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愛はすべて「自己愛」である。
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/823.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 01 日 20:14:45:Mo7ApAlflbQ6s
 


まっくすさんとのやり取りや『恋愛と贅沢と資本主義』を紹介した経緯から、「雑談版8」の底のほうで続いているぷち熟女さんとのやり取りのなかからこの部分を抜粋させてもらいます。
延々と続いているやり取りなので興味をお持ちの方は辿っていただき割り込んでいただければと思っています。完結した内容を引用しているので参照URLは省略させていただきました。
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あっしら:『そのようなセックスをしたから不実と言うのは、「愛を冒涜している」と思います(笑)そんなセックスと愛を比較することはできません。』

ぷち熟女さん:「あっしら様が『愛』とおっしゃる時に一体どういうことをおっしゃっているのか、あたくしにはまだ謎なんです。
それが分からないと、何とも申し上げようがありません。
もしも、あっしら様ご自身の『自己愛』が愛なのだよ、ということだったら、腹を立ててしまうかも知れません。
もちろんあっしら様のパートナーの方さえ納得なさっていればよいことなのでしょうが、
あたくしにすれば、何だかそれでは議論にならないという気もします。」


※ 注:「そのようなセックス」とか「そんなセックス」と表現されているセックスは“非合法”なセックスを指しています。(快楽目的のセックスです(笑))

激怒されるかもしれませんが、愛はすべて「自己愛」です。

そんな身勝手なものではなく「他者への愛」だと錯誤されたり、愛が「他者への愛」であることを賛美する風潮が、人々の関係に様々な軋轢を生じさせる一因であるとも思っています。


ひとは他者を愛することはできないのです。
できるのは、自己を愛することのみです。

「じゃあ、私が愛しているあの人はなんなのさ」という当然の問いが返ってくるはずです。

“たまらなく愛しているあの人”は、「自己愛」の契機をもたらす存在ということになります。
(“たまらなく愛しているあの人”は、恋人であったり、子供であったり、配偶者であったり、友人であったりなど様々な関係性だとイメージしてください)


ひとは、“あの人”の存在や“あの人”との「言葉や身体の投げ掛け合い」に感応する自分の心(感覚を含む精神の動き)を愛しているのです。
この意味でも、“あの人”がいなければ感じることができないのですから、とても大切な存在です。“あの人”がいればこそ感じることができるのが愛なのですから。

次には、自己とは何かという問いも浮かんできます。

自分の身体がそのまま自己であるわけではありません。
身体を心(魂)の器だというグノーシス的な考え方はしていませんが、自分の身体は、自己性を有すると同時に他者性を有するものです。
他者(外)を受け入れる(感じる)ときには身体が持つ感覚を自己として使いますが、他者(外)に働きかけるときには身体を自己の制御対象として使います。
自他性を併せ持つ自分の身体を自己そのものとするわけにはいきませんから、“純粋”な自己は?と考えると、他者(外)を受け入れる(感じる)ときにも、他者(外)に働きかけるときにもまごうことなく自分として存在するものということになります。

自己とは無(空)です。無だからと言って非存在ではありません。それぞれの個にとって自己ほど確かな存在はないはずです。
なぜそれが無なのか?ですが、それは、存在していながら認識することができない存在だからです。
試してみてください、自己が何であるかを知ろうと。
自己が何であるかを思考する主体になれるのは自己だけです。ですから、自己を他者(外)として認識することはできないのです。
(際限のない思考の深みにはまるだけで、自己には到着できません)


これが、「色即空、空即色」という釈迦的世界観(存在論=認識論)やヒンドゥの「梵我一如」(ブラフマン=宇宙原理とアートマン=我の同一性)だと思っています。

西洋世界は「主−客」の対立構造的哲学を基礎にしています。
「主−客」という対立構造は、主である自己と客である自己が分裂していることを意味していることになります。
それは同時に、自己と他者(上述でわかるように他者も自己)の対立や自己(人間)と自然(同じく自然も自己)の対立を不可思議に思わせない極めて“危険”な世界観なのです。


なにか宗教的哲学的な書き込みになってしまいましたが、そういう意図はありません(笑)
ただ、自分と外なる存在との関わりとは何かということに関する簡単な考察です。


本論にもどります。

ですから、愛が「自己愛」である限り、「こんなに愛しているのになぜ..」とか、「こんなに愛されるようにがんばっているのになぜ...」という問いは意味をもたないことになります。

愛は他者を契機に自分で感じとるしかないものです。
自己を愛しているのに、それにまつわる他者を非難するのはお門違いです。
相手も、自己を契機に自分を愛すことしかできないのに、愛してくれないことを怨むのも筋違いです。

恋愛関係(相互ベストパートナー関係)は、「自己愛」の類稀なる相互性に支えられたものです。私が相手の「自己愛」をマックスにし、相手が私の「自己愛」をマックスにしてくれるすばらしい関係性です。


セックスは「自己愛」(愛)を感じる契機でしかありません。

だから、手段であるセックスと目的である愛を比較することはできないのです。

何よりも深く切ない「自己愛」を生じさせてくれる相手に最大限の思いを寄せればいいのだと思っています。


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