【写真特集】富士山、世界文化遺産に登録へ

世界で最も美しい山の1つ、富士山〔AFPBB News

 野生生物のドキュメンタリー番組などを見ると生きとし生きるものにとって弱体化したり、油断や隙が命取りになることは自然界の鉄則として我々は良く認識している。人類もその例外ではないはずだ。

 しかし、そのような観点から日本の現状を眺めて心配なのは、昨今この冷厳な鉄則を忘れ「人類だけは他の生物とは違って知性豊かでそのような野蛮性から解放された例外である」と思っているらしい人が多いと感じることである。

 日本人が「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求して」安全で住み心地の良い文明社会を謳歌していることは実に喜ばしい。

 しかし自己の生存のため安全保証となる最後の砦、すなわち力を担保せず、お題目を唱えるばかりで、逞しく生きようとする姿勢を喪失して「安全はタダ」との幻想を抱いている風潮は心配この上ない。

 その大きな原因の1つが、今生きている多くの日本人に最も密接で重要な近代史が義務教育で正確に教えられていないことである。

真実は何かを見極めるべき

 世に言う「大航海時代」以降、危険極まりない国際環境の渦中で先達が生き延びるため必死に努力してきた事実や工夫・逞しさ・勤勉・実直・礼儀正しさなどの日本民族の軌跡をわざと回避して自虐史観のみが強調され、日本人としての誇りを喪失していることは誠に遺憾である。

 軍事と聞けば野蛮であり軍隊は知的レベルの低い暴力集団(前政権では暴力装置)と捉えて蔑む自称知識人とその言説の尻馬に乗って我が意を得たりとする人も多い。

 とりわけ、最近日本周辺で顕在化している危機をも無視し「集団的自衛権は要らない!」とまで宣う大政党の党首が国会で声を張り上げて言うに至っては「何をか況わんや」の情けない状況である。

 この現状に接し、私は日本に生を受けた1人として浅学非才を省みず、日本民族がこの地球上に幾久しく存在し、古来の優れた伝統・文化を継承するとともに他民族の人達と共存しつつ、誇りを持って逞しく生き「繁栄する道」を探りたいと思う。

 大東亜戦争の末期、帝国陸海軍は国力の限界を超えた外地にまで軍を派遣し尽くして、本土には戦闘力の空白が生じ無防備状態になった。米軍でさえ、無抵抗の我が国土にはもう爆弾を投下する意味もないと思うほど、ほとんどの都市を廃墟同然に破壊し、日本は悲惨な状態で敗戦を迎えた。

 さらに、日本を占領した米国は我が民族が二度と立ち上がることのないいように徹底した精神的な骨抜き政策を推進したことは衆知の事実であるが、最近秘密解除になった“War Guilt Information Program”(略称「WGIP」、以下この略称で表す)からもそれが証明された。

 ここでお断りしておくが、本論は過去を論(あげつら)って特定外国の行為を非難し恨み辛みを述べたいのではない。ただ、敗戦に乗じ日本民族に対する仕打ちがあまりにも理不尽かつ不当であった事を糾弾して我が民族の名誉と誇りを回復したいと願うだけである。

安倍総理の戦後70年談話

 今年は戦後70年の節目にあたり、安倍晋三総理が出す談話が世界的に注目を浴びており、戦後を多角的に総括するため可能な限り見直をしてほしい。その筆頭に挙げられるのは極東裁判であり、中国や韓国の言いがかりである。

 日本にとって短慮な政治家が過去に根拠も確認せず発信した政治的に過剰な譲歩の言質での誤解による失地を回復する非常に良いチャンスである。

 もちろん、日本の戦争犯罪が確たる証拠に基づき明らかであれば、潔く認めて談話に言及する必要があるし、その後明らかになった戦勝国の史観に誤りがあって我が国を貶める事案があれば当然勇気を持って糾すべきである。

 真実は1つであり、安倍談話は歴史に残る重要なドキュメントになることは間違いない。時間とともにメッキが剥がれるような嘘・偽りを排除して短期的な損得を超越し、今日までに判明している正確な証拠を積み上げて他国の圧力に屈することなく、日本国・民族の真心を世界に示し、誇りを取り戻さなければならないと思う。

不当な極東国際軍事裁判

 特に日本が名誉を回復するうえで着目すべき重要な事項は、米軍が犯した不当行為、すなわち当時でも国際法違反であった無抵抗な一般市民に対する計画的な無差別爆撃である。

 彼らにとって非常に後ろめたい残虐な行為を正当化するため手の混んだ工夫が極東国際軍事裁判である。

 これは日本帝国の残虐さをでっち上げ、すべての戦争責任を日本帝国に押しつけた演技であった。だからと言って、いまさら米国の非を論うつもりは毛頭ないが、より正確な過去の経緯をお浚いして見ることは必要と思う。

 何よりも私が納得できないのは「A級戦犯に囚われた方々がどの様な犯罪行為をしたか?」と言うことである。

 米国・英国などに対して確かに「宣戦布告」をしたことは事実で、最高責任者だった東条英機首相は陛下の思召しと真逆な方向に国家を導いてしまった開戦当日、その非力に密かに号泣したと聞く。

 宣戦布告が手違いで遅れ、結果として騙し討ちになった(それ以前に日本海軍軍艦が公海上で米国の攻撃を受けて沈没していたことや米国の空軍=フライイングタイガーズ社が開戦前から中国軍に荷担して日本軍と交戦していた国際法違反の事実は裁判では闇に葬られている)ことも事実であったが、宣戦布告は国際的に交戦規定として定められた主権国家の権利で全く犯罪とはならない。

 また、大東亜戦争中に彼らA級戦犯とされた方々が死刑に相当する巨悪を命じた形跡は全く見当たらない。あまつさえ「平和に対する罪」、「人道に対する罪」などは終戦後、日本軍に戦争責任を押しつける苦し紛れの後付犯罪項目であるが、それでさえ「南京事件や所謂従軍慰安婦強制連行」も確たる証拠がなく、最近ではWGIPの結果から捏造された事案として濃厚に浮かび上がっている。

 それにひきかえ、米国戦争指導者たちはどうであったか?

 明白な事実だけを捉えても「人道に対する罪」の筆頭に挙げられる東京大空襲や広島、長崎への原子爆弾の投下を命じたことである。

 東京大空襲では都市住民居住区の外周に焼夷弾で火炎の壁を作って幼児老人婦女子多数含む一般住民を閉じ込め、その密集する檻の中に爆弾を投下する大殺戮、さらには広島、長崎への原子爆弾の投下はその規模において人類史上類を見ない極悪な戦争犯罪である。

 細かくこのようなことを列挙して当時の米国指導者をいまさら攻撃しても仕方ないが、これらは戦争の早期終決を図り犠牲者を極限するため止むを得ない作戦であったと言い訳をしている。

 それならば、何の軍事的価値もない東京の下町や広島・長崎の住宅地ではなく、近傍に所在した日本帝国の大きな軍事施設がある横須賀・呉・佐世保を攻撃目標に選定しなかったのか?

 ここで私が主張したいのは、日本首脳陣だけに対する言われのないでっち上げの犯罪でA級戦犯とされた方々の無念を思うとともに、彼らと日本の名誉を回復してほしいと願うその一点だけである。

 我が国首脳陣はその当時日本が置かれた経済封鎖という事実上の宣戦布告に相当する苦境にもかかわらず、戦争を回避すべく獅子奮迅の努力をした。

 しかし、米国を主とする国際連盟からはリットン報告書をはじめ無理難題を次々と浴びせられ、逃げ場を失ってしまった。国力が天と地ほど違う米国を相手に「開戦するなど常識ではあり得ない馬鹿げたこと」と今でこそ言えるがそれほど日本は追いつめられていた。

 一方米国は「日本を極限まで窮地に追い込み何時開戦か」と余裕綽々で満を持して待ち構えていた。

日米の国力差と敗戦の悲哀

表1 日米開戦当時の国力を図る主な指標
図1 (マクミラン世界歴史統計T〜V巻からの抜粋)

 その当時の日米の国力差を示す指標を表1・図1(マクミラン世界歴史統計からの抜粋)に示す。

 この表からも明らかなように日米の国力差は人口や商船量こそ2倍程度であるが、他の指標はすべて米国の力量は圧倒的で、とりわけ石油生産・自動車生産・粗鋼生産・営業鉄道距離数など軍事に直結する部門は実数では日本の数十倍・数百倍に達し、これを実数で表示すると日本の全要素は見えなくなってしまうほどの差があった。

 古今東西これほどかけ離れた実力差の巨大国家に無謀な戦争を積極的に仕かけた例は空前絶後であろう。さらに付言すれば、開戦前と終戦時(1945年)の商船保有量だけを取っても日本134万tで1/4に減少しているのに対し米国は3025万tと3倍近くにも増加し、格差は開戦前の2倍から終戦時には実に23倍へと極端に広がっていることが分かる。

 詳細は省くとして、開戦初頭こそ予期に反して勢いの良かった日本も国力の差はいかんともし難く、善戦むなしく多くの将兵とともに国力を完全に消耗してしまった。

 1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して終戦となったが、その直前「日ソ不可侵条約が有効な期間であったため中立国として戦争の仲裁を要請していた」ソ連は日本の敗戦を見越して火事場泥棒よろしく、条約を一方的に破棄して日本領土に侵攻し、終戦後も攻撃を続行した。

 さらには大陸から引き揚げようとしていた将兵約60万人を非道にもシベリヤに抑留した。その1割とも言われる方々が無事終戦まで生き延びていたにもかかわらず極寒の地で無念の死を遂げたことは何とも痛ましい。

 一方、進駐軍として日本の軍政を担当したGHQは米国にとって不都合な戦争中の各種書籍・文書はWGIPに従っていち早く日本国内から徹底的に探し出して処分(焚書)した。また日本の柱となる有能な人材を公職から追放(坑儒に相当)するなど日本は敗戦国の悲哀を骨の髄まで味わった。

 このようなやり方は歴史的によく見られ、中国王朝が変わるときには極当たり前のことであったようだが、民主主義の模範国を自認する米国でさえも人間の本性を丸出しにするこの有様である。

 このように、占領軍は徹底した日本弱体化政策を進めていたが、1950年6月に勃発した朝鮮戦争によって、状況は一変する。

 要するに日本をあまりいじめてソ連を筆頭とする共産圏に追いやってしまってはならない(ソ連共産党による日本赤化の謀略が顕在化した)として政策変更された。このことは日本にとって生き延びるうえで幸いとすべき環境に急変した変換点と言える。

 その後(激戦の末、日米両軍に多数の戦死者を出して米国に占領された)硫黄島が1968年6月に、沖縄が1972年5月に我が国と戦火を交えることなく返還されたのは歴史上の奇跡とも言える出来事である。

 このことと対比すると、終戦直後に火事場泥棒よろしく日本固有の領土である北方4島を占領していまだに返さないソ連が、もし日本全土を占領していたならと考えるだけでも背筋が凍る。恐らく今でも我々日本民族は塗炭の苦しみに喘いでいたことだろう。

 今現在も日本固有の領土である尖閣諸島や竹島を無法行為で「我が物」と主張し、我が国を脅迫している国がある有様であり金科玉条とする「正義と秩序云々」の我が国憲法9条も虚ろに響く。

 要するに共産圏の軍隊などに蹂躙されれば人権どころの騒ぎではなく(日本国内ではほとんど報道されない)チベットやウイグル、南モンゴルでは今現在も連日住民は凄惨な弾圧を受けている現実から推論すれば日本も恐ろしい国土に変貌したであろうし、今後も油断すればその恐怖は続く。

 現に東洋で急速に膨張主義を唱え実行に移している国が様々な不法を働きつつあるある中で、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求して」と叫んでみたところで、これ幸いと力を背景に浸透可能な場面から順次押し出して来るだけである。

 最近判明したことであるが、親日国ブータン王国の北西国境(無人地帯)を越えて中国人民解放軍が浸透し、居住区などを建設して国境線変更の既成事実を作為しているという。

 まさに毛沢東の戦術(敵引けば我進む)を(敵でない国に対してさえも隙さえあれば)着実に実行していることが明白である。

 そこで、現在日本人の多くが信奉している「平和憲法」なるものであるが、ここには確かに国連憲章の模範的というか人類の永遠の理想を掲げているが、前述のように無法国家に「戦火を交えず恭順して」占領され、あるいは軍門に下ればいかに悲惨な状況になるかは前述の結果を見ただけでも明白である。

 戦後弱体化した日本を世界の超大国米国が占領し、その保護下に置かれていた期間は空虚とも言えるこの理想憲法でも全く問題なかった。しかし、米国の力が相対的に低下し、中国が世界覇権を狙う意図を遠慮なく公言し、無法を承知で国の膨張と劇的な戦力増強を図っているという状況の変化に、我が国としてはまず自分を守る備えをすることは「憲法以前の問題」であり、あまりにも当たり前のことである。

まとめ

 長くなったが、ではこれから日本はどのような国造りを進めて行くべきか、である。

 多くの識者が脳漿を絞って日夜研究・検討していることに敬服しているが、いざ具体的にどうするか?となると国民意識の現状と強固な団結を実現する日本の姿を望まない他国の各種工作が強く、ことはなかなか進まない。

 強力なリーダーシップを発揮して望ましい国造りを進める安倍政権の存在はそのような勢力にとって極めて邪魔で不都合であろう。

 しかし、戦後70年もの長きにわたった非正常な姿をこのリーダーの下に一致団結して正常化すべきだ。

 以下の記述は言い古されている項目ではあるが改めてそれらを列挙したい。

(1)防衛力の強化

 何をさておいても国家の安全保障は最優先課題である。戦略爆撃機・空母など過度な軍事力強化は不要であるが、仮想敵となり得る国家の時々の軍事情報を的確に収集・判断して侵攻に備え、我が国の領土・領海・領空内では敵を圧倒できる人員・装備の量と質・経戦能力を整備するべきだ。

 「心配はあるがまさか攻めて来ないだろう!」との安易な思考は政権担当者として失格である。

 軍事力の強化というと「軍国主義」と短絡的に批判する向きもあるが、いかなる無法国にも「勝ち目がない!」と判断させる優れた実力を備え、攻撃を断念させる戦略が最も理に適う現実的な防衛方法であると私は信じる。改めて戦略家リデルハートの名言を紹介する。

 「平和が欲しければ戦争に備えよ!」(その理に反して悲劇が起きたことを歴史が証明している)

(2)教育の正常化

 国内外の歴史はもちろん、日本人としての誇り、公共に奉仕する精神、人としての生き方、他人を思いやる優しさなど、今の日本人に欠けている徳目を教育の場に回復することが優先されよう。

(3)日本古来の伝統文化の保護と伝承

 優雅・謙虚・幼長の情・正直・質実剛健・助け合いなど日本の美風は今も残っているが、最近は随分色褪せてきた感じがする。また、先人達が残しくれた世界的にも非常に価値の高い多くの文化遺産を後世に良好な状態で伝承・発展させる責任が我々世代にある。

(4)価値観を共有する国々との親交を深め、世界に開かれた国造り

 日本を貶めようと躍起になっている国があるが、私は彼らの短慮に哀れみを覚える。それは、日本の「粗探し」のみならず”国家挙げて歴史の捏造”までしての誹謗中傷で、感情的でさえあることだ。

 そのような低劣な国策で自国の民の幸せが築けるとでも思っているのであろうか?

 我々日本人も事実に基づき反省すべきは反省し、誤った認識があれば詫びることは吝かでない。

 そして、隣人として真の友好を強化すれば相互にどれほと莫大な益となることか?と思う。しかし、最近の関係を見る限り不信感を払拭することはもはや不可能と思える。はっきりと言って疲れる。

 従って我々と価値観を共有できる国々との親交を深めて行く事の方が良策であろう。

(5)犯罪の撲滅

 いくら経済を優先して国家の発展を進めようにも、犯罪が多発するのでは長続きはしない。まして、3Kの職場に大量の移民を取り込んでも、西欧諸国が今になって呻吟している現状を見るとその政策が大失敗であったことが分かる。

 移民した人は当初こそ低賃金に甘んじても、次第に格差に不満を強める。まして思想・文化・宗教・言語の異なる人種が日本人社会には溶け込めず次第に軋轢が酷いことになろう。

 結果として犯罪や暴動が増加し、経済が低迷し、不安定な社会へと変貌しては日本人も移民してきた人々も共に不幸に陥り、当初の目論見から逸脱する。少子高齢化に突入した日本が幸せな国家を目指すなら今まで以上に実行性ある高度な犯罪防止策の構築が必要だ。

 我々は国家の肥満化や、どん欲な金銭の追求が真の幸福ではないことを知っている。国民が心から自国と郷里を慈しみ、凛とした逞しさと心豊かな社会を構築することが目指すべき国家像ではないか。

 過日、日本を親善訪問されたブータン国王が「私達の国は決して経済的には豊ではありません。しかし、世界で最も幸せを感じている民族です」と述べられたことに深い感銘を受けた。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44245
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/352.html