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特殊法人・公益法人改革の本質的意義
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投稿者 リンクフリー 日時 2003 年 10 月 13 日 23:17:02:6kBVSxaW8mEMQ

 最近、道路公団や石油公団を始めとする特殊法人改革を巡る攻防が話題となっていますが、マスコミにおける議論では、なぜ特殊法人・公益法人がいけないのか?といったもっとも肝心な議論がすっぽりと抜けてしまっている感が否めません。そこで、今回は特殊法人と公益法人改革の本質的な意義を考えてみたいと思います。

 最近の論調を単純化してみると、特殊法人や公益法人は本来民間企業がやるべき業務を独占し、民業を圧迫しており、この改革こそが構造改革であるという論調だと言えます。特殊法人という組織形態は、国策として遂行すべき業務であって、リスクの観点などから民間には実施できない、あるいは民間に委ねていては進まない業務を実施する機関と言えるでしょう。例えば、基盤的な技術開発や莫大な費用がかかる公的事業や石油採掘など大変リスクが高いものの国策として遂行している業務などが挙げられるわけです。

 さて、こうした特殊法人について現在何が問題とされているのでしょうか。特殊法人が実施すべきこうした業務は、採算が取れるものであれば民間企業に委ねられているわけですから、短期的に採算が取れないことはある意味当然であると言えます。ですから、採算性が悪いことがすぐに特殊法人がいけないということにはつながらないはずです。
 では、特殊法人という形態がよくないのでしょうか。最近、特殊法人や公益法人のやっている業務については、国が自ら実施するか、又は独立行政法人にやらせるべきだという議論がなされています。この独立行政法人という組織形態は、先般の省庁再編に合わせて新たに導入されたものですが、これはイギリスのエージェンシー制度にならって、国の業務のうち政策を実施する部分については国自らやるのではなく、独立行政法人にアウトソーシングすることにより、民間の経営センスを導入しようとする意図でできたものです。しかし、ここで考えなければならないのは、なぜ特殊法人や公益法人という形態はだめで独立行政法人であればよいのでしょうか。特殊法人や公益法人の職員は公務員としての身分を有しておらず、その意味では一部公務員資格を有している独立行政法人と比較すると、より国からの独立性が高いわけです。
 さらに、数年前の臨調の議論において、国の業務のスリム化を図るために、業務を極力公益法人等にアウトソーシングするべきであるとされていたにもかかわらず、最近はその業務を国自身が実施すべきであるという全く正反対の議論がなされているわけです。
 特殊法人や公益法人にやらせるのはだめだけど独立行政法人にやらせるのはよい、という議論は明らかに矛盾しています。おそらく、数年後には、独立行政法人という組織形態はけしからんとして、「独立行政法人改革」旋風が巻き起こっているであろうことは想像に難くありません。

 自分は、特殊法人や公益法人が現行のやり方のままでよいとは全く考えていません。ここで主張しておきたいのは「特殊法人・公益法人は一律駄目」という議論は全く理屈や思想がないということです。個々の特殊法人、公益法人毎に何が問題かという議論をまじめにしていかないと、結局数年後に何も変わっていないという状況になりかねません。

 例えば、道路公団を例に取って考えてみたいと思います。高速道路整備というのは、当初から民間に委ねていては整備が進むことは期待できず、正に国自らがやるか、あるいは特殊法人が実施すべき業務であるはずです。では、一体何が問題なのでしょうか。御存知のとおり、高速道路はそれぞれの道路毎に元が取れれば無料になるはずであったのが、その後道路全体として収支を考える方式に変わり、いつまで経っても無料になるめどが経たなくなっているわけです。これは、採算の取れない道路を次々と作ってしまった点に問題があることは言うまでもありません。さらにその根本的な原因は、あらゆる政治家が地元に高速道路を建設することを主張したことであるわけです。けっして、道路公団が特殊法人という組織形態であるために生じてしまった問題ではありません。その意味では、自分は道路公団の民営化の意義というのは、整備する道路の決定に対する政治の干渉をなくすということは言えると思います。かつての国鉄が赤字路線を大量に作っていたのが、JRになって以降採算の取れない路線の建設をしなくても済んでいるのは、政治からの干渉がなくなったことによるものです。
 しかしながら、こうした事情はあくまで道路公団に特有な事情です。すべての特殊法人が民営化をすべきということでは決してないことに留意すべきです。

 また、石油公団について言えば、石油の発掘というのは莫大なリスクを伴いますし、石油の海外依存が圧倒的に高い我が国においては国家備蓄は必須です。これまでの石油公団に係る議論は、莫大な債務を抱えている面のみがクローズアップされていますが、こうした業務は民間がやっても採算が取れないものだからこそ国がやっているわけで、採算性が悪いのは至極当然の帰結でしょう。仮に、日の丸原油はもう必要なく、国家あるいは特殊法人が自ら石油を備蓄することは必要ないという判断があるのであれば、石油公団を廃止するというのは1つの判断ではあると思いますが、マスコミにおける論調を見るとどうもそうした冷静な議論があったとは思えません。

 要するに自分が主張したいことは、特殊法人や公益法人の議論は、個々の特殊法人や公益法人の業務を個々にきちんと見直していくべきであり、総論として一律悪いという議論をすべきではない、ということです。個々に見れば見直しが必要なものもあることは事実であり、そうした議論は常に時代の変化を見据えつつ行われるべきことです。

 ここで忘れてはならないのは、天下りの問題でしょう。これはあらゆる特殊法人や公益法人について言えることですが、能力や適正にかかわらずお決まりのコースとして役人の天下りポストとなって、高額の給料が支払われていることも事実です。しかし、こうした天下りの問題は、何も特殊法人や公益法人という組織形態に問題があるわけではありません。あくまで人事形態や給与形態の問題なわけです。所管省庁の大臣が他に有能な人材を見つけてこれば、その人物を特殊法人や公益法人のトップに据えることは可能なわけです。

 近年、特に我が国においては、物事を単純化して総論で議論する傾向があります。公益法人の議論が大きく盛り上がるきっかけとなったKSDの事件についても、公益法人という組織形態が悪いという以前に、政治家がKSDにたかったことが問題であることは少し考えれば分かることです。それが、結局、公益法人の組織の在り方の問題として議論がすり替えられているわけです。
 独立行政法人についても、そうした組織形態が我が国になじむか、国の業務をアウトソーシングするのにふさわしい組織形態であるか、という議論が全くなされず、イギリスで前例があることのみをもって導入されたとした思えません。

 特に、特殊法人改革こそが最大の構造改革であるとして、我が国経済の回復がこれにかかっているかのような議論がありますが、仮に特殊法人の業務が縮小されても経済が回復せず、結局国民に大きな失望をもたらすだけの結果に終わりかねません。行政改革と経済の回復が基本的には関係ない次元の問題であることは、少し考えれば分かりそうなものであるのに、マスコミ等ではさぞかし特殊法人改革が我が国の経済回復のキーファクターであるかのように報じられていることについては、いかに物事の本質をわきまえていないのかがよく分かります。

 特殊法人や公益法人の議論は、元をたどれば一連の不祥事に起因する役人に対する不信から来ていることは否めません。そういう意味においては役人は大いに反省すべきであります。かといって、こうした感情的な議論のみがなされて、本質を全く議論しないことは、我が国の将来を考えれば憂慮すべきことであります。
 この問題に限らず、我が国のマスコミや国民は常に「問題の本質は何か?」を見極めた上で議論することが必要なのではないでしょうか。
                                           (了)

★とどのつまり利権争いが特殊法人や公益法人の民営化に繋がっているということですね。今まで道路を作ることや石油を掘ることで利権を得ていた政治家や関係者から、公益法人を民間へ叩き売ることで儲ける政治家や関係者に利権が移るというだけ。あほらしい話ですがそうやってわざわざ需要を作くらなければ、やっていけないんでしょうね。しかし、そうまでして経済成長を続けなければ本当に我々は生活していけないんでしょうか。次のコラムも興味深いですね。


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 我が国は、現在でもバブル崩壊による後遺症から立ち直ることができず、社会全体がある種の閉塞感から抜けきれずにいます。この間、経済の安定成長を回復すべく、財政面、金融面、規制面などから様々な施策が講じられてきましたが、どれも経済成長の安定的回復にはつながっていません。

 この間の我が国の施策は実に迷走しています。最近では、特にデフレ退治が至上命題として主張されているわけですが、つい最近までは、消費者重視の立場からむしろ日本の物価をいかに下げるかが価格破壊として新古典派経済学の主張するところであったわけです。そして、驚異的な低価格を達成した牛丼屋やハンバーガー屋、衣料品店がこうした価格破壊のフロントランナーとして一時期マスコミなどで大いにもてはやされた時期があったわけです。しかし、これによって私たちの生活は豊かになったのでしょうか。確かに、消費者の立場としては、250円の牛丼というのは390円の牛丼に比べて有り難いことは間違いないのですが、このことが我が国の経済の回復に必ずしもつながらないことは明らかになったわけです。逆に、こうして切りつめられた生産コストによって失業している人だっているかもしれないわけで、「無駄をなくすこと=生活が豊かになること」といった単純な構図で経済を理解することはできないということなわけです。

 また、つい最近大いに議論になった不良債権処理の問題については、その主眼が金融機能を回復させることにあることは理解できるのですが、銀行に無理矢理にでも公的資金を注入して企業に融資させよとする行為と、銀行の資産査定を厳格にするという逆の方向性を持った施策を同時に実施しようとしているわけです。銀行の融資審査機能がうまくワークしていない実態というのはもちろんないとは思いませんが、融資がスムーズに行われない最大の要因は、人々の欲望が収縮している結果として融資先となるべき高い収益の事業が少なくなっているという点にあるわけです。金融機能というのは、余っていて貯金されている資金を、事業をやるために資金が必要な人に回すことにより、資金が滞らずに円滑に回るようにすることにあるわけで、事業が少なくなっている現状において、金融機能だけ回復させてようとしても、お金はうまく回らないことは明白です。どうしても、経済成長を回復させようとするのであれば、高い収益を挙げられる事業を増やすこと、すなわち、人々の欲望を喚起して消費を増やすことが必要不可欠なわけです。

 そうすると、安定した経済成長を回復するためには、人々の欲望を喚起する消費をいかに増やすべきか、ということが課題となるわけですが、ここで考えなくてはならないのが、そうした消費の対象となるべき物があるのか、あるいは、これからそうした物が出てくる余地があるのか、ということを考えなくてはなりません。しかし、現代の我々日本人の生活は物で溢れています。多くの国民が欲望をかき立てられ、どうしても手に入れたいと思えるような物は格段に少なくなっているのが現状でしょう。そうした中で消費を増やし続けることは相当な困難であることは明らかです。

 さらに、もう1つ挙げなければならない事実は、土地と株の価格が一貫して上昇を続ける時代ではもはやないということです。戦後の我が国の土地と株が値上がりを続けてきたのは、ひとえに人々の期待によるものです。特に株というのは、投資家の感情で極めて乱高下するものです。我が国の高度経済成長はこうして値上がりを続けてきた土地と株に支えられてきたわけですが、土地と株の価格は人々の期待が崩れた結果、暴落してしたわけです。

 ここで我々がよく認識しなくてはならないのは、我が国の今日の経済は、土地や株などを通じ人々の感情によって全面的に支えられているという事実です。このことは多くの人々が潜在的に気が付いている事実であり、経済学の示唆が結局は人々の心理に帰着しなければならないのは、正にその表れと言えます。これは、要するに、今日の経済自体が常にバブルとしてはじける可能性を秘めており、結果として人々の期待が収縮すれば、バブルが崩壊した、ということになるわけです。

 そうした我が国の経済の成長を回復しようとすれば、人々の心理をいかに高揚させるかが課題であるということになるわけですが、人々の心理ほどコントロールの効かないものはありません。それを政策的に高揚させなくてはならないのですから、これはとてつもなく大きな難題です。
 近年、誰もが口を揃えて唱えている「構造改革」という標語は、正に人々の心理を高揚させることを意図して出てきたと言えます。すでに指摘しているように、構造改革の意味する内容は十人十色であり、それを唱える人によって意図する内容は全く異なっています。しかも、構造改革によってなぜ経済の成長につながるのかを論理的に示した経済理論は全く見当たりません。
 要するに、「構造改革」とは、今後日本社会が大きく変わることによって明るい未来が開けることを示し、人々の心を明るくしようという試み、ということに尽きるわけです。

 ところが、この「構造改革」論によって人々の心理は高揚しているのでしょうか。これはどう見てもそういう状況にはなっていません。冒頭にも述べたように、バブル崩壊以降、我が国はアメリカを始めとする欧米社会で行われているありとあらゆる施策を講じてきましたが、結果的に経済成長の安定的回復にはつながらなかったわけです。これについて、マスコミや経済学者は構造改革の進展が遅いからだ、という説明を行っています。そして、構造改革の進展を遅らせているのは、旧態依然たる官僚機構と抵抗勢力と呼ばれる政治家のせいである、というわけです。

 構造改革を唱える人々は主に新古典派経済学に依拠している場合が多いのですが、そうした構造改革主義者の主張に基づき、90年代以降、我が国の社会制度は様々な面で変更がなされ、様々な分野の規制緩和、特殊法人改革などが行われてきました。しかしながら、構造改革を唱える人々は、それでもまだ足りないというわけです。では、どこまでやれば経済の活性化につながるのでしょうか。この点はけっして経済学によって明らかにはなりません。新古典派経済学から発せられるメッセージは、単に政府の機能を縮小して競争を促進すれば人々の効用が上がる、ということですが、では競争を促すことがなぜ経済の成長につながるのか、という点については、新古典派経済学は何ら解答を与えてくれません。
 例えば、競争による価格破壊は新古典派理論によれば人々の効用が上がるわけで好ましいということになるのですが、それが経済成長につながるわけではない、ということです。これは現実の状況が実証済みです。
 また、ある人は、道路公団民営化を成し遂げることが構造改革の象徴という捉え方をしています。しかし、道路公団の民営化がなぜ経済成長につながるのかについての論証は全くみかけたことがありません。道路公団の問題点は、本当に必要な道路が整備されない一方で使われもしない道路が政治力によってできてしまうという現実や、道路公団関連企業が独占的に道路公団からの発注を受けている、といった不公平な状態の解消にあるわけで、これを経済成長につながる取組であるという誤った捉え方がなされてしまっている、ということが言えるわけです。
 なお、新古典派経済学に基づく構造改革論がこれほどまでに我が国の社会に浸透したのは、佐伯啓思氏も論じておられるように、戦後の左翼的進歩主義と新古典派経済学の奇妙な結合があったためだと思われます。すなわち、左翼的進歩主義者による反国家主義が官僚不祥事などによって大きく盛り上がったところに、新古典派経済学による小さな政府の議論が結合した、と捉えるのが適当なのではないか、という気がします。一時期の規制緩和論や行政改革論は正にこの流れで国民の間で大きく盛り上がった、ということが言えるわけです。

 さらに、構造改革の主張の最大の問題点は、その意味するところの曖昧さゆえ、全ての人々が構造改革が達成されたという実感が持てるという状態が起こり得ない、ということです。何が達成されれば構造改革が達成されたことになるのかがはっきりしなければ、構造改革はいつまでたっても達成されないことを意味します。もし構造改革が我が国社会の根本を欧米型社会にすっぽり変えてしまうことを意味するのであれば、それは不可能でしょう。
 ということは、我々は構造改革のトンネルからいつまで経っても抜けきれず、結果として、いつまでたっても閉塞感から逃れられない、ということになるわけです。我々は自ら進んで出口のないトンネルを設定してしまい、その中を突き進んでいる、ということが言えるわけです。

 結局、構造改革論というのは、経済成長につながることが何ら論証されていないばかりか、人々の心理を明るくすることにもつながらない、というのが実態であるということになるわけです。

 では、今後日本社会全体が覆われている閉塞感から抜け出すためには、どうするべきなのでしょうか。どうしたら日本人が幸せを実感できるようになるのでしょうか。

 これは、一言で言えば「発想の転換」ということに尽きるのだと思います。

 我が国の最大の政策目標を経済成長の安定的回復に置く限りは、我々は今後永続的なけっして幸せを実感できることはないでしょう。今日の我が国の社会は物質的な豊かさをすでに獲得しているのであり、仮に経済成長が回復したとしても、少々の達成感は感じることはあっても、何か我々のこれまで満たされなかった欲求が満たされるほどの社会の変化をもたらすものではありません。
 また、今日の経済というのは人々の感情という極めて不安定なものに支えられている限り、人々の期待が永続的に持続するという保証はどこにもありません。いずれ人々の期待がしぼむことになれば、結局成長した経済はバブルとして崩壊してしまうわけです。すなわち、我々は、この先永久に不安定な経済に振り回され、株価の乱高下などに一喜一憂しなくてはならない宿命となるわけです。

 ここで考えなくてはならないのは、資本主義とは何か、という点です。岩井克人氏は資本主義を「資本の無限の増殖を目的とし、利潤を永続的に追求していく経済活動の総称である」としています。この意味における資本主義は古代から世界の一部の地域においては存在していたわけですが、産業革命以来、産業資本主義という形を取るようになって以降、市場経済が世界を覆いつくすようになったわけです。
 では、この資本主義においては、経済成長というのは絶対的な至上命題なのでしょうか。すなわち、経済が成長し続けない限り、資本主義社会は支えることができないのでしょうか。この問いに対する答えは正に資本主義をどのように捉えるかによって変わってくるのだと思います。

 従来の資本主義の定義のように、資本主義は資本の増殖が目的であるということであれば、資本主義にとって経済成長は必要であるということになるのでしょう。しかしながら、資本の無限の増殖を目的としない社会(これを資本主義と呼ぶのかどうか疑問ですが)というのはあり得るのではないでしょうか。言い換えれば、日本社会が物質的な豊かさをある程度獲得している今日、日本社会は資本主義の限界点に到達しつつあるのではないでしょうか。
 資本主義というのは、これまで、人々の旺盛な物質的欲求に支えられてきたと言えます。我が国の戦後の高度経済成長というのは、欧米の物質的豊かさに追いつこうという旺盛な欲求が支えてきたのです。しかし、今日の日本の人々は当時に比べると明らかに物質的欲求が満たされた状態にあるわけです。そういう中で、今後我々は依然として従来の資本主義を追求していく必要があるのでしょうか。従来の資本主義とは違った価値観で社会を構築していくことが必要なのではないでしょうか。

 このことは、市場の捉え方にも影響を与えます。市場機構というのは、そのプレーヤーの欲求を大いに満たすメカニズムであり、今日の資本主義を支える柱となっています。また、このメカニズムは、それぞれのプレーヤーが一見平等な立場で参加でき、そのような意味においては、民主主義社会にマッチした制度でもあるわけで、かつ、市場においては各プレーヤーの自由な活動が許容されるという意味では自由主義の象徴でもあります。
 こうした市場というメカニズムがなくてはならないものであることは、社会主義という壮大な国家管理の体系がうまく機能しなかった事実からしても否定できません。しかしながら、この市場をどのような分野で適用するか、どのような制度設計とするか、という点については大いに議論の余地があるはずです。昨今の政策議論では、いかなる分野でも原則として市場メカニズムを適用し、それも国家の介入が少なければ少ないほどよい、といった捉え方がなされています。しかし、市場のあり方というのは、このような新古典派経済学の主張のように単純なものではなく、むしろ、我々がどのような社会を目指すのか、といったもっと大きな視野から考えなくてはならない問題であるはずです。
 市場における制約が少なくなればなるほど、プレーヤー間の競争は激化し、成功者と失敗者がくっきりと現れる社会につながるわけで、これはそういう社会を我々が選択するべきなのか、という視点で論じられなければならない問題です。それだけ市場のあり方というのは、我々社会の根本につながる議論なのです。
 アメリカのような建国以来民主主義が絶対的な大義であるような国家社会においては、こうした市場のメカニズムは正に自由であればあるほど好ましいという方向に傾く傾向があるのでしょうが、日本のような協調性を重視してきた社会にあっては、むしろ市場をどのように制約していくか、というのが大きな社会的テーマであるはずなのです。このことは市場を否定するものではありません。市場における勝者と敗者が明確に現れるのをいかに抑制するのか、といってもよいかもしれません。
 アメリカという国の大義は、人々には平等な機会が与えられ、その中では誰しもが成功してアメリカンドリームを手にすることができる、という機会平等主義です。これはアメリカの建国以来の大義に基づくものであり、様々なバックボーンを背負った人々が混在するアメリカ社会を維持する根幹の考え方であるといっても過言ではありません。 しかし、日本社会がそのような社会を選択すべきかどうか、というのは大きな社会的テーマであるはずで、けっして経済学の観点からのみ論じられるべき問題ではありません。むしろ、勝者と敗者を社会的に明らかにしないというある種の結果平等的な社会システムを設計するという選択もあってしかるべきだと思うのです。

 そうすると、従来の資本主義とは違った価値観とは何に求めるべきなのでしょうか。我々が幸せと感じるのは何もお金を得ることだけではないはずです。むしろ、我々は特に戦後の高度経済成長期において、お金以外の価値観を見失ってしまったのではないでしょうか。そして、バブル崩壊以降においては、経済成長を成し遂げるという至上命題の前に、それを妨げるいかなる制度、仕組み、慣行をも捨てるべき、という論調に走りすぎたのではないでしょうか。お金以外の価値観についてはあえて挙げるまでもありません。地域に根ざしたNPO的活動のように、けっしてお金の追求だけを目的としていない活動によって人々が幸せと感じられるような場合がいくらでもあるわけで、職業選択にしても、収入面が絶対的な尺度ではなく、収入は少なくてもやりがいのある職業を選択するという価値観も重要です。こうしたお金以外の多様な価値観を重視することはけっして停滞を意味するものではないはずであり、むしろ、ポスト資本主義的な社会のあり方として1つの選択肢なのではないでしょうか。

 日本社会もそろそろ経済成長という過去の幻想にとらわれない発想に転換すべきではないでしょうか。そして、誰がバブルをつぶしたのか、といった犯人探し、責任追及的な試みをやめるべき時なのではないでしょうか。こうした試みを続けることによっても、我々はけっして幸せにはなれないと思われます。社会を根本から変えないと日本社会は立ち直れない、という考え方には明らかに根拠がありません。むしろ、これまでの日本社会の良さを見つめなおし、その中に価値観を見出す作業というのが我々には求められているのではないでしょうか。
(了)

社会のレンズ
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