★阿修羅♪ > 近代史4 > 1050.html
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ ★阿修羅♪
山本五十六の真実
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1050.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 26 日 11:41:16: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 昭和天皇はウォール街のエージェントだったので、共産主義者のルーズベルト大統領と対立して対米戦争を起こした 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 20 日 13:16:21)

山本五十六の真実@
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/655.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 04 日 17:26:08: 8qHXTBsVRznh2
 

山本五十六の真実@


まず最初にお詫びと訂正をします。

ゴードン・プランゲ著『トラ・トラ・トラ』を、山本五十六の弁護に使ったのは私の認識不足でした。
プランゲはGHQの諜報部門G2に所属する立場にあることは知っていましたが、
千早正隆氏の協力を得て膨大な資料と聞き取りで検証した力作であるという所感を持っていました。

しかし本書の目的はやはり、
真珠湾攻撃と山本五十六を分かちがたく結びつけるプロパガンダでした。
私の認識不足をお詫びします。

プランゲは貴重な資料をそっくり頂戴して、
奉職するメリーランド大学に「プランゲ文庫」を創設したそうです。
プロパガンダであることを念頭に置いても目を通す価値はあると、
今でも思っていることを付記します。
島崎和重隊長が当日の朝訓示を受ける写真を見ると、
いかに彼らが与えられた任務を遂行ずべく命を懸けたかが伝わってきます。


河合千代子についても私の認識不足でした。
彼女はシンプソン夫人と同類項であると考えるようになりました。
ヴィクター・ロスチャイルドはナチス・ドイツと八百長戦争をして儲けるために、
親ナチス派のエドワード八世に醜聞を仕掛けて排除したようです。
彼は自分のお城にエドワード八世を招待し、既婚で凄腕のシンプソン夫人を差し向けました。

シンプソン夫人は駐英大使リッペントロープ(後の独外相)とも愛人関係にあり、
ナチスドイツが英国に勝利した暁には「ナチス帝国イギリス領」をプレゼントする、
という餌が与えられていたと伝えられています。

ヒトラーとリッペントロープが二人の誘拐を図り、
それを阻止すべくチャーチルがMI6を動かす。
いざという時は二人を殺せという指令が出ていたようです。
チャーチルはエドワード八世の醜聞に一役買っていた張本人。
指令を出していたヴィクター・ロスチャイルドはMI5所属。
鬼塚氏によるとヴィクターはIQ184だそうです。
頭が良いだけでなく万能だったということです。

私は河合千代子もある意図を持って、山本五十六に近づいた刺客だと思っていす。
戦後になって河合千代子が自己申告した恋愛関係は捏造であると考えています。
19通だけ残したというラブレターの経緯について、
「大量にあったラブレターを海軍が没収し、
後で全て焼却するようにと返却してくれた。
19通だけ手元に残して焼いた。元は山のようにあった」
という証言は辻褄が合いません。
海軍が全て焼却すれば済む話です。
「海軍が自決を迫った」というのもマユツバです。
そんなに重要人物だったらさっさと片付けているでしょう。

里見ク(さとみとん)が昭和二十二年七月に発表した小説『いろおとこ』は、
真珠湾攻撃の二ヶ月前の山本五十六と河合千代子の交情を示唆する短編小説です。
里見クの家系図を見ると何と実兄の有島生馬が原田熊雄の妹と結婚している。
原田熊雄はヨハンセングループの中でも狂言回しを受け持つ重要な人物です。

阿川弘之の『山本五十六』に至っては、かなり露骨にバイアスが露骨が掛けられています。
工藤美代子は著書『海燃ゆ 山本五十六の生涯』で次のように指摘しています。

『千代子に関しては阿川弘之著「山本五十六」に詳しい。阿川は千代子について書くために五十六をテーマに選んだのではないかと思われるほど力を込めてこの女性を描いている。しかし、そのために、五十六と禮子(注 五十六の妻)が不仲であったと強調したり、禮子の人柄をおとしめるような記述がある。』

彼女は戦後、沼津御用邸の傍で料亭を開いています。
河合千代子を使って山本五十六を貶める。
そういうイメージ操作を図る勢力が裏にいたと思われます。
よって河合千代子の証言を引用したのは私の誤りです。
お詫びして訂正します。


では本論に入ります。


叩き台として中田安彦『山本五十六と聖書』を使います。
数ある誹謗中傷の中でも最低だと思うからです。
「・・・というのが私の仮説」
と称してくだらない言いがかりをズラズラと並べた挙句、
「検証する資料がない仮説だから証明できない」
と自らを免罪しています。
私はこんな卑怯な言辞を見たことがありません。


中田君、山本五十六は君の故郷の偉人ではないか。
どうして故人の心象を掘り下げてあげないのだ。
死人に口無しの誹謗中傷プロパガンダに飛びつくのだ。
私は君がこれほど情けないバカとは思わなかった。
山本五十六の無念を晴らすのは本来君の役目のはずだ。
君が山本五十六を貶め私が弁護してどうするのだ。


まず私の結論を述べます。


◎山本五十六は国家スパイでも売国奴でもない。

◎山本五十六は生きていなかった。

◎真珠湾攻撃は山本五十六の創案ではない。

◎真珠湾攻撃が準備されたのは第一次世界大戦の直後からである。

◎真珠湾攻撃の創案者はウイリアム・ヴィンセント・アスター卿である。

◎もしくは彼を中心とする親ドイツ派グループ「クリブデン・セット」である。

◎その元締めはドイツ国際問題研究所である。太平洋問題研究所はダミーである。

◎20世紀はドイツ・イルミナテイが乱を演出した世紀なのである。

◎英米は花形役者の役を振り当てられた囮である。

◎真珠湾攻撃のカウンターパートナーは昭和天皇である。

◎真珠湾攻撃は連合艦隊司令長官の宿命である。

◎山本五十六を人選した人物はヨハンセングループの中にいる。

◎総論

第一次世界大戦が終了した直後の1919年6月、
「パリ平和会議」という名前の次の戦争を練る会議が開催される。
日本の全権大使一行の内訳は西園寺公望、その私設秘書である近衛文麿、
牧野伸顕、その私設秘書である女婿の吉田茂。松岡洋右以下略。

直前の5月30日、世界に乱を演出して儲ける主要メンバーが集結する。
彼らはパリ・マジェステイックホテルの一室で談合し、
政府に政策(という名の悪事)を進言する(という形で命令する)機関として、
IIA、CFR、IPRを設立する。

この時IPRの創立に関わり財政支援したのがアスター家である。
真珠湾攻撃を創案したのはアスター卿を中心とする親ドイツ派グループ
「クリブデン・セット」である。

彼らはイギリスのバッキンガムにあるアスター家を本拠地にして、
英米を動かしてヒトラーを営々と育てる一方で日米を大戦に引きずり込む作戦を練る。

そしてこの黒幕はドイツ国際問題研究所である。
パリ平和会議日本全権大使一行としてヨハンセングループがパリに赴き、
そのシナリオを受け取り昭和天皇に渡す。

ヨハンセングループは真珠湾攻撃を演じさせる役者を物色する。
悪意に満ち姦計に長けた人選がなされる。
日米開戦に絶対反対派の海軍次官であり、
かつての「賊軍」の名家を継いだ者に白羽の矢を当てる。

やがて時は流れ1939年9月1日ヒトラーがポーランドに侵攻し、
チャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦の八百長が幕を切る。
直前の1939年8月30日に任命された海軍連合艦隊司令長官は、
真珠湾攻撃を遂行するために人選されたのである。

この連合艦隊司令長官は最初から汚名を被る宿命にある。
真珠湾攻撃の重要なポイントは鮮やかな奇襲ではなく、
わざと通達を遅らせ卑怯な騙まし討ちにすることにある。
アメリカ国民と議会を怒り心頭にし即参戦させ、
ジャップスを無条件降伏に追い込むまで戦争を継続させるためである。
八百長だから連合艦隊司令長官が第二次第三次攻撃を指揮することは許されない。


フリッツ・ズプリングマイヤー著『イルミナテイ 悪魔の13血流』太田龍監訳 KKベストセラーズ刊行より

以下抜粋

『ベルギー南部に一つの城がある。(その地を旅行してこの城を見たいという人がいれば、地図で場所を示してご説明しよう)。これはマザーズ・オブ・ダークネス城である。城の中には聖堂があり、この聖堂の地下室では毎日小さな赤ん坊が生贄にされている。そしてその血はインクとして、反キリストが権力を握っていく歴史を特別大きな本に書き込むのに用いられる。この書物は二十四時間ほとんど休みなしに書き込まれる。この手書きの本のなかの歴史を読めば、世界の主要なマスメデイアがだまされやすい大衆に対して行っている宣伝活動の裏に、どんな真実があるのか明らかになるだろう』

以上抜粋。


◎総論続き

マザーズ・オブ・ダークネス城で二十四時間書き継がれてきた歴史書には、
真珠湾攻撃の謀略の仔細が記されているだろう。
真珠湾攻撃を創案した者たちの意図、それが用意された時期、
そして日本の海軍連合艦隊司令長官にその役を振り当てた経緯が、
赤ん坊の血のインクで細大漏らさず書かれていると確信する。

スプリングマイヤー氏の前掲書より再び抜粋。


『一九一九年五月三十日パリ平和会議に向う代表団の主要メンバー数人がパリのホテル・マジェステイックに集まり、国際問題について各政府に進言を行うことを目的とした国際グループの設立を話し合った。国際問題研究所という名称はこの会議で決定した。』


『六月五日の会議では相互協力し合う別々の組織を持つことが最善であろうと立案者たちは決定した。その結果外交問題評議会(CFR)がニューヨークの本部を置き、その姉妹機関でチャタム・ハウス研究グループとしても知られているロンドンの王立問題研究所(RIIA)がイギリス政府に進言する目的で組織された。(注 ユースタス・マリンズによるとこの逆でIRRAの下部組織としてCFRが創設されたとしている)補助機関の太平洋問題研究所(IPR)は極東問題を専門的に扱う(だけでなく、真珠湾攻撃を助成する)ために設立された。』


以上抜粋。


◎総論続き

スプリングマイヤー氏は、

『同時にフランクフルトに設立された「ドイツ国際問題研究所』に関する研究は、これまで目にしたことがないが、このグループが第二次世界大戦の発生に、どのように関わったか調べてみれば興味深いだろう』

と重要な示唆をしている。
LEGACY OF ACHESの管理人様によると、、
地図には載せられていないロスチャイルド家の本拠地が、
ドイツの「ダッハウ」にあるという。
ナチス・ドイツの強制収容所のあった地である。

ロンドンのシテイーにあるロス茶帝国は、見せかけの囮だと私は考えている。
イギリスもアメリカも、所詮シナリオを演じる舞台に過ぎないのである。
戦争に明け暮れた20世紀は、英米が八百長の主役を演じた。
しかし想起してほしい。イルミナテイのルーツはドイツにあるのだ。

恐らく彼らの「約束の地」とはクリミヤでもなければ勿論イスラエルでもない。

再び前掲書より抜粋。

『男の仮の名はアダム・ワイスハウプト(一七四八〜一八三〇)である。・・・一七七六年五月一日・・・ワイスハウプトは、ババリア公国(ドイツ)のインゴルシュタットでルシファー[堕天使]を崇拝する秘密教団を設立した。教団の名は「イルミナテイ」。この名称は「光を受けた者」「啓蒙された者」を意味し、そのメンバーはルシファーから秘密の(同盟団の)教えを受けたということを示していた。ルシファーは彼らにとっての光を掲げる存在、あるいは光をもたらす源と考えられた。ワイスハウプトは同盟団の悪魔の血流から潤沢な資金と特別待遇を受けていたが、彼らにとって使い勝手のいい理想的な表看板、広告塔に過ぎなかった。』


『イルミナテイが存続する唯一の道は姿を隠し続けることだった。それゆえ入会者はイニシエーションにおいて沈黙の宣誓を行い、秘密保持を誓わされた。誓いの言葉の一部には「和あたしは永遠の沈黙と、教団への揺らぐことのない忠誠と服従を誓い・・・」とある、誓いの言葉はさらに続き、もしも教団を離れたりその計画を洩らすようなことがあった場合には、どのような恐ろしい目に遭うかを語ってゆく。』


『イルミナテイを詐術の壁の背後に隠しておくため、ワイスハウプトは信者に対して、悪魔の目標の達成については嘘をつくように言っている。「あるときはそれなりのことを言い、別のときには違ったことを言わなければならない・・・そうすれば、本当はどういう方向で考えているのか、私たちの心を読まれることはなくなる。」世間の目を欺く手段としては、表象やペンネームの使用がある。ワイスハウプトのまたの暗号名はスパルタカスだった。』


『十九世紀の終わりごろになるとイルミナテイは外貌を変え始める。高位階の者が害のなさそうな名称でうわべだけの組織を作り、自分たちの会合を隠蔽し始めたのである。一九〇一年にはアスター家が尽力してピルグルム・ソサエテイ(巡礼者会)なるものが創設された。これは英米のイルミナテイのうち、プリンスと呼ばれる六親等のメンバーのための隠れ蓑である。』


『一九一九年、RIIAが作られ、アスター家はその財政支援の中心となった。RIIAは四親等以内のイルミナテイの隠れ蓑として機能している。アスター家はまた、イギリス版スカル&ボーン・ソサエテイともいうべき「ザ・グループ」のなかでも飛び抜けた存在となっている。イギリスではアスター家とその他の約二十の血族が「ザ・グループ」を支配している。』


『アスター家は他にもオーウエン・ラテイモアをアヘン貿易の代理人として使い、その代わりにラテイモアは、IPR(太平洋問題研究所)から資金を受けていたローラ・スペルマン(カトリック枢機卿)を利用していた。IPRは、イルミナテイの決定に従って、アヘン貿易に参加した中共を監督した。』


『世界の大事件の後ろで人形を操る意図は一般大衆には見えないかもしれない。が、いくつかの大事件の根源をたどっていけば、アスター家が手を貸して糸を引いていることが分かる。例えば、IPRは真珠湾攻撃の下地作りを助成した。』


以上抜粋。

◎総論続き

アスター家はドイツ南西部から、アメリカに移民してきたルーツを持つ。
ドイツ・ハイデルベルクでの魔女集会で、指導的な役割を果たしていた一族である。
アメリカに移住して、サタン崇拝のエリートたちを支配し、
麻薬貿易の他に、毛皮貿易を独占して貴族階級の地位を確保し、
その後イギリスに移住して貴族となる。

彼らは代理人を通じて、現在もアメリカで強大な金融力を振るっている。
アスター家のコレクションのなかに、ルーズヴェルト大統領の祖先デラノ家が入る。
デラノ家は千年以上も続くベネチアの黒い貴族の一つである。

アスター家は「IPR」を財政支援する一方で、「クリブデン・セット」を組織する。
アスター卿の屋敷に出入りする、親ドイツ派の政治家や金融家たちグループである。
彼らは営々とヒトラーを育てて「乱」を演出し、「真珠湾攻撃」の下地作りをする。
アスター卿はイングランド銀行の深奥にある小部屋に出入りを許されている。
ここが「世界権力政府」のロッジである。

私は真珠湾攻撃の創案者はヴィンセント・アスター卿だと思う。

鬼塚英昭著『20世紀のファウスト』成甲書房より

以下抜粋。


『二十年前の資料によってもアスター家の資産は四百億ドル以上である。ロスチャイルド家、ロックフェラー家と並ぶ世界の大富豪である。そのジョン・ジェイコブ・アルターはイギリスに渡って金で貴族の地位を買い、アスター卿となった。息子のウイリアム・B・アスターはアメリカの各企業に投資して巨大組織を作った。』


『一九一九年、RIIA(王立国際問題研究所)がつくられ、アスター家はその中心となった。ここからCFR(外交問題評議会)が生まれた。このことはすでに書いた。ハリマンとヴィンセント・アスターは長年の友人だった。ヴィンセント・アスターは「ヴィンセント・アスター財団」をつくり、アメリカの世論を対ドイツ戦に誘導しようとした。アスター家は、イギリスとアメリカで正反対の行動をとるのである。では彼らは仲違いしたのだろうか。ここに戦争がどうして起こるかの秘密がある。彼らはユダヤ王ロスチャイルドの「標準操作方式」を採用しているのである。』


『ヴィンセント・アスターについてもう少し書くことにしよう。イギリスのアスター家が「クリブデン・パーテイー」』を作り、ナチス・ドイツを讃えていた頃に、ヴィンセント・アスターを中心とした「ルーム」と呼ばれる秘密組織が出来た。アスターは情報を収集するために「ルーム」に人員を集めた。この情報をルーズヴェルト大統領に伝える一方で、アメリカの世論を誘導するための活動に入っていった。』


『アスターはセオドア・ルーズヴェルトの次男カーミット・ルーズヴェルトをこの「ルーム」に入れた。チェース・ナショナル銀行頭取のウインスロップ・オルドリッチも加わった。「諜報活動と破壊活動には金がかかる」とは、アスターがよく使っていた言葉である。』


『イギリスのバッキンガムにあるアスター卿夫妻の別荘に時折、奇妙な人々が集まり世界情勢について話し合っていた。その一部の政治家と金融グループは「クリブデン・セット」と呼ばれていた。ロンドン・シテイ(ユダヤ王ロスチャイルドの完全支配化にある)と金融業会から「多額の資金援助」を受けていた親ドイツ派グループであった。彼らは、ロックフェラー、モルガン、ハリマンなどのニューヨーク・ウオール街関係者たちと一脈を通じていた。当時の駐英大使ジョセフ・ケネデイ(JFKの父親)もこの一派とみなされていた。』


『イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマン卿とハリマンにとって深い関係にあるのがアスター家である。このアスター家を知ると、戦争がどうして、何のために起こるのかが分かってくる。』

『イングランド銀行の深奥の部屋の中には、棺桶とアカシアの小枝が置かれている。この部屋に入った者はみな、誓いの言葉を述べるのである。”私はこれによって、ここにおいて、私が授かった、または授かろうとしている、あるいは将来授かるであろういかなる技術も、秘術も、古代フリーメーソンの神秘も、いつも喜んで受け入れ、隠匿し、その一部を一点たりとも決して外部に漏洩しないことを、最も厳重に心より約束し、誓います。”』


『イングランド銀行のロッジには世界の秘密が隠されたままである。イギリス王室、ロスチャイルド、ブラウン家以外にも、アスター家、サッスーン家、デボンシア家などの貴族が、このロッジに入ることができる。このロッジの中から、世界権力政府が数々の人材を世に送り出すことになる。イギリス首相のチャーチル、アメリカではルーズベルと大統領を操ったバーナード・バルーク、そして、レーニン、スターリン、ヒトラーたちである。』


『ヒトラーを支援し、総裁の地位に押し上げたのはイギリスの「クリブデン・セット」であるとすでに書いた。アスター子爵家に集う政治家ないし金融街シテイの連中のことだが、このアスター一族のほぼ全員RIIAのメンバーであった。中でも、M・L・アスターはタイムズの会長であり、ハンブローズ銀行の役員でもあった。タイムズ紙はRIIAの管理下にあることを知る必要がある。』


『RIIAの連中は「クリブデン・セット」を使い、一方でヒトラーに資金援助し、ナチス・ドイツを強大化し、同じやり方でヒトラー打倒の手を打っていくのである。こうすれば、戦争が勃発し世界が混乱するから、不幸な人々の富を奪い得るのである。一極集中の権威は戦争の中からしか生まれてこないのである。ユダヤ思想と反ユダヤ思想とは、黒い貴族たちの間では決して矛盾するものではない。彼らの思想の根底にはヘーゲル哲学の「決定論」が脈打っている。これを金儲けに応用しているのである。二つの相対する勢力をでっち上げ、これを互いに闘わせて、一つの「総合」を得るという方法である。親ユダヤ対反ユダヤの効果として、一つの総合であるユダヤによる世界統一
政府が出来るというわけである。』


『日露戦争を見るとこの方法が採用されたことがよく理解できる。ロスチャイルドは「西洋の敵」である日本に援助を与えた。それは帝政ロシアを滅ぼすための一手段として、日本を利用しようとしたのである。では日本が敗北していたらどうなっていたか。日本の諸権益を奪えばそれでよかったのである。債権を持つロスチャイルドは日本銀行をイングランド銀行やアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)のような組織にしたであろう。ユダヤ王ロスチャイルドは、金を貸して利を得ることが第一の目的で、日露戦争に協力したということなのである。従って、次に日本を敗北させてしまえば、日露戦争で儲けた分の数十倍も金が儲けられると計算したということである。日露戦争から第
二次世界大戦にいたる軍拡国家日本に巨大な投資をし、巨大な利益を上げた。そして一気にぶっ壊すべく動いたのである。』


以上抜粋。


◎総論続き

ロス茶一族のバーナード・バルークと、
CFRの創始者であるエドワード・マンデル・ハウス大佐が、
フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトを大統領に育てる。

アメリカに留学していた牧野伸顕と、ハウス大佐は知己である。
宮廷政治の王・牧野のお膳立てで、女婿の吉田茂がハウス大佐と面談する。
「外交感覚のない国民は必ず凋落する」
という有名なアドヴァイスを貰うのである。
この場合「外交」というのは連中の「シナリオ」のことである。

牧野伸顕の娘であり吉田茂の妻でもある雪子は、
グルー大使夫人アリスの大の「親友」になり、
「シナリオ」に沿った洗脳教育を施されている。
アリスはペリー総督の末裔でピカピカノイルミナテイである。
アリスの夫のグルーはヨハンセングループと連中の情報交換の窓口である。

牧野雪子と鍋島信子と九条節子(後の貞明皇后)。
アリスはこの全員と付き合いがある。
アリスの娘のエルシーも凄い。
雪子の娘・和子も、信子の娘・勢津子とも付き合う。
そこに来栖三郎の娘・ヤヱが加わる。

鍋島信子は元会津藩主・松平容保候の四男松平恒雄と結婚する。
信子の長姉は梨本宮伊都子、次姉は加賀前田家の当主に嫁ぐ。
凄い名家である。この信子と松平恒雄が結婚するのだ。
信子は貞明皇后に14年間仕えている。

貞明皇后と松平家の深い絆は更に強化される。
貞明皇后は盲愛する秩父宮の嫁に松平恒雄の娘を所望する。
使者に立てられたのは「堅く結ばれている」樺山愛輔。

松平恒雄が駐米大使としてワシントンに滞在中の縁談である。
この時の大使館付き海軍武官が山本五十六である。
会津藩と同盟を結んでいた長岡藩の山本家を継いだ五十六に、
松平恒雄は好意を抱いて家族ぐるみの付き合いをしている。
五十六は勢津子を中華料理店に連れ出してご馳走したりしている。

鬼塚氏によると後の2・26は皇位奪取を狙った秩父宮の画策だという。
これは松平恒雄を岳父に仰いだ第二の戊辰戦争だと私は思う。
起爆剤を仕込んだのは極端な長州嫌いの貞明皇后である。

貞明皇后がその出自ゆえに極端な長州嫌いであること。
貞明皇后と昭和天皇の間に確執があること。
これを理解するこが昭和の闇を解くことに繋がる。

昭和天皇は愛を知らない。
そして2・26の後で変貌を遂げる。
日本史上空前のモンスターになる。
私にはそのように見える。
これについては次回以降詳説する。

恒雄の娘・勢津子は、樺山愛輔の娘・正子と親友である。
松平恒雄と樺山愛輔も親友同士である。
樺山愛輔と吉田茂もご近所同士で親しい。
そこへ吉田の紹介で白洲次郎が加わる。
樺山愛輔邸に出入りして娘の正子と結婚する。

正子&次郎人気を煽るプロパガンダ写真集を眺めると、
白洲次郎の容貌も言動も日本人ではない。
彼は日本人を指して「They」と呼ぶ。日常語も英語である。
父親が破産して山奥に逃げ込んでいるのに、オックスフォードに留学して外車を乗り回す。
鬼塚氏は白洲次郎はウオーバーグの庶子でOSSエージェントだと指摘する。
吉田茂もコード名「ヨセフ」、CIAの最高傑作だという。

牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎、原田熊雄、岡田啓介が、
開戦と敗戦のシナリオ(外交感覚)を知悉して演じていくグループである。
トップには昭和天皇と貞明皇后がいる。
彼らは憲兵隊に「ヨハンセングループ」と名づけられ見張られている。
しかしこれもシナリオに沿ったヤラセである。
吉田は敗戦直前に逮捕され戦後をリードする経歴を手に入れている。
山本五十六は貞明皇后に連なる松平恒雄を通して、
こんな連中に挟まれていたのである。

海の向こうでもシナリオは着々として進行している。
ルーズヴェルトが大統領に就任する直前に、ステイムソンが打ち合わせに入る。
一九三三年一月フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領は、
”極東に揉め事を引き起こすこと必定”
と批判された「ステイムソン・ドクトリン」を引っ提げて歴史の表舞台に登場する。
以後、アメリカ史上空前絶後の大統領選四選を果たしつつシナリオを演じて行く。

一九三三一年一月、ほぼ同時にヒトラーが政権に就く。
極端な善玉と悪玉を東西に配置し、
12年後に同時に舞台から退かせる構想である。
やがてヒトラーに侵略戦争を開始させ、
徹底抗戦派のチャーチル英首相を登場させる。
次にバルバロッサ作戦で、
ヒトラーにスターリンを侵攻させ役者を揃える。

バルバロッサ作戦は日本に対英米戦争を開始させる合図でもある。
シナリオでは開戦劈頭「真珠湾攻撃」の「騙まし討ち」をさせることになっている。
アメリカ国民を怒り心頭に発させ、無条件降伏に追い込むまで戦争を継続させる。
一九一九年のパリ平和会議でIPRが設立され「真珠湾攻撃」が創案された当初から、
「リメンバー・パールハーバー」は決定済み事項なのである。

では『20世紀のファウスト』ことアヴェレル・ハリマンに、以上の経緯を総括して貰う。


『ハリマンがドノヴァンと同時に、ルーズヴェルト大統領の陣容に入れるために動かした人物がいた。その男の名はヘンリー・ステイムソンという。ハリマンの古い友人の一人である。ステイムソンはハリマンと同じエール大学出身。しかもスカル&ボーンズの会員であった。ハリマンの先輩として、ウオール街でハリマンの仕事を手伝うパートナーとして、深い友情で結ばれていた。ステイムソンは黒い貴族の中でも特別の存在だった。ユダヤ王ロスチャイルドに最も近い人間であったからだ。世界権力(ザ・オーダー)の中にいたのである。大統領を動かすアメリカの黒幕だった。』


『大統領就任式まであと二ヶ月と迫った一九三三年一月九日、ルーズヴェルトはハイドパークの私邸にステイムソンを迎え、五時間に及ぶ二人だけの会談をした。この会談から一週間後、ルーズヴェルトはステイムソン・ドクトリンの支持を表明する。産経新聞取材班の『ルーズベルト秘録』のなかに、ルーズベルトのブレーンのレイモンド・モーレイが嘆く場面が描かれている。「・・・・・極東に大きな戦争を招く政策を支持したのと同じことだ。いずれ米英が日本に対して戦争を仕掛けることになるかもしれない」モーレイの予感は見事に的中した。あの五時間に及ぶ会談こそが、世界権力(ザ・オーダー)がルーズヴェルトを見事に説得し終えた証左であった。』


『ルーズヴェルトは大統領に就任する前に、真珠湾攻撃のスケジュールをステイムソンから知らされていたものと思われる。ルーズヴェルトの見張り役であるラファイエット・パークのバーナード・バルークのお目に適ったステイムソンは、「ジャップスに真珠湾をやらせよ」を実現させる役を引き受けたのである。大統領も国務長官も、ロックフェラーやモルガンやハリマンたちより権力を持っていないのである。アメリカを実質的に支配するのは「合法的マフィア」である。そして彼らの背後にユダヤ王ロスチャイルドがいて、「合法的マフィア」を操るのである。』


『ハリマンがユダヤ人の実業家バーナード・バルークとアメリカの将来について話し合いを持つようになったのは、一九三一年から一九三に年の間であろう。バルークは、共和党のハーバード・フーバーに代えて、民主党のフランクリン・D・ルーズヴェルトを大統領にしようとしていた頃であった。ルーズヴェルトをニューヨーク州知事に祭り上げた主役はバルークであった。』


『一七〇〇年代、ドイツのフランクフルトにユダヤ人ゲットーがあった。その中に軒を寄り添うようにして、ユダヤ王ロスチャイルド家、カーン家、シフ家、そしてバルーク家があった。彼らはこのゲットーの中から出発した一族であった。バルークは第一次世界大戦のときウイルソン大統領の顧問となり、アメリカを戦争に導いた男だった。戦争産業局の長官となり、アメリカの軍需産業の利益のために活躍した。ハリマンの父エドワードの投機株を一手に引き受けてもいた。この関係は、父が亡くなってからも続いていた。バルークはハリマンにロスチャイルドの意向を伝えていたのだろう。』


『バルークはユダヤ人なのでWASPたちの名門クラブには入れなかった。そこで、ユダヤ人経営者たちを仲間に誘い、秘密結社的なクラブを作った。それは「ラファイエット・パーク」と呼ばれるようになった。このクラブには、バルークとともにウイルソン大統領を操ったエドワード・マンデル・ハウス大佐が加入した。アヴェレル・ハリマンやルーズヴェルト大統領の叔父フレデリック・デラノも、このクラブに顔を出すようになった。』


『ホワイトハウスから道を隔ててラファイエット・パークがある。この公園と同じ名前をつけた秘密クラブは「第二のホワイトハウス」とも呼ばれた。このクラブの中で武器貸与法の法案が作られたのである。ルーズヴェルトを大統領に育て上げたバルークとハウス大佐は、ルーズヴェルト大統領をラファイエット・パークの密室に呼びつけ、数々の政策の実行を迫った。この当時、アメリカの人々は、武器貸与法はイギリスとフランス、そしてポーランドに適用されると思っていた。それがソヴィエトに適用されると知り驚いたのである。ハリマンはスターリンと会見すべく海路モスクワに向う艦船の中で「与え、与え、そして与えよ、一切の見返りを考えず」と語り、記者団を驚かせた。』


『航空機だけをとっても一万機以上、戦車も軍需用燃料もタダで、しかも無尽蔵に近いかたちでアメリカから受領した。「貸与」ではあったが、戦後も返さなかった。アメリカも強く「返せ」とは要求しなかった。これも八百長と言われても仕方がない。戦争が終わった瞬間から、アメリカはソヴィエトを「悪の帝国」と言い出すのだから。』


『また、バルーク一族の財務長官ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアもこのパークの密室に出入りし、アメリカの財政についてバルークやハウス大佐と相談し、大統領にメモや書類を渡してアメリカの政治そのものを動かした。ルーズヴェルトが大統領に就任する前、一つの密約が成立していた。大統領はモーゲンソーの「メモ」の内容に無条件に従うというものである。ブラウン・ブラザーズ・ハリマン社がナチス・ドイツへの投資窓口となったとき、正式な国交もなく政府の保証もないのにウオール街が湯水のように資金を投資したのは、秘密裡に米大統領の保証を得ていからである。』


◎総論続き

イギリスでヒトラーを育てた「クリブデン・セット」。
ホワイトハウスを操る「ラファイエット・パーク」。
では宿命の「連合艦隊司令長官」役に山本五十六を配した人物は誰か。

真珠湾攻撃の反対派を押し切るためには人望と実行力がいる。
それを兼ね備えている五十六の人となりを知る人物である。
一九一九年のパリ平和会議における日本全権大使一行、
すなわち「ヨハンセングループ」の首魁・牧野以下に連なる人物が仲介し、
最終決定者は昭和天皇その人であると私は考える。

山本五十六が「連合艦隊司令長官」に任命されるのは1939年8月。
その翌月9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻する。
チャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦が勃発する。
この時期に「連合艦隊司令長官」に選ばれた者が「真珠湾攻撃」を遂行する。
「真珠湾攻撃」は「連合艦隊指令長官」の宿命なのである。

「ナチスがポーランドに侵攻しただけで何で世界大戦になるの?」
という素朴な疑問を橋本治が呈している。そういうシナリオなのである。
山本五十六は「いつのまにか真珠湾攻撃を口にするようになった」ということになっている。
「いつのまにか」ではなく第二次世界開戦の翌年1940年11月に口にしている。
開戦は避けられないシナリオでなのある。五十六は自分に降りかかった宿命を悟る。

その翌年1941年1月には極秘裏に昭和天皇と検討に入る。
「真珠湾攻撃」を成功させて早期和平を図る。
死地に活路を見出すしかない。

しかし「奇襲」ではなく「騙まし討ち」であること。
早期和平はあり得ないこと。いざとなったら使い捨てであること。
それらは当然伏せられていただろう。

五十六は真珠湾攻撃を大西田瀧次郎と源田実に検討させ、
作戦会議に臨んで断言する。
「真珠湾攻撃が認められなかったら司令長官を降りる」
「本職が連合艦隊司令長官にある限り、真珠湾攻撃は絶対に遂行する」
五十六がブラフをかけたと非難されるネタの一つである

私はこれは五十六の身を振り絞るような逆説だと解釈する。
「連合艦隊司令長官」である限り「真珠湾攻撃」をしなければならない。
攻撃作戦を裁可させることが出来ない場合、司令長官の職を辞すまでである。

そして実際にそういう道もあったのである。
しかし五十六は攻撃を遂行する道を選ぶ。
どうして五十六は降りなかったのか。

この続きは次回に述べます。
中田君の『ジャパンハンドラーズと国際金融』の検証は、
その後にやります。もう少しお待ちください。    

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 2020年9月26日 11:42:40 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[13] 報告
山本五十六の真実A吉田茂を中心にシナリオを読み解くと真実が見えてくる
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/674.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 16 日 14:54:57: 8qHXTBsVRznh2
 

五十六を連合艦隊司令長官に任命した人物は1919年パリ講和会議に出席している。
その人物はヨハンセングループの中にいると前回書いた。
ヨハンセングループとは、憲兵隊に付けられた吉田反戦グループをもじったものであるが、
牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎らが本命であって、他のメンバーは目くらましである。
その中でも本命はこの世に生まれおちた時からアヘン王の掌中にあった吉田茂である。
起きた事象を逆照射すると吉田茂が姿を現わす。彼こそがシナリオの主人公なのである。
CIAの最高傑作といわれる吉田茂とは何者か。
彼はザ・オーダーの隠し玉である。


1939年8月30日に連合艦隊司令長官に任命された人物は、
1919年ヴィンセント・アスター卿らによって準備され始めたシナリオを演じる宿命にあった。
アスター家は奴隷と麻薬貿易でオールドマネーに成り上がったドイツ移民である。
アスター卿と吉田茂はザ・オーダーの最終兵器である麻薬で繋がっている。


真珠湾攻撃のヤラセはまず人事移動から始まる。
人事の動きを見ると汚れ役が山本五十六に押し付けられると同時に、
舞台から退場したキーパーソンがいる。駐英大使・吉田茂である。
吉田はこの時以降現役から退き、戦時内閣とは一切関わらないようにしている。


吉田は1937年9月3日帰朝命令を受け、11月29日に帰国する。
帰国と同時に外務省を退官する決意を固めている。
吉田が退官願いを提出するや1938年3月20日付けで、
「願いにより本官を免ずる」との辞令が出され、戦争が終了するまで浪人生活を続ける。
浪人中の吉田茂は新橋の芸者通いをしながら、家族ぐるみでグルー米国大使一家と交歓する。
その吉田が引っ込んだ5ヵ月後、19398月3日付けで山本五十六が連合艦隊司令長官に任命され、
その二日後の9月1日ヒトラーがポーランドに侵攻、即座にチャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦が始まる。
一年後の1940年9月に三国同盟が締結され、同時期にナチス・ドイツがロンドン空爆を開始するのである。


「明治維新」によって確立した体制はトロイの木馬のようなものである。
「国体の精華」とはコンプラドールが権力の中枢を把握する体制なのだ。
この体制は戦後も不変である。邪魔になる人物は戦死か暗殺か戦犯処刑で始末された。
五十六の暗殺には吉田茂と白洲次郎と海軍主計が関わっている。
功を立てた海軍主計は、若手議員となって吉田内閣の予算委員会で原発導入を通過させた。
中曽根康弘である。原発利権の主役は中曽根&正力ではなく吉田茂&中曽根康弘なのである。
白洲次郎は原爆投下の交渉まで主役を務め、やがて講和条約締結の後は主流から外れる。
しかし彼は死ぬまで任を解かれることのない掟に生きなければならなかった。
彼は生まれた時からそのように育てられ墓場まで秘密を持っていった。


白洲次郎は生涯エージェントとして終わったが、吉田茂は第二の伊藤博文になった。
伊藤博文はアヘン王サッスーンが派遣したグラバーに魂を売り渡した下忍(インテリジェンス)である。
吉田茂も生後10日で吉田健三のもとに養子に出され長じて同じ道を歩む。
実父の竹内綱も養父の吉田健三もジャーデイン・マセソン商会の旨い汁を吸った仲間同士だ。
吉田健三は用済みになるや49才で心臓麻痺で急死させられ、茂に60億の遺産を残す。
茂は外務次官になるまでにこれを蕩尽したが、『使途は不明』というのが通説とされている。


吉田茂が白洲次郎と違って決定的に有利だったのは、自分のカネをもっていたことである。
ヴィンセント・アスターは「諜報活動には金がかかる」と言っている。
吉田茂は潤沢な資金を元手に、独自のコネクションを創って秘密工作を仕掛ける。
白洲次郎は独自のコネクションを持つことができないので、吉田茂の右腕となる。
吉田茂と白洲次郎には厳然とした違いがある。


『吉田茂は、明治11(1878)年9月22日生まれである。その業績は誰もが承知するところだが、奇妙なことながら吉田の出生にまつわるいくつかの問題にはまるで霧がかかったように曖昧なまま時間が過ぎてきた。昭和42年10月20日に没するまで、89年に及ぶ波乱の生涯を通じて、はっきりしているのは誕生日だけである。吉田がどこで生まれたか、母はどういう立場の女性だったのか−吉田茂という、これだけの人物にしてなお肝心な点が不明瞭なまま諸説乱れ飛んでいるのが実情である。吉田自身、長じて自らの出自や幼年時代を語ることをあまり好まず、かえって出生にまつわるなんらかの影を負っていたのではないかと後年指摘される素因ともなっている』(工藤美代子『赫ヤクたる反骨 吉田茂』日本経済新聞出版社より)


『さて、養父・吉田健三についてである。彼は嘉永2年(1849年)5月6日、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として生まれ、親戚の家を継いで吉田姓となった。元治元年(1864年)、15歳の時、大阪に出て医学を修めたが、これからは英学の時代だと思い直し、長崎への留学を決意する。そして慶応2年(1866年)には何と密航を企てる。見つかったら死罪だが、長崎から英国の軍艦にうまくもぐりこんだ彼は雑役夫として働かせてもらいながら、上海からシンガポールを経て欧州へと渡った。イギリスには二年滞在。この間に養った語学力がその後の彼の人生を決定付けた。ちょうど帰国した年に明治維新があり、健三は自分の時代が来たことを実感する。

まず手はじめに川村純義海軍卿(白洲正子の祖父)に食い込み、彼から軍艦二隻の発注を受けた。ジャーデイン・マセソン商会を通じて英国に注文を出した。当時、ジャーデイン・マセソン商会は極東における最大最強の英国商社である。とりわけ明治維新前後は最盛期に当たり貿易のみならず金融、海運、倉庫、保険、紡績等を世界各地に展開して巨利をあげていた。日本では横浜に支店を、長崎、兵庫、大阪、函館には代理店を置いていた。ちなみに長崎の代理店を任されていたのが、長崎名所のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーである。そのうちジャーデイン・マセソン商会は無給でなく月給300円(現在の600万円ほど)という破格の待遇をするようになる。土佐自由党の竹内綱は、高島炭鉱の経営に関してジャーデイン・マセソン商会・長崎支配人のグラバーと手を組んだことから、健三とも急速に親密の度を加えていった。』(北康利『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』講談社より)


『吉田健三には並々ならぬ蓄財の才があったことが証明されている。商才に加えて、自信と勤勉さが備わっていた。彼は真冬でも午前四時に起きて、家族や使用人を叱咤して仕事を始めた。蓄財を重ねていた吉田健三は、当時の金で実に遺産五十万円という大金を養子の茂に残して亡くなった。茂が相続した遺産五十万円はその割合でみれば、なんと六十億円という莫大なものである。ところが茂は昭和初年の次官就任時頃までにはその遺産の大部分を使い尽くしてしまった。』(工藤美代子前掲書より)


戦後吉田と組んだ昭和天皇は奇しくも言った。
「戦前戦中戦後を通じて私に矛盾は無い。天皇制も連続している。
明治天皇が五箇条の御誓文で、すでに今日の民主主義の基礎を築かれていたからだ」
目を剥く方もいると思う。私もその一人だったが、しかしそれは思慮が足りないのである。
大宰相吉田茂に焦点を合わせ、明治以来の事象を逆照射すると確かに連続している。
彼を機軸にシナリオを読み解くと、福島原発事故に至る今日まで連続線が引かれている。
これを反対に遡れば、田布施村から輩出された連中が引いた始点に繋がっている。
その始点はアヘン戦争から始まる。

『「アヘン戦争」は調べれば調べるほど、むごい戦争(汚い麻薬戦争)だったことが分かる。1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳 舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)には、次のような言葉が書かれてある。「『アヘン戦争』は、単にイギリスによるアヘン貿易強行のための中国侵略戦争以上の意味を持っている。この“西からの衝撃”によって、我々の住む東アジアの近代史の幕が切って落とされたのである。」

この「アヘン戦争」は、イギリスの「サッスーン家(財閥)」を抜きにして語ることはできない。「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、バグダッド(現在のイラク)で活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへ進出(移住)した。

デビッド・サッスーンは、1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。(※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。


1773〜1842年の「三角貿易」体制 イギリスは、アジアとの貿易を行なうため、1600年に「東インド会社」を作った。アヘンを大量に送り込まれた清国では、アヘンが大流行して社会問題となった。やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。その意味では、「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。


ところで、中国大陸において「サッスーン商会」と並んで二大商社の名を馳せたのは、「ジャーディン・マセソン商会」である。この会社は、イギリス系商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、1832年に中国の広州に設立された貿易商社である。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。この「ジャーディン・マセソン商会」は、日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス・グラバーが長崎代理店(「グラバー商会」)を設立したことで知られている。横浜にも、1859年に英商ウィリアム・ケスウィックが支店を設立。商館は地元民から「英一番館」と呼ばれていた。


トーマス・グラバーは、1859年に英国から上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。その後、開港後まもない長崎に移り、2年後に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立。貿易業を営みながら、薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売した。幕末維新期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への洋銃売り渡しに関わっていたが、その中でも英商グラバーの販売量は突出していた。


彼はのちに「三菱財閥」の岩崎家の後ろ盾となり、キリンビールや長崎造船所を作った。日本初の蒸気機関車の試走、高島炭鉱の開発など、彼が日本の近代化に果たした役割は大きかった。1908年、グラバーは「勲二等旭日重光章」という勲章を明治天皇から授けられ、この3年後(1911年)に亡くなった。墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の観光名所になっている。ジャーディン・マセソン・グループは、今でも「マンダリン・オリエンタルホテル」を経営し、14ヶ国に26の高級ホテルを展開しており、現在もアジアを基盤に世界最大級の貿易商社として影響力を持っている』(http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe100.html『アヘン戦争の舞台裏』より)

『ジャーディン・マセソン商会の前身は東インド会社で、元は貿易商社。1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。同じロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。

清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。

1859年(安政6年)、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)が横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立。日本に進出した外資第1号としても知られる。後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を勤めていた。鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。1863年(文久3年)、ウィリアム・ケズウィックは井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の長州五傑のイギリス留学を支援する。彼らの英国滞在は、ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話した。

一方長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。グラバーは、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。その他、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。ウィリアム・ジャーディン - 創業者 ジェームス・マセソン - 創業者 ケズウィック・ファミリー - オーナー家 トーマス・ブレーク・グラバー - 「マセソン商会・長崎代理人」としてグラバー商会を設立 吉田健三 - 元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長(内閣総理大臣吉田茂の義父)』(ウイキペデイアより)


『日本は、1842年、アヘン戦争の結果、中国の実権が皇帝から宋財閥のものとなったこと、そしてこの宋財閥はサッスーンの代理人であったこと、さらにはサッスーンは英国ロスチャイルド家の東アジア代理人であったこと、そして最後に、英国ロスチャイルド家は初代ロスチャイルドがヨーロッパ五カ国に張り巡らした金融寡頭権力体制オリガルキーの中核であったこと、このロスチャイルド家は19世紀中葉、世界の富の大半を支配下に置いていたこと、こうした東アジアをめぐる世界の激動について何も知らない。上海に拠点を構築した英国ロスチャイルド、サッスーンは、日本が欧米列強によって半植民地状態に置かれると、間もなくトーマス・グラバーを長崎に派遣して、英国系フリーメーソン駐日代表、および英国の日本占領作戦の前線総指揮たらしめた。グラバーは二十歳代の若者に過ぎないが、その背後にひそむ勢力が日本人には見えない。』(太田龍『長州の天皇征伐』成甲書房より)


『トマス・ブレーク・グラバーはスコッチ・メーソンで、上海経由で長崎に渡ったのは1856年、21歳の時である。グラバーは長崎で海産物の輸出をしていたが、薩摩、長州、土佐、肥前の諸藩に倒幕の機運が生じたので、鉄砲、弾悪、火薬を諸藩へ調達した、薩摩の小松帯刀と親しくなり、小松を通じて土佐の坂本竜馬を職り、坂本竜馬とは特別な関係を持った。薩長離反のときなどには坂本竜馬に薩長同盟の組み立てをさせて革命勢力の統一を計っている。また坂本竜馬を通じて岩倉具視と親しくなり、官邸にも接近、日本とヨーロッパを結ぶ楔の役目をしている。とくに木戸孝允、伊藤博文、井上馨、五大友厚、森有礼、寺島宗則などには、公私の交際を続け、明治革命の裏方の役目を果たしている。(山石太郎『世界の改造者−楽園を創るフリーメーソン物語』世界連邦国際学会より)

『伊藤は松蔭の推薦で米原良蔵に従って長崎に行き、約一年間イギリス人グラバーの下僕として英語を学んだ。伊藤博文が成功した理由は、彼がれっきとした武士ではなく貧農の出身であったために、グラバー邸のハウスキーパーとなり、その愛顧を得て鉄砲の買い付けに成功したこと、および力士隊の総長として大室寅之祐と親しくしたことの二つである。伊藤は自らイギリス人グラバーの下僕となって武器弾薬を入手し、ついにイギリスの差別と侵略の政治を模倣した。』(鹿島昇『日本侵略興亡史』より)

『明治新体制になると、グラバーは日本に帰化して「倉場」と改姓し、日本人女性と結婚して一家を構えている。今日でも長崎には「グラバー邸」跡が保存され、いわゆる観光名所である。そこにはフリーメーソンのシンボルが刻印されており、幕末、このグラバー邸が、西洋フリーメーソンの策源地であったことを証明している。日本帝国内閣総理大臣伊藤博文が、そのグラバーの下男であったとはどういうことだ。通常の歴史書には、グラバーは「英国商人」「英国武器商人」「グラバー商会の長」として、ほんの申し訳程度に登場するに過ぎない。』(太田龍『天皇破壊史』成甲書房より)

太田龍『麻薬とユダヤの陰謀史』成甲書房より

以下抜粋。


『英国が中国(清王朝)に仕掛けた「阿片戦争」は、日本の歴史の教科書でも、名前ぐらいは出てきます。ところが、どうしたことか、筆者の知る限り、明治以降今日まで、この阿片戦争を本格的に掘り下げて解明した本は、ただの一冊もないのです。これは決して偶然ではありません。日本の学会(東京帝大と慶応大学を起点とする)とジャーナリズムの中に、英国の恥部を究明することを抑止する絶対的な悪魔の手が伸びていたのです。ユダヤは、この英国の仮面をつけて麻薬ビジネスを取り仕切っている。英国の王室と貴族階級が闇の中で麻薬ビジネスに取り込まれており、彼らは、労せずして莫大な悪魔のカネを手に入れる立場にあった。つまり、それほどに、この英国の王室と貴族は、腐敗と堕落のただ中に生きていたのです。ユダヤが吸血鬼として英国に取り憑いてから、約350年。その英国の現状は、いや惨状というべきか、どうでしょうか?』


『「ドープ・インク(Dope INC.)という、戦慄すべき著作を入手しました。その日本語訳は「麻薬株式会社」でしょうか。ドープは麻薬、インクはインコーポレーション(株式会社)。実質的な著者はリンドン・ラルーシュというアメリカの政治家です。ラルーシュはアメリカ労働党という小政党の指導者だったようですが、彼は1977年に、アメリカ国民は、カーター大統領の政権によって推進されている非合法な麻薬ビジネス汚染に、反対する戦いに立ち上がらねばならないことを自覚しました。1978年春にラルーシュは、アメリカ労働党内に麻薬問題の調査班を作り、こうして、「麻薬株式会社ドープ・インク」の第一版が1978年に公刊された、とあります。ラルーシュは「麻薬に反対する政治活動家」であり、ラルーシュによって組織された調査班の結晶としての同書の第一版は、全世界に広がる麻薬ビジネスの全貌を白日のもとにさらけ出した最初の著作である、とされます。』


『同書の出帆の直後から、ヘンリー・キッシンジャーと、ブナイブリス(”誓約の兄弟たち” ユダヤ人のみの高級秘密結社)のアンチ・デフオメーション・リーグ(”ADL ユダヤ人名誉毀損防止法” ブナイブリスの下部組織 麻薬ビジネスに関与)は同書の著者たちを沈黙させるための謀略活動を開始した、と記されています。1982年には、キッシンジャーの提案によって「ラルーシュ退治機動部隊タスク・フォース」が組織されたのだそうです。』


『1986年に、同書の第二版が出版されました。その1986年10月に、400名以上の警察官が動員されてラルーシュの関係する幾つかの事務所を襲いました。そして、ラルーシュと彼の仲間たちは逮捕され、外国の情報部と結びついていたなどとの理由で裁判にかけられた、というのですが、この事件の経過については、筆者の知る限り、日本のマスコミはたったの一行も報道しておりません。陪審員はラルーシュらに対し、無罪の票決を下したにも拘わらず、裁判所はこれを破棄して、1989年1月、ラルーシュに懲役15年の刑を言い渡したとありますから、現在、ラルーシュはアメリカの刑務所に幽閉されているわけです。』


『筆者が入手したものは、1922年発行の第三版で、697頁という大著です。これほどの著作(そして筆者)が、これまで日本人に全く知らされていなかった、一語も報道されなかった、というのはどういうことなのか。ラルーシュの本は、麻薬ビジネスを遂行しているのはアメリカ政府である、いや、アメリカ政府を背後で動かしているより大きな世界地下帝国であることを論証している、従って、アメリカ政府とそれよりも大きな世界的権力そのものをまな板の上に乗せて料理しようとするのが、ラルーシュの立場です。』


『ラルーシュは「麻薬株式会社ドープ・インク」の第七部で「組織された犯罪」を論じ、「犯罪インターナショナル」の実在を検証し、更に、英国の「国際暗殺局(ブリテイッシュ・インターナショナル・アサシネーション・ビューロー・バーミンデックス)」が1963年の米ケネデイ大統領の暗殺に関与した、としています。1963年の春から夏、秋にかけて、カリブ海のジャマイカ島モンテゴ湾の某所で、ケネデイ大統領を葬り去るための英国の秘密諜報部が主催する国際会議が開かれた、というのです。彼らがケネデイを暗殺しなければならなかった理由は、同大統領が麻薬ビジネスを抑止することを本気で考えたことである、つまり、地下世界帝国にとってケネデイは除去すべき障害物となったらしいです。』


『リンドン・ラルーシュらの「麻薬株式会社ドープ・インク」の第三部八章は、「RIIA(英国王立国際問題研究所)は、どのようにして麻薬その他の汚いお金を動かしているか」を詳細に解き明かしています。RIIAは1919年に設立された、と記録されています。つまり、まぎれもない、第一次世界大戦の終了の直後です。王立と名が冠せられているからには、れっきとした英国王室公認の機関であることが分ります。RIIAとその周辺、その関係諸団体の実相について、必ず参照しなければならない古典的学術書は、アメリカ、ジョージタウン大学(これはイエズス会系です)の教授をしていたキャロル・キグリーの「悲劇と希望−我が時代の世界史」という1300頁余の大著といわれています。』


『キグリー教授の説明によれば、19世紀の末に大英帝国の支配層の中に、ジョン・ラスキン、セシル・ローズを中心とする秘密結社が結成された。そしてこの秘密結社が次第に成長して、円卓会議(ラウンド・テーブル)、セシル・ローズ奨学金、ミルナーグループ、などとなり、アメリカにもその支部のごときものがつくられた(それをアメリカでは東部エスタブリッシュメントなどと称する)、この秘密結社の「フロント組織」としてRIIAが設立された、というのです。一応こんな具合に記述されるのですが、セシル・ローズもミルナーも、実は、英国ロスチャイルド財閥の使い走りに過ぎないように見えます。』


『ラルーシュらの「麻薬株式会社ドープ・インク」によると、世界の麻薬貿易(及びその他の汚い商売)の頂点に、RIIA司令部(ロンドン、セント・ジェームス・スクエア、チャタムハウス)が位置している、とあります。RIIAは英国の国家そのものと言ってもよい。英国政府の政治的承認及び、世界の金融市場、世界の金とダイヤモンド市場の力のすべてをもってする支援と便宜なしに、RIIAが管理する世界麻薬ビジネスの運営は不可能である−と、ラルーシュらは述べています。』


『幕末の尊王攘夷の志士たちは、英国が清国に仕掛けた阿片戦争の不正、邪悪をしっかりと意識批判していました。ところが、手品でも使ったように、明治の新政府から英国への警戒感、英国が悪魔的麻薬ビジネスに関与していることへの批判が消えてしまうのです。のみならず、世界の超大国、大英帝国への崇拝、媚びへつらいの感情が支配的になっていくのです。その結果、「日本の皇室のモデルは英国王室である」などという、途方もなく愚かな見解が、堂々とまかり通っているのです。歴史の真相を知ると、真に日本人として、顔から火が出るかと思われるほど恥ずかしい話です。「ユダヤ陰謀説は狂人の幻想だ!」などと、フリーメーソン直結の国賊、小和田元外務事務次官(雅子妃の父君)は口走ったそうですが・・・フリーメーソンは「三百人委員会」の下部組織であり、従って必然的に国際敵麻薬貿易を支えているものと推定されますので、日本民族のその最高指導層の、少なくとも三人(中曽根元首相、竹下元首相、金丸元副首相)が麻薬ビジネスとの関係を云々されるという、非常事態に突入しました。』

『筆者は最近、アメリカで発見され、復刻公刊されている、一冊の超極秘文書を入手しました。それは「静かな戦争のための沈黙の兵器(サイレント・ウエポンズ・フォー・クワイエット・ウオー)と題されています。この秘密文書は、1986年にカリフォルニアで、全く偶然に発見されたそうです。それによれば、1954年、国際エリートが会議を開き、全世界の大衆を家畜化(そして集団的大量殺害)するための第三次世界大戦をひそかに宣戦布告した、というのです。この静かな戦争の主たる兵器は、コンピューターであり、生物兵器、心理兵器であり、戦争を仕掛けられている大衆は、それに気づかない。この「国際」エリートが依拠する根本思想は、あの初代ロスチャイルドが発見した、と銘記されていますから、「彼ら」の正体が国際ユダヤ指導部であることは自明のところでしょう。現代の麻薬は、実に、この沈黙の兵器体系の一つ(しかも最も重要なものの一つ)として位置づけられているらしいのです。』


以上抜粋。


太田龍は中曽根と麻薬ビジネスについて言及している。
中曽根元海軍主計は吉田茂のコネクションである。
では吉田の「右腕」といわれた白洲次郎とは何者か。
昨今白洲次郎&正子ブームが到来する陰で、
次郎叩きも同時進行している。
次郎は「日本一カッコいい」「風の男」なのか。
はたまた「プリンシプルのない」「日本一最低の男」なのか。
次郎の相反する言葉の中にヒントがある。

『素朴な正義感は貴いものだと思う。これだけは死ぬまで捨てない。僕の幼稚な正義感にさわるものはみんなフッとばしてしまう。』

『僕は知らんよ!知ってたとしても僕は何も喋らんよ。僕は口が堅いからここまで生きてこれたんだっ!』

次郎は「葬式無用」「戒名無用」と正子に遺言した。
これはカッコいいセリフとして写真付きで公開されている。
しかしそこには無惨な心情が潜んでいると私は思う。
次郎の一見カッコいいセリフの裏には常に別の本心が隠されている。
私は白洲次郎という男は、正義感どころか誇りさえ持てなかったと思う。
白洲次郎はそういう宿命を負って生まれてきた子どもである。
彼は生涯『素朴な正義感』を持つことが許されなかった。
いざというときフッとばされるのは『僕の幼稚な正義感』の方だったのだ。
真実を知ってたとしても喋ることはできない。口が堅くなければ生きて行けない。
エージェントとして宿命づけられた白洲次郎のプリンシプルである。


『私が、学校の宿題などで辞書を引くのが面倒くさいときに英単語の意味を問いますと、父は英語を日本語に訳せないことがしばしばありました。息子さんの留学の相談にみえた方に、「僕のようになるからあまり小さい時に外国にやらない方がいいよ」と言っていたそうです。父の生涯を通じてのイギリスの友人、ロビンおじによりますと、ジローは大学に入ってきた時にはもう英語が出来たというのです。父にそのことを聞いてもはっきりとは答えてくれず、後年不思議に思って叔母に聞きますと、ハイカラだった彼等の家庭では、子ども達を神戸の日曜学校に行かせていて、教会の牧師様に英語を教わっていたということでした。』(牧山桂子『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』より)


日曜学校で英語を習った程度で、次郎のような言語的奇形にはならないだろう。
兄弟姉妹もケンブリッジ入学レベルを修得していたとでもいうのだろうか。
次郎は物心ついた時から有用な道具となるべく、言語矯正を受けさせられていた。
彼がどもる癖があったのは強制的な言語教育のストレスが考えられる。
友達と口論するとどもりながら次第に激昂し相手に手を出したという。


次郎は正子との日常会話でも英語を使っている。手紙はほとんどが英語である。
次郎のスマイソンのスケジュール帳も9割がた英語で予定が記録されている。

Masa:You are the fountain of my imspirationand the cliuax of my ideals.                             Jon

次郎が正子に送ったラヴレターも英語である。
二人には本物の情愛があったと私も感じる。
婚約者正子へ書き送ったこの最大級の賛辞も次郎の本心だと思う。
彼は最愛の正子への手紙の最後にジョンと署名している。これが彼の本当の名前なのである。
だから正子も「私の愛するJon」と返信している。彼にとって本名はジョンなのである。


S・G・ウオーバーグ投資銀行の元東京支店長クリストファー・バービスの証言

『次郎は吉田茂元首相の右腕だったと聞きましたが、なぜ彼が戦後、あれほど力を持っていたか分らないのです。また、彼は普段、手紙もメモも作成せず、口頭でメッセージを伝える事が多かった。電話でも多くを語らず、アポなしでぶらりとオフィスを訪ね、用件だけ言うと、すっと消えていきました。だから、彼のメモすら残っていないのです。 』(徳本英一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』より)


しかし彼は家族のためにシナリオの一部を洩らしている。


『白洲夫妻が東京郊外に移住を決めたのは、太平洋戦争開戦前夜の1940年のこと。それは白洲次郎がこのころ既に「日本とアメリカが戦争になれば日本が負けることが明白であり、物資の不足が懸念される」という予測を立てていたから。そこで二人は食料不足となっても困らないようにと田畑付きの農家を探したのです。鶴川で見つけたその家に移住したのだ43年のこと。その際は疎開のつもりだったものが、結局は終の棲家となり、それが現在公開されている、「武相荘(ぶあいそう)」なのです。』(和楽ムック『白洲正子のすべて』より)

もちろん次郎は日米開戦の正確な時期も知っている。
43年4月18日に五十六が暗殺され前半の区切りがつく時期も。
シナリオでは戦局が悪化していく合図なのである。
だから次郎は翌月の5月11日にに家族を連れて鶴川に疎開する。
彼は東京大空襲も事前に知っている。


『「確か昭和20年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ・・・・と来たんです。私は本所に住んでいたんですが、あと二〜三日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が三月の九日か一〇日だと言ってました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです・・・」これは不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか・・・』(柴田哲孝『下山事件 最後の証言』より)


『戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥の癒着のなかから誕生した昭和通商と結びつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父がこの会社の重役であった。柴田は「我が家に白洲次郎と思われる人物が祖父や矢坂玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。』(鬼塚英昭『原爆の秘密 国外編』より)


『クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウオーバーグから肩書きも受けとっていなかった。しかも1982年創業者のシグムンド・ウオーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見役を続けた。「ウオーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウオーバーグ卿に頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」』(徳本英一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』より)


『創業者のシグムント・ウオーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠地を持つウオーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウオーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。そのウオーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。FRBをつくりあげたのはポール・ウオーバーグ。その息子のジェームス・ウオーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当者となる。白洲次郎はウオーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループに流していく』(鬼塚英昭『原爆の秘密 国外編』より)


鬼塚氏は次郎がジミー(ジェイムス)・ウオーバーグの庶子だと推察している。
僭越ながら私も同意である。ジミーが次郎の父親だと言われても首肯できる。
次郎は父親の白洲文平より、はるかにジミー・ウオーバーグに風貌が似ている。

北康利は『次郎は母親似だ。兄弟姉妹の中で誰よりも顔立ちがよし子に似ている。
なかでも目から鼻筋にかけてのあたりはそっくりである。』
とその著書『白洲次郎 占領を背負った男』の冒頭に書いている。

しかし写真を見るとそっくりなのは、鼻筋は通っているがしょうゆ顔の長兄・尚蔵である。
よし子が小さい次郎を連れて港に行った時、「お父さんはもうすぐ外国から帰ってくるからね」
と慰められたエピソードがある。よし子にそっくりだったら言われるはずがない。
次郎の横顔を見るとかなり彫りが深く、彼の目にはアジア人の特徴である蒙古ヒダがない。

ジローという名前は白洲文平が適当につけたことになっているが、
本来ジミーをもじったものかもしれない。次郎はジローでありジョンなのである。
OSSに所属しドノヴァンの配下にいたジミーは、ジョンを通してヨハンセングループの極秘情報を得る。
スプリングマイヤー氏によると、イルミナテイは血のつながった子どもを養子に出すという。
二十年先三十年先の計画のために営々と育て、大事な局面で駒として使うためである。


『「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのが、ロスチャイルドとウオーバーグのユダヤ財閥である。一度彼等のエージェントになった者は、死ぬまで、その任を解かれることはない。FRBをつくりあげたのはポール・ウオーバーグ。その息子のジェームス・ウオーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当者となる。白洲次郎はウオーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセングループに流していく。

徳本英一郎が「一九八五年白洲次郎は生涯を閉じたが、英国流ダンデイズムと気骨あるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起している。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した”密使”であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の”エージェント”としての顔だ」とあるのはなんとも甘い表現である。「白洲次郎はシグムント・ウオーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。』(鬼塚英昭『原爆の秘密 国外編』より)


次郎は小さな子どものころからエージェントとして養育され、
望むと望まないに拘わらずケンブリッジに留学させられ、
生家の破産にともない帰国して任務についた。
次郎が外車を乗り回しているのは少年のころからである。
四万坪の敷地で高級車を乗り回していたオイリーボーイが、
ケンブリッジに行っても変らなかったというだけの話である。
「親が破産しながらウオーバーグの援助を受けて外車を乗り回していた」
という言い方は不当である。彼はそのように育てられていた。
彼は破産した親の肩代わりとして捧げられた生贄なのだ。


『白洲文平は築地大学校(一致学校、現・明治学院高校)卒業後、ハーバード大学、ボン大学に留学。帰国後は三井銀行や鐘紡に勤めるが中途で退社。その後、兵庫県神戸市中央区栄町に貿易会社白洲商店を創業し綿貿易により発展して巨万の富を築いた。豪放ながら傲慢な性格で、周囲からは『白洲将軍』と畏れられた。

建築が趣味で多くの邸宅を次々に建て、それらは『白洲屋敷』と呼ばれた。兵庫県伊丹市に建築した邸宅は4万坪の敷地にコロー、モネ、マティス、ピカソなどの作品を収めた美術館や煉瓦造の給水塔などを備えたものだったという。

白洲商店は1928年(昭和3年)に昭和金融恐慌により倒産。その後は阿蘇山麓の大分県竹田市荻町に洋館を建てて移り住み、その地で死去した。』(ウイキペデイアより)

4万坪の敷地にコローやモネやマテイスやピカソを収める美術館・・・桁外れである。
白洲商店のこの繁栄もその後の破産も、すべてウオーバーグの掌の上で転がされていたと思う。
ニューヨークの大恐慌もポール・ウオーバーグが絡んでいる。彼らは好きな時に自由に恐慌が起せる。
シナリオのタイミングを見計らって恐慌を起こして白洲商店を潰し袋小路に追い詰める。
次郎はその宿命の中で「生涯を捧げなければならなかった」と私は書く。

昨今の次郎&正子ブームには、鬼籍に入った当人たちも困惑していることだろう。
白洲家の人間は二人をネタに商売しているようだ。
特にブームに乗じて紀行文やアルバム本を何冊も出している白洲信哉。
彼は小林秀雄の孫でもありながら、上っ面しか書けない不肖のボンボンである。
次郎&正子のスネをしゃぶるような本やエッセイをものして悦に入っている。
小林秀雄の名折れである。


近現代・系図ワールド参照

http://kingendaikeizu.net/seizi/asou.htm
http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm

吉田茂の孫が三笠宮に嫁いでいるのが分る。

◎山本五十六を指名したのは吉田茂である。

◎山本五十六を暗殺させたのも吉田茂である。

◎吉田茂を中心にしてヤラセが行われた。

◎吉田茂が憲兵にスパイされたり逮捕されたのもヤラセ。

◎吉田茂が白洲次郎をGHQに対抗させたのは国益のためではない。

◎吉田茂は自分のものとし日本国を独立させたかったのである。

◎吉田茂はトロイの木馬の継承者である。

◎白洲次郎はプリンシプルを持てない宿命を生きた。

◎白洲次郎に中曽根康弘が取って代わった。

◎主計士官としてトラック島にいた中曽根は五十六暗殺に協力した。

◎白洲次郎と吉田茂のプロパガンダ本を量産している北康利は怪しい。

次に約束した中田君の五十六プロパガンダに反証します。

中田安彦『山本五十六の「聖書」』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/489.htmlより

以下抜粋。

『(五十六は近衛に呼ばれて)その際に「2年、3年なら暴れて見せる」と有名なセリフを語っている。これは一種のブラフであっただろうが、山本の心理を推察すれば、「最長でも2年か3年で講和に持ち込む事ができる」という彼の自信を表していたように思う。』

以上抜粋。


中田君、『2、3年』ではなくて「半年、一年」である。
これをいい加減にして山本五十六の早期講和の構想を検証しても、
仮説自体が成立しない。
もともとシナリオでも2、3年で終わらせる予定だったのだ。
五十六のブラフでも自信のほどを示すセリフでもない。
半年というのが悲願だったろう。
五十六は航空本部長として航空隊を育てているが、殉死した若者に寄せる哀悼は尋常ではない。
彼はヤラセによる戦争で犠牲者が出ることに堪えられなかったと思う。

五十六が原田熊雄に語る黙示録的予言は君も知っていることと思う。
自分の意に反して開戦しなければならない苦衷を語るものである。
自信とかブラフという言葉ほど五十六の心情から遠いものはない。
『半年や一年暴れて見せる』
というセリフが一人歩きして自信満々という誤解を生んでいる。
彼は海軍兵学校の面接試験で人生のモットーを訊かれて
『やせ我慢』と答えた人なのである。
避けられない開戦なら半年か一年は意地にかけて暴れてみせる。
どうかその期間内に講和してくれと懇願している真意を汲み取るべきだ。

五十六の黙示録と同じことを白洲次郎も語っている。
東京大空襲を予知して事前に避難しているのである。
二人ともシナリオを知っていたのだ。
同盟通信社は次郎と前出のOSSの連絡ルートだったようだが、
同盟通信社の松本重治もシナリオに一役買っている。
松本重治は神戸一中の同窓生である。
彼は広島原爆投下の演出に協力している。
この松本重治は牛場友彦ともに、近衛服毒自殺の前夜に荻外荘を訪ねている。
吉田茂は近衛服毒自殺の部屋に寝泊りし荻外荘を買い上げている。
私は吉田茂と昭和天皇が図って近衛を排除したと思う。
五摂家の筆頭である近衛家の当主は、昭和天皇の退位を勧めて抹殺された。
吉田茂にとって昭和天皇は絶対に退位してはならない掌中の玉である。
道徳的見地から退位を勧めた東大総長・南原繁を指して、
「曲学阿世の徒」と吉田茂が唾棄したエピソードは有名である。


再び「山本五十六と聖書」より以下抜粋。


『ハーヴァードではシェイクスピアなどを通じて語学を専攻した山本五十六だが、その際にトランプ遊びを覚えていって現地でのアメリカ人との交流を深めたのではないかと私は仮説を立てている。同時に半分はキリスト教徒ともいえる彼が現地人と共通の話題を持ったことも考えられる。』

『そのような「欧風かぶれ」の気質が日本の天皇教原理主義の愛国右翼たちからは、疎まれていったのだろう。その結果、山本五十六フリーメーソン説が反ユダヤ系の国際政経学会に出回るようになったのだろうと考えられる。他にも海軍士官の立場でイギリス、豪州、米国の海軍人脈を持っていたはずである。だから、メーソンはなくとも「トランプ・ブリッジ結社」のメンバーではあったかもしれない。』

『山本は阿川弘之などの提督三部作ではこのようなキリスト教とのかかわりは一切紹介されていないはずだし、アメリカ駐在中に長岡出身の油田経営者の岸吉松とともにテキサス州のオレンジ油田を視察してもいる。そして、ハーヴァードではシェイクスピアなどを通じて語学を専攻した山本五十六だが、その際にトランプ遊びを覚えていって現地でのアメリカ人との交流を深めたのではないかと私は仮説を立てている。同時に半分はキリスト教徒ともいえる彼が現地人と共通の話題を持ったことも考えられる。』


以上抜粋。

「トランプ・ブリッジ結社」というのは初耳であるが、
トランプで現地でのアメリカ人との交流を深めて良かったではないか。
情報収集が五十六の任務なのであるから少しは役に立ったかも知れない。
仮に五十六が「半分はキリスト教徒ともいえる」としても、
「現地人と共通の話題をもったことも考えられる」ことがどうして不都合なのだろうか。
駐日大使グルー一家とヨハンセングループの家族たちは、
敬虔なキリスト教徒として家族ぐるみ交流してお互い情報収集しているのである。

また確かに五十六記念館には小さな古ぼけた聖書が展示してあり、
その説明書きには”駐在時代に買い求めたものである”とあるし、
シェイクスピア全集もコンパクトなものが数冊展示されている。
それは語学修得のテキストして買ったものであると同時に、
「仮想敵国の人間性を知るのが勝機につながる」という五十六の考えによる、
という説明がパンフレットに書かれている。
海軍大学選科(東京外語大委託生)では英文学をやらされる。
シェイクスピアを踏破するのは慣例のうちである。


再々度『山本五十六と聖書』より以下抜粋。


『その背景にはいざとなれば自分のアメリカ人脈を駆使して戦争をやめることができると考えていたのだというのが私の仮説。もしかすると、五十六は実際に開戦前後も裏で交渉をしていたはずである。これは悪いいいかたをすれば「二重スパイ」のようなものだ。ところが、太平洋戦争はアメリカ国民を団結させてしまい、講話どころではなくなり、最終的には広島・長崎への原爆投下で終わった。』
そもそも駐在大使付き武官というものは情報将校ということある。
山本五十六がアメリカ国情に精通する情報将校というのは秘密でも何でもない。
油田の視察は最重要事項である。同郷の者が経営する油田を視察するのはほとんど義務といっていい。


以上抜粋。

山本五十六が二重スパイだったら、駐在付武官は全員二重スパイである。
大使館付海軍武官は、駐在員を指導する任務も帯びている。
五十六が新米駐在員に心構えを説いて聞かせている箇所を参照されたい。

反町栄一著『人間・山本五十六 元帥の生涯』 
昭和39年9月15日光和堂発行(売国奴呼ばわりされる遥か昔)より


以下抜粋。


駐米大使館附武官


大正八年四月五日には本職(軍務局局員)並びに兼職(教育本部技術員)を免ぜられ、米国駐在を仰せ付けられた。これは米国の敵情視察のためで、最初の駐屯地を米国発祥の地ボストン市に選ばれた。山本大佐の米国駐在武官たりし様子は、伊藤整一さん(元海軍中将)が最もよく語っておられた。(以下、伊藤氏の証言)

山本武官は、私が海軍大学校学生時代の軍政教官であり、また霞ヶ浦におられた時、私は航空隊附きとして三ヶ月余その部下であったが、ワシントンでお会いしたその日は、なかなか話の種が多く、全く時の移るのを忘れていたが、そろそろ空腹を感じたので、時計をのぞいて見ると、いつの間にか午後一時近くなっているが、全然昼飯は出そうにもない。二時にもなったが一向何のこともない、とうとう私も腹の虫に根負けして、「昼飯は食わせないですか」と質問した。山本武官は一寸妙な顔をされたが直ぐ「昼飯を食うのか」と反問された。

「食いますとも、腹が減ってやりきれんですよ」と答えた。武官は腕時計を見ながら「それなら早く言えばよかったに、もう二時だからレストランもホテルの食堂も刻限が過ぎている。やむを得ないから近所のイタリヤ料理にでも行こう」という事になった。私は食事をしながらどうも腑に落ちない。「武官は二食主義ですか」と質問して見た。武官は素朴な調子で「二食だとか三食だとか、そんな窮屈なことを考えるもんか。一食のこともあり二食三食のこともあり、その時に応じて融通自在さ。」との事であったが、まだ私には合点が行かぬことろがある。

その点を質すと、山本武官いわく「駐在員が一日三度の食事をしかも定刻にしよう等はもってのほかの贅沢だ。三度の食事をするの日本での話さ。君たちもアメリカに来れば、是非とも自動車は持たねばならぬ。生活費の高いこの国で、海軍士官としての体面を保たねばならぬ。何を勉強するにも高い月謝は掛けねばならぬから、極端に貧乏するに決まっている。その間にでき得るだけ視察旅行をする必要がある。否、米国の隅々、残る隈なく踏破してもらいたいのである。この旅行が将来のため、何より為になる勉強であり、研究である。室に閉じこもって英語の本を読むことも勉強かも知れぬが、それは日本にいてもできる。駐在中はこの国にいる時でなければ他所ではできないことに主力を注ぐべきで、そのうちでも旅行が一番重要だ。ところが米国は旅費がかさむことは世界一だから、平常あらゆる節約をして、旅費を蓄えることを心がける必要がある。それが為に食事なども我慢して、いよいよ空腹でやり切れなくなったら、昼食夕食を問わず食べるのだ。これで栄養不良になることもなければ元気の衰えることもない。僕が駐在時代に体験済みだ」

私はこれを聞いてすべてが氷解した。この言葉の中に山本元帥の面目躍如たるものを直感するのである。私どもはワシントン滞在中、今後の駐在地についても色々研究したり相談したりした時、山本武官の言われたことは、第一に日本語を使う機会の最も少ない所を選ぶこと、また出来得るなら大学の寄宿舎に入って、米国学生と起居を共にせよ、とのことであった。でその旨を体して、私はニューヘブンのエール大学に、小林少佐はパリストン大学に行くことにし、武官の同意を得た。


以上抜粋。

たかだか任務で計5年駐在員や駐在付武官をした五十六が「二重スパイ」なら、
アマースト大学に留学してクーリッジ(米大30代大統領)や
モロー(モルガン商会重役)とクラスメートだった樺山愛輔、
ハーバードに留学し、ウイルソン大統領を操ったマンデル・ハウス大佐と面識がある牧野、
若い頃ずっとフランスに留学して贅沢して遊んでいた西園寺公望、
グラバーに抱きかかえられ遊学していた長州ファイヴ、
官費で贅沢三昧に遊学していたこういう連中は何というのだろう。


再々再度『山本五十六と聖書』より以下抜粋。

『ここで今日になって米国のホルダー司法長官がビンラディンの暗殺について山本五十六の暗殺を例に正当化したことが思い出される。ビンラディンも当初は米国の同盟者であった。異なる勢力の間で「連絡がある」ということは重要なことである。山本五十六は戦時中、一定期間の間、泳がされていたのではないか。』

(ホルダー長官の発表)
『敵の指揮官を攻撃目標にすることは合法だ。例えば、第2次大戦中に山本(五十六・連合艦隊司令長官の搭乗機)を撃墜した時も行った
と証言し、殺害が正当だったと強調した。』


以上抜粋。


ホルダー長官のコメントには五十六をアセットと示唆する要素はない。
『敵の指揮官』という言葉以外何も提示されていない。
五十六がビン・ラデインと同類であるアセットであるという仮説は、
『すり替え』によって立てられている。

『すり替え』は中田君の全てであるといっても過言ではない。
彼のあまたの粗製濫造本はこれを機軸にして書かれている。
ブログでも同様である。
私が意見投稿をすると、即座にチャチを入れる人物の得意ワザでもある。
文章から共通の言葉を探し出して、因数分解してすり替えるのである。

ビン・ラデインは暗殺された。山本五十六も暗殺された。
暗殺で因数分解する→暗殺(ビンラデイン+と五十六)と括る。
これがすり替えの基本テクである。
括ってから違うカテゴリにすり替えるのである。

こんな風

暗殺(ビンラデイン+と五十六)=アセット。

中田君の『日本再占領』はほとんどすり替えである。
検証するためには今後も不毛な作業に耐えなければならない。

中田君のことだから、
『五十六は空軍の創設に反対し、航空戦力を削ぐことに腐心した』
という言い掛かりも信じているかもしれない。
海軍航空隊は五十六の指導のもとにゼロから始まり、血の滲むような研鑽を重ねて創ったものだ。
五十六は航空隊産みの親としてつとに知られている。民間の航空会社を指導したのも五十六である。
その五十六を差し置いて『空軍創設』が建議され、五十六が猛反対したということ自体が初耳である。

再び反町氏の前掲書より以下抜粋。


当時の思い出を美和義和氏は次のように詳しく語っておられた。(以下、美和氏の証言)

昭和二年二月から同年三月春まで、元帥が米国在勤帝国大使館附武官としてご在職中の後半を、私は後任補佐官として御仕えした。このころ武官は米国航空のことについて、犀利な眼で注視しておられた。当時大西洋横断飛行ということが米国航空界の大問題であったが、遂にリンドバーグがこれ成功し、続いてバードが最期に不時着したけれど、事実上はこれをなし遂げた。遺憾ながら我が航空界は、まだまだこれと比肩するまでに立ち至っておらぬ。

武官はこれらの飛行を研究して、意見を出せ、と言われたので、あれやこれや調べ、かつ考えている間に、フト気がついたことは、洋上長距離飛行上、計器飛行天測航法が絶対必要なことで、米国はすでにこれに着目して、立派な計器も使用していれば、またバードの飛行あたりは機上天測を実用している。これに反し、わが国では、海軍の航空でさえまだセンピル飛行から教わった、あの勘偏教育の域を脱していない。私たちはその前年、鳳翔で着艦訓練をしたが、その時でもまだ計器は当てにならぬ、勘を養わねばならぬ、と教わっていた。「チャント計器に合わせて来ました」と答えたら「何の計器が当てになるか、おれの勘の方が確かだ」となぐられてことがある。そのころは笑い事ではなかった。

そこで私は、我が海軍航空もすべからく勘飛行を脱却して、計器飛行を尊重するよう進めねば行き詰る。それにはこれこれの対策を執らねばならぬ、という意味で一文を草して武官に差し出した。武官は一読されて「その通りだ、僕も全然同意だ、ちょっと貸せ、少しなおしてやる」とて結論のところを注意を喚起さすためにか、だいぶ激しい論調に直された。その筆の跡を見ると、計器飛行及びその対策を、早く我が海軍航空に取り入れねばならぬことについては、武官の方が私よりはるかに明瞭に認識されているのが分かった。これは月報として所要の向きに送られた。

航空本部技術部長−航空技術陣の大刷新−

昭和五年九月一日には海軍省出仕航空本部長出仕を仰せ付けられ、次いで昭和五年十二月、海軍航空本部技術部長に任ぜられたのであった。ロンドン会議に於いて五・五・三を押し付けられた日本では、朝野を挙げて大論戦・大政戦が展開されていたのであったこの間にあって山本少将は、黙々として日本海軍の強化、国防の安全、ということについて、研究を重ねられたのであった。その結論が「航空建軍」であった。海軍航空を以って海軍の主力とせよ、との大結論に到達されたのであった。これは海軍に於いては、画期的な大革命であった。

しかし、当時における飛行機の実情は尚、すこぶる幼稚にして、その頃の海軍機は、母艦に搭載せる車輪付き艦船機と、軍艦に積まれた浮船付きの水上機とで、行動範囲もやっと二百海里くらいであったのだから、爆撃による補助的任務を果たすことは一般に認められたが、しかし決戦における主要兵力たるべし、とは何人も予想しなかった。「現実の飛行機は過去わずか十年間にこれだけの進歩を遂げた。将来十年における発達はさらに驚くべきものがあるに相違ない。されば将来、航空部隊が海軍の主役たるは、大地を打つよりも確かである」とは山本少将の信念であった。

本部内の消息通は次のごとく語っておられる。

「十二月、航空本部技術部長に就任した山本少将は、山梨勝之進時間の努力によって保証された政府の諒解の覚書中、航空兵力の整備、実験研究機関の奨励、及び充実のために、渾身の手腕をふるうことになった。昭和五、六年頃のわが国の飛行機の性能は、海上作戦における捜索偵察用として認められていたが、陸海軍の主要兵力としては、誰も予想している域に至っていなかった。この際、技術出身でない山本少将が、技術部長になったのには、相当の決心があったといわなければならぬ。すなわち前から胸中に描いていた『海空軍』を『空海軍』に成育させようとのどえらい抱負であった。

その具体的な方策として、航空技術神の大刷新であり、また軍部の補助に惰眠をむさぼる航空関係民間会社の徹底的な覚醒であった。飛行機は従来の幼稚な木製から、金属製の高性能機へと強推進されていった。これらの革新は、単なる言葉の上ではまことに容易であるが、利潤に生きる民間会社を指導し培養することは、決して技術問題に止まらなかった。このため山本少将の採った奨励策は、『すべてを国産品』というのであったが、他方、また外国新鋭機には惜しまず特許料を払って、この長所を学ぶことにも極めて勇敢であった。

かくて昭和六年には、基地航空隊十四隊の新設予算が成立し、同七年には、航空機の造修実験研究の綜合研究機関としての航空廠が新設されることとなった。後年雷名を馳せた中型攻撃機も、零式戦闘機も、いずれも当時苦心の結晶を結んだものであった。とにかく抽象的観念論に終始しがちの軍部の中に在って、進歩した生産設備、兵器及び技術の三拍子そろった具体的基礎の上に、海軍航空をすえ付けてやる、というのが、山本少将の根本念願であった。そしてその実現には、兵学校以来互いに心を許し合った無二の親友、堀少将が、軍務局長として相協力したことを看過できない。」

当時の航空技術につき、山本部長が血のにじむような苦心と努力をせられた事について、山県正郷氏(元中将戦死)の談話には次の如きものがある。

先ず第一の困難は、国内における航空関係工業の未発達ということであった。未発達よりも、むしろ皆無といった方が適当であった。それ程当時の海軍航空関係工場は貧弱なものであった。米・英はもちろん、伊・仏にも比較にならぬほど憐れなものであった。これを指導し充実して先進国を凌駕するの域に達せしむるのが、山本技術部長に与えられた任務であったのである。しかもこの立ち遅れた日本航空工業に対して、少将の与えられた方針は、「すべてを国産で」「国産品を使え!でないと日本の航空は独立もしないし、発達もしない」と徹底した国産品第一主義であった。

少将は、さればとて外国製品を無碍に排斥するのではなかった。外国で優秀な飛行機が製作されたとか、すばらしい発明が行われたとか聞くと、高い特許料も厭わず、真っ先に注文するのはいつも日本であった。勿論それをそのまま採用しようというのでないから、いつも注文するのは二台か三台であった。それが余りにもはげしいので、しまいには「新製作機のご注文は喜んで受けるが、どうかまとまった数を買っていただきたい」と悲鳴をあげて来たのであった。

輸入された外国機の長所はどこか、短所はどこか、長所はどうすれば国産機に採用できるか、短所は如何にして改良し得るか、こうして惜しみなく外国機を私見材料に供することにより、外国機を凌駕する国産機がどしどし製作されることになった。「外国機の輸入は我が航空科学技術の恥辱と思わねばならぬぞ、それは日本科学の試験台なのだ。もし国産機が外国の単なる模倣に終わったら、欧米科学に降伏したものと思え、その代わり、それを凌駕する優秀機が作られたら、勝利は日本科学の上に輝いたと思え。」

山本少将はこう言って、絶えず激励の言葉を送っていった。同時に山本少将は革製の回転イスに腰掛けたまま、関係者を叱咤激励するのみの、技術部長ではなかった。技術化出身でもない少将が、自ら航空工学の難問を買って出て、遮二無二技術の発達のため挺身する姿は、むしろ悲壮なものであった。それこそ真の陣頭指揮であった。少将が手がけた部品設計は、一々列挙に暇がないという。その後日本の飛行機が優秀になったのも、山本少将の精密なる頭脳と、精力絶倫の努力によるところであった。

当時の海軍航空関係の工場も貧弱であった。これを直接指導促進する技術部長の任務は並大抵ではなかった。この時までは海軍の航空機は、母艦または軍艦から発進する小型機以外、基地から発進するものは飛行艇のみであった。しかし将来海上作戦における、陸上基地より出発すつ大型機が必要なりと認められ、三菱に陸上攻撃機を製作せしめられたのは、松山部長・山本技術部長であった。この陸上攻撃機は幾多の困難があって、実用機として相当数が整備せられるまでは長年月を要したが、昭和十二年シナ事変が勃発するや、開戦劈頭、荒天を冒して渡洋爆撃を敢行し、世界を驚倒せしむるの遺功を奏したのは、要するに山本少将の先見の明と努力の賜物である。


以上抜粋。  

2. 2020年9月26日 11:43:45 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[14] 報告
山本五十六の真実B白洲次郎ブームと山本五十六誹謗中傷はセットである
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/686.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 23 日 13:29:56: 8qHXTBsVRznh2
 

本文に入る前にまず訂正してお詫びすることがあります。
前回鬼塚さんが「白洲次郎はジミー・ウオーバーグの庶子である」
と述べているというのは私の勘違いで「ジークムント・ウオーバーグ」です。
訂正してお詫びします。これについては後ほど詳説します。


さて白洲次郎が「日本一かっこいい」「風の男」としてもてはやされる一方、
山本五十六が「売国奴」「骨の髄までフリーメーソン」と非難されている。
私は白洲次郎とは「日本一ウサンくさい」「悲惨な男」だと思う。

昨今もてはやされている白洲次郎の言動とは、
もともな人間形成に欠けた子どもが、
矯正されてエージェントにさせられ、
プライドを持てない人生を送らされ、
生涯隠さねばならなかったその素性と、
コンプレックスの裏返しの虚勢であると私は思う。

そもそも白洲次郎こそ真珠湾攻撃と山本五十六のプロパガンダ工作の元祖なのである。
『いろおとこ』『ワシントンの桜の下』の仕掛け人は白洲次郎である。
五十六暗殺工作に海軍主計・中曽根康弘を使った元締めも白洲次郎である。

さてジークムントは1925年ロンドンに出て、
N.M.ロスチャイルド父子銀行で見習いをしながら、
ケンブリッジ大学で経済学を聴講している。
次郎がケンブリッジを1925年に卒業し、
1928年に白洲商店の倒産で帰国するまでの3年間、
密かに接触していたと思われる。
間を取り持ったのはロビン・ストラッドフォードだろう。
私はロビンも次郎と同じ身の上にあったと思う。
二人のオイリーボーイは『卒業旅行』に出かける。
その先にジークムントが待ち構えていたのだろう。
次郎はロビンとは終生の付き合いをしたという。
二人はお互いの傷を嘗めあう唯一の友だったと思う。

しかしジークムントは次郎と同じ年である。
そこでもう一度ウオーバーグ家の人間を調べたところ、
次郎の養父・白洲文平と接触した可能性のある人物がいる。

ウオーバーグ家にはアルスターウーファーとミテルヴェークの、
二つの家系に分かれていて両家は家風も気質も違うらしい。
ミテルヴェークのウオーバーグ家は有名な五人兄弟を輩出しているが、
長兄アビー・M・ウオーバーグが一人だけプーなのである。

そしてアビーはオッペンハイム家の出身の母親の風采を受け継いでいて、
髪が黒く肌も浅黒く目は暗褐色で子どもの頃の写真はアラブ人のようである。
次郎の親友のロビンの回想によるとケンブリッジ時代の次郎は、
色が浅黒く彫が深いので「アラブ人」で通していたという。

無理矢理にケンブリッジに行かされた次郎と違って、
アビーが一族でただ一人だけボン大学に行ったのは、
みんなの反対を押しきってのことである。
ボン大学で美術を専攻したアビーはその後一度も定職につかず、
親と弟たちにたかる生涯を送っている。

アビーがボン大学に入学したのは1886年。
白洲文平は1868年生まれでハーバード大学からボン大学へ留学。
ほぼ同時代の出来事として考えられる。
樺山愛輔もアマースト大学からボン大学へ留学して文平と学友になる。
アビーと文平と愛輔はボン大学で接点を持っていると思われる。

文平は次郎を引き受ける見返りに、仕事の成功を約束されるたのだろう。
金の卵の次郎をイギリスへ留学させるまで、たかだか25年間甘い夢を見るのである。
ボン大学の学友である文平と愛輔は、後年お互いの子どもを結婚させる仲でもある。
次郎本人もエージェントとして養成されたが、養父もエージェント、岳父もエージェント、
という図式が見えて来る。

アビー・M・ウオーバーグについては、
ロン・チャーナウ『ウオーバーグ ユダヤ財閥の興亡』に写真が載っているので参照されたい。
但しチャーナウはユダヤ財閥たちのポチらしいので、プロパガンダの記述には注意されたい。
風貌や経歴についてプロパガンダではないと思われる箇所から抜粋する。

『ヨハンノイム実科ギムナジウムに在学中の、十三歳のアビーを撮った写真を見ると、金色で色白の級友たちに交じって、彼の浅黒い髪と肌色に加え、顔の表情が目立つ。アビーは、一目見たらいつまでも忘れられない風采をしていた・・その暗褐色の目は、楽しげに細まったり、怒りでかっと見開いたりした。』

『生活を一家に頼っていたにもかかわらず、陰気なアビーは依然として弟たちの頭を抑えていた。彼にかかると、弟たちは催眠術をかけられたように言いなりになる有様であって、みんな威張ってはいたものの、兄の前ではどこか怯えて気圧されるところがあった。』

アビーはインデイアンに異常なほど興味を持ってアメリカの奥地に旅行している。

『のちに弟のマックスは、アビーのアメリカ南西部インデイアン調査旅行が、兄にとって決定的な出来事であった、と言った。』

アビーはインデイアンに親近感を持つ。
しかし1897年にハンブルクに戻るとアビーはマリーと結婚する。
マリーは1899年に長女を出産、白洲次郎が生まれた1902年にも長男を出産、
最後に1904年に次女を出産している。

しかしアビーとマリーの結婚生活はどうだったのか。
夫妻は1897年から1904年までフィレンツエに滞在している。
チャーナウは奥歯にものをはさんだような書き方しかしないが、
夫婦の間に軋轢が生じているのを目撃した女性客がいる。

『アビーとマリーの結婚上の最大の問題は、夫アビーの極端な自我没頭と精神不安にあった。フィレンツエ時代(1897〜1904年)にすでに、彼は、慢性的な不安に苦しめられていると感じていた。当時、フィレンツのアビー邸を訪れたある女性客が、結婚したばかりの頃の彼の痛ましい姿をはっきりと書き残している。その時のアビーは三十三歳であったが、もうすでに彼の心は精神錯乱と正気の間を行きつ戻りつしていたのである。』

アビーは1905年にボン大学の講師になるべく帰国する。
不首尾に終わるがこの時期にもボン大学に関わっている。
文平と愛輔と関わる可能性があるのはこのアビーである。

ジークムント・S・ウオーバーグについては、
徳本栄一郎氏が貴重な手紙を発掘している。
1981年6月4日付けジークムント・ウオーバーグから白洲次郎宛。

『親愛なる次郎、我々が友情を結んで以来、最も有意義で満足感のある職務とは、
よき若者を教え導くことだった。』(『英国機密ファイルの昭和天皇』より)

よき若者を教え導くことに最大の意義と満足感を覚えるジークムントは、
自分が所有するスイスの製薬会社でLSDを開発させた人物でもあった。
甥のジミーはこのLSDを使って、かの悪名高きCIAのMKウルトラを考案している。

ジークムントについては『さてはてメモ帳』様にもスゴイ記事がある。
http://satehate.exblog.jp/7966233/

そもそもFRBの創設者であるポール自身が、第一次世界大戦ではドイツ諜報機関の代表。
兄のマックスも1919年パリ平和会議のドイツ代表。
ウオーバーグ一族はインテリジェンスとしてシナリオに深くかんでいるようである。
このような一族の隠し玉として白洲次郎が使われたのである。


ユースタス・マリンズ著『民間が所有する中央銀行』より以下抜粋。

『過去65年間の合衆国における心理学の発展のほとんどは、英国陸軍の心理戦争局(Bureau of Psychological warfare)によって指示されたものであることを知っているアメリカ人はほとんどいない。ほんの少しまえ、著者は新しい名前、タヴィストック人間関係研究所として知られているロンドンのタヴィストック研究所を知った。「人間関係」は人間行動のあらゆる局面を網羅し、タヴィストック研究所の穏当な目的は、アメリカ市民の人間行動のあらゆる局面を支配し影響力を行使することである。』

『タヴィストック研究所グループは、第二次世界大戦中に戦略事務局(OSS)、戦略爆撃調査部、連合国遠征軍最高司令部などの重要な米軍グループの全員を組織・訓練した。第二次世界大戦中、タヴィストック研究所はロックフェラー財団の医学部門と合同で、意識改革の薬の秘密の実験を行った。現在の合衆国の麻薬分文化はこの研究所に源を発し、この研究所は中央情報局(CIA)のトレーニング・プログラムを管理した。』

『LSDカウンターカルチャーが発生したのは、S.G.ウオーバーグ商会所有のスイスの医薬会社のサンドス.A.Gが、リゼルグ酸からLSDと呼ばれる新しい薬を開発したときである。ジェームズ・ポール・ウオーバーグ(1910年に連邦準備制度を作成したポール・ウオーバーグの息子)は、政策研究所(IPS=Institute of Policy Studies)と呼ばれる合衆国にあるタヴィストック研究所の支部機関の資金調達を行った。ジェームズ・ポール・ウオーバーグはCIAプログラムを設計してLSDの実験を行った。そのなかの何人かはのちに自殺を図った。MK−ウルトラと呼ばれ、ゴットリーブ博士が指導を行ったこのプログラムは、犠牲者たちの家族による合衆国政府に対する巨大な訴訟を引き起こした。』


白洲次郎はケンブリッジを卒業してから3年間何をしていたのか。
空白の3年間についてどの伝記本にも記載がない。
鬼塚氏によるとジークムントは次郎を要人たちに引き合わせ、
チャーチルやMI6の長官が出入りする最高級のクラブの会員にしたという。

チャーチルも連中の忠誠な犬として生涯を送っている。
キッシンジャーも発狂寸前の凄まじい洗脳プログラムを受けて、忠誠を誓わされたという。
白洲次郎にもMKウルトラに先行するプログラムが組まれ実施されたと私は思う。
なぜならお坊ちゃん育ちで潔癖症の次郎が、ヘドロのような連中のエージェントになるには、
LSDによる得体の知れない人格変容プログラムが必要だったと思うからである。
3年後、白洲次郎はジョン・シラスとして帰国する。

吉田茂は1921年からイギリス駐在員だったのですでに打ち合わせ済みだろう。
日米開戦のシナリオ通りに五十六が連合艦隊司令長官に任命され、
吉田茂が終戦まで現役を退き水面下で秘密工作を謀る。
このほとんどすべての背後に白洲次郎がいるのである。

日米開戦直後からヨハンセングループを代表して国家機密情報を流し、
山本五十六、尾崎秀実、近衛文麿、近衛文隆、おそらくもっと沢山の要人を暗殺、
山本五十六にはプロパガンダ工作も仕掛けている。
『ワシントンの桜の下』『いろおとこ』の背後にいるのは次郎である。
海軍の者が河合千代子の妾宅に行くと山本五十六がどてらを着て現れた、
というガセを流させたのも次郎である。

白洲次郎とは何者か。彼は生贄の子どもである。
ユダヤ財閥ウオーバーグ家の長男の庶子として生まれながら、
言語を矯正され人格も変容され汚れ仕事をさせられた悲惨な男である。

私は昨今のブームが不思議だ。
エージェントとして暗躍したことは抜きにしても、
白洲次郎はひとり日米開戦と東京が焼け野原になることを予告し、
特権階級ゆえに徴兵を忌避して、家族と鶴川に疎開しているが、
これが「先見の明がある」と『プリンシプルのない日本』の中で、
辻井喬や今出海らに喝采されている。
みんなが出来ないことをしていると。
それは当たり前である。みんなは徴兵忌避したら逮捕される。

白洲次郎はまた、
「占領を背負った男」「GHQに従順ならざる唯一の日本人」
と讃えられている。
それはそうだ。ザ・オーダー直々のエージェントである。
GHQの方が吉田&次郎を恐れるべきである。
マッカーサーはその辺のところを分って吉田茂と付き合っていた思う。

鬼塚さんはマッカーサーだけがハリマンと堂々と渡り合い、
他の奴らはみんな宦官だったと述べているが、
私はマッカーサーも解任直後から宦官の仲間入りをしたと思うようになった。

逆に魂を売り渡していたルーズヴェルトは、
戦争を長びかせて金儲けする連中に嫌気が差し、
宦官をやめようとしたため、ヤルタ会談で暗殺工作をされている。

まずルーズヴェルトの健康にとって最悪の地であるヤルタを会談の場所に選び、
リヴァデイア宮殿のかつてのロシア皇帝の寝室を宿泊所に差し出す。
銃殺刑にされたニコライ五世が使っていたベッドを提供したのである。
私は悪い冗談だと思っていたが、アイクによると舞台設定に凝るのが連中のシュミだという。

米国への帰途の船中で側近のホプキンスが重態に陥りヘリで病院搬送、
残ったワトソン大佐は急死、ルーズヴェルトも人事不省に陥っている。
奇跡的に持ち直した彼は覚悟したのだろう、別荘へ休養に行った先で急死している。
私は自殺ではなく暗殺されたと思う。

鬼塚英昭著『20世紀のファウスト』によると、
ヤルタ会談の詳細を書いたステテイニアス国務長官も解任され、
しばらくしてから暗殺されているのである。

そしてまた鬼塚氏は『原爆の秘密 国外編』で、ルーズヴェルトが急死する一ヶ月前に、
アメリカ陸海軍内で原爆投下を阻止するクーデターが起きようとしていたことを述べている。
心理戦による日本の降伏を狙った『作戦計画I−45』である。

『私はこの「作戦I−45」こそ、フォレスタルとキング提督、デーヴィス、ザカリアスたちが仕掛けた一種のクーデターだったと思っている。それは原爆投下を知った彼らが、原爆投下を阻止する動きに出たと信じるのである。』

『なによりも、ルーズヴェルトに彼の考えを修正してもらわないといけなかった。それで、この「日本占領実施に関する戦略的計画」と「作戦計画I−45」の文書が、エルマー・デーヴィスに渡され、彼を通じて、当時ハイド・パークで休養中であった大統領のもとへ廻されたのである。』

『フォレスタルはルーズヴェルトにザカリアスの計画書を送った海軍長官である。この日記(ステイムソンの日記。副官が”最近出された大統領命令”のことで、フォレスタルとステイムソンがスミス予算局長と会見する段取りをつけようとしてきた云々、という記述がある)を読むと、ルーズヴェルトは”あの計画”を承認する大統領命令をすでに出していたのではと思えてくるのだ。ステイムソンはフォレスタルとスミスの会談が破局に至った経緯を詳しく書き留めている。ステイムソンとフォレスタルの間に確執があったことが読み取れる。そして、ルーズヴェルトの死である。』

つまりルーズヴェルトはOKを出していたのであるが、
「私は大統領をやめたい」と呟いてウオームスプリングの別荘で急死した。
それは自殺であると鬼塚さんは示唆されているが、私はやはり暗殺であると思う。
ルーズヴェルトは殺されることを覚悟の上で、
今までやってきたことの罪滅ぼしをしようとしていた。
すでにヤルタでも暗殺されかけていたが、しかし最善を尽くそうとしたと。
原爆投下阻止のクーデターを起そうとしたフォレスタル海軍長官も、
後に野戦病院で暗殺されている。

一方マッカーサーは朝鮮戦争で苦杯を嘗めたあげく解任された後は、
連中に逆らうことをやめにしたのだろう。
寄らば大樹の陰の優雅な人生を送ることに決めたようだ。
彼はアメリカに帰国すると国民に歓呼の声で迎えられる。
そして凱旋パレードと演説を済ました後、
ニューヨークのアスター家所有のホテルに落ち着くのである。

世界最高級のウオルドルフ・アストリアホテルのスイートで、
老兵は死なずにジーン夫人とともにリッチな余生を送る。
そしてアスター卿に骨抜きにされたチャーチルと同じように『回顧録』を書く。
あの有名な昭和天皇の「私の全てを委ねに参りました」という嘘八百のシーンを。

白洲次郎のカッコいいキャッチ・コピーも似たようなものである。
次郎&正子のプロパガンダ本や写真集や武相荘(ぶあいそう)の洒落た佇まいと、
東京大空襲の焼死体の炭化して真っ黒焦げになった母子の写真を比べて、
誰かが言わないとあまりにも理不尽だと思って私が言う。

『武相荘』は東京大空襲の悲惨さと対極にある不謹慎なシロモノである。
観光名所のようにしたり、そこで高級弁当を予約して食ったり、
次郎&正子愛用のコピーグッズを買って喜んだりするような所ではない。

『武相荘』とは最高国家機密情報を流し続けた無線基地であり、
原爆投下までシナリオを演出した売国奴たちの出先機関である。
その総指揮をとったのが吉田茂である。  

3. 2020年9月26日 11:44:48 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[15] 報告
山本五十六の真実C鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/687.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 23 日 14:38:56: 8qHXTBsVRznh2
 

山本五十六とヨハンセングループとの関係に言及する前に、
まずみなさんの頭に入れてほしいことがあります。


DVD『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』成甲書房より

以下転載。


今日は日本の歴史について話したいと思います。それも近代から現代にかけて、明治・大正昭和にかけて、みなさんに語りたいと思います。なぜその近代というものが大事かというと、近代を知ることは、今、平成の時代に起きていることを知ることができると思っているからです。で、まず最初にですね、とんでもないって思われる方がいらっしゃるかも知れませんが・・・明治が始まる前、幕末のことを少しだけしゃべりたいと思います。


私がたぶん2006年の10月と思うんですけど、山口県の柳井(やない)市というところに行きました。そこにもうかなり高齢なんですが、松重楊江(まつしげようこう)さんという方が住んでおります。その人を訪ねて行きました。で、彼に会い色んなことを聞きました。彼の本もその前に読んでおりました。どうしても彼に会って本当のことを聞きたいと思って、色々な質問をしました。


柳井市というのは瀬戸内海に面した、山口県の広島寄りのところにある地なんです。光町(ひかりまち)というのがあって、柳井市というのがあります。その光町と柳井の間に、熊毛郡田布施町(くまけぐんたぶせちょう)という町があります。光町はかなり平野で、商業地帯で工業面も盛んです。柳井市も同じように小都市ではありますが、かなり平野部分があります。その光町と柳井の間に山が曲りくねるように競って、海に流れ落ちてるような狭い土地があります。


『熊毛』というのは、山が曲りくねるとか湾曲しているとか、そういう状態を日本人は昔から『熊毛』と言ったらしいんです。それで『熊毛』という町が日本にも沢山ありますが、大体そういう所を『熊毛』といっているみたいです。極端にいうと人が住むのにあまり適さないような所なんです。で、そこに田布施町というのがあります。海辺の、海に近い所なんですが、熊毛郡田布施町というのは、田畑もあまりなく、ほとんど雑草が生い繁るような所です。今でもコンビにがある程度ですね。商業地帯はほとんどない寂しい部落なんです。光市と柳井市にはさまれた寂しい市にですね、日本史の歴史の秘密が隠されています。田布施町と柳井の間に田布施川という川が流れています。その川の両岸から、大正から昭和それから戦争の前後にかけて凄い人材が出てきます。


ちょっと例を挙げてみましょう。明治から大正昭和期にかけて、明治では伊藤博文、ま、ちょっと場所が離れますけど山縣有朋、それから時代が昭和に近づくにつれて、岸信介・佐藤栄作の兄弟、それから田布施川を挟むようにして、代議士では難波作之助、これは難波大助という皇太子を銃でうとうとした男のお父さん、国光五郎これも代議士、で、私が注目するのは岸信介と並び3スケというのがいまして、
鮎川義介(ぎすけ)・日産コンチェルンの総帥、久原房之助(くはらふさのすけ)・日立グループの総帥、松岡洋右・戦前の外務大臣。まだいくらでもいます。共産党の書記長であった実力bPの宮本賢治、マルクス主義を世に広めた京大教授の河上肇、法律界の大御所といわれた岩田宙造、戦後最後の内務相の憲兵を組織して『日本のいちばん長い日』を演出した内務相トップの安部源基。こういうのが一度に溢れ出るように、田布施の町の周辺から登場するわけです。


なぜでしょうか。でね、そこの原因をたどる時に、どうしても一人の男にたどりつきます。私が田布施に行きまして、松重楊江という人に会って秘密を聞きました。松重楊江は私にこう言いました。「ここのそばに田布施川という小さな川がある。そこの田布施川−そのひとは柳井に住んでいます−を渡って、あの山の向こうの方から老人がいつも野菜を売りに来ていた。」


その時に私が色々雑談をしている時に奥さんも傍にいまして、奥さんもそう言いました。「そういつも野菜を売りにきていた」と。ところが時々変なことを言う。何を言ってんだといったら、『うちの爺ちゃんは明治天皇や』と言うてるんですよ。で、松重楊江も笑っていたそうです。でも彼は宮本賢治の家のそばで宮本賢治の一族ですから、東京で共産党の幹部まで行き、宮本賢治の秘書になるような男です。故郷に帰ってきてダンボール工場をやったところが成功して、いっぱしの工場の経営者となり、息子に後を譲ってました。優秀な男なんです。で、どういうことかというと『うちのお爺ちゃんが大室寅之佑(おおむろとらのすけ)といって明治天皇になったんだ』というわけです。


話を聞いてみると何か辻褄が合うような気がする。それで色々調べているうちに、ひょっとしたらこの大室近佑(おおむろちかすけ)という老人が私に喋っているのは本当のことじゃないかと思い、萩の郷土史家を連れてきて調査した。萩の郷土史家とともに、山口県の郷土雑誌に『変な老人の話で・・』というようなことで記事を書いた。それを中央の鹿島昇という弁護士が読んで、松重楊江のところに訪ねて来ました。彼が言うのには「私は大室近佑の言う話を信じるから、近佑に会わせろ」と言った。で、まあ、近佑に会う。


それで鹿島昇と松重さんは−その当時はまったく歴史家じゃないんですけど−触発されて二人で本を出そうじゃないかと言った。それから松重楊江は近代史にのめり込むわけなんです。そして独自に調査をやり、大室寅之佑が明治天皇になった過程を、沢山の本に執筆するわけです。私も彼の本に刺激をされて『天皇のロザリオ』『日本のいちばん醜い日』に、彼の話を中心に引用するわけです。で、私はそこで止まれば別ですけど、背景を探ろうと思いまして、幕末から明治にかけての色んな文献を当たっていく過程で納得しました。たぶん間違いなく大室寅之佑が明治天皇になったんだと。


正当な歴史家には非常に申し訳ない話なんです。というのは、ある時私の所に電話がありました。

「もしもし鬼塚さんですか」
「はい」
「私はあのー歴史をやってるもんですが」
「何ですか?誰ですか?」
「秦(はた)といいます」
「秦って、先生あのー、秦郁彦(いくひこ)先生ですか?」
「そうです。あなたは、あなたの書いてる本の中で大室寅之佑を明治天皇と書いていますが証拠はあるんですか?」

と言われますから、私は数々の証拠を言いました。すると彼はこう言いました。

「大室寅之佑の戸籍を見たことがありますか?」
「いやありません」
「戸籍が無い人を、どうして明治天皇だったと言えるんですか?大室寅之佑は本当に存在したんですか?」

で、幾度も同じ質問をするので色んな面から説明したけど、彼は納得しませんでした。
で、それで今言ったように、田布施を中心とした付近から出てきた人も喋り、

「先生、宮本賢治も、野坂参三は少し場所が離れますけど、同じ山口出身ですよ」

と言ったら、彼はポッと言いました。

「鬼塚さん、私はそのことは詳しいよ」
「先生、どうして詳しいんですか?」
「私もその一族だ。田布施の川の近くで私は生まれ育った」

それで私はぴんと来ました。そうか。
歴史を隠そうとするべく現代史の大家になったのかと。
一時間くらい色々喋りました。結局、彼は最後まで

「大室寅之佑の戸籍が無いのに、どうして存在するのか?」

と言って最後は話が別れました。


戸籍が見たことがないから現実とは違うんじゃないか、という話には納得しません。明治天皇になった大室寅之佑を京都の御所に訪ねて、イギリスの外交官たちが謁見します。その時にイギリスの外交官の一人が日記に書いています。『御簾(みす)の中に大男がいた。顔色は真っ黒だった。唇に赤い紅を差していた。とても異様であった』。これは本当に異様な話なんです。孝明天皇というのは肖像画も残っていますが、細面の男です。そして睦仁(むつひと)というのがその子どもですけど、中山慶子(よしこ)と孝明天皇の間に生まれたのが明治天皇になる睦仁です。明治天皇になった大室寅之佑は中山慶子に一回も面接していません。僕はずいぶん調べました。一回も面接しない親子というのがあるでしょうか?ドナルド・キーンというのが明治天皇について書いてます。彼は一回だけ面接したというのを創生し親子の情を書いていますが、それとて一回だけしか面接をしたことがない。親子でありながらしかも一回も会ったことが無いというのは、これはもう正常ではありません。


それで中山忠能(ただやす)は公卿なんですけど日記をつけていて、『睦仁というのは非常に身体が弱くて細くていつも泣いていた』と。そしてまたある日記に突然彼は『奇兵隊天皇が生まれた』と書いてます。奇兵隊というのは高杉晋作が創り、大室寅之佑もそれに参加しました。特に身体が大きかったから、『力士隊』というのがありましたがその一員です。その『力士隊』の一員である大室寅之佑は、伊藤博文が大事に育てました。伊藤博文の家は大室寅之佑の家から歩いても、昔の人だったら30分ぐらいで行くんじゃないでしょうか、近いところに住んでいます。彼は伊藤博文に大事に育てられて、明治天皇に仕立てられたと私は思うんです。それは『奇兵隊天皇』という言葉を、中山慶子のお父さんがはっきり書いています。


そして朝彦(あさひこ)親王というのがいまして、これはショウレイインという悪名を持つ坊主が、天皇にほとんど関係がないんですけど、明治天皇が出来たときに万が一の場合に皇統が消えたら悪いというので、いくらか孝明天皇につながりのある男を探したらおりました、それを朝彦親王として、そこから日本のあの皇族たちが全部生まれて来ます。明治の皇族たちはみんなそこから、その家の子どもたちです。朝彦親王も『明治天皇は毎日将鬼の幽霊を−孝明天皇が亡霊として将鬼の姿として現れ−毎日泣きじゃくっている』という日記を残しています。


もう一つ大事なことがあります。みなさんはご存知かもしれませんが、『徳川家康』を書いた山岡荘八というのがいます。大ベストセラーでした。この人が『明治天皇』という小説を書いています。不思議なことに明治時代になっての天皇を書かず、孝明天皇とその妃のことを書いています。その中で明治天皇が小さい時のことを書いていまして、近所で豆腐屋が通って笛を吹くと「トーフィ、トーフィ」と言ったそうです。京都の八瀬童子という所の部落がありまして、天皇の葬式のときは棺を担ぐ役をしてまして、どうも中山慶子はそこの生まれであろうと山岡荘八は書いています。中山家の兄妹になる息子が中山忠光といいますけど、この人が長州の人によって殺されます。逆らったんですね。殺されます。そういう具体的なことを山岡荘八は書いて、『明治天皇』という題をつけています。山岡荘八は見事に明治天皇誕生の裏を描いていますが、ただ孝明天皇も睦仁も殺されたというところには一行も、まあ触れられなかったと思いますね、戦後書いてますから。


去年、東京大学でフランス展がありました。偶然私は東京にいまして、東大に行ってフランス展を見に行った折に、明治天皇を隠し撮りした写真が東大の資料館で飾ってました。大男です。今の相撲取りでいったらどうでしょうか、百何十キロの大男です。これが明治天皇の姿なんです。泣きべそっていた子どもが突然東京に現れたら、西郷隆盛と相撲を取り江戸城で白馬を乗りまわしたという有名な話があります。そりゃそうでしょう。大男です。『力士隊』にいた男に間違いありません。色が真っ黒くて大男でブサイクな男です。キョソーネという人が描いた肖像画による明治天皇とは似ての似つかん姿です。これはフランスの人が発表し東大が認めて明治天皇の写真として発表してるんだから、これこそ間違いありません。


ということは、私たちは田布施という町の、これははっきり申しますと朝鮮部落です。なぜ朝鮮部落かと申しますと、そうですね、これはちょっと語りにくい話なんですけど、歴史的にいいますと山口県は長州藩になる前に大内藩だったんです。守護大名・大内家がずっと支配してました。大内家は完全な、本人たちも言ってますが朝鮮人です。大内家の家臣が毛利が侵入して負けたために散っていくわけです。彼らが散り散りになって、ほとんどが部落民にされるわけです。この過程は上智大学の神学部の教授が『遥かなる高句麗』という本の中にはっきりと書いています。


まだあります。2006年10月6日か8日号の週刊朝日に『家政婦は見た!阿部晋太郎研究』というのが出ました。安部晋三は岸と佐藤栄作の直系の一族です。その一族の安部晋三のお父さんの晋太郎が死んで棺に入る時に、家政婦をずっとやって晋太郎を子どもの時から育てた久米うめさんという女性が週刊朝日の記者に言ってます。「死ぬ時初めて分った。日本人の体型ではない。朝鮮人の体型だ。棺に入れるとき初めて全体の姿を見た。晋太郎は生前いつも口癖のように私に言ってた、『俺は朝鮮人だ、俺は朝鮮人だ』。私はまさか晋太郎が朝鮮人とは思わなかったけど、死ぬ時に棺に入れる姿を見て、ああこれは日本人ではないということを認識した」。


ということはそういう面から見ても、あの部落は私も行ってみましたけど朝鮮部落です。そして非常に寂しい所なんです。そこからあの周辺の人が、日本を支配する人が沢山出て来るということは、大室寅之佑が明治天皇になったということの証しではないでしょうか。例外があるでしょうか。2キ3スケといって、2キは東条英機と星野直樹ですが、3スケといわれるのは先ほどいいました岸信介・松岡洋右・鮎川義介この3人が期せずして一致して満州帝国を創ります。そして膨大な利益を上げます。


※「2キ3スケ」とは満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者のこと。「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられた。東條英機(とうじょう ひでキ、関東軍参謀長)星野直樹(ほしの なおキ、国務院総務長官)鮎川義介(あいかわ よしスケ、満業(満州重工業開発株式会社)社長)岸信介(きし のぶスケ、総務庁次長)松岡洋右(まつおか ようスケ、満鉄総裁)。5人のうち、鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも称された。(ウイキペデイアより転載)


細川護貞(もりさだ)『情報天皇に達せず』という本があります。この本によりますと、東条があの当時数億円単位の金を政界工作に使ったとあります。岸信介が東条を追い落としたのは、近衛が秘書の細川に言ってます「あれはお前が言うような、世間で言われているような話じゃない。東条が金をバラまきすぎたのを岸信介がみんなに訴えて、東条を失脚させたんだ」ということです。東条は一族ではないために、金をたくさん貯めて日本の銀行に戦後入れます、そして戦犯で殺されますが、預金封鎖になって全財産を無くします。岸信介はちゃんと天皇と同じようにスイスの銀行に預けたために、岸信介・佐藤栄作・安部一族は大金持ちです。今、安部晋三が総理大臣になれたのも、最終的にはそのお金が役に立ってるんです。ということを持って私は大室寅之佑が明治天皇になったと、まずここから考えますと日本の歴史が見えてきます。


コンプライアンスというのは「情け」とか「いい加減」とか「気まぐれ」とか「気休め」、それにドールをつけてコンプラドールという言葉があります。これは要するに外人がオモチャのように使えるような、気休めの人材を集めて自由自在に操り、その国を支配するということです。中国にアヘン戦争をしかけて、香港・上海銀行を中心に支配していくユダヤ人たちは、中国人の連中をコンプラドールとして使いました。同じように日本人をいちばん大事なところで、権力の中枢でコンプラドールにされた可能性、大なんです。大室寅之佑が明治天皇になり、そして大正・昭和と続く過程で、色んなスキャンダルに巻き込まれていきまして、そのスキャンダルをヨーロッパ、殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。これが第二次世界大戦の遠因になったと思うんです。


どうでしょうか。そういう面から歴史を見ると、私に電話をかけてきた秦さんやら、それから半藤一利さんの歴史観とはまるきり異なるわけです。で、私はみなさんにお願いしたいのは、やはり日本を知るためには日本の暗い部分に目を向けるべきではないか。それを直視しないから日本人はいつまでたっても、今もそうですけど、アメリカ人に利用されてるじゃないかと。僕たちはそういうことを全部知ろうじゃないかと。知った上で堂々と外国の勢力に立ち向って行くべき時が来たんじゃないでしょうか。


それでまた、これで続きがいっぱいあります。日露戦争もぜんぶ同じパターンで仕掛けられたと思うんです。日露戦争を始めるとき、伊藤博文は反対します。「負ける」って、「するな」と。伊藤博文も孝明天皇や睦仁殺しに一番かんでいる男なんですが、彼でさえ「やったらイケン」と言います。でも戦争をするように仕掛けられて、高橋是清が「金がないのにやるのか?」「じゃ、お前金策に行ってこい」というので彼が金策に行って、いちばん最初にイギリスのロスチャイルドに会います。


イギリスのロスチャイルド家は自分では直接関与したくないので、クーン・ローヴ商会、イギリスのロスチャイルド家が金を出して全額投資したクーン・ローヴ商会に紹介します。高橋はイギリスからアメリカに渡ってクーン・ローヴ商会に「国債を買ってくれ」と言います。ちゃんと話が出来てたんでしょう、クーン・ローヴ商会が買います。シフという男ですけど買います。それでイギリスから軍艦を買ったりします。万が一日本が負けて国債がパーでもだいじょうぶ、日本を実質的に支配すればいいんですから。そして軍艦さえないのに、イギリスから軍艦を買って運良く勝ちます。全部これ仕掛けられたと思うんですよ。


で、日露戦争の後に第一次世界大戦があります。これも運良く日本がちょうど良いいところで甘い汁を吸わせてくれるように、イギリスを中心とする勢力が最後の段階で日本を迎えいれて、ドイツ敗北のために役立ったと言って、ヴェルサイユ条約で日本に太平洋の島々の委任統治を認めます。実質的に上げるわけです。日本が太平洋戦争でがんばれたのも、あの小さな島々をもらったからなんです。それがなかったら、日本はとてもアメリカに対抗できませんでした。


で、太平洋戦争の前に大正天皇のことを少し喋ろうと思います。東久邇(ひがしくに)というのが、戦後、首相になりますけど、この男のことを少し喋ろうと思います。もうスキャンダルだらけの日本ですけど、大正天皇は子種がありませんでした。歴史的にまちがいはありませんが、現代史家は認めません。でも子種はありませんでした。というのは、2・26事件で弟を亡くした河野司というのがおりまして、この人が2・26事件というのはどうして起きたんだろうと調べて回る時に、東久邇にぐうぜん遭って話を聞いた時に、東久邇がこういうように言いました。「お前の弟が死んだのは、遠因は昭和天皇と秩父宮の争いにある」。


で、それはどういうことかというと、大正天皇に子種が無かった。じゃ、昭和天皇はなぜ生まれたかということを、東久邇が河野司という男に喋ります。これは映画脚本家・笠原和夫という、東映全盛時代に脚本を書くんですけど、この人ものすごい勉強家でして、2・26やら色んな事件を映画につくるべく脚本を書きます。この男が河野司と対談をしてます。その中で河野司が笠原に言います。「私はあの時、『軍艦』というキャバレーでたまたま東久邇と遭った。それで東久邇が私に『河野、お前に今日は本当のことを話してやろうか』と言って話してくれた。」と。

◎河野司と三島由紀夫は親交がある。三島由紀夫がごく親しい人しか招きいれない自室の部屋に入れて語り合うほどの仲である。三島由紀夫はやはり2・26事件の処罰に連座した末松太平とも付き合いがある。

「じゃあ昭和天皇はなぜ生まれたんか」と言ったら「そこまでは言われない。だけど貞明(貞明皇后)はえらく昭和天皇の父親を嫌ってた」ということです。それで私はハッとしました。私は小学生のころだったと思うんですけど、戦後、カストリ雑誌のようなものを読んだことがあるんです。その中で西郷八郎という名が出て、これは西園寺八郎のことを書いたらマズイと思って西郷八郎になったと思うんですが、その西郷八郎という男が登場して、大正天皇の傍にいた妃を手に取って、大正天皇が嘆くのにもかかわらず山に連れて行ってチョメチョメした、という三文小説がカストリ雑誌に載ったことがあります。もうずい分前の戦後のカストリ雑誌です。ひょっとしてあれは本当の話じゃないのか。西郷八郎というのは西園寺八郎のことではないのか。それで西園寺八郎をいっぱい調べて見ました。


『木戸日記』というのがあります。木戸幸一が戦後、東京裁判資料として提出した資料です。都留重人(つるしげと)というのが、木戸の娘を貰ってまして、その関係で都留重人が木戸を説得して、「あんたの日記をもう出せ」というので世に出たものです。その中で年月不詳というのがあって、島津治子の話があって、この島津治子というのは貞明皇后の女官を長く務めたんですけど、主治医が亡くなった後に、貞明から女官を去るように言われまして、去った後に民間宗教に凝り固まって妙な言動をする女なんです。そのことを木戸幸一が書いていて、年月不詳という中にこう書いてます。『大正天皇の侍従の指令−貞明皇后のお相手八郎のこと』。『貞明皇后のお相手八郎のこと』とは西園寺八郎のことです。その西園寺八郎は隠れた重要な人物で、ちょっと余分なことを喋ります。


長州藩に徳山藩というのがあるんですけど、長州は萩が本家で(徳山藩はその)分家なんです。そこに毛利元徳(もうりもとのり)という分家なんだけれども一応城を構えた殿さまがおりまして、その殿さまの八番目に生まれたから毛利八郎といいます。その毛利八郎が本家の毛利頼近の養子になります。ま、形でしょう。で、頼近の息子として、形式なんでしょうけど、西園寺公望の養子として西園寺八郎となる。西園寺公望は女房がいませんでしたけれど、子どもを儲けていたんです。新子といいます。その新子と西園寺八郎が結ばれるんです。ちょうどその頃に、西園寺八郎は子どもの時から大正天皇と同じ学習院の同期で幼友達なんですが、大正天皇は子種がないので結局ある筋から西園寺八郎に「お前が強引にやってこい」と、で、西園寺八郎は命令されるがまま貞明とチョメチョメしまして、まチョメチョメという言葉はどうでしょうか、チョメチョメしまして子どもが生まれます。それが昭和天皇です。


◎私見では昭和天皇の母親は貞明皇后ではない。昭和の闇の本質は昭和天皇と秩父宮の確執ではなく、長州を後ろ盾にする昭和天皇VS極端な長州嫌いの貞明皇后の確執だと思う。これが昭和最大の分水嶺2・26事件を引き起こす。貞明皇后は田布施村政権を佐幕派に大政奉還しようと図り、樺山愛輔を二度も駐米大使・松平恒雄が駐在するワシントンへ往復させて、松平容保候の四男である彼の娘を秩父宮の妃に貰い受けた。貞明皇后が秩父宮を皇位につけようとした動機は盲愛ではないと私は思う。彼女の言動からは意思がはっきりしていて正義感が強い人となりが伝わってくる。笠原和夫は2・26は第二の壬申の乱と言ったが、私は2・26は第二の戊辰戦争であると考えている。そして田布施村王朝を転覆させようとした貞明皇后は、戦後心臓麻痺で急死している。私は吉田茂と昭和天皇が暗殺したと考える。白洲次郎は戦後は暗殺工作から身を引いている。


◎重松楊江はまた次のように述べている。『貞明皇后の本当の名前は朱』田布施村から輩出された人脈によって樹立された明治王朝・大正王朝・昭和王朝・平成王朝とは即ち朝鮮王朝のことである。明治維新で職を失った旗本の娘の中から、美女を選び城内に入れて「千代田遊郭」なるものを伊藤博文らがつくりました。そこは、天皇や重臣たちの遊び場でした。そこに朱貞明がやってきました。才色兼備ゆえ、天皇や伊藤博文に見初められて、やがて大正天皇の妃になったのです。』


◎つまり明治王朝・大正王朝・昭和王朝・平成王朝とはすなわち朝鮮王朝のことである。よって貞明皇后の出自が朝鮮であることは理にかなっている。貞明皇后が大正天皇と結婚したのは15歳である。白羽の矢を立てられた彼女が九条家に引き取られ、学習院に通わされ鍋島信子・牧野雪子と交友している在学中、大正天皇の妃候補として千代田城にお目見えしたのだろう。おそらく貞明皇后は朝鮮王朝を引き継ぐ嫡子を産む女性としてふさわしい出自なのだろう。


◎また私見では昭和天皇と貞明皇后は血縁がないと考える。貞明皇后は極端な長州嫌いで有名、かつ個性的な性格で意思が強い。西郷八郎が彼女の隙を狙って襲えたのは一回きり、貞明はガードを堅くして(例えば女官を常時周囲におく)防御しただろう。貞明皇后が西園寺八郎を拒絶したので、田布施村の大室家の血筋に連なる子どもが連れてこられたのが昭和天皇である考える。貞明皇后はDNAも強烈なのか、昭和天皇以外の三人の息子は彼女に酷似している。猛禽類のような鼻をしている。その中で昭和天皇一人だけ面立ちがソフトである。見目良い賢そうな子を選んできたのだろう。実際昭和天皇は恐るべき頭脳の持ち主である。鷹揚な生物学者然とした風貌で「あ、そう」を連発するほほえましいキャラを演じた千両役者でもある。幼少の時「昭和天皇と秩父宮は双子である」という風聞が根強くあったという。この兄弟は母胎に宿っている時期が一部重なっていたのだろう。双子ではなく母胎が二つあったのだ。昭和天皇には長州出身の西園寺八郎が後ろ盾になった。昭和天皇を銃撃しようとした難波大助は田布施川の辺に住んでいたから、そのことを知っていたのかもしれない。


で、彼(八郎)は西園寺家に新子という女がいながら、まったく寄り付きもしないで天皇家に入りこんでピッタリと自分の息子の昭和天皇の傍にいます。ずーっと侍従をします。一時、大正天皇の侍従武官長の奈良武次という男とけんかして、けんか両成敗で数年間、昭和天皇の傍を離れますが、死ぬまで傍にいます。ということは昭和天皇の行動も全部、西園寺八郎が牛耳ったであろうと言われるほど、傍にいます。その西園寺八郎の子どもが公一(きんかず)といいます。一番大事なのは、次女が春子といいまして、この春子が住友家の御曹子の住友吉左衛門(第十五代当主・住友友純)の嫁さんになります。ということは、住友と天皇家は血縁もいいとこなんです。そうでしょう?そこから考えると昭和の闇もまた見えてきます。


◎八郎の岳父・西園寺公望は1919年パリ平和会議全権大使。、シナリオについては知悉していただろう。日米開戦前夜に死んでいるのは、シナリオに反対して消されたと私は思う。公望の私設秘書・原田熊雄は住友に丸抱えされてヤラセの連絡係りとして活躍する。住友は確かに怪しい。


じゃあ秩父宮は二番目に生まれますが、秩父宮はどうなんでしょうか。秩父宮は東久邇が自分から言えないけど、東久邇の子どもなんです。「こいつは何を言ってるんだ」と思うでしょうけど、『西園寺候と政局』という原田熊雄という男が書いた本があります、その本を私が言ったようなことを頭に置いて読まれると、東久邇と秩父宮が親子であるということが良く分ります。いつも行動を共にして、西園寺が東久邇が妙な行動を取ると秩父宮を呼びつけて「東久邇に言え、妙な行動を取るな、と」。そして又、秩父宮が変な行動を取ると西園寺候が東久邇を呼びつけて「あの子どもをもう少しセーブしろ」と言います。東久邇は自分を自慢したくて、河野司を呼んで喋ったのかもしれません。(大正天皇に)子種がないことは事実です。で、貞明皇后はいろんな男とデキてます。で、樺山愛輔というのともデキているのはまちがいありません。そういうのから昭和の闇も見えてきます。

◎樺山愛輔は白洲次郎の岳父である。私には次郎よりよほど優秀なインテリジェンスに見える。白洲次郎はエージェントのくせに饒舌で注目を浴びすぎている。付き合っている文士たちにシナリオの一端をポロポロ喋り、本やエッセイでバラしている。エージェントとしては失格であるが、わざとやっているのかもしれない。「俺の正体を見抜け」という声がきこえてきそうなほど手がかりを与えている。それに比べて愛輔は寡黙である。まったく喋らない。だからほとんど歴史の俎上に上げられず、ノーチェックできたエージェントの鑑である。チャーチルも本質はエージェント、吉田茂もエージェント、ルーズヴェルトも下半身不随でなければ秘密裡に飛び回っただろう。自由に動き回れないので代わりにドノヴァンにOSSを組織させた。ルーズヴェルトはドノヴァンを『私の秘密の足』と名づけている。


◎ウィキペディアによると、樺山愛輔(1865年6月3日−1953年10月21日)は、日本の実業家、政治家。伯爵。1865年、薩摩藩士・樺山資紀の長男として鹿児島に生まれた。1878年、米国に留学。アマースト大学卒業後はドイツ・ボン大学に学ぶ。実業界に入り、日本製鋼所、十五銀行などの役員を務める。(注 白洲商会の倒産は十五銀行の不調が原因である。白洲文平に引導を渡して次郎を帰国させる舞台設定は、樺山愛輔がやったのかもしれない)1922年、父資紀(海軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵した。1925年に貴族院議員に選任され、1947年に貴族院が廃止されるまで務めた。1930年のロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。(注 山本五十六が呼び会議に出て世界に注目された)太平洋戦争中は、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂などと連携して終戦工作に従事した。1946年、枢密顧問官に就任。20年以上の滞米経験から米国内に多くの知己を持ち、日米協会会長や国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長、ロックフェラー財団などの国際的文化事業にも携わった。妻常子は、伯爵川村純義の娘。(注 昭和天皇と秩父宮を養育した人物である)壮年に至るまで政官界官職にキャリアを残していないが、鹿児島大百科事典(1981年)によれば、原因は体を壊したためとする。(注 正子によれば愛輔は猪肉が好物で、食べたくなると猪を肩にかついで坂を上がってきたという。実に壮健な人物である。)
◎また樺山愛輔は20年以上も滞米経験がある。アマースト大学の同窓生には後のクーリッジ大統領、モルガン商会のモローがいる。アマースト卒業後に引き続きボン大学留学。当時ボン大学には次郎の父親(ということになっている)白洲文平が留学している。文平もその前にハーヴァード大学に留学しているのである。


◎ぴゅあ☆ぴゅあ1949http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50282676.htmlよりダイジェストさせてもらいます。『白洲次郎の英国人脈にはジャーディン・マセソン商会の創業一族のウィリアム・ケズィック(兄)、ジョン・ケズィック(弟)がいる。ウィリアムは昭和20年代マセソンの最高幹部、ジョンは白洲の友人。同社はイギリスの極東政策を実質的に支配していた商社であり、阿片戦争(1840-1842)の影の主役。このジャーディン・マセソンに白洲は日鉄・広畑工場(現・新日鉄)を格安の、わずか1億円で売却しようとし、日本の財界に阻止される。また、白洲がのちに会長となる東北電力にもジャーディン・マセソンは絡もうとしている。このJM商会はもともと吉田茂の父・吉田健三と深い関係があり、このJM商会が白洲次郎と吉田茂をつなぐきっかけになった思われる。さらにGHQ民生局(GS)文書より、「多くの人間は、白洲がビジネスで成功したのは、義父・樺山愛輔を通じた三井実力者たちとのコネクションのお陰と考えている」(1947年)。白洲次郎は徴兵を忌避したが、それが可能であった理由も同じくGHQ民生局(GS)文書より、「白洲は(戦前、戦中は)日本海軍と水産業会の諜報連絡役を務め」(1947年)とある。戦前/戦中、日本の商社や水産会社が情報機関に協力したのは事実である。仕事で欧米やアジアを回り、帰国後、入手した情報を提供した。必要なら、海外支店駐在員に諜報員を受け入れ、資金調達も支援してきた。』


http://d.hatena.ne.jp/m3953/20101221よりダイジェストさせてもらいます。『吉田茂はロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったそうであるが、養父の健三もも欧米エスタブリッシュメントと深い関係を持っていたようである。健三は、1864年、16歳の時、家を出て大阪で医学、長崎で英学を学んだのち、1866年英国軍艦に便乗して欧州に遊学した後、明治元年に帰国する。「英一番館」ことジャーディン・マセソン商会に入り、番頭をふりだしに、のち独立し、さまざまな事業を手がけ、横浜で1、2を争う富豪となる。健三の父である渡辺謙七もどうやらジャーディン・マセソン商会で番頭をやっていたようである。渡辺謙七は福井藩を脱藩して横浜へきて、ジャーディン・マセソン商会に入社し、その後、回船問屋になった。『渡辺謙七が福井藩を脱藩してジャーディン・マセソン商会に入社し、その息子の吉田健三もジャーディン・マセソン商会して財を築く。そして吉田健三が資金提供した光明寺が立つ久保山の火葬場で戦犯が火葬され、その息子の吉田茂が戦後日本を率いていく・・・、なんだかものすごい因果を感じてしまいます。』


◎世界の真実の姿を求めて!http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-679.htmlより転載させてもらいます。『吉田茂の妻となった牧野雪子はアリス(グルー駐日大使の妻)を通じて、モルガン=ロスチャイルドの洗脳教育を受けた。在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。』


◎麻薬&奴隷商人たちに繋がるのは、田布施村王朝を樹立した伊藤博文以来の伝統である。牧野と樺山の娘婿たちも同様である。吉田茂のあらゆる伝記本は、遺産60億円の使途は不明だと書いて済ましている。吉田茂がこの莫大な遺産を受けとったのはわずか11歳の時、平素頑健だった健三が心臓麻痺で急死したためであるが、恐らくザ・オーダーのデス・ノートに心臓麻痺と記載されていたのだろう。吉田茂は白洲次郎を使って山本五十六、近衛文麿、尾崎秀実を抹殺している。五十六暗殺のスケジュールは、13日に昭和天皇のお気に入り鮫島元侍従武官が行動予定時刻の詳細を打電、これが死を賜る合図である。暗殺劇の予定は15日だったが「天候が良くない」という理由で延期された。アメリカ側が傍受できなかったのである。17日旗艦『武蔵』から再度打電され、これが傍受される。そして翌日18日の暗殺が決行される。


◎『この時ブイン上空で待ち伏せしていたジョン・W・ミッチェル少佐率いるP38戦闘機十六機は、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場から飛来してきたものであり、地点としても航続距離ぎりぎりのところであり、長時間滞留するわけにはいかなかった。有り難いことに山本五十六長官機一行が飛んでくる時間、コースは予め判明しており、時間に厳格な長官の性格まで分析した上での迎撃作戦なので、我が方がこの大編隊に気づかない限り、攻撃側の有利さは絶対であり、この勝負の帰趨は火をみるよりも明らかであった。』(衣川宏『ブーゲンビリアの花』より)


◎打電を幇助したのが海軍主計士官・中曽根康弘。陸海軍に秘密ルートを持つ白洲次郎が協力している。中曽根はこの功績によって吉田コネクションに加わり、戦後若手政治家として頭角を現わす。原発導入のためハーバード大学のサマースクールに参加、キッシンジャーの知己を得る。鬼塚さんも中曽根を転がして原発推進を図った黒幕は、吉田茂であると指摘されている。若手議員の中曽根や讀賣の正力が、『国策』を左右できるとは思えない。原発推進の『国策』は、国会議員でさえ立ち入れない奥の院で既定事項とされていたのである。


例えば2・26事件というのがあるんですが、昭和の闇というのは平成の闇もそうですが、ますます深まるのは、明治の時に話がさかのぼる訳ですよ。幕末に。その闇を私たちが直視してかからないから、今この福島の原発にも全部つながっていると僕は思うんです。福島の原発も真実を見るためには、そこから見ようじゃありませんか。そしてあえて言うなら日本人は、どこかでその巨大な闇に立ち向かうべき時に来ていると思います。

4. 2020年9月26日 11:45:57 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[16] 報告
山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 30 日 13:49:31: 8qHXTBsVRznh2
 

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。  

5. 2020年9月26日 11:47:30 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[17] 報告
山本五十六の真実E鬼塚氏が発見した日本の真実−白洲次郎とは何者か
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 30 日 16:19:45: 8qHXTBsVRznh2
 

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。

以下本文。


で、もう一つあります。白洲次郎という男が非常にもてはやされております。これから白洲次郎という男について語ります。この男を語ると昭和史の闇が見えてきます。彼は白洲商会というのがあって、親爺は繊維問屋をやってて、繊維不況の中で倒産します。小さな会社です。親爺は倒産してどうしたかというと、九州の山の中に掘っ立て小屋を建てて、借金取りから逃れて、そこで一生を終わる男です。ちょうど白洲次郎がケンブリッジ大学に行ってるんですね。倒産します。で白洲次郎はどうしたか。白洲次郎は当時のイギリスのクラッシック・カーを乗り回して盛んに遊びます。なぜそんなことが出来るのか?


白洲次郎を助けた男にジグムント・ウオーバーグというのがいます。これはドイツにロスチャイルド家と並んでウオーバーグ家というのが二大財閥でいます。ロスチャイルド家と一時同じくらいの力がありました。そのウオーバーグ家から息子たちがドイツから、長男と次男が残って、ジークムントという従兄弟がイギリスに渡ります。そしてポールという弟がクーン・ローヴ商会という所へ行って、そこの娘と一緒になります。ポールはFRBを創る男ですね。


ジークムントはS・G・ウオーバーグという金融会社を作り、国際金融システムの一員となるんです。その当時ロスチャイルドと対抗できるくらいの金融家にイギリスでなるわけです。その男が生涯にわたって金もなくなった男に巨大な金を与えてケンブリッジに行かせて、その後も一生大事に育てるわけです。おかしいと思いませんかこれ。僕はねどうもこの男(白洲次郎)は日本人じゃないんじゃないか、ウオーバーグの子どもじゃないかという考えをずっと持っておりました。で、ちょっと前に『1945年占領史』という本が出まして、その本を読みました。徳本栄一郎という人が書いた本で、その中にですね、妙なことを書いてました、結局、彼はホワイトクラブというのがあるんですが、最高権力者、チャーチルとかロスチャイルドとかMI6の長官とかトップクラスの者が入る、イギリスの最高の貴族クラスが入るクラブの会員であったと。(注 会員ではないが出入りしていた)貧乏人の男で親父が掘っ立て小屋に住んでるのに、どうして彼はできるんだろうと。


そしてまた彼の『1945年占領史』という本を読んでいる時に、ああそういうことかと思いましたね。彼が日本に帰ってきて、ある雑誌社でしょうね、ジャパン・アドヴァタイザーという、『ジャパン・オブザーバー』という雑誌社の編集員になる。そして彼が記事を書いてるすべての記事は、ジョン・シラスと書いてる。そうなんですよ、彼は白洲次郎である前に、ジョン・シラス・ウオーバーグなんですよね。僕はそう思います。だから彼は親爺が掘っ立て小屋を建てて借金から逃げているのに、ずっとクラッシック・カーを乗り回して・・・白洲正子というのが女房なんですけど、白洲次郎のことを盛んに書いてます「白洲次郎はイギリスで最高の暮らしをしていました。クラッシッ・カーを乗り回していました」」と。なぜそれが出来るか。それは間違いなく彼は、僕ははっきりそう思います、彼はジークムント・ウオーバーグの子どもであると。


◎鬼塚さんの凄い卓見である。
徳本栄一郎氏は白洲次郎の優れた資料を発掘しているがここまで言及できない。
白洲次郎はユダヤ財閥ウオーバーグ家の庶子であると私も思う。
しかし資料を読むと父親はアビー・M・ウオーバーグだと思われる。
母親はフィレンツエにいた東洋系の女性だと思われる。

アビーはボン大学で美術史を学んだ関係で、フィレンツエを訪れる。
以後ずっとフォレンツエに執着して住んでいるのである。
ウオーバーグ財閥の棟梁息子がである。
その後アビーは、マリーという女性と結婚をする決心に8年もかかっている。
しかし結婚するやいなやフォレンツエに戻って暮らすのである。
そしてアビーは重度の心身症を引き起こす。
フォレンツエでの新婚生活は早くも破綻するのである。
アビーが本当に愛しているのは次郎の母親で、
おそらくマリーとは偽装結婚だったのだろう。
マリーは終生寡黙に欺瞞の結婚生活を耐えたようだ。
アビーは「神は細部に宿る」というあの有名な金言を作った美術史家である。
しかし生涯プーを貫き、後年フロイトの患者になるほど精神状態が悪化していく。


再び鬼塚氏DVDより

そこから見ると全部歴史の闇がはっきり見えて来ます。アメリカにジークムント・ウオーバーグの従兄弟が渡って、クーン・ローヴ商会の共同責任者、ロスチャイルドの作った会社の共同責任者になり、シフの娘をもらいます。経営者のね。そして彼が何をやったかというとFRBの創設者がウオーバーグです。

◎この辺は込み入っているので、
ロン・チャーナウ『ウオーバーグ ユダヤ財閥の興亡』
を参考に簡単にまとめてみる。

ウオーバーグ家は本家と分家の二つがあって、
アルスター湖の辺に居を構える本家と、ミテルヴェークに居を構える分家がある。
かの有名な五人兄弟を輩出したのは、分家のミテルヴェークの方である。
ミテルヴェークの者は、ミドルネームにモーリッツを表すMを入れる慣習がある。

アビー・M・ウオーバーグは五人兄弟の長兄である。
風貌はオッペンハイム家出身の母親シャルロッテの血筋を引いたのだろう、
黒髪・暗褐色の目・浅黒い肌をしている。
そんなアビーを母親シャルロッテは溺愛している。

まず四男のフィーリクスが、母親の実家のN・M・オッペンハイム商会に派遣される。
オッペンハイム家の晩餐にジェイコブ・シフ父娘が招かれ、
フィーリクスと娘のフリーダが引き合わされ結婚する。

三男のポールはフィーリクスの結婚式で、ソロモン・ローヴの娘と意気投合し結婚する。
ローヴはシフの義父であるので、ポールはシフと義兄弟になったことになる。
これが縁でM・M・ウオーバーグとクーン・ローヴ商会が固く結ばれる。

長男アビーが芸術志向だったので、代わりに次男のマックスが家を継ぎ、
ハンブルク・アメリカン・ラインを世界有数の船会社に育て上げる。
ハンブルクは世界の一大物資集散地へと変貌していく。
シフ家に高橋是清の娘・和喜子が三年間も滞在したように、
ハンブルクのウオーバーグ家にも三井家の一族がよく立ち寄る。

次男マックスはアステルダムに出先機関としての銀行を設立する。
次男マックスが会長、三男のポールと五男のフリッツが副会長に納まる。
この銀行はナチ政権出現後のウオーバーグ家の活躍の場として、かけがえのない役割を果たす。

ウオーバーグはナチスに最大の被害を受けた財閥のように振舞っているが、
裏ではナチスと結託して一般ユダヤ人を踏みつけにしている。
またウオーバーグは戦後汎ヨーロッパ同盟に6万金貨マルクを提供しているが、
この同盟はもともとナチスドイツの超ウルトラ諜報機関から生まれたものである。


◎『LEGACY OF ASHES』様より転載させていただきます。


『欧州連合はDVD(Devtsche Vertedigungs Digest)にとって長期展望に立ったものである。DVDはAbweherとゲーレン機関(Gehlen organisation)から生まれたもので、ナチの超ウルトラ諜報機関である。1943年マドリッドに本部が置かれたが、現在はミュンヘン郊外のダッハウ(Dachav)にあるが地図にはない。ここがロスチャイルドの司令塔だ。』


『ナチス・ドイツの千年王国(The Thousannd Year Reich)は変らず、実はこの欧州統合のためのマーストヒリト条約(Maastricht Treaty)の原点は、1942年ベルリンでのナチによるセミナーが叩き台になっている。Europian Economic Community(原文はドイツ語)と題する591ページの本が1942年ベルリンで発刊された。EDWARD HALE氏(クリストファー・ストーリー)が英国図書館のリーデイングルームで発見した。』


『恐ろしいことである。古い記事で三極委員会とゴルバチョフの密約まで書きましたが、当時フランスの大蔵大臣であったジスカール・デスタンのみが、3年後にこの条約が締結されることを知っていた。ゴルバチョフにソ連を解体しEU設立に協力する見返り(一億ドルの現金)が話し合われた。今のEUはナチの千年王国(New World Oreder)の実現のための過程なのです。FEMAキャンプでの人間の色分けは、ナチのSS物語・死者の順序に基づいている。』


『幸いなことにこの陰謀において、ソヴィエト側は事態に影響を及ぼす前に崩壊してしまいまいした。しかしもともとの理念には、彼らが乖離縮小と呼ぶものが含まれています。つまりソヴィエト連邦は幾分軟化して社会主義のようなものになる反面、西欧は社会民主主義と社会主義に変る。その後、互いの間にある距離はどんどん縮まり、ついに構造的に同化するという。これこそ欧州連合が初期においてソヴィエトの体制に合致することを目的としていた理由なのです。これこそ、なぜこの2つが互いに機能的・構造的に近似しているかの理由なのです。』


『このヨーロッパに出現した怪物の構造と特徴を調べれば調べるほど、それがソ連と似ていることにますます気づくことでしょう。もちろんそれはソ連ほど過激な体制ではありません。どうぞ私の発言を誤解しないでください。わたしはそれが「収容所」であると言っていません。KGBがあるわけでもありません。しかし、例えば、私はユーロポルのような組織に注目しています。私がこの組織を真に警戒しているのは、それが恐らくKGBよりも大きな権力を持つようになると予想しているからです。』


『ユーロポルには外交的特権が与えられるでしょう、外交特権を持ったKGBなど想像できますか?ユーロポルは32種類の犯罪について私たちを監視するでしょう。その一つはとくにゆゆしきものです。人種差別です。別名、外国人嫌悪症。地上どの刑事裁判所においても、このようなものを犯罪として扱うところはありません。(これは完全に事実とは限らない。ベルギーではすでにそうしている。−ベリーン)』


『私は今起こっている事柄によって、誰が迫害を受けているか注意深く観察しています。なぜならばこれは私が専門とする分野だからです。私は収容所の時代が迫りつつあるのを感じます。今後もっとも起こる可能性が高いのは、ヨーロッパの経済的破局です。特にユーロの導入は狂気の産物でした。通貨は政治的に決定されべきではない。私はこれについて確信があります。ソ連が崩壊したように、欧州連合も崩壊するでしょう。』


引き続き鬼塚氏のDVD本文。


そのウオーバーグの息子にジェームズというのがいます。彼がちょうど戦争が始まるとOSSのアジア担当の情報部に入ります。でウオーバーグがさかんに日本工作をして、グルー大使と交流します。その過程で白洲は、カントリー・ジェントルマンとかカッコ良い名前でみなさん呼んでますけど、鶴川に隠棲したってなってますけど、そうじゃありません。そこに巨大な無線基地を作り、全部イギリスからアメリカの情報をもらって、そして彼が吉田茂と樺山愛輔に情報を流すんです。


吉田茂についてなぜヨハンセン・グループなのか、吉田茂がなぜ首相になったかっていえば、ちょっと脇道にそれますが喋ります。吉田茂は長崎の女郎が生んだ訳の分らん子どもなんです。吉田健三という、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド系のアヘンを主に扱った商社があります。その商社の日本代理人に吉田健三というのがおりました。この吉田健三がある女郎屋に行って、「あの娘はどうした?」と言うわけです。店の人「あの娘は子どもが出来た」健三「誰の子供か?」店の人「分らない。それで今引っ込んでいる」健三「その子ども連れて来い」健三「お前はどうして子どもを作ったんだ?」娘「いや好きやから」健三「馬鹿なことするなあ。どうする気か?」娘「どうしようもない。育てないといけない」健三「じゃオレが子どもがいないから貰ってやろう」。で、女郎の子どもをもらって吉田健三が育てる過程で、友だちのある男を介して「お前の子どもにしてくれ」「分った」というので一応四国の名家の名前を借りましたけど、吉田健三がその子を育てるわけです。


(吉田健三は)金持ちですから、全財産を吉田茂が貰うんですから、長じて東大に入る時も、『回想十年』て本に書いてます「俺はバカやったけど裏口から入った」と本人がちゃんと告白してます。で、彼は東大出て、外交官になってイギリスへ行くけど、英語はうまく喋れない男なんですよ。これはもうはっきりしてます。講和条約の時英語で喋ろうとしたらアメリカから待ったがかかった。「お前の英語は意味が分らん。だから日本語を喋って通訳を通せ」。これはイギリスの外交文書を見ると、外交官が書いてます。「この男は何者なのかね?外交官のくせに英語が何も喋れない」。ところが白洲次郎は喋れるわけですね。完璧に。それで吉田茂は総理になった時に、マッカーサーと司令部と日本の外務省を結ぶ終戦連絡事務局というののトップに据えるわけですよ。そして交渉させる。


ウオーバーグのルートで吉田茂を育てたジャーデイン・マセソンという香港を舞台にした麻薬中心の会社に、白洲次郎が日本製鉄が四つに分かれる時に広畑製鉄所を作ってマセソンに売りつける。日本を売ることに何の心に痛みを感じない男なんですね。これがまさしくコンプラドール。吉田茂も同じなんですよ。日本の支配者はほとんどがみんなイギリスの金融機関ロスチャイルドからウオーバーグ、それからアメリカの金融機関の連中のコンプラドールであったと思います。だから松本重治といって、ロックフェラーに取り入って日米文化会館とか国債会館とか作ったやつもみんなコンプラドール。それから有末精三といいますが、これもみんなコンプラドール。悲しいかなコンプラドールだらけなんです。そこから見ると戦後がみんな見えて来ます。戦後もそういうやつが溢れていて、心の痛みを感じないやつらが、なぜ日本のリーダーになったのか。私たちはそこを正さなくては、未来はないと思います。


以上鬼塚氏のDVDからの抜粋。


◎徳本栄一郎『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』より抜粋。


『英国東部は教会を中心に発達した小さな町が多い。その一つケンブリッジはロンドンの来た80キロにある。中心部のキングス・パレードからトリニテイ・レーンの路地を進むと石造りの校舎が見える。ここがクレア・カレッジ、14世紀初め、英国王エドワード一世の孫娘クレアが設立した名門校だ。『ヒューズ女史「お待ちしていました。あなたが探しているのはこの人物でしょう」著者「ええ、これです。ミスター白洲に間違いありません」今から80年以上前、ケンブリッジ大学に入学した白洲次郎の記録だった。』


『1902年、兵庫県芦屋の実業家の家に生まれた白洲は神戸一中卒業後、英国留学した。帰国後は様々な職業に就き、戦前は近衛首相のフブレーン、戦後は吉田茂首相の側近を務める。憲法制定などGHQと折衝を行い、通商産業省創設や電源開発に関わった。戦後の政財界要人だった人物だ。1985年、彼は生涯を閉じたが、近年「白洲ブーム」というべき現象が起きている。日本人離れした長身、英国流ダンデイズムを身につけGHQと対等に渡り合ったなどと言われる。「プリンシプルを貫いた」「従順ならざる唯一の日本人」などと形容詞も多い。』

◎後述するがこれは全部白洲本人が流布させたプロパガンダである。


『かつて私は白洲を戦後史の目撃者としつつ特別な関心はなかった。それが本格的に興味を持ったのは四年前、ロンドンの公文書館で戦前、戦後の日英関係ファイルを調べた時だった。英国外務省や情報機関が作成した膨大な文書である。その時不思議に感じたのは文書にしばしば白洲の名前が登場した事だ。その後入手したGHQの文書も大量の白洲ファイルを含んでいた。これを読むと占領期、彼がGHQと深く関わったのは間違いなかった。』


『さらに興味深いのは世間の白洲像の変遷である。白洲がマスコミを賑わせ始めたのは19050年代、吉田内閣の頃だ。前著を書くに当たり当時の記事に一通り目を通してみた。驚いたのはキャラクター・アサッシネーション(人格抹殺)とすらいえる批判の連続だった事だ。「傍若無人」を初め「陰謀家」「吉田内閣宮廷派長官」「ラスプーチン」と言葉が並び、露骨な個人攻撃もあった。半世紀で評価が逆転してしまったのだ。これを見て私は白洲に人間的興味を抱き始めた。占領の裏面を知る白洲次郎とはどんな人間なのか。彼とGHQにどんなドラマがあったか。』


◎後述するが白洲本人が逆転させる謀略を図ったのである。


『ヒューズ女史「当時のクレア・カレッジ入学者は上流界級の子弟か、極めて成績優秀な者に限られていました。女子学生も皆無で現代とは全く異なる環境でしたね」著者「つまりリッチな人間かスマートな人間、いずれかの条件が必要だった訳ですね」ヒューズ女史「その通りです」ヒューズ女史「これは第一次世界大戦と第二次世界大戦で戦死したクレア・カレッジの卒業生ですよ」私は一瞬驚いて石碑を見つめた。表面に人命がびっしり刻まれ、第一次世界大戦の方がはるかに多い。ざっと200名はあるだろうか。』


◎後述するが白洲次郎は辰巳栄一に依頼して赤紙召集を誤魔化してもらっている。
辰巳は吉田茂のロンドン・コネクションの一人である。


『1928年、英国から帰国した白洲が就職したのは英字新聞ジャパン・アドバタイザーである。(後の白洲の妻・正子も白洲と同じ1928年、金融恐慌でニュージャージー州のハートリッジ・スクール留学を切り上げて帰国している。そして1929年11月結婚)ジャパン・アドバタイザーを読んで気になったことがある。白洲の記事の署名が「ジョン・シラス(Jon Shirasu)」となっていたのだ。なぜ本名でなく英語名なのか、他の日本人は本名で寄稿しており強い違和感を覚えた。また記事を丹念に読むと白洲が日本に一定の距離を置いていたのが分る。同胞を「彼ら(They)」と呼び、日本文化も欧米の視点で見た物が目立つ。まるで自分は日本人ではないと言わんばかりだ。白洲は独自の帰属意識を持っていたのではないか。それが日本人離れした観察眼、構想力を生んだのでは。この「彼ら」は後に占領期の白洲を知る重要なかぎとなるのだった。』


『終戦から間もない1945年の冬、日々やの第一生命ビルにある男が出入りしていた。長身をスーツに包み、顔見知りの米軍将校を見つけると「ハーイ」と叫んで手を振る。正面玄関でなく裏手通用口から入る事もある。身なりも態度も日本人らしくなく、高価な葉巻やウイスキーを会うたびに配っていた。いつしかGHQで「調子のいい男」と呼ばれていた。彼の名前は白洲次郎、43歳、新しく設置された終戦連絡事務局の参与である。これはGHQと日本政府の折衝を行う役所で、外務省が機能停止した当時、国の命運を握る組織だった。』


『後に次長となる白洲は第一生命ビルに通いGHQ人脈を広げる。そして彼の最大の仕事、それは6階の民生局に食い込む事だった。民生局は占領行政の中枢で憲法改正、公職追放を担当した部署だ。その政策が国の将来を左右し、意向を掴むのが不可欠だった。そのため白洲は局長のコ^トニー・ホイットニー准将、次長のチャールズ・ケイデイス大佐に接近していた。白洲が英国留学から帰国して17年が過ぎていた。』


『ジャパン・アドバタイザーの記者時代、彼は貴族院議員樺山愛輔の次女正子と結婚した。家庭を築く傍ら外資系のセール・フレーザー商会、日本食糧工業(後の日本水産)などの取締役を歴任する。水産加工品の輸出で北米や欧州を飛び回る日々が続いていた。だが太平楊戦争が始まると東京近郊の鶴川村に引っ越してしまう。以来終戦まで一農民として生きてきたのだった。その白洲をGHQとの折衝に抜擢したのは幣原内閣の外務大臣吉田茂だ。白洲とは吉田が駐英大使時代からの付き合いで気心も知れていた。』


『その後白洲は終戦連絡事務局を退任、初代貿易庁長官として通商産業省設立に関わった。また首相特使として訪米し講和条約締結を話し合う。1951年のサンフランシスコ講和会議には顧問として出席した。まさに占領を目撃した男といえる。ところが生前白洲は家族にすら占領期について話さなかったという。友人にも「不愉快だから忘れたい」「人に迷惑がかかる」と答えた。それどころか晩年、手元の大量の資料を「こういうのは墓場まで持っていくもんなのさ」と自宅の庭で燃やしてしまった。自分の過去はもちろん活動の痕跡まで消してしまったのはなぜか。』


『かつて「英国機密ファイルの昭和天皇」を書いた時、私はラドウンを取材した事がある。白洲とは1970年代、仕事で来日した際よく二人で食事したという。そのきっかけを作ったのが彼の父で国際石油メジャー、ロイヤル・ダッチ・シェル会長ジョン・ラドウンだった。オランダの名家に生まれたジョン・ラドウンはユトレヒト大学卒業後シェルに入社、世界中の油田開発に携わった。1950年代、会長に就任。米国のデーヴィッド・ロックフェラーなど各国政財界にコネクションを持ち、ロックフェラー財閥の中核チェーズ・マンハッタン銀行のアドバタイザリー・コミッテイー委員長も務めた。1996年国際ビジネス界の重鎮だった人物だ。そしてこのジョン・ラドウンと個人的親交を結んだのが白洲だった。戦後の一時期、彼は日本でのシェル顧問も務めた。』


『「一言で言えば次郎はエリート主義だったと思いますよ。かれがケンブリッジで学んだ1920年代は今より上流階級がはっきりしていました。次郎は西洋化されていましたが傲慢な一面もありましたね」こう言ってラドウン(息子)はあるエピソードを教えてくれた。1970年代のある晩、ラドウンは白洲と夕食を共にした。場所は銀座ソニービル地下の「マキシム・ド・パリ」、日本初の本格的フランス料理店である。二人が食事していると一人の日本人がテーブルに近づいてきた。白髪の年配の紳士で穏やかな笑みを浮かべている。彼は白洲に丁寧にお辞儀して挨拶した。これに対し白洲は微かに頷いただけであった。後日ラドウンは相手がソニー創業者の盛田昭夫だったと知る。』


『これを聞いて私はケンブリッジの白洲の写真を思い出していた。ガウンを着た同級生の集合写真で貴族然とした若者たちだ。卒業後、彼らは政界や実業界に進むが生涯交遊を持ち続ける。特にオックスフォードとケンブリッジの学生は「オックスブリッジ」と呼ばれる強力なネットワークを誇った。白洲もその一員だったのでは。こう言うとラドウンが笑った。「一度英国のエスタブリッシュメントに入れば職場や仕事を変えても繋がりは消えません。それは情報収集にも効果的でしょう。例えば仲間の一人が海外に行くとき、事前に会員制クラブなどで会います。そして現地の政財界要人など調べて欲しい事柄を伝えます。帰国後、彼らが入手した情報をクラブで伝える仕組みです。その意味で皆がスパイと言えます」』


『コンピュータが発達した今日、情報はインターネットで入手可能と思われやすい。しかし、それは表に出た情報インフォメーションにすぎない。真にデリケートな情報は信頼の置ける者同士、対価を払って交換される。それがインテリジェンスである。英国の会員制クラブはその最高の舞台装置となってきた。そして白洲が通ったと思われる場所のひとつが「ホワイツ・クラブ」である。創立1693年の老舗で歴代会員はウインストン・チャーチル首相、ロスチャイルド男爵など錚々たる名前が並ぶ。政治家や外交官、ビジネスマンの社交場でSIS(別称MI6)長官も利用した。白洲自身はメンバーではないが彼のエピソードにこのクラブが登場する。』


『1946年3月、白洲は終戦連絡事務局次長に昇進した。やがて彼の力量を発揮する機会が訪れた。讀賣新聞の労働争議である。当時の讀賣は部数200万部、国内第三位の新聞社だった。その社長正力松太郎は警視庁出身で刑事課長を務めた男だ。1945年、正力はA級戦犯指定を受け収監、公職追放されてしまう。正力の後を継いだのは元ジャパン・タイムズ編集長の馬場恒吾だ。だが組合との争議に疲れた彼は辞表を出してしまう。馬場辞任から4日後の1946年6月11日、白洲はGHQ渉外局長のフレイン・ベーカー准将を訪ねた。その時彼は讀賣新聞業務局の幹部が作成した有力共産党員リストを持参した。「白洲はこのリストを手に、しばらく前から交際を深めていたベーカー准将に会いに行った。白洲はさり気なく「讀賣新聞事件」を論じ、馬場は共産党に対抗するために外部の激励を通説に必要としている善玉だとベーカーに納得させた」(「日本占領革命」)』


『白洲の説得は功を奏した。ベーカーは逗子の自宅にこもった馬場を呼び出し温かく迎えた。そして白洲情報をもとに鈴木ら共産党員6名の名前を挙げた。これを馬場は彼らをクビにしてもGHQが支持すると受けとった。その足で会社に戻った馬場は鈴木編集局長らに解雇を言い渡す。当然組合は荒れ狂うがGHQには無力だった。「こうして 讀賣新聞業務局の一反共主義者による手書きのリストが、まるで錬金術のようにマッカーサー指令に変身してしまったのである」(「日本占領革命」)』


『正力と讀賣にとり白洲は恩人となった。その後、彼は讀賣新聞系列の日本テレビ社外役員に就任し深い親交を築いていく。「降伏と第一次吉田内閣発足に伴い、首相はロンドン時代の友人に終戦連絡事務局を任せた。総司令部と日本政府の間の全文書は白洲のデスクを通過する。この時期にGHQの希望とは命令であり、それを知ることは権力であった。白洲は二つの政府の秘密を交わす中央交換台に座っていただ」(レイ・ファーク記者 1951年3月8日 ミルウオーキー・ジャーナル)』


『白洲はGHQ情報に精通し要人の素行まで目を通せたのだ。それは占領政策に影響を及ぼし公私混同と言える行動も生んだ。樺山愛輔の公職追放が良い例である。1846年1月、GHQは日本政府に軍国主義指導者の公職追放を指示した。そしてこの年8月、GHQは終戦連絡事務局に樺山愛輔の追放を指示した。愛輔は海軍大将樺山資紀の長男で、明治初期に米アマースト大学などに留学した。帰国後は千代田火災保険、日本製鉄所の役員や貴族院議員を歴任する。GHQは日本製鉄所が日本の軍拡に果たした役割から樺山を戦争協力者に分類したのだ。ところが約一年後、GHQはある事実を知って愕然とした。日本政府が樺山追放を実施してなかったのだ。』


『彼らは直ちに調査を開始した。ここで疑惑を持たれたのが連絡事務局次長の白洲である。彼の妻正子は樺山の次女で愛輔は舅に当たったのだ。その経緯を説明した報告書がある。「(追放の)覚書は吉田首相が受け取ったが実際の行動は保留された。これを命じたのは終戦連絡事務局次長で樺山の義理の息子白洲だったという。その後、吉田首相はマッカーサー元帥に樺山追放免除を要請する書簡を送った。(中略)これは拒否されたが白洲の命令で追放覚書は棚上げされたらしい」(1947年7月2日 民生局報告書)』


『白洲自身はどう釈明したのか。「彼が吉田首相に追放を伝えた時、吉田はこの問題は自分で取り上げると答えた。対象人物との個人的関係から白洲は関与を控えた。(中略)マッカーサーの回答がいつ来たかは思い出せないという」(同15日報告書)結局樺山は追放され、翌年のGHQファイルは「白洲の高潔さが疑われた」と記述したのだった。ここまで読んで私は言いようのない不快感、嫌悪感を覚えた。当時白洲にはGHQと日本政府のあらゆる文書が集まっていた。その中で最高司令官マッカーサーの回答を忘れる事があり得るのか。もし本当に樺山追放を見逃したなら明らかな公私混同だ。追放された軍人、官僚、実業家は失職し収入を断たれた。就職もままならず彼らの生活は困難を極めたのだ。』


『それ以上にアンフェアなのが白洲の徴兵忌避であった。戦前からの友人で東部軍参謀長だった辰巳栄一は次のような談話を残している。「ただ一回だけ、私は白洲さんをお助けしたことがあるんです。戦争も末期になって、ある日白洲さんが家に見えて、”辰巳さん、俺、招集されちゃったよ”と言われるんです。(中略)白洲さんの時は早速に招集主任に連絡を取りました。白洲次郎という人を説明し、そんな人を招集するなんてけしからんじゃないかと言いました。それで召集取り消しになったんです」(『風の男 白洲次郎』)一般庶民に白洲のようなコネは無縁だった。彼らは歯を食いしばり黙って戦地へ向って行った。』


『ニューヨーク市内のグランド・セントラル駅からメトロノース・ハドソン線に乗ると50分程でターリタウンという町に着く。デイトン通り15番地、ここがロックフェラー・アーカイブ・センター、世界有数の財閥ロックフェラーのあらゆる記録を保管する場所だ。ロックフェラー一族を初めロックフェラー財団、ロックフェラー兄弟基金など関連機関の記録だ。36000立法フィートの書類、50万点の写真は各国元首、王族、実業家の書簡も含む。「Shirasu,Jiro」、1950年代白洲がロックフェラーと交わした書簡リストだった。前述の通り、晩年の白洲は手元にあった大量の書類を焼却している。自分の過去はむろん活動の痕跡まで消そうとするかのように。これが彼の実像をわかりにくくする原因でもある。だが、さすがの白洲もロックフェラー・アーカイブの書類まで燃やすことは出来なかった。私はタリータウンに眠る記録から彼の足取りを追う事にした。』


『1951年1月25日、午後8時25分、羽田空港に一機の特別軍用機が着陸した。やがて機体のドアが開いて長身の米国人が現れた。ジョン・フォスター・ダレス、トルーマン大統領の特使である。マッカーサーや日本政府と協議して講和条約の中身を詰める、それがダレス訪日の目的だった。この軍用機からダレスに続いて一人の米国人が降り立った。年のころは40代半ば、ハンサムだが内気な雰囲気も醸している。彼の名前はジョン・ロックフェラー三世。二世の長男でロックフェラー財閥の継承者だ。今回は文化顧問の肩書きで動向していた。』


『ダレスが吉田と緊迫した交渉を進める中、2月1日の夜、ロックフェラー三世はある日本料理店を訪れた。ある日本人の夕食会に招待されたからだ。仲居に案内されて座敷に上がると数人が待っていた。一座の中心は痩身の老人である。若いときに米国留学して流暢な英語を話す。彼の名前は樺山愛輔、戦前の伯爵で日本政財界の重鎮だった。その横にある中年夫婦が座っていた。夫は平均的日本人より背が高く端正な顔立ちだ。長く英国で暮らしたらしく流暢なケンブリッジ・イングリッシュを話す。妻も米国留学しており英語ができるようだ。二人とも洗練された印象だった。彼らは白洲次郎と正子、樺山伯爵の次女と義理の息子だった。他に樺山の長男紐二(ちゅうじ)、三世の前からの友人松本重治(注 白洲次郎の秘密工作の実行犯)が同席していた。』


『1952年4月16日、ロックフェラー三世はダレスに80ページの報告書を提出した。テーマは「日米文化関係」、後の駐日大使エドウイン・ライシャワーらの協力で作成したレポートだ。講和後は政治・経済に加え文化交流を促進するカルチャー・センターやインターナショナル・ハウスを開設するという。後者は樺山愛輔らの支援で国際文化会館として実現した。同時に彼らが注目したのが知識層へのアプローチだった。権威主義の日本では知識人が世論に大きな影響を及ぼす。彼らを活用する事で親米派を増やせると見た。その候補者の一人が正子だったのだ。』


『アーカイブの文書を読むと、当時ロックフラー家と白洲家が家族ぐるみの交際をしていたのが分る。来日した三世夫妻は軽井沢でゴルフを楽しみ、正子や長女桂子(かつらこ)にクリスマス・プレゼントを贈った。白洲との書簡も「ジョン」「ジロー」とファーストネームで始まり社交儀礼以上の関係だと分る。白洲は日本の財界人をロックフェラーに紹介する役も演じた。戦後間もない日本は経済復興に必死だった。その中でロックフェラーとのパイプは魅力的だったはずだ。白洲はロックフェラー三世と直接パイプがあった。一族の後継者とファーストネームで呼び合い、いつでも面会のアポを取れる。政財界が彼を頼ったのは当然であった。アーカイブは白洲正子のファイルも保管している。正子もロックフェラー三世、特に妻ブランシェットと仲が良かった。』


『一次書類が少ないため白洲の逸話は本人の言葉に頼りやすい。それは時に”白洲伝説”を生み一人歩きしていった。サンフランシスコ講和会議のエピソードが良い例だ。1951年9月8日、日本側全権代表の吉田首相は講和条約の受諾演説を行った。この結果、占領が終わり国際社会に復帰したのは歴史が示す通りだ。その演説直前ちょっとした騒ぎが起きたという。発端は白洲だった。この会議に白洲は全権団顧問の肩書きで参加していた。演説の二日前、彼は吉田から演説原稿に目を通すよう依頼された。一読して彼は激怒した。占領への感謝を並べた上、英語で書かれていたのだ。後に白洲は雑誌の回顧記事でこう述べている。「いかに敗戦国の代表であるとはいえ、講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手と相談した上に相手側の言葉で書くバカがどこにいるか。ぼくは、外務省の役人らの身体にすっかりしみついてしまった”植民地根性”に、ただただあきれかえるばかりだった」白洲の一喝で演説は日本語に変更された。急遽和紙と毛筆が容易され、巻紙に記された原稿を吉田は読み上げたのだった。白洲の気骨を示す逸話として今や史実とされる。』


◎『白洲気骨を示す逸話』を書いて『史実』にしているのが青柳恵介である。
その著書『風の男 白洲次郎』には、驚くべき白洲次郎の言動が描かれている。
吉田と白洲が組んで戦後占領期のドサクサにやっていたトンデモが、
彼らの手下の証言を引用しながら描かれているのである。
二人が組んでやった売国奴工作の実態が手に取るように分る。

しかし作者青柳の意識としてはそれをカッコいいと思って書いているらしい。
青柳恵介が白洲次郎の自己申告を『史実』にした代表例は、サンフランシスコ講和条約の逸話だろう。
NHKドラマでもこのエピソードソードが放映されて、白洲ブーム再燃となっているようだ。

◎青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より

『吉田茂が演説を行う二日前、白洲の許に吉田から電話が入り、主席全権の演説原稿に目を通してくれたかという。まだ見てないと答えると、早く見てくれという。「外務省は僕に見せると文句をいうと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感激とかいてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。英語のこういうものを日本の主席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろといったんです。(『昭和政治経済への証言』下)』


『白洲は外務省の随員に、書き直せと言いわたすと、その随員は草稿を抱え、白洲に渡すまいという姿勢をとった。白洲は怒り、渡せと、英語で怒鳴った(外務省では、その後白洲次郎は怒ると言葉が英語になってしまうという評判が立ったという)。草稿をひったくった白洲は外務省翻訳班長の小畑薫良(憲法の草案を白洲とともに翻訳した人である)を呼び、こういう趣旨の演説に改稿すると言い渡し、草稿の英文も生かしつつ日本語の原稿に改めた。そこに以前の原稿では一言も触れられなかった沖縄の施政権返還を白洲はもり込ませた。なるべく早期に沖縄を返して貰いたい、と。二日後、吉田茂は巻紙に書き記された日本文を読み上げた。しかし各国の高官たちには従来の英文が事前に配布されていた。』

『白洲は帰国早々、9月30日号の「週刊朝日」に「講和会議に随行して」という一文を寄せている。その一節に次の如くある。「調印の時も、演説の時も、総理の態度は本当に立派だった。その姿を見ながら、総理はやっぱり昔の人だなと言う感じが強かった。昔の人は我われ々と違って、出るべき所に出ると堂々とした風格を出したものだ。総理が、自分のポケットからペンを出してサインしたのも、いかにも一徹な総理らしかった。各国全権のうち、備え付けのペンを使わなかったのは、総理だけだったので、大変な反響を呼んだ。なぜ自分のペンを使ったのだろうかと、不審に思った人も沢山いたようだ。総理はなぜ日本語で演説したかという理由については、こまかいことは知らないが、英語でやるか、日本語でやるかを、前からはっきりきめていたわけではない。演説の草稿は英語で書き、それを日本語に直して演説したのだ。だから、議場で演説と同時にイヤホーンで放送したのは、その草稿の英文だった。」』


『「なぜ日本語で演説したかという理由」云々は、オトボケであると同時に皮肉であろう。吉田が巻紙の原稿を読み上げたとき、一部のアメリカ人は「あれはトイレット・ペーパーか」といぶかったという。自分のペンを使ったことを不審に思った人がいても不思議ではない。白洲は吉田を”昔の人”と言い、その堂々とした””一徹さ”に改めて感動を催している。』

以上抜粋。


◎青柳恵介は白洲次郎が掛けたバイアスの呪縛の中にいる作家である。
この白洲次郎の帰国直後の談話が、オトボケだと思い込んでいる。
白洲次郎が描くのはひとりカッコいい吉田茂像で、
そこには吉田の幇間としての白洲次郎がいるだけである。
白洲次郎が持っている権力はすべて吉田が与えたものだからである。
青柳恵介には、それが白洲次郎の実像であることが分らない。
彼は白洲次郎が吹聴する逸話と、帰国当時の談話との時間を考慮に入れない。
こういう迂闊な作家が白洲家の人間と協力して、
平成の世になってからも美麗なプロパガンダ本を量産しているのである。

『占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。』・・・はあ。
冗談でなく白洲次郎こそは占領に感謝感激していた当事者でなのである。
この時のためにこそ満を持して登場した男が白洲次郎なのだ。
もちろん吉田茂がいなければ為せないワザであった。
だから図式はこうである。

『風の男 白洲次郎』⇒『占領に感謝感激した男 白洲次郎』

占領期こそ売国奴工作に励んだ吉田&白洲の独壇場だった。
白洲はこの実態を韜晦すべく自ら『伝説』を吹聴する。


◎20年後の白洲次郎の自己申告

『昭和政治経済史への証言・下』1972年8月より
『講和条約への道 白洲次郎/ 聞き手 安藤良雄』

『−そこで、いよいよ講和会議となったわけですが、サンフランシスコでは順調にいきましたか』

『白洲 吉田さんの演説の二日前に、吉田さんから電話がかかってききまして、主席全権の演説を見てくれたかというのです。見ないといったら、そんなことない、見ろというのです。外務省はぼくに見せると文句いうと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。英語のこういうものを日本の主席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろといったんです。小畑さんにこういう趣旨で書くんだといって、ぜんぶ日本語で書いてもらったのです。それに書いたのは沖縄かえせということ。そんなこといったら困ると外務省はいったけど、困るもなにも、冗談いうなといったのです。いま施政権返還といっても向こうは驚きませんが、そのときは、それを聞いてアメリカの人がびっくりしたらしいですね。』


◎白洲次郎の24年後の自己申告


白洲次郎『占領秘話を知りすぎた男の回想』週刊新潮1975年8月21日号より


『占領下の日本人を語るためには、昭和26年の講和会議の舞台裏で起こったことにも触れておこう。僕はこの会議は、全権委員顧問の肩書きで列席したのだが、会議が始まる二日前、サンフランシスコのさる邸宅に宿舎を定めた吉田さんから、マーク・ホプキンズ・ホテルの僕のところに電話がかかってきた。僕が電話に出ると、吉田さんは「わたしの演説原稿に目を通してくれましたか」という。まだ拝見していなかったぼくは、さっそく随行の役人を呼んで、その原稿を取り寄せた。』

『ところが、僕は一読して、むらむらとくるのをどうすることもできなかった。その原稿は、日本の主席全権のものだというのに、なんと英語で書かれているのである。中身も、6年間にわたる占領について「感謝感激」と大げさな参事が述べられている一方、国民の悲願である沖縄返還については、一言も触れられていない。ぼくは思わず声高になった。「これはダメだ。全面的に書き直せ」。が、この外務省の役人は「これは、GHQ外交部のシーボルト氏と相談して書いたものですから、こちらの意思だけで簡単に書き直すわけにいきません」という。』


『いかに敗戦国の代表であるとはいえ、講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手側の言葉で書くバカがどこにいるか。僕は外務省の役人らの体にすっかりしみついてしまった”植民地根性”に、ただただあきれ返るばかりだった。幸い、演説原稿は二日間で全面的に書き改め、またこの恥ずかしいエピソードも外部に漏れなかったからいいようなものの、うっかりすれば、えらいことになっていたのである。』


『占領中の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいるとすれば、ただ二人。一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなり、ずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは、べつに国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども、一人ぐらいは、こういう人間がいてもいいと思い、べつにそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさた感ずる年でもないと思っている。』


◎これは白洲次郎のいわゆる”ネタ”なのだろう。
ではネタの実態を見てみよう。


◎徳本氏の前掲書の抜粋の続き。

『だが彼の足跡を追ううち、意外な事実が浮かび上がった。演説を日本語に変更させたのは米国だったのだ。東京の外交資料館は講和条約の過程を記録した文書を所蔵する。作成者は当時の西村熊雄条約局長、その中に次の記述があった。「5日夜、ホテルで入浴中、シーボルト大使から米国代表部のホテルに来るよう連絡があった。急いでいってみると大使は(中略)『総理の演説は日本語でされることがよろしいであろう」。デイグニテイのため、とサゼストするところがあった。この趣旨を白洲顧問をはじめ同僚諸君に伝えたところ、みな日本語で演説され、島内君が英語を読むのがデイグニテイのためのわが方の趣旨を議場に徹底さすためにも良かろうとの意見であった。ただ問題はそれをどう総理に進言するかであった」(「平和条約の締結に関する調書」)』


『日本語演説を提案したシーボルトは後年回顧録でこの件に触れていた。「(日本語に変更させた)理由は、根本的なものだった。吉田は、英語の知識こそ立派なものだが、発音は、多くの日本人同様に下手で、時々慣れない語句が出てくると、聞き取れないことがあった。非常に悪い演説原稿を、発音の下手な、妙な調子で読み上げる。それを考えただけで身ぶるいするほどだった」(「日本占領外交の回想」)』


『9月7日午前、米国代表部が演説原稿を見たいと申し出た。首相秘書官の松井明が英文を持参するとシーボルトらが待っていた。彼らはアジア諸国の記述で守勢を求め、より洗練された表現に書き換えた。この場で米側は日本語でやるよう重ねて要請した。「米代表部から日本のデイグニテイのため日本語でされることをすすめる旨が同時に松井秘書官よりもちかえられた。白洲顧問も総理にそうした方がよろしいと今朝手紙で申し上げたところであるが、総理は英語でやると言下に答えられ『そう白洲君にいいたまえ』とのことであった」(「平和条約の締結に関する覚書」)』


『こうしてみると白洲の「戦勝国の代表と同等の資格」云々は全くの作り話だ。”植民地根性”を一喝したのは白洲一流のカバーストーリー(事実を隠すための話)だ。』


以上抜粋。


◎カバーストーリーも何回も宣伝すれば『史実』となり、
イケメンの配役でNHKドラマで放映されるのである。
白洲次郎の”気骨を示す逸話”はほとんどが本人の捏造である。
白洲次郎には勇気も気骨もカケラもない。
正子にバラされているが、次郎は弱虫でケチで空襲が怖かった。

次郎は英国ダンデイズムで自身の身を一流品で飾るが、
正子はお誕生日を含めてプレゼントを一回ももらったことがないという。
(え?マジ?)
しかも正子が病気になる真っ青な顔になってトンズラしてしまったという。
「ほかの女性だったら耐えられなかったでしょうけど、私はこんな性格だから」
夫婦関係が保ったのだという。
「生まれ変わってもまた次郎さんと結婚したいですか?」と聞かれたら、
「迷っちゃうわねえ」と言う正子であった・・・
前々回次郎&正子の愛情は本物と書いたことを、
お詫びして撤回しなければならない。

◎『吉田茂 熱血ワンマン宰相』2007年刊行のビジュアル本には次のようにある。

『当初、茂は英語演説するつもりだった。ところが、アチソン議長が「ソ連がロシア語でやったのだから、日本語でやったらどうか」とすすめてきた。「まことに結構な申し出である」と、茂は了解する。慌てたのは随行員たちである。日本語でやるとなれば、草稿を和紙に書くのが正式だ。ところが、演説まで時間がない。手分けして書いたため、草書もあれば楷書もあり、しかも継ぎ目はにじんで見えにくいという、晴れの舞台にはいささかそぐわない珍妙なものになった。(講和会議に傾向した硯、筆、墨、水差しなど一式の写真の説明文⇒随行員たちは吉田の演説時間ぎりぎりまで草稿を巻紙に筆書していた)』


◎白洲次郎の『自己申告の逸話』には外務官僚を貶めるものが多い。
これはおそらくは白洲次郎の劣等感からくる嫉妬であろう。
彼は吉田茂の独裁権力を嵩にきた『私的外務大臣』と恐れられたが、
ついに公式に外務官僚の立場を得ることはかなわなかった。

白洲は外務官僚をけなす一方で、内務官僚はベタほめである。
むべなるかな、内務官僚は吉田&白洲のコネクションの尽きぬ源泉である。
その代表例が正力松太郎と中曽根康弘である。


◎さてジークムントに戻る。彼はケンブリッジ大学で講座を取る。
ロビン・ストラッドフォードが次郎の親友になったのは、
ウオーバーグの依頼でお目付け役になったからだろう。
そのロビンと次郎の二人のオイリーボーイは車で北部に卒業旅行に行く。
恐らくここで二人はジークムントに取り込まれ、MKウルトラのような洗脳が施される。
薬物を使った人格破壊・再凍結である。
白洲次郎は死ぬまでその任を解かれることのない任務に就く。

◎再び青柳恵介の前掲書より抜粋。

『シグムンド・ウオーバーグは日本を訪れ「almost his Japanese double(まるで双子の)」白洲次郎と出会う。ウオーバーグと白洲は意気投合し、白洲の紹介で野村證券の社長に会い、以後ウオーバーグは積極的に資本を日本に投資することになるのである。白洲は「S・G・ウオーバーグ」の顧問となる。ただし、顧問といっても、シグムンドへの友情の上に立った非公式な個人的なアドバイザーである。今回S・G・ウオーバーグのスタッフのマーチン・ゴードンが寄せてくれた白洲の思い出の記から一部引用しておこう。』

『「白洲氏とウオーバーグ氏の関係は、遠距離であるにもかかわらず、非常に親密なものだった。ウオーバーグ氏が最後に日本を訪れたのは、1978年の11月で、日本政府から勲一等瑞宝章を受授章した時である。私は当時の福田首相がウオーバーグ氏トウオーバーグ夫人と同席し、白洲氏が隣のイスで微笑んでいる写真を持っている。白洲氏とウオーバーグ氏およびS・G・ウオーバーグ会社の同僚との何年にもわたる交友関係の間、ウオーバーグ氏と私たちは白洲氏や彼の親しい交友サークル、すなわち宮澤氏、永山氏、故森永日銀総裁の目を通して日本を見てきた。その結果、ウオーバーグ氏は白洲氏の指導の下で、過去25年間に日本が経済大国になる原因となった多くの注目すべき資質を見ることができた。白洲氏はウオーバーグ氏やS・G・ウオーバーグ会社の長老であるエリック・ロール氏やデヴィッド・シューロイ氏等に、最も興味深く影響力のある日本人を紹介した。その結果、日本での仕事はS・G・ウオーバーグ会社の幹部達にとって、常に楽しみであり、私たちにとって日本は決して外国のように感じられなかった。」その東京事務所ではサー・シグモンドの肖像画と並んで白洲の肖像画を掲げている。』


◎ジークムントは本家の跡取り息子であるが、父親がウダツのあがらない人だったので、
息子であるジークムントは若いころは不遇の時代を過ごしている。
しかし非常なやり手であるので、後年S・G・ウオーバーグという投資銀行の経営者になる。

ジークムントはスイスに所有している製薬会社にLSDを製造させる。
それをOSSにいた甥のジミー・ウオーバーグが、CIAのMKウルトラとして活用する。
ウオーバーグ一族とフロイトは懇意であり、両者は深くタビストック研究所に関与している。
(白洲次郎の父親アビーはフロイトの治療を受けている)

◎ジミーの父親ポールはFRB創設者として知られているが、
ポールの本当の姿はドイツ諜報機関のトップである。
つまりドイツ諜報機関のトップがクーン・ローヴ商会の娘婿になり、
アメリカの中央銀行を創設したのである。

ポールは1918年から27年にかけ、連邦諮問評議会の副会長・会長として、
連邦準備制度理事会の際策を計画決定している。

◎ユースタス・マリンズ 著『世界権力構造の秘密』より抜粋

『1918年12月2日付けの「合衆国海軍情報部報告書」に次の記述がある。−ポール・ウオーバーグ ドイツ人、1911年に合衆国市民権を獲得。皇帝より勲章を受領。ドイツ銀行家よりレーニンおよびトロッキーに提供された巨額資金を取り扱う。兄マックスあり。ドイツ諜報組織の長官。』


『ヒトラーのドイツにおいてさえ、マックス・ウオーバーグの会社は迫害から除外されていた。マックスが合衆国に向けて出発したのは1939年のことだが、一般に想像されるようなユダヤ人に対する制約規制になんら拘束されなかった。』


『ポールの甥のエドワードは1941年にドノヴァン将軍の跡を継いで情報調整官に就任し、その後の第二次大戦中はロンドンのSHAEF連合国派遣軍最高司令部でアイゼンハワー将軍に特別政治顧問として仕えた。』


◎ウオーバーグはロスチャイルドと並んで、シナリオを画策するもう一つの雄である。
昨今の正子&次郎ブームは、連中が仕掛けたプロパガンダである。
『白洲次郎と正子 乱世に生きた二人 お互い、自ら信じた道に妥協はしない。
風のように韋駄天のごとく、激動の時代を駆け抜けた−』

実態
『白洲次郎と正子 乱世に楽した二人 お互い、他人が用意した道に妥協した。
コンプラドールとして激動の時代を食い物にした』   

私は思う。
自分のお世話を自分で出来ない連中を、
『貴族』と呼称する慣わしはいい加減やめたらどうだろう。
『人類の寄生虫』という真実の名前で呼ぶべきだ。
ノーブレス・オブリージ(高貴な者の義務)などという言い草もタワケだ。
人のお世話がないと生きていけない人種に高貴な義務も何もない。
どうか自分のお世話を自分でできるよう努力されたい。
今まで人類にかけた迷惑を考えたらもうそれだけで十二分である。

次郎&正子も自分で自分のお世話ができない。
風の男次郎と韋駄天お正は、寄生虫階級の価値観の中で生きた。
正子は次郎を指してこう言う、本当の本物は贋物と見まがうばかりの妖しさがあると。
ホワイツ・クラブのようなトップクラスの場所に出入りした吉田と次郎は本物だと。
彼女は人類の寄生虫ザ・オーダーの価値観を共有しているのである。
そんな白洲正子に何の真贋を見きわめる目などあろうか。


◎さて白洲次郎は第二次吉田内閣の初代貿易庁長官に就任する。
ザ・オーダーのシナリオには「ここからが茂&次郎の本番」と書かれていだろう。


『ボクは昭和23年10月、第二次吉田内閣が成立した直後に、マッカーサーじきじきの”お名指し”で貿易庁の長官に就任する。貿易庁は商工省の外局にすぎなかったが、占領下わが国の貿易は、当時、まだ”政府貿易”しか許されていなかったために、海外への輸出は、政府のライセンスを必要とし、このライセンスの順番をめぐって、汚職のウワサが絶えなかったのである。貿易庁汚職のウワサは、国際的にも喧伝され、ワシントンでは”ボウエキチョー”という言葉が、一時、汚職の代名詞として使われた。ここに至り、マッカーサーは連合軍最高司令官の威信にかけ、占領下日本のスキャンダル摘発に乗り出すべく、ぼくを貿易庁長官に任命したらしいのである。が、それにもかかわらず、ついに貿易庁の汚職を根絶するまでには至らなかった。ぼくはやむなく、貿易庁の廃止を決意する。このほうが汚職を撲滅する早道と思われたからだ。そして貿易庁はやがて商工省に吸収され、通商産業省に衣替えするが、通産省誕生のきっかけは、実に貿易庁の汚職防止から始まったわけである。』(週刊新潮昭和50年8月21日号「占領秘話」を知りすぎた男の回想)


◎事実は真逆である。


再び徳本氏の前掲書より抜粋。


『日本国憲法制定に携わった後、白洲次郎は終戦連絡事務局を退任した。そして、第二次吉田内閣発足に伴い、1948年12月1日、貿易庁の長官に就任する事になっていた。その白洲は、以前から商工省の抜本再編論者で知られた。国内産業育成から、輸出産業の振興に軸足を移し、外貨獲得を目指すべきというのが持論だった。長官に就任した彼は、直ちに組織再編に取りかかった。翌年の19449年2月8日、通商産業省(仮称)の設置が明らかにされ、5月には設立されるスピードだった。その後、通産省は強力な輸出振興策を打ち出し、「日本株式会社」の代名詞になった。』


『だが一つの疑問が残る。この組織再編は、当の貿易庁はもちろん、商工省内でも反発が強かった。国内産業重視の看板を降ろすのに、官僚の抵抗が強かったからだ。現に彼らは、組織再編を進める白洲長官に最後まで抵抗した。ところが英国側文書によると、すでに1948年9月初め(つまり次郎が長官に就任する3ヶ月前)、貿易庁は駐日英国代表団に組織再編のアドバイスを求めている。』


『ちょうどこのころロンドンのボード・オブ・トレードに、駐日英国代表団から機みょな問い合わせがあった。組織再編を検討している日本の貿易庁が、英国のボード・オブ・トレードを模倣したいと言っている。至急、機構図や関連資料を送って欲しいという。当時貿易庁は商工省の外局で、本来商工省は国内産業育成を重視し、海外貿易は二の次だった。そこで抜本的な組織改革を行い、通商貿易全般をカバーする英国の組織を模倣したいとの事だった。』


『「貿易庁が英国式に再編される事で、わが国が日本の経済政策に影響を与えやすくなるかどうかの判断は、われわれよりボード・オブ・トレードが適している」「これが占領下の日本での、英国の地位向上にどれほど重要かは分らない。しかし、民主主義は米国の独占ではない事を日本人に示すため、あらゆる機会を生かすべきである」(1948年9月15日英国外務省報告)』


『明らかに(商工省の)組織として矛盾する、二つの力が働いていた。ここで一つの仮説が真実味を帯びてくる。それは、貿易庁に近い関係者が、独自に英国代表団にアプローチしたという推論である。その人物は、英国の政府機構を熟知し、ボード・オブ・トレードを貿易庁の再編モデルにしたいと考えていた。そして英国がGHQに焦りと反発を募らせている事も熟知し、彼らが飛びつくと見抜いていた。当時、日本側でこれだけの動機と知識を持った人間はごく限られてくる。白洲次郎である。戦前、日本水産幹部として渡英をくり返し、英国政府とGHQの内情に通じた彼なら可能性がある。』


『さらに興味深いのは、当時の日本市場を狙った英国企業の動きである。戦前、彼らは日本と活発な貿易活動を行ったが、GHQの占領下、身動きが取れないでいた。民間人の来日は厳しく制限され、現地の情報収集やコネクション開拓もできない状況だった。一方、米国企業は独自のGHQルートを築き、虎視眈々と日本でのビジネス拡大を狙っていた。このままでは、貴重は日本市場をむざむざ米国勢に明け渡してしまう。次第に英国企業は焦りを募らせ始めていた。日本国内に、彼らの目や耳として強力な代理人が必要だ。そして、これが白洲の人生の大きな転機となるのである。』


◎徳本氏は人格高潔なためか連中のシナリオが読めない。
吉田茂と白洲次郎の悪辣さが実感できない。
白洲次郎は予定通りの転機を迎えたに過ぎないのだ。
GHQで特権と情報を掌握して下地が整ったのだ。


◎徳本氏の前掲書の続き。


『白洲は戦後、数々の英国企業の顧問、アドヴァイザーを務めた。商社のジャーデイン・マセソン、石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェル、投資銀行のS・G・ウオーバーグなど錚々たる企業だ。しかも白洲はトップと個人的親交を結んでいた。S・G・ウオーバーグ創業者のシグムンド・ウオーバーグ卿、ロイヤル・ダッチ・シェルのジョン・ラドウン会長など経済界の重鎮ばかりだ。白洲はGHQの集中排除命令で四社に分割された日本製鉄の、広畑製鉄が富士製鉄に返還されようとしたのをジャーデイン・マセソンと合併させようと吉田首相に根回し話を進める。これに激怒したのが後の富士製鉄社長の永野重雄だった。永野の必死の政治工作で阻止した事、銀座のクラブで白洲と乱闘を起したことは前著で触れた。もう一つは四日市の級海軍燃料払い下げである。各石油会社が落札に奔走する中、三菱石油と組んだのがロイヤル・ダッチ・シェルだ。そして彼らを協力に支援したのが白洲だった。紆余曲折の末、昭和石油が落札に成功する。その後、彼らは三菱シェルグループと連携し一大石油コンビナートを建設する。ここで白洲批判が噴出した。通産省を動かし力づくで落札させたとの告発だった。』


◎徳本氏の前著『英国機密ファイルの昭和天皇』より該当箇所抜粋。


『戦後、日本製鉄はGHQの集中排除命令で、八幡製鉄・富士製鉄・日鉄汽船・播磨耐火煉瓦の四社に分割される事が決まった。その広畑製鉄所は、当時、日産一千トンの高炉二基、二百万坪の工場を持つ最新鋭施設だった。奇跡的に戦火を免れ、やがて富士製鉄に返還されると見られていた。その広畑を白洲は、英国のジャーデイン・マセソンと合併させようとしたのだ。彼は吉田首相らに根回しして、話は順調に進んだ。』


『これに激怒したのが、後に富士製鉄社長を務める永野重雄だった。永野は「広畑を取れなければ腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と政治工作を行い、ぎりぎりで阻止する事に成功した。後に永野は、銀座のクラブで鉢合わせちあた白洲を怒鳴りつけ、彼の頭をテーブルに押しつけてしまった。外貨獲得の大儀名文があるとはいえ、白洲のやり方に相当頭に来たのだろう。』


『前述した通り、講和条約締結の直前、ジャーデイン・マセソンは、日本のビジネスを進める上で白洲に目をつけていた。白洲の影響力に冠する東京支店長の報告は、ロンドン本社から英国外務省に転送されたくらいだ。その後、彼がジャーデイン・マセソンへの広畑売却に動いた事実を考えると、両者が裏で手を組んだと見るのが自然だ。』


『さらに白洲は政治情報も先方に渡していた。サンフランシスコ講和会議の翌月、1951年10月3日つけの東京支店長報告は、白洲から入手した日米安全保障条約締結の内幕を記述している。当時の白洲は、東京電力会長に就任した直後だが、講和会議に主席全権顧問として出席した。帰国後、ジャーデイン・マセソンの東京支店長と会い、講和会議について意見交換したようだ。』


『最近英国大使館のカクテルパーテイーで太田一郎外務次官は同席した英国人外交官に、こう吐き捨てたという。「吉田首相と一緒に仕事なんか出来ないですよ。あの白洲次郎が、私的な外務大臣のように振舞っていますから」(1951年2月6日英国外務省報告)。吉田首相は外務大臣を兼ねている。その正確は倣岸不遜、手法はワンマンで、圧倒的存在感を持っている。その私的外務大臣という白洲次郎とは何者か。占領中、主な外務官僚が追放された間に、この男が日本外交を牛耳っているのではないか。直ちに彼らは、白洲の経歴と性格を調査し、「東京・パーソナリテイ・レポートbV0」という報告書にまとめた。その翌月の3月22日、今度は、ジャーデイン・マセソン商会という英国商社から報告が入った。差出人はエリック・ポロックという東京支店長だ。』


『その中に「只見川水力発電所」という記述がある。「次郎は、日本の権力構造で比類のない立場にある。公益事業委員会の松本烝治委員長や松永(安左エ門)委員長代理も、彼の影響力と友情に恩義がある。次郎は今、日本で最も強力な人間となりつつある」(1951年3月22日ジャーデイン・マセソン商会報告)。白洲をファーストネームで呼んでいるところを見ると、ポロックと白洲は、以前から面識があったようだ。その上でポロック報告は、英国の電力会社の代表団が翌月来日するが、只見川水力発電計画に彼らも参加させるべきだと提言した。何のことはない、東北電力で絶大な権限を持つ白洲を、商売に利用しろと言っているのだ。吉田内閣の私的な外務大臣、政財界に強力なパイプを持つ男として、白洲の存在は大きかった。日本に於ける強力な代理人として、彼の名は英国政府と企業に広がっていった。』


『さらに、白洲の政治工作は、四日市の旧海軍燃廠払い下げでも発揮された。この燃料廠は、旧海軍が太平洋戦争に備えて建設した施設だ。数隻のタンカーが同時に接岸でき、パイプラインで精製工場に陸揚げできるのが魅力だ。戦後、無傷でGHQに接収された燃料廠を、石油業界は熱い視線で狙っていた。日本石油、出光興産、日本鉱業など各石油会社が、何とか落札しようと奔走した。そのバックには、提携先の英米の国際石油メジャーがついていた。』


『その中で、三三菱石油と組んだのが英国系石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルだ。そして彼らを強力にバックアップしたのが白洲だった。紆余曲折の末、1955年、昭和石油が落札に成功した。その後、彼らは三菱シュエルグループと連携して四日市に一大石油コンビナートを建設していくのだが、白洲への批判が噴出した。貿易長長官時代、彼の部下だった通産省の永山時雄官房長を動員し、力づくで落札させたとの批判だった。強引な行政指導を行った永山は、退官に追い込まれたほどだ。』


『これら白洲の働きぶりを、私が会った英国人は「次郎は、我々の良き”コンタクトマン”だった」と評した。持ちかけられた案件によって、ある時は情報収集を行い、ある時は仕掛け人、工作者となる。日本進出を狙う外資の総合コンサルタント業である。吉田首相の側近で、通産省の産みの親ろいう立場は、白洲が国際的ブローカーの地位を築くには最高だった。』


『その彼を批判する者は英国にもいた。元英国外務省職員の証言によると、ある元駐日英国大使は、白洲を「蛇みたいな男だ」と忌み嫌っていた。二枚舌を持つヘビと同様、自分の立場を使い分ける狡猾な男とい意味だ。また、ある英国人ジャーナリストは、苦笑いしながら、「次郎はとてつもなく傲慢で、1920年代のケンブリッジ・イングリッシュを話していた」と語った。次郎は終生、若い頃に英国で身につけた英語を話していたらしい。良く言えば格調高い、意地の悪い言い方をすれば、骨董品のような英語をはなしていたのだ。その白洲らしさが如何なく発揮されたのが、戦後の占領期だった。焼け野原の東京で、格調高いケンブリッジ・イングリッシュを話す、傲慢で狡猾な日本人と出会い、GHQの将校もさぞ面食らったはずだ。』


◎白洲次郎は流暢なケンブリッジ・イングリッシュを話す。
それをGHQ民生局の将校に褒められた時
「あなたも私のように勉強すれば上手くなりますよ」
と切り返したという。
これは次郎のカッコいい逸話として伝えられている。
しかし実のところは古色蒼然とした英語を話す自分が得意で、
それをからかわれているとは本人に分らなかったのだろう。


◎再び徳本氏『1945日本占領』より抜粋。

『「なるほど、その白洲とは一種のコンプラドールだったようだな」「コンプラ・・・何ですか、それは」一瞬面食らって訊ねた。デービスがにっこりと笑った。「コンプラドール、19世紀の中国っで外国企業は中国進出を狙っていた。時は帝国主義ノ全盛期、巨大な市場は大きな魅力だった。だがそこで彼らh厄介な障壁に直面する。言葉や商習慣の違い、現地有力者とのコネクションだ。それを同克服するかがビジネスの成否を左右した。ここで一部中国人が強力な助けを提供した。英語に堪能で有力者と太いパイプを持つ者だ。彼らは仲介者として中国進出を支援した。これがコンプラドールと呼ばれた中国人だった。その見返りに彼らは莫大な報酬を手にした。中でもジャーデイン。マセソンのコンプラドールは有名で中国の政治に関与する者も現れた」。』

『デービスの話を聞いて私は目の前の霧が晴れる気がした。19世紀の中国で外国企業のため働いたコンプラドール、占領下の日本で外資系を支援した白洲、両者の役割はピタリ重なる。持ち掛けられた案件の情報収集を行い、ある時は仕掛け人、工作人となる。日本進出を目指す外資の総合コンサルタントだ。そしてその働きにふさわしい報酬の支払われていた。私のインタヴューに応じた白洲の長女牧山桂子はこう証言した。「これらの会社と父には正式な契約書もなく個人の信用でやっていたはずです。定期的ではないけど報酬はもらっていたのではないかと思います。英国や米国の銀行に預金口座があったようです」。皮肉だが白洲がコンプラドールとして活躍できた理由、それは占領の賜物だった。』

以上抜粋。

◎白洲次郎は雑誌の対談で平然と「自分が貧乏なのはみんなが知っている」
「じぶんが一番嫌いなのは嘘つきだだ」などと言ってのけている。
次郎は大金持ちである。彼の英米の銀行口座には、
外資系企業からちょうだいしたリベートがたっぷり貯まっている。
白洲次郎の言動のほとんどは、傲慢なあるいは巧妙なウソでできている。

白洲次郎が付き合った文士たちは、揃いも揃ってボンクラである。
白洲次郎著『プリンシプルのない日本』には、彼ら文士たちとの座談会が収められている。
そこでは白洲次郎がいち早く日米開戦を予見し、悲惨な敗戦を見越して疎開していることを、
文士連中が「先見の明がある」「その通りになった」と激賞している。
次郎の自己申告を鵜呑みにして死後も虚像をベタほめしてやまない。

『若い友人の堤清二は語る。「私利私欲をもってつき合おうとする人間を白洲ほど敏感に見抜き、それに対し激しい反応を示した人を他に知らない。そして、そういう人間は白洲を怖い人と思うだろう。白洲が晩年に至るまで、仲良くつき合っていた人に共通した性格があった。私心のない人、大所、高所に立って、自分の考えや行動すらも客観的に捉えられる人、本当の愛情のある人。白洲次郎は真の意味での国際人であったが、『国際化』という言葉が叫ばれる今日、むしろ国際化の逆コースをたどっている。経済界で本当の”国際人”が何人いるか。白洲の目には寥々たるものに映ったであろう。日本の経済が発展し、孤立している、その孤立していることにすら気づかず、あるいは孤立していることを、諸外国が日本経済の発展をやっかんでいるとしか思わない、そういう人間を白洲は”イヤシイ奴だ”と言っていた。白洲次郎に、もしわがままな所があったとすれば、そういう”イヤシイ奴”と決して付き合おうとしなかったことだろう、・・・』(青柳前掲書より)

私利私欲をもってつき合おうとする代表者が白洲本人である。
『それに対し厳しい反応を示した人を他に知らない』というのは、
いかに私利私欲の塊であったかの証左として私は取る。
自分と同類項の人間を見ると鏡に映された自分を見るようで耐え難かったのだ。

私の知人に数年間かつての白洲次郎を接待したことがある人がいる。
接待場所はたいてい銀座のマキシム・ド・パリ、白洲は話す相手を区別していたという。
例えば裸一貫で成功した食品会社の社長には絶対に話しかけなかったという。
白洲はいわゆる『成り上がり者』を軽蔑していたという。
白洲の人品を物語るエピソードである。
『イヤシイ奴』とは白洲次郎のことだ。
どんなにイヤシイ小心者であるかを、茂&次郎コネクションの辰巳栄一が青柳にバラしている。
青柳恵介にはそれをイヤシイと思う思考回路がない。
『風の男 白洲次郎』なのである。

◎青柳恵介の前掲書より抜粋。

『昭和62年の夏、私は白洲正子夫人に伴われて世田谷区成城にある辰巳栄一氏のお宅を訪れた。辰巳氏は小柄な方であったが、92歳とはとても思われぬ、カクシャクとした様子だった・・・辰巳の知り合いで、戦前から疎開を実行し、実際に百姓を始めたのは白洲次郎一人であった。「まあ、白洲次郎さんというお人は、実に単刀直入な方で・・・」と嬉しそうに、野菜を放り投げて足早に去って行った人の後姿を追うように辰巳氏は遠くを眺めた。』


『「ただ一回だけ、私は白洲さんをお助けしたことがあるんです。戦争も末期になって、或る日白洲さんが家に見えて、”辰巳さん、俺、召集されちゃったよ”と言われるんです。”白洲さん、あなたもう40を過ぎてるじゃありませんか。丙種でしょ”というと”ああ丙種”と。東部軍の参謀長なんていう役職についていると、方々の人から召集についてはいろいろ頼まれるんです。軍人の奥さんなんかからですね。私は一切そういうのを断っておったんですが、白洲さんの時は早速に召集主任に連絡を取りました。白洲次郎という人を説明し、そんな人を招集するなんてけしからんじゃないかと言いました。それで召集取り消しになったんです。そうしたら白洲さん喜ばれましてね、いろんな缶詰を山のように持ってこられまして、”これは辰巳さんの分、これはその召集主任にやってくれ”と、とても感謝されました。」』


『辰巳の話を聞き、白洲正子夫人は一寸びっくりして「あら、私そんなこと何も知りませんでした」と呟いた。すると、辰巳氏は間髪を要れず、「そうです。あの方はご自分のことなど一切お話になりません」と断言したのだった。』


◎白洲次郎は『ご自分のことなど一切お話になりません』のである。
辰巳栄一が断言したことを胆に銘じてほしい。
白洲次郎の伝説は後年になって本人が吹聴した作り話であることを。
辰巳の箴言を念頭に置いて、白洲伝説を翻訳し直してほしい。
差し出すものは命だけしかない民草は、戦いに赴いて多くは異国の地で果てたのである。
そして召集令状をチャラにした非国民白洲次郎が、戦後の「占領を背負う男」になった。
吉田の私的外務大臣として最高権力を掌握し外資系企業との利権に繋げた。

吉田茂&白洲次郎の最強の売国奴コンビの独壇場である。
彼らは田布施王朝以来の、コンプラドールの掟と伝統をよくわきまえている。
アヘン王の出先機関ジェーデイン・マセソンの日本進出を助ける掟。
国際金融犯罪組織の便宜を図っておこぼれを頂戴して優雅な生活を送る伝統。
こんな野郎に「プリンシプルがない日本」と言われたらお終いである。

『ボクは人から、アカデミックなプリミテイヴ(素朴)な正義感をふりまわされるのは困る、とよくいわれる。しかしボクにはそれが貴いものだと思ってる。他の人には幼稚なものかもしれんが、これだけは死ぬまで捨てない。ボクの幼稚な正義感にさわるものは、みんなフッとばしてしまう。』(昭和26年11月18日号週刊朝日)

私は自分の不明をお詫びして訂正しなめればならない。
白洲次郎は自己申告のプロパガンダの達人である。
ソエジなどは足元にも及ばないほど狡猾である。
白洲次郎に正義感などあろうはずもない。
彼が貴いと思うものは、階級と権力と金である
そもそも素朴で幼稚な正義感を貴いと思う者が、
白洲次郎のような利権漁りを生業とするだろうか。

第三者の目撃談が語る白洲次郎の人物像は、
傲慢で特権意識に凝り固まった貴族主義者である。
特権階級と成り上がり者を峻別して対応したという。
(友人や女性には例外的に接したようである)
しかしユダヤ財閥の元をたどれば、ゲットーからの成り上がりである。
白洲次郎がカブレていた英国貴族たちも同様である。
彼らのそのほとんどは濃淡の差はあれ、ゲットーのユダヤ人の血が混じっているのだ。
白洲次郎が成り上がりものをバカにするのは、目くそ鼻くそを笑うの類である。
名家といわれる家系もずっと元をたどれば、
ネアンデルタールとかアウストラロピテクスに行き着く。

白洲次郎とは何者か。
ユダヤ国際金融同盟の諜報員でありコンプラドールである。
「占領を背負った」「日本一カッコいい」「風の男」とは、、
戦時中の召集を免れて安全地帯に隠れていたくせに、
戦後占領期に颯爽と登場するや、吉田茂の私的外務大臣として、
あるいは終戦連絡局次長としてその特権を最大限に濫用した男である。
商工省の外局にすぎない貿易庁長官でありながら、
商工省の大臣・次官に一切関与させず、吉田首相と謀略を練り、
外資系企業とくに英国系企業が進出するための抜本改変を敢行した男である。

白洲次郎とは何者か。
吉田茂が戦後台頭すべく画策された秘密工作の全てに関与した男である。
2・26の時から抹殺される要人は決定されている。
戦後占領期までに昭和天皇と吉田茂の邪魔になる要人はことごとく排除された。
この中に山本五十六や近衛文麿が入る。
近衛は五摂家筆頭の血統が昭和天皇の劣等感を刺激したのだろう。
白洲次郎と牛場友彦と松本重治は近衛親子に貼り付いて工作している。
白洲次郎は弱虫なので汚れ仕事の現場には行かない。

吉田茂&白洲次郎のコネクションには牛場と松本の他に、
寺崎兄弟、奥村勝三、辰巳栄一、中曽根康弘、正力松太郎がいる。
寺崎英成と奥村勝三は真珠湾攻撃を騙まし討ちにする工作をした後、
戦後になって昭和天皇・マッカーサー会談で通訳として再登場する。
このようにコネクションのメンバーは重要な場面でリサイクル活用されている。

吉田茂が退場すると白洲次郎も表舞台から消える。
そしてワンマン宰相と風の男の伝説が捏造され『史実』となったのである。  

6. 2020年9月26日 11:49:03 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[18] 報告
山本五十六の真実F鬼塚英昭氏が発見した日本の真実−3・11
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/702.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 30 日 18:59:28: 8qHXTBsVRznh2
 

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。

以下本文。


今度は今起きていることを中心に喋ろうと思います。3・11。あの福島第一原発の事故について語ろうと思います。みなさんに一つ考えてほしいのは、僕たちはTV、新聞、雑誌、全てで『原子力発電所』『原子力発電所』という言葉を毎回のように聞かされています。
しかしお手元に英語の辞書があったら引いてみてください。英語ではNuclearと言います。これを見ると「核の」「原子の」「原子力の」一応形容詞ですが、形容詞は英語では名詞形にも使われます。そして原子力発電所とたぶん出てきます。そうなんです。核は原爆の核であり、核燃料も核であり、原子力発電所も核なんです。ということは、原爆工場も核のNuclearの工場、原子力発電所も核の工場なんです。核プラントなんですよ。


はっきり言いましょう。これは最初に出来たときに、プルトニウムというものを取り出して、それで水素爆弾をつくるために原子力発電所は生まれたというわけなんです。じゃあなぜそのプルトニウムが生まれるようになったかを、少し説明します。ちょうど第一次世界大戦直前なんですけど、イギリスにH・G・ウエルズという科学空想小説を書く人がおりました。この人が『勝利の計画』という奇妙な小説を書くわけです。それは爆弾1個で大都市が滅びるという小説を書くわけです。その当時はまだ核という概念はありません。しかし核の概念に近いものを人間が想像して、科学空想小説を書くわけです。


時代が下がって、ポーランドのユダヤ人物理学者のレオ・シラードという男がいまして、彼が「ウエルズの本はこれは本当に実現する」と、ちょうどそのころに核に対する研究が盛んでしたので、彼は最先端の知識を持って、核爆弾の理論を立てるわけです。その理論を持ってイギリスに渡って陸軍省に行くんですけど、陸軍省では取り合ってくれない。次に海軍省に行ったら、彼らが「これは特許を認める。その代わりお前は秘密に守れるか?」「秘密に守れる」という約束で、特許料をいくらか貰う。この海軍の情報をあるユダヤ人が知るわけですよ。それがヴィクター・ロスチャイルドといいます。


この人は若くしてイギリス・ロスチャイルド家の当主になるわけですね。ロードですね。男爵。この男はすごく優秀な男で、IQが184以上あったといいます。科学者でありながら、経済学者でありながら、音楽もやるし、生物学も植物学もやると。あらゆる面で天才的な男なんです。ケンブリッジを出まして、そのケンブリッジ時代に、あの有名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズの学問を引き継ぐくらいの、経済学でも優れた男なんです。ケインズの話はここではちょっとしませんが、彼がそのシラードの情報を耳にしまして、特許を見て「これはまちがいなく核が出来る」ということを確信しまして、行動に移します。その過程を省きますが、結局イギリスで作ろうと思いましたけれど、ウラン238から235を作るのに非常に金がかかるということが分ったので、彼はチャーチルを使って、当時の首相ですが、アメリカに売り込みます。その時にシラードをアインシュタインの元にやります。


アインシュタインは小さな物体がある条件で爆発を起こせば、凄いエネルギーが出てくるという理論を立てて、ノーベル賞をもらいます。そのいちばん有名な物理学者にシラードを付けて『アインシュタイン書簡』というのを書かせます。それをルーズヴェルトに渡すわけです。その中に「早く完成しないとドイツが(先に)完成して、アメリカもイギリスも危ない」という文句も書いてます。もう一つ「原料がベルギー領コンゴにある」という変な文書なんですよ、今考ええ見れば。ということは、ルーズヴェルトに原爆を作れ、その材料は私が提供すると。コンゴというのはアフリカですから、そこにあると。結局ルーズヴェルトは応じざるを得なくなります。ヘンリー・ステイムソンという陸軍長官、実質的には国防長官ですね、彼が動きます。


グローブスという将軍を担当者にして『マンハッタン計画』が出来ます。で原爆が生まれていくわけです。しかしこれは一つ大事なことがありまして、ほとんどのアメリカ人は原爆を作っているということを知らなかったんです。時の副大統領のトルーマンでさえ、ルーズヴェルトが死んで大統領になった後にステイムソンが行って「実は原爆を作って、もう完成間近だ」と知らされるくらい。時のマッカーサーとか軍人たち、アイゼンハワーとかリーヒとかトップクラスの軍人たちも知りませんでした。原爆作ってるの知りませんでした。彼らが知ったのは、突然広島に原爆が落ちて初めて知ります。そういう秘密主義の中で原爆が作られます。作られた後どうなるかと言いますと、いったん出来たものはなかなか捨てられないですね。


広島は確かウラン25で出来ます。ところがここでおもしろいことが起こりました。シカゴ大学でジェルミという物理学者が「ウラン235を爆発させるよりも、プルトニウムという形にして爆発させた方が、効果が大きいんじゃないか」というわけですよ。『マンハッタン計画』の途中で、デユポンという化学会社がシカゴ大学と組んで実験をしたら、プルトニウムが多少生まれるわけです。それを元に爆発小実験をやったら、凄い力を発揮する。そこで「プルトニウムこそ最高の核だ」ということになるわけです。それを作り上げて、第二次世界大戦が終わる間際に出来たんですよ。だけど本当に効果があるかどうか、実験してみなければ分らない。それじゃ実験しよう。実験します。凄い威力でした。二つ作ったプルトニウム爆弾を、一つを実験しましたから、もう一つを長崎に落としたと。広島の原爆は同じ原子爆弾なんですけど、長崎はプルトニウム爆弾だった。


ということでプルトニウムの威力が分ったので、プルトニウムを沢山作る過程で、長崎の爆弾・広島の原爆を改良したのが水素爆弾というわけです。水素爆弾というのはプルトニウムを主体に使うわけです。それでプルトニウムはどうして出来るかというと、発電システムの中から生まれるわけです。235を燃やして行くと、プルトニウムが生まれてくると。238から235とプルトニウムが生まれてくる過程で、巨大な発電ができるということは、これはもうシラードが最初に予言していたわけです。海軍省で特許取ったときに。爆弾以外にも発電にも全部使えると。シラードが基本的な特許を持ってるんですけど、それはイギリスの連中はシラードから買い取ったので、一応イギリスの特許になってるんですね。


戦争が終わりました。たくさん水爆を作るようになりました。ソ連も作ります。ヴィクター・ロスチャイルドがケンブリッジ大学の中に秘密グループを作って、ソ連のスパイに仕立てて、自分もスパイになって、アメリカの『マンハッタン計画』をぜんぶソ連に伝えます。最初は材料もアメリカが全部ソ連に渡します。ソ連にはお金があったかというと、ありません。戦争で戦って兵隊も食べ物もない。スターリンはどうしたかというと、兵隊たちをシベリアに送り込んで、金とダイヤモンドをシベリアの寒い所で採らせ、それを売って、冬で小麦もないけど小麦も売って、そして金を稼ぎ機会やら材料やらを買って、すごい金をかけて原爆と水爆をつくります。


で、冷戦時代が始まるわけですわ。アメリカ人は「ソ連が攻めてくるぞ」という報道に怯えて、各家が核シェルターを作ったりします。後から考えるとこれは全部まやかし報道でした。ソ連は軍事力もなくて、民衆はジャガイモもなくて、キャベツを食って、人間の肉が市場に並んで、かろうじて生きている状態で、「ソ連が攻めてくる」という宣伝がダーッと流れてくるわけですね。そこで何が起こったかというと、水素爆弾が溢れてくるわけですね。でもいくら作ってもキリがない。さっき行ったヴィクター・ロスチャイルドという男が・・・シュトラウスという男があまり歴史に登場しませんが、クーン・ローヴ商会というのがありまして、これはロスチャイルドが全部権力を握っててアメリカの資本家たちに金を貸して育ててきた。日本も日露戦争の時に金を借りましたね国債を。この前話しました。その銀行にシュトラウスというのが務めてまして、その一族の娘と結婚しまして、ポール・ウオーバーグと同じですね、でトップ・クラスにノシてきます、このシュトラウスを使って、当時、原子力委員会が出来ました、そこへ入れます。


ついに彼は原子力委員会のトップに1953年になります。ちょうどアイゼンハワーが登場する時ですね。アイゼンハワーはフィリピンのマッカーサーの元にいて、中佐のまま一生終わるんじゃないかという男が、突然二年足らずで欧州に行って中佐から元帥になっていく過程に、戦争が終わらないようにノルマンデイー作戦をしないように、エジプトで数年間アメリカ軍が戦うようにして、不毛の三年間くらいを過ごさせたのはアイゼンハワーなんです。アイゼンハワーが全部指揮を取ります。欧州の責任者になります。その彼を利用して、シュトラウスが言います「今後こんなに水素爆弾を造ってもキリがないから、この水素爆弾を造るときに電気が出るから、平和利用に使いたい」と。アイゼンハワーは応じます。アイゼンハワーは演説します「原子力を平和に使えば、世界に幸福がやってくる。砂漠地帯にも電気ができて、貧しい人が全部豊かになる」。拍手喝采されます。


その成果をもとにスイスのジュネーヴで、原子力平和利用のための会議が開かれ、これにはソ連も参加して、そこで原子力の平和利用というものが騒がれるわけです。1953年ルイス・シュトラウスが委員長になった頃に、中曽根康弘が、ちょうどタイミングよくアメリカに行きます。マッカーサー時代に遡るんですけど、占領当時マッカーサーはアメリカのCIAの活動を認めませんでした。独自にCICを造ってそれを諜報の中心に置きました。だからキャノン機関というのができたり、色んな情報機関があるんですけど、CICが全部最終的に管理してました。中曽根が自分の回顧録『天地有情』の中に書いてます。「俺はCIAのテストを受けた。英語もあった。論文も書いた。パスした。自分から進んでCIAのテストを受けた」。


それで彼はアメリカに派遣されます。ちょうどシュトラウスが(委員長に)なった頃です。その時に若きキッシンジャーがハーバード大学で、政治学の助教授みたいな形でちょうどいて、キッシンジャーが中曽根を数ヶ月に渡ってアメリカ各地を連れて廻ったりします。中曽根は帰った後、僕は原発マフィアと名づけてんですけど、正力と組みます。正力松太郎についてちょっと喋ります。正力はポドムという名前を与えられたCIAのエージェントです。彼はA級戦犯になるわけですよ。内務官僚ですから。(注 中曽根も内務官僚出身である。東大卒業後、内務省に入省するや、そくざに短期兵役を志願。彼は五十六暗殺の半月前1943年4月1日付けで高雄に転任。戦後は内務省に返り咲きするが、上司と親の反対を押し切って退職。故郷の高崎から若手政治家として打って出る。吉田内閣の時に衆議院議員として初当選。以後台頭していく)戦後追放解除され、CIAの要員として入ります。


CIAはその当時でいったら一千万ドル、今でいったら何十億円、もっと凄いですね、一千万ドルの金を与えて日本TVを作らせます。日本TVと讀賣新聞で、中曽根と同じように原子力発電所の宣伝をやります。そこから原子力発電所が生まれてきます。中曽根は自分で自慢気に書いてますけど「色んな原子力発電所の法律はみんな俺がつくった」と。自由党時代で、野党の若造が作れるはずがない。そこの背後にCIAがみんな絡んでいます。(注 CIAの最高傑作ヨセフこと吉田茂が絡んでます)そうして日本に原子力発電所が出来るんです。東電とか関西電力に「造れ」と言います。だけど全くやってないことなのに、やれというんだから、無理がありました。だから今日福島が事故があるのはそこなんですよ。


平田という東電の社長になる男は、戦後、パージを受けてウダツのあがらない生活をしている時に、突然、東電に入りあっという間に社長になります。どうも僕はこいつもおかしいと思います。平田は準備も何もできてないのに、数人の男たちと年寄りの女に「お前たちは原発をやれ」と言って。その後すぐにアメリカのGEから原発を入れます。関西電力はもう一つの雄のウエステイング・ハウスというところから、原子力発電を入れます。ブラックボックスというのがあって、触ってはいけない、中を見せない状態なのに、原発が日本に来ます。だから福島の原発はGEが開発して間もなくて、危険極まりなりのに、彼らは無条件で入れて信じきったんです。無条件で入れてその数年後に、欠陥商品であるということが分るわけです。


設計者が言うわけですよ「あれはまちがってた」。だけどアメリカは、マークワンていうんですけど、設計を直したり部品を付け直したりして、ずーっとやってきているわけですよ。日本はまったくやらないまま、40年間欠陥商品をそのまま使い続けて来た。アメリカは1970年代に入ってから、原子力発電が欠陥商品だと分る。冷却装置は冷却装置をいかに上手く作動させても危険極まりない、と疑う科学者たちが同盟を作ってアメリカを訴えるわけですよ。シュトラウスの後のメンバーが「そんなことはない」と言う。それで実験をしてみようというのでやります。だけど上手く行きません。それでアメリカは政府も原子力規制委員会も、これはもう二度と新規に認めたらいけないと、今ある奴はし方ないから整備して使えというので、1979年ちょうどスリーマイル島の事件があった後から、1980年ころから2010年の30年間、原子力発電所を造らない。アメリカと日本の差ですよ。それは。


その間も原子力発電所は絶えず規制委員会の管理のもとで、彼らは毎回毎回補正修正をやって、それから作り直しをやって、事故を起さないで今日まできたわけですよ。日本は40年間経ってるのに、GEも「危ない」と報告書を日本に差し上げたのに、日本は何も改善しない。そして津波の危険が来るのに、たった8メートルか6メートルの津波しか来ないというのでやる。全然差があります。プルトニウムというのもそうなんです。あれは核プラントなんですよ。原子力発電所なんていうもんじゃない。そしてプルトニウムがいっぱい出る。それとまだ悪いことは劣化ウランといって、原子力発電を燃やすとカスが出るわけです。ウラニウム238がほとんど残るわけです。カスです。ドラム缶に入れて、他に持っていったら怒られるので、自分たちの倉庫の中に置いてある。それから地下室に置いてある。そういう状態を40年間続けて、じゃあ彼らは何をやったか。彼らは安全神話を流したんですよ。


アメリカの原子力委員会がネヴァダ州で実験しているときに、すごくガン患者や白血病患者が報告が来るのを全部ひねりつぶして「大したことはない。安全だから心配するな」とニセの安全宣言を出して、色んな報告書を全部握りつぶす。色んな安全宣言を出した1960年から70年代の報告書を翻訳して、そのままを東電は3・11の前まで使っていたわけです。シュトラウスが安全宣言を出します。嘘八百です。シュトラウスも言ってます「本当のことは言われない。だからニセでも逆らうな」と。その安全宣言を翻訳してる。これは『危険な話』といって、広瀬隆もその文面を翻訳してます。広瀬隆も言ってます「呆れてモノが言えん」。だから原子力発電所が、いつか事故を起すのは当たり前だったんですよ。僕はそう思います。


アメリカは金儲けのためなんですよ。日本に作らせて儲かる。オーストラリアとカナダから、今どんどんウランが出てきました。でもウランは原石がそのまま使えませんので、アメリカに持っていって、アメリカから原子力発電所に向くようにしたウランを買い付けて、アメリカ全部儲かるわけですよ。それをみなが燃やしたわけですね。そういうことです。これは大事なことがあるんですけど、原子爆弾、水素爆弾を造る過程で、ヴィクターが世界中を廻って優秀なウラン鉱を全部ロスチャイルドが独占するわけですよ。その後にコンゴとかカナダとか出てくる。一番凄いのはオーストラリアにウラン鉱が発見され、当時は30%くらいだろうと、世界中の埋蔵量の。今は40%を越えて50%近いんじゃないかと。そのウラン鉱が発見されて、核を取り出す工場が出来て、鉄道網が敷かれて、廃棄物の処理工場が完成しつつあって、さあこれからやろうとした矢先に、この事故なんですよ。


でアメリカは止めます。日本はどうなのか。そういう世界の風潮を無視してひたすらやります。なぜか。田中角栄と中曽根はコンビを組んで、原子力発電所を造っていきます。それに政治家たちは全部利権が絡むので応じます。そして原子力発電所ができるたび危険だという反対運動が盛り上がるので抑えていきます。だれが抑えたか?政治家たちが抑えました。科学者も抑えました。東大に原子力研究所がありますけど、彼らは東電をはじめ各発電所から何億単位で金をもらって、研究費ですけど、そして安全神話を広めました。映画俳優も歌手も芸能人も経済学者もゴロゴロと宣伝隊に加わりました。みんなが安全だと思わせるように凄い金を使ったわけですよ。その金が全部電気代になっているということを、みなさんは知らないといけない。いいですか。日本の電気料金は世界の電気料金の3倍なんです。3倍ですよ。まだこれから上がります。


これはなぜ上がるかというと、原子力発電所が一基できるときに4千〜5千億円の金が要ります。各発電所は社債を発行して、その金を賄う。その金で発電所を作るし宣伝費も入れる。しかし本当はペイしない。ペイしない分、彼らは徒党を組んで電気代を上げてきた。政治かもそれを認めてきた。そこで何が起こったかというと、安全というものよりも目先の金が動いたので、僕は原発マフィアとか原発スモール・マフィアとかあだ名を付けたんですけど、そういう連中のみが旨い汁を吸ったんですよ。アメリカ人やオーストラリア人たちは、ウランが黄色をしているのでイエローケーキと言ってるそうです。黄色いケーキを食って彼らはみんな太ったんですよ。だから自民党の政治家も、今度の民主党の政治家も、今でも反対の声を上げないじゃないですか。ここまで福島の人たちが苦しんでいるのに何をやってるんだって、僕はそう思います。


だからあの事故は起こるべくして起きたんだと。じゃあ福島以外はどうなんだ。みんな危ないんですよ。で今度、浜岡の話をしますが、浜岡の原発はなぜ危ないかというと、御前崎市にあって、御前崎市は東海トラフといって大きな地震が確実視されている。87%の確立で近い将来起きると。87%の確立で未来に起こるということは、ほぼ近未来に地震が起きるんです。これはもう過去の例からいっても地震が起きています。地震学者たちは上の方は狙わないで、東海トラフの地震についてずーっと研究してきました。だからこらぁもう確実なんです。その確実に起こる所に浜岡に原発を造って、それが危ないというのにまだ6号機7号機を造ろうとしてたんです。


それで今度の地震でも海水が、5号基なんかずい分入っているそうです。じゃあ防波堤を造ればいいか。防波堤を造って波を除けたところで、地下からボンと来るわけです。地下からボンとくれば、あそこは今でも5基もありますから、1号基2号基止めてるというけど、あれは止めてんじゃないです。止めても止めても熱は出るから、30年くらいかけても本当の廃炉にはならないだろうという。また廃炉に成功した例は世界中にないわけです。五つの原発が止めても熱が加わっている。水をかけて発電しないだけで。そういう状態になぜ置いたのか。


中曽根という男を見れば分りますよ。彼がずーっと科学技術庁長官や原子力委員会をやり、彼が代議士から成長していく過程で、本人も書いてますけど、原発関係の人から金をもらって維持したと『天地有情』に書いてます。その中曽根がいまだに諦めていないと僕は思いますね。いまだに諦めてない。「まだ必要や」といいます。


(日本は)地震国家ですよ。54基もあってどこもみんな地震の巣を抱えている。抱えてないとこ一つもないですよ。全部抱えてる。僕が一番最初に話したコンプラドールという言葉を使いましたが、まさにコンプラドール、使い易い日本のドール、人形。僕たちは使い捨ての人形にさせられてる。その使い易い人形が、その主な奴が正力松太郎であったり、中曽根康弘であったり、田中角栄。とにかく日本のトップがなぜコンプラドールになってくのか。僕たちはそこを考え行動に移さないとだめなんですよ。そういう時期に来てます。悲しいかな、そういうことなんですよ。じゃあ解決方法はあるのかというとありませんね。今のところないんじゃないですか。こんなに日本のコンプラドールたちが大手を振って歩いている。


そして小さなスモール・ドールが、まだまだ自分たちのために金を稼ごうと思ってやってますから。どうしたら良いかという方針は立たないんですよ。ただ僕は言いたいのは、この真実をみなさん知らないといけないですよ。ただ新聞やTVや週刊誌を見ても、原発マフィアを暴いているのはないじゃないですか。なぜ私たちは怒りを以って対処しないんでしょうか。「立ち上がれ日本」「がんばろう日本」といって、東北の人たちは励まして、みんな、います。あれは、みんな、立派です。芸能人の人たちも、立派です。だけど僕はもう一つ、大事なことがあると思いますよ。それは原発というものの真実を知って、その上で彼らは行動に移すべきです。


若者たちに言いたいと思います。僕たちはもう年を取りました。僕はもう年を取りました。たとえ放射能を受けても、もうそんなに害はないでしょう。だけど子どもたちは大変なんです。その子どもたちに大人は目を向け、彼らのために怒りのコブシを上げる時に来てるんです。どうか、みなさんに私の話を聞いて「そうだ」と思う人は、何らかの行動を取ることを望みます。自分たちに子どもがいれば、子どものために立ち上がらなくてはいけない。年取った人は、自分の子どもや孫のために立ち上がらないといけない。子どもたちは分らないんだ。どうして良いか。だから福島だって本当のことを私たちは知らなければいけない。知らないで何もしないで1日1日を過ごすということは大変な罪になる。


政治家たちもそうなんですよ。もうお金儲けは諦めなければいけない。そんなにお金がなくても人間は生きていける、ということを知った方がいいですよ。中曽根なんかどれだけ稼いでいるのか分りません。中曽根の次女が、鹿島建設の社長であった渥美という男の長男に嫁いでいます。渥美と鹿島一族とは親戚になります。中曽根と鹿島一族はだから血族になります。中曽根の強い力でいちばん原発を造っているのは鹿島建設です。


◎中曽根康弘&渥美健夫は吉田茂&次郎のコネクションである。

青柳恵介著『風の男 白洲次郎』新潮社より

『大臣、次官を初め商工省内では、吉田茂の側近の白洲某という男が商工省の大幅な改組改革を画策しているらしいという評判がしきりであった。噂には、白洲某は商工省を潰そうとしているというものまであった。内部のことを何も知らない者に無茶に掻き回されたらかなわない、というのが商工省の人間達の共通の思いであった。一体、白洲某は何を考えているのか、そもそも白洲とは何者であるのか・・・』

『白洲は貿易庁長官に就任するや、貿易庁の筆頭課長である貿易課長のポストに、商工省から永山時雄を据えた。白洲の貿易庁長官の在任期間は結果的にたったの三ヶ月であったが、その間、白洲は何度も永山を同道し、吉田茂の許に通い、商工省の改組について三人で話し合った。ワンマンで有名な吉田茂を思うように動かしている。「白洲三百人力」という陰口が叩かれるが、事実たいした政治力である。永山も、これから各国に大使行使を置く際、通商産業省の人間を海外に派遣できるように、外務省の方のポストも約束して貰いたいと要望する。吉田は「よろしい」と言う。とんとん拍子に商工省改組の計画は積み上がって行く。永山は、商工省の話題は大臣大屋・次官松田を初めとして一切他言無用だと白洲から言われており・・・「考えてみれば、僕が作文して白洲さんが”よし”と言って通産省が出来ちゃったんだから、乱暴な話ですがね」と今になって永山は笑うのである。』


中曽根は白洲次郎の汚れ仕事用のコネクションである。
五十六暗殺の功により戦後は格上げされ、
吉田内閣のもとで原発導入を謀る若手議員になる。
この中曽根にコネクションのもう一人の人物渥美が組んで、
地震国家日本の狭い国土に原発が乱立していく。


◎白洲次郎と原爆産業

鬼塚氏は「英米の諜報機関と深く繋がった原爆エージェントである」と断言している。
鬼塚氏の『原爆の秘密 国外編』より抜粋。

『戦前、「亜細亜産業」は闇貿易をしていた。陸軍と財閥の癒着の中から誕生した「昭和通商」と結びつき、アヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない。柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑問を投げかけている。私は「大いにあった」と答える次章以降で陸軍参謀本部と原爆の関係を追及するなかで、その証明をすることにしよう。』


『白洲は日本水産から帝国水産と異動して何をしたのか。調査室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱・・・に情報を伝えていたのである。』


『外務省編「終戦史録(5)に掲載されている「大井篤手記−天皇制と原爆投下」の中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている。私は「目標検討委員会初回会議覚書(1945年4月27日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が、白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。』


『グルーは駐日大使として約十年、日本に滞在した。吉田茂元英国大使と深い親交を結び、吉田の岳父の牧野伸顕元内大臣との個人的な友情を深めていた。そしてグルーは大使の仕事とは別に、J・P・モルガンの血族の一人として、J・P・モルガン商会の仕事にも手を廻していた。このルートでモルガン商会の仕事に関係していた樺山愛輔とも深く結ばれていた。グルーは彼らから御前会議の内容など日本の当時の最高機密を受けとり、アメリカや国務省や陸軍省に打電していた。この間の事情はグルーの著書「滞日十年」に書かれている。』


『グルーはまたもう一つの顔を持っていた。日本の財閥、特に三菱財閥との結びつきであった。日本が闇ルートでアメリカから太平洋戦争中も石油や鉱物資源を輸入しえたのは、モルガン商会と三菱の力が大きな影響力を与えていた昭和通商のルートであった。このルートにデイロン・リードが加わる。このデイロン・リードはナチス・ドイツに大戦中も軍需物資を送ったり、資金を流したりした会社であった。日本の軍閥、財閥とも深く結びついていた。』


『ステイムソンもグルーもモルガン財閥の一員である。そしてプルトニウム爆弾を投下せんとしてバーンズを担ぎ出した闇の世界からの使者たちである。この闇の世界からの使者たちが、彼らの道具としてヨハンセン・グループを利用するのは理にかなっている。それは日本にとって何を意味するのか。プルトニウム爆弾が完成するまで、日本が降伏しないように工作するよう、彼らヨハンセン・グループが利用されたことを意味する。』


『白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、ステイムソン、グルー、ウオーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。』


◎広島原爆被曝を者見殺しにした終戦連絡事務局と日赤

鬼塚氏『原爆の秘密 国内編』には、
広島の被曝者を見殺しにした終戦連絡事務局次長・白洲次郎が描かれている。

『私がこれから描こうとするのは、核爆発後の放射能とその放射能がもたらした死である。そして、放射能汚染はない、とするアメリカの主張に同意した日本政府の、否、国家の中枢にいた人々の動きである。原爆投下直後に運良く生き延びた人々も、放射能汚染で死んでいくのである。日本国家が彼らを見殺しにするのである。死に直面してかろうじて生きている人々に、「原爆患者は二度死すべし」と断言するのである。だから、この半世紀以上がすぎた過去を私は拳を握りしめて振り返ってほしいと思い、書き続けるのである。』

(鬼塚氏は大佐古一郎著『平和の勇者ドクター・ジュノー』から次の箇所を引用する)

『ビベール氏は、次の新しいメモを見ながらゆっくりと言った。「それではICRCの広島救援が実現しなかったことについて、ICRCの資料に基づいてお答えしましょう。ジュノー代表はですね、広島県や広島赤十字病院へICRCの救援物資を送ることを約束しました。救援物資というのは、病院を再建するプレハブのような鉄骨や窓ガラスとか医薬品、それに食料品などのことです。彼は東京に帰ると、広島を級財することが急務だとするジュネーヴへの要請文を起草しましたが、その電報を打つことはできませんでした。GHQがその打電を許可しなかったからです。GHQは打電の必要はないと言ったんです。その理由はGHQと日本政府のリエゾン・コミッテイ(終戦連絡事務)で、日本側委員が広島救援の必要はない、我々が独力でやると言ったからだというのです。広島救援の必要がないと言ったのはリエゾン・コミッテイ(終戦連絡事務局)だけでなく、日赤でもそのようなものをもらっても使用がないと言ってます。」「えっ、なんですと・・・」』


『マッカーサーとジュノー博士の努力を裏切ったのは日本赤十字社である。この日本赤十字社の総裁は天皇裕仁の弟の高松宮であった。明確にしたい。天皇裕仁と高松宮がこのジュノーとマッカーサーの申し出を断ったのである。どうしてか?ステイムソンとの約束(「私には確約がある」の発言)が怪しくなったからである。天皇は自分自身の安全が脅かされだしたからである。』


『マッカーサーは当時、アメリカ陸軍省の支配下にあったということである。従って、ジュノー博士の申し出をマッカーサーは受け入れたが、陸軍省が拒否したと考えなければならない。重要事項は陸軍省に報告され、陸軍長官からの決議を持って処理されたのである。ファレル原爆災害調査団の報告の公式発表はマッカーサーがしなければならないものとなった。敗戦国の天皇との交渉が行われた。それが大佐古がたびたび書いている終戦連絡事務局である。』


『松本重治の「昭和史への一証言」(2001年)から引用する。−終戦連絡事務局は、総司令部の機構に応じた日本側の受け入れ態勢ということで、連合国軍の進駐に先立って先方からの要請で作られたのです。外務省の一角に設けられ、半分は外務省の人間でした。奥村勝三もそこにいました−』


『松本重治が神戸一中の五年生のとき白洲次郎は二年生。神戸一中の同窓生である。松本は同盟通信社で有末精三中将のアメリカ向け謀略放送の仕事に専念していた。その松本を吉田茂の依頼で終戦連絡事務局に誘ったのが白洲次郎である。二人はもっぱら民生局のホイットニー(マッカーサー司令部のbQ)と交渉した。従って、あの日本赤十字の「原爆被曝者見殺し宣言」も、彼らの交渉の結果に他ならないのである。』


『どうして、謀略放送を流し続けた松本重治がアメリカの代理人となって、近衛元首相を自殺(?)に追い込む役割を演じたのかも、この一件の中に見えてくる。』


◎鬼塚氏は海軍と原爆の関係についても研究調査されている。


『私は原爆を研究する過程で、偶然に(否、必然的と私は信じているが)、一人の原爆孤老から手紙をいただいた。その人は「内密に」と書いていた。私は是非とも私の本の中に書きたいと電話した。「どうぞ」と承諾してくれた。その手紙の最後の部分を記す。』

『「日本海軍が米英等と特殊な関係を持っていた為、原爆を広島に落としたのも、その南方数キロの地点(江田島、桂島)に乗っていた海軍エリートたちに至近距離で見物できるようにアメ公が細工したものと愚考します。(兵学校裏の小山は絶好の展望台の筈!)戦後の日米協力のプロジェクトで、海軍の上層部にいた連中の数が異常に高かったわけです。」(手紙より)』


『「淵田美津雄自叙伝」は延々とこの間の事情を書き続ける。簡単に記せば、三日間も続いた会議は存在せず、彼は夜半ひそかに広島を離れて岩国基地に移ったということである。淵田大佐は海軍が畑元帥のもとへ送り込んだ”使者”であった。淵田は戦後、クリスチャンになった。ヨハンセン・グループ、同盟通信グループも全員クリスチャンになることで、一原爆孤老が書いたように「日米協力プロジェクト」の一員となり、「幸せという名の身分」をアメリカから与えられた。私は太平洋戦争開戦以前から、淵田たちはアメリカの隠れエージェントであったと思っている。』


鬼塚氏のDVDの続き。


僕は思います。そんなにしてまで、やらなくてはいけないだろうかと。もうそろそろ、日本人は考えかたを換えたらどうでしょうか。貧しくてもいい、美しい日本を、どうか若者たち子どもたちに残さなくてはいけない。これが日本の財産なんですよ。原発なんか財産なんかじゃありません。はっきり言います。こんな危険極まりないものは、今からでも、いっぺんにはムリだから、徐々になくすべきだと思います。以上で話を終わろうと思います。ありがとうございました。


以上転載終了。  


01. ♪ペリマリ♪ 2011年12月01日 10:57:54: 8qHXTBsVRznh2 : q7DXPOHhBc
追記
青柳恵介『風の男 白洲次郎』より抜粋した箇所で、
肝心の白洲次郎と渥美健夫の関係が抜けていました。
以下に追記してお詫びします。

『のちに白洲と最も深い交友関係を持つ一人となった永山時雄は、白洲の長官就任直前、商工省の物資調整課長の職にあった。石炭と鉄鋼の需給計画を施行する役職である。36歳のこの物資調整課長は商工省の中でもバリバリ仕事をする逸材で名を馳せていた。のちにやはり永山同様白洲と深い親交を結ぶ鹿島建設名誉会長の渥美健夫は当時永山の下で働いており、(中略)白洲は貿易庁長官に就任するや、貿易庁の筆頭課長である貿易課長のポストに商工省からの永山を据えた。』

7. 2020年9月26日 11:50:02 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[19] 報告
山本五十六の真実G吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令・文麿編
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/768.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 1 月 01 日 14:39:08: 8qHXTBsVRznh2
 

山本五十六のプロパガンダを解明するために、絡まった糸を一本一本解きほぐす作業を続けています。もう暫くお付き合いください。
まず訂正事項があります。前回、第二総軍を原爆投下の真下におびき寄せるシナリオを、昭和天皇に指示された畑俊六が前夜松本重治の別邸に避難した、という記述は松本俊一の間違いです。お詫びして訂正します。
それからデイヴィッド・バーガミニ著『天皇の陰謀』から原田熊雄の資料を孫引して、山本五十六が述べた以下の“黙示録的セリフ”についての考察も、お詫びして撤回します。
『私の考えでは、米国と闘うためには我々は殆ど全世界に挑戦する用意がなければならない。・・・私は最大限を尽くす覚悟でいるが、私の旗艦、戦艦長門の甲板上で死ぬつもりだ。そのような最悪の日々、東京は少なくとも三回は焦土と化すだろう。結果は人民の長い苦悩である。そしてあなたや近衛、その他の人たちは、考えるだけでも哀れなことだが、おそらく大衆によって八つ裂きにされるだろう。それは実に混乱した事態だ。我々は逃れられない運命として、このような道を通らなければならない。』
尚、これについての詳細は本文で述べます。

以下本文です。

近衛文麿は内閣首班として、日中戦争の拡大・泥沼化、大政翼賛会結成によるファッショ化、三国同盟締結、南進策と武力発動の国策要綱を決定した汚名を、山本五十六は連合艦隊司令長官として、真珠湾攻撃奇襲による日米開戦とミッドウエー海戦敗戦を初めとする拙策で海軍を破滅に導いた汚名を被せられている。そして共に歴史の闇に葬り去られている。最近は近衛文麿は共産主義者、山本五十六はフリーメーソンの売国奴という新たなプロパガンダも登場し、これでもかとバッシングしている。その一方で昭和天皇、吉田茂、伊藤博文らを持ち上げるプロパガンダ本が刊行され、白洲次郎ブームなる現象も起きている。そしてこのバッシングやプロパガンダが史実になりつつある。
例えば山本五十六が近衛文麿に日米開戦の不可なることを明言したセリフも、わざと曲解され色々な尾ひれが貶める材料として使われるようになっている。


『それは是非にやれといわれれば初め半年や一年の間は、ずいぶん暴れてご覧にいれます。しかしながら二年三年となると全く確信は持てません。三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなりましては日米戦争を回避するよう極力御努力を願いたい』
五十六の注進の意味は、プロパガンダ作家たちによってズラされてきた。五十六は“半年一年暴れてご覧に入れます”とハッタリをかました。五十六がはっきり戦争は出来ないと言わなかったから、優柔不断な近衛が迷って戦争が回避されなかったのだ。等々。


中田安彦の『ジャパンハンドラーと国際金融』に至っては、五十六のセリフ自体が改変されている始末である。中田くんの『私の仮説』によると、五十六は“二年三年は暴れてご覧にいれます”と言ったことになっていて、その理由はアメリカ駐在大使付武官時代のポーカー人脈を使って早期和平に持っていく自信があったからだという。


中田君は問題外としても、五十六の言わんとするところは故意に捻じ曲げられてきた。『半年一年は暴れてご覧にいれる』というのは、『二年三年となるとまったく確信が持てません』の前置きに過ぎない。『開戦を極力回避していただきたい』と明確に答えている。五十六の結論ははっきりしているのだ。近衛自身も日米開戦を阻止すべく孤軍奮闘していた人物として、五十六の意図を正確に理解している。そして何度も昭和天皇に戦争を回避するよう上奏している。それが五十六は強引に真珠湾攻撃をし、近衛は責任回避したことになっている。近衛文麿と山本五十六は逆情報活動によって抹殺され続けている。近衛文麿のプロパガンダは五十六のそれよりもはるかに巧妙で徹底している。


我々はこう思わされている。近衛文麿という人間は優柔不断で粘りがなく、肝心な時に政権を投げ出す情けない奴だ。近衛こそは日中戦争を泥沼化し、蒋介石政権との和平工作を潰した張本人なのだ。それなのに近衛上奏文では全てを共産主義に責任転嫁し、ひたすら国体護持を唱えた。そして戦後マッカーサーに近づき、新憲法起草責任者になった。しかし戦犯指名されると、巣鴨に出頭する期日の前夜、屈辱に耐え切れず自殺した。

白洲次郎が「どうも近衛が自殺するらしい」と電話をかけてきたので、松本重治と牛場友彦が駆けつけ、近衛に翻意を促したが「このわがままだけは許してくれ」と言い張って服毒自殺したという。松本重治はその後もくりかえし近衛の自殺前夜の様子を語った。「近衛公は天皇さまよりプライドが高かったから、勝者の裁きを受けることは耐え難かった。近衛公は天皇さまを守るため出頭を拒否した」。天皇さま云々はともかく、裁判を受けることを断固拒否する態度は、確かに近衛文麿の『遺書』の内容と合致する。だから『史実』として定着している。

しかし私は次のように結論する。


◎近衛文麿は服毒自殺ではなく薬殺された。

◎指令を出したの吉田茂と昭和天皇である。

◎近衛文麿は出頭してすべてを話す決意を固めていた。

◎近衛家は篤麿、文麿、文隆の三代に渡って暗殺されている。

◎近衛文麿を破滅させるシナリオは、15年戦争ぐるみの壮大なものである。

◎近衛文麿が首相になった直後に、盧溝橋事件を起こす計画だった。

◎近衛文麿が首班の時に、日中全面戦争の拡大化を図るシナリオだった。

◎近衛文麿が首班の時に、三国同盟締結、大政翼賛会結成、
汪兆銘傀儡政権、武力発動の帝国要綱が作成決定されるシナリオだった。

◎近衛文麿に関する史料はほとんど全て改竄されている。

◎『近衛上奏文』も『近衛・マッカーサー対談』の外務省史料も、
『近衛文麿の手記』も『失われた政治』も捏造である。
近衛文麿が創設した近衛家の史料を収めた陽明文庫も盗掘されているだろう。

◎近衛文麿による画期的な新憲法起草案は、御用学者によってわざと曲解されている。

◎藤原菊と山本ヌイの手記は捏造である。

◎近衛文隆は吉田茂の指令によってソ連に抑留され、日ソ国交回復と同時に薬殺された。

◎鳩山一郎は、吉田茂に動かされていた駒に過ぎない。

◎鳩山一郎による日ソ国交回復も、吉田茂のシナリオである。

◎近衛文麿暗殺の主役は松本重治と牛場友彦、共演者は風見章、岸道三、後藤隆之助、山本有三。友情出演G2チャールズ・ウイロビー、ソ連代表部テレビヤンコ。

◎野坂参三は吉田茂と共謀していない。(吉田茂が嫌い)

◎野坂参三は独自のルートで昭和天皇のために尽くした。

◎尾崎秀実が一番信頼していたのは野坂参三である。

◎野坂参三は田布施村王朝に恩義を感じ、昭和天皇のために尾崎秀実を使い捨てにした。

◎伊藤博文、吉田茂、昭和天皇は近代史上不世出の三悪人である。

◎防衛庁に職員として潜入していた秦のように、田布施村王朝の草が逆情報活動している。

山本五十六と近衛文麿の暗殺は連動している。二人は2・26事件直後に、吉田茂と昭和天皇のデス・ノートに記名されたと思われる。近衛抹殺指令には朝日新聞の緒方竹虎と嘉治隆、NHK、白洲次郎、松本重治、牛場友彦、岸道三、風間章、後藤隆之介、山本有三らは、全員がグルになって協力している。近衛を追い詰めた上で『自殺する』という風評を流し、近衛が周囲の制止を振り切り我意を通して『自殺した』、というシナリオを演じている。近衛の家族を除く全員が共犯者、謂わばアガサ・クリステイ―の『オリエント急行殺人事件』状態である。中でも主役を演じた松本重治は、晩年になってしつこいくらいに偽証している。


松本重治『わが心の自叙伝』聞き手・加固寛子 1992年初版 講談社より

以下抜粋。

『近衛さんが自殺されたのは、昭和20年12月16日。近衛さんはプライドというか、矜持が高かった。マッカーサーにだまされたということで、縄目を受けることはたえられなかった。それにもました「巣鴨」に行き戦犯として法廷に立てば、戦争責任の塁が天皇様に及ぶ危険がある。それを防ごうとされたのかもしれない。いろいろ考えて死を選ばれたのであろう。』


『私は近衛さんがなくなる前日、近衛さんのところに行って二時間ほど二人で話した。恥をしのんでも、近衛さんが法廷に立って天皇さまを守らねばならないと言っても、「木戸がいるではないか、最後のわがままだ、勘弁してくれ」と言われると、なんともしようがなかった。自殺をするという噂があったので、翌日京都大学時代の親しい友人、後藤隆之助とか山本有三も顔を見せていた。今から思えばお別れに来ていたのだ。近衛さんは集まっていた人みんなにウイスキーをついでまわっていた。”別れの杯”のつもりだったのだろう。人びとが帰ってしまって、友さんと私は近衛さんの隣の部屋で寝た。翌朝六時ごろ、千代子夫人が友さんを呼んで「やっぱりやりましたよ」と言った。死に顔は安らかであった。』

松本重治『昭和史への証言』聞き手 國弘正雄 2002年初版 たちばな出版より

以下抜粋。


『松本  近衛さんはプライドが非常に高かった。プライドが高い点では、天皇さま以上ではなかったでしょうか。そういう近衛さんにとって、マッカーサーにだまされたということ、縄目を受けることは、たえられなかった。それより死んだほうがいい、という気持ちになったのです。プライドが高いから執着心がないわけです。私は近衛さんがなくなる前日、近衛さんのところへ行って二時間ほど二人で話をしました。近衛さんに、恥を忍んでも天皇さまを守る人がいなければ駄目ですよ、といったのです。木戸(幸一)がいるではないか、と近衛さんがいうので、私は木戸さんは内大臣としてはまだ新しいから、あなたが天皇さまのそばにいて下さいと頼んだのですが、近衛さんは、松本君のいうことはわからんことはないけれども、このわがままだけは許してくれないか、といわれるのです。最後のわがままだ、勘弁してくれ、といわれると、なんともしようがなかったのです。』


『−そのとき、先生が近衛さんのところに行かれたのは、自殺の決心を変えさせようと思われてのことですか。』


『松本  近衛さんが自殺するという噂があったのです。だから、後藤隆之介とか山本有三、二人は同級なのですが、あの二人がお別れに来た、とかいって、近衛さんの顔を見に来たくらいです。』


『−近衛さんと二時間話をされたのは、自決を思いとどまってほしいということに費やされたのでしょうか。』


『松本  そうでした。私は、近衛さんに、あたなが亡くなったら、天皇さまがお気の毒ではないか、といったのです。天皇さまが本当に信頼しているのは近衛さんだ、と私は思っていましたからね。近衛さんは、日独伊三国同盟をつくったとき、「おまえはどこまでも私についてきてくれるか、助けてくれるか」と天皇さまに頼まれたのですが、考えてみると、天皇さまに「お前頼むよ」といわれたのは、近衛さんと牧野伸顕くらいではないでしょうか。その牧野伸顕にしても、近衛さんより年齢はずっと上ですからね。』

昭和天皇と近衛文麿のこのエピソードは捏造であると私は思う。近衛がこれを閣議で披露し、松岡が号泣したという逸話も作り話だと思う。天皇さまが本当に信頼しているのが近衛のはずがない。近衛文麿こそは田布施王朝の不倶戴天の敵である。文麿はすでに少年の頃から田布施王朝を忌避していたのだ。昭和天皇と近衛文麿の間に心の交流など、ただの一瞬もなかったはずだ。私は昭和天皇は近衛文麿を憎悪すらしていたと思う。

『−近衛さんは先生に遺言のようなことはいいませんでしたか。』


『松本  何もなかったですね。近衛さんの気持ちは遺言にある通りです。グルーは自分の気持ちをわかってくれた。時がたてば、本当のことは全部わかる。いまは終戦のどさくさだ。みんな異常な心理だから、間違いも多く、誤解も多い。そういう客観情勢の下で勝ちおごった者から裁かれたくない−と。近衛さんは、それは悠々としていました。この最後のわがままを許してくれ、なんて言葉は余裕がなければとてもできませんよ。私たちは水割りのウイスキーを飲みました。それから、私はどんぶりものを食べて寝たのです。翌朝六時ごろ、千代子夫人が牛場友彦を呼んでいいました。「友さん、やっぱりやりましたよ」。前の日には、シーツを真新しいものに代え、寝衣から何から全部、新しいものを用意して近衛さんを寝かしたのです。千代子夫人はなかなか勘のいい人でした。』

現存する近衛の『遺書』は、偽造史料だと私は確信する。吉田茂の側近、おそらく『近衛上奏文』を創案したり、講和条約締結でも同行した外務省の吉田コネクションのによるものと思う。千代子夫人の冷淡な言動は松本や牛場の捏造である。文麿と千代子夫人は夫婦円満であった。藤原菊と山本ヌイとの一時的な関係はあったと思われるが、彼女たちが近衛の死後にマスコミに出した手記内容や子どもを為したことについては私は虚偽だと考えている。今後、関係者に調査したいと思う。


『−そういう話を伺っていると、とくに最後の近衛さんのせりふなどに、いかにも東洋的な感じを受けます。近衛さんの父君は東亜文書院の設立者ですが、近衛さん自身の中にも東洋への親しみといいますか東洋的なものを感じられましたか。』


『松本  それはありました。近衛さんには男の子が二人いましたが、とくにシベリアに連れていかれた長男の文隆を非常にかわいがっていました。ゴルフがうまく、からだも強く将来を待望していました。二男の通隆のほうは、からだも割合細くて、道楽してしようがないんですよ。それで、近衛さんが叱ったころがある。道楽してもかまわんが、しかし、それ以上大事なことを忘れるな−と。そこらへんも東洋的なんですよ(笑)。』

◎通孝は真面目な学者タイプ。道楽してしょうがなかったのは、長身ハンサムなモテ男文隆である。

『−死の前日まで、ずっと身近に近衛さんを見守ってこられた先生の近衛評は全体としてどういうことになるのでしょうか。』


『松本  非常に大事な時に、重大な正しい決意をされるけれども、粘着力が足りないのです。粘っこい点がないんですよ。うまくいかないと、やめちゃおうという気になるのです。(後略)』


『−それは、近衛さんの育ちのよさにもよるのでしょうか。』


『松本 まあ、そうもいえますがね。(中略)貴族意識とか、五摂家の筆頭の家柄である、といった意識はありませんでした。ただ、なんとなしに、天皇さまへの親近感はもっていました。』


『−近衛さんが自裁したとき、天皇がどう反応されたか、ということはもれ承るよしもないのですが・・・。』


『松本 私も聞いたことはありませんが、本当にがっかりされたと思います。』

以上抜粋。

松本重治『近衛時代』1986年初版 中公新書より以下抜粋。


『先日、近衛さんの長女の昭子さんにお会いできて、いろいろと話を聞いたが、その中で昭子さんによると、このソ連行きの際、近衛さんが、小さな小瓶を旅行カバンにいれているのをみて、「これはなに」とたずねたところ、はっきり「青酸カリ入りの小瓶だ」といわれたそうで、後日近衛さんが自殺に使われたのは、そのときの青酸カリだった、ということである。』

◎松本重治は白洲次郎から青酸カリを渡されて持参したので、入手経路について非常に気にしている。近衛の長女昭子を使って誘導尋問して喋らせている。

『日本最後の「公家」−愛娘野口昭子さんに聞く』

『野口  そのときに、父の部屋に行きましたら、こんな小瓶の青酸カリを持ってたんですよ。私あのときから、どっかから入手したのかと思うんですけどね。いざっていうときは、これを飲むんだよって、私に見せたことがあります。だから、あのとき手に入れてるから、自殺のときまでどこに隠してたのか分らないんです。あの場に及んで、その瓶をくださいなんて誰にいったって、くれやしないと思うし・・・。でも、その瓶が、父が亡くなるときに置いてあったの、空になって。コーヒーの中に・・・。それは、ソ連に行くっていうときに、もうすでに持ってたんですよ。』

◎次の二つは彼らのシナリオの定番ネタである。


『終戦連絡局にいた白洲次郎君からの電話で、「近衛さんはどうしても巣鴨プリズンに行くようすはない。自殺するのかな。」という。それで、私は牛場友彦君を誘い、二人して泊り込みのつもりで荻窪の荻外荘に急いだ。応接間に先客がいるらしかった。あとになってわかって、なあんだあということになったんだが、後藤隆之助さんと山本有三さんの二人だった。ともかくそれで、私たちは近衛さんを別室に呼んできてもらい、主に私からだが、二時間くらい「自殺反対論」をぶった。その甲斐はなかった。』

『最近友さんは、「あのときの重ちゃんの説得力には、ちょいと驚いたよ。もの凄く迫力があったからね」と、次のように話してくれた

−重ちゃんが、「近衛さん、あんたが(巣鴨に)行ってくれなければ、陛下が危ない」というと、近衛さんから、「それは木戸がいるから大丈夫です」という答えだった。しかし最後に、近衛さんは、「松本君、ねえ、もう話は分ったけれど、最後の私のわがままを聞いてくれ」といった−

こういわれてしまえば仕方がなかった。夜が明け、友さんと一緒に近衛さんの寝室にいってみれば、すでに幽明界を異にしていた。こうして、私らと近衛さんとの絆は、永久に断ちきられたのであった。』

『誤解された近衛−牛場友彦君に聞く』

『牛場  吉田(茂)さんなんかも引っ張られたでしょう。僕だったら絶対あれはしないと、近衛さんいうんですよ。通隆君と僕で、”じゃ、どうするんですか、まさか立ち回りするわけにいかんでしょう””それは手があるさ”とうそぶいているんだな。あのときもう青酸カリを用意していたんですね。たとえば近衛さんがスパイの容疑やなんかで憲兵隊へ引っ張られるというはめになったら、そのときやっていますね、もう。絶対そういうことを許さないという気なんだから。だから通隆に書いた遺書でも”神の裁きを受ける”と書いているでしょう、最後にね。戦勝国の勝ち誇った裁きなんか、受けてたまるかという、裁きを受けるということは、絶対、近衛家の自分としては許さないという。」』


◎牛場友彦が言っているのは嘘八百である。トモは通隆をダシに使ってデタラメこいている。通隆は何も言わないだろうと踏んでいるのである。近衛の遺書も通隆の前で書いたものと、近衛の遺書として公開されているものとは別物である。これは松本がうっかり喋っている。


『牛場  さて僕が近衛さんとはじめて会ったのは、重ちゃんの話した通りで、昭和9年5月半ばのことだ。近衛さんが四十三のときですよ。僕が三十三、そのときの近衛さんの印象は、なんと眉目秀麗なハンサムな人だなと思った。実にスーッとしててね、実に親しみを感ずるんですよ、はじめからね。満州事変をその二年後に控えた年ですから、そのときは非常に騒然としてきた時期に近衛さんとお会いした。近衛家のことなんかぜんぜん知らなければ、近衛文麿という人もぜんぜん・・・そういうことはいっさいわからずに、いきなり二ヶ月間、アメリカ旅行のお供をしたわけなんです。あとで、牛場君は変ってるねって。何が変っているのかと思ったら、そういうことでぜんぜん・・・さもなきゃそんな機会を与えられたら絶好のチャンスなんですね。たとえば友達の尾崎秀実だとしたら、たいへんだったと思うんですよ。食いついてね。日本の政治の中まで入ろうとしてたいへん。』

◎牛場友彦は自分が無欲であることを誇示して尾崎秀実を貶めようとしているが、そもそも尾崎秀実を近衛父子に食いつかせたのは牛場友彦自身である。牛場友彦は書記官長の風見章と共謀して尾崎秀実を『朝飯会』に入れたり、近衛内閣の嘱託として首相官邸に一室を与えて、そこに文隆を出入りさせていた張本人である。尾崎秀実だけでなく、ゾルゲまで文隆に近づけたのも牛場友彦である。


牛場は前掲書の中で『昭和9年の8月にアメリカから帰ってきて、それから太平洋問題調査会のヨセミテ会議が11年かな。この会議の準備に忙殺されて、近衛さんのコの字も忘れていた。全然連絡なかった。そこへ昭和12年に近衛さんが組閣した。そうしたら突如として組閣本部へ来てくれっていうんで、なにごとかと行ってみたら、秘書官をやれって。』と証言している。このヨセミテ会議に出席した尾崎秀実の助手に文隆をくっ付けたのが牛場である。牛場は近衛内閣の秘書官になるとさらに文隆に貼り付いて政治志向を植え付け、やがて父親と一蓮托生の罠を仕掛けた。そのために尾崎とゾルゲを利用したのである。


IPRが謀略の巣窟であることはつとに知られているが、牛場友彦の片割れである松本重治はIPRでの人脈を最大限に生かす人生を送っている。ジョン・D・ロックフェラー三世と共謀して国際文化会館を創設したばかりでなく、IPRで知遇を得たロイターのアジア支局長チャンセラーの紹介で、ジャーデイン・マセソン商会のケジャック兄弟と懇意になり、戦後は同商会の顧問を務めている。松本重治は国際弁護士として同商会の他にも、多くの外資系企業の進出の便宜を図った。松本重治はさらにチャタムハウス(RIIAイギリス王立国際問題研究所)のようなものも日本には必要だ、と提言している。松本重治と白洲次郎はまるで双生児のように良く似ている。


『いつだったろうか、正確な日時はみんな忘れてしまったが、牛場君が私に、「近衛さんが会っていて、気を置かずに話しのできる人は、ほんの二人か三人だ。その一人が、重ちゃん、君だよ」といったことがある。そこまで近衛さんが私を気に入ってたとは、友さんにいわれるまで、私は気づかなかった。』


◎人を中傷しながら自分ボメするのは、白洲次郎&松本重治&牛場友彦トリオの得意技である。


『歴史とはこういうものです』


『松本  近衛さんが自殺したときね、前の晩に、隆さん(後藤隆之介)と山本の有さん(山本有三)の二人で、近衛さんのところにお別れにといって来たでしょ。あのとき、なにか自殺するとかしないとか、話はあったの?自殺するなっていう・・・。』


『後藤  自殺って言葉は使わないけど、あったんだ。』


『松本  そのとき、近衛さんの親類の人とかなんか、巣鴨へあした行っちゃうので、会えないかもしれんというので、お別れのあいさつに来た人が、随分いたね。近衛さんはひとりひとり応対しておられた。』


『後藤  そう、そうだったかな。だが自殺すると思っておった者は、少なかったろうね。』


◎後藤がつい本当のことを言ってしまったので、松本が軌道修正する。

『松本  僕は近衛さんと議論したから覚えている。』

◎後藤は松本に注意されたのだろう。やおら芝居を始める。

『後藤  僕、山本がちょっとというから、外へ出た。ところが、「近衛は向こうへ行かないそうだ。君ひとりがそれに賛成しているそうじゃないか」と山本がいうから、「へえ、どうして?」って、僕はそういったんだ。ハハアと思ったんだ、僕は。

実は14日に、僕が近衛に会いたいといったら、運転手が迎えに来たよ。14日の4時ごろだったと思うよ。そしたら、近衛は、いつになくまじめくさった顔して、「今日来てもらったのは、自分はこんど−」あれは、軽井沢に僕らと一緒におるときは、刑は重くないと思っておったし、ぼくらもそう思っておった。ところが東京へかえってみたところが違う、重くなりそうだという気配がしてきた。アメリカは罪を軽くはしない。大物主義できてるから重罪を免れないということを観念しておったね。しかし、極刑にはならないと思うが、重罪は免れまいということを言っておった。そういう前提があった。

それでもなおかつ、僕は巣鴨に行くことを勧めたぐらいだからね。だが勧める前に彼は、「自分は重罪は免れない。日華事変以後、自分は失敗の連続であった。失敗ばかりしていた。しかし、志すところは別にあったんだということだけは後日明らかにしてもらいたい、それを頼みたいと思って来てもらった」と、こういうことを言った。

ははあ、これは遺言めいたことを言うなと思って、「それは承知しました。尚その他、公私を問わず、言うことがあれば承りますれば、何でも私の出来ることは致します」

それから僕も、巣鴨へ行くものと思ってさ、「ふとん1枚ぐらいだと寒いらしいぞ。ふとん二枚を重ねて1枚にして、さらに1枚上にかぶせて二枚を1枚にして・・・」といっても、近衛は聞こえたような、聞こえんような顔をしておったが、僕が行くことをすすめたぐらいだから行く気がなかったんだね。』


◎後藤隆之介には、己れの悪事に耐えられない良心がわずかながら残っているのだろう。日本語になっていないような証言が延々と続く。後藤に修辞文法の学習能力が無かった訳ではない。彼は篤志家が学資を出したくらいの秀才である。後藤隆之介は松本重治のように、とことん恥知らずで悪達者な芝居を演じることができないのだ。

『後藤  15日になって、近衛に会って聞こうじゃないかと(山本有三が)いうから、聞こうと荻窪に行って、近衛の部屋にいったら、いないけど待っておったんだ。ここに待ってりゃきっと来るって、で、来たよ。二、三十分してきた。今まで医者にかかっておったっていう。山本が医者はなんていったと聞いたわけだ。・・・診断書を書けといえば書きますということを、二人の医者が引き受けたわけだ。それは彼の周囲の者が、それをするために医者に来てもらったわけだから。

ところが、近衛はそのことについて「私は断った」というから、山本が「なぜ断ったのです」と、こう聞いたわけだ。「東京裁判を拒否する」という一言を言ったんだ。ピシッときたね、僕は。「行かない」という言葉なら穏当だが、「拒否する」という言葉は、ハハアと思ったね。「裁判は拒否する」と。そうすると山本は、「侯爵は最悪の場合をお考えになっておられやしませんか」と、こうきたんだ。それはね、山本だからああいうふうに婉曲なことをいえるんだよ。死ぬ気かと、僕なら言っちゃうところだが、そう言ったら「いいえ」と、首を横に振った。だけども、僕が聞いておって反対の・・・。

それから初めて僕が発言するんだよ。「こういう際に法廷に立って、ペタン元帥のように堂々と初心を披歴して、皇室のために盾になっていくのが近衛公のなすべき道ではないか」と言った。そうしたところが、彼は、初めて本音を吐いたですわ。

「自分がこんど、巣鴨に呼ばれておるのは、日華事変が根本です」と。「日華事変のことを追及していけば、これは軍のやったことである。政治家たる近衛の責任じゃなくて、むしろ軍の責任である。軍の責任であるということを追及していけば、統帥権問題に帰着する。そうすると結局陛下の責任だということになります。だからそうなれば、近衛の責任は軽くなります。私は、そういうことをはっきりと、所信を披歴することは出来ません」

だから法廷には立たないということなんだが、そう言われたので、頭の悪い僕も、もう一言もいえなくなっちゃったよ。「なるほど、そうだろう」。こう思ったから、仕方ないと。』


◎「」内の近衛のセリフは、松本重治が近衛から聞いたというセリフとほぼ同一である。これは打ち合わせ済み事項なのだ。後藤はそれをオウムのように口真似する役だから、ここだけスラスラ理路整然と喋っている。 


『後藤  そこで、これは自殺するなと思ったから、立派に死ねといおうと思ったら、僕の後ろに千代子夫人と通隆が立っているんだ。僕は気がつかなかった。山本ははやく気がついたもんで、いくらかたじろいだらしい。僕は二人が後ろに立っているのを見て、少し、意気阻喪したわけじゃないが、なんだか言いにくくなったね。

だけどこんなことで、言うべきことを言わずにおるわけにはいかないので、こういう時こそ、自分のいうべき時だ、ほかの誰もが言いにくいことを、僕が言わなきゃならん、という自負心が若干あったので、「東条のような、ぶざまなことはしてくれるな」と、ことばはそのとおりである、ぶざまといったよ。死に損ないだな、ぶざまなことをしてくれるなと、こう大きな声でやったよ。そうしたら、その一言を聞いたとき、近衛の顔がぐっと変わった。青白く、目の色が変わったね、唇の色が変わったね。僕は、ああいう時に目の色が第一に変わることは知っているんだ。僕は以前に、彼に目の色を変わらした経験があるんだ。目の色が変わりました、唇も変わった。鼻をつき合わしたような近いところで言っているわけだから。ぶざまなことをしてくれるな、といったら、顔の色が変わって、そして後黙っちゃった。

あと、何もいわないわな、誰も。そしたら、山本がまた、「ひとつ、書き残せるだけ書き残してもらいたい」ということを言いだしたよ。「ほほう、さすが文士だな、抜かりはねえな」と僕は思った。僕の気がつかないようなことだもの。書き残せるだけ書き残してもらいたいと。あ、いいことに気がついた、と僕は思ったら、「いや、書いてある」と、こうきた。それで僕は、「それは君、三国同盟とか日華事変とか、対米交渉とか、そういうことだろう?」といったら、「そうだ」と。

「山本君がここで、書き残せるだけ書き残してくれというのは、そういうことではないんだ。なぜ死んでいくか、死んでいく理由をはっきり、書き残せるだけ書きのこしてもらいたいということなんだよ」と言ったんだ。そしたら黙っちゃった。何にも言わないんだ、それっきり。

それから僕は「中野正剛って男は、雄弁で口八丁であったが、死ぬ間際には、“淡々たる心境で”なんていう言葉をもって、自分の心境を表現しておったようだが、中野としては不似合なことだと思う。もっと、言うべきことがあったでしょう。それを言い切らずに死んでいったということは、不似合なことであると今でも思っている」と、こう言ったんだ。「君に対しては、なぜ死んでいくかということを、はっきりと書き残してもらいたい、というのが、山本君のいっていることであり、われわれのいっていることはそれなんだ」と。そしたら、しいんとしちゃって。…』


◎中野正剛は東条の指示で憲兵隊に暗殺されたと言われている。しかし私は東条の指示ではなく、吉田茂と昭和天皇の指令によると思う。


『松本  いや、それでね、ウイスキーをみんなで飲んでさ、それからちょっと、二十分ぐらいしてから隆さんと山本さんと、二人が次の部屋で立って近衛さんと別れておられたよね。それで背丈の低い隆さんが、下から近衛さんを見上げてつくづくと眺めていたね。で、僕は、「あ、これでもう決まった」と、思ったんだ。』


◎松本重治は脚色が上手い。さすが国際文化会館の創設者である。この松本重治の誘い水で、後藤隆之介も俄然調子に乗る。


『後藤  山本は、あの時の僕のことをお別れをするとはいいながら、今は別れる時に、あれほどじろじろと人の顔を、自分には到底見られない、というておった、帰りに。僕は、あれが最後の別れと思うておったから、見忘れないように、じろじろと見た。』


『松本  見ていたよね。』


『後藤  うん、見た。ああなってくると、僕は肚が決まっているからね、真剣にぶつかったね。だから僕は、平素はろくろくものが言えないんだけれど、あんな時になると、遠慮ということを知らない男だから、言うべき時に言わずに別れるぐらい、あとで気持ちの悪いことはねえもの。ああいうことは、一生に何遍もないからね。』


『松本  そりゃないよ。僕、自殺する人の隣の部屋に寝ていたなんていうの、ないね。空前絶後。』


『後藤  あそこへ泊ったのか。』


◎後藤はギョッとしている。暗殺現場に立ち会ったのか?と驚いたのだ。


『松本  泊まったよ。牛場の友さんと二人で泊まったよ、あの部屋に。』


『後藤  ああ、そうか。あなたがたは、まだ、僕と山本とは違って、ああいう場面で一応やったのと、やらずに想像しておったのと、少し違いがあったね。』


◎後藤隆之介が山本有三宅に泊まって、『やらずに想像しておった』時分、松本重治と牛場友彦は『ああいう場面で一応やった』。松本と牛場は残って、近衛の暗殺を幇助したのである。後藤はまざまざと暗殺現場を想像して動揺しているようだ。それを察知した松本はこれはマズイと思って、すかさず話題を自殺反対論に持っていく。


『松本  いや、僕は自殺反対論を相当ぶったの。二時間ほど。』


『後藤  あ、そうか。あのあとで?』


『松本  いや、その前に。昼、日中だ。』


『後藤  あ、そうか。反対論ていうのは、どういうの?』


『松本  いや、自殺しちゃいかんというの、僕は。なんかね、白洲次郎さんだか友さんだか、僕が同盟通信にいたら、どうも近衛さんは、何か決心しているようだといって、僕に電話がかかってきたんだよ。で、僕は、さっとわかったものだから、「じゃ、すぐに荻窪に行くよ」って、それで行ったんだ。

二時間話したかな。友さんも傍らにいたよ。僕は、「この際は恥をしのんで巣鴨に行ってください。極刑にはならないんだと思うから」といったら、やっぱり、木戸がいるからいいっていうんだよね。「天皇さまのためには木戸がいるから大丈夫だ」と。だから僕は、木戸一人じゃ危ない。あなたが生きてなきゃだめなんだと、いうことを言ったんだよ。そしたら最後にね、「松本君ね、もう話はわかったけれど、最後の私のわがままを聞いてくれ」こういううんだよ。ま、そういわれると仕方がないから、それ以上言うのを諦めたんだ。しかし最後に近衛さんが僕に言ったのは、遺書に書いてあったと同じことを言ったのだ。』


◎ “どうも近衛さんは、何か決心しているようだ”と白洲次郎が風聞を流した。確かに近衛は決心をしていた。近衛が決意したのは自殺ではなく捨て身の闘いである。近衛は所詮は無責任な公家のボンボンと云われているが、近衛が起こそうとしたいくつかの行動や一切の言い訳をしない態度には、命を惜しまない勇気と責任感そして不器用さを感じる。むしろ古武士を髣髴とする。

近衛のいい加減さで尻切れトンボに終わったとされる政治資料は、かなりの部分が粉飾されていると思う。後述するが、外務省に保管されている近衛とマッカーサーの会談の史料も、会談の通訳を務めた奥村勝三外務次官が改竄していると思う。奥村勝三は真珠湾攻撃を騙し討ちにする工作をした、吉田茂と昭和天皇のコネクションである。彼は戦後も近衛とマッカーサー会談の内容を改変し、昭和天皇とマッカーサー対談は美化するなど、八面六臂の活躍ぶりである。この奥村勝三の片割れが、元駐米大使館員にして二重スパイ、昭和天皇御用掛・寺崎英成である。奥村勝三と寺崎英成は外務省のシゲ&ジローといったところか。寺崎英成の兄・寺崎太郎も、陸軍中将・辰巳栄一とともに吉田茂のロンドン・コネクションとして有名である。


『後藤  あの遺言はやっぱり言い尽くしているね、全部を。思うことはみな、あそこに書かれておるね。また、あのとおりになったね、事態が−。やっぱり、近衛らしい遺言であった。山本が、書き残せるだけ書き残してくれといって、あれを要求したからね。重ねて僕も。だからああいう遺言が出来たとも思うね。』


『松本  それはそうかもしれない。』


『後藤  なぜ死ぬかを書いてくれないと困るということを僕は・・・。山本もそれを言いたいんだけれど、山本はそういうことになると、そこまで露骨にには言えないたちですわ。だけど、それ以外にいうことないよ、僕は。やっぱり率直にいったのが近衛の−近衛という人間があの最後の遺言に全部出てる。』


『松本  あれはね、次男の近衛通隆君に会って、一時間ぐらい話したんだよね。それから、通隆君を部屋から外へ出さしといて、あと自分で書いたんだな、遺言は。そんな気がする。』


『後藤  そうかあ?』


『松本  うん。遺言を通隆君に渡したわけじゃないんだもん。』


『後藤  ああ、そうか。』

◎松本重治は遺言について重要なことを語っている。通説にないことを語る必要はないのに、これでもかと偽証を重ねているうちについ口を滑らしたのだろう。重大な証言だ。『近衛の遺言』として後に公表されたものは、通隆が退室した後に書かれたものだというのだ。つまり近衛が通隆の眼前で書いたものとは別物である。近衛文麿の本物の遺言は表に出ていないのだ。


後藤隆之介と松本重治は、戦犯指名された近衛を小心翼々とした人物に描いている。しかしこの時期、近衛の長男・文隆はソ連に抑留され消息を絶っている。最愛の長男の所在も生死も定かではない時に、私はもはや近衛が自分の運命を気にかけていたとは思えない。苦汁を嘗めつくしてきた近衛が、今また息子の命を人質に取られたのである。そういう時に、近衛が重罪であるとか極刑を免れないとか苦にしたとは思えない。近衛は四面楚歌の中でついに闘いの矛を取って立ったと思う。近衛は明治憲法を完全否定する民主的な改憲起草案を奉答し、同日栄爵拝辞している。


もし近衛気に懸けることがあるとすれば、残された家族に塁が及ぶことだけだ。文麿の通隆への真実の遺書は「自分は家族に塁が及ばないようにしたが、まさかの時は口を閉ざして母親を守れ」というものではないか。隣に松本と牛場が聞き耳を立てていたから、紙片に書いたのだ。それをいいことに、松本は昭和を偽証し続けた。松本は白洲次郎と同じ才能を持っている。見てきたようなウソをつくのが上手い。白洲はまたネタを創るのが上手い。松本はその白洲を上回る。これは松本重治のネタである。


松本と牛場は何か異変があれば即座に飛び込めるように、近衛の寝室の隣の部屋でまんじりともせず様子を伺っていたという。翌朝まで何の物音もしなかったのだが、近衛は死んでいたという。松本と牛場は近衛が殺害される一部始終を見ていたのである。松本重治はまた、野口昭子が青酸カリについて言及するまで延々と色々なことを喋らせ、ついでのように青酸カリの小瓶の話が出たように書いている。誘導尋問をしている箇所は省いているのだ。昭子が目撃した『コーヒーの中に・・』というのは、牛場友彦あたりが現場を偽装したのだと思われる。千代子夫人は不眠症になっていた近衛のために、毎晩水差しを用意していた。安定剤を服用するためである。彼女は松本らの偽証によって、青酸カリ服毒のための水差しを積極的に用意したことになっている。


近衛抹殺を実行したのは吉田茂の配下の工作部隊である。吉田茂は諜報機関も憲兵隊も自在に動かす。吉田自身をスパイさせ国家反逆罪で逮捕させ、しかる後に40日で釈放させることが出来る。吉田茂は白洲次郎を使って、ソ連に抑留させた近衛文隆を始末することも出来る。


鬼塚氏によると、アヴェレル・ハリマンは、1921年にレーニンからジェルジェンスキーを紹介されている。ジェルジェンスキーは、スターリンに任命されて、秘密情報機関チェーカを創設した人物である。モスクワのルビヤンカ通りにある本部には、対情報工作部と経済情報工作部がある。


ハリマンはそのジェルジェンスキーと組んで、ソ連とウオールスとリートのパイプを作った。ここにジミー・ウオーバーグが参入する。白洲次郎はこのジミーとパイプを持っている。ハリマンはスターリンの恩人であり、二人で『高度の政治的決定』が出来る立場にある。マッカーサーはその決定に逆らう権限を持っていない。文隆の命運は吉田茂の掌中に握られていた。


引き続き松本重治『近衛時代』より、文隆に言及した箇所を抜粋する。


『牛場  ああいうおかあさんの血を受けて呑気だった文隆君でも、モスクワの近くのシベリアの収容所での態度は、実に見事なものだったそうですね。自分は近衛文麿の息子だと、うしろ指さされることはいっさいしないと、帰国した人がみんな賛嘆してたものな。後藤隆之助なんかにいわせたら、あれは謀殺されたんだというけどね。・・・やはりソ連はずいぶん利用しようとしたんだろうというんですね。憶測ですがね。どうしても”ぼんち”(文隆の愛称)はなびかなかったんだな。そういう点は一貫してあるんですね。公家の血ですよ。これはほんとうに常人と違うからな。それは冷酷なこと、とことん冷酷、ひがみが強いという点もありますよ、それは。あんちきしょうなんて・・・あの目がいかん、近衛さんの目が、ヘビのような目ですよ、あれね。実に威厳のあるそれはいい顔をしているけど、目はやっぱ・・・』


『松本  ヘビの目をした近衛さんに友さんが傾倒したのはどういう点かね。』


『牛場  いや、非常にもうなんか感じのいいひとなんですよね、一緒にいて。またなかなか人を信用しないんだな。寂しい人ですよ。』


◎ヘビの目をしているのは、牛場、お前自身のことだ。ヘビのように執念深く文隆にまとわりついていたではないか。近衛は殺される直前に、自分が秘書官に選んだ牛場という男の正体を思い知っただろう。この対談も牛場の性格が良く出ている。褒め言葉の合間に猛毒を入れ、サブミナル効果を出している。こんな男を首相官邸や自邸に出入りさせ、文隆に貼り付かせていた近衛はあまりに迂闊であった。

この牛場友彦とクリソツなのが里美クである。里美クは白洲次郎と懇意で、次郎所有の山小屋に泊りがけでスキーをする程の仲である。里美は白洲に頼まれて山本五十六のプロパガンダ小説を書いたり、原田熊雄の日記を編集して発刊したり、せっせとガセネタを巷に流している。それでいて『私は嘘いつわりが嫌いである』と自己PRしている。


『里美ク伝 馬鹿正直の人生』を書いた小谷野敦によると、里美クには『まごころ哲学』なるものがあり、『嘘を許さない、何より自分に嘘をつかない』のがその眼目だという。里美クという人間は傍迷惑なほど『馬鹿正直』であり、小谷野が伝記を書きたいと強く思った理由は、里美クのこうした『正直病』に共感したからだという。私には里美という人間は『大ウソつき病』で、人にも自分にも平気で嘘をつく卑劣な男に見える。


里美クは原田熊雄と親戚関係にある。白洲次郎(ジロー)松本重治(シゲちゃん)牛場友彦(トモ)もお互い縁戚関係にある。3人とも田布施村王朝の薩摩閥である松方正義・樺山資紀・川村純義の子孫である。その内訳は、シゲちゃんは松方正義の孫、シゲちゃんがそっこんの恋女房・花子は松方直系の孫、ジローは樺山愛輔の女婿、その愛輔自身も川村の女婿、そしてトモは松方家と親戚でシゲちゃんともども松方ハルと近縁である。


後年松本重治は才能を見込まれて、吉田茂と樺山愛輔に愛顧される。松本重治が国際文化会館の館長に就任した経緯には、ジョン・D・ロックフェラー三世だけでなく、この松方ハルが絡んでいる。松方ハルはライシャワーと結婚して、ハル・ライシャワーとなったのだ。田布施村王朝の世間は狭いのである。


近衛文麿の死の直前の言動についての松本重治の偽証は、『近衛上奏文』を下敷きにしている。近衛文麿とマッカーサー対談といわれるものも、近衛の遺言とされるものも、『近衛上奏文』下敷きにしている。『近衛上奏文』は吉田の側近が創案したものである。近衛直筆とされる上奏文や遺言の筆跡鑑定をしてもらいたい。近衛は10月22日に新憲法起草案を奉答、同日栄爵拝辞している。改憲起草案の骨子は、明治憲法の完全否定、すなわち田布施王朝による国体護持に真っ向から対立するものである。私はこれは近衛が昭昭和天皇に突き付けた果たし状であると思う。そのように腹を括って闘おうとしていた人間が、勝者の裁きを受けたくないと言って自殺する訳はないのだ。まして軍部赤化に責任を転嫁しひたすら国体護持と財閥勢力の温存を唱える対談を、マッカーサーとする訳はない。


冒頭で撤回した山本五十六の黙示碌的セリフも、山本五十六と近衛文麿の暗殺を偽装するための、原田熊雄の後知恵である。原田熊雄は住友の社員から西園寺公望の私設秘書になり、吉田茂の指令を中継する立場にあった(原田の家は吉田邸の真ん前にある)。住友財閥は原田を丸抱えして、東京本社の一室と資金を与えていた。原田熊雄が書いた『西園寺公と政局』は、証拠隠滅工作あるいはプロパガンダのための偽書である。


原田が書いた山本五十六のセリフを、私は最初、戦争回避のための黙示録として読んだ。しかし鬼塚氏の本を今一度仔細に読んで気が付いたが、バーガミニは資料の真偽を何と秦郁彦に依頼しているではないか。なるほどバーガミニは、五十六と河合千代子のガセネタを信じ込まされている。五十六関係者によると、『海軍省の部下が五十六の所在を知りたければ河合千代子の妾宅に行ったものだ、そこに行けばドテラ姿の五十六が出て来るからだ』という風聞を流していたのは海軍省の身内だという。海軍のガセネタを、秦郁彦は本物だとバーガミニに吹き込んでいたのだ。


前回シリーズで投稿した『鬼塚氏が発見した日本の秘密』には、秦郁彦が電話をかけてきて延々とイチャモンをつける逸話がある。そして最後に秦自身が田布施村出身であることを告げるに至り、鬼塚氏が合点するのである(ああ、この人は歴史を捏造するために近代史家になったのだなあ)と。事実、秦郁彦は、バーガミニの『天皇の陰謀』を偽書として告発し近代史を捏造している。その経緯を鬼塚氏は次のように述べている。

鬼塚英昭氏『日本のいちばん醜い日』成甲書房より以下抜粋。


『私はバーガミニの本が偽書扱いされる過程を調べて、日本の現状から見て納得した。この本ほど膨大な資料を駆使して書いた日本現代史は存在しない。日本の学者はバーガミニほど勉強していないし、その歴史の背後に蠢くものを追及しようとする者一人もなしである。では、どうして偽書よばわりされていったのかを見よう。』


『バーガミニの天皇伝を酷評し続けたのは、元駐日大使のエドウイン・O・ライシャワーである。この元駐日大使はたびたび昭和天皇と会い、天皇崇拝者へと変貌した。ここに彼の文章を紹介するまでもない。しかし、ライシャワーの天皇賛美の本は、アメリカでは逆に偽書扱いされだした。』


『エドワード・ベアーが「ヒロヒト−神話の裏側」を1989年に出版し、バーガミニの歴史的立場を支持した。スターリング&ペギー・シーグレーヴは「ヤマト・ダイナステイ」」(1999年)「ゴールド・ウオリアーズ」(2001年)を世に問い、バーガミニの立場から新しい日本現代史を書いた。シーグレーヴの本を読むことをすすめたい。たしかに、小さなミスはある(バーガミニもそうである)。しかし、シーグレーヴの本には、日本人のほとんどが知らされていなかった皇室の秘密が書かれている。』


『日本人の学者もジャーナリストもほとんどがバーガミニの本を無視し続けいる。この本を紹介した本について書く。1984年、松浦総三の「松浦総三の仕事」が出た。引用する。「この書物には、私たちの知らなかったことが実に多く出ている。それは、占領軍が接収した日本の資料をほとんど見ていることと、この本を書くのに10年近くかかっている努力と執念の結果であろう。」』


『私はバーガミニに関する日本人学者やジャーナリストの論評または引用について調べたが、松浦以外は見つけることができなかった。否、これは間違いである。強烈な批評の書を見つけたのである。それは前述した秦郁彦の「昭和史の謎を追う」の上巻に書かれていた。バーガミニは日本の資料を集め、整理するために、当時防衛庁の文官であった秦郁彦の世話になった、ということを書いた。たぶん、バーガミニは自分の資料の不確かさを秦郁彦にチェックしてもらっていたはずである。』


『バーガミニは秦郁彦の助言を受け、大いに感謝している。しかし、秦はバーガミニの本を偽書と決めつけるのである。どうしてか。この点を追及していくと現代の日本の学者たちの立場が見えてくるのである。1993年に“ついに出現した決定版昭和史”の惹句を付して、「昭和史の謎を追う」(上・下)が出た。その上巻の第一章に「“天皇の陰謀”のウソ」というタイトルで、延々とこれでもかと、秦はバーガミニを追及している。秦はこのバーガミニという男にまんまと欺されたという風に書いている。そしてバーガミニの履歴を書き、「まずは一流の経歴だが、ライフの科学記者として著書も何冊か出していたバーガミニが、日本の近代史に着目した理由はわからない」と記すのである。私には秦が書いている意味が分からない。科学記者は、科学の本だけを書けといいたげである。』


◎バーガミニは本書の冒頭で『著者から読者へ』と題して、天皇の陰謀を書くに至った理由を述べている。それは凄まじいまでの動機である。日中戦争のさなか、まだ少年だった彼は父親とともに南京の聖山の山頂で日本軍の蛮行を目撃した後、捕虜として拘留され1945年2月5日に処刑される予定だったが、アメリカ軍が侵攻してきて九死に一生を得たのである。


『秦は書いている。「真珠湾コンプレックスの強い米人読者を意識してか、“天皇は開戦11か月前に真珠湾攻撃の成否の検討を杉山参謀総長に命じていた”という“新事実”が、原書房から刊行されたばかりの“杉山メモ”で判明した、とバーガミニは強調しているが、筆者が何度調べても該当の箇所は見つからなかった。何かの錯覚と思われるが、仮に事実だとすれば検討を命じられるのは陸軍ではなく、海軍の軍令部総長でなくてはならぬ、という初歩的常識を筆者・訳者ともに持ち合わせてないようだ。」』


『私はこの秦の書いた文章を読んで、ほんとうにあきれた。「杉山メモ」をよく読めといいたい。秦がこの程度の知識しか持っていなかったのかと、ただただ、あきれた、とのみここでは書いておく。真珠湾攻撃はもっとずっと前から、裕仁が机上作戦に熱中していたのを知らないらしい。』


『彼は得意げに書いている。

「“悪書は良書を駆逐する”好例だが、そのバーガミニも1983年、53歳に若さで没したと聞く。死してなお偽書は千里を走る。“歴史とは意見の一致したウソを集めたものにすぎない”とうそぶく、歴史の偽造者たちの哄笑が聞こえてくるようだ」

私は秦郁彦のほうが、歴史の偽造者仲間の一人にちがいない、と思っている。』


◎私は秦の文章を読んで慄然とした。秦の哄笑の声が聞こえてくるようだ。私はバーガミニは、原爆投下を阻止しようとしたフォレスタル海軍長官のように暗殺されたのだと思った。激しい動機に突き動かされ、我々に真実を差し出して見せてくれた彼は、非業の死に襲われたのだ。


『もう一人のバーガミニの批判者を紹介する。その人は色川大吉である。彼はバーガミニが気に入らないらしい。彼は秦郁彦と同じ問題を論じるのである。「ある昭和史」から引用する。

「バーガミニによると、こんどの戦争は想うだに胸が悪くなるほどに醜悪な“天皇の秘密閥”によるアジア制服の大陰謀の結果であったという。書名どおりの“天皇の陰謀”を実現する“秘密閥”が成立したのは、皇太子裕仁がヨーロッパ旅行に出かけた1921年に夏のことであったというから驚く。天皇自身が“皇祖皇宗の遺訓”や“万民の敬愛”という幻想の領域に深く捉えられ、そのために彼の主体的行動も制約されて、混濁し、あるいは複合人格たらしめられてきた、そう私たちが考えているのに対して、バーガミニはそうした非合理的な態度をしりぞけ、天皇幻想の衣装をはぎとり、裕仁を一個の醜悪な野心家として通常世界史の帝王の系列のかなに据えおこうとする。」』

『私は色川大吉や秦郁彦のような天皇にたいする“幻想”をも持たない。秦郁彦や色川大吉にお願いしたい。あなたたちが、バーガミニの本を偽書扱いするならば、それは認めよう。私はあなたたち以上に彼の本の中の記述の間違いを発見できる。ならばあの“某中佐”が登場する場面を、どうか偽書であるとどうか証明してほしい。あなたがたの本の中に、一字たりとも某中佐は登場しないのだから。重箱の隅をほじくるような真似をやめて、堂々と“某中佐”の存在について書かれよ。その勇気があれば、日本の近現代史を大きく転回する契機の一つとなりうるであろう。』


◎秦郁彦も天皇に対する”幻想”を持っていない。彼は田布施村に生い育ち、長じて確信犯の歴史家になったのである。その秦が狙い撃ちにしたバーガミニは、日本近現代史に対する自身のアプローチを次のように明らかにしている。

『私は、天皇裕仁の行為と、後年彼についていわれている言葉との間には大きな懸隔がある、という結論を得た。私は史料の記録を読んで取ったノートを読み返し、考察し直して、第二次世界大戦以降に提示された日本現代史は、戦争末期に、一部は参謀本部の逆情報活動専門家たちによって、一部は行為の侍従たちによってつくられた、巧みに仕組まれた虚構である、と確信するに至ったのである。』


かくのごとく真摯なバーガミニを秦郁郁彦はまんまと嵌めたのである。秦のケースと異なり、G2のゴードン・プランゲと千早正隆の協力関係の場合は断然うまくいった。プランゲは千早と共に山本五十六のプロパガンダ本の決定版を作成した後は、アメリカにごっそり資料を持ち帰りゾルゲのプロパガンダ決定版も書いている。省庁に潜入している逆情報活動工作員は秦や千早のほかにもウジャウジャいるだろう。


再び鬼塚氏の前掲書抜粋の続き。


『私はこの惨殺事件(注 某中佐による8・15偽装クーデターでは、リアル感を出すために森近衛師団長を惨殺した)を調べてきて、ひとつ気になることがあった。それは井田正孝中佐である、彼は後に岩田姓を名乗る。塚本憲兵大佐が戦後電通に入社すると、磐田は電通に迎えられる。1965年、塚本は「社長室長」になり、岩田は「総務課長」になる。後に二人は電通社内で出世していく。』


『「日本のいちばん長い日」は一面、日本憲兵隊の物語である。塚本と井田(後の岩田)は、あの日の演出家から大きな役割をふりあてられていた。その二人は、戦後も、その演出家の庇護のもとで、日本最大の広告代理店・電通の力を最大限に駆使して、この「日本のいちばん長い日」の物語が大宅本の範囲を超えないように、絶えず監視の目を光らせていたのではなかったか、と思うようになったのである。』


◎「日本のいちばん長い日」とは、8・15宮城クーデターを描いた一群の本の題名である。半藤一利が決定版と言われるものを書いている。鬼塚氏によると半藤一利はクーデターに疑問を投げ返かける本が出た後、『都合のいいように、読者には分からないように文章を巧みに入れ替えて、ついに決定版とする』。鬼塚氏は半藤一利が近衛師団兵たちの真情を斬って捨てている態度に怒りを示している。半藤一利の歴史観は田布施村王朝のプロパガンダの域を半歩も出ようとしない。ヤラセに利用された近衛兵たちの気持ちを理解しようとしない。いやできない。『半藤一利にはまことに申し訳ないが、あなたの書く文章は全編、この調子である。そこには“情”の一片さえない。私はこれ以上の評をしない。』と。


私は半藤一利という作家は何の苦悩も葛藤もなく近現代史を書いている人だと思う。そこにはただお気楽さがあるだけである。山本五十六の「述志」が発見されたという触れ込みで、半藤一利と保坂正康の対談が載せられている。この二人が語る五十六の「述志」は、田布施村王朝のプロパガンダそのものである。私は「述志」の真贋自体を疑っている。


半藤一利監修・原作による「山本五十六60年目の真実」という映画も観たが、陳腐なだけでどこにも『60年目の真実』などなかった。ただ役所広司が入魂の凄い演技をしていたのでもったいないと思っただけだ。事実関係で間違いがあることにも気が付いた。例えば五十六の傍を片時も離れずに世話をしていた渡辺安次参謀が、なぜか三宅義勇(みやけよしたけ)参謀になっていた。これは三和義勇の間違いである。おまけに三和義勇が五十六と一緒に撃墜される場面がクライマックスになっていた。三和義勇はマラリアに罹って入院していたので、当日は五十六に同行していない。


確かに三和義勇は五十六の数々の重要なシーンに立ち会っている。だから貴重な歴史の証言者として捉えられている。しかし私は三和義勇は偽証をしていると考えるようになっている。三和義勇は数々の偽証をした後、始末されたと思う。私が三和義勇の偽証を信じて引用したことを訂正してお詫びしなければならないが、詳細は次回以降明らかにしたい。尚、黒島亀人も「わがまま、気まぐれ」から、五十六の偵察に同行しなかった。黒島亀人は三和義勇と組んで偽証している。黒島は戦後、宇垣纏の日記を遺族から借り出し、重要な箇所を破り捨てて証拠を隠滅している。


山本五十六と近衛文麿の名前は、吉田茂と昭和天皇のデス・ノートに記名されていた。その時期は2・26直後で、理由は2・26で松平恒夫に協力したからである。今回は近衛文麿父子に焦点を絞っている。近衛父子と山本五十六の抹殺工作には、類型が見られるからだ。二つの抹殺工作は、周囲全員が共犯して行われた。では引き続き近衛父子のケースを見ていこう。


鬼塚氏は近衛文麿が暗殺されたことを、次のように示唆している。

『松本重治が神戸一中の五年生のとき白洲次郎は二年生。神戸一中の同窓生である。松本は同盟通信で有末精三中将のアメリカ向け謀略放送の仕事に専念していた。その松本を吉田茂の依頼で終戦連絡事務局に誘ったのが白洲次郎である。二人はもっぱら民生局長ホイトニー(マッカーサー司令部のナンバー2)と交渉した。従って、あの日本赤十字社の「原爆被害者見殺し宣言」も、彼らの交渉の結果に他ならないのである。どうして、謀略放送を流し続けた松本重治がアメリカの代理人となって、近衛元首相を自殺(?)に追い込む役割を演じたかも、この一件の中に見えてくる。』(鬼塚英昭氏『昭和天皇は知っていた原爆の秘密 国内編』成甲書房より)

◎松本重治と牛場友彦は近衛文麿に自殺を強要した。彼らは近衛を2時間あまり脅し、服毒自殺を迫った。しかし近衛は頑として拒否したため、吉田茂の暗殺工作部隊が薬殺した。白洲次郎が松本に持参させた青酸カリは、牛場友彦が犯行現場を細工するために使われた。青酸カリの小瓶をコーヒーカップの中に入れた。それで近衛の長女明子は、父親がコーヒーの中に青酸カリを入れて飲んだと信じた。吉田茂とウイロビーが組んでいたので、現場検証はおざなりで済ませられた。家族を除いて全員が共犯者だったので問題はなかった。


近衛文麿抹殺工作が秒読み段階に入った昭和20年10月22日の前後の事情を見ていこう。近衛は田布施王朝を完全否定する新憲法起草案を奉答、同日栄爵拝辞してルビコン川を渡った。吉田茂と昭和天皇は東京裁判を待たずに殺害を決意する。まず吉田はマスコミを使って近衛を追い詰める世論操作をする。朝日新聞とNHKを組ませ、近衛に戦争責任を帰し、激しい人格攻撃を加えさせる。


朝日新聞昭和20年10月27日社説『近衛公ついに栄爵拝辞』より以下抜粋。


『自ら常に問題を蒔き、世間からも終始問題にせられていた近衛文麿公もついに栄爵を拝辞するの決意を表明した。さきに総理大臣の前官待遇を拝辞した事実に接した時その態度があまりに小出し的な責任逃れの観があるというので、国民の中にはその良心の健在を疑った向きもあった。ことに日本人として軽々しく口にすべからざる天皇御退位の問題を無考えに内外の新聞に公表して見たり、これを取り消して見たりする癖のあるのは、心ある人々をして困ったものだと思わせるに十分なものがあったといってよかろう。』


『マッカーサー元帥の勧めであるとか、陛下の思し召しによるとかいうのは、今の場合、確かに一つの根拠になり得るには相違ない。しかし国民の真情は、むしろ最高指揮官や至尊からいかなる事柄が洩らされたという点よりは、夫子ら自身が過去に対する責任をどう取るつもりかという点に集中せられているのである。換言すれば、外からの声、上からの声に対してどう振舞うかというよりは、自己内心の声をいかに忠実に聞くか、自らの政治的良心をいかに素直に働かせ、そしていかに道義的行動に出るかを国民は固唾を呑んで見守っているのである。』


『支那事変への責任、三国同盟への責任、そしてまた大東亜戦争への責任等々どれ一つとって見ても、若しあの時、近公にして今一段の勇断ありせばの嘆きを抱くものひとり吾人のみに限らないであろう。』


『しかしながら、社会的進化は、絶えず並々ならぬ犠牲を必要とすることを思えば、外よりこの犠牲を求められるに先立って、自発的にこれを提供する場合の歴史的意義こそ一層大きい事実の前に何人も頭を下げねばならないのである。犠牲は避けがたいが、それは務めて最小限に止められるべきであり、それがためには、各自が自発的に、迅速に棄つるべきものを棄つるべきである。明治維新の先ジュウが何よりもこのことを証明している。』

以上抜粋。

『ことに日本人として軽々しく口にすべからざる天皇御退位の問題を無考えに・・・』という箇所は、朝日の編集主幹にこれを書かせた吉田茂の本音が良く表れている。吉田茂は昭和天皇を掌中の玉と操ってこそ、権力の頂点を狙えるのである。


退位は東大総長南原繁も勧めていた。昭和天皇のために命がけで高木八束らと終戦工作に尽力した後、南原は次のような意味の講話をした。今次大戦の道徳的倫理的な責任は天皇にある。それは天皇自身が一番痛感しているはずだ。だから退位した方が気持ちが安んじるだろう。天皇は日本の道徳の体現者である。天皇が退位してこそ我が国の倫理道徳は廃れない。吉田茂は南原繁を『曲学阿民』として唾棄した。正しく『曲学阿世』と言えなかったのだ。孫の麻生太郎も踏襲を『フシュウ』と言った。


それにしても朝日新聞のオトボケはたいしたものだ。自分たちこそ戦争を鼓舞し煽っていた当事者である。いったい戦時中に何を書いていたのか、朝日新聞こそ『自己内心の声を忠実に』聞いて見たらどうなのだ。最後の部分などは、田布施王朝の走狗そのものである。こういうのが朝日新聞の真骨頂なのだろう。


生き残った国民はすでに夫や息子の命を棄てさせられている。彼らは疲弊し飢餓線上にある。それをさらに速やかに棄つるべきを棄てろという。兵役を忌避しフルコースを食べている連中の手先が言いそうなことである。


1946年5月12日、『米よこせ世田谷区民大会』の諸団体が天皇の居城に向った。栄養失調の母親、赤ん坊、子ども、老人も加わっていた。「今や我々は餓えている。昨日も今日もこの瞬間も我々の兄弟はバタバタと栄養失調で倒れている。生き抜かんとする人民大衆はいまや暴動化の一歩手前にある。宮城内の隠匿米を開放せよ」


「諸君、日本歴史はじまって以来、 初めてこの門の中へ俺たち人民の赤旗が進むのだ。俺たちは貧乏人だ。だが秩序正しく、ガッチリ腕を組んで、 胸を高く張って、堂々と行進しようではないか」


「天皇よ、あなたがあなたの言う通り、本当に我々人民大衆と信頼の絆でつながっているなら、聴けわれら人民の声を。」


人民大衆は緊急動議を発令した、「天皇の台所を見せてもらいたい」。宮廷官吏「いくら何でも天皇のはヤバいから、皇族のでいいにしてくれ」。ということで民草は、皇族用の台所と冷蔵庫を見学させてもらうことになった。


当時人民大衆は皇族から民草と呼ばれていた。戦後ずいぶん経っても、三笠宮ェ仁は民草と呼称していた。その民草が皇族用の冷蔵庫を開けると、ブリ、ヒラメ、鯛などの高級魚と牛肉が詰まっていた。食べたことはおろか、姿さえ拝んだことのない高級食材に民草は圧倒された。しかも傍らにある皇族用のゴミ箱には、何と大量の残飯があふれているではないか。だが民草を決定的に打ちのめしたのは、皇族用献立評を見つけてしまったことだった。


皇族用献立表

○お通しもの

平貝 キウリ 海苔 酢の物

○おでん

種物 マグロ ハンペン ツミレ 大根 わさび

○さしみ

マグロ

○からあげ

ヒラメ

○御煮付け

竹の子 ふき みそおでん ねぎ さといも

○他二品


さらに毎日千葉県三里塚の牧場から、

○バター45貫

○豚2頭

○卵1200個

○鶏40羽

○牛肉・牛乳

が届けられていた。


当時、民草は二合一杓の配給米さえ遅配されていたのである・・・。


実はこの『米よこせ世田谷区民デモ』には、裏がある。信じがたいことだが、昭和天皇の策略だったのだ。区民デモのリーダーたちを抱き込んで皇居に突入させ、皇族の冷蔵庫を見させ、皇族たちに注目を集めさせる。それによってごく潰しの皇族たちを整理する。という一石二鳥の作戦である。昭和天皇の脳みそは常時謀略のためにフル回転している。


民草よ想起せよ。父、息子、夫、兄弟の命が、赤紙一枚で使い捨てにされていたことを。少年航空兵がトンボ(練習機)で沖縄の空に飛び立って行ったあの時期、皇太子明仁は軍服も着ないで疎開先の那須でテニスやスキーに興じていた。敗戦のシナリオは予め決定済みである。だから民草は使い捨てにされ、皇太子は無傷で温存されたのだ。


優秀な学徒兵たちにも爆弾を抱えさせ、人間兵器に仕立てて大量殺戮した。田布施村王朝の将来の敵になるかもしれない奴らである。始末しておくに如くはない。第二総軍の頭上に原爆を投下させたのもその事例の一つだ。日米戦争は優秀な民草の種を絶やす絶好の機会なのだ。


今も昔も田布施王朝の敵は日本国民である。田布施王朝はGHQの諜報部を自在に駆使して旧右旋回を謀った。G2のウイロビーの元には、旧右旋回のための旧日本軍参謀たちが集結している。河辺虎四郎(陸軍中将・対ソ戦エキスパート)、辰巳栄一(陸軍中将・吉田のロンドン大使時代以来のコネクション)、下村定(陸軍大臣)、有末精三(陸軍中将・情報畑)、芳仲和太郎(陸軍中将・海外)。吉田茂は辰巳を通じてウイロビーと共謀していた。


辰巳はかの有名なパケナム邸の『夕食会』にも出席している。ニューズ・ウイークの東京支局長パケナムが、ジョン・フォスター・ダレスを主客に、宮中のスポークスマン松平康昌を招いて開いたものである。朝鮮戦争のヤラセを直後に控えた状況で、日本の再軍備が検討されたのだ。この『夕食会』に辰巳が参加しているのである。


ニューズ・ウイーク編集局長ハリー・カーンを通じて、パケナムに『夕食会』を開かせたのはアヴェレル・ハリマンである。吉田はマッカーサーをバイパスして『高度の政治的決定』を仰ぐことが出来た。昭和天皇も松平康昌を通して、ダレスと直接交渉するようになる。御用掛・寺崎英成に託して口頭メッセージを送る。『主権を残すというフィクションのもとに長期に渡って沖縄を占領してほしい』有名な沖縄メッセージである。天皇のこれ以上はないくらい好意的な戦略的メッセージを受けて、米国務省の政策課長は感激した。ジョージ・F・ケナン、冷戦を演出したハリマンの使い走りである。


マッカーサーはこれら『高度の政治的決定』に従う立場にある。近衛文麿はマッカーサーから憲法作成を依頼されていたが、依頼は無かったことになり、戦犯パージを受けた。当時、戦犯を検察局に密告するルートは2つあった。昭和天皇のルートと吉田茂のルートである。昭和天皇による密告は、御用掛・寺崎英成を通じて行われた。


寺崎は国際検察局課長のロイ・モーガンとは旧知の仲である。寺崎が駐米大使館員だった時に、モーガンはFBI捜査課長時代だった。寺崎英成はFBIにも内通していた二重スパイである。日米開戦前夜、寺崎英成の送別の酒宴が設けられ深更にまで及んだ。翌日の出勤が大幅に遅れた奥村勝三は、東京から送られてくる電文を、同僚の助けを拒んで一人で人差し指一本を使って雨だれ式にポツポツ打った。奥村が全てをタイプし終わって野村大使に手渡したころ、大日本帝国連合艦隊は真珠湾をほしいままに蹂躙している真っ最中だった。昭和天皇は真珠湾攻撃騙し討ちの功労者寺崎英成と奥村勝三を嘉し、戦後マッカーサー対談の通訳としてリサイクル活用した。


俗に『東京裁判史観』なるプロパガンダ用語がある。東京裁判は『勝者による復讐裁判』であり戦犯は復讐の犠牲にされたのだという史観である。実のところ東京裁判は、田布施王朝が存続するために催された裁判ショーである。そのために市ヶ谷陸軍省は大改修され、ヤラセにふさわしい舞台に生まれ変わった。昭和天皇と吉田茂が『高度の政治的決定』者の承認を得て、キャステイングを担当した。


マッカーサーはもちろん、裁判長にも検察官にも権限はなかった。頑強に逆らっていたウエッブ裁判長は、本国に呼ばれてお説教された。キーナン検事長は素直にヤラセに協力した。東条が開戦に至る真相を話し始めると急遽裁判を中止し、田中隆吉と松平康昌を使者に立て、巣鴨にぶち込まれている木戸に東条を説得させた。再開された法廷で東条は前言を撤回し、昭和天皇と戦争は無関係であると偽証した。


かくのごとく東条は昭和天皇命の単細胞だったが、近衛は決定的に違った。近衛は五摂家の筆頭の家系に生まれついたというだけでなく、すでに少年期に父・篤麿から田布施村王朝の秘密を知らされていた。五摂家も始祖である藤原鎌足までさかのぼれば、同じような怪しい素性なのである。近衛文麿は青年のころから栄爵拝辞を考え、明治天皇の拝謁を拒絶した。


後年、政治の表舞台に引きずり出され内閣首班になってからも、直立不動で硬直し上奏する臣民の中にあって、ひとり近衛だけはゆったりとイスにすわり、その長い足を組んで天皇と対等に話した。彼は田布施村王朝の天敵である。昭和天皇は戦前にも天敵近衛の暗殺を試みている。辻政信を通じて児玉誉士夫に近衛爆破命令を下した。児玉は近衛を殺すのが偲びなかったので未遂に終わった。


近衛文麿は文隆をソ連に抑留され、自身は戦犯に指名されいよいよ覚悟を決めた。彼は真実を話すと明言した。出廷したら本当に真実を話しただろう。近衛はすでに10月22日、田布施王朝を完全否定する新憲法を奉答、同時に栄爵拝辞し敢然と戦闘状態に入っている。近衛が命運を賭して奉答した近衛改憲草案とは、どのようなものだったのか。


近衛忠大『近衛家の太平洋戦争』NHK「真珠湾への道」取材班より以下抜粋する。

『肝心の近衛案は新聞に報道されるなどしたものの、その後は行方不明となってしまった。それが1961年になって内閣官房参事官室の金庫から偶然発見された。佐藤達夫氏が内容を確認し、初めて近衛案の全貌が明らかになった。近衛案は奉答された後に幣原首相に「お下げ渡し」され、やがて封筒に密封されて金庫の奥にしまわれてそまったのだった。幣原首相は当然ながらこの近衛案を見て検討しただろう。しかし、結局のところ近衛案は幣原内閣の改憲草案にはほとんど影響を与えなかったといわれているから、金庫の奥に「お蔵入り」という「冷遇」もうなずかれよう。』


幣原喜重郎はさぞかし仰天して、直ちに吉田茂と昭和天皇に報告しただろう。しかし金庫なんぞに後生大事にしまいこんで、焼却しなかったのはくれぐれも迂闊であった。近衛が何をしようとしていたかの歴然とした証拠を白日のもとに晒してしまった。

○天皇の統治権行使は万民の翼賛に依る。

○天皇大権を制限する。

○議会は自らの解散提議権を持つ。

○緊急命令は事前に憲法事項審議会にかける

○宣戦、講和、条約締結には議会か、緊急の場合は憲法事項審議会にかける。

○他の大権事項も議会の協賛を必要とする。

○軍の統帥及び編成も国務に属する。

○臣民の自由を尊重する。

○非常大権(戒厳宣告)の削除を考究する。

○国務大臣の地位を明確化し、議会も天皇同様国務大臣の責任を問う。

○議会の予算審議権を尊重する。

○皇室経費も議会の権限とする。

○予算審議権の衆議院優位。

○改憲発議は議会もできる。国民投票も考究する。

近衛が振り捨てた栄爵は、田布施村王朝の瞞着の象徴である。田布施王朝の栄爵は、版籍奉還と廃藩置県で従来の公家・諸侯を廃止して公家と武家の区別をなくし、まとめて華族とした上で与えられたものである。田布施村王朝はここに身内や仲間をすべり込ませ、彼らにも公・侯・伯・子・男の爵位を授けた。白洲正子が伯爵令嬢である仕掛けはここにある。明治維新とともにウンカのように湧いて出てきた皇族も似たようなものである。

『侯爵の地位や華族制度そのものにまで疑問を投げかけるようになった近衛は、栄爵を拝辞して哲学を本気で専攻し、学者になろうと考えたりもしていた。とりわけ周囲を困惑させたのは、宮中に対して彼が率直になれなかったところだった。

それは明治43年7月8日のことである。明治天皇が本郷の前田家へ行幸する運びとなった。前田家では光栄のきわみであり、送迎には前田家だけでなく姻戚関係にある近衛家としても参列するのが礼儀だった。近衛の実母、継母ともに前田家の出である。兄弟たちは皆揃って行ったが近衛だけは行かなかった。遅れて十日、同じく皇后の行啓があったが、これにも参列しなかった。

さらに翌年44年10月20日、この日近衛は20歳を迎え天皇から杯を賜り、従五位に叙せられることになっていた。当然、宮中に参内しなければならない。彼は何日か前から日光へ行っており、帰郷するよう催促を受け前日東京へ帰った。しかし、馬鹿馬鹿しいと考えたか近衛は遂に参内しなかった。』(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』より)


工藤美代子の前掲書には、近衛文麿の父・篤麿の臨終の模様も詳しく書かれている。篤麿は牛や馬にしか存在しない菌によって体中に腫物ができ、手術で切り刻まれた末、『心臓麻痺』で急死している。享年41才。日露戦争開戦の40日前のことである。この篤麿の急死には西園寺公望が関与していると私は考えている。


鬼塚英昭氏によると、西園寺公は若いころフランスに遊学していた時、女関係のゴタゴタでヒドイ目に合わされ、それを脅しのタネにされてコンプラドールになったようである。西園寺公望は田布施村王朝の協賛メンバーでもある。近衛文麿を政界に引きずり出す役目を仰せつかった西園寺は、しかし悪人になりきれなかったのだろう。暴走する日本を憂いた西園寺は、日米開戦前夜に排除されている。西園寺暗殺には養子の八郎が関与していると思われる。


近衛篤麿、文麿、文隆も抹殺されねばならなかった。文麿はそのために首相に担ぎ出され、文隆には尾崎秀実とゾルゲが近づけられた。近衛内閣発足の一ヵ月後に盧溝橋事件が勃発したのは偶然ではない。最初から近衛を日中戦争の泥沼の中に放り込む筋書きである。息子の文隆多も、首相秘書官を務めたにもかかわらず異例の召集を受けた。しかも予備役に編入された直後に、またも臨時招集という理由で呼び戻された。文隆を敗戦まで満州にくぎ付けにし、ソ連に抑留させるためである。


昭和天皇は文隆を罠にかけるためには、義理の姪を利用することさえ辞さなかった。天皇の命令で皇后良子(ながこ)の姪・大谷正子と文隆は見合い結婚する。これは天皇命令であったあろう。媒酌人を務めたは木戸幸一は、文隆と正子の結婚式が挙げられた満州くんだりまで出かけている。父親である近衛文麿は、多忙を理由に欠席している。サイパンが陥落し敗戦色濃厚な時期、正子は満州とソ連との国境の近くに赴き、文隆と短いが幸福な新婚生活を送ったのだ。この正子のひたむきな思いが、文隆を陥れる罠として使われるのである。敗戦の混乱状況に正子を囮に使って、文隆を捕まえたのである。ソ連に抑留された文隆は、近衛上奏文の反共的な内容のせいで禁固25年を言い渡される。


『近衛上奏文』の仕掛け人は吉田茂である。吉田は近衛に上奏させるために、歴代首相をダシに使って参内の機会をつくった。『近衛上奏文』は徹頭徹尾、田布施村王朝の存続のテーマで貫かれている。全文これ昭和天皇と吉田茂のシナリオを反映したものである。田布施村王朝の真実を告げようとしていた近衛が、こんなアホくさい上奏をすることは絶対にない。世上『近衛上奏文』として伝えられるものは、改竄された資料である。昭和天皇や現場証言者のセリフも全て偽証である。近衛文麿の女婿であり秘書である細川護貞さえ、偽証に協力している。彼の日記にも記載された“近衛直筆による上奏文の写し”というのはガセだ。おそらく本物はどこかに保存されている。近いうちに必ず出てくるだろう。


吉田茂と昭和天皇に追い詰められた近衛は、『僕は運命の子だよ』と通隆に呟いた。私は近衛文麿は『藁の女』だと思う。近衛は『藁の女』という推理小説の主人公と同じ運命をたどった。破滅に至る罠を予め仕掛けられた上で、完全犯罪に利用されたのだ。吉田茂と昭和天皇が仕組んだ完全犯罪である。


近衛文隆は塁が及ばないように家族に何も知らせていないから、家族は松本と牛場を信頼して後事を託した。近衛は松本と牛場が来た時点で覚悟を決めただろう。親孝行をろくにしなかったことを詫びた通隆に、「親孝行っていったい何だい?」とそっけなく問い返している。お前の親はもうすぐ殺される。お前の兄も生きては帰ってこない。親孝行っていったい何だい?


一人になった近衛に、松本が青酸カリを服毒するよう強要した。しかし近衛は拒んだ。そこで吉田茂の秘密工作部隊の登場である。松本と牛場の手引きにより家屋に浸入して待機していた彼らは、抵抗する近衛を取り押さえ静脈注射をして薬殺した。近衛の死に顔は安らかだったと松本が回想している。『自殺しようとする人間の隣の部屋で寝たのは、後にも先にもあれがたった一度きりだった。死に顔が安らかなのが何よりだった』と。


GHQはろくな検死もせず、青酸カリ服毒自殺だと認定した。服毒自殺の状況証拠を捏造するために、松本以下共犯者全員が口裏を合わせた。後藤隆之助は近衛内閣の書記官長だった人物である。山本有三は『路傍の石』を書いた作家である。両者とも近衛とは一高以来の友人である。この二人が近衛暗殺のスタンド・プレーヤーを演じたのだ。近衛文麿は孤独だっただろう。


松本重治は晩年になるにつれ、偽証をくり返し聞き書きさせている。死んだ後の自己保身も忘れないセコイ奴だった。往々にして犯人は凶器の入手経路から割り出されるという。だから松本はしつこいくらい青酸カリの入手経路を脚色している。また犯人は犯行現場に戻るというのが通説らしい。なるほど吉田茂は家人に頼んで近衛の寝室に宿泊している。吉田はさぞかし満足感にひたって眠りについたことだろう。


白洲次郎は文隆の抹殺工作にも暗躍した。白洲次郎はOSSのジュームズ・ウオーバーグと秘密のルートを持っていた。ジミー(ジェイムズ)・ウオーバーグはポール・ウオーバーグの長男。白洲次郎はポールの長兄アビーの庶子。ジミーと次郎は従兄弟同士である。(ただし白洲はアビーが父親であることまでは分らなかったと思われる。弟たちは長兄アビーを、フロイトの怪しげな薬物投与で早死にさせているようだ)


白洲次郎は英米の諜報機関と深い関係にある。渡英の際はニューヨークにしばしば出没している。文隆はプリンストン大学留学時代にニューヨークに足を伸ばして遊んでいたが、しばしば白洲次郎が出没していたこと、いかがわしいユダヤ人ジャーナリストたちが出入りする酒場に自分を誘ったこと、そこで共産スパイの未亡人とFBIの間諜に近づきになったことなどを、ソ連抑留時代に周囲の者にせがまれて語っている。白洲次郎が英米の諜報機関と深く繋がる人物であること、ニューヨーク時代から文隆にまとわりついていたことが分かる。


白洲次郎は吉田茂に命じられて、御前会議クラスの国家機密情報をジミー・ウオーバーグに流していたが、ケンブリッジ時代に次郎を取りこんだのは、ウオーバーグ本家のジークムントである。ジークムントは生涯にわたって、次郎と個人的親交を結んだと言われている。ジークムント・ウオーバーグは、スイスに所有している製薬会社にLSDを製造させ、ジミー・ウオーバーグはLSDを使ったマインド・コントロールをプログラミングした。OSSの後身CIAで実験されていた悪名高きMKウルトラである。白洲次郎はジークムントに取り込まれる際、このMKウルトラを受けていた可能性が高い。


自殺者や廃人が続出したMKウルトラを作成したジミーは、タビストック研究所にも資金提供しフロイトの理念を実践させた。(アビーはフロイトの治療を受けているがどうも実験台にされたようだ)このジミーの父親が、ポール・ウオーバーグ。ポールはドイツ諜報機関のトップとしてアメリカに渡りFRBを創設した。これは何を意味するのか。英米諜報機関は、ドイツ諜報機関の支配下にあるということではないのか。


OSSはルーズヴェルト大統領の命令で、ウイリアム・ドノヴァンが創設したことになっているが、実のところアヴェレル・ハリマンが血族のドノヴァンに作らせたものである。ジミーはOSSに入いると、ドノヴァンから可愛がられ特別な任務を与えられた。一方アヴェレルはソ連に利権を開拓し、ジミーはそれにも参入していた。


OSSはソ連情報部にせっせと機密情報を流していた組織である。マッカーサーも、OSSはナチスより危険だと認識している。ジミー・ウオーバーグはそういうOSSを体現する人物である。経済活動においても諜報活動おいても、ポールの血筋を引いた一流のやり手なのだ。白洲次郎はこういう男とパイプを持っていたのである。ソ連に抑留された近衛文隆の命は風前のともし火であった。


吉田茂は近衛文麿抹殺を完了すると、息子の方はゆっくり料理することにした。父子が連続して死んでは不審を抱く向きもあるだろう。文隆をじわじわと虐待した。文隆は白洲や松本と違って徴兵を忌避せず、1940年から敗戦まで兵役を務めた男だ。生かしておいては親父の復讐をすることは必定である。吉田茂が政権にある間、文隆は収容所をたらい回しされていた。文隆ほど引きずり回された人物は他にいないという。11年後、吉田は鳩山一郎が政権を取りソ連との国交回復調印に松本重治を同行させ、文隆の始末してくるよう命じた。松本重治は近衛父子抹殺に立ち会った重要参考人物である。


山本五十六と近衛父子抹殺工作の総指揮を執った吉田茂は、伊藤博文の再来である。伊藤博文は、孝明天皇・睦仁父子を抹殺しクーデターを成就させた、田布施王朝の始祖である。貧困のどん底にあった田布施村ゲットーの人々は、解放されるやいなや保守反動に突っ走った。クーデターは山間の不毛な地に押し込められていた彼らを、広大で肥沃な関東平野にある将軍の居城へといざなった。大室虎之祐は千代田城のあまりの広さと豪華さに驚き、歓声を上げて走り回った。彼らは新しいゲットーに日本の粋を集め、これでもかと豪華絢爛な装飾を施した。それはお召列車の過剰装飾にまで及んだ。


ムシロ一枚で外気を防ぐようなどん底の生家に生まれ育った人々は、権力の座に座るとある者は個人財閥となり、ある者は広大な別邸を複数所有した。彼らは広大な大名屋敷をより取り見取りで物色した。それらは華族令によって伯爵邸や男爵邸と呼ばれるようになった。そして彼らは食い詰めた武士や元旗本の見目良い娘たちを、千代田城に連れてきて慰み者にした。


大室寅之祐の息子の大正天皇の妃がここかから誕生した。貞明皇后はこの『千代田遊郭』に騙されて連れて来られ、ひどい目に遭わされて以来、田布施村ゲットーを不倶戴天の敵として憎悪した。彼女は西園寺八郎に無体なことをされたときに悟った。こいつらにとって自分は道具なのだ。もうこいつらをやるか、自分がやられるかそのどちらかしかない。そして彼女は第二の戊辰戦争を画策する。結果、敗れた貞明皇后は、戦後間もなく亡くなっている。昭和天皇のデス・ノートに、『謀反人の朱貞明は戦後に心臓麻痺で急逝する』と書かれていたのである。『朴重徳は秘密財産隠匿工作の後、獄中死』とも書かれていただろう。


『鹿児島にも田布施村があった。現在は加世田(かせだ)市金峰(きんぽう)町というけれども、ここは昔田布施村といった。小泉純一郎の父、小泉純也はこの地の出身である。彼は状況して小泉又二郎の一人娘・芳江と結婚して小泉家の婿養子となって小泉姓を名乗り、義父の地盤を継いで代議士となった。小泉純也は朝鮮の姓を持つが、この結婚により日本国籍を得た。長州の田布施と薩摩の田布施、直近二台の首相が同じ田布施一族の末裔なのだが、これは偶然ではないだろう。』(鬼塚英昭氏『日本のいちばん醜い日』より)


鬼塚氏によると、鹿児島には田布施村のほかに遺棄された朝鮮の人々の村があるという。苗代川というその村に、東郷重徳は朴茂徳として生まれ、5歳のときから東郷重徳を名乗るようになったという。

『私はどうして終戦時の外相、東郷重徳をここに登場させたのか。その理由は三つある。その一つは、あの明治10年(西南戦争があった)のあわただしさの中で、アーネスト・サトウがパークスの命令とはいえ、朝鮮人の被差別部落の調査報告書を作成しているということである。サトウは日本の国土の中に朝鮮系の人々が多数いて、差別されているのを見た。西南戦争は被差別部落の問題が大きく影を落とした戦いである。

もうひとつは、終戦内閣にどうして東郷重徳が外相として迎えられたか、というのが二つ目の理由である。それは、終戦にあたり、昭和天皇が最も信頼できる人物を内閣に入れたことにある。東郷重徳は、明治天皇=大室寅之祐と同じ出自を持つと考えられたのではなかったか。

さらにもう一つ、東郷重徳を起用した理由がある。それは天皇の財宝を隠ぺいする役を東郷重徳に命じた点にある。天皇はいちばん大事なことをするのに、日本人よりも朝鮮人を信用したといえる。』(鬼塚氏の前掲書より)

鬼塚氏は8月14日〜15日までの内閣を見るとき、大分県出身の大臣や軍人の多さに注意を喚起している。阿南惟幾(陸軍大臣)、梅津美治朗(陸軍参謀総長)、豊田副武(海軍軍令部総長)、重光葵、池田純久らである。大分県の国東半島沿岸部と田布施や曽根が昔から盛んに交流し、その交流の中から血族関係が生まれ田布施ゲットーの底辺を広げていった。

『天皇制を悠久の昔からのものと考えることは出来ない。天皇家と天皇制はひとつにして見るべきではなかろう。天皇制は近代百年の政治的創作で、新しいわれわれと同時代のものである。ある日、総理大臣吉田茂が、突如昔のように天皇に対して臣茂と言いはじめ、人びとを驚かしたが、昭和のはじめ、わたしの子どもの頃には、昼間の銭湯には、伊藤博文がはじめて臣博文とやらかした時のことを、覚えている老人たちが集まっていた。禁裡様から天子様、天皇陛下へ移り変わったことをかれらは知っていて、天皇ファンが多かったが、大した出世をしたものよ、と感心されてもいた。一代の成り上がり者明治天皇を偉いとほめ、皇子の大正天皇の精神異常のエピソードをさまざまに公言する老人たちの寄合は、数年後にはもう銭湯からも姿を消した。安政・万延・文久生まれが急速にいなくなったからである』(益田勝美『天皇史の一面』を鬼塚氏の前掲書より孫引き)

貞明皇后は田布施ゲットーが苦心して創作した体制を、本気でぶっ壊そうとした最悪の強敵である。2・26は貞明皇后が導火線を引き発火させた。彼女は最愛の息子秩父宮に、田布施ゲットーに滅ぼされた会津藩主の孫娘・松平勢津子(本名は貞明と同じ節子)を娶わせた。これで松平容保の四男・松平恒雄が秩父宮の岳父になった。そうして貞明皇后は松平恒雄に辰戦争の雪辱戦を開始させたのである。これに山本五十六と近衛文麿が陰で支援していた。


しかし肝心の秩父宮が途中でビビって昭和天皇側に寝返った。行き場を失った青年将校たちに、秩父宮は使者を遣わして「こうなった以上は、お前たちは死に方をきれいにしろ」と命じさせた。貞明皇后の血を分けた3人の息子たちはそろって意気地なしの小者である。彼らは束になってかかっても昭和天皇に太刀打ちできない。昭和天皇は田布施ゲットーが生んだ空前絶後の怪物である。吉田茂はこの怪物を掌中の玉として操った化け物である。


1919年パリ平和会議は、吉田茂と近衛文麿の運命の岐路であった。アメリカ全権大使のハウス大佐の傍らにはグルー特命大使もいた。ハウス大佐はシナリオの主役を選出する権利を持つ人間である。


『12才のときにエドワード・マンデル・ハウスは脊椎髄膜炎に冒され、のちにはさらに熱射病で不具になった。彼は半病人となり、病気は彼を風変わりな東洋人のような風貌にしてしまった。どのような職業にも就かなかったが、父の資金を使ってテキサス政界の黒幕となり、1893年から1911年までのあいだに5人の知事を当選させることに成功した。1911年、ハウスはウイルソンを支援しはじめ、大統領候補の指名権を確実なものとするために決定的なテキサスの代議員団を彼へと投入した。ホワイトハウスへ行きウイルソンに会って3万5000ドル渡した、とハウスはヴィーレック(『歴史に残るもっとも奇妙な関係−ウッドロー・ウイルソンとハウス大佐』の著書)に語った。この金額は、バーナード・バルークがウイルソンに5万ドルを与えるまで超えられることはなかった。』(ユースタス・マリンズ『民間が所有する中央銀行』より)

このようなハウス大佐は、実はポール・ウオーバーグの代理人であった。


『1912年12月19日、私は通過改革にかんしてポール・ウオーバーグと電話で話をした。私はワシントンへ旅行し、そこで作業手順を整えるために行ったことを話した。上院議員と下院議員はウオーバーグが希望することを行うのを切望しているように見え、当選した大統領ウイルソンはその問題にかんして変更なしに行うことを考えているようだと、私はウオーバーに伝えた。』(マリンズ氏の前掲書の中に引用されている『ハウス大佐の親書』より)

太田龍が監訳したユースタス・マリンズの複数の著書を読むと、ポール・ウオーバーグがドイツ諜報機関のトップとしてFRBを創設し、そのFRBによって必要な時にドルを創造し、世界大戦を創出する主要な役割を果たしていたことが見えてくる。ポールがFRBを創設する以前には、米国の債務はほとんど存在しなかった。ロンドン・シテイ―もFRBが創造した巨額なドル取引によって、初めて国際金融同盟足り得たのである。FRBによって、『アメリカの独立はひっそりと、だがどうにもならない状態で英国の勢力範囲に奪回』された。


ウイルソン大統領が主催した1919年パリ平和会議で、第二次世界大戦のシナリオが検討された。そこにはウイルソンの顧問ハウス大佐と書記官グルーがいた。後の駐日大使ジョセフ・グルーである。ハウス大佐はすでに、若き海軍次官フランクリン・D・ルーズヴェルトを見出している。当時ルーズヴェルトはアポロンのようなスポーツ万能の美青年だった。ハウス大佐は、ルーズヴェルトが小児麻痺に罹患して下半身不随になってから、ニューヨーク州知事にそして大統領へと押し上げる。


ハウス大佐を背後で動かしていたのはウオーバーグである。フーヴァー大統領もポール・ウオーバーグの力で大統領になった。ポールはフーヴァーの選挙資金を賄って政権を取らせると、フーヴァー・モラトリアム(ドイツ債務繰り延べ)を実施させた。世界を動かしていたのはロスチャイルド家の五人兄弟ではなく、ウオーバーグ家の五人兄弟なのかもしれない。世界五人会議もあるいは見せかけかもしれない。20世紀のファウストは表舞台で活躍していたアヴェレル・ハリマンではなく、諜報コネクションを持っていたヴィンセント・アスターかもしれない。


アヴェレル・ハリマンは死後、全ての財産を回収されている。再婚相手のパメラ・ハリマンが回収したのである。彼女はロスチャイルドと組んでいる。アヴェレルとパメラは元不倫関係にあった。ハリマンが第二次世界大戦のヤラセ工作に奔走していた頃、パメラはチャーチルの息子ランドルフの嫁であった。二人の不倫関係は短期日で終わりを告げる。パメラはほどなくランドルフと離婚してフランスに渡り、社交界で華やかな浮名を流したが、ギイ・ド・ロスチャイルドに取り込まれた。


その後30年の時を隔てて高齢のアヴェレルと再婚した彼女は、アヴェレルの死後、財産強奪に成功した。これを幇助したのが、ヒラリー・クリントンである。ヒラリーは駆け出しのころでさえ全米弁護士トップ100人の中に入る精鋭で、ニクソン大統領の弾劾裁判に若手弁護士として選ばれている。強奪に成功したパメラはビル・クリントンのパトロネスとなる。クリントンがウインスロップ・ロックフェラーの落胤であり、ローズ奨学金を受けたバリバリのエージェントであることは周知の通りである。


ハウス大佐の続きに戻る。


『連邦準備制度は、1914年に業務を開始し、連合国に250億ドルの貸付を行うようアメリカ国民に強要した。かなりの利息がニューヨークの銀行家たちに支払われたが、貸付金は返済されなかった。アメリカ国民は狩り立てられ、ドイツ国民と戦争を起したが、われわれにはドイツ国民に対して政治的あるいは経済的に反目する理由がまったく思い及ばなかった。あまつさえ合衆国はドイツ人で構成される世界最大の国家となっていた。また半分近くの市民がドイツ出身であり、わずかな票差でドイツ語を国語とする議案を否決したこともあったのである。』(ユースタス・マリンズ『民間が所有する中央銀行』より)


ポールの操り人形だったハウス大佐は、『半人間』であった。ハウス大佐が操り人形に選んだルーズヴェルトも『半人間』であった。ルーヴェルトが選んだ最側近も『半人間』であった。みんな大病を患い異様な風貌をしていた。ハウス大佐には、日本からも『半人間』を選出する任務があった。


彼は候補者をパリ平和会議に出席させるよう、旧知の仲の牧野伸顕に依頼した。牧野は女婿の吉田茂を随行し、西園寺公望には近衛文麿を随行させるように取り計らった。西園寺公望はずいぶんシブったという。彼はフランスに遊学していた若いころ、女関係の罠に引っかかってヒドイ目に遭わされ、それを脅しのタネに使われてコンプラドールにされた人間である。牧野に説得されてパリ平和会議日本全権として出席したが、会議に出席する以外はホテルから一歩も出なかったという。当時の情景が頭の中でフラッシュバックしていたのかも知れない。さぞかし怖かっただろう。


さてハウス大佐はパリで近衛文麿と吉田茂を面通しした。そして1930年代、再度アメリカで両人と面談し再確認している。『半人間』の資質を持ち合わせているのは吉田茂であると。吉田茂は『半人間』どころか人非人であった。


『外務省の裏街道に追いやられていた吉田は、ここに来て表舞台への飛躍を画策した。パリ講和会議が間もなく開催され、牧野伸顕と西園寺公望の名が全権大使として取りざたされている情報を知った彼は、岳父の力を借りてでも外交の表舞台に立つ腹を決めた。雪子と結婚してから岳父の牧野に一度たりとも猟官運動のようなことをしたためしはなかった。寺内首相からの秘書官の誘いをも蹴った男だ。それが吉田の意地でもあったし、自負でもあった。だが、ここにきてはじめたこうした内容の手紙を書こうとした心境を自分で書き残している。

「パリ会議と聞いては、たとえ外交官の末端とはいいながら、これに列席し得るのは、千載一遇の好機ともいうべきであるから、さすがの私もこの時は猟官運動をせざるを得なかったのである」(「回想十年」第四巻)

パリ講和会議のメンバーを眺めれば、いかにその後の日本外交の主軸を揃えて臨んでいたかがよく分る。このパリで吉田と近衛はなじめての挨拶を交わした。タフなネゴシエーターとしてアメリカ側の若き随行員だったジョン・フォスター・ダレスと顔を合わせたことが、吉田の最大の収穫となったかもしれない。吉田はまもなく41歳、ダレスは31歳であった。』(工藤美代子『カクヤクたる反骨 吉田茂』より)


ハウス大佐のお眼鏡にかなった吉田茂の元へ、エージェントが送り込まれる。ジョセフ・グルー駐日大使である。グルーの駐日大使着任は1932年6月6日、ノルマンデイー上陸と同じ6月6日に、モルガン財閥の刺客を日本に上陸させたというシャレなのかもしれない。ザ・オーダーはシナリオの細部にまでこだわり、舞台設定にも手を抜かないという。彼らはマメで凝り性なのである。


果たしてグルーの妻アリスは、黒船に乗って幕末日本に恫喝外交に来たペリー提督の子孫である。彼女はペリー提督の兄の曾孫で、ベンジャミン・フランクリンの直系の子孫でもある。しかも父親トマス・サージャントペリーは慶応義塾の英文学の教授だったので、子どものころ一緒に来日していたアリスは日本語ぺらぺらである。そういう妻を同伴したグルーの日本上陸には、まさにノルマンデイー上陸の観があった。


上陸したグルーに早速接近してきたのが、モルガン商会と懇意な樺山愛輔である。


『天皇謁見が14日に決まると、樺山愛輔伯爵がそれに先立って会いたいとグルーに面会を申し出てきた。深い親交を結ぶことになる二人の最初の出会いである。薩摩の樺山資紀の息子である樺山愛輔は、宮中関係にも通じており、また、グルーの出身地であるボストンを州都とするマサチューセッツ州内陸にある名門アマースト大学で学んで英語も堪能で(注 後のクーリッジ大統領とモルガン商会のラモントは同級生)、アメリカの事情にも通じていた。』(廣部泉『真の日本の友 グルー』ミネルヴァ書房より)


しかしグルーにとって最重要人物は牧野でも樺山でもない。ハウス大佐のお眼鏡にかなった吉田茂である。その吉田は戦後『回想十年』の中で、グルーに『日本の真の友』という賛辞を捧げている。吉田茂とグルーはヤラセのシナリオの『真の友』となったのだ。


『1939年2月末、駐英大使を辞して帰国した吉田茂はたびたびグルーを訪問するようになっていた。日米関係が悪化してから、多くの日本人がグルーを初めとするアメリカ人と一緒にいるのを見られるのを避けるようになっていたが、吉田は、樺山愛輔の娘・正子の夫、白洲次郎とともにグルーを誘ってよくゴルフに出かけた。

吉田茂との付き合いは家族ぐるみとなり、グルーの妻アリスはよく吉田の雪子夫人に誘われて歌舞伎に出かけた。牧野伸顕の長女として生まれた雪子は、父牧野がイタリヤやオールトリア公使時代に同行し、欧米の社交術を学んでおり、また、努力家で英語を初めとする外国語も相当なものであった。グルーは雪子のことを「アリスの日本人で最も親しい友人」と日記にしるしている。』(廣部泉前掲書より)

しかしグルーの回想記には、『真の友』としての吉田茂は全削除されている。廣部泉は『日本の真の友』を副題にしながら、その辺の事情には触れない。触れたらプロパガンダが崩壊するからである。廣井泉の後書きには次のようにある。

『本書執筆中に東日本大震災が起きた。日ごとに明らかになる震災の甚大さに呆然としていたとき、グルーの言葉を思い出した。戦中グルーは全米で講演をする際、日本人はどれほど困難な戦争を前にしても「道徳的にも心理的にも経済的にも倒れない」「ベルトの穴を一つきつく締め直して、食事を米一杯から半杯に減らし、最後の最後まで戦うだろう』と日本人の強靭さを訴えつづけていた。むろん、これは戦争における日本人観である。しかし、グルーが見出した日本の強さは、その軍事力や技術力ではなく、日本国民の精神力であった。震災からの復興というとてつもない大きな戦いを前にして、敵国人にもかかわらず「日本の真の友」であった親日家グルーが最後まで信じ続けた日本人の計り知れない底力がいまこそ発揮されることを、我々日本人自身が信じるべき時がきたのだと私は感じている。』

「日本の真の友」を演じ続けたグルーが、その実モルガンのエージェントであり、ヨハンセン・グループとステイムソンの間に立って原爆投下に協力したことを考えると、廣部のこの後書きはブラック・ジョークを超えてもはやシュールである。


副島カルトビジネスの右腕・中田安彦は、自分のブログを利用してプロパガンダ本を宣伝する一方、中田君の見解は岩波文化人には理解できないと言って、岩波をバカにしている。しかし岩波には往々にして掘り出しものがある。グルーの日記の原本と『滞日十年』を比較して、吉田茂の暗躍を検証した素晴らしい本がある。

中村政則『象徴天皇制への道−米国大使グルーとその周辺』岩波新書より以下抜粋。

『序 「滞日十年」の成立事情』


『1979年3月から80年12月まで、私は米国ハーバード大学東アジア研究センターに籍をおき、「1930、40年代のアメリカの対日認識」をテーマに留学生活を送った。研究テー眼の関係からしても当然とはいえ、私はこのグルーの存在には強い関心をよせた。さいわいハーバード大学には稀こう書・貴重資料のコレクションで、世界的にも名高いホートン・ライブラリーがあり、グルー文書もその一つとして所蔵されている。グルー文書は大別すると、日記・手紙・演説・会談・電文類・新聞雑誌切抜き・個人メモ・断簡などに分類・整理されており、個人文書としては第一級の質量を誇っている。なかでもグルー日記と手紙はグルーの日本観、対日政策の特徴などを知るうえで最も貴重な資料であり、これを抜きにしてグルーを語ることはできない。』

前述の廣部泉も東大教養学部を卒業した後、ハーバード大学大学院博士課程を修し、歴史学のPh.D.を取得している。『日本の真の友 グルー』の前書きに、”『滞在十年』に収録されていない箇所については日記原本から訳出した”とはっきり書いてあるように、ハーバード大学で原本に目を通していたお方なのだ。そういう立場にありながら廣部泉はプロパガンダ本を書くことを選択した。廣部泉のグルー評伝は10月20日に第2刷が出版され、最新刊として公共の図書館に並べられている。ネット対策の一環として、田布施王朝のプロパガンダ本が公共図書館を席捲しているのを感ずる。彼らはいよいよは人海作戦に出たもようである。

『グルー文書の中で最も重要な日記と手紙を検討するにあたって、まず注意しなければならないことがある。第一は公刊された”Ten Years in Japan”とその邦訳本『滞日十年』は、グルー日記の原本のすべてをふくむものではなく、その分量は、原本のわずか十分の一にしかすぎないという事実である。約十分の九を、なんらかの事情でグルーは公表しなかったのだ。この点についてグルーは『滞日十年』の序言で次のように書いている。「・・・これは内密な、非公式な日記なので、私は多数の同僚、その他の個人の名前を発表することをさし控えねばならなかった。名前が知られるとそれらの人々が迷惑したり一身上の後累を被るようなことが起こるかもしれないからである」。』

『事実、日記原本と公刊本とを比較すると、グルーが実に多くの事実をスペースの関係で削除したり、あるいは意図的に隠したりしたことがわかる。グルーは何を公表し、何を隠したのか。とまれグルーは、先の序言引用につづけて、「しかし主要な物語は、この種の省略によって損なわれてはいない」と述べているが、それを額面どおりに受け取ることは危険だ。これが、第一に指摘しなければならない点である。第二に、われわれは「滞日十年」の刊行目的と刊行の時期に細心の注意をはらわなければならない。グルー日記を公刊する動きは、グルー帰国後まもなく始まったようだ。グルーは、このころ国務省顧問という公的な地位にあり、国家機密に属する事項をそのままの形で公表することは許されていない。さらに43年7月10日付けのサイモン社あての手紙を見ると、「滞日十年」を出すにあたって、グルーが1ページ1ページ注意深く原稿の削除、訂正をおこなっていることがわかる。』

『1944年1月15日、アメリカ国務省に極東局が設置され、中国派のスタンレー・ホーンベックが局長に就任する。しかし、ホーンベックは三ヶ月半で辞任、かわってグルーが極東局長のポストについた。いまやグルーを先頭とする日本派の発言権は強まり、彼らは国務省の対日政策に大きな影響力を行使するようになった。グルーの最大の関心事は、日本の降伏条件をいかに規定し、それをいかに日本政府に受諾させるかに移っていた。「日本版のために」を引用すると、「1944年合衆国での本書の出版は、二重の目的を持っていた。その一つは、1941年の戦争勃発を導くにいたった日本の趨勢と各方面の進展を明瞭にすることであり、その二は、米国の公衆に日本と日本人のより深く、精しい心象をあたえようと務めたことであった」とグルーは記している。「滞日十年」が出版されると、それは大きな反響をまきおこした。なぜならば、同書は個人日記の範囲を超えて、まさにアメリカの、来るベき対日政策の基本、とくに天皇問題に触れるテーマを提出していたからである。』


『X 穏健派とは何か−牧野伸顕・樺山愛輔・吉田茂−』


『グルーの外交スタイルは、ひとこといってしまえば宮廷外交であった。東京滞在中、彼は日本の著名人をアメリカ大使館での晩餐会に招待したり、逆に、日本人の友人から夕食会や葬儀に呼ばれている。グルー日記に登場するそれらの人々を列記すると、牧野伸顕、樺山愛輔、近衛文麿、松平恒雄、広田弘毅、吉田茂、出渕勝次、幣原喜重郎、重光葵、新渡戸稲造などの名前をあげることができる。そのほかに、三井・住友などの財閥系の指導的実業家や海軍将官がグルーとの接触を保っていた。なかでも重要な情報源は、宮中側近グループであった。彼らはいずれも欧米に留学あるいは勤務した経験があり、品位と威厳をそなえ、謙虚で強要の高い紳士であるというのがグルーの穏健派イメージであった。』

『グルー日記を読むかぎり、彼が穏健派のなかでも最大の信頼を寄せていたのは、牧野伸顕(1861−1949年)であった。「滞日十年」には、牧野に対する賞賛の言葉がしばしば出てくる。グルーは天皇を穏健派の頂点に立つ人物と見ていた。牧野伸顕と並んで、グルーの信頼をかちえていたのは樺山愛輔(1865−1953年)である。当時、樺山はいく人かの日本人にとってあまりにも親米的すぎるといわれ、またアメリカ外交官からは「国際的お愛想屋」とか、「救いようのないおせっかい屋」と評されていたという。グルーは、そんな評判を知っていたが、むしろ黙認していた。樺山はアメリカ大使館にひんぱんに出入りし、グルーのよき情報源となり、また宮中派との接触を仲介したのである。』

『グルーが吉田茂の名前を徹頭徹尾隠そうとしたことはのちに述べるが、樺山もまたグルーにとって秘匿を要する人物であった。なぜなら、樺山は、グルーと宮中派をつなぐ仲介人と自他ともに任じており、事実、機密を要する情報あるいは高度な政治判断をくだすに必要な情報をしばしばグルーのもとに届けていたからである。「滞日十年」には、氏名を伏せて、「完全に信頼すべき情報源」、「著名なる日本の自由主義者」、「私の通報者」が語るところによると・・・と記している箇所がいくつかあるが、それは樺山をさしている場合が少なくない。』

『「樺山伯爵がやってきて、長時間話す。彼は私がアメリカへ発つ前に、現情勢にかんする直接のメッセージを届けるために首相と会ってきたところだった。樺山は国内政治について多くを語り、現在の日本で最も影響力のある人物は西園寺公と牧野伯爵であるといった。そしてこの二人は、他のいかなる先帝よりも穏健な考えの持ち主である現天皇の絶対的な信頼を得ているとも語った。(1935年7月5日付け)」』

『牧野といい、樺山といい、これら宮中派は、終始、天皇=平和主義者というイメージをグルーに植えつけ、穏健派こそが日本政治の安定をもたらす真の政治勢力であり、かつ平和的な日本外交の推進者であると力説した。それにしても牧野、樺山はいずれも高齢であって、グルーはいつまでも彼らに頼るわけにはいかなかった。日本の次の世代を背負う穏健派的人物、彼らとの継続的な接触をグルーは望んだ。その一人が牧野伸顕の女婿、吉田茂(1878−1967年)であった。』

『その頃、吉田は駐伊大使であったが、駐伊大使辞任の意向を持って日本に帰国したばかりであった。初対面以来、吉田はグルーに対して自己を英米派、穏健派の一人として位置づけ、その立場から日本を取り巻く内外情勢を率直に語った。また、日本の政界上層部とグルーとのパイプ約を買って出てもいる。初対面から約二週間後の1932年10月24日の日記に、グルーは早くも樺山愛輔と吉田茂の斡旋で幣原喜重郎と会見することができたと記している。さらに33年9月39日の項には、吉田の仲介でグルーは広田弘毅外相と親密な個人的関係をつくりあげることができたこと、会見の場所は外務省のかわりに広田の私邸をえらぶことにしたと書いている。しかしながら、右の事実は公刊本の「滞日十年」ではいっさい削除されている。グルーは、「吉田は率直に物がいえる数少ない友人の一人」とか「アメリカのよき友人で、私の良き友人」であると書いているが、その背後には右のような内密な情報ルートが設定されていたのであり、やがて吉田の存在はグルーノ日本での外交活動にとって不可欠のものとなっていくのである。』

『グルーが吉田とひんぱんに接触を保っていたのは、1932年10月から36年4月までと、39年1月ころから41年秋までであった。中間の36年から38年末まで、吉田は駐英大使としてロンドンに赴任していた。従って、この期間は、日記原本にも吉田の名前はほとんど出てこない。この全期間をつうじて吉田茂は樺山愛輔らとともにグルーと日本の政界上層部とのパイプ役を演じつづけた。日記原本を読むと、右の二人がグルーにとっていかに重要かつ信頼すべき情報源ないし仲介者となっていたかがわかる。』

『事例1−晩餐会のあとの長時間の談話の中で、吉田は近衛公が元老として西園寺公爵のいあとをつぎ、天皇・政府の緊密な助言者としての地位につくことになろうと語った。今回の近衛の合衆国訪問の主たる目的は、彼がいずれ埋めることになるであろう重要な政治的立場の準備のために、アメリカ的な思考や制度に慣れ親しむことにある、と吉田は私に語った。近衛は”親善使節”として、あるいは日本の宣伝のために行くのではない、自分の勉強のために行くのだ。したがって近衛の合衆国訪問の印象が楽しいものになることは最重要のことになるとも吉田はいって。この話を聞いて、これは政界最上層からの直接のメッセージであり、私が近衛のワシントン訪問の途を開いてあげれば、彼らはよろこぶに違いないと判断した。当然にも、吉田は著名な岳父牧野伯爵の考え方や、時によっては伝言をそれとなく示す。牧野伯は天皇に非常に近い人だ。さっそく、ハル国務長官に一部始終を書き送った。(1934年4月2日付日記)』

『事例2 前駐英大使吉田夫妻と松方翁、白洲次郎氏、ピアソン夫人、マックス・シュミットが晩餐会にやってきた。夕食後、吉田・白洲と、日本に対するアメリカ世論の動向とその理由について長時間話し合った。彼らはこの件をすべて首相(安部信行)に話すようにすすめた。会合の準備は二人がするという。それに対し、私は外務大臣の頭越しにそのようなことをやりたくないが、もし安部首相が望むのなら、もちろん、よろこんで首相に会い、すべてを率直に話すと答えた。さらに吉田と白洲は現内閣の組閣にあたって影響力を行使したとみなされる近衛公との会談をおこなうようすすめた。(1939年10月13日付日記)』


『穏健派』とは何者か。敵対国に国家最高機密情報をせっせと流す行為を、『リベラルな平和主義』と自称する究極の自己チュー集団である。多大な人命の犠牲の上に優雅な生活を送る人非人集団である。あるいは田布施村王朝の権益とそのおこぼれに与ることを最優先するエゴ集団である。シゲちゃんも終生、オールド・リベラリストを自認している。


『穏健派』とは何者か。秘密裡の和平工作と併行してヤラセ工作をしていたマッチ・ポンプ集団である。その中心人物は吉田茂と昭和天皇、日本史上不世出のコンビ、謀略の天才二人組である。

昭和天皇に上奏させたかの有名な近衛上奏文の仕掛け人は吉田茂である。歴代首相の上奏は、近衛に上奏させるためのダシに過ぎない。その後吉田は憲兵に自分を逮捕させ、40日で無罪放免させる。『穏健派』リベラリストという免罪符を自分に与えるためである。


『穏健派』とは何者か。ロンドン・シテイ―に巣食う連中と連携することを、穏健・平和主義・リベラルと称する者たちである。彼らは自分たちを押込め抑圧してきた世界に復讐をしているのだ。彼らにとって田布施王朝は絶対正義である。牧野伸顕は熱涙とともに田布施王朝の正当性を語っている。しかしこの絶対正義には隠さねばならない秘密が多すぎた。その秘密を守らされるために、民草が払った代償はあまりに大きなものであった。もうこの辺で手打ちにしてもらえないだろうか。

最後に近衛の致命的な失策とされる『国民政府を対手とせず』声明について、実際に近衛のために草案を書いていた中山優の説明を添付する。近衛文麿への追悼の文章からの抜粋である。


中山優『近衛家の悲劇』より以下抜粋。


『私が近衛公を間近く見たのは昭和12年の夏の頃、虎ノ門の霞山(かざん)会館においてであった。…私の同窓の先輩が、公のまえに鞠躬如(きっきゅうじょ)としている姿を見て、むしろ苦々しくすら感じたものである。また公爵その人が、いつも湯上りみたいな端麗な顔立ちで、何か天皇陛下の次といった超然たる態度であるのを見て、そもそもわれわれとは人種の違うような気持ちで何の関心も起こる余地はなかった。満州事変以来、中日領国の間には緊張のとけた日はなく、その間二回、私は二か月ずつくらい満州から北京、上海と廻って、現地の容易ならぬ雰囲気は体験していたことだし、当時外務省の情報部の嘱託をしていながら、外交関係の座視には評論めいたものを寄稿していた。』


『そういう頃のある日、近衛公が霞山会館で中国通を集めて忌憚のない意見を聴きたいということで私も呼ばれた。尾崎はどうしたものか、その日は卑屈に映ずるくらいに近衛公の前では精彩を欠いた話しぶりであった・・・私は何を言ったかはいまは思い出せぬ。しかし、絶えず中国問題を注意していた者には、すでに病膏肓に入っていることはよくわかっていた。何よりも禍根は日本政府の不統一にある。政府は軍部に引きずられ通しであるが、その軍部の内部が色々に分立し、したがってその頃になると、私のような者ですら、日本側の発表をそのまま信用することは出来ず・・・歴代も内閣が持て余したままの懸案を、如何に盛名に富んではいるにせよ、この45歳の貴紳に押しつけるというのは言語道断の無責任であると思っていたので、自然近衛公の立場の苦しさにも同情的気持ちが自然に出た点もあるかと思われる。この間近衛公は木像のように一語も発せずに聞いていた。』


◎軍部=昭和天皇として読んでほしい。吉田茂も軍部に強力なコネクションを持つ。


『とにかく、第一次近衛内閣時代に関する限り、私は数回、公のために草稿を書かされた。その一つに問題になった「近衛声明」がある。これについてはいまなお世間に誤解があるようであるから、私の記憶の許す限り真相を伝えておくことも無意味でないと思う。近衛公の対中国政策に関する重要な声明は二つある。その一つは昭和13年の1月8日に出された、「蒋介石を対手にせず」のあれである。あれは、その前の年、12年の暮れに、南京陥落の直後、ドイツの駐中大使トラウトマンが仲に立って中日両国間に和平交渉が行われた。その交渉が駄目になったときの用意にと言って半枚足らずの簡単な覚書程度のものを、秘書官が持ってきて字句を修正してくれということであった。』


◎「対手にせず声明」は単独に用意されたものではなく、トラウトマン工作失敗の時の用意として覚書程度のものがあった。修正を中山氏に依頼した秘書官というのは、内閣書記官長・後藤隆之介である。


『後日出た本で風見氏は、その原案は陸軍省が作ったと言っているし、矢部氏は外務省の起案で、後の北支臨時政府の王克利の要望により、陸軍が、これに便乗したものと書いているが、いずれにせよ、当時の空気では、陸軍・外務の間で打ち合わせたものであったに相違ない。それはどう考えても閣内会議rの申し合わせで、総理大臣が、正式に外に向かって発表するという文体のものではなかった。老練な広田外相の目の届く下で、そつがあろうとは思わなかった。当時まだ私は外務省にいたが、あれが発表されたときはハッとした。陸軍の主流の圧力がどんなに強かったにせよ、近衛公ほどの人が、あの一貫して中日間の親善を心から希望した人が、このような粗笨な発表をしたということは、抗すべからざる時の勢いというものであろうか。如何にも残念で、これが結局近衛公の命取りの種となった。近衛公を弱いという人は、何よりもこの問題を取り上げるであろう。』


『石原莞爾もその一人である。しかし、その強い石原氏でも、当時の圧倒的な陸軍の大勢を左右することは出来ず、かえって満州に左遷(?)されたことを思えば、近衛公だけを責めるわけにはいかない。否、たとえ辞句だけにせよ、私も、それを事前に見た一人である。多年中国問題に従事している一人として、私はもっと敏感にその機微を把握し、命がけででも、それを阻止するべきであったのである。当時の私は、それほど自ら任ずるものがなかったことを、いまにして自ら鞭打たざるを得ぬ。しかしこれやいわゆる近衛声明ではない。不用意に出されたこの対手にせずの声明を一年がかりで訂正したのが翌年12月の近衛声明である。とにかくそれから内閣改造が行われ広田外相が退陣し、宇垣一世老が外務大臣に就任した。私もそのころ外務省に行き詰まりを感じ、退職して浪人していた。』

『13年の3月頃には新京に建国大学が創立され・・・石原氏あたりの肝いりで私に教授としての招聘が来た。東京に未練がないこともないが、反面中国問題で日本の運命が決しようとするとき、半生を中国問題ですごした私としては、筆を捨てて、職場に実践せんとする意欲も動いてきた。私の担当は東亜政治論というのであった。大学の教授と言っても私には中日問題の解決に応分の寄与をする以外に専門の学も、また目的もない。・・・尾崎君が朝日をやめて内閣の嘱託となったのはこの前後と思う。10月になると、総理の代理として令息の文隆君が大陸の前線を慰問するから東道の役を引き受けてくれという依頼が電報で公から来た。』


『それとほとんど同時に、また航空便が来て、11月の明治節の頃に漢口が陥落する。中国の政局にも重大な変化が起こる可能性がある。そのとき総理の名で重大声明をやるから目を通してくれといって、簡単な要領が封入してあった。その他にまた、この趣旨に従って11月3日の明治節に日比谷の公会堂でやる総理の演説の草稿を思い切ってこれは自由に書けという依頼であった。この11月の正式声明及びその夜のラジオ放送は一言にして言えば、近衛内閣の癌となっていた「対手にせず」の声明を訂正し「日本の目的は日支満三国の提携による東亜新秩序の建設にあり、日本の精神を理解し、人的要素を新たにして来たり投ずるにおいては、重慶の国民政府といえども拒否するものにあらず」という筋のものであった。』


『この声明で「新秩序」という語句を使ったのは、前年近衛公が渡米したとき、第一次大戦当時のウイルソンの顧問であったハウス大佐が「日本がワシントン会議の体制を否定するなら、それに代わるわれわれの納得するようなニュー・オーダーを提示すべきだ」と言ったことにヒントを得たわけである。近衛公のための案文を私が書いたのは第一次近衛内閣の期間だけであって、その間このことは、誰にも知らさなかった。中野正剛氏は私のもっとも親しい先輩であったが、これにも黙っていたら、中野さんは知っていた。「どうして知られましたか」と尋ねたら「近衛さんが言っていましたよ」ということであった。』


◎ここに驚くべき『新秩序』のルーツが明かされている。中山優はもちろん近衛文麿は直に会っていたくせにハウス大佐が何者かも知らずに、『ニュー・オーダー』の何たるかも知らずに、言われたままをヒントにして『東亜新秩序』を掲げたのだ。


『旅行中、文隆君が上海で毎日の高石真五郎氏に出会ったら、「英国大使のカーが、誰か日本人の有力者に重慶を見せて日本人の認識を改めたい。安全は英国国旗で保証するから行かぬか、と言うが、僕にはその勇気がない、文隆さんが行かぬか」と勧められた。文隆君は捕虜になる覚悟で行こうと主張するのを、私は役目がら、ようやく引っ張って日本に帰った。あの時、侯爵夫妻も私の案内役を喜ばれたが、あのとき、もし文隆君の主張に従って二人で重慶に赴いたら、日本の今日の運命と異なったものが出来たかもしれぬ。』


『私には公爵は淋しい人に思われた。公の周囲にはいわゆるブレーンなるものがあり、昭和研究会関係がそれを占めていた。私はブレーンの中には入らなかった。私の関係は、むしろ文隆、護貞両君を挟んで個人的であった。敗戦後の21年春に上海から帰国した私は、それでも公の一年祭には出席した。礼儀の正しい千代子夫人は、わざわざ私の草蘆にも回礼に立ち寄られた。そして門の側に咲いていた冬のサフランの花を珍しいと言って、株を分けて行かれた。悲しみの影だに外面に出されぬことがかえって私を暗然たらしめた。』


◎この時文隆の消息も途絶えていたことを考え合わせると、中山優が千代子夫人の淡々といた挙措にかえって暗然たる思いを抱いたことに、中山のまともさを感じる。松本重治と牛場友彦の証言による千代子夫人の言動はあまりに冷酷で言葉を失う。松本重治と牛場友彦の対談もまったく非道である。


『皇室以外の特権階級が消滅するのは、歴史の当然の発展であろう。私は一度も、いわゆる上流の生活を美しいと思ったこともないし、終戦後の不如意にかまけて、毎年12月の慰霊祭にも、その後は失礼を重ねている。しかし、残された近衛家の人たちの幸福を祈る心は常にいっぱいである。』

私は皇室も例外ではないと考える。天皇も五摂家も田布施王朝も権力者による創作である。太田龍は縄文人の魂が好きだと言う。私も縄文人は素晴らしいと思う。そして太田龍は倭姫も孝明天皇も縄文魂を持っているという。しかし私は縄文魂と特権階級を作ることは矛盾すると思う。リチャード・コシミズも縄文時代が好きだという。ザ・オーダーに都合の良い情報操作をするRK先生は、原発利権のために全国を公演して回っているようだ。彼は前置きにご当地ネタと縄文時代の考古学的なスライドを見せ、そうやって聴衆を信用させてから、やおら低線量放射能は健康に良いというトンデモをぶつ。ウラン水を毎朝飲んでいると言って実演もして見せている。もはや問題外である。  

8. 2020年9月26日 11:51:25 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[20] 報告
山本五十六の真実H吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令・文隆編
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/771.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 1 月 02 日 17:19:25: 8qHXTBsVRznh2
 

先ず、前回文麿編で『道楽したのは長身ハンサムなモテ男文隆である』と書いたことをお詫びして訂正します。松本重治の『通隆が道楽してしょうがない』という偽証に対する反証として書きましたが、やはり『道楽』という言葉には語弊があります。モテることと『道楽する』ことはまったく別ものです。文隆はいわゆる放蕩息子ではありません。文隆の名誉を傷つける発言であったことをお詫びして訂正します。


以下本文です。


あるいは松本重治が『道楽』という言葉を使ったのは、白洲次郎の『プリンシプルのない日本』の中で使われた近衛父子を貶める手法を真似たものかもしれない。訂正ついでといっては何であるが、その手法を以下に披瀝する。吉田茂の指令で近衛父子を嵌める工作をしていた張本人である白洲のバックレぶり、一部外国大使館員らに『二枚舌を使うヘビのような男』と評されていた白洲の人となりの『生態』が『如実』に現れている。


白洲次郎『プリンシプルのない日本』より以下抜粋


『吉田茂は泣いている 


近衛さんの強気と弱気


悲劇の政治家の標本みたいにいわれている近衛文麿氏も、私には非常に印象の深い人である。近代の政治家であの人ほど頭脳明晰だった人は少なかったろう。しかしおしむらくは、公卿の特性として決断力にはかけていたように思う。一面気の弱かった半面に、また常人には考えられない一種特有の図々しさというか、盲者蛇におじず的のところがあった。

(中略)

そんな強気の反面、自分の子供にすら小言を言えなかったような弱気の面もあった。この弱気はほとんどだらしなさに通じるものであった。戦死した長男の文隆はとても可愛い奴であった反面、一種の不良性も充分に持ち合わせていた。この長男に全然面と向かって小言が言えなかった。文隆にこういってくれ、ああいってくれ、とよく御用を仰せつかったものだ。


ある時、麹町永田町の私宅の二階で文隆をつかまえてどなりあげている最中に、御自身二階にあがってきて、私のあまりの剣幕に、「そんなにいわなくても文隆はわかるよ」と泣きをいれたので「これはもともと、あなたの指図でやっているのですよ」と暴露したところ、ほうほうの体で階下に逃げさったような滑稽な場面もあった。

これは終戦後よく思ったことだが、戦前にこの知能のかたまりのような近衛さんと、度胸と実行力の吉田さんのコンビの内閣が出来ていたら、あるいは悲惨な戦争は避け得られたかも知れない。これは単なる話で実現の可能性はゼロであったし、また万一実現していたところでご両人とも殺されてしまうのがおちであったろう。また近衛さんのうちの「公卿」は殺されるまでとてももたなかったろうとも思うが』


全文ガセであると私は思う。奸智のかたまりのような吉田と組んで近衛父子を抹殺した白洲が、二枚舌をチラチラさせている光景が浮かぶような文章である。近衛文麿を惰弱な公卿のように吹聴しているが、白洲自身が卑怯な弱虫なのである。白洲は敗戦に至るシナリオを知っていて、いずれやってくる東京大空襲が怖くて、五十六を暗殺した1943年4月の翌月には早々と山村に疎開している。招集令状が来ると吉田の陸軍コネクション・辰巳栄一中将に泣きつき、チャラにしてもらうと大喜びでお礼の缶詰を山のように贈っている。


悲惨な戦争は避け得られたかも知れないというが、吉田と白洲たちが悲惨な戦争を継続すべくマッチポンプしていたのではないか。白洲は東京大空襲だけでなく原爆投下も事前に知っていたし、広島原爆被災者を見殺しにする田布施村王朝の方針にも協力した。
白洲がどなりあげている(これ自体ねつ造であると私は思う)文隆は、そういう悲惨な戦争の召集に二度応じている。最初のころは糞まみれになりながら、1940年から敗戦まで兵役を務め上げている。文隆は敗戦と同時にソ連に抑留され11年間拘留された挙句、鳩山一郎が日ソ国交修復に調印すると同時にソ連国家保安省によって薬殺された。


白洲は『戦死した文隆』を使って近衛を親として貶めようとしているが、白洲は文隆が『戦死した』のではないことを一番よく知っている人間である。吉田茂の指令でみんなで寄ってたかって近衛父子暗殺工作をしたのだ。その吉田を『吉田茂は泣いている』という章題に使って、その章の中で近衛父子の誹謗中傷と吉田のヨイショと自分ボメをしているのである。白洲次郎の心根の卑しさというものは比類がない。


文麿は子供を叱れないのではなくめったに叱らないだけで、叱るときは叱っている。
白洲はすぐ人を怒鳴りつける癖があり、怒鳴ること=叱ることだと勘違いしている。
このような浅はかな人間に、どこの親が子どもを叱ってくれなどと頼む訳があるのか。白洲が一番かわいがっていた娘の桂子でさえ、白洲は親としてほとんど有用性がなかったと認めている。


白洲は文隆が『不良性』を持っているというが、文隆は親子兄妹仲睦まじいい家庭で真っ直ぐに育っている。だから文隆は白洲の姦計に簡単にはまってくれるのである。
『不良性』というのは白洲自身を反映した言葉であり、白洲は自分が持っている『不良性』をかっこいいと思っているらしいが、白洲が持ち合わせているのは薄汚い不良な根性だけである。

さて前回引用した中政則氏によるグルー日記原本の事例1に注目されたい。吉田茂はグルーに近衛文麿に関する機密情報を提供するだけでなく、近衛の渡米にタイミングを合わせて牛場友彦指令を出しているのが分かる。彼らの秘密工作を追跡調査してみよう。


『近衛文麿は長男の文隆を、昭和七年にアメリカのローレンスヴィル高校へ留学させ、卒業するとプリンストン大学へ入学させた。文隆のアメリカ留学の世話をしたのは、樺山愛輔だった。樺山は、元駐日大使であったローランド・モリスに文隆を預けた。文隆が樺山の世話でアメリカ留学を続けている昭和九年(1934年)に、白洲次郎の幼馴染みの牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月間のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅がきっかけで昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。近衛文麿が46歳、牛場友彦が36歳の時である。牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から「ジロー」「トモ」と呼び合う仲であったが、昭和12年以降その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

NHK取材班によると、近衛文麿はルーズヴェルトと私的な会見をし、サンランシスコでは米国のメデイアに向けて英語でスピーチもしているようだ。

『そのフィルムが米国立公文書館(ナショナル・アーカイヴス)に残っていた。落ち着きのある、はっきりとしたスピーチだ。

「私は多くの旧友たちと再会し、新しい友人たちとも出会いたいと思っています。そして、太平洋の反対側にいる私たちが、80年にわたって育んできた日米間の友情をどれほど大切に思っているか、私から直接お伝えしたいのです」

約50日に及んだこの米国旅行で、近衛は先に日記から紹介した人物たちのの香に財界人や軍人とも会談。新旧政府の要人や財界人からマスコミ人まで、当時これほど幅広く米国のオピニヨン・リーダーたちと意見を交わした日本の政治家はおそらくいないだろう。近衛の帰国報告は、駐米大使の報告よりも有益だと評されたという。』(近衛忠大『近衛家の太平洋戦争』NHK「真珠湾への道」取材班より)

牛場友彦はこの旅行中、近衛文麿に貼りつくのに成功している。やがて牛場は近衛内閣が発足すると書記官長の風見章と共謀して「朝飯会」を主催し、そこに尾崎秀実と西園寺公一を引き入れる。そして牛場は近衛の長男文隆にも、尾崎秀実を接近させる。ヨセミテで開催された太平洋問題調査会に、文隆を呼びつけて尾崎秀実の助手にする。文隆が日本に帰国すると、さらにゾルゲにも引き合わせ懇意にさせている。牛場は後年文隆がソ連に抑留され処刑される伏線を張っているのである。米国留学中の文隆には、白洲次郎も貼り付いている。

西木正明氏の『夢顔さんによろしく』は近衛文隆に捧げられた鎮魂歌である。もとより西木氏はジロー&トモを疑ってかかってはいない。しかし見事に彼らの本質を描いている。小説仕立てではあるが、綿密な取材を重ねて文隆の死に至る経緯を検証している。実録として十分鑑賞に堪える優れた作品である。事実と懸隔していると思われる部分を割愛して引用させていただく。

西木正明『夢顔さんによろしく』文藝春秋より以下抜粋。

『昭和11年(1936)5月20日午後。文隆は、ワシントン駐在大使館に呼ばれた。「おう、近衛君」斉藤大使は、文隆が執務室に入って行くなり、待ちかまえていたように立ち上がった。「8月半ばに、太平洋問題調査会第64回大会という国際会議が、カリフォルニアのシエラネヴァダ山中にある保養地、ヨセミテで開催されることになった。この会議に、日本から元外務大臣の芳澤謙吉さんを団長とする代表団が乗り込んでくることになっている。これを手伝ってほしいんだ」』
『「太平洋問題調査会、ですか。それはどんなことを話合う組織ですか?」「太平洋調査会は太平洋地域に利害を持つ国々、すなわち日本、シナ、アメリカ、ソヴィエト連邦、それにオーストラリアなど、直接太平洋に関わりのある国々と、この地域に植民地を持つイギリスやフランス、オランダなどが参加して設置された常設機関だ。二年ごとに一堂に会して、折々の問題を討議する。今回は日本とアメリカなど欧米諸国との貿易問題、シナ事変、満州国などが議題の中心となりそうだ。君に手伝ってもらいたいというのは、団長の芳澤さんの意向だということだ」「芳澤さんのご指名とあらば、お断りするわけにはいきませんね。それでわたしはどんなことをするのでしょうか」「いわば、秘書兼連絡係りというところだな」』
『「おう、ボチ君(文隆の愛称)。ひさしぶりだな」まっさきに声をかけてきたのは、長旅の後にもかかわらず、灰色の背広を粋に着こなした、代表団の通訳兼秘書団長を務める牛場友彦である。イギリスのオックスフォード大学を卒業した後、太平洋調査会書記に就任、得意の英語を生かして各国との調整に走り回ってきた。「近衛君、この人は、西園寺公望老公の孫で、私と同じく太平洋調査会で働いている、西園寺公一君だ」彼も牛場と同じ時期、オックスフォード大学への留学経験を持つ。』
『「そしてこちらは朝日新聞の敏腕記者にして、太平洋調査会の嘱託を務めてくれている尾崎秀実君だ。尾崎君はシナ語に堪能で、日本の新聞界では右に出る者がいないといわれているシナ通でもある」尾崎と牛場は一高東大を通じての同期生である。尾崎は東大を卒業すると同時に朝日新聞に就職した。以後特派員として中国大陸にわたり、足かけ四年間に渡って上海、北京で活動した。そんな尾崎を、東大同期生で親友の牛場は、アメリカで開催される太平洋調査会議の日本代表の一員に招いた。実のところ、日本代表団の事務助手として文隆が選ばれたのも、牛場の推薦があったからだった。牛場が尾崎秀実の助手に文隆をあてがったのも、近衛公の意向をおもんばかってのことだた。』
『8月15日、太平洋調査会第64回大会は、無事開催された。会議の間中、文隆は牛場や尾崎の雑用を一手に引き受け、分厚い体躯を忙しく動かして、文字通りコマネズミのように走り回った。当初、名門近衛家の遊び好きな御曹子くらいの認識しかなかった日本代表団の面々の、文隆を見る目が変った。尾崎の論文は、各国それぞれの立場からの反論はあったものの、その内容についてはひとしく賞賛を浴びた。いつも穏やかに笑っているこの新聞記者に対して、文隆はいちだんと尊敬の念を深めた。8月29日、会議は無事終了した。』
『年が明けて昭和12年になった。6月4日近衛内閣発足。外相に元総理の広田弘毅、陸相杉山元、海相米内光政。戦後の官房長官にあたる内閣書記官長には、ジャーナリスト出身の衆議院議員風見章が任命された。近衛内閣発足から一ヶ月余りたった昭和12年7月8日、北京郊外を流れる永定河にかかる盧溝橋付近で、日中両軍が衝突した。』

近衛文麿は『藁の女』であると既述した。破滅されることが予め決められていた『運命の子』である。近衛文麿を日中戦争の泥沼に放り込むべく大命が降下され、近衛内閣が発足すると一ヵ月後に盧溝橋事件が勃発した。ユン・チアン著『マオ』によると毛沢東の仕業であるという。しかし私は吉田茂が奉天駐在時代につくったコネクションのヤラセ工作だと思う。これを演じた支那駐屯軍は、熱河産アヘンをヘロインにする作業に励んでいた。事変はこの後拡大していくばかり、近衛は抜き差しならない立場に追い込まれていく。近衛が放り込まれた日中戦争とは、実はアヘン戦争であった。

江口圭一『日中アヘン戦争』岩波新書より以下抜粋。

『重視されねばならないのは、この毒化政策が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなくて、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたという事実である。日本のアヘン政策は、首相を総裁とし、外・蔵・海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国家として計画的に展開されたのである。それは日本国家によるもっとも大規模な戦争犯罪であり、非人道的行為であった。』
『この日本の国家犯罪について東京裁判はある程度の追究をした。しかし日本政府もアヘン政策の当事者も、この事実については今日まで触れようとしない。あまりにも犯罪性・反人道性が明確で、弁解の余地のないことだけに、関係者が触れたがらない真情は理解できる。』
『しかし、いかに恥ずかしくとも、いや恥ずかしいことであればあるほど、歴史の真実は直視されなかればならないはずである。日中戦争がいかに不当で不法な戦争であったかを明証する歴史的事実に目をふさぐこと によって、日中間の相互理解と有効に寄与がもたらせるとは考えられない』

再び西木氏の前掲書より抜粋。

『北支の状況が風雲急を告げたこの時、文隆は日本郵船浅間丸で、太平洋上を日本に向っていた。プリンストン大学で政治学を教えているライシャワー教授が、7月2日シアトル発の船で、教え子数人とともに日本を訪れることになっている。日本の政治の現状をつぶさに見たいという教授の希望で、文隆は彼らに便宜をはかってくれるよう、父文麿に手紙を書いた。自らも一行の世話をするつもりだ。』

文隆はライシャワーの正体を知る由もなかった。

『盧溝橋事件勃発後、文麿公は、ほとんど帰宅しなかった。以前は嫌がって寄りつかなかった、首相官邸に隣接する公邸に泊り込んで政務に没頭していたのだ。この日は久しぶりに帰宅するという連絡が入ったので、文隆も夜の外出を控えて待っていた。文麿公を囲むようにして、一群の男たちが玄関に入ってきた。先頭は、黒いカバンを手にした秘書の牛場友彦だ。それに風呂敷堤をぶら下げた、同じく秘書の岸道三が続く。「ボチ(文隆の愛称)、すまんがひどく疲れている。つもる話は、近くゆっくりやろう」文麿公はそう言って、千代子夫人にささえられるようにして、寝所にひっこんだ。文隆は、牛場、岸両秘書官、弟の通隆(みちたか)と、ビールを飲んだ。牛場が文麿公の立場をおもんばかるように、憮然としてつぶやいた。「総理がお疲れになるのも当然だ・・・。」それから急に笑顔になって話題を変え、「ところでボチ訓、ヨセミテで君が世話してくれた朝日新聞記者、尾崎秀実君を覚えているかい?彼はボチ君をいたく気にいったみたいだから。だからというわけではないが、近々彼とメシを食わないか?」「もちろんオーケーです」』


『尾崎との会食の場所は、虎ノ門交差点近くにそびえる満鉄ビル七階のレストラン「あじあ」と決めてあった。数分後、グレイの背広に上着を小脇にかかえた尾崎が、汗をふきながら姿を現した。「いやあ、近衛君、ひさしぶりです。あの節は、ほんとうにお世話になりました」彼の声があまりに大きかったのだろう。隣で話し込んでいた白人客が、顔を上げて尾崎を見た。「なんだ、ずいぶんにぎやかな人がいると思ったら、オザキさんじゃないですか」「なんだ、ドクター・ゾルゲじゃないの。これは奇遇ですな」そう言ってから、笑顔を文隆に向けて、その男を引き合わせた。「ドクター・ゾルゲ、この方は内閣総理大臣近衛文麿公のご子息、文隆君です。文隆君、わたしの友人で、ドイツのフランクフルター・ツアイトウング紙特派員、ドクター・リヒアルト・ゾルゲです。」文隆は1メートル80センチ近い長身だ。しかし、尾崎に紹介されたゾルゲというジャーナリストは、その文隆よりもさらに数センチ背が高かった。「首相のご子息ですか。はじめまして、ゾルゲと申します。」その時、ゾルゲの脇に立っていた小柄な男が控えめに話しかけてきた。「プリンス・コノエ、私を覚えておられますか。ニューヨークのピーター・ルガーでお会いした、ギュンター・シュタインです。」「あっ、そうか。いや、実はボチ−ぼくも先刻お見かけした時に、どこかで会ったことのある方だ、と思ったんですよ。いやあ、これはうれしい」「驚いた。世の中、せまいもんですね」ゾルゲとシュタインは、以前から牛場と顔見知りだった。シュタインは今、ロンドンのニューヨーク・クロニクル紙特派員として、日本に滞在中だという。』

牛場友彦の策略によって、文隆は驚くべき包囲網に囲まれつつある。鬼塚氏によると尾崎とゾルゲは穏健派に利用されたのだという。昭和天皇がスターリンに機密情報を流すために尾崎が利用され、その尾崎がゾルゲを引き込んだのである。

『牛場はしばらくの間、文隆を無言のまま見つめていたが、やがてぽつりと、「こんなことを言うと、近衛公にお叱りを被るかもしれないが、どうせボチ君は、いずれ政治の世界に入ってくることになるのだから、留学は程ほどのところで切り上げて帰朝し、日本の政界の空気にじかに触れたほうがいいのかもしれないね」と言った。四日後の7月28日午後11時。外出から帰った文隆は、牛場友彦と玄関先でばったりと顔を合わせた。およそ30分後。二階の自室で本を読んでいた文隆に、母の千代子が声をかけた。「ボチさん、牛場さんが、ひとりでンビールをお飲みになってます。よろしかったら、話し相手になってあげてくださる?」』

この後牛場は、「ボチ君。君は近衛公のご子息として、守るべき秘密はちゃんと守れるはずだよな」と念押しして文隆に近衛文麿の苦衷を説明する。牛場は文隆の自覚を促し、首相秘書官になる道を開く。こうしておけば近衛父子をセットで始末できる。

『秘書官になって一週間後の8月9日朝9時前、文隆は官邸二階の廊下で、意外な人物に会った。「尾崎さん!」「おう、近衛君。秘書官就任おめでとう」尾崎はさほど驚いたようすもみせずに立ち止まってそう言った。「ありがとうございます。それで、尾崎さんは誰かに会いに見えたんですか?「いや、出勤してきたんだよ。実は私もここの住人になってね」「ここの住人?」「もちろん、住み込んでいるわけではない。通ってきているだけさ。内閣嘱託という、いわば居候の身分でね」「すると朝日新聞は辞められたのですか」「うん。新聞記者というのは、いろいろな人に会うのには好都合な職業だが、反面自分がほんとうにやりたいことをやろうとしても、思うにまかせないところがある。わたし自身について言えば、長い間支那問題についてもっと勉強したいと願いつう、雑事に追われて果たせないできた。そこへ今回たまたま、内閣嘱託として、支那問題を徹底的に研究してもらえないかという、ありがたいお申し出が、君の父上や風見書記官長からあってね」「そうだったのですか。では、毎日ここに通っておいでなのですね」「そう。ちゃんと部屋ももらっているぞ。見てみるかい?」たどりついた先は、官邸二階の東南端にある、こぢんまりとした部屋だった。薄暗い部屋が多い官邸の中ではめずらしく日当たりも良く、いごこちの良さそうな部屋だった。「ここで、存分に支那問題の研究をさせてもらっているんだ。ありがたいことだよ」この日以後文隆は、ちょっとしたヒマがあると、ぶらりとこの部屋にやってきて、支那問題について尾崎にあれ
これ質問した。尾崎は自らの支那問題に関する知識を、惜しむことなく文隆に伝授した。』

『9月26日朝、文隆はいつものように、荻外荘(てきがいそう 近衛家自宅)から官邸に向う車の助手席に乗り込もうとした。それを文麿公が押し止めた。「ボチ、この前話した支那行きの件だがね、そろそろ実行してくれないか。表向きは、わたしの名代として前線部隊を慰問することだ」「はあ。それで、表向きでないほうの任務は戦地の実情把握ですね」「それでだ、ボチひとりではいろいろと大変だろうから、誰か支那問題に精通した者を随行させよう」「尾崎さんにお願いしてはどうでしょうか」「尾崎さん?ああ、最近内閣嘱託になってくれた尾崎君か。なるほど、尾崎君なあ・・・たしかに尾崎君は、支那問題に通暁している、すぐれた人物だ。だが、彼にはほかにやってもらわねばならぬことがある。尾崎君とはだいぶちがうタイプだが、支那に関する識見においては勝るとも劣らぬ人物がいる。彼に行ってもらおう」』

東亜同文書院中退の中山優である。『対支対策の本流』という論文が文麿の目にとまり、以後、文麿の演説原稿を起草するほどの信頼を得た人物である。先に投稿した文麿編の最後に、この中山の追悼文を載せた。同文書院は文麿の父篤麿が創設したものである。中山の一年先輩に後に阿片王として知られる里見甫がいた。実は松本重治はこの里見と組んで、同盟通信社設立の裏工作をしていた。


佐野真一『阿片王 満州の夜と霧』新潮社より以下抜粋。

『里見の関東軍第四課での最大の仕事が、国通設立に向けての工作活動だった。ことの発端は、新聞聯合専務理事の岩永祐吉が関東軍に提出した「満蒙通信社論」だった。その要旨は、満州にすみやかにナショナルエージェンシーを設立すべし、外国通信社や営利目的の通信社の乱立による誤ったニュースの流布は、満州の国際的地位を低下させ、いたずらに人心の混乱を招くおそれともなる、というものだ。関東軍第四課に派遣された里見の役割は、この岩永論文を火急のうちに現実化することだった。』


『国通設立にあたって最大に難関は、いかにして電通を説得するかにあった。

「この同意があって初めて満州における通信社の統一が成立する。両社のうち一社が嫌だと言えばそれでお仕舞いである。特に電通が承知するや否や中々疑問である。すでにその頃両社も薄々気配づき、特に電通側はひどく神経過敏であった。私は命を受けて、東京行きの途上、実は大変なことを引き受けたとつくづく思った。」里見甫”国通十年史”

当時の電通は、広告専門に特化した現在の態勢とは違い、広告の分野に加えて世界的ネットワークをもつ通信社の機能を兼ねそなえた一大情報機関だった。』

里見はまず大阪電通社長の能嶋進の懐に飛び込み、次に陸軍省の鈴木貞一に会って根回しをし、電通社長の光永星郎に面会して案を固めていく。

『そして2・26事件がおきる一ヶ月前の、昭和11(1936)年1月、電聯合併による同盟通信の発足を見ることになった。通信網を聯合に奪われた電通は、これ以降、広告取次専門会社として生きるほかなかった。

「国通の出現を契機に、政府は国内の通信統制に乗り出した。すなわち国家代表通信社の設立であり、国策遂行のための文字どおりの非常手段であった。」(”電通66年”より)』

岩永祐吉が論文で国通設立を説き、里見甫が奔走して同盟通信が発足する。岩永がIPRで活躍していた松本重治を見初め、上海支局長に据える。上海で合流した里見と松本は裏工作のパートナーになった。松本は里見のことを天馬空を翔けるような胸のすく男だと絶賛している。確かに軍と財閥を手玉にとった里見のスケールのでかさは、松本にはないものだった。国通設立の謀略には樺山愛輔・板垣征四郎・小磯国昭が関与している。主役は小磯国昭である。

『国通の創立で軍の信頼も高まり、軍が表面立てない特殊工作が里見に廻されるようになる。』


松本重治はこの里見甫と組んで、ロイターとの通信提携契約を取るのである。ロイターの極東支配人チャンセラーと松本重治はIPRでの知己である。後に阿片王の名をほしいままにする里見と組んだ松本重治は、やがてチャンセラーの斡旋でジャーデイン・マセソン商会に食い込んでいく。いや取り込まれていく。

松本重治『上海時代』中公新書より以下抜粋。

『この会議(IPR)で知り合ったイギリス人のうちに、その後、私の上海時代に、切っても切れぬ縁を持つようになった人がいる。それはクリストファー・チャンセラーである。ロイター通信社の極東支配人として、数日前に上海に着任した・・・チャンセラーは私と四つ違い。私は32でチャンセラーは28。イートン、ケンブリッジを出た、いわゆるエリート・コースをたどってきた名門出の長身の美男で、そのシルヴィア夫人は有名なグレイ卿の姪に当たる人。そのときが縁となって、今日まで40年余りのあいだ、私はチャンセラーと友人として付き合うことになった。上海での英国人社会に私を紹介してくれたのは、この当のチャンセラーであった。』

『ロイターのチャンセラーと交友を深めつつあるうちに、チャンセラーは、「私の親友で日本との縁故の深い二人の人物を君に紹介したいから、上海クラブでランチを一緒にしよう」といってきた。彼の親友二人というのは、トーニー・ケジックと弟のジョン・ケジックであった。この兄弟とチャンセラーとは、三人ともケンブリッジ大学とトリニテイ・カレッジの同窓生で、ケジック兄弟はジャーデイン・マセソン商会の大株主であり、重役であったが、二人とも、チャンセラーが上海に来る以前から、上海その他で活躍していた。ともに30歳になるかならぬかの年齢ではあったが、ケジック兄弟は大学卒業後、彼らの叔父のきびしい教育方針に従って、すぐ平社員として香港、上海、漢口などの各支店をお互いに交替しつつ、一種の丁稚奉公の数年間の年季を終え、一人は上海で、一人は香港で、彼らの店を主宰していた。』

『かれらの厳父ヘンリー・ケジックは、ジャーデイン・マセソン商会の対中国および滞日貿易を通じてどえらい財産をつくった。ケジック兄弟は、もちろん、貿易商であり実業家ではあるが、たんなる貿易商、たんなる実業家ではない。彼ら二人は、イギリスの極東政策、ことに対中国政策について、ロンドン政界に発言権をだんだんと持つようになり、南京政府の要人と密接に付き合ったり、日本外交官とも始終連絡していたわけで、すでに政治力ある実業家となっていた。この二人を友人にもつことになった私は、さらに上海のイギリス人社会でいろんな知友をつくることができた。交友を深めるにつれ、ケジック兄弟のそれぞれの人間の味が感ぜられるようになった。』


◎アヘン王の発言権は強力なのだろう。


『当時、二人ともまだ独身であり、しばしば、私たち夫婦を友人とともに招いてくれた。話題は、主として、日中問題と、それとの第三国関係であった。今日では、チャンセラーともども三人とも、ロンドンに帰って、それぞれ英国政財界に重きをなしているが、40年近くを経た今日でも、彼らと私との親交は続いている。ケジック兄弟の血管には、父祖三代の知日的な血が流れている。ジャーデイン・マセソン商会は、インドのカルカッタを起点として、香港、アモイ、上海を経て横浜までまたがった極東貿易に、多年、覇をとなえてていた会社であった。ケジック兄弟の父祖ウイリアム・ケジックは、明治維新直前に横浜の居留地に支店を開いたが、当時は「英一番館」という名称であった。横浜居留地の錦絵にもこの「英一番館」が載っている。』


◎「英一番館」は吉田健三に一代で財を築かせ、彼が40歳のとき『急逝』してもらった。当時11歳の養子吉田茂には60億近い遺産が譲与された。


『文久二年(1862年)のある夕、ウイリアム・ケジックが支店から家へ帰ろうとして人力車に乗ったところを、五人の日本青年が、にわかに立ち現れ、車のかじ棒を押さえた。「何の用かね」と尋ねると、これらの青年は、「私どもはイギリスに行きたいのです」と答える。「何の目的で行くのかね」ときくと、「航海術と砲術をイギリスで学びたいのです」と彼らは、率直に答えた。その老英国人は、眼が高かった。彼は眼前の算盤よりは、将来の日英関係とその貿易の可能性を考えていた。これら五人の青年は、伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤勤介であった。ウイリアム・ケジックは、この五人の情熱にほだされて、彼らに上海までの密航の便宜を与え、さらに上海からロンドンまでの船便の世話をしてやった。』


◎吉田茂少年は第二の伊藤博文を夢見てアヘン王の特殊教育に耐え、昭和天皇を凌ぐインテリジェンスに成長して望みを達成する。そういう自分を嘉する意味も含めて、後年大磯の豪邸に伊藤博文ら田布施王朝の勲功者を祀る五賢堂なるものを立てたと思われる。

『こういう話をトーニーは祖父から聞いており、私にも話してくれた。トーニー自身は横浜生まれでもあったし、日本には特別の親近感をもっていた。ジョンは、トーニーが上海から帰国してからも、長らく中国に滞在し、しばしば日本にも来訪して、私に「僕の心は、西洋的というよりも東洋的なものだ」といったことが、一度ならずあった。1935年、中国の幣制改革のため、イギリスのリース・ロスが上海に来たとき、日本側の大体の意向を知りたければ、「シゲ・マツモト」にまず会うべきだといって、私をリース・ロスに紹介したのも、この兄弟であった。』

『吉田首相が、戦後初めて渡英したとき、出航前に私を大磯の邸に招き、「君の友人の三人組に君からよろしく頼んでくれないか」という話があった。私は、よろこんで長文の手紙をそれぞれに書いたが、まだ反日の空気の強かった英国で、彼ら三人は吉田さんのために、いろいろと配慮してくれた。吉田さんが帰朝されて、その話を聞いてみると、吉田さんの訪英が大成功であったのも、彼ら三人による努力が一つの原因だったと知った。』

『ジョンは、その後も今日にいたるまで、文化革命の二、三年を除き、必ず一、二年の一回は北京を訪れ、中英貿易のことで、周恩来首相とは、毎回サシで三、四時間は話していた。それから、東京に来て、必ず私とゆっくりくつろぎ、さしつかえない限り、北京の話をしてくれたものであった。ケジック兄弟との交友の話は尽きないが、二人とも、若いときから、大物の風格を具えており、私は彼らを心から敬愛していた。私の上海時代に、公私ともに少なからず助けてくれたのは、どの英国人よりも、この兄弟とチャンセラーの三人であった。私は戦後、国際文化会館やユネスコの仕事の関係で、1945年、57年、60年、65年四回イギリスへ行った。多くのイギリス人に会ったが、いつもこの三人とは旧交を温めることを欠かさなかった。』

◎松本重治はアヘン王と直結したのだ。白洲次郎も昭和通商に出入りしてアヘン密売に関与している。

『白洲次郎君が一ぺん上海に来たことがあるんですよ。三井の仕事かなんか頼まれてね。そうしたら帰るときに、飛行機の席がない。それで白洲次郎君が電話をかけてきて、何とかできないかっていうから、里見君に「一つ友だちに席くれないか」と言ったら、「ああ、やるよ」って言って、すぐくれたんですよ。それで白洲君に「おい、席できたよ」といったら、「ああ、シゲちゃんは、三井財閥より強いんだねえ」なんて言って・・・』(『われらの生涯のなかの中国』 佐野真一前掲書より孫引き)

白洲次郎が頼まれた「三井の仕事かなんか」というのは、イラン産アヘンの輸入・取引である。三井物産の手で上海に輸入されたアヘンは、里見甫のとりしきる宏済善堂によって売りさばかれていた。ジロー&シゲちゃん&里見君はアヘン密売で繋がり、ジローとシゲちゃんが懐にいれている潤沢な金はアヘン密売のアガリである。ジローはそういう金でブランド品を買って身を飾り、クラッシックカーを乗り回し、召集をチャラにしてもらったのだ。シゲちゃんも仮病を使って召集を逃れている。武見太郎と出世を餌に取引したのである。ジローもシゲちゃんもこういう汚い手を使って兵役を忌避していたくせに、裏で戦争を煽る工作はひそかに続けていた。そして戦後になって偉そうに日本の国民性や文化を批判するのである。

ジローのネタはやがて伝説となり、次郎&正子の写真集となって平成の世に売り出された。シゲちゃんは国際文化会館の館長に収まり、死ぬ直前まで昭和史の偽証を続けた。しかしジローとシゲちゃんのネタも、昭和天皇と吉田茂に比べたらささやかなものだ。昭和天皇と吉田茂はヤラセの天才である。民草がバーベキューになることも承知していたし、第二総軍をおびき出して頭上に原爆投下もさせた。昭和天皇は血も涙もない。吉田茂はその昭和天皇を操った化け物である。

だから東京大空襲されても皇居が焼失しないように、吉田一味が集団疎開していた大磯も無傷である。吉田を逮捕しに大磯に行った憲兵隊は、その別世界ぶりにしばし茫然としている。

吉田逮捕の理由は近衛上奏文に関与したことであるが、近衛上奏文の主要テーゼの一つである『陸軍赤化説』は、吉田茂が世上流布させていたものである。これを念頭に置きながら、以下のジョン・ダワーによる吉田逮捕劇の検証を読まれたい。

ジョン・ダワー『吉田茂とその時代』より以下抜粋。

『1944年11月か東京憲兵隊のはなはだぶっきらぼうな隊長だった大谷敬次郎によると、「陸軍赤化説」は前からあったが、1945年のはじめには政界、実業界に広く流されており、すでに崩れやすくなっていた国民心理に非常な悪影響を及ぼすものとみられていた。そのうえ、こうした傾向は明らかに吉田・近衛グループと結びついていたから、憲兵隊としてはグループの主張や近衛上奏前の活動を鋭く査察していた。』

『しかしながら、このような有害な思想を徹底的に排除するとなると、その結果日本社会のまさに最上層部の人々まで逮捕することになるが、それ自体動揺のもとになる行為であるから、はなはだ重大な問題を引き起こす。そこで憲兵隊は、吉田・近衛一派の容疑者を、影響の大きさにしたがって三段階に分類し、そのうち第一の最も影響の少ない者として、吉田、岩淵、植田を実際に逮捕したのである。この三人がほかの者への見せしめであったことは、明らかであろう。』

◎ジョン・ダワーも大谷憲兵隊長も、吉田逮捕がヤラセだと分かっていない。

『大谷は、「逃げ出した自由主義者たち」が箱根や軽井沢などの安全な別荘地などで書いて快適な生活をしながら戦争の悲惨さを嘆いているのをさげすんでいたが、彼の述べる吉田逮捕の様子は、日本の都市が直接に戦争の惨害を受けていたときでも、特権階級はひきつづき快適な暮らしをしていたことを具体的に描き出している。4月15日の早朝、大磯の吉田邸に到着した憲兵の一隊は、そこに桜の花が夢のように遠近の山々の緑を点々といろどり、潮の香を乗せてくる浜辺には漁船も見られる「別世界」を見出した。』

『大谷が後に述べているところでは、戦後に吉田は戦争を終結させるために大きな努力をしてようにいわれているが、話をしている以外にほとんど何もしていなかった。そこで取り調べはもっぱら「造言蜚語」常習が中心になった。彼が樺山に送った手紙が、軍を敗北主義と中傷した証拠として使われたが、尋問の大半はなんといっても近衛上奏文に集中した。この点について憲兵隊は、この文書作成に果たした吉田の役割だけでなく、むしろそれよりも、その内容を他にもらしたことを大きく問題にした。』

『彼(大谷)はほかのどこからも手に入らない吉田の尋問調査から二つの引用を提供している。そのひとつは本当らしく思われる。もうひとつは、吉田が最後まで頑強に立場を守り通したという通説に挑戦したものである。・・・最後の長所からの大谷の引用文を見ると、吉田は植田と同じく、認識を誤ったことを認め、こういう言葉で謝っている。』

『「私の思慮の足らないために、軍を誹謗し、まことに申し訳ないことをしたと思う。この点お許しを願いたい。今後は心境を新たにし、この戦争遂行に、一国民として協力して行きたい。」』

『吉田の獄中の待遇はよかったと一般に認められている。吉田自身はこれを、東京でかつて近所に住んでいたことのある阿南惟幾のとりなしによるものとしている。彼は外から食物の差し入れを受けていた。そして吉田と同じグループの仲間二人の待遇は、社会階層の微妙な差が獄中まで浸透していたことを描き出している。三人のなかで血統も社会的な関係もいちばんいい吉田は第一号の独房に、それより身分の低い植田は第二号独房に、無位無官の平民、岩淵は小さな雑居房に入れられた。一説によると、吉田の食物に毒が入れられないように、黒崎中佐さる者が部下の兵を憲兵にやって調べさせたという。』

『この逮捕事件は不愉快なエピソードではあるが、それは吉田の「反戦」信任状にひとつの刻印を押した。それはちょうど、共産主義や「危険思想」の持ち主たちが戦前のはるかに長い年月にわたって入獄を経験したことから信望を得たのに似ていたが、彼らは解放されると戦後の時代における吉田の政治的敵対者になっていくのであった。』

吉田は一年のうちでもっとも気候の良い4月下旬から5月にかけて、快適な独房に差し入れ自由という状態で40日間拘束されただけで、反戦主義という天下御免の印籠をもらったのだ。また共産主義についてのジョン・ダワーの認識は甘い。共産主義とは、資本主義を追求していった究極の形態である。マルクスを育てレーニンを支援したのは、ユダヤ国際金融同盟である。日本共産党は、田布施ゲットーが創出した天皇教のバリエーションなのだ。

鬼塚英昭氏『日本のいちばん醜い日』より以下抜粋。

『天皇教が創作した神話の一つが、日本共産党である。日本共産党は反天皇ではないのか、と考えている読者がおられれば、天皇及び国家体制に疑いの目を向けよ、と説得する。』


『大室寅之祐の田布施の小さな特殊被差別村から、多くの政治家や実業家たちが輩出した。その中で忘れてならないのが、マルクス主義者たちも、この部落とその周辺から出てきたということである。その中の傑出した人物が川上肇であり、宮本賢治であった。そして彼ら二人は天皇教護持のために、その生涯を捧げるのである。』


『どうして天皇と共産党が結びつくのか。これはいたって簡単な答えで読者を納得させうる。田布施村を出て、一代の成り上がり者の「てんのうはん」となった明治天皇と伊藤博文らは、優雅なる生活をたのしんだ。大室寅之祐は馬に乗ったり、相撲をとったりし、それに飽くと、江戸城に造った千代田遊郭で女たちを抱きまくった。』


『生活が一変した。彼らは自分たちの秘密を隠す方法を数多く、しかも巧みに採用した。大名や貴族たちを優遇するために華族令をつくり、公・侯・伯・子・男などの新しい貴族たちを大量につくった。』

◎この中に自分たちももぐり込んで、素性を粉飾したのである。

『その反面、不満分子を抑えねばばらなかった。治安維持体制を強化した。明治、大正、昭和へと時代が変化すると、彼らは赤化革命を恐れるようになった。日露戦争の勝利の後にロシアに革命が起こった。天皇制を維持するには、赤化革命を防止するしかない。天皇制は赤化革命を逆手にとり、これを採用することにした。日本はマルクス主義を極端に取り入れた天皇教国家社会主義の国家となったのだ。日本ほど、マルクス主義を巧妙に取り入れた国家はなかったのである。』

『あの田布施から川上肇が出て、京大でマルクス主義の教授となり、木戸幸一、近衛文麿、原田熊雄(西園寺公望の秘書、国際金融財のエージェント)らにマルクス主義を教えたのである。河上肇と宮本賢治が田布施村から出たが、同じ山口県の萩から野坂参三が出てくる。天皇の銀行・横浜正金銀行から金をもらい続け、モスクワ・アメリカ・中国へとわたり諜報活動した多重スパイであった。ソヴィエトのスパイ、アメリカのスパイであった野坂参三は、何よりも天皇教のスパイであった。』

『私は、日本が南進策をどうしてとるようになったのかを、すなわち、どうしてアメリカと戦争をするようになったのかを書く。そのために野坂参三も書かなければならない。「日本共産党は唯一、太平洋戦争に反対し続けた政党である」とは、日本共産党が主張し続けている“定説”である。本当にそうであろうか。この“定説”に挑戦する。』


『1933年、野坂参三は日本の公安の助けを受け、変名(「ロイ」)となり、ゾルゲに日本を売るための工作をすべくアメリカに渡る。野坂参三は画家の宮城与徳をゾルゲのもとに送り込む工作に入る。ゾルゲ機関とは、日本の公安と野坂参三一味が天皇教護持のために組織したものである。』


『私は西園寺公一と尾崎秀実から、ゾルゲが日本の重要機密文書を得て、これをスターリンに送り、スターリンは日本の南進政策を知った、という説を認めるわけにはいかない。どうしてか。日本の公安の犬、野坂参三がゾルゲのために働いているとみられるからである。』

『私はたくさんのゾルゲ事件の本を読んできたが、ほとんど例外なく、西園寺公一と尾崎秀実が極秘裡に国家の情報を盗み出しゾルゲに渡したとの“ストーリー”で出来上がっている。日本の憲兵たちは一市民のトイレの落書きまで手帳に記して上司に報告していたのである。ゾルゲが多くの女たちと情事にふけり、バイクを乗りまわし、公然と尾崎秀実や他のニュース提供者と会っていたことは全部、木戸幸一内大臣に報告されていた。天皇と木戸は大いに喜び、西園寺公一に情報を提供しまくっていたのである。』

『野坂参三が日本に送り込んだ宮城与徳の仕事は、ゾルゲ機関の中に入って、日本共産党をつぶすための秘密工作であった。ゾルゲの仕事も宮城与徳とかさなっている。その理由は簡単である。日本共産党員の中に、本当の意味−天皇一族が日本共産党をつくった−を知らず、戦争反対を叫ぶ連中がいたからである。太平洋戦争に突入する前に、日本共産党が袴田里美という天皇教のスパイ一人を残してほとんど壊滅するのは、野坂、スターリン、そして木戸幸一らの策動によるものだ。』


『木戸幸一内大臣が持っていたクレムリンの最高の情報ルートは、間違いなく、野坂参三のルートであった。多くの資料がソヴィエ連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世にいう多重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。』


『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに浸入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第64回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年の8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』


『野坂はこの年の5月9日、モスクワを出発し、南回りルーマニア経由でパリに行き、ニューヨーク経由で空路、ロサンゼルスに行く。ニューヨークよりコミンテルン宛に「アメリカで活動せる情報部員、組織部員をモスクワで養成させる」ことを提案している。「実録野坂参三」(近現代史研究会編著)の中に、このことが書かれている。』


『私は、太平洋問題調査会の第64回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。』


『南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の6月ごろから年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にし、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

『ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方ソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのであろう。』

◎私はこの一味から近衛を除外する。太平洋問題調査会のヨセミテ国際会議で、尾崎秀実のコネクションを手配したのは野坂参三だけではない。前述したように牛場友彦が尾崎秀実の助手に近衛文隆を手配した。ただし野坂と牛場の手配は個別に行われている。野坂は吉田とは組んでいない。再び話を文隆に戻す。

西木正明氏前掲書より以下抜粋。

『出発は昭和13年10月1日と決まった。それまでの約20日間、文隆は支那関連の本を集めて読みふけった。中山優の「支那対策の本流」にも目を通した。一読して父文麿公が中山を高く評価する理由が分かったような気がした。支那に対する深い洞察は余人にないものだったからだ。文隆がとりわけ熱心に読んだのは、陸軍恤兵部(じゅっぺいぶ)が編纂した「支那事変戦跡の栞(しおり)」という上中下三冊からなる書物だった。これは、盧溝橋にはじまる支那事変の流れを丹念に記録してあるのみならず、戦場となった各地の故事来歴をも簡潔に記述してあり、手っ取り早く現地の実情を把握するには便利な文献だった。同時にこれは、現地に派遣された日本軍が、政府の不拡大方針を無視して、いかに独断専行を繰り返したかの、あからさまな記録でもあった。文隆は、腹立ちを抑えて二度繰り返して読んだ。』

◎昭和天皇は常に現地軍の独断専行を追認し、よくやったという勅語を与えていた。満州事変以来これが習慣化していた。これを現地軍の独断専行と言うのだろうか。現地軍の判断に任せていた現地優先主義というべきではないのか。

『帰国してから四日後、文隆は総理大臣執務室で、近衛首相と風見書記官長に対し、今回の前線視察の報告を行った。すべて口頭での報告だった。表向きの慰問旅行としての報告だけでなく、現地軍の動向や将官将兵たちの言動など、見聞したすべてについてくわしく話した。報告のまとめとして、文隆はこう述べた。「現地軍は、政府の不拡大方針など、まったく無視して行動しております。このまま事が推移しますと、かなりの確率で重慶まで行くと思います。そして・・・」ここからは私見ですがと断って、文隆は次のようにしめくくった。「万一皇軍が重慶に迫り、蒋介石が進退極まった場合、一番問題になるのは、アメリカの出方だと思います。彼らがこのまま手をこまねいているとは、とうてい思えません」近衛首相は、しばらく瞑目していたが、やがて目を開き、ぽつりと言った。「ボチ、ご苦労だった。今の最後の言葉は、覚えておく」』

『11月末日午前10時。近衛首相のお供をして、宮中参内から帰ってきた文隆に、牛場が声をかけてきた。「例のボチ君の慰労会だが、明日午後七時から、銀座五丁目のビア・レストラン、ラインゴルドということにした。ボチ君なら、堅苦しい料亭なんかより、そういう所のほうがくつろげるだろうと尾崎君が言うんで、そこに決めた。明日の夜はあけておいてくれよ」「ありがとうございます」いつもながらの牛場の配慮に、文隆は心の底から礼を言って頭を下げた。』

◎いつもながらの牛場の策略に、文隆は気が付かなかった。

『12月1日夜七時。左手奥のテーブルに、尾崎が座っていた。そして、彼の右手には、大柄な白人が腰を下ろしていた。文隆を認めた尾崎が、こっちだ、という風に手を上げた。文隆は、外国人が同席するということは聞いていなかったので、牛場が到着するまでのことだろうと思いつつ、そのテーブルに近づいて行った。尾崎が笑顔を浮かべて立ち上がり、「お役目ごくろうさん。大変だったでしょう」と言いながら、文隆の手を握った。その白人も立ち上がった。「近衛さん、ゾルゲです。去年、満鉄ビルの”あじあ”でお目にかかりました。」瞬時に記憶が戻ってきた。「もちろん覚えていますよ。ドクター・ゾルゲ。あの節は失礼しました。」「昨日、たまたまほかの要件でゾルゲさんにお目にかかり、今日ボチ君と飯を食うと言ったところ、さしつかえなければ自分も参加したいとおっしゃるんでね。いいだろ?」「いいにきまってるじゃないですか。わたしも、ひさしぶりにドクター・ゾルゲと旧交を温めたいですし」ほどなく牛場が到着した・牛場には一人の同伴者がいた。「ボチ君、しばらくぶりだね。その後、大変なご活躍で、ご苦労さん」そう言って手を差し出したのは、西園寺公一だった。西園寺とは、アメリカのヨセミテ以来である。西園寺はすでにゾルゲとも親しいらしく、鮮やかな英語であいさつを交わしながら、手を握り合っていた。「結局あの時の因果が今に及んで、私は現在、日本太平洋問題調査会の事務局長なる役割を仰せつかっているよ。事務局長といったって、実態は小間使いだがね」』

◎まったくあの時の因果が今に及んで、文隆は、尾崎秀実・ゾルゲ・西園寺公一に取り囲まれているのだ。牛場友彦が手引きした結果である。

『ゾルゲが「ああ、楽しい夜だ。よかったら、河岸を替えてもう一杯飲みませんか」と言った。ひとり牛場だけが「ちくしょう。いつも俺は、いいところでリタイヤしなくてはならん。明日の閣議で来年度予算概算を大蔵原案どおり承認するための段取り作りがある。くやしいが、これで失礼する」』

◎36計、逃げるに如かずである。いずれ使い捨てにする尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲ。いずれ抹殺する予定の近衛文隆。西園寺公一は昭和天皇の身内も同然の身分で、天皇の依頼で尾崎とゾルゲと付き合っている。しかし牛場友彦はこれ以上の長居は危険である。


『「ドクター・ゾルゲは、ドイツ生まれですよね。ドイツのどこで生まれたんですか?」「別に隠す必要もないことだから、言いましょう。わたしの両親はまちがいなくドイツ人です。だけど、わたしが生まれたのは、ドイツではありません。カスピ海のほとりの、アゼルバイジャンです。」「アゼルバイジャンって、ソ連の?」「そうです」ゾルゲは平然として頷いた。「父は、優秀な石油採掘技師でした。ロシアがまだ帝政だった頃、アゼルバイジャンの油田開発にドイツが協力することになり、多くの石油採掘技師が現地に住み込んで働いたのです。わたしはそこで生まれました。正確に言うと、アゼルバイジャン最大の都市バクー郊外に広がる、ムガン平原という油田地帯の片隅です。おかげで、ドイツに引き揚げてからのあだ名がムガンだったんですよ。友だちの悪ガキどもに。おい、ムガンって呼ばれてね。わたしにはもうひとつ、イカというニックネームがあって、自分ではそっちが気にいっていたので、くさりました。でもまあ、ムガンも悪くはないですけど。ところで、近衛さんは、なぜボチなんですか?」』

◎『夢顔さんによろしく』という表題の謎がここで解き明かされている。夢顔とはムガン、すなわちゾルゲのことである。後年ソ連に抑留された文隆は、故国の家族あてに手紙を書くことを許されるようになると、『夢顔さんによろしく伝えてくれ』という謎の言葉を繰り返した。ゾルゲによろしくという意味だったのだ。当時尾崎とゾルゲが処刑されたことを知らなかった文隆は、ゾルゲと自分が捕虜交換で帰国する可能性があると考えていた。


近衛内閣が退陣すると尾崎秀実も官邸を去ることになった。風見章は引き続き尾崎を近衛に近づけておくために、赤坂溜池の山王ビルに尾崎のために一室を確保して「支那研究室」の看板を掲げ、ここに『朝飯会』の連中を出入りさせた。文隆も折に触れて顔を出し、尾崎から支那に関する薫陶を受けた。


文隆は再度上海に渡り、テンピンルーという美しい日中混血のスパイに出会う。ピンルーは蒋介石政権の要人と日本女性の間に生まれた美貌の二重スパイである。彼女は蒋介石政権と日本政府の和平交渉工作をしていた。ピンルーは文隆を橋渡しにしようと接近するが、文隆の人柄に触れて熱愛関係に陥る。文隆はピンルーの主張に共鳴し、重慶の蒋介石とのに直接交渉を試みる。官憲の包囲網を突破しようとするが、二人の逃亡劇は未遂に終わる。

文隆は保護され帰国を命じられる。ピンルーは『ジェスフィールド76号』に銃殺される。『ジェスフィールド76号』とは、当時泣く子も黙ると恐れられた秘密工作部隊の名称である。反日分子の始末と汪兆銘傀儡政権の樹立のために設けられた機関だった。ピンルーが自分の処刑を察知して泣き喚いたという目撃談は、ピンルーをひいては文隆を貶めるためのねつ造である。
帰国した文隆に召集がかかる。

『1940年1月29日、文隆のもとに召集令状が届いた。徴兵に応じることを命じた、いわゆる赤紙がきたのだ。なにもかもが異例ずくめの召集だった。ふつう赤紙による召集は、次のような手順を経て行われる。満二十歳に達した壮丁(男子)は、戸籍を有する役所や役場に、徴兵年齢届を出す。それにもとづき、4月26日から7月31日の間に徴兵検査が行われる。徴兵検査に合格し、現役兵となった者の入営は。1月10日と決められている。これを定めた兵役法には免除や延期の規定があり、中学校や大学予科、大学などに通う学生は一定の年齢まで兵役を免除される。また、この時期に外国に滞在している者には、帰国まで兵役につくことを延期するという規定もある。文隆は、プリンストン大学在学中および、上海で東亜同文書院に勤務している間、これらの適用を受けていた。また首相秘書官在任中は、総理大臣という最高位の勅任官に付属する立場ということで、兵役を免除されてきた。そして、首相秘書官などを務めた経験を持つ者は、以後も高位の官吏と同等の地位に就く可能性が強いということで、兵役は免除されたままになることが多い。文隆はそれらすべてに該当する上、徴兵検査も受けていない。したがって、召集の対象となる現役兵ではないのである。なのに召集令状がきた。臨時招集の形をとった徴兵であった。なにがなんでも、文隆を軍隊に放り込む、そういう意図が感じられる召集だった。』

『牛場らが驚いて、異例の召集の背景をさぐってくれた。その結果、背景に憲兵隊の強い意向があるということがわかった。』

◎牛場はよくこういう臭い芝居を平気でやると思う。

『はたして、指定された入営場所は満州であった。』

◎はたしてシナリオ通りであった。

『文隆が配属されたのは、手塚という中尉に統率される第三中隊だった。中隊内での担当は内務班で、下士官の班長以下、隊内のこまごまとした雑務を一手に引き受けることになった。入営した翌日から、きびしい練兵教練が待っていた。教練だけではない。兵舎の雑巾がけ、便所掃除、古年兵の衣類洗濯も、文隆たち初年兵の仕事だった。なかにはわざとやったのではないかと思われるほど、糞だらけの褌もあった。糞といえば、便所の汲み取りも難物だった。酷寒地なので、便所の中の糞はかちかちに凍って石のようになっている。それが日に日に増えていく。これを汲み取るために、鉄棒でつついて、凍った糞を細かく砕く。それスコップ等ですくい取る。凍った糞の破片が軍服にこびりつく。それが暖かい室内に戻った後で溶け、ひどい臭気を発した。こんな時は、内務班に配属されたことがつくづく嫌になった。支給された寝具毛布状袋は、大柄な文隆には丈が足りなくて、もぐり込んだ後ろ足を縮めて寝るしかなかった。そうやって聞く消灯ラッパの音色は、たしかに、誰言うともなく言われるようなった、♪新兵さんはかわいそうだなー、また寝て泣くのかなー、と聞こえるような気がした。』

◎糞まみれの文隆であった。

『1941年4月25日、第一次幹部候補生考査が行われた。この試験に文隆は、周囲はもちろん本人も予想外の一番で合格した。筆記試験はともかく、口頭試問の人物考査で断然の好成績を収めた結果だと、後で試験を担当した上官に知らされた。文隆は意外だった。口頭試問の折に、アメリカ留学を途中で切り上げた理由を根掘り葉掘り聞かれ、正直にこう答えたりしたからだった。「落第しまして、学業を続ける見込みがなくなったからであります」自分ではまずい答えだと思ったが、それが正直で飾らない人柄だと評価されたのだという。』

『1941年10月15日、尾崎秀実は、上目黒の自宅でのんびりと朝食をすませ、新聞などに目を通していた。そこに来客があった。女中が客の名刺を尾崎に渡した。東京地検の玉沢三郎検事のものであった。>という走り書きがしてあった。わずかの間考えた末、尾崎は妻の英子を呼び、「ちょっと出かける」と告げて、背広に着替えた。それから尾崎は、ポケットから銀行預金通帳と印鑑を取り出して、妻に手渡した。その通帳の残高は、三百円であった。』

『尾崎秀実逮捕から三日後の18日早朝。午前6時、麻布区永坂町にあるリヒャルト・ゾルゲ宅の玄関前に、五人の男が立った。「お早うございます、ゾルゲさん。朝早くから申し訳ありませんが、先日の自動車事故の件で、伺いたいことがあっておじゃましました」ゾルゲが、え、という顔をした次の瞬間、裏庭のほうから号令がかかった。「今だ!」斉藤以下四人の刑事がゾルゲに飛びかかった。腕をねじ上げて表に連れ出す。ゾルゲはまだ事態が呑み込めないのか、抵抗せずに歩きだした。』

『この事件そのものは極秘扱いとされ、半年以上にわたって世間に発表されなかった。10月30日、文隆は現役満期となり、予備役に編入された。平時であれば、これで娑婆に戻れる。しかし、日米関係の緊張がそれを許さず、即日臨時召集され、陸軍少尉任官となった。それから一か月余り後の12月8日、日米開戦。日本は同時にイギリス、オランダ、オーストラリアなどとも戦争状態に入った。局地戦争にすぎなかった支那事変とはケタちがいの、未曽有の大乱に突入したのだ。』

◎文隆は二度の召集に応じ、この後満州にくぎ付けにされる。

『文隆は異色の小隊長であった。教練時など、余計なことをいっさい言わず、要点だけを指示して、あとは下士官や兵士の判断に任せた。配下の不始末も、一身に引き受けて懲罰を甘受、平然としていた。その悠々たる指揮ぶりに、部下の下士官や兵士が感服し、深い信頼を寄せた。上下関係を問われる公の場ではともかく、個人的には、部下も同僚も、みな文隆をボチさんと呼んだ。』

『この頃親しく行き来した民間人に廣兼篤郎という人物がいた。ビールを飲みながら談笑しているうちに、廣兼がふと、こんなことを言った。「ボチさんは、以前父上が総理大臣だった当時、秘書官をなさっておられたんですよね」「そのとおりです。しかし、すでに昔話に近くなりましたよ」「ここに出ている尾崎秀実さんという人は、第一次および第二次近衛内閣当時、内閣嘱託を務めたと書かれています。もしかして、ボチさんもご存じなんじゃないですか?」「えっ、尾崎さんがどうかしたんですか?」「やはりご存じでしたか。大変な嫌疑をかけられているようですよ」「嫌疑?−なんの嫌疑だろう」まさか、と思いつつ、廣兼から新聞を受け取り、さっと目を通した。文隆はしばらく茫然としていた。これは何かのまちがいだ。文隆はそう思った。尾崎秀実は牛場友彦の親友で、近衛内閣の書記官長だった風見章の信頼が厚く、官邸内に専用の部屋まで与えられていた。』

◎何かのまちがいではない。牛場と風見が共謀していたのである。この廣兼篤郎も連中が差し向けたお目付け役で、文隆をソ連に拘留させる工作の陰の主役の一人である。

『「だいぶ驚かれたようですね」「驚いた、なんてものではないですよ。でもボチは、これはなにかのまちがいだと思います」そう言いながら文隆は、それにしても今まで、尾崎と親しい風見章や牛場友彦らが、なぜ手をこまぬいていたのだろうと思った。記事によると、尾崎らが検挙されたのは昨年の10月15日だという。かれこれ7か月前のことだ。友誼に厚い風見や牛場のことだ。この間なにもしなかったということはないはずだ。まして尾崎は、近衛内閣嘱託という公的な立場にあった者ではないか・・・。第一、検挙されたのが10月15日というのがおかしい。第三次近衛内閣が総辞職したのは、この翌日の16日であった。−これはなんらかの謀略だ。』

◎そうだ、これは昭和天皇と吉田茂の謀略だ。尾崎をスパイとして利用して、その尾崎を近衛内閣の嘱託にする。そして近衛内閣が総辞職した翌日に尾崎を逮捕させる。悪知恵と底意地の悪さでは、この二人の右に出るものはいない。まさにゴールデン・コンビである。

『1942年12月1日、下城子駐屯部隊の将校のみを対象とした、座学講座が開かれた。講師は、下城子の北方約400キロの、ソ満東部国境の町虎頭(フートン)に駐屯している、第四国境主守備隊長、秋草俊大佐である。秋草大佐は、陸軍士官学校を終了後、東京外語専門学校に入り直し、ロシア語を修めた。その後ハルビン特務機関員やドイツ星機関長を歴任後、陸軍中野学校の別名で知られる後方勤務要員養成所の初代所長を務めた。陸軍きってのソ連通として知られるばかりでなく、経歴からもわかるように、諜報工作畑の権威でもある。』

◎秋草俊も連中の回し者である。彼はこの後も、文隆のターニング・ポイントの要所要所で登場する。

『「ソ連の状況についえ話せとのご要望ですので、浅学をも顧みず、若干の時間をいただいてお話申し上げます。わたしどもの知るかぎり、トハチェフスキーらは、まったくのでっち上げ。すなわち無実の罪をきせられて処刑されました。スターリンは、国民的に人気のあるトハチェフスキーらが、自分の地位をおびやかすという妄想にとらわれ、先手を打って抹殺したのです。彼らの肉親も、ことごとく殺されるか、遠隔地に流刑になったという情報があります。」』

『秋草はこうした犠牲者が出る裏には、国民同士を相互に監視させ、密告させるシステムができていることがある、と説明した。続いて秋草は、ソ連に点在するおびただしい数の監獄と共生収容所について触れ、その存在が、いかにしてスターリンの恐怖政治を支えているかを、実例を挙げて説明した。「たとえば、モスクワ市街のど真ん中にあるルビアンカという元保険会社の建物は、現在NKVDなる秘密警察の本部になっております。この建物の中庭の一角と地下が監獄になっていて、おもに政治犯が収容されております。ここに入ったが最後、生きて帰ることは不可能とされている場所で、ソ連人たちにとっては泣く子も黙る存在であります。トハチェフスキーらが逮捕されたのも、このルビアンカの地下の処刑場でした」』

◎数年後、文隆と秋草大佐はソ連収容所で再開する。文隆は秋草の前講義を受けていたので、自分の置かれた状態を良く把握することが出来た。秋草は文隆と同じ房に収監されて自分の運命を悟り、全てを打ち明けた。秋草はある夜突然連れ去られ、生きて故国の土を踏むことはなかった。

話は戻って、文隆は帰国して見合いする。

『1943年11月29日。文隆は二か月の長期休暇を与えられて、下城子を出立した。応召以来あしかけ四年ぶりのまとまった休暇である。12月5日昼前、東京駅に帰着。荻外荘に荷ほどきし、この日はゆっくりして、昔年の軍隊の垢を落とした。翌日、体調を崩して入院中の文麿公を見舞った。文隆に満州方面の状況を聞いた後、ぽつりと、「万一満州にソ連が入ってくるようなことがあったら、この戦争は終わりだ」と言った。』

『12月10日、荻外荘に牛場友彦が顔を出した。「近衛公をお見舞いしたら、ボチ君が帰ってきたとおっしゃるんで、顔を見にきたよ」牛場はそう言って、しばらく一別以来のよもやま話をした後、ふいに声をひそめて言った。「ボチ君は、もちろん尾崎の事件を知っているだろう?」一瞬のためらいの後、文隆は小さくうなづいた。牛場はたたみかけるように、「では、彼に死刑判決が出たことも、知っているか?」と言った。「えっ?・・・それは知りませんでした。」「風見さんなどがいろいろ尽力しているようだ。それに、まだ上告審がある。それまでに、何か動きがあれば、判決がくつがえる可能性も出てくるだろう」「動き、というと」「例えば、ソ連がゾルゲの引き渡しを要求してきて、それに我が国が応じる場合などだ。向こうにも、我が国の人士で、スパイ容疑で捕まってる者がいるから、それとの交換ということになるだろうがね。主犯のゾルゲが刑の執行を免れたのに、尾崎らを極刑に処すわけにはいかんだろう」「おもうさん(お父さん)に、上告審が有利に展開するよう、力添えを頼んでみましょうか」「だめだめ。それこそ、軍部の思う壷にはまる。日米開戦直前の16年10月、あの事件が発覚したこと自体、何者かの意図があるとわれわれは睨んでいる。事実、事件発覚後、風見さんはもちろん、近衛公まで検事の尋問を受けた。かくいう私も、尋問を受けた口だがね。われわれは、塁が近衛公に及ばないようにするために、必死だったんだ。そのことは尾崎も良く分かっていて、調べに対し、近衛内閣の関係者は一切無関係だと言い張ったらしい。彼は骨があるよ」』

◎さっそく牛場が偵察にやって来た。牛場友彦は風見章と組んでマッチポンプ役を演じている。風見章は1933年に発足した「昭和研究会」のメンバーに、まっさきにゾルゲを推薦した人物である。牛場は岸道三と謀って1937年に「朝飯会」を作り、まっさきに尾崎と西園寺公一をここに引き入れた。風見と牛場は尾崎とゾルゲを罠にはめ、近衛に塁を及ぼすようにした張本人たちだ。

明けて1944年1月23日、文隆は見合いする。昭和天皇の勅命である。相手は浄土真宗本願寺派本山、西本願寺法王、大谷光明の娘、母は良子皇后の妹・大谷正子。つまり昭和天皇の義理の姪である。

『この頃から、太平洋方面の戦況はいよいよ切迫の度を深めた。7月に入ると、7日にはサイパン島守備隊が全滅、4万人以上の将校と住民1万人が玉砕した。18日、東条内閣がついに総辞職、前朝鮮総督小磯国昭陸軍大将に組閣の大命が降下した。こうした騒然たる雰囲気の中で、文隆の結婚準備が進められた。逼迫した状況に鑑み、近衛公は文隆にふたたび長期休暇を取らせるころはできないと判断、満州において簡素な結婚式を挙げさせることにした。』

サイパン陥落で日本の敗戦は決定した。将棋でいえば「まいりました」である。米内光正でさえ「誰がどうどう考えても負けである」と言った。このような時期に大元帥昭和天皇は義理の姪に満州で結婚式を挙げさせ、現地で兵役に就いている文隆と新婚生活をさせたのである。媒酌人は木戸幸一。


昭和天皇と吉田茂は、敗戦のシナリオを知悉している。いずれソ連が満州に侵攻し、戦後世界は米ソによって二分され。ソ連国境に近い満州は地獄となる。昭和天王と吉田茂はその危険な満州に正子を送り込む。敗戦直後の混乱した状況の中でも、正子を囮に使えば文隆をおびき寄せることが出来るからだ。昭和天皇は皇后の姪を、文隆に罠を仕掛ける道具に選んだのである。


10月12日文隆と正子は満州で挙式する。近衛文麿は多忙という理由で欠席した。出席者の中には秋草少将の顔があった。『大任』を果たした木戸は、心の底からうれしげだった。そして11月1日、牛場友彦と岸道三が、満州くんだりまで偵察にやって来る。

『「あの後、尾崎さんたちはどうなりました?大審院に上告した結果はもう出たんでしょう?」「機密扱いで発表されていないが、伝え聞くところによると、上告棄却らしい」「えっ、ということは死刑が確定したと」「しかし、まだ諦めるには早すぎる。普通、死刑が確定しても、実際に処刑がなされるまでにが、数年の時間的余裕がある。その間なにか社会的慶事があれば、恩赦が期待出来る」「そうですね。とりあえずは、大東亜戦争の終結と、それに続く講和発効などが、ひとつのチャンスですね」』

◎牛場はオトボケの名人である。何が伝え聞くところによるとだ。謀略関係者の一員なのだ。牛場はすべて知っている。尾崎とゾルゲは用済みになり口封じされる運命にある。この会話のわずか10日後、尾崎とゾルゲは刑された。


1944年11月7日ソヴィエト革命の記念日の朝、尾崎が約3年を過ごした東京拘置所2舎1階11房に執行人が迎えに来た。尾崎は処刑場の入り口の小部屋で、勧められたお茶を続けざまに二杯うまそうに飲み干した。絞首台の手前まで来ると、尾崎は後ろに控える人々に軽く頭を下げて言った。「では、さようなら」尾崎の最後の言葉だった。その後目隠しをされ死刑執行台の上に乗った。獄中の尾崎と家族の往復書簡は『親友』の松本慎一が奔走して一冊の本となって出版された。本は大ベストセラーとなり、印税は遺族の生計を支えた。尾崎が口をつぐんだままあの世に往ってくれたご褒美であった。

『満州に本格的な冬が訪れた。酷寒の中、文隆は平和で静かな日々を送っていた。なにもない、辺境の軍人生活。しかし文隆は幸せだった。夕刻、文隆の小さな影が、草山の稜線付近にぽつんと現れる。正子は外に飛び出して、その影が大きくなりつつ近づいてくるのを、飽かず眺めていた。』


私はここを読んで胸が痛くなった。西木氏の筆によって正子のひたむきな慕情が伝わってくる。この慕情が道具に利用されるのだ。

『戦況の悪化とともに、満州でも何が起こるか分からないという雰囲気になってきた。「なるべくすみやかに家族を内地に引き揚げさせるように」という命令が、さりげなく下された。』

いったん正子は廣兼篤郎宅に泊まって、帰国手続きを取り始めた。しかし文隆から家族同伴での赴任が認められたという手紙が届く。


『正子は大喜びで手続きを中止した。』

『7月1日、文隆が正子を迎えにきた。「家族同居が認められたものの官舎がない。知り合いのお宅に間借りすることになる」文隆にそう言われたものの、夫といっしょに生活できるのであれば、住まいなどどうでもいいと正子は思った。文隆が用意した住まいは、山本庄吉という人の家の、二階の一間だった。家族同然とは名ばかりで、文隆は山中の駐屯地で兵と起居をともにし、週に一度くらいの割で町場に出てきた。しかし、それを埋め合わそうとするかのように、文隆は正子を楽しませようとした。』

文隆は1940年からずっと満州で兵役に就いていた。最初の召集を満期務め上げ予備役に編入されたが、臨時招集をかけられ引き続き満州で兵務に就いた。昭和天皇と吉田茂は文隆を拘束し続け、そういう状況の中で正子とお見合いさせた。幸か不幸か二人は強く惹かれ合った。正子は文隆と一緒にいるためなら命を懸けた。

『8月9日未明、宿舎のテントで熟睡していた文隆は、「中隊長殿、中隊長殿、起きてください」という呼びかけに眠りを破られた。「つい先ほど入った連絡によれば、ソ満国境数か所でソ連軍の越境が認められると・・・」「なんだと!」跳ね起きた文隆は、すぐさま連隊長のテントに出向いた。「ソ連軍が越境したというのが本当でありますか?」文隆の問いに、飛松大佐は小さく頷いて、「いよいよきたぞ」と言ってから、声を張って号令した。「全員即刻戦闘配置につけ!空爆が予想されるので、砲の遮蔽を十分考慮すべし」』

『7日間に渡って断続的な爆撃が繰り返された。8月14日、ソ連軍が駐屯地の周囲に迫った。しかし、警戒してのことか、なかなか攻撃をしかけてこなかった。8月15日午後4時前。飛松連隊長が各中隊の中隊長に集合を命じた。「関東軍司令部からの無線連絡によれば、本日正午、畏くも天皇陛下におかせられては、直接ラジオを通じ、御自らの玉音を持って大東亜戦争終結を宣言された。それを受けて関東軍司令官は停戦命令を発した。したがってわれわれも、今現在をもって戦闘行為を終結する。」』

『一度も敵と戦火を交えることなく、戦争が終わってしまった。それにしても、下城子にいる正子は大丈夫だろうか。下城子はソ連との国境に近く、戦車だと数時間で到達されてしまう。11日、女子供は急いで後方に退避せよという命令が出され、避難用のトラックが用意された。正子は着の身着のままでトラックに乗せられ、下城子を脱出した。』

正子はハシカを患っている女性を看病しつつ、途中でトラックを降り廣兼篤郎宅に向かった。文隆を待つためである。やがて周辺から日本軍の姿はまったく消え失せ、代わってソ連軍が大挙して入ってきた。廣兼は正子を足止めし、ソ連将校イワノフ中佐に通報する。イワノフ中佐は廣兼宅に当直将校をつけて『護衛』させ、もし正子が望むなら文隆を探してあげようと持ちかける。正子には謀略が分からない。

『正子は、イワノフが突然神様に変身しように感じられた。思わず強い調子で「お願いします!」と言った。イワノフは頷いて、「ではやってみましょう。ついては、少し手がかりが必要です。終戦前、ご主人が最期におられた場所はどこですか?」』

イワノフは正子から聞いた文隆の所属部隊をメモして帰って行った。文隆は探し出され、正子のもとに連れて来られる。正子は大喜びで迎えた。本当に文隆本人かどうかテストされたのが分からなかったのだ。本人確認が取られた文隆は、三日後、再び連れ去られる。これが文隆と正子との永訣となる。

『日本時間の10月23日夜10時。東京・麻布狸穴にある中日ソ連代表部の一室。中日代表クズマ・テレビヤンコ中将に、通信担当将校が解読したばかりの暗号電文を手渡した。モスクワの赤軍情報管理本部GRUが発信元で、極秘扱いだった。 テレビヤンコは、電文をしばらく睨みつけた後、細かく破り裂いてクズかごに捨てた。』

◎テレビヤンコ中将は吉田茂にこれを報告した。吉田茂はテレビヤンコに金を与え、近衛文麿プロパガンダを依頼した。テレビヤンコはGHQ民生局のホイットニー少将とランチを楽しんだ折、近衛文麿が新憲法草案策定作業の責任者になっていることに苦情を申し立てた。

『この時ホイットニーは、反論も賛成もしなかった。だがテレビヤンコの目的は、東京から1万3千キロ以上離れたニューヨークで、さっそく果たされた。アメリカ東部標準時間で10月26日付けのニューヨークタイムズ紙は、この日の社説で次のように論じた。』

◎吉田はウイロビーにも依頼して、朝日新聞に近衛プロパガンダの社説を掲載させた。前回掲げた記事である。息子の身柄を抑留すると同時に、父親を追い込む包囲網が敷かれる。昭和天皇と吉田茂による近衛父子抹殺指令の本格的に始動したのである。

『文隆がノヴォニコリスク収容所に連行されてきたのは、昭和20年の10月31日である。ここには日本軍の将官クラス、および満州各地に展開していた日本の在外公館職員、満州国政府に派遣されていた日本人高官などが収容されている。』

『文隆は満州に駐屯していた部隊の一員だったとはいえ、終戦時の戦闘にも関わっていない。だから、ソ連に留め置かれる理由などなにひとつないはずだ。文隆はそう確信していた。』

◎文隆は知らなかった。自分たち父子を抹殺する工作が東京ですでに二か月前に進行していたことを。

『9月11日、東条自殺未遂の報に世間が騒然としている午後七時。東京・麻布狸穴にあるソ連代表部では、テレビヤンコ中将を中心とした数名の男たちが、ロシア語に翻訳された書類に目を通していた。読み終えたテレビヤンコが、書類を机の上に放り出して、小さく頷いてつぶやいた。「これはつかえる」』

◎ロシア語に翻訳された書類をテレビヤンコに見せたのは吉田茂である。

『ロシア語で極秘と記されたその書類の表紙には、“1945年2月14日の近衛上奏文およびそれに対応して行われた近衛文麿に対する憲兵隊訊聞調書』というタイトルが付されていた。』

ここに何故吉田茂の名前が出てこないのか。吉田茂は近衛上奏に関与した人物として、訊問どころか逮捕されてムショにぶち込まれているのだ。『敗戦はもはや必須なりと存じ候』の書き出しで始まる近衛上奏文はあまりにも有名だが、これを起草したのが吉田茂であることはほとんど知られていない。原田熊雄は側近から近衛を支えるフリをして吉田のために内偵工作をしている。この原田熊雄を丸抱えして潤沢な工作資金と事務所を提供していたのが、田布施ゲットー御用達・住友財閥である。住友財閥は表舞台で汚れ仕事をしている三井・三菱よりも力を持っている。

工藤美代子は近衛上奏について次のように内幕を描いている。

『近衛上奏の前夜に時間は戻る。永田町の吉田邸を近衛文麿が訪れた。近衛「吉田さん、お聞き及びとは思いますが、明朝お上に拝謁がかなったので上奏いたすことにあいなりました。上奏文の叩き台を持参したので、お手入れなどしていただきたい。」吉田「ふむ、これは容易ならざる上奏文だが、この際は思いっきりやりましょう」吉田はそう言うや硯を側に引き寄せ、ところどころ書き直し足り、修正を加えた。近衛「存分に筆を入れて欲しい」お互いの意見を言い合い、もう一度近衛が清書し終わったころは、深夜二時になっていた。


話し合いと手入れが深夜に及んだので、モーニング姿の近衛はそのまま吉田邸に泊まり込み、翌朝の上奏に備えた。吉田は近衛を先に休ませると、上奏文の写しを丁寧にとった。近衛から、「牧野伯にもぜひよんでもらってほしい」と頼まれたためである。だが、その写しは吉田が寝込んでいる隙に、マキの手で密かに移され、翌日「ヤマ」の手に渡っていた』(工藤美代子『かくやくたる反骨 吉田茂』新潮社より)

工藤美代子は不思議な作家である。正義感と使命感から近代史を検証しているのは伝わってくる。厖大な資料を渉猟し、貴重な文献を提示してくれている。吉田茂、近衛文麿、山本五十六、マッカーサー、貞明皇后、香淳皇后、平成天皇の評伝を総なめしている。しかも工藤は田布施ゲットーの中にまで食い込んで聞き取りをし、どうやって入手したのか希少な写真を貼りつけ、国会図書館憲政室の資料にも目を通して、誰も書かけないことを書いた歴史本を量産している。中田君が自己PRとカルト・ビジネスのために、パクリ粗製乱造本を量産しているのとはエライ違いである。しかしその工藤が肝心のことが何も分かっていないのだ。

保坂正康はもっと何も分かっていない。保坂の編著による『私は吉田茂のスパイだった』を読むと、保坂とスパイは完全に吉田茂に手玉に取られているのが分かる。保坂は吉田にいいように転がされているスパイの手記を読んで、スパイと一緒になって吉田に心酔し絶賛している始末である。東輝次という陸軍中野学校から派遣されたスパイは、真面目すぎて使い物にならない。吉田はこういう堅物を選ばさせて自分に貼り付かせたのだろう。東の手記は、吉田茂の正体を見抜けなかったトンマなスパイの日誌である。これを入手した保坂はただただ有頂天になり、東を心酔させた吉田を絶賛している。昨今保坂の全集が刊行され、図書館の近代史の棚を埋めている光景にはため息が出る。

さて寄り道して、東輝次の手記による吉田の逮捕の場面を見てみよう。ヤラセを知らない彼は思いっきり同情している。

『余はかわいそうになった。年老いたこの「吉田」が、それほど軍部にとって強敵なんだろうか。もし検挙すれば、2,3年の禁固だろうと、C大尉は言っていた。けれど、この老人は悪人ではない。

任務上、こうして密偵として余がいるけれど、決して憎める人ではないのである。よく海岸の散歩にお供をした。自転車に乗せ回った。そして色々と尋ねた。よく何でも笑って答えてくれた。この人が2,3年も留置されれば、ほんとうにその間死んでしまうかも分からない。そして後に残ったこの家族の人たちは、どうなるのだろう。

余は出ていく主人の背の低い姿がいじらしく、瞼に灼けつけた。玄関を離れるとき、「ヨハンセン」は振り返り、心配顔で見送る五人のものに、「心配しなくてもよいからね。すぐ帰るから」と、笑顔を残した。

5月31日、その日も一日の仕事を終え、本を出して読んでいた。突然、「おい」「おい」と、表玄関で声がする。「東さん、旦那様ですよ」しづの嬉しそうな声。ガラガラと開かれた玄関から、いつもと変わらない「ヨハンセン」の顔が現れた。「お帰りなさい。お帰りなさい」家の者の喜びは、たとえもなかった。

余は内心、びっくりした。何の連絡(諜報機関から)もないのである。一体、どうしたと言うんだろう。なぜ釈放したんだ。こんなに早く釈放するくらいなれば、俺がこんな生活をする必要がなかったではないか。余は口惜しかった。でも主人の室に行って、喜びの言葉を述べねばならない。

一通りの挨拶のすんだ後、余は尋ねた。「ご感想はいかがですか」「君、人間一生に一度は入ってみてみるのも、よいところだよ」と言って、大笑した。この笑顔を見ていると、余らの工作班、いな軍閥が完全なる敗北をしたように思えた。』

東はたった40日間で『いつもと変わらない顔』で帰宅した吉田に吃驚している。そして怒り心頭に発している。自分の役目は何だったのだ?と。さしずめ東は、吉田逮捕に花を添えるピエロといった役どころだ。ヨハンセンは憲兵隊に自分を逮捕させ、もっとも気候の良い4月下旬から5月にかけて、快適なムショ生活を短期間すごしてきただけである。吉田茂はこれを次のようにとぼけて見せている。

『召喚される原因は、多分秋月翁の潜水艦の一件だろうと想像していた。ところが件の憲兵隊での取り調べは、秋月翁のことは一切触れない。「二月に近衛公が内奏した詳細な内容を貴殿は承知しているはずだから白状しろ」というのである。これはいささか見当が外れた。しかし私はこの憲兵隊での取り調べでは、一切答えないことに肚を決めた。旧憲法ですら親書の秘密が保障されていたから、内奏文の内容を話す必要はいささかもないと考えた。今流でいう黙秘権を行使したのである。』(吉田茂『回想十年』より)

吉田茂はその後、陸軍刑務所に移され短期間で釈放される。保坂は『なぜ釈放になったのかは、定かではないが』と前置きして、いくつかの伝聞による理由を挙げた後、結局、『憲兵隊の勇み足というのが、案外、的を射ているのではないかと、私には思えるのである』と結論している。簡単に釈放された理由などヤラセ以外にない。しかし保坂正康は東の手記と同じようなマヌケな歴史観を書く。まさに吉田の思うツボである。

『戦後になって、連合国の占領支配を受けたときに、吉田は軍部にもっとも抗した外交官OBとして政界に引き入れられ、外相や首相も経験する。そして昭和23年10月からは、第二次吉田内閣を組閣し、以来昭和29年12月までの6年余にわたって首相として日本の土台づくりを行った。とくに歴史的には、占領下にありながら日本の国益を守り続けただけでなく、前述のようにアメリカと交渉し、講和条約を締結したことが挙げられる。大仰にいうなら、吉田は20世紀の日本、それは明治34年から平成12年となるのだが、このなかで大久保や山形、原敬と並んで語り継がれる宿命をもつ首相といえるだろう。


その吉田が、日米安保条約を結んだのはどのような哲学や思想があってのことか。さらにその心理の底には逮捕事件はどのようは糸を引いているか。あるいは、なぜこの条約は将来問題になると考えて自らだけで調印したのか。そして吉田はその晩年において、この安保条約をどのように捉えていたか。その辺りのことは十分に検証されなければならない。』(保坂編著の前掲書より)

吉田茂が『近衛上奏文』の関与を理由に、自分を憲兵に逮捕させたヤラセは十分に検証されねばばらない。逮捕劇によって戦後占領期に台頭する免罪符を手に入れた吉田に比して、近衛文麿は上奏した本人でありながら訊問されただけであった。なぜ近衛は逮捕されなかったのか。なぜ吉田茂は現役を退いている間ずっと友人を装って近衛に張り付いていたのか。近衛が憲法起草案を奉答して栄爵拝辞した直後にニューズ・ウイ―クと朝日新聞に近衛排撃の社説を書かせたのか。これを合図にマッカーサーの態度が豹変し、近衛の立場は一転し戦犯になった。吉田の免罪と比較対照して十分に検討されねばならない。吉田茂は田布施村王朝次世代リーダーとして、大久保利通、山形有朋、伊藤博文と並べて検証されねばならない。昭和天皇と吉田茂のゴールデン・コンビがそれぞれのコネクションを使ってダレスと直結し、国益に反する口頭メッセージを送っていたことは十分検証されねばならない。

西木氏の『夢顔さんによろしく』に戻る。

『ジェルジェンスキーは、革命直後に創設された反革命取締り組織全ロシア非常委員会、略称チェーカの初代委員長だ。チェーカは後にいくたびかの変遷を経て巨大化し、世界屈指の秘密警察KGBとなる。』

アヴェレル・ハリマンが単身ソ連に乗り込んで、フェリックス・ジェルジェンスキーに大金を渡してソ連の利権を開拓したことは既述した。これにOSSにいたジミー・ウオーバーグが参入したことも、ジミーが白洲次郎と繋がっていることも。チェーカがある通りはルビヤンカ通りといわれている。その裏手には政治犯の重罪人を収容する監獄がある。その入り口をくぐれば生きて出ることはないと恐れられたルビヤンカ監獄である。文隆は昭和20年10月、将官クラス、在外公館職員、政府高官が収容されるシベリア・ノヴォリコフ俘虜収容所に入れられた後、半年ほどでモスクワのルビヤンカ監獄に移送された。悪名高いルビヤンカについては、満州に駐屯していた間、なにかと目をかけてくれていたハルビン特務機関長秋草俊少将から、その概略を聞かされている。実は秋草俊は文隆に貼り付いて情報収集していたのだが、文隆と同じようにソ連に抑留されルビヤンカに収容されている。生きて出ることがないと言われたルビヤンカを、しかし文隆は昭和22年6月2日に生きて出て同じモスクワ市内のレフォルトヴォ監獄に移送された。ここで文隆はラヴレンテイ・パヴロビッチ・ベリアに聴取されている。

『恐怖政治を敷くスターリンの最大の腹心、教案等中央委員会政治局員べリアだった。べリアはスターリンンと同じグルジアの出身で、1937年から1938年にかけて吹き荒れた、トハチェフスキーらに対する大粛清で辣腕をふるい、スターリンの信任を得た。以後NKVD(内務人民委員部)長官をへて、政治局員に抜擢されている。ソ連における公安・秘密工作組織の総元締的な立場にある男だ。』


言葉ひとつ交わさないべリアとの会見を終えた深夜、文隆は突然部屋替えになる。これまでは未決囚だったが、戦争捕虜の扱いになるという名目だった。

『翌日から、これまでとは比較にならない、密度の濃い取り調べがはじまった。』


文隆を取り調べたのは、スメルシュに出向しているレフシン海軍大尉だった。文隆は秋草の言葉を思い出していた。


『シュメルシュは、その名の通りきわめて危険な防諜機関です。単なる軍事警察ではなく、通敵分子の暗殺や誘拐、テロなども彼らの守備範囲です。』

1年2か月後の昭和23年8月3日夜、文隆は独房713号から112号室へ引っ越しを命じられる。そこには意外な人物が文隆を待ち受けていた。

『「あ、秋草さん!」「これは・・・近衛君」新しい住処となる112号の先住者は、あろうことか、元陸軍中野学校初代校長にして哈爾賓(ハルビン)特務機関長の秋草俊少将だった。目の前にいる秋草は、ふたまわりも小さくなった感じだった。頬がこけて目は落ち窪み、軍服はぶかぶかである。秋草は文隆の耳元に口を寄せて「紅耳あり、だ。ここの房の壁の中には、まずまちがいなくマイクが埋め込まれている。奴らが俺と君を同じ房に入れたのは、なにか魂胆があるからだろう。」』

秋草はここに移送される前に文隆と同じくルビヤンカにいたこと、そこでアバクーモフ保安省長官じきじきに訊問されたこと、それは多岐にわたり且つ徹底していたことを話した。陸軍中野学校の詳細や、哈爾賓特務機関の役割に関しては、『微に入り細にわたってしつこく尋ねられた』。秋草は同じ房に文隆が連れて来られた時に、自分の運命を悟った。事情を知りすぎた自分は、文隆と同じ運命をたどるのだ。秋草は罪滅ぼしのつもりで、『自分が経験したことをすべて伝えておこうとするかのように、看守の目をかすめては、文隆の耳にささやき続けた。』

『昭和24年1月8日夜8時、房の扉が開かれ、秋草ひとりが連れ出された。そして、それっきり、彼は戻ってこなかった。』

◎秋草は間もなく『病死』したことになった。

4月19日夜8時。文隆は突然呼び出しをかけられ、陸軍司法大佐ブイレンコフから禁固25年の起訴を受けた。罪状は文隆が近衛内閣首相秘書官として、関東軍を訪れさらなる侵略の策謀をなしていたことや軍需産業を訪問して督励していたことに加えて、近衛上奏文にまで言及していた。

『「さらに1945年2月14日、コノエフミマロが大日本帝国天皇ヒロヒトに対して行った上奏の原稿たる、いわゆる近衛上奏文においては、国際共産主義に対するあからさまな妨害を意図し、その実現を図った。被疑者コノエフミタカは、総理大臣秘書官当時、この上奏文の骨格をなす政策設定に力を尽くした。よってここに起訴し、量刑禁固25年を求刑する。』』

◎昭和26年11月16日、またも文隆は移送される。やはりモスクワ市内にあるプトルイスク監獄である。ルビアンカとレフォルトヴォは保安省管轄だったがプトルイスクは内務省管轄である。文隆は特別会議ですでに禁固25年の刑が確定されていたのだ。

『特別会議には、誰も太刀打ち出来ない。1917年革命が成功した後、さまざまな反革命の動きがあった。それを封ずるために、レーニンは、あらゆる機関に超越する特別会議の設置を承認した。特別会議は通常3人で構成される。めんばーは、内務省の最上層部しかわからない仕組みになっている。この特別会議は、商人や被告の立会いなしに、犯罪者を裁く権限を与えられている。』

『文隆がまるで身に覚えのない罪状で禁固25年を言い渡される3か月ほど前の昭和26年9月8日。アメリカ西海岸のサンフランシスコでは日本の戦後に一区切りをつける対日講和条約が調印された。』

◎吉田茂は講和条約を調印した3か月後に、文隆に禁固25年の刑を確定させたのである。翌年の1月20日、またも文隆は移送される。イルクーツク州キーロフ区アレクサンドルフスク監獄である。『帝政ロシア時代から、3ツエントラル(三大中央監獄)と呼ばれた国内最大の監獄のひとつである』。

文隆が入る49号室にはすでに20人余りの先住者がいた。文隆はここで、歌を歌ったり、せがまれて何回もプリンストン大学留学中の武勇伝を語ったりして雑居房の人気者になる。西木氏が描く文隆のアメリカ留学時代のエピソードは、40号室の生還者からの聞き取りである。『第49雑居房においては、軍隊での階級や軍人地方人のちがいに拘わらず、文隆を媒体にしてなごやかな時間をすごすことが出来るようになった』。


しかしここでも文隆に貼り付く工作人が用意されていた。脇田という名前で登場するが、彼は文隆の『脇』にいるから脇田という名前が付けられたのだ。10月、脇田は文隆にアバクーモフが処刑されたことを告げる。秋草俊をルビヤンカで訊問した国家保安省長官アバクーモフが、国家反逆罪で銃殺されたのである。11月3日、文隆らは家族に葉書を書くことを許されるようになる。文隆は自身が無事であり、正子の身の上や家の生活状態を尋ねた後、差し入れてほしいものを列記した。この葉書はもちろん検閲を受けた。

翌年昭和28年3月6日、ザ・オーダーの意向に逆らい始めたスターリンが、息の根を止められた。7月10日、スターリンの最側近だったベリヤも失脚する。翌年昭和29年12月7日、吉田茂の長期に渡ったワンマン政権体制が倒れ、鳩山一郎が内閣首班となり日ソ国交回復を掲げた。これも吉田の自作自演である。鳩山は吉田に一時使われた駒に過ぎない。中田安彦が新著で鳩山一郎の友愛主義を賞賛し、鳩山の友愛主義が吉田茂に突き崩されていく過程を知らずに戦後日本の民主主義の変遷を語ることはできない、としているのは幻想である。


翌年昭和30年12月、文隆はまた移動を命じられた。車で10分ほどの国家保安省管轄の監獄だった。ここで文隆に対して『痔疾の治療』が開始された。文隆は尻の皮下注射と腕の静脈に『ペニシリン』注射を打たれるようになる。

昭和31年1月21日、文隆はまたも移動を命じられる。イルクーツクを出発して三週間後、モスクワ東方およそ250キロの所にあるウラジーミル中央監獄である。ここでも文隆の『治療』は続けられた。


『あなたには特別の治療をするようにとの申し送りがきている。人道主義にもとづき、貴重なペニシリンを用いての治療だ。今から担当医がその治療を行う』。


6月14日、またもや突然の移動命令が出た。イワノヴォ州チェレンツイ村、ここが文隆終焉の地である。そこには関東軍参謀長・秦日彦三郎、関東軍ソ諜報部隊・福田稔少佐が収容されていた。秦は文隆が正子と哈爾賓で結婚式を挙げたときに秋草とともに出席した人物であり、福田は文隆の戦友である。彼らは最期の仕上げとして、文隆の最期を見届ける任務を帯びて待機していたのである。


10月12日鳩山首相一行がモスクワに到着する。ニュースはただちに文隆のいるイワノヴォ収容所の日本人たちにも伝わった。

『紆余曲折があったが、ほんとうにこれで帰れる。モスクワ時間10月19日午後5時50分、日本時間では午後11時50分、領土問題を棚上げする形で決着、調印された。この瞬間、文隆ら日本人虜囚の帰国も確定した。』


◎この瞬間文隆の死刑執行が決定されたのである。国家保安省から派遣されたノビコフ中佐によって、、文隆の『治療』が集中的に行われ容体が急変した。10月29日午前5時ちょうど、文隆の最後の脈が消えた。

『午前7時、文隆の遺体は車に乗せられ、イワノヴォ大学医学部に移され、病理解剖に付された。その結果、死因は動脈硬化にもとづく脳出血と急性腎臓炎とされた。』


以下、文隆の葉書から抜粋する。

『なつかしいマコ。皆元気か。小包有難く受領。・・・岸、牛場、白洲、廣兼諸氏にそろそろ歓迎準備をする様に頼んでくれ。それには夢顔さんと相談するがよかろう。尚、岸、牛場、白洲さんに、西園寺の公ちゃんに宜しく伝言の程頼んでくれ。』
『尻は今ペニシリンで治療を受けている。全治するかもしれぬ。これが手術なしで治ればしめたものだ。細川、岸、牛場、白洲、廣兼さんに呉々も宜しく。もうすぐ帰れるでしょうと伝えてほしい。夢顔さんとなんでも相談せよ。』


『マコ、また移った。今度の所は全く今迄と違って別天地。・・・帰ったら生まれ変わったボチを期待していてほしい。夢顔さんに呉々も宜しく。』


『もし交渉が妥結したら、今年の9月か10月にはなつかしの祖国の土をふむことが出来るかもしれない。ではもう少しの辛抱頑張ってくれ。夢顔さん始め皆によろしく。』


『母上、お変わりありませんか。当方元気故御安心下さい。・・・マコ、しばらく手紙が来ないので心配している。変わりないことを祈っている。・・・夢顔さん始め友人諸氏にも宜しく。』


『なつかしいマコ。その後如何。母上はじめ皆変わりない事だろうと思っている。当方元気。当地では既に晩秋の感がする。今日あたり松本さん(注 松本重治)がモスコーに着く筈。鳩山さんが来られる様になったら交渉もまとまるのではないかと期待している。・・・皆さんによろしく。夢顔さんに呉々も宜しく。』


文隆の葉書には犯人たちが名指しされている。松本重治、牛場友彦、白洲次郎、岸道三、細川護貞、廣兼篤郎。


松本重治は文隆の父親文麿が暗殺される一部始終を見届けたが、今回も文隆の処刑を確認すべく鳩山一郎に随行してモスクワまで来ている。文隆は鳩山の側近を介して、松本重治に「帰国したら文麿の死因を追及するつもりである」と伝えた。文隆は100%帰国できると思い込んで、松本に復讐を予告したのだ。文隆の伝言は松本に残っていた最後のわずかな逡巡を払い去った。松本は文隆を始末することにもう何の迷いもなかった。


満州での短い新婚生活で、正子は文隆の帰宅を待つ時間が好きだった。文隆の人影がポツンと草山の上に現れると、飛び出して行ってそれがだんだん大きくなって近づいてくるのを飽かず眺めた。そして文隆がソ連に抑留されてからも、正子は11年間待ち続けた。姉の家に間借りして一人暮らしをしながら、働いた給料で文隆への差し入れをせっせと小包にして送り続けた。ついに文隆が帰国することがないと知らされた時も、近衛家から籍を抜いて再婚する話を断った。正子は心の中にある満州の草山の上に、文隆の影がだんだん大きくなるのを生涯待ち続けたのだろうか。

文隆と正子の間には子供が出来なかったので、近衛家の跡取りとして細川護貞の二男が養子に入り、さらに三笠宮の娘の血が混入された。一方、吉田茂も孫娘を三笠宮家に嫁がしている。田布施村王朝と吉田茂の、“高貴な血筋”に対する怨念と執念を感じる。


しかし神武天皇は天皇家が朝鮮から渡来したと明言しているし、近衛家を筆頭とする五摂家の始祖である藤原鎌足も素性が怪しいし、徳川300年の封建制を樹立した徳川家康の祖父も乞食坊主だったというし、田布施村王朝による明治維新だけでなく、ずーっと元をたどれば何処も同じである。


聞くところによると麻生太郎は、所信演説で開口一番『平民のみなさん』『下々のみなさん』と言ったという。麻生太郎君、しかし君の祖父の吉田茂だってれっきとした平民で下々のみなさんの一人だった。どこの馬の骨ともわからない生まれだったのだ。君のお祖父さんが執着し、君が誇りにしているらしい田布施村王朝の血統も、やはり同じ穴のムジナなのである。あの皇居の広大な森の中に巣食う人々は、サスペンスドラマ顔負けの乱脈さではあるが、一般市民であることには間違いない。


我々はもういい加減人の素性に上下をつけるのを止めて、天皇陛下とか皇后とか女王とかいう称号も止めて、みんなでただの人間になるのはどうだろうか。私はそれが一番良いと思う。


田布施村を抑圧し続けてきた対価を、明治維新以来、我々の祖父母や両親は十分支払ってきたと思う。そして近衛父子も過酷な運命の支払いに正面から対峙して、最後まで逃げなかったと思う。


今この国では若者の未来が見えなくなりつつある。日本国憲法には、天皇の世襲に当たっては、国民の総意が問われることが銘記されている。田布施村王朝は中国で麻薬栽培・密売して儲けた天文学的な秘密財産を明らかにし、麻薬王の傀儡政権として国民に対する暴力装置として機能し続けた実態を明らかにした上で、あらためて国民の総意を問い直してはどうだろうか。

9. 2020年9月26日 11:52:59 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[21] 報告
山本五十六の真実I 河合千代子と阿川弘之
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/224.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 3 月 08 日 15:36:30: 8qHXTBsVRznh2
 

今回は山本五十六の愛人とされる河合千代子、
及び五十六の評伝を書いた阿川弘之について検証する。


先ず私の結論を述べる。

 
◎河合千代子はプロパガンダの道具として使われている。


◎背後にいて操っていたのはヨハンセングループの原田熊雄である。


◎米内光政は協力者である。


◎愛人プロパガンダの発注元は昭和天皇と吉田茂である。


愛人ネタの検証については、次の三つに掲載されているものを扱う。


○週刊朝日昭和29年4月18日号の巻頭記事

○PDF 望月良夫『山本五十六の恋文』医科芸術34巻11号平成2年初出

○望月良夫『山本五十六の恋文』考古堂書店平成4年初版

望月良夫氏のプロフィールを、著書『山本五十六の恋文』より抜粋する。


『著者紹介  望月良夫(もちづき・よしお)


1929年(昭和4年)東京都生まれ。
1948年(昭和30年)東京府立第九中学校、旧制新潟高等学校を経て、1955年(昭和30年)千葉大学医学部卒業。インターン修了後、母校産婦人科教室に入局、研究生、副手、文部教官となる。1964年(昭和39年)医学博士 学位論文「子宮経腟部部上皮に於けるグリコーゲンの組織化学的研究」 


1965年(昭和40年)沼津市立病院産婦人科部長として赴任、そのかたわら母校の非常勤講師をつとめる。1972年(昭和47年)沼津市内に望月産婦人科を開業、自らの理想とする産婦人科開業医生活をおくりつづけて二十年、診療の余暇は趣味に没頭。


旅行、食べあるき、美酒探究、ゴルフ(H26)、囲碁(二段)、読書、映画、写真、観劇、ショッピング他。主宰する趣味の会、「随筆春秋」「駿河豆本の会」「沼津の文化を語る会」「沼津落語会」「沼津旨いもの会」など三十余。


日本産婦人科学会、日本ペンクラブ、日本エッセイスト・クラブ、日本旅行作家協会、沼津北ロータリークラブ各会員。


著書・「あなたのからだ」(サイマル出版会)、「最新の産婦人科」「友ふたり」(随筆春秋)、「おいしく食べるテーブルマナー」(淡交社)ほか。』

裏表紙より

『望月先生のこと 


望月先生は旧沼津御用邸もある風光明媚な沼津市で、産婦人科病院の院長として、もう20年も地域医療を支えておられる。最新の医療技術を駆使し、温厚誠実に患者さんのために奉仕し、開業以来死亡ケースゼロという稀有な実績を挙げておられる。


ということであれば、医師望月先生の毎日は本業のために忙しいかというと、とんでもない!もともと仕事が早い「超能力」に加えて、早くからOA機器を診療室に取り入れて医療業務を能率化し、こうして生み出された時間を百パーセント、文化的、趣味的活動に投入している。エッセイの執筆、味の探訪、さまざまな集いの世話・・・。それらが並のものでなく、みな一流であるところが凄い。日本ペンクラブ会員、日本エッセイスト・クラブ会員、日本旅行作家協会会員、日本味の会会長、「沼声」、「沼津の文化を語る会」、「随筆春秋」各主幹・・・など、活動の質と量に圧倒される。


利を追わず、自ら理想とする開業医を目ざして、毎日を常人の二倍、三倍に生きておられる望月先生が世に送りつづけるエッセイの数々は、全文化人の琴線に大きく共鳴するにちがいない。』

◎週刊朝日の暴露記事はヤラセである。

週刊朝日の記事と望月氏の著書では、『五十六の恋文』の内容が異なる。
殊にミッドウエ―出撃直前の三通の手紙はまったく別物である。

◎阿川弘之は確信犯である。


これについては阿川本人の著作を検証する。


○阿川弘之『山本五十六』新潮社昭和40年初版

○阿川弘之『新版 山本五十六』新潮社昭和44年初版


阿川弘之は里美クからバトンを引き継いで、五十六プロパガンダを書いている確信犯である。里美クがプロパガンダ小説を書いた経緯について、阿川は次のように説明している。尚、文中に出てくる古川敏子は新橋中村家の女将、里美クのプロパガンダ小説のネタ提供者である。志賀直哉は阿川弘之の師匠である。

『新版 山本五十六』より

『中村屋の古川敏子はそれから三十年幾年経た今でも、昔の美しさを残したたいへん豊満な女性であるが、その頃は土地で、「とし子姉さん」と呼ばれていて、一説によるとこの敏子も山本に相当「お熱」だった一人であった。しかし「お熱」でも「お熱」でなくても、敏子には彼女が「主人」と呼んでいる佐野直吉という人があった。


佐野直吉は絨毯商である。現在山形県の産業の一つになっている支那絨毯は佐野が中国から技術を導入したもので、当時彼は北京に佐野洋行という店を持っていた。昭和五年の一月、志賀直哉と里美クが満州旅行のついでに北京へまわって来た時、新聞でそれを知った佐野は支那服を着て二人の作家を宿へ訪ねて行った。それ以来。彼は日本へ帰って来ると志賀や里美の家へしたしく出入りするようになった。』

古川敏子の旦那と親しくなったきっかけを演出しているのである。

『志賀直哉も里美クも、花は引く。(注 花札のこと)佐野直吉も好きである。古川敏子の表現によれば、「お花ときたら、そりゃ死ぬほど好きなの」であった。山本はよく中村家へやって来て、佐野直吉や敏子の母親を相手に、八八や賭け将棋ばかりやっていた。』 

五十六の部分はガセねたである。古川敏子は新橋中村家ののれんを掲げる女将でありながら、客の行状をベラベラ喋っているのである。

『山本五十六と二人のこの白樺派の作家とは、一度も一緒に花を引いた事、会った事は無かったが、そういう縁で、戦後里美クは佐野直吉から聞いた話をもとに、山本と梅龍をモデルにして、「いろおとこ」という短編を書いたのである。「いろおとこ」の中には、山本の名も千代子とか梅龍とかいう名も出て来ない。読めばしかし、戦死の模様や国葬の事が書いてあるから、山本がモデルだという事はすぐ分かるそしてこれは、山本が小説のモデルになったおそらく唯一の例である。


山本の死後、彼の伝記や電気的文学作品は、数多く世に出たが、純然たる小説のモデルとして彼を扱った人は他にいない。「いろおとこ」が書かれたのは、昭和二十二年の七月である。もしこの作品を以て、山本にそういう女性がいた事を公にしたものと見るなら、里美クは「週刊朝日」に七年先んじたわけであった。』

『純然たる小説』は『純然たる小説』であって、『もしこの作品を以て、山本にそういう女性がいた事を公にしたものと見る』という仮定は成立しない。成立されたら、書かれる方はたまったものではない。しかし阿川は詭弁を使ってでも、『純然たる小説』が『事を公にしたものと見る』という公式を打ち立てたいのである。この公式を当てはめれば、『週刊朝日』のような純然たる捏造記事も、事を公にしたものと見ることができる。

では週刊朝日の記事を検証していこう。

週刊朝日は昭和29年4月18日号、すなわち山本五十六の13回忌の祥月命日の号に、純然たる捏造記事を巻頭特集としてブチ上げた。表紙をめくるといきなり、河合千代子と山本五十六が並んでいる写真が載っていて、大文字で『山本元帥の愛人』『軍神も人間だった!』という題名が掲げられている。写真は、料亭の縁側らしき庭先に、河合千代子と五十六が並んで座っている姿を写したものである。千代子は額が広い逆三角形の顔で、頬がこけてやつれた感じの十人並の年増芸者といった風情である。額がかなり広く、本来は聡明なのかもしれない。五十六はダブルの背広を着て、帽子を右手に持っている。つまり正装である。千代子は微笑んでいるが、五十六は真顔である。五十六の表情には、馴れ馴れしさは微塵もない。芸者が有名人と一緒に記念写真に収まった、そういう一枚である。色町に詳しい人に聞いたが、そういう慣例があるそうである。

掲載されたもう一枚の写真は集合写真である。河合千代子と五十六の普段の格好のツーショットはない。河合千代子の自己申告が本当だったら、海軍の焼却命令から死守した五十六の恋文だけでなく、千代子だけに見せたであろう五十六を映した、スナップ写真やツーショットがあるはずである。しかし週刊朝日に掲載された写真は、記念写真と芸者と客たちの集合写真だけである。後者は若くて美人の芸妓がウヨウヨいる中で、千代子は影が薄く、他の年増たちと一緒に後列に紛れている。

最後の一枚は週刊朝日の記者が千代子に取材した時に撮られた写真である。沼津の料亭の女将をしている千代子が、日記を読む姿を写したものである。落ちついた佇まいで、別人かと思うくらい清楚な表情をしている。

河合千代子と山本五十六が一緒に映った写真は、実は週刊朝日の他にもある。それは原田熊雄の女婿・勝田龍夫著『重臣たちの昭和史』に掲載されている写真で、河合千代子は原田熊雄と米内光政に挟まれ、山本五十六は反対の端っこに端座している。この写真の構図は河合千代子と原田熊雄の男女関係及び共謀関係、河合千代子と米内光政との男女関係、河合千代子と山本五十六の疎遠な関係を正確に表している。だから週刊朝日はこの写真を掲載しない。

勝田龍夫の本書には、里美クが跋文を寄せている。里美クも原田熊雄と姻戚関係にある。阿川弘之は師匠の志賀直哉を通じて、里美クと懇意である。里美クの葬式では、阿川は今日出海とともに遺族席に座っている。今日出海(こんひでみ)もプロパガンダの名手である。白洲次郎の神戸一中時代の学友である今は、幇間のごときお追従を白洲次郎のために書く。白洲次郎と閨閥である堤清二も、心にもない賛辞を書く。白洲次郎の家に疎開して真実を知っている河上徹太郎も、しらばっくれて旨い汁を吸っている。子ども同士を結婚させた小林秀雄も、真実を知りながらとぼけている。みんなトモダチである。利害関係でツルみ、損得勘定で仲間褒めする。そうやって田布施王朝から文化勲章を貰うのである。文壇とはそういうムジナたちが生息するするところであった。では週刊朝日記事の内容を見てみよう。


週刊朝日より

『「提督の恋」といえば誰しもネルソンとハミルトン夫人のことを思うだろう。ところが山本元帥にもそれに似た一つの秘めたる恋物語があったとはだれが想像したろう。これは決して暴露記事ではない。軍神ともいわれた人も、やはり人間だったという、ひとつの人間記録としてここに掲げるわけである。おりしもこの十八日は故元帥の十二周忌という、心から冥福を祈ろう‐』

12周忌ではなく13周忌である。

『遺影に額づく姿  沼津八幡町の繁華街から少し外れたところに料亭「せせらぎ」がある。その離れ座敷から、朝晩、「曹洞宗日課諷経集」を読み上げる声が聞こえてくる。そして、夜はまた「般若心経」を読む声が流れる。その主は美貌の女将で、故山本元帥の遺影と「大義院殿誠忠長陵大居士」の位牌を祭った仏壇に額づいているのだ。来る四月十八日、早くも十二周忌を迎える故山本元帥の冥福を、日夜祈る女性。‐それは、かつて元帥と愛情を誓い合った河合千代子さん(51)の姿なのである。諷経集は、太平洋戦争勃発前、曹洞宗を宗旨とする元帥が、彼女に残していった遺品である。』

子息義正氏によると、山本家の宗旨は曹洞宗だが五十六に読経する習慣はない。頭を垂れて黙祷するのみである。仏教全般、キリスト教、宗派にこだわらず学んでいたようである。

山本義正著『父 山本五十六』恒文社には次のように書かれている。

『父が、黒い手帳を肌身はなさず持つようになったのは、霞ヶ浦航空隊副長のころかららしい。草創期の航空隊の訓練は、熾烈をきわめたという。その訓練の最中に、不幸にも墜落して命を落とすパイロットたちが、たくさんいた。戦史者の栄誉にくらべて、殉職者には、国の態度が冷たかった。しかし、父にとっては、みなひとしく可愛い部下であり、尊い犠牲者であった。父は、訓練中の事故で死んだ部下たちの名を手帳に書きとめ、毎朝、その冥福を祈るようになった。ただ、その場合でも、父が仏壇に向かって合掌するとか、神棚に祈るとか、そういうことをしていたのを見たことはない。


父は、特定の宗教や宗派に帰依していなかった私の家族の宗派は曹洞宗であるが、そういう宗派上の意識は持ってなかったようだ。しかし、広い意味で、父は仏教的思想の持ち主だったといえると思う。祖父貞吉はきわめて熱心な仏教徒で、毎朝一時間以上も仏間にこもって頭をたれていたという。同時に、牧師になった父の兄丈三(じょうぞう)伯父の影響から、キリスト教にも深い理解をもっていた。もちろん、後年外国生活のあいまには、キリスト教のしきたりや慣習に親しむ機会も多かったはずである。また、少年時代にも米国の宣教師のところへいき、バイブルの勉強をしたらしい。』

週刊朝日の続き。

『元帥と結ばれるまで  いまから二十年ほど前、昭和七年十二月二日のことである。東京新橋の検番の玄関先にしょんぼりと立った女がある。目が大きく瘦せ型の美人だが、年はもう三十に手がとどこう。「二十九の年で天下の新橋から出たいなんてどうかしてやしないか」「まるで芸事もできんくせに」何といわれても、ただ「お願いします」一点張りで頭を下げたきりのこの女、河合千代子はやがて新橋の「野島家」から「梅龍」と名のって左ヅマを取る身となった。』

色町に詳しい人に聞いたところ、京都の祇園ではゼロから習い事をするのが鉄則であるが、新橋はコネさえあればド素人でもすぐに上に行けるそうである。30に手がとどこうと言う女が検番の前でしょんぼり立っていても埒は明かないが、原田熊雄がコネを使って交渉すれば即決である。

『彼女の前半生は不幸だった。明治三十七年名古屋市の生まれ、父の稼業は株屋だった。名古屋女子商業学校を卒業後、両親とともに上京、兜町に落ち着いたが、関東大震災で、」名古屋に舞い戻り、一家は零落の一途をたどった。千代子はある資産家の世話になったが、愛情はわかなかった。二十五のとし、母と父があいついで病死し、彼女は心の痛手に服毒自殺を計ったが、失敗。転々として、二十九歳のこの年に妓籍に身を置いたのである。』

借金の肩代わりに、資産家の妾にされたらしい。

阿川弘之の旧版『山本五十六』には、河合千代子の素性は次のように書かれている。

『彼女は、明治三十七年、名古屋の生まれで、父親は株屋、千代子が名古屋の女子商業を出る頃には、家は零落していた。二十四の年、父と母がつづいて亡くなった。はじめ、名古屋の会社で、タイピストとして働いていた。それから、新橋芸妓として出るまでの間の千代子の生活は、あまりはっきりしないが、美貌のために、男関係は色々あったらしい。東北の馬持ちと一緒になって、ゴタゴタをおこし、睡眠薬を飲んで自殺未遂をやったりしている。多分、此の事件で髪を切られ、男の許を追い出された直後だと思われるが、彼女はカバン一つ提げて、芸妓になりたいと、東京の新橋へやって来た。千代子が二十八の年で、昭和七年の十二月である。』

人身御供として売られたことが消えている。私は千代子の感性が狂っているのは、多感な娘時代にいきなり資産家の妾にされたことに由来しているのではないかと考えている。思う。新橋へ流れ着くまでの10年間にも、色々なことがあっただろう。

阿川弘之の続き

『山本と深くなってからの梅龍は、彼にだけは実によく尽くしたようである。彼女には、男同士双方承知の旦那があった。梅龍は、土地で、「ダイヤモンドのお茶漬け」と言われ、取るとこから、取るものだけは、実に遠慮会釈なく取ったらしいが、一方気前もよくて、出すほうもどしどし出した。千代子は、あでやかで、頭もよく、次も上手であった。しかし、前に書いた通り、なにぶん新橋の名妓というわけではない。名古屋にいた頃から先の素性も、あまりはっきりはしない。せっかくあてがった旦那から、金が素通りして山本のところへ行くのだから、土地の女将連中は、決してよくは言わない。真偽とりまぜて、色々悪い評判もある。そういう女性に、山本五十六が、五十を過ぎて、どうしてそれ程まで夢中になってしかったのかと言えば、結局は、彼が家庭で求めて得られなかったものを、梅龍の千代子のうちにさぐりあてたからと解釈するより他はあるまい。』

阿川弘之は師匠の志賀直哉を介して里美ク経由で仕事を受注、五十六プロパガンダを河合千代子の偽証を補完する目的で新旧『山本五十六』を書く。旧版『山本五十六』では週刊朝日に掲載された記事に触れて、


『河合千代子個人に対しても、同情や共感と共に、非難は殺到した。多分、反響があまり大きすぎたのにこりたのであろうが、彼女はそれ以後、二度と報道関係者の取材には応じなくなってしまった。私も、此の女性には会うことが叶わないままである。今後、此の物語の中に出て来る、山本の川千代子あての手紙は、会えないままこれを書いている。だから五十六の恋文はすべて週刊朝日誌上に掲載されたものからの引用である』


と断っている。そして中村家の女将の古川敏子に取材して、千代子のプライベートなことに関する非常に立ち入ったことまで書いているのだが、なぜ『恋文』に関してだけ『会えないまま』と、わざわざ断るのであろうか。それは阿川が河合千代子に会ったと言えば、19通の恋文を手元に残してあると言った手前、週刊朝日に載せなかった16通の恋文の存在について、何か言及しなければならなくなるからである。阿川は『五十六の恋文』など一通も存在しないことは、百も承知である。あと16通もデッチあげるのはかなわない。そういう厄介をはぶくために、『会うことが叶わない』言って予防線を張っているのだと思う。そういう小細工を悟られまいとして、『聞くところによると週刊朝日が掲載をためらったほど濃厚な内容の恋文もあったらしい』などと、思わせぶりなことを書いている。


阿川は新版を出すに当たっては、千代子本人に聞き取りをしている。しかしそれを明文化しない。巻末の聞き取りのリストに、『後藤千代子』とのみある。千代子は週刊朝日に暴露記事を載せた翌年の昭和30年、後藤銀作と結婚して後藤姓になっている。後藤千代子だけ書かれても、事情を知らない読者にはそれが河合千代子だとは分からない。そういう仕掛けをした上で、従前通り週刊朝日に掲載された『恋文』を取り上げ、あれこれ枝葉をつけている。まったくの創作であり、『純然たる小説』である。


当の千代子も言うことがコロコロ変わり、五十六の手紙を19通残したと言っていたのが、前出の望月良夫氏に『恋文』を贈呈した時には5通残したと証言している。しかも望月氏がもらった『昭和16年12月5日付』の手紙と、週刊朝日に掲載された『12月5日付 五十六の恋文』の文面は全然違う。つまり河合千代子は『12月5日付の五十六の恋文』を、少なくとも2通持っていることになる。


ミッドウエ―出撃前夜の『五十六の恋文』の場合は、もっと顕著である。週刊朝日に掲載したものには機密情報が書かれているが、望月良夫氏に見せたものには機密情報は書かれていない。内容もまったく穏当なものである。河合千代子は『五十六の恋文』と称して、何通ものバリエーションを作成していたようである。


『五十六の恋文』ばかりではない。千代子は『五十六の遺品』と称するものを柳行李いっぱい所持していた。千代子が気前よく人にあげたり、夫の後藤銀作が持ち出して受注先に賄賂として贈呈したので、望月氏が取材したころには残っているのはもうわずかいう状態であった。『五十六の恋文』『五十六の遺品』というのは、いわば商標なのである。


しかし阿川弘之のもっとも不審な点は『山本五十六』を描くのにあたって、一番肝心な遺族の聞き取りをしないことである。これが、阿川の『山本五十六』が当初から河合千代子のプロパガンダを補完する目的で書かれたものであることの、もう一つの証左である。

阿川は五十六が千代子に溺れた原因を、妻に対する不満に求めている。そのために阿川は遺族から名誉棄損で訴えられるほど、妻の礼子の誹謗中傷を書きまくっている。もし礼子本人に会って聞き取りをしたら、このような冒涜はできなくなる。河合千代子のプロパガンダを補完することもできなくなる。大切な請負仕事をダメにしたというので、志賀直哉と里美クの顔を潰し、文壇で干され、田布施村王朝の文化勲章も貰えなくなる。


週刊朝日の続き。

『昭和八年の夏のこと。彼女は築地の「錦水」に呼ばれた。上座には、ややすりきれた茶と白の縞の背広をきたイガグリ頭の色の黒い男が座っている。酒は飲まぬが、周囲のものと朗らかに談笑していた。そのうち、自分の前にでた前の上の吸い物のフタをとろうとしたが、どうしても取れない。』


子息義正氏によると、五十六は指のハンデを克服して、目にも止まらぬ速さで身支度できるようになっていた。損傷した二本の指は第一関節まであるので、これを他の指と紛らわせて見せる技も体得していた。だからあまり親しくない関係の者は、損傷していることに気がつかないままの人もいたという。河合千代子もそのうちの一人である。次の一節を読むと、自称愛人の千代子が、五十六の損傷した指に触れたことはおろか、見たことさえないのが分かる。


週刊朝日の続き

『指のない男   黙ってお酌をしていた千代子がふとみると、その左手の人差し指と中指が根本からない。ハッとして、彼女はそばへ寄って、「とって差し上げましょう」というと、男は鋭い目で彼女を見つめたまま、「自分のことは自分でする」といって、椀のフタを取った。千代子は(イヤな方)と思った。』

10年近く愛人だったと自称しながら、五十六の左手の人差し指と中指が根本からない、というのは非常に迂闊な話である。五十六の二本の指は第一関節でボキっと折れたので、ここまではしっかり残っている。千代子はそれを知らなかったし気がつかなかった程度に、第三者の人間である。


阿川弘之も『山本五十六』に次のように書いている。

『もっとも、山本は、手の指が八本しか無かった。昔、日露戦争の時に、少尉候補生と
して乗り組んでいた軍艦「日進」に、ロシヤの砲弾が命中して、彼の左手の、中指と人差し指を、根本から持って行ってしまった。』


週刊朝日の続き。

『この男が、当時第一航空戦隊司令官、海軍少将五十一歳の山本五十六だったのである。(左手の指が二本ないのは、日本海々戦に少尉候補生として軍艦「日進」に乗組中、負傷いたものだった) 一年近くの月日が流れた‐昭和九年六月、山本は海軍軍令部出仕となり、軍備制限準備委員を命ぜられた。対象十一年六月調印されたワシントン会議の有効期限があと、二年にせまったので、その予備交渉がこの秋、ロンドンで開かれることになり、その代表に選ばれたのである。』

『千代子はある夜、お座敷でフトこの山本少将がいるのに気づいた。イガクリの頭、軍服であるが、まがいもなく一年前の男だ。「いつぞやは失礼しました」と挨拶すると「俺はあまりこういう席へはこんから知らん」という。彼女が吸物の一件の話をすると「サア、覚えてないな。君のことも知らんね」とブッキラ棒な返事である。彼女は(憎たらしい人だワ)と思った。』


身辺警護と称して五十六を見張っていた憲兵隊の中のある一人だけを除いて、御用聞きでも小学生でもどんな人間に対しても五十六は礼儀をもって接している。これがもし本当だとしたら、千代子は憲兵隊と同じような拒絶反応を、五十六から引き起こしたことになる。あるいは河合千代子が色仕掛けで誘い水をかけても五十六が乗ってこないので、振られた千代子が(憎たらしい人だワ)と思ったことはあったかも知れない。


『二、三日してまた山本と出あった。山本の隣には同期生の吉田善吾(後に海軍大臣)が座っていた。何か話のハズミに吉田から、「梅龍、お前はチーズが好きか」ときかれ、「大好き」とこたえると、山本がそばから、「じゃあ、御馳走してやろう。明日十二時に帝国ホテルにおいで」という。吉田がそばから、「この男がこんなことをいうのは珍しいな。行け行け」とけしかけた。千代子は冗談とも思ったが、失礼しては、と思い、翌日、帝国ホテルにでかけると、山本はもう食堂で待っていた。やがて、カクテルが一ぱいづつとチーズの山がはこばれる。あとは何も出てこない。山本はカクテルに口をつけず、二人は黙々とチーズを平らげて別れた。』


『二人で黙々とチーズを平らげて別れた』場面について、阿川弘之は全然違うことを書いている。


旧版『山本五十六』より

『それで梅龍は、かねて仲よしの菊太郎、菊弥という二人の妓と一緒に、翌日の昼飯を、帝国ホテルのグリルで、山本の馳走になった。食後、山本は三人を、三十間堀の中村家まで送っていった。「九時か十時になったら、身体が空くから」と言って帰って行ったが、その晩彼は、梅龍たちを上げて、プライベートに遊んだらしい。山本と千代子とが、親しくなったのは、此の時からである。』

千代子本人に取材した新版『山本五十六』では、週刊朝日とも旧版とも違うストーリーになっている。


新版『山本五十六』より

『それで梅龍は、翌日、帝国ホテルのグリルで軍服を着た山本と初めて食事を共にした。それから一二回淡い逢瀬をかさねたあと、千代子はある晩帝劇で山本の手を握りながら恋愛映画を見ていて、今夜このままあなたと別れるのはいやだと言い出した。』

大切な馴れ初めの場面の証言が、どうしてこんなに二転三転するのだろうか。


さらに千代子は後年になって、また違うことを証言している。

望月良夫『山本五十六の恋文』より

『「山本元帥に初めて出会ったときのことを話してくれませんか」「お座敷でした。何かの送別会だったと思います。威張ってむっつりしていました。しゃくにさわって、この男を誘惑してやろうときめました。同席していた軍務局長が、山本は堅物だから何とかしてやれ、と言いました」 初印象をはっきり覚えていた。「ところが三、四回会っているうちに、こっちが参ってしまったのです、元帥は私に、援助はできないから妹してつき合いたい、と言いました」』


吸い物のお椀の一件は軍務局長にけしかけられた話にすり替わり、一方、吉田善吾にけしかけられてチーズを黙々と二人で食べた馴れ初めの一件は消えている。かくも場当たり的に、千代子の証言はころころ変わるのである。だから『五十六の恋文』も、ころころ変えて作成しているのである。


チーズにまつわるエピソードは、家族との間にもある。これを事前にどこかで漏れ聞いてパクったのかもしれない。


山本義正『父 山本五十六』には次のように書かれている。

『病床の私に、父が直接見舞いに来てくれたり、やさしい言葉をかけてくれた記憶はあまりない。が、ときどき黙ってなにか買ってきて、母にわたしてくれていた。そのひとつがチーズで、私の体にいいからと、父がたくさん買ってきてくれた。当時、チーズなどを食べる習慣はふつうの人にはなかったし、私としてもはじめて食べる味だった。最初はくさくて、いくら体にいいからとすすめられても、なかなか食べる気にはなれなかった。が、それでもすこしずつかじっているうちに、だんだんとくさみも気にならなくなり、ついには、あのなんともいえぬ味と香りが気にいって、大好物になってしまった。私がチーズを好んでたべるようになったことは、父をたいそう喜ばせたようで、そのころ家に来た客と談笑しながらそのことにふれて、「こんなものをいまから好きになられたんじゃ、破産しちゃうよ。」と言って笑っていたのを記憶している。現代のように、洋風の食生活が普及していなかった当時、乳製品、とりわけチーズを食べることは、ごくかぎられた人たちだけだったらしい。』

週刊朝日の続き。

『彼は吉田や、長谷川清(当時海軍次官)らの常連から、千代子の身上を聞き、同情したのである。彼自身、いろいろの意味で、家庭的に恵まれず、淋しい男であった。そこから自然一種の「女嫌い」にもなっていた。が、「チーズの御馳走」以来、二人は急速に親密になり、九月二十日の出発の直前には、彼女を呼ぶにも「梅龍」から「梅ちゃん」、さらに「千代子」と呼ぶ仲となった。』

『彼自身、いろいろの意味で、家庭的に恵まれず、淋しい男であった』というのは、阿川のガセネタである。阿川弘之は『新版 山本五十六』の後書に、山本家から名誉棄損で訴えられたこともあり、新資料も交えて大幅に加筆修正したと書かいている。しかし修正してあるのは、河合千代子ネタの前後の辻褄の合わないところである。


阿川弘之の犯罪はこればかりではない。彼は鶴島正子に聞き取りをして、さらなる愛人ネタも捏造している。鶴島正子がトランクいっぱいのラブレターを空襲で焼いたとか、鶴島正子は五十六を愛するためだけに生まれたようだと言ったとか、これらは鶴島正子が自己申告したことではない。阿川弘之が第二の河合千代子ネタを作るべく、聞き取りと称して鶴島正子に導尋問を行ない、言葉質を取った上で脚色したのである。鶴島正子と五十六の間に恋愛は成立していない。幼馴染に毛が生えた程度の付き合いである。それが阿川弘之の筆にかかると、鶴島正子も愛人に列せられプロパガンダの恰好の材料に使われるようになる。


週刊朝日の続き。

『誰にも話さないで   翌十年二月十二日山本は帰国した。予備交渉で、各国兵力の制限、兵力の均等、攻撃的兵力(空母など)の撤廃を主張して物別れとなり、故国に帰った彼の心中は複雑だった。世論はワシントン、ロンドン両条約の廃棄にまっしぐらに進み、彼も派遣もある意味で形式にすぎず、その予備交渉での奮闘も一人相撲に終わった感があった。彼が対欧中の前年の十二月末に、条約破棄の通告があったのである。帰国後、三月ほどして、旅先から千代子あてに中将となった山本五十六は、こんな手紙を出している。』


五十六の奮闘が『一人相撲に終わった感があった』というのは、悪意のある言い方である。軍縮の条約破棄は不可抗力である。週刊朝日の記者の言葉の端々には、五十六を持ち上げるフリをして貶めよう貶めようとする意図が見える。

『「ロンドンへゆくときは、これでも国家の興廃を双肩にになう意気 と覚悟をもっておりましたし、あなたと急速なる交渉の発展に対する興奮もありまして、血の燃ゆる思いもしましたが、ロンドンにおいて全精神を系統した会議も、日を経るにしたがい、世俗の一般はともかく、海軍部内の人たちにすら、これに対しあまりに無関心を装うをみるとき、自分はただ道具に使われたに過ぎぬような気がして、誠に不愉快でもあり、また自分のつまらなさも自覚し、実は東京に勤務しておるのが淋しくて淋しくてならぬのです。それで孤独のあなたをなぐさめてあげたいと思っていた自分が、かえってあなたの懐に飛び込みたい気持ちなのですが、自分も一個の男子として、そんな弱い姿を見られるのが恥ずかしくもあり、また、あなたの信頼にそむく次第でもあると思って、ただ淋しさを感じるのです。こんな自分の気持ちは、ただあなたにだけはじめて書くので、どうぞ誰にも話をなさらないでください」 出発のときと比べて、少しも変わらぬ態度で出迎えてくれたのは、わずかな先輩、親友と、千代子だけだったことが、彼にはよくわかったのである。』


前述した阿川の創作は、この手紙に尾ひれをつけたものである。『純然たる小説』の倣いとは言え、これはほとんど阿川自身の恋文である。


阿川が付け足した尾ひれの部分。

『この三四年が夢の間に過ぎ去った事を思ひ更に今後十年二十年三十年と先の事を想像すると人生などといふものは真にはかなき幻にすぎず斯く感じれば巧妙も富貴も恋愛も憎悪もすべて之(これ)朝露の短きに似たりと思われ無常を感ぜぬわけには参りませぬ   あなたは孤独だから寂しいと云われます 世の羈絆(きはん)につながれた死ぬに死なれず苦しむ人の多き世に天涯の孤児は却って神の寵児ならずやと云はれぬこともないでせう こんなことを考えると何も彼もつまらなくなって来ます 理屈は理屈としてとにかくあなたにかりにもなつかしく思われ信頼してもらえる私は現実においてまことに幸福です 只僕はこの妹にして恋人たるあなたにとつてあまりに貧弱なる事を心から寂しく思って居ります 僕は寂しいよといふ言葉は決してあなたや先生の真似ではなく実は自分を省みて自分をあなたの対象物として客観的に見て心から発する自分を嘲る言葉です あなたのあでやかに匂ふ姿を見るほど内心寂しさに耐えぬのです どうか悪く思はんで下さい 倫敦へゆくときは これでも国家の興廃を双肩にになふ意気と覚悟を持ってをりましたし・・・』


筆の滑った、言葉の氾濫ともいうべき、饒舌な恋文である。阿川は尾ひれを付け足しただけでなく、原文の改変もしている。オリジナル『実は東京に勤務しておるのが淋しくて淋しくてならぬのです。』→阿川『実は東京に勤務してをるのが寂しくて寂しくて且つ不愉快でたまらないのです』。せめてキーワードの『寂しい』という漢字を、オリジナルの『淋しい』に統一するくらいの配慮が出来ないのだろうか。


『此の物語の中に出て来る、山本五十六の河合千代子あての手紙は、全部当時の「週刊朝日」からの引用である』と書いているのである。千代子本人に聞き取り取材したら、こういう文面の『恋文』があったということなのか。創作にしても、こういう辻褄は合わせるべきである。こんなにいい加減なのに、大宅壮一は『大きな記録的価値』という賛辞を寄せ、『英雄の赤裸々な人間像を描いてあますところなく、「太平洋戦争裏面史」としての記録的価値も大きい』と絶賛している。気は確かだろうか。


阿川『山本五十六』は、映画化されたりテレビドラマ化された。千代子役の女優が五十六の妻に怒鳴り込んでいくシーンや、酔って着物を脱ぐシーンを観て、千代子本人は「訴えてやる」と息巻いていたと、千代子に30年以上付き添ったさとさんという女性が、望月氏に証言している。五十六が死んだあとになって、愛人を騙る方がよっぽど醜悪であるが、千代子はそういう役回りを演じている自分の姿を客観視することができない。阿川弘之の他にも、松村剛や渡辺淳一が河合千代子を取り上げているが、彼らはそういう千代子の姿を客観視した上で道具に使っている卑劣漢である。


評論家の村松剛は、五十六プロパガンダ小説の嚆矢『いろおとこ』を賞揚してやまない。里美クは白洲次郎のダチにして原熊の親類、その陳腐で薄汚れていて読み続けるにはかなりの忍耐がいる里美の文章を、『印象を点綴して人間像を浮かび上がらせる名人芸は、現在の文学の世界には求めがたいものであろう。』と手放しで絶賛している。(『プレジデント“ザ・マン”シリーズ山本五十六』に寄稿した村松剛の『五十六の恋』より)


ご丁寧にも村松剛は、里美クの全集から、次のような里美自身の手による解説文まで引用している。『女なぞいくらでも出来放題だし、頼まれれば全海軍力だろうと、日本国そのものだろうと、軽く背負って立つ、まではいいとして、目はしが利くから、十三階段でひょろつくようなへまはやらず・・・』。これは里美ク自身による、里美クのプロパガンダのための、里美クを投射した五十六像である。


村松剛はさらに次のように書いている。

『さびしがりやの彼には、平生ひとまえにはあらわさない孤独感を、抱きとってくれる存在が必要だった。それが千代子であって、彼は中将時代に彼女に宛てた手紙のなかでそのことをみずから書いている。「実は東京に勤務してをるのが淋しくて淋しくてならぬのです。・・・・こんな自分の気持ちは、ただあなたにだけはじめて書くので、どうぞ誰にも話をなさらないでおいてください」 千代子は山本にとって、単なる「マドロスの恋」の相手ではなかったのである。永遠に母なるものは洋の東西を問わず、文学の古くからの主題とされて来た。山本が彼女に求めたのは、ほぼそれに近い。もうひとりの鶴島正子は彼女がまだ子どものときからの知り合いで、若い山本におんぶしてもらったくらいだから、「母なるもの」というわけには行かなかっただろう。』


恋文の真贋は置くとして、誰にもいわないでくれと懇願しているのにマスコミに暴露して悲劇のヒロインを演じる女の、いったいどこが「永遠に母なるもの」なのか。千代子を背後から操る者たちの意図は見え見えである。私は仮に五十六に愛人がいたとしても(笹川良一が証言しているように五十六は女性には小学生のように純情で、モテたというのは精神的なものだと思うし、また堀悌吉が五十六を一言でいえば「チャイルデイッシュ」と証言しているように、情を交わす愛人がいたとは思わないが)構わないし、それは個人的な問題である。


しかし本人自筆の恋文と称して、最前線にいる連合艦隊司令長官のたるんだ『生態』が『如実』である手紙を、大手の週刊誌誌上に暴露して物議をかもすのは公的な問題である。連合艦隊司令長官はミッドウエ―海戦出撃前夜の機密情報を漏らしたり、前線へ出かける日程や参謀名を一々教えていることにされている。このような連合艦隊司令長官として忌々しき言動を暴露する千代子を指して、村松剛は「永遠に母なるもの」と形容しているのである。どっちに転んでも確かなことは、河合千代子は五十六を愛していない、相手の迷惑も顧みず自己陶酔しているだけ、ということである。私はついぞ知らなかったが、村松剛という批評家は頼まれればこういうプロパガンダを平然と書ける人間だったのだ。

週刊朝日の続き。

『九月、千代子あての手紙。「ゆうべ夢をみました。どうしてこんな夢をみたのか自分でも不思議に思います。一緒に南欧のニースの海岸をドライブした夢をみました。これが実際だったらどんなに喜ばしいだろうと思いました。」ここには英雄もなければ、軍神の匂いもない、五十歳を超えた男には珍しいみずみずしい感傷があるだけだ。』


どこが珍しいみずみずしい感傷なのだろうか。記者の願望なのだろうか。中年男のエゴを美化した渡辺淳一の『失楽園』(映画の主役は奇しくも役所広司)みたいだが、阿川弘之も同じようなことを書いている。『山本五十六は生きていた』プロパガンダも、この延長線上にあると言えるだろう。高橋五郎は現地に飛んで目撃証人を見つけ出し、五十六生存説の根拠としているが、高橋のこの見解はBC級戦犯裁判の決めつけと同じで、目撃証言があれば即有罪、その証拠能力が問われることはない。


週刊朝日の続き。

『昭和十四年八月、山本五十六は連合艦隊司令長官になり、十五年十一月、海軍大将となった。千代子は、十二年、妓籍をひいて、「梅野島」という料亭を経営、その女将となり、一方、芝の神谷町に小さな家を買い、山本を迎えた。彼に無駄な金をかけさせまいという心づかいからである。』


リアル感を醸し出すために、梅龍を落籍させ料亭や小さな家を購入させたのである。原田熊雄を丸抱えしているのは、田布施王朝御用達財閥の住友本社である。料亭や小さな家の一軒や二軒、芝居の書き割り小屋として用意するくらい朝飯前である。何せ国家プロジェクトなのだ。憲兵隊のみならず海軍省のスタッフも友情出演している。彼らが梅龍の家に出入りして見せたので、五十六と個人的に親しい関係者までこのプロパガンダを信じている。


週刊朝日の続き。

『開戦・再開・別離   日本の風雲急を告げた昭和十六年十一月の末。連合艦隊長官として旗艦長門に乗込んでいた山本から招かれ、彼女は安芸宮島に旅をした。二人は、静かに厳島の散策に、時を過ごした。小鹿が、傍らに寄って来ては「クウクウ」と鳴いた。「ああ、ヨシ、ヨシ」彼女は、小鹿の頭を撫でてやった。山本は、静かに、彼女を見つめて、微笑した。しんみりとした宮島の二日だった。その後、数日して十二月一日山本は、突然、飛行機で上京、四日、帰艦するまで、あわただしい公務に忙殺された。だが、この多忙の寸暇にも、彼女を訪なうことを忘れなかった。‐四日の午後、二人は銀ブラに出かけた。そして、花の好きな山本は、千疋屋でバラの花を一束買って、彼女に与えた。彼女の家を訪ねる時は、いつも、花をもってくるのが慣わしであった。』


五十六が上京したのは、飛行機ではなく汽車である。極秘裏に上京するために飛行機を使わず、密かに私服姿で汽車に乗って上京したのである。飛行機で上京したというだけでも十分ガセであるが、その五十六が四日の午後に愛人と銀ブラをして千疋屋でバラの花束を買ったというのは、言語道断のガセである。五十六は天皇と先例のない特別な個人的な拝謁をするために、徹底的に隠密行動を取っている最中である。前日の三日は、拝謁の後、姪と堀に束の間会っただけで、家族と最後の晩を過ごしている。四日の朝、五十六は家族と訣別、午前九時海軍官舎から壮行する際、堀を呼び、横浜駅での束の間の再開を約し、午後三時二十七分に横浜駅プラットフォームで堀としばしの立ち話をして別れている。


週刊朝日は『四日の午後、二人は銀ブラに出かけた。そして、花の好きな山本は、千疋屋でバラの花を一束買って、彼女に与えた。』という一文で、地雷を踏んだのである。この暴露記事に対しては賛否両論で、千代子に対する抗議が沸騰したらしいが、正午から出立までの三時間という限られた時間の中で、連合艦隊司令長官が女連れでバラの花束を買い求めたかどうかは、千疋屋の店員なら知っているだろう。だから阿川は週刊朝日のオリジナルネタは使わない。

阿川弘之 旧版『山本五十六』より

『飛行機で発つ予定が、都合で午後三時の特急に変更になったので、山本はそのあと、私服に着更えて、一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った。中村家の敏子が、郵便局の帰り、梅野島に寄ってみると、山本は千代子と差向いで、おそ昼の茶漬けを食っていた。山本の買って与えた薔薇の花が、花瓶いっぱいにさしてあった。敏子は、しばらくして、女中にタクシーを拾わせ、山本と一緒に外へ出た。山本は、顔が目立たないように、マスクをし、紫の縮緬の風呂敷包みを、大事そうにかかえていた。敏子が、持とうとすると、彼は、「いや」と言って、それを離さなかった。風呂敷の中には、勅語か御沙汰書のようなものが入っているらしく思われた。そして山本は、円タクで、銀座から東京駅は向かった。』

週刊朝日のオリジナルネタ『四日の午後、二人は銀ブラに出かけた。そして、花の好きな山本は、千疋屋でバラの花を一束買って、彼女に与えた。』は姿を消して、『五十六は一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った』ことになっている。阿川は、五十六が千代子を訪ねてきて差し向かい二人で茶漬けを食っているシーンから始め、その前の『銀ブラ』『千疋屋』には触れない。地雷を踏まないためである。新版ではもっと小細工を施している。

阿川弘之『新版 山本五十六』より

『飛行機で発つ予定が、都合で午後三時の特急に変更になったので、山本はそのあと、私服に着更えて、一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った。中村家の敏子は前から山本に頼まれていた画仙紙を買いに鳩居堂へ行き、「呉局気付軍艦長門山本五十六様」と送り先を書いて、その帰り道に梅野島へ寄ってみると、思いがけず当の山本が千代子と差向いで、おそ昼の茶漬けを食っていた。山本の買って与えた薔薇の花が、花瓶いっぱいにさしてあった。其処へ鳩居堂の使いが追いかけて来、郵便局でこんな漠然とした宛先じゃあ受け付けられないと言ったという。敏子は「それじゃあちょうどよかったわ」と画仙紙の包みを渡し、しばらくして、女中にタクシーを拾わせて山本と一緒に外へ出た。山本は、顔が目立たないように、マスクをし、片手に紫の縮緬の風呂敷包みを、大事そうにかかえていた。敏子が持とうとすると、彼は、「いや」と言って、それを離さなかった。風呂敷の中には、勅語か御沙汰書のような物が入っているらしく思われた。そして山本は敏子と別れ、円タクで銀座から東京駅へ向かった。』

『新版 山本五十六』を書いた時、すでに阿川は千代子本人に取材している。にもかかわらず本人のオリジナルネタではなく、古川敏子ネタで通している。相変わらず『二人で銀ブラ』ではなく、『山本はそのあと、私服に着更えて、一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った』ことになっている。バラの花束も五十六が一人で買ってきたことになっている。『千疋屋』は禁句である。さらに阿川は『千疋屋』に対抗させるために、老舗の鳩居堂を登場させている。古川敏子が鳩居堂で五十六に頼まれていた画仙紙を買って、郵便局で送った帰りに千代子の家に寄るというネタに、マスク、紫の縮緬の風呂敷、勅語か御沙汰書のような物・・・と些事を細々と描写して付け加えることでリアル感を出し、何とか無難な筋書に読者を引っ張っていこうとしている。阿川弘之は確信犯である。


河合千代子当人も阿川の姑息さを本歌取りして、阿川バージョンの『恋文』を創作する。阿川バージョンがオリジナルネタを凌いだのである。望月良夫の本に載っているのは、千代子が創作した阿川バージョンの『恋文』である。

望月良夫『山本五十六の恋文』より

『「奥さんは気前がよく、手紙をひとにあげたりするので行李にはもう殆どありません」と(さとさんは)口早に話すのだった。黙って聞いていた千代子は急に立ち上がり、「元帥の手紙を二通大事にしまってあります。先生がそれほど元帥を好きなら一通あげましょう」と奥へ消えた。しばらくすると、元帥から千代子あての手紙と元帥へあてた米内光政の手紙の二通を手にあらわれた。(略)はからずも貴重な遺品を手にした私は、千代子の深い好意を感じた。千代子は、「元帥の手紙はたくさん持っていましたが事情があって二通となりました。米内さんのも大切にしていたものです」(略)帰って手紙をひろげたが、読み取りにくい箇所が二、三あった。


「此のたびはたった三日でしかもいろいろいそがしかったのでゆっくりも出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですがかんにんして下さい。それでも毎日寸時宛でも会えてよかったと思います出発のときハ(ママ)折角心静かに落ちついた気分で立ちたいと思ったのに雄弁女史の来襲で一緒に尾張町まで行く事も出来ず残念でした 汽車は少し寒かったけれど風もひかず今朝六時数分かに宮嶋に着いてとても静かな黎明の景色を眺めながら迎いに来て居った汽艇で八時半に帰艦しました  厳島の大鳥居の下で小鹿がクウクウといっとったからウ・ヨシヨシと言ってやりましたら後から大きな鹿が飛び出してきて頭で臀の処ヲグングン押して来ようとしたけれど艇まで一浬ばかり距離があったので駄目だったよ  薔薇の花はもう咲きましたか。其の一ひらが散る頃は嗚呼、 どうぞお大事に、みんなに宜しく、写真を送ってね。さようなら 十二月五日夜  五」』


望月氏は「山本五十六から河合千代子への手紙 昭和16年12月5日」と但し書きをつけ、実物写真を口絵に掲載している。写されているのは、次の部分の文章である。

『此のたびはたった三日でしかもいろいろいそがしかったのでゆっくりも出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですがかんにんして下さい。それでも毎日寸時宛でも会えてよかったと思います出発のときハ折角心静かに落ちついた気分で立ちたいと思ったのに雄弁女史の来襲で一緒に尾張町まで行く事も出来ず残念でした』


『雄弁女史の来襲で一緒に尾張町まで行く事も出来ず残念でした』とは、古川敏子が梅野島にやってきたので、五十六の出立の際、尾張町まで千代子と二人でタクシーを拾いに行けなかったことが残念だ、という意味である。オリジナルネタは消え、阿川バージョンを取り入れていることが分かる。


◎阿川バージョンを取り入れた『恋文』の筆跡は五十六のものではない。望月良夫『山本五十六の恋文』は国会図書館にあり、地方図書館で取り寄せてもらえる。館内閲覧のみであるが、現物を見ることが出来る。週刊朝日のバックナンバーも同様に、県外の図書館から借り出してもらうことが出来る。閉架を併設している図書館であれば、地方図書館にも保存している所があるので、問い合わせて見てください。


古川敏子を雄弁女史とは言い得て妙である。古川敏子ほど阿川にガセネタを提供した人物はいないだろう。金と引き換えとはいえ、新橋女将の風上にも置けない奸物である。CIAに沈黙(オメルタ)の掟があるように、新橋芸者にも守秘の鉄則はあるのだ。


望月良夫氏に寄せられた感想文より

『新橋芸者を思う      有賀 博 


東京の花柳界は、新橋、赤坂、柳橋が一流と言われる。新橋は官僚、財界が客筋。赤坂は政治家が多い。柳橋は、きさくな下町好みの客筋。従って、芸者衆の気風も、明らかに違う。隣座敷の客が誰それと分かっても、「知らない」と答え、昨夜会った客でも、「昨晩はどうも」とも言わない。口の堅いのが新橋芸者。決してお客の機嫌きづまをとらない。朋輩の噂をしない。 』


五十六プロパガンダに協力した河合千代子と古川敏子を並べて見るとき、素人上りの千代子よりも、新橋のれっきとした女将の敏子の方がはるかに罪が重い。古川敏子の協力なしには、里美クも阿川弘之もプロパガンダ小説を書くことが出来なかっただろう。


阿川弘之『新版 山本五十六』より

『山本と深くなってからの梅龍は、彼にだけは実によく尽くした。彼女には、男同士双方承知の旦那があって、土地で「ダイヤモンドのお茶漬け」と言われ、取るとこから、取るものだけは「ザブザブ」と実に遠慮会釈なく取ったらしいら、一方気前もよくて、出す方もどしどし出した。山本はそんなに自由に金は使えないし、実際使いもしなかったらしい。当時妓籍にあり、傍らから見ていて、「男としてあれでよく耐えられるな」と不思議な気がしたと言っている女性もある。


古川敏子が昔の思い出話をしながら、「梅ちゃん、あんたは心と身体とを上手につかいわけたわね」とからかうのを、年老いた千代子が笑ってうなずいている、そういう光景を私は見たことがある。』

『「梅ちゃん、あんたは心と身体とを上手につかいわけたわね」とからかうのを、年老いた千代子が笑ってうなずいている、そういう光景を私は見たことがある。』という箇所は、狐と狸の化かし合いのような諧謔味が出ているが、千代子は着物を脱ぐ映画のシーンにも激怒したのだ。心と身体とを上手につかいわけたわね・・・笑ってうなずいて・・・んな訳ないだろうが。阿川は『梅龍の千代子はしかし、「長門」が入港すれば、一人でも必ず一度は横須賀へ山本を訪ねた。山本の下着類や沓下、副官や副官夫人への贈物まで用意して来、長官室の洋服箪笥の中やベッドまわりをせっせと片づけた』とも書いている。


阿川の『山本五十六』は、副島隆彦のようなトンデモ本だと思って読むべきである。阿川弘之は副島隆彦よりはるかに底意地が悪い。古川敏子も、千代子に対する本当の意味での好意を持っていない。阿川と古川敏子は共謀して、五十六プロパガンダには不必要な千代子の過去をスキャンダラスに書き立て、千代子の酔った時の醜態を面白おかしく脚色し、二人して千代子を玩具のように扱っている。

阿川前掲書の続き

『河合千代子の梅龍は、新橋から出ていたが、新橋の土地っ子ではない。明治三十七年名古屋の生れ、父親は株屋で、女学校を出て娘時代は何不自由の無い暮らしをしていたが、大正十二年東京鎧橋のたもとで大震災にあい父の店が倒産して両親とともに名古屋へ帰り、一家心中をしようという話まであった末に、明治銀行の頭取の生駒という人の世話になることになった。


それから二年して母親が亡くなり、次の年に父親が亡くなり、再び条項して烏森に家を借りて暮らしているうち、今度は盛岡の馬持ちと関係が出来た。その男はなかなかの美男子であったそうだが、千代子も美しい女で男関係が絶えず、髪を切ってやるとか硫酸をかけるとか脅され、色々ゴタゴタの挙げ句に睡眠剤を飲んで自殺をはかった。


それが助かってから、新橋へあらわれて芸妓志願をした。千代子が二十八の年で、昭和七年の十二月である。山本と深くなったのが昭和九年の夏と考えると、それより約一年半前である。三十に手のとどく齢で、いきなり天下の新橋から出たいなど、少しどうかしてやしないかというので、最初は誰にも相手にされなかったらしいが、何と言われても彼女は、「お願いします」の一点張りで、とうとう一念通して、間もなく野島家の梅龍を名のる事になった。


だから梅龍は、芸事はそれほど出来なかった。とても、名妓の列に入れられるような妓ではなかった。ただ。額の広い、面長の色っぽい女で、芸妓というよりお職の花魁のような風情があり、その色っぽさで、すぐ一部に嬌名をうたわれるようになったらしい。賢い人で、普段は行儀もよく、「わたし馬鹿だから、何ンにも分からない」などと言っているが、酔うとがらりと人が変わり、座敷から帰って来て、「取ってえも、取ってえも」と、名古屋弁で朋輩にみな着物を脱がさせてしまうのが癖で、手がつけられなかったという。


梅龍が「おかあさん」と呼んでいた野島家の丸子は、井上馨の妾だった人である。その関係もあり、彼女が少し有名病だったせいもあり、色っぽい梅龍には政界財界の誰彼との間に色んな噂が立ち、やがて決まった人も出来た。』

『取ってえも、取ってえも』という露出癖は、千代子本人が激怒したネタである。わざわざ書くところに、阿川の底意地の悪さがある。また野島家の女将が井上馨の妾であったことを千代子の有名病に結び付けているが、これは田布施村王朝と結びつけるべき要素である。

週刊朝日の続き

『バラの花散る頃   だが、この日、山本は、「この花ビラの散ることを見ていて下さい」と、言い残したまま帰艦していった。十二月五日付、軍艦長門から、千代子に宛てた手紙‐「このたびは、たった三日で、しかも、いろいろ忙しかったので、ゆっくり出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですが、かんにんして下さい。それでも、毎日寸時だけでも会えてよかったと思います。出発のときは、折角心静かに落ちついた気分で立ちたいと思ったのに、いっしょに尾張町まで行くことも出来ず、残念でした。・・・・・・薔薇の花はもう咲ききりましたか。その一ひらが散る頃は嗚呼。どうか、御大事に、みんなに宜しく。写真を早く送ってね。左様なら」』 


逆に言えば、週刊朝日の『恋文』には『雄弁女史の来襲で』が脱落している。また望月氏が貰った恋文の『薔薇の花はもう咲きましたか。其の一ひらが散る頃は嗚呼、 どうぞお大事に、みんなに宜しく、写真を送ってね。さようなら 十二月五日夜  五』の部分は、週刊朝日の恋文では『薔薇の花はもう咲ききりましたか。その一ひらが散る頃は嗚呼。どうか、御大事に、みんなに宜しく。写真を早く送ってね。左様なら』となっている。句読点が違うし、『どうぞ』が『どうか』になっている。私はこんな風に大同小異の『五十六の恋文』なるものが、もっとバラ撒かれていると思う。


千代子は望月氏に恋文の箱書きを頼まれると、『お兄さんと呼んでたから、お兄さんでいいでしょう』と言って『お兄さんの手紙』と箱書きしている。やっていることは、ほとんどストーカーである。思うに『お兄さん』というアイデアは、吉行淳之介のかつての内縁の妻が吉行を『お兄ちゃん』と呼んでいたパクリではないだろうか。

週刊朝日の続き

『ちょうど、七日のことだった、千代子の鏡台にバラの花ビラの散ったのは。千代子は、八日朝のラジオ・ニュースで、開戦を知り、山本の言い残した言葉を、改めて考えてみた。ハワイ空襲の成功で日本中が湧いていた十二月二十八日、千代子あての手紙の一節には、「方々から手紙などが山のごとく来ますが、私はたったひとりの千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでしょうか。」とある。越えて翌年一月八日付けの手紙。「三十日と元旦の手紙ありがとうございました。三十日のは一丈あるように書いてあったから、正確に計ってみたら九尺二寸三分しかなかった。あと七寸七分だけ書きたしてもらうつもりで居ったところ、元日のが来て、とても嬉しかった。クウクウだよ」(記者注=クウクウというのは二人が出撃の直前、宮島で撫でた小鹿の鳴声だ)』


望月良夫氏がもらった『五十六の恋文』は、これを換骨奪胎したものである。千代子は同じネタ、フレーズを使いまわして、複数の『山本五十六の恋文』を書いていたのだろう。


週刊朝日の続き

『一月には、八日、十二日、十九日、二十七日と、五日をあけず、千代子のもとに手紙がとどいた。三月十九日に千代子は肋膜炎を病んだ。絶対安静を命ぜられ、一時は酸素吸入で生命を支えたこともあった。四月十八日、東京がはじめて空襲をうけた日、彼女は日記にこう書いている。「苦しき呼吸困難を助けられ、驚きて思わず起き上がる。わが身は先生に見離され、いまさら運命に従うより外になし。悲し」』

『五月十日、連合艦隊は呉に帰港。山本は早速、千代子に電話をかけた。「呉よりしきりと電話くるけれど咳多く出ずるため、電話にて話すことできず、ただただ心あせるのみにて涙とめどなく出ずるのみ」と、彼女は日記に書き、さらに十三日には、「死んでも・・・・・・と心に強くいいきかせて夜の汽車にて呉に向かう。まだ床に起上る勇気もないこの身は看護婦さんの心配するのもきかずとうとう列車に乗せてもらう」十四日、午後四時、彼女は呉に着いた。人目をはばかり、眼鏡をかけ、マスクをした背広姿の山本が、ホームに出迎えていた。彼は瘦せて軽くなった彼女を背負い、ホームから人力車まで歩いた。彼女の日記にはこう記されている。「呉の駅に懐かしの人は待っていて下さった。ああうれしい。これでよかった。うち震える全身を抱きかかえられて、車にて菊川旅館まで運んでもらう。呼吸困難の私はいくたびとなく注射をして頂き、やっとの思いでたどりついたのでした。もう死んでもよい・・・・」』

『再び握らぬ手と手   別れた翌日の彼女の日記。「あの駅頭のお別れはどうしても私は帰るのがいやでございました。あのまま汽車から飛び降りてあなたのそばにいたかったのですのに。……汽車が動き出したとき力一ぱいに握り合ったあの手が私には離したくなかったですのに。あのとき私はちょうど弱った体のために思うような力が出せなかったのに、あなたはずいぶん強い力で、私の手を握って下さいましたね。どこまでも私の手を離さないでつれていって下さいませ」しかし、ふたたび二人の手は結ばれることはなかったのである。』


読んでいると身体が痒くなる文面である。千代子本人の言葉ではなく、ゴーストライターが書いているヨタ文である。


『五月二十七日、ミッドウエ―へ向かう直前、帰艦大和から、千代子あてに便りがとどいた。「あのからだで精根を傾けて、会いに来てくれた千代子の帰る思いはどんなだったか。しかし、病勢を日々克服してゆく千代子の気力は本当におどろくべきものですね。私の厄を皆ひき受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は‐万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。二十九日はこちらも早朝出撃して、三週間ばかり全軍を指揮します。多分あまりおもしろいことはないと思いますが。今日は記念日(記者注=海軍記念日)の晩だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれもお大事にね。うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふもくらしつ 五月二十七日夜」』


あろうことかミッドウエ―作戦の出撃日と戦闘期間を知らせている。こんなことを書いた手紙が検閲を通ることは不可能である。後になって辻褄を合わせるために、この手紙は秘書官によって29日の幸便に託されたという作為が施されている。山本五十六がいかにもたるんでいたように思わせる恋文は、源田実がわざと慢心しているように見せかける言動を取っていたことと連動している。これらは、ミッドウエ―の惨敗は相次ぐ勝利に慢心していた海軍の驕りによるものだ、というシナリオの布石である。ミッドウエー海戦の真相についてはいずれ検証するが、アメリカが最後の五分間で奇跡の大逆転を起こすというシナリオは、アメリカ側はヴィクター・ロスチャイルドが送り込んだスプルーアンス、日本側は源田実が中心になって、日米共同演出で行ったヤラセである。『運命の五分間』というのはプロパガンダ用語で、実際はかなりの幅を設けられてヤラセが行われている。但し、私はこのヤラセから山本五十六と南雲忠一を除く立場である。


望月氏が千代子からもらった『恋文』は、前述した他にも次のものがある。五十六バッシングの中でも筆頭に上げられる、ミッドウエ―出撃前夜の『恋文』である。望月氏は、自分がもらった『恋文』は阿川の本にはない、と書いている。阿川が自著に引用した週刊朝日の『恋文』とは違うそれを、望月氏はもらっていると言っているのである。5月27日付の手紙をそれぞれ較べると、阿川本と望月氏の『恋文』はまったく別物である。


望月良夫『山本五十六の恋文』より以下抜粋。

『しばらく訪ねなかったからだろうか、ある日、電話をもらったので早速訪ねた。応接室で待っていると、さとに支えられるようにして入ってきた千代子が、「先生に貰っていただきたいものがあります」と一通の封書を差し出した。何枚もの便箋に墨書きした五十六の手紙だった。最後の一通と直感し、千代子に済まないような気持ちになった。私は重いものを貰ってしまった。


午後の診療が一段落して書斎に入り、便箋十二枚にびっしり埋められた二千字を読んだ。この稿の最後に掲げるが、前の手紙より達筆で、昭和十七年五月二十五、二十六、二十七日間の、すこしの時間をさいてていねいに書かれたものである。封筒の上書きは、「京橋区銀座七の三 河合千代子様」裏は山本五十六だけで、切手、消印、検閲印はないから、人伝てに千代子にわたった私信である。


なお、この私信を託した同じ日に、もう一通千代子に手紙を投函している。(注 週刊朝日に掲載された手紙)いただいた私信の読後感はここに書かない。千代子の病身をきづかっている部分が多いが、阿川氏の著書を参考に、当時の千代子の病状を書かないと五十六の気持ちを理解しにくいだろう。


「新版山本五十六」によれば、五月十三日から六日間、戦艦「大和」は呉軍港に投錨した。入港時の慣例で、乗員の希望者はみな、細君を呼び寄せ別れの夜を過ごした。五十六のその日のうちに千代子に電話をかけた。千代子は三月から肋膜炎にかかり、一時は重体で絶対安静を命ぜられていたが、その晩、医師につきそわれて下関行きの夜行列車に乗った。翌日午後、呉駅のプラットホームに、背広に眼鏡とマスクをした五十六が待っていた。病弱の千代子は注射をうけながら、旅館で五十六と四晩を過ごした。


五十六の五月二十七日付の手紙、“あの身体で精根を傾けて会いに来てくれた千代子の帰る思ひはどんなだっかた(中略)私の厄を皆引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は万事を放擲して世の中から逃れたった二人きりになりたいと思います(後略)”


同じ二十七日に秘書官に託した私信、つまり、私がもらった手紙は、阿川氏の著書にはない。


恋文

けふ廿五日東京へよりし参謀が中村勝平君よりの手紙とかねて御依頼せし万葉集小註を持って段取りしてくれたので千代子がその後経過順調で先月末より本月はじめまで静浦へ静養に出かけ其後は立花で来月になればどこでも行けると先生に言われたとの事を承知して本当に安心しました。

私もことによったら今月は横須賀方面へ行き東京へ打合せに行くかもしれぬ(此前手紙に書いた)と話したのでしたが後其方(横ス賀へ回航しないことになり)は都合で必要がなくなり從って当分上京の機会もなくなりましたそれに此頃いろいろの事が世間や外国へまで漏れるので艦隊の乗員や徴用船の船員の手紙などを検閲するといろいろの軍機のことがかいてあるので之では将来の作戦に不都合の事があってはいけないから当分手紙は出さぬ事にするという事になったのでした。それで私など誠にこまるのですが封書は控え居る次第です。

此手紙は二十九日頃の幸便にたのむつもりなのです(秘書官に)其後引きつづき経過もよいとすればもう注射も大体予定の回数が終わった頃であとは体力の恢復だけで段々全快なのでしょうと想像して嬉しくてたまりませんどうか此夏のあつさだけを充分に気をつけて夏まけしない様にして下さい。

東京からは先日君梅さんからとけふ中村武官の外一切手紙が来ず様子もわかりませんが外に萬々かはった事はないでしょうか。戦争も追々本格の長期戦になり船や飛行機や油やいろいろ入るものばかりになりますが懦座の方はどんなものかそれにつれて花柳界などの影響はどうです結局うちの様子はどんなかなと思い出して居ます追々暑くなると二階もたまらなくなるでしょうと心配です私も出来れば千代子の箱根への転地前にもう一度あって元気のところを見たいのですが次の大きな作戦のことでいろいろ心肝をくだいたり練ったりして居るので当分其機会が得られませんからどうぞ我慢して涼しくなる頃まで待って下さい、そうしてその間に充分からだを丈夫にして元気一杯の千代子になっとって下さいどうぞお願いします。また明日にでも書きたします御機嫌よふ(写真の千代子がジーッとこっちを見てるよ何とか言ってよ)二十五日午後五時

あすは大臣がこちらへ見える相だから東京の話なども出ると思ふけれど千代子は其後島田さんには会ふ機会もなかったでしょうね昨晩澤本さんからの手紙で「河合氏のお見舞いに羊かんを少々送ったらおすしを沢山に貰って恐縮でした丁度よい機会だから御依頼の手紙は直接届けるつもりだ」とかいてあったので自分で中村家へ行ったかそれともうちへ直接行ったかとにかく自分で訪ねていっただろうと思っています。

此手紙は丁度返事もかかなければならぬので中村武官に届けて貰ふ様に頼むつもりですから中村さんも御見舞がてら来る事でしょうがそうなるとうちは海軍省の出張所の様になりますね大臣には秘書官か誰かついて来るのか此頃秘書官は代ったのかどうかちっともわかりません島田さんは明日朝ついて一泊して徳山あたりの工場を廻って二十九日頃は東京へ帰るらしいから今月中には此手紙が届くと思います

今度又何時手紙が出せるかわからぬからお中元の分、少々ばかりわけてあげて下さい入れといたから此手紙のつく頃は或は強羅あたりへ転地して居るのではないかなどとも思いますが来月からかとも思って居りますそれとも他にしましたかおひささんの話の御殿場あたりの田舎もよいかも知れないねともかくこちらからははがきや名刺でも出しますからこれからさきの行動予定など知らせて下さいねどうぞお大事に

うつし絵に口づけしつゝ幾たびか千代子とよびてけふも暮しつ 五月二十六日夜

けふはとてもむし暑くやがて降って来そうの空模様ですあと暫くで島田さんが着くのでついてからの話なども聞いてからもっと書きたいけれどひまがないかもしれぬから一応封をしておく事にしますそれではどうぞ気をつけて充分に養生をしてお乳も腕も背中もお尻もいやになったという程丸々と肥って下さいそれから又しまって来るのはわけないからね、駒さんはおかあさんになってからやって来ましたか、もう一月以上になったでしょうね、みんなによろしく、それではお大事に御機嫌よふ左様なら。五月二十七日朝九時五十六千代子様

萬葉集小註はとても面白く読んでいますありがたふ(引用の手紙三通はすベて原文のまま)』

もう一度27日付の手紙を比べて見よう。


週刊朝日に掲載された手紙(投函され検閲を受けた手紙)

『五月二十七日、ミッドウエ―へ向かう直前、旗艦大和から、千代子あてに便りがとどいた。「あのからだで精根を傾けて、会いに来てくれた千代子の帰る思いはどんなだったか。しかし、病勢を日々克服してゆく千代子の気力は本当におどろくべきものですね。私の厄を皆ひき受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は‐万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。二十九日はこちらも早朝出撃して、三週間ばかり全軍を指揮します。多分あまりおもしろいことはないと思いますが。今日は記念日(記者注=海軍記念日)の晩だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれもお大事にね。うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふもくらしつ 五月二十七日夜」』


望月氏がもらった手紙(人伝に届けられた私信)

『けふはとてもむし暑くやがて降って来そうの空模様ですあと暫くで島田さんが着くのでついてからの話なども聞いてからもっと書きたいけれどひまがないかもしれぬから一応封をしておく事にしますそれではどうぞ気をつけて充分に養生をしてお乳も腕も背中もお尻もいやになったという程丸々と肥って下さいそれから又しまって来るのはわけないからね、駒さんはおかあさんになってからやって来ましたか、もう一月以上になっ
たでしょうね、みんなによろしく、それではお大事に御機嫌よふ左様なら。
五月二十七日朝九時五十六』


望月氏が貰った手紙は、

『此頃いろいろの事が世間や外国へまで漏れるので艦隊の乗員や徴用船の船員の手紙などを検閲するといろいろの軍機のことがかいてあるので之では将来の作戦に不都合の事があってはいけないから当分手紙は出さぬ事にするという事になったのでした。それで私など誠にこまるのですが封書は控え居る次第です。此手紙は二十九日頃の幸便にたのむつもりなのです(秘書官に)』

という事情のもとに、人伝で千代子に届けられた私信である。機密情報も書かれていない。

一方、週刊朝日に掲載された手紙は検閲を受けたものである。にも拘わらず、『万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたい』という失楽園的コメントや、『二十九日はこちらも早朝出撃して、三週間ばかり全軍を指揮します。』という機密情報の漏洩、『多分おもしろいことはないと思いますが』という不謹慎なフレーズがある。


しかも週刊朝日の続きには、六月二十一日付の手紙が掲載されていて、これが五月二十五日付の文面とほぼ同一のものなのだ。

こんな支離滅裂な話をデッチあげているのである。


週刊朝日続き

『ミッドウエ―敗戦・戦死・国葬   六月初旬に行われたミッドウエ―開戦は、惨憺たる敗北に終わった。「このごろ作戦行動などが、だいぶ世間や外国へ洩れる形跡があるというので、しばらく艦隊から封書は出せないということになったので、此間は名刺に簡単に書いたのです。千代子もどうしたのか変に思ったでしょうね。」(六月二十一日) 』

すでに五月二十五日付の手紙で、私信にした理由を説明しているのだから、『変に思ったでしょうね』と書く方が変なのである。『同一の文章を書いて、変に思ったでしょうね』というならまだ話は分かるが、まったく辻褄が合わない話である。否、辻褄を合わせようとする配慮が千代子には欠けている。週刊朝日のこの二十七日付の『恋文』に限らず、望月良夫にプレゼントした『五十六の恋文』も、海軍省の焼却命令で焼いたという『恋文』も、焼かずに密かに隠し持っていたという『19通の恋文』も、後には隠し持っていたのは『5通の恋文』ということになっているそれらを含めて、全ての『山本五十六の恋文』は創作物である。


週刊朝日の続き。

『最後の便り  昭和十八年四月二日付の手紙は、旗艦大和の長官室で散髪した遺髪を同封されて、千代子の許にとどけられた。ガダルカナル失陥後二ケ月、南方戦視察に赴く直前の手紙である。これが最後の便りとなった。「三月二十七、八日の御手紙、昨四月一日の夕方受け取りました。それから今度はあまり度々だからと思っておったのに参謀長藤井、渡辺、鹿岡、佐雉(記者注=みな連合艦隊の参謀)と沢山よんで貰って、本当に嬉しく御礼申します。皆んなもとても喜んで、入れかわり立ちかわり、神谷町(記者注=千代子さんの家)のことや、山口での話などをしてくれて私もなんだか、ちょっと家へかえって千代子にあったようの気持ちになりました。・・・・藤井君も押しかけて御馳走になり、夜おそく帰った。一杯機嫌で上り込んで、いつまでもご迷惑をかけ、おまけに鹿岡と公務の事まで話し始めたら、いつの間にか、気をきかせて下へ行っていたらしいなど、とても気の付く人ですねと感心して居ったから、僕が天皇陛下の前に内心あたまの上がらぬのは、あの人なんだが、そのねうちはあるだろうというと、いやいくら言われても致方ありません、まけましたといって皆で陽気に笑いました。本当に楽しかったよ。私のからだは先日言って上げた通り、血圧は三十代の人と同様、とてもよいという事です。それから手がしびれるというのは、右の薬指と小指のあたまがほんのわずかいびれるようでしたが、しかし軍医長にヴィタミンBとCの混合液を四十本注射して貰って、もうすっかり能くなりました(表面はまだ少しいけないように言っておきましたが)から、本当は少しも心配しないで下さい。・・・・・・それから明日からちょっと前線まで出かけて来ます。参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等が一家です。それでに収監ばかり御ぶさたをしますから、そのつもりでね。私も千代子の様子を聞いたので勇ましく前進します。四月四日は誕生日。愉快です、一寸やるのは」』

週刊朝日の記事には、『千代子さんに宛てた元帥最後の手紙』として封書の写真が掲げられている。表書きの左端には『戦時郵便』と記され、下に『検閲済』の印が押してある。つまり通常のルートで検閲を受けた手紙である。先の五月二十七日付の手紙同様、こんな『恋文』を書いたとしても検閲を通るのは到底不可能である。しかも参謀の役職名がデタラメ。『それから明日からちょっと前線まで出かけて来ます。参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等が一家です。』→参謀長は宇垣纏、黒島亀人は先任参謀、渡辺安次は戦務参謀。『渡辺参謀長』などと五十六が書くことは間違ってもない。

だから阿川弘之は、この最後の手紙も勝手に改変している。例によってあれこれ尾ひれも付けている。改変を目立たなくさせるための小細工と思われる。改変や尾ひれの部分に※を付けておく。相変わらず語句や句読点などいい加減で、オリジナルに合わせていない。

『新版 山本五十六』より

『三月廿七日、八日のお手紙はお天気がわるく飛行機が飛ばなかったのでおくれて漸く昨四月一日の夕方受けとりました  ※それと浴衣や石鹸や目刺山口の煮豆などいろゝとどきました ありがとう※  夫れから今度はあまり度々だからと思って居たのに参謀長 藤井 渡辺 鹿岡 佐雉など沢山よんで貰って本当に嬉しく御礼を申します 皆んなもとても喜んで 入れかはり立ちかはり 神谷町のことや山口での話などをして呉れて私もなんだか一寸家へかへって千代子にあった様の気持ちになりました 


 ※渡辺君はことに神谷町のうちの様子や千代子の健康のことやいろゝ親切にしてもらった事などを事詳しく三時間も話して十二時過になりました さうして長官へは古い浴衣だのに私に新しいのをどうしても持って行けといはれ又雨で靴下をぐちゃゝにしたら洗濯したり新しいのを沢山頂いたり大変度々ご馳走になったりして恐縮でしたと云ふから夫れは君が三年半も下で一生懸命働いて呉れて居るのを度々話してあるので能く知って居って感謝して居るからだよと言ったらあんなに能く気のつく親切な方はありませんねというふてしんみりと感激して居りました※ 


藤井君も押しかけで御馳走になり 夜おそく酔った一杯機嫌で上がり込んで(オリジナルは「藤井君も押しかけで御馳走になり、夜おそく帰った。一杯機嫌で上り込んで、」) いつまでも御迷惑をかけ、おまけに鹿岡と公務の事迄話しはじめたら、いつの間にか、気をきかせて下へ行って居られるなど(オリジナルは「居たらしいなど」)、とても気のつく人ですねと感心して居ったから、僕が天皇陛下の外に(オリジナルでは「前に」)内心あたまの上がらぬのは あの人なんだが そのねうちはあるだろう云ふと いやいくら言われても致方ありません 負けましたといって 皆で陽気に笑いました 本当に嬉しかったよ(中略)(オリジナルでは中略の表示はない)


※梅駒さんも許可が下りて何よりでした。あの家が其のまゝ立って行けば気持ちがよいわけですね※


私のからだは先日言って上げた通り 血圧は三十代(オリジナルでは「台」)の人と同様とてもよいという事です。夫れから手がしびれるといふのは 右の薬指後小指のあたまがほんのわづかしびれる様でしたが  ※東京へは少し大げさにわざと云ってやりましたので少し問題になった様です(問題になる様にしたのです)※  しかし軍医長にヴィタミンBとCの混合液を四十本注射して貰って もうすっかり能くなりました(表面はまだ少しいけない様に言っておきましたが)から、本当は少しも心配しないでください。 ※又此の事は誰にも言わないでなんだか暑い処で土も踏まないので少し弱ったらしい位に言つといて下さい 夫れから明日から一寸前線まで出かけて来ます※  参謀長黒島参謀渡辺参謀等(オリジナルでは「参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等」)が一処です(オリジナルでは「一家です」) 夫れで二週間ばかり御ぶさたしますからそのつもりでね 私も千代子の様子を聞いたので勇ましく前進します 四月四日は誕生日です 愉快です 一寸やるのは ※夫れではどうぞ御大事に 御きげんよふ 四月二日 五十六 千代子様』


阿川が付け足している『このことは誰にも言わないでください』は、『五十六の恋文』のキャッチコピーである。問題の『参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等』の部分も、変わらず姑息な手を使ってごまかしている。まず間合いを詰めて『参謀長黒島参謀渡辺参謀等』と列記し、『渡辺参謀長』から『長』をさり気なく取っている。渡辺安次は勅令で戦務参謀として五十六に貼り付き、河合千代子の自宅に出入りしてアリバイ工作をして昵懇になっている。藤井茂は千代子の家に出入りしたこともないし、渡辺安次のように一線を越えたこともない。ちなみに藤井茂は渉外参謀である。

五十六は慰問の手紙をもらえば、それが小学生であろうと必ず直筆の返信を書く。長岡小学校の小学生にも一々返信をするので、校長先生が自粛を呼びかけたほどである。河合千代子はそのことを利用すれば、五十六本人直筆の返信を入手できるし、実際入手していただろう。もちろん中身は普通の礼状である。

藤井茂はトラック島に碇泊中の武蔵に待機、昭和18年4月17日に五十六の視察スケジュールを打電している。4月2日からラバウルの前線に二週間ほど指揮を執りに行っている五十六が、18日にブインを視察する前夜のことである。その際、藤井茂は4月から大幅に刷新された暗号乱数表ではなく、すでに米軍に解読されていた古い暗号表を使って打電している。これが米軍に視察スケジュールを解読された真相である。この勅令を藤井茂に伝えたのは、海軍主計中曽根康弘である。パシリ中曽根に指令を出したのは、フィクサー吉田茂である。

文中、『僕が天皇陛下の前に内心あたまの上がらぬのは、あの人なんだが、そのねうちはあるだろうというと、いやいくら言われても致方ありません、まけましたといって皆で陽気に笑いました。』というのは、「五十六が天皇陛下の次に、内心、頭の上がらないのは河合千代子であり、千代子にはその値打ちがるだろうと言うと、いやいくら言われてもその通りです、負けました、ごそうさま、と皆で陽気に笑った」という意味である。

五十六は成りすまし昭和天皇に恐懼しことはない。また五十六がこの世で一番頭が上がらないのは、陰で支えてくれた妻の礼子である。五十六が最後に家族と過ごした夜、礼子は肋膜炎に罹って枕から頭さえ上がらぬ状態であったが、苦しいとも痛いとも一言も言わずに家の中のことに気を配っていた。五十六はそうやって家庭を守ってくれてきた妻と最後の一夜を過ごし、夫婦水入らずの訣別をしたのである。五十六が瞼に焼き付けたただ一人の女性は、その夜の礼子である。だから礼子は、戦後、新橋のガード下で石鹸の叩き売りをしたり保険の外交員をしたりして子どもたちを育て上げ、『神様は信じられないけど、パパちゃんのことは信じられるわ』と言ったのである。

しかし阿川弘之は、これ以上はないというくらいにその礼子をこき下ろしている。誹謗中傷しか書いていないといっても過言ではない。彼は『山本五十六』を書くにあたって、まったく遺族に聞き取りをしていない。伝聞と風聞だけで妻を貶め、愛人を持ち上げている。五十六の結婚は失敗であるという大前提のもとにひたすら妻を人格否定し、五十六が愛人を持つことの妥当性を強調している。すでに物故している堀悌吉をダシに使って、さまざまなガセネタを創作している。

阿川が遺族から名誉棄損で訴えられた後で出したのが新版『山本五十六』である。どこをどう配慮してあるのかまったく分からない。新版ではさらに堀悌吉にみっともない真似をさせ、デマカセを喋らせている。阿川が配慮しているのは、愛人ネタで辻褄の合わないところをごまかしてある所だけである。

五十六の無二の親友である堀を狂言回しに使う方法を思いついた時、阿川は(しめた!)とほくそ笑んだのであろうか。堀悌吉は海軍の至宝と言われた秀才で人格者であるが、阿川弘之の筆にかかると、いつも五十六とつるんで色事に協力している俗物になり下がっている。

もう一人の友人である古賀峯一も、千代子のガセネタのダシに使われている。


『新版 山本五十六』より

『古賀は、かつて河合千代子に、「山本の将来を思って、つらいだろうが別れてやってくれ」という話を持ちかけ、千代子に、「古賀さんの言うこと、分からないじゃないけど、今どき新派悲劇は流行らないわよ」と、あとで笑われたという堅人であったし翌昭和十九年の三月、連合艦隊司令部をひきいてパラオからフィリッピンのダバオに向かう途中、乗っていた二式大艇が嵐に巻き込まれて行方不明になって、あまり華々しいいくさもしないままに山本のあとを追うてしまったので、一般にはあまりパッと印象を与えているようだが、山本とは仲のいい古い友達でその志操も米内と全く同じであった。』

古賀峯一は勅令で『行方不明』にされたのである。福留繁が古賀を『行方不明』にして、機密書類を敵側に『奪われる』ようしている。米内光政に志操はない。昭和天皇に唯々諾々と従うだけの哀れな便利屋である。

阿川弘之『山本五十六』より

『彼の沓下には、よく穴があいていた。お洒落の癖に、彼のスボン下は、いつも、そんなにきれいではなかった。これは、山本があまり家庭に寄りつかなかったか、家庭の方で山本をあんまり構いつけなかったか、どちらかの結果である。女たちは、彼の沓下につぎをあて、ズボン下を洗濯し、次に来るまでに乾かして、アイロンをあてておいてやる。こういう事は、彼女らの母性本能を刺激したであろう。


山本源太郎大将は、禮子の母親と従兄妹で、したがって山本の家と、山下大将の家とは、親戚づき合いである山下の妻の徳子が、山本の家へ遊びに行っていると、夕方、山本が帰って来る。「やあ、小母さん来てたの?」などと言って、山本は出されている林檎を、手を使わずに、ナイフと フォークだけでむいて見せる芸当などして見せて、それから着更えに別室へ立って行くが、禮子は知らん顔をしている。「禮ちゃん、あんた、行って、旦那さまの着更えぐらい、手伝って上げなさいよ」と、徳子が言っても、「あら、そう?」と、彼女はけろりとしているという風であった。』


いったい阿川はこれを誰から聞いたのであろうか。旧版『山本五十六』には引用元が明示されていなかったが、新版には聞き取り証人の名前が明記されている。その中に山下徳子の名前はない。もとより阿川は禮子に一度も会っていない。どうしてこんなシーンが描けるのか。フィクションなのかノンフィクションなのか、はっきりさせるべきである。阿川の『山本五十六』をあたかも既成事実のように捉え、文献として引用している作家はたくさんいる。その弊害は甚大である。

『山本と結婚するまで、一度も東京へ出た事がないという、根っからの田舎育ちで、押しが強く、茶碗が欠けていようが不揃いであろうが、そんな小さな事は一向に気にならないという性であったらしい。山下夫人の徳子は、「あそこの家じゃ、女中の給料、五十六さんが自分で渡してるんだってよ。禮ちゃんは一体、何をしてるんだろうね」と言っていたそうである。黒潮会のある新聞記者は、山本の留守宅に訪ねて行って、海軍中将の家の玄関に、洗濯盥がほうり出してあるの見て、びっくりしたと言っている。山本はその反対で、何にでもよく気がつく。彼は、部下の夫人たちにでも、どうかすると誤解を受けはしまいかと思われるほどよく気を使って、外国へ行けばコテイの白粉と口紅を土産に買って来る、部下が新居へ引っ越せば、奥さんの方がかねて欲しい欲しいと思って眺めていたコーヒー・セットを、ちゃんと知っていて祝いに持って行ってやる。』


『・・・そうである』は阿川の十八番である。これを使っていくらでもガセネタを書きまくる。


『禮子の方は、家に客が来ても、髪でも結っていれば、三十分でも四十分でもほったらかして、出ては来ない。山本は、海軍関係で、家庭と家庭との付き合いをするのを、次第にいやがるようになり、禮子をめったに人前に出そうとしなくなった。現在、彼女を識っている人々に訊いてみると、太っ腹で、親切な、いい方なのだが、都会人の神経で接すると、やはりちょっと・・・・と、大抵の人がそう答える。禮子にして見れば、なぜ自分のやり方がそんなに山本の気に入らないのか、よく理解が出来なかったかも知れない。彼女はある時、「わたしは、一度も主人と一緒に散歩というものをしたことがないのよ」と、悲しげに人に語ったことがあるそうである。』


阿川はよくこういう事を書けると思う。五十六と禮子は部下や知り合いの仲人を何回もしている。その行き帰りには一緒に歩いたことだろうし、伴侶を人前に出したくないほど不和な夫婦に仲人が務まろうはずもない。


『結婚の事情を詳しく見ると、其の点、山本も勝手であった。山本夫人の里は、会津若松の、農家を兼ねた牛乳屋で、父三橋康守、母亀久の、禮は三女であった。堀悌吉から話が出て、山本がこの三橋禮と、東山温泉で見合いをした前後、彼が長岡の家兄に宛てた手紙の中には、「本人は大正三年会津高等女学校卒業後女中代としては母を捕け現業に従事東京と見たる事なし 身体頑健困苦欠乏に堪ふとのこと・・・」とか「先方は最も質朴の家風らしく当人は丈ケ五尺一寸許り躰格極めて頑健の女なれば大抵の困苦には可堪ものと認め整婚に同意致候次第に御座候」とか、まるで身体頑健で、大抵の困苦に堪えそうなところだけが禮子の取り得で、専らそれが気に入ったような言い方をしている。


堀悌吉は、どこから此の縁談を持って来たかというと。前述の通り、禮子の母親の三橋亀久は、山下源太郎と従兄妹である。山下源太郎夫人と、四竈夫人とは、姉妹であった。四竈幸輔(ママ)は、のちに中将となったが、山梨勝之進らと同期の、当時大佐で、堀は此の四竈と親しくしていた。話は四竈幸輔(ママ)から堀悌吉に行き、堀から山本に伝えられた。最も親しい友人の堀が持って来てくれた縁談だからというので、山本は最初に心を動かしたらしい節がある。


だが‐「所謂栄達の人々」を避けるのはよいとして、候補者が「身体頑健困苦欠乏に堪ふ」「東京を見たる事なし」の、若松の人間だからというので、「明日あると期し難き身に」「ややつり合」い、それで万事うまく行くだろうと考えたとすれば、いくら昔風の、軍人の結婚でも、夫婦生活というものに対し、山本は少し浅慮であったというそしりは免れまい。あとになって、禮子に、都市的な繊細な神経が書けていると不足を想って見ても、それは山本の勝手である。彼の結婚生活が失敗であったとするなら、少なくとも其の責任の半分は、やはり山本が追わなくてはなるまい。


それまでも、山本は禮子を人前に出すことを嫌い、海軍士官の家同士の交際をさけたがっていたが、部下の細君に、「奥さま、お元気ですか?」と訊かれて、「あんな、松の木みたいなもの、大丈夫だよ」と答えたり、艦内の幕僚が細君の写真を飾っているのを見て、「お前は、恋女房でいいなあ、俺はもう匙を投げたよ」と、彼が言ったりするようになるのは、すべて此の時期(注 次男が生まれた昭和7年11月。昭和9年ごろ河合千代子とデキたとされている)あたりよりあとである。山本夫婦は、それぞれもう、両方で勝手に独立しているように見えたという。


禮子は、趣味の無い人であったが、土地や家作の売買には、男勝りの、なかなかの手腕を発揮した。山本は鎌倉に住んでいた大佐の頃、「鎌倉の材木座で、一番小さな家を探して来りゃ、それが俺ンとこだよ」と言っていたくらいで、将官になっても、売り買いする程の財産は持っていなかったけれども、何かで少しまとまった金が入り、長い苦労をかけているからと、彼が禮子にそれを渡すと、禮子はすぐ其の金で、土地を買ってしまったという事もあった。


山本は情に溺れる方で、そういう潤いの無い禮子のやり方は、気に入らなかったに違いない。しかし、一旦言い出したら、禮子はめったに後へは引かなかった。喧嘩になると、山本はすぐ、蒲団をひっかぶって寝てしまったそうである。山本はもはや、家庭に慰めを見出していないように見え、事実、彼は、次第に家庭から遠ざかるようになって行った。結婚十五、六年後、そういう状態の下で、山本五十六の前に不意に立ちあらわれて来たのが、河合千代子の梅龍であったのである。』

『身体頑健困苦欠乏に堪ふ』『明日あるを期し難き身にややつり合う』という理由の、どこが浅慮のそしりを免れないのであろうか。すばらしい長所ではないか。五十六は部下にもなるだけ晩婚を勧めるほど、軍人未亡人をつくることを憂慮している。山本家を継いだ責任感、嗣子を儲ける義務がなければ、五十六はもっと晩婚かあるいは生涯独身を通したかもしれない。わざと曲解しているにしても、『浅慮のそしりを免れない』のはそれを解さない阿川の方である。


そもそも阿川のいう『都会的な繊細な神経』というのは、何を指すのか。会津若松にも独特の文化と伝統がある。千代子こそ『都会的な繊細な神経』を持ち合わせていて、それが五十六の趣味だとでも言いたいのだろうか。しかし前述したように、阿川は河合千代子のことも本当の意味ではほめていない。阿川は千代子を持ち上げる文章の合間に、古川敏子から仕入れた千代子の過去の素性や、見ず転芸者としての行状をそこまで書く必要があるのか?と思うほど晒け出している。


夫婦の仲は夫婦にしか分からないという。人前では完璧に夫婦円満を装う仮面夫婦もいるし、横暴で亭主関白で愛情表現など一切しないが熱愛している夫婦もいる。阿川は当事者に取材さえせずに決めつけ、その決めつけは今や『史実』になっている。『わたしは、一度も主人と一緒に散歩というものをしたことがないのよ』を歴史的人物の一言として取り上げているブログを見たことがある。ウイキペデイアの山本五十六の項にも河合千代子が愛人として堂々と記載され、五十六の『戦死』については、妻の礼子ではなく千代子の言動が取り上げられている始末である。


『山本はしかし、宵のうちに官舎に戻っている事はめったになかった。家族は青山の私宅の方に置いて、官舎では女中と二人だけの所帯で、山本は天長節の重い礼装なども、自分で着つけをやっていたそうであるが、帰館は大抵一時頃で、此の時刻になると、女中ももう寝ている、山本が、自分用の鍵を持っていて、勝手に官舎の玄関を開けて入り、女中の入ったあとの風呂に入るというのは、新聞記者の間で有名な話であった。』


この阿川のプロパガンダに対する反証として出版されたのが、山本義正『父・山本五十六 その愛と死の記録』である。義正氏は名誉棄損の訴えを起こしたが、マスコミにもっとひどいことになるとやんわり脅され、訴えを取り下げざるを得なかった。その代りに本書を反証として上梓したのである。


山本義正『父・山本五十六 その愛と死の記録』光文社より

『母との結婚にあたっても、父は、くどいほど自分の体のことを、母方の人びとに念を押したそうである。東京で、あらましまとまりかけた縁談に乗り気だった父は、見合いのために母の里会津まで出かけて行った。それは、自分が相手を見る目的というより、自分を赤裸々にして見てもらうことを目的としたようである。この会津における見合いのときに、父は、自分の欠点を洗いざらい書きつづった身上書を持参し、母方の人に見せている。自分の至らない性格についてふれ、とくに体の傷については、その原因、負傷部位、傷痕の大きさなど、詳細に書き記されてあった。「欠点ばかりくわしく書いてあって長所らしい点は、なにも書いてなかった。」と、後年、母は私に語っている。』

身体頑健困苦欠乏に堪ふ嫁を娶るために、五十六は自分を丸裸にして見せている。そし
て五十六は、礼子の見てくれにも惚れている。阿川は千代子を美人だと持ち上げる一方で、いかにも礼子のことは人前に出せないような女として描いているが、礼子は色白で大柄な器量良しである。結婚式の白無垢姿はあたりを払うような美しさで、周囲にいる女性たちを霞ませている。

阿川がクサした材木座の家も、礼子が五十六の許可を得て創意工夫で建てたものである。

義正氏前掲書の続き

『父の生存中、私の一家は十回近く引っ越しをしている。私が小学校へ入学したころ、一家は鎌倉の材木座に住んでいた。病気がちだった子どもたちの健康のために、父母が場所を選んで建てた、はじめての自宅であった。


父と母が結婚したとき、新居は、東京・麻布の高樹町であった。会津からポッと出て来たばかりの母のために、当座は何かと心細かろうという配慮から、仲人の四竈氏の家の近くに、父が見つけた借家だったという。家を選ぶことや、必要な道具をそろえることなど、父はまめにやったらしい。その後、千駄ヶ谷に転居し、そこで、長男である私が生まれた。三年後に、父が霞ヶ浦海軍航空隊勤務となったため、一家は、茨城県・土浦に転居する。


まもなく父は駐米大使館勤務となり、留守を守る一家は、もう土浦にいる必要がなくなったので、神奈川県・鎌倉に引っ越し(略)鎌倉への転居は、父がアメリカに行って不在中のことだから、すべて母がとりしきった。もっとも、手紙でアメリカにいる父とは相談を重ねたらしく、父から、鎌倉は空気のよいところだから子どもの体によいだろうということ、古い歴史の地であり教育環境としてもよいだろうということなどにふれた手紙が来ている。「九月三十日 五十六  礼子殿 忽ち秋となり年も追々終わりに近づき申し候。当地目下秋晴の好時節、詩人玩月遊子懐郷の頃と相成り候。あいかわらず頑健、御安心くだされたし。御地も避暑客退散、落ちつきたる旧府鎌倉として住み心地よきことと存じられ候。貴地にある幾多の名所は、これを中心として日本歴史に幾多の意義を留むるもの、多日、子女教養のため、このごとき時機に於いて、青史の『趣味を喚起し修養に資せらるるの要ありと存じられ候(中略)  坊、澄子、もとちゃん(当時家にいた女中さんのこと)も元気のことと存じられ候。」


このころから、母はなんとかして自分の家を持ちたいと考えたそうである。ひとつは家賃を毎月払わねばならないのがつまらないことと、父がいないので、家計をきりつめれば、そうとうの余裕ができること、出来合いの家でなく、好みの間取りの家に住みたいこと、などの理由からだった。海軍から渡される月給の中から、少しずつたくわえた貯金と、郷里の両親や親類からの借金で、なんとか一軒の家を建てられる見通しがついたようだ。こうして、鎌倉の材木座に、山本家としては、はじめての自分の家を持つことになった。物色した土地は、滑川の川べりで、一面のネギ畑の一角であった。そこに、母が間取りを設計した家が、大工さんの手で建てられたのである。三角屋根の二階家で、二回の二部屋は、屋根裏部屋で、そのうちの一部屋は最後まで造作ができないままだった。


借金の末に建てた家なので、門や庭木にはとても手が回らなかった。近くの家で、大きなビワの木を切り倒そうとしたとき、頼んでゆずりうけ、庭の片隅に植えたりした。このビワの木は、その後もすくすくとのびて、毎年の初夏には小粒ながらいっぱい実がなり、わが家の庭の主役であった。そのほか、庭に植えられたのは、なにか実のなるものがいいという実利的な母の考えで、書き、梅、イチジク、トマト、サヤエンドウ、ナス、イチゴなどが、ごたごたと植えられた。門は、大きな生木を買ってきて、これを縦に割り、皮のついたほうを外側に向けて、左右二つを埋め込んで代用した。扉はなしで、それでも外から見ると、一軒風雅な感じであった。時期がくると、この門柱から、キノコがにょきにょき生えたもので、八百屋の小僧さんが、「これは食えますよ。毒はありません」と教えてくれた。が、けっきょくこのキノコだけは、だれも食べなかった。この、はじめての自分の家は、私たちにとって、まったくすばらしい家だった。


そのころの私は、いたずらばかりする反面、やせていて病気がちの子だった。(略)母が心配して、たぶんアメリカにいる父の指示だと思うが、横須賀の海軍病院へ私を連れていき、伊蜜検査を受けたとがある。(略)こんな私の健康のために、父は、鎌倉に住むことをたいへ喜んでいた。それは、母へのよりの中で、しばしばふれており、また二年後に帰国してからも、自分の通勤の不便をしのんで、鎌倉に長くとどまっていたのである。』


五十六が渡した金で礼子が勝手に土地を買ってしまった、五十六は材木座の家を不満気に思っていた、と阿川が『伝聞』で書いていることとはまったく違う。

海軍次官時代、官舎で五十六が女中と二人暮らしで、女中の入った後の風呂に入るというのは新聞記者の間で有名だった、というのも阿川の悪意である。五十六は家族と一緒に住んでいたし、風呂の残り湯の件も全然ニュアンスが違う。五十六の帰宅が再々深夜に及ぶので、先に風呂に入って十時前には就寝するようにという配慮である。


義正氏前掲書の続き

『私たち一家が、霊南坂の官舎へ引っ越したのは、昭和十一年の暮れも押しつまったころである。この年の十二月一日、海軍航空本部長であった父が、海軍次官に就任したからである。


はじめて見る官舎は、とほうもなく大きくて、広かった。青山の自宅にいたころは、置くところにも困った家財道具が、官舎に運ばれると、いったいどこへはいったのかと思うほどだった。


夕方、父が役所から帰ってきた。送ってきた車を帰したあと、父は、官舎の部屋をひとつひとつ見てまわりはじめた。つぎつぎに部屋のスイッチを入れてゆき、そのたびに広い館の部屋が明るくなった。全部の部屋を見おわったとき、樹林にかこまれた暗闇の中で、建物全体が、明々と光に満ちたのである。


「おれの家は太平洋。家の大きさや、ちっぽけな庭なんか、どうだっていいよ」と来客に笑って話していた父を覚えている。しかし、その夜、どこもしこも広びろとしていて、明るく電灯のともった家を、庭から眺めながら、父の顔はやはりうれしそうだった。


母にしてみれば、この広い家は、いろいろな意味でたいへんだった。まず掃除、これはとうてい母ひとりの手に負えなかった。大型の電気掃除機があったが、それを操作するために海軍省から掃除の小母さんが派遣されてくる。母は恐縮して、たびたびの掃除をことわっていた。それでも、週に一度ぐらいは小母さんが電気掃除機で掃除に来ていた。


ただ、自宅とちがって、官舎には多少なりとも公的な来客や仕事もあり、母だけは、帯をとくひまもないほどきりきり舞いをさせられたらしい。政府や海軍関係の来客、あるいは新聞記者などの訪問も、毎日のようであったと記憶している。しかし、母は、「忙しかったけど、やはり霊南坂がいちばん楽しかった」と、いまも語っている。』


阿川のいう『官舎に女中と二人住まいで云々』と比べると、多少の違いどこではない。阿川は戯作者なのである。阿川は会津には行かなかったが、長岡には反町栄一からネタを仕入れるために出かけている。そして長岡での五十六の言動をパクって、五十六が合千代子との逢瀬に泊まった宿の宿帳に『山本長陵 職業船乗』と書いたかもしれないないと書いている。こういう阿川弘之の『山本五十六』を、なぜに世の作家連中は史実として引用するのか。阿川の本書のカバーの前の折り返しには小泉信三が『みごとな伝記』、後ろの折り返しには大宅壮一が『大きな記録的価値』、と題して絶賛の言葉を寄せている。小泉信三は成りすまし天皇家のために、生き残り戦略を考案した人物である。『みごとな伝記』というのは、本音だろう。大宅壮一は、『日本人一億総白痴化』を唱えたことで有名な評論家であるが、一億の勘定の中に自分を入れてないのだろうか。


では阿川の『みごとな伝記』『大きな記録的価値』と、工藤美代子の聞き取りを比較対照してみよう。工藤の関係者に食い込んで取材する才能は、大したものである。成りすまし天皇家の嫁っ子たちにも直かにインタビューして、姑・貞明皇后との私的にわたることまで聞き取っている。この分野おいては工藤の独壇場である。

○礼子の出自について


阿川弘之の『みごとな伝記』『大きな記録』より

『山本夫人の里は、会津若松の、農家を兼ねた牛乳屋で、父三橋康守、母亀久の、禮は三女であった。』


工藤美代子『山本五十六の生涯 海燃ゆ』より

『三橋家は現在でも会津若松の名家として知られている。礼子の父、三橋康守は安政六年に会津藩士として生まれた。戊辰戦争のときは、わずか九歳だった。今ではあまりにも有名になった白虎隊は十五歳からしか参加できなかった。そこで康守は燃焼の子供たちだけを集めて隊を作り、出陣した。明治維新の後、康守は上京し山川健次郎の家へ寄宿して学校へ通った。山川家に寄宿しながら苦学しえ司法官となった。裁判官として康守は日本各地を転々とした。後一年勤めれば恩給が尽くと言う時に、何を思ったか康守は仕事を辞めた。山川健次郎に頼み東京大学農学部の教授を紹介してもらい、牧畜の研究を始めた。康守には気宇壮大な計画があった。新天地を開拓して牧場を作りたかったのである。明治四十二年、五十歳になったのを機に、康守は牧場経営へと乗り出していった。まずは若松氏の郊外に牧場を開き、これを成功させると大正元年に単身朝鮮に渡った。そもそもはブラジルに行き開墾をする夢があったのだが、あまりに遠いため朝鮮にしたのだという。康守の発想は明治末から大正の時代にしては、おそろしく斬新だった。アメリカから牛を輸入し、農家に貸し付けて牛乳を集め、それを殺菌して卸し売りをするといった新しい商法を考え出した。また、北海道から種芋を取り寄せて、農場でじゃが芋を栽培した。三橋のじゃが芋は出来が良いと評判になった。当時としては珍しいトマトも、もうこの頃から栽培していた。康守が米沢へ一歩足を踏み入れると、牛の値段が上がると噂されるほど、牧畜に関しては目利きだった。その三女である礼子は会津高等女学校を卒業した後、自宅で家事の手伝いをしていた。』

○見合い話から成婚にいたる経緯


阿川弘之

『結婚の事情を詳しく見ると、其の点、山本も勝手であった。(略)堀悌吉から話が出て、東山で見合いをした前後、彼が長岡の実兄に宛てた手紙の中には、(略)まるで身体頑健で、大抵の困苦に堪えそうなところだけが禮子の取り得で、専らそれが気に入ったような言い方をしている。(略)堀悌吉は、どこから此の縁談を持って来たかというと、前述の通り、禮子の母親の三橋亀久は、山下源太郎と従兄妹である。山下源太郎夫人と、四竈孝輔夫人とは姉妹である。(略)堀は此の四竈と親しくしていた。話は、四竈から堀悌吉に行き、堀から山本に伝えられた。最も親しい友人の堀が持って来てくれた縁談だからというので、山本は最初に心を動かしたらしい節がある。』

工藤美代子

『と阿川はかく。しかし、これは全くの間違いだと指摘するのは五十六の長男、山本義正氏である。実際の月下氷人はもっと身近にいたのである。(略)三橋礼子のいとこにあたる水野礼司という人が帝大附属病院の医者をしていて、婦長だった京(注 高野京  五十六の姪だが、密かに五十六に慕情を抱いている)と親しかった。その関係で水野は五十六とも友人になった。独身の五十六は、「嫁さんもらってもいいな。ただし、別嬪で、体格のよい、気立ての優しいのがいいなあ」と話したという。それを聞いて、水野が礼子のことをさっそく紹介したのだった。もともと三橋家は美人系で、六人いる娘たちはそろって器量良しだった。(略)「あなたがもらわないのなら、僕がもらうことになるよ」と冗談めかしていったりしたくらいだから、水野も礼子を気に入っていたのだろう。礼子の写真を見せられた五十六は、あまりに美しいのですっかり乗り気になってしまった。よし「これに決めた」といった。もう見合いをする前から、五十六は礼子の写真に一目惚れをしてしまったのである。(略)形式的に仲人としては四竈孝輔が立てられた。三橋家に山本少佐の写真と経歴、それに山本自らが自分の欠点を赤裸々に書いた七枚の手紙が届けられた。その手紙は公開されていないのだが、自分は御奉公のため世の常の人のように妻子をかまっていられないと思うが、その点よく承知してほしいということと、公務に関しては絶対に口を出さないことをしかと心得てもらいたいという二点が書かれていたという。読みようによってはずいぶんと厳しい内容である。しかし、この手紙を読んだ礼子の妹は、「お姉様、この方はやさしい方ですね。私はこんなやさしいお手紙はもらったことがありません」といった。礼子も同じ気持ちだった。自分の思いを正直に打ち明けるのは勇気がある証拠だ。そして相手への配慮がるからこそ初めにきちんと夫婦間の約束を告げてきた。(略)お互いに写真ろ履歴書を交換して、すっかり心は決まったので、いよいよ五十六と礼子は見合いをする運びとなった。(略)この見合いの席で、五十六はわざわざ上半身の衣を脱いで、戦傷や手術の跡があるのを見せ、「こんな身体だが良いか」と尋ねたと伝えられる。(略)五十六はいつも礼子の写真を大事に懐に入れていた。あるとき、それを京に見つけられてしまうと、「懐に入れて風をひかないようにしているのさ」と、照れくさそうに弁解した。後に京が義正氏に語った話である。』

○礼子の手蹟


阿川弘之

『字などはこれまた極めて達筆の男まさりで、非常に太っ腹のところもあったらしい。』

工藤美代子

『亀久は見事な筆跡で字を書いたといわれるが、それは礼子も同じだった。一説によると、礼子の書を見て五十六はまず惚れ込んだのだという。』

礼子の書は山本元帥景仰会が発行した『山本五十六の「覚悟」』の中に写真が掲載されている。これを見て『男まさり』『非常に太っ腹』と感じる人は、おそらく阿川だけだろう。

○礼子の嫁ぶり


阿川弘之

『ある時、禮子の母親の亀久が、会津から出て来て、「五十六さん、あなたは大変な立身をなすったが、娘が相変わらずで、さぞお困りでしょう」と、愚痴だか皮肉だかを言ってかきくどくと、山本は、これを読んで下さいと、紙に、「見る人の心々にまかせおきて雲井にすめる秋の夜の月」という和歌を一首書いて渡したそうである。』


事実無根である。


工藤美代子

『「お母様がお父様をずっと長岡から東京まであおぎ続けたというのは本当ですか?」「ええ、本当だと思います」義正氏は静かな声で答えた。「母はたくさんいる兄弟、姉妹の中で一番辛抱強い性格でしたからね」(略)もともと五十六は恩師や親族などを経済的に援助することをいとわぬ性格だった。(略)月給が全額手渡されることは絶対にないわけである。薄給の中から山本家や河野家の親類に送金し、長岡社にも寄付をする。やっと生活できるだけの金額しか残らなかった。(略)少ない給料でも家を守っていくことが礼子に課せられた義務であり約束だったのである。』


阿川が一言のもとに斬って捨てた材木座の家についても、工藤は細部まで聞き取りをしている。

工藤美代子前掲書

『(略)つまり、礼子はいつも家計のやりくりをしなければならない。ところが、夫はアメリカに赴任した。その間は日本の家族のために支給される給料がある。それを貯金すれば、家が建てられるかもしれないと考えたのである。貧乏生活に慣れている礼子にしれみれば、余った給料で贅沢をするなどとは思いもよらなかった。むしろ、爪に火をともすようにして、それらのお金を蓄えて、鎌倉に土地を買った。


さて、礼子は鎌倉の材木座の一角で、滑川に沿ったところに、変形になった土地を見つけた。入り口が狭くて、そこから入ると中の地形も四角ではない。そのため相場よりずっと安く土地を手に入れることができた。


まず材木は、日本産のものは高いので、米材と呼ばれる外国産の木を使った。設計図はすべて自分で引いた。(略)たとえば押し入れは、二部屋の間に作り、両方から引き戸をつけて中のものを取り出せるようにした。また台所と茶の間の真ん中に棚を作り、台所で作った料理をその棚に載せ、茶の間から受け取れるようにした。(略)部屋と部屋の間に半畳ほどの板敷を作り、そこを通れば、他の部屋に足を踏み入れないないでどの部屋にも行けるように設計した。各部屋に電気用品用の差込口をつけたのも、当時としては斬新だった。


部屋の隅に小さな四角い切り口を作り、戸をつけた。掃除をしたゴミはその戸口から外へ掃き出した。その先にみかん箱が置いてあり、ゴミが溜まると処理した。家を建てると、どうしても屋根裏が無駄になる。そこで、三角屋根にして屋根裏部屋を作ろうと礼子は思いついた。そのため屋根は軽くする必要があるので、昭和初期には珍しいスレートを使用した。(略)階段は周り階段にして幅を広くとり、なだらかな傾斜で、子供が怪我をしないよう気を配った。まさに礼子の創意工夫に満ちた家だった。


礼子にはこういう才能があり、ペンキ塗りなど男のする仕事もやすやすとこなした。家が出来上がったとき、もう礼子には門柱を作る金がなかった。それで近所から生木を買ってきて、それを真っ二つに切って代用した。(略)そんな状態なので、庭も、もちろん手造りだった。今から考えると「たべられるものばかり植えました」と義正氏はいう。


「お金がかからない生活をする」ということで、雑誌「主婦の友」などの付録を見て勉強し、編物は独学でマスターした。その他、洋裁、和裁もできたので、子供たちや自分の服はすべて手製だった。義正氏の瞼に焼きついているのは、暇さえあれば身体を動かし、手を動かして働いている母の姿だった。家にはオーブンもあり、礼子は新しい料理にも挑戦してみた。また、圧力釜を買って、玄米を炊き、魚の骨まで調理した。


「母は家族の病気もほとんど自分で治したのですよ」と義正氏はいう。子どもだったのではっきりと覚えてはいないが、「完全看護の秘訣」と言ったような題の赤い表紙がついた分厚い本を克明に読んでいた。そして、一家の誰かが病気になると、素早く手当をしてくれた。その手当は、まさに万全だった。まず見立てが確かなのである。この子は腸チフスだとか肺炎だとかいうことをすぐに見抜いて、自宅で治せるかどうかを判断する。ただちに病院へ連れて行くこともあったが、たいがいは自分で手当てをした。


「母のお陰で父もずいぶん助かったのです」とは義正氏の回想だ。もともと五十六は呼吸器系統が弱かった。五十六が風をひいたときの礼子の看護の仕方は完璧だったという。絶対に安静にさせて、吸入器をかけた湿布をする。「部屋にね、蚊帳を吊るのです。そして火鉢を置いてやかんをかけて湯気を立てます。それから練り辛子を塗った湿布を胸につけます。五分くらいピリピリ痛いのですが、それを何べんも繰り返したのです」そのお陰で五十六が長患いをすることはまずなかった。


いずれにせよ、礼子が無理をしてまで鎌倉の家を建てたのは、子供たちの健康のためだった。義正氏は自著の中で「この、はじめての自分の家は、私たちにとって、まったくすばらしい家だった」と書いている。(略)のびのびと育つ留守宅の子供たちに、五十六はアメリカからクリスマスカードや手紙を送っている。』

○妻子に対する五十六の態度


阿川弘之

『一体、今までたくさん世に出た山本五十六の伝記のどれをあたってみても、彼が部下や、郷士の人人や、兄姉甥姪に対して、親身によくつくした話はいくらでも出て来るが、妻に対しても同様情が厚かった事を証するような記述は、ほとんど見出すことができない。(略)部下のある人々にとって、敬愛措く能わざる上官であったようには、彼は妻に対してよき夫ではなかったし、子供たちにも、あまりよき父親ではなかったように見える。』

工藤美代子

『五十六と礼子の最も大きな共通点は、二人とも、人一倍子煩悩であったところだ。礼子は、いわゆる口うるさい母親ではなかった。逆におっとりしたやさしい母親で、子供たちのいたずらにも、あまり怒ることはなかった。(略)五十六は五十六で、子供たちとたわむれるのが大好きだった。家にいるときは必ず子供たちと一緒に風呂に入った。


礼子は五十六と二人のときは「あなた」と呼び「お父さん」とは言わなかった。子供たちに対しては、夫を「パパちゃん」と呼んだ。


また五十六は実に小まめに礼子の親類ともつきあった。(略)礼子の兄弟姉妹は九人もいた。その配偶者たちも含めた家族ぐるみの往来を、五十六は全く厭わぬどころか、楽しんでいるふうだった。義正氏は両親が夫婦喧嘩をしているところを見た覚えがなかった。


ある意味ではサービス精神が旺盛な五十六だったが、こと自分の家族となると話は全く別だった。家族を人前に出すのを五十六は極端に嫌った。長男の義正氏が今でもはっきりと記憶している光景がある。それは五十六がロンドンから久しぶりに青山の家へ帰って来たときのことだった。会議の結果がうまくいかなかったと、家族はなんとなく察知していた。五十六の表情もすぐれなかった。しかし、そんな事情にはおかまいなく、どっと新聞記者たちが山本家に押しかけて来た。家の中に入って来て、家族との写真を撮らせてほしいと口々に叫んだ。そのとき、五十六がすっくと立ち上がり大声で一喝した。「君たちは家庭には来ないでくれ」そして、玄関の前に一人で立つと、好きなだけ写真を撮れといった。しかし、家族の写真は絶対に許可しないと毅然とした態度で伝えた。(略)ロンドン軍縮会議から帰国した五十六は、めっきり白髪が増えていたという。


ロンドン軍縮会議から帰った五十六は、礼子の身内の者それぞれに珍しい外国のお土産を用意していた。末子さんもコテイのおしろいや口紅をもらって嬉しかったという。「でもねえ、姉にはもう、そりゃあ沢山お土産を買ってきました。お化粧品ばかりじゃなくて、姉は洋裁も上手だったので、向こうでわざわざ姉の好きそうな柄の布地を選んで持って帰ってくれたんです。もちろん、姉も喜んでいました。」末子さんは昨日のことのように、昭和十年当時を語る。礼子の姉妹が集まると、よくそれぞれの夫も悪口が出る。ところが礼子だけは絶対に夫の悪口をいわなかった。いつでもおだやかで控えめにしているのが礼子であり、それは阿川の「山本五十六」に登場する礼子像とは全く違う姿だった。「なぜ、あんなふうに書かれたのか不思議だと末子さんはいう。


「あの関東大震災のときね、義兄は出張でロンドンに行っていたのです。その義兄に姉はすぐに電報を打ちました。この大地震の後は必ずケーブルがダメになって電報が打てなくなるから、今のうちにといって、もう地震の直後に電報を打ちに行ったんです。(略)義兄は、はやばやと姉から無事だという電報をもらっていましたから、安心していられたんですね。」』

この件について阿川は次のように書いている。

『また此の年、彼がロンドン滞在中に、関東大震災の報が届いた。ロンドン在留の日本人一同、大いに驚き騒ぐ中で、山本は、実業家連中に向かって、「大丈夫だよ。日本は必ず、前以上に復興するよ。今のうちに、東株でも買占めておけばいい。」などと言って、泰然自若としていたという。泰然自若はいいが、彼は一体、国に置いて来た妻の禮子と、生まれた十一か月の長男義正の身の上は案じたのか案じなかったのか、家族の無事はそれとも、早く電報で分かっていたのか、そのへんのところは、どうもあまりはっきりしない。』


全文、五十六に対する冒涜である。五十六は航空兵が練習中に行方不明になると、真っ青な顔をして一晩中心配する。着艦が下手な航空兵が海にドッポンしそうになると、一人で飛びかかって止めようとする。関東大震災が起きても、「大丈夫だよ、東株でも買占めておけばいい」などと言って泰然自若として・・・そんな訳ないだろうが。妻子の『身の上は案じたのか案じなかったのか』とは何という言いぐさだろう。こんな雑駁な神経の持ち主である阿川を、『記録的価値が大きい』などと持ち上げる大宅の神経も相当なものだ。


しかし阿川のいい加減さを実証している当の工藤美代子も、阿川の河合千代子ネタをガセだとは思わないのである。工藤美代子は不思議な作家である。


阿川弘之『山本五十六』より

『千代子は、あでやかで、頭もよく、字も上手であった。しかし、前に書いた通り、なにぶん新橋の名妓というわけではない。名古屋にいた頃から先の素性も、あまりはっきりはしない。せっかくあてがった旦那から、金が素通りして山本のところへ行くのだから、土地の女将連中は、決してよくは言わない。真偽とりまぜて、色々悪い評判がある。そういう女性に、山本五十六が、五十を過ぎて、どうしてそれ程まで夢中になってしまったのかと言えば、結局は、彼が家庭で求めて得られなかったものを、梅龍の千代子のうちにさぐりあてたからと解釈するより他はあるまい。』


再び週刊朝日の暴露記事の続きに戻る。

『さらにこんな短歌も、小さい紙片に書かれて同封されていた。「大ろかに吾し思わばかくばかり妹が夢のみ夜毎に見むや」』


短冊の写真が掲載されている。地方図書館でも閉架を併設している所であれば、昭和初期の週刊朝日のバックナンバーは保存してあるので、探してご覧になられたい。『毎夜』の傍らに『ヨゴト』とルビが振られたり、『大ろかに』の側にカッコして(ナミ大テイニ)という言葉の注釈が書いてあり、万葉集の歌から取ったものと言われている。


週刊朝日の続き。

『戦死の公報   大本営発表(昭和十八年五月二十一日十五時)連合艦隊司令長官山本五十六ハ本年四月(十八日)前線ニオイテ全般作戦指導中敵ト交戦飛行機上ニテ壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタリ。 時に六十歳。千代子は、この悲報を、発表前日、知ったが、日記には次のように書き記している。  五月二十日  いつも見る堀さん(元浦賀ドッグ社長、元帥と同期生)の顔が、今朝は何となくこわばった色にさえなく、私もただ胸のひきしまる感を覚えつつ承る。その言葉、「突然に意外にもこの悲しきお知らせを・・・・」山本五十六戦死とは。ただ茫然として切なく力なく、堀氏の顔さえ見上げる術さえ知らず。すべては終わりぬ。武人の死とは私には限りなき淋しさの極みのみなり。 五月二十一日  心の準備なれるはずなりしも、少しも落ち着かず。午後三時のニュースをいま一度耳にして確かなるやをただしたく。堀氏の言葉信ぜざりしか?信じたくなし。浅ましき女心よ。 五月二十二日 心の動揺激しく依然として落ち着かず。浮世に何事も絶えし心地ぞする。  五月二十三日  無言の凱旋とか。悲しさに耐えこらえて今日の日を待ちぬ。されど表に迎える勇気もなし。みな、「お迎えに」と電車通りへ走りいでしあと、のこされし千枝(女中)としずかに二回の窓一ぱいに引きあけて、  五月二十四日  今日は一般焼香の許されることとて水光社に歩む。このとき、わが手足はつめたく、感じさえなきようなりしも、安置された英霊の前に額づきぬ。夜、渡辺中佐(参謀)訪問。・・・許される範囲の事、いろいろと話し聞かされしも、語られる君の顔のいとも青く沈みたりき。遺骨捧げし中佐殿には、神谷町あたり通過の折には、心もいたく知らず知らずのうちに遺骨の小箱を高々と捧げられし、と語れる君の心中いかばかりかと。 六月一日  悲しさも落ち着かぬわが胸に、また悲しさはめぐり来し。亡き君が心からなるあの懐かしのお便りを、堀氏来訪とともに残らずもちゆかれたり。  六月五日 国葬。限りなき悲しみの中に静かに更けてゆく今宵。おくやみ孟子あげるこの心に一生涯の最も悲しい記憶として、今宵は永劫に刻みつけられましょう。 六月三十日 六月も悲しみの中に終わりぬ。あくまでも世の誤解と冷遇と闘わねばなりません。魂よ魂よどこへもゆかずここにきて、千代はどこへもゆかずここにおりますと、窓辺によりて呼び入れぬ。声なきいとしの人は一年ぶりにて、わが許に参られしか。さぞやおつかれなされしを・・・・・』


河合千代子と渡辺安次は男女関係にある。千代子は金にならない客とは寝ない主義であるが、渡辺安次とは保身のために寝たのである。借金のかたに妾にされ、身を持ち崩して以来、身を守るものは金だけなのだ。千代子に30年以上付き添った女性の証言によると、夫になった後藤銀作は嫉妬深くて千代子を束縛したが、一方では五十六グッズを持ち出しては商売に利用していたという。後藤銀作にとって『元帥の元愛人』という触れ込みの千代子を妻にすることは、戦利品を獲るような意味合いがあったのだろうか。望月氏が取材した晩年の千代子は、五十六との関係妄想だけを支えに生きている状態にあった。それは千代子にとって唯一のプライドだったのだろう。千代子がなぜ死んだ人間のストーカーになったかを考える時、私はそう思う。だから故人のストーカーになった千代子の沼津時代の顔は、新橋時代よりも落ちついた人相をしている。

渡辺安次は五十六暗殺を事前に知っていて、見殺しにした張本人である。彼は戦務参謀でありながら五十六のブイン視察について行かず、先任参謀の黒島亀人と共にラバウルの基地に残っている。もちろん黒島もシナリオを知っている。長官機には航空戦の神様といわれた若き天才樋端久理雄(といばなくりお)も同席する。三和義勇の代わりに連合艦隊航空甲参謀になっていた樋端は、五十六と一石二鳥で始末されたのである。私が渡辺安次の正体が見抜けずにいたころ、彼が戦後になって米軍の調査に協力した折、五十六暗殺の真相について逆に米軍に誰何したことを以て、渡辺の無実の根拠として書いた。しかしこれは渡辺のクサい芝居であった。不明をお詫びして撤回したい。

阿川はこの渡辺安次にも取材している。

『新版 山本五十六』より

『聯合艦隊参謀の中で、山本に最も目をかけられ、山本が戦死した時その遺骨の収容にいった渡辺安次は、山本にすべてを託して安らかにという意味で地震「安山」という俳号をつけているほど彼に私淑した人で、「山本さんに女があったというなら、私などは五十人ぐらい女があった」と言って彼をかばうが、それは、渡辺安次に「五十人」女があった計算程度には、山本にも女関係があったということである。』

阿川の詭弁である。渡辺安次は、自分に「五十人」女がいることはあり得ないと言う意味で、この「五十人」を使っている。渡辺安次に「五十人」も女がいることはあり得ない、それと同じくらい五十六の女関係もあり得ないと言わんがための例えなのである。渡辺安次は殊勝にも真実を話している。


週刊朝日続き

『“誤解と冷遇”に耐えて   「世の誤解と冷遇」とは何であったか?国葬直前の六月四日、過去十年、一尺四方の高さにまでなった元帥から千代子あての手紙のうち、昭和十六年以降の部分が、堀氏の手を通じて海軍省へ持ち去られたのである。のちに一年ほどたって、この手紙は再び堀氏の手で千代子の手にかえされたが、「全部焼却するよう」という海軍省の命令が言い渡された。彼女はとりわけ思い出深い十九通を残して、マッチをすったのだった。紫色の煙と真赤な焔はいまだに、彼女の眼裏にやきついている。


この国葬前後の迫害はそれだけではなかった。ある軍人は、海軍省へ彼女を呼びつけて、「国葬までに自決されたい」といい渡し、彼女を知る軍人のある者も、暗にそれをすすめた。軍神のかげに女があっては困るというのである。彼女自身、元帥の死報を耳にしてから、何度か自殺を思いたっている。愛する人への強い思慕からであった。夜中に鴨居を見つめたまま、寝床の中で一睡もせぬこともあった。知人の医者から薬を手に入れようとしたが、失敗した。』


手紙を取り上げておいてからまた返却し、「全部焼却するよう」と命令する間抜けがいるだろうか。五十六の恋文が本物で、それを海軍省が取り上げたのが本当なら、この週刊朝日に暴露したような機密情報が書かれている恋文などは、その場で直ちに焼却しているだろう。また千代子は焼かないで残した五十六の手紙の数について、週刊朝日では『彼女はとりわけ思い出深い十九通を残して、マッチをすったのだった』となっているが、望月良夫氏には全く違う証言している。

望月良夫前掲書より

『またあるときは、自決を迫られる話をしてくれた。「自決しろ!」と
五十六が戦死したその日か翌日、軍務局長を含む三、四人の海軍省の軍人が
来て、元帥にあなたのような女がいると恥辱だからすぐ自決してくれ、と言わ
れた。しかし、三十九歳の若さではとても死ねなかった(五十六の戦死は五月
十一日の大本営発表で一般国民に知られた)。その後しばらくして海軍省から、
元帥から来た手紙を全部提出せよ、命令に従わないなら家宅捜索をして取り上
げる、という通達が来た。仕方なしに、五、六通を隠し、六十通ほどの来信を
提出した。』

昭和十六年以降の五十六の手紙は、堀悌吉が海軍省に持ち去り、一年後にまた堀の手を通じて「全部焼却せよ」という命令と共に返された。千代子はその中から十九通残して焼却した→海軍省から提出命令が来たので、千代子は五、六通を隠して六十通を提出した・・・・全然違う話である。

軍務局長が自宅まで来て愛人に自決を迫ったというが、軍神に愛人がいても別にかまわないではないか。軍務局長は海軍省の各局の中で最も重要なポストで多忙を極めているから、そんな酔狂なことに割くヒマはないだろう。それとも軍務局長というのは、元軍務局長の堀悌吉のことを指しているのだろうか。何でもかんでも堀にお鉢を回せば済むと思っているのだろうか。また『医者から薬を手に入れようとしたが、失敗した』というが、夜中に一睡もせず見つめた鴨居で首を吊れば済む話である。海軍省が自決を迫ったというのも、恋文の焼却命令と同じ作り話である。千代子の存在が本当に邪魔なら、秘密裡に始末している。彼らは五十六のみならず、南雲も三和義勇も朝倉隆も殺害しているのだ。

週刊朝日続き

『悶々の日々に明けくれていた彼女は、昭和十九年三月、神谷町の自宅を、元帥の旧部下渡辺参謀に貸して、沼津市静裏の保養館に疎開していった。ここは、東京の地主、故清水栄三氏の別邸で、一部、海軍の施設に利用されていた。清水家の仕事を手伝ったりしながら、終戦を迎えたが、平安な途は残らなかった。』

海軍省に自決を迫られた河合千代子が、海軍の施設に利用されている保養館に疎開するというのは矛盾している。静浦の手前に牛臥(うしぶせ)という風光明媚な海岸沿いの村があり、沼津御用邸があった。貞明皇后はこの御用邸に滞在中、暗殺されている。後に河合千代子はその沼津御用邸のそばで、料亭を経営する。

週刊朝日続き

『ペンを持つことが好きだった彼女も、戦後は、日記を綴る意欲さえ起らなかった。ただ、強く生きることだけ。幸い、温暖な気候のせいで身体が回復したので、東京時代に蓄えた資産で沼津市内に料亭を建築するとともに、夫婦養子をとり、昭和二十五年からささやかに営業を続けているのである。「山本さんが、ああして戦死なさったのも、仕合わせだったかもしれません。生きのびて、戦犯として処刑されることなどを考えましたならば・・・・・私は悲しみません。ただ、心の恋人として、山本さんの姿を胸に秘めて、強く生きてゆくばかりです」いま、彼女は、こう述懐する。そして、古い日記を涙にむせびながら、読み聞かせるのであった。』(以上、週刊朝日の記事終了)


この翌年、千代子は後藤銀作と結婚する。暴露記事を出したこの時期には、すでに後藤の想い人である。しかも千代子は以前から五十六との関係を吹聴していたので、近所では元帥の元愛人として知られていた。『心の恋人として、山本さんの姿を胸に秘めて、強く生きていくばかりです』も何も糞もないのである。


望月良夫氏の前掲書に寄せられた感想文より

『後藤千代子さんの思い出                  熊倉弘二

(前略)私が同女にお目にかかったのは、昭和二十六、七年の頃です。八幡町の割烹“せせらぎ”で行われた沼津市内の酒屋の会合で同行した方から「ここの女将さんは新橋に出ていた名妓で、山本五十六元帥のお妾であった人ですよ」と密かに告げられ、山本元帥が名提督として戦中国民の畏敬を一身に集めていた当時の思い出もあって、どんなお人柄であろうと興味を持ったものの、かかわり合いなど聞くわけにもいかず、あでやかさを期待していたのとは裏腹に、どちらかといえば地味な清楚な感じの方という初印象でした。


二十七年夏、沼津税務署の関税課長から、名古屋国税局へ転任することとなり、“せせらぎ”で催された送別会に出席、同女とはとおり一辺の挨拶をして去ったのですが、妻子を伴って名古屋に赴任してみると、すでに発送した筈の引っ越し荷物がまだ届いておらず、沼津の運送屋に問い合わせの電話を掛けたところ、どう間違ったのかその電話がせせらぎ荘に繋がり、千代子さんが電話口に出られました。「それはお困りでしょう。私が運送屋さんのほうに連絡してあげますよ」、そんなことでいろいろご親切な手配をして頂き、それから一か月余り経って沼津に出張したさい、“せせらぎ荘”にお礼の挨拶に参上、同女と初めて話す機会を得ました。


お茶を頂きながら、「あの人(元帥のこと)は、困るとよく逆立ちしていましたよ」「熊倉さん、いずれは中央の大きな舞台で活躍することが大切よ、何でも勉強し、努力していかれることが大切よ」、そんなとりとめもない会話でしたが、今でも鮮烈な印象として記憶にあります。(後略)』

阿川は週刊朝日に暴露記事が載る経緯について次のように書いている。

『新版 山本五十六』より

『しかし、山本五十六にこういう女がいたという事は、戦前戦中はもとより、戦後も約十年間一般にはまったく知られていなかった。それを素っ破抜いたのは、昭和二十九年四月十八日号の「週刊朝日」である。ある方面から、沼津八幡町の料亭「せせらぎ」の女将河合千代子という人が、昔、山本五十六の思われ人で、山本の恋文をたくさん持っており、それを公表する意志があるらしいという事を聞きこんで、「週刊朝日」の記者とカメラマンとは沼津へ彼女を訪ねていった。千代子は快く彼らを迎え、手紙の束を出して見せ、達筆すぎて若い記者には読めないところは、自分で声を出して読んで聞かせ、自分の境遇についても語って聞かせた。』

かつてワシントン・ポストの二人の若手敏腕記者が、ウオーターゲート事件を素っ破抜いて大スクープを上げたヤラセを髣髴とする場面である。ワシントン・ポストはイルミナテイの身内組織である。ニクソンも連中の使い走りの小僧だが、金本位制を敢行しようとして失脚させられたのである。一方、ヤラセの立役者ボブ・ウッドワードは、ホワイトハウス関連のプロパガンダ本の大家になっていく。あれほどどうしょうもないジョージ・ブッシュを堂々と賞賛する稀有な才能を持っているのは、ウッドワードを措いて他にない。しかしウッドワードの人相がだんだんゾンビ化しているように見えるのは、私の錯覚だろうか。

『堀悌吉はこの時未だ健在で、発表の寸前にこれを知り、さる筋を通して、「出すのをやめてもらえないか」と朝日に差し止めを望んで来たが、新聞社の輪転機はもう廻りはじめたあとで、堀が、「まあ、嘘じゃないんだし、それじゃ仕方がないだろう」と言って、あきらめたという説もあり、実際は非常に憤慨していたという説もある。しかし少しのちになって気持ちが落ち着いてからは、「世間じゃ色々言うけど、結局山本はあれで一つ偉くなったじゃないか」と堀は言っていたそうである。』

堀悌吉をここまで虚仮にできる稀有な才能を持っているのは、阿川を措いて他にない。

10. 2020年9月26日 11:53:59 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[22] 報告
山本五十六の真実J   偽証者たち
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/225.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 3 月 08 日 15:37:29: 8qHXTBsVRznh2
 

前回に引き続き、偽証者たちについて検証する。


最近のネットには、日米戦争の要所要所で負けた海軍の将官たちに対する非難が湧き上がっている。しかし司令塔の昭和天皇が指弾されることはない。すでに塚英昭氏が大著『20世紀のファウスト』で、第二次世界大戦が完全な八百長であることを余すところなく実証しているのである。私はひとり昭和天皇だけが、この出来レースの蚊帳の外にいたとは思わない。むしろ日米英独ソ首脳の中で、昭和天皇ほど準備万端整えて八百長に臨んだ用意周到な国家元首はいないと考えている。


DVD『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』には、昭和天皇が山本五十六に真珠湾攻撃をやらせた動機が語られている。日米戦争はやれば負ける、そう言って政府も軍人もみんなが反対していた。しかしこの八百長戦争に参加しなければ、成りすまし天皇家のスキャンダルをバラされ、昭和天皇は全てを失う。だから敗戦が既定のシナリオである日米戦争に踏み切らせたのであると。私は昭和天皇の背後には、フィックサー吉田茂がいると考えている。ヤラセを隠蔽するために、昭和天皇を使って現場将官に勅令を出させ、防衛省戦史史料や外務省資料を改竄させプロパガンダ戦史に塗り替えている。中でも近衛文麿と山本五十六のプロパガンダは、長期スパンで大掛かりである。

国際金融寡頭勢力によって田布施村王朝という傀儡政権が創出されて以来、日本はひたすら富国強兵路線を突っ走ってきた。換言すれば日露戦争も日清戦争も満州事変も日中戦争も、国際金融寡頭勢力のために田布施村王朝が用意したものである。そして歴代の成りすまし天皇の中で(といっても3人、実質ほとんど2人)、昭和天皇はきわめて自覚的にやっている。満州事変を起こした関東軍は、昭和天皇のマイ軍隊である。盧溝橋事件を仕掛け、日中全面戦争を引き起こし、麻薬で荒稼ぎするための精鋭たちである。昭和天皇の真意は、彼らの暴走に激怒するお芝居ではなく、帰国した彼らを宮中に呼んで勅語を与え陪食を賜る行為にある。


昭和天皇は千両役者である。日米開戦を危惧して参謀総長や軍令部総長を問い質したり、御前会議で思わせぶりな歌を詠むのも、宣戦の詔勅に『どうしてこの戦争が朕の意思であろうか』と何気に入れておくのも、すべて責任逃れの伏線である。日米戦争における昭和天皇の最大の命題は、いかにボロ負けして見せ、戦後も何も失わないで統治者のままでいるかということだけである。


日米戦争は日米共同演出によるヤラセで、日本側の司令塔は昭和天皇と吉田茂であるという大前提のもとに何か月か考えて出した結論を述べる。

◎必然的に戦史史料もガセである。

そうしないとヤラセであることがバレる。


◎そのために現役軍人が偽証者として現場に送り込まれている。

予め現場に貼り付き、『目撃』したことを日誌や日記に書く。


◎偽証者たち


○源田実 

主犯。 ミッドウエー海戦で『肺炎』になりかかる。 私は仮病だと思う。


○淵田美津雄

主犯。 同海戦直前「虫垂炎の開腹手術」をする。 これも仮病だと思う。


○三和義勇

プロパガンダ日記を書く。後にテニアンの前線に送り込まれ『戦死』する。


○宇垣纏

わざと驕慢な言動をしている。プロパガンダ日記『戦藻録』を書く。敗戦直後に自決。


○黒島亀人

吉田茂のコネクション。五十六に『偏愛された』と役を演じる。戦後は隠棲。


○草鹿龍之介

源田実のフォロー役。父親は住友財閥の東京本社理事。自己正当化が激しい。


○渡辺安次

戦務参謀として五十六の身近に貼り付く。河合千代子の家に出入りしている。私は渡辺安次と河合千代子は男女の仲にあると思う。


○藤井茂

1943年4月17日トラック島碇泊中の武蔵に於いて、五十六のブイン視察の詳細スケジュールを、改変したばかりの新暗号ではなく、すでに敵に解読されている旧暗号で打電する。これが暗号解読の真相である。さらに藤井茂は従兵長の近江兵治郎に五十六の私物を管理させ、隠蔽工作もしている。すべて勅令である。


○河合千代子

原田熊雄に指示されて、愛人プロパガンダを吹聴する。


○近江兵治郎

最後の『目撃証人』として、『60年目の真実』『70年目の真実』を訴える。


○統帥本部の両総長 永野修身 杉山元 

いずれも天皇のポチ。 杉山元は2・26の暗躍で台頭した。 


○軍令部スタッフ

福留繁

富岡定俊

三代一就 


五十六が辞職をちらつかせて真珠湾奇襲攻撃とミッドウエ―作戦作戦を強行突破させた、そのやり方に情けなくて涙が出たというシナリオを演じている。


◎リメンバー・パールハーバー

日米共演演出によるオトボケである。
騙し討ちにすべく奥村勝三がノロノロとタイプを打ったが、
45分前には野村大使がハル国務長官に電文を手交している。


○日本側出演者

野村吉三郎

来栖三郎

寺崎英成

奥村勝三


○米側出演者

フランクリン・D・ルーズヴェルト

コーデル・ハル

ジョージ・マーシャル

国務省スタッフ

偽証者たちはすでに開戦前から統帥部と連合艦隊司令部の現場に送り込まれている。三和義勇は1938年、山本五十六が連合艦隊司令長官に任命される直前に勅令を受けている。宇垣纏も勅令を受けて『戦藻録』を書いている。黒島亀人、源田実 淵田美津雄、渡辺安次、藤井茂、草鹿隆之介も勅令を受けている。黒島亀人は、吉田茂から直接に指令を受けて動いている。源田実はヤラセの主犯格。淵田美津雄は別格の存在である。

淵田美津雄はプロパガンダの天才である。彼が昭和二十四年に出版した『真珠湾作戦の真相』には、五十六プロパガンダの全てがある。これは淵田本人も前書きで書いているように、未だ誰も書いていない『真相』を初めて明らかにしたもので、全てはここから始まっているのだ。後発のプロパガンダ作家たちは、ここからプロパガンダ用語や構想をパクっている。まさしく五十六プロパガンダの教則本である。父親譲りの漢詩の素養を生かして、ノンフィクションとフィクションの手法を巧みに混在させ、読者を幻惑するその表現力は傑出している。あの有名な特攻精神を嘉する勅語を代作したのも淵田美津雄である。その格調高い名文には、草鹿龍之介も思わず唸ったという逸話がある。

淵田美津雄が真珠湾攻撃の飛行総隊長に選ばれたのも、技量だけでなく優れた表現能力を買われてのことである。彼はミッドウエ―海戦では仮病を使って、戦闘には参加していない。ボロ負けすることが既定のシナリオのミッドウエー海戦では、飛行総隊長となる者は生還を期すことができないからである。友永丈市大尉を飛行総隊長の身代わりに立て、淵田自身はフリーの立場になって甲板上でヤラセを観戦したのである。戦後、淵田美津雄は奥宮正武(源田実のパシリ)と組んで、ミッドウエ―海戦のプロパガンダ本を矢継ぎ早に出版する。その際、淵田美津雄は敗因をデッチあげるために、死人に口なしで友永大尉に罪を被せるのみならず、友永のミッドウエー島攻撃のやり方をおちょくってさえいる。

淵田美津雄は友永大尉が手際よく第一次攻撃をしていれば、第二次攻撃を進言することはなかったと思わせようとしている。しかしこれは友永の不手際ではなくそういうシナリオなのである。私は「友永が第二次攻撃を進言した」というのはガセだと考えている。ミッドウエ―島の航空機が出払っていたのは、真珠湾奇襲攻撃の時に敵空母が不在だったのと同様ヤラセである。淵田美津雄はこれを韜晦するために、味方の総隊長をおちょくっているのだと思う。以下に淵田美津雄の偽証の場面を抜粋する。淵田の相手をしている村田重治は戦死していることに留意されたい。

淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウエ―』朝日ソノラマより

『そこへ友永指揮官から「第二次攻撃の要あり」との意見とともに、第一次攻撃隊の攻撃成果を報告してきた。私はこの攻撃成果の電報を聞きながら、村田少佐に話した。「オイ、友永のやつは、ずいぶん中国で基地攻撃をやったくせに、なぜあの手を使わなかったんだろうかね?」


あの手というのは、こうである。敵の基地航空兵力制圧の目的で、基地攻撃に行った場合、あらかじめ敵がこれを察知して、飛行機全部を空中に退避させ、地上にいないことはよくあることである。そんなとき、あっさり大地をたたいて簡単に帰って来たのでは始まらない。そうとみたならば、まずもっている爆弾の三分の一ぐらいを投下して、そのまま帰投するとみせかける。向こうはもう帰ったと思って、燃料の関係もあり、基地へ戻ってくる。その間、一時間もすれば大体空中退避の飛行機は、着陸してまず燃料補給の作業にとりかかるものである。そこでこちらは三十分ぐらいのコースを往復して、再び襲えばうまく網にかけることができる。これは日華事変では、たびたび奏功した戦術であった。


村田少佐は苦笑しながらいった。「やっこサン、しばらく内地でアカを落としていたもんだから、素直になったんでしょう。しかしこんど、第二次攻撃隊も、ミッドウエ―基地の攻撃に向けるんだそうですから、私がうまくやってきます。安心していらっしゃい。バッサリと一網かけてやりますから」私はオヤオヤと思った。「愛二次攻撃隊をミッドウエ―基地に向けるって、もう命令が出たのか?」「ヤ、いま、司令部で話し合っているのを艦橋で聞いていました」「だってインド用作戦のときみたいに、出たあとで、偵察機から“敵艦見ゆ”と来るかも知れんぜ」「イヤ、しかし偵察機は、もう全部とうに索敵線の前端まで行きついた時刻なのに、報告がありませんから、攻撃圏内には敵艦隊はおらんと判断されていますよ」「そうか、しかし魚雷を抱いているんじゃないか?基地攻撃はちょっと困るね」「えゝ、それでいまから、陸用爆弾に積みかえろって命令が出るんですよ」「いやあ、それは大変な騒ぎだ。それに、もうそろそろ敵の陸上機が来るころだぜ」このとき、司令部ではすでに、第二次攻撃をミッドウエ―攻撃に振り向けることに、一決していた。』


実はミッドウエー海戦の直前に行われたインド洋作戦で、淵田美津雄は同じ情況のもとで南雲に爆装転換の進言をしている。本来、戦闘中の爆装転換は厳禁である。だから淵田美津雄は南雲に爆装転換のリハーサルをさせて、タブーを犯すハードルを取り払ったのである。しかし淵田美津雄はインド洋作戦で、自分が同様の決定を促したことには一言も触れていない。そんなことはおくびにも出さずとぼけている。

淵田美津雄続き

『私はふと、インド洋作戦でのコロンボ攻撃と、ツリンコマリ攻撃とを思い出した。あれはいかん。あのときは二度とも第一次攻撃隊が基地攻撃をやっているときに、索敵機が敵の水上部隊を発見した。「いつもの通りだと、またミッドウエ―を攻撃しているときに、索敵機は敵艦隊を発見するぜ。その手当はいいのかい?」村田少佐が代わって答えた。「大丈夫ですよ。そのために、第一次攻撃隊が出たあと、第二次攻撃隊が艦船攻撃兵装で待機していますからね。・・・」』

ミッドウエ―海戦のヤラセにより、友永大尉はもとより同胞三千人が海の藻屑と化している。しかし淵田美津雄の文章からは葛藤が伝わってこない。後に淵田美津雄はテニアンから自分一人だけ抜け出して、三和義勇や角田角治を見殺しにしている。やがて玉砕したテニアンは、原爆を搭載したエノラゲイが広島に飛び立つ基地となる。投下前夜、淵田美津雄は広島に集結した第二総軍の運命を知りながら、一人岩国基地に逃れている。


『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』編/解説 中田整一 講談社より

『以下、述べる挿話は、私ひとりがいい子になって、広島で被爆して死んで行った人たちは、神の恩寵から外されていたのかと、ひがむ人も出るので、私はあまり話したことはないのであるが、私自身にとっては、満ち溢れる神のめぐみであって、結局、この事実が後日、私をキリスト信仰へと導いて行ったのである。


実は、私は八月六日の前日五日まで、広島に滞在していたのであった。用件は、私は海軍総隊(昭和二十年四月設置。連合艦隊壊滅後の全海軍を指揮する)の航空参謀で、兼職として南方総軍参謀でもあったので、広島の第二総軍司令部にはちょくちょく出向いていた。


本土決戦について、九州防衛の共同作戦の打合せや、図上演習などは、もう済んでいたのであるが、今回はくしくも、眼にあまるB29の跳梁をなんとか制圧出来ないものかという、航空総軍案の「剣号作戦」なるものの打合せで、航空総軍の作戦参謀が主催した。当時、海軍総隊としては、「剣作戦」というのを準備中で、これはマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムのB29の基地に、陸戦隊を強行着陸させて、亀の甲爆弾と呼んだ特別に工夫公安された爆弾でB29を一機一機爆破しようとの特攻作戦であったが、これにも陸軍兵力が協力しようとの打合せであった。


会議は三日ほどで、五日の昼前に終わった。私はやれやれと腰を伸ばしながら、今晩も広島に滞在するつもりで、宿舎の大和旅館に戻った。旅館は細工町にあった。宿舎に戻って、先ずは昼寝と横になっていると、室内電話のベルが鳴る。受話器をとってみると、東京近郊日吉台にある海軍総隊司令部からで、矢野志加三(しかぞう)参謀長の声である。「航空参謀、広島の用件が済んだら、帰りに大和基地に立ち寄って貰えないか。久安(房吉)参謀副長が航空総軍との通信施設で、あなたの助言がいるそうだ。皇子関係者が明日総長に集まるから、今夜中に来てほしいそうだ」


私は、「承知しました」と返事はしたものの、やれやれ厄介なことを言って来たものだと思った。本土決戦に備えて、海軍総隊司令部は大和基地に移ろうとして、天理市外の竹ノ内という部落のみかん山の下に通信施設などの防空壕を掘っている。その作業を監督するために、久安参謀副長が現地に出張しているのであった。また航空総軍司令部は八尾基地に移るとかいうので、両司令部間の連絡を密接にするための通信施設は必要だけれど、直通電話の一本も布けばよいので、別に航空参謀サマの助言を必要とするほどのことではない。もう一晩、広島で泊まろうと思っている矢先に、しょうもない用事をいいつかるもんだと、ぶつくさ言いながら、それでも早速に車を岩国基地に走らせ、置いてあった連絡機で、私は大和基地に飛んで、その夜は、久安参謀副長の泊まっていた竹ノ内部落のお百姓さんの家に一緒に泊めて貰った。


翌日早朝は、工事関係者との打合せを済ませて、午前十一時頃、すこし早いお昼を戴いていると、また矢野参謀長からの電話である。話を聞いて、びっくり仰天した。今朝八時十五分頃に、広島に原子爆弾らしいものが落ちて、全市は壊滅したという。


今日、思い出すたびに、胸がうずく。多くの人々は、何が起こったのかも分からずに、一瞬のうちに死んで行った。しかし、この幼い少女は、あれから一昼夜半あまり、兄に助けられて生きていた。そしておぼろげながら、何が起こったのかを知った。仇を取って貰わねばならぬ敵がいるのだ。畜生!』


これに対して鬼塚英昭氏は次のようにコメントしている。


鬼塚英昭『昭和天皇は知っていた 原爆の秘密 国内編』成甲書房より

『「淵田美津雄自叙伝」は延々とこの間の事情を書き続ける。簡単に記せば、三日間も続いた会議は存在せず、彼は夜半ひそかに広島を離れて岩国基地に移ったということである。淵田大佐は海軍が畑元帥の元へ送り込んだ“使者”であった。淵田は戦後、クリスチャンになった。ヨハンセン・グループ、同盟通信社グループも全員クリスチャンになることで、一原爆孤老が書いたように「日米協力プロジェクト」の一員となり、「幸せという名の身分」をアメリカから与えられた。私は太平洋戦争開戦以前から、淵田たちはアメリカの隠れエージェントであったと思っている』


淵田美津雄は源田実と共に、G2(GHQ諜報部)戦史室長ゴードン・プランゲと共謀してヤラセ戦史を作成している。プランゲは戦時中に淵田美津雄と源田実が果たした役割に敬意を払い、この二人だけに対しては夕食を挟んで一回四、五時間にも渡る聴取を計70〜80回も実施している。この間、淵田美津雄がプランゲに妙なる霊感を与えたことは疑うべくもない。淵田美津雄の『真珠湾作戦の真相』を読めばそれは歴然としている。千早正隆はこの尻馬に乗っているだけである。


千早正隆『元連合艦隊参謀が語る日本海軍失敗の本質』PHP文庫より

『ミッドウエー海戦のシンポジウム  昭和六十三年(一九八八)五月六日、アメリカノペンサコラ市で、それより四十六年前のミッドウエ―海戦のシンポジウムが、かつてなかった形式で行われた。それは、戦場で国家の命運を担って激しく戦った日本とアメリカ海軍の戦士の代表が、公開の席でその海戦を話し合うというものであった。太平洋戦争が終わって四十三年になっても、そのような大々的な試みはいまだかつてないことであった。


アメリカ側としては第一航空艦隊の航空甲参謀であった源田実氏(海兵五二期)と、同海戦でアメリカ側が手痛い目に合されたゼロ戦のパイロットおよび日本側の同海戦の研究家という要望であった。・・・問題は目玉となる源田氏がたまたま階段で足を踏みはずして歩行が困難なことであった。そこで急にその代人として同艦隊の航空乙参謀であった吉岡忠一氏(海兵五七期)に白羽の矢を立てたが、同氏もまたその健康上から長途の旅は不可能であった。あげくの果て、航空関係者でもなく、ミッドウエ―海戦にも参加していない私が、その代わりとして参加することになった。


歴史著述家のウオルター・ロード氏は、アメリカ海軍のミッドウエ―における成功は幸運に恵まれた賜にすぎないとしていた。アメリカ海軍が日本海軍の暗号を解読したことと、日本の索敵機がアメリカ空母の発見に失敗したこと、さらに「エンタープライズ」と「ヨークタウン」の急降下爆撃機隊がほとんど同時に南雲部隊に殺到して必殺の攻撃をしたことを、その事例として挙げていた。』


私見ではミッドウエ―海戦に勝利したのは日本である。日本はミッドウエー海戦に於いて完勝している。楽勝である。アメリカが情報戦を制し『奇跡』の逆転勝利を果たしたというのは、プロパガンダである。『アメリカ海軍のミッドウエ―における成功は幸運に恵まれた賜にすぎない』。それをもたらしたのは日米共同演出による詐術である。『「エンタープライズ」と「ヨークタウン」の急降下爆撃隊がほとんど同時に南雲部隊に殺到して必殺の攻撃をした』のは戦闘行為ではない。そのような情況を日米共同で演出したのである。ニミッツ自らそのように述べている。


C・W・ニミッツ/E・B・ポッター『ニミッツの太平洋戦史』恒文社より

『スプルーアンス提督が希望していたように、両艦の飛行甲板は燃料の補給を終え、まさに発艦しようとしていた飛行機でいっぱいであった。この真ん中に、米軍パイロットは爆弾を投下したのである。彼らが爆弾投下器の引き金をひき、急降下の飛行機の姿勢を水平におこすまで、なんら戦闘機の反撃は見られなかった。』


しかし千早正隆は日本海軍の驕りを得々と披露する。千早正隆は海軍驕り症候群を流行らせた張本人である。


千早前掲書の続き

『それよりはるかに重大なことは、ミッドウエ―戦り二ケ月前の四月に南雲部隊がインド洋に作戦した時に、イギリス艦隊に待ち伏せされたという事実があったことである。南雲部隊はイギリスの複葉旧式のスウオードフィシュ型の艦上攻撃機を認めて“この付近に敵空母存在の疑いあり”としながら、その敵を索敵すらしなかった。それかりでなく、それから悪一か月後にミッドウエ―作戦計画を研究した時に、第一航空艦隊でそのことを想起した人は一人もいなかった。この心の驕りがミッドウエ―の敗戦につながったと私が述べると、拍手が起きた。アメリカ側の戦史には、南雲部隊がインド洋でイギリス艦隊に待ち伏せされたことは、全く述べられていないからであったろう。事実、シンポジウムに参会していた私の知人のあるアメリカの戦史研究者は、南雲部隊がインド洋でイギリス艦隊に待ち伏せられていたことを初めて知って、驚いたと述べていた。』


千早正隆は得々とミッドウエー海戦に日本海軍がボロ負けしたのは驕りによるものである、というプロパガンダ戦史を述べている。源田実が『鎧袖一触』のような驕慢な言辞を吐いたり、宇垣纏が傲慢きわまりない図上演習をやって見せたり、連合艦隊スタッフはミッドウエ―惨敗のための下地作りをしている。その臭い芝居を『海軍驕り症候群』として広めたのが千早正隆である。千早はプランゲのインタビューを引用しながら、自分自身でもミッドウエー海戦の『敗因』を検証している。千早の検証は、シナリオのト書そのものである。


千早正隆・柳田邦男『ミッドウエ―の決断』プレジデント社より

『南雲司令部のこの計画が成功するためには、少なくとも、攻撃隊全機が発艦し終わる午前十一時過ぎまで敵機の来襲がないか、あったとしても、日本側は一弾たりとも被弾してはならなかった。もし飛行甲板に被弾すれば、攻撃機が発艦できなくなり、ガソリン・爆弾を満載した攻撃機に命中すれば、次から次へと誘爆して大惨事となる。南雲艦隊にとっては最も危険な時間帯を迎えるわけである。』

軍令部スタッフ、総長永野修身、福留繁、富岡定俊、三代一就らも偽証者である。真珠湾攻撃とミッドウエー作戦に対する彼らの偽証は、同じパターンを反復している。黒島亀人と渡辺安次が上京して軍令部を説得したが猛反対を受けた、そこで黒島亀人が五十六の伝言だといって辞職をちらつかせたり、あるいは渡辺安次が中座して山本五十六に電話で問い合わせ、『作戦が通らなければ辞職する』と五十六が言っていると伝えた、そういう五十六の態度が情けなくて富岡定俊と三代辰吉は涙が出た、ということになっている。このガセねたを考案した人物こそ淵田美津雄である。


この淵田美津雄と二人三脚を組んだのが、奥宮正武である。淵田と共著で精力的にプロパガンダ本を量産する傍ら、座談会でもプロパガンダを吹いている。


『徹底討論 “運命の五分間”はなかった


兵装転換の混乱がもたらした“運命の五分間”は真の敗因だったのか、従来の定説を一つ一つ点検し、歴史的な海戦が持つ意味をさぐる


出席者・階級は当時


阿部平次郎(海軍大尉 「蒼龍」艦上攻撃機分隊長)

板谷隆一(いたや たかいち 海軍大尉 「長門」乗組  八分隊長)

大井 篤(海軍中佐 海軍省人事局員)

奥宮正武(海軍少佐 第四航空戦隊参謀)

雀部 利三郎(ささべ りさぶろう 海軍中佐 機動部隊参謀)

澤地久枝(作家)

土肥一夫(どひ かずお 海軍少佐 第四艦隊参謀)

司会 秦郁彦(筑波大教授)

♪ 私の感想


「講和へ導くための大バクチ」


♪上記は座談会の小見出しの題名である。のっけからプロパガンダである。

(大幅に略)

「敵情判断に見る驕慢」

♪この小見出しもプロパガンダである。連戦連勝に驕り高ぶった海軍が、敵情視察を甘くみて惨敗したというシナリオに添ったプロパガンダである。秦は千早正隆とともにこのプロパガンダを吹いた張本人である。

秦郁彦(司会)  しかし、当時は行けば勝つ、というムードが全般的にあったから、この作戦をそれほど深刻な大バクチだとは考えていなかったのではないですか。

♪秦は誘導が得意である。

奥宮正武  いや、大バクチと考えてたんですよ。軍令部が反対するのにとうとう説きつけたんですから、これは容易な決心じゃなかった。

♪奥宮も秦のトモダチである。

板谷隆一  しかし、私なんかの印象では、ハワイ作戦のときはともかく、ミッドウエ―作戦の時は勝てるという前提で出発した感じがしてますね。・・・

大井篤  第一航空艦隊の「戦闘詳報」に目を通すと、「機動部隊指揮官ノ情況判断」という項目がある。それにこう書かれているのです。「敵ハ戦意ニ乏シキモ我ガ攻略作戦進捗セバ出動反撃ノ算アリ」。つまりこの程度の判断で出ていった・・・。

雀部利三郎  それは出撃前の図上演習で宇垣纏さんが強調したんですよ。敵の艦隊は出て来ないだろうと。それが先入観念になっている。もし出て来ても、とにかく敵は弱いんだと、これを非常に強く言っていましたね。

奥宮  それはもう真珠湾作戦いらいの驕りなんです。

♪奥宮はムードメーカーである。

大井  しかし、驕りにしても、ひどい。「敵ノ飛行索敵ハ・・・・・・厳重ナラザルモノト認ム」。こんなことは書く必要がない。

♪大井篤も同類項である。

雀部  確かに書く必要はない。しかしこの「戦闘詳報」は後から書いたんですよ。

雀部   機動部隊が作戦命令を作ったのは五月十五、六日じゃなかったかと思うんです。これは主として源田実中佐が書いた。

「無視した米軍の強さ」

♪ミッドウエー海戦で何が驚異的だったかというと、米軍があまりに弱かったことである。殊に搭乗員の技量が信じられないくらい稚拙であった。使い捨ての高学歴の要員を、ミッドウエーのヤラセに投入したためである。彼らが滑走路を走り始めた瞬間に棺桶に入ったと指揮官は覚悟するべきである、とゴードン・プランゲでさえ述べている。特攻の嚆矢はこのミッドウエー海戦における米海軍である、と指摘している。この座談会の小見出しはすべてプロパガンダである。

阿部平次郎   出撃の前に横須賀で源田さんと千早猛彦君にばったり出会ったんですが、「源田さん、今度のM作戦は止めなさいよ、袋叩きになりますよ」と言った記憶がある。というのは、南海島の陸戦隊から軍事郵便が、ぼくんとこの兵隊に届いて「今度はM作戦らしいが、大いに頑張ってくれ」と書いてきている。こりゃ機密が全海軍に筒抜けだと。それに人事異動。大事な作戦を前に、分隊長が替り、超隊長が替り、そして新しく配属された連中は無敵機動部隊の搭乗員になったと言って、もう乗っただけで鼻高くなってね。これじゃいかんと思って、源田さんに言ったが。

♪そういうシナリオである。

秦  耳をかさなかった?

阿部  私は昭和十二年八月十五日いらい戦場に出てるんですが、今度だけはもういよいよ死神のお迎えだ、と覚悟した

秦  予感があった?



秦は狂言回しも得意である。

阿部  友さんとは昭和十二年に加賀で一緒に戦った仲だが、以後彼はずっと内地にいてあまり戦場へ出ていないんです。

「無茶苦茶だった図上演習」

♪これもヤラセのお芝居である。

秦  そこで有名なGF統裁のミッドウエ―図上演習の話ですが、この演習は五月一日から四日間、戦艦大和の艦上で行われた。宇垣参謀長が審判長だったということですが・・・・。

♪秦はシナリオの勘所を掴んでいる。

奥宮   サイコロ振ったのが私なんです。青軍の空母に計九発爆弾が命中したのに、宇垣さんが「今のは三発命中とする」とやるんですから、もう無茶苦茶ですよ。

♪宇垣纏の仇名は黄金仮面、無茶苦茶な役どころがピッタリである。

板谷  実に宇垣さんの傍若無人なやり方にはびっくりしましたが、それ以上に驚いたのは、普通の図演なら状況判断に天候や海の状態などの各種条件がつくなずなのに、あのときは天気は良好としたままどんどん進んでいっちゃうんだね。(笑)

奥宮  そしてミッドウエ―で沈んだはずの空母が、フィジー・サモア作戦ではいつの間にか浮き上がって参加しているんですからね。(笑)

♪サイコロ振ってた奥宮も共犯者である。

「山本長官出撃の理由は?」

♪拙劣な指揮を執ったという汚名を被せるためである。私見では、戦闘中、山本五十六は大和の中で、勅令を受けた者たちによって拘束された状態にあったと考えている。

秦  それでいよいよGFあげての総出撃となるわけですが、いま考えるといちばん奇妙なのは、山本長官みずからが大和に座乗して、三百カイリ後から進撃したということなんです。観艦式のつもりだったとか論功行賞のためだとか、いろいろ言われていますね。

♪秦は急所を外さない。

板谷  私は長門で出撃しましたが、昔から海軍には指揮官先頭という伝統があるから、われわれも出ていくんだということでしたね。主将出陣という感じで。論功行賞などは考えていないと思いますよ。桂島でじっとしていることでとかく言われていたのは事実ですが。

澤地久枝   戦闘の局面次第では、大鑑巨砲にもの言わせて、大いにやろうという気もあったんでしょうね。

板谷   それはあったと思います。でも敵は出て来ないだろうという感じでした。

大井  だから、やっぱり世間でいう論功行賞、これはぬぐい切れないと思うよ。・・・

雀部  山本さんは機を見てハワイを奪う、という考えを持っていたらしい。

奥宮  いや、ハワイ攻略など考えていなかったと思いますよ。輸送船などの準備が全然ありませんからね。

♪奥宮の人柄が伝わってくる。


「敵空母を叩くために」


 
澤地  「戦史業書」などを見ますと、GFとしてはミッドウエ―攻略とともに、これを阻止しようと出てくる敵機動部隊を叩くという、つまり二重の目的を持った作戦であると一航艦に念を押した。ところが一航艦の方はミッドウエ―攻略で頭がいっぱいだったらしいですね。雀部さんは桂島出撃の時は作戦目的をどう理解しておられましたか。

雀部  はじめは、敵の艦隊をおびき出して、これを叩くのが作戦の主眼だと言われていたように覚えています。ところが、大海令には、そう書いてない。「陸軍ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」(AFはミッドウエ―、AOはアリューシャン列島の略語)と書いてある。それにつられたように、GFの作戦命令にも似たようなことが書いてあったんです。だから、山本長官の考えが変わったのか、とにかくミッドウエ―攻略が第一義なんだなというような頭がありましたね。

奥宮  あのときの空気では、ミッドウエ―を叩かなければ、空母は出て来ないということが支配的でしたからね。矛盾はしてないわけですよ。両方ともできる、優先順位を付ける必要なはい、出撃時はそんな空気でしたね。

♪奥宮は「二兎を追う」ボケ作戦を肯定している。

奥宮  戦艦大和の会議で、トップの頭を支配していたのは、敵の空母が出て来なかったらどうしようかということなんです。

秦  ところで、ミッドウエ―爆撃の一日前にアリューシャンを叩いたのは何が狙いだったんですかね。


♪アリューシャンに戦力を割き、ミッドウエ―の戦力を削ぐことである。

奥宮  二隻の空母でアリューシャンをたたけば米空母が釣られてハワイから出てくるだろう。それを南雲さんの四隻で叩く。だから牽制作戦なんですな。六隻が堂々と出ていったのでは、敵は逃げるだけだ。二隻なら出てくるだろうという驕りですよ。

♪奥宮、ミッドウエ―を叩く&敵機動艦隊を撃滅する『二兎を追う』作戦を肯定したばっかだろうが。なんでアリューシャンを叩く必要があるのだ。何でもかんでもGFの驕りのせいにするシナリオなんだな。

阿部   そのための索敵や哨戒のために潜水艦がずらりと並んだ。

奥宮   ところが位置はよかったのだが、展開の時期が遅れてしまった。

♪皇族の小松侯爵が責任を持って哨戒を四日間も遅延させ、敵艦隊を無事にスルーさせてあげたのである。

澤地  潜水艦が所定の海域に布陣したときには、米機動部隊はすでに通過していたというわけですね。

♪シナリオの予定通りである。

大井  あなたは蒼龍だったかな。

阿部  蒼龍です。それから格納庫には第六航空隊の戦闘機を六機積んでいる。これも占領したらすぐ陸揚げして基地防空に使うという。冗談じゃないよ、いまある飛行機かででも発着甲板をやり繰りするのが大変なのに、六機も余分を積んでゆく。これを幕僚は反対しなかったのか、こんなことで戦争が出来ますか、と意見具申にいったり。まあ、敵をナメていたんですな。

♪「二兎を追う」作戦は、戦闘機を余分に搭載する口実でもある。六機も余分に積んで発着甲板の混乱を狙う筋書きである。それを「まあ、敵をナメていたんですな」と深く考えず、即『驕り』のせいにする。ほぼパブロフの犬状態である。


この件では千早正隆も声高に吠えている。

プランゲ著『ミッドウエ―の奇跡』千早正隆訳 訳者あとがきより

『四隻の空母の固有搭載機は、補用機を入れて合計二百六十三機であったが、それ以上に第六航空隊の戦闘機を二十一機も搭載していた。一艦宛てでは五機の増加ということになるが、五機の増加がそれでなくても窮屈な格納庫の格納をより一層窮屈にしたことは否めない。そればかりでなく、合戦前には不要な物件はできるだけ陸揚げして、被害を極限するという原則に反する行為であった。余分に搭載したためにどれだけ被害が増大したかを、計量することはできないが、第六航空隊の戦闘機を余分に搭載したというこの一事に、下算と慢心の一端を看ることが出来ると指摘せざるを得ない。』


♪下算でも慢心でもなく、奇跡の逆転劇を演出するための小細工である。

再び座談会の続き

「被爆直前の飛行甲板」

秦   いよいよ六月五日攻撃の日となりますが、阿部さんは第一次攻撃隊でミッドウエ―爆撃にいかれたんでしたね。

阿部  はい、島が見えるか見えないかのところで、四、五十機の敵戦闘機が待ち伏せていた。(略)

秦  敵の戦闘機は強かったですか。

♪秦は地雷を踏んでいる。

阿部  まだ戦争慣れしていないなという感じでした。(略)

♪戦争慣れしていないどころではない。国家の命運を賭けた世紀の決戦だというのに、米軍は練習時間が必要量に満たない搭乗員や、実戦経験がない搭乗員まで投入していたのである。米軍は正規の戦闘ではまったく勝ち目がない、ヤラセでなければ勝機は見いだせないということを十分自覚していたので、戦闘の場面では使い捨て要員を投入し、『運命の五分間』の時だけ手練れを用いたのである。

「日本軍の戦死者総数三○六四名」

澤地   しかし、赤城の搭乗員がそんなに戦死していないというのは、どういうことなんでしょうか。


大井   聞くところによると、澤地さんはコンピューターを使ってミッドウエー海戦の全戦死者を調べられたということですね。

澤地   はい、日本側の飛行機搭乗員の戦死は計一二一名です。戦死者総数が三〇六四名。比率でいうと三・九五%にしか当たりません。アメリカ側の搭乗員戦死者は二一〇名。戦死者総数は三六四名ですから、搭乗員の戦死率は五七・六旧%。ミッドウエ―海戦は日本海軍の搭乗員に大きなダメージを与えた、というも言われてきましたが、数字上からみるとむしろ逆なんです。

大井   予備学生はどのくらいいますか。

澤地   アメリカ側で、二一〇名のうち七二名、割合は三四・二九%で、つまり三割以上が予備学生出身の搭乗員ということになります。

奥宮   アメリカの搭乗員は日本と違ってほとんどが将校ですね。

澤地   それからこの搭乗員戦死数を、各鑑別に申しますと、赤城七名、加賀二一名、飛龍七二名、蒼龍一〇名、三隈四名、最上二名、利根二名、筑摩三名。ここにさっき話に出たミッドウエ―攻略後の要員である第六航空隊所属者もふくまれています。つまり赤城の戦死は七名(うち機上以外の戦死四名)ということです。定説のように、飛行甲板にずらっと勢揃いして、まさに発進が始まろうという状況での被爆であったということが本当なら、もう少し死んでいるはずです。それで疑問に思われるのですが。

♪『飛行甲板にずらっと勢揃いして、まさに発進が始まろうという状況での被爆』→飛行甲板にずらっと勢揃いさせているが、搭乗員を乗せないのである。敵にスムーズに爆撃させることがシナリオの合意点である。敵の爆撃を受けるまで発艦させない、という意図が働いていたと思う。

大井  どうやって調べたんですか。

澤地  独自の調査です(笑)。四年もかかって調べたのです。ご参考までに、戦史者リストを表にしてご報告しておきますと、


兵科      一〇三三名    三三・七〇%
飛行科     一〇七名     三・四九%
整備科     七四一名     二四・一八%
工作科     六九名      二・二五%
医・看護科    一八名     〇・六〇%
主計科      一二五名    四・〇八%
軍属       二名      〇・〇六%
機関科      九六九名    三一・六二%


となります。これでみても、機関科と整備科の損耗はその後の戦いに響いたと思いますね。

阿部  機関科の九六九人は大きいですね。彼らはいったんは這い出してきているんですよ。だが通路などにいっぱいに積んだミッドウエ―占領後陸揚げの荷が、いっせいに火を噴いていて、逃げ場を失ったらしいんです。

秦   この調査にざっとどのくらいかかりました。

澤地   調査と取材とコンピュータの仕事を含めて四千万円を超えたでしょう。

大井   とにかく大変な調査だと思いますよ。敬服しました。

秦   澤地調査をふまえて核心に入りたいのですが、第一次攻撃隊がミッドウエ―爆撃にいっている途中に、よもやと思っていた敵空母発見電が入ったわけです。どんな感じで受けとられましたか。

「護衛戦闘機付きの正攻法で」

♪ここからヤラセ本番の検証に入る。小見出しはヤラセを正当化するためのコジツケである。

雀部    源田参謀でしたか、吉岡参謀でしたかがすぐにこう言いました。「まだ余裕があるな」と。敵空母とは約二百マイル離れている。当時の飛行機は時速二百ノットですから、来るまでに一時間はかかるだろう、という意味でしょうね。それで「戦闘機をちゃんと付けて、正規の隊形でやりましょう」と源田が言い出し、吉岡が三世して、草鹿参謀長も賛成した。それで決まったんで、だからあのときガタガタ大騒ぎした覚えはないですね。

♪指揮系統の決定は、源田と吉岡と草鹿でやっていたのである。

澤地   決定するまでどのくらいの時間が。

雀部   長い時間はかからなかったと思いますよ。そしてその命令が発せられてから、源田が「まだ時間があるから第一次攻撃隊をとりましょう」と言った。収容するという意味です。それですぐ第一次攻撃隊が着艦しはじめた。

秦   敵機動部隊の先制を恐れあわてて、判断を誤ったんじゃないわけですね。

雀部   動転なんかしていません。ただ「敵ラシキモノ見ユ」の第一報の位置が誤っていて、実際には百五十マイルしかなかった。だからこっちが考えているより早く、敵の機動部隊が来た。そこに錯誤があったと思いますよ。

♪『第一報の位置が誤っていて、実際には百五十マイルしかなかった。』というのは、驚くべき情報である。なるほどそういうストーリーだったのだ。

秦   山口多門少将(二航戦司令官)からの意見具申「タダチニ発艦ノ要アリト認ム」を却下したのも・・・。

雀部   あれを握り潰したのは、南雲長官と言われていますけど、源田参謀ですよ。

大井   一航艦の人的構成も研究してみる必要があるね。源田は話が上手だし、三段論法でくる。それにくらべて南雲忠一という人は・・・・。

雀部   その源田が内地を出た翌日から風邪をひいて肺炎になりかかって、ずっと寝込んだままでした。起きてきたのは五日の攻撃の朝でしたからね。判断力なんか鈍っていたと思いますよ。

♪こう思わせるための『肺炎』である。

秦  雷爆転換よりは、直衛戦闘機の都合がつかないたけに出発が遅れたんでしょうか?

雀部  ええ、雷爆転換で遅れたとは、私は考えませんな。

澤地   魚雷を陸用爆弾に転換するのに、どのくらい時間がかかったのでしょう?

雀部  大体、二時間とみていました。その逆も同じくらいです。

澤地  あのとき、兵装転換中にも敵機が後から後から、切れ目なしに襲ってきていますね。平常航海中に飛龍が訓練で兵装転換をやったときも、二時間以上もかかっているのです。大角度で転舵という戦闘中なんですね、あのときは。それで二時間でできますか。

♪戦闘中の兵装転換は厳禁である。この鉄則を最初に破らせたのが、飛行総隊長の淵田美津雄である。ミッドウエー海戦の直前のインド洋海戦で、戦闘中の兵装転換を南雲にさせてハードルを越えさせている。

雀部  〇一三〇に第一次攻撃隊が出たあと、〇二二〇に兵装転換の予令が出ているんですよ。だから魚雷なんか弾庫から揚げてあったと思うんですがね。だから割合に早いんですよ、転換が。

澤地 問題の〇二二〇の予令は、一航艦の「戦闘詳報」には「敵情特ニ変化ナケレバ第二次攻撃ハ第四編制ヲ以テ本日実施ノ予定」と表現されていますが、この第四編制は爆装を意味するんじゃないか。それに、予令なのに気をきかして、実際に爆装して待機していたんじゃないかという疑いがあるんですね。

♪ここでたまらず奥宮が口をはさむ。

奥宮  あのときのことは淵田美津雄さんと私の共著である「ミッドウエ―」にしっかりと書いてあります。この海戦に関しては彼の研究がいちばん早く貴重なものですよ。私は彼を信じますね。

♪そうです。淵田美津雄は仮病を使って観戦し、『しっかりと書いてあります。』奥宮正武はその淵田と二人三脚を組むことで、プロパガンダ作家として順調なスタートを切ることが出来たのです。

「敵艦隊か、ミッドウエ―基地か」

♪ハムレットのようなクサい芝居をするために、二兎を追うヘボ作戦が用意されたのである。

澤地  では、淵田さんのご本に基づいてお尋ねします。最初に魚雷を積んでいたという前提で話させていただきますが、〇一三○に第一次攻撃隊が発進する。同時に索敵機が出ていく。このうち問題の利根四号機が三十分遅れて飛び立つ。淵田さんは第一次攻撃隊が出撃したあと、「第二次攻撃隊、用意」という号令が拡声器から伝えられたと書いています。そして赤城ではエレベーターでチャンチャン音をたてて戦闘機や雷撃機が揚げられて「一方兵器員は弾薬庫のエレベーターで上がって来る魚雷を・・・・・飛行機に装備する」。そしてそろそろ日の出で薄明るくなってくる。「飛行甲板は第二次攻撃隊の飛行機で埋まった」と書いてあるんです。

奥宮   〇二二〇の予令はあくまで予定です。「用意せよ」じゃない、予定ですよ。『戦闘詳報』には「実施ノ予定」とあり、しかも「敵情ニ変化ナケレバ」と条件がついている。

♪おかしいではないか。あくまで“予定”であって“用意”でないなら、どうして『淵田さんは第一次攻撃隊が出撃したあと、「第二次攻撃隊、用意」という号令が拡声器から伝えられたと書いています。そして赤城ではエレベーターでチャンチャン音をたてて戦闘機や雷撃機が揚げられて「一方兵器員は弾薬庫のエレベーターで上がって来る魚雷を・・・・・飛行機に装備する」。』と書いているのか。

澤地 詳報の〇二二〇ではそうです。

♪詳報はそうです。淵田美津雄の書いていることと全然違います。

奥宮  この“予定”がそのまま実行に移される前には、必ず「予定のごとく行動する」という命令が出るはずです。ところが、その日は敵情が変化した。つまり米空母が発見されたので予定どおりにはいかなかった。

♪ますますおかしい。「敵情に変化があったのに第二次攻撃隊が用意された」と淵田は書いていることになる。

澤地  もう一度〇二二〇の予令に戻って考えますが、甲板上の艦攻隊は状況の変化がなければ、ミッドウエ―へもう一回爆装にかえて陸上攻撃に行くようになるかもしれんから、その心構えだけはしておけと・・・・・。

阿部  そう、心構えでしょう。

奥宮  “予定”というのはあくまでも心構えであって、行動に移すわけじゃない。

♪くり返すけど、観戦していた淵田自身が行動に移しちゃってると書いてるんだよ。『淵田さんは第一次攻撃隊が出撃したあと、「第二次攻撃隊、用意」という号令が拡声器から伝えられたと書いています。そして赤城ではエレベーターでチャンチャン音をたてて戦闘機や雷撃機が揚げられて「一方兵器員は弾薬庫のエレベーターで上がって来る魚雷を・・・・・飛行機に装備する」。』ね、行動に移してますね。

澤地  ところが、甲板上の飛行機は魚雷をつけて待機しているというのでしょう。そこへ予令を出すというのは、どういう意味なのか、ということです。

阿部  索敵機も出していることだし、ミッドウエ―からの戦果報告もあるだろうし、両方を見合して今後の作戦行動をどちらかに決める。が、いまの状況では陸上攻撃になる場合もありうることを考えておけよ、ということでしょうな。

♪だから陸上攻撃の準備を行動に移してしまっているのはなぜなんだ?という質問なんだよ。

奥宮  そうです。心の準備です。

♪だから心の準備を行動に移してしまっているのはなぜなんだ?という質問なんだよ・・・阿部と奥宮には澤地の質問を理解する能力がないのかもしれない。

秦  しかし気の利いた整備員や兵器員が弾庫から陸上用の爆弾をあげておけとなることも・・・・。

♪ついに秦が助け舟を出す。

奥宮  それはありえたでしょう。艦によって違います。

♪しかし澤地は追及の手を緩めない。

澤地   その状況下で、〇四〇〇に友永機から「第二次攻撃ノ必要アリ」という電報がくる。ところが数分後に米基地空軍の攻撃がはじまって、赤城は急角度で回避運動をやりながら、〇四一五に「第二次攻撃隊本日実施」、つまり予令どおりにやる、という命令がお下る・・・。

奥宮  「本日実施」で切ってしまっては駄目ですよ。その次を読まなきゃ。

澤地  「待機攻撃機爆装ニ換ヘ」となっています。ところが、〇四二八に利根四号機の「敵ラシキモノ一〇隻見ユ」電がとびこんでくる。そこで〇四四五に「敵艦隊攻撃準備、攻撃機雷装ノ儘」という命令が下りる。〇四一五から〇四四五まで、三十分しかたっていません。

「兵装転換が敗因ではない?」

♪兵装転換は、「敗因」の言い訳のために用意された一つである。そのために二兎を追うヘボ作戦が必要不可欠であった、というだけの話である。真の「敗因」はヤラセでボロ負けすることが既定のシナリオだったからであり、そのようなヤラセを昭和天皇がする必要があったからである。鬼塚英昭氏が検証しているように、そのように国際金融寡頭勢力から昭和天皇が脅されていたからである。国際金融寡頭勢力の傀儡政権として発足した田布施村王朝のいかがわしさ、成りすまし天皇家のスキャンダルをばらされると、昭和天皇は全てを失うからである。


秦 訓練でも二時間近くかかる兵装転換だから、三十分ではあまり爆装は進展せず、ほとんど雷装のままということになりませんか。

澤地  そうです。大部分はまだ魚雷を抱えているのではないか、と。よくいわれている魚雷→爆弾→魚雷という三ステップの定説が、時間的におかしくなるのじゃないでしょうか、ということです。

♪〇二二〇の予令の時点ですでに行動に移している、と淵田美津雄が書いているのは創作ということになる。

秦  つまり、その気ならすぐ雷撃隊を出せたはずだと?

奥宮  しかし、そのときは、直衛戦闘機が上空に出ていて直衛につけてやるのがいないから、駄目なんですよ。

♪奥宮はヤラセのシナリオに添って発言している。参謀長の草鹿隆一がこれとまったく同じことをプランゲのインタビューに対して答えている。草鹿は即時発進させなかった言い訳、こじつけ、自己正当化を延々と述べている。

澤地  それはわかります。でも、この兵装転換の混乱が“運命の五分間”の遅れとなったという定説は、成立しないんじゃないか、ということです。

♪私も『運命の五分間』説については疑問を持っている。実際はもっと幅があったはずである。

秦   やはり戦闘機をつけねばということにこだわったんですかねえ。

奥宮  そうです。

澤地  それにしても赤城の被爆が〇七二六ですから、その後二時間半も発進できないまま放っておいたことになりますよ。

♪つまりこれが『運命の五分間』の実質の幅である。この『定説』を捏造したのは淵田美津雄と奥宮正武である。二時間半も発進させない理由をずらずら並べたあげく、『運命の五分間』などとドラマチックな言葉で粉飾している。正しい表記は『運命の二時間半』である。

秦  戦闘機をつけてやりたいという親心といいますかね。それは源田さんでしょうか。

雀部  南雲さんじゃないですか。

♪源田実と草鹿隆一である。

澤地  繰り返しますが、兵装転換問題が命取りになった、といままで言われてきた定説は崩れるわけですね。

奥宮  そうも思いませんがね(笑)、戦闘中には、冷静な時にはちょっと考えられないことが起こるものなんですよ。

♪こんな人間を相手になおも澤地は健闘するのである。

「戦闘詳報」は正しくない

♪もちろん戦闘詳報は真実を伏してあるだろう。真実を書いたらヤラセが崩壊する。しかし、淵田美津雄、奥宮正武、源田実、草鹿隆一らの偽証や、秦郁彦のようなデマゴギーに較べたら、それほどデタラメは書いていないだろう。

澤地  なお私はこだわるんですが、戦史業書の「ミッドウエ―海戦」には、「〇二二〇南雲長官は状況に変化がなければ、第二次攻撃をミッドウエ―に施行する予定と予令。各艦陸上攻撃用爆弾に準備を開始したものと思われる」と書いている。これは間違いないでしょうか。

奥宮  それは「思われる」と書いてあるように、書いた人の主観であって(笑)、「開始した」ではないでしょう。

♪奥宮の詭弁ここに至れり。奥宮はたったさっき、これとそっくり同じことを書いている淵田美津雄のことを、『あのときのことは淵田美津雄さんと私の共著である「ミッドウエ―」にしっかりと書いてあります。この海戦に関しては彼の研究がいちばん早く貴重なものですよ。私は彼を信じますね。』と持ち上げている。淵田美津雄は『いちばん早く貴重なもの』、しかし戦史業書は『書いた人の主観』・・・。奥宮は澤地の質問の意味が分からないだけでなく、こんな情けない使い分けまでするのだ。使い分けのスペシャリスト中田安彦君でさえ、ほとぼりを冷ましてから使い分けるくらいのデリケートな神経は持ち合わせている。こんな芸のない雑駁なことはしない。

澤地  これは公刊戦史なんです。

奥宮  公刊戦史といっても間違ったところ、正確でないところがいっぱいあるんですよ。これは資料だが、戦史じゃないと私は思っています。

澤地   でしたら〇二二〇の予令は、どう考えるのがいちばんよいのか・・・。

奥宮   僕は心の準備だと。

澤地  整備員も兵器員も予令の段階ではやはり心の準備どまりですか。

澤地  予令の時に既に何かが行われていたのでないか。これは素人の勘ぐりですが。

♪いや、観戦していた淵田自身が既に第二次攻撃の準備をしていた証言しているのである。

澤地  さらに、もう一つこだわるんですが(笑)、源田さんと奥宮さん共著の「ミッドウエ―」は、先刻珍重すべき文献だと奥宮さんが言われました。それでお尋ねするのですが・・・・・。「敵艦隊攻撃準備」命令が出されるのは〇四四五でしたね、「戦闘詳報」によれば。ところが「ミッドウエ―」によると、南雲長官が敵艦隊撃滅を決心したのは午前五時四○分、つまり〇五四〇になっているんです。これはどう考えたらいいのか。

奥宮  この「戦闘詳報」が正しいとは限らないと、私は確信しています。

♪奥宮は澤地が「戦闘詳報」の矛盾点を突くと、“公の戦史史料は主観的なものが入っているから正しいとは限らない ”と言い、『この「戦闘詳報」は正しいとは限らないと、私は確信しています』と言う。しかし二兎を追う作戦が追究された時には、「戦史業書」の妥当性を強調していたのである。奥宮正武はプロパガンダを吹いていると、私は確信しています。

澤地  エッ、正しくないのですか。

奥宮  正しくないところがある。

♪奥宮は、正しくないところがあり過ぎる。

秦  澤地さんが言いたいのは、利根の四号機の〇四二八の「敵ラシキモノ」発見電ではなく、〇五二〇になって判明した「空母ラシキモノ一〇隻ヲ伴フ」電によって、南雲長官はやっと戦艦隊攻撃を決心したということなんでしょうか。それまでは、「いるのかな、どうかな」というので、何となく・・・。

澤地  ええ。〇五二〇まではミッドウエ―第二次攻撃の方にだけ頭がいっていたんじゃないかということです。

雀部   そう、確かにその傾向はあった。「敵ラシキモノ」でピーンときたわけではないのですね。それに、利根の索敵機の位置が予定とかなり違っているでしょう。それに気がつかなかった。

♪索敵機の位置が違っているという重大ミスは、シナリオなのだと私は思う。

澤地   そうなると、「戦闘詳報」の〇四四五の「敵艦隊攻撃準備」命令はなんだったのか。私が「戦闘詳報」にメイキングがあると考えた一点はここにあります。源田さんの本の〇五四〇の方が正しいのか。

♪澤地の果敢な粘りは素晴らしいと思う。しかし木を見て森を見ない弊害がある。だから淵田美津雄や源田実が仮病を使っていることも、面と向かって座談している奥宮の正体も分からない。


「運命の五分間」の内幕

澤地  さらに驚かされるのは、「戦闘詳報」では〇五五四に、赤城から利根四号機に「方位測定用電波輻射セヨ」と命じています。

♪この失策はヤラセである。この重大ミスを止められなかったのは、源田が肺炎になりかかって寝ていたからだというシナリオである。その命取りの命令に驚いた源田が、慌てて止めようと病床から飛び起きた、まさにその時命令が発せられてしまった、という筋書きになってます。

澤地  その上にですね、〇五二〇の「空母ラシキモノ一隻」電が入った後にも、赤城の艦爆隊がまだ上空で収容を待っている、その艦爆隊に「二次攻撃準備、二五〇爆弾揚弾」という命令を、〇五三〇に出している。

雀部  その二次攻撃というのは艦船用でしょう。

阿部  陸用爆弾じゃない。

澤地  どっちだかわかりませんが、お尋ねしたいのは、格納庫が艦攻の兵装転換で大混乱しているであろう最中に、そこへ、これから収容する飛行機の爆弾を揚げている。これはどういうことなのか。

♪あらゆる手を使って甲板と格納庫をパニック状態にするためです。

阿部  要するに着艦したらすぐに格納庫へ降ろして、爆装できるように。

澤地  すいぶん余裕綽々なんですね。(笑)

阿部  そうそう、まだ余裕があった。

澤地  敵空母が発見されているのにね。

阿部  いやいや、見つけているからこそなおのことです。急速に整備して出すためには、爆弾を出しておいて、格納庫に収めたらすぐ爆弾をつけて、敵艦を攻撃できるようにしておく・・・。

澤地  順序からいうと、この揚弾命令がでて、方位測定用電波が出されるというわけです。一航艦には時間が十分にありすぎた・・・・。(笑)

♪澤地以外は顔が引きつっていたのではないだろうか。

奥宮  結果からみて「運命の五分間」になったけど、やられる前は、源田参謀の思うとおりに事は運んどったんです。

♪結果からみて「運命の五分間」になるために、源田参謀の思うとおりに事を運んどったんです。

澤地  しかも無線封止を破りますね。もしかすると敵にキャッチされたかもしれないのに、そうは考えないで五日の朝になっても「敵ハ我ガ企図ヲ察知セズ・・・発見セラレ居ラザルモノト認ム」と思う、このズレは大きすぎます。

♪敵と我が企図にはどこにもズレはない。日米はヤラセの相性が良いと思う。

「生かされなかった戦訓」

大井  ずっと聞いていると、戦闘場面の方はどうも責めてもしかたのないことが多すぎる(笑)。しかし、元凶は軍令部だとか、GFにあるな。

奥宮  私もそう思います。それと日本人の国民性ですね。

♪元凶は成りすまし天皇家にある。そういや戦犯対策用に急拵えした昭和天皇独白録も、日本人の国民性に罪をなすりつけていたっけ。

秦  われわれが不思議に思うのは、なぜ飛行機に素人の南雲さんを長官にしたのか、ということなんですね。

雀部  そうね、すべて源田の言うとおりになって、「源田艦隊」と呼ばれました。その源田が鼻っ柱が強くて。

♪そうね、すべて源田の言うとおりになって、ヤラセを完遂させるためだね。あと南雲が元長岡藩士の息子であるというのが大きいと思う。

奥宮  司令長官クラスに航空作戦を知ったひとがいなかった。

♪栗田は例外であるが、司令長官クラスにはヤラセを知ったひとがいなかった。GFの参謀クラスや軍令部スタッフには、ヤラセを知悉した工作員がウヨウヨいた。

板谷  戦訓は、大きな戦争指導の面でもついに生かされることはなかったわけです。

秦  では、この辺で。

♪ヤラセの戦訓を生かすには、ヤラセの元凶を断ち、二度とさせないことしかない。

11. 2020年9月26日 11:54:47 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[23] 報告
山本五十六の真実K       ミッドウエ―   
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/226.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 3 月 08 日 15:38:03: 8qHXTBsVRznh2
 

今回は日米戦争の趨勢を一挙に逆転させたミッドウエ―海戦を検証する。
これによって前回検証した偽証者たちの実態をさらに究明する。

ミッドウエー海戦にまつわるロパガンダは、真珠湾奇襲攻撃ほど解明されていない。慢心していた日本海軍連合艦隊が、作戦段階から敵を侮り、情報戦を軽視し、結果アメリカ太平洋艦隊によって完膚なきまでに叩き潰された、という古いプロパガンダから、最近は山本五十六が真珠湾奇襲作戦を強引に敢行させた時と同じ脅しの手口を使って、ミッドウエ―作戦を強行させわざと負けさせた、というプロパガンダにすり替わった程度である。

真珠湾攻撃の手抜きもミッドウエー海戦の惨敗も、日米共同演出による八百長であることに異論はない。但し私はそこから山本五十六と南雲忠一を除く。ミッドウエー海戦について先ず結論を述べる。

◎日本はミッドウエー海戦に完勝している。


◎アメリカの『奇跡の逆転勝利』は詐術によるものである。


以前、百田直樹著『永遠のゼロ』を読んで感動した話を書いた。その際、百田氏がミッドウエー海戦で急降下爆撃したアメリカ兵の勇気をほめていたことに私も同調した。しかしここでそれを撤回して、自分の不明をお詫びしなければならない。彼らの勇気はヤラセに利用され、使い捨てににされただけである。

◎ヤラセの司令塔は吉田茂と昭和天皇である。

◎日本側の主役は源田実と淵田美津雄である。

二人とも仮病を使っている。

源田は肺炎にかかったフリ、淵田は虫垂炎の手術をしたフリをしている。

◎共演者は黒島亀人、渡辺安次、宇垣纏、三和義勇、藤井茂。

中でも黒島亀人は、吉田茂に直かに繋がるコネクションの一人である。

◎アメリカ側の主役はレイモンド・スプルーアンスである。


スプルーアンスは太平洋連合艦隊ではなく諜報組織に属している。

スプルーアンスを送り込んだのはヴィクター・ロスチャイルドだと考えている。

◎ミッドウエ―海戦の戦史資料・証言は改竄・捏造されている。


ミッドウエー作戦の構想が、ミッドウエ―島攻略とアメリカ艦隊撃滅の『二兎を追った拙策』と批判するのはプロパガンダである。この『拙策』なくして、ヤラセは完遂できない。連合艦隊司令部にミッドウエ―島攻略を主眼とする作戦を展開させ、ミッドウエ―島攻略の最中に敵空母を発見するシナリオである。『二兎を追う拙策』こそ、このヤラセを完遂させる要諦である。


『二兎を追う拙策』の第一義とされた、ミッドウエ―島攻略の戦略的意義について、

デーヴィッド・バーガミニ『天皇の陰謀』いいだもも訳 出帆社より抜粋する。


『二平方マイルの不毛で潮風に吹きさらされている低地が問題の島であった。ミッドウエイの二つの島、サンドとイースタンは、百マイル西にあるくれという名の未開で無住の岩礁とともに太平洋北西海域に横たわる離島だった。ミッドウエイの殺風景な土地を巡って行われた戦闘には、ルーズヴェルト大統領とその幕僚本部が認めていた以上の意義があったのである。実際、テルモピレー以来、これほど激しく、また確固とした理由のために行われた戦闘は少なかった。

もし日本がこの戦闘に勝利を収めていれば、彼らは一九四二年八月中にハワイを攻略するという作戦計画を実行したものと思われる。彼らはさらに進んで、パナマ運河を占領し、カリフォルニアを脅かすことで、合衆国にオーストラリア放棄を余儀なくさせるとともに、ヨーロッパ戦線への派兵を阻止し、そのすべての資源をアメリカ西海岸防衛に集中させるという意図を持っていた。


ミッドウエイの米軍は考えられないほどの幸運に恵まれ、それを最大限に利用した。』

シナリオはこういう流れである。日本が『二兎を追う拙策』を展開する→『ミッドウエイの米軍は考えられないほどの幸運に恵まれ、それを最大限に利用した。』そのために、アメリカ側では、『彼自身の責任で、ニミッツはミッドウエイ開戦のアメリカ側作戦計画を立案し、行動を開始していた』。つまりニミッツが『考えられないほどの幸運に恵まれ、それを最大限に利用した』という既定の筋書きに添うべく、行動を起こしていたのである。

バーガミニ続き(真珠湾奇襲攻撃の箇所の抜粋である)

『八月の第二週に、裕仁は海軍計画の検討に着手した。山本構想はまだ裕仁と高松宮の他には数人の連合艦隊幕僚しか知られていなかったので、山本は海軍軍令部ではなく、海軍大学校で説明を展開した。海軍大学校を選んだわけは、そこを管轄しているのが、かつて一九二一年(注 欧州外遊の折)に旗艦香取の甲板上で裕仁の体操教育にあたったこともある天皇家の一員、海軍少将・小松輝久侯爵だったからである。


九月二日、山本海軍大将と配下の将校達は再び小松高侯の管轄する海軍大学校に集まった。皇居から約五キロ離れた白金の皇室林のはずれにある海軍大学校は、今度は陸軍第八二軍の南進計画を支援する海軍側全作戦の予行演習の舞台となった。山本の計略はそこでは、開幕の夜に使われるかもしれないし使われないかもしれないような単なる余興として扱われたにすぎなかった。主要な関心事は、統制された部隊のマラヤ・フィリピン・ウエーク・グアム・ボルネオ・ジャワへの上陸を支援するための海軍側の作戦計画であった。(注 強奪財産ゴールデン・リリーの伏線である)


山本が自分の計画披露の機会を掴んだその九月八日の晩、海軍大学校校長の小松侯爵は、天皇家一族、親族を招待して祝賀の晩餐を開いた。木戸内大臣は、かつて内親王であった七十過ぎの母堂を伴って列席した。』

ミッドウエ―作戦で最大のヤラセの一つを請け負ったのが、この小松侯爵である。

バーガミニの続き

『巡洋艦と駆逐艦に護衛されたアメリカの空母を、山本提督は全く補足していなかった。作戦計画のなかで、真珠湾を監視する任務は先遣隊の潜水艦隊に割り当てられていた。潜水艦隊は、皇后の従弟で一九四一年の真珠湾計画当時は海軍大学校校長だった海軍中将の重臣小松輝久侯爵が司令官を務めていた。

小松侯はミッドウエイ作戦に大きな確信を抱いており、日本海軍の絶対的な優勢がその勝利を必然的なものにしているとの信念を持っていた。彼の潜水艦群は、開戦の八日前に真珠湾湾外の前哨偵察定点と、真珠湾とミッドウエイの中間海域の二つの警戒線に展開するということになっていたが、結果的にはミッドウエイ開戦の四日前にやっとこれらの定点への展開が行われたのである。遅延した四日の間に、エンタープライズ、ホーネット、そしてヨークタウンも、日本側の早期警戒水域を通過し、警戒の目を潜ってミッドウエイ北東海域へ接近した。』

つまり警戒線を張るのを四日も遅延させて、無事アメリカ空母を通してあげたのである。

『六月三日頃、小松は山本提督あてにアメリカ艦隊が真珠湾に留まっているかどうかを確認する任務に失敗した旨を通知した。しかし小松は、哨戒潜水艇が真珠湾とミッドウエイの間の警戒水域に遅れて到着した事実について、山本の注意を喚起しようとはしなかった。』

そりゃ四日も遅延した理由は言えない。

『これは重大な失策だったのだが、小松が皇族の一員であるという理由で、のちの日本の歴史家たちは間接的にそれをほのめかしているに過ぎず、またアメリカの歴史家は、その徹底的な事後の研究のなかでも日本の歴史家の主張にそのまま従っているように思われる。』

追及すれば、日米共同シナリオが露呈するからである。

『小松侯が北太平洋に展開したと山本が信じていた攻撃潜水艦の警戒線を突破しなければ、アメリカ艦隊は山本の出撃に反撃を加えることができない筈であった。ニミッツ麾下の空母三隻は、まだ自慢するに足る戦功を挙げていなかったが、ミッドウエイ北東海域をスコールにまぎれて隠密裡に航行しながら機会をうかがっていた。』

この先は実行犯源田実、淵田美津雄のそれぞれの著書と、プロパガンダを書くためにG2戦史室長にされたゴードン・プランゲの『ミッドウエーの奇跡』をたたき台にする。訳者は三十余年にわたってプランゲに協力してきた千早正隆である。訳者あとがきによると、プランゲはすでに一九三七年、若干27歳にしてメリーランド大学の歴史正教授となり、一九八〇年に死去するまでその職にあったという俊秀である。大戦中は海軍少佐として、戦後は請われてGHQ戦史室長となり、昭和二〇年から二六年までマッカーサー戦史の編集に当たった。プランゲ個人のライフワークとして真珠湾攻撃を取り上げようと決心した時、同戦史室には千早正隆を含めて四人の旧海軍士官が勤めていたが、全員が協力したそうだ。


プランゲの研究・調査に対する情熱は『異常と思われるほど徹底的』で、『作戦に少しでも関係があった人は片っぱしから自宅に招いてインタビューし、在日中に会った人は二百名を超えた。』。その後、プランゲは役得で収集した資料も含め、厖大な量のそれをメリーランド大学に持ち帰り(プランゲの死後はプランゲ・コレクションとして保存)、昭和五十三年に真珠湾攻撃の全巻を脱稿した。本書の『ミッドウエーの奇跡』を完成したのは昭和五十七の秋である。凝り性で完璧主義のプランゲは、ヤラセを正当化する戦史を捏造させるには不向きな人材である。

ゴードン・W・プランゲ『ミッドウエーの奇跡』千早正隆訳 原書房より

『負け犬が勝つ話ほどアメリカ人の心に強く訴えるものはない。アメリカはその国力、その広大さおよびその地理的な関係から、過去一世紀の間、そのような立場に立ったことがほとんどなかった。が、ミッドウエーの戦いは、アメリカが負け犬の立場に立たされ、そして勝利を獲得したきわめて数少ない事例であった。』


序文の題名として『真珠湾の裏返し』とあるように、ミッドウエー海戦もヤラセである。同作戦と真珠湾奇襲は、いわば同じコインの裏表である。ヤラセの特徴の一つは、同じ役者を使い回しすることにある。中でも真珠湾攻撃隊長の淵田美津雄は特異な存在である。彼は真珠湾攻撃・ミッドウエー海戦・原爆投下のヤラセに加担し、戦後は伝道師になってビリー・グラハムに会っている。

プランゲ続き

『ミッドウエーは日本側の過信、杜撰な計画、不十分な訓練および下算の物語であり、それはまたアメリカ側の冷静、創意および情報がよく調和された物語であった。』

これは史実ではなく、シナリオのト書である。ミッドウエ―の物語は、あの手この手を使って、それ以外にはアメリカの勝機はない、という状況で行われた残酷な犯罪の物語である。

『ミッドウエーの物語には”ツー・レート(遅すぎた)”が数多く使われているが、・・・山本は、軍令部作戦部との協力の下に、第二段作戦計画の立案をすでに完了し、南雲部隊が真珠湾の攻撃を終わって帰航の途につくやいなや、それを発動すべきであった。連戦の南雲部隊の飛行機乗りたちは、広島湾の桂島泊地に居据ったままの戦艦部隊を“柱島艦隊”と呼んで皮肉っていた。とくにハワイ攻撃のときに飛行機隊を率いて偉功をあげた淵田美津雄中佐は、山本長官はアメリカがハワイで破壊された艦を修理するのを待っているのではないか、とまで思っていた。』

淵田美津雄と源田実はゴードン・プランゲの自宅に招かれて、夕食をはさんで前後死後時間ほどの聞き取りを70〜80回ぐらいされている。淵田美津雄のこの感想はそのときのものだろう。淵田はシナリオ演出の一員としてはしなくも真相を明らかにしている。『ハワイで破壊された艦を修理するのを待っている』、という筋書きだったのである。

『軍令部第一部長の福留繁少将(海平40期)はミッドウエー作戦に不同意であったが、強い反対意見を述べなかった。これに反して、第一課長富岡定俊大佐(海兵45期)は強く反対した。黒島亀人大佐(先任参謀 海兵44期)と渡辺安次中佐(戦務参謀 海兵51期)がミッドウエーはハワイ攻略の足掛かりとなりうると主張しても、富岡と航空作戦担当の三代辰吉(みよたつきち)中佐(海兵51期)は耳を貸そうともしなかった。』

(注 三代辰吉は三代一就の間違いである)


そこで渡辺は、桂島泊地の旗艦大和に電話して情況を報告した。報告を終わって富岡の席に戻った彼は、「山本長官はミッドウエー作戦案が認められないならば、長官の職を辞めると言っておられる」との爆弾発言を伝えた。山本五十六大将の地位と声望に押されて、軍令部はしぶしぶであったが、ミッドウエー作戦に対する反対を撤回せざるをえなかった。それは山本の真珠湾作戦計画に軍令部が反対したときに、山本が最後の手段として使った”脅し”の繰り返しであった(訳注=その当時に連合艦隊参謀であった有馬は、その時に山本が果たして渡辺にそのように指示したかを疑問視する証言を戦後にしている )。』


全文ガセである。渡辺安次、富岡定俊、三代一就の偽証である。以前私は、真珠湾攻撃の構想は第一次世界大戦終了直後の1919年から用意されており、1939年8月31日に連合艦隊司令長官に任命された者は、真珠湾攻撃を遂行する宿命を背負わされていることを説明する際に五十六の脅しについて言及した。これを撤回してお詫びしたい。

プランゲ続き

『山本のミッドウエ―を攻略すべしとの主張の正当性を証明するかのように、四月十八日ジェームス・H・ドリットル陸軍中佐の指揮するB−25爆撃機が、東京、横浜らの都市を通り魔のように爆撃して通り抜けた。日本海軍の当事者はアメリカ爆撃機による日本本土に対する攻撃の可能性について、相当前から憂慮していた。』

これを予告する日記を三和義勇が書いている。

『二月八日、連合艦隊の作戦参謀三和義勇(みわよしたけ)中佐(海兵48期)は、その日の日記に次のように書いた。「敵が東京空襲をする可能性があるが、大した問題ではない。しかし、東京は首都であり、我が神国の中心であることを考えれば、敵の首都空襲はいかなる状況でも許すべきではない」三和は物事を騒ぎ立てるようなタイプの男ではなかった。その当時に四十三歳であった三和が軍務局局員から山本の幕僚となったのは、開戦直前であった。彼の日本海軍航空における経歴と、その性格かつ迅速な判断力を買っていた山本が、とくに望んだからであった。』

三和はこれからも目迎証言者として再々登場する。三和と黒島のいさかいを仲裁した五十六が、せつせつと黒島に対する真情を述べ、感激に打ち震えた黒島が突っ伏して泣く有名な逸話など、五十六に関する重要なプロパガンダを書きあげた後、三和はテニアンに送り込まれ『戦死』する。良心の呵責に耐えかねて真相を話す可能性のある人間は、口封じされるのである。

プランゲ続き

『しかもドリットル隊は予想されたよりはるかに低空を飛び、陸軍の防戦戦闘機を出しぬいた戦法を、淵田やその部下の歴戦の搭乗員は素晴らしい戦法だと思わずにはいられなかった。さらに、ドリットルの攻撃が母艦を発艦してから中国に向かう片道攻撃であることがわかると、淵田は彼らに対して畏敬の念さえ持った、と淵田はインタビューで述べている。

黒島もそのインタビューで、ドリットルの空襲はその戦果こそ少なかったが、「日本に戦慄を走らせた」と述べている。日本海軍がアメリカの神国に近接を許したことについて、少なくない国民が幻滅めいたものを感じ、山本長官に非難の手紙を送った。空襲によってその矜持を傷つけられた山本は、天皇および皇室の安泰をより一層気にするようになった。』

山本五十六は成りすまし天皇家の素性を松平恒雄から聞いている。五十六が『天皇よび皇室の安泰を一層気にするようになった』ことはない。そういう筋書きにするために、ドリットル空襲が敢行されたのである。

『三和は四月二十日の日記に、山本の理由づけについて次のように書いている。「南昌に不時着し捕虜とした米軍機乗員の陳述によると、彼らは母艦から発艦したようである。とすれば、敵ながら、天晴れと言うべきだ。この種の企図を封ずるためには、ハワイを攻略する以外の策はない。そのためにはミッドウエ―の攻略が前提となる。連合艦隊がミッドウエ―に作戦を主張する理由も、ここにある」そればかりでなく、はじめミッドウエー作戦に参加することを拒否していた陸軍も、ドリットルの空襲後は同作戦に参加することを主張するようになった。一方、陸軍長官スチムソンは、日本人の自制心を失ったそれらの動きを、興味深く見ていた。』

一九四二年四月十八日に敢行されたドウーリットル隊による空襲が契機となって、恐懼した山本五十六がミッドウエー海戦を強行した、という筋書きは三和日記を初め多くの人間が書いている。私もこれを鵜呑みにしていた時期があった。撤回してお詫びする。山本五十六は一年後の同日、処刑される。四月十八日は日米共同演出の記念日である。

『南雲の有能な航空参謀源田実中佐(海兵52期)も、ミッドウエー作戦には真珠湾でうち漏らした母艦群を仕留めるチャンスがあると考えていた。「ミッドウエー作戦を実施することで、アメリカ主力艦隊に決戦を強要するチャンスがあると思ったので、私は作戦に賛成した」と彼は述べている。連合艦隊が将来作戦としてハワイ攻略を計画していることを知ると、源田はミッドウエ―はその第一歩として価値があると思った。が、彼はミッドウエー作戦における陸上作戦よりも海上作戦により強い関心を持っていた。源田の見るところによると、南雲の態度はあまりはっきりとしていなかった。

南雲の参謀長の草鹿隆之介(海兵41期)によれば第一航空艦隊幕僚の多くはミドウエ―作戦に反対であったという。彼自身その急先鋒で、次のように陳述している。「機動部隊は真珠湾作戦いらい各地で赫赫たる成功を収めたが、搭乗員は減耗し、艦船、迎きは修理を必要としていたので、私はミッドウエ―作戦に反対であった。・・・そればかりでなく、ミッドウエー島を攻略することについて多大の疑問を持っていた。作戦計画は連合艦隊司令部ですでに決定され、われわれはそれをそのまま受け入れることを強要されたのであった」と草鹿は述べている。同時に彼は、第一航空艦隊側もあまり抵抗しなかたことを認めていた。彼はその陳述で、「われわれはアメリカを下算し、緒戦の成功で慢心していた。換言すれば、敵がたとえ出撃したとしても、容易に撃滅できると思っていた。私と同じ意見であった南雲長官も、彼の部隊はいかなる任務をも立派に遂行しうると信じていた」と述べている。』

草鹿隆之介の父親は、成りすまし天皇家御用達財閥の住友本社理事である。お坊ちゃん育ちなのか、草鹿はかなり罪悪感に駆られているようで、プランゲのインタビューではひたすら自己正当化ばかりしている。

『南雲の参謀長の草鹿の頭には、“二兎を追うものは一兎を得ず”との日本の諺がこびりついていた。彼はこの諺がミッドウエ―作戦の第一航空艦隊の任務に当てはまるのではないか、と心配していた。「連合艦隊命令には二つの目的が掲げられていた。一つは主目的であるミッドウエ―攻略の先鋒となることであり、そのには敵艦隊が出撃してきたならば、敵の機動部隊を撃滅することであった。その中でも、全般の作戦計画からみて、第一の目的に重点がおかれていた。さらに敵の航空基地からの攻撃も考慮しなければならなかった。・・・・この点が私がもっとも心配したところであった。というのは、第一航空艦隊は二兎を追うことを求められていたことになるからであった」』

草鹿隆之介は自分は悪くない、連合艦隊司令部の作戦が“二兎を追うものは一兎を得ず”という致命的欠点を持っていたからだと言いたいのである。しかし二兎を追ったことは、致命的欠点ではない。空母を二つに分けて作業すれば済む話である。致命的欠点というのは、全ての空母で同時作業で兵装装転換させることである。転換した爆弾と爆装した飛行機をずらりと並べて、さあどうぞと爆撃させることである。

『作戦開始に当たっては南雲の補佐をもっとも必要とするこの期間に、草鹿は上京して、真珠湾で戦死した航空搭乗員を、特殊潜航艇の乗員と同じように、二段階進級させよと上層部にせっついていた。』

勅令とはいえ、草鹿はヤラセに嫌気が差していたのかもしれない。

『山本はミッドウエ―作戦に二百隻以上の鑑定を動員することを予定し、同島に対する上陸開始日(N日)を六月七日と決めた。N日は南雲および近藤の部隊が必要とする作戦準備期間と、上陸作戦を用意にする月明の期間を考慮して定められた。作戦計画によれば、第六艦隊司令長官小松輝久中将(海兵37期)の先遣部隊の潜水艦が、六がtる二日までにミッドウエ―の東方海域に三重の哨戒網を展開し、敵艦隊の動きを探ることになっていた。』

『三重の哨戒網』を四日も遅延させてアメリカ艦隊をスルーさせて上げた小松輝久は、昭和天皇の皇后良子の従弟である。

 

『戦闘が始まってから南雲はすべてを源田にまかせていた。それまでの成功はすべて源田によることを確信していた南雲はますますその手中の“青い鳥”に依存していた。源田はまたほかの幕僚連中からある意味では畏敬の念で尊敬されていた。口に遠慮のない者は公然と、南雲の機動部隊を源田艦隊と呼んでいたほどであった。が、源田は見られることを好まなかったし、時には恐ろしいことだと思っていた。』

源田実こそ、南雲忠一を攪乱させていた真犯人である。

『ミッドウエ―作戦に関する図上演習を終了する前に、山本は南雲に対して、アメリカ艦隊とくにその空母隊の索敵には最善を尽くすこと、それに対する反撃のため南雲の攻撃隊の半数は魚雷装備をするよう指示した。しかし先任参謀の黒島は航空参謀の佐々木彰中佐(海兵5を1期)に口頭で、山本の指示を命令に書き込む必要はないと言った。参謀間の意見の調整、起案の点検は、戦務参謀である渡辺の職務のひとつであったが、彼はこのことについて黒島または彼自身について弁明していない。が、黒島の理由ははっきりしている。南雲およびその幕僚は山本の指示を直接に聞いているし、彼らは過去の開戦の経験から山本の意見が正当であることを知っているから、戦術的な細部まで今更命令に書く必要はない、というのであったろう。』

ここにゴードン・プランゲの正体が浮き彫りになっている。何せ題名が『ミッドウエ―の奇跡』である。プランゲはヤラセを『奇跡』に仕立て上げる使命を負っている。そのためにプランゲは、五十六が敵空母の出現に備えて『攻撃他の半数は魚雷装備をするよう指示した』ことを、『戦術的な細部まで今更命令に書く必要なない、というのであったろう』と変な理屈をこねて、黒島を弁護しているのである。G2の厖大な史料やインタビューをもとに詭弁を弄することは、完璧主義者プランゲにとってさぞかし忸怩たる思いだったことだろう。

『図上演習が終わると、黒島と渡辺は連合艦隊の命令の起案、調整にかかった。しかし、それには南雲部隊の雷撃装備および潜水艦が散開戦の西方から帰航索敵せよとの明確な指示がされていなかった。これは重大な誤りであった、と渡部は認めてる。だが、潜水艦の問題はむしろタイミングの誤りと言うべきであり、現地指揮官を作戦の一か月も前から束縛するのは、戦争指導の懸命な策ではない、と言い得るであろう。』

言い得ない。索敵はミッドエ―作戦の命運を分けた重大なポイントである。本書の巻末ではプランゲ自身が索敵をいい加減にしていたことを非難し、そういう驕りが敗因だったと総括としている。ごまかそうごまかそうとして支離滅裂な論旨になっているプランゲは、ほぼ副島隆彦状態にある

『「作戦の重点をアメリカ艦隊の撃滅におくべきである。そのためにはアリューシャン攻撃部隊もミッドウエ―に向けるべきだし、あらゆる作戦可能な兵力を、たとえ第五降航空戦隊(瑞鶴 翔鶴)が参加できるのを待っても、ミッドウエ―に集中すべきだ」と源田は主張した。それに対して黒島は、「連合艦隊司令長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウエ―攻略の支援だ」と答えた。』

『邪魔が入ることを望まれない』のは、五十六ではなく黒島である。若し彼がその言葉通りに連合艦隊司令長官の一度決めた方針を金科玉条にしていたら、魚雷装備も索敵も一字一句も漏らさず銘記しているはずだ。『運命の五分間』などというヤラセも存在せず、連合艦隊は楽勝している。事実、連合艦隊は『運命の五分間』以外は完勝していたのである。

『一方、その当時、ハワイのニミッツはどうしたであろうか。彼はどの程度にまでこれらの日本の企図を知っていたであろうか。初めのころ彼は情報参謀のレイトンや戦術情報室長のロチェフォートの状況判断を全面的には信用していなかった。日本の情報部がニセの情報を流してアメリカを落とし穴に入れようとする策略家もしれない、と彼は思っていた。が、彼は、「深く考えた末、私はこれは本当だと思うようになった」とインタビューで答えている。そう心に決めるとニミッツは疑ったり、迷ったりすることはなかった。』

「そういうシナリオなんだよ」とレイトンに聞かされると、ニミッツは疑ったり迷ったりすることはなかったのである。ここから本格的な日米共同演出がスタートする。

『五月二日(日本時間では三日)大和の艦上で山本やその幕僚が図上演習で作戦を練っているころ、彼はミッドウエ―に飛び、一日中かかってミッドウエ―環礁を視察した。ついで日本のとるであろう作戦およびその兵力の概要を述べ、でき得る限りの援助をすることを約束した。』

ニミッツは確信犯として行動を開始したのである。

『五月五日、軍令部総長長野修身は山本に対して次のように指示した。「連合艦隊司令長官は、陸軍と協力し、西武アリューシャン列島の要地およびミドウエ―島を攻略、占領すべし」』

この作戦指示が『運命の五分間』のヤラセに必要不可欠だったのだ。アリューシャンに武力を分散し、ミッドウエ―島の攻略に全爆撃機を投入させる。さらにミッドウエ―島を二次攻撃させ、その最中に敵空母を出現させる。友永大尉が『第二次攻撃の必要を認む』と送信したというのは、これはガセである。プランゲ自身が真相を書いている。第二次攻撃のために爆弾装備を転換させるために、友永の具申を装ったヤラセである。第二次攻撃用に装備を転換させている最中に敵空母を出現させ、さらにまた転換させるという状況にするためである。これに恐慌をきたした南雲が爆弾装備を二転三転するように、傍で唆していたのが草鹿龍之介であると私は確信している。これによってのみアメリカの奇襲は成功し、ラクダがハリの穴を通るような『勝利』を得たのである。

『本書は珊瑚海海戦の詳細を述べるものではないから、同海戦に関し記述するのは、同海戦がミドウエ―作戦にいかに影響したかに限られるが、その影響はきわめて重かつ大であった。五月八日の朝、あとから珊瑚海海戦と呼称された日本とアメリカの空母間ンお初の海戦の幕が切って落とされた。日本が沈めたと報じたサラトガはその頃シアトルに近いピューゼット・サウンドで修理中であった。日本がサラトガ級空母を間違えたのは、これで二度目であった。その年の初め日本の潜水艦がレキシントンを沈めたと報じたが、雷撃で損傷したのは実はサラトガだった。この時の第五航空戦隊の報告は、その戦果を過大評価していた。一方、レキシントンの被害も日本が報じたよりもはるかに少なかった。戦果を過大評価した報告と希望的な思考に基づいて、大和の連合艦隊司令部は、五月五日からの一連の戦闘の成果を次のように推定した。(略)(訳注=実際に敵に与えた損害との間に大差を生じたのは、主としてラバウルから作戦した基地航空部隊の戦果報告が全くと言ってよいほど間違っていたからであった。どうしてそんなに大きく狂ったのか、いまだによくわからない)』

戦果報告が『全くと言ってよいほど間違っていた』のに、『どうしてそんなに大きく狂ったのか、いまだによくわからない』というのは、プロパガンダ以外に理由などないからだ。例えば白洲次郎の古巣であるジャパン・タイムズ・アンド・アドヴァタイザーは、紙上でさかんに誇大戦果報告を喧伝して煽って助長させていた。こういう風潮を下地に作っておいて、後にミッドウエ―作戦は海軍の驕り症候群の産物であったというプロパガンダを流布したのである。

『南雲がアメリカ太平洋艦隊の作戦企図を知らなかったことを、日本はあまり気にしていなかった。たびたび引用するジャパン・タイムス・アンド・アドヴァタイザー紙は五月二十七日の紙面に、次のように書いている。「敵が防衛しなければならない広大な区域を眺め、太平洋に目を転じると、敵は太平洋にはごく僅かな兵力しか充当できないことに気付くのである。太平洋にいる敵の残存兵力は、戦艦数隻および空母エンタープライズ、ホーネットを中心とするにすぎないであろう。その空母部隊がいかなる行動をするかが、現在においてもっとも注目されるところだが、それはわが無敵艦隊の敵ではない。珊瑚海海戦を転機として全太平洋海域はわが帝国海軍が支配するところとなったと言ってよい。」』

こういうガセネタを仲間内に書かせることが、珊瑚海海戦の『どうしてそんなに大きく狂ったのか、いまだにわからない』くらいに『全くと言ってよいほど間違っていた』誇大戦果報告の効用の一つである。それを草鹿自身が煽っていたことは想像に難くない。

『参謀長の草鹿が「五月二十七日に豊後水道を出撃したとき、わが機動部隊が先陣に立てば、向かうところ敵なしとの自信に溢れていた」と言ったのは、無理なかった。』

草鹿は驕り症候群を吹聴する役目だから、『無理なかった』以外に何があるというのだろう。ここに至って淵田美津雄が突如『急性虫垂炎』にかかる。

『その頃、飛行隊長の淵田は病室に臥せっていた。多忙の日が続いた彼は、それより少し前にさすような痛みを感じ、基地付近の陸軍病院で診察を受けたところ、放縦によるものと診断され、病室に入れられた。その夜、淵田は激痛に襲われた。従兵が軍医長を呼ぶと、軍医長は「これは急性盲腸炎だ。すぐ手術をする」と淵田に告げた。』

私は淵田美津雄は仮病を使っていて、玉井軍医長はグルであると確信している。松本重治が徴兵忌避のために仮病になり、武見太郎に偽の診断書を書いてもらったのと同じ手口である。淵田は手術などしていない。さらに源田実も『肺炎』にかかる。源田はいかにも苦しげにゴホゴホと咳をするポーズの裏で、南雲を脅し続けている。それが源田の任務である。

『不運を加重するかのように、淵田が手術を受けて数日後、こん度は源田が肺炎にかかり高熱を出して病臥した。この二重の不運は、それが真珠湾への途上であったならば、南雲を限りなく悩ましたであろうが、こんどは彼はさほど動揺したようには見えなかった。一方、禅に帰依していた草鹿はいつものように平静を保っていた。』

淵田が『急性盲腸炎』になったのも、源田が『肺炎』になりかかったのも、ヤラセである。淵田美津雄が仮病を使って友永丈市を代役に立てたのは、ミッドウエー海戦で飛行隊長を務めるものは死ぬ運命にあるからである。淵田美津雄が病室から抜け出してヤラセを観戦していたのは、病室にいたら閉じ込められて死ぬからである。源田の『肺炎』も同様である。南雲部隊は『源田艦隊』と呼ばれるくらい、源田の存在は大きかった。『肺炎』になって第一線の戦列から退いて、責任の所在を追及されまいとする保身の策である。

『「今やその時である。本日の午後、日本の艦隊が行動を起こしたとの情報があった。彼らがわれわれのどこに攻撃をかけてくるかが、われわれが次に知るべきことだ」と陸軍長官スチムソンは五月二十七日の日記に書いていた。』

スチムソン日記の翻訳⇒『今やその時である。彼らがわれわれのどこに攻撃をかけてくるかが、われわれが次に知るべきことだから当然知っているのである。』

『全機動部隊および各戦隊司令官に対するニミッツの作戦計画は、すでに用意されていの索敵機の圏外に位置し、一方、ミッドウエ―からの索敵機は基地から七百浬を索敵して、敵よりも先に日本の空母部隊を発見することになっていた。』

『先に日本の空母部隊を発見することになっていた』シナリオについて、戦争情報局長のレイトンは後に著書の中で重大発言をしている。彼ら日本の暗号文のAFが何を指すのか探ろうとして、『ミッドウエ―には真水が不足している』という平文を打電して罠を仕掛けた一件は、作り話だと証言しているのである。


http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/samejima.htm様より以下転載。


『「ミッドウエ―島は水不足」と謂うニセ電報を平文(ひらぶみ)で発信して「AF」がミッドウエ―島の地点符字である事を確認したと一般に信じられている有名な話がある。当事者である米太平洋艦隊情報参謀のレイトン中佐は著書の中で「ミッドウエ―について書いた全ての歴史家がこの件に就いての解釈を取り違へている」と断定的に述べている。しかし米海軍が奇しくも「AF」をミッドウエ―島の地点表示に使っていたのは偶然の一致とはゆへ何か運命的暗示を感じさせる。』

運命的暗示を感じさせる→共通のシナリオの存在を感じさせる。

「AF」を地点符字にしている日米共通のシナリオが存在していたのである。

 


ゴードン・プランゲ前掲書続き

『ニミッツはレイトンに向かって、「敵と接触するのはいつ、どこでと考えるか」と訊ねた。それに対してレイトンは、「敵との最初の接触は、六月四日午前六時(ミッドウエ―時間)、ミッドウエ―からの方位三百二十五度(北西)、距離百七十五浬の地点で、わがミッドウエ―からの索敵機によってされると思います」と答えた。』

細部に至るまでシナリオは決められていた。アビー・ウオーバーグの金言のように、神は細部に宿るのである。

『会議に列席した面々は、その会議は冷厳な事実を冷静に検討すべきものであることを知悉していた。ミッドウエ―を日本に占領されたならば、ハワイに対して日本の鉄の矢じりをつけた矢がつきつけられたも同然であろう、と感じていた。そうなれば、ハワイが攻略されることは単なるフロックではなく、日本が奇襲ではなく強襲でアメリカ本土を空襲しても、アメリカはそれを阻止できないであろうことは、単なる幻想ではないであろう。列席した誰もが、日本は予想もしない攻撃を仮借なくかけてくる手強い強力な敵だと、身にしみて感じていた。』

アメリカ側はミッドウエ―作戦を正当に評価している。後世日本人がこれをぼろ糞に言うのは、プロパガンダによる洗脳である。

『ニミッツは次のように強調した。「情報によれば、日本の空母部隊はミッドウエ―の北西方からせまって来ると思われる。アメリカの執るべき策はこれに奇襲をかけることだ。アメリカ艦隊は敵とミッドウエ―の間に挟まれてはならない。全力を尽くして、敵の翼側から、それも先手をとって、攻撃をかけなくてはならない」。この戦法のカギは奇襲が成功するかどうかにかかっていた。劣勢なフレッチャーおよびスプルーアンスの部隊が、尋常な迅速性に乏しい攻撃に出たならば、惨敗に終わるであろう。』

プランゲの文章を添削しておこう。

『この戦法のカギは敵空母の全ての甲板上に爆装した飛行機が整列している状態に奇襲が成功するかどうかにかかっていた。尋常な謀略性に乏しい攻撃に出たならば惨敗に終わるであろう』。

スプルーアンストフレッチャーが合流する地点はニミッツによって『ラック・ポイント』と名付けられた。『幸運の地点』という意味の謀略地点である。

プランゲ続き

『当然のことだが、フレッチャーとスプルーアンスがもっとも望んだのは、先制をかけて、南雲部隊の飛行機が母艦の飛行甲板に並んでいるときに攻撃をかけることであった。航空出身の指揮官であっても、このような瞬間的なタイミングを決めるのは、至難のことであったであろう。一九四二年に出されたリポートで、ニミッツは次のように述べている。「わが空母隊にとってこれ以上ない微妙なタイミングを必要とするきわめて困難な状況であった」』

本来ならば『至難のことであったであろう』『瞬間的なタイミング』『これ以上ない微妙なタイミング』を創出することが、ミッドウエ―のヤラセの眼目である。『瞬間的』と形容されている『タイミング』は、実際には二時間半の幅があった。『これ以上ない微妙なタイミング』、すなわち全ての敵空母の甲板上で兵装転換させ急降下爆撃するまで発艦させない『タイミング』を現出するまで、二時間半かかったということである。

兵装転換をすべての空母で行なわせるには、ミッドウエ―島攻略から帰還した攻撃隊を着艦させておく必要がある。混乱状態の中、二時間以上もかけて『瞬間的なタイミング』が用意されたのである。限りなく幅がある『瞬間的タイミング』なのである。その最大の決め手はミッドウエ―島の第二次攻撃を友永大尉が具申し、南雲がそれを決意したというポイントにある。前述したがこの『友永大尉の具申』というのは責任転嫁のガセねたである。

『隊長の友永が被弾したその乗機をなだめながら帰艦の途についた時、彼の攻撃隊がミッドウエ―にどれだけの損害を与えたか、正確には知らなかった。彼はその後の海戦で戦死したので、彼がミッドウエ―の損害をどう見たか、知ることはできない。が、友永は明らかにその攻撃の成果に満足していなかった。彼の部隊は強力だと思われていた敵の爆撃隊および索敵隊に出会わなかったし、航空基地の滑走路はほとんど無傷のようであった。また、その対空火器はまだ盛んに撃ち上げていた。日本の上陸部隊が手洗い反撃に会うのは確実であった。友永はそう結論したに違いなかった。被弾で送信機を使用することができなくなっていたので、彼は小さな黒板に通信文を書き、それを二番機の橋本敏男大尉(海兵66期)に差し出し、彼の名前で送信するよう命じた。時間は午前七時であった。「第二次攻撃の要あり」』

証言したのが友永自身ではなく、橋本敏男大尉になっている。私はこれ自体が捏造であると考えている。友永は黒板に書いていないし、橋本敏男大尉も打電していない。

『南雲が友永の「第二次攻撃の要あり」の電報を受信したのと、ミッドウエ―からのTBFおよびB−26隊が魚雷攻撃を開始したのは、ほとんど同時であった。それは、あたかも友永の電報の意味するところを実証するかのようであった。この時点では、アメリカの海上兵力が近くにいるという兆候を、南雲は全く得ていなかった。その時までには、索敵機は予定された索敵線の先端に到達していたはずだが、まだ何の報告もなかった。そこで南雲は、友永の意見具申にそって、ミッドウエ―に対して第二次の攻撃を加えることに決定した。』

これが大混乱の序章である。

『この南雲の決定は、多くのことを大至急に完成することを要求するものであった。敵艦隊を発見した時に備えて、赤城と加賀の甲板上に準備されている雷撃機と、飛龍と蒼龍の甲板上の艦爆隊の兵装を、艦船攻撃用から陸上攻撃用に転装しなければならない。そのためには、飛行甲板上に準備された全機を、一旦その格納庫に降ろして、雷撃機は魚雷を陸用爆弾に、艦爆機はその爆弾を艦船攻撃用から陸上攻撃用のものに取り換えなければならない。その転換作業はどんなに急いでも二時間以上を要するのである。しかも、敵機がミッドウエ―に帰着したところを狙って攻撃をかけるためには、一刻の猶予も許されない。』

一刻の猶予も許されない、さもないととんでもないことになる、と南雲を脅したのは草鹿隆之介だろうか源田実だろうか。

『源田は急いで信号文を起案した。「第二次攻撃隊の兵装を陸上攻撃用とせよ」。南雲がこの命令をその空母に発信したのは午前七時十五分であった。この意思決定こそは、常時その搭載機の半数を雷装にするということが、機動部隊の命令に明示されていないことを知った黒島と渡辺が警告したところのものであったが、源田はそのような硬直した考え方に反論して、次のように言っている。「そのような考え方にこだわると、適当な敵が発見されない限り、攻撃兵力の半数が有効に使われないことになる。情況によって、決定はされなければならない」』

『また、第一航空艦隊参謀の草鹿も次のように言っている。「山本長官が第一航空艦隊の兵力の半数を、敵の空母隊に対して備えるよう望んでおられることは、南雲長官もその幕僚もよく承知していた。事実、情況の許す限り、そうしていた。が、敵のミッドウエ―基地の航空兵力がわれわれに対して攻撃を開始し、敵の空母部隊がまだ発見されない情況では、いるのかいないのかわからない敵に対して、その兵力の半数を無期限に控置しておくのは、前線の指揮官として、ほとんど耐えられないことであった」たとえ、その決定が後で問題になったかもしれないが、「あの当時の情況では、南雲長官の決定は正当であった」と草鹿は著者とのインタユーで述べている。』

驚くべき正当化である。敵空母が発見される可能性が残されている限り、雷装を備えておくことは必須である。思えばこういう屁理屈がまかり通るように、小松輝久が哨戒網を遅延させ敵空母をスルーさせていたのである。

『南雲のこの決定はその後に激しい批判の的となった。高い外野席からの結果論からいば、南雲のこの決定は重大なミステークであったと思う読者は、きわめて多いかもしれない。が、筆者は、草鹿や源田と同じく、当時の情況からして、南雲の決定は妥当なものであったと信ずるものである。ミッドエ―を攻撃した友永が再攻撃の必要があると意見を具申したこと、ミッドウエ―基地の航空部隊がまだ攻撃を続けていること、彼がもっとも信頼している源田が同意したこと、南雲は彼自身の常識に基づいて決定を下したからえる。しかも、その前日に東京から「わが企図画的に察知された兆候全くなし」という電報を受信していたのである。』

私は南雲の重大なミステークだとは思わない。南雲に第二次攻撃を決定させたわずか十三分後に索敵機から敵空母発見の報告が入ったと言って混乱させ、源田が『同意』したからだと思う。南雲は彼自身の常識に基づいて決定を下したとは思わない。源田が傍らで脅しすかしていたと思う。プランゲが『南雲の決定』を肯定するのはヤラセを正当化するためである。完璧主義者のプランゲとしてはさぞかし苦痛だったことだろう。

『「長官も幕僚も足をすくわれたように感じた。同時に、情況をどう判断してよいかわからなかった」と源田は回想している。参謀長の草鹿は報告された海域に空母を伴わない敵部隊がいることはあり得ない、空母がどこかにいるに違いない、と思った。と同時に、彼はミッドウエ―に対する第二次攻撃をどうしたら取り消すことができるか、思いつかなかった。というのは、“敵らしきもの見ゆ”だけでは、ミッドウエ―に第二次攻撃をかけるという先の決定を変更するには不十分であったからであった。また、草鹿は出撃前に“二兎を追う”問題で口論し、ミッドウエ―攻撃が第一優先と言われたことが、その念頭から去らなかった。』

目前に迫った危機よりも、こんなことを念頭に置いて屁理屈をこねているボケ参謀が、ヤラセ以外にどこにいるのか。こんな言い訳を書くプランゲもプランゲである。草鹿とプランゲはインタビューと称して共謀しているのである。

『そして午前七時四十五分、南雲は全部隊に対して次の命令を出した。「敵艦隊に対する攻撃を準備すべし。爆装に転換をいまだ終わらざる雷撃機の兵装はそのままとせよ」その時点までには、赤城と加賀の雷撃隊の魚雷から爆弾への兵装転換は、ほぼ半分完成していた。兵装の転換を終わった爆撃機はふたたび甲板に掲げられ、その数は量感とも十機程度に達していた。もちろん、そのままの兵装で敵艦隊に対して爆撃を加えることは可能であったが、雷撃の方がはるかに正確であり、その破壊効果も大きかった。そのような時間との戦いのさ中に、兵装の転換の指令が出されたのであった。南雲の書く母艦はそのために大混乱に陥っていた。その大混乱を増幅するかのように、南雲部隊に対するミッドウエ―からの再度の攻撃が始まった。』

爆撃効果の問題以前に、このような大混乱を起こさせないことの方がよほど重大である。

大混乱の戦闘模様を『太平洋戦争 陸海軍航空隊』成美堂出版より抜粋する。


『敵は二波に分かれて来襲した。第一波が去った直後に、上空警戒機(零戦34機)の約半数が着艦して燃料と弾薬の補給を行っており、第二波の来襲とともに各母艦で使用できる戦闘機の全部が発進したほか、ミッドウエ―島攻撃を終えて母艦上空に帰ってきた零戦も戦闘に加わった。』

第二波来襲にゼロ戦を全て投入したのである

『この間、各母艦の格納庫内では艦攻の兵装を雷装から爆装へ、そしてふたたび雷装へと変更する作業が繰り返されていた。』

戦闘機を全て使って応戦している緊急事態において、爆撃機はというと格納庫で兵装転換させていたのである。見え見えのシナリオである。

『これは南雲第一機動隊長官が、敵機動部隊の出現に備えて魚雷を搭載していたものを、ミッドウエ―島の第二次攻撃を行うため爆弾に変更したが、その途中で敵機動部隊発見の報告が入ったため、再度、魚雷に積み替えることを命じたためで、魚雷と爆弾の積み替えは普通でも時間がかかるうえに上空警戒機の発着のため飛行甲板は使用できず格納庫で行われたことや、敵の空襲という悪条件が重なったため作業は進捗しなかった。この不手際が索敵のミスなどとともにミッドウエー海戦の敗因につながったことは、しばしば指摘されているとおりである。』

『この不手際』の内訳をもう一度確認してみよう。

@友永大尉の第二次攻撃の意見具申を受けて再度攻撃を決定する。

A索敵機からの報告を待たずに爆装を陸上攻撃用に転装させる。

Bその13分後に索敵機から報告があり衝撃を受ける。

Cしかし艦の種類が判明しないという屁理屈をこねて転装を続行させる。

Dついに敵空母であることが判明して大恐慌をきたす。

Eしかし爆撃機を即時発艦させず転装を続けさせる。

F敵の第一波が来襲する。

G日本側はすべてのゼロ戦が応戦する。

Gその間隙を突いて敵の第二波が来襲する。

Hこれに対する迎撃は何もしないようにする。

Iたった二発の命中で全てのかたがつくのを見守る。

再度プランゲの前掲書抜粋に戻る。プランゲのコジツケと草鹿の韜晦に注目されたい。彼らの本性が剝き出しになっている。

『「敵はその後方に空母らしきものを伴う。」午前八時二十分に第四索敵線の利根機が打電してこの上告は、その朝に投下されたいかなる爆弾よりも大きな衝撃を、日本の関係者に与えた。「そのような可能性を考えないではなかったが、私は心底ショックを受けた」と草鹿は回想している。』

私は草鹿隆之介に言いたい。あなたは南雲長官の参謀長なのだ。何千人もの兵士の命を預かる責任ある立場である。心底ショックを受けたなどと文学的修辞で済むような場面ではない。あなたの口からは自己正当化のための言い訳と責任転嫁の言葉しか出てこない。せめて口をつぐんでいられないのか。このような読むに堪えない恥知らずなインタビューをどうしてできるのか。

『「一瞬は長官もショックを受けられたに違いないが、誰でもそのような思いがけない場面に直面すれば、一瞬はショックを受けるであろう」と草鹿は述べている。利根機による空母らしきもの発見の電報の受信と、友永隊が同時に帰還したことは、南雲の意思決定の選択をこれ以上なく困難なものにすることになった。敵の空母部隊を攻撃することについては、何も問題はなかった。この点に関する限り、南雲のなすべきことは明々白々であったが、問題はどうやってやるかであった。』

何も問題はなかった。草鹿参謀長が、パニックになっている南雲に対して現装備のまま即時攻撃するべきことを進言すれば。兵装転換を命令した13分後に敵空母発見の情報を入れてパニックにさせた南雲を、源田とグルになって脅し、めちゃくちゃな命令系統を出させることが草鹿参謀長に与えられた任務である。

『その時、第二航空戦隊司令官の山口は、駆逐艦野分を中継して、「即刻攻撃隊を発艦せしむるを可と認む」と赤城に信号してきた。それは余計なおせっかいと言うべきであった。南雲が彼の意見を必要とするなら、すでに求めていたであろうからであった。』

プランゲはミッドウエー海戦の詐欺犯罪を粉飾するために本書を書いているのだから、山口の具申が至当であることを認める訳にはいかないのである。山口はこの後もプランゲの不当な攻撃を受け続ける。

『山口はどちらかと言えばせっかちの性格で、早く敵と一戦を交えたいと燃え上がっていた。さらに彼は南雲と肌が合わず、山内の級友であり連合艦隊参謀長であった宇垣が、「第一航空艦隊司令部は誰が握りいるや」と山口に質問したのに対して、「長官は一言も言わぬ、参謀長、先任参謀等どちらがどちらか知らぬが臆病者揃いである」と答えた、と宇垣はその日記に書いていたほどであった。』

プランゲは宇垣纏の日記『戦藻録』に誰よりも早く注目して翻訳権を入手し、千早正隆が翻訳している。前述したように宇垣も勅令を受けた工作人の一人である。連合艦隊先任参謀の黒島亀人は、宇垣の遺族からこの日記を借りて、山本五十六が暗殺された前後の三か月分ほどを破り捨てている。「どこかにいってしまった」と言って遺族に日記を返してきたそうだ。そういう黒島亀人が唯一応じたのが、このプランゲのインタビューである。プランゲは黒島から破り捨てたページの内容を聞き取っているだろう。

『南雲してはそのような意見具申を必要としていなかった。真珠湾の勝利者である彼以上に航空攻撃の奇襲性を迅速性の価値を認識している者はいなかったと言ってよい。』

プランゲは宇垣の日記を重視しているのにもかかわらず、宇垣の記述と正反対の見解を述べている。ヤラセの核心に近づくにつれ、プランゲの文章がだんだん副島隆彦化していきつつあるのがお分かりだろうか。晴れときどき曇り、のち雨、ところによっては霰、雹、もしかしてブリザードか竜巻になるでしょう・・・。かなり恣意的な文章になっている。

『その戦闘機の問題については、草鹿は次のように考えていた。「私は攻撃隊をすぐ発艦させよとの(山口)の意見には、全面的に反対ではなかったが、戦闘機の掩護なしでも攻撃に出せとの意見には反対であった。なぜなら、戦闘機を伴わない攻撃隊がわが戦闘機によってほとんど全滅させられていたことは、現に目撃した通りであったから、私は攻撃隊にはどんなことをしても、戦闘機をつけたいと思った」と彼は述べている。』

私はここに『運命の五分間』を演出した真犯人の一人が語られていると思う。敵側は掩護をつけないまま急襲してきているのである。それに対して草鹿隆之介は『どんなことをしても攻撃隊には、戦闘機をつけたいと思った』という。これが即時発艦させなかった理由だという。類を見ないほど馬鹿げたコジツケである。結果、発艦を待機させられた甲板上の爆撃機の群れに、掩護機を伴わない敵爆撃機が急降下爆撃をして、甲板は手が付けられないほど炎上し、かけがえのない熟練航空兵の半分と整備兵の大半、及び千名近い機関科兵が地獄の業火に包まれ焼死した。草鹿隆之介は第一航空艦隊参謀長でありながら、敵側に味方の兵を処刑させたのである。それが勅令だったからだ。

『そればかりでなく、戦闘機を伴わない攻撃は無意味であるとの草鹿の意見に、同感であった源田は、南雲と草鹿に対して、第一次攻撃を収容した後で、敵に対する攻撃隊を発艦するよう進言した。燃料がなくなりかけていた第一次攻撃隊の機を収容するため、すでに飛行甲板に並べられていた水平爆撃機は急いで格納庫に降ろされ、その兵装をふたたび魚雷に取り換えられた。』

ここに敵の急降下爆撃を受けるまで、何としても味方爆撃機を発艦させないという草鹿と源田実の意思を感じる。

『これらの切迫した状況下で、南雲は、シェークスピアのハムレットのように、橋の上で右するか左するか考える余裕もなかった。源田も、「南雲長官はすぐ決断した」と述べている。利根機の電報を受信してから間髪を入れず、南雲は次の命令を下した。「艦上爆撃機は第二次攻撃(注 ミッドウエ―島攻撃)に備えよ。二百キロ爆弾を装備とせよ」「また兵装転換だ」と普段はおとなしい赤城の飛行長の益田中佐も大声を上げた。「これではまるで兵装転換の競技をさせられているようなものだ」と。』

南雲の言動は、草鹿と源田の著書やインタビューによるものである。私は彼らが死人に口なしで創作していると思う。南雲はサイパンで複数の士官に山に連れ去られ、彼らの幇助で『自害』させられている。南雲が生きて証言していたら、ヤラセが判明するような草鹿と源田の言動が明らかにされたからである。

『一方、各母艦の格納庫では半袖、半ズボンの防暑服を着た整備員が、汗まみれになって、爆撃機から八百キロ爆弾を降ろしていた。機から降ろした爆弾は、それを下の弾薬庫に降ろす時間がないので、格納庫の側面に仮に積み上げられていた。』

かくして大混乱の中、味方空母を撃沈するに十分な八百キロ爆弾が積み上げられたのである。

『大和の連合艦隊司令部は、これらの電報を受信して、情況の推移をかなりよくつかんでいた。彼らはアメリカの空母が南雲部隊の攻撃圏内にいるということについて、少しも心配していなかった。その瞬間まで山本およびそのスタッフは、アメリカの空母がミッドウエ―の北方の海域に作戦しているという情報は何ら得ていなかったのにもかかわらず、このような無責任の反応は、むしろ唖然となるばかりである。そればかりでなく、それは、彼らの作戦の大甘の予想に反して敵が出現いたという機微さ良い現実に、目を閉じたことを示すものであった。』

大甘の予想をしていないからこそ、敵艦隊の動向を掴むために小松輝久に三重の哨戒網を展開させたのである。もちろん小松輝久は哨戒の予定日を四日も遅延させ、敵艦隊を無事にスルーさせてあげたことを報告していない。小松輝久は田布施村王朝の皇后の従弟であることは前述した通りである。プランゲはさらに黒島と共謀して、山本五十六の言動を捏造している。

『「アメリカ艦隊を速やかに攻撃せよと南雲に命令すべきだ、と思うが、君はどう思うか」と山本は黒島に訊ねた。その山本の問いに対して、黒島は「南雲長官はその攻撃兵力の半数をアメリカ空母部隊に対して準備しておりますから、すでに攻撃を準備中だと思います」と答えた。そこで山本はその提案を引っ込めた。黒島はその死にいたるまで彼の責任を痛感していた。黒島が山本長官の意見に同意して、山本長官の名前で出された命令は、南雲にすぐ攻撃をさせるようになったかもしれない。「南雲長官が、連合艦隊司令部が望んでいたように動かなかったのは、私の責任である」と黒島は嘆いた。「ミッドウエ―作戦の第一目的は、アメリカ空母隊を叩くことである」ことを、南雲は十分に理解し、それに対して十分な対抗策を講じている、と黒島は思っていた(訳者注=以上の会話や所見は、黒島が一九六四年に著者とのインタビューで述べたものである)。が、それは黒島の思い違いである。4章で見たように、黒島はミッドウエ―の攻略が作戦の第一目的であると明らかにしていたのである。南雲の機動部隊はそれにもとづいて判断して行動して、初め雷装から爆装に取り換える決定を下したのである。南雲の攻撃が遅れたのは、アメリカ空母部隊を攻撃することを渋っていたからではなくて、十分な兵力で効果ある攻撃をかけようと思っていたからであった。』

黒島による山本五十六とのやり取りの証言は偽証である。黒島の自己申告は、いかにも信憑性があるように見せかけるためのものである。案の定、プランゲは優しく黒島を庇ってあげて、南雲は(つまり草鹿や源田は)当然のことをしたのだという結論に導いている。当然のことをした結果、どのような事態が引き起こされたかを見てみよう。

『その瞬間に加賀の見張りが「急降下」と叫んだ。それを見た同艦の飛行長天谷孝久中佐(海兵51期)はそのプロ的な感覚から、雲を利用し太陽を背にして突っ込んでくる、これは相当なものだと感じた。一方、赤城の艦上では準備の出来上がった第二次攻撃隊の発艦がまさに始まろうとしていた。飛行長の増田は白旗を振り、戦闘のゼロ戦は飛行甲板を走り始めた。その瞬間であった。見張りは「急降下」と叫んだ。それを聞いた淵田が見阿ガエルと、敵の艦爆三機が矢のように艦橋に向かって突っ込んでくるのが見えた。彼は弾除けに装備されていたマントレットの陰に身を伏せた。』

それまでは使い捨ての囮として、『指揮官は彼らが滑走路を離れた瞬間に死んだものと思うべきである』というような特攻をさせていたアメリカは、詐欺犯罪のクライマックスにとっておきの手練れを投入したのである。共同演出者の淵田は安全な避難場所から一部始終を眺めていた。広島原爆投下の時も同様であった。

『源田がまだ事態を楽観していたのは、理由のないことではなかった。普通の状態ならば、二発の被弾を受けただけで、致命的な損害になるようなことはなかっただろうからであった。が、加賀と赤城が被弾を受けた時、両艦の状態は普通ではなかった。両艦の飛行甲板には燃料を満載し、魚雷または爆弾を装備した航空機が翼を連ねて並び、その下の格納庫にも同様の状態の機が飛行甲板に揚げられるのを待っていた。なお悪いことには、先に攻撃機から取りはずした爆弾が、まだ格納庫内に裸になって残っていた。航空機のガソリンが燃え、搭載した魚雷、爆弾が誘爆し、さらにそれが格納庫内の爆弾を誘爆し、赤城は間もなく、草鹿の言によれば、“燃えさかる地獄”と化することになるのであった。』

南雲はかたくなに赤城を退艦することを拒んだが、草鹿が『飛龍』に移って戦闘指揮を続行するべきだと説いて駆逐艦に避難させ、そのまま大和に連行した。南雲に死なれては参謀長の草鹿も生き恥を晒すわけにいかない。もちろん淵田も源田も一緒に避難した。淵田は『搭乗員が全員退艦するままで退艦する予定になっていなかったが、そのような状態ではどうしようもなかった』。『同じ頃、源田の従兵をしていた水兵が駆けつけてきて、彼に彼の印判と預金通帳を手渡した。火災を冒して源田の部屋から取り出してきたものらしかった』。よくも源田はこれを受け取って避難したと思う。

『日本側の記録によれば、蒼龍は、午前十時二十五分から左舷側に整然と並んだ飛行機の列の中に直撃弾三発の命中を受け、そのため飛行甲板は火の海となり、次いで爆弾および魚雷格納庫、弾薬庫、ガソリン貯蔵庫が誘爆した、としている。全艦がすぐ火に包まれた。蒼龍の艦上では誰ももう長く生きのびられないのは、明らかであった。第一弾が命中してから三十分後に、柳本艦長は「総員退去」を命じた。かつてスマートでその威容を誇った蒼龍は、僅か三十分で、焼け落ちた火葬場と化していた。艦長が見当たらないので、乗員が探し求めると、彼はまだ信号台に立って、下にいる生存者を励まし、「バンザイ」を叫んでいた。』

『アメリカの急降下爆撃隊は、それより前の数波にわたる攻撃が三時間かかってもできなかったことを、わずか三分で達成したのであった。この驚嘆すべき大勝利の原因としては、次の三つのことが考えられるであろう。その一つは、マッククラスキイが臨機応変にその索敵を続けたことであり、その二は、たくまざる協同でエンタープライズとヨークタウンの漢学隊がほとんど同時に目標上に殺到したことであった。第三は、日本のゼロ戦が先行した雷撃隊への対応に追われて低空にいたことだった。』

完璧主義者プランゲよ、自分で書いていて空しくないのか。誇らしげに掲げて見せる三つの要素が、アメリカの勝因でないことを百も承知しているのは誰よりもあなた自身だ。そのような要因が全部完遂されても、依然として連合艦隊は勝利していたことは明らかである。アメリカが勝利したのは、空母が索敵機に発見されたにも拘わらず、その後二時間以上にわたって日本側の爆撃機が兵装転換し、さあどうぞとばかりに火薬庫のような状態にしてくれたところに、急降下爆撃して数発で命中で全てを吹っ飛ばすことが出来たこと以外にない。この詐欺犯罪に対して雪辱戦をただ一人挑んだ指揮官山口を、プランゲは徹底的に攻撃する。

『山口はすぐ「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」と信号で返答した。情況は向こう気の強い山口の描いたシナリオにぴったりであった。それは不敵にも第一航空艦隊に手をかけてきたアメリカ機動部隊に対して仇討の痛打を加えて、局面を逆転させ、独力でミッドウエ―作戦を復活させて、それまでの敗戦の責任を負う南雲に顔色をなくささせよう、というのであった。このメロドラマ的な構想は、山口の性格にこれ以上なくぴったりとしていた。』

山口はプランゲのヒステリーの八つ当たりを受けているのである。『現装備のまま即時攻撃』することの正当性を実証してしまった山口が、あの手この手を使って詐欺犯罪を正当化しようとしたプランゲの努力をブチこわしたからである。

『山口と艦長の加来は、艦橋で出撃する搭乗員のすべてと握手し、短い言葉を述べていた。そばにいた機関参謀の久馬武勇少佐(海機38期)によれば、それは「君たちだけを死なりたりはしない」という意味合いであった。久馬が見ていると、出撃する隊長の小林道雄大尉(海兵63期)が歯をガタガタ鳴らしていた。それは明らかに、死を賭してもその任務を遂行するという彼の固い決意の表れであった。「私はそのような感動的なシーンを見たことはかつてなかった」と彼は回想している。』

いわゆる武者震いである。本当にそういう状態になると私も読んだことがある。

 

『山口は雷撃機の準備のできるのを待って攻撃を遅らすより、現有の兵力でできるだけ早く攻撃をかける途を選んだのであった。この山口の阿部(注 第八航空艦隊の指揮を一時的に引きついでいた)に対する要請には次の二つの点できわめて興味がある。(二つともくだらないイチャモンなので第一は略して第二だけ以下に抜粋する)第二は、山口の語調には、先任序列に関係なく、命令口調の影が見られることである。その当時に彼がいかにいらいらし、かつ野心に燃えていたかを示すものと言えよう。』

山口にどんな野心を持つ余地があるというのだ。彼は死を賭して部下に命令をしているだけではないか。そこにあるのは部下と運命を共にするのでなければとても命令できない、必死の逆襲への壮絶な覚悟があるだけである。だから部下たちは山口の命令を受けて武者震いし、生還を帰さずに突っ込んでいったのだ。

『友永機はミッドウエ―攻撃の時に、その左翼の燃料タンクに被弾していたが、その修理はまだ終わっていなかった。半分の燃料では帰る燃料に事欠くであろうことは明らかであったが、友永は乗機を換えようとの部下たちの再三に申し出を断り、被弾機で出撃する決心を変えなかった。友永はどちらかと言えば孤高の男であり、その考えなり感情を他人に打ち明けるようなことはしなかった。が。友永をよく理解し、かつ尊敬してやまない橋口は、友永のミッドウエ―に対する再攻撃の進言が、間接的に大災害を生んだことに対して、彼がその責任を痛感したのではないかという強い印象を受けたとしている。また、橋口はそのような責任を感ぜずに死地に赴いた友永の隊員の心情を思うと、その胸に突きささるものを覚えた。』

友永による第二次攻撃の進言自体がガセである。よって第二次攻撃の進言が大災害を間接的に引き起こしたというのは、責任転嫁もはなはだしいプロパガンダである。これは氷山の一角に過ぎない。プランゲは厖大な史料を恣意的に用いることで、詐欺犯罪を『ミッドウエ-の奇跡』と形容する欺瞞の書を完成させたのである。

黒島亀人の臨終の言葉は「飛行機が南の空に飛んで行く」だという。南の空へ飛んで行く五十六を乗せた飛行機が待ち伏せ攻撃をされた後、太平洋戦争は様相を一変する。早期講和のシナリオは完全に握りつぶされ、黒島は学徒出陣した若者を狙い撃ちにする特攻兵器を次々に考案していく。東京大空襲を皮切りに非戦闘員のジェノサイドが始まり、原爆投下で大団円を迎える。だからこそ五十六暗殺直後に、日米間のヤラセの連絡係りを務めていた白洲朗次郎は、家族だけ連れて鶴川村に疎開したのである。

12. 2020年9月26日 11:56:14 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[24] 報告
山本五十六の真実L  『美和日記』 & 『70年目の真実』
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/227.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 3 月 08 日 15:39:14: 8qHXTBsVRznh2
 

三和義勇のプロパガンダ日記と、近江兵治郎の『70年目の真実』を検証する。

先ず近江兵治郎から。

元連合艦隊司令部従兵長近江兵治郎著『連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち』
(株)TISより

『日ごろの名提督である山本長官の口から漏れた、こんな独り言を耳にしてしまったことがある。「南雲の水雷屋が」』

『山本、南雲両提督の間には、ひとつの溝があった。』

『第一航空艦隊司令長官南雲中将は、連合艦隊司令長官山本五十六大将の直属であるが、かつて山本長官の盟友、堀悌吉中将を予備役に退けた張本人の一人であったと聞く。山も皮肉な巡り合わせであった。』

『両提督は、海軍の派閥上相容れない宿命にあった』

近江兵治郎は山本五十六と南雲忠一が険悪な関係にあったかのように証言しているが、実際は山本五十六が腹の底を割って話せた相手は唯一南雲忠一である。しかし近江兵治郎は五十六と南雲の意志の疎通を欠いた関係が、真珠湾攻撃の手抜きとミッドウエー海戦の敗北の原因であるかのように暗示している。実際は真珠湾攻撃の手抜きもミッドウエー海戦の惨敗も、勅令によるものである。

『山本長官は、予定された第一波、第二波の「第一次攻撃」に続き、南雲部隊から「第二次攻撃」隊を発進させ、より徹底的に真珠湾を叩きたい意向を持っていることが、その様子から察せられた。しかしそれとは裏腹な意味の独り言が、長官の口から漏れるのを私は耳にしている。「南雲は一回で引き返してくるだろう」 それは、いかにもぞんざいな言い回しであった。』

『カーテン一枚隔てたところで控えていた私には、その激論の一言一句が耳に入ってきた。少しでもその場の雰囲気をやわらげようと思った私は、熱いお茶と菓子をお出しするよう、部下の従兵に指示した。参謀たちの意見はまとまらないまま、時が過ぎて行った。長官が断を下したのは、真夜中の十二時頃のことと記憶する。「帰ろう」その一言ですべては決まった。昭和十六年十二月九日、旗艦「長門」の戦闘艦橋の真下の狭い作戦室での山本司令長官が発した「帰ろう」の一言。誰にも語られずに六十年の時を経たこの言葉を、歴史の事実としてここに書き留めておきたいと思う。』

当時を知る人間は、ついに近江兵治郎たった一人になったのだ。今こそ『歴史の事実』を書き留めるチャンスである。真珠湾攻撃の手抜きについては、念入りに言及しておく必要がある。それにしても敬語の使い方がおかしい。ライターはかなり若い世代なのか。

『山本長官は、なぜ真珠湾を徹底攻撃させなかったのか ・・・山本長官は、旗艦「長門」の艦橋で、ぞんざいな口調で「南雲は帰ってくるだろう」こんなことを口走った。私はこの言葉を、長官付として勤務中に耳にしたが、その意味は「第二次攻撃をせずに戻ってくるだろう」というものだ。側役の従兵長だけが知る、大事な一言であった。』

内務省から海軍主計に出向、戦後は衆議院に打って出た若手議員中曽根康弘が、吉田内閣の下で原発予算案を通過させ、原発マフィア第二号として原発利権に食い込んでいく経緯には、山本五十六暗殺の功績がある。この当時、五十六はかつての部下である本多井吉の案内でラバウルにいる。

元海軍大佐本多井吉著(遺稿)『山本元帥と私』より抜粋。

『第二次大戦中の、昭和十八年四月三日、連合艦隊司令長官として将旗をトラック島在泊の旗艦武蔵から、ラボール(注 ラバウルのこと)に一時移揚された時、私は、南投方面艦隊兼第十一航空艦隊機関長として、ラボールの同司令部勤務中、同棟に十四日間、起居を共にする僥倖に恵まれたが、長官は、同月十八日、ラボールから最前線のブインに行かれるとき、機上戦死された。同日、ラボールでお見送りしたのが、はしなくも謂わば、四回目が悲しき最後のお別れとなった。同じ勤務場所でそれぞれ何年か経過して、三年目にお仕えできたこと、そして最後のお別れまでしたことは、人事の偶然の回り合わせとは言いながら、全く奇しき縁と思う。』

藤井茂渉外参謀は、4月に替えたばかりの新しい暗号ではなく、すでに解読されている旧暗号を使ってトラック島に碇泊中の武蔵より打電する。13日にラバウルから新暗号で打電した日程はアメリカが解読できなかったため、急遽15日の予定を18日に延期して、武蔵にいる藤井茂に旧暗号で打電させたのである。藤井茂は五十六が殺害された後、「今より長官室には全ての人間を立ち入り禁止にして、遺品を調べて内容のリストを作って私に報告せよ」と近江兵治郎に命じる。この勅令を藤井茂に命令したのは、秘密工作のために海軍に出向していた中曽根康弘である。彼は当時から吉田お気に入りのコネクションである。

近江兵治郎の続き。

『再び「南雲は帰って来るだろう」 』

『私は戦闘中、長官付きとしてそのお側にいる配置だったため、すべての発言を聞き及んでいた。六十年後の今日、こんなことを書き記すのも、今なお浮かぶ長官の思い出を、改めて歴史の一頁に書き残したいがためである。』

『「ほう、またやられたか」 将棋盤に向かいながらそうつぶやいた山本長官が、こんなことも口にされたのを記憶している「南雲は帰ってくるだろう」 状況こそ違え、真珠湾攻撃の時と同じ言葉である。真珠湾攻撃の時には山本長官の言った通り、南雲中将は第二次攻撃を行わずに帰途についた。今度もまた長官は、南雲中将は帰ってくると言うのだ。果たして南雲中将は、山本長官の言った通り「帰って」きた。』

五十六は戦闘中、勅令で拘束されている。将棋を指しながら「ほう、またやられたか」「南雲は帰ってくるよ」と言える状況下にはない。燃える溶鉱炉と化した赤城から南雲を引きずるようにして帰ってきたのは、源田実、草鹿隆之介、淵田美津雄らである。南雲に赤城と運命を共にされては、参謀長の草鹿も航空参謀の源田もおめおめと生き恥を晒すわけにはいかなくなる。責任逃れのために源田実は『肺炎』に罹っていたし、淵田美津雄に至っては『盲腸炎』で『緊急手術』したことになっていた。真珠湾攻撃の時は攻撃隊長になって上空の安全圏から指揮を執っていた淵田であるが、ミッドウエー海戦の『惨敗』のシナリオでは戦闘機に乗ると落命する恐れがある。仮病を使って病室にいたが、撃沈されるシナリオなので病室から密かに甲板上に抜け出し、物陰から敵の急降下爆撃を見学していたのである。淵田美津雄は広島原爆投下でも、同じような役回りを演じている。これは鬼塚英昭氏が『昭和天皇は知っていた 原爆の秘密 国内編』に、詳細を書かれている。


近江兵治郎前掲書より

『両提督の対面は、宇垣、草鹿の両参謀の列席もなく、二人だけで行われた。南雲長官は、山本長官に泣いて非を詫びていた。これも従兵長として、もっとも近くで耳に留めた出来事である。』

『山本長官には、親友、堀中将を予備役に編入した張本人の一人であるという南雲長官を潔しとされなかったところがあったようだ。しかし、このミッドウエ―の攻略戦は、山本司令長官みずからの計画であった。』

『長官の将棋好き  艦隊の入港時でもちょっとした暇があると一局始められたので、この兵棋図盤は長官のおもむくところいつでも目に付く場所に備え置くことに心掛けていた。戦前は、長官が視察に出られる際などにも長官艇に積込み、楽しんでいただいた。これも従兵長の心配りであった。』

『山本長官は、食後の雑談の際などには、こんなことを口にされることもあった。「将棋を指した数など、木村君より僕の方が遥かに多いだろう」 木村君とは、当時将棋の名人位を獲得された木村義雄氏のことである。山本長官は、日ごろ軍人として、とくに司令長官として無口な方のようだった。しかし、将棋を指す時などは、冗談を言いながら、参謀たちをからかっていた。』

五十六は厳然と公私の別を区別して勤務に精励していた。勤務中の合間に暇を惜しんでは将棋を指すわけがない。戦闘中に将棋を指して気を紛らしたというプロパガンダなど言語道断である。

近江兵治郎前掲書より

『司令部参謀はまた、絶対な勝算を見込み、長閑であった。五月の太平洋は、波また静かにして七万トンの大和は浮かぶ城そのものであった。ハワイ作戦のような緊張した空気は無く、山本長官みずから兵棋図盤と呼んでいた将棋盤を引出し、渡辺戦務参謀をからかいながら一番始められた。顔色を変えた司令部暗号長が、電報持参で入ってきたのはこの時である。暗号長は、解読した暗号文を急ぎ読み上げた。「赤城被爆大にして総員退去」 暗号長は報告を終えると、いったんは元来た方へそのまま戻っていったが、しばらくすると再び報告に走って来た。今度は加賀の悲報が伝えられた。この時山本長官は、少しも動ずること無く、泰然自若とした姿であった。「ほう、またやられたか」長官の口から発せられたのは、その一言であった。戦務参謀との将棋を指す手は止まっていなかった。この将棋の件は世間では、知られていないことである。また、既にこの現場を目撃した者は、もう日本国中探しても私近江一人だけとなっている。』

近江兵治郎は平成21年7月18日に山本元帥景仰会から出版された『山本五十六の「覚悟」』の中でも、まったく同一のことを何とかの一つ覚えのように述べている。同会が特別協賛した半藤一利原作のお正月映画『連合艦隊司令長官山本五十六』も、この近江兵治郎のガセネタを取り入れ、『70年目の真実』という触れ込みでミッドウエ―海戦のクライマックスを描いている。五十六役の役所広司は、三和と渡辺の合体した人物『三宅参謀』役の吉田栄作と将棋を指し続け、赤城、加賀が爆撃されると「ほう、またやられたか」と呟いて一手指す。役所が迫真の演技をするので、観る者を納得させてしまっている。

五十六の評伝を書いた工藤美代子も、近江兵治郎のこのガセネタを信じ切っている。

工藤美代子著『山本五十六の生涯 海燃ゆ』講談社より

『五十六が将棋を一番さし始めたとき、顔色を変えた司令部暗号長が電報を持って飛び込んで来て、翻訳した暗号を急いで読み上げた。「赤城、被爆大にして総員退去」そう報告すると帰って行った。五十六は唇をぎゅっと結んで、ひと言「うむ」といったとある。いったんもと来た方へ戻って行った暗号長は、しばらくすると再び報告に走って来た。そして今度は加賀の悲報が伝えられた。このとき、五十六は少しも動ずる様子はなく、泰然自若とした姿だった。「ほう、またやられたか」というのが五十六の発した言葉だった。手のほうは、相変わらず戦務参謀と将棋を指していた。「この将棋の件は、世間では知られていないことである。また既にこの現場を目撃した者は、もう日本国中探しても 私近江一人だけとなっている」このように書く近江の言葉の信憑性は高いと考えてよいだろう。「この時の山本長官の気持ち、そして将棋の相手の戦務参謀の気持ちは何程か苦しいものであったろうか」と、近江は五十六の心中を察している。日本の空母が次々と撃沈される電報が入って来たとき、五十六は「黙然として常の通り正しい姿勢」で、最後の対策を検討していたというのは藤井参謀である。』

このように書く近江の言葉のウサン臭さは相当なものだと考えてよいだろう。(前述したように藤井茂も勅令で動いていた一人)

工藤美代子前掲書より

『戦闘の間、近江は長官付として、五十六の側にずっといたため、幾つか忘れられない言葉を記憶している。将棋を指しながらの「ほう、またやられたか」もそうだが、「南雲は帰ってくるだろう」という言葉も口にしたという。これは真珠湾攻撃のときとほとんど同じ言葉だった。第一次攻撃に続き、第二次攻撃を期待されていた南雲に対し、五十六は「南雲は真っ直ぐ帰るよ」と、いかにもぞんざいな口調でつぶやいた。それを近江は、しっかりと記憶していた。そしてまた今、五十六は同じことを独り言のようにいったのである。』

『南雲は帰ってくるよ』『水雷屋が・・・』はガセネタである。山本五十六が一番信頼して本当のことを言えるのは、南雲忠一ただ一人である。五十六と南雲の手の届かないところで、真珠湾攻撃の手抜きは既定の筋書きとされている。南雲が五十六の親友堀悌吉を予備役に追いやる策略に加担したというのも、事実無根である。

戦果を当てっこしてビールを賭けたという逸話も有名だが、これは1938年に勅令を受けて偽証を綴るようになった三和義勇によるものである。通称『三和日記』がいかにして世に出たかの経緯を明らかにした本が、田布施王朝御用達のPR係文芸春秋から昨年の暮れに刊行されている。以下に抜粋する。

三和多美『海軍の家族 山本五十六元帥と父三和義勇と私たち』文芸春秋

2011年12月10日初版より以下抜粋。

『ある年の八月二日、千早正隆氏(テニアンで戦死された千早猛彦少佐の兄君)にお会いした。初めてお会いしたのだが、「三和日記を読ませていただきました」とご挨拶された。この方が、ゴードン・プランゲの『ミッドウエ―の奇跡』を訳された方だとは知らなかった。』

千早正隆はGHQ戦史室長のゴードン・プランゲと、二十年の長きにわたって二人三脚を組んだ人物である。千早はプランゲのプロパガンダ決定本の助手と翻訳を手掛けた他に、自らも海軍を貶めるプロパガンダ本を書いている。プランゲの聞き取り(注 聞き取りという形式を踏まえた共謀)に協力した源田実と淵田美津雄も、それぞれプロパガンダ本を書いている。淵田美津雄は奥宮正武と組んで、ミッドウエー海戦のヤラセを正当化するプロパガンダ本も書いている。ちなみに源田実はミッドウエー海戦惨敗の本当の主役である。淵田美津雄は残酷なトリックスターである。淵田は用済みとなった三和義勇を、死地テニアンに送り込む死神の役目も果たしている。

『なぜ千早氏が「三和日記」などとおっしゃったのだろう。お付き合いのない方なのになぜ父が日記を書いていたことをご存知なのだろう。調べたら父の日記は私が知らない間に防衛省防衛研究所の図書館史料室に昭和十五年、十七年、十八年のコピーがあることがわかった。母がこれをお貸しして史料室がコピーをとったのだ。それを見たい人が閲覧することが出来たのだ。』

つまり防衛省防衛研究所は、ガセネタで国防を研究しているということである。

『ゴードン・プランゲは父の日記を詳細に読み、その著書に引用していた。プランゲばかりではなく半藤一利氏も『遠い島ガダルカナル』に父の日記を大いに引用している。気をつけていると、ある新聞社がほんの数行引用しているのを見たり、いつの間にか「三和日記」があちらこちらに出回っているのに驚いた。』

三和義勇の情感豊かな文才ゆえだと思うが、たった一人の偽証がかくも人口に膾炙したのだ。

『日記にも色々な種類がある。宇垣纏中将は太平洋戦争が始まる二ケ月前から、この戦いを記録すべく日記「戦藻録」をつけ始め、敗戦の日、多くの特攻を送った責めを負って、特攻の基地鹿屋から艦上爆撃機「彗星」に乗って、沖縄の敵艦隊に突っ込んではたる日まで一日も欠かさずきちんとつけられている。全十五巻、第一級資料として広く読まれている。書くことが好きで戦前から書いていた父の日記とは少し違う。』

宇垣纏と三和義勇は少し違う。勅令で書き始めた時期が少し違う。しかしプロパガンダの第一級資料にするために、重要なポイントでガセネタを書かされていた点では大同小異である。

『動機が違うが父は前線で戦うことが多かったから父の日記も自ずから「戦争日記」になっている。父が作戦参謀として長門に乗った時、宇垣中将は参謀長として山本長官のすぐ下におられた方だ。同じ艦上で勤務していたのだが、二人の日記には、中将と大佐、建前と本音の違いがあるのは否めないのではないか。』

二人の日記に書かれたプロパガンダの内容には、中将と大佐の役割の違いがあるのは否めない。

『「三和日記」が世の中に出回っていることを知ってびっくりし、逗子の家に行って「リンゴ箱」を探した。沢山あった日記の山はたった五冊になっていた。母が処分してしまったのだ。残っていたのは昭和十三年、十四年、十五年、十七年、十八年だけだ。その内十五年、十七年、十八年のコピーが防衛庁防衛研究所にあるのだ。十六年と十九年、最も大切と思われるのがない。十六年のはどうしてないのかわからない。』

三和夫人が亡夫の日記を処分するなら『たった五冊』など残さずに、全て処分しただろう。五冊以外の日記は今のところ秘蔵されている。十六年の日記には真珠湾攻撃の真相が、十九年の日記には三和が良心に苛まれて殺害されるに至る真相が書かれている。

『私が最も読みたいと思っていた十九年のがないのは、小野田捨次郎(海兵の同期)の夫人が夫の使いで来て十九年の日記を持って行って返してくれなかったのだ。「返してと催促したら引っ越しの時なくしてしまった、と云った」と母は物凄く怒っていた。何ということだ。父のスワンソングともいうべき最後の日記を人に貸すなんて、そして引っ越しの時失うとは。引っ越しをいきなりする人はいない。貸す前に借りたものは返していろいろな準備をして引っ越すのが当たり前だ。私は貸した本が火事で焼かれてしまったことがあるが、火事とか急死とかは予測できないのでしかたがない。しかし、引っ越しのどさくさで父の遺品を失くすとは。この夫人は私の見る限りだらしのない人ではない。なにかある。』

確かになにかある。小野田捨次郎が勅令で『処分』したのである。しかし前述したように大切に秘蔵されているので、近い将来世に出て来る予定である。

『私は宇垣中将の「戦藻録」の昭和十八年一月一日から四月二日までの日記が、終戦直後、当時の先任参謀黒島亀人によって原本から剥がされ焼却されてしまった事件を思い出した。(注 昭和十七年十一月から昭和十九年二月まで剥がされてしまった)これは黒島参謀に都合の悪いことが書かれていたからなのだが、小野田氏が何故父の日記を捨ててしまったのかはわからない。が、捨次郎が捨ててしまった事は事実だ。』

黒島亀人は吉田茂の直接の指令を受けて、宇垣纏の日記を破棄した。破棄された部分は、山本五十六の暗殺に至る前後の時期に該当し、色々不都合な真実が書かれていた。同じく三和義勇の日記が捨次郎に捨てられてしまったのは、テニアン玉砕を目前にして三和が書いたスワンソングに、悔恨の情とともに真相が述べられていたからであろう。

『長門で長官の従兵長をしておられた近江兵治郎氏にお会いすることがあった折、「父は黒島参謀と仲が悪かったのですか?」とお聞きしたら「とんでもない、お父様はどなたとでも仲良くしていらっしゃいました。参謀の中で一番穏やかな方でした」。』

三和多美が近江兵治郎に向かって父親と黒島亀人の不仲を問いただしたのは、山本五十六の国葬係りに任命された三和義勇が次のような場面を描写した追悼文を寄稿しているからである。ではそのプロパガンダ文そのものを見てみよう。

『山本元帥の思い出』 海軍大佐 三和義勇(昭和十八年)より

『ある晩のことであった。○○参謀○○大佐(注 先任参謀黒島亀人大佐の伏字)と私とは、何かのことで議論していた。議論を越して口論に近かったかもしれぬ。作戦室にはこの二人だけで、時計は静かに十一時を指していた。この時、長官がヌッと入って来られて、「何だい、何を喧嘩しているんだ」と言われて腰をかけられた。「イヤー、別に喧嘩しておりませんが」とか何とか言って、また話が種々とはずんだ。

その時、長官は次のようなことを言われた。「○○君(注 黒島亀人の伏字)が作戦に打ち込んでいるのは誰もよく職っている。○○君は人の考えの及ばぬ所、気がつかぬ所に着眼して深刻に研究すう。時に奇想天外な所もある。しかもそれを直言して憚らぬ美点がある。コウいう人がいなければ天下の大事は成し遂げられぬ。だから僕は、誰が何と言おうと○○君を離さぬのだ。ソリャ○○君だって人間だ。全智全能の神様ではない、欠点もあることはよく職っている。○○君だって自分で知ってるだろう。そこは君が補佐すればよい。艦長をやらねば用兵者として前途がないナンテ言う人があるが、今時ソンナ馬鹿げたことがあるものか。よしあったにしてもソンナことはどうでもよい。むろん君たちも立身や出世のこと等は考えていまい、各幕僚はその職務においてこの戦争に心身ともにすりつぶしてしまえばそれでよい。もちろん君たちばかりではない、僕もソウだ。」

秋山将軍という人は、(中略)アノ日露戦争の一年半で心身ともにすりつぶされたのだ。そして、東郷元帥を補佐して偉績をたてられたのだ。軍人はこれが本文だ。お互いこの大戦争に心身をすりつぶすことの出来るのは光栄の至りだ。わかったか」と、その眼には堅い決意がひらめいていたが、またもとの慈眼に満ちた眼にかえっていた。○○大佐は両の手で頭を抱えて机の上にうつ伏しておられた。恐らくは、この知己の恩に対して、万感胸に迫り、言うべき言葉はなく、あるいは泣いておられたのかもしれぬ。私も黙って頭を下げた。』

三和義勇の筆によって感動的な場面が描き出されている。しかし黒島亀人が知己の恩に対して忠誠を誓っていたのは山本五十六ではなく、吉田茂その人である。『テッポー屋』黒島亀人を連合艦隊司令部の先任参謀に大抜擢したのは、もとより五十六の意志ではない。吉田茂と直に繋がる黒島亀人が、軍令部から一方的に送り込まれてきたのだ。言うまでもないが、軍令部がこの異例の大抜擢を許可したのはそれが勅令だからである。三和義勇は山本五十六の追悼文にこのような場面を創作することによって、『仙人参謀』『変人参謀』『ガンジー』と呼ばれていた黒島亀人を、山本五十六が偏愛し奇策を偏重した、というプロパガンダの嚆矢としたのである。次のエピソードも、三和義勇の印象操作である。

三和義勇の追悼文より

『越えて十日、マレー沖海戦となった。この戦闘は飛行機たち近代戦艦の一騎打ちである。言い換えれば海上戦闘における飛行機と戦艦との争覇戦である。それだけに一同緊張した。十日の朝、飛行機隊が発進した。しかしまだ戦闘までにはタップリ三時間はある。旗艦の作戦室では長官を中央にして各幕僚集まり、幕僚同志は勝手な戦果予想をしていた。』

『突然、長官は私を捉えて、「どうだい、“リナウン”も“キングジョージ五世”(当時は“プリンスオブウエ―ルズ”と型は同じなので“キングジョージ五世”と思っていた)も撃沈(やれ)るかナ。僕は“リナウン”はヤレるが、“キングジョージ”はまあ大破かナと思うが」と言われたので私は、「ソリャ両方ともヤレます」と答えた。すると、「ヨシ、ソンナラ賭けようか」と来られた。私もこれに応じて、長官が敗けられたら麦酒(ビール)十打(ダース)、私が負けたら一打を出すということにした。』

『一体、長官がこの賭けを挑まれるのは、好きというよりは、相手のそのことに対する自信確信の度を試す手に使われるのである。従って、常に自分の予想、考えと反対に出て、しかも、とてつもなく大きな賭けを言われる。言われた相手は逃げるとか、あるいは賭けを小さくしようとするようでは、そのことに自信のない証拠となる。自信のある者は賭けの大きいのを喜ぶのは当然である。長官はこの人情の機微を巧みに捉えて相手を試されるのだと、これは私が考えていることである。』

この三和義勇の偽証を最大級に利用したのが、美和に引導を渡した淵田美津雄である。淵田が昭和24年に書いた『真珠湾作戦の真相』には、五十六プロパガンダの全てがあると言っても過言ではない。後続の阿川弘之行、生出寿は、天才淵田美津雄をパクッた凡俗に過ぎない。阿川にあって淵田にないものは愛人ネタだけ、生出にある目新しいものは近江兵治郎のガセネタだけである。

生出寿著『【凡将】山本五十六』現代史出版会発行より

『ところで山本は、南雲部隊大敗の結果を、どのような気持ちで聞いたであろうか。前に、ハワイ空襲の第二回攻撃についてのくだりで、元連合艦隊司令部従兵長近江兵治郎の手記を紹介した。ここでまた、山本がミッドウエーからの敗報をどんな様子で聞いていたか、同人の手記を紹介したい。同じく、雑誌プレジデントの”ザ・マン”シリーズ「山本五十六」に掲載されたものである。』


生出寿が使っている近江兵治郎のガセネタは、1980年ザ・プレジデントマンに掲載されたものも、2010年文芸春秋、2011年新潮45に掲載されたものも、細部に至るまでまったく同一である。

『‐旗艦(註・大和)の作戦室では山本長官が渡辺参謀を相手に将棋を指している。何故にあの大事な作戦行動中、しかも空母が次々と撃沈されていくとき将棋をやめなかったのか。あのときの長官の心境は、あまりにも複雑で痛切で、私ごときの理解をはるかにこえるものだったのだろう。連合艦隊付通信長が青ざめた顔をして、空母の悲報を次々と報告に来る。この時も、長官は将棋の手を緩めることなく、「ほう、またやられたか」のひと言だけだった‐』


生出前掲書の続き

『この逸話は事実にちがいない。山本は、マレー沖海戦のときには、味方中攻隊がプリンス・オブ・ウエールズとレパルスに攻撃をかけるために出撃したとき、三和航空参謀とビールを賭けた。こんどは、南雲部隊の攻撃隊の発艦を前にして渡辺参謀と将棋を指し始めた。』


生出寿は近江兵治郎のガセねたを最大限に活用する使命を負っているのだろう。


生出前掲書の続き

『ハワイ真珠湾攻撃のときは、このようなことはせず、待つだけであった。山本が将棋を指しはじめたのは、なぜであろうか。敵の陸上雷・爆撃機や艦上雷撃機多数の攻撃をうけながら、味方の攻撃隊がいつまでも発艦ができないでいるのに待ちくたびれ、それをまぎらわすためにはじめたのであろうか。山本にしても、一航戦、二航戦の実力は十分に知っている。飛び立つことができさえすれば、あるいはまたマレー沖海戦のときのように、こんどは渡辺相手にビールを賭けようと思っていたのかもしれない。』


生出寿はひたすら【凡将】説をデッチ上げようと腐心している。


生出前掲書続き

『ところが、攻撃隊がまもなく発艦するであろうというときに、加賀・赤城・蒼龍がつぎつぎに爆撃をうけて大火災を起こし、攻撃隊も壊滅した。これは悲報というようなナマやさしいものではなかった。目も眩むような凶報であった。』

ミッドウエー海戦史上、日本海軍連合艦隊にとってこの『目も眩むような凶報』は、アメリカ太平洋艦隊には『奇跡』と表現されているが、これは正当な戦闘の後に行われた詐欺犯罪である。

生出寿続き

『こうなったとき、ほんとうは山本は、一人になりたい気持ちになったのではなかろうか。しかし、作戦室には多数の部下がいた。いま彼らは、山本の一挙手一投足に、針のむしろに座ったような気持ちでちらちらと視線を向けている。そのような状況で、山本は将棋を指す手を止めるわけにはいかなかったのであろう。しかし、「ホウ、またやられたか」のひと言には、強がりとともに、失望や悲哀や苦悩は滲んでいるような気がする。』


こんな場面で山本五十六が将棋を指しながら、「ホウ、またやられたか」などと座視していることは200%ない。山本五十六は着艦に失敗して海中に落ちそうになった飛行機を見てとっさに一人で飛びかかって一緒にズルズルと引きずられていく、殉職した若者たちの名前を手帳に記して毎朝黙祷する、そういう人間である。航空本部長時代にゼロから育ててきた愛弟子の航空兵たちが爆発炎上した空母甲板上で焼き殺されていった時、山本五十六は大和で拘束状態にあったと私は考えている。五十六が勅令により監禁状態にあったことは、ごく近い将来に資料が表に出る予定である。

生出寿続き

『当時千代子は肋膜炎で病状が重く、遠出ができるような体ではなかったが、山本のたっての頼みにほだされた。死んでもいいという気持ちになり、呉に行くことにした。(略)千代子が列車から降りるのを、山本はかかえるようにして助け、それから彼女を背中におんぶして歩き出した。(略)人力車に乗った初老の男と中年の女は、ほどなく割烹旅館崋山に入った。山本と千代子のこの逸話は、元海軍中佐のT氏に聞いたものである。T氏は戦後、河合千代子に二度会った。そしてこの逸話の真偽をその都度確かめた。「ああいう話があるけど、あれはちがうでしょう」という質問に対して、彼女は「いいえ、そのとおりですよ」と、二度ともおなじようにこたえたという。』

河合千代子と五十六の関係は、伏線としてすでに戦時中から海軍省スタッフと憲兵隊が協力して噂を流していた。その結果、渡部悌次は憲兵隊の須藤君に掴まされたガセネタを信じ、バーガミニも田布施村王朝の刺客・秦郁彦に唆されて『天皇の陰謀』に引用した。

渡部悌次『ユダヤは日本に何をしたか』成甲書房より抜粋。

『山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日・独・伊の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京・麻布の狸穴にあった。この妾宅の若い女性は当時十八歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。この妾宅に情報を掴みに出入りしていた人物がいた。憲兵隊の須藤輝君である。須藤君はこの娘芸妓を高く評価していた。山本が戦死した報を得て、須藤君が文書の遺稿でもと狸穴を訪ねたときには既にこの女性が一切を処理し終えた後であり、失望して帰庁する途次立ち寄ってくれた記憶は消えない。十八歳なのにしっかりした女だとつくづく述懐するのであった。』

 この文章自体がおかしい。須藤輝君が情報を掴みに出入りしていた狸穴の妾宅にいた若い女性は、当時十八歳の芸妓であったという。それが、五十六が戦死した時にも須藤君は『十八歳なのにしっかりした女だとつくづく述懐するのであった』という。三国同盟反対から五十六戦死まで、この間、十八歳の新橋の芸妓は年を取らずに十八歳のままだという。

梅龍こと河合千代子は、ロンドン軍縮会議の前後に五十六と昵懇になったと証言している。五十六の戦死当時、すでに40を過ぎた年増である。須藤輝君が『十八歳なのにしっかりした女だとつくづく述懐するのであった』というのは、いったいどの芸妓を指しているのか。河合千代子は半玉のころから仕込まれた芸妓ではなく、素人上りの見ず転芸者である。五十六は旦那持ちの河合千代子の他に、十八歳のしっかりした芸妓を妾宅に囲っていたというのか。そしてその若い芸妓は永遠に十八歳のままでいる妖怪なのか。

生出寿続き

『六十歳にちかいおやじが、それも三週間後に国家の存亡を賭ける大作戦をひかえる連合艦隊司令長官が、こんなことをするとは思えない、というがふつうである。しかし、山本はそれをやった。(略)いってみれば千代子は、山本が悩みでもなんでもさらけ出せる、心安らぎの弁天みたいな女であったうだ。いまの山本の目の前には、ミッドウエ―はじめ困難が山積みで、心身は凝り固まっている。それを解きほぐしてくれるのは、千代子以外にないと山本は思ったのではなかろうか。苦しいときの神だのみというが、山本の場合は、苦しいときの千代だのみであった。』

河合千代子ネタで山本五十六をこき下ろす才能は、阿川より生出の方がセンスが良いと思う(里美クが先行して書いた愛欲小説は問題外である)。東郷平八郎の観音信仰を引き合いに出し、『苦しいときの千代子頼み』という見事なキャッチコピーを作っている。

生出続き

『山本は才に溢れた自信家で、己を恃み、人や神を頼らずという人物のようである。東郷は、才のない己を知る努力家で、人と神の助けを求める人物のようである。この人柄は、連合艦隊司令長官としての指揮統率ぶりにも、それぞれそのまま現れているように思える。』


『山本は、五月二十七日付けの河合千代子への手紙で、‐(前略)最後の御奉公に精根を傾けます。その上は‐万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います‐と書いた。これは、ミッドウエ―作戦に成功して錦を飾り、連合艦隊司令長官も海軍大将も御役御免になって、好きなお前とただ二人で暮らしたいということのように思われる。』


前々々々回検証した通り、恋文は偽造品である。里見クが創造した愛欲小説の主人公は、里見自身を反映したものである。小谷野敦はその著書『「馬鹿正直」の人生 里美ク伝』中央公論社刊の中で、里美クが五十六のプロパガンダ小説を書いた当時、『クは同じ鎌倉に妻と妾を置くことになった。七月の「新潮」に「いろおとこ」を発表。これは中年男と芸妓の愛人のやりとりを描いて、最後に、その男の戦死を告げて、それが山本五十六であることをほぼ明らかにするもので、山本をモデルにしていることで有名だが、軍人批判ともそれるし、やや作為が不明である。』としている。


小谷野敦は里美クに『トンよ、トン。』と呼びかけることが、自分への励ましになるほどのファンだという。それほど入れ込んでいるのなら、もっと精緻に検証するべきである。里美クはヨハンセングループの原田熊雄の義理の兄弟である。なぜ『正直病にかかっている』里美クが、住友財閥の金庫にしまわれた原田日記をせっせと編纂するのか。

文壇というところは権力にこびへつらう連中の巣窟である。私は白洲次郎のプロパガンダに協力し、吉田茂の長男健一にすり寄る文士連中の『生態』を『如実』に見て、そう思うようになった。小林秀雄も例外ではなかった。何という情けない連中なのだろう。以前、白洲信哉が量産しているブランド志向の写真集を指して、祖父の小林秀雄に似ない不肖のボンボンと書いたが、それは撤回する。白洲次郎と小林秀雄の両祖父の血統を立派に受け継いでいる子孫である。


戦果を当てっこしてビールを賭けた三和日記のガセねたは、高木惣吉によってさらに補強されている。


生出の続き

『このあとの、問題のエピソードについては、元海軍少将の高木惣吉が、「山本五十六と米内光政」(文藝春秋)に次のとおり書いている‐旗艦の作戦室では、幕僚たちの戦果予想で賑やかな笑声が湧いていた。山本長官は突然、「三和参謀(註・三和義勇中佐、航空参謀、のちにテニアンで戦死、少将)どうだい、俺はリナウンはやるが、キング・ジョージ五世はまあ大破かな、と思うが」(註・初めはレパルスはリナウン、プリンス・オブ・ウエールズはキング・ジョージ五世と推定せられた)航空参謀は躍起に反駁した。「いやー長官、そんなことはありません!両方ともキットやります」「よしそんなら賭けようか」「願ったり叶ったりです。そのかわり長官敗けでしたらビール十ダース、私が敗けでしたら一ダース、いいですか?」よく部下の信念を揺すぶるために、反対の予想にかけて朗らかな人物実験をして喜ぶのはその悪戯の一つであった。(略)二時間以上もたったと思わるるころ、電信室にいる暗号長が作戦室にひびきわたる奇声を伝声管から送ってきた。「またも戦艦一隻沈没!」航空参謀が鬼の首を取ったように、「長官、さあ十ダース頂ますヨ」とはずめば、いつになく顔をほころばせら山本提督、「ああ十ダースでも五十ダースでも出すよ、副官、よろしくやっといてくれ」と嬉しそうに言いつけるのであった‐(略)命がけで戦ったこれら敵味方の将兵たちは、山本がこの戦闘の結果に面白がってビールを賭けていたと知ったら、どういう顔をしたであろうか?』


心無い行為に傷つき、あるいは怒り心頭に発したであろう。だから山本五十六は絶対にそのような不謹慎な賭け事はしない。


生出続き

『しかし、どちらにしても、部下が生死を賭けて戦っている最中に、それにビールを賭けたり、将棋を指すなどは、連合艦隊司令長官の態度ではないであろう。そのような行為が、大物がやることだとして、部下の指揮官や参謀たちに伝染すれば、どういうことになるであろうか。』


これが海軍の驕り症候群というプロパガンダに繋がるのである。
近江兵治郎は最晩年になってこのプロパガンダに協力した。
正義感から歴史の修正を試みる立場にある作家の工藤美代子もそれを鵜呑みにした。
そしてさらに敷衍させていったのである。

工藤美代子『海燃ゆ 山本五十六の生涯』より

『前に述べたように、五十六は南雲を全く信用していなかった節がある。親友堀悌吉が予備役に編入されたときに、南雲が暗躍した。それを五十六が根に持っていたからだというのが今では通説になっている。「堀中将を首にした遺恨とはいへ、山本さんはどうしてあんなに南雲長官をいじめなくてはならなかったのかと思う」という石川信吾少将の言葉を、阿川弘之は自著に引用している。しかし南雲の立場も気の毒といえば気の毒だった。』


まったく南雲は気の毒だ。私は南雲をプロパガンダの礫を受けているベスト3に入れたい。近衛文麿、山本五十六、南雲忠一。番外として松岡洋右がいる。松岡洋右は田布施川の畔に生まれたが、吉田茂を批判したため村八分にされ悪役を押し付けられている。


石川信吾は南雲に同情するフリをして五十六を貶め、南雲にも堀を首にしたという罪を擦り付けているあたり、プロパガンダも相当年季が入っている。

工藤美代子続き

『彼(南雲)は明治二十年三月、山形県の米沢で旧長岡藩士の次男として生まれた。本来なら、三歳長で同じく旧長岡藩士の息子だった五十六と、かなり似たような土壌で育ったのであるから、五十六に信頼されてもよかったはずである。米沢はまた五十六の妻礼子の母、亀久(きく)の出身地である。まだ会津若松に女学校がなかった頃、礼子の姉は米沢の女学校を卒業した。米沢は会津や長岡と縁の深い間柄だった。』

南雲と五十六の意志の疎通を欠いた険悪な関係というのは、勅令を受けて動いていた者たちによる全員の脚色である。真珠湾攻撃を押し付けられた五十六ほど、南雲が置かれている宿命を理解している者はなかった。五十六が唯一胸襟を開いたのは南雲である。旧長岡藩士の息子たちは、真珠湾攻撃の手抜きとミッドウエ―惨敗という既定のシナリオに立ち向かっていったが、ついにヤラセのシナリオの主人公と副主人公としてセットで葬り去られたのである。

工藤美代子続き

『南雲が海軍兵学校を七番の成績で卒業したのは、明治四十一年だった。その後南雲は海軍水雷学校へ進学し、いわゆる「水雷屋」として出世の階段を上り始める。水雷戦隊司令官、水雷学校校長などの要職を歴任し、水雷の権威として目されるよういなる。ところが、真珠湾攻撃の計画が具体化した際に、阿雲は空母部隊をひとまとめにする第一航空艦隊の司令長官に任命された。現在でも、この人事は無謀であったとよくいわれる南雲にとって航空は全く畑違いのポストであり、しかも就任するやいなや、南方攻略作戦の支援を空母でやるくらいかと思っていたら、真珠湾の奇襲攻撃の指揮を執らなければならない羽目になった。自分の能力の限界を知っていて、誰よりもこの仕事を固辞したかったのは南雲本人だったが、結局、押し切られてしまう。はた目にも南雲の憔悴ぶりは、はっきりと見てとれたという。』

南雲と同じ立場に置かれたらふつうは固辞する。尋常ならざる人事を軍令部が敢行したのは、それが勅令だったからである。もちろん第二次攻撃をしないことが大前提である。水雷屋を第一航空艦隊司令長官に任命した理由はもう一つある。専門違いの人間を司令長官にして、言葉巧みに脅して命令系統を攪乱させるためである。南雲の弱点を無残なまでに利用した詐欺犯罪が、ミッドウエ―海戦の『運命の五分間』である。幇助したのは源田実と草鹿隆之介である。源田が主犯で、草鹿は従犯である。

工藤美代子続き

『ここで南雲は致命的な判断ミスを犯してしまう。これは、ミッドウエ―の戦記には必ず書かれているエピソードなので詳細は割愛するが、アメリカの空母が現れたという報に接した山口多門少将が、旗艦赤城の南雲司令部に宛てて「現装備ノママ攻撃隊直チニ発進セシムルヲ至当ト認ム」と飛龍から具申したが、南雲はこれを却下した。確かに、山口の案は、攻撃隊を護衛戦闘機のない状態で出撃させるという非常手段だったが、これを受け入れなかったため、アメリカ側から先制攻撃を浴びる結果となった。したがって、ミッドウエー海戦となると、どうしても南雲中将と山口少将との能力の差が問題となってしまうのである。』

厖大な資料を渉猟して綿密な検証を旨とする工藤美代子が、なぜミッドウエー海戦のそれについては一通りのプロパガンダで済ましているのだろうか。ミッドウエ―海戦ほどプロパガンダによって脚色されている詐欺犯罪は少ない。南雲が山口の具申を受け入れなかったことは、敵の先制攻撃を浴びた原因でもないし敗因でもない。南雲が山口の具申を受け入れなかった(参謀長の草鹿と源田がさせなかった)ことは、ミッドウエー海戦という名前の詐欺犯罪を成立させる構成要素のワンピースに過ぎない。

工藤美代子続き

『もしも、真珠湾攻撃やミッドウエ―海戦で山口少将が指揮を執っていたら、日本は負けなかったのではないかという人さえいる。少なくとも、ミッドウエ―であそこまで無様な敗北を喫していなかっただろうというのである。山口と南雲はあまりに対照的な武人だった。また五十六との精神的な距離も、山口と南雲は正反対だった。五十六は南雲を疎んじたが、山口には絶大なる信頼を寄せていた。』

誰が第一航空艦隊司令長官になっても真珠湾攻撃の第二次攻撃はさせなかったし、ミッドウエー海戦では惨敗させられるシナリオなのである。しかしそのための人選というのはあった。山口のような男なら、草鹿と源田の脅しが効かないからである。

実はミッドウエー海戦の資料にじっくり目を通したのは、ひとえにこのシリーズを書くためであり、つい二か月前からである。日米共同であの手この手を使って普通にはあり得ない異常な情況を演出して南雲をパニックに陥らせ、参謀長の草鹿と源田がよってたかって畑違いの南雲を脅しスカシて命令系統を狂わせていったプロセスを見ると、南雲には不可抗力の犯罪が行われていたとしか言いようがない。確かに山口のような勇猛な性格で生粋の航空艦隊司令官だったら、草鹿や源田の脅しすかしは効かなかっただろう。だからといってそれが何なのだ。それが山口が第一航空艦隊司令長官には絶対に任命されなかった理由であり、それ以上でも以下でもない。

山本五十六の側近は吉田茂の息がかかった偽証者たちで固められているので、その目撃撃証言や日記はガセである。五十六と南雲の関係が険悪であったというのは、五十六が黒島亀人を偏愛していたというのと同じくらい事実無根のガセネタである。宇垣纏、三和義勇、源田実、草鹿龍之介、渡辺安次、近江兵治郎ら連合艦隊スタッフと、軍令部スタッフらが結託して、南雲忠一には指揮能力が無かったというイメージを刷り込み、山本五十六と南雲忠一が意志の疎通を欠いていたように見せかけるプロパガンダを流布するために偽証していたのである。南雲忠一は自決したと言われているが、数人の軍人に山の中に連れ込まれて殺害されている。南雲はすでに覚悟の上である。

前述したが、プランゲは200人以上の証言者たちを自宅に招き、中でも源田実と淵田美津雄には夕食をはさんで一回4〜5時間の『聞き取り』を70〜80回以上も重ねている。吉田茂と直かに繋がる黒島亀人は、プランゲのインタビュー以外は応じていない。黒島、草鹿、源田、淵田らは戦後も敵国側のプロパガンダ作成に協力し、プランゲと共謀して史実を偽証することで、彼らはヤラセで殺されていった同胞を二度辱めたのである。千早正隆も積極的にこの冒涜に加担し、プランゲの右腕として翻訳に協力し、自らも海軍驕り症候群を煽るプロパガンダ本を書いた。勅令を受けて風聞を流していた一部軍人たち、青山和典ら海兵出身のプロパガンダ作家、恐らくユダヤ財閥の息がかかっているであろう生出寿も、同様である。

13. 2020年9月26日 11:57:15 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[25] 報告
山本五十六の真実M 『山本五十六は生きていた』 再検証
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/457.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 5 月 01 日 10:59:54: 8qHXTBsVRznh2
 

前回の私の検証が間違っていたため、今回もう一度再検証します。


前回は大野芳『山本五十六自決セリ』を参照し、
自決説に半ば同意しましたが、
これは私の完全な誤りです。お詫びして撤回します。


大野芳の説は逃亡説のバリエーションとして捉えるべきでした。
同時に蜷川親正氏の労作を葬り去るという明確な意図を持って、
『山本五十六自決セリ』を著しているようです。


前回その意図が見抜けずに、
蜷川親正氏の亡兄蜷川親博軍医大尉の五十六検死カルテを軽んずる、
大野芳の見解に安易に同調していました。
今回お詫びして全撤回いたします。


では再検証にあたって、なわふみひと氏がアップした、
ヤコブ・モルガンの記事より抜粋させてもらいます。


山本五十六は生きていたC
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/YamamotoIsoroku04.html

『大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。

ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」


同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。


にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。


前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。


戦死が狂言であったこれだけの証拠    


山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。その穏された真相は次の如くであると推測される。

1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。


2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出した。


3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目立たぬよう略装にした。


4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。


5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛りつけ毒殺した。


6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。


7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工的な死後損傷を加えた。

事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。』

蜷川親正『山本五十六の最期 検死カルテに見る戦死の周辺』光人社より
結論部分を抜粋します。


『そのとき虫の息で救出を待っていた

山本大将は少なくとも、十八日の午後、または夕方まではハエを追いうる生命現象があった。全身打撲か、内臓などの破裂により、十八日夜から十九日早朝に体力の限界がきて、夜明けとともに死亡したと判断する・・・さきに述べた各項目より考察すると、山本元帥の死因は、全身打撲か内臓破裂により、不時着時はそのショックで天蓋を打ち抜いて飛び出していた。やがて正気になり、座席に座り、救助を待っていたが、前述したように十八日午後よりは容態が急変して、夜を迎えるとともに体力の消耗はなはだしく、十九日夜明けとともに、息を引きとったものであろう。


事故発生の十八日は、墜落現場のアクちかくには陸軍の歩兵二十三連隊(浜之上大佐指揮)が駐屯していた。ひさしぶりの休日のため、墜落して行く飛行機を、多くの将兵は敵機と思って見物していた。この陸軍部隊になぜ、的確に遭難状況をはやくつたえなかったのであろうか。もし、救出を依頼しておけば、九時か十時にはつたえ得たはずである。五千名もいた連隊の、せめて千名いや五百名でもよい、墜落炎上している方向を中心に、一列横隊で全身して捜索するという「面」の捜索を実施しておれば、その日の昼、または午後そうそうには、かならず発見しえたはずである。』


一つずつ検証します。


◎任務を終えたので姿を消した


海軍はまだ壊滅状態になっていません。海軍の天王山はマリアナ沖海戦の決戦です。


◎暗号を漏洩した


ブイン視察の詳細スケジュールは、二回打電されています。4月13日に打電したのは月初めに変えたばかりの新しい暗号です。天候不順を理由に視察を18日に延期して、前夜の17日に戦艦武蔵から旧暗号で打電しています。これはアメリカの暗号班が新暗号を解読できなかったので、旧暗号で打電したのだと思います。


◎第三種軍装の色


ヤコブ・モルガンは草色、大野芳はもえぎ色を主張しています。殊に大野芳は意図的にもえぎ色を刷り込もうとしている節があり、第三種軍装の話がでるたびにもえぎ色であることを強調しています。ヤコブ・モルガンの草色の出所は、大野芳のプロパガンダ本しれません。蜷川親正氏が直接聞き取りをした捜索隊の生存者たちは、紺色だと証言しています。


○陸軍第二十三連隊第一中隊捜索班・中村見習士官(当時)の証言


『いずれの死体も顔面に血のついた者は見当たらず・・・ただ一つ、元帥の紺色をした制服の上衣のすその部分と、ズボンの上部が黒くこげていて、きな臭かったのが印象的だった。』


○富山伍長(当時)の証言


『・・・ある死体は海軍の紺色をした上位を四つに折って、それを枕にして上向けに寝ているように死んでいた。』


○陸軍第六連隊第三中隊中隊長・阿部茂大尉(当時)の証言


『山本長官の紺色の軍服と、そばの軍医の白色の軍服もまったく乱されたり、よごれたちしていなかった。二人ならんで腰かけておられ、五十センチとは離れていなかったものと思う。』


◎パラシュートで脱出した


当日、ブインの山頂には見張りが立てられ、長官機が撃墜される一部始終を目撃しています。そういう状況で人目につかずにパラシュート脱出するのは、撃墜されるかなり前でなければなりません。長官がそのような行動を取ることに、機内に残る者たちに不審を抱かせず、そのままブインに直行させ敵に待ち伏せ攻撃させるためには、どのような説明がされたのでしょうか。長官機には天才といわれた航空参謀・樋端久理雄が同乗しています。それとも樋端久理雄がヤラセの共犯者とでもいうのでしょうか。


◎顔がきれいなのは毒殺したから


長官機は撃墜されましたが、操縦士たちは最後まで持ち場を離れずに不時着を試みています。実際、大木に激突しなければ多くの生存者がいたであろう、限りなく水平不時着陸に近い状態のようです。操縦士たちは操縦席を一歩も動かず焼死しています。五十六の死体の損傷がほとんどないのは、操縦士たちが黒焦げになるまで持ち場を離れずに、必死の努力をしたからです。五十六の顔がきれいなのは身代わりを毒殺したから、という邪推は、長官を死守しようとした操縦士たちのそういう気持ちを踏みにじるものです。


蜷川氏前掲書より該当箇所を抜粋します。

○吉田雅維氏の証言(元佐世保鎮守府第六特別陸戦隊第一中隊第一小隊長)


『操縦士はみずからの操縦席で、通信員はその通信席で、機関銃手はその銃座で、それぞれ座席を一歩もはなれることなく、黒こげのまま死んでいるのを発見した。ことときは私も、おもわず頭が下がった。現代の年齢でいうなら、十七、八歳から二十歳ぐらいの少年飛行兵が、忠実にその任務をはたしつつ、燃えさかる飛行機上で戦死していたのだ。


現場のジャングルからは、約一キロちかく、樹林の上部をけずりつつ、約五、六度の角度で、だんだんとジャングルに深く進入して、不時着をしていったことがよくわかった。やがて地上にたっする地点に、不幸にして、五、六本の太い二かかえも三かかえもある大木があったので、それに衝突し、機体はばらばらになったのである。機内の各自は、完全に任務を遂行していたし、現場をみても、けっして墜落ではなかった、といえる。あの状況は高等な技術による不時着だったのだ。


私は、若き少年航空兵たちのりっぱな飛行機の操作と、その持ち場を守り身は焼けようとも、死して護国の鬼となった人を、永久にたたえていただきたいと思う。それにしても、じつにりっぱな不時着で、あの大木さえ機をさえぎらなかったら、あるいは、二、三人はモイラ岬の二番機のように、重、軽傷の程度で救助できたものをと、残念でならなかった。』


◎身代わりを連行した


最初に長官機を発見したのは、浜砂大尉率いる陸軍歩兵第二十三連隊の第一小隊です。第一小隊が五十六に良く似た人物を連行して、現場で毒殺して長官の身代わりにしたというなら、彼らは海軍に頼まれてグルになっていたのでしょうか?また捜索隊は陸海軍から複数出されていますが、困難を極めた捜索の過程を見ると、歩兵二十三連隊第一小隊がジャングルをかき分けかき分けして、最初に長官機までたどり着いたのは僥倖に過ぎません。身わり毒殺説が成立するためには、最初に現場に到達した陸軍歩兵第二十三連隊第一小隊以外の全捜索隊が、五十六に良く似た身代わりを連行する必要があります。全捜索隊の一覧表は次の通りです。


陸軍捜索隊の内訳


歩兵第二十三連隊長の命令より出動したもの

○蜷川軍医中尉を長とする捜索救助隊

○中村見習士官を長とする捜索隊


墜落を認め自主的に編成されたもの

○浜砂盈栄少尉を長とする捜索隊

○野砲連隊小隊長柴田少尉を長とする捜索隊

○高妻秀年見習士官を長とする捜索隊


海軍からの要請で輜重兵第六連隊から出されたもの

○阿部茂大尉を長とする捜索隊

○竹内睦祐軍医中尉を長とする捜索隊

海軍


海軍第一根拠地隊司令部の命令によるもの

○田淵義三郎海軍軍医を長とする捜索隊


佐世保鎮守府第六特別陸戦隊第司令の命令によるもの

○吉田雅維少尉を長とする捜索隊

○倉橋繁巳兵曹長・担架隊長

○野崎末男上機曹を長とする一個分隊による捜索隊

○永溝征紀兵曹長を長とする捜索隊

○水上航空隊


これら陸海軍併せて13グループある捜索隊が、それぞれ五十六に良く似た身代わりを用意したのでしょうか?13グループ全員が機密を守ったということなのでしょうか?浜砂氏が連行した身代わりの男だけが毒殺され、他の12人の身代わりはお役御免となり、陸海軍に箝口令が布かれ、五十六はまんまと逃亡した・・・非常にシュールな仮説です。


◎機上戦死の偽装


蜷川検死メモには顔面にも顎にも損傷は認められず、生存している目撃者全員も顔面はきれいだったと証言しています。翌二十日、五十六の遺体は大変な難儀の末に海岸に到着、発見72時間後になってようやく海軍の田淵義三郎軍医少佐が検死します。左顎下に貫通銃創を認めたのはこの時です。これが公式検案書となり機上戦死として発表されます。


私も田淵軍医が検死する前に死後損傷が加えられ、機上戦死が偽装されたことには同意します。しかしなぜそれを以て、逃亡説が成立するのでしょうか?


ヤコブ・モルガンの逃亡説をもう一度おさらいしてみましょう。


陸軍が連行した身代わりを毒殺した。

当然死体の顔は無傷だった。

これではまずいと渡辺安次らが死後損傷を加えた。

海軍軍医に機上戦死のカルテを偽造させた。

これこそ五十六が生きて逃亡した動かぬ証拠である。


何でわざわざ毒殺死体を用意させるのでしょうか?
機上戦死を偽装したいのに?
何で最初から貫通銃創の死体を用意しないのでしょうか?
これがいちばん簡単なのに?


何でわざわざ毒殺死体を用意して、
72時間後に顔面に損傷を加えて、
カルテを偽造させて、
それが五十六が逃亡した証拠?


訳分りません(笑


なわふみひと氏はもっと支離滅裂です。


なわふみひと氏の読書遍歴より
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1005-1.html


『このようなアメリカ(を支配する層)の巧妙な戦術に協力するために、体を張って真珠湾攻撃を主張したのが山本五十六という人物でした。この真珠湾攻撃が日米両国にどのような意味を持つものであったかがわかると、アメリカが2400人もの犠牲者を出しながら、本来であれば超A級戦犯とも言うべき山本五十六を全く批判せず、支配下のおいている日本の主要マスコミが今なお彼を英雄扱いしている理由が理解できると思います。しかも、山本五十六の死が全くの偽装死であったことは『山本五十六の最期』(蜷川親正・著/光人社)を読むとよくわかります。要するに、大東亜戦争(太平洋戦争)では、山本五十六を頂点とする海軍の中枢が結託して日本の敗戦のために動いていたのです。私たち日本国民がこのような真実を知ることこそ、先の戦争の犠牲者に対する、せめてもの弔いの意味を持つのではないかと思います。(なわ・ふみひと)』


上記のなわふみひと氏の論旨を裏付ける資料として、蜷川親正氏の本ほどふさわしくないものはありません。蜷川親正氏とアイクの本に限っていうと、なわふみひと氏が『読書』したという時、それは恣意的に読んだという意味しかありません。蜷川親正氏の本を『読書』」という言葉が持つ本来の意味で読めば、「五十六の死が偽装されたのは、海軍が意図的に見殺しにしたことを隠蔽するためである」という作者の強い怒りが伝わって来ます。

14. 中川隆[-11137] koaQ7Jey 2020年9月26日 12:16:49 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[26] 報告
01. 2011年12月02日 22:28:47: p99eS1woHc
鬼塚英昭の本は1冊だけ読んだ。
仮説は独創的で面白いが、仮説の裏づけのため事実を捻じ曲げ妄想で書いていると確信がもてたので、以降まったく相手にしていない。
歴史を書くときには真摯な態度が必要だ。

02. ♪ペリマリ♪ 2012年1月05日 08:18:54 : 8qHXTBsVRznh2 : KxhwWQU3KY
>>01
鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが、
これはその典型的なものである。

一、あなたが鬼塚氏の何の本を読み

二、どこの箇所を指して事実を捻じ曲げて妄想で書いていると確信を持てたのか

三、その根拠たる文献資料を示されたい。

鬼塚氏ほどあらゆる文献資料を網羅し、
かつ眼光紙背に徹するが如く読み込んでいる人を私は寡聞にして知らない。
プロパガンダをまんま信じて洗脳されている歴史作家があまたある中で、
まさに掃き溜めの鶴、恩寵、僥倖のような存在である。


>>01のコメントは、
秦郁彦がバーガミニの『天皇の陰謀』を偽書と決め付けた手法と同じ。
”バーガミニの主張に該当する資料は、杉山元メモのどこにも見つからなかった”
などとと事実無根の主張をしている。

秦は防衛庁に職員として潜入していた草である。
秦のような田布施村王朝の関係者が、国家規模の資料改竄をしていると私は思う。
日中戦争拡大の現場証言も同様である。
池田純久が近衛文麿に責任転嫁する有名な証言は、その代表例である。


>歴史を書く時は真摯な態度が必要だ。

これはそのままそちらにお返ししよう。
田布施村王朝は実に真摯な態度で、一貫して偽史を捏造してきた。
秦や白洲次郎や松本重治などの確信犯がプロパガンダを流布し、
それに御用作家やマスコミが追随してきたが、
あなた方が真摯な態度で歴史の真実に直面する時が今や到来しようとしている。


鬼塚氏が膨大な資料を微分積分して導いた結論は、『仮説』ではなく真実である。
それらはやがて出てくる本当の資料によって裏づけされるだろう。
7月27日以降、それらの資料は出てくる。

http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html#ctop

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史4掲示板 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
最新投稿・コメント全文リスト  コメント投稿はメルマガで即時配信  スレ建て依頼スレ

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史4掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
近代史4掲示板  
次へ