのですか?


ベストアンサーに選ばれた回答


aka********さん 2012/11/4 08:51:34

日の巫女の王を襲名した斎の巫女としてお答えします。

日本人は初日の出を拝む風習を持っていますが、神道本来の太陽信仰の姿は、為政者の宗教改革によって見えなくなっています。詳細は省きますが、蘇我馬子は天皇暗殺に飽き足らず、皇祖大兄を名乗って皇統に割り込み、没後は天照大神・男神として祀られるように画策しました。皇祖神・蘇我馬子を後世の人々は否定したものの、太陽信仰の姿が定かでなくなってしまい、本来の太陽神もろとも封印される形になったのです。日本の国姓の姫を母系継承する当家や他の幾つかの社家が、より古い時代の太陽信仰の姿を伝承しています。しかし、天皇記や国記が燃やされるなど、焚書が横行したので、神庫と古い書物の存在は秘匿されたのです。

天照大神は、日本の国号と記紀神話が成立したときに創作された新しい神です。より古い時代に「天照国なになに」という名で祀られた天照系の神々がいますが、そのなかに女神が単体で祀られたケースは見当たりません。信仰実績がないのですから、蘇我馬子達の暴挙が否定された後で、記紀神話が創作された時に、新しく設定された皇祖神と分かります。

記紀神話以前の古い国母神は、比売許曽(ひめこそ/姫の社という意味の古い高句麗語)に祀られていた明姫(アカルヒメ)でした。阿加流比売(アカルヒメ)という音写しか一般に知られてませんよね。天照大神・荒魂・瀬織津姫もまた記紀神話から除外されて、神社からもその名を消されていった女神です。隠蔽体質が顕著です。古い日女神達や建国にまつわる神話は、新たな日本国の神話と信仰を確立する妨げになるので、日本書紀に掲載されませんでした。本当の王統の誕生を祝うお祭りは、京都の葵祭です。建国神話はこのお祭りと一対一対応する桃太郎の昔話として知られています。

詳細を省きますが、アカルヒメが新羅から渡来した女神という神話は真に受けないでください。特有の仮託された表現で構成されているものを、矛盾に気付かずに、太陽神と巫女神が夫婦喧嘩したとか、元祖ストーカー王子と解釈するのは間違いです。書き手の地理的感覚や時間軸も混乱しています。阿加流比売を奉斎する巫女集団が大陸の高天原から渡来した時期は、黄巾の乱の後、卑弥呼登場の少し前です。

記紀神話成立以前の本来の太陽信仰を再生するうえで、国外の和人文化の記録が参考になります。
纏向型祭祀(土坑祭祀)と高句麗の東盟祭の類似性が指摘されています。中国大陸東岸の長江文明の稲作が日本まで伝わってきたことから分かるように、東夷とも倭(和)人とも呼ばれた人々の渡来によって、縄文時代は弥生時代に変わっていきました。黄巾の乱で発生した難民の渡来は、弥生時代を古墳時代に変えていきました。山東半島から纏向遺跡に至る東進ルート沿いに、和人文化圏が形成された時代がありました。高句麗地域(渤海湾岸文明)の朝日に対する信仰は東明信仰です。これを漢民族は扶桑信仰として書き残しています。高句麗では国母神とその息子の男王神の二霊廟を祀っているという記述も残ります。

明姫は「日が明ける」という意味を持つ日女神です。夜明けを神格化した女神です。夜明けから生まれてくるのは太陽です。太陽を神格化した男神が東明聖王です。夜明けが産む太陽。明姫が産む東明聖王。皇祖神・天照大神(女神)が産み出した皇統。高句麗の国母神とその息子の男王神に対する信仰とも対応します。

飛鳥と書いても明日香と書いてもアスカと読みます。飛鳥はじつは「日が明ける(新しい)」を意味する古い高句麗語(祝詞の吏読のルーツ)の音写です。朝鮮語でも「日が明ける」と「飛ぶ鳥」は「날 새/ナルセ」で同音です。「明日」は「日が明ける」の漢語表記です。語尾の「香」は「郷」の音写です。つまり飛鳥郷(京)は、国母(皇祖神)とされた日女(姫)神の明姫の名にちなんだ太陽(東明)信仰の王都なのです。

記紀神話は、イザナギとイザナミの男女一対の神による国産みから始まります。これは陰陽思想に基づきます。天照大神も陰陽思想の影響を受けて設定された太陽神です。天上に輝く陽の存在(太陽)は男神で、その光を受けて人の姿を取るとき、陰の存在の女神の姿を取るとされます。ですから、太陽神・天照大神の依り代となる巫(かんなぎ)は、生き神扱いの男装の巫女なのです。

記紀神話のなかで、スサノオは天照大神のことを姉と呼びます。また、スサノオと対峙するとき、女性の髪形を解いて男装する描写があります。人の姿をした天照大神は、記紀神話の伝承でも女神として描かれます。私が天照大神と心身一体の状態になって神座に座るときに着る神服もまた、男装の剛装束です。皇室から伊勢神宮に奉納される神服も男神用です。普通の人が着るには、やや大きめに作られた物が奉納される慣習があるのは、日の巫女の王の一族は体が大きいことが知られてきたからです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1296497722

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46. 中川隆[-13625] koaQ7Jey 2018年11月23日 21:39:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21049] 報告

これも妄想だろうけど、有名な話なので転記


糸島郡の平原遺跡 2014-11-02


平原遺跡 :糸島郡前原町平原

昭和40年糸島郡前原町平原(当時、現在は平原市)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。

偶然の発見であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された。結果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原田大六は、2世紀中頃であるとしている。

遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。

この遺跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出土数としては我が国最多であった。

又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡であった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓だと想定している。

平成2年には、平原方形周溝墓出土品が国の重要文化財に。さらに、平成18年には国宝に指定されました。

副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されていて、銅鏡のなかには日本最大級の直径46.5cmの内行花文鏡が5枚ありました。ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一。

副葬品にネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多いことから、この墓に葬られた人物は女性で、特に超人的な力を持った女性ということで、卑弥呼の墓という説もあるほどです。


1号墓出土品(国宝)

大型内行花文鏡 4面(5面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、仿製鏡(日本製)、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡である。

内行花文鏡(内行花文四葉鏡) 2面

方格規矩鏡 32面、(鋸歯文縁方格規矩四神鏡が23面、流雲文縁方格規矩四神鏡が9面)

四螭文鏡 1面

メノウ製管玉 12個
ガラス製(瑪瑙:めのう)勾玉(くだたま) 3個、ガラス丸玉 約500個
ガラス小玉 一括(約500)
ガラス管玉 一括(30以上)
ガラス連玉 一括(約886)
耳璫(じとう、耳珠)3
素環頭大刀 1振
鉄鏃10
鉄やりがんな1
鉄のみ1
鉄斧1

 日本一大きな国産の内行花文八葉鏡四枚について、考古学者故原田大六(だいろく)はその図抜けた大きさと特異文様とが、伊勢神宮に関する種々の史料から内宮の御神体である八咫鏡( や たのかがみ)と同じものではないかと推察し、次のように述べている(『実在した神話』、学生社)。

「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

 森浩一氏も、この原田説を支持され、

「原田氏の生涯をかけての、この重要な研究が基本において修正を要しないとすれば、八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされたということになる」

と述べておられる(『日本神話の考古学』)。


 豊玉姫−玉依姫−イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう玉依姫ということになる。

その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、

「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」

とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。 

 その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。


http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/11/IMG_3124.png

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http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/11/IMG_3123.png


原田先生の報告書は『平原弥生古墳 大日霊貴の墓』

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

tokyoblog April 2015 八咫の鏡

「咫(た)」とは円周の長さの単位で、1咫=8寸、直径2.5寸の円周(円周率3.2)とされている。
八咫鏡とは直径2尺、46センチの鏡という事になる。

平原遺跡からは、まさに直径46センチの国内出土最大の鏡が4枚出土している。御統は勾玉や管玉などを緒に通して首飾りにしたもので、五百箇の御統とは、珠が五百箇ある首飾りという事になる。平原遺跡出土の首飾りを写真で数えてみると約470個の珠があった
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E9%83%A1%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%81/


平原遺跡(ひらばるいせき)は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡。 曽根遺跡群の一つとして、昭和57年10月、国の史跡に指定。平成12年10月追加指定。

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63〜平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。

1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。


1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出されている。

その1号墓の副葬品の中には日本製と中国製の破砕した銅鏡片が多数あった。これらの破片は当初、39面分に復元されていた。

その後の調査の結果、従来4面に復元されていた直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡の破片が実は5面分の破片の可能性があると指摘された。(前原市調査報告書)。このうち1面が九州国立博物館、4面が伊都国歴史博物館に展示されている。

1990年の重要文化財指定時には、銅鏡の員数は39面分とされていたが、上述の調査結果をふまえ、2006年の国宝指定時の官報告示では、銅鏡の員数は40面分となっている[1]。この数は1つの墳墓から出土した銅鏡の枚数としては日本最多である(2009年現在)。

なお直径46.5センチメートルの鏡の外周は鏡の円周の単位で八咫(やあた)あることから、八咫鏡と同じ大きさになる。

この副葬された多数の銅鏡片は「人為的に破砕されたモノではない」と発掘責任者の原田大六は主張している[2]。

学術調査時に、2〜5号墓からは青銅器類の遺物は発見されず、出土した土器や石器類などから弥生時代後期の墓と推定された。5号墓から発見されたとする銅鏡の鈕部分2個は、この破片が土中から発見されたことから5号墓の発見に繋がっていることによる。


主な出土品

1号墓大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
耳璫 3破片
素環頭大刀 1

国宝指定名称は以下のとおり。

福岡県平原方形周溝墓出土品 銅鏡 40面分
玉類 一括
鉄素環頭大刀 1口
附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

5号墓銅鏡片 2

1号墓から出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を、その文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示している[5]。『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。

1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)[6]などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 原田大六はこの平原1号墓の主を玉依ヒメとし、大日孁貴であるという説を提示している[5]。

1号墓の東南にある直径約70センチメートルの縦穴を、発掘調査した原田大六は、湧水の存在から井戸として報告している。この縦穴を「前原市報告書」は大柱跡(穴中の土壌成分未調査)として、墓から見て東南の日向峠の方角に位置していることから、この大柱跡は太陽信仰に関係するものとの説を提示している。

墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六は「銅鐸や弥生式土器などの絵画に見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としている[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1

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47. 中川隆[-13627] koaQ7Jey 2018年11月24日 09:41:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21064] 報告


ros********さん 2012/11/13 23:45:16

オオナムチについて。

福岡県朝倉市にオオナムチ神社という神社があります。

質問します。

@このオオナムチ神社は、日本で最も古い神社だと聞きましたが、これは本当ですか。
逆に言えば、日本で最も古い神社は、どこなのでしょうか。

Aオオナムチ⇒オオクニヌシノミコト
として同一視されているそうですが、オオナムチ自体は、何の宗教のどんな神なのでしょうか。


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aki********さん 2012/11/18 10:25:00

日本最古の神社は、縄文時代の日本に建っていた、という説を採らせて頂きます。天津神が渡来する前から、縄文時代の日本にも神社があった、一万年の歴史を持つ、と思います。

伊勢神宮の内宮などに、心の御柱と呼ばれるものが建っています。これに注目します。廣田神社に天照大神荒魂、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とあります。撞賢木厳之御魂は、撞=依り憑く、賢木=御神木、厳之御魂=男神の魂、です。その後に続くのは、おそらくこの神を奉斎した巫女の名前。御神木に依り憑く男神の魂を奉斎する巫女を神格化した神、と読めます。男神が依り憑く御神木こそが、伊勢神宮の内宮にある心の御柱と考えます。

神は一柱二柱と数えます。これは、神が宿る御神体の御柱を数えるところから来たもの。三内丸山遺跡や諏訪の祭りを観察すれば、神が依り憑く巨大な柱の存在が明確になってきます。三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉です。数千年から一万年前まで遡れるかもしれません。

猿の子供のメスは、木の枝を赤ん坊に見立てて、お人形遊びをして、母親の心を学んでいきます。宗教を生みだすアニミズムの発想の原型は、母親の尻尾を獲物に見立てて追い回して遊ぶ、子猫にも認められるそうです。哺乳類がもともとアニミズム的な発想をする習性を持つ動物だとすれば、人類はまだ猿だった時代から、原始宗教を持っていた可能性があります。猿の時代から依り代として使ってきた木の棒を巨大化して大地に建てれば御柱です。これが神社の原型です。扶桑信仰の扶桑は、日出国の日本に縄文時代から建っていた。これは、間違いないと思います。それもおそらく最初は蛇と関わりが深い蒲葵だった。しかし、現在の神社のような建築物はまだなかった、御神体の柱だけだった可能性もあります。

オオナムチの蛇神のほうですが、縄文の模様を観察していると、縄模様に蛇の頭が付いたものが散見されます。たしかに蛇は土坑祭祀と関連があるのかもしれません。土坑に見立てた縄文の壺の穴の周囲にも蛇がトグロを巻いて守っていたのだと思います。壺に入れたものに腐敗などの邪気が寄り付かないように。縄文人達が注連縄模様を描いたものを、考古学者が縄文と名付けたのが真相と思います。

壺の中で蛇を飼う昔話は、常陸国風土記のヌカヒメ伝承があります。蛇を飼育する容器が神聖視されて祀られていたことが分かる伝承です。

鏡とは、カカメが転化したもので、カカ=蛇、メ=目で、本来は蛇目のことだったそうです。鏡餅は、カガ=蛇、ミ=身で、蛇がトグロを巻いた姿に見立てて飾ってあるものと考えられます。また神社の御神木とされるナギ(梛)の木は、ナギ=蛇の木だったと思われます。

オオナムチは、政争に敗れて出雲に島流しになる前は、縄文として描かれていた時代からの日本の神だった、と思います。日本神道には渡来系の天津神だけでなく、縄文時代からそのまま引き継がれた在来系の国津神の系列があり、オオナムチは後者かと。ただ、大陸の扶余に渡る前の巫女達が、縄文時代の日本に存在した可能性もあり、両系統は同根で、明確な区分はないのかもしれない。すでに日本最古の神社や信仰の姿を示す証拠品は出土しているものの、現代人はその情報をまだ整理しきれていないと考えます。

銅鐸に刻まれた、太陽の三態を表す記号、朝『\』昼『○』夕『/』とか、火起こしの回転運動に由来する、火(日)の神の力を召喚するパワーを表す、左右の連結された渦巻とか、いろんなものが残っているものの、我々はまだその信仰の姿を十分読み解けていません。


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[ 次の2件 ]


aka********さん 2012/11/18 01:56:35


神道施設の成立過程から順に明らかにしていきましょう。

神道は、八百万の神々を祀っていますから、多くの信仰が習合しています。そのほとんどは自然崇拝と祖霊崇拝です。自然崇拝は霊山や島や磐座や塚や御神木など、自然物が対象(御神体)ですから、本来は建物を建てて祀るものではありませんでした。神社は社(ヤシロ)とも言い、元は屋代です。代(シロ)とは、お祓いして清められた神が降臨する場所のこと。そこに建てられるのが屋代です。古い時代は仮の宮とされ、神事のときだけ存在して、用がなくなれば解体されていました。

対して、祖霊崇拝の場合は、生前の業績を称えて祀るのが基本ですから、生前の住まいである宮を子孫が大切に保存したり、霊廟を建てることもありました。神宮と神社の違いは、神宮は貴人の住まいが原点というところです。一般的に、神社には依り代となる御神体を祀る神棚の類はあっても、神様が寝起きしたり座る場所はありません。しかし、祖霊崇拝の場合は、依り代となる現人神(生き神)の巫女が寝起きしたり座る、神座がなくてはなりません。両者の違いを、皇室関係の神社とそれ以外と解説するケースが目立ちますが、神道施設が生まれた過程から見れば、不自然な俗説です。

神道のルーツは扶余の名前の由来になった扶桑信仰にあります。扶桑とは日が昇る場所に立つ同根二柱の神木の夫婦神のことで、現在はイザナギとイザナミと呼ばれていますね。扶桑信仰を作った人々は、後の狛犬のモデルになった狼犬を連れて、日本から大陸に渡っています。おそらく縄文時代の鬼界カルデラの大噴火のときに、噴煙による日照条件の悪化に伴う食糧危機を避けるため、青森県まで逃げて、そこから海外脱出した人々です。大陸から祖先の国を拝んだのが、扶桑信仰の始まりだったと推測できる神話が、日の巫女の王の家の神庫に残っています。扶桑信仰は今でも、初日の出を拝む大和民族の風習として残っていますね。つまり、神道の朝日を拝む歴史は七千年程度あると考えられます。

その長い歴史から見ると、神社という言葉は、かなり新しい時代に生まれた高句麗語&日本語です。扶余から派生した高句麗も、太陽信仰の国でした。神庫に残る故老の伝承を総合すると、高句麗は日の巫女の王が宮を構えていた五女山の神宮(高天原)の境内都市から生まれているようです。天照大神の原型となった女神は明姫(アカルヒメ)と言い、東明聖王の母とも妹ともされています。夜明けの情景から太陽が昇る→夜明けを神格化した明姫から太陽を神格化した東明聖王が生まれてくる→天照大神から皇統が生まれた、というのが、天津神の一族が日本へと渡来してもたらした、祖霊崇拝の日拝の神事を起点とする太陽信仰の原初の姿です。

高句麗の国教の姿を伝える中国の文献には、国母とその息子の王の二霊廟を祀っているとあります。あるとき高天原に難民が押し寄せて、国難を解決するために、明姫は豊葦原瑞穂の国(日国)への里帰りを託宣しました。渡来後の宮はヒメコソと呼ばれたようです。これを古い朝鮮語で「姫の社」という意味だと指摘する人々がいますが、私達は神宮を指す古い高句麗語と認識しています。つまり、最も古い日本の神道系の建物は、明姫を奉斎する日の巫女達が住まう神宮で、最初の入植地姫島のヒメコソだった、ことになります。

オオナムチは大国主の別名です。出雲の神々は四国に入植した渡来氏族が奉斎していた神々で、畿内に移動して大和朝廷の基盤を作りましたが、政権闘争に敗れて出雲へと島流しになっています。前方後円墳の原型は、近畿地方に出現するより百年古い時代から四国で痕跡が認められます。また出雲の神々の信仰実績は四国から見つかっています。つまり、オオナムチは、明姫の日国への里帰りの託宣に従って、九州から四国にかけて入植した人々が奉斎していた蛇神の名残りです。

蛇信仰は纏向型祭祀(土坑祭祀)や東盟祭用の隧穴に棲む蛇から生じたもので、注連縄は雌雄一対の蛇の交尾を表したシンボルです。大地母神の多産の象徴であるホトを表しているのが隧穴で、トンカラリン遺跡などにも見ることが出来ます。天岩戸伝説も隧穴信仰から派生しています。鏡の光を当てると、天照大神がなんだろうと思って岩戸から出てきたエピソードがあります。これは、日矛鏡で陽光を反射して作った、太陽神の男性のシンボル(日矛)の光で、多産を祈願して大地母神のホトを突く神事が元になっている表現です。箸墓古墳のホトを箸(隧神の男性の象徴の木の棒)で突いたという伝承もこの系統です。天照大神が隧穴(天岩戸)から出たとき、再び入らないようにと注連縄を渡したことからも、隧穴とそこに棲む神遣の蛇への信仰の関係が見て取れますね。隧穴と一対の男神のシンボルとして蛇信仰が考えられることもあり、蛇神のオオナムチも古い隧穴信仰の名残りの一つなのです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1097174915

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

48. 中川隆[-13622] koaQ7Jey 2018年11月24日 17:18:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21082] 報告

京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 
では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。
   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。 
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html


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49. 中川隆[-13625] koaQ7Jey 2018年11月24日 17:51:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21088] 報告

2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生  伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm


1.伊都国と邪馬台国  柳田康雄先生


私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。

平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。

今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。

■ 弥生時代のクニと国の出現

弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。

現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。

そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。

銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15〜16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。

弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。

少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8〜10個出土した甕棺が出現する。

福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。

比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。

弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。

これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。

三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。


2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。

なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。


井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。


最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。

九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。

このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

■ 平原遺跡

平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。

王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。

王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。

鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。

棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。

10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。

墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。

頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。

墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。

出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。

この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。

また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。

しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。

また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。

つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。

平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。

平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。

耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。

耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。

平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。

平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。

右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。

平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。

三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。

ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。

伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。

■ 弥生終末から古墳時代

福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。

このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。

弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。

この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。

北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。

近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。

近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。

近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。

弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。

考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。

平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。


2.柳田先生の論点                             安本美典先生


邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。

■ 考えの一致する部分と異なる部分

柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。

また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。

邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。

いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。

北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。

骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。

■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について

洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。

下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。

平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。

奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147〜160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。

柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。

ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。

3.対談                         柳田康雄先生 VS 安本美典先生


■ 平原遺跡について

安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?

柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。

安本:女性の墓か?

柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。

また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。

■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現

安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?

柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。

■ 庄内式土器

安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?

柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。

庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。

九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

■ ホケノ山古墳

安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留T式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?

『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。

柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。

一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。

また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。

ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

■ 三種の神器

安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?

柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?

安本:璧という字は下に玉がついているので・・・

柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)

璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。

東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm


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50. 中川隆[-13637] koaQ7Jey 2018年11月25日 20:13:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21127] 報告

邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡
2018年11月23日 06時00分

 邪馬台国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。

 弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。

 5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた。柳田教授が他の遺跡の出土品と比較し、形状などからすずりと判断した。長方形の完全な形に近い状態のものが1個(長さ約10・4センチ)で破片が4個。いずれも厚さは0・5センチ前後で、破片も含めて両辺が確認できるものは幅が約4・4〜5・4センチ。3個には朱を使った跡があるという。

 西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「政治だけでなく経済でも文字が使われていた可能性が高まり、日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」と評価。柳田教授は「交易で普通に文字を使っていたと考えられる。他の遺跡の出土品を見直せば、もっと見つかるかもしれない」と話している。

=2018/11/23付 西日本新聞朝刊=
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/467782/


北九州の くに では漢文で朝鮮の人間とコミュニケートして、中国製の鏡を太陽神として崇拝していたという事ですね。

つまり、北九州の くに というのは朝鮮との貿易拠点で、倭人用の市場だったという事ですね。

当然、くに の人間は華僑か漢民族系朝鮮人でしょう。



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51. 中川隆[-13633] koaQ7Jey 2018年11月26日 11:21:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21142] 報告

畿内は朝鮮からの渡来人に完全に乗っ取られた


埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。


▲△▽▼


小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落

われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

(中略)

身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)


▲△▽▼

網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。


▲△▽▼


生体の頭長幅指数分布の分布図
http://i.imgur.com/RXXfQ0q.gif

最初は、化石でなく生体の頭長幅指数分布の分布図である。

頭長幅指数とは上から見た頭骨について長さに対する幅の百分比であり、値が大きいほど短頭である(丸い頭である)ことを示す。

この場合、朝鮮半島と同様に九州から中四国、近畿そして関東にかけて、短頭の地域が分布している。

 日本学術会議の研究班は1949年から4年をかけ全国5万6千人を対象に日本人の生体を計測した。

小浜基次はこの結果の地方差から東北・裏日本型と畿内型に分類し、
「その2つの型の分布状況を歴史的に解釈すると、まず、アイヌ系の東北型が広く日本に分布していた。

その後、朝鮮半島から朝鮮系が渡来し、畿内、瀬戸内に本拠をしめ、一部は東進して南関東に達した。

この畿内型の周縁や西日本の離島に東北型がのこっているのも、先住民であったからであろうといっている。

上田常吉はこの後来の朝鮮系が弥生文化をもたらしたと解釈した。」
(樋口隆康「日本人はどこから来たか」講談社現代新書、1971年)

▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値

(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い

+2.12…畿内 ←★ (アッ…
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州


▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離

(山口敏『日本人の顔と身体』より)

0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
- - - - - - - - - - -  日本と朝鮮の境界
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島


▽分離型耳垂(福耳)の出現率(兵庫医大・欠田名誉教授)

アイヌ 96.2%
奄美諸島 77.24%
新潟県 72.8%
山形県 70.5%
青森県 63.3%
三重県 60.4%
- - - - - - - - - - -  日本と朝鮮の境界
山口県 36.88%
京都府 36.6%
朝鮮半島 32.6%


▲△▽▼


▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』

▼中上健次(和歌山県出身・作家)
『大阪はね、ほとんど韓国と一緒の土地だと思うんです。着るものとか街並みだとか、ものすごく韓国に似てますね』

▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』

▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』

▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』

▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』

▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』

▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』

▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』

▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』

▼ハシゲ徹(大阪民國総統)
『大阪の人たちは韓国人と非常によく似ている』

▼網野善彦(山梨県出身・歴史学者)
『以前サントリーの会長が東北には未開なクマソが住んでると言って問題になりましたが、あれは関西人の発想です』

▼戸田恵梨香(神戸市出身・女優)
『神戸って大阪と一緒にされるの凄い嫌なんですよね〜大阪は下品!汚い!』

▼堤真一(西宮市出身・俳優)
『兵庫は大阪と違って洗練された町なんで』

▼森喜朗(石川県出身・元首相)
『大阪は日本のタンツボ』

▼ローラ(東京都出身・モデル)
『アニョハセヨは関西弁』

▼吉田定房(公卿、14世紀)
『赤ん坊級に弱い関西人が一騎当千の鎌倉武士に勝つなんて無理ゲー』

▼人国記(戦国時代の地誌、16世紀)
『関西侍は弱兵、卑劣、欲心深く、狐が服を着てるだけ』

▼武田信玄(戦国最強の将、16世紀)
『関西人は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯もする』

▼甲陽軍鑑(甲斐武田の軍学書、17世紀)
『関西侍どもはあまりにも弱すぎる。そこいらの町人レベル』

▼雑兵物語(江戸時代の兵法書、17世紀)
『関西侍は馬にも乗れねえ屁っぴりだんべい』

▼葉隠(佐賀鍋島藩の武士道書、18世紀)
『関西侍は卑怯者だらけ。真似するなよ』

▼薩摩兵(西南戦争の頃、19世紀)
『またも負けたか八連隊(=大阪兵)、それでは勲章くれんたい(=京都兵)』

▼全国体力テスト(文部科学省、21世紀)
『大阪男子の体力は47位で全国ビリ、学力は45位』

▼向江松雄さん(鹿児島歩兵第145連隊)
『大阪なんかな、「またも負けたか8連隊」ち、大阪なんか言いおったっじゃっどんな』

▼古瀬正行さん(久留米第18師団)
『大阪とか京都の兵隊は途中で会ったけどその場でビンタですよ。「こん、ばかたれが」っていうような状態だったですからね、うん』

▼坂本芳次さん(自動車第34連隊)
『うちの部隊にも何名か大阪人がいましたよ。もうこんな「ぜえろく」っていってみんなから蹴飛ばされてたけどね』

▼田辺聖子(大阪府出身・作家)
『浪速の男どもはみな争いごと好まず、膂力(腕力)にも乏しい』

▼司馬遼太郎(大阪府出身・作家)
『大阪兵は日本最弱。上方者が兵にむかないのは当然なこと』

▼樋口清之(奈良県出身・考古学者)
『平安末期の関西人は、本当に男でも女のような体質ですね。肉体的鍛錬をしませんと関節が小さいんです』


▲△▽▼

道府県別朝鮮人人口(1940年) 
典拠:内務省警保局『社会運動の状況』、総理府統計局『国勢調査報告』

01 大阪312,269
02 福岡116,864
03 兵庫115,154
04 東京87,497
05 愛知77,951
06 山口72,700
07 京都67,698
08 北海道38,273
09 広島38,221
10 神奈川24,842
11 岐阜20,093
12 長崎18,144
13 静岡15,726
14 岡山11,887
15 福井11,725
16 三重11,660
17 和歌山11,298
18 山梨9,514
19 奈良9,232
20 佐賀8,693
  長野8,152
  大分8,046
  滋賀7,792
  島根7,146
  熊本5,699
  福島5,549
  愛媛5,506
  宮崎5,476
  石川5,169
  千葉4,886
  埼玉4,884
  群馬4,544
  新潟4,365
  茨城3,877
  富山3,876
  高知3,744
  岩手3,721
  鹿児島3,220
  鳥取2,678
  香川2,214
  青森2,175
  栃木2,091
  宮城2,015
  秋田1,678
  徳島1,343
  山形1,048
  沖縄109

▲△▽▼


【難波=朝鮮】

摂津の地域では、難波の地にあたる東生(成)、西成の両郡に吉志系の氏族と三宅忌寸とが居住していたことが知られる。

東生郡では難波忌寸・日下部忌寸、西成郡では吉士・三宅忌寸が、それぞれの郡の郡領をつとめる有力氏族であったのであろう。

吉士は朝鮮語の首長を意味する語に由来し、新羅では官位十七等の十四位の称にも用いられており、これを氏姓とする氏族の実体は渡来系氏族であると思われる。
『日本書紀』によると、難波忌寸がもとは草香部吉士であることが知られる。
(『大阪府史』)

【浪花っ子=朝鮮人】

高権三『大阪と半島人』(1938年)より

・大阪の半島人は平壌人口よりも多い。
・大阪の浪波子には朝鮮の人の血を受けていないものは、殆どない。
・大阪の何処の通りに行っても、何処のデパートに於ても、朝鮮服の女の姿の見受けられぬところはない。

▽大阪=ヤクザ
関西に暴力団が10人おったらそのうち9人はマイノリティ(『グリコ・森永事件 最重要参考人M』宮崎学・大谷昭宏)

約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、
山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない(『文藝春秋』昭和59年11月号)

▽大阪=部落
部落民の分布は、穢多の水上と称せられる近畿地方を中心として最も多い。大阪西浜は、全国の中心をなすほどの大部落である。
(『被差別部落一千年史』高橋貞樹・大分県出身)

被差別部落の人口数からいうと、近畿が半数の50%を占め、九州、中国、四国がそれぞれ12%前後、関東、中部となると5%前後となっています。
(『被差別部落の歴史』原田伴彦・佐賀県出身)

▽大阪=在日
いま在日韓国・朝鮮人は67万人だが、うち半数が関西に住む。大阪府下は18万人で実に全国の3割に近い
(大谷晃一・帝塚山学院大学学長)

関西の3府県で韓国・朝鮮籍の永住者が全国の約5割を占める。
(仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授)

▽大阪=ヘタレ
大阪の剣術は日本一レベル低い
→鎌倉〜幕末の大阪府下三カ国で名の知れた剣豪は一人も居ない

大阪の侍は日本一弱い
→信州長野の人国記によると大阪武士は詐欺師まがいの狐侍と酷評されている

大阪に武士道などない
→佐賀の葉隠に上方武士は打算で動く卑怯者とある

▽大阪=帰化人
→近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する(国民百科事典・平凡社)

→大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

→朝鮮系の土器の列島内における分布は、畿内の河内、大和にとりわけ多い(『アジアからみた古代日本』)

→河内国(大阪府)は列島随一の渡来人(朝鮮半島)の集住地域(熊谷公男・東北学院大学教授)



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52. 中川隆[-13632] koaQ7Jey 2018年11月26日 14:28:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21145] 報告

耳かきで分かるあなたの先祖 意外な勢力図 2011/1/21
https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000

人間の耳あかは、各自の体質(遺伝子)によって、乾いて粉状になる乾型(カサカサ)と、松ヤニのように粘り気のある湿型(ネバネバ)の2種類に分かれる。通常、耳そうじをする際、カサカサな人は小さなスプーンのような形をした「耳かき」を使い、ネバネバな人は「綿棒」を使う。ところが、こんな奇妙な話を耳にした。

「日本ではおなじみのあの『耳かき』が、海外ではほとんど見かけない」というのだ。耳そうじがしたくても、現地のホテルや店に「耳かき」が見当たらず、困った経験をした人も多いらしい。

どうしてなのか?

不思議に思って、耳あかの種類を決める遺伝子を発見した北海道医療大学の新川詔夫学長に取材してみた。

「実は日本では7割から8割までがカサカサな乾型なんです。逆に、欧米ではネバネバな湿型がほとんどで乾型はあまり見られない」。新川さんはこんな“逆転現象”があると教えてくれた。そのため、日本では「耳かき派」が主流で、海外では「綿棒派」が主流になっているというのだ。


図1と表2を見てほしい。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000


新川さんらが世界33民族を対象に調査した世界の乾型遺伝子の出現率である(耳あかが実際に乾型になる割合は遺伝子出現率を2乗した値)。世界における乾型と湿型の勢力分布がはっきりと読み取れる。

調査によると、たしかに世界では湿型が圧倒的に多く、乾型は東アジアに偏在している。乾型はとりわけ黄色人種によく見られる特徴で、耳かきを使った耳そうじは、世界でも東アジアを中心とした地域に限られるようだ。

さらに分析を続けてみよう。

乾型遺伝子の出現率が最も高いのは中国北部やその周辺(たとえば中国山西省や韓国大邱市は100%)。ところが、中国北部から離れるほど出現率が低下する。

中国北部からやや離れた日本の平均は7〜8割程度。タイでは7割程度、インドネシアでは5割程度、カザフスタンでは4割程度となり、ヨーロッパまで行くと1〜2割程度に下がる。そして、さらに遠方のアフリカや南米ではついに5%を切る。

この調査から何が分かるだろうか?

実は、各自の遠い先祖のルーツをたどることができるという。


「もともと人間の耳あかはすべて湿型だった。ところが、数万年前に中国北部やモンゴルの周辺で遺伝子の突然変異に伴い乾型の耳あかが生まれ、周辺地域に広がった」


新川さんはこんな仮説を披露する(図3)。乾型と湿型の“逆転現象”はこうして生まれたというわけ。

https://style.nikkei.com/article-image?ad=DSXBZO2189245019012011I00000&ng=DGXBZO21914010Z10C11A1000000

かつて、アフリカで誕生した人類の祖先は世界各地に広がり、黒人、白人、黄色人などに分化した。そのうちの中国北部にいた黄色人の中から乾型の耳あかが生まれた。「それが寒冷気候への適応だったのか、感染症への抵抗性だったのか、理由はまだ不明だが、ある特定の環境下で乾型の耳あかを持つ人は生存に有利だったのではないか」と推測する。

では、日本にどう伝わったのか。

「弥生時代以来、日本に移り住んできた渡来人が乾型の遺伝子を運び込んだ」と新川さんは見る。もともと日本の先住民だった縄文人は、白人や黒人らと同様に湿型ばかりだった。そこへ、渡来人が高度文明や技術、専門知識などとともに乾型の遺伝子も持ち込んだらしい。

乾型の遺伝子は縄文人と混血を繰り返しながら日本人の血に溶け込み、やがて、現在のように湿型と乾型が混在するようになった(図4)。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000?page=2


しかも、現在も遺伝子の混血は進行中だという。

実は、その痕跡を示す統計がある。


図5と表6は、日本国内の耳あかの乾型と湿型の勢力分布を示したものだ。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000?page=3


新川さんらと共同で県立長崎西高校が調査した都道府県別の乾型遺伝子出現率(対象1963人)をもとに作成した。最も高いのは京都、次いで岐阜、大分、愛媛、福井……。逆に最も低いのは岩手、次いで沖縄、広島、宮城、山梨……。

調査を見ると、「乾型は西日本で特に多い」というざっくりした傾向が浮かび上がる。詳しく言うと「乾型は近畿地方で圧倒的に多く、さらに四国北部、九州東部へとつながる臨海地域にも集中している」という。

これは何を意味するのか?

「渡来人が通った足跡のように見えませんか?」と新川さんは言う。「大陸から来た渡来人は中央権力があった近畿地域を目指して移り住んだ。そのルートに沿う形で、乾型遺伝子が多く残った」というのだ。

この仮説によれば「耳あかが湿型の人は縄文人、耳あかが乾型の人は弥生人(渡来人)が祖先」ということになる。何だか、太古の人との「きずな」を見せられたような気がして、歴史のロマンをかき立てられる。

実は、これとよく似た現象を以前、このコラムで書いたことがある。

2010年7月2日に掲載した「全国酒豪マップ」――。耳あかと同様、人が酒に強い(酒豪)か、弱い(下戸)かも各自の体質(遺伝子)で決まる。もともと人間は酒に強かったが、中国南部で酒に弱い遺伝子が突然変異で生まれ、周辺に広がったという話だ。

下戸の遺伝子は渡来人とともに日本に伝わり、酒が強い土着の縄文人との混血で混ざり合った。今では下戸と酒豪が混在しており、近畿、中部、瀬戸内、九州北部など渡来人が移り住んだルートに特に下戸が多い。

比べてみると、たしかに「全国酒豪マップ」との共通点は多い。

例外はあるが、乾型遺伝子の出現率が上位の都道府県は近畿、四国北部、九州東部など下戸が多い地域と重なり、一方の出現率が低い都道府県は東北、四国南部、九州西部など酒豪が多い地域と重なっている。

最後に新川さんにこう尋ねてみた。

「耳あかがカサカサな乾型の人は、そのまま酒に弱い下戸ということになるのですか?」。ともに祖先が渡来人と考えられるからだ。耳あかの種類で酒豪か下戸かが判断できるのなら、便利に違いない。

だが、残念ながら「耳あかと下戸の遺伝子は直接は関連していない。乾型だからといって、その人が必ずしも下戸だとは限らない」という答えが返ってきた。それぞれ、遺伝子上はまったく別の現象らしい。つまり、乾型の耳あかの持ち主が酒豪だったり、湿型の耳あかの持ち主が下戸だったり、はっきりとは区別できないらしいのだ。

とはいえ「どちらも『渡来人と先住民の縄文人が混血しながら日本民族を形成した』という仮説を支持している」と新川さんは言う。

現代の生活では、耳あかの違いも、酒豪か下戸かの違いも、生命を脅かすほどの決定的な要因にはなりえない。ただ太古の時代は謎に包まれている。予想もできない出来事が大きな役割を果たしていた可能性だってある。

乾型耳あかや下戸の遺伝子がなぜ淘汰を免れたのか――。その完全な全体像を解明するには、まだまだ時間がかかりそうだ。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

53. 中川隆[-13623] koaQ7Jey 2018年11月27日 11:59:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21172] 報告

諏訪春雄のホームページ
http://home.s00.itscom.net/haruo/index.html

諏訪春雄通信10 2002年 9月

9月21日(金曜日)午後5時から、「中国少数民族の祭りと芸能―トン族・苗族・土家族の世界―」というテーマで、今年の夏におこなった中国調査の報告会を実施しました。


中国の長江中流域地帯には女神信仰がゆきわたっています。たとえば、私たちが調査したトン族社会では、薩神とよばれる民族の祖先の女神にたいする信仰がさかんです。薩神は薩歳ともよばれています。薩はトン族語で祖母を意味します。祖先の女神ということになります。

トン族の神話では、彼らの世界を創生した人物は薩神の子孫姜良姜妹の兄妹です。天下に大洪水がおきて万物がほろんだとき、薩神が送ったひさごにのってたすかった兄妹二人が夫婦となって、山川動植物を生み、トン族をはじめとする人類の祖先になったというのです。水稲農耕もこの兄妹がつくりだしたものとつたえられています。

薩神はまた隋唐時代の女英雄キョウニの伝説と習合しています。キョウニは、都から派遣された官吏の苛政に反乱をおこした村人の先頭にたってたたかい、幾度も勝利をおさめますが、最後は大軍にかこまれて自殺した女性です。

後人は彼女の霊をなぐさめるために祭壇をきずき、神としてまつりました。このキョウニが薩神と同一視されて崇拝の対象になっています。

薩神信仰とならんで、トン族の二大信仰とよべるのが、太陽信仰です。鼓楼、住居、男女の正装、帽子、その他に円形の鏡として造型された太陽をみることができます。年中行事のなかにも太陽信仰は浸透しています。

また、トン族の男女は雨具ではない紙製の傘を冠婚葬祭や日常生活に頻用します。この傘は太陽を象徴するもので、辟邪の働きがあるとされています。

この太陽信仰と薩神信仰はふかくかかわっており、トン族の人々は両者を同一とみなし、太陽光線は薩神の威力をあらわすものとかんがえています。

日本の創世神話とトン族神話には興味ぶかい一致があります。『古事記』によるイザナギ・イザナミを主人公とした創世神話とトン族神話には以下のような一致点があります。

@ イザナギ・イザナミの二神は、神世七代の洪水後に男女対偶神として誕生し、国土の生成、始動にかかわります。姜良姜妹の二神は、洪水のさいにひさごのなかにはいって命がたすかり、国土と人類の生成にかかわります。

A イザナギ・イザナミの二神は、天神の命をうけて、まず天の浮橋に立ち、海をかきまわして得たオノゴロ島に降り、天の御柱をめぐって結婚します。姜良姜妹の二神は最高神の薩神のはからいで結婚します。

B イザナギ・イザナミの二神は、はじめヒルコなどを生んで失敗しますが、天神の指示をあおいで大八島国および石・海・水門・山野の神々を生んでゆきます。イザナギは日向の橘の阿波伎原でミソギをします。そのさいに防塞神や穢れから成る神またはこれを直す神、海の神などが出現し、最後に左右の眼と鼻をあらうと、アマテラス・ツクヨミ・スサノオが誕生します。姜良姜妹の二神は、十ヶ月に満たない九ヶ月で一人の男子を生みます。その子は、頭はあるが耳はなく、眼があって脚がない不完全な人間でした。その身体が斬りくだかれて民となり、手や指が地におちて高峰となり、骨がおちて岩石に化し、頭髪は万里の河川となり、脳がおちて土手や田畑になり、歯牙が黄金白銀になりました。肝腸が長江大河となり、野牛や野鹿、山脈、三百六十四の姓、トン族をはじめとする人類が誕生しました。

両神話のあいだに、洪水から生存した男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、その結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が生まれたがつぎに国土と人類などが誕生したこと、しかもそうした行為が薩神(『古事記』では天神)の指導ですすめられたことなど、世界創造神話の基本構造が一致していることが注目されます。

さらに薩神とアマテラスとのあいだにもつぎのような一致点があります。

@ 民族の祖先の女神、A太陽神でもある、B稲作の神である、C歴史上の人物(女性英雄神と皇室の祖先)と習合し祭壇がもうけられた、の四点です。

トン族の神話が日本神話の直接の原型であったなどと主張する気はありませんが、長江中流地域が日本の稲作の源流であったことは疑問のない事実である以上、稲作にともなう文化の交流についても真剣に検討する必要があるとおもいます。

この問題についてはつづけてまたこの通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa10.htm


諏訪春雄通信 11

東アジアの王権の問題について、夏期の中国調査の結果をふまえて、その後、かんがえたり、調べたりしたことをのべます。私の最終目的は、日本の天皇制の解明です。しかし、そのためには、東アジア、ことに中国大陸での王権の歴史の検討が絶対必要条件であるとかんがえています。

 

中国北方、黄河流域で巨大な王権が誕生し、南方、長江流域でなぜ巨大王権が成立しなかったのか、という問いについて、最初のきちんとした説明をしたのは、ドイツ生まれの社会学者カール・アウグスト・ウイットフォーゲル(1896〜1988)でした。水利社会論とよばれて有名な彼の考えをまとめれば以下のようになります。

 

黄河流域は黄河文明のさかえた土地である。定期的に氾濫をくりかえした黄河の大量の土砂が堆積してできた沖積平野であり、そのままでは農耕に適せず、大規模な潅漑工事が必要であった。そのため、この土地では、大量の人手をあつめて水を支配しなければならず、それが可能な強大な力をもった者が、王権を獲得し、巨大国家を建設した(平野義太郎監訳『新訂 解体過程にある中国の経済と社会』原書房、1977)。

 

この水利社会論は、現在かなり旗色が悪く、日本でも戦後きびしい批判にさらされています。批判は二つにわけることができます。一つは、彼の政治性にたいする反発です。はじめマルクス主義者として出発したウイットフォーゲルはアメリカにわたって反共産主義者にかわりました。その政治理論から、進んだヨーロッパ社会にたいする停滞したアジアという図式をつくりあげました。この図式が不評を買って、批判者の舌鋒をするどくさせたのです。

 

もう一つは、彼の水利社会論そのものにたいする批判です。最近の代表的な批判者二人を紹介しましょう。中国環境史学者の原宗子氏(流通経済大學教授)は、農業のために黄土は多量の降雨を必要とし、でなければ人工的な潅漑がもとめられるというウイットフォーゲルの主張は空想にすぎないとしりぞけ、年間降雨量そのものが不足していない華北の多くの地では、降った雨や雪の水分を発芽期までどう保持するかが問題になるのであり、潅漑の必要など多くの地域で存在しないと断定します(「土壌から見た中国文明」『四大文明』NHK出版、2000年)。

 

批判者をもう一人紹介します。日本の考古学界はフィールドワーク重視一色です。遺跡を発掘しない考古学者を日本では考古学者とはみとめません。ところが、欧米では考古学理論とか比較考古学という学問方法が市民権を得ています。自分では発掘体験のない土地の発掘報告をもとに、比較をこころみる学問です。

 

カナダ・モントリオールのマッギル大學人類学部教授のブルースG・トリッガー博士は、考古学理論家として現在もっとも生産的な仕事をしている学者です。彼は水利社会論をつぎのように批判します。「いっそう大きい潅漑システムへの要求が結果として文明発展の初期段階に専制国家を生む、というかつての通説は、初期文明においては大部分の水利施設が小規模で断片的であったという特徴を、認識していなかった。大規模な国家管理の潅漑システムは、国家の産物であり、その逆であったようにはみえないのである」(川西宏幸訳『初期文明の比較考古学』同成社、2001年)。

 

こうした批判論に接しますと、ウイットフォーゲルの水利社会論の破綻はみとめざるをえないようです。しかし、黄河流域における巨大王権の誕生という事実をどのように説明するのかという問題は、依然そのままにのこります。

 

水利社会論にかわって提出されている論を検討してみます。

 

前述の原宗子氏はつぎのように説きます。「人類が摂取するエネルギー源として太陽エネルギー利用効率の点でもっとも効率的なのは穀物生産である。当時における人工増加のポイントは、いうまでもなく食糧の確保にあったから、穀物生産を発展させた社会が、人口増加でも軍事力増強でも、他の方法で暮らしている社会にくらべ優位に立ったわけである」(前掲論文)。

 

穀物生産農業が巨大国家を誕生させたという考えです。しかし、この説明は成立しません。年間の降雨量も平均温度も農業に適さない黄河流域(前掲の原氏の批判にもかかわらず、この事実は疑問がありません)で巨大専制国家が誕生したのに、あらゆる条件がより農業に適した長江流域で巨大専制国家がなぜ誕生しなかったのか、という問題の解答にならないからです。

 

北中国と南中国の農耕の発展形態に周到な目配りをしながら論をすすめ、巨大国家成立の秘密を説きあかそうとした論文が、やはり中国史学者の岡村秀典氏(京都大學助教授)の「中国文明の起源―農耕のはじまりから国家の成立へー」(前掲『四大文明』)です。

 

氏は、殷墟から出土した甲骨文に大規模な祭祀儀礼の存在をしめす文言がきざまれていることに注目します。そして、巨大な祭祀儀礼をいとなむために、それをささえる経済システムを整備し、農業の大規模経営がおこなわれ、その結果、巨大な専制王権が誕生したと主張します。

 

しかし、この論も誤っています。事実は逆です。巨大政権が成立したから、それを維持するために巨大な祭祀がいとなまれたのです。そうした事例はいくらでもあげることができます。日本の大和政権成立後の国家祭祀整備や大規模化がさしあたっておもいうかびます。

 

湿潤地帯と乾燥地帯のはざまに巨大な大河文明が誕生したという、文明史学者安田喜憲氏の学説は、ウイットフォーゲルに匹敵するスケールの大きなものです。

 

ユーラシア大陸を、大きく湿潤地域のモンスーン・アジア、大西洋地帯と、乾燥地域の乾燥アジア、北方アジアに二分し、これまで四大文明といわれてきたメソポタミア・エジプト・インダス・黄河の四大文明は、そのはざまをながれる大河のほとりでおこっていると主張し、乾燥地帯の牧畜民と湿潤地帯の農耕民の接触によって大文明は誕生したと主張するのが、安田理論です(『大河文明の誕生』角川書店、2000年)。

 

牧畜民は主食の穀物を農耕民との交易によって手に入れないかぎり生きてゆくことができない。この牧畜民に主食となる穀物や野菜を提供した人々こそ、乾燥アジアとの接点をながれる大河のほとりに生活する農耕民であった。それゆえ、乾燥と湿潤のはざまをながれる大河のほとりは、農業革命以来、農耕民と牧畜民の異文化の接触地帯になった。安田氏はそのように説きます。

 

この安田理論も、黄河文明にかぎってもいくつかの疑問があります。まず、華南に比較して、寒冷で乾燥した華北の地を湿潤地帯といえるのかという疑問です。

 

もともと、氏の説の立脚点には、1988年にはじめて氏が発見したという5700年まえにおこった地球規模での気候変動がありました(安田喜憲「五〇〇〇年前の気候変動と古代文明の誕生」『科学』五八号、岩波書店)。この変動は、北緯35度以南の大河ほとりの乾燥化をもたらした。このため、牧畜民が水をもとめて大河のほとりに集中した。この大河のほとりへの人口の集中と、もともと大河のほとりにいた農耕民とあらたにやってきた牧畜民の文化の融合が、都市文明の契機になった。これが安田理論の骨格です。

 

しかし、この論は、北緯35度以北に位置し、しかも5700年まえより1000年以上もあたらしい黄河文明に適用できないことはあきらかです。しかも、遊牧民との接触という事実の確認できない長江周辺に、巨大王権ではありませんが、都市文明の誕生したことの説明ができません。

 

批判することはかんたんにできますが、それに代わる理論を提出することは容易ではありません。ウイットフォーゲルに対する批判を丹念にたどってみると、そのことを痛感します。黄河流域に巨大王権が誕生したことは事実です。その事実にたいして納得できる説明がまだありません。

 

ここであたらしい説明を提示できなかったら、私もおなじ非難をうけることになります。次回の通信12で、私の考えをのべます。あらかじめ、私の立場をあきらかにしておけば、私は一つの理由だけを強調する一元論ではなく、複数の要因を考慮する多元論で、この問題を解明したいとかんがえます。しかも、黄河領域で最初に成立した巨大専制国家であった秦の成立要因を分析することによって、その目的を達成したいとかんがえています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa11.htm

諏訪春雄通信 12

前回の通信につづいて、東アジアの王権についてかんがえます。

黄河流域で最初に成立した巨大専制国家は秦です。紀元前221年に、のちに始皇帝とよばれることになった秦王政は、戦国6国のなかでただ一つのこっていた斉をほろぼして、天下統一をなしとげました。この中国史上最初の統一国家の成立要因を検討することによって、華北における巨大王権誕生の秘密を解明してみます。

 

@鉄製農具の出現

春秋時代の終りに、木製や石製にかわって鉄製農具があらわれ、未墾地の耕作が可能になりました。農民はかぎられた土地で氏族制を保持する必要はなく、家族単位に分解、その農民たちをあたらしく発生した官僚たちが再組織しました(西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫)

 

A潅漑工事

水利技術者鄭国の献策により、秦王政の即位元年に、渭水北岸の荒地を潅漑する大規模な工事がはじまりました。これが完成して沃野が出現し、秦国が富強になり天下統一の財政基盤ができあがりました(西嶋前掲書)。

 

B経済の発展

春秋時代の後半からはじまった鉄器の発明と普及は、農業や手工業の発展をうながし、経済と文化に繁栄をもたらしました。商業の発展にともなって、商人の往来や産物の流通もさかんになり、列国の封鎖的な国境をこえて、各地の経済はたがいに依存の度をつよめていきました(松丸道雄・永田英正『中国文明の成立』講談社)。

 

C富国強兵策

北方の強大な遊牧民族である匈奴の進入を阻止する防衛対策のうえからも、強力な統一国家の出現がもとめられました。富国強兵策を実施したために、生産は発展し、兵力は増強しました。戦国後期、秦の国土面積は全国の三分の一弱でしたが、その富は全国の十分の六に達したといわれ、騎馬戦術を得意とする軍団は無敵の強さをほこりました(松丸・永田前掲書)。

 

以上の四つは、主要な要因であって、この四つに限定されるといいはることはできません。また、たとえば、Bについて、経済の発展とまとめるか、鉄器の発明とするかは、意見のわかれるところです。

 

しかし、鶏が先か、卵が先かをあらそうことは、それほど生産的ではなく、秦帝国出現の要因はけっして一元的ではなく、多元的、複合的であったことを確認することが重要です。

 

さらに大切なことがあります。以上の四つは秦帝国出現の要因であって、そののち、漢、晋、隋、唐、五代、宋、金、元、明、清とつづいた歴代王朝のすべてに適応できる成立要因と断定することはできません。鉄器の発明は、秦成立の重要な要因ではありましたが、漢成立の要因とはいえません。

 

黄河流域の王朝成立過程を検討するためには、学問の手続きとして、秦のばあいと同様に、歴代王朝の成立要因を検討し、共通する原因を抽出するという作業が必要になります。

 

その作業の詳細を展開することは、しかし、日本の王権の成立におよぼした中国古代思想の影響という、私のさしあたっての研究テーマからずれることになりますので、ここでは必要最小限の言及にとどめます。

 

私の研究にとっては、秦につづいて、紀元前三世紀に成立し、紀元後三世紀に滅亡した漢帝国までを対象として、両国の共通性をぬきだせば、さしあたっては十分であるといえます。

 

両帝国誕生の共通要因はつぎの3点にまとめられます。

 A 匈奴を中心とした周辺遊牧民との抗争、軋轢

 B 商業を中心とした経済の発展

 C 農民勢力の台頭

 

Aは秦の4に対応します。匈奴が、モンゴル高原一帯の遊牧社会を統一して大帝国に成長したのは、秦末漢初といわれています。秦がこの匈奴の侵入にそなえて富国強兵政策をとったと同様に、漢もまた、強力な騎馬軍団で侵入をこころみる匈奴との対応に腐心し、軍備の充実につとめ、結果として国勢をのばしています。

 

Bは秦のBに対応します。漢の経済政策は商業一辺倒ではなく、税制の改革、塩鉄専売制度の実施、貨幣制度の制定など、多方面にわたっています。それらの総合的な経済政策が効果をあげて、武帝の時代には、「都鄙の倉庫は一杯になって財貨があふれている。都の銭の量は巨万をかさね、ぜにさしはくさってかぞえることができない。国庫の穀物は古米がふえて外にまで流れだし山積みになって腐敗している」と『史記』が叙述するようなゆたかな財政状態を現出させています。歴代の皇帝は、財政の好景気時代に、その資力を駆使して外征を実行し、領土の拡大と国威の昂揚につとめました。

 

Cは秦の@と共通です。巨大帝国秦を倒したのは、農民蜂起でした。決起軍の指導者の一人陳勝は、一時は、河南省の陳に農民王国を建設して王位につくほどの勢いをしめしています。最終的に秦をほろぼして漢を建設した劉邦もまた農民の出身でした。秦代以来の潅漑工事による農地の拡大と農業技術の改革が、農民に力をたくわえさせ、その爆発が秦をほろぼし、漢を誕生させたともいえます。

 

ウイットフォーゲルの水利社会論が批判の矢面にさらされていることについては、前回の通信でふれました。しかし、彼の論が批判されなければならないのは、その一元的主張であって、潅漑水利が巨大王国出現の重要な原因の一つであったことは、秦や漢巨大化の歴史の検討を通しても、みとめられなければなりません。

 

くりかえしになりますが、私の検討すべき課題は、日本の天皇家の永続です。そのために、大陸において巨大王権が交替をくりかえした黄河流域と、そうした現象のみとめられない長江流域を対比的にまずとらえてみようとしています。

 

中国で王朝交替を正当化する理論として生みだされたのが天の思想であり、日本では天皇の永続をささえる理論として太陽の思想が形成されました。これまでの通信でのべてきたところです。

 

天の思想とは、天の命令をうけて王となり、徳をうしなって天の怒りをうけて王の位置を追われるという思想です。一地方政権にすぎなかった周が殷(商)をたおして王権をうばった行為を正当化するためのイデオロギーであり、『書経』『詩経』など、儒教の書物のなかで理論が整備されていきました。『書経』の「多士」という章では、殷をほろぼした周公が、殷の遺臣たちにつげたことばをつぎのようにつたえています。

 

「汝ら殷の王室につかえていた者たちよ。天が亡国の運命を殷にくだした。そこでわが周は王国を開くべき天命を受けて、天の明らかな威光を奉じて、殷に大罰をくわえ、殷にあたえられた天命が終わったことを上帝に告げたのだ。」

 

この天の思想に対立する、日本の天皇家永続の理論的根拠が太陽の思想です。太陽の子孫だけが天皇の地位につくことができ、太陽の永続が天皇家の永続をささえるという考えで、八世紀の天武・持統の両朝のころから理論化され、『古事記』や『日本書紀』に神話体系としてとりこまれてゆきます。

 

『古事記』を例にとれば、そうした思想は全体にゆきわたっていますが、ことに、「三貴子の分治」、「スサノオの追放と五穀の起源」、「草薙剣」、「オオクニヌシの国譲り」、「ニニギの出生と降臨の神勅」、「天孫降臨」、「ホデリノミコトの服従」などの、骨格をなす神話に、天上の太陽神アマテラスの子孫の永続性と絶対性が周到にかたられています。

 

この天の思想と太陽の思想の生まれてくる母胎は、黄河流域の天への信仰と、長江流域の太陽への信仰にあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa12.htm


諏訪春雄通信 13

   前回につづいて、東アジアの王権についてかんがえます。

 

 中国古代の先秦時代、詩ということばは黄河流域でおこなわれた歌謡の歌詞を意味していました。この北方の歌謡はのちに『詩経』とよばれる歌謡集にまとめられました。『詩経』におさめられた詩篇は、周代の民俗と信仰について、かなり豊富な情報をつたえてくれます。北方の民の天への信仰をしめす一篇をつぎに引用します。

 

  ああ諸侯の楽師よ、あなた方は宗廟にいるのだから謹め。
  王はあなた方の豊作のため身を謹み正している。(この事実を)十分よく受け止めよ。
  ああ保介よ、この晩春に、
  (農事以外)また何を求めるのか、新田の様子はどうなのか。
  ああ豊作の麦をみのらせ、多くの実を収穫させたまえ。
  光り輝く上帝よ、豊作をあたえたまえ。
  さて農民たちにいそぎ耕具をととのえさせよ。
  速やかにたくさん刈りいれん。(周頌)

 

 王が臣下とともに神廟で、豊穣を天の神の上帝に祈念し、みずから苗をうえる儀礼をうたった詩です。これを籍田(せきでん)といいました。この祭りに参加した諸侯の楽師につつしんで奉仕することをもとめているのが、一行めと二・三行めです。四行めの保介は農事をたすける者です。

 

 上帝は天命を下して王朝の交替をおこなうだけではなく、豊作を実現させる豊穣の神でもあったことが、この詩であきらかです。

 

 天によって任命された皇帝=天子は、つねに天の祭りをおこない、その意思にしたがって、政治をおこないました。天の神の祭りは天子だけの特権でした。『礼記』によって郊祀(こうし)とよばれた天の祭りの内容をうかがってみます。


 天子は五年に一度諸国を巡視する。その年の二月に、まず東方の巡視をして泰山に至り、柴を焼いて天を祭り、山川にたいして望という祭りをもよおし、その地方の諸侯をあつめて会見し、かつ諸侯の国々に百歳以上の人があるか否かを問い、あれば天子みずから訪問する。そして大師(楽人の長)に命じその地方の詩歌をあつめて並べさせ、その地方の風俗を知る。(王制)


 天子が四方へ行ったときは、まずそれぞれの方角の山嶽に至り、柴を焼いて天を祭る。(郊特牲)

 柴を焼いて煙をたちのぼらせ、その煙をとどけて天をまつることを「燔柴(はんし)」といいました。柴のうえに玉と絹、犠牲などをならべ、これを燃やした祭りでした。

 

 天子による天の祭りは、地方巡行のさいだけではなく、年中行事としても定着し、後続の王朝にもうけつがれていきました。都城の四周に祭壇を常設し、その中心には天をまつる圜丘壇をもうけ、天子みずから祭祀を執行しました。その遺跡である北京の天壇をご覧になった方は多いとおもいます。すでに前漢時代にはおこなわれておりました。その祭祀でも、柴のうえに玉、絹、供物をならべ、焼いて煙を天にとどける儀礼が中心になっていました。

 

 『詩経』が華北の地の民謡や詩であるのにたいし、長江流域の楚の国でうたわれた歌謡の歌詞が『楚辞』です。『楚辞』を分析して、紀元前三、四世紀ごろの中国江南地方の信仰をうかがってみます。


蘭の湯を浴び、香水に髪を洗い、色彩うるわしい衣は花のようである。このように清潔に美しくよそおって神に仕えまつれば、神霊はゆらゆらと降りとどまり、神光はかがやかしく照らして極まりつきることがない。雲の神は、ああ、祭殿に安らごうとして、日月と光をひとしく輝き給う。竜に車をひかせ、天帝の服をつけて、神はしばらく天駆けりさまよい給う。神はかがやいて、すでにここに降り給うたけれども、たちまち遠く雲中にあがってゆかれた(雲中君)

 着飾った巫女が天の神をまつる情景をうたっています。天の神は巫女の招きで地上におりてきます。

 この詩で注意されることは、冒頭部分の神の降臨する場所が、巫女の身体そのものとうけとれることです。この個所は、原詩では、「蘭湯に浴し芳に浴す。華采の衣は英(はな)のごとし。霊連蜷(けん)として既に留まり、爛として昭昭として未だ尽きず」とあります。前の行で巫女をうたい、つづけて神霊がとどまるという表現から、神はその巫女の身体に降り給うたと判断されます。

 この詩は、江南の地のシャーマニズムが、脱魂型(エクスタシー型)、憑霊型(ポゼッション型)の二つのタイプのうち、神が巫女の身体に降りる憑霊型であったことをしめしています。

 太陽をうたった詩があります。つぎにそれを検討してみます。


 赤々と朝日は東方に出ようとして、扶桑のもとにあるわが宮殿の欄干を照らす。私の馬をおさえて静かに駆けると、夜は白白とはや明けてきた。竜に車をひかせ、雷雲に乗り、雲の旗を立てて、ゆらゆらとたなびいている。私は長いため息をついて、いよいよ天に上ろうとするのであるが、心は去りがたくて顧みおもう。ああ、歌声や色うつくしい巫女の私をなぐさめることよ。観る者は皆心やすらかに帰るをわすれる。張りつめた琴と打ちかわす鼓の音、玉でかざった台にかけた鐘を撃つ。鳴り響く横笛と吹き鳴らす笙の調べ。神巫女(かんみこ)の徳すぐれてみめうるわしいのを思うのある。
 巫女たちは飛びめぐり、カワセミのように挙がり、詩を陳(の)べ、集まり舞う。音律に応じて調子を合わせているうちに、もろもろの神の御魂が日を蔽うようにして天下る。私は青雲の上衣に白虹の袴をつけ、長い矢をとりあげて、天狼星を射る。そして自分の弓を持って立ちかえりくだって、北斗の星の柄杓をとり、肉桂のかおる薄い酒をのむ。やがてわが手綱を持って高く馳せかけって、はるかな暗黒の中を私は東へと行くのである。(東君)

 
 東君は太陽です。巫女が太陽神である東君に扮して神威を自賛しています。昇ってゆく朝日である東君が、自分をまつる地上の祭儀に心ひかれて去りがたくおもう。あまりの祭儀の盛観に、日神はついに高い空から降りてきます。太陽神は天狼神を射て、天空を征服し、赫赫と神威をかがやかし、北斗を取って、そなえられた飲み物をのんで、祭りを享受します。そして暗黒の空のなかを東へ去ってゆきます。

冒頭の朝日の光が東君の欄干を照らすという、日神と太陽が分離した表現は、日神に扮した巫女が日の出をうたったもので、客観としての太陽と主観としての日神東君が分離した形式になっています。

 このように、巫女が太陽に扮してその威力を自賛するという詩の表現が成立するのも、神霊が巫の身体に憑依する憑霊型のシャーマニズムが長江流域にひろがっていたからです。

 黄河流域では天にたいする信仰がさかんであり、長江流域では太陽の信仰がさかんでした。このことは、『詩経』と『楚辞』の詩篇からもあきらかですが、より明確なかたちでこの事実を指摘されたのは、中国史の専門である京都府立大學教授の渡辺信一郎氏です。

 今年、二〇〇一年七月二十八日(土)、二十九日(日)の両日、アジア文化研究プロジェクト主催の講演会・シンポジウム「東アジアの王権と祭り」が、学習院百周年記念会館で開催されました。両日をとおして三百五十人余りの方々が参加してくださいました。熱心な聴衆の皆さんに感謝します。

 その初日、「古代中国の王権と祭りー南郊祭天儀礼を中心にー」という題で、中国古代の天子による天の祭りについて、各種の文献を渉猟されて詳細な報告をされた渡辺氏は、結論として、講演内容をつぎのようにまとめられました。覚えておられる方も多いでしょう。

 「匈奴・韓・夫余・高句麗・わい(「さんずい」に「歳」)・烏丸など、中国北方・東北地方ならびに朝鮮半島に活動したモンゴル・トルコ・ツングース系諸族、すなわち遊牧地帯ならびに稲・雑穀栽培地帯には祭天の儀礼が広汎に存在する。しかし、中国南方、長江以南の諸族をはじめ、稲単作文化地帯に属するいわゆる南蛮、西南蛮には祭天の諸儀礼にかかわる記述はない。」

 ここでいう天とは天空または夜空にまたたく星辰をさしています。対する太陽は、昼間は天に位置していますが、夜は地平線にかくれています。太陽は地上の存在と信じられていたのです。

このような太陽にたいする中国人の考え方は、先に紹介した『楚辞』の「東君」にみることができます。そこでは太陽は、夜は扶桑の木のもとにある宮殿にやすんでおり、夜があけると竜車に乗って空にのぼるとうたわれています。同種の観念は、前漢時代初期に成立した『山海経』にもみることができます。

なぜ、黄河流域では天の信仰がおこなわれ、長江流域では太陽の信仰がさかんであったのか。次回はこの問題についてかんがえます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa13.htm

諏訪春雄通信 14

前回にひきつづいて東アジアの王権についてかんがえます。今回のテーマはつぎのとおりです。

「なぜ華北黄河流域で天の信仰が、華南長江流域で太陽の信仰が誕生したのか」

 この問題を解明するのに参照すべき現象が三つあります。
 その一つは一神教と多神教の分布です。世界の宗教を一神教と多神教にわけることがあります。一神教は、一柱の神をたてて崇拝する宗教です。一神教の神は一般的には抽象的な男性原理を有し、全知全能にして万物の創造主とかんがえられています。ユダヤ教のヤーウェの神、キリスト教の父なる神、イスラム教のアッラーの神などがそれにあたります。

 これにたいし、複数の神々を同時に崇拝する宗教を多神教とよびます。古代ギリシアの宗教、インドのヒンズー教、日本の神道、仏教、道教などがそれにあたります。

 この両宗教が生まれ、分布する地域に区別があります。一神教は砂漠地帯に生まれ、多神教は農耕地帯に多くみられます。多神教が神と人間との交流を教義に説くのにたいし、一神教は神と人間との隔絶を強調します。これは一神教が、砂漠に誕生したことと関係があるとされています。荒涼たる自然環境の砂漠では、地上から超絶する天上の神が祈願の対象にえらばれる傾向がありました。たいする多神教は豊穣の大地にいます神々が信仰の対象になりました。一神教と多神教は天の神と地上の神の対比でもあるのです。

 二つめは、シャーマニズムにおける脱魂型(エクスタシー型)と憑霊型(ポゼッション型)の分布です。通信13であきらかにしたように、長江流域では、神が巫女の身体にやどる憑霊型がさかんでした。太陽神も巫女の身体に憑依しました。他方、黄河流域の王の祭天儀礼では柴とその上の供物を燃やして、煙を天にとどけました。神は天にあって、人間の側から神に接近していました。そこでは脱魂型がおこなわれていたとみることができます。

 現在も長江南部では憑霊型がさかんであり、黄河の北方では脱魂型のシャーマンが活躍しています。私はかなり長期にわたって、江蘇、浙江、湖南、貴州、広西チワン族自治区、黒竜、吉林、内蒙古自治区などのシャーマンを調査してまわってこの事実を確認しています。天の信仰と太陽の信仰は、また、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型の問題でもありました。

 シャーマニズムでなぜこの両タイプが存在するのか、という問いについてはまだ完全な解答は提出されていません。

 シャーマニズムの研究で大きな業績をあげたM・エリアーデは脱魂型を本質とみて、憑霊型を第二次的な変化とかんがえました。その結論的な部分だけを代表作『シャーマニズム』(堀一郎訳・冬樹社・1985年)から引用します。


 アジア的シャーマニズムは、一つの古代的エクスタシー技術と考えねばならない。この原初的根本理論―天界上昇によって直接の関係を持ち得る可能性のある天界至上神の信仰―は、たえず仏教などの侵入を最頂点とする長い一連の異国からの著彩によって変形せしめられてきた。神秘的死の概念は、漸次祖霊と「精霊」との正常な関係、「憑移」にいたる関係を促進した。

 エリアーデの考えがよくうかがわれます。アジアのシャーマニズムはシャーマンが天界への上昇によって至上神と接触するエクスタシー型こそが真の姿であり、仏教などの侵入による異国からの影響と祖先崇拝によって変化が生まれ、憑移(憑霊、ポゼッション)型を増加させたが、しかし、エクスタシー型をなくするまでにはいたらなかった。このように彼は主張します。

 このエリアーデにたいし、民族学者のW・シュミットはポゼッション型を基本とかんがえ(大林太良「シャマニズム研究の問題点」『北方の民族と文化』山川出版社・1991年)、I・M・エリスは二つのタイプは共存するとみています(平沼孝之訳『エクスタシーの人類学―憑移とシャーマニズム』法政大学出版局、1985年)。

 脱魂型は狩猟文化と関わりをもち、憑霊型は農耕社会に顕著です。この事実は多くの研究者がみとめるところです。日本にかぎっても、本土では脱魂型がほとんど存在しないのに、ながいあいだ狩猟採集社会であった沖縄では他界を旅したり空中を飛翔したりする脱魂型の体験をユタなどから聞くことはまれではありません。

 地球的の規模でシャーマニズムの研究をおこなったアメリカの人類学者エリカ・ブールギェヨンとエヴァンスキーは「全世界からの民族誌的事例の通文化的統計研究において、社会の複雑度が低く、ことに採集狩猟経済にもとづく社会などでは、脱魂型シャーマニズムがふつうで、社会が複雑になり、農耕をいとなむようになると、憑霊型シャーマニズムがさかんになる傾向がある」という結論をみちびきだしています(大林氏前掲書)。

 このようにみてきますと、天の信仰と太陽の信仰を解明する重要な鍵がシャーマニズムの脱魂型と憑霊型にあることがたしかになります。

 華北の天の信仰、華南の太陽の信仰とかかわる現象の三つめは仮面の分布です。
 世界の民族に仮面をもつ民族ともたない民族があります。
 日本の仮面使用の祭りや芸能の分布状況を、『日本民俗芸能事典』(第一法規・1976年)によってみますと、南北につらぬく日本列島で、北から南へゆくほどその分布密度は濃くなり、南島とよばれる九州や沖縄の島々が濃密に仮面芸能をつたえるのにたいし、北の北海道にはこの地で生まれた仮面の儀礼や芸能が存在しません。

 北海道は北緯40度以北に位置します。おなじように朝鮮半島の仮面の祭りや芸能の分布状況を、金両基氏の『韓国仮面劇の世界』(新人物往来社・1987年)収載の表によって検討してみますと、北緯39度線より北に仮面芸能は存在しません。日本と朝鮮半島はともに北緯40線あたりに仮面芸能の北限があったことがわかります。おなじような調査を中国でおこなってみますと、やはり北緯40度の北京あたりに仮面祭式の北限があることがあきらかになります。

 しかし、地球規模に調査の範囲をひろげますと、北緯40度という緯度に特別の意味があるわけではありません。アフリカ大陸の仮面の分布は赤道を中心に南緯15度と北緯15度のあいだにみられ、北アメリカでは北緯65度のアラスカ湾あたりまで仮面をみることができます(吉田憲司編『仮面は生きている』岩波書店・1994年)。緯度に特別の意味はありませんが、世界の民族または人々に仮面をもつ人々ともたない人々のあることは確実です。

 一神教と多神教、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型、仮面の有無、の三つの現象と天の信仰・太陽の信仰はふかい関わりがあると私はかんがえます。三つの現象が解明できれば、黄河流域に天の信仰が誕生し、長江流域に太陽の信仰が誕生した理由もあきらかになると信じています。 

 四つの現象をつらぬく共通のキーワードは農耕です。多神教、憑霊型、仮面、そして太陽信仰の四者を誕生育成した社会は農耕社会でした。他の四者を生みだした社会は狩猟または牧畜社会か、農耕社会への転進のおくれた社会でした。こうした私の断定には異論をもつ向きもあるかもしれません。現存の考古学の発掘資料によるかぎり、黄河流域に農耕がはじまった時期は、長江流域に農耕のはじまった時期にそれほど遅れているとはみえないと…。

 黄河流域では紀元前6000年ころまで農耕開始時期をさかのぼることができます。河北省武安県磁山遺跡からは炭化した粟や耕作用の石製鋤、収穫用の石鎌などの農具が出土しています。

 ちょうどそのころ、長江下流域の浙江省余姚市河姆渡遺跡からは野性稲や栽培稲、耕作用の骨製鋤、炊飯用の土器などが大量に出土しています。猪を家畜化した豚の飼育もはじまっていました。それから2000年ほど経過した紀元前4000年ごろの江蘇省蘇州市の草鞋山遺跡では、人工的な水路や水田があらわれています。

 この比較だけでは、両地域はほぼおなじころに農耕社会にはいっていて差はありません。しかし、長江中流域の湖南省にはさらに1000年以上さかのぼった彭頭山遺跡群が存在し、籾や土器、石製農具、集落跡など、水稲耕作のほぼ確実な証拠が発見されています。長江流域の農耕は黄河流域の農耕を1000年以上さかのぼります。さらに湖南省の玉蟾岩遺跡からは12000年前の炭化米を出土しており、これを栽培稲とみる説が有力です。これがみとめられれば、長江中流域に稲作の起源はじつに黄河流域を6000年さかのぼることになります。

 さらに重要な事実があります。長江流域の農耕が稲作であったのにたいし、黄河流域の農耕は雑穀栽培であったということです。毎年おなじ場所に栽培すると連作障害のおこる雑穀では、粟、黍、豆類などを順番に土地を替えて植えなければなりません。その結果、黄河流域では、農耕だけでは十分な食糧を得ることができなかったために、狩猟採集経済がながく並存しました。

 ここで問題はしぼられます。なぜ農耕社会は太陽の信仰を生み、狩猟社会は天の信仰を生むのか。私はそこにいくつかの段階と理由を想定します。

 

1.農耕民は食糧を生む大地を信じ、そこに神々の存在を感得するのにたいし、狩猟民や牧畜民は大地をはなれたところ=天に神の存在を信じる。

2.農耕民の信じる大地の多様な神々のなかでの最高神が農作物の豊凶を支配する太陽神であった。

3.狩猟民は獲物の獣を追う。その獲物は身体の内部に神の分身を宿している。狩猟民はその神をつねに追うことになる。幾世代にもわたって神を「追う」生活が脱魂型のシャーマンを誕生させた。彼らの多くは神の分身の獣を守護霊としている。

4.農耕民は大地をたがやして収穫を待つ。収穫物は農耕民にとっての神の分身である。幾世代にもわたって神を「待つ」生活をくりかえした農耕民のなかのえらばれたシャーマンが、自己の肉体を依代としてそこに神を待ちうける憑霊型を生みだした。

5.仮面も神をよりつかせる依代である。憑霊型のシャーマニズムの分布地帯と仮面の分布地帯がほとんどかさなるのはそのためである。


 

 今回はこの辺で通信を閉じます。次回は長江流域の少数民族社会に太陽信仰以外の信仰を追いかけてみます。
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諏訪春雄通信 15

前回予告しましたように、長江流域の少数民族社会にひろまっている太陽神信仰以外の信仰をみてゆきます。今回のテーマは「稲魂信仰」です。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには、学習院大学内外の多くの研究者が「プロジェクト参加者」としてくわわっておられます。これまでなんらかの形で私たちの活動に関わりをもたれた方々です。その参加者の一人に曽紅さんという中国の女性がおられます。この方は、現在は学習院大学の中国語講師をつとめていますが、本来は中国雲南省のハニ族の稲作について調査研究をかさね、すでに多くの論文も発表している比較民俗学者です。私の中国調査にもよく同行され、各地の民俗をいっしょに見てまわった方です。

 曽紅さんの研究の核心は雲南省ハニ族の稲作儀礼と日本の稲作儀礼との比較研究です。彼女はそこに多くの共通性を発見しましたが、しかし、なぜ遠く離れた雲南のハニ族と日本とのあいだに稲作にかかわる共通の信仰や儀礼が存在するのかという問いについては判断を保留しています。というよりも、明確なことはわからないというのが曽紅さんの本音のようです。

 彼女の研究の一端を紹介します。
 ハニ族の年中行事のうち、稲作に関係する行事にはつぎのようなものがあります。

1月 五穀祭(穀物神に豊作を祈願する)
2月 ガマツ祭(稲魂の降臨をむかえる) 
3月 苗床祭(稲の苗を祭る) 稲娘の聖婚式(稲魂を水田におろす儀礼) 穀物神と田の神を祭るハォへへ
6月 夏の松明祭(松明の火に照らして稲の多産を祈願する) 水口祭(水田の水口に供物をささげる)
7月 虫送り(稲の害虫駆除の祭り) 稲花酒を飲む(初穂を神棚にそなえ稲籾をいれた酒を飲む)
8月 新米節(ホスザ 稲刈に先立ちあたらしい稲魂と家の神棚にまつってある昨年の稲魂との新旧交代をおこなう)
9月 田の神への感謝祭(主婦は水田の真中で田の神に供物をささげ感謝の歌をうたい稲刈をする) 倉入れ(新旧稲魂の交替の儀礼)
10月 松の飾りと団子飾り(松の枝と稲の籾や若草を入れた竹筒、栗の枝を玄関にかざる。団子飾りは餅花) 年取り(団子をたべる)
    曽紅「ハニ族の年中行事」(諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)

 ハニ族の古い暦法は一年を十ヶ月とします。この年中行事はその暦法によっています。このかんたんな叙述からも、(1)農家の一年の行事が稲作の作業過程とむすびついて進行する、(2)稲の祭りの中心に稲魂信仰がある、(3)稲魂は家の神棚と倉に祭られる、(4)稲魂は新旧交代する、(5)稲は人々の生命力の根源である、など、日本の稲作の祭りと共通の信仰が存在することがあきらかになります。

 家庭の主婦となった曽紅さんは、最近、中国調査を一時休止しています。曽紅さんのあとをうけて、雲南省の少数民族の稲作儀礼調査に目覚しい成果をあげているのが、麗澤大学教授の欠端実氏です。欠端氏とは国際日本文化研究センターのプロジェクトでご一緒し、しばしばお話を聞く機会がありました。
 氏の説の核心部分を引用してみます。

 現在の雲南省においても、穀物が発芽し成長し開花し結実するのは、穀霊の働きによると考え、そのための儀礼を執り行なっている小数民族は多い。アチャン族の穀霊祭は典型的なものとされる。アチャンは、稲には稲魂があって、稲魂を離れると稲は育たず、実も入らないと信じている。したがって、ぜひとも稲魂を祀らなければならないと考えている……ハニにおいても稲魂信仰は強く残され、日本の稲作儀礼と同じ儀礼が今日に至っても守られている。
 「雲南少数民族における新嘗祭」(『新嘗の研究4−稲作文化と祭祀―』第一書房・1999年)

 ハニは現在でも新穀を供える新嘗祭(フォシージャー)を行なっている。期日は一定していないが、おおむね七、八月の龍の日に行なわれる。稲魂(新穀の女神)はとても恥ずかしがりやなので、新穀を刈り取るときにはめでたい詞を唱えて、穀物を収穫する目的と新穀の女神をお迎えする誠意を表明しなければならない。穂がびっしりとつまっていて虫に食われていないものを選ぶ。刈り取った穀物は三本一くくりとし、三束に分けて先祖の位牌の所に掛け、一年中そのままにしておく。ただしお年寄りが亡くなったときにだけ持ち出して焼く。
 新米節のときにはまず先祖に供える。主な供え物としてはご飯である。(同上論文)

 氏はまたハニ族の新嘗祭の特徴をつぎのようにまとめています。

1.家の祭である。
 新嘗の時には家族全員で新穀を食べる。その際、客を招かず、家族以外の人には食べさせない例が多い。また新穀を収めた穀倉は他人 に見せようとはしない。

2.女性が主宰する祭である。
 調査した60余の村の内、11の村が「新嘗」は女性家長が主宰すると答えた。男性が主宰すると答えた村は2例であった。

3.新嘗儀礼の中心にあるのは穀霊(稲魂)信仰である。
 田畑にいる穀霊を家の中に迎え入れ祖先棚あるいは穀物蔵で休息してもらう。新穀を祖霊、穀霊および天神に供え共食する。新穀を食することは穀霊を食べることに他ならないという観念が今日も残されている。

4.穀霊信仰と祖霊信仰とが結合している。
 田畑から迎え入れられた穀霊は祖先棚に安置される。この祖先棚の移動や新設は新嘗の日に行わなければならない。

5.穀霊を保護しているのは聖樹である。穀霊信仰と聖樹崇拝とは結合している。
 ハニ族最大の祭は、田植前に行なわれる聖樹祭(アマトゥ)である。稲魂を庇護する天神が聖樹を伝わって降臨すると考えられている。聖樹は村建ての時、村のセンターとして選ばれるものであるが、西双版納(シーサバンナ)では各家で聖樹をもつ村があった。

欠端実「ハニ族の新嘗―アジア稲作の古層―」(アジア民族文化学会秋季大会発表要旨・平成13年11月11日・共立女子短期大学)


 ここでのべられている雲南省のハニ族の新嘗祭はそのままに日本の新嘗祭です。しかものちに変質してしまった日本の新嘗祭の古代の原型を推定する手がかかりさえのこされています。なぜそのような酷似性がみとめられるのでしょうか。これまでの本通信の注意ぶかい受信者ならば、その理由を容易にかんがえつくことができるはずです。

 欠端氏もまた曽紅さんと同様に、日本との類似性は指摘するがその理由についてはふれられません。雲南省は長江中流域にひろがる湖南省、湖北省などよりもさらに西南に位置し、日本からは遠くはなれた山岳地帯です。ここの稲作が、間にはさまる巨大な空間を超えて注目されるようになったのは、いまから三十年以上もむかしに、照葉樹林文化論(上山春平ら編『照葉樹林文化論』中央公論社・1969年初版)が流行したころからです。雲南省のハニ族の稲作が中国の他の土地に先んじて調査対象になったのは、じつはこの照葉樹林文化論の影響でもあったのです。

 1980年代、アジアの稲作の起源地としては、インドのアッサム州から中国の雲南省・貴州省にかけての高原地帯が有力でした。いわゆるアッサム・雲貴起源説です。この説をささえる重要な根拠は、この高原地帯で日本の農学者渡部忠世博士によって野性の稲が発見され、さらに、3、4000年まえにさかのぼる栽培稲が見出されたことでした。渡部博士の説は、1977年に『稲の道』(日本放送出版協会)として発表され大きな影響を学界にあたえました。

 このアッサム・雲貴稲作起源論のうえに華麗な照葉樹林文化論が強化され、日本の学界をにぎわしたことはご記憶の方も多いとおもいます。照葉樹林文化というのは、西ネパール付近からヒマラヤの南山麓を通り、中国南西部を経て西日本にいたる帯状の地帯にひろがっていた照葉樹林地帯(照葉樹林は、クスノキ、シイ、ツバキなどの、葉は革質で光沢のある常緑広葉樹の林で、日本では九州、四国、関東までの沿岸部に分布します)に生まれそだった文化で、焼畑農耕にもとづく雑穀栽培、ナットウやなれずしなどの醗酵保存食の利用、高床式住居の住居形式などなどの文化複合を形成しています。稲作もまたこのルートをたどって日本に到達したと主張されました。

 しかし、湖南省が稲作の源産地として確定した今日、照葉樹林文化論の骨格はくずれました。ほぼ4000年前の雲南省の稲作は、それよりもさらに4000年以上さかのぼる長江中流域から伝来したものと推定されます。したがって雲南の地にひろまった稲作の祭りや信仰もじつは長江中流域が起源地であったということになります。

 日本の稲魂信仰と雲南省ハニ族の稲魂信仰の共通性は、長江中流域の稲作民の稲魂信仰が東西に伝播したためであるといいきることができます。そして、私たちはすでに、湖南、湖北、貴州などの少数民族社会にその原型となる稲魂信仰を見出しています。

 次回は中国長江中流域の少数民族社会の稲魂信仰についてのべます。
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諏訪春雄通信 18 2002年 12月

 通信15で雲南省のハニ族の稲魂信仰についてのべました。最終のねらいは、中国の長江中流域ではじまった稲作が、日本へ伝来したときに、稲作の技術とともに、稲にかかわる各種の信仰を同時に日本へもたらし、日本の天皇制の基盤となった信仰・精神を形成したという事実の証明です。

 中国の少数民族ミャオ(苗)族の居住地は、湖北、湖南、四川、雲南、貴州、広西チワン族自治区などの各省にひろがっていますが、738万人におよぶ全人口(1990年の調査)の50パーセントまでが貴州省にすんでいます(田畑久夫他編『中国少数民族事典』東京堂出版・2001年)。

 ミャオ族の現在の主要な生業は稲作を中心とした農業です。山間低盆地や河谷を主体とする山間部に形成された平坦地では、付近をながれる河川の水を利用する水田稲作が中心で、一部の水田では鯉などの養殖もおこなわれています。これにたいし、山腹の斜面をきりひらいて造成した棚田では天水を利用した稲作が、段々畑ではトウモロコシ、おかぼ陸稲などが栽培されています。

 この貴州省のミャオ族のあいだに顕著な稲魂信仰をみることができます(潘定智「丹寨苗族的穀神崇拝」『貴州古文化研究』中国民間文芸出版社・1989年・他)。藩氏は穀神ということばつかっていますが実体は稲魂です。

 彼らのあいだに地上の穀物の起源について3種の神話がつたえられています。
1.大洪水がおこりこの世から穀物がなくなった。姜告略という老人がいた。老人は白バトとスズメに命じて天上の銀河のあたりから穀物をぬすませた。人間はそのおかげで稲をうえることができた。


2.むかし、人間は山の洞窟にすんでいた。そのころ、ミャオ族と漢族がおなじ洞窟に居住していた。その洞窟に一人の老婆がいて穀物と酒の麹種をもっていた。穀物は大きすぎて煮てもたべることができなかった。そののち、老婆がいなくなった。利口な人間が斧で穀物をわったところ、その破片からトウモロコシ、麦、稲、高粱、粟などが生え、また土中にはいって芋や蕨が生じた。漢族は麹種を得て、辛い酒をつくり、ミャオ族は甘い酒をつくった。


3.もともと穀物はとおくはなれた神農氏の里にあった。老人が犬に命じて穀物をとりにゆかせた。犬は途中に流れのはやい大河があったので、尾の先に穀物の粒をつけてもどってきた。そのために、現在、穀物の穂は犬の尾とおなじ形をしている。

 以上の3話は東アジアに流布している稲作神話の三つのタイプを代表しています。1の鳥のモチーフは穂落し神の伝承として中国、朝鮮、日本に流布しており、3の犬のモチーフはとくに中国南部にひろくおこなわれています。また2の洞窟から穀物を入手するモチーフは、洞窟から米が流出する、いわゆる「流米洞伝説」の変型とみることができます。このタイプは中国や朝鮮にひろがっています(大林太良『稲作の神話』弘文堂・1973年)。

 この三つの稲作神話のうち、1は日本でも東北から沖縄にまでひろまっています。穀物をもたらす鳥は多くは鶴ですが、雀、鴻などの種類もみることができます。3の犬は弘法大師伝説とむすびついてかなり変型した話がひろく流布しています。2の流米洞伝説はいまのところ日本からは発見されていません。朝鮮半島にまでつたわっていながら、海峡をこえることができず、日本につたわらなかった神話、伝説、習俗などはかなりあります。流米洞伝説もその一つです。

 稲魂のことを、ミャオ族は穀魂、米鬼、穀神などとよんでいます。稲が田圃で生長する旧暦の2、3月から8、9月のころまで、稲魂は田にあって稲の生長を見まもります。この時期の稲作の祭は稲魂を中心にいとなまれます。
 起活路 翻鼓節 撤苗 開苗門 粽節 稲魂祭 苗家稲祭 吃新節 稲魂収倉行事など、農事の節目ごとの行事がそれにあたります。

 起活路は春節(旧正月)ののちの決められた日(旧暦2月の第一亥の日など)の農事始めの行事です。河のそばの田を鋤でほりおこし、カヤ・ススキや山椒を田にさします。これは邪鬼の類の侵入をふせぐための儀礼です。

 開苗門は田植開始の儀礼です。もち米のご飯と魚を苗代にささげ、稲魂の保護を祈願します。そのときにとなえる文句のなかで、稲魂に「姑娘(娘)」とよびかけます。稲魂を女神とみなしていることがわかります。稲魂祭は、虫の害などで稲の発育が不良のとき、その原因を稲魂が田のなかにいないせいとかんがえ、鴨、酒などを持参して田にやってきて、稲魂に田にもどるように祈願する祭りです。

 苗家稲祭は、若者や娘が稲魂になる儀礼です。七月半ばの夜半、若者と娘たちが村の岡にあつまってこの儀礼がおこなわれます。指導者で歌い手になる人(巫師)が田から青々とした稲の葉(稲魂の変身とみなされている)をとってきて、えらばれて稲魂になる若者の頭上にさします。そして若者に耳をふさがせておいて、腰の鈴をならしながら、稲魂に生育をうながす歌をうたう。そのあいだに若者はしだいにトランスにおちいって、あの世にはいってゆきます。そして、途中、亡霊にあったりしながら、もっとも美しい場所までいってひきかえしてきます。これで若者は稲魂と一体になって成長することができると信じられているのです。

 吃新節は稲が成熟してきたころ、各家で田から奇数本の穂をぬき十粒の新米を古米のもち米とまぜて祖先と稲魂に感謝しながらたべる行事です。

 稲魂収倉行事は秋の収穫がおわったのち、一升の米をえらび、一把の稲束を小さな天秤棒にかけたものをその米にさし、倉におさめる儀礼です。そのときに

 九月がきました。十月がきました。穀粒はすべて倉におさまりました。稲魂様もどうぞ倉におかえりください。

ととなえます。

 ミャオの人たちにとって、稲魂は田の神であるとともに彼らの一生を守護する神でもあります。母の胎内にやどったときから、最後の死をむかえるまで、稲魂にまもられることによって無事にすごすことができると信じています。

 女性は懐妊すると巫師をよんで稲束を部屋の入口にかかげて祈祷をしてもらいます。邪鬼の類の侵入をふせぐためです。子供が成長すると、一碗の米と一個の鶏卵をいつも床の上においておきます。稲魂の保護を期待するためです。子供の衣服や帽子には穀物や米をいれた布の袋がぶらさげられています。

 病気にかかると枕もとに一束の稲の束をおいて病魔の退散を祈願します。新築のさいには、まず使用する柱に稲束、鶏、魚、酒などをささげて祈祷し、家が完成すると、大きな梁の両端に稲束をかけておきます。不幸があって巫師がよばれると、稲束が重要な役割をはたします。巫師は占いによって稲魂からその家の不幸の原因を聞きとり、災難を消滅させます。

 ミャオの人たちの一生は稲魂の保護のもとにあり、死ぬと稲魂にみちびかれてあの世にゆくと信じられています。出棺のとき、巫師は通過する道に米をまきちらし、死者をほうむる墓穴にも米を敷きます。こようにして稲魂は死者の霊魂につきそいます。

 このような事例をならべると、稲魂が祖霊神と一つになっていることがあきらかです。梁に稲束をかけて、家の保護を期待するのも、死者が稲魂にみちびかれてあの世にゆくのも、稲魂即祖先神だからです。

 そして、稲魂はまた太陽神でもあるはずです。

 この断定については、すこし説明が必要です。通信15で紹介した雲南省のハニ族の稲魂信仰では穀霊信仰が祖霊信仰とむすびついていました。その事実は、欠端実氏の報告によってあきらかです。信仰の有無や結合の判断はむつかしく、調査者のモチーフの持ち方に大きく左右されます。調査する人の側に太陽信仰というモチーフがないと、調査結果からこの部分がそっくりぬけおちてしまいます。つまり、欠端氏は穀霊信仰と祖霊信仰という二つのモチーフはつよくもっていましたので、両者の結合をとらえることができましたが、太陽信仰というモチーフははじめからもっていなかったので、調査結果からぬけおちてしまったのです。

 じつは、私がこれまでの貴州省ミャオ族の稲魂信仰の記述に主として利用した藩定智氏の報告にも、太陽神信仰という視点ははじめからないので、稲魂信仰と太陽神信仰の結合という事実はまったくうかびあがってきません。しかし、私は貴州省のミャオの稲魂信仰は太陽信仰と結合していたと判断します。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには企画を立案し、活動の基本の方針を審議する10名の運営委員がおります。著名な民俗写真家の萩原秀三郎氏もその委員の一人です。萩原氏の最近の著書に『稲と鳥と太陽の道』(小学館・1996年)があります。天皇制に焦点をしぼっている私のこの通信文のテーマとはねらいがちがいますが、稲魂信仰、鳥霊信仰、太陽信仰の三つが中国から日本へわたってきたという認識は共通しています。

 氏は、この書の中で広西チワン族自治区のミャオ族の信仰習俗にふれ、正月に村の中心にたてられる芦笙柱の本質を鳥竿、宇宙樹、太陽樹としてとらえておられます。この柱の上には鳥の作り物がかざられます。その鳥がすべて東の方向をむいているのは太陽をむかえるためで、太陽は稲の豊穣に不可欠であり、そこから柱と鳥、太陽、稲魂がむすびつくとのべておられます。したがうべき説です。

 今年の八月、私たちが中国長江流域の湖南、湖北、貴州3省の少数民族社会を調査してまわったことは、すでにこの通信でも報告しております。そのさい、調査にはいったミャオ族部落で太陽信仰の証跡をいくつも発見しています。

 8月4日には貴州省のミャオ族のー秋節という秋をむかえる祭りを見学しました。その部落入口の門の中央には木製の太陽がかざられていました。娘さんの正装の飾りにも太陽を象徴するものがみられました。
 8月11日に湖南省ミャオ族の竜舟行事を見学したときにも、竜舟や竜王廟の飾りに太陽のモチーフを見出しています。

 長江流域の稲作民族であるトン族の人たちが、稲魂、太陽、女性祖先神の三者の結合した信仰をもっていることについては、この通信10でくわしく報告しました。

 こうした長江中流域の文化複合が稲作とともに日本へ伝来したことは確実です。これまでながいあいだ、中国大陸をさすらってきましたが、次回の通信からは、比較民俗の視点と方法で、日本の王権の誕生と本質についてかんがえます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm


諏訪春雄通信 19

 この通信では日本の天皇制をささえる基本の信仰と精神が、中国の長江流域の少数民族がつたえている信仰と精神をうけついでいることについてのべます。そのために、今回は、日本の古代神話を素材とすることになりますが、しかし、私の採用している方法は比較神話学ではなく、比較民俗学です。日中両国の神話の類似を立証するのではなく、日本の天皇制をささえる基本精神の解明が目的です。

 日本の古代神話をつたえている代表的な書物は『古事記』と『日本書紀』です。この二つの書物が記述されるとき、中国の書物、それも黄河流域の漢民族の著述が、多く参照されました。よく知られている事実です。『古事記』や『日本書紀』の神話を分析するときに、留意すべき点はこの書承による修飾的な叙述を排除して、直接に天皇制の支えとなった稲作民の思想を抽出することです。

そうした修飾を排除した、日本神話の基本構造はつぎのように整理されます。主として『古事記』によります。
1.別天つ神五柱、神世七代のあとをうけ、ただよっている国土生成の命を天神からうけて誕生したイザナギ・イザナミの男女二神は、の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてオノゴロ島をつくった。その島に降り、聖なる御柱のまわりをまわって結婚する。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。


2.天神の指示をうけて御柱めぐりと発言をやりなおした二神は、淡路島以下の大八島国、吉備児島以下の六島、石、海、風、木などの神々をつぎつぎに生む。


3.イザナミは日の神カグツチを生んだときに産道を焼かれて病にかかり没した。イザナギはいかってカグツチの首を斬った。その剣の血からは雷神ほか、カグツチの身体からはさまざまな山の神などが誕生した。


4.イザナミは黄泉の国へ去る。そのあとを追ったイザナギは、妻のことばにそむいて死体を見た。「見るなの禁忌」をおかしたイザナミはヨモッシコメらに追われるが桃の実などの呪力で逃走し、黄泉の国と現世との境のヨモツヒラサカを巨大な岩でふさいでしまった。


5.黄泉の国からのがれたイザナギは、筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをする。そのとき、左眼からアマテラスが、右眼からツクヨミが、鼻からスサノオが誕生した。三貴子が誕生したことをよろこんだイザナギは、アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の世界を、スサノオに海原の支配を命じた。スサノオは父の命令にしたがわず泣きつづけたので、イザナギは根の国に追放してしまった。


6.スサノオは根の国におもむくまえに高天原のアマテラスをたずねた。スサノオの振舞のあらあらしさをおそれた姉の疑いをはらすために、天の安河をなかにはさんで姉弟は誓約をおこなった。アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。


7.誓約のあと、勝者としてふるまったスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、神聖な機織屋に逆はぎした馬の皮をなげこむなどの乱暴をはたらいた。おそれたアマテラスは天石屋戸にこもった。そのために高天原も葦原中国も暗闇となってさまざまな災いがおこった。八百万の神々は天安河原にあつまって相談され、長鳴鳥をなかせ、天香具山のサカキに玉、鏡、白幣、青幣などをつけてフトダマがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出させておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスが不思議におもってのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。神々はスサノオの鬚と爪をきって追放した。


8.高天原を追放されたスサノオが食物をオホゲツヒメにもとめたところ、鼻・口・尻などから食物をだしたので、汚いといかったスサノオはオホゲツヒメを殺害した。殺害されたオホゲツヒメの身体から五穀や蚕が生じた。


9.天上界をおわれたスサノオは根の国へむかう途中、出雲の肥の河のほとりで、アシナヅチ、テナヅチの夫婦と娘クシナダヒメにあう。娘はヤマタノオロチという八頭八尾の大蛇にくわれる運命にあったが、スサノオは八つの瓶につよい酒を用意させ、大蛇が酔って寝ているすきにきりころした。そのとき、大蛇の尾のなかから出現した剣をスサノオはアマテラスに献上した。スサノオはクシナダヒメと結婚して出雲の地にすんだ。この二神の子孫からオオクニヌシが誕生する。


10.オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられたいつわりの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。


11.白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオムナチ(オオクニヌシの別名)は兄弟のねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオムナチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。


12.出雲のヤチホコ(オオクニヌシの別名)は高志のヌナカワヒメに求婚に出かけ、歌をうたいかわして結婚した。それを知った正妻のスセリビメがはげしく嫉妬したために大和へ行こうとしたが、夫婦で愛の歌を唱和し、心とけてともに出雲の地に鎮座した。


13.オオクニヌシが出雲の美保の岬にいたとき、小舟にのって海をわたってきたスクナビコナと逢った。両神が力をあわせて国造りにはげんだのち、スクナビコナは常世国へわたっていった。国造りの未完成をなげくオオクニヌシのまえに海を照らして近づいてきた神が国づくりの協力を申しでた。この神は大和の御室の山にまつられた。


14.葦原中国平定のために高天原の神々の命令で派遣されたアメノオシホはオオクニヌシにへつらって三年たっても復命しなかった。そこでアメノワカヒコがあたらしく派遣されたが、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して八年たってももどってこなかった。しかも事情をさぐるためにおくられた雉を射殺し、高木神(タカミムスヒの別名)の射返した矢にあたって死んだ。アメノワカヒコの葬儀がいとなまれ、川カリ、鷺、カワセミ、スズメ、雉が役割を分担して歌舞音曲をつとめた。弔いにおとずれたシタデルヒメの兄アジスキタカヒコネは死者とまちがえられたことをいかって、喪屋をけちらしてしまった。


15.アマテラスはタカミムスヒと相談して、つぎにタケミカヅチにアメノトリフネをそえて葦原中国に派遣した。タケミカヅチがオオクニヌシに国譲りをせまると、子のコトシロヌシにこたえさせた。コトシロヌシは天神の御子に国譲りするとこたえた。しかし、もう一人の子のタケミナカタは承知しなかったので、タケミカヅチは力比べに勝って信濃の諏訪に追いはらった。オオクニヌシは出雲国に御殿をたててもらって住み、葦原中国を天神御子に献上した。


16.アマテラスとタカミムスヒ(高木神)はアメノオシホミミに天降りを命じた。オシホミミは自分とタカミムスヒとのあいだに誕生したホノニニギを代りに推薦した。ニニギが降臨する途中、天の八ちまたにサルタヒコが眼から光を発してあらわれた。アメノウズメにその正体を問わせると、「先導をつとめるため」とこたえた。ニニギにアメノコヤネ以下の五伴緒、オモヒカネなどの供と、三種の神器があたえられた。アマテラスは、ニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。したがって、鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。


17.ホノニニギは笠沙の岬で大山津見神の娘コノハナサクヤビメと出あった。父神は姉のイワナガヒメをあわせて献上したが、ニニギは醜い姉をかえし、コノハナサクヤビメと一夜の契りをかわした。父神は「コノハナサクヤビメをとどめた天孫のお命は木の花のようにはかないでしょう」と申しおくった。一夜で妊娠したコノハナサクヤビメをうたがったニニギにたいし、ヒメは火中出産によって天孫の子であることを証明した。そのときに生まれた子が、ホデリ、ホスセリ、ホオリの三神である。


18.ホデリとホオリは海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針と弓矢を交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。


19.臨月のちかづいたトヨタマビメは御子を生むために夫のもとにやってきた。しかし八ひろワニとなって出産している姿を夫に見られ、誕生した子ウガヤフキアエズをのこして海の宮へかえっていった。天皇家第一代の神武天皇はこのウガヤフキアエズの四男である。

 以上の19段が『古事記』のつたえる初代神武天皇誕生までの王権神話です。これらの神話の個々のモチーフについては、多くの神話学者による研究のつみかさねがあります。それらは、とうてい長江流域から伝来した稲作にともなう伝承としては解釈できない多様性をもっています。

 たとえば、7の著名なアマテラスの天石屋戸隠れについてはつぎのようなさまざまな説明がこれまでになされています。

A.アマテラスは大嘗祭の準備中に穢れにふれた。
B.日神であるアマテラスの日蝕神話である。
C.日神であるアマテラスの冬至神話である。
D.生命力の回復を祈願する鎮魂祭である。
E.大祓の儀礼の性格をもつ。

 7が以上のような多様のモチーフを複合していることはたしかですが、しかし、『古事記』の王権神話には全体をつらぬく主題があり、19段の神話素はその主題にしたがって、選択、配置、変容をくわえられていることも疑問のない事実です。私がはじめに、この通信で神話の比較研究をこころみているのではなく、王権の永続の秘密を比較民俗学の手法で解明しようとしているのだとのべたことにかかわります。個々のモチーフの由来を検討するのではなく、根本をつらぬく構造の解明とその由来が、私の研究目的になります。

 『古事記』神代の神話(多少形をかえてはいるが『日本書紀』にもいえます)はつぎのような基本テーマで編集されています。

1.日本の天皇は国土を生成し、時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である。1,2,3,5
2.日本の天皇の直接の祖先神アマテラスは太陽神、穀霊である。5,6,7,16
3.日本の天皇は天界から地上に下った。5,6,7,8,14,15,16
4.天皇以前に地上を支配していた勢力は出雲を拠点としたオオクニヌシ一族の神々である。9,10,11,12,13,14,15
5.地上勢力オオクニヌシの権力の根源もじつは天界にある。9,10,11,13
6.天皇は海の神の血統と呪力をとりこんで王権を強化した。18,19

 『古事記』神代の神話は以上の王権にかかわるテーマのほかに、国土生成(1,2)、地上と黄泉国の分離(4)、祭祀の起源(7)、穀物の起源(8)、地上の整備(13)、寿命の限界(16)などのテーマもかたっています。しかし、王権に限定すれば、以上の6つに整理されます。そして、この6つのうち、さらに日本の王権を確立させる最重要テーマが1から3までの3つです。この根本構造を決定する3つが、じつは中国南部の稲作にかかわる信仰に由来しているというのが私の基本の考えです。

 次回は新春にふさわしくこの天皇制の根本問題を中心にのべます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa19.htm


諏訪春雄通信 20 2002年 1月

2002年最初の通信を、「日本の王権神話と中国長江中流域」というテーマでお送りします。

 『古事記』を中心にまとめた日本の王権神話の最初はつぎのようになります。

 別天つ神五柱、神世七代の神々の最後に誕生したイザナギ・イザナミの男女神は、天の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてつくったオノゴロ島に天降り、聖なる柱のまわりをめぐって夫婦となる。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。天神の指示によって御柱めぐりと発言をやりなおし、大八洲の島々と自然の神々を次々に生んだが、火の神を生んだときに火傷を負ってイザナミは死に黄泉国へゆく。妻を追って黄泉国へいったイザナギは妻のつれもどしに失敗する。筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをしたイザナギは身体から、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子を得て、天・夜・海の三界を分治させる。スサノオは父の命令に不満をもつ。

 これと構成要素がほとんど一致する中国江蘇省の「三官伝承」とよばれる民間伝承を大林太良氏が紹介されています(「イザナギ・イザナミ神話と中国の伝説」『神話の系譜―日本神話の源流をさぐる』青土社・1996年)。三官とは天神水神地神の三神です。大林氏はつぎの六つの要素に分類し、イザナギ・イザナミ神話との一致を論証しています。
1.海に囲まれた島に夫婦
2.夫婦別離
3.生まれた子を流す
4.夫は水中に入り新しい妻をめとり三子を得る
5.三子は三つの宇宙領域の代表者となる
6.三子のうちの一人は、自分に割り当てられた領域に不満

 この三官伝承は『西遊記』第九回「陳光蕊、任に赴いて災いに会い江流の僧讐を復して本に報ず」を直接の種本にしています。この事実をもとに大林氏は、「三官伝説がいま紹介したような形になったのは、もちろん『西遊記』が広まってからの新しいことであるが、イザナギ・イザナミ神話と対応するような大筋は、すでに古くから呉越の地に神話として存在していたのではないか」という仮説を提示しています。

 2と3が入れ替わっただけの一致は不思議にさえ感じられます。大林氏が提案されるような母胎の神話は呉越の地に実在したのでしょうか。それはどのような形をとっていたのでしょうか。広大無辺とでもいうべき学識の持主であった大林氏はその具体例をあげることなく昨年2001年4月12日に他界されました。私どものプロジェクトも創立当初からお世話になりました。ご冥福をお祈りします。

 中国の長江中流域の稲作民トン族が明確な洪水伝説を核とした祖先神話をもっていることについては、この諏訪春雄通信の10で紹介しました。日本神話とのあいだは、A洪水から生存した兄妹の男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が誕生したがつぎに国土と人類などが誕生したこと、Cしかもそうした行為が最高神の指導でおこなわれたことなど、基本構造が完全に一致しています。

 世界の神話研究者には意外に知られていない事実ですが、洪水で兄妹が生きのこり、結婚して人類と国土を誕生させるという、いわゆる洪水神話は中国ですくなくとも58話がすでに発見、紹介されています(林河『儺史―中国儺文化概論―』台北東大図書公司・1994年)。

 著者の林河氏が私のふるくからの友人であり、昨年の夏に中国長江流域の少数民族調査を共同でおこなったことについては、この通信の9でのべました。氏は現代中国最高の民俗学者です。この神話の分布状況を、この神話を保持している民族の居住地域で整理するときわめて興味ぶかい結果が出てきます。居住地域の決定は『中国少数民族事典』(田畑久夫ほか編、東京堂出版・2001年)によりました。

雲南省 29  福建省 3  貴州省    12  広西チ自治区 3ワン族
四川省  3  湖南省 8  内蒙古自治区  2  遼寧省       2
湖北省  2  海南島 4  黄河辺     1

 この数値の総計は69となって、58話を超えます。たとえば、トン族は貴州省と湖南省にわかれて居住しています。そのさいにそれぞれを1として計算したために数値がふえたのです。

 洪水神話は、『旧約聖書』のノアの方舟で知られるように、古代オリエント、古代インド、南アメリカ、東南アジアなどにまで分布していて、その起源地についても諸説があって、一定しません。

 しかし、上掲の表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南などの長江周辺の稲作民居住地に稠密に分布していて、そこから南北にずれると、急速に減少しています。このことから、洪水神話の起源地は長江中流域である可能性がきわめて高いといえます。

 私は、さらに、林河氏の紹介例にあたらしく20余話をつけくわえることができます。収集資料の整理・検討がまだ不十分ですので発表は後日を期しますが、私の資料をくわえても、林河氏の資料の分析から得た結論はつよめられこそすれ、ゆれることはありません。

 典型的な洪水神話のいくつかを紹介しましょう。


 むかし、一人の病気がちの老女がいた。彼女は雷神の肉をたべて病をなおそうと、子供たちに雷神をとらえる方法をかんがえさせた。しかし、彼女の孫と孫娘はやさしい性格であったので、こっそり雷神に危険を知らせた。雷神は兄妹に感謝し、歯を一本ぬいて彼らにあたえ、空に雷がなりひびき、大雨がふり、大洪水がおこるようなときには、いそいでこの歯を土中にうめなさい、そうすれば二人の命はすくわれるであろうと告げた。雷神は天の門をひらいて洪水をおこし、人類をことごとくおぼれさせてしまった。兄と妹は天の門がひらかれたときに、すぐ歯をうめた。歯からは大きな瓢箪が生え、兄妹はその瓢箪を割いてなかにかくれ、洪水から身をまもることができた。旧い人類は死にたえ、兄と妹だけがのこった。兄は崑崙山のまわりをまわって妹を追いかけ、天に兄と妹が結婚してよいかどうか、うかがいをたてた。天の許しを得て、ちぎりをむすぼうとするとき、妹ははずかしがって扇で顔をかくし、結婚したあとに肉の卵を生んだ。兄がそれをくだいて人類の種をまいたという(林河著・平石淑子訳「東アジアの動物信仰」諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)。

 この漢民族の神話はほかの少数民族神話の影響下に成立したものとかんがえられます。同型の神話が、トン、ミャオ、トウチャ、チワン、プイ、コーラオなどの各民族につたえられているからです。洪水、生存した兄妹、宇宙の中心をめぐったあとの結婚、失敗、世界の生成などの、重要な要素が出そろっていることに注意してください。

 漢民族の神話と同型のミャオ族の洪水神話をつぎに紹介します。


 おおむかし、天から雷鳴とともに雨がふりそそいだ。雷のしわざである。一人の勇敢な男が鉄の檻を用意して雨のなかにとびだし、雷をとらえた。男が市へ出かけたるす、雷はるす番の子供たち兄妹にたのんで水をそそいでもらった。そのとたん、雷は檻の外へとびだし、天に飛びさった。そのとき、雷は兄妹に礼として歯を一本わたし、土中にうめるようにいいのこした。二人の子供がいわれたとおりにすると、大きな瓢箪が生えた。雷のいかりで大洪水になり、地上の生物はすべて死にたえたが、瓢箪のなかにかくれた二人は生きのこることができた。あるとき、兄が妹に結婚しようと申し出たが、妹はことわった。兄がなおもたのむと、妹は自分を追いかけてつかまえたら結婚するといった。兄は大きな木のまわりをめぐりながら妹を追いかけた。妹はなかなかつかまえられなかったが、兄は急にむきをかえて妹をつかまえた。結婚して間もなく生まれた子は、手足のない肉のかたまりであった。二人は肉塊をこまかにきざみ、天の神にたずねるために天への梯子をのぼりはじめた。しかし、大風がふいて肉の包みが解け、地におちて人間が生まれた。こうして人類は誕生した(君島久子『中国の神話』筑摩書房・1983年)。

 このミャオ族の神話でも洪水と樹めぐりが結合しています。日本の神話との一致は、樹=柱のまわりをめぐる行為が二度目に成功する細部にまでみられます。

 もうひとつ、リス族の民族創成の長編叙事詩を紹介しましょう。


 天空を黒雲がおおい、大地には強風がふきすさぶ。江水、河水がみなぎり、いまや人類は死にたえようとしていた。そのなかで兄一人と妹一人だけが生きのこった。兄妹は瓢箪にかくれて避難した。七日七夜ただよい、九日九夜漂流した。大江の水、大河の水がへりだし、瓢箪は山谷のあいだにただよった。銀刀、金刀で瓢箪をたたきわってみると、屍が大地をうずめていた。兄妹は人類の絶えるのをおそれ、櫛を二つにわり、腕輪を二つに切って交換し、兄は妻をさがしに北へ、妹は夫をたずねて南へゆく。兄と妹は大地の中央、谷の真中で出あった。兄の髪には白髪、妹の目じりにはしわが生じていた。櫛と腕輪はぴたりとあった。兄は妹にむかっていった。伴侶をさがせないのなら、兄妹で夫婦になるほかはない。妹は承知しない。もし結婚をのぞむなら針穴を弓で射なさい。兄は針の穴を射ぬいた。妹はなおも承知しない。池のほとりに臼をおき、谷のそばに臼をおき、もし結婚がうまくゆくなら、二つの臼は一つになるだろうところがした。臼はくぬぎの丘をころがって上部と下部がかさなった。天神は二人をむすびつけ、地神は臼をひきあわせた。二人は涙ながらに結婚し、リス族、漢族、ヌー族、トウロン族などを生んだ。人類は大地をおおい、活力は山野に満ち満ちた(君島久子氏前掲書)。

 この詩でも重要なモチーフはそろっています。洪水、瓢箪、兄妹、中心めぐり、神の意思による結婚など。柱のまわりをめぐる日本神話にたいし、大地をまわって二人は出あっています。柱を立てることは小宇宙(ミクロコスモス)を設定することです(諏訪春雄編『巨木と鳥竿』勉誠出版・2001年)。柱をまわるとは宇宙の中心をまわることであり、それは宇宙の星座が天界をめぐって秩序が更新されることになぞらえられる行為なのです。人類の祖先の結婚は世界の始原の時間の行為であったことをしめしています。

 もう一つ。人類最大タブーの近親婚をやぶるために慎重な配慮がほこされています。五体不満足のヒルコや肉のかたまりが最初に生まれてくるのは、インセスト(近親相姦)を犯した結果なのです。

 イザナギ・イザナミの国生み神話は岡正雄氏(「日本文化の基礎構造」『日本民俗大系』平凡社・1958年)以来、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するものと論じられ、ほぼ定説とされています。また、火の神カグツチの出産を契機としてのイザナミ・イザナミの夫婦別れも沼沢貴市氏の研究(「天地分るる神話の文化史的背景」『アカデミア』・1952年)以来、これも東南アジアに分布している天地分離神話の一種と理解されてきています。

 中国神話にたいする研究が進展していなかった時代の学説がそのまま今日までうけつがれているのです。王権を論じるこの通信のテーマからはなれますので、深入りはしませんが、天地分離神話も中国の少数民族社会に数多くつたえられています。それぞれの民族がそれぞれの天地創造(分離)神話をもっているといってよく、その数は洪水神話を超えるかも知れません。しかも多くは洪水神話とセットでかたられています。東南アジアで発見される断片的な洪水神話や天地分離神話は中国神話が波及していったものと断定できます。

 中国を中心軸として左右対称に、東南アジアと日本・朝鮮には相似の文化や民俗をみることができます。中国で変質してしまったり、うしなわれたりしたものが、東南アジアの各国や極東の朝鮮・日本にのこっている例もすくなくありません。まして、洪水神話や天地分離神話は中国大陸に数多く発見できるのです。これまでの定説は再検討されなければなりません。

 次回は「太陽と稲魂」をテーマに論じます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa20.htm


諏訪春雄通信 21

 今回は、前回お約束したように「太陽と稲魂」というテーマでお送りします。

 前々回19の通信で整理した神話素によりますと、アマテラスにかかわる神話の大筋はつぎのようにまとめることができます。

 黄泉国からのがれたイザナギが穢れをはらうためにみそぎをした左眼から誕生したアマテラスは高天原の支配を命じられた。鼻から誕生したスサノオは海原の支配を命じられたが、したがわなかったので、根の国へ追放された。
 スサノオは根の国へおもむくまえにアマテラスをたずねた。そのあらあらしさに恐れをなした姉の疑いをはらすために、姉弟は誓約をおこない、アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。誓約のあと、勝者としてふるまうスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、機織屋に逆はぎにした馬の皮をなげこんだ。
 おそれたアマテラスは天石屋戸にこもり、高天原も葦原中国も暗闇となりさまざまな災いがおこった。八百万の神々は、長鳴鳥をなかせ、玉、鏡、白・青の幣帛などをつけた榊をフトダマノミコトがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出しておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスがのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。
 アマテラスは、天降りするニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。

 『古事記』によってまとめたこの梗概からもアマテラスの《太陽神+稲魂》という本質はうかがうことができます。高天原の支配を命じられて、名がアマテラス(天空を照らす)であること、天石屋戸にこもったこと、鏡を魂とするとなどは、アマテラスが太陽神であることをしめしています。

 『日本書紀』を援用すると、アマテラスが太陽神であることはいっそうあきらかです。
 『書紀』によると、アマテラスは、日神(太陽の神)、オオヒルメノムチ(太陽の女神)などとよばれ、「この御子は輝くこと明るく美しく、天地四方の隅々まで照りかがやいた」などと叙述されています。

 天石屋戸ごもりについては、日蝕、冬至、などの解釈がありますが、いずれにしてもアマテラスが太陽神であることをうかがわせます。鏡が本来太陽をあらわしていることは、長江流域のトン族、ミャオ族などの習俗からあきらかです。

 姿をかくした太陽を鶏がよびだす招日神話が中国の少数民族のあいだに伝承されています。ここではミャオ族の「オンドリになぜトサカがあるか」という話を紹介します。

 むかし、天に住む天爺さんにはオテントサンとよばれる十人のせがれがいた。天爺さんは自分がねむっているあいだ、十人のせがれに一人ずつ空を見まわるよう命じたが、子どもたちは父の言いつけにしたがわず、皆で一度に空をまわることにした。しかし、末っ子だけは父の命令をまもって、兄たちに同行せず留守番をしていた。
 九つのオテントサンが照りつけるため、地上は干あがって作物はみな枯れてしまった。こまった人間たちは相談し、声の大きな動物にオテントサンを追いはらってもらうことにし、アカウシ、シシなどがよばれたが失敗してしまった。そこでつぎに弓の名人が太陽を射ることになり、九本の矢で九つの太陽を射落とした。
 兄たちの射落とされるのをみた末っ子の太陽は、肝をつぶし、矢のとどかない山の向こうににげこんで、二度と顔をみせようとしなかった。世の中は真っ暗闇となり、人々はこまりはてた。声の大きな動物に太陽をよびださせることになったが、シシ、アカウシが失敗し、オンドリがよばれた。しかし、しわがれ声で一回めは失敗、二回めも失敗した。猛練習をかさねたオンドリの三回めのよび声にオテントサンは東の山の頂上から大地をのぞいた。あたりは明るくなり、人々はニコニコして歓迎した。
 オテントサンはすっかりオンドリが気にいって、自分の真っ赤な服のはしを切りとって赤い帽子をつくってやった。それからは、オンドリの呼び声にきっと山の後ろから顔をだすようになった。(村松一弥翻訳『東洋文庫 苗族民話集』平凡社・1974年)。

 前半は射日神話とよばれる話型で、後半が鶏と太陽の招日神話になっています。この両神話はセットになって、中国のミャオ族のほかに、ワ、ラフ、ハニ、プーラン、リー、ヤオ、イ、チベット、チワン、トンなどの諸族につたえられています。おそらく、日本に伝来した招日神話も本来は討日神話とセットになっていたものを、前半を切りおとして、体系のなかにくみいれたものとかんがえられます(萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』大修館書店・1996年)。

 たいせつなことは、日本の王権神話の重要な骨格が中国長江流域の稲作民族の神話で説明できるということです。

 アマテラスが稲魂であるということも、『古事記』からうかがえます。

1.アマテラスが田をつくり、新嘗を主宰している。
2.地上に降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味をもつ。

 さらに『日本書紀』を援用するとアマテラスの稲魂、穀霊としての性格はつぎの記述によっていっそう明瞭になります。

1.死んだウケモチノ神の身体から生じた稲などの五穀を天の田にうえ、大きな稲穂を収穫している。
2.新穀をたべる新嘗を主宰している。
3.第二の一書によるとニニギの降臨のさいに高天原の田の稲穂をさずけている。

 皇室の祖先神であるアマテラスは、女神、太陽神、稲魂という三つの性格をかねそなえています。このような性格をもった神がトン族に信仰されていることについては、この通信の10で報告しました。トン族の薩神とよばれる神は、民族の祖先神、女神、太陽神、稲魂、歴史上の人物という五つの性格がアマテラスと一致しています。

 また、祖先神・女神・稲魂・太陽神の四位一体となった神が長江中流の稲作民であるミャオ族やハニ族に信仰されていることについては、通信18で報告しました。

 日本の王権神話の発端となっている、
1 日本の天皇家は国土を生成し時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である
2 日本の天皇家の直接の祖先神アマテラスは太陽神であり稲魂である

という二項の骨格部分が、中国の長江流域稲作地帯の神話伝承や習俗で説明できることをこれまでにのべました。

 次回は、以上の1と2につづく天孫降臨神話についてもおなじ説明方法が適用できるかどうか、検討します。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa21.htm


諏訪春雄通信 22

 前回の通信で次回は「天孫降臨神話」についてお送りすると予告しましたが、1回先延ばしさせていただき、今回は「沖縄の稲作」というテーマでのべます。

 私たちのプロジェクトは学外の各種機関から助成金をもらって活動を継続しています。その援助機関の一つ、サントリー文化財団から、沖縄祭祀研究のテーマで平成12年、13年とつづけて助成金をうけました。そのために、1月23日、大阪の財団本部で、財団理事の方々やほかの研究プロジェクト代表をまえに研究報告をしなければなりません。今回はその報告の概要をお送りします。

 日本列島へ大陸から稲がわたってきた経路は三つかんがえられます。1:朝鮮半島経由ルート、2:江南からの直接ルート、そして3:沖縄経由ルートです。この3のルートは、柳田國男が昭和36年に刊行した『海上の道』で主張した説です。

 1,2は考古学の裏づけがありますが、3には古い遺跡も出土品もありません。いまのところ、沖縄の最古の稲は、玉城の糸数城遺跡から出た、西暦10世紀ごろのもので、それより古い稲は発見されていません。したがって、考古学者や歴史学者は3をみとめませんが、一部の民俗学者や農学者のなかに、かなり根強い支持があります。

 その一人、遺伝子分析で大きな成果をあげている農学者の静岡大学助教授の佐藤洋一郎氏は、東南アジアから台湾、沖縄、九州にかけて、現在、焼畑耕作にともなう熱帯ジャポニカが点在することを根拠に、3の海上の道説は、《魅力ある仮説》といいきっています。

 一方は考古学上の証拠、他方は現在の熱帯ジャポニカの分布、という相反する事由にもとづく二つの対立した立場に、解決の道をさぐろうとして、私は沖縄と本土の稲魂信仰に注目しました。そして、成熟度に差異があることを根拠に、私は沖縄の十世紀以前の稲作の存在を疑問視しています。

 社会人類学者の伊藤幹治氏は、昭和49年に刊行された『稲作儀礼の研究』(而立書房)で、本土と沖縄の稲作儀礼の周到な比較研究をとおして、両者の異質性を指摘し、柳田國男や折口信夫らが研究の立脚点とした本土日本と沖縄の同祖論を否定しています。

 私はおなじ見方が稲魂信仰や太陽信仰に適用できるとみます。そして、本土日本の稲魂信仰と太陽信仰・祖霊信仰の結合は、稲作の誕生地である中国の長江流域の影響を直接にうけているからとかんがえます。沖縄の稲魂信仰は本土を経由して時間をかけて伝来したために、沖縄固有のニライカナイ信仰に包摂されて変質したものと判断しています。以下、私の報告書を掲載しましょう。


沖縄の太陽信仰と稲魂信仰
   沖縄民俗祭祀の源流を東南アジア・中国大陸南部・台湾などの黒潮文化圏に探る研究
                代表:学習院大学文学部 教授 諏訪春雄

 沖縄の神観念
 沖縄の固有信仰の対象となる神々を二つにわける見方がある(高阪薫「沖縄の祭祀と神観念」同氏編『沖縄の祭祀―事例と課題』三弥井書店・1987)。

A 可視と不可視

 見える神…表象認識できる特定の場に滞在する神      
アニミズムの要素をもつ自然の神々 屋敷神 井の神 カマドの神(火の神) 御嶽の神など
 見えない神…表象認識できない不特定な空間のいずこかに存在する観念的、抽象的な神
火の神 ニライカナイの神 竜宮神 アマミヤシネリヤ(開闢神) 祖霊神 オボツ神(天上や山上の神)など
 
B 信仰集団

 家レベル
オナリ神 火の神 祖先崇拝 アニミズム的な具象の神々
 村レベル
御嶽の神 火の神 ニライカナイ神 祖霊神 竜宮神 アマミヤシネリヤ オボツ神など

 このような体系のなかで、太陽神はAでは見える神、Bでは村レベルに分類できるが、ここにあげられた神々ほど顕著な神格ではない。沖縄の年中祭祀を検討しても太陽神だけを対象とした祭祀はみとめられない。粟国島の正月のユークムイ(世を乞う丘)で区長が東方にむかって豊穣を祈願するのは太陽信仰の数すくない事例である。しかし、太陽神を「てるかは」とよんでいる例が『おもろさうし』にみえるところからも、太陽が信仰されていることは確実である。

 これにたいし、稲を対象とした祭りは多い。旧暦の八月前後におこなわれる豊年祭(広義には、八重山諸島の六月下旬のプールィ、八、九月の結願、十月の種子取祭、宮古諸島の世乞いなどもふくめる)は豊穣祈願を目的とし、稲をはじめとする五穀の豊作が、豊漁、子孫繁栄などとともに対象になる。また、稲霊(魂)信仰が存在することは、旧暦八月にアマミ大島でおこなわれるショッチョガマ(片屋根のわらぶき小屋)、つづく平瀬マンカイ(招き合い)によってあきらかである。ともに収穫感謝と豊作祈願の祭であり、この祭で男、女のとなえる文句のなかに稲霊があらわれる

 稲霊が祈願対象となるショッチョガマと平瀬マンカイの基本構造は対応している。

  早朝―男性―垂直神
  夕方―女性―水平神

 ショッチョガマで男たちによってとなえられる文句はつぎのようである。


ハー、トートガナシ(神への尊称・神拝みの常套句)
八月の新節がやってきて
ショッチョガマ祭を祭ってあげましょう
西東の稲霊様は
伊津部の田袋に お寄り下さって
伊津部田袋の稲霊様は
秋名田袋に お寄り下さって
北風が吹いたら上の畔を枕にして
南風が吹いたら下の畔を枕にするように
稲を実らせて下さい
そして名を上げて下さい トートガナシ

 ここで稲霊様は天から招かれている。

 女たちが掛合いでうたう平瀬まんかいの歌はつぎのようである。


〈神平瀬〉
 玉の石に登って 何のお祝いをしましょう 西東の稲霊を 招き寄せよう
〈女童平瀬〉
 秋名の親ノロが すべての稲霊を寄せて 村があるかぎり 祭ってあげましょう
〈神平瀬〉
 朝潮の満ちあがるころは ショッチョガマの祭り 夕潮の満ちあがるころは 平瀬の祭り
〈女童平瀬〉
 今年世は変わって 不思議なことに 海の魚たちが 陸にあがってきたことよ
            (口語訳のみ 『おきなわの祭り』沖縄タイムス社・1991年)

 ここでは稲霊様は海の彼方から招かれている。

 これらの歌から、沖縄の稲霊は、1.稲の豊穣をつかさどる、2.天または海の彼方から招かれる、3.漁労、狩猟などの豊かさをつかさどる神々と同格である、などの性格がみちびきだされる。
 沖縄の稲魂信仰は固有のニライカナイの信仰に包摂されている。


 日本本土の太陽信仰と稲魂信仰

 日本本土では太陽信仰をまだ各地でみることができる。正月に初日の出をおがむこと、彼岸の社日(土地神の祭り)参り、お日待ち、天道信仰、天道念仏、天道花、お火焚き神事、おびしゃの神事、ゲーター祭などの行事や習俗となってあらわれている。

 天道信仰はとくに対馬を中心とし、北九州などにも分布する。日神信仰と稲魂信仰を合体させ、真言密教の教義で体系化したものである。天道は天童とも書き、テンドウサンとよばれる。赤米を耕作し、その稲魂を加持祈祷して神霊とし、崇拝の対象にした。このテンドウとはべつに真言密教系統の天道法師とよばれる菩薩を信仰の対象にした。この天道童子は母が日光に感精して懐妊し、成長して僧となったという伝説をつたえる。

 天道念仏は、福島、茨城、栃木、千葉などの各県におこなわれている念仏行事である。四本の竹で櫓をくんで注連縄をはり、中央に梵天をたて、供え物をして、梵天を中心にして右回りに念仏をとなえながらおどる。一月から三月彼岸にかけて集中しており、テントウすなわち太陽の信仰が核になっており、そこに出羽三山の信仰や大日信仰、念仏信仰などが集合したものとされている。

 関東地方にことに集中して分布するオビシャは、三本足の烏または烏と兎を一対でえがいた的を弓で射る正月行事である。烏は太陽、兎は月をあらわすものとされ、中国にはじまって日本に伝来した射日神話である。太陽の死と再生を儀式化したものと理解されている。おなじように、三重県鳥羽市神島で年の暮れから元旦の早朝にかけておこなわれるゲーター祭も、太陽の死と再生による秩序の更新をはかるものと理解されている。この祭では、アワとよぶぐみの枝に白紙をまいてつくった直径二メートルほどの輪を、若者たちが雌竹ではげしくたたき、初日の出とともに東の浜で高々と空につきあげる。アワは日輪をかたどり、たたくことは偽の太陽をたたきおとすことであり、空につきあげる行為は日の出を意味する。ゲーターとは迎旦つまり日の出をむかえることという。

 稲魂にたいする信仰も、前述の対馬の赤米神事以外にも本土各地でみることができる。その年の初穂を神にそなえて感謝する新嘗祭、十二月の始めに田の神をむかえて収穫を感謝し、二月のはじめに豊作を祈願して田の神をおくりだす能登半島先端部のアエノコトの行事、その年の稔りの豊さを祈願する祈年祭などの行事に稲魂の信仰をみることができるし、ハレの日の餅、悪鬼ばらいの散米、墓への供物としての洗米、病人の枕元での振り米、出産のさいの力米などにも米の霊力にたいする信仰がある。

 本土の太陽信仰と稲魂信仰は全体としてつぎのような特色をもっている。
1.対馬の天童信仰からあきらかなように太陽信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
2.能登のアエノコトにしめされるように祖霊信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
3.稲の豊穣をつかさどるだけではなく、人間の寿命や健康までを左右する米の霊力にたいするつよい信仰が存在する。

 以上を総合して、本土の稲魂信仰は、沖縄よりもはるかに成熟していると、結論づけられる。そして、稲魂信仰と太陽信仰や祖霊信仰との結合は、中国の長江中流の稲作地帯の少数民族社会におこなわれている信仰が、稲作とともに日本に伝来したものとみることができる。


稲の来た道

 よくしられているように、柳田國男は昭和36年(1961)に刊行された『海上の道』で、日本人の先祖は稲作をともなって中国大陸南部から沖縄に漂着して宝貝を発見し、その魅力にとりつかれ、また稲作の適地をもとめて、日本列島各地にひろがったという日本人北上論をとなえた。

 このような柳田の論は現在の考古学の裏づけを欠いている。

 沖縄に稲作のはいった時期は、玉城の糸数城跡から麦とともに出土した炭化米の時代判定によって、10世紀以前とみられ、そのころにはかなり栽培されていたとかんがえられる。また、1477年(尚真一)に与那国島に漂着した朝鮮済州島人(金非衣ら)の記録によると、与那国・西表・伊良部・宮古・沖縄の各島に稲作がおこなわれているとの記述がみられ、15世紀後半には沖縄全域で稲作がおこなわれていた(「いね」『沖縄大百科事典』)。

 沖縄に稲の来た道も最近の研究によれば、中国南部から直接に伝来するよりも日本本土を経由した可能性がつよい。

 本土の最古の稲は岡山県や鹿児島県などから出土しており、縄文時代前期、6000年前にまでさかのぼる熱帯ジャポニカである。おそらく焼畑耕作によって、ヒエやアワ、キビなどの雑穀とともに栽培されていた。この熱帯ジャポニカは中国大陸の江南地方から直接日本に渡来していた。

 日本で熱帯ジャポニカが焼畑で耕作されだした、ちょうどそのころ、中国江南では水田耕作による温帯ジャポニカの生産がはじまっていた。現在わかっている水田の最古の遺跡は江蘇省蘇州市の6000年前の草鞋山遺跡である。この水田は朝鮮半島をへて縄文晩期の2600年前には佐賀県唐津市の菜畑遺跡におよんでいた(浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」『日本人はるかな旅』NHK出版・2001年)。

 水田稲作は、朝鮮半島を経由せず、直接、中国から日本に伝来したものもあった。遺伝子研究によって、佐藤洋一郎氏は、水稲は、中国からの直接ルートと朝鮮半島経由ルートの二つがあったことを主張している(「DNAからみたイネの道」『日本人はるかな旅』)。

 こうした大陸から本土への稲の道に沖縄は登場してこない。

 柳田國男が主張したように、沖縄への稲の伝来を10世紀以前に想定する可能性がまったくないわけではない。

 佐藤洋一郎氏作成の「熱帯ジャポニかの分布図」によると、現在、熱帯ジャポニカは、中国南西部からインドシナ半島半島奥地にかけての地域と、フィリピンやインドネシアなどの熱帯島嶼部で栽培されている。また、熱帯ジャポニカ固有の遺伝子をもつ品種が、台湾の山岳部から南西諸島を経て九州にまで点在している。この事実から佐藤氏は、〈かつて柳田國男が主張した「海上の道」はがぜん魅力ある仮説となる〉とのべている(佐藤洋一郎氏前掲論文)。

 沖縄から古い米が出るか出ないかはいまのところ判断材料はない。また、アジアの熱帯ジャポニカの原産地は中国長江中流域であり、日本には6000年まえには伝来していた。沖縄の熱帯ジャポニカも本土経由の可能性をすてきれない。しかも、沖縄の稲魂信仰が本土にくらべて、太陽信仰や祖霊信仰とむすびつくことがないなど、未成熟または変質の事実を考慮すると、沖縄に十世紀以前のふるい稲作を想定することはむずかしい。
 沖縄の稲作の祭祀儀礼じたいが本土とはかなり異質である(伊藤幹治『稲作儀礼の研究』而立書房、一九七四年)。長い時間をかけて本土から沖縄につたわったために、独自の風土と信仰のなかで変質していった可能性がかんがえられる。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa22.htm


諏訪春雄通信 23

 今回は「天孫降臨神話」についてのべます。

 日本古代神話のなかでも、天孫降臨神話についての研究は格段にすすんでいます。この神話が、日本の王権神話のなかでも核心となる部分だからです。松村武雄、三品彰英、大林太良、西郷信綱、松前健、吉田敦彦などという名立たる神話学者の研究がつみかさねられ、日本の天孫降臨神話が朝鮮半島から内陸アジアにかけてひろく分布している、祖神の天降り神話に由来することは定説となっています。

 これまでに上記の研究者たちによって指摘されている先行神話はつぎのようなものです。

 まず朝鮮の歴史書『三国遺事』がつたえる檀君神話です。
 天帝の子の桓雄は父の命令によって、天符印三個をもって、風・雨・雲および穀物・生命・疾病などをつかさどる神々をひきいて、太白山山上の檀の木をつたわって降臨した。このさいに、熊がよもぎとにんにくをたべて、女に化身し、桓雄と結婚して檀君を生んだ。この檀君が国をひらいて朝鮮と命名した。

 おなじ『三国遺事』がつたえる首露王神話はつぎのようになっています。
 伽耶地方の村々の首長らが亀旨峰という山にあつまって、迎神の祭りをおこなっていると、天から紫色の紐がたれさがってきた。紐の端をみると、黄金の卵が六つはいっている赤い包みがあり、そのなかの一つから伽耶国の始祖である首露がうまれた。

 もう一つ、ブリヤート・モンゴル族のゲセル神話です。
 至高神デルグエン・サガンは、マラトの民の哀願を聞き、一日も早く天神を降して悪者を退治しなければならないと考えた。彼はドロン・オドウン天に全天の諸神九十九柱の主な神々と、天上に住む数千のブルハンをあつめて、悪者征伐の大評定を開いた。最初、至高神サガンの子、カン・チュルマスを下すべきことが提案されたが、チュルマス神は老齢を理由にことわった。そして自分の末子ゲセル・ボグドゥに天下りを命じるよう乞い、四歳のボグドゥが天命を拝受した。ボグドゥは、1)全天の九つの天の主宰神がもつ智謀のすべて、2)祖父のもつ黒い軍馬、3)英雄の準備金、4)祖父の蹄縄、5)祖父の短い槍、6)一人の妻を所望し、これを手に入れて下った。

 この神話を紹介された大林太良氏は、
1.天神の子が天下ることをことわり、孫がその代りに天下る。
2.天下る神が幼児である。
3.日本の三種の神器にあたるものに蒙古の六種がある。
4.日本では荒ぶる神のいる葦原中国を平らげるために神集いにつどい、その結果国譲りがおこなわれたが、蒙古神話でも、荒ぶる神を平らげるために天神の子をくだそうとして神々の大評定がおこなわれた。

という四点の類似をあげて、「おそらく元来はアルタイ語族系の牧畜民文化を母胎とした神話であって、日本へは、皇室の先祖の起源神話として入ったものであろう」と結論づけておられる(『神話と神話学』大和書房・1975年)。

 以上、日本の天孫降臨神話を北方系としてとらえる視点が定着しています。そのばあい、私がこの通信でこれまでのべてきた日本の王権神話の源流であった南方農耕地帯の神話や習俗との関係はどうなるのでしょうか。

 じつは、南方長江流域の少数民族社会にも、民族の祖先が天から穀物をもって下ったという種類の神話や伝説は流布しているのです。いままで考慮されなかっただけのことなのです。そのなかから二つの神話を紹介します。

 まず雲南省を中心にすんでいるナシ族の神話です。

 大昔、兄弟姉妹が近親婚をはたらいたために神の怒りをかって大洪水がおこり、わずかな人類はほろびました。皮鼓のなかにはいってただ一人生きのこったツォゼルウは、天神ツラアブの娘ツフブブミと出会って恋におち、天にともなわれ、父の天神に会いました。若者が気に入らない天神は、一日のうちに九つの林の木をきる、伐採した木を一日でやきはらう、焼け跡に穀物をまいて収穫する、収穫した穀物のうちじゅずかけ鳩と蟻にたべられた三粒の穀物をとりもどす、岩羊の猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、川魚猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、虎の乳をしぼってくる、などの試練を課しましたが、ツォゼルウは娘の知恵にたすけられてことごとく突破します。さすがの天神も二人の結婚をゆるし、家畜、穀物の種などをあたえて下界へかえしてやります。二人は地上の多くの種族の祖先となりました。

 前半は省略しましたが、天地創造神話と洪水型神話が結合しており、後半はスサノオとオオクニヌシの神話と同型の難題婿の話型になっています。しかも天神の娘が人間の男とむすばれて天上から穀物をもたらし、地上の多くの種族の祖先となる話にもなっています。

 もう一つ、湖南省から広西チワン族自治区にかけて居住するヤオ族の神話を紹介します。

 大昔、天は今よりも低いところにあり、人間は大木をつたわってたやすく天へあそびにゆくことができました。そのころ天神に命じられて地上の水をつかさどっていたのは天上にすむ水仙姫でした。ある日、彼女は地上からきた若者に夢中になって、水口をふさぐのをわすれ、地上は大洪水におおわれてしまいました。天神のはげしい怒りにおそろしくなった水仙姫は、若者の手をとってにげだしてしまいました。水仙姫の両親は二人をさがしまわり、月宮の桂の木の下にいる娘と若者を発見しました。たのもしい若者と娘がいることに安堵した両親は、二人に穀物の種子とゴマの種子をあたえて地上へにがしてやりました。
 地上はすでに水がひいていました。二人は穀物とゴマの種をまき、人類や動物をつくりだしました。天神は地上が元通りに豊かになっているのみて、二人をゆるしました。ただ、地上の人間が天に上ってくるのをふせぐため、天をたかくひきあげてしまいました。このときから、地上の人間は天へ登ることができなくなりました。

 このような神話はまだ数多くつたえられています。いずれきちんと分布状況を整理したいとおもっています。

 さしあたり今はつぎのようなことがいえます。
1.天孫降臨神話の骨格は北方諸民族の山上降臨型神話によって形成された。
2.しかし、その北方系神話をうけいれた基盤は、南方農耕民族の天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる神話、稲魂信仰、太陽信仰などであった。そのために天孫ホノニニギは豊穣な穀霊、太陽神などの性格ももつことができた。
3.天孫降臨神話は、シャーマニズムの二つのタイプ、脱魂型と憑霊型が融合して誕生した。

 この3についてさらに説明をくわえておきます。

 天に神がいますという信仰は、北方狩猟採集民族の脱魂型にもとづきます。他方、その神々が地上に降臨して人間にまじわるという信仰は農耕社会に優勢な憑霊型です。この二つが融合しなければ、天孫降臨神話は成立しません。

 2と3をあわせて、これまで、北方系神話が伝来したものといわれてきた天孫降臨神話を、北方、南方両系統の複合としてかんがえなおそうというのが、この通信23の主題です。

 これ以降の日本王権の展開は、北方原理にもとづく思想と南方原理にもとづく思想の葛藤・複合としてとらえることができます。その最初のモデルが天孫降臨神話なのです。これを北方原理だけとしてとらえると、日本の王権の本質は解明できませんし、永続の秘密もみえてきません。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa23.htm

諏訪春雄通信 24

 今回のテーマは「根の国神話」と「海幸山幸神話」です。この二つの神話は、ともにこれまで長江流域の神話や伝説とむすびつけてかんがえられることはほとんどありませんでした。ほとんどといったのは、海幸山幸神話にかぎっては少数意見として、長江流域に源流をもとめる説が存在するからです。

 まず根の国神話から検討してみます。
 王権にかかわる日本神話の基本構造は通信19で整理しておきましたが、念のために根の国神話の梗概をのべておきます。


 オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられた偽りの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。
 白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオナムチ(オオヌニヌシの別名)は兄たちのねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ、根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオナムチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。

 この神話についても、これまでに、松村武雄、松前健、西郷信綱など各氏の研究がすでに世に出ていますが、一種の成年式、通過儀礼としての解釈をしめすのみで、典拠または原型が指摘されたことはありません。

 しかしこの根の国神話の由来も、長江流域の少数民族の神話や伝説にもとめることができるのです。

 前回の通信23で、私は天孫降臨神話の原型として、雲南省にすんでいるナシ族の神話と湖南省や広西チワン族自治区にすんでいるヤオ族の神話を紹介しました。この二つの神話は地上の人間の先祖が天上から稲をもたらす話であるとともに、前者のナシ族の神話は、地上の若者が天神の課した数々の試練を天神の娘の愛と助けによってのりきり、地上に家畜、穀物の種などの宝物をもたらす話でもあるのです。

 このナシ族の神話と日本の根の国神話とはつぎのような類似点をもっております。
1.地上の若者が異界をおとずれる。
2.異界の王から数々の試練を課せられる。
3.試練を異界の王の娘の助力によってのりこえる。
4.その異界の王の娘と結婚し、王から宝物をあたえられる。
5.二人は地上に生還し、地上の人種の祖先となる。

 もちろん、日本の根の国神話と比較すると、異界が根の国にたいし天界であり、宝物が呪術的な宝器にたいする家畜・穀物である、などの相違もあります。

 しかし、私はこの相違よりも、問題のナシ族の神話が、中国長江流域の少数民族社会の思想や信仰と日本の王権神話の構造的関連を検討するという、大きな構想のなかにうかびあがってきた資料であることを重視します。日本王権神話の骨組みを構成する中国長江流域の神話・伝説群にぴたりと適合する神話であり、いわばミッシングリンクであるということです。

 当然、同地域のほかの民族の神話や伝説のなかに類似の話があるであろうという予想のもとに、私は手許の資料にあたってみましたが、いまのところ、同型の話を見出していません。時間をかけて、ていねいに文献を読むだけのゆとりが、この時期の私にないという事情もはたらいているのかもしれません。この通信を一冊の書物にまとめるときまでに類話を発見しておきたいとかんがえています。

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、これまで何人もおもいつくことのなかった基本構想のもとに、つぎに海幸山幸神話を検討します。

 海幸山幸神話の梗概はつぎのようにまとめられます。


 ホデリとホオリの兄弟は、海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針を弓矢と交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。

 この神話は通常、兄弟争いと復讐、海神国訪問、異類婚という三つの要素にわけて説明されます。このうち、兄弟争いについては、東南アジア系の類話が報告されています(『上代説話事典』雄山閣・1993年)。
 インドネシアのケイ族につたわるヒアンとパルバラ兄弟の話はつぎのような梗概です。


 天上に兄弟がいた。ある日、弟のパルバラが釣りをしていて、兄のヒアンから借りた釣針をうしなってしまう。兄は返せとせめた。弟はさがしまわり、偶然出あった魚の協力で、のどに針のささった一尾の魚をみつけた。弟は兄に釣針を返したが、一計を案じて兄に油をこぼさせ、その油を返せとせまった。

 ほかにパラウ島の伝承も紹介されています。


 釣針を魚にとられた族長の息子アトモロコトが父にしかられて海中アダックの地にゆく。そこで釣針をのみこんでくるしんでいる女リリテウダウに会う。針を吐きだして痛みがなおった女は、アッダクの支配者であった。アトモロコトが自分の孫であることを知ったリリテウダウはなんでも欲しいものもって帰ることをゆるす。

 このような説話が紹介されたことによって、源流をインドネシア方面にもつ「失われた釣針型説話」を原型として、婚姻や出産、通過儀礼などの要素がそこにくわわってこの神話が形成されたという説が定着しています。

 この定説形成に大きくはたらきかけた要因が、この神話が隼人の服属神話として王権神話にくみここまれたという事実です。隼人の故郷を東南アジアにもとめる視点はかなりな妥当性をもって承認されるからです。

 しかし、私は今年最初の通信20で、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するとこれまでされてきたイザナギ・イザナミの国生み神話がじつは長江流域に数多く発見される洪水神話にもとづくことを論証しました。東南アジアで発見される洪水神話は、分布状況から判断しても、中国から伝播したものとみられます。

 海幸山幸神話の原型も、同様に、中国の長江流域でおこなわれていた伝承が、隼人の服属神話に組みかえられて、『古事記』や『日本書紀』の神話体系にとりこまれたというように判断されます。

 そのように主張するのは、中国の長江流域で、兄弟の争いと復讐、海神国訪問、呪術的宝物の獲得、などの重要なモチーフをそなえた話がつたえられているからです。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm


諏訪春雄通信 25

 今回のテーマは前回につづいて「海幸山幸神話」です。

 この神話については東南アジアに原型をもとめる説がつよいことについては前回に紹介しました。この神話にかぎらず、全体として日本神話の源流を東南アジアにもとめる傾向が目立つことは、この通信で再三ふれてきました。その理由は二つあります。

 第一の理由は中国神話の調査が不十分だったことです。私は1988年(昭和63)に初版の出た著書『日本の幽霊』(岩波新書)のなかでつぎのようにのべたことがあります。


 中国は幾度も王朝が交替した。王朝が交替するたびに、新しい歴史がつくりなおされ、前王朝の遺制が破壊されたので、日本の『古事記』や『日本書紀』が伝えたような体系的な神話や伝承が後代に残らなかった。中国神話の研究が立遅れている根本の理由はそこにあり、さらにそれに加えて、もともと孔子が『論語』の中で「子は怪力乱神を語らず」といった国柄なので、神話や伝承の類についての研究はあまりさかんではなかった。

 この説明はいまも通用するとおもいます。儒教をまなんだ中国の知識人も、またその影響をうけた日本の研究者も、ながい間、中国には体系的な神話は存在していないとかんがえてきたのです。しかし、この考えは大きな誤りです。私は『日本の幽霊』のなかで、前掲の文につづけてつぎのようにのべました。


 しかし、1950年ごろ、つまり解放の翌年ごろから、中国の神話研究は、ミャオ、チベット、ヤオなどの少数民族のあいだに伝えられてきた口承神話に注目しはじめた。文化大革命によって一時的に頓挫したが、七十七年に復活、前にも増して活発に研究は続行され、少数民族のあいだにそれこそ無尽蔵といってもよいほどに貴重な神話が蔵されていることが明らかになってきた。

 いまから15年もまえに書いた文章ですが、結局、私自身で実践するよりはかはないというのが、この通信をはじめた動機の一つです。

 第二の理由は、当然のことですが、東南アジアについての研究が中国の少数民族の研究よりもはるかにすすんでいるということです。しかもその研究は、日本人による研究ではなく、ほとんどは欧米の学者による研究なのです。海幸山幸神話にかぎっても、前回の通信で紹介したように〈失われた釣針〉型の神話と類似の神話が東南アジアで分布している事実を最初に報告したのは、19世紀以来のフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったようなヨーロッパの研究者たちだったのです。

 ヨーロッパの研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くためにいちじるしくたちおくれていました。この事実が、日本神話の原型を東南アジアにもとめさせることになったのです。

 ただ故人の大林太良氏は、晩年、日本神話の源流として中国南部にとくに注目しておられました。1995年10月28日、29日の両日に私たちのアジア文化研究プロジェクトが学習院大學で開催した公開講演・フォーラム「日本民族の形成」で「日本神話の系統」という題で講演されたさいにも、その最後を、


 このように日本神話の系統論にはまだまだ多くの問題があるということ、そして中国の江南がそのなかで大きな地位を占めていること、を申しあげて、私の講演を終わりたいと思います。

とむすんでおられました(諏訪春雄・川村湊編『日本人の出現―胎動期の民族と文化』雄山閣・1997年)。氏がお元気であられたら、おそらく、中国南部と日本神話の結びつきの研究はかくだんにすすんだこととおもわれます。

 すこし話が横にそれますが、私がこの王権神話と並行して研究をすすめている来訪神祭祀にもまったく類似した現象があります。

 よくご存知のように、日本の各地で、季節の変りめに仮面をかぶったり、蓑笠をつけたりする異様な風体をして集団で部落や村へおとずれてくる来訪神の儀礼が保存されています。秋田県男鹿半島のナマハゲは有名ですが、ほかにも沖縄のアカマタクロマタ、パーントゥ、マユンガナシ、鹿児島県のトシドン、石川県のアマミハギ、新潟県のアマメハギ、山形県のアマハゲ、岩手県のスネカタクリ、青森県のシカタハギなどなど、その数は40種をこえます。

 この日本の来訪神儀礼の源流を、太平洋上のメラネシア・ポリネシアの島々におこなわれている秘密結社の儀礼にもとめる説を提出したのが、日本の文化人類学者の草分けとでもいうべき岡正雄でした(「異人その他―古代経済史研究序説草案の控へー」『民族』三巻六号、昭和3年)。

 岡は、秘密結社には未成年者や女子を参加させず、加入には厳重な入社式をおこない、その成員は時あって異様な服装を身につけ、怪音を出してその出現を報じ、村々を横行して、強奪威圧をあえてし、あるいは祝詞をのべる行為をするなどなど、全部で23条の特色をあげて、この異人こそが日本の来訪神儀礼の源流であると主張しました。

 80年ちかくもむかしにだされたこの岡説は、いまも多くの信奉者をあつめています。しかし、この説は、岡正雄自身が太平洋上の島々を調査して提出した説ではなく、19世紀から20世紀の初頭にかけて、コドリントン、リヴァーズ、ウィリアムソンなどの欧米人類学者の調査に全面的に依拠した説だったのです。

 岡説の問題点は、煎じつめますと、(イ)異人と来訪神が混同されている、(ロ)来訪する目的が日本の来訪神に適合しない、の二つにまとめることができます。男子だけによって維持される仮面結社儀礼は世界各地の農耕社会にひろくみられる習俗であり、日本との関係を想定するためにはその本質が厳密に検討されなければなりません。

 私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その渡来の経路もほぼ特定できます。

 大林太良氏は、海幸山幸神話を海の原理をあらわす海幸と山の原理をあらわす山幸の闘争というようにとらえられ、江南地方につたわる呉越の戦いの伝説をその原型として紹介しておられます(『日本神話の構造』弘文堂)。

 中国江南の浙江省の大河銭塘江は満潮時におこる逆流の高波現象が天下の奇観として有名です。私もちょうどその時間帯にいあわせて、下流から上流にむかっておしよせてくる潮流の迫力に圧倒された体験があります。この逆流現象を春秋時代の呉と越の戦いにむすびつけた伝説が、『呉越春秋』につたえられています。大林氏はその伝説を山の原理をあらわす越と海の原理をあらわす呉との闘争の結果、山の原理が勝利する話として分析されたのです。

 『呉越春秋』の巻三がつたえる伝説です。
 呉と越が一進一退の戦いくりひろげていた時代、呉王夫差は越との和解をかんがえ、越王の提示した講和の条件を呑むことにした。しかし、父の時代から呉につかえていた臣下の伍子胥が講和にはげしく反対したので、夫差は伍子胥に死罪を科した。その死体をなまずの皮の袋にいれて、銭塘江になげこんだ。それ以来、子胥の亡霊はこれをうらんで、潮を逆流させ高波で人びとを溺死させたという。

 また、『呉越春秋』巻六では、越王勾践も家臣の文種に死を命じて、その死体を三峰の下に埋めた。その一年後に、子胥が海上から山に穴をあけて、種をつれさり、共に海上に出現して人々をなやましたという。

 大林氏はこれらの伝承から、越は山の原理、呉は山の原理を代表し、子胥が死後に高潮をおこしたことは、海幸山幸神話で山幸彦が干満珠をもちいておこした満潮に対応するとされました。しかし、山に死体をほうむったから山の原理、海(事実は川)に死体を投じたから海の原理をあらわすというのは、ややくるしい解釈のようにもおもわれます。

 大林氏の紹介した呉越の物語よりも、もっと海幸山幸神話に接近した伝承を紹介されたのが伊藤清司氏でした(「日本と中国の水界女房譚」『昔話―研究と資料21・日中昔話の比較』三弥井書店)。湖南省の土家族のあいだにつたえられている「格山竜珠を与えられる」という話です。


 ある村里に二人の兄弟がいた。兄を格路、弟を格山といった。兄夫婦が格山につらく当たった。堪えられなくなった格山は、ある老人のすすめにしたがって家をぬけだし、さまよいあるく途中、大蛇におそわれて呑みこまれそうになっていた一羽の黄鶯をたすけた。すると、その鶯はうつくしい人間の娘に変わり、竜王の三女と名のり、格山と夫婦になって、竜王の国におもむいた。格山は竜宮で連日歓待をうけたが、やがて望郷の念が昂じ、妻をともなって地上へもどった。帰郷にさいし、竜王が金銀財宝を土産にあたえようとしたが、格山はそれをことわり、
「郷里は水が不足し、田作りもままならず、人びとは暮らしに困っている。水を自由にできるものが欲しい」
と願い出た。そして呪宝の竜珠をもらいうけ、竜王の娘と故郷にもどった。そこで二人は山の上にのぼり、頂から竜珠をたむけると水は奔流となって噴出し、たちまち村の田という田をうるおし、おかげで土家の人びとは裕福になった。

 この話の後日談を伊藤氏が紹介しています。


 如意宝珠である竜珠をもちかえった格山は、その竜珠からりっぱな御殿を出し、その御殿で竜神の娘といっしょに幸福な日々をおくった。意地悪な兄夫婦はそれを知ってねたみ、二人を焼きころそうとするが、格山は竜珠をもちいて逆に兄夫婦を焼きころし、他方、その呪宝から水を噴出させて潅漑の水になやむ土家族の田畑をうるおし、りっぱな耕地に変えた。

 伊藤氏はこの伝説と海幸山幸神話の類似点として、
1.水界訪問
2.水界の女性との結婚
3.水界の女性との結婚
4.水界よりの呪宝の将来
5.呪宝による水の支配
6.兄への復讐

などをあげ、弟の山幸彦が呪宝を得て、最後に日本の統治者の祖先になったという結末と、弟の格山が海神からあたえられた呪宝によって土家族の世界に楽土を実現したという結末とは共通すると主張しています。

 この土家族の伝承と日本の海幸山幸神話の類似性はうたがうことができませんが、「失われた釣針」というモチーフのないのは気にかかるところです。今後、精査する必要があります。

 これまでこの通信でふれてきた稲作農耕地帯に海幸山幸神話につうじるような伝承が散在しています。そのなかには、釣針を魚網にかえただけの同じモチーフの伝承が存在します。私のノートから紹介しましょう。


 むかし、非常にまずしいが人に親切な漁夫がいた。ある日、大河の堤のほとりで網をうって魚をとっていると、一人の老人が大きな岩のうえで泣いているのに出あった。漁夫はすぐに老人にそのわけをたずねた。老人は「自分の娘が奇妙な病気にかかってなおすことができません。どうか家にきて娘の病気を看てください」とたのんだ。承知した漁夫は老人について堤を歩いた。すると老人はどんどん水のなかにはいってゆく。漁夫が老人にむかって、「水のなかには入れない」とうったえると、「いそがずにわしについてきてください。水のなかも地上をゆくのとおなじようになります」とこたえた。ふしぎにも漁夫は地上をゆくように水のなかをすすむことができた。まもなく一軒のうつくしい家がみえてきた。その家の一室に娘が全身を魚網にからめられて横たわっていた。漁夫がその網をとりのぞいてやると娘はすぐに元気になった。父と娘は感謝してたくさんの金銀を礼としてさしだしたが、漁夫はことわって、かわりに刀と鋤をのぞんでその二品をもらった。漁夫がその家を去ろうとすると、門の樹に黄牛と白牛がつながれていた。老人は袋に多量の牛の糞を入れて漁夫に背負わせ、「野菜をうえるときに肥料になさい」といった。漁夫が家にかえると、不思議にも黄牛の糞は金、白牛の糞は銀、刀は金刀、鋤は銀鋤に変わった。漁夫は農夫となって幸福に暮らしたという。

 雲南省のラフ族がつたえている「漁夫の故事」という伝承です。水界の王の娘をたすけ、莫大な宝を得るという話です。その王の娘は魚網にからめられており、漁夫によってその網をとりのぞいてもらっています。失われた釣針と同一のモチーフです。しかも漁夫から農夫に変わるところに、海の原理に野(高地では山)の原理が勝利を占める話にもなっています。日本における海幸山幸神話で、海の原理にたいする山の原理の勝利の意味も、漁労民にたいする狩猟民や農耕民の勝利の話であったことがわかります。

 もう一話、貴州省のコーラオ族がつたえている「竜女と旺哥」という伝承を紹介します。こちらも竜王の娘の報恩物語です。


 むかし、母と子が二人で暮らしていた。母は年をとって眼が見えなかった。子の旺哥は村の金持ちの家にやとわれて毎日手間賃をもらっていた。ある年の正月、旺哥がはじめて金持ちの家に働きにゆくと、主人は「一年はたらいてくれたら三頭の牛を報酬にやろう」と約束した。誠実な旺哥はこの約束を信じて、1年間、金持ちの家の田畑を懸命に耕作した。一年たって、旺哥が主人に約束の三頭の牛をもとめると、主人は「おまえはなにをいうのだ。三頭の牛だって。私はおまえに柄杓で三杯の油をやるといったのだ」といった。あらそうこともできず、旺哥は三杯の油をあたえられただけで帰途についた。
 途中に竜王廟があった。旺哥はせっかく1年間はたらいてもらった油だからと竜王像のまえにその油で灯火ともすことにした。竜王廟を出てまもなく大雨になった。旺哥が村の入口の小川にさしかかったとき、1尾の大きな紅鯉が土砂のうえにのりあげていた。その鯉をとらえて家にもどった旺哥は母に鯉を見せた。鯉の尾から水滴がしたたり、母の眼にはいったとたん、母の眼は見えるようになった。よろこんだ母と子はその鯉を川にはなしてやった。
 その鯉は東海の竜王の娘の変身であった。竜宮にもどり、命をたすけられた恩に報いようと両親に相談すると、竜王夫婦は、ひとり娘であるからと、360日をかぎって旺哥のもとにゆくことをゆるした。うつくしい女性に変わって旺哥の家をおとずれた竜女は、訪問の目的をつげ、一吹き、口でふくと、あばら家はたちまち御殿となり、食物や家具も家内に満ち満ちた。このようにして一家はしあわせな日をおくることになった。
 この噂をきいたのが主人の金持ちであった。旺哥の家にやってきて、うつくしい妻を自分に貸してくれと難題をもちかけた。困惑している旺哥に竜女がそっとささやいた。「わたしは父から360日の日限をみとめられてきたのですが、その日限はもう切れようとしています。あなたは主人の金持ちと家を交換するよう申し出てください」金持ちはすばらしい旺哥の御殿を見て交換の申し出に応じた。母と旺哥は主人の家にうつり、主人は家族をつれて旺哥の御殿にやってきた。
 その夜、主人と竜女が床につくことになったが、竜女は一桶の水をさげて浴室にはいり、そのままもどってこなかった。主人が灯りをともして浴室にいってみると、すでに竜女の姿はなかった。そのとき、一陣の風がふいて御殿が消え、主人はあばら家のなかに身をちぢめて立っていた。 

 長江南部は沼地や河川の多い土地です。ここで数々の水界訪問譚や水界報恩譚が生まれました。海幸山幸神話が海の原理と山の原理が相克するという構造をそなえているとするなら、その誕生地は、地形から判断しても、漁労民、狩猟民、農耕民が混在する中国南部がふさわしいと断言できます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa25.htm


諏訪春雄通信 26

 今回のテーマは「米と雑穀」です。日本の天皇家は、太陽信仰と稲魂信仰にささえられて、その隔絶した地位と永続をたもってきました。この二つの信仰が祖霊信仰や女神信仰などと結合しながら、長江流域から日本に伝来したことについては、これまでこの通信で詳細にのべてきました。

 稲作民にとって米はあらゆる〈穀物や農作物=食料〉のなかで優越した最高の価値をもちます。天皇家の絶対性はこの稲の絶対性にささえられます。しかも稲は大地におち〈朽ちて新しい生命を生みだす〉というサイクルをくりかえすことによって永続性をもちます。天皇家は、この稲の永続性と太陽の永続性の思想にささえられて、その絶対と永続の地位を保証されてきたのです。

 これにたいし、巨大王権が交替をくりかえした黄河流域では天にたいする信仰がさかんであったことについてもこの通信でくりかえしのべてきました。天の信仰は太陽の信仰に対応します。それでは、稲魂信仰に対応して黄河流域で誕生したものは何であったのでしょうか。それがこれからのべようとしている雑穀の信仰なのです。

 低温乾湿の黄河流域は、古来、稲作に適せず、冬小麦、粟、高粱、綿などが栽培の中心になり、水産資源の不足を牧畜などでおぎなってきました。これにたいし、高温多湿の長江流域では、ゆたかな水産資源にめぐまれ、稲をはじめとして、綿、油菜、茶などの多様な作物が栽培されていました。農耕に限定してかんがえると、稲作の長江文明にたいし、雑穀の黄河文明というように対比することができます。

 黄河文明の雑穀は、稲のように一元的絶対的な価値をもつ食物ではなく、複数の穀物にそれぞれ平等の価値をみとめる多元的相対的価値観をそだてます。黄河流域の王権交替を生みだした要因については、通信12で、
1.周辺遊牧民との抗争・軋轢
2.商業を中心とした経済の発展
3.農民勢力の台頭
4.潅漑工事

などをあげて検討しました。こうした要因の基盤にさらに天の思想や雑穀の思想が存在して、王権の交替現象をささえたとみることができます。

 アジアの稲の起源地は、これまでもたびたびのべてきましたように中国の長江中流域に決定しました。そこから日本への稲の伝来ルートの主要なものは二つありました。
  A 江南から直接に九州へ
  B 黄河淮河流域から山東・遼東半島、朝鮮半島を経て九州へ

 注意すべきは、このうち、Aルートが稲単独の伝来であったのにたいし、Bは黄河流域の雑穀地帯を経由したために、稲と雑穀の混合の伝来ルートであったということです。日本の稲作遺跡のほとんどからは雑穀と稲があわせて出土しています。朝鮮半島の稲作遺跡も同様な状況にあることが、この伝来ルートの存在をしめしています。他方、九州の筑後川、矢部川流域の有明湾沿岸部の遺跡からは稲だけが出土しており、江南からの直接ルートの存在をしめしています。

 米がながいあいだ日本人の主要な食物であったことは事実であり、米にともなう稲作文化が日本文化の重要な骨格をつくってきました。日本の王権がこの稲作文化をイデオロギーとして利用してきたのです。そうした様相は、すでに『古事記』や『日本書紀』の神話にみることができます。

 『古事記』の国生み神話で、イザナギ・イザナミの両神は、淡路島以下の大八島国などをつぎつぎに生んでゆきます。その個所で、「讃岐国を米飯の霊のよりつく意味で飯ヨリヒコといい、粟の国を穀物をつかさどるという意味のオホゲツヒメという」とあり、そのオホゲツヒメ神話では、スサノオに殺害されたオホゲツヒメの身体から、「二つの目には稲種、二つの耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生まれた」とあります。このあたり、米だけにとくにほかの穀物から超絶した位置をあたえているようにもみえません。

 しかし、しだいに、天孫降臨の地を「みず穂の国すなわち稲穂のみずみずしい国」とし、主役を「ホノニニギすなわち稲穂の豊穣」という名をあたえるなど、米を特別視する意図がつよくなってきます。

 稲を特別視する意図がよりあらわになっているのは『日本書紀』です。国生み神話でも一書第一に天つ神がイザナギ・イザナミに「豊葦原の、豊に稲穂の実る国がある。そこへいって治めるように」と命じ、天孫降臨神話でも、一書第二では、「わが高天原の神聖な稲穂をわが子にあたえなさい」とアマテラスがホノニニギに神聖な稲の携行を命令するなど、稲の特殊化はいちだんとすすんでいます。

 しかし、稲作農業を唯一の日本の農耕文化であるかのようにみなすことに反対する学者や思想家は数多くいます。昭和以降にかぎっても、宮本常一氏を先駆として、坪井洋文、網野善彦、佐々木高明、杉山晃一らの各氏です。

 この人たちは、麦、そば、粟、ひえ、大豆、小豆、胡麻などの雑穀やいも類などが、日本人の主食であり、米よりも重要な食べ物であったと主張しています。これらは米にくらべて、やせ地や寒冷地でそだち、はるかに耕作に手間がかかりません。しかもこれらの雑穀は水田稲作伝播以前の焼畑農耕で栽培されていました。

 弥生時代の初期から中期、日本人は、炭水化物の総摂取量の半分以上は、米以外の雑穀やいも類からとっていたであろうという見解も出されています(佐々木高明『稲作以前』NHKブックス・1983年)。

 網野善彦氏は、米が日本人の唯一の主食であったとかんがえる風潮がつくられたのは、江戸時代の状況を中世にあてはめ、二つの時代がなめらかに同質的に連続しているかのようにみなしたためであると主張します。

 中世の土地税の納め方をしらべてみると、西日本では、租税は米でおさめられていたが、東日本では、これとはちがって、絹や綿でおさめることが多かったといいます。また、米を租税としておさめていた西日本でも、日常、農民がたべていたのは、主に米以外の穀類であったと網野氏はいいます。

 その根拠として、若狭の国太良荘の貞和三年(1347)の記録を氏は提出しました。女百姓の所有物をさしおさえたときの記録によると、没収されたもののなかに、米五斗と、その二倍の量の粟一石がふくまれており、太良荘のような米を税としておさめている稲作地帯でも、ふだんたべていたのは、米ではなく雑穀であったことをあきらかにしています(『日本中世の民衆像―平民と職人』岩波書店・1980年)。

 日本文化のなかで、米に特別の地位をあたえたのは、支配者のイデオロギーであったといえますが、しかし、その観念がながく日本人にうけいれられてきたのは、稲とともに長江流域から伝来した信仰や思想のささえがあったからだということを私は前回までの通信でのべてきました。

3月2日(土曜日)午後2時から、学習院大学西5号館302教室で、公開研究会

「中国の地方劇」

東洋大學文学部助教授 有澤晶子氏

が、アジア文化研究プロジェクト主催で開催されます。講師の有澤先生は中国演劇の専門家です。日本人に馴染みの京劇、昆劇、川劇も中国の地方劇です。その数は300を超えるともいわれています。

   中国の信仰や祭祀→日本の信仰や祭祀
   中国の神話   →日本の神話
   中国の民俗   →日本の民俗
   中国の民間芸能 →日本の民間芸能

という対応がみられるように、

   中国の演劇   →日本の演劇

という対応が存在するというのが、私の確信です。その一端が今回の研究会であきらかになればと期待しています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa26.htm


諏訪春雄通信 27

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


諏訪春雄通信 28

 今回のテーマは「天皇号」です。

 3月2日(土曜日)午後2時から東洋大學文学部助教授有澤晶子先生を講師にお招きして、「中国の地方劇」という公開研究会を学習院大學で開催しました。この通信の読者のなかで当日おいでいただいた方々もいらっしゃるとおもいます。

 内容といい、発表形式といい、最近の講演や研究発表のなかでは出色のものでした。当日、おいでになった方は幸運であったといってよいでしょう。

 発表形式はパソコンとビデオを組み合わせたもので、私の所属している国際浮世絵学会などではよくおこなわれている形であり、大學での講義などでも採用される先生が多くなりました。

 ただ、有澤先生のばあいは、その演出がよくゆきとどいており、写しだされることばとビデオの配合が絶妙で、観客を飽かせることがありません。

 機械に習熟せず、機械にふりまわされている発表者(私などはその典型です)がままいますが、有澤先生は機械を、平凡な表現ですが、手足のように使いこなしておられました。

 内容は、360種をこえるといわれている中国の地方劇のなかから4大国劇といわれる、昆劇、京劇、川劇、椰子劇の4種をとりあげ、その概要と特色を紹介したものです。私も前々から関心をもって、研究をすすめている分野ですので、発表内容の評価が多分当日の一般的な聴衆の方々よりはできます。

 小さなテーマで高度な発表をすることは、じつは、一定の水準に達した研究者にはそれほどむずかしいことではありません。真にむずかしいのは、そしてこれからの人文科学系の学者にもとめられることは、

「広く、高度な内容を、わかりやすく、興味ぶかく伝える」

ことなのです。有澤先生の実力をあらためて再認識したというのが、私の率直な感想です。

 この公開研究に先立つ2月26日(火曜日)、私のもとにあるテレビ会社からの取材がありました。といっても、テレビ撮影ではなく、番組の台本づくりのための取材です。松竹株式会社からの依頼をうけて、歌舞伎役者、それも今人気絶頂にある三之助クラスの役者を中国に旅させて歌舞伎の源流をたずねさせるという企画です。

 私が平成12年に吉川弘文館から「歴史文化ライブラリー」の一冊として刊行した『歌舞伎の源流』をじつにていねいに読みこんで、要点をついた質問をしてきました。ディレクターと台本作家と二人で、私の研究室に訪れてきて、交互に質問をしてメモをとっていました。

 そのときに、「歌舞伎の遠い原型が故郷の地を出発して、しだいに演劇としての形をととのえながら、日本にまで到達する歌舞伎ロードという構想は成立しますか」という興味ぶかい問題を、台本作家の方が私に問いかけてきました。

 じつはこの問題はここ数年追いかけている私の重要な研究テーマの一つなのです。

 学習院大学文学部は平成13年に人文科学研究所を創設し、助成金を出す研究プロジェクトを募集しました。そのときに私は「東アジア演劇形成過程の比較研究」という3年計画のテーマで応募し、九件の応募のなかからトップで採用されました。

 有澤先生にもそのプロジェクトにくわわっていただいており、3月2日の公開研究会は、この人文研究所の研究プロジェクトの費用で開催されたものでした。

 この通信の25で私はつぎのようにのべたことがあります。


「私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その伝来の経路もほぼ特定できます」

 その伝来の経路は大きく二つにわかれるとかんがえています。一つは西回りのルートです。ほぼ長江にそって貴州、雲南、広西チワン族自治区などを経由してベトナムにはいり、沖縄にわたり、北上して九州、福井、石川、新潟、山形、秋田などにつたわったものです。有名な秋田のナマハゲはその最末端の痕跡です。

 もう一つの経路は東回りです。西回りが比較的純粋に来訪神儀礼の原型を保存しているのにたいし、東回りのコースは、悪鬼ばらいの儺の儀礼と結合しながら、文化の先進地帯を経過したことによって、高度な演劇化をとげたというのが、私の基本的な考えです。

 私は概略以上のような構想で「東アジア演劇形成過程の比較研究」というプロジェクトを立ち上げたのです。

 したがって来訪されたテレビ局の台本作家から歌舞伎ロードについて質問されたときにすぐにこの東回りのルートをかんがえました。そしてつぎのようにこたえました。

「東回りをたどった来訪神と儺の複合体は、中国では古代演劇、宋元南戯、元雑劇、明清伝奇劇、地方劇などへと発展しました。おなじ複合体は、朝鮮半島では、処容舞、山台雑戯、農楽などを誕生させ、日本にも上陸して、中世以降の民間神楽、田遊び、王の舞、能、狂言などを生み、最後に歌舞伎として結晶しました」

 そして、中国長江中流域からいったん北上し、山東、遼東、朝鮮などの各半島を経過し、日本海側の出雲に上陸し、京都の五条、北野を経て、現在の四条の南座を終点とする歌舞伎ロードの具体的な道筋についても説明しました。

 この構想を、テレビ局が、台本としてどのように生かしてくださるか、仕上がりが楽しみです。

 大風呂敷のひろげすぎと眉をひそめる方も多いとおもいます。ことに実証主義をたいせつな方法とする専門研究者はそのように批判するとおもいます。

 しかし、私は、このごろ、学問の究極とは「志」であり「夢の実現」なのだとおもうようになりました。もちろん、堅固な実証にささえられた「夢の実現」です。

 通信26で、中国の古代文化と日本の古代文化につぎのような対応があると申しました。

    中国の信仰・祭祀→日本の信仰・祭祀
    中国の神話   →日本の神話
    中国の民俗   →日本の民俗
    中国の民間芸能 →日本の民間芸能

 自分でもそれなりに調査したことのあるこのような対応を前提に、


中国の演劇→日本の演劇

という対応も確実に存在するとかんがえています。

 「天皇号」についてのべます。

 天皇は中国の道教に由来することばです。その出典は、中国古代、紀元前3世紀ごろの各種の道教文献に「天皇大帝」とみえるのが最初です。たとえば、その一つ『春秋緯合誠図』には


 天皇大帝は北辰の星であり、元を含み陽を秉(と)り、精を舒(の)べ光を吐き、紫宮中に居りて四方を制御する。

 とあります。わかりやすくいえば、宇宙の根源として全世界を統御する北極星である、ということです。中国の道教では最高神として崇拝される北極星を天皇といったのです(福永光司『道教思想史研究』岩波書店・1987年)。

 ここから、日本の天皇号についてはむずかしい議論が生まれました。道教信仰そのものと関係があるのかないのか、いつごろから、どのような目的で使用されるようになったのか、などです。

 こまかな詮索はおいておいて、最新の研究成果にもとづいて、結論的なことだけをのべますと、最初は単なる尊称として使用されていた段階(推古天皇の時代)があり、持統天皇の時代に君主号としてもちいられるようになりました。また、東アジア世界における日本国家の地位を意識した呼称ではあるが、かならずしも道教思想と関連させる必要はないということです。

 日本が国家体制をととのえつつあった7世紀から8世紀のころに、主として対外意識のなかで採用され、浸透していったことばが天皇であったということになります。

 この天皇にたいする和語が「すめらみこと」です。平安前期に成立した『令集解(りょうのしゅうげ)』には


君は一人を指す。天皇これなり。俗にすめらみことというなり。

とあって、公式用語の天皇にたいする一種の俗語とかんがえらえられていたようですが、天皇号が成立する以前にはひろくもちいられていたことばです。

 すめらみことは「すめら」と「みこと」にわけられます。すめらについては、「統べら(統治する)」とおなじ意味というのが通説でしたが、上代特殊仮名遣いから判断して、「統べ」のベはエ列乙類、「すめ」のメはエ列甲類であって、甲乙が一致しないという疑問が提出されました。

 そこから、アルタイ諸民族が世界の中心とかんがえるSUMERE(梵語で至高・妙高の意味の蘇迷盧)と同義とする説、清澄、神聖の意味の「澄める」とおなじ意味であるとする説などが出されました。

 上代特殊仮名遣いというのは、奈良時代およびそれ以前のある種の仮名(エキケコソトノヒヘミメヨロ、古事記ではモも)に二種類の書き分けがあったという説です。したがって、発音と表記法がちがうことばは、当然意味の違うことばになるという考えです。

 しかし、私はこの法則をあまり厳密に適用すると行き過ぎになりはしないかという危惧をもっています。

 私は新潟県の出身であるためにイとエの発音があいまいで、仮名遣いもよほど意識しないと誤ってしるしてしまいます。私の友人の数代つづいた家に生まれた江戸っ子はヒとシの区別がまったくできません。こうした現象が古代にもあったのではないでしょうか。

 すめらみことの「みこと」は「尊」「命」などの字があてられますが、もとの意味は「御言」とする説が有力です。

 各様の説があるにしても、結局、すめらは尊貴な存在をあらわすことばであり、このことばを上にかぶせたすめらみことは「天の神のことばを代ってつたえる尊貴な御方」という、折口信夫の説(「天子の諡」)が妥当性をもちます。つまり、高位のシャーマンです。

 すめらみこととよばれた尊貴な方は、この世にあって天の神のことばを体現する神の代行者でした。南方原理につらぬかれた存在だったといえます。

 これにたいする天皇は、天界の北極星そのものと合一する北方原理をとりいれた存在です。

 この通信で、私がもっとも強調したかったことは、のちには混同されますが、本来は、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったということです。

 日本が、6世紀から7世紀にかけて、国家組織を整備してゆくときに、南方原理を北方原理で補完してゆくという当時の基本略を象徴的にしめすものが、君主号すめらみことと天皇の使い分けでした。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa28.htm


諏訪春雄通信 29


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。

祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。
1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm

諏訪春雄通信 30

 私たちのプロジェクトは、会員とはべつに、40数名の学識経験者の方々を「参加者(メンバー)」とよんで、会の運営についてご助言をいただいています。その参加者の一人谷川健一先生から久しぶりにお電話をいただき、新宿の中村屋でお会いしました。

 用件は、5月の連休あけに韓国へ取材にゆく予定であるが、適当な案内者を紹介してくれないか、というものでした。さっそく、やはり参加者の一人である広島大学の崔吉城先生に連絡をとり、最適の案内者を谷川先生に紹介することができまし。

 中村屋で谷川先生と一緒に私を待っていた方が、新潮社の文芸誌『新潮』の編集長前田速夫さんでした。その場で『新潮』に7枚の短文の寄稿を依頼され、「日本神話と中国長江流域神話」という一文を書いてすぐに送りました。この通信でこれまでにのべたことをまとめたものですが、その後に新しく発見した資料を追加しています。

 その追加資料をふくむ部分だけを、まず、この通信でお送りします。読みやすいように段落分けをします。


「日本神話と中国長江流域神話」

 日本神話の研究には、中国の少数民族社会の神話・伝承の調査研究が必須である。
しかし、残念ながら、日本神話の研究に中国少数民族の神話が考慮されることは、亡くなられた大林太良氏のような先覚者をのぞくと、これまでほとんどなかった。

 その理由の第一は、中国の民間伝承研究の成果が利用しやすいかたちで日本の学界につたえられていないということである。現在、中国神話として日本に紹介されている類書はほとんどすべて、文献に記載のある漢民族の神話であって、少数民族の口承神話ではない。

 第二の理由は、ヨーロッパ研究者による東南アジアや南太平洋の神話研究がはるかに先行していて、日本の神話学者はその成果をほとんど無批判に利用していることである。

 具体例で説明してみよう。

 海幸彦・山幸彦として漁労と狩猟に従事していたホデリとホオリの兄弟が、釣針と弓矢を交換し、弟が兄から借りた釣針をうしなって、竜宮をおとずれる神話は『古事記』と『日本書紀』がつたえている。日本人にもっともなじみのふかい神話の一つである。

 この神話の源流として、これまでに、インドネシアのケイ族の伝承、パラウ島の伝承などが指摘されている。インドネシア方面の「失われた釣針型説話」を原型として、日本の海幸彦・山幸彦の神話が成立したというのが現在の定説である。

 東南アジアの「失われた釣針型説話」の存在を最初に報告したのは、十九世紀以来、この地方に入って調査にしたがったフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったヨーロッパの研究者たちであった。日本の神話研究はその成果を借用してきたのである。

 しかし、最近、中国の長江南部に海幸彦・山幸彦と類似の話が存在することが報告されている。大林太良氏は、この神話を海の原理と山の原理の闘争ととらえ、江南地方につたえられる呉越の戦いにかかわる伝説を、山を代表する越と海を代表する呉の対立として分析し、日本神話の原型として紹介している(『日本神話の構造』)。

 また、伊藤清司氏は、湖南省のトウチャ族につたわる「格山竜珠を与えられる」という話を紹介し、兄弟の争い、水界訪問、水界の女性との結婚、水界よりの呪宝の将来、呪宝による水の支配、兄への復讐、という六つのモチーフが共通することを説いている(「日本と中国の水界女房譚」)。

 私自身はこのほかに、雲南省のラフ族、貴州省のコーラオ族、四川省のイ族、貴州省のプーイー族などがつたえる二十種を超える異型の水界女房譚を、現時点で発掘している。この数はもっとふえるはずである。これらを総合すると、日本の海幸彦・山幸彦の神話の源流は中国の長江南部であると確信をもって断定することができる。

 もう一例、イザナギ・イザナミの国生み神話について検討する。この神話の原型についてもポリネシア、内陸アジア、インドなどの神話との類似がこれまでに説かれてきた。

 日本の国生み神話は、A洪水で生存した兄妹が結婚する、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全な子が誕生したが試行の結果国土と人類などが誕生する、Cしかもそうした行為が神、動物などの指示によっておこなわれる、という三つのモチーフから成る、いわゆる洪水神話の不完全型である。

 『旧約聖書』のノアの方舟で知られる洪水神話は、インド、南アメリカ、東南アジアなどに分布していて、起源地についても諸説があって一定していない。しかし、私は、中国ですくなくとも八十七種の洪水神話を収集している。その分布状況はつぎのようになる。

雲南省 三十八種   貴州省 十五種  湖南省 十一種  広西チワン族自治区 七種
四川省    五種   海南島  四種  湖北省   三種  内蒙古自治区      三種
遼寧省    三種   福建省  一種  台湾    一種  河南省          一種
青海省    一種   黄河辺  一種  黒竜江省 一種

 総数が九十五種となるのは、同一話が二つの地域にまたがって存在する例があるからである。この表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南など、長江周辺の稲作民の居住地に稠密に分布していて、そこから南北にはなれると、急速に減少している。このことから洪水神話の起源地は長江中流域であると確定することができる。

 このほかにも、「アマテラスの天石屋戸隠れ」、「天孫降臨」、「オオクニヌシの根の国訪問」など、日本の王権の成立にかかわる神話の重要な骨格部分が、ほとんどすべて、中国の長江流域の稲作民居住地の伝承を源流としていることがあきらかになっている。太陽神・女神・祖先神・稲魂という四つの性格を兼備して、皇室の祖先となったアマテラスと同一神格への信仰もこの地方に存在している。

 このような中国長江流域神話と日本神話の類似という事実はけっして偶然の暗合ではない。アジアの稲作は一万年以前に長江中流域にはじまって、長い年月をかけてアジア各地にひろまっていた。そのときに稲作の技術とともに、稲作にかかわる信仰や民俗、神話伝承もまた伝播していった。その末端が日本に保存されているのである。

 以上です。ここで洪水神話87種といっているのは、通信20でのべたように、中国の民俗学者林河氏紹介の58話に私が29話を追加した数値です。中国の少数民族の神話については、なおも調査を続行中ですので、結果がまとまりしだいまたご報告します。

 今回は前回お約束した「巫女王」の問題について簡潔にのべます。

 巫女王とは女王が巫女をかねているものです。典型的な例は、『魏志倭人伝』にしるされて有名な卑弥呼です。彼女は邪馬台国の女王であったが、夫をもたず、一人の弟が政治をおこない、彼女じしんは鬼道につかえていたといいます。

 卑弥呼の没後、和国は混乱におちいったので、人々は卑弥呼の長女壹与を王として国を治めさせたといいます。壹与もまた巫女王でした。

 卑弥呼や壹与は邪馬台国にかぎられた特殊な例でなく、古代の日本にかなり一般的にみられる政治と祭事の形態だったようです。ヒメ・ヒコ制とよばれるものがそれです。

 ヒメ・ヒコ制は、兄弟と姉妹が政事と祭事を分担する統治の形態です。一般に「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名をもつ男女が一対となってその地域を支配する原始的な王権のあり方でした。具体例としては、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメの場合などがあります。

 このほかにも『日本書紀』には地方の首長が女性であった例をいくつかひろいだすことができます。政事権または軍事権をもつ男性の名がしるされていませんが、女性が祭事権をもつために首長にされたのであろうと推測されています(鳥越憲三郎「巫女の歴史」『講座日本の民族宗教4』・弘文堂)。

 ただ時代がさがると、男女の役割分担に相互移動もあったようで、女性の首長が政事や生産にたずさわる例もありました(今井尭「古墳時代前期における女性の地位」『日本史研究』397)。

 しかし、ヒメ・ヒコ制の精神は日本の歴史を貫流していました。

 『古事記』や『日本書紀』には天皇の代替わりにともなう皇位継承争いの記事が頻繁と出てきます。そのばあい、ライバルが同母の姉妹をもっていますと、皇位継承者がその女性をめとっている例が多いのです。

 これは、霊的守護者である姉妹を兄弟からひきはなすことに目的があったのではないかとかんがえられます。

 平和のうちにそれが成功すれば、皇位継承者はライバルにたいして優位にたつことができましたが、不幸にして両者が対立関係にあるときは、相手を倒してその霊的守護者である姉妹をめとることによって皇位争奪戦の完全な勝利をかちとることになりました(倉塚曄子『巫女の文化』平凡社・1979年)。

 沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。

 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。

 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。

 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。

 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。

 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。

 私はいまこの少数意見の立場にくみして、女性の霊力の問題を究明してみようとおもっています。

 さらにまた、女帝、斎王、後宮、采女など、日本の王権の維持にふかくかかわる諸制度で、ヒメ・ヒコ制、オナリ神の観点から説明しなければならないものが数多くあります。

 これらの問題を逐次この通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm




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54. 中川隆[-13643] koaQ7Jey 2018年11月27日 19:12:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21217] 報告

国内最古の大壁建物跡か、奈良 渡来人の定住早まる可能性 2018年11月27日
http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2018112701001874.html

 奈良県高取町教育委員会は27日、同町の市尾カンデ遺跡で4世紀末から5世紀初めに渡来人が建てたとみられる朝鮮半島式の大壁建物跡が16棟分見つかったと発表した。国内最古とみられ、これまで5世紀後半以降とされていた渡来人の本格的な定住時期が大幅に早まる可能性がある。

 町教委によると、大壁建物は狭い間隔で柱を立てた後、土で壁の中に柱を塗り込めるのが特徴。全容が分かる最大のもので東西約15メートル、南北約13メートルだった。高取町の森ヲチヲサ遺跡で見つかった大壁建物跡と並び最大級という。同町ではこれまで約40棟見つかっていた。

(共同)

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

55. 2018年11月28日 11:18:26 : HyN9XNwOYg : SdHPcyOWAJc[2] 報告
かれらの正体です。中国万里の長城以北の騎馬略奪民族をルーツに持ちます。大日本帝国は、学者が中国や朝鮮の姓氏を研究するのを禁じていたとかいないとか聞いたことがあります。大化の改新クーデター。殺人による国家乗っ取りで、万世一系とは大嘘で、中国文明に侵入し、戦乱の世を始めた元凶の、万里の長城北方の、蛮族・略奪・遊牧騎馬民の満州女真ツングース、(モンゴルや朝鮮も含む)は北方中国系の外国王朝男系血筋に、中原・南方系にとって変わってしまったのが、列島に侵入して皇室を名乗っています。血統により、流血を好む陰湿で残忍な性質を、先天的に引き継いでいるのは、もはや、宿命そのものです。こういった、愛を拒む、権力・独占欲の固まりのような黒い血が、皇を名乗るその「嘘つきぶり」にも「あつかましさ」にもあきれるばかりです。こういった古代人種の血統が、平安時代以降、列島に同族の網をめぐらし、宗教界や統治システムとして、同族による略奪・収奪・寄生を我が物としているのです。ツングースの歴史は、何千年の昔から、ユーラシア全土、また海を越えてさらに東西南北に、その遺伝子をばらまいた、騎馬遊牧略奪部族の歴史と重なっています。その後、北方略奪民に侵入された中国王朝の数々も、中原精神文明に範を取り、受け入れてきた。外野の人種が吼えているのが、いまだ中原乗っ取りを諦めきれない「列島の中原文明乗っ取り北方人種支配の日本という国」といったところでしょうか。もうそろそろ、進化をとげてよいのではないでしょうか。
56. 中川隆[-13647] koaQ7Jey 2018年11月28日 13:02:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21241] 報告

2018年11月23日
縄文体質の史的足跡〜第7回 婚姻様式は本来、安定した集団を支える社会基盤。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3382.html


第7回(最終回)は夜這い・婚姻を扱います。

シリーズ「縄文体質とは何か?」第4回縄文の”性”を知る にあるように

>縄文時代の婚姻様式は総遇婚、近接集団との交差婚であり、集団婚であった。その後弥生時代以降も男が女集団に入る妻問い婚という形態にはなったが、ついぞ江戸時代までは女は母集団の中に残り、集団の共認充足に包まれた中で集団と女達は一生暮らすことができた。諸外国を見渡しても婚姻形態がこれほど近代まで残った国も稀有だし、一対婚がこれほど根付かなかった国もない。その意味で縄文が最も色濃く残ったのが婚姻であり、男と女であり、性充足である。それほど、日本人は性におおらかで性を心から楽しんでいた。

日本人の”性”への意識はつい50年ほど前まで集団・社会を安定させる基盤であり、性充足により安心で安定した集団を核として日本人は西洋とは違う民族性=縄文体質を維持してきました。

このように、本来、婚姻様式は社会の根幹を成す規範・制度であり、個人主義に傾斜した現代の一対婚制度により、現代は日本でも集団性が破壊され、縄文体質も薄れつつある危機的な状況にあります。

今回は縄文から今日に至る婚姻の変遷をおさらいし、今の日本で失われつつある精神を探っていきたいと思います。

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以下るいネットから要約します。

【縄文から弥生への婚姻様式の変化〜共認風土に取り込まれていく渡来人〜】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=270746

縄文社会に変化が起きたのは2,450年前の渡来人である呉人以降だろう。 稲作水田は大規模化し、環濠集落が生まれ階層化した村社会の構造が現れてくる。この時代の呉人は大陸での略奪闘争の負け組みだが、私権闘争を経験し支配社会のパラダイムを始めて日本社会に取り込んだのがこの第2波の呉人と思われる。

日本では、二群単位とはかぎらず、二群でも三郡でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナドとし、集落の全男女が相集まって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられる。

縄文前期までは単一集団内での族内婚のみであったが、集団規模が大きくなっていく縄文中期から後期は、村と村の要路がヒロバとなり、全男女を対象とした族外婚(クナド婚)が形成されていった。このクナド婚は、それまでの族内婚であった全員婚を、そっくりそのまま族外にも適用した婚姻様式であり、共認充足を第一とする縄文社会を端的に現したものであるといってよい。

そして、第2波の渡来人によって、このクナドも変化を見せる。

しかし、そうした日本も、縄文中期以降は、ようやく集落を定着させて、農耕段階へと進みつつあったと思う。それにつれて婚姻形態も、一方では族外群婚を発達させたが、また他方では北アメリカで20世紀初頭までみられたような母系制的対偶婚への道をひらこうとしていた。紀元前2、3世紀のころに移入されたといわれる水田農耕の普及は、社会関係を複雑にし、孤立した氏族集落対から部族連合体への道が開け始めた。   なおクナド婚は市場や入会山で威力を発揮し、部族連合の一つの動力となって活動したが、その方式に特記すべき変革が起こった。それは神前集団婚から神前婚約が始まり、それによって男が女の部落へ通う妻問形態の個別婚を生み出したことであった。

ここでいう対偶婚は渡来人によってもたらされた婚姻様式。大規模水田とともに新たなパラダイムで縄文を取り込み、そのことによって全員共婚のクナド婚から、対偶婚、さらに時代が進み妻問婚への個別婚へと表向きの婚姻制度が変化していったことが伺える。

クナド婚の場所で、こうした神前婚約が成立すると、男が女に通う妻問形態の個別婚が新しい時代に照応する正式の婚姻制として表面化してくる。しかし、そうなっても、群婚原理はまだ容易にたちきれず、婚約した相手だけでなく、相手の姉妹や兄弟にも波及する。

このように、この全員共婚であるクナド婚は、その後日本の村落共同体では様相を少しずつ変えながら根強く残り続けることになる。(夜這婚はその系譜にあるだろう) むしろ興味深いのは、妻問婚を持ち込んだ渡来人でさえ、共認充足に導かれて実態はクナド婚へ傾斜しているように見える点だ。支配者側であった渡来人は、表向き血筋を明らかにするために個別婚である必要があったが、縄文の共認風土に導かれて平和裏に共存していく様子が婚姻様式にも現れているように思える。

【母系社会の伝統が決定的に影響した日本の婚姻様式2】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=320152

万葉集には、両親を歌った歌が100首ばかりあるが、それらの殆どは母親を歌っており、父親だけを歌ったものは1首しかない。子の母親に対する情愛は現代にも通じるものがあるが、万葉集の世界においては、子は父と同居することがなくても、母親とは常に強い絆で結ばれていた。上の数字はそのことを反映しているのだともいえよう。

では、古代の男女はどのように結ばれたのか。

上層階級は別にして、庶民の間では遠方の地域との婚姻はそう盛んではなかったのではないか。部族集団の中か、せいぜい近隣地域との出会いが中心だったと考えられる。

結婚生活は基本的には、男が女のもとに通う通い婚であった。そのほか男が女の家族と同居する場合や、夫婦が独立して住居を構えることも行われた。だが女が男の家族のもとに同居する例は殆どなかったようである。したがって、近年の社会問題たる嫁舅の関係は、古代には存在しなかったと考えてよい。

通い婚の場合、新婚早々には男は足しげく女のもとに通ったであろう。しかし女が妊娠したり、あるいは男に他の思い人ができたりして、その足が遠のきがちになることもあった。古代の女性の歌には、男の到来を待ちわびる女の歌がそれこそ数多くあるが、そんな文化を日本以外に求めることはできないだろう。

こうした場合、結婚は自然と解消され、女は他の男と再婚することもできたようだ。古代には、男の女に対する責任がきつく問われなかったかわりに、女のほうにも相応の自由が保障されていたのである。

女が比較的簡単に離婚を決意しえたのは、後の時代と異なって、女が経済的に男に従属していなかったからだと思われる。先史時代以来の共同体のあり方に守られて、女は男がいなくとも、何とか生きていくことができたのだと考えられる。

こうした女中心の婚姻や家族の形態が大きく変容するのは平安時代中期である。それには家の成立が深くかかわっている。古代的な共同体が解体され、その中から社会の基本単位として家というものが成立した。家は社会的・経済的な単位として国家機構の中に組み込まれ、課税の単位ともなった。

この新しい家にとっては、家を代表するものとしての戸主というものが登場し、家族の成員はその戸主の名の下に把握された。そこで新しく戸主となったものは男たちだったのである。

家の成立は上流層では10世紀ごろ、庶民層では12世紀ごろだとされている。家が社会の公的な構成単位となったからといって、すぐさま女が男に従属したわけではない。中世初期まで家の中での女の力はまだ根強く残っており、女にも独自の財産を持つことが許されていた。女房が亭主を相手に貸付をしたという記録も残っているほどである。

だが一旦成立した家は次第に機能の増殖をはじめ、ついには家の中の長たる男の権威が妻のそれを圧倒するようになる。女は経済的にも男に従属するようになり、婚姻の形態も自然と、女を男の家に迎える「嫁取り婚」へと変化していくのである。

【中世の社会と婚姻制度・相続制度】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=338907

鎌倉時代は貴族は婿取婚(母系氏族が婿を迎える)という制度であったが、武士は次第に嫁取婚へと移行していく。それは、戦闘軍団ゆえに男の武力が制覇力となったことによるが、とりわけ地方武士は土着性が強いが故に、土地を離れるわけに行かなかったという事情が実際上は大きい。父系制の成り立ちの時期は、それぞれの社会階層によって異なり、武家上層においては、院政期から鎌倉時代において、そして一般武家は鎌倉時代から南北朝時代、さらに庶民層においては、南北朝時代から戦国時代である。 但し、庶民は江戸時代に至るまでも夜這い婚を併用している 因みに、公家層が嫁取りに移行するのは、武士の力が強まり、公武の結婚が行われるようになって以降である。 また鎌倉時代は「分割相続」を原則としており、新しく建てられた分家は本家の惣領(家督)のもとで血縁集団を形成した。惣領は戦時には一門を率いて闘い、軍役と恩賞を一門の各家に割り当てた。この惣領制を土台に幕府は御家人たちを束ねていたのである。 しかし父系制とはいえ、当時は夫と妻とは別々の姓(氏の名)を名乗り、それぞれが父母から相続した氏の財産を継承するという、夫婦別財産制度をとっており、妻も自前の財産を有していた。(女子が惣領となるケースもあった)

この惣領制が揺らぐのは、元寇(鎌倉中期)以降である。それまでは、承久の乱や元寇を通じて、荘園領や非御家人領に支配が及び、分家の所領も確保できていたが、安定期に入ると所領の増加がなくなり、所領は相続の度減少し、御家人たちの収入は激減する。 その結果、戦闘集団として一体化していた本家と分家の結びつきは弱まり、次第に一門同士の血縁的統合から、生産基盤を共にする地縁的結合が高まっていく。このことが地域の独立性を高め惣村の自立性を強める大きな要因となっていく。

【夜這い婚の情景@】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=89190

■若衆宿 その頃は、一人前と認められ、若者宿への参加が認められることが、子供の楽しみであった。十三、四、五歳から参加が認められ、結婚するまでの間、毎年農閑期の何ヶ月間か、そこで共同生活をしたものだ。中には、一年通して、つまり数年間、若者宿で過ごす者も、少なくなかった。彼らは、農繁期の強力な助っ人として、重要な存在であった。

共同生活を通じて、親からの躾とは違う、共同体の一員としての ケジメ を先達から教えられる場であった。また、年に何ヶ月かの共同生活を、数年繰り返すことで、自然と仲間内の序列、派閥なども形成されていった。つまり、仕事のときの采配はだれだれ、遊びはだれだれ、交渉ごとのうまい奴、物資調達のうまい奴、情報通のものなど、互いに相手を知り合う機会でもあった。

■夜這い規範 夜這いといっても、誰もが好き勝手に、女の家へ忍び込んだわけではない。通常、相手の娘が、承知してくれた場合のみ、あるいはその娘が、自分の誘いに応じてくれたときのみ、夜這いに行けたものである。相手の望まない夜這いは、無理に忍び込み、ことに及ぼうとするとき、娘に騒がれて、親に捕まった時など、村のさらし者にされる恐れがあった。

また、忍び込んだ娘の家で、あまり無茶をしないよう、夜這いの礼儀作法というものも教えられた。先達たちが、四方山話の一環として、面白おかしく話すこともあったが、実際は、ベテラン女性に、手取り足取り教えてもらったものである。

■性の指導 若者宿ではまず、新入りには忍び込みのテクニックを教える。そして筆下ろしのため、先輩が事前に了解を得て、ベテランの女性に、童貞の子への筆下ろしを頼んだものである。上農の場合には、元服の際、両親が相談し、親類縁者のなかから、これという女性を選びだして依頼し、文字通り手取り足取り、女性の体の 造り を教え、扱い方 の指導を任せたものである。

娘の場合も、赤飯を炊いて祝った夜、一族の年配者や、主家筋の、しかるべき長老の誰かに、水揚げというか、道を通してもらうのが慣わしであった。そうしておかないと、夜這いされたとき、戸惑うことになる。そして、母親や叔母さん、先に一人前になっていた近所の姉様たちが、具体的に心構えや、手練手管を伝授するなど、共同体の一員としての教育がなされてきたのである。

■性の喜び:活力源 当時は、男女とも、性の悦びを味わうことは、タブーではなかった。もちろん、公然たる不倫は咎められ、相手かまわず交合する者も嫌われた。しかし、農民においては、性とは、心行くまで自由に楽しむべきものであり、過酷な労働に耐える農民の、活力源でもあった。男は十数歳で元服し、女も初潮を迎えれば、ともに一人前として、大人の扱いを受けることになった。

大人の扱いを受けるということは、一人前の労働力として期待されることでもあったが、同時に、自由意志で性を楽しむことを、認められることを意味した。自由とは、規律を守ることにより、自由を保障される。その規律を教えるのが、若者宿であり、赤飯の祝いの夜の儀式であった。当時は男も女も、互いに相手が複数の異性と、交渉を持っていたことを当然として、結婚したものである。

結婚後も、一定の規範の元に、自由であった。不自由なのは、支配者階級である。なまじ、守り、引き継ぐべき、金や富を持っているため、子の血筋を重視するがために、女を家に閉じ込め、他の男との接触を不義として、禁じてきた。下これに倣うで、家臣も、町家の者も、女性の人権、自由度を制限し、現在に到っている。のではなかろうか。

【ムラの「公事」であった「夜這い」】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=156930

>明治以降、国家権力の弾圧によって旧来の日本の夜這い文化は衰退の一途を辿ります。

以下「村落共同体と性的規範の6.弾圧と亡失」より引用)

ところが「筆おろし」の年齢を一挙に引き上げる事件が起こった。すなわち徴兵検査の励行で、富国強兵の政府といたしましては、国家の干城たる青年に花柳病が蔓延するのを座視することはできない。これは古い若衆組の罪で、質実剛健を主旨とする青年会に改組する。「夜這い」などもってのほか、青年、処女は純潔でなければいけぬことになって、教育も。これに応じて大合唱したから、若衆組も、夜這いも決定的な打撃を受けた。

男も男なら、女も女ということになるが、若衆組や夜ばいの盛んであった時代には、こんなことは想像もできなかっただろう。四十六の仲人あっぱが、若衆も娘も実地教育してみせたので、昔の若衆の初夜教育が、いかに適切、かつ科学的教育方法として作動したか、を実証している。まさにあっぱはムラの性教育の伝統を継ぐ、最後の一人であったのだろう。

では、近代教育の「純潔」とか、「貞操」とかはなんであったのか。肉体的な抑制を強要するだけで、健康な発散を考えなかった結果として、いま私たちは、その当然の代償を支払わせられている。娘を商品として高価に売り込むための処女性尊重と「貞操」の強要、息子を売春風俗産業の購買力に仕立てる手段としての「純潔」教育、そこには資本主義社会の露骨な商品化政策があるだけだ。

私たちは若衆組の行事や夜這いを、かつて淫風陋習として退けたのである。しかしムラがムラであったとき、成熟した女性にとって若衆へ心身ともに健全な教育をすることは、次代への継承を維持するために負った義務であり、また権利であっただろう。

ムラが一つの共同体として作動しているとき、夜這いも結婚関係も、若衆組その他と同じく、それぞれムラの「公事」であったから、かれらに「純潔」や「貞操」の観念はなく、どうして生活を維持するかが根本の約束であったものと思われる。

つまり個人として私匿しなければならない密室の作業ではなく、いつでも公開されているルールに乗った行為であった。長い間、私たちは「夜這い」を誤解してきたが、それはムラの古い共同結婚方式を継承したものとして、まさに「公事」として維持されてきたのである。近代日本は結婚を「私事」に変質させることで、「夜這い」の伝統と継承とを否定したが、そのためにかえって社会的性生活を荒廃させた。

【日本における現行の婚姻制度〜日本国憲法@】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=225216

戦後日本の家族のあり方に最大の影響をもたらしているもの。それは、日本国憲法である。日本国憲法は、戦後、GHQによって押しつけられた憲法である。その基本理念は欧米の価値観に基づいている。その理念の一つが、個人主義である。これは家族や国家より個人を重んじる考え方である。日本の社会に個人主義を植えつけること、それが日本を「民主化」することであり、同時に日本を弱体化することだった。

西洋近代の思想の一つである啓蒙主義は、17世紀イギリスのホッブス、ロックらによって展開された。彼らは、デカルトの要素還元主義の影響を受けていた。そのため、まるで幾何学的空間におかれた原子(アトム)のようなものとして、人間をイメージした。「個人主義」とは、原子(アトム)的な個人を、集団より先在する要素とし、個人を原理として、社会の構成を考える考え方である。

日本国憲法は、こうした西洋近代啓蒙思想が根底に置かれている。そして、この思想をさらに極端に推し進めた学説が普及した。すなわち、「個人の尊厳」を持って「個人主義の原理」とし、アトム化した個人を持って「人間社会における価値の根源」などと説明する宮沢俊義らの学説である。

こうした極端な学説が出てくる原因は、日本国憲法にある。具体的に挙げれば、第24条である。この条項には婚姻に関する規定がある。すなわち第1項に「婚姻は、両性の合意のみによって成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とある。また第2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と記されている。

このように憲法に婚姻に関する規定が設けられているのは、世界的に見ても異例である。男女が恋愛をし、性的に結びつくことには、法律はいらない。その限りでは、私的な事柄であり、国家が介入すべきことではない。しかし、結婚した男女は、単なる同棲者ではなく、親や家族や親族・友人などの認知を得た関係となる。私的な男女関係が、ここで公認による公の関係となるのである。それは、結婚は夫婦の性的関係を維持する手段ではなく、家族を形成することが目的だからである。つまり、結婚とは、社会の基本単位である家族を形成するという公共性のある行為なのである。そこに、結婚を法律に定める必要があるわけである。そして家族の安定のために、婚姻の安定性を求める法律も定められる。それゆえ、憲法に規定する必要があるのは、婚姻よりも家族に関する規定である。

しかし、第24条は、個人の尊厳と両性の権利の平等を強調する一方、家族の大切さを規定していない。そこに大きな欠陥がある。条文には、夫婦と並んで家族を構成するもう一本の柱である、親子への言及がない。これは、生命と文化が、世代から世代へと継承されていくことを軽視している。憲法の全体に、世代間の縦のつながり、民族の歴史が断ち切られている。

【婚姻が社会と切り離されて50年も経ってない】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=87512

日本の婚姻史を調べてみると、集団や社会から切り離された婚姻や性関係は、ほんのこの50年くらいしかなかったようだ。

まず、庶民の生活の中で、縄文時代から昭和10年から30年頃まで受け継がれてきた、夜這い婚などの集団婚。それらは、村単位で性充足を高めるシステムで、男女老若既未婚をとわず、性の役割が与えられた。

子育ても、誰の子であろうと、娘の親が育てるというように、村の規範の中で育てられた。決して個人課題ではない。また、性や子育て規範を共有する単位(村)と、生産にかかわる規範を共有する単位(村)は一致していた。

このように、性や婚姻は社会とつながっていて、性自体が集団維持の課題のひとつであった。それゆえ、性をみんなの期待として、肯定的に捉えていた。

次に、貴族や上位層の武士は、父系制の一夫多妻・一夫一婦制をとるが、基本的には政略結婚である。結婚は個人の課題という現代の感覚からすると、無理やり嫁がされてかわいそう、ということになるが、おおきな間違いだと思う。

私権社会での集団維持という歪んだ側面をもつことは否めないが、明らかに集団維持のための婚姻である。 それは、採取時代の人類は、男女の婚姻関係・性関係が、“集団統合上の重要課題である”ことを、ごく当たり前のように認識していたと思われることです。

そして、貴族の娘も、いい家柄に嫁げるように、家庭教師を招いて、教養を身につけるのが、役割であった。娘自身も教養あるおしとやかな女になることを、目指していたのである。ちなみに清少納言や紫式部は、上記の家庭教師だった。

そして、昭和の30年から45年くらいまでの婚姻制度も、基本的には家という基盤を背後に持ちながら、恋愛結婚という形をとった。この源流は、武士や貴族の婚姻制度にある。かなり社会との関係は薄れるが、まだつながりを保っていた時代だと思う。

このように、この50年を除けば、性は社会とつながっており、衰弱することはなかった。そして現在、まったく社会とつながりを失い、当人同士以外だれの期待も受けない性が始めて登場した。そのときから、性は衰弱し続けている。

再生のためには、社会の中でみんなに期待される『性』が役割として再認識される必要がある。そのためには、性も生産も包摂した新しい本源集団の再生が不可欠になる。

http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3382.html

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57. 2018年11月28日 20:39:23 : GVWKz2StvM : 4008Vf_juho[4] 報告
クリスチャンの天皇制 政治家を規制している天皇 29【皇室ブログちゃんねる】
https://www.youtube.com/watch?v=bjfXjDpJFi4

日本政治のトップは朝鮮人だった!戦争責任を取って公務員になれ! 31
https://www.youtube.com/watch?v=rypd1_8McyM

58. 中川隆[-13669] koaQ7Jey 2018年11月29日 12:32:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21322] 報告

宮崎の山村に伝わる「百済王伝説」の謎


いったいなぜこんな山奥の地に!?

古代の朝鮮半島に栄え、日本とも交流が多く、仏教をはじめとする多くの文化をもたらした王国「百済」。

その百済の王族が隠れ住んでいたと伝説に残る村が宮崎県にある。

南郷村という、九州山地の山間にある小さな村である。

今から1300年ほど前、百済の王族の禎嘉王とその息子の福智王が、宮崎の海岸に漂着して、南郷村に移り住んだという。

このふたりの霊を鎮めるため、南郷村では、毎年、旧暦の哩月に、息子の福智王が父の禎嘉王を訪ねる「師走祭り」という祭りが行われるが、この祭りには、朝鮮半島に伝わる風習とよく似た儀式がまじっている。たとえば、師走祭りでは、氏子や、祭りに参加した人々の行列が、途中で河原に降りて石を2つずつ拾い、自分の肩に乗せて、禎嘉王が祁られている神門神社の近くの石塚に納める。

いつぽう韓岡では、道を通る人々が道中の安全を願って石を供える「ソナンダン」という風習があるが、このソナンダンと、師走祭りで石塚に石を納める儀式はよく似ている。

また、祭りの最後に、「ヘグロ塗り」といって、神門神社の境内で、ナベやカマの炭を互いの顔に塗りあう風習があるのだが、韓国でもやはり、旅立つ人の魔よけとして、顔に炭を塗る習わしがある。

さらに、神門神社には、正倉院の遺物と同じ型の「瑞花六花鏡」が納められている。

こういったことからすると、南郷村の伝説は、史実を伝えたものと思われるのだが、そうすると不可解なのが、どうしてこんなところに隠れ住んだのかという点である。この百済の王族の親子が朝鮮半島から逃げてきたのだとすれば、朝廷に保護を求めればょさそうなものだ。どうしてわざわざ、宮崎の山奥の村に逃げ込んだりしたのだろう?

これについて、作家の金達寿氏は、この百済の王族親子は、朝鮮半島からではなく壬申の乱で逃げてきたのではないかという仮説を述べている(「歴史発見喝」角川書店刊)

天智天皇は、百済の危機に際して朝鮮半島に出兵したことからもうかがえるように、百済と親密な関係にあり、百済滅亡後、多くの百済人が日本に亡命してきていた。この百済からの亡命者たちは、天智天皇が現在の滋賀県大津に築いた近江京において官僚として仕え、天智天皇の死後、壬申の乱が起こったときには、天智天皇の子の大友皇子側についた。

これに対し、百済を滅ぼした新羅は、大海人皇子(天武天皇)の側についたものと考えられる。壬申の乱で大友皇子側が敗れると、近江朝廷に仕えていた百済人たちも、敗者として都から落ち延びることになるが、南郷村の伝説の禎嘉王と福智王も、史料には出てこないながら、この近江朝廷側の官僚、おそらくは武官だったのではないかという。

この仮説を裏付けるように、福智王を刷った比木神社の縁起では、禎嘉王と福智王はいったん安芸国厳島に滞在し、その後、日向の浜にたどり着いたという。安芸を経由して落ちのびてきたのなら、壬申の乱で都から逃げてきたという可能性も高そうだが、なぜこんな山深くに?という謎は依然として残る。
http://www.w-a-mozart.jp/entry/therekishi11.html  


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朝鮮半島からの流入民

 
日本列島へは、旧くからアジア大陸での争いに伴って、アジア大陸(主に朝鮮半島)からの流入民が多くいた。ここでは、大きく3回に分けて大陸からの流入について整理していく。


 
★流入第一波 〜紀元前4世紀頃 楚からの難民流入〜

約2400年前(紀元前4世紀頃)、中国は戦国時代と呼ばれる時代で、諸国(燕・斉・趙・魏・秦・韓・楚)が争っており、燕・秦・楚からの難民が南朝鮮へ流入し、日本列島へも海洋ルートで楚からの難民が流入していた。


 
★流入第二波 〜2世紀頃 朝鮮半島からの亡命部族(侵略部族)の流入〜

紀元後146年〜189年(桓帝・霊帝の治世)の間に「倭国大乱」が起こったと「後漢書」(東夷伝)に記されており、「三国志」(魏志倭人伝)他の書物にも2世紀後半に「倭国大乱」があったことを記述している。
 
一般には「倭国」=「日本」と解されていることが多いが、戦国時代〜前漢時代にかけて編纂された「山海経」の記述からは、朝鮮半島中部にあった国であると読み解け、「倭国」の範囲は倭人たちの領有地域に規定されており、前漢以前の時代はむしろ朝鮮半島中部〜南部が「倭国」の主要領土で、倭人の一部が日本列島にも上陸していたとみなせる。
 
よって、「倭国大乱」とは、日本列島だけでの出来事ではなく、2世紀頃に朝鮮半島南部にあった3つの部族連合

「馬韓(→4世紀に百済によって統一)」

「弁韓(→4世紀に部族連合のまま伽耶連合)」

「辰韓(→4世紀に新羅によって統一)」

の争いであり、その争いによって追いやられた部族が、日本列島へ流入したと考えられる。
 
「倭国大乱」期に朝鮮半島からの流入民は、数的に第一波より多いのはもちろん、亡命部族であると同時に武装した侵略部族であり、彼らによって縄文人たちは制圧されたであろう。
 
この大乱は最終的に女王(卑弥呼)を共立して収まったとされているが、これは女首長をおく母系集団的な治め方であり、この時期でも縄文的性質が失われておらず、むしろ統治のためには縄文的性質への同化が不可欠であったと言える。


 
★流入第三波 〜6世紀の任那滅亡、7世紀の百済滅亡と流入民〜

朝鮮半島では、新羅によって562年に任那が、新羅−唐連合軍によって660年に百済が滅ぼされた。

「倭国」がもともとは現在の「日本」だけではなく、南朝鮮と日本列島の一部を占めていたことを考えると、これは単なる朝鮮半島という地域の出来事ではない。
 
これは、日本列島にいた(伽耶を出身地とする)「倭人」にとっては、故地(伽耶・任那)を奪われ、同盟国(百済)を滅ぼされたことを意味する。

滅亡した百済の遺臣達からの要請に応じて、「倭国」が大軍を派遣して白村江の戦い(663年/百済・倭国軍敗戦)に挑んだのは、このような事情があったからに他ならない。
 
そして伽耶・任那滅亡から百済滅亡、白村江の戦いまで、大量に伽耶人、百済人の流入が続き、これらの中には社会的に高位の者も少なからずいた。
 
このような大量流入が起これば、使用言語が大きく変化したり、あるいは流入者の母語に取って代わられかねないが、この流入第三波によってもそのような事態にならず、縄文的性質が継承されていった。
 
【参考】
「渡来人の氏神様A…分化の融合−D渡来人」韓郷神社社誌
http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.176.html

http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000799.html#more



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古代朝鮮からの侵略部族が、一貫して日本を支配してきた 


古代日本、とりわけ朝鮮半島が戦乱にあけくれた2世紀〜6世紀に 、彼らは日本にやってきた。当時南朝鮮は、部族連合から国家への 移行期であり、激しい戦いを繰り広げ、そこから押し出された部族 が、一族郎党で武装のまま新天地の日本にやってきたのだった。


彼らは既に鉄製の剣を持ち、戦慣れした武装勢力であり、当時の縄文人・弥生人が敵う相手ではない。西日本に侵略部族による国が、あっという間に出来 あがる。


この2世紀ごろ西日本に成立した国々は、

・邪馬台国(ヒミコ)・・・・・・・・・・後の伊勢神宮系
・狗奴(くぬ)国(スサノウ、須佐氏)・・・・・宇佐神宮(八幡宮)系
・伊都国( 葛城氏、物部氏)・・・・・・加茂神社系
・不弥国(須佐氏)・・・・・・出雲大社

・・・・など

その後も、蘇我氏(高句麗からの侵略部族、神社を持たず仏教を導入)などが相次いだ。特に6世紀中ごろの任那滅亡、7世紀中ごろの百済滅亡の際には、任那・百済の支配部族の中核・大半が日本に移住した。


ここで注目するのは、2世紀にはよく言われる邪馬台国だけではなく、既にそれと同程度の国が各地に出来上がっているということです(邪馬台国ばかりに注目するのは意味がない)。そしてそれら侵略部族は自分の氏神として神社をもっていたこと。


その後これらの国々が、せめぎあい、勢力争いを繰り広げた後に、連合して作ったのが、大和王権(朝廷)であり、天皇制であり、日本における支配制度だった。


・・・・・・その名残が、名字(姓)と神社(神道)である。

★明治前まで支配部族だけが、名字(姓)をもっていた。=氏族という血統主義によって支配階級を形成。庶民は名無しだった。


日本では名字をもっていることが、支配階級(朝鮮からの渡来部族)の証であった。それが氏族の血統の証であり、当然名字のある階級と無い階級が交じり合うことは殆ど無かったと見られること。

従って姓を持っている名家は明らかに侵略部族の末裔であり、支配階級であった。


※従来、貴族制→武家支配が日本の支配機構で、それが明治維新でなくなったというのが定説だったが、より根本的な部分にこの“氏族による血統主義”があるということ。

ヨーロッパの身分主義、インドのカースト制とも少し違うが、明確な身分制度があったのだ。


※ちなみに百姓は、元々は農民を指すのではなかった。戦国時代までは、庄屋や下級武士など支配階級の最末端であり、“その他大勢 ”という意味だった。

大きくは名字のある無しの2階級だが、細かくは、

支配氏族>百姓(下級氏族)≫平民>エタ・非人 の4階級。


これらの朝鮮からの侵略部族が古代から一貫して苗字を持ち、氏族 を名乗り、血統を保ちながら、日本を支配してきた。なので平民が歴史上に登場 することはなかった。このような縄文人の末裔のあり方は、権力に従順ともいえるし、反抗しないし欲が少ないと言う点では本源的とも言える。


★神道は、支配部族(氏族)の氏神を祭る神であり、神社は、支配部族(氏族) の邸宅or砦であり、氏族の血統主義の権化、精神的な支柱であった。


神道や神社といえば、日本古来のものというのが一般的な認識だと思うが、そうではなかった。これは“右”的な人が聞いたら卒倒するかもしれないくらいの認識転換ではある。ただ古代からの事実をおさえていけば分かることだろう。


以上のように考えると歴史上の出来事と符号してくることがある。

なぜ有史以来朝鮮への出兵を繰り返してきたか?

 ・7世紀 天智天皇:白村江の戦い 
 ・16世紀 秀吉  :朝鮮出兵 
 ・19世紀〜明治以降の天皇による:日清・日露戦争〜太平洋戦争


いずれも、天下を取ったばかりor体制変革直後の時期に、急いで朝鮮へ出兵し、失敗している。天下をとった後は本来内部の体制固めが重要な時期である、それをおいてまず朝鮮に出兵している。彼らにとっては祖国奪還であり、至上命題だったのではないか?(イギリス王朝にとってのノルマンディーに近い。)


※秀吉は、“百姓”だが農民出ではない。下っ端氏族で修験者の出 。

(修験道は、天武天皇の時代に始まったもので、日本古代版のCIA(諜報機関)である。この修験道の修験者によって、各地の情報が集められ、監視され、また天皇崇拝の世論工作が行われた。そのための忍術や各種武術(剣道・柔道)もここから始まる。)


このように有史以来の日本の歴史は、朝鮮からの侵略部族により、 原住民である縄文→弥生人が支配されてきた歴史でもある。縄文人の末裔は、従順で反抗することも少なく、プロパガンダを疑うこともなく、天皇制を崇めてきた。

その一方で、朝鮮半島からの侵略部族が数次にわたって渡来してきたが、いずれ縄文・弥生の言葉(→日本語)を話すようになり、日本に同化していったのもまた事実です。朝鮮では分かれて合い争っていた部族が日本に来たら、大連合(=大和朝廷)を組んだのが象徴的だ。
http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000801.html


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古代日本史は、氏族集団間の闘争史


大和朝廷以降、日本の政治を仕切ってきたのは、氏族集団(同じ姓を持った血縁集団)であった。史上、最も長く実権を持ち続けていたのは平安時代の藤原氏である。

氏族集団が勢力争いを繰り広げ、実権を握った氏族集団が政治を動かすというこの体制は、ヤマト朝廷誕生以前から続いている。この氏族集団が、朝鮮半島からの渡来人だと考え、日本の歴史を見ていくと、日本史の意外な側面が見えてくる。


邪馬台国が成立した時の朝鮮半島は、北部を高句麗が支配し、半島南部を馬韓・弁韓・辰韓という部族集団が存在していた。

この部族同士の争いの結果、勝ち残った部族が国家を作っていく。

(馬韓→百天照済、弁韓→任那(みまな)、辰韓→新羅) 

この部族間闘争の結果、負けた部族が日本に渡り、クニを作っていく。
邪馬台国、狗奴国など、百国以上のクニが成立した。


天照大神は、日本書紀では最初「大日巫女貴(おほひるめのむち)」という名前で登場しており、太陽神を祭る巫女(=日の巫女)を示している。

女シャーマンであった卑弥呼が統治する邪馬台国の南に、男子の王を立てる狗奴国(くなこく)が大きな勢力を誇っていた。邪馬台国と狗奴国は何度も領土争いを繰り広げていたようだが、両者の和合により大連合政権が九州にできたと考えられる。


任那系渡来人と、新羅系渡来人の連合国家が九州に誕生したことになる。

九州に誕生した王権は、その後、奈良へと移動し、大和朝廷が誕生する。

この九州から奈良への遷都を描いたのが、「神武天皇の東征」である。

神武天皇以降、大和朝廷は基盤を固めていくが、西暦550年前後に、高句麗から蘇我一族が日本に渡り、朝廷内で勢力を拡大していく。推古天皇の時代には当時の諸氏族の中でも最大の勢力をほこり、十七条憲法や冠位十二階制など中央集権国家としての体制を固めていった。

当時、朝鮮半島は北部を高句麗が、南部を百済、任那(伽耶諸国)、新羅が統治していたが、562年には、任那(伽耶諸国)が新羅に吸収される。その後、唐と手を組んだ新羅は、百済、高句麗を滅ぼし、朝鮮半島に統一国家が成立する。

この朝鮮半島の混乱期に、日本に百済系渡来人が渡ってくる。中臣氏(→藤原氏)一族である。天智天皇と組んだ中臣鎌足は、蘇我一族を滅ぼし、土地制度、戸籍制度の改革を実行する。(大化の改新)

しかし、天智天皇は制度改革の途上で、滅亡した百済王家の願いを聞き入れ、百済奪還のため朝鮮半島に出兵する(白村江の戦い)。改革途上の出兵は、古代史上でも謎だとされているが、天智天皇の最大の後ろ盾であった藤原氏が百済の王族であり、彼らが一貫して朝鮮半島での国家復活を求めていたと考えれば、辻褄が合う。

天智天皇の死後、天智天皇の太子(大友皇子)と皇弟(大海人皇子)との間で後継者争いが起こる。結果、大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位する(壬申の乱)。天武天皇は、それまでの親百済政策を一転させ、親新羅政策へと舵を切っていく。

おそらく、天武天皇は新羅系王族の末裔で、壬申の乱とは、新羅系渡来人が百済系渡来人に勝利したという出来事だったのではなかろうか。実際、天武天皇の時代には、百済系渡来人・藤原氏(中臣氏)は衰亡の危機を迎えている。

この天武天皇の命により、古事記と日本書紀の編纂が開始される。

天武天皇の死後は、天武天皇の皇后が即位し、持統天皇となる。持統天皇となってからは、対朝鮮外交政策は天智天皇時代に近いものとなり、藤原氏一族が再び勢力を拡大し続ける。

これは、持統天皇が、天智天皇の娘、つまり百済系であったこととが関係していると考えられる。

この後、持統天皇系→天智天皇系が即位する時代が続いていく。


このように、朝鮮半島からの血縁集団が朝廷内に勢力を作り、氏族集団を形成した。大和朝廷成立以降、誰が天皇となり、どのような政策を取るかは、この有力氏族間の勢力図によって決まっていた。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2008/08/000797.html


▲△▽▼

小石房子『物語 日本の女帝』(平凡社新書)P38


第二章 皇極天皇 ミステリアスな女帝

 皇極天皇は謎多き女帝といわれている。
なかでも、もっとも不可思議なのが結婚をめぐる謎である。

『日本書紀』は舒明大王との結婚を再婚とし、―はじめ用明天皇の孫の高向王〔たかむくのおおきみ〕に適〔みあい〕して、漢皇子〔あやのみこ〕を生〔あ〕れませり―と伝えている。つまり皇極女帝は好明大王に嫁ぐ前、高向王と結婚して漢王子という男子をもうけていたというのだ。

 そのころ、国の頂点に立つ大王の妃はよりどりみどりのはずである。にもかかわらず、舒明大王は子持ちで再婚の妃を迎えたという。なぜだろうか。そして先夫との子が漢王子というのも気になる。

というのは当時、百済からの渡来人の多くが漢人を称していたからだ。


皇極天皇は百済の王女

小石房子『物語 日本の女帝』(平凡社新書)P39

 天皇家の系譜『本朝皇胤紹運録〔ほんちょうこういんじょううんろく〕』によると、皇極は推古二年(五九四)に舒明大王の弟、茅渟王〔ちぬおう〕を父とし、推古の姪の吉備姫〔きびひめ〕王女を母として生まれ、幼名を宝〔たから〕王女といった。

ところが茅淳王の生母の大俣王〔おおまたおう〕には漢王女という記述がある。
百済の王女だというのだ。


 良くも悪くも倭国は朝鮮半島とは緊密で、皇居には「園神〔そののかみ〕」「韓神〔からのかみ〕」という朝鮮の神が祀られており、平安時代の中ごろまで二月と十一月の卯の日には盛大なお祭りがおこなわれていた。『大日本史料』にはその日付がはっきりと明記されており、現在の建国記念の日は戦前の「紀元節」に当たり、この日を「韓神」の祭日とする学者もいるし、さらにいえば、「韓神」は今も皇居に祀られているという。

こんな具合だから、百済王室が倭国と結ぶために大王家に王女を送り込むことは、十分あり得ることだった。

 古代においては百済の方が先進国で、韓国の歴史博物館の展示物を見ると、百済の方が倭国より二百年くらい先を歩いている。先進国の百済の女性は垢抜けていてチャーミングだったし、当時は神意を問うて天下を治める時代で大王家は雨乞いのできる巫女を求めていたから、霊力の優れた王女であれば、再婚であっても子持ちであっても構わなかった。

ただ、唐や新羅との関係から、皇極には百済の王女と明記することは憚られ、そのために謎多き女帝とよばれたのである。


天智天皇は百済の王女の息子

小石房子『物語 日本の女帝』(平凡社新書)P52〜53

『日本書紀』には、入鹿が殺されたとき、古人大兄王子はすばやく宮殿を抜け出して宮居に戻り、

「韓人〔からひと〕が入鹿臣を殺した。心が痛む」

と叫んで寝所に籠ったと書かれている。
 古人は上席にいて、葛城が入鹿を誅伐するのを目の当たりにしている。史書には三韓の使者が殺したとするものもあるが、それはおかしい。

皇極が百済王女だとすれば、葛城王子は百済の血をひく王子、おそらく王族の間では韓人とささやかれていたのだろう。古人にとって葛城は王位継承のライバル。だから蔑視の意を込めて常々そうよんでいたのだろう。

※葛城王子=中大兄皇子、後の天智天皇
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/sisou/1337418189/


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天皇陛下のお言葉

「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」


天皇のゆかり発言と帰化人の出自詐称と武寧王の出生の秘史
http://www.youtube.com/watch?v=dmkRfkZ6ZVE&feature=player_embedded

いまの天皇家のルーツ

 韓国に対して天皇自らが「縁を感じる」とおっしゃったお言葉がきっかけになって、血筋の真実はかなり広くに知れ渡ったようだ。「天孫」が「朝鮮人」に変わってしまったことについては、天皇をはじめ皇族方のお立場に同情を禁じ得ない。いままた、私がこうして天皇家のルーツを細かく述べることに、私自身かなりの苦痛を覚える。けれども、これは広く国民が知らなければならない重要な問題だと思うから、勇を鼓して書き進めている。


 六六三年、白村江の戦いで日本・百済遺民の連合軍が唐・新羅連合軍に大敗し、朝鮮半島の百済の国が完全に滅びたとき、百済王族が一族配下数千人(一万人説もある)を引き連れて日本へ亡命してきた。彼らは貴族として迎え入れられ、土地や官職まで与えられ、複数の者が天皇に仕えた。

澤田洋太郎著『歴史教科書あなたはどう考える』によると、多くの百済人が住みついた近江の地は第二の百済国のようであったという。この集団の核となったのは百済王子豊璋、善光兄弟の直系子孫たちであった。


 白村江の戦いの途中に姿をくらませた百済遺民軍の指揮官・豊璋は、長年、賓客扱いの人質として滞在していた日本に密かに逃げ帰り、天智天皇から藤原鎌足の名をもらって日本に帰化した。


 その子孫は日本の上層部に深く根を張り巡らせた。狡猾なこの一族は初代天皇家を乗っ取り、他系を全て排除した。


 百済王族の血一筋になったのは、豊璋の弟善光の直系子孫・桓武天皇(七三七年生まれ)のときであり、天皇の周りは百済人ばかりだったという。

天皇が百済人に囲まれた形は、そのまま引き継がれているであろう。

私の友人の結婚相手に、公家出身の人がいる。実家は敗戦によって雲の上から転がり落ち、邸宅を売却したと聞いているが、その姓は「多羅」。明らかに百済系である。


 話を戻して、天皇家の血筋は父系は善光、母系は藤原、という形が桓武天皇の後、しばらく続いた。ところが、陰謀家の藤原氏は、赤ん坊すり替えの手段によって、善光の血筋まではじき出してしまったのである。父系、母系ともに藤原氏つまり百済王子豊璋の血一筋になったのは鳥羽天皇(一一〇三年生まれ)のときだった。鳥羽天皇の本当の父は藤原公実、母はその側室・藤原光子であると思われる。


 それ以降、実に九百年という歳月を天皇家は藤原氏に完全に私物化され、藤原氏の思うがままに操られ続けてきた。


 天皇暗殺、すり替えも辞さない冷酷な藤原氏のもとで天皇家は翻弄され続けてきたのである。日本の頂点に立ったのは天皇ではなく、実は黒幕・藤原氏だったということになる。


「藤原にあらずんば、人にあらず」の横暴ぶりを学校で教えられた記憶があるが、「人にあらず」どころか実は「天皇にあらず」でもあったのだ。


 あの大戦のとき、天皇の運命を握っていたのは藤原五摂家の筆頭・近衛家の当主文麿であった。具体的な話は別項に譲ることにする。余談だが、「麿」は朝鮮語で「高み」を表わす「まら」に由来する言葉だという。


 百済王族が日本の支配者であったことの裏付けになりそうな文章を、李青若著『在日韓国人三世の胸のうち』(草思社)から原文そのまま引用する。


「実家がある町の一角には、先祖が朝鮮半島から来たと思われる人たちが住んでいる。名字が『百済』というような家がある。彼らは、日本に文化を伝えた人の子孫ということで、由緒ある家柄とみなされているらしい。そういうところからお嫁さんをもらうのは難しい、と言われることもあるそうだ」


 まさに、それこそ百済王族の血筋であろう。辿っていけば天皇家と共通の先祖にいきつくことはまず間違いなかろう。
http://bunei321.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-e15a.html




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59. 中川隆[-13668] koaQ7Jey 2018年11月29日 12:32:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21322] 報告


収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが…


暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。


『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)
「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」
「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」
「あとがき」

から要約する。


現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。

このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。

紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。

しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。

その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。

彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。

1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。 清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった。

同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。

その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。

ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。

丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。

藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。

当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。

さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。

それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。

王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。

1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。

だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。

地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。

しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。


宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。
果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。

『殴り合う貴族たち〜平安朝裏源氏物語』繁田信一著 柏書房刊

序 素行の悪い光源氏たち
藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」

によると、


988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。

橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。

ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。

この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。


これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html


暴走の源流=平安貴族2 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた

国府を焼く平忠常の乱 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族)
では、

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたこと。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。

ということを提起しました。


今回記事では、

●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めていきます。

 『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「第2章 公共事業費を横領し尽くす」から要約します。 


@収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族から生命を狙われていた。

1007年の7月1日、鎮西の大宰府において大隅守菅野重忠が殺されるという事件が起きた。

歴史書の『日本紀略』によれば、重忠を殺したのは、大宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高であった。その光高が、重忠を弓矢で射殺したのである。 こうして生命を落とした大隅守重忠は「王朝貴族」と呼ばれる人々の一人であった。彼は、受領国司として鎮西に下向した王朝貴族だったのである。従って、その重忠が非業の最期を遂げたという話は、当時の貴族層の人々に大きな衝撃を与えたことだろう。

大隈守菅野重忠を射殺した大蔵光高の父親は、1019年の「刀伊の入寇」の折に異国の賊徒を相手に奮戦するように、鎮西の軍事貴族の一人であった。しかも、大宰府の三等官である大宰大監を務めたことから見て、鎮西において相当に有力な軍事貴族であったらしい。その彼を「豪族」と呼ばずに「軍事貴族」と呼ぶのは、彼が従五位下以上の位階を持つ厳密な意味での貴族の一人だったことが推測されるからに他ならない。

ただし、大蔵種材という実在の軍事貴族は、おそらく、大隈国の有力者だったのだろう。また種材の一族は、大隅国内の権益を守るため、ときとして同国の受領国司である大隅守と衝突しなければならなかったに違いない。そして、歴代の大隅守たちの中で最も激しく種材の一族と対立したのが、寛弘4年に種材の息子によって射殺された菅野重忠だったのではないだろうか。

このように、一条天皇が玉座にあった1007年、わが国の西の辺境である鎮西において、大隅守が大隅国の軍事貴族によって殺害されるという事件が起きていたわけだが、これは、けっして希有な出来事ではなかった。

例えば、一条天皇の曾祖父にあたる醍醐天皇の治世にも、かつて本朝の東の辺境であった上野国において、同国の豪族たちが上野介を殺すという事件が起きていた。

そして1002年の年末もしくは、その翌年の年頭には、平維良という下総国の軍事貴族が、下総守の公邸である下総守館に焼き討ちをかけていたらしい。『百錬抄』という歴史書によれば、長保五年二月八日の公卿会議において、「平維良が下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国の公有財産を掠奪したこと」が議題にされているのである。

受領国司の生命を狙って守館に焼き討ちをかけるという事件は、鎮西の軍事貴族よって引き起こされている。すなわち、一条天皇の息子の後一条天皇が帝位にあった長元2年(1029)の春もしくは夏、大隅国を活動拠点とする従5位下平兼光などとともに、大隅国府や大隅守館などを襲撃して火を放ったのである。この一件でも、大隅守自身は難を逃れていたようだが、『小右記』によれば、国府・守館に攻め込んだ季基・兼元の一党は、その場に居合わせた人々を殺戮しつつ、大隅国の国有財産を掠奪したらしい。

A地元の王朝貴族(受領)は、地元の豪族から恨まれていた。その証拠として
 「尾張国郡司百姓等解」という文章があります。


■「尾張国郡司百姓等解」

永祚元年(989)の2月5日および同6日、両日の公卿会議における議題の一つは、「尾張国の百姓などが朝廷に尾張守藤原元命の違法行為を告発したこと」であった。 尾張守元命は、任国の百姓たちからのみならず、国守を助けて働くべき郡司たちからまでも、その罷免を強く望まれていたことになろう。そして、尾張国の百姓たちと歩調を合わせて朝廷に尾張守の交替を求めた尾張国の郡司たちというのは、尾張国内の各郡の統治にあたる地元出身の地方官人たちである以前に、それぞれの郡内に地盤を持つ古くからの豪族達であった。
 
ここで朝廷に尾張守元命の更迭を要求したとされている「尾張国の百姓」というのは、映画「七人の侍」やテレビドラマ「水戸黄門」に登場するような、汗と泥にまみれて朝から晩まで働き続けながらも食うや食わずの生活を送らねばならないという、貧しく憐れな農民ではない。むしろ、そうした無力な農民たちを自在に使役することによって広大な田地から膨大な収益を上げようとしていた、才覚ある農業経営者として理解されるべきであろう。王朝貴族が「尾張国の百姓」と呼んだのは、尾張国において豪族のような立場にあった人々であり、あるいは、尾張国の豪族そのものとみなされるべき人々であった。

尾張守元命の罷免を望む尾張国の百姓達は、元命の行った31種類もの違法行為を書き連ねた解を、元命の頭越しに朝廷に提出したのである。そして、その嘆願書あるいは告訴状こそが、われわれが「尾張国郡司百姓等解」や「尾張国解文」などの名称で聞き知っている文書に他ならない。

その嘆願書なり告発状なりに示されているは、郡司あるいは百姓として尾張国に根を張っていた大勢の豪族達の総意なのである。


■5種類の悪行

「尾張国郡司百姓等解」の冒頭に置かれたのは、文書の表題の役割を果たす次のような一文であった。この嘆願書もしくは告発状を朝廷に提出したのが尾張国の郡司と百姓とであるということは、ここに改めて確認されよう。

「尾張国の郡司および百姓が解を提出して朝廷によるお裁きをお願い致します。」
「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命殿は、本年を含む3カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法を行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて31ヶ条にも及びます。これが本状の趣旨です。

そこで、尾張国の郡司や百姓が数え上げる尾張守元命の不正は、おおむね、以下の5つに分類されよう。

A.不当課税および不当徴税(9ヶ条)
B.恐喝およびさ詐欺(3ヶ条)
C.公費横領(10ヶ条)
D.恐喝および詐欺の黙認(4ヶ条)
E.その他(4ヶ条)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002566.html

暴走の源流=平安貴族3 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?


任国に赴く受領(因幡堂縁起) 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族2 収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた)
では、


●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めました。

この地元の受領たちが恨まれていた証拠として、「尾張国郡司百姓等解」という書物が残っています。今日はこの書物に綴られている悪行の数々について具体的な中身を紹介していきます。


■悪用された公的融資制度

[第1条]公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

 王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なもの見えるような公的融資を行っていた。それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率と利息とを回収するというものであった。

こうして公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。しかし、これは借り手の意志を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓達は、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府から融資を受けなければならなかったのである。そしてこの融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

 結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられた上に、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

 986年に着任した尾張守藤原元命は、こうした従来よりの規定を平然と無視したという。988年までの3ヶ年に合計で2万1500石を超える額の強制融資を追加して、百姓たちから6400石以上もの米を利息として取り立てたのである。

 ちなみに、こうして元命が尾張国の百姓たちから巻き上げた米6400石は王朝時代の大半の人々にとって、一生を費やしても稼ぎ出し得ないほどの巨富であった。当時一般的な雑役に従事する労働者は、朝から晩まで働いても、一升(0.01石)もしくは二升(0.02石)ほどの米しか手にできなかったのである。そんな庶民層の人々にしてみれば、6400石というのは、数百年分から千数百年分の年収に等しい額であった。


■着服のための増税

 尾張国の富を吸い上げられるだけ吸い上げるつもりであった元命は、本来的な課税制度をも、存分に悪用したのである。

[第2条]課税対象ではない田地からも税を取り立てた。

 当然のことながら、本来は徴収されないはずの税は、徴収された後、国府の財政に組み込まれることもなければ、朝廷に上納されることもなかった。非課税のはずの田地から不当に徴収された税の行き先は、言うまでもなく、尾張守元命の懐であったろう。


[第3条]朝廷の許可を得ずに税率を大幅に引き上げた。

 違法な税率を用いて百姓達から税を取り立てた尾張守は、けっして藤原元命だけではない。王朝時代の尾張国においては、法定に倍する税率での課税が慣例化してしまっていたようなのである。だが、そんな尾張国に生きる百姓たちも、元命が986年に新しく採用した税率には、さすがに憤慨せずにはいられなかった。というのも、元命の提示した新税率が1町につき21.6石というあまりにも高いものだったからである。それは従来の違法税率の1.8倍から2.4倍の税率であり、法定税率と比較すれば4.8倍にもなる高すぎるほどに高い税率であった。


[第4条]着服するためにまったく名目の立たない税を取り立てた。

 一町につき8.4石というのは、尾張守元命が任国の百姓たちに臨時で課した特別税の税率である。これが本来の税の法定税率の2倍に近い高い税率であることは、ことさらに言うまでもないだろうが、この高税率の特別税は、一片の正当性もないまったく違法なものであった。すなわち、この税は、ただたんに元命の懐を温めるためだけに課されたものだったのである。


[第5条]前3条の不正によって毎年のように5万石を超す不当な利益を上げた。

 15万石というと、王朝時代の一般的な労働者の2万年分の年収を上回る額である。それは、当時の庶民層の人々にとって、まったく現実感のない数字であったかもしれない。だが、確かな現実として、尾張国の百姓達は3年間の間にそれだけの富を尾張守元命によって巻き上げられていたのである。


■公務としての掠奪


[第6条]絹織物の公定価格を不正に改変して事実上の増税を行った。

尾張国の百姓たちが負っていた税には、2.4町の田地について一疋(0.67メートル×15.56メートル)の絹織物を納めるというものもあった。そしてこの税の税率は、田地一町につき米2石というものとして理解されていた。


[第14条]絹織物を納付する期限を不当に早めた上に乱暴な取り立てをした。

 尾張守に就任した藤原元命には、任国の百姓の都合など、まったく考慮するに値しないものであったらしい。元命が絹織物の取り立てを開始したのは、毎年、いまだ多くの田地において田植が完了していなかったであろう5月中旬だったのである。それまでより半月以上も早く絹織物が徴収されはじめるようになったことは、尾張国の百姓たちをひどく困惑させたことだろう。

 しかも、尾張守元命による絹織物の徴収は、実に乱暴なものであった。元命の配下の徴税使は、その郎等や従者を百姓たちの家宅に踏み込ませ、徴収するべき絹織物の他、めぼしい物品の全てを、手当たり次第に奪い去ったというのである。これでは強盗団の掠奪と何ら変わるところがあるまい。いや、強盗よりも始末が悪かったかもしれない。というのは、あくまで公務を遂行していることになっていた徴税使たちには、手向かう者があった場合、尾張守元命の名のもとに容赦のない刑罰を与えることも可能だったからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002571.html

暴走の源流=平安貴族4 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?(第2回)


今回も、引き続き古文書から平安貴族の実態を暴きます!

以下引用は、繁田信一氏「王朝貴族の悪だくみ〜清少納言危機一髪〜」からです。

●熱心な取り立て

藤原元命のような悪徳受領は、ときとして、あたかも謹厳な国司であるかのような顔をすることもあった。

〔第八条〕過去の未納分の税を無関係な郡司や百姓から不当に取り立てた。

元命が尾張守を拝命した当時、どこの国の国府の帳簿を見ても、ずいぶんと昔の国司たちが取り立て損ねた税が、累積しつつ繰り越され続けているものであった。が、当時の朝廷は、そうした税を徴収することを、すでに締めていたらしい。そうした意味では、過去の未納分の税というのは、あくまでも帳符上の数字にすぎなかったのである。

そう、税の徴収が大好きな尾張守元命は、すでに時効を迎えたものとして扱われていた過去の未納分の税をも、かなりの熱意を持って完璧に取り立てようとしたのであった。

つまりその時点で尾張国内に住んでいた郡司や百姓が、まったく理不尽にも、かなり以前に赤の他人が滞納した税を負わされたのである。「尾張国郡司百姓等解」 によれば、このときの徴税もまた、掠奪さながらに実行されたらしい。


〔第十五条〕課税対象でない作物にも税を課した。

しかし、貪欲な元命は、そうした非課税の作物にさえ、徴税の手を延ばした。尾張何の隅々から、麦や豆をも容赦なく取り立てたのである。

そして、もちろん、任期中に多量の漆をせしめておくことも忘れなかった。彼の治めた尾張国には、上質の漆を産出することで知られる丹羽郡があったのである。


●不払いを決め込む受領国司

王朝時代の受領国司は、税として徴収した米を財源として、さまざまな物品の買い上げを行った。

というのも、任国にて調達した多様な物品を朝廷に上納することもまた、当時の受領たちが帯びていた重安な任務の一つだったからである。

 だが、尾張守藤原元命のような悪徳受領は、そうした公務としての買い上げの際にさえ、私腹を肥やさんとして、あまりにもえげつない不正を働いたのであった。

                                     
[第七条] 買い上げの名目で種々の物品を騙し盗った

元命が尾張守として尾張国において買い上げたのは、絹織物・麻織物・漆・油・苧麻・染料・綿といった品々である。そして、これらの物品を生産して元命に売ったのは、尾張国の百姓たちだったわけだが、その百姓たちの不満は、元命が物品を不当に安く買い上げたことにあった。そうした不公正な買い上が尾張国の百姓たちにもたらした損失は、絹織物に関してだけでも、数千疋にも及んでいたという。

貸しつけというかたちで元命のために絹織物を用立てた百姓の中には、その貸しっけを踏み倒された者もあった。


〔第九条〕借り入れの名目で大量の絹織物を騙し盗った

この絹織物の借り入れに関して、元命が一瞬でも返済の意思を持ったことがあったとは思えない。おそらく、ここでの借財は、当の元命にとって、返済するつもりなど初めからまったくない、事実上の接収だったのだろう。彼が、彼が借り入れの名目で集めた絹織物の総量は、一二一二疋にも及んでいたという。

尾張守元命が踏み倒した借り入れの総額は、当時の庶民層の人々にとって、八〇〇年分ほどもの年収に相当するものだったようだ。

ちなみに、こうした不正によって元命のもとに番えられた富を都に運び上げたのは、運送業をも営む百姓たちであったが、そうした百姓たちは、ここでもひどい目に遭っていた。


[第二十二条]物品の運送に雇った人々に不当に安い賃金しか支払わなかった


どうやら、貪欲な元命は、払うべき運賃の四割弱ほどしか払わなかったらしいのである。

●救民策の完全な放棄

 さて、尾張守藤原元命が悪辣な受領国司であったことは、ここまでに見てきたところからも、すでに十分に明らかであろう。しかし、元命の行った悪事を数え上げる「尾張国郡司百姓等解」は、まだまだこれでは終わらない。尾張国の郡司や百姓は、元命による公費横領の数々をも、かなり強い口調で弾劾しているのである。


〔第十条〕 貧民救済に充てる費用の全てを着服した

〔第十三条〕灌漑施設補修費および災害対策費の全てを着服した

地方諸国の漑漑施設の補修は、当時、受領国司たちに期待されていた重安な役割の一つであった。

また、それは、当の受領たちにとっても、切実な意味を持つ事業であったろう。任国から少しでも多くの利益を上げたかった彼らは、それぞれの任国の農業力を維持あるいは強化するため、ある程度漑施設を整えておかねばならなかったはずなのである。

しかし、王朝時代を代表する悪徳受領として知られる尾張守元命は、潅漑施設補修費および災害対策費として計上されていた六〇〇石余りの米の全てを、何のためらいもなく横領したという。

●食い尽くされた公共事業費

尾張守藤原元命が任国において横領した公共事業費は、灌漑施設補修費や災害対策費だけではない。

〔第十一条〕公的な連絡網を維持するための費用の全てを着服した。

〔第十二条〕公有の馬の飼育費および購入費の全てを着服した。


「駅」と呼ばれる施設を置いていた。そして、朝廷から諸国への命令や諸国から朝廷への報告は、駅から駅へと運ばれるかたちで、ほぼ確実に伝達されていたのである。
それぞれの駅には、多数の馬が用意されていた。駅ごとに馬を替えながら情報や使者を選ぶというのが、王朝時代の国家的な連絡網としての駅の制度であった。

また、その広域連絡網の結節点であった諸国の駅は、それぞれの国を治める受領国司の責任において維持されることになつていた。つまり、諸国に下った受領は、駅を維持するために、一定の規模の財源を確保しなければならなかったのである。

 しかし、尾張守藤原元命の場合、そうしたことに意を砕くことはなく、むしろ、駅のために支出するべき費用を丸ごと自分の懐に入れていたらしい。

そして、その尻拭いをさせられたのは、尾張国の郡司たちであったという。尾張国を治めていた三ケ年の問、同国の駅の全ては、同国の郡司たちの私財によって維持されていたのである。

しかも、これと同様の不正は、水上交通網の整備を巡っても行われていた。

   任地に赴く受領

●罰あたりな横領

〔第二十四条〕国分尼寺の再建に充てられるべき費用の全てを着服した。

王朝時代の受領国司たちは、国分寺や国分尼寺を存続させることに意を用いねばならなかった。要するに国分寺・国分尼寺の修理や改築などは、受領の責任において行われなければならなかったのである。

 ところが、尾張国の受領国司となった藤原元命は、任国の国分尼寺が火災によって失われていたにもかかわらず、けっして同寺の再建に必要な費用を支出しようとはしなかった。いや、それどころか、国分尼寺再建費に充てられるべきであった米九〇〇石に相当する財を、悪びれることなく自分のものにしてしまっていたのである。

〔第二十五条〕国分寺の僧および国分尼寺の尼への公的な布施の全てを着服した。
ここで元命が横領したとされる布施の総額は、六〇〇石強にもなったというが、それは、本来、国分寺あるいは国分尼寺において仏法を行う僧尼の生活費となるべき財であった。


●給料未払い

こうして、多様な名目の公共事業費を着服し尽した藤原元命であったが、そんな悪徳受領の元命は大胆にも、彼以外の尾張国司たちの給料にまで手を出していた。


〔第二十条〕掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう)など下級国司の給料を全て着服した。

諸国の国司としては、長官である守と次官である介との下に、文書の作成や管理などに当たる国府の書記官のような官職もあった。これら国司の給料というのは、諸国の国府が行なう公的融資の利息を財源として支払われることになっていた。しかし、尾張国では、元命がその大半を横領し、結果として、下級国司には給料はほとんど支払われていなかった。


〔第二十一条〕国府に勤務する国司以外の人々の給料の全てを着服した。


「尾張国郡司百姓等解」が国府関係者の給料に関する不正をも糾弾しているのは、右の二カ条に見える横領によって損害を被った下級国司や国府職員の多くが、毛張国諸郡の郡司を兼任する人々だったからに他ならない。つまり、ここにおいてもまた、元命によって少なからぬ財を巻き上げられたのは、尾張国の郡司たちだったのである。 

以上は、役職を利用した横領や着服ですが、次の文を見ると、配下の者を使って、直接略奪を働いていたようです。こうなると完全なギャングです。


●受領に仕える野獣たち

王朝時代の受領国司にとっては、連れ下った子弟・郎等・従者こそが、任国における悪辣な蓄財活動の実行委員であった。尾張守藤原元命、彼の子弟や郎党や従者は、尾張国の郡司や百姓から財を巻き上げるため、元気に横暴の限りを尽くし続けた。


[第十六条]徴税使が人々に贅沢な接待や土産を強要するのを黙認した。

[第二十七条]子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し取るのを黙認した。

[第二十八条]息子が馬を持つ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。

[第二十九条]子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。


 尾張守藤琴冗命の徴税便を務めたのは、当然、元命が都から連れ下った子弟や郎等や従者であった。そして、この連中は、公務にかこつけて頻繁に尾張国内の村々を訪れては、接待や土産などの名目で、郡司や百姓から多くの財を脅し盗っていた。「尾張同郡司百姓等解」によれば、そうして奪われた尾張国の冨は、数千石にも及んだらしい。

また、尾張守の威光を振りかざす元命の子弟や郎党は、尾張国の人々のもとに何か欲しいものがあれば、とにかく何でも奪い去ったという。これを「尾張同郡司百姓等解」は。「民の物を奪ひては、則ち京洛の家に運ぶ」と訴え、また、「日に見る好物は乞ひ取らざる莫く、耳に閃く珍財は使を放ちてしひ取る」と弾じる。

そして、尾張国の郡司や百姓による元命の手下たちについての総合的な評価は、おおよそ次のようなものであった。「尾張守殿の子弟や郎等の様子は、辺境に住む野蛮人と異なるところがなく、むしろ、山犬や狼のような野獣に近いほどです」。

●隠匿された法令

藤原元命が尾張守の任にあった三ケ年の間、尾張国の人々が悩まされ続けたことの一つは、ありにも頻繁に都への物品の移送に駆り出されることであった。

[第二十三条] 物品の還送のために国内の人夫や荷馬を動員することが不当に多かった。

[第二十六条]任地の大半を都の自宅で過ごして郡司や百姓からの陳情機会を奪った。

都からそう遠くない国々を預かる受領の場合、任国の支配を郎等たちに任せて、自身は多くの時間を住み慣れた都で過ごしていたのであった。

〔第三十条〕 官人身分の悪人たちを積極的に国内に連れ込んだ。


尾張守元命が下向の折に任国へと連れ込んだのは、位階や官職を持つ宮人であり、中級貴族層あるいは下級貴族層に属する人々であった。当然、彼らは、それなりに身元の確かな者たちであったろう。だが、この連中こそが、尾張守に仕える野獣の如き郎等たちの主力となったのであった.

[第三十一条]受領国司に都合の悪い新規の法令を発布しなかった。

●幸運な悪徳受領

さて、以上に「尾張国都司百姓等解」 の内容を少し詳しく見てきたわけだが、これによって明らかになったように、尾張守藤原元命がその任国において犯した罪は、あまりにも大きなものであった。

数々の悪行が尾張国にもたらした損失は、経済的なものだけを見ても、十七万数千石にもなっていたのである。それは、王朝時代において、一般労働者の二万数千年分の年収に匹敵する額であった。そして、国司の権力を振りかざして欲望のままに犯行を重ねた悪徳受領は、989年の四月五日、ついに尾張守を罷免されることになる。

右に見た『小右記』の一節に明らかなように、元命を失職に追い込んだのは、「尾張国都司百姓等解」あるいは「尾張国解文」として知られる一過の文番であった。朝廷に元命の更迭を決断させたのは、この嘆願書もしくは告発状だったのである。そして、件の「尾張国郡司百姓等解」を朝廷に提出したのは、当然のことながら、尾張国に暮らす郡司たちや百姓たちであった。

とすると、受領ぶりを遺憾なく発揮した尾張守藤原元命は、尾張国に地般を持つ豪族たちからひどく憎まれていたということになろう。そう、元命の更迭を願って「尾張国郡司百姓等解」を作成した尾張河の郡司たちや百姓たちというのは、要するに、同国に根を張る新旧の豪族たちだのである。

このことからすれば、現実には罷免されるだけですんだ尾張守元命も、ことによっては、任国の豪族たちの手により、むごたらしく血祭りに上げられていたかもしれないのである。

すでに幾つかの事例を紹介したように、受領国司たちが任国の軍事費族や豪族に生命を狙われるというのは、王朝時代において、まったく珍しいことではなかった。激しく憎まれていた尾張守元命ならば、彼に恨みを持つ豪族たちに襲撃されて血塗れの最期を迎えていたとしても、それは、実に似つかわしいことであろう。


・・・・以上が平安時代の貴族の実態です。これでも日本人か?もうこれ以上の悪は居ないだろう・・・と思うくらいですね。

でも上には上が、もっと悪い奴が居たようです。「尾張国郡司百姓等解文」という告発文により藤原元命は解任されたのですが、もっとあくどい奴は、このように告発されないように、事前に手を廻して押さえつけていたようです。次回紹介します。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002574.html


暴走の源流=平安貴族5 

自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じする貴族たち

前回までの記事は、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪についてまとめました。
 
平安貴族たちの悪行はこれだけに止まりません。
 
今回は自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じしまくった貴族たちについてまとめます。
 
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』より抜粋引用します。
  
  『餓鬼草子』に描かれている貴族の食事
 
  『餓鬼草子』に描かれている庶民の様子

 
○告発者の親兄弟を皆殺しにした『藤原文信』

尾張国の豪族たちが「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」を通じて朝廷に強く求めたのは、要するに、悪徳受領の罷免であった。そして、この国司更迭の請願は、あっさりと聞き届けられることとなった。すなわち、「尾張国郡司百姓等解」によって尾張守藤原元命(おわりのかみふじわらのもとなが)の度を越した悪辣せを知った朝廷が、永祚元年(九八九)の四月五日、元命に代わる新たな尾張守を任命したのである。

そして尾張国の豪族たちは、藤原元命の追放を成し遂げた後、その成功に味をしめてか、朝廷に受領国司の解任を要求することを繰り返すようになる。

 
 ところが、現存する史料を見る限り、藤原元命の後任の尾張守については、朝廷によって罷免されたという事実もなければ、尾張国の豪族たちから退任を要求されたという事実もない。どうやら、元命の次の尾張守は、その任を無事に務めおおせたようなのである。

そして、その藤原元命の後任の尾張守というのは、藤原実資の『小右記』の藤原文信であった。
  
尾張国の豪族は藤原元命の悪行に怒りを示し、「尾張国郡司百姓等解」を作成し、朝廷に罷免を求め、見事成功。それ以来、受領国司の解任要求を朝廷に繰り返すようになります。

しかし、元命の後任の藤原文信は地方豪族ではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪だったようです。
 


 だが、この事実は、文信が善良な受領国司であったことを示すとは限らない。また、尾張国の豪族たちが文信に好感を抱いていたことを示すとも限らない。任国の豪族たちから明白なかたちで拒絶されることのなかった尾張守文信は、ことによると、尾張国の郡司や百姓にとって、現に彼らの働きかけによって尾張守の職を追われた元命や経国などよりも、はるかに厄介な受領だったかもしれないのである。もしかすると、文信というのは、地方豪族などではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪な受領だったのではないだろうか。

というのもこの藤原文信という中級貴族には、恐ろしい前科があったからに他ならない。実は、かつて筑後守の任にあった頃の文信は、自身に不都合な筑後国の住人を抹殺しようとしたうえ、その筑後国人の親兄弟を皆殺しにしていたのである。

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朝廷が藤原文信を尾張守に任命したのは、永祚元年四月五日のことであったが、その直前となる同月一日、当の文信が暴漢に襲われて頭部に傷を負うという事件が起きていた。

そして、永祚元年四月六日の『小右記』には、次のような記述が残されている。

「藤原文信を負傷させた安倍正国(あべのまさくに)が、伊賀国の以忠(もちただ)という名前の追捕使によって捕獲されたらしい。

そこで、検非違使の右衛門尉藤原惟風(うえもんのじょうふじわらこれかぜ)が、伊賀国追捕使以忠から正国の身柄を引き取ったところ、件(くだん)の正国は、両手の指を切断されたうえ、脚をへし折られていたらしい。また、その文信襲撃事件の犯人と見られる男は、鎮西(ちんざい)において文信に父母・兄弟・姉妹を殺されたことから、その報復をしようと、文信が隙を見せるのを待っていたらしい」。

 こうして検非違使が安倍正国の身柄を確保したことで都の人々の前に明らかにされたところによれば、前筑後守藤原文信が正国に生命を狙われねばならなかったのは、かつて文信が正国の家族を殺害していたためであった。検非違使が正国の口より「鎮西において文信に父母・兄弟・姉妹を殺された」との供述を引き出したことから見て、また、正国がたった一人で家族の仇を討とうとしていたらしいことから見て、筑後守であった頃の文信は、その任国において、正国の家族を皆殺しにしていたにちがいない。

 
このように、藤原文信は安倍正国の家族を皆殺しにし、そのあだ討ちに来た正国自身も返り討ちにし殺してしまいます。しかも、両手の指を切断し、脚をへし折るという残虐なやり方で、、、

この凶暴さに地方豪族もびびってしまい、文信が朝廷に受領の任期を伸ばす要請を出しても止めることができず、長期間受領を勤めることができたようです。
  

文信の筑後守の任期は、本来、天元四年正月の四年後の正月となるはずであった。

文信が受領としてその任国から富を吸い上げ得る期間は、正規のかたちで正月に任命された受領の場合に比して、ほとんど一年間も短くなってしまうはずだったのである。

 だが、これに納得できなかった文信は、彼の筑後守としての任期を天元五年正月からの四年間とするよう、文章を通じて朝廷に願い出たのであった。そうして少しでも長く受領国司の任にあり続けようとするのは、当時の中級貴族層の人々にとって、あまりにも当たり前のことであったろう。

そして、『小右記』によれば、文信から上げられた申請が朝廷において検討されたのは、天元五年、の二月二十五日のことであったが、この新任の筑後守の切実な願いは、すんなりと承認されたものと思われる。

 
○自分の横領を知った盗人の口を封じる『伯耆守』
 

王朝時代の人物と思しき橘経国(たちばなのつねくに)は、伯耆守(ほうきのかみ)の任にあった頃、国府の倉庫に忍び込んだ盗人を、捕らえた途端に処刑したことがあった。その盗人は、四十歳ほどの男であったが、身形もよく肌の色も白かったというから、おそらくは、伯耆国に地盤を持つ新旧の豪族たちの一人だったのだろう。そして、そんな人物が盗みなどに手を染めたのは、折からの飢饉のため、食べるものがまったく手に入らなかったからであったという。
      
しかし、王朝時代のこととはいえ、ただの盗人が死刑に処されるというのは、尋常なことではない。そもそも、当時の朝廷の方に従えば、わが国の臣民を死刑に処し得たのは、日本の国の主である天皇だけであり、天皇の名代として諸国を治めるにすぎない受領たちは、その任国の住人に対してさえ、独自の判断で死刑を科してはならないはずであった。

 それにもかかわらず、伯耆守経国が盗人の処刑を強行したのは、『今昔物語集』によれば、「後の聞こえも有り」という事情を鑑みてのことであったらしい。つまり、同様の犯罪の再発を防ぐため、敢えて盗みの罪を犯した程度の罪人に死刑を科したというのである。

 だが、『今昔物語集』が語るのは、経国の本音ではあるまい。

 というのは、伯耆国府の倉庫に忍び込んだ盗人が、そこには何もないことを目撃していたからである。これは、『今昔物語集』も認める事実であるが、国府の倉庫が空になっていたというのは、受領国司が国府の財を横領していたことの動かぬ証拠であろう。そして、そんな重大な証拠を握ってしまった盗人を、悪徳受領が放置するはずはなかったのである。
 
当然、筑後守藤原文信も、国府の倉庫に入った盗人を生かしてはおけなかっただろう。また、その盗人が倉庫の中で見たことを彼の家族に話したとすれば、盗人本人のみならず、その家族までもが、文信に生命を狙われることになったにちがいない。そして、安倍正国の家族が皆殺しにされた理由は、もしかすると、こんなところにあったのかもしれない。

 
前稿でまとめたように、当時の貴族達は横領を当たり前のように行っていました。そのため、倉庫が空になったのだと思いますが、それを知ったものは口封じのため容赦なく殺されたようです。
 
藤原文信が安倍正国に命を狙われたのもこんなやりとりがあったからかもしれません。
 
 
○殺人を隠蔽する『常陸介』 

 ところで、王朝時代において、受領国司が任国の住人を殺害するというのは、少しも珍しいことではなかった。いや、むしろ、当時の受領たちについては、殺人の常習犯であったと見ておいた方がいいようにさえ思われる。

 しかも、自分の犯した殺人の罪を姑息に隠蔽しようとするのが、王朝時代の受領たちの常であった

常陸国(ひたちこく)において同国に住む公侯有常(きみこのありつね)が殺害されたのは、万寿元年(一〇二四) のことである。そして、その頃に常陸介(ひたちのすけ)として常陸国の受領国司であった平維衡(たいらのこれひら)が朝廷に報告したところによると、有常の生命を奪ったのは、常陸国住人の公侯有材(つねもと)であった。
 ここに登場する公侯有常と公侯常材とは、それぞれの氏名から推測されるように、おそらく、かなり近い親類であったろう。 

しかし、常陸介維衡によれば、そんな二人の間でおきてしまったのは、あろうことか、生命のやりとりであった。つまり、万寿元年に常陸国で起きた殺人事件は、同国の責任者として事件の捜査を指揮した維衡の言うところ、親類間のいざこざが激化した末の悲劇だったのである。
 
だが、万寿二年の三月、都の貴族社会の人々は上の殺人事件に関して、それまでに得ていたのとは全く異なる情報を与えられることになる。
 
 同月二十六日の『小右記』から知られるように、前年より公侯有常殺害事件の犯人と見なされていた公侯常材が、みずから朝廷に出頭したうえで、有常の最後について「国司の為に殺される」と証言したためであった。

結論から言えば、有常殺害事件に関する事実は、常材が捨て身で告発した通りであった。
すなわち、同年七月二十一日の『小右記』によると、維衡の後任の常陸介となった藤原信通(のぶみち)が、朝廷の指示に従って事件の捜査をやり直したところ、かつて犯人断定の決め手とされた被害者の妻の証言は、維衡によって捏造されたものだったのであり、また、そうして常材を殺人犯に仕立て上げた維衡こそが、有常殺害の真犯人だったのである。

 
常陸介は自分に都合の悪い人間を殺しておきながら、それを他の人間、しかも親縁に罪をなすりつける
 
○書生に帳簿を改ざんさせ口封じのために殺した悪徳受領『日向守』
 

 地方諸国の国府に勤める下級事務職員として「書生(しょせい)」と呼ばれた人々も、その本来の姿は、それぞれの国に根づいた豪族であった。それゆえ、任国の豪族たちから富を吸い上げようとする悪徳受領にしてみれば、公式には彼の下僚ということになっている書生たちも、けっして信頼できる部下などではあり得なかっただろう。いや、それどころか、現に国府の事務処理に携わっていた如くに読み書きに長じていた書生たちは、いつ受領国司の不正を告発しないとも限らない、どうにも厄介な存在であったにちがいない。

 一方、その書生たちの側でも、任国で蓄財に励むことしか考えていない悪徳受領に対しては、けっして気を許すわけにはいかなかったはずである。とくに、何らかの事情で受領国司の不正行為に手を貸してしまった書生ともなれば、不正の露見を未然に防ごうとする悪辣な上司に消されてしまわないよう、つねに警戒していなければならなかったことだろう。

 そして、実際のところ、日向国の国府に勤務していた一人の書生が、若くして生命を落とさねばならなかったのは、強いられてのこととはいえ、悪徳受領である日向守(ひゅうがのかみ)の不正の片棒を担いでしまったがゆえのことであった。

 その日向守某が手を染めていた不正の多くは、おそらく、「尾張国郡司百姓等解」が弾劾する違法行為や脱法行為と同じものであったろう。すなわち、問題の日向守もまた、尾張守藤原元命と同様、さまざまな機会に不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領といった悪事を働き、郡司や百姓として任国に暮らす豪族たちから、多くの財を巻き上げていたと考えられるのである。

 それにもかかわらず、この日向守の場合、受領国司としての任期を全うすることができたわけだが、任期満了を迎えた日向守某は、後任者の下向を待つ間、それまでに多くの不正が行われてきた痕跡を消し去ることに余念がなかった。すなわち、自身の行った不正が次の日向守によって暴かれることのないよう、何か辻褄の合わないところのある書類を徹底的に洗い出し、それらを全て整合性のあるものへと書き直していったのである。当然、それは、かなり根気の要る作業であったろう。

 そして、この困難な隠蔽作業のために重用されたのが、かねてより日向国府に出仕していた一人の書生であった。機転が利くうえに字も上手かったという彼は、国府の一室に監禁され、二十日ほどもの間、書類を改竄する作業を続けさせられたのである。


もちろん、切れ者であった書生は、自身が悪事に関与していることに気づいていた。が、日向守某の従者たちに厳しく監視されていたため、逃亡することもかなわず、命じられるままに偽装書類の作成を続けるしかなかったという。

 しかも、こうして意に反して不正行為に荷担することになった書生は、その役割を終えるや、彼に不正への関与を強いた悪徳受領の勝手な都合により、あっさりと殺されてしまう。『今昔物語集』巻第二十九第二十六の「日向守口口□□の書生を殺す語」という話によれば、書類の改竄を完了した日のうちに、日向守某の郎等に射殺されたのであった。

日向守某が私利私欲のためにまったく非のない書生の生命をを奪ったというのが、正真正銘の史実であったとすれば、やはり、『今昔物語集』の編者としては、「日向守□□□□」の氏名を明かすわけにはいかなかったにちがいない。

 
このように、平安貴族達は自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じしまくっていたようです。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002575.html

うーん、漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらないですね。

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

60. 中川隆[-13667] koaQ7Jey 2018年11月29日 12:34:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21322] 報告

日本の支配階級になった漢民族は選民思想が強く、日本人を人間だと思っていなかった

6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0

貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ


17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ

28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0

平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した


37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0

藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな


45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/


京都名物
1. ぶぶ漬け
2. さかさぼうき
3. やらずぶったくりの精神


大阪名物
1.儲かってまっか? という挨拶
2.関東と聞くと うどん と そばの汁の濃さの違いばかり言うアホ
3. 電車で乗客が降りるのも待たないで我先に席を取ろうと突進するアホ人間

京都のさかさぼうき  

「ゆっくりしていかはったらよろしやないの、
今おいしいお茶いれまっさかいに。新幹線なんか待たしといたらよろしいがな」

といいながら、後ろにさかさぼうきが立っている。これが最初のサントリーのお茶のコマーシャルです。

これは市田ひろみさんが出演されていたコマーシャルの事です。

「さかさぼうき」とは、長居をしたり、食事の時間になってもなかなか帰らないお客さんがいる時に、玄関や出入口にほうきを逆さまに立てかけておくというもの。

京都の人は本当に恐ろしいですね.


_________


京都の人の家に訪問して、

「ぶぶ漬けでもどうどす?」

と食事をしていくように勧められても、あくまでそれは婉曲表現であって、本心では「もう帰ってくれ」という意思表示なのです。

 私の知り合いの先生の体験ですが、京都で法事があり、その家の人に

「ご飯食べて帰りよし」

と何度も言われたので、ぶぶ漬け伝説は知っていたのですが、あまりの熱心さに

「そんなに言わはるのやったら」

と食べていかれたのです。すると遠くのほうから、

「あの人、ほんまにぶぶ漬け食わはった」

「ほんまや、ほんまや」

と陰口が聞こえてきて、その後3日間ほど寝込んでしまったらしい(笑)。
http://www.dnp.co.jp/jis/g_gakko/talk/45/45_talk2_1.html

それは、友人Aが京都に旅行したときの時の話である

そのAには、京都に行ったら寄ろうと心に決めていた料理屋があった
ガイドブックに載るほどの有名店で、各界の著名人も多数出入りする店である

しかしAは、京都についての知識をそれなりに持っていたのでその店に入るのをためらっていた

なぜなら、京都の有名店、いや京都の料理屋は大概が「一見さんお断り」の店だと聞いていたからだ

(※一見さん→誰からの紹介もなく、初めて店を訪れる客)

普通の料理屋でも「一見さんお断り」だという噂があるのに、果たしてその有名店に入れるのだろうか?

Aはビクビクしながらも、その有名店に足を踏み入れることにした

ダメでもともと!断られたら断られたでしょうがない

まずは、その店に行ってみよう

断られたら諦めよう、それでいいじゃないか
とにかく行かずに諦めるなんて悔いだけは残したくない

Aは勇気をふりしぼり、単身その店ののれんをくぐった


女将「おいでやすー」

A「あのー、はじめてなんですけど、食事できますでしょうか?」

女将は、オドオドしながら標準語で問いかける客に一瞬怪訝そうな表情をしたが
すぐに笑顔でこう答えた

「どうぞ、入っておくれやす〜」

友人は、あまりにアッサリと店に招き入れる女将に多少面食らったものの
憧れの名店で食事できる喜びと、店に入れた安堵感で有頂天だった

「一見さんお断り」なんて、ただの都市伝説だったんだ〜

おしぼりで手を拭きながら、友人はウットリとそんなことを考えていた

そして、まずは店員にビールを注文することに
緊張で乾いていた喉を、まずはビールで潤したかった

京都の有名店での食事。あれも食べたい、これも食べたい
何を食べようか迷う友人の所に、ビールを注文した店員とすれ違いに別の店員がやってきた

あれ、この店員は何をしに来たんだろう?食事の注文を取りに来たのかな?
そんなことをボンヤリ思った友人の目の前に置かれたのは…

その、あまりにも早い登場にAは面食らった

まだビールも出てないのにぶぶ漬け!

座って5分も経たずにぶぶ漬け!

問答無用でぶぶ漬け!


あまりの衝撃と屈辱に言葉を失ったAは
箸に手をつけることなく、席を立ちフラフラと店の出口へ向かった
その背中に女将からの声が響く

「あら?お客はん、もうお帰りどすか〜?」

とか「お代は結構どす〜、おおきに〜」

そんな台詞が、Aの背中に向かって投げかけられたそうな

女将の顔は見なかったが、Aにはわかったという

Aの背中を見ながらニタァーッと笑う、鬼か、はたまた化け狐の如く顔のゆがんだ女将の笑顔が、友人にはハッキリと見えていたそうな
http://taketaka.cocolog-nifty.com/mogu/2004/05/post_24.html

京都のお宅を訪問するからには、自ら”ぶぶ漬け”を忍ばせて訪問するぐらいの備えと心構えが必要である。

そして敢えて長居を決め込み、

「ぶぶ漬けでも食べていきなはれ」

と言われたら、

「いえ、手持ちのものがありますから」

と、その場でオカ持ちから”ぶぶ漬け”を取り出してムシャムシャと食べ始める。

もちろん、それだけじゃ許さない!! 

逆に

「ぶぶ漬けいかがどす?」

と、こちらから茶碗を差し出してやるのだ! 

”必殺ぶぶ漬け返し”!

 京の伝統に従って、ぶぶ漬けをすすめられた者は、その場を立ち去らねばならない。相手は自分の家であるにも関わらず、荷物をまとめてその家を出て行くことになるわけだ。

途方にくれた相手がとりあえずホテルで一泊を過ごそうとしても、先回りしてホテルの前に”ぶぶ漬け”を置いておく。ドラキュラが十字架を恐れるように、京都人は”ぶぶ漬け”を越えることができない。

仕上げはここからだ。途方に暮れる相手の前にタイミングよく現れて仲直りを持ちかけて温泉へと誘いだす。そして相手がリラックスして湯につかっているところに、ご飯とお茶っ葉をぶち入れて叫ぶのだ!

「どうだー! おまえが、ぶぶ漬けだー!!!」


だが一度噴火した怒りの火山は相手を退治したぐらいでは納まらない! 今度は、”ぶぶ漬け”宅配業者となって京の都を恐怖に陥れてやる! まず手近なラーメン屋に忍び込み、かかってきた注文の電話を何食わぬ顔でとる。そしてラーメンの出前を頼んだ気になって油断している客の家に、いきなり”ぶぶ漬け”を届けてやるのだ!

宅:「お待たせしました。来来軒でーす!」

家の奥から子供が走りだしてくる。

子:「わーい、らーめんらーめん!」

宅:「おい、ぼうず。これはな…ぶぶ漬けだーー!!!!」

子:「ぎゃーー!」

一家で出前ラーメンを食べるはずの楽しい夕べは、”ぶぶ漬け”によって家を追い立てられる悲劇の時間に変わるのだ!! 京都人である以上、この不文律を破ることは許されない。破れば京都人失格だ。京の都は家を失った人であふれかえる。子供達は全員トラウマだ。

更に今度は市の職員を装い、腹を空かせた人々の前に現れて食料配給を行うのである。もちろん、配給する食糧は”ぶぶ漬け”に決まっている。そして集まってきた人々に茶碗を差し出しながらこうささやくのだ…。

「ぶぶ漬け食べますか? 京都人やめますか?」
http://www1.odn.ne.jp/aaa55210/kara1/bubu1.htm

58 :七つの海の名無しさん:2009/04/22(水) 01:39:29 ID:qsEUqLPo

キッシンジャー国務長官は来日したときに、
京都でものすごいハイテンションで祇園遊びをした。

酒に酔ったキッシンジャーは隣にいた舞妓に舞妓は"Yes Yes”と答えるだけだった。

次の日、舞妓は驚くべき事実を告げられた。
なんとキッシンジャーが大激怒しているというのだ。

実はあの時キッシンジャーは舞妓に

『今夜、私の部屋に来るか?』

と問いかけていた。

舞妓はYesと答えていたので、てっきりOKと思ったキシンジャーは
一晩中有頂天になって舞妓を待ち続けていたのだった。


160 :七つの海の名無しさん:2009/04/25(土) 03:28:01 ID:obWA5jPE
>>58
京都では Yes=No なのだよ。
わからん阿呆キッシンジャ−は
”田舎もん、どすな〜、キッシンジャ−はん。ぶぶ漬けでもいかがどすえ?”
(とっとと、帰れという意味)

______


京都の人間は、笑止な選民思想を持っており、自分は1200年の伝統が醸し出す洗練された人間と勘違いしているが実は野暮ったい田舎っぺそのもの。前述の通り差別(逆も含む)が凄まじく、閉鎖的なムラの論理ばかりが横行し、新住民や新しい文化、気質を受け入れない。住みやすいなんてのは全くの嘘。


「比叡山より東は蛮族の棲み家」

が彼らの口癖。 究極の井の中の蛙!東京って知ってる?


頭の中は坂上田村麻呂征夷大将軍の時代で止まっているらしい。おそらく彼らの世界観は高句麗や唐、せいぜい天竺どまりで、地球が丸いことも知らないのだろう。京都が学術の都というのもガセ。確かに大学数が多いが、殆どが極右、極左で、何も知らないで入学すると変な思想で洗脳され、卒業するときとんでもない人間になってたりする。


人口も、もはや茨城県にも抜かれ停滞気味。それでも京都「府」という特権意識だけは非常にがめつい。


最後に自称雅やかな古都の礼儀作法「三度の辞退」をば。


他県人「どうぞつまらんものですが、召し上がって下さい」

京都人「いいえ、けっこうです」

他県人「まあそうおっしゃらずに、軽い気持ちで遠慮なくどうぞ」

京都人「いいえ、けっこうなんです」

他県人「本当にいらないんですか?」

京都人「はい」

他県人、それならと差し出したお菓子を引っ込めようとする。京都人、突然ブチ切れる。

京都人「何やボケ!そんな謙遜を真に受ける奴がおるかこの田舎者め!わしに食わさんとは礼儀知らずなやっちゃのう!!!」

他県人「・・・・・(唖然)・・・・」

「はるばる田舎からようきやんしたなあ」

「あの、東京から来ました」

「それはそれは」

「はるばる田舎からようきやんしたなあ」(爆


京都で進学・就職後、今関東にいるが、京都気質がぬけず苦労している。

京都では、徹底して相手をこきおろす社会やったから、なかなか他人を信じられない。人間不信、瞬間にして敵・味方を判別、相手を罵倒・威嚇する。この癖は当分、なおらんと思う。


京都に旅行に行ったとき、やたらと「差別をなくそう!」という看板やビラがあり、その時は何のことかさっぱりわからなかった。(東北出身なもので)

事実を知り、ゾッとした。

古都とか日本情緒あふれる・・・なんて優雅なイメージは表だけ、実は非常にドロドロした所だと感じた。京都には住みたくありません


京都生まれ・京都育ちのくせに「この人性格いいな」と思ったら、大抵その人の両親は、他府県出身者。ジジババのころから代々京都生まれの奴に、ロクなのがいない。

他府県出身で、京都に住んでも何とかなるのは、大学生だけ。一般人は踏み込むべきではありません。

京都の常識は、世間では非常識!!

京都人ほど、高慢ちきで、人間関係において内・外を使い分ける人種を他に知らない。他人を無視するのでも一度無視したら、あいつら何年という期間で無視するやん。ホンネはいわへんし、執念深いし。したたかで、ずる賢くて他人を利用するし。こんな陰湿な常識が、他の世界に通用するか?

大半の人間は、驚いて「あしらう」レベルに到達しいひんで、ただオロオロするだけちゃうか?

ただし、極少数のいい人がいるのも事実。知っている限りでいい人達の特徴は、京都生まれで京都育ちだけど両親が他府県出身のひとたちと、高卒の人達が多かった。京都の私学の附属あがりの金持ち連中及び西陣・祇園の商売人の息子・娘たちは、ホント高飛車にも程がある、根性腐った奴が多かったよ。


オレも京都嫌い。
湯豆腐1000円で売ったり、あんなチャッチい野菜高く売りつけたりする
ボッタクリ商売人は氏んで欲しい。消費者の敵。

オレ、和牛オーナーだったが預託会社が高槻に高級肉の直売店を建てたところ
京都のクサレ食肉団体がカス議員→ゴミ警察に圧力掛けてその店を潰した。
そのせいで預託会社は倒産して金は返ってこなくなった。
金返しやがれカス!


京都駅の八条口にタクシー乗り場がありますが運賃値下げをしたMKタクシーは“村八分”状態にされて乗り場内に立ち入ることを他のタクシーが阻止していた。


新幹線で大坂から東京に帰るとき、自由席だと京都から乗ってくる人が何とか席に座ろうとして、あまりにもあさましいのを何度も見てるからです。でも、京都の人のあの独特の性格は必要悪だと思っています。あの異常なまでの誇りがなければ、他の地方都市と同じようにミニ東京になってしまうでしょう


ヤフーで個人売買していた際に最も嫌な思いをした取引相手は京都人でした。もーずうずうしいったらありゃしない。
京都ではそうかもしんないけど、東京や神奈川は違うんだよ!!
あたしゃずっと神奈川だからさ、そんな京都の常識語られたって知らんよ、もう。

ちなみに取引物は某少女趣味のブランド服。
勝手に電話番号調べてきて「他の人より高く買うから自分に譲ってくれ」と文句たれ。あんまり煩いからそれでOKしたら今度は「東京は知りませんけど京都ではこの服もっと安く買えるからもっと安くしてくれ」だって。
最初と話ちがうじゃん。

「こっちもね、主婦だからたいへんなんですよ。」って知るかもう・・・・。
この態度がまた自分のほうが正当である!!とさも言わんばかり。
あーもうアンタ逝っていいよ・・・・と何度口から出そうになったことか。

この厨房主婦の次の京都人も最悪だった。
それ以来京都人を見る目がかわった。もー逝ってくれ。


京都人の武器はやはり口です。そして彼らに口で勝つのは至難の業です。

彼らはこちらが失敗などして劣勢にあるとき、落ち込んでいるとき、つまり反撃できない状態にある時を機敏に察知して、攻撃してきます。

やり方は「○○ちゃうんけ!」といった言葉をややヒットアンドアウェイぎみにかますことが多いと思います。(あとでむかついてくる)

また、こちらが一般的に優位な立場にある場合は、過去の細かな失敗を適当に誇張して、こちらを蹴落とす世論を構築しようとします。

この行動はこちらも察知できて、しゃくなのですが、そのような細かい事をいちいちとがめることも出来ず、非常にストレスがたまります。

で、一番言いたいのは、このような理不尽な行いも受け止めることです。
彼らが何故このようなことをするのか、道徳的に心の中で批判してみてもこちらのストレスがたまって参ってしまいます。そういうものなのだと受け止めて下さい。

彼らのなれなれしい言葉、親切に心を開かないこと、また、とりあえず下手に出て彼らの弱みを握るチャンスを得ること、これが対策法だと思います。

おれが大学で東京に住んだときはなんちゅう「ばか正直」なやつが多いんやとおもったなあ。普通にしゃべる中で、ちょっとかま掛けても「そうなんだ、ふうん」とかえされて、こまってしもたわ。

私は東京出身だけど、京都で働いてた時によく地元の人に「あんた。素直やねぇ」とよく言われました。バカ正直って意味なのね。ごめんなさいね。関東人の美徳なのよ。

私は、知的でセンスがあって、出が良くて気の利いた会話が出来ても性格が屈折して陰険な人物は最初から(人として)低いと思うけどね。


京都は関西のくせに、隠れ見栄張りが多いね。そのくせして、居酒屋とかで飲んでも、1円単位まできっちりと割り勘にする。このギャップにずいぶんとまどった。見え張りというよりも、やせ我慢に近い。。。

ようするに、せこいくせに、プライドだけは一人前って事。
矛盾してるのに、認めようとせずに、突っ込まれたら急に、流暢な京都弁でさらりとかわす・・これが手口。


京都の富裕層、特に金持ちの商売人(祇園・西陣)が最悪やね。あと、材木屋・漬物屋・かんざし屋とか地場産業の連中。洛南出身の人達は、おそらく京都の富裕層階級の子弟だと思われる。


だから、言ってるやん。京都の金持ちは、根性汚いのが多いって。全員が全員やないけど、私の知っている限りの、京都の有名私学の金持ち連中たちの世界は別世界。ほんまに極悪!!!


ちなみに、私の妹は小学校途中で左京区の学校に転校したが、卒業するまで、いじめぬかれたよ。絶対、よそもんは入れない社会やね。


悪いけど、京都を日本と思ったらあかん、京都の常識は、世間の非常識やしね。


京都は怖くていけないよね…。


自分の知らないしきたりで意思表示されても知らないから、裏で陰口言われるんだろうね。


「あの人、嫌だって言ってるのに居座りつづけてるよ。 だから、東京の田舎もんはやなんだ。」
http://mimizun.com/log/2ch/yasaitr/971890080/


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

61. 中川隆[-13666] koaQ7Jey 2018年11月29日 12:37:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21322] 報告

京都は美しい街、 しかし幽鬼の住む死の世界


いい日旅立ち 京都へ
http://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA&feature=related


遥かな しまなみ 錆色の凪の海
セピアの雲は流れて どこへ行く

影絵のきつねを追いかけた あの頃の夢を今もふところに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち ふたたび風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに


蛍の光は 遠い日の送り火か
小さく見える景色は 陽炎か

出逢いも別れも 夕暮れにあずけたら自分の影を捜しに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち 朝焼けの雲の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人が居る
いい日旅立ち 憧憬は風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに


いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html


▲△▽▼


京都のおもてなし文化を全身で体感したかったらここ

京都御艶の会席料理 お品書き
http://www.kyoto-gyoen.com/menuSystem.html


おいでやす、京都ならではの「おもてなしの文化」を現代に色濃く伝える『京都御艶』へ

デリヘル「京都御艶」(京都) by ナンニバル氏


 お世話になってます。ナンニバルです。

 すごい悪徳な店を見つけました!と、よろこんでもいられないのですが、せめて皆さんのお役に立てばと投稿します。

【店名】:京都御艶
【業種】:デリヘル
【HP】:http://www.kyoto-gyoen.com/
【日時】:10月下旬
【場所】:とあるホテル
【費用】:95分15000円+指名料2000円


 サイトの写真を見ると、なかなか可愛い子がいて、しかもなぜか値段が安い(その時点で気づけよ、自分)。電話をしたら

「75分12000円です」

とのこと。「30分ほどかかります」とのことで、じっと待つ。待つ。待つ。

 しかし来ない。何の連絡も入らないまま1時間以上が経過。んー。まあ寝るかなあ、とおもったらチャイムが鳴る。ノゾキ穴から外を見ると、男が一人つったている。ドアをあけると、遅れたことにわび一つなく、

「どうも。12000円と指名料2000円で合計14000円です」

と言い放つ。ドライバーらしい。

「じゃ95分で」というと、「合計で17000円です」と答える。

支払いを済ますと「じゃ今から女の子上げますから、しばらくまってください」。

 5分ほどするとチャイムがなる。

 これはいわゆる..「アナタハドチラサマデスカ?」現象だ!  指名した子とはまったくの別人。

パネルマジックとか、そんな生やさしいもんじゃないぜ。完全な別人だ。

ヤニだらけの歯、そばかす面、とがった口、マジックペンで書いたかのようなアイシャドウ、そして茶髪のおばさんが、サングラスをかけミニスカートを履いてそこにいるのだ。

その容姿は、絶滅した恐竜T.rexを彷彿とさせた。T.rex。まさに「暴君」にふさわしいその容姿が与える恐怖はタダゴトではなかった。

 「うわああああああああ(心の叫び)」。

完全なる戦意喪失。しかし支払い済みなこともあり、仕方なく部屋へ入れる。「シャワーを」というので、「どうぞどうぞ」と万全の注意を払いながらシャワーへ誘導。T.rexが衣服を脱ぎきったところを見計らって、こちらもすばやく裸になりシャワーへ。

 体型は、下腹部プックリ、タレ気味の乳房、力強い太もも。加えて猫背ぎみの姿勢。やはり、暴君T.rex(ただしメス)。

 こちらはさっさと先にシャワーを出て、再度の対峙に備える。なんとかやってみよう。心を落ち着かせよう。目をつむってみた。決戦の時は迫っている。

「ガラアァァッッッ」

ドアが開いた。前傾姿勢をとりつつのっそり出てくる様子には、やはり隙がない。

「さあプレイしようよ」

というドスの効いた威嚇がこちらに向かって発せられた!

とりあえず、どうでもいい会話を交わしつつ、ソファへ移動。

 すると、携帯が大音量で鳴る。T.rexは着信を確認。どうしようかなあと思案しながらどうでもよいさらに会話を続けていると、また携帯が鳴る。T.rexが確認。さらに5分ほど後、またしても着信。

 T.rexの咆吼。

「いかなきゃあああ」。

「はあ?まだ30分もたってないよ」

「忙しいの」

「いや、115分で頼んでるけど」

「だから忙しいっていってるでしょ。なんでそんな自分勝手なこと言うの!」

「自分勝手もなにも、115分で頼んだから」

「じゃあドライバー呼ぶから話したら。まったく、人の都合も考えないで」。

 来た!T.rexの本領発揮だ!

とりあえずは穏やかだった顔が、おそろしい形相に。そして吠えまくる。

プレイ時間115分は30分に。

こりゃ、時短なんてレベルじゃないぜ!

そして一瞬にして悟った。これ以上の抵抗は無駄だと。即時退却を決心する。

 T.rexは、到着時の遅れとは対照的な素早さでドアを開け、最後の雄叫びを上げて走り去っていった。「まったく嫌な奴やな!」

 おう...。やれやれ、命だけは助かったようだ。


 では評価です。

【嬢】T.rex
【サービス】サービス?なにそれ食べられるの?
【店員】店ぐるみのぼったくりです。
【金額】人生勉強にはこんなものか。

 みなさん、くれぐれも気をつけてください。命は大切にしようね!
http://www.kyoto-gyoen.com/

_________


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62. 中川隆[-13677] koaQ7Jey 2018年11月29日 12:46:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21334] 報告

皇族初夜の儀式

厳かに執り行われる皇族の初夜。神武天皇の染色体だか遺伝子だかは、こうして受け継がれていった…


皇族初夜の儀式は束帯と十二単の正式な衣装をまとって宮中三殿の賢所で行う「賢所大前の儀」や、親と子の杯を交わす「朝見の儀」ら、一連の結婚の儀をとどこおりなく終えると初夜を迎えるための準備「入浴潔斎の儀」を行う。

簡単に言えば、風呂に入って身を清めるということだが、花嫁は巫女と呼ばれる女官[正式には神社の娘(処女)だが、実際は皇族に仕える中高年の女性が大半]と一緒に入浴する。

浴室に入ると花嫁は、仁王立ちのまま一切自分の体に手を触れてはならず、巫女が服を脱がせ、体の隅々まで洗う。

隅々というからには外側から触れることのできる内部(耳・口・鼻からアソコ・肛門など)にも手指を入れて清める。

これは暗に花嫁の生殖機能を確かめる意味合いも併せ持つと言われている。

ちなみに花婿も巫女と一緒に入浴し、同様に体を清めてもらうのだが、この時の巫女は花婿にとってみそぎ相手でもあり、すでに生殖機能については確認済みということになる。

みそぎとはつまり筆おろしの意。これは皇族代々の風習で、皇族の直系男子は年頃(15歳から18歳)になるとみそぎを済ませる。正式にはみそぎの段取りを教え込まれた巫女、つまり性技に長けた処女がお相手を務めるが、実際は経験豊富な熟女の女官になる。

入浴潔斎の儀を終えると「初夜装束」と呼ばれる白い着物に着替えて(その下には一切下着をつけない)いよいよ初夜の床入り。これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、平安の時代から続く伝統的な儀式である。

まず、花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。元々は3日間繰り返すものであったが、近代は初夜のみとされる。要するに初めてのセックスで子宝に恵まれるよう霊力を与える儀式ということらしい。

さらに特筆すべきは、以上の儀式には夫と妻、それぞれの身分を保証する、一組の男女が介添人(仲人夫婦にあたる立場の人で部屋の隅で行為の一部始終を見届ける)として立ち会っていることと、儀式が終了した(性行為を終えた)ということを知らせる露見という、お披露目する点である。

露見とは、寝所の扉を開け壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで座る夫婦の姿を廊下で待っていた親族に見せ、行為終了後は再び初夜装束に着替え、寝具(厚手の布団)の掛け布団を外しシーツに処女の証である血がついているところを見せるのが正式な方法である。

さらに皇族には「一世一代の秘事口伝」なるものがある。これは代々の帝が口頭で直接申し送りするもので…その中にはセックスに関する風習も多く含まれており初夜の段取りから作法、体位、出産しない時期の避妊法などが伝えられている。

この儀式、少なくとも大正天皇までは行われていただろうと推測される。それにしても、一般人にとっては驚愕の事ばかりだ。他人に初夜の一部始終を見てもらい、終いには「血のついたシーツ」を見せなければならない。

何れにしても、穢れを基本とした内容は、朝鮮半島からの影響が大きいと思われる。


歴代天皇で妾が一番多いのは、嵯峨天皇で29人。毎日違う女性を相手しても1ヶ月かかる。以下、桓武天皇が26人、清和天皇が25人、亀山天皇が21人、後醍醐天皇が20人となっている。金正日の喜び隊なみなのだ。
http://anarchist.seesaa.net/article/11013180.html  

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天皇霊について二三の事(メモ)


 天皇霊とはあまり聞いたことのない言葉かもしれないが、民俗学の創始において折口信夫博士が唱えた興味深い説の一つである。藤原氏の隆盛と他氏の没落の元となったことなのでここに置くこととした。


天皇霊とは、狭義にいえば天皇家の祖霊である。

祖霊はイエの祖先の御霊の集合体で、どのイエにも個々人にも存在し、さして特別なものではないが、天皇家の祖霊は大大和のうちでも最も力の強い祖霊であるとみなされ、とくに「天皇霊」と呼んだ。

天皇霊は天皇に即位するものに宿る。返していえば、天皇になるにはその霊を宿さねばならない。そしてそれを宿す儀式が即位後の秋に行なわれる「大嘗祭」 なのである。


 この大嘗祭の内容は秘中の秘で明らかにはされていない。しかし、ある程度のことは漏れ伝わってい て、それによれば天皇は殿中で三つの儀式を行なうとされる。


 一、「霊水沐浴」。白い帷子(天羽衣)をきて水風呂に浸かり、浴槽の中で着ている物を脱ぎ去る。

 二、「神人共食」。その年、悠紀田と主基田から取れた米を神と共に食する。

 三、「御衾秘儀」。衣に包まり眠る。


 この三つである。

 直接的に見ると、霊水沐浴は禊であり、天羽衣を脱ぎ去るのは地獄の「脱衣婆」が衣を剥ぎ取るのと 同じで、この世の穢れをすべて衣に移してしまい綺麗な体になることが目的である。

天羽衣の名は「日御子」のイメージからそう呼んだのであろうか、天皇が異人であることを強調している。

そして神人共食をすることでその「ケ」、つまり自然の力をその体内に取り込む。

また、御衾秘儀で神と共に添い寝することで「神婚」をするのである。

 異見として、これを「誕生の模倣」と見る向きもある。

つまり霊水に浸かり天羽衣を脱ぐことにより「羊水と胞衣からの離脱」を、「神人共食」で「歯固め」を、衣に包まることで「おくるみ或いはむつき」をあら わしているというのだ。

確かに「御衾秘儀」は『古事記』の「天孫降臨」に見られる「真床覆衾」(ニニギの 命があまりにも幼かったので天から降ろすときに包んだオクルミのこと)に比定されるのは揺るがないところだと思われる。多面的に見た場合そういう意味合いも含まれているのは否定はできないが、まずは 単純に見るべきであろう。

 最後の三、は古代中国にも見られる風習であると白川静先生が述べられているのを読んだことがあるし、古代バビロニアにも神降ろしの巫女との「神婚」による王位継承がなされたことをご指摘いただいてもいるので、おそらくこの御衾秘儀は相手のあって行われたものである可能性もある。

ではこの相手は誰か。

思うに「伊勢斎王」なのではないだろうか。

伊勢斎王は天皇の即位のたびに新しくなる。仕事は といえば伊勢神宮に天皇の代わりに年三度の奉幣をするだけである。だがこの斎王にはもっと重要な 仕事、「神降ろし」をするための、天皇霊の依り代であったのではないか。

柳田國男先生は

「神を降ろす には巫女とこの言葉を伝える司祭が必要であった。」

と述べられている。これは天皇と斎王の関係をよくよくあらわしている。

斎王は天皇霊をその身に降ろし、天皇はその口から発する言葉に従い政(まつり ごと=祀り事)を行なう。『魏志倭人伝』に描かれた卑弥呼とその弟の関係にそっくりではないか。(斎 宮と天皇の「神婚」は近親姦というタブーを神を介することで神聖化している。)

折口信夫先生によれば 「神婚」は神降ろしの巫女との添い寝と、先帝(の骸)との添い寝が考えられるとおっしゃっておられる。

エロスとタナトスが交錯する儀式。

いずれにしても、いつまでそのようなことをやっていたかは知る由もな く、その後はもっと形ばかりになり、先帝の御衣を身にまとうばかりとなったのだろう。

 これにより分かることは、天皇には二度の即位儀礼があるということである。

はじめは「即位礼」。そして「大嘗祭」。

即位礼は中国の皇帝の即位式を真似たもので、いわば対外的に見せる「昼の儀」であ る。

一方、大嘗祭は夜に秘して行なわれる「夜の儀」で、天皇を天皇足らしめる為の儀式はこちらなの である。


 ではこの天皇霊はどのように創造されたのか。

おそらく大化の改新以後、天智天皇から聖武天皇の 在位中に、祭祀を司っていた中臣氏により成形されたと推定される。それまで一大王家の祖霊であった 神を様々な工程を経る事で、日本全体を覆うまでの巨大な霊体に仕立てるのだから並の作業ではなか ったはずだ。それは取りも直さず「天皇霊=国家神」の創造であり、その先には「現人神」という危うい 一面も内包して誕生した思想であった。

 大化の改新以前でも天皇家(正しくは「大王家」であるが)の祖霊は特別な扱いを受けてきたが、けして国家の神ではなかった。そして天皇家の祖霊を祀る御諸山、いわゆる三輪山での祭祀は他氏と同じように族長たる天皇自らが司っていたのである。

そう、実は伊勢神宮が天皇家の祖霊を祀る地になったのは、そのかなり後になってからのことで、それまでは御諸山が天皇の祖霊の坐ます地(今でもお盆 には死者が山から帰ると言い伝えられる地域もある)であった。

この「天皇家の祖霊」を「国家神」とし、 御諸山から伊勢へと遷したのは、思金命を祖とする中臣氏であった。

古来より、中臣氏は忌部氏と共に 祭祀を職掌としいたが、両氏が祭祀してきたのは「国の霊(いまだアミニズムが抜け切らない自然と一体になっている神)」で、けして天皇家個人の祖霊ではなかったはずである。ところが、いつしか「天皇家の祖霊」は「国家の神」となり、両氏はこれを祭祀するようになっていたのである。

中臣鎌子が中大兄皇子の側近となり名を藤原鎌足に改めた頃から、不十分であった「大王」から「天皇」への移行を完全なも のにするため、様々な試みがなされている。「天皇家の祖霊」を「国家の神」と成すべく、中臣(藤原)氏 が奔走したのもその一端であったと見られる。

 まず、今までの歴史を再編することからこの作業は始まった。

天皇家の始祖を「日の光の神=アマテルの神」とし(これは元々そう云われていたのかもしれない)、これを天上の最高神にした。

と同時に『アマテラスオオミカミ』と改められた神の名は、天皇家の祖霊に付けられた名前でもあった。

この神を、三輪山から伊勢へと移したのもこの頃である。

なぜ伊勢か?

疑問はあるが、太陽神を日の昇る地、どこよりも早く日が拝せる地に祀るのは自然な考えであろう(鹿島神宮も香取神宮も海が近く、東が開けてい る。)。

元々伊勢は磯部氏の所領であったが、天皇家に献納され(というより壬申の乱で取り上げられた)、条件がよいとして遷宮の地と白羽の矢が立ったらしい。わざわざ遷宮させたのは、天皇家の神か ら国家の神へと変貌させるため、旧来染み付いた「祖霊」の記憶から切り離す意図があったのだろう。

三輪山は「大王家の祖霊を祀った地」の記憶を払拭するかのように、大国主命の和霊「大物主命」を祀り、のちに大田々根子(大三輪君)の一族にこれを祀らせている。寺山修二が「書き換えられない過去 はない」といったというが、まさに天皇家として新たな一歩を踏み出すためにすべての過去は都合の良いよう書き換えられた。

この功が認められてか、すでに奈良後期に中臣氏は朝廷で祭祀をつかさどる神祇官で重きをなし、平安初頭には神祇の官位を独占しいたため、他氏の介入は皆無となっていた。

これを憂いた斎部広成は『古語拾遺』を著し、史書の誤謬を指摘し、古来からの職掌の重要性を説き、 中臣氏の専横の非を論じたが、その後も改善は見られなかった。(少々脱線をする。この祭祀を司った 中臣氏と忌部氏、あるいは軍事を司った大伴氏と物部氏(衰退ののちに佐伯氏)など特定の職掌には必ず専らとする家が二つある。これは天皇が新たに即位するたびに斎王が入れ替わるように、各職掌の家も入れ替わったため「二家」あるのではないか。

時代が下るとその制度自体も明確さを失い、上記のようなことが起こったのである。膳部を任されていた安曇氏と高橋氏の争いも『高橋氏文』の上奏にまで発展している。)

「天皇霊」は稲の霊である。このような見解もある。なぜ「大嘗祭」に天皇霊を降ろすのか、という疑問に 対し、かなり傾いた答えではあるが、納得できる点も多く存在する。

 天皇はまず「神人共食」をし、その身に天皇霊を降ろす。

そうすると、本朝でもっとも強い「ケ」の塊で ある天皇霊は、天皇の身の中に充満する。「ケ」をたくさんに取り込んだ天皇はこれを小分けにし、「幣帛」にこめて、これを各地に配布する(奉幣)ことにより、ケが枯れていた各地に天皇霊が撒かれれ、国 はまた再生するのである。(民俗学講義になってしまうが、ここでいう「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」は今一般 化されている「日常・非日常」の考え方とは違っている。

「ケ」は一種のエネルギーであり、生活をしてい るとだんだんに減ってくる。これが涸れて無くなると「ケ・ガレ」の状態となる。この状態を元に戻すため、 「ハレ」を作り、「ケ」を集め取り込むのである。)つまり天皇霊がケガレを回復してくれるのである。

 戦後まもなく、昭和天皇が各地を巡幸したことがあった。この行為は荒野となった日本の国土を「反閇」して清め、天皇霊を撒くことで「ケ」で満たそうとしたのだとみられている。
http://www8.plala.or.jp/furan/page064.html


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63. 中川隆[-13676] koaQ7Jey 2018年11月29日 12:47:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21334] 報告

「良子(りょうし)、天狗はどこにいる?」

義詮は息も絶え絶えに正室の良子に春王(しゅんおう)を呼ぶように言った。

「はい、今すぐに呼んでまいります。上様」

貞治(じょうじ)六年師走の十二月、室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)は三十八歳の若さで一粒種の春王を残して逝去した。

その時、後の三代将軍足利義満(よしみつ)こと幼名春王は十一歳の若さで、内裏の女人貞子と情を交わしていた。

貞子は二十四歳の女御で、後光厳(ごこうごん)天皇の寵愛を嘗て受けていたが、薹(とう)が立つにつれて遠ざけられ、淋しい想いをしていたところへ春王が、義満の名を賜るために父の義詮に連れられ内裏(だいり)に参上した。

襖越しに春王を見た貞子はその日から春王に恋文の歌を贈って誘惑したのである。
それから一年の間、春王は人目を偲んでは貞子の部屋に忍び込み情を交わす日々が続いた。

父の義詮が逝去した際も、春王は貞子の激しい欲望に応えていたのだ。

陽も沈みかけていたその日の夕方、将軍の館である室町第(むろまちだい)の門の前に着いた春王は、館の中が騒々しいのに奇異な感じを持ったが、それが父の死だとは思うべくもなかった。

まだ三十八歳の父が急死するなど考えてもいなかった春王は、門の中で家中の者が、「若君が戻られましたぞ!」と叫んでいるのを聞いて、母の良子に何かあったのではと思った。

良子は帝の后である崇賢門院仲子の妹で体が病弱であったからだ。
その母が跳んで春王のところへやって来たから、春王は安心した。

「春王。上様が亡くなられましたぞえ!」

涙を流しながら良子は春王を抱えた。

女人の香りが春王の衣類からしたのを感じた良子は、情けない表情で春王に言った。

「父君が亡くなられた時にも、お前は女人を抱いておられたのか。ああ先が思いやられる!」

春王が父・将軍義詮、母良子の顔を見たのはこの日が最後となったのである。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu1-1.htm


応安の変

二代将軍義詮が死んだ貞治六年十二月の三ヶ月後、応安元年三月南朝の後村上(ごむらかみ)天皇も死んだ。享年四十一歳。

後村上天皇は吉野に南朝を開いた後醍醐天皇の子である。

義詮の父・足利尊氏は後醍醐天皇の仇敵であり、後村上天皇は義詮のライバルであったが、その二人がたった三ヶ月の間にこの世から去ってしまった。

南北朝と言っても天皇の正統性は南朝が持っていた。
それは三種の神器が南朝方にあったからだ。

義詮が死ぬ一ヶ月前の貞治六年十一月に四国の守護だった細川頼之が管領になった。

頼之が管領になった後、数ヶ月の間に、室町幕府将軍と南朝の後村上天皇が死んだことになる。

しかも後村上天皇は父の後醍醐とは違って温厚な性格で、管領・細川頼之と和平するつもりだったし、将軍義詮もその話に乗り気だった。

それがすべて水の泡となり、もとの木阿弥に戻ってしまった。

まだ十一歳の若き将軍義満にとって、都合のいい出来事ばかりが次々と起こる。
そしてそれから十一年後の康暦(こうりゃく)元年、二十二歳になった義満は満を持して十一年続けた管領・細川頼之を解任し、この時点から義満の独裁政治が始まることになる。

だが義満の暗躍は既に十歳になった頃から始まっていて、そのきっかけをつくったのが内裏の女人たちであった。

特に貞子は後光厳天皇の寵愛を得られなくなった頃から義満に近づき、夜な夜なの閨事(ねやごと)の際の寝物語で指嗾(しそう)していった。

父である義詮が急死した際も、貞子と閨事をしていたが、母の良子はそれ以上の疑いを持たなかった。だが、後に義満の異常なほどの朝廷、特に天皇家に対する仕打ちを遠くから眺めていくうちに、良子は我が子とは思えない魔性を義満に感じ取っていた。

後村上天皇が死んだ応安元年に、細川頼之は「応安の半済令」を発した。
この禁令は後代まで悪法と言われたものだが、頼之が管領として発したことになっている。しかし幕府の棟梁・義満が発したものである。
その年の十二月三十日、足利義満は征夷大将軍に就任した。

「春王殿。ことはうまく運びましたね」

貞子は寝所で義満に優しい声で囁いた。

「わしは、もう春王ではない。これから上様と呼ぶのじゃ」

まだ十二歳の少年だと思っていた貞子も、良子が感じた義満の魔性をこの時一瞬感じたが、肉体の欲望が心を曇らせた。
後に命とりになる運命を貞子は知る由もなかった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu2-1.htm

応安六年(1373年)、三代将軍足利義満は十八歳の青年に成長した。

管領細川頼之は今川了俊(りょうしゅん)を九州探題に任命し、九州南朝の支配者・懐良(かねよし)親王を筑後の高良山(こうらさん)へ追い込み、九州の中心である大宰府を奪い、南朝の勢いを落とす活躍をした。そして頼之の実権は絶頂期に達していた。

応安の半済令という悪法も、この九州平定で帳消しになり四国の一守護から管領になった当時はそれほどの欲もなかった頼之だったが、この時期になると権力欲が頭を擡げてきた。

天狗の鼻柱を持つ、誇り高い義満には我慢ならない時期でもあった。
義満と頼之との関係は徐々に表面だってぎくしゃくしだし、後光厳天皇も心配していた。

「天狗はおとなしくしているのか?」

久しぶりに貞子を招き入れた後光厳天皇は閨事(ねやごと)の後、義満のことを尋ねた。

帝は貞子と義満の関係を承知の上で、貞子を閨(ねや)に招いた。
帝から御召しがあれば断ることは出来ない。

貞子の情は完全に義満に向いていたが、頼之との確執が激化していることを憂えた貞子は帝の後押しを期待した。

「春王どのは、いま管領どのとうまくいっておられません。それが貞子には気がかりでございます。お上から管領どのにたしなめて頂ければ貞子は・・・」

子猫がじゃれつくような声を出して貞子は帝の胸に顔を埋めた。

義満が十歳そこそこの頃から閨事を交わしていた貞子は、年齢は三十歳(みそじ)であったが、閨事の技は巧みになって、老いた帝にはこの上ない相手になっていた。

二度目の閨事の後、帝は貞子の願いを寝物語として聞いてやった。

貞子は帝が義満の後押しの約束をしてくれたものと思い、精一杯奉仕した。

しかし、それは所詮寝物語であったとは貞子は思ってもいなかった。

明くる年、北朝第四代天皇・後光厳帝は崩御され、元号も明徳元年となり、第二皇子である緒仁(おひと)親王が第百代(北朝第五代)後円融天皇として即位した時点で、この約束は水の泡となったのである。
貞子は先帝を恨み、その由を義満にうち明けた。

義満は烈火のごとく怒り、

「必ずや、王権を纂奪(さんだつ)してみせようぞ!」

貞子に言い放った。 義満の怒りの表情をまざまざと見ていた貞子は、「これこそ、天狗の怒りぞえ!」と絶叫した。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu5-1.htm

大嘗祭の夜の閨事

後円融天皇の即位式である大嘗祭が永和元年(1375年)十月二十二日に伊勢神宮で執り行われることが決まった。

征夷大将軍でありながら、まだ中納言であった義満は従三位であったから、天皇即位式の大嘗祭には直接参列できない。

義満はこのことにも恨みを抱き、その後、管領細川頼之を解任した義満は強引なやり方で永和六年(1380年)には二十五歳で従一位に昇り、翌弘和元年(1381年)には内大臣、同二年には左大臣、そして遂に武家から初めての太政大臣にまで昇りつめることになる。

もともと官位に執着がなかった義満であったが、後円融天皇の即位式の時に抱いた屈辱感が、義満をして太政大臣延いては自らの子を天皇にし、治天の君(上皇)の位まで目指さしめたのである。

武家としては破格の出世で、祖父の尊氏は正二位大納言、父の義詮も、死後従一位左大臣を賜った程度である。

大嘗祭の行われる伊勢神宮で義満ははじめて帝の后である厳子と顔を合わせた。
五十鈴川に架かる橋の上で帝の輿が右側を通り過ぎて行く際に、帝の後の輿から顔を出した厳子は後ろに控えている義満の視線と合ったのである。
その時、義満の従兄弟である緒仁こと後円融天皇は満面の笑みを輿の中で浮かべていた。

『今に見ておれ、このわしが日本国王になってみせる!』

実際にそれから十九年後の応永元年(1394年)、四十歳で将軍職を我が子の義持に譲った義満は出家し天山道義と称し、法皇となって天皇家の纂奪を狙うのである。

貞子も後光厳天皇の女御として即位式に参列していた。
直接参列できない義満の序列は貞子よりも低かったのである。

その夜、貞子は厳子を伴って義満の寝室に潜り込んできた。
貞子と二十歳も違う厳子は輝くような美しさであった。

「そなた達は本当に姉妹なのか?」

義満は信じられない様子であった。

「腹違いの姉妹で、藤原信秋の子種であることは事実です」

貞子が答えたら、横で厳子も恥ずかしそうに頬を赤めながら頷いて義満を見つめた。
その表情はたとえ彼女が帝の后であろうと抑えることが出来ない程強烈に、義満の欲望を突き上げるものだった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu7-1.htm


大嘗祭の即位式は夜を徹して行われる。

夜半に行われる儀式がまさに皇祖神天照大神から天皇として認められるもので、即位する天皇が一人で皇祖神と対面するのだ。

数時間に亘る儀式は想像を絶する厳しさで、大嘗祭で病に臥せてしまう天皇もいる。

緒仁親王が後円融天皇になる、まさにその瞬間に、義満はその后に最初の裏切り行為をさせたのである。

しかも聖地である伊勢神宮で、義満は日本国の権威の象徴である天皇を侮辱したのだ。

平治の乱で源義朝を討ち取り、ついでに義朝の愛妾である常磐御前まで奪った太政大臣平清盛でさえ、後白川上皇と真っ向から対立はしたが、皇位纂奪までは考えなかった。

初の武家支配の幕府を開いた源頼朝も征夷大将軍で甘んじていたのは、天皇家の万世一系の伝統には対抗できなかったからである。

義満の足利家は源氏の直系であり、貞観(じょうがん)元年(858年)に即位した第五十六代清和天皇がその祖先であるから、義満の代までに既に五百年の歴史を誇る名家であった。

しかし、後円融天皇が第九十九代にあたる天皇家の伝統には遠く及ばない。
嘗て、武力で日本の国を制覇した人物は多くいたが、天皇家を覆す者は誰一人いなかった。

時代が要請したのか、第九十九代天皇が即位する真っ只中で、その后と密通する大胆不敵な怪物が登場したのだ。

「そなたの名前は厳子(げんし)と申すのか。貞子(じょうし)とは姉妹と聞いたが、貞子は先帝のお手つきにあったにもかかわらず、そのままこのわしに払い下げられた気の毒な女人であった。しかしそなたは新しい帝の后となった運のいい女人ではないか。

それが選りにも選って帝の即位式の夜に、このわしと閨事をするとは大胆な女御であらせられる。なぜそのようなことをするか、理由(わけ)を申せられよ」

義満は帝の后である厳子に精一杯の礼を尽くして言った。

「あなたはこの国の実質の支配者と藤原家ではみな申しております。必ずや近い将来、皇位を奪われる方だと聞きおよびます。だから帝など怖くはございません。またあの方は手弱男で、あなたと同い年でありながら、わたしにまだ手をつけようともなさいませぬ。

それに比べてあなたは、貞子さまと十一歳の頃から寝床を共にしておられるとか、たくましゅうございます。何の、何の、どうかわたしの体を喜ばせてくださいませ」

義満は大胆な厳子の言葉に唖然として、

「女人とは、永遠に分からぬものよ・・・」

と言って、貞子がいるそばで厳子を抱いた。

その間、緒仁(おひと)こと後円融天皇は大嘗祭のまさに一番中心の御衾(おぶすま)秘儀の儀式の真っ最中で、皇祖神天照大神との神人共寝をするのである。

神と同じ霊格になるため、皇祖神と神聖なる共寝をしている時に、その后が同じ神宮で、従三位中納言足利義満と閨事をしているのだ。


大嘗祭の夜には三つの儀式がある。

聖水沐浴、神人共食、御衾秘儀である。

聖水沐浴は、沐浴時に「天羽衣」と呼ばれる湯帷子(ゆかたびら)を天皇が羽織り湯殿に入り、湯槽の中で脱ぎ捨てられ、湯槽から出られて新しい「天羽衣」
に着替えられることで天から生まれ変わられ天子となられる儀式である。

それに合わせて、義満は厳子と一緒に湯殿に入り、湯殿で閨事を交わし厳子に自ら次の天子の種づけをしたのである。

神人共食は、天子となって生まれた天皇が天照大神と、外宮の豊受(とようけ)大神から生命エネルギーの大御饌(おおみけ)である新穀を与えられ、共に食される儀式である。

饌(ケ)とは食であり、生命エネルギーを指し、また新しい魂でもある。

皇祖神・天照大神と同じ霊格を持たれる。

この時、義満は貞子と厳子の二人と共に同じ大御饌を食したのである。

大嘗祭とは一年に一回行われる収穫の感謝と次の豊穣を祈願する新嘗祭(にいなめさい)に合わせて行われる、天皇にとって一生に一度の祭事で、その時に神宮の斎宮も交代される。

貞子は大嘗祭の意義を義満に教えていた。

義満は皇位簒奪を決意し、その予行演習のつもりで、この大嘗祭に臨んだのである。

「必ずや、天皇になってみせる!」と貞子に約束した、その時であった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu8-1.htm


推古二十八年(593年)に、聖徳太子による十七条憲法と十二の官位が制定されてから半世紀後の大化元年(645年)、中大兄皇子と祭祀の中臣鎌足が、聖徳太子没後、権力を掌握していた蘇我馬子・入鹿親子を宮中で成敗し、大化の改新を成し遂げた。

祭祀の中臣鎌足が中心になって、天皇による祭祀が始まり、文武天皇の大宝元年(701年)に刑部(おさかべ)親王と中臣鎌足の子・藤原不比等によって大宝律令が制定され、本格的中央集権国家が確立された。

七世紀後半に始まる律令天皇制国家の祭祀によって大嘗祭が制定されたのだ。
律令制によって、それまでの氏姓(うじかばね)制時代には、各地の豪族たちが既得権として所有していた土地を、「公地公民」「班田収授」の導入で、国有地にしてしまったのが正式な税の始まりである。

各地の豪族である国造(くにのみやつこ)が郡司となり、それを監視するために朝廷から国司(くにのつかさ)が派遣され、米の収穫感謝と豊作祈願をする年一回の新嘗祭(にいなめさい)が行われ、その時に最初の収穫を、祭祀を行う神社に納め、その次の収穫を朝廷に納めるのが税となったのである。

律令中央集権天皇制国家となって、この新嘗祭が新しい天皇の即位式となり大嘗祭となったのである。

日本における税の概念は、最初に収穫する穀物に対する収穫感謝と次の豊作祈願から始まったものであるのだ。

天皇の即位式である大嘗祭と税制は、中央集権国家ができる前の共同体社会において既に存在した慣習であった。

各地の豪族を土豪と言って、彼らがほとんどの税を納めていたのである。

その土豪が、永和四年(1378年)、義満、22才の時に大和(おおやまと)国で反乱を起こした。

後円融天皇即位の三年後の出来事である。

大嘗祭の神宮で種づけをしたはずの厳子が身ごもらず、後円融天皇が晴れて即位した後は、厳子との閨事もままならなくなった義満は鬱憤を溜めていた。

その時、管領として権勢を誇っていた頼之が、この土豪の反乱で窮地に立たされた。

父、義詮の治世の頃の権力者であった斯波義将(しばよしまさ)が、将軍義満に頼之の管領解任を陳情した。

それまで、政事は頼之に任せ、もっぱら朝廷の女人遊びに溺れていた義満だったが、いらいらが募っていたこともあって、十年以上も任せてきた頼之を解任してしまった。

頼之は翌・康暦(こうりゃく)元年、京の屋敷を焼き払い四国に引っ込んでしまった。
この時から、義満の政治家としての怪物ぶりが発揮されることになる。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu9-1.htm

細川頼之を追放し、斯波義将を管領に復帰させた義満は御家人を信用していなかった。

詰まるところ自分の家第一で、幕府第一とは誰も思っていないことを、義満は女人に溺れ、管領に政事を任せている間に女人から教わったのである。

男は如何なる身分でも、それ以上のものを常に望む動物であることを女人達は体で知っていた。

まだ元服もしていなかった春王の時から貞子や他の女人と情を交わすことで、自分と同じ男の性を知ってしまった。

「男というものは、たとえ帝であっても欲は尽きないもので、肉欲と権力欲は裏表の関係でありますぞ。女は肉欲の対象とされ、権力欲の道具として使われる哀しい動物であります。どうかお忘れなきように」

貞子から口酸っぱく言われてきたことだ。

貞子は後光厳天皇の寵愛を受けていたが、春王という天狗の化け物が登場すると、我が子の時代になった時のことを考えた帝は貞子を春王に与えたのである。

それが仇になるとは先帝も思っていなかった。

女が男の気持ちを測ることが出来ないように、男は女の気持ちを測ることは出来ない。

貞子は、相手が帝であろうが、その瞬間(とき)に情を交わした男に全てを与えることを、男である帝には理解出来なかった。これは男と女の永遠に埋めることの出来ない溝なのである。

権力を持つ男の性を嫌という程教えられた春王は、三代将軍になっても若年だということもあって、権力に全く関心を持たなかった。

男の権力欲の醜さを知っていたためであり、まだそれを吸収するだけ男として成熟していなかったからである。

御家人どころか義満は我が子たちも、腹の底では信用していなかったようである。
嫡男義持を将軍にはしたが、院政を引き、一方で次男義嗣を寵愛した振りをしていたことでも分かる。

義嗣の元服式を天皇の内裏で挙げるという前代未聞の天皇家侮辱を平然とやってのけた。

義満の絶大なる権力は管領頼之を追放した時から始まった。

生まれもっての天性か、権力の本質を知り抜いていたのか、義満はまず近衛軍の設置をした。

奉行人という将軍直属の文人と、奉公衆という将軍直属の軍人を掌握したのである。

現代世界で言えば、アメリカ合衆国の大統領がそうであり、戦前の昭和天皇が国家の大権と軍隊の統帥権を持っているのと同じである。

そうなれば現人神になれるのである。 義満の女人遊びは決して無駄ではなかった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu10-1.htm

貞子は義満によって女官としては最高の位を賜った。

徳川三代将軍家光と春日局との関係に酷似している。

後小松天皇の母である皇太后が厳子であり、厳子の姉である貞子は朝廷の女人を悉く品定めをしてから義満に献上していたのである。

その献上の方法が義満に大いに気に入られた。

永年続いた貞子と厳子との三つ巴の閨事を、目ぼしをつけた女人に覗き見させるのである。

上皇の后とその姉が絡む情交を見せられた女人は大胆になり、情交の仲間入りをする。

そして二人の前で義満に味見されるのである。

最初は貞子との閨事だったのが、その後厳子が加わり、そして按察局(あぜちのつぼね)と悉く上皇の愛妾が義満の女人天国の住人になっていった。

まさに、その情景は男冥利に尽きる天国であった。

それを演出していたのが、後光厳天皇に捨てられた貞子であったということは、歴史の裏の話とはいえ余りにもドロドロしたものである。

そして義満は精力家としてだけではなく、政治家としても大きく育っていくのである。

まず手始めに、義満は自分に反抗的な公家をいじめ抜くことをした。
その餌食にされたのが西園寺、久我、葉室の御三家である。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu14-1.htm

義満が若い将軍でありながら絶大な権力を掌握していったのは、その政治力に拠るところが多い。

これほどの若さでありながら、公家や武家の老獪な連中を手玉に取る能力は際立っていた。

「犯罪の影に女あり」ではないが、義満の政治力の影には二品尼貞子を筆頭に、厳子、按察局、池尻殿、加賀局、誠子といった宮中の女御がいた。

彼女らとの閨事は、義満にとっては大事な政事の場でもあったのだ。

改元権をも握った義満が元号を考えた中に応仁というのがあったが、結局義満が五十一才で暗殺された後、彼の三男で青蓮院門跡であった義円こと、後の六代将軍義教(よしのり)も暗殺されることで室町幕府はその求心力を失っていくことになる。

そして戦国の乱世となっていった時代の元号が応仁であったのは歴史の皮肉と言えるだろう。

応仁の乱を最後に制したのは、義満没後その義満の意を継いだ義教が赤松満祐に殺害されてから百年後に颯爽と登場した寵児・織田信長であった。

信長は義満のように三代将軍の地位を利用して、政治力によって天下を握ることはしなかった。いや出来なかったと言った方がいいだろう。

室町幕府時代の管領職を細川家と争った名門・斯波家の家来の一人が織田家であったから、義満とはいくら大名とは言え大きな差があった。

そういう意味では、天皇家から王権を奪い取ろうとして結局暗殺されていった二人の英雄ではあったが、信長は創始者であったから、力づくで天下を抑えようとしたのに対して、先祖の遺産を受け継いだ三代目義満が政治力を駆使して天下を支配していったのは慧眼であったと言える。

その影で義満の力の源泉となって支えていたのが女御たちであり、彼女らとの閨事は政事よりも重要な勤めであったのかも知れない。

歴史に「もし・・」は無いが、「もし」織田信長が義満のような政治力を駆使して公家や朝廷を掌握していたら、明智光秀に暗殺されるようなことは無かったであろう。

明智光秀は細川藤考(幽才)と共に信長と京都の朝廷の橋渡し役をしていた人物で、朝廷との突き詰めれば天皇とのパイプ役を家来に任せ、女性を政略の道具にしか使わなかったことが、本能寺の変を招いたのであり、義満のように女性を味方に取り込んだ政事をしていたら、その後の歴史は大きく変わっていたことは想像に難くない。

やはり「犯罪の影に女あり」は歴史の真実であり、また人間社会の真理であるのかも知れない。

女性を敵にすると怖いのは、いつの世も同じであり、逆に女性に沈溺しても身の破滅を招く。

女性の扱いは、いつの時代でも、最も難しい問題であるようだ。

現代の日本の政治は、まさに女性人気だけに支えられた政権である。

厳密に言うなら女性的体質の人間の支持基盤が重要な時世になっていると言える。
女性と男性の決定的違いは、男性は行動で己の想いを示すが、女性は言葉で示して貰わないと理解出来ない生き物なのだ。

言葉巧みな男には、いくら賢明な女性でもころりと参る。

我が国の宰相は、その言葉だけで政治をやっているように思えてならない。

歴史はその結末を教えてくれる。 義満が暗殺されたように。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu22-1.htm

改元は本来天皇若しくは治天の君が変わった時に行われるものであったが、叙任権・改元権・祭祀権を掌握した義満は、自分の権威を高めるために、二、三年に一回の間隔で、管領細川頼之の解任による頼之の造反で起こった康暦の政変以来次々と改元していった。

永和四年(1378年)、西園寺公永(きみなが)は右近衛大将になりたくて、貞子に近づいて、義満に頼み込んだ。

しかし、貞子に頼んだのが仇になった。

貞子に何度も煮え湯を飲まされてきた後円融上皇は、この上奏を徹底してはねつけた。

そして序列に従って、徳大寺実時(さねとき)が右大将になった。

『あの不能者めが、わしに楯突きおって!』

義満は貞子と上皇の后である厳子を前にして怒りを露にした。

まさに腹いせとばかりに、二人の女御を相手に情を交わし、怒りのエネルギーを彼女らにぶつけた。

その様は、長いつき合いの貞子ですら、さすがに異常かと思わせるほどの荒々しさで、まるで動物を犯すような残虐さと執拗さであった。

特に厳子に対する情交は、何が何でも自分の種を植えつけてやるといった執拗さで、妹である厳子が目の前で義満に犯し殺されるのではないかと、貞子が思う程の激しさであった。

管領細川頼之を解任して、いよいよ独裁体制にと考えていた矢先の康暦元年八月、義満は廷臣の最高位にいて、自分に肩入れしてくれている二条良基の摂政再任を奏聞したが、後円融上皇の猛反対で、左大臣二条師嗣(もろつぐ)に宣下された。

怒り心頭の義満に対して、後円融の反撃もここまでであった。
厳子が身ごもったのである。

『してやったり!』と狂喜する義満を見つめる貞子と厳子には、まさに大天狗に見えたのであった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu24-1.htm

身籠った厳子だが、上皇の寝所お召しには応じていた。

義満の官位叙任権を撥ねつけた後円融は、近侍の者たちに、我が権威を大いに見せ付けることが出来たと満足し、厳子との関係もいたって順調だと思っていた。

厳子自身も、大天狗に変貌した義満に不安を感じていた反動で、上皇のお召しに進んで応じていた。

そこへ孕んだことを知った厳子は、それが天狗の種であることを直感した。

義満は、厳子が自分の子を孕んだことを貞子より伝え聞き、喜色満面で狂喜した。

上皇の方に気持ちが傾きかけていた厳子は、自分が孕んでいることを上皇には教えずに、厳子の方から積極的に連夜の閨事を上皇に求めた。

そして、とうとう厳子は連夜の閨事の過労で、出血して腹の子を流してしまった。

上皇には、閨事の過労で風邪の病に臥したと伝え、上皇から、「体を癒すことに専念するよう大事に」と心篭ったお言葉まで賜り、三条家の実家で体を癒した。

貞子は、厳子が流産したことを聞き、義満に伝えた。

「何ゆえ、流産したのか?」

「分かりませぬ。厳子の話では、風邪の病が高じたのが原因だと申しておりました」

上皇に対する怒りのエネルギーを上皇の后の体内で爆発させることで、収まっていたものが再び再燃した。

「厳子を、今夜呼べ!」

貞子に命じたが、さすがの貞子も流産した直後の厳子に、義満の激しい情交の相手をさせることは出来ないと断った。

鬱憤を晴らせぬ義満は、仕方なく尼になった按察局(あぜちのつぼね)を召そうとした。

しかし、按察局事件で後円融上皇が持明堂事件を起こし、「自殺してやる!」と喚き立てたのを、生母の崇賢門院に説得されやっと収まった事件の張本人である按察局に手を出すことは余りにも不条理だと、又もや貞子から諫言された。顔を真っ赤にして黙っている義満に、貞子は言った。

「今夜は、わたくしを弄びなされ」

義満は駄々を捏ねる子供のように貞子の胸に顔を埋めた。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu25-1.htm

束の間の栄華

永和四年(1378年)及び康暦元年(1379年)の義満の奏上による西園寺公永及び二条良基の官位の叙任を、決死の覚悟で拒否した後円融上皇は、義満の種を孕み、それを意図的に流してまで上皇のことを憂慮した厳子の想いに応えて、精神的に最も落ち着いた時を送っていた。

義満との相克もさほど無く、穏やかで平和な期間であったが、それは上皇最後の悲劇の序曲であった。

永徳二年(1382年)。厳子は後円融の子を孕んだ。

この時期、義満は病がちで、まだ嫡男が生まれていないこともあって、閨事(ねやごと)は正室日野業子(なりこ)だけに絞っていた。

その間に厳子は後円融の子を孕み、もともとしっくりしていなかった夫婦関係が極めて良くなった時期であった。

貞子から、厳子が身篭ったことを聞いた義満は、自分の子種でないことは明白であったので地団太を踏んだ。

貞子も義満に言わなければよかったのだが、女の気持ちは計りしれない。
妹の厳子に必死に子種を植え付けようとする義満に対してではなく、妹の厳子に嫉妬心を燃やしていたのだ。

自分から進んで天皇の后である妹を義満に提供し、三人交えての閨事も重ねていたのに、嫉妬心を抱く女の気持ちを、まだ若い男の義満には到底理解できるはずもなかった。

しかし、老獪な年齢に達した貞子には、義満の心情は手に取るように分かっていた。

その結果、厳子が後円融の子を孕んだことを敢えて義満に知らせたのである。

政治力においては、見事なまでの老獪さを発揮する義満も、男女の問題では貞子の手中に入っていたのだ。

地団太を踏んで悔しがった義満が、どういう手を打つのかも貞子には読めていた。

「日野資康を呼べ!」

義満は武家伝奏である日野資康を呼び付け、罠を仕掛ける相談を持ち込んだ。
日野資康は武家伝奏という役職もあって、情報操作にかけては右に出る者はいないことを知っての相談であった。

貞子さえ、この相談事の中に入れてもらえなかったが、貞子は察しがついていた。
そして予想通り、後円融上皇の束の間の平和をぶち壊したのであった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu26-1.htm

後円融天皇の父である後光厳天皇の典侍で、遁甲(とんこう)という忍びの役目も負っていた三条貞子という女性がいた。

貞子は後光厳天皇の肝煎りで、足利義満の幼名・春王のところへ、閨事の指南役として送り込まれたが、ミイラ取りがミイラになって、貞子は春王の遁甲になってしまい、自分の妹であり、後円融天皇の皇后であった三条厳子をも、春王との閨事に引きずり込んだのである。

後円融天皇が若くして上皇である治天の君になったのも、そして若死したのも、元はと言えば皇后三条厳子と義満との密通疑惑が原因であった。

義満が権勢を誇り始めたのは、管領細川頼之が失脚してからであったが、十一才で征夷大将軍になった時から、既に怪物の片鱗を見せていた。

後顧の憂いを懸念した後光厳天皇が、十一才の春王が将軍になるために元服した際に義満という名を与えたのである。

後光厳天皇の寵愛を受けていたこともある貞子だが、自分の体をいとも簡単に、まだ十才程度の義満に払い下げられたその失望は計り知れないほど大きかった。

今も昔も変わらない人間関係、特に男女関係には、ひとつの真理がある。

相手を人間として扱わない人間は、必ず男女関係でつまずき、そういう人間の本質である上昇志向の強さとは裏腹に、最終的には人生の敗北者になる。

その時、そのつまずきの原因になるのが、人間扱いせずに物扱いした相手である。
男女の関係では、男にその傾向性が強いのは当然である。

最も代表的な例が、女性を利用した政略結婚である。
豊臣秀吉と徳川家康の関係においても、自分の妹で既に夫持ちの旭姫を、離婚させてまで家康に嫁がせた。

徳川家康も今川義元によって政略結婚させられた築山殿に裏切られている。
現代においても、宰相にまでなった政治家が、たかだか三百万円を吝嗇(けち)って、宰相の地位を棒に振っている。

「英雄色を好む」の真意は、本当の英雄は、いかなる人間をも人間として扱う公正・平等の体質を持っている。だから英雄になれる。そしてその影には支えとなる女がいる。英雄はその女が愛妾であっても人間として大切にする。

だから多くの女が、英雄に心奪われ自ら進んで愛妾になって、英雄の周りには、女がつきまとうことになるのである。

女にとって、男と体質が正反対だから見抜くことは困難なことであるが、一番警戒しなければならない男は、人間を物扱いする種類(たぐい)であることを忘れてはならない。

足利義満が、権勢を縦にすることが出来、王権纂奪まで考えた背景には、払い下げされた貞子を最後まで大事にし、人間扱いしていたからであり、後円融天皇の皇后となった三条厳子が密通の噂まで流れても、義満との閨事を重ねたのも、義満に、「英雄色を好む」体質が具わっていたからであろう。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu48.htm


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64. 中川隆[-13681] koaQ7Jey 2018年11月29日 12:48:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21340] 報告

芥子の花


ふ〜しょう♪ふ〜めつ♪ふ〜くう〜♪ふ〜じょう♪〜

読経は続いている。焼香の煙が静かに漂い流れてくる。

私の実家は阿波の国、土佐との国境で、海底で堆積し褶曲された山々がある所では隆起しある所では黒潮が流れる青い海へと没した海辺に開けたのどかな土地にある。

宗派は真言、それで弘法大師いわれの話しがここかしこに言い伝えられている。


大師さんが休み、杖をついたところ、そこから清水が湧いてきたとか、ちょうど大石が落ちてきた時、弁当に使っていた箸を地面に突き刺すと忽ち箸は大木の杉の木になって大石の落下をくい止めたとか、小さな頃から法事がある度に先代のおじゅっさんから先祖の逸話を聞くと伴に大師さんにまつわる話しを数多く聞いてきた。

・・・ないし♪むろし♪やくむろしじん♪・・・


遠い声を聞く様に清んだ先代のおじゅっさんの話し声が重なって聞こえてくる。


裏山に住む狸の話をしてくれた事や椎の大木の陰に潜む天狗が夜な夜な空を飛ぶ話しとか、そんな幾つかの話しの中にあって、ことさら不思議と胸の内にわだかまった話し


「大きな声では言えないがね寺の裏山には終戦頃まで芥子の花が咲みだれていてね・・・」


何か咲きみだれる見知らない花々が秘密めいて思い出されてくる。

これは我が母校の校章となっているからだろうか?

焼香の匂いが一層強く漂い私はさらに静かにゆっくりと夢想の翼が開いていく様に感じられてきた。 月の青い光が降り注ぐ裏山に白い花びらの芥子の花が青白く濡れている。 これは梶井基次郎が書いた『櫻の木の下に死体が埋まっている』より尚妖艶ではないだろうか?

芥子の花の下には骨が埋まっているのに違い無いのでは。


空海さんはさすが博学やったんやな〜と思ってしまう。 真言密教の片田舎の末寺に芥子の花が咲き乱れていたと言う事は日本各地の数多くの寺々では芥子が植えられ使われていたのではないだろうか?

さても、古く真言密教の儀式において護摩火に芥子も焼香のひとつとして投げ入れる秘儀が常時おこなわられていたのでは?・・・

かの時代なら十分うなずけれることなのでは。


薄暗い堂内に掲げられた曼荼羅に昇る火と立ち込める煙、それと伴に強い香を焚けば祈りを捧げる人々、 みんな酩酊しないわけが無いのではないだろうか。

人々の眼前に現れるのは極楽浄土だったのではないだろうか。


夢想する私の耳には空海さんが唐国から船で帰るさい墨染めの衣の袖の下には身毒(インド)渡りの芥子坊主を忍ばせた・・・・

サラサラと芥子坊主の中の乾いた実の音が聞こえてくる。

そしてその音はサラサラ サラサラと木霊し流れ来て私の脳内の神経節の一部にエンドルフィン、エンケファリンとして反応し点滅している様に感じられてくる。

それはランニングハイのような高揚なのだろうか?

いやいやそれは今まさに私の脳内で芥子坊主から滲み出した黒く変色した果汁が翼を開ける様に広がっている高揚なのではないだろうか?


・・・ぎゃあ〜てい♪ぎゃあ〜てい♪はらさそ〜うぎゃあ〜てい♪・・・・


読経は尚も続いている。

ああ・・・またもや何処か人知れない廃寺の裏山でひっそりと月の光に濡れながら青白く咲く芥子の花と唄う様に揺れる芥子坊主の姿が私の頭の中で映像として結びだしてきた。
http://plaza.rakuten.co.jp/maeno7547/diary/200901310000/


真言密教立川流と後醍醐天皇の子沢山

文観弘真(もんかんこうしん)僧正の真言密教立川流に心酔した後醍醐天皇は、教義に添って多くの子を為すのだが、この「後醍醐天皇の子沢山」は、後の出来事を思うと「歴史の必然だった」のかも知しれない。

後醍醐天皇のお相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで十六人に及ぶ親王(しんのう/皇子)、内親王(ないしんのう/皇女)を設けられている。

正直、一頃の親王(しんのう/皇子)・内親王(ないしんのう/皇女)の誕生時期が重なるほど後醍醐帝の子創りがお盛んだった為、どなたが何番目のお子なのか不明なくらいだった。

南北朝期の初期、中央の畿内では北朝方・足利尊氏が南朝の本拠地・吉野山周辺を残してほぼ制圧を果たし、戦が義良親王(のりながしんのう /後村上天皇・ごむらかみてんのう )を頂いた東北地方と懐良(かねなが)親王を頂いた九州にその主戦場が移って居て居た。

その他に中国・四国を中心に活躍した第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)、越後・越中・信濃で活躍した宗良親王(むねながしんのう)、新田義顕(にったよしあき)と共に戦い越前国金ヶ崎に散った尊良親王(たかながしんのう)など、帝の意を受けて戦った多くの皇子がいた。

千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」まで南北朝の抗争が六十年間続いたのは、多くの親王が各地で抵抗したからである。

つまり真言密教立川流に心酔した後醍醐帝の「子沢山」が「歴史の必然だった」と思えるほど、南朝方は「皇統を繋ぐには親王(しんのう)が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。
http://jiyodan.exblog.jp/18745248/

インドにおける密教は変容し、性欲崇拝の濃厚なものになり、やがてチベットに伝わり、ラマ教になるのだが、ラマ教は密教という点では空海が遺した真言密教との違いはないといっていいであろう。

しかしながら両者は神秘性の表現においてははなはだ異なっている。

ラマ教は、インドで衰弱段階に入った後の左道密教といわれるものに相似し、性交をもって宇宙的な原理を表現することに於いて強烈で得あるが、空海がもたらした密教はそういう思想を内蔵しつつも教義全体の論理的筋肉がまだ若々しく、活動がなお旺盛で、性欲崇拝へ傾斜するような傾向は外部からは窺いにくい。

しかし空海の没後、数百年を出ずして彼の密教も左道化した。

「真言立川流」 と呼ばれる密教解釈が、平安末期から室町期にかけて密教界に瀰漫し、とくに南北朝時代にはその宗の指導者である文観(もんかん) が後醍醐天皇の崇敬を受け、立川流が密教の正統であるかのような座を占めたことなどを見ても、空海の体系には、性欲崇拝を顕在化させる危険が十分内在したというべきであろう。
http://singetu.ddo.jp/kuukai_huukei/56.htm

ヨガの起源はインドにおける「尸林(しりん)の宗教」にあります。「尸林」とは中世インドの葬儀場のことで、大きな都市に隣接してこの尸林が存在していました。死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ、荼毘にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられました。しばしば尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていました。


これらはまともな神経の人間には実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈する危険な場所であり、しばしば魑魅魍魎が徘徊する場所として恐れられていました。

 この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあり、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な秘儀を行なっていたのです。
尸林の土着の女神たちは、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていました。それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術を生業としていました。

その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)と言いました。シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。

その聖地(墓場)に土着の女性たちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人)の出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていました。彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式です。ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は曼荼羅制作、護摩、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)などです。


 ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼です。


天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズはこの性行為の秘儀が元になっています。)します。この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女の転移)(サンチャーラ)と言います。
女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない女性)を1名加えた9名と言う説もあります。その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります。この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになります。

 この儀式はインドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっています。ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。


星辰の回転を象徴しながら、都合8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は「大楽(マハースーカ)」と呼ばれ、子の大楽が行者を「梵我一如」の境地に連れ去ると言われているようです。 梵字はこの瑜伽(ヨガ)のポーズを記号化したものであることから、ヨガのポーズや梵字には多くの憑依霊や狐などの動物靈を呼び寄せる大変危険なものなのです。


 上記の尸林に集まる巫女の内、ダーキニーと呼ばれた人たちは、空海が日本に密教を持ち込んだ時に茶吉尼天(ダキニテン)という女神として現在の稲荷神社に祀ってしまいました。稲荷神社でキツネを眷族として祀っているのは、このダキニテンからきています。


 というのは、もともとダキニテンはインドの墓場、尸林で性行為を伴う黒魔術をおこなっていたダーキニーであり、インドでは人肉を食らいながら裸で踊り狂い、左手には人の腎臓(もしくは心臓)、右手には人からもぎ取った手足を持っている姿で描かれていますが、何と日本の稲荷神社で茶吉尼天となったダーキニーは優しい姿で左手には宝玉、右手には剣を持って描かれています。

 そして、何故キツネかと言えば、もともとダーキニーは夜になると死肉をあさるゴールデンジャッカルの変身した姿だと言われていたり、ゴールデンジャッカルを人食い女神の眷族(けんぞく・使いっ走り)として使っていた、と言うことから来ていますが、日本にはジャッカルが存在しないため、ダーキニーとジャッカルのコンビが茶吉尼天とキツネのコンビに変容してしてしまったようです。 
http://www2.tba.t-com.ne.jp/onmyoukai/newpage109.html

父母や先祖の髑髏に漆を塗って祭壇に祀る。

そしてへールカと呼ばれる中央の男性とダーキニーと呼ばれた女性行者が9名とその前で契りを交わし、その和合水を髑髏に塗り付ける。


髑髏の「建立」

髑髏をそのままにして、頤(おとがい)と舌をつくって髑髏にしつらえ、また歯をつけて、髑髏全体に生身の肉がついているかように見えるまで、何度も漆を念入りに塗ったあと、箱の中に納めておく。

続いて,地面に血を用いて曼荼羅を描き中心に指導者がそのパートナーと座し,その周囲に円形に8人の容姿端麗な美女を配置する. 天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と和合を行なう。

中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立する様にする。 中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合し,それを5日間続ける.

そしてその和合水(淫水=男性の精液と女性の愛液)をこの髑髏に百二十回塗り重ねる。 それから毎夜子丑の刻(午前零時と午前二時)に反魂香を焚いて髑髏を薫染する。 反魂香を焚けば死者の姿が煙のなかに現れる。

その一方で反魂の真言を千回唱える。そうすれば死者の魂が戻る。

このような修法を行ったのち、髑髏の中に種々の相応物や秘密の符を書いて納め、頭頂に銀箔と金箔をそれぞれ三重につけ、その上に曼荼羅を書き、その上に金銀箔をおす。 さらにその上に曼荼羅を書き、銀箔と金箔をおし重ねてはりつける。


このような曼荼羅画を交えた箔おしの所作を略式では五重か六重、通式では十三重、最高では百二十重とする。曼荼羅を書く染料はすべて男女の交合の二H(和合水)を厳守する。

舌や唇には朱をさし、歯には銀箔をおし、目には絵の具で若々しく綺麗に彩色するが、義眼に用いる玉を入れてもよい。 顔にはお白いを塗り、紅をつけて、美女のように化粧する。

こうして髑髏が完成したら、それを壇上に祭り、山海の珍味を供え、反魂香を焚き、子、丑、寅の三刻に祭祀を行う。 そして卯の刻になったら、七重の錦の袋に入れる。

こうして、行者はその袋に入った髑髏本尊を、夜は行者が肌で抱いてあたため、昼は壇に据えて山海の珍味を備えて供養する。


これを7年間続けるのである。


 そして、8年目になると、髑髏本尊はその位階に応じて3種類の験力を現す。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して三千世界の全ての真理を語る。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/tachikawa/dokurohonzon.htm

髑髏の「建立」。

用意した髑髏を加工して組み立てる。 これには大頭、小頭、月輪形の三種類の制作法がある。

大頭とは、髑髏をそのままにして、頤(おとがい)と舌をつくって髑髏にしつらえ、また歯をつけて、髑髏全体に生身の肉がついているかように見えるまで、何度も漆を念入りに塗ったあと、箱の中に納めておく。

つづいてすでに訳知りの容姿端麗な美女と性交し、その和合水(淫水=男性の精液と女性の愛液)をこの髑髏に百二十回塗り重ねるのである。

髑髏を守っているという七魄(人間の魂は三魂七魄からなるとされる)に和合水(三魂の象徴)を三魂七魄の本尊としての準備が整うわけである。

それから毎夜子丑の刻(午前零時と午前二時)に反魂香を焚いて髑髏を薫染する。 反魂香とは、漢の孝武帝が李夫人の死後も恋しくてならず、方士に香を造らせ、それを焚いて夫人の面影を見たという故事にちなむもので、それを焚けば死者の姿が煙のなかに現れるとされる香である。

その一方で反魂の真言を千回唱える。そうすれば死者の魂が戻るというのである。

このようなず修法を行ったのち、髑髏の中に種々の相応物や秘密の符を書いて納め、頭頂に銀箔と金箔をそれぞれ三重につけ、その上に曼荼羅を書き、その上に金銀箔をおす。さらにその上に曼荼羅を書き、銀箔と金箔をおし重ねてはりつける。
このような曼荼羅画を交えた箔おしの所作を略式では五重か六重、通式では十三重、最高では百二十重とする。


曼荼羅を書く染料はすべて男女の交合の二H(和合水)を厳守する。舌や唇には朱をさし、歯には銀箔をおし、目には絵の具で若々しく綺麗に彩色するが、義眼に用いる玉を入れてもよい。

顔にはお白いを塗り、紅をつけて、美女か、童子(美少年)のように化粧する。
その際、表情は貧相にせず、笑みをたたえ、決して怒ったような顔つきにしないことが大切である。
http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/shingontatekawa.html

「真言立川流」を始めたのは見蓮と言う人物で、陰陽師を習得した真言宗の僧侶兼陰陽師だった。

北斗・北辰妙見信仰に始まる「交合に寄る歓喜行」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行であるから、真言宗の僧侶兼陰陽師だった見蓮が創始した八百万の神・陰陽修験と陀羅尼真言密教の習合教義である真言密教立川流に、その奥義が取り入れられていても「自然な流れ」と言える。

この真言立川流、今の時代ではとても理解されないが、当時、素朴な民衆を矛盾無く導く為に、性に対していたずらに禁欲をさせるより、「肯定した上で民意をリードしよう」と言う考え方があった。

真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連に奥義を授けた仁寛僧正は、伊豆の大仁に住まいし真言宗の僧侶で、陰陽師だった見蓮に、真言密教の秘伝「歓喜法」を授けた者である。

仁寛に限らず高野山系の僧達の多くも、鎌倉時代末期近くまではこの男女交合の「秘術」を理念としていた。

仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を謀ったとして、捕らえられて、「伊豆大仁」に流されていた。言わば、政治犯の流人である。 そこで陰陽師修行中の見蓮に出会い、醍醐三宝院流秘伝の奥義を伝授されたのだ。

現代人の宗教観とは合致しないであろうが、本来、いずれの宗教も「現世利益」が基本である。 つまり他人の事はどうでも良く、祈る者だけに「利を与える」のが元々の教義だった。 本来、信者の本音で言えば「現世利益」が無い信仰など魅力がある訳が無い。

近・現代に於いて「教えが改善された」と言えばその通りだが、元々の信仰はそんなに立派なものではなく、自分の「利」の為に祈るもので、呪詛的には「相手を呪い殺す願い」をも受け入れる事が「信仰(宗教)の実態」と言って良かったのである。 この辺りを理解すると、個人の「現世利益」の考え方から、極楽浄土に「性的な境地」が結び付く教義「真言密教立川流」に、現実感が出て来ても不思議ではないのである。


常識的に見て密教経典の意味解釈は、解釈する側の意志で加工が可能である。弘法大師(空海)が日本にもたらせた密教は、やがて日本で加工されて行ったが、その原点に近いものがインド・ジャンム・カシミール州最大の地方「ラダック(Ladakh)」に残っている。

このラダック地方の土着宗教がタントラ教の影響を受けた密教で、いわゆるチベット仏教である。 ラダックには多数の仏教寺院、ゴンパがあり、全人口が敬けんな仏教徒である。

釈迦生誕の地に近く、「真言・天台両宗の源流」とも言える「敬けんな仏教徒の地ラダック地方」には、つい近代の英領インド時代に禁止されるまで「一妻多夫」の習慣があり、一人の妻を兄弟で共有していたが、それはチベット仏教においては「けっして教えには背いては居ない」のである。

つまり密教において、性はかなり「おおらかな扱い」であり、現在の日本人が意識する厳しい戒律は「無かった」のである。

元来性行為と言うものは、単に「男女が交われば良い」と言う即物的なものではない。 そこには精神的感情が介在する。 それも複雑で、一口に「愛」とばかりにかたずけられない。

性交の本質は、想像力をたくましくして、被虐心、加虐心、羞恥心に触覚、聴覚、視覚を駆使して、初めて上等な性感を得る。 つまり【右脳域】の本能的無意識の境地に入る為の「行」として捉えるのである。

人間の感性は複雑で、あらゆる情報を脳で処理する事で、結論を導きだす。従って、性的快感も単純ではなく、それに拠る精神的癒し効果も認められる。

つまり、性と精神はリンクしていて、人格の形成にも関与する重大事項と言えるのだが、これを「無理やり離して考えよう」と言う間違った傾向がある。 喜怒哀楽は人間の基本的な感性で、【右脳域】の思考である。 その内の「喜」を以って「楽」を為すのが、密教における性交呪詛所謂「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地である。


人間は、性行為や食事、音楽や映像鑑賞の際に「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得る。 言うなれば、宗教行為と性行為、音楽の演奏などは、ある意味同質の目的、快感ホルモン物質の分泌を促す為にある。

宗教に陶酔したり、音楽に聞き惚れたり、視覚、嗅覚、五感の刺激がこの快感ホルモン物質の分泌を促すのなら、人は神の教えで救われても不思議はない。 それを経験的に学習しているから、いかなる宗教にも音楽や雰囲気創りの演出は付き物で、そのトリップ状態は、けして否定すべき物でもない。

言うなれば、宗教行為と性行為が合体した真言密教立川流は、「究極の奥義」だったのではないだろうか?

この快感ホルモン物質がモルヒネと同じ作用を持つ「脳内麻薬」で、精神的ストレスの解消と肉体的老化防止の特効薬であり、必要なホルモン物質なので、健康な性行為の抑制は必ずしも人間の為にはならない。 当然の事ながら、気の持ち様で「自然治癒力が増す」などの奇蹟は現に症例が多いから、宗教の奇蹟も存在する。 真言密教では、この生物反応的効能を肯定して、「修験道に活用しよう」と考えた。


快感ホルモン物質が大量に分泌されると、人間はトリップ状態になる。

従ってかがり火の燃え盛る呪詛の場で、陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)が流れる荘厳な雰囲気の中、激しい性行為を繰り返す事によって、常人には無い激しい反応を見せる。 それが呪詛の効果で、真言密教で言う所の「極楽浄土」である。

その状態が「呪術の効果をもたらす為に必要だ」としていたから、立川流は成立した。 それにしても、呪詛の為に身体を提供して「歓喜法」を体現する呪詛巫女の存在は、現在の感覚では理解が難しい。

しかし、密教の教えの詰まる所は「空」である。 空に私心は無い。

有にしても無にしても、そこには私心が介在するから、空に成れば、如何なる行を求められても、それを不条理と思う事は無い。 実は、「気」も、奇跡と扱うには「ペテン染みた」物理現象である。 言わば、思い込み(既成概念)と言う物差しを外した所に奇跡とも思えるパワー現象が生じる。 しかし、そこに到達するには、「空」が要求されるのである。 その「空」に、成りおおせないのがまた、人間である。


行を施され、呪詛巫女が空に及ぶには、その行の厳しさに相応の覚悟が要る。女性の身体は不思議なもので、縛り上げて三日ほど変わる変わる攻め立てれば「脳で考える気持ち」とは別に、身体が性交の快感を覚えてしまう。

つまりそちらの感性は【右脳域】の本能的無意識が覚醒するからである。 そうなればしめたもので、女性から呪詛(性交)に応じる様になり、滞りなく行える呪詛巫女が完成する。 当初の呪詛巫女の仕込み方は大方そんな処である。

呪詛巫女の確保については多くの方法がある。 その一つが、前述した律令制における被差別階級として賤民の利用である。

奴婢として地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢と呼ばれる身分の者の中から「婢」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、呪詛巫女に仕立て上げた。

八百六年(大同元年)、ちょうど桓武天皇が崩御し、第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)の準備をしていた頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。

仏教の発祥はご存知インドであるが、実を言うとインドには「密教」と呼ぶ言葉や宗派はない。 金剛乗(ヴァジュラヤーナ)、或るいは大乗(マハーヤーナ)等が相当しそうだが、厳密には意味がかなり異なっていて「伝播の途中で変化したものと」考えられる。

大陸での修行を終えた空海(弘法大師)は、持ち帰った経典に重さを付ける為に「密教呪法」の存在を強調し、その呪法効果を期待させる事に成功する。 当時の日本の指導階層は血統を重んじる氏族で、世継ぎを得る為には多くの妾を抱える社会だったから凡そ禁欲的な教えでは受け入れられない。

空海(弘法大師)の教えは、その教義の中で「人の世界の理性的な原因の世界」を肯定し、然る後に

「密教呪法」に拠り身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる)、
口に真言(真実の言葉)陀羅尼を唱え、
心に本尊(大日如来)を念ずる

事により、仏の不思議な力で「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)出切る」としている。 その教えを秘密仏教、即ち「密教」と称し、教理と行に呪術的かつ具象的表現を伴う教義を成立させ、「潅頂」と言う入門の密教儀式をしていない者に師の許しなく真言や行の内容を軽々しく教えを説き伝える事を禁止してこれに反する行為は大罪としてその自戒を三昧耶と呼んでいる。

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗(台密)と結び付いて発展した。 手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。つまり本能(煩悩)で汚れた人々を、「真言・陀羅尼を唱える事で救う」と言う教えである。

この真言宗の教えの中の密教と日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者が生まれている。修験者とは、修験道を修行する人で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

当然の事ながら、陰陽修験は呪詛を使う。 呪詛の目的は、それを行なう事に拠ってあらゆるものを操ろうとするものである。

修験道には、役小角を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。 弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)達が、我が国にもたらした密教は、強力な「現世利益の秘法」であったのだ。 本来の仏教は祈りによる現世利益で、まずは手っ取り早く長生きや裕福と言った幸せを願う物だった。

この現世利益については、現在の中国式寺院にその面影を見る。 お金に見立てた寺院発行の紙の束を、供え物として火にくべ、金持ちに成る様、先祖に祈るのだ。 そうした教えが、真言宗の密教として伝えられ、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、陰陽修験の呪詛を使う真言密教・立川流が成立した。


真言密教立川流は陰陽修験の呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行を採用した。 立川流の教義は、真言宗の


「即身成仏・即事而真(そくじにしん・物そのものが真実)」、

「当相即道(とうそうそくどう)」


の意味は、「ありがたちそのままが理想」と言うであり、つまり「自然の欲望(煩悩)は自然な事である」としている。


「本有平等(ほんぬびょうどう)」の意味は

「本来もっているものが皆同じく真実を宿す」という真言を、男女二根の交会、

淫欲成就の妙境をそのまま「即身成仏の意味」

に解したもので、ごく自然な人間の命の営みを、素直に容認したものである。


この教義の根拠として「首拐厳経」、「理趣経」などが用いられて、なかでも「理趣経」の十七清浄句の、「欲望は浄らかなり〈大楽の法門〉」と言うその教えは「一切の法は清浄なり」と言う句門であった。この時点で、愛欲に対する罪悪の考え方はまったく存在しない。

「一切の法(手段)は清浄なり」を「男女の性交も清浄なり」と解すれば、良いのである。


如来は十七の清浄なる菩薩の境地を挙げて、男女交合の「妙適なる恍惚境」も、
欲望、箭の飛ぶ様に速く激しく働くのも、男女の触れ合いも異性を愛し堅くい抱き、男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由である。

男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由とは、解釈の仕方では現代で言うSM的な行為まで性愛の形として肯定している。 つまり、欲望に身をゆだねて「恍惚境」に入る事を、真言密教は教義として肯定しているのである。

それはそうだろう。 禁欲主義は生き物としての最も基本的な「種の保存本能」に矛盾している。


「全ての主である様な心地となる事」、
「欲心をもって異性を見る事」

も、また、

男女交合して「適悦なる快感を味わう事」、男女の愛、これらの全てを身に受けて生ずる「自慢の心」も、ものを荘厳る事、全て思うにまかせ「意滋沢ばしき事」、
満ち足りて光明に輝く事も、身体の快楽も、この世の色も、香も、ものの味もまた清浄なる菩薩の境地である。


と、立川流では、全てのものをその本質において積極的に肯定している。つまり色欲の煩悩を含めて、人間の存在が完全に清浄なもの、菩薩のものとして肯定されており、性欲肯定の句として知られている処である。

何が故に、これらの欲望の全てが「清浄なる菩薩の境地」となるのであろうか。

それは、菩薩が人々の【右脳域】に存在し、これらの欲望を始め世の一切の法は、「その本性は清浄なものだからである」と、自然に存在する性的欲望を菩薩のものとして肯定しているからである。

故にもし、真実を見る智慧の眼を開いて、これら全てを「あるがままに眺める」ならば、人は真実なる智慧の境地に到達し、全てに於いて「清浄ならざるはない境地」に至るのである。


真言宗開祖・弘法大師(空海)は、仏教とは異教である儒教を廃してその禁欲思想に攻撃こそすれ認めてはいない。 現代人の感覚では理解し難いかも知れないが、弘法大師・空海が日本に持ち帰った経典の中にインド・ヒンドゥー教の影響を受けた経典が多数含まれていた事も事実で、日本の初期密教の成立にヒンドゥー教の生命への畏怖を根源とした性的な教義が混ざっていて当たり前である。

つまり真言密教・立川流に拠ると、弘法大師・空海が持ち帰った真言密教の教義解釈は「性交に拠って穢れが浄化される」 と言う解釈なのである。


儒教の抑制的な考え方は人間の本質と矛盾する教えであるから、現実に起こり得る様々な事象を闇に葬るばかりで結果的に「在る事」を「無い」と建前で覆い隠すに過ぎず、何ら解決には至らないからである。

ところが、後世の真言宗僧侶達は時の権力におもねり、開祖・弘法大師(空海)の教えを翻して儒教の抑制的な考え方を取り入れて真言密教の王道たる立川流を「淫邪教」と廃し始め、弾圧の挙句その存在まで闇に葬った。

愛欲は生きる事の一部であり、後世に血脈を引き継ぐ原点である。

開祖・弘法大師(空海)が「あるがままに眺める」とした真言宗の抑制的改宗は、信念とは別の御都合主義の為せる業で教義を変節したのであり、人間の本質として必ず「在る事」を「無い」と建前で覆い隠して対処を放置する事こそ、現実に正面から向き合わない「邪教」ではないのか?


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3) 立川流の呪詛様式


立川流の経典は理趣経を習している。 そして呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行「歓喜行」を採用した。 邪神とされる荼枳尼天(だきにてん)を拝し、特に髑髏を本尊とする為、世間から邪教と解される原因と成っている。

確かに、髑髏の存在は「死と言う現実」を見せ付けられるものであり、並みの人間で有ればそれだけでも不快に感じるのは事実である。また、髑髏には生前のその持ち主の魂が宿っていそうで、精神的には犯すべからぬ畏怖の対象であるから、その辺りの抵抗感が存在して、違和感が生じても不思議はない。

にも関わらず、真言立川流が髑髏を本尊としたには、こうした精神的な意識に元付く既成概念そのものを、共通して一気に変革させる狙いを試みていたのではないのだろうか?

真言密教立川流の髑髏本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は、王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂と一千人の髑髏の上部を集めたもの、「法界髏(ほうかいろ)」と言う儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。

その様に選ばれた髑髏の表面に、女人の協力を得て、性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り、それを糊として金箔や銀箔を貼り、更に髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。

しかもその七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。 こうして約七年間もの歳月を「歓喜行」に費やして作られた立川流の髑髏本尊はその位階に応じて「三種類の験力を現す」と言う。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して「三千世界の全ての真理を語る」と言う強烈な現世利益の本尊である。


真言密教立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、「大日如来と一体になる事」である。 立川流の金剛杵は特殊な金剛杵であり、片方が三鈷杵(さんこしょ)、もう片方が二鈷杵(にこしょ)になっている。 この金剛杵を割五鈷杵(わりごこしょ)と言う。

本堂のお勤め場所の周りに星型の結界が、蝋燭としめ縄で張られる。 しめ縄はいわば神の「結界占地」を標示するもで、神域に張られる事になっている。

蝋燭の炎は、「歓喜行」の間絶やす事は無い。

反言真言を唱え、星形の結界(五芒星)は陰陽師家、安倍晴明の判紋である。

格子状のしめ縄の結界は、九字紋と同じ形状であり、九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。 九字結界は、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」を星型に配置し、その間を結んで五芒星(晴明判紋)となす。 安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。五芒星(九字護身法に拠って出来る図形)の意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰ってくる」と言う意味でもある。


「歓喜行」はこのしめ縄の結界の中で全ての障害を排して執り行うのである。呪法に使う髑髏にも、それなりの確りした仕度がいる。

亡なって間もない人頭を、丁寧に洗い清めて、真言を唱えながら漆を塗る。朱色を出すには「辰砂(水銀)」を使う。水銀と硫黄からなる硫化水銀鉱が、「辰砂」であり、細かく砕くと水銀朱の朱が取れる。

この「辰砂(水銀)」、弘法大師(空海)が多用していた事で知られている。

真言密教立川流に取って、朱は血の色であり、活力と蘇生の呪術には欠かせない。 仕上がったら、よく乾燥させ、上等な桐箱に収めて置く。

そして七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」を行い、八日目の朝、「開眼供養を迎える」と言う荒行である。

この本格的な「歓喜行」は、真言密教立川流の僧正が呪詛を用いる為に強力な呪力を有する淫液に塗れた髑髏本尊を会得させる為の物だった。これが、「髑髏本尊・歓喜法」と言う秘術である。

立会いの僧正や男女の信者達は、願主が「歓喜行」を行うを、眼前にて見守りながら「反魂真言」を絶やさず唱える。 一度達しても、茶吉尼(だきに)天の妖力の色香は強烈で、男はすぐにまた活気を取り戻す。

願主は真言密教秘伝の強壮の秘薬と食べ物をとりながら、和合と髑髏に和合水の塗布を続けて、七日目の深夜「結願」を迎える。


いよいよ「結願」を迎えた八日目に入った深夜十二時を過ぎからは、「開眼供養」を夜明けまで行う。 和合水と反魂香にまみれた髑髏の頭部に、金箔を幾重にも重ねて張り、口に紅、歯に銀箔を施し、作り物の眼球を入れて、最後に化粧するのだ。 その後、錦の袋に入れて七年間、願主が毎夜抱いて寝る。 願主が歓喜行をする時は傍らに捧げ、仮本尊となす。

八年目に、ようやく「髑髏本尊」が完成する。 この本尊に妖力が宿り、「呪詛祈願の達成効果を保持する」としていた。 陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)や反魂真言を唱えて、性交を繰り返す「歓喜行」は多分に異様である。

しかしこの淫靡な儀式の奥には、別の真実が隠れている。

理趣経は、「本来男性と女性の真の陰陽があって初めて物事が成る」と説いている。 この儀式に七年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が「大日如来」の導きで、悟りを得る事がその目的だからであり、何の事は無い互いの情が移る年月である。 そうなれば髑髏本尊は、単なるシンボリックな物に成ってしまうのである。


何故こうした信仰が成立するのか、種明かしをして置く。

人間は「恐怖心や高揚心、羞恥心」と言った興奮を背景にすると、普段の判断とは全く違う感覚で物事を受け止める。こうした興奮の心理的な影響は極論理的なものであるが、当事者は意外と「興奮に影響されている」とは思い到らずに「自分の正常な判断」と結論着けてしまう。 その興奮に影響される判断が、興奮が覚めても「正常な判断」と確信されて残る所に所謂「洗脳状態」に陥る状態が、信仰などに利用される心理的な手段である。


真言密教立川流、その教義は、遠く印度の仏教に遡る。 印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼天と言う魔女が、大日如来の教えで、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社に成る。 財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗の商家の奥庭に、祭られたりしていた。

当時の商人の考え方は、「商は長くやるもの」であり、家業、商売を代々繁栄させるのが使命であるため、老舗跡の跡継ぎの確保は重要だった。 その為には跡継ぎに困らない様に妾を持つほどの艶福家で無ければならず、性的パワーのある稲荷の社を祭ったのである。

つまり、幸せにしてくれる神様で、その茶吉尼天が、真言立川流の御本尊である。 茶吉尼天の法力を高める秘法が、密教の儀式である。 茶吉尼天の法力を高める為には、男女和合の性エネルギーのパワーが必要で有る。

つまり初期の仏教は、信じればご利益があると言う「現世利益」の教えで有ったものが、時代とともに変遷して、道徳教育的な目的から「悪行を積むと地獄に落ちる」と言う死後の利益に変わって行った。

一方で修験道師が村々に分け入って布教し、植え付けて行った矛盾とも取れる「おおらかな性意識」は、庶民の中で生き続けていた。

真言密教立川流の本尊・荼枳尼天(だきに天)は、元々はインドのヒンドゥー教の女神で、「荼枳尼天」は梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したもので、ヒンドゥー教ではカーリー(インド神話の女神/仏教・大黒天女)の眷属とされる。

このヒンドゥー教の女神が仏教に取り入れられ、荼枳尼天は仏教の神となる。元々は農業神であったが、インドの後期密教においては、タントラやシャクティ信仰の影響で、 荼枳尼天は裸体像で髑髏などを抱えもつ女神の姿で描かれるようになって、後に性や愛欲を司る神とされ、さらには人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになった。


荼枳尼天は、自由自在の通力を有し、六ヶ月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べると言われたが、その荼枳尼天が、大日如来が化身した大黒天によって調伏されて、仏教神となって「死者の心臓であれば食べる事を許された」とされる。

日本では鎌倉時代から南北朝時代にかけて、荼枳尼天は、性愛を司る神と解釈された為、その男女の和合で「法力を得る」とする真言密教立川流と言う密教の一派が形成され、荼枳尼天を祀り、髑髏を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされる流派が興隆を極めた。


真言密教と陰陽道を究めた人物に仁海(じんかい)僧正がいる。醍醐寺隨心院は、九百九十一年(平安時代中期・正暦二年)に雨僧正と呼ばれていた仁海僧正によって建立され、千二百二十九に門跡寺院となった真言宗善通寺派の大本山である。「雨僧正」と呼ばれ、占術の祈祷で「祈雨祈願に成功した」とされる仁海僧正は和泉国の小豪族の家に生まれ、七歳で高野山に上る。 そこで、占星術を身につけ、学僧としても、知られるようになる。

仁海はしばしば五行の考えに基づく易を使う。安倍晴明より少し後の時代に活躍した仁海は、しばしば五行の考えに基づく易を使う。 このことは当時の僧侶が仏教の経典だけではなく、中国の「易経」のような中国特有の古典にも通じていたことを示している。 仁海僧正の私生活を「生臭坊主であった」とする評があるが、それは当時の僧を後世の常識感覚で評するからである。

そもそも、日本の神官や僧侶は、長い事氏族が武士や官僚と兼務していたもので、勢力争いもするし女性も抱く。 高僧と言えども例外ではないから、正妻を置いたかどうかを問わなければ、江戸期以前の僧侶は全て「生臭坊主」である。 と言うよりも、「女性との交わりを呪詛パワーの源」と言う解釈が、密教に於いては為されていたのである。


陰陽師の見蓮に、仁寛が密教の秘術を伝授して、かれこれ百年に成ろうとする頃、北条(平)政子が心血を注いで礎を作った流石の鎌倉幕府執権・北条得宗家も、代を重ねて落日を迎えようとしていた。 鎌倉幕府が弱体化していた頃、敵対していた勘解由小路(賀茂)家と土御門(安倍)家の両家は天皇の皇統護持の為に和解している。


◆真言密教立川流・南北朝との関わり

北条(平)政子が心血を注いで築きあげた「鎌倉幕府執権・北条得宗家」も、体制百三十年余りを数えて独裁への反感も膨れ上がり、流石に屋台骨が揺らぎ、「時節到来」と倒幕の機運も、静かに盛り上がりつつあった。

そんな時に、皇位に目覚めた後醍醐天皇(第九十六代)が、突如現れた。 それは取りも直さず、地に潜っていた「勘解由小路党」を、そして幕府御家人衆に甘んじていた「源氏の血筋」を目覚めさせる事となった。

この後醍醐天皇(第九十六代)、まさしく密教の申し子だったのである。

京都醍醐寺は、皇統・大覚寺統(後の南朝)を護持する為の寺であり、後醍醐天皇の支えだった。その醍醐寺は、真言密教の教義を支持していた。 従って後醍醐天皇は、真言密教を信奉していたのである。


本来、男女の交合は尊い物である。男女の陰陽を現世の基本として、人々の生活の向上、平和と幸福を願う呪詛(法力)の為のエネルギーの源が、男女交合の歓喜パワーであり、密教理念としていた。 この教義を後醍醐天皇が信奉した事は、彼がしごく「人間的であった」と言う事である。

真言密教の理念は、けして浮ついた邪教ではない。 至極まじめで、日本に入って来た初期の頃の真言宗の教えの一部として、間違いなく存在した。

それはそうだろう、武器を携えて破壊と殺戮に行くよりよほど良い。 精神的な愛に於いて、性交はあってもなくても良い。そして独占欲はそれも愛情で有るが、それが愛情の全てではない。 その違いが判らないと、大人の対応は出来ない。

全てに拘束を欲する愛情もあれば、全てを赦す愛情もある。 難しい所で有るが、愛し方はそれぞれで、自分と違うからと言って、愛が無いとも言いきれない。

空海(弘法大師)が唐から伝えた経典では、何よりも性に対する位置づけが「生命力パワー」と言う前向きな思想からなっている。 真言密教でも、その「生命力パワー」は認められていた。


京都醍醐寺に文観弘真と言う僧侶がいた。彼は先人で有る仁寛僧正を信奉し、その弟子が興した見蓮の真言密教立川流を継承していた。

勿論同じ醍醐寺に、文観弘真に対立する勢力もある。後醍醐天皇(第九十六代)と文観弘真僧正が結び付けば、当然反対派もまた結び付くのが世の習いである。


話は、鎌倉時代末期の事である。

後宇多上皇(第九一代)の皇子・尊治親王(後醍醐天皇)は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、鎌倉幕府の倒幕を目指し、宋の様な専制国家の樹立を志した。

千三百十七年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚(せんそ)した尊治親王(後醍醐天皇)は野心満々で、平安時代の聖代(延喜帝・醍醐天皇や天暦帝・村上天皇の政治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇(第六十代)に肖って自ら後醍醐天皇(第九十六代)と名乗り、手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を停止させ、天皇としての実権を確立した。


鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から真言密教立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。 これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。 文観僧正は、後醍醐天皇に真言密教立川流を直伝する。

茶吉尼天のイメージが演出され、衣服の透ける様な美女姿を宮中に現し、天皇は絶倫になる。 退屈な宮中生活にあって、これが「楽しくない」筈はない。

若き天皇は好色でこの教えを痛く気に入り、自ら実践する事で極楽浄土を体感し、教義は宮中に広がった。 後醍醐天皇の相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで、十六人に及ぶ親王、内親王を設けている。

つまり、「皇統を繋ぐには親王が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。 「勘解由小路党の女人(白拍子)」も天皇相手に、歓喜の行で大活躍したのかも知しれないが、詳しい記述はない。 唯、夜な夜な「おごそかな歓喜儀式が、宮中で盛大に執り行われた」と、想像にするに難くない。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」は、九字呪法である。 そして男女による「歓喜法」で「極楽浄土」を体現する。 その強烈なパワーを持って、四方に幸せをもたらす。

この教えに傾倒した後醍醐天皇は真言密教立川流を保護し、文観を政務の補佐役にする。 文観の権力は強くなり、一時、日本中に真言立川流は広がって行った。


この辺から、雲行きが怪しくなる。

真言立川流が、余りの隆盛を見せた事で、真言宗右派(禁欲派)が嫉妬し、文観の立川流(左派)から、宗派の最高権力を奪取すべく行動を起こす「きつかけ」と成った。 右派が、後醍醐天皇の対立相手、大覚寺(持明院統方)と組んだのである。 これは、宗教上の権力争いで、醍醐寺統(後醍醐天皇)と左派(真言立川流)連合が勝っていれば、その後の日本の宗教観は変わっていたかも知れない。 「菩薩の境地」が、精神的抵抗無く庶民のものに成っていたかも知れないのだ。

だが、醍醐党が破れ真言立川流は衰退して行った。 つまり、負けた方が「弾圧された」のである。 そこに至る経過が、南北朝並立の争いとリンクしていた。


文観は、当時としては珍しく、八十歳と言う長寿を全うしたそうである。 文観は死期を迎える僅か前まで、村娘を相手に日々のお勤めを欠かさず、真言密教立川流を守っていたのだ。

真言密教立川流(真言宗左派)は、対立する宗教勢力(真言宗右派)と結び付いた政治勢力(北朝方)が、南朝方に勝利すると、倫理観を前面に出して「淫邪教」の烙印を押されてしまった。

所が、本来の立川流の教義の形成経緯は、密教の命の持つ力(パワー)に対する純粋な信仰心と土着の呪術・占術を一体化した修験密教の教義を、誓約(うけい)の概念をも含めて理論武装し、再構築したもので、ただ単に淫蕩な目的の宗教では無いのである。

真言宗右派(反立川流禁欲派)と北朝(持明院統・光明天皇)、足利尊氏派が、真言宗左派(密教立川流・文観弘真僧正)と南朝(大覚寺統・後醍醐帝)、新田義貞・北畠顕家派に勝利し、文観僧正に拠って頂点を極めた真言密教立川流は、急速に衰えて行く。

元々、仏教と儒教は異なる宗教であるから、仏教・真言宗の開祖・弘法大師(空海)が儒教を否定した。 その開祖・弘法大師否定した儒教思想を、主流と成った真言宗右派は、チャッカリ教義に取り入れて真言密教立川流を邪教とし禁欲の教義を広めた為、安土地桃山期には立川流はほとんど無くなり、江戸初期には完全に消滅してしまった。

後醍醐天皇が吉野へ逃れ、足利氏と持明院統(北朝)が勢力を拡大すると、醍醐寺大覚寺統の「真言密教立川流」は徹底的に弾圧されて先細りと成り、やがて衰退して消滅している。

弘法大師(空海)がもたらした真言密教の、鎌倉初期に封印された教えには、性は「生きる為の活力の元」と書いてある経典も数多くあった。真言密教に大きく影響を及ぼした理趣経の経典は、その基礎に大陸での「妙見信仰」がある。

実はこの妙見信仰は弘法大師・空海が経典として持ち帰る前に、既に大陸からの移住者(渡来人)達に拠って先行して伝来し普及していた。 そして列島独自の原始宗教と習合し、陰陽修験道として集成していたのである。 そうした経緯から、弘法大師・空海の真言密教は陰陽修験道とは一体化の道を辿り、総本山金剛峰寺は修験道の修行の地と成るのである。

さて妙見信仰の伝来当初は、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であった様だが、次第に畿内などに広まって行った。 しかし朝廷の統制下にない信仰であった為、統治者としての統制が取れない。 神の威光で統治する朝廷にとって、庶民の間で勝手に広がった「妙見信仰」は危険な存在だった。

七百九十六年(延暦十五年・平安遷都直後)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。表だった理由は「風紀の乱れ」であった。

これは何を意味するのか?

庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。 本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?

命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。 元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。

気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。 日本における所謂庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けているから大抵その本質は「乱交闇祭り文化」である。

つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。

例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。 京都府宇治の県神社の「くらやみ祭り」は、明治維新まで無礼講の祭りだったのである。

こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事である。


◆【私の愛した日本の性文化】


当時の庶民感覚は、元々「性」に対しておおらかだった。 信仰が庶民に浸透して行くには、それなりの現世利益が必要で、「北辰祭(妙見祭)」は、当時の庶民が日頃の憂さをおおっぴらに晴らす有り難い行事として、「大いに支持された」と言う事だろう。 そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。


朝廷の「北辰祭(妙見祭)」禁止から十年、八百六年(大同元年)唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。 空海(弘法大師)が信徒獲得の為に目を付けたのが、北辰祭(妙見祭)禁止に対する「庶民の不満」である。


空海の教えは、

身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、
口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事

により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事が出来る。」として「性」を積極的に肯定している。

この妙見信仰や、修験道と結び付いた弘法大師(空海)の真言密教は庶民にも浸透して行った。

そもそも密教には、人間は「汚れたものではない」と言う「自性清浄(本覚思想)」と言う考えがある。 真言立川流が弘法大師(空海)の「東密(真言密教)の流れを汲む」とされるのに対し、
伝教大師(最澄)の台密(天台宗の密教)でも男女の性交を以って成仏とし、摩多羅神を本尊とする「玄旨帰命壇」と言う一派があった事からも、性交を通じて即身成仏に至ろうとする解釈が密教中に存在したのは確かである。
http://jiyodan.exblog.jp/7936468/


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

65. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2018年11月29日 13:10:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21343] 報告


天皇家では1700年間にも渡って近親結婚を繰り返した為に、まともな子供が一人も生まれなくなり、遂に外部の血を入れる決断をしたが…



▲△▽▼


世間の噂


秋篠宮文仁  

みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)

その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください


_____


秋篠宮 (文仁) 殿下が、天皇実子でないという噂は、関係各位に根強く伝承されている。

噂の出所は、天皇一族の警護、護衛を主務とする皇宮警察。 皇宮警察と言えば、警察官の中でも選りすぐりの良血者で構成されている機関だが、良血と言っても所詮は田吾作集団。

酒が入れば、口も軽くなり、同期生が集まれば、ここだけの話が、あっちこっちで交わされるのである。

「ここだけの話だが、秋篠宮が、天皇の本当の子供でないってこと、お前知ってるか?」 ここだけの話の一つが、それである。

それが酒席の冗談で終わらなかったのは、それなりのバックボーンがあるからだ。

遡ること四十数年、昭和天皇の后や、后の取り巻き女官たちから陰湿なイジメを受けた美智子妃殿下 (当時) は、精神に深いダメージを受け、那須の御用邸で一人寂しい静養生活を送っていた。


生まれついての貴種である前の皇后にとって、平民出身の美智子妃殿下の一挙一動作がしゃくの種。 子供 (浩宮) の育て方に始まって、手袋の持ち方一つにもアヤをつけたのである。

悩み多き貴婦人の警護を担当していたのが、若き偉丈夫の皇宮警察官。 深い同情が恋情に変わり、いつしか二人は恋に落ちたというのが、まことしやかな警察物語である。

そして、皇太子 (当時) と没交渉の筈の妃殿下に、懐妊のニュースが流れることになる。 

道ならぬ恋の噂は、宮内庁首脳にも届いている。 だからと言って、出産を止める手だてなどあろう筈もない。 そこで代々の宮内庁長官に、一つの言葉が引き継がれることになった。 

「皇位継承者は浩宮の血脈から ・・・」 と、である。

秋篠宮 (文仁) 殿下は成長するにつれ、天皇一族とは明らかに異なる特徴を見せつける。 体型、思想、行動の全てである。 皇太子や、黒田清子さんが、一目で陛下のお子さんだと分かるのに比べ、秋篠宮の体型は似ても似つかぬものがある。


それよりも何よりも、ナマズの研究にかこつけて、タイ女性にうつつを抜かしたり、祖父である昭和天皇の喪が明けぬ内に結婚を決行するといった傍若無人の精神性を露出する。 挙げ句の果てには、兄である皇位継承一位の皇太子を、公然と批判したりするのである。

「文仁殿下は、血の秘密を知っているに違いない」 の呟きが宮内庁首脳から洩れる。

そうとしか理解できぬ異常行動が多すぎるのである。

菊のカーテンの奥に潜む機密事項が、小泉総理にもたらされたのは、今から一年以上も前になる。

雅子妃殿下の病状が思わしくないこと。 おそらく、お子さんは愛子内親王お一人でありましょう。

「だからこそ、皇室典範を改訂し女性天皇、女系天皇への道筋をつけて戴きたいのです」 さもないと、神武天皇以来続いた万系一世の貴種は、今世をもって終焉するかも知れません。万が一にも秋篠宮家に第三子が誕生し、それが男子であったなら ・・・・・・・

流石の小泉も、菊の秘事を耳にして腰を抜かさんばかりに驚いたという。


当時は、郵政政局真っ盛りの頃、政局に破れ退陣するようなことにでもなれば、郵政もさることながら、皇室が大変なことになるのである。

結果、総選挙に大勝し、郵政を片づけた小泉内閣は、早速大事案である皇室典範の改訂に取りかかる。 平沼赳夫のように、小泉憎しで反対音頭を歌うのはどうでも良い。 何としてでも片を付けてみせると決意を固めた矢先である。

秋篠宮紀子妃殿下が十一年ぶりに懐妊したとのニュースが日本全土に配信される。 長兄に男子が出来ぬなら、作って見せようの気構えかどうかは別にして、皇室典範事案の帰趨が大問題になっている矢先の懐妊である。

このことが万々歳でないことは、美智子皇后が突然体調を崩されたことからも察することが出来る。

馬鹿なマスコミは、目出度さ一色の報道を繰り返すが、目刺しの頭も信心からと言う事態になるやも知れないのである。

日本には、触れれば血が出る、死人が出ると言われる世界が三つあった。 同和、総連、それに菊の紋所である。 特に菊は、タブー中のタブー、同和・総連が小泉改革で崩壊しても、菊に関しては批判めいたことが何一つ言えないという風潮がまかり通っている。

だから今回は、署名投稿で秘中の秘、禁断のエリアに踏み込んでみた。 その場を与えてくれた、論談編集者に礼を言いたい。
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0602/060208-3.html




▲△▽▼


まあ、天皇家は近親相姦で精神薄弱の家系になってしまったから、天皇家とは全く異なる血を持った(?)秋篠宮が天皇になった方がいいんですけどね。紀子さんが被差別部落出身(?)だというのも面白いしね。

詳細は


被差別部落出身の有名人は?・yomi.mobi(部落出身者は、大和民族の誇りを思い出し、在日・米国と手を切るべきです)
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html


▲△▽▼

65 : 宛櫛[] : 投稿日:2004/01/26 15:53:00ID:AZVihGut [1/1回]

天皇家の障害児をあげるのよ。おほほほほほ

・常陸宮(顔からして火星人)

・島津貴子の息子(白人女と結婚させた)

・紀宮(脳ではなく、顔に障害) ほほほほほほほほほほお

67 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/27 09:04:00ID:zmHhSGYm [1/1回]

俺が拾ってきた猫はあまりに顔がブサイクだったので紀宮と命名しました。

今も皆に「紀ちゃん」と呼ばれて元気に暮らしてます。
http://www.logsoku.com/r/rights/1073388229/



▲△▽▼


明治天皇が、種なし寸前だったため、また交配相手の側室も天皇家の女性だったため、ほとんど障害児しか産まれませんでした。正室にいたっては、まったく出産できてません。
大正天皇も、知恵が遅れてましたが、なんとか育ったため天皇即位までもっていけました。

大正天皇の奥さんは、健康で皇室と血縁のない、かなり若い人が選ばれました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1353053733


117 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/03/11 20:04

ではこの辺で大正天皇がどうしてアホになったか説明しましょう。

確か同じ年同じ月(同じ時期)、大正天皇候補が2人いたんだよね。

一人は明治天皇の胤で柳原愛子のおなかの中にいた大正天皇候補1。
もう一人はやはり明治天皇の胤で某女官(名前忘れた)のおなかの中にいた大正天皇候補2。

結果的に柳原愛子のおなかにいたほうが大正天皇になったわけだが、もう一人のほうは柳原愛子派の九の一忍者により始末されたわけだ。だから当然柳原の方も敵にいつ殺されるか判らない精神不安ていな状況下でこっそり大正天皇を生んだわけ。

この頃一条勝子が明治天皇と女官の間の子を嫉妬して次々赤ん坊の口をふさぎ窒息死させたから柳原愛子としても気が気でなかったのであろう。

かくして妊婦は安静を保って子を産まなければならないのにいつ自分が殺されるかびくびくびくついて大正天皇を生んだため赤ん坊に十分な酸素が行き渡らなかった
ため脳に障害のある子が生まれてきたというわけだ。

まあ、どちらにしろ知恵遅れの家系だから結果も大して変わらなかっただろうなwwww


_____

厳かな雰囲気に包まれた日本の議場、壇上に立つは軍服に身を包み原稿を手にする一人の紳士。

その面前には百人超の議員達、実に恭しく敬礼している。

が、次の瞬間議員たちの間にどよめきが起こる。

というのも壇上の紳士がにわかに原稿をくるくる丸めると、望遠鏡のようにそれを覗き込みながら、辺りを見回し、へらへらとしまりのない笑みを浮かべているのである・・・

お分かりであろうが、この紳士とは大正天皇その人であり、彼は天皇の業務をおよそこなし得ない白痴であった。この逸話は、皇室に関する醜聞がタブーとされる日本において陰ながら語り継がれてきた。

斯様な彼の知的障害は、遺伝性のものであり、明治期以前の歴代天皇家
の近親相姦が原因であった。かつて天皇はごく一部の血縁ある公家としか通婚せず、その血はおのずと濃くなっていった。

こんにちにも、現天皇のいとこもまた軽い知的障害があり、先日の皇太子妃雅子の流産も、胎児に身体または知能に障害があったために秘密裏に人口中絶したのではないかと、まことしやかに囁かれているのも事実である。

▲△▽▼

昭和天皇は明治天皇を深く尊敬していたといわれる。日本の近現代史のなかでは特別の理由も示されないまま,この裕仁に限らず天皇家関係者すべてが,そして歴史家たちもごく当たりまえに「大正天皇を軽視し,ときには無視していた」かのような位置づけで,とりあつかってきている。

大正天皇は4人の男子を生んだが本当は「種なし」であったために,前段のように,東久邇宮稔彦のような〔皇族の立場にある女性になぞらえていえば「〈天皇の配偶者:皇后〉を出せる資格がある」とされた皇族の立場にあった〕男性が主に,万世一系の維持のために性的に協力したという話になる。

 明治以降の天皇家の種が断絶していてはまずい。それゆえ,皇室の藩屏たるそれも「皇族のなからその種」を提供し,万世一系の系譜を創作しつづけてきたわけである。

明治天皇自身が何人もの側室(典侍および権典侍といったが,要するに正妻以外の2号以下の妾)をもち,5人の側室に女10人:男5人を産ませた。だが,男子のうち成人したのは大正天皇だけであった。

この大正天皇が〈種なし〉であったために,明治天皇があえて裕仁天皇の種つけをした話もある。


 大正天皇は実際には正妻:貞明〔皇后〕とのあいだで子どもができていなかった。そこで,貞明に子どもを産ませて天皇「後継者:男子」をえようと,東久邇宮稔彦などが代わりにその「人間再生産」の製作作業 [大正天皇も嫌々ながら認めていた自分の配偶者の他者との性交渉] に参与したという筋書なのである。

貞明は,最初に押しつけられた男〔明治天皇(舅!)か?〕を嫌がっていた。それで,裕仁に拒否反応をもっていた(この段落,鬼塚,前掲書,408頁, [ ] 内のみ 422頁)。


 それにしても,裕仁と秩父宮・高松宮・三笠宮の全員が顔つきが違う。

秩父宮の父〔東久邇宮稔彦?〕が貞明の心を射止めていたので,貞明は秩父宮を溺愛した。貞明はそのせいで,裕仁を皇位継承から外し,秩父宮を天皇の座に送りたかった。これを画策したのが山県有朋であった。これはさらにまた,昭和天皇の妃が薩摩藩の血を引く良子に決定されたさい〈色盲〉問題が提起されたひとつの背景である。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2709626


日本のいちばん醜い日 鬼塚 英昭 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫
笠原 和夫 (著), スガ 秀実 (著), 荒井 晴彦 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%98%AD%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%8A%87%E2%80%95%E6%98%A0%E7%94%BB%E8%84%9A%E6%9C%AC%E5%AE%B6%E3%83%BB%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%92%8C%E5%A4%AB-%E7%AC%A0%E5%8E%9F-%E5%92%8C%E5%A4%AB/dp/487233695X

昭和天皇の出生の疑惑


1 : 日本@名無史さん[] : 投稿日:2007/10/19 19:28:40ID:QjGviBga0 [1/1回(PC)]

大正天皇の第1皇子の昭和天皇の出生に関する疑惑がいろいろ出てきている。
私個人としては昭和天皇(弟3人含めて)の父親は、大正天皇だと思っている。
とりあえず、今まで出てきた疑惑を整理してみると。


まず、笠原和夫の本「昭和の劇」。

この中で、昭和天皇の皇女・照宮成子内親王の舅で、香淳皇后の叔父に当たる東久邇稔彦が、

「大正天皇は子種がなく、代わりに貞明皇后に何人かの男を当てて産ませていった。だから、昭和天皇の兄弟は皆、顔が違う」

と語っていたことを河野司から聞いたと笠原は語っている。
笠原がこの説にかなり確信を持っていたとうかがわせる発言がある。


次に、鬼塚英昭の本「昭和のいちばん醜い日」。

この本には、「昭和の劇」の東久邇稔彦の発言が引用しつつ、「木戸幸一日記」の島津治子の調書から昭和天皇の父親は西園寺八郎だとしている。

また別の歴史家の本には、明治天皇が昭和天皇の父親だとする説もある。


ここで疑問に思うのは、以下の3点である。


1.東久邇稔彦の発言の信憑性

東久邇稔彦は皇室と縁戚関係にあるものの、自分の妻・聡子内親王の兄である義兄の大正天皇とは折り合いが悪く、大正天皇の崩御の際にも留学先から帰国しなかった。
その大正天皇を貶めるため、あえて混乱を招くような嘘をついたのか、戦後の臣籍降下をあれほど熱望していたものの、辛酸を舐めて皇室に怨恨でも持ったゆえの発言なのか。


2.三笠宮誕生の必要

明治時代に貞明皇后は3人の親王を産んで皇統を守ったのだから、大正時代に三笠宮を産む必要はなかったと思われる。なぜ、明治天皇も昭憲皇太后も亡くなった後に子供を産む必要があったのか。
東久邇稔彦の発言から感じる矛盾である。

3.大正天皇の子種なしについての決定的証拠がないこと

大正天皇に子種がないとする証拠は、東久邇稔彦の発言しか見当たらない。
あとは、噂や風説などであり、医学的見地から見た証拠はどこにもないのである。
確かに大正天皇は病弱だったものの、貞明皇后と結婚した当初は健康体であった。
皇族の中にも病弱だった賀陽宮邦憲王のように健康を回復して、子供をもうけたり、伏見宮貞愛親王の嫡子・邦芳王は病気により宮家の存続が危ぶまれ、宮家を継承できず、代わりに兄の博恭王が継いだ場合もある。

原武史は、大正天皇に万が一のことがあった場合、有栖川宮威仁親王が次の皇位継承者であったと語っている。


10 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2007/10/20 16:22:03ID:vGuCDJA40 [1/1回(PC)]

問題なのは三笠宮出生だろ。
なぜほかの兄弟と10年以上も違うのか。

紀子様の場合は様々な事情があって12年間ブランクがあったということはみなわかってるけど。

17 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2007/10/22 19:17:23ID:7W//g5Re0 [1/1回(PC)]

知的障害者の大正天皇が父親だからこそ、あんな出来そこない(裕仁)ができたんじゃないの
http://www.logsoku.com/r/history2/1192789720/


大正天皇
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=0mNIQLIhgR8

大正天皇は知的障害者だったんだよ?


497 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 00:34:59

なんか大正天皇のDNAが愛子に出てきたみたいで騒ぎになってるな。


506 :日本@名無史さん:2010/05/22(土) 00:55:27

大正天皇は明治天皇の子でないから、どうでもいいですよ〜
明治生まれの、明治天皇の末子が昭和天皇です。

3 :名無し象は鼻がウナギだ!:2007/01/18(木) 15:06:14

大正天皇の和歌や漢詩や書は、専門家のあいだでは、お世辞ぬきで評価されてるぜ。
・・・・ただ、あの方は、奇行が多かったようだけど・・・・。

5 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:17:46

書は確かにうまいよね。

7 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 17:42:16

詔勅の紙を丸めて覗いてたって言うけど、それで知的障害ですか?
そういうことってオレもよくやるんだよね
辞令の紙を丸めて覗いたことあるし


41 :NONAME:2009/10/24(土) 21:36:54 8 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 19:16:16
>>7
ちゃんと巻けてるかどうかを確かめたのをそう勘違いされたと聞いたことある。

12 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 12:21:18

中学校の歴史の授業で、
大正天皇は頭が弱かったので、困り果てた側近が毒殺した
天皇家は途中で朝鮮半島からの渡来人に乗っ取られている
ということを習ったよ。


53 :日本@名無史さん:2007/03/01(木) 23:44:44

厳かな雰囲気に包まれた日本の議場、壇上に立つは軍服に身を包み原稿を手にする一人の紳士。その面前には百人超の議員達、実に恭しく敬礼している。
が、次の瞬間議員たちの間にどよめきが起こる。というのも壇上の紳士がにわかに原稿をくるくる丸めると、望遠鏡のようにそれを覗き込みながら、辺りを見回し、へらへらとしまりのない笑みを浮かべているのである・・・

お分かりであろうが、この紳士とは大正天皇その人であり、彼は天皇の業務をおよそこなし得ない白痴であった。この逸話は、皇室に関する醜聞がタブーとされる日本において陰ながら語り継がれてきた。

斯様な彼の知的障害は、遺伝性のものであり、明治期以前の歴代天皇家の近親相姦が原因であった。かつて天皇はごく一部の血縁ある公家としか通婚せず、その血はおのずと濃くなっていった。

こんにちにも、現天皇のいとこもまた軽い知的障害があり、先日の皇太子妃雅子の流産も、胎児に身体または知能に障害があったために秘密裏に人口中絶したのではないかと、まことしやかに囁かれているのも事実である。


58 :日本@名無史さん:2007/03/03(土) 19:12:31
>>53
「見える 見える よく見える」

世紀の名言だなw

42 :NONAME:2009/10/24(土) 21:41:29

巻けてるかどうかというより、国会の開会の際に巻いてある詔勅の紙をパッと広げて読もうとしたら、上下逆だったため持ちかえて読んだことがあった(ハズカシ)
そのため、それ以降は広げる前に丸めた状態で中をのぞいて事前にちゃんと確認するようにした
その様を見た当時のある国会議員が

「あの馬鹿帝、のぞいて遊んでやがる(プギャー」

と言いふらした。 近年それを裏付ける当時の女官の日記が発見されたらしい


11 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 02:12:48

山県が流したんだっけ、確か

290 :日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:43:36

つうか宮内庁やら政府が隠したいのは山県との確執(と言うより山県によるイジメ)では?

「遠眼鏡」の件がどうであれ「御発語に難あり」とされ赤子の時脳膜炎やったのはもう隠し様が無いし
少なくとも心身共に問題無ければヒロヒトが摂政になる必要は無かった訳で…

山県にすれば自由奔放な嘉仁は御しにくく気にいらない存在だったらしい。
「遠眼鏡」やその他のネガティブ情報は山県の発信と言うのは良く囁かれるところw

因みに山県はヒロヒトの結婚の相手を選ぶ時もイチャモン付けているwww


335 :日本@名無史さん:2008/04/21(月) 12:13:42

真面目な話、思い通りに操れない大正天皇を排除して、昭和天皇に摂政として事実上譲位させるため、山縣有朋らが仕組んだ風説なんだよね。

79 :日本@名無史さん:2007/03/10(土) 02:36:45
>>53
これ名誉毀損だろw特に後半の存命の人物に触れてるとことか
ていうか近親相姦云々いうが、嘉仁は妾腹だったんだが、、、


289 :日本@名無史さん:2007/12/09(日) 04:03:25
>嘉仁
確か生まれた時に脳膜炎にかかりそれが知的障害?に繋がったと聞く。

母親の愛子は先に男女二人を生んでいるがこれも脳膜炎で死んでいるとか。
小学校の過程を14歳でやっとの事卒業したとか。
多動症(極端に落ち着きの無いってことらしい)であったとか。

多動症ってものに付いては奇行が多かったという話に繋がるんだろうが
即位後はかなりのプレッシャーがあったろうし
>>11にもチラっと出た山県との軋轢とかもあったらしい。

ただ堅苦しい宮中より旅行等で外に出て庶民に気軽に話しかけたと言うから息子や父親よりは人間的にはイイ奴だったかもしれんw


…ところで昭和天皇も障害者だったって言う話は出ないのかな?
「脊柱側湾症」という背骨のゆがみだったと思うが、
確かに異常に猫背だったようなw


296 :日本@名無史さん:2008/01/02(水) 08:02:59
>>289
望遠鏡事件。皆を驚愕させました。 <原敬日記


111 :日本@名無史さん:2007/05/25(金) 23:54:18

父親から聞いた話(正しくは曽祖父→祖父→父)だが、

学習院初等科の卒業式の際、大正天皇(当時は皇太子)は卒業証書で折り紙を折れと御付の方に言い、作ってもらった何か(飛行機や兜の類だったと思う)でケラケラ笑いながら遊んでいたという。
当然級友は見て見ぬ振りをさせられ(下手したら退学)、先生は叱るに叱れず(下手したら死刑)、学友の父兄は失笑すら禁止(左に同じ)。
公には写真すら出してはいけなかった。やんごとなき御家の黒歴史。


123 :日本@名無史さん:2007/06/16(土) 11:10:26

漏れの曽祖父、徴兵されて入営した後、近衛兵に抜擢されて明治帝に仕えていたそうなんだ。 曽祖父は漏れが生まれる前に他界していて、直接話を聞いたことがあるわけではないんだけど、曽祖父が、当時、皇太子殿下の身辺警護の任に就いていたときのエピソードを、母より伝え聞いたことがある。

皇太子殿下から、「おまえ、馬になれ!」と命令されて、四つん這いになって背中に皇太子殿下を乗せて、ハイドウドウとやらされたことがあったそうな。
また、皇太子殿下は紙をくるくると丸めて、望遠鏡のように周囲を眺める癖があったそうな。
別に漏れは、大正帝の知的能力がどうこうと言及するつもりはない。
だが、彼と同時代に生きた人間の証言を、ここに、参考材料として提供しておく。


386 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 22:00:53

中学の時に社会科の教師から、
大正天皇の乳母が乳を上げるときに、普通の胸から飲ますのは恐れ多いから乳房に鉛の入った成分の化粧をしてそれで乳を飲んだから大正天皇に傷害があるようになったと聞いたな。


393 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 17:57:08
>>386
俺の中学の時の社会科の教師は
当時、乳母たちが子供を寝かしつけるために睡眠薬を使っており、その影響で脳に障害が残ったのだと言ってた。
明治天皇の子供の多くが早死にしたのもそのせいだと。


396 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:39:33
>>393
それがほんとなら当時の上流階級が全滅してるだろ.


423 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 19:50:26

梅の毒が脳に廻ったと、普通に聞いた事があるのだが、

420 :日本@名無史さん:2009/05/31(日) 14:04:52

http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1243743674806.jpg

1912年8月15日、即位したばかりの32歳の大正天皇と側近たち、
左から、杉孫七郎(子爵、枢密顧問官) , 山県有朋(公爵、元帥), 大正天皇、 
桂太郎(公爵、内大臣兼侍従長)、 村木雅美(男爵・陸軍中将、東宮大夫)

同年7月30日、明治天皇崩御を受け践祚。「大正」と改元した。
3年後の大正4年に京都御所で即位の礼を行なうが、その性格と病状の悪化から「頼りない」「頭が弱い」などという認識が、山縣ら政界の一部での公然とした認識となった。天皇自身、 即位後の急激な環境の変化と、山縣らの冷淡な態度に過度のストレスを持つようになる。


425 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 15:11:11
>>420
いらん口出しして山縣の怒り買ったんだから自業自得


12 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 12:21:18

中学校の歴史の授業で、
大正天皇は頭が弱かったので、困り果てた側近が毒殺した
天皇家は途中で朝鮮半島からの渡来人に乗っ取られている
ということを習ったよ。


374 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:48:15

山県が毒を盛らせて大正天皇を暗殺した。


406 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:24:32

毒殺です。神道の明治天皇南朝説では、 昭和天皇は、 明治天皇56歳の末子
明治男子なかなか生まれず、江戸入城に際し、徳川警戒し明治天皇の替え玉の
大西という男子らしい〜昭和天皇に早く、 継がせたかったかららしいー


189 :日本@名無史さん:2007/08/23(木) 22:46:04

あの一家馬鹿しかいない。
ブサイクだしね。
日本の恥。


307 :日本@名無史さん:2008/01/10(木) 22:59:25

天皇誕生日に、皇族がお立ち台で勢ぞろいしてるのを見ましたが、全員、見れば見るほど、顔(マヌケズラ)も人格(ボーーーーっとしている)もお粗末な連中ですね!
こんな連中を270億円も払って飼っる日本って、ワーキングプアなんて存在しない、裕福な国ですよね!


350 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:10:55

愛ちゃんもショウガイシャでしょ。


319 :日本@名無史さん:2008/02/08(金) 17:50:17

精神薄弱者じゃないのか?


112 :日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:25:10

生まれ持った汚い血筋と、近親相姦の連続のなせる業ですな
池沼がよだれをたらしながら玉座にふんぞり返る、それを崇拝し昆虫の群れの如く付き従う蛮族、まさに野蛮な原始社会w


113 :日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:24:33

大正天皇は明治の第三皇子なんだね。
調べたら、柳原愛子が産んだ子供は帝以外は全員夭折か・・・
で、第一皇子は愛子腹ではないね。
誰が産んでその後どうなったのか?


114 :日本@名無史さん:2007/05/30(水) 23:26:33

>>113明治天皇の第一皇子は稚瑞照彦尊、誕生した日に亡くなった
生母は権典侍葉室光子(長順の娘)光子も4日後に20歳の若さで亡くなった
ちなみにこのお産にシーボルトの娘楠本いねが携わっている

あと明治天皇の皇女4人(全員生母は、園祥子権典侍)は成人して旧宮家に嫁いでる


206 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 03:35:48
天皇は近親相姦に起因する劣等遺伝子を盛った奇形野郎だ


251 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 13:41:31

天皇家は1500年間も近親婚やってたんだぜ?
5代や10代の話ではない。
それでも普通に続いていけるってことだ。


253 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 15:01:46
>>251
 高貴な血筋が要求される皇后の嫡子が天皇になる場合は本当に少ない。


254 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 15:10:16
>>253
歴代天皇の生母を調べたことある?
歴代天皇だいたい半数が皇后腹。
残る半数の母親も、藤原氏や源氏などの公家の娘たちだよ。
天皇の女官となって側へあがるにはそれなりの家柄が求められるからね。
生母が皇后でない天皇であっても、母親が公家の姫である以上、血筋は非常に濃い。
結果的に近親婚である例がほとんどだよ。


257 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 16:25:32
>>254
藤原氏は特に露骨だったね。
血筋的に叔母と甥の関係にあっても平気で結婚させたし。
入内した藤原の姫君たちも、近親婚の影響を受けて「鬼に憑かれた」状態になる人がいたり。

43 :NONAME:2009/10/24(土) 21:44:57

明治帝の息子で皇太子の身分になる男にあてがわれた妻は華族の父親が女中に手をつけて生ませた娘。
母親の出自があまりに低いので、赤ちゃんの頃から豪農に預けられて育った
いわば「野育ち」の娘。
大正天皇が健康で知的で美貌だったら、わざわざ女中を実母に持つ娘を正妻にしなくてもいくらでも美貌の華族令嬢や宮家の姫がお相手になったはず。

194 :日本@名無史さん:2007/08/27(月) 22:46:29

てか、五摂家で年齢がつりあうのが貞明皇后とその姉しかいなかったんじゃない・・・?
宮家に範囲を広げても全員側室腹。
美貌でしかるべき身分の母を持つ鷹司家の姫君(貞明皇后の従妹)などはは年下過ぎる。
年齢が釣り合い美貌でしかるべき身分の母を持つ伊都子妃は大名家の時点で×
おそらく美貌でしかるべき身分の母を持つ岩倉具視の孫も候補にいたが時代が時代なら側室身分なので×

195 :日本@名無史さん:2007/08/27(月) 23:45:42

貞明皇后は、妾にもなれなかった、お手つきの女中の子ですが?


196 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 15:24:15

大正天皇の妃には最初、伏見宮貞愛親王の娘・禎子女王が内定していた。
しかし、健康上の理由から破談となり、健康的な九條節子(貞明皇后)が選ばれ、妃となった。


200 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 16:13:44

明治天皇の皇后一条美子も側室腹。
そもそも、大正天皇自身が側室腹なのに、貞明皇后が側室腹で悪いことは何もない。
大正天皇の生母柳原愛子も、生母の名は公されず、父光愛の正室ではない。愛妾腹であったことは確実。


201 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:28:38
>>199
>邸内ではそんなに引け目を感じることはなかったのでは?

その頃の日本は、妾を持つことは合法だったから
公爵の娘を産んだのだから、別邸を構えて堂々と妾生活も送れたはず。
ところが、貞明さんの実母の女中は、出産早々に子供と引き離され、九条家の屋敷から出され、実の娘の貞明皇后とは生涯会わなかったから女中と言う身分は当時の感覚では相当な引け目だったんだろう。


202 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:36:45

昭和天皇は、母の出自を恥じていらしたそうですね。
特に英国留学から帰国して以降は。

203 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 21:32:40
>>201
貞明皇后と生母は皇后の誕生日とかにあってるよ ただ皇居は正門から入ることを許さず皇太后になってから大宮御所に住まうようになってから正門から通した
大正天皇とも道実夫妻とともに京都御所で拝謁してる この時浄操院(野間幾子)が道実夫妻より先に馬車に乗ろうとして道実に降ろされた事件?がありそれをみていた侍従かなんかが複雑な気持ちになったらしい


205 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:49:10
>>203
昭和帝は遊学先の英国で妾腹の子=庶子とはどういうものか、知ったんだよ。

204 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:28:34
>>199
>>201
野間幾子は貞明皇后を産んだとき結構な年齢だったからお褥下がりになったのでは?(貞明皇后以前に道実、範子、籌子を産んでいる)

あと建前上は父の正室が母となるから生母が側室だと生母を母上とは呼べなかったらしい(有名どころでは徳川慶喜側室新村信・中根幸、松平慶永側室糟屋婦志、松平容保側室田代佐久・川村名賀他)
それと道孝の正室宗和子は大正初期まで生きていたはず
http://mimizun.com/log/2ch/history/1169050628/




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

66. 中川隆[-13685] koaQ7Jey 2018年11月29日 13:17:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21346] 報告

天皇家ではもう知恵遅れの子供以外は産まれないでしょうね:


家柄、血筋を知らないと大変なことになる
子供が生まれると精神異常の子供が生まれるからだ

兄弟、姉妹、親子で子供を作った先祖には奇形が生まれる確率が高い

昔は親や兄弟姉妹間で子供を作ったので奇形が多く、生まれるとすぐに川に流した

今はみやげもの屋に売っているが…
日本でも「こけし」これを漢字にすると「子消し」
生まれるのが殆ど奇形児で川に流し「こけし」として押入れなどに隠していた

だから天皇家のDNAを引き継ぐと大変なことになる
http://uracigoto.blog.fc2.com/blog-entry-246.html

近親相姦だと44%の確率で奇形児が生まれる


竹内久美子さんの『万世一系のひみつ』という本に引用されていたデータによると兄妹・父娘間の近親相姦(血縁度1/2)で生まれた子供161人を調査した所、その内71人に先天的な異常があったらしい。

最も多いのが知的障害で20人。殆どは内臓の奇形とかなのでそれほど深刻な問題ではないのだろうけど、全体の44%が何らかの障害を持って生まれてくると言うのはかなりのリスクだ。

しかもこの調査には精神障害は含まれていないっぽい。年取ってから発症する遺伝病にも近親婚が関係してたりするから実際はもっとヤバイのでは?

ちなみに近親でない場合に奇形が生まれる確率は2%程度。いとこ同士(血縁度1/8)でも16〜22%(通常の10倍)が障害児になるので高齢出産なんかより遥かに危険。

日本では「いとこ婚」が合法だけど近親相姦のリスクを少し甘く見過ぎているのでは?

ブサイクも一種の奇形、障害だと言えるでしょう。日本人には奇形レベルのブサイクがうじゃうじゃいるけど、これは日本人に近親婚が多く、血が濃くなっているのが原因ではないか?

歴史的に混血が多い民族は美人が多いって言うしね。日本人は血が濃すぎて殆どが近親相姦レベルなんじゃないか?www
http://0dt.org/000996.html
http://q.hatena.ne.jp/1150703834


▲△▽▼


近親婚


20 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/08 15:21:00ID:VBA8MRuR [1/3回]

近親婚を何十代も繰り返すと遺伝子情報が狂い奇形が遺伝するのが当たり前になるって本当?

インドのカ−スト制度のなごりで同族結婚しかしない部族で部族全員の手足全部の指が4本しかない部族がいるとだいぶ前に人権板のあちこちに書いてあったけど。
あと中国には歯無し部族とかいるらしいね。

23 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/08 21:12:00ID:TAU0S6+f
>>20
天皇家に異常児が何人も生まれている上に子供が10数人いるのにすべて夭折したという例も少なくない。


24 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/08 21:26:00ID:VBA8MRuR
>>20
>>23
徳川の家系やフランスのルイ王朝も奇形児や精神障害者多いよね。
近親婚は避けなければ。。。。。。

65 : 宛櫛[] : 投稿日:2004/01/26 15:53:00ID:AZVihGut


天皇家の障害児をあげるのよ。おほほほほほ

・常陸宮(顔からして火星人)
・島津貴子の息子(白人女と結婚させた)
・紀宮(脳ではなく、顔に障害) ほほほほほほほほほほお

67 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/27 09:04:00ID:zmHhSGYm

俺が拾ってきた猫はあまりに顔がブサイクだったので紀宮と命名しました。
今も皆に「紀ちゃん」と呼ばれて元気に暮らしてます。

99 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/14 20:15:00ID:FL++QAVY
>>65
島津貴子たんのだんなは、イトコよりは血は薄いけど
母親の故長子皇太后のいとこでしたね。

79 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/08 16:43:00ID:fuYMR/aW

>>65大正天皇もやはりそうだったんですかね?

 有明海のムツゴロウが乱獲のせいで狭い地域での交配が進んだ結果、繁殖能力が劣ってしまい数が急速に激減してしまい急遽、韓国産のムツゴロウを放流してるという話を聞いたことがある。
だからトキも300羽くらいの時にすでに純血種は途絶えることがほぼ確定していたそうだ。
あと、シベリアンハスキーが拝金ブリーダーのせいで近親交配が進み、バカ犬化したのは記憶に新しい。

25 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/08 22:46:00ID:VBA8MRuR

遺伝子が原因の歯無し一族発見 中国陜西省


 【上海14日共同】十四日付の上海紙、解放日報は、中国の陜西省で一生の大部分を歯なしで過ごす一族がこのほど発見され、上海交通大学生命科学研究所の調査の結果、遺伝子異常が原因であることが分かったと報じた。遺伝子異常で歯なしになることが確認されたのは世界初としている。 
                 
 この一族は陜西省に住んでおり、六代にわたる三百人以上が乳歯が抜けた後に永久歯が生えないため、かゆ状の食事しか取れないでいた。                           
 同研究所で一族の二百人余りの遺伝子を調べたところ、十番染色体の特定部分の異常に原因があることが確認できたという。   
 研究成果は米国の歯科専門誌に発表され、発見者の名前を取って「賀―趙欠陥症」と名付けられたとしている。         
(了)  020114 1355              
[2002-01-14-13:56]


30 : 一事くん[] : 投稿日:2004/01/09 11:02:00ID:j9BVZwrD
>>25

よく部落擁護派の医者もどきなどが遺伝などの事実を隠匿しながらデタラメを並べているけど、事実は意外なところから出てくるね(w

29 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/09 10:36:00ID:Uq2KVr0t

昔、みつくち?(上唇が縦に3分割してニワトリのトサカみたいになってる)
の人とか見たことあるけどあれも近親結婚によるものなんでしょうか?

41 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/14 04:12:00ID:Flr+yxLx

遺伝子異常で完全に歯が生えないのは優性遺伝子病なのかな。
でないと部族全員が歯が生えないってのはおかしいかなと。

ある狭い村社会の中で1人が遺伝子の突然変異をおこしたとする。
その子は年頃になり村人の1人と結婚し子供を授かる。
こうした極貧の社会では子供は1人ということはないでしょう。
子供が2人ならその内1人が、運が悪ければ2人とも遺伝子病を引き継ぐ。
さらにその子供が・・・。と想像してみたりするけど。

ところで頭蓋骨の発育に異常を及ぼして顔の変形、知能障害、視力障害、『歯』の発育不全などを起こす病気はあるようですね。
クルーゾン病っていうらしいけど。これも優性遺伝子病のようですね。
50%の確率で遺伝するだろうな。

ただ「常染色体性優性遺伝子病」は近親婚には関係ないかも。
この中国の部族は特殊なケースじゃないかな。
例えばもしも漏れがこの中国の部族の1人と結婚すれば子供は50%歯が生えないわけだし。
ただ、似たようなことは日本でもあったよ。
ただし家畜の話ですが。人間の集団は聞いたことない。

42 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/14 04:40:00ID:Flr+yxLx

近親婚による遺伝的な病気は「常染色体劣性遺伝子病」が多いようですよ。

例えば両親それぞれ46本ある染色体のうち常染色体(44本)の第9番目の染色体に原因遺伝子「a」、正常遺伝子「A」があったとします。
両親は正常遺伝子「A」がある為両親は発症しません。
この場合両親とも保因者(キャリア)と呼ばれるそうです。
両親共々の原因遺伝子を引き継いでしまうことによって子供だけが発症します。

子供の常染色体第9番目のこの遺伝子の組み合わせは

1 A(母)A(父)→AA(子)でセーフ○  
2 A(母)a(父)→Aa(子)で保因者(発症はしない)△
3 a(母)A(父)→aA(子)(Aaと同じ)で保因者△ 

4 a(母)a(父)→aa(子)原因遺伝子2つを受け継ぎ発症×

この場合25%の確率で生まれてくる子供は劣性遺伝子病を発症するようです。
常染色体第9番目では『先天性筋ジストロフィー』が、第6番目の染色体であれば20台半ばで発症する『若年性パーキンソン氏病』があるようですね。
後者は患者の87%が近親婚(いとこ婚)だとか。他にもいろいろあるでしょうね。

何で近親婚だと危険度増なのかは長すぎるのでここいらで。

46 : ちんこ。[] : 投稿日:2004/01/15 18:17:00ID:hEwZMDgE

近親相姦にはリスクよりもはるかに高い確率で優秀な子どもが産まれるそうで…
もちろん自分は近親婚なんて絶対にしたくないけど、進んでしたがる人がいてもおかしくないなぁって思う。

45 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/15 17:44:00ID:ijmXiGPm


自分の知り合いの親戚に、部落出身の女性と結婚した人がいるんだと。
その女性は、乳首がなく(しかし胸の膨らみはちゃんとあるそうな)生まれてきた子供はテンカン持ち(旦那の方の親戚には居ない)なのだとか。
もちろんその夫の方は、結婚するまでその女性に乳首がないのは知らなかったのだそうな。

やはり近親関係が代々続くと、そういうことも起こりやすいのでしょうかね。

47 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/15 18:21:00ID:YMYLp+Bi
>>45
てんかんは遺伝病じゃないですよ

48 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/15 19:03:00ID:qLaB8toG
>>45
乳リンもないのかな?
たまに陥没乳頭の人を乳首が無いって言う奴がいるけどそうじゃないの?


51 : 45[] : 投稿日:2004/01/16 11:23:00ID:RJtg41An
>>48

陥没乳首ではないようです。出産後に、乳が生産されるけど出口がなくて、かなり苦労したらしいですし。

50 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/16 00:47:00ID:HigIvV/6
>>40
>近親婚にはあまり関係ないかもしれないということですね?

それは正直わからないです。
ただ、歯がない部族のように限られた地域で繁殖を続ければ当然、遺伝子の異常はあるでしょう。

2つの優性、劣性の遺伝子病をあげましたが
封鎖されざるを得ない地域での婚姻をくり返せばその地域住民の遺伝子情報は当然似通ってくるはずです。
両方の遺伝子病を発症するということかな。

59 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/25 16:35:00ID:rFwCyc5J

東北の被差別部落とは何も関係ない地域ですが、イトコ婚は普通に行われていたみたい。さらに、ハトコ婚(祖父、祖母の兄弟の孫)なんかも合わせると、かなりの数になる。

昔の武家、公家、ましてや天皇家もイトコ婚、ハトコ婚は普通に行われていた。これは「一族」の結束を固くするために行われていたよう。


60 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/25 19:15:00ID:kaUSenAt
>>59
部落ではごく普通にあった父親が娘を犯し続けて子供が出来る例とは意味が違うよ。


78 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/02/08 15:30:00ID:wCn+B56L

部落では近親婚があるというのは聞いたことがある。
しかしスレを読むと閉鎖的な社会では多いことではないかなと思う。

地方が舞台の「開かずの間」の話もそうでしょ。
血を濃くしすぎるのは問題だよね。競走馬じゃないのだからw

80 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/08 17:00:00ID:fuYMR/aW
>>78
我も“開かずの間”聞いたこと。でも近親婚とはちょっと違う。
貧しい農家では次男三男は結婚できず(わずかな畑を分けないため)、もし兄貴が死ぬと血を絶やさないために兄嫁と義理の弟がまぐわったと!
この場合血はつながってないから生物学上はOKなのでは?
倫理上はともかく…

81 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/08 17:30:00ID:7RxTgQLN

あと昔は戦争で死んだ兄貴の嫁を弟がもらったこともあった。逆もしかり。

で、これで出来た子供同士って、義理兄弟でもあり、イトコでもあるわけだが、この場合どうなるんだろう。日本だと一応イトコは結婚できるわけだが。なんか昼の番組の再現ドラマで父が、男の子と母親を捨てて蒸発。外で結婚して娘が生まれるんだけど、大人になった二人が出会って結婚するという。

息子が、嫁を母親に紹介するとき、母親は苗字や父親の名前やその他の情報で、二人が義理兄弟だと知るんだけど、その父親はすでに死んでるんだって。二人が兄妹であることを知ってるのはその母親だけなんだけど、嫁のお腹にはすでに子供がいるとの事。
どーしたら良いのでしょーか、って言ってたなぁ。

本当がやらせか知らんが、日本中探したら、知らず知らずのうちに血縁同士で子供作ってたって例は多いかもね。

82 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/09 18:39:00ID:DrNvHC1R

鼻が特異な形の人(根元が隆起など)をたま〜に見るのだが、やはり血が濃いせいだろうか。
私の知ってる二人はすぐ近くに同姓の家が2〜3軒あるのだが・・・

83 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/02/10 19:12:00ID:9/Mk3glT

血が濃いとなんで劣等遺伝子が表に出てくるの?

84 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/02/10 19:57:00ID:3eMkSUfC
>>83
>>42に書いたのだけど。

その前に優性、劣性というのは別に優れてる、劣ってるという意味ではないよ。
どちらに反応が顕著に出るとかという意味だよ。
反応が顕著に出たほうを「優性」と、それに比べて「劣性」だと。
勘違いする人が多いから最近は「優性」を「顕性」、「劣性」を「潜性」と言い換えてるようだけど。

君の23対46本の染色体とその遺伝子は父親、母親からそれぞれ受け継いだものだから両親と似ていて当然。

それとイパーン人にも君にもどこかの遺伝子に異常があるのはあるのも当たり前。
ただ、発病しないのは正常な遺伝子が「優性遺伝子」として1対片方で働いているから。
ジャンボジェットが片方のエンジンが壊れても飛び続けられることと似たようなもんかな。

ところがね、君がもし遺伝子情報が似ている近親者と結婚してしまうとね。
相手の遺伝子異常がある場所が君と同じである可能性が強いんだよ。
っで、子供がそれぞれ問題の遺伝子である「劣性遺伝子」を受け継いで発病すると。

ついでに、劣性遺伝子病の患者が多いのは日本なんだよね。
まぁ、部落とは関係ないとは思うけど。そう、思いたいね。

85 : メコスジ[] : 投稿日:2004/02/10 22:41:00ID:9/diKUAl

外国でも、農家だと、かみさんが死んだので、妹をもらうというのはあるみたい。イギリスが舞台のテスがそう。
別にイトコ婚でもないから何とも思わないけど。

あと、同姓ってのも、一族という場合だけでなく、地方にいくと、本家はちゃんと名前もらってつけたけど、あたり一帯の貧乏人は、どさくさで同じ名前をおこぼれみたく、付けてる場合もあるからな〜。
由緒ある?平家の落人から付いた名前なら、古くからあるんだろけど、かなりの数の人は、本当最近名字が付いてるし。
ちなみに俺の近所、中学校は半分(笑)は同姓。でも血はつながってるわけでない。

87 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/11 04:08:00ID:GJY9fLRW

イスラム社会ではイトコ婚が望ましいとされているらしい

88 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/11 04:23:00ID:g/pxSY1P

ロスチャイルド家でも近親婚が多いが、これは財産分配により一族の資産が減ることを恐れたためである。

95 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/02/14 04:40:00ID:ufqh0R5n

うちの先祖にもいとこで結婚したした人がいたらしいが、生まれてきた子供は昔ならシラコとかいわれたいわゆるアルビノだったそうで、そんなに長くは生きられなかったそうな。40歳くらいで亡くなったとか。
まあこういう話は一昔前の田舎には珍しくなかった話らしい。

131 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/29 21:09:00ID:YKD+MZIS

アルビノか…これって程度の差はあるの?
なんちゅーか白子っていやあ何から何まで色素がないってもんでも
ないとは思うんだが、中にはそういわれて長生きした人もいるのでなぁ…

132 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/03/01 16:27:00ID:Nz6+kpxj
>>131 
10年くらい前神奈川県S工科大学にチャーリーというあだ名のアルビノの男の子いたけど髪は白でなく茶だった。ただ目に色素ないから光に弱く昼は室内でもグラサンかけっぱなしだった。

110 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/22 16:38:00ID:qgsZGHnG

俺の父親の集落では近親相姦ともいえるような複雑な結婚が行われている(た?)。
叔父と姪が結婚したり、叔母と甥が結婚したり。
実際に障碍者も生まれているし。
本当に山奥の集落だから昔からそういうことが行われているのかもしれないけど(信号機が一つしかないw)
周りを見渡せばほぼ全戸が夫婦の親戚という恐ろしい所があります。

113 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/22 19:58:00ID:aIeCyok0

狭いバラックに大人数が暮らしていたため
嫁が妊娠しても誰の子供かわからなかったらしい
旦那が留守のときは平気で親父や兄弟、近所の男がまぐわっていた


125 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/25 16:31:00ID:x+4GLwOk

津山30人殺し事件の村って犯人以外にも村ぐるみでまぐわってたと見ていいのかな?
家族関係が複雑になるよね。
はっきり言って誰が誰の子だか分らないわけだよね。
本人たちは実の兄弟だとも知らずに実の兄と妹がまぐわったりってな事も数知れずあったんだろうな。


152 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/03/14 21:31:00ID:lRa8hGwg

でも近親相姦=障○者でもないと思う。例えば伊達政宗の家臣伊達成実も、叔父と
姪との間柄で産まれたし。


159 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/03/15 00:18:00ID:o2R4oq5j
>>152

部落のものは親子が基本。
父親が娘を犯して子供が生まれ その子を父親の私生児扱いにする例がけっこうあったそうだ。
父娘とくらべればいとこ程度はさほど問題にならないと思うよ。

190 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/03/24 20:32:00ID:7XxQozRr

近親相姦で生まれた子どもに近親相姦してるっぽい
色白ってのが

193 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/03/24 23:32:00ID:lIAjrtxF
>>190
昔の部落では当たり前だよん。

199 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/03/26 05:05:00ID:ePBJlOu5

近親婚じゃないにしても同じ名字の家ばっかりがあるようなド田舎で幼なじみとできちゃうのは避けたほうがいいでしょう。何代か遡れば絶対親戚です。
一見障害がないようでも遺伝学的にはもう終わってます。
国際結婚をオススメします。いやせめて他県の人と結婚しましょう。


559 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/04/20 02:37:00ID:V/BPaEoe [1/1回]

福岡県のとある部落。
なんかみんな顔が似ているのには正直驚いた。


237 : 42[sage] : 投稿日:2004/03/27 00:27:00ID:AhaneFhR


遺伝子病にもイロイロあるらしいのだけどそのひとつに早齢症の一種とされるウェルナー症候群という病気があるのですよ。時折TVでも報道しますが発祥すると加速度的に肉体年齢が衰えていき大体40代で肺炎で死亡するようです。要するに老衰ですね。

本題なのですが、この病気は世界的にも珍しい病気のようで100万人に1人
が発症するといわれています。ただ、これまでの患者の6割以上が日本人なんですよ。

確かに貧困などの事情による地域では地域外部者との婚姻は難しいかもしれません。
ただ、被差別者も近親婚を重ねることの危険性は牛馬を扱う以上知っていたのではと思うのですが。

239 : 松本治一郎[sage] : 投稿日:2004/03/27 00:37:00ID:ZDBZuQOg [3/11回]
>>237

その手の話は御殿山が詳しいので聞いてくれ。


>被差別者も近親婚を重ねることの危険性は牛馬を扱う以上知っていたのではと思うの
ですが。

これは答えるが
まず、穢多が牛馬の死体を扱っていたのは周知のことだが、
これから近親婚の危険を理解することは難しいと思う。
ただし祖父母の代からの色々な経験で近親婚の危険性は賎民に限らず理解していたとは思う。
ただし賎民には選択の余地はないから同じ集落の者同士でしか生殖活動はできない。
結果としてそうなっただけだよ。

どこかでもあったが、少し前までは
儀式として父親が娘を犯すという風習が残っていたくらいだしな。

241 : 真正B[] : 投稿日:2004/03/27 00:47:00ID:YyT6xeqx [1/6回]

>儀式として父親が娘を犯すという風習が残っていたくらいだしな。

(・∀・)オマイオモロイ!

243 : 松本治一郎[sage] : 投稿日:2004/03/27 00:51:00ID:ZDBZuQOg [5/11回]
>>241

ていうかお前が本物のBなら祖父母に聞いてみな。
大っぴらに残っていたのは奈良県だよ。
http://www.logsoku.com/r/rights/1073388229/



▲△▽▼


【近親婚】☆★ 近親相姦 ★☆【近親婚】


335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 17:37:15.08 ID:dzBWrIuh0

血族婚が続いた故の弊害だな
障害を持って産まれる人、身体及び精神を病んでいる人が多い
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1248218269/


149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 22:41:19 ID:97w0ScBB0

地主とか近親婚姻とか多いと本人から聞いた。
近親相姦に関しては、韓国とかシンナーや珍、覚せい剤、麻薬などに関係する人間だという認識。
というかそれも事実に聞いたことある。


167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 20:16:19 ID:UGPBcoGu0

地主の人間は、近親婚姻が多い。


162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 20:49:03 ID:CfM3H4iK0

同じ苗字が密集部落は、近親相姦 近親婚姻で FA。
鳩山前首相の父親は近親婚で出来た子供だって、本当?


213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/10(月) 11:34:21.90 ID:n8ZLfaQ00

いや、近親相姦なんて普通だって
信長と妹のお市も近親相姦してたしな
チンチンとマンコと性知識があれば、どの兄妹でも近親相姦する可能性はあるよ


304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/26(木) 20:42:28.50 ID:ryqTG4Hn0

近親婚繰り返してると、アルビノとか生まれたりするんだよね。
ウサギみたいに真っ白で目の赤い…


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/07(木) 22:40:05 ID:5fNhjna/O

私の知人にも親が近親者同士だったのがいるよ。母とその兄弟が両親だったって。

身体的特徴は足が左右で長さがちがう → 歩くとビッコを引く。
顔の長さが悪い事考える時は縮む → クシャおじさんみたいに短くなる。
頭が弱い → 儲け話しにすぐ乗って騙される。

名古屋市○○区から金銭貸借で逃亡。三重県出身らしいよ。
やっぱり血が濃いと頭は弱いんだね。
こんなのでも一男一女がいるらしい。
よう、生きとるわ、親子共々。


97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/13(金) 01:23:31 ID:8dUXTfwO0

低身長140弱で、極度の老け顔の気の毒な30台女性が同僚。
住所は未指定だが所謂「川向こう」で下駄屋臼屋が数件。
性格は明るい方だが、空気読めないのでうざい。たぶんガチとオモ


47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/13(土) 17:27:04 ID:c6BgmFej0

いとこ同士でも、気持ち悪いと思う。二人知ってる。
その親(60代)が、そうなんだが、やはり子供の顔が濃い。

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/24(土) 13:05:57.56 ID:2J5zbc2M0

いとこ同士で結婚するキモイ事を平気でする同和民。
だから、何らかの遺伝病を持っている。
ガン家系、精神疾患、体が異常にデカイ、異常に小さい、等等。


52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 01:25:45 ID:jTmXnxBZ0

この前読んだ部落対談って言う本で読んだけど、
近親相姦ばっかりして山奥に追い出された一族とかもあるみたいだね。

村人A「あの山に住んでる○○という一族は近親相姦ばっかりしておる・・・
気持ち悪いのう」
村人B「ああ、だからあいつ等みんな同じような顔しとる・・・近づきたくないのう・・・」

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 03:41:49 ID:Heiqkq/V0

歯の話で思い出したが、ドイツに留学した歯科医の人知ってて、その人がドイツで聞いて、ドン引きしてた話。
ドイツ人の歯科の教授が、なにやら各民族の遺伝子的特性の流れを調査する為のプロジェクトにちびっと参加して、各民族のアゴの骨のデータを調査してたらしいんだが、 その人がDNAサンプルから特性把握する人と会った時に、その人がドン引きしてて、 「どしたの?」って聞いたら、

 「韓国人の一家を一単位として家族のDNAサンプル取って調べてたんだが、
  どう考えても"父+娘"と"母+息子"の組み合わせで生まれたとしか思えない
  サンプルがワラワラでてきて・・・」

ふう、真の闇をマジで見たよ。


164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 04:06:16 ID:KJC6BeN30

韓国の試し腹が有名
近親相姦の風習国家。
宮崎の橋本さんも実際に、試し腹をカンコックで経験されて、その事実を述べられています。


【試し腹】△初夜権
http://yomi.mobi/read.cgi/society3/society3_korea_1122658102


55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 05:57:24 ID:5iPMSLLBO
>>53
やっぱりな…
なるほど…
納得、納得って感じかな、だから前頭葉に欠陥が有る訳だw
医学的根拠が有るなら間違いないなw


56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/19(金) 00:30:51 ID:6xTf1WbA0
>>53
確か、ダッポクしたアンミョンチョル氏が北朝鮮の強制収容所の実態を書いた本
があったよ
その中に、近親相姦(確か、姉と弟)している家族を見つけてしまい、
「いつもやっているのか?」と尋ねたら
「はい、私達は、欲情したらこうするほかないのです。」と答えられたそうな
衝撃的な本だった

遺伝子地図では、そこまでわかるんだね?


57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/24(水) 03:20:23 ID:IS4FsJA+O

夫婦って顔が似るって良く言われるジャン。
だけどそれも余りにも似すぎている夫婦ってひょとして・・・と

とある地区近くの健康の湯でくつろいでいたじーさん・ばあさん見てたら思ってしまった。


58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/25(木) 11:37:06 ID:BTnEE5QQO

野村夫妻ゞ


118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/08(火) 21:21:34 ID:rayG6rhh0

近親相姦とかやってる椰子の結納写真を見たことあるけど、ヤクザ雑誌に載ってる内々の婚姻を公明正大にする結納写真と同じなんだよ。
特にひどいのだと何代近親相姦続けたか知らんが顔全く一緒の夫婦というキモいのもある。
そしてこういう夫婦は、戸籍詐欺とかやって捕まりそうになったら男装した妻に出頭させて夫が逃走する時間稼ぎとかしょうもないことやるからますます世間から隔絶されるのだ。


62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/27(土) 09:23:36 ID:BzKQ2fSCO

近所に住んでいた おじいさんとおばあさんが いとこ同士だった

息子が兎口で小さいときに手術したそうで唇から鼻にかけて傷跡があった
兎口なだけで頭脳明晰(大学の教授だった)


65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 00:53:06 ID:xyQ04R/cO

近親関係だと口元に特徴が出るのかい?


63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/27(土) 18:23:18 ID:RtuC7paw0

ミツクチは、500人に1人だっけ?そんなに珍しいものではなさそうだよ


64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/27(土) 18:54:00 ID:OXISMgyZO

近鉄南大阪線に乗るとロンパリやコビトやジョンイルみたいな顔のJKや馬みたいな口元の人を見てしまうんだが。


67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 12:10:59 ID:VFB4+3hfO

最近街ん中ではミツクチ珍しいよ
大概手術してるからわかりにくくなってるだけ
産まれたて赤ちゃんのミツクチはキモイ


68 :63:2009/06/28(日) 13:45:31 ID:2wErXDy20

大人のみつくちは見たことないよ。
幼児か赤ん坊の頃に手術するからじゃないかな?

近親婚で口元に特徴が出るのかどうかは知りませんが、顔の造りや体型は、瓜二つ
では?
旦那がちびで、いとこでもある妻もちびなら子供は間違いなくちびとか。

一家全員160センチ以下という、いとこ婚の家族は、顔もほぼ同じ。
息子なんて、成長期に細胞は成長したがっているんだろうけど、遺伝子が邪魔しているという感じだった。 身長は伸びず、筋肉ばかり横へ広がる感じ。

確か、ネパールかその辺りでは、深刻な嫁不足で、3人兄弟に1人の妻なんて、普通らしい。
毎晩、誰かしらの相手をしなくてはならず、子供が出来ても誰の子か、わからないそうだよ。
3人兄弟の父親、つまり、義父も参加してくるらしい。
あれ?近親相姦とはちょと違うかな?

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 20:33:51 ID:PL23/anOO

↑乱婚・雑婚といわれるもの


70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/03(金) 15:55:00 ID:fSgAmzeBO

何らかの理由で周囲から生殖隔離している集落ならすぐに親戚だらけになるから、イトコ婚を無くせば相手を選択する余地がほとんどなくなっちゃうんじゃないか?
あと、家財の分散を防ぐために親戚同士で結婚というのもあるだろうね。

とはいえ法律婚可能な範囲でも近親婚を繰り返せば、下手をすれば一代限りの兄弟婚よりもリスクが高いなんてこともありそうだ。


83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/11(火) 09:54:24 ID:8lHvgMFy0

仏教で言う畜生道とは近親相姦のことである。
また、牛や豚を意味することもある。


91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/29(木) 21:30:13 ID:SseOf15X0

近親婚で子供を作るのはやめてくれ!!
俺の祖父母は親せき同士で結婚しやがった
親が高齢の時に生まれた親父がADDと思われるような症状がある
そんな俺もおれも親父が高齢の時に生まれて、高機能自閉症を患ってる
本当に学生時代は人間関係に苦労したし、人並みのことができないから就職すると本当に苦労の連続

同じ町内に父娘同士で子供を二人作ったカップルがいた
その子供の一人は明らかに知的障害を患ってるし、残る一人も発達障害っぽかった
近親婚はしたかったら勝手にやればいい、だが子供は作らんでくれ!!
子供はほしいだろうが、生まれる子供のことをよく考えてほしい

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/14(土) 22:47:02 ID:yCBujUI70

やんキーはきれいな子も多いけど、近親相姦のおかげだよな。
(親の親の・・・代かもしれんが)
おんなじ数だけ、ブサイク病弱も産まれるという理解でおk?


122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/15(火) 21:52:17 ID:JuJrO0TO0

もれの近所、父母 姉妹2人の4人家族の話し。ちなみに200戸余りの新興住宅地。
おねぇちゃんは背も高くてめちゃきれい。今は都会に出ている。
が、妹はダウン症。いまは3人仲良く倹しく暮らしている。


123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 21:54:58 ID:mWzlz03+0

巫女の血を引く家系かもしれんな。
それこそ神様と婚姻してもいいほどの超美人1人を頂点として侍女やら小姓やら取り巻き一族が沢山付いてくるような感じの今となっては社会にそぐわなくなった古い血筋なのかもしれん。
中国やアジア奥地の村なんかだといまでもこういう血族が近親婚で集落つくってるのが残っとるんだが、日本の場合は国策で廃村に追い込んで村人は都市に流入したのだった。 理由は赤軍の潜伏先見ればあれですが。


96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/10(火) 20:40:10 ID:yScEslMP0

自分たちは古代からの特殊な血を受け継いだ優良種でそれを守っているという認識が部落民の一般人に対する優越感の根底にあるからな。
土着系の呪術的風習を捨てられない人たちに多いのだが未だに親や同和頭の決めた相手と近親そかーんしている。九州とか離島とか中央集権支配の届きにくい場所でほそぼととって感じで。


98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/13(金) 23:36:31 ID:TYBUozCa0

古代社会では血を濃くする目的で近親婚してたようだが現代の社会モラルに背を向けてこそこそ近親相姦する連中ってそんなにメリットあるとおもってんのかね。血を濃くして卑賤民のリーダーとなりうる子をつくるとかいっても十数年たたないと結果のわからない博打みたいだもんだろうに


127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 19:43:00 ID:qqhY6yGa0

穢多の人たちのオカルト的習慣によると近親相姦して血を濃くすることに意味があるらしいだ
なんでも同和電波の感度が上がるとかなんとかという理由なんだけどこんな古代人みたいなことするのがよっぽど重要だから人里離れた場所でこそこそ近親相姦に励んでいるのだろう。


129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/28(水) 20:40:31 ID:5O9zOHs30

中上さんも、高貴な血と何回も書いているし。
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1241434742/




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

67. 中川隆[-13684] koaQ7Jey 2018年11月29日 13:17:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21346] 報告
【田布施システムw】明治天皇すり替え説 フルベッキ写真←大ウソ【大室寅之祐(笑)】
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974

teinouinbouchuさん投稿日:2014/8/10

明治天皇すり替え説Q&A として分かりやすく論点をまとめました。
どうぞこちらもご覧ください。
明治天皇すり替え説Q&A→http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n346861

皆さんは明治天皇が大室寅之祐にすり替えられた、という説を聞いたことあるだろうか?

それらは根も葉もない虚説である。


以下の根拠を上げる。


まず、そもそも、世襲親王家(皇位継承資格者)がそんな天皇を認める訳がない。


陰謀論者が明治天皇として広めているこの写真は伏見宮貞愛親王を写したものである。

                

伏見宮貞愛親王 (1858年- 1923年)
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974

「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974


親王宣下を受けた伏見宮邦家親王(1802年 - 1872年)が、明治維新の時に健在であられ。
邦家親王の跡を継いだ、伏見宮邦家親王第14王子である伏見宮貞愛親王は孝明天皇の養子になられており。


伏見宮邦家親王は孝明­天皇を亡くした、睦仁親王(明治天皇)の後見人のような形­­­に­­なっており。明治天皇の皇女は、次々­と伏見宮系の王子の妃となられている。


皇統断絶の危機の事態には、伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す準備をして­­いた­­­のは明らかであり、中山忠能や摂政の二条斉敬など、孝明天皇と睦仁親王をよく知る人物ですり替えを支持した人物はいないばかりか、孝明天­皇の信頼の篤かった側近や堂上公家を騙すことは不可能である。

かつまた、すり替えが事実であればこれ等の人々が明治になっても皇室につかえる道理もなく、必ず皇位継承をめぐる争いになっていたことだろう。


顔見知りの他の皇族との物理的な婚姻関係はすり替えが無かったことの有力な証拠の一つである。


このような状況下で睦仁親王をすり替える事などは不可能であり、絶対にあり得ないことは誰の目にも明らかである。


尊皇攘夷思想が蔓延していた幕末において、そんなことをしたら、「朝敵」長州藩を徳川家はもとより他藩の志士が黙っている訳がなく、内戦の長期化により欧米の植民地になっていたことだろう。

明治天皇に対し大政奉還した母方が皇族で水戸出身の尊皇家である徳川慶喜が許す訳もない。

それに敵対する旧幕府側・奥羽越列藩同盟に伏見宮邦家親王の第9王子であり孝明天皇の義弟でもある、北白川宮能久親王がいるのにすり替えなどは到底考えられない。

何故なら幕府に対しての不当なクーデターの正当性として、錦の御旗を掲げる新政府軍はその時点で正当性が失われるからです。


そもそも自分たちの意見で操ることができる、都合のいい幼帝をわざわざ殺して入れ替える動機がそもそも無く
井上毅が世襲親王家を永世皇族とし、それをすり替わったとする天皇が認める訳もない。

当時の明治天皇は14歳の成長期である。

成長期には、身長・体格及び声帯の変化を経て成人となり、人格が形成される。

身体的特徴及び性格の変化は成長期には誰しも起こる一般的な変化である。

ましてや激動の時代に天皇位ともなれば、即位に伴う精神的変化は劇的なものであった事は察するに余りあり、その事は何の根拠にもならない。

それに明治天皇は御所言葉をお話になられており、御所言葉を一朝一夕で覚えられる訳もない。

陰謀論者はフルベッキ写真に明治天皇が写っていると言うがフルベッキ写真が明治維新の
立役者が全員そろった写真であるという奇説は、それを覆す原版の発見によって、完全に否定されており。

さらに、東京歯科大学­法人­類学教室の橋本正次教授がフルベッキ写真を検証したところ99パーセント別人という鑑定が『鑑定書』付きで出ています。

「維新」の根拠となる、天照大神の神裔、神の血統である南北両統の皇統を否定してまでも、いわゆる後南朝にすり替える理由もない。

明治44年に明治天皇の裁定により、南朝の2代2人(後村上天皇、後亀山天皇)を正統な天皇と認め、光厳天皇から後円融天皇までの 5代5人を北朝として正統から外したが、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされ、皇室祭祀等においては天皇として扱われている。

明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであり、そのことは最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した明徳の和約までを否定するものではない、

したがって現在の北朝の天皇の正統性を否定するものでもない。

南北朝正閏論は「南朝も正統」あるいは「南朝は正統」であって、熊沢寛道など自称南朝後胤を除きいわゆる後南朝の正統性は明治時代の後でも議論にもなっていない。


第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。

三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。

以上、これらの根拠からすり替えは無かったと断言する。


【追記】

虎の子という言葉があるが、薩長にとって正しく 睦仁親王は虎の子であった。

しかるに、「君臣豊楽」、「国家安康」の故事を引くまでもなく、政治とは微妙なバランスの上に成り立っている。

かの太閣殿下の堅牢な大阪城・豊臣政権もかくの如く哀れな末路。

このように、どんな一文も攻撃の口実に利用され、どんな政権でも滅ぼされかねないのに、ましてや不安定な時期に親王をすり替えるなど言語道断、政治力学的に不可能である。


仮に、恐れ多くも天子様を傀儡にしたあげく、どこの馬の骨とも知らぬ者にすり替えたとすれば、そのような事はすぐに広まり、尊皇でありこそすれ、引いた徳川、並びに幕臣及び諸藩一党、不倶戴天の敵・逆賊薩長相手に捲土重来・一意奮闘、戦っていたであろう。


1874年 明治天皇第三皇子 大正天皇ご生誕

明治天皇の皇子は男子5人、女子10人がいたが、成人した男子は大正天皇ただ一人である。

大正天皇ご誕生から昭和天皇ご誕生まで皇統(明治天皇の男系系統)の危機であった。

1886年 伏見宮邦家親王第17王子 定麿王 親王宣下を受け、明治天皇猶子となり名を依仁と改める。

1889年 皇室典範 永世皇族制を採用         

1901年 大正天皇 第一皇子 昭和天皇ご生誕

1902年 大正天皇 第二皇子 秩父宮雍仁親王ご生誕

1905年 大正天皇 第三皇子 高松宮宣仁親王ご生誕

1907年 皇室典範増補第1条「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムコトアルヘシ」

1908年 竹田宮恒久王と明治天皇第六皇女 昌子内親王ご成婚

1909年 北白川宮成久王と明治天皇第七皇女 房子内親王ご成婚

1910年 朝香宮鳩彦王と明治天皇第八皇女 允子内親王ご成婚

             全て伏見宮邦家親王の系統の王子。

1915年 大正天皇第四皇子 三笠宮崇仁親王殿下ご生誕

1920年 「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」

   

宣仁親王ご生誕から、皇族降下準則までの15年間(1905年〜1920年)は大正天皇の皇子の元服までの期間。

当時は幼児死亡率も高い上に大正天皇以外の明治天皇の男系の皇子は早年で薨去されたため。

事と次第によっては伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す可能性もあったと思われる。

そのために邦家親王系の王子と明治天皇皇女の間で婚姻が成立している。

大正天皇は4人もの男子を授かり、明治天皇の系統の皇位継承資格者が確保されたことで一先ず安定し、

皇室の肥大化が問題になり皇族降下準則を定めた。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974  


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68. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2018年11月29日 13:19:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21346] 報告

旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

(2003/2/17) 華族の話

1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。


大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?

つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。


5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。

1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。

当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。
加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。


この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。

伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。

旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。

学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。

侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。

華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。

1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。


財産税の税率

財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%


すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。

現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。

多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。

このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。

1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。

秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。

ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。

皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。

1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。

◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
http://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/288.html



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69. 中川隆[-13682] koaQ7Jey 2018年11月29日 13:24:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21346] 報告

皇位継承は遺伝子の問題があるから難しいんですね。

皇族の DNA解析結果は絶対に公開してはいけない事になっていますが、その理由は天皇家の系図が全く信用できないからなんですね:

世間の噂

秋篠宮文仁  

みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)

その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください


_____


「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w


秋篠宮 (文仁) 殿下が、天皇実子でないという噂は、関係各位に根強く伝承されている。

噂の出所は、天皇一族の警護、護衛を主務とする皇宮警察。 皇宮警察と言えば、警察官の中でも選りすぐりの良血者で構成されている機関だが、良血と言っても所詮は田吾作集団。

酒が入れば、口も軽くなり、同期生が集まれば、ここだけの話が、あっちこっちで交わされるのである。

「ここだけの話だが、秋篠宮が、天皇の本当の子供でないってこと、お前知ってるか?」 ここだけの話の一つが、それである。

それが酒席の冗談で終わらなかったのは、それなりのバックボーンがあるからだ。

遡ること四十数年、昭和天皇の后や、后の取り巻き女官たちから陰湿なイジメを受けた美智子妃殿下 (当時) は、精神に深いダメージを受け、那須の御用邸で一人寂しい静養生活を送っていた。


生まれついての貴種である前の皇后にとって、平民出身の美智子妃殿下の一挙一動作がしゃくの種。 子供 (浩宮) の育て方に始まって、手袋の持ち方一つにもアヤをつけたのである。

悩み多き貴婦人の警護を担当していたのが、若き偉丈夫の皇宮警察官。 深い同情が恋情に変わり、いつしか二人は恋に落ちたというのが、まことしやかな警察物語である。

そして、皇太子 (当時) と没交渉の筈の妃殿下に、懐妊のニュースが流れることになる。 

道ならぬ恋の噂は、宮内庁首脳にも届いている。 だからと言って、出産を止める手だてなどあろう筈もない。 そこで代々の宮内庁長官に、一つの言葉が引き継がれることになった。 

「皇位継承者は浩宮の血脈から ・・・」 と、である。

秋篠宮 (文仁) 殿下は成長するにつれ、天皇一族とは明らかに異なる特徴を見せつける。 体型、思想、行動の全てである。 皇太子や、黒田清子さんが、一目で陛下のお子さんだと分かるのに比べ、秋篠宮の体型は似ても似つかぬものがある。


それよりも何よりも、ナマズの研究にかこつけて、タイ女性にうつつを抜かしたり、祖父である昭和天皇の喪が明けぬ内に結婚を決行するといった傍若無人の精神性を露出する。 挙げ句の果てには、兄である皇位継承一位の皇太子を、公然と批判したりするのである。

「文仁殿下は、血の秘密を知っているに違いない」 の呟きが宮内庁首脳から洩れる。

そうとしか理解できぬ異常行動が多すぎるのである。

菊のカーテンの奥に潜む機密事項が、小泉総理にもたらされたのは、今から一年以上も前になる。

雅子妃殿下の病状が思わしくないこと。 おそらく、お子さんは愛子内親王お一人でありましょう。

「だからこそ、皇室典範を改訂し女性天皇、女系天皇への道筋をつけて戴きたいのです」 さもないと、神武天皇以来続いた万系一世の貴種は、今世をもって終焉するかも知れません。万が一にも秋篠宮家に第三子が誕生し、それが男子であったなら ・・・・・・・

流石の小泉も、菊の秘事を耳にして腰を抜かさんばかりに驚いたという。


当時は、郵政政局真っ盛りの頃、政局に破れ退陣するようなことにでもなれば、郵政もさることながら、皇室が大変なことになるのである。

結果、総選挙に大勝し、郵政を片づけた小泉内閣は、早速大事案である皇室典範の改訂に取りかかる。 平沼赳夫のように、小泉憎しで反対音頭を歌うのはどうでも良い。 何としてでも片を付けてみせると決意を固めた矢先である。

秋篠宮紀子妃殿下が十一年ぶりに懐妊したとのニュースが日本全土に配信される。 長兄に男子が出来ぬなら、作って見せようの気構えかどうかは別にして、皇室典範事案の帰趨が大問題になっている矢先の懐妊である。

このことが万々歳でないことは、美智子皇后が突然体調を崩されたことからも察することが出来る。

馬鹿なマスコミは、目出度さ一色の報道を繰り返すが、目刺しの頭も信心からと言う事態になるやも知れないのである。

日本には、触れれば血が出る、死人が出ると言われる世界が三つあった。 同和、総連、それに菊の紋所である。 特に菊は、タブー中のタブー、同和・総連が小泉改革で崩壊しても、菊に関しては批判めいたことが何一つ言えないという風潮がまかり通っている。

だから今回は、署名投稿で秘中の秘、禁断のエリアに踏み込んでみた。 その場を与えてくれた、論談編集者に礼を言いたい。
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0602/060208-3.html



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

70. 中川隆[-13694] koaQ7Jey 2018年11月29日 17:43:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21376] 報告

天皇一族は売春業者


 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。


貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html

高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。


「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>

天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。
この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。
詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。


日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」

(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。

娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。


「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」


福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。


至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。 片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。


男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。


このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社


日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」


という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。

(福沢諭吉全集 第15巻)


1900年初頭から天皇の命令の下、

「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」


という宣伝が日本全国で大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。 その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者であった。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。

これが従軍慰安婦の原型である。


日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設された。

(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。 こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた

米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていた。
そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争 は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っている。

(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)


1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族はこの蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。

(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。

(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)。


なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。

(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 


ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。


1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった。


天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」

(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語るのがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。

http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

人身売買と近代日本の成立 


自国女性を海外に売るのが「ロイヤルビジネス」だった


「からゆきさん」と呼ばれたどちらかといえば普通の「娘の身売り」の陰には、さらに悪質な詐欺的人身売買が、国策として、天皇のロイヤルビジネスとして、白人商人と連携して組織的に、国策会社日本郵船(=三菱)により、大々的に行われていた。

そして、その人身売買こそが、日本資本主義の原初的蓄積過程だった。

つまり、近代日本国家は自国女を売って成立した。


「オルタナティブ通信」などを通じて知るようになったこの事実ですが、まとまった知識を持った人をTwitterで見つけました。

http://twitter.com/urashima2


戦前の日本は民族差別に反対してたとか言ってる方がいまだに多いが、実際のところは人身売買する上で邪魔だったというのが大きな理由のようだ。そもそもアメリカが排日移民法を作らざるを得なかったのは日本からあまりに膨大な日本人女性が売られてきたからにほかならない。


戦前の日本が差別を許さないとか、プロパガンダにもならない妄想…。

世界最大の賤業婦人(売春婦)輸出大国だったのに。

それも騙して海外へ連れ出すという極悪非道ぶり。


いわゆる「からゆきさん」なんてハイカラな名称付けられているのが、それ。

ジャパゆきさんは自分の意志でオーディション受けて、どういう場所で働くか承知で来るかも知れない、からゆきさんの大半は国策として騙された人や誘拐・拉致同然に連れだされた方々なのでまるっきり違う。


からゆきさんと言っても中国だけじゃない。

世界中に貨物船の片隅に押し込められ売られており、明治から昭和にかけて、その数は30万人以上とも言われている。

戦争責任を追求する大手マスコミでさえ、からゆきさんについては非情に及び腰。

理由はロイヤル・ビジネスだから。


おもに日本郵船=三菱と組んでいるが、三菱といえば岩崎弥太郎。

岩崎といえば龍馬。龍馬といえばグラバー。

グラバーといえば武器商人…ってな具合に背後は真っ黒の助。

そもそも武器を買うための資金として人身売買をはじめた。


グラバーといえばマセソン商会の元社員で代理人。

マセソンといえばアヘン商人。

ようするに茶を買うためアヘンを売るのが、武器を買うために女性を売る…にかわっただけ。

長州ファイブを留学させたのもマセソン商会。

岩崎=長州閥=天皇家は一蓮托生でアヘン・武器商とつるんでた。


騙して日本人女性を売った金で武器を買う。

その両方でピンハネすればボロ儲け。


三菱財閥が巨大化した最大の理由が人身売買…

などとは歴史の教科書や社史にも出てくるわけない。


人身売買であげた利益で武器を買い、それで戦争を行っては国民を虫けらのように死なせた。そういうビジネスを明治以来一貫して下衆なアヘン・武器商人と結託しながらやってきた。宗教も人種も違う連中を奴隷貿易するでもなく、自国の同胞女性を詐欺まがいに海外へ大量に売り飛ばすという豪快なことをしていた日本。


さうがの毛唐も

「オーマイガッツ!

ジャップのやつ正気の沙汰とは思えない。

オークレイジー」

なんて驚いたことだろう。


そういう背景により、クレージーなジャップによる人身売買を阻止するため、アメリカは排日移民法をつくってくれた。それを、差別だとかいうのだから凄い。


戦争の原因について


「カリフォルニア州への移民拒否については、 日本を憤慨させるに十分なものであった」

とは裕仁天皇のお言葉。これが戦争の原因なのだというから素晴らしい。


戦前の国策による人身売買の実態を隠蔽するため「からゆきさん」と混同されるようにイメージの偽装転換が巧妙になされている。実際はからゆきさんなんてレベルをこえた国策の人身売買が壮大なスケールで行わていた。


本来の「からゆきさん」なんてのは九州の貧しい農村部の女性が女衒に連れられアジアの娼館で働くというものだが、日本郵船とかがやってたのは基本的に詐欺。


「海外で教養を身につけよう」

「あこがれのアメリカで働こう」


なんてかんじで良家の子女から寒村にいたるまで処女を集めた。


私もこのブログで、アメリカの人身売買報告書が日本に異常に厳しいことを人種差別ではないかと批判したことがありましたが、見当違いだったかもしれません。

彼らは当然ながらこういう過去の事実を知っている。この件の被害者は日本人であり、欧米商人も関与していたので、あえて言挙げはしないが、日本国がこういう体質をもっているということには留意している。このような過去の犯罪行為について、日本人がほとんど知らされておらず日本国内に批判も反省もないことも見ている。

普通に「人身売買を防止する」という観点から見て、日本が要警戒国になるのは当然ですね。


これから必然的に貧しくなっていく日本ですが、日本女性は日本国家および天皇一族を警戒したほうが良いといえます。同時に、従軍慰安婦問題や南京強姦事件で騒いでくれる近隣国の人々に感謝しなければならない。被害者が日本人だけなら、誰も騒がず、語ろうとする者は口封じをされ、そんな過去はなかったことになります。

天皇と三菱とが一体になり、外国商人と連携して、国策でこのような犯罪行為を行った歴史が「なかったこと」にされている。何の反省もない。

このままでは、日本国家にカネが必要なときにはまた同じことが繰り返されることになるでしょう。


日本国=天皇=三菱等、

はその成立時から人身売買マフィアであり、芯から腐っていると言えます。初めから腐っているものはどうしようもありません。「日本の解体」が是非必要です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

あめゆきさんの歌、山田わか


 日系アメリカ人の歴史の本を読んでいた時に、

「アメリカの日本人の嚆矢(はじまり)は日本人売春婦」

という記述に出会って、愕然としたことがある。


 コロラドに、江戸時代の日本人売春婦の墓標が残されているそうだが、日米和親条約(1853年)が締結される以前の話である。日本から、アメリカに直接に向かうことができなかったので、アジアを経由して、密航者としてアメリカに渡ったらしい。

 この女性たちの歴史の発掘に尽力されたのが、サンフランシスコの日本語協会の石崎五郎さん(UCデイビス校の獣医学の教授、故人)だった。石崎さんは、そうした女性の存在を不憫に思われたようだ。 中国や東南アジアに渡ったからゆきさんのことは、森崎和江や山崎朋子の著作で知ってはいたが、そうした事実が、このアメリカでもあったのだ。


 明治の新聞ダイジェストを読んでいた時に、オーストラリア行きの船の船倉で、日本人売春婦が窒息死体となって発見されたという記事を目にしたことがあるが、日本人売春婦は、オーストラリアにも、密航させられていたようだ。 十九世紀末のアジアに渡った日本人売春婦を意味する”からゆきさん”という言葉から、山崎朋子(ノンフィクション作家)が、”あめゆきさん”という言葉を作り、「あめゆきさんの歌:山田わかの数奇なる生涯」という本を書いたのが、1978年。

 プラムさんに、山田わかが働いていた場所を訊ねられた私は、シアトル時代の山田わかの手掛かりを求めて、この本を読み返した。 この本の記述とシアトル旧日本人街明細図から、20世紀初頭に、彼女が白人相手の売春婦として働いていた場所が分かった。

現在のシアトル・アジア人街のあるインターナショナル・ディストリクトの一角だ。 私自身、以前、インターナショナル・ディストリクトを訪れた時に、山田わかはどこで働かされていたのだろうと、漠然とした疑問をもちながら、同地域を歩いていたのだが、今回、キング・ストリートと5番街の角のアロハ・ハウス(現在は別のお店になっている)で働いていたことが分かった。


 1906年に、26歳で日本に帰国した山田わかは、近所に住んでいたことから平塚らいてふと知遇を得て、青鞜に参加。『朝日新聞』の人生相談の回答者になって、アメリカ帰りの女流評論家として成功した。


 アメリカの図書館で、私は、戦前に発行された山田わかの本を2冊、見掛けたことがあるし、サンフランシスコで、彼女の夫となった山田嘉吉の教える英語塾で山田わかに出会ったことがあるという人から話を訊いたこともある。 私が渡米した頃には、ヤングさんと呼ばれた日系一世の若手がまだ、生きていたのだ。ヤングさんは、英語の勉強のために、サンフランシスコの山田嘉吉の英語塾に通ったようだ。

 山田わかのシアトル時代の記述については、サンフランシスコで発行された『あめりか新聞』(1937年)のオリジナルをUCLAのライブラリー(special collections library)で読んだこともあるし、山崎朋子が出会ったリン(林)司書から、直接、お話を聞いたこともある。リンさんは、UCLAのアジア関係の生き字引のような方だったが、1990年代の前半に退職された。

第二次世界大戦後、山田わかが心血を注いだ仕事に、売春婦の更生施設の建設、運営があった。 売春婦から更生して家庭人となった彼女だからこそ、更生が、いかに大切であるかということを知っていたのであろう。

 私は、アメリカに住む日本人のことをリサーチしている理由の一つに、日本人は、アメリカから何を学ぶのだろか、ということがある。山田わかの場合は、不屈の向上心だったのではないだろうか。

http://plaza.rakuten.co.jp/katiebooks/diary/200408240000/

昔アメリカで、ハロウィーンに英語もできないくせに白人様の真似をして調子こいていた馬鹿な日本人留学生が射殺された事件がありました。しかし、アメリカ白人がやったことなので日本人は怒りません。その因縁のハロウィーンを、やがて日本人たちはアメリカ白人と一緒になって馬鹿騒ぎして祝うようになりました。

だいたい日本人に同胞意識などない。自分が白人様にでも引き立てられれば、黄色人種の同胞なんてクソみたいなものです。日本人で出世して偉くなる人はみんなそう思っています。


天皇のロイヤルビジネスは、日本人の素人女性を騙して、日本郵船の貨物船に乗せて海外に性奴隷として売り、外貨を稼ぐというものでした。


日露戦争などの戦費もそれで出した。

同胞の日本人女でさえ騙して奴隷にして、船内で白人船員に強姦させて売春婦教育し、外国の売春宿に平気で売る事をしてきた日本人なので、朝鮮人従軍慰安婦の強制連行や戦地や日本軍進駐先(前記事のタイにも進駐していた)での住民強姦など朝飯前のことです。

(そんなことを否定したり事実を争ったりする方がどうにかしています)。


日本はもともとそういう麗しい国なのです。なので、マトモな人間なら、日本人であれ外国人であれ、「反日」になるのが自然です。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

71. 中川隆[-13693] koaQ7Jey 2018年11月29日 17:47:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21376] 報告

天皇家は世界一の大資本家であった

次の表をご覧ください。

【御資財本現在高】
慶応3年 102268万円
明治8年度始 510572円
明治9年度始 583519円
明治10年度始 805982円
明治11年度始 1072663円
明治12年度始 1085423円
明治13年度始 1218385円
明治14年度始 1320173円
明治15年度始 1442345円
明治16年度始 1710182円
明治17年度始 1927665円
明治17年度末 4374935円
(日銀・正金株編入)
明治18年度末 4505967円
明治年19度末 5157230円
明治年20度末 7885841円
(日本郵船株編入)
明治年21度末 9189268円
明治年22度末 9747517円

天皇家は封建時代の末期、慶応三年全資産の現金評価金額がわずか10万2268円でした。

この頃天皇家では、出入りの豆腐屋さんに「今日の支払いはちょっと待って下さい」と言ったことがあるほど貧乏していたという話が、京都には伝わっています。

ところが明治になって、日本が資本主義的発展を始めてからは、表にみられるように、鰻登りに資産が増え続けています。最初の頃は、当時の権力者、伊藤博文たちが、天皇に力をつけて、その力を利用して、日本を資本主義的に発展させようと考え、『金は力なり』と言って、明治維新のときに地方の大名から取り上げた、国の資産を次々に天皇家の資産にした結果のようです。それも憲法が制定され、国会が開設されてからでは、やりにくくなるからと、国会開設以前に駆け込むように行なっています。

そして日本が、アジアに侵略を開始してからは、雪だるま式に資産を増やして、経済学者の報告では、1917年ロシア革命でロシアの皇帝が倒されてからは、天皇が世界一の大富豪になったとのことです。


明治天皇は日清戦争に勝って、賠償金から二千万円を手に入れたこと。そして植民地にした台湾の最大の産業、台湾製糖の第二位の株主になって、20年後には100%の配当を手に入れていたことは前にお伝えしました。二度目の侵略戦争の日露戦争後植民地にした朝鮮に、植民地支配の動脈のように施設した、京釜鉄道の上位株主は次のとおりです。

【京釜鉄道上位株主(1903年2月現在)】
氏名 持ち株数 備考
日本皇室 5000
朝鮮皇室 2000
岩崎久弥 1000 三菱財閥
三井高保 1000 三井財閥
渋沢栄一 1000 第一銀行
大和田荘一 1000 大和田銀行
朝鮮皇室 1000
住友吉左衛門 864 住友財閥
阿部くに 509 明治生命
阿部長蔵 500 子爵

また天皇が保有していた主な株は次のとおりです。

【天皇家の保有株数(1905年)】
会社名 株数
日本銀行 65650
日本興行銀行 5000
横浜正金銀行 60400
北海道拓殖銀行 67
日本鉄道 27422
北海道鉄道 1000
岩越鉄道 2000
京都鉄道 3000
京釜鉄道 5000
北海道炭鉱鉄道 27690
日本汽船 80550
湘南汽船 4400
帝国ホテル 4400
合計 286329

【天皇家の保有株数(1942年)】
会社名 株数
日本銀行 211528
日本興行銀行 22725
横浜正金銀行 224912
北海道拓殖銀行 3000
日本勧業銀行 12750
第十五銀行 3055
第一銀行 5000
三井銀行 4500
三菱銀行 4500
住友銀行 3000
三菱信託 5000
北海道炭鉱鉄道 159776
日本汽船 161000
大阪商船 12825
台湾銀行 15132
朝鮮銀行 2600
南満州鉄道 37500
東洋拓殖 50000
台湾製糖 39600
東京電気 23842
東京瓦斯 62068
帝国ホテル 14700
合計 993103


天皇が大量の株を保有していた企業は、ほとんど日本が行なう侵略戦争に関わっている企業や戦争の結果獲得した植民地支配関連企業です。

つまり天皇は、日本が侵略戦争をして、植民地を拡大すれば着実に巨大な利益が得られる仕組みになっていました。

その挙句の果てが次に紹介する、1945年日本敗戦時に米軍が調査して発表した数字です。日本の国土面積の10%を天皇家が所有していました。経済学者の試算によると天皇家の全財産の現金評価額は、当時のお金で660億円だったそうです。

【1945年当時の皇室財産資産】
種別 数量 評価額 備考
土地 1352210町歩 362293953円 平均1反歩26円70銭に当たる
木材 561519千石 592865000円 1石につき約1円に当たる
建物 約150000坪 299296657円 坪当たり約2000円
現金    24788387円   
有価証券   311871503円 購入及び出資金額による
合計    1590615599円   

天皇家の資産は、戦後、GHQによって財産税33億4268万円が課税され、そのほとんどは物納されたそうです。 その後、天皇家に残された金融資産は1500万円。この1500万円が、昭和天皇が亡くなった時には、20億円にも膨らんでいました。
天皇家に経済顧問として投資のアドバイスをしていたのは、元経団連会長の石坂泰三氏や元三菱銀行頭取の加藤武男氏、元日銀総裁の森永貞一氏だったそうです。
http://74.125.153.132/search?q=cache:Xaua2RwYB8oJ:www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-5-3.html+%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E8%B2%A1%E7%94%A3&cd=79&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


動産・不動産からなる皇室財産は、明治維新以後に設定された。明治政府は皇室の経済的基礎を確立する必要に迫られ、1884年から90年にかけて莫大な皇室財産が蓄積された。つまり、政府所有の日本銀行、横浜正金銀行、日本郵船会社株の皇室財産への編入、佐渡、生野の両鉱山の皇室への移譲、350万町歩の山林原野の皇室財産編入などが行われた。

日清戦争で獲得した償金約3億円のうち2000万円が皇室会計に繰り入れられた。また皇室費は、日露戦争後、450万円に増額され、第二次世界大戦終戦時まで毎年支出された。

戦前の莫大な皇室財産は、第二次大戦後、連合国最高司令官総司令部(GHQ)によって解体された。終戦時の皇室財産総額は、総司令部発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。この結果、約33億円が徴収され、残りは国に帰属した。こうして戦後は、皇室財産は国有化され、皇室費用は予算に計上されて国会に統制された。47年公布の皇室経済法は、皇室費用を宮廷費(儀式などの費用)、内廷費(日常費用)、皇族費(品位保持の費用)に区分し、さらに皇室の蓄財や特定者との経済的結合を防止している。ちなみに、93年度における皇室費は約48億円である。

維新政権は、地租改正と殖産興業政策を実施して国家主導の資本主義化を強行することによってその経済的基盤を形成しようとした。
そこでは、農民、中小商人層による下からの資本主義の成長を抑圧し、税収奪をもとに軍事機構中心の国家資本を育成し、維新政権に依存してきた政商を産業資本へと転化させた。

 こうして、国民の金が 皇室に集まる仕組みが出来上がってきた。
それと同時に軍人勅語・教育勅語等が準備されて行った。

1900年代に確立をみた近代天皇制国家は、政商から発展した財閥資本の階級的利害を代表し、地主や地方企業家の支配による地域共同体的秩序を社会的基盤とする資本主義国家であった。
http://zenkyoto68.tripod.com/gunkakusyotyoku01.htm

昭和天皇はアジアへの侵略が深まれば深まるほど儲かる銀行や会社の大株主だったのである。
 
大正、昭和にその1千万弱の資産が終戦時37億円に膨れ上がっていた。
国体とは実はこのゼニであった。
戦場で散って行く若者たちを盾にして支配層が守ろうとしたものはこの「神聖財閥」を頂点とするゼニの塊だったのである。

終戦時の皇室財産総額は、総司令部発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。

1887年に横浜正金銀行条例が制定され、特殊銀行として外国為替銀行となった。その後日露戦争に際しては外債募集に努め、日露戦争後は満州における中心的な金融機関となって、支店網を拡げ外国との貿易・金融の面で巨額の利益を上げた。

「昭和天皇がヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは、日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」

『米従軍記者が見た昭和天皇』ポール・マニングHIROHITO : the ar years(Manning, Paul)マルジュ社 2005

天皇家が日清戦争で味をしめたのは有名な話である。この侵略強盗戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円。何故かこのうちの二千万円が皇室の財宝となった。
次の大戦のさなか参謀本部の将軍達から逐一詳細な戦況報告を受け一喜一憂しながら戦争にのめり込んで行く天皇の姿は、さながらイラク侵略の戦況に眠られぬ朝を迎える石油資本の株主たちと重なる。
http://zenkyoto68.tripod.com/zaibatu01.htm

明治維新以来、最高の財政ブレーンが皇室の富を極限まで増やすために働いてきた。賄賂がきかないくらいに天皇を金持ちにせよというビスマルクの助言に沿って、日本の一流企業や銀行の株式と年間収益の10パーセントが天皇に譲渡されたのである。(中略)
 裕仁は海外にも莫大な資産を持っていた。これには欧米の銀行、製造業、不動産への巨額の投資や、さまざまな隠れ蓑(みの)のもとでスイス、スウェーデン、ヴァチカン、ポルトガル、アルゼンチン、スペイン、英国、アメリカの銀行の金庫に預けていた金塊、白金、銀が含まれていた

 この天皇家の財産を、アメリカによる本土侵攻を予想した内大臣の木戸が、天皇の財務顧問だった有力者の勧めに従って、「手元にある天皇の流動資産のほとんどはスイスの複数の銀行が東京に置く支店に移され、本国の口座に預金された
http://www.dailytimes.jp/environment/2007/03/post_3.html


 天皇の財産
いかなる財閥も、さかだちしても追いつけない急激な膨張ぶりであった。

「・・・明治十四年の皇室料地わずか六三四町歩は、九年後の明治二十三年には三六五万四千町歩に達していた。これはじつに六千倍で、その年の民有林野総面積八三八万五千町歩の半分に近い。

 さらに、土地以外の株券と貨幣による皇室財産は、十五年の一七一万余円が、十七年十二月には日本銀行の株式三五〇万円をくみいれ、さらに二十年に日本郵船の株式二六〇万円を収めて、同年末には小計七八八万五千余円の巨額にのぼっていた。
 いかなる財閥も、さかだちしても追いつけない急激な膨張ぶりである。・・・」「中公文庫 色川大吉著 日本の歴史21」

・・・・当時は、米一升が六、七銭で購入できた。当時の1円は現在の1万円程度と考えるとほぼ理解出来る。・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E8%B2%A1%E7%94%A3
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj010827.html


天皇家の財産が国民の前に明らかにされた時、その莫大さに国民は驚いていた。
土地 135万町歩余 3億6000万円余
木材 5億6000万石余 5億9000万円余
建物 15万坪 2億9000万円余
現金 2400万円余
有価証券 3億1000万円
合計 15億9000万円余

評価額は戦争直後の標準によったが、その後の評価では660億円以上とされている。昭和36年の物価は最初の評価の500倍以上にあたるから総計は8000億円以上に達すると思われる。

現在の価格では数兆円を軽く超えるものと言えよう。最初の評価の基礎は、土地一反が26円余という当時でも時価の十分の一、木材は一石一円で百分の一という不当に安い評価である。この評価は政府や宮内省が行ってGHQや世界の注目をまぬがれようとした小細工である。
 
土地の135万町歩は日本の面積の3%以上に当たる。5億6000万石の木材は日本全林野の8%に当たる。有価証券では配当金だけで年800万円もあった。昭和天皇は個人としては世界最大(?)の地主であった。個人としては世界最大(?)の大ブルジョワであった。
http://www.asyura.com/0411/bd38/msg/785.html

一家族で15億、、、
現金など3億3千万、、、、
昭和20年11月と言えば国民は飢餓状態、
公務員月給65円、米10キロ6円の時代。

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昭和天皇は何故戦争を起こしたのか

日本の経済発展を支えた侵略戦争

明治維新以前、江戸時代には、士農工商という厳しい階級差別がありました。大商人といえども、社会的には低い地位に押さえられていました。それが明治維新によって、封建制の束縛から解放され、企業家たちは活発な企業活動を開始します。そして日本の経済は資本主義的に急成長します。その中で三井物産などは江戸時代から中国などにある程度進出していましたが、基本的には日本国内での活動でした。

ですから明治になって二〜三〇年も経つと、商品を造っても国内投資ではさばけなくなってくるし、新たな投資の場も国内だけでは限りがあって、経済成長が横這い状態になってきました。


伊藤博文と海外侵略

日本経済の発展が行き詰っているその頃、海外視察から帰ってきた伊藤博文が、全国遊説したときの原稿が国会図書館に残されています。その演題は『世界の進歩と日本国民の自覚』です。その要旨は、

「今や世界各国は商工業の競争を世界に行なっており、そして最近の戦争は、単に領土を広げたり、国の名誉のためではなく、商工業の利益を世界的に拡充したり、その拡充を妨害されるのを防ぐために起こしている。

日本も国内の団結を固め、世界の列強と争って商工業の発展をすることを、日本の基本方針としなければならない。そのためには軍備を拡張して、商工業を中国や朝鮮、或いは東南アジアにまで発展させなければならない。」という内容です。


要するに日本の経済発展のためには、戦争をして中国、朝鮮、東南アジアを植民地にし、資源と労働力を独占的な市場を獲得しなければならないという事をいっています。

この方針のとおり、日本は明治維新以後着々と軍備を増強して1894年の日清戦争以来、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦と、10年置きに戦争をしています。そしてその戦争の度に台湾、朝鮮、満州と次々に植民地を獲得し、それをバネに経済成長しています。

日本の資本主義社会の土台を築いたといわれる伊藤博文は、もともと貿易業を営んでいました。それが明治維新直後に、貿易業を三井に任せて自分は政治に専念しています。以後三井との二人三脚ぶりは随所に見られます。

1905年、伊藤博文は、第二次日韓条約を結んで、朝鮮を日本の保護国にしてしまいます。そして自ら統監となって朝鮮の完全支配を始めますが、1909年朝鮮独立運動の義士安重根によってハルピンで射殺されました。


軍備増強と国会議員買収

日本最初の侵略戦争ともいうべき日清戦争前後の時代、資料として面白いというかあきれた資料が残っています。伊藤博文の演説にもあるように、侵略戦争のために軍備増強を達成するためには、増税しなければなりません。その時点の首相は、山県有朋です。山県内閣は、国会に増税案を何度も上程するのですが、否決されます。

そこで山県は、反対派の国会議員を買収するために、議員の歳費を一挙に五倍に引き上げた上に、有力議員に直接買収資金を多額与えて、増税案を成立させました。

その買収資金を提供したのは天皇でした。当時のお金で98万円です。今のお金にしたら恐らく100億円以上のお金でしょう。

当時1000円で都心に一軒家が買えた時代ですから。このことが今私たちにわかるのは、このいきさつをみていた西園寺公望の日記が国会図書館に残されていて、その中に書かれていたからです。その中には

「首相の山県は、国会議員買収のため天皇から受け取った資金を、どうも一部自分の懐にいれているようだ」と書いています。現在の自民党幹部と同じですね。

しかし、天皇が何故こんな大金を出したのか、日清戦争で天皇がどれだけ儲けたかを見ればよく分かります。

日本は国家予算をふんだんに使って軍備を大増強して、日清戦争に勝ちました。日本は、清国から賠償を三億五千万円取ります。そのうち二千万円は天皇がもらっています。

当時国家予算が一億そこそこの時代ですから、国家予算の20%に値する金を、天皇は受け取っています。

そして、日清戦争に勝った日本は、台湾を植民地にしてしまいますが、その台湾の最大の産業の製糖業は三井物産が独占的に経営します。

天皇はその台湾製糖の第二位の株主になっています。台湾製糖の株の配当は10年後に12%、20年後には100%になっています。

しかも日清戦争に勝って、清国から国家予算の三倍の巨額の賠償金を分捕って、これが日本資本主義経済発展の土台を築くことになったといわれています。これだけを見ても、侵略戦争・植民地獲得がいかに資本家にとって儲けにつながるかが分かります。http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060821

三井物産と満州事変

ここで一つ三井物産の企業活動と軍部との関係を表す実例をご紹介しておきましょう。

日露戦争後、日本が満州を獲得して、三井物産が大きく業績を発展させた一つの部門は大豆でした。“満州”は、世界的な大豆の産地でした。それを三井物産がほとんど独占的に買い占め、その油からマーガリンを造ってヨーロッパ諸国に輸出し、油粕は国内で肥料として売ることで大いに儲かっていました。

しかし1920年代になると、三井の大豆の取扱高が伸び悩んでいます。この時期の三井物産の支店長会議の議事録が残っています。それには、「満州の軍閥張作霖が大豆の買い付けに手を出し始めたので困った」という趣旨のことが書かれています。

そのうえ張作霖は、日本が植民地支配の動脈のように利用していた満州鉄道に平行した独自の鉄道を計画して、着工を始めたのです。この鉄道が付設されてしまうと、日本の植民地経営には大きな打撃になります。鉄道工事が始まったその直後、張作霖は、関東軍によって列車ごと爆殺されてしまいました。これが1928年です。その翌1929年度の三井物産の大豆の取引高は倍近くに跳ね上がっています。

このような極端な数字は、ほかの要素も重なってのことかも知れませんが、日本の歴史書には、この張作霖の関東軍による爆殺事件は、只単に関東軍の仕業であるとしか出ていません。その後殺された張作霖の息子、張学良が父親の遺志を継いで事業を始めようとしたとき、1931年、日本軍は満州事変を起こし、次いで中国本土へと戦線を拡大し、1932年には満州国を建国しています。

<中略>
次に経済学者から提供していただいた資料にもとづいて、日本の資本が第一次世界大戦でどれ程の利益をあげたか報告します。

大戦中の武器輸出の総額は二億九千万円。武器の主なもの、銃が93660梃。野砲弾丸410万発。駆逐艦12隻。戦艦2隻。
大戦中の対ヨーロッパ投資総額、約七億七千万円。


【第一次世界大戦と日本の経済発展】
   戦争開始時 戦争終結時

株価
100 246
輸出 5億9100万円 20億9800万円
輸入 5億9500万円 21億7300万円
利潤率 15.2% 57.8%
払込資本 24億5100万円 85億5100万円
三井物産 3.96万円 36.46万円
取扱高 4億5200万円 21億300万円


しかし、戦争をきっかけにして、鰻登りに発展した日本の企業の影で、日露戦争で日露双方合計23万人の人命が失われ、第一次世界大戦では、参戦した国の軍人802万人、民間人664万人の命が奪われたことを、そして日本に支配された台湾、朝鮮、中国の民衆に筆舌に尽くし難い苦難の歴史を忘れてはならないと思います。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060822
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昭和天皇が2・26事件を起こさせた(?)本当の理由


ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。

2・26事件は為替相場を不当に操作して儲けるために起こさせたものだった.
2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した.

もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。

青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。

 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。
天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。

なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 

それは昭和天皇が、立憲君主ではなく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。

大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。

2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
 
2・26事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。

事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。

 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。
皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。

つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6863442c2632a11902486caa91a0cb55


昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。

そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。

 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。

これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


本来であれば、忘れ去られてしかるべき歴史的事件が、今もなお、
「昭和史最大の謎」として話題になるところは、2・26事件のす
ごさでしょう。

1年半前に我々がとりあげた鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日
」は8・15クーデター未遂事件は、天皇側が仕組んだ偽造クーデ
ターと考えています。そしておそらく2・26事件も。

また、8・15事件のシナリオを書いて、細かな演出をしたのは塚
本誠憲兵中佐だと紹介しています。

驚くことに、8・15クーデター事件の背後で暗躍していた塚本誠
中佐は、2・26事件のときも背後にいました。

塚本は当時、上海で憲兵をしていましたが、昭和「11年11月に(大阪
の留守宅で)三男が生まれた」とありますから、昭和11年2月ごろ日
本にいたようです。おそらく上海をベースにしながら、偽クーデターが起きるように日本にちょくちょく帰って煽って歩いていたのではないかと思われる。

記述のない前日まで日本で暗躍して、当日はアリバイ作りのために上海にいたのではないかと思われます。鬼塚さんは2・26も8・15も、天皇側が仕組んだ偽クーデターと考える。 またシナリオと演出は塚本誠憲兵中佐だとバーミガニの記述を紹介。

「塚本は、1934年に陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに
、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。彼はそれから1935年の間
じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その1つは(略)
永田軍務局長の殺人であった。」
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220305.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220216.htm

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昭和天皇が日中戦争を起こした目的


【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク

北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。


ケシ類未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものが阿片だ。阿片に含まれているモルヒネは、鎮痛・鎮静・催眠・快楽をもたらす薬剤となる。末期癌患者に使用されることが多い。しかし、連用すると中毒となり、常用しないと禁断症状に苦しむこととなる。モルヒネにアセチルを化合したのがヘロインで、薬効・中毒作用は、更に強くなる。中毒に陥ると、増量して使用しないと禁断症状を起こして死亡するし、常用すれば衰弱して早死にする恐ろしい麻薬だ。この阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中国へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。

1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。

麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を増やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。

日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。
やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。

大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めた。

さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。

阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。

三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。

南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。

これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。

満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われている。

阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴いている。長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていた。中国軍閥の張宗昌(阿片将軍)は日本軍と組んで。吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったという。

内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があった。阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのだ。

日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。

日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。

さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。
『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。

しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。

梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』

なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。

シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった)に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html


自民党「大物」政治家の資金源

 「小泉総理の父、祖父が、第二次大戦中、中国侵略を進めた大政翼賛会の政治家であり、安倍晋三官房長官の祖父が、中国侵略の中心人物、岸信介であり、麻生太郎外務大臣の祖父が、中国侵略軍の中核に居た吉田茂である」という家系の意味するもの。

 1939年4月、陸軍省軍事課長、岩畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作られた。
 主な業務はアヘン密売であり、実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。

 これは、1894年の日清戦争で勝利した日本の内務省衛生局長、後藤新平が、「満州経営の資金調達のため、アヘンを国策として売買すべし」と主張して以来の日本の国策だった。後藤は、後に満鉄初代総裁になっている。

 戦後、自民党から出て首相になった4人の人物が、膨大な部署のある軍部の、しかも満州の、たった1つの部署に集中していた、というのは偶然にしては余りに不自然である。
 4人の首相は、全員麻薬売買を中心的に担い、右翼の「大物」と言われる児玉誉士夫等は、むしろアヘン売買では「小物」であり、4人の首相が麻薬売買の中心に居た。

 中国における麻薬の売人が、戦後4人も日本で首相になった、その理由としては、アヘン売買の利益が敗戦とともに日本に持ち帰られ、自民党「大物」政治家の権力獲得資金源になって行った可能性が、極めて高い確率で考えられる。
 侵略戦争の中核に居た人物等の末裔が、現在、政治権力の中枢に居るのは偶然ではなく、彼等の活動資金の源に理由がある。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49243912.html


狂人達の世界帝国建設の夢

 1932年、中国に侵略を続ける日本軍は満州帝国を建国する。満州の運営資金は、事実上アヘン密売業者里見甫が全て出資し、表側の満州帝国総裁が後藤新平であれば、裏側の総裁が里見であった。
 里見は中国大陸全土に及ぶ自分のアヘン密売網を侵害する者がいれば、直ちに惨殺する殺人鬼であり、アヘン密売の利益を全て満州建国に注ぎ込む私利私欲の無い指導者として、日本軍部の軍人皆の恐怖と尊敬の的となった。

 また関東大震災の混乱に乗じ、戦争に反対するアナキスト大杉栄とその妻を絞殺した警察官甘粕正彦も、満州帝国の治安維持責任者となり、里見と共に帝国の治安を乱す者を容赦無く惨殺する殺人鬼として二人三脚で活躍した。
 一方、甘粕は満州鉄道映画製作部を指導し、「中国大陸の新しい帝国を舞台にしたロマンチックな映画」を製作する「ひ弱」でロマンチックな映画青年でもあった。

 甘粕と里見には、新しい大帝国に賭けるロマンチックな夢、情熱が巨大であればあるほど、その夢の障害になる者に対して凶暴な殺人鬼となる点が共通していた。
 大帝国建設、世界制覇という政治・経済的ロマンティシズムが大量殺戮を生み出す点は、里見、甘粕、ヒトラー、ジョージ・ブッシュあるいはロックフェラー、ロスチャイルド全員に共通する人間的欠陥である。彼等は全員世界制覇という「自分の夢」の中の住人であり、「現実世界」に生きてはいない。自分の行う大量殺戮の「現実」が見えず、見ようとしない。そのような「現実逃避型」の人間に政治を行う資格は無い。

 しかし、世界制覇、世界統一というロマンチックな夢は、最も一般市民、庶民に熱烈な支持を受ける。帝国建設というロマンチックな夢の実現の障害物を大量殺戮する殺人鬼ほど、民衆の絶大な支持を得、絶対的権力者となる。ナポレオン、ヒトラー、スターリン等への民衆の熱狂的支持はそれを物語っている。

 世界帝国実現のロマンチックな夢には、冷静な計算が必要になる。石油も鉄鉱石もなく戦争に突入する日本軍部には冷静な計算が無かった。三流の夢である。
1つ1つの企業、地域、国を順次支配下に置き、その経営、運営を成功させて行くロスチャイルド、ロックフェラー、ブッシュ一族には一流の計算能力がある。
ロマンチックな夢、狂人のような殺人鬼、冷静な実務家は1人の人間の中で共存し得る。カミソリのように頭脳の切れる優秀な天才こそ狂人になる。彼等は一流の狂人である。
 実務に優秀でロマンチックで壮大な夢を語り得る政治家ほど魅力的ではないか?政治的ロマンティシズムの行き着く先はヒトラーである。

 ナチスへの反省から生み出されたこの政治学の基本は、最近全く議論されなくなってしまった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604157.html


1897年、日清戦争に勝利した日本は中国を支配するチャンスを手に入れる。
当時内務省衛生局長であった後藤新平は、中国に日本の支配下にある大帝国を作るべきであると強く主張し、帝国運営に中国大陸でのアヘン売買の利益を充てるべきであると主張する。

これは、日本国内の食品、薬品の安全管理の総責任者、内務省衛生局長がアヘン売買を全面的に推進する意向を示したものであり、日本の暴力団は一斉に中国でのアヘン売買に乗り出す。

後に中国大陸のアヘン売買を独占する、アヘン帝国を作り上げる里見甫もその一人であった。里見は、東条英機内閣成立の最大資金源となり、東条が日本を第二次世界大戦に本格的に突入させて行く。
広島、長崎への原爆投下という悲惨な結果を生み出した戦争は、里見のアヘン資金が引き起こしたものであり、それを推進したのが後藤新平であった。
後藤は後に初代満州帝国総裁となり、アヘン売買による満州帝国建国という国策は決定的になる。

里見のアヘン帝国は、中国とベトナム、ラオス国境にまで及び、ゴールデン・トライアングルと呼ばれる、戦後一貫して世界最大の麻薬生産地帯であったこの地域は、まさに後藤の国策と里見の活動によって形成される事になる。(アフガン戦争後はアフガニスタンが世界最大の麻薬生産地帯となっている。)

また里見のアヘン・ビジネスのパートナーとなるイスラエルのアイゼンベルグは、中国共産党に深い人脈を作り、一貫して中国共産党のアヘン売買の実働部隊となるイスラエルのアイゼンベルグ社を戦後、設立する。
世界の麻薬ビジネスの礎石を、まさに里見と後藤が築いた事になる。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600765.html


1842年、アヘン戦争に敗北した中国清王朝は統治能力を失い、事実上アヘン売買を仕切る宗財閥と、それを支えるイラクのサスーン財閥に中国の経済的支配権が移る。
 上海の古式豊かな外灘(バンド)と呼ばれる街並、建築物は、全てサスーンが建造した物であり、上海の街を作ったのはまさにサスーン財閥だった。

 サスーンは上海を起点に中国中部から南部=華中・華南を結び、さらにフランス領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)を結ぶ中南支横断鉄道建設を計画し、中国北部を支配する日本の満州鉄道と連結し、中国全土と東南アジアを鉄道で統一しようとしていた。

 第二次大戦中、日本の諜報組織はアヘン売買を手掛け、中国においてはフランス諜報組織、宗財閥、アヘン売買組織サスーンと協力関係にあった(協力しなければアヘンは入手できない)。サスーンは英国諜報組織MI6と協力し、中国全土に「キングス・サービス」という諜報組織のネットワークを張り巡らせた。

 中国北部の日本の諜報組織、東南アジアのフランス諜報組織は、鉄道で統一される「大アジア」の中核、サスーンの諜報組織の補完物であった。

 現在の中国の中央銀行、香港上海銀行はサスーンの銀行に店舗を間借りして設立された。中国国民党・蒋介石の最大資金源がサスーンであった。このサスーンと宗財閥の実働部隊であったアジア全域に及ぶ李一族は、現在も中国の李鵬首相(元)、李承全国家主席、台湾の李登輝総統、シンガポールのリー・クアンユー首相(注)等を結ぶ李一族の地下経済ネットワークとして、共産主義中国の崩壊後を担うアジアの統一政権の基盤を着々と準備しつつある。

 アジア全域を支配したサスーン財閥に優秀な後継者が育たなかったため、壮絶な縄張り抗争と殺し合いの末、アジア全域のアヘン密売を握ったのがイスラエル最大の軍事産業アイゼンベルグ社であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49431165.html


 日本に訪れた昭和初期の大不況で、生活に困った日本人の多くは中国大陸に渡った。それは日本のヤクザ、暴力団も同じであった。
生活に困った日本人は、日清戦争以後、半ば日本と世界各国の植民地のようになった中国に渡り、莫大な利益を求めて中国でビジネスを行った。

 その中で、三井、三菱といった大財閥に資金を出資させた右翼の大物、里見甫(はじめ)の昭和通商という企業は、目立たないが最大手の企業であった。里見がそこで扱うのは麻薬、アヘンであった。アヘンを扱う暴力団のフロント企業に、三井、三菱といった大財閥が出資していた事になる。

 中国大陸のアヘン市場は、アヘン戦争以降イラク出身のサスーン財閥の独占市場であったが、英国軍部と結び付いたサスーンは、中国大陸とアヘンの供給地東南アジアにおいて、フランス軍が勢力を伸ばし、さらに日本軍が中国大陸において大規模な侵略を始めると、少しずつその勢力範囲を狭めて行った。
 中国国民党を支持していたサスーンは、中国共産党とは折り合いが悪く、最終的に共産党が政権を取ると、サスーンは中国のアヘン市場を失う事になる。

 この世代交代につけ込んだのが里見であった。里見は三井、三菱を背後にした資金力と飛び抜けた商才で、中国の地下経済を支配する青パン、紅パンと呼ばれる秘密結社にまで幅広く人脈を広げ、一時期は英国を始めとしたアングロサクソンを排除し、中国のアヘン市場を支配下に置いた。
 その背後には、サスーンを中国アヘン市場から追い出し、次の世代の中国アヘン市場を狙うアイゼンベルグ社(後にイスラエル建国の中心となる)と里見との提携があった。米国全土の麻薬組織、マフィアの「統一」を果たした「殺人株式会社」の軍事部門アイゼンベルグと、日本の大物右翼、三井、三菱財閥が連携していた。この日米マフィア連合が英国麻薬業者の追い出しを行っていた。麻薬争奪戦争であった。

 アイゼンベルグは第二次世界大戦中、戦後におけるイスラエルの建国を目指して日本に「研修」に来ていた。後進国の日本がどのようにして産業を育成したかは、これからイスラエルを建国しようとするアイゼンベルグにとって、一つのモデルとなる。
 日本政府が国営で八幡製鉄所を作り、経営が軌道に乗り、一定の時期が来ると民間に企業を「払い下げ」、民間企業、新日鉄としたその手法はアイゼンベルグによって十分に研究、吸収され、戦後イスラエルの産業復興の手法として、アイゼンベルグによって生かされる。

米国最大のマフィア組織であるアイゼンベルグと、日本の大物右翼、ヤクザである里見甫はここで出会う。アイゼンベルグの経営者ショール・アイゼンベルグは、1940年に新日鉄の会長であった永野重雄の娘と結婚している。そこから日本の産業界のイスラエル人脈は延々と続く事になる。現在の麻生外務大臣の経営する、麻生セメントの親会社ラファルジュ(フランスのセメント会社)のさらに親会社がアイゼンベルグである。

 この昭和通商で、里見甫の部下として「金儲け」のため麻薬売買を担った人物達の中に、右翼の大物、児玉誉士夫、そして岸信介、佐藤栄作、池田勇人がいた。
これは、戦後の日本で自民党の総理大臣になる面々が「偶然」にも昭和通商で麻薬売買を行っていたという事ではなく、中国のアヘン売買で「荒稼ぎ」した里見甫とイスラエル、アイゼンベルグの資金が、戦後の日本の権力者を生み出して来た事を意味する。

 日本が第2次世界大戦に突入して行く契機となったのが、東条英機の大政翼賛会の結成であった。野党までが戦争賛成なる「挙国一致」体制の成立で、野党による与党のチェック、戦争反対の声が完全に抹殺されてしまった。

東条英機はこの大政翼賛会の結成を、野党議員の「金による」買収で成し遂げた。その買収資金の提供を求め、東条が「泣き付いた」相手が右翼の大物、里見甫であった。里見とアイゼンベルグの麻薬資金が日本の戦争体制を「成立」させていた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49599920.html


1941年、上海のプロテスタント教会を次々と日本軍のスパイ組織、上海海軍武官府・特別調査部の兵士達が急襲する。日本の諜報組織は、プロテスタント教会が麻薬組織サスーンの事務所になっているとの情報を得て、教会を急襲した。

元々、中国の小さな地方都市に過ぎなかった上海を開発し、租界と呼ばれる街路を整備したのは、麻薬業者のサスーンであった。

第二次大戦中までは、上海の街並みの全ての建築物が、サスーンによって建造されたと言われる程、上海はサスーンの街であった。

しかし満州帝国を建設し、さらに南下しようとする日本軍にとって、敵国・英国と一体化したサスーンの上海支配を壊滅させる事は必要不可欠であった。そこにはサスーンの麻薬組織を破壊し、日本軍部の資金源である里見甫の昭和通商に、アヘン売買を独占させる目的もあった。

 教会を急襲した当時の上海海軍武官府・特別調査部の記録によると、教会の地下にはサスーンの事務所が置かれ、そこからは英国諜報組織MI6の中国エージェントの名簿、秘密結社フリーメーソンの祭壇、おどろおどろしいフリーメーソンの儀式の用具が発見されたと言う。

 日本の軍部は、このフリーメーソンの祭壇を見て、「頭のおかしなカルト」が関わっているといった程度の認識しか持たなかった。その事が、後に日本の太平洋戦争における壊滅的敗北という事態を招く、諜報上の大失敗になるとは全く予想もしていなかった。

 当時、日本軍は東南アジアに侵攻していたフランス軍と協力関係にあった(注)。中国の中部、南部を支配する英国に対し、北部を支配する日本軍と東南アジアのフランス軍で挟み撃ちにする戦略であった。
フランスは日本にとって敵国であったが、敵の中に「協力者」を作るのは諜報の常識であり里見に協力するアイゼンベルグは、フランス軍と日常的に連絡を取っていた。アイゼンベルグは日本に到達する前に、イスラエル国家建設を目指して、世界各国のユダヤ人街を巡り、各国の財閥に支援を仰いでいた。

当時、フランスの統治下にあったアルジェリアの経済界は、ユダヤ人街が独占支配しており、アイゼンベルグはアルジェリア支配のため、ユダヤ財閥と一体化していたフランス諜報部に深い関わりをもっていた。
東南アジアを支配するフランス軍の実態は、そこでゴムや米作の大農園を経営するフランスの穀物商社ドレフュスであったが、後にドレフュスはアイゼンベルグ社の子会社になる。

このパイプでフランス軍と日本軍は密通していた。

 しかしアイゼンベルグは単に日本で技術を学び、中国で麻薬売買を行い、利益を得るためだけにアジアに来ていたのであろうか?

 1935年、ロンドンでは国際ユダヤ財閥会議が開かれ、サスーンの街である上海から東南アジアに至る中南支横断鉄道の建設と、それを要とした南アジア大帝国の建設、その地域の資源開発が決議されていた。その出資者は、アイゼンベルグとサスーン、ドイツのオットー・ウルフ財閥、ロスチャイルドであった。

アイゼンベルグは日本と協力しながら、同時に日本の敵国・英国サスーンとも協力し、中国中部、南部、東南アジアに渡る南アジア大帝国を作り上げようとしていた。アイゼンベルグは、そこにイスラエルを建国しようとしていたのだ。

 そのアイゼンベルグが日本に「協力」する意図は、アイゼンベルグの南アジア大帝国により、中国北部の日本の満州帝国を「飲み込み」、アジア統一大帝国イスラエルを建国する事にあった。

稚拙な諜報能力しか持たない日本政府が、夢にも想像出来ない戦略であった。
そしてアイゼンベルグは、麻薬売買において自分と対立するサスーンとも結び、日本、英国、フランスのどの国が戦争に勝利しても、そこにイスラエル建国の可能性を確保する戦略を取っていた。

そこには、米国の過酷なマフィア戦争を勝ち抜いてきた、戦略家アイゼンベルグの才覚が見事に発揮されていた。

石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入してゆく、粗末な外交能力しか持たない日本、ロンドンのユダヤ財閥会議の動きさえ察知出来ていない稚拙な日本の諜報能力、これが日本を壊滅に導く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600090.html


1941年、創立と同時にCIA(当時はOSS)は、中国において急速に勢力を伸ばしつつあった中国共産党の実態調査に取りかかる。

 中国に全くコネクション(つながり)の無かったCIAは、ボスである英国諜報組織MI6に依頼し、MI6の中国における出先機関であった麻薬密売組織サスーン財閥に協力を要請する。しかし中国国民党と連携し中国南部に帝国を作ろうとしていたサスーンは、共産党とは関係が険悪であり、結局中国南部の帝国建設でサスーンに協力していたアイゼンベルグをCIAに紹介する。

 アイゼンベルグと共に満州建国資金をアヘン売買で稼ぎ出していた里見甫の元に、CIA局長ワイルド・ドノヴァンから派遣されて来たのは、ドノヴァンの親友で部下でもあるウィリス・バード中佐と北京語の通訳としてパレット大佐であった。

 アイゼンベルグと里見は、後にCIAの中国支部の事務所が設置される延安にバードを連れて行き、中国共産党の諜報組織の代表、恵生に引き合わせる。後に中国共産党の諜報組織、中国特務機関(中国のCIAに該当する)の長官として戦後長く君臨し、中国共産党の秘密警察、暗殺部隊の指揮官として中国の政治家・官僚達に恐れられる事になる中国共産党の「影の実力者」恵生である。

結局パレットの通訳では時間がかかり過ぎるため、英語の出来る通訳として、この会談には江青女史が同席する事になった。毛沢東夫人の江青である。

 会談では、日本軍と戦闘を繰り返す中国共産党に米軍とCIAが全面的に協力する事が決定される。

(山極晃著「米戦時情報局の延安報告と日本人民解放連盟」大月書店) 

 米軍にとっても日本軍は敵であり、CIAと中国共産党は利害が一致していた。

世界の動きが見えていた里見は、石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入して行く日本政府の無能さに軽蔑しか感じていなかった。日本の国の枠から飛び出し、アイゼンベルグと共に英仏と協力しながらアヘンを売買していた里見は、もはや日本人ではなく「帰るべき故郷」の無い国際人になっていた。

 満州は里見にとって自分の作った芸術作品であり、日本国家とは何ら関係が無かった。無能な日本国家が滅亡する事を里見は嘲笑していた。

そしてこの時に始まった中国共産党とイスラエル・アイゼンベルグ、CIAの協力関係は、2007年現在まで絶える事なく継続し続けている。

 71年の米国、中国の国交回復、CIA出身のヘンリー・キッシンジャーによる米国、中国の経済協力関係等は、この諜報における中国と米国、イスラエルとの一体化のごく一部が表に出たものに過ぎない。米国が中国にミサイル技術を供与してきたイスラエル・ルートがこれである。(売ったのはCIA放送局と異名を持つCBSTV社長ウィリアム・ペリーである。)戦後、中国共産党の核兵器開発を担って来たのはアイゼンベルグ社である。事実上、中国をボスとしている北朝鮮の核兵器開発の技術はパキスタンから学んだものであったが、パキスタンの核兵器開発を担ってきたのがアイゼンベルグであり、そこに北朝鮮を同席させて「学ばせた」のはアイゼンベルグである。

特に軍事面では、中国共産党とはアイゼンベルグの事である。  

 この中国共産党、CIA、アイゼンベルグの協力関係は41年に始まっていた。

恵生、アイゼンベルグ、CIAの会談では、中国共産党がその活動拠点の山間部、農村でアヘンを生産し、CIAとアイゼンベルグ、里見がそれを売り捌く事で一致を見る。この会談後、中国共産党は特に福建省南部、江西省の井崗山地域でアヘンを大々的に生産し始める。その利益は中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAの間で折半される。

この構造は2007年現在まで変わらない。アヘン販売ルートを支配しているアイゼンベルグとCIAは、中国共産党には無くてはならない協力者である。

このアヘン取引を基本に、イスラエル・アイゼンベルグは核兵器技術と最新鋭の通常兵器を中国共産党に販売し、CIAも中国に兵器を販売し続けて来た。

中国共産党は、アヘン売買の利益を兵器購入代金に充てて来た。中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAは皆「同じ商売仲間」である。

 70年代初頭、ベトナム戦争により中国政府と米国政府が対立していた時も、中国特務機関とCIAのビジネス・パートナーには何ら変化は無かった。

敵と結ぶ、それが諜報である。

 国家同士が激しく対立する時、諜報機関同士も激しく対立するならそのような諜報機関は三流四流である。国家同士が激しく対立する時、敵国と今までにも増して親密な友好関係と利害の一致を裏側で作り出す、その事によって戦争は回避され自国民の生命が守られる、それが諜報の仕事である。国家にとっての敵国と利害の一致を作り出し、戦争を回避し国民の命を守る・・諜報の本質は自分の国家を裏切り、自分の愛する国家の国民の命を守る事にある。自分の愛する国家の国民の命を守り、自国を裏切り、敵国にも睨まれ、孤立して犬死にする事が諜報員の仕事である。誰も気付かず評価もされず、しかし自分の愛する自国民の命が戦争の回避で救われ、その事を唯一自分の勲章として名誉を感じ、犬死にして行くのが一流の諜報員の仕事である。

第二次世界大戦中は、中国アヘン売買の利益は3等分され、一方では満州帝国を壊滅させようとする中国共産党とCIAの武器購入費用となり、他方では里見の満州帝国を守るための武器購入費用となった。敵国同士の資金源が同一である矛盾など、中国共産党もアイゼンベルグもCIAも里見も誰も問題にせず、矛盾などとは考えない。それが諜報というものであり戦争というものである。これが「当然の常識」であるという認識がないと、「世界の実相」は 遂に最後まで見えて来ない。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49603529.html


 1932年、満州帝国初代総裁に就任した後藤新平は、同盟国ドイツでヒトラーの兵器を独占的に製造するクルップ社の重役ゲハイムラート・ウィーネフェルトを顧問に採用する。やがてウィーネフェルトがヒトラーの命令で駐米ドイツ大使に転出すると、その秘書フリードリッヒ・ハックがそのまま満州帝国総裁顧問に就任する。

 ハックは当時、ベルリン日本領事館の名誉領事であったドイツ軍のアドルフ・シンツィンガー元陸軍少佐と「シンツィンガー・ハック社」という兵器商社を経営する武器商人であった。ハック社は日本軍、特に日本海軍御用達の大型機械、
戦艦用部品専門の商社であり、ハック社が無ければ日本が中国侵略に使用する武器、食料、軍需物資を運搬する船舶が動かなかった。

 このハック社のもう一人の共同経営者で、日本と欧州を行き来し、日本が中国侵略に使用する兵器、太平洋戦争に使用する軍艦部品、その工作機械を日本、満州に運び込んでいたのがポール・ブルームというアイゼンベルグの親友であった。

 ブルームがヨーロッパで買い付けて来る兵器と軍艦部品は、アイゼンベルグと里見甫が行う中国でのアヘン密売の利益で支払われた。日本の中国侵略戦争は、アヘン密売人アイゼンベルグとその親友・武器密輸商ブルームが陰で支えていた。

 このハック社の創業資金は、南アフリカの金塊業者オッペンハイマー一族から出ていた。ブルームは第二次世界大戦後、CIAの初代日本支局長になり、吉田茂首相を連日呼び付け、戦後日本の国家政策を全て決定して行く。
 軍人で政策には精通していないダグラス・マッカーサーが、表向きの日本の支配者であれば、 ブルームは国会で通過する法案の細部まで細かな命令を出す「裏側の支配者」となる。

 かつて吉田茂首相は、満州で里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」の社員、里見の部下としてアヘン密売に従事、日本の中国侵略資金の捻出を担当していた。そのアヘンの利益で吉田茂、里見からブルームは満州帝国に納入する兵器の代金を得ていた。満州帝国をアヘン密売と武器密売で支えた吉田茂とブルームが、首相とCIA日本支局長として、事実上、戦後の日本の進路を独裁的に決定して行く。
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第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。
巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。

福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。
福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。

53年、自由党から出馬し国会議員となった岸は、54年、米国で「2大政党制」を強く主張するロックフェラーの民主党に習い、日本民主党を旗揚げし幹事長となる。この日本民主党には社会党等の労働運動勢力も含まれていた。
岸のその行動は2007年現在の小沢一郎と極めて類似している。(小沢の著書には、ロックフェラーが推薦文を書いている)
岸の政界資金は福家を通し里見から出ていた。

52年4月25日付の日本統治軍GHQの「防諜レポート」には、里見と福家が密談し岸に政界工作資金を提供している点について、「要監視、注意」と報告を出している。

55年8月、日本ではまだ無名であった岸は、重光葵外相と共に訪米しダレス国務長官と会談し、雑誌「ニューズウィーク」の表紙を飾る。重光外相は一切報道されず、無名の岸が「次期日本の総理大臣」と報道され、一躍米国で有名になったのである。

満州帝国に武器を納入していた武器商人ポール・ブルームは、OSS(CIA)の欧州責任者アレン・ダレスの部下であり、ブルームの納入する兵器代金は中国でのアヘン売買の利益で支払われ、実際に支払っていたのは里見であった。

この資金が欧州での米国スパイ組織ダレス機関の活動資金として役立っていた。岸はその里見の部下であった。岸は訪米し満州時代からのビジネス・パートナー、ダレス兄弟の1人と会談しただけであった。

ニューズウィークはダレスのボス、ブッシュ大統領一族の経営するハリマン銀行会長エイブリル・ ハリマンが創立した雑誌であった。

ブッシュのボス、ロックフェラーが2大政党制度を強く主張し米国で民主党の絶大な支援者である事を、岸はボスの里見から教えられていた。
ロックフェラーのコピーを日本で行うよう、岸は里見から指示されていたとも言える。
岸は訪米中、ニューズウィークの編集長オットー・カーンの紹介で、戦後日本の政治家としては初めてロックフェラー三世と会談する。岸はロックフェラーの「お墨付き」を貰って来たのである。

 日本に帰国すると岸には24時間、ロックフェラーとブッシュの子分、ニューズウィーク日本支局長オンプトン・パケナムが「英語語学教師」として付き従う事になる。岸は24時間、ロックフェラーとブッシュに監視される事になる。

57年、岸は里見のアヘン資金で首相となると、6月、即座に訪米しアイゼンハワー大統領、ロックフェラー三世と会談し、日本に永久的に米軍を駐留させる事で同意する。
ゴルフ好きであった岸を会談の合間にゴルフに誘い出し、一緒にゴルフコースを回ったのは、常に祖父プレスコット・ブッシュであった。
ブッシュと岸がゴルフをしている間に、ブッシュの経営する軍事産業専門の投資会社カーライルの子会社、デュロン銀行社長ダグラス・デュロン国務次官が、日本に米軍を常駐させる日米安保条約の素案をタイプし、また日本の自衛隊に売り付ける兵器の見積もりを計算していた。

65年、里見が亡くなると、岸は恩師の死に涙を流しながら達筆な毛筆で「里見甫」と大書する。その文字がそのまま里見の墓標に刻印される事になる。

里見の資金を引き継ぐ後継者が、岸信介である事を遺族全員が認めていたからである。その岸の人脈と金脈を引き継ぎ、首相となったのが現在の安倍総理である。
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現代日本を作った男ブルーム

第二次世界大戦後、初代CIA日本支局長となり、日本の主要官庁責任者、大臣、首相を連日呼び付け、政策、法律の細部に渡り細かな指示を与え、事実上戦後日本の「運営者」となるポール・ブルームは、1898年、日本の横浜に生まれた。
南アフリカの金塊生産を独占するオッペンハイマー一族の末裔であるブルームの父母は、横浜で金塊取引業を営んでいた。

1897年の日清戦争に勝利した日本は、中国大陸での資源開発や投機ビジネスに乗り出し、続々と富裕層とビジネスマンが中国へ渡航して行った。
また後に満州帝国総裁になる内務省官僚、後藤新平の「中国でのアヘン密売を奨励し、その利益で中国に大帝国を建設すべし」という主張に合わせ、日本の暴力団、右翼組織が続々と中国での麻薬ビジネスに乗り出して行った。
そして崩壊寸前であった中国の清王朝の発行する紙幣など誰も信用せず、当然、中国満州でのアヘン取引は金塊で決済されていた。その金塊を供給していたのが南アフリカのオッペンハイマー一族であり、その日本支部ブルーム一族であった。

1842年のアヘン戦争以来、中国で行われる米国のアヘン貿易を独占して来たのは、ブッシュ大統領一族のラッセル社であった。中国大陸でブッシュ一族の行うアヘン貿易の決済も、ケミカル銀行を窓口としてオッペンハイマー一族の提供する金塊で行われていた。
ケミカル銀行は、シティバンクの経営者でもあるジェームズ・ベーカー一族の経営する銀行である。

1991年、父ブッシュがイラクと湾岸戦争を行った時の国務長官ベーカー、2007年現在のイラク戦争に協力するように、ドイツ、フランスを説得して回った子ブッシュの欧州特使ベーカー、その一族はアヘン戦争時代から、ブッシュ一族のアヘン密売のマネージャーとなっていた。

かつては、ブッシュの行うアヘン密売の決済をベーカーがケミカル銀行でマネジメントし、現在はブッシュの行う湾岸戦争とイラク戦争を、相変わらずベーカーが閣僚、特使としてマネジメントしている。

現在でも世界各地で行われる麻薬密売の決済には、南アフリカのオッペンハイマー一族が提供する金塊が使用されている。その代表的窓口となっているのが、 決して警察が立ち入る事の出来ないオフショアである、英国領バミューダの投資会社ミノルコの口座であるが、この麻薬密売の決済企業ミノルコは、ベーカー一族の経営するシティバンクの代表取締役ウォルター・リストン、シティバンクの顧問弁護士ロバート・クレアが経営している。

アヘン戦争の昔も現在も、麻薬密売の決済は、ブッシュ大統領、そしてベーカー一族の銀行シティバンクとケミカル銀行が行っている。
また現在でも、麻薬密売に使われる金塊はオッペンハイマー一族が提供しているが、カナダの金塊生産を独占するオッペンハイマーの子会社、バリック・ゴールド社の経営者が父ブッシュである。
アヘン密売人ブッシュが、オッペンハイマー一族の「子分」である事は、今も昔も変化が無い。

1900年代初頭、続々と中国大陸での麻薬密売に乗り出した里見甫など、日本の暴力団の麻薬「決済」を担ったオッペンハイマー日本支部が、横浜のブルーム一族であった。そのブルームが、つまり南アフリカのオッペンハイマー一族が、戦後日本の進路の全てを細部に渡り決定して来た。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605378.html

1945年、第2次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来ると、日本の政治は米軍の命令通りに行われ米軍の指揮下に入る。日本の総理大臣を毎日呼び付け、連日細かい指示を与えたのがCIA日本支局長ポール・ブルームであった。
ブルームが2007年現在の日本の出発点を決めていた。

ブルームは1898年、日本の横浜に生まれた。世界の金塊GOLD、ダイアモンドを独占支配する南アフリカのオッペンハイマー一族にブルームは属していた。父母は横浜で貴金属商を営み、中国に金塊を輸出していた。

当時、日本は中国へ軍隊を送り込み侵略戦争を行っていた。日本の軍隊に必要な武器、弾薬、ジープ、戦車等の購入費用に困った日本政府は、中国で麻薬、アヘンの密売を命令し、その利益で武器を購入していた。
当時、中国は国家が崩壊状態であり、国の印刷する紙幣というものが無かった。
日本政府の麻薬密売と武器購入は金塊で支払いが行われていた。ブルーム一族はその金塊を提供していた。

中国での戦争が拡大すればするほど、武器はたくさん必要となり、支払いのための金塊もたくさん必要となった。貴金属商のブルーム=オッペンハイマーにとって、戦争によって商売が拡大した。オッペンハイマー一族は、商売の拡大と共に優秀な営業マンを必要とした。
オッペンハイマー一族が目を付けたのが、日本育ちのポール・ブルームである。

中学卒業と同時に、ブルームは本家のオッペンハイマーに呼び寄せられ、ジュネーブのハイスクールに入学する。その時ブルームは、米国のCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスの下で諜報員(スパイ)としての訓練を開始する。
現在のブッシュ大統領一族は、オッペンハイマーのカナダ支部であるバリックゴールド社の経営者であり、オッペンハイマーの提供するダイアモンドを使った
ドリル製造会社ドレッサー社の経営者である。石油を掘り出しダイアモンドを鉱山から掘り出すためのダイアモンド・ドリルのメーカーである。
ブッシュ大統領一族は、オッペンハイマー一族の下請け人一族であり、CIAの創立資金を提供していたのが、このブッシュ大統領一族であった。
オッペンハイマーの優秀な営業マンとしての教育を、オッペンハイマーの下請け人ブッシュ一族=CIAが請け負った事になる。

当時、ヨーロッパではナチス・ドイツ=アドルフ・ヒトラーがユダヤ人を大量に殺害しその財産を奪っていた。ヒトラーがユダヤ人から奪った貴金属、金塊の販売を担当していたのが、ブッシュ一族の経営するユニオン銀行であり、ユニオン銀行のヨーロッパ支店長が後にCIA長官になるアレン・ダレスであった。
ブッシュ一族のユニオン銀行のヨーロッパ支店長ダレスが、そのままCIAのヨーロッパ支局長であった点にブッシュ=オッペンハイマー一族とCIAの一体化が読み取れる。ブルームはこのダレスによって育てられ、後にCIA日本支局長となる。

こうして見ると、CIAがブッシュ=オッペンハイマー一族の「私的」な情報収集組織=スパイ組織として発足している事が分かる。

当時、CIAヨーロッパ支局長のダレスの下には、ブルームの他に同じオッペンハイマー一族のヘンリー・キッシンジャーがいた。
ブルームは日本へのCIA工作員=スパイであり、キッシンジャーはソ連(ロシア)に対するCIA工作員(スパイ)であった。同じダレスの部下として、同じオッペンハイマー一族として、ブルームとキッシンジャーはジュネーブの地で、しばしば共に食事や個人的交友をしたであろう事が想像される。(資料が残っていないため、この点は想像である。)

スパイを養成するには子供の頃から訓練しなければならない事は、高校時代からダレスに教育されたブルームが一番知っていた。1945年、CIA日本支局長となったブルームは、日本人のCIA工作員(スパイ)となる人材を探し始める。
ブルームは、当時、日本の吉田茂首相を毎日呼び付け、日本の政治に様々な命令を下していた。ブルームはしばしば吉田茂の自宅を訪問もし、深夜まで吉田首相と会談した。その時ブルームが目を付けたのが吉田茂首相の孫であった。
ブルームは吉田首相の孫を自分の家に引き取り、子供の頃から工作員(スパイ)として徹底的に教育し育て上げる。
この吉田首相の孫が、2007年現在の麻生太郎外務大臣本人であり、日本の次期首相候補の最有力者である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607501.html


 第二次世界大戦後、日本に進駐して来た米軍GHQには、冶金(やきん)課という部署が設けられた。金塊を生産する国ではない日本に、金塊、貴金属を扱う専門部署が設けられた事は、極めて奇妙であった。

 日本軍は第二次大戦中、中国大陸や朝鮮半島で中国、朝鮮の人々を多数殺害し、その財産を略奪し、また中国においてアヘンを密売し、その莫大な利益を蓄積していた。
 戦争終結間際、日本軍はその莫大な利益を金塊、プラチナ、ダイヤモンドに代えて飛行機で日本本国に持ち帰っていた。その莫大な貴金属は日本各地に隠され、また日銀の地下金庫に保管されていた。

 その隠された財産を摘発、没収するため、GHQには貴金属担当の専門部署が設けられていた。

 戦後GHQは、日本軍の隠した貴金属を次々と発見していくが、発見されたものは米国政府の命令で米国本土に送り、米国の財産としなければならなかった。
 しかし、日本軍部が自己所有として記録に残した貴金属と、実際に米国本土に送還された貴金属の量には圧倒的な「差」があった。日本軍の隠した貴金属摘発を担当したのは、GHQのマッカート少将であったが、実際に実務を仕切ったのは冶金課長のジョージ・パーディであった。 

 なおパーディがGHQから貴金属を奪うに当たっては、オッペンハイマー一族のポール・ブルームCIA日本支局長が当然大いに協力した。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605569.html


 第二次世界大戦後、CIA日本支局長として日本に米軍基地を常駐させる等、現在の日本の政治路線を事実上決定し、また2007年現在の麻生太郎外務大臣を育てたポール・ブルーム。第二次大戦中、CIAにおけるブルームの上司は、後にCIA長官となるCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスであった。

当時CIAの活動資金は、ブッシュ大統領一族の経営するユニオン銀行から出ており、ダレスはユニオン銀行ヨーロッパ支店長でもあった。


ブッシュ=ダレス=ブルームは、第二次大戦中における日本の軍事力増強に全面的に協力していた。ブルームの経営する(つまりブッシュの経営する)武器密輸商「シンツィンガー・ハック」社は、日本海軍の軍艦建造に必要な軍艦部品、金属を専門に輸出していた。敵であるはずの米国が日本の軍事力の増強の中心にいた。日米戦争=日本と米国の対立・戦争は「茶番劇」であった。

一方、1930年代、米国議会に日本との戦争実行を強く働きかけていたのはブッシュの経営するハリマン銀行社長エイブリル・ハリマンであり、日本との戦争に備え米軍が兵器を大量に購入し始めると、その兵器を製造し「金儲け」に専念し始めたのもブッシュのハリマン銀行の支配下にある軍事産業であった。

日米戦争・・米国政府に武器を売り付け「金儲け」するブッシュ一族は、同時に部下のブルームを使い、日本に兵器と軍事物資(鉄鋼製品、ニッケル、チタン等の希少金属)を販売し利益を上げていた。

また、日本に鉄輸出を禁止し、米国国内での「日本との開戦論」をアオった悪名高い「ハル・ノート」の起草者コーデル・ハル国務長官は、ブッシュの顧問弁護士だった。

第二次世界大戦で日本人と米国人が戦争で殺し合う、その兵器は日米両方ともブッシュ一族が製造し、殺し合えば殺し合う程、ブッシュ一族に大金が転がり込む仕組みになっていた。

日本との戦争を開始したルーズベルト大統領の大統領選挙資金は、バーナート・バルークが大部分出資し、バルークがルーズベルトの閣僚人事の全てを単独で決定していた。この「ルーズベルト政権の独裁者」バルークは、ブッシュのハリマン銀行の社員であった。

日本への鉄輸出を禁止し、他の業者を排除し、日本への軍事用鉄鋼輸出の独占体制を作ったのがブッシュであり、その実働部隊がブルームである。

このブルームの弟子・麻生太郎が、2007現在の日本の次期首相候補である。

戦争が誰の自作自演であるか明らかである。

ブルームが日本軍に納入した兵器、軍事物資の代金は、日本政府直属の麻薬密売人、里見甫(はじめ)が全額支払っていた。日本が中国に侵略し建国した満州帝国で麻薬密売を担当し、日本の戦争資金を作っていたのが里見であった。

ブルームがブッシュの命令で日本軍に兵器を運び込み、里見が支払う。里見はブッシュ=CIA=ブルームのパートナーであった。

米国との戦争を開始した日本の東条英機内閣。その東条が総理大臣となった時の選挙資金を出していたのが、ブッシュのパートナー里見であった。

日本と戦争を始めたルーズベルトの大統領選挙資金を出していたのもブッシュ一族であった。戦争で日米に兵器を売り「金儲け」したのもブッシュであった。

戦争が誰の自作自演であるか、極めて明確に出ている。

1840年、アヘン戦争で英国が勝利すると、中国での麻薬売買が急速に拡大する。この麻薬密売を担当したのが青パンと呼ばれる中国マフィアである。不思議な事に、この青パンは麻薬代金を手形で支払っていた。手形は支払期限が来るまで現金に出来ない。しかしインド等から麻薬を密輸してきた船舶会社、密輸人は、すぐに手形を現金化して再び出航したい。そこで、この手形を支払期限前に買い取り現金化し、手数料を取る(手形の割引)銀行が必要になる。しかし相手は中国マフィアであり、手形の支払日に中国奥地に逃亡し、または暴力で支払いに抵抗して来る可能性がある。従って、この手形を現金化する銀行は中国マフィアのボスとして中国全土を監視下に置き、マフィアの逃亡を許さず、しかも「力づく」でマフィアに支払いを強制出来る中国マフィアの支配者=帝王でなければその任務は務まらない。この手形銀行がブッシュ一族のハリマン銀行であった。

ブッシュ一族は、中国の闇社会の帝王として君臨する独裁者一族であった。

日本の満州帝国の支配人=資金の元締めである里見は、このブッシュ一族の麻薬ネットワークの一部を担っていた。中国麻薬密売におけるブッシュのパートナー里見。そしてCIA経営者ブッシュの部下ブルーム。この2人が日本軍の軍事力を作り上げていた。

そして里見の麻薬ビジネスのパートナーには、後にイスラエルを建国し、世界最強のスパイ組織モサドを創立するショール・アイゼンベルグがいた。

2007年現在、ブッシュ大統領が「イスラエルを中心に世界を統一する」=NWOニューワールドオーダー=新世界秩序を作ると主張する理由がここにある。

また、里見の部下には右翼の大物で、後に中曽根康弘元首相の総理大臣選挙資金源となる児玉誉士夫がいた。児玉は戦後CIA日本エージェント=工作員となる。従って国鉄を民営化しJRを作った中曽根元首相は、CIAの対日本工作資金で首相になった事になる。

また、児玉は自民党の創立資金を出資した人物であり、自民党がCIAの対日本工作として、CIAの下部組織として創立された事が分かる。

また、里見の麻薬密売組織の部下には、吉田茂(後に自民党総理大臣、2007年現在の外務大臣麻生太郎の祖父)、佐藤栄作(後に自民党総理大臣)、池田勇人(後に自民党総理大臣)、岸信介(後に自民党総理大臣、2007年現在の安倍晋三首相の祖父)がいた。

日本の自民党と歴代総理大臣がCIAの対・日本工作として「作り出され」て来た歴史が、この中国麻薬密売組織の中に明確に浮かび上がって来る。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607677.html
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高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。

「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。

アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>
天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。

日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。
娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。

「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」

福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。
<中略>
至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。
<中略>
日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。
<中略>
片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。

男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。

このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

同じ手口を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からアヘンの輸入であった。皇室と三菱は、三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起きる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国はこのアヘンの金でできた。

天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、昭和天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。

1938年12月に興亜院がつくられ、阿片政策を統括した。その翌年から「土薬公司」ができた。日本でもケシ栽培をし、朝鮮に送り込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。
この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。

多くの軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部を貰って遊興にあけくれた。マーク・ゲインは『ニッポン日記』の中で1946年3月28日の出来事を書いている。

「東条が自殺を企てたその家は、岩崎家からの贈物で、東条一家には三菱財閥の情深い当主から現金、株券その他で一千万円の額があるという報道が行なわれた。」
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825


天皇家が味をしめたのは日清戦争であった。この戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円。このうちの二千万円が皇室の財宝となった。天皇家はこの戦争で味をしめた。

1945年8月、敗戦となった。「降伏後における米国の初期の対日方針」の中で、「皇室の財産は占領目的の達成に必要なる如何なる措置においても免除せられることなかるべし」と明記されている。

敗戦後の10月22日、宮内省はGHQにより、四十数項目にわたる報告書を要求された。11月18日、GHQから覚書「皇室財産に関すること」が出た。GHQは生活費を除くすべての皇室財産を凍結するとの指令を出した。

この年、GHQの財務調査官たちは、昭和天皇の個人資産を1億ドル以上と査定した。財務調査官たちは「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」を作成し、マッカーサーの承認を得た。皇室財産も課税計画から除外されないとした。

それでは、1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容をみよう。

「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」
当時の財閥の住友吉左衛門は1億1738万円、三井高広は9628万円。皇室財産は、GHQの公表分であるが日本の財閥の約30倍。しかし、この数字は正確ではない。天皇も、三井も、三菱も、敗戦前にほとんどの金をスイスの秘密銀行に入れたからである。

さて、この皇室財産はその90%が旧憲法のもとで無償没収され、残りの10%は憲法88条の規定により国に属することになった。日本の戦後史を書く学者のほとんどは、皇室財産には触れることがない。井上清がこの程度触れただけである。
では、マーク・ゲインの『ニッポン日記』を見ることにしよう。マーク・ゲインは戦後日本にやってきた記者の一人である。

「ある総司令部の専門家が言った。『天皇の財産は5億ドルから10億ドルの間だろう。このひらきは、我々の到着直前に彼の財産がどれだけ隠匿されたかという我々の知らない、また多分将来も知り得ない事実によって生じるものである」
この、「多分将来も知り得ない事実」について、エドワード・ベアは『裕仁天皇』の中で次のように書いている。

「皇室はこれらの資産の大半を失ったが、SCAPの厳しい監査の目をのがれて、残された資産もいくらかあったようである。敗戦の濃くなった1943年、44年、専門家の助言に従って、海外の仲介人を通じ、日独伊枢軸国に好意的だったスイスやアルゼンチンのようなラテンアメリカ諸国の銀行に資産を移されたとも言われる。1948年7月19日付のSCAPの報告書には、『日本の公的、私的財産は共にSCAPの十分監視の行き届かないラテンアメリカ諸国に流出した』とある。」

あるASADの専門家は、戦時中に総額4100ポンドの皇室財産が大部分、横浜正金銀行を通じて海外に運び出されたと見ている。そのうち、スイスに流れたのは850万ポンド、ラテンアメリカに流れたのは1004万ポンドであった。こうした不明な財産の回収作業を行われないまま、1951年に占領が終結した。

マッカーサーに関する限り、彼は全般にわたって、天皇の海外資産の調査に明らかに弱腰の態度を見せていた。(略)

敗戦直後に宮内省がGHQに報告した皇室財産の総額は約16億円。皇居、御所などの建物のほかに、山林面積は群馬県と栃木県の二県の合計に等しく、農地は奈良県の全耕地面積に匹敵するといわれた。この報告書を見たGHQの係官は、皇室は金銭ギャングの最たるものだと言ったという。」

天皇の財産はどこへ消えたのか。謎は残る。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060826


1947年1月21日、米国統合参謀本部はGHQに、「日本国の賠償金の原資を確保せよ」との命令とともにひとつの文書を送付した。

「皇族あるいは、彼または彼女の資産の受取人名義人は、事実上国会の管轄外に置かれてきた。このため当委員会は、降伏時における、皇室、宮内省、および全皇族ならびにその名義人の比較的価値のない純粋な物品または骨董品を除く所有財産すべての品目の詳細且つ完全な目録(売却方法を含めて)の入手を望むものである。」

さて、私は日本郵船については書いた。

大阪商船の株も皇室は持っていた。この二社の船が、天皇が「火事場泥棒方式」で侵略していった地域へ、物資、機械、人間を運ぶのに使われた。三菱と三井のみならず、住友以下の財閥とも皇室は深く結ばれていた。

また、皇室の銀行支配も徹底していた。皇室は日本銀行の47%の株を持っていた。紙幣を発行するたびに、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた。
日銀の他に注目しなければならないのが、横浜正金銀行である。

「皇室財産が大部分、横浜正金銀行を通じて海外に運び出された」とベアが書いているのは厳然たる事実である。

ポール・マニングは、『米従軍記者が見た昭和天皇』の中で次のように書いている。
「昭和天皇がヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは、日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」

2001年8月13日、共同通信社はスイス政府とスイスの赤十字委員会(ICRC)の1945年8月、終戦直前の公文書を報道した。その内容を記すことにする。簡単にわかりやすく解説する。

終戦直前の8月、昭和天皇の皇后(良子)の名で一千万スイス・フラン(当時と現在のスイス・フランの購買力を単純に比較しても約33億円)の巨額な寄付をするとスイスの赤十字国際委員会(ICRA)に提示した。これに対し、連合国である対日政策決定機関の極東委員会が、この寄付申し込みを受け入れるなと赤十字に通達を出した。しかし、赤十字はこの極東委員会の提案を覆し、1949年5月に秘密裡に送金を受け入れた。この寄付は横浜正金銀行がスイス国立銀行に保有していた「日本の秘密口座」と呼ばれた「特別勘定」から拠出された。皇室はスイスの国立銀行に秘密口座を持っていたし、現在も持っている。どうして天皇が自分の名前でなく皇后名で横浜正金銀行からスイスに送金したかは不明である。

しかし、推測してみよう。2001年の評価額で約33億円の金を赤十字に寄付するということは、赤十字と何らかの秘密取引をしたとしか考えられない。寄付の数十倍ないし数百倍の秘密預金を、赤十字の名前を借りるか、その力添えでスイスの国立銀行の秘密口座に入れたということであろう。

終戦直前の8月7日、東郷茂徳(当時外相)が、赤十字の駐日代表に皇后名で一千万スイス・フランの寄付を申し入れた。赤十字は応じた。しかし、スイス政府は8月16日に英米などとの合意に基づき、日本資産を凍結した。

1949年に赤十字が英米による圧力下の日本資産凍結の圧力を覆し、一千万スイス・フランの寄付を正式に認めたということは、横浜正金銀行の天皇の「秘密口座」の資金の凍結を解除するための努力の見返りであったといえよう。正確な金額は把握できていない。前述のマニングは昭和天皇の秘密資産の一部について次のように書いている。

「天皇はハイテク電子工業とホテルへの適切な投資で得た推定五千万ドルを公認の手持ち資金として個人的に東京で貯蓄することができた。

この投資を可能にしたのが、スイスにある推定30億ドルの秘密資産である。この秘密資産の一部をさまざまな一流企業に融資した天皇は、投資の機会を得て、かなりの額の利益を得たのである。」

<中略>
天皇は(表面的には皇后名であるが)、執拗にこの寄付に力をそそいだものと思われる。この紛争は1946年6月、極東委員会と連合国軍総司令部(GHQ)にゆだねられた。極東委員会はこの年の10月、「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定した。マッカーサーの決定ですべてが終わったかにみえた。しかし、赤十字はアメリカの弁護士を雇い、マッカーサーに脅しをかけた。マッカーサーは解任の動きを知る。この問題がからんでいると私は推測する。しかし、今のところ確証はない。

そしてついに極東委員会も、この問題に反対し続けた英国政府も、赤十字の工作に敗北宣言を出した。

<中略>
赤十字は私たちが考えるようなナイチンゲールの世界ではない。国際金融資本、特にユダヤ資本と深く結びついている。彼らは朝鮮戦争を仕掛けるために、天皇が必要だったのではないのか。天皇は彼らの要望に応えると約束したために、秘密資金の凍結を解除されたと推定しても、そう間違った推測とはならないであろう。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060827


「1944年1月、昭和天皇は参謀総長と軍令部総長から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。

木戸は当然のことながら、この指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解したのである。

二番目の状況を達成するには時期尚早だったができた。木戸は皇室の財政顧問でもある主要銀行の経営者たちを招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。東京にある天皇の銀行口座の残高が事実上ゼロになったが、スイスの銀行の番号口座残高が急激に増加したのだった。横浜正金銀行のスイスの支店は次に、天皇の仮名による銀行投資にドイツの信用を付け、天皇の流動資産の換金能力をさらに高めた。他の財閥の大企業経営者たちも天皇の現金の流出に気づき、アフガニスタン、トルコ、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、朝鮮、香港、満州、フランス、ドイツなどに預金していた現金を引き出し、スイスの銀行へ送金した。彼らはまた、ブエノスアイレスにある銀行の法人や個人口座の数も増やしたのである。

占領期間中、日本銀行が横浜正金銀行の業務を引き受けることになり、この結果、皇室財産の財務上の秘密が継続して保証されたのである。」

私が書いた赤十字と天皇の秘密は、このマニングの本で真実であることが理解できよう。
日本赤十字社は、現在でも、皇室が支配的立場にあることを知らねばならない。この赤十字組織が、世界を支配する勢力の一支部なのだ。マニングの本には、天皇がいかに金塊をアルゼンチンに運んだかの詳細な内容も書かれている。

もう少し具体的に、赤十字国際委員会(ICRA、本部ジュネーブ)について書くことにしよう。では、アダム・レポーの『ヒットラーの秘密銀行』から引用する。
「赤十字国際委員会が各国諜報機関から、スパイを潜入させる標的として狙われたのは当然のことだった。大戦中でも枢軸国、連合国を問わず自由に越境して、救援活動ができる国際的組織だったからだ。また、情報収集も任務のひとつで、職員たちは双方の捕虜や軍指導者たちに対する質問権を与えられていた。」

『ヒットラーの秘密銀行』から、もう一つ引用したい。ナチス資産について書かれているが、ドイツの枢軸国日本の姿もみえてくる。

「英米仏三国は1945年8月、スイスに預けられているナチスの資産の所有権を主張するもスイス政府の対応ぶりは相変わらずのものだった。三国の主張はどんな法律を根拠とするものか理解に苦しみ、また連合国によるドイツ占拠の事実は『ドイツ国境を越えて法的効力を持つことはほとんどない』という言い逃れに終始した、とSNBの報告書は記している。

「スイスに預けられたナチス資金」を「スイスに預けられた天皇の秘密資金」と置き換えるならば、私が書いてきたことが事実であることが理解できよう。『ヒットラーの秘密銀行』には、スイスの銀行について書かれている。日本に関係する記事に触れておこう。国際決済銀行(BIS)がスイスにある。この銀行が、ナチスと日本と戦争中も取引を続けた。では引用する。

「BISの総裁はアメリカ人トーマス・マッキトリック、ゼネラル・マネージャーはフランス人ロジェ・オボワン、ゼネラル・マネージャー代理はドイツナチ党員のパウル・ヘクラーだった。大戦中の理事には、ライヒスバンク副総裁で後に戦死とされたエミール・プール、同総裁のヴァンター・フンク、その他ロンドン、ブリュッセル、ローマ、日本から派遣された銀行家たちが顔を揃えていた。(略)ベルリンにとっては好都合なことに、戦時中のBIS総裁は、ナチスの略奪金塊の主要ルートだったスイス国立銀行の総裁エルンスト・ウェーバーだった。(略)第一次世界大戦の敗戦国ドイツが連合国に対して負っていた賠償金をヤング案に基づいて回収することを目的に、数カ国の中央銀行が1930年5月に設立した銀行だったのである。ニューヨーク・ファースト・ナショナル銀行など世界の主要金融機関が共同出資し、これらの国々および日本が理事を送り込んだ。(略)BISの設立資本金は五億スイスフランで、ベルギー国立銀行、イングランド銀行、フランス銀行、ライヒス・バンクという中央銀行五行によって保証されることになった。これに日本の代理を務める日本銀行団、およびモルガン銀行、ファースト・ニューヨーク銀行、ファースト・シカゴ銀行から成る米国銀行団も参加した。」

ここまで書いてきて、戦争というものが、金融と深く結びついていることが理解できたはずである。BISとスイス国立銀行は深く結びついている。私の推測の域を出ないが、
天皇はスイス国立銀行に「皇后名」で、BISに「天皇名または仮名」で、最低二口の秘密口座を持っていたと思われる。マニングの推定「35億ドル」以上ではなかろうか。35億ドルでは少な過ぎる。

<中略>
日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の『神々の軍隊』がでた。この本の中で濱田は天皇の秘密資金に触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などスイス、バチカン、スウェーデンの銀行などに預けられていた。(略)中でも国際決済銀行、通称“バーゼルクラブ”は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。(略)

内大臣木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和十九年一月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃がすよう指示した。

そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに戦争協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。(略)皇室とバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界の闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない。M資金の闇は深い。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない」には全く賛成できない。私は昭和天皇が戦後も、マニングが書いているように蓄財作戦に熱中していたと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人々を悩ませたのである。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的数字がクローズアップされる。
それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」木下道雄(元侍従次長)の『側近日記』が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで終戦直後の天皇家の財産は37億5000万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7912億円である。」

この数字の十数倍近くをスイス銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100億円を切っていた。

天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。

天皇の「キリスト教入信」対策は、この二つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。
それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも、広田弘毅のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060828


天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。

しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。

貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html


日本の天皇家は古代からただひとつの家系がつながってきた。これは世界に類を見ない。また昭和天皇は敗戦の時にマッカーサーに対して、「全ての私財と自分の命をも放棄する。国民を救って欲しい。」と言い、マッカーサーはこれに感動したと学校では習ってきた。

 ところがこれらは全くの創作のおとぎ話であった。私達は米軍の策略にまんまと騙されてきたのだ。

昭和天皇が終戦時に国民を配慮した気配は全くない。ひたすら私財の保全にだけ心血を注いだ。それを米軍は日本支配の道具として位置づけることで国民の洗脳に成功した。
結局、学校教育は米軍の指図による創作だ。さらに右翼などは天皇システムを保護する事で米軍の日本支配に貢献してきたのだ。見事な策略と言うほかは無い。

立ち直る見込みのない、無能そして国賊的日本政府のていたらくは、殺人総合商社アメリカの商売の成功を示すものである。

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社
日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、
欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、
欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを
公然許可すべき」という指示を天皇に与える。

賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に
「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、
天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。
(福沢諭吉全集 第15巻)

1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い
仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で
大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は
天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」
日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は
「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の
売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族の
サギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。

その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性を
だまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の
売春業者であった。
天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」
された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に
売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。

数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。
これが従軍慰安婦の原型である。

日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。

この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、
三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、
全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の
新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を
「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する
「売春業参加のお礼」として建設された。
(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と
協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。

こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が
蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた
米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で
1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、
女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、
ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で
「無給」で重労働を行っていた。

そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって
戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく
自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し
略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に
運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」
という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争
は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、
「天皇一族は金銭ギャングである」
と吐き棄てるように語っている。
(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)
1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は
この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、
海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、
スイスに850万ポンド、
ラテンアメリカに1004万ポンド等、
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、
天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。

この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した
蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。
(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本を
どのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、
天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金
を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が
日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そして
スイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた
日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されて
いる最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など
何も考えていない事は明白である。
(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」
マルジュ社)。

なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた
商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の
対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは
何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が
「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員
であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を
借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、
港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、
莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。

天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の
金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は
「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を
「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが
虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのも
スイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に
「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族
の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪
ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。
(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 
ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。

日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い
女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が
社会問題化し、それを禁止した法律であった。

天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」
(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の
「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、
1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、
日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇
の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し
米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、
人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語る
のがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の
無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。
 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。

実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。 いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。

効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

 1941年にフィリップ・ペタン内閣は日本がインドシナ半島北部を占領することを認めた。近衛文麿は『交渉による平和』を望んだが裕仁の説得に失敗し、辞意を表明した。宣戦布告の決意をし、天皇は東条将軍を首相に指名した。彼は満州で組織的な略奪を行った岸の一党【原文ではclanつまり悪党集団:訳者】の手下であった。

 パールハーヴァーの『だまし討ち』(6)は、東南アジアにおける日本の好戦性を解き放つシグナルであった。日本はタイ、スマトラ、ビルマに侵攻し、グアムとホンコンをその手にした。さらにマッカーサー将軍をフィリピンの領地から追い出した。新たに付け加えられた領地は憲兵隊によって組織的に略奪された。秩父宮はシンガポールに黄金の百合の総合本部を置いた。専門家たちが目録をつくるためにそこにすべての分捕り品が集められた。

 フィリピンでは欧米の銀行が黄金の百合のエキスパートたちの第一目標であったが、彼らはフィリピンの財宝を奪い取って、筆頭株主が裕仁その人である横浜正金銀行【原文は英語Yokohama Specie Bank:訳者】、台湾銀行、そして他の国有銀行の財産にしたのである。その黄金の一部は戦争の経費に充てられた。スイス、ポルトガル、アルゼンチン、そしてチリの銀行が洗浄に使われた。

 憲兵隊と黄金の百合の実行者たちが奪った富はシンガポールの集中させられ、最終目的地である日本に輸送されるためにマニラに運ばれた。
[黄金の百合からブラックホールの資金へ]
ミッドウエイの戦いの後、東南アジアにおける軍事的な力関係は米国に有利に傾いた。日本は海上輸送の支配権を失った。裕仁と帝国の第一人者たちは帝国の敗北を予想し始めた。

 それ以来、公式には富士山麓で結核療養中であることになっていた秩父宮に率いられてきた黄金の百合作戦は、マニラで足止めを食らっている戦争の分捕り品を救うことに必死になった。秩父宮はまず病院船を使って金を輸送し、その後その金を日本の山地に作られた地下壕に溜め込んだ。

1943年には、米国が効果的な海上封鎖体制を確立したため、そのような方法は取れなくなった。財宝はマニラの波止場で山のようになりだした。秩父宮はそこで地下壕建設のための特殊な技師の集団を作り、分捕り品を地下に隠す作業を始めた。マニラではかつてスペインの町であったイントラムロスの地下が使用され、巨大な収容能力を持つ場所を提供できた。

 品物を慎重に移送できる一つの通路が波止場とイントラムロスの間を直接に結びつけた。秩父宮は歴史的な場所や教会、大学など、爆撃がほとんど無いあらゆる場所をつなぐように選んでいった。

 マニラの北で竹田宮が洞窟を使って地下壕の網の建設を監督した。専門家たちが恐ろしいほど効果的な大量のワナの兵器を仕掛けた。爆発物、毒ガスのカプセル、水や砂を使ったワナ。南京虐殺の実行者の息子であるもう一人の皇族の朝香宮孚彦【原文ではTakahitoとなっているが「たかひこ」の誤り:訳者】親王と、シンガポールのヒーローであり差し迫った米軍の攻撃に立ち向かうためにフィリピンに派遣された山下将軍が、この地下での作戦に加わった。技師たちと奴隷たちは組織的に生きながら地下に埋められた。

 マッカーサーがフィリピンを再征服し始めたとき、皇族たちは急いで未だ地下に入れることができなかった財宝を隠そうとした。黄金を積んだ船が船員を乗せたまま沈没させられた。日本の敗戦はマニラ市民の虐殺と占領を終わらせたが、その後に皇族たちは潜水艦で逃亡した。

 1945年から米国の諜報機関が黄金の百合の存在に気付いた。諜報員であるジョン・バリンジャー(John Ballinger)は、漁民に変装して黄金をいっぱいに入れた箱が病院船に積み込まれるのを観察することができた。マッカーサーは彼のライバルである山下を逮捕し、彼の腹心をこの日本の将軍のお抱え運転手である小島老人に対する尋問官とした。

そのセベリノ・ガルシア・サンタ・ロマナは山下の行動に関する膨大な情報を手に入れ、隠匿場所の正確な数をつきとめることができた。『サンティ』【サンタ・ロマナの別称と思われる:訳者】はこうして『山下の財宝』の守り手となった。彼は、OSSの元局員であり最近までウイロウビィ(Willoughby)将軍(8)の特務機関G−2と協力していた謎の男エドワード・ランドセイル(Edward Landsale)(7)が作戦の指揮をとるまでは、ずっとマッカーサーの命令の下にとどまった。

 トルーマン大統領にこの件が任されて以来、掘り出された分捕り品はブラック・ホールと呼ばれる対共産主義の戦いの資金として使用されることになった。あるロウズベルトの顧問に認知されたこの計画は、ドイツ、イタリア、日本によって盗まれた黄金を親米政権の財源として使い、次に、『危険なアカ』の脅威にさらされる多くの『民主国家』の深奥でこの資金により選挙を操作することから成り立っていた。

 ロバート・アンダーソンの助けを受けてあるスペシャリストが資金を洗浄した。サンティが探し出した黄金は42カ国の170の口座に納められた。CIAの銀行口座ネットは、東南アジアから盗まれた富を隠し、金の値段を米国の経済的利益にとって都合の良いあるレベルで維持することを可能にした。(9)
財産は日本に戻ってくる

 米国当局によって押収された分捕り品は当初3つの異なった財源を潤した。四谷資金は、マッカーサーの秘密の右腕であるG-2の長官チャールズ・ウイロウビィの活動を支えた。彼はフランコ将軍とファシスト警察の手法の賛美者である。第2の資金は、日本におけるニュルンベルグ裁判に匹敵する東京裁判の判事ジョセフ・ケーナンの名前が付けられたのだが、非常に明確な機能を持っていた。共産主義に対するマッカーサーの戦いの同盟者へと変身した帝国のメンバーを免責するために証人たちを買収することだった。

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。最も戦略的な資金は、疑いも無くM資金である。それは日本で共産主義者や社会主義者が権力を握ることを妨げる戦いのために運用された。戦後、つかの間の社会主義政権は、M資金投下のおかげで米国好みの吉田茂によって、失墜させられたようである。この資金は敗戦日本の公式な歴史に出資するためにも利用された。

 児玉誉士夫が「私は敗北した」という文章を出版したのはこれである。この本は、CIAを通してM資金をつぎ込まれたものであるが、笹川良一や岸信介などの将来の日本の大物、つまりマッカーサーによって称揚された国粋主義者たちを免責するのに役立った。
 1951年に講和条約が締結された。その第14条で、日本はその犠牲者に対して補償するための必要な手段を整える必要のないことが規定された。ブラックホールへと転換された黄金の百合は秘密のままにしておかねばならなかった。

 1952年以来、CIAと日本の特務機関に率いられた一つの組織がM資金を担当した。この資金は、満州での略奪の責任者であり東条の戦争内閣の閣僚であった岸信介の首相選出を許した。アイゼンハワー政府はこの極端な反共主義者である戦犯を好んだ。
 M資金は、田中角栄、竹下登、中曽根康弘、宮沢喜一などの多くの首相に財源を提供した。田中は、ニクソンがM資金の引出権を彼に約束したのだが、これを選挙資金と汚い工作のために頻繁に運用した。

 黄金の百合の一部は日本でこのように投資され、自由民主党の母胎から誰が将来の首相になるのかを決める者たちによって浪費させられた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html


日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、占領地の宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。読者がお気づきのように、これは真実ではない。天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。

 日本はひどく痛めつけられ、戦争が終わったときには、かろうじてどうにか食っていける状態だったと、わたしたちは告げられる。事実は、驚くほど少ない工場と住宅しか破壊されておらず、それもひどい損傷を受けていなかった。そして、インフラストラクチャーの損害はわずかだった。広く世間に知られている損害のほとんどは、普通の日本人が住んでいた数百万軒の紙と木でできたマッチ箱のような家だった。彼らの苦悩は大君主たちの見解には加えられていなかった。

 日本を共産主義に対する防波堤にしようという切迫した必要性に取り憑かれていたので、ワシントンは戦時の指導者たちと皇室のメンバーと金融のエリートたちが、十二のアジアの国々を破壊し、窮乏状態に陥れたことに関して、いかなる責任からも免責した。

わずかに日本の戦争中のエリートたちがスケープゴートとして死刑に処せられた。幾人かは指導者たちの安らぎのために、責めを負って強制されたり、濡れ衣を着せられた。戦後の占領の終わりの頃には、すべての日本の戦犯は自由の身になった。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html

日本の昭和天皇ヒロヒトは、敵国であった米国の兵器を日本に輸入し日本軍部に売り付け、その利益を私的に「着服」し、スイス銀行に隠し蓄財していた。そのスイス銀行の口座はヒトラーと天皇ヒロヒトの「共同名義」の口座であった。

 ヒトラーと昭和天皇ヒロヒトは、戦争を起こし兵器を密売し、共に「私腹を太らせていた」。

ディロン社の代理人として、米国製兵器の密売を行っていたのが昭和天皇ヒロヒトである。ドイツにおけるヒトラー、日本における昭和天皇ヒロヒトの役割は同一であり、従って兵器密売のスイス銀行の「決済口座」がヒトラーと昭和天皇ヒロヒトの「共同名義」になっていた。

 第二次世界大戦末期、ヒトラーは自分の資産と部下を続々とアルゼンチンに逃し始める。天皇ヒロヒトも戦争末期、長年の武器密売の利益を金塊の形で、アルゼンチンの銀行に大量に密かに輸送し隠し預け始める。

 戦争末期、中国に残された日本人の多くは、日本に帰る船が無く中国、朝鮮で殺害され、女性は強姦され殺害され続けていた。天皇はその日本人を全員「見殺し」にし、船舶を「独占」し、武器密売の利益を金塊の形でアルゼンチンへ大量輸送し続けた。
http://alternativereport1.seesaa.net/


1945年.日本の敗戦が決定的になると.天皇一族は.この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ.海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて.スイスに850万ポンド.ラテンアメリカに1004万ポンド等.広島.長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中.天皇は自分の蓄財を海外に次々と.逃がす事に専念する。

この問題を調査したマーク・ゲインは.海外に天皇が逃した蓄財は.累計で5〜10億ドルに上る.としている(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。
広島.長崎に原爆が落とされ.膨大な死傷者が出.戦後.日本を.どのように再出発させるか.を考えなくてはならない時期に.天皇は.ひたすら自分の蓄財を守るため.数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは.莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され.アルゼンチンの銀行.そしてスイス銀行まで遠路.運搬されていた。中国では.日本に逃げ戻るための船舶が無く.逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数.強姦殺人され.子供が殺害されている最中.天皇は貴重な船舶を独占し.自分の金塊を遠路.アルゼンチン.スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く.日本人の事など.何も考えていない事は.明白である(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」 マルジュ社)。

 なお.天皇が.第2次大戦中.「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の.天皇の共同経営者が.CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは.何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

 天皇は戦後.このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り.CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に.港区の不動産を次々に買収し.またハイテク産業に投資し.莫大な蓄財を.さらに莫大に膨れ上げさせて行く。

天皇は神でも「象徴」でもなく.単なる金儲け主義の.金融ビジネスマンである。
そして.ここでも.「何故か」.CIAと天皇は「共同経営者」である。

 天皇は.1940年代初頭から.スイス銀行に少しづつ蓄財を「移し」始めるが.ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが.虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し.ナチス・ヒトラーの口座の中に.「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい.そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇と.ヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する.略奪ビジネスのパートナーであり.ナチスと天皇は一体であった(アダム・レボー「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ・・また.濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

 1924年.米国は「排日移民法」という法律を成立させる。日米関係は.まだ険悪ではなく.日本から.余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し.それを禁止した法律であった。

 天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の.「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に.1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については日本を憤慨させるに十分なものであった。」

 この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。
日本人女性を.だまし.売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した.それに憤慨.激怒し.米国と戦争を始めた.と天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は.神でも.「象徴」でも無く.人間のクズの集団である。
http://alternativereport1.seesaa.net/
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金の亡者だった昭和天皇(?)の誤算は,中国の正規軍がいくら弱くても,ゲリラには勝てそうもないという事だった. 今のイラクやアフガニスタンと同じですね.

そのまま行ったらソ連が参戦してきて日本は占領されてしまう.
そして,昭和天皇(?)が中国での大虐殺の黒幕だったことが明らかにされ,戦犯として死刑になり,その汚名は世界中で何千年も語り継がれる事になる.


そこで昭和天皇(?)が考えた起死回生の名案とは:


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。

国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。
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アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。

すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。

戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。

だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm


対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。

しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。

ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。

日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。

アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。

「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。

それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。

国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。

米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm


真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。

 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm


1945年、第二次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来る。

今後の日本をどうするか、米軍の指揮官ダグラス・マッカーサーとの交渉を担当したのが、当時の大蔵省事務次官池田勇人(後に首相)の部下、渡辺武であった。

渡辺の自伝である「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」(東洋経済新報社)によると、渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は、米国の銀行ディロン・リードに
対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。

明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。

しかも奇妙な事に、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに貸し付けた側の銀行ディロンの社長が、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に
戦争資金を貸し付けていた。

ディロンの親会社が、現在のブッシュ大統領一族の経営する軍事産業専門投資会社カーライルであり、そのブッシュの経営するハリマン銀行の取締役ロバート・ ラヴェットが、戦争省次官として自分の経営する兵器会社から米軍に武器を納入していた。米軍の兵器と日本軍の兵器購入資金は、同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。

日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。

この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、日本側に天皇が居た。

ドレーパーの銀行ディロンは、戦争で莫大な利益を得た。
天皇も日本軍の兵器購入資金の一部を私物化し、スイス銀行に莫大な財産を蓄積した。天皇が戦争責任を問われなかったのは当然である。
日本人と米国人に「殺し合い」を行わせ金儲けする、ディロン=ハリマン銀行の日本支店長が天皇であった。最初から天皇は「日本と日本人の命」を「敵国に売り渡して」いた。

なお天皇は、スイスに莫大な蓄財が出来た感謝の印に、「敵国の戦争指揮官」ドレーパーに勲一等瑞宝章を与え表彰している。
http://www.asyura2.com/07/senkyo38/msg/517.html


カーママン社は、カーママンと昭和天皇ヒロヒトが共同で設立した兵器商社である。

天皇はこの商社を通じ、日本軍の使用する兵器を敵国・米国から密輸し、その販売利益を「天皇個人の財産」として、スイス銀行の口座に密かに蓄財し続けていた。

 天皇はディロン社の日本代理人であり、第二次世界大戦の武器密売で利益を蓄積した武器密売人であった。

 天皇と同じ会社ディロンで「働く」カーママン。商社カーママン社を天皇と共同経営する「天皇の同僚」カーママンが、広島、長崎へ投下された原爆の製造担当者であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/59498275.html


あなたは昭和天皇とマッカーサーが、二人だけで11回も会見した歴史的事実を知っていたか。

  しかも、1947年に新憲法が施行され、天皇が象徴天皇となり、一切の政治に関与しないとされた後も、何度もマッカーサーと会って日本の戦後を規定する安保体制をマッカーサーに頼み込んでいた事を。

  私は知らなかった。

  少なくとも豊下楢彦氏の「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交ー」(岩波新書、1996年12月発刊)を読むまでは。

  その著書は、部分的にしか公表されていない昭和天皇とマッカーサーの会見記録を丹念に読み解いて、一つの仮説を立てている。

  すなわち、当時の吉田首相と外務官僚たちが必死になって安保条約を「五分五分の論理」で対等のものにしようと粘り強く交渉していた時に、その一方で昭和天皇がマッカーサーと二人だけで会談し、日本をソ連共産主義の脅威から守って欲しいと直訴する二重外交が行なわれていたのではないか、という推論を、当時京都大学の助教授であった国際政治学者の豊下楢彦はその著書で展開したのだ。

  昭和天皇の戦争責任を語る時、我々はマッカーサー回顧録で明かされている昭和天皇のお言葉を通説として信じてきた。

 「すべての責任は私にある、私の一身はどうなってもいい・・・」と言う例のお言葉である。

 そしてそれに感動したマッカーサーが、天皇の免責を信じたと言う事になっている。

 しかし、豊下の仮説は、それを根本的に覆すものである。

 だからこそ世の中に受け入れられる事はない。

 それどころか、作為的に目立たないものにされてきた。

 その豊下が、この7月に岩波現代文庫から「昭和天皇・マッカーサー会見」と題する著書を出した。

 私はそれを早速読了した。

 そして唸ってしまった。豊下の推論がさらに精緻に組み立てられていたのだ。

  豊下が前掲の「安保条約の成立」を世に発表した96年から12年の年月が経った。

  その間に、彼の研究は更に深められた。

  しかもその間に富田宮内庁長官の日記の公表などという新たな資料も出てきた。

  そして何よりも安保体制そのものが、いまや日本をソ連共産主義から守る事から離れ、米国の戦争に追従する足かせのごとくなりつつある時代の変遷がある。

  米軍駐留に基づいた安保体制の構築は、なによりもまず天皇制の防衛のためであった、その意味で安保体制こそ戦後日本のあたらな「国体」であった、と、豊下はその「はしがき」で言う。

http://www.asyura2.com/08/senkyo52/msg/257.html


マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。


天皇は

@ 「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、

というものである。 ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。 イギリス人スターリング・シーグレツプは『The Yamato Dynasty』の「第十章、汚れた手」の中で、

「敗戦直前、昭和天皇の側近たちがひそかにスイス銀行に財産を隠匿した」
と述べている。じじつ、 横浜正金銀行の株式の二二%はヒロヒトの名義であった。

かれはいう。

「膨大な戦利品の一部は潜水艦によって南米に運ばれ、スイス銀行ブエノスアイレス支店から入金された……

マッカーサーはこのことを知っていたが敢えて知らないふりをした。計算するとその財産は四千億ドルであった」と。

マッカーサーが承知して知らないふりをしたというのは汚職である。
ヒロヒトがマッカーサーを買収したという噂の真偽は、今となっては調べようがないが、火の無いところに煙は立たないという。
_______________________________________________________________________________


秘密は墓場まで____最後まで名優であり続けた昭和天皇_迫真の演技

昭和天皇の変わり身の素早さには驚かされる。

つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。

天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。
天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


私の調べた確証から浮かび上がる昭和天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

昭和天皇は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


戦争後の四年間、昭和天皇は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、昭和天皇は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、昭和天皇の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


終戦後、昭和天皇は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、

わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

昭和天皇は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。

何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった昭和天皇が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0


ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。

私は裕仁を子供の頃から存じている。

彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


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72. 中川隆[-13698] koaQ7Jey 2018年11月29日 17:50:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21382] 報告
天皇家の蓄財(2.26事件の真の闇/補遺)2007年02月23日 | Weblog


 2・26事件について書いたときに、若干皇室の資産に触れた。

 皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。

 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。

先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。

 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! 

つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。

 そこを出た財界のトップたちは、記述のように、2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。

 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。

 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。

 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 

 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」

 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。

 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。

 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。

 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」

 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 小林良彰の『日本財閥の政策』は、鈴木大拙と出光の関係を書いたときに紹介したが、こんなことも書いている。

 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。

彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」

 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。

 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。

 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。

 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://web.archive.org/web/20100212091907/http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0


最近、古本屋で購入した

「自伝的戦後史」著者 羽仁五郎
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E4%BC%9D%E7%9A%84%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%BE%BD%E4%BB%81-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4061340913


の帯にも

「日本の天皇は戦前3億円ぐらいだった財産を、戦争が終わってみたら300億円ぐらいにしていた」

とあります。


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73. 中川隆[-13697] koaQ7Jey 2018年11月29日 17:51:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21382] 報告

戦後ゼロ年 東京ブラックホール 〜「天皇家の隠匿財宝」
 
「戦後ゼロ年 東京ブラックホール|NHKスペシャル」
http://www.nhk.or.jp/special/blackhole/

を見て、あのNHKが「金貸しの元締めの天皇家」を一部でしかないが放映した事に驚きが有りました。

>隠匿物資見つかる
http://www.nhk.or.jp/special/blackhole/movie-09.html

フランスで発掘された衝撃の映像。時代考証を行い、映像をカラー化している。東京湾で発見された金塊。日本軍の隠匿物資だった。隠匿物資は20億ドル(現在の数兆円)にものぼると言われる

るいネットでも

寺社は「金貸し」であり、その頂点が天皇家
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=322938

の記事があります。

Cosmic dance 宇宙の円舞
http://cosmic-dance.blogspot.jp/


より転載します。
____________________________

2017年8月20日

戦後ゼロ年 東京ブラックホール|NHKスペシャル
どの程度まで、公開されるのか興味深いですね。

アジア全土から日本軍がしらみつぶしにかっさらった金の調度品・仏像・装飾品・工芸品が戦後どう使われて行ったか。

それについては高橋五郎がかなり詳しく調べて「天皇の金塊」に記してます。
天皇とその取り巻き連中にとって、あの戦争は勝ち負けの戦ではなく、アジア全土にあった金の略奪が一番の目的でした。

その金と引き換えに、あのイベントでは負ける役を演じてきたのです。

現場で指揮を執ったのは天皇家一族。

どの寺にどのくらいの金が眠っているか。情報は逐一連合国側から事前に頂いてました。そのため効率よく金の輸送が出来るシステムが出来ていたのです。貴金属を金の延べ棒にして本国まで輸送するしくみです。

溶金するための施設はフィリピンで行なわれ、それを経営する会社の社長はマッカーサーの父親だったそうです。

フィリピン沖には、ドイツのUボートが停泊しており、金がそこで山分けされました。行き先はバチカンです。

要するにあの金はその後、ドイツ・イギリス・アメリカに渡り皆で山分けしていたのです。

これが第二次大戦というイベントを仕掛けたもっとも大きな目的でした。

天皇家側も独り占めしたいので、分け前の申告を低く見積もり、連合国側には分からないように隠してきました。

戦後それをほじくりに行ったのがA級戦犯たちです。

たぶんTVでは最初に書いた2行程度の内容が綿密に凡長に流れる程度でしょう。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=329075





23. 中川隆[-6536] koaQ7Jey 2017年9月02日 00:29:18: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

▲△▽▼

天皇家は戦争中に何をしていたのか
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html

先日から、

「歴史の真相と大麻の正体」内海聡 著 三五館 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%81%A8%E3%80%81%E5%A4%A7%E9%BA%BB%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E5%86%85%E6%B5%B7-%E8%81%A1/dp/4883206289

という本を読んでいて、その本は私が大麻というものが世界に及ぼしてきた事実を、私が知らない見解で記してあるかもしれない、という期待から読んでいると記してきました。

2そしてこの本は、第一部:歴史の真相 第二部:大麻の正体 に分かれていて、私は第二部の大麻の正体を読むことが一番の目的で読んでいるのですが、その前の第一部の歴史の真相のところで気になることがあったので、先日2回ほどそのことについて書かせて頂きました。ですがまた、その第一部の歴史の真相のところで気になったところがあったのでそのことについて記したいと思います。ではますは「歴史の真相と大麻の正体」からその部分を引用します。

(引用開始)

タイトル:「原爆を落とされてもしょうがない」

商船三井の共同経営者は、天皇家とCIAの日本作戦部長のマクスウェル・クライマンであった。そして天皇家が大東亜戦争時に蓄財した金はナチスのヒトラーの口座に隠されていた。ヒトラーはじつは隠れユダヤ人であることは有名だが、そのヒトラーとともに戦争ビジネスをやっていたのはだれかを考えねばならない。


天皇家の蓄財1

天皇が「原爆を落とされてもしょうがない」と発言したことが知られるが、広島、長崎に原爆が落ちた時も、天皇家はどうやって自分の資産を維持するかに腐心していた。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃がした蓄財は累計で5〜10億ドルにのぼるとしている。天皇家の蓄財に関しては濱田政彦著 「神々の軍隊」(三五館)などが詳しい。

(引用終わり)

これは大東亜戦争時、日本の多くの兵隊が海外に行き、命をかけて戦って死に、東京大空襲など、日本の津々浦々で行われた大空襲で多くの日本国民が命を亡くした最中に、昭和天皇が皇室の資産をいかに守ることに腐心していたかを記した文になります。

この引用文の最後に、

「天皇家の蓄財に関しては

濱田政彦 著 「神々の軍隊」(三五館)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E2%80%95%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%87%91%E8%9E%8D%E8%B3%87%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%97%87-%E6%B5%9C%E7%94%B0-%E6%94%BF%E5%BD%A6/dp/4883202119


などが詳しい」とあります。では、その「神々の軍隊」には天皇家の蓄財についてどのように書かれているのか、以下にその部分を引用したいと思います。


(引用開始)


@ 戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産天皇家の蓄財3は、最も控えめに見積もっても約16億円であるという。だが、宮内省のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外に隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であると言われている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾り取るほどに皇室は豊かになるということになる。


A 2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。


B 財界のトップたちは、2.26事件後の大勢翼賛、国家総動員体制の下、政府の要職に就いて日本を破局へと導いた。一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している。


C 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


D 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


E 価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


F 大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠され天皇家の蓄財4ている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。


(引用終わり)※数字は私の書き込みによる。

ではこの引用文についてまとめ及び気になることを書いていきたいと思います。

まず@段落のところですが、

・戦前に天皇家は天文学的な金額を蓄財していた。

・天皇家は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、多くの銀行、財閥の大株主であり、その利益が莫大であった。

・銀行、財閥は当時、戦争経済で儲けていて戦争を続けさせ、植民地政策のもとで利益を上げていて、それによって株価が上がり結果、天皇家の資産は莫大なものになっていった。


A段落目で、「2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。」とありますが、当時上述したように戦争を遂行すればするほど銀行、財閥などは儲かり結果、天皇家も儲かっていたわけですからその財閥が日本の軍隊に入り込んで、戦争を遂行するように仕向けていたわけです。だから2.26事件で純粋に心から日本の未来を憂いた青年将校が起こした2.26事件が起こったときも昭和天皇は、「天皇家がカネ儲けできなくなる」という理由で2.26事件そして青年将校に対して怒りを覚えたのです。

B段落目

上述したとおりのことが書かれています。「一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している」、ということです。

C段落目

天皇家は資産を海外でモルガン商会(ユダヤ系財閥)を通して蓄財していて、天皇に近い重臣たちもそのおこぼれに預かり、儲けていたということです。そして天皇家とバチカン、‘バーゼルクラブ’などはグルになってカネ儲けしていたことを示唆しています。

D段落目

田布施2ここではまとめというよりは、文中の、「内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。」の中の「昭和19年」に焦点を当てたいと思います。というのはこの昭和19年に天皇家の資産の蓄財において大きな変化あったからです。では、昭和19年(1944年)に何があったのか。そのことが先日も引用させて頂いた

「日本のいちばん醜い日」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


に書かれていましたので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)シーグレーブ夫妻の「ヤマト・ダイナスティ」の中に次のような一節がある。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分も含んでいなかった。天皇家は日本一の大地主で、ほとんどは徳川幕府が崩壊したときに天皇家にもたらされた(明治維新後に獲得したものがほとんどである:引用者注)。まさしく当時の日本の大地主であったのだ。もちろん、ヒロヒトの自己申告の中には、本土や海外の隠匿された財宝は含まれていない。SCAPの審査員が、この審査をパスさせたのであるが、彼は不機嫌そうに記したのだ。「正確さという面では、この部門では問題外とされた」

占領が終わり、日本人の専門家が天皇の財産を再計算した。その中には皇居や御用邸の不動産、工芸美術品などは計算外としたが、それでも660億円を超えていた。」

私はこのシーグレーブの本を読み、納得した。それは天皇と男爵住吉門左衛門が特殊な関係にあったがゆえであると思ったのである。天皇家の御料地のほとんどが住友財閥の力で移動し、売却されたのである。1944年、住友林業の所有地が莫大に増加するのである。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んでいなかった」とシーグレーブが書いているのは事実である。紙幅の都合上、これ以上は書かないが、私は明治から戦前までの御料地獲得に執念を燃やす田布施一族の歴史を追求してきた。そして、この帝国秘密探偵社の資料とシーグレーブの本を読み合わせ、納得した。(後略)

(引用終わり)

昭和天皇の側近であった木戸幸一(木戸孝允の孫)が天皇家の財産を海外に逃がすよう指示した金額は(当時の貨幣価値で)660億円。だがその660億円もの大金であるにもかかわらずそこには天皇家が所有する御料地すなわち皇居や日本各地にある御用邸の土地や御料林は含まれていない。

そして、「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んで天皇家の蓄財2いなかった」とあるように昭和天皇ヒロヒトは1944年に大もうけをした。しかもそれが、前述したように、天皇家が当時結託していた大財閥の一つである住友財閥の住友林業であったわけです。

この事実は私は日本人として絶対に忘れてはいけない事実であると考えます。なぜか? 1944年といったら日本の兵隊の方々が海外に出て、命をかけて、玉粋覚悟で、時には「天皇陛下バンザーイ」と叫んで、心から日本のため、と思いながら死んでいきました。また、日本国内では、多くの日本人が数千人否、数万人否、数十万人否、数百万人もの日本人が空襲で死にました。そのさなかに天皇家は大財閥と結託して、日本国民のことなど露ほどにも頭になく、蓄財に励んでいたからです。この事実は‘戦争とは何か’、‘天皇家とは何か’という疑問を見事に解き明かしています。

E段落目はそのまま抜粋します。

「価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」

ここで「さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」とあります。この‘南米’というところに注目すべきと考えます。その理由は次の7段落目に記されています。

F段落目

「大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

この段落では大戦末期から戦後に至る南米地域の状況について書かれています。なぜ南米地域にナチスの残党は逃走したのか?なぜ南米なのか?そしてヒットラーも実は戦争末期に自殺したのではなく、アルゼンチンに逃走した、という説があります。そして私がこの段落を読んで気になったのは第2次世界大戦後、この南米地域の各国がハンガリー系ユダヤ人であるミルトン・フリードマンが唱えたシカゴ経済学(大企業ボロ儲け経済学)を信奉したシカゴ・ボーイズといわれる連中に乗り込まれ、その国の政治・経済を乗っ取られ、結果その国の経済市場が欧米系の大企業に乗っ取られた、という事実です。アルゼンチンやチリやホンジュラスなどがそうです。

そしてその事実と引用文の、「そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けている」という記述が関係していると思います。ですがここではこのことについてこれ以上記しません。ただ関係していると思われる、とだけ記させて頂きます。
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html

天皇家は戦争中に何をしていたのか A
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


先日、太平洋戦争中における天皇家の蓄財に記させて頂きました。戦争中に天皇家が日本の土地を買い占めて戦争で多くの日本人が死んでいくさ中に蓄財に励んでいてそれも莫大に儲けていたことや、そもそも天皇家は当時の多くの大財閥、銀行などの大株主で、戦争が長引けば長引くほど植民地における大財閥の事業拡大、生産増産、戦争資金の需要増大による銀行、大企業の株価高騰で大儲けしていたことなどについて記しました。

今日はその天皇家の蓄財について違った面から考察し、記していきたいと思います。では、まずはそのことについて詳しく記してある、先日も引用した「日本のいちばん醜い日」 鬼塚英昭 著 成甲書房 刊  からの引用から始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争田布施2中も秘密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた。

これが戦争の本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。

あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で密かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。(後略)

(引用終わり)

前回は戦争時においてその、戦争することによって派生する日本の植民地事業において三井、三菱、住友などの財閥、銀行などが大儲けし、結果天皇家も大儲けする、ということについて記させて頂きました。ですがこの引用文は戦争から派生する要素ではなく、戦争そのものが天皇家を儲けさせていたことを記す内容となっています。

あの、戦前に日本への制裁としてABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網が1941年に敷かれてアメリカから石油の輸入が途絶え、日本は窮地に追い込まれた、と我々は学校の歴史の授業で教わってきました。だが、実際には「赤十字」という看板を掲げた船で石油が輸入されていた。その赤十字は実は戦傷者の傷を治したり命を救うために設立されたのではなく、戦争を‘スムーズ’に長引かせるために国際金融同盟の連中がつくり上げたものだった。つまり戦者が簡単に死んでしまっては戦争がすぐに終わってしまい、国際金融同盟の連中やそれに纏わる財閥、銀行そして天皇家もカネ儲けができなくなる。だから赤十字を設立して、兵隊の傷の治療をし、延命させ、再度戦場に送り込む、ために赤十字がつくられたということです。

では次に同著から上の引用文に続く、その石油購入の資金についての記述を以下に引用します。

(引用開始)

では、あの大戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、ア天皇家の蓄財5ジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本へ持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食料等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていく。かくて、戦争が長引けば長引くほどに天皇一族と、秘密裏に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった。

(引用終わり)

日本に石油はなかったが中国侵略などで強奪した金・銀・プラチナを代金の支払いにあてた。その一部が天皇家の資産となった。つまり戦争で金・銀・プラチナなどの貴金属を強奪すればするほど天皇家は儲かるということです。ではさらにこの引用文に続く記述を引用したいと思います。

(引用開始)

近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際金融資本家たちを‘ご主人様’と呼んでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回想録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。

(引用終わり)

この引用文は世界を支配する、本当の仕組みを示唆する記述となっています。ルーズヴェルト、チャーチルというときのアメリカ大統領とイギリス首相が借金漬けで、ロシアのスターリンは悪行のほぼ全データを握られ、国際金融資本家たちに弱みを握られていた、と非常に興味深いことが書かれています。ではここでこの3人のうちの1人であるチャーチルのそのあたりについて同じ鬼塚氏の「20世紀のファウスト」成甲書房 刊 という著作に詳しく書いてあるので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)1938年3月下旬、第2次世界大戦勃発の1年前、チャーチルは借金のために田舎の別荘を売りに出そうとしていた。ロスチャイルドから依頼を受けた金融業者サーケインズ5・ヘンリー・ストラコッシュが借金の肩代わりを申し入れた。チャーチルは受けた。そしてそのとき、一つの条件を受け入れることになる。金のないチャーチルはヴィクトリア地区の汚らわしいモルペス・マンションに住んでいた。その過去をみることにしよう。

1928年当時、チャーチルは第一次世界大戦の回顧録「世界の危機」の続編を執筆していた。アスター卿の「タイムズ」から2000ポンドの前払い印税を支払ってもらった。これとは別に世界各国での連載を含めての5,000ポンド以上が彼の懐に入っていた。しかし、彼は貧乏のどん底にあった。ウォール街での株投資で大損失をしていたからだ。このことはすでに書いた。

ユダヤ王ロスチャイルド一族のバーナード・バルークはチャーチルにアメリカ講演旅行をやらせ、1万ポンドの保証をしてやった。それでも借金は返せず、バルークに特別に用立ててもらった。彼はユダヤ王ロスチャイルドの御用新聞「デイリー・メール」のビーヴァルック卿と特別契約を結び、8,000ポンド近い原稿料を得ていた。だがそれでも彼の経済的困窮は、別荘を売り払う段階までいったのである。

しかしチャーチルは海軍大臣、首相へとなっていく。政治家になれば収入は極端に減る。では誰が、何の目的のためにチャーチルの借金を返してやったのだろうか。ここまで書けば答えは書かなずもがなであろう。1939年3月、チェンバレン首相は海軍大臣にチャーチルを迎えなければならなくなる。チャーチルは1914年8月に海軍省に入っている。

海軍大臣になると、チャーチルはルーズヴェルト大統領に手紙を出した。2人は数多くの手紙をやりとりをする。一海軍大臣がアメリカ大統領と、どうして秘密のルートで手紙の交換が出来るのであろうか。この2人は「黒い犬」で、ユダヤ王ロスチャイルドから長い長い鎖の手綱で引っ張られていることを考えれば納得がいくのである。

チャーチルの人気は上昇していく。なぜか。チェンバレン首相の宥和政策に公然と抗議しだしたからである。ヒトラーがポーランド領ダイツィヒの割譲を要求した。チャーチルはヒトラーと闘えと叫びだした。黒い貴族の新聞は、戦争を煽りだした。1938年9月30日、イギリスとフランスは宥和政策をとり、侵略されたチェコを犠牲にして、ヒトラーと現状維持の協定を結んだ。この宥和政策は後にヒトラーによるポーランド侵攻により破られ、第2次世界大戦へと拡大していく。(後略)

(引用終わり)

チャーチルはウォール街での株投資で大損し、借金漬けになっていた。本を書いても借金は返せず、別荘まで天皇家の蓄財6売り払わざるをえないとこまで落ちぶれていて、ヴィクトリア地区の汚いマンション暮しをしていた。そこにユダヤ王ロスチャイルドの回し者バーナード・バルークが大戦が始まる1年前にきて、‘一つの条件’をのまされた。その条件とは・・・・上に書いてあるとおりです。首相になって第二次世界大戦を引き起こす、という条件です。

つまりユダヤ王ロスチャイルドなどの国際金融同盟の連中は、弱みをもっている人間をピックアップし、金を渡し、もちろん恫喝もし、操るということです。このことは世界中で起こっており、日本でも頻繁に起こされていて、政治家のスキャンダル暴露はその一つです。‘女を抱かせる’というハニー・トラップも含めて。

そして天皇家にも、スキャンダルは多々あり、そのことが国際金融同盟の天皇家支配に繋がっているということです。ゆえに「近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある」と著者の鬼塚氏は書いているのです。

そして先の引用文にさらに続く文章ではその戦争時におけるマネー・ゲームの様相が記されていました。以下に引用します。

(引用開始)

この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。天皇の代理人の役員が金儲けに奔走する場面がハイアムの「国際金融同盟」の中に書かれている。

「1942年夏、フランス政府の閣僚であり、ナチス占領下のパリにある民間銀行のヴォルムス銀行の役員であるピエール・プシューは、イブ・ブレアール・ド・ボアサンジューとBISで会合を持った。プシューはボアサンジューにドワイト・D・アイゼンハワー大将が北アフリカに侵攻する作戦を計画中であると語った。彼はこの情報を友人であるヴィシー駐在のアメリカ国務省代表のロバート・マーフィーから手に入れたのである。ボアサンジューはクルト・フォン・シュレーダーにこの情報を伝えた。シュレーダーと他のドイツ人の銀行家たちは直ちに、フランスの取引銀行と同調して、九〇億フランの金貨をBIS経由でアルジェに搬送した。ドイツの敗北を予測して、ドルの為替差損でボロ儲けを狙ったのである。ナチスの協力者たちはほとんど一晩で、自分たちの持ち金を三億五千万ドルから五億二五百万ドルまで増やしたのだった。この取引に関しては、BISのトーマス・H・マッキトリック、ヘルマン・シュミッツ、ミエル・プール、そして日本人役員たちも共謀に加担していた。この取引の別の協力者でナチス最高司令部にいる他の幹部たちに、この秘密を漏らしたものがいた。この男はバチカンの諜報活動グループに所属する工作員だった。この情報は1946年6月21日にオットー・アーベッツがアメリカ政府担当者に宣誓供述したことで明らかになった。」

この一文は、「戦争とは何か」を如実に示している。戦争は国家間の利害、憎悪の衝突から起こるものだけではなく、巨大なマネー・ゲームでもある。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。

この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。天皇とその一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。この銀行に加入していなければ、中国本土に攻め込む力さえなかったのである。ひと度、この銀行に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちばん金の儲かるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知りつくした人物は日本にいなかったし、これからも登場しないだろう。(後略)

(引用終わり)

このように‘戦争’とは国と国の間で行われる利益の収奪、憎悪だけでなく、国際金融同盟の連中がカネ儲けするために引き起こされるということです。否、その方が多いのです。

ところで前回記した私の文で引用させて頂いた「神々の軍隊」濱田政彦 著 三五館 刊 の文の最後に、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない」と記してありましたが、私はこの一文に強く違和感を覚えました。本当にそうか? と。

ではここで上に引用させていただいた本の著者である鬼塚氏の他の著作の一つである、

「天皇のロザリオ」成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%9B%BD%E5%8C%96%E3%81%AE%E7%AD%96%E8%AC%80-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862002


からこの一文についての鬼塚氏の見解が書いてある部分を抜粋してこの文を終わりたいと思います。

(引用開始)

(前略)日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の「神々の軍隊」が出た。この本の中で濱田は天皇の秘密資金について触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

天皇家の蓄財3「 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして天皇家の蓄財7南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。」には全く賛成できない。私は、昭和天皇が戦後も、マニングの書いているように蓄財作戦に熱中したと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人びとを悩ませたのである。

マーク・ゲインの「ニッポン日記」
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E6%97%A5%E8%A8%98-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4480084282


には天皇の財産について詳しく書かれている。だがここではすべて省略する。初版本で書かれていることが再版本では省略されているとのみ書く。1946年3月24日、マーク・ゲインは天皇の埼玉行幸を描いている。

大麻3「天皇はただ一人で正食をとった。天皇以外の我々は、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので話をしようと思って戸外に出た。彼女らははずかしそうにクスクス笑うだけで誰も答えてくれそうになかった。が、とにかく彼女等は「十五歳」 ---- 最低就労年齢 ---- で、1日9時間半働き、一日三円乃至五円支払われていることを聞き出した。そこへ天皇が出て来たので、彼女等は最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女等の専制君主をみようと首を伸ばすのであった。」

当時の女性の日給は1日9時間半働いて1日3三円ないし五円。1945年8月15日から約半年たっているので
、インフレが進んだ後だから半年前はもっと安い。たぶん一円から三円であろう。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的金額がクローズアップされる。

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は三十七億二千万円」。

木下道雄の(元侍従長の)「側近日記」
https://www.amazon.co.jp/%E5%81%B4%E8%BF%91%E6%97%A5%E8%AA%8C-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E9%81%93%E9%9B%84/dp/4163442103


が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで戦争直後の天皇家の財産は37億5千万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7,912億円である。」

この数字の10倍近くをスイスの銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100天皇家の蓄財8億円を切っていた。天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。天皇の「キリスト教入信」対策は、この2つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも広田弘毅(私の注:終戦前の首相経験者の1人)のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。

(引用終わり)

ということです。戦前も戦後も天皇家は全く貧乏なんかではないのです。そしてこの天皇を安倍晋三は今の象徴から戦前の元首にしようとしています。明治維新後、伊藤博文が大室寅之祐を明治天皇に仕立て上げ、元首にしたように。その狙いは....... 皆さんもう、お分かりですよね?
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html




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74. 中川隆[-13696] koaQ7Jey 2018年11月29日 17:52:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21382] 報告

日本人が阿片漬けにならなかった理由 2011-12-13

日本人が阿片漬けにされなかった理由として、よく云われてる事はお決まりのアレです。

明治維新のおかげで阿片漬けにされる運命とならなかったんだと言う嘘の情報が、気持ち良い程に氾濫してる(笑)。

薩長らが、隣国・清朝での阿片戦争を見て危機感と憤りを感じ、倒幕をし、日本を近代化する事で阿片漬けとなる運命を回避したとした宣伝によって国民を洗脳しているが、100パーセント嘘。逆です。明治以降に日本は阿片漬けの道へと自ら歩んでいく。

それでも、日本人はギリギリ阿片から守られてきた。その理由は徳川幕府の日本国民に対する最後の恩。

倒れゆく徳川が、憂いるは国家・国民だけ。

徳川幕府が外交上手であった事は当ブログにおいて以前から指摘している事ですが、その外交に対する姿勢は終始一貫して国益国民重視です。

今だに反日・売国明治朝廷が徳川幕府を陥れる事に躍起になっているネタである悪名高い安政五カ国条約、日米修好通商条約・日英修好通商条約・日仏修好通商条約・日露修好通商条約・日蘭修好通商条約

徳川幕府は、この全ての条約にアヘン貿易の禁止条項を入れさせたんです。理由は隣国・清朝で起きた阿片戦争を危惧した判断でした。

この事実を未だに明治朝廷は隠し続けて日本国民を洗脳しています。何故か?答えは簡単。

明治朝廷は、自身の浅ましく臆病な外交姿勢と徳川幕府の勇敢な外交姿勢とのすり替えを行ってるんです。で、正義のヒーローのふりをして国民を騙してる。

明治朝廷、曰わく。

日清戦争に勝利した事によって日米通商航海条約を締結し、不平等条約を破棄する事が出来た。と??阿片貿易が出来なかった事が不平等だと言うのかね(笑

日清戦争後、日本は阿片中毒者はびこる台湾を得、阿片利権に手を出す。薩長らが幕末から麻薬商人の丁稚であった事は、お見通しですよ。
http://ameblo.jp/adgjmptw-214c/entry-11103702828.html


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75. 中川隆[-13704] koaQ7Jey 2018年11月29日 18:23:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21391] 報告

天皇家と国際金融資本との関係

日本にもアメリカ軍の恒久的な軍事基地がいくつもあるが、これは中国やロシアを締め上げるための出撃基地。明治時代から日本はダーイッシュと同じように、アングロ-シオニストの傭兵として扱われてきた。

例外はアメリカでウォール街と対立していたニューディール派がホワイトハウスの主導権を握っていた期間だけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709250000/

2017.08.26
94年前の9月1日に起こった関東大震災は虐殺事件を引き起こし、日本をJPモルガンの属国にした

8月も終わり、9月を迎えようとしている。

1923年9月1日、日本にとって大きな節目になる出来事が起こった。相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、10万5000名以上の死者/行方不明者を出し、その損害総額は55億から100億円に達したのだ。

震災対策の責任者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビ、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監だった。震災当日の夕方、赤池総監は東京衛戍(えいじゅ)司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請、罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言しているが、その頃、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電した。

そうした中、朝鮮人や社会主義者が虐殺され、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われて殺されそうになる。伊藤圀夫はその後「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、千田是也と名乗るようになった。アナーキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺されたのもこの時だ。この虐殺には治安当局が関係している疑いがあり、その意味でもこの時の犠牲者を追悼するという姿勢を東京都知事は見せてきた。それを止めるという意味は対外的にも重い。

震災後、山本権兵衛内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だった。

震災手形で日銀の損失が1億円を超えた場合は政府が補償することも決められたが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だ。

復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモントだ。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。

フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

このフーバーは1932年、駐日大使としてジョセフ・グルーを選び、日本へ送り込んだ。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーが結婚していたアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后である。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

そうした人脈を持つグルーだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。

群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。

そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。

バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。

それに対し、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分は50万人以上を動かして対抗するとバトラーは応じた。内戦を覚悟するように警告したわけだ。そうしたこともあり、クーデターは実行されていない。クーデターを計画したとされた人々は誤解だと弁明、非米活動特別委員会はそれ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。捜査当局も動かなかった。

言うまでもなくジョセフ・グルーは第2次世界大戦後にジャパンロビーの中心的な存在となり、日本で進んでいた民主化の流れを断ち切り、天皇制官僚国家を継続させている。大戦前、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈は戦後も生き残った。これが「戦後レジーム」の実態であり、「戦前レジーム」とはウォール街の属国になることを意味している。そうした意味で、安倍晋三の言動は矛盾していない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708260000/


2017.10.21
選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている

投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。

より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。

比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。

1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。

そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。

日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/



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2017.11.08
祖父の岸信介の真似をしたのか安倍首相はトランプ米大統領とゴルフをしたが、岸はウォール街一派

安倍晋三首相とドナルド・トランプ米大統領は11月5日、プロゴルファーの松山英樹を引き連れて越谷市のゴルフ場でプレーしたようだ。

安倍首相が敬愛しているという祖父の岸信介もゴルフが好きだったようで、ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃した翌年の1942年に岸は駐日大使だったジョセフ・グルーをゴルフに誘い、敗戦後の57年に首相としてアメリカを訪問した際にはドワイト・アイゼンハワー大統領、通訳の松本滝蔵、そしてプレスコット・ブッシュ上院議員とゴルフをしている。言うまでもなく、プレスコットはジョージ・H・W・ブッシュの父親、ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたる。

本ブログでは何度も書いてきたが、グルーは1932年、ハーバート・フーバー大統領が任期最後の年に大使として日本へ送り込んでいる。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、グルー本人はモルガン人脈の中核グループにいたと言えるだろう。その人脈の中心には巨大金融機関のJPモルガンがあり、この金融機関は1923年にあった関東大震災の復興資金を調達したことから日本に大きな影響を及ぼすようになった。

また、グルーの妻であるアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代には日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そのときに親しくなった友人のひとりが九条節子、後の貞明皇后(大正天皇の妻)だという。

グルーを日本へ送り込んだフーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。

その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。

ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。

計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。

それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934)

その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。

こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。

ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。

OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。

この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。

その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると​、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201711080000/



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76年前の日本軍による真珠湾攻撃の原因を米国の制裁に求めるなら朝鮮に対する制裁も反対すべき

今から76年前、1941年12月7日の午前7時48分(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。ここは海岸が遠浅で攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。非常識とまでは言えないだろうが、攻撃のリスクは高い。それを厳しい訓練でクリアしたということだ。

アメリカ政府の対日制裁でやむなく攻撃した、あるいはアメリカ側は事前に攻撃を知っていたと主張する人がいるが、日本軍は実際に攻撃している。つまりアメリカによる偽旗作戦ではない。

日本に対する制裁には歴史的な背景がある。1872年の琉球併合から74年の台湾派兵、75年にはソウルへ至る水路の要衝である江華(カンファ)島へ軍艦(雲揚)を送り込んで挑発、日清戦争、日露戦争を経て東アジア侵略を本格化、米英の利権と衝突して対日制裁になるわけだ。こうした制裁が軍事行動を誘発すると考えている人は、例えば朝鮮に対する制裁にも反対しているのだろう。そうでなければ矛盾だ。あるいは朝鮮に圧力を加え、戦争を誘発したいと考えているのだろうか?

明治維新から1932年までの日本はイギリスとアメリカというアングロ・サクソン系の国に従属、その手先として動いた側面がある。明治維新はイギリスの思惑と違って内戦が早い段階で終結、徳川時代の人脈が生きていたので完全な属国にはならなかったが、大きな影響下に置かれたことは間違いない。

ここでいうアメリカとはウォール街を意味する。1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震、つまり関東大震災が発生、復興に必要な資金を調達するために日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガンだ。

この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモント。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

この政権が進めた政策はレッセ-フェール、つまり新自由主義的なもので、その責任者で「適者生存」を信じるある井上は失業対策に消極的。その結果、貧富の差を拡大させて街には失業者が溢れて労働争議を激化させ、農村では娘が売られると行った事態になった。一般民衆に耐え難い痛みをもたらすことになったわけだ。

当然のことながら、アメリカでもJPモルガンを中心とするウォール街の住人は強い影響力を持ち、1929年に大統領となったハーバート・フーバーもそのひとり。フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

ところが、1932年の大統領選挙でフーバーは負けてしまう。当選したのは巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。大きな力を持っていたとはいえ、今に比べるとアメリカ支配層の力はまだ小さく、選挙で主導権を奪われることもありえた。

このフーバーはホワイトハウスを去る少し前、1932年にJPモルガンと関係の深いジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んだ。なお、この年に井上準之助は血盟団のメンバーに暗殺されている。

グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈はそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人脈を持つグルーが日本軍の動向に関する機密情報を入手していても不思議ではないが、このグルーとルーズベルト大統領との関係が良好だったとは言えない。情報がきちんと伝えられていたかどうか疑問があるが、JPモルガンへは詳しく伝達されていただろう。

グルーが大使として日本へ来る前年、1931年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こした。この偽旗作戦を指揮していたのは石原莞爾や板垣征四郎だ。1932年には「満州国」の樹立を宣言するのだが、この年にアメリカでは風向きが変わっていた。本来なら日本はその変化に対応する必要があったのだが、そのまま進む。そして1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こしたのだ。そして1939年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。

本ブログで何度か指摘したように、このソ連侵攻作戦はアングロ・サクソンの長期戦略に合致している。その作戦が失敗したことから南へ向かい、米英の利権と衝突するわけだ。ドイツ軍がソ連に対する大規模な軍事侵攻、いわゆるバルバロッサ作戦を開始したのはその2年後、1941年6月のことだ。

この作戦でドイツは軍の主力を投入したが、ドイツ軍の首脳は西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張、反対している。日本が真珠湾を攻撃する前で、アメリカは参戦していないが、それでもイギリスがその気になれば、西側からドイツを容易に攻略することができるからだ。この反対意見を退けたのはアドルフ・ヒトラー。この非常識な「判断」との関連で注目されているのがヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスの動きだということも本ブログでも指摘した。1941年5月10日にヘスは単身飛行機でスコットランドへ飛んでいるのだ。

ドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、42年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まった。ここまではドイツ軍が圧倒的に優勢だったが、1942年11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲して43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。主力を失ったドイツ軍の敗北はこの時点で決定的だ。

その4カ月後、1943年5月に米英両国はワシントンDCで会談して善後策を協議、7月にアメリカ軍はイギリス軍と共にシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。このとき、アメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード(ノルマンディー上陸)作戦は1944年6月になってからのことである。ノルマンディー上陸作戦の結果、ドイツ軍が負けたと思い込んでいる人も少なくないようだが、これはハリウッドによる洗脳の効果を証明している。

その一方、スターリングラードでドイツ軍が壊滅した後にアレン・ダレスなどアメリカ支配層はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部たちと接触を始めている。例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

ドイツは1945年5月に降伏しているが、その前の月にルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還した。副大統領から昇格したハリー・トルーマンはルーズベルトとの関係が希薄。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供し、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えた富豪のひとりとして知られている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201712090000/




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2017.12.13
中国とロシアが軍事的にも強く結びつく中、米国が日本と韓国を従えて軍事演習を実施した背景

アメリカ、日本、韓国は12月11日から合同軍事演習を実施した。アメリカから参加した2隻のイージス駆逐艦、「ステセム」と「ディケーター」を中心に、日本のイージス駆逐艦「ちょうかい」、韓国のイージス駆逐艦が演習を実施した。東シナ海ではアメリカのB-B爆撃機やF-35戦闘機、F-18戦闘機、また日本から4機のF-15戦闘機が飛行したという。

この演習は朝鮮を想定しているとされているが、実際の相手は中国とロシアのはずである。アメリカと緊密な関係にあるイギリスでは1945年5月にドイツが降伏した直後にソ連を奇襲攻撃する計画を立て、アメリカは1949年に中華人民共和国が建国されてから中国への軍事侵攻を目論んできた。今もその延長線上にある。

イギリスの奇襲計画はウィンストン・チャーチル英首相がJPS(合同作戦本部)に命じて作成させたもので、「アンシンカブル作戦」と名づけられた。それによると、1945年7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、参謀本部に拒否されて実行されていない。日本が降伏する前にソ連を攻撃した場合、日本とソ連が手を組む可能性があると懸念する人もいたようだ。

この計画が流れた後、7月26日にチャーチルは退陣するのだが、日本が降伏して第2次世界大戦が終わった翌年、1946年の3月に彼はアメリカのミズーリ州で「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステに至まで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説して「冷戦」の開幕を宣言している。

それだけでなく、1947年にチャーチルはスタイルス・ブリッジス米上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいたと報道されている。チャーチルは執拗にソ連の破壊を目論んでいた。ドイツ軍の主力がソ連に攻め込んでいたとき、西側が手薄になっていたにもかかわらずチャーチルはドイツを攻撃させていない。

フランクリン・ルーズベルトが1945年4月に急死した後、副大統領から昇格したハリー・トルーマン大統領は1947年3月、世界的な規模でコミュニストを封じ込める政策、いわゆるトルーマン・ドクトリンを打ち出した。

ジョージ・ケナンがXという署名でソ連封じ込め政策に関する論文を発表したことも有名な話だが、これらは1904年にハルフォード・マッキンダーというイギリスの学者が発表した理論と合致する。イギリスは一貫してロシア制圧を目論んできた。

マッキンダーは世界を3つに分けて考えている。第1がヨーロッパ、アジア、アフリカの世界島、第2がイギリスや日本のような沖合諸島、そして第3が南北アメリカやオーストラリアのような遠方諸島だ。世界島の中心がハートランドで、具体的にはロシアを指し、そのロシアを支配するものが世界を支配するとしていた。そのロシアを締め上げるため、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、その外側に外部三日月地帯をマッキンダーは想定している。日本は内部三日月帯の東端にあり、侵略の重要拠点であるのみならず、傭兵の調達地と認識されていた。

第2次世界大戦後、アメリカでは外交官や軍人の好戦的な勢力がソ連の打倒を目指す。例えば、トルーマン・ドクトリンが発表された2年後、アメリカの統合参謀本部はソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容の研究報告を作成、1954年にアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)はソ連を攻撃するための作戦を作り上げた。SACの作戦は600から750発の核爆弾をソ連に投下、約6000万人を殺すという内容で、この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。300発の核爆弾をソ連の100都市で使うという「ドロップショット作戦」が作成されたのは1957年初頭だ。

こうした動きの中、沖縄では1953年に布令109号「土地収用令」が公布/施行され、アメリカ軍は暴力的な土地接収を進める。1955年には本島面積の約13%が軍用地になったという。沖縄の軍事基地化はアメリカの世界戦略と結びついていると言えるだろう。

こうした軍事基地化が推進されていた当時、1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めていたのがライマン・レムニッツァー。第2次世界大戦でイギリス軍のハロルド・アレグザンダー元帥に取り入り、アレン・ダレスを紹介されている。ダレスとレムニッツァーは大戦の終盤、ナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」をルーズベルト大統領に無断で実施している。

レムニッツァーは琉球民政長官の後、ドワイト・アイゼンハワー政権時代の1960年から統合参謀本部議長に就任するが、次のケネディ大統領とは衝突、議長の再任が拒否されている。衝突の主な原因はソ連に対する先制核攻撃をめぐるものだった。

本ブログでは何度も書いてきたが、テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーやカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりにソ連を奇襲攻撃する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。そのために偽旗作戦のノースウッズも作成されたのだが、1963年6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。そして11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。その翌年、日本政府はルメイに対し、勲一等旭日大綬章を授与している。

これも繰り返し書いてきたが、「核の傘」とはアメリカの先制核攻撃の拠点になることを意味する。1991年12月にソ連が消滅した直後、ネオコンをはじめとする好戦派が作成した国防総省のDPG草稿、いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンはソ連がアメリカの属国になったという前提で立てられた世界制覇プラン。21世紀に入るとロシアがウラジミル・プーチンの元で再独立に成功、国力を回復させたのだが、それでもアメリカ支配層の内部にはボリス・エリツィン時代のイメージが残っていたようで、例えば、キール・リーバーとダリル・プレスはフォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載された論文の中でロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるようになると主張している。

その論文が出た2年後の2008年にアメリカ支配層の幻想を打ち破る出来事があった。その年の7月10日にアメリカのコンドリーサ・ライス国務長官はジョージア(グルジア)を訪問、8月7日にミヘイル・サーカシビリ大統領は分離独立派に対して対話を訴えてから8時間後の深夜に南オセチアを奇襲攻撃したのだ。

ジョージアは2001年以降、イスラエルの軍事会社から無人飛行機、暗視装置、対航空機装置、砲弾、ロケット、電子システムなどを含む武器/兵器の提供を受け、軍事訓練も受けていた。2008年1月から4月にかけてはアメリカの傭兵会社MPRIとアメリカン・システムズが元特殊部隊員を派遣している。つまり、アメリカやイスラエルは周到に準備した上でジョージアに南オセチアを奇襲攻撃させたのだ。圧勝する予定だったのだろうが、ロシア軍に粉砕されてしまった。この時点でアメリカ軍やイスラエル軍はロシア軍に通常戦で勝てないことが明らかになったと言える。その後、力の差が開いたことはシリアでの戦闘が示唆している。

それでもアメリカ支配層の一部はロシアと中国を制圧しようとしている。アメリカ経済は半世紀近く前に破綻、その後は資金のコロガシ、投機市場の肥大化で誤魔化してきたのだが、その仕組みが揺らいでいることが大きい。ドルが基軸通貨の地位から陥落しそうだなのだ。投機市場が縮小しはじめたなら大変な勢いで西側支配層の富は消えていく。ロシアと中国が健在である限り、そうした展開になってしまうだろう。来年、アングロ・シオニストの支配者たちはギャンブルに出る可能性がある。
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ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も
どうしん電子版(北海道新聞)12/30 05:00

 【根室】1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを突き合わせ、明らかにした。米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。

 振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。

 米国は45年5〜9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4〜8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイの基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、ソ連兵の指導に当たったという。






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2017年12月16日
謝罪天皇の害 謝罪に明け暮れた平成30年間の悪夢

天皇の「おことば」は日本の戦争犯罪を認め、外国の日本批判の根拠にされてしまっている。
引用:http://blog-imgs-79.fc2.com/2/0/0/2002mar/888dd1f4121eaa4ec16c3ea27b40ef7e.jpg


平成の悪夢

平成は31年3月末日で終わり、現天皇は退位するのが決まったが、紆余曲折やさまざまな経緯があった。

退位を望んだのは天皇自身で、政府は最初「生前の退位など認めない」という立場だったが、最後は天皇の希望が通った。

議論の中で「天皇の公務を減らして高齢でも務まるようにしよう」という意見があったが、これに天皇自身が猛反対したと言われている。

有識者として選ばれたある保守系有名言論人は「天皇は祈るだけで、何もしなくて良い」と発言し、天皇は激怒したとも言われている。

「自分の生き方を全否定する内容」に強い不満を感じたと、宮内庁関係者を通じて表明している。

現天皇は昭和天皇の後を受け継ぎ、象徴天皇として公務に全身全霊を捧げてきたという自負を持っている。


だが時として天皇自身の強い思いが空回りしたり、国の利害と食い違う事もあり、「平成」の約30年間を通じて矛盾が拡大した。

天皇が終戦の日や新年や、折に触れて表明する「おことば」は、度々日本政府の立場を潰してきた。

最近の例では平成27年8月14日の戦後70年談話、いわゆる『安倍談話』と翌日に天皇が表明した「おことば」の矛盾が挙げられる。


謝罪は公務ではない

平成27年8月14日の安倍談話では「村山談話」「河野談話」のような中国や韓国への直接の謝罪や、侵略戦争で日本批判の文言を盛り込まなかった。

「植民地支配から永遠に決別」「すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」「繰り返し痛切な反省と心からのおわび」などの言葉はあった。


戦後60年の「村山談話」は文章の大半が日本の侵略非難と、中国韓国への謝罪だったので、大きく転換したと言える。

もっとも村山談話より前の時代は、「戦後XX年」は戦争で被害に遭った「日本人を追悼する」日だったので、元に戻ってはいない。

村山総理は戦争被害に遭った日本人には一言も触れずに、ひたすら日本人を罵倒し、批判する談話を読み上げていました。


こういう経緯があって安倍談話が発表された翌日、平成27年8月15日に日本武道館における全国戦没者追悼式で、天皇の「おことば」が発表された。

「さきの大戦に対する深い反省と共に,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心からなる追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」という一節が含まれていました。

言葉は丁寧だが「日本が戦争を起こしたのを反省しなさい」「日本さえ存在しなければ戦争は起きなかった」という村山首相談話と同じような事です。


いつもこうであり日本の政治家や首相、要人が過去を反省する必要はないと言った後で、天皇が「いや日本人は永遠に謝罪しなさい」と否定してしまう。

終戦の日のたびにこうしたパターンが繰り返され、日本人は天皇によって恥をかかされるのが、毎年恒例になっている。

いくら真実を明らかにしても、翌日には天皇が「日本人は反省しなさい」などと言うので全てが水泡に帰してしまう。


昭和天皇は慎重に言葉を選んだが、現天皇は口が軽い
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引用:http://gazou.gundari.info/images-2ch-201401/20140702003201.jpg


日本国民を踏みつける天皇の「おことば」

「南京事件」は中華民国軍(台湾軍)が起こした事件であり、日本軍は南京市民を救済したのだが、「天皇は罪を認めて謝罪しているじゃないか」と反論されてしまう。

従軍慰安婦も親が金目当てで売り飛ばしたのだが、これも「天皇が戦争犯罪を認めて毎年謝罪している」のが動かぬ証拠にされてしまう。

現天皇の「おことば」は日本国民に迷惑でしょうがないので、少し黙っていて欲しい。


先代の昭和天皇はこうした言葉を決して使わず、慎重に言葉を選び、利用されないようにしていました。

平成になってから天皇が謝罪や反省を連発し始めたのを見れば、天皇自身の希望によって、こうした文言を加えていると推測できる。

現天皇の「謝罪好き」がはっきりと現れたのは平成4年つまり1992年10月の訪中で、日本中がどうして中国なんかに行くのかと驚いた。


中国は天安門事件で数千人の学生を装甲車で踏みつけて経済制裁されていて、しかも有りもしない南京事件を創作して対日批判を繰り返していた。

当時は官僚や河野洋平ら親中派の仕業と推測されていたが、今考えれば天皇は訪中を断る事もできた。

実際何度要請されても韓国訪問は断っているし、ロシアなど「行きたくない国」には頑として行かない。


また1998年(平成10年)には中国の江沢民主席を晩餐会に招き、軍服を着ていたので大騒動に発展した。

江沢民は晩餐会で日本の軍国主義を批判していたが、これも晩餐会など理由をつけて断っても良かった。

実際フィリピンのドゥテルテ大統領が来日したときは、理由をつけて(三笠宮殿下逝去)回避していて、別に強制ではない。


現天皇は実は中国好きで、習近平がお気に入りで2009年に皇居で謁見した時は話が弾んだという。

現天皇は昭和天皇に比べると、口が軽く責任感も希薄だと言わざるを得ない。

そして毎年毎年天皇が日本批判の「おことば」を言うために、国民は毎年恥をかかされている。
http://www.thutmosev.com/archives/74047805.html



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イギリスは19世紀に経済の破綻を略奪で埋め合わせようとして中国(清)へアヘンを密輸出、中国側が取り締まりを強化すると1840年に戦争を仕掛け、植民地化の第一歩を印した。その際、アメリカ人の中にも麻薬取引で大儲けした人たちがいる。アメリカは19世紀の終わりにフィリピンを植民地化して以来、中国での利権獲得を目指してきた。その長期戦略は今も生きているように見える。

アヘンの取り引きで大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン商会。その会社は1859年にふたりの人物を日本へ派遣している。ひとりは長崎に来たトーマス・グラバーであり、もうひとりは横浜にオフィスを開いたウィリアム・ケズウィック。

日本ではグラバーが有名だが、どちらが大物かというと後者。1862年に香港へ戻り、86年にはロンドンで会社の幹部になっている。彼の父親もジャーディン・マセソン商会の人間で、母方の祖母は同商会の共同創立者であるウィリアム・ジャーディンの姉にあたり、ケズウィック家は香港上海銀行と深くつながる。この銀行は麻薬取引の資金を扱っていたが、そうしたことからウィリアム・ケズウィックは青幇の杜月笙と親しくしていた。その縁で蒋介石とも関係がある。

1863年6月に長州は5名の若者、つまり井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)を横浜からロンドンへ送り出すが、渡航の手配をしたのはグラバーで、その際にジャーディン・マセソン商会の船が利用されている。

一方、アメリカがアジア侵略を本格化させるのは1898年。キューバのハバナ港に停泊していたアメリカの軍艦メインが爆沈した責任をスペインに押しつけて戦争を始め、勝利する。アメリカは「独立」という名目でスペインからキューバを奪い、プエルトリコ、グアム、フィリピンを買収、ハワイも支配下においた。フィリピンは中国を侵略する橋頭堡として位置づけられる。

その当時からアメリカを支配していたのは巨大資本。1923年に日本で関東大震災が起こると、復興資金の調達を頼ったアメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本の支配者になる。このJPモルガンの総帥だったジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーが駐日大使として1932年に来日した。戦後日本の進む方向を定めたジャパン・ロビーの中心人物もこのグルーだ。

この1932年に行われた大統領選挙でウォール街が担いでいた現職のハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北、ウォール街の大物たちは33年にクーデターを計画している。

しかし、この計画は海兵隊のスメドレー・バトラー少将が1934年にアメリカ下院の委員会で告発して発覚、少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチによると、クーデター派は「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と主張していたという。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801070000/





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日米が東アジアでの軍事的な緊張を高めようとしているのに対し、韓国は破壊と殺戮の回避へ動く

東アジアで軍事的な緊張が高まることを望み、そうした状況を作り出しているのはアメリカであり、日本はその戦略に従っている。それに対し、韓国は戦争による破壊と殺戮を避けようとしているのだ。

アメリカの好戦派を代表するネオコンはソ連が1991年12月に消滅した直後、92年2月に国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成した。作業で中心的な役割を果たした人物が国防次官だったポール・ウォルフォウィッツだったことからウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。冷戦の終結は戦乱の幕開けを意味していた。

世界を冷戦へと導いたのはイギリスの首相だったウィンストン・チャーチルだ。ドイツが降伏した直後、チャーチル首相はJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令している。そして5月22日に提出されたのが「アンシンカブル作戦」だ。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この作戦は参謀本部が拒否したため、実行されていない。

チャーチルは7月26日に退陣、翌1946年3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、冷戦の幕開けを告げた。​1947年にはアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいた​という。

1947年にはアメリカの外交官、ジョージ・ケナンがフォーリン・アフェアーズ誌の7月号に匿名で論文「ソ連の行動の源泉」を発表し、ソ連は基本的に西側との共存を望んでいないと主張、警戒を呼びかけている。その年の5月にアメリカ議会はギリシャやトルコへ合計4億ドルの援助を与えることを決め、封じ込め政策が始まった。

ケナンが書いた草案に基づいてNSC(国家安全保障会議)は1948年にNSC10/2を作成し、それにベースにして心理戦や破壊活動を目的とする秘密機関OPC(政策調整局、当初の名称は特別プロジェクト局)を設置した。

1950年10月にOPCはCIAに吸収され、翌年1月にはアレン・ダレスがCIAの計画担当副長官に就任、同年8月には全体を統括する副長官になる。計画担当副長官の後任はOPC局長だったフランク・ウィズナー。

1952年8月にはOPCが中核になり、CIAの内部に計画局が設置された。1953年1月にドワイト・アイゼンハワーが大統領に就任すると2月にダレスはCIA長官に納まる。この政権で兄のジョン・フォスター・ダレスはすでに1月から国務長官に就任していた。1970年代に入ると秘密工作の一端が知られるようになり、1973年3月に計画局は名称を作戦局へ変更、2005年10月にはNCS(国家秘密局)に衣替えした。

封じ込め政策はハルフォード・マッキンダーというイギリスの学者が1904年に発表した理論に似ている。彼は世界を3つに分けて考えた。第1がヨーロッパ、アジア、アフリカの世界島、第2がイギリスや日本のような沖合諸島、そして第3が南北アメリカやオーストラリアのような遠方諸島。世界島の中心がハートランドで、ロシアを指している。

広大な領土、豊富な天然資源、そして多くの人口を抱えるロシアを制圧できれば世界の覇者になれると考え、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯と、その外側に想定する外部三日月地帯で締め上げようとしたのだ。日本は外部三日月地帯の一部と見なされた。

イギリスにとって日本は東アジア侵略の拠点であり、日本軍は彼らの手先ということ。だからこそイギリスは長州の後ろ盾になって明治維新を成功させ、日本の軍事力や生産力の向上に協力したと考えられる。この維新が民主主義を目指していなかったことは自由民権運動の弾圧を見ても明らか。

明治政府は1872年に琉球を併合、74年には台湾派兵、75年には江華島へ軍艦を派遣して朝鮮を挑発した。そこから日清戦争、日露戦争、そして中国侵略へと続く。本ブログでは何度も書いてきたが、日本がウォール街の影響下に入るのは関東大震災以降。戦前も戦後も日本はウォール街の属国だ。そのウォール街と対立関係にあったニューディール派がホワイトハウスの主になったのが1933年。それから1945年4月までそうした状況が続く。その期間を含め、日本とアメリカとの関係を考える上でのキーパーソンが駐日大使だったジョセフ・グルーだ。

植民地主義に反対したニューディール派のフランクリン・ルーズベルト、ソ連との平和共存を打ち出してベトナムからのアメリカ軍撤退を決めていたジョン・F・ケネディ、デタントへ舵を切ったリチャード・ニクソンといった大統領はいたが、全体の流れは侵略へ向かっている。ちなみにルーズベルトはドイツが降伏する前の月に急死、ケネディは暗殺され、ニクソンはスキャンダルで失脚した。

第2次大戦後、日本は軍事力を放棄したことになっているが、旧日本軍の軍人は朝鮮半島や台湾で活動していた。中でも1950年の正月頃に台湾へ渡り、日本軍の戦術や軍事情報を台湾軍に教育して国家総動員体制を伝授した白団は有名。

多くの将校、下士官、兵士が蒋介石軍によって処刑される中、岡村寧次大将など一部の軍人は帰国してGHQ/SCAPに保護される。その岡村の下へ蒋介石は曹士徴を密使として派遣、岡村や富田直亮少将と東京の高輪で会談して「台湾義勇軍」を編成することで合意している。富田少将が「白鴻亮」の名前で義勇軍を指揮することになったことから義勇軍は白団と呼ばれるようになった。1951年の夏までに83名の旧日本軍参謀が台湾へ渡る。

白団へ軍事情報を渡していたのは富士倶楽部、つまり陸士34期の三羽烏と呼ばれた服部卓四郎大佐、西浦進大佐、堀場一雄大佐、あるいは海軍の及川古四郎大将や大前敏一大佐たち。服部はノモンハン事件で作戦指導を行った軍人で、アメリカとソ連との戦争は不可避だと考えていた。占領軍のG2(情報担当)部長だったチャールズ・ウィロビー少将から信頼されるようになる。

1949年に服部大佐は市ヶ谷駅の近くに史実研究所をつくり、その後、約20年間に白団へ6000点ほどの資料(森詠の『黒の機関』によると、軍事図書7000冊、資料5000点余り)を渡しているが、その中には自衛隊の教科書も含まれていた。なお、白団メンバーのうち23名が自衛隊へ入っている。この当時からアメリカ軍と旧日本軍/自衛隊は連携して動いているわけで、アメリカが東アジアで戦争を始めたならば、つまり中国を侵略したならば、自衛隊も参加することになるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801090001/



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イギリスやアメリカで作成された世界制覇プランはウォルフォウィッツ・ドクトリンの前にも存在する。中でも重要なものが1904年に発表されたハルフォード・マッキンダーのハートランド理論。彼は世界を3つに分け、ひとつはヨーロッパ、アジア、アフリカの世界島、ふたつめはイギリスや日本のような沖合諸島、そして最後に南北アメリカやオーストラリアのような遠方諸島と名付けた。世界島の中心がハートランドで、具体的にはロシアを指している。
また、ユーラシア大陸を囲むように、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯が、またその外側に外部三日月帯が想定されている。イギリスと日本は内部三日月帯の両端にある外部三日月帯とされている。イギリスが明治維新を支援した理由を考える場合、この戦略を無視することはできない。時期的にマッキンダーの理論は後から発表されているが、考え方としては存在していた可能性がある。イギリスにとって日本はアジア侵略の拠点であり、日本人は侵略の手先ということ。現在の中東に当てはめるならば、日本はアル・カイダ系武装集団やダーイッシュに近い。

アメリカがアジア侵略の拠点にしたのはフィリピン。1898年にキューバのハバナ港に停泊していたアメリカの軍艦メインが爆沈、アメリカはスペインが爆破したと主張して宣戦布告、スペインと戦争を始めた。

この戦争で勝利したアメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、プエルトリコ、グアム、フィリピンを買収することになる。つまりこうした国々を植民地化した。ハワイも支配下におく。

1901年に出版された『廿世紀之怪物 帝国主義』の中で幸徳秋水はアメリカの行為を帝国主義だと批判している。「米国にして真にキュバ叛徒の自由のために戦えるか、何ぞ比律賓人民の自由を束縛するの甚だしきや。」「それ他の人民の意思に反して、武力暴力をもって強圧し、その地を奪い富を掠めんとす。」

この記述は基本的に今でも通用する。アメリカは帝国主義の国であり、フランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディは例外的な人物だった。現在のアメリカにこうした例外的人物が登場することは不可能に近いだろう。アメリカは「自由と民主主義の旗手」でなく、「民主主義の伝道師」でもない。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801240002/




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天皇メッセージ

「天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」GHQシーボルト外交局長

「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

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ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。

米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。

共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。

寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。

寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。
https://kuantan.me/2017/04/30/april-30-2017-at-1210pm/




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朝鮮を利用して米国の世界制覇プランを隠蔽、侵略戦争も見て見ぬ振りの人々

朝鮮半島周辺の軍事的な緊張を高めている原因は朝鮮にあり、日本やアメリカはそうした行動に対応しているだけだと信じている人がいるようだ。朝鮮が原因ならば、軍事的な緊張にアメリカの戦略、例えばウォルフォウィッツ・ドクトリンは関係なく、中東やヨーロッパにおけるアメリカの行動と関連づけて考える必要もない。朝鮮は経済的にも軍事的にも強力とは言えず、戦争が勃発しても高みの見物、と思っている人も少なくないようだ。アメリカと中国が共同で朝鮮を「征伐する」というシナリオを描くことも可能だ。朝鮮に責任を押しつけておけば「お上」に睨まれないと思っている人もいるだろう。

しかし、東アジアの軍事的な緊張を高めているのはアメリカとその属国である日本。この両国にとって朝鮮はありがたい存在だ。

アメリカの東アジア侵略は1898年にスペインと行った戦争でフィリピンを手に入れたことから始まり、日本の場合は1872年の琉球併合。当時、明治政府、つまり薩長体制はイギリスを後ろ盾にしていた。

19世紀のイギリスは中国(清)との貿易赤字に悩み、アヘンの密輸出で問題を解決しようと目論み、その密輸を取り締まろうとする中国と戦争になる。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争だ。こうした戦争でイギリスは利権を手に入れる。明治維新以降、日本が東アジアを侵略することになった。

1904年にイギリスではハルフォード・マッキンダーがハートランド理論を発表する。彼は世界を3つに分け、ひとつはヨーロッパ、アジア、アフリカの「世界島」、ふたつめはイギリスや日本のような「沖合諸島」、そして最後に南北アメリカやオーストラリアのような「遠方諸島」と名付けた。世界島の中心がハートランドで、具体的にはロシアを指している。

また、ユーラシア大陸を囲むように、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ「内部三日月帯」が、またその外側に「外部三日月帯」が想定されている。イギリスと日本は内部三日月帯の両端にある外部三日月帯とされている。この三日月帯でハートランド、つまりロシアを締め上げていこうというわけだ。日本が日清戦争に続いて日露戦争を引き起こすが、これはイギリスの戦略に合致している。ロシアは1917年11月の十月革命で社会主義を掲げるソ連になる。

日露戦争以降、日本は満州(中国東北部)支配に乗り出し、1931年9月には関東軍が奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破、これを張学良軍の犯行だと主張して満州制圧作戦を展開、32年に満州国をでっち上げた。アメリカもしばしば侵略に使う偽旗作戦だ。

この1932年にアメリカでは大統領選挙があり、日本に大きな影響力を持っていたウォール街が押すハーバート・フーバー大統領がニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れている。新大統領は植民地やファシズムに反対、日本との摩擦が激しくなる。

フーバーはホワイトハウスを去る直前、1932年にジョセフ・グルーがアメリカ大使として来日した。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人々以上にグルーが親しくしていたと言われているのが松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

この岸は安倍晋三首相の祖父にあたる人物で、1930年代後半に中国東北部(満州)へ渡って満州国国務院実業部総務司長に就任した経験がある。その当時、関東軍参謀長の東条英機、満州国総務長官の星野直樹、満鉄総裁の松岡洋右、日産コンツェルンの鮎川義介、そして岸は「2キ3スケ」と呼ばれていた。

1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こし、39年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。その後、日本は南進して米英の利権と衝突することになる。この時に使われた口実が大東亜共栄圏。現在、アメリカや日本は侵略の口実として民主化、人道、テロとの戦いなどが使われているが、手口は同じだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201802100000/




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2018.02.11
日本による朝鮮半島の植民地支配が持つ意味を軽く扱ったNBCコメンテイターの無神経な発言に批判

アメリカのネットワーク局​NBCのコメンテイター、ジョシュア・クーパー・ラモが平昌オリンピックの開幕セレモニーで行った日本と韓国/朝鮮との関係についてのコメント​へ批判が浴びせられている。日本について、1910年から45年にかけて朝鮮半島を支配したとした上で、文化的、技術的、経済的に自分たちが変化していく上で重要な見本だと全ての韓国/朝鮮人は考えているとコメントしたという。

日本の朝鮮支配がイギリスの世界戦略と深く結びついていることは本ブログでも再三再四書いてきた。明治維新で登場した薩長政府は1872年に琉球国を併合、74年に台湾へ派兵し、75年には軍艦「雲揚丸」を江華島へ派遣して李氏朝鮮を挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、94年から95年にかけて日清戦争、95年には王妃の閔妃を惨殺、そして大韓帝国(1897年に改称)を併合、朝鮮半島を植民地にしたわけだ。植民地時代に日本が行ったことを韓国/朝鮮人は忘れていないが、日本の政治家やマスコミからは無反省な主張が絶え間なく発信されてきた。それを少数意見だということはできず、韓国/朝鮮が日本を見本にしていると言える状況ではない。

アメリカの国外における侵略政策や国内の収容所化を進めるために偽報道を続けるアメリカの有力メディアのひとつであるNBCのコメンテイターならこうした無神経なことを口にしても不思議ではない気もするが、ラモはキッシンジャー・アソシエイツの共同CEO。中国に関する本を著している人物でもある。スターバックスやフェデラル・エクスプレスの重役でもあるらしい。善悪はともかく、国際情勢に関してそれなりの知識と判断力を持っているはずの立場にある。

アメリカと韓国との関係を悪化させる目的で確信犯的に行ったのではないとするなら、アメリカ支配層の知的レベルがかなり低下していることを示し、アメリカの落日を象徴するような発言だとも言えるだろう。安倍晋三が首相でいられる理由も理解できる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201802110002/




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朝鮮に対し、アメリカは「鼻血を流す」程度の先制攻撃を計画しているという話が流れている。核兵器を開発していることが攻撃を目論む理由だということになっているが、アメリカは核兵器を保有しているからといって攻撃することはない。そのうえ、アメリカにとって朝鮮は東アジアを不安定化する上で重要な国だ。ジャーナリストのF・ウィリアム・イングダールによると、CIAの幹部でエール大学時代からジョージ・H・W・ブッシュと親しかったジェームズ・R・リリーは、​もし朝鮮が存在しなかったなら、東アジアに第7艦隊を置いておくためにそうした国を作る必要があった​と彼に語ったという。

ところで、現在、核兵器を保有していると言われている国は9カ国ある。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、そして朝鮮。アメリカの情報機関で分析を担当していた人物によると、日本が核兵器を開発中だとCIAは確信している。核弾頭を保有している可能性も否定はできない。


第2次世界大戦、日本でも核兵器の開発が進められていたことが知られている。理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究と海軍が京都帝大と検討していたF研究だ。陸軍は福島県石川郡でのウラン採掘を決め、海軍は上海の闇市場で130キログラムの2酸化ウランを手に入れて1944年には濃縮実験を始めたという。


1945年に入るとドイツは約540キログラムの2酸化ウランを潜水艦(U234)で運ぼうとしたが、アメリカの軍艦に拿捕されてしまう。日本側は知らなかったようだが、アドルフ・ヒトラーの側近だったマルチン・ボルマンは潜水艦の艦長に対し、アメリカの東海岸へ向かい、そこで2酸化ウランを含む積み荷をアメリカ海軍へ引き渡すように命令していたという。このUボートに乗り込んでいた日本人士官は自殺、積み荷はアメリカのオーク・リッジ国立研究所へ運ばれたとされている。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)


戦後、1964年に中国が初めて核実験を実施すると、佐藤栄作政権は核武装への道を模索(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)、65年に佐藤首相がアメリカを訪問してリンドン・ジョンソン大統領と会談した際、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。(NHK「“核”を求めた日本」2010年10月3日)


CIAなどが核兵器開発の中心になっていると疑っていた「動力炉・核燃料開発事業団(現在は日本原子力研究開発機構)」が設立されたのは1967年のこと。1969年に日本政府は西ドイツ政府と核兵器に関して秘密裏に協議、この年に成立したリチャード・ニクソン政権で大統領補佐官に就任したヘンリー・キッシンジャーは彼のスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)


ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、東電福島第一原発で炉心がメルトダウンするという過酷事故を引き起こした2011年3月当時、日本には約70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積していたという。そうした状況を生み出す大きな節目になったのが1987年のアメリカにおける予算。


1972年からアメリカではCRBR(クリンチ・リバー増殖炉)計画が進められていたのだが、77年に大統領となったジミー・カーターの政策で計画は中止になる。1981年から大統領を務めたロナルド・レーガンはこの計画を復活させるが、87年に議会は予算を打ち切ってしまう。


そこで登場してくるのが日本の電力会社。その際、日本側から核兵器に関する技術を要求、それは受け入れられた。中でも日本人が最も欲しがっていたサバンナ・リバーにある高性能プルトニウム分離装置に関する技術も入手する。小型遠心抽出機など関連する機器は東海再処理工場のRETF(リサイクル機器試験施設)へ送られている。この施設では高速増殖炉の使用済み核燃料を再処理し、兵器級プルトニウムを取り出すことが可能。また日本から毎年何十人もの科学者たちがクリンチ・リバー計画の関連施設を訪れ、ハンフォードとサバンナ・リバーの施設へ入っている。


ところで、1945年4月に急死したフランクリン・ルーズベルト大統領の後任として副大統領から昇格したハリー・トルーマンは中国に国民党政権を樹立するつもりだったが、大方の予想を裏切る形でコミュニストが勝利してしまう。1949年1月に解放軍は北京に無血入城、コミュニストの指導部も北京に入りし、5月には上海を支配下においた。


中華人民共和国が成立するのはその年の10月だが、そのときに天安門広場でコミュニストの幹部を一気に暗殺し、偽装帰順という形で各地に配置した軍隊に蜂起させて中国を制圧しようという計画があった。


この計画は失敗に終わるが、翌年の1950年3月にアメリカの破壊工作(テロ)部隊のOPCと国民党軍がビルマ(現在のミャンマー)の一部を占領、その年の6月に朝鮮戦争が勃発した。


実は、戦争勃発の3日前、アレン・ダレスの兄であるジョン・フォスター・ダレスが朝鮮半島から日本へわたり、吉田茂と会談した後にニューズウィーク誌の東京支局長だったコンプトン・パケナムの家で夕食会に参加している。日本側から出席したのは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三だ。


そして1950年10月にOPCはCIAに吸収され、51年1月にはアレン・ダレスが破壊活動担当の副長官としてCIAへ入る。1952年8月にOPCを中心に計画局が設置され、53年2月にダレスはCIA長官に就任した。その間、1951年4月にCIAの顧問団に率いられた国民党軍約2000名が中国へ軍事侵攻、一時は片馬(ケンマ)を占領した。翌年の8月にも国民党軍は中国に侵攻して国境から約100キロメートルほど進んだが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わった。その後もアメリカは中国支配を目論んでいる。


中国との関係修復に乗り出したリチャード・ニクソン大統領はスキャンダルで失脚、1980年代に中国は新自由主義を導入してアメリカ支配層の影響下に入ったと見られていたが、ネオコンの世界制覇プランを見てロシアへ接近、今では戦略的パートナーになった。アメリカは基軸通貨を発行する特権で支配システムを維持している国だが、その特権が中国とロシアによって揺さぶられている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201802150000/




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2018.05.03
米国政府が反ファシスト派から反コミュニスト派へ切り替わった直後にできた日本国憲法(その1)


 現行の「日本国憲法」が施行された1947年5月3日当時、アメリカ政府内では反ファシストを掲げ、労働者の権利を認めようとしていたニューディール派の影響力が低下、反コミュニストで巨大企業の利益を優先しようというウォール街派が主導権を握っていた。ニューディール派の中心的な存在だったフランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月に急死したことが大きい。


 本ブログでも何度か指摘したように、1932年の大統領選挙でルーズベルトが勝利した直後からウォール街派はニューディール派と対立、33年から34年にかけてのころにはファシズム体制の構築を目指したクーデターを計画していた。この計画はウォール街の巨大金融機関が中心になったものだが、話を持ちかけられた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将が反発、カウンタークーデターを宣言し、議会で告発したことで発覚している。クーデター計画は失敗に終わった。


 1941年6月にドイツ軍は90万人を西部戦線に残して310万人をソ連に向かって進軍させて42年8月にスターリングラード市内へ突入したのだが、その年の11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲してしまう。この段階でソ連に攻め込んだドイツ軍だけでなく、ドイツ自体の敗北が決定的だった。1943年1月には生き残ったドイツの将兵9万1000名が降伏する。


 こうした状況を見て慌てた米英の支配層は1943年5月にワシントンDCで会談、7月に両国軍はシチリア島に上陸した。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。この作戦でドイツ軍が負けたわけではない。米英支配層の目はソ連に向けられていたはずだ。


 ドイツ軍の敗北が明らかになった1942年冬、ドイツのSS(ナチ親衛隊)はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、44年になるとアメリカの戦時情報機関であるOSSのフランク・ウィズナーを介してアレン・ダレスのグループが情報将校のラインハルト・ゲーレン准将(ドイツ陸軍参謀本部第12課の課長)と接触している。ダレスたちが接触した相手にはSA(突撃隊)を組織、後にヒトラーの第一後継者に指名されたヘルマン・ゲーリングも含まれる。


 1945年初頭になるとダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だったSS高官のカール・ウルフに接触して隠れ家を提供し、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。この件についてダレスと話し合うためにイギリス軍のハロルド・アレグザンダー(イギリス第8軍とアメリカ第7軍を指揮していた)は1945年3月にライマン・レムニッツァーをスイスへ派遣している。レムニッツァーはアレグザンダーに取り入ることでその後出世、ドワイト・アイゼンハワー政権で統合参謀本部議長になっている。


 こうしたイタリアにおける単独降伏の秘密交渉を察知したソ連のヨシフ・スターリンはアメリカがドイツにソ連を再攻撃させようとしていると非難、それに対してルーズベルト大統領はそうした交渉はしていないと反論している。そうした最中、4月12日にルーズベルトは執務室で急死した。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201805030000/

米国政府が反ファシスト派から反コミュニスト派へ切り替わった直後にできた日本国憲法(その2)


 大戦後、1948年6月にNSC(国家安全保障会議)が出したNSC10/2に基づいて破壊活動(テロ)を目的とする極秘機関のOSP(すぐOPCへ名称変更)が創設され、52年8月にはOPCが中核になって計画局が設置された。1953年1月にアイゼンハワーが大統領に就任、2月にはアレン・ダレスがCIA長官に就任した。その後、計画局は1973年3月に名称を作戦局へ変更、2005年10月にはNCS(国家秘密局)になった。


 こうした流れの中、日本国憲法は作られたわけだ。大戦前に思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈が戦後も生き残ったのは必然だった。そうした状況を象徴する人物が1932年から41年にかけて駐日アメリカ大使を務めたジョセフ・グルー。


 彼のいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚、また妻は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)で九条節子(後の貞明皇后)と親しくなっている。大戦後の日本を築き上げたのジャパンロビーでグルーは中心的な役割を果たしている。つまり、「戦前レジーム」も「戦後レジーム」も本質は同じなのだ。


 1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)が設立され、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎなかった。アメリカのウォール街派はドイツでも日本でも戦前の体制を継続させようとしていた。「国体」は維持されたのだ。その象徴が天皇にほかならない。


 日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々には少なくない。新憲法でも東京裁判でも、最大の問題は天皇だった。


 大戦後、まず日本を占領したのはアメリカ軍。その中枢はGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)だが、その中でも多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)ビッターはCIAとの関係が強く疑われている人物で、闇ドル事件にも登場している。


 降伏した直後の日本を占領したのはアメリカ軍だが、時間が経過すればそれ以外の国からも関係者がやって来る。そうした人々の多くはハリー・トルーマン政権より天皇には批判的だったはず。のんびりしていると、天皇の戦争責任が問われることは避けられなかっただろう。その前に天皇制を盛り込んだ憲法を作り、「戦争責任」を問うセレモニーを行って天皇を免責する必要もあった。東京裁判で天皇は起訴されず、新憲法の第1条では天皇制の継続が謳われている。


 そうした憲法だが、民主的な条項が含まれていることも事実。当時の状況からして、そうしなければ天皇制を維持することが難しかったのだ。天皇制官僚国家は明治維新で長州と薩摩がイギリスを後ろ盾として築いた天皇制カルトという側面がある。そのシステムを使ってイギリスやアメリカは日本に影響力を行使してきた。そうした実態に不満を持つ人たちの中には血盟団のメンバーや二・二六事件の将校も含まれるだろう。日本が迷走した1930年代から敗戦近くまでアメリカ政府で主導権を握っていたのはウォール街と対立していたニューディール派だ。そのニューディール派的な条項が日本国憲法に存在していることを許せないと感じている人たちがいる。そうした人たちがアメリカ従属派なのは当然だ。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201805030000/



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2018.06.06
朝鮮情勢に関係なく、米海軍は太平洋からインド洋を支配するため、韓国に居座る

 アメリカ海軍の第7艦隊は横須賀を拠点とし、太平洋からインド洋にかけての海域を担当している。​アメリカは属国を率い、この海域を自分たちの最重要地域で、自分たちの利権だと認識、統合支配しようとしている​ことを隠していない。こう考えている以上、ここからアメリカが自分の意思で去ることはないわけだ。


 つまり、アメリカが言う「自由で開かれた」とは、アメリカが好き勝手にできるということを意味している。そのベースにはユーラシア大陸の沿岸部分を支配し、内陸の中国やロシアを締め上げて制圧、略奪するという長期戦略がある。


 イギリスは明治維新というレジーム・チェンジを後押し、日本の海軍力を増強する手助けをした。日露戦争の際にはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シフが戦費を用立てている。この交渉以降、シフは高橋是清と親しくなった。イギリスにとって日本は大陸侵略の拠点であり、日本軍は傭兵部隊なのだ。朝鮮半島は橋頭堡と言える。​ジム・マティス国防長官は朝鮮半島からアメリカ軍が去ることはないと発言​したが、橋頭堡を放棄することはないという意味だ。

 アメリカは朝鮮を利用して東アジアの軍事的な緊張を高めてきた。その状況はロシアや中国と連携した韓国政府によって大きく変化、対話の雰囲気が強まっている。この雰囲気を潰そうとする動きがあったものの、今は収まっている。


 しかし、これで平和が実現するとは言えない。アメリカが何を考えているかを示唆する出来事があった。1990年のドイツ統一だ。この際、アメリカのジェームズ・ベイカー国務長官はソ連のエドゥアルド・シュワルナゼ外務大臣に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるが、東へ拡大させることはないと約束したことが記録に残っている。この約束をソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領は信じ、ドイツ統一で譲歩したのだが、約束は守られなかった。


 アメリカのウォール街につながる情報機関の幹部たちは大統領には無断でナチスの幹部たちを逃がし、匿い、雇った。多くのファシストを移民として受け入れ、訓練してきた。勿論世代は交代しているが、新しい世代のファシストをアメリカは東ヨーロッパへ帰国させ、レジーム・チェンジの手先として利用している。そしてNATOはロシアとの国境に到達、軍隊を入れ、核攻撃できるミサイルを配置している。アメリカにとっての朝鮮半島統一とは、そういうことだ。アメリカが絡んでいる以上、真の意味で平和が実現されることは極めて難しい。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201806060000/



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これまでアメリカは東アジアにおける軍事的な緊張を高めるため、朝鮮を利用してきた。核兵器やミサイルの開発の裏でアメリカが暗躍している疑いもある。朝鮮とアメリカとの問題を考える場合、少なくとも朝鮮戦争まで遡らなければならないが、アメリカが求め、日本が同調している「非核化」は朝鮮の無条件降伏に等しく、これはアメリカによる朝鮮半島全域の制圧を意味している。その先には中国の制圧、ロシアの再属国化、そしてパックス・アメリカーナがある。

 ところで、朝鮮戦争が勃発したのは1950年6月25日だが、その前から小規模の軍事衝突はあった。その当時、ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると、半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というものだったという。日本では北からの攻撃で戦争が始まったことになっているが、世界的に見ると決して常識ではない。


 戦争勃発の3日前、ジョン・フォスター・ダレスは朝鮮半島から日本へわたり、吉田茂と会談した後にニューズウィーク誌の東京支局長だったコンプトン・パケナムの家で夕食会に参加している。日本側から出席したのは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三だ。


 渡辺武は元子爵で後の駐米公使、松平康昌は元侯爵で三井本家家長の義兄、沢田廉三の結婚した相手は三菱合資の社長だった岩崎久弥の娘。海原治は国家警察予備隊、後の自衛隊を創設する際に中心的な役割を果たすことになる。


 夕食会の4日後、つまり朝鮮戦争が勃発した翌日の26日には帰国直前のダレスに対し、天皇から軍国主義的な経歴を持つ「多くの見識ある日本人」に会い、「そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべき」だとする口頭のメッセージが伝えられている。メッセンジャーはパケナムだった。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)


 朝鮮戦争の直前、1949年1月に人民解放軍は北京に無血入城、コミュニストの指導部も北京入りしている。1945年4月にフランクリン・ルーズベルトが急死して誕生したハリー・トルーマン政権は第2次世界大戦後、蒋介石に中国を支配させる予定で、20億ドルを提供しただけでなく軍事顧問団も派遣している。


 その当時は国民党軍が紅軍(コミュニスト)を圧倒していたが、1947年の夏になると人民解放軍(47年3月に改称)が反攻を開始、48年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒するようになっていた。朝鮮戦争はアメリカ政府の中国奪還作戦だと見ることができる。


 朝鮮戦争の最中、1951年4月にCIAは約2000名の国民党軍を引き連れて中国領内に侵入したが失敗、翌年8月にも中国へ侵攻したが、この時も人民解放軍の反撃で追い出されている。朝鮮戦争は1953年7月に休戦、アメリカ軍は目的を達成することができなかった。


 その当時、インドシナではフランスが植民地奪還を目指して戦っていたが、この戦争でアメリカ政府はフランスを支援している。そのフランス軍が1954年5月にディエンビエンフーで降伏するが、その4カ月前、国務長官のジョン・フォスター・ダレスがベトナムでのゲリラ戦を準備するように提案している。それを受け、その年の夏にダレス国務長官の弟であるアレン・ダレスが長官だったCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、破壊活動を開始、リンドン・ジョンソン政権で本格的な軍事介入を始めた。


 リチャード・ニクソン大統領はベトナム戦争を終結させ、中国との国交回復を実現するが、その中国では1970年代の終盤から新自由主義に向かって歩き始め、80年には新自由主義の教祖的な存在であるミルトン・フリードマンが中国を訪問、レッセフェール流の資本主義路線へと導いていった。フリードマンは1988年に妻のローザとともに再び中国を訪れ、趙紫陽や江沢民と会談している。趙紫陽は1989年に失脚するが、江沢民はその後もアメリカとの関係を推進した。この流れが大きく変化したのはウクライナでアメリカがネオ・ナチを使ったクーデターを実行した2014年である。
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2018.08.15
アメリカとイギリスは1945年8月より前からソ連との戦争を始めていた


 第2次世界大戦で日本が降伏したのは1945年9月2日のことだった。その日、東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリで政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎が降伏文書に調印したのである。8月15日には天皇の声明が日本人に対して発表された。玉音放送、あるいは終戦勅語と呼ばれているものだ。


 その詔勅には「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。朕ハ帝國政府ヲシテ、米英支蘇四國ニ對シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨、通告セシメタリ。」(句読点は引用者)とある。


 ポツダム宣言の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表したのである。宣言の受諾は8月9日の「御前会議」で決まり、翌日には連合国側へ打電している。


 アメリカ、イギリス、中国、ソ連は連合国を構成しているメンバーだが、連携していたとは言いがたい。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はソ連と手を組んでいるつもりだったかもしれないが、アメリカを支配する巨大資本はファシストと近かった。


 本ブログでは繰り返し書いているが、1932年の大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選すると、ウォール街の巨大金融機関はクーデターを企てている。在郷軍人会を動員し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にして政権を乗っ取ろうとしたのだ。こうした動きを知ったジャーナリストのポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という証言を得ている。


 ウォール街の手下は議会にも存在、民主党の内部にもルーズベルト大統領のニューディール政策に反対する議員は少なくなかった。そうした議員たちは「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所は巨大企業や富豪だったという。


 このクーデター計画を成功させるため、アメリカ軍の内部に大きな影響力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将に接近する。計画の内容を聞き出した上でバトラーはカウンター・クーデターを宣言する。50万人規模の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると少将は告げたという。


 この計画をバトラーは1934年に議会で明らかにし、ウォール街はクーデターを断念するが、その翌年、ひとりの上院議員が暗殺されている。富裕なエリートや銀行を批判、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、純資産税を主張していたヒューイ・ロングだ。


 1941年6月にドイツ軍は主力310万人をソ連に向かって進軍させる。バルバロッサ作戦だ。この時、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎない。ドイツ軍の首脳は西部防衛のために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーがそれを退けたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)


 西側から攻められたなら、ドイツはひとたまりもない。が、攻撃されなかった。当時、ルーズベルト大統領はソ連の支援に前向きだったが、反対は強かった。ミズーリ州選出の上院議員だったハリー・トルーマンは、「ドイツが勝ちそうに見えたならロシアを助け、ロシアが勝ちそうならドイツを助け、そうやって可能な限り彼らに殺させよう」と主張していた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)


 ソ連へ攻め込んだドイツ軍はスターリングラードでの戦いに敗れて1943年1月に降伏、ドイツの敗北は決定的になる。それを見て慌てた米英両国は1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏する。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。


 1945年4月にルーズベルトは急死、5月に入るとドイツが降伏する。ウィンストン・チャーチル首相の命令でJPS(合同作戦本部)がソ連に対する奇襲攻撃計画を作成したのは5月22日。アンシンカブル作戦だ。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第三次世界大戦」を始める想定になっていた。


 ドイツの敗北が決定的になったころ、ウォール街の代理人でOSS(アメリカの戦時情報機関)の幹部だったアレン・ダレスたちはルーズベルト大統領に無断でナチスの幹部と新たな同盟についての話し合いを始めていた。


 降伏後の日本でも、源田実など無謀な戦いを推進した軍の幹部、戦前から戦中にかけて思想弾圧を行った検察や特高警察の幹部、裁判官たち、そしてプロパガンダで国民を操ったマスコミの人間は責任を問われないまま要職についている。日本国憲法は「象徴」という形で天皇制を維持した。国体は護持されたのである。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201808150000/


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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その1)

 1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲った。死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だという。当然のことながら金融機関もダメージを受けた。

 そこで政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円限度の政府補償を条件として日本銀行が再割引したのだが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したため、手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。


 そうした中、復興資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断し、森賢吾財務官が責任者に選ばれた。交渉相手に選ばれた金融機関がアメリカのJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていた。


 当時、JPモルガンを指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。


 日本に対して大きな影響力を持ったラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。1899年から1902年にかけての南アフリカ戦争で世界の金を支配することにイギリスは成功、金本位制を最小した国々の通貨を支配できる立場になった。JPモルガンはイギリスの巨大金融資本の影響下にあった金融機関だ。


 金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする考え方をする人物だった。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。


 その1932年にアメリカでは大統領選挙があり、巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破って当選する。


 そのルーズベルトは大統領に就任する17日前、つまり1933年2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会で銃撃事件に巻き込まれた。ジュゼッペ・ザンガラの撃った弾丸はルーズベルトの隣にいたシカゴ市長に命中、市長は死亡した。群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外したと考える人も少なくない。


 次期大統領を狙っていた可能性があるわけで、背後関係などをきちんと捜査する必要があったのだが、何も事情を聞き出せない、あるいは聞き出さないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809010000/




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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)


 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
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2018.09.13
米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その1)

 ロシアのウラジオストックで2015年から毎年開催されているEEF(東方経済フォーラム)はウラジミル・プーチンの外交戦略において重要な意味を持っている。アメリカは東アジアの軍事的な緊張を高めようとしているが、それに対抗してロシアは緊張を緩和、地域の経済発展につなげようとしているのだ。プーチンの戦略に中国や韓国は賛成、連携している。この3カ国に朝鮮も加わった。

 今年のEEFは9月11日から13日に開かれているが、そこで朝鮮は自国の鉄道と韓国に鉄道を結びつけることに前向きな姿勢を見せた。ロシアには以前からシベリア横断鉄道を延長して朝鮮半島を南下させようという計画がある。その計画とリンクしていることは間違いないだろう。


 この鉄道計画はロシアから天然ガスや石油を輸送するパイプラインの建設計画、そして中国の一帯一路とも関係している。大英帝国の時代からアングロ・サクソンの基本戦略はユーラシア大陸の周辺部分から内陸部を締め上げていくというもの。物資の輸送が海運中心だった時代は効果的な戦略だったが、そうした戦略を高速鉄道やパイプラインは揺るがせている。


 現在、東アジアでアメリカの戦略に従っている数少ない国のひとつが日本。その日本に対し、プーチンは前提条件なしで平和条約を結ぼうと日本側へ提案したという。ソ連/ロシアと中国の制圧を長期戦略の中心に据えているアメリカは日本がソ連/ロシアや中国と友好関係を結ぶことを許さない。プーチンも当然、そうしたことを熟知している。アメリカの政策で疲弊している日本へのちょっとしたメッセージだ。(つづく)
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米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その2)


 アメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高めようとしてきた。2009年に総理大臣となった鳩山由紀夫は東シナ海を「友愛の海」にしようと提案したが、これはアメリカ支配層を激怒させたことだろう。その後、日本ではマスコミが鳩山を攻撃、鳩山は2010年に首相の座から引きずり下ろされた。


 そして登場した菅直人内閣は中国との関係を破壊する。2010年に「日中漁業協定」を無視して石垣海上保安部は中国の漁船を尖閣諸島の付近で取り締まったのだ。それ以降、日本は中国に敵対する国になった。


 こうした政策は日本の企業に打撃を与える。中国は日本企業にとって重要なマーケットだったからだ。アメリカの中東政策は石油価格を暴騰させる可能性があるのだが、これも日本にとっては大問題。ロシアという中東より低コストで安定的なエネルギー資源の供給源が日本の近くに存在するが、ロシアとの関係を深めることをアメリカ支配層は許さないだろう。


 こうしたアメリカの政策は一貫したもの。1955年6月に鳩山一郎内閣はソ連と国交正常化の交渉を始めた。その一方、重光葵外務大臣(副総理)は同年8月に訪米してジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談、「相互防衛条約」の試案を提示した。


 その試案の中で「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始」、「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛6箇年計画の完遂年度の終了後おそくとも90日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」としている。


 日本とソ連は「歯舞、色丹返還」で領土問題を解決させる方向で動き始めたのだが、ダレス米国務長官は激怒、2島返還でソ連と合意したらアメリカは沖縄を自国領にすると恫喝したという。沖縄は歴史的に独立国であり、その意味でもアメリカの姿勢は傲慢だ。


 こうした恫喝はあったが、鳩山首相は1956年10月、河野一郎農相をともなってモスクワを訪問、鳩山首相とニコライ・ブルガーニン首相(ソ連閣僚会議議長)は日ソ共同宣言に署名して12月に発効した。それにタイミングを合わせるように鳩山は引退する。


 鳩山一郎の辞任を受けて行われた自民党総裁選でアメリカは岸信介を後押しするが、中国やソ連との交流を促進しようとしていた石橋湛山が勝つ。その石橋は2カ月後に病気で倒れ、首相臨時代理を務めることになったのが岸。翌年の2月に岸は首相に選ばれた。(つづく)
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米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/




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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/



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イギリスの戦略を知る上で重要な人物がいる。地理学者で地政学の父とも言われているハルフォード・マッキンダーだ。この学者は1904年、ロシアを支配するものが世界を支配するというハートランド理論を発表した。海洋国家であるイギリスは世界の覇者となるためにユーラシア大陸を支配する必要があり、その要はロシアだと分析、そのロシア周辺をハートランドと呼んだ。

 そのハートランドを大陸周辺から締め上げるという戦略を彼は考え、西ヨーロッパ、パレスチナ、アラビア半島、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、その外側に日本を含む外部三日月地帯を想定した。その後、内部三日月帯の上にイギリスはイスラエルとサウジアラビアを作り上げている。日本は内部三日月帯の東端にあるが、マッキンダーは外部三日月地帯の一部と見なしている。


 そのイギリスは中国(清)を侵略し、その富を奪うため、1840年に戦争を始める。1842年まで続いたアヘン戦争だ。1856年から60年にかけても同じ構図の戦争、アロー戦争(第2次アヘン戦争)を引き起こしている。


 こうした戦争でイギリスは勝利、最初の戦争で広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国は認めさせられ、次の戦争でイギリスは賠償金を払わせたほか、天津の開港や九龍半島の割譲を認めさせた。香港はイギリスによるアヘン密輸と侵略戦争の象徴だ。


 しかし、イギリス軍に中国を支配する力はなかった。アヘン戦争やアロー戦争は基本的に海戦で、イギリス軍が制圧できたのは沿岸の一部地域だけ。主要な港を押さえられたことから中国が交易の面で大きなダメージを受けたことは事実だが、中国を制圧できていない。内陸を支配するためにはそれなりの規模の地上部隊が必要だった。


 そこで目をつけられたのが日本。イギリスを後ろ盾とする薩摩と長州が徳川体制を倒して明治体制をスタートさせ、琉球併合、台湾への派兵、江華島での軍事的な挑発、日清戦争、日露戦争と続く。

そうした侵略を始めた明治政府を支えていたのがイギリスにほかならない。いわば、日本はアル・カイダ系武装集団やダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)とうタグをつけられたジハード傭兵と似たような役割をさせられたのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809290000/



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

76. 中川隆[-13703] koaQ7Jey 2018年11月29日 18:27:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21391] 報告

天皇と国際金融資本との関係 _ 2

日本が35年間にわたって行った朝鮮統治によって、本当に得をしたのは誰なのか?


元徴用工への損害賠償を認めた韓国での判決が日本軍による略奪へ波及するか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811040000/
2018.11.05 櫻井ジャーナル

 元徴用工が新日鉄住金に損害賠償を求めた訴訟で、韓国の大法院は10月30日に同社への支払を命じた。大法院は日本の最高裁に相当、これで合計4億ウォンの支払いを命じたソウル高裁の判決が確定した。日本政府は徴用工の問題は1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決している」という立場だが、個人の請求権は消滅していないと大法院は判断したのだ。かつて、日本政府もこの事実を認めていた。1965年当時の韓国大統領は1961年5月の軍事クーデターを指揮した朴正熙である。

 第2次世界大戦後、韓国も日本と同じようにアメリカ支配層の影響下にあったが、イギリスの戦略を引き継いだアメリカの目は中国、そしてソ連/ロシアに向けられている。イギリスの基本戦略とも言うべきハルフォード・マッキンダーの論文が発表されたのは1904年だが、侵略して略奪するという基本方針はその遙か前から行われてきた。

 イギリスが侵略の手を東アジアまで伸ばしてきたのは19世紀。1840年から42年にかけてのアヘン戦争、56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)は象徴的な出来事だった。

 こうした戦争でイギリスは中国(清)に勝利したが、内陸部を制圧する力はなかった。当時の主な輸送集団は船であり、主要な港を押さえられたことは清にとって大きな痛手だったが、占領されたわけではない。

 占領のための地上軍として機能したのは日本軍だ。現在の中東でアル・カイダ系武装集団、ダーイッシュ(イスラム国、IS、ISIS、ISILとも表記)が果たしている役割と似ている。だからこそ、米英の支配層は戦費を融資、技術的な支援をした。外交的にも助けている。あの強欲な米英支配層がこうしたことを行ったのは、その先に自分たちの利権があったからにほかならない。

 日本は東アジアを侵略した際、組織的に財宝を略奪している。その財宝の多くはフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれるが、戦況が悪化してフィリピンから日本へ運べなくなると、フィリピンに隠す工作を始めた。その隠された財宝は後に山下兵団の財宝と呼ばれるようになる。

 もっとも、山下奉文が日本軍第14方面軍の司令官に就任したのは1944年9月のことで、財宝の集積作業は終盤にさしかかっていた。作業を指揮していたのは本間雅晴、田中静壱、は黒田重徳のころだ。ちなみに、田中静壱は関東軍憲兵隊の司令官だったことがあるが、そのときに細菌戦用兵器を開発するための生体実験にかかわっている。

 1945年8月当時、田中の副官だった塚本清(素山)は略奪したダイヤモンドを日本へ運んだひとりと言われ、敗戦後はアメリカ軍と緊密な関係を持っていた。1961年には創価学会の顧問に就任している。

 日本が降伏した後、その隠された財宝のありかを調べる責任者がエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際はOSS、戦後はCIAの幹部だ。朝鮮戦争が休戦になった直後にジョン・フォスター・ダレス国務長官はNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、その団長をランズデールが務めている。その後、キューバに対する破壊活動などを指揮した。

 ランズデールの下で日本人に対する取り調べを行っていたのが情報将校だったサンタ・ロマーナ。このロマーナが親しくしていた女性がイメルダ。ロマーナはイメルダをフェルディナンド・マルコスに紹介、ふたりは結婚する。マルコスは財宝の一部を掘り出して大金持ちになり、大統領になったといわれている。

 そのマルコスのライバルだったベニグノ・アキノ元上院議員が1983年8月にマニラ国際空港で射殺され、社会が不安定化する。アキノへはNEDを通じてCIAのカネが流れ込んでいた。

 アメリカ軍は1986年2月にマルコスを拉致して国外へ連れ出した。その背後ではCIAが蠢いていたのだが、その工作で中心的な役割を果たしたと言われているのがアドナン・カショーギ、リチャード・アーミテージ、ポール・ウォルフォウィッツなど。アドナン・カショーギはジャマル・カショーギの伯父にあたる。

 フィリピン国外へマルコスが連れ出されると、財宝の分け前をよこせという裁判が起こされる。弁護士がでっち上げ事件で攻撃されたりしたが、それでも裁判の過程で財宝に関する情報が明るみに出てきた。

 日本軍が盗んだ財宝は金の百合と呼ばれているが、これとドイツがヨーロッパで盗んだ金塊、いわゆるナチ・ゴールドをアメリカ支配層は一体化させた。いわゆるブラック・イーグルだ。その一部は1960年頃から日本の支配層が運用しているとも言われている。

 この秘密資金は日本やドイツが盗み、アメリカが横取りしたものである。個人の請求権は存在するということになると、この秘密資金を返せという個人の要求が出てきても不思議ではない。



130. 中川隆[-13426] koaQ7Jey 2018年11月05日 10:21:38: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19999] 報告
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日本が35年間にわたって行った朝鮮統治によって、本当に得をしたのは誰なのか?

“朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る。

過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、皆さんはどのように答えるだろうか。

「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。

そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。


恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。


「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」

というのが、この問いに対する正解なのである。


朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。

なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。

具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。

そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。

満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。


すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。

だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。


もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。

しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。

そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。

確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。

しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。

そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。
http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html


要するに、当時の日本の政治家もやはりアメリカの手先で、朝鮮統治政策はアメリカの指示通りだったのですね。


96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp




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2018.11.15
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(1/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811140000/

 シンガポールで11月14日から15日にかけてロシア-ASEAN首脳会議が開かれ、ASEAN各国の首脳はウラジミル・プーチン露大統領と相次いで会談している。そのひとりが日本の安倍晋三首相だ。その際、安倍は「1956年(日ソ)共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速させることでプーチン大統領と合意した」のだという。


 安倍政権は今後、ロシアと平和条約の交渉をするだろうが、条約の調印に到達する可能性は小さい。日本とロシアが真の意味で友好的な関係築くことをアメリカ支配層は許さないだろう。そうしたことを安倍自身だけでなく、アメリカもロシアもわかっているはず。この交渉自体、アメリカの命令かもしれない。ロシアや中国と日本が真に友好的な関係を築けるのはアメリカを支えるドル体制が崩れてからだろう。


 この共同宣言は1956年10月、内閣総理大臣だった鳩山一郎がソ連を訪れ、ソ連閣僚会議議長のニコライ・ブルガーニン首相と日ソ共同宣言に署名したもので、同年12月に発効している。この宣言は当時のアメリカ支配層を激怒させたが、発効した事実は消せない。プーチン大統領もこの宣言からスタートせざるをえない。


 鳩山一郎を首班とする内閣がスタートしたのは1954年12月。鳩山首相だけでなく、重光葵外務大臣、河野一郎農林大臣、石橋湛山通産大臣たちもソ連や中国と友好関係を結ぼうと考えていた。1955年6月にはロンドンのソ連大使館で米ソ両国は国交正常化の交渉を始めている。


 重光は8月末にアメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談、その際に重要な提案をしている。「相互防衛条約」の試案を提示、その第5条で「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始」、「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛六箇年計画の完遂年度の終了後おそくとも九十日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」としている。


 1945年4月にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死した後、ホワイトハウスではニューディール派の影響力が急速に低下、ウォール街が実権を握る。新しく大統領になったハリー・トルーマンのスポンサーだった富豪のアブラハム・フェインバーグは裏でシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供、イスラエルの核兵器開発を資金面から支えた人物だ。


 トルーマン政権は国民党に中国を支配させようとしたが、1948年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒、49年1月に解放軍は北京に無血入城した。5月にはアメリカの破壊工作組織OPCが拠点にしていた上海がコミュニストに制圧される。中華人民共和国が成立するのはその年の10月のことだ。そうした流れの中、OPCは拠点を日本へ移動させている。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)


 1949年には国鉄を舞台とした「怪事件」が相次ぎ、それを口実として労働組合など左翼と見なされる人びとが弾圧された。その事件とは7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件だ。


 1950年10月にOPCはCIAに吸収されたが、その4カ月前、6月25日に朝鮮半島で戦争が勃発している。その直前にジョン・フォスター・ダレスは東アジアを歴訪、日本では6月22日にニューズウィーク誌の東京支局長だったコンプトン・パケナムの自宅で開かれた夕食会に参加した。日本側からは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康正、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三が出席している。そのダレスに対し、天皇から軍国主義的な経歴を持つ「多くの見識ある日本人」に会い、「そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべき」だとする口頭のメッセージが伝えられたという。メッセンジャーはパケナムだ。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811140000/

2018.11.15
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(2/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811130000/


 1951年1月にジョン・フォスター・ダレスが率いる講和使節団が来日、占領後の日本をめぐる交渉が始まる。ダレスは日本に対し、自分たちが「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を求めようとしていた。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)


 少なくともウォール街にとって朝鮮戦争が対中国戦争の一環だと言うことを示唆する出来事が1951年4月に引き起こされている。ウォール街が作り出したCIAの軍事顧問団が約2000名の国民党軍を率いて中国領内に侵入、一時は片馬を占領したのだ。翌年の8月にも国民党軍は中国侵攻を試みたが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わる。


 この当時、CIAやアメリカ軍の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を計画していた。例えば、1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれ、この戦争を戦うために特殊部隊のグリーン・ベレーが創設されている。(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)


 好戦派の中心メンバーのひとり、カーティス・ルメイは日本や朝鮮半島で非武装の住民を大量虐殺した作戦の責任者で、1948年から57年にかけてSAC(戦略空軍総司令部)、空軍副参謀長を経て61年から65年にかけて空軍参謀総長を務めている。


 SACは1954年、ソ連に600から750発の核爆弾を投下し、118都市に住む約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)SACが1956年に作成した核攻撃計画に関する報告書によると、ソ連、中国、そして東ヨーロッパの最重要目標に対しては水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下することになっていた。


 攻撃目標とされた大都市にはソ連の都市だけでなく、中国の北京も含まれている。沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められ、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーはルメイと同じ好戦派で、1960年から62年にかけてのJCS議長。キューバへアメリカ軍を侵攻させる口実として偽旗作戦が計画されたが、その中心メンバーでもあった。レムニッツァーの議長再任はジョン・F・ケネディ大統領が拒否した。


 ルメイやレムニッツァーを含む好戦派は1957年初頭、ソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成した。それによると300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)


 鳩山政権はこうした中、ソ連との友好関係樹立を目指していた。重光外相は1956年8月上旬の頃に歯舞島と色丹島の返還というソ連案を受け入れ、平和条約を締結しようと言い始めたが、同月下旬に態度を一変させ、国後と択捉も要求するようにという訓令を出す。2島返還でソ連と合意したらアメリカは沖縄を自国領にすると恫喝されたとアメリカの国務長官だったジョン・フォスター・ダレスからその間に言われたのだという。そうした脅しにもかかわらず、鳩山首相は共同宣言に署名したわけだ。


 共同声明が発効した1956年12月に鳩山は辞任、CIAとの関係が指摘されている岸信介、つまり安倍晋三の祖父が後継総理になると見られていたが、鳩山と政策が近かった石橋湛山が勝ってしまう。


 ところが、アメリカにとって好都合なことに石橋が自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったと言われているが、石橋は退陣せざるをえなくなり、岸が総理臨時代理として政府を動かすことになる。正式に岸が首相となるのは1957年2月のことだ。


 アメリカの支配層は日本が中国やソ連/ロシアに接近することを嫌ってきた。彼らの長期目標は中国やソ連/ロシアの制圧であり、日本は侵略の拠点だからだ。日本のそうした立場は明治維新の当時から変化していない。安倍は岸と同じように、アメリカ支配層の手先だ。


 その安倍は今年(2018)年9月、ウラジオストックで開催されたEEF(東方経済フォーラム)でロシアに対して平和条約の締結を呼びかけたのだが、プーチンから「いま思いついた。平和条約を前提条件なしで結ぼう。今ここでとはいわない。今年末までに結ぼうではないか」と逆に提案され、安倍は返答できなかったという。安倍の発言はアメリカ支配層が書いたシナリオに沿うものだったはずだが、プーチンの逆提案はそこに書かれていなかったのだろう。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811130000/


2018.11.16
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(3/4)​
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811150001/


 現在、東アジアではロシアと中国を中心に状況が大きく変化しつつある。その中心にはロシアの鉄道とパイプラインの建設、中国の一帯一路プロジェクトがある。そうした状況の変化を象徴する出来事が朝鮮半島で展開されている。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、イギリスやアメリカはユーラシア大陸の沿岸部を支配し、海運を押さえて内陸の中国やロシア/ソ連を締め上げようとしてきた。それに対抗してロシアは鉄道を建設したのである。


 帝政時代、ロシアはモスクワとウラジオストクを結ぶシベリア横断鉄道の建設を計画、1891年に着工して1916年に完成させた。その鉄道を朝鮮半島へ延ばそうという計画もある。それと並行して天然ガスや石油のパイプライも建設、東アジアをビジネスで結びつけ、経済的な発展を目指そうというわけだ。


 その計画のネックになっていたのが朝鮮。1991年12月にソ連が消滅、後ろ盾を失った朝鮮はイスラルや統一教会との関係を強めたとも言われている。その朝鮮に対し、​ロシアのドミトリ・メドベージェフ首相は2011年夏、110億ドル近くあったソ連時代の負債の90%を棒引きにし、鉱物資源の開発などに10億ドルを投資すると金正日に提案している​。2011年12月に金正日が急死するが、翌年の4月にはロシア議会がこれを承認している。(金正日の急死に暗殺説があることは本ブログでも紹介したが、今回はこの話を割愛する。)


 今年のEEFで朝鮮は自国の鉄道と韓国に鉄道を結びつけることに前向きな姿勢を見せた。こうしたプロジェクトの実現はアメリカの世界制覇プロジェクトを揺るがす。そこで使われているのが「制裁」。この「制裁」はロシア、中国、韓国で進めているプロジェクトの阻止が目的だろう。


 韓国の動きを牽制するため、バラク・オバマ大統領は自分たちの忠実な下僕である日本を使おうとした。韓国を自分の支配下から離れないように日本との関係を強化させようとしたのだ。


 日本と韓国が対立している原因のひとつが慰安婦の問題。オバマ大統領は日韓両国の首脳との会う際、数年にわたり、毎回のように慰安婦の問題を採りあげて両国の対立を解消させようとしていたという。これは同政権でNSC(国家安全保障会議)の安保副補佐官だったベン・ローズの話だ。


 朴槿恵が韓国の大統領だった2015年12月に日本と韓国の外務大臣は「日韓間の慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」と発表したが、文在寅政権になって状況が変わる。外務大臣直属の検証チームは2017年12月、その合意は朴槿恵と安倍晋三の側近ふたりによる秘密交渉で進められた結果であり、慰安婦だった女性の意見が十分反映されなかったと指摘したのだ。


 そして今年、つまり2018年の3月26日に金正恩朝鮮労働党委員長は特別列車で北京へ入って釣魚台国賓館で中国の習近平国家主席と会談、4月27日に朝鮮の金正恩労働党委員長と文在寅大統領が板門店で会談、緊張緩和の方向へ動き始める。


 文大統領と金委員長が会談する前日、アメリカ政府はCIA長官だったマイク・ポンペオが朝鮮で金委員長と握手する様子を撮影した写真を公表した。4月1日頃、つまり中朝首脳会談の直後に撮影されたようだ。アメリカの存在をアピールしたかったのだろう。


 紆余曲折はあったが、今年6月12日のシンガポールでドナルド・トランプ大統領は朝鮮の金委員長と会談、朝鮮半島の完全な非核化が確認された。その日、トランプは2017年4月6日のシリアに対するミサイル攻撃は中国への威嚇だったと語っている。


 おそらくトランプの発言は事実だが、この攻撃によって判明したのはロシアの防空システムが優秀だということ。この出来事に限らないが、2015年9月30日に始まったシリア政府の要請に基づくロシア軍の軍事介入はロシア軍の強さを証明することになった。アメリカ軍を恐れる必要はないと朝鮮も判断しただろう。


 2017年4月6日の攻撃では59機のトマホーク(巡航ミサイル)が発射され、そのうち目標へ到達したんは23発。6割強が撃墜されたことになる。アメリカにとっては嫌な結果。その1年後にもアメリカ軍はシリアをミサイルで攻撃するが、ロシア側は前年の反省から短距離用の防空システム、パーンツィリ-S1を配備していた。それが友好で、約7割のミサイルが撃墜されたと言われている。アメリカ軍の攻撃は威嚇になっていないだろう。


 シンガポールでの米朝会談から間もない6月22日、トランプ大統領は朝鮮を「尋常でない脅威」だとし、制裁を続ける方針を示した。その日、韓国の文大統領はロシアでウラジミル・プーチン大統領と会談、平和的な朝鮮半島の非核化を目指すことで一致、国境を越えたエネルギー・プロジェクトを推進し、FTA(自由貿易協定)に関する話し合いを始めることで合意したという。ロシア、中国、韓国、そして朝鮮は手を組み、アメリカは孤立した形だ。(つづく)
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2018.11.16
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(4/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811160000/


 アメリカのバラク・オバマ政権が仕掛けたウクライナのクーデターは中国とロシアを戦略的な同盟国にした。この関係は崩れそうもない。アメリカの影響下にあるものの、韓国はロシアや中国に接近、ビジネス上の関係は深まっている。日本の大企業もロシアや中国との取り引きなしに生き残ることは困難で、中ロとの接触は強まっていた。


 しかし、ロシアと中国が主導する形で和平が進み、経済が発展することをアメリカ支配層は認められない。ドルを使った金融マジックで世界を支配しているアメリカに生産能力はなく、ドルが基軸通貨の地位から陥落すればアメリカの支配システムは崩壊する。各国がドル決済をやめたなら、アメリカの金融マジックは破綻する。そうした流れを止めるため、アメリカはロシアと中国を軍事的に脅しているが、効果はない。


 朝鮮半島の問題でアメリカが受け入れそうな条件は、核兵器開発を放棄させた上で軍事侵略するリビア・モデル、体制の違う国を統一させて全体をアメリカが制圧して支配地域を拡大させるドイツ・モデル、疲弊した状況を利用して庶民を低賃金労働者として西側巨大資本のカネ儲けに奉仕させるというベトナム・モデル。アメリカの支配地域を拡大させるものでなければ、アメリカは受け入れない。


 日本とロシアとの関係でも同じことが言える。日本がロシアや中国と友好的な関係を結ぶことをアメリカ支配層は望まない。アメリカ支配層に従属することで自分の地位と収入を約束されている政治家や官僚、その周辺の学者やマスコミ関係者なども同じだ。


 日本の検察やマスコミは東シナ海を「友愛の海」にしようと提案していた鳩山由紀夫を2010年に首相の座から引きずり下ろした。次に菅直人が首相に就任するが、この内閣ができて間もなく、石垣海上保安部は「日中漁業協定」を無視して中国の漁船を尖閣諸島の付近で取り締まり、日本と中国との関係を壊しにかかる。当時の国土交通大臣は前原誠司だ。2011年9月に首相は菅直人から野田佳彦へ交代、野田は「自爆解散」して2012年12月からは安倍晋三が首相に就任した。


 経済的にはロシアや中国との関係を強める方が日本にとって有利。業種にもよるが、日本の大企業が中国との取り引きなしに維持できなくなって久しい。前にも本ブログで書いたように、日本の大企業もアメリカ支配層の戦略に耐えられなくなり、日本の経済界は水面下でアメリカ離れを画策している。政治家や官僚のようなアメリカ支配層の代理人と違い、大企業の忍耐が限界に達することも否定できない。そうした中、日本では大企業のスキャンダルが相次いで発覚したのは興味深い「偶然」だ。


 日本で推進されてきたTPP(環太平洋連携協定)は巨大資本のような私的権力が国を支配する体制を築くことが目的で、トランプのFTAはアメリカがターゲット国を支配する仕組みだ。こうした仕組みができてしまえば、日本は主権を完全になくし、ロシアや中国とまともな取り引きができなくなる。別個の戦略が交錯しているが、日本を支配し、食い物にしようとしている点で大差はない。


 アメリカの支配層は単にカネ儲けしよとしているだけでなく、世界制覇を目指している。これは1992年2月に国防総省のDPG草案という形で作成された。草案作成の最高責任者は国防長官だったリチャード・チェイニーで、作業の中心はポール・ウォルフォウィッツ国防次官だった。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。


 その翌年の12月にソ連が消滅したことでアメリカは唯一の超大国になったと彼らは認識、他国に配慮することなく、つまり国連を無視して単独で世界制覇に乗り出すという宣言だ。そのドクトリンに日本を組み込むという宣言が1995年2月に発表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」だ。そのレポートに基づいて安倍首相も日本をアメリカの戦争マシーンに組み込みつつある。


 ちなみにその前年、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月20日には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、同じく3月30日に警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負う。そして8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙は日本航空123便に関する記事を掲載した。(了)
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77. 中川隆[-13710] koaQ7Jey 2018年11月29日 19:07:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21400] 報告

マッカーサーが昭和天皇から巨額の賄賂を貰って(?)やった事


女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、当時から根強くあったのは有名である。


昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。

ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。

だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://blogos.com/article/242547/?p=1

連合国軍総司令部(GHQ)のトップとして、戦後の日本で「王」のように振る舞ったダグラス・マッカーサー。だが、1950年に勃発した朝鮮戦争ではまったく役に立たず、軍人としての適性を疑わせるほどだった。「朝鮮半島に原爆投下を主張」に匹敵する“能なし司令官”のエピソードを紹介しよう――。


前線視察のため金浦飛行場に到着、米軍第24師団の兵士を閲兵するマッカーサー国連軍最高司令官(韓国/写真=時事通信フォト)


■仁川上陸作戦で形勢を逆転したが

朝鮮戦争において米韓側の軍隊の指揮をとったのは、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーでした。この戦争の中でマッカーサーが原爆の使用を主張し、トルーマン大統領から反対されて総司令官を解任されたことは有名です。

しかし、原爆使用の問題以前に、マッカーサーは総司令官としての適性に欠ける人物であり、解任されるべくして解任された「能なし司令官」と言えます。

彼が指揮するGHQは、第二次世界大戦後の日本に対する占領統治の主体でした。当時の占領政策を考えるうえでも、マッカーサーの人間性についてはよく知っておいたほうがよいでしょう。

1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始してから1週間後の7月2日、ようやくアメリカ軍は半島に本格介入しはじめます。本格介入したとはいえ、アメリカ軍は朝鮮半島南端の釜山近郊まで、北朝鮮軍に追い詰められました。そこでなんとか踏みとどまり、反転攻勢を掛けていきます。

マッカーサーは9月15日、ソウル近郊の仁川(現在の仁川国際空港がある付近です)から米軍部隊を奇襲的に上陸させ、北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川上陸作戦」に成功。以後、米軍側にはイギリス軍なども参画し、国連軍が編成されました。国連軍は9月28日、ソウルを奪還しました。

直前まで日本に逃亡する計画すら立てていた李承晩大統領は一転、「北進統一」を掲げ、強気の攻勢を主張しはじめました。マッカーサーも、北朝鮮をつぶしての半島統一を考えており、両者の思惑は一致しました。

■「中国の介入はない」という思い込み

しかし、半島統一に向けた軍事行動に際し、マッカーサーはトルーマン大統領から、ある条件をつけられていました。「ソ連や中国が半島に介入するようなことがあれば、北進はダメだ」というのがそれです。ソ連や中国を相手にアジアで大戦争をする気は、トルーマンにはありませんでした。

この点についてマッカーサーは、「ソ連は言うまでもなく、中国の介入の可能性はない」と、トルーマンに答えています。

一方、中国の周恩来首相は「(アメリカの)帝国主義的な領土侵犯を許さない」と警告を発しており、この段階で、中国の軍事介入(義勇軍という形で)の準備はかなり進んでいました。状況を少し、調査すればわかることであったにも関わらず、マッカーサーは自らの偏った心象にのみ頼り、「介入はない」と大見得を切りました。

マッカーサーらは中国軍の侵攻が間もなくはじまることに全く気付かず、北部一帯に補給線も確保しないまま、前線をむやみに拡大させました。アメリカ国務省からは、中朝国境付近では中国・ソ連を刺激することのないよう、韓国軍以外は展開させるなと指令が出ていましたが、マッカーサーはこれを無視しています。

10月20日、平壌を制圧し、マッカーサーは得意満面、平壌の空港に降り立ちます。厚木飛行場に降り立った時のように写真を撮らせ、自分を英雄の如く見せるワンパターンな猿芝居がまた演じられたのです。ただ、この時は一言、気の利いたせりふが付いていました。

“Where is Kim Buck Tooth?”

(出っ歯の金日成の出迎えはないのか?)

■ボスの意を「忖度」し、敵を過小評価した部下

アメリカではマッカーサーを喝采する声が沸き起こります。彼のような「英雄」に対し、中国軍介入の可能性やその作戦について異議を申し立てることもはばかられました。アメリカ軍はマッカーサーを崇拝する若い将校たちで固められていました。マッカーサーが「中国軍の介入はない」としたために、中国軍の動きについての情報はマッカーサーに上げられませんでした。

中国はアメリカとの前面衝突を避けるために、朝鮮への派遣軍を正規の「人民解放軍」とせず、私的な「義勇軍」としました。「義勇軍」はソ連から支給された最新鋭の武器で武装し、100万人規模の強大な軍隊でした。

毛沢東の側近であった彭徳懐が率いる「義勇軍」の先発隊30万人は10月19日、ひそかに中朝国境を流れる鴨緑江を渡ります。30万もの軍隊でしたが、マッカーサーには「3万」という報告が上げられます。マッカーサーの意を「忖度」した将校たちが、兵力を下方修正して報告したのです。

マッカーサーは東京で指揮を執っていました。平壌にやって来た時も、日帰りで東京に戻り、現地の詳細な状況を把握していませんでした。自らは東京や横浜の高級ホテルに宿泊し、食事のたびに料理にケチを付けていたようです。

マッカーサーは国境を渡った中国「義勇軍」が「3万」であると聞いて安心し、意に介しませんでした。あくまでも、「中国は本格介入しない」が絶対的前提であったのです。この誤った認識が、英雄気取りのマッカーサーを追い詰めていくことになります。

1948年11月1日、中国「義勇軍」の大部隊が前線のアメリカ軍・国連軍に、突如猛攻を仕掛けてきます。アメリカ軍はパニックに陥り、各部隊を壊滅させられながら、撤退していきます。

■プライドの高さと功名心で罠に落ちる

この時、中国「義勇軍」は撤退するアメリカ軍を追撃せず、すぐに軍を引き上げます。司令官の彭徳懐は「誇り高き」マッカーサーが復讐心に燃えて、必ず報復してくると読んでいました。彭徳懐はアメリカ軍を待ち伏せ、返り討ちにする戦略を立てていました。彭徳懐ら中国「義勇軍」は、国民党軍や日本軍との長く苦しい戦いを数多く経験し、戦い方を熟知していたのです。

体勢を立て直したアメリカ軍は、哀れにも彭徳懐の読み通り、中朝国境付近に陣取る中国「義勇軍」をめがけて突進して来ました。国境付近は山岳地帯の入り組んだ地形で、大軍は身動きが取れません。そのことをマッカーサーに進言する部下もいましたが、マッカーサーは自分の名誉を回復することに躍起になり、聞く耳を持ちませんでした。

マッカーサーは「人の話に耳を傾けることができない人間だった」と、多くの将校が証言しています。会議でも延々と自分一人がまくし立てるのみで、他の者に発言させなかったといいます。彼の副官を努めていたこともあるドワイト・アイゼンハワー(後に第34代大統領)などは、「マッカーサーの自己顕示欲には嫌気がさす」と言っています。

中国「義勇軍」の大軍は、罠にはまったアメリカ軍を包囲し、一斉攻撃を加えます。犠牲者が次々と出はじめ、撤退をはじめるアメリカ軍でしたが、マッカーサーは「前進せよ」と命令しています。

このマッカーサーの命令のため、アメリカ軍は退路をほとんど確保できず、中国「義勇軍」の餌食になりました。こうして、「アメリカ陸軍史上最大の敗走」が展開されることになります。ちなみに韓国軍は、国境付近で中国「義勇軍」と戦う前からおじけづき、われ先にと逃げています。

マッカーサーは自らの失態が招いた「最大の敗走」の事実を隠すため、国境付近に出した偵察部隊が中国軍により攻撃を受けたという虚偽の報告をしています。

度重なる失態でもはや引っ込みがつかなくなったマッカーサーは、中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に、「原爆を50発落とせ」という主張をはじめることになります。この続きは、次回くわしく掘り下げます。
http://blogos.com/article/242547/?p=1  


日本共産党はマッカーサーが創設した
http://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more

マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:http://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
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日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。





▲△▽▼

醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html




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2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面

マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


憲法改正の日程

安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。

首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。

また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。


自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。

日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。

改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。


国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。

日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。

GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。


2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。

その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。

2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。


日本国憲法の根本的矛盾

2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。

緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。

衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。


世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。

この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。

少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。


なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。

この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。

誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。


だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?

連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。

1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。

トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。


独裁者になった尿漏れ男

1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。

マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。

厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。


マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。

マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。


1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。

特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。

イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。


脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html







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2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html

マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg


日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」


この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。


終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html






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NHKスペシャル 戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945−1946 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB+1945%EF%BC%8D1946


初回放送 2017年8月20日(日) 午後9時00分〜9時59分

終戦直後の東京を記録した鮮明な映像が、次々に発掘されている。さらには、極秘扱いだった10万ページに及ぶCIA文書が情報公開法によって続々と公開され、敗戦直後の東京をめぐる新たな真実が明るみに出てきた。浮かび上がってきたのは、ヒト・モノ・カネをブラックホールのようにのみ込んでふくれあがる東京の姿。

焼け跡に最初に出現したブラックホールは「闇市」だった。日本軍や米軍のヤミ物資が大量に横流しされ、大金を手にした野心家が、新しいビジネスを興す。六本木や銀座には、治外法権の「東京租界」が生まれた。占領軍を慰安するショービジネスから、戦後の大衆文化を担う人材が生まれた。

連合軍による占領からはじまった戦後ゼロ年の東京。それは、今の東京を生み出した原点である。俳優の山田孝之が、21世紀の若者にふんし、時空を超えて当時のフィルムの中に入り込み、東京ゼロ年を追体験していく。それは、まもなくオリンピックを迎える東京の足下を照らし出す、確かな道しるべとなるはずである。



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

78. 中川隆[-13709] koaQ7Jey 2018年11月29日 19:15:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21400] 報告

こんな女に誰がした(パンパン編)__天皇陛下を恨んでね


終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた 「次から次へ、体じゅう痛くて…」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962

2018.08.15 貴志 謙介 元NHKディレクター・プロデューサー 現代ビジネス
ようやく見えた「戦後ゼロ年」の真実

今年も8月15日がめぐってきた。だが、73年前の敗戦をめぐる記憶は日々確実に薄れている。

とりわけ記憶の劣化が著しいのは、敗戦直後の一年間、いわゆる「戦後ゼロ年」であろう。みじめな焼け跡暮らし、占領の屈辱、飢え、虚脱感、思い出したくもないヤミ買い。高度成長という威勢の良い華やかなサクセス・ストーリーの陰で、暗い役回りを押し付けられたせいかもしれない。

だがもっと本質的なことは、敗戦直後の時代には、その時代を経験した人であっても知ることのできなかった秘密がたくさんあるということだ。

占領軍は、情報をコントロールしていることを悟られないような巧妙なやり方で検閲をおこない、メディアを支配する情報戦を仕組んでいた。その結果、占領政策にとって都合の悪い出来事や情報は隠されたまま、いわばブラックホールのなかへ姿を消してしまった。

「戦後社会の原点」とみなされる時代であるにもかかわらず、多くの真実が欠落し、核心がぼやけたまま風化してしまったのである。

ところがここへ来て、思いがけず、戦後ゼロ年をめぐる新しい視野がもたらされようとしている。原動力のひとつは、機密資料の公開である。たとえば、2007年に機密解除された10万ページのCIA文書があり、150万点に達するGHQの検閲記録がある。A級戦犯に対するIPS(国際検察局)の尋問記録やアメリカ戦略爆撃調査団の調査報告も公開された。

こうした極秘文書を多くの証言とつきあわせていくと、驚くべき真実が続々と浮かび上がってくる。まず、時計の針を敗戦から3日後の1945年8月17日にあわせてみよう。

日本政府がつくった「性の防波堤」

この日、組閣された東久邇内閣の国務大臣に就任した近衛文麿がなによりも急いだことは何だったか。

実は近衛は入閣直後、ただちに警視総監の坂信弥を呼びつけ、米軍相手の売春施設を作るよう要請したのである。

40万人の占領軍上陸を2週間後に控え、日本の戦争指導者がもっとも恐れたことは、兵士による性犯罪であった。そして「性の防波堤」と位置づけられたのが、「国策売春組織」、すなわち「特殊慰安施設協会(RAA)」であった。

RAAをめぐる公式記録『R・A・A協会沿革誌』はこう述べている。

〈R・A・A協会が、その使命を忠実に達成する為、真先に開業したのは慰安所である。進駐軍将兵にとって、何よりも先ず慰安すべき面はセックスの満足であった〉

電光石火のごとく霞が関が動いた。外務省・内務省・大蔵省・運輸省・東京都・警視庁など、主要官庁がこぞって協力。座長役を務めたのは、大蔵省の主税局長・池田勇人(のちの首相)である。池田の号令で大蔵省がポンと3300万円を出す。現在の価格に換算すれば10億円を超える。

占領が始まる前に、政権の中枢にいた政治家や軍人、そして官僚が何を置いても、外国の軍隊による性暴力にこれほど強い恐怖感を抱いたのは、なぜだろう。国家が主導した売春施設を準備した警視総監・坂信弥は、内務省の資料のなかでこう証言している。

「東久邇さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。(略)それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」(大霞会編『続内務省外史』、地方財務協会)

軍国主義者がおびえていたのは、結局のところ、来るべき占領軍の蛮行というよりも、鏡に映った己の姿、日本軍の影だったのではあるまいか。

「からだじゅうが痛くて…」

8月28日、午前9時、RAAの幹部20名が皇居前広場に集合した。『R・A・A協会沿革誌』によれば、ここで全員が宮城に向かい宣誓式を行ったという。宣誓の主旨はこうである。

〈(RAA協会は)戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる。(略)『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、(略)「国体護持に挺身せんとするに他ならざることを重ねて直言し、以て声明となす〉

敗戦国であるドイツやイタリア、あるいはソ連に占領された東ヨーロッパの国々にも、占領軍を相手にする売春婦は大勢いた。しかし、国家が号令を発して、莫大な予算を投じ、官僚がプロジェクトを組み、「国体護持」のために女性を犠牲にするという“理想”を高らかに掲げた国はほかにない。

8月27日、RAAは、占領軍の上陸地点に近い品川の大森海岸に「慰安所第一号」として、「小町園」を開店した。ポツダム宣言の受諾からわずか2週間しかたっていない。

50人の女性、それも大半はシロウトの女性が送り込まれ、10畳、20畳の大部屋をカーテンや屏風で仕切り、30ほどの部屋が作られた。待ちかねたように、米兵がどっと押し寄せ、障子や襖を蹴破って、土足のまま押し入ってくる。女たちは恐怖のどん底へ投げ込まれた。

「恐怖におびえるまもなく、兵隊が入ってくるなり私を抱くと、しびれるほど唇を吸う。(略)入れ替わりに、つぎの兵隊がくる。(略)つぎからつぎへと抱いては送り、送っては抱き、(略)からだじゅうが痛くて……。」(『東京闇市興亡史』より)


RAAが横須賀に設けた慰安施設「安浦ハウス」(米軍資料)

女とみると、手あたりしだい

『R・A・A協会沿革誌』によれば、小町園を皮切りに、立川「キャバレー富士」、調布「調布園」、福生「福生営業所」、北多摩「ニューキャッスル」、築地「宮川」、人形町「花家」、向島「迎賓館大蔵」、若林「R・A・Aクラブ」が次々とオープン。

東京だけで33か所。従業員は450人。ダンサー2000人。350人の「慰安婦」。ひとりの女性が最高で一日60人を相手にした、との証言もある。


銀座松坂屋近くにRAAがつくったキャバレー“Oasis of Ginza”(Photo by gettyimages)

一方、RAAの幹部連中は何をしていたか。戦前に吉原で遊郭を経営していた経歴を持つRAA営業所長・岡本清次の談。

「RAAの仕事は国家の肝煎りですから、国から給料もらっているような身分でした。基本給千百円、手当て千百円の計二千二百円というのは、当時としてはそうとうな高給取り」

「食事のほうは、米兵からの土産もあったし、なにしろ警視庁から食券がきていましたから。(略)兵隊がもってくる牛肉は、ブ厚くてスキヤキにするとほんとうにうまかった」

当時、警視総監であった坂は、「RAAがあったおかげで占領軍兵士による強姦事件はほとんどなかった」と主張している。しかし、近年公開された米軍の極秘資料は、それがまぎれもなく“虚偽の申告”であり、実態はむしろ逆であったことを示唆している。

米兵による暴行事件は、8月30日にはじまり、RAAの営業によっても止むことがなかった。1945年11月中に発生した米兵の犯罪は、婦女暴行、強姦、盗み、おどし、たかりなど、554件に達している。報道が禁止されていたゆえ、一般に知られなかっただけなのである。

特に強姦事件や強盗事件が多かったのは、小町園に近い大森海岸であった。売春婦の紹介業を務めていた菅原道雄は、その理由をこう証言している。

「大森で、強盗・強姦事件が頻繁におきたのも慰安所と関係ありますね。タバコや洋服を『金にかえてくれ』といってくるヤツが多かったし、それもないヤツは強盗をしてまで女を抱く金を得ようとする。慰安所にはGIが行列をなしていてあぶれちゃうヤツがでるんですよ。そうなると、手あたりしだい、女とみると襲いかかるのです。

夜の八時ころだったでしょうか。大森から大森海岸へ行くまっ暗な道で女の人の悲鳴をきいたことがあります。たぶん素人の人でしょうが強姦されていたんです。私は一目散に逃げましたよ。だって、アメちゃんは刃物をもってましたからね」

RAAの組織と人脈から、占領終了後、赤線や基地売春が生まれた。国家がつくりだした巨大売春施設こそ、戦後の売春産業の源泉であったのである。

いまも残る「東京ブラックホール」

戦後ゼロ年のブラックホールに迷い込んだのは、国家の「いけにえ」となった女性ばかりではない。占領下の東京には、いたるところに、ブラックホールが存在していた。

あらたに発掘された映像からも、その痕跡がみつかる。たとえば、東京湾から引き揚げられた大量の金塊の映像。数兆円にもおよぶ日本軍の隠匿物資の一部である。もとはといえば、本土決戦のために軍が国民から徴用した物資であり、こうした莫大な財産は国民には返還されず、高級軍人や官僚など特権階級に横領されて、ヤミ市に横流しされていたのである。

戦後ゼロ年、飢餓やインフレは、戦争中より深刻だった。もし、隠匿物資が国民を救うために使われていたら、どれほど多くの戦災者が救われていたことだろう。

人々を苦しめた敗戦直後の地獄は、物資の隠匿に狂奔したエリートの不正によってもたらされたのである。その事実を、私たちの記憶のなかに、あらためて刻み込んでおかなくてはならない。

膨大なCIA文書から、戦後ゼロ年にどのような権力構造が生まれていたかを知ることもできる。たとえば、占領軍は、表向きは「日本を民主化し、軍国主義者を追放する」政策を推進したが、裏では大本営の参謀を戦犯の訴追から外し、対ソ諜報戦の手先にしていた。

米軍の諜報機関に囲い込まれた軍や特務機関の残党は、アメリカの後ろ盾を利用して密輸や謀略を重ね、密かに影響力を拡大していく。軍国主義の残党、ヤミ成金、官僚や政治家を問わず、占領軍に深く食い込んだ者だけが権力を確保し、利権を得た。

こうして戦後ゼロ年を出発点として、アメリカの秘密工作に積極的に協力した日本の支配層との合作で「世界最大の親米国家ニッポン」が造られていく。そのときできあがった権力構造のDNAは、いまも日本を支配している。

戦後ゼロ年は、戦前のしがらみを断ち切った年ではなく、むしろそれを温存し、戦争を推進した旧支配層を取り込んで、アメリカの国益に沿った日本社会の改造が開始された年だったのである。

『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』という本では、いままで視界から失われていた闇を見つめ、わたしたちの記憶の欠落を埋めていくことを試みた。復元された戦後ゼロ年の姿を現在の日本と重ね合わせれば、いまの日本を呪縛する仕掛けも見えてくるにちがいない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962



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こんな女に誰がした(パンパン編)__天皇陛下を恨んでね

 『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。

 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。

 この売春施設の目的は性のハケ口を設けることによって、占領軍がレイプ事件などを起こさないためにという「性の防波堤」とも言うべきものであった。が、実際は占領軍によるレイプ事件は日常茶飯事であった。

 さてRAAであるが、東京の大森を皮切りに各地に作られ全盛期にはそこで働く「パンパン」と呼ばれた女性は7万人を数えるようになった。しかしその後占領軍兵士が持ち込んだ性病が蔓延し、GHQは21年3月10日慰安所への兵士の立ち入りを禁止し、RAAは崩壊する。パンパンの彼女たちの多くは私娼となって街で客を求めるようになる。

 そのころ吉原はというと、戦時中に東京大空襲で焼け野原になるも政府の援助によってすぐに復興。そして終戦を迎えると、前述のRAAの慰安施設となる。

 GHQは占領軍のRAAの立ち入りを禁止すると同時に、日本政府に対して公娼廃止を求める。日本政府はこれを受けて公娼を廃止するが、実際は特殊飲食街を指定しその地域内での売春行為は取り締まらないようになった。これが「赤線」の始まりである。

 赤線地帯は吉原や新宿二丁目など戦前は貸座敷があったところが指定され、風俗営業取締法(以下風営法)によって「カフェー喫茶」などが営業されていた。この「カフェー喫茶」であるが、もちろん「喫茶」といってもただ単にお茶を飲むのではない。かつて花魁として働いていた女性が今度は女給という呼称で売春をしていたのである。その後赤線は朝鮮戦争の特需景気により営業する店が急増した。そのころの泊まりの料金は1000〜3000円。

 赤線が一応風営法というかたちで許可をとっていたのに対し、その許可を取らないで売春行為をしていたのが青線である。青線は表向き料理屋の形をとっているが客と交渉が成立したときは店を閉め売春をする。青線のほうが基本的に価格は安く、比較的所得・階層の低い人が利用していたと言う。

 しかし、赤線・青線地帯もやがて崩壊する。昭和33年4月1日売春防止法(以下売防法)が施行される。これはこれまで黙認してきた売春行為を禁止するものであった。なぜこの次期に売防法が公布・施行されたのか。それは日本が国連に加盟するためである。国連は昭和24年「人身売買及び売春行為の搾取禁止のための条約」を決議しており、国連に加盟するためには娼婦をなくすことが必要であったからである。

 売防法について、赤線で働いていた女性は猛反対していた。もし赤線がなくなれば彼女達は生きる術を失うことになる。政府は何も生活の保障や仕事の斡旋などはしてくれない。東京では「東京都女子従業員組合連合会」を結成し、売防法に反対するビラまきなどを行った。

 しかしながら売防法は施行され、そして吉原をはじめとする赤線地帯は消えていったのである。職を失った女性たちは、厚生施設に通い手に職をつけようとした者もいたが、白線・黒線と呼ばれる結婚相談所の形をとった売春組織で働く者もいたし、それ以外の性風俗で働く者もいた。 
http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html


赤線地帯 溝口健二監督 撮影・宮川一夫

出演者 若尾文子
三益愛子
町田博子
京マチ子
木暮実千代
http://www.youtube.com/watch?v=vBE4favGFZw&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=0&playnext=1
http://www.youtube.com/watch?v=CnfoMLE1uvc&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=1
http://www.youtube.com/watch?v=CsE9BH31D0c&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=2

http://www.youtube.com/watch?v=K_bfxPVbEZs&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=3
http://www.youtube.com/watch?v=oo54ArDnCxc&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=4
http://www.youtube.com/watch?v=9ZFbsOfFqiA&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=5

http://www.youtube.com/watch?v=zCBAQZWKGQM&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=6
http://www.youtube.com/watch?v=sdeSrCGqrvI&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=7

「戦争が終わってアメリカさんが来たら、素人さんを守ってくれ、防波堤になってくれなんて、いーい調子でおだてられちまってね」というセリフ!

映画のラスト。初めて吉原の店に出る生娘の少女が、ようやくのことで男を誘う呼び声を出すが、すぐに柱の陰に隠れてしまう。

彼女は、これから男に体を売って生きていかなければならない。その未来の始まりが映画の終わりだ。何という終わり方!

また、それが溝口監督の映画の最後のシーンになった
http://bojingles.blog3.fc2.com/blog-entry-682.html


記録映画「赤線」  官許遊郭の実態
http://www.youtube.com/watch?v=WOZEV7sh_TU&feature=related

赤線
http://www.youtube.com/watch?v=Czjvt2wB3Z8

記録映画『赤線』・ネオンきらめく吉原 1958
http://www.youtube.com/watch?v=w3b6A9fxSE0&feature=related

記録映画『赤線』・東京パレス(小岩) 1958
http://www.youtube.com/watch?v=tM45aDtaU-4&feature=related

記録映画『赤線』・洲崎パラダイス 1958
http://www.youtube.com/watch?v=I9iF39c-Hdk&feature=related


怒れる占領軍を親日家に変えたこの手腕__昭和天皇は偉大だった


昭和天皇は主席検事キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った(?)。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


田中隆吉は、すぐに、主席検事キーナンに親しいボディーガードとなった。二人は、両者に共通するフランス語を使い、田中はバーボンをあたかも「特級酒」ように楽しむことを覚えた。田中が出版した回顧録によれば、キーナンは田中を日本暮らしのガイドのように使った。

もし、キーナンが女性関係を望んだ時は、彼はただ会話に「Je suis fort. (私は強い)」 とだけ言えば、田中は電話をかけてその段取りをととのえた。

実際、田中は何事にも明るく、靴を脱ぐのを嫌うキーナンが、靴のまま畳の間に入り込んでも問題を起こさないような、そんなくつろぎの場をも手配した。キーナンは、アメリカ人将校と日本の上流婦人との間の関係を良しとしていなかった。彼はよく言った。

「私もちょっとしたあそびは好きだが、素人に手を出したりはしない。それはよくない。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


マッカーサーの部下職員の宿泊所として徴用された旧東京記者クラブでは、22人のメイドと電話交換手が、夜、そうした職員の部屋で過ごしているところを発見された。占領後半年までに、少なく見積もっても、半分以上のアメリカ軍将校たちが日本人の愛人を持つと見られていた。

 10月、幣原内閣が発足しようとする頃、特殊慰安協会はその供給について、下士官と将校を分離し、50万人の占領軍全体がすべて同じように魅力的なサービスが受けるのは難しいと強調し始めた。そしてその日より、下士官には下級のホステスバーが、兵卒には「ウィロウ・ラン」となり、上等な老舗旅館は将校向けとなった。つまり、もはやだれもが十分に満足しえるものではなくなっていた。

みごとな庭園を持つ豪奢な別荘の幾つかにはアメリカ式浴室が設けられ、そして人々の視界からは消えた。米軍士官にもっとも人気のあったのは、東京中心部のネオン街にある、招待客のみを受け入れる、プライベートクラブだった。

 そうしたクラブの筆頭が「大安」で、裕仁の弟、海軍大佐の高松宮の親友、安藤明が経営しており、戦時に便乗して暴利を稼いできていた。

トラック運送あるいは建設業界のボスとして、最初の占領軍の着陸に際し、厚木基地のまたたくうちの修復工事を成し遂げて名を売っていたのが安藤だった。

そのクラブ「大安」では、米軍の高級将校に、活発で英語の話せる貴婦人を紹介し、夜ごと、その記念にと、御木本の真珠のネックレスが贈呈されていた。

彼の気前の良い商風は、幾度も彼を倒産の崖淵に追い込んでいたが、地下商売で大当たりを上げては再起していた。そして最後に短期の刑務所暮らしをした後は、引退して安楽な生活を楽しんだ。

 そうしたクラブとは別に、内閣官房楢橋渡や東久邇元首相の別荘では、極めて興味深い享楽が繰り広げられていた。東久邇のパーティーの様は余り記録に残されていないが、楢橋のそれは、見るからに露骨な誘惑そのもので、今日。老いたアメリカ人将軍たちが当時を思い出して顔を赤らめるものとなっている。

楢橋は熱海に別荘をもっていた。熱海の入江や山々、そして名高い温泉やホステスたちと、当地はその持ち味をあえて強調する必要もなく、かつ、楢橋は名うてのもてなし上手だった。その裕福な弁護士は、戦争中、北京で最大かつ最も儲けの良い情報収集源ホテル〔北京飯店〕を経営していた。

その彼の部下の鳥尾〔鶴代〕子爵夫人が、コトニー・ウィットニー准将に仕える将官〔民政局次長チャールス・ケーディス〕の愛人となった。ウィットニーは、連合軍最高司令部民政局を動かし、日本の法制改革の草案作りをしていた。その元ホテル経営者の楢橋は、自分と自分の「貴婦人」たちが、最後にはウィットニーの部下たちすべてを「とりこ」にするだろうと豪語していた。

 性的わいろに加えて、さらに特異な投資機会も存在していた。

マッカーサーの会計担当ハロルド・R・・ルース大佐は、占領軍将兵たちは、毎月、支払われる給料より800万ドルも余計に故国に送金をしているとの報告を行った。

日本人が中国から略奪してきた数々の骨董品は、日本産の秘蔵品とともに、米国へ送られる雑のうの中に入れられていた。

天皇の叔父、東久邇宮自身も骨董業を手がけ、後になって、要職にあるアメリカ軍士官たちに安売りし過ぎて破産したと、よく語っていた。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm


8月15日の降伏の日、近衛宮は警視庁長官、伴信也を呼んで言った。「我々は日本の娘たちを守らなければならない。特に君にはそれを理解してもらいたい」。用意周到な中産階級の人々は、女たちを山中に隠れさせ、いざという時のために青酸カリ剤を持たせていた。

スラム街には、貞淑であろうとする権利も、国を思って自ら愛国者であろうと考える暇すらも与えられたことのない数千人の女たちが残されていた。今や、そうした女たちの出番であった。

伴長官は、東京の主要な娯楽業界――旅館、レストラン、麻雀荘、お茶屋、バー、売春宿など――の代表を招集した。

8月23日、こうしたお歴々によって、連合軍下士官のための「特殊慰安施設協会」が設立された。この団体は、勧業銀行による二百万ドル相当の株発行を資本とし、その株券は天皇の友人たちに販売された。数週間のうちに、同協会は、東京で33個所、地方で5個所、そして二つの婦人専門病院での事業を始めた。 

また同協会の別事業として、東京下町にあった軍需品工場がホテルに改造された。刀を鍬に作り直す事業などより、はるかに儲かるビジネスだった。

後にこの施設が最終的に廃止されるまでに、 「ウイロー・ラン」 と呼ばれたその工場は、250人の女たちによる生産ラインを持ち、一日に平均3,750人の兵士たちを受け入れるという生産高をあげた。

 特殊慰安施設協会とその付属組織は、 「一年一円」衆と称して天皇に仕える工業界人団体によって支援され成長した。

この団体は、化学、海運業界の重鎮であり、過去十ヶ月、和平派に属し、木戸内大臣と幾度も会談を重ねてきた、山下太郎によって組織、統率されていた。山下とその賛同者は、二億円、およそ1,400万ドルの基金を集め、天皇に献上した。

この贈呈が、その受け入れに木戸内大臣が二日を要したところからみて、何らかの見返りが要求されていたことが伺える。


 山下と 「一年一円」衆が引き受けた仕事のうち、最も難しかったものは、マッカーサー及びその側近との間の連絡業務であった。

宮中のご婦人たちの助言によれば、無能な国内警察による通訳用務が放棄され、外国語に通じたそうした国際経験ある婦人たちがそれを代行するようになれば、連合軍司令部との関係ははるかに円滑になる、というものであった。そこで、パリやロンドンに暮らしたことのある王妃や侯爵夫人たちの一団は、米国での良好なコネを持つビジネスマンの一団と協力し合うことに同意した。折角の貯蓄も目減りして見る影もない戦争未亡人には、新しい着物を買うための資金も用意された。名家の別荘は、その品格と遊興施設の程度によってランク付けされた。西洋の首都で見られるようなものをまねて、会員制のクラブが作られた。

裕福な才女たちのグループは名うての芸者を招き、男たちをもてなす芸に取り組んだ。

 日本は、マッカーサーが自分の兵隊たちに予測していた気の緩みにつけ込むための準備を万全に整えていた。和平派の特殊慰安施設協会は、まさしくその目的のために、国をあげての娼婦力を動員していた。

最初に米軍の機動部隊が東京に到着し、所定の兵営や工場に収まり、そこに検問所を設置した時より、兵員たちは、幾台ものトラックに満載されてきた女たちが検問所前で下車して準備が整い、通訳から「特殊慰安施設協会からの御挨拶です」と説明されてびっくり仰天した。

この最初の進呈は受け取りを拒絶され、そのトラック満載の贈り物は未開封のまま返品された。だが数週間のうちに、それが日本側の騙し打ちではないと判ると、アメリカ人たちはそれに打ち解け始めた。そしてすぐににマッカーサーは、「広がっていると報じられる占領軍メンバーと不品行な日本女性との間の乱れた関係に大きな懸念と深い困惑」を表すこととなった。

 戦前、日本の売春婦は、その小柄さ、その恥じない快楽主義、そして彼女たちの自尊と誠実さを込めた甘美なサービスで、国際的な評判を得ていた。

彼女たちは、主要都市の街外れにある、壁で囲まれ、飾り立てられた街区に住み、働いていた。その最も著名なものは、東京の吉原で、きらめく提灯とごった返す小路を持つ40エーカー〔16万m2〕ほどの治安の良い一画を形成し、金張りの龍と朱塗りの門、着飾った客引きや曲芸師と砂糖菓子売り、格子を通して垣間見える池や庭と縁側や格子窓の向こうの女たちといった、集積された東洋の魅惑と悪徳の場であった。

 空襲を生き延びたそうした女たちは、首都圏全体に霧散していた。少しでも英語が話せるものは、特殊慰安施設協会に雇われ、郊外の古びた宿屋や、同協会が下町に作ったキャバレーや売春宿で、そのサービスを提供するのを待ち構えていた。

アメリカ人による需要は、ついには、横浜の「ビック・ティッツ〔「大きなおっぱい」の意〕・バー」や。東京の「ハード・オン〔「勃起した」の意〕・カフェ」のような目立った歓楽場所を生みだし、占領が始まって1ヶ月も経たない時点で、歓迎されるとみられる所では、目立たないようにながら、あたかも偶然を装い、そうした女たちが商売を始めていた。

 米兵のうちには、まるで麻薬の幻覚であるかのような、そうした初期の出来事を経験したものがいる。日本の地方で、武器の隠し場所を捜索していた元第8軍団の軍曹が、1945年10月末のある日の経験を述べている。


 彼と同僚は、その日、東京の東方にある小さな海辺の町のほこりっぽい広場に、彼らの乗るジープを止めた。そこで彼らが、昼食のためにK号携帯糧食を開こうとしていた時、シルクハットを被り、黒く盛装した一人の紳士がやってきて、たどたどしい英語で、粗末な場所だがその屋根の下で、食事を摂ったらいかがかと申し出てきた。彼は、ジープの後方バンパーに立ち、海を見下ろす崖の上へと、砂利道を案内した。竹藪の前で車を止めさせ、崖の淵にある、古い宿屋へと小道を下った。

その玄関では、着物を着た四人の麗しい娘が、彼らの靴を脱がせ、二階の、漆塗りの食卓の置かれた畳敷きの部屋へと通した。座布団が差しだされ、ふすまが開けられると、素晴らしい景色がそこに広がり、眼下では波が磯に砕け散っていた。女中が、K号携帯糧食に加えるべく、ビール、おひつに入ったほかほかのご飯、数々の前菜を持って入ってきた。娘たちは、間違った英語をにぎやかにしゃべり、はしを使って米兵たちにそれを食べさせた。そして、指やマッチ棒やビール瓶をもちいた接客ゲーム――言葉を超越した遊び――を彼らに教えた。とっくり入りの燗のついた酒も出され、それを杯で飲んだ。

やがて、食事と歓談に満腹したところで、娘たちが言った。「お風呂に入りましょう」。

 折り返した階段を下りて、崖下のほら穴状の部屋へと案内された。その岩の床はおだやかに傾斜し、一方の壁は海に向かった開口部だった。その床の中央に、タイル張りの湯気をあげる浴槽があった。

娘たちは着物を取り、男たちの服を脱がせ始めた。娘たちは、手おけで火傷しそうなその熱いお湯を自らあびた。その行為は繰り返され、兵士たちは大喜びしてそれをまねた。皆がそうして洗い終わった時、娘たちは浴槽の中に身を沈めた。男たちは、それに従い、その40度を越える熱いお湯に体を入れ、ゆっくりと首までつかったが、火傷はしないようだった。彼女たちは、兵士たちの顔を手ぬぐいでふいて、女中が運んできたビールを小さなグラスで飲ませた。遠くでは、崖の影が、海面の上に長く延びていた。

 皆がよく浸かった頃、女中が清潔な木綿の浴衣を持ってきて、男たちはそれを着て、その帯を前で結び、その結び目を背に回すことを教わった。そして娘たちは、彼らを、二階の個室へと案内した。そこでは、畳の床の上に厚い布団が敷かれ、またしても、ビールが幾本か、食膳の上に並べられていた。

一人の娘が、「アメリカ風の愛し方をして」と、軍曹に手を巻きつけながら言った。軍曹は、一瞬息をのみ、圧倒され、夢中となって、そして、それを拒むには自分が余りに誇らしくなっているのを感じていた。

翌朝、彼は一人で眼を覚ました。隣の部屋の仲間を起こし、そのぜいたくな遊びの代金を請求された場合を心配して、彼らの手持ちの金をかき集めた。

女中がお茶とご飯をもってきた。朝食の後、彼らは、その黒の盛装の男にそれでよいかを尋ねた。その男は、その代金は、一人につき、煙草二箱で結構と言った。玄関では、昨夜の相手をしてくれた娘たちが、靴べらを手にして待っており、満面の笑みをうかべて礼をして、彼らが帰途につくのを見送った。


 そのような、初期の接触がもたらした体験や物語は、親密関係無しといった公式占領政策をアメリカのMPによって徹底させることを不可能にした。ジャングルで闘ってきた精鋭部隊が、すべて「米国内」に帰還し終わるまでに、そうした女たちは、米国人宿泊所や定期的な一掃取締についてのあらましを知っていた。

連合軍隊員によって占められたかつての日本軍兵舎や武器改造工場は、消灯時ともなると、ヒールの音や漂う香水の香り、溜息や何かのきしみ音などが響く、不可思議な時間帯となった。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm


「米軍の本隊がまもなく到着する。宿舎は内村旅館である。

どのくらいの期間滞在するかわからないが、
署長は米軍から知覧の町民を守るようにとの中央の命令を受けている。

一番怖いのは婦女暴行であるが、これについては各方面の協力を得て、
彼らに当てがう女たちを確保した。

その女たちは、いわゆる慰安婦である。
 (赤羽礼子 石井宏著「ホタル帰る」草思社p188)

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   ゙'!,,,い:    ,‐ .,!.gl,,|i,,j,,\  .,l 私のせいで多くの女性が犠牲になった?
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     ll,  ゜,,l゙`:;,,,,l,ll,,、.゚ト.,,i   あ、そう! だから何?
    ,,,i'llr゚''ri,,,,,_ : :   : : _,r°
  ,,,iilllli,゙h,、`゚゙゙゙lllllllllilllllll"】 

米兵は日本の「慰安婦」を常用していた

エリック・タルマッジ
AP通信 2007年4月25日18時44分

http://c.fc2.com/imgsa/http%3A%2F%2Fblog-imgs-13.fc2.com%2Fr%2Fe%2Fd%2Fredfox2667%2F51064_640x480.jpg/

この日付のない写真は横須賀市によって公開された。東京の南に位置する横須賀の安浦遊郭前に集まる米水兵。日本の降伏後米兵に売春を提供するために日本側によって設置された多くの慰安所の一つ(提供:AP通信/横須賀市)

【AP通信:東京】 第二次大戦中、軍のために女性を奴隷化した日本の忌まわしい行いには、余り知られていない続編がある。降伏後日本は米兵に対しての同様な「慰安婦」を提供したのである。米占領当局の黙認の下に。

 これまで英訳されてなかったものを含むAP通信の史料再調査は、女性が売春を強要されていると言う内部報告に関わらず、米当局が公的な売春システムを許可していたことを明らかにした。またアメリカ側は、日本が戦時中に占領したアジア諸国で女性に残忍な扱いをしていた事も熟知していた。

 1946年春にダグラス・マッカーサー司令官が売春宿を閉鎖させたが、それまでに何万人もの女性が安値で米軍相手の売春婦として雇われていた。1945年8月に米軍の日本進駐を期に多くの売春宿が営業を開始した事が記録には書かれている。

 東京の東北に位置する茨城県警の公式記録には「遺憾ながら、我々警察は占領軍のために慰安所を設けなければならなかった。それが経験豊富な女性の特別任務であったのは、一般の女性や少女を守るための防波堤とする目的であった」とある。

 日本の降伏と占領に関して協議するため日本の代表団がフィリピンに発つ前日の1945年8月18日に、内務省の指令があった。茨城県警は直ちに準備に取りかかったが、丁度良い施設は独身警察官の寮であり、それはすぐに売春慰安所に模様替えされた。20人の慰安婦と共に海軍施設から寝具が運び込まれた。慰安所は9月20日に営業を開始した。


売春宿は大繁盛
http://c.fc2.com/imgsa/http%3A%2F%2Fblog-imgs-13.fc2.com%2Fr%2Fe%2Fd%2Fredfox2667%2F2007050102564097_1.jpg/


記録には「慰安所が開設されて以降予想通りに大繁盛だった。慰安婦たちは...昨日の敵に自らを売ることに抵抗があり、言語や人種の違いなど彼女達にも最初は大きな戸惑いがあった。しかし彼女達は高額の賃金を受け取り、徐々にその仕事を受け入れるようになった」と書かれている。

 政府の財源で運営された「保養慰安協会」(RAA) の援助の下に、警察と東京の業者は売春宿のネットワークを設立した。1945年8月28日、東京の南隣の厚木へ進駐軍の先行隊が到着、その日の夕暮れまでに軍は最初の売春宿を見つけることになる。

 RAAの情報課長だった鏑木清一氏は「私はRAA幹部と共にそこに急いで向かったが、路上に500-600人の米兵が列を作っているのを見て驚いた。アメリカの自治警察が兵達をコントロール出来ない状態だった」と1972年の回想録でそう書いている。

 警察と民間によって運営されていたとしても、このシステムは戦時中の海外の日本軍によって設立された慰安所を手本にしている。

 鏑木氏はまた「進駐軍の兵は前払いでチケットとコンドームを与えられた」と書いている。最初のRAAの売春宿「小町園 - The Babe Garden」は当初38人の売春婦だったが、必要に迫られててすぐさま100人に増員した。女性一人当たりが一日に15-60人を相手にした。

 アメリカ人の歴史学者ジョン・ダウアー氏の著書『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本』によると、売春婦との一回が15円で、タバコ一箱の半額であり、「突然の高需要のために売春宿の運営者は、認可された売春婦でない女性をやむなく公募した」とある。

 戦争で身内を失った小町園の滝田ナツエさん (当時19) は、事務職募集広告で応募したが、空いてる唯一の職が慰安婦であると言われ、仕事につくように説得された。1952年の占領終了後に出版された鏑木氏の回想録によると、滝田さんは売春宿開業の数日後に列車に身を投げたとのことだ。「最悪の犠牲者は...『新日本女性』の広告に応募して来た、未経験の女性であった」とダウアー氏は書いている。

 鏑木氏によると、1945年の末までに35万人の米軍が日本に駐留し、米兵のためにRAAは最高時7万人の売春婦を雇っていたとある。そのためにそこに日本人以外の慰安婦が海外から来たと言う説があるが、それに関する明確な証拠はない。

 広島歴史研究所の田中利幸教授は、鏑木氏の提示した数字は根拠に乏しいとしているが、RAAはそのごく一部であり、公式記録に載っていない民間売春業者の数は更に多いであろうとしている。田中氏が発見した記録によると、米駐留軍幹部は、進駐軍の相手をする慰安婦のためにペニシリンを日本政府に提供し、RAAの売春宿のそばに予防施設を作り、兵隊達に使用を許可したとある。

 旧日本軍のための慰安婦と、進駐軍のために募集された慰安婦の類似性を駐留軍幹部は見過ごさなかった。GHQ衛生福祉厚生部のヒュー・マクドナルド上級士官の1945年12月6日の回想録によると、日本の慰安婦はしばしば強要されていたことを米進駐軍は把握していたと言う。「貧困の極致の両親に促され少女は契約を無理強いされた。時には自ら進んで家族のために犠牲になったとあるが、しかしながらそれは情報提供者の主観であり、かつてよりは一般的ではなくなったにせよ、都市部では少女の奴隷化の習慣はまだ存在している」と書いている。


RAAの崩壊

 従軍牧師達の苦情と、売春宿の発覚が米国に帰国後の進駐軍に不名誉となる懸念から、1946年3月25日、マッカーサーは全ての売春宿や慰安所その他の売春所への立ち入り禁止を指令し、間もなくRAAは解散した。

 マッカーサーの主な心配事はモラルの問題ではなかった。田中氏によると、進駐軍の米兵の1/4以上がその時点までに性病に感染していたとのことだ。「全国規模の立ち入り禁止令は、15万人以上の日本人女性を突然失職させた」と田中氏は2002年の性奴隷に関する著書でそのように書いている。元慰安婦の大半が兵士相手の違法ビジネスを続けたが、その多くが性病を持ち貧困であったとある。
http://redfox2667.blog111.fc2.com/?mode=m&no=2


 アメリカの朝鮮戦争時における慰安婦施設について

 朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人女性の売春婦(慰安婦)を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

朝鮮の戦場から一定期間毎に交代で米軍の兵隊が送られてきた。
 (中川八洋「歴史を偽造する朝鮮」徳間書店p225) 
http://www.tamanegiya.com/iannfudoitu18.5.302.html


「国体護持」へ国策売春

『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。


 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。
 http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html


 1945年8月18日、俗に言う終戦の日の三日後、内務省警保局長は進駐軍用に慰安施設を整備するように全国に無電を発した。9月4日には内務省保安課長も同様の命令を出している。内務省警保局というのは今日で言う警察庁のような物であり、全国の警察の元締めである。

「これを受けて各警察は慰安所の設置や慰安婦確保に奔走する。その模様を詳述しているのが『神奈川県警察史』だ。それによると空襲で焼けた花街に女性は残っておらず、警察が業者に公務乗車証明書を発給し、疎開先を回って勧誘させた。また、慰安所の布団や衣類、化粧品、消毒薬などの手配や運搬には、直接警察官が携わったという。」
とある。

 東京では警視総監坂信弥が指示して売春業者と飲食店経営者に「特殊慰安施設協会」を作らせ対応したという。この特殊慰安施設協会には、後に吉原などのソープランド経営者に連なる者達が沢山いたという。更に当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。

「警察と大蔵省がバックの国策事業ゆえ、協会は堂々と新聞広告まで出して慰安婦を募っている。」

「進駐軍売春作戦の発案者とされる坂は、国務大臣近衛文麿から国体護持のために婦女子対策をと指示され、慰安所設置を決めたと生前語っている」
のである。占領下では米兵による強姦事件なども多かったために、反米感情が爆発して折角天皇制を存続させることに成功したのにそれが元の木阿弥となることを未然に防ぐためである。花街の女性を強姦に対する防波堤とした訳だ。

 で、特殊慰安施設協会に参加した売春業者達が戦時中に何をしていたかというと、当然の話であるが大日本帝国陸海軍の将兵相手に商売をしていた訳である。つまり従軍慰安婦=戦時性奴隷の手配に手を染めていたものも多数いた。

米軍相手に政府機関が売春婦を斡旋するという政策を取った背景には、日本軍将兵の間に強姦事件によって性病が蔓延したり占領地での人心掌握に支障が出ないように配慮した経験が生かされていた。

実際には日本軍の士気やモラルは非常に劣悪で、強姦殺人は日常茶飯事であった。毎日のこの記事だけでは従軍慰安婦=戦時性奴隷に日本政府や軍部が関わっていたことに対する状況証拠でしかないが、軍人に女性をあてがうという発想が、当時の日本人の感覚として極々普通の物であったことが分かるだろう。 
http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2007/08/post_cfe5.html


「江東区女性軍」強制連行……。
「本土決戦が叫ばれた昭和二十年(一九四五年)に、国土防衛軍である「江東区女性軍」の編成にくりこまれた女性青年団埼玉第一中隊の百三人は、終戦の日に帰してもらえなかった。

「耐えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき……」

 と、お上が手早くつくった「国際親善協会RAA」(占領軍慰安婦)のうち、都内の四カ所に強制連行され、やみくもに米軍との交接を強いられた。
 そのことは埼玉らず、広島の女子青年団、そして川崎のM軍軍需工場など、他地区にも多くみられた。
 当時−−天皇のために捧げてたてまつると、血の宣紙を捧げてあった娘たちは、

「血書を捧げた君たちの忠誠を、天はみそなわしたもうたものであろう。君たちでなければ、日本人の操を、進駐軍の手から守り通すことはできない」

 占領軍慰安婦の持ちかけがお上からだされたのは敗戦直後の八月二十一日、RAAの誕生とともに二十六日には慰安婦の徴募がなされ、二十八日はRAAが宮城前で誓詞をなし、同日は厚木進駐の米兵に横浜の小町園が開所した。
 RAA発表による占領軍慰安婦は、昭和二十年十一月まで二万人、最盛期七万、閉鎖時の昭和二十一年(一九四六年)三月二十七日、五万五千であり、閉鎖は性病兵が増えたという米軍側の主張によった。」


横須賀……。

「横須賀に上陸した兵は、バイラーと呼ばれる客引きに案内された。−略−
 街は建物のかげ、ボートの中、神社、学校、いたるところで性行為が見られた。
「外人が船に乗ってくるから、パンパンがよってくる。横須賀へ来た船の着くところをこわした方がいい」(『日本の売春問題』神崎清)」

子どもたちが目撃して、作文にしている……。
−−小泉はこんな環境で育ったのだろうか?

自己責任は小泉政権のスローガンでしたね。直接は関係ですが……。

「閉鎖までの慰安所料金は、ショートで百円、オールナイトで三百円であり、RAAは充分にもうかっていた。政府融資の国策事業なのに、慰安婦たちからは部屋代、食費、衣裳、雑品、化粧品などと、昔からの廓のしきたりをむしろ越えるほど取り上げ、揚句の果てに、病気や怪我も、慰安婦の自己払いであった。」


閣議より前に、業者たちを集めたという。
「前述の慰安婦指令は、閣議よりも四日も早く、広尾小学校の警視庁保安課より出されてたのだ。高橋保安課長と大竹風紀係長らが、さっそく業者を集めてかたりかけた。」


調布、三鷹……。
「RAAの仕事では、立石は黒人用慰安所とされた。
 調布の日本楽器の建物は「調布園」として、九月十日に慰安婦三十人で開店し、三鷹はキャバレー慰安所として、ニューキャッスルが開所した。」

「娘を売る光景」
「人売は昭和二十三、四、五年と、売春婦に売られたが一番多いとされている(労働省婦人少年局の調査による)。」

http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/0b9d55f0b563f7420ee0432b3a409d22


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確かに売春婦ですが一般の女性を米兵によるレイプから守るためでもありました。
進駐軍がモラルがあったから日本は幸せだったというのはGHQの報道管制のたまもの
白人は昔から現地の女性をレイプし生まれた混血児をその植民地の支配層にするという政策を取り続けていました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1430857764


進駐軍犯罪史

 読売新聞の調べによる昭和32年の国内10大ニュースのトップはジラード事件。これはちゃんとした世論調査に基くものなので、当時の国民が最も関心を示したニュースが直接、反映されるものだ。ジラードとは進駐軍の兵士の名前である。ジラード事件とは進駐軍の兵士が村議夫人を射殺したという事件であった。
 
 進駐軍犯罪といえば大規模なものでは松本清張が「黒地の絵」で描いた、小倉の黒人兵大量脱走劇に伴う地域住民への大規模なレイプ、暴力沙汰がある。昭和25年7/11、およそ160人の黒人兵による祗園祭の日の犯罪事件は進駐軍によって厳重な報道規制が行われ、事件をうかがわせるような記事は当時の在京各紙にはまるで見えない。結局、この事件は7/15に進駐軍による鎮圧で市街戦となるまで続いた。この市街戦についても徹底した報道規制が行われた。
 
 昭和20年8/15から昭和27年4/28の平和条約発効までの間、日本はアメリカ進駐軍の支配下にあった。この間、都内での進駐軍犯罪被害の届出は318件、全国では2万5500件であったが、この数字は「氷山の一角」とされていた。なぜなら進駐軍犯罪被害の届出は非常に困難だったので、実際の犯罪被害は届出件数の数倍はあったのではないかと当時の人の生活感覚では感じられていたのである。
 
 進駐軍犯罪被害で役所に届出を出すと、まず加害者が本当に進駐軍という証明書を要求される。さらに市町村長の証明書、警察の証明書正副5通を要求され、少しでも不備があれば受理されない。これをようやく揃えて、やっと届出が受理される。その数字が全国で2万5500件であった。つまり届け出なかった、書類に不備がありつき返された、揉み消されたなどの犯罪被害の件数は2万5500件の中には入っていないのである。
 
 届出が受理されても、その審理は粗末なものだった。子供が酔っ払いのアメリカ兵のジープに轢殺された母は被害届をようやくCID(陸軍犯罪調査部)に受理されるも、何の連絡もなく放置され、呼び出されて「裁判でお前が負けた」と言い渡されて終わり。裁判があったのかなかったのか、あったとしたらどんな審理がされたのか何も伝えられないというシロモノだった。さらには仕事帰りにアメリカ兵にジープに拉致されて走行中に道に飛び降りて死んだ娘は「身元不明の売春婦」として処理され、家族が訴え出てもまともにとりあってもらえぬという酷さ。他にも道路を横断しているのが誰の目にも明らかなのに、アメリカ兵の運転するトラックがスピードを落さずにそのままその歩いて道を渡っている日本人をひき殺すという事もあった。あるいは突然、理由なくアメリカ兵に射殺されたり、道を歩いていて殴り殺されたり、強姦されたりなどの犯罪被害は総計3万4000件と言われたが、うち2万件は泣き寝入りしたとされている。
 
 終戦直後、進駐軍の到着に備えて政府は婦女子に警戒を呼びかけてはいた。「婦女子は淫らな服装をせぬこと、また人前で胸をあらはにしたりすることは禁物である。外國軍人が『ハロー』とか『ヘイ』とかあるいは片言まじりの日本語で呼びかけても、婦女子は相手にならず避くること」。
 
 しかしアメリカ兵によるレイプ事件は昭和20年8/30、占領部隊の日本上陸第1日目にすでに発生している。これはワシントンの米政府機関が保管していた当時の日本の内務省警保局「米兵の不法行為」に記載されており、8/30午後1時30分には神奈川の横須賀市旭町で車運転手の家にアメリカ兵2人が押し入り、留守番をしていた運転手の妻(36)と長女(17)をピストルを手にレイプした事件が起きている。このアメリカ兵2人は午前11時30分に件の家を下見しており、中に女性しかいないのを確認して犯行に及んだのだった。また同日午後6時には横須賀市の鎮守府正門にあったガラス商の家で、女中(34)が1人で留守番をしていたところをアメリカ兵2人にレイプされている。アメリカ兵は交互に見張りに立ってレイプしたという。
 
 アメリカ兵の上陸したところにレイプ事件あり。9/1にはアメリカ兵による日本人女性レイプは房総に飛び火した。千葉の安房郡の漁村の漁師の家に3人のアメリカ兵が押し入って、出征中に戦死した漁師の息子の妻(28)が留守番中に輪姦されたのをはじめ、同じ村では押し入ったアメリカ兵4人のうちの1人が別の漁師の妻(36)をレイプする事件が起きた。同日午後6時には横浜市中区でアメリカ兵2人と日本人2人に連れ出された女中(24)が野毛山自然園の中の米軍宿舎でアメリカ兵27人に輪姦される事件が起きている。この女中は翌日、意識不明となっているのを元の家へと送り返されている。
 
 アメリカ兵の理不尽な暴力の被害に遭ったのは女性ばかりではない。9/15午後10時30分には川崎市木月の国民酒場で、店主の田中(47)と長男(16)が酔ったアメリカ兵3人によって射殺される事件が起きている。特に深い理由もなくアメリカ兵に突然、射殺されて泣き寝入りという実例となる事件であるが、こうした事件はほとんどが表沙汰となる事はなかったのである。
 
 アメリカ兵による犯罪が公に報じられたのは、9/9に事もあろうに葉山の御用邸に乱入して略奪の限りを尽くしたというニュースが最後であった。9/10よりGHQの報道管制が始まったため、それ以降は進駐軍のレイプ、強盗、暴行殺人などの犯罪は全く報じられず、こうした犯罪に対しては日本警察も手が出せないという状態が続いた。政府は性の防波堤としてRAA(特殊慰安施設協会=進駐軍相手の売春公社)を設置したが、当の進駐軍から廃止にされて街頭には米兵相手のパンパン(売春婦)が溢れるようになった。こうしたパンパンは蔑視の対象にされたが、米兵の一般婦女子への際限ないレイプへ歯止めをかけた功績は大きい。
 
 このようにしてアメリカ兵による犯罪はどんな些細な事件でも新聞での報道は厳禁とされたので、総じて日本人のアメリカ進駐軍への感情は悪くはなっていない。占領中のアメリカ進駐軍犯罪には損害賠償法令がなかったため、日本独立後の昭和31年5/22、進駐軍被害者連盟が結成されて政府に補償とそれまで報道が控えられていたアメリカ兵の犯罪事実の公表へ向けて活動するなどとした。
 
 ジラード事件は昭和32年であるから進駐軍犯罪への報道はタブーではなくなっていたものの、日本の裁判管轄権が進駐軍には通用しないという構図が日本国民の前にさらされてこうした事が反米感情などに火をつける事となっていく。
 
 1/30の事であった。アメリカ軍の群馬県相馬ヶ原演習場はアメリカ軍が演習中には立ち入り禁止区域となっていて、それを破った者には刑事特別法による懲役1年以下、罰金2000円以下という罰則規定まであった。しかしこの相馬ヶ原は地元住民らが地べたに落ちている銃弾の薬莢を拾って生計の足しとするのが慣わしで、この日も相馬村議の妻、坂井なか(46)が仲間らと薬莢拾いのために相馬ヶ原に立ち入っていた。
 
 なかと一緒にいた男性(30)ら5人の証言によれば、なかは米兵に追われて逃げる最中に突然、撃たれてそのまま絶命した。この事件は当初、伏せられていたものの、2/2に5人の目撃者の中から社会党の茜ヶ久保重光衆院議員に相談を持ちかけた者があり、一気に政治問題化していく。一般の国民が事件の概要を知ったのは2/3の新聞報道によってであった。
 
 なかを撃った米兵は第1騎兵師団第8連隊第2大隊のウィリアム・S・ジラード特務三等兵(21)で、なかには2発銃弾を浴びせていた事も判明。1発目が外れて2発目を発射したというから、事故などではなく完全な確信犯である事は明らかであった。
 
 事件が表に出されて慌てたアメリカ進駐軍は2/4、熊谷の籠原キャンプの憲兵隊から群馬県警へジラードが事件を自供したと報告、その後、ジラードは地裁に告発されたものの、日米行政協定がネックとなってジラードは公務中なので裁判権はアメリカにあるというアメリカ軍の主張に押し切られそうになる。日本の反米感情の激化を恐れたアメリカが結局は裁判権不行使という裏技で、ようやく日本側の手でジラードは起訴された。これが5/18である。アメリカではジラードの日本への身柄引き渡しを認めないよう訴訟が起こされ、7/11にアメリカ最高裁によってようやく日本での裁判権が認定された。11/19に前橋地裁は傷害致死で懲役3年、執行猶予4年の判決を下し、控訴されずに12/6、ジラードはアメリカへ帰国して事件は日本国民に割り切れない感情を残したまま幕を下ろした。
 
 ジラードがなかを撃つ前にも別の弾拾いの住民に向けて発砲していた事や、なかと小野関英治に「パパサン大丈夫、ママサン大丈夫」と話しかけて近くの壕を指して「ママサン、タクサンネ」と言っていた事が明らかになったのは公判によってであった。ジラードは発砲時にはビクター・ニール・ニクル特務三等兵と一緒におり、最初は小野関に向けて空砲を発砲、続けて「ゲラルヒヤ」となかを誘い、逃げたところを背中から撃っていた。さらになかが倒れた後、ジラードはなかに近寄って触っており、なかを殺害した事は認識していたものと思われた。
 
 ジラードは7/5に日本人女性と結婚、帰国の際には同伴しており、味噌樽を土産にアメリカに持ち帰った。昭和33年4月にオタワのジラード邸を訪問した松田ふみ子によれば、ジラード邸はペンキが剥げ落ちて板は腐って2間きりの狭い家だったが、当時、日本では珍しいテレビ、電気冷蔵庫、ガスレンジが完備していた。ジラードは帰国後、工場で荷物運びをしていたが失業し、妻のハルは英語が下手なのでジラードと意思疎通が出来ず、さらに5ヶ月でわずか5ドル(1800円)しか貯金がたまらない事もあり日本に手紙も出せない状態だったという。
 
 相馬ヶ原は榛名山の南側に広がる原野で大正9年に陸軍の演習場となり、周辺住民の薬莢拾いはその頃から軍に黙認された「権利」であった。周辺住民の土地を一部強制収容して演習場にしたため、周辺住民の生計の足しのための薬莢拾いについて陸軍でもとやかく言えなかったのである。演習場は戦後はアメリカ進駐軍に接収されたが、旧日本陸軍時代と違って実弾射撃で農家の萱などに被害が出るようになり、戦前よりかえって周辺住民の生活は圧迫されてしまう。
 
 相馬村の上新田地区では地域住民全員が薬莢拾いを主な収入源としており、桃井村住民と合わせ3、400人が薬莢拾いを行っていた。1日に2、3貫(7.5キロから11キロ)を拾い、週に1度来る鉄くず屋に1貫(3.75キロ)を7、800円で売り、いい稼ぎとなっていた。月平均で1人あたま2万円の収入となったという。勢い、薬莢拾いにも熱が入り、演習の最中に演習場の中に立ち入ったり、演習場の中に穴を掘って潜み、演習中の砲弾の爆発を待つ者までいた。こんな事をすれば生命の危険にさらされるのは無理もなく、1月には砲弾の破片で薬莢拾いの住民に死者が出ている。アメリカ軍側では再三にわたって危険だからと地域住民の演習場立ち入り規制を日本側に求めていたが、地域住民は送検されても過去に起訴された事はなかった。
 
 薬莢拾いは相馬ヶ原だけの風習ではなく、演習場のある地域ではどこでも行われていた普通の事であった。静岡の御殿場にあるアメリカ軍の東富士演習場の狐塚でも昭和31年9/7午前7時30分に地元の農婦(31)が演習中のアメリカ兵に撃たれて重傷を負っている。農婦が立ち入り禁止区域にいた事から農婦側の過失として事件は処理されていたが、ジラード事件では被害者女性が死んでしまった事や社会党が政治問題化した事から一気に国民の反米感情に火をつける事となったのである。ところが相馬村ではジラード事件調査に訪れた社会党県議団には非協力的な姿勢で、今回の騒動で薬莢拾いの「特権」が奪われる事を村民らは恐れていた事も当時の報道には記されている。事件後も相馬ヶ原では地域住民ら100人が毎日、薬莢拾いを続けていた。
 
 ジラードがなぜ薬莢拾いの村議夫人を撃ったのかは、演習の最中に手袋をはめてまだ熱い薬莢を拾ったりする地元住民らの姿をジラードの所属する部隊の中でどのように感じてどういう話題にしていたかがわかれば、その理由のいくばくかが見えてきそうな気はする。禁止された区域に立ち入ってくるのだから非は向こうにあるという意識がジラードの中にはなかったか。或いは薬莢拾いの地元住民だって家に戻れば人並みの暮らしをする普通の人間であるというところまでジラードの意識が思い及ばなかったか。
 
 このジラード事件で日本の対米世論が硬化する最中の昭和32年8/2午後3時、茨城の那珂湊市前浜の県道で工員の北条清(24)が母親のはる(63)を自転車に乗せて走行中、突然、低空飛行の飛行機が2人に接触してはるは胴体を真っ二つにされ即死、清は重傷を負った。この飛行機の正体はアメリカ軍水戸補助飛行場から飛来したL22型連絡機で、2人は尾翼に引っかけられたのだった。
 
 目撃者の男性(35)の証言によれば、アメリカ軍機は機首を落として畑すれすれに飛んできてそこで曲がりかけた後、再び地面すれすれを超低空飛行、尾翼を芋畑でバウンドさせて上昇する最中に2人を引っかけたのだという。2人は阿字ヶ浦に向かう途中であった。
 
 このアメリカ軍機を操縦していたのはジョン・L・ゴードン中尉(27)、ほかに下士官も同乗していたとされる。現場に飛来する直前にこのアメリカ軍機は近くの海水浴場でも低空飛行をして海水浴客が驚くさまを楽しんでいるかのようだったというから、故意に危険な飛行をしていたのは明らかであった。しかしアメリカ軍側は異常気流で操縦不能になったための事故と主張、茨城県警ではこのアメリカ軍側の主張を斥けて8/8、ゴードンを書類送検としたが8/21には不起訴となっている。
 
 ゴードンはなぜ危険な低空飛行をしたのか?実は類似の事件は戦前にもあった。操縦士が無意味な低空飛行を地上に人がいる場所で試みて、飛行機に人を引っかけて死なせてしまう事件である。昭和2年10/21、東京の芝区愛宕小学校で運動会が行われている最中、下志津飛行学校生徒の操縦する飛行機が低空飛行をして校庭の小学生のうち3人が引っかけられて1人が死亡した。この件では操縦士は後に不時着を試みたなどと弁明している。ゴードンの例も、この飛行学校生徒の例も、自らの操縦の腕を得意がっていたのではないか。衆人環視の場所で低空飛行を繰り返して地上の人たちが騒いだり驚くのを面白がる、そういう心理から危険極まりない行為に及んだのではないか。
 
 ジラード事件、低空飛行殺傷のゴードンの事件の記憶さめやらぬ昭和33年9/7午後2時、西武線下りの飯能行き列車が埼玉の狭山市入間川ジョンソン基地内の武蔵藤沢−稲荷山公園間を走行中、1両目に銃弾が飛び込み、乗客の武蔵野音大絃楽科1年の宮村祥之(21)の背中に命中、午後3時に運ばれた基地内の病院で死亡した。列車を撃ったのはジョンソン基地憲兵隊臨時勤務のピーター・E・ロングブリー三等航空兵(19)で、「空射ちの練習をしていたところ実弾が入っているのを忘れて撃った」としたがすぐさまアメリカ軍に逮捕された。
 
 宮村は母子家庭で、母は郷里の熊本の荒尾で日雇人夫をしながら女手一つで宮村を育て、音楽家を夢見ていた息子を東京の大学へと進ませていた。宮村は昭和30年に上京、初めは東洋音楽短大に通っていた。事件の直前にはコントラバスのバイトが見つかり、母に仕送りをもう受けなくても大丈夫と連絡があったばかりであったという。
 
 アメリカ軍では当初、公務中の出来事で事故だとしたものの、いくら空射ちのつもりだったと主張しても列車に向けて発砲したのでは言い逃れのしようがなく、公務時間中の出来事ではあるが列車を撃ったのは公務とは到底認められないという見解を出した。早速埼玉県警はロングブリーを書類送検、昭和34年5/11に地裁で禁固10ヶ月の判決が出ている。
 
 アメリカ進駐軍がらみの事件ではこうして全国的な話題になった事件以外にも無数の犯罪が起きているが、それらは公にされる事は稀であった。昭和34年4月には青森の上北郡六ヶ所村で三沢基地の米軍機が訓練に際して爆弾を誤って落としていく事が頻繁となり、東京でも報道されている。六ヶ所村は米軍三沢基地の天ヶ森演習場と高瀬川を隔てた場所にあり、以前より米軍機が爆弾を誤って落としていたが、およそ3ヶ月に1発の割合だったので特に問題化していなかった。3ヶ月に1発のレベルでは報道すらされていなかったという事で当時はこの手の米軍の無法ぶりが基地の近くでは日常的だった事がわかる。
 
 しかし昭和33年9月より米軍ジェット機の練習用爆弾が昭和34年4月までに六ヶ所村に30発落下しており、うち10発は民家から2、30メートル以内の場所で爆発していた。米軍機の速度が向上して爆弾を標的に当てにくくなり誤爆しやすくなったらしい。昭和33年12月には125キロ爆弾が六ヶ所村倉内の農家の近くに落下し馬小屋に穴が開いて山火事となったほか、昭和34年3月下旬には農作業中の男性の3、4メートルの場所に爆弾が落ちて男性は気絶、さらに3/20、同じ男性の水田に爆弾が落下し爆発して5、6メートル四方の穴が開く出来事があった。米軍は模擬爆弾なので大丈夫だなどと説明していたが、死傷者が出ないのが不思議なほどであった。六ヶ所村では米軍機が爆弾を落とす標識を海上にするように陳情していた。
 
 昭和35年3/10午前10時、沖縄の伊江島の伊江村の米軍演習場の立ち入り禁止区域で弾拾いをしていた農業の島袋武盛(20)と大城敏一(19)が、米空軍ジェット機から機関砲で砲撃されて島袋は右足を銃創貫通、大城は右腕切断という重傷を負った。米軍演習場での弾拾いは沖縄に限らず内地でも付近の農民の「特権」として暗黙の了解事項になっており、伊江島ではそのための信号旗を持って農民は弾拾いをしていたが砲撃されたのだった。
 
 昭和36年11/20午後3時30分には茨城の那珂湊市釈迦町の旅館など民家8軒が、アメリカ軍水戸射撃場からの機関砲弾13発を浴びた。米軍機の誤射によるもので、旅館では窓ガラスが撃ちぬかれて座布団に直径20センチ、長さ75センチの砲弾が突き刺さっていた。ほかにも家の中や庭先などに被弾しており、旅館の女将は寝ていたら音がして、座布団や畳から煙が出ていたという。過去にも被弾事件は200件起きていた。
 
 昭和37年5/5午前3時30分、神奈川の横須賀市汐入町巡査派出所に私服の米兵5人が酔って市民を暴行していると通報があり巡査2人が駆けつけたが、うち遠藤寛巡査(37)が米兵1人に蹴られ倒れそうになったので警棒で押し返したところ、警棒を奪われたのでピストルで威嚇しながら交番へと連れて行こうとした。しかし50メートルの途中で遠藤巡査は5人の米兵に組み伏せられ、奪われたピストルで頭と右腕を撃ち抜かれて死亡、犯人の米兵はそのまま逃走した。午後7時30分、在日米海軍は20歳4人、19歳1人の二等水兵が遠藤巡査殺害の際の5人であったと発表、いずれも横須賀港に入港していたLST(戦車揚陸艦)トモグリー号の乗員で、裁判は日本で行われるとされた。
 
 昭和39年7/20午前1時30分には静岡の御殿場市中畑の米海兵隊キャンプ・フジで近所の農家の妹、勝又(45)が立ち番中の米兵に小銃で下腹部を撃たれ死亡する事件があった。この女性は酔っており、うずくまっていて米兵の日本語、英語の呼びかけに答えなかった。3回呼んでも返事がない時は撃ってもいいという管理規則だった。この女性は独身で知恵遅れ、酔うと放浪癖があったという。アメリカ軍は撃った兵士は不明であるとし、また公務中なので裁判管轄権はアメリカにあるとした。この事件については報道はなされたものの、ジラード事件と違って社会問題化せず、実際に事件自体について知らない人がほとんどである。
 
 昭和47年9/20午後には沖縄の米海兵隊基地キャンプハンセンで、米海兵隊第4師団第3大隊のジェームス・S・ベンジャミン上等兵(25)の部屋で靴を磨いていた基地従業員の栄野川盛勇(37)にベンジャミンが10ドル紙幣が消えたと難癖を付けて口論となり、ベンジャミンがライフル銃で栄野川を射殺した事件があった。9/21に警察庁がベンジャミンは公務中ではないと見解を出してアメリカ軍に犯人引き渡しを要求したが、アメリカ軍は公務中として応じなかった。9/22、インガソル米駐日大使は1次裁判権は日本にあるとし、在沖縄米海兵隊基地司令部もベンジャミンは公務中ではなかったと認め、9/23午後11時50分、沖縄県警はベンジャミンを書類送検した。10/3、ようやくベンジャミンの身柄は日本に渡されて殺人罪での起訴となった。しかしその後、ベンジャミンには心神喪失で無罪の判決が出ている。

http://www.geocities.jp/showahistory/history04/32c.html


占領時、米軍も「慰安婦」調達を許可 

【ワシントン=古森義久】終戦直後の日本国内で占領米軍の許可により売春施設が多数、開かれ、日本人「慰安婦」数万人が米軍に性の奉仕をして、その中には強制された女性もいたことが米側にいまになって伝えられ、米議会下院に慰安婦問題で日本を糾弾する決議案を出したマイク・ホンダ議員は4日、議会調査局に調査を依頼した。しかし同議員は戦争中の日本の慰安婦は旧日本軍が政策として一様に拘束し、強制した女性ばかりだった点が米軍用慰安婦とは異なると述べた。

 AP通信の4日の報道によると、終戦直後の1945年9月、日本当局が占領米軍からの許可で東京都内などに多数の米軍用の売春施設を開き、合計数万人の日本人「慰安婦」が雇用、あるいは徴用されたことを証する日本側書類が明るみに出て、ホンダ議員は米軍用慰安婦に関して米軍自体がどんな役割を果たしたかなどの調査を議会調査局に依頼したという。

 AP通信は4月26日、東京発で米占領軍が進駐直後、日本の政府や旧軍当局に売春婦の調達や売春施設の開設を許可した一連の日本語書類が発見されたと報じ、その内容として(1)1945年8月末から9月にかけ、米軍の命令を受けて日本政府の内務省などが東京はじめ茨城県などの地方自治体に「慰安婦」集めを指示し、合計7万人以上の女性が売春に従事した(2)米軍当局はそれら女性の一部は強制徴用されたという報告があることを知りながら、慰安所開設を認め、連日連夜、米軍将兵が詰めかけることを許した−と報道した。同報道はこの米軍慰安所にかかわって当時の日本側関係者数人を実名で紹介し、その談話をも引用した。しかしこれら日本の米軍用慰安所は連合軍最高司令官のマッカーサー元帥の命令で1946年3月末には閉鎖されたという。

 日本側でも終戦直後に米軍から売春施設開設を許可されたことについては旧日本軍が米軍進駐受け入れの準備組織として結成した「有末機関」のメンバーたちの証言が残っている。
(19/05/06 03:21)
http://tamezou.at.webry.info/200705/article_1.html


1945年9月28日、進駐軍は都衛生課に慰安施設の開設を要求した
『占領秘録』 中公文庫 住本利男著

坂信弥氏の話

それから婦女子の問題は内閣でも非常に心配した。私は内閣に呼ばれ近衛公から

『日本の娘を守ってくれ、この問題は一部長に任せず君が先になってやるように』

と言われた。一般の婦女子を守るために防波堤を築くことも考えました。慰安施設を作り、そうしたところで働く女性を集める。こう言う矢面に立とうという人があったればこそ、あとの若い人たちが救われたのだと思う。

なにしろ、米軍が進駐したその晩に、早くも左官級の人々がジープを飛ばして東京にきた。そして丸の内警察署を警視庁と間違えてか、入ってきて、女を世話しろという。そういうものはないと答えると、あの辺に大勢いるではないかといって、日比谷辺りを歩いている女の人たちを指さした。あれは良家の子女だといって納得させるのに骨が折れたようだった。

良家の子女が間違われる心配は多かったのです。

とにかく警視庁で、この際国民のためになるならという人を集め、向島や大森などに設備をした。それからすぐに特殊慰安施設協会(RAA)というものが料亭SやYの主人達によって作られ、資金は三百万円を勧銀から借り出して経営したわけです。


ペニシリン 東京へ

都衛生課が一番はじめに受けた命令は、「女」の問題だった。

九月二十八日に総司令部に来い、というので、与謝野博士がでかけてゆくと、軍医総監のところへつれてゆかれた。総監は、大きな東京の地図を前にしていて、女の問題を持ち出したのだった。その時に公衆福祉局長のサムス准将(当時は大佐)に紹介され、それから同氏との交渉がはじまった。

赤坂は焼けてしまい、新橋は休業、柳橋はない、という有様で、都内の花柳界で残っていたのは五ヶ所きりだった。それに特飲街が十七ヶ所あったが、博士は先方の要求で進駐軍用としての割ふりをやった。

葭町は将校用とか、向島はなに、というふうに決めたのだが一番困ったのは黒人兵の割当てであった。与謝野博士は、業者からやみ打ちをうける覚悟で、五、六ヶ所を考えて相談した。初めは女たちも泣いて嫌がったようだが、黒人兵のほうからすれば、日本人は「白人」の部類に入る。だから女に対しては親切をきわめ、サーヴィスにつとめたものだった。それでニ、三日すると、黒人兵大歓迎ということになり、博士も心配していただけにホッとしたものである。
その時の命令は、

「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはならない。だから都の責任で検診を厳重にやるように・・・」

ということだった。週一回の検診では不足だという。「花柳病予防法」というものがあったが、それではやれないので、すぐに「性病予防規則」を作り、花柳界、特飲街、それから「特殊慰安施設協会」(RAA)などに検診や治療をやったのである。もっとも都側は、日本には治療するにも薬がない、完全に命令を履行するため薬をもらいたい、と申し出た。その結果、ダイヤジンやペニシリン、梅毒のマハルゾールの三種の薬品が大量に与えられたのであった。ただその代償として女から治療費などをとってはならぬ、無料でやれ、ということだった。

こうして、進駐軍用に、焼け残った都内の花柳界、特飲街が割りあてられてしまい、日本人用はたった一つ特飲街の千住があるだけだった。

引揚者や家族を疎開させた単身者が多かったので、風紀上何か問題が起きはしないかと心配されたのだが、事故も起こらなかった。ニ、三ヶ月後には千住だけでなく、ニ、三の場所もよいことになったが、こんどは、日本人の客があまり歓迎されない、という妙な現象が起こった。

翌年の四月ごろになると、進駐軍兵士で性病にかかるものが多くなってきた。これが理由で、総司令部は全部の花柳界を「立ち入り禁止」(オフ・リミット)にしてしまった。

病気のことも原因だが、花柳界のことが米国の新聞特派員によって本国に報道されたため、兵士の母親や家族では大問題となったからであった。我々の師弟が、そういういかがわしい特飲街に行っているのは怪しからん、という非難がサムス准将のところへ殺到したものだった。花柳病は実際はそんなに多くはなく、むしろ減っていたのだが、これを口実にして、サムス准将は政策の切りかえをやったのである。


「パンパン」の発生

占領下にできた新しい社会現象は「パンパン」であろう。軍隊の後には女が行進する、ということは歴史が語る事実である。進駐してから形もかわり、場所も移ったが、いつも軍隊の後を追っていた。
米国の軍人や軍属などが日本に落とす金は一億八千五百万ドルといわれるが、「パンパン」のかせぐドルは、その半ばに達するだろうという。

パンパンの発生は二十一年の夏頃であった。最初は立川、東京市内の日本劇場の周り、有楽町などで、数も五百人ぐらいだったが、そえがまたたく間に二千人、三千人になろうという有様だった。「パンパン・ガール」は健康診断を受けないから性病の罹患率が高くなってきた、と言うので、進駐軍の方が困ってしまった。

東京都が性病予防規則をつくった時、厚生省は、自治体だけでああいう規則をつくるのはけしからん、というので叱ったことがあった。しかし、都側は進駐軍から命ぜられたから仕方がない、という立場をとっていた。与謝野課長はハーグの陸戦法規に、「出先官憲は占領軍の命令を守らなければならない」と書いてあるのを見て、厚生省に説明し、そこで初めて厚生省は、花柳行予防特例によって、全国府県知事の責任で検診をやることにした。占領軍当局は、進駐軍を相手とするダンスホールのダンサー、ビャホールの従業員まで検診をやれ、といいだした。ダンサーも気の毒だったが、ビヤホールの従業婦などは、年少の人たちが多くて、ひどい飛ばっちりを受けたものだと、関係者は言っている。

特例の規定にしたがって、検診をしたものは、写真入のカードを持たせたが、これを思っていれば安全、というわけで、ヤミ屋がカードを売り出すような始末となった。そこで進駐軍はカード制はだめだといいだし、特例はすぐに廃止するわけにも行かないので、「申合せ」で発行を中止してしまった。

「パンパン」に対しては無検診だからというので進駐軍は一斉検挙を日本側に申し入れた。日比谷にあった憲兵司令官とか軍医関係のものがやればよかったのだが、東京には十一の憲兵分隊があり、分隊では下士官が命令し、警察官が協力して逮捕したものだから、場合によっては行きすぎもあった。とうのは何人捕まえたという報告を出さなくてはならなかったので、数をあげようとする傾向があった。

社会的な問題となったのは、東上線大山駅で、電車をとめて、乗っていた若い女たちを全部引っ張った事件だった。日本の警察官がついていたのだから、これはそうじゃない、といえばよかったのだし、またその意見もきけばよかったのだが、先方は日本の警察はヤミ取引があるのではないかと疑う。それで商売女でないことが判っていながら、みすみす吉原病院に送るというようなことがあった。病院のほうは、きたものは検査する義務を持っていたから、送られて来たものはすべて検査した。普通のお嬢さんがそうした目にあうことはしばしばだった。警視庁に、負けたとはいえ日本は法治国家ではないか、という抗議がいくたびかきた。


与謝野光氏の話

「我々のほうは進駐軍の命令にしたがった、国際公法によってやったのだとい理屈はある。しかし、これはやり方の問題で、やはり警官が弱かった。私は、なるべく前によく聞きただせ、といっておいたし、幾人かは帰しもしたけれど、ひどい目にあった人が相当あったと思う。米軍は自分の国の兵隊を守ることに急なため、日本の女性に迷惑をかけることになった。

進駐軍が性病を持ち込んだこともあったろう。しかし特に悪性のものもでなかった。むしろ米兵から、どこで遊んだら病気になったというような報告が多かったので、日本側は信用されず、米軍の軍医が直接検診に乗り出したこともある。

たとえば日本橋のどこで、目が黒いとか、背丈がどのくらいだが、というだけで名前も判らない。これを探すのは容易ではなかった。

 『パンパン狩り』は、狩り込みを先方がやってこちらが検診するというやり方だったが、後に、二十六年の九月からは、先方が検挙するのはやめて、日本側でやることになった。総司令部の公安課から、日本の法務府検務局長に対して、今後は日本でやること、ただし今までの成績を落とすようなことがあったら、責任者を即刻クビにする、という強い命令がでた。検務局長と警視庁、それに私が総司令部によばれて、依頼をうけた。しかしどうして検挙するかが問題だった。私のほうでやるには性病予防法の第十一条でやるほかない。

第十一条というのは、常習売淫の疑いあるものは、地方長官が検診の命令を出すことができる、というものでした。私は検務局長に対し、私のほうでやれといっても、第十一条は検診の命令で、検挙してもよいとは書いていないがいいのか、と聞いたものです。いいからやってくれ、というので警視庁は暴力で妨害するものを防ぐために『売春班』をつくった。ところで警察のほうは、検挙すると調書をとらなくてはならない。事務手続きが厄介で、そうしないと人権蹂躙になる。とにかく、今でも周一回、警視庁、私のほう、それから混成の三種類でやっていますが、私たちのほうはやめたいのです。

おかしなことに総司令部も二つに意見が分かれていた。公衆衛生局と憲兵司令官は病気をなくしたいといって我々に強く要求してくるが、法務局のアップルトン検務局長は、私をよびつけて、

『怪しからん、人権蹂躙ではないか。君は連れて行く権限は無い。第十一条は禁止命令で、lつれていく権限は書いていない。文化国家のやるべきことではない。また常習淫売というのは、一回だけではだめで、二回以上行わなければなりたたない。しかも現行犯だけをつかまえること、また検診命令も即刻出頭なんていう命令ではいけない。四十八時間のうちに出頭するように命じ、納得ずくでやれ』というのだが、四十八時間内に出頭しろといっても、来るものではないのです。

検務局長の意見に従っていても、たとえば立川基地などの現地の司令官は軍人なのだから、こちらのいうことなどはききはしません。週一回やらない限り、『立入禁止』(オフ・リミット)にするという。業者などは、これをやられると困るので、我々のほうになんとかやってくれ、といってくる。占領下では先方の命令でやられたのだが、独立したこれからは、法律的な根拠がなければやれないのであって、法の改正を厚生省などに要望してもなかなか実現しないのです。

性病が増えたように思う人が多いが、戦前に比べるとぐんと減っています。性病についての統計は今までは発表してはいけないというので公にされていないが、減少しています。東京だけをみても終戦当時に比べて四分の一位に減っている。これからもますます減ると思います。パンパンのよな野放しのものも減っているのです。初め彼女らの罹病率は60パーセントくらいだったが、今は10−15パーセントくらい。まして花柳界は減っている。いずれにしろ、占領行政のうちで、我々公衆衛生に関係した部門は一番めぐまれていたといえましょう。積極的に援助を受け、総司令部が先にたってやってくれたので、業績は大いにあがったのでした。」
http://urara225.iza.ne.jp/blog/entry/203155/


堕ちた大和撫子たち

 パンパンが街を闊歩する

 アメリカ軍が進駐して来て、大方の兵隊は市民には危害を加えないということが分かってくると、ようやく街も落ち着きを取り戻し、市民の表情にも安心感が現れ始めた。

 この頃、パンパンという言葉が流行った。パンパンというのは、進駐軍の兵士を相手にして、春を売る日本女性のことである。これには、オンリーというのがあって、兵隊の中でも上級階級専属で、このクラスになると住居も与えられ、いわゆるダンナから手当てをもらい、アメリカの、当時の一般の日本人がとても手にすることの出来ない衣食物を供与されて、贅沢な生活をしていた。

そうでない、不特定多数の下級の兵士を相手にするクラスの彼女らは、街角に立ってアメリカ兵の袖を引いていた。当時は、小倉には米軍の24師団が駐屯していたので、街にはアメリカ兵が多く、商売相手には事欠かなかったらしい。小倉の真ん中を流れる紫川にかかる常盤橋(当時)のたもとには、夜になると彼女たちがズラリと並んでいたものである。

 彼女たちの化粧や服装は、完全にアメリカナイズされていた。今なら普通と言えるかも知れないが、当時、人々は目をみはった。茶色に染めた髪、真赤な口紅、ピンクや紫などの手足の爪、肩をあらわにしたドレス、踵の高いカラフルなハイヒール、どれをとっても昨日まで、「撃ちてし止まむ」と化粧気もなく、耐乏生活に耐えていたモンペ姿の日本女性だとは思えなかった。

 人々は「大和撫子も堕ちたもんよ」と眉をひそめた。しかし、中には「あれらのおかげで、普通の家庭の娘が、アメ公(アメリカ兵の蔑称)どもに悪さをされなくて済んでるんだから」とそれなりの評価をする大人もいたが、ほとんどは陰で「パン助」と言って白い目でみていた。

 しかし、彼女たちは、そんな視線を尻目に、ハイヒールの音を響かせて、アメリカ兵の片腕にすがって街を闊歩した。それは夜だけでなかった。昼間も堂々としていた。敗戦という現実に心身ともに打ちひしがれた市民のなかにあって、彼女たちだけが生き生きとしていた。

 パンパンの語源は定かでないそうである。英語のpompom(これは性交という意味があるそうだが)が基になったという説もあるし、単純にペンペンという三味線の音、つまり芸者を意味しているというのもあったりする。しかし、広辞苑には原語不詳とあるが、「第二次大戦後の日本で、街娼、売春婦のことを指した」とある。

 私は、最初に彼女たちを目の当たりに見た時にはとても驚いた。それまで接してきた女性と言えば、母であり、姉、近所のおばさんたち、学校の教師などの通常の女性であったから、まるで異国人を見る思いがしたものである。しかし、それにはすぐに慣れた。彼女たちは、戦後の風俗となって、一時期世間に定着していた。

 確かに売春というのは、道徳的ではない。しかし、終戦を境に、彼女たちは自分の女体を武器にして、それまで鬼畜と喧伝されてきたアメリカの兵士といち早く関わり、その持てる金やモノを吸い取って、人々が一夜にして変わった混乱の中で、空腹を抱えて打ちひしがれている時に、図太く生きていた。大人たちは、彼女たちを口では軽蔑していながら、心のどこかで羨望していた。一見しただけで、その服装や持ち物が違っていた。物資の豊富なアメリカがそこにあったのである。

 常盤橋の両側には、靴磨きが多く並んで客待ちをしていた。中には、戦災孤児と言われた少年もいたが、戦闘帽を目深に被った白衣の傷痍軍人も多くいた。その中には義手を着けた人もいて、椅子に座って客が片方づつ履いたまま磨き台に載せる靴をかがみ込んで器用に磨いている。客のほとんどは、アメリカ兵や彼らと手を組んで歩くパンパンたちであった。日本の大人たちには、金を払って靴を磨かせる余裕などなかったということだ。

 あの白衣の傷痍軍人たちは、昨日まで誇り高き天皇陛下の軍隊として、日の丸の下で、聖戦完遂に命を賭けて鬼畜アメリカ兵と戦っていたに違いない。それが今日はその元敵兵の足元に膝を屈して靴磨きをせねばならないように、一夜にして世の中が変貌してしまった、ということだ。同時に私は、少年の幼い心情ではあったかも知れないが、そのアメリカ兵が磨き終わり、交替して椅子に座ったパンパンが、その元軍人の鼻先に足に履いたままの真っ赤なハイヒールを突き出して磨かせる光景に、何かしら義憤めいたものを覚えたものである。

 彼女は、普通では手に入らない洋モク(当時、憧憬を込めて外国のタバコをこう呼んだ)を、チュウインガムを噛みながら紅い唇に咥えてくゆらし、隣のアメリカ兵と何やら片言の英語を交わしながら、時にキャッ、キャッと甲高い笑い声を発している。その靴磨きは、下を向いたまま、黙々と彼女の靴を磨いている。私は、こんな光景に出くわす度に、なんだかこのような元軍人が可哀想で、同国人にいささかの遠慮もなく、思いやりを示さないそのパンパンが心から嫌いになった。
http://enjoynaming.cocolog-nifty.com/sudou34/2008/11/post-f3d2.html


パンパン狩り

性病が蔓延したため、強制検査のために街娼の狩込みを強化する警察やMP。有病者は強制入院させられる。池袋でもよく行われた西口闇市での取締りの光景。

RAA慰安所(米兵相手の慰安施設)や花柳街・特殊飲食街では GHQの要請で米兵を性病から保護するため 公娼や私娼に強制検診が行われていた 公娼制度廃止でRAAの慰安婦たちが何の補償もなく解雇されると 街娼(戦後自然発生)が急増 性病罹患数も増え
 強制検査のために「パンパン(米兵相手の街娼)狩り」が行われるようになる
http://com-support.co.jp/war_and_peace/after_johoku-daikusyu/index7.html


パンパンの狩り込みは、昭和二十一年(一九四六年)一月二十八日から東京ではじまった。GHQの要請でだが、占領軍の性病防止のためといえた。

京都は昭和二十三年の検挙者は二千四百二十二名であった。年齢は大正生まれが七十八名、昭和生まれがほとんどで、彼女のように十九歳から二十四歳ぐらいまでが百三十六名と一番多かった。(国家地方警察本部防犯課の資料による)


昭和21年、パンパンの一斉手入れ。こんな女に誰がした?

昭和21年の朝日新聞に、品川駅付近のホテルに出没する売春婦、いわゆるパンパンの一斉取り締りが報じられているそうです。

全部で300人が検挙されたが年齢は16歳から38歳までいた。けっこう若いじゃんと思われるかもしれません。暮らしに困って売春をなさる方の中には、恐ろしいほどの年配の方もいます。 専業は少なく、官庁や会社の事務職の者も混ざっていた。 参考資料によれば、「ダンサー、女給」など、売春業に手を染めやすい方々もおいでですが、「女工や会社の事務職、公務員」など、いわゆる堅気の女性もいたらしい。

300人のうち、性病にかかっていた者が60人いた。2割ほどの確率で病気をもらって帰るのでしょうか。当時、一番恐れられていたのは梅毒です。HIVと比べれば可愛い病気かもしれません。

「どうせ日本は負けたのだから、私たちが好きなことをするのは勝手だ」と取調べで煙草を吸う女もいた。
http://blog.q-q.jp/200702/article_17.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

79. 中川隆[-13711] koaQ7Jey 2018年11月29日 19:29:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21403] 報告
日本の1946年預金封鎖

フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようとした。

それで平等主義的な日本国憲法を制定、
農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後のインフレはそういう目的で意図的に起こされた  



株も不動産も奪われる! 預金封鎖よりも怖い「財産税」の傾向と対策=東条雅彦 2016年9月25日
http://www.mag2.com/p/money/23235

メルマガのQ&Aコーナーで「過去に不動産や株式に資産課税が実施された事例がありましたか?」という質問を受けました。「はい、あります!」……それは日本です。

以前に解説したキプロスの預金封鎖では銀行預金だけが対象でしたが、我が国で起きた1946年の預金封鎖・財産税では、株式も不動産もあらゆる資産が課税の対象となりました。

本稿では、できるだけ歴史的・客観的な事実をベースに、様々な諸事情で新聞、テレビ、他メディアでは積極的に報道しにくい領域に踏み込んでいきます。特に財産税の課税手順については、どこよりもわかりやすく解説したつもりです。2013年に発生したキプロスの預金封鎖との違いに注意しながら、読み進めてください。


一体いくら奪われる? 資産課税の手順を知り危機を乗り越えよ

預金封鎖、2つの目的

預金封鎖の目的は、「資産課税」と「取り付け騒ぎを起こさせないこと」の2つです。2013年のキプロスの預金封鎖では、10万ユーロより多い預金が没収されました。

もし預金封鎖の情報が事前に漏れると、取り付け騒ぎが発生します。

銀行の経営者は少しの現金を手元に置いておけば、十分だということを知っています。預金残高の一定比率の金額しか保有していなくて、この比率を「預金準備率」と呼びます。

預金準備率は預金の種類や金額によって様々ですが、概ね1%程度です。残りの資金は企業への貸し付けや債券や株式への投資に回しています。そのため、大勢の人々が一気に預金の引き出しをしようとすると(取り付け騒ぎが起きると)、その銀行は倒産してしまいます。

預金封鎖の情報が事前に漏れて、国民全員が一気に銀行に押し寄せて、預金を引き出そうとすると、その国の銀行が全て破綻するリスクがあるのです。取り付け騒ぎになる前に、預金封鎖を実施しなければいけません。


銀行休業日が危ない

キプロスでは2013年3月16日に預金封鎖が発表されました。この日は土曜日で銀行は営業していません。預金封鎖の発表は土曜日、日曜日、祝日など、銀行の窓口が営業していないタイミングを狙います。

土日に営業している銀行でも、現金の取り扱いはどこも行っていません。365日、休みなしで銀行に営業を許可している国はありません(営業時間が最も長いと言われている米国でも、日曜日はお休みです)。どの国も過去の歴史から、預金封鎖・資産課税に備えて、銀行には休業日が必要であることを知っているからです。


日本でも1946年に預金封鎖が実施された!

1946年2月17日、日本で預金封鎖、新円切り替えが実施されました。政府が発表したのは、前日の2月16日土曜日でした。

キプロス預金封鎖と同じで、やはり銀行の窓口が休んでいる時に発表されます。繰り返しになりますが、事前に情報が漏れて取り付け騒ぎが起こると全てが水の泡です。

1946年の日本の預金封鎖も、2013年のキプロスと同様、事前に情報が漏れずに実施できた、預金封鎖の成功例となりました。

預金封鎖では引き出しが完全にできなくなるのではなく、引き出し額を大幅に制限されました。銀行預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円、世帯員は1人各100円でした。

預金封鎖と呼ぶより、「出金制限」と言う方が実態に沿っています。

1946年の国家公務員大卒初任給が540円だったので、現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が11万円前後、世帯員が1人各4万円弱まで引き出せました。

そして、封鎖預金中に引き出されたお金は全て「新円」でした。このとき、1946年3月3日からは「旧円」の市場流通を停止すると、同時に発表されていました。

これが「新円切り替え」と呼ばれる政策で、その目的は市場でのお金の流通量を制限して、急激なインフレを抑止するためだとされていました。

ところが、国民は逆に3月3日までに旧円を使い切ろうとしたために、インフレが加速してしまいました。

インフレを抑制するという意味では、預金封鎖&新円切り替えは大失敗でした。しかし、実は、この預金封鎖の目的はインフレ抑制ではなかったことが明かされたのです。

69年後に明かされた預金封鎖「真の目的」とは?

2015年2月16日、NHKの報道番組「ニュースウオッチ9」にて、「『預金封鎖』もうひとつのねらい」という特集が組まれました。(※参考動画 – YouTube)

放送では、当時の大蔵大臣である渋沢敬三氏と、大蔵官僚である福田赳夫氏(後、総理大臣)の証言記録が公開されました。

福田氏:「通貨の封鎖は、大臣のお考えではインフレーションが急激に進みつつあるということで、ずっと早くから考えていられたのでございますか?」

渋沢大臣:「いや、そうではない。財産税の必要からきたんだ。まったく財産税を課税する必要からだった」

証言記録では、「インフレを抑制させるためですか?」という質問に対して、渋沢大臣は「そうではない(インフレ抑制ではない)」と明確に否定しています。

しかし、当時、政府は国民に向けてインフレ抑制のためだと説明していました。やむを得ないことですが、こういうことは往々にして起こります。

財産税を課税するには出金制限(預金封鎖)が必須だった

日本では1944年、日本国債の発行残高が国内総生産の2倍に達したために、償還が不可能となっていました。

1945年に第二次世界大戦が終わり、その翌年の1946年、政府は最後の手段、資産課税(財産税)で国債を償還する(借金を返済する)しか方法がなかったのです。

今、日本では「国債は国の借金ではなく政府の借金である」「国民は政府の債務者ではなく債権者だ」と主張する論者もいます。

残念ながら、それは俗論です。

政府が財政破綻した場合、国内の個人も法人も、政府に対して請求権はありません。一方、政府は国内の個人、法人への徴税権を持っています。このことは日本だけではなく全世界共通のことなので、俗論に惑わされずに、正確に把握しておくことが重要です。

結局、この預金封鎖(出金制限)は1948年6月まで続きました。2年以上も出金制限が続いたのです。銀行預金から出金を制限することが極めて重要でした。

1946年2月17日から約2週間後の3月3日に財産税が実施されます。それは、1946年3月3日午前0時における個人の財産全額を対象に課税するというものでした。

財産全額なので、銀行預金だけではなく、株式、不動産、ゴールド(金)等も含まれます。

3月3日午前0時において、政府が把握できる国民の銀行預金を減らさないため、預金封鎖をして、出金制限をかけておく必要があったのです。

月額あたり世帯主で300円、世帯員1人につき100円までの出金制限は、当時「500円生活」と呼ばれていたそうです。500円は現在の貨幣価値で25万円前後です。

一見、十分な金額に見えますが、インフレが急激に進行しており、当時の生活はかなり厳しい状況になりました(1946年の物価上昇率は300%強でした)。

いくら奪われたのか?「最高税率90%」財産税の中身

財産税の税額は次の通りです。

<財産税 当時の課税価格と税率>

課税価格 税率
10万円超-11万円以下 25%
11万円超-12万円以下 30%
12万円超-13万円以下 35%
13万円超-15万円以下 40%
15万円超-17万円以下 45%
17万円超-20万円以下 50%
20万円超-30万円以下 55%
30万円超-50万円以下 60%
50万円超-100万円以下 65%
100万円超-150万円以下 70%
150万円超-300万円以下 75%
300万円超-500万円以下 80%
500万円超-1,500万円以下 85%
1,500万円超 90%

「ええーっ、1500万円を持っていたら、85%も取られちゃうの?」とビックリしてしまった人もいるでしょう。ところが、この財産税には2つの誤解があります。
1.上記の課税価格は当時の資産価値であり、今の価値とはまったく異なる
2.各段階でスライスされた資産に対して課税される

つまり実際には、1500万円を超えた金額に90%、500万円を超えた金額に85%、300万円を超えた金額に75%…というように、段階的に課税されました。

上記の課税価格のままでは、当時の状況が少しイメージにくいので、これを現在の価値に換算して説明していきましょう。

当時の財産税を現在の価値に換算すると

終戦直後は激しいインフレに見舞われており、1946年の貨幣価値を現在の価値に換算する際に何を基準にすべきかには諸説あります。

1946年の大卒初任給は400〜500円程度なので、今の大卒初任給20万円から計算すると、400〜500倍ぐらいの物価上昇が発生しています(計算しやすいように本稿では500倍を採用します)。

当時の財産税を現在の価値になおすと、次のようなイメージになります。

<現在の価値に置き換えた課税価格と税率>

課税価格 税率
5000万円超-5500万円以下 25%
5500万円超-6000万円以下 30%
6000万円超-6500万円以下 35%
6500万円超-7500万円以下 40%
7500万円超-8500万円以下 45%
8500万円超-1億円以下 50%
1億円超-1億5000万円以下 55%
1億5000万円超-2億5000万円以下 60%
2億5000万円超-5億円以下 65%
5億円超-7億5000万円以下 70%
7億5000万円超-15億円以下 75%
15億円超-25億円以下 80%
25億円超-75億円以下 85%
75億円超 90%

次ページではこの表を元に、さらに詳しく資産課税の手順を説明します。

資産課税の流れ

財産税は、次の手順で確定されました。

<Step1>

各個人が保有する資産額(銀行預金、株式、不動産、ゴールド等)を合算する。この金額を課税対象価格とする。一緒に住んでいる家族全員の課税対象価格を合計する。

<Step2>

合計の課税対象価格に応じて、段階的に上記の税率を適用する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円、母の資産額:1,800万円、合計の資産額(=これが課税対象価格となる)が6000万円だった場合:

5000万円×25%=1,250万円
1000万円×30%=300万円

課税対象価格6000万円に対する財産税額は、1,550万円となります。

<Step3>

Step2で算出された財産税額を、家族の保有資産額に応じて按分して各個人が納税する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円 按分率70%
母の資産額:1,800万円 按分率30%

財産税額1,550万円×70%=1,085万円…父の財産税額
財産税額1,550万円×30%=465万円…母の財産税額

このように、財産税のポイントは「同居家族の資産を合算して、後で各個人に按分する」という点にあります。現在の価値では最低ボーダーラインが5000万円ほどとなりますが、同居家族の合計資産額がこの金額に達していれば、課税されていたのです。


キプロスと日本、預金封鎖の共通点と相違点

キプロスの預金封鎖との相違点を探っていくと、我が国で起きた預金封鎖がより鮮明にイメージできるようになります。

<共通点>

いずれのケースでも、少額預金者は保護された。
キプロス:10万ユーロ(当時のレートで約1130万円)未満の資産には課税されなかった。
日本:現在の価値で5000万円未満の資産には課税されなかった。

<相違点>

キプロス:資産課税の対象は銀行預金だけだった(株式、不動産等は関係なし)。
日本:銀行預金だけではなく、不動産、株式、ゴールド(金)等の資産も対象になった。また、個人毎の資産ではなく、同居家族の合計資産が対象になった。

日本の国債は「内国債だから安心」という俗論に要注意!

日本政府の負債は、1941年3月の310億円から、1946年3月には2,020億円に膨張しました。当時のGDPの2倍を超えたあたりで、事実上のデフォルトとなったのです。

現在の政府財務残高対GDP比は、230%を超えています。戦後の状況と今の状況は、とても似通っていると言えます。

キプロスの場合、EUとIMFから10億ユーロの支援が約束されていたため、銀行預金のレイヤーを侵食するだけで済みました。

銀行預金は資産額の査定が簡単で、最も浸食されやすいレイヤーです。このレイヤーに多額のポジションを取っていると、被害が大きくなります。

内国債を抱えて財政破綻に向かう場合、対外的な支援者がいないことが、逆にデメリットになりえます。1946年に起きた日本の預金封鎖&資産課税では、銀行預金のレイヤーだけではカバーできませんでした。

対外的な支援者がいない場合、銀行預金レイヤーを突き破って、純資産レイヤー(株式、不動産、ゴールド)まで侵食されてしまうという見本になってしまったのです。

「日本の国債は内国債だから安心」というのは俗論です。むしろ逆で、ギリギリまで財政ファイナンスができるため、政府の負債額が大きくなって、ダメージも増幅される側面があることを忘れてはなりません。
http://www.mag2.com/p/money/23235  





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醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html




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日本共産党はマッカーサーが創設した
http://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more

マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:http://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
mig


日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。





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GHQが日産にしかけた時限爆弾

戦前の日産は日本最大の自動車メーカーだったが、その事でGHQの攻撃対象になった
引用:http://www.tanken.com/nissan1.jpg


日産の創業者

先日ルノー日産は買収した三菱自動車を含めて、2017年上半期の世界販売が世界一になったと発表しました。

2位VWは伸び率が低いうえに新たな排ガス不正が発覚し、下半期も苦戦が予想されています。

3位のトヨタはEVなど次世代技術開発に注力したいとして、早々に世界一レースから棄権を申し出ている。

          
日産は創業以来始めて、年間を通じて世界一になるのが確実だが、知ってのとおり90年代に経営破たんしルノーに買収されている。

事実上日本に本社を置くフランス企業だが、日産が経営破たんした経緯はすでに忘れ去られている。

日産の破綻は日本の終戦前後から周到に用意され、なるべくして破綻した時限爆弾のようなものだった。


戦前の日産はトヨタは言うに及ばず、三菱や三井、住友などを押しのけて日本最大の財閥だったが、どうしてこうなったのか。

まず話は日産の創業に遡り、創業者の鮎川義介は明治13年生まれと明治維新後に生まれ、財閥創業者としては非常に遅い。

旧長州藩士の出身で、外務大臣や大蔵大臣を勤めた井上馨の親戚筋で、東京帝国大学卒というエリートだった。


日本で就職した後、アメリカの鋳鉄工場で技術を会得し明治43年、30歳の時に現在の戸畑鋳物(現在の日立金属)を創設した。

日立と日産はどちらも井上馨が主導して創設した長州系財閥で、いずれも久原鉱業の鉱山を基盤に発展した。

日立は鉱山で使用する機材、日産は鋳鉄業を中心に事業を拡大し、大正期に日産は各種エンジンを製作する機械メーカーになっていた。


軍需で急成長

日産の鮎川義介は既存の財閥創業者と違い、機を見るに敏であり、次々に新たな事業に進出していった。

第一次大戦後の不況で久原鉱業を吸収し、日本産業と改名し、日産コンツェルンを形成しました。

鮎川義介はさらに勢いに乗って、当時最先端の産業だった自動車生産に乗り出し、1931年にダットサンを傘下に収めた。


ダットサンは大正3年(1914年)には脱兎号を開発していて、当時としては進んだ国産技術を持っていました。

日産という巨大財閥の傘下に入ったダットサンはまたたくまに日本最大の自動車会社になったが、需要の大半は軍部だった。

当時の日本は朝鮮、清国、ロシアを次々に倒し、満州国を建国し大陸を開発しようとしていました。


大陸には膨大な輸送需要があり、民間経済は未発達だったので軍部が鉄道や道路を建設し、トラック輸送をしていた。

1945年までに大陸で使われていたトラックのほとんどを日産が製造したが、これが敗戦後に仇となった。

軍事企業としては三菱の方が有名だが、どうしたことかあまりお咎めを受けず、GHQの批判の矛先は日産に向けられた。


日産と日立は井上馨という同じ親をもつ長州藩の兄弟会社ですが、長州藩は戊辰戦争に勝った事で帝国陸軍に支配力を持っていました。

軍と一体になって侵略戦争を行ったとして、久原財閥(日産、日立の母体)の久原房之助はA級戦犯として公職追放された。

鮎川義介も戦犯として逮捕され公民権停止され、以降日産と関わるのを一切禁止されたが、後に参議院議員になっている。


自称”労働者の代表”達は働きもせず暴動に明け暮れた。
このような活動を背後で操り、支援していたのはGHQだった。
引用:http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg


GHQによる日産虐め

日産はGHQによって戦後の自動車生産が制限されたが、GHQは日産をこのまま滅ぼそうと考えていた。

生産制限と同時に刑務所から出所した反政府活動家を日産工場に送り込み、労働争議を起こさせてこれを「民主化」と称していた。

民主化の実態は酷いもので、暴力を振るったり打ち壊したり、物を盗んだりして操業を妨害したのが実態だった。


工場労働者は仕事をせず、上司を監禁して「裁判」と称して大勢で丸一昼夜責め続け、精神を破壊していった。

工場にいる一番偉いのは課長だったので、日産の課長の多くが精神に異常をきたしたり、自分も「民主活動」に加わった。

労働者側の仲間になれば裁判の標的にならず、監禁されたり暴力を振るわれずに済むからだった。

こうした出来事をGHQは「日本でも民主化が根付き始めた」と称賛し、暴動を奨励しては、面白おかしく眺めていた。


GHQは「民主化」を支援したので日産工場の混乱は続き、この間に自動車産業のトップに躍り出たのがトヨタだった。

トヨタは戦前には小規模な自動車生産を行っていたが、軍部との関係は限られていたので、GHQのお気に入りになった。

1950年に朝鮮戦争が始まると日産、トヨタとも突然フル生産を命じられ、以降は急激に成長しアメリカのビッグ3も倒してしまった。


だがGHQによって日産に送り込まれた民主活動家達は、60年間日産の活動を妨害し続け、ついに会社を事実上倒産させてしまいルノーに買収された。

日産の末期がいかに酷かったを物語る伝説として、経営会議でモデルチェンジが決まると、工場長に伺いを立てる。

工場長は労働組合の幹部で、組合は事実上の日産の「本当の経営権」を握っていたとされている。


日産の時限爆弾

組合が同意しないとモデルチェンジできず、日産のモデルチェンジはどんどん遅くなり、内容も陳腐になった。

特にエンジンやシャシーなどを含むフルモデルチェンジは、労働者を酷使するとして一切認めなかった。

こうしてスカイラインもサニーもマーチもブルーバードも、同じエンジンの使いまわし、モデルチェンジ期間の長期化が進行した。


初代マーチが好評だったのに10年間モデルチェンジされなかったのはこれが理由で、2代目も10年、3代目も8年間モデルチェンジしなかった。

日産の労働組合は「労働貴族」という小説にもなったほど有名で、日産社内は社会主義国ソ連のようだったと言われている。

日産の労使協定では「日産車は労組の合意なしにいかなる改良もできない」と書かれていて、モデルチェンジを決めるのは組合長なのだった。


もちろんトヨタやホンダは社長がモデルチェンジを決めていたので、日産がホンダに抜かれたのは当たり前でした。

連合会長の塩路一郎は塩路天皇と呼ばれ、日産の重役人事や経営方針も事実上労組が決めていました。

こうした種を撒いたのはGHQで、種は大きく育って日産を乗っ取り、ついには経営破たんさせてフランス企業になりました。


敗戦前後の混乱期については日産の社史や公式な自動車史でも、知られたくないのかあまり書かれていない。

GHQは戦後すぐ日産を解体倒産させようとしたが、吉田茂首相や池田勇人首相らの抵抗によって、中途半端な虐めに留まったとされている。
http://www.thutmosev.com/archives/71982031.html  




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戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したことを語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、いうまでもなくアメリカの占領政策によるものであった。


 ▼マッカーサーは、GHQに到着してすぐの1945(昭和20)年9月22日、「日本は産業、通商、軍事その他いかなる部門においても、完全に壊滅の状態にある。食糧供給はほとんど止まり、破局寸前の状況にある。日本が犯した罪に対する懲罰は、始まったばかりであり、長く厳しいものになるであろう」と公言し、懲罰としてこの様な状態を強いる意図を隠さなかった。GHQが貿易を全面的に禁止したことは、日本人の食糧事情を戦前の水準以下におしとどめるためでもあった。

 ▼名古屋に駐留した米第25師団長モラン少将は「連合国軍の日本占領を成功させる手段としては、まず日本の食糧不足を利用し、当面は食糧を封鎖して、日本人の抵抗意欲の抑止を第一目標とする。つまり、食糧攻めにすることだ」とのべた(中西薫著『名古屋戦乱物語』)。

 ▼モランはさらに、「(日本の)軍国主義体制を崩壊させ、武装解除が完了した段階で、徐々に米国の余剰農産物を活用し、無償・有償援助を実施して日本人に恩義を感じさせる。それまではたとえ日本農業の米麦が増産されたとしても、配給量を増加する許可を絶対に日本政府に与えてはならない」と訓示していた。名古屋では、熱田造兵廠に備蓄されていた大量の古米、小麦がすべて没収された。それは日本国内の食料難に供するのではなく、「損害賠償物資」として国外に流された。

 ▼GHQは、「闇米が出回るから、遅配・欠配が続く」などといって、買い出し列車に警察官を乗り込ませるなど、「闇米」の徹底的な取り締まりとともに、直接ジープで農家に乗りこみ、強制的に供出させることまでやった。


[戦後余剰農作物を日本に押しつけ]

 ▼こうしたなかで1946(昭和21)年、元大統領フーバーが食糧事情調査団として来日。予定どおり「食糧援助」への布石を打った。そしてこの年11月30日「ララ物資」第一便としてミルク・衣類・薬品など450トンが横浜港に到着した(写真あり:学校給食用の脱脂粉乳などの「ララ物資」第一便の歓迎に動員された横浜の子供たち)。戦後、学校給食に使われた脱脂粉乳はこの「ララ物資」によるものであった。

 ▼マッカーサーは「経済的扼殺」の成果を踏まえて、1947年2月23日、「飢餓は社会不安、混乱、暴動を生み出すに違いない。国民はどんなに邪悪な思想だろうが、食べ物を与えてくれるものに、安易に走るのだ」と「食糧援助」を本国に要請した。

 ▼こうして11月6日、「アメリカに感謝いたしましょう」と放出された輸入食糧の多くは、もともと家畜飼料で栄養値に劣るコーリャンやトウモロコシであった。それはアメリカでの市場買付け価格の二倍の高値で日本国民に押しつけられたが、「我慢して食べてもたちまち胃腸をこわす」という悪質なものであった。

 ▼「米価審議会委員」「食品流通審議会委員」などを歴任した岸康彦氏は著書『食と農の戦後史』のなかで、「フーバーは単なる慈善のために食糧援助に力を入れたわけではない。第一次大戦後、米国は大量の余剰小麦を抱え込んだ。食糧援助は飢餓救済と合わせて、米国の倉庫から、余剰小麦をへらして国際市況の低落を防ぐこと、さらには共産主義の浸透に対する防壁として農産物を利用することも狙っていた」と指摘している。

 ▼国会での感謝決議をおこなって受け入れたこれらの「援助物資」は、ガリオア・エロア基金という「見返資金制度」によるものであった。それは、物資に相当する金額を日本側が積み立てて、その30%は在日米軍基地の費用にあてるなど、資金の運用はすべてアメリカの許可を必要とした。

 ▼アメリカはそのうえに1953年、「ガリオア・エロア返済」を日本政府に要求した。そして60年「安保改訂」後の1962年、「日本はアメリカの妾(めかけ)みたいなものだから、だんなのご機嫌をとるのは当然だ」と放言した池田勇人が首相となって、4億9000万ドルの返済を実行したという屈辱的な事実も消し去ることはできない。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/252217217.html




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戦後の日本のインフレは戦時中の借金とは何の関係もない

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

 当時の我が国の供給能力は、戦前と比較して実に2割の水準にまで落ち込んだと考えられている。供給能力の8割を喪失してさえ、インフレ率が500%程度で済むわけだから、日本国の生産力や技術、さらには「人材」の蓄積は凄まじい限りだ。


戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではないですね。


戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したと語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、アメリカの占領政策によるもの。

終戦直後は大したインフレは起きなかった。

円がその後安くなったのはアメリカの命令で戦時国債を踏み倒す為に意図的に紙幣をそれまでの何十倍も発行したからだ

アメリカが日銀にやらせたのは、それまでの 1円札を100円札に名称変更して、戦時国債の額面だけは昔と同じままにしておいた。


戦後の農地解放と同じで、アメリカは地主の金を貧農・小作人に再分配させる為に円の額面を変えたんだ。 だからハイパーインフレとは全く違う。
その結果、農民はすべて自民党支持層になって日本が共産化する可能性がなくなったたんだ。

ドイツやジンバブエのハイパーインフレとは中身が全然違うよ


因みに、日本が一億総中流、世界で一番成功した社会主義国と言われる様になったのは

・GHQ の農地改革で富農の土地をインフレ前に強制買い取り、小作農にインフレ後にインフレ前の金額と同額(タダ同然)で売ってその金額だけ売主に渡した

・意図的なインフレと預金封鎖で富裕層の預金を没収


が原因

要するに、日本を共産化させない為にブルジョアジーの持つ農地と銀行預金・国債を没収してプロレタリアートに再分配したんだ

一億総中流の無階級社会になったらもう共産革命を起こす必要がなくなるからね

損したのは預金を没収された資産家と農地改革で農地を昔の地価と同じ額面のままインフレで安くなった新円札で売らされた大地主だけ

農地を地主からタダ同然で買わせて貰った小作人は一気に土地持ちの資産家になって、それ以降自民党とアメリカの支持者になった

それが自民党一党独裁が今迄ずっと続いた理由




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戦後のインフレと言われているのはアメリカの指示で戦時国債を返さなくても良くする為に、意図的に円の価値を下げて、借金の額面だけ据え置いただけの話
デノミの逆をやって資産家の財産を取上げたんだ

インフレは供給より需要が大きい場合にしか起きない
日銀がいくら金融緩和しても株式市場や海外投資に廻るだけで物価は上がらない


そもそも日本は常に供給過剰な国でハイパーインフレになった事は一度もない

ハイパーインフレーションとはフィリップ・ケーガンにより、「インフレ率が毎月50%を超えること」と定義されている。毎月のインフレ率50%が継続すると、一年後には物価が130倍に上昇することになる。すなわち、インフレ率13000%である。


戦後の日本は確かにインフレ率が高まったが、別にハイパーインフレになどなっていない。

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではない。

戦時中も終戦後しばらくも大したインフレにならなかったんだから、農業が再開されれば食料不足は有り得ない、

従って戦後のインフレはアメリカが意図的に作った偽りのインフレという事

元々日本は供給能力が高かったから輸入と上手く組み合わせればインフレになる訳ないんだよ

米軍は食料の流通と配給制度を破壊した上で、ララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとったんだよ。

GHQは小麦や脱脂粉乳などのアメリカの余剰農産物を大量に日本に輸出したかったので、日本の農業を壊滅させる占領政策を取ったんだ。
それが農家には食料が有り余っていたにもかかわらず餓死者が出た理由

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。




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米国の食糧輸出戦略

(1)、ガリオア、エロア、ララ援助
ちなみに敗戦後の小学校では、昭和二十一年(1946年)十二月から、米国産の脱脂粉乳を中心とする学校給食が始まりました。

それが米国産小麦粉から作るパンを主食とする完全給食になったのは、大都市では昭和二十五年(1950年)二月からで、全国の都市部では翌年二月からでした。

この給食はガリオア = GARIOA(Government Account for Relief In Occupied Areas)占領地救済資金、及びエロア = EROA(Economic Rehabilitation in Occupied Areas)占領地経済復興基金、からの援助プログラムによる米国産の小麦の払い下げを受けて発足したもので、ガリオア援助には食糧以外にも原綿、肥料、燃料、医薬品もふくまれていました。

日本に対する援助はこれ以外に国連が管理したララ=LARA(Licensed Agency for Relief of Asia)アジア救済機関による援助があり、これにより米国産の粉ミルクが日本全国の小学校児童に配給されました。

ガリオアによる援助は昭和二十三年(1948年)にエロア援助に吸収されましたが、基金の性格、その目的(米国における余剰農産物の処理)から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」でした。


(2)、だまし、と脅し(Bluff)の手法

これは欧州に対する対共産主義政策の一環としての無償援助であるマーシャル・プラン(注:1)に対応したもので、日本に対しても当初は無償援助と言っておきながらサンフランシスコ講和条約締結を前に、昭和23年(1948年)1月に米国政府が突然総額二十億ドル(注:2、当時の為替レートで七千二百億円)の援助の立て替え代金(?)を請求したので、日本政府は「寝耳に水」と驚きました。


無償援助ではなく有償でもない、貸与したとする口実を米国は考えついたのです。

品質、鮮度が商品価値を左右する農産物について、大量の現物貸与などという話はこれまで聞いたことがありません。

しかも日本政府はそれまで援助は無償であると信じていて、占領中には国会で「米国の援助に対する感謝決議」までして来たのです。


もし仮に貸与であるとするならば、政府間の貸借契約書があるはずですが、そのような書類は存在しませんでした。

また小麦や脱脂粉乳の援助が有償、つまり売買契約に基づくものであるならば、その売買契約書が存在し、売買金額(トン当たりいくら、または総額いくら)が当然その契約書に記載されているはずです。


ところがガリオア、エロア援助に関する公文書には売買契約に関する文書やそれに関する条項がなく、金額の記載も全くありませんでした。

値段も決めずに何千億円もの品物を買う愚か者など、たとえ占領下でもいるはずがありません。

日本は米国から詐欺に遭ったのです。


最初に巨額な金額を要求して交渉相手をひるませるブラフ(Bluff、脅し)と呼ばれる交渉テクニックは、アメリカでは弁護士の常套手段です。

相手をひるませて交渉の主導権を握り、次に要求を少し減額して譲歩の姿勢を相手に示し、交渉解決に誠意のあるような振りをするのです。


それにより交渉を有利に進め、最後には目的とした金額を相手に支払わせる、とする戦術です。

交渉は難航しましたが、昭和三十七年(1962年)一月に、米国が援助の経緯を勘案した結果、当初請求した金額を定石通りに四億九千万ドル(千七百六十四億円)に減額して交渉成立に誠意を示した(?)ので、日本は十五年の年賦での返済に応じることとなり、後にはそれを完済し解決しました。


かなり減額したように思えますが、それまでに日本は占領に要する経費である終戦処理費として、五十億ドルもの大金を占領軍の為に支出したのです。

あたかも刑務所の看守の給料を、囚人が負担したようなものです。

その一方でマーシャル・プランによる経済援助を受けたヨーロッパの国々で、債務(?)返済に応じた国はありませんでしたが、アメリカ政府は赤子の手をひねるが如く簡単に、支払い義務の無い大金を日本から巻き上げました。

(3)、パン食導入計画、その影響

昭和二十九年(1954年)には学校給食法が国会を通過し、「小麦の粉食形態を基本とした学校給食の普及拡大をはかること」が明文化されて、米作地帯の農村までもコッペパンによる学校給食の普及が進められました。

当時米国の小麦栽培農家連盟の資金で作られた、パン食普及協議会が作成した小冊子「学校給食とパン」には、


コメを食べていると身体が弱く、頭が悪くなり、ガンや脳溢血になり易い
と書かれていました。

実は米国からの農産物援助には米を主食とする日本人を、子供の頃からパン食に慣れさせて、自国産小麦の輸出を図るアメリカ政府の遠大な戦略があったのです。

敗戦後の学校給食のパン食で育った子供が増加、成長し、親になるにつれて、日本人の食生活にも次第にパン食が普及して、その計画は見事に成功しました。


昭和三十九年(1964年)にマクガバン上院議員が米国上院に提出した報告書によると

米国がスポンサーとなった学校給食プログラムによって、日本の子供達が米国のミルクとパンを好むようになり、日本が米国農産物の最大の顧客となった

と書かれています。


具体的には米国産小麦の日本への輸入量は昭和二十八年度(1953年)の百六十八万トンから、昭和三十九年度(1964年)には三百五十九万トンと二倍以上に増加しました。

それ以来パン食が普及するのに伴い主食である米の需要が次第に減少して行き、米の生産過剰の状態が長年続いています。

その結果政府が保有する米の在庫や備蓄については、適正備蓄量百六十万トンのところ、平成十二年度では二倍近い二百八十万トンにも達していて、食糧倉庫には古米(生産後一年以上経過したもの)、古々米(二年前以上経過したもので、長期保存のために味が落ち、米飯には使用されず、せんべいなどの加工用や家畜のエサに振り向ける)が溢れています。

それにもかかわらず日本は米国をはじめ、オーストラリア、カナダから、毎年六百万トンを超える小麦を輸入していて世界最大の小麦輸入国となっていますが、その小麦の七割は米国産です。

つまり米国は自分のカネではなく、日本人の税金を使ってパン食普及の確固たる基盤を日本に作り上げて、大量の小麦の、しかも恒久的輸出先を確保したのです。


(4)、食糧自給率の低下

その後、昭和三十一年(1956年)には「米国余剰農産物に関する日米協定」を結ばせ、農産物輸入義務化により、大きな市場を米国農業に提供しました。

それ以来日本は米国にとって農産物の最大の輸出先となりましたが、その結果、主食の米離れが進み、日本の農業は衰退し、食糧自給率の試算を始めた昭和三十五年度(1960年)の七十九パーセントから、平成十四年度(2002年)ではカロリー換算で四十パーセントまで低下しています。

これほど低い自給率の国は フランスの百三十五パーセント、米国の百二十五パーセントなどに比べて先進国では日本だけですが、小麦をはじめ、牛肉、大豆など食糧に関する限り、日本は米国の「五十一番目の州」になり下がったと言えます。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm




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「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活 – 2003/2 鈴木 猛夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%A3%9F%E7%94%9F%E6%B4%BB-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E7%8C%9B%E5%A4%AB/dp/4894343231

より抜粋


■昭和20年代(1945年〜)---アメリカで農産物の過剰生産、過剰在庫

 戦後日本人の食生活が急速に欧米化した裏にはアメリカの存在があった。
アメリカは昭和20年代、小麦、大豆等の過剰生産、過剰在庫が深刻化し、その余剰農産物のはけ口として標的にされたのが日本である。


■昭和29年(1954年)---余剰農産物処理法(PL480)成立。

 昭和29年、アメリカは余剰農産物処理法 (PL480)を成立させ、日本に対する農産物輸出作戦に官民挙げて本格的に乗り出した。

当時の日本側栄養関係者も欧米流の栄養学、食生活の普及、定着が必要だとしてパン、畜産物、油脂類などの普及を意図した「栄養改善運動」に取り組み、日米共同の食生活改善運動が推進された。


■アメリカ小麦戦略

 活動資金の多くがアメリカ側から提供されたが、そのことは当時も今もタブーとして長く伏されてきた。 

これを一般に「アメリカ小麦戦略」という。


■昭和30〜40年代(1955〜1975年)---フライパン運動、学校給食など

 パンの原料である強力小麦は日本では産出できず、日本人がパン食を始めれば永久的に日本はアメリカのお得意になる。

戦前まで少なかった油料理を普及させるためにフライパン運動を展開し、油の必要性を強調する栄養指導が熱心に行なわれた。

トウモロコシ、大豆は家畜のエサであると同時に油の原料でもある。
余剰農産物処理の観点から欠かせない重要な戦略であった。

学校給食ではパンとミルクが無償援助され、子供のうちから洋食嗜好の下地を作ることにも成功した。


■昭和52年(1977年)マクガバンレポート(アメリカは気が付いた)

 アメリカ合衆国政府は1977年に

『ガン、心臓病、脳卒中などの現代病は食生活の間違いで起こる"食源病"である』(マクガバンレポート)

と解明して、欧米型の食生活の改善を促した。

欧米型とは、脂肪と動物性たん白質、砂糖の過剰摂取。ビタミン・ミネラルや食物繊維の減少のこと。


■食料自給率たった四割

 「アメリカ小麦戦略」の成功で、小麦、大豆、トウモロコシの九割以上がアメリカをはじめとする輸入品。
食糧自給率は四割以下で先進国中最低。


■問題は命にかかわる

 ここまでは、食生活が変わった〜。美味しい食べ物のバリエーションが拡がった〜。程度の認識でいいかもしれない。

しかし、問題は・・・別にある。


■子供が糖尿病にかかり、アレルギー疾患が蔓延している

 問題は、欧米型食生活にともなって病気もまた欧米型となり、日本人の健康状態が非常に懸念される状況になってきたことである。

戦前まで少なかったガン、糖尿病、動脈硬化、心臓病、痛風などのいわゆる欧米型疾患は子供にまで広がり、アトピー、花粉症、喘息などのアレルギー疾患も増加の一途である。

糖尿病は予備軍を含めて1620万人にのぼり糖尿病に子供が苦しむという前代未聞の事態になってしまった。痛風患者も予備軍を含めて560万人とも言われる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=124643&g=132107





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真珠湾アリゾナ記念館での安倍総理の演説

総理は米国の寛容さを示すエピソードとして、終戦直後の食料援助に言及している。本文は

「日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました」

である。

終戦直後の米国の援助物資はララ物資(LaRa・・Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救援公認団体))と呼ばれている。これによって命を助けられた日本人は多数いる。またこのララ物資が発端となり学校給食が始まったという話がある。


日本人は、長い間、ララ物資を100パーセント米国民の自主的な善意の援助と思っていた。しかしこの裏には浅野七之助氏という日系米国人の大きな働きがあった。浅野氏は岩手・盛岡出身のジャーナリスト(サンフランシスコ邦字紙「日米時報」を発刊)である。氏は終戦直後の日本の惨状にいたたまれず、「日本難民救済会」を設立し日系人に声を掛け祖国日本に救援物資を送ることに奔走した(ブラジルの日系人からも寄付を募った)。

浅野氏は、食料などの援助品を米軍に掛け合い日本に送ってもらったのである。戦後間もない頃の日本人は、これを米国の善意のプレゼントと勘違いしていた。たしかにその後、金額的に見てもララ物資は大きくなりとても日系人の寄付だけではとうてい賄えないものになっている。おそらく米国の援助部分が大きくなったと思われる。しかしララ物資の先鞭をつけたのはこの浅野七之助氏という事実を忘れてはいけない。

この話は決して米国民の寛容さを否定するものではない。米国民の対日感情が非常に悪かった時代に、米軍が日本に援助物資を届けてくれたことはむしろ画期的なことである。むろん日系ではない米国人の大きな協力もあった。ただララ物資の裏に浅野氏等の日系人の働きがあったことは戦後長い間伏せられていた。安倍総理の演説を聞き、この話を思い出したしだいである。
http://www.adpweb.com/eco/





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日本の農地改革

一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。

もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる。

1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。

この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。

不在地主の小作地の全て

在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等

また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。

しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。

譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。

この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。

一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。

この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、市場価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。

また、この農地改革は当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており、政府や GHQ もその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。

従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである

(当時の共産主義諸政党の政策方針では集団化(農地は自給用の田畑のみがコルホーズの協同組合経営として認められ、残りはソフホーズとして国有化され、農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9



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旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

(2003/2/17) 華族の話

1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。


大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?

つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。


5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。

1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。

当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。
加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。


この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。

伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。

旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。

学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。

侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。

華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。

1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。


財産税の税率

財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%


すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。

現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。

多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。

このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。

1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。

秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。

ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。

皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。

1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。

◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
http://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/288.html







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80. 2018年11月29日 20:32:16 : iMHyMmSbu2 : 4WMx6nsFcDM[41] 報告
ま、天皇制を廃止して、天皇家から皇室財産を剥奪して放り出せば、こんな議論なんて一切する手間が省けるのですがね
なんでやらないんですかね?
一部の人のわがままのために、国民の血税を無駄な天皇家に使う必要など全く無い筈なんですが
天皇家の歳費は、その存続を望む人たちが保存会でも作って自腹で工面すれば良いだけの話で、必要としない人たちの納めた税金からも出すのは間違ってると思う
いっそ、消費税は天皇家の存続を望む人だけが払って、望まない人は免除される、そのような仕組みが必要なのではないですかね・・・免税店と同じ方式にすれば実現はたやすいでしょうに
81. 中川隆[-13714] koaQ7Jey 2018年11月29日 21:34:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21409] 報告
>>80
在日朝鮮人は天皇崇拝者ばかりだからね。

天皇の悪口言ったら在日ヤクザに体を切り刻まれるから気を付けた方がいい:


暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、


アメリカ合衆国のマフィアにイタリア系や中国系のマイノリティが多いのと同様に、日本における暴力団の巨大化も、特定の社会集団に対する差別が原因の一つだという説がある。

猪野健治は、『やくざと日本人』の中で、昭和中期の関西や北部九州の部落の悲惨な現状を取り上げ、日本社会に「やくざとなるか土方になるか」しか、選択肢の無い若者が多く存在する事がやくざの温床であるという見解を示した。

また自身の取材から得た印象として、もとより体系的な統計があるわけではないが、と断りながらも、現在の暴力団員の半数は部落も在日朝鮮人も出自に持たない「市民社会からのドロップアウト組」だろうと推測している。

デビッド・カプラン(en:David_Kaplan_(author))とアレック・デュブロ(en:Alec Dubro)の共著になる『ヤクザニッポン的犯罪地下帝国と右翼』(第三書館。原書名は『Yakuza:The Explosive Account of Japan's Criminal Underworld』)には、


「日本の最大広域暴力団・山口組の構成員2万5千人のうち約70%の者が部落出身者であり、約10%の者が韓国人等の外国人」


という記述がある。ただし、原書のみ。邦訳版では削除。加藤久雄・慶應義塾大学教授が、自身の論文の中でこのデータを引用した。

会津小鉄会長・高山登久太郎は講演で、

「ウチの組は同和が3割、在日が3割だった」

と発言したことがある。(彼の組は、会長が在日だったため、在日の割合が高かったと見られる。)

宮崎学は、大谷昭宏との共著、『グリコ・森永事件 最重要参考人M』で、

「関西に暴力団が10人おったらそのうち9人はマイノリティ」

と発言している。


元公安調査官・菅沼光弘は、2006年10月19日に行われた東京・外国特派員協会における講演で、山口組のナンバー2である高山清司から聞いた話として、

暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%である

という見解を示した。


山口組顧問弁護士を務めた山之内幸夫は『文藝春秋』昭和59年11月号に寄せた「山口組顧問弁護士の手記」において

「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」

「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」

と述べた。

ただし、2008年の政府公式統計によれば、その年に刑務所に入った受刑者のうち暴力団加入者の国籍別比率は、

日本国籍3191人で約97.7%、韓国・朝鮮籍63人で約1.9%となっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E5%9B%A3


北九州監禁事件では


大便排泄を1日1回に限定し

全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した

勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた

言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った

一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ


朝鮮民族はこういうことを好むのである

ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります


朝鮮人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います

チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でした朝鮮人の李氏朝鮮もそうです。よって在日に監禁されると大変なことになります


殴る蹴るの基本的なものから、

タバコの火を押し当てる、

ハンダコテで体中焼く、

尿道にマッチ入れて火をつける、

在日が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える

大小便を食べさせる


など拷問の種類には事欠きません


女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、

全身にピアスを通され

穴という穴は拡張され、


在日が起こした女子コンクリ事件では

鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です


在日を日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです


かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁

少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます

何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります

尻の穴もそうなります、

栗には太いピアスがされるでしょう

SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、

厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります

こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

82. 中川隆[-13716] koaQ7Jey 2018年11月29日 21:45:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21412] 報告
在日は何をやるかわからない:


女子高校生コンクリート殺人事件 概要

1989年、女の子が41日間渡って監禁され、計100人ぐらい(少しでも関った人を含めて)に強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。(深く関ったのは5,6人)ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。


468 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:29:14 ID:ESwy0TF30

少年達は床に全裸の順子を寝かせ膣にオロナミンCの空瓶2本を突っ込んだ。
そして3キロの鉄アレイを持ち出し順子の腹の上1メートルにかざした。
少年

「ここから鉄アレイ落としたら瓶が割れて膣の中がグチャグチャだぜぇ。ヒヒヒヒヒ」


順子
「いやああああ!やめて!やめて!」


少年
「やめなああいギャハ!」


鉄アレイは順子の腹へ落ちた。2本の瓶は割れなかったが鉄アレイとぶつかる音か甲高く響いた。


少年
「おもしれえ!おもしれえよおおおお!!」

少年
「おれにもやらせて!おれにもやらせて!」


少年達は何度も鉄アレイを落とし膣から鳴る音を聞いて笑い転げた。 やがてこの方法の虐待に飽きた少年達は別の虐待を始める。

そして膣に入れた2本の瓶は忘れ去られたまま順子は絶命しコンクリート漬けにされた。


467 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:24:28 ID:ESwy0TF30

AはCとDに対し「道具を万引きして来い」と命令。CとDはホームセンターへ向かい、ペンチや鉄アレイなどを調達。


C「いいものパクってきやしたぜ」

少年達は順子の服を脱がせ、CとDが両足を押さえ、順子の股を開かせた。
Bは電気ドライバーを取り出し、コンセントに差し込む。


B「グヘへへこれを入れてやるぜ」


順子は両足をバタバタさせたが、CとDはガッチリ押さえる。

ウイーンと電気ドライバーが回転する。そして電気ドライバーは膣に入った。
順子は痛がって大暴れするが、Bは無理矢理電気ドライバーを突っ込む。

悲鳴とともに膣が血が飛び散り、順子の膣は破壊されていく。


そこにAはペンチを持ってきて、乳首をひねり潰す。

乳首からも血が飛び散り、乳首も膣も使い物にならなくなっていった。


裁判記録から一部引用


お尻の穴に花火を入れ爆発させ、膣やに直系3センチの鉄の棒を何度も強引に突っこみ、性器や尻の穴を完全に破壊

(途中、膣をタバコの灰皿代わりにされる。

重い鉄アレイを身体(裸体)を数十回にわたって殴られ、まぶたに熱いろうそくをたらされ、


●陰毛を剃り、女性器に異物を挿入 

●ライターのオイルで皮膚を焼いた 

●肛門に瓶を挿入し思いきり蹴った)

 

手足を縛り、

膣にマッチ棒(ライター)を入れられ、点火し、燃やされ、
膣の中や裸体をライターで火あぶり、苦しさのあまり何度も気絶する。

その恐怖や苦しみや痛みは想像を絶する!

(この時ストレスと恐怖のあまり髪が全部抜け落ちていく)

しかし、犯人どもは哀れみの情など一切見せず、引き続き、陵辱、暴行を行う

大勢の男にかなり大量の精液を飲まされ(フェラチオで)、

500ccの尿を飲まされた。

ゴキブリも食わされたそうである。

また女の子の悲鳴や激しいリンチの音は監禁されている部屋の中で音楽をボリュームいっぱいで流しているため、外に届かない。

恐ろしい事に、監禁されていることを知ってた人は計100以上いるが、誰も通報しない。

(死体が発見されるまで)そして最後はひどく殴られ失禁して)死んだ。

(殺された)死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。

死体には髪がなくなっていた。

死体の陰部にはオロナミンC2本、入っていた。

なお、死体は手足を縛られた状態であった。


◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける。

◆ゴキブリを食べさせる。

◆性器や肛門に鉄棒、ビンなどを挿入。

◆性器や肛門に入れたビンに釘を打ち肛門内、性器内で割った。

◆両鼓膜が激しく傷ついており、最後のほうはほとんど音が聞こえていなかった。

◆小指の生爪を剥がす

◆左乳首はペンチのようなもので潰す。

◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てる。

◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる。

◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。

◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。

◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに多数回殴打。

◆ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。

◆揮発性の高いジッポオイルなどを太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。

◆あまりの恐怖に脳が縮小していた。

◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、 やがて、ほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。

◆遺体の乳房には20本位の裁縫針が入っていた。

◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった。

◆あまりのストレスに生前頭髪が抜け落ちていた。


初期

・強姦に加わった人間は100人超。強姦回数は400回を越える。

・全ての強姦が生。中出しに飽きると口内発射、顔面発射でフィニッシュ。

・過度の強姦で失神した場合は水をぶっかけ、息を吹き返させる。

中期以降

・膣にシンナーを入れ、キュウリやニンジンを出し入れする。

・肛門で爆竹や花火をして遊ぶ。

・床に複数のガビョウを置いて、その上に背負い投げやパワーボムで投げる。

・膣にオロナミンCのビンを入れる。破壊した肛門にもオロナミンCを入れる。

・膣に入ったオロナミンCの上に鉄アレイを何度も落とし、音を楽しむ。

・音楽に合わせてストリップショーをやらせる。

・ゴキブリ、ウンコを食べさせ、尿を飲ませる。

・体にオイルをまき、ライターで火をつけヤケドさせる。

・ヤケドでかぶれた肌を更に焼いたり、蹴ったりする。

・真冬に裸でベランダに出す。

・焼き鳥の串を肛門や膣に入れる。

・仰向けに寝かせて口の中に鎌や木刀を入れて顔を変形させる。

・裸にして竹刀や鉄の棒で毎日殴る。床に寝かせて竹刀をノドに押し付ける。

・膣を灰皿代わりにしてタバコを吸う。

・タバコの吸殻も膣に入れる。

・ハサミで膣に傷つけ大流血させる。

・乳房と乳首にマチ針を刺し、上から蹴りを入れる。

・乳首をペンチで潰す。


遺体の状況

・肛門と膣の中にはオロナミンCが入っていた。鉄アレイで割られた破片もあり。

・顔面は殴られた傷や腫れで識別は全くつかない状態。

・体中がヤケドとアザだらけで髪の毛はなかった。

・性器と肛門は完全に破壊。


現場検証の際、床、壁のみならず、天井にまで血が飛び散っていた。目鼻口の位置が判らぬほど膨れ腫上り、御両親でさえ判別しがたいほどに変わり果てていた。解剖の結果


頬骨・顎の骨が砕ける

ほぼ失明状態 片目においては完全失明

鼓膜が破損し、聴覚不機能

歯茎に付いている歯が一本もない

子宮・肛門は最も損傷が酷く、他の人体部より激しく腐敗、

文字通り完全に破壊され双方の壁は引き裂け、区別が無くなり、中にはタバコの吸殻、花火、瓶2本

頭髪は過度の恐怖により抜け落ちていた

脳が縮小していた(あまりの辛さに耐え切れず、脳自身が死を選択・命令する現象)

彼女が最後に言った言葉は「助けて下さい」ではなく「もう殺して下さい」であった


825 名前:可愛い奥様 [2007/07/09(月) 00:04:36 ID:YEn3APa60]

乳に針二十本くらい入ってた、は2ちゃんで最近知ったが
どれほど恐ろしいことをやらかしてくれたのかと唖然としたよ。


782 :可愛い奥様 :04/07/30 12:11 ID:jzYoiJZc

他板で、裁判で提出される陳述書(?というのかな、犯行の内容が記載され読み上げられるもの)の内容が当時、関係者の判断で大幅削除されていたという情報有り。 真偽のほどは分からないけど色々な板&スレッドに張り巡らされた、少女に対して行われた犯行を列記したコピペがあったでしょう。 あれ以上の凄惨なことが、山ほど行われていたらしい。

それを裁判ですっかり読み上げてしまうと、社会的に重大な影響があるとして削除した模様。

あれ以上って・・・ 何?

787 :可愛い奥様 :04/07/30 12:45 ID:lKdghwk/

いくらでも思いつくよ。

お尻にウイスキービンを突っ込んだとか(あまり書いてないけどこれは本当)

栗タンをハサミでちょん切ったとかビラビラを噛み切ったとか

指を包丁で落としたとか、

目にロウソクをたらすとか、ボールペンを突き刺すとか

乳首をかみそりで落とすとか 

体中を小刀で(死なない程度に)サクサク刺すとか

歯をひっこ抜くとか

膣に手を突っ込んで子宮口をこじ開けるとか


これって蛆がわいたとかのグロ系漫画ではよく書かれてること。
あいつらなら実際にやりかねんよ。

788 :787 :04/07/30 12:47 ID:lKdghwk/

つーかなにをしても良い 生餌が手に入ったなら787に書いたようなことをしない、と考えるのは変。 やってるだろう、って思うのが(グロマニアの)普通だ。

ただしあまり血が出るようなことはしていないはずだから(血の始末が大変なのと直ぐ死んじゃうから)四肢の切断は無かったと思う。

789 :可愛い奥様 :04/07/30 12:54 ID:s2tiwsxN (BR>>787

担当した検察官のインタビューによれば、事件の全貌は余りにもムゴすぎてその真実をすべて論告に記載することは社会的影響力が強すぎるため内部でもかなり揉め、かなりの部分を削除したらしい。

裁判資料をみれば判るが時系列に分析しても所々抜け落ちている期間や状況がある。 で、少年裁判であるということもあり、この内容でも十分に極刑で戦えるだろうという所まで削ってあるとの事。

解剖医学の人間も同様にコメントしており、裁判資料に書かれた発見時の少女の状況から推測すれば論告に書かれている以上の拷問を受けていたと考えられる、との事。


…相当酷い事してるのは確か。

そもそもタバコの火を押し付けた火傷が化膿して、腐敗臭が酷かったから少年達が辟易して強姦がおさまった(立たなくなった?)らしいし。 その後は暴行だけになったって陳述されてる。

http://2ch-library.com/news/concrete/ms/1089851471.html


・順子さんはフェ〇チオ行為に最適な様に前歯を全部抜かれていた
http://yomi.mobi/read.cgi/human7/human7_ms_1173571086/633


43 名前:マッチョ [2006/12/21(木) 02:34:00 ID:h2T1I9iXO]
>>13
歯茎の感触の為に、全部ぬかれるんだよな…
ひでぇ話だ


55 名前:ビッチ [2006/12/21(木) 02:47:24 ID:KbX735R+0]

歯茎フェラは最高らしい。
やくざの貢物女がされるとか聞いたことある。
http://yomi.mobi/read.cgi/anime/anime_news_1166634573

94名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/03(月)16:19:47 ID:cdN0qNtO

この事件、昔の知り合いが見てたらしい。 彼の方から話切り出してきたんだが、綾瀬だし、おそらくこの事件で間違いない。

彼が見たときは、プロレスごっこやってたらしい。犯人たちって格闘技が結構好きだったこともあるんだろうな。と言っても、女一人だから話にならなかったとは思うが。

ただ普通の技だけじゃなくて、がびょうや釘を床に置いて、合体パワーボムとか、背負い投げやってたって言うのが恐ろしかった(しかも上半身は裸)これって想像しただけでヤヴァイ。がびょうだぞ。

ハサミやドライバーで額を連打して流血させたとも言ってた。

ネタだと思ってたんだが、これって実話だったんかよ。

その後、女は死んだとか言ってたし。 ちなみに彼はレフェリーやっててふざけてカウント数えたりしただけだからパクられずに済んだとの話。

702 :可愛い奥様 :04/07/29 17:23 ID:+n16jRAd

確か肛門に花火入れられて火つけられて学園天国の曲に合わせて踊らせたんだよね。 本当鬼畜以外に言葉が見つからない。


213 名前:可愛い奥様 [2007/04/21(土) 19:36:52 ID:ZqugGkGj0]

被害者の遺体が性器にビンが二本刺さったままだったって話を読んで

あいつら生前の彼女の性器にロケット花火仕込んで爆発させたから括約筋が完全になくなって腸液が垂れるのをビンに入れようと思ったんだなと。

彼女の膿の臭いを嫌がり部屋にいつかなくなったといってたけど本当は膿の臭いより、尿や便の臭いが嫌だったんだなと・・・。


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      :. |  :ヾ_! ゝ "゙゙    '  `゙ ハ.:', :.   ここ、どこですか?
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   :.  / rィイ | :.:.ヽ: >r/`(ノ .:.::.}ヽ、\:.   ここに居るんですか?
      / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\
 :.  / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^`  |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:.
   / /  ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{   ∧/.-‐'": : |:.:. i ',
  ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、  : : : l:.:.: .ハ ',
  { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.}
  V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄  ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{  リ
    ヽ:.:{、.:.V     : : ヘ     : : {: : :/:.::∧|
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428 :名無番長 :2008/12/28(日) 16:07:25 0

コンクリ事件。 ヤクザが最初から絡んでいたとして、実はスナッフフィルムの撮影をしていたとか。

そんなものを見て悦ぶ人間は確かにいるだろうし。

偏見かもしれないが、主な顧客は、金はあるが、劣等感と異常性愛を持ち合わせた、半島系が多そうだがな。 そして、今だに重要な資金源になっていたりしてな。

435 :名無番長 :2008/12/28(日) 16:16:36 0
>>428
その、ビデオ撮影やってた有名な事件が、織原譲二がやったルーシー・ブラックマン事件じゃん。あいつは親族の中で唯一日本人だったらしい、不思議な人だったらしいな。


449 :名無番長 :2008/12/28(日) 16:27:07 0

>あいつが在日だってのは有名だろ!

いや違う。正確には、あいつだけが親族の中で唯一、帰化して日本人になたから、正解は元在日。
http://ameblo.jp/jouhouwoatumeru/entry-10191211932.html

女子高生コンクリート詰め殺人事件

デヴィ夫人ブログ 12/25

「そして、私は聞いてしまったのです。  飯島愛にとんでもない事が巻き起こっていた事を・・・

 彼女は、何と申しましょうか、“遊び”が過ぎて、 知らずでか、わからずでか、 とんでもない事をしていた様です。

どの様な人達とお付き合いがあったのか皆目わかりませんが、 映像や写真を撮られ、所持していた人達にゆすられ、恐喝され、つきまとわれ、 公表の恐怖にさらされながら生きた心地もなく、暮らしていた様です。
 
 色々模索した結果、それを食い止めるには、 芸能界を辞める他ない、と心したのでしょう。」
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-10183052427.html
http://sweet-pan.at.webry.info/200812/article_15.html

559 :名無番長:2009/01/01(木) 02:29:07 0

12/25付けデヴィブログから
>映像や写真を撮られ、所持していた人達に

この一文だけなぜかこっそり削られてるらしいな
やっぱなんかヤバい映像や写真があるんだろうなw
http://mimizun.com/log/2ch/4649/1230540801/

コンクリート事件のスナッフビデオ
足立区で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」。最悪な事件だったのはいまだ記憶に残っているが、20年たったいま、密かにその女子高生を殺害した模様を撮影したスナッフビデオが存在するという、噂が広まっている。実話系の月刊誌編集者が話すには

「うちにも売り込みというか、電話があって。話を聞いてみると自分の先輩が持っていたもので、現物があるので買わないかということなんです。」

そんなビデオが存在するならそもそも、警察が押収するはずだが。前述の編集者が受けた電話では

「その売り込み主が言うには逮捕された少年達の数倍は加害者がいるというのです。事件が明るみになって加害者がビデオに自分が写っていてやばいと、そのビデオテープを人づてに隠したというんですよ。」

セックスがしたいがためだけに、人間をおもちゃにして殺した最悪な事件。本当にビデオが存在しても、それを元に新たな逮捕者が出ることは、時効の関係でない。
http://spy.co.jp/modules/wordpress/index.php?p=286


飯島愛がコンクリート殺人事件に関与したと倉地明美が証言!


・ 飯島愛が綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件関係者に脅されまくっている

・ 倉地明美にも圧力がかかっているので有名なヤクザに守ってもらっている

・ 飯島愛の綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件を深く探った者は殺されている

・ 飯島愛の綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件との関与に関わる事を書くと命を狙われる。


・飯島愛ちゃんは、怖い人に守られている

・暴露本出したから脅された

・コンクリにかかわると死人が出る

・私はさらに怖い人をバックにつけてる
(コンクリ犯人達さえも圧力をかけられる程の大きなバックとは?)

http://unkar.org/r/4649/1231013534
http://ecoecofun.blog121.fc2.com/?mode=m&no=2
http://kdiary1.fc2.com/cgi-bin/d.cgi/freefreefree/


   (((((((( ;゚Д゚)))))))ガクガクブルブル


( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

差出人 : クラッチからのメッセージ

日 付 : 2008年04月19日 00時29分
件 名 : Re: わたし


飯島愛だって脅されまくっていて大変だと思うよ。

でも、自業自得。

あたしはもう飯島愛とは関わりたくない。

アイツだっていつまで命あるかわからないよ。

普通に考えてあんなに急に引退するのは変でしょ?

なべプロがお手上げになったんだよ。

かばいきれなくて。

じゃなかったら一応売れっ子だったんだから首にはしたくなかったと思うよ。
飯島愛も多分お金無いんじゃないかな。

昔の万引きじゃないからね、人の命の問題だから無理だよ。

出所してきた人もみんなヤクザだし。

あたしもおとなしくしていたい。

とにかくお互いにこれで終わりにしよう。

最後に聞く耳もってくれて良かった。

それだけ。

http://hidebbs.net/bbs/3free?s=t&n=42414014&m=5


           _ -―´ ̄ ̄ ̄`ヽ、
          ,/ ,===''⌒''== 、、
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        ヽi} / /   / ヽ_/ ヽ__,,\
         { | _|__,,/ /  ̄ \ヽ
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          |`、ヽ.__ノ    ヽ-‐' _/
  r"      | |{i t    _     / |
 (   =‐'  | | i} > 、___ヽノ_ ,ィ リ| l| |
  ゝ-'     // i} / }-‐斤ヒl、__| l| |
    r、   //,,i} //}} l|》o《|! {{`lヽ
   __ゝ |i}^V'' __/  }}  ハ  {{ |
   ヽ  ノ'  `j    }}  /X |  {{  |

組織の事を暴露しようとした飯島愛は呪われたものとなった

300 :名無番長:2008/12/28(日) 14:10:41 O

××が宮野に指示し拉致、監禁、撮影(写真、動画)、被害者を始末させた
取り調べの段階で宮野達は××や関係者達の名前を出したが地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者が絡んでいるため警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

その後、飯島がTVで活躍、××、宮野達、関係者達が知る事になる

飯島が当時、所属していた事務所が、飯島が写っている写真、動画を買い取り口外しないことを約束させた しかし、それが裏目に出た・・


828 :名無番長[sage]:2008/12/29(月) 08:22:40 0

>取り調べの段階で宮野達は××や関係者達の名前を出したが
>地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者が絡んでいるため
>警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

それに、これが事実なら「地元の暴力団、党員、創価学会など100人近くの関係者」のなかに有力者がいるっていうことだろ。


801 :名無番長:2008/12/29(月) 05:41:46 0

倉地がいうには、コンクリ事件をふかく探ろうとしてる奴は何人も殺されてるみたいだし、それだけ大きな権力・勢力が動いてるんだろうな


802 :名無番長:2008/12/29(月) 05:49:21 0

やはり、少年達が撮影したというビデオの存在が関係しているのか??

806 :名無番長:2008/12/29(月) 05:59:09 0

何となく思い当たるのはプチエンジェルだな、顧客が大物ばかりという。

コンクリ関係者が少女を顧客に売春させていた、つまり少女を提供する役目だった? 

プチエンジェルの黒幕が動いているなら納得できる。

飯島も脅しを受けて芸能人の少女たちを紹介してた可能性もあるね。

807 :名無番長:2008/12/29(月) 06:03:57 0

プチエンジェルの黒幕って何だろうね?

普通に考えれば暴力団なんだけど、暴走族に少女を集めさせて暴力団が仕切る……
だけど、それを暴力団にさせているのが顧客たち? 

つまり顧客たちが実際は仕切っているということになるのかな? 

政治家や医者、弁護士、会社役員の少女趣味の人たちの集団?
http://datlog.net/t/4649/1230372529/


綾瀬女子高生コンクリート事件


2.名無番長2008/12/27(土) 19:09:24 0

■差出人 : クラッチ〜(倉地明美からのメッセージ)

日 付 : 2008年04月19日 00時29分
件 名 : Re: わたし


飯島だって脅されまくっていて大変だと思うよ。

でも、自業自得。

人の未来を奪ったんだから。

あたしはもう飯島とは関わりたくない。

アイツだって
いつまで命あるかわからないよ。

普通に考えてあんなに急に引退するのは変でしょ?

なべプロがお手上げになったんだよ。

かばいきれなくて。

じゃなかったら一応売れっ子だったんだから首にはしたくなかったと思うよ。


3.名無番長sage2008/12/27(土) 19:09:58 0

飯島も多分お金ないんじゃないかな。

昔の万引きじゃないからね、人の命の問題だから無理だよ。

出所してきた人もみんなヤクザだし。

あたしもおとなしくしていたい。

とにかく
お互いにこれで
終わりにしよう。

最後に聞く耳もってくれて良かった。

それだけ。

Period:
この人は自称作家の倉地明美さんです
本当に怖い人です

しかし、彼女は飯島愛や綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人たちに怯えているようです

しかも飯島愛の暗殺まで予見してます

本当に別の殺人事件がおきているような気がします

4.名無番長2008/12/27(土) 19:10:35 0


↑直前で掲載中止になったという、飯島愛が「綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件」に関与していたとされる記事


飯島愛引退騒動。その真相とは…。

〜以下、「サイバッチ」より〜〜〜〜〜


●飯島愛引退の真相 綾瀬・コンクリ詰め殺人と消えた1億円を追う!!

 握りつぶされたゲラをあえて公開する

本誌が主要マスコミ全社に張り巡らせた蛆虫ネットワークのある記者からとんでもない画像が届いた。掲載中止となった記事のゲラの一部だ。

残念ながら、ここでは、掲載予定日、媒体名など詳細は書けない。

今、言えるのはこの媒体が「ある巨大勢力」から圧力を受け、急遽、この記事の掲載中止を決定したということだけだ。ゲラまで作りながら、である。
そこに書かれていたのは、ある大物出版プロデューサーの「告発」。

……飯島愛が綾瀬・コンクリ詰め殺人事件への「関与」で脅迫されていた。
飯島は、昨年11月、ブログに「事務所経理担当者に1億円を持ち逃げされた」
と書いたが、この1億円は「ある巨大勢力」への口止め料だった、と。

今回は死人が出るかもしれません。


18.当時の綾瀬在住2008/12/27(土) 21:03:22 O

綾瀬では共産党も創価も在日も生活保護も普通だよ。
俺がガキの頃はゴミ屋も沢山あったしな。
あの事件を知ってる奴は、俺も含めて人前では語れないのが多いだろうな。
親にも言ってはダメだと言われてたしな。

700.名無番長2008/12/28(日) 22:51:42 0

東京都足立区:関原・本木一帯には、かつて荒川放水路の建設に徴用された労働者の飯場に起源を持つ朝鮮人集落が存在する。関原・本木の朝鮮人集落は俗にバタヤ部落と呼ばれ、古くから再生資源回収業者の街として知られていた。

その他の在日朝鮮人産業として、スリッパやサンダルなどの部品を家内工業で製造するゴム製品製造業が賑わったこともある。

関連施設として、在日本朝鮮人総聯合会足立支部は本木に事務所を置いている。
また、近隣地区に属する興野には東京朝鮮第4初中級学校がある。


598.名無番長sage2008/12/28(日) 19:10:15 0

おれも最初は飯島とコンクリを結び付けるのは荒唐無稽と思っていたんだが、
興味を持ったのは飯島は北朝鮮籍だったという説があると聞いてから

それならプラトニック・セックスで自ら明かしてる、家出中渡り歩いたという複数の男の連れや埼玉・八潮での同棲相手が在日系ないしはその周辺の人間でもおかしくないし、そいつらがコンクリ関係者と何らかの接点を持っていたとしてもむしろ自然なのかなあと

在日系の縦や横のつながりの強さはおれらには計り知れないと聞くからね

21.名無番長2008/12/27(土) 21:25:41 O

もし、飯島愛が16歳のときの同棲相手がどういう人物か知っていても、怖くて言えないわな
もし、その人物がコンクリート殺人にかかわっていたなら

だから、ソースなんてないんだよ
ソース提供者は間違いなくヤバいことになるからな

160.名無番長2008/12/28(日) 04:05:25 0

詳しい芸能リポーターと勝谷
裏社会の人間なら知っている事実だよ

コンクリの背後は893と半島関係者が多数関係してるし
これは、基本的に知ったからといって芸能人には何のメリットもない
ただ、この件には係わるなということだ。

164.名無番長2008/12/28(日) 04:17:18 0

このころ飯島はホステスやってて源氏名を名乗ってたってことかな?
だったら、つじつまが合うんだよね。

もともとビデオ回して立っていうからその瞬間もビデオに映ってる可能性が高いよね。

たぶんヤクザが保存してるんだろうし。

165.名無番長2008/12/28(日) 04:17:34 O
>>160
当時893などは全然絡んでねえだろが(笑)知ったか笑わすな


166.名無番長2008/12/28(日) 04:19:48 O
>>164
妄想で言うのやめな(笑)


167.名無番長2008/12/28(日) 04:21:09 0

全部見た?
勝谷の友人と言う人が書いたレス。
だって、あのビデオを売って儲けてたんでしょ?


171.名無番長2008/12/28(日) 04:22:49 0
>>165-166
なんで焦ってるのwww
なんか見えてきたね、死の真相w

798.名無番長2008/12/29(月) 05:18:53 0

意図的にコンクリート殺人と関連づけないように情報操作しているような印象さえ持つ。この国で最もタブーとされる皇室について、あれほど遠慮なく発言しているのに、なぜ飯島とコンクリート殺人に関しては触れないんだ?


799.名無番長2008/12/29(月) 05:26:57 0

自分がここに書きこむのは、コンクリ情報については最も裏が取れる板だと思っているからだ。

なのに、どうして関係者が書き込まないのか? 
それほどやばい話なんだろうか? 命の保証がない? 
飯島でさえも死ななくてはならなかったのだから相当の闇勢力なんだろうが……。

800.名無番長2008/12/29(月) 05:32:57 O
>>799

コンクリ犯の嫌がらせは凄いらしいぞ
某雑誌なんか家族迄嫌がらせされたらしいしな
本当に黒幕って誰なんだろな?

801.名無番長2008/12/29(月) 05:41:46 0
>>798
印象って言うか確実に工作してるよ。
こここ ◆DpT0MBDgjMなんて工作員丸出しだし、
在日と関連付けようとしてるのも工作員だな

倉地がいうには、コンクリ事件をふかく探ろうとしてる奴は何人も殺されてるみたいだし、それだけ大きな権力・勢力が動いてるんだろうな

802.名無番長2008/12/29(月) 05:49:21 0

やはり、少年達が撮影したというビデオの存在が関係しているのか??


319.名無番長sage2008/12/28(日) 14:27:01 0

工作員が隠したいのはこの部分かもな

>取り調べの段階で宮野達は加藤や関係者達の名前を出したが
>地元の暴力団、党員、創価学会など100人近くの関係者が絡んでいるため
>警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

803.名無番長2008/12/29(月) 05:51:03 0
>>800-801
やっぱりそうなのか。既女の情報網は実はスクープ系雑誌の記者が情報を流していると言われてる。確かに凄い情報だし、納得できる。
それが今回に限っては見当違いすぎる情報しかないんだよね。

山口組や稲川会関係ですら、ここまで凄くない。それよりも凄い闇の
勢力って何だろう?


487.名無番長2008/12/28(日) 17:21:45 0

こここ ◆DpT0MBDgjM が出てきたっていうことは、飯島愛死亡に
バーニング・後藤組・創価が絡んでるっていうことでいいよね?

779.名無番長2008/12/29(月) 03:08:37 O

こここはなんか匂うんだよなあ
飯島愛に黒い付き合いがあるのは本人のプログからも明らか
恐らく調べればとんでもない事になるんだろう
一度、コンクリから離れるのが事件解明の近道だとおめこ

459.名無番長2008/12/28(日) 16:44:35 0

後藤組・バーニング・創価の関係
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/4649/1224498508/


53 名前:名無番長[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 04:35:26 0

後藤組:山口組系武闘派暴力団。

山口組の関東の出先....の筈だったが、覚醒剤取引で急速に力をつけた。
稲川会と山口組のパイプ役だった。層化学会の用心棒的役割を果たして
来た。学会の敵対者潰し・脅迫・買収などをやってきたが、いつの間にか
学会を操縦する側になった。今増えている北朝鮮の覚醒剤を一手に引き受けている。

バーニング:
後藤組のクライアント企業といわれている。
芸能界の覚醒剤汚染の鍵を握っている。シャブネタによる芸人コントロールが
お得意。(シャブ常習・レイプネタの揉み消しなど。)

後藤・バーとも警視庁赤坂署と裏で繋がっている。揉み消しには層化警察が
関与している。四谷署も層化の影響下にある奴らのシマ。


485.名無番長sage2008/12/28(日) 17:19:32 0

>。ヨ組織の統率力、経済力、構成員・準構成員数、どれをとっても山口組随一なのが後藤組だ」
>
>警察幹部はそう指摘する。


後藤組かっけー


464.名無番長2008/12/28(日) 16:50:19 O
>>459
後藤組はとっくに除籍や!ほんまは破門やったけど金積んで除籍にしてもらったんじゃ
それとアンタは知らんかも知れへんけど、別の宗教団体や上場企業とも関係あるで まぁネットで勉強してや


478.名無番長2008/12/28(日) 17:01:12 0

後藤組は山口組を除籍になったけど、創価・バーニングとの関係は
そのまま変わらずっていうことでいいのかな


497.名無番長2008/12/28(日) 17:31:35 O

後藤組は今はないよ
当時の組員はごよう会の預かりでしたが
今は元後藤組の若頭だった良知組に移籍してるよ


507.名無番長2008/12/28(日) 17:42:10 0
>>497
【堅気の】後藤組バーニング創価オウム【片腕を】
http://logmemo.org/changi.2ch.net/4649/1224498508/

875.名無番長2008/12/29(月) 12:07:45 0

監禁中の被害者を写したビデオが出回ったとか

660.アート藤2008/12/28(日) 21:27:50 0

>◆監禁中の被害者の様子が撮影された家庭用ビデオテープがある。

これは売れるよ絶対に、見てくて見たくてたまらんわ。


184.名無番長2008/12/28(日) 04:40:50 0

飯島が自殺までするなら、それぐらいインパクトがあるビデオだってこと。

他のスレでずっとビデオを回してて、強姦の部分はアダルトビデオとして売って稼いでいたとあった。

それもありだと思うよ。なぜ逃げなかったかもそれで理解できる。

ビデオで見張っていて、おかしな動き(部屋から出る)をしたら壮絶な暴力をしたんだと思うよ。その繰り返しで籠の鳥になってしまった……。


428.名無番長2008/12/28(日) 16:07:25 0

コンクリ事件。
ヤクザが最初から絡んでいたとして、実はスナッフフィルムの撮影をしていたとか。

そんなものを見て悦ぶ人間は確かにいるだろうし。
偏見かもしれないが、主な顧客は、金はあるが、劣等感と異常性愛を持ち合わせた、
半島系が多そうだがな。
そして、今だに重要な資金源になっていたりしてな。


435.名無番長2008/12/28(日) 16:16:36 0
>>428
その、ビデオ撮影やってた有名な事件が、織原譲二がやったルーシー・ブラックマン事件じゃん。あいつは親族の中で唯一日本人だったらしい、不思議な人だったらしいな。


438.名無番長2008/12/28(日) 16:18:36 0
>>435
織原譲二は在日だぞ。日本人にしないでねww


445.名無番長2008/12/28(日) 16:24:25 0
>>435
あいつが在日だってのは有名だろ!何適当言ってんだよチョン
元々がチョン特有のブサイク顔で白人にモテないからワザワザ日本人に見られる為に整形したんだってよ


449.名無番長2008/12/28(日) 16:27:07 0

>あいつが在日だってのは有名だろ!

いや違う。正確には、あいつだけが親族の中で唯一、帰化
して日本人になたから、正解は元在日。

436.名無番長2008/12/28(日) 16:16:58 0
>>428
本当の動機はその可能性がある。
初めは資金調達が目的だが歯止めがきかずエスカレートして殺害に至ったのかも知れない。


448.名無番長2008/12/28(日) 16:26:17 0
>>436
いや、むしろ、何故あそこまで惨たらしく被害者が殺されたのか、
その理由になるような気がする。

本当に少年たちだけで行った事件なら、そこまでやるだろうか?
40日間にも渡って。拷問の内容も鬼畜すぎる。


あるいは、犯行はあくまでこの少年らだけで行われたとして、
監禁、強姦され続けていた被害者に罵られ、途中から少年グループが激昂して拷問にいたったのか?
それにしても、宮野が自供しなければ発覚しなかったというのも不思議だ

460.名無番長2008/12/28(日) 16:45:34 0
>>448
犯行グループは殺しの指示を受け行ったのかも知れない
警察にパクられない保証付きでしかし蓋を開けてみたら実行犯だけパクられた・・てな感じ

その指示したヤツが飯島の男かも?


477.名無番長2008/12/28(日) 16:58:53 0
>>460
宮野がヘタレて自供しなければ、完全犯罪だったんだろ。
法廷で宮野が恐れていたのは、法廷ではなく裏社会だったんだろうな。


480.名無番長2008/12/28(日) 17:13:30 0
>>477
スナッフフィルムの撮影で拉致監禁し性的暴行は勿論のこと殺しのシナリオまで全て計画済みだろう。

中途半端に生かして帰したらパクるだろう
コンクリート詰自体やくざの発想だし。


489.名無番長2008/12/28(日) 17:24:13 0

スナッフ映像に飯島愛が映ってたなら十分脅せるな

506.名無番長2008/12/28(日) 17:41:55 0

スナッフじゃないにしても暴行を映した映像、デヴィ夫人のブログからすると
無いとも言えん。逮捕者に暴力団いるし。

806.名無番長2008/12/29(月) 05:59:09 0

何となく思い当たるのはプチエンジェルだな、顧客が大物ばかりという。

コンクリ関係者が少女を顧客に売春させていた、つまり少女を提供する役目だった?
プチエンジェルの黒幕が動いているなら納得できる。

飯島も脅しを受けて芸能人の少女たちを紹介してた可能性もあるね。

807.名無番長2008/12/29(月) 06:03:57 0

プチエンジェルの黒幕って何だろうね?

普通に考えれば暴力団なんだけど、暴走族に少女を集めさせて暴力団が仕切る……

だけど、それを暴力団にさせているのが顧客たち? 
つまり顧客たちが実際は仕切っているということになるのかな? 
政治家や医者、弁護士、会社役員の少女趣味の人たちの集団?


810.名無番長2008/12/29(月) 06:17:29 0

なんかさ、自分の頭の中で全部が結び付いた黒幕がプチエンジェルしか思い浮かばないよ。

暴力団や右翼、在日、部落じゃあ何となく約不足と言うか、そこまでの勢力だと思えないんだ。でもプチエンジェルの顧客が実質プチエンジェルを動かしている黒幕だと考えると、合理的に理解できる。

各方面でトップの人たちが集まれば……。それこそ暴力団、右翼、部落、医者、弁護士、裁判官、一流企業、マスコミ……すべてのトップ層の集まりだったら何でもできるから。

何をするにしても簡単だねwww

812.名無番長2008/12/29(月) 06:37:27 0

やっぱり、売春システムが裏にあるのかもな

コンクリ事件の被害者も犯人達が金とってレイプされてて、その客の中に今の政治家・権力者がいるとか

飯島がそれを知ってたなら、消されても不思議じゃない。

それに、小さな売春システムが明らかになれば、そこからもっと大掛かりな売春システムまでつながる可能性もある。

芸能界だって、枕営業しないと生き残れないとか、大きな売春制度みたいなもんだし、政界だってそれと無縁なわけはない。

そんなことが世間一般に知られたら、政界・芸能界は大激震で崩壊するからな


824.名無番長sage2008/12/29(月) 08:03:22 O
>>812
大物政治家がお忍びで綾瀬の湊ん家出掛けて買春してる姿想像して糞ワロタ

とてつもない妄想だな

828.名無番長sage2008/12/29(月) 08:22:40 0
>>824
「今の」って書いてるだろ。大物とも言ってない。

>取り調べの段階で宮野達は加藤や関係者達の名前を出したが
>地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者が絡んでいるため
>警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

それに、これが事実なら「地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者」のなかに有力者がいるっていうことだろ。

850.名無番長2008/12/29(月) 10:25:46 0
>>824
そんなにハズレではないよ。
ヒント「裏」「海外」
少年法の盲点をうまく使って大金稼いだ黒幕。


872.名無番長2008/12/29(月) 12:01:38 0
>>850
コンクリの裏が存在しているとしたら莫大な金稼げたろうな

829.名無番長2008/12/29(月) 08:32:04 0

飯島は何かを暴露しようとしてたんじゃないか?
それが見つかって殺されたとか

981.名無番長2008/12/29(月) 18:08:25 0

飯島って政治家やヤクザに売春を斡旋してたんじゃないだろうか
そう考えると、飯島が政治家やヤクザにパイプがあったっていうのも納得できる

そして、それをほのめかす内容を暴露本に書こうとして消された
こうなると、コンクリート事件が関係なくなっちゃうけど・・


987.名無番長2008/12/29(月) 18:21:16 0
>>981
いや、繋がるよ。コンクリート殺人の犯人たちがそもそも売春のあっせん的
な役割をしていたと考えられるから。


988.名無番長2008/12/29(月) 18:25:56 0

赤坂プチエンジェル事件やら芸能界の枕営業の実態に繋がるとw


881.名無番長2008/12/29(月) 12:16:49 0

犯人たちの動機がないんだよね。
今まで輪姦事件は起こしたことあるやつらだけど、なんであれほど残忍に殺さないと
いけなかったのか。
世の中の金が余っている連中の中には、普通では見れないものになら大金払うヤツは
いるよ。

886.名無番長2008/12/29(月) 12:34:07 O
>>881
私もそれが気になる。

コンクリ実行犯→コンクリ黒幕→893→政治家や金持ち変態…

との繋がりがあるんじゃないかって。


890.名無番長2008/12/29(月) 12:38:22 O
>>886
政治家や金持ち変態→警察


までが絡んでたりして。


899.名無番長2008/12/29(月) 12:52:06 0

宮野たちは少年なので罪が軽く済んだ。ちゃんと黒幕いて捕まっていない。
少年法の盲点ついた犯罪で、シャバに出てきたヤツラは組でも特別扱いだしな。

ちなみに裏ものはほとんど海外へ。
http://datlog.net/t/4649/1230372529/

111 :納豆ウマ太郎 ◆UmaUmaRScc :2011/08/25(木) 19:30:09.83 ID:???

主犯格は創価学会幹部のセガレだよ、 もちろん朝鮮人。
韓国や朝鮮学校の反日教育が産み出した事件だよ。

153 :納豆ウマ太郎 ◆UmaUmaRScc :2011/09/18(日) 19:51:38.77 ID:???

周知の事実だよw
警察の現場検証で創価学会の弁護士が立ち会ってる。


226 :名無しさん?:2011/10/08(土) 01:19:30.67 ID:???
>>153
在日、共産党、創価の3つが絡めば被害者が不良になったり、Yahoo知恵袋では事件が抹消されたり。

神作譲(小倉譲)は確かに在日です。
しかし、湊伸治の両親は元共産党員です。そして宮野裕史の母親は創価学会員です。
http://bbs.jpcanada.com/log/6/3840.html
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/entrance/1304756575/

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     :. |i .i i  .i /  ヽ ト 、 \、:.:.:. ',:.',:.:.lヽ}
       |i .i l  :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:}
    :. |i∧ ', :{ ,ィjモト \  イjミトイイV :.  な…
       .|  :メヽ.', `ozZ}      izN。ハ::{     なんなんですか?
      :. |  :ヾ_! ゝ "゙゙    '  `゙ ハ.:', :.   ここ、どこですか?
      |  :.:_イ .:.ヽ.   (二フ , イ :.:.:!:.ヽ     なんであたし
   :.  / rィイ | :.:.ヽ: >r/`(ノ .:.::.}ヽ、\:.   ここに居るんですか?
      / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\
 :.  / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^`  |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:.
   / /  ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{   ∧/.-‐'": : |:.:. i ',
  ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、  : : : l:.:.: .ハ ',
  { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.}
  V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄  ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{  リ
    ヽ:.:{、.:.V     : : ヘ     : : {: : :/:.::∧|
     ヽ! )人    : : :人      : : : / \! :.
      "  ヽ : : : : :/イ{     :.ノ: : : :.\ :.
       :.  \__///: :\______/: : : : : : : ヽ
           / //: : :|;|: : : : : : i: : : __: : : : ',
       :.     / 、 {;{   |;|   . : i/. : : : : : :|
          / `Y;{. . . .|;|. : : : /i: : : : : : : : :l

 


殺人犯 神作譲

「俺は人を殺したことがあるんだぞ」「人を殺すなんて簡単なんだからなー」

「昔、女がコンクリート詰めされただろ?あれ、おれがやったんだよ」


笑いながら自慢げに言う男 神作譲

「あの女の髪切ったりよー、ペンチで乳首潰したり歯抜いたのも俺。ホントは俺が主犯なんだよ。」

ゾッとする話を、何がおかしいのか下品に笑いながら言う神作譲。


飲み屋のネエちゃんはフリーズし、周りも引いている。

だが、露骨に冷ややかな目で見たら、今度は自分が何かされてしまうと思い

皆少しずつ距離を取ろうとする。


「俺は捕まったって怖くねぇし、同情されるコツ知ってるしよぉ、あんなのチョロイんだよ。」


そして、まだ続く独演会


「俺にはよー、スゲー バックが付いてんだよ。あの車だって、バックが俺のために買ってくれたんだよ。俺は守ってもえらえんだよ。、怖いもんなんてねーんだよ。」
http://ameblo.jp/jibiinkouka/entry-11346165087.html

報道ステーション2004年7月28日放送

女子高生コンクリ詰め殺人事件
「再犯」の加害者と母親


古館:こんばんは。皆さん、15年前のある事件を思い出してください。
そして、考えてみてください。ちょうど元号が平成にかわってまもない
1989年の1月、東京江東区の埋め立て地で一人の女子高校生の遺体が発
見されました。冷たい海風の吹くこの場所で、その女子高生はなんとコ
ンクリートに固められていました。世に言う女子高生コンクリート詰め
殺人事件です。なんと被害者は、犯人の家に40日間にも及んで監禁され、
筆舌に尽くしがたい蹂躙の末に殺害されました。実刑判決を受けたのは、
当時16歳から18歳だった少年4人です。そのうち、当時17歳だった準主犯
格の少年は8年間服役し、5年前に出所しました。しかし今年の5月です。
33歳になっていたその少年-男-はまた別な事件を起こしてしまいました。
今日その初公判が開かれました。その男はどうして、また再び犯罪を犯し
てしまったのでしょうか。我々のテレビカメラの前でその男の母親が語り
ました。長いVTRになりますが、どうか最後までご覧ください。なお、そ
の男の名前は、未成年時の犯罪を扱うため匿名とさせていただきます。

ナレーション(女):午前10時、東京地裁には朝から傍聴券を求める人が大
勢詰めかけた。


キャプション:傍聴席23席に126人が並ぶ

ナレーション(女):知人の男性を監禁し怪我をさせたとして、逮捕監禁致
傷の罪に問われた被告の初公判。頭を短く刈り上げた男は、法廷に入ると
一度傍聴席を見回した。そして、監禁はしておらず、話をしていただけだ
として起訴事実を一部否認した。男は1989年に東京都足立区で起きた女子
高生コンクリート詰め殺人事件で有罪判決を受けた準主犯格の少年だった。

ナレーション:あれから15年加害者の実の母親がカメラの前で語った。コ
ンクリート詰め殺人事件のことを。出所後の生活、再び罪を犯した息子に
ついて。

加害者母親(58):私にごめんなさいって一言・・・言っただけです。自分が出
たら(出所したら)(母親が)仕事をしなくてもいいように力仕事でも何でもす
るから、悪かった。顔は申し訳ない顔をしていました。私の顔を見るなり。

ナレーション:拘置所から届いた加害者の手紙。男が自ら語った事件とは。


ナレーション:5月19日午前2時、東京足立区に住む男性が自宅に戻った時
だった。一人の男が車から降りてきていきなり殴りかかった。

被害者(27歳):「女取っただろう、女知ってんだろう、隠してるんだろう、
やくざなめんなよ」って。でー、何十発か殴られて・・・

ナレーション:男性は男の車のトランクに詰めこまれた。

キャプション:約40分間走り回る

ナレーション:車が向かった先は埼玉県三郷市のあるスナック。

被害者(27歳):そこでは、もう誰もみていないわけで、何十発と殴られ続けて、
もう、「一人殺そうが二人殺そうが一緒なんだ」と言われた。人を殺す顔って
こんな顔なんだなって。

ナレーション:4時間後に解放された男性はその足で警察に駆け込んだ。およそ
2週間後男が逮捕される。

キャプション:6月4日逮捕監禁致傷容疑で逮捕

ナレーション:二人は知り合いで、男は被害者の男性にこう語っていたという。


被害者(27歳):一方的に何か話しし始めて、その綾瀬の事件を話し始めた。俺は
すごいだろうって、自慢するような口調で。


ナレーション:綾瀬の事件。それは女子高生コンクリート詰め殺人事件のこと
だった。1989年1月東京江東区(江東区若洲・遺体発見現場のキャプション)の埋め
立て地でコンクリート詰めされた女性の遺体が発見される。被害者は埼玉県三郷市
に住む17歳の女子高校生だった。逮捕されたのは当時16歳から18歳の少年(当時の映
像・変更現場などがながれる)。強姦目的で通りがかりの女子高生を連れ去り、40日
にわたり足立区綾瀬の自宅に監禁し殺したのだった。

キャプション:
主犯格A(18) 懲役20年
準主犯格B(17) 懲役5〜10年
C(16) 懲役5〜9年
D(17) 懲役5〜7年

ナレーション:裁判では4人の少年が実刑判決を受ける。準主犯格の少年は最終意見
陳述で涙ながらにこう述べた。「被害者の女性がどれだけ熱かったか、どれだけ痛
かったか、一生謝っても謝りきれない。僕の一生をかけても償っていきたい(キャプシ
ョンに同様の文面)」

キャプション:監禁現場(犯行現場の画像)

ナレーション:少年達はここで壮絶な暴行を加えていた。連日に及ぶ強姦、顔面や体
を殴りつける、ライターで皮膚をあぶる、食事をとらせない。そして、遺体をドラム
缶にいれて捨てたのだった。


スタッフ:謝罪とかですね、償いの気持ちとかっていうのは?

加害者母親(58):住所も・・・(被害者の遺族が)引っ越されてしまって。だから、気持ち
としてはいつも忘れることはできないけど、何もできない状態。自分の中では一生背
負っていかなきゃならない

ナレーション:更生を誓った息子が15年後再び罪を犯した。

加害者母親(58):ショックでした。なぜそんなことをやったのかなって。今更いい年な
のに、何でそういうことをしたんだろうっていうふうに感じました。

ナレーション:父親は3歳の時に愛人を作って家を出ていった。母親は二人の子供を育て
るために夜の仕事に就く。家族そろって食卓を囲んだ記憶はないという。

加害者母親(58):確かにお父さんがいなくてもお母さんがいなくても、よく育つ子はよく
育っているかもしれないです。でも、あの子には父親が必要だったんじゃないかなと思って
ます。

キャプション:奈良少年刑務所(画像も)

ナレーション:少年は奈良にある少年刑務所に収容された。更生に重点を置く少年院と違い、
少年刑務所は刑罰を与える場である。母親が差し入れたドストエフスキーを読んだり、被害
者の冥福を祈り写経をしていたという。


キャプション:男が装置された滋賀刑務所
       1999年8月3日出所

ナレーション:その後、成人の刑務所に移され28歳の時に出所。

加害者母親(58):(息子は)迎えに来ているとは思わなかったみたいですけど。もう、子供み
たいな感じで、(事件)前に戻ったような感じで。もう、はしゃいで出てきたっていう感じに
・・・・・・見えましたけど。

キャプション:首都圏の様々な会社に派遣される

ナレーション:出所してから半年後、男は弁護士の紹介でコンピュータ関係の派遣の仕事を
するようになる。更生に向けたスタートは順調かに見えた。

加害者母親(58):出る(出所する)前からいつ帰ってくるんだって、その、社長さんが待ってて
くださって。コンピュータの会社に行っている時もすごいまじめに行っていました。もう早く
ねて、自分は行かなきゃいけない。2時間くらいかかるんですよ。コンピューターの会社の仕事
にいくのに。大体遠い所が多いものですから。そうすると、本当に遅刻しないでまじめに行って
いた。やっぱし(刑務所で)ならってきたことでは自分が(能力が)足りなくて、自分なりに勉強
していました。本を買ってきて。


ナレーション:だが、母親にとってある不安が常につきまとっていた。

加害者母親(58):気というか・・・・・・張り巡らしました。だから、あの新聞か何かのニュースを見
ると、背格好、服装・・・・・・居ないとすごい心配でした。他の事件でも疑ってかかっちゃうことも
あります。

スタッフ:それは息子さんがやったんじゃないかと?

加害者母親(58):そうですね。そういう風に思ってみる時もあります。

ナレーション:4年前に母親を取材したときのノート。出所から1年、このときすでに母親は不安
を漏らしていた。


ノートに書かれた文章:
また事件をほじくったら元のもくあみにな
また何かやるかもしれない


加害者母親(58):事件ついても話はしていないです。お互いが暗黙の内の・・・・・・

スタッフ:それはどうしてですか?

加害者母親(58):息子にとっても自分の心の中で思っていることだと思いますし。私の中でも心で
思っていることもでもあって。言ってほじくり出して、まともな会話になる時もあるかもしれない
けど、やっぱり自分の言われたく時ってありますよね。


ナレーション:だが本人にとって事件は心の片隅にあり続けたようだ。

加害者母親(58):自分の事件の本を読んだりしてましたから。でなにか、あのぉ、ビデオが出たの
も見てますね。その事件のビデオが。ビデオショップから借りてきて、で、「内容は違うよ」って
一言いっていましたけど。

ナレーション:男は歌舞伎町の店で働いていた年上の中国人女性と結婚した。しかし、2年あまりで
破局。再び実家に戻る。

加害者母親(58):彼女と別れてかな、「結婚して子供でも作って普通の生活をしたら」って言ったら、
「事件の子供って言われるから無理でしょう」って本人は言ってました。

スタッフ:それに対してお母さんはどう返したんですか?

加害者母親(58)それっきり何も言えませんでした。

ナレーション:熱心に打ち込んでいた仕事も、あることが理由で辞めてしまう。出所後男と付き合い
のあった弁護士はこう話す。

キャプション:女子高生コンクリ詰め事件での男の弁護人

伊藤芳朗弁護士:やはり被害妄想だったかなと思います。といいますのは、そのー、本当は職場の人
たちは彼実状を誰も知らないはずなのに、自分のこと(事件)を知っているから、自分につらくあたる
んだというようなことを言って人間関係がギクシャクしてきたんですね。

キャプション:刑務所での拘禁反応が被害妄想の原因だった

ナレーション:10年に及ぶ刑務所生活で男には拘禁反応による被害妄想が現れていた。

伊藤芳朗弁護士:刑務所の中でキチンとした治療は受けさせてもらえませんでした。


ナレーション:2番目の職場を見つけるも給料の未払いというトラブルが起きる。その時、ある人物
との出会いがきっかけで男の人生は、再び大きくかわっていったと母親はいう。

加害者母親(58):S氏はヤクザだったんで、あたりのいい人だったんで、最初くっついて
行っちゃいまして

ナレーション:給料の未払いを聞いた母親が知り合いのH氏に相談。そのH氏が連れてきた
のが山口組系暴力団組長のS氏だった。男は次第にそのS氏と付き合いを深めていく。


       相談
   母親------------->H氏

付き合い
   男 山口組系3次団体
組長S氏

スタッフ:息子さんを止めようとはしなかったんですか?

加害者母親(58):私が止めても難しいなっていう、本人の判断に任せようという気持ちでいました。

スタッフ:事件のことについてはその人は知っていたのですか?

加害者母親(58):(息子)本人が言ったみたいです。本人が言ったところ連れ歩いているときに、
「こいつはコンクリの人殺したやつだよ」ってみんなに言いふらしていたらいしです。それは
本人がいってました。どこに飲みに行っても、そういう言い方をすると。


スタッフ:本人は嫌そうな感じでしたか?

加害者母親(58):はい。誰もいないから誘われるといってたみたいです。

スタッフ:誰もいないっていうのは?

母親(58):友達が誰もいないから。

スタッフ:友達っていうのはできなかったんですか?

母親(58):出来なかったです。

キャプション:
今年5月再び事件を起こす
出所から4年9ヶ月後のことだった---

母親(58):これは息子からきた手紙です。小菅(東京拘置所)に入ってから息子から来た手紙なんです。


ナレーション:15年前世間を震撼させた女子高生コンクリート詰め殺人事件。再び罪を
犯した男から母親あてに手紙が届いた。

手紙の内容:
前略、面会や差し入れありがとう。今回のことは本当に申し訳ないと思っています。他人
の責任で自分の仕事ができなくなる悔しさは私も十分にわかる。事件のことも考えている。
度が過ぎたことを後悔している。

ナレーション:男によれば、暴力団組長S氏の正式な組員になったのは去年の12月だという。
その後S氏が男に上納金を要求したことに反発。今年5月8日S氏を殴り組を抜けたとしている。
8日後の5月16日ある事件が起きる。浅草の三社祭で暴力団組長のS氏が喧嘩に巻き込まれた。
そのとき男は近くにいたが、組から抜けていたこともあり、S氏を助けるとはなかったという。
その際、今回の事件の被害者に男はこう言われたという。

キャプション:
「行けなかったじゃないですか」

ナレーション:行けなかったじゃないですか。つまり怖じ気づいたと揶揄されたというのだ。


男の手紙:
今回の被害者は(匿名)が面倒をみていた若い衆なんだけど、テキ屋だな。被害届けを出したくら
いから花屋の店員になっているらしい。

画面:傷の跡を見せる被害者

ナレーション:男は被害者の言葉がきっかけで思わず暴力を振るったとしている。しかし、被害
者も雇い主も男の主張を否定している、

被害者(27):なぜ行けなかったのですかとか、それはないですよ。だから、その見ていたとかと
いう話も、自分はその子供たちにラムネを分けてあげたりとか、ジュースを配ってあげたりだと
か、そういうことをしていたので、見てないんですよね。自分は花屋だったんで。なんで、自分
までヤクザ扱いするんですかって

ナレーション:男は面会に訪れた母親に対して訴えた。

加害者母親(58):「一人殺すも二人殺すも一緒だって」ってそんなことを言ったの?といったら、
「言ってないよ」って言っていました。

ナレーション:事件発覚後、母は自宅を出て知り合いの家を転々としている。


スタッフ:何が足りなかったと思いますか?

加害者母親(58):事件のことに触れなかったことが、私はそれが息子に対して・・・・・・わかっている
ことだと思ったんですが、それがまだわかりきってなかったのかなと感じます。

スタッフ:わかりきってないというのは?

加害者母親(58):自分の感情にふまえて自分を忘れちゃっていることを教えてあげないといけないなと。

スタッフ:どうすれば出来ますか?

加害者母親(58):どいうふう風にしたらわかる・・・・・・・どいうふう風に言ったらいいんでしょう・・・・・

スタッフ:亡くなられた被害者の方、あるいは遺族の立場になって考えてみたらどうですか?

加害者母親(58):遺族だったら「死んでもらいたい」というのが、それっきり思わないじゃないですか。
その子が帰ってくるわけじゃないですから。

スタッフ:また同じ被害者がでてきたり、あるいはまた事件を繰り返したりしたことに対して、
遺族がとても悲しんでいるとは考えないですか?

加害者母親(58):つらく思ってらっしゃると思います。これから事件を起こさないように、
自分を戒めていかなきゃならない、ではないかと思っています。


スタッフ:できますか?

加害者母親(58):やって・・・行こうと思ってます。

スタッフ:被害者の遺族に対して詫びるとしたらどういった言葉がありますか?

加害者母親(58):ごめんなさいの一言です。(むせび泣く?)


古館:この男を本気で更生させようと考えた人間がいただろうかと思います。中途半端な助け
では更生などできないと思います。加藤さん、あのー、再犯、出所して再び犯罪を犯してしま
うというケースですが、かなり多いというふうに感じるんですが。

加藤:そうですね。それで少年法の見直し論議も活発になってますよね。その論点の一つが加
害者の人権重視、その一方で被害者の事件はどうなっているのかというのがありますよね。

古館:はい

加藤:だから被害者側から、次の被害者を作らないでくれという切実な声もでてますよね。


古館:(おおきく頷く)ただ、あのー。もう一方で、この更生施設の問題。はたして本当の更生
できる確率がどのくらいあるかということも問題ですね。

加藤:そうですね。いまVTRみてて二つ、僕考えたんですけどね。一つは、罪が重かったから
少年刑務所行きましたよね。少年院なんかに比べると教育とか更生という面よりも、やっぱり
刑罰としての服役が重視されるところですよね。今後あのーやっぱり、少年刑務所でも更生プ
ログラムを強化充実する必要があるんじゃないかということが一つ。それと、更生で成果をあ
げた後にも問題がある。だから、戻っていくそこの環境がどうなのかっていうのが、ものすご
い重要だと思うんですよね。

古館:現実的にはよく言われるように、とにかく刑が終わって服したらすぐに出ていってもらう。
次なる犯罪者が入ってくるから。刑務所は満杯だ。よく耳にしますよね。そういう話をね。そし
て、もう一つ思うことは親と子供が逃げずに本当に向き合うということ。これが次に大切で難し
いんだとということも考えました。いったんコマーシャルです。
http://www.geocities.jp/sce_psp/houdoustation.txt

449 :名無番長:2013/02/01(金) 03:43:35.34 0

譲が再犯した2004年にコンクリート (映画)が公開された
映画は2つ見たけど内容は違うと譲は母親(悦子)に話してた

再犯した時に埼玉にあるスナックABC内で

『本当の主犯は俺だった、鼻にこうやってタバコを近づけ亡くなったのを確認したのも俺』

と男に話した

宮野は刑務所で最後のリンチには参加しなかったと誰かに語っていたらしい
それと譲のことを頭悪いとかも。

譲のせいで宮野の仮出所が延期されることになった。

502 :名無番長:2013/02/16(土) 19:37:21.64 0

2004年に再犯した時の週刊誌の記事
http://yoroz.s3.zmx.jp/con/sin.jpg

宮野がいない時に譲が先頭に立って指示を出して暴力&レイプをしてた

最後のリンチの時もコンビニで小倉ヨウカンを買い古田さんにヨウカンみせて

『これを何と言う?
小倉と呼び捨てにしたな?・・・
小倉ヨウカンにさんつけするな!!!』

などと言いがかりを付けて暴行


507 :名無番長:2013/02/18(月) 00:39:19.33 O
>>502
足を焼いたのもこいつだと云うし一番酷いことしたのこいつだろ。
自称主犯だし
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/4649/1348666771/


368 :名無しさん :09/12/15 22:07:43 ID:FCkU81Cv

黒幕(真主犯)は、宮野じゃなくて小倉だって友達が書き込んでンの見たことがあるな
宮野を恐れて逆らえずに事件が悪化したんじゃなく、小倉に逆らえなかっただけじゃないか?


371 :名無しさん :09/12/16 21:11:52 ID:iTE4i58B

宮野、湊、渡邉は反省しているけど、小倉は反省すわけ無いってことを奴らの友達らしき人物が書き込んでたのを見たことがあるよ

宮野と湊は、途中で被害者を帰そうとしたこととか
出所後、湊とは話したこととか
結構、詳しく書いていたけどな・・

どの道許せないが、友達からみれば、宮野達も小倉の犠牲者だと思っているのかもな
真実は闇の中だ・・・・裁判記録だけが真実じゃないしな


372 :名無し :09/12/17 19:40:28 ID:CYvoUVjJ

宮野が被害者に火をつけて火傷させたんじゃないの?なんでそんな事するのか
理解できない 宮野っていまどこでなにしてるの?


374 :名無しさん :09/12/17 22:21:28 ID:vfaVnrgE
>>372
宮野がいないとき、卑劣な暴行を繰り返ししていたのは小倉だよ
宮野は、久々に監禁場所に行ったら、被害者の変わりように驚いたといわれている
でも、他の奴ら(小倉、湊)に馬鹿にされたくないから、更に被害者に暴行を加えたってことになっているけどね・・・
被害者に火をつけたのが宮野かどうかは分からないよ


375 :名無しさん :09/12/17 22:27:50 ID:vfaVnrgE

被害者を家に帰そうと宮野が言ったとき、猛反対をしたのは小倉
宮野がいない時に、酷い暴行、強姦を加えていたのは小倉
湊、渡邉や下っ端不良に指示をだしていたのは小倉
「俺が主犯だった」と小倉自身が言っている


376 :名無し :09/12/18 01:50:44 ID:dgfOPlxz

なんで火傷させるの?理解できない。ガキが虫殺すのと同じなのかな?


377 :名無しさん :09/12/18 03:09:31 ID:hlrUq9hG

宮野は犯行時期、シンナーで頭が完全イカレテイタ
初公判の際、終了時に気絶をするって騒ぎを起こしている

自分の悪事をズラズラと述べられたら、誰だって気絶しそうになるだろう
しかも、あれほどの犯罪・・

でも、小倉は冷静に宮野のせいにしまくっていた・・友達曰く「卑劣な奴」
同じ中学の後輩らしき人物も、小倉とその母親は基地外だと書き込んでいる

宮野タイプは周りの影響で良くも悪くもなる奴だろう
でも、小倉は根本的な悪だ
近くにいる仲間が狂っているってゆーのは相当な奴だろう
    


378 :名無し :09/12/18 19:11:41 ID:dgfOPlxz

少しはかわいそうだと思わなかったの?


380 :名無しさん :09/12/19 01:48:42 ID:hgdQIHP5
>>378
「彼女はかわいそうだったけど、遊んでやったんだからいいじゃない」

って小倉のクソが言ってますよ
奴の脳を解体して、どうなっているのか教えて欲しい


381 :名無しさん :09/12/19 02:09:55 ID:hgdQIHP5

はじめ裁判記録を読んだ時、あまりの内容で感情で皆死刑にしてしまえ!!苦しんで死ね!!
っと思ったが(今も思っているけど)
何度も裁判記録を読んでいると、何でこんなどこにでも居る世間に排除された不良がこれ程の凶悪事件を起こしたのかが良く解らなかったが、仲間の書き込みを見て見えてきた

小倉ってゆー悪魔が絡んでいたからだよ・・・
小倉以外の奴らなら、この時代の私立・県立の中学出身者なら一人や二人は見たことがあるだろう

でも、小倉のような悪魔はない・・


397 :名無しさん :09/12/24 18:21:07 ID:0CqRE/Mn

皆、宮野が出所すると騒いでいたが、
本当の主犯は十年前に出所していた・・案の定、再犯を起こし、

「この程度の内容で、監禁・障害とは・・納得がいかない」

っととぼけた事をぬかしている。

そりゃー、以前の事件とくらべりゃーな・・あんだけの事をして十年だもんな

宮野は自分の犯罪をホボ全て認め、主犯として刑をマットウしようとした
親も、自分の家を売り払って被害者側に賠償金をしっかり払っている。

小倉の母親ババアは、なんだかんだ言って支払いをしていない。
しかも、馬鹿息子に車を与え、自分は犯行現場の近くに店を開き、豪邸を建てた。
これだけでも、どっちが主犯かはわかるだろう
小倉親子は、普通の人には絶対に理解は出来ない思考回路を持っている。
北九州拷問殺人の主犯、松永太と同類だろう
http://yy27.60.kg/test/read.cgi/cruel/1192761129/

宮野裕史はシンナーで頭がイカレテいない時はまともだった?

死体処理

宮野裕史はこのとき、当時人気のあった長渕剛主演のテレビドラマ『とんぼ』の最終回のビデオを探した。

それは、順子が拉致された日、『とんぼ』の最終回を楽しみにしていて、アルバイト先から家路に急いだが、その後、監禁されたために最終回は見ることができずに、そのくやしい思いを何度か口にしたからで、そのビデオも一緒に入れようと思ったからだった。

午前8時ころ、ドラム缶を海に投棄しようと江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせたが、恐くなってしまい、その空き地にドラム缶を投げ出して帰ってしまった。
http://zero123456789.web.fc2.com/ohanasi/zatugaku/z_jkkonkurisatuzin.html


宮野裕史がオートバイの暴走行為でつかまり、他にもいろいろやっていたので少年院に送られたそうです。

宮野がそこである晩以来、毎晩毎晩、壁をひっかきだすのです。同房の人間がやめさせようとしても、その手を振り払って、がりがりがりがり、、、、。

と爪がはがれるほどひっかきつづけ、やがてそれは所内の職員のお偉いさんの耳にまで入ることになりました。

どうしてそんなことをするのか尋ねられ、宮野はぽつりぽつりと話し始めたそうです。

実は、人を殺したことがあって、その娘が壁の中から出してくれ出してくれって言うものだから、と。

 はじめは精神鑑定を受けさせよう(受けさせたのかな?)ということになったらしいのですが、どうも気が触れたにしても嘘をついている様子ではない。

供述された場所に行くと、本当に空き地があって、ドラム缶があって、中から遺体が出てきたという事です。
http://gossiper.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

71 :名無しさん :09/05/21 09:03:15 ID:IWpGy5B3
神作・・この異常な神経の図太さ・・

裁判記録を読み返しても、主犯の宮野より内容が酷い
多分、本物の主犯だろうな・・自分も言ってたようだが
神作がいなければ、ここまでの惨劇にはならなかったんじゃないかと思ってしまう。
もちろん加害者は全員許せないが・・


72 :名無しさん :09/05/21 22:36:07 ID:w1Zjb9vt
>>71
同意
年功序列で宮野が主犯
しかし全員同年齢なら神作譲が確実に少年Aだったね


「お願いですから家に帰してください」

と懇願する被害者に対し

A(宮野)「きちがいの真似をしろ」

被害者は懸命に要求に応じるが

B(神作)「本当にきちがいになれ」
とシンナーを無理やり吸引させ、更に焼酎・ウィスキーを一気飲みさせる

被害者を帰そうという意見が一時出ていたことがあったが
このときB(神作)だけが警察に事件発覚を恐れ猛反対

A(宮野) C(湊) D(渡邊)らに同意させる


ペンチで歯を引き抜いていたのもB(神作)

強姦した回数もB(神作)が最多であったとされている


77 :名無しさん :09/06/06 17:50:09 ID:pO3of3pd

>被害者を帰そうという意見が一時出ていたことがあったが
>このときB(神作)だけが警察に事件発覚を恐れ猛反対
>A(宮野) C(湊) D(渡邊)らに同意させる

この段階で、神作は被害者を殺害して証拠隠滅するつもりだったんだろうな・・
他のやつは神作の言葉で、ここまできたら・・殺すしかないって感じだろう・・

神作が宮野が怖くて逆らえなかったとか言っている内容を見て、こいつが「本物主犯」か??っと思ってしまった。

主犯の暴力+α暴力を犯していて、何いってやがるよ

説得力まるでなし・・

よく、宮野はこの言葉に反応しなかったのかが不思議・・
本人に聞いてみないと、分からないね・・

「コンクリート」とかくだらない映画を作ってるんなら、こいつらの裁判の内容を突っ込んだ映画を作ってほしいよ。


78 :名無しさん :09/06/06 23:51:43 ID:O3SzNZwS
>>72
監禁初期
Cの母(湊ます子)が被害者を帰すが
外で待ち伏せていたB(神作)とCの兄(湊恒治)によって連れ戻される


>>77
そうなのかもな...神作さえいなければ...

『今後再犯しても、実名報道されない神作譲』

2004年の再犯時(神作33歳)マスコミは実名を伏せて報道

これは初犯(コンクリ事件)が未成年だったための保護
もし神作が今後再犯しても、少年法が引きずり永遠に実名報道されないのか?
http://yy27.60.kg/test/read.cgi/cruel/1192761129/


神作譲

「俺は人を殺したことがあるんだぞ」

「人を殺すなんて簡単なんだからなー」

「昔、女がコンクリート詰めされただろ?あれ、おれがやったんだよ」


笑いながら自慢げに言う男 神作譲

「あの女の髪切ったりよー、ペンチで乳首潰したり歯抜いたのも俺。ホントは俺が主犯なんだよ。」

ゾッとする話を、何がおかしいのか下品に笑いながら言う神作譲。


飲み屋のネエちゃんはフリーズし、周りも引いている。


だが、露骨に冷ややかな目で見たら、今度は自分が何かされてしまうと思い

皆少しずつ距離を取ろうとする。


「俺は捕まったって怖くねぇし、同情されるコツ知ってるしよぉ、あんなのチョロイんだよ。」


そして、まだ続く独演会


「俺にはよー、スゲー バックが付いてんだよ。あの車だって、バックが俺のために買ってくれたんだよ。俺は守ってもえらえんだよ。、怖いもんなんてねーんだよ。」
http://ameblo.jp/jibiinkouka/entry-11346165087.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

83. 中川隆[-13718] koaQ7Jey 2018年11月29日 21:56:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21415] 報告

それから、こっちが漢民族:

ウイグルへの弾圧は何度か書いてきましたが、いま中国が行っているのは民族浄化で、ただ浄化するのではなく、ウイグル人を殺して臓器売買のドル箱としているのです。


【閲覧注意】中国政府によるウイグル人虐殺 2016-05-29
https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12165204118.html


皆さんは『東トルキスタン共和国』をご存じですか?


現在は「中国ウイグル自治区」と呼ばれています!!


ウイグル族と、さも少数民族のように言われていますが、元々、れっきとした国家でした。


では、なんでそうなってしまったのか?


詳細を明らかにします。


https://ameblo.jp/2013kanyon17/image-12165204118-13658407155.html


1946年、東トルキスタン共和国は、

政府要人閣僚たちがシナ共産党との会議のために北京に向かう途中、搭乗した飛行機が中共軍に撃墜され、政府がなくなった混乱に乗じで侵略を開始したシナ共産党軍により、

滅ぼされた。


シナ共産党軍は、侵略し併合した東トルキスタン共和国を、 「新疆ウイグル自治区」と、さもシナの一地域のごとくの名前に変えさせた。


侵略当初、シナ共産党軍は、識者や高い教育を受けたもの、そのほか指導的立場にあった人間たちを次々と 「反乱分子もしくはその疑いがある」 として拘束。 100万人以上が、司法手続きを経ずに拷問にかけられ虐殺された。


豊富な石油や天然ガスなどの天然資源が発見された後は、資源の簒奪(さんだつ)をすべく、漢民族支配を実現し、ウイグル人の存在自体を消し去るため、各国のマスコミは一切入れず、学校ではウイグルの言葉を話すことは厳しく禁止され、漢民族を1,500万人も入植させ ( 現在、ウイグル人はおよそ900万人まで激減 ) 同化政策を強化。

ウイグル人は漢民族により暴力 (武装警察や軍事力) を背景に仕事を取り上げられ、成人男性で就職できる割合は、わずか5%。

15歳から22歳までの女性は強制的に中国国内に移住させられ、中国人ですら嫌う低賃金の重労働を課されながら、夜は強姦される若い女性が後を絶たず、「民族浄化」「漢民族化」を推し進める中国共産党政権のもと漢民族の男と強制的に結婚させられ、純粋なウイグル人は絶滅の危機を迎えている。


https://ameblo.jp/2013kanyon17/image-12165204118-13658407195.html


※ 漢民族は、一人っ子政策で男子ばかりが出産され(女児は堕胎)男女比率が大きくゆがみ結婚が出来なくなってしまったため、若いウイグル女性を強制移住させることは、一石二鳥。 (おまけに、大変に美人が多い) 

※日本人とは思考回路が見事に異なる漢民族にとって、ほかの民族の女性を強姦したり虐殺することに罪の意識は無い。

 白人国家が有色人種国家を軍事力を背景に侵略し植民地にした時、当たり前のように強姦し大虐殺を繰り広げていた意識とまったく同じ思考回路である 。

結婚相手と職を失ったウイグル人の男たちは、子孫を残すことができないだけでなく、次々とあらぬ罪で連行され、投獄され、拷問を受け、殺害され、民族根絶やしの犠牲となっている。

ウイグルの女性たちには、ウイグルの男性との間に授かった赤ちゃんの、「 計画生育 」の名目で、少なく見積もって850万件もの強制中絶が行われた。 (ウイグルの人口は、950万人!)

それだけでなく、重武装の軍隊および武装した司法・警察権を持つ漢民族による、一切の武器を持たないウイグル人に対しての徹底した弾圧、放火、リンチ、拷問、強姦、輪姦、そして幼い子供に対してまでの大量虐殺が、今もなお続いているのです。


 この漢民族と結婚させ漢民族化させる手法は、今に始まったことではなく3,000年以上の昔から漢民族が取ってきた漢民族の拡領土大手法で、かつては時間をかけゆっくりと浸透させ漢民族に同化させてきたものが、共産党が国家を支配するようになって以降、急速な領土拡大政策をとるようになり、軍事力 (暴力) を背景とする、他民族を根絶やしにする残虐な同化政策を、性急に推し進めるようになった。


今、狙われているのは、沖縄である。


中國武装警察による「恐怖の人間狩り」

いわれの無い罪でその場で殺されたり、連行されたら二度と生きて帰って来ることはない。


少女でも、その場で処刑する


「10代前半の女の子が、『 私は無実です! 私の言うことを聞いて! 』 と叫んだんです。 それでも構わず、(中国当局は) この子を処刑したんですよ、公衆の面前で! 多くの人々がこの光景を見ていました。 それでも、国際社会は沈黙したままだった…… 」

こう一気に言うと、ほんの少しの間、ラビア総裁の言葉が途切れた。


マスコミが一切報道しない真実 が、ここにある。


ウイグル自治区(旧東トルキスタン共和国)では、幼子までが強姦され無差別に虐殺されている

( ※ この幼子も強姦されてから殺されたのだろう。 ズボンが破かれ、陰部が露出している)

この写真は、60年 ・ 70年安保の度重なる失敗で活動の場を失った ヤマトンチュウ左翼 と シナ の 甘言によって 「親シナ ・ 反米」 に洗脳されつつある 【沖縄県民】 の未来を見ているようである。


沖縄では、シナ共産党により主要な土地が買い進められ、地元のマスコミはシナを礼賛し反日論調を騙(かた)り、学校では子供たちに「反日」教育を行いシナ親派を増やし、漢民族の企業誘致を進めた結果、シナの実効支配が進行しつつある。


原爆実験でまき散らかされた高濃度放射能


シナ武装警察による虐殺だけでなく、かつてシルクロードの交易で栄えた楼蘭では、昭和39年から平成8年まで、近くに人々が生活しているにもかかわらず、地上での核実験を 「事前通告なし」 で46回も繰り返し、広島型原爆の1250発分を爆発させ、最低でも即死20万人以上、被害者130万人以上の被害 (約半数の60万人が死亡したと推計されている) が報告され、今も数百万を超えるウイグルの人々は、まき散らされた放射能汚染に悩まされ、甲状腺異常は当たり前すぎて言うに及ばず奇形の子が次々と生まれ、ガンや白血病が多発し、何の医療手当もされず、放射能汚染の被害に苦しんでいるのです。


この広大な原爆実験エリアから発生した 放射能汚染は 「福島第1原発の数百万倍に達した」 (※ 環境に放出された放射能の総量は実に4,000万エクサベクレル ) にもかかわらず、朝日新聞やNHKはその事実を隠ぺい、日本の原発反対だけを叫び、だんまりを決め込んだ。

日本のすべてのマスコミも 「左へ倣(なら)った」。

日本の弱腰を見て、調子に乗ったシナ政府は、福島原発事故の際、「日本は、放射能汚染を世界にばらまいた」と公言した。


どの口が、そのような発言をしたのか、一度見てみたい。


※ 原爆実験の最中、昭和53年、西遊記のロケでウイグルの砂漠に入った女優の夏目雅子さんは、昭和60年、急性骨髄性白血病で逝去した。 27歳の若さであった。※

夏目雅子さんは、昭和53年・54年と、2年続けてウイグルでロケをした。
その後、病気が続いた、昭和56年には、甲状腺が腫れるバセドー病になり、…
甲状腺を手術した。バセドー病なので、瞼が腫れ目が大きくなってた。
次に掛かった病気は、昭和57年くらいに腎盂炎になり、次が、子宮内膜症。
そして、昭和60年2ったのでしょうか月に白血病で倒れ、同年9月に亡くなりました。


高い放射能がある、ウイグルに、なぜ、ロケに行った?


NHKは、シルクロードに取材に行きながら、核実験をしている事実を隠蔽(いんぺい)し、日本国民に知らしめなかった罪は、誠に大きい。 大罪である!
夏目雅子さんも、NHKが告知しなかった、被害者である。


それだけでなく、

NHKの番組を見た多くの日本人が、核実験真っ最中のシルクロード(ウイグル)へ旅行に出かけ被ばくした。

日本のNHKは楼蘭周辺での 「大規模な核実験」 を知りながら、1980年代に大型企画番組シルクロードの現地取材を行い放送を続け、さらにビデオの販売を続けました。 そのため、番組に誘導された日本人、推定27万人が、まだ核爆発が繰り返されていた期間に、現地を観光しています。

当時、実際に現地で核爆発を目撃した青年もいます。 

中国西域の観光から帰国した後に「白血病」、「肺がん」、「悪性リンパ腫」を発症したという方や、そのご家族から情報が寄せられています。

( 高田 純 札幌医科大学教授のコメントより )


ホルマリンで保存されているウイグル・セミパラチンスク州 ( ※ 核実験場のある州) で発生した奇形児


ウイグル人の悲劇


子供でも平気で虐殺


この後、このウイグル男性は頭部を撃たれて死んだ。


漢民族の男たちは何度も強姦した後に、

時間をたっぷりかけてなぶり殺す。

そして、下半身を露出させたまま放置

※ あまりの惨たらしさに、マスキングが掛けられている。


確認すべき、インターネット情報

Stop Chinese Torture

http://www.youtube.com/watch?v=3fIAzl4-Jq8


ウイグルの男たちは連行され、生き地獄の拷問を受けたのち、虐殺される

残った女たちが、命を懸けた、まさに必死の抗議活動を行っている

彼女たちに、命の保証は無い

「甘い言葉」につられてつい心を許し

軍事力をもって

シナに侵略された民族は、皆こうなるのである。


「僕たちは、平和憲法を持っています!」


「憲法9条って、スゴイんだぞぉ!」


では、何の役にも立たないことに、

そろそろ日本人も気づくべきである


「 日本の 人権活動家 たちは、ウイグル の惨状を知っていても、何も言わない… 」


日本のマスメディアも一切、報道しない


忠告しておこう

「 沖縄に入り込んでいる内地の 『 親シナ 』 左翼 の活動家たち、そして
地元新聞社に踊らされ、迷走を始めた 『琉球民族』 も、他人ごとでは無い 」


世間に知られたくない真実をバラされると共産党による監視と嫌がらせが起きる!!


日本共産党→×

中国共産党日本支部→〇


大丈夫か俺!?


でも、負けない


日本ウイグル協会 に援助の手を!

http://uyghur-j.org/japan/about/%E6%94%AF%E6%8F%B4%E8%80%85%E3%81%AE%E7%9A%86%E6%A7%98%E3%81%B8/


https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12165204118.html


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習独裁下の中国で「臓器狩り」の証拠をウイグル自治区で発見 2018-10-08
https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12410440345.html


習近平独裁下の中国で、ウイグル・チベットなどの少数民族や、キリスト教徒らへの弾圧が苛烈さを増している。そんな中、新疆ウイグル自治区にある空港に、謎の通行標識が出現した。

 昨秋、シルクロードの要衝として知られる中国最西端の都市、ウイグル自治区カシュガルの空港に出現した通行標識がある。

「特殊旅客、人体器官運輸通道」

簡体字とアラビア文字でそう書いてある。
「特殊旅客」が外交官や共産党幹部、国賓待遇の外国要人などを指すのは勿論だが、「人体器官」とは一体何か?


 これは即ち、人間の臓器のことである要は、「ここは大至急運び出さなければならない切りたての移植用臓器が通る通路だから一般人は並ぶな!」と言っているのだ。

引用ここまで…続きは本文をご覧ください↓↓↓
https://www.zakzak.co.jp/soc/amp/181006/soc1810060009-a.html?__twitter_impression=true


国連人権委員そっ閉じ・・・

なんたって国連人権委員会の理事国は中国だもの


臓器移植待ちの患者の待ち時間


↑中国の富裕層は臓器移植が必要と診断されると即日にドナーが現れる不思議
てか、不思議ではない。生体データが合った人が即日処刑されて献体となるのだ!


まさかの人肉を真空パックで売ってる店もあった
流石に画像は貼れんわ(汗)
閲覧注意↓
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/image.php?qid=12157371062

中国こええええええええ!!
なんせ文化大革命で自国民を2千万人は殺した連中だからな
常識で考えては理解できない
日本には無い歴史があるのが、特亜3国


日本にも人体の不思議展が来て多くの日本人が見物した
生きたまま血管に薬品を入れないと作れない毛細血管の標本とかがあった
本物の人体だと言われ気持ち悪がった女性も多かった 又、触ってもいいですよとか
規制が緩かった 随分死者に対する尊敬の念が無いなあと思った
中国の人肉食の歴史を知れば納得


中国共産党による生体臓器狩りビジネスは18年くらい前からやっている
最初のターゲットは、法輪功学習者や政治犯の死刑囚が多かった。ここ最近は中国共産党が気に食わない人物は、すべてが臓器狩りの対象になっている
それでもう一つ大問題なのが、NHKはいまだに報道していないことだ


左翼は日本が中国に占領されれば平和になると思っているが、日本が中国に占領されると日本人が民族浄化の下に殺されて食べられたり、人体標本にされるということだよ


中国「臓器狩り」の証拠を弾圧下のウイグル自治区で発見
https://t.co/PmZmyKymSI

摘出した心臓、肺臓、肝臓、腎臓などの臓器を国内外の富裕層らに移し替える移植手術は年間数万から十数万件にも上り、現在1兆円規模の莫大な収益を産み出す一大産業。臓器収奪は「処刑」すなわち国家権力による「殺人」

中国「臓器狩り」の証拠を弾圧下のウイグル自治区で発見
https://t.co/gFbhHYMWb1
「特殊旅客、人体器官運輸通道」
中国当局により開始された12歳から65歳までの全住民を対象に血液を採集し、血液型やDNAデータを調べる他、指紋、眼の虹彩などの生体データを収集
臓器収奪は、ほぼイコールで「処刑」


中共人権弾圧・臓器移植に関心を持ってる人権活動者のレポート「中国では器官移植が10万件、臓器は殆ど法輪功の良心犯とウイグル人!1980年代警察が平気でウイグル人を銃殺、臓器を取る。現在は、外科医者が直接に臓器摘出、被害者は救急車で搬送される時まだ痛くて叫んでる」
酷すぎ、正に悪魔だ。 https://t.co/0Yr6xX5TUr


2016年、中国では2000件の死刑!公開死刑判決の見学にSNSで招待状を拡散(スプートニク) 中国における死刑制度は「真っ黒」であり、政治犯を臓器狩り目的で死刑にしている事実もあります。共産党国家では公開&大量処刑が普通。中国や北朝鮮は「悪質な見せしめ国家」と言えるでしょう。 https://t.co/9wUkSUvGGe


中国共産党は当初、民族浄化の下で殺戮を繰り返していたが、近年は家畜同様に扱い始めた。家畜と違うのは食用ではないこと…臓器売買の為である。
臓器を取られた肉体は人体標本に加工されるのである。


中国で人間として扱われるのは共産党員と富裕層だけかも知れない…漢民族であっても下級人民は詐取の対象でしかないのだ

トランプ大統領は経済戦争から本当の戦争をとるやも知れない…非人道的な行為を今まで国連も見て見ぬ振りをしていたがトランプ大統領は真正面から非難し制裁を加える構えだ
https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12410440345.html


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「麻酔掛けずに直接摘出」 中国の臓器奪取、凄惨な実態が明らかに  


李荘弁護士の書き込み。中国の臓器奪取の実態をさらした(スクリーンショット)

【大紀元日本10月24日】重慶市元トップの薄煕来氏の暴力団一掃運動に立ち向かったことで1年半の懲役刑に服した北京の弁護士・李荘氏がこのほど、ミニブログ(微博)で、中国の臓器奪取の実態をさらした。

「ある著名な病院の著名な心臓外科の著名な医師らが僕ににこやかに教えたんだ。『重要患者に臓器移植を行う場合、臓器の鮮度を保つために、われわれは麻酔を掛けずに直接摘出するのだ』。僕は、死刑囚に対しても人道的でなければと忠告した」

この書き込みに多くの注目が集まった。ユーザー「虎甲胡威」は、「死刑執行の前に、死刑囚から臓器を摘出し死亡させることは、もはや人道のうんぬんではなく、計画殺人だ」と指摘。また、「中国で臓器売買のピークが法輪功を弾圧した時期だ。アメリカが証拠を持っているようだ」「李弁護士はもっと情報を提供すべきだ」などとさらなる真相の解明を望む声が飛び交った。

中国の臓器移植問題について、米国務省は5月24日に発表した2011年度人権状況報告書の中国関連部分で、メディアや人権団体から法輪功学習者の臓器が奪取され売買された報告が絶えないことに初めて言及した。また、9月12日に米議会で中国の臓器狩りについて公聴会が行われ、中国の囚人から生体臓器奪取の状況が証言された。

さらに、中国国内では9月、これまで最大規模の不法臓器売買事件の訴訟が始まっている。解放軍病院が仲介者を通じて闇の臓器売買を行ったことが明らかになり、死刑囚の臓器提供意思書、親族臓器提供意思書など、すべて偽造されていたことも浮き彫りになった。

闇から少しずつ、その凄惨な実態が浮かび上がっている中国の臓器狩り問題。2006年にすでにこの問題に注目し、調査報告書『戦慄の臓器狩り』を発表した著者の一人、カナダ元外務省アジア太平洋外務担当大臣のデービッド・キルガー氏は10月25日から27日の日程で来日し、会見やシンポジウムを開く予定だ。(翻訳編集・余靜、張凛音)
http://www.epochtimes.jp/jp/2012/10/html/d68771.html


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生きた法輪功学習者の臓器狩り、中国の警察から新たな証言 2009年12月15日
https://www.epochtimes.jp/jp/2009/12/html/d72072.html

中国の監禁施設で生きた法輪功学習者を対象に臓器摘出・売買をしているという2006年に告発された事件に関して、最近、目撃者の新たな証言が、国際的な人権擁護組織である「法輪功迫害追跡調査国際組織」(WOIPFG、米国本部)から発表された。

 証言は、同組織の調査員が中国遼寧省の元警察(匿名)を取材して得たもの。遼寧省公安庁に勤めていた2002年に、瀋陽市軍部病院で一人の女性法輪功学習者から生きたままで臓器を摘出したのを目撃したという内容である。証人の同意に基づき、同組織は最近、30分ほどの取材録音の一部を公開した。

証言によると、2002年、証人は遼寧省警察に務めており、法輪功学習者を捕まえ、拷問するなどの特別行為に関わっていた。ある30代の女性法輪功学習者は、一週間ほど凄まじい拷問を受け、そして無理やり食べ物を注ぎ入まれたりして、体が傷だらけになっていたという。

 同年4月9日、遼寧省警察庁のある部門から2人の軍医が派遣された。1人は中国解放軍瀋陽軍区総医院の軍医で、もう1人は解放軍第二軍医大学を卒業した軍医だった。警察庁はこの法輪功学習者をある場所(※1)に移し、二人は、この学習者が意識を完全に保っている状態で、麻酔を一切かけずに、彼女の心臓、腎臓などの臓器を摘出した。

 証人は当時、銃を手にして警備に当たっていたため、臓器狩りの全過程を目撃したという。

 証人の証言によると、彼が遼寧省錦州市警察局に勤めていた際、錦州市警察局長の王立軍は法輪功学習者を「殺し尽くさなければならない」と命令したという。証人はかつて何度も、法輪功学習者の拉致、凄まじい拷問に関わっていたと認めた。

 遼寧省は、法輪功学習者に対する迫害が最も深刻な地区の一つであり、法輪功情報サイト・明慧ネットが明らかにした情報だけでも、迫害を受けて死亡した法輪功学習者は406名に上っている。王立軍は現在、重慶市警察局長を務めており、当時遼寧省省長で、現在重慶市党書記の薄煕来の下で、マフィア組織取り締まりという名目で、法輪功学習者への迫害を強めている。(※2) 

 カナダの国際人権派弁護士デビッド・マタス氏とカナダ外務省前アジア大平洋州局長デビッド・キルガー氏は、法輪功学習者が「臓器狩り」の対象になっているとの告発を受け、2006年から独立調査を行い、調査報告書を発表している。同報告書によると、中国国内における2001年から2005年までの臓器移植件数のうち、4万1千5百件の臓器の出所が不明としている。2000年以降、中国では臓器移植件数が急激に伸びているが、これは法輪功学習者への弾圧が始まった時期とほぼ一致しているという。同報告書は、監禁された法輪功学習者たちの証言から、彼らが臓器売買の犠牲になっていることを主張している。

 法輪功とは、佛家と道家の思想を根底に併せ持つ先史文化に根ざした気功で、「真・善・忍」という宇宙の特性に基づいて心性を修め、人間の身体を健康にするとともに根本から改善、向上させる修煉を行う功法であるといわれている。1992年より中国で公開され、その教えによる内面の向上や病気治療に顕著な効果があり、口伝えに急速に広まったことで、中国をはじめ全世界で1億人以上に学習者が増え、現在も増え続けている。日本では2004年、日本法輪大法学会が東京都においてNPO法人格を取得している。

 法輪功の人気と、その修煉者の数が激増していることに中国共産党が恐れ、1999年7月22日に中国共産党が法輪功およびその学習者に対して弾圧を始めた。2009年12月現在で中国共産党の迫害により死亡した人数が、正式的に確認され、裏付けが取れたものだけでも3336人いるという。

(※1) 臓器摘出を行った場所について、最初の証言では、証人は自分の身元が明らかになることを避けるために、言及しなかった。2回目の証言で、瀋陽軍区医院15階にある手術室内であったと明言した。実地調査の結果、瀋陽軍区総医院ビルの15階から17階が外科であることが判明した。

(※2)北京大学法学院刑法研究所の研究員、国際法医顔面鑑定協会の副主席を兼任しており、発表した論文も法医顔面鑑定分野のものである。しかし、該当する学歴がなかった。中国側が公開している王立軍の履歴には法医の経歴は全くなく、中国初の『麻酔後の臓器移植についての試験研究』など、臓器移植と関係を持った記述がある。

以下は今回発表された証言の取材録音の一部分

証人:手術ナイフで、彼女の胸のところを切り開いたらすぐ、血が噴き出してしまい、血が噴き出したのであって…

調査員:男性でしたか、それとも女性でしたか。

証人:女性、女性でした。

調査員:若い女性ですか。

証人:30代だったでしょう。


調査員:胸が切り開かれた時にも、彼女はなお「法輪大法は素晴らしい」と叫んでいたのですか。

証人:叫んでいました。

調査員:彼女は当時どのように叫んでいたのですか。

証人:当時、彼女は、1週間ほど尋問と凄まじい拷問を受けていたので、体には数え切れないほどの傷がありました。しかも電気ショックを受けていて、意識朦朧となっていました。物を食べるのを断ったため、私たちは強引に牛乳を彼女の胃に注ぎ入れました。非常につらい体験でした。彼女の鼻を摘まんで注入しました。こうして生命を維持させていました。1週間経って、彼女の体重は約7キロ減りました。当時、あのようなことが発生するなど、予想もしませんでした。

 それで、遼寧省警察庁のどの部署からかは分かりませんが、いずれにしても特殊な極秘部門から2人の軍医が派遣されてきました。1人は、解放軍瀋陽陸軍総医院の軍医で、もう1人は解放軍第二軍医大学を卒業した軍医でした。具体的には、1人がやや年配で、もう1人は若者でした。彼女をある場所、すなわち精神病院の手術室に入れ、それからあることを一通りやりました。麻酔など一切使わずに、手術ナイフで胸のところを切り開いていく。彼らの手はまったく震えることはありませんでした。わたしなら、きっと震えてたまらなかったでしょうが。わたしは武装警察を務め、銃を持って実弾で演習したこともあるし、多くの死体を見たこともありましたが、私なら震えるはずです。しかし、軍医の彼らを見て、私は本当に驚きました。彼らの手はちっとも震えず、マスクをしたままで胸のところを切り開いて行きました。当時、私たちはみな銃を手にして、傍で警備を担っていました。切り開かれた瞬間、彼女は突如凄まじい声で叫びました。「法輪大法は素晴らしい!!!」と。

調査員:胸が切り開かれた時に、彼女が「法輪大法は素晴らしい」と叫んだのですか。

証人:突然凄まじい声で、「法輪大法は素晴らしい」と叫びました。彼女は大体、次のようなことを言いました。あなた達はわたし1人を殺すことができても、信仰のためにあなた達の迫害を受けている何億の人々をみな殺すことができますか?、と。この言葉を聞いて、その軍医は一瞬、躊躇し、目を私と私の上司の方にちらりと向けました。私の上司が頷いたので、彼は続けて血管を…まずは心臓、それから腎臓を摘出し出しました。心臓の血管を切断した際に、彼女は痙攣しはじめました。非常に恐かったです。うまくいかないと思いますが、彼女の声をちょっと真似てみます。それは引き裂かれたようもので、アー、アーと口をずっと大きく開いて、目も大きく見開いていました。まあ、私はこのような光景を語りたくありませんが…

 …

証人:当時、彼女は教員でした。先生、中学校の先生でした。彼女の息子は約12歳でした。彼女の旦那さんは、権力のない人で一般の労働者のようです。それまで、彼女が受けてきた侮辱のほうが、より酷かったと思います。

 われわれ警察の中に変態者は少なくありません。彼女を、カンシや内視鏡などの器具でやっていました。彼らは一体どこからこのような器具を持ってきたのかは分かりませんが、いずれにして、やったことは全部目撃しました。悔しいことに、彼女に対する猥褻な行為を写真に撮ることができませんでした。彼女は美人の方なので、乱暴されることなどが、実に多かったのです…

調査員:この事は、あなたが勤務していた警察局で目撃したのですか。

証人:いや、当時は警察局内ではなく、私たちはある教育センターでやりました。それはあるホテルの裏にあり、10数の部屋を賃貸して使っていました。つまり、一軒の別荘の上の方でやったのです。

調査員:そこは、闇の監獄というようなところでしたね。

証人:まあ、そんなものでした。

調査員:そこに監禁されたのは、法輪功学習者だけでしたか。

証人:そうです。

調査員:つまり、判決を言い渡されない前からそこに入れられたというわけですね。

証人:いずれにしても、われわれは随時に場所を移動することができました。

 …

調査員:事件発生の具体的な時間を教えていただけますか。

証人:2002年4月9日でした。

調査員:4月9日でしたね。

証人:そうです。4月9日午後5時から摘出しはじめ、3時間かかりました。

 その後、1ヶ月ほど続きました。

調査員:「1ヶ月ほど続いた」というのは?

証人:続けて(他の学習者に対して)1ヶ月ほど拷問などを行っていました。

 …

調査員:法輪功学習者たちへの拷問は、一度だけやったのですか、それとも数回やったのですか。

証人:多くやりました。当時、王立軍、現在重慶市公安庁長は、「殺し尽くさなければならない」と厳令を下しましたから。


(翻訳編集・小林)
https://www.epochtimes.jp/jp/2009/12/html/d72072.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

84. 中川隆[-13720] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:04:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21418] 報告

そして、これが昭和天皇がやらせた事:


拷問の光景を見てみよう。

  土地の者ではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った綱にかかった」のである。名前を張文達といった。三十三歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄から見て班長級だな」ど、士屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それて先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。・・・
 
 まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは、「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀ででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ。士屋ど同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。

 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に、両手足を麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも一時間、二時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき。脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は十キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。・・・

 二日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しにした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と士屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューッという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。

 「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す。話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテを使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。・・・

 拷問は、さらに続いた。逮捕して二日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが三日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水を入れた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため、息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。この繰り返しだった。何回やっても同じだ。相手は気絶している。自白を得るという効果はなかった。・・・

 三日目は水責めで終わり、四日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を三本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。三本並ペ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚二人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。・・・

 足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を四、五本求めてきた。この針を男の手の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっていると、ほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとすると、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。

 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達三十三歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ以外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。

 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から二日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵十五師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋も見た。(p.81-86)
http://www.ne.jp/asahi/kuma/radical/dokusyo/special/kenpei_kiroku.htm


広東州の中央憲兵隊へ補助憲兵として私は派遣された。野戦補助憲兵といって、憲兵と同伴の時だけにかぎって憲兵の資格を有していた。主な任務は、保全地区(駐留日本軍の勢力圏内)での治安維持であった。特に、思想犯に目を光らせた。思想犯を捕え、拘留し、洗脳するのであったが、そのやり方は目を覆うものであった。

 コンクリートの上に、真っ赤に焼けた木炭を敷きつめ、その上に裸にした“囚人”を転がした。喚き、のた打つ“囚人”は隅へ隅へと転がってくるが、周囲には日本兵がいて、それを蹴飛ばして再び中央へ戻した。“囚人”の反応の仕方は、もはや人間のものとは思えなかった。多くの“囚人”は三日目を境に死んでいった。

 女に対してもその残虐度は同様であった。やはり全裸にして、獣のように四つん這いにさせ、丸太で打ちのめした。

私は、そればかりはどうしてもできなかった。すると、

「これしきのこと、できんのかッ」

 一人の憲兵が私を蹴飛ばしてから、丸太で渾身の力を込めて女を打ちすえた。

中国人は人間に非ず、否、生き物にさえ非ずとでも思っているような拷問であった。彼らの抵抗は死以外の何ものでもなかった。
http://page.freett.com/sokagakkai_komei/www.sokagakkai.or.jp/sokanet/HBK/Heiwa/hansen-7.html


日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口

 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。

1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、

鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、

あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。
http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html


860 :名無しさん :02/07/04 01:33 ID:03UDq1eg

死んだ人の事を悪く言いたくなかったけど言わせてもらう。
漏れの近所の銭湯で番台やってた爺さん(もう亡くなった)。

漏れが小さい頃よく戦争当時の話を銭湯の番台で自慢げに語ってたバカ。

『チャンコロ(中国人)の妊婦を木に縄で縛って銃剣で刺したら「ボムッ」って鈍い音出して破裂してよー。

ホント面白かったぞー。だから毎日チャンコロの妊婦探して見つけては、それやって遊んでたんだ。あの頃がなつかしいなあ(ニヤニヤ』


上の話が嘘だと思うなら,まずこれを否定してね:


小平義雄連続殺人事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/kodaira.htm

小平義雄は戦地より帰って以来、性的に突如放縦になった。

放縦なだけでは留まらず海軍被服廠の軍属であった戦争最後の年に、同じ職場の女子工員を強姦した上殺害している。以後、終戦直後の混乱の中で女性を食料をエサに誘いだし、次々と6人も、犯しては殺していった。

小平が女性を犯して殺す、その味を覚えたのは、中国の前線だった。

予審調書の中で小平は言っている。

「大怙では強姦のちょつとすごいのをやりました。…父親を縛り上げて戸棚の中入れ…
クーニャン(娘)を出せと言って出させました。

…強盗強姦は日本軍隊には付き物ですよ。
銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で突き刺して子供を出したりしました。 私も5,6人はやっています」


取り調べと裁判の段階で明らかになったことがあるんですね。それは、彼の戦争体験のことだったんです。

「済南事件」:南京大虐殺の先駆けですね。住民の殺戮です。その時にもの凄く多くの中国人の女性が日本兵によって強姦されて殺された。この小平という人物は、その時の兵隊だったんです。

「連続強姦殺人魔」と言われた人の犯罪を重ねる下地が「戦時強姦」で培われていた、っていうことです。そのことが日本が戦争で負けた後に一気に吹き出してきた事件なんですね。
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南京で暴虐の限りを尽くした田所耕造。
http://anarchist.seesaa.net/article/78079481.html


陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。

『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。
彼が語った残虐の限り。しかもこれが「命令」なんだから驚くしかない。

女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。
下関から木炭トラックを部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊に分ける。

女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、
日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。
赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしを
はずして順番を待つんだ。

いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん
逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ。
支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから、必死なんだろうけど、
なかなかいい。なにしろ上陸以来女の身体にさわったこともないんだから
、いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よくなめ殺すといったもんです。


その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。

そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。


南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、
股裂きをやったのは。ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、
両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると
股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。それを部隊
みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官
だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう

田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を
無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺は
セットで日本軍は容認していたということだ。


川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、
陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々と
そういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられて
いて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコが
丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ3万本』と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな。遠くからロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。

読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、
飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。
しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な
写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。そういう残虐な写真を
撮るのも喜ぶものもいたし、やめとけというのもいた。参謀本部では証拠に
ちゃんと写真を撮っていたな。

以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。

当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の
徐州・漢口作戦でも繰り返されることとなる。

徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって
死んでるのが3キロも4キロもつづく。殺し方もいろんな方法をとった。
3人ぐらいいっしょに木にぶら下げられていたり、首をはねたり。子どもの
首をはねるのだけど、うまいもんだね、皮一枚ちゃんと残るように斬るんだよ。
その瞬間の写真を撮ったけど……

自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている


股裂きなんぞ、東映のモンド映画『徳川いれずみ師 責め地獄』にて鬼才石井監督が撮っていたけど、その遥か以前に日本軍では娯楽の殿堂として「日常風景」だったとは驚きだ。
日本軍って、頭の中が「石井輝男」と同じだったんだな。

「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。
これも酷すぎて卒倒するぜ。


蘇州(スーチョウ)の略奪もすさまじかった。中国人の金持ちは日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。(中略)東京の部隊では赤羽工兵隊というのが一番悪かった。
蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな。


以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。


以上の証言は河出文庫『証言・南京事件と三光作戦』より引用した。

この本のAmazonでのレビューにこんなのがあったが……

洗脳、と言う言葉がある。
この言葉は元々は中国語だ。日本語ではない。
朝鮮戦争時の捕虜米兵に対して共産主義を信じることをせまった行為を
中国共産党が洗脳と呼んでいたのが語源だ。
この捕虜米兵と同じように洗脳された人たちがいる。
日中戦争時に捕虜となった日本兵捕虜である。
生きて日本に帰ることのできたこの日本兵捕虜は「中帰連」(中国帰還者連絡会)と呼ばれ、帰国してから「証言」したものが、南京虐殺やら三光事件やらの
「旧日本軍が大陸でいかに悪いことをやったか」を描いた数多くのプロパガンダ本の基となった。本多勝一の『天皇の軍隊』も彼らの「証言」を基にした著作だという。


さて本書であるが、タイトルの、証言とはいっても上記の中帰連(笑)の生き残りの人たちがメインである。この時点でこの本の客観性や実証性はゼロといっていいプロパガンダ本といっていい。「南京大虐殺」「三光作戦」がウソ、でっちあげの産物であると言うことはネットや書籍を通じてようやく近年常識として広まりつつある。
これも一つの戦後レジームからの脱却と言っていいだろう。


『週刊アサヒ芸能』のインタビューに答えた人間が中共の捕虜だと決め付け、事実を歪曲しているところなんぞ、まさに中共と同じやり口だな。藁


自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている。インタビューを受けた当時でも、自分が行ったことは間違っていないと自慢していた神社の神主であった。三島が自決した日に息子に「お父ちゃんもあんなふうに死ぬのか」と聞かれた彼は、「お父ちゃんが死ぬときは共産党と社会党のやつらを皆殺しにしてからだ」と答えている。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html


中国山西省に出征した旧軍人のKさんは3年兵の時、トーチカ(砲台)の
一室で、4〜5人の4年兵が現地女性を連れ込み輪姦している場面に
出会った。4年兵の兵隊が終ると、「今度は3年兵の番だ」と言われ、
Kさんは、強姦は犯罪だという認識がなく、単に古兵の命令に従わなければ
ならないと思いそれに加わった。Kさんはこういう“戦争犯罪に対する無感覚”は戦時中だけではなくて、戦後も変わらなかったと指摘する。戦友会の席上では、このような犯罪が懐かしい話、面白い話として語られるという。

その中には「股裂き事件」という話もあった。ある旧軍人が1944年の
河南戦争前後で見たことだ。中国人女性の片足を木に縛りつけ、もう片足を
馬の鞍に括りつける。そして突然馬のお尻を叩き、驚いた馬が走り出すと、
女性の体が二つに裂けてしまうというものだ。Kさんが駐在していた山西省
旧遼県でも、1941年4月に日本軍隊長が中国語で「勒馬分身」(股裂き)
という方法で殺人を行ったという。そのことは中国側の資料にも記述されている。
http://www.magazine9.jp/kaigai/dai027/index.html


南京大虐殺については

南京大虐殺関連資料集
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm

南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京事件の真実
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ 
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm


仏典の地獄を偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションにすぎないと考えるのなら、これはどう思われるか。…

「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。

泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、

妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。

死体の山に石油をかけて焼き尽くす。

木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。

背中に石を結わえて水中に投げ込む。

輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。

赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。

鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。

婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。

生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」

 これはフィクションではない。「正義」を掲げた日本軍が中国でやったことである。といっても、ここでは戦争の是非を論じようというわけではない。地獄は決してフィクションなどではなく、スーパーリアリズムの世界だと言いたかったのである。我々の心の内側にある畑が荒れ果てたとき、地獄はどこにでも出現する。地獄の発生は倫理や道徳では抑えられない。かつて倫理や道徳が声高に叫ばれていた時期に、戦争が絶えたことはなかった。いや、むしろ、戦争は倫理や道徳の意図的操作によって遂行されたと言ってもよい。これは歴史の教えるところである。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html


南京にいた日本兵たちの人間墜落と性的異常行為は限界がありませんでした。ちょうど退屈凌ぎに殺人コンテストが考案された様に、兵士たちはセックスの十分な供給に飽きると様々な気晴らしの強姦ゲームを創造しました。

おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。

南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。

また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。

そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。

さらに最も卑劣な性的拷問手段の中には家族に対する退廃があります。

日本兵は中国人男性に対して、父親は娘を、兄弟は姉妹を、息子は母親を強姦させる近親相姦を強制して、加虐的な喜びを味わいました。

中国軍大隊の司令官だったGuo Qiは、街が陥落して息詰まっていた3カ月の間に、少なくとも4、5回は日本兵が母親を犯すように息子へ強制して、拒んだ者はその場で殺されているのを見たり、聞いたりしました。

この報告書は、ある中国人男性が母親を強姦することを拒んでサーベルで突き殺され、直後にその母親も自殺したことについて報告したドイツ人外交官の証言で実証されています。

家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。


日本兵に捕らえられた女性たちは強姦された直後に殺され、生きる望みはほとんどありませんでした。

女性たちは様々な方法を用いて強姦から逃れようとしました。中には、すすを顔に擦り付けて老いて見せたり、病気にかかっているように見せたり、頭髪を剃って男性を偽ったりして変装する女性たちもいました。(ある利口な若い女性は金陵大学の安全地帯までの道のりを老婆に変装し、杖を持って足をひきずりながら、背中に借りた6才の子供を負ぶって歩いてきました。)また4日前に死んだ子供を生んだと日本兵に告げて病気を装ったり、中国人捕虜の助言を受けて指を喉に突っ込んで何回か嘔吐して見せた女性もいました。(彼女を捕らえた日本兵は慌てて建物から追い出しました。)中には人混みの中を屈んで進み、壁を敏捷によじ登って日本兵からの追撃を逃れた女性や、三階の日本兵を妨害して、庭の中国人男性が支える竹棒を滑り落ちて、辛うじて暴行から逃れた少女もいました。

しかし、あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。


金子安次
「昼間のうちにいい女に目をつけておいて、夜襲いに行く兵士もいた。頑強に拒んだ女性には膣に棒を押し込み、子宮を切り裂き、油をつけた綿を押し込み燃やしたこともしばしばあった。」

 金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。

子供は、慣例のごとく両親の目の前で殺された。


子供の前で母親を犯す。赤ん坊を火にくべる。または子供の前で親を焼き殺す。

生きたまま生体実験を行う。 慰安と称して女性の膣にガソリンを含んだ布を押し込み、火をつける。


日本兵が南京の居住民に与えた数々の拷問は人間の理解できる範囲を越えています。下記の例はそのほんの一部分です。

(生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。

(切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。

街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。

(火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。


また犠牲者たちを燃料でずぶぬれにして射撃し、炎上するのを観望するという娯楽も実施されました。ひどい事件の中には日本兵が何百人に上る男性や女性や子供たちをガソリンでびしょ塗れな広場の中に入れ、マシンガンで火を点火することもありました。

(氷による殺害)南京大虐殺中、 何千人に上る人々が故意に凍死させられました。何百人に上る中国人捕虜たちが凍結している池の辺まで行かされ、裸になって氷を壊し、水の中へ魚を捕まえに飛び込む様に命令され、水の中に入ると彼らの肉体は日本兵の銃弾に穴を空けられる浮いた的と化しました。また避難民集団を縛って浅瀬の池へ投げ入れ、そして手榴弾で爆破して「血と肉体の爆発雨」を引き起こすこともありました。

(狂犬による殺害)残虐非道な拷問方法の中には、犠牲者たちの腰部分まで土の中に埋めてジャーマンシェパード犬にかみ殺されるところを観望するというものもあります。日本兵が犠牲者を裸にして、肉体の敏感な部分をジャーマンシェパード犬に噛みつかせる指図をしているところを見物人が見ていました。犬たちは腹を噛み開き、腸を離れた場所へ引きずり出していたそうです。

これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。

日本軍はまったく人間性を喪失してしまい、少しもはぱかることなく女性を強姦・輪姦した。幼女からろうぱまで、はなはだしきにいたっては妊婦さえも免れることはできなかった。

数多くの女性は暴行されたのちまたむざんにも殺害された。日本軍が南京を占領して1か月の間に、2万回以上もの強姦事件が発生した。その時、南京にいた外国の人たちが日本軍のことを「きん獣の群れ」といったのである。

”輪姦の後、殺害された女性”とキャプションのあるこの写真では腹を割かれ、内臓がとび出している。少し開き加減の足。左足の先のほうにはズボンと覚しきものがからまりついている。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/magaz306.html


人前で中国人の首を斬殺さしたり、妊婦を銃剣でお腹を裂き見世物にしたとか、娘らを強姦したら殺す!(死人にくちなし、と言う事だそうです)

乳飲み子を母親から取り上げ谷へ投げ捨てた。

子供に”みの”をかぶせ火の中に投げ入れ、熱い熱いとみのがゆれるさまを喜んで”みの踊り”と言ったそうです

日本兵は「幼い娘は熟していない」といって、下腹部を切り開き輪姦を始めるのであった。妊婦でさえも容赦はなかった。

妊娠9ヶ月の17歳の少女を2人の日本兵が強姦する。この結果流産してしまい、彼女は発狂してしまった。HongWu門外では日本兵が農家の妊婦を強姦し、女性の腹部を切り開き、胎児を取り出した。また別のところでは、日本兵が妊婦を強姦しようとしたがお母さんが立ちふさがる。

そこで日本兵の超残虐な行為が始まる。日本兵は老婦を蹴飛ばし、妊婦の腹部をナイフで切った。数ヶ月たったばかりの胎児が中から飛び出した。

このようにして2人の尊い命が一瞬のうちに消えてしまった。多くの女性が強姦の後殺害されている。ある日本の上官は部下にこう言った。「後で厄介になるから、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」多くの女性はこの時の経験を話せない。

しかしそのような地獄から生還した女性もいる。彼女はJianYin通り6丁目に住んでいた。彼女は他の女性といっしょに日本軍に連れ去られた。日中は洗濯をさせられ、夜になると輪姦の道具となる。年増の女は一晩で10回から20回。若くてかわいい女はもっと多かった、と証言する。

正月元旦の日、二人の日本兵が彼女を連れ誰もいない学校にやってきた。そして彼女を10回銃剣で突き刺した。首の後ろに4回。腕に1回。顔に1回。背中に4回刺された。日本兵は彼女が死んだと思い、去っていった。あとで通行人に助けられ病院に担ぎ込まれ命を取り留めた。強姦の後幸運にも殺されなかったが性病に罹り、一生苦しんだ人たちもいることを忘れてはならない。


" 外国人の見た日本兵の蛮行 # という本の中に著者の TianBoLie 氏は南京の虐殺の事実を記録に残している。そのほとんどが強姦であった。それから少し例を拾ってみるだけでも日本軍の罪の重さがわかる。12月14日正午、日本兵は JianYing 通りの民家を襲った。4人の少女を誘拐し2時間かけて強姦した。12月14日夜、日本兵が民家を襲って女性を強姦し、連れ去った。12月15日夜、大勢の日本兵が Jinling 大学の講堂に押し入った。そこで30人の女性を強姦した。ある者は6人の日本兵から次々と輪姦された。 12月15日夜、大勢の日本兵が ShanTiao通りの民家に押し入り、多くの女性を強姦した。12月16日、日本兵は保育大学から7名の少女を誘拐した。年齢は16歳から21歳までの娘であった。そのうち5名が後に釈放された。18日におこなわれた事情聴取によると彼女らは一日に6回強姦されたといっている。

12月18日の夕暮れ時、4,5百人の女性がわれわれの事務所に保護を求めてやってきた。 この多くは日本兵に強姦されていた。 ここに記載した事件は南京陥落後のほんの数日間に起こった氷山の一角に過ぎない。 実際、 " 強姦は南京陥落後6週間に渡って大規模に行われた」のである。これらの犯罪は下級兵士の行動にとどまらず、指導者層にまで及んでいる。

南京虐殺の主犯格である日本軍第六師団長谷寿夫の証言によると、彼は ZhongHua 橋の近くで Din Lan という女性と他に二人を強姦している。また、SaiHongQiaoで Liu YuQingさんと他三名を強姦した。他のところで10名以上の強姦も認めている。日本軍の侵略者たちは強姦で動物本能を満たすだけでは終わらなかった。

彼らは集団で輪姦し、その後、殺して死体を切断するのであった。多くの女性は10人くらいの日本兵に輪姦された。そして女性は死んでいく。この種の経験をした女性の死体は数限りなくあった。虐殺の期間中、強姦の犠牲者には教授婦人、尼僧、労働者、教師、学生などがいた。


2月の終わりごろ、14人の難民の家族が日本軍により惨殺された。一番下の娘はほんの14歳。彼女は二つの正方形のテーブルの上に乗せられて死んでいた。上半身は服を着たままであるが、下半身はすべて剥ぎ取られテーブルは血の海であった。そして彼女の下腹部には銃剣で刺した後が二つあった。

お姉さんは妹と同様の格好でベッドの上に倒れていた。母親はテーブルのところで1歳の赤ん坊を抱きかかえ倒れていた。赤ん坊は腹部をナイフで切られ、内臓が飛び出していた。正視できない地獄絵巻である。国際委員会の委員は調査に乗り出した。
写真を撮り、それをアメリカの市民のもとに送った。日本大使館にも送った。


日本軍の地獄の苦しみを味わったのは主に女性であった。彼女らは強姦されてそれで終わりではなかった。日本軍から胸を切り落とされ骨が見えている女性。
下腹部を銃剣で刺され苦痛で泣き叫ぶ女性。また、下腹部に木材、竹、人参などを差し込まれ、かき回されて死んでいく女性。

これを端で見ている日本兵は拍手を送り高らかに笑っていた。日本軍に囚われコックとして働かされた中国人が脱走後次の話をしてくれた。12月16日、通りに出てみるとまだ火も残って煙が立ち込めていた。我が同胞の死体の山、山、山。特に女性の死体が目立つ。それらの中で10体のうち8体は腹部を切断され中から内臓が出ている。

血まみれの胎児を手にした母親の死体もある。女性の乳房は切り取られるか銃剣で刺され、血と肉の固まりと化している。南京市内外の虐殺の期間中、多くの女性の死体はこのような様子であった。XinZhong門の城壁近くの家で60歳代のおばあさんの死体が見つかった。おばあさんの下腹部は大きく膨らんでいた。

YangPi通りの北に少女の死体が見つかった。おなかは切り開かれ内臓は引き出され、2つの目は大きく見開き、口からは血が流れていた。 GuYiDian通りでは12歳の少女が死んでいる。下着は破られ、目は閉じたまま口は開いていた。この死体を見てわかることは、これらの女性が単に日本兵の刃に倒れただけでなく、辱めを受けているということだ。

日本兵の犯した強姦の罪は重い。その残虐さは彼らの殺戮に劣らなかった。日本軍の上官はこれらの残虐行為の手をゆるめることはなかった。むしろ兵士の動物本能を満足させるためにこれを奨励した。その結果、日本兵はどこに行っても強姦をやった。上海、SuZhu,WuXi, HangZhou でも日本兵は同じことをやった。

南京の女性の運命は特に悲惨なものであった。南京陥落後、日本兵は女性を求めて南京のいたるところを探し回った。そして見つけると集団暴行を行う。
http://www.geocities.com/Pipeline/Halfpipe/3791/katari2-2.html

日本兵の婦女暴行・強姦の実態

1.妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。興味本位で、得意気に。(元軍曹T)

2.死体処理の少年の証言、女性の死体は特にひどい。ある女性は両手両足をひろげてベッドに縛られ、局部にサイダーの壜を深く刺されて被殺。

3.多くの少女はベッドに縛りつけられ誰でもがすぐに犯せるようにしている。少女があまり泣きじゃくったり、性病に罹ったりしたら、すぐに殺されてしまう。路地や公園には女性の死体でいっぱいだ。 彼女らは死んだ後でも切断されたり、局部に物を差し込まれたりして辱めを受けている。

4.一月一日、呉昌生が光華門外の自宅に帰った時、七人の日本兵がひとりの中国人のおばあさんを連れてやってきた。彼らにおばあさんを犯せと命じた。日本兵はこの光景を見て笑っていた。

5.二月五日、三牌楼に住む六十歳を超える陳さんのところに三人の日本兵がやってきた。 一人が見張りで、他の二人は交代で強姦した。日本兵の一人はおばあさんにペニスをなめてきれいにしろと言った。

6.1944年の春頃、鈴木氏が分隊長として、討伐作戦に参加した際のある村の話であった。 彼の分隊が休憩していたある農家に、一人の憲兵が現れ、惨劇が始まった。村の女性に食事を作ることを強い、お湯を沸かせていた時のことだった。

突然、その憲兵は梅毒にまみれた自らの陰茎をとりだし、食事の準備中の、一人の女性に、これを舐めろと要求した。ところが毅然と拒絶したその女性に、憲兵は激怒し、服をちぎって沸騰したお湯を浴びせ、遂に殺害した。


7. 12月15日、またもや押し入ってきた日本軍の兵士が、数え年8歳の蔡さんを強姦した。蔡さんはその様子を次のように語る。「日本兵は、私の陰部に手をねじ込み、その時まだ幼かったので、非常に硬かったのを無理やり押し込んでこじ開けた。


8.「冬には、至るところで暖をとります。兵隊は、赤ん坊をひっ捉まえ、火の中に投げ込んだものです。」と、古参兵の一人が報告する。別の帝国陸軍の兵隊が語る。

彼の部隊は打ち棄てられた村で女をみつけ、裸にし、「膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました。皆それを見ていました。隊長もです。 部隊の慰安の一種だったんです。」


「暗い部屋に産褥の婦人ありて傍らにいとけなく眠る嬰児。銃剣で布団を跳ねのける。女は両手を合わせて拝んでいる。(略)彼女は衣服乱れて乳房一突き息絶えていた。」「先に高粱で隠された長持の中の娘もどうやら、輪姦の上刺殺した模様であった」(一一○頁)。

「掃討にあって残虐は付きもので、女をあさる。

輪姦、強姦と、又素裸にして乳房を刺突或は陰部にローソクを垂らし悶えるを見て悦び、恥毛に煙草の火をのせて焦げゆく興味。

タマゴを局部に挿入二個、三個と、更にトウモロコシを挿入或はピストン運動、トウガラシを詰め込み歓声を上げる。

銃剣の先で膣をつつく。こうして時間をもて遊んでいる。呻き苦しみ悶絶、出血滴る女と、掃討の修羅である」(一一二頁)。

「捕らえた女を丸裸にして寝かせて、両足を一ぱいに広げ杭に結びつけ尻したに枕して腰を浮かせて膣に、ナンパ大根と挿入できるようなもの等、刺激物のトーガラシとかをもって、いろいろなことをして、悶える表情に歓声を挙げていた。

更にローソクの垂汁をポトポトと膣に落し上手、下手を争って楽しんでいた。

乳房、腹上、局部にムカゼ・サソリ等を捕らえて這わせての興味を持っての蛮行が、いずこの部隊でも隠された所で行われることが、討伐作戦の楽しみであった。」

「捕虜の男と女を牢から出して来て裸体にして女に男の性器をくわえ吸わせ舐めさせ、性器が勃起するの見物と、性交させることの成り行きと、女の膣ネブリ、乳房と、ああしろ、こうしろと、注文をつけて、その表情を楽しんでいた。」(一一七頁)

 強い攻撃性は、攻撃の対象により強く大きな苦痛と恥辱を与えることで、自らの勝利感、征服感を満足させた。その対象が女性であるときは、性器への攻撃となって現われた(二六)。
http://park17.wakwak.com/~ueba/sankousakusen.4.html


まず、釣り針が連続して付いている釣り糸と竿を用意します。

そして、女の股をひらかせます。

女の膣に釣り糸を挿入。

釣り針も全て挿入し、挿入が終わったらウィンチで思い切り引っ張る。


これは第二次世界大戦時、日本軍が中国で行ったお遊びです。

男性に対しては行われず、女性のみを対象とした完全な性器刑。
失血死した人もいたそうです。



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

85. 中川隆[-13722] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:14:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21421] 報告

朝鮮人「慰安婦」の証言


12歳で「慰安婦」に 李京生

 私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。

 12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。

 私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。

 夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。

 男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。

 明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。

 どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。

 指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。

 やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。

 ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。

 こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。

 夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。

 それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。

 こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。

 これは、慶尚北道安東出身の多くランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

 忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。

 16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。

○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した

○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした


 それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。

 当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。

 土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。

 私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。

 18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。

 解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。

 1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。

 ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。

 今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。


(リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身)

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http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/



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拷問の後遺症に苦しむ日 李福汝


 私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。

 住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。

 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。

 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。

 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。

 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。

 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。

 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。

 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。

 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。

 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。

 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。

 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。

 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。

 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊−騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこ多くぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。

その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。

 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。

 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。

 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。

 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。

(リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101202.html


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12年間の「慰安婦」生活 金大日


 私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてのである。

 私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。

 病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。

 来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。

 数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。

 それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。

 その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。

 そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。

 上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。

 上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。

 私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。

 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。

 私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。

 私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。

 私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。

 ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。

 めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。

 こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。

 こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。

 日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。

○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる

○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける

○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む

○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す

○慰安婦150人を並ばせて斬首

 日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。

 はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。

 中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。

 9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。

 私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。

 日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。

 日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。

(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身)
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使い捨てにされた朝鮮女性 金英実


 両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。

 会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた。

 1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。

 区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。

 その山中には日本の軍人がいっぱいいた。

 私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。

 軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。

 その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。

 夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。

 最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。

 食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか。

 この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。

 慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1〜2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。

 私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。

 ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。

 また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。

 ここにいたらいつか私も殺されると思った。

 1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。

 その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。

 秋になって清津にでてきた。


(キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身)
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チョン・オクスン(ChongOkSun)


現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。


「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。

13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本 の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警 官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力 を失いました。

10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。

その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。

一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の 中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、

彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片 で覆われるまで転がしました。

最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、

「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単 だ」

と語りました。彼はまた

「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」

とも言いました。


ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」 するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。

あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水 たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。

○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。

○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた

○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された

○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた

○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた

○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った

○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ

○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました


守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問を うけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。

彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山の なかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるもの多くれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷とし て5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。

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ファン・ソギョン(HwanSoGyun)


77歳のファン・ソギョン(HwanSoGyun)の証言は、大勢の娘たちを軍事的性奴隷に誘い込んだ詐欺的方法による徴集方法の証拠となる。

「私は、1918年11月28日に日雇い労働者の次女として生まれました。私どもは平壌市カンドン区のタエリ労働者街に住んでいました。17歳のとき、1936年のことですが、部落の長がやってきて私に工場の仕事を世話すると約束しました。私の家はたいへん貧しかったので、私は喜んでその 収入の良い仕事を引き受けました。私は日本のトラックで、すでに20人ほどの朝鮮の娘たちが待っている停車場に連れていかれました。私たちは汽車と、その 次にはトラックに乗せられ、数日間の旅ののち中国の牡丹江のほとりにある大きな家につきました。私はそれが工場だと思いましたが、工場などないことが分か りました。少女たちは、わらの布団があり、ドアに番号がついている部屋を、一人に一室ずつ割り当てられました。

何が身に降りかかるかも知らず二日間待った後、軍服をきて帯剣した日本兵が一人私の部屋にやってきました。彼は「自分の言うことを聞くかどうか」と尋ね、 私の髪の毛をつかんで床のうえに倒し、足を開くようにいいました。彼は私を強姦しました。彼が離れたとき、私は外で20人か30人の男たちが待っているの を見ました。全員がその日私を強姦しました。それ以来、私は毎晩15人か20人の男たちに襲われました。

私たちは定期的に医学的検査を受けなければなりませんでした。病気にかかっているとわかると、殺されてどこか分からない所に埋められました。

ある日、新し い娘が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗を試み、そのうちの一人の腕に噛み付きました。

そのあと彼女は中庭にひきだされ、我々全部の見て いる前で刀で首を切り落とされ、体を切り刻まれました」。

ァン・ソギュン(HwangSoGyun)は、性奴隷として7年間日本兵の相手をさせられた後、1943年に「慰安所」から逃げることができた。その後39歳のとき結婚することができたが、家のものに過去を語ったことはなかった。心理的肉体的な傷と婦人科的問題のため、子供をもつ ことはできなかった。

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ファン・クムジュ(HwanKumJu)


現在73歳で、韓国永登浦区のドンチョン洞に住んでいるファン・クムジュ(HwanKumJu)の証言は、陸軍が慰安所を運営した際の規則類を例示している。


「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだ と思いました。3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。

かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったの で抵抗しました。私はまだ処女でした。しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。そのときに私は気を失いまし た。そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。

そのときから最初の1年間は、いっしょにいた全ての朝鮮の少女たちと同様に高級将校の相手をするように命令されましたが、時がたち私たちがますます「使役」されるのにしたがい、私たちはもっと下級の将校の相手をするようになりました。もし誰かが病気になれば、その人は消えてしまうのが普通でした。また私 たちは「606号注射」を与えられましたが、それは妊娠しないようにするためや、妊娠したときにいつも流産するようにするためでした。

衣類は一年に2回しか与えられず、食べ物も足りず、餅と水だけでした。私たちの「サーヴィス」には、支払いはありませんでした。私は5年間「慰安婦」とし て使われましたが、そのことで一生苦しめられてきました。私の内臓は何度も病におかされるたび、手術で取り除かれており、苦痛と恥にみちた経験のために、 性交渉を持つことはできません。私はミルクや果汁を吐き気を催さずには飲むことができません。彼らが私に押し付けた汚らしい事柄をあまりにもたくさん思い 出させるからです」。

ファン・クムジュ(HwangkumJu)が特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所での最初の日に、日本兵からこ こには従わなければならない五つの命令があり、従うか死ぬかだといわれたという。

第一、天皇の命令。
第二、日本政府の命令。
第三、彼女が所属している陸軍 中隊。
第四、中隊のなかの分隊。
そして最後に彼女が自分に仕えているテントの持ち主としての彼の命令。

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キム・ボクスン (KimBokSun)

また別の生存者、韓国のキム・ボクスン (KimBokSun)は、性奴隷としての自分の生活は、軍により直接に統制されていたと証言した。

毎日午後3時から9時は下士官の相手をしなければならず、

午後9時以後の夜は将校のためにとっておかれた。

また大部分の兵隊たちはその使用を拒否したが、全ての女性は兵隊たちを性病から守るため、コンドームを支給された。

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朴永心(パク・ヨンシム)

朴永心の証言

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html


−−どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。


朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。

 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。

−−「慰安婦」として連れ回された経路について。

朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。

 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。

 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。

 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。

 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。

−−その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。

朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。

−−ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。

朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。

−−捕虜になった後どうなりましたか。

朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。

 収容所には一年ほどいたと記憶しています。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11001201/p2



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李桂月(イ・ゲウォル)


1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。


十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。

 駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。

 翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。〜(中略)〜着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。

私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。〜(中略)〜駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。〜(中略)〜日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。


 ○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、〜(中略)〜将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。

 ○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。

 ○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。

 ○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。

 ○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。

 ○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。

 ○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです

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郭金女(カク・クムニョ)


1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。


私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。

 私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。

 ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。

 「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。

 ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。

 そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。

 私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。

 翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。

 大きな建物の中は仕切られていて、一〜二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。

 部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。〜(中略)〜

 一日に二〇〜三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。

 「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。

 こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。

すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます。


 「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」

と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。

 逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。


 ○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。

 ○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。

 ○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。

 ○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。


 「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。

 八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/


   
▲△▽▼  


金英淑(キム・ヨンスク)


1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。


今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。

 こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。

 「一三歳の時、やって来た日本人の巡査に

『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』

と言われたんです。

 この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」

 「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。

 「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。

「 将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、

「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」

と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。

 胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。

 「一日に二〇〜三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり、軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」

と金さんは叫ぶように語った。〜(中略)〜


 ○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。

 ○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。

 ○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。

 ○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。

 ○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。

ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。

 ○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。


 この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。

 部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/

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86. 中川隆[-13724] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:17:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21424] 報告


因みに、残虐行為をやらされた日本兵は、上官の命令で覚醒剤を飲まされていたので、異常な興奮状態になっていたのですね:


あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html


覚醒剤については

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html




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87. 中川隆[-13723] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:20:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21424] 報告

南京大虐殺や慰安婦強制連行は昭和天皇に指示された組織的な虐殺だったことは間違いないですね

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、
南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。
するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。

とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。

北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。 だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。

皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/


南京大虐殺は中国からの財宝略奪をカモフラージュする為だった?


日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm


日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。 そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。
この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、
酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。 しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには
無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。
彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。
麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。
今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。 それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、
フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。 なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は
一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。
読者がお気づきのように、これは真実ではない。

天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。 ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。

いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

88. 中川隆[-13728] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:25:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21430] 報告

という事で、

天皇一族の冷酷さ、残虐さ、金の亡者だったことからすると

天皇は漢民族系朝鮮人だと考えて間違い無いでしょう。


アイヌ人や琉球人の様な縄文系の人間にはそういう行為は絶対にできないのですね。

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

89. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:47:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21433] 報告

日本は近い将来、中国小日本省になる


50年後の日本地図 (日本人は放射能汚染された東日本に押し込められる)
http://blog.goo.ne.jp/hps777/e/ee6e8a91af4cf1c9b0adb452f1667b7e


▲△▽▼


中国人移民を入れると日本人は絶滅する

1. 沖縄や北海道で中国系住民が過半数になったら独立宣言して中国小日本省になる
2. 中国軍が自国民保護という名目で沖縄や北海道を占領
3. 日本人浄化にとりかかる
4. 日本政府は遺憾の意を表するが、これは中国の内政問題だとして相手にされない

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・東トルキスタンでは、最大100万人のウイグル人が「再教育」の名目で中国当局により強制収容されている。遺された幼児たちは「幼稚園」に入れられ、中国人の名前もつけられ、民族も漢民族として登録される。両親が再教育施設から出られたとしても、自分たちの子供を見つけることもできない。「幼稚園」の子供たちは、自分が中国人であること、中国共産党へ感謝することを教え込まれる。

・内モンゴル自治区では「浄化政策」がもう進んでしまって、ここ70年で、人口約2400万のうち、モンゴル人は2割以下になってしまった。経済は中国人に握られ、伝統文化の絶滅が図られている。

・チベットでは、チベット語の学校教育が禁止され、今年になってチベット教の寺院にも共産党員が運営委員として入って監視するようになり、寺院にも習近平の写真が置かれ、共産党の旗を掲げなければならなくなった。

・中国が変わるチャンスは2度会った。最初は文化大革命の混乱。このまま続けば、中国は変わらざるをえなかったのに、米ソ冷戦下で、米国の誤算で中国を助けてしまった。次が天安門事件、若者を弾圧する中国に世界中が経済制裁している時に、日本が真っ先に助けてしまった。中国が民主化するチャンスを潰したのが日本。

【伊勢雅臣】「中国が民主化するチャンスを潰したのが日本」という言葉は重いです。二度とそういう過ちは犯してはなりません。
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201811/article_13.html


▲△▽▼


1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976

中国の最終兵器は移民爆弾 _ 外国人参政権を認めると中国に日本を乗っ取られる

中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html


「外国人参政権」 を認めると沖縄が中国に編入される


なぜ「外国人参政権」を認めると、沖縄が中国に編入されるのか 2017.10.07 
by 北野幸伯『ロシア政治経済ジャーナル』
http://www.mag2.com/p/news/287616


かねてから外交政策の観点から安倍政権支持を明言している無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』の著者で国際関係研究者・北野幸伯さんですが、希望の党の政策についても一部評価しているようです。

今回は、小池氏が「外国人参政権に反対でなければ希望の党には入党できない」と表明したことについて絶賛するとともに、その理由をわかりやすく解説しています。


小池さん、「外国人参政権反対」を踏み絵に

選挙戦盛り上がっています。私は、「外交が素晴らしい」ということで、安倍続投を願っています。しかし、安倍さんの政策をすべて支持しているわけではありません。

たとえば「消費税引き上げ」に反対しています。小池さんは、「消費税引き上げ凍結」を宣言している。この方面では、是非がんばっていただきたい。もう一つ、小池さん、こんなことを宣言しています。

毎日新聞10月3日から。


◇民進党からの入党希望者に、「政策協定書」署名を義務づけ


希望の党の小池百合子代表は「寛容な保守」「ダイバーシティー(多様性)社会」を掲げている。その一方、民進党からの入党希望者には、外国人への地方参政権の付与に反対する「政策協定書」への署名を義務づけた。

希望の党に入りたければ、「外国人参政権に反対でなければならない」そうです。毎日新聞は、この決定を批判しているわけですが、私は、「素晴らしいじゃないか!」と思います。皆さんはどうですか?


ある国に住む他民族は、独立を目指す

•コソボ
•南オセチア
•アプハジア
•クリミア
•クルド
•カタルーニャ

このリストは、何でしょうか? これは、(ゆっくり、何度も読んでください)

「ある国の特定の地域に、他民族が多数住んでいたので、分離、独立した、あるいは分離、独立を目指している例」

です。例を一つ一つ見てみましょう。

・コソボ

コソボは、セルビアの一部でした。しかし、アルバニア系住民が、圧倒的に多い。それでコソボは08年2月、セルビアからの独立を宣言しました。

・南オセチア

南オセチアは、ジョージア(旧グルジア)の一部。しかし、オセット人が約9割を占めている。1992年に住民投票が行われ、圧倒的多数で「独立派」が支持を得ました。しかし、「事実上の独立」を達成したのは08年8月のロシア―グルジア戦争後です。南オセチアを国家承認しているのは、ロシアを含む4か国だけ。それでも、「事実上の独立国家」である。

・アブハジア

アブハジアもジョージアの一部です。ここは、アブハジア人が、5割強を占めている。1994年に主権宣言しています。しかし、南オセチアを同じく、事実上の独立を達成したのは、08年8月のロシアーグルジア戦争後でした。アブハジアを承認している国は、ロシアを含む4か国だけ。

・クリミア

クリミアは、ウクライナの一部だった。ここは、ロシア系住民が6割を占めている。2014年3月に、住民投票が実施されます。97%がロシアへの帰属を望んだとされ、ロシアに併合されることになりました。

・クルド(イラク)

イラク北部のクルド自治区は、当然クルド人が大半を占めています。ここでは9月25日、「独立の是非」を問う住民投票が実施されました。9割が「独立を支持」ということで、緊張が高まっています。

・カタルーニャ

スペインのカタルーニャ州では10月1日、「独立の是非」を問う住民投票が実施されました。結果は、92%が独立支持。カタルーニャ州の人は、「俺たちはカタルーニャ人。スペイン人ではない!」と考えているのですね。スペインも、大混乱が予想されます。


外国人参政権付与で、沖縄は中国に吸収される

というわけで、「ある国のある地域に、他民族が密集して住んでいると、独立の機運が高まる」ことをご理解いただけるでしょう。例えば、外国人参政権が与えられたとしましょう。その後、どんな動きが懸念されるのでしょうか?

たとえば、中国が沖縄南部の〇〇市に狙いをつけます。そこに中国人労働者を集中して住まわせる。市の過半数は、「参政権を持つ中国人」になってしまいました。彼らは、「独立の是非」を問う住民投票を実施。圧倒的多数で独立が承認されました。日本政府は自衛隊を投入して、実力で独立を阻止しようとします。

すると中国政府は、「わが国の同胞が、日本軍国主義に大量虐殺されようとしている。これを座視することはできない! そもそも、日本には沖縄の領有権はない! 日本は、中国固有の領土である沖縄を長年不法占拠してきた。いまこそ、歴史の正義を取り戻す時だ!」と大軍を沖縄に送り込みます。かくして、沖縄は中国に編入されることになりました。

このシナリオ、「米軍は何やってたんだ!」と思いますね。確かに。ただ、長期的に見ると、米軍だっていつまでいるかわかりません。

「ある国のある地域に、他民族がたくさん住んでいると、独立を主張し始める」

これは、世界のあちこちで起こっている事実です。中国人が、ある地域に密集して住み、過半数を超えた。将来彼らが「独立」を主張することは十分ありえます。そこまでいかなくても、住民投票で次々と反日的政策を進めていくことでしょう。

私は、どの国の人も差別しません。しかし、「外国人参政権を与えるかどうか」は差別とは関係ありません。私はモスクワに27年間住んでいますが、もちろん参政権はありません。私は「外国人」なので、参政権がなくて当然なのです。そして、日本国内に住む外国人も、参政権がなくて当然なのです。

そういった意味で、「外国人参政権反対」を踏み絵にする小池さんの決定は素晴らしいと思います。
http://www.mag2.com/p/news/287616  

日本人は謀略工作や心理戦に弱い。

我々社会が堅気の人間で構成されているせいか、各人の良心を信じる性善説が強いからだろう。

しかし、日本から一歩外へ踏み出せば、腹黒い奴らばかりで、朝鮮半島は根性がひん曲がった下郎でいっぱいだし、支那大陸は普通の人間でも匪賊、盗賊、殺人鬼、詐欺師、ゴロツキ、といった「人でなし」に直ぐ変身できる。

ましてや、生まれつきの悪人だと子供の頃から一端(いっぱし)のギャングだ。

落合信彦など「支那人の子供は目の輝きが違う」などと雑誌『サピオ』に書いて失笑を買ったが、国際ジャーナリストを自称する法螺吹きだから仕方ない。

しかし、有名大学の長老教授や新聞論説員に騙されて支那人を厚遇し、「人さま」扱いしていた日本人は哀れだ。

隣人を信頼できて、他人も気配りをしてくれる国など、地球上で日本以外にはあり得ない。ユーラシア大陸は魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する闇黒地帯で、お人好しの日本人が生活できる世界ではなく、下手をすれば身ぐるみ剝がされて虐殺されてもおかしくはないのだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68677889.html


中国の最終兵器は移民爆弾 _ 外国人参政権を認めると中国に日本を乗っ取られる


国会で話題になっていた「外国人参政権の問題点」は、対象者のほぼすべてが「在日韓国・朝鮮人」であることです。

この法案を積極的に推し進めている政党(賛成派)を知っておいたほうが良いでしょう。


「外国人参政権法案」の国会提出回数


公明党   27回(賛成)
民進党   15回(賛成)
共産党   11回(賛成)
自民党   0回(反対)
国民新党 0回(反対)
みんな   0回(反対)


※外国人参政権にもっとも積極的に賛成なのが公明党(創価学会)

※民主党(現在:民進党)は韓国民潭からの要請を受けて提出
※社民党・共産党も賛成 →共産党は被選挙権(立候補する権利)まで要求
※「自民党、国民新党、みんなの党、維新の会」は”反対”


(最後に/移民・難民問題)


日本国内で失踪する外国人(中国人)が増加
失踪目的で、技能研修を受けるものもいる

在日の犯罪の件数は多いのか、多い地域、どこにある?川崎市


その一方で日本には、イスラム圏からも多くの外国人が難民申請をしています(現在は多くが却下されている)
今後どのようになるかは分かりません。
http://www.geocities.jp/tokua33/


▲△▽▼


遠からず中国人は大陸の資源を完全に食い尽くして、日本に何億人もの難民が押し掛ける事になるよ。5年先か10年先かはわからないが。

もし中国にこちらから侵略戦争を仕掛けないのなら、海上封鎖の準備をして日本に侵入して来る中国人難民を全滅させる方法を考えておいた方がいい。

中国人の頭上からガソリンを撒いて火炎放射器で火を付けるのが一番簡単か。

硫酸をかけて体ごと溶かす方が良いか?

とにかく早急に日本人の知恵を集めて何としても中国人難民の日本上陸を阻止しないといけないね。

まあ、そういう時代になれば中国人・朝鮮人撲滅ビジネスで日本中好景気に沸く訳だ。 めでたいことだな。 小沢先生の最愛の祖国は地上から消滅するけどねwwww


とりあえず、道で中国人を見つけたら必ず生卵をぶつけてやる習慣をつけた方がいいね


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

90. 中川隆[-13726] koaQ7Jey 2018年11月30日 11:15:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442] 報告

神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族

カトリック教徒になろうとした昭和天皇


「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

昨年公開された『昭和天皇実録』は、あまり新事実がないという評判だったので興味がなかったのだが、本書を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

これは退位問題ともからんでいた。天皇自身は退位したいと考えていたようだが、皇太子が未成年なので摂政を立てざるをえない。しかしそれはむずかしいので、天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html

昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。

この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

91. 中川隆[-13728] koaQ7Jey 2018年11月30日 11:22:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21445] 報告

美智子さまは皇族を全員クリスチャンにさせる使命を与えられていた

やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ 2016年3月11日
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。

皇后陛下とGHQとの癒着の根っこが明らかになりました。

現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の極めて具体的な体現者です。


◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

◆なんと、社会党が支援していた美智子さま

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

◆皇后陛下は「アカ」でした

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac


かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教をそのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、 愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535
https://www.youtube.com/watch?v=CA9Nht0Bo30

こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが残っています。
女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから追放されていた時代です。

外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、 平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)

日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。

ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1

1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用

1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立

1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得

1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社


この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?

なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました

http://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。
また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。

そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。


【正田稲荷神社】
もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。

以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた白山神社さんと勘違いされた?

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だということではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?

何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。


皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面がこういうふうである、と。

一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・

もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。

普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。

こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。

http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。

国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 – 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?

気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。

足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、 「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。


朝鮮髪飾り ペッシテンギ


国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為がった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。

皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま即位させないと、計画が成就しないわけです。

いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、 個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。

そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。

皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方ですでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が入り込みます。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5


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92. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月30日 12:07:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21451] 報告

神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族 _ 2

秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまは、30日に迎えた53歳の誕生日に先立ち、東京・元赤坂の秋篠宮邸で記者会見に臨まれた。2019年の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出に疑問を呈し、長女、眞子さま(27)の婚約に対する考え方も示された。発言の要旨は以下の通り。


秋篠宮さまは、30日に迎えた53歳の誕生日に先立ち、東京・元赤坂の秋篠宮邸で記者会見に臨まれた。2019年の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出に疑問を呈し、長女、眞子さま(27)の婚約に対する考え方も示された


■大嘗祭の国費負担に異例の疑義「長官は聞く耳持たず」

新天皇となる皇太子さまが即位後初めて国民の安寧や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る大嘗祭に公費が充てられることについて、秋篠宮さまは「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と異例の言及。大嘗祭を前回と同規模で行った場合、30億円近い支出が見込まれることが背景にあるとみられる。宮内庁の山本信一郎長官に意見を述べても「聞く耳を持たなかった」と批判された。


秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。私は、平成の大嘗祭でもそうすべきではないとの立場でしたが、その頃は若かったですし、多少意見を言ったくらいでした。今回も結局、当時を踏襲することが決まったわけですが、すっきりしない感じを今でも持っています。


平成の代替わりに際して行われた大嘗祭(1990年11月22日、皇居)


宗教行事と憲法との関係はどうなのか。私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。


■小室さんは「それ相応の対応をすべきだ」
 結婚関連の行事を延期した長女、眞子さま(27)と大学時代の同級生、小室圭さん(27)。「金銭トラブル」など小室家を巡る様々な報道が相次いでいることを念頭に、秋篠宮さまは小室さん側が「それ相応の対応をすべきだ」と指摘。現状では正式な婚約にあたる「納采の儀」は行えないとの認識を示された。会見に同席した秋篠宮妃紀子さまは、眞子さまの体調が「優れないことが多くなりました」と明かされた。


秋篠宮さま 小室さんに関わることが毎週のように週刊誌等で報道されていることは、承知しております。小室さんからの連絡は、2、3カ月に1度くらいでしょうか、時々もらうことがあります。これは娘と小室さんのことではありますが、私は、今でもその2人が結婚したいという気持ちがあるのであれば、やはりそれ相応の対応をすべきだと思います。

まだ婚約前ですので、人の家のことについて私が何か言うのははばかられますが、やはりそれ相応の対応というのは大事ですし、これは2人にも伝えましたが、やはり、今いろんなところで話題になっていることについてはきちんと整理をして問題をクリアすること(が必要)かもしれません。そして多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況にならなければ、私たちは婚約にあたる「納采の儀」を行うことはできません。


(眞子さまの様子については)私は最近はそれほど、娘と話す機会がないので、よく分かりませんが、公の依頼されている仕事は極めて真面目に取り組み、一生懸命行っていると思います。

小室さんから、報道自体について聞いていませんが、今までに(報道が)あった中で、これは事実とは違うとの説明があったことはあります。ただ、それについて何か行動を今するのかどうか、うかがうことはできていません。

紀子さま 私は母親としてどのように受け止め、どのように感じているかについてお話をしたいと思います。昨年の夏から様々なことがあり、折々に私たちは話し合いを重ねてきました。そうした中で、昨年の暮れから、だんだん寒くなっていく中で、長女の体調が優れないことが多くなりました。そうした状況が長く続き、長女は大丈夫だろうか、どのような思いで過ごしているだろうか、と大変心配でした。

家族として非常に難しい状況の中にありますが、私は眞子がいとおしくかけがえのない存在として感じられ、これからも思いは変わることなく、大切に見守りたいと思っております。


■皇嗣への抱負や公務の分担
 秋篠宮さまは2019年5月の代替わりに伴い、皇位継承順位第1位の皇嗣となられる。新たな立場となることへの抱負や、新天皇となる皇太子さまと分担することになる公務に対する考えなどを問われ、「一つ一つをその都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていきたい」と回答された。


新年祝賀の儀を終え、退出する天皇、皇后両陛下、皇太子さま、秋篠宮さま(2018年1月1日)

秋篠宮さま 抱負になるかどうかは分かりませんが、これからも様々な公的な仕事をする機会があります。例えば、毎年のように行われているものについては、前年度とか、その前の機会と同じようにすればいいと思いがちです。やはり、それら一つ一つを、その都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていくようにしたいと思っています。

公的な活動について、来年5月以降、今まで皇太子殿下が行ってきたものが、天皇になられると併せてすることができなくなります。一方、私も自分で行っていることがあり、それらをそっくり誰かに譲ろうにも受ける先はありません。今、宮内庁は、いったん全て皇太子殿下の仕事を引き取って整理し、次に私がどれをその後行っていくかを検討しているところです。そう遠くないうちに発表されるのではないかと思います。

■「全身全霊」の天皇陛下と支え続けた皇后さまに敬意
 天皇陛下の退位まであと5カ月。秋篠宮さまは平成の30年を「自然災害が非常に多い時代だった」と振り返り、象徴としての務めを果たしてこられた陛下に対し「まさしく全身全霊でお務めを果たしてこられた」と述べられた。


秋篠宮さま バブルが崩壊し、経済が低迷し、失われた10年、20年と言われますが、そのバブルの頃とその後で、人々の生活のパターンが変わったと感じております。また大変残念なことですが、自然災害が非常に多い時代だったという印象があります。

陛下は即位以来、象徴とはどのようにあるべきかという、その象徴としての在り方について、常に模索し、考え、一昨年8月に「お気持ち」を表明されましたが、その中に「全身全霊」という言葉がありました。まさしく「全身全霊」でお務めを果たしてこられたと思います。皇后陛下は陛下のお務めや立場を重んじ、宮中に伝わる伝統を守り継承してゆくことに心を砕かれながら、ご結婚以来、長い期間、60年近くにわたって支えてこられました。これはなかなかできることではなく、お二方に深く敬意を表するところです。息子の立場としては、私は二十何年、一緒に過ごし、常に笑いのある温かい家庭を築いてくださいました。そのことに感謝したいと思います。


■佳子さまの今後や悠仁さまの成長に思い寄せ
 来春、次女、佳子さま(23)は大学を、長男、悠仁さま(12)は小学校を卒業される。秋篠宮さまは佳子さまの今後について「ライフワークになるようなものを持ってもらいたい。結婚はそれほど遅くなくしてくれたら」。悠仁さまに対しては「自分の意見をはっきり言うようになった」と成長を喜ばれた。


53歳の誕生日を迎えた秋篠宮さまとご家族(東京・元赤坂の秋篠宮邸)=宮内庁提供

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53歳の誕生日を迎えた秋篠宮さまとご家族(東京・元赤坂の秋篠宮邸)=宮内庁提供

秋篠宮さま 大学卒業後、次女にも色々な公的な仕事の依頼が来ることが予想されます。長女がそうしているように、一つ一つ大切に思いながら、取り組んでいってほしいと思います。大学院進学の希望を持っているかどうか存じませんが、公的か私的かは別にして、ライフワークになるようなものを持ってもらいたいと思っています。

結婚については、親の勝手な希望としては、それほど遅くなくしてくれたらいいとは思いますが、やはりご縁の関係もありますので、別に私からせかしたりすることもしません。いずれ本人から何か言ってくるかもしれません。

長男はかなり自主的に動くようになってきたと思いますし、自分の意見をはっきり言うようになったなという印象があります。一方、人の話にもきちんと耳を傾けるようになってきたと思います。人のことを思いやる気持ちというのは、以前よりも増してきたなと思います。進学先については、そう遠くないうちに発表されることと思います。


■災害相次いだ1年、若い世代の活躍たたえ
 この1年を振り返り、印象に残った出来事や感想を問うと、秋篠宮さまは7月の西日本豪雨など相次いだ災害を口にされた。明るい話題としては、幅広い分野で快進撃が続く若い世代の活躍を挙げられた。


秋篠宮さま この1年も自然災害が非常に多い年でした。(西日本豪雨で甚大な被害を受けた)広島県に参りましたが、色々な所で土砂崩れや流木を見て、水の力のすごさを改めて認識しました。今後、どのように防災、減災をしていくかを考えていかないといけないと思いを新たにしました。

今年は日本人がハワイに移住して150年。現地で日系社会の人たちと話をし、様々なことを知ることができて大変良い機会でした。また本庶佑さんがノーベル生理学・医学賞を受賞しました。将棋の藤井聡太さんや、(世界オセロ選手権で優勝した)福地啓介さん、テニスの大坂なおみさんら、色々な分野で若い世代の活躍が目立ち、明るい話題だったと思います。


▲△▽▼


世間の噂

秋篠宮文仁  

みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)

その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください


_____


「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w


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93. 中川隆[-13733] koaQ7Jey 2018年11月30日 12:43:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21454] 報告

神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族 _ 3


秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30

秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。

私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。

相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまが唯のアホなのか、神道を憎んでいるのか、どちらなのかはわかりませんが

天皇家が大嘗祭の費用をケチって簡略式にしたら、2000年前からの伝統がすべて失われてしまいます。 一度忘れられた伝統はもう二度と取り戻せなくなります。

そんな事をしたら、皇室の存在意義が無くなってしまうのですね:


コラム 式年遷宮に見る技術継承と技術者確保
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html


 2013年は日本を代表する神社の一つである三重の伊勢神宮で20年に1度の式年遷宮が行われ、多くの参拝客が訪れました。「式年」とは定められた年を意味し、「遷宮」とは新しい社殿を造って御神体を遷すことをいいます。

 伊勢神宮の式年遷宮は飛鳥時代の690年に始まり、約1,300年の歴史を有します。戦国時代に中断された時期はありましたが、現在に至るまで20年ごとに内宮・外宮の正殿等、正宮・別宮の全ての社殿と御装束・神宝の造り替えが繰り返し行われ、2013年は第62回目の式年遷宮を迎えました。社殿には檜の素木造りで堀立柱と萱(かや)の屋根等を特徴とする「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」という日本最古の建築様式が用いられており、当時から変わらぬ姿を今も見ることができます(図表2-3-56)。

 
図表2-3-56 正殿(内宮)

 神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、20年ごとに同じ形の社殿を交互に新しく造り替えます。この造り替えによって生じた古材は、可能な限り再利用されています。例えば、内宮と外宮の正殿の一番太い柱である棟持柱は、削り直したうえで、神宮の表玄関である宇治橋の内側と外側の鳥居として20年間利用され、その後は三重県亀山市の「関の追分」と桑名市の「七里の渡」の鳥居としてさらに20年間利用されています。このほかにも、古材は内宮・外宮の摂社・末社の修繕・造り替えに使用されたり、全国の神社に無償で提供したりしています。

 また、遷宮にかかる費用については、古代には朝廷、鎌倉時代には鎌倉幕府、江戸時代には徳川幕府、明治以後戦前までは政府によって賄われてきましたが、戦後は伊勢神宮が民間の宗教法人となり政府の手を離れ、以降は国費の投入はなく伊勢神宮の自己財源により賄われています。今回の遷宮による事業費は約550億円と公表されています。

 遷宮がなぜ20年に一度と定められたか、その理由には諸説ありますが、その説の一つに「技術継承説」があります。

20年という期間は、当時の寿命でも2度は遷宮に携わることができ、初めて遷宮を経験する次世代の技術者へ技術を継承していくのに合理的であるという理由です。実際に伊勢神宮ではどのようにその建築技術が受け継がれているのでしょうか。

第61回式年遷宮が行われた1993年から、第62回式年遷宮が終わる2016年までの伊勢神宮の技能者の雇用状況と作業内容について概要を見ていきます(図表2-3-57)。

 
図表2-3-57 伊勢神宮が雇用している技能者の推移と作業内容

 式年遷宮は正宮の遷宮が終わった後に別宮の遷宮があるため、2年間は約160名の技能者の雇用が続きます。別宮の遷宮終了後、若手や技能優秀者30名ほどを神宮の常勤職員として残し、その他の技能者は解散となり、以後12年間、30名の技能者は摂社・末社の修繕・造り替え等を行います。

 本殿の遷宮終了後15年目に、次の遷宮のための木材加工が始まりますが、この頃から作業量や進捗に応じて全国から技能者を雇い入れていきます。この時、遷宮を経験している30名が新たに参加する技能者の教育を行います。この20年の周期によって、多い人で3回の遷宮に携わることができます。

 特筆すべき点としては、最低限技能を伝承するのに必要な技能者(30名)を遷宮終了後も常勤職員としてその雇用を確保していることです。一方で、ピーク時に雇い入れる技能者は、特に宮大工のみを採用しているわけではなく、一般の大工等を採用した後に必要な技能を教育しています。このことは、中核となる技能者を継続雇用し維持・更新業務に従事させることによって技術力が維持されているゆえに可能となっているといえます。

 このように、伊勢神宮の式年遷宮においては、次回の遷宮を見越して、人材の確保(ピーク時に向けた弾力的な雇用)と技術伝承(中核的な技能者の雇用維持)の取組が実践されています。社会インフラの維持管理・更新の担い手不足が大きな問題となっている昨今、1300年前から続いてきたこの仕組みから学ぶべき点も多いのではないでしょうか。

 
図表2-3-58 社殿造営の様子

(参考文献)
 伊勢神宮式年遷宮広報本部公式ウェブサイト http://www.sengu.info/index.html
 (株)野村総合研究所「NRIパブリックマネジメントレビュー(2011/4月)」
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

94. 中川隆[-13735] koaQ7Jey 2018年11月30日 12:48:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21457] 報告

神道や日本古来の文化を憎んでいる天皇一族には理解できない神道の価値

神道の世界観を外国人に語ろう 2018/07/29
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201807/article_5.html

 日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。


■1.各国首脳の神宮「参拝」

 平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。

 ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。

 内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:

「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)

「平和と静謐、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)

「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)


■2.人間は自然の主人か、同胞か?

 これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。

__________
 日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
 太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、礼会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。[1, 807]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________
 その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
 自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
 天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)[1, 807]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』[1]での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。

 神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。

 それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。

 深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。

 地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。


■3.全体主義か、自由民主主義か

 自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。

__________
神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、「平等」の存在になります。[1, 1392]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。

 万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。

 これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。


■4.性悪説か、性善説か

 しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。

 これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。

 先般も弊誌[a]で紹介したように、最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。


■5.統制経済か、自由市場経済か

 生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。

 川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。[b]

 このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。

 生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。


■6.宇宙は時計仕掛けか、生成発展するものか

 古事記では、最初の神が現れた時、「大地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした」[3]と説く。

 そこから、神々が国土を作り、その上で人々が田を作り、水を引く。神や人や万物が力を合わせて何事かを生みなすことを、神道では「むすぶ」と呼ぶ。男女が結ばれて、家庭を作り子をなす。農民が土や水などと力を合わせて作物をなす。

「むすび」の「むす」は、「うむす」が縮まった形で、「うむ(産む)」と同じく、「物の成り出づる」ことを言う。「むすこ」「むすめ」「苔むす」は、この意味である。「び」は「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」など、「物の霊異(くしび)なるをいう美称」である。したがって、「むすび」とは万物を生成する不思議な働きを指す。[2]

 この「むすび」に示されるように、神道の世界観では世界は生成発展するものであり、人間もそのプロセスに参画する。

 これに対して、キリスト教では唯一絶対神が宇宙を創造し、あとは人間も自然もその「時計仕掛け」の一部として運動を続けるのみである。この世界観では生物が勝手に進化するという進化論は受け入れられない。今でもアメリカでは42%の人々が「神が今の人間をそのままの形で作った」と信じている。[4]

 人間の努力も与(あずか)って世界が生成発展するという神道の世界観は、人類が科学によって自然法則を発見し、それを応用して新たな技術を生み出すという技術革新を後押しする。

 経済学者ヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションが経済発展をもたらすことを主張したが、そのイノベーションとは既存の要素の「新しい結合」であると考えた。異なるものの「むすび」が新たなる生成発展をもたらすという神道的世界観と同じである。

 技術革新は日本企業の強みであるが、それはこの「むすび」の考え方が後押ししているからと考える。特に現場の作業者一人ひとりまでが「改善」に参加するという日本の製造業における「改善サークル」「改善考案」は今や、世界の製造業のグローバル・スタンダードになりつつあるが、その根底にあるのも、人間が世界の生成発展に参画する、という神道の考え方だろう。


■7.神道的世界観の中で生まれた幸福と責務

 こうして見ると、現代のグローバル社会における環境運動、自由民主主義、大脳生理学、自由市場経済、技術革新などのトレンドは、みな神道的世界観と親和性が高いことが判る。

 逆にキリスト教的世界観と、現代文明はきわめて相性が悪いことが見てとれる。考えて見れば、キリスト教が支配した中世から訣別して始まったルネサンスや宗教改革が西洋近代の出発点となった。

 そこから産業革命、自由民主主義、自由市場経済、ついには現代の「リベラル」にまでつながってくるが、この点に関して、山村氏は田中英道・東北大学名誉教授の『日本人にリベラリズムは必要ない』から、こう指摘する。

__________
 もともと「リベラル」そのものが伝統的な「反キリスト教」から始まり、政治思想的には17世紀の「キリスト教からの自由」で始まったイギリスのジョン=ロックに始まり、経済的にはアダム=スミスから、心理学的にはフロイトから始まったといわれているからです。[1, 1146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西洋近代は、キリスト教との戦いの中で「キリスト教からの自由」を訴えざるを得なかった。しかし、それを追求する過程で、キリスト教が支えていた宗教的道徳も失うことになってしまう。その結果の「神なき近代文明」が現代人から安心立命を奪ってしまった、と言えるのではないか。


■8.古いものと新しいものが同居するワンダーランド

 山村氏は外国人観光客数十人に「日本の良いところはどこですか?」とアンケートで聞いたことがあるという。

__________
 その結果を見ると、50%以上の外国人が、「日本には、古いものと新しいものが共存し、同居しているところ」と、答えていました。
 古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術がなぜ同居するのか。また、日本人は新しいものを好む傾向があるのに、なぜ古いものを残そうとするのか。
 日本人にとっては、神社以外にも仏閣や古い家屋の残る日本の当たり前の風景ではありますが、外国人から見れば、日本は「なぜか古いものが残っている」ということが、「ワンダーランド」に見えてしまうのです。[1, 827]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 外国人、特にキリスト教徒から見れば、「古いもの=キリスト教」、「新しいもの=現代文明」で、両者は基本的に相容れないところがある。しかし、日本では「古いもの=神道」であって、それは以上述べたように、現代文明を包摂し、より良き方向に導く力を持ったものである。

 神道的世界観は現代文明の自由化、民主化、技術革新などを肯定しつつ、自然や共同体の中で共生し、より良く生きる道を教えている。そのような世界観の下で生まれた我々日本人の幸福をよく噛みしめつつも、外国人にもその世界観を共有する責務を我々が担っていることを知るべきだろう。

 昨年の訪日外国人客数が28百万人を超え、政府は2020年には4千万を目標としている。神道的世界観を世界に共有するには絶好の機会である。

 しかし、神道は言挙げよりも、まずは自然の美しさ、有り難さを感じとる処から始まる。そのためには、各国首脳が神宮参拝で感じとったように、まずは我々日本人がこの美しい国土を大切にし、それの姿を見て貰うことが出発点だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
http://blog.jog-net.jp/201807/article_3.html

b. JOG(707) 農が引き出す自然の恵み
 農業はカネでは計れない価値を自然から引き出す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog707.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■評価★★★★★ 日本に誇りが持てるようになります。(Tatchyさん)
 
 この本を読めば日本人が受け継ぎ発展させてきた世界に誇る日本の文化や伝統、国民性・・・(その他もろもろ)が深く理解できるでしょう。
 特に神道と仏教が融合された独自の宗教観には感銘を受けました。(やや神道寄りに書いていますが)

 西洋や中東のような上から目線の一神教と異なり神は身近にあり労働も生殖も祝福される事であった事などは日本人の勤勉さや弱者や子供を助ける精神に繋がる事がよく分かり素晴らしいと思いました。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』★★★、ベスト新書、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4584125708/japanontheg01-22/

2. 竹田恒泰『現代語古事記: 決定版』★★★、学研パブリッシング、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4054050751/japanontheg01-22/

3.平凡社『神道大辞典 全三巻合本』(Kindle版)桜の花出版、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B01FQFSNIY/japanontheg01-22/

4. Gallup「In U.S., 42% Believe Creationist View of Human Origins」
https://news.gallup.com/poll/170822/believe-creationist-view-human-origins.aspx


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95. 中川隆[-13719] koaQ7Jey 2018年12月01日 23:39:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21517] 報告

「古事記に学ぶ日本のこころ」 馬渕睦夫 〜天と地を結ぶ日本人の力〜 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=xcQ1sp6fV2g


2018/12/01 に公開

いつもの馬渕大使とは一味違う、ライブ感あふれるメッセージ!
物質欲、金銭欲で支配されるグローバリズム的な生き方を、私たちは祓い除け、伝統的な日本人の生き方を取り戻す必要があるのではないでしょうか。世界の人々もそこに注目しています!
そして、グローバリズムとナショナリズムを共存させる知恵とは何か?日本人の力が問われています。


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96. 中川隆[-13719] koaQ7Jey 2018年12月02日 00:08:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21523] 報告

馬渕睦夫『グローバリストが恐れる日本の底力』
◉講演「新嘗のこころ」第2部(グローバリズムとは共産主義である) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YoH3GG3WiAc&index=2&list=PL7MaEu9i584cGqauRwWXCapXVTxom8dDT

今の天皇一族=グローバリスト


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97. 中川隆[-13721] koaQ7Jey 2018年12月02日 01:12:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21532] 報告

秋篠宮が異例の発言。「大嘗祭」は宗教的ゆえ国費支出べきでないと、国民に。新たな皇室の姿か( 日本がアブナイ! ) 2018-11-30

 今朝、一番ビックリしたニュースは、秋篠宮が来年の皇位継承に伴う伝統儀式「大嘗祭」の費用について、公の場で意見を述べたことだ。(゚Д゚)

 皇族は、政府の支出する予算に関しては、政治的な発言に当たるおそれもあるため、基本的にクチを出さないものが通例なのであるが・・・。<今回も問題になるかも。>
 秋篠宮はちゃんと憲法上の「政教分離」の観点から、皇位継承に伴う伝統儀式「大嘗祭」は宗教的な儀式に当たるものなので、政府の費用を支出すべきでないと主張したのである。(@@)

 しかも、宮内で主張していたのに、聞く耳を持ってくれなかったので、自分の誕生日の会見の場を使って、思い切って国民に直接、自分の考えを伝えようとしたのだ。(**)

<もともと皇室の儀式や行事の多くは、その歴史から考えても、神道にのっとった宗教的なものが多いのだけど。以前から、あまりに宗教的な色彩の強い儀式は、国事行為として政府のお金を使うのではなく、宮廷内のお金を使うべきではないかという意見が出ていたのだ。
 特にこの大嘗祭については、議論が続いていたらしい。詳しくは*1に>

* * * * *

 正直なところ、mewも含めて、おそらく国民の多くはふだん、何の費用がどこから支出されているなんて、ほとんど考えないと思うのだけど。よく考えれば、それはとても大切なわけだし。<しかも、皇位継承に伴う儀式は、億、十億単位のものが多いしね。^^;>

 今上天皇ご夫妻も、皇太子ご夫妻も、できる限り、皇室、宮中に関する行事は質素に倹約をしてという方針をとられてきたように思うのだが。
 秋篠宮も、それを受け継いで、政府、宮内庁が宮中行事に何となく、半分、どんぶり解釈、どんぶり勘定で済ませようとしていることにも一石を投じようとしているのではないかと・・・。

 そして、もうすぐ新天皇に代わる中、もっとオープンでスリム化した新しい皇室のあり方を実現しようとしているのではないかと感じた。(・・)

<しかも、天皇や皇太子が言いにくいことは、自分が言って、国民に伝えようと考えているのかも。>

* * * * * 

 mewは、あまりネトウヨのブログを読むことはないのだが。何かネトウヨ界の中では、今上天皇ご夫妻も、皇太子ご夫妻は、伝統的な皇室のあり方を踏襲せず、本来あるべき皇室の姿を壊したものとして、批判されているものも少なからず見られる。

 それに対して、秋篠宮夫妻やお子様方は、そのようなネトウヨにも好評らしく・・・。
 彼らこそが、日本の国体としての天皇家を再興してくれると。女性天皇が誕生するのを防ぐために、男の子をもうけてくれた日本の救世主的な存在だと賛美しているのさえ見たことがある。(・o・)

 それゆえ、今回の秋篠宮の発言には、本当に驚いたのであるが。もし秋篠宮が父である今上天皇の後押しを経て、兄の新天皇と共に、新しい皇室作り、オープンでスリム化した皇室作りに・・・もちろん、何より日本の平和主義を大切にする守る皇室の継続にて努めて行きたいと考えているなら、mewは、応援したいと思う。(**)

 逆に、もしかして秋篠宮信奉の強いネトウヨや皇室オタにとっては、今回の発言はちょっとショックな出来事になるのかも知れない。^^;

『秋篠宮さま、大嘗祭支出に疑義「宮内庁、聞く耳持たず」

 秋篠宮さまが30日の53歳の誕生日を前に紀子さまと記者会見し、天皇の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と述べ、政府は公費を支出するべきではないとの考えを示した。この考えを宮内庁長官らに伝えたが「聞く耳を持たなかった」といい、「非常に残念なことだった」と述べた。

【写真】記者会見する秋篠宮さまと紀子さま=22日、東京・元赤坂の秋篠宮邸、代表撮影

 記者会見は誕生日当日の30日に報道されることを前提に、22日に行われた。政府が決定した方針に、皇族が公の場で疑義を呈することは異例。秋篠宮さまは来年5月の代替わり後、皇位継承順位第1位で皇太子待遇の「皇嗣(こうし)」となる。

 大嘗祭は、新天皇が新穀を神々に供えて世の安寧や五穀豊穣(ごこくほうじょう)などを祈る儀式。1990(平成2)年に行われた前回の大嘗祭では、国から皇室の公的活動に支出される公費「宮廷費」約22億5千万円が使われ、「政教分離に反する」という批判は当時から根強くあった。政府は今回も、儀式に宗教的性格があると認めつつ、「極めて重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」として宮廷費を支出する方針を決めた。前回を踏襲して同規模の儀式を想定しているが、人件費や資材の高騰で費用が増す可能性もある。

 これに対し、秋篠宮さまは天皇家の「私費」にあたる「内廷会計」で賄うべきだと述べた。遺産や国から支出されている内廷費などだが、使途は天皇家の裁量で、通常の宮中祭祀(さいし)にも使われている。

 秋篠宮さまは「身の丈にあった儀式」にすることが本来の姿、とも述べた。前回の代替わりでも同様の意見を述べていたといい、今回も宮内庁の山本信一郎長官らに「かなり言った」というが、考えてもらえなかったという。

 山本長官は直後の会見で「聞く耳を持たなかったと言われるとつらいが、そのようにお受け止めになったのであれば申し訳ない」と話した。一方、天皇陛下からは即位関係の諸儀式などは皇太子さまとよく相談して進めるよう伝えられているといい、「ご理解を頂いて進めている」としている。(多田晃子、中田絢子)


     ◇

 〈大嘗祭〉

 新たに即位した天皇が1代に1度限り行う重要な儀式。稲作農業を中心とした古代社会の収穫儀礼に根ざしたもので、7世紀の天武天皇の大嘗祭が最初とされる。中核の「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」では、新天皇がその年に収穫された米などを神々に供え、自身も食し、五穀豊穣(ほうじょう)や国家安寧を祈る。今回は来年11月14〜15日に予定。このために皇居・東御苑に大嘗宮(前回は建設費約14億円)が新設され、儀式後に解体・撤去される。(朝日新聞18年11月30日)』  

『秋篠宮さま53歳 大嘗祭「身の丈にあった儀式に」代替わり行事でご見解 眞子さまご結婚延期にご言及 

 秋篠宮さまは30日、53歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、東京・元赤坂の宮邸で秋篠宮妃紀子さまとともに記者会見に臨み、代替わりに伴う大嘗祭(だいじょうさい)について、国費ではなく、天皇ご一家の私的活動費「内廷会計(内廷費)」でまかなうべきだとし「身の丈にあった儀式」とすることが「本来の姿」との認識を示された。政府決定と異なる見解を皇族方が明らかにされるのは異例。

 長女の眞子さまのご結婚延期に関しては、婚約内定相手の小室圭さん(27)側に対し、母親の金銭トラブルなどを指摘する報道を念頭に「相応の対応をするべきだ」とし、多くの人が納得する状況にならなければ、婚約にあたる納采(のうさい)の儀を行えないと述べられた。眞子さまのご結婚延期について、秋篠宮さまが公の場で発言されるのは初めて。


 秋篠宮さまは会見で、大嘗祭について「絶対にすべきもの」とする一方で、「ある意味の宗教色が強いもの」と言及された。その上で、政教分離を定めた憲法上の問題から、国費ではなく「内廷会計で行うべきだ」との見解を示された。こうした意見は宮内庁の山本信一郎長官にも伝えたが「聞く耳を持たなかった」とも述べられた。

 政府は来年11月の大嘗祭に関し、皇室行事とするものの、皇室の公的活動費「宮廷費」(国費)を充てた平成の代替わりを踏襲することを決定している。山本長官は秋篠宮さまのご発言に対し、大嘗祭のあり方が決定済みであることを踏まえ「かねての持論を述べられたもの。政治的な発言ではない」と述べた。天皇陛下からは、即位関連儀式は皇太子さまと相談するようお話があったといい、「(皇太子さまには)理解をいただきながら進めている」としている。(産経新聞18年11月30日)』

* * * * *

 各界からの反応は・・・(麗澤大学の八木教授は安倍ブレーンの超保守派の人ね。)


『首都大学東京 木村教授「もっともな発言」

 秋篠宮さまの発言について、憲法学者で首都大学東京の木村草太教授は「もっともな発言だ。前回の大嘗祭のあと、最高裁が大嘗祭には宗教性があるという判断を示していて、政府は来年の儀式の在り方について、前例の踏襲に終わらず、もっと慎重に検討すべきだった」と述べました。

そのうえで、「皇室の行事について、皇室の一員として述べられたもので、政治的な発言とまでは言えないが、秋篠宮さまがここまで踏み込んだ発言をしないといけない状況だと認識されていることに強い衝撃を受けた」と話しています。

 麗澤大 八木教授「真意くみ取れない」

 秋篠宮さまの発言について、憲法学者で麗澤大学の八木秀次教授は「大嘗祭は宗教的性格を有するが、憲法に定められた皇位継承を行ううえでの重要な儀式であり、皇室の私的行事とはならない。国費から支出することに問題はなく、議論も尽くされていて、何を懸念されているのか真意をくみ取れない」と述べました。

 そのうえで、「予算の使い方について公の場で言及されたものであり、皇族による政治的な発言とも言え、決して無視できるものではない」と話しています。

元判事 園部さん「やむにやまれぬお気持ちに理解」

 秋篠宮さまの発言について、最高裁判所の元判事で、皇室制度に詳しい園部逸夫さんは「皇族が内閣で決めたことに記者会見の場で意見を述べられるのは、喜ばしいことではないと思うが、宮内庁に話してもなにも変わらない中で、皇室にもこんな意見があるのだと知ってもらいたいという、やむにやまれぬお気持ちも理解できる」と述べました。

そのうえで、「これをきっかけに大嘗祭の費用の在り方について議論が広がる可能性もある」と話しています。(NHK18年11月30日)』

 そして、ここから政治家や識者(特に超保守派ね)や国民からどんな反応が出るのか、と〜っても楽しみなmewなのだった。(@@)

         THANKS


大嘗祭めぐるこれまでの議論

平成の「大嘗祭」は、戦後の新しい憲法のもとで初めて行われ、政教分離の原則との整合性をめぐって、さまざまな議論が生じました。

一部の学者や市民グループは、大嘗祭は神道に基づく宗教的儀式で、政府が関わるのは信仰を助長することになり、政教分離を定めた憲法に違反すると主張しました。

そのうえで、実施する場合は国事行為でなく、皇室の私的儀式とすべきで、費用は天皇の生活費などに充てられる「内廷費」から支出すべきだという意見が出されました。

政府は有識者から意見を聴くなどして、大嘗祭の位置づけや予算措置などについて検討を進めた結果、「宗教上の儀式としての性格を有するとみられることは否定することができず、国事行為として行うことは困難だ」とする見解をまとめました。

そのうえで、「一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であり、皇位の世襲制をとるわが国の憲法のもとにおいては、その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる」として、費用は皇室の公的な予算にあたる「宮廷費」から支出することが妥当だとしました。

これに対し、反対する学者や弁護士などが集会を開いて抗議の声を上げ、各地の住民から国費を支出したことや知事などが参列したことが憲法違反だとする訴えが起こされましたが、いずれの裁判も訴えられた国などが勝訴しました。

そうした中、平成7年の大阪高等裁判所の判決では、訴えを退けたうえで、「国費の支出は、国家神道を助長するような行為として、憲法に違反するのではないかという疑いは一概には否定できない」と指摘しました。

来年の大嘗祭について、政府はことし2月の式典準備委員会で、前回の政府見解やこれまでの司法判断を踏まえて検討を行い、その後の閣議で前例を踏襲することを決めています。

大嘗祭めぐるこれまでの議論 (NHK18年11月30日)

平成の「大嘗祭」は、戦後の新しい憲法のもとで初めて行われ、政教分離の原則との整合性をめぐって、さまざまな議論が生じました。

一部の学者や市民グループは、大嘗祭は神道に基づく宗教的儀式で、政府が関わるのは信仰を助長することになり、政教分離を定めた憲法に違反すると主張しました。

そのうえで、実施する場合は国事行為でなく、皇室の私的儀式とすべきで、費用は天皇の生活費などに充てられる「内廷費」から支出すべきだという意見が出されました。

政府は有識者から意見を聴くなどして、大嘗祭の位置づけや予算措置などについて検討を進めた結果、「宗教上の儀式としての性格を有するとみられることは否定することができず、国事行為として行うことは困難だ」とする見解をまとめました。

そのうえで、「一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であり、皇位の世襲制をとるわが国の憲法のもとにおいては、その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる」として、費用は皇室の公的な予算にあたる「宮廷費」から支出することが妥当だとしました。

これに対し、反対する学者や弁護士などが集会を開いて抗議の声を上げ、各地の住民から国費を支出したことや知事などが参列したことが憲法違反だとする訴えが起こされましたが、いずれの裁判も訴えられた国などが勝訴しました。

そうした中、平成7年の大阪高等裁判所の判決では、訴えを退けたうえで、「国費の支出は、国家神道を助長するような行為として、憲法に違反するのではないかという疑いは一概には否定できない」と指摘しました。

来年の大嘗祭について、政府はことし2月の式典準備委員会で、前回の政府見解やこれまでの司法判断を踏まえて検討を行い、その後の閣議で前例を踏襲することを決めています。
https://mewrun7.exblog.jp/27690394/

天皇の継承、即位の儀式は、1年にも及ぶ長い期間に渡るものです。
大嘗祭は、その一連の行事として行われるものであり、行事の中心は即位の礼であります。
次に今生天皇の即位の礼、大嘗祭の日程を紹介します。

1990年(平成2年)

1月23日 賢所・皇霊殿・神殿に期日奉告の儀、伊勢神宮・天皇陵等に勅使発遣の儀
1月25日 伊勢神宮・神武天皇・前四代天皇陵奉幣の儀
2月8日 斎田点定の儀
8月2日 大嘗宮地鎮祭
9月27日 斎田抜穂前一日大祓(悠紀田:秋田県南秋田郡五城目町)
9月28日 斎田抜穂の儀(悠紀田)
10月9日 斎田抜穂前一日大祓(主基田:大分県玖珠郡玖珠町)
10月10日 斎田抜穂の儀(主基田)
11月12日 即位礼当日賢所大前の儀
同日 即位礼当日皇霊殿・神殿に報告の儀
同日 即位の礼・即位礼正殿の儀 ※国事行為
同日 即位の礼・祝賀御列の儀(オープンカーでのパレード) ※国事行為
同日 - 15日 即位の礼・饗宴の儀 ※国事行為
11月13日 園遊会・内閣総理大臣夫妻主催の晩餐
11月16日 伊勢神宮に勅使発遣の儀
11月18日 一般参賀
11月20日 大嘗祭前二日御禊・大祓
11月21日 大嘗祭前一日鎮魂の儀・同大嘗宮鎮祭
11月22日 大嘗祭当日神宮に奉幣の儀
同日 大嘗祭当日賢所大御饌供進の儀
同日 大嘗祭当日皇霊殿・神殿に奉告の儀
同日 大嘗宮の儀・悠紀殿供饌の儀
11月23日 大嘗宮の儀・主基殿供饌の儀
11月23日 - 25日 大饗の儀
11月24日 大嘗祭後一日大嘗宮鎮祭
11月27日 - 28日 即位礼・大嘗祭後神宮に親謁の儀
12月2・3・5日 即位礼・大嘗祭後神武天皇・前四代天皇陵親謁の儀
12月3日 茶会
12月6日 即位礼・大嘗祭後賢所・皇霊殿・神殿に親謁の儀
同日 即位礼・大嘗祭後賢所御神楽の儀
12月10日 天皇陛下御即位記念祝賀会


※ 秋篠宮が言及した 大嘗祭は、この中の一部であり、即位の礼の約10日後に行われています。

なお、即位礼正殿の儀 ・祝賀御列の儀・饗宴の儀は国事行為とされています。
国事行以外は、内廷費から出すべきだと言う秋篠宮の主張です。
http://kenpo9.com/archives/4493


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

98. 中川隆[-13718] koaQ7Jey 2018年12月02日 01:15:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21532] 報告

天皇制は廃止しても全く問題無いですが、大嘗祭は弥生時代以降ずっと伝えられてきた大切な儀式なので死守しないといけないのですね。

儀式を後世に伝える為には、定期的に、太古から伝えられているやり方そのままに完璧に再現するしかないのです。

少しでも手抜きしたらもう二度と太古のやり方を再現できなくなってしまいます。


▲△▽▼


秋篠宮がこういう事を言う理由は明らかです。

国際金融資本の手先でグローバリストの天皇一族は野暮ったくて手間と時間が掛る面倒な儀礼をやりたくないのですね:


神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族

カトリック教徒になろうとした昭和天皇


「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

昨年公開された『昭和天皇実録』は、あまり新事実がないという評判だったので興味がなかったのだが、本書を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

これは退位問題ともからんでいた。天皇自身は退位したいと考えていたようだが、皇太子が未成年なので摂政を立てざるをえない。しかしそれはむずかしいので、天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html


昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。


この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/

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美智子さまは皇族を全員クリスチャンにさせる使命を与えられていた

やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ 2016年3月11日
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。

皇后陛下とGHQとの癒着の根っこが明らかになりました。

現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の極めて具体的な体現者です。


◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

◆なんと、社会党が支援していた美智子さま

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

◆皇后陛下は「アカ」でした

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac


かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教をそのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、 愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535
https://www.youtube.com/watch?v=CA9Nht0Bo30


こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが残っています。
女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから追放されていた時代です。

外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、 平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)


日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。

ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1

1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用

1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立

1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得

1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社


この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?

なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました


http://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。
また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。

そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。


【正田稲荷神社】
もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。

以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた白山神社さんと勘違いされた?

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だということではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?

何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。


皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面がこういうふうである、と。


一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・


もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。

普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。

こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。

http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。

国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 – 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?

気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。

足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、 「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。


朝鮮髪飾り ペッシテンギ


国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為がった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。

皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま即位させないと、計画が成就しないわけです。


いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、 個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。

そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。

皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方ですでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が入り込みます。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

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世間の噂

秋篠宮文仁  

みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)

その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください


_____


「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w


秋篠宮 (文仁) 殿下が、天皇実子でないという噂は、関係各位に根強く伝承されている。

噂の出所は、天皇一族の警護、護衛を主務とする皇宮警察。 皇宮警察と言えば、警察官の中でも選りすぐりの良血者で構成されている機関だが、良血と言っても所詮は田吾作集団。

酒が入れば、口も軽くなり、同期生が集まれば、ここだけの話が、あっちこっちで交わされるのである。

「ここだけの話だが、秋篠宮が、天皇の本当の子供でないってこと、お前知ってるか?」 ここだけの話の一つが、それである。

それが酒席の冗談で終わらなかったのは、それなりのバックボーンがあるからだ。

遡ること四十数年、昭和天皇の后や、后の取り巻き女官たちから陰湿なイジメを受けた美智子妃殿下 (当時) は、精神に深いダメージを受け、那須の御用邸で一人寂しい静養生活を送っていた。


生まれついての貴種である前の皇后にとって、平民出身の美智子妃殿下の一挙一動作がしゃくの種。 子供 (浩宮) の育て方に始まって、手袋の持ち方一つにもアヤをつけたのである。

悩み多き貴婦人の警護を担当していたのが、若き偉丈夫の皇宮警察官。 深い同情が恋情に変わり、いつしか二人は恋に落ちたというのが、まことしやかな警察物語である。

そして、皇太子 (当時) と没交渉の筈の妃殿下に、懐妊のニュースが流れることになる。 

道ならぬ恋の噂は、宮内庁首脳にも届いている。 だからと言って、出産を止める手だてなどあろう筈もない。 そこで代々の宮内庁長官に、一つの言葉が引き継がれることになった。 

「皇位継承者は浩宮の血脈から ・・・」 と、である。

秋篠宮 (文仁) 殿下は成長するにつれ、天皇一族とは明らかに異なる特徴を見せつける。 体型、思想、行動の全てである。 皇太子や、黒田清子さんが、一目で陛下のお子さんだと分かるのに比べ、秋篠宮の体型は似ても似つかぬものがある。


それよりも何よりも、ナマズの研究にかこつけて、タイ女性にうつつを抜かしたり、祖父である昭和天皇の喪が明けぬ内に結婚を決行するといった傍若無人の精神性を露出する。 挙げ句の果てには、兄である皇位継承一位の皇太子を、公然と批判したりするのである。

「文仁殿下は、血の秘密を知っているに違いない」 の呟きが宮内庁首脳から洩れる。

そうとしか理解できぬ異常行動が多すぎるのである。

菊のカーテンの奥に潜む機密事項が、小泉総理にもたらされたのは、今から一年以上も前になる。

雅子妃殿下の病状が思わしくないこと。 おそらく、お子さんは愛子内親王お一人でありましょう。

「だからこそ、皇室典範を改訂し女性天皇、女系天皇への道筋をつけて戴きたいのです」 さもないと、神武天皇以来続いた万系一世の貴種は、今世をもって終焉するかも知れません。万が一にも秋篠宮家に第三子が誕生し、それが男子であったなら ・・・・・・・

流石の小泉も、菊の秘事を耳にして腰を抜かさんばかりに驚いたという。


当時は、郵政政局真っ盛りの頃、政局に破れ退陣するようなことにでもなれば、郵政もさることながら、皇室が大変なことになるのである。

結果、総選挙に大勝し、郵政を片づけた小泉内閣は、早速大事案である皇室典範の改訂に取りかかる。 平沼赳夫のように、小泉憎しで反対音頭を歌うのはどうでも良い。 何としてでも片を付けてみせると決意を固めた矢先である。

秋篠宮紀子妃殿下が十一年ぶりに懐妊したとのニュースが日本全土に配信される。 長兄に男子が出来ぬなら、作って見せようの気構えかどうかは別にして、皇室典範事案の帰趨が大問題になっている矢先の懐妊である。

このことが万々歳でないことは、美智子皇后が突然体調を崩されたことからも察することが出来る。

馬鹿なマスコミは、目出度さ一色の報道を繰り返すが、目刺しの頭も信心からと言う事態になるやも知れないのである。

日本には、触れれば血が出る、死人が出ると言われる世界が三つあった。 同和、総連、それに菊の紋所である。 特に菊は、タブー中のタブー、同和・総連が小泉改革で崩壊しても、菊に関しては批判めいたことが何一つ言えないという風潮がまかり通っている。

だから今回は、署名投稿で秘中の秘、禁断のエリアに踏み込んでみた。 その場を与えてくれた、論談編集者に礼を言いたい。
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0602/060208-3.html


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99. 中川隆[-13710] koaQ7Jey 2018年12月03日 08:09:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21574] 報告
“佳子さまICU志望”で考えた 皇室とキリスト教はどんな関係? 2014.10.30
https://dot.asahi.com/wa/2014102900074.html?page=1

米国へホームステイに出発する佳子さま(2013年8月) (写真:読売新聞社代表撮影) (c)朝日新聞社 



 秋篠宮家の次女、佳子さま(19)が学習院大学を辞め、AO入試に挑んだことで話題の国際基督教大学(ICU)。結果はまだ公表されていないが、迎えるためにはやはり大学側も、入念に準備するのだろう。

 ところでなぜ、佳子さまと眞子さまの姉妹は、キリスト教精神に基づく大学を選んだのか。天皇は天照大神の子孫とされ、一切の神儀祭事は神道にのっとって実施されている。だが、皇室とキリスト教の関係を調べると、公開されたばかりの「昭和天皇実録」に興味深い記述がいくつか見受けられる。

 まずクリスマスにプレゼントを贈る習慣は、1904年の日露戦争のころにすでに皇室にあった。戦後、A級戦犯が処刑された1948年ごろには、昭和天皇は多くのキリスト教徒と接し、定期的に聖書の講義も受けていたと記されている。

 また、実録ではこんなエピソードを伝えている。皇太子(いまの天皇陛下)が結婚する際、皇太子妃(美智子さま)がミッション系の聖心女子大出身だったことから、「ある皇族の一人がキリスト教に興味を持ったのは皇太子妃の影響」と聞いた昭和天皇が美智子さまに「皇室においてキリスト教の話はしないように」と叱責したというのだ。実はこれらは当時の雑誌が書き立てた噂話で、昭和天皇は「事実でないし、心に思ったことさえなかった」と伝えるよう側近に命じたと実録は記している。

 京都産業大学の所功名誉教授(日本法制文化史)が解説する。

「皇室とキリスト教の関係を、狭い宗教の観点から考えると事実を読み違えるでしょう。明治以降、欧米からさまざまなことを学びながら近代化してきた中で、キリスト教もひとつの西洋文化として、柔軟に受け入れてきたのです」

 その流れは現代まで脈々と続き、眞子さまと佳子さまがICUを目指すことになったのは、何の不思議もないことなのだ。そんな歴史と伝統を受け継ぎながら、学習院という皇室の「殻」を破った佳子さまの新たな青春のスタートが待たれる。

※週刊朝日  2014年11月7日号より抜粋
https://dot.asahi.com/wa/2014102900074.html?page=1

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

100. 中川隆[-13720] koaQ7Jey 2018年12月03日 12:12:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21604] 報告


2018.12.03
精算されていない日本の過去(1/2)

 第2次世界大戦中、日本は占領した東アジアの国々で人びとを強制的に動員して働かせた。徴用工だ。日本では1938年に国家総動員法が制定され、翌年に公布された国民徴用令によって厚生大臣は強制的に人員を徴用できるようになった。


 この仕組みを国外で外国人に適用すれば国際問題になる。韓国との問題では1965年の日韓請求権協定で解決したことになっているが、日本側も個人の請求権は消滅していないことを認めている。韓国の大法院もそのように判断、日本の企業に賠償金の支払いを命じたわけだ。


 日韓請求権協定自体の問題を含め、日本の過去は清算されていない。アメリカ支配層の力を借りて封印してきただけである。アメリカの力が弱まったことで、問題が表面化してきたと言えるだろう。韓国は何年も前からロシアや中国との関係を強め、アメリカから離れつつある。アメリカの属国である日本に気兼ねするような状況ではなくなってきたのだ。


 本ブログでは何度か書いたことだが、日本軍は東アジアの占領地で財宝を組織的に略奪している。「金の百合」だ。


 アメリカ人ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、プロジェクトが始まるのは日本軍が南京を攻略した1937年。政府が保有する資産を奪うだけでなく、銀行や裕福な家に押し入って金や宝石などを略奪したという。財宝を探し出すため、憲兵隊は目をつけた家の娘を誘拐することもあったという。娘と引き換えに、隠した財産を差し出すか近所や親戚の財産に関する情報を教えろというわけだ。貧しい家の娘は売春宿に連れて行かれたともシーグレーブ夫妻は主張している。


 この南京攻略戦に参加した少なからぬ日本軍の将兵が陣中日記の中で軍命によって捕虜を射殺したと記録しているが、個人的な略奪、殺戮、レイプなどもあったようだ。


 この作戦当時、特務機関員として活動中だった中島辰次郎は、南京市内で「虐殺」と呼べる出来事があったことは間違いないと明言、総数はわからないとしたうえで、死体が山積みになった光景を見たと話していた。(筆者自身の取材)


 また、支那派遣軍の岡村寧次総司令官が「大暴行があたのは事実」と書き残しているほか、外務省の石射猪太郎東亜局長は「南京に於ける我軍の暴状」の報告に「目もあてられぬ惨状」と書かれていたと日記に記している。中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将は師団長クラスの退廃ぶりを嘆いていた。


 南京攻略は形式上、松井石根が最高指揮官なのだが、実際は朝香宮鳩彦、昭和天皇(裕仁)の叔父にあたる人物だったと言われている。


 スターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、「金の百合」を指揮していたのは天皇の弟である秩父宮雍仁で、その補佐をしていたのが天皇の従兄弟にあたる竹田宮恒徳だという。秩父宮は駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーと親しい。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030000/

2018.12.03
精算されていない日本の過去(2/2)

 日本軍が中国など大陸で略奪した財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手はずになっていた。実際、一部の金塊は東京にあるスイス系銀行、マカオにあるポルトガル系銀行、あるいはチリやアルゼンチンの銀行に運び込まれたという。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003)隠し場所として、さまざまな場所の名前が挙がっている。

 ところが戦況の悪化で輸送が困難になり、相当部分がフィリピンの山の中に隠された。日本の日本の敗戦が決まった当時、フィリピンを担当していた日本軍第14方面軍の司令官が山下奉文大将だったことから隠された財宝は「山下兵団の宝物」とも呼ばれている。その山下は1946年2月にマニラで処刑された。

 アメリカの情報機関は戦争中から「金の百合」に関する情報を持っていて、日本が降服するとすぐに回収工作を始める。関係者への尋問は戦時情報機関OSSのエドワード・ランズデール大尉(当時)が指揮した。後に対キューバ工作を指揮、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる人物だ。

 OSSが廃止になるとランズデールはチャールズ・ウィロビー少将が率いるフィリピンのG2(アメリカ陸軍の情報部門)へ配属になり、尋問を続ける。財宝のありかを聞き出したのはランズデールの部下だったセベリーノ・ガルシア・ディアス・サンタ・ロマーナだ。

 その情報は東京やワシントンDCに伝えられる。その際、ランズデールはハリー・トルーマン大統領の国家安全保障を担当していたスタッフにも会っている。

 この報告を受けたヘンリー・スティムソンは財宝をアメリカの国際戦略に利用しようと考える。1945年9月21日までスティムソンは陸軍省(戦争省)の長官で、その下にはジョン・マックロイやロバート・ラベットなどウォール街の大物がいた。

 アメリカの支配層が手に入れた略奪財宝は「金の百合」以外にもあった。ドイツ軍がヨーロッパで略奪した「ナチ・ゴールド」だ。ジョン・ロフタスとマーク・アーロンズによると、ナチスがヨーロッパで略奪した資金はOSS長官だったウィリアム・ドノバンが1946年に設立したWCC(世界通商)でロンダリングされ、タイへ運ばれたという証言もある。(John Loftus & Mark Aarons, “The Secret War against the Jews”, St. Martin’s Press, 1994)

 WCCをドノバンと共同で設立したのはイギリスの対外情報機関MI6の下部組織、BSC(英国安全保障局)の責任者だったウィリアム・ステファンソン。WCCの後ろ盾にはネルソン・ロックフェラー、ジョン・マックロイ、シドニー・ワインバーグ、ビクター・サッスーンも含まれている。(Peter Dale Scott, “American War Machine”, Rowman & Littlefield, 2010)

 「金の百合」と「ナチ・ゴールド」は統合され、「ブラック・イーグル・トラスト」と呼ばれる秘密の基金が創設されたとも言われている。こうした秘密資金がアングロ・サクソンの世界支配に利用されたということになる。

 「金の百合」に関する情報は1980年代の後半から流れるようになった。切っ掛けはフェルディナンド・マルコスの失脚。1983年8月にマルコスのライバルだったベニグノ・アキノが空港で射殺され、マルコスに対する抗議運動が激しくなり、それを利用してアメリカ軍がマルコスを拉致したのだ。国外へマルコスが出ると財宝に関する裁判が起こされ、情報が漏れ出てきたのだ。

 マルコスは1954年にイメルダ・ロムアルデスと結婚しているが、ふたりを引き合わせたのはランズデールの部下だったロマーナ。ロマーナはイメルダと親しかったようだ。マルコスは日本軍が隠した財宝の一部を掘り出し、それを資金源にして大統領というポストを手に入れたと言われている。

 ロナルド・レーガンが大統領に就任した直後、マルコスはブラック・イーグル・トラストに関して沈黙を守る代わりに援助という名目でフィリピンにカネを回すようにアメリカ政府へ要求した。つまり恐喝だ。当然、アメリカや日本の政府は警戒するようになる。それがマルコス失脚の原因だという。

 詳細は割愛するが、アメリカが日本の過去を封印する手助けをする理由のひとつは略奪財宝にあるだろう。日本の過去を本当に精算しようとすれば、アメリカが大戦後に築いた世界支配の仕組みが明らかになる。日本の場合、薩摩と長州が徳川体制を倒した明治維新から現在に至るまでの歴史も見直さなければならなくなる。本ブログでは何度も書いてきたが、血盟団や二・二六の将校が何を見、なぜ怒ったのかを理解する必要もある。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030001/

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101. 中川隆[-13716] koaQ7Jey 2018年12月04日 04:11:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21628] 報告

秋篠宮が“宗教色”を指摘した「大嘗祭」に秘密の儀式が! 新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり…
https://lite-ra.com/2018/12/post-4406.html
2018.12.03 秋篠宮が「大嘗祭」には秘密の儀式が リテラ

    
   
 秋篠宮文仁親王(以下、秋篠宮)が、来年行われる大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」などと公に疑義を呈したことが、大きな波紋を広げている。

 大嘗祭は、代替わりした天皇が初めて行う「一世一度」の新嘗祭であり、皇位継承にまつわる主要儀式だ。今の明仁天皇が1990年11月に行った際には、経費総額約25億円、終われば即座に撤去される儀式用施設「大嘗宮」の建設だけで14億円以上が使われた。当時の政府は、大嘗祭について「宗教上の儀式としての性格」を否定できないとしながらも「公的性格がある」という二枚舌を使って、皇室の私的な費用である「内廷費」からではなく、宮内庁管理の公費である「宮廷費」を投じた。

 来年に予定される大嘗祭についても、安倍政権は宮廷費からの支出を今年4月から閣議決定していたのだが、今回、秋篠宮はその決定に真っ向から反対を表明したわけである。

 誕生日に際した記者会見で、記者から「即位の行事や儀式についてのお考えを」と尋ねられた秋篠宮は、「国事行為で行われるものについて、私が何かを言うことができるかというと、なかなかそういうものではない」と前置きしたうえで、「一方、皇室の行事として行われるものについては、ある程度私の考えというものもあってもよいのではないかと思っています」とし、大嘗祭についてこう私見を述べた。

「大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成の時の大嘗祭の時にもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、そのころはうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局、その時を踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています」

「今回もそうなわけですけれども、宗教行事と憲法との関係はどうなのかという時に、それは、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています。今でも。ただ、それをするためには相当な費用が掛かりますけれども。大嘗祭自体は、私は絶対にすべきものだと思います。ただ、そのできる範囲で、言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば(よいと思う)」

 実は、秋篠宮が大嘗祭について〈「皇室祭祀に公費を支出することは避けるべきではないか」との懸念を宮内庁幹部に伝えられている〉ことは、すでに毎日新聞が8月25日付朝刊ですっぱ抜いていた。しかし、それでも皇族が記者会見という場で、ここまで政府決定と異なる意見を直接的に述べたのは、異例中の異例と言わざるを得ない。

 しかも、秋篠宮は「そのことは宮内庁長官などには、かなり私も言っているんですね。ただ、残念ながらそこを考えること、言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」とまで踏み込んだのだ。

 いかに「政教分離問題」を懸念しているかがわかるが、秋篠宮は日頃から代替わり関連の儀式について、天皇・皇后とたびたび話し合いの場を設けているとされる。今回の発言が秋篠宮だけの意見であるとは思えない。

 事実、秋篠宮は会見のなかで「身の丈にあった」という言葉を用いて儀式簡略化への希望をにじませたが、これは、2016年の今上天皇による「生前退位」に関するビデオメッセージともリンクする。今上天皇は崩御にまつわる「殯の行事」を例に、「行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」と述べていた。

■大嘗祭で秘密の儀式が行われる部屋に寝座=ベットが

 そう考えると、秋篠宮が述べた、“大嘗祭へ莫大な血税が投じられることは憲法の政教分離違反の恐れがある”との指摘は、天皇の意思でもあるということだろう。そして、この指摘は至極まっとうなものである。

 大嘗祭の実相は、単なる「豊作を祝う農耕儀礼」ではなく、明らかな「宗教儀式」だ。明治時代、天皇神格化と国家神道を徹底するために旧皇室典範と登極令をつくり、それまで国民の知らないところでこじんまりと行われていた宗教的な皇室祭祀を大々的に執り行うようになった。

 いや、それだけではない。大嘗祭では、現代を生きる皇族が違和感を抱くのが当然と思えるような、霊的、性的な意味合いをもつ“秘密の儀式=秘儀”の存在が取りざたされてきた。

 大嘗祭は、新たな天皇が皇祖神とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)らに穀物を供え、新天皇自らも口にすることで豊穣と国民の安寧を祈る儀式と説明され、半年以上前から、当日にかけて、多岐にわたる儀礼が執り行われる。だが、そのなかに具体的な内容がまったく明かされていない儀式がある。

 それは、本祭の夜、新天皇が大嘗宮の悠紀殿および主基殿に籠ってなされる儀式だ。一般参列者はもちろん報道関係も完全にシャットアウトされたなか、天皇は11月22日夕方から翌23日未明まで、ふたつの殿の内陣に合計8時間にわたって引きこもる。

 このとき、新天皇は供えた新稲をアマテラスと一緒に食す〈共食〉の儀を行うと説明されているが、この共食の儀は、悠紀殿と主基殿で二度繰り返されることを除けば、毎年の新嘗祭と同じだ。しかし、それではどうして大嘗祭が特別な皇位継承儀礼であるかの説明がつかない。

 そして着目されたのが、内陣の構造だ。両殿内部には天皇と神の席がしつらえられており、ここで対座して〈共食〉をすることになっている。ところが、これが中心儀礼の割には部屋全体から見ると片隅に追いやられており、内陣の中心・大部分を占めるのは八重畳(やえだたみ)の寝座、つまりベットなのだ。そしてこのベットを使って〈秘儀〉が行われている、というのが最も有力な説として浮上してきたのである。

 言っておくが、こうした寝座を使った秘儀の存在は、都市伝説として語られているわけではない。神道や歴史学の分野でも本格的に議論されてきたものだ。その先鞭をつけたのが、民俗学の権威で、戦前は国家神道の強化にも多大な影響を与えた折口信夫である。

■折口信夫が指摘した「前天皇との同衾」「性の解放」の儀式の存在

折口は大嘗祭がおこなわれた昭和3年の前後にかけて、自身の天皇論と大嘗祭に関する論考を積み上げていった。それらのテーマを総合的にまとめたが、昭和5年に発表された「大嘗祭の本義」である。折口はそのなかで、寝具を天孫降臨神話で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまって地上に降り立ったとされる「真床覆衾(マドコオフスマ)」に見立て、天皇が布団にくるまる儀式の存在を唱えた。そして、これに不可欠な要素として持ち出したのが「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天使様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

 折口は「真床覆衾」「天皇霊」に付随して、「先帝同衾」という説も唱えている。これは前天皇の亡骸と新天皇の肉体というふたつの〈御身体〉を〈一つの衾で覆うて〉、復活のための儀式を行ったというものだ。折口によれば、古代には生死を明確にする意識がなく、平安期でも生死がはっきりしなかったので、「天皇霊」が前の身体に戻るか別の身体に移るかを確認する必要があった。そのための「同衾」だという。

 折口の説はその後、発展されるかたちで、さまざまな論考を生み出した。その一つが「聖婚儀礼」だ。あけすけにいえば、大嘗祭の夜、天皇による性行為が行われるという説である。大嘗宮の悠紀・主基両殿に入ることが許される人間は極めて限られる。その内構造は大きく二つにわかれており、御座と神座がある内陣(「室」という)には、天皇以外に「采女(うねめ)」という身の回りの世話をする女官の代表ひとりしか入れない。日本史学者の岡田精司氏らは、この采女を性行為の相手と見た。地方豪族から貢上された采女と「聖婚」することで服従を誓わせる儀礼があったのでないかと推定したのである。

 また、折口は、悠紀・主基両殿以外での性的な儀式の存在を指摘している。大嘗祭において、天皇は悠紀・主基両殿に籠る前に、廻立殿という併設の殿舎で「大忌の御湯」「小忌の御湯」と呼ばれる二度の沐浴=聖水儀礼を行うことで「穢れ」を払うという。史料によれば、この沐浴時に天皇は「天羽衣」を着用したというのだが、折口は〈元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである〉などとして、なんと、天羽衣とフンドシを結びつけた。そして〈物忌みの褌を締めて居る間〉は〈神秘たる霊力をして発散させぬ為〉の〈極端なる禁欲生活〉だとし、その〈解放の時〉が〈性の解放〉であると見立て、こう続けている。

〈天使様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生じるのである。〉(「大嘗祭の本義」)

 ちなみに、御所には「内掌典」と呼ばれる処女の巫女がおり、その内掌典がこの「大忌の御湯」「小忌の御湯」に立ち会うとされてきた(実際、昭和天皇の代には、本当に若い頃からずっと俗世界と関係を絶った4人の女性が御所に住んでいたが、その後、交代制になった)。

■平成の大嘗祭でも秘密のうちに執り行われた主紀殿、悠紀殿の儀

 しかも、ここで指摘しておかなければならないのは、かくも異様な儀式の存在を述べた折口の説を当時、当局が容認していたという事実だ。前述したように、折口が前後に天皇論・大嘗祭論を展開した昭和3年は、大嘗祭の実施年であったと同時に、治安維持法の最高刑が死刑へ改められた年であり、「三・一五事件」と呼ばれる共産党への大弾圧も行われた。

 ところが、折口の説は取締の対象とならなかっただけではなく、当時、国家神道推進の中心人物によって堂々と紹介されてもいる。近代神道の創始者であり、内務省神社局考証課長でもあった宮地直二が東大の神道講座で「天皇霊」論を講義したのである。

 もちろん、大嘗祭に、折口らの主張する秘儀があったとしても、途中からは、実際に性的行為や前天皇との同衾が行われていたわけではなく、模擬儀礼として行われているだけという可能性が高い。

 また、民主主義下で初めて行われた平成の大嘗祭では、海外メディアが秘儀をめぐる報道を繰り広げたことを政府が憂慮。わざわざ宮内庁が事前に会見で「(大嘗祭に)特別な秘儀はなく、特別な御告文にもそのような思想はない」と否定した(ただし、折口が性的儀式の存在を指摘した「大忌の御湯」「小忌の御湯」の儀については、会見で具体的内容について質問がとんだものの、宮内庁は説明を拒否している)。

 しかし、その平成の大嘗祭にしても、大正や昭和の大嘗祭とまったく同じように、長時間、徹底して秘密裏に執り行われたことは事実だ。

 大嘗祭を取材した元朝日新聞皇室担当記者でジャーナリストの岩井克己氏は、当時のことを〈午後五時過ぎから午後九時過ぎまで約四時間にわたって天皇の悠紀殿の儀が行われたが、殿内での天皇の「秘儀」はもちろん、廻廊を歩む姿も諸役の動きも全く見えない。奏されたという神楽歌など楽部の奏楽もほとんど聞こえず、ただひたすらじっと座って寒さを我慢しただけで終わった〉と振り返っている(「選択」2014年1月号)。

 今回の秋篠宮の指摘は、「政教分離」違反への懸念はもちろん、こうした平成の大嘗祭を体験した明仁天皇の思いを代弁したという部分もあるのではないだろうか。


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102. 中川隆[-13738] koaQ7Jey 2018年12月06日 08:57:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21757] 報告

クリスチャンの秋篠宮や日本の皇族は典型的なリベラル派でグローバリストなんですね。


馬渕睦夫さんが明らかにしていますが

左翼=リベラル=グローバリズム=ユダヤ人=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA
=マクロン、ヒラリー・クリントン、オバマ、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の官僚・皇族


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、サダム・フセイン、カダフィ、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三


なんですね。


安倍晋三は調整型の政治家で権力基盤が弱く、IQ も随分と低いので、官僚や自民党のグローバリストに引き摺られているのですが、本来はプーチンやトランプと同じナショナリストなのです :


【秋の特別対談】馬渕睦夫氏と語る - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BU4nkKMmVfo&app=desktop

ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
聞き手:水島総(日本文化チャンネル桜代表)


▲△▽▼


馬渕睦夫×水島総 「世界を統治する者との最終戦争が始まる!」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=L06Zs03T2D0

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)


▲△▽▼


馬渕睦夫『グローバリストが恐れる日本の底力』
◉講演「新嘗のこころ」第2部(グローバリズムとは共産主義である) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YoH3GG3WiAc&index=2&list=PL7MaEu9i584cGqauRwWXCapXVTxom8dDT


▲△▽▼


「古事記に学ぶ日本のこころ」 馬渕睦夫 〜天と地を結ぶ日本人の力〜 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=xcQ1sp6fV2g


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103. 中川隆[-13760] koaQ7Jey 2018年12月08日 20:45:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21865] 報告

ひとりがたり馬渕睦夫 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL7MaEu9i584fGdp78r27h-eH0rmWLioEC


2018/06/22 に公開
待望の馬渕睦夫大使の新番組がスタート!激動する世界、今の日本に必要なのは何か?どんな危機が訪れているのか?マスメディアでは伝えられない世界の真実と、馬渕睦夫の「眼」をお届けいたします。


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104. 中川隆[-13761] koaQ7Jey 2018年12月09日 22:26:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21880] 報告

ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ


ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8


収録日:2018年4月25日


今回はゲストに馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使)をお招きし、2018年の世界情勢を語っていただきました。馬渕氏曰く「今、世界は100年に1度の地殻変動」が起こっています。

アメリカ、中国、北朝鮮問題を中心に、マスメディアでは得られることがない、最先端の世界の見方がここにあります。この100年、世界はいかに作られてきたのか、どうぞしっかり掴んでください!


ゲスト馬渕睦夫氏の後半!北朝鮮問題の行方を中心に、朝鮮戦争の真実・そして終焉、グローバル勢力の影響下にあるNHK、世界の反ロシア・反プーチンの動き、マレーシア・マハティール首相の反中国、金融や企業スキャンダルに潜む外資企業の動き、テロに無自覚な日本、求められる日本国民の自衛・・・等、初対談となった今回、両先生も手応えをつかんだご様子。

<ゲスト>
馬渕睦夫(まぶち むつお)1946年1月21日生まれ
吉備国際大学客員教授 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使 
1946年京都府生まれ 世界情勢を視る眼差しは超一級品


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ノンフィクション作家、河添恵子さんの番組が林原チャンネルで配信中!中国問題の専門家として知られる河添さんの、実はそれだけじゃ無い!本当の姿をお届けします。
「中国のことは好きでも嫌いでもなく、私はただ、ありのままの中国を見ているだけ・・・」
決してブレることなく燃え上がる、ノンフィクション作家としての河添恵子魂をどうぞキャッチしてください!



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105. 2018年12月11日 12:50:14 : z0SQdjEyNM : pYIKdJH9r_s[692] 報告
そんなことはどうでも良い。
どの国の人間もみんなホモサピエンスで交配して
出来る子孫も全部ホモサピエンスだ。
106. 中川隆[-13814] koaQ7Jey 2018年12月12日 21:13:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22084] 報告
>>105
>どの国の人間もみんなホモサピエンスで交配して出来る子孫も全部ホモサピエンスだ。


それが素人の誤解なんだ

ホモサピエンスでもネアンデルタールと混血した民族だけが進化して、ホッテントットやピグミーみたいにネアンデルタールと混血していない民族は永遠に未開民族のままなんだ。

そして、ネアンデルタールと混血していないホモサピエンスは劣等民族として絶滅する運命なんだ:

原人もネアンデルタール人もタスマニア人も劣等民族の民族浄化で抹殺された

2015/07/20
タスマニア人を絶滅させた白人さま
https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-276.html


.
日本人よりもイルカが大事なシー・シェパードですが、白人はオーストラリアの原住民タスマニア人を絶滅させています。

1770年、イギリスがオーストラリアを発見したとき、タスマニア島には約20万人の原住民がいました。

のち、オーストラリアはイギリスの囚人を送る流刑地にされましたが、その囚人たちと当局によってタスマニア人はスポーツの一種として、または日曜日の行楽として捕らえられ、虐殺されました。

そしてとうとう、106年後の1876年、タスマニア人は絶滅してしまいました。


【タスマニア人】
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【赤い部分がタスマニア島】
goshu3.jpg【地図出典】・ウィキペディア−タスマニア州


最後のタスマニア人の遺骨は博物館に陳列


イギリスがオーストラリアに第一回の移民を送ったのは、オーストラリア大陸発見から17年後の1787年でした。

移民の人数は1044名、そのうち囚人が696名、自由移民が81名、その他は役人や守備隊員でした。

その後.5年間にわたってイギリスがオーストラリアに送った囚人の数は57600人あまりにのぼりました。これらの囚人は機会があれば原住民を遅い、部落ごとみな殺しにすることもあったそうです。

白人による虐殺はオーストラリアだけにとどまらず、当時、ニュージーランドに植民したイギリス人の最大多数が、マオリ人の絶滅を望んでいました。

白人の望みは褐色人種の排除でした。


【マオリ族】
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マオリ族の娘。
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白人の暴行はオーストラリア原住民の子どもにまでおよび、その罪状は

「土人の子供を不具にしたもの、その耳や鼻を斬り落したもの、又は土人の小指を斬ってパイプの栓にしたもの……」

といったものでした。これらの罪を犯しても、白人が受ける罰はムチ打ちだけだったそうです。

イギリスは他国からの非難をかわすため、人口統計を廃止し、原住民の虐殺を続けました。

そしてとうとう、1876年5月8日、この世界でたった一人になってしまった純血タスマニア人が息を引き取りました。

彼女は

「わたしが死んだら、山の陰に葬って」

と遺言したにもかかわらず、その遺骨は見せ物としてホバートの博物館に陳列されました。


日本人はこういう白人の残虐さと人を人とも思わぬ人種差別をよく知っていました。ですから、大東亜戦争を起こしたのです。

日本は自衛のためもありましたが、日本が白人と戦わねば絶滅という災いがアジア全体を襲っていたでしょう。

大東亜戦争で日本軍がまっ先に進軍していった所は、イギリスのアジア侵略の拠点ばかりです。


【香港】
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【上海】
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【シンガポール】
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投降するイギリス軍。
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【オーストラリア】
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濠州爆撃。
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白人が原住民から奪った土地に建設した都市アデレード。
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原住民のものだったはずの豊かな資源。写真はリーエル鉱山。
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【オーストラリアに割譲されたパプアカビエンの原住民と日本軍】
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【日本がカビエンに建設した学校】
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【カビエンの原住民】
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【すもうをとるパプアの子どもたちと日本軍】
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【韓国のあまっちょろい捏造歴史】


こうして大東亜戦争をふりかえると、日本の戦争は民族主義と言うよりも人種主義と言ってもよさそうです。

特ア三国がああなのは、大中華小中華そろって「夷(い)をもって夷を制する=外国を引きこんで敵と戦わせる」+「事大主義」という民族性なので、白人と戦いもせず、ソッコーで下僕になったからです。

北東アジアの中華セットがアジアで嫌われているのは、戦後の行状のみでなく、戦前、戦時中の白人に迎合した彼らの行為が軽蔑されているからです。


大東亜戦争では日本人も白人に残虐な殺され方をしましたが、ご先祖さま方は白人の残虐さをじゅうぶん承知した上での宣戦布告だったのだと思います。

日本人にしてみれば、

有色人種の一人種をまるごと絶滅に追いこんだ白人が「イルカやクジラを救う」と言う方がコワイ

といったところでしょうか。

「日本人よりもイルカやクジラの方が大事だ」 と彼らは言っているのですから。


TPPやら防衛やらで白人と組むのは気が進みませんが、日本政府はやる気満々のようですし、しかたないですね。


【金髪碧眼てのは、そんなにエライのか?】


反日色強めるワトソン容疑者 「日本は地球上で最も恐ろしい国家」 慰安婦問題や南京事件にも言及 
2015年7月17日 産経ニュース

 シー・シェパード(SS)創設者、ポール・ワトソン容疑者が最近、声明の反日プロパガンダ色を強めている。捕鯨やイルカ漁とは関係ない韓国との慰安婦問題や中国との南京事件問題に言及し、「日本の教科書はまるでそうした出来事がなかったかのように残虐行為の言い逃れを行っている」などと批判したり、昭和天皇の言葉を取り出し「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでいるのは鯨やイルカたち」と“こじつけ論”を展開する。さらに、「日本は地球上で最も恐ろしい国家」として福島第一原発事故の影響で多くのイルカが死んでいるとも述べ、状況をあおり、支持者に対して、鯨やイルカたちを救えるのはシー・シェパードだとアピールしている。

 国際刑事警察機構(ICPO)に国際手配されているワトソン容疑者は昨年7月にフランスに逃亡。以来、フェイスブック(FB)の公式ページで1日に4〜5回、声明を発表している。 (後略)

【参考記事】
・クジラ映画製作の日本人女性監督を“攻撃” 脅迫のメッセージも 「どんな妨害にも負けない」と意気込む監督 2015年7月12日 産経ニュース

・豪州政府、野良猫200万匹の駆除に乗り出す 2015年7月19日 スプートニク


本記事の資料


(  )内は管理人による注釈です。

「土人」という言葉はそのまま掲載しています。

なぜなら、昭和の中ごろ、「カルピスのマークは黒人だ!差別だ!」、「ちびくろサンボのちびくろは差別だ!」というサヨクの言葉狩りの流れで、「土人」という言葉が狩られたからです。

「土人」という言葉も狩ってしまえば、歴史が知られることはありませんから。


白人は一種のスポーツとして日曜の行楽としてオーストラリア原住民をみな殺しにした


出典:1942(昭和17)年 五車貿易出版部 大神田軍治 「世紀の決戦:日本はどう発展するか」


⑷ 可憐なる濠州土人
 
 英国が濠州に第一回の移民を送ったのは一七八七年である。全員一千四十四名、其(そ)の中(うち)囚人が六百九十六名、自由移民が八十一名、其の他は官吏、守備隊員や其の家族であった。

 斯(か)くて濠州は流刑植民地として其の出発を遂げたのであるが、一七八八年から向う五ヶ年間にニュー・サウス・ウェールスに五万七千六百余人の流刑者は送られたのである。

 即(すなわ)ち陽気で、無邪気で、正直な濠州土人の中に十数万の兇暴な囚人が放たれたのであって、兎(うさぎ)の群(むれ)に餓(う)えた狼を放ったようなもので、機会ある毎(ごと)に土人を襲い、時に部落を鏖殺(おうさつ:みな殺しにする)する暴挙もあり、土人狩りを一種のスポーツとして日曜の行楽として公然行われるのであった。

 其の結果百万を数えられた土人も今日(いま)は二万人内外、雑種を加えて五万二千人に減じてしまった。

 ニュージーランドのマオリ族は数十万から四万人に、二十万人のタスマニヤ土人は陰惨苛烈(いんさんかれつ)な土人狩りによって、現在は全く絶滅してしまったのである。

 以上は単に有名な事実の一端を拾ったに過ぎないのであるが、太陽の没することなき英国の植民政策、多くこれ、かかる悪政の所産である。


最後のタスマニア人の遺骨は博物館に陳列された


出典:1941(昭和16)−1942(昭和17)年 日本拓殖協会 「拓殖叢書 第7集 濠洲」 七、原住民族


「眠れぬままに想い浮ぶ、先日ダーイン滞在中に州長官の好意で奥地へ四、五十哩(マイル)、野牛の悠々たる草野に車を駆ったとき、一陣の風とともに、草叢(ブッシュ)の蔭(かげ)から飛び出したカンガルーの群、そのあとから手槍を提げもって飛び出した凄(すご)い叢人(ブッシュマン)の姿。

ああ私は、何と面白い然(しか)し凄まじい土地に居(い)るのだろう。生き残った最後の純血タスマニア人、ツルカニが、 『妾(わたし)を山の蔭に葬って』 との言葉を残して一八七六年五月八日、哀れ呼吸をひきとった。その切なる願いにもかかわらず彼(か)の女の骨骸はいまホバートの博物館に陳列されている。そしてそれと同時に世界の原人タスマニア人は絶えた。

濠洲聯(連)邦および各州政府は濠洲の各地に強制収容地を作って、市の周囲に住む土人を収容している。然(しか)しそれは文字通り収容であって、その保護、教化は全く各種伝導団体に任せられている ── のみならず、中央濠洲、北濠洲にはまだ凶悪極まる土人も野犬のごとく彷徨している。」


・白人は濠洲原住民の子供を不具にし、耳や鼻を斬り落し、小指を斬ってパイプの栓にした
・白人最大の希望は褐色の土人を除くこと&マオリ族の絶滅
・英国は人口統計を廃止して最後のタスマニア人が死ぬまで「人口は増大しつつある」と主張した


出典:1940(昭和15)年 刀江書院 国際経済学会編 「英国植民政策史」 第二章 真理の否定


一、濠洲に於ける囚人政策

 ヴァンディメンスランドの流刑地に於ける土人は次第に滅亡して行った。

 現地の英国総督の命令をみれば、一八一〇年頃、英人が土人をどういう風に取り扱ったか、又(また)、英人の暴行にはどんな罰が課せられたかがはっきり判(わか)る。即ち、

「土人の子供を不具にしたもの、その耳や鼻を斬り落したもの、又は土人の小指を斬ってパイプの栓にしたもの……」

は笞(ムチ)刑によって罰せられるの程度である。

 当局の始めた獵(猟:か)り集めによって、タスマニア人は殺されたり、捕えられたりした。英国がこの島を占領した当時は未(いま)だ約二十万の土人がいた。この中(うち)、生き残った三百十人は一八三五年にファーノー群島のフリンダース島に移された。一八四八年にはこの島に男十三人、女二十二人、男児五人、女児五人を残すのみとなった。

 オーバーレンダーの報告によれば、

「一八五四年にはまだ十六人のタスマニア人がいた、数年後には最後の六、七名の土人をホバードタウンに連れて来た。一八六六年には四人のタスマニア人、即ち、女三人と二十七歳の男一人が生きていた。一八七六年には最後のタスマニア人の女、ララ・ルックが七十六歳で祖先の許(もと)に帰って行った」 と

 英国の学者、ケンブリッヂのトリニティー・カレッヂのバチェラー・オブーアーツ、男爵W・W・ストリックランド卿は一九〇六年に次の様(よう)に書いている。

「タスマニアや濠洲に就(つ)いて詳しく語るのは無駄である。タスマニアではその原住民は既に悉(ことごと)く英人のために虐殺されてしまった。濠洲のアリマン原住民も、同系統の人種の手によって、やがては同じ運命を辿(たど)るであろう……

 ニュー・ジーランドでは英人の最大多数が、密かに、だが熱心に、マオリ人の絶滅を望んでいる。

 濠洲では輸入された白い野獣が、褐色の人種、もっと正確に言えば、自分は除くが、同じ人種系統に属する濠洲の土人は除かず、全人種に対して憎悪を公言し、自分達の最大の希望は褐色の土人を除くことにありと主張して憚(はば)からない。……海峡植民地では土人の人口は急激に減少しつつある……」

更に、ストリックランドは彼の研究を次のごとく結論している。

「東半球に於けるかかる記録を見ると、未開の民族を指導し、彼等(かれら)に福祉と幸福とを与えることは、吾々(われわれ)のみが有する秘密であるという英人の言葉も、そのままに受(うけ)とれない。英国人は ── 問題が英国にとって有利に発展するような地方では、それは実際には、すべての土人にも有利なのである ── というが如(ごと)き仮定にもとづ)く無限の独裁力によって、その目的を達して来たのである。英国がもしかかる狡猾なる手段によらないでその目的を達したのであるとすれば、或(あるい)はそう言い得られるかも知れない。かかる自惚(うぬぼれ)がその程度を越して、遂には基礎的な人口統計も不必要だとして、廃止されるに至った。かくして土人を絶滅するための適当な手段が探られた。その最後の代表者がなくなるまで、人口は 『飛躍的に』 増大しつつあると主張していた。」

 濠洲及びその地方の諸島に於ける英国植民地政策の事実は、この地に於ける英国の支配が始って以来今日に至る迄(まで)、真理を無視した英国的良心 ── 而(しか)して(そして)かかる良心が決定的なポイントであるのだが ── とでも言い得るであろう。


白人の人種差別−タスマニア人をみな殺し、白濠主義をとなえて有色人種の移民は不許可


出典:1942(昭和17)年 軍事教育研究会 大倉要 「戦争と国際問題」 二、大東亜を組成する国家と地域


濠洲

 濠洲は英の自治植民地で、一七七〇年発見以来、英の流刑植民地として囚人のみを送られ、一八三六年メルボルン市建設、同五一年金鉱発見以来発達した。

面積七七〇万方粁(平方キロ)で、我国の十二倍もあるが、人口は九州より遥かに少く六百十万人である。英流の虐殺か、細菌主義か、土着人のオーストラリア族は減少し、タスマニア族は絶滅して、白濠主義を唱えて東洋人を移住せしめない(させない)。

従って耕地は全土の一パーセントに過ぎず、然(しか)し小麦年産額は一億八千万ブッシェルに達し、英の穀倉となっている。其の他、綿花、米、煙草、砂糖等を産し、殊(こと)に羊毛は世界第一である。鉱産物は南阿(南アフリカ)米に次いで世界第三位の金を主とし、石炭、銀、鉛、銅、錫(すず)、鉄等を産する。 


戦後.抹消された白人の非人道的行為


出典:1942(昭和17)年 二見書房 中井良太郎 「史考大東亜戦争」 第四章 米国の対日挑戦を推進した老獪悪辣の英国


(二) 英国の罪悪

 濠洲を罪人の流島とし、濠洲土人を鏖殺(おうさつ:みな殺しにする)して今日残す所なきが如き(絶滅させてしまったように)非人道を敢(あえ)てするのが英人の本性である。

 理不尽なる阿片(あへん)輸入に依り、阿片戦争を挑発して支那蚕食(さんしょく:他の領域をじわじわと侵略すること)を初め、香港や九龍を奪い、上海を我物(わがもの)とし、支那各地に勢力を植え付けた歴史は周知の通りである。

出典:1928(昭和3)年−1932(昭和7)年 新光社編 「世界地理風俗体系 XXIII」


タスマニヤ土人

 濠洲大陸と一元帯水(いちげんたいすい)のタスマニヤ島に住んでいた土人は、オーストラリヤ人と並記されるのが常であるが、体質や文化からいうと、寧(むし)ろメラネシヤ人に近かった。

その言語は漆着語(しっちゃくご)で、接頭語と接尾語とをもっているが、メラネシヤ語とは縁が遠い。

その身長は一・六六メートルで、顔は斜顎(しゃがく)であり、頭形示数(とうけいじすう)は七六乃至(ないし)七七を示し、鼻は扁広(へんこう)である。毛髪は縮れている。この種族は絶滅した。

 独(ひと)りタスマニヤ人のみならず、オーストラリヤ土人も年々人口減少し、一八五一年に五五、〇〇〇人あったものが、一八八一年には三一、七〇〇に減じた。南オーストラリヤのナリンイェリ族の如きは、一八四二年に三、二〇〇人の成員をもっていたのに、一八七五年には五一一人しかもっていなかった。

こうした現象は、文明的移住民との生存競争のために敗れてしまう結果である。
https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-276.html

アボリジニーの品種改良

ハクジンの作り方

先日、アボリジニー女性と長く話をする機会があった。
彼女は推定40歳弱のアボリジニー女性。明日、生まれて以来一度もあったことのない姉に会うのに、とても緊張している、と言う。

私は、家庭の事情か、とちょっと思ったけれど(馬鹿な私)、よく聞いてみると、まだ一度もあっていない弟もいて、母親とは、3年ほど前、生まれて初めて会えた。という。

ベルギーに住んでいる弟もいるのよ。と写真を見せてくれた。

ヨーロッパ政府の先住民政策のことを少しでも知っている人ならすぐにわかると思うが、そう、これは、イギリス政府 (後にはオーストラリア政府)の先住民同化政策のひとつで、アボリジニー女性から生まれた赤ちゃんを出産後 母乳をやるのも許さず、すぐ取り上げ、ハクジン夫婦のもとで育てさせる。というもの。

こうすることにより、アボリジニーのこども達は、親から文化を継承せず、イギリス人化する と考えたのだ。

私は知識としては知っていたけれど、まさか、こんな若い人がまだ、その政策の当事者として存在していることが、驚きだった。

私の勉強不足のせい、なのですが、ただ、この事実を豪州政府は公にはしない。
事実をしるためには、アボリジニーから聞いた話をドキュメンタリーにした本やビデオしかないのだ。

彼女曰く、この政策は、1980年まで続いた。だから今26歳以上のアボリジニ−は、みんな親を知らないで育った。

「そんな最近まで!!」私には衝撃だった。

自分のこどもが、政府によって取り上げられ、2度と会えないのだ。親は子供の写真を見ることも、消息を知らされることも この制度が廃止されるまではなかったという。

たとえ、海外に行っても、死亡しても、知らされなかったのだ、と言う。

これだけでも、悲しいのに、彼女の話は終らない。

この制度は、ただアボリジニーを先祖から引き離し、イギリス人文化に馴染ませるためだけのものではなく、アボリジニーを抹殺するかわりに、彼らの肌を白くする政策でもあったのだ。


アボリジニーをひきとる親のほとんどは、女児を好む。

女児なら大きくなれば強姦し放題だからだ。

そして妊娠させる。

そしてその赤ちゃんの肌は母親より少し白くなる。

だから、政府はそれをよしとしたのだ。


強姦したいハクジンの父親は、早ければ8歳くらいには、強姦すると言う。

彼女の周りでも、たくさんのアボリジニー女性がまだ幼い頃に強姦され、12、13歳で妊娠した人がいっぱいいたはずだ、と言う。

もちろん 強姦された挙句生んだ赤ちゃんは、すぐ政府によって取り上げられるのだ。

そしてその子も女児なら、運が良くなければ、強姦される運命だ。


男児はどうなるのか。

地方や役人によっては、男児は、何の役にも立たないので、(アボリジニー女性は、ハクジン男性の性の遊びの役に立つが、アボリジニー男性がハクジン女性とセックスするのは、許されないし、アボリジニー女性と性交渉をすると、二人の赤ちゃんの肌の色は白くならない) 不必要として、生まれた直後 近くの壁にたたきつけて殺したのだ と言う。

私には、言葉も出なかった。

彼女は自分を育ててくれたハクジン両親はいい人で、とても幸運だったという。

統計などなくてわからないけれど、幸運なアボリジニーは少ない と言った。

彼女は自分の父親が誰だか知らないという。あるとき、病気で医者に行った時、医者から、両親にその病気をしたことがあるか、聞いていらっしゃい、それが予防に役立つと言われ、母親に父親の所在を聞いた。

母親が インド人の男性だ、と教えてもらい、会いに行く直前、母親から止められて、何事かと思ったら、よく考えたら違うと言う。

笑いながら、インド人だったら、あなたの肌はこんなに白くないわよね、と娘の肌をさすりながら言った と言う。で、父親は、アイルランド人、ハクジンだと言って、でも死んだのだ、と。


彼女は 父親に会うのはあきらめた、と言った。母親が話したがらないから。と。
考えてみればこのお母さんも 親から引き離されて、ハクジンの親の元、苦労して育ったわけだから、何があったかは、想像にかたくない。

彼女は、自分の肌をさすりながら、豪州政府はこの肌でもまだ白さが足りない、と言うわ。といった。肌の白さ、をこれほどまでに気にしながら生きていかなければならのは、信じられないほど理不尽だと思った。

彼女は言う。過去も悲しいけれど、今も悲しい。

なぜかと言うと、時折話す、オーストラリア人(ハクジンだと思うけれど)は、総じてこの話を信じないと言う。

政府がそんなことするはずない、と。

彼女は、じゃあ、なぜ多くのアボリジニーがこんな都市に住んでいるの?

各地にあった、トライブにいないの?

なぜアボリジニーの言葉が話せないの?

と聞くのだそう。


私には、ハクジンオーストラリア人が政府の行ったこの蛮行をしらないのはありえるとして、その本人からこういうことをされた、と言われて、政府がするわけない、と否定するその気持ちがよくわからない。

それほどまでに、政府を信じきっている気持ちが。いや、政府というか、ハクジンがそんな残酷なことをするわけない、とおもっているのかもしれない。

イギリス政府が行った数々の蛮行、植民地支配も何もかも習わず、海賊も彼らの誇り、アメリカ大陸の”発見”と勉強するし、あの土地の近代化をひたすら美化し、第一次大戦も、その後のすべての戦争も (ベトナム戦争、湾岸、今の戦争も)ひたすら、正義の戦いとして教わってきているからね。

彼らは。ベトナムは、やるべきでなかった、とはいうけれど、政府には、ちょっと批判的でも、自国の兵士への同情だけ(ベトナムへはなし、)。

反省の”は”の字もない。

ここまで、国際社会の中で(おそらく、対非ハクジン国、民族にかぎって)イギリス系の自分達が間違っているわけない、という、強い信仰があるのだろうな。

一般の日本人が、沖縄の人から、占領された後、こういうひどいことを日本政府から、組織的にされた、と言われたら、頭から否定するかな。

特に、強姦とか、殺人とか、そういうものは、抑圧につきものだし、あるかも、と思うのが、普通だと考えてしまう。

まあ、それはともかく、私はこの話をきいて、この国にいまでもひたすら起こりつづけている、先住民女児への、先住民男性からの強姦、性暴力事件の深層が、こういうところにあるのではないかと感じました。(下の方に投稿してあります。)

また、アボリジニー女性が強姦された事件で、容疑者がハクジン男性、アボリジニー男性にかかわらず、裁判員に女性が複数いても(ハクジンのみ裁判員)、裁判で有罪にならず、釈放されてくる事実を見て、アボリジニー女性らが、「私達が強姦されても、とにかく、ハクジン達は、彼らが女性であるか、男性であるかにかかわらず、同情はけっしてされない。どういうわけか、私達は、強姦されてもいい生き物と思われている」、と言った言葉の裏の意味が、今少し理解できる。

さらに、大学時代、クラスで見た(女性学の授業、フェミニスト系の女性教授の中には、アボリジニーのことを理解しようとする人はいる)まだ、上陸したばかりのイギリス軍がアボリジニ−を虐殺する物語のビデオですが、クライマックスは、偶然に森に入っていた9歳くらいの少女は殺されるのをまぬがれ、じっと木の陰から、自分の親、兄弟、姉妹を含む、部族全員がイギリス軍の手によって銃殺されるのを目撃する というような話だったのですが、悲しすぎて、涙がとまらなかった。

明かりがついて、60人くらいの生徒の誰ひとり(私以外全員ハクジン女性(一応見た目ですが)、涙ひとつ、うるうるした様子ひとつないのには、映画の内容以上に驚いたことを覚えています。が今、その理由がわかります。

ついでに書きますが、こちらでは、もちろん、ハクジンが全員ひどいのではありません。何とかしようとするハクジンだっているのです。

最近こういう不満がハクジンから出され、報道されました。

今では、アボリジニーの赤ちゃんが母親から強制的に奪われることはなくなりましたが、アボリジニー家庭はすさみ、アルコール中毒やら暴力やらで、親としてきちんと子育てできない家庭が多く、中には、ハクジン夫婦が 好意で親が落ち着くまで預かる制度があります。(これは、ある程度管理されていて、強姦などはできないようですが)
そのハクジンの親で、それは 自分の子供のように一生懸命面倒見る人もいるわけです。

その中で、学校にきちんと行かせ、宿題をさせ、ドラッグをすわないように ある意味愛情こめてしつけている親がいました。政府はその親に対し、こういう”質のいい”子育てをするのは、契約違反だから、すぐ止めないと、告訴する、というのです。

腹を立てた親が、テレビ局に話して公になったわけです。

政府いわく、先住民のこどもはいずれ、ドラッグを吸い、しつけもろくにできない親元に返るのだから、かけ離れたことをするのは だめ。ということです。

ハクジン親は、親がたとえ吸っても、あなたは自分の身体のため、やめなさい。と教えて何が悪い、また、勉強に興味を持ち、学校に行く習慣ができれば、その子の将来の利益になる、と主張しました。

また、別の アボリジニーの子供をあずかった親からも こんな政府への不満がテレビ局にとどきました。

このこどもが自分のこどものように可愛く、将来は頑張って欲しいから、その子と別れる時、将来大学に行きたくなったら私に連絡しなさい。援助してあげる、と言ったそうです。

それを知った政府にそんなことはするなと言われた、と。不公平だと。

あづかった親は、言う。政府は他の子に対し不公平だというが、本当の理由は違う。
彼らは、アボリジニーに、その地位を向上してほしくないのだ。
http://www.asyura2.com/0601/social3/msg/428.html


 ●谷底に突き落とす殺し方で…

 オーストラリアが近代の歴史に顔を出すきっかけとなったのは、1776年の米国の独立戦争だった。

 それまで米国というか、アメリカ大陸にあった英国植民地は、開拓民の送り込みの地としてだけでなく、本国でさんざん悪さをした犯罪者の流刑地でもあった。

 それが英本国の財政逼迫につき、アメリカの植民地に印紙税をかけたのが発端となってついには独立戦争にまで発展した。

 そして米国は独立する。英国は植民地を失ったのも痛手だが、それ以上に困ったのが流刑地を失ったことだった。

 それでオーストラリアが急浮上し、1776年以降、新しい遠流の地とされた。
 しかし行ってみると気候はいい、冬の寒さも本国英国よりはるかにしのぎやすい。先住民アボリジニはいるものの、いたって穏やかだし、最大の害獣が野生化した大ディンゴくらいで、毒蛇とか致死性の風土病とか、生活を舜かすものは何もなかった。

 こんないいところを、犯罪人専用とするのはもったいない。英政府は1801年、ここを安全で有望な移住地に切り替えた。

 移住してきた人々は、それまでの流刑者とは違うという意味で「1801年以降の市民」と名乗った。

 しかし、彼ら移住者の程度は流刑者よりもお粗末たったことを歴史は伝えている。

 彼らは奥地に向かって開拓を始めるが、それば先住民の虐殺と同義語だった。

 彼らはあらゆる殺し方をした。

アボリジニの集落の飲み水に毒薬を入れたり、米大陸のインディアン殺戮と同じに襲撃しては撃ち殺したりした。

 しかし、最もポピュラーな殺し方は、丘陵地に住む彼らをI人ずつ谷底に突き落としていくというものだった。

羊と同じ、抵抗することを知らないアボリジニは黙って突き落とされていった、という。


 ●強姦されて混血児を生む母親

 20世紀に入っても、オーストラリア人は虐殺をやめなかった。

アボリジニ狩りの日を決めてはハンティングを愉しんだ。

 ニュー・サウスウェールズ州の図書館にはその狩りの記録が残されている。

1928年のある目の記録には狩りの成果として「アボリジニ17匹」とある。


 歯止めない殺戮は、例えば約50万人のアボリジニが住んでいたタスマニア島ではわずか四半世紀で彼らを根絶やしにした。最後の何百人かは岩だらけの孤島に移し、全員を飢え死にさせている。

 300万人というのが、1801年当時のアボリジニの控えめな人口だが、20世紀の半ばでそれは30万人に減り、今も決して増えてはいない。

 それは表向き社会保障制度の充実という形を取る。アボリジニは農地も奪われ、かといって街では就職口もない。それで政府は失業手当(Dole)を与え、施設に収容する。
 というと聞こえはいいが、収容施設は米国のインディアン居留地と同じ、鳥も通わぬ辺鄙な場所に作られ、そこに押し込まれればもう外の世界には戻れない。ナチスが民族浄化に使ったゲットーと大差はない。

 先住民の女性はもっと過酷な生き方が強いられる。彼女たちは実にしばしば白人の慰みものにされ、混血児を生まされる。

しかし子供の父親ははっきりしない。つまり強姦されているのだ。

 そうすると政府が出てきて、混血児は母親から引き離され、白人の里親のもとに送られて教育と生きる権利を与えられる。

 有色人種は虐殺か淘汰だが、一滴でも白人の血が入れば彼らは生かされる。

かつてメキシコを征服したスペインは原住民の男は殺したが、女を強姦して子供を生ませた。

メキシコはその混血のメスチゾが国民の過半を占める。それと同じことを今、やっている。


 そのオーストラリアで、シドニー五輪が聞かれた。大会のテーマは友愛と和解だった。

豪州の暗い過去、つまりアボリジニヘの非人道的な対応はやめた、今は白人と先住民は和解し、友愛が生まれたという主張だ。

 それを象徴するように混血の女性アスリートが聖火ランナーを務め、開会式の祭典では多数のアボリジニの男女が会場いっぱいに踊りまわってみせた。

 しかし、それは彼らのいう「Bull shit(たわごと)」でしかなかった。

 和解の象徴のように扱われた女性アスリートは自分の生母がだれかも知らない。白人の血が混じったというだけで、彼女もまた生母から無理やり引き離されたひとりだった。

 開会式で踊った先住民も、実は白人が体を黒く塗ったニセ者だった。本物の彼らは出演を拒否し、華やかな会場の外で「私たちを減ばさないで」と座り込み抗議をしていた。
 APもロイターもそれは流さず、彼らの声はかき消された。
http://ayarin.iza.ne.jp/blog/entry/562736/

日本でもアイヌや縄文人は劣等民族として社会の底辺になっているよ。

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

107. 中川隆[-13816] koaQ7Jey 2018年12月12日 21:25:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22087] 報告

原人もネアンデルタール人もタスマニア人も劣等民族の民族浄化で抹殺された _ 2


現在リアルタイムで行われている劣等民族の民族浄化については


中国人のウイグルでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/280.html

中国人のチベットでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/282.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

108. 中川隆[-13818] koaQ7Jey 2018年12月12日 21:37:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22090] 報告

中国人移民を入れると日本人も民族浄化されて絶滅する


1. 沖縄や北海道で中国系住民が過半数になったら独立宣言して中国小日本省になる
2. 中国軍が自国民保護という名目で沖縄や北海道を占領
3. 日本人浄化にとりかかる
4. 日本政府は遺憾の意を表するが、これは中国の内政問題だとして相手にされない

_____


・東トルキスタンでは、最大100万人のウイグル人が「再教育」の名目で中国当局により強制収容されている。遺された幼児たちは「幼稚園」に入れられ、中国人の名前もつけられ、民族も漢民族として登録される。両親が再教育施設から出られたとしても、自分たちの子供を見つけることもできない。「幼稚園」の子供たちは、自分が中国人であること、中国共産党へ感謝することを教え込まれる。

・内モンゴル自治区では「浄化政策」がもう進んでしまって、ここ70年で、人口約2400万のうち、モンゴル人は2割以下になってしまった。経済は中国人に握られ、伝統文化の絶滅が図られている。

・チベットでは、チベット語の学校教育が禁止され、今年になってチベット教の寺院にも共産党員が運営委員として入って監視するようになり、寺院にも習近平の写真が置かれ、共産党の旗を掲げなければならなくなった。

・中国が変わるチャンスは2度会った。最初は文化大革命の混乱。このまま続けば、中国は変わらざるをえなかったのに、米ソ冷戦下で、米国の誤算で中国を助けてしまった。次が天安門事件、若者を弾圧する中国に世界中が経済制裁している時に、日本が真っ先に助けてしまった。中国が民主化するチャンスを潰したのが日本。

【伊勢雅臣】「中国が民主化するチャンスを潰したのが日本」という言葉は重いです。二度とそういう過ちは犯してはなりません。
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201811/article_13.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

109. 中川隆[-13820] koaQ7Jey 2018年12月12日 21:49:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22093] 報告

因みに、畿内の縄文人を民族浄化した天皇一族はソウルの近くから日本に移住して来た漢民族です。

ソウルの近くに、中国鏡を太陽神として崇拝している漢民族の村があって
そこが天皇家の出身地だと言われています:


天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html


中国鏡を太陽神として崇拝している漢民族系朝鮮人が作った伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032


高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。


春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注
1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91



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110. 中川隆[-13817] koaQ7Jey 2018年12月12日 23:25:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22096] 報告
日本は多民族国家で

陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった
水田は弥生初期に長江から北九州に伝わった

弥生人は長江からの少数の移民が縄文人が混血してできた

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から漢民族系渡来人が流入し続けた

宗教は

縄文人は蛇信仰
長江人は鳥信仰
朝鮮からの漢民族系渡来人は中国鏡を神体とする太陽信仰

____


稲の来た道論争
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku368.htm

稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm

4.呉の国と日本・稲作の渡来
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku358.htm#04

縄文時代に長江から九州に伝えられた照葉樹林帯文化
https://dankai.akimasa21.net/east-asian-evergreen-forest-culture/

遡る縄文稲作の年代
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html

長江人が移住して作った吉野ヶ里遺跡の鳥居
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

漢民族系朝鮮人が作った魏志倭人伝の伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

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111. 中川隆[-13789] koaQ7Jey 2018年12月15日 12:07:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22159] 報告

西暦200年代に朝鮮半島から日本に移動したグループと判定されました
日本人に多くいそうだね☆


2018年02月25日 Home DNA
http://blog.livedoor.jp/mukamikami000/

Home DNAという祖先解析サービスを見つけたので
早速使ってみました。
https://homedna.com/

他の業者で得られたraw dataをアップロードすると
有料(39US$)で解析してくれるプランもあったため
まずは昨年得られたFamilyTreeDNAでのデータを
ダウンロード、拡張子[.csv.gz]のファイルを保存してから
Home DNAのサイトにアップロード、同時に料金を支払います。
数時間後に、以下の結果が報告されました。

map01

遺伝子多型を解析し、割合の多い3種の人種を提示してくれます。
私の場合
1.オーストロネシア・オセアニア
2.オーストロネシア・東南アジア
3.中央アメリカ
の順でした。この分類はHomeDNA独特のもののようですが
他社データを使って即時に結果がわかるのは便利です。
ほかにも23andme、AncestryDNAやNationalGeographicのデータも受け付けています。
(今後、気が向いたらこれらのデータも解析依頼してみます)
map02
また、上図のように地域上で移動した経路も推測してくれます。
私の場合、西暦200年代に朝鮮半島から日本に移動したグループ
と判定されました。
このバリエーションがどれだけ用意されているかはわかりません。


当然、Home DNAに直接DNAサンプルを送付して解析してもらった場合は
異なる結果が得られる可能性もあるため、通常のサンプル回収キットも
注文しました。
Asian editionなるアジア人集団に特化したと思われるサービスもあったので
ついでに申し込みました。
キットが届き次第再度報告します。

Asian editionは他社にはないユニークなサービスです。
遺伝子解析をするアジア人も多くなった結果でしょうか。
African editionもあるのでアフリカ系のひとたちもこれまでのような
ざっくりとした解析結果にがっかりすることはなくなるかもしれません。

Home DNAではスキンケアなどの健康情報にかかわる遺伝子解析も
提供しているそうなので興味がある方は試してみても
よいかもしれません。
http://blog.livedoor.jp/mukamikami000/

アジア人に特化したサービス
https://homedna.com/product/gps-origins-ancestry-test-asian-edition

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112. 知的上級者さん[46] km2TSY_ji4mO0oKzgvE 2019年2月01日 15:35:27 : VTH59AY6XQ : 38S4z9l9TcA[59] 報告
桓武天皇が百済系=南朝の初代天皇だが
新羅系=北朝天皇がその100年前に天皇を初めたので、南朝天皇は正統でないパクリということになる
しかし明治からの天皇は百済南朝パクリ天皇になっている

1300年前に始めた元祖天皇より前の天皇はでったげで実在しない
桓武天皇から南北2系統あるのを無理やり1系統にして歴代天皇一覧を作ったときに
神話上のでっちあげ天皇も加えたのだろう
その神話上の天皇は、古代イスラエルからユダヤ人が逃げ出した時点を起点にしているようで
ユダヤの失われたゴイム族とやらに天皇がいたということにしたいらしい

日本に神社を広めた秦氏はユダヤ人で、秦の始皇帝もユダヤ人だという
秦氏は秦の始皇帝に追い出されてシルクロードを通って
朝鮮半島で王族をやり、その後日本で天皇をやったということだな

それを中国人か朝鮮人かと言うのは難しし
そもそも高句麗が中国なのか朝鮮なのかも、今の国境と違うのだから言いようがない
でも現在の中国東北部の連中は中国の一部とは思ってないようだ
そこから北朝鮮にかけて、つまり白頭山周辺が取り合えずの天皇の故郷と思ってるようだ
というのは日本に無数にある白山神社は白頭山信仰であり
去年だったか、天皇は埼玉の高麗神社に参拝している
たぶん「天皇辞めることにしたぜ」と先祖に報告したのだろ
南朝の店仕舞いならよいのだが

113. 中川隆[-12141] koaQ7Jey 2019年2月15日 11:26:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

天皇一族が漢民族だったという事が証明されつつある:

サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zvxyz


弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった
大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて
現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)

篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手は
この縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで
ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。

小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?

篠田謙一:そういうことになると思うんです。

小島瑠璃子:え〜!



▲△▽▼

2018.12.26
現代日本人のDNAは中国人と縄文人の間 NHKサイエンスZERO
https://phity.net/japanese-yayoi-dna-chinese

動画
https://www.dailymotion.com/video/x6zvxyz

弥生人のDNA分析から意外な事実が判明

遺伝子学や考古学、言語学などさまざまな研究分野の専門家がチームを結成。
40体に及ぶ弥生人の人骨をDNA分析をした。
謎に包まれてきた弥生人を最新科学で解き明かす!


弥生人のDNA分析

鳥取県の弥生遺跡で発掘された人骨のDNAは、9割が渡来人だった。縄文人のDNAは、1割と少なかった。渡来人が縄文人に入れ替わっていた。

弥生人はどこにルーツをもつ、どんな集団だったのか?

弥生人のDNAから渡来人は中国大陸の各地から渡来してきたことがわかった。

渡来は2世紀から始まった。渡来人は、縄文人にはない鉄製の器具、ガラスの装飾品を持って来た。

縄文人からどのようにして、現代日本人になったのか?

現代日本人のDNAは、弥生人よりも中国・韓国人に近い。弥生時代のあと、古墳時代も中国からの流入が続いたためと思われる。

弥生人のDNAから、縄文人と交わっていた形跡がある。
https://phity.net/japanese-yayoi-dna-chinese

▲△▽▼

2018.09.20
約2千年前の弥生時代、なぜ凄惨に殺された人骨が大量発掘…国と課税と戦争の誕生
https://biz-journal.jp/2018/09/post_24828.html

 鳥取市の青谷上寺地遺跡で見つかった2〜3世紀(弥生時代後期)の人骨のDNAを最新技術で分析する調査を、国立科学博物館や国立歴史民俗博物館、鳥取県埋蔵文化財センターなどが始めた。

「産経WEST」の報道によれば、遺跡中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。

 人間はなぜ戦争をするのか。古くから多くの思想家や研究者が答えを探してきた問いだ。日本で戦争が始まったとされる弥生時代の歴史は、その難問に対するヒントを与えてくれる。

 通説では紀元前4世紀ごろに九州北部で始まったとされる弥生時代といえば、水稲農耕が始まった時代として知られる。縄文時代晩期に渡来人によって北九州に伝えられた水稲技術が、まず西日本、次いで東日本にも広まった。

 同じ時期に日本列島に広まったものがある。戦争だ。

 考古学の研究結果によれば、狩猟採集に基礎を置く縄文時代には、集団と集団とがぶつかり殺し合う戦争はなかった。専用の武器をつくらなかったし、ムラの守りを固めることもなかった。殺されたことが確かな埋葬人骨もごく少ない。

 ところが弥生時代に入ると様子が一変する。周囲に堀を巡らした環濠集落や、台地や山頂に築く高地性集落など、防御を固めた集落が現れる。青銅・鉄・石による専用の武器が登場し、武器を祭器として尊崇する信仰まで生まれる。

 とくに強烈な印象を残すのは、前述の青谷上寺地遺跡でも見つかった、殺傷された証拠を残す人骨である。神戸市の新方遺跡の墓地では、1列に葬られた男性3人の遺骨の中から、それぞれ石鏃が見つかった。そのうち壮年から熟年のたくましい男性は、頭から胴と腕にかけて、17個もの鏃を射ち込まれていた。いろいろな方向から弓矢で集中攻撃されたらしい。

 奈良市の四分遺跡の例もすさまじい。1つの木棺に一緒に葬られた若い男女の遺骨のうち、女性のほうは胸の部分に石鏃が1本。男性のほうは、背中や腰の左右から、鉄の武器で刺されたり切られたりした傷が数カ所、左の肩甲骨や左右の腸骨にある。さらに左の目あたりが鋭利な凶器で骨までざっくりと削られている(松木武彦『人はなぜ戦うのか』)。

弥生時代に農耕と戦争が同時に広まった理由として、歴史学の通説では、農耕社会では狩猟採集よりもたくさんの生産物がとれ、富ができやすいから、その奪い合いが引き金となって戦争が起きると説明されてきた。

国家は欲しい物をつねに暴力で奪う


 しかし、この説明には飛躍がある。人が他人の富を手に入れる方法は、奪うだけではないからだ。ドイツの社会学者フランツ・オッペンハイマーは、人間が生きるために必要な富を手に入れ、欲望を満足させるには、根本的に対立する2つの手段があると指摘した。労働と略奪である。

 オッペンハイマーのいう労働には、自分の労働で物をつくりだすだけでなく、それを互いの合意のもとに他人と交換することも含む。一方、略奪とは欲しい物を暴力や詐欺によって他人から一方的に奪うことを指す。オッペンハイマーは労働を「経済的手段」と呼び、略奪を「政治的手段」と呼んだ。政治の主体である国家は、欲しい物をつねに暴力で奪うからだ。奪う相手が自国民なら課税で、他国民なら戦争でという方法の違いがあるにすぎない。

 他人の富の略奪を目的とする戦争は、明らかに略奪である。しかし、富が欲しければ、交換という選択肢もあるはずだ。事実、弥生時代は異なる集団の間に戦争しかなかったわけではない。石材、木材、山海の産物など縄文時代以来の日常物資の平和な交換が、むしろ普通だった。

 だとすれば、問わなければならないのは、なぜ農耕によって築かれた富を手に入れる際、平和な交換という方法だけでなく、戦争という方法が新たに加わったかだ。

戦争と課税はコインの裏表


 考古学者の松木武彦氏は、人工物や社会をつくったヒトの心に注目する「認知考古学」に基づき、弥生時代における本格的な稲作農耕と戦争とは、ひとつの文化を構成するセットをなしていた可能性があると指摘する。そのルーツは遠く海外にある。

 日本の縄文時代後半、世界ではいわゆる四大文明が芽生え、栄えていた。メソポタミアのチグリス・ユーフラテス両川のほとり、エジプトのナイル河谷、インドのインダス川上流、中国の黄河流域では世界に先駆けて大規模な農耕が始まり、都市が現れ、軍隊をもって戦争を行う古代国家が生み出され、王侯や貴族が支配の頂点に立つ社会が発達する。

きっかけは当時地球上で進行した寒冷化に伴い、温暖なこれらの地帯に周囲から多くの集団が流れ込んだことにある。環境の変化を乗り切る方策のひとつとして、農耕によって自然を支配する一方で、武力によって人を支配するという支配的性向をもつ文化が編み出された。この文化が中国から日本に伝わり、弥生時代の戦争をもたらしたと松木氏はみる(『列島創世記』)。

 同じく考古学者、寺沢薫氏の指摘も興味深い。同氏はR・カーネイロの2つの戦争モデルを紹介する。第1は、アマゾンなど広大な未開の森林を控えた地域だ。負けたグループは征服や賠償の対象にされようものなら、森林の奥地に引っ越す。

 第2は、これとは対照的なペルーの海岸地帯だ。戦争で負けたグループは逃げるところがない。殺されるか勝者に隷属するかだ。敗者は勝者の政治組織に吸収される。この政体が拡大しペルー全体をまとめるようになったとき、インカ帝国が成立した。四大文明発祥の地もおおかたこのモデルだという。

 弥生時代の九州北部は第2のモデルそのものだと寺沢氏は言う。戦争に勝った共同体と敗れた共同体の間には歴然とした階級関係が生まれる。敗北した共同体は首長の下に一見従来どおりの生活を送っているように見えるが、じつは支配共同体に生産物や労働力の一部を貢納というかたちで税金のように支払ったり、特殊技術を提供したりする義務がある。

 寺沢氏は、九州北部では過酷な戦争を通じ、日常的な小共同体がクニ(大共同体)や国(大共同体群)、その連合へと統合されたと述べ、弥生時代前期末の紀元前3世紀末に生まれたクニこそが日本列島における最初の国家だとみる。定説とされる7世紀を大きくさかのぼる説だ。

 それでもオッペンハイマーが言うように国家の本質が略奪にあるとすれば、戦争でほかの共同体を隷属させ、税で財産を奪うクニは、小規模ながら立派な国家といえよう。国家は戦争から生まれ、課税によって育つのだ。

 ここで戦争についてひとつの教訓が導かれる。国家が他国民の富を奪う戦争と、自国民の富を奪う課税は、同じコインの裏表である。どちらも平和な交換を拒絶し、暴力に訴える略奪の異なる形態にすぎない。

 課税が最終的には暴力によって実行されることは誰もが知っている。世界から戦争をなくすには富裕層に増税し富の再分配を強化せよという主張もあるが、まったくの誤りだ。課税という暴力を好む心で、戦争の暴力をなくすことはできない。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

<参考文献>
木下正史『倭国のなりたち』(日本古代の歴史 1)吉川弘文館
松木武彦『人はなぜ戦うのか——考古学からみた戦争』中公文庫
松木武彦『列島創世記』(全集 日本の歴史1)小学館
寺沢薫『王権誕生』(日本の歴史 02)講談社学術文庫

https://biz-journal.jp/2018/09/post_24828.html


▲△▽▼

戦乱の時代(受傷人骨と環濠集落・高地性集落)
弥生時代は、縄文時代とはうってかわって、集落・地域間の戦争が存在した時代であった。

武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在などは、戦争の裏付けである。また、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落なども、集落や小国家間の争いがあったことの証拠であると考えられてきた。


受傷人骨

弥生時代前期の墓には、人骨の胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。

多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。かつては、戦闘の際に矢を何本も射込まれてやっと倒れた人物と解釈されることが多く「英雄」などとも呼ばれたが、近年では、矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、刑罰として処刑されたとか、何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生贄)となって胸に矢を射込まれたなどといった解釈もある。平和的な解釈としては、埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納したと考える者もいる。

北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。こうした例は、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈される。しかし武器の先端を折りとって副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないかといった反論をする者もいる。

佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、男性が戦闘に参加する機会が多い事を示すと考えられる。

甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り、埋葬したものと理解されている。

戦争やテロの時に敵の首を取る慣習は、戦国時代や幕末でも続いていたが、その始まりは弥生時代にあった。しかしこのような例が本当に戦闘の犠牲者なのかは論証されておらず、何らかの儀礼的行為によるものと主張する者もいるが、未だ論証されていない。

受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠である。

例えば額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっているが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、戦闘による受傷者である可能性は極めて高い。

また人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。

このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦争が頻繁に起こったであろう事は確実といわれている。


また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半から中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められる事が特徴的である。

弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。


大規模な集団殺戮を示す遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が代表的である。

日置川と勝部川の合流点の南側に弥生中期から村が形成され、弥生後期後葉に戦争の結果とみられる状況で集落が廃絶したと思われる(住居跡は未発掘)。

東側の溝(防御施設と港の機能を兼ねていたか)から100人分を超える人骨が見つかり、少なくとも10体、110点の人骨に殺傷痕が見られた。

人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨がある。治癒痕はなく、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われる。

出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が、埋葬ではなく折り重なって遺棄されている。

遺物も、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品が、通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している[40]。

死者の中に15〜18歳の若い成人女性がおり、額に武器を打ち込まれて殺されている。

殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝を埋め立てたものと思われる。

略奪はしただろうが、破壊した住居や不要な生活用品は捨てられた。
通常なら再利用や腐朽で失われるものが、保存条件もよくて大量に残存した。

虐殺以後は集落は復興せず、現代まで水田として利用された模様である[41]。

なお虐殺死体が弥生時代に増加すること及びそれらを研究することが専門の研究者にとっても大きな精神的負担になっていることを、松木武彦は新聞の評論で述べている[42]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

114. 中川隆[-12140] koaQ7Jey 2019年2月15日 11:29:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告
被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した

同和部落民は日本に先住していた縄文人・弥生人の末裔

朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源


▲△▽▼


畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


▲△▽▼


小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落

われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

(中略)

身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)


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網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。


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埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。


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畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫 _ 2

chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06

同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

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Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
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穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097


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漢民族の天皇一族が日本を乗っ取った手口

天皇一族は

中国華北 → 韓国ソウル
→ 福岡県伊都国 → 日向、大和 、丹波 → 北九州、瀬戸内、畿内
→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土


の順に朝鮮を追われて日本に移民して以降、支配地域を広げて行った様です。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けて、遂に日本人(縄文人・弥生人)は少数民族となってしまいました。


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中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html


・東トルキスタンでは、最大100万人のウイグル人が「再教育」の名目で中国当局により強制収容されている。遺された幼児たちは「幼稚園」に入れられ、中国人の名前もつけられ、民族も漢民族として登録される。両親が再教育施設から出られたとしても、自分たちの子供を見つけることもできない。「幼稚園」の子供たちは、自分が中国人であること、中国共産党へ感謝することを教え込まれる。

・内モンゴル自治区では「浄化政策」がもう進んでしまって、ここ70年で、人口約2400万のうち、モンゴル人は2割以下になってしまった。経済は中国人に握られ、伝統文化の絶滅が図られている。

・チベットでは、チベット語の学校教育が禁止され、今年になってチベット教の寺院にも共産党員が運営委員として入って監視するようになり、寺院にも習近平の写真が置かれ、共産党の旗を掲げなければならなくなった。
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201811/article_13.html


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大阪鶴橋に済州島住民が多い理由 仁徳天皇が渡来人歓迎


仁徳天皇や天智天皇は渡来人を歓迎し、百済洲や百済郡、百済寺に百済川もあった


画像引用:地名で分かる渡来人の分布https://www.facebook.com/295367367249272/photos/a.296474680471874/298873963565279/?type=1&theater


仁徳天皇時代には百済島や百済川まであった

大阪市の生野区には日本最大の「移民地域」である鶴橋が存在しています。

鶴橋駅前から市場に入ると韓国語が通用するし、それどころか日本語が通じにくかったりする。

鶴橋の歴史は非常に古く、仁徳天皇の西暦400年ごろにはすでに大勢の百済人や新羅人が住んでいました。


大陸では東晋が滅亡する末期で、半島では百済・新羅・任那日本府が並立し、半島南部はヤマト政権の支配下にあった。

半島南部ではヤマトの大王(天皇)の支配の証である前方後円墳多数が見つかっていて、百済や新羅も日本の影響下にあった。

仁徳天皇の2代前には神功皇后の三韓征伐が行われたと記紀に記されていて、事実である可能性が高まっている。


奈良県でヤマト政権が成立したのは古墳からは西暦200年代と推測され、もっとも近い港である大阪湾が半島や大陸との交易地になった。

当時の大阪市はまだ海に島が点在している状況で、生野区や鶴橋もまだ島や海岸だったと考えられています。

百済や新羅の商人や労働者、上は貴族や王家まで様々な人が大阪や奈良に移民してきました。


これが古墳時代の渡来人で、百済滅亡によって日本に難民が押し寄せて、特に大阪の生野区に移民が増えました。

大阪湾には島が点在していると書いたが、当時は「百済洲」「新羅洲」という名前の島があり、名前の通り百済や新羅の人たちが住んでいた。

鶴橋周辺には「百済郡」があり「百済川」まで流れていたと記録されています。


半島からの移民受け入れに最も熱心だったのが仁徳天皇で、一時は大阪に住み、渡来人のようすを自ら視察したともされています。

渡来人にとって仁徳天皇は最大の理解者なので、彼らが最大級の天皇陵を大阪に作ったとしても不自然ではありません。


百済滅亡で難民が押し寄せた

時代は下って西暦660年ごろ、斉明天皇と天智天皇(母子)の時代になり、ヤマト政権は半島の支配地を失いました。


660年に同盟国の百済が羅漢同盟(新羅と漢)に滅ぼされ、663年に再興を目指した白村江の戦いで日本軍は負けてしまった。


百済滅亡より前に、任那日本府も羅漢に滅ぼされていたと考えられます。

百済滅亡にともなって大勢の百済人が日本に亡命し、縁故を頼って旧百済洲などがあった大阪に住みました。


この中の滅亡した百済の王子・善光は天智天皇の許しを得て「百済郡」の領主となり、百済王一族は長く栄えたとされている。

百済王敬福は大出世して750年に河内守となり、河内国に移住したが多くの百済人の子孫はそのまま残った。

百済郡がどこだったのかは不明だが、鶴橋は「猪飼野」と呼ばれる百済人居住地でした。


当時日本人はあまり豚やイノシシを食べず、百済人はイノシシを飼育していたのでこの名がついたとされている。

百済を滅ぼした新羅の人も日本と絶縁したわけではなく、やはり大阪を中心に多く居住していた。

こうした渡来人は日本にとっては労働力であり、当時としては進んだ技術や知識を持っていたので重宝された。


たとえば法隆寺など日本の初期の寺は、百済人やその子孫が設計や建設に関わっている。

渡来人は大阪湾の埋め立てにも動員され、習慣や文化の違いから他とは違う文化を築いていった。

秀吉の朝鮮出兵の時にも大量の渡来人が移民または連行されて、大阪城や江戸城の建設に動員されたと言われている。


韓国からの20万人大脱走

時はさらに下って明治維新後は半島からの移住者が増えて、終戦時には200万人前後に達していました。

1948年の調査では約150万人が韓国に帰国し、約65万人が残っていたが10万人は戦後に密航してきた人たちでした。

このあと1948年から1953年にかけて「済州島事件」と朝鮮戦争、保導連盟事件によって20万人以上が日本に密航してきた。


この一連の事件はアメリカが任命した韓国初代大統領の李承晩が行った大粛清が原因で、十万人I以上が日本に逃れたとされている。

当時の研究では送還された人を除いて25万人が日本に密航した可能性があると書かれている。

結局10万人ほどは朝鮮戦争が終わっても帰国せず、戦前からの居住者と混ざって「特別永住者」になっている。


李承晩が最も弾圧したのが済州島で、30万人のうち6万人が犠牲になり、10万人ほどが日本に逃れた。

鶴橋には戦前から済州島出身者が多かったので、縁故を頼って大勢の済州島民が鶴橋周辺に定住しました。

これらの人たちが現在の鶴橋を形成し、一説には住民の過半数が半島系の先祖を持っている。


日本に最初の渡来人が移住したのは縄文以前を除くと今から3000年前で、稲作を伝えたとされている。

それから定期的に渡来ブームがあり、特に半島で戦争や混乱が起きると渡来が増え、やはり縁故を頼って大阪にたどり着く。
http://www.thutmosev.com/archives/78516496.html


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中国人のウイグルでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/280.html

中国人のチベットでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/282.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

115. 中川隆[-12139] koaQ7Jey 2019年2月15日 11:30:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

天皇一族が漢民族だったという事が証明されつつある:


サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zvxyz


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

116. アサマタロー[573] g0GDVIN9g16DjYFb 2019年3月04日 16:56:40 : G3kCLH8qcE : OGQ2b1ZWM2t3MUE=[1] 報告
2018年09月29日【今の日本に怒り心頭】
日本古代史は北方騎馬民族=百済逃亡貴族支配と確信20年+金孫ミサイル北倉基地北に徳川郡発見=氏が高麗渡来仏法僧出自確信+源氏が北魏元氏の渡海武士団=全て渡来人支配!

+日韓併合・敗戦・朝鮮動乱で李朝王侯貴族両班官僚大量日本移住でヤクザと相撲取りも一緒に日本移住。

相撲の地方巡業興業も地方のヤクザが仕切り。
財団法人で良い物を公益財団法人化2014年を安倍李朝再興政権実施。

古代+中世+近代+現代まで全てが大陸半島渡海人支配だった日本史。
だから日本人は半奴隷扱いだったのだ。

狡猾な談合韓人にヤラレタ蘇我入鹿が貴乃花か?

歴史改竄・決裁公文書改竄もへっちゃら!
御茶の子さいさい!

2017年11月20日
NHK古代エジプト探究番組?欧米に任せたら?今の日本にどう関係が?天皇家起源があっち?日本古代史も不明なのに!徳川家のルーツすら確定させられない日本史学者なのに!

2017年08月17日
御柱祭記念講演会:諏訪大明神絵詞by信大准教授で明治以降渡海図消えた!大国主命が何故国譲りか?質問も文献が無く解からない!異民族なら戦争:同一民族三種の神器持参者!

2016年08月16日
諏訪市博物館前回御柱祭時:信大准教授が諏訪大明神絵詞の渡海図消失の記念講演!国譲りは異民族なら戦争になるが失れたヘブライ10支族でアークの柩=三種の神器所有天皇家に軍配!
と聞くと資料が無いので分かりません。
資料があっても捏造や真贋論争も多い。
要は筋=論理展開に嘘がないか?
領土を呉れと言って戦争になるのは21世紀も同じだ。それが国譲りの真の原因は何か双方の民が認める正統の印を持って居たか否かだ!
天皇家が大事にする物が三種の神器。
天皇家の30cmの菊の紋章はユダヤ教会の紋章だそうだ。
CNNでイラク・フセイン大統領もメソポタミアの正統な王の印と記者に説明した。
三笠宮は戦後メソポタミア文明でシリア・トルコ国境を発掘。
以後沈黙。 何故?決着を付けて頂きたい!
唯我独尊の危険思想集団を諌める為にも必要!
国定・検定教科書レベルの歴史認識では又国を誤る?

中(西)丸薫『古代天皇家と日本正史』と金容雲『日本=百済説』で明確に小沢冤罪謀略事件の日本民族の闇が見えた!
http://www.asyura2.com/12/senkyo129/msg/821.html
投稿者 アサマタロー 日時 2012 年 5 月 08 日 16:47:52: UiY46YlCu.Moc

庶民を苦しめる酷税:消費【増】税を進める日本人政治家が居ること自体、信じれなかったが、日本民族の闇が明確に晴れて、日本民族の2面性が分かった。【支配者と被支配者=奴隷の関係が今に?】

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倭は百済の植民地で白村江の敗戦で百済が消滅し、倭植民地に百済王家貴族が逃げ込み、百済+倭=日本になったから、文物はインド・中国から来たが、朝鮮=新羅=高麗からは来ていないそうだ。記録者は全員百済から来た王侯貴族で新羅の播族から何も貰うものはなかったのだそうだ。
日本人は日・中・印と言うがその底流が南朝鮮と日本の王が天皇だからだ。仏=ノルマンジー候のイギリス、英国=アメリカ・ニューイングランド、と同じだと著者。世界史と日本史を知る人だからだ。日本人も高校2・3年で同時学習が必須だ!!女系天皇反対の日本神社連盟ポスターで疑問噴出が全て正解だった。

だから、竹島も独島も百済+倭連合国の内海に浮かぶ同じ国の島だったのだ。私の説が正しかった。2004年以降、NHK・日経・みのもんた歴史ミステリー等に同時FAX送信。

だから、日韓共同サッカーを世界が支持。平成天皇も桓武天皇の御堂が百済王家出身と言ったのだ。 北朝鮮は高句麗の領地だったから、日本とは遠縁過ぎて他人みたいだが、南は親戚みたいな感じ。
奈良は百済人の居住地だそうだ。鼻が尖がっていて高い。東大寺学園・神戸大の新Oさん、解かりましたよ。貴方のルーツ。

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それを知らない日本人が多いのは渡来系子孫の官僚・マスコミ支配階層が自分が朝鮮か?!と悩んだための妨害だと思う。隠したのだ。諏訪大明神絵詞の渡来絵が明治以降に消えたとソウル博物館の老紳士に言うと一番気にしていた。全く同じ反射的仕業・所業で真実を消して支配継続を画策しているのだ。それが小沢冤罪事件にも通じている。

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庶民国民が今、政府に殺されようとしている!!
何故だ!!
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国の借金とは誰かどこかの国民・企業の所得資産に化けているのだ!!
国から一銭も特別に貰ったこともない庶民から消費税で取る物ではない!!
資産家・大企業から回収すべきものだ!!
庶民は餓死寸前だ!!
生活保護は恥と歯を食いしばっているのだ!!

それが分からない野ブタ!!言うだけ嘘つき番長!!謀略赤軍派!!いい加減にしろ!!万一、議員歳費を国民平均所得にしたら許す、出来ない御身大切野郎が!!許せん!!

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消費税もインボイス付きの物品税にすれば納得するが、納税者番号だけでは嘘のやり放題だ。
日本独自は絶対ダメだ。世界で評判の良い納税者番号や運用をすべきだ。

憧れのデンマークや北欧の納税者番号機能要件に韓国の最新システムでやればイカサマを官僚にやられない安心感も有り。小沢冤罪事件を見せられ、戦前の日本や北朝鮮並みの恐怖政治国家になったのだ。日本は同一民族に有らず。5〜6%の渡来系が今も支配するから平等感が無いので今上天皇・美智子皇后も心配して居られるのだ。それが病気を押しても国民に寄り添いたいとの御心になるのだ。亡国の官僚は恥を知れ!!東大の京極純一政治学が納得出来たか?!あれは民俗学にも成っていない。人民支配学だった。早稲田経由で私学と東大の視点が全く違っていた。野田は早稲田で東大カブレか?!

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子ブッシュ兄が弟フロリダの票数疑惑が出てから、日本も権力者が何でもアリになったようだ。ブッシュでなく米民主党が勝っていれば、9.11もイラク戦争もなかっただろう。ブッシュになりイスラムが怒ったのだろう。大変残念だ。オーメン?の大統領の息子(頭に9?6?が3つ)は子ブッシュだったのかと思うこともある。子ブッシュはテキサス州空軍パイロットでベトナム行き直前、親ブッシュのコネでコロンビア?大学院進学?おかしいだろう。戦地行きを逃げた男だ。それが戦争起こし、米庶民の子弟を殺す。

子ブッシュに小泉が頼んで、小泉次男が関東学院でコロンビア大学院卒!!!?箔をを付けたものだ。
小泉本人が何浪か?
いつ慶応に入学したか?
年金未納飯島会見でも分からず。
クラスに居たと言った明治教授は晴れて自民公認参議院転進。可笑しいだろう。ロンドン大学の語学研修?コースで留学か?それ以来、慶応が世界最大の学歴ロンダリング教育機関と思っている。皆さんそう思いませんか???

小泉と偽装民主党クーデター派は同じ精神構造と思いませんか?嘘も平気で吹けば平気なんでしょう!!小泉本人に一番似ている三男が嫁側にいて元嫁さんも複雑でしょう。彼の性癖を書いてジエンドにさせてあげて下さい。子供3人と一緒に暮らせますよ。

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これらの日本人の不思議は日本人の顔と鼻から分かった。

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シュメール=スメル人のウル・ラガシュはイラクのサマワ近くだ。偶然か?小泉は馬鹿だが皇室・宮内庁が派遣するなら、皇室のルーツの地に行って住民を支援して欲しいとの内意が有ったと推測する。 水1リットル千円の給水をしてまでやったのは、皇室の内意があったからだ。だから、自衛隊の行く所はどこでも非戦闘地区だったのだ。

スメル人はヒッタイトやヘブライになり、アブラハムはハランからパレスチナへ。ヘブライ人はユダヤ人になりバビロン捕囚され、一部は帰郷、大半は近隣抗争を疎い、北の平原に逃走。

西に行きフン族、ハンガリーへ。
東に行き匈奴、契丹、高句麗、百済、日本(出雲)に。

高句麗から以降が『日本=百済説』に書いてある。その著者:金容雲さんの写真を今探している。

2010(2009).3.6の午前にソウル歴史博物館に行き、老紳士に昔の日本語のイントネーションで話された。午後ここで講演するから来なさいと言われた方だと思っている。

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ダビデ・ソロモンの後継のヘブライ人王は、南ユダ王国滅亡前に三種の神器を携行亡命、アカバ湾・紅海・イエメン・インド・タイ・ベトナム・中国・沖縄・鹿児島・日向に行き、出雲族が先住と分かり、国譲りを要求。同じ宗教・文化・価値観だから戦争せず、大国主命は国を譲ったが、反対の次男=越国の王女のと子=は出雲崎から諏訪湖、守屋山へ逃げた。

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善光寺の由緒はご存知ですか?信州に来出して42年、家建て24年。信州人の不思議さが魅力だった。

何回も善光寺に行き、2010(2009).3にソウルに行き、全く同じ寺院の作りと分かった。もう、確信だ。

百済の禅(善?)光王子が倭国に人質=信頼の証で来ていて、百済が滅亡し、風土が似ている信州を天皇家から賜った。だから、奈良、尾張、飯田から奥地に移動し、善光寺平に落ち着いた。

決して難波の川で庶民僧飯田の善光が見つけたのではない。当時の庶民の名が歴史に留められるだろうか!!由緒を聞いても理解出来なかった。だから、いつかは韓国へ行ってみたかった。偶然、韓国スタッドレスタイヤのソウル旅行販促で同じ気候で買ったら、1万名で2組が当選し、3泊4日でキムヨナ凱旋帰国翌日に行き6日帰国。親日ムードで安心した。
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日本人はもっと日本の歴史をネットで研究しよう!!
安倍政権の時、中国の首相か外相が【日本人はもっと歴史を勉強して下さい!】をテレビで聞き、憤慨。東大入試で世界史Bと日本史Bで可笑しいと思っていたことが噴出した。

渡来人が原日本人を殺すか奴隷にし、産ませた子供が庶民日本人だ。だから、支配層=大蔵財務官僚は自分たちを守るために平気で庶民を生かさぬよう殺さぬように消費増税が出来るのだ。橋本五郎並みファウストだった厚顔野田は原日本人顔だが、同胞を悪魔に売り総理の座を射止めたのだ。そう言う抜けがけ最高峰が昔は秀吉?や角栄?だったが、21世紀でも抜けがけ這い上がりは居るのだ。

2016年04月08日

天皇家:諏訪大社:善光寺=同じ人種宗教の古代ヘブライ系=伽耶出雲系諏訪大明神絵詞の渡海図が最古:大化の改新のサテク妃系天皇家:百済滅亡後に百済遺民受入れ善光王子館寺
2016年01月24日
真田丸:諏訪=武田勝頼自決!伊香保=武田・四万=信州松本武田残党開拓!西日本では不知の岩櫃城を八ッ場ダム見学時歴史確認!驚いたのは諏訪氏が神氏=金刺氏=出雲・伽耶?
今まで武田勝頼はWIKIで確認したが諏訪氏は初めて!神氏=古代ヘブライ王系の自称?
出雲の大国主命の次男が国譲りに反対し出雲崎から信濃川を遡上して諏訪の地に。ガリレア湖と同じ海抜。守屋(山)はエルサレムの旧名・諏訪氏は古代ヘブライ人だと7年前の御柱祭の記念行事=諏訪大明神絵詞の解説BY信大准教授IN諏訪博物館で有り、何故国を譲ったのか?と聞いても資料がないから分からないと回答。
私が異教徒異民族なら戦争だが、同じ宗教で同じ価値観で三種の神器持参の天皇家に国を譲った!と言うと聴衆200人から大ブーイング。ワシらがユダヤ人か?今のユダヤ人とは違う。古代ヘブライ人です。偶然、今年も御柱祭。真田丸は大阪落城・御柱祭共に狙った大河ドラマ?
真田は百済王家子孫としても直系は無くなり、同門の諏訪氏に従いその後、諏訪氏+武田氏(高句麗武人?)の融合で武田氏の家臣軍に?

中(西)丸薫『古代天皇家と日本正史』と金容雲『日本=百済説』で明確に小沢 ...
www.asyura2.com/12/senkyo129/msg/821.html - キャッシュ
投稿者 アサマタロー 日時 2012 年 5 月 08 日 16:47:52: UiY46YlCu.Moc ... 諏訪 大明神絵詞の渡来絵が明治以降に消えたとソウル博物館の老紳士に言うと一番気にし ていた。全く同じ反射的仕業・所業で真実を消して支配継続を画策しているのだ。それが ...

2015年03月07日
美濃賀茂市長冤罪事件や信州身内は庇い合い・他所者無視の政治風土は何処から来たか?諏訪大明神絵詞の渡海図が明治以降消されたと信大准教授説明で気付いた。善光王子の道!
北から大国主命の次男が天皇家への国譲りに反対して諏訪湖に逃げ諏訪大社が館・住まい・そして神社に。
南から百済善光王子らが百済遺民と朝鮮半島に似た気候の信州を賜り移住。その後、高句麗滅亡し遺民が大量に尾張・美濃・信州に入り中仙道が草道から街道になった。大海人皇子は百済王庶子で高句麗に人質に行かされ、反唐で高句麗宮廷を統一し、チベット・ウイグル・契丹等と連携し反唐運動展開後に高句麗滅亡し、日本に帰化。唐新羅との歴戦の兵=騎馬民族武力集団で陸戦に強かった。倭国の弱兵は敵では無かった。

2015年01月30日

韓流ドラマ:ケべクをやって居て今回は右翼系BS日テレ。舒明天皇陵墓?発見で百済武王のサテク王妃王子らの日本乗っ取り事件?がネット言及され余りに無知ではダメだから仕込中?

何故、尾張の信長・秀吉・家康が天下を取れたのか?子供心に不思議だった。出来る人には出来る人が集まるんだ〜。その後、壬申の乱で虎を野に放ったと天智天皇が大海人皇子を吉野に行かせた事を後悔した。何故?高校時代日本史の疑問だった。

後年、NHK歴史探訪か?で大海人皇子は尾張に入り高句麗・百済遺民の支持を取り付け大津に向かって勝利した。天武天皇系が途絶えて天智系に戻り、一切の天武系を無視した(井沢元彦「逆説の日本史」は私論を聞いた同僚が薦めた本、それまでNHKの井沢を見て右翼的と忌避。)。

軽井沢に家を建て27年で善光寺に1年に数回行き出して、縁起を聞いても読んでも理解不能でネット検索すると、善光王子の字の左に王の字が付いて居て日本史事典では善光寺と近いページに載って居なかったが、ネット上は同一ページだった。これも日本史を謎に包むトリックと直感し、一度、百済発祥の韓国に行きたくなった。

2015年01月18日

信州に来出して43年軽井沢に家建てて26年。善光寺とは何ぞや?信州人の権力への面従腹背は何か?不満が有っても長い物に巻かれる?=百済善光王と百済の民の長い旅路の末だから!
2015年01月17日

舒明天皇と百済武王・義慈王の関係は?ケべク将軍を見捨てた百済貴族と武王妃サテク一族は何処に逃げた?日本沖縄島嶼部しかない?地方で30代以上続く名門?家系はその子孫だ!

2010.3.3〜6カインズ系オートアール韓国製冬タイヤ購入でソウル3泊4日5千人で1組計2組に当選。ソウルの宮廷遺構・門を見ると善光寺と同じ作りだった。その3月下旬、南の巡洋艦が北に撃沈され驚いた。
日本=百済説等もう隠せないのか出て来た。善光寺教務部長?が追分資料館で講演時も聞いた。百済善光王子が善光寺の主人・館だったと聞いても否定はしなかった。


2013年11月04日
軽井沢町に何故、戦後民主化が進展しなかったのか?農地解放は山村に及ばなかったのか?戦前の地元素封家公務員貴族意識のママだ!
南佐久の大日向村が分村し満蒙開拓団で終戦後、棄民され『大地の子』のモデル?になって、戦後、浅間山の国有林に入植した。辛い思いをした旧村民に懺悔・贖罪のお気持ちからか?昭和天皇も行幸され、今上天皇・美智子皇后も良く訪ねられる大日向は、戦前は浅間山から7kmは国有林だったと聞く。

東大弁論部の合宿で、八王子の小作農の親父が戦後農地解放で耕作地を安く貰い、戦後高度成長で高速道路や住宅分譲で不動産業をやり、今度は息子が八王子?立川?高校から東大文一に合格してくれて、我が世の春を謳歌していると、その息子から自己紹介時(昭和46〜7年)に聞いたことを思い出した。

武蔵野線沿線も小作農が戦後農地解放で8反農家になり、偶然、駅が架かり、今では駅前で不動産会社をやり、娘が土地代関連で銀行に高卒就職し、同じ銀行で土地代工作高卒男子と結婚し、婿は岳父の会社の専務に納まった話も直接聞いた。人間万事塞翁が馬!??

尾道・呉・新宿区戸塚・世田谷区桜ヶ丘・文京区西片・松戸市常盤平・吹田市千里丘・芦屋市高浜・静岡市千代田・渋谷区代々木・白岡市(町)篠津・軽井沢町大日向=計12箇所の生活で、呉時代の池田勇人や宮沢喜一講演以降は、タダで聞ける弁舌が面白く病み付きになり、選挙演説や集会・市町長の説明会・小泉内閣タウンミーティングにも、出席している。目黒区駒場の教養学部時は新人小坂徳三郎の新緑風会?の選挙(1972年?)応援を弁論部で無料奉仕!部費に寄付?させられた。

軽井沢でも前回町長選選挙演説会(金?)に東京⇒軽井沢駅からの帰り道に参加、移住後の町議との会も2012.11、2013.5,2013.10も聞いているが、全然参加住民の熱気が違う。寒冷地だからではなく、弁士や町長・町議の熱意が違うからだ。軽井沢の町長・町議は政治家ではない。政治家の熱い思いが全然感じられない。満足・慢心しきっている。何故か?

2013.11.1の矢ヶ崎での内堀議員の発言でやっと分かった。何かを変えたい情熱の政治家と臭い物に蓋の税金泥棒・家業政治屋の違いだと気付いた。

それで軽井沢には戦後農地解放は有ったのか?ネットで調べたが、出てこない。どなたか教えて下さい!

元幸福相互オーナー家のチャーリー・シーンかトムクルーズ似の美男子次?男が、先祖は明の豪商で清に攻め込まれ、一族が船三隻で五島列島に漂着、明治になり、中国人では有名な神武東征に倣い、新宮から奈良に入り、山林を明から持参の金銀財宝で買収し、戦後の農地解放が山林を含まず、山林の木材を元手に戦後,相互銀行を創業したそうで、西宮の博物館は先祖持参の中国古美術で有名らしい。

だから、軽井沢が戦前素封家公務員貴族趣味があるならば、山林が多く、農地解放がなされず、1%:99%?(5〜10%:95〜90%)の大多数の庶民貧乏人が虐げられてきたのかとここ2年定住して感じている。

何故、庶民90%が富裕者10%に勝手にされるのか?戦後の民主投票は1人1票秘密投票でしょう!

木漏れ日の里湯の件でも、署名簿だと何をされるか分からない。入浴半券の投票にさせて欲しいと良く言われた。小さな田舎の政治風土が今一解らない。そんなにイジメが有るのか?今頃でも投票用紙に記号暗号を書かせ、チェックしているのか?

小学6年卒業時172cmで3学年上の兄より背が高かった。小学4年時、脚にヒビをイカせて以降、兄が高校でも運動を続け、バレーボール国体ベスト8の現在182cmの兄に抜かれたが、体格でも勉強でも苛められたことがなく、その怖さが解らない。


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117. 2019年3月04日 19:27:27 : MqW3FylPZg : UWdmNVNvLlFBQ3M=[2] 報告
悪魔一族 天皇悪魔

http://img.asyura2.com/x0/d9/11775.jpg
http://img.asyura2.com/x0/d9/11776.jpg

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118. 2019年3月07日 18:44:38 : LmuLss3yaA : c0ZMRFVlSXE5dWM=[13] 報告
百済のルーツは高句麗にあり、高句麗は扶余(扶余)の
檀君神話の「檀君」を
先祖として仰いでいます。
(箕子朝鮮はなかったことにしたい模様です。)

元々の伊勢の神は、690年前後に中臣(藤原)氏により
追い出されてしまっていますので、

あそこにまつられている神様の中心は
いったいどこのどなたか
ということになります。

本来のこの列島に
奉られて然るべきだった祭神が、
その座を明け渡したことで、
邪悪な仲介者が間に立ち、暴力と嘘で
専横をふるってきた(及び、
いまだ、最後の足掻きをしている)ことで、

現在の世界はここまでの混沌と醜悪・無秩序ぶり・・・

世界は必ず、元に戻らないではいられないでしょう。

タルムード信仰(サタン信仰)のユダヤ・レビ族も
共にうごいているとみられる(ここから「反キリストが生まれる」
とされている)「ダン族」であるとするならば、
その世界支配の目論見は挫折すると思います。

回心が遅れれば、
それはダン部族全体の恥にさえなりかねません。
回心を
心から願っています。

119. 知的上級者さん[94] km2TSY_ji4mO0oKzgvE 2019年3月09日 05:37:25 : VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[14] 報告
>>114
最初の部分しか読んでないけど、その話は逆でしょう
エタというのは渡来人の職人たちのことであり
天皇種族は、自分たちの血に原住民の血が混ざることを恐れ集落を作った
皇后は群馬の部落だし
大きな神社は部落に建てられる

部落を作って、自ら差別されるように仕向けて血を守る
その偏狭さこそが天皇制の本質

120. 中川隆[-11062] koaQ7Jey 2019年3月30日 12:54:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[961] 報告
皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式

厳かに執り行われる皇族の初夜。神武天皇の染色体だか遺伝子だかは、こうして受け継がれていった…


皇族初夜の儀式は束帯と十二単の正式な衣装をまとって宮中三殿の賢所で行う「賢所大前の儀」や、親と子の杯を交わす「朝見の儀」ら、一連の結婚の儀をとどこおりなく終えると初夜を迎えるための準備「入浴潔斎の儀」を行う。

簡単に言えば、風呂に入って身を清めるということだが、花嫁は巫女と呼ばれる女官[正式には神社の娘(処女)だが、実際は皇族に仕える中高年の女性が大半]と一緒に入浴する。

浴室に入ると花嫁は、仁王立ちのまま一切自分の体に手を触れてはならず、巫女が服を脱がせ、体の隅々まで洗う。

隅々というからには外側から触れることのできる内部(耳・口・鼻からアソコ・肛門など)にも手指を入れて清める。

これは暗に花嫁の生殖機能を確かめる意味合いも併せ持つと言われている。

ちなみに花婿も巫女と一緒に入浴し、同様に体を清めてもらうのだが、この時の巫女は花婿にとってみそぎ相手でもあり、すでに生殖機能については確認済みということになる。

みそぎとはつまり筆おろしの意。これは皇族代々の風習で、皇族の直系男子は年頃(15歳から18歳)になるとみそぎを済ませる。正式にはみそぎの段取りを教え込まれた巫女、つまり性技に長けた処女がお相手を務めるが、実際は経験豊富な熟女の女官になる。

入浴潔斎の儀を終えると「初夜装束」と呼ばれる白い着物に着替えて(その下には一切下着をつけない)いよいよ初夜の床入り。これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、平安の時代から続く伝統的な儀式である。

まず、花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。元々は3日間繰り返すものであったが、近代は初夜のみとされる。要するに初めてのセックスで子宝に恵まれるよう霊力を与える儀式ということらしい。

さらに特筆すべきは、以上の儀式には夫と妻、それぞれの身分を保証する、一組の男女が介添人(仲人夫婦にあたる立場の人で部屋の隅で行為の一部始終を見届ける)として立ち会っていることと、儀式が終了した(性行為を終えた)ということを知らせる露見という、お披露目する点である。

露見とは、寝所の扉を開け壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで座る夫婦の姿を廊下で待っていた親族に見せ、行為終了後は再び初夜装束に着替え、寝具(厚手の布団)の掛け布団を外しシーツに処女の証である血がついているところを見せるのが正式な方法である。

さらに皇族には「一世一代の秘事口伝」なるものがある。これは代々の帝が口頭で直接申し送りするもので…その中にはセックスに関する風習も多く含まれており初夜の段取りから作法、体位、出産しない時期の避妊法などが伝えられている。


この儀式、少なくとも大正天皇までは行われていただろうと推測される。それにしても、一般人にとっては驚愕の事ばかりだ。他人に初夜の一部始終を見てもらい、終いには「血のついたシーツ」を見せなければならない。

何れにしても、穢れを基本とした内容は、朝鮮半島からの影響が大きいと思われる。


歴代天皇で妾が一番多いのは、嵯峨天皇で29人。毎日違う女性を相手しても1ヶ月かかる。以下、桓武天皇が26人、清和天皇が25人、亀山天皇が21人、後醍醐天皇が20人となっている。金正日の喜び隊なみなのだ。
http://anarchist.seesaa.net/article/11013180.html


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皇族の性処理はタブー?天皇のセックス事情 2018年12月18日
https://thepartner.jp/3114


最近、小室圭さんと眞子様の婚約発表&延期や、新たな元号の発表でも話題の皇室。外からはうかがい知ることのできない世界ですが、そんな世界だからこそ気になってしまうの皇族のセックス事情。

天皇の初夜の迎え方や、やり方に関して特別なルールがあると言いますが、実際の所どうなのでしょうか。今回は、皇族のセックス・性処理事情について、歴史を踏まえて解説していきます。


天皇のセックスに関するしきたり

皇族には、代々の天皇から口頭で直接セックスに関する申し送りをするしきたりがあると言われています。これには皇室ならではのセックスに関する風習などが多く含まれており、初夜の作法、体位、出産しない時期の避妊法など多岐にわたります。

結婚をして、初夜を迎える者に対して代々申し伝えられているという仕組みです。こうした儀式・しきたりは、主に大正天皇の時代まで続けられていたと言われており、形式に変化はありつつも長い歴史の間続けられてきたと考えられています。

巫女の存在

こうしたしきたりの中でも重要な存在が、巫女です。皇室には巫女と呼ばれる女官が存在し、性において重要な役割を果たしてきました。女官は皇族の世話をおこなう女性たちのことで、性に関するものを含め多岐にわたる領域で役割を担ってきました。

皇室のセックスにおいては、巫女が重要な役割を果たしてきたと言われていますが、たとえば皇族の初夜において巫女がともに入浴するなど、数々の儀式において側には巫女がいたようです。

では、こうした儀式について見ていきましょう。

皇族の初夜の迎え方

皇族のセックスは巫女が手助けしますが、そのための準備や作法など、皇族の初夜はやらなければいけないことがたくさんあります。

初夜の床入りの際に白餅を用意しなければならなかったり、花婿と花嫁、巫女の3人で入浴をする入浴潔斎の儀など、皇族ではない私たちにとっては耳慣れないものばかり。

みそぎ

みそぎは皇室代々の風習で、皇族の直系男子である皇太子が、年頃(15歳から18歳頃)になると、性技に長けた巫女から性に関する技術を学ぶものです。

いわるゆる筆おろしの行為であり、このみそぎを担当した女官が巫女として、皇室男子の花婿とともに入浴をします。

入浴潔斎の儀

この入浴のことを、入浴潔斎(にゅうよくけっさい)の儀と呼びます。巫女とともに風呂に入り、体中を清めてもらいます。この際、花嫁も花婿も巫女とともに入浴すると言われています。

すでに述べた通り、ここで入浴する巫女はみそぎにおいて花婿に性に関する手ほどきをしており、花婿の生殖機能を確認しています。皇室にとって家系を途絶えさせないことは重要な役割のため、入浴潔斎の儀よりも前にみそぎを済まして、生殖機能に問題がないことを確認していることが大事なのです。

初夜装束を身につける

その後、花婿と花嫁は初夜を迎えますが、この時に初夜装束と呼ばれる着物を身に着けます。これは入浴潔斎の儀をすませた花嫁花婿が、初夜のために着る白い着物のことです。

この着物にはその下には一切何も下着をつけないと言われています。

初夜の床入り

いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

露見

床入りをへてセックスに至りますが、この際には介添人が、花嫁花婿のセックスの場に立ち会い、一部始終を見届けます。

またセックスが終わったあとは、寝所の扉を開けて、壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで寝ている夫婦のシーツに処女の証である血がついているところを確認する役目も果たします。

現在の皇室におけるセックス事情は?

以上、皇室に代々伝わるセックスに関する話を紹介しました。皇室のセックスにおいては、巫女含めて3人で入浴をしたり、他人にセックスを見届けられなければいけなかったりと、一般人には驚きのしきたりが数多くあります。

もちろんこれらの儀式は、歴史的な皇室においておこなわれてたきもので、現在の天皇家において、どの程度まで続けられているかは不明です。一般的に、明治・大正天皇の時代までは儀式が重んじられていたと言われていますが、一部の儀式については現在も残っている可能性もあります。

ただし、人権意識が高まった現在においては、こうした儀式が天皇や皇室にとって負担になっている事実もあり、SPがついていたり、日々の行動が制限されているとはいえ、皇室や天皇も普通の人と同じような生活をすることが目指されていることから、あくまでも歴史的なセックスの儀式・しきたりだと考えていた方が良さそうです。
https://thepartner.jp/3114


▲△▽▼


>花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。

>新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。

>いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

>花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。


昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16
あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。


空港まで車で三宅さんを迎えに行った。


高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。


あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。


天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。


いま、あのときの顔を思い出しています。


三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643

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▲△▽▼

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられた。


▲△▽▼


みぽりんの韓国歳時記
シルトック ー古代のお餅ー
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/6347/c3.html


近所の市場に、キムチや塩を貯蔵するときに使う瓶を買いに行った時のことです。買い物を済ませてから、そこら辺に並べてある、壺や植木鉢も見物していたのですが、何やら植木鉢のように見える焼き物を発見しました。というのは見た目には植木鉢そっくりなのですが、底の穴が1個ではなく、3個くらいあるのです。

「パンジーを植えたらぴったりだけど、これでは土や小石が水と一緒に流れ出てしまう。一体これは何かしら。」と数ヶ月間考えたのですが、ある日女性雑誌に「シルを使って作るお餅」という特集を見つけました。そしてこの底にボコボコと穴の開いている器が、植木鉢ではなく、「シルトック」という名前のお餅を作るときに使う道具「シル」だということが分かったのです。  

シルトックはこの「シル」の底に、「シルミッ」という底敷きをひき、その上にうるち米の粉を入れて、底の穴を通して上がってくる、高温の蒸気で蒸して作るお餅です。紀元前の青銅器時代の住居跡からも「シル」が出土していて、韓国の最古のお餅と言っても過言ではないと思います。

ーいろいろなシルトックー  

さて一口にシルトックと言っても、歴史が長いだけあって、バラエティーに富んでいて、作る人やお店によっても千差万別、何種類あるのか分からないくらいです。さすが古代のお餅はすごいな、と感嘆してしまいます。   

まずはシルトックの代表格、「ベクソルギ(白雪肌)」。
うるち米の粉に少量の水と白砂糖を交ぜて作るので、出来上がったお餅が真っ白なところから、この名前が付きました。でもいくら上手に作っても、あまりお勧めできる味にはなりません。主材料がお米の粉と砂糖だけなのですから、それも当然のことでしょう。

子供の百日祝いや、一歳の誕生日には欠かせないお餅なのですが、まるで白いブロックの山のように、積み上げられたベクソルギは、食用と言うよりも観賞用で、食欲がグッと落ちてしまいます。

次は、ぱさぱさに煮た小豆とお米の粉を、サンドイッチの様に交互に入れて作るパッシルトック(パッは小豆のこと)です。

普通シルトックと言ったら、これを指すくらい有名で、シルトックの代名詞ようになっています。特にお店の開店祝いには欠かせないお餅なのですが、これも味の方は今一歩で、「あの美味しくない小豆のお餅。。。」などと悪口を言われている、悪名高きお餅です。

5色や7色に見事に層を作ったムジゲトック(ムジゲは虹)も、お祝いの席ではとても人気のお餅ですが、見た目ほど美味しくないのが難点です。今度こそ美味しいはずだと、期待して食べて、失望してしまった人は私だけではないはずです。  

さてシルトックも栗やナツメ、干しぶどう、ユズの砂糖付けなどがたっぷり入ったザッカビョン(雑果餅)や、ヨモギの粉を混ぜて作ったスッkトック(スッkはヨモギの意味)、カボチャ入りのホバクトック(ホバクはカボチャのこと)など、盛りだくさんに具をミックスしたものは非常に美味です。ただどれも出来損ないの蒸しパンのように、口当たりが、ぼそぼそがさがさとしていて、手放しで誉めまくれないのが残念なところです。そして昔ながらのシルトックは、「うっ!何だこれは」の一言で終わってしまう。う〜ん。苦しいところですね。
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/6347/c3.html




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121. 中川隆[-11060] koaQ7Jey 2019年3月30日 12:56:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[963] 報告
10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg
天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。

例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。

古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。

終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。

当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。

日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。

現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。


38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係していなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において戦争経験者が多く存在する時代ですし、天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではないといえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10


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122. 知的上級者さん[147] km2TSY_ji4mO0oKzgvE 2019年4月18日 14:19:01 : VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[67] 報告
>>121
天皇は北朝鮮と言うか、現在の中国東北部も含めた
白頭山周辺の地域にあった高句麗の人食い馬賊だった

これは知識が無くとも判ることです
天皇一味が国を持つ、作るということは徒歩では無理なんだから馬賊であったはずです
部下に電話して指示を出すとかは出来ない時代なのだから
馬で駆けずり回って住民を制圧して国になるわけです
だから天皇一味は馬賊の集団であった

馬賊はどこから来たかと言えば
ユーラシア・ステップ帯で遊牧をやっていた連中が
寒冷化で家畜が死んでしまい、馬に乗って人間を食いながら彷徨っていたのが高句麗あたりでしょう
人食い馬賊は半島を通って日本にまで達した
それを日本では武士と呼ぶ

123. 中川隆[-10663] koaQ7Jey 2019年4月20日 03:19:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1397] 報告

朝鮮人はロリコンが多いのかな?


世間の噂

プチエンジェル事件の顧客と噂されている皇族 秋篠宮文仁親王・高円宮憲仁親王


真相に潜むタブー!秋篠宮文仁親王と高円宮憲仁親王が顧客に?

プチエンジェル事件の捜査が打ち切りとなった背景には、皇族の名前が顧客リストに入っていたからという噂もあります。載っていたのは秋篠宮文仁親王殿下と高円宮憲仁親王殿下。皇室に名を連ねる方々がこのようなことをしているとは考え辛く、噂も高円宮殿下が薨去されてからは下火となりました。しかし都市伝説として伝わっている話があります。

いわくプチエンジェルの作った動画の中には秋篠宮殿下と高円宮殿下が秋篠宮家の長女・眞子様と行為に及んでいるものがあるというのです。動画は「パパだーいすき」という名前で覚えられています。宮内庁はこの動画を探しているそうです。ファイル共有ソフトが出回ったのはこの「パパだーいすき」を探すためと言われています。


この記事ではプチエンジェル事件について取り上げました。この事件は不可解な点が多く、残念ながら真相が明らかになっているとは言えません。ただ事件の背景には何かとても大きな闇と呼ぶべき何かが横たわっているような気がします。もし興味を持たれても、あまり深入りはしないほうが賢明ではないでしょうか。
https://career-find.jp/archives/30091/3

▲△▽▼


プチエンジェル事件の詳細は

プチエンジェル事件の深すぎる闇
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/358.html


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124. 2019年4月24日 16:04:50 : qXuPVYJPnQ : L0QuQ0FCUS5CbkE=[2] 報告
全く左翼ってのはいつも根拠がないのにねつ造して真実であるかのように語る。

嘘も100回つけば真実って言ってる終わってる国民。

125. 2019年4月30日 11:27:34 : ySPZjfAjKs : VzN1RWhSTnBKVVE=[56] 報告
サヘルから来ました。
126. 2019年5月06日 04:15:06 : ThgLHk5f7w : S1gxWExxNnBxN2M=[1] 報告
つーか俺がほんもんの天皇だから中国にもロシアにももう説明しとるわ。
127. 知的上級者さん[178] km2TSY_ji4mO0oKzgvE 2019年5月08日 03:37:11 : VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[98] 報告
衝撃です
次期天皇です
産経新聞です
https://www.sankei.com/images/news/190316/lif1903160030-p2.jpg

天皇制を終わらせるインパクトがある
明らかに、日本人でも中国人でもない
たぶん秋篠宮夫婦の子じゃないんでしょうね
誰かさんに子供が生まれなくて困ってお願いされたのかも?

日本に神社を広めた秦氏から天皇が輩出されていると言われる
だからスレのお題は「秦氏」とは何者か?ということで考える

秦氏はアジア有数の騎馬民族である
国を作るのは騎馬民族だから、ここまでは間違いない
そしてアジアの騎馬民族は、ユーラシアの草原地帯の遊牧民だった
つまりモンゴル・ツングースですよ

それが寒冷化で南下して人間を食う
南下した先には秦の始皇帝がいて追い出される
追い出されて東に進み、その先に朝鮮半島がある

秦の始皇帝はユダヤ人であり
そこから追い出された秦氏は「イスラエルの方から来ました〜」と偽装し
秦氏を名乗ったんでしょうね知らんけど

秦の始皇帝に派遣されて日本に不死の薬草を探しに来た物部氏がユダヤ人であり
秦氏は、その物部氏から神社神道を乗っ取って
我々は人食い馬賊ではなく、高度な文明を持ったユダヤ人なんだぞと言ったのでしょう知らんけど

だって三種の神器がマネし切れてないんですよ
八咫鏡にヘブライ文字が刻んであると言ってるのだから
それは「天皇の三種の神器はモーセの三種の神器だ」と言いたいわけですよ

モーセの三種の神器:契約の石板、アロンの杖、金のつぼ
天皇の三種の神器: 八咫鏡  、草薙剣、  八尺瓊曲玉
似てるけど違うわな

そして「イスラエルの方から来ました〜」と言うために
天皇は少なくとも古代イスラエルが崩壊した時点で存在している必要があり
本当は天皇は1300年前から始まったのに、2800年前からいたと、でっちあげる必要があった

まとめ
天皇は古代イスラエルからシルクロードを通って東へ東へと進んで来たとされるが
モンゴル・ツングースから南下し、秦の始皇帝に跳ね返され「L字」の経路で日本に到達した
と思う

128. 知的上級者さん[179] km2TSY_ji4mO0oKzgvE 2019年5月08日 03:50:17 : VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[99] 報告
よって今の国境で考えると
天皇とか安倍は
ロシア→朝鮮→日本

でも中国は「高句麗は中国だ」と言ってるので
ロシア→中国→朝鮮→日本

129. 中川隆[-10366] koaQ7Jey 2019年5月10日 02:42:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1734] 報告
「万世一系」の虚妄 _ 日本はなぜ「万世一系」を必要としたか

2013-05-05
「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385


天皇といえば、枕詞のようについてくる形容が「万世一系」。

ある種の人々にとって、天皇家が「万世一系」であることは、何物にも代えがたい至上の価値であり、日本という国を、他国より優れた特別な存在にするものであるらしい。

…バカじゃなかろうか。

当たり前だが、親から生まれて来なかった人間はいない。

皇族であろうがなかろうが、また日本人であろうがなかろうが、人間である以上、誰でも親、その親と辿っていけば、必ず悠久の過去の人類発祥までたどり着く。途中一世代どころか一瞬でも断絶があれば、その人間はいま生きてはいない。人間であれば誰でも、現生人類の誕生以来約25万年と言われる歴史の中を、連綿と命を受け継いで来たのだ。その中で、高々2千年程前のある男が祖先だと称する一族だけが「万世一系」で尊いなどということがあるわけがない。そんなものを崇め奉るのは愚の骨頂である。

「万世一系」など下らぬ妄想。

以上、終わり。

…ということにしてもいいのだが、せっかくなのでもう少しこれに関連する言説を見てみることにする。

一口に「万世一系」と言っても、その考え方は一つではないようだ。中でもとりわけバカバカしいのはこれあたりだろうか。

平沼赳夫オフィシャルホームページ:(強調部は引用者による)


 つまり、男系継承とは「男性天皇が血統の出発点であること」を意味し、反対に女系継承とは「女性から始まる継承」をいう。愛子内親王が天皇となり、その配偶者が皇族でないかぎり、その子が天皇になると「女系継承」が始まるのである。

 「万世一系」というと本家の血筋が永遠に続くことと誤解する人がいるが、それでは「真の一系」にはならないのだ。時には分家からも継承者が現れ、男系で継承が維持されていくことが「万世一系」の本質的意味である。

 飛鳥より遥かに時代をさかのぼった第16代仁徳天皇の男系血筋は、約80年後の武烈天皇(25)で血統が途絶えたため、家系をさかのぼって分家の男系子孫を見つけだし、継体天皇(26)が誕生したという例もある。

 では次にこの男系継承を遺伝子学的に見てみよう。

 人間の男性の染色体はXYであるのに対して、女性のそれはXXであり、それぞれ46対ある。男女が結婚して男の子ができた場合、母の23対のX染色体と父の23対のY染色体をもらう。女の子の場合は、母の23対の×染色体と父の23対のX染色体をもらう。よって男系の子孫にのみにオリジナルのY染色体が引き継がれ、女系の子孫には引き継がれない。女系では「皇統」が護持されないのである。(参考図参照)

 つまり、皇位が男系継承で引き継がれていく限り、男性天皇には間違いなく初代神武天皇のY因子が継承されるのに対し、女性天皇ではY因子の保持は約束されないのである。

 男系継承を護持することは、神武天皇だけでなく、更に遡って二二ギノミコトのオリジナルのY因子を継承することにもなり、このY因子こそ「皇位継承」の必要要件であり「万世一系」の本当の意昧なのである。

平沼によると、「万世一系」の本質とは、天皇家の父から息子へと受け継がれていくY染色体上の遺伝子のことなのだそうだ。代々の天皇(天皇にはなれなかった傍系の男も含む)の肉体は、単なる遺伝子を運搬するための器に過ぎず、息子に「Y因子」を受渡してしまえばもう用済みなのである。もちろん、個々の天皇の人格などどうでもいいわけだ。なんだか、利己的遺伝子仮説の出来の悪い焼き直しみたいな話だ。

これほど歴代天皇を侮辱した言説もないのではなかろうか。

ついでに指摘しておくと、古事記に名前が出てくる各地の豪族のうち、88%は「皇系」、つまり何代目かの天皇の子孫ということになっている。平沼の言うように「Y因子」さえ受け継いでいればいいのなら、男系で続いてさえいれば、そうした豪族たちの誰がどんな手段で天皇になっても構わないことになる。とんだ「万世一系」もあったものだ。

より穏当というか、一般的な説は、日本では歴史の初めから王朝の交代がなく、同じ王統がずっと続いているから「万世一系」だ、というものだ。

しかし、こちらの説も極めて怪しい。

例えば、平沼も言及している武烈(25代)から継体(26代)への代替わりなど、まず王朝交代と見て間違いない。

武烈には子がなく、次の天皇となった継体は、古事記によれば応神天皇(15代)の五世の孫、日本書紀によれば六世の孫、とされている。確かに一応過去の天皇の子孫ということになってはいるが、これほど世代の隔絶した継承は異常だ。それは、以下の系譜と比べてみれば分かる。


桓武天皇

葛原親王1

高見王2

平高望3

平良持4

平将門5

平将門は桓武天皇の五世の孫。継体が天皇になったというのは、平将門が天皇になったのと同じようなものなのだ。

しかも、三国(現在の福井県坂井郡付近)の出身とされている継体の、応神以来の系譜は、古事記にも日本書紀にも書かれていない。(日本書紀は父の名のみ記載。)


 これは記紀の編者が、それらを知らなかったためではなく、それらを書くことが必ずしも名誉とならない、そういう事情を配慮したからではないであろうか。なぜなら、それらの人名は、北志賀(滋賀県)や三国(福井県)の諸豪族にとって、同僚や時として下僚に当る人物として熟知されていた人名だったであろうから。

 このように考えてみると、継体即位の問題性、さらに不法性、それを疑うことは困難なのではなかろうか。

という古田武彦氏の推測(『古代は輝いていた』2)は妥当なものと思われる。実際、応神―継体間の系譜は、鎌倉末期に書かれた日本書紀の注釈書「釈日本紀」に、今では失われた「上宮記」という史書からの引用という形で記載されている。上宮記は7世紀頃に成立したと考えられており、古事記・日本書紀より古い。当然、記紀の編者が知らなかったはずはないのだ。

要するに、武烈死後の混乱に乗じて、出自もはっきりしない、しかし武力や経済力は十分に備えた地方の大豪族が大和に進出してきて次の天皇となったのだ。「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

▲△▽▼


日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878


歴代天皇のいわゆる「万世一系」について、真に問わなければならない問題とは何か?

それは、「万世一系」の定義とか、それは事実かどうか、といったことではなく、なぜ天皇は「万世一系」ということになっていなければならないのか、そもそもなぜそんなものが必要だったのか、という問題だと私は考えている。

「万世一系」の天皇を戴く大和民族の一員であることにしか自尊感情の源泉を見いだせないある種の人々(「特定日本人」とでも呼ぶべきか?w)は、幾多の王朝が興亡を繰り返した中国と比較することで自国の優位性を言いたがる。

なので、ここでも中国との比較を通してこの問題を考えてみることにしよう。

■ 疑問1

前回の記事では、武烈―継体間の王統断絶を取り上げた。ここで、日本書紀は、前王朝最後の王武烈を、悪逆非道の暴君として描き出している。


武烈2年: 妊婦の腹を割いて胎児を見た。

武烈3年: 人の生爪を抜き、その手で芋を掘らせた。

武烈4年: 人の頭髪を抜き、木の頂に登らせ、その木を切り倒して、

      登らせた者が落ちて死ぬのを楽しんだ。

武烈5年: 人を池の水を流す樋に伏せ入らせ、外に流れ出てきたところを

      三叉の矛で刺し殺して楽しんだ。

武烈7年: 人を木に登らせておき、弓で射落として笑った。

武烈8年: 女を裸にして板の上に据え、馬を引いてきて交尾させた。

      そして女の性器が濡れていれば殺し、濡れていなければ官婢とした。

これとよく似た例が、中国の史書にも見られる。有名なのは殷に亡ぼされた夏王朝最後の王「桀」、そして周に亡ぼされた殷王朝最後の王「紂」に関する暴虐記事だろう。

『史記』夏本紀34:


桀、徳に務めずして百姓を武傷す。百姓堪えず。

『史記』殷本紀29-30:


(紂は)酒を好み淫を楽しみ、婦人を嬖(へい)す。

妲己(だっき)を愛し、妲己の言に是れ従ふ。

賦税(ふぜい)を厚くして以て鹿台(ろくだい)の銭を実たし、而して鉅橋(きょきょう)の粟(あわ)を盈(み)つ。

(人々を)大いに最(あつ)め沙丘に楽戯す。

酒を以て池と為し、肉を懸けて林と為し、男女をして裸(ら)し其の間に相ひ逐(お)はしめ、長夜の飲を為す。


武烈紀の暴虐記事は、これら中国の先例に倣ったものと思われる。

こうした記事の内容が本当だったのかどうか、それは分からない。しかし、確実に言えるのは、前王朝に取って代わった新権力者にとって、先王の暴虐を宣伝するのは、自らの権力奪取の正当性を主張する上で大変役に立つ、ということだ。

殷の湯王や周の武王と、継体はよく似た立場にいたといえる。ではなぜ、湯王や武王が堂々と新王朝の樹立を宣言したのに対して、継体はあたかも穏当に武烈の後を継いだかのように振舞ったのだろうか?

別の言い方をすれば、継体から始まる新王朝の正史である日本書紀は、なぜ継体を自王朝の始祖として描かず、神武以来の王朝がそのまま継続したかのように描いているのだろうか?

■ 疑問2

武王が樹立した周王朝は、その後しだいに衰退し、やがて形式的な権威を担うだけの有名無実の存在となっていった。鎌倉時代以降、実質的権力を失い、衰退していった京都朝廷とよく似ている。

両者の違いは、周王朝が数百年続いた後、最終的に秦に滅ぼされたのに対して、京都朝廷は曲がりなりにも近代に至るまで存続したことだ。

何がこの両者の運命を分けたのだろうか?

■ 答え

周王朝を廃した秦の始皇帝は、泰山で「封禅の儀」を行い、天と地を祭って、中国全土を統治する皇帝としての自らの権威を誇示した。

この例が示すように、古来中国には「天」の思想がある。そもそも王や皇帝とは、天の命令(天命)を受けて、「天子」として天下を統治するものなのだ。

だから、皇帝が徳を失い、天子にふさわしい存在でなくなれば、他の者が代わって天命を受け、新たな天子となることができる。桀のように、「徳に務めず」民を虐待するような権力者は、倒されても仕方がないとされるのだ。

これが、天命が革(あらたま)ること、すなわち「革命」である。

一方の日本はどうだろうか。

日本には、権力の正当性を主張するための基準となる、このような普遍的原理がない。記紀神話を通して見ても、地上の権力者にその権力の正統性を与える根拠は、天照大神が自らの孫ニニギに対して言ったという言葉、


葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是(これ)、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無けむ。

―いわゆる「天壌無窮の神勅」(日本書紀 神代下 第九段)―しかない。

ちなみにこの「神勅」、いかに荘重な漢文調で飾って見せたところで、中身を見れば、自分の子孫だけが可愛いという身内びいきの塊みたいなものであって、そこには普遍性のカケラもない。

このように、権力の正統性を支える普遍的原理がなく、頼れる権威が天照の子孫とされる一族の血筋だけとなれば、どうしても天皇には(内実はどうあれ)「万世一系」でいてもらわなければならないことになる。

この国で新興の実力者が権力の頂点に立つには、継体のように王朝内での順当な継承を偽装するか、そうでなければ天皇から権力の行使を委託される(例えば「征夷大将軍」として)という形式を取るしかなかった。だから、天皇家はいくら落ちぶれても、とりあえず権威を示すそれらしい儀式を行える程度の状態で存続を許された、というよりむしろ、存続させられてきたのである。

結論。天皇が「万世一系」ということになっているのは、日本には権力の正統性を支える基盤としての普遍的原理がなく、権威として頼れるものが神の子孫だという天皇家の血筋しかなかったからである。


※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)による。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

▲△▽▼


仲哀→応神も王朝交代
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313

記事《「万世一系」の虚妄》の中で、武烈(25代)から継体(26代)への代替わりが王朝交代に他ならないことを説明した。しかし、明治以来常識化されてきた「万世一系」を否定する反例はこれだけではない。

次は、仲哀(14代)から応神(15代)への代替わりを見てみよう。

仲哀は、実に奇妙な死に方をしている。

古事記(仲哀記):


 その太后息長帯日売の命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)は、当時神帰よせしたまひき。かれ天皇筑紫の詞志比かしひの宮にましまして熊曾の国を撃たむとしたまふ時に、天皇御琴を控ひかして、建内タケシウチの宿禰の大臣沙庭さにはに居て、神の命を請ひまつりき。ここに太后、神帰よせして、言教へ覚さとし詔りたまひつらくは、「西の方に国あり。金・銀を本はじめて、目の炎耀かかやく種々の珍宝その国に多さはなるを、吾あれ今その国を帰よせ賜はむ」と詔りたまひつ。ここに天皇、答へ白したまはく、「高き地に登りて西の方を見れば、国土くには見えず、ただ大海のみあり」と白して、詐いつわりせす神と思ほして、御琴を押し退けて、控ひきたまはず、黙もだしたましき。ここにその神いたく忿いかりて、詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝いましの知らすべき国にあらず、汝は一道ひとみちに向ひたまへ(=黄泉の国へ行ってしまえ)」と詔りたまひき。ここに建内の宿禰の大臣白さく、「恐かしこし、我が天皇。なほその大御琴あそばせ」とまをす。ここにややにその御琴を取り依せて、なまなまに(=しぶしぶ)控ひきいます。かれ、幾久いくだもあらずて、御琴の音聞えずなりぬ。すなはち火を挙げて見まつれば、既に崩かむあがりたまひつ。

仲哀は、西方の国(新羅)を与えてやろうという神の言葉を信じなかったために、神罰を受けて死んだというのである。このとき本当は何があったのか。伊藤浩士氏がブログで次のように書いているが、私も同感である。


仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は熊襲征伐のために筑紫にきていて、そこで神功皇后が新羅を攻めると言い出します。仲哀天皇は反対します。仲哀天皇と神功皇后、竹内宿禰の3人だけがいて、気が付くと神の罰が当たって仲哀天皇が死んでいたと記されています。ふつうに考えれば、神功皇后と竹内宿禰の共謀による殺害です。

このとき、仲哀は軍を率いて九州まで遠征していた。仲哀には既に別の后(大中津比売の命)との間に香坂かごさかの王、忍熊おしくまの王という二人の息子がいたのだが、この遠征には同行していない。建内以外の有力な臣下もついてきていない。暗殺には絶好のシチュエーションと言っていいだろう。

そしてこの「神」は、香坂・忍熊を押しのけて、息長帯日売が産む子を次の天皇にする、と決めてしまうのである。

古事記(仲哀記):


また建内の宿禰沙庭に居て、神の命みことを請ひまつりき。ここに教へ覚したまふ状、つぶさに先の日の如くありて、「およそこの国は、汝命いましみことの御腹にます御子の知らさむ国なり」とのりたまひき。ここに建内の宿禰白さく、「恐し、我が大神、その神の御腹にます御子は、何の子ぞも」とまをせぱ、答へて詔りたまはく、「男子なり」とのりたまひき。ここにつぶさに請ひまつらく、「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまくほし」とまをししかぱ、答へ詔りたまはく、「こは天照らす大神の御心なり。また底筒の男そこつつのを、中筒の男なかつつのを、上筒の男うはつつのを三柱の大神なり。この時にその三柱の大神の御名は顕したまへり。

天照大神の神意だ、というわけだが、それを聞いたのは建内宿禰だけなのだから、要するに建内がそう決めた、ということである。

この後、息長帯日売はいわゆる「神功皇后の三韓征伐」(それが征伐などと呼べる代物でないことは別途書く予定)を行い、九州に帰ってきてから息子を産む。これが後の応神天皇である。この応神の出生についても、不可解なエピソードが書かれている。

古事記(仲哀記):


かれその政(三韓征伐のこと)いまだ寛をへざる間に、懐妊ませるが、産れまさむとしつ。すなはち御腹を鎮いはひたまはむとして、石を取らして、御裳みもの腰に纏まかして、竺紫つくしの国に渡りましてぞ、その御子は生あれましつる。かれその御子の生れましし地に号なづけて、宇美といふ。またその御裳に纏かしし石は、筑紫の国の伊斗いとの村にあり。

「三韓征伐」が終わらないうちに子どもが産まれそうになってしまったため、石を腰紐にはさんで押さえ、神に祈って出産を遅らせたというのである。これも普通に考えれば、応神の出生が仲哀の子とするにはあまりに遅すぎたため、つじつまを合わせるための説話を創作したのである。

では応神の父親は誰か? 史料的根拠には欠けるが、建内宿禰とするのが最も自然ではないだろうか。

そして、息長帯日売と建内は九州から大和に攻め上り、忍熊王の軍を破ってこれを滅ぼしてしまう。(香坂王はその前に事故死。)もちろん、「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313


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「神功皇后の三韓征伐」という大嘘
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858

仲哀(14代)から応神(15代)への代替わりが、単なる代替わりではなく王朝交代であったことについては既に説明した。このとき、仲哀の九州遠征に同行せず大和に残っていた息子たちを滅ぼして権力を奪ったのが、神功皇后こと息長帯日売(オキナガタラシヒメ)と建内宿禰(タケシウチノスクネ)である。

そして神功皇后といえば、いわゆる「三韓征伐」が必ずセットとなって語られる。

この「三韓征伐」とは実際にはどんな事件だったのか。まず、古事記の記述を見てみよう。


 かれつぶさに教へ覚したまへる如くに、軍を整へ、船双なめて、度り幸でます時に、海原の魚ども、大きも小きも、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風おひかぜいたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれその御船の波瀾なみ、新羅の国に押し騰あがりて、既に国半なからまで到りき。ここにその国王、畏おぢ惶かしこみて奏まをして言まをさく、「今よ後、天皇の命のまにまに、御馬甘みまかひとして、年の毎に船双めて船腹乾さず、棹楫さをかぢ乾さず、天地のむた、退しぞきなく仕へまつらむ」とまをしき。かれここを以ちて、新羅の国をぱ、御馬甘と定めたまひ、百済の国をぱ、渡わたの屯家みやけと定めたまひき。ここにその御杖を新羅の国主の門に衝き立てたまひ、すなはち墨江すみのえの大神の荒御魂あらみたまを、国守ります神と祭り鎮めて還り渡りたまひき。

しかし、これは果たして「征伐」などと呼べるものだろうか。神功が軍船を整えて新羅に行ったら、一戦も交えることなく、向こうが勝手に恐れをなして降伏してしまったというのだ。(日本書紀にもほぼ同じ内容の説話が記されているが、こちらは新羅だけでなく、接触すらしていない高句麗と百済まで降伏してしまったことになっている。)こんなことはあり得ない。

いや、実際この後、新羅は日本に朝貢しているではないか、と言う人がいるかもしれない。しかし、記紀に朝貢記事があるからといって、それが服属の証拠にはならないのだ。古田武彦氏が次のように指摘している[1]。


わたしは『記・紀』を見る場合、つぎの二つの原則を大前提とする。

(1) 『記・紀』は、天皇家中心の「大義名分」に貫かれた本である。

(2) したがって『記・紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改削・新加(新しく付加)することはあっても、「不利」に加削することはない。

まず、(1)について説明しよう。

すでに前の本で詳しくのべたように、“天皇家は永遠の昔から、この日本列島の中心の存在だったのだ”という「大義名分」が『記・紀』を貫いている。それは「歴史事実の実証」以前の、いわば「観念」としての大前提なのである。それは国内問題だけではない。たとえば、


  冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。    〈仁徳紀五十八年〉

  夏四月に、呉国、使を遣して貢献す。      〈雄略紀六年〉


とあるように、中国(や高麗)との通交さえ、あちらが日本の天皇家に臣従し、朝貢してきたように書いてあるのだ。だから、これは「朝貢」の事実を示す記事ではない。『記・紀』の大義名分に立った筆法なのである。

中国の皇帝が「東夷」の蛮族と見なしていた日本に朝貢してくるはずがないことは、常識として理解できるだろう。

つまり、記紀の「三韓征伐」記事が示しているのは、神功が新羅を訪問して王と交渉し、このときから近畿天皇家と新羅との間の国交が始まった、という出来事なのだ。これは新羅との国交開始に関する説話なのである[2]。新羅王が服従を誓ったとか、新羅の国を「御馬甘」に定めたとかいうのは、魚たちが神功の船を背負って海を渡った、船が波に乗って新羅の中央部まで押し上がった、などと書いてあるのと同じ、何も知らない国内人民向けのほら話に過ぎない。

しかし、ではなぜ、新羅との国交が必要だったのか?

ここで、そもそも神功と建内は、仲哀の熊襲征伐に従って九州まで来ていたことを思い出していただきたい。仲哀をうまく始末したのはいいが、次は大和に戻って仲哀の息子たちを討ち滅ぼさなければ自分たちに未来はない。しかし、まだ熊襲との戦争は続いているのだ。こちらの事情が変わったからといって、簡単に敵に背を向けて帰るわけにはいかない。追撃を避けるには、熊襲との和平、最低でも休戦が必要だ。

日本書紀では、神功を通じて仲哀に新羅征伐を勧めた「神」は、次のように語っている。


時に、神有まして、皇后に託かかりて誨おしへまつりて曰はく、「天皇、何ぞ熊襲の服まつろはざることを憂へたまふ。是これ、膂宍そししの空国むなくにぞ。豈あに、兵を挙げて伐つに足らむや。玆この国に愈まさりて宝有る国、警たとへば処女をとめの睩まよびきの如くにして、津に向へる国有り。眼炎まかかやく金・銀・彩色、多さはに其の国に在り。是を衾たくぶすま新羅国しらきのくにと謂いふ。若もし能よく吾を祭りたまはば、曾かつて刃に血ちぬらずして、其の国必ず自おのづから服まつろひしたがひなむ。復また、熊襲も為服まつろひなむ。

自分を良く祭れば新羅は従い、また熊襲も自ら従うだろう、と言っているのだ。この両者の間には何らかの強い結びつきがあり、新羅との友好は熊襲との関係改善にもつながることを示唆している。

だから神功は、熊襲との戦争状態を終わらせて大和での権力奪取に集中するため、熊襲のバックに控えている新羅との友好関係を確立しようと海を渡ったのである。それは、「征伐」とは正反対の、友好を求める外交交渉だったのだ。

[1] 古田武彦 『盗まれた神話』 朝日文庫 1994年 P.63-64
[2] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.131

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(二)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858


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皇位継承


7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,

16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,

仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。

応神・仁徳を境として,皇位継承の原則に大きな変化が起こっているように見える。
しかし,父子直系相続は7世紀末以降の天皇の目ざした皇位継承法であり,兄弟相続は日本固有の継承法であることからすると,応神以前の直系相続は記紀編纂の過程で作為された可能性が強い。

また,記紀にみえる天皇の名称をみると,

7,8,9代の孝霊,孝元,開化と41,42,43,44代の持統,文武,元明,元正はヤマトネコ,

10,11代の崇神,垂仁はイリヒコ,

12,13,14代の景行,成務,仲哀と34,35代の舒明,皇極はタラシヒコ(メ),

15,17,18代の応神,履中,反正と38代の天智はワケ,

27,28,29代の安閑,宣化,欽明はクニオシ


という称をもつというように時期により特色があり,それらを検討すると

7〜9代の名称は持統以下の名称を手本に,
12〜14代の名称は舒明,皇極の名称を手本にして作られた

と推定される。

これに加えて記紀には9代までの天皇の事績については神武以外ほとんど所伝がないこと,10代の崇神が初代の天皇を意味する所知初国(はつくにしらす)天皇の称号をもつことなどから,9代までの天皇の実在性は疑われている。

10代以後も,皇居や陵墓の所在地や称号の変化などから,10〜12代の天皇は大和を根拠としていたが,15〜25代の天皇は河内平野を主要な根拠地とする別系統の天皇ではないかとして,前者を三輪政権(初期大和政権),後者を河内政権と呼ぶ説もある。

同様に26代の継体以後の天皇もそれまでとは別系統の天皇とする説もある。

これらの説に従えば,古代の皇位継承は,10代の崇神以後2度断絶したが,6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足したということになる。

しかしこれも一つの解釈ないし仮説であって,古代の皇位継承にはなお多くの疑問が残っている。
→王朝交替論
[直木 孝次郎]

皇嗣の冊定

大化以前の皇位継承については,天皇が任意に選定したとする中田薫の選定相続説,天皇が神意により卜定したとする滝川政次郎の卜定相続説,末子相続から兄弟相続への移行を説く白鳥清の兄弟継承説,あるいは大兄(おおえ)(同腹中の長子)からその兄弟,ついで大兄の子の順に継承反復したとする井上光貞の大兄相続説などがある。

そして天智朝に至り,中国より継受した嫡長子相続主義にもとづく皇位継承法が定められたとも説かれている。

しかし爾後の実例に徴すると,皇嗣の選定は,嫡系男子の優位を認めながらも,天皇(あるいは上皇)の勅定するところであり,明治の皇室典範制定以前は,立太子の詔において初めて皇嗣を冊定するのを本則とした。

ただ立太子の儀はときに省略された例も少なくなく,ことに室町時代から江戸初期にかけて中絶したが,霊元天皇がこれを再興するに当たり,立太子に先立ち朝仁親王(東山天皇)を儲君(ちよくん)に治定したのが例となって,明治の嘉仁親王(大正天皇)の立太子に至るまで,儲君治定が実質的な皇嗣冊立を意味した。

皇位継承の資格

皇位継承者は,いうまでもなく皇親に限られる。

推古天皇をはじめ皇后から皇位を継いだ例も数例あるが,皇曾孫の皇極,皇孫の元正以外の女帝はみな皇女である。

継嗣令に〈女帝子〉の語が見えるから,令制では女帝の存在を公認しており,江戸中期の後桜町まで10代8女帝が生まれたが,いずれも中継ぎ的色彩が濃く,やはり皇男子の継承が本則であったとすべきであろう。

平安・鎌倉時代には,いったん臣籍に降下したのち,さらに皇籍に復した例が数例あり,そのうち光孝の皇子定省(宇多)は皇位にのぼったが,やはり変則であろう。

皇位継承の原因

上古の皇位継承は,天皇が没することによって行われたが,645年(大化1)皇極が孝徳に皇位を譲って譲位の例を開いてからは,明治まで87代中(北朝天皇を除く)56代の天皇が譲位によって皇位を継いだ。

天皇譲位の場合には,皇嗣が禅(ゆずり)を受けて直ちに践祚(せんそ)するのを常例としたが,天皇が没した場合には,没時と践祚との間に時日を要した例も多く,ことに上古においては数年月を経ることもあった。

また鎌倉時代以後は,皇嗣の選定について朝廷と幕府の間の交渉に日時を要した場合も数例ある。

なお斉明の皇太子中大兄(天智天皇),天武の皇后鸕野讃良(持統天皇)は,天皇没後,皇位につかずに数年にわたり執政したが,これを〈称制(しようせい)〉といった。

81代安徳が平氏に擁されて西海に幸した後,京都において後鳥羽が践祚し,1年余にわたって2人の天皇が存立し,また96代後醍醐の譲位否認のもとで光厳が践祚し,爾後50余年にわたって南北両朝が併存対立した。

また天皇がいったん譲位したのち,再び皇位についたことが2度あり,これを重祚(ちようそ)という。

35代皇極が重祚して37代斉明となり,46代孝謙が重祚して48代称徳となったのがそれで,ともに女帝にして,特殊な政情によるものである。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=128  

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ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。


○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。


○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。


○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。


○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。


○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp


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天武天皇以前の皇位継承は兄弟間相続で、沢山いる皇子の中で最も有能な皇子しか天皇になれなかったのです。
それが白村江の戦いで負けて唐の属国になってから、唐の律令制や儒教的な父子相続制を取り入れたのです:


天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス) – 2015/10/22
中村 修也 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E6%9C%9D%E3%81%A8%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E5%94%90%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E4%BF%AE%E4%B9%9F/dp/4140912359?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp

内容紹介

古代日本に存在した、もう一つの「占領」

663年の「白村江の戦い」に敗れた日本は、唐の再攻撃に備えて防衛態勢を整備し、その後は律令国家建設へ邁進したと言われている。だが、それは本当なのか? 本書は、唐の羈縻政策を軸に展開した当時の東アジア情勢を踏まえつつ、中国・朝鮮側の史料との比較から『日本書紀』を再検証し、これまでの通説に挑む力作。唐の支配体制が、その後の律令国家体制とどのように結びついていったのかを鮮やかに描く。

内容(「BOOK」データベースより)

古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から『日本書紀』を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中村/修也
1959年、和歌山県生まれ。1989年、筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程単位取得修了。博士(文学)。現在、文教大学教育学部教授

カスタマーレビュー

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 筆者は、近代のアジア太平洋戦争で、日本が大敗した後、GHQに占領され、再建を指導された経験から、古代の白村江の合戦で、倭+百済遺民が大敗した後を、想像すべきだとし、通説を批判、異説を展開しています。

 異説では、まず、663年の白村江の合戦で、倭+百済遺民が、唐+新羅に大敗後、唐が、九州にも進出し、朝鮮式山城(やまじろ)・水城(みずき)や防(防御地)・烽(ノロシ台)を設置、後世の大宰府の位置には、筑紫都督府も設置し、占領統治するつもりだったと主張されています。

 それは、唐の6度の来日時期の664〜672年の間に、それらが整備されているうえ、唐が、大量の人員を、朝鮮半島から日本列島へと、送り込んだからで、そうなると、それらは、唐や新羅の侵攻を防御する施設でないことがわかります。

 また、667年の近江・大津京への遷都は、大和政権の前方拠点の難波・河内と後方拠点の大和から引き離す、唐の強制で、両拠点の中間の山頂の高安城(たかやすのき)は、唐が、両拠点を監視するためとみられます。

 そのうえ、670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)・671年の近江令は、戸籍を作成することで、公正・円滑に徴税でき、671年の水時計(漏刻)の設置は、官僚の勤務管理に有効で、いずれも唐が、直接持ち込んだとみれば、納得できます。

 さらに、唐が、百済の王子の扶余隆を、熊津都督に利用したように、671年の大友皇子の後継も、唐の傀儡政権で、唐の日本列島撤退直後の、672年の壬申の乱での大海人皇子の政権奪取は、その転換とも受け取れ、689年の飛鳥浄御原令は、当時頻繁に通交していた新羅と、唐の制度を折衷したようです。

 朝鮮半島では、642年に、百済は、高句麗と同盟し、新羅を攻撃、新羅は、西部40余城を奪取され、劣勢から、643年に、唐に援軍を要請しましたが、反応なく、647年に、政権の内乱が発生しましたが、鎮圧し、ようやく、648年に、唐と同盟できましたが、654年に、北部30余城も奪取されています。

 そののち、唐は、高句麗を挟み撃ちにするため、660年に、新羅と連携し、百済を滅亡させると、倭は、百済復興のため、援軍を渡海しましたが、663年に、白村江の合戦で大敗、唐は、668年に、新羅と連携し、高句麗も滅亡させ、百済に熊津都督府を、高句麗に安東都護府を設置し、占領統治しました。

 ところが、唐は、新羅も、鶏林州都督府を設置し、統治しようとしたので、670年から、新羅が、唐に反抗・交戦し、唐は、それを鎮圧できず、朝鮮半島の戦況が悪化したので、672年に、日本列島から撤退すると、同年に、壬申の乱が勃発、唐は、676年に、朝鮮半島からも撤退させられています。

 唐は、同盟国の新羅でさえ、鶏林州都督府を設置したので、敗戦国の倭に、筑紫都督府を設置するのも、当然だったでしょう。

 なお、盗作だと酷評しているレビューも、一部あり、学者間のルールは、遵守すべきですが、そもそも史料が、わずかしかない日本古代史では、異説といっても、類似する傾向にあり、それが先行研究に無知だっただけで、異説の積み重ねが、通説になるので、既説か新説かのみに固執するのは、不毛です。

 古代日本の制度・技術・文化も、たかが、中国発祥・朝鮮経由と一蹴することもできますが、されど、独自に変容・洗練されたので、盗作ではなく、固有と位置づけられるので、それと同様、読者は、新説の「藤原鎌足」の12ページ?と、既説の細密な本書の、違いを楽しめばよいのではないでしょうか。

 ところで、「隋書倭国伝」で、600年に、妻子のいる倭王のアメ・タリシヒコ・アホケミが、隋に使者を派遣していますが、女帝の推古天皇(33代)と一致せず、「旧唐書日本伝」で、日本国は倭国の別種とあるので、推古天皇を大和政権、タリシヒコを筑紫政権(倭)とする説(九州王朝説)があります。

 他にも、「日本書紀」と「隋書倭国伝」「隋書」で、冠位12階と内官12等の序列や、遣唐使の訪問年が、食い違っており、「日本書紀」では、608年に帰国した遣隋使の小野妹子が、隋の国書を百済で奪い取られたのに免罪で、「隋書倭国伝」では、九州の地名しか登場せず、不自然です。

 私は、個人的に、九州王朝説(古田武彦)を、本書の説と組み合わせ、白村江の合戦には、大和政権配下の全国各地の豪族達が、参戦したのではなく、各々自立しつつ、相互交流していた、大和政権・筑紫政権等が、協力して参戦したとみています。

 4世紀半ばには、高句麗の南下で、馬韓の諸国が百済、辰韓の諸国が新羅に結束した一方、弁韓は、6世紀半ばまで、諸国(伽耶諸国)のままで滅亡したように、日本列島でも、外圧が強い九州(筑紫政権)、中くらいの近畿(大和政権)、弱い東国と、諸国の結束の度合に差があったでしょう。

 そして、白村江の合戦での疲弊が、九州で比較的大きく、近畿で中くらい、東国で小さかったうえ、合戦後の唐の占領統治も、九州で比較的強く、近畿で中くらい、東国で弱かったと推測できます。

 なので、唐が日本列島から撤退すると、壬申の乱で、反乱軍は、戦力が温存されていた東国を味方に引き入れられたので、大和政権の中枢を一掃できたうえ、新生大和政権は、かなり疲弊していた筑紫政権等も併合でき、国号を日本に改称したのではないでしょうか。
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儒教の長子相続制度


東アジア伝統社会における女性の相続と財産分与に関する研究
東京外国語大学外国語学部 教授 吉田 ゆり子 2008年8月

 本研究は、16−19世紀における日本・中国・韓国の伝統社会における家の継承と財産分与の同質性と差異性を比較検討することを通して、東アジア伝統社会の比較研究の基盤を構築し、三国相互の歴史認識の深化に寄与することを目的として、次の韓国・中国・日本の6人の研究者によって行われた。文叔子(韓国国史編纂委員会研究員)・鄭肯植(ソウル大学副教授)・李長利(中国社会科学院近代史研究所教授)・大口勇次郎(お茶の水女子大学名誉教授)・臼井佐知子(東京外国語大学教授)・吉田ゆり子(同 教授)。

 これまで、日本史研究においては、女性の社会的地位の変化を考察する視点から、家督相続の際に女子が排除されてゆく過程が明らかにされ、その歴史的要因を解明するために、多様な仮説が提示されてきた。具体的にいうと、南北朝時代まで女性も分割相続の対象となったが、戦国時代には女性の一生の間だけとの限定を受けた一期分(いちごぶん)となり、ついに江戸時代には全く排除されることになる。このような過程をたどるのは、武家社会において軍役を負担できない女性が「家」の当主となることができないためではないかとの仮説が示されている。しかし、武家以外の百姓・町人の家においても江戸時代には女性が家の相続から排除されることから、これを説明するために、儒教的な観念の浸透によって、女性の社会的な地位が低下したためではないかとみる見解も示されている。

 そこで、日本社会の家意識や女性に対する通念を解明するためにも、伝統的には儒教圏としてくくられる中国・韓国・日本の歴史的な事実を比較し、その共通点・差異性を明らかにする必要があると考えていた。他方、韓国において、歴史学の分野で朝鮮時代の家族史を精力的に追求してきた文叔子氏も、韓国史の立場から同様の問題意識を共有していることを知り、本研究グループを立ち上げるに至った。なお、従来日本でおこなわれてきた比較研究は、韓国と日本の相続の類似性の指摘や、中国から影響が及ぼされた女性に対する教訓書(「女大学」や「女実語教」など)の研究にとどまり、三国の相続と財産分与を正面から比較する研究は行われていなかった。

 研究の進め方は以下のとおりである。まず、それぞれの国で発表されてきた本研究課題に関わる著書や研究論文のリストを作成した。このリストをみると、三国それぞれには研究がみられるものの、言語の壁があるため、相互にその研究成果を享受できていない状況がより明確になった。

 次に、2007年12月22日に、共同研究者6人が東京で直接同じテーブルについて、それぞれの国で行われてきた本研究課題に関する研究状況を紹介し、さらに具体的な素材をもとに研究報告を行う機会をもった。この研究会においては、韓国・中国人留学生による逐次通訳をつけ、相互に直接意見交換を行った。その結果、次のような論点が提示され、新たな知見を得ることができた。


 (1)相続のありかたとその歴史的変遷:韓国の両班と日本の武士・百姓の家では、17世紀頃に、分割相続から単独相続に移行するが、中国においては分割相続を維持している。その歴史的要因として考えられるのは、韓国・日本とも土地の分割による経済的基盤の零細化を防ぐためと考えられる。但し、中国でも耕作の対象となる耕地は狭いため、分割が進むと土地は細分化するが、実際には「小作料」を分割するため、分割が可能である。あるいは、生産力の乏しい地域では、被相続人に未開墾地を与える場合もある。

 (2)被相続人の性別:韓国と中国では、歴史的に女性が相続したことはない。それは、韓国と中国では、周代に「礼記」の規定で、女性が祭祀をおこなうことはできないと規定されていたためである。なぜ、周代にそのような規程がつくられたのか、明らかではない。日本では武家の時代となってから当初(12世紀末-13世紀ころ)女性も分割相続を受けていたが、15世紀ころから女性一代限り(一期分)となり、近世には相続から排除された。これに関しては、家業・家産・家督の三者のあり方を考慮に入れなければならない。

 (3)「養子」制度について:日本の養子制度は東アジアの中でも特殊といわれ、異姓養子もとることが知られている。韓国と中国では、同姓の中でも「派」と呼ばれるさらに限られた一族の中で、同世代の者から養子をとる。

 (4)三国相互の影響のしかた:中国の「礼記」の考え方が韓国に影響して、女性が戸主(戸長)となれない現実が生まれた。その時期は、17世紀ころであり、それ以降、韓国では儒教的なイデオロギーが強化され、現実の問題から発生した均分相続から単独相続へとの流れの中で、女性が相続から排除されてゆくことになる。韓国では植民地時代に、日本の明治民法の影響を受けて、「戸主」が法制化された。

 (5)今後の課題:相続形態の変化は、婚姻形態(妻問婚から嫁入婚へ)の変更も伴うため、婚姻形態の変化を視野に入れるべきである。韓国の場合、「家業」という観念を想定しがたい。中国の場合、とくにエリート層を想定しておらず、庶民を含めて考えた。但し、地域差は考慮すべきである。今回の研究会では、それぞれの国の伝統社会における相続と財産分与の歴史的事実を相互に確認することができた。しかし、なぜそれぞれの歴史的事実が発生したのか、その説明において不十分な点がいまだ存在した。また、それぞれの社会制度の違い、身分・階層のあり方の違いも考慮に入れるべきである。但し、東アジア社会を考える時、「儒教的伝統」として同質性を唱えることが往々にしてなされるが、本研究テーマに即してみると、必ずしも「儒教的」な要素では説明できず、その前提として存続のための「現実的・実利的」な要素が根底に存在し、その上でイデオロギー的な意義付けが「儒教」によってなされていたと考えた方がいいというは通しを持った。

 以上、6人の共同研究者による小規模な研究会は、大きなシンポジウムでは得られないたいへん有意義な成果を得ることができた。ただ、今回の研究会では、これまでの研究状況の紹介という面が強く、それぞれの具体的な素材をもとにした検討結果を議論するには至っていない。そこで、言語の壁を乗り越えて、相互に具体的な歴史事象に基づいた考察を行うためにも、これまで発表されてきた主要論文を相互に読み合い理解した上で、再度研究会を開くことが必要であると考え、その第一歩として、韓国語で発表されている共同研究者の論考を日本語に翻訳する作業を開始し、文叔子「朝鮮前期無子女亡妻財産の相続をめぐる訴訟事例」、鄭肯植「弱き者よ、汝の名は……―女性法史の一断面―」を訳出した。今後は、さらに対象地域を広げ、東南アジア・南アジア地域を研究者を含めた形で、今後も研究を継続してゆく。
https://www.suntory.co.jp/sfnd/research/detail/200740.html


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朝鮮の男系養子制度

朝鮮も中国の男系養子制度を丸パクリしただけあって、ガッチガチの男系血統主義の国です。

朝鮮人は男系血統を守ることに厳格なため、いとこ同士の結婚を認めている日本人の結婚を「ケモノに近い野蛮人の結婚」と言って忌み嫌っていたそうです。

そして朝鮮では

・直系女性の分家を認めず、
・同じ男系血統の中からは妾すら選ばず、
・女性は男性の家に入るのが原則なので「婿養子」という観念すらなかった

そうです。

朝鮮の男系養子制度の中でもっとも恐ろしいのは、

・孫も養子として同じ男系血統の中から迎える
・「死後養子」といって夫の死後妻が夫の血統の中から養子を迎える

慣習があることです。こうなると日本人が入りこむ余地はまったくありません。

・男系の男子なきときは、同血族から男系の養子を迎え、たとえ直系の女子あるも、これを嫁に出し、他家より嫁を迎える

・族譜がちがう、姓が異なる赤の他人は養子にしないという鉄則により、血族関係なきものは養子としなかった

・養子だけでなく孫も血族中からむかえる場合もあった

・朝鮮では女は分家できない

・朝鮮では死後養子が認められている。死後養子とは子のない夫婦の夫が死亡したあとで妻が男系男子の血族を養子にする朝鮮の風習

・朝鮮の姓は男系の血族を表示するものであり、それは家ではなく人に付いたものである

・創氏改名で氏の設定と同時に内地式に改名したものも多い。例:金山.香川等(戸籍簿には朝鮮の姓を明記してある)

・朝鮮では男系男子を絶やさぬため蓄妾の風習があり、本妻と妾が本宅に同居する場合もある

・朝鮮では子は親に絶対服従する

・朝鮮では忠(天皇への忠誠)よりも孝(両親への孝行)が重視される

・朝鮮では一家の家計は夫が管理する

・朝鮮では妾にする女ですら男系血統からは選ばない

・本貫(ほんがん)とは祖先が住んでいた土地と姓を記したもの

・朝鮮では本貫で男系血統が同じであることを確認する

・朝鮮人は日本人の近親結婚を軽蔑している

・朝鮮の婚姻は女が男の家に入るを原則とするため、朝鮮には婿養子、入夫等の習慣がない

・朝鮮では女系は他人であって一家ではない
https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-555.html


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参考
『フランスの王位継承ルール』
2012年 4月15日 日本国際フォーラム副理事長 平林 博
https://www.jfir.or.jp/j/article/hirabayashi/120415.html


 皇位継承のあり方特に「女性宮家」創設の是非について、徐々に議論が沸騰し始めた。天皇制の維持のために皇位継承権を持つ皇族の数を十分に確保することが命題である。そのために、女性皇族が民間人と結婚しても降嫁せずに「女性宮家」を創設することを新たに認めるか、あるいは、男子継承の原則を守り、例外的にのみ男系女性天皇を認めるという古来の伝統を尊重するか、大きく言えば二つの見解に分かれる。

 そこで、かつてのフランス王家の王位継承の原則と実践ぶりを紹介してみたい。ただし、これは、国情の異なるかつてのフランス王国の王位継承原則を、現在の日本の天皇制に適用すべしとするものではないことを断っておきたい。

 フランスは、ヨーロッパ最古で最長の王国を誇った。傑出した国王も出た。第4代クローヴィス(在位481−511年)はフランスの基礎を築き、第19代シャルルマーニュ(大帝、独語読みではカール大帝、在位768−814年)は西ヨーロッパを統一してローマ法王からローマ皇帝の称号を受け、第63代ルイ14世(太陽王、在位1643−1715年)は、ヨーロッパに君臨した。

 フランス王国は、428年の創設以来ほぼ1420年間、1848年に王制が廃止されるまで、嫡出の男子(正式の王妃から生まれた男子)による王位継承のルールを一貫した。フランク族のサリー支族のサリカ法が、女性に不動産の相続を認めず、従って、女王も女系継承も認めなかったことに由来する、重みのある伝統・習慣であった。

 また、多くの国王が愛妾を抱え、子を産ませたが、彼女たちの子(庶子)は男子であっても王位継承権は認められなかった。

 これは、王位継承を巡って王妃と愛妾、嫡出の男子と庶子の男子が争って、王制を揺るがすこと回避する知恵であったと思われる。愛妾の中には、単なる愛人以上の公認の愛妾(Maitresse Royale)と呼ばれた愛妾もいた。例えば、ジャンヌダルクが王位継承に押し上げたシャルル7世の愛妾アニェス・ソレル夫人は、その第1号である。ルイ14世の愛妾マントノン夫人、ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人は特に有名である。ルイ14世の王妃マリー・テレーズが亡くなった後、愛妾マントノン夫人は事実上の王妃として扱われた。しかし、公認の愛妾といえども、国王の母になる資格はなかった。

 王位を継承すべき嫡出の男子がないと、その都度系図を何代もさかのぼり、最も近い傍系の子孫たる嫡出の男子に王位を継承させた。

 フランスの王朝は、ゲルマン民族の1派であるフランク族が現在のベルギー南部からフランス北部に進出し、紀元428年にクロディオンがメロヴィンガ王朝を興したことに始まる。

 第4代国王クローヴィスは当時勢いを増しつつあったキリスト教に帰依し、それを利用しながらフランスの基礎をつくった。メロヴィンガ王朝、次のカロリンガ王朝、さらにカペー王朝の三王朝は、血統的には別である。その後のヴァロワ王朝次いでブルボン王朝は、カペー王朝から続く血統であり、1848年革命によって第69代国王ルイ・フィリップが廃位されるまで続いた。

 メロヴィンガ王朝の最後の王たちが弱体化すると、世襲的に宰相(宮宰)の地位を継いできた家が小ペパンの代になった752年、ついに同王朝最後の王を廃し、カロリンガ王朝を打ち立てた。

 カロリンガ王朝は、二代目のシャルルマーニュ大帝の時代に頂点を迎えたが、その死後は3王国に分裂し、一つがフランス王家を継承した。987年、カロリンガ王朝最後の王が亡くなると、重臣達はパリ北方のサンリスに集まり、互選によって、ユーグ・カペーを第33代国王に戴いた。ユーグ・カペーは、遠くシャルルマーニュ大帝から女系の血をひいていたが、サリカ法からすると自動的には王位を継承できないのであった。

 カペー王朝は、1328年、第47代シャルル4世が死ぬと、嫡出の男子がいなかったために、第43代フィィップ(美男王)の弟の嫡男でヴァロア家を継いでいたフィリップが王位について、第48代フィリップ6世となった。

 このヴァロア王朝は、1483年、第54代シャルル8世が嫡出の男子がいないまま事故で亡くなったため、再度、王位継承問題に直面した。118年前に亡くなった第50代シャルル5世まで系図をさかのぼり、その次男ルイの血筋であるヴァロア・オルレアン家から第55代ルイ12世が誕生した。このルイ12世も嫡男がないままに亡くなると、また系図をさかのぼって、上記の第50代シャルル5世の次男ルイのもう一つの血統であるヴァロア・アングレーム家の曾孫フランソワを第56代フランソワ1世として王位に就かせた。そのあと、ヴァロア・アングレーム家からは4人の国王が出るが、第60代アンリ3世が嫡男のないままに暗殺されると、ついにヴァロア王朝は終焉した。

 この頃には、もはや近い血筋の嫡出の男子はいなかった。そこで、遠く13世紀終わりまでさかのぼり、第41代ルイ9世(聖王ルイ)の血をひいた傍系ブルボン家に国王を求めた。

 ブルボン家は、中部フランスのブルボン地方の領主であったが、アンリ3世の治世に、当時のブルボン家の総領アンリはアンリ3世の妹マルグリーテと結婚していた。血統的にも偉大な国王であった聖王ルイの血を引き、かつヴァロア王家の王女を娶っていたアンリ・ド・ブルボンは、最も王位に近かった。

 彼は即位して第61代アンリ4世となり、ブルボン王朝が始まった。ブルボン王朝は、1789年のフランス革命による王制の廃止と第65代ルイ16世の死刑によっていったん途絶える。しかし、ナポレオン皇帝がワーテルローで敗れると、1814年に王政は復古した。ルイ16世の弟2人が、順番に第67代ルイ18世、第68代シャルル10世として即位した。ルイ16世の長男は夭折し、次男はルイ16世の処刑の2年後に10歳で牢獄内で父を追ったが、反革命派はこの悲劇の王太子をルイ17世と称した。

 シャルル10世が1830年の革命で失脚すると、嫡出の男子はそれ以前に死んでいたため、系図を約90年もさかのぼったルイ13世の次男(ルイ14世の弟)が興したオルレアン公爵家に王を求めた。こうして、ルイ13世から数えて7代目に当たるルイ・フィリップが第69代国王とし即位した。

 ルイ・フィリップ国王が1848年革命によって廃位させられると、さしものフランス王制も終わりを遂げた。フランスは、以後、再び王政に復帰することはなく、第2共和政、第2帝政、第3共和政、第4共和政、そして現在の第5共和制と続く。

 ヨーロッパの王室や神聖ローマ帝国では、女王や女帝が出たことがあるが、フランス王家だけは男子継承、しかも嫡出の男子の継承であり、庶子には王位に就かせなかったのであった。

 ルイ・フィィップ国王の子孫は連綿と続き、現在のパリ伯爵アンリに続いている。
 パリ伯爵とは、筆者の在仏大使時代にお付き合いしたが、途中からフランス公爵も名乗るようになった。彼と周りを囲む王党派は、今でも王政復古の夢を捨てきれないでいる。

https://www.jfir.or.jp/j/article/hirabayashi/120415.html

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参考
ハプスブルク家家督継承問題

 18世紀、再びハプスブルク家は家督の相続問題が懸念された。カール6世に男子継承者が無かったからである。

そこでカール6世はプラグマティッシェ=ザンクティオン(国事詔書)を出し、ハプスブルク家の領土不可分と長子相続の原則、長子が死去した場合は女子にも相続権を与える、という相続原則を他の領邦諸国にも認めさせた。

それによってカール6世の長女マリア=テレジアがハプスブルク家家督を相続したが、それに対してプロイセン国王フリードリヒ2世、バイエルン公、フランス国王ルイ15世などはその継承を認めず、オーストリア継承戦争(1740〜48年)が起こり、帝位は一時バイエルンのヴィッテルスバッハ家のカール7世に移った。

オーストリアは敗れ、プロイセンにシュレジェンの割譲を認めたが、マリア=テレジアの家督継承とその夫フランツ1世(ロートリンゲン公)の神聖ローマ皇帝は承認された。なお、これで男系ロートリンゲン家に移ったので、ハプスブルク=ロートリンゲン朝(1745〜1806)と言う。
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-095.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

130. 中川隆[-10360] koaQ7Jey 2019年5月10日 19:06:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1744] 報告

「万世一系」の虚妄 _ 日本はなぜ「万世一系」を必要としたか

2013-05-05
「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385


天皇といえば、枕詞のようについてくる形容が「万世一系」。

ある種の人々にとって、天皇家が「万世一系」であることは、何物にも代えがたい至上の価値であり、日本という国を、他国より優れた特別な存在にするものであるらしい。

…バカじゃなかろうか。

当たり前だが、親から生まれて来なかった人間はいない。

皇族であろうがなかろうが、また日本人であろうがなかろうが、人間である以上、誰でも親、その親と辿っていけば、必ず悠久の過去の人類発祥までたどり着く。途中一世代どころか一瞬でも断絶があれば、その人間はいま生きてはいない。人間であれば誰でも、現生人類の誕生以来約25万年と言われる歴史の中を、連綿と命を受け継いで来たのだ。その中で、高々2千年程前のある男が祖先だと称する一族だけが「万世一系」で尊いなどということがあるわけがない。そんなものを崇め奉るのは愚の骨頂である。

「万世一系」など下らぬ妄想。

以上、終わり。

…ということにしてもいいのだが、せっかくなのでもう少しこれに関連する言説を見てみることにする。

一口に「万世一系」と言っても、その考え方は一つではないようだ。中でもとりわけバカバカしいのはこれあたりだろうか。

平沼赳夫オフィシャルホームページ:(強調部は引用者による)


 つまり、男系継承とは「男性天皇が血統の出発点であること」を意味し、反対に女系継承とは「女性から始まる継承」をいう。愛子内親王が天皇となり、その配偶者が皇族でないかぎり、その子が天皇になると「女系継承」が始まるのである。

 「万世一系」というと本家の血筋が永遠に続くことと誤解する人がいるが、それでは「真の一系」にはならないのだ。時には分家からも継承者が現れ、男系で継承が維持されていくことが「万世一系」の本質的意味である。

 飛鳥より遥かに時代をさかのぼった第16代仁徳天皇の男系血筋は、約80年後の武烈天皇(25)で血統が途絶えたため、家系をさかのぼって分家の男系子孫を見つけだし、継体天皇(26)が誕生したという例もある。

 では次にこの男系継承を遺伝子学的に見てみよう。

 人間の男性の染色体はXYであるのに対して、女性のそれはXXであり、それぞれ46対ある。男女が結婚して男の子ができた場合、母の23対のX染色体と父の23対のY染色体をもらう。女の子の場合は、母の23対の×染色体と父の23対のX染色体をもらう。よって男系の子孫にのみにオリジナルのY染色体が引き継がれ、女系の子孫には引き継がれない。女系では「皇統」が護持されないのである。(参考図参照)

 つまり、皇位が男系継承で引き継がれていく限り、男性天皇には間違いなく初代神武天皇のY因子が継承されるのに対し、女性天皇ではY因子の保持は約束されないのである。

 男系継承を護持することは、神武天皇だけでなく、更に遡って二二ギノミコトのオリジナルのY因子を継承することにもなり、このY因子こそ「皇位継承」の必要要件であり「万世一系」の本当の意昧なのである。

平沼によると、「万世一系」の本質とは、天皇家の父から息子へと受け継がれていくY染色体上の遺伝子のことなのだそうだ。代々の天皇(天皇にはなれなかった傍系の男も含む)の肉体は、単なる遺伝子を運搬するための器に過ぎず、息子に「Y因子」を受渡してしまえばもう用済みなのである。もちろん、個々の天皇の人格などどうでもいいわけだ。なんだか、利己的遺伝子仮説の出来の悪い焼き直しみたいな話だ。

これほど歴代天皇を侮辱した言説もないのではなかろうか。

ついでに指摘しておくと、古事記に名前が出てくる各地の豪族のうち、88%は「皇系」、つまり何代目かの天皇の子孫ということになっている。平沼の言うように「Y因子」さえ受け継いでいればいいのなら、男系で続いてさえいれば、そうした豪族たちの誰がどんな手段で天皇になっても構わないことになる。とんだ「万世一系」もあったものだ。

より穏当というか、一般的な説は、日本では歴史の初めから王朝の交代がなく、同じ王統がずっと続いているから「万世一系」だ、というものだ。

しかし、こちらの説も極めて怪しい。

例えば、平沼も言及している武烈(25代)から継体(26代)への代替わりなど、まず王朝交代と見て間違いない。

武烈には子がなく、次の天皇となった継体は、古事記によれば応神天皇(15代)の五世の孫、日本書紀によれば六世の孫、とされている。確かに一応過去の天皇の子孫ということになってはいるが、これほど世代の隔絶した継承は異常だ。それは、以下の系譜と比べてみれば分かる。


桓武天皇

葛原親王1

高見王2

平高望3

平良持4

平将門5

平将門は桓武天皇の五世の孫。継体が天皇になったというのは、平将門が天皇になったのと同じようなものなのだ。

しかも、三国(現在の福井県坂井郡付近)の出身とされている継体の、応神以来の系譜は、古事記にも日本書紀にも書かれていない。(日本書紀は父の名のみ記載。)


 これは記紀の編者が、それらを知らなかったためではなく、それらを書くことが必ずしも名誉とならない、そういう事情を配慮したからではないであろうか。なぜなら、それらの人名は、北志賀(滋賀県)や三国(福井県)の諸豪族にとって、同僚や時として下僚に当る人物として熟知されていた人名だったであろうから。

 このように考えてみると、継体即位の問題性、さらに不法性、それを疑うことは困難なのではなかろうか。

という古田武彦氏の推測(『古代は輝いていた』2)は妥当なものと思われる。実際、応神―継体間の系譜は、鎌倉末期に書かれた日本書紀の注釈書「釈日本紀」に、今では失われた「上宮記」という史書からの引用という形で記載されている。上宮記は7世紀頃に成立したと考えられており、古事記・日本書紀より古い。当然、記紀の編者が知らなかったはずはないのだ。

要するに、武烈死後の混乱に乗じて、出自もはっきりしない、しかし武力や経済力は十分に備えた地方の大豪族が大和に進出してきて次の天皇となったのだ。「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

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日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878


歴代天皇のいわゆる「万世一系」について、真に問わなければならない問題とは何か?

それは、「万世一系」の定義とか、それは事実かどうか、といったことではなく、なぜ天皇は「万世一系」ということになっていなければならないのか、そもそもなぜそんなものが必要だったのか、という問題だと私は考えている。

「万世一系」の天皇を戴く大和民族の一員であることにしか自尊感情の源泉を見いだせないある種の人々(「特定日本人」とでも呼ぶべきか?w)は、幾多の王朝が興亡を繰り返した中国と比較することで自国の優位性を言いたがる。

なので、ここでも中国との比較を通してこの問題を考えてみることにしよう。

■ 疑問1

前回の記事では、武烈―継体間の王統断絶を取り上げた。ここで、日本書紀は、前王朝最後の王武烈を、悪逆非道の暴君として描き出している。


武烈2年: 妊婦の腹を割いて胎児を見た。

武烈3年: 人の生爪を抜き、その手で芋を掘らせた。

武烈4年: 人の頭髪を抜き、木の頂に登らせ、その木を切り倒して、

      登らせた者が落ちて死ぬのを楽しんだ。

武烈5年: 人を池の水を流す樋に伏せ入らせ、外に流れ出てきたところを

      三叉の矛で刺し殺して楽しんだ。

武烈7年: 人を木に登らせておき、弓で射落として笑った。

武烈8年: 女を裸にして板の上に据え、馬を引いてきて交尾させた。

      そして女の性器が濡れていれば殺し、濡れていなければ官婢とした。

これとよく似た例が、中国の史書にも見られる。有名なのは殷に亡ぼされた夏王朝最後の王「桀」、そして周に亡ぼされた殷王朝最後の王「紂」に関する暴虐記事だろう。

『史記』夏本紀34:


桀、徳に務めずして百姓を武傷す。百姓堪えず。

『史記』殷本紀29-30:


(紂は)酒を好み淫を楽しみ、婦人を嬖(へい)す。

妲己(だっき)を愛し、妲己の言に是れ従ふ。

賦税(ふぜい)を厚くして以て鹿台(ろくだい)の銭を実たし、而して鉅橋(きょきょう)の粟(あわ)を盈(み)つ。

(人々を)大いに最(あつ)め沙丘に楽戯す。

酒を以て池と為し、肉を懸けて林と為し、男女をして裸(ら)し其の間に相ひ逐(お)はしめ、長夜の飲を為す。


武烈紀の暴虐記事は、これら中国の先例に倣ったものと思われる。

こうした記事の内容が本当だったのかどうか、それは分からない。しかし、確実に言えるのは、前王朝に取って代わった新権力者にとって、先王の暴虐を宣伝するのは、自らの権力奪取の正当性を主張する上で大変役に立つ、ということだ。

殷の湯王や周の武王と、継体はよく似た立場にいたといえる。ではなぜ、湯王や武王が堂々と新王朝の樹立を宣言したのに対して、継体はあたかも穏当に武烈の後を継いだかのように振舞ったのだろうか?

別の言い方をすれば、継体から始まる新王朝の正史である日本書紀は、なぜ継体を自王朝の始祖として描かず、神武以来の王朝がそのまま継続したかのように描いているのだろうか?

■ 疑問2

武王が樹立した周王朝は、その後しだいに衰退し、やがて形式的な権威を担うだけの有名無実の存在となっていった。鎌倉時代以降、実質的権力を失い、衰退していった京都朝廷とよく似ている。

両者の違いは、周王朝が数百年続いた後、最終的に秦に滅ぼされたのに対して、京都朝廷は曲がりなりにも近代に至るまで存続したことだ。

何がこの両者の運命を分けたのだろうか?

■ 答え

周王朝を廃した秦の始皇帝は、泰山で「封禅の儀」を行い、天と地を祭って、中国全土を統治する皇帝としての自らの権威を誇示した。

この例が示すように、古来中国には「天」の思想がある。そもそも王や皇帝とは、天の命令(天命)を受けて、「天子」として天下を統治するものなのだ。

だから、皇帝が徳を失い、天子にふさわしい存在でなくなれば、他の者が代わって天命を受け、新たな天子となることができる。桀のように、「徳に務めず」民を虐待するような権力者は、倒されても仕方がないとされるのだ。

これが、天命が革(あらたま)ること、すなわち「革命」である。

一方の日本はどうだろうか。

日本には、権力の正当性を主張するための基準となる、このような普遍的原理がない。記紀神話を通して見ても、地上の権力者にその権力の正統性を与える根拠は、天照大神が自らの孫ニニギに対して言ったという言葉、


葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是(これ)、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無けむ。

―いわゆる「天壌無窮の神勅」(日本書紀 神代下 第九段)―しかない。

ちなみにこの「神勅」、いかに荘重な漢文調で飾って見せたところで、中身を見れば、自分の子孫だけが可愛いという身内びいきの塊みたいなものであって、そこには普遍性のカケラもない。

このように、権力の正統性を支える普遍的原理がなく、頼れる権威が天照の子孫とされる一族の血筋だけとなれば、どうしても天皇には(内実はどうあれ)「万世一系」でいてもらわなければならないことになる。

この国で新興の実力者が権力の頂点に立つには、継体のように王朝内での順当な継承を偽装するか、そうでなければ天皇から権力の行使を委託される(例えば「征夷大将軍」として)という形式を取るしかなかった。だから、天皇家はいくら落ちぶれても、とりあえず権威を示すそれらしい儀式を行える程度の状態で存続を許された、というよりむしろ、存続させられてきたのである。

結論。天皇が「万世一系」ということになっているのは、日本には権力の正統性を支える基盤としての普遍的原理がなく、権威として頼れるものが神の子孫だという天皇家の血筋しかなかったからである。


※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)による。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

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仲哀→応神も王朝交代
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313

記事《「万世一系」の虚妄》の中で、武烈(25代)から継体(26代)への代替わりが王朝交代に他ならないことを説明した。しかし、明治以来常識化されてきた「万世一系」を否定する反例はこれだけではない。

次は、仲哀(14代)から応神(15代)への代替わりを見てみよう。

仲哀は、実に奇妙な死に方をしている。

古事記(仲哀記):


 その太后息長帯日売の命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)は、当時神帰よせしたまひき。かれ天皇筑紫の詞志比かしひの宮にましまして熊曾の国を撃たむとしたまふ時に、天皇御琴を控ひかして、建内タケシウチの宿禰の大臣沙庭さにはに居て、神の命を請ひまつりき。ここに太后、神帰よせして、言教へ覚さとし詔りたまひつらくは、「西の方に国あり。金・銀を本はじめて、目の炎耀かかやく種々の珍宝その国に多さはなるを、吾あれ今その国を帰よせ賜はむ」と詔りたまひつ。ここに天皇、答へ白したまはく、「高き地に登りて西の方を見れば、国土くには見えず、ただ大海のみあり」と白して、詐いつわりせす神と思ほして、御琴を押し退けて、控ひきたまはず、黙もだしたましき。ここにその神いたく忿いかりて、詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝いましの知らすべき国にあらず、汝は一道ひとみちに向ひたまへ(=黄泉の国へ行ってしまえ)」と詔りたまひき。ここに建内の宿禰の大臣白さく、「恐かしこし、我が天皇。なほその大御琴あそばせ」とまをす。ここにややにその御琴を取り依せて、なまなまに(=しぶしぶ)控ひきいます。かれ、幾久いくだもあらずて、御琴の音聞えずなりぬ。すなはち火を挙げて見まつれば、既に崩かむあがりたまひつ。

仲哀は、西方の国(新羅)を与えてやろうという神の言葉を信じなかったために、神罰を受けて死んだというのである。このとき本当は何があったのか。伊藤浩士氏がブログで次のように書いているが、私も同感である。


仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は熊襲征伐のために筑紫にきていて、そこで神功皇后が新羅を攻めると言い出します。仲哀天皇は反対します。仲哀天皇と神功皇后、竹内宿禰の3人だけがいて、気が付くと神の罰が当たって仲哀天皇が死んでいたと記されています。ふつうに考えれば、神功皇后と竹内宿禰の共謀による殺害です。

このとき、仲哀は軍を率いて九州まで遠征していた。仲哀には既に別の后(大中津比売の命)との間に香坂かごさかの王、忍熊おしくまの王という二人の息子がいたのだが、この遠征には同行していない。建内以外の有力な臣下もついてきていない。暗殺には絶好のシチュエーションと言っていいだろう。

そしてこの「神」は、香坂・忍熊を押しのけて、息長帯日売が産む子を次の天皇にする、と決めてしまうのである。

古事記(仲哀記):


また建内の宿禰沙庭に居て、神の命みことを請ひまつりき。ここに教へ覚したまふ状、つぶさに先の日の如くありて、「およそこの国は、汝命いましみことの御腹にます御子の知らさむ国なり」とのりたまひき。ここに建内の宿禰白さく、「恐し、我が大神、その神の御腹にます御子は、何の子ぞも」とまをせぱ、答へて詔りたまはく、「男子なり」とのりたまひき。ここにつぶさに請ひまつらく、「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまくほし」とまをししかぱ、答へ詔りたまはく、「こは天照らす大神の御心なり。また底筒の男そこつつのを、中筒の男なかつつのを、上筒の男うはつつのを三柱の大神なり。この時にその三柱の大神の御名は顕したまへり。

天照大神の神意だ、というわけだが、それを聞いたのは建内宿禰だけなのだから、要するに建内がそう決めた、ということである。

この後、息長帯日売はいわゆる「神功皇后の三韓征伐」(それが征伐などと呼べる代物でないことは別途書く予定)を行い、九州に帰ってきてから息子を産む。これが後の応神天皇である。この応神の出生についても、不可解なエピソードが書かれている。

古事記(仲哀記):


かれその政(三韓征伐のこと)いまだ寛をへざる間に、懐妊ませるが、産れまさむとしつ。すなはち御腹を鎮いはひたまはむとして、石を取らして、御裳みもの腰に纏まかして、竺紫つくしの国に渡りましてぞ、その御子は生あれましつる。かれその御子の生れましし地に号なづけて、宇美といふ。またその御裳に纏かしし石は、筑紫の国の伊斗いとの村にあり。

「三韓征伐」が終わらないうちに子どもが産まれそうになってしまったため、石を腰紐にはさんで押さえ、神に祈って出産を遅らせたというのである。これも普通に考えれば、応神の出生が仲哀の子とするにはあまりに遅すぎたため、つじつまを合わせるための説話を創作したのである。

では応神の父親は誰か? 史料的根拠には欠けるが、建内宿禰とするのが最も自然ではないだろうか。

そして、息長帯日売と建内は九州から大和に攻め上り、忍熊王の軍を破ってこれを滅ぼしてしまう。(香坂王はその前に事故死。)もちろん、「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313


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「神功皇后の三韓征伐」という大嘘
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858

仲哀(14代)から応神(15代)への代替わりが、単なる代替わりではなく王朝交代であったことについては既に説明した。このとき、仲哀の九州遠征に同行せず大和に残っていた息子たちを滅ぼして権力を奪ったのが、神功皇后こと息長帯日売(オキナガタラシヒメ)と建内宿禰(タケシウチノスクネ)である。

そして神功皇后といえば、いわゆる「三韓征伐」が必ずセットとなって語られる。

この「三韓征伐」とは実際にはどんな事件だったのか。まず、古事記の記述を見てみよう。


 かれつぶさに教へ覚したまへる如くに、軍を整へ、船双なめて、度り幸でます時に、海原の魚ども、大きも小きも、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風おひかぜいたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれその御船の波瀾なみ、新羅の国に押し騰あがりて、既に国半なからまで到りき。ここにその国王、畏おぢ惶かしこみて奏まをして言まをさく、「今よ後、天皇の命のまにまに、御馬甘みまかひとして、年の毎に船双めて船腹乾さず、棹楫さをかぢ乾さず、天地のむた、退しぞきなく仕へまつらむ」とまをしき。かれここを以ちて、新羅の国をぱ、御馬甘と定めたまひ、百済の国をぱ、渡わたの屯家みやけと定めたまひき。ここにその御杖を新羅の国主の門に衝き立てたまひ、すなはち墨江すみのえの大神の荒御魂あらみたまを、国守ります神と祭り鎮めて還り渡りたまひき。

しかし、これは果たして「征伐」などと呼べるものだろうか。神功が軍船を整えて新羅に行ったら、一戦も交えることなく、向こうが勝手に恐れをなして降伏してしまったというのだ。(日本書紀にもほぼ同じ内容の説話が記されているが、こちらは新羅だけでなく、接触すらしていない高句麗と百済まで降伏してしまったことになっている。)こんなことはあり得ない。

いや、実際この後、新羅は日本に朝貢しているではないか、と言う人がいるかもしれない。しかし、記紀に朝貢記事があるからといって、それが服属の証拠にはならないのだ。古田武彦氏が次のように指摘している[1]。


わたしは『記・紀』を見る場合、つぎの二つの原則を大前提とする。

(1) 『記・紀』は、天皇家中心の「大義名分」に貫かれた本である。

(2) したがって『記・紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改削・新加(新しく付加)することはあっても、「不利」に加削することはない。

まず、(1)について説明しよう。

すでに前の本で詳しくのべたように、“天皇家は永遠の昔から、この日本列島の中心の存在だったのだ”という「大義名分」が『記・紀』を貫いている。それは「歴史事実の実証」以前の、いわば「観念」としての大前提なのである。それは国内問題だけではない。たとえば、


  冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。    〈仁徳紀五十八年〉

  夏四月に、呉国、使を遣して貢献す。      〈雄略紀六年〉


とあるように、中国(や高麗)との通交さえ、あちらが日本の天皇家に臣従し、朝貢してきたように書いてあるのだ。だから、これは「朝貢」の事実を示す記事ではない。『記・紀』の大義名分に立った筆法なのである。

中国の皇帝が「東夷」の蛮族と見なしていた日本に朝貢してくるはずがないことは、常識として理解できるだろう。

つまり、記紀の「三韓征伐」記事が示しているのは、神功が新羅を訪問して王と交渉し、このときから近畿天皇家と新羅との間の国交が始まった、という出来事なのだ。これは新羅との国交開始に関する説話なのである[2]。新羅王が服従を誓ったとか、新羅の国を「御馬甘」に定めたとかいうのは、魚たちが神功の船を背負って海を渡った、船が波に乗って新羅の中央部まで押し上がった、などと書いてあるのと同じ、何も知らない国内人民向けのほら話に過ぎない。

しかし、ではなぜ、新羅との国交が必要だったのか?

ここで、そもそも神功と建内は、仲哀の熊襲征伐に従って九州まで来ていたことを思い出していただきたい。仲哀をうまく始末したのはいいが、次は大和に戻って仲哀の息子たちを討ち滅ぼさなければ自分たちに未来はない。しかし、まだ熊襲との戦争は続いているのだ。こちらの事情が変わったからといって、簡単に敵に背を向けて帰るわけにはいかない。追撃を避けるには、熊襲との和平、最低でも休戦が必要だ。

日本書紀では、神功を通じて仲哀に新羅征伐を勧めた「神」は、次のように語っている。


時に、神有まして、皇后に託かかりて誨おしへまつりて曰はく、「天皇、何ぞ熊襲の服まつろはざることを憂へたまふ。是これ、膂宍そししの空国むなくにぞ。豈あに、兵を挙げて伐つに足らむや。玆この国に愈まさりて宝有る国、警たとへば処女をとめの睩まよびきの如くにして、津に向へる国有り。眼炎まかかやく金・銀・彩色、多さはに其の国に在り。是を衾たくぶすま新羅国しらきのくにと謂いふ。若もし能よく吾を祭りたまはば、曾かつて刃に血ちぬらずして、其の国必ず自おのづから服まつろひしたがひなむ。復また、熊襲も為服まつろひなむ。

自分を良く祭れば新羅は従い、また熊襲も自ら従うだろう、と言っているのだ。この両者の間には何らかの強い結びつきがあり、新羅との友好は熊襲との関係改善にもつながることを示唆している。

だから神功は、熊襲との戦争状態を終わらせて大和での権力奪取に集中するため、熊襲のバックに控えている新羅との友好関係を確立しようと海を渡ったのである。それは、「征伐」とは正反対の、友好を求める外交交渉だったのだ。

[1] 古田武彦 『盗まれた神話』 朝日文庫 1994年 P.63-64
[2] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.131

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(二)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858


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皇位継承


7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,

16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,

仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。

応神・仁徳を境として,皇位継承の原則に大きな変化が起こっているように見える。
しかし,父子直系相続は7世紀末以降の天皇の目ざした皇位継承法であり,兄弟相続は日本固有の継承法であることからすると,応神以前の直系相続は記紀編纂の過程で作為された可能性が強い。

また,記紀にみえる天皇の名称をみると,

7,8,9代の孝霊,孝元,開化と41,42,43,44代の持統,文武,元明,元正はヤマトネコ,

10,11代の崇神,垂仁はイリヒコ,

12,13,14代の景行,成務,仲哀と34,35代の舒明,皇極はタラシヒコ(メ),

15,17,18代の応神,履中,反正と38代の天智はワケ,

27,28,29代の安閑,宣化,欽明はクニオシ


という称をもつというように時期により特色があり,それらを検討すると

7〜9代の名称は持統以下の名称を手本に,
12〜14代の名称は舒明,皇極の名称を手本にして作られた

と推定される。

これに加えて記紀には9代までの天皇の事績については神武以外ほとんど所伝がないこと,10代の崇神が初代の天皇を意味する所知初国(はつくにしらす)天皇の称号をもつことなどから,9代までの天皇の実在性は疑われている。

10代以後も,皇居や陵墓の所在地や称号の変化などから,10〜12代の天皇は大和を根拠としていたが,15〜25代の天皇は河内平野を主要な根拠地とする別系統の天皇ではないかとして,前者を三輪政権(初期大和政権),後者を河内政権と呼ぶ説もある。

同様に26代の継体以後の天皇もそれまでとは別系統の天皇とする説もある。

これらの説に従えば,古代の皇位継承は,10代の崇神以後2度断絶したが,6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足したということになる。

しかしこれも一つの解釈ないし仮説であって,古代の皇位継承にはなお多くの疑問が残っている。
→王朝交替論
[直木 孝次郎]

皇嗣の冊定

大化以前の皇位継承については,天皇が任意に選定したとする中田薫の選定相続説,天皇が神意により卜定したとする滝川政次郎の卜定相続説,末子相続から兄弟相続への移行を説く白鳥清の兄弟継承説,あるいは大兄(おおえ)(同腹中の長子)からその兄弟,ついで大兄の子の順に継承反復したとする井上光貞の大兄相続説などがある。

そして天智朝に至り,中国より継受した嫡長子相続主義にもとづく皇位継承法が定められたとも説かれている。

しかし爾後の実例に徴すると,皇嗣の選定は,嫡系男子の優位を認めながらも,天皇(あるいは上皇)の勅定するところであり,明治の皇室典範制定以前は,立太子の詔において初めて皇嗣を冊定するのを本則とした。

ただ立太子の儀はときに省略された例も少なくなく,ことに室町時代から江戸初期にかけて中絶したが,霊元天皇がこれを再興するに当たり,立太子に先立ち朝仁親王(東山天皇)を儲君(ちよくん)に治定したのが例となって,明治の嘉仁親王(大正天皇)の立太子に至るまで,儲君治定が実質的な皇嗣冊立を意味した。

皇位継承の資格

皇位継承者は,いうまでもなく皇親に限られる。

推古天皇をはじめ皇后から皇位を継いだ例も数例あるが,皇曾孫の皇極,皇孫の元正以外の女帝はみな皇女である。

継嗣令に〈女帝子〉の語が見えるから,令制では女帝の存在を公認しており,江戸中期の後桜町まで10代8女帝が生まれたが,いずれも中継ぎ的色彩が濃く,やはり皇男子の継承が本則であったとすべきであろう。

平安・鎌倉時代には,いったん臣籍に降下したのち,さらに皇籍に復した例が数例あり,そのうち光孝の皇子定省(宇多)は皇位にのぼったが,やはり変則であろう。

皇位継承の原因

上古の皇位継承は,天皇が没することによって行われたが,645年(大化1)皇極が孝徳に皇位を譲って譲位の例を開いてからは,明治まで87代中(北朝天皇を除く)56代の天皇が譲位によって皇位を継いだ。

天皇譲位の場合には,皇嗣が禅(ゆずり)を受けて直ちに践祚(せんそ)するのを常例としたが,天皇が没した場合には,没時と践祚との間に時日を要した例も多く,ことに上古においては数年月を経ることもあった。

また鎌倉時代以後は,皇嗣の選定について朝廷と幕府の間の交渉に日時を要した場合も数例ある。

なお斉明の皇太子中大兄(天智天皇),天武の皇后鸕野讃良(持統天皇)は,天皇没後,皇位につかずに数年にわたり執政したが,これを〈称制(しようせい)〉といった。

81代安徳が平氏に擁されて西海に幸した後,京都において後鳥羽が践祚し,1年余にわたって2人の天皇が存立し,また96代後醍醐の譲位否認のもとで光厳が践祚し,爾後50余年にわたって南北両朝が併存対立した。

また天皇がいったん譲位したのち,再び皇位についたことが2度あり,これを重祚(ちようそ)という。

35代皇極が重祚して37代斉明となり,46代孝謙が重祚して48代称徳となったのがそれで,ともに女帝にして,特殊な政情によるものである。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=128


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

131. 中川隆[-10359] koaQ7Jey 2019年5月10日 19:08:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1745] 報告
2019-05-04
紀元前の中国農民ですら喝破していた血統の無意味さを理解できない日本人
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/04/213333


マスコミが煽る「令和」「令和」の奉祝ムードに流されて、何一つ解決していないこの社会の問題をあっさりスルーする「普通の日本人」たち。実際、世界的に見ても、支配層にとってこれほど「ちょろい」民族は珍しいだろう。

■ 皇室が最古の王朝だから日本はすごい?w

そんな彼らが「日本は特別ですごい国(だから日本人のオレもそれだけですごい)」と考える根拠は、世界一長く続く《とされる》天皇家の血統であるらしい。


future-of-japan.xyz


皇室は、現存する最古の王朝であり、
現存する唯一の皇帝であり、
現存するただ一つの神話をバックボーンに持つ血統です。

神話によると2675年前に
初代の神武天皇が即位され、
現在でなんと125代目になります。

さらに、男系で継承されており、
家系図で父親を辿っていくと
初代神武天皇に行き当たります。

これほど長く1つの系譜で続いている
王朝というのは世界のどこにもありません。

世界で最も歴史の古い王家の血脈を今に伝える
文化的にも価値の高い存在なのです。


まあ、そもそもこれ自体が嘘なのだが。


「万世一系」とか言うが、天皇家に限らずいま生きている人間は、誰でも太古の昔から親から子へと連綿と命をつないで生きてきたではないか。そのどこに違いがあるというのか。

■ 王侯将相いずくんぞ種あらんや

こんなことは、人権や平等の概念を学んだ現代人だけでなく、古代の中国農民ですら理解していた。

秦末の農民反乱である「陳勝・呉広の乱」(紀元前209-208年)で、貧農出身の反乱軍リーダー陳勝は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉を残している。これは「国王や諸侯、将軍や丞相などといっても、そのような人種が最初からいたわけではない」という意味であり、身分や血統を否定して人間の平等を主張したものだ[1]。実際、陳勝自身は反乱に失敗したが、次の漢帝国を樹立した劉邦も村役人レベルの庶民の出身だった。

それ以前に、中国古代の伝説的帝王である堯ぎょう舜しゅん禹う三代には血縁関係はなく、禅譲により帝位が受け継がれたとされている。堯舜禹が実在したかどうかは不明だが、重要なのは、統治者の地位は血統ではなく、最も徳の高い(人格・能力の優れた)人物に受け継がれるべきだというその思想だ。このような徳治思想を含む堯舜禹の伝説は、既に春秋時代末(前5世紀頃)には成立していたと考えられている。

日本の「愛国者」様たちは、古代からこのような思想を持っていた中国を引き合いに出して、「万世一系」の天皇陛下がいる我が国はすごいとかイキっているのだから、もう笑うしかない。


■ 天皇陛下にさゝぐる言葉

中国人の思想など認め(たく)ない、と言うのなら、こちらはどうか。敗戦から2年半ほど後に作家・坂口安吾が書いた「天皇陛下にさゝぐる言葉」だ。[2]


 人間の値打というものは、実質的なものだ。天皇という虚名によって、人間そのものゝ真実の尊敬をうけることはできないもので、天皇陛下が生物学者として真に偉大であるならば、生物学者として偉大なのであり、天皇ということゝは関係がない。況いわんや、生物学者としてさのみではないが、天皇の素人芸としては、というような意味の過大評価は、哀れ、まずしい話である。

 天皇というものに、実際の尊厳のあるべきイワレはないのである。日本に残る一番古い家柄、そして過去に日本を支配した名門である、ということの外に意味はなく、古い家柄といっても系譜的に辿りうるというだけで、人間誰しも、たゞ系図をもたないだけで、類人猿からこのかた、みんな同じだけ古い家柄であることは論をまたない。

 名門の子供には優秀な人物が現れ易い、というのは嘘で、過去の日本が、名門の子供を優秀にした、つまり、近衛とか木戸という子供は、すぐ貴族院議員となり、日本の枢機にたずさわり、やがて総理大臣にもなるような仕組みで、それが日本の今日の貧困をまねいた原因であった。つまり、実質なきものが自然に枢機を握る仕組みであったのだ。


日本人は、敗戦という実物教育で学んだこの当然の理を、もうすっかり忘れたのだろうか。

[1] 世界史の窓 「陳勝・呉広の乱」
[2] 坂口安吾 「天皇陛下にさゝぐる言葉」 青空文庫
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/04/213333

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2016-02-27 「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」 正解は「そんな天皇はいない」
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/02/27/215256
「しらべぇ」というサイトが、今年の「建国記念の日」に、「【悲報】7割の国民が『建国記念日に即位した天皇』を知らない」という記事を掲載した。


しらべぇ編集部が全国の男女1331人に「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」と調査を行ったところ、もっとも多かったのが明治天皇で40.4%。以下、その他が28.8%、昭和天皇が20.4%、大正天皇が7.2%、今上(平成)天皇が3.2%と続いた。(略)じつはこのアンケート、ひっかけ問題である。正解はその他に含まれていたのだ。

(略)

じつは建国記念日は神武天皇の即位日が由来となっている。神武天皇は日本神話の登場人物であり、古事記や日本書紀で初代の天皇とされている。

その即位日である旧暦紀元前660年1月1日を、明治に入ってから新暦に換算、1967年(昭和42年)に制定されたというわけ。

紀元前660年の旧暦1月1日に神武天皇が即位し、それを新暦に換算すると2月11日に当たるから、この日が「建国記念の日」になったと言うわけだが、この話は少なくとも二重におかしい。

まず、神武の即位に関する日本書紀の記述は、次のとおりである[1]。


辛酉かのととり年の春正月の庚辰かのえたつの朔ついたちに、天皇、橿原宮かしはらのみやに即帝位あまつひつぎしろしめす。是歳を天皇の元年とす。

「辛酉」は60年に1回やってくるので、これだけではいつのことか分からない。そこで、ずっと後の、年代の確定できる時点から出発して、歴代天皇の在位年数などを手がかりに時代を遡り、紀元前660年にあたる「辛酉」に辿り着いたわけだ。

だが、日本書紀に記された初期の天皇たちの在位年数は、まったく信用できない。それは次の表を見れば明らかだろう。

天皇 在位年数 死亡年齢
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/02/27/215256


神武をはじめ、古代ではおよそあり得ない長寿の天皇が連続している。死亡時の年齢が信用できないとなれば、当然在位年数も信用できない。つまり、神武が即位したとされている「辛酉」年が紀元前660年だとは考えられないのだ。年が違うのだから、「春正月の庚辰の朔」が新暦の2月11日に当たるとする根拠もないことになる。

第二に、私は記紀に「神武天皇」として説話が記載されている人物は実在した歴史上の人物(弥生後期、3世紀頃の人)と考えているが、しかしその人物は到底「天皇」などと呼べるような存在ではなかった。こちらの記事にも書いたとおり、後に「神武」という諡号を贈られることになるこのイワレビコという男は、九州から出てきて近畿に侵入し、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、ようやく奈良盆地の一角に拠点を確保した一豪族に過ぎない。客観的に見れば、「天皇」どころか「王」と呼ぶのさえ無理である。後の近畿天皇家の祖先に当たる人物ではあったとしても、この男自身は「天皇」などではあり得ず、従って「即位」などしているはずがないのだ。

これは、次の事例と比べてみれば分かりやすい。

中国最初の皇帝である秦の始皇帝は、列国を滅ぼして中国全土を統一して初めて「始皇帝」を名乗った。それ以前の彼は単なる「秦王政」である。また、彼は秦国の初代でもない。始皇帝は紀元前3世紀の人だが、諸侯の一つとしての秦国の始まりは前8世紀の襄公、更にその祖先は初めて秦の地に領地を得た前10世紀頃の非子までたどれるという。

要するに、後に日本を支配した大和朝廷の祖先だからといってイワレビコを初代の「天皇」だなどと言うのは、非子を最初の中国皇帝だと言うのと同程度のこじつけ、極端な誇張なのだ。仰々しい記紀の記述は、大和朝廷絶対化のイデオロギーに基づく歴史の捏造、古代的歴史修正主義と言ってもいい。

まあ、客観的に見れば、実質的に「天皇」と呼んでいいのは、坂上田村麻呂の遠征によって初めて東北地方まで支配を広げた桓武(50代)あたりからだろう。

「建国記念の日」が、「神武天皇が即位した」とされている日(紀元前660年の2月11日)に由来しているのは事実だが、神武は「天皇」などではなかったし、従って「即位」もしていない。さらに、神武紀の言う「辛酉年」は紀元前660年ではないので「春正月の庚辰の朔」を新暦2月11日とする根拠もない。要するに、すべてが架空の作り事なのだ。だから、「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」という問いへの正解は、「そんな天皇はいない」なのである。

[1] 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』 岩波文庫 1994年 P.240
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/02/27/215256

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2013-02-11 神武って何した人?
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130211/1360564621


今日は「建国記念の日」。敗戦までの「紀元節」の名前だけ変えて価値中立性を装った、戦後日本の偽装記念日の一つである。

紀元節が2月11日なのは、日本書紀で神武が「辛酉年春正月 庚辰朔」(辛酉の年の1月1日)に即位したと書かれており、これが西暦紀元前660年の2月11日に当たると、明治初期に机上の計算をしたためだ。

では、天皇家の初代であり、建国の祖とされるこの神武なる人物はいったいどんなことをした人なのだろうか。

テキストは『古事記』、ガイドに古田武彦『盗まれた神話』『古代は輝いていた』を使って、具体的に見てみよう。

(「神武天皇」というのは後代になってつけられた諡号で、生きていたときの名は「神倭伊波礼毘古(カム・ヤマト・イワレビコ)」ほか、いろいろな名があるのだが、ここでは「神武」で統一する。)


さて、古事記の「神武記」は、いきなり神武とその兄(五瀬)との謀議シーンから始まる。


神倭伊波礼毘古の命、その同母兄五瀬の命と二柱、高千穂の宮にましまして議りたまはく、「いづれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」とのりたまひて、すなはち日向より発たして、筑紫に幸行でましき。

青年だった五瀬と神武は、このまま九州の高千穂の地にいても自分たちの思うようにならない、つまり将来の展望が開けないから、東方に新たな支配地を得ようと、侵略行を決意するわけです。


かれ豊国の宇沙うさに到りましし時に、その土人くにびと名は宇沙都比古うさつひこ、宇沙都比売うさつひめ二人、足一騰あしひとつあがりの宮を作りて、大御饗おほみあへ献りき。其地より遷移りまして、竺紫の岡田の宮に一年ましましき。またその国より上り幸でまして、阿岐の国の多祁理たけりの宮に七年ましましき。またその国よ遷り上り幸でまして、吉備の高島の宮に八年ましましき。

決意はしたものの、大王でも何でもない五瀬と神武には、いきなり大遠征を行えるような力はない。そこで、十数年かけて九州や瀬戸内海各地の豪族たちからの支援を獲得し、徐々に実力を蓄えていきます。


かれその国より上り行でます時に、浪速なみはやの渡を経て、青雲の白肩の津に泊てたまひき。この時に、登美とみの那賀須泥毘古ながすねびこ、軍を興して、待ち向へて戦ふ。ここに、御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。かれ其地に号けて楯津たてづといふ。今には日下くさかの蓼津たでづといふ。ここに登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬の命、御手に登美毘古が病矢串いたやぐしを負はしき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良はず。かれ賎奴が痛手を負ひつ。今よは行き廻りて、日を背に負ひて撃たむ」と、期ちぎりたまひて、南の方より廻り幸でます時に、血沼ちぬの海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。かれ血沼の海といふ。其地より廻り幸でまして、紀の国の男をの水門みなとに到りまして、詔りたまはく、「賎奴が手を負ひてや、命すぎなむ」と男建おたけびして崩りましき。かれその水門に名づけて男の水門といふ。陵みはかは紀の国の竈山かまやまにあり。

そしていよいよ近畿(河内国)に突入。しかし、当然この地は無主の地などではありません。長らくこの地を統治してきたナガスネビコとの戦闘になります。

結果、おそらく侵略軍の総大将だったであろう五瀬は矢を受けて重傷を負い、死んでしまいます。大敗です。

ナガスネビコと正面から戦っても勝てないと覚った神武は作戦を変更。大きく紀伊半島を迂回し、背後にあたる熊野方面から奈良盆地への侵入を図ります。また、敵方に内通者を作り、その手引きで相手を陥れたり、和平を装って騙し討ちにする、といった手口を駆使していきます。


かれここに宇陀に、兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯おとうかしと二人あり。(略)ここに兄宇迦斯、(略)「待ち撃たむ」といひて、軍を聚あつめしかども、軍をえ聚めざりしかぱ、仕へまつらむと欺陽いつはりて、大殿を作りて、その殿内に押機おしを作りて待つ時に、弟宇迦斯まづまゐ向へて、拝みてまをさく、「僕が兄兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚むれども、え聚めざれぱ、殿を作り、その内に押機を張りて、待ち取らむとす、かれまゐ向へて顕はしまをす」とまをしき。ここに大伴の連等が祖道の臣の命、久米の直等が祖大久米の命二人、兄宇迦斯を召びて、罵言のりていはく、「伊いが作り仕へまつれる大殿内には、おれまづ入りて、その仕へまつらむとする状を明し白せ」といひて、横刀たちの手上握り、矛ゆけ矢刺して、追ひ入るる時に、すなはちおのが作れる押に打たれて死にき。ここに控ひき出して斬り散はふりき。かれ其地を宇陀の血原といふ。然してその弟宇迦斯が献れる大饗をぱ、悉にその御軍みいくさに賜ひき。

奈良県宇陀郡の豪族エウカシは、その弟オトウカシの裏切りを利用して惨殺。


其地より幸行でまして、忍坂おさかの大室に到りたまふ時に、尾ある土雲八十建やそたけるその室にありて待ちいなる。かれここに天つ神の御子の命もちて、御饗を八十建に賜ひき。ここに八十建に充てて、八十膳夫かしわでを設けて、人ごとに刀佩けてその膳夫どもに、誨をしへたまはく、「歌を聞かば、一時共もろともに斬れ」とののりたまひき。かれその土雲を打たむとすることを明して歌よみしたまひしく、


 忍坂の 大室屋に
 人多さはに来入り居り。
 人多に 入り居りとも、
 みつみつし 久米の子が、
 頭椎くぶつつい 石椎いしつついもち
 撃ちてしやまむ。
 みつみつし久米の子らが、
 頭椎い 石椎いもち
 今撃たぱ善らし。


かく歌ひて、刀を抜きて、一時に打ち殺しつ。

奈良県桜井市忍坂では、和解の宴会をするからと言ってその地の族長たちを集めておいて、給仕に化けた兵隊に合図して一斉に斬り殺させる。


かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向け和し、伏まつろはぬ人どもを退け撥はらひて、畝火の白梼原かしはらの宮にましまして、天の下治らしめしき。

このように、何の道理もなくいきなり軍を率いて他人様の土地に侵入し、血みどろの殺戮を繰り広げた末に、奈良県橿原市付近に拠点を築き、周辺一帯を支配する豪族となったわけです。

もちろん、実態としては奈良盆地の一部を支配しているだけであっても、記紀のイデオロギーによれば、それは「天の下治らしめしき」ということになります。

いやぁ、実に立派な初代天皇ですね。


※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)による。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130211/1360564621

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2016-04-12 神武天皇没後2600年式年祭という差別の祭典
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/12/220842

4月3日、奈良県橿原市の「神武天皇陵」で、神武の没後2600年を祭るという宮中祭祀「式年祭」が行われ、当代天皇・皇后もこれに参列した。

朝日新聞(4/3):


 奈良県を訪問中の天皇、皇后両陛下は3日、初代天皇とされる神武天皇の没後2600年にあたり、橿原市の神武天皇山陵に参拝した。天皇家の行事「宮中祭祀(さいし)」の一つで、秋篠宮ご夫妻も同行。皇太子ご夫妻は両陛下の名代として、皇居・宮中三殿の皇霊殿に参拝した。

産経新聞(4/3):


 初代天皇である神武天皇の式年祭が、大正5年以来100年ぶりに行われた。皇祖の命日に御霊を慰める式年祭は、宮中祭祀(さいし)の中でも「大祭」に位置付けられる重要な儀式。天皇、皇后両陛下は大正天皇、貞明皇后の前例にならい、奈良県橿原市の神武天皇陵まで赴き、厳かに拝礼された。

(略)

神武天皇 (略)日本書紀によると、太子となって九州から東遷し、大和を平定。紀元前660年に橿原宮で即位し、初代天皇となった。紀元前584年に127歳で崩御したとされる。(略)


後に「神武」という漢風諡号を贈られたこの男が何者で、何をしたのかについては、既に何度か書いてきた。
•神武って何した人?
•神武は結局ナガスネビコには勝てなかった
•「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」 正解は「そんな天皇はいない」
•GoogleMapで「欠史八代」を歩く

かいつまんで言えば、弥生後期(3世紀頃)、地元九州では大した出世の望めない傍流の血筋だった男が手勢を率いて近畿に攻め込み、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、かろうじて奈良盆地の一角(橿原市付近)に拠点を築き、周辺一帯(せいぜい10キロ四方程度)を支配する地方豪族となり、大和の人々の怨嗟と憎悪に取り囲まれながらそこで死んだ。これが、同時代頃にはサノ、ワカミケヌ、ヒコホホデミ、イワレビコなどと呼ばれていたこの男の実像である。時代も何百年も違うので「没後2600年」などお笑い種だし、そもそも神武は「天皇」などと呼べるような存在ではなかった。

しかし、この「式年祭」なるものの愚劣さはそれだけにとどまらない。祭祀の場となった「神武天皇陵」自体、問題大ありなのだ。

まず、神武の埋葬地について、記紀はそれぞれ次のように記載している。

古事記(神武記):


およそこの神倭伊波礼毘古の天皇、御年壹佰參拾漆137歳、御陵は畝火山の北の方白檮かしの尾の上にあり。

日本書紀(神武紀):


七十有六年の春三月の甲午の朔甲辰に、天皇、橿原宮に崩りましぬ。時に年一百二十七歳。

明年の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる。

この埋葬地が具体的にどこだったのかは、既に室町時代頃には分からなくなっていた。いったん、元禄期に四条村の福塚と呼ばれていた高さ3mほどの塚が神武稜とされたが、位置的に「畝傍山東北陵」と言うには離れすぎていることから後に否定され、候補地として次の二箇所が残った。
1.畝傍山の東北山麓に位置する丸山古墳

2.畝傍山山麓から北東に300mほど離れた小字ミサンザイ(別名神武田じぶでん)


畝傍山と両者の位置関係は次のようになる[1]。


丸山は畝傍山の北側に張り出した尾根のほとりにあり、「畝火山の北の方白檮の尾の上」という古事記の記述に良く適合し、日本書紀の言う「畝傍山東北陵」という呼称にもふさわしい。実際、ここが神武陵の候補地としては最有力だったのだが、幕末の文久2(1862)年、こちらではなく、田の中に孤立した小塚であるミサンザイのほうが神武陵と決定された。その理由は、次のようなものだった[2]。


 問題となるのは,神武陵の候補地の丸山が被差別部落である洞に隣接していたことである。鈴木良が採集した言い伝えによると,神武陵探索の勅使を迎えるのに,200余戸の部落を「ムシロ」で囲い,部落の上手に一夜づくりの新道をつくったという(「天皇制と部落差別」) 。また陵墓の治定(決定)に発言力をもった国学者の谷森善臣は,朝廷に提出した「神武天皇御陵考」(『谷森家旧蔵関係史料』上,宮内庁書陵部所蔵,谷函249号)のなかで,

   然るに洞村之穢多治兵衛と申者,威霊なる地之由虚言申者有之ニ付き,
   近年神武帝殯殿之跡抔と申立候儀も出来候得共難心得儀ニ御座候

 「洞村の穢多治兵衛」という者が,丸山を「威霊なる地」であると虚言していると,治定にもっとも影響力のあった谷森は非難している。最有力地の丸山は,洞部落に隣接するゆえに,排除されたのである。

かくして神武陵は、差別ゆえに神武の埋葬地ではない可能性の高いミサンザイに誤って決定された。

いや、これは単なる「誤り」ではないのかもしれない。この「文久の治定」に約半世紀先立って儒学者蒲生君平(1768-1813)が行った天皇陵調査で、洞村について「相傳つたうるに、その民故もと神武陵の守戸しくなり。凡およそ守陵の戸はみな賎種。本もと罪隷をもって没入したる者は郷に歯ならばず」と報告されていた[3]。このことを、神武陵の治定に関わるほどの学者たちはみな知っていたはずである。彼らは、墓守集団としての洞村を従える丸山こそが神武陵に違いないと薄々感じていながら、被差別部落に隣接する古墳を天皇陵とすることを嫌って、あえてミサンザイを選んだのではないか。

ちなみに、この洞村は、後にさらなる悲劇に見舞われる。「神武御陵兆域※1ヲ眼下ニ見ルノ地位ニアリテ恐懼ニ堪ヘサルコト」[4]という理由で、1917年から20年にかけて強制的に移転させられたのである。この事件を小説『橋のない川』で描いた住井すゑは、次のように語っている[5]。


住井 あのう部落の移転なんかはね許されることじゃないですよね。

古田 ええ、ほんとほんと。

住井 その神武天皇の御陵にしたのが明治。出来上がったのが明治四年でしょ。それで大正の始めになって部落がそこにいるのは畏れ多いからって強制立ち退き食わすんですから、そんならそこに御陵作らなければいいんですよね。ところが大正になるともうみな忘れちゃって、昔っからその御陵はそこにあって部落は後で住んだような話に変わってんですよね。そいで強制立ち退きさされて近鉄の沿線にもう乞食小屋みたいに何百戸か住んでたわけです。今まあそれなりの家を建てて住んでますけどね。

  しばし沈黙


洞村は、丸山を「眼下に見る」位置にあるわけではない。部落差別の結果、間違った場所に神武陵が作られ、今度はそれを見下ろす位置に部落があるのはけしからんといって移転させられたわけである。いま、旧洞村は、丸山古墳とともに、「神武天皇陵」の周囲に人工的に作られた深い森の中に埋もれている。


                   神武天皇陵付近 -- Google Mapより


「天皇」などではなかった一地方豪族の墓を、差別ゆえに間違った場所に仰々しくでっち上げ、差別ゆえに墓守の民をその住処から追い払い、デタラメな年代比定に基いて「没後2600年」と称する祭祀を行う。まさに、天皇制というものの愚劣さを象徴する差別の祭典である。

【2016/4/17追記】
『皇陵史稿』という、洞村強制移転のほんの数年前の1913年に出版された天皇陵問題の研究書がある。
この本の中で著者は、洞村についてこう書いている[6]。重大な内容なので、全文引用する。


畝傍山は、なつかしい山である。
理屈は知らず、唯何となく、恋しく、懐つかしい「何事のおはしますかは知らねども」である。
理屈から云へば、畝傍山は何でも無いものかも知れん、畝傍山の宮居、畝傍山の御陵、と云ふのも、畝傍山を目安に取つただげて、畝傍山それ自身は何でも無かつたかも知れん。
が、かやうな切つても血の出ん、冷酷な、三百的な理屈は、此聖祖開国の地に、適用したく無い「畝傍山みればかしこし」と、宣長の吟じたのは、誠に国民の代表的讃嘆の言葉であると思ふ、吾等は、窮天極地、此山の尊厳を持続して、以て天壌無窮に、日東大帝国開創の記念としたいと思ふ。
驚く可し。神地、聖蹟、この畝傍山は、甚しく、無上、極点の汚辱を受けて居る。
知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄まして居る。
事実は、こうである。
畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して、新平民の墓がある、それが古いのでは無い、今現に埋葬しつつある、しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのまま此神山に埋められ、霊土の中に、爛れ、腐れ、そして千萬世に白骨を残すのである。
士臺、神山と、御陵との間に、新平民の一団を住はせるのが、不都合此上なきに、之に許して、神山の一部を埋葬地となすは、事ここに到りて言語同断なり。
聖蹟図志には、此穢多村、戸数百二十と記す、五十余年にして、今や殆ど倍数に達す、こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵との間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、おひおひ霊山の全部を侵蝕する。
              (予が大和紀行中の一節)

学者でさえこれほど露骨な内容を書くのである。当時、被差別部落がどれほどの侮辱と蔑みに晒されていたかがよく分かる。洞村が強制移転させられたとき、特にこの墓地は、「一片の骨さえも残してはならない」と徹底的に掘り返された[7]という。

[6] 後藤秀穂 『皇陵史稿』 木本事務所 1913年 P.198
[7] まれびと 「おおくぼまちづくり館と洞村跡地」
【追記終り】

※1 墓域のこと。
[1] 高木博志 『近代における神話的古代の創造』 京都大学人文科学研究所 人文学報 2000年3月 P.19
[2] 高木 P.23
[3] 蒲生君平 『山陵志』 1803年または1822年
[4] 高木 P.33
[5] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一新書 1994年 P.73
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/12/220842

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神武は結局ナガスネビコには勝てなかった
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/11/07/161559

先日、TLにこういうツイートが流れてきた。兄の五瀬とともに九州からやってきたイワレビコ(神武)が近畿に侵入したとき、最大の敵として立ちふさがった(トミノ)ナガスネビコ(記:登美能那賀須泥毘古 紀:長髄彦)についての話である。


天孫饒速日命を奉じて神武天皇の東征に抵抗した大和の豪族長髄彦は、神武側に寝返った饒速日に殺されてしまう。饒速日は河内の石切劔箭神社に祀られているが、生駒山中腹にある上之社の境内地が、昭和末期の近鉄新生駒トンネル工事の落盤で大陥没(続


国譲り神話にしろ「天つ神」以前からあった日本の信仰を「国つ神」と呼び変え、ルーツも実は天つ神にあったかのように語り、歓迎されながら受け入れられたように語ってるだけには見れる。そう考えるとキリスト教による異教の悪魔化や聖人信仰に取り入れての布教とさして変わりはしない。

確かに、日本書紀には、ニギハヤヒ(記:邇藝速日 紀:饒速日)がナガスネビコを殺して神武に降ったと書かれている。

日本書紀(神武即位前紀):


饒速日命、本より天神あまつかみ慇懃ねむごろにしたまはくは、唯天孫のみかといふことを知れり。且また夫かの長髄彦の禀性ひととなり愎佷いすかしまにもとりて(ねじけていて)、教ふるに天人きみたみの際あひだを以てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。其の衆もろびとを帥ひきゐて帰順まつろふ。天皇、素もとより饒速日命は、是天より降れりといふことを聞しめせり。而して今果して忠効を立つ。則ち褒ほめて寵めぐみたまふ。此物部氏の遠祖なり。


しかし、古事記ではだいぶ様子が違っているのだ。

古事記(神武記):


 然ありて後に、登美毘古を撃ちたまはむとする時、歌よみしたまひしく、

  みつみつし 久米の子らが

  粟生あはふには 臭韮かみち一茎もと、

  そねが茎 そね芽繋ぎて

  撃ちてしやまむ。(歌謡番号12)

 また、歌よみしたまひしく、

  みつみつし 久米の子らが

  垣下に 植ゑし山淑はじかみ、

  口ひひく 吾は忘れじ。

  撃ちてしやまむ。(歌謡番号13)

 また、歌よみしたまひしく、

  神風の 伊勢の海の

  大石に はひもとほろふ

  細螺しただみの、いはひもとほり

  撃ちてしやまむ。(歌謡番号14)

(別の豪族兄師木えしき弟師木おとしきについての歌謡 -- 略)

 かれここに邇藝速日の命まゐ赴むきて、天つ神の御子にまをさく、「天つ神の御子天降りましぬと聞きしかば、追ひてまゐ降り来つ」とまをして、天つ瑞しるしを献りて仕へまつりき。かれ邇藝速日の命、登美毘古が妹登美夜毘売とみやびめに娶ひて生める子、宇摩志麻遅うましまぢの命。こは物部の連、穂積の臣、婇臣が祖なり。かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向け和し、伏まつろはぬ人どもを退そけ撥はらひて、畝火うねびの白檮原かしはらの宮にましまして、天の下治らしめしき。

「撃ちたまはむとする時」というのは、これから戦いを始めようとする時、である。登美毘古(ナガスネビコ)との開戦を前に「撃ちてしやまむ」と歌って盛んに気勢を上げているわけだが、そこからいきなり、戦いの描写もなく、「勝った」も「殺した」もなく、ニギハヤヒの帰順の話になっている。これはどういうことなのか。

普通に考えれば、それは「勝てなかったから」だろう[1]。


 その三が、もっとも重要だ。冒頭に「将撃登美毘古之時」とあり、「対、登美毘古戦」の開始前の歌だ。そしてその後の歌はない。つまり、「勝利の歌」もしくは「勝利後の歌」を欠いているのである。地の文でも、「登美毘古を斃した」とは記していないのだ。これは何を意味するか。

 わたしには、その答えは一つだと思われる。「神武は敗けた」、あるいは「勝てなかった」のだ。なぜなら、実際は勝ったのに、その事実をカットする、あるいは書き忘れる、そんな史書があるだろうか。ありはしない。『古事記』が天皇家側の史書である以上、これは不可避の判断である。

 歌の問題も同じだ。もしこれが後代の「造作」、もしくは挿入なら、なぜ勝利の歌を偽作、もしくは偽入しなかったのだろう。簡単なことだ。勝利前の歌は作れても、勝利後の歌は作れない。そんな不器用な「造作」者、あるいは半端な「挿入」者など、わたしには想像できない。

 以上の考察の意味するところ、それは何か。神武は大和盆地に侵入した。それには確かに成功した。しかし、外部(大和盆地外)の勢力たる登美の長髄彦たちには勝ちえなかった。これがありていな状況だ。したがって、

   故、此の如く、荒ぶる神等を言向け平和し、伏はぬ人等を退け撥ひ、

   畝火の白檮原の宮に坐して、天の下を治らしき。(『古事記』神武記)

という、有名な一文も、この盆地内の支配を宣言したものにすぎなかったのである。

仮に神武がナガスネビコを倒していたなら、神武は河内をはじめとするナガスネビコの支配領域を手に入れていたはずである。しかし実際には、神武どころかその後も8代にわたって近畿天皇家は奈良盆地外に勢力を広げることができなかった。この点から見ても、神武がナガスネビコに勝てなかったのは明らかだろう。ニギハヤヒがナガスネビコを殺して投降したという日本書紀の記述は、神武の事蹟を誇張するために付加された作り話なのだ。

ちなみに、ニギハヤヒに関する記述は、これ以外にも古事記と日本書紀とで大きな違いがある。日本書紀では、まずニギハヤヒが先に天降り、ナガスネビコはこれに臣従していたことになっている。

日本書紀(神武即位前紀):


 時に長髄彦、乃ち行人つかひを遣して、天皇に曰さく、「嘗むかし、天神の子有ましまして、天磐船に乗りて、天より降り止いでませり。号なづけて櫛玉饒速日命(略)と曰す。是吾が妹三炊屋媛みかしきやひめ(略)を娶りて、遂に児息みこ有り。(略)故かれ、吾、饒速日命を以て、君として奉つかへまつる。夫それ天神の子、豈あに両種ふたはしら有まさむや。奈何いかにぞ更に天神の子と称なのりて、人の地くにを奪はむ。吾心に推おしはかるに、未必為信いつはりならむ」とまうす。

一方古事記では、上で引用したとおり、ニギハヤヒが「天降った」のは神武より後で、またナガスネビコがこれに臣従したという記述もない。恐らくニギハヤヒは神武と違ってナガスネビコと敵対せず、妻と土地を与えられて共存していたのだろう。記紀ともにニギハヤヒが神武に帰順したことになっているのは、その子孫である物部氏などの有力豪族を天皇家に結びつけるために、先祖の代から天皇家に仕えていたことにしたのではないだろうか。

[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(2) 日本列島の大王たち』 朝日新聞社 1985年 P.27

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。

※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/11/07/161559

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ではこの機会に「神武天皇の偉業」wを振り返ってみようか
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/03/091039

「文化の日(=日本国憲法公布の日)」である今日11月3日をかつての「明治節」に戻したい反動議員たちが集会を開いたそうだ。民の生活を良くするための努力は何一つしないくせに、旧大日本帝国の正当化にだけは実に熱心だ。このような者たちを国会議員でいさせておくことこそ国家的損失、税金の無駄使いというものだろう。

中でも我らが防衛大臣、稲田朋美氏の発言は傑作である。(朝日新聞 11/2)


 稲田朋美防衛相も「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」と語った。

 
「神武天皇の偉業」ww

私は、後に「神武」と呼ばれることになる人物は3世紀頃に実在したと考えているが、この男がやったことは、『古事記』を素直に読み解けば以下のとおりである。

1.野心だけは満々だが九州では出世の望めない傍系の兄弟が、
2.各地の豪族たちから支援を獲得して軍勢を整え、大阪湾から近畿に突入
3.しかし待ち受けていたナガスネビコに敗れて総大将の兄は討ち死に
4.生き残った弟(神武)が紀伊半島を迂回して熊野方面から奈良盆地に侵入
5.だまし討ちと虐殺を繰り返したあげく、ようやく奈良盆地の一角を占拠
6.しかし結局そこから一歩も出られず、大和の人々の憎悪に囲まれたまま、一地方豪族として死んだ

もちろん、天皇に即位したなどというのは、後世の作り話である。


21世紀にもなって、いまだにこんなものを「偉業」だの「日本のよき伝統」だのと妄想する者たちが政権を握っているのだから、なんとも恐ろしい。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/03/091039

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初期天皇家の引っ越し事情w
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452

今日は紀元前660年のこの日に「神武天皇」が即位したという大嘘を根拠に明治クーデター政権が勝手に決めた「建国記念の日」なので、神武と初期天皇家に関するデタラメを一通り指摘しておくことにしよう。

■ 「神武天皇」などいなかった

まず初代の「神武」。

私は、記紀の神武説話のもととなった歴史上の人物は恐らく実在した(3世紀頃)と考えているが、この男は到底「天皇」などと呼べる存在ではなかった。記紀の説話を皇国史観イデオロギーに囚われずに読めば、この男は軍勢を引き連れて九州から近畿に攻め込み、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、ようやく奈良盆地の一角に拠点を確保した侵入者に過ぎない。


支配領域の広さから言っても、この男は当時の近畿にたくさんいた地方豪族の一人に過ぎず、天皇に「即位」したなどというのは大嘘である。


ついでに言うと、「神武」というのは後世になってつけられた諡おくりな(漢風諡号)であり、当時こんな名で呼ばれていたわけではない。本来の名前は「サヌ」だろう。

要約するとこんな感じだ。

1.野心だけは満々だが九州では出世の望めない傍系の兄弟が、
2.各地の豪族たちから支援を獲得して軍勢を整え、大阪湾から近畿に突入
3.しかし待ち構えていたナガスネビコに敗れて総大将の兄(イツセ)は討ち死に
4.生き残った弟(サヌ)が紀伊半島を迂回して熊野方面から奈良盆地に侵入
5.だまし討ちと虐殺を繰り返したあげく、ようやく奈良盆地の一角を占拠
6.しかし結局そこから一歩も出られず、大和の人々の憎悪に囲まれたまま、一地方豪族として死んだ


■ 初期天皇家の「非常に規模の小さな歴史」

サヌに続く8代の「天皇」については、ほとんど説話が伝えられていないが、各「天皇」がどこに拠点(宮)を置き、どこに葬られたかについては記紀に記載があるので、そこから彼らの足跡を辿ることができる。

この点に関して、評論家・哲学者の山田宗睦氏が興味深いことを述べている。戦前の皇国史観教育を受けて育った氏は、教えられたことをそのまま信じていたが、大学に入って『古事記』を手に実際に各「天皇」の「都」の地を訪ね歩いたところ、初期天皇家の歴史が「非常に規模の小さな」ものだったことに気がついたというのだ。[1]


山田 皇紀二千六百年のようなことに対して私は当時中学生だけれども、受けていた教育が教育だから何も疑問は持たなかったね。(略)神武天皇は実在していたと思っているし、綏靖・安寧全部いて、万世一系で昭和天皇まで来ているんだということも信じていた。(略)昭和18年10月に京都大学に入った時から、古事記を手にして古事記に書いてある通りに歩いて行くわけね。
林 そういう点では非常に身近かに古事記・日本書紀はマスターしているわけですね。
山田 そうだ。本当にあったことだと思っているから、初代の神武天皇から始めて次の天皇はどこへ都したのか、どこそこと書いてあるのを見てそこへ行ってね、なんだ、ほんのちょっとこの部落から次の部落へ、都を遷したなんて、こんな……。
林 (笑)。
山田 自分で歩いてみて初めてね、なんていうか非常に規模の小さな歴史なんだっていうことが、分かる。大学へ入ってもまだ書いた通り信じているわけだから、それが実際にそうやって歩いてみることで崩れていくわけですよ。
林 うーん。
山田 ああいうのはどういう体験かなあ。古事記そのものじゃなくて、古事記を読んで作られた天皇制イデオロギーを教えられているわけでしょう。だから古事記を読むことによってかえって習ったのとは違うじゃないか、という意識が出るわけですよ。何で女を奪い合って天皇がケンカをするんだとかね、何かそういうことが疑問になって出てくる。イデオロギーのこわさというか、古事記に書いてあることとも違うことを建て前として教えられていたのが、旧制高校で古事記を読んで少し違うんじゃないかと思いだす。そして京都大学へ入って、古事記を持って歩いてみたら、何だ日本の歴史ってのは何か引越し位の、都を遷したなんてのと違うじゃないかというふうに思い始めた。
一同 (笑)。

では、実際にその歴史の規模を確認してみよう。

サヌ(神武)からオホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)までの各「天皇」の「宮」の位置は、『古事記』[2]によれば次のようになる。


代 名前 宮 比定地(奈良県)


1 サヌ(神武) 畝火(うねび)の白檮原(かしはら)の宮 橿原市畝傍山東南

2 カムヌマカワミミ(綏靖) 葛城(かづらき)の高岡(たかをか)の宮 御所市森脇

3 シキツヒコタマテミ(安寧) 片塩(かたしほ)の浮穴(うきあな)の宮 大和高田市三倉堂付近

4 オホヤマトヒコスキトモ(懿徳) 軽(かる)の境丘(さかひをか)の宮 橿原市大軽町見瀬付近

5 ミマツヒコカヱシネ(孝昭) 葛城(かづらき)の掖上(わきがみ)の宮 御所市池之内付近

6 オホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安) 葛城(かづらき)の室(むろ)の秋津島(あきつしま)の宮 御所市室


■ Google Mapで根拠地の移動を確認してみる

これをGoogle Map上にプロットしてみると、各世代ごとの根拠地の移動は次のようになる。


http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452


サヌ(神武)→ カムヌマカワミミ(綏靖)


カムヌマカワミミ(綏靖)→ シキツヒコタマテミ(安寧)


シキツヒコタマテミ(安寧)→ オホヤマトヒコスキトモ(懿徳)


オホヤマトヒコスキトモ(懿徳)→ ミマツヒコカヱシネ(孝昭)


ミマツヒコカヱシネ(孝昭)→ オホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)


全体をまとめてみても、縦横7〜8キロ程度の範囲を行ったり来たりしているだけである。

山田氏の言うとおり、ナントカ天皇が「◯◯の宮にましまして、天の下治しらしめしき」などと大仰に書かれている初期天皇家の歴史が、実際にはいかに規模の小さいものだったかがよく分かる。

[1] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一書房 1994年 P.132-133
[2] 武田祐吉・中村啓信 『新訂 古事記』 角川文庫 1982年 P.83-89
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452


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大和には天皇家より古い「万世一系」の家があった
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/16/100219

「神武天皇陵」問題の記事でも引用した住井すゑ氏と古田武彦氏の対談本の中に、非常に面白いエピソードが書かれている[1]。

古田 そうですか。いやァあのね、私吉野でね、古事記に案内した人出て来ますね、あの子孫だっていう材木問屋の社長さんいましてね、額にかけて非常に自慢しとられた。ところでその後帰って来てからね、私のところへ知らぬある人から手紙が来まして、その人は京都大学の工学部へ入ったんだけど、例の学園闘争かなんかでね、途中でやめて材木会社に入ったと。そして木材の買付けで吉野へ行ったと。そしてある農家の家に泊ったと。でその農家の主人と酒飲んで話してるうちにその農家の主人が泣き始めるわけ、なんでかというたら「私の先祖は神武天皇が入って来た時に特に撃退してこれを食い止めた家なんだ」と、「そういうことをね、近所は皆知っとるよ、だからもう本当にね、戦争中はつらかった」と。

住井 はあァ。

古田 あれは逆賊の家や。それが敗戦になってやっとほっとしたけど、今でもつらい、と言ってね酒飲んでさめざめと泣くんだそうですよ。もう徹夜で語ってくれたそうです。ところがね、その聞いた方の人は、神武天皇は架空だと思ってるわけ、津田左右吉のあれで。だから、何この人言ってんだろうと思うてね……。

住井 ワハハハ……。

古田 私の本『盗まれた神話』というのを読んだわけです。そしてさっきのような神武はリアルだというのを読んでね、ああそうかと、それならあのおやっさんの気持もわかる、というんで私に調査に行ってほしいというお手紙をいただいたんです。だからなんか、そういうね、大和っていうのはいまだにそういうの生き残ってるんですね。

住井 残ってますね、ええ。


この農家のご先祖は、外来の侵略者であるイワレビコ(神武)たちと戦い、愛する郷土の土地と人々を守ったわけである。実際、古事記を見ると、吉野は神武の侵入経路上に名は出てくるが、神武が橿原に拠点を築いた後は地名として出てこない。次に「吉野」が現れるのは、ずっと後の応神天皇(15代)の時代である。少なくとも神武から数世代の初期の頃は、吉野はまだ近畿天皇家の支配領域には入っていなかったと思われる。

近畿天皇家の始祖は神武と言われているが、実際には仲哀(14代)→応神(15代)、武烈(25代)→継体(26代)と王朝交替を繰り返しており、実態としては決して「万世一系」などとは言えない。一方、この農家のご先祖は、はるか昔から大和に根付いて暮らし、侵略者神武と戦って郷土を守り、その後もずっとこの土地で代を重ねてきた。これこそが、誇るべき真の「万世一系」ではないだろうか。


[1] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一新書 1994年 P.91-93
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/16/100219


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132. 中川隆[-10364] koaQ7Jey 2019年5月10日 19:24:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1740] 報告

日本の歴史はその始まりから嘘だらけ


公的記録を改ざんし、あるいは捏造するという手口自体はもっとはるかに古く、この国の歴史の黎明期から始まっている。

現存する日本最古の歴史書である古事記は712年、次の日本書紀は720年に成立している。ほぼ同時代に二種類の史書が作られた理由が不明である上、古事記は後の史書にその成立が記載されていないことから偽書説が唱えられたこともあるが、現在ではほぼ否定されている。

この古事記と日本書紀の内容は、全体としてはよく似ているが、いくつか重大な違いがある。

たとえば、景行天皇ことオホタラシヒコオシロワケ(12代)の九州大遠征。日本書紀によれば、景行は軍を率いて九州に渡り、ほぼ時計回りに九州を一周しながら多くの敵を打ち破る大遠征を行っている。日本書紀の記載のとおりなら、このときヤマト王権は初めて九州全土を支配下に収めたことになり、まさに赫々たる大戦果と言える。

図版出典:[6]

ところが、景行のこの重大な事績が、古事記には一切現れないのだ。古事記に出てくる景行の事績といえば、「田部たべを定め、また東あづまの淡あはの水門みなとを定め、また膳かしはでの大伴部おほともべを定め、また倭やまとの屯家みやけを定めたまひ、また坂手さかての池を作りて、すなはちその堤に竹を値ゑしめたまひき」という程度でしかない[7]。池を作って竹を植えたなど、どう考えても九州大遠征より優先して書くべきことではないだろう。

これは一体どういうことなのか。古田武彦氏が説明するとおり、実際に行われた大遠征を天皇家の史書である古事記が無視することなどあり得ない以上、日本書紀が話をでっち上げた(あるいは天皇家以外の史書から剽窃した)と考えるしかない[8]。


 (六)一番肝要の点、それはこの華麗な景行の九州大遠征譚が『古事記』に全く出現しないことである。これは記紀間の大矛盾だ。

 以上、この矛盾をいかに解くべきか。その根本は(六)にある。記紀いずれが原形、いずれが改変形か、という問題である。これに対するわたしの基本の立場は次のようだ。“記紀ともに、近畿天皇家内の成立である以上、天皇家にとって有利に加削することはあっても、不利に加削することはありえない”――この公理だ。

 そして右の有利、不利とは、もってまわった考察や、一部のインテりにのみ通じるような、うがった見方の類からではなく、万人に通ずる明々白々たる印象にもとづくものでなければならぬ。

 このような立場から見るとき、問題の景行の九州大遠征譚が、近畿天皇家にとって赫々たる大勝利譚であり、光栄ある大親征譚の形をとっていることは、疑いを容れない。

 これを記載した『書紀』の方が原形であるとすると、『古事記』の作者(伝承者・記録者等)がこれを削除したこととなる。これは先の公理によってみると、ありうることではない。

 これに対して『古事記』の方が原形とした場合、『書紀』はこれを付加・挿入したこととなろう。この方が、先の公理から見ると、ありうるケースである。

 以上の吟味によってみれば、景行の九州大遠征譚は、他からの挿入によるもの、そのように見なすほかはないのである。

この他にも、ヤマトタケルことヲウス(景行の子)による東北地方の蝦夷征伐、神功皇后ことオキナガタラシヒメ(14代仲哀の妻の一人)による九州筑後での征伐など、古事記には現れず日本書紀にだけ書かれている征伐譚が存在する。

私は、古事記は日本書紀の「ボツになった試作品」だと考えている。なぜボツになったかといえば、天皇家の支配を正当化するための嘘の程度が足りず、当時の権力者を満足させることができなかったからだろう。

千数百年の時を経ても、時の権力者の都合に合わせて記録を改ざんし、あるいは継ぎ合わせて辻褄を合わせる官僚たちの心根は大して変わっていないのではないか。まさに骨絡みの嘘つき体質と言うしかない。


[6] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.118
[7] 武田祐吉訳注 『新訂 古事記』 角川文庫 1987年 P.110
[8] 古田 P.120-121
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/04/222222


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133. 2019年5月10日 22:59:21 : j1bSqqkggA : ckVuOS5YdkNLS0E=[3] 報告
>>2

古代は、渡来人→支配階級、土着民→被支配階級だぞ。

134. 中川隆[-10183] koaQ7Jey 2019年5月24日 07:00:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2158] 報告
愛子を天皇にして、結婚までさせると女系天皇になるんだ

愛子が黒人と結婚したらその婿はニグロ王朝の始祖になる
愛子がホッテントットと結婚したらその婿はホッテントット王朝の始祖になる
愛子が中国人と結婚したらその婿はチャンコロ王朝の始祖になる
愛子が在日と結婚したらその婿はチョン王朝の始祖になる

という話だ。 その婿は実質的には新王朝の始祖だ


「万世一系」自体が嘘で、しかも愛子の婿が準天皇になるんなら、もう天皇制なんか意味ないんだよ


天皇はチョンなんだから祖国の韓国に引き取ってもらって、毎日 日本の戦争犯罪をチョンに詫びてもらうのが一番いい

血統書付きの犬をそこらへんの雑種犬と交尾させて、
生まれた小犬にも血はちゃんと繋がっていると主張しても
その小犬が由緒正しい血統の犬だとは誰も認めない

オバマ大統領は白人と黒人のハーフだけど、みんなニグロだと思ってるだろ。

同じ様に、愛子が在日と結婚してハーフの皇太子ができたら、みんな その皇太子をチョンだとしか思わない

チョンを天皇として崇める日本人も、チョンの天皇の為に天皇陛下万歳と言って特攻する日本人もいない

天皇制はチョンの皇太子が生まれた時点で終わりになる

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

135. 2019年10月23日 09:37:08 : gug5OjvNps : a1hPVFdCM2JHaEE=[3] 報告
ただ、すでに他の掲示板では、何度も述べられてることなので、周知されてることだが、

天皇が最高位の神主である「神道」において、その最高位の崇拝対象は「カミ」と称せらる。この「カミ」の言葉は、原・縄文人と言われるアイヌの言葉「カムイ(精霊)」から来てることは、余りにも有名。

つまり、「神道」の歴史は、縄文初期から1万年以上続いてることになる。
もし、その後に大陸や半島から渡って来た民族が日本列島を完全に制圧していたのなら、彼らの祭祀神の名称が「カミ」に替わって使われて来たことだろう。

136. 2021年4月17日 05:53:54 : Uc2Eit91PE : Zi9YSTJIOWtwei4=[8] 報告
大陸や半島から渡って来た血流は、太陽信仰のゾロアスター教=仏教徒であり、
畿内掌握と共に神話を書き換え、仏教を用いて列島支配。
本体は仏教信仰を続けて明治以降に表面的には神道に鞍替えして
神道祭祀を装っている・・・

というのが真相のように見えますね。

137. 2021年9月20日 04:25:53 : EvJWLxfHaE : T2lrSGMuTUtMVTY=[3] 報告
まあ、天皇の根本的な存在の意味を知っていたなら、中韓人の寝言は爆笑モンだろうなw
天皇は、日本の民族宗教とも言える「神道」の神主の立場である。天皇自身が神として崇められてるのではない。そして、その「神道」における最高位の存在は「カミ」と呼ばれるが、それは原・縄文人といわれるアイヌの言葉「カムイ(精霊)」から来てることは有名。
つまり、天皇の起源は縄文1万6千年前に遡ることができる(当初は、天皇は「スメラミコト」と呼ばれていた)。
そして、今から1万6千年前と言えば、日本列島は中国大陸と地続きで、日本はいわゆる「大陸の周辺地域」であり、文明の栄える条件は整っていた。そしてその頃の中国内陸部は、未開人が処々に点在する人跡未踏の地であった。むろん、朝鮮半島はまだ出来ていない。
138. 2022年1月27日 22:27:01 : VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[2020] 報告
どうやら神道は存在していない
江戸時代までの天皇は仏教だった
それを殺して、明治から戦争用の神道の天皇が始まるが
その明治天皇が、神道はユダヤ教だと言っているのだ

そして明治の「廃仏毀釈」でお寺と仏像の大量破壊が行われて、多くの神社が建てられた
そこらじゅうにある小さな神社は、大麻販売所であって、神道とどう関係してるか分からん

正月の神社への初詣は明治からやらされている
天皇の宮中祭祀は大正時代から始めたものだし
皇室の菊の御紋は明治から使っている
あいつら和服も畳も使わないし、必ず英国留学するし、変だろう

昭和天皇と上智大学神学部教授のバチカン大使が繋がっていた
昭和天皇の母親からクリスチャンだ
マッカーサーと昭和天皇の会話を記録したホイットニー文書を読めば
昭和天皇が神道でないことが明確に分かる
神道の祭司にあるまじき発言をしている

主を失った神社連中がチンピラ化して、神社界は崩壊中だ

つまり、神道の天皇は明治・大正のみで
明治天皇はユダヤ教と言ってて、大正天皇はすぐ殺されたし
誰も神道を伝承してないようだ
神道は教義も何も無いカラッポというか、存在していないな

139. 2022年1月29日 08:00:01 : qxNlsUXK8U : Z1NyeW5ETTdLMlU=[-686] 報告
transimpex_ochd(スコットランド・ケール語で8です)で投稿しています。

今の天皇は偽者。

日本人の象徴ではない だから半島から沢山人を呼び込み・大陸や他の外人まで

ユダ系なども。

日本人の象徴ならそんな事はしない。 国籍を簡単に渡し好き放題にさせる支配者

は、日本人ではない。(政治屋・官僚など含めて)

それに、そんな時代ではない。

戦後処理を日本人だけ終えているのに外・害人達はいつ帰るのか。

密入国者達はいつ帰るのか。

皇室泥土廃止と創価など解体 半島との国交断交。

侵略者達の癌細胞など不要。



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数のため全部処理

140. 2022年2月02日 03:23:54 : csO84DkAKQ : NkVtaGE3eUsvaUE=[1] 報告
>>138
鏡見てみな 八重歯とエラ骨出っ張ってるぞエベンキ原人
戸籍も民族アイデンティティも持たないゴロツキは始末が悪い
自殺しとけよ
141. 2022年2月05日 22:20:05 : VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[2023] 報告
日本には南北朝時代があった
北朝天皇と南朝天皇が、その時代よりずっと前から私利私欲で戦っているのが
日本のしょーもない、くだらない歴史だ

本当の初代天皇は、日本に襲来した新羅の王子、金霜林である
それが文武天皇683年〜 である
初代だけど第42代天皇とされている
第40代はその父親、第41代は姉らしいが、ともに日本には来ていない
〜39代は実在もしていない

文武天皇683年〜は、後に北朝天皇とされる系統で
おこから100年遅れて始まった百済人天皇の桓武天皇781年〜が南朝の系統だ

京都の新羅人天皇と、奈良の百済人天皇は、
京都と奈良の位置関係から北朝、南朝と呼ばれたのだろう知らんけどさ
新羅と百済は犬猿の仲で決して交わることはないのに、
無理やり混ぜて一系統にされている時点でおかしなことだ


南朝天皇の系統はいつの間にか消滅いていたようだ
明治維新で殺人鬼の伊藤が北朝の孝明天皇を殺したが、南朝天皇の系統が無くなっていたので
百済の源流である高句麗の系統である李氏朝鮮の李王を天皇にしたのだろう

朝鮮併合で李王が赤坂に来て日本の皇族になったが
それは李氏朝鮮が日本を併合したと見るべきことだろう

平成天皇が「天皇を降りる」と先祖に報告したと思われる、埼玉の高麗神社参拝は重要だ
その神社は高句麗の馬賊である王族を祀ったものなのだ
そこには安倍の父方の祖父母も、昌徳宮李王・李王妃として参拝に訪れた記録がある


だから高句麗が中国だとすれば、明治からの天皇の系統は中国出身ということが言えるが
その高句麗、満州の部分というのが果たして「中国」であるのか?という話になる

漢民族が宇宙から見えるほどの万里の長城を作って嫌ったその満州族の地は、
漢民族が近代になって併合したように見えるのだが、実はそうではない
逆なのだ
満州族が立ち上げた中国共産党が、日本軍の支援で中国全域を支配したのだ

しかし習近平が中国共産党から満州族を粛清した今となっては、
何千年も嫌った野蛮人の高句麗が中国の一部になっているのは不本意まことだと思うが


話が最初に戻って、なぜ初代天皇が第42代天皇とされているか?だが
明治に戦争用の現人神をデザインした英国が、そのハク付けのために
天皇はダビデの末裔であることにしたのだ
その年代合わせのために、もう千年前から天皇が存在していたことにした

古代イスラエルからユダヤ人が逃げ出した時代と、神武天皇の時代がほぼ一致している
一致させたのである
そのために、千年分の天皇の墓を適当に古墳に割り当てている
大阪の仁徳天皇陵は、そんな天皇は実在していないので、今は大仙古墳と呼ぶようになった

なので、でっちあげ天皇の墓を年代測定されると嘘がバレるので調べるなということ

142. 2022年2月27日 05:39:59 : zUK0LSZ5kb : V2VjTEZKc0VVUVk=[176] 報告
不二は晴れたり日本晴れ〜 \(^o^)/
143. 2022年3月18日 17:51:32 : TClSSf9sKA : UTFicUNtMnR3VmM=[45] 報告
万世一系、、、だと朝鮮人かもしれませんが、、、

天皇家は、万世一系ですか?

血は何時かは途切れるものです。

ホラ、大正天皇は、種無しのようです。

何で3人の男の子が生まれているのですかね〜 顔は全く似ていません。

不思議でしょう?

144. 2022年3月31日 00:27:57 : EvJWLxfHaE : T2lrSGMuTUtMVTY=[4] 報告
まあ、日本における「天皇」の存在は、縄文時代からだからな。
おそらく1万年以上の系譜があるだろう。
もともと、天皇は「スメラミコト」と呼ばれていた。それが「天皇」という名称になったのは、天皇の地位「天照皇大神宮(伊勢神宮)の神主」の立場により、その略称「天皇」が使われ始めたといわれる。決して「天から下りた皇帝」とかの意味ではない。
その神道の最高位の名称は「カミ」と称するが、これは原・縄文人のアイヌの言葉・カムイ(精霊)から来ていることは有名。
天皇が存在し始めた1万年前頃には、中国大陸は、いまだ野蛮人だけが処々に住んでるだけの人跡未踏の地であった。朝鮮半島はまだない。
145. 2023年2月01日 14:54:58 : EvJWLxfHaE : T2lrSGMuTUtMVTY=[6] 報告
天皇の祖先が中国人とか韓国人っていうのは、いつもながらの、日本の天皇にコンプレックスを持ってる中韓人の寝言だろうなw

日本の天皇は、日本の民族宗教といわれる「神道」の「神主総代」の立場だ。
この「神道」における「最高位の存在」の名称を「カミ」という。
この「カミ」という言葉は、原・縄文人といわれるアイヌの言葉「カムイ(精霊)」から来てることは、有名である。
つまり、日本の天皇が古来から祭っている「神道」は、1万6千年続いている縄文文化に由来するのである。

今から1万6千年前と言えば、日本列島は中国大陸といまだ地続きで、朝鮮半島は存在していない。また、中国内陸部は、処々に未開人が住む「人跡未踏」の地であった。

146. 2023年9月23日 08:56:45 : Fn757oXJOQ : MVV6YVoxazBIS2M=[2] 報告
神代文字と漢字の関係も古代の遺跡からすると日本からユーラシアに広がってるんですが!!
147. 雪嵐[5] kOGXkg 2023年12月30日 19:27:47 : 8TD0VttBNU : ekZ3bS53UHRLeHc=[4] 報告
そんなことは、ど〜だっていいことだ!
皇室を廃止する。
ここから話を始めよ!

日本の原住民は天皇など必要にしていなかった。
原住民は原住民どうしの、村落共同体で暮らし、歴史を生きて
いれば良かったのだ。

148. 知的上級者 さん[96] km2TSY_ji4mO0iCCs4Lx 2024年1月01日 12:27:32 : VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[4173] 報告
<▽41行くらい>
  捏造 神武天皇〜 −660年〜 架空
京都北朝 文武天皇〜  683年〜 新羅人
奈良南朝 桓武天皇〜  781年〜 百済人
東京李朝 明治天皇〜 1867年〜 朝鮮人(高句麗)

注)南朝天皇が781年からずっと君臨していたという意味ではなく
  そこから南朝天皇が出現したという意味

南北朝2匹の天皇が争い、半島での争いが日本列島に移行してきた感じ
猫が喧嘩しながら移動してるのと同じ

なんたら合戦、なんたらの戦い、なんたらの乱
ほとんどが北朝天皇と南朝天皇の争いであった


天皇とは何か
美化されていて真実が判らんだろう
でも当時の状況を思い浮かべれば、ある程度は常識で判るだろう

国を統治するとは支配するということだ
徒歩で支配するのは無理だから、馬を持ち込んだ外来種の騎馬民族だ
統治者たちを支えるために、農産物を差し出し、住居も作らされたろう

朝鮮人である上級国民は、天皇は民の幸せを祈る者と言うが
祈っても自然災害も疫病もあるのだから余計なお世話で
祈りたかったら天皇と名乗らずとも一人で勝手に祈ればよいのだ

むしろ天皇によって過酷な身分制度が作られ、民は農奴となった
天皇が引き連れて来た武士によって、民は鉄の刀でスパスパ切られた

日本人が世界でも突出して大人しいのは、
天皇らによる殺人が、結果として日本人の品種改良となったからだ
それが世界一過酷なものであった証拠が、日本人の従順さにある

その上、南北朝天皇の争いに巻き込まれた
武士が戦う前に、日本の原住民である農民に刀を持たせ
殺し合いをさせられた

日本の民が接するのは、狂暴な武士であり
長いこと言葉も通じなかったろう
刀で切られるから農作物を差し出すという関係だったはずだ

だから日本人が天皇の存在を知ったのは明治からだろう
明治政府が弁士を派遣したり新聞で天皇の宣伝をしている
日本人が持っている天皇のイメージは明治に作られた
天皇の宮中祭祀など大正から始めたものだ

というわけで天皇一派は、単なる侵略者、寄生虫
外国の王族と何も変わらん

とはいえ現在の天皇個人には何の力もない
日本の真の支配者である財閥が、
天皇の見えない権力を替わって行使するために
天皇を置いているだけである

例えば、日本は盛んに海外に金を配るが
その9割が日赤に戻ってくる手はずになっている
日赤の名誉総裁は天皇なので、
菊タブーによって金の流れは掴めない
でもその9割の金は、天皇なんかには渡らない
といった感じの見えない権力である

という形だけの天皇になっているので
明治からの天皇の血筋なんて守る必要は更々無いと現場は承知であり
時の権力者が皇太子妃に種付けするという感じで
その種付けの争いに天皇も参加するという話もあり
現実は厳しいのぅということだ

149. 日本は朝鮮人天皇支配[28] k_qWe4LNkqmRTpBsk1aNY454lHo 2024年1月02日 21:38:50 : TFdVCh1NPI : bnZJcGNxeUxFYU0=[45] 報告
<▽41行くらい>
日本人の1%しか知らない秘密
https://bushoojapan.com/scandal/2019/01/01/6629
天武の妻の持統は、伊勢へ旅行(行幸)しているのですが、
あえて伊勢大神をお参りしなかったと明記されているくらいです。
「元の伊勢大神」が怒って、
たたられたらたまらんと思った回避行動だったのかもしれません。

これも明治からの嘘  捏造   伊勢神宮
http://mazeranmisogi.jugem.jp/?eid=2169
10代崇神は
「神の勢いを畏れて、共に住みたまふに安からず。(日本書紀)」
と言って、天照大神の祭祀を宮中から外に出したのである。
天皇は一六〇〇年もの間、誰も伊勢~宮を訪れていない。

水俣病
https://ja.wikipedia.org/wiki/水俣病
第二水俣病
https://ja.wikipedia.org/wiki/第二水俣病
新潟県阿賀野川下流域で患者が発生した事から
「新潟水俣病」や「阿賀野川有機水銀中毒」

朝鮮人天皇裕仁が世界初の核地上起爆地に選んだ広島はかつて三嶋水軍の本拠地でした。

広島と呉港はかなり近く、同じ市内と言ってもいいほどです。

阿賀 (呉市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿賀_(呉市)
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%B4

呉=吴
人+吴=俣

広島呉阿賀とは瀬戸内海は

地中海クレタ諸島と中國呉と
 
三嶋水軍に対する朝鮮人天皇裕仁の呪い

ニイガタ=新形

新しい型を未来に取る為、
第二次水俣病を恣意的に起こし
中国大陸の呉、地中海クレタ諸島の誰かを呪殺祈願。


唐代の唐の藤原と李を名乗りながら

唐代の李家を呪う百済朝鮮人の藤原や八咫烏供等。

中國人は天皇供等から呪われている事を知っていますか?

日本全国の聖域や神社で中國大陸や中国人を呪っています。

大阪高槻にある日本最古の三島神社の三島鴨神社にある

このはなさくや日目大神を祀る唐崎神社は中國の大神さまです。

神の文字を棒で見えない様に呪いを施されて呪われています。

唐とは日本で中國大陸を示す言霊でしたから

だから、中国人は百済朝鮮人の事を侮蔑する時に

高麗棒子と言う様になったのですか?

ヒメとは太陽を意味する溝杭(ヤ矢・マト的)言葉。

何故、李を名乗りながら唐代の李家を呪っているの加賀わたしにはわかりません?

わかる人はいますか?

いずれにせよ、唐代の李家に為り済まして李を名乗りながら

唐代の李家を千数百年以上日本で呪い続けているのです。

150. 知的上級者 さん[118] km2TSY_ji4mO0iCCs4Lx 2024年1月05日 22:08:36 : VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[4195] 報告
<△25行くらい>
米国の裁判所の命令によって、エプスタイン島の顧客リストが公開された
日本人が60人以上もいる
その中に平成天皇がいる
2019年1月2日のところだ

しかしそれに関して日本は静かだ
本来なら新聞の1面に載るべき大事件である
大地震や航空機事故を起こして、必死にスピンしているようだ

そもそも大衆は「エプスタイン島」を知らないということもあるだろう
エプスタインが所有する小島に、小児性愛者が訪れ、行為を行うのだが
子供とセックスするのかはともかく

それより、子供の歯をペンチで抜くなどして拷問し
それによって、松果体から脳下垂体に
脳内麻薬アドレノクロムが分泌されるので
頭をカチ割って、脳の中心にある松果体を食う、または血を飲むらしいのだ

朝鮮あたりで、犬を食べる前に棒で叩くと美味いという文化があって
それを裏付ける話である
美味いというより、脳が分泌する物質に覚醒作用があって気持ちいい的なことだろう

松果体は松ぼっくりのような形であり
ローマ法王の杖の頭の部分にも見られるし
バチカンの美術館にも大きな松ぼっくりのモニュメントがある

松果体は第三の目とも言われ、古代エジプトの頃から解剖によって
その松果体に人間の秘密がある的な関心が持たれていたようだ

で、天皇がそんなことをしているという話で
しかも撮影もされていると思われる
天皇ということではないが、行為を撮影したテープも押収されている

というのは、単に悪魔的な行為をする場を提供しているのではなく
その行為を撮影して弱みを握ることが目的の島だったらしい

とにかく天皇の行為も公開して、天皇の真実を知らしめて欲しい
なーにが天皇だよ、普通に犯罪者だぞ

151. 知的上級者 さん[122] km2TSY_ji4mO0iCCs4Lx 2024年1月07日 04:22:23 : VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[4199] 報告
エプスタイン島の顧客リストに天皇の名前があったことを
みなさんは、どのように捉えているのか教えて欲しい

1 自分の欲望のためには、他人の命など屁でもない天皇は素晴らしい

2 天皇が望むなら、子供の肉体など好きなだけ差し出すべき

3 天皇に食われた子供たちは幸いである

4 その他


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