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ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった! 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 17 日 12:50:36: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 平和よりも、もっと大切なものがある 投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 10 日 07:09:14)


ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった! 


【ヨーロッパの戦い】こうして始まった! 
「開戦(ドイツ国防軍の電撃戦)」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rdktSBDeAto  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-10682] koaQ7Jey 2019年4月18日 17:13:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1373] 報告

【第二次世界大戦】 WWU in Color (BBC)
(全13回:内、第09、11、13回は欠番)
https://www.youtube.com/watch?v=Au6y9Ukvvy0&list=PLBjWXHGDgc8ah3CwUVvVBpE8kKYVYlrCQ
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%80%90%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%80%91+WW%E2%85%A1+in+Color+%28BBC%29&sp=mAEB
2. 中川隆[-10682] koaQ7Jey 2019年4月18日 18:49:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1373] 報告

HITLER (DC)(全06回)

HITLER (DC) 01|THE OPPORTUNIST イメージ戦略の秘密 - YouTube
HITLER (DC) 02|THE ACTOR 救世主の誕生 - YouTube
HITLER (DC) 03|THE FUHRER 人種差別への道 - YouTube
HITLER (DC) 04|THE VICTOR 勝利の陰で - YouTube
HITLER (DC) 05|THE MONSTER 挫折と堕落 - YouTube
HITLER (DC) 06|THE DOWNFALL 破滅へのカウントダウン - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bTZJE9Ijl4I&list=PLBjWXHGDgc8YGJdoDHkBXhMGtKWlEn7Yu&index=1
https://www.youtube.com/results?search_query=HITLER+%28DC%29+&sp=mAEB


3. 中川隆[-10681] koaQ7Jey 2019年4月18日 21:20:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1374] 報告

すべて天才ヒトラーの演技と演出に騙されたドイツ人の自己責任だった:


アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4


ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg


ヒトラーと6人の側近たち 第1回 「ヨーゼフ・ゲッベルス」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1zZ2RctGP2s
https://www.youtube.com/watch?v=PNZ_jaQxZ4w
https://www.youtube.com/watch?v=_R4QvU3y2zE


ヒトラーと6人の側近たちU 第3回 「マルティン・ボルマン」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dQxQaCQTL2M
https://www.youtube.com/watch?v=ZLAOmmrq3do
https://www.youtube.com/watch?v=EV_0tmN1F5E


ヒトラーと6人の側近たち 第3回 「ルドルフ・ヘス」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=04MW0fwLMVE
https://www.youtube.com/watch?v=xk05qbC9brg
https://www.youtube.com/watch?v=zRuECyuTohM


ヒトラーと6人の側近たち 第2回 「ヘルマン・ゲーリング」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s69UVGkUohM
https://www.youtube.com/watch?v=wraaO0iuzVo
https://www.youtube.com/watch?v=eWXLXasUA_g


ヒトラーと6人の側近たち 第5回 「カール・デーニッツ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nPMYejrhLFQ
https://www.youtube.com/watch?v=Y8dt1Rbfw00
https://www.youtube.com/watch?v=zs_nRkjOoCQ


ヒトラーと6人の側近たち 第6回 「アルベルト・シュペーア」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MyNm8amqY5E
https://www.youtube.com/watch?v=af4QmPD_SlU
https://www.youtube.com/watch?v=udA_4PhqLaY


ヒトラーと6人の側近たちU 第1回 「アドルフ・アイヒマン」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NywuaqlyTwM
https://www.youtube.com/watch?v=LDg3iTLeVJU
https://www.youtube.com/watch?v=_5OxGVOlWFk


ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc


ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

4. 中川隆[-10677] koaQ7Jey 2019年4月19日 08:25:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1379] 報告

ヒトラーを独裁者にしたのは、一つには彼の性的魅力であったらしい。


彼の姿を一目見ただけで卒倒する女性が続出したそうだ。

ある女性などは、ヒトラーが通り過ぎたあと、彼が踏んだ小石を持っていたガラスびんに入れ、それを大切に抱きしめた。

彼女はそのまま恍惚としてしまい、力が入りすぎてガラスびんが割れた。血がだらだら流れるが、それでもなお彼女は陶然と立ち尽くしていたという。

当時、世界でもっとも進歩的と言われたワイマール憲法下で、ヒトラーがあくまでも合法的に政権の座についたことを考え合わせると、民主主義って本当に大丈夫なの、とつい思ってしまう。
http://www.c20.jp/p/hitler_a.html


ヒトラーというとほとんどの日本人はドイツの独裁者でユダヤ人を虐殺した恐ろしい人とだけしか知らないのではないだろか。

ヒトラーに関して我々がしっかりと知っておかなければならないことは、

ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に独裁者になったということである。

ヒトラーの行くところはどこでもドイツ国民が、「ハイル、ハイル!」の大合唱。ドイツ国民のすべてがヒトラーに心酔していた。

そんな時、「私に全権を与えていただければ、もっと豊かなドイツを実現してみせます!」とヒトラーは言った。

ドイツ国民は将来悲惨なことが起こるなんてことは誰も疑わずに、あっさりとヒトラーに全権を与えてしまった。

1935年にドイツ国内で国民投票が行われた。

そしてなんと国民の90パーセント以上という圧倒的支持で、首相と大統領の兼任(行政権の完全な掌握)、立法権、軍隊の指揮権といった、司法権を除くすべての権力をヒトラーに渡してしまったのである。

こうして三権分立という鎖がはずされ、リバイアサンという怪物が解き放たれたのである。

その後は、皆さんもご承知のように、誰もヒトラーの暴走をくい止めることができなくなり、世界は人類がいまだ経験したことのない第二次世界大戦という大惨事に突入していったのである。
http://kaichan.cocolog-nifty.com/diclongman/2007/09/post_e4df.html

5. 中川隆[-10655] koaQ7Jey 2019年4月20日 13:43:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1406] 報告

天才ヒトラーは薬物中毒で破滅した


ヒトラーのカルテ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=9y68Yndc5SU

ヒトラーの様な覚醒剤中毒者が経験する被害妄想と恐怖体験はこの動画に上手く描写されています:


【ホラー】 コワイ女 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=1hDMX_hkZhw
https://www.youtube.com/watch?v=NWMWyqr2gfI

▲△▽▼

覚醒剤中毒者を敵にまわすとこういう目に遭う:

エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン
Job-Wilhelm Georg Erwin von Witzleben


ヒトラーはあらかじめ

「陰謀者たちの死の苦しみをできるだけ長くせよ。連中にはいかなる慰めを与えてはならない。連中を家畜の生肉の様に吊るせ。」

と命令、ヴィッツレーベンの絞首刑執行は上半身裸にし、ピアノ線の輪に首を通し時間をかけて首を絞め、さらに執行人たちは苦しみもがく被処刑者のズボンを脱がすなど、徹底して人間としての尊厳を傷付ける、非常に残忍な方法で処刑したという。


エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン(Job-Wilhelm Georg Erwin von Witzleben, 1881年12月4日 - 1944年8月8日)は、ドイツの軍人。

第二次世界大戦中のドイツ国防軍陸軍元帥。ヒトラー暗殺計画に加担して処刑された。


ヴィッツレーベン家はテューリンゲンに起源を持つ由緒ある貴族の家系で、代々軍人を輩出してきた。ヴィッツレーベンはそのプロイセン王国の分家にブレスラウで生まれた。プロイセン士官学校を卒業後、1901年に少尉として「ヴィルヘルム王」擲弾兵連隊に配属される。1910年、中尉に昇進。

1914年に第一次世界大戦が始まると第19後備歩兵旅団長副官を務め、10月に大尉に昇進し後備第6歩兵連隊で中隊長となった。のち同連隊で大隊長に任命される。ヴィッツレーベンはこの大戦でヴェルダン、シャンパーニュ、フランドルの戦いに従軍し、重傷を負って第一級と二級鉄十字章両方を受章した。回復したのち1918年に参謀教育を受け、終戦時は第121歩兵師団で主席参謀を務めていた。

ヴァイマル共和政でも軍に残り、中隊長となる。1923年、第4師団参謀の少佐としてドレスデンに転属。1928年、第6歩兵連隊で大隊長となり、翌年中佐に昇進。1931年、大佐に昇進し第8連隊長に補される。1933年、ハノーファーの第6軍管区歩兵部隊指揮官に転じる。1934年、ドイツ国防軍と名を改めた軍で少将に昇進し、ポツダムの第3歩兵師団長に就任。ヴェルナー・フォン・フリッチュの後任としてベルリンの第3軍管区司令官となったのち、中将に昇進して1935年には第3軍団司令官となった。1936年、歩兵大将に昇進。


反ナチ運動

1934年の「長いナイフの夜」でシュライヒャー前首相やフォン・ブレドウといった軍人が不法に粛清されたとき、ヴィッツレーベンは国防軍首脳に対して特別調査委員会の設置を要求しており、以降ナチ党に対する反対者となっていた。1938年2月、ヒトラーの戦争を辞さない外交政策に反対した陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュに対する、ナチ党の失脚工作の不法も非難した。

同年のズデーテン危機の際は、ベック参謀総長、カナリス国防軍情報部長、ヘプナー中将、シュテュルプナーゲル参謀次長らといった将官と共にヒトラー打倒のクーデターを計画し、首都ベルリンの駐留部隊をおさえているヴィッツレーベンは大きな役割を担っていたが、ミュンヘン会談でヒトラーが成功を収めてしまったために中止となった。1938年11月、フランクフルト・アン・デア・オーダーの第2軍団司令官に左遷。翌1939年もハンマーシュタイン=エクヴォルト上級大将によるクーデター計画に加わり、演習を視察するヒトラーを逮捕する計画だったが、これも成功しなかった。

第二次世界大戦が始まると、ヴィッツレーベンは上級大将に昇進して西部戦線の第1軍司令官に任命された。1940年5月のフランス侵攻ではレープ上級大将のC軍集団隷下でドイツ第1軍を指揮した。6月14日にマジノ線を突破し、フランス軍部隊を降伏に追い込んだ。この戦功で騎士鉄十字章を受章。さらにフランス降伏後に多くの同僚と共に陸軍元帥に昇進した。1941年にはゲルト・フォン・ルントシュテットの後任として西方軍司令官に任命されたが、1941年6月に開始されたバルバロッサ作戦後に彼はヒトラーを再び非難し、病気を理由に更迭された。


陰謀と処刑

1944年7月20日の、ルートヴィヒ・ベック元参謀総長やクラウス・フォン・シュタウフェンベルクを中心とするヒトラー暗殺計画「ヴァルキューレ作戦」において、ヴィッツレーベンはクーデター成功の暁には国防軍総司令官就任が予定されていた。「ヴァルキューレ」発動に伴う作戦命令は、ヴィッツレーベンの名によって出された。彼はクーデター派の軍事的最高位の人物であったが、当日は積極性を欠いていて出遅れた感が有ったのは否定できないだろう。正装して元帥杖を持ち、クーデター派の“作戦遂行司令部”ベルリン・ベンドラー街の国内予備軍司令部に現れたのは、ようやく午後8時頃。その頃にはクーデター失敗が明らかになっていた。彼はシュタウフェンベルクらの不手際を非難し、これ以後の協力を拒否し、1時間ほどで司令部から退去。ベルリンから約80kmほど離れた友人の荘園に潜伏したが、翌21日正午頃そこで逮捕された。

軍籍にある者は、民間人を対象とする普通裁判ではなく、軍法会議で裁かれるのが通常である。ヒトラーは被告人全てをローラント・フライスラーが裁判長を務める人民裁判所の公判に付すように命令した。このために軍籍にある被告人は、先ず8月2日に設置されたドイツ国防軍名誉法廷(de)で審問されて軍籍を剥奪された上、ナチス党の特別裁判である人民裁判所に委ねられた。国防軍の名誉法廷に関わった軍人はルントシュテット元帥を長としてカイテル、シュロート、キルヒハイム、クリーベル、グデーリアンである。ここでフォン・ヴィッツレーベン元帥を含む55名が軍籍を剥奪された。

1944年8月7日、ヴィッツレーベンとヘプナー、ハーゼ、シュティーフ、ベルナルディス、ハーゲン、クラウジング、ヴァルテンブルクの合計8人は共に人民裁判所での最初の見せしめ報復裁判にかけられ、その裁判の模様は映像が残っている。裁判長フライスラーは開廷にあたり、ヴィッツレーベンに「名誉ある国民のみに許される」ナチス式敬礼をすることを禁じた。獄中でゲシュタポの厳しい取調べを受けて痩せたヴィッツレーベンは、わざとサスペンダーやベルトを外して出廷させられ、始終ズボンを腰のところで押さえていなくてはならなかった。その姿をフライスラーは「見苦しい!何故ズボンを弄くっているのかね?この薄汚い老いぼれめ!!」と嘲笑した。翌8月8日、ヴィッツレーベンは死刑の判決を受けたが、その際フライスラーに向かってこう言い返した。

「 君は我々を死刑執行人に引き渡す事が出来る。だが3カ月もすれば怒り苦しめられた民衆が君にツケを払わせ、君は生きたまま路上を引きずり回される事になるだろう 」


ヴィッツレーベンら政治犯が処刑された、ベルリン・プレッツェンゼー拘置所の一室。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3#/media/File:Gedenkstaette_Ploetzensee01.jpg


部屋の奥にある梁に吊るされ処刑された。


8月8日の夕刻、ベルリンのプレッツェンゼー刑務所の処刑場。レールのような鉄の梁に肉を吊るす鉤とピアノ線のようなワイヤーロープが垂れ下がる。

7月20日事件に関し、人民裁判所で死刑判決を受けた被告人のうち、ヴィッツレーベンは最初に絞首刑にされた。ヒトラーはあらかじめ

「陰謀者たちの死の苦しみをできるだけ長くせよ。連中にはいかなる慰めを与えてはならない。連中を家畜の生肉の様に吊るせ。」

と命令し、神父・牧師など宗教関係者の立会いを禁じた。目撃者の証言によると、部屋の隅のテーブルにはブランデーの瓶とコップが置いてある。さらに映像撮影用カメラと強烈なライトが用意されていた。

執行は上半身裸にし、ピアノ線の輪に首を通し時間をかけて首を絞め、さらに執行人たちは苦しみもがく被処刑者のズボンを脱がすなど、徹底して人間としての尊厳を傷付ける、非常に残忍な方法で処刑したという。

そのような残忍な方法で処刑されたにも関わらず、ヴィッツレーベンは取り乱す事無く、ドイツ帝国軍人として、最高位の元帥として終始威厳を保ったという。続いてヘプナーら7人も順番に一人ずつ同様な方法で処刑された。

処刑の模様はヒトラーに見せるため撮影された。また見せしめのため陸軍士官学校で上映されたが、それは激しい反発を巻き起こした。処刑の映像を見てヒトラーは楽しんだという説と、嫌がったという説の両方がある。いずれにせよ、ドイツの敗戦間近にヒトラーはフィルムの廃棄を厳命し、戦後連合軍関係者が捜索したが、今日に至るまで発見されていない。

戦後のドイツではヴィッツレーベンは反ナチの闘士として顕彰されており、その名を冠した通りや学校が数多く存在する。ベルリン・プレッツェンゼーの処刑場跡は現在、反ナチ抵抗運動記念館となり、鉄の梁と鉤が保存されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3

6. 中川隆[-10362] koaQ7Jey 2019年5月03日 18:52:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1728] 報告

ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。


ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull


▲△▽▼

【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405

筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。

「ブラッドランド」には、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ナチ西部占領地域は含まれていない。ルーマニアではファシスト政権の反ユダヤ政策により、強制収容所や移送中の列車の中で30万人が死亡したが、これはナチやソ連政府とは無関係な殺害政策である。ハンガリーでは戦争末期に40万人のユダヤ人がアウシュビッツに送られて死亡したが、ソ連は関与していない。ユーゴではナチ傀儡「クロアチア独立国」により数十万人のユダヤ人やセルビア人が殺害されたが、ユーゴがソ連に支配されたことはない。フランスでも反ユダヤ政策によりユダヤ人が絶滅収容所に送られたが、「ブラッドランド」からは外れる、とのこと。

その理由は、あくまで上記のようにポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域のみに的を絞っているからだ。これらは戦前にはソ連に、戦間期にはナチスの大量殺人政策に痛めつけられた地域である。双方の無慈悲なテロに晒され夥しい数の人が死んだ”流血地帯”である。

筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。


ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。

ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

Soviet_and_German_Troops

1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。

ドイツ国防軍の末端兵士に至るまで、ポーランド人は支配民族(=ドイツ人)に尽くすための奴隷民族であると教えられた。ドイツ将兵はポーランド人を気まぐれに虐待し、ドイツ兵一人が傷つけば身近なポーランド人を報復として数百人規模で銃殺した。また、ドイツ兵は平然とポーランド女性やユダヤ人女性を強姦した。銃声が聞こえれば付近の村人をフェンスの前に並ばせて皆殺しにした。またポーランド軍捕虜から軍服を奪い去り、ゲリラと決めつけて問答無用に銃殺にした。ポーランドにはユダヤ人が数多くいたが、ドイツ兵は彼らも気まぐれに虐待を加え、婦女子を強姦し、村人を銃殺し村を焼き払った。また、ドイツ空軍は開戦以来都市に無差別の爆撃を加え続け、戦闘の混乱により東に逃げる人々の列に機銃掃射を加えて楽しんだ。

1939年末までにドイツ兵に殺されたポーランド民間人は45000人に上った。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


戦後はドイツ軍政と、諜報機関のトップであるラインハルト・ハイドリヒによって編成されたナチス親衛隊の移動抹殺部隊により、ポーランドのエリート階層は根絶やしにされ、銃やガスや人為的飢餓でのきなみ絶滅の憂き目にあった。これは「AB行動」と呼ばれる。

ヒトラーの目的はポーランドをドイツの人種差別主義者の理想通りの世界とすること、社会からドイツの支配に抵抗する力を奪うことだった。とはいえ、当時のドイツの殺戮班はこの手のテロにまだ不慣れで、NKVDほど効率的に敵を排除することができず、総督府領内で徐々にレジスタンス活動が活発化して行く。

独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。


独ソ開戦ー犠牲者?

horocaust

ドイツは第一次大戦で英軍の海上封鎖により76万人が餓死した苦い記憶を持つ。その歴史を熟知していたヒトラーは、食糧不安を解消するためになんとしてもウクライナが欲しかった。ウクライナはソ連の穀物生産の90%をしめるヨーロッパ有数のカロリー源であった。ヒトラーは東方総合計画を策定した。これは端的にいえばウクライナを占領し、農民を全て餓死させ、空白になった土地にドイツ人を入植させる。こういうものだった。

ドイツの計画立案者たちは、33年のウクライナ大飢饉に倣い、集団農場を使って農民を餓死させる計画を立てた。また、戦争によって拡大した領土に住まうドイツ人や前線に送るドイツ兵に食糧を効率的に供給するために、スラブ人やユダヤ人から食べ物を取り上げ、餓死させる計画を立てた。これはつまり、ソ連地域の大都市を破壊し、森に帰すことで冬の寒さに晒し、1942年の春までに3000万人を餓死させるというものだった。

しかし、戦況が思ったよりも長引き、ドイツ国防軍は苦戦し、進軍が遅れたために計画通りにはいかなかった。都市や集団農場の住民を殺して食糧源がなくなれば戦況は壊滅的に悪化するだろう。このような事情に加え、ナチス親衛隊やドイツ国防軍にソ連NKVDほどの実力はなかった。実際には飢餓計画は実行不可能だったのである。しかし、ドイツ国防軍に捕らえられた300万のソビエト兵捕虜は、冬の荒野に鉄条網を張り巡らせただけの収容所ともいえぬような場所に拘禁され、食べ物を与えられずほとんど全員が餓死した。またドイツ国防軍やナチス親衛隊は、50万人の捕虜を銃殺し、260万人の捕虜を餓死させるか、移送中に死に至らしめた。初めから殺すつもりだったのだ。犠牲者は310万人ともいわれる。

また、ドイツ兵はポーランド人よりもさらに劣等な人種としてロシア人を見ていた。ドイツ兵は彼らをためらうことなく銃殺したが、このような民間人に対する犯罪行為は、バルバロッサ命令という形で合法とされた。

また、コミッサール命令という政治将校、共産党員、赤軍将兵、または市民のふりをしたゲリラは問答無用に処刑して良いことになっていた。この定義にユダヤ人が含まれるようになると殺戮は拡大した。犠牲者はあまりにも膨大で、はっきりとした数字は未解明である。

1941年の9月までにドイツ軍が包囲した、ソビエト北の要衝レニングラードでは本格的な兵糧攻めが行われた。900日間にわたる包囲戦により、100万人の市民が餓死した。ヒトラーは東方総合計画により、レニングラードを完全に破壊して更地にしたうえでフィンランドに引き渡すつもりだった。はじめから住民を全て殺すつもりだったのである。包囲下のレニングラードでもNKVDは微塵も揺らぐことなく健在で、裏切り者を探し回っては銃殺していた。レニングラード市民は独ソ双方から過酷なテロを受けたのである。

また、1944年のワルシャワ蜂起では、20万人の市民が戦闘の巻き添えになって死亡し、70万人の市民が市内から追放された。

ホロコーストー犠牲者540万人

holocaust2

ホロコーストはバルト諸国のリトアニアから開始された。ナチス親衛隊はリトアニアやラトヴィアで現地民を扇動してポグロムを引き起こし、ユダヤ人やNKVD、共産党員を殺害。ドイツ軍や警察はユダヤ人の成人男性をスパイやゲリラと見なして銃殺した。

1941年の8月ごろになると、ヒトラーは既にソ連への奇襲作戦が失敗し、戦争終了を予定していた9月中旬までにモスクワを占領することは不可能そうであると悟った。総統はせめてユダヤ人を皆殺しにすることを考えた。こうしてユダヤ人の女性や子供・老人がゲリラの定義の中に含まれた。

ポーランドの時と同じように、ソ連の指導者たちを排除するため、保安諜報部(SD)と警察の特殊部隊が編成されていたが、彼らの任務はいつしかユダヤ人を全て殺すことへと変化して行った。SDと警察の移動抹殺作戦により、リトアニアのユダヤ人20万人のうち19万5千人が銃殺された。その他の地域でも気の狂ったような大量銃殺が繰り広げられ、その凶行をとめることができる者はいなかった。全ては総統命令として正当化されたのである。

ウクライナ、ベラルーシ、西部ソ連地区でも状況は似たようなものだった。ドイツ軍が版図を広げるたびに移動抹殺隊が影のように現れ、現地徴集兵を雇ってユダヤ人や共産党員、精神障害者や同性愛者を手当たり次第に銃殺した。ウクライナのキエフではたった2日で3万人以上のユダヤ人婦女子が銃殺され、ベラルーシでは過酷なパルチザン戦が繰り広げられ、国民の4分の1が巻き添えになって殺された。移動抹殺作戦の犠牲者は100万人以上と推計される。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


ポーランドには6つの絶滅収容所が設置され、ヨーロッパ各地からユダヤ人や政治犯、思想犯、同性愛者や障害者がかき集められて、飢餓や強制労働や銃やガスによって命を絶たれた。犠牲者は250万人を超える。

ホロコーストの結果、ヨーロッパの全ユダヤ人のうち3分の2が殺害され、なかでもポーランドの被害が最も深刻で、90%以上、300万人のユダヤ人が絶滅された。

抵抗の果てに

redarmyrape

戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。

戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。


おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。

アウシュビッツはホロコーストの象徴だが、アウシュビッツで死亡したユダヤ人は死亡したユダヤ人の6分の1に過ぎない。アウシュビッツが本格的に稼働するころには、既にユダヤ人の多くは命を落としていた。

ベルゲン・ベルゼンやダッハウ解放後の悲惨な写真は人々の記憶に刻みつけられたが、それらはどちらも絶滅収容所ではなく、西側の連合軍が解放した絶滅収容所は一つもなく、カティンの森もバビ・ヤールも、西側の目に触れたことは一度もない。

ナチス崩壊後も、スターリンの赤い帝国が厳重に引いた鉄のカーテンによって、ロシアばかりでなく、ドイツの犯罪行為も闇に葬られてしまった。ナチスドイツの東部捕虜収容所は、絶滅収容所以上の絶滅施設であった。そこでは310万人が飢餓や銃によって殺害され、ソ連兵捕虜の死亡率は60%近くに上った。ヒトラーの東方総合計画の検証もほとんど進まなかった。”ブラッドランド”は、全て戦後スターリンの帝国に覆い隠されてしまったからである。

激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4

7. 中川隆[-10388] koaQ7Jey 2019年5月07日 14:08:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1709] 報告

電撃作戦 ポーランド侵攻 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=KZtU0l6w9g8
8. 中川隆[-9780] koaQ7Jey 2019年6月07日 16:42:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2661] 報告
2019年06月07日
ド・ゴール将軍が隠した過去 / ユダヤ人のフランス
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68767562.html

(左 : ロンドンで「自由フランス」の宣伝を行うシャルル・ド・ゴール将軍 / 右 : フランスに誕生したヴィシー政権)

  先週、チャンネル桜を観ていたら、近代史家の林千勝(はやし・ちかつ)が我那覇真子(がなは・まさこ)の番組に出演し、日米戦争や歐洲の歴史について語っていたので結構楽しかった。林氏は『近衛文麿 野望と挫折』の続編として、『日米戦争を策謀したのは誰か !』を出版し、近衛の背後で何が起こっていたのか一般国民に伝えている。筆者からすると「久しぶりにロックフェラーやロスチャイルドの話かぁ〜」という感じだった。なぜなら、筆者も大学生の頃、国際金融や歐米の外政を勉強する一環として、ロックフェラー家やロスチャイルド家の歴史を調べた事があるからだ。ただし、筆者はフリーメイソンとかイルミナティーとかの娯楽ネタを含んだ「陰謀論」は嫌いで、基本的には金銭欲や権勢欲に基づいた現実政治の方に興味がある。また、ユダヤ人に関して知りたければ、エンターテイメントで創られるオカルト的な書籍より、ちゃんとした歴史書とか学術論文の方がいい。例えば、ダニエル・ガットウェン(Daniel Gutwein)の『The Divided Elite』は第一次世界大戦前後の英国におけるユダヤ人の実情を知る上で大いに役立つ。(ただし、この洋書は一般の図書館で見かけないので、読みたい人は高いけど自腹で購入するしかない。)

  近衛文麿の正体や謎の「自殺」を丹念に調べた林氏は、近衛を動かしていた連中に話を進め、世界政治を操るロスチャイルド家や有力な国際金融資本家、歐米に潜む共産主義者などに言及していた。しかし、我那覇氏には基礎的知識が足らないのか、丁寧な説明を聞いていても、いまイチ理解していないように見えた。まぁ、普通のお嬢さんだと、歐米史は複雑怪奇で分かりにくいし、人物名や地名にも馴染みが無いから、大筋を説明するだけでも一苦労だろう。たとえ、学校で世界史を習っていても、第一次世界大戦以降の歴史は「時間切れ」のため、重要な事件と年号を覚えるだけで、焦った教師が親切心からプリントを渡してサっと流す程度だ。したがって、一般人にとって、現代史は血なまぐさい戦争と難しい専門用語が“てんこ盛り”の暗黒史に過ぎない。こんな教育状態で、ドイツやフランスの軍人とか政治家、英米仏独に張り巡らされたロスチャイルドの人脈を説明するなんて無理。長年ブリテンに住み着き、各界にはびこるユダヤ人を紹介するとなれば、一年でも足りないくらいだ。

  とにかく、林氏がロスチャイルド家の影響下にあるフランスの政治家に言及すると、我那覇氏は無邪気な鳩みたいに「えっ、そうなんですか?」と驚いていたが、フランス史を多少学んだ者なら苦笑してしまうだろう。日本人には実感が無いが、フランスはアメリカやブリテンと等しくユダヤ人にとっての楽園だ。フランス革命で旧体制が破壊されると、ケットーに閉じこもっていたユダヤ人は一斉に流出し、各界に進出した。政界も例外ではなく、首相になったレオン・ブルム(Léon Blum)や内務大臣のジョルジュ・マンデル(Georges Mandel)、司法大臣に就任したアドルフ・クレミュー(Adolph Crémieux)は日本でも知られている。(マンデル内相の本名は「ルイ・ジョルジュ・ロスチャイルドLouis-Georges Rothschild」というが、フランス・ロスチャイルド家とは違う家系に属しているという。)

Leon Blum 1Adolphe Cremieux 1Raymond Aron 2Marc Bloch 1


(左 : レオン・ブルム /  アドルフ・クレミュー  /  レイモン・アロン  / 右 : マルク・ブロック )

  ちなみに、日本では「フランス人」として紹介されている知識人でも、素性は「ユダヤ人」という人物は結構多い。例えば、政治学者のレイモン・アロン(Raymond Aron)や歴史家のマルク・ブロック(Marc Bloch)、世界的に有名な社会学者のエミール・デュルケム(Émile Durkheim)もユダヤ人だった。昔、村松剛教授が贔屓にしていた作家で歴史にも詳しいアンドレ・モロワ(André Maurois)もユダヤ人で、本名は「エミール・ソロモン・ウィルヘルム・ヘルツォーク(Émile Salomon Wilhelm Herzog)」というから、直ぐにユダヤ人と判る。最近だと、NHKなどのマスコミが持て囃すエマニュエル・トッド(Emmanuel Todd)やフランス政府の政治顧問を務めたジャック・アタリ(Jacques Attali)、左翼学者が大好きな哲学者のジャック・デリダ(Jacques Derrida)やシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)もユダヤ人だ。

Emile Durkheim 1Andre Maurois 1Jacques Derrida 1Simone Weil 2


(左 : エミール・デュルケム /  アンドレ・モロワ / ジャック・デリダ / 右 : シモーヌ・ヴェイユ)

  話を戻す。政治家や商売人を問わずユダヤ人というのは政財界にコネを持っていて、イギリス人やフランス人にとっても便利な存在だ。時は、1940年5月。ドイツ軍の進撃は破竹の如く凄まじかった。英仏軍はダンケルクまで撤退を余儀なくされ、フランス軍は壊滅寸前。ドイツ人からすれば、パリまでは指呼の間といったところで、あと数週間で占領できる。ブリテンの首相となったウィンストン・チャーチルは、この状況に直面して意気消沈。失敗続きの劣等宰相チャーチルは、自分じゃ何も出来ないけど、フランス軍には何とかして奮闘してもらいたいと思った。そこで、この碌でなしは陸軍大臣のアンソニー・イーデンと相談し、早急かつ秘密裏にフランス側の首脳と接触しようと考えた。しかし、ブリテン側はフランスのポール・レイノー(Paul Raynaud)首相と内務大臣のジョルジュ・マンデルに、どうコンタクトを取ったらいいのか分からない。チャーチルとイーデンは正規の外交ルートを使っては危険と判断したので、別の方法で迂回しようと試みた。

Winston Churchill 1Anthony Eden 1Georges Mandel 2Paul Raynaud 1


(左 : ウィンストン・チャーチル / アンソニー・イーデン / ジョルジュ・マンデル / 右 : ポール・レイノー)

  すると、イーデンが友人であるモリス・ド・ロスチャイルド(Maurice de Rothschild)の事を想い出す。モリスはフランスの上院議員だし、主要な政治家にも顔が利く。早速、イーデンはこのユダヤ人男爵に電話を掛け、会談の意図を説明したそうだ。数日後、ブリテンの指導者達はパリに向かい、お忍びでリッツ・ホテルに入る。モリスは極秘会談のために私的な晩餐会を提供し、自らホストを務めたという。この密談の結果、英仏の首脳はある一人の陸軍大佐をロンドンに送ることにした。フランスがナチ・ドイツに降伏しても、その支配に抵抗すべく、ブリテンに設立された「自由フランス」を率いることが出来る指導者、そして非凡な才能と鋼鉄の意思を持つ軍人、すなわち若き日のシャルル・ド・ゴールであった。案の定、一ヶ月ほどでレイノー内閣は倒れ、背が高く傲慢とも思えるド・ゴール大佐がロンドンに「逃走」し、形だけの「フランス亡命政府」を樹立したのである。


Charles de Gaulle 3Maurice de Rothschild 1Philippe Pétain 1


(左 : シャルル・ド・ゴール / 中央 : モリス・ド・ロスチャイルド / 右 : フィリップ・ペタン)

  レイノー政府の後を引き継いだフィリップ・ペタン元帥は、直ちにヒトラーとの休戦を要求し、対独講和を主張するヴィシー政権が誕生した。一方、ペタン元帥とそりが合わなかったモリス・ド・ロスチャイルドは、イングランドに移住しようと考える。だが、ド・ゴールは彼の訪英に反対だ。なぜなら、この将軍は自分がロンドンに亡命した経緯を知るユダヤ人を煙たがっていたからだ。つまり、チャーチル達の策略でロンドン行きを命じられた過去を皆に知られたくなかったのである。ド・ゴール将軍にしたら、「あのモリスが誰にバラすか・・・」と不安で堪らない。たぶん、モリスなら自分がお膳立てした密会を自慢げに吹聴したことだろう。こうなりゃ、ロンドンへの移住を邪魔するしかない。

  そこで、ド・ゴール将軍はモリスを丸め込み、バハマのナッソウに向かわせることにした。こうして脳天気なモリスはバハマに渡り、そこで約一年半、兄のジェイムズが送ってくれる資金を頼りに、優雅な亡命生活を送ったそうだ。ただし、彼はドイツによって「国家の敵」と指定され、フランス国籍はもちろんのこと、地元に残してきた財産を没収され、終身刑まで宣言されたという。彼の親戚も財産没収の被害に遭ったけど、アート・コレクターとしても有名だったモリスには我慢のならない仕打ちであった。彼は美術品だけではなく、父から相続した豪邸、例えばフォーブル・サントノレ通りにあるホテルやセーヌ・エ・マヌルにある城「シャトー・ダルマンヴィリエール」もナチスにより略奪されたのである。(Herbert R. Lottman, The French Rothschilds : The Great Banking Dynasty Through Two Turbulent Centuries, Crown Publisher, New York, 1995, p.231.)

Maurice de Rothschild HoteldePontalbaLionel Rothschild on throne


(左 : フォーブル・サントノレ通りにあるホテル・デ・ポンタブラ / 右 : ロスチャイルドの風刺画 )

  フランス人は建前上、ナチ・ドイツの占領を恨んでいるが、ナチスの反ユダヤ政策に関しては憤慨しておらず、むしろ歓迎したくらいで、協力する者がいても不思議ではなかった。そもそも、フランス人はユダヤ人が大嫌い。愛国者になればなるほど、ユダヤ人がデカい顔をして快適に暮らしていることに腹が立ってくる。当たり前だけど、フランスはフランス人の国であって、ガリツィアやロシアの如きユダヤ人が群れるゲットーじゃない。この賤民を排斥する点において、フランス人とドイツ人は利害を共有していた。フランス人もユダヤ人を「血統」で分類ており、ヴィシー政権は1940年にできた3月10日法で容赦なくユダヤ人を排除していたという。

Pierre Masse 1(左 / ピェール・マセ)
  例えば、上院議員のピェール・マセ(Pierre Massé)の懇願は門前払いだった。彼は軍からユダヤ人が追放されるという知らせを聞くと、ペタン元帥に対して抗議文を送りつけたという。その書簡の中で、彼は自分の兄が第36歩兵連隊の中尉であったこと、さらにこの兄が1916年ドゥオモンで戦死したことを述べていた。さらに、娘婿が第14連隊に属する陸軍中尉で、1940年5月にベルギーで戦死したことや、第23連隊の中尉である甥のJ・F・マスも1940年に戦死したこと、息子のジャックも第62大隊に属し、1940年6月に負傷していることなどを告げていた。(Suzan Zuccotti, The Holocaust, the French and the Jews, University of Nebraska Press, Lincoln and London, 1993, p.59.) しかし、ヴィシー政権は情に流されず、ユダヤ人のピエール・マスを逮捕し、ダンシー(Dancy)の収容所へ送ってしまった。ユダヤ人歴史家のスーザン・ズコッティによれば、マスは次にアウシュヴッツの収容所へと移され、恐ろしい「ガス室」で殺されたそうだ。(上掲書 p.60.) 毎回嫌になるけど、何でユダヤ人は科学的検証や反対尋問を経ない「噂話」を「歴史的事実」にしてしまうのか。全民族でバラバラにプロパガンダ(政治宣伝)を行うんだから、ユダヤ人というのは本当に恐ろしい民族である。

  シャルル・ド・ゴール将軍がユダヤ人に対し、実際どのような「本音」を持っていたのか分からないが、彼の「自由フランス」にはユダヤ人が群がっていた。例えば、レオン・ブルムの元アドヴァイザーで左翼エコノミストのジョルジュ・ボリス(Georges Boris)はド・ゴールに近づき、経済問題の補佐官になった。そのほか、彼は週刊誌『ラ・マルセイエーズ』の編集者となり、政治プロパガンダの担当者にもなったそうだ。戦後、首相をはじめ国防相や財務湘を務めたミシェル・ドブレ(Michel Jean-Pierre Debré)もド・ゴールのもとへとせ参じたユダヤ人の一人である。元々彼はヴィシー政権に仕えていたが、ドイツの迫害を受けレジスタンスに転向したという。戦後の国連体制で「人権」思想の毒をばら撒いたルネ・カシン(René Cassin)もド・ゴールの側近となり、法律顧問に納まったユダヤ人である。レオン・ブルム政権で財務湘になったピェール・メンデス・フランス(Pierre Mendès-France)も、これまたユダヤ人。彼はヴィシー政権下で逮捕され、六年の禁固刑を宣告されるが、何とかしてフランスを脱出し、ロンドンのド・ゴールに合流したそうだ。こうした側近に囲まれたことから、ヴィシー政府のフランス人はド・ゴールを「ユダヤ人の従順な召使い」と揶揄したらしい。

Georges Boris 1Michel Debre 1René Cassin 1Pierre Mendes France 1


(左 : ジョルジュ・ボリス /  ミシェル・ドブレ /  ルネ・カシン /  右 : ピェール・マンデル・フランス )

  一旦、ユダヤ人が根を張った国では、ユダヤ人を無視・排斥して政治を行うことはできない。彼らは“本能”的に結束し、敵対する異民族と戦おうとする。ただ、それは剣や銃を交える闘争でなく、銭と筆を用いた謀略戦だ。ブリテンもそうだけど、フランスでは政界の裏側に有力なユダヤ人がウヨウヨいる。林氏がどの程度ユダヤ人について調べたのか分からないが、追及してゆくうちに歴史の「泥沼」に嵌まってしまう可能性が高いから気をつけた方がいい。ユダヤ人に関する資料を眺めると、その膨大さに目が眩んでくる。「汗牛充棟」なる言葉があるけど、歐米の図書館はよく床が抜け落ちないものだ、と感心してしまう。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68767562.html

9. 中川隆[-9148] koaQ7Jey 2019年7月10日 07:14:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3535] 報告

錬金術師と呼ばれた総裁
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/

ナチスの経済的錬金術

Germany 2Germany 11Germany 7
(左 : ハイパーインフレに苦しむドイツ人 / 中央 : 札束で遊ぶ子供たち / 右 : 紙幣を燃やして料理を作るドイツ人女性 )

  話を戻す。現在の日本はデフレ経済で苦しんでいるけど、こんな状態になるのは昔から分かっていたんじゃないか。筆者だって長谷川慶太郎の本を読んでいたから、「あぁ〜あ、こりゃ重症になるぞぉ〜」と思っていた。しかし、バブルが弾けた後の処方箋は比較的簡単で、民間企業が元気をなくしているなら、政府が公共投資を増やして景気を回復するしかない。小室直樹先生のファンなら、ケインズの経済学を想い出すかも知れないし、一番分かりやすいのはヒトラーの経済政策だ。

戦勝国から巨額の賠償金を課せられ、ルール地方まで奪われたドイツは、ハイパーインフレの嵐に見舞われ絶望の淵に沈んでいた。(それでも、李氏朝鮮よりマシだろう。) 極度の疲弊は歴史に刻まれている。例えば、

1923年のベルリンではパン1斤の値段が4千280億マルクで
1kgのバターを買うとなれば5兆6千億マルクを払わねばならない。

新聞を読もうとすれば「2千億マルクになります」

と言われ、ギョッとする。

電車賃でさえ1千500億マルクもしたんだからしょうがない。(Constantino Bresciani-Turroni, The Economics of Inflation : A Study of Currency Depreciation in Post-War Germany, G. Allen & Unwin Ltd., London, 1937, p.25.)

さらに、世界大恐慌で失業者が巷にドっと溢れ出したんじゃ、もう泣きっ面に蜂みたいで毎日が青色吐息。

企業の倒産や金融危機が荒れ狂うドイツでは、国内総生産がガタ落ちで、1932年の失業者数は約558万人に上ったそうだ。
(Deutsche Bundesbank, ed. Deutsches Geld und Bankwessen in Zahlen 1876-1975, Knapp, Frankfurt am Main, 1976.)

  このように滅茶苦茶になったドイツを救おうとしたのがヒトラーで、彼は1933年2月に新しい経済計画を発表する。この元伍長は、公共事業による失業者問題の解決や価格統制を通してのインフレ抑制を図ったのだ。一般の労働者を支持基盤にするヒトラーは四年間でドイツ経済を何とかすると約束し、その実現を目指して強権を発動した。

今の日本人はヒトラーを狂暴な独裁者とか、ユダヤ人を虐殺した悪魔と考えてしまうが、当時のドイツ庶民にしてみたら結構評判の良い指導者だった。ユダヤ人に対しては閻魔大王みたいだったけど、ドイツ人労働者に対しては親方みたいな存在で頼りになる。ヒトラーは偉大な救世主を目指したから、国民の福祉厚生に力を入れ、社会の底辺で苦しむ庶民の生活水準を上げようとした。

Schacht 2( 左 / ヒャルマー・シャハト)


  誰でも大々的な公共事業をやれば景気が良くなると分かっている。が、肝心要の「お金」が無い。傘が無ければ井上陽水に訊けばいいけど、資金が無ければ優秀な専門家を探すしかないから大変だ。

でも、ヒトラーは世界的に著名なヒャルマー・シャハト(Horace Greeley Hjalmar Schacht)博士に目を附けた。奇蹟の復興を目論む総統は、シャハトを口説き落とし、ドイツ帝国銀行の総裁および経済大臣になってもらうことにした。

ヒトラーの抜擢は功を奏し、シャハト総裁はその手腕を発揮する。ドイツ経済はこの秀才のお陰で潤滑油を得た歯車のようにグルグルと動く。

マルクの魔術師はドイツの経済状態を診断し、インフレを起こさない程度に国債を発行する。ナチスに元手が無ければ、ドイツ人が持つ「労働力」を担保にすればいい。

労働者を雇っている事業主が、その労働力に見合った手形を発行し、それを自治体が受け取り、銀行に割り引いてもらう。すると、銀行は自治体にお金を渡して、自治体は公共事業を請負業者に発注する。

こうして、仕事が増え、手形がお金に変わって、世の中をクルクルと回ればみんなハッピーだ。「すしざんまい」の木村社長みたいに笑顔がこぼれる。

  ドイツ人のみならずアメリカ人までもが、「シャハト博士は錬金術師か?」と思うほど、彼は金本位制からの脱却に成功した。戦前、通貨の発行は金の保有量を考慮せねばならず、政府が無闇矢鱈に欲しいだけ紙幣を刷るなんて暴挙だった。確かに、当時のドイツを観れば理解できよう。

1935年当時、ドイツの帝国銀行が保有する金は、たったの56mt(メートル・トン)しかないのに、通貨額は約42億マルクもあった。(換算すると1,800,441 troy ounces)

ちなみに、外国が持つ金の保有量を見てみると、

ブリテンが1,464mt、
フランスは3,907mt、
アメリカだと8,998mt、
ネーデルラントは435mt、
ベルギーが560mtで、
スイスは582mt

となっていた。(Timothy Green, World Gold Council and Central Bank Gold Reserves : A Historical Perspective Since 1845, November 1999を参照)

国債反対より、何に使うのかを議論せよ !

Hitler 7Hitler & kids 1
(写真 / ドイツの子供たちから歓迎されるヒトラー)

  ナチスの経済計画でドイツの国民総生産が増大したのは有名だが、注目すべきは公共事業費の流れ方だ。つまり、ヒトラーはアウトバーンなどのインフラ整備を目指したが、その際、末端の労働者に充分な賃金が行き渡るよう心掛けたという。建設工事にかかる支出の約46%までが労働者の給料になったのだ。これにより、一般労働者の懐が温かくなり、前から欲しかった衣料品を帰るようになった。

日本だと、政府や議員がゼネコンに丸投げし、たっぷりピンハネしてから子会社に仕事を回すのが普通だ。そして、この中抜きには「続き」がある。子会社は更なるピンハネを行って、立場の弱い孫会社に分配するから、下っ端の職人が手にするのは雀の涙ていど。これじゃあ、地上波テレビ局と同じだ。例えば、ドラマを制作するためにスポンサーがフジテレビに1億円払えば、局がごっそりピンハネして、子飼いの制作会社に丸投げ。受注した制作会社もピンハネして孫会社に任せ、その孫請けが曾孫会社を使って実際の番組を作るんだから、出来上がった作品が貧相な代物になるのも当然だ。もしも、このドラマがブラック企業をテーマにした作品なら、お金を払って俳優を雇わず、社員の日常を撮影してドキュメンタリー・ドラマを作った方がいい。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/

10. 中川隆[-8935] koaQ7Jey 2019年7月21日 06:31:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3765] 報告
哲学者ハイデガーのノートに反ユダヤ主義の記述。 2014年4月1日
https://maash.jp/archives/25119

Facebook http://www.facebook.com/maashjapan

http://www.nytimes.com/2014/03/31/books/heideggers-notebooks-renew-focus-on-anti-semitism.html?_r=0
http://www.nytimes.com/2014/03/31/books/heideggers-notebooks-renew-focus-on-anti-semitism.html?_r=0

思想史の中で重要な位置に立つドイツの哲学者ハイデガーだが、彼の私的ノートブックが出版化され、物議を醸している。

彼がナチスに共鳴する国家社会主義者だったことは誰もが知っているが、そのノートブックによって、彼の反ユダヤ主義の心情があからさまになったのだ。

ノートは1931年から41年までのノートで、本のタイトルは『ブラックノートブック』。

その41年の部分でこういうメモがある。

“World Jewry, is ungraspable everywhere and doesn’t need to get involved in military action while continuing to unfurl its influence, whereas we are left to sacrifice the best blood of the best of our people.”

世界のユダヤ民族は、掴み所がなくいたるところにいるが、軍事活動に巻き込まれることはない。

しかし、その影響力は広がり続けている。

一方で我々は、自分たちの人々のために血を犠牲にしている。

こういった反ユダヤ的主張は3冊のノートの2冊と半分を占め、1200ページにおよぶ。

彼が反ユダヤ主義に傾倒していたことは明らかで、ドイツ国内のユダヤ人を問題視していたことも間違いない。

そのため、ナチスの反ユダヤ政策の哲学的・知的リーダーとしての影の役割があったと言っても否定できない。

ハイデッガーはフライブルグ大学総長になった1933年にナチス党に入党。

ナチス革命を賞賛し、大学をナチス的にしようと改革を試みた。

また、ヒトラーを説得して物質的から自然的な社会の復権を目指したという。

ただし、ナチス党がユダヤ人を迫害しはじめたころから距離を置くようになり、ナチスの監視も受けている。

ホロコーストのころに指導的役割を担っていたとは言いがたい。

反ユダヤ主義はニーチェもそうだったように、高度化する資本主義社会への警鐘でもあった。

ドイツではユダヤ人が都市を中心とした資本主義で成功し、中流以上の家庭を築いていた。

一方でドイツ人は労働者が多く、ユダヤ人に雇われることも多かった。

しかし、当時ドイツのユダヤ人は社会主義思想に目覚め、ワイマール政権が生まれていたのだが、ナチスはそれらを否定した。

経済的にドイツ人が主導できるように、ドイツ人による国家的な社会主義を目指したのだ。

ナチスとは、熱狂だ。

ヒトラーもハイデガーも、おそらくユダヤ陰謀論に深く傾倒していた。

世界的なユダヤ組織が、世界征服を目論んでいるというものだが、ドイツ国内のユダヤ人はすでにドイツ国民であるという意識が強く、第一次世界大戦にも兵士や将校として参加していた。

彼らからすると、迷惑な噂だ。

しかし、ユダヤ陰謀論は人を「知らない世界を知っている」という気分にさせ、高揚させる。

まるで現代のNASA陰謀論のようにヒトラーとハイデガーを熱狂させた。

同じように熱狂があったロシアでは、ユダヤ人の村ごと迫害するポグロムが起き、多くの敬虔なユダヤ人がドイツに難民として登場した。

神秘的な彼らの姿。それが陰謀論に火を注いだのだ。

偉大な哲学者ハイデガーも、結局は盲目だったと結論づけたい。
https://maash.jp/archives/25119

11. 中川隆[-8496] koaQ7Jey 2019年9月05日 06:05:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4270] 報告
2019.09.05
80年前にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻するまでの経緯を振り返る

 今から80年前、つまり1939年の9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻、その2日後にイギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランドが宣戦布告した。一般的に、第2次世界大戦はここから始まると言われている。

 ドイツが軍事侵攻したのはポーランドとの領土問題がこじれた結果だ。第1次世界大戦でドイツが敗北したことを受け、その約4カ月後の1919年3月にポーランドは「大ポーランド」構想を打ち出す。

 1919年6月に調印されたベルサイユ条約ではドイツとポーランドの領土問題を平和的に住民投票で解決することが決められたが、ポーランドはポーランド系住民を扇動、クーデターで領土を獲得しようとする。それに対してドイツの義勇兵や警官隊が武装蜂起を鎮圧、1921年3月に住民投票は実施されてドイツ系住民が勝利した。

 そこでポーランド政府は炭田地帯のシロンスク(ドイツ語ではシュレジエン)で住民に蜂起させ、住民投票から2カ月後の5月にポーランド軍を侵攻させて支援した。そうした侵略行為に対してドイツのワイマール政権は何もできない。イギリス、フランス、アメリカからポーランドに抵抗するなと命令されたからである。アドルフ・ヒトラーがナチスの党首になったのは、この1921年のことだった。

 ナチスの戦争犯罪を研究しているクリストファー・シンプソンによると、1920年代の後半になると、ドイツ企業への融資という形でアメリカから多額の資金がドイツへ流れる。

 カネの流れを見ると、例えばITTはドイツの通信産業を、GMは大手自動車メーカーのアダム・オペルを、GEはエレクトロニクス関連のAEGやジーメンスをそれぞれ買収、またフォード・モーターはケルンに大規模な工場を建設、スタンダード石油は巨大化学会社のIGファルベンと合弁事業を展開している。

 アメリカ商務省の統計を見てもヒトラーが台頭してからアメリカの対ドイツ投資額が急増している。ヨーロッパ大陸全域でアメリカの投資額が激減しているにもかかわらず、1929年から40年の間に約48.5%増えているのだ。アメリカからドイツへの投資はディロン・リードとブラウン・ブラザーズ・ハリマンを中心とする金融機関を通して行われた。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995)

 ブラウン・ブラザーズ・ハリマンは投資会社のブラウン・ブラザーズをWAハリマンが買収して生まれた。ユニオン・パシフィック鉄道で有名なハリマン家のW・アベレル・ハリマンが所有していた。

 WAハリマンが創設された際、社長を務めたジョージ・ハーバート・ウォーカーはジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。言うまでもなく、Hはハーバートの、Wはウォーカーのイニシャルだ。ちなみに、ジョージ・H・W・ブッシュ父親はプレスコット。

 ブラウン・ブラザーズの代理人を務めていたサリバン・クロムウェル法律事務所の共同経営者にはジョン・フォスター・ダレスとアレン・ダレスの兄弟も名を連ねていた。このビジネス上の関係からアレン・ダレスとプレスコット・ブッシュは親しくなったという。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、こうしたアメリカの巨大金融資本、いわゆるウォール街は1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト大統領に率いられたニューディール派を排除するためのクーデターを実行しようとした。それは海兵隊の伝説的な軍人であるスメドリー・バトラー退役少将が阻止、議会で計画について詳しく証言している。少将から話を聞いて取材した記者によると、クーデター派はファシズム体制の樹立を目指していた。これも本ブログで何度も書いたことだが、関東大震災以降、日本はウォール街の影響下にあった。

 ドイツでは「民主的」と言われたワイマール体制が倒れてヒトラーが率いるナチス体制へ移行するが、そのナチス体制のドイツとポーランドの関係は1939年の初めまで友好的だった。

 第1次世界大戦後にドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領(ポーランド回廊)ができた。つまり東プロイセンは飛び地になった。その問題を解決するため、ドイツは住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すという案を出した。

 その案をポーランドは受け入れ、1939年3月21日に同国のジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになる。が、姿を現さなかった。ロンドンへ向かったのだ。その日、ロンドンではコントロール不能になったヒトラーをどうするかについて討議するため、各国の指導者が集まっていた。

 参加国はドイツに共同して対抗するかどうかを議論、フランスはすぐに同意、ソ連はフランスとポーランドが署名することを条件に同意したが、ポーランドのベック外相はドイツよりソ連が脅威だという理由で24日にそのプランを拒否した。そして26日にポーランドはドイツに対して回廊を返還しないと通告する。

 軍事的な緊張が高まる中、7月23日にイギリスはソ連に交渉を申し入れるが、イギリスの動きは鈍く、交渉が始まったのは8月11日。しかもイギリスは書類に署名できる立場の人間を送り込まなかった。歴史的にポーランドはイギリスの属国であり、ポーランドの動きはイギリスの指示に基づいていることは間違いないだろう。この主従関係は現在も続いている。

 その一方、5月11日にノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦、日本側は関東軍が「陸軍省と参謀本部の方針を無視して」戦闘を続ける。それに対して外モンゴル軍との相互援助条約に基づいてソ連軍が派兵。8月下旬にはソ連軍の機械化部隊が攻勢、日本軍は大敗した。ドイツとソ連が不可侵条約を締結するのは8月23日のことである。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201909050000/

12. 中川隆[-14832] koaQ7Jey 2019年11月18日 12:37:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1920] 報告
2019.11.18
ラテン・アメリカとヨーロッパを結びつけるファシスト

 ラテン・アメリカで新自由主義を巡る戦いが激しくなっている。新自由主義は一部の人びとへ全ての富を集中させる仕組みを作り上げ、富を独占する私的権力へ国を上回る力を与えることを目標にしている。それに対する反発が強まっているのだ。


 ラテン・アメリカはアングロ・アメリカの「裏庭」だと言われてきた。ラテン・アメリカの資源をアングロ・アメリカを拠点とする巨大資本が独占するという宣言とも言える。


 かつてのスペインやポルトガルの支配層と同じように、アメリカの支配層はラテン・アメリカの資源を略奪、私的な富の源泉にしてきた。そのラテン・アメリカが真の意味で独立することを彼らは許さない。


 第2次世界大戦の後、アメリカの支配層はラテン・アメリカをナチスの残党たちを匿うために利用した。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウォール街やシティ、つまり米英の金融資本はナチスのパトロン的な存在だった。1933年から34年にかけての時期にウォール街の住人がフランクリン・ルーズベルト政権を倒すためにクーデターを計画した理由もそこにある。


 ナチスに率いられたドイツは1941年6月にソ連侵略を開始する。バルバロッサ作戦だ。その時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎなかったと言われている。西側の守りを懸念するドイツ軍の幹部は軍の半分を残すべきだとしたが、アドルフ・ヒトラーがその進言を退けたという。そこで、ヒトラーは西側から攻めてこないことを知っていたのではないかと推測する人もいる。


 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的。そこでイギリスやアメリカは協議、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。


 スターリングラードでの戦いにドイツ軍が敗れると、ナチスの親衛隊はアメリカ側と接触を始める。そのアメリカ側の人間は情報機関OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたち。


 ダレスたちは1944年になるとドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将と接触しているが、その仲介役はダレスの部下で、ウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。ちなみにOSSの長官だったウィリアム・ドノバンはダレスの友人で、自身もウォール街の弁護士だ。


 大戦が終わった直後、ローマ教皇庁の要職にあったジョバンニ・バティスタ・モンティニなる人物がナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめている。


 モンティニは後のローマ教皇パウロ6世で、ヒュー・アングルトンというアメリカ人と親しくしていた。ヒューのボスにあたる人物がアレン・ダレス。ヒューの息子であるジェームズ・アングルトンはCIAで秘密工作に深く関与することになる。このローマ教皇庁が協力した逃走ルートは一般的にラッテ・ラインと呼ばれている。


 ダレスたちは大戦後の1948年からナチスの元幹部や元協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を始めている。この作戦で助けられた人物の中には親衛隊の幹部だったオットー・スコルツェニーやゲシュタポ幹部で「リヨンの屠殺人」とも呼ばれていたクラウス・バルビーも含まれていた。


 元ナチス幹部たちを逃がした先がラテン・アメリカ。ナチスの元幹部たちはまずアルゼンチンへ運ばれ、そこから分かれていき、アメリカの秘密工作に協力したと言われている。バルビーが1980年にボリビアでのクーデターに協力したことは本ブログでも書いた通り。


 このクーデターにはステファノ・デレ・キアイエなる人物も協力している。NATOの加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在、イタリアの組織はグラディオ。(Jeffrey M. Bale, “The Darkest Sides Of Politics, I,” Routledge, 2018)


 デレ・キアイエはグラディオの工作に参加していた。この秘密部隊は1970年にイタリアでクーデターを試みて失敗しているが、これにもデレ・キアイエは加わっている。クーデターに失敗した後、彼はスペインへ逃亡、1973年にはCIA主導の軍事クーデターを成功させたチリを訪問、オーグスト・ピノチェト政権の幹部たちと会っている。


 こうしたネットワークはラテン・アメリカだけでなく、アングロ・アメリカやヨーロッパにも広がっていて、それは今でも消えていない。ウクライナでネオ・ナチが登場したのも必然なのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911170000/

13. 中川隆[-15211] koaQ7Jey 2019年12月06日 11:50:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2276] 報告
2019.12.06
日本軍の真珠湾攻撃から78年


 中国での戦争が泥沼化していた日本軍は1941年12月7日(ハワイ時間)、守りが堅いと言われていたハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。

 その直前、アメリカ政府は日本に対する石油の輸出を禁止していたと言われているが、フランクリン・ルーズベルト大統領はその当時、日本に対する石油の禁輸は「日本をインドシナへ駆り立てる」として消極的で、1937年より前の日本に対する石油輸出量は維持するとしていた。それに対して財務省は石油代金の支払い方法で日本に圧力を加えていたという。(岩間敏「戦争と石油(1)」石油・天然ガスレビュー、2006年1月)

 そうした中、日本軍はアメリカと戦争を始めたわけだが、その直前に行われた日本側の試算によると、アメリカと戦争を始めてから3年目には石油が不足すると見通されていた。ところが、石油がそのように劇的に不足することはなかったようだ。

 その当時、全世界における石油生産量の約半分はアメリカが占めていた。1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始したドイツの場合、アメリカのスタンダード石油から石油の供給を受けている。日本とアメリカとの間で戦争が始まったことでドイツへ石油を直接売ることが難しくなったスタンダード石油はベネズエラにあった支社からスイス経由でドイツ占領下のフランスへ売り、そこからドイツへ運んでいたという。

 ドイツの戦争は1938年10月1日にチェコスロバキアのスデーテン地方を占領したときに始まるという見方がある。9月にドイツのミュンヘンでスデーテン地方の帰属を巡る英仏伊独の首脳会談が開かれ、ドイツへの割譲が認められることになったことにともなう動きだ。その時、ポーランド軍がチェシン・シレジアへ、またハンガリー軍がカルパティア・ルテニアへ侵攻してくる。ただ、この見方を採用するとポーランドを犠牲者として描くことが難しくなる。

 それに対し、ドイツを警戒していたソ連はイギリスやフランスに対し、ドイツとの国境線まで軍隊を派遣すると提案したのだが、受け入れられなかった。そうした対応が1939年8月23日の独ソ不可侵条約につながるという考え方もある。

 その年の5月11日にノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦した。日本側は関東軍が陸軍省と参謀本部の方針を無視して戦闘を継続、外モンゴル軍との相互援助条約に基づいて派兵されたソ連軍と衝突する。8月下旬にはソ連軍の機械化部隊が攻勢、日本軍は大敗した。その頃、ドイツとソ連が不可侵条約を締結する。そして日本軍の目は東南アジアへ向く。

 1941年6月にドイツ軍約300万人は東へ向かって進撃を開始した。西部戦線に残った戦力は約90万人と言われている。西側は手薄になった。この非常識な作戦はアドフル・ヒトラーが主導したものだ。

 ヒトラーは不可解な命令を出すことがある。例えば、1940年5月下旬から6月上旬にかけてイギリス軍とフランス軍34万人がフランスの港町ダンケルクから撤退したが、その時、ドイツ軍に対して追撃を止めている。その命令がなければイギリス軍とフランス軍は壊滅していた可能性が高い。

 1941年12月に入る頃、ルーズベルト政権は日本軍がアメリカの利権にかかわる「どこか」を攻撃すると予想、マレー半島へ日本の艦船が近づいていることに注目している。その周辺を日本軍は狙っていると考えるのが常識的な見方だったが、実際は12月7日に真珠湾を奇襲攻撃したわけである。

 アメリカ軍やイギリス軍は太平洋で日本軍と戦ったが、ソ連へ攻め込んだドイツ軍とは戦っていない。そのドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入する。

 その段階ではドイツ軍が優勢だったが、11月になって戦況が一変した。ソ連軍が反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまうのだ。1943年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。それまでアメリカやイギリスはソ連とドイツの戦いを傍観していた。

 スターリングラードでドイツ軍が敗北した後、アメリカとイギリスは慌て、1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画である。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月だ。この際、ドイツ軍のアーウィン・ロンメルは有効な対応策を立てたが、ヒトラーに拒否されたという。ヒトラー暗殺が試みられたのはその翌月のことだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912060000/

14. 中川隆[-14962] koaQ7Jey 2020年1月02日 18:55:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1975] 報告
[NHKスペシャル]] デジタルリマスター版 映像の世紀 第3集

15. 中川隆[-13678] koaQ7Jey 2020年2月18日 22:22:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-256] 報告
2020.02.18
ドレスデン空爆で米英軍が市民を虐殺して75年


 今から75年前の2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの空軍はドイツのドレスデンを空爆した。市街は廃墟と化し、約2万5000名の市民が殺されたと言われている。当時は文化都市として有名で世界的に知られた芸術作品がそこにはあったのだが、爆撃によってその多くが失われた。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。

 ドイツがソ連へ向かって進撃を始めたのは1941年6月のことだった。バルバロッサ作戦だ。アドルフ・ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ渡った翌月のことである。その時にヘスはイギリス政府の首脳と会談したはずだが、その内容は未だに明かされていない。

 ソ連を侵略するためにアドルフ・ヒトラーは約300万人を投入した。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 軍の幹部が東と西で半々にしようと提案したのは西側からの攻撃にも備えなければならないという判断からだが、ヒトラーはそうした攻撃に備える必要がないと考えていたとしか思えない。そこで、西側からイギリスなどが攻撃してこないことをヒトラーは知っていたのではないかと推測する人もいるが、ありえないとは言えないだろう。

 ドイツ軍が東へ向かっている様子をイギリスやアメリカは傍観している。両国が動き始めるのはスターリングラードでドイツ軍が降伏した後。

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。

 それを見たイギリスやアメリカは5月にワシントンDCで会談し、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸した。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。この上陸作戦に対する防衛を巡り、ドイツ軍の内部でヒトラーへの不審が強まり、暗殺計画につながったとする見方もある。

 その1944年当時、OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領には無断で1944年にドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触していた。その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナーだ。大戦後、ウィズナーは極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる。

 ウォール街の要人たちはナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。

 こうした作戦を推進したグループとは違って反ファシズムの立場だったルーズベルト大統領は1945年4月に急死、5月上旬にドイツは降伏する。その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われ、成功。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下され、世界は核兵器の時代へ移行していく。

 トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。その翌年には​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 ドレスデンへの空爆は広島や長崎への原爆投下と同じように第2次世界大戦の終結との関係性は薄い。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002180000/

16. 中川隆[-13594] koaQ7Jey 2020年2月23日 10:20:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-108] 報告
ケインズは大学では経済学で学位を取り、名門ケンブリッジでも天才の名を欲しいままにし、自由を謳歌していた時に襲ったのが、第一次世界大戦でした。


ケインズは戦争に行く事も無く、エリートとして財務省に就職して、イギリス代表としてパリ講和会議に出席しました。

そこでケインズは戦勝国がドイツに巨額賠償金を課そうとしているのを批判し、財務官僚の座を蹴っ飛ばして大学に戻ってしまいます。

戦勝国の代表らは、もっぱら領土や自国の権利に関心があり、経済や金融には無知な上に無関心だった。

ヒトラー誕生を予言? 賠償金に猛反対

戦勝国はドイツには払いきれないほど莫大な賠償金を課して、”懲らしめれば良い”と考えたが、ここには大きな問題があった。

考えてみると当たり前の事なのだが、賠償金は外貨のポンドやフランで支払うので、ドイツは膨大な外貨を用意しなくてはならない。

膨大な外貨を得る為にはドイツの貿易は巨額の貿易黒字でなくてはならず、そうでなくては賠償金を支払えない。


当時は今のような変動相場制ではなかったので、固定レートであり、輸出したから円高やマルク高にはならなかった。

つまりドイツが払う賠償金とは、イギリスやフランスに輸出して儲ける事であり、自分で自分に賠償金を払うに等しい。

こんな事は不可能だと指摘したケインズは、戦勝国に賠償金全額を放棄するよう迫り、もしそうしなければ『大変な事になる』と警告した。


その「大変な事」が起きたのは大戦終結からわずか一年後で、アドルフヒトラーが最初に地方選挙に立候補して政治活動を始めました。

ヒトラーが望んだのはドイツに巨額の賠償金を課した戦勝国への復讐で、巨額賠償金がなければヒトラーは民衆から支持されなかったかも知れない。

実際にはケインズが賠償金を巡って猛反対していた頃、既にヒトラーは政治活動を始めており、関連性があるのかは分からない。


この後、案の定、ドイツでは賠償金を支払えずにハイパーインフレが発生し、国民生活は完全に崩壊しました。

戦勝国、特にフランスは賠償金の猶予に一切応じず、フランス軍をドイツに侵攻させて、賠償金の代わりに領土をぶんどりました。

1930年頃まで約10年間、主にフランスによる賠償金ぶんどりは続けられたが、この間の苦境がドイツ人にヒトラーを支持させた。


そしてケインズが予言した大変な事は、第二次世界大戦という形で現実になりました。
http://www.thutmosev.com/archives/63671611.html  

17. 中川隆[-13355] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:19:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1549] 報告

ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

18. 中川隆[-13133] koaQ7Jey 2020年4月01日 15:24:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1773] 報告
なぜナチスドイツは大国フランスを1カ月で降伏させられたのか
大木 毅 2020/04/01
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/なぜナチスドイツは大国フランスを1カ月で降伏させられたのか/ar-BB11Zedv?ocid=ientp


© PRESIDENT Online 1940年6月、ドイツに占領されたパリ。ナチスのハーケンクロイツ旗が凱旋門の上に翻った(1940年6月 フランス・パリ)

第1次大戦では4年経っても倒せなかったフランスを、ナチス・ドイツは1カ月ほどで攻略した。現代史家の大木毅氏は「グデーリアン装甲部隊の進撃はめざましかった。あまりの急進ぶりに、軍首脳部が何かの間違いではないかと疑ったほどだった」という――。

※本稿は、大木毅『戦車将軍 グデーリアン』(角川新書)の一部を再編集したものです。


ダンケルクの停止命令が発出された理由

このダンケルクの停止命令は、第2次世界大戦史の重大な転回点だったとされている。それによって、連合軍、とりわけイギリス軍に致命傷を与えるチャンスが失われたのだ。かかる不条理な命令を発したのは、ヒトラーだったとされている。
そのこと自体は間違いではない。が、ヒトラー決定以前から、クライスト、クルーゲ、ルントシュテットらが、グデーリアン以下の放胆な突進に不安を覚え、足踏みしたがっていたことも指摘しておかねばならない。

5月23日、クライスト装甲集団司令官は、麾下部隊が消耗し、分散していることを懸念すると、A軍集団司令部に報告した。

あらゆる快速部隊を指揮下に入れていたクルーゲ第4軍司令官も、そうした不安を共有していたから、快速部隊をいったん停止させ、後続部隊との間隔を詰めるべきだと意見具申する。

ルントシュテットA軍集団司令官も、この進言を容れ、25日の攻撃再開に備えて、クライストとホートの両装甲集団は現在地点にとどまるべしと下命した。つまり、24日の停止命令より前、23日に、諸自動車化軍団は足踏みさせられていたのだ。
停止命令は“あらためて”出されたもの

けれども、連合軍撃滅のチャンスが到来していると判断したブラウヒッチュ陸軍総司令官とハルダー陸軍参謀総長は、A軍集団の消極的な措置に怒り、全装甲部隊を握っているクルーゲの第4軍をB軍集団麾下に移す旨の命令を発した。

むろん、より攻撃的なB軍集団に突進を続けさせる企図である。

5月24日朝、ヒトラーが、シャルルヴィルにあったA軍集団司令所を訪れたときの情勢は、このようなものであった。

ルントシュテットから、A軍集団が第4軍を奪われ、脇役に追いやられたことを聞かされたヒトラーは、自分のあずかり知らぬところで、かかる重大決定がなされたことに激怒し、ブラウヒッチュの命令は無効であるとした。

その上で、あらためて装甲部隊を停止させると決定したのである。

はたして、ヒトラーを、かくのごとき誤断にみちびいた動機は何だったのだろうか?

ヒトラーを誤断させた8つの動機

1940年の西方侵攻作戦について、今なおスタンダードとされている研究書『電撃戦という幻』(1995年初版刊行)を著したドイツの軍事史家カール=ハインツ・フリーザーは、ダンケルク撤退直後から立てられたさまざまな説をもとに、考えられる理由を以下のように列挙している。


@ダンケルク周辺の地表は装甲部隊の行動に適さないと判断した(24日から雨が降りはじめ、地面が泥濘と化した)。

A以後、フランス全土を占領する作戦のため、装甲部隊を温存すべきだと考えた。

B連合軍による側背部への攻撃を恐れ、装甲部隊を控置しておいた。

C攻勢第2段階に関心が移っており、ダンケルク攻略は副次的な作戦であるとみなした。

D包囲した敵の規模を過小評価し、さほど重要ではないと思っていた。

E海上撤退作戦などは不可能であると考えた。


フリーザーによれば、この@からEは必ずしも強固な論拠を持つものではなく、反駁可能である。

重要なのは、

F空軍力だけでダンケルクの敵を撃滅できるとしたドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(1938年2月4日進級)の大言壮語を信じたとする説と

イギリスを講和にみちびくため、その面子をつぶすことを恐れて、遠征軍殲滅を避けたとする説であろう。

自己の権力を強調するため?

フリーザーは、Fについては、ゲーリングの発言は23日のことで、ヒトラーの決定に影響力をおよぼした可能性はあるものの、当時ドイツ空軍がかなりの消耗を被っていたことを考えれば(当然、総統の耳にも入っている)、決定的な要因となったとは考えにくいとした。

Gに関しても、時系列に沿って検討してみると、ヒトラーが、講和のために手加減したと取れるような発言をしたのは、ダンケルク撤退の成功があきらかになってからのことであり、いわば失態をとりつくろう意味があったと退けている。
かかる議論の末に、フリーザーが到達したのは、装甲部隊のダンケルク突入に熱心だったOKHに、誰が主人であるかを見せつけるために、ヒトラーはルントシュテットらに同調した、つまり、自己の権力を強調するために停止命令を出したとする説だ。

このFとG、そしてフリーザー説に示されている要因のどれかが決定的だったのかもしれないし、あるいは、そのすべてが複合的にヒトラーの心理に作用していた可能性もあろう。


孤立無援の連合国軍、大規模脱出を決行

いずれにせよ、英国の守護天使が授けたかとさえ思われるような好機が、看過されるわけはなかった。王立海軍は、商船216隻、スクーツ(喫水の浅い木製船)40隻、海軍艦艇139隻、さらに数百の漁船や小舟艇、全体で900隻以上をかき集め、「ダイナモ」作戦を発動した。

その目的は、包囲されたイギリス遠征軍とフランス軍ほかの連合軍の一部部隊を海路救出することだ。

風前の灯火だった連合軍部隊が脱出していくのを、グデーリアンとその装甲部隊は指をくわえて見ているほかなかった。こうして助け出されたイギリス軍将兵は、重装備こそ失っていたとはいえ、英陸軍再建の土台になっていく。

ドイツ軍に訪れた千載一遇の機会は空費されてしまったのである。


ダンケルク占領で西方侵攻作戦は結着

5月26日、ルントシュテットより状況の変化についての説明を受けたヒトラーは、ようやく停止命令を撤回した。翌27日午前8時、攻撃が再開されたものの、袋の鼠であったはずの連合軍諸部隊は、ダンケルクのほころびから逃れだしていた。

6月1日、ドイツ軍はダンケルク総攻撃を実施し、4日朝には同市を制圧した。彼らが見たものは、おびただしい数の遺棄された装備や物資であった。イギリス陸軍の中核をなす、訓練され、経験を積んだ将兵は、海峡のかなたに去っていたのだ。

ともあれ、ダンケルク占領によって、西方侵攻作戦は結着がついた。ドイツ装甲部隊が築いた回廊の南には、なお相当数のフランス軍部隊があり、ソンムとエーヌの両河川に拠って抵抗の準備を整えてはいる。

だが、主力を撃滅されたフランス軍が66個師団しか有していなかったのに対し、ドイツ軍は104個師団(ほかに予備として19個師団を控置)を投入することが可能だったのである。


赤号作戦(仏本土侵攻)と「グデーリアン装甲集団」の誕生

従って、フランスにとどめを刺すための攻勢、「赤号」作戦(6月5日発動)は、ワンサイド・ゲームの様相を呈することになった。

これに先立つ5月28日、グデーリアンは、あらたな装甲集団を編合し、「赤号」作戦に参加するよう、ヒトラーから命じられる。「グデーリアン装甲集団」の誕生であった。

6月1日にグデーリアンを司令官として発足した、この新装甲集団は2個自動車化軍団を麾下に置いていた。それぞれ二個装甲師団および1個自動車化歩兵師団を有する第39・第41自動車化軍団である。

A軍集団麾下第12軍の指揮下に置かれたグデーリアン装甲集団は、南に向かって突進するように命じられた。スダン南方からスイス国境にかけて展開しているフランス軍の背後に回りこみ、これを包囲することが目的だった。

6月9日、攻勢を発動したグデーリアン装甲集団の進撃はめざましく、たちまちブザンソンを攻略、およそ一週間後の17日にはもうスイス国境に達していた。あまりの急進ぶりに、軍首脳部が何かの間違いではないかと疑ったほどだった。

「ポンタルリエでスイス国境に着いたと報告すると、ヒトラーは『貴官の報告は誤りで、ポンタイエ・シュル・ソーヌ〔東部フランスの町〕に到達したということだろう』と反問してきた。すぐに『ミスではありません。小官は今、スイス国境のポンタルリエにおります』と回答する。それで、疑り深いOKWも納得した」(『電撃戦』)。

大国フランスを1ヵ月で降伏させる

一方、独仏国境に展開していたドイツC軍集団もマジノ線攻撃を敢行、突破に成功し、6月19日にグデーリアン装甲集団と手をつなぐ。約50万のフランス軍が包囲されたのだ。

この間、6月14日には、無防備都市宣言を出した首都パリにドイツ軍が入城しており、フランス国民の士気は地に落ちていた。6月22日、パリ近郊コンピエーニュの森で独仏の休戦協定が調印される。

ドイツは、第1次世界大戦で4年余の時を費やして、ついに打倒することができなかった大国フランスを、今度は一か月ほどで降したのである。

---------- 大木 毅(おおき・たけし) 現代史家 1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、著述業。著書に、『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書、2019)、『ドイツ軍事史』(作品社、2016)ほか。訳書にエヴァンズ『第三帝国の歴史』(監修。白水社、2018─)、ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社、2018)、フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳。中央公論新社、2003)ほかがある。 ----------
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https://www.msn.com/ja-jp/news/world/なぜナチスドイツは大国フランスを1カ月で降伏させられたのか/ar-BB11Zedv?ocid=ientp

19. 中川隆[-13247] koaQ7Jey 2020年4月10日 20:05:57 : sfbpU46eAE : ZG5QWVdwY0dyRG8=[-9] 報告

『山本太郎から見える日本』から - 内田樹の研究室 2020-04-10
http://blog.tatsuru.com/2020/04/10_1141.html

山本太郎の起こしているムーヴメントは、たとえばスペインのポデモスや、アメリカのバーニー・サンダース、オカシオ゠コルテスなどが巻き起こしているオルタナティヴな運動とリンクしていると考えていいでしょうか?

内田 リンクしていると思います。ただそれは、よそでこういう実践があったから、それを模倣しようということではないと思います。世界同時多発的に起きるんです、こういうものは。

いま世界のどこも反民主主義的で、強権的な政治家が成功しています。アメリカのトランプも、ロシアのプーチンも、中国の習近平も、トルコのエルドアンも、フィリピンのドゥテルテも。非民主的な政体と市場経済が結びついた「政治的資本主義」が成功している。

 中国がその典型ですけれど、独裁的な政府が、どのプロジェクトにどんなリソースを集中すべきか一元的に決定できる。民間企業も軍部も大学も、党中央の命令には服さなければいけない。巨視的なプランを手際よく実行するためには、こちらの方が圧倒的に効率がよい。

民主国家では、民間企業や大学に対して、政府のプロジェクトに全面的に協力しろというようなことは要求できませんから。非民主的な国なら、政府のアジェンダに反対する人たちは強権的に黙らせられるし、人権も制約できるし、言論の自由も抑え込める。だから、短期的な成功を目指すなら「中国モデル」は魅力的です。日本の安倍政権も、無自覚ですけれど、中国やシンガポールのような強権政治にあこがれている。だから、国内的にはそれに対するアンチが出て来る。日本の場合は、それが山本太郎だったということなんじゃないですか。

20. 中川隆[-13008] koaQ7Jey 2020年4月22日 20:14:57 : 13OAtnQgho : d2VxeFFzSXBVMTI=[31] 報告
コロナ後の世界、「独裁か、民主主義か」という歴史的分岐点- 内田樹の研究室 2020-04-22
http://blog.tatsuru.com/2020/04/22_1114.html


―― 世界中がコロナ危機の対応に追われています。しかしたとえコロナが収束しても、もはや「元の世界」には戻らないと思います。内田さんはコロナ危機にどんな問題意識を持っていますか。

内田 新型コロナウイルス禍は、これからの世界のあり方を一変させると思います。「コロナ以前」と「コロナ以後」では世界の政治体制や経済体制は別のものになるでしょう。

 最も危惧しているのは、「新型コロナウイルスが民主主義を殺すかもしれない」ということです。こういう危機に際しては民主国家よりも独裁国家の方が適切に対処できるのではないか・・・と人々が思い始めるリスクがある。今回は中国が都市閉鎖や「一夜城」的な病院建設や医療資源の集中という、民主国家ではまず実施できない政策を強権的に下して、結果的に感染の抑制に成功しました。逆に、アメリカはトランプ大統領が秋の大統領選での再選という自己都合を優先させて、感染当初は「まったく問題ない」と言い張って初動に大きく後れを取り、感染が広がり出してからは有権者受けを狙った政策を連発しました。科学的で巨視的な対策を採れなかった。

 この差は、コロナ禍が終息した後の「アメリカの相対的な国威の低下」と「中国の相対的な国威の向上」として帰結すると予測されます。パンデミックを契機に、国際社会における米中のプレゼンスが逆転する。

 中国は新型コロナウイルスの発生源になり、初期段階では情報隠蔽や責任回避など、非民主的体制の脆さを露呈しましたが、党中央が仕切るようになってからは、強権的な手法で一気に感染拡大を抑え込んだ。それだけではなくて、中国は他国の支援に乗り出した。中国はマスクや検査キットや人工呼吸器や防護服などの医療資源の生産拠点です。どの国も喉から手が出るほど欲しがっているものを国内で潤沢に生産できる。このアドバンテージを利用して、習近平は医療支援する側に回った。

 イタリアは3月初旬に医療崩壊の危機に瀕しました。支援を要請しましたがEUの他のメンバーは反応してくれなかった。中国だけが支援を申し出た。人工呼吸器、マスク、防護服を送りました。これでイタリア国民の対中国評価は一気に上がった。知り合いのイタリア人も「いま頼りになるのは中国だけだ」と言っていました。

 もちろん中国も国益優先です。でも、トランプは秋の大統領選までのことしか考えていないけれど、習近平はこれから5年先10年先の地政学的地位を見越して行動している。短期的には「持ち出し」でも、長期的にはこの出費は回収できると見越して支援に動いた。この視野の広さの差がはっきりした。コロナ禍への対応を通じて、中国は国際社会を支える能力も意志もあることを明示し、アメリカは国際社会のリーダーシップを事実上放棄した。コロナ禍との戦いはこれから後も場合によっては1年以上続くかも知れませんが、アメリカがどこかで軌道修正をしないと、これ以後の国際協力体制は中国が指導することになりかねない。

―― 今回、中国の成功と米国の失敗が明らかになった。それが「コロナ以後」の政治体制にもつながってくるわけですね。

内田 そうです。今後、コロナ禍が終息して、危機を総括する段階になったところで、「米中の明暗を分けたのは政治システムの違いではないか」という議論が出て来るはずです。

 米中の政治システムを比較してみると、まず中国は一党独裁で、血みどろの権力闘争に勝ち残った人間がトップになる。実力主義の競争ですから、無能な人間がトップになることはまずない。それに対してアメリカの有権者は必ずしも有能な統治者を求めていない。アレクシス・ド・トクヴィルが洞察した通り、アメリカの有権者は自分たちと知性・徳性において同程度の人間に親近感を覚える。だからトランプのような愚鈍で徳性に欠けた人間が大統領に選ばれるリスクがある。トクヴィルの訪米の時のアメリカ大統領はアンドリュー・ジャクソンでインディアンの虐殺以外に見るべき功績のない凡庸な軍人でしたが、アメリカの有権者は彼を二度大統領に選びました。さいわいなことに、これが中国だったら致命的なことになりますが、アメリカは連邦制と三権分立がしっかり機能しているので、どれほど愚鈍な大統領でも、統治機構に致命的な傷を与えることはできない。

 少なくとも現時点では、アメリカン・デモクラシーよりも、中国的独裁制の方が成功しているように見える。欧州や日本でも、コロナに懲りて、「民主制を制限すべきだ」と言い出す人が必ず出てきます。

 中国はすでに顔認証システムなど網羅的な国民監視システムを開発して、これをアフリカやシンガポールや中南米の独裁国家に輸出しています。国民を監視・管理するシステムにおいて、中国はすでに世界一です。そういう抑圧的な統治機構に親近感を感じる人は自民党にもいますから、彼らは遠からず「中国に学べ」と言い始めるでしょう。


■なぜ安倍政権には危機管理能力がなかったのか

―― そのような大勢のなかで日本の状況はどう見るべきですか。

内田 日本はパンデミックの対応にははっきり失敗したと言ってよいと思います。それがどれくらいの規模の失敗であるかは、最終的な感染者・死者数が確定するまでは言えませんが、やり方を間違えていなければ、死者数ははるかに少なく済んだということになるはずです。

 東アジアでは、ほぼ同時に、中国、台湾、韓国、日本の4か国がコロナ問題に取り組みました。中国はほぼ感染を抑え込みました。台湾と韓国は初動の動きが鮮やかで、すでにピークアウトしました。その中で、日本だけが、感染が広まる前の段階で中国韓国やヨーロッパの情報が入っているというアドバンテージがありながら、検査体制も治療体制も整備しないで、無為のうちに二カ月を空費した。準備の時間的余裕がありながら、それをまったく活用しないまま感染拡大を迎えてしまった。

―― なぜ日本は失敗したのですか。

内田 為政者が無能だったということに尽きます。それは総理会見を見れば一目瞭然です。これだけ危機的状況にあるなかで、安倍首相は官僚の書いた作文を読み上げることしかできない。自分の言葉で、現状を説明し、方針を語り、国民に協力を求めるということができない。

 ドイツのメルケル首相やイギリスのボリス・ジョンソン首相やニューヨークのアンドリュー・クオモ州知事はまことに説得力のあるメッセージを発信しました。それには比すべくもない。

 安倍首相は国会質疑でも、記者会見でも、問いに誠実に回答するということをこれまでしないで来ました。平気で嘘をつき、話をごまかし、平気で食言してきた。一言をこれほど軽んじた政治家を私はこれまで見たことがありません。国難的な状況では決して舵取りを委ねてはならない政治家に私たちは舵取りを委ねてしまった。それがどれほど日本に大きなダメージを与えることになっても、それはこのような人物を7年間も政権の座にとどめておいたわれわれの責任です。

 感染症対策として、やるべきことは一つしかありません。他国の成功例を模倣し、失敗例を回避する、これだけです。日本は感染拡大までタイムラグがありましたから、中国や台湾、韓国の前例に学ぶ時間的余裕はあったんです。しかし、政府はそれをしなかった。

 一つには、東京オリンピックを予定通り開催したいという願望に取り憑かれていたからです。そのために「日本では感染は広がっていない。防疫体制も完璧で、すべてはアンダーコントロールだ」と言い続ける必要があった。だから、検査もしなかったし、感染拡大に備えた医療資源の確保も病床の増設もしなかった。最悪の事態に備えてしまうと最悪の事態を招待するかも知れないから、何もしないことによって最悪の事態の到来を防ごうとしたのです。これは日本人に固有な民族誌的奇習です。気持ちはわからないでもありませんが、そういう呪術的な思考をする人間が近代国家の危機管理に当るべきではない。

 先行する成功事例を学ばなかったもう一つの理由は安倍政権が「イデオロギー政権」だからです。政策の適否よりもイデオロギーへの忠誠心の方を優先させた。だから、たとえ有効であることがわかっていても、中国や韓国や台湾の成功例は模倣したくない。野党も次々と対案を出していますが、それも採用しない。それは成功事例や対案の「内容」とは関係がないのです。「誰」が出した案であるかが問題なのです。ふだん敵視し、見下しているものたちのやることは絶対に模倣しない。国民の生命よりも自分のイデオロギーの無謬性方が優先するのです。こんな馬鹿げた理由で感染拡大を座視した国は世界のどこにもありません。

 安倍政権においては、主観的願望が客観的情勢判断を代行する。「そうであって欲しい」という祈願が自動的に「そうである」という事実として物質化する。安倍首相個人においては、それは日常的な現実なんだと思います。森友・加計・桜を見る会と、どの事案でも、首相が「そんなものはない」と宣告した公文書はいつのまにか消滅するし、首相が「知らない」と誓言したことについては関係者全員が記憶を失う。たぶんその全能感に慣れ切ってしまったのでしょう、「感染は拡大しない。すぐに終息する」と自分が言いさえすれば、それがそのまま現実になると半ば信じてしまった。

 リスクヘッジというのは「丁と半の両方の目に張る」ということです。両方に張るわけですから、片方は外れる。リスクヘッジでは、「準備したけれど、使わなかった資源」が必ず無駄になります。「準備したが使用しなかった資源」のことを経済学では「スラック(余裕、遊び)」と呼びます。スラックのあるシステムは危機耐性が強い。スラックのないシステムは弱い。

 東京五輪については「予定通りに開催される準備」と「五輪が中止されるほどのパンデミックに備えた防疫対策策の準備」の二つを同時並行的に行うというのが常識的なリスクヘッジです。五輪準備と防疫体制のいずれかが「スラック」になる。でも、どちらに転んでも対応できた。

 しかし、安倍政権は「五輪開催」の一点張りに賭けた。それを誰も止めなかった。それは今の日本の政治家や官僚の中にリスクヘッジというアイディアを理解している人間がほとんどいないということです。久しく費用対効果だとか「ジャストインタイム」だとか「在庫ゼロ」だとかいうことばかり言ってきたせいで、「危機に備えるためには、スラックが要る」ということの意味がもう理解できなくなった。

 感染症の場合、専門的な医療器具や病床は、パンデミックが起きないときにはほとんど使い道がありません。だから、「医療資源の効率的な活用」とか「病床稼働率の向上」とかいうことを医療の最優先課題だと思っている政治家や役人は感染症用の医療準備を無駄だと思って、カットします。そして、何年かに一度パンデミックが起きて、ばたばた人が死ぬのを見て、「どうして備えがないんだ?」とびっくりする。


■コロナ危機で中産階級が没落する

―― 日本が失敗したからこそ、独裁化の流れが生まれてくる。どういうことですか。

内田 日本はコロナ対応に失敗しましたが、これはもう起きてしまったことなので、取り返しがつかない。われわれに出来るのは、これからその失敗をどう総括し、どこを補正するかということです。本来なら「愚かな為政者を選んだせいで失敗した。これからはもっと賢い為政者を選びましょう」という簡単な話です。でも、そうはゆかない。

 コロナ終息後、自民党は「憲法のせいで必要な施策が実行できなかった」と総括すると思います。必ずそうします。「コロナ対応に失敗したのは、国民の基本的人権に配慮し過ぎたせいだ」と言って、自分たちの失敗の責任を憲法の瑕疵に転嫁しようとする。右派論壇からは、改憲して非常事態条項を新設せよとか、教育制度を変えて滅私奉公の愛国精神を涵養せよとか言い出す連中が湧いて出て来るでしょう。

 コロナ後には「すべて憲法のせい」「民主制は非効率だ」という言説が必ず湧き出てきます。これとどう立ち向かうか、それがコロナ後の最優先課題だと思います。心あるメディアは今こそ民主主義を守り、言論の自由を守るための論陣を張るべきだと思います。そうしないと、『月刊日本』なんかすぐに発禁ですよ。

―― 安倍政権はコロナ対策だけでなく、国民生活を守る経済政策にも失敗しています。

内田 コロナ禍がもたらした最大の社会的影響は「中間層の没落」が決定づけられたということでしょう。民主主義の土台になるのは「分厚い中産階級」です。しかし、新自由主義的な経済政策によって、世界的に階級の二極化が進み、中産階級がどんどん痩せ細って、貧困化している。

 コロナ禍のもたらす消費の冷え込みで、基礎体力のある大企業は何とか生き残れても、中小企業や自営業の多くは倒産や廃業に追い込まれるでしょう。ささやかながら自立した資本家であった市民たちが、労働以外に売るものを持たない無産階級に没落する。このままゆくと、日本社会は「一握りの富裕層」と「圧倒的多数の貧困層」に二極化する。それは亡国のシナリオです。食い止めようと思うならば、政策的に中産階級を保護するしかありません。

 野党はどこも「厚みのある中産階級を形成して、民主主義を守る」という政治課題については共通しているはずです。ですから、次の選挙では、「中産階級の再興と民主主義」をめざすのか「階層の二極化と独裁」をめざすのか、その選択の選挙だということを可視化する必要があると思います。

―― 中産階級が没落して民主主義が形骸化してしまったら、日本の政治はどういうものになるのですか。

内田 階層の二極化が進行すれば、さらに後進国化すると思います。ネポティズム(縁故主義)がはびこり、わずかな国富を少数の支配階層が排他的に独占するという、これまで開発独裁国や、後進国でしか見られなかったような政体になるだろうと思います。森友問題、加計問題、桜を見る会などの露骨なネポティズム事例を見ると、これは安倍政権の本質だと思います。独裁者とその一族が権力と国富を独占し、そのおこぼれに与ろうとする人々がそのまわりに群がる。そういう近代以前への退行が日本ではすでに始まっている。


■民主主義を遂行する「大人」であれ!

―― 今後、日本でも強権的な国家への誘惑が強まるかもしれませんが、それは亡国への道だという事実を肝に銘じなければならない。

内田 確かに短期的なスパンで見れば、中国のような独裁国家のほうが効率的に運営されているように見えます。民主主義は合意形成に時間がかかるし、作業効率が悪い。でも、長期的には民主的な国家のほうがよいものなんです。

 それは、民主主義は、市民の相当数が「成熟した市民」、つまり「大人」でなければ機能しないシステムだからです。少なくとも市民の7%くらいが「大人」でないと、民主主義的システムは回らない。一定数の「大人」がいないと動かないという民主主義の脆弱性が裏から見ると民主主義の遂行的な強みなんです。民主主義は市民たちに成熟を促します。王政や貴族政はそうではありません。少数の為政者が賢ければ、残りの国民はどれほど愚鈍でも未熟でも構わない。国民が全員「子ども」でも、独裁者ひとりが賢者であれば、国は適切に統治できる。むしろ独裁制では集団成員が「子ども」である方がうまく機能する。だから、独裁制は成員たちの市民的成熟を求めない。「何も考えないでいい」と甘やかす。その結果、自分でものを考える力のない、使い物にならない国民ばかりになって、国力が衰微、国運が尽きる。その点、民主主義は国民に対して「注文が多い」システムなんです。でも、そのおかげで復元力の強い、創造的な政体ができる。

 民主主義が生き延びるために、やることは簡単と言えば簡単なんです。システムとしてはもう出来上がっているんですから。後は「大人」の頭数を増やすことだけです。やることはそれだけです。

―― カミュは有名な小説『ペスト』のなかで、最終的に「ペストを他人に移さない紳士」の存在に希望を見出しています。ここに、いま私たちが何をなすべきかのヒントがあると思います。

内田 『ペスト』では、猛威を振るうペストに対して、市民たち有志が保健隊を組織します。これはナチズムに抵抗したレジスタンスの比喩とされています。いま私たちは新型コロナウイルスという「ペスト」に対抗しながら、同時に独裁化という「ペスト」にも対抗しなければならない。その意味で、『ペスト』は現在日本の危機的状況を寓話的に描いたものとして読むこともできます。

 『ペスト』の中で最も印象的な登場人物の一人は、下級役人のグランです。昼間は役所で働いて、夜は趣味で小説を書いている人物ですが、保健隊を結成したときにまっさきに志願する。役所仕事と執筆活動の合間に献身的に保健隊の活動を引き受け、ペストが終息すると、またなにごともなかったように元の平凡な生活に戻る。おそらくグランは、カミュが実際のレジスタンス活動のなかで出会った勇敢な人々の記憶を素材に造形された人物だと思います。特に英雄的なことをしようと思ったわけではなく、市民の当然の義務として、ひとつ間違えば命を落とすかもしれない危険な仕事に就いた。まるで、電車で老人に席を譲るようなカジュアルさで、レジスタンスの活動に参加した。それがカミュにとっての理想的な市民としての「紳士」だったんだろうと思います。

「紳士」にヒロイズムは要りません。過剰に意気込んだり、使命感に緊張したりすると、気長に戦い続けることができませんから。日常生活を穏やかに過ごしながらでなければ、持続した戦いを続けることはできない。

「コロナ以後」の日本で民主主義を守るためには、私たち一人ひとりが「大人」に、でき得るならば「紳士」にならなけらばならない。私はそう思います。
http://blog.tatsuru.com/2020/04/22_1114.html

21. 中川隆[-7666] koaQ7Jey 2021年2月06日 13:35:33 : G6I5aLKuSU : OUx2U2EwZGdJajI=[24] 報告
【ゆっくり解説】ナチスドイツの経済政策【ヒトラーはドイツ経済を救った?】〜しくじり財政破綻〜
2021/02/06




ヒトラーの戦争はドイツを滅ぼしたが、経済政策はドイツを復興させた。
そう説明されることも最近、増えましたが本当でしょうか??
解説します。
22. 中川隆[-4192] koaQ7Jey 2021年6月24日 16:19:39 : S1eRUxmNYw : aEdNRXBKTUhTcHM=[58] 報告
【ゆっくり解説】ヴェルサイユ条約は適正だった?【もう一つの歴史】
2021/06/23





今回の内容はヴェルサイユ条約再評価論です。
日本だと知名度がまるで皆無な模様。
あと宥和政策のチェンバレン擁護論とかよく見るけど体系化したものは見たことないから作りたいなぁとは思う。
23. 中川隆[-5217] koaQ7Jey 2021年6月30日 08:52:28 : xMGy2nfNsI : R3R6UHZvYVR2SGM=[7] 報告
【ゆっくり解説】囚人の皮膚で工作...悪魔のナチス女看守『イルゼ・コッホ』




今回は「ナチス女看守イルゼコッホ 」の話です。
囚人に対しひどい仕打ちをすることに楽しさを感じてしまったコッホ。
胸が痛みます。ただの貧しい女の子だった彼女をここまで変えたナチズムという思想、恐ろしすぎます。
24. 中川隆[-16376] koaQ7Jey 2021年9月14日 07:26:08 : meoR52NmVY : RnhYRDEzN2NDbjI=[7] 報告
反ユダヤ主義新聞を発行、強烈な反ユダヤ報道を行ないドイツ人全員を反ユダヤにしたユリウス・シュトライヒャー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1061.html
25. 中川隆[-13308] koaQ7Jey 2022年4月14日 03:11:32 : AYYizAdVIY : Qm9wcDQueGs1Y3c=[8] 報告
【ユダヤから紐解くロシア・ウクライナの歴史D】ナチズムとは何か|茂木誠
2022/04/12

26. 2022年4月30日 05:31:29 : eSE5cJBzoY : Rk1lbWllcktvT2M=[3] 報告
2022.04.30XML
国土安全保障省の内部にナチスの啓蒙宣伝省を彷彿とさせる偽情報管理会議を創設
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202204290000/


 アメリカの国土安全保障に「偽情報管理会議」が創設され、ニナ・ヤンコビッチが指揮すると伝えられている。ジョー・バイデン政権が「偽情報」とみなす情報と戦うのだというが、「啓蒙宣伝省」だと考える人もいる。

 ヤンコビッチはウィルソン・センターの「偽情報フェロー」で、ウクライナ外務省にアドバイスした経験があり、バイデン大統領と関係が深い。

 ​大統領の息子であるハンター・バイデンは疑惑の渦中にいる​。ウクライナの天然ガス会社ブリスマ・ホールディングスとハンターとの関係は以前から疑惑の対象になっていたが、この会社や中国のエネルギー会社CEFCを相手にハンターがいかに稼いできたかを明らかにする電子メールが出てきた。

 こうした電子メールはハンターのラップトップ・コンピュータに記録されていた。修理業者にそのラップトップが預けられたのだが、それを取りに来ないことから業者がFBIへ連絡、その内容が明らかになったとされている。このラップトップから見つかった電子メールについて、ヤンコビッチはかつてドナルド・トランプ陣営が作り出したものだと主張していた。

 最近は、ハンターとロズモント・セネカ・パートナーズという投資ファンドと関係が問題になっている。ハンターのほかクリストファー・ハインツとデボン・アーチャーが2009年に創設したファンドだ。

 ハインツはジョン・ケリー元国務長官の義理の息子で、アーチャーはエール大学でハインツのクラスメート。バイデンとアーチャーは2014年にブリスマの重役に就任するが、その時、このふたりとビジネス上の関係をハインツは絶ったとされている。

 このファンドはアメリカ国防総省の機関がウクライナで行ってきた兵器クラスの病原体に関する研究にも関係している。ウクライナにそうした研究開発施設が存在することは知られていたが、ウクライナでロシア軍が回収した文書の中に、ロズモント・セネカとジョージ・ソロスのオープン・ソサエティがウクライナにある生物化学兵器の研究開発施設へ資金を提供していることを示すものが含まれていたという。

 こうした施設にアメリカの国防総省や同省の国防総省のDTRA(国防脅威削減局)が協力していたことは明らかにされているが、そのほか国務省、USAID(米国国際開発庁)、USAMRIID(米国陸軍伝染病医学研究所)、WRAIR(ウォルター・リード陸軍研究所)、そしてアメリカの民主党が仕事を請け負い、さらに国防総省はメタバイオタ、ブラック・アンド・ビーチ、そしてCH2Mヒルが仕事をしている。

 メタバイオタは生物学的な脅威の評価したり管理する仕事をしている会社で、ウイルス学者のネイサン・ウルフによって創設された。​2014年からエコヘルス同盟のパートナーになっている​が、その背後にはUSAIDの「PREDICTプロジェクト」がある。

 エコヘルス同盟はアンソニー・ファウチが所長を務めるNIAID(国立アレルギー感染症研究所)から武漢病毒研究所へ資金を提供する仲介役を演じてきたことでも知られている組織。このため、ウクライナの研究所はCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)を引き起こすとされているSARS-CoV-2(重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2)にも関係している疑いが生じた。アメリカ国防総省の施設がウクライナで生物化学兵器の研究開発をしていた疑いが濃厚なのだが、その中にSARS-CoV-2が含まれている可能性がある。

 バイデン政権に限らず、アメリカ政府は事実を隠蔽する一方、証拠を示すことなく、一方的に自分たちの主張を繰り返し、その主張を有力メディアが広めてきた。その主張に反する情報はインターネットを支配するハイテク企業などによって排除される。アメリカの私的権力によるプロパガンダはこうした仕組みで実行されている。

 プロパガンダの専門家として有名なエドワード・バーネーズは1928年に出した本の中で、グループのリーダを操ればグループのメンバーも操れると指摘、その時にキーワードの選び方が重要だとしている。

 自分たちが望む習慣や信念を人びとに植えつけるためにはひとつの考え方を何度も吹き込まねばならず、本質的な価値のあるものでなく、象徴的なものが必要だとしている。習慣を変えさせ、雰囲気を作り出すことで個人の行動を操作することもできるという。

 アドルフ・ヒトラーが行ったプロパガンダの基本も伝えられている。抽象的な考えは避け、感情に訴える。紋切り型のフレーズを使い、限られた一方的な考え方を絶えず繰り返す。そして敵を批判し続けるともしている。誹謗中傷する時は特定の「敵」を作るという。そこへ意識を集中させるわけだ。

 要するに、現在、西側の有力メディアが行ってること。アメリカはそうした態勢を強化しつつある。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202204290000/

27. 中川隆[-12392] koaQ7Jey 2023年8月06日 07:18:26 : Uj7exv5Jj7 : V2kwb3paQWV3M2s=[7] 報告
<■166行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2023年08月05日
小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』
https://sicambre.seesaa.net/article/202308article_5.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%A4%9C%E8%A8%BC-%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%81%AF%E3%80%8C%E8%89%AF%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%8D%E3%82%82%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88-1080-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA/dp/4002710807


 岩波ブックレットの一冊として、岩波書店より2023年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、インターネットの日本語環境(詳しく調べていませんが、本書冒頭で取り上げられている事例から推測すると、多分多くの他の言語環境でも)では珍しくない、ナチスは「良いこと」もした、というさまざまな主張を具体的に検証します。この問題について詳しく調べているわけではないので断定できませんが、インターネットにせよ映像・音声媒体にせよ紙媒体にせよ、日本語環境で主張されている、ナチスは「良いこと」もした、という主張はほぼ網羅されているのではないか、と思います。その意味で、本書の意義はたいへん大きいでしょう。

 本書冒頭では、善悪を持ち込まず、どのような時代にも適用できる無色透明な尺度によって、あたかも「神」の視点から超越的に叙述することは歴史学使命ではなく、そもそも不可能であり、人間には「色があること」を認めたうえで、相互検証により誤りや偏りを正していかねばならない、と指摘されており、これはひじょうに重要な視点だと思います。歴史認識をめぐる問題において、「事実」と「解釈」と「意見」の三層構造で検討する必要性を提示していることも、重要になってくるでしょう。

 まず本書はナチズムについて基本的な事項を解説し、その後で、ナチスは「良いこと」もした、というさまざまな主張を具体的に検証していきます。ナチズムの日本語訳は、「国家社会主義」ではなく「国民社会主義」が妥当だと指摘されており、その理由はまず、「国家社会主義」が「国家主導の社会主義体制」というナチズムとは別の意味になるからです。次の理由として、ナチズムは国家ではなく国民と民族を優先する思想だったことが挙げられています。1990年代以降の研究では、ヒトラーや支配層だけではなく、「普通の」国民による同意や協力や支持や黙認が注目されるようになったそうです。

 ナチズムの理解で重要な概念となる「民族共同体」では、ユダヤ人やロマや同性愛者や障害者が排除されており(社会的地位や資産などの収奪も伴います)、ヒトラー政権での、一見「良いこと」と思えるさまざまな社会福祉政策にしても、「民族共同体」のみが対象だったわけです。本書は、この包摂と排除こそがナチ体制の本質だった、と指摘します。これと関連して、ナチズムは「社会主義」を掲げているものの、民族や人種に究極的な価値を置いており、マルクス主義の階級闘争や国際主義といった概念には反対していた、と本書は指摘します。本書は、スターリン体制とナチ体制を同一視する「全体主義論」に限界があることを指摘します。もちろん、ソ連や中国など現実の社会主義政権はマルクス主義を忠実に実行したわけではなく、その民族主義的傾向はナチ体制と通ずると言えなくないかもしれませんが、安易に同一視すれば、ナチ体制にしてもソ連や中国など現実の社会主義政権にしても、重要な側面を見落としてしまう危険性があるとは思います。

 ヒトラーの権力掌握過程については、「民主的に選ばれた」とか「選挙で勝った」とかいった評価がかなり単純化されたもので、ヒトラーの首相就任時点でナチ党と保守政党との連立でも国会議席数で過半数を超えることはなく、保守勢力と提携して大統領により首相指名を受けたことが指摘されています。本書は、ヒトラーの首相就任前年となる1932年7月の国会選挙で、ナチ党は確かに得票率37.4%で第一党になったものの、共産党も得票率14.6%で、反議会勢力が過半数を占めることになり、国会は麻痺状態に陥っていた、と指摘します。当時、大統領大権に基づいて首相が指名され、議会に拘束されない政権が続いていましたが、ヒトラーの首相就任前の各内閣が短期間で政権運営に行き詰まり、ヒトラーを首班とする右派連立政権だけが、ほぼ唯一の選択肢になっていた、と本書は指摘します。首相就任後、ヒトラーは暴力や「全権委任法」などにより政権を強固なものとしていき、ヒトラーの権力掌握は民主主義の自己破壊を本質としていた、と本書は評価します。ただ、ヒトラーの権力掌握が一定以上の民意を背景にしていたとは言えるかもしれないとしても、ドイツ国民の大多数がナチ党による一党独裁を望んでいたわけではなく、ヴァイマール憲法の制度上の脆弱性を突き、暴力の使用により政権を強固なものとしていったことから、「ヒトラーは民主的に選ばれた」という主張が、ヒトラーの暴力性を覆い隠すものになることも、本書は指摘します。

 ヒトラー政権下の景気回復は、ナチスの「良いこと」としてよく挙げられ、じっさいに失業者が急減したことは確かですが、ヒトラー政権以前にドイツ経済が景気の底を脱していたことや、労働奉仕制により若年労働力の供給を減らしたことや、結婚奨励策で女性の離職を促したことや、世界恐慌以降に賃金が低く抑えられていたことなどが要因として挙げられています。ヒトラー政権下の「景気回復」は、青少年や女性や労働者の犠牲の上に成り立っていた、というわけです。また本書は、アウトバーン建設や雇用創出政策が景気回復において果たした役割は副次的で、軍備拡張こそ決定的だった、と指摘します。ヒトラー政権の経済政策は短期的には優れているように見えたものの、過剰な財政支出に基づく軍需経済に大きく依存しており、戦勝による領土もしくは勢力圏拡大がなければ破綻していただろう、というわけです。労働者の福利厚生措置もナチスの「良いこと」としてよく挙げられますが、統制強化に対する労働者の不満を埋め合わせるので、「民族共同体」の一員と認められた労働者のみが対象だったことを本書は指摘します。また本書は、ヒトラー政権下における労働者の生活改善策は、約束倒れか部分的実現に留まり、消費生活水準の向上にも社会的格差の解消にもほとんど寄与せず、それは軍需生産が優先されたからだ、と評価しています。

 経済政策や福利厚生措置ほどではないとしても、ナチスの「良いこと」として挙げられることが多いのは環境保護や動物保護ですが、本書は、ナチスの環境保護が「民族共同体」の保護と一体ものもので、動物保護政策の中核である屠殺の規制は露骨な反ユダヤ主義だった、と指摘します。また本書は、ヒトラー政権下での環境保護は戦争準備が加速する中で蔑ろにされがちであり、1936〜1945年にかけてドイツでは保護林が14%減少し、大学での動物実験も事実上容認された、と指摘します。さらに本書は、戦争こそ「究極の自然破壊」であり、第二次世界大戦を引き起こして環境面でも多大な損害を与えたナチ体制の環境政策から一部を抽出し、「良いこと」と評価するのにどれだけの意味があるのか、と疑問を呈します。

 禁酒や禁煙や癌撲滅運動もナチスの「良いこと」として挙げられますが、これは、ドイツ国民は「民族共同体」の一員であるべきで、そこから外れる人々は排除の対象になることと表裏一体で、「アルコール中毒患者」と診断された人々は「断種」され、癌の研究では強制収容所の囚人が人体実験の対象とされ、死亡した囚人もいました。さらに本書は、ヒトラー政権初期にアルコール消費量は減少したものの、これは世界恐慌による景気低迷のためで、経済が回復すると消費量は増加に転じ、煙草の消費量はヒトラー政権の前の1930年から増加し、物資が不足した1942年まで上昇し続けた、と指摘します。ヒトラー政権でも禁酒と禁煙が徹底されなかったのは、酒と煙草が重要な収入源だったからだ、と本書は指摘します。


 以上、本書をざっと見てきました。ナチス関連本を多少読んできたので、本書の見解は全体的に意外ではなかったものの、通俗的に言われるナチスの「良いこと」が網羅的に取り上げられ、その歴史的背景と意図と結果が解説されており、たいへん有益でした。正直なところ本書が、ナチスは「良いこと」もした、と主張する人々にどこまで届くのか分かりませんが、一定以上の好影響があるのではないか、と楽観したいものです。ナチスに限らずさまざまな分野で、本書のように通俗的な見解の問題を指摘する入手しやすい一般向け書籍は必要なのでしょうが、個人的な理想論で言えば、これは研究者が直接的に取り組むのではなく、報道機関も含めて大衆媒体が直接的にやるべきではないか、と以前から考えています。

 本書を読んで改めて思ったのは、ナチ体制は「民族共同体」の「発展」を至上目的としたものの、第一次世界大戦で生活水準の低下からの国民の不満により最終的に敗戦に追い込まれたことから、軍拡に特化せず経済および国民の生活水準の維持・発展にも注力することになり、それは事実上、戦勝での領土もしくは勢力圏の拡大でしか達成することのできない、「民族共同体」以外の人々にとって本質的に侵略的・略奪的なものであり、持続可能性はきわめて低かった、ということです。これは、「民族共同体」に含まれない人々には残酷な処置を厭わないことと表裏一体で、しかも、第2章で取り上げられているように、祖母がユダヤ人でも場合によっては政権獲得後のヒトラーとの「交流」が許されていたことから窺えるように、「民族共同体」の構成員の認定にもかなり恣意的なところがあったのではないか、と思います。こうした有力者の都合により認定が決まる「民族共同体」の「発展」と「利益」を至上命題とした体制の一部の政策を、「良いこと」と評価するのが妥当なのか、はなはだ疑問が残ります。確かに、「民族共同体」の一定以上の割合の構成員にとって、ナチ体制は「利益」をもたらしたとは言えるでしょうが、それは長期持続性のないものであり、何よりも収奪から殺害に至るまで「悪いこと」を前提とした場合もはなはだ多かったように思います。

 一方で、長期持続性との観点では、現代社会、さらにさかのぼって産業革命以降、あるいはもっとさかのぼって農耕牧畜開始以降の社会も、結局のところ長期持続的とは言えないだろう、との疑問もあるかもしれません。また、人間社会にはゼロサムゲーム的な側面が多分にあり、個人から会社や国家に至る組織まで、豊かな人々や組織の繁栄が貧しい人々や組織からの収奪に依拠している側面は否定できないように思います。その意味で、現代社会にナチ体制的な側面を認めて断罪することも、一つの見識かもしれません。ただ、それはやはり極論と言うべきで、人間社会において程度問題はきわめて重要であり、ナチ体制とさまざまな社会・体制がどの程度似ているのか、あるいは異なるのか検証し、必要ならば断罪しつつ改善していくしかないのでしょう。もちろん、その判断は時代の制約を受けるので、現代の判断が百年後どころか十年後には糾弾されている可能性も低くはありませんが、人間社会はそうしたものと受け止めて、極論に偏らず地道に生きていくことが重要なのだと思います。
https://sicambre.seesaa.net/article/202308article_5.html

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