1. 中川隆[-10964] koaQ7Jey 2024年4月10日 07:30:43 : EBxoLrKf52 : dzZnbFNnU1RmcXc=[1]
温泉についても、上越線の開通に合わせてボーリングによって次々と新源泉が掘られていった。これから増えるであろう観光客を見込んで地元有志が組合をつくり、古来からの湯之沢源泉に頼らず自前で自由に使える源泉を確保し始めたもので、これが昭和10年代に湯沢の町の構造を大きく変えていった。
上越線開通直後=昭和9年の風景写真をみると、現在は巨大温泉街になっている付近もまだ畑が広がっており、温泉掘削の櫓が建っているだけ…という様子がみえる。ちょうど川端康成がやってきたのがこの頃で、当時の湯沢は伝統的な農村風景が急速に観光開発されていく走りの時期に当たっていた。
「雪国」 ではこうして掘削された温泉を 「新温泉」 と表記している。小説に絡んだ温泉宿としては高半旅館(旧温泉)のほうの知名度が高いけれども、よく読めば変遷していく湯沢の新しい風景も端々に練りこまれており、メインヒロインである駒子は芸者という仕事柄、宴席で新旧どちらの温泉宿にも出かけていく描写がみえる。
※その合間にちょこまかと島村のいる旅館に通ってくるのだから、まあ健気なものであるのだが…(^^;)
館内で上映していた湯沢町のプロモーションビデオにも昭和10年頃とされる風景が映っていた。季節は雪の走りの頃のようで、地形からみて湯沢駅南東1kmほどの秋葉山の北側の尾根から撮ったもののようだ。中央を走るのが上越線、そして湯沢駅である。正面奥に小さく見えるのが高半旅館で、写真左側が現在新温泉街が広がっている付近だ。既に新温泉街の原型のような建物群が建ち始めているが、まだ全体としては鄙びた農村の雰囲気が残っている。
昭和10年の湯沢の旅館数はおよそ15軒ほど。収容客数は村全体で 300〜400人程度といわれる。そこに芸者を派遣する業者がいくらかあり、小説中の表記を参考にすればおよそ20名くらいが在籍していた。彼女達の収入は当時の小学校の教員給与が月に70円だったのに対し100円を超えるくらいであったといい、女性の給与が男性の6掛け前後で勘定されていた時代にしては良い稼ぎであった。
ところで、怒涛の三角関係がもにょもにょ…な展開の 「雪国」 だが、そのメインヒロインである駒子には、実在のモデルがいたことが知られている。松栄(まつえ)という芸名の若い芸者で、川端康成と最初に出会った昭和9年当時、彼女は19歳であった。
川端康成はこのとき35歳。…なんというロリコン! …とか言っちゃいけないんだろうけれど(^^;)、この16歳も年下の芸者を川端はいたく気に入った様子で、たびたび指名買いしては部屋で飲んだり、散策に連れ出したり、その他いろいろなことをしたらしい。…といっても川端本人はあまり酒は飲むほうではなく口数も少ないむっつり男だったというから、どのような時間の過ごし方をしたのか少々不思議というか、非常に興味津々なところではある(^^;)
そんな逗留の日々の中、小説の筆は進んでいった。最初から一本の作品として書いた訳ではなく、登場人物を共通にして細切れの短編として雑誌に発表し、のちにそれをまとめて一冊の本にした。タイトルは最終的に 「雪国」 となった。
…が、後にこれを読んだ松栄はシェーっ(古^^;)…とばかりにぶっ飛んだらしい。小説に書かれた内容が、ほとんどそのまま川端康成と自分の過ごした日々をトレースしていたからであった。関係者が読めば登場人物が実在の誰であるかが分かってしまうし、しかも中身は色恋沙汰のもにょもにょ話で、もちろん小説として面白くなるようにあれこれと演出が入っていた。
まあ一般読者からすればどこまでが事実でどこからが創作かなど分かろう筈もないのだが、書かれた側にとってはかなり困惑…というより傍迷惑MAXなものであったのは間違いないだろう( ̄▽ ̄;)
こういう自分の体験をそのまま文章に書きだす作風は "私小説" とか "掌小説" などと呼ばれ、大正時代から昭和の中頃あたりにかけて流行した小説の1ジャンルであった。典型的な作家としては、太宰治を挙げればおおよその雰囲気は掴めるだろう。
川端康成はまさにこの系列の作家で、「雪国」 においても意図的に他人の私生活を暴露しようとした訳ではなく、当時なりの流行のフォーマットに従って自分の体験をネタに物語を書いたつもりのようだ。ただし配慮を欠いて突っ走りすぎたという点で、ツッコミを受けても仕方の無い部分があった。
これについては川端康成本人も 「やっちまった」 感は持っていたようで、後に生原稿を松栄の元に差し出して無断で小説に書いたことを詫びている。作家にとって生原稿を差し出すというのは命を差し出すようなものであるから、このときの侘びの入れ方はかなり本気だったようである。そしてこれ以降、川端は湯沢に通うのをやめ、「雪国」 は清算すべき過去の負い目の作品となった。
資料館には、川端と出会った頃の松栄の住んだ部屋が移築、保存してある。高半旅館からほどちかい諏訪社の付近にあった豊田屋という置屋(芸者を派遣する業者)の2階部分で、小説にも登場する部屋である。
…昭和9年、ここに居た一人の芸者が、とあるネタ切れ作家の座敷に呼ばれた。それがささやかな物語の始まりであった。作家は口数も少なく、酒もほとんど飲まない扱いにくい客で、それでも芸者は三味線を弾き謡い、この堅物の興味を引きそうな話を振って精一杯のもてなしを試みた。それまで幾人もの芸者を呼んでは返していた作家は、不思議なことにこの芸者に限っては何度も指名するようになった。おそらくこのとき、作家にインスピレーションの神が降りたのだろう。
川端康成は戦前の20〜30代の頃はかなり行き当たりばったり的に作品を書いていたような印象があります。彼が湯沢にやってきたときがまさにそのパターンで、何を書くかを事前に決めないままに宿に入り、いきなり芸者遊びと散策という 「お前、何しに来たんだよ」 的な日々が始まります。しかしそれは 「何かが起きる」 ことを期待しての行動で、彼としては小説のネタ探しのつもりだったのでしょう。
「雪国」 としてまとめられる前の小説の冒頭部分は 「夕景色の鏡」 の題で雑誌に掲載されたそうですが、締め切りにはかなりギリギリの入稿だったようで、しかもなんと川端康成はこの時点でストーリーの結末をどうつけるかまだ決めていませんでした。芸者の松栄嬢と過ごした日々のエピソードがそのまま小説に取り入れられてしまったあたりから見ても、ネタ切れで苦し紛れ…という雰囲気がそこはかとなく感じられ、よくもまあ話がつながったな(※)…というのが正直な感想です。
ノーベル賞受賞の後、実は川端はほとんど作品を発表していない。
一説には賞の重圧が筆をとることを躊躇(ためら)わせたのでは…とも言われているが、筆者的には "燃料の枯渇" も相当程度あったのではないかという気がしてならない。
…というのも、高名な賞や肩書きは、分かり易く作家をランク付けしてくれる一方で希少動物か珍獣のような扱いにもするからだ。静かな地方を尋ねて小さな体験を積み重ねつつ、物語をひねり出す…という川端康成の創作の方法論は、ノーベル賞受賞後は "珍獣" に集まる人だかりによって明らかに破綻してしまったように思える。
私小説とは自己を切り売りしているような作風だという人がいるけれども、おそらくそれは正しい認識だろう。切り売りできるものが無くなってしまった時点でその小説家は詰んでしまう。だから常に燃料を補給しなければならない。
昭和9年の川端は実はその "詰んだ" 境遇にあり、湯沢にやってきた時点で彼は何を書くべきかというテーマを持っていなかった。たまたま現地で出会った若い芸者と過ごした日々が、創作の糧となって文章のネタとなり、彼を救ったような印象を筆者はもっている。
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/2012_0209_04.html
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